ラヴクラフト全集〈2〉 H・P・ラヴクラフト/宇野利泰訳 [#改ページ] エーリッヒ・ツァンの音楽 The Music of Erich Zann [#改ページ]          わたしは地図を何枚も拡げて、入念に探してみたが、オーゼイユ街という町名は見つからなかった。町名はその後改められたと聞いていたので、わざわざ古い地図を集めてみたのだが、それに似た地名さえ見当たらなかった。わたし自身としては、いかにも古い市街らしい、そのもの寂びた街並を、知りすぎるほど知っているのに、いまとなって、その方角さえ見つけることができぬというのは、何としても、おかしな話だ。わたしがかつて、哲学を学ぶ大学生として、幾月かの貧乏生活を送り、そしてあの、エーリッヒ・ツァンの不思議な音楽を聞いたことがある町だというのに……  わたしの記憶が中断しているのは、別に不思議なことともいえなかった。オーゼイユ街に住んでいた当時は、精神的にも肉体的にも、ひどく健康を損《そこ》ねていたので、一人の友人をつくる気にもならなかったくらいだ。しかし、それにしても、全然それに似た場所さえも発見できぬというのは、何としても奇怪な話だ。  あの街は、大学から徒歩で三十分もかからぬところだし、いまの時代には稀《めず》らしいくらい古風な趣きの残った街並で、一度でも住んでみれば、誰だって気に入るにちがいなかった。それだというのに、その後わたしは、オーゼイユ街に住んだことがあるという人間には、ひとりとして出会ったことがないのである。  オーゼイユ街は、濁った川を挟んで、その両岸につづいていた。川岸には、暗い流れすれすれに、煉瓦作りの真四角な倉庫が、小さな窓をあけて並んでいた。不釣合なくらい立派な橋が、黒い石を畳んで、両岸を繋《つな》いでいた。この界隈の工場が吐き散らす煤煙で、陽の目は永遠に遮《さえぎ》られているように、川の面はいつも暗かった。それにまた、ほかの土地では嗅ぐことさえできぬような悪臭が、絶えず水面から発散していた。橋を渡ると、狭い石甃道《いしだたみみち》が急な勾配を作っている。それを登っていくと、しだいに胸を突くような険しい坂になって、その先がオーゼイユ街だった。  これほど狭くて急な坂の多い街はめずらしい。そこをまた、あらゆる種類の車馬が輻輳《ふくそう》しているのだが、いたるところ石段があり、あげくのはてに、街の突き当たりは、蔦をいっぱいに這いまわらせた高い城壁の址だった。  道の舗装はさまざまで、石甃《いしだたみ》になったところもあれば、こまかい砂利を敷きつめたところもある。ところどころは舗石もなにもなく、赤土が剥《む》き出しの肌をさらして、色の褪めた草などが疎らに生えている。家々は見上げるような高い建物で、三角形の屋根を尖らせている。どれもみな、嘘のように古ぼけて、いまにも倒れかかりそうに、前後左右のいずれかに傾いている。それもたいていは前面に傾いているので、両側から往来にかぶさった恰好になって、ちょうどアーチの下をくぐるような感じだった。  それにまた、この街の住民も、街並に劣らず奇怪な印象を与えていた。最初わたしは、無口に押し黙っている住民の性格からだと解釈していた。ところが、後になって知ったのだが、その原因は、彼らがみな年寄りだということにあったようだ。  それにしても、どうしてわたしが、そんな街に住むようになったのか、そのいきさつはまるで覚えていない。そこへ移った当座は、わたしの気持も常態ではなかった。わたしはそれまで、あちこちの貧民窟を転々としなければならなかった。部屋代が滞《とどこお》るので、追い立てを食うからである。そして、とどのつまり、辿りついたのがオーゼイユ街だった。  いまにも倒れそうな古家であったし、ブランドというその管理人も、中風で身体が利かなくなった男だった。さっきもいったように、この街は急坂を挟んでつづいているのだが、その突き当たりの城壁から三軒手前に、この家があった。場所からいっても、街じゅうを一目に瞰下《みおろ》せるところだし、その上、建物そのものも、おそらくこの街で一番高いものであったろう。  わたしの部屋は五階にあった。その階で、間借人のいるのはわたしの部屋だけで、だいたい、この下宿そのもののほとんどが空室だった。引越した晩、わたしの部屋の上は屋根裏になっているのだが、そこから奇妙な音楽が流れるのを聞いた。翌朝、ブランド老人に訊ねると、ドイツ人のヴィオル弾き(ヴァイオリン以前に愛好された六絃の楽器)が棲んでいると教えてくれた。風変わりな老人で、唖《おし》だという。名前を書かすと、エーリッヒ・ツァンと記すそうだ。  夜になると、彼は、場末の劇場に勤めに出た。小屋がはねて、おそく帰ってきてから、もう一度ヴィオルを弾きたいので、わざわざ階段をいくつも登っていかねばならぬ、淋しい屋根裏を自分の部屋に選んだという。破風作りの壁に、ひとつだけ切った窓が街路に向かって開かれて、切り立ったような壁の上に身体を乗り出せば、街全体を一目に見渡すことができるとのことだった。  その後わたしは、毎夜のように、ツァンの音楽を聞いた。そして、その、この世ならぬ調べに、ひとかたならず魅惑された。音楽に関するわたしの素養といったら、それはもう恥ずかしいかぎりなのだが、それにしても彼の奏《かな》でるものは、わたしが従来知っているどの音楽とも類縁がなく、つまり彼は、独創的な作曲家だった。耳を傾ければ傾けるほど、わたしは彼の優れた天分に魅了された。一週間の後、この老人と昵懇《じっこん》になってみようと決心した。  ある晩、わたしは廊下に、彼の帰宅を掴まえて、あなたの階下に部屋を借りている者だが、一度あなたの部屋で、演奏を聞かせてもらいたいと頼み込んだ。  相手は痩せさらばえた貧弱な老人で、腰はもう曲がっていた。みすぼらしい服装に、禿げあがった頭と碧い眼。グロテスクな、半獣神を思わせる顔付きである。彼は最初、わたしの言葉を聞いて、なかばびっくりしたと同時に、無性に肚を立てたようであった。それでも、わたしがいつもの馴れ馴れしさで、しきりと口説き立てるうちに、とうとう我を折って承諾した。不機嫌な顔をしながら、あとからついて来いと手を掲《あ》げてみせた。わたしは、彼のうしろから、薄暗い粗末な階段を、ぎいぎいと軋《きし》ませながら、屋根裏の彼の部屋まで登っていった。  屋根裏は三角形に尖っていて、部屋は二つしか取れなかった。彼が借りているのは、その西側のほうで、往来の坂上に面して、高い城壁に向かっていた。元来、大きな部屋なのに、家具がなにもないので、不思議なほどガランとしていた。どう見ても空部屋という感じだった。家具といっては、鉄製の狭い寝台に薄汚れた洗面台、小さなテーブルがひとつ、大きな書棚、やはり鉄製の楽譜台と古風な椅子が三脚。楽譜の類は、床の上に無造作に積み重ねてあった。四方は板を打ち付けただけで、建築当初から壁土を塗った形跡は見られない。蜘蛛の巣や塵埃が、ところ嫌わず積っているので、とうてい人間の棲む場所とは思われない。……エーリッヒ・ツァンが遊ぶ美的世界が、幻想の国であるのはいうまでもなかった。  その老人は、指でわたしに椅子を勧めてから、ドアを閉め、さらに大きなかんぬきまで差した。手にしていた蝋燭のほかに、もう一本新しいのを点《とも》した。それから、古びたカバーから、愛用のヴィオルを取り出すと、一番坐り心地のよさそうな椅子に腰を下ろした。  彼は、楽譜台を使わなかった。楽譜なしの演奏だったが、一時間にわたって、わたしを魅了しつくした。いままで聞いたこともない旋律だった。もちろん、彼自身の作曲したものにちがいない。音楽を専門に学んでいないわたしには、どういう性質のものかを説明するのは困難だが、どうやら遁走曲《フーガ》の部類に属するらしくて、主題が繰り返し繰り返し現われる。意外なことには、うっとりするようにあでやかなもので、毎夜、階下の部屋で耳にする、あの無気味なくらいに暗澹《あんたん》たる調子はすこしもなかった。  毎夜聞くあの調べは、すっかり耳に馴れてしまって、わたしは不正確ながら、口ずさむこともできた。そこで、弾き終わった老人が、しずかに楽譜をテーブルに置くのを見て、さらに一曲、あの調べを演奏してくれぬかといった。  すると、いままで演奏のあいだ、あの悪魔めいた皺《しわ》だらけの顔に浮かんでいた、恍惚とした静謐《せいひつ》の色は、たちまちのうちに消え去って、わたしがはじめ、廊下で彼に話しかけたときとおなじ、憤怒と恐怖の入り混じった、複雑きわまる表情に変化した。しかし、わたしは別に深くも考えずに、老人特有の気難しさの現われだろうと、いつも夜になると耳にする、あの無気味な調子を口笛に吹きながら、軽い気持でさらに所望した。  だが、わたしの口笛は長くつづかなかった。この音楽家は、急に顔面を、何とも名状し難い表情にひき歪めて、ごつごつと骨ばって、触れるとぞっとするように冷たい右腕を伸ばすと、わたしの口をぐっと押えこんだ。不器用なわたしの旋律を封じこもうとしたのである。彼の突飛な動作はそれだけには止《とど》まらなかった。おどおどした視線を、しきりに貧弱なカーテンのかかった窓に向けて、誰かがそこから闖入《ちんにゅう》してでもくるように、恐れおののいている様子だった。  考えればおかしな話だ。こんな高い屋根裏部屋の窓へは、近隣のどの屋根からだって、足掛りなどあるはずがなかった。管理人がいつかわたしにいっていたが、往来から見上げると、真四角な建物の頂上近く、切り立ったような壁板の上に、ぽつんとひとつこの窓があいているのを、やっと見ることができるだけなのだ。  老人がしきりに窓を見るので、わたしはふっと、奇妙な幻想に襲われた。いつか管理人から聞いた、この部屋の位置が眼も眩むような高さにあるという話――そして、それと同時に、月光に輝く家々の屋根や、丘を越えて拡がっている街々の灯を、この高所から瞰下《みおろ》してみたいという、突拍子もない気紛れが、むらむらと湧き上がってきたのだった。この気難かしい老人は、日夜、どんな風景を眺めているのであろうか? わたしは窓際に近寄って、もはやカーテンともいえぬ代物を、さっとわきに引いた。すると、この下宿人は、以前にも増してはげしくいきり立って、わたしに掴みかかってきた。そして、ドアのほうを首でさし示し、両手でわたしを突き出そうとした。  さすがにわたしも、その仕打ちには肚が立った。――その手を離せ。こんなところは、すぐ出ていってやる、と呶鳴りつけた。その罵声で、彼は手を弛《ゆる》めた。途端に、わたしの激しい憤激に気がついたものか、相手の怒りは急激に鎮まっていった。彼は、いったん弛めた手をふたたび強く握って、こんどは愛想よく、わたしに椅子を勧めるのであった。それから、思案にあまったような表情で、乱雑に取り散らかしたテーブルに向かって、たどたどしいフランス語を、紙片に鉛筆で書き綴った。  書きあげると、わたしに示した。無作法を詫びる文句が記してあった。老齢孤独のうえに、音楽や何かのことで、はげしい神経衰弱に悩んでいるので、つい取り乱して申訳ない。弾奏を聞いてもらえて嬉しかった。今夜の不調法は気になさらず、これからもときどき遊びに来て欲しい。ただし、あの不吉なメロディを演奏するのだけはお断わりする。そればかりか、他人から聞かされるのもまっぴらだ。さきほど廊下で、あなたの話を承るまでは、階下の部屋で、わしのヴィオルが聞かれているとは知らなかった。そこであなたにお願いだが――と、そんなことまで、彼は紙片に書いた。できれば、あなたの部屋をもっと階下に移して、夜分わしの弾奏を、聞かぬようにしてもらえぬものか。その場合、間代が高くなるおそれがあれば、その差額は、喜んでお支払いさせていただきます、と書きつけてあった。  わたしは、判じ物のような拙劣なフランス文を辿っているうちに、この気の毒な老人に同情する気持が湧き上がってきた。彼もまた、わたしとおなじように、はげしく神経を傷つけられている一人なのだ。近代哲学の学徒として、わたしはこうした人々に親近の情をよせる徳を知っていた。  しばらく二人が無言でいると、窓辺でかすかな音がした――夜風が鎧戸を揺り動かしたものとみえる。いつかわたしは、彼とおなじ心境になっていたとみえて、そんなかすかな物音にでも、飛び上がるくらい驚いた。わたしは彼の手を握って親愛の情を示して、その夜は部屋に戻った。  翌日、管理人のブランドはわたしに、いままでの五階の部屋よりはるかに立派なものを、三階に提供してくれた。年老いた高利貸と、富裕な家具商との部屋に挟まれたところだった。四階には、最初から間借人はなかったので、四階、五階と空部屋がつづいた。  しかし、わたしはじきに、おたがいに親しくなりたいとツァンがいっていたのは、どうやら眉唾《まゆつば》らしいと気が付いた。わたしを階下に移らせるための術策だったようだ。その後、遊びに来るように勧めるわけでもなく、こちらから訪問さえすれば、演奏しないわけでもないが、それもおどおどと落ち着きを欠いて、一向に気乗りがしない様子であった。  わたしが彼の部屋のドアを叩くのは、いつも夜にかぎっていた。昼間の彼は、眠っているのか、誰も部屋へは通さなかった。わたしとしては、この老音楽家の人柄は、決して好きになれそうもなかったが、屋根裏の貧相な部屋と、暗鬱きわまるメロディとが、奇妙にわたしの心を捉えて離さなかった。それにまた、わたしはあの高い窓から、下界を瞰下《みおろ》したいという、はげしい慾望にとり憑かれていた。そのわけは、わたしの部屋の窓からでは、この街の突き当たりが古い城壁になっているので、その向う側に、夜空を映して輝いているはずの、家々の屋根や尖塔を、一度も覗き見たことがないのであった。  ある夜、ツァンが劇場に出勤している留守に、そっと屋根裏部屋に忍び込んでみた。だが窓は鍵をかけて、閉ざされていた。  それでもわたしは、老人が夜毎に奏でる音楽だけは聞き逃さなかった。最初のうちは、足音を忍ばせて、五階にあるもとの部屋に潜り込んで聴いていたが、そのうちにだんだん大胆になって、ぎいぎいと軋む階段を、平気な顔をして、三角形に尖った屋根裏まで登っていった。  老人の部屋は、太いかんぬき[#「かんぬき」に傍点]を掛けて、鍵穴まで密封してあるのだが、それでも階段上のホールに身を潜めていると、例の怪奇な音楽が、わたしの身内に妖しい戦慄を与えるのだった。茫漠とした不安、減入り込むような暗鬱な感じ――彼の掻き鳴らす絃の響きが、その原因であるというのは当たらない。元来のヴィオルの絃は、美といってよいほどの音を響かせるのに、それがひとたびこの部屋で楽曲となって流れると、とうていこの世のものとは思われぬ無気味きわまる旋律を醸し出すのであった。ときとしては、オーケストラを奏しているのではないかと考えることもあった。どうして一人の演奏家で、ああした効果を呈することができるのだろうか?  エーリッヒ・ツァンは、情熱的な力を駆使する天才であった。日の経つにつれて、演奏はますます激情的になっていった。ところが、老いた音楽家自身は、その演奏のはげしさと逆比例して、しだいに憔悴振りが目立ってきた。気がついたときは、見るも気の毒なほど窶《やつ》れきっていた。彼はいまでは、わたしの訪問まで避けて、階段で擦れちがっても、顔を背ける始末であった。  ある夜のことだった。わたしは例によって、彼の部屋の扉口に立ちよって、咽《むせ》び泣くようなヴィオルの音に、うっとりと耳を傾けていた。すると、その夜にかぎって、急にそれが荒々しい騒音に変化した。この世の、ありとあらゆる音が、ただもう雑然と混じりあって、凄まじいばかりに膨れ上がり、地獄の騒ぎとでもいおうか。これがもし、このかんぬき[#「かんぬき」に傍点]を鎖《とざ》したドアのなかから流れ出てくるのでなかったなら、わたし自身、気が狂ったものと考えたであろう。しかし、その恐怖は現実であった。ドアのなかで、胸をひき裂くような悲鳴が響き渡った。唖者特有の言葉にならぬ声であった。断末魔の叫びだった。  わたしははげしくドアを叩いた。繰り返して叩いたが、返事はなかった。やむを得ず、冷気と恐怖に慄えながら、暗い廊下に佇んでいた。しばらくして、卒倒した老音楽家は、やっと意識を恢復したとみえて、椅子の足に掴まりながら、起き上がる気配がした。そこでわたしは、またしてもドアを叩いた。相手を安心させるために、こちらの名も知らせてやった。  ツァンはよろめきながら、窓の鎧戸とカーテンを閉めにいった。それから、用心してかんぬき[#「かんぬき」に傍点]を外した。入ってくるわたしを見て、ほっとした顔をした。心の底から嬉しかった様子で、わたしの腕をぎゅっと握りしめると、恐怖に歪んでいた顔に、はじめて安堵の表情を浮かべた。母親の膝に縋《すが》った子供と、そっくりおなじ表情だった。  興奮に慄えつつ、彼はわたしを無理に坐らせ、自分もその前の椅子にかけた。そばの床には、ヴィオルと弓とが投げ出してあった。彼はそのまま、しばらくは動かなかった。ときどき、うわの空にうなずくだけで、まるで魂が抜けてしまったように、ただぽかんとしているだけなのだが、それは、なにかに夢中で聴き耳を立てている証拠だった。が、何も聞こえないと知って、やっと安心したかのように、机のそばによって、メモを書いてわたしに渡した。  それから、改めてまた机に戻ると、新しく鉛筆を握って、夢中になって書きだした。猛烈なスピードだった。わき目もふらずに書きつづけている。渡されたメモには、彼はいま、怖ろしい怪異に襲われたのだが、その一部始終を、ドイツ語で書き留めておきたいから、書き終わるまで待っていてくれぬかとあった。わたしも好奇心が燃え上がったので、彼の鉛筆が、矢のように飛ぶのを見守っていた。  それからおそらく、一時間は経ったであろう。わたしはその間、黙って待っていた。老音楽家が書き飛ばす紙片は、またたく間に机上に重ねられた。  ふいと、書きつづけていたツァンが、鉛筆を止めた。ぎょっとしたような顔をあげて、怯えた視線を窓に向けた。彼のからだ[#「からだ」に傍点]は慄えていた。わたしもやはり、かすかな音を耳にしたと思った。  しかし、怖ろしい音ではなかった。むしろ、美しい音だった。どこかこの界隈に、音楽家でも住んでいるのか。それとも、わたしはまだ見たこともないのだが、この街の突き当たりにある、あの高い城壁の向うが、音楽家の住居にでもなっているのか。それにしても、ツァンの驚きようは常軌をはずれていた。鉛筆が指からぽろりと落ちると、いきなり立ち上がって、ヴィオルをひっ掴んだ。弓がその手に動いたかとみると、夜の空気を突ん裂くように、またしてもあの、扉越しにいつも洩れ聞く、例の異様な調べが流れはじめた。  その怖ろしい一夜の、エーリッヒ・ツァンの弾奏振りを、ここに詳しく述べ立てることもあるまい。読者も想像されたであろうが、いままで聞いたどの夜のそれよりも、はげしい恐怖に満ち満ちたものであった。何故かというに、いまはもう、音だけではないからだ。彼のひきつったような表情と、この恐怖から逃避するには、いやでもヴィオルを掻き鳴らさねばならぬという、追い詰められた彼の気持を、まざまざと眼の前にしているからである。  彼は、可能のかぎりの高い音を立てていた。何かを避けるために、何かを追い払うために、――その正体が何であるかは、わたしには依然として不明であるが、とにかくこの老人を、これほどまでに戦《おのの》かせているのは、身の毛のよだつほど怖ろしいものでなくてはならぬ。憑かれたように彼の腕は動きつづけた……  しかも、その弓から流れでる調べは、この貧弱な老人の、どこにこうした天才が潜んでいるのかと、思わず眼を瞠《みは》[#「目+爭」、第3水準1-88-85]らせるものがあった。曲は、劇場などでよく聴かされる、ハンガリーの舞踊曲だった。素朴で通俗的なものだった。エーリッヒ・ツァンが、他人の作品を弾奏するのを、わたしはこのとき、初めて聞いた。  曲は、いやが上にも激情的になっていった。ヴィオルは狂って泣き号《さけ》んだ。奏者は、顔一面に汗を滴らせ、猿のように身をよじっていたが、その血走った眼は、カーテンの下りた窓から離れようとしなかった。その狂乱したさまを見ているうちに、わたしの眼の前には、雲と煙と稲妻とが、湧き立ち上る深淵が、浮かんできた。そこでは、暗い淫らな半獣神の群れが、たがいに笑い興じながら、踊り狂っているのだった……すると、突然、刺すように鋭い響きが鳴り渡った。ヴィオルの絃が震動したのではなかった。もっと底意地のわるい、もっとひとを小馬鹿にした、悪魔のような音色が、はるか西の空から響いたのだ。  その瞬間、風が急に吼えはじめた。部屋のなかの狂熱的な弾奏に答えるかのように、外の闇を揺り動かして、風が強く吹き抜けていった。そのたびに鎧戸が鳴って、ヴィオルの絃からは、こんな楽器からどうしてかと怪しまれるほど、甲高い音色が迸《ほとばし》った。  またしても、鎧戸がはげしく鳴った。途端に枠が弛んで、窓に当たった。一回、二回。ガラスが飛んで、凍りつくような風が吹き込んできた。蝋燭の火が揺らめくと、机の上の、ツァンが怖ろしい出来事を書きつづけていた紙片がはためいた。わたしはツァンを見た。彼の姿は、もはや正気のものではなかった。視野の定まらぬほど眼が血走って、無我夢中で掻き立てる絃の響きは、まさに地獄の狂宴といえた。  とくべつ強い風が吹き込んだ。紙片はパッと舞い上がって、窓に向かって飛び立った。わたしは死物狂いで、そのあとを追った。が、すでに毀《こわ》れた窓から夜の闇に吸いこまれたあとだった。すると、思いがけなく、奇妙な考えが私の胸に甦った。一度この窓から、街路を瞰下《みおろ》したいという、以前からの熱望だった。オーゼイユ街で、坂上の城壁を越えて、その彼方を見渡せる、これが唯一の窓だった。  暗い夜だった。しかし、街の灯は燃えているはずだ。いつか外は、風に雨さえ加わっていたが、いらか[#「いらか」に傍点]を連ねた家々の上に、燦然と輝く灯が散らばっているはずだ――  だが、そのとき、窓辺によって瞰下《みおろ》した世界は――蝋燭の火が揺らぎ、狂気染みたヴィオルが、烈しい夜風とともに吼えしきっている部屋から――このオーゼイユ街で、もっとも高所にあるといわれている切妻窓《きりづままど》から眺めた世界は、とうてい人の棲むところではなかった。見馴れた街々はそこになかった。なつかしい灯もなかった。真暗な空間が、無限の彼方にまで拡がって、音と動きだけしかない世界だった。地上のどことも、似ても似つかぬ別世界だった。  恐怖に慄えながら立ちすくんでいるわたしの眼前で、風が二本の蝋燭を吹き消した。朽ちて、崩れかかった屋根裏は、原始以来の闇に呑まれた。わたしの眼前には、悪魔が跳梁する渾沌があり、背後には、夜陰に吼えるヴィオルの狂乱があった。  暗闇のなかで、明りを点《とも》すこともできず、わたしは手探りで、テーブルにぶつかったり、椅子をひっくりかえしたりしながら、やっとの思いで、ヴィオルが鳴っているところまで辿りついた。エーリッヒ・ツァンとわたし自身を救うためには、できるだけのことはせねばならぬのだ。すると、何かひやっとするものが、わたしの頬を冷たく掠《かす》めた。思わずわたしは、悲鳴をあげた。が、ヴィオルの狂騒に、声は呑まれて、消えていった。  急に、闇のなかで、ヴィオルの弓がはげしく動いているのにぶつかった。やっとわたしは、奏者のそばに来たのだ。わたしの手が、エーリッヒ・ツァンの椅子の背に触れた。彼の肩を掴んで、正気に立ち返らそうと、しきりに強く揺すってみた。  彼は答えなかった。ヴィオルだけが、依然はげしく鳴っていた。わたしは手で、老人の頭ががくんがくんと揺れるのを抑えて、その耳もとに、この怪奇から一刻も早く逃げ出そうと叫んだ。が、彼は返事もしなければ、物狂おしい弾奏をやめようともしなかった。屋根裏は渦巻く風が駈けめぐって、無数の怪物が、闇のなかに踊り狂っていた。  わたしは、彼の耳に、手を触れた。途端に、ぞっとするものが身内をつらぬいた。なぜか知らぬ――なぜか判らぬが、その顔に触れたとき、ハッとして、手を引いた。すでにそれは氷のように冷えきって、吐く息もなく、かたく硬直して、眼だけがふたつ、飛び出していた。  どういう奇跡で、飛び出せたのか判らぬが、次の瞬間ドアを探し当て、太いかんぬき[#「かんぬき」に傍点]を引き抜いて、気が違ったように、わたしは廊下に逃げのびていた。あとには、呪われたヴィオルが、憑かれたような狂音を、なおもはげしく軋り立てていた……  跳ねるように、飛ぶように、はてしなく続く階段を駈け下りて、夢中で、戸外へ跳び出した。狭い、急な石畳を駈け抜ける。石段が音を立て、小石が足もとに鳴った。のしかかってくるような家々を後に、悪臭漂う河べりへ辿りついたとき、わたしははじめてほっとするものを感じた。喘ぎ、あえぎ、暗い橋を渡ると、やっと、賑やかな往来に出た。怖ろしい出来事だった。いまにいたるまで、忘れようとしても忘れられぬ経験だった。気がつくと、風はなかった。月も出ていた。街の灯は、明るくまたたいていた。    念に念を入れて探してみたが、オーゼイユ街という町名は見当たらなかった。だが、わたしは別に、それを遺憾とも思わない。そしてまたエーリッヒ・ツァンの、あの奇怪な音楽の秘密を語る、細字でぎっしり書かれた草稿が、底知れぬ深淵に吸い込まれてしまったことを、いささかも残念と思っていない……