ラヴクラフト全集〈1〉 H・P・ラヴクラフト/大西尹明訳 [#改ページ] 死体安置所にて In the Vault [#改ページ]         「じみな」といえばすぐに「まじめな」ということばを頭に思い浮かべる、そういう月並《つきなみ》な連想ほどばからしいものはないとわたしは見ているのだが、どうやらこういう頭の働かせかたが世間の人たちのあいだにはひろがっているらしい。いかにもアメリカの北部にふさわしい田園生活を背景として、へまでのろまな村の葬儀屋が、自分のとんだ不注意から、地下の死体安置所でひどい目にあったと思いたまえ。ごくふつうの読者がそういう場面から思いつく情景といえば、まあグロテスクな味はあるとしても、せいぜい温《あたた》かみのある喜劇的な一幕といったところが関の山であろう。もっとも、その葬儀屋のジョージ・バーチが死んだおかげで、わたしもやっとこの退屈な話を他人《ひと》に洩らす気になったのだが、この話にくらべればもっとも陰惨な悲劇にさえ、まだしも明るいものがある、そういう妙なところがこの話にはあるのだ。  バーチは一八八一年に、葬儀屋という自分の仕事に限界を感じて商売変えをした、が、そうする気になるきっかけとなった事件については口をとざして語らなかった。また彼の昔からの知りあいで、数年前に亡くなったかかりつけの医者のディヴィス先生もその一件はひとことも洩らさなかった。世間のもっぱらの噂によると、バーチは運のわるいことにペック・ヴァレー墓地の死体安置所の鍵をふと掛けちがえた結果、内部《なか》に九時間も閉《と》じこめられてしまい、おかげでひどい目に会ってショックを受け、いろいろな道具をさんざ乱暴に使ったあげく、やっと脱出したのだそうである。この話がまず本当だということはまちがいないのだが、これとは別の、もっと不吉な影のある話は、この男がそろそろ死にかけようとしているころ、酔って頭がもうろうとしているときによくわたしにひそひそとしゃべったものである。わたしに打ち明けたのは、わたしがこの男のかかりつけの医者であって、ディヴィス先生が亡《な》くなってからは、この男もだれか先生の代わりに、打ち明け話のできる相手が欲しかったからであろう。バーチは独りもので、身寄りはひとりもいなかった。  バーチは一八八一年までペック・ヴァレー村で葬儀屋をやっていて、なるほど世間でその商売をやっている連中はたいていそうなのだが、ひどく冷淡で古くさいやつだった。この男がよく用いたといわれている常習の手口は、今日では、少なくとも町なかでは、まさかと思われるにちがいないものであって、もしもペック・ヴァレー村の連中が、蓋《ふた》を閉《し》めた棺の中の死体に着せてあって外からは見えない高価な服装はだれのものであるかとか、また、かならずしもぴたりと精密に計測されているとはかぎらない棺に対して、死後に初めて霊の会員としてその中に納まる死体の形を整えて、その死体の大きさの方を棺に合わせるにさいしてどの程度まで尊厳を守るべきであるかとか、そういう問題について、この葬儀屋がどんなに虫のいい道義観を持っていたかということを知っていたら、村人たちもさぞおそ気をふるったにちがいないのだが。どう見てもバーチはだらしがなく、感じがにぶく、商売の上でも好ましからざる人物であったが、それでも悪人だったとは思わない。性格と頭脳の点で愚鈍だったにすぎず――思慮のたらぬうかつもので酒に目がなく、そういう点は、たやすく避《さ》けられたはずの例の事件を見てもわかることであり、なおその上に想像力というものをほんの少しも持ちあわせていなかったが、社会常識のある当たり前の人間なら、この想像力のおかげでそれぞれの好みで決まっている一定の限度というものを踏みはずすことはないはずなのだ。  さてどこからバーチの話を始めたものか、わたしにはちょっと見当がつかない。そもそも人に話をして聞かせるということに慣れていないからだ。おそらく一八八一年のあの寒い十二月のことから始めるのが一番かと思うが、その月は地面が凍てついて来年の春まではとても墓は掘れないと墓掘人どもは見ていた。さいわいその村は小さくて死亡率は低かったから、あの廃《すた》れた昔の横穴式の死体安置所が一つあれば、バーチの扱った死体という預かりものをそっくり全部臨時に納めておくことができた。この葬儀屋はきびしい天気の中でいつもより倍も無気力となり、不注意という点でも従来よりもいっそうひどくなっていたらしい。一番弱くてぶかっこうな棺と棺とを衝突させて壊してしまうし、また一番悪かったのは、自分が勝手に平気でがたぴしと開《あ》け閉《た》てした棺桶に、錆びた鍵をかけるにはおよぶまいと手を抜いた点である。  ついに春の雪どけがやってきて、埋葬用の墓穴《はかあな》がせっせと掘られたが、これは九つの物言わぬ死体が、死という不気味な刈り手の手にかかり、やがて埋葬されるのを、地下の死体安置所で待っていたからである。バーチは、死体をわざわざ運んで埋葬するのをこわがっていたが、四月のある朝、気の向かないその仕事に手をつけた、が、豪雨で馬が癇《かん》を昂《たかぶ》らせたらしいので、墓にはほんの一体を葬っただけで昼前にやめてしまった。その一体とはダリウス・ペックという九十歳を越えた老人の死体で、その墓が地下の死体安置所から遠くなかったからである。翌《あく》る日は、これも埋葬用の墓がついそのそばにあるマシュー・フェナー老人の小柄な死体から手をつけてやろうとバーチは決めた。が、実際にはその仕事を三日間延ばし、一五日の受苦日《グッド・フライデー》(復活祭前の金曜日)になって初めて腰をあげるというしまつだった。縁起をかついだことのないバーチは、受苦日などというものをてんで気にしてはいなかった。もっとも、その後はいつも、週の六日目に当たる不吉な金曜日には、なにかだいじなことをやるのはまっぴらだといっていたが。まさに、あの晩の事件こそ、ジョージ・バーチがその後すっかり変わってしまうそもそものきっかけとなったのだ。  四月十五日の金曜日の午後、バーチは馬車で死体安置所へ出かけたが、それはマシュー・フェナーの死体をそこから墓へ移し変えるためであった。なるほど彼は完全にしらふだったわけではない、そのことはあとで彼も認めた、が、晩年においてこそ、あることを忘れようとして飲むようになったひどい深酒《ふかざけ》も、まだそのころは癖になってはいなかった。ただほろ酔い程度には酔っていて、癇《かん》の強い馬をついうっかりしていらいらさせてしまい、死体安置所の前で荒っぽく馬車を止めると、その馬はいななきながら前足で地面を掻き、頭をぐいっともたげたが、それはつい先日、雨で癇を昂らせたようにみえたあのときと同じ癖であった。その日は晴れていたが、強い風が吹いていた。だからバーチは鉄の扉の鍵をあけ、丘の脇腹を掘り抜いて作った死体安置所のなかに入いってみると、そこでは強い風が避《よ》けられるのでやれやれと思った。ほかのものなら、このじめじめとしてぷんと匂いが鼻をつき、棺がぞんざいに八つも置かれてある部屋をありがたがりはしなかったであろう、が、そのころのバーチはいたって鈍感で、しかるべき棺をしかるべき墓に埋めることにしか気が回らなかった。ハナー・ビクスビーの親類の連中から浴びせられた非難の声を、バーチは忘れずに憶えていたからだ、というのはその連中は、引っ越し先の町の墓地へハナーの遺体を移そうとしてその墓を掘ったところ、下から出てきたのはハナーの棺ではなく、コプウェル判事の棺だったからだ。  うすぼんやりした程度の明るさだったが、バーチの目はよく見えたので、アサフ・ソーヤーの棺をまちがってフェナー老人の棺ととりちがえたりはしなかったが、その棺はじつによく似ていた。たしかにそれは、初めはマシュー・フェナー老人のためにこしらえたものだった。が、結局は、あまりにもぶさいくなため、きずものの棺として使わずにおいたのだ。五年前に自分が破産したとき、フェナー老人が自分に対してどんなに親切で気前よくふるまってくれたかということを想いだし、妙に感傷的な気分になったからである。できるだけの腕をふるって最高の棺をフェナー老人に捧げたが、もったいないと思う気持が強かったので、いったんはきずものとして使わずにおいた例の代物《しろもの》を拾いあげて、アサフ・ソーヤーが悪性の熱病で死ぬと、そのきずものの棺を使ったのである。ソーヤーは人好《ひとず》きのする男ではなく、そのほとんど人間ばなれがするほどしつこい復讐心や、あることないことをとりまぜて自分の受けた不当な待遇をいつまでも忘れずにいるその執念深さについては、いろいろと噂が流れていた。そんな男にきずものの棺を割り当ててやっても、バーチは少しも気がとがめなかったし、いまもフェナー老人の棺を取りに行く途中で彼はソーヤーの棺をわきへ押しのけてやったくらいである。  ちょうどフェナー老人の棺を見つけたとたんに、ドアが風でばたんと閉《し》まり、おかげで彼はいままでよりも一段と深い暗闇のなかにとり残されてしまった。細長い明りとり窓からはほんのかすかな光しか射さず、上についている換気孔は少しも役にたってはいなかった。だから棺のあいだを歩いたり立ち止まったりしながら、掛け金のかかったドアの方へ手さぐりで進んでいったときには葬儀屋らしい気持はなく、ただの世間人になっていた。この死体安置所の暗がりの中で、彼は錆びついた把手《とって》をがたがたと動かし、鉄板のドアを押し、そのがっしりとした入口のドアが、どうして急にいうことをきかなくなったのかと首をひねった。その暗がりの中で、彼はまた自分の置かれた立場をはっと悟り、まるで外にいる馬が冷淡な返事以上のことをしてくれる、とでもいったように大声で叫び始めた。というのはほかでもない、長いあいだうっちゃっておいた掛け金が明らかに壊れていて、この不注意な葬儀屋を地下の死体安置所の中にたったひとり閉じこめて、いわばわが身を自分の手抜かりの犠牲にしてしまったからである。  ことが起こったのは午後三時半ごろだったにちがいない。バーチは、鈍感で実際的《まめ》な気質《たち》だったから、いつまでも大声をあげているのはやめにして、たしかその安置所の片隅で見た憶えのある道具を、手さぐりで捜し始めた。自分がいま置かれている凄く恐ろしい、この上なく不気味な立場に少しでも彼が影響を受けていたかどうか、あやしいものだが、ふだん人々が通る路からずっと離れたところに閉《と》じこめられているというあからさまな事実がわかると、彼はまったくいらいらした。その日の仕事に、こうして途中で故障ができてみると、だれかが偶然こちらの方へぶらぶらと歩いてくるようなことでもなければ、一晩中あるいはそれ以上そのままそこに閉じこめられていなければならないかもしれない。やがて道具が山のように積み重なっているところへたどりつき、金づちと鑿《のみ》を選《よ》りだすと、バーチは棺を乗り越えてドアのところへ戻った。空気はひどく悪くなりだしていたが、重くて腐食している掛け金に、なかば手さぐりでかかりきっていたので、バーチはそんなことにはまったく注意を払わなかった。大金を払ってでもランタンか蝋燭を手に入れたいところだったが、そんなものはもちろんなかったから、いくら最善をつくしても、半分は目がきかないためにうまくいくはずはなかった。  少なくともこういう貧弱な道具とこういう暗闇の状況にあって、掛け金がもうどうにもならないほどいうことをきかないことがわかると、ほかになにか脱出する手はないものかとバーチはあたりに目をくばった。この死体安置所は丘の脇腹を掘り抜いて作ったもので、だから天井についている狭い換気孔は土のなかを数フィート走っているので、ここからの脱出は考えるまでもなくむだであった。しかし、ドアの上には、煉瓦《れんが》づくりの細長い明りとり窓があり、これならせっせと努力さえすれば大きく拡げられそうな見こみがあった。そこでその窓にじっと目を向けたまま、そこまでたどりつく手はないものかと智恵をしぼった。この安置所の中には梯《はしご》のようなものは何ひとつなかったし、また左右両側と奥の側にある棺をのせる壁《へき》がんは、これまでバーチもわざわざこれを使ったことはめったになく、ドアの上の明りとり窓に這《は》いあがる足がかりにもならなかった。踏み台として使えそうなのはやはり棺そのものだけだったから、そう思ったとき、棺をどう按配したら一番よい並べかたになるかと考えた。棺を三つ重ねた高さなら、明りとり窓へ手が届くだろうと見|積《つも》った。四つ重ねればもっとうまくやれるだろう。棺はかなり平らだから、積木のように積み重ねられる。そこでバーチは、棺四つぶんの高さの、登りおりできる台をしっかりと作るのに、その場にある八つの棺をどううまく使えばよいか、と思案し始めた。思案しながらも、いま頭に描いているその階段の素材である棺がもっと丈夫なできならよかったのに、と思わざるをえなかった。いっそのことその棺が空《から》ならよかったのに、とそこまで彼が望んだかどうか、これは大いに疑わしい。  結局彼は、一番下に棺を三つ、壁と平行に並べ、この上に棺を二個ずつ二段に重ね、そしてそれらの一番上に棺を一つ載せて足がかりの台にしようと肚《はら》を決めた。そういう並べかたをすれば、あまりみっともないまねをしないでも登れるし、予定の高さにはなるはずだ。が、なおよいことは、上の二段を支える一番下の土台を二個の棺で間にあわせれば、いざ脱出という離れわざをするさいに、もっと高さが要るばあいでも、余ったもう一つの棺を上に重ねる余裕のある点であった。というわけで、うす暗闇の中に閉じこめられながらもバーチは懸命に働き、いまは亡き人の入いっている呼べど答えぬ棺桶をよっこらしょと持ちあげては、天窓へ届かすためのいわば小型のバベルの塔を一段一段と積み重ねた。いくつかの棺は乱暴な取り扱いを受けてひびが入いり始めたので、バーチは足場をできるだけしっかりさせるつもりで、フェナー翁の丈夫な棺を一番上の段に使うつもりでとっておくことにした。うす暗がりのなかで、彼は目指すその丈夫な棺を手触りでまちがいなく選びだせると信じていたが、事実また、ひょいと偶然にそれを見つけもした、というのは、すでに三段目に置いてある別の棺の横に、それと気がつかずにその棺をのせたあとで、まるで何か妙な意志が働いたとでもいったように、どしりとそれが彼の手のなかにずり落ちてきたからだ。  その階段はついにできあがり、バーチは一番下の段に腰をおろして痛む腕をしばらく休ませてから、道具を使って慎重に段を登って、あの細い明りとり窓の前に立った。窓のへりは全部煉瓦作りだったから、しばらく鑿を使えば体を通すくらいに窓を大きく拡げられることはまずまちがいなさそうに思えた。ハンマーを打ちおろし出すと、外で馬が鼻を鳴らしたが、それは彼を励ましているとも、またからかっているともとれるような調子だった。いずれにせよ、それはいかにももっともなことだった、というのは、見た目には楽に壊れそうな煉瓦工事が意外に頑丈に作られていて、それはまさに人間の希望のはかなさを冷笑し、それにとりかかっているだけで励みになるその仕事自体を嘲笑《あざわら》っているように思われたからだ。  夕闇が濃くなってきたが、なおもバーチはせっせと働いていた。作業は主として手さぐりでやっていたが、それはさっき雲がむくむくと現われて月を隠してしまったからだし、工事の進みかたは相変わらず遅かったにせよ、明りとり窓の上側と下側が少しずつ拡げられていき、その進捗《しんちょく》ぶりが感じられてつい張りあいがでたからでもあった。真夜中までには外に出られる、と彼は確信した。が、うす気味わるさを少しも感じないでそう思えるところが、バーチのバーチたるゆえんであった。その時刻と場所と、自分の足の下に横たわっている連中のことに思いをはせてついおびえてしまう、というようなわずらわしさもなく、バーチは堅い煉瓦細工を、悟りすました顔で削《けず》りおとし、かけらが顔に当たると畜生めとどなったり、しだいに気が昂《たかぶ》ってきた馬が糸杉の木のそばを前足で蹴っているのをだれかが打《ぶ》つと笑ったりもした。ついにその穴はかなり大きくなったから、試《ため》しにときおり位置を変えながらそのなかに体を入れてみようとしたので、踏み台にしている棺が揺《ゆ》れ動いてぎいぎいと鳴った。適当な高さにするために足場にもう一つ棺を積みあげるにはおよばないということが、試してみてわかった、というのはその穴が、もう少し大きく開《あ》きしだい、まさにぴったりの高さになるはずだったからだ。  少なくとも真夜中にちがいないころになって、やっとバーチは、どうにかその明りとり窓から抜け出られそうな見通しがついた。何度休んでみても、くたくたに疲れて汗ばんだので、彼は下の方へ降りて一番下の棺の上にしばらく腰をおろして体力を整え、最後にもう一度何とか穴を潜り抜けて外の地面に跳び出すのに備えた。空腹を訴える馬はしきりに何度もいななきを繰り返し、ほとんど不気味なまでになってきたので、やめてくれればいいが、とバーチもぼんやりそう願った。さし迫ったその脱出のことを思うと妙に元気がなくなり、それをやってのけるのがこわくなったのは、すでに体の形が、中年になりかけの運動不足で肥満型になっていたからだ。ひびの入いりかけている棺の上にあらためて登りながら、彼は自分の体重を身にこたえるように感じたが、とりわけ一番上に届いたときは、いままでより一段と強くめりめりという音が聞こえ、おかげで棺の材木全体の裂けたことがわかった。どうやら、一番頑丈な棺を一番上の足場用に選んだときから、すでに計画がまちがっていたらしい。というのは、一番上の棺に体の重みがそっくり掛《かか》ったそのとたんに、腐りかけていた蓋《ふた》が割れ、思わずがたんと二フィートも揺れ落ちたが、それは彼でさえ思ってもみたくないものの上にであった。その物音に狂ったのか、あるいは外の空気の方にまで押し出した安置所のひどい悪臭にでも狂ったのか、外で待っていた馬が、いななくというにしては余りにも気ちがいじみた鳴き声を一つあげると、うしろにがたがたと鳴る車体を引っぱったまま、夜の暗闇のなかに狂おしい勢いで突き進んでいった。  バーチはいまや身の毛のよだつような境遇にあって、余りにも足場が低すぎるために、拡げた明りとり窓から外にたやすく這い出るわけにはいかなかったが、エネルギーを一点に集結して或《あ》ることをやってみようとした。つまり窓の両端をしっかと把《つか》んで、自分の体を持ちあげようとしたのだ、が、そのときふと気がつくと、どう見ても、両足のかかとのあたりがぐいっと抑えられる、そんな感じで、体を引きあげるのが妙に妨げられているのだ。つぎの瞬間、その晩初めて彼はぞっとした、というのはほかでもない、いくらじたばたもがいても、なんとも得体の知れぬものが、なさけ容赦なく自分の足首をつかんでいるのを、ふりほどくことができなかったからである。まるでひどい怪我《けが》からでも起こるような、もの凄い痛みが両足のふくらはぎにさっと走った。そして心のなかでは、渦巻くような恐怖の念と抑えがたい唯物主義とが混じりあい、おかげで彼は、壊れかけている棺桶の裂け目や、抜けそうな釘《くぎ》やその他の徴候をつい連想してしまっていた。たぶん悲鳴をあげたらしい。ともかく彼は足を振り払おうとして狂気のようになるとともにひとりでにじたばたともがく一方、その意識はなかば気を失いかけるほどぼんやりとしてきた。  ただ本能の導いてくれたおかげで、明りとり窓をのたくるようにしてくぐり抜け、湿った地面の上にどしんと耳ざわりな音をたてて落ちたあと、もがきながら這い進んでいった。立って歩くことはできないらしく、折から姿を現わした月も、彼が血の流れる足首を曳きずって門番小屋の方へ向かっていく恐るべき姿を見たにちがいない。その指の爪は愚かしいほど急いで黒い土を引っ掻《か》いているのに、それに応ずる体の進みぐあいは、気が変になるほどにのろくさく、こわい夢の中で化けものに追いかけられたときに憶えのあるあののろさだった。とはいえ、どうみても追いかけてくるものはいなかった。現に門番のアーミントンが、戸口を引っ掻くバーチのかすかな爪音に応じて出迎えたとき、バーチのほかに人影はなく、しかもバーチはまだ生きていたからだ。  アーミントンはバーチに手を貸して余備のベッドのところまでつれていき、エドウィンという幼い息子を使って医者のディヴィス先生を呼びに行かせた。ひどい目にあったバーチも、もうすっかり意識をとり戻したが、だいじなことは何ひとつ話そうとせず、ただ「ああ、足くびが!」「放せ!」とか「……墓のなかに閉じこもっていろ」といったことをつぶやくだけであった。やがて医者が薬箱を抱えてやってくると、バーチに向かっててきぱきと歯切れよく質問をし、バーチの上着や靴や靴下を脱《ぬ》がせた。その怪我――というのは両方の足首ともアキレス腱のあたりがぞっとするほど引き裂かれているからだが――を見ると、ディヴィス先生は大いにまごつき、しまいにはほとんどおびえてしまったらしい。あたかもできるだけすばやくその怪我を見えなくしてしまいたいかのように、そのずたずたに切られた足首に包帯をし、それをズボンで隠すときに医者の手は顫《ふる》えていた。  科学的な医者として、ディヴィス先生のきびしい威厳にみちた訊問は、恐怖におびえているこの葬儀屋が、ついさっき味わった恐ろしい経験談をことこまかに話すのを聞くにおよんで、ひどく調子がおかしくなってきた。階段のように積みあげた一番上の棺の身元はたしかなもの――(それこそまちがいなくたしかなもの)――であるのかどうか。どうしてそれを一番上に選んだのか、またどうしてそれがフェナー老人の棺であると暗闇の中でわかったのか、それにどうしてそれが、根性の悪いアサフ・ソーヤーの入いっているできそこないながらもそっくり同じ型の棺と区別がついたのか、そんな点をディヴィス先生はおかしいくらい訊《き》きたがった。丈夫にできていたフェナー老人用の棺がそうあっさりと陥没するかどうか? ディヴィス先生は、昔から村に居ついた開業医として、むろんふたりの葬式はそれぞれ見ていたし、じじつまた、フェナーとソーヤーの最期の病床にもそれぞれ立ち会ってきた。先生はソーヤーの葬式のときにも、どうしてソーヤーのような執念深い男が、小柄なフェナー老人のとそっくり同じ棺の中におさまる気になったのか、と首をひねったものだった。  たっぷり二時間ののちディヴィス先生は立ち去ったが、立ち去るときにバーチに向かい、おまえの怪我は出すぎた釘と割れた板のせいだとうるさく念を押した。それ以外の原因が証明されるはずもなければ、また信じられるはずもあるまい。しかし、なるべく人にはいわずにおき、また他の医者にも見せずにおくほうがいいだろう、と先生はつけ加えた。そのいいつけを、バーチはいちぶしじゅうを物語るまでその後ずっと守りぬき、わたしがその傷跡《きずあと》――すっかり古くなってそのときにはもう白くなっていた――を見たとき、なるほど彼がいままで秘密にしていたのは賢明だった、とわたしも思った。バーチはいつもびっこをひいていた。アキレス腱が切れていたからだが、一番ひどい傷は彼の心のなかにあったとわたしは思っている。むかしは粘《ねば》っこくて筋が通っていた彼のものの考えかたには、消しがたい傷がざっくりとついてしまっており、たまたま「金曜日」、「墓」、「棺桶」といったことばに触れたり、またそれほどあからさまではないことばが続いてでたりしたばあいの彼の反応ぶりは、気の毒で見るに忍びないものがあった。あのとき驚いた彼の馬は家に戻ったが、あのとき驚いた彼の神経は完全には正気に戻らなかった。彼は商売を変えたが、いつも何かのいいカモにされていた。その何かというのは、恐怖だったかもしれないし、それもまた、過ぎ去ったへまを悔む手遅れな悔恨の念と混じりあった恐怖だったかもしれない。彼の酒ぐせは、むろん、まぎらわしたいと思ったものを一層悪化させただけであった。  ディヴィス先生はその晩そこを立ち去ると、ランタンを手にして古い納骨所へ行ってみた。あたりに散らばっている煉瓦の破片やその建物のきずだらけの正面を月が煌々《こうこう》と照らし、入口の掛け金は外からちょっと触っただけですぐに開《あ》いた。解剖室に古くから伝わる試練に鍛《きた》えられていたので、先生はなかに入いってあたりに目をくばり、視覚と嗅覚に訴えるあらゆるものから生じてくる、精神的および肉体的に感じられる強い吐き気をぐっと抑えた。一度大きな悲鳴をあげ、それからややあとであえぐようにはっと一つ息をとめたが、そのほうが悲鳴よりも凄《すご》みがあった。そこで彼は門番小屋に逃げ戻り、医者という職業の掟をまともに破って患者のバーチの体を揺り起こし、がたがたと顫える囁き声をバーチの耳に休みなくたたきこんだが、それはとまどいしているバーチの耳のなかに、しゅうしゅうと音をたてる硫酸のように流れこんで感覚をしびれさせた。 「おいバーチ、あれはアサフ・ソーヤーの棺桶だぞ、やっぱり思ったとおりだった! 歯でわかるんだ、上側の前歯がぽろっと欠《か》けていてな――その傷を見せないでくれ、おい後生《ごしょう》だから! 体の肉はもうかなり落ちて骨になっているが、あの執念深い――むかしの奴の顔は一度見たら忘れられるものか!……そおら、知ってのとおり、ソーヤーは復讐にかけては鬼みたいな奴で――境界線争いの訴訟から三十年もあとになってレイモンド爺《じい》さんを破滅させたし、一年前の去年の夏あいつに噛みついた子犬を踏んづけたっけ。……奴《やつ》は悪魔の権化《ごんげ》だぜ、バーチ、それにあいつの、目には目を式の狂暴さには時間も死も勝てるはずがないとわしは信じておる! やれやれ、あいつの執念ときたら――わしにはねらいをつけてもらいたくないものだ!  どうしてあんなまねをしたんだね、バーチ? あいつは悪党だから、廃物の棺桶に奴《やつ》を入れたからって文句はいわぬ、が、いつもおまえのやることはとんでもない行きすぎなんだ! ことに当たってある程度けちけちするのはけっこうだ、が、あのフェナー老人がいかにも小男だったことはごぞんじのはずだ。  さっき見た光景は生きている限りわしの頭から消えはしまい。おまえはひどく蹴ったものだな、アサフ・ソーヤーの棺が床にころがっていたぞ。奴の頭は割れていたし、まわりにあったものはみんなひっくり返っていた。いままでいろいろな光景を見てきたが、あれはちっとひどすぎる。目には目を、か! やれやれ、バーチ、でもなあ、おまえは報いを受けたんだ! あの割れた頭蓋骨を見てわしは胸が悪くなった、が、それはまだいい――あいつの足首は、フェナー老人用の廃物になった小さい棺桶に寸法を合わせて、すぱっと切断されていたっけ!」