ラヴクラフト全集〈1〉 H・P・ラヴクラフト/大西尹明訳 [#改ページ] 壁のなかの鼠 The Rats in the Walls [#改ページ]          一九二三年七月十六日に、職人がその仕事のケリをつけてしまうと、わたしはイグザム修道院跡の館に引き移った。この建物を再建するには、実にうんざりするほど骨が折れた。住む人のいないままにうち捨てられていたこの建物は、外側の骨組以外には、ほとんど跡形も残っていなかったからである。が、その土地は、わたしの祖先が住んでいた邸の跡であったから、金に糸目はつけなかったのだ。この土地には、ジェームズ一世の御代《みよ》以来、だれ一人住むものがいなかった。そしてその御代に、行き届いた説明はいたしかねるが、じつになんとも恐ろしい性質の悲劇が起こり、この館の主人と子供が五人、それに召使がいくたりか殺され、その家の三番目の息子がこの事件の恐るべき犯人であるという嫌疑をうけたのであるが、この男こそ、わたしの直系の初代の祖先であって、この忌まわしい家系の血を伝えるただ一人の生き残りだったのである。  ただ一人生き残ったこのあと継ぎは、ひと殺しという汚名をうけて、遺産を国家に没収されたが、告発された当人は、申し開きをしようとか、あるいは財産を取り戻そうとか、そんなけぶりは少しも見せなかった。良心や法律よりも、もっと遙かに恐ろしいなにものかに、ひどく心をせきたてられるまま、自分の目に見えるところと、心に刻みつけられた記憶とから、その古めかしい建物の影を、ただもうふり払いたい一心から、十一代目のイグザム男爵ウォルター・ド・ラ・ポーアは、イギリスの地をあとにして、アメリカのヴァージニアへ逃げて行き、そしてその地で一家を築き、やがてこの一家の家名は、それから百年とたたぬうちに、デラポーアと呼ばれるようになったのである。  このウェールズのイグザム修道院跡には、その後も相変わらず人は住まなかった。もっとも、その建物は、のちにいたって、ノリス家の財産として指定され、その古めかしい独特の混合建築様式のせいで、大いに好事家《こうずか》の研究対象にはなったのである。じじつこの建物のなかには、サクソン風、ないしは、ロマネスク調でありながら、その上に、すっくとゴシック式の塔が突っ立っているところがあったり、またその基礎工事のほうも、それよりもっと古い様式のもの――たとえばローマ風、いや古代ケルトのドルイド教(古代ケルト族の間に信じられた一種の自然宗教)式、ないしはこの土地柄のウェールズ風のものであるとか、あるいはそういう様式がいくつかたがいにまじりあったものとかが、かわるがわる現われているところがあったのであるが、これは伝説というものが、本当のことを伝えるものであると仮定しての話である。土台はたいへん特異なもので、その一方の端は、そのまま足もとから、すぐ固い石灰岩の断崖になっており、この断崖のふちに立つと、修道院から、アンチェスター村の三マイル西にある荒涼たる谷間が一望のもとに見わたせた。  建築家や好古家は、この遠いむかしの奇妙な遺物を喜んで研究したが、土地の人たちはそれをひどく嫌がっていた。村の連中は、数百年前にわたしの祖先が住んでいた時代から、その建物をひどく気味悪がっていたし、住むものがないままにうっちゃっておかれたため、苔やかびのはえたこの建物をひどく忌みきらっていた。わたしは、自分が呪われた家柄の出であることを知ってから、初めてアンチェスターにやってきた。だからこそ今週、職人たちにイグザム修道院跡を爆破させ、その土台の痕跡をも取りかたづけさせているのである。かねてからわたしは、最初にアメリカに渡ってきた初代の祖先は、妙な嫌疑を受けたためにこの植民地にやってきたのだという事実をも含めて、祖先のありのままの行状はあらまし承知していた。が、そのこまかいところは、デラポーア家代々に伝わる寡黙《かもく》という家風のおかげで、わたしもいままでは知らずにきた。近所の農園主たちとちがって、わたしの家では、やれ十字軍に参加した祖先はどうのとか、やれ中世やルネッサンス期の偉人たちはどうのとか、そんな自慢話はめったにやらなかったし、また、代々《だいだい》申し伝えている慣習といえば、ただひとつ、まだ南北戦争の起こらないうちに、代々の当主が、その長男に、厳封した書類の内容は、自分が死んでから見るようにといい残すしきたりがあるにすぎなかった。わが家の重んじてきた名誉は、アメリカに渡ってから得たもので、やや控え目で世間とのつきあいが薄いとはいえ、自尊心の高い立派なヴァージニアの家柄であった。あの南北戦争のあいだに、わが家の財産は尽き果ててしまい、わが家の生活も、通称カーファックス邸というジェームズ河畔の家が焼失したために、がらりと変わった。  年をとっていたわたしの祖父は、この邸が放火で焼け落ちたときの騒ぎで亡くなり、祖父が死ぬとともに、わたしたちみんなを、過去に結びつけていた例の封書もなくなってしまった。当時七歳であったわたしの目に映じたその火事のありさまは、いまでもありありと想いだせる。――その火事のとき、北軍の兵隊どもはわあわあと叫び、婦人たちは金切声をあげ、黒人たちはうなるようにお祈りを捧げていたのだ。わたしの父は、当時軍隊に入《は》いっていて、リッチモンドの守備隊にいたので、母とわたしは、さんざ面倒な手続をへたあげく、ようやくのことで戦線を通り抜ける許可を得て父のもとにたどりついた。  戦争が終わると、わたしたち一家は母の郷里である北部に移り、その地でわたしは一人前の大人になり、やがて中年になり、気のきかないうえに鈍重なヤンキーとしては、まずこの上もない財産家となったのである。父もわたしも、わが家に代々伝わっている例の封書に、どういうことが書いてあるのか知らなかったし、またわたしとしては、マサチュセッツで実業生活に入いってからだんだん年をとるにつれて、あの遙かなむかしに、どうやらわたしの家系に秘密が潜んでいたらしいということには、すっかり興味がなくなっていった。その秘密の性格に、当時うすうすでも気がついていたならば、わたしは喜んでイグザム修道院を、そのままにうっちゃっておいて、苔や蝙蝠《こうもり》や蜘蛛の巣だらけにしておいたものを!  父は一九〇四年に死んだが、遺言らしいものは、わたしにも残さなかったし、またわたしのひとり息子で、母親に死なれた十歳のアルフレッドにも残していかなかった。家系のいい伝えをきく順序を逆転させたのはこのアルフレッドであった。というのはほかでもない、父親のわたしのほうは、息子のアルフレッドに、むかしのことはほんの冗談半分の臆測を話して聞かせただけだというのに、アルフレッドのほうは、第一次大戦で一九一七年に空軍将校としてイギリスへ渡ったとき、祖先にまつわる実に興味深い伝説をわたしに書き送ってきたからである。明らかにデラポーア家には、波瀾にとんだ、しかもどうやら不吉な歴史がまつわっていたらしい。というのは、わたしの息子の友人で、エドワード・ノリスというイギリスの空軍大尉が、アンチェスターのわたしの祖先の住居の近くに住んでいて、この人から、アルフレッドはある農民の迷信話を聞いたのであるが、いや、その話のもの凄い、驚くべき不思議さかげんというものは、まずめったな小説家では、およびもつかないものだったそうである。話した本人のノリス大尉は、むろん、そんな話をマトモに受けとってはいなかったが、話を聞いた息子のほうは興味を感じ、それをいい材料に使ってわたし宛てにたっぷり面白い手紙を書いてよこした。その大西洋のかなたにある祖先伝来の遺物のほうにわたしがはっきりと関心を向け、その祖先の住居を買いとって、それを元どおりに修復してやろうという肚《はら》を決めたのは、そのときに読んだ伝説のせいであって、なおその手紙には、ノリスがアルフレッドに、その屋敷が見るも無残に荒廃していると語っていることばと、いまその屋敷は自分の叔父が持っているから、びっくりするほど安い値段で譲ってもいい、と申しでたということが書き添えてあった。  わたしは一九一八年にイグザム修道院を買いとったが、その修復計画は、ほとんど買いとったその直後に、息子が傷病兵として帰ってきたのにとりまぎれて忘れていた。息子はそれから二年間生きていたが、そのあいだはわたしの事業のほうも、共同経営者の運営にまかせたまま、ただ一心に息子の看護にかかりきっていた。  一九二一年に息子を失ってこの世に当てもなくなったわたしは、わが身がもはや若くもないと知って隠退し、二年前に買っておいた例の屋敷で余生を慰めようと肚を決めた。十二月にアンチェスターをおとずれて、わたしはノリス大尉に歓待してもらった。この大尉は丸々と肥った感じのいい青年で、死んだ息子のアルフレッドに深い敬意を払っており、やがて屋敷の修復にとりかかったら、その助けになる設計図や隠れた昔話を集めるのに、かならず手を貸すと約束してくれた。イグザム修道院そのものを、わたしはひとわたり冷静にながめた。それは倒れかけた中世の廃屋がごちゃごちゃにかたまっているだけのものにすぎず、あたり一面地衣に蔽《おお》われ、いたるところ蜂の巣のようなみやま烏の巣だらけになっており、その廃屋は断崖の上にあぶなっかしく乗っかっており、離れの塔の石壁以外に、床もなければ、内部の造作もなに一つなかった。  三世紀以上ものむかし、わたしの祖先がそれを残して立ち去った当時のその建物の姿というものが、だんだんわたしにもわかってくると、わたしは修復のために職人を雇い始めた。そのたびごとに、わたしはつい近隣のよその村までわざわざと出かけて行かざるをえなかった。アンチェスターの村人たちは、この場所を、ちょっと信じられないほどひどくこわがり、またひどく嫌がってもいたからである。この感情は実に強烈なものだったので、ときによるとよそからきた職人にまで伝染し、逃げ帰ってしまうものもかなりあった。その恐怖と憎しみの感情は、修道院の建物と、そのむかしの血統の両方に向けられているらしかった。  わたしの息子は前に一度、ここに滞在しているあいだ、自分がド・ラ・ポーア家のものだといったばかりに、なにか村の連中から嫌がられたものだとわたしにいったことがあるが、このわたしも、祖先の遺物のことをわたしがほとんど知らないということを村人たちが納得するまでは、息子のばあいと同じ理由で、それとなくよそよそしいあしらいを受けていた。もっとも、わたしが祖先のことをほとんど知らないということがわかったときでも、村の連中はいかにも無愛想にわたしのことを避けていたので、この村のいろいろの伝説を集めるのには、どうしてもノリスにとりついでもらわざるをえなかった。村人たちがどうしても我慢できなかったのは、彼らにとって実に忌まわしい例の建物を、わたしが元どおり直そうとしてやってきたということらしかった。それというのも、彼らの目から見れば、それが理屈にかなっていようといまいと、それはともかく、イグザム修道院は悪魔か人狼《ひとおおかみ》の巣窟以外のなにものでもなかったからである。  わたしのためにノリスが集めてくれた逸話をあれこれとつなぎあわせ、さらにそのつなぎあわせた話を、この廃屋を研究した数人の学者の説明で補足してみると、このイグザム修道院は、有史以前の寺の跡に建っていたものと推定された。有史以前の寺というのは、つまり、古代ケルト族のあいだで信仰されていたドルイド教か、反ドルイド教のそれをいうので、これはストーンヘンジ(イギリスのソールズベリ平原にある巨柱石の二重環列。石器時代後期のものといわれる)と同時代であったにちがいない。あの名状しがたい凄い儀式がここで取り行なわれていたのだということを疑ったものはまずなかったし、また、それらの儀式が、ローマ人のもたらしたあのシビリー(小アジア地方の自然の女神。マグナマータ(諸神の母)と呼ばれ、生産を象徴する)崇拝のなかに取り入れられたという不愉快な話も伝わっていた。  地下室のもう一つ下の地下室の丸い穴に、「デイヴ……オプス……マータ……」と刻みこまれて、いまでもはっきりと読みとれるまごうかたなきその文字は、大むかし、ローマの市民がその秘密信仰を禁じられていながらなかなか守らなかった「マグナ・マーター」の印である。アンチェスターは、いろいろな遺跡を見ればわかるように、そのむかし、ローマ帝国第三軍団の駐屯地だったことがあり、シビリーを祠《まつ》る寺院は素晴らしく立派で、フリジヤの僧侶の采配で不届きな儀式を行なう礼拝者が雑踏をきわめていたそうである。さらに、さまざまないい伝えを調べると、この古い宗教は没落しても、寺で行なう馬鹿騒ぎは終わらず、僧侶たちは、本質的には変わりのない新しい信仰に生きつづけたということがわかる。同じように、この儀式はローマの勢威をもってしても消滅せず、サクソン人のあいだのある儀式がシビリーの寺に残ったものに混じりあって、これがその後ずっと続いた儀式の本質的な要綱となり、おかげで、例の七王国(英国史上アングロ・サクソン時代にあった七つの王国の連合体)のなかばにあまねく恐れられるほどの信仰の中心地になったのだといわれている。紀元一千年ごろには、この場所には丈夫な石造の修道院が建っていて、奇妙な権力のある僧侶階級が住みつき、まわりは広大な庭園にかこまれていたから、こわがっていた民衆の立入りを禁ずる壁など、わざわざ造るにはおよばなかった、と、ある年代記にのべられている。この時はデーン人にも破壊されなかったが、ただ例のノルマン人のイギリス征服以後は、がっくり勢いが衰えたにちがいない。ヘンリー三世が一二六一年に、わたしの祖先の初代イグザム男爵に当たるギルバート・ド・ラ・ポーアにこの地を賜わった当時、なんの邪魔も入らなかったのを見ても、そう推察できるのである。  このとき以前のわたしの家系には、なに一つ不吉な記録などなかったのだが、どうやらこのとき、なにか妙なことが起こったらしい。ある年代記では、一三〇七年の項にド・ラ・ポーア家のある人物のことに触れて「神罰をくだされたもの」といっているし、また、村の伝説で、古代の寺院と修道院の跡に建っているその館のことに触れるものは、不吉で気違いじみた恐怖を物語る話ばかりであった。炉辺でしゃべる物語には、思わずぞっとするような話があり、みんながぎくりとして口をつぐみ、なにか疑わしそうにそわそわするので、かえってますます身の毛のよだつ思いがしたものであった。村びとたちはわたしの祖先を、悪魔の血をひく種族だと見なし、それに比べればジル・ド・レー(多くの子供を殺害した残忍な十五世紀のフランスの将軍)や、マルキ・ド・サード(サディズムの名の元祖。フランスの侯爵)などは、まったくの駆けだしにすぎないといい、この何世代かのあいだに、ときどき村びとたちが行方不明になったのも、わたしの祖先のせいだとひそひそ囁きあっていた。  わたしの家系のうちで一番悪い連中は、どう見ても例の男爵たちとすぐそのあとを継いだものたちで、少なくとも、この連中のことを、ひそひそと噂話をしない村人はないくらいであった。仮にもっと健全な傾向のものが出たとしても、そういうあと継ぎは、ほかのもっと典型的な悪玉の子孫に道を譲って、不思議な若死にをするようになっているのだといわれていた。どうやら、この家の内部では、秘密の儀式が行なわれていて、それには家長が司祭を勤め、ときにはごくわずかなもの以外には参加できないばあいもあるらしかった。この儀式には、血族よりもむしろ当人の気質のほうが明らかに大切な要素をなしていた。その証拠には、この家にかたづいてきた女がいくたりか、その儀式に混じっていたのである。第五代の男爵の二男、ゴッドフリーの妻に当たるコーンウォール出身のマーガレット・トレヴァー夫人は、この地方全体の子供たちに人気のある悪の権化《ごんげ》であり、とくにむかしのもの凄い民話にうたわれている魔女話は、いまだにウェールズの辺境付近では、消えずに残っているのである。眼目はそれと同じものではないが、これもやはり民話のなかに歌いこまれている、メアリー・ド・ラ・ポーア夫人のぞっと身の毛のよだつような物語では、この夫人はシュールーズフィールド伯爵と結婚してまもなく、その夫としゅうとめの二人に殺害されたが、加害者のその二人は、もう二度と人殺しはしないと懺悔した相手の僧に、罪を許され、祝福されたのだそうである。  こういった伝説も民話も、ともに粗野な迷信をよく表わしているものとはいえ、わたしはひどく不愉快になった。こういう迷信が長いあいだ、わたしの祖先にまつわる話として、ずうっとむかしから伝わってきたということが、とりわけやりきれない思いがしたし、その一方、極悪非道な習慣の責任者を調べているうちに、はからずもわたしの直系の祖先の演じたある有名なスキャンダルを思いだして不愉快になったのであるが、そのスキャンダルというのは、わたしのいとこでカーファックス出身の若いランドルフ・デラポーアにまつわる一件で、このランドルフという男は黒人の仲間入りをしたことがあって、メキシコ戦争から帰ったのちは、ヴードゥー教の僧になったという人物なのである。  石灰岩の崖の下にある、風に吹きさらしの荒涼たる谷間には、泣く声やわめく声が聞こえるとか、春、雨が降ったあとの墓地には悪臭がただよっているとか、ジョン・クレイヴ卿の馬がある夜、寂しい野原で、もがきながら、ひーひー鳴く白いものを踏んづけたとか、まっ昼間修道院のなかでなにか妙なものを見た召使が気違いになったとか、そういうぼんやりとした話のほうが、まだしもわたしにはましだった。こういった話はいい古された幽霊伝説にすぎず、わたしは、そのころ強い懐疑論者だった。農民が行方不明になったという話など、まずは問題にもしなかった。もっとも、その程度の問題では、元来、中世の慣習から見れば、特に重要なことではなかったのだ。また、あまり立ち入った好奇心を持つと殺される憂き目にあい、獄門首《ごくもんくび》が、イグザム修道院の回りの――いまはないが――城壁の上に曝《さら》されることが一度ならずあったそうである。  さまざまな物語のなかには、実になんともいえない美しい話がいくつかあり、そういう話を聞くにつけて、いや若いときに、比較神話学をもっと勉強しておけばよかったのに、とつくづく思ったものだ。たとえば、蝙蝠《こうもり》の羽をつけた無数の魔物が修道院で、毎晩、悪魔の宴会を催したと信じられていたが――なるほどそういえば、広大な畑で、粗末な野菜がつりあいのとれぬほど豊富に栽培されたわけは、そのおびただしい鼠の魔物の食糧にするためだったのだな、と合点できるのだ。またそのなかでも一番ありありとした話は、その鼠どものことをうたった劇的な叙事詩であって――このちょろちょろ走り回る不潔な害獣は、その領域を荒廃せしめた悲劇があってから三ヵ月後にそこからどっと躍《おど》りだし、このやせた、汚い、がつがつした鼠の大群は、その行く手にあるものをことごとく一掃し、鶏や猫、犬、豚、羊、いや、二人の不運な人間までもむさぼり食ったのち初めて猛威を収めたそうである。それぞれの伝説群は、そのすべてが、この忘れがたい鼠族の大群の話を中心に回転し、それぞれの伝説は村の家々に広く散らばり、呪いと恐怖とをあとに残したのである。  わたしが初老の頑固さをもって、祖先の住んでいた館を修復する仕事をせっせと押し進めたのは、こういう伝説に駆りたてられたためであった。といって、こういう話が、心理の上でわたしを取りまくおもな環境を構成していた、と少しでも考えてはならない。また他方において、ノリス大尉や、わたしに近づいてきて手を貸してくれた好古家たちは、いつもわたしをほめて、励ましてくれた。手をつけてからたっぷり二年たって工事ができあがったとき、この修復工事のおびただしい費用を補ってあまりある誇りを感じながら、大きな部屋、板張り壁、円形の天井、仕切窓や幅の広い階段をわたしはひとわたりながめてみた。  中世の持ち味は、すべて巧妙に再現されていたし、新しい部分ももとの壁や土台としっくりとけあっていた。これで祖先たちの住まいもすっかりもとどおりになったので、今度はいよいよ、わたしで終わっているこの家系の、当地における名誉を挽回してやろうと心がけた。わたしは今後ここにずうっと住まいを定め、ド・ラ・ポーア家のもの(わたしはふたたびむかしどおり、この家名の書きかたを採ることにしていた)は、なにも悪魔の血をひくわけがないということを、はっきり人々にお目にかけてやりたいと思ったのだ。イグザム修道院は中世風にできていたが、内部《なか》はまったく新しくなり、むかしの害獣や幽霊は、すっかり影をひそめてしまっていた。  さっき申しあげたように、わたしは一九二三年の七月十六日に移住してきた。同じ屋根の下に住んでいるのは召使が七人に、猫が九匹で、とりわけわたしはあとのほうの種族が好きであった。一番年をとった「黒んぼ」という猫は七歳で、マサチュセッツのボルトンの家から一緒につれてきたものであった。ほかの猫は、館が修復されるまで一時わたしがノリス大尉の家に泊っていたあいだに集めたものである。  五日間というもの、われわれの日常はきわめて平静のうちに過ぎて行き、わたしはたいてい、古い祖先の資料を編纂しながら時を過ごした。そのときわたしは、あの最後の悲惨な出来事と、ウォルター・ド・ラ・ポーアの逃亡とについて、あるきわめてくわしい説明を手に入れたのだが、どうやらこれは、カーファックスの火事でなくした、例の先祖から伝わる遺言書の内容に相当するものであろうと思われた。それによると、どうやらウォルターは、自分の片棒を担いだ四人の召使をのぞくあとの全員を、就寝中に殺したという理由で非難されたらしかった。そしてこの殺害事件は、彼の態度をすっかり一変してしまったある驚くべき発見をしてから二週間のちに起こったことであるが、その驚くべき発見に関しては、殺害事件のときに彼に手を貸し、その後、手の届かぬ遠くへ逃げてしまった召使どものほかには、おそらく彼はだれにも打ち明けなかったものと思われる。  父親、兄弟三人、姉妹二人をふくめたこの計画的な虐殺も、村人からは概して大目に見られたうえ、法的処置がまた実にいいかげんなものであったため、この犯罪者は爵位を持ったまま、迫害もされず、変装もせずに、ヴァージニアへ落ちのびてしまった。あまねく世間にこっそりと囁《ささや》かれた世評では、大昔から呪われていた土地を、彼はこれによって浄化したのだ、といわれていた。この惨劇のそもそもの原因となった発見というのは、いったい何を発見したものであったのか、わたしにはまるっきり見当もつかなかった。ウォルター・ド・ラ・ポーアがその血統にまつわる不吉な話を知ってから、数年たっていたにちがいない。だからこそ、この資料に少しも新鮮な刺激を与えるわけがなかったのだ。当時彼は、なにか驚くべき古代の儀式を目撃したり、あるいは、修道院かその付近で、なにか秘密を明かしてくれるものを偶然見つけたのではあるまいか? ウォルターは、イギリスにいたころは内気で上品な若者だったという評判である。アメリカに渡ってヴァージニアに住みついてからは、厳格で辛辣だというよりはむしろ、なにか悩み、なにかを恐れているようなようすであった。あるおだやかな、別の冒険家のベルヴューのフランシス・ハーリイの日記には、彼のことが、たぐいまれな正義感と名誉心と、繊細な神経の持主であると述べられていた。  七月二十二日に最初の事件が起こったが、この事件は、起こった当座は軽く見すごされていたのだが、後の出来事とにらみ合わせて考えてみると、一つの超自然的な意味を帯びてくるのである。それはまず見すごしてしまうのも無理からぬほど単純なことで、そのときの事情では、まず怪しまれなかったのもあたりまえであった。というのは、そのときわたしの住んでいたのは壁以外はまったく新しく作り直された建物のなかであり、また、気のたしかな召使たちにとりまかれていたという点から考えてみても、いかに因縁のある場所がらとはいえ、不安の念など起こるわけがなかったという点を、ぜひ思いだしていただきたいからである。  あとになってわたしが思いだしたのは、――例の気ごころのよくわかっている黒猫が、どうみても、こいつの生まれつきの性質から考えては説明のつかぬほどおさおさ油断のない、心配そうなようすをしていたということだけである。この猫はなんとなくおちつきがなく、なにか不安に駆りたてられるように部屋から部屋へとうろつきまわり、ゴシック建築の一部に当たる壁をふんふんかぎまわった。こういうと、これがいかにもありふれた話だということは、わたしにもよくわかる――これではまるで、幽霊話につきものの犬が、経帷子《きょうかたびら》を着た人影に、主人が見る前にかならずうなりかかるようなものである――が、それでもやはりわたしには、どうしてもそれを否定することはできないのだ。  その翌日、召使のひとりが、うちじゅうどこに行っても、こう猫がいたのではちっともおちつかなくて困る、と文句をいった。私の書斎は、この館のなかでもひときわぐっと高くなっている西側の塔にあって、天井は穹窿《きゅうりゅう》になっており、まわりの壁には、その上に黒い樫の鏡板がぴったりと張りめぐらされ、窓はゴシック風の三重窓になっていて、この窓からは、あの石灰岩の崖と荒涼たる谷がひと目で見渡せた。その文句をいったという召使は、この書斎にきて苦情を述べたのだが、この男のしゃべっているあいだも、わたしは、例のまっ黒な「黒んぼ」が、西側の壁づたいに這うように歩きまわり、しきりに樫の鏡板のところをばりばり引っ掻いているのを見ていたのだが、その部分は、元来、大昔の石壁だったものの上から、今度の修復で、一面に樫の鏡板を張って壁を隠したところに当たっていた。  その古い石壁から、人間の感覚では感じられないが、猫の鋭敏な器官をもってすれば、たとえ新たにつけたした鏡板に遮《さえぎ》られていてもはっきりと感じられる、なにか妙な匂《にお》いか発散物でもあるにちがいない、とわたしはその男に話してやった。たしかにそれにちがいない、とわたしは信じていたから、この男が、はつか鼠か野鼠でもいるんじゃありますまいか、というのを聞くと、わたしはここには三百年のあいだ鼠一匹いなかったのだし、たとえこのあたりに野鼠がいるとしても、まさかこんな高いところの壁のなかにいるはずはないじゃないかといってやった。地上からうんと高い壁のなかに、鼠がうろちょろしているなんて、いままでに一度だって聞いたためしはない。その日の午後、わたしはノリス大尉のところへ行ってみた。彼はふつうの野鼠がだしぬけに、しかも前例のない手口で修道院跡のわたしの館に横行するなどということはまったくありえないことだ、と請けあってくれた。  その晩、わたしはいつものように、召使もつれずに西側の塔の部屋に引上げた。この部屋はわたしが自分の居間に選んだ部屋で、書斎からは石の階段と短い廊下で連絡してあった。その石段の一部は大昔のもので、短い廊下は全部修復したものであった。この部屋は形が丸くて非常に高く、壁に板を張るかわりに、みずからロンドンで買ってきた、美しい絵模様のついたアラス織風の壁掛がかかっていた。 「黒んぼ」も一緒に部屋に入いったのを見とどけると、わたしは重いゴシック式の扉を閉め、ロウソクの形をいかにも手ぎわよく真似て作った電球を枕もとに置いて奥へ入いり、最後にあかりを消すと、彫刻だらけで四本形式の天蓋のついた寝台にもぐりこんだが、例の尊敬すべき猫どのは、いつものように、わたしの足もとにうずくまっていた。わたしはカーテンを引かずにおいて、向かいの狭い北側の窓から外をながめた。空にはかすかにオーロラがさしていたし、窓の優美な装飾は見ごとな影を描いていた。  いつのまにかわたしはしばらくぐっすりと眠っていたらしい、というのは、妙な夢からだんだん覚めてくるあるはっきりとした感じを憶えているからである。その夢から覚めるとき、例の猫は、いままでじっと寝ていたところから猛然と跳び起きた。かすかなオーロラの光を受けて、その猫が、頭をぐっと前に突きだし、前足を私の足首の上におき、後足をぐっとつっぱっているのが見えた。この猫は窓からやや西側に寄った壁の一点をじっとみつめていたが、その一点は、わたしには別に変わったところもないように思えたが、しかし、わたしは、できるだけ深い注意力をこめてそこを見つめた。  そうやって見つめているうちに、わたしにも、「黒んぼ」がただいたずらに興奮しているのではないということがわかった。アラス織風の壁掛が実際に動いたかどうか、わたしにはわからない。ほんのかすかに動いたように思われるが、その壁掛のうしろに、鼠かはつか鼠の音が、低いけれどもはっきりと聞こえたとだけは、きっぱりと断言できる。一瞬、猫は壁掛に体ごと飛びかかってそれにぶらさがったので、その部分が破れて床に落ち、そこのところにじめじめとした古代の石壁が現われたが、その壁には、ところどころ職人が手を入れてつくろった跡があって、齧歯《げっし》類のうろついた痕跡は見えなかった。 「黒んぼ」は、壁のこの部分に近い床のところを行ったりきたり走りまわり、床に落ちたアラス織風の壁掛に爪を立て、その壁と樫材を張った床とのあいだに何度も前あしを入れようとしていた。結局猫にはなんにも見つからなかったので、しばらくすると大儀そうに、いつも横になっているわたしの足もとへ戻ってきた。わたしはなにもせずにじっとしていたのだが、その夜はもうそれっきり寝られなかった。  朝になってから、わたしは召使全員に聞いてみたが、だれひとり怪しいことに気のついたものはいなかったが、ただ料理人の女だけは、窓がまちのところに寝ていた猫のようすが変だったことを憶えていた。その猫は、夜のなん時ごろだったかわからないが、ともかくひどいうなり声をあげたので、丁度いいあんばいに、料理人は目を覚まし、その猫が開いているドアから、まるでなにかを追いかけるように跳びおりて行くのを偶然に見たというのである。わたしはお午ごろまでうとうとしていたが、午後になるともう一度ノリス大尉を訪ねた。彼はわたしの話したことにすごく興味を感じたらしく、この妙な事件――ほんのささいではあるが大変奇妙な――は、彼の生き生きとした感覚に訴えるものがあり、そのために彼は、この地方に伝わる幽霊話をいくつも思いだしては話してくれた。わたしたち館のものが、鼠のでるのに弱っているのを見かねたノリスが、罠と殺鼠剤の花緑青とを貸してくれたので、わたしは館に帰ってくると、召使に命じて、その二つの武器を、鼠のでそうな要所要所に配置させた。  わたしは眠くてやりきれなかったので、さっそく床についたのだが、思わず身の毛のよだつような夢に悩まされた。どうやらわたしは、ひどく高いところから、膝の深さまでたっぷり汚物の詰まった薄明りのさす洞窟を見おろしているらしかった。そして洞窟には、白いあごひげをはやした魔物の豚飼いが仲間と一緒に、ぐにゃぐにゃして締りのない体をしたけものの群れを追い回していたが、そのけものの顔たるや、ただそれを見ただけで、もうなんともいえぬ胸くその悪い、むかむかするような気分になるご面相だった。それから豚飼いがひといきつき、自分の仕事をひとわたり見て、ふむこれでよしとうなずくと、それを合図に、すごい鼠の大群が、その悪臭ふんぷんたる洞窟の底に、どっとばかりに群がりおりるや、けものも人間も区別なくむさぼり食った。  このもの凄い夢からふとわたしは、「黒んぼ」が身動きしたのでだしぬけに目が覚めた。この猫は例によってさっきから、わたしの足もとに寝ていたのだ。もうこん度はわたしも、どういうわけで猫がうなったりふうふういがんだりするのか、またその効果のほどはわからないが、どうしてわたしの足首に爪をたてるほど恐がったのか、そのいわれをあやしむにはおよばなかった。というのは、この部屋のなかのどの壁も、むかむかするような音でばかに騒々しくなっていたからである――つまり、飢えきった大きな鼠が、ぞろぞろ駆け回っていたのである。オーロラが消えていて、アラス織風の壁掛――その破れて落ちた部分は取換えてあった――は見えなかったが、わたしはたいして驚いてはいなかったから、さっそくあかりをつけてみた。  電燈がついてさっと部屋が明るくなったとき、わたしは、いまいましくも壁掛が一面に揺れているのを認めたが、それはなにか特別な目的のために、不思議な死の舞踊を演じているように思われた。壁掛の揺れはほとんどすぐに静まってしまい、それと同時に音も聞こえなくなった。ベッドを飛び出すと、わたしはそばにあった湯たんぽの長い柄でアラス織風の壁掛にさわり、その下になにがあるのか見ようと思ってその一部分を持ちあげてみた。修復した石壁のほかにはなにもなく、猫でさえ、なにか妙なものがいるといういままでの張りつめた実感をなくしてしまったくらいであった。部屋においてあった丸い鼠取りを調べてみると、いったんつかまってから逃げてしまったという痕跡が残っていないのに、そのばね式の蓋はみんなばたりと閉まっていた。  これ以上眠ることなど、とうていできない相談だったから、わたしはロウソクに灯をともし、扉を開け、そとの廊下にでると、書斎へ通じている階段のほうへ進んだが「黒んぼ」も、わたしのすぐうしろからついてきた。だが、その石の階段のところまで行かないうちに、猫はさっとわたしを追いこして、前方に突進して行き、みるみるうちにその大昔の階段をおりきって姿が見えなくなった。わたしもその階段をおりて行きながら、不意に、下の大きな部屋にもの音を聞いたが、それこそまぎれもないあの例の音であった。  樫の鏡板をかぶせた壁には、ぴょんぴょんばたばた駆けまわる鼠が、騒々しい足音をいっぱいに響かせ、「黒んぼ」のほうは、獲物をにがした猟師のように、かんしゃくを起こしてあばれまわっていた。一番下に達するとわたしはあかりをつけてみたが、今度はあかりをつけたぐらいでは騒ぎはおさまらなかった。鼠どもは馬鹿騒ぎを続け、えらい力をこめ、いやにはっきりと逃げる足音をたてるので、しまいにはわたしにも、鼠たちの動きにはある一定の向きがあるということがわかった。こいつらは明らかに、数の点では無数であって、思いもよらぬほど高いところから、かなり、あるいは、非常に低いところへ、いま思いきった移動をせっせとやっているらしかった。  このときわたしは、廊下に人の近づく足音を聞いたが、やがて二人の召使が、重たい戸を開けて入いってきた。この二人は、どうやらひと騒ぎ起こっているらしいけはいを感じ、その騒ぎのもとになっている部屋をさがしているところで、その騒ぎのために猫はみんなうなり声をあげながらすごい興奮状態を呈し、たちまちいくつもの階段を駆けおりて、地下室に通ずる閉まった戸の前にうずくまって、うわあおうとすごいうなり声をあげているとのことであった。鼠の鳴き声を聞かなかったか、とわたしがたずねると、二人とも聞きませんでした、と答えた。そこでわたしが、鏡板のなか側に聞こえていた音のほうに彼らの注意を向けようとして気がついてみると、もうそのもの音はやんでいた。  二人の男と一緒に、わたしは地下室よりもまたさらに下にある地下室の戸口までおりて行ったが、猫の姿はもう見えなかった。納骨所になっている地下のあなぐらを調べるのはあと回しにして、さしあたりこのときは、鼠取りをひとわたり見まわるだけにしておいた。蓋はみんな閉まっていたが、獲物は一匹もかかっていなかった。まあとにかく、猫とわたし以外には、だれひとり鼠の鳴き声を聞かなかったのだからしかたがない、とみずからの心にいいきかせて、わたしは朝まで書斎に腰をおちつけ、深いもの思いに沈み、いま自分が住んでいるこの建物についていままで発見しておいた物語を、ひとつひとつ思いだしてみた。  わたしは午前中、安楽椅子に坐りこんでいくらか眠ったが、この椅子ばかりは、いくら部屋を中世風に飾りつけようと計画してみても、やはり置いておかないわけにはいかなかったのだ。そうやっていくらかうたた寝をしたあとでノリス大尉に電話をすると、彼はさっそく館にやってきて、地下のもう一つ下の地下室を調べる手伝いをしてくれた。  調べてみると、ぐあいの悪いものなどなに一つ見当たらなかった。もっともわれわれとしては、この地下の地下室がローマ人の手で作られたのだと知ると、やはりどうにもぞくぞくするような感激を覚えないわけにはいかなかったが。低いアーチやどっしりとした円柱は、どれもみんなローマ風のものであって――不器用なサクソン人の手になる堕落したロマネスク様式ではなく、シーザー時代の簡素で調和のとれた古典風の様式であり、じじつこの部屋の壁には、なんどもここを調査したことのある好古家たちにはおなじみの碑文がたくさん刻みこまれていた、たとえば――「ペー・ゲタエプロプ……テムプ……ドナ……」および「ル・プレース……ウスポンティフィ……アティス……」と読めた。  この碑文がアティスに触れたところがあるのを見て、わたしは身震いがした。というのは、わたしは前にカトルスを読んだことがあって、この東洋の神の忌まわしい儀式については、多少知識があったからであるが、このアティスという神の信仰は、例のシビリーの神の信仰とすっかりまじりあってしまっていたらしい。ノリスとわたしは、むかしは祭壇だったらしい不ぞろいな長方形の石の塊の上に刻まれている、ほとんど消えかかった奇妙な模様を、ランタンのあかりでなんとか読みとろうとしてみたが、さっぱりわけがわからなかった。そのさまざまな模様のなかにある、輝いている太陽みたいな模様を基にして学者が判断したところによると、模様の発生地はローマではなく、したがってこの祭壇も、たぶん同じ規模のローマの僧侶たちが、もっとむかしの、この同じところに前からあった原始的な寺からそのまま引きついだものであろう、といわれていたのをわたしたちは思いだした。その石の塊の一つには、驚いたことに、茶色の染料が塗ってあった。部屋の中央にある一番大きい石積みの祭壇には、その表面を見れば、火と関係のある――おそらくは生贄《いけにえ》を焼いて供えた――ことがありありとわかるある特徴がついていた。  さきほど猫どもが、その戸口の前でうなっていた地下室のなかは、ざっとこんなようすだったが、ノリスとわたしは、今夜一晩、この地下室ですごそうと決心した。この地下室に寝台をはこびおろしにきた召使たちには、夜中に猫が騒いでも気にするなといいつけ、猫の「黒んぼ」だけは、助太刀《すけだち》として役にたつという意味からも、また日頃の友情という意味からも、この地下室に入れてやった。われわれは、例の大きな樫の扉――これも通風用の細長い穴のある新しい複製に代わっていたが――をぴったりと閉めきっておくことにきめ、そのとおり、ぴったり閉めてしまうと、ランタンのあかりをつけたまま、さあなんでもこい、という気になって床に入いった。  この地下室は、修道院の基礎工事のぐっと深い底のほうにあって、むろんあの荒涼たる谷間を見晴らす石灰岩の突きでた断崖の表面からは、はるかに下のほうに当たっているにちがいなかった。この地下室が、このあいだから走り回っているあの名状しがたい鼠どもの巣であることは、疑う余地はない。もっとも、どういうわけで疑う余地がないのか、それはわたしにもわからなかったが。二人とも、いまかいまかと待ちながらそこに体を横たえていたが、そのうちわたしは、ときおり張りつめた気持がふとゆるんで、ついうとうとしかかると、そのたびごとに、足もとにいる例の猫が、なにかおちつきなく身じろぎをするので、はっと目を覚ましていたのである。  その晩の夢も気持のよいものではなく、ゆうべ見たのとそっくり同じの、むかむかするほど嫌な夢であった。またしてもあの薄明りのさす洞窟が現われ、例の豚飼いが、汚物のなかを這いまわっているあのなんともいえない柔軟なけものと一緒にいる姿が見え、見ているうちに、そいつらの姿はだんだん近くに寄ってきて、だんだんはっきりとした顔かたちを見せるようになり――それがいかにもはっきりとしていたので、わたしにもその特徴がわかりかけた。そこでわたしはそのけものの一匹のぶよぶよした顔かたちをよく観察し――思わずえらい大声をたてて目を覚ましたので、「黒んぼ」がはっと跳び起きてしまい、おかげで寝ずにいたノリスはわたしを見て大いに笑った。なぜわたしが大声をたてたのか、そのわけを知ったなら、ノリスはもっと笑ったかもしれないし、あるいは、おそらく笑うどころではなかったかもしれない。だがわたし自身、いったいなぜであったかということは、あとになるまで思いだせなかった。恐怖が強すぎるばあいには、つごうのいいことに、記憶力が麻痺してしまうことがちょいちょいあるものだ。  ノリスは例の現象が始まるとわたしを起こした。そっとわたしのからだをゆすって、いつもと同じ恐ろしい夢から起こしてくれたのだが、わたしが目を覚ますと、ほら、猫がうなっているのを聞きたまえ、と彼はいった。なるほど、えらい騒々しい音が聞こえた。石の階段をのぼりきったところにある閉まった戸の向う側で、しきりに猫がうなっては爪を立てている、まさしく悪夢のようなざわめきが聞こえ、一方「黒んぼ」は、部屋のそとにいる同類にはおかまいなしに、むきだしの石壁のまわりを興奮しながら走りまわっていたが、その壁のなかには、ゆうべわたしを悩ましたのとそっくり同じ、鼠の走りまわる騒がしい足音が聞こえた。  ある激しい恐怖感が、わたしの身内をさっと貫いた、というのはほかでもない、いまここには、尋常な理屈では説明しきれない、なにか異常なものがあったからである。そもそもわたしと猫だけが一種の狂気状態に陥《おちい》って、その狂気のためにこういう鼠の幻影を見ているのではないとするなら、この鼠どもは、固い石灰岩の塊だと思われるローマ風の石壁に穴をあけて、そこから出入りしているにちがいない……もっとも、千七百年以上にもわたる水の作用で自然に曲りくねったトンネルが通じ、それに鼠どもが手を加えて大きく広げたというようなことがあれば、話は別であるが。……しかし、たとえそうだとしても、幽霊がでるというこわさには、少しも変わりはなかった。――この鼠どもがじっさいに生きている動物だとすれば、なぜノリスの耳にはこのいやらしい騒ぎが聞こえないのか?  いったいどういうわけでノリスはわたしに「黒んぼ」のようすを見守らせたり、そとにいる猫どものうなり声を聞いてみろといったりしたのか?  それにまた彼は、なにか猫たちが騒ぐにたる理由があるということを、当てずっぽに漠然とながら、どういうわけで推測したのか?  いま自分の耳にだけははっきりと聞こえているもの音を、できるだけ筋のたつように、ノリスに話してきかせようと思ったときには、もうそれまでに、駆け回っている鼠の足音はいまにも消えそうに小さくなり、なおもその足音は下のほうにくだって行き、まるで下の断崖全部に問題の鼠どもがぎっしりとうようよ群がっているのではないかと思われるほど、それこそその地下の地下室の一番奥底のほうにまでくだって行く足音が感じられた。ノリスはわたしが考えているほど、迷信を信じないわけではなく、それどころか、かなり深刻な印象を受けたらしいようすだった。ノリスはわたしに、戸口の向う側にいる猫どもが、まるで、鼠の姿が見えなくなったからあきらめたとでもいうように、すっかり騒ぐのをやめてしまったことを、身ぶりで知らせた。そうしているあいだにも「黒んぼ」のほうは、またしてもはっと不安の念を新たにして、部屋の中央にある大きな石の祭壇の底辺のまわりを夢中になって引っ掻いていたが、そこはわたしの寝台よりも、ノリスの寝台のほうに近かった。  えたいのしれぬわたしの恐怖心は、ここにおいて頂点に達した。なにか驚くべきことが起こっていたにちがいない、その証拠には、わたしよりも若くて強い、また思うに生まれつきもっと唯物論的な人物たるノリス大尉までが、わたしにおとらず、すっかりこの場の雰囲気に呑まれているのがひと目でわかったのだ――おそらくこれは、彼が生まれて以来長いあいだ、この地方の伝説にくわしくなじんでいるためであると思われた。二人とも、差し当たってはどうすることもできないまま、黒猫の動作を見守っていると、この猫は、祭壇の底辺を引っ掻く熱意をしだいに失って行き、ときどきこちらを見あげては、なにかわたしにしてもらいたいときによくやる可愛らしい癖でニャーオと鳴いて訴えた。  そこでノリスはその祭壇にランタンを近づけて、さっきから「黒んぼ」が引っ掻いていたところを調べてみた。そっと膝をついて、ローマ時代以前の巨大な石の塊とモザイク模様の床との境目に、ぎっしりとこびりついている数百年にわたる苔を彼は削りとった。削りとったがなにひとつ見つからないので、彼がもうそれっきり調べるのを打ち切ろうとしたとき、ふとわたしは、ごくささいな事実に気がついて思わず身震いした。もっともそれは、かねてからすでに想像していたことにすぎなかったにはちがいなかったが。  わたしはそのことを彼に話し、われわれ二人は、それを発見し、認識したことに心を魅せられたまま、それとほとんど気づかぬほどのそのわずかな現象をじっと見つめた。その現象というのは――祭壇の近くにおいたランタンの炎が、それまではどこからも受けなかった隙間風をどこからか受けて、わずかではあるが、たしかにちかちかと揺れていることを指しているだけにすぎないのだが、どうやらその風は、さっきノリスが苔を削りとったあの祭壇と床とのあいだの隙間から流れてくるにちがいなかった。  その晩は、それからずっと二人とも、明るい電気のついた書斎で朝まですごし、さてつぎにはどんな手を打ったものか、その点を、ああでもないこうでもないと論じあった。ローマ人の作った石造建築のうちで、世間に知られた一番深い地下室よりもさらに深い地下室がこの呪われた建物の下にあって、それが三百年間も、世のもの好きな好古家の目をかすめて地下に隠れていたということに気がついてみれば、なにもその背景に不吉なものが潜んでいなくても、もうこれだけで、ぞくぞく興奮するに充分だったのである。そういうことがわかってみると、魅惑はさらに倍加したが、さてわれわれとしては、ここで探究を切りあげてもう今後はいっさいこの建物は放棄して、以後は迷信じみた警戒の念をこめて見守るだけにとどまるか、あるいはまた、この未知の深い洞窟の奥にどんなに恐ろしいものが待ちうけていようとも、われわれの冒険欲と勇気とを満足させる思いきった手を打ってみるか、そのいずれを選んだらいいのか、決心のつかぬままにしばし考えこんでいた。  朝までには二人の考えも一つにまとまり、まずロンドンに出かけて行って、この謎と取組める考古学者と科学者の調査団を集めることに話を決めた。この地下のもう一つの地下にある部屋を立ちさる前に、二人で中央の祭壇を動かそうとしてみたが、無駄だったことを申しそえておこう。この中央の祭壇こそは、まだ人に知られない、なんともいえぬ恐怖の穴の入口にちがいないと認めたのである。いったいどんな秘法によってこの戸口を開けるのか、この問題の解きかたは、わたしたちよりも賢明な学者たちが、いずれ見付けてくれることであろう。  ロンドンに何日か滞在しているうちに、ノリス大尉とわたしとは、五人の有名な権威者に、われわれの知っている事実と、推測と、昔から代々伝わっている物語とを話してきかせたが、この五人の学者たちは、たとえ今後の研究でどんなことがわかっても、それを家系の秘密として守ってくれると信じてもいい人たちばかりだった。話してみると、この人たちは、われわれの話をバカにするような素振りは少しもなく、いや、かえって深い興味を感じたうえに心から同情してくれた。五人の名前を全部あげるにもおよぶまいが、そのなかには、最盛期にトロードの発掘を手がけて当時大いに世人を興奮させたウィリアム・プリントン卿もまじっていたとだけ申しそえておこう。この一行がアンチェスター行きの汽車に乗りこんだとき、わたしは、自分が恐るべき発見のいとぐちに立ったことをしみじみと感じたが、その気分は、世界のあちら側で大統領が不慮の死をとげたという知らせを聞いたときに、まずふつうのアメリカ人ならば感ずるにちがいない哀悼の念に近い感じであった。  八月七日の夕方、われわれはイグザム修道院跡の館に着いたが、出迎えた召使たちは、留守中妙なことはなにも起こらなかったとわたしに請けあった。あの九匹いる猫たちは、例の「黒んぼ」でさえすっかりおちつき払ったようすでおり、館のなかにある鼠取りに、鼠は一匹もかかっていなかった。調査は翌日から始めることにして、わたしはまずお客さんがたみんなに、それぞれ設備のととのった部屋を割り当てて翌日に備えた。  わたし自身は居間にしてある塔の部屋にしりぞいて、「黒んぼ」を足もとに寝そべらせていた。たちまち睡魔が襲ってきたが、このとき見た夢は実に恐ろしかった。どうやら蓋のついた木の大皿のなかにぞっとするようなものが入いっているトリマルキオの饗宴のような、とある不潔なローマの饗宴風景が現われた。と、それから例の薄明りのさす洞窟のなかにいる豚飼いの群れの忌まわしい光景がふたたび現われた。が、わたしが目を覚ましたときには、もう真っ昼間で、階下《した》のほうでは、いつも聞こえるふだんのおだやかな物音が聞こえていた。もう鼠たちは、本物の生きたのにしろ、また気のせいで感ずる幽霊のにしろ、こんな時刻にわたしを悩ましはしなかったし、「黒んぼ」もじっと静かに眠っていた。階下《した》におりてみると、館じゅうどこにでも、しーんと静かなおちつきが行きわたっているのが感じられ、集まった学者たちの一人で霊魂の研究をしているソーントンという人などは、わたしに向かって、たったいまあなたの見た夢は、あるなんらかの力が、あなたにぜひそれを見せたがっていたからこそ、あなたはそれを夢という状態で見たのである、といささかばかばかしい説を申しのべた。  さて、準備がすっかりできあがると、われわれ七人の調査団は、午前十一時に、ひとり残らず強力な懐中電燈と発掘用の道具とを携帯して問題の地下室におり、全員が入いってしまうと扉を閉めた。猫の「黒んぼ」も一行のお伴をした、というのは、調査団の連中も、猫が興奮することはいっこう軽蔑するに当たらないといい、またじじつ、怪しげな齧歯類の現われたばあいに備えて、ぜひ猫に居合わせてもらいたいと希望したからである。一行はローマ碑文と、祭壇に刻まれている未知の模様だけをごく簡単に調査した。というのは、この学者のなかには、すでにそういう模様を見たことのあるものが三人もいて、みなその特徴は心得ていたからである。われわれの一行が一番注意を払ったのは、あの重要な、中央にある祭壇で、やがて一時間もたったころ、ウィリアム・プリントン卿が、なにかよくわからないが、一種の対重を利用してつりあいをとりながら、祭壇の石の塊をぐっとうしろへ倒してしまった。  一行の連中が覚悟をきめていなかったら、すっかり圧倒されてしまったにちがいないほど恐ろしいものが、目の前にぱっと現われた。モザイク模様の床《ゆか》に、ほぼ正方形の穴がぽっかりとあき、その穴から見おろせる下のほうには、ひどく踏みつけられて、まんなかのところがすっかり凹んだ石の階段があり、その上には、人間や半人間の骨が一面にとり散らかっていた。いまだに骸骨なりの形を保って横たわっているものは、見るも無残な恐怖のさまをはっきりと見せており、骨のどこにも鼠のかじった痕があった。その頭蓋骨には、どれもこれも、てんからの白痴か、奇形を伴う痴呆症か、ないし、なかばまで原始的な猿のような徴候かのいずれかを呈していないものはひとつもなかった。  地獄のように骨のとり散らかったその階段の上には、どうやら鑿《のみ》で固い岩をくりぬいて空気の流通を図ったらしい下り勾配の通路があった。その換気装置から流れてくる空気は、密閉した地下室から不意に吹きこんでくる有害なものではなく、なにか新鮮味さえ感じられる冷やりとするような微風であった。われわれ一同は、いつまでもじっとぼんやりしてはいずに、胴震いしながらもその階段をかきわけながらおり始めた。このとき、通風穴のくり抜いてある壁を調べていたウィリアム・プリントン卿が、この通路は、鑿の使い具合からみて下から掘り上げてきたものにちがいない、と妙な意見を発表した。  そうなるとわたしも慎重に構え、うっかりしたことはいえないぞという気になった。  かじられた痕跡のある骨のあいだを掻きわけて二、三段おりると、一行は、上のほうに光がさしているのを見てとった。が、それは神秘な不知火《しらぬい》などではなく、荒涼たる谷間を見おろすあの崖の、まだ人の知らない隙間から洩れてくるとしか考えられない陽の光であった。こういう隙間がそとからでは人目につかなかったのも、あながち驚くべきことではなかった。というのはほかでもない、その谷には、まったくだれひとり住んでいなかったばかりか、崖がきわめて高いうえに、ぐっとそとに突きでているため、ある飛行家がたったひとりだけ、その表面をくわしく調べることができたにすぎないというありさまだったからである。それからさらにもう二、三段下におりて、つい目の前の光景を見たとたん、ふとわれわれの息の根は、文字どおり止まってしまったかと思われた。あまりのことに、霊魂の研究家である例のソーントンは気絶してしまい、ついそのうしろの、これも目まいのしている男の手にやっと抱きとめられたほどであった。ノリスの丸々とした顔もすっかり青ざめてたるんでしまい、ことばにならぬ大声をあげるのがやっとのことで、またわたしのほうもあえいだり、ひいひい悲鳴をあげたりしながら、目を掩《おお》ってその場の光景を見ないようにするのが精一杯だったらしい。  わたしのうしろにいたのは――一行のうちでただひとりわたしよりも年上の男であったが――この人は、あの紋切型の「わっ、これはたいへん!」ということばを、これまで聞いたこともないほどすごいしわがれ声でつぶやいた。七人の教養ある男のなかで、平然とおちついていたのは、ウィリアム・プリントン卿だけであって、プリントンこそ、この一行の先頭に立っていたから、この光景をイの一番に見たのにちがいないという点を考えてみれば、いよいよ卿の名誉がいちだんと光るわけであった。  一行がそれほどまでにぎょっとしたのは、この階段をおりきった穴ぐらの奥に、だれの目も届きかねるほどふかぶかと奥行きのある、しかも驚くほど天井の高い、薄明りのさす洞窟が見えたからであった。これこそは無限の神秘と恐るべき暗黙の意味とを孕《はら》む地下の世界で、そこにはさまざまな建物や、その他の建築上の残骸があり、――こわごわそれを眺めわたすと、薄気味の悪い様式の古墳や、一本柱の墓石がぐるりと立ち並んでいる荒涼たる円陣や、低い円天井のローマの廃墟や、ぶざまな構えのサクソン人の建物や、それに初期のイギリスの木造建築が目に入《は》いった――が、この洞窟自体が、それこそ墓石をあばいて死肉を食う、あの悪鬼《グール》のすみか[#「すみか」に傍点]然たる観を呈しているのにくらべると、そんな建物はどれもみんな、ひどくちっぽけに思われた。石段から数メートルの範囲にわたって、人間の骨や、少なくとも階段の上にあるのと同じくらい人間に近いものの骨が異常に堆《うずたか》く積みあげられた一角があった。さながら泡立つ海のように、その骨はあたり一面に広がって、なかにはばらばらになっている骨もあったが、その他は、もとの骸骨の形を完全に、あるいは一部分保っているものばかりであった。そしてそのもとの骸骨の形をしたものはどれもみんな、なにか恐るべきものを払いのけようとしているか、ないしは、人肉を食おうとするつもりで相手につかみかかろうとしているか、そのいずれかの、さながら悪鬼の狂乱するごときさまざまなポーズをとっているものばかりであった。  人類学者のトラスク博士は、その頭蓋骨がどういう部類に属するかを確かめようとして腰をかがめたとき、ある退化した中間種の骨を見つけたが、いったいそれがどういう生物か、彼にはさっぱりわからなかった。進化の段階についていえば、ピルトダウン人よりよほど程度が低いにちがいないが、どう見ても、人間に属することは明らかであった。高度に進化した種族に属する頭蓋骨はほんのごくわずかしかなかった。どの骨もみんな、たいていは鼠に齧《かじ》られていたが、なかには、あの半獣半人のけものに齧られたものもいた。そういう骨のあいだに、小さい鼠の骨もたくさん混じっていた――がこの骨こそは、大昔から伝わるこの土地の叙事詩に最後の止《とど》めをさし、この修道院を荒廃させた大群のなかにあって、ついに死に果てた鼠の骨にちがいなかった。  いったいわれわれのなかで、ああいう恐ろしい発見をしながら生きながらえて、精神に異常をきたさずにいたものがいるかどうか、あやしいものだとわたしは思っている。われわれ一行七人が愕然《がくぜん》と立ちすくんだあの薄明りのさす洞窟以上に、信じがたいほど凄い、気が変になりそうなほどむかむかする、ゴシック風にグロテスクな光景はホフマンでもユイスマンスでも、ちょっと想像できないと思われる。つぎからつぎへと現われる意外な事実を目の前にして立ちすくんだ一行は、三百年、また千年、あるいは二千年、いや一万年前に、そこで起こったにちがいない事件について、さしあたりいまのところは考えないようにしょうとみなそれぞれ努めていた。ここはまさに地獄の一丁目で、可哀そうにソーントンは、トラスク博士から、ここにある骸骨のうちには、ここ六百年ほどのあいだに四足獣の先祖から人間になったものがいるにちがいない、という話を聞かされると、また気を失ってしまった。  われわれ一行がこの建築上の遺跡の性格を解明しようとして手をつけていくにつれて、いよいよ恐怖はつのってきた。例のぶよぶよした四つ足のけものは――二本足の豚飼いに、ときどきその頭かずを補充してもらいながら――石の檻《おり》のなかに飼われていたのだが、この獣《けもの》どもは、空腹のためか、あるいは鼠を恐がるあまりか、猛烈に興奮して、その檻を破ってそとに逃げだしたらしい。ところがそとにはあの鼠の大群が控えていたのだ。そしてこの鼠どもは、明らかに例の粗末な野菜を飼料に当てがわれていたのだが、その飼料の余りは、ローマ時代よりもさらに古い時代の巨大な石の大箱の底に残っていて、調べてみると、このかいばは有害であった。わたしにはいま、祖先がどういうわけであれほど法外に広い畑を持っていたのか、それがはっきりと合点できた――ああ、こんなことは、できればすっぱりと忘れてしまいたいものだ! この獣《けもの》たちをなぜ飼っていたのか、それはあらためてきくまでもなかったのだ。  ウィリアム・プリントン卿は、ローマ時代の廃墟のなかに、強い懐中電燈を持って立っていたが、これまでに聞いたこともない実に驚くべき儀式のことを声高に説明してくれた。そしてシビリーの僧侶たちが見つけだして、彼ら自身の礼拝のなかにうまく取り入れた大洪水以前の古い儀式では、人間を供物にしたということを話してくれた。塹壕《ざんごう》には慣れているはずのノリスでも、この洞窟のなかにあるイギリス風の建物から出てきたときには、しゃんとまっすぐには歩けなかった。ノリスの調べた建物は、肉屋の店の調理場で――それは彼も予想していたが、――ふだん見慣れているイギリスの日常器具をこんなところで見かけようとは思いがけなかったし、またこの壁面を引っ掻いて刻んだ文字や絵が、一六一〇年ころの新しいものであろうとはあまりにも意外であった。わたしはその建物のなかにはどうしても入いって行けなかった――そのなかで演じられた悪魔の行為が、わたしの祖先のウォルター・ド・ラ・ポーアの短剣によって初めて止《とど》めを刺されたその建物のなかには。  わたしが思いきって行ったのは、サクソン風の低い建物で、その檻の戸板は倒れており、なかに入いってみると、錆びた格子のはまっている恐ろしい石の独房がずらりと並んでいた。三つの独房には、それぞれ人間の骸骨が横たわっており、そのうち一つの骸骨の人差指に当たる骨のところには、わたしの紋章と同じ印形の指輪がついていた。ウィリアム・プリントン卿はローマ風の礼拝堂の下に、これよりもずっと古い時代の独房のついた地下室を見つけたが、その独房は、みんなからっぽであった。その独房の下には、天井の低い納骨所があって、そこには、きちんと骨を整えて並べた箱があり、そのいくつかの箱のうちには、ラテン語、ギリシャ語、およびフリジャ語で彫られたものものしい碑文のついているものもあった。  そのあいだにトラスク博士のほうは、有史以前の古墳の一つを掘り出して、ゴリラのよりもやや人間らしく、かつなんともわけのわからない表意文字の彫刻のついた頭蓋骨を調べていた。この恐ろしい調査をしているあいだ、わたしの猫は、おちついて悠々と歩いていた。一度、猫が、堆く積みあげられた骨の山のてっぺんにいるのを見、その黄色い目の奥にある秘密の能力にわたしは感心した。  この薄明りのさす洞窟の――わたしがなんどもくり返してみたあの夢が、ぞっとするほど恐ろしい夢知らせだったこの忌まわしい領域の――崖からの光線が少しも入いらぬ恐るべき事実が、いま多少わかったので、さらに一同は、この真暗な洞窟の、どう見ても底の知れない奥のほうへ進んで行った。われわれの進んで行った少し向うの闇のなかの、目に見えないところには、いったいどんなものが待ちうけているのか、それは今後ともわれわれにはわかるまい。というのは、そういう秘密を知ったところで、人類のためにはならないとはっきりわかっていた以上、それよりもさらに奥へは進まなかったからである。だがその場には、おのずからたがいに身を寄せ合いたいという気を起こさせる恐ろしいものがいくらでもあった。というのは、われわれは懐中電燈に照らされている範囲内だけを進んだが、その光に照らされたところだけを見ても、鼠どもが宴会をやったあの呪わしい無数の穴が認められたし、不意に餌の補給が欠乏したために餓えた鼠の大群が、たちまち生きながら餓鬼《がき》の群れと姿を変じ、修道院から群がりでて、農民たちには忘れることのできない、あの歴史的な荒廃騒ぎを演じた跡がはっきり認められたからである。  ああ! この不潔な暗い闇の穴のなかに、のこぎりで切られ、鑿《のみ》で穴をあけられた骨や、ぱっくりと二つに割られた頭蓋骨がぎっしりつまっていようとは! この悪夢のような洞窟に、過去数千年にわたって、ピテカントロプス、ケルト人、ローマ人およびイギリス人の骸骨が、ところ狭きまでにぎっしり詰まった穴もあって、その穴の本来の深さはいったいどれくらいあったのかということは、だれにも見当がつかなかった。その他の穴は、一行の懐中電燈で照らしてみても底が知れないほどあって、そこには名状すべからざる動物の飼育者どもが住んでいたのだ。暗闇のなかに餌を探し回って、この恐ろしい底なし地獄の罠にかかった不幸な鼠どもは、いったいどうなったのか?  一度わたしは、大きく開いた恐ろしい穴のふち近くで足を踏みすべらし、一瞬気が遠くなるほどぞっとした。そのまま長いことじっとぼんやりしていたにちがいない。というのは、ふと気がついてみると、一行のうちで、あの肥ったノリス大尉のほかには、だれの姿も見えなかったからである、と、そのとき、あの黒々とした無限の遙かかなたより、なにか聞き覚えのあるような音が聞こえてきたと思ったとき、年老いたあの黒猫が、まるで翼のあるエジプトの神のように、未知の無限の深淵めがけてさっと飛びこんで行った。が、わたしもぐずぐずしてはいなかった。というのは、つぎの瞬間、たちまち、事情がはっきりとしたからである。たったいま聞こえたもの音というのは、あの悪魔のような鼠どもが、ちょこちょこ走り回る足音で、こいつらは、いつも恐ろしいえものを新規に探し求め、結局わたしを、この地中の奥深くにある洞窟のなかへ引き入れようとしたのだ。そしてその地中の奥には、気の狂ったのっぺらぼうの神ニャルラトホテプが、暗闇のなかで、一定の姿を持っていない二人の白痴の笛吹きの笛の音にあわせて、でたらめな声をはりあげているのだ。  わたしの携帯していた灯は消えたが、なおもわたしは走った。人の声と動物の叫びと、あのこだまするもの音が聞こえたが、とりわけ、あのいやな陰険きわまるとんとこ小走りに走り回る足音が高まってきた。ゆっくりと、だが、しだいしだいに、それは丁度、硬直した死体が、無限の縞瑪瑙《しまめのう》の橋の下を、暗い腐った海に流れる油の川に浮かんだまま、のっそりと起きあがってくるように、いかにも柔らかに高まってきた。  なにかどしんとわたしに突き当たったものがある――なにか柔らかくて丸々と肥ったものが。鼠どもにちがいなかった。死んでいようと生きていようと、人間の体に食らいつく、あのねばりけのある、にかわ質のすき腹でがつがつした大群にちがいなかった。……ド・ラ・ポーア家のものが禁断の人肉を食べるように、鼠どもだって、ド・ラ・ポーア家の一員たるわたしを食べてもよさそうなものではないか?……今度の戦争は、いまいましくも、わたしの息子を犠牲にした……それからヤンキーどもは火をつけてカーファックスを犠牲にして、祖父のデラポーアと秘密のいい伝えとを焼きほろぼし……いやいや、いいか、わたしは薄明りのさすあの洞窟のなかにいる悪魔のような豚飼いじゃない! あのぶよぶよと柔らかい、二足獣から退化した四足のけものの顔は、ノリス大尉の肥った顔じゃなかった! だれだ、わたしがド・ラ・ポーア家のものだというのは? ノリスは戦争から生還したが、わたしの息子は死んでしまった。……ノリス家のものが将来ド・ラ・ポーアの土地をとるようになるだろうか? いいか、それはヴードゥー教なんだ……まだらの蛇……ソーントンの畜生め、きさまにわしの血統の所業を教えて、また気絶させてくれるぞ! ええい糞、鼻っつまみものめ、人間の肉の味わいかたを、さあ伝授してやろう……うおるでいい、すいんけみい、しるけういす? マグナ・マータ! マグナ・マータ!……アティス……デイア・アド・アガイドス・アド・アオダウン……アーガス・バス・ドナーク・オルト! ドーナス・ドーラス・オルト、アーガス・リート=サ! ウングル……ウングル……ルルルー……ククク……  みんなにいわせると、あれから三時間ののちに、暗闇のなかで一行がわたしを見つけたときに、わたしはいまいったようなことをしきりにしゃべっていたそうである。わたしは真暗闇のなかで、丸々と肥った、体半分食いつくされたノリス大尉の上にしゃがみこんだ姿勢のまま、あの黒猫に飛びかかられ、喉にかぶりつかれているところを見つけだされたのだそうである。さて彼らはイグザム修道院跡を爆破して「黒んぼ」をわたしから引き離すと、このハンウェルの地にある座敷牢にわたしを閉じこめ、わが家の血統とその所業とについて、ひそひそと恐ろしい噂ばなしをかわしているらしい。ソーントンはとなりの部屋にいるのだが、彼らはどうしてもわたしに、ソーントンと話をさせない。彼らはまた、修道院に関するさまざまな事実を、このまま秘密に葬ってしまおうとしている。あの気の毒なノリスのことをわたしが口にすると、貴様はほんとにひどいやつだ、とみんなわたしのことを非難するが、あれは断じてわたしではない、とぜひ彼らも知らなければいけない。今後とも、その足音で、わたしに安眠をさせることのあるまいと思われるあの小走りにとんとこ駆け回る鼠どものやったことなのだ。この部屋の壁のうしろを走りまわっては、これまで経験したこともない恐い気分にわたしを誘いこむ、あの魔物のような鼠どもがやったのだ。学者たちには足音の聞きとれない鼠どもの仕業《しわざ》なのだ。鼠どもだ、壁のなかの鼠どもの仕業なのだ。