愛に時間を@ ロバート・A・ハインライン 目次 序文 前奏曲 1 前奏曲 2 対旋律 1 対旋律 2 ある主題による変奏曲 1 ある主題による変奏曲 2 ある主題による変奏曲 3 対旋律 3 ある主題による変奏曲 4 対旋律 4 ある主題による変奏曲 5 ある主題による変奏曲 6 ある主題による変奏曲 7 [#改ページ]    ハワード・ファミリーにおける最長老、すなわち全人類の最年長者のすごした多くの生涯(ウッドロウ・ウィルスン・スミス、アーネスト・ギボンズ、アーロン・シェフィールド船長、ラザルス・ロング、ハッピー=Eデイズ、若き最上級天使殿下、天上天下唯一絶対の審判者たる神の最高司祭、人権を剥奪された囚人83M2742号、治安判事レノックス、テッド・ブロンソン伍長、レイフ・ヒューバート博士、その他)。  この回想録は主として、最長老自身みずから語られた言葉にもとづいている。その記録は、数多くの機会と場所においておこなわれたが、特に〈大離散〉後二〇五三年(母なる故郷地球のグレゴリオ暦四二七二年)、惑星セカンダスにあるニュー・ローマ市所在のハワード若返り病院および行政官宮殿におけるものが主要部分をなし、手紙と目撃者の証言による補足のうえ、そのすべてが整理、対照、要約され、可能なる個所のみであるが相矛盾する点の公式記録および現代史との再調整がおこなわれた。その指示をくだしたのはハワード財団評議会であり、作業はハワード名誉記録保管係がおこなった。明白な虚言や利己的な主張、その他多くの道徳意識を欠いた青少年には不適当な逸話の類が、記録保管係の判断によってそのまま残されているが、それにもかかわらず結果は、比類なき歴史的価値を持つものとなっている。 [#改ページ] 序文   歴史の記述について[#「歴史の記述について」はゴシック] [#ここから4字下げ] 歴史と事実の関係は、神学と宗教のそれに等しい──つまり、およそ問題にならないということだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]ラザルス・ロング  いまを去る二千有余年前、リビイ・シェフィールド推進装置が公けにされた時点からはじまり、今日にいたるも引きつづぎスピードをゆるめる徴候を見せていない人類の〈大離散〉は、歴史を一篇の物語として記述することを──いや、多くの並列した物語として記述することさえ──不可能とした。二十一世紀(グレゴリオ暦《*》)ごろ、母なる地球の上において、われわれの種族は、その総数を各世紀ごとに三倍とすることが可能であった──空間と資源をあたえられるならばだが。 [#ここから4字下げ]  *本書では一貫してグレゴリオ地球暦を使用することとする。他の暦法では、たとえ銀河標準暦であろうと各惑星の学者にあまねく知られているとはいいがたいからである。翻訳者は、各地方暦を使って理解を容易にされたい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  恒星間推進装置が、その両方をあたえた。ホモ・サピエンスは、光の何倍もの速さでわが銀河系のこの区域へひろがり、さながら酵母菌のように増殖した。もし二十一世紀における繁殖力をもって実際に増加していれば、われわれの現在の人口は7x10の9乗x2の68乗のオーダーになっていたことだろう──あまりに巨大な数であるため感覚的に理解することは困難である。こうした数字をあつかえるのはコンピューターだけだ。 [#ここから3字下げ] 7x10の9乗x2の68乗=2,066,065,336,255,469,780,992,000,000,000 [#ここで字下げ終わり]  ──表現を変えれば、二千×百万×十億×一兆以上の人口。  ──あるいは、なつかしの故郷、わが種族誕生の地である太陽系第三惑星そのものの全質量を、二千五百万倍する蛋白質ということだ。  途方もない、というほかない。  だが、途方もないという言葉は、〈大離散〉が発生しなかった場合にこそふさわしかったといおう。というのは、各世紀ごとに三倍の人口にふくれあがる可能性を持ったとき、われわれ人類は同時に、倍になることもできない危機に達していたのである……それ自身の一部をできるだけ急いで殺し、増加率ゼロを達成しなければ存続があやうくなるという──酵母菌成長法則というカーブの頂上に達したのだ。さもなければ、みずからの毒に溺れるか、全面戦争による自殺をとげるか、あるいはまたマルサス学派がとなえるところの最終的解決に行きつくしかなかったのである。  しかし人類は、いまだそれほどの恐るべき数に増加していない(と、われわれは考える)。なぜならその時代の初め、〈大離散〉に参加したのは七十億などという数ではなくて数百万にすぎず、以後、実数は不明の少ない人数ながら着実に増加していった何億かの人々が、それに加わったのみであると考えなければいけないからだ。そうした人々は、今日まで二千年にわたって地球から植民し、植民惑星からさらに遠隔の地へと移住していったのだ。  とはいえ、もはや人類の総数について明確な推測をおこなうことなど不可能であり、同様に、植民された惑星の概算数すらわからなくなっている。最大限われわれにいえるのは、二千個強の植民惑星に、五千億人以上の人類が住んでいるにちがいない、ということでしかない。植民惑星の数はその二倍であるかもしれず、人類がさらにその四倍の人口に達している可能性もある。あるいは、それ以上かもしれない。  こうして、歴史編集においては、人口統計の試みさえも不可能となっている。データはわれわれが入手するときにはもう時代遅れのものとなっているし、つねに不完全なのだ──その与え信頼性の点からいってもあまりに膨大かつ多様であるため、それらを記録に組み入れる前にわたしのスタッフである何百の人間/コンピューターが、分析、対照、内挿《ないそう》および外挿《がいそう》し、そしてそれらをほかのデータとつきあわせてみることに、忙しく従事しつづけている。われわれは、修正ずみデータの信頼度を標準九十五パーセントに維持するよう努めており、信頼性にとぼしい場合で八十五パーセントを目標にしている。が、現実の成果はおのおの八十九パーセントと八十一パーセントでしかなく──この割合はますます下がる一方だ。  開拓者というものは、故郷の役所へ記録を送ることなどたいていの場合忘れてしまっている。生きのびて、子供を作り、行手をはばむものがなんであろうと、それを打ち破るめに忙しいのだ。なんらかのデータがこの役所にとどくまでに、植民地では四世代が経過しているのがふつうである。 (それが当然だ。植民者が統計のことに気を取られていては、植民者自身、統計に入れられてしまうのがおちだ──死亡者としてである。わたしは移住しようと思っている。いったん出発してしまったら、わたしはこの役所が自分の消息を追っているかどうかなど、まるで念頭になくなるだろう。わたしはこの本質的に無益な仕事に、ほぼ一敗紀のあいだ没頭してきた。理由の半分は仕事に意欲をそそられたからだが、あとの半分は遺伝子の配列によるもので──わたしはアンドリュウ・ジャクソン・計算尺《スリップ・スチック》・リビイの、直系かつ強化された子孫なのだ。だが同時にわたしは最長老の子孫でもあり、かれのひとところに落ち着くことのできない性格のいくぶんかを受けついでいると思う。わたしはあえて見果てぬ夢におのれを賭け、宇宙のかなたで何がおこっているかをこの目で見たいのだ──もう一度結婚し、新鮮で人口の少ないどこかの惑星に一ダースほども子孫を残して、そのあとさらに──たぶん──進みつづけよう。わたしが最長老の回想録の整理をすませしだい、かれの昔の口癖を借りるなら、評議会がこの仕事を引き受けてやってこませるわけだ)  われらが最長老とは、どういう人間なのだろう? わたしの先祖で、おそらくは諸君の先祖でもあり、現在生きている人間の中での最年長者であることはまちがいなく、人類の危機における壮大な出来事のすべてと〈大離散〉のあいだに生じた危機を乗りこえることのすべてに参加したただひとりの人物とは?  そう、われわれは危機を乗りこえた。われわれの種族はいまや五十の惑星を失っても、結束をかため、前進を始めることができる。われわれの勇敢なる女性たちは、その損害を一世代で補充することができるだろう。そうなりそうに思われるということではない。これまで人類は、われわれ自身ほど卑しく、不潔で、恐ろしい種族に出会ったことがない。ひかえめな外挿法《エクストラボレーション》によっても、われわれはあと二、三世代のうちに、先に述べた驚くべき人口に達することだろう──そして、この銀河系での植民を終えるより早く、他の銀河系へと前進してゆくだろう。事実、最前線からの報告によれば、人類の銀河植民宇宙船が何隻か、すでに無限の深淵へ乗り出していったとのことだ。これらの報告は確証が得られたわけではない──が、もっとも強力な植民地はつねに中央からもっとも離れた位置に存在しているというのが、歴史の鉄則である。望みをかけてもいいだろう。  うまくいっても、歴史をつかむというのは難しいことだ。悪くいくと、歴史はいかがわしい記録類の気の抜けた寄せ集めでしかなくなってしまう。歴史は、目撃者の言葉をとおしてこそ生命を持つのだ……そしてわれわれにはただひとり、危機と〈大離散〉の二十三世紀におよぶ歳月を生き抜いてきた目撃者がいる。かれにつぐ高齢の人物でも、本機関で立証できるかぎりでは、一千歳をわずかに越えているにすぎない。確率的には、この宇宙のどこかに、かれの年齢の半ばに達している人物が存在する可能性はある──だが、二十世|紀《*》に生まれて現在まで生きのびた人物が他にひとりもいないということは、数学的にも歴史的にも確かな事実だ。 [#ここから4字下げ]  *ハワード・ファミリーが、恒星間宇宙船〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉を奪い取ったとき、百二十五歳をこえていたのはわずか数人だった。それらの人々は全員──最長老をのぞいて──記録どおりの時と所において死亡した。(長老メアリイ・スパーリングのあの異様な、おそらくは伝説上の、死中の生ともいうべき例は除外する)遺伝的な有利さと、ふつう〈不死選択〉として知られる寿命延長療法を受ける権利を有していたにもかかわらず、最後のひとりはグレゴリオ暦三〇〇三年に死亡した。記録によれば、かれらのほとんどがそれ以上の若返り処置を受けることを拒否して死んだようだ──それは今日でも一般的な死亡原因の第二位にあげられている。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  この最長老がはたして、一九一二年にハワード・ファミリーの一員として誕生し、かつまた二一三六年に地球《オールド・ホーム》を脱出するときにファミリーを率いたあのラザルス・ロングであるのかどうかと、疑問を呈するむきもあるにちがいない──古代における身許確認の方法はすべて(指紋、網膜パターン、その他)、今日ではあてにならないものだと指摘して、だ。そのとおりだが、そうした方法は当時としては満足すべきものであったし、ハワード・ファミリー財団にはそれらを注意して使うべき特別な理由があったのだ。  一九一二年、財団にその誕生を登録された〈ウッドロウ・ウィルスン・スミス〉は、たしかに二一三六年と二二一〇年における〈ラザルス・ロング〉である。それらのテストが信頼性をうしなう前に、それらはより新しい、ごまかすことのできないテストで補足された。それは、初期においてはクローン移植に、もっと新しくは遺伝子の配列による完全な個体識別にもとづいている。 (興味ぶかいのは、三世紀ほど前に、その氏名を詐称する者がこのセカンダスに現われ、最長老のクローン増殖された仮の体から、新たな心臓を与えられた事件だ。そのことでその男は命を落とす羽目になった)本文にその言葉を引用した〈最長老〉の持つ遺伝子パターンは、およそ二一四五年ごろ、恒星間宇宙船〈新開拓者〉の中でゴードン・ハーディ博士により〈ラザルス・ロング〉から切除され、長命研究のため培養された一片の筋肉組織のそれと、完全に一致する。以上、|証明終り《Q・E・D》。  だが、かれはいったい、どういう人間なのだろう? 諸君は自身でそれを判断すべきである。この回想録を適切な長さに縮小するにあたって、わたしは多くの立証ずみの歴史的事件を省略した(原資料は記録保管所にて入手可能)──が、明らかな嘘と作り話とは、そのまま残しておいた。ひとりの人間のつく嘘は、分析されると、真実以上にその人物の真実を物語ると考えるからだ。  この人物を文明社会における通常の基準で照らせば、野蛮人であり無法者であることは明らかである。  しかし子供が親を判断すべきではない。かれをそうあらしめた性質の多くは、たしかに、ジャングルの中で、あるいは苦しい開拓地で、生きのびてゆくために必要なものだったのだ。諸君は、遺伝と歴史の両面でかれに借りがあることを忘れないことだ。  われわれがかれに受けている歴史的な借りを理解するためには、昔の歴史をすこしふりかえってみることが必要だ──それらの中には、伝説あるいは神話と化したものもあり、また一方、ジュリアス・シーザーの暗殺のごとく厳密に立証された事実もある。ハワード・ファミリー財団は、一八七三年に死亡したアイラ・ハワードの意志により創設された。かれの遺言には、財団の理事たちに対し、かれの財産を人間の寿命を延ばすため≠ノ使うことと指示してあった。これは事実である。  伝説によると、かれは自分自身の運命に腹を立ててこれを思いついたという。なぜならかれは、自分が四十代で老齢のために死のうとしていることを発見したからだ──実際にかれが死んだのは四十八歳のときで、独身のまま、子孫は残さなかった。だからわれわれのひとりとしてかれの遺伝子を受け継いでいる者はいないわけだが、かれはその名とその考え──死は裏をかくことができるものという──においてのみ、不死を得ているのだ。  そのころ四十八歳で死ぬことは珍しくなかった。信じようと信じまいと、そのころの平均死亡年齢は約三十五歳だったのだ! だが老衰によってではない。疫病、飢餓、不慮の事故、殺人、戦争、出産、その他の暴力によって、老衰の始まるはるか前に大部分の人間は命を失っていた。だが、これらのハードルをすべて飛び越えた者でも、七十五歳から百歳までのあいだに訪れる死から逃れることはできなかった。百歳に達する者はほとんどなかったのだ。それにもかかわらず、どの民族集団にも、きわめて少数ながら、百歳以上の寿命を持つ人々が存在した。〈オールド・トム・パー〉の伝説がある。その老人は二八三五年に百五十二歳で死んだという。伝説が事実かどうかは別として、その時代の人口統計資料を分析して確率を出したところでは、何人かの人間が百五十歳を生きたことは間違いないようだ。だがそうした人々は、まったく数少ないものだったのだ。  財団はまず、近代科学以前の交配実験からその仕事を始めた。当時は遺伝についての知識が皆無だったからだ。長寿の血統を持つ青年が、金を餌として同様な相手と結婚するようにしむけられた。  餌がその威力を現わしたのは驚くまでもないことだ。同様にこの実験が成果を上げたことにもまた驚く必要はあるまい。なぜならこれは、遣伝学が登場するまで何世紀にもわたって牧畜業者の用いてきた経験的方法だったからだ。ひとつの性質を強化するために繁殖をおこなったら、つぎは失敗例を取り除くのだ。  ファミリーの古記録に、もっとも初期の失敗例がどのようにして取り除かれたかの方法は記されていない。たんに、何人かがファミリーから除かれたとあるばかりだ──幹も枝も、子孫全員から──あまりにも若いうちに老齢に達して死ぬという、許すことのできない罪のために除かれたのだ。  二一三六年の危機までに、ハワード・ファミリーの全員は平均予命が百五十歳を越え、数人は実際にその年齢を過ぎていた。その危機の原因はおよそ信じられないものだが、ファミリーの内部と外部を問わず、あらゆる記録が一致している。ハワード・ファミリーは、ただあまりにも長命であるために、他のすべての人類からはなはだしい迫害を受けたのだ。なにゆえそれが真実であったかは集団心理学者のあつかう問題であり、一記録保管係の関知するところではない。が、それは真実だったのである。  かれらは捕えられ、強制収容所に集められた。そして、青春の泉≠フ秘密を探り出そうとする連中の手で、あやうく拷問にかけられるところだった。事実であり──伝説ではない。  ここで最長老が物語に登場する。恐れを知らぬ豪胆さと、巧みな嘘つきの才能と、そして今日の大多数の人々には子供じみているとしか思えない冒険のための冒険、陰謀のための陰謀への喜びをもって、最長老は古今の歴史を通じて最大の脱獄をなしとげ、原始的な恒星間宇宙船を略奪するや、ハワード・ファミリーの全員をともなって太陽系から脱出した(そのときの総数は、老若男女あわせて約十万人である)。  それを不可能なことだと思われるなら──そのように多数の人間をただ一隻の宇宙船に、ということがだ──思い出してもらいたい。最初の恒星間宇宙船は、今日われわれが使用しているものにくらべ、桁ちがいに大きかったのだ。おのおのが独立した人工の小惑星として、光速以下のスピードで長い年月のあいだ宇宙を飛びつづけることを意図されていた。巨大でなければならなかったのだ。 〈脱出《エクソダス》〉の英雄は最長老ひとりではない。だが、われわれのもとに残されている種々の記録は、ときに相矛盾した内容を持つものでさえ、すべてひとつの例外もなく、推進力がつねにかれであったことを明らかにしている。かれは、おのれの民族を虜囚の境遇から救い出したモーゼであった。  かれは四分の三世紀後(二二一〇年)に、ファミリーをふたたび故郷へつれもどした──しかしそのときは、虜囚の境遇へではなかった。なぜならその年こそは銀河標準暦第一年、〈大離散〉の開幕を告げる記念すべき年となったからだ……原因となったのは母なる地球上の人口爆発であり、ふたつの新たな要素によって、その実現を可能とした。  ひとつは当時、リビイ・シェフィールド超推進装置として知られたものであり(真実のいかなる意味においてもこれは推進装置とはいえない。これはn次元の複数空間を操作する手段でしかないのだ)、もうひとつは、最初の(そしてもっとも簡単な)効果的延命技術、すなわち新鮮な血液の人工製造である。  ハワード・ファミリーは、脱出するというだけのことで、その技術を開発させたのだ。地球に残された短命人種は、あいかわらず長命人種たちが秘密≠握っていると思いこみ、幅広い組織的研究によってその発見に取りかかった。そして、いつものことだが、研究は思いもよらぬ大成功をおさめた。ありもしない秘密のかわりに、それとほぼ同じぐらい効果的な方法を見つけたのだ。まずひとつの療法が考案され、最終的には多くの療法が総合しておこなわれるようになった。老齢をくいとめ、そして活力、生殖力、受胎能力を持続させるのだ。 〈大離散〉は、こうして必然かつ可能なものとなった。  最長老の偉大な才能は(ときに応じて自由自在にもっともらしい嘘をつく能力は別としてだ)つねに、あらゆる事態の可能性を外挿し、いかなるものであろうと状況を自分の目的に沿うよう、ねじ曲げてしまうという、まれに見る天賦のものであったように思われる。(かれはこういっている──人はなぜ蛙が飛びあがるかを、本能的に察知しなければならない、と。最長老を調べた精神測定学者たちの意見によれば、かれには予感とか|つき《ヽヽ》と表現されるきわめて高度の心理的能力が備わっているらしい。だが、その能力に対する最長老の論評はそれほど上品ではない。記録保管係として、わたしは意見をさしひかえたい)  最長老がすぐに理解したのは、全人類に約束されたとはいえ、この不老技術の成果を享受するのが事実上は権力者とその周辺の人間に限られるであろうということだった。何十億にものぼる貧しい農民たちは、それぞれが持って生まれた寿命以上に生きることを許されない。かれらのための余地はない──他の惑星に移住しないかぎりは。その場合には、だれもが生きたいだけ生きられる余地がある。  いかにして最長老がこの事実を知ったか、そのすべてが明らかにされているわけではない。かれはいくつかの変名と、おおぜいの地下工作員を使っていたようだ。かれが所有していた法人のうち主要なものはこの財団の管理のもとに処分され、それから財団とハワード・ファミリーを惑星セカンダスヘ移すための資金にかえられた──その命令をくだすことによって、かれは自分の血族と子孫のために最上の不動産≠守ったのだ。当時生きていた者の六十八パーセントが、新たな開拓の挑戦を受けて立った。  われわれがかれから受けた遺伝の面での恩義は、直接間接両面にある。間接の恩義は、移民が選別の道具、強制的なダーウィン的自然淘汰となり、優秀な血統は宇宙へ進出し、できそこないは地球にとどまって死んだということだ。これは強制的に宇宙へ送り出された連中にとっても(二十四世紀および二十五世紀に見られたごとく)真実だった──その選別が新しい惑星の上でおこなわれたことを別にするとだが。きびしい開拓地においては、弱い者や順応できない者は死に、強い種だけが生き残る。みずからすすんで移民に参加した人々でさえ、この第二の徹底的な試練を通過しなければならなかった。ハワード・ファミリーは、この方式で少なくとも三回の淘汰を受けた。  われわれが最長老から受けた遺伝的恩義を証明することは、それ以上にたやすい。とりあえずは、簡単な算術で用がたりる。もし諸君が母なる地球以外の土地に住んでいて──これを読んでおられるなら、きっとそうに違いない──地球の美しき緑の丘の無残な現状を考えてみるなら。そして、先祖にひとりでもハワード・ファミリーの者のいることが断言できれば──たいていの人間はできるはずだ──そのとき、諸君はほぼ確実に最長老の子孫である。  ファミリーの公式系図によれば、この確率は八十七・三パーセントだ。ハワード・ファミリーのだれかの血を引いているのであれば、諸君は二十世紀に生存した他のおおぜいのメンバーの子孫でもある。だがわたしがここでいっているのはただひとり、ウッドロウ・ウィルスン・スミス、最長老その人のことなのだ。二一三六年の危機までに、ハワード・ファミリーのもっとも若い世代のおよそ十分の一が、最長老の直系の子孫だった──つまり、誕生の際の関係がそのようにファミリーの記録にのせられており、その血統が、そのころ利用できたいくつかのテストによって確かめられていたという意味だ。(交配実験がはじめられていたころは、血液型さえ知られていなかった。だが失敗例除去のプロセスは、女性の身持ちをよくするという点で圧倒的な力を発揮した──少なくとも、ファミリー外部との交渉は考えられなくなった)  現在までの累積確率は、先に述べたとおり、先祖にだれかハワードの者がいさえすれば八十七・三パーセントだ──しかし近い世代にハワードの先祖がいたとすると、確率は事実上百パーセントに上昇する。  だが、統計学者としてわたしには信じる理由がある(血液型、毛髪の型、目の色、歯の数、酵素の型、その他多くの特徴をコンピューターによる遺伝子分析にかけた結果が、わたしの確信を裏づけてくれた)──疑問の余地なく、最長老にはハワード・ファミリーの内外を問わず、系図に記録されていない多数の子孫があると信じる強い理由がだ。  ひかえめにいっても、かれは恥知らずの好色漢であり、かれの種《たね》は銀河系のこの地域全体にまき散らされているのだ。 〈脱出《エクソダス》〉の時代を例にとろう。かれが〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉を盗んだあとのことだ。その年月のあいだ、かれは一度も結婚していなかったし、宇宙船の記録や、そのころの回想録にもとづいた伝説のいずれもが、かれが古人いうところの女嫌い≠ナあったことを示している。  たぶんそうだったろうということだ。生物統計学の記録(系図ではなく)を分析してみると、かれが近よりがたい男ではなかったことがわかる。分析をおこなったコンピューターは、その期間だけでかれが百人以上の子供の父親となったことに、五分五分で金を賭けないかとわたしに持ちかけてきた。(わたしはことわった。なにしろそのコンピューターとチェスをすると、ハンディに城将《ルーク》をひとつ落としてもらっても勝てないのだ)  当時、ファミリーのあいだで病的とも思えるほど長寿が重要視されていたことを考えれば、これはすこしも不思議でない。最年長の男性が、いまだに強健で精力にあふれていれば──事実そのとおりだったわけだが──当然、かれが示している優秀さ──ハワード・ファミリーが尊敬している唯一の基準による優秀さ>氛氓ひく子供を持ちたいと願う女性たちによって、かれはたえまない誘惑に、無限の機会にさらされたはずだ。  結婚という形式がたいして重要でなかったことは推測できる。ハワード・ファミリーの結婚は、すべて便宜的なものであったし──アイラ・ハワードの遺言がそれを指示したのだ──それに、生活のためという例はまれであった。ただひとつ驚くべきは、何千人もの受胎能力を持つ女性がまぎれもなくそれを望んでいたときに、首尾よく想いをとげた女性の数がかくも少なかったということだ。しかしかれは、つねにさっさと逃げ出すほうだったのだ。  そういうことだったのかもしれないが──今日、黄色がかった赤い髪に大きな鼻、くったくのない無邪気な笑顔、そしてかすかに野性の光をきらめかせた灰緑色の瞳をした男が目の前に現われるたびに、わたしは思うのだ。最長老が銀河系のこの区域を通過したのは、どれぐらい以前のことだったのだろうか、と。もし、そういうよそ者が近づいてきたら、わたしは急いで財布をおさえる。そいつが話しかけてきたとしても、そいつとは絶対に賭けをしたり約束をしたりはしないだろう。  しかし、アイラ・ハワードの交配実験の三世代目でしかない最長老が、その生涯の最初の三百年間を、人為的な若返り処置を受けることなく、どうやって若さを保ちながら生きつづけられたのだろう?  もちろん、突然変異だ──それについてわれわれは、何も知らないとしかいいようがない。だが、何回かの若返りの過程で、われわれは、かれの肉体構造をいささか研究することができた。かれの心臓はけたはずれに大きく、脈博は非常にゆるやかだ。歯の数は二十八本だけで、虫歯はない。またいかなる伝染病にも免疫のようだ。負傷あるいは若返り処置の場合以外、外科手術を受けたことはない。かれの反射動作はきわめて敏速で、かつつねに適切であるだめ、それをたんなる反射≠ニいいうるかどうかに疑問の余地がある。視力は遠近いずれも補正の必要なし。聴力は範囲が上下とも普通人のそれをはるかに越えており、しかも全域を通じて鋭い。色彩は藍色を見分けることができる。生まれながらに陰茎包皮と虫垂を欠き──そして明らかに良心≠も欠いている。  わたしは、かれが先祖であることを非常にうれしく思う。 [#地付き]ハワード財団記録保管所長   [#地付き]ジャろティン・フート四十五世 [#改ページ] 改訂版序文  この簡約普及版では技術面に関する付録が別個に出版された。最長老がセカンダスを離れてから消息を絶つまでの行動の記録に、ページを確保せんがためである。かれの生涯最後の事件である典拠のはっきりしない明らかに不可能な挿話は、原回想録編集者の主張により収録されたが、真面目に受け取ることはできない。 [#地付き]記録保管所長      [#地付き]キャロリン・ブリッグズ  付注:わが美貌にして学識豊かな後任者は、自分自身が何を話しているかわからないのだ。最長老に関しては、もっとも空想的な話こそが、つねにもっとも信頼しうるのである。 [#地付き]名誉記録保管所長       [#地付き]ジャスティン・フート四十五世 [#ここから中表紙]   愛に時間を@ [#中表紙終わり] [#改ページ] 前奏曲 1  続き部屋のドアがひろがると、椅子に腰かけて窓の外をむっつりと眺めていた男は、ふりむいた。 「きみは何者だ?」 「わたしはジョンソン・ファミリーのアイラ・ウエザラルです、ご先祖さま。ファミリーの臨時議長《チェアマン・ブロ・テム》でございます」  椅子の男はうなるようにいった。 「ずいぶん待たせてくれたな。ぼくを、ご先祖さまなどと呼ぶな。それに、なぜ臨時議長しかこんのだ? 本物の議長はいそがしくて、ぼくとは会えないというわけか? ぼくにはそれだけの価値もないのか?」  かれは立ちあがるそぶりを見せなかったし、訪問者に腰かけるようすすめもしなかった。 「もうしわけありません、閣下、わたしはファミリーの首席役員です。ですが、これがここしばらくの習慣になっておりまして……一六、七世紀というところでしょうか……首席役員は臨時議長の称号で呼ばれるのです……あなたが姿を現わし、議長の席につかれる場合を考慮してのことでございます」 「なんだと? ふざけるな。ぼくはもう千年ものあいだ評議会の集まりで議長をしたことなどないんだぞ。それに閣下だ、ご先祖さまだと、ぞっとするようなことをいうな……ほくのことは名前で呼ぶんだ。きみを呼んでから二日たってるぞ。物見遊山でもしながら来たのか? それとも、ぼくが議長とすぐ会って話ができる規則はなくなりでもしたのか?」 「その規則は存じませんでした、最長老。おそらくわたしが生まれるよりずっと前のものでございましょう……ですが、いかなるときでも、あなたさまにお仕えすることはわたしの名誉であり義務であり……そして喜びとするところでございます。現在のお名前をお教えいただければ、心からの喜びと敬意をもって、お名前を呼ばせていただきます。遅れたことにつきましては……あなたさまのお呼び出しをいただきましてから、三十七時間たっておりますが……古代英語の勉強をしていたのでございます。というのも、あなたさまが他の言葉では返事をされないと聞きまして」  最長老は、すこし恥ずかしそうな顔になった。 「ぼくが、ここの忙しいしゃべりかたをうまく使えんことは本当だ……どうも近頃、記憶がはっきりしなくなってね。埋解できてもむっつりと返事しなかったんだろう。名前はっと……ここに着陸したとき、どの名前で届けを出したのか忘れてしまったな。えーと、ウッドロウ・ウィルスン・スミスじゃ子供のころの名前だ。ほとんど使ったことがない。きっとラザルス・ロングがいちばんたくさん使った名前だろう……ぼくのことはラザルスと呼んでくれ」 「ありがとうございます、ラザルス……」 「何をありがたがっているんだ? そんなにしゃっちょこばらんでくれ。きみは子供じゃないんだ、さもなければ議長にはなっていないはずだからな……年はいくつたい? ぼくのところへやってくるだけのために、本当にわざわざ、ばくの幼年時代の言葉をおぼえたのか? それも二日とかからずに? まったくのゼロからか? ぼくなら、新しい言葉をおぼえるのに少なくとも一週間はかかるし、アクセントをなめらかにするにはもう一週間だ」 「わたしは標準暦で三百七十二歳になります、ラザルス……地球年にして四百歳弱です。この職についたとき古代英語を学びました……ですが死んだ言葉としてであり、ファミリーの古い記録を原本で読めるようになるためです。あなたの呼び出しを受けてからわたしがしたのは、それを話し、理解することの勉強でした……北アメリカにおける二十世紀方言を……あなたのいわれたとおり、あなたの幼年時代の言葉をです……言語分析コンピューターが、あなたの口にされた言葉を計算したのです」 「まったく利口な機械だな。きっとぼくは、子供のころと同じしゃべりかたをしているんだろう。それこそ頭脳が決して忘れない唯一の言葉だそうだからな。となるとぼくは、大穀倉地帯《コーンベルト》の、錆びた鋸みたいな、耳ざわりな声でしゃべっているにちがいない……かたやきみのほうは、一種のテキサス風のゆっくりしたしゃべりかたに、オックスフォード・ブリティッシュ風の発育がかぶさっているときている。おかしなもんだ。思うにその機械は、与えられたサンプルにいちばん近い形式のものを永久記憶《パーマネンツ》の中から選択したんだな」 「まったくそのとおりだと思います、ラザルス。もっとも、それに関連した技術はわたしの縄張りではありませんが。わたしの発音はわかりにくいでしょうか?」 「いや、全然そんなことはないよ。きみの発音はりっぱなもんだ。ぼくが子供のころおぼえた発音よりも、そのころの高等教育を受けたアメリカ人のそれに近いな。でもぼくはブルーガムからヨークシャーまで、なんだってわかるから、発音は問題にならんよ。お心づかい痛みいるな。胸が熱くなる」 「それでほっとしました。わたしには語学の才能があるのです。たいして骨は折れませんでした。わたしは評議員のひとりひとりと、その星の言葉で話せるように努力しています。新しい言葉を一夜潰けでおぼえることには、慣れているのです」 「ほう? それにしても思いやりの深いことだな……ぼくはまるで話しかける相手がいない檻に入れられた動物みたいな気分だったよ。あのロボットどもは」──ラザルスは、ふたりの若返り技術者のほうに頭を傾けた。そのふたりは隔離服に身をかため、内側からしか見えないヘルメットをかぶり、部屋の広さが許すかぎりかれらの会話から離れた位置に待機していた──「英語を──知らんのだ。あいつらとは話ができないってわけさ。ああ、大きいほうのやつはいくらかわかるが、むだ話ができるほどじゃない」ラザルスは口笛を吹いて、背の高いほうを指さした。「おい、きみ! 議長に椅子を……急いで!」  かれの身ぶりはその意味したところを明らかにした。背の高いほうの技術者は、近くにあった椅子の制御装置に手をふれた。椅子はすべってくると、ぐるりと向きを変え、ラザルスとさしむかいの位置に適度の距離をおいてとまった。  アイラ・ウエザラルは礼をいうと──ラザルスにむかってで、技術者にではない──腰をおろし、椅子がかれを探ぐってぴったりと体にあわせると、ほっと息をついた。ラザルスは話しかけた。 「具合はいいかね?」 「実に……」 「食事でもするか、飲み物はどうだ? タバコは? きみがぼくのために通訳しなければならんことになるかもしれんが」 「せっかくですが結構です。でも、あなたのために注文しましょうか?」 「いまはいらん。あいつらはぼくに家鴨《あひる》みたいに腹いっぱいつめこむんでな……一度なんか、むりやり食べさせやがった、畜生め。ふたりとも居心地がよくなったところで、話し合いを進めようじゃないか」かれはとつぜん声をはりあげた。「いったいぜんたい、ぼくはこの監獄で何をしているんだ?[#「いったいぜんたい、ぼくはこの監獄で何をしているんだ?」はゴシック]」  ウエザラルは静かに答えた。 「監獄ではありません、ラザルス。ニュー・ローマ市内にあるハワード若返り病院の重要人物宿舎です」 「監獄だな、ぼくにいわせれば。欠けているのは油虫ぐらいなもんだ。この窓は……鉄棒をたたきつけても割れやしないだろう。あのドアは、だれの声でも開くが……ぼくのではだめなんだぞ。ぼくが便所へ行くときでも、あのロボットの片方がぴったりくっついてくる。ぼくが便器に顔をつっこんで、溺死しないかと心配しているのは間違いない。いまいましい話だが、ぼくはあの看護係が男か女かさえ知らないんだ……どちらにしろ気に入らんな。ぼくは、小便するとき、だれかに手を握っていてもらう必要はないんだ! 不愉快だね」 「わたしがなんとか手を打ってみましょう、ラザルス。しかしあの技術者たちがひどく神経質になるのもわかります。だれでも風呂場では大怪我をしかねませんからね……そして、だれもが知っているのです。もしあなたが怪我でもされたら、どんな不運によるものであろうと、そのときの当番の技術者は、いちじるしくきびしい罰を受けることになります。かれらは志願者で、高額の特別手当を受けています。でも、びくついているんです」 「そんなことだと思っていたよ。監獄だ。もしこれが若返り病院の部屋だというなら……ぼくの自殺スイッチはどこにあるんだ?[#「ぼくの自殺スイッチはどこにあるんだ?」はゴシック]」 「ラザルス……死はすべての人の権利です」 「それは、ぼくのいったことじゃないか! そのスイッチはあそこについていなければいけないんだ。取りはずされた場所がわかるだろう。だからぼくは、裁判なしで監獄へ入れられているのも同じなんだ、いちばん基本的な権利を奪われているんではな。なぜだ? ぼくはものすごく腹を立てているんだぞ。きみは自分がどれほど危険な立場にいるかわかっているのか? 年老いた犬をからかうもんじゃない。最後の気力をふりしぼって噛みついてくるかもしれないからな。ぼくは年こそとっているが、あのロボットどもが飛んでくる前に、きみの腕を折るぐらいはできるはずだ」 「そうなさりたければ、どうぞわたしの腕を折ってください」  ラザルスはまごついたような表情を見せた。 「え? いや、わざわざ汗をかくだけの価値はないな。三十分できみは新品同様に修理されちまうだろう」不意にかれはにやりと笑った。「だがぼくは、きみの頸をへし折り、同じぐらいあっさり頭蓋骨をたたきつぶせるかもしれないぞ。そんな怪我には、若返り技術者の力もおよばないんだ」  ウエザラルは身じろぎもせず緊張もせず、おだやかに答えた。 「あなたにそれができることは確かだと思います……しかしあなたが、命乞いの機会を与えることもなく、ご自分の子孫を殺されるとは思いませんね。あなたはわたしの遠い祖父であられるのです。七つの異なった家系を通じてですが」  ラザルスは唇を噛み、ひどく苦しそうな顔になった。 「坊や、ぼくにはおそろしくおおぜいの子孫がいるから、血縁関係は問題にならん。だが本質的にはきみのいうとおりだ。ぼくは生涯を通じて不必要な人殺しはしたことがない。そう思っている」かれはにやりとした。「だがもし、自殺スイッチを返してもらえないのなら、きみの場合は例外にしてもいいんだぞ」 「ラザルス、あなたがお望みなら、すぐスイッチを取りつけさせましょう。でも、その前に……十語だけ?」  ラザルスは無愛想に答えた。 「ああ、よろしい、十語だ。十一ではだめだぞ」  ウエザラルは一秒の何分の一かためらったのち、指を折りながらいった。 「わたしが・あなたの・言葉を・おぼえたのは・なぜ・われわれが・あなたを・必要とするか・説明する・ためです」  ラザルスはうなずいた。 「規則どおり十語だな……しかし、それじゃあ、きみが五十語必要だってことを意味しているだけだ。いや、五百語、それとも五千語かな」  ウエザラルは反論した。 「あるいは一語も必要としないかもしれません。あなたはわたしに、いかなる説明の機会をも与えることなく、スイッチを手にすることができます。お約束したとおりです」 「ふん! アイラ、この古狸め。その言葉で、きみが本当にぼくの子孫だと信じられるようになったよ。きみはぼくが、きみの腹の中にあることを聞かないうちは自殺したりしならと、判断したんだ……きみが、むだ話をするだけのために、死んだ言葉をわざわざおぼえたと、ぼくが知ってしまった以上はな。よし、話したまえ。まずぼくが、ここで何をしているのかから始めるんだ。ぼくにはわかっている……わかっているんだ……ぼくは若返りなど頼まなかった。それなのに、目をさますと仕事は半分すんでしまっているじゃないか。だからぼくは議長を呼べとわめいたんだ。よし、なぜぼくはここにいる?」 「その前の時点から話を始めたいのですが。旧市街のもっとも不潔な地区の木賃宿で、いったい何をしておられたのかうかがいたいものですな」 「ぼくが何をしていたかだと? 死にかけていたのさ。静かに上品に、疲れきった馬のようにな。そう、きみのおせっかいな手下どもがぼくをつかまえにくるまでは、そうしていたんだ。死ぬのに忙しいあいだ、だれにも邪魔されたくないと思ったら、木賃宿よりいい場所が考えられるかね? 簡易寝台の料金さえ前払いしておけば、だれも放っておいてくれる。ああ、連中はぼくのわずかな所持品を盗んださ、靴までも。しかしそれは予期していたし……ぼく自身、同じ状況にあれば同じことをしていたろう。それに木賃宿に住んでいるようなやつらは、自分よりみじめな人間にはたいてい、いつでも親切なんだ……そいつらのだれかが病人に水を持ってきてくれるはずだ。それこそぼくが望んでいたことだった……それとぼくを、ぼくなりの方法で自分の口座を閉じるため、ひとりにしておいてもらうことだった。きみのおせっかいどもが現われるまではな。教えてくれ、どうやってぼくを見つけた?」 「どうやってあなたを発見したかは、それほど驚くべきことではありません、ラザルス、それより、あの地区の……警官《コップ》、でしたか? そう、わたしの警官が、あなたを確認し、発見し、救助するのに、あれほど時間がかかったという事実のほうが、よほど不思議ですね。そのため、地区主任が職を失いました。わたしは無能を許しません」 「そこできみはその男を破滅させたわけか。ぼくの知ったことではないな。だがなぜだ? ぼくは辺境星区からセカンダスにやってきたんだし、どんな目印も残していなかったはずだ。この前、ファミリーと接触したときから、すっかり何もかも変えたのさ……最後の若返りをシュープリームで受けたんだからな。このごろファミリーは、シュープリームと資料を交換しているのかね?」 「とんでもありません、ラザルス。儀礼的挨拶すらしようとは思いませんね。評議会の中には、シュープリームを抹殺すべきだとする根強い意見が少数ながらあるくらいです。通商停止をつづけているだけではたりないというわけで」 「なるほどな……もし新星爆弾《ノヴァ・ボム》がシュープリームに落とされたとしても、ぼくは三十秒以上死者をいたんだりしないだろう。しかしぼくには、そこでその仕事をすます理由があったんだ。たとえ強制的クローン増殖に、高い金を支払わなければいけなくともだ。だがそれはまた別の話さ。きみたちはどうやってぼくを見つけたんだ?」 「過去七十年のあいだ、あなたを発見すべく至上命令が出されていたのです。この惑星ばかりではありません。ファミリーがオフィスをおいているあらゆる惑星に、その命令は伝えられました。いかにしてかについては……移民局での強制的なリーバー熱予防接種を、おぼえておられますか?」 「ああ。面倒だったが、いちいち騒ぎたてることもないようだったからな。ぼくは自分が、あの木賃宿へ行くよう運命づけられていることを知っていた。アイラ、ぼくはだいぶ前から死にかけていることがわかっていたんだ。それはなんでもないことだった。ぼくにはその準備ができていたんだからな。だが宇宙の中で、ひとりぼっちで死にたくはなかった。身のまわりに人間の声を聞きたかった。そして人間の匂いをね。子供じみた話さ。しかしぼくは、着陸するまでにもう半分死にかけていたんだ」 「ラザルス、リーバー熱などというものはないのです。ひとりの男がセカンダスに着陸して、あらゆる通常の身許確認手続きが効果をあげないとなると、リーバー熱とかその他のありもしない伝染病が口実に使われ、無菌中性塩類を注射するあいだに、その男から組織をいくらか採取します。そして、遺伝子パターンが確認されるまで、あなたは宇宙港から出ることを許されなかったはずです」 「それで? 一隻の船で一度に一万人の移民がやってきたらどうするんだ?」 「全員の調査が終るまで、収容所に集めておきます。しかし、母なる地球があの惨状ですから、近頃ではそのような事態はめったにおきません。しかしあなたは、ラザルス、個人用ヨットにひとりで乗ってこられた。千五百万から二千万クラウンはしようという……」 「三千万だ」 「……三千万クラウンする船でです。銀河系の中で、いったい何人の人間がそれだけのことをできるでしょう? それができる人間のうち、何人がひとり旅を選ぶでしょう? そのパターンは、あらゆる人間の心の中で警報を鳴らして当然だったはずです。ところがかれらは、あなたの組織を採取したあと、ロムルス・ヒルトンに滞在するという説明を受け入れ、あなたを行かせてしまいました……そしてあなたが、日暮れまでに別の身分証明書を手に入れられたことは間違いありません」  ラザルスはうなずいた。 「まったくそのとおりだ……だがきみの警官たちは、身分証明書の上等な偽造品の値段をつりあげてしまったぞ。あれほど疲れて、やる気をなくしていなければ、自分でこしらえていたところだ。そのほうが安全だったな。それでぼくはつかまえられたのか? 書類偽造商人からしぼり出したのか?」 「いいえ、そんなやつは見つけませんでした。ところでそいつがだれかを教えていただければ……」  ラザルスは鋭くいった。 「だめだ……密告しないことが取引きの絶対条件だったんでな。きみたちの法律をやつがどれだけ破っていようと、ぼくの知ったととじゃない。それに……だれにわかる? ぼくはもう一度あの男を必要とするかもしれないんだ。それに別のだれかが、やつのサービスを必要とするのは確実だろう。だれかぼくのように、きみのおせっかいな手下どもから逃げたいと願う者がね。アイラ、きみの善意に疑いの余地はないが、しかしぼくは、身分証明書を必要とするような体制は好きじゃない。ぼくは何世紀も前に自分にいい聞かせたんだ、そんなものを必要とするほど人口の多い世界からは離れていろ、とね。そしてほぼその規則を守ってきた。こんどもそうするべきだったな。だがぼくは、どんな身分証明書であろうと、それほど長く必要とされているとは思っていなかったんだ。くそっ、あと二日あればぼくは死んでいたろう。そのはずだ。どうやってぼくをつかまえたんだ?」 「苦労しました。いったんあなたがこの惑星に来られたことがわかると、わたしは大騒ぎを始めました。例の地区主任だけが不運な人間となったわけではありません。しかし、あなたがあまりにも完全に姿を消してしまわれたので、全機構が途方にくれてしまいました。保安部長などは、あなたは殺され、死体を処理されてしまったのだといいだす始末でした。わたしはいってやりました。もしそれが事実なら、きみは他の惑星へ移住することを考えはじめたほうがいいぞ、とね」 「話を進めてくれんか。自分がどんなへまをしでかしたのか知りたいんだ」 「あなたがへまをしたとは申せませんよ、ラザルス。なぜならあなたは、あなたを探がしつづけているこの惑星上のあらゆる警官とスパイから、まんまと姿を隠しおおせたのですからね。ですがわたしは、あなたが殺されていないことには確信がありました。ああ、セカンダスにも殺人事件はあります。とくにこのニュー・ローマでは。しかしほとんどが、ありふれた痴話喧嘩のたぐいです。物取りの場合というのは多くありません。というのは、わたしが刑罰を犯罪とつりあわせ、闘技場《コロセウム》での死刑を執行する政策を取りはじめたからです。とにかくわたしは確信していたのです、二千年以上の歳月を生きのびてきた人物が、みすみすどこかの暗い露地で殺されたりはするまい、と。  そこでわたしは、あなたが生きているものと仮定し、自分に尋ねました……もし自分がラザルス・ロングだったら、どうやって姿を隠しつづけるだろう、と……わたしは考えつづけ、そしてあなたの足跡をたどろうとしたのです、われわれにわかるかぎりを。ところで……」  臨時議長は肩にかかっているマントをはねのけると、大きな封印された封筒を取り出してラザルスに渡した。 「あなたがハリマン信託の私書箱に残されたものです」  ラザルスはそれを受け取った。 「開封されているぞ」 「わたしです。早まったことをしたのは認めます……ですがあなたは、宛名をわたしにされました。わたし以外に内容を読んだものはおりません。それにわたしも、もう忘れてしまうつもりです。ただこれだけはいわせていただきます。あなたが財産をファミリーに残されたことは驚きません……しかし、ご自分のヨットを、議長が個人的に使用できるよう譲渡されたことには感動しました。あれはすばらしい船です、ラザルス。いささか食指は動きますが、でもあまり急いで相続したいとは思いません。しかしわたしは、なぜわれわれがあなたを必要としているか説明するお約束をしました……どうやら話が脱線してしまいましたね」 「ぼくはちっとも忙しくないが、アイラ。きみは忙しいのか?」 「わたしですか? わたしにとって、最長老とお話する以上に重要な義務はありません。それに、わたしがあまりうるさく口出ししなければ、部下がずっと能率的にこの惑星を動かしてくれますから」  ラザルスは、いかにもという表情でうなずいた。 「ぼくもつねにその方法でやってきた。ついかかわりあいになってしまったときにはね。すべての重荷を背負い、それからできるだけ早く仕事をまかせられる人間を見つけて、そいつにまかせるんだ。ちかごろ民主主義者どもはうるさいか?」 「民主主義者? ああ……平等主義者の意味ですね。聖民主教会のことをいっておられるのかと最初は思いました。あの教会はほうってあります。かれらは、でしゃばったりしませんからね。二、三年おいて、さまざまな名称のもとに平等主義運動がおこることはたしかです。自由党、被抑圧者同盟……名前は問題ではありません。なぜならその連中はみな、わたし以下の悪党を追放して、かわりに自分たちの悪党を評議会に入れたがっているからです。われわれは決して連中の邪魔はしません。ただ潜入するだけです。そしてある夜、首謀者とその家族を逮捕すると、白日のもとにさらし、そいつらを不本意ながらの移民として送り出します。流刑囚というわけです……セカンダスに居住することは権利ではなく恩恵である……と、あるとおりに」 「ぼくの言葉を引用しているな」 「もちろんです。あなたがセカンダスを財団へ正式に譲渡されたときの契約にあった、そっくりそのままの言葉です。この惑星には、その時点での議長が秩序を維持するために必要と認める規則以外、いかたる政府もあってはならない、と。われわれはあなたとの約束を忠実に守ってきました、最長老。わたしは、評議会がわたしを解任することを適当と認めるまでは、唯一の支配者なのです」  ラザルスはうなずいた。 「それがぼくの意図したことさ。だが……坊や、それはきみの仕事だし、ぼくはもう二度と議長になる気はない……しかし、面倒をおこす連中を追放するという方針には疑問があるな。どんなパンにも酵母《イースト》は必要だ。厄介な連中をすっかり取り除いてしまった社会は下り坂になる。羊ばかりになってしまうのさ。いちばんよくいってピラミッド人夫、悪くすれば堕落した野蛮人だ。きみは一パーセントのそのまた十分の一しかいない創造的な人間を、除去してしまっているのかもしれないんだぞ。きみの酵母《イースト》をだ」 「残念ながらそうかもしれません、最長老。そじてそれが、なぜあなたを必要としているかの理由のひとつなのです……」 「ぼくは絶対に、議長にはならないといったぞ!」 「わたしの申しあげることを最後まで聞いてくださいませんか? あなたにそれをお願いするつもりはないのです。ただもしあなたがその気になられれば、昔の習慣に従って、議長の椅子は当然あなたのものとなりますが。しかしわたしとしては、忠告を利用させていただくほうを……」 「ぼくは忠告などしないからな。どうせだれも聞きゃあしないんだ」 「申しわけありません。では、より経験をつまれたかたと、わたしのかかえている問題について話しあう機会ということではいかがでしょう。その面倒をおこす連中についてですが……われわれは、昔ながらの意味でその連中を取り除いたのではありません。連中はまだ生きています。いや、連中のほとんどはというべきですかな。人間を他の惑星へ追放することは、反逆という確信犯罪のゆえにその本人を殺すより、より満足すべき結果をもたらしてくれます。その隣人たちをあまり憤慨させることなく、本人を排除できるのです。また、かれを……かれらの存在を……むだにしているわけではありません……というのは、われわれはかれらを使ってひとつの実験をおこなっているのです。流刑囚は全員同じ惑星に運ばれます。至福《フェリシティ》です。あるいはご存じかもしれませんが」 「その名は知らんな」 「その惑星を知っておられるとしたら、それはよほどの偶然でしょうね。流刑植民地《ボタニー・ベイ》として使用するため、われわれはその惑星の存在を公式の記録から抹殺してきました。名前ほどではありませんが、いい惑星で、母なる故郷……地球というべきでしょうな……破壊される前の地球、いやそれよりも、われわれが住みついたばかりのころのセカンダスにほぼ相当しています。人々をふるいわけ、弱者を取り除くだけのきびしさと、額に汗してせっせと働く気力を持てば、家族を持つこともかなうだけの優しさを持った世界なのです」 「いいところらしいな。きみはそこにずっといるべきだったな。原住民は?」 「本来そこにいた種族はまったく獰猛な野蛮人でした……わずかなりと生き残っているかどうか、われわれにはわかりません。連絡事務所すらおいていませんからね。この原住民は文明化されるだけの知性もなければ、奴隷にされるだけの従順な性格もありません。たぶんかれらは徐々に進化して、その惑星をおのれのものとするべきだったのでしょうが、不幸なことに態勢がととのわぬうちにホモ・サピエンスと出会ってしまったわけです。でもそれが実験なのではありません。流刑囚が戦って勝利を得ることは確実です。素手で送り出されるわけではありませんからね。しかし、ラザルス、その連中は、多数決の法則に従った理想的な政府を作ることができると信じているのです」  ラザルスはふんと鼻を鳴らした。  ウエザラルは言葉をつづけた。 「できるかもしれません。かれらにそれができないとはいいきれません。それが実験です」 「おい、きみは馬鹿か? いや、そんなことはあるまい。それでは評議会がきみをその職につけておきはせんだろうからな。だが……年はいくつといった?」  ウエザラルは静かに答えた。 「わたしはあなたより十九世紀年下です。いかなる問題についても、あなたの意見に異議をとなえるつもりはありません。ですがわたしは自分の経験から考えて、この実験がうまくいくのかどうかわかりません。わたしはこれまで、民主主義の形態をとった政府というものにお目にかかったことがありません。惑星を離れて数えきれぬほどの旅をしたときにさえです。そういう政府については、本で読んだことがあるだけです。わたしが読んだところでは、住民全体が民主主義理論を信奉じている社会にさえ、そうした政府が作られた例は皆無です。ですから、わたしにはわかりません」  ラザルスは不満そうな表情になった。 「ふーん、アイラ……ぼくはあやうくそうした政府との経験を、きみの喉につっこむところだったぞ。だがきみのいうとおり、これはまったく新しい状況だ……そして、ぼくらにはわからない。ああ、ぼくには強い意見がある。しかし、筋が通った千の意見も、渦中に飛びごんで発見するひとつの事実にはおよばないんだ。ガリレオはそれを証明した。そしてそれがぼくたちの持つ唯一の確実なことかもしれないんだ。うーん……ぼくがこれまで見聞きしたいわゆる民主主義なるものはすべて、上から大多数の住民に強制されたか、それとも庶民のあいだからゆっくりと成長し、そのうちかれら自身で投票をおこない、パンからサーカスまでなんでも決定できるとわかるようになる……しばらくのあいだはな。やがてこのシステムは崩壊するんだ。きみの実験の結果を見られないのは残念だな。ぼくの推測するところではきっと、想像できるかぎりもっとも苛酷な圧政になっているはずだ。多数決の法則は、残酷な強者が充分な自由を得て、その仲間を弾圧するってことになるんだ。だがぼくにはわからん。きみの意見は?」 「コンピューターのいうところは……」 「コンピューターのことなど気にするな。アイラ、人間の頭脳が作ることのできるもっとも洗練された機械といえども、それ自身人間の頭脳の限界を持つんだ。考えかたの異なる人間に熱力学の第二法則は理解できないはずだ。ぼくはきみの意見を聞きたいんだ」 「意見を申しあげることはできません。データが充分にありませんから……」 「たわけたことを! きみは老いぼれかけているんだな、坊や。どこへ行くためにも、いや長生きするためにさえ、人は推測しなければいけないんだ。正しい推測を、何度も何度も、論理的な解答を得るための充分なデータなしにだ。きみは、どうやってぼくを見つけたかの話をしていたんだぞ」 「そうでした……その文書は、あなたの遺言であり、あなたがすぐに死ぬつもりでおられることを明らかにしました。それで」──ウエザラルは言葉を切ると、皮肉っぼく微笑した──「わたしは、充分なデータなしに正確な推測をおこなわなければいけませんでした。あなたが服を買われた店を見つけるのに二日かかりました。外見上の社会的地位を下げるために……そしてこの惑星のスタイルにあわせるため、と思います。わたしの考えでは、その直後に偽の身分証明書を買われたのだと思いますが」  かれは口を閉じた。ラザルスが何もいわないでいると、ウエザラルは言葉をつづけた。 「つぎの半日で、あなたが外見をもっとみすぼらしくされた店を見つけました。最下級へ……やりすぎといっていいでしょう。というのは、店の主人があなたをおぼえていたからです。あなたが現金を支払われたことと、そのとき着ておられた服にくらべ、新品だったときでさえ劣るほどの古着を買われたことと、両方の理由によってです。ああ、その男は、仮装パーティーなんだというあなたの作り話を信用するふりをして、口をつぐんでいました。あの店は盗品故買屋でしてね」  ラガルスはうなずいた。 「いうまでもないさ。ぼくはあいつから買う前に、いかがわしい人間であることを、ちゃんとたしかめたんだ。だがきみは、やつが口をつぐんでいた迪いったな?」 「われわれが記憶を刺激してやるまではです。盗品故買所というのもあれでなかなかたいへんですよ、ラザルス。いつでも同じ住所にいなければいけないのですからね。となると、やつもときには正直にせざるを得なくなるわけです」 「いや、ぼくはあのおやじを責めたわけじゃないんだ。あやまちはぼくにある。自分を目立たせてしまったんだからな。ぼくは疲れていたんだ、アイラ。そして、老けこんでしまったように感じ、あわてて馬鹿な仕事をしてしまったんだ。百年前なら、ぼくはもっとましな仕事をしていたはずだ……つねに肝に銘じていたんだ、見せかけの地位を下げることは、上げることよりむずかしい、とね」 「あなたがその仕事を、まるで芸術ででもあるかのように恥じられる必要はないと思いますが、最長老。あなたはほぼ三カ月のあいだ、われわれを出し抜かれたのです」 「坊や、最善の努力ってやつも、成功しなければなんにもならないんだよ。それから?」 「つぎは人海戦術でした、ラザルス。あの店はこの市でもっとも悪い地域にあります。われわれはその一帯に非常線をはり、虱つぶしに捜索しました。何千人という人間を調べたのです。しかし長くはかかりませんでした。あなたは三番目に捜索した安宿におられた。わたしがあなたを見つけたのです、捜索隊のひとつにいましてね。それからあなたの遺伝子パターンで身許がはっきりしました」アイラ・ウエザラルはかすかに微笑した。「ですが、遺伝子分析装置があなたの身許を報告する前に、われわれはあなたの体に新しい血液を注入していたのです。あなたはひどい状態でしたからね」 「ぼくは、地獄そのもののひどい状態にいたんだ。完全に死にかけて……自分の仕事に精を出していた。その点、きみと同じだったわけだ。アイラ、きみはぼくに、どれほど卑劣な仕打ちをしたかわかっているのか? 人間は二度死ななければいけないような羽目におちいってはいけないんだ……そしてぼくは、ひどい状態を通りすぎ、眠りに落ちるのと同じくらい楽々とフィナーレを迎えようとしていた。そこへきみがでしゃばってきた。ぼくはこれまで一度だって、だれかに若返りが強制されたなんて話を聞いたことがないぞ。きみが規則を変えたことがわかっていれば、絶対この惑星には近づかなかったはずだ。こうなると、またやりなおさなければな。自殺スイッチを使うか……ぼくはつねに自殺を軽蔑していたんだが……それとも自然死を待つかだ。これではずっと時間がかかりそうだが。ぼくの古い血はまだあるのか? 貯蔵してあるのか?」 「院長に尋ねてみましょう」 「ふん、それでは答になっておらん。いいから、わざわざ嘘をつくな。きみはぼくをジレンマに追いこんだんだぞ、アイラ。完全な治療を受けていないとしても、ぼくはここ四十年間よりずっと気分がいいんだ……ということはつまり、もう一度うんざりするほどの年月を待たなければならんということだ……でなければ、体のほうがまだ席を移すべきときだ≠ニもいっていないうちに、例のスイッチを使うかだ。きみはおせっかいの悪党だ。いったいどういう権利で……いや、きみにはそれだけの力があるんだったな。どういう倫理的基準から、ぼくの死を邪魔したんだ?」 「われわれがあなたを必要としているからです」 「それは倫理的理由とはいえんぞ。たんなる実利的理由だ。その必要は、きみたちの一方的なものだ」 「最長老、わたしは記録の許すかぎりあなたの生涯をくわしく研究しました。わたしには、あなたこそしばしば実利的に行動されたと思われますが」  ラザルスはにやりとした。 「そうとも! ぼくは考えていたんだ、きみが図々しくも、それを何か高度の道徳基準にねじ曲げるんじゃないかとね。牧師野郎みたいにだ。ぼくは、ポケットから財布をくすねながら倫理の話をするようなやつは信用しない。だがもしそいつが自分自身の利己心にしたがって行動し、はっきりそうだというなら、ぼくはこれまでたいてい、そいつとなんらかの方法で取引きすることができてきたよ」 「ラザルス、われわれにあなたの若返りを最後までやらせてくだされば、あなたはもう一度生きたいと思われるでしょう。あなたもそれはご存じだと思います。前にもそれを経験されたはずですね」 「なんのためにだ? あらゆることを試みて、二千年以上すごしたあげくだぞ。あまり多くの惑星を見たため、頭の中でそれが全部ぼやけてしまっているときにか? あまりおおぜい女房を持ちすぎて、その名前を思い出せないでいるときにだぞ……われわれに生を与えし星へいま一度、最後の着陸を願う……ぼくにはそれさえできないんだ。ぼくが生まれたうるわしき緑の惑星は、ぼく以上に年老いてしまった。そこにもどることは悲しみでこそあれ、幸福な帰郷ではない。だめだよ、坊や、どれだけ若返りを受けようと、合理的な行動はただひとつ、明かりを消して眠りにおちることだというときがやってくるんだ……そしてきみは、畜生め、それをぼくから奪ったんだ」 「申しわけありません……いや、申しわけないとは思いませんが。しかし、あなたのお許しを願います」 「まあ……許してやるかもしれん。だがいまはだめだ。きみたちがぼくを必要とするという、そのさしせまった理由は何なんだ? 追放処分にした流刑囚どものほかにも、何か問題があるといったな」 「はい。しかしそれは、あなたがご自分の好きな方法で死なれることの権利を妨げるものとはなりません。わたしはいずれにしろ、それを処理できます。わたしは、セカンダスが人口過剰であり、そして文明化されすぎてきつつあると思うのです……」 「それは確かだ、アイラ」 「それでわたしは、ファミリーはふたたび移動すべきだと思うのです」 「関心はないが、それには賛成だ。重要な法則として、いつでも惑星上に人口百万以上の都市が発達しはじめたら、それは臨界量に接近しつつあるといえる。一世紀か二世紀でそれは居住に適さなくなるんだ。心あたりの惑星はあるのか? 評議会を説得できると思うか? それにファミリーの連中は評議会のいうとおりにするだろうか?」 「第一の質問に対してはイエスです。第二の質問に対しても、たぶんイエス。第三の質問にはおそらくノーです。わたしはその惑星をいちおう第三世界《ターシャス》と名づけましたが、セカンダスと同じくらい、いやそれ以上にいい惑星です。わたしは評議会の多数が、わたしの述べる理由に同意してくれると思いますが、しかしそうした移住が必要とする圧倒的な支持を得られるかどうかは確信がありません……セカンダスがあまりに快適なため、その危険は大多数の人々にとって切迫したものとは受け取れないのです。ファミリー自体については……かれらの大部分を故郷から移動するよう説得できるとは思いません……しかし、わずか数十万の人間でも充分なのです。ギデオンの楽隊です(聖書、士師記七章)……わたしのいうことはおわかりでしょうか?」 「もっと先までわかっているさ。移住はつねに選別と改良をともなう。その基本的なものをな。もしも連中がそれをやればだが。もしも、だぞ。アイラ、二十三世紀の大昔にここへ移ってくるとき、ぼくはその考えをファミリーに売りこむのにずいぶん手を焼いたものだ。地球が地獄みたいになっていなければ、売りこむのはとても無理だったろう。幸運……きみにはそれが必要になる」 「ラザルス、わたしは成功するとは思っていません。努力はします。ですがもし失敗すれば、わたしはとにかく退職して移住します。もし生存可能な植民地を作るにたる規模の一隊を編成することができれば、ターシャスへ行きます。それができないときには、どこか植民されてはいてもごく人口の稀薄な惑星へ行きます」 「それは本心なのか、アイラ? それともいざそのときになって、頑張ることが本当に自分の義務なんだと自分に思いこませるつもりか? もし人に権力欲があれば……そしてきみにはあるんだぞ。さもなければ、いまの地位にはいなかったろうからな……そいつは、その地位から身を引くことの難しさを思い知るんだ」 「わたしは本気です、ラザルス。いかにも、わたしは采配をふるうのが好きです。それは自分でも承知しています。わたしはファミリーの三度目の脱出を率いたいと思っています。ですが、期待はしていません。とはいえ、わたしは生きのびる力を待った植民地を組織できる可能性について考えているのです……若者ばかりで、百歳を越えないもの。せいぜい二百人までです……財団の援助は受けません。そうすれば、かなりうまくいくはずです。しかしもしそれにも失敗すれば」──かれは肩をすくめた──「移民が、わたしに開かれた唯一の生きがいのある道でしょうね。セカンダスが与えてくれるものは、もう何もありますまい」  ウエザラルはさらにつけ加えた。 「きっとわたしも、あなたと同じように感じているのでしょう。それほど激しくはないにしろです。わたしは一生臨時議長でいたいとは思いません。すでにほぼ一世紀のあいだこの地位にいたのです。それで充分です。これをなしとげられないならばね」  ラザルスはじっと考えこんだ様子で沈黙していた。ウエザラルは待った。 「アイラ、例の自殺スイッチをぼくに取りつけてくれ。だが、明日だ。今日はいらない」 「承知しました」  ラザルスは大きな封筒を取りあげた。かれの遺書だ。 「理由を知りたくないか? きみが移民するつもりでいることをぼくに信じさせるつもりなら、万難を排してやることだ。評議会のことは気にするな……ぼくはこれを書きなおしたい。ぼくの投下資本と現金勘定があちこちにある……ほったらかしにしておいたあいだに、だれかが盗んでいなければだが……かなりの額になっているはずだ。たぶん、移民をおこなうにあたって成否の鍵をにぎるぐらいだろう。もし評議会が財団の基金を使って後援してくれない場合にはな。そして、連中がそんなことをするはずはないんだ」  ウエザラルは何もいわなかった。ラザルスはかれをにらみつけた。 「きみはおふくろさんから、ありがとうという言葉を教えられなかったのか?」 「何に対してです、ラザルス? あなたが死んでしまって、もう必要がなくなったものをわたしにくださることに対してですか? そうなされば、あなたの虚栄心はくすぐられるでしょうが……わたしはうれしくありませんね」  ラザルスはにやりとした。 「いまいましいが、そのとおりだ。ぼくは、きみがその惑星をラザルスと名づけることを条件にするべぎだな。しかし、それを強制する方法はないだろう。オーケイ、ぼくらはたがいに理解しあったわけだ。それで思うんだが……きみはよくできた機械を尊敬するか?」 「え? はい。設計された本来の目的をはたさない機械を軽蔑するのと同じくらいに」 「ぼくらはいぜんとして理解しあっているようだ。ぼくは〈ドーラ〉をのこそうと思う……ぼくのヨットだ……ファミリーの議長というより、きみ個人におくろう……もしきみが移民団を率いるならな」 「ああ……ありがとうと、いわせるおつもりですね」 「やめろ。ただあの子にはよくしてやってくれ。あの子は愛すべき船だし、親切にあつかわれたことしかないんだ。きみのためのすばらしい旗艦となるだろう。簡単な改装をほどこせば……あの子のコンピューターに、そのための設計明細書が入っているから……二十人や三十人のスタッフは収容できるだろう。そしてきみは、あの子に乗ったまま着陸し、調査し、そしてふたたび離陸できる……きみらの輸送船では、できんことだろうな、まず」 「ラザルス……わたしはあなたから、金もヨットも相続したくありませんね。あなたの若返り処置を最後までやらせてください……そして、われわれとともに来るのです。わたしはわきに退いて、あなたが采配をふるえるのです。それとも、あなたにはなんの義務もないということにしてもかまいません。しかし、来てください!」  ラザルスはわびしげな微笑を浮かべて首をふった。 「ぼくはそういう処女惑星への植民大冒険に、六回も参加しているんだ。セカンダスは勘定に入れずにだよ。すべてぼくが発見した惑星だった。もう何世紀も前に、そういうことはやめたのさ。どんなことでも、時がたつうちに退屈してしまうものだからな。ソロモンは何千人もの妻の全員と寝たと思うか? そうだとしたら、かれは最後の妻にどれだけのことをしてやったろうな……気の毒な女だよ! ぼくに、何か新しくすることを探がしてくれ。そうすればぼくは、決して自殺スイッチに手をふれないし、それでもやはりきみに、ぼくの所有しているものをやることになるかもしれんぞ。きみの植民地のためにな。公平な交換じゃないかね……なぜって、この中途半端な若返りは気分の悪いことこのうえなしだからだ。ぼくは気分がよくないのに、それでも死ぬことができないときている。自殺スイッチと、降参して完全な処置を受けることとのあいだで、立往生というわけだ……干草《ほしくさ》の山のあいだで飢え死にした驢馬《ろば》と同じさ。しかしそいつは新しいものでなければだめだぞ、アイラ。ぼくがこれまで、さんざんくりかえしてきたことではいけないんだ。年をとった売春婦みたいに、ぼくは同じ階段をあまり何回も上がりすぎて足を痛めてしまったんだ」 「さっそくその問題について考えてみます、ラザルス。全力をあげて組織的な研究をおこないますよ」 「七対二で賭けてもいい。きみは、ぼくがやったことのないようなものは、何ひとつ発見できないね」 「わたしは本気で努力してみます。わたしが研究にかかっているあいだ、あなたは自殺スイッチをしまっておいてくださいますね?」 「約束はできないな。この遺言を書きなおしてしまえば、だめだ。きみの主任弁護士は信用できるか? いくらか手伝ってもらわなければなるまい……なぜならこの遺言だが」──かれは封筒を軽くたたいた──「これにいくら不備な点があっても、ファミリーに全財産をのこすことはセカンダスでは有効になるだろう。だが特定の一個人にのこすとなると……きみのことだぞ……ぼくの子孫の何人かが……おそろしくおおぜいだろうな……不当な干渉だとさけんで、それを無効にしようとするだろう。アイラ、そいつらはそれが弁護費用にすこしずつ消えていってすっからかんになってしまうまで、裁判所に凍結しつづけるにちがいない。そんな事態は避けようじゃないか。どうだね?」 「避けられますよ。わたしは規則を変えてしまったのです。この惑星ではだれでも、死の前に自分の遺言を検認させることができます。そしてもしも不備な点があれば、裁判所はかれがそれを手直しして本人の目的を達するように助けることを、義務づけられています。もしかれがそうしてしまえば、どの裁判所によっても異議は認められません。遺書は、かれの死とともに自動的に効力を発揮します。かれが遺言を変える場合には、当然新しい遺言を作るにも同一の手順を経なければなりません……ですから、意志を変えるのは高くつくことになります。しかし生存中の検認という制度を利用することで、どれほど複雑な遺言にも弁護士は必要なくなったのです。そして弁護士は、そのあとでは遺言に手をふれられないのです」  ラザルスの目は喜びに大きく見開かれた。 「何人かの弁護士を困らせることになったんじゃないのか?」  アイラはあっさりと答えた。 「ずいぶんおおぜいを困らせましだよ。おかげでフェリシティへの輸送船には、どれも移民志願者が殺到しました……それにずいぶん多くの弁護士がわたしを困らせたので、何人かは強制的に移民させました」  臨時議長は意地の悪い、おもしろがっているような表情になって言葉をつづけた。 「一度わたしは、部下の主任判事にいってやりましたよ……ウォレン、これまでぼくは、きみの判決を何度も何度も取り消さなければならなかった。きみは些《さ》細《さい》なことをとやかくあげつらい、法律をまちがって解釈し、衡平法を無視してきた。きみが仕事について以来ずっとだ。家へ帰りたまえ。きみは、〈|最後の機会《ラスト・チャンス》〉が離陸するまで自宅監禁だ。身のまわりの整理をすませられるよう、昼のあいだは護衛をつける……と」  ラザルスは、くっくっと笑った。 「そいつは首吊りにすべきだったな。そいつのしたことは知っているんだろう? フェリシティでもう一度開業し、政界に入っているだろうよ。リンチされていなければだが」 「あの男と連中の問題であって、わたしのではありません。ラザルス、わたしは決して、愚かであるという理由から人を死刑にしたりはしません……でも、そいつがあまりうるさければ追放するのです。遺言を新しくされたいのでしたら、まったく苦労される必要はありません。ただ、あなたが適切と思われる推敲や説明を加えて口述してくださるだけで結構です。そうしていただければ、われわれがそれを意味分折機にかけて完璧な法律用語に書きなおします。あなたがそれに満足されたら、最高裁に付託できます……お望みなら法廷のほうで、こちらへやってくるでしょう……そして法廷はそれを正当と認めます。それがすめば、あなたの新しい遺言は、つぎの臨時議長の専断的行為によってしか、くつがえされません。まずそんなことはおこらないと思いますがね。評議会はそうした人間を地位につけないでしょうから」  ウエザラルはつけ加えていった。 「ですがわたしは、あなたが時間を充分にかけられることを希望します。ラザルス、わたしは何か新しいもの、何かあなたの興味を人生へと取りもどすものを見つけるのに、充分な機会がほしいのです」 「わかった。だが、ごまかしたりしてはいけないぞ。ぼくは、シェーラザード式のぺてんなどで、はぐらかされたりしないからな。ぼくのところへレコーダーを持ってこさせろ……そう、明日の朝だ」  ウエザラルは何かいいかけて口をつぐんだ。ラザルスはかれに鋭い目をむけた。 「この会話は記録されているのか?」 「はい、ラザルス。音声・立体映像によって、この続き部屋でおこることはすべて。申しわけありません……しかし、それはわたしのデスクにしか行きませんし、わたしが調べてオーケイを出すまで、永久的な記録にはなりません。つまり、これまでのところは何も記録されていないことになります」  ラザルスは肩をすくめた。 「忘れてくれ……アイラ、身分証明書が必要になるほど人口の増加した社会では、どのようなプライヴァシーも存在しないということを、ぼくは何世紀も前に学んだんだ。プライヴァシーを保証する法律は、たんに盗聴装置が……マイクやレンズやそんなものが……それだけ見つけにくくなるようにするだけのものさ。ぼくはいまのいままで、そのことを考えつかなかった。自分のプライヴァシーが、そういう土地を訪れるとかならず侵されることは当然だとしていたからだ……だからぼくは、その土地の法律が好まないことに何かぶつかりでもしないかぎり、無視しているんだ。そうなった場合は、ごまかし戦術を使うのさ」 「ラザルス、ここの記録は消してしまえます。目的はただひとつ、最長老が適切な世話を受けていることをわたしの目で確かめることで……わたしが決して怠るつもりのない責任です」 「ぼくは、忘れろ、といったんだ。だが、きみの無邪気さには驚いたな。きみのような地位にいる人間が、その記録を自分のデスクにしか行かないと考えているとはね。どんな条件でもいいぞ、きみの好きな額で賭けようじゃないか。そいつは、一、二、いや三カ所以上、別の場所へ行っているな」 「もしそうなら、ラザルス、わたしはそれを発見できますし、フェリシティにまた何人か新しい植民者が行くことになります……まず何時間か、闘技場《コロセウム》で不愉快な時間をすごしてからですが」 「アイラ、そんなことはどうでもいいんだ。どこかの馬鹿が、死にそこないの年寄りが、便所でぶりぶり音をたてたり風呂に入っているところを見たいというのなら、それはそれでいっこうにかまわん。きみは自分もそういう目に会うことを確実にしたんだ。記録を秘密にして、きみの目に入るだけにすることでさ。公安関係の人間はいつでも、自分のボスをスパイするもんだ。そうせざるを得ないのさ。それは、その仕事につきものの症状なんだからな。食事はすんだのか? 時間があるのなら、ここにいてくれるとうれしいんだが」 「最長老と食事をさせていただくのは、この上もない名誉です」 「おい、やめてくれんか、小僧。年をとっていることには、なんの美徳もありゃあしない。ただ、そうなるのに時間がかかったというだけだ。きみにここにいてほしいと思うのは、人間を相手にしているのが楽しいからさ。あそこにいるふたりは話し相手にならん。あいつらが人間かどうかも怪しいくらいだ。ロボットにちがいないな。なんであんな潜水服とぴかぴかしたヘルメットで身をかためているんだ? ぼくは人間の顔が見たいんだがね」 「ラザルス、あれは隔離服として完全なものです。あなたの保護のためで、かれらのためではありません。感染に対する用意です」 「なんだと? アイラ、ぼくを刺した虫は死ぬんだ。虫がぼくを刺せば、虫のほうが死ぬんだぞ。たとえきみのいうとおりだとしても、あいつらがそれを着なければならんのなら、きみが町着のままで入ってきたのはどういうわけなんだ?」 「そういうわけでもないのです、ラザルス。わたしの目的のためには、顔をあわせての打ちとけた話しあいが必要でした。そこで、ここに入ってくる前の二時間、わたしはもっとも精密な身体検査を受けていたのです。それにつづいて、頭のてっぺんから爪先までの殺菌消毒、皮膚、髪、耳、爪、歯、鼻、喉……それからなんというのか知りませんが、どうにもいただけないガス吸入までさせられ……同時に、服のほうにさらに徹底的な殺菌消毒をされました。あなたにお持ちしたその封筒もです。この続き部屋は、無菌状態に保たれています」 「アイラ、そんな用心は馬鹿げているよ。ぼくの免疫が、故意に弱められているのでなければだがね?」 「とんでもありません。いや、そうは思いません、といわせていただきましょうか? そんなことをする理由がないのです。なぜなら、どのような移植ももちろん、あなた自身のクローンからされるはずですからね」 「だから不必要だといったんだ。もしぼくがあの木賃宿で何にも感染していないなら、どうしていま感染する? だがぼくは絶対に感染しないよ。ぼくは、伝染病が流行しているあいだ医者として働いたことがある……驚いた顔をするな。医者はぼくが従事した五十いくつかの職業のうちのひとつにすぎん。オルマズドを未知の伝染病が襲ったんだ。ひとりのこらず感染し、二十八パーセントが死亡したが、ぼくは例外だった。ぼくは鼻をすすりさえしなかった。だから、あいつらにいうんだ……いや、きみは病院長をとおしてやりたいだろう。指揮系統を無視することは士気をくじくからな……しかし、なぜぼくがこの組織の士気に注意をくばらなければならんのかは、わからんがね。ぼくはむりやり客にされたんだ。院長にいってやれ、もしぼくに看護人をつけなければいかんのなら、ぼくはそいつらに看護人らしい格好をしてもらいたいんだ、とね。いや、それよりいいのは、人間らしい格好だ。アイラ、もしきみがぼぐにどのような形ででも協力してほしいなら、まずきみがぼくに協力することから始めるんだ。さもないと、ぼくは素手でこの病院をばらばらにしてしまうぞ」 「院長に話しますよ、ラザルス」 「結構。さて、食事をしようじゃないか。だがまず酒だ……そしてもし院長が、ぼくは酒を飲むべきでないと考えているなら、やつにはっきりいってやれ。やつはぼくに強制的に食事をとらせる状態にもどるほかなくなるし、こんどはだれの喉をチューブが下りるかわからなくなるぞ、とな。ぼくは、こづきまわされても我慢していられる気分じゃあないんだ。この星には本物のウイスキーがあるかね? この前ここに来たときにはなかったが」 「飲みたいからいうのではありませんが、この惑星でできるブランデーは上等の品だと思います」 「よし、ブランデーのソーダ割りだ。それができる最上のものならな。だれかこの言葉がわかるなら、ブランデー・マンハッタンだ」 「わたしはわかります。そして、好きです……あなたの生涯を研究したとき、古代の飲み物についても、いくらか勉強しました」 「結構。では、注文してくれ、飲み物と食事を……そしてぼくは耳をすまし、どれぐらい言葉を聞きわけられるかやってみよう。記憶がいくらかもどりかけていると思うんだ」  ウエザラルは技術者のひとりに話しかけた。ラザルスはそれをさえぎった。 「あまいヴェルモットは三分の一だ、二分の一じゃなくて」 「では? おわかりになりましたか?」 「ほとんどな。インド・ヨーロッパ語根に、簡単な構文に文法だ。思い出しはじめたぞ。くそう、ぼくのように多くの言葉をおぼえなければいけないと、忘れるのも速いんだ。だが思い出してきたぞ」  仕度はあまり早くできたので、最長老か臨時議長が何かを要求した場合にそなえ、それをなんでも作りだすための作業班が待機しているのではないかと思えるほどだった。  ウエザラルはグラスをあげた。 「長寿を祈って」 「いやなこった」ラザルスはうなるようにいうと、ひと口すすった。かれはしかめっ面をした。「こりゃあなんだ! 豹の汗だな。だがアルコールは入っているぞ」もうひと口すすった。「きみの舌がしびれたら、もうすこしましになるだろう。ようし、アイラ、きみはもう充分ごまかしつづけてきた。きみがぼくを当然の休息からむりやり引きもどした本当の理由はなんだったんだ?」 「ラザルス、われわれはあなたの知恵を必要としているのです」 [#改ページ] 前奏曲 2  ラザルスは恐怖の面持ちで相手を見つめた。 「いま、なんといった?」  アイラ・ウエザラルはくりかえした。 「われわれはあなたの知恵を必要としている、といいました。本当のことです」 「ぼくはまた、あの死にぎわの夢の中にもどったのかと思ったよ。坊や、きみは違う窓口に来たんだ。廊下のむこうで尋ねるといい」  ウエザラルは首をふった。 「いえいえ……もし、知恵という言葉がお気にさわるのでしたら、それを使う必要はありません。しかしわれわれは、あなたが知っておられることをどうしても学ぶ必要があるのです。あなたは、ファミリーで二番目に高齢な者の二倍以上の年月を生きてこられた。あなたは五十以上の職業についたといわれた。あなたはあらゆる世界へ行かれ、だれよりも多くのものを見てこられた。あなたは確かに、あなた以外のだれよりも多くを学ばれているのです。われわれの現在の行動は、二千年前、あなたが若かったころからたいして進歩していないのです。あなたなら、先祖の犯したあやまちを、われわれがなぜいまだにくりかえしているのかご存じのはずです。もしもあなたが、ご自分の学ばれたことをわれわれに教えることなく死を急がれたら、それはたいへんな損失というべきでしょう」  ラザルスは眉をよせ、唇を噛んだ。 「いいかね、ぼくがわずかに学んだことのひとつに、人間は他人の経験からほとんど何も学びはしないということがある。かれらは学ぶ……そうしばしばではないが、学ぶときにはね……自分自身の経験からだ、苦しい想いをしなければわからんのだ」 「そのご意見は、永久に記録するに値しますね」 「ふん! だれひとりいまの言葉からは何も学びはせんよ。それがいっているのはまさにそのことなんだからな。アイラ、年齢は知恵をもたらしはしない。しばしばそれは、単純な愚かさを傲慢なうぬぼれへと変化させるだけだ。その唯一の長所は、ぼくが見ることのできたかぎりでは、変化を知ることだ。若者は世界を一枚の静止した絵として、不変のものとして見る。老人はたびたび変化にぶつかり、それがあまりにたび重なるので、世界が永久に変化しつづける映画であることを知るんだ。かれはそれを好まないかもしれない……おそらく好まんだろう。ぼくはいやだ……だがかれは世界がそうだということを知っており、それを知ることが、それに対応してゆく第一歩なんだ」 「あなたがいまいわれたことを、公開記録に入れてようしいでしょうか?」 「え? これは知恵じゃない。月並な文句だ。明らかな真実さ。どんな馬鹿者でもこれは認めるだろう。たとえこの考えに従って生きていなくてもだ」 「あなたの名がつけば、もっと大きな影響力を持つはずです、最長老」 「好きなようにしろ。これはただの、平凡な常識だぞ。だが、ぼくが神の素顔をはっきり見たとでも思っているなら、考えなおすんだな。ぼくは、宇宙がどのように動くかさえ、まだ見つけていないんだ。ましてやその目的など思いもよらん。この世界についての根本的な疑問を解決するためには、外側から見なければいけないだろう。内側にいては無理だ。いや、二千年ばかりではだめだし、二万年でもだめだ。人が死ぬとき、その人間はおのれの部分的でしかない世界観を解きはなち、すべてを一個の全体として見られるようになるのかもしれないな」 「するとあなたは、死後の生を信じておられるのですか?」 「あわてるんじゃない! ぼくは何物も|信じて《ヽヽヽ》なぞいないさ。多少知っていることはある……小さなことをね。九十億の神の御名なんてものじゃない……経験から学んだんだ。しかしぼくは、何も信じてはいない。信じることは学習の邪魔になるんだ」 「それこそ、われわれが求めているものです、ラザルス。あなたが学ばれたことがです。たとえあなたが、それを小さなことでしかないといわれようとです。指摘させていただければ、あなたほど長く生きのびることに成功されたかたなら、だれであろうと、きっと多くの物事を学ばれているに違いないのです。さもなければ、それほど長生きできなかったはずですからね。大部分の人間は、ひどい死にかたをします。われわれが祖先よりはるかに長命であるという事実そのものが、この結果を不可避なものとしたのです。交通事故、殺人、野獣、スポーツ、操縦士のミス、ちょっとばかりすべりやすい泥……いつかは何かが、われわれに追いつくのです。あなたは安全な、平穏な生涯を送ってこられたわけではない……まったく正反対です! それでもあなたは、二十三世紀にもたってあらゆる危機を切りぬけつづけてこられた。どのようにして? 幸運だけではありますまい」 「なぜそうではいけないんだ? もっともおこりそうもないことが現実にはおこるんだよ、アイラ……赤ん坊ほど思いがけないものはないじゃないか。だが、ぼくがいつでも、足をおく場所に気をつけていたことは事実だ……そして、身をかわすことができるときには決して戦わない……そして、戦わなければいけないときには、どんな汚ない手も使った。どうしても戦わなければならないのなら、自分よりは相手に死んでほしかったからね。だからぼくは、そうなるように事を運ぶ努力をしたんだ。幸運じゃないさ。とにかく、たいしたものじゃあない」ラザルスは何か考えこんだ様子になり、目をしばたたかせた。「絶対に天気と、いい争いはしないね。あるとき、暴徒がぼくをリンチにしようとした。ぼくはそいつらを説得しようとはしなかった。できるだけ急いでそいつらとのあいだに距離を作り、二度とそこにもどらなかっただけだ」 「そんなことは、あなたのどの回想録にものっていませんね」 「ぼくの回想録には、ずいぶん技けているところがあるんだ。さあ、飯が来たぞ」  ドアがひろがり、すべりこんできた二人用の食卓は、自動的にすばやく分かれた椅子のあいだに入ってひろがり、食物を出しはじめた。技術者のふたりは静かに近づいてきて、必要もないのに人の手で給仕をはじめた。ウエザラルはいった。 「うまそうな匂いですね。あなたは何か食事儀礼をお持ちですか?」 「え? 食前の祈りとかそんなやつか? いや、べつにないが」 「そういうものではありません。たとえば……そう、わたしが役員と食事をするときには、食卓で仕事の話はさせません。ですがもしお許しいただければ、わたしはこの話をつづけたいのです」 「いいとも、いけないわけがあるかね? 胃にさわらない話題に専念しているかぎりはな。きみは坊主がオールド・ミスになんといったか聞いたことがあるか?」  ラザルスは、そばにいた技術者にさらりと視線を走らせて、そのあとをいった。 「いや、いまはやめておいたほうがいいな。この小さいほうはきっと女性で、英語がすこしわかると思うんだ。きみはなんの話をしていたんだっけ?」 「あなたの回想録が不完全なことを申しあげていたのです。たとえ、死ぬ決意をかためておられるにしろ、わたしやほかの子孫のために、回想録の残りの部分を与えることを考慮していただけないでしょうか? ただ話してくださればいいのです。あなたが見、してこられたことを話してください。それに精密に分析すれば、われわれに非常に多くのことを教えてくれるでしょう。たとえば、二〇一二年におけるファミリーの会議では、いったい何がおこったのでしょう? 議事録ではたいしたことはわかりません」 「いまさらだれが気にかけるんだ、アイラ? みんな死んじまってるんだぞ。かれらに反論の機会を与えることなしには、ぼくの意見となってしまうだろう。眠っている犬は、そのまま眠らせておけ、さ。そのうえ、ぼくの記憶がいいかげんなものだということはもう話したろう。ぼくはアンディ・リビイの催眠百科事典の技術を使ってきた……役に立つもんだよ……それに、毎日は必要でない記憶用に積層記憶術《ティア・ストレイジ》も学んだ。言葉を鍵として、必要なときにはひとつの層が滝のように流れ落ちるのだ。コンピューターみたいにな。そして、新しいデータを入れるために、不必要な記憶を何回か脳から洗い出させた……それでもまだ具合がよくないんだ。二回に一回は、前の晩に読んでいた本をどこにおいたか思い出せない。そして午前中いっぱいそれを探がすことに費して……やっと、その本は一世紀前に読んでいたんだと思い出すわけさ。どうしてきみは、老人を平和なままにしておいてくれんのだ?」 「あなたはただ、黙れとおっしゃればいいのです。しかし、そうなさらないよう望みますが。かりに記憶が不完全だろうと、それでもやはりあなたは、ほかのだれもが若すぎて見られなかった何千という出来事の目撃者なのです。ああ、わたしは、全生涯の公式な自伝をすらすら話してほしいとお願いしているわけではありません。しかし、話したいと思われることをなんでも、想い出話として聞かせてくださればいいのです。たとえば、あなたの幼少年期についてはどこにも記録がありませんね。わたしは……そして、ほかの何百万人も……少年時代についてあなたがおぼえておられることには、なんであろうと非常に興味をそそられるはずです」 「何か、おぼえているべきことがあるかね? ぼくはみんなと同じ少年時代をすごした……自分がもくろんでいることを大人に見つけられないよう一生懸命でね」  ラザルスは口をぬぐい、考えこんだ表情になった。 「まあ概してぼくは成功してきた。たまにとっつかまってこっぴどくぶんなぐられたりすれば、つぎにはもっと注意ぶかくという教訓になった……もっと口を閉じて、嘘を複雑にしすぎないこと、とね。嘘をつくことは芸術のひとつだよ、アイラ、そしていまでは、すたれかけているようだ」 「本当に? 減っているなどとは気づきませんでしたが」 「ぼくは芸術としてのそれをいってるんだ。相変わらず下手な嘘つきはおおぜいいる。およそ、口の数だけいるといっていい。嘘のつきかたでもっとも芸術的なふたつを知っているかい?」 「たぶん知らないと思いますが、でもお聞きしたいですね。ふたつだけですか?」 「ぼくの知っているかぎりはね。真面目な人間を相手に嘘がつけても充分とはいえん。フラッシュのできそこないで賭け金をせりあげるだけの図々しさがある人間ならだれでも、そんなことはできる。芸術的に嘘をつく第一の方法は、真実を語ることだ……だが全部をではない。第二の方法も、やはり真実を話すことが含まれるが、もっとむずかしい。ありのままの真実を話す。まず全部をね……しかし、まるで信じられないようなしゃべりかたをするので、話を聞いている相手は、きみが嘘をついていると信じこんでしまうんだ。  ぼくがその技術を身につけたのは、十二か十三になってからのはずだ。母かたの祖父から教えられたのさ。ぼくはまるでかれと瓜ふたつなんだ。かれは、醜い老いぼれ悪党というところだった。教会に足をふみ入れたことなど一度もなかったし、医者にかかったこともない……医者も牧師も知ったかぶりをしているだけで実は何も知らないんだといいはっていたよ。八十五歳のとき木の実を自分の歯で噛みくだくことができたし、七十ポンドの鉄床《かなとこ》のとがったほうの端を握ってまっすぐ持ちあげることができた。ぼくはほぼそのころ家を離れて、二度とかれに会うことはなかった。だがファミリーの記録によれば、かれはロンドン爆撃の最中にブリテンの戦闘(一九四〇年秋、英国空軍がドイツ空軍を英国上空に迎えうった一連の戦闘)で死んだそうだ。何年か後にね」 「知っています。かれはまた当然、わたしの祖先でもありますからね。わたしはかれ、アイラ・ジョンソ|ン《*》にちなんで名づけられたのです」 [#ここから4字下げ]  *(1)アイラ・ジョンソンは、最長老が家を離れたと主張する(他の個所で)ときには八十歳に達していなかった。アイラ・ジョンソン自身は医学博士だった。どれだけの期間かれが開業していたのか、そして他の医学博士に自分の世話をさせたかさせなかったかは、知られていない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世 [#ここから4字下げ]  (2)アイラ・ハワード──アイラ・ジョンソン──これは、聖書にあらわれる人名が一般的であった時代における、洗礼名の偶然の一致と思われる。ファミリーの系図学者は、いかなる血族関係をたどることにも成功していない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世 「そうか、そういえばそうだな。それがかれの名前だった。ぼくはただおじいちゃん≠ニ呼んでいたんだが」 「ラザルス、これこそわたしがどうしても記録にとりたいことなんです。アイラ・ジョンソンは、あなたの祖父にしてわたしの遠い祖父であるというだけでなく、同時にまたこの世界や他の世界の何百万というおおぜいの人間の先祖なのです……それなのに、あなたがたったいま話されたわずかな言葉をのぞけば、かれはたんなる名前であり、誕生と死亡の日付以上のものではありませんでした。あなたはとつぜんかれをよみがえらせたのです……ひとりの男、特別なひとりの男を。実にカラフルに」  ラザルスは想いにふけっている様子だった。 「ぼくは、かれのことをカラフルだと思ったことは一度もない。実際の話が、おもしろくもない頭のいかれた爺さんだった……あの時代の基準に照らしたら、育ちざがりの少年に対していい影響を与える人物≠ニはとてもいえなかった。そう、ぼくの一家が住んでいた町で、若い女教師とかれについての噂がひろまった。何かスキャンダルがあったんだ……つまり、あのころでいうスキャンダルさ……それがぼくたちの引越した理由だったと思う。大人たちがぼくの前ではその話をしないようにしていたから、ぼくは本当のことをついに知らずじまいだった。  だがぼくは、かれから実に多くのことを学んだよ。かれには、ぼくの両親よりもぼくと話しあう時間があったんだ……いや、わざとそうしたのかもしれない。そのいくつかは子供心に深く残った。「いつもカードを切るんじゃ、ウッディー」かれはいったものさ。「おまえはいずれにしても負けるかもしれん……だがそれほど何回も負けることはないし、それほど大金を負けることもない。そして負けたときには、にっこりと笑え」と、そんな調子だったよ」 「かれの話したことを、もっと思い出せますか?」 「え? これだけ年月のたったあとでか? もちろんだめさ。すこしはおぼえているかもしれない。かれは銃の射ちかたを教えるため、ぼくを町の向に連れ出した。ぼくはたぶん十歳で、かれは……いや、わからない。かれはいつだって、神さまよりも九十歳は年をとっているように見え|た《*》。 [#ここから4字下げ]  *ラザルス・ロングが十歳のとき、アイラ・ジョンソンは七十歳だった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  かれは標的をとめると、中央の黒点に一発命中させてそれが可能なことを見せてから、ぼくにライフルを手渡した……小さな二二口径の単発銃で、標的や空罐を的にする以外はたいして役に立たないやつだ……「さあいいぞ、弾丸は入っとる。わしのしたとおりにしろ。しっかり狙って、体の力をぬき、引金をしぼるんじゃ」ぼくはそうした。そしてぼくが聞いたものといえば、カチッという音だけさ……発射しなかったんだ。  ぼくはそういって、薬室をあげにかかった。かれはぼくの手をぴしりとたたくと、もう一方の手でライフルを取りあげ……そしてぼくを思いきりなぐりつけた。「わしは遅発についてなんといった、ウッディー? 残りの一生を片目で歩きまわりたくてたまらんちゅうわけか? それとも、ただ自殺しようとしているだけか? もしあとのほうなら、もっといい方法をいくらでも教えてやるぞ」  それからかれはいった。「さあ、ここへ来てよく見ろ」……そして薬室をあけた。からだった。そこでぼくはいった。「でも、おじいちゃん、弾丸が入ってるっていったじゃないか」そのとおりなんだ、アイラ、ぼくはかれが弾丸をこめたのを見たんだ……見たと思ったんだ。  かれはうなずいたよ。「いかにもわしゃあそういった、ウッディー。そしておまえをだましたんじゃよ。わしは動作はちゃんと見せたが、弾丸は掌に隠したんじゃ。さあ、弾丸をこめた銃について、わしはおまえになんといった? よく考えて、はっきり答えろよ……さもないとわしはいやでもおまえをもう一度なぐってその頭をゆさぶり、そいつがもっとうまく働くようにしなければならんからな」  ぼくは急いで頭を働かせ、正しく答えたんだ。おじいちゃんはごっつい手を持っていたからね。「銃に弾丸がこめてあるかどうかは、決して人の言葉を信用しちゃあいけない」  かれはうなずいた。「よろしい。一生忘れちゃいかんぞ……そして、それに従うんじゃ! さもないと長生きはでき|ん《*》」 [#ここから4字下げ]  *この逸話は、ここで詳細に論じるにはあまりに難解である。ハワード百科事典の古代の武器、化学爆発による小火器の項を参照されたい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  アイラ、ぼくはそれを一生忘れなかった……加うるに、そうした小火器が時代遅れになってからの、それと等しい状況への応用もだ……それは実際、何回となくぼくの命を救ってくれたんだ。  それからかれはぼくに自分で弾丸をこめさせた。「ウッディー、おまえと五十セント賭けようじゃないか……五十セント持っとるかね?」ぼくはそれよりずっとたくさん持っていたが、前にもかれと賭けをしたことがあったので、二十五セントならあると答えた。するとかれはいった。 「オーケイ。二十五セントにしよう。わしは絶対、信用貸しで賭けはさせん。二十五セントで、おまえが的にあてられんほうに賭けるぞ。まん中の黒点なんざとてもとても」  それからかれはぼくの二十五セントをポケットにしまいこみ、ぼくのやりかたのどこがまずかったかを教えてくれた。かれが切りあげる準備ができるまでに、ぼくはどうしたら銃を自分の思いどおりにできるかの基本を身につけ、もう一度かれに賭けをさせたいと思った。かれはぼくのことを笑って、授業がこんなに安上がりだったことをありがたく思えといった。すまんが、塩をくれないか」  ウエザラルはそうした。 「ラザルス、もしわたしがあなたをなんとか誘惑して、おじいさんについての想い出話をしていただければ……いや何についての話でも……われわれがそうした記録から、あなたの学ばれた無数のことを引き出せるのは間違いないと思います。非常に重要な事柄をです。この十分間で、あなたは半ダースにおよぶ生存のための基本的真実を、いや規則を……それをなんと呼ぼうとあなたのご自由ですが……明らかに楽々と述べられました」 「たとえば?」 「ああ、たとえばですね、たいていの人間は自分の経験からしか学ばないとか……」 「訂正だ。たいていの人間は、経験からでも学ぼうとしない、だ。アイラ、人間の愚かさの力を絶対にみくびってはいけないぞ」 「まだあります。それからあなたは、嘘をつくという芸術についてふたつの論評をされました……実際は三つですね。というのは、あなたは嘘が複雑すぎてはいけないともいわれましたから。それにまた、信じることは学習を妨げるとも、状況を知ることはそれを処理することの本質的な第一歩だともいわれました」 「ぼくはそんなことはいわなかった……いえていたらと思うがね」 「わたしは、あなたの言葉を一般的なものにしたまでです。それからあなたは、天気とは絶対いい争わないともいわれましたが……これは、一般化するとこうなると思います。希望的観測にふけるなかれ≠るいは事実を直視し、それに応じて行動せよ≠ニ。しかし、あなたの言葉のほうがいいですね、より味わいがあります。さらに、カードをいつも切れ≠ナす。わたしはだいぶ長いことカードをしていませんが、つぎのような意味に受け取られます……偶然の出来事に左右される状況では、自分の機会を最高にするために利用できる手段は、すべてこれを利用しなければならない……と」 「ふーん。じいさんならこういったろうな……愚にもつかん話はやめるんじゃ、坊主……とね」 「では。かれの言葉にもどりましょう。いつもカードを切るんじゃ……そして負けたときには笑え、ですね。本当にそれがあなたのいいまわしでなく、かれの語ったとおりだとすればですが」 「そうとも、正真正銘かれの言葉さ。とにかく、ぼくはそう思うんだ。いまいましいことだがね、アイラ、長い年月がたったあとでは、本当の記憶と、本当の記憶の記憶の記憶の記憶とを区別するのは、そりゃあたいへんなんだ。きみが過去のことを考えたときにおこることだよ。きみはそれを編集し、整理しなおし、より我慢できるものにする……」 「それもまた別の名文句です!」 「黙れ、坊や。ぼくは昔の想い出話などしたくないんだ。年老いたという確実な証拠だからな。赤ん坊や幼児は現在に生きている。|いま《ヽヽ》にだ。成人した大人は、とかく未来に住みがちだ。老人のみが過去に生きる……そしてこれこそ、ぼくにもう充分長生きしたことを知らせてくれる徴候なんだ。自分が過去について考える時間がどんどんふえていることに気づいたとき……現在について考える時間は減っていく……そして未来のことなど、まるで考えなくなっているんだ」  老人は溜息をついた。 「だからぼくは、もう充分長生きしたことがわかったんだ。長生きする方法は……ああ、千年かそこらだな……子供の生きかたと大人の生きかたの中間ほどの何かなんだ。未来について充分考えてそれに備え、しかし心配はしないことだ。毎日を、次の日の出には死ぬことになっているかのようにして暮らす。そして毎日の日の出を新たな創造として迎え、楽しみに、喜びにみちて生きる。過去のことは決して考えない。後悔もしない」  ラザルス・ロングは悲しげな表情になったが、それからとつぜん微笑してくりかえした。 「後悔もしない、さ。もう一杯どうだね、アイラ?」 「グラスに半分ほどいただきましょう。ラザルス、もしもあなたがいますぐ死ぬ決心をしておられるのなら……あなたの権利であることはいうまでもありませんが……いまここで過去を思い出すことに、なんの害がありましょう……そして、そうした回想をあなたの子孫のため記録することに? 財産を残してくださるよりも、はるかに大きな遺産となるはずです」  ラザルスの眉がぐいとはねあがった。 「坊や、きみのおしゃべりには、そろそろうんざりしてきたぞ」 「申しわけありません、陛下。失礼してよろしいでしょうか?」 「いいから、黙って坐ってろ。食事をすませたまえ。きみを見ていると思い出すよ……そう、ノヴァ・ブラジルにひとりの男がいたんだ。そいつはつねに重婚していなければいけないという地元の習慣にしたがっていたんだが、いつでもかならず、妻君のひとりは完全に家庭的な女で、もうひとりは目がさめるほどの美人ということにきめていた。なんのためかというと……アイラ、きみのそのなんとかいう仕掛けがぼくらの話を聞いているんだったな。そいつは鍵言葉《キー・ワード》で特定の文句を抜き出し、別々の覚え書きとして整理するようにできるか?」 「もちろんです、最長老」 「結構。こんな話をしても仕方がないかな、どうやって牧場主の……シルヴァだったか? そう、たしかシルヴァってのがやつの名前だった。ドム・ぺドロ・シルヴァだ……一度やつがふたりの美人の女房のあいだにはさまって立往生しちまったことに気づいたとき、どうやってそれを処理したかなんてことはね……ただ、これはおぼえておくべきだぞ、コンピューターが過ちを犯した場合、そいつは白痴《こけ》の一念で人間より強情に訂正をこばむってことをね。しかしぼくも時間をかけて頭をしぼれば、きみが期待する知恵の宝石≠ニやらを掘り出せるかもしれん。人造ダイヤだな、つまり。そうすればぼくらは、ドム・ペドロだのなんだのとつまらない話で機械に負担を与えなくてよくなるだろう。キー・ワードは?」 「知恵≠ナは?」 「石鹸で口を洗ってこい」 「いやです。あなたがいいだされたのですからね、最長老。常識《コモンセンス》≠ナは?」 「坊や、その言葉は自己矛盾だぞ。感覚《センス》は決して一般的《コモン》じゃあない。キー・ワードはノートブック≠セ……ぼくの頭にはそれしかない。自分が気づいた記録にするにたる重要なものを、手早くひかえるただのノートブックだ」 「結構です! いまここでプログラミングを改めましょうか?」 「この部屋からそれができるのか? きみの食事の邪魔をしたくないんだがね」 「ずいぶん融通のきく機械なんです、ラザルス。その全部を使ってわたしはこの惑星を支配しているのです……その機械を支配する程度の穏やかさでですが」 「それが本当としたら、きみがこの場に予備のプリントアウトを取りつけられるのは間違いないようだな。キー・ワードで引金をひけるやつだ。ぼくの輝く知恵の宝石を訂正したくなるかもしれんからな……即興の言葉は、即興でないときにより立派にひびくとやらでね……それともなぜ、政治家にはゴースト・ライターがいるかってやつだ」 「ゴースト・ライターですか? わたしの古典英語は完全とはいえませんので、そのいいまわしはわかりませんな」 「アイラ、自分で演説の原稿を書いているなどといわんでくれよ」 「でもラザルス、わたしは演説などしません。絶対に。わたしは命令を与えるだけで、あとは……めったにしませんが……評議会に書類で報告をだす程度です」 「そいつはおめでとう。きみはフェリシティにゴースト・ライターがいることに賭けられるぞ。でなければ、もうすぐいることになるだろうよ」 「プリントアウトはすぐに取りつけさせます。ローマ字体のアルファベットに、二十世紀の綴りということでよろしいですね? われわれがいままでしゃべっていた言葉を使うおつもりでしたら」 「哀れにも無知な機械に、過重の負担がかからないのならな。なんならぼくは、発音記号でも読めるよ。そう思う」 「本当に融通がきく機械でしてね。わたしにこの言葉を話すことを教えてくれたのも、この機械です……前には、読むことを」 「いいぞ、その調子でやってくれ。だが、ぼくの文法はなおさないようにと、そいつにいってくれないか。人間の編集者だけでも、いいかげん気に入らないんだ。機械のそんな無礼で鼻持ちならん行動を受け入れる気はないね」 「わかりました。ちょっと失礼させていただきます……」  臨時議長はわずかに声を高くして、銀河標準語《リンガ・ギャラクタ》のニュー・ローマ方言へと変わった。それからかれは、同じ言葉で背の高いほうの技術者に話しかけた。  予備プリントアウトは、テーブルがふたりにコーヒーを出す前に取りつけられた。  スイッチが入れられると、それはかすかにぶーんと音をたてた。ラザルスは尋ねた。 「そいつは何をしているんだ? 回路の調整でもしてるのか?」 「いいえ……プリントしているのです。わたしは実験をひとつ試みました。この機械は、そのプログラムと記憶している経験の範囲内で、かなりの判断力を待っています。特別プログラムをつけ加えるにあたって、わたしはこの機械にまた、過去へもどり、あなたがわたしにいわれたことをすべて検討して、格言のように思われる句をすべて選ぶよう命じました。この機械にそれができるかどうか確信はありません。なぜなら、この機械が永久記憶《パーマネント》に所有している格言≠フ定義がいかなるものであれ、完全に抽象的なものであるのは確かだからです。しかしわたしは期待しています。ですが、わたしは厳重に命令しました。手を入れるな、と」 「ほう……ワルツを踊る熊について驚くべきは、そいつがどれほど優雅に踊るかではなく、踊ること自体である……だな。これはぼくではなく、どこかの男がいった言葉を引用しただけさ。そいつの結果を見てみようじゃないか」  ウエザラルは手で合図した。小柄なほうの技術者が機械に急ぎ、コピイを引きぬいてふたりのところへもどってきた。  ラザルスはそのコピイに目を通した。 「ふーん……そうか。このつぎのやつは本当のことじゃない……気のきいた冗談というだけのことだ。三番目のはすこし言葉をかえないといけないな。おい! これのうしろに疑問符をつけているぞ。なんという図々しいがらくた機械なんだ。ぼくはこの機械が、まだ採掘されていない鉱石だった何世紀も前に、この文句を実地に確かめているんだ。まあ少なくとも、こいつはなおそうとはしなかったな。それをいったことは思い出せないが、それは真実だし、ぼくはそれを学ぶためにあやうく殺されかけたんだ」  ラザルスはプリントアウトのコピイから目をあげた。 「オーケイ、坊や。きみがこんなつまらない言いぐさを記録したいのなら、ぼくはかまわない。ぼくが目をとおして修正できるかぎりはな……なぜならぼくは、でまかせのナンセンスを取り除く機会を与えてもらわないかぎり、自分の言葉を福音《ふくおん》としては受け取られたくないんだ。そんな出まかせなら、ぼくがしゃべろうとだれがしゃべろうと同じだからね」 「確かに承知しました。あなたのお許しなしには、何ひとつ記録に入れません。あなたが例のスイッチを使うことを選ばれないかぎり……その場合には、あなたがあとに残された未修正の言葉はすべて、わたしが自分で校訂するようにしなければなりますまい。それがわたしにできる最善のことです」 「きみはぼくをひっかけようってめか、え? ふーん……アイラ、かりにぼくのほうからきみにシェーラザード式取引きを申し出たらどうするね?」 「どういうことでしょうか?」 「シェーラザードはついに忘れられてしまったのか? リチャード・バートン卿の生涯はむだだったのか?」 「いえ、とんでもありません! わたしは千夜一夜物語をバートン版の原文で読んでいます……そして彼女の物語は、数多くの世紀を重ねて伝えられてきました。新たな世代が理解できるように、くりかえしくりかえし手を加えられながら……ですが、その味わいは保たれていると思います。ただわたしがわからないのは、あなたが何を提案しておられるかなのです」 「そうか。きみはぼくにいったな、ぼくと話をすることは、きみがしなければいけないもっとも重要なことだ、と」 「そのとおりです」 「どうかな。きみの言葉が本当なら、きみは毎日ここへ来てぼくの相手をすることだ……そして世間話をする。きみの機械がどれほど利口だろうと、ぼくはわざわざそいつにしゃべりかける気はないからな」 「ラザルス、それは名誉であるばかりか、大変な喜びです。わたしは、あなたが許してくだされば、いつまでもお相手をつとめさせていただきます」 「さてどうなることか。人間がおおげさな言葉を使うときには、隠し立てをしていることが多いもんだからな。ぼくは毎日といったんだぞ、そして一日じゅうだ。それに、きみだ……代理ではだめたぞ。朝食のあと三時間したら顔を出すんだ。そう、そしてぼくが帰ってもいいというまでここにいる。だが、きみが来られない日は……そうだな、ひどく急な用事できみが来られなくなったら、弁解の電話と、かわいい娘をよこしてくれ。古代英語を話し、耳を傾けるだけの分別がある娘だ……もうろくした老人というやつは、自分にむかってまつげをぱちぱちさせ感心した顔を見せるかわいい娘には、とかくおしゃべりになるものだからな。もしその娘がぼくを喜ばせれば、彼女をそのままとどめておくかもしれない。そうでなければ、癇癪をおこしてそいつを追っぱらい、きみがもう一度注文してくれると約束した例のスイッチを使うかもしれない。しかしぼくは客の目の前では、絶対に自殺しないつもりだ。失礼になるからな。どうだ、わかったか?」  アイラ・ウエザラルはゆっくりと答えた。 「わかったと思います。あなたはシェーラザードであり、同時にシャーリアル王というわけですね。そしてわたしは……いや、そうじゃないな。わたしはそれを千夜つづけさせなければいけないほう……千日というべきですね……そしてもし失敗すれば……でも、わたしは失敗など絶対にしませんが……あなたは自由に……」  ラザルスは忠告した。 「それはこじつけにすぎるよ……ぼくはただ、きみのぺてんをあばいているだけだ。もしもぼくのむだ話がきみの主張するようにそれほど重要なものなら、ここに来て耳を傾けるんだな。一度や二度はさぼってもかまわない。その娘が本当にかわいくて、ぼくの虚栄心のくすぐりかたを心得ていればだ……ぼくは、虚栄心ならたっぷり持っているからな……それでいいさ。だが、きみがあまりしょっちゅうさぼりだしたら、きみが退屈したと理解して、取引きは終りだ。千一日がすぎるずっと前に、きみの忍耐がつきるのは確実だね……ところがぼくは忍耐のしかたをよく知っている。必要なら何年だって平気だ。それこそぼくが、まだ生きているいちばんの理由なんだ。しかしきみはまだ青二才だ。ぼくが、きみより頑張れることに賭けようじゃないか」 「お受けしましょう。その娘のことですが……いつかわたしがここへ来られないことがあるとして……わたしの娘のひとりをよこしたら、あなたは拒否されますか? たいへんかわいい娘なんですがね」 「ほう? きみはまるで、自分の母親を競売にかけているイスカンドリアの奴隷仲買人みたいないいかたをするんだな。なぜきみの娘を? ぼくは結婚したくなんかないし、いっしょに寝るのもいやだ。ただ気をまぎらわせたり、うれしがらせたりしてもらいたいだけだ。だれがきみにその子はかわいいなどといったんだ? もしその子が本当にきみの娘なら、きみに似ているはずだぞ」 「やめてください、ラザルス。そうあっさり、わたしを困らせたりはできませんからね。親馬鹿なことは認めますが、あの子がほかの人間に与える影響は見ています。あの子は実に若くて、まだ八十歳になっていませんし、契約結婚を一度しただけです。あなたは、あなたの幼年時代の言葉を話すかわいい娘と条件をつけられた。めったにいるものではありません。ですがわたしの子供の中でもこの娘は、わたしの語学の才能を受けついでいて、あなたがここにおられることにたいそう興奮しています……あなたにお目にかかりたがっているのです。あの子があなたの言葉を完全におぼえるまで、わたしのほうは緊急事態をなんとかごまかしておけます」  ラザルスはにやりと笑うと肩をすくめた。 「好きにしろよ。貞操帯などに気をまわしたりしないよう、いっとくんだぞ。ぼくにはそれだけの気力がないからな。だがやはり、賭けはぼくの勝ちだ。彼女を見なくてもね。ぼくはどうしようもない退屈な年寄りだときみが決めつけるまでに、そう長い時間はかかるまいな。ぼくは本当にそうなんだし、さまよえるユダヤ人≠ニ同じぐらいはある生涯を、そういう人間でとおしてきたんだ……あいつとは会ったことがあるが、まったく退屈なやつだったよ……やつと出会ったことがあるのは、いったかな?」 「いいえ。それに、信じられませんね。かれは伝説上の人物です」 「きみは何も知らないのさ。ぼくはかれと会った。かれは本物だ。かれはキリスト紀元七〇年にローマ人と戦った。エルサレムが略奪されたときだ。すべての十字軍で戦った……そのうちのひとつは、かれが扇動したんだ。もちろん赤毛でね。自然の長寿者はだれも、ギルガメッシュの特徴を受けついでいるんだ。ぼくが会ったとき、かれはサンディー・マクドゥーガルという名前を使っていたが、その名前のほうが、そのときかれがやっていた仕事の時と場所には都合がよかったんだ。長年の詐欺師商売でね、いろんなやりかたで美人局《パジャー・ゲーム》なんかもやっていた|な《*》。あとのほうはつまり……おい、アイラ、ぼくの話を信じないのなら、どうしてそれを記録するのに面倒な手間暇をかけようとするんだ?」 [#ここから4字下げ]  *この一節にはそれ自体の矛盾があるが、いいまわしが二十世紀北アメリカのものであることは確かである。それらは、ある形の金銭的な不正行為を意味している。ニュー・ローマ市、アカデミー出版社刊、タリシュナムルティ著『断金枝篇』の〈詐欺行為〉および〈ペてん〉の項を参照されたい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世 「ラザルス、あなたがわたしを退屈で死なせられると考えておいでなら……訂正します。あなたを死なせられる、とです……なぜあなたは、わざわざわたしを楽しませるために物語を作られるのです? あなたの理由がなんであろうと、わたしはシャーリアル王と同じくらい注意ぶかく……そして長時間……耳を傾けるつもりです。わたしのマスター・コンピューターが、あなたの話そうとされるものをすべて記録しているはずです……編集することなしに、であることは保証します……そして、そのコンピューターの中には、あなたのつけ加える架空の話がいかなるものであろうと完全に区別のできる、鋭いことこのうえなしの真実分析機構が組みこんであるのです。あなたが話しつづけてくださるあいだ、わたしがずっと歴史的真実性を気にかけるというわけではありません……なぜなら、あなたがどんなことをいわれようと、自然にご自分の評価を……そうした知恵の宝石を混じえられることは明らかだからです」 「知恵の宝石、か。お若いの、もう一度そんないいかたをしてみろ、放課後は教室に残って黒板ふきだぞ。きみのそのコンピューターは……そいつに教えてやったほうがいいぞ。ぼくの話はいちばん眉唾なやつが、いちばん本当らしいと……事実そのとおりなんだからな。どんな作り話の名人でも、この発狂した宇宙の現実ほどに奇想天外で、ありえないものを夢想することはできないんだ」 「コンピューターはそれを承知していますよ。ですがもう一度わたしから注意しましょう。あなたはサンディー・マクドクーガルの話をしておられた。さまよえるユダヤ人の話です」 「そうだったか? そうだとすると、かれがその名前を使っていたときだから、二十世紀もおしつまったころで、場所はバンクーバーのはずだ。ぼくの記憶ではそうだ。バンクーバーは合衆国の一部で、そこの人間はみんな頭がいいから、絶対ワシントンに税金を払ったりしないんだ……サンディーはニューヨークで商売をするべきだったのさ。それは当時でさえ飛びぬけた愚行だったんだがね。かれの詐欺行為の詳細はいわないことにするよ。きみの機械を堕落させるかもしれないからな。これぐらいで満足してもらおうか、サンディーは馬腹者から金を巻きあげるもっとも古い原則を使ったんだ、と。なんでも最高が好きなやつを|かも《ヽヽ》に選べというわけだ。  必要なものはそれだけさ、アイラ。相手が欲の深いやつなら、いつだって欺せるんだ。困ったことに、サンディー・マクドゥーガルは自分の|かも《ヽヽ》よりもっと欲ばりだった。それで愚かにもかれはやりすぎて、何度も町から夜逃げしなければいけない羽目になった。ときには、あとに仲間を残してだよ。アイラ、きみがだれかから金を巻きあげるときには、相手を立ちなおらせ、もっと多くの金を作らせるようにしなければだめだ……さもないと、そいつは臆病になる。この単純な法則をちゃんと守れば、本当の|かも《ヽヽ》から何度でも金を巻きあげることができるんだ。そして、そいつは変わらず健康で生産的なままというわけさ。だがサンディーは、それには欲が深すぎた。忍耐力に欠けていたんだな」 「ラザルス、お話をうかがっていると、まるであなたはその職業にたいへん経験をお持ちのようですが」 「なあ、アイラ……すこしは尊敬してほしいな。ぼくは一度だって、人を欺したことなどないんだ。せいぜいのところが、口をつぐんでいて、そいつが勝手に欺されるのをほうっておくくらいさ。これは別に悪くないぜ。馬鹿者は、自分の愚かな行動から身を守ることなどできないんだからな。もしきみがそんなことをしようとすれば、きみはそいつの恨みを買うばかりか、そいつが経験から学ぶことのできる利益をなんであれ奪ってしまうことになるんだ。豚に歌うことを教えようとなど思うな、さ。そんなことをしたって時間のむだで、豚をこまらせるだけだ。  しかし、ぼくは、詐欺のことならよく知っているよ。ぼくは、人が思いつくかぎりのあらゆる詐欺のあらゆるヴァリエーションと出会っているはずだ。何回も何回もね。  そのうちのいくつかには、まんまとひっかけられたよ。まるで子供だったころの話だ。それからぼくはジョンソンおじいちゃんの忠告を入れて、なんでも最高を期待するのはやめた。それ以後、欺されることはなくなったよ。だが何度か火傷させられるまで、おじいちゃんの忠告から利益を得ることはできなかった……アイラ、もう遅いな」  臨時議長はすぐに立ちあがった。 「そうですね。出てゆく前に、ふたつほど質問してもいいでしょうか? あなたの回想録のことでなく、これからのやりかたについてですが」 「手短かに、要領よくだ」 「あなたの終末選択スイッチは明朝おつけします。ですがあなたは、気分がすぐれないといわれました。近い将来に終末をむかえることを選ばれるとしても、気分が悪いままでいられる必要はありません。若返り処置を再開いたしましょうか?」 「ふーん。第二の質問は?」 「わたしは、あなたの興味をひく何かまったく新しいものを発見することに最善をつくすとお約束しました。それに、あなたとここで毎日をすごすこともお約束しました。これは両立しない、と思うのですが」  ラザルスは微笑した。 「おいぼれのじいさんをからかわんでくれ。その研究は人にまかせられるだろうが」 「たしかにそうです。しかしわたしは、どんなふうに取りかかるか計画をたてなければなりませんし、ときどきは進行状況を検討し、新しい研究方針を指示することも必要です」 「うーん……もしぼくがフル・コースを承諾すれば、ときどき一日か二日、完全に閉じこもることになるんだろうな」 「現在の慣行では、ほぼ一週一日の深い休息が決められているはずです。患者の容態に応じて変わりますが。わたし自身の経験は、およそ百年前のことですから、当然改められているでしょう。処置を受けることを決心されましたか?」 「それは明日いうよ……例のスイッチが取りつけられてからだ。アイラ、ぼくは急ぐ必要のない決心は、急いでしないことにしているんでね。しかしもしぼくが承知すれば、きみは適当と思うとき自由に時間を使っていい。おやすみ、アイラ」 「おやすみなさい、ラザルス。あなたが処置を受ける決心をされるよう祈ります」  ウエザラルはドアのほうにむかいかけ、途中で足をとめ、技術者たちに話しかけた──ふたりはすぐ部屋から出ていった。食卓がかれらのあとをすばやく追った。ドアが閉じてしまうと、ウエザラルはむきなおり、ラザルス・ロングを見て、静かに話しかけた。その声はつまりそうだった。 「おじいさん。あの……よろしいでしょうか?」  ラザルスは自分の椅子をゆっくりと後ろに傾かせ、母親の腕のように優しく体をつつむ、ハンモックそっくりの椅子に変えていた。年下の男の言葉に、かれは顔を上げた。 「え? なんだって? ああ、わかった、わかった。ここへ来い……きみはぼくの孫だ」  かれは片手をウエザラルにむけてのばした。  臨時議長はかれのもとへ急いで近づくと、その手を取り、ひざまずいてそれに接吻した。  ラザルスはあわてて手をひっこめた。 「後生だからやめてくれ! ぼくにひざまずいたりするんじゃない……二度とするなよ。ぼくの孫になりたいんなら、ちゃんとそれらしくぼくをあつかえ。いまみたいなことはするな」 「はい、おじいさん」  ウェザラルは立ちあがると、老人の上にかがみこみ、かれの口に接吻した。  ラザルスは相手の頬を軽くたたいた。 「きみは感傷的な男だな、アイラ。だが、いい子だ。厄介なのは、いい子というのがたいして要求されていないことでね。さっさとその真面目くさった表情を顔から取っちまって家へ帰り、よく眠るんだ」 「はい、おじいさん。そうします。おやすみなさい」 「おやすみ。さあ、とっとと出てけ」  ウェザラルは急いで出ていった。技術者たちは、かれが出てくるとかたわらに飛びのき、それから続き部屋の中へもどっていった。ウェザラルは周囲の人間を無視して歩きつづけたか、その顔にはいつもより穏やかで優しい表情が浮かんでいた。  かれは移送車《トランスポート》の列を通りすぎ、議長の個人用移送車のところへ行った。それはかれの声を聞くとひらき、それからまっしぐらに市の中心部にある行政官宮殿へかれを運んだ。  ラザルスは、付添いがふたたび入ってくると目をあげた。かれは背の高いほうにむかって、自分のところへ来いと身ぶりをした。ヘルメットをとおしてゆがめられた技術者の声が、慎重にひびいた。 「ベッド……でしょうか?」 「いや、ぼくがほしいのは……」ラザルスはそこで言葉を切り、空中にむかって話しかけた。 「コンピューター? しゃべれるか? だめなら、文字で答えてくれ」 「ご用をうかがいます、最長老」  と、歌をうたうように、低い女の声が聞こえた。 「看護人にいってくれ。苦痛をおさえるために、こいつらに許されていることを、なんでもいいからやってもらいたいんだ。ぼくは、仕事をしなくちゃいけないんでね」 「わかりました、最長老」肉体を持たぬその声は銀河標準語に変わり、同じ言語で返事をされたあと、また話しかけた。「当直の技術主任は、あなたの苦痛の種類と位置を知りたがっています。そして、今夜はお仕事をなさるべきではないとつけ加えましたが」  ラザルスは口を閉じたまま、頭の中でチンパンジーを十匹数えた。それからかれは、穏やかにいった。 「くそくらえ、どこもかしこも痛いんだ。それに子供から忠告されるなどごめんだよ。ひと眠りする前に、きちんとしておかなければいけない未処理事項があるんだ……なぜなら、だれだって自分がもう一度目をさますかどうかは絶対にわからないんだからな。鎮痛剤のことは忘れてくれ、それほど重要じゃない。ふたりに部屋から出てゆき、もどってくるなといってくれないか」  ラザルスはつづいておこったやりとりを無視しようとした。ほとんどそれを理解できないことが、かれをいらいらさせたからだ。かれはアイラ・ウエザラルがかえしてくれた封筒をあけ、自分の遺書をひらいた──長く蛇膜状に折りたたんだコンピューターのプリントアウトだ──そして、調子はずれの口笛を吹きながらそれを読みはじめた。 「最長老。当直の技術主任は、あなたが効力のない命令をされたといっています。当病院の規則によれば、そのとおりなのです。全身鎮痛剤が用意してあります」 「忘れてくれ」  ラザルスは読みつづけ、それまで口笛で吹いていた曲を、こんどは小声で歌いはじめた。    質屋が一軒    町角に    おれのオーバー、いつもそこ    馬券屋が一軒    質屋の裏に、    おれの投資はそこにおまか|せ《*》 [#ここから4字下げ]  *この戯れ唄は二十世紀のものと見なされる。意味分析については付録を参照されたい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  背が高いほうの技術者が、チューブのついた円板を手にしてかれのそぼに現われた。 「これで……痛みを」  ラザルスは、あいているほうの手で拒絶の仕草をした。 「行ってくれ。こっちは忙しいんだ」  小柄な技術者がもう一方の側に現われた。ラザルスはそちらをむいていった。 「きみのほうは、何をしょうというんだ?」  かれが頭をまわすと同時に、長身の技術者はすばやく動いた。ラザルスは、前腕にちくりと剌すような痛みを感じた。かれはその場所をこすりながらいった。 「なにをするんだ、この悪党め。ぼくにいっぱい食わせたな? よし、おぼえてろよ。出ていけ。とっとと、うせろ!」  かれはその出来事を念頭からふりはらい、仕事にもどった。一瞬のちに、かれはいった。 「コンピューター!」 「ご命令をお待ちしていました、最長老」 「これを記録してプリントアウトしてくれ……わたし、ラザルス・ロング、ときに最長老として知られ、ハワード・ファミリーの系図にウッドロウ・ウィルスン・スミス、一九二九年誕生、と記載されている者は、これがその最後の意志であり遺言であることを言明する……コンピューター、アイラとぼくの会話を初めから思い出し、あの男が移民団を率いるのを助けるためにぼくが何をしたいといったか、見つけてくれ……あったか?」 「見つけました、最長老」 「言葉をなおして、ぼくがいまいった冒頭の文章につづけてくれ。それから……そうだな……こんなところをつけたしてもらおうか。万一、アイラ・ウエザラルが財産相続の資格を得ることに失敗した場合は、ぼくが死に際して所有するところのこの世での財産はすべて……生活に困り、老齢のため引退した|すり《ピックポケット》、売春婦《プロスティテュート》、大道乞食《パンハンドラー》、行商人《パイマン》、泥棒《プリガー》、その他P≠ナはじまる名称のつまらない貧乏人たちのための収容施設を作ることに、使用されるものとする。できたか?」 「記録いたしました、最長老。忠告させていただければ、この代案は、この惑星の現行規則で調べられた場合、法律上無効とされる可能性が非常に高く存在します」  ラザルスは、生理学的には不可能だが修辞的効果をねらっただけの願望を口走った。 「それなら、そいつを野良猫でもほかの役立たずどものためでも、とにかく法的に認められる用途のものに変えてくれ。永久記憶の中から、確実に裁判所の目を逃れられそうな用途を見つけてくれないか。ただ、評議会が手を出せないように、ちゃんと確かめるんだ。わかったか?」 「それを確かめる方法はありませんが、最長老、でもやってみます」 「抜け穴をさがすんだ。調べて、まとまったらできるだけ早く印刷してくれ。さて、ぼくの遺産についての覚え書きの用意だ。始めるぞ」  ラザルスは表を読みはじめたが、目がかすんで焦点が合わないことに気づいた。 「くそっ! あのロボットども、麻酔薬《ミッキー》を射ちやがったな、きいてきたぞ。血だ! 栂印をおすのに血が一滴、どうしてもいるんだ! あいつらにぼくを手伝うよういってくれ、理由もだ……そして、もし手伝わないと、舌を喰んで血を取るぞとおどかしてやれ。さあ、ぼくの遺書をプリントアウトするんだ。うまくいきそうな代案なら、なんでもいいからいっしょにつけてくれ……だが大至急だ!」 「プリントアウトをはじめます」  コンピューターは静かに答えると、銀河標や語に変わった。 ロボットども≠ヘ、コンピューターといい争わなかった。かれらは敏速に動いた。ひとりは、プリントアウトの低くうなる音がとまるや間髪を入れず、印刷されたばかりの紙をひったくり、もうひとりはどこからか消毒してある針を取り出すと、ラザルスに何がおこなわれているか見せるため一瞬のあいだをおいてから、かれの左小指のふくらんだ部分をつき刺した。  ラザルスは血がピペットに取られるのを待たなかった。つき剌された指から血をおし出すと、左手の親指をそれにこすりつけ、小柄な技術者がひろげてもった遺書の上に、栂印をおした。  それがすむとかれは椅子にもたれこんで、ささやいた。 「やったぞ……アイラに伝えてくれ」  かれはたちまち、深い眠りに落ちた。 [#改ページ] 対旋律 1  椅子はラザルスを優しくベッドへ移した。技術者たちは黙ってそれを見守り、ついで背の低いほうは、呼吸、脈搏、脳波、その他の医学的所見の|読み出し《リードアウト》を点検し、背の高いほうは法律書類を──新旧ふたつの遺言を、不可侵性封筒に入れて封をし、封印に官印と拇印をおし、〈最長老、および/もしくは、臨時議長にのみ引き渡すこと〉と指示を書いてから、交替要員がくるまでそれを持っていた。  交替の技術主任は当直記録を聞いてから、医学的所見に目を走らせ、眠っている患者を診察した。 「時間は?」 「ネオリース。三十四時間」  かれはヒューッと口笛を吹いた。 「あれから危なくなったことは?」 「前よりひどくはない。不合理な怒りっぽさによる疑似苦痛。健康状態は、現在のところ限界内」 「その封筒には何が入っているんです?」 「サインして、受領書にも引渡しの指示事項を書きこんでくれるだけで結構」 「酸素をむだに使ってすみませんでしたね!」  交替は受領書を書くとそれに官印と拇印をおし、不可侵性封筒と交換した。 「交替します」  かれはぶっきらぼうにそういった。 「ありがとう」  小柄な技術者はドアのところで待っていた。技術主任は足をとめていった。 「待っていることはなかった。付添いの役を引きつぐのに、ときどきこの三倍の時間がかかることがあるからね。きみは交替の副当直要員が来たらすぐ帰ってもいいのに」 「はい、技術主任。でもこれは非常に特別な患者です……それにあのおせっかい氏が相手では、わたしを必要とされるかもしれないと思いまして」 「あの人のことなら大丈夫。そう、非常に特別な患者であることは事実だ……それに、きみの前任者が転任を申し出たとき技術局がきみをわたしにつけたことが、優秀であることの証明になっている」 「ありがとうございます」 「わたしに礼をいうことはない」その声は、ヘルメットと中継器《リレー》と濾過装置《フィルター》によってゆがめられそいたとはいえ、言葉づかいとは反対に優しくひびいた。「これはお世辞ではなく、事実をいっているだけさ。もしきみが最初の当直でよくやっていなければ、二度目の当直はなかったはずだ……きみがいうとおり、非常に特別な患者≠ネんだから。きみはよくやった……ただし、きみの顔は見えなくとも、患者はきみが神経質になっていることを感じてしまったはずだね。しかしきみなら、それを克服するだろう」 「ああ……そうだといいんですが。本当に神経を使いましたから!」 「わたしは、何もかものみこんで不注意になる者より、緊張しきった助手のほうがいいね。でもきみは、もう家に帰って休むべきだよ。さあ行こう、きみを乗せてゆくよ。どこで着替えをしているんだ? あの中間ラウンジか? ちょうどわたしはあそこを通るんだ」 「いえ、わたしのことでお手間をかけないでください! よろしければわたしがお送りします……そのあとで車をもどします」 「堅苦しくしないで! いったん勤務をはなれたら、われわれのあいだに階級なんかないんだから。そう教わらなかったの?」  ふたりは公共移送車《パブリック・トランスポート》を待っている人々の列をすぎて、院長の個人用移送車の前を通り、役職者用のもうすこし小さな列のところで立ちどまった。 「教わりはしましたが……わたしは、あなたほどの地位のかたについたことが一度もないのです」  その返事に、相手はくすくす笑った。 「それならなおのこと、わたしにはその規則を守ってもらわなければね……地位が高ければ高いほど、勤務外ではそれを忘れなければいけないんだから。ここにあいている車がある。中に入って腰をおろしなさい」  小柄なほうは車に乗りこんだが、技術主任が席につくまで腰をおろさなかった。若返り技術者のボスはそれを無視して操縦装置をセットすると、手足をのばし、溜息をついた。同時に車は動きだした。 「わたしだって緊張している。当直が終ると、かれと同じぐらい年をとってしまったような気がするんだから」 「わかります。おたしはそれに耐えられるか心配しているところです。主任、なぜかれに結着をつけさせてあげないのです? あんなに疲れきっているのに」  答は遅く、しかも答になっていなかった。 「わたしを、主任って呼ばないこと。勤務外なんだから」 「でもわたしは、あなたのお名前を知りません」 「知る必要はない。さてと……事態はまるで見かけと違う。かれはすでに四回も自殺しているんだから」 「なんですって?」 「いや、かれはおぼえていない。もしきみが、いまのかれの物おぼえが悪いと思っているなら、三カ月前のかれを見るべきだったね。実は、かれがやるたびに、われわれの仕事のスピードは上がるんだ。かれのスイッチは……かれがそれを持っているときにはだが……いんちきな仕掛けなのさ。それはかれを無意識にするだけで、そうなるとわれわれは次の段階がなんであろうと先へ進み、かれの記憶テープを使ってさらに多くのことを暗示で注ぎこむ。でも、われわれはそれをとめ……そして、スイッチをはずさなければいけなくなった……二、三日前、かれは自分がだれかを思いだしたのでね」 「でも……それは大法規《キャノンズ》にそむくものです! 死は万人の生得の権利である≠ナす」  技術主任は緊急コントロールに手をふれた。車は走りつづけ、駐車ポケットを見つけると、とまった。 「それが大法規で許されていることだとはいわなかったよ。でも、看護怖が政策を作るわけじゃないからね」 「採用されたとき、わたしは宣誓しました……その一部はこうです……生を望む者にはそれをすすんであたえ……死を願う者にはそれを決してこばまない、と」 「わたしがその宣誓をしなかった、とでも思っているのか? 院長は腹を立てたあまり、休暇旅行に出かけてしまった……辞任するかもしれない。憶測するつもりはないけれどね。でも、臨時議長はわれわれと同じ職業の人間じゃない。かれはわれわれの宣誓には縛られないし、入口の上にかかげられている標語《モットー》は、かれにとってなんの意味もないんだ。かれのモットーは……そう見えるだけかもしれないけれど……例外のない規則はない≠ウ。いいか、わたしはこの話をきみとしなければいけなくなるだろうことはわかっていたし、次の当直の前に、きみがその機会を与えてくれたことを喜んでいる……きみは部署を変わりたいか? きみの履歴に影響することはない。それはわたしが取りはからうから。交替のことは心配しなくていい。わたしが次の当直をするとき、最長老はまだ眠っているだろうから、どんな助手でもつとまるはずだ……そのあいだに、技術局はきみの後任を選べる」 「あの……わたしはかれの世話をしたいのです。それはたいへんな名誉ですし、わたしにまわってくるとは夢にも思いませんでした。でも、わたしはほんとに悩んでいるんです。かれが公正にあつかわれているとは思えません。それに、最長老以上にこの中で公正なあつかいを受ける資格のある人がいるでしょうか?」 「わたしだってそれには悩んでいるよ。みずからの意志で結着をつけた人間を生かしつづけるよう命令されているのだと、最初に気づいたときは馬鹿なほどショックを受けたね。というよりはむしろ、自分が死につつあると考えることを許された人間を、だね。でも、わが親愛なる同僚くん、選択はわれわれの責任じゃあない。この仕事は、われわれがどう考えようとおこなわれる。そうだとわかった以上……わたしは職業上の自信に不足していないからね……うぬぼれといってくれてもいい。わたしは自分を、リストにのっている上級看護人の中では最適任だと思っている。わたしは決心した、ファミリーの最長老にこの仕事がなされるのなら、わたしは逃げ出したりしない、わたしより腕の劣る同僚にまかせたりするものかって。特別手当は関係ない。わたしは自分の特別手当を不具者の避難所≠ヨそっくり送っているんだから」 「わたしもそうしてかまいませんね?」 「ああ。でもそんなことは馬鹿げているよ。わたしはきみよりはるかに多くもらっているんだから。だがこれだけはつけ加えておかなければいけないな。きみの体に、興奮剤への耐性があるといいんだがってね。というのは、主要な処置はわたしがすべて監督し、それをわたしの助手に手伝ってもらいたいと思っているからだ。正規の当直時間だろうとなかろうと、関係なしに」 「わたしは興奮剤を必要としません。自己催眠を使いますから。必要なときに。めったにやりませんが。わたしたちの次の当直のとき、かれは眠っているわけですね。すると……」 「同僚くん、きみの答をいま欲しいんだ。必要なら技術局に知らせられるから」 「いいえ……わたしは動きませんよ! あなたといっしょに頑張ります」 「よかった。そうしてくれると思っていた」  技術主任はふたたび操縦装置に手をのばした。 「では中間ラウンジへ行こうか?」 「ちょっと待ってください。あなたをもっとよく知りたいものですね」 「同僚くん。きみが頑張ってくれれば、わたしのことは充分すぎるほどわかるさ。わたしは口が悪くてね」 「わたしは社交的な意味でいったのです。職業的にではなく」 「ほう!」 「気分を害されましたか? あなたの素顔を一度も見ていないのに、すっかりあなたを崇拝するようになってしまったのです。あなたを見せてほしいですね。あなたに取り入ろうというのじゃありませんが」 「きみを信じるよ。技術局の選択を承知する前に、わたしがきみの心理テストの点数を調べさせてもらったことを信じてほしいな。いや、わたしは気分を害しちゃあいない。嬉しいね。そう、そのうちいっしょに食事でも?」 「喜んで。でも、わたしとしてはそれ以上のことを。恍惚《エクスタシー》の七時間≠ヘいかがです?」  一瞬沈黙が訪れ、それはひどく長く感じられた。技術主任はいった。 「同僚くん、きみの性別は?」 「それが問題になりますか?」 「そうは思わない。承知した。いま?」 「あなたがよければ」 「いいさ。わたしは、自分の部屋へ帰り、しばらく本を読んでから眠るつもりがったんだけど。そこへ行こうか?」 「わたしは極楽《イリジアム》≠ヨお連れしようと思っていたんですがね」 「その必要はないさ。エクスタシーは心の問題だからね。でも、ありがとう」 「わたしにはその余裕があるんです。あの、わたしは給料に頼っていませんのでね。イリジアムが提供してくれる最高のものを容易に買えるんです」 「いつか別の機会にね、親愛なる同僚くん。しかしこの病院の住込み医師用の個室はじつに快適だし、われわれが隔離用のこの鎧をぬぐのと、人前に出るための服を着るのに使う時間を勘定に入れなくても、一時間は近いところにある。まっすぐわたしの部屋へ行こう、まったくその気になってきたよ。ほんと、こんな浮かれ騒ぎとはご無沙汰だったんだから……ずいぶん長いあいだ」  四分後、技術主任は部下とともに個室についた──広くて、美しく、風通しのいい──ごきげんな¢アき部屋だった。見せかけの炎が片隅の暖炉で陽気に燃え、居間におどるような光を投げかけている。 「あのドアを入ると客用の化粧室だ。リフレッシャーはそのむこう。ディスポーザーのシュートは左で、ヘルメットと隔離服の棚は右。手伝おうか?」 「いえ、結構です。わたしはすばやいほうですから」 「では、何か必要になったら大声でさけんで。暖炉の前で十分後というのは?」 「ええ」  準技術者は十分をほんのすこしすぎると姿を現わした。やっと隔離服から解放され、素足になったのとヘルメットのないせいで、よけい小柄に見える。技術主任は暖炉の前にしいてある絨緞からその姿を見あげた。 「ああ、やっとお出ましね! きみ、男だったの。驚いたわね。でも、嬉しいわ」 「そしてあなたは女ときている。ものすごく嬉しいですよ。でも、あなたが驚いたとは信じられないな。ぼくみ記録を見ているはずだもの」  彼女は首をふった。 「いいえ、身上調書は見なかったわ。技術局がよこす短いものだけよ……それに細心の注意をはらって名前だの性別だの、関係のないことは除いてあったの。むこうのコンピューター・プログラムがそういうことは気をつけているのよ。わたしは知らなかったし、想像は外れていたわ」 「ぼくは想像してみようなんて思わなかったですよ。でも嬉しいことは本当。自分でも、なぜこんなに背の高い女性が好きなのかわからないんだけど。でもそうなんです。立ちあがって、ぼくにあなたを見せてほしいな」  彼女はものうげに体をくねらせた。 「なんて馬鹿げた考えかたなの。女はみな同じ高さよ……横になればね。だからここへ来て横になったら。いい気持よ」 「女め、ぼくが立てといったら、行動を期待しているんだぞ」  彼女はくすくす笑った。 「あなた、先祖がえりなのね。でもかわいいわ」彼女は腕をのばすとかれの足首をつかみ、いきなりかれをひっくりかえした。「このほうがいいわ。これでわたしたち同じ高さよ」 [#改ページ] 対旋律 2  彼女はいった。 「真夜中のランチは欲しくない? おねむさん」  かれは答えた。 「ぼく、ついうとうとしてしまったんだね。無理もないな。うん、欲しいよ。何を出してくれるつもりだい?」 「いって、いってくれるだけでいいわ。ここになければ取りよせるから。あなたが可愛くてたまらないの」 「それなら、背の高い、年は十六の、赤毛の処女《バージン》を十人っていうのはどうだい? 女の子だぜ、もちろん」 「いいわよ、ダーリン。わたしのギャラハドのためなら、もったいないなんてものはないわ。でも、保証つきの処女をっていいはるのなら、時間がすこしかかるかもしれないわよ。なぜそれにこだわるの? 心理分析図では、べつにエキゾチックな変態さは出ていなかったのに」 「いまの注文は取り消して、マンゴー・アイスクリームを一皿にしてくれ」 「かしこまりました、すぐお取りよせします。それともビーチ・アイスクリームなら、いますぐにでも食べられるんだけど。やめて。そんなにしつこくされたの、十六のとき以来のことよ。昔の話ね」 「ピーチでもいいよ。ずいぶん昔のことなんだな」 「いま持ってくるわ、ダーリン。スプーンで食べる? それとも、あなたの顔に塗ってあげましょうか? そんなしつこいことをしてもだめよ。わたしは、あなたと同じように一度、若返りを受けたの。そして外見の年齢をあなたより若くしているってわけ」 「男は一人前に見られる必要があるからね」 「そして女は若く見られたがる、いつでもよ。でもわたしはあなたの若返り年齢だけでなく、暦年齢も知っているのよ、ギャラハド……それに、わたしの暦年齢はあなたより下なんだから。どうやってそのことがわかったか知りたい、あなた? わたし、あなたを見たとたんにわかったわ。わたしがあなたの若返りを手伝ったのよ、ダーリン……ほんとに嬉しいわ」 「よくそんなことをいうよ!」 「でも嬉しいの。これほどすてきなボーナス、思いもよらないことがったわ。患者ともう一度出会うなんて、まずないことなのに。ギャラハド、あなたわかっているの? わたしたち、ふつうみんなが夢のような休日を一緒にすごそうとするときのようなこと、何ひとつしなかったのよ。でも、わたし本当に楽しんだわ。わたし、ここ何年もなかったほど若くて幸せな気持。いまでもよ」 「ぼくもさ。ビーチ・アイスクリームがどこにも見えないこと以外はね」 「このブタ、動物、けだもの。わたしはあなたより大きいんですからね。ひっくりかえして、おさえつけてやるから。量はどれくらいなの、あなた?」 「腕がくたびれるまでじゃんじゃん積みあげてくれ。精力を取りもどさなくちゃあ」  かれは技術主任のあとについて台所へ入ると、アイスクリームを二枚の皿に山盛りにしていった。 「ただの用心さ。こうすれば、顔に塗りたくられたりしないですむからな」 「まあ、やめてよ! わたしがそんなことを大事なギャラハドにするなんて、本気で思ってやしないくせに」 「きみはまったくものすごい女だよ、イシュタル。ぼくは体じゅう傷だらけだぜ」 「なにいってるの! わたしは優しかったわ」 「自分の力を知らないんだよ。それにきみはぼくより大きい、わかってるんだろうね。イシュタルのかわりに、あの名前をつけるべきだったな……なんだっけ? 地球《オールド・ホーム》の神話に出てくるアマゾンの女王さ」 「ヒッポリュテよ、あなた。でもわたしは、アマゾンといえる資格などないわ。だってあなたがお世辞をいってくれたとおりですもの……子供じみたやりかただったけど」 「文句があるのかい、え? 外科へ飛んでいけば、十分間できみの資格のなさはなおしてくれるし、傷跡は残らないよ。いいよ、イシュタルのほうがきみには似合うから。だが、これにはどうも不公平なところがあるな」 「どうして、ダーリン? これを持っていって暖炉の前で食べましょうよ」 「そうしょう。こういうことなのさ、イシュタル。きみのいうところによると、ぼくはきみの患者だったし、きみはぼくの年齢を両方とも知っているらしい。そこでぼくは専門家としての論理から、きみがぼくの登録名と家族の両方を知っているものと推定した。さらにきみは、ぼくの家系すらいくらかおぼえているかもしれない。ぼくの若返りのために、それを調べたことは間違いないからだ。だが、七時間≠フ習慣によって、ぼくはきみの登録名を知ろうとすることさえできない。きみのことを考えるときには、いろんな注釈つきで考えなきゃいけないんだ……あの背の高いブロンドの技術主任は……ってね」 「あなたの顔に塗りたくるアイスクリームは、まだたっぷりあるのよ!」 「……彼女は、ぼくが生涯でもっとも幸せな七時間のあいだイシュタル≠ニ呼ぶことを許してくれたってわけさ。その七時間もそろそろ終ったし、ぼくはというと、きみがいつかぼくに、きみをイリジアムへ連れていかせてくれるかどうかもわからないときているんだ」 「ギャラハド、あなたときたら、わたしのこれまでの恋人の中でいちばん腹の立つ人ね。もちろんあなたはわたしをイリジアムへ連れていけるわ。それにあなたは、七時間が終っても家へ帰らなくていいのよ。それから、わたしの登録名はイシュタルですからね。そして、もしあなたが勤務中の必要なとき以外にわたしの地位を口にしたら、絶対に忘れられないような本物の傷をつけてあげるから。うんと大きいやつをね」 「あばずれめ。ぼくはこわくなってきたよ。ぼくはやっぱり、時間どおりにここから出ていくべきだと思うね。そうすればきみは、ぼくらが看護にもどることになっているときまで、すこし眠れるだろう。でも、きみの名前が本当にイシュタルだっていうのは、どういうことなんだい? 名前をつけあったとき、ぼくはファイブ・エースでも出したのかな?」 「イエスでもあり、ノーでもあるわ」 「それが答かい?」 「わたしのファミリー・ネームはありふれたものだったわ……そして、それが大嫌いだったの。でもあなたがつけてくれた枕名《ビロウ・ネーム》は、とってもいい気分にしてくれて嬉しかったわ。だから、あなたがうたた寝していたあいだに、記録保管所に電話して名前を変えたってわけ。わたし、いまはイシュタルなのよ」  かれは相手を見つめた。 「それ、本当かい?」 「そんなこわい顔しないでよ。あなたを欺したりするもんですか。怪我だってさせやしないわ。でもわたしって、まったく家庭的じゃないのよ。この部屋に男の人がいるのはどれぐらい久しぶりのことか知ったら、あなたきっとショックでしょうね。いつでも出ていきたいときに出ていっていいのよ。あなたはわたしに、たった七時間つきあっただけ。でも、出ていく必要もないのよ。あなたとわたしは、明日の看護をさぼるんだから」 「ぼくらが? どうして……イシュタル?」 「もう一度電話して、別の待機チームを行かせることにしたの。もっと早くそうすべきだったんだけど、あなたがわたしをぼんやりさせたのよ。明日の最長老は、わたしたちでなくても大丈夫。熟睡しているから、一日ぬかしてしまったことにも気づかないはずだわ。でも、かれが目をさますときにはあそこにいたいから、あくる日の当直予定も変えたの。わたしたち、丸一日つきっきりということになるかもしれないわよ。かれの容態しだいだけれど。つまり、わたしはそうするってこと。あなたに二倍も三倍も勤務しろって、いっているわけじゃないのよ」 「きみにできることなら、ぼくだってやれるさ。イシュタル、きみが口ではいえないっていった例の職業上の地位だけど……きみ、本当はもっと高い地位にいるんだろう?」 「そうとしたら……本当だと認めているわけじゃないわよ……そのことについては、考えることさえ禁じるわ。もしもあなたが、あの患者の担当のままでいたいならね」 「なるほど! きみはいうことがきついや。それほど悪いことをしたかな?」 「かわいいギャラハド! ごめんなさいね。あなたが看護についているときは、わたしの患者のことだけを考えてほしいの。わたしのことでなくね。職場の外では、わたしはイシュタルで、ほかの何者にもなりたくないわ。これはわたしたちがぶつかるうちでもっとも重要なケースよ。長いあいだつづくかもしれないし、ひどく疲れることかもしれない。だから、おたがいに神経をとがらすのはやめましょう。わたし、こういおうとしていたのよ。あなた……いえ、わたしたちふたりには……仕事にもどらなければいけないときまで、いまから三十時間以上あるって。それまで好きなだけここにいてちょうだい。でなければ、好きなときに出ていってもかまわないし、わたしはにっこり笑って文句をいわないつもりよ」 「ぼくは、出ていきたくないっていったじゃないか。きみが眠る邪魔にならないかぎりはね……」 「邪魔になんかなるわけないじゃないの」 「……それから、使い捨て服のフレッシュ・パックをひとつ見つけ、それを着て殺菌装置を通るのに一時間くれるならね。一着持ってくればよかったけれど、こうなるとは思わなかったものだから」 「ああ、それなら一時間半にするわ。わたしの電話に伝言の録音がされていて、最長老はわたしたちが隔離服を着た姿をいやがっているんですって。かれは、人間が自分のまわりにいるのを見たがっているのね。だからわたしたち、かわりに全身の消毒を受ける時間を予定しておかないといけないわ。そして、かれのところへふつうの服でいくの」 「でも……イシュタル、それは賢明かい? かれの前でくしゃみをすることになるかもしれないぜ」 「あなた、わたしがこの方針を決めたと思うの? いいこと、この伝言は宮殿から直接来たのよ。そのうえ、女性はできるだけ魅力的によそおえって特に命令されているわ……だからわたし、殺菌消毒を受けても平気な服を何か考えないと。裸はまずいんですって。それもはっきり命令されているの。でも、くしゃみをするかもしれないなんて心配はいらないわ。あなた、全身消毒を受けたことあって? あの連中の処置を受けたら、くしゃみなんかできなくなるわよ。どれほどそうしたくなってもね。でも、最長老に消毒を受けたことをいっちゃだめよ。わたしたちは、通りからそのまま入ってきたってことにするんだから……特別の予防措置なしにね」 「かれの言葉をしゃべれないのに、ぼくがどうしてかれに話せるんだい? かれには、裸に対する性的倒錯《フェティシズム》みたいなものでもあるのかい?」 「知らないわ。わたしはただ命令を伝えているだけ。看護予定表にのっている全員に行ったはずよ」  かれは何か考えこんだ表情になった。 「おそらく性的倒錯じゃあないだろうな。あらゆる性的倒錯は生存に反対する条件となる。それが基本的原理なんだ。きみは、第一の問題は、かれを感情のない状態から抜け出させることだといった。きみはかれが腹を立てているのを喜んだ。それを反応が強すぎるといいながらもね」 「確かにわたしは喜んだわ。それは、かれが反応しつつある証拠ですもの。ギャラハド、その心配はあとまわしよ。わたし、着るものがないの。手伝ってちょうだい」 「何を着ていくべきかさ、ぼくのいっているのは。これはおそらく臨時議長の考えだ。最長老のじゃない」 「まあ、あなた。わたしはあのかたの心を読もうなんて思わないわ。ただかれの命令を実行するだけ。わたし、服にはまるで趣味がないの。生まれてからずっとよ。実験助手の仕事着ならいいかしら? あれなら殺菌消毒にも耐えられるし、そのあとも残らない……それにあれを着ると、わたしとってもすっきり見えるんだから」 「ぼくはいま、臨時議長の心を読もうとしてるんだよ、イシュタル……少なくとも、かれの意図していることを推測するんだ。いや、実験室の作業衣でいいとは思わないな。通りから入ってきたようには、見えるはずがないからね。もし性的倒錯症状がともなわないと仮定すると、この状況で裸の上に服をつける唯一の利点は、ヴァラエティを持たせることだ。コントラストさ、変化だよ。かれを感情の欠けた状態からふるい立たせるための一助というわけだ」  彼女は考えこんだような表情になり、興味ぶかげにかれを見つめた。 「ギャラハド、わたしはたったいままで自分の経験から考えて、男が女の服に対して抱く唯一の関心は、それをぬがせることだとばかり思っていたわ。あなたの昇進を、申し出なければいけないかもしれないわね」 「ぼくにはまだ、昇進の準備ができていないよ。この仕事についてから、十年たっていないんだから。きみが間違いなく知っているとおりにね。きみの衣裳戸棚を見てみようじゃないか」 「あなたは何を着るつもりなの?」 「ぼくが何を着ようと問題じゃないさ。最長老は男だし、かれについての物語や伝説のすべてが、かれの生まれついた原始的文化に方向づけされたままでいることを示している。官能的な面では変化に乏しいんだよ」 「どうして確信が持てるの? 伝説なんでしょ」 「イシュタル、きみがその読みかたさえ知っていれば、すべての伝説は真実を語ってくれるんだ。ぼくは推察しているだけだが、これは理屈のとおった推察さ。ぼくはこの方面ではちょっとした専門家だったからね。若返りを受けるまでは……きみが若返らせてくれるまでは、さ……それからぼくは、もっと活動的な分野に飛びこんだんだ」 「何をしていたの?」 「またいつかね……ぼくはただ、ぼく自身は何を着ていようと問題じゃないと思うといっていたのさ。キトン(ル鶴彭)。半ズボンにアンダーシャツ。キルト。隔離服の下に着ていた下着だっていいんだ。そうだな、ぼくも看護のたびに、何か違った鮮やかな色のものを着ることにしよう……だが、かれはぼくなんか見やしないね。きみを見るだろうよ。だから、かれが見て気に入りそうなものを選ぼうじゃないか」 「どうしてあなたにわかるの、ギャラハド?」 「簡単そのもの。足の長いブロンド美人にぼくが着せたいと思うものを選ぶのさ」  かれは、イシュタルの衣裳戸棚の中身があまりに少ないのを見て驚いた。女性とのさまざまな経験のすべてをとおしてみても、彼女は必要でない服でも買わなければ気がすまない虚栄心など持っていないと思われる、ただひとりの女だった。かれは戸棚の中を調べるうちにわれを忘れ、ハミングをはじめ、やがて戯れ唄の一節を口ずさみだした。  イシュタルはいった。 「あなた、かれの幼年時代の言葉をしゃべっているわ!」 「え、なんだって? だれの? 最長老の? そんなはずないよ。でも、おぼえなければいけないだろうな」 「でも、あなたの歌っているのがそうよ、かれが何かで忙しいときにいつも口ずさむ短い唄だわ」 「このことかい? ひちやがいけん……ひちやのうちろ……≠レくは蓄音機みたいな耳を持っているんだ、それだけのことさ。言葉はわからないんだよ。どういう意味なんだい?」 「意味があるのかどうかよくわからないのよ。大部分の言葉は、わたしがこれまでに習った語彙《ごい》の中にはないんですもの。たぶん、意味のない言葉をならべて、リズムをとっているだけのものだと思うわ。自己精神安定剤ね。意味論的にはゼロよ」 「その一方、かれを理解する鍵になるかもしれない。コンピューターに尋ねてみようとしたかい?」 「ギャラハド、わたしはかれの続き部屋でおこっていることの、コンピューターによる記憶を利用する権限は、与えられていないの。でも、しんそこかれを理解できる人がいるかどうかは疑問だわ。かれは原始人……生きた化石なのよ」 「ぼくはぜひ、かれが理解できるように努めてみたいね。かれの使っているこの言葉だけれど……難しいの?」 「ものすごくね。不合理で複雑な続語法《シンタックス》だし、慣用句や多義語がむやみやたらとあるものだから、知っているつもりの言葉でもつまずいてしまうのよ。あなたの、なんでもおぼえてしまう耳がうらやましいわ」 「臨時議長は、まるで苦労していないみたいだったぜ」 「あれは語学に対する特別の才能でしょうね。でも、もしあなたがやってみたいのなら、ここに教育用プログラムがあるわよ」 「引き受けた! これはなんだい? バーティー・ドレスかい?」 「それ? 服じゃないわ。長椅子にかけようと思って買った布地よ……ところが、ここの居間にはあわないことがわかったの」 「こいつはドレスだよ。そこに立って、じっとしててくれ」 「くすぐったいじゃないの!」 [#改ページ] ある主題による変奏曲 1   国事[#「国事」はゴシック]  最長老、わが先祖なる祖父ラザルスにはああいったものの、わたしはセカンダス統治のため懸命に働いている。だが、政策を考えたり、他の連中の仕事を判断するだけにだ。わたしは驢馬《ろば》の仕事はしない。それは専門の行政官たちにまかせているのだ。  が、たとえそうであっても、一億以上の人間をかかえた惑星におこる多くの問題は、ひとりの男を忙しくしておくことができるし、特にその男の意図ができるかぎり統治しないことである場合には、なおさらだ──なぜならそれは、部下が不必要な統治をしている徴候に対してつねに目を光らせ、耳を澄ましていなければいけないことを意味するからだ。わたしの時間の半分は、そのような出すぎた役人どもを引きぬき、その連中が二度とふたたび公共の地位で働かないように命じるという、否定的な仕事に使われている。  そのあとわたしはふつう、かれらの役職、またその下に付随するすべての職を廃止する。  わたしはそうした刈りこみで、いかなる不都合も生じたことがないことを知っている。ただ、仕事を取りあげられた寄生虫どもが餓死しないよう、何か他の道を見つけてやらなければいけないだけだ。(連中が飢えるのは大歓迎だ──もし本当にそうなってくれるのなら、もっといいのだが。しかし連中はそうはならない)  重要なのは、こうした不満分子の成長を見きわめ、それらが小さいうちに取り除くことだ。臨時議長がその技術を身につければつけるだけ、そういうむのがより多く現われてくるのを発見することになる。そうして、つねにより忙しくなる。だれでも山火事を見ることはできる。最初の煙をかぎつけるところに技術があるのだ。  おかげで、わたしは本来の仕事がほとんどできなくなった。政策について考えることがだ。わたしの統治の目的は決して善をなすことではなく、たんに悪をなすことを避けるというだけだ。これは単純に聞こえるが、そうではない。たとえば、武装革命の防止、すなわち秩序の維持が明らかにわたしの主要な義務の一部であるにもかかわらず、わたしは潜在的革命指導者を追放するという知恵にいくつかの疑問を抱きはじめていた。祖父ラザルスにそのことを注意しろといわれるもう何年も前からだ。しかしわたしを心配させる徴候がないに等しいものだったので、それに気づくのに十年かかった。その十年のあいだ、わたしを暗殺しようとする企てがひとつもなかったのである。  ラザルス・ロングが死ぬ目的でセカンダスに帰ってきたときまでに、この憂慮すべき徴候は二十年間つづいていた。  これは無気味なことだったし、わたしにはそれがわかった。一億強の人口がこれほど満足し、これほど画一的で、これほどうぬぼれているので、決然とした暗殺者が二十年ものあいだただのひとりも現われないというのは、その外見がいかに健康であろうとも重い病気にかかっているのだ。この欠如に気づいたのも経過した十年間というもの、わたしは割くことのできる時間、すべてそのことを心配してすごした──そして、自分が何度も何度もくりかえして自分の心に尋ねていることに気づいた。ラザルス・ロングならどうするだろう、と。  わたしは大まかなところであれ、これまでかれのしてきたことを知っていた──そしてそれこそ、なぜわたしが移住を決心したかなのだ──人々を導いてこの惑星を去るにしろ、あるいはだれもついてこない場合はひとりで行くにしろだ。 (これを読みなおしてみると、わたしはまるで何か神秘的な王は死なねばならぬ℃ョの感情にかられ、暗殺されたがっているかのようだ。だが、とんでもない! わたしはいついかなるときも、頑健な肉体と鋭敏な頭脳を持つ護衛たちにかこまれており、またかれらの素性をもらすつもりはない。だが消極的防衛策を三つばかりここに記しても害はあるまい。わたしの顔は一般には知られていないし、とにかく大衆の前にはほぼ絶対にといっていいほど姿を現わさない。そうするときには、絶対に公表しない。支配者の仕事とは危険なものだ──あるいは、そうあるべきものだ──だがわたしはそのために死ぬ気など毛頭ない。この憂慮すべき徴候≠ニは、わたしが生きていることではなく、死んだ暗殺者がひとりもいないということなのだ。だれもそれを試みるほどには、わたしを憎んでいないらしい。どこでわたしは、かれらをだめにしたのだろう?)  ハワード病院が最長老の目覚めたことを報告してきたとき(かれにとっては一晩≠オか経過していないのだというメモとともに)、わたしはおきていただけでなく、必要な仕事はすでにすませており、残りは放りだして、すぐ病院へ行った。殺菌消毒を受けたのち、わたしはかれがちょうど朝食を終え、のんびりとコーヒーを飲んでいるところに入っていった。  かれはちらりと上を見て微笑した。 「やあ、アイラ!」 「おはようございます、おじいさん」  わたしは昨夜≠ィやすみをいうときに許された尊敬の想いをこめた挨拶をしようと、かれのところへ行った──そして、かれが口を開く前に、イエスかノーかのしるしを見ることを忘れなかった。ファミリーの中ですら、そうした習慣には幅広いヴァラエティがある──そしてラザルスはというと、つねに勝手気儘、おのれが法律よ、なのだ。それでわたしは、かれのかたわらに立つまで、歩きながらたいそう頭を使った。  かれは、ごくわずかに体をそらせることでわたしに答えた。わたしがぬかりなく気をつけていなければわからなかっただろうほどの動きだった。かれはそれに穏やかな警告をもつけ加えた。 「見たことのない連中がいるぞ、坊や」  わたしがその場で足をとめると、かれはつづけていった。 「少なくとも、ぼくはあいつらを見たことがないと思うよ……知り合いになろうとしていたんだが、ぼくらが共有するものといえば、わずかなかたことプラスたくさんの手ぶりだけさ。だが、あんなゾンビーどもじゃなくて、まわりに人間がいるというのはいいものだ……ぼくらはうまくやってるよ。おい、きみ! ここへ来てくれ、いい子だ」  かれは若返り技術者のひとりに合図した──いつものようにふたりが当直についていたが、今朝は男と女ひとりずつだった。女性は魅力的によそおうこと≠ニいうわたしの命令が実行されているのを見て嬉しかった。この女性はブロンドで、優雅であり、長身の女性が好みの者なら魅力的だといわざるを得ないだろう。(わたしはそういうのが嫌いというわけではないが、膝に乗るぐらい小柄な女性についてもすこしいわせてほしいものだ──だからといって、近頃わたしにそのための時間がたっぷりあるというのではないが)  その女性はすべるように進み出てくると、微笑を浮かべて待った。何か衣裳をまとっていたが、女性のスタイルはわたしがおぼえていられるほど長くは同じままでいないし、このときはニュー・ローマの全女性がたがいにだれとも異なった服装をしようと心に決めたように思われる時期だったのだ。なんであるにしろ、それは彼女の目をひきたたせる青の玉虫色で、完全におおっでいるところでも体の線にぴったりあっていた。その効果は満足すべきものだった。 「アイラ、これはイシュタルだ……ぼくはきみの名前を正しくおぼえているかな?」 「はい、最長老」 「それからあそこにいるあの青年は、信じようと信じまいと勝手だが、ギャラハド≠セ。地球の伝説をすこしは知っているかね、アイラ? もしあの男がこの名前にある慣用的な意味を知れば、名前を変えるだろうな……何ものも得ることのない完全な騎士さ。だがぼくは、どうしてこうイシュタルの顔に見おぼえがあるのか思い出そうとしていたんだよ。なあ、ぼくはきみと結婚したことがあるのかな? ぼくに代わって尋ねてくれないか、アイラ。この娘にはわからなかったかもしれないからね」 「いいえ、最長老。一度も。たしか」  わたしはいった。 「彼女は理解しましたよ」 「そうか、あれは彼女の祖母だったのかもしれないな……一冗気のいい女でね、アイラ。ぼくを殺そうとしたんで、ぼくは逃げ出したんだ」  技術主任は銀河標準語で短くしゃべり、わたしはいった。 「ラザルス、彼女が申しますには、これまであなたと結婚するという光栄に浴さなかったけれど、契約にしろ非公式にしろ、もしあなたが望まれるなら心からそうしたいそうです」 「そうだ! 生意気な女だった……あれはこの娘のばあさんに違いないな。八百年か九百年昔、だいたいそんなところだ……半世紀ほどどうしていたかわからなくなっているんだが……それも、この星でのことだった。彼女に聞いてくれないか、えーと、エーリアル・バーストウは彼女の祖母かどうかを」  技術者はひどく喜んだ様子になり、いきなり早口で銀河標準語をしゃべりだした。わたしはそれに耳を傾けてからいった。 「彼女はエーリアル・バーストウを、曾曾曾祖母だといっています。そして、あなたがその関係を認められるのを聞いて嬉しい、それによって彼女があなたの子孫であるということになるから、と……そして彼女は、もしあなたが契約するかどうかを問わず、この血統をふたたび一点にしぼっていただけるなら、彼女自身と兄妹や従兄弟たちにとってこの上なく名誉に思う、と。あなたの若返りが達成されたのちに、とつけ加えています……彼女はあなたに無理やりいい寄ろう、としているわけではありません。いかがでしょう、ラザルス? もし彼女が自分の再生産割当数を使いはたしているなら、わたしは大喜びで彼女に例外を許し、移民しなくてもいいようにするつもりですが」 「彼女がぼくを口説こうとしていないというのは面白くないな。それにきみもだ。だが彼女は礼儀正しく申し出たんだから、礼儀正しく答えようじゃないか。彼女にいってくれ、ぼくは光栄に思うし、候補者に入れておくよとね……しかし、ぼくが木曜に出てゆくことになっているのはいうなよ。言葉を変えれば……電話しないでくれ、こちらから電話する……ってやつさ。だがそのことでは、彼女を幸せな気分にしてくれ。彼女はいい娘だ」  わたしはこの伝言を外交的に改めた。イシュタルはにっこりして、左足をうしろに引いてお辞儀をすると、うしろに下がった。ラザルスはいった。 「椅子を引っぱり出せよ、坊や。坐ってくれ」かれは声を落としてつけ加えた。「ぼくたちだけの話だがね、アイラ。エーリアルはぼくに、子供をひとりおっつけた。だがぼくの子孫である別の男とのあいだにさ。だからいずれにしろ、彼女はぼくの子孫だ。まあそれほど直系とはいえんが、だからってそれが問題になるわけじゃない。きみはこんなに早くおきて何をやってるんだ? ぼくは、朝飯のあと二時間は自分の時間にしていいといったぞ」 「わたしは早おきでしてね、ラザルス。あなたがフル・コースを決心されたというのは本当ですか? 彼女はそう信じているようですが」  ラザルスの顔に苦痛の表情が浮かんだ。 「それがたぶんもっとも単純な答だろうな……だがぼくが、自分自身の皐丸を取りもどせるかどうか、ぼくにどうしてわかる?」 「あなたのクローンからの生殖腺は、あなたのものです、ラザルス。それは理論の基本です」 「まあいい……いまにわかるさ。早おきは悪徳なんだぞ、アイラ。それはきみの成長を附害し、きみの生命をちぢめるんだ。そういえば……」ラザルスは壁にちらりと目を上げた。「あのスイッチをまたつけてくれたことを感謝するよ。こんな気持のいい朝、あれに誘惑されることもないが、人間ってやつは選択の自由を持ちたがるものでね。ギャラハド、議長にコーヒーと、ぼくにはプラスチックの封筒を持ってきてくれ」  祖父ラザルスはその命令を身ぶりで補ったが、技術者はその言葉を理解したのだと思う。あるいは何かテレパシーのようなものかもしれない。若返り技術者は感情移入がうまい──その必要があるからだ。男はすぐその言葉に応じて動いた。  かれはラザルスに不可侵性封筒を手渡し、わたしにコーヒーをついだ──べつに飲みたくなかったが、外交儀礼が要求するものなら、なんでも飲むつもりだ。ラザルスはいった。 「ここにぼくの新しい遺言がある、アイラ。これを読んでからどこかにファイルし、コンビューターにそういってくれ。ぼくはすでに、彼女が作りあげた文章に感心したし、それをもう一度彼女に聞き取らせ、永久記憶に入れて、縛っておく≠謔、にいってある……いまでは、きみに一杯くわせて相続財産を巻きあげようと思ったら、よっぽど腕ききの弁護士が必要だろうな……ま、そんなことをやれるやつがいるのも間違いないがね」  かれはそばに立っている男の技術者に手をふった。 「もうコーヒーはいい……ありがとう。行って坐りたまえ。きみもだ、イシュタル。アイラ、あの若者たちはなんだ? 看護人か? 付添いか? 召使か? それとも何なんだ? あいつらときたら、まるでひよこが一羽しかいない雌鶏みたいに、ぼくのそばから離れないぞ。ぼくは、必要以上のサービスなどごめんこうむる。仲良くつきあうだけでいい。人間の話し相手が欲しいだけだ」  事情を聞いてみないと、わたしには答えられなかった。若返り病院の組織など知っている必要はなかったし、それは私企業であって評議会の下にはなく──そのうえ、最長老事件でのわたしの干渉は院長に激しく反発されていた。だからわたしは、なるべく口出ししなかったのだ──わたしの命令が実行されているかぎりはだ。  わたしは女性技術者に話しかけた。銀河標準語で、だ。 「きみの職名はなんだね、マダム? 最長老が知りたがっておられる。きみは召使のようにふるまっているといわれているが」  彼女は静かに答えた。 「どんなことであれ、あのかたにお仕えすることが、わたしたちの喜びなのです」──それから、ためらい、つづけた。「わたしは、理事・若返り技術主任部長、イシュタル・ハーディで、若返り処置では副院長を兼ねます。そしてわたしの当直助手は、準技術者ギャラハド・ジョーンズです」  二度の若返り処置を受け、生まれてこのかたその考えに慣れているので、外見の年齢が暦の年齢とそぐわなくても、わたしは驚いたりしない。しかしこの若い娘が一介の技術者ではなく、彼女の職場のボスだと知ったときの驚きは認めずばなるまい──おそらく、病院全体でナンバー・スリーの地位だ。院長がどこかに行ってふくれているあいだは、たぶんナンバー・ツーというところだろう──院長の義務でこりかたまった石頭に呪いあれ、だ。院長代理とか、どこかの局長なのかもしれず、それが店頭の仕事≠ノ首をつっこんでいるということか。 「そう……あなたの暦年齢をお尋ねしてよろしいかな、理事さん?」 「臨時議長は何事でもお聞きになれますわ。わたしは百四十七歳にしかなりません……でも資格はあります。最初の成熟以来、これが唯一の職業です」 「わたしはきみの資格に疑問を持ったわけではないよ、マダム。ただ、きみがデスクに坐らないで当直についているのを見て驚いたのさ。病院がどのように組織されているか知らないことは白状するが」  彼女はかすかに微笑した。 「閣下、このケースについてのあなたご自身の個人的関心と、わたしはそっくり同じ感情を抱いているといえます……理解できるというのではありませんが。わたしがここにいるのは、責任を人まかせにしたくなかったからです。かれは最長老ですわ。わたしは、かれにつけられる当直技術者全員を自分で選びました……わたしたちの提供できる最高のものです」  わたしも、それはわかっているべきだった。 「われわれはよく似た性格なんだな……うれしいよ。だがひとつ提案させてもらえるかね? われわれの最長老は自負心の強い性質で、たいへんな個人主義者だ。かれは個人的なサービスは最小限にしてほしいといっている……どうしても必要なものだけをね」 「わたしたち、あのかたをうるさがらせたのでしょうか、閣下? 気を使いすぎたのでしょうか? わたしはドアの外からでも見たり聞いたりしていられますし、それでもあのかたがご用のときはすぐに入ってこられますが」 「たぶん気を使いすぎたんだろうな。だが、見えるところにいてくれ。かれは人間の話し相手をほしがっているんだから」  ラザルスはいった。 「何をいつまでもぺちゃくちゃいってるんだ?」 「わたしは質問しなければならなかったのです、おじいさん。病院の組織を知りませんでしたのでね。イシュタルは若返り技術者で、それも非常に熟練しています……彼女の助手もです。ですが、かれらはあなたが望まれることなら、いかなる奉仕でもしたがっているのです」 「召使はいらないぞ。今日はひどく気分がいいんだ。何か欲しければ大声をだすさ。奴隷みたいにかかりきりになる必要はない」かれはにやりと笑った。「だが、彼女はかわいい娘だ、でかい|お徳用《エコノミー》サイズでね。彼女がそばにいてくれるのはうれしいな。猫みたいな身のこなしで……骨なんかなくて、流れるみたいだ。彼女を見るとまったくエーリアルを思い出すよ……どうしてエーリアルがぼくを殺そうとしたかは話したかな?」 「いいえ。話してくださるのなら、ぜひお聞きしたいですね」 「うーん……イシュタルがそばにいないときに尋ねてくれ……彼女は、自分でいう以上に英語を知っていると思うんだ。でもきみが聞きにくれば、かならず話すと約束するよ。きみはいったい何を聞きたいんだ?」 「なんでもです、ラザルス。シェーラザードは自分で主題を選びました」 「いかにもそうだ。しかしぼくは、すぐ出せるようなのを持っていないんでね」 「それでは……わたしが入ってきたとき、あなたは、早おきは悪徳だ≠ニいわれましたね。あれは真面目におっしゃったのですか?」 「たぶんな。ジョンソンおじいちゃんは、そうだと主張していたよ。かれは日の出に銃殺されることを宣告された男の話をよくしたものさ……だが、寝すごしてそれをまぬがれた。そいつはその日減刑され、その後さらに四、五十年生きていた。この話が、わしのいわんとするところを証明しとるじゃろうがといってね」 「それは本当の話だと思われますか?」 「シェーラザードのどの話とも同じくらい真実さ。ぼくはそれをこういうふうに解釈している。 いつでも眠れるときに眠れ。長いあいだ目をさましていなければならないかもしれないから≠ニね。早おきは悪徳ではないかもしれないよ、アイラ、だが美徳でないことはたしかだ。早おき鳥についての例の古い格言は、まさに虫はベッドにとどまっているべきだったことを示しているんだ。ぼくは、いかに自分らが早くおきるかを自慢する連中には、我慢ならないんだ」 「わたしは自慢するつもりなどありませんでした、おじいさん。わたしが早おきなのは昔からの習慣で……仕事の習慣です。でも、それを美徳だとはいいません」 「どちらがだね? 仕事のほうか、それとも早おきのほうか? どちらも美徳じゃないよ。朝早くおきることは、よぶんに仕事をかたづけられることにはならない……紐の片端を切り離して、それをもう一方の端にくっつけても、紐を長くすることはできないのと同じさ。もしもきみが、あくびをしながら、まだ疲れたままなのにおきるなんてことをつづけたら、かたづけられる仕事の量はますます減る一方だ。きみは頭もはっきりせず、間違いをしでかし、それをやりなおさなければいけないんだ。そんな形での忙しい忙しいの連発は、むだなかぎりだよ。同様に不愉快でもある。それに、眠るのが遅い人々に迷惑をかけることになる。もしも罪深き乳しぼりの時刻に隣人たちがそれほど騒々しく動きまわっていなければね。アイラ、進歩は、事をおこなうにあたってもっと楽な方法はないかと探がしまわるものぐさな人間によって作られるんだ」 「お言葉をうかがっていると、どうやらわたしは四世紀をむだに費してしまったようです」 「たぶんそうだろうな。もしもきみが、朝早くおきて必死で働くなんてことをしていたのならね。だが、やりかたを変えるにはまだ遅くないぞ。くよくよすることはないんだ。ぼくは長い人生の大部分を、むだにすごしてしまった……もっとも、おそらくきみよりは楽しかったはずだ。ものぐさを芸術にした男の物語を聞きたくないか? その男の人生はもっとも少ない努力の法則≠フ好例だ。本当にあった話だぞ」 「もちろんですとも。しかしそれが実話でなくても、わたしはいっこうかまいませんね」 「いや、ぼくは真実に邪魔させたりしないぞ、アイラ。ぼくは心からの唯我論者なんだ。では聞いてもらおうか、わが偉大なる王よ」 [#改ページ] ある主題による変奏曲 2   ものぐさすぎて失敗できなかった男の話[#「ものぐさすぎて失敗できなかった男の話」はゴシック]  その男は、海軍士官を養成する学校で、ぼくのクラスメートのひとりだった。宇宙海軍ではない。これは人類がまだ、地球のたったひとつの衛星にさえ到達していないころの話だ。ここでいうのは水の上の海軍のことであり、水面に浮かんだ多くの船がたがいに沈めあい、しばしば悲しい成功をもたらしたものさ。ぼくは間違ってここに入ってしまった。なにしろ若すぎたものだから、もし自分の船が沈めば、おそらく自分もいっしょに沈んでしまうだろうということが、感情的に理解できなかったんだな……だが、これはぼくの物語ではなく、デヴィッド・ラ|ム《*》の物語だ。 [#ここから4字下げ]  *最長老がかつて陸・海軍士官学校、あるいはなんらかの軍関係の学校に在籍したという記録はどこにもない。だが一方、それを否定する根拠もないわけである。この物語はどの程度まで真実であるにしろ、自叙伝的なもののようだ。デヴィッド・ラムとは、ウッドロウ・ウィルスン・スミスによって用いられた数多くの名前のひとつなのかもしれない。  細部は、われわれが知るかぎりの古き故郷の歴史と矛盾しない。最長老の最初の一世紀は、〈大崩壊〉に先立つ絶えまない戦争の世紀と一致する──めざましい科学の進歩が社会問題の悪化と平行した世紀である。水上に浮かぶ船と空中に浮かぶ船が、この世紀を通じて戦闘に使用された。慣用句および専門用語は補遺を参照されたい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  デヴィッドを説明するには、その少年時代までさかのぼらなければならない。かれは田舎者だった。つまり、そのころのゆるい基準に照らしてさえ未開な土地の出身者だったということだ──そう、デヴィッドは、梟《ふくろう》が鶏をふみつけてしまうほどのひどい山奥からやってきたんだ。  かれの教育は、教室がひとつしかない田舎の学校で受けたもので、十三歳で終りだった。かれは学校を楽しんだ。なぜなら、学校にいるあいだはどの時間も、文字を読むより難しいことは何ひとつしないで椅子に坐っていればよかったからだ。学校の前後には、自分の家の畑で雑用をしなければいけなかったが、かれはそれが大嫌いだった。なぜならそれは正直な仕事≠ニいうやつで──つまりは、骨の折れる、汚ない、効果のない、低い賃金の仕事という意味であり──おまけに早おきがつきものなのだが、かれはそいつを何よりも嫌っていたのだ。  卒業はかれにとって、恐怖の日だった。これでいまや正直な仕事≠一日じゅうすることになったからだ。学校でのんびりと六、七時間をすごすかわりにだ。ある暑い一日、かれは騾馬《らば》につけた鋤で畑を耕すのに十五時間かかった──そして、騾馬の臀部《けつ》を長いあいだ見つめれば見つめているほど、そいつが蹴りあげるほこりを吸いこみ、目に流れこむ正直な労働の汗をぬぐいながら、ますますそれがいやになったのだ。  その夜かれはこっそり家を出て、町へ十五マイル歩き、あくる朝女主人があけるまで郵便局のドアに体をよせて眠ると、海軍に入った。その一晩でかれはふたつ年をとり、十五から十七になっていたから、入隊に充分な年齢というわけだ。  少年は家出をすると、とかく急速に年をとるものだ。その事実は目立たなかった。出生登録は当時その土地では知られていなかったし、デヴィッドは身長六フィート、肩幅ひろく、筋肉りゅうりゅう、ハンサムで、目のあたりのむこうみずな表情をのぞけば、外見は完全な大人だったんだ。  海軍はデヴィッドの性にあった。かれに靴と新しい服をくれたし、海の上をほうぼう旅行させてくれ、不思議なおもしろい土地をたくさん見せてくれた──玉蜀黍《とうもろこし》畑の騾馬やほこりにわずらわされることなしにだ。働くことは覚悟していたが、山奥の畑で働くのにくらべたらたいしたことじゃあなかったし、骨も折れなかった──そしていったん船上での行政機構を了解すると、かれはたいして仕事をしないことに熟練した。それでいて、なおかつその世界の神々、言葉を変えれば古参の下士官たちに満足を与えながらだ。  だがそれは、完全に満足すべき状態とはいえなかった。あいかわらず早おきしなければいけなかったし、しばしば夜の当直に立たねばならず、ときには甲板をごしごしこすったりとか、かれの感じやすい性質にはふさわしからぬ仕事をしなければならなかったからだ。  ついでかれは、この士官候補生──海軍兵学校生徒《ミッドシップマン》と呼ばれた──のための学校のことを耳にした。そいつが何と呼ばれているか、デヴィッドが気にかけたわけではない。要は、甲板洗いや下士官にわずらわされることなく、海軍が給料をくれ、椅子に腰かけて本を読むことができるということで──かれにとっては天国だった。ああ王さま、退屈なさっておられませぬか? そんなことはないって? それはよかった──デヴィッドはその学校に入る用意などまるでできていなかった。入学するために必要な高校一、二年の授業を受けていなかったんだ──数学、科学と思われるもの、歴史、外国語、文学、そのほかをね。  本当は受けていない学校教育を受けたふりをすることは、成長のよすぎる少年の年齢に二年をつけたすことより難しかった。だが海軍は、下士官が士官になることを奨励したがっていたから、正規教育のわずかに不足している志願者を助けるため個人的に教育する学校が作られていたんだ。  デヴィッドは、わずかに不足した≠ニいうのが自分の状態をさすのだと解釈した。かれは兵曹長に、自分は高校を卒業しそこなったんだといった──ある意味でそれは真実だった。かれは郡半分の差で入学しそこなったんだから。郡ひとつの半分が、かれの家からもっとも近い高校までの距離だったのだ。  ぼくはデヴィッドがいったいどうやって兵曹長に推薦させたのか知らない。かれは一度もその話をしなかったんだ。とにかく、乗りこんでいる船が地中海へむかったとき、デヴィッドは個人教育のはじまる六週間前にハンプトン・ロードでおろされたのだ。そのあいだかれは員数外ということになり、人事担当士官(実際はその書記係)は寝るところと食堂を教え、訓練時間中は、希望に燃えたかれの仲間が六週間後に顔をあわせることになる空《から》の教室にひっこんでいろといった。デヴィッドはそうした。教室には、志願者に不足しているかもしれない学科を教えるために使う本があり──デヴィッドにはそれが全部不足していたんだ。かれはそこにひっこんで腰をおろし、本を読んだ。  必要なのはそれだけだった。  クラスの学生が集まると、デヴィッドはユークリッド幾何学で教師の手伝いをした。必須課目だし、たぶんもっとも難しいものだった。三カ月後、かれは海軍士官候補生として、ウエスト・ポイントを流れるハドソン川の美しい堤の上で宣誓し入校した。  デヴィッドは、それが一難去ってまた一難であることをさとっていなかった。新米の候補生──最下級生──を襲う綿密に計画された恐怖にくらべると、下士官のサディズムもまだ手ぬるいものだった。こんどは先輩の候補生、特に最上級生がその役目を引き受けており、最上級生というのはその地獄組織の中で魔王《ルシファー》の代理をつとめていた。  しかしデヴィッドには、その事実を発見して何をすべきかをさとるための三カ月があった。そのあいだ上級クラスの連中は海へ演習に出ていたんだ。かれの見るところ、そういう危難の九カ月をもちこたえることができれば、地上のすべての王国はおのれのものとなるはずだった。そこでかれは自分にいいきかせた。雌牛や伯爵夫人に九カ月が耐えられるのなら、おれにだってできるぞ、と。  かれは危難の数々を、耐えなければならぬもの、避けられるもの、自分のほうから機敏に求めるべきものと、心の中で整理した。創造主たちが最下級生をいじめに舞いもどってきたとき、かれはそれぞれの典型的状況に対処する方策を持っており、原則に従ってそれを処理する準備ができており、出たとこ勝負であわてて行動するより、むしろ状況の変化に応じられる程度に原則を変えることにした。  アイラ──ああ王さま≠ニいうつもりだったんだ──これはなんでもないことに聞こえるかもしれんが、苛酷な状況で生き残るためには非常に重要なことなんだ。たとえばおじいちゃんは──つまり、デヴィッドのおじいちゃんはってことだが──決してドアに背をむけて坐ってはいけないと、かれに警告した。 「なあ、坊や。九百九十九回は大丈夫かもしれん……敵はだれひとりドアをあけて入ってきたりせんじゃろう。だが千回目は……そうなるかもしれんのだ。もし、わし自身のじいさんがこの規則をいつでも守っていたら、いまも生きていて寝室の窓から飛び出しとったろう。じいさんは、はっきり心得とったんじゃ。だが、たった一回うっかりしてしまった。あんまりポーカーをやりたかったもんで、ひとつだけあいていた椅子に坐ったんだが、それがドアに背をむけたやつだったというわけよ。そしてじいさんは、やられちまったんじゃ。  じいさんは椅子から飛びあがると、襲ってきたやつをめがけ、両手に握った拳銃から三発ずつぶっぱなして倒れた。わしらはそうあっさり死なんってわけさ。だがこいつは精神の勝利というとこじゃった。じいさんは本当は死んどったんだからな。心臓に弾丸をくらって、その椅子から立ち上がる前にじゃ。何もかも、あいているドアに背中をむけて坐ったからよ」  アイラ、ぼくはおじいちゃんの言葉を決して忘れなかった──そして、きみも忘れんことだ。  そこでデヴィッドは危難を分類し、対策を準備した。耐え忍ばなければいけないもののひとつに、際限のない質問というやつがあって、かれは最下級生がどの上級生にも、特に最上級生に対して、「知りません」と答えるなど絶対に許されないことだと知った。  だがその質問はふつういくつかに分類された──学校の歴史、海軍の歴史、海軍の有名な格言、種々の運動競技のチームの主将とスター選手の名前、卒業までは何秒か、夕食の献立は何か、などだ。こうしたものはかれを困らせなかった。どれも暗記できる──卒業まで残っている秒数のほかはだ。そしてかれはこの答を出すための近道を思いついたんだが、それは後年、いざというとき大いに役立った。 「どのような近道なのですか、ラザルス?」  え? 何もとっぴなものじゃないさ。毎朝起床|喇《ラッ》叭《パ》のたびに、あらかじめ残りの秒数を数えておくんだ。そのあとは一時間ごとに数字を変える。たとえばこうだ。六時の起床喇叭から五時間たつと、もとの数字から一万八千秒を引くんだ。それから十二分たったら、さらに七百二十秒を引く。たとえば卒業百日前における正午の整列のときに、そう、ぴったり十二時一分十三秒にだとすると、ふつう午前十時に卒業式がおこなわれるものとして、デヴィッドはこう答えられる。 「八百六十三万二千七百二十七秒であります!」とね。かれの分隊長が質問するのとほぼ同時にだ。ただそのだいたいのところを前もって計算しておくだけなのさ。  一日じゅうどんな時刻でも、かれは腕時計を見て秒針がしるしのところまで達するのを待っているふりをしていることがあったが、事実は頭の中で引き算をしていたのだ。  だがかれは、これを改良した。十進法の時計を発明したのだ──このセカンダスで使われているものとは違い、そのころふつうだった地球のぶざまな一日は二十四時間、一時間は六十分、一分は六十秒という体系の変形だ。かれは起床喇叭から就寝喇叭までの時間を、いくつかの一万秒と一千秒と百秒の区間に分割し、換算表を暗記した。  きみにも利点がわかるだろう。アンディ・リビイ──神よ、その無垢の魂をやすましめたまえ──以外のだれにとっても、長くつづいた何百万にのぼる数字から一万あるいは一千を引くことは、七千二百七十三なんて数を引くのにくらべて、暗算の場合、より簡単で、早く、間違いもおこらない。デヴィッドの新しい方法は、頭の中に補助的な数字を持ちこむことなく、決定的な答を見つけるのだ。  たとえば、起床喇叭から一万秒後は午前八時四十六分四十秒だ。デヴィッドはいったん換算表を作りあげ暗記してしまうと──丸一日もかからなかった。丸暗記はかれには簡単だった──いったんそれに熟達すると、かれは次にほぼ瞬間的に百秒区間が出てくるよう頭を切りかえることができ、ついで、およその答の最後の二桁に入れるべき二個の数字を加えて(引くのではなく)正確な答を出す。最後の二桁はつねにゼロだったから──自分で調べればわかるが──かれは数字をいうのと同じ速度で何百万秒という答を得ることができ、それはかならず正しかった。  その方法を説明しなかったために、かれはまるでリビイのような電光石火の計算者、白痴型天才という評判を立てられることになった。本当はそうじゃない。かれは、単純な問題に頭を使った田舎者ということだけのことだ。だが、かれの分隊長はかれが利口な白痴≠ナあることにたいそう不満だったから──かれはデイヴに対数表をおぼえるよう命令した。こんなことでひるむデイヴではない。かれは正直な仕事∴ネ外のものならなんだって気にならなかったんだな。かれは仕事に取りかかり、毎日二十個ずつ新しい数字をおぼえた。その最上級生がこの利口な白痴≠フ正体をあばくに充分だろうと考えた数がそうだったんだ。  その最上級生は、デヴィッドがやっと最初の六百個の数字をおぼえただけで、それに飽きてしまった。だがデイヴはさらに三週間それをつづけて、最初の二千個までおぼえてしまった。そのためかれは内挿法によって最初の一万までの数字を出すことができ、そのため対数表にたよらずにすむようになり、以後非常に役立つ技術となった。そのころコンピューターは事実上、知られていなかったんだ。  とにかく、途切れることのない質問の砲火にもデイヴは屈しなかった。ただし、食事時間に餓死するかもしれないのには困り、そのためかれは、気をつけの姿勢でじっと坐ったまま料理をさっさと口にかきこみながらも、浴びせられる質問全部に答えることをおぼえた。質問のいくつかはとんち問答と同じもので、たとえば、「ミスタ、きみは童貞か?」なんてやつだ。最下級生はどのような答をしても厄介な羽目におちいる──もし、まともに答えてしまえばだ。その当時は、童貞かそうでないかということにいくらかの重要性をおかれていたのさ。なぜなのか、ぼくにはいえないがね。  だが、いたずらの質問にはいたずらの答をしなければいけないんだ。デイヴはいまの質問に対する答はうまいのを見つけたよ。「はい、そうであります! 左の耳はですが」あるいは、臍《へそ》といってもいい。  しかしたいていのいたずら質問は、最下級生にいくじのない答をさせようとしくまれており──そして、いくじのなさは死に値する罪だったんだ。かりに最上級生がこういったとする。「ミスタ、ぼくをハンサムといってくれないか?」──うまい答とは次のとおりだ。「あなたの母上ならそうおっしゃるでしょうが……ぼくはいいません」とか、「あなたは、ぼくがこれまでに出会った最高にハンサムで、最高に猿そっくりのかたです」とかだ。  そうした答に危険性はふくまれている──最上級生の痛いところをひっぱたくことになるかもしれないんだ──とはいえ、いくじのない答よりは安全だ。しかし、最下級生がこのたいへんなしきたりに対抗しようといかに慎重につとめてみたところで、およそ週に一度は最上級生のだれかが、あいつには罰が必要なんだと決めてしまうんだ──裁判ぬきの勝手な処罰さ。これはおだやかなもの、たとえば体がへたばるまで体操をくりかえさせるなどというのから始まって──デヴィッドはこれが嫌いだった。というのも正直な仕事≠思い出させられるからだ──最後は、尻を棒でふんなぐることだった。こいつはたいしたことないように思えるかもしれないがね、アイラ、しかしぼくは小さな子供がときどきやられる尻たたきのことをいってるんじゃないよ。この場合は、道具には刀のひらか、または使い古しの箒が使われたが、それらは長くて重い視棒に相当した。完全に健康な大人がそんなもので三回なぐったら、犠牲者の尻は紫色の打撲傷と血まめだらけになるし、耐えられないほどの痛みをともなう。  デヴィッドは、この計画的拷問をもたらしそうな出来事を避けるため懸命に努力した。だがそれらを完全に避ける方法など、学校を逃げ出すほかにあるわけがない。最上級生の何人かは完全なサディズムからそうした暴力をふるったものだからだ。デヴィッドは、そんな羽目になると、歯をくいしばってそれを受けた──もし、最上級生の持つ至高の権威に反抗したら学校から追い出されるに違いないと──まさしく正確に──判断したからだ。そこでかれは例の騾馬の尻を思い浮かべて、それに耐えたのだ。  そんなことよりはるかに大きな危難が、かれの個人的安全と正直な仕事≠ゥら解放される人生という未来への見通しに対して、存在していた。軍隊勤務の不思議さの中に、前途有望な士官は運動競技に秀でていなければならぬ、という考えがあったのさ。わけは聞かないでくれ。合理的な説明の対象にならないことは、神学のどんな部門とも同じだよ。  とりわけ最下級生は──選択の余地などあらばこそ──スポーツに出なければならなかった。毎日、名目上は自由なはずの二時間を、デヴィッドは学校図書館の静寂の中でうつらうつらと夢を見ているおけにもいかず、運動場に出て汗まみれになって運動しなければいけなかったのだ。  さらに悪いことは、いくつかのスポーツが法外に精力を消費させるものであったばかりか、デヴィッドの大事な肌に対する脅威をともなってもいたことだ。〈ボクシング〉──これは遠い昔に忘れ去られたものだが、完全に無益な、スタイルを決められた戦闘のまねごとで、ふたりの男がたがいになぐりあうんだ。あらかじめ決められた時間か、あるいは片方がなぐり倒されて無意識になるまでだ。〈ラクロス〉──これはその大陸にむかし住んでいた野蛮人から引きつがれた模擬戦闘だ。人間の集団が棒を持って闘う。固い小球《ミサイル》があり、それで点数がきめられる──だが、われらが英雄に嫌悪の念をおこさせたのは、そうした棒で切り裂かれたり骨を折られたりしないだろうかという予想だった。 〈ウォーター・ポロ〉と呼ばれるものもあった。敵対する何人もの泳者がたがいに相手を溺れさせようとするんだ。学校にとどまっていられるのに充分な以上は泳がないことで、かれはそれから逃げた──水泳は必須の技術だった。デヴィッドは泳ぎがうまかった。七つのときに従兄《いとこ》ふたりに小川へほうりこまれておぼえたのさ──しかしかれは、自分の腕前を人に知られないようにしていたんだ。  もっとも権威のあるスポーツは、〈フットボール〉と呼ばれるものだった──そして、最上級生はそれぞれが新しい犠牲者グループを集めて、この組織化された傷害行為において抜きんでる、あるいは抜きんでることを学ぶと期待される候補者を選ぶのだ。デヴィッドはそれまで見たことがなかったのだが、いまやそれを見て、かれの穏やかな魂は恐怖に満たされた。  さもありなん。それは十一人の男が二組、競技場でむかいあい、楕円形の空気袋を相手の組の抵抗にまけることなく動かそうとするものだ。儀式や深遠な専門用語はいろいろとあったが、つまるところはそうだったのさ。  無害でむしろ馬鹿げているような競技だと思えるかもしれない。馬鹿げていることは事実だが、無害なんかじゃなかったね──なぜならその規則は、対抗する組が、袋を動かそうとする人間をさまざまな暴力的方法で攻撃することを許していたからだ。いちばんおとなしいのでも、そいつに組みついて一トンの煉瓦みたいに地面へたたきつけるという有様さ。三、四人が一度に飛びかかることは多いし、ときには規則に許されていなくても、山とかぶさってきた人間の体に隠れて恥ずべき行為や暴行を加えることもあった。  死がこの活動からもたらされることは考えられていなかったが、そうたるときもあった。死に至らない負傷は毎度のことだった。  不運なことにデヴィッドは、この〈フットボール〉で成功するための理想的な体格だったんだ──身長、体重、視力、足の速さ、反射速度、と。かれが模擬海上戦闘からもどってくる最上級生に目をつけられ、いけにえとして志願させられる≠アとは確実だった。  退避行動を取るべきときが来たんだ。 〈フットボール〉から逃げられるただひとつの方法は、何かほかのスポーツにどうにかして打ちこむことだった。かれはそれを見つけたんだよ。  アイラ、〈剣術〉とは何か知っているか? 結構──それで話が楽になる。これは地球の歴史で、剣が武器であることをやめた時期の話なんだが──そのときまで四千年以上ものあいだ、剣は主要な武器だった。それでも剣はいまだに昔ながらの形で存在し、過去の威信の影を保うでいた。紳士たるものは剣の使いかたを知っているものと見なされ── 「ラザルス、紳士≠ニはなんですか?」  え? 口をはさまんでくれよ。こんがらがっちまうじゃないか。紳士とはだな、ああ──そうだな、待ってくれよ。一般的定義はだ──おい、きみは難しい問題を考え出せるんだな。それはだ、誕生における偶然だという者もいた──遺伝的に受けつがれる特徴だと軽蔑していってるんだ。しかしこれでは、その特徴がなんなのかはわからない。紳士とは、生けるジャッカルよりはむしろ死せるライオンであることを好むものだ、と考えられていた。ぼくかい? ぼくはつねに、生けるライオンでいたかったから、この定義からははみ出しちまうな。うーん……まったく真面目にこういえるだろうな。そういう名前で呼ばれるものは、人間の文化の中で、単純な利己主義よりも高度な倫理がゆっくり出現しつつあることを示しているのだ、とね──ぼくの意見では、出現のしかたがのろすぎるけれどね。いざというとき、それに頼ることはまだできないんだからな。  そういうわけで、軍隊の士官は紳士であると見なされて剣をつるしていたんだ。空軍の連中でさえ剣をつるしていたよ。なぜかわかるのは、アラーの神だけだったろうがね。  これら候補生たちは、紳士と見なされただけではない。かれらが現実に紳士であると記した国法があったのだ。それでかれらは剣のあつかいかたを最小限教えられた。指を切ったり、まわりにいる第三者をぐさりとやってしまったりしない程度にだ──それで戦うまでにはいかないが、儀礼上やむをえず身につけるとき、あまり間がぬけて見えないようにというわけだ。  だが剣を使うことはスポーツとして認められており、〈フェンシング〉と呼ばれていた。それには、フットボールやボクシングやウォーター・ポロの持つ権威はなかった──しかし、ともかくリストにのっていたんだ。最下級生はそれに署名することができた。  デヴィッドはこれを現実逃避の道だと気づいたんだ。単鈍な物理的法則さ。もしかれがフェンシング場に上がっていれば、フットボール競技場には下りていないことになり、底に鋲を打った半長靴のサディスト・ゴリラどもに体の上で飛びはねられたりせずにすむというわけだ。上級生が学校へもどってくるずっと前に、最下級候補生デヴィッド・ラムはフェンシング班の一員として自分を確立し、一日も休まないようにして、チームの有望なメンバー≠フように見せかけようと懸命に努めていた。  そのころの地球では、三つの形のフェンシングが教えられていた。サーベル、|決闘用の剣《デュエリング・ソード》、そしてフォイルだ。前のふたつは実物大のものを使った。刃は落とされ、先端も丸くされていたのは本当だが、それでも怪我をすることがあった──きわめて稀だが、命を失うことだってあったんだ。だが、フォイルのほうは玩具のように軽く、ほんのすこしの圧力にも曲がるしなやかな刃がついたいんちきな剣だった。そのフォイルを使っておこなわれる様式化された模擬剣術の危険は、おはじき遊びと同じぐらいのものだった。これがデヴィッドの選んだ武器≠セったんだ。  それはかれに、まったくむいているものだった。フォイル・フェンシシグの高度に人工的な規則は、敏速な反射能力と鋭い頭脳をもっている者にはきわめて有利だったのだが、かれはその両方を持ちあわせていたんだ。いくらかの努力は必要だった──しかし、フットボールやラクロスや、あるいはテニスとさえ、くらべものにはならなかった。何よりよかったのは、それが体と体をぶつけあう必要のないことで、デヴィッドはそれを嫌って乱暴な競技から逃げたのだ。かれは避難場所を完全なものとすべく、ひたすら腕をあげることに打ちこんだ。  おのれの聖域を守ることにたいそう励んだおかげで、最下級生としての一年が終る前に、かれは全国新人フォイル・チャンピオンとなっていた。これは、かれにむかって分隊長をほほえませることとなった。そいつが顔をゆがめる表情のことだ。生徒隊中隊長も初めてかれの存在に気づき、祝いの言葉をかけた。  ファイルでの成功は、なぐられる罰のいくつかから解放されることともなった。ある金曜日の夜、でっちあげの勤務怠慢でなぐられそうになったとき、デヴィッドはいった。 「もしよろしければ、自分は日曜に二倍なぐっていただきたいと思います……というのは、明日、プリンストンの新入生チームと試合をすることになっていますので、もしあなたがその仕事をされますと、もちろんされてもかまわないのでありますが、明日、自分は動きがにぶくなるかもしれません」  最上級生はそれに心を動かされた。なぜなら、いかなるときも、いかなる目的のためでも、いかなるものであっても、海軍を勝たせることは、〈神聖法〉によって、あらゆるものに優先したからだ。利口な白痴≠ナある最下級生をなぐるという正当な喜びにさえね。かれはいった。 「よろしい、日曜の夕食後、おれの部屋へ出頭しろ。明日負けたら、今日もらうことになるはずだった薬が二倍必要になるぞ。だが、もし勝てば、それは帳消しにしてやろう」  デヴィッドは三試合とも勝った。  フェンシングのおかげでかれは、危難に満ちた最下級生としての一年間、大事な肌を尻以外のところは傷つけられずにすんだのだった。もう安全で、あとは三年間のんびりすごせばいいのだ。体罰を加えられるのは最下級生だけで、組織化された傷害行為に参加することを命令されるのも最下級生だけだったからだ。 (省略)  肉体を接触させるスポーツの中で、ひとつだけデヴィッドの好きなのがあった。昔から人気のあるやつであり、例の山奥から逃げ出す前におぼえたものだった。しかしそれは女の子を相手とする遊びで、この学校では公式に認められていないものだった。それはきびしく禁じられており、それをしているところを見つけられた候補生は情容赦なく放り出されてしまうのだ。  しかし、真の天才がひとり残らずそうであるように、他人によって作られた規則を守るなど、デヴィッドにとってはよろしくやるべきことだった──かれは十一番目の戒律に従って、決してつかまらなかったんだ。他の候補生たちが、女の子を兵舎へつれこんでつまらぬ見栄をはろうとしたり、あるいは女の子を求めて夜中に壁を乗りこえたりするあいだ、デヴィッドは行動をおこすのをひかえていた。かれがどれほどこの肉体接触スポーツを求めていたかを知っているのは、かれをよく知っている者だけだった。そして、かれをよく知っている人間はひとりもいなかったんだ。  え? 女性の候補生はどうしたがって? はっきりさせておかなかったかな、アイラ? 女の候補生などいなかったし、そもそも海軍にはひとりの女もいなかったんだ──少数の看護婦を除いてはね。そして特に、その学校には女っけがまったくなかった。昼も夜も番兵がいて、女性連中を候補生の群から守っていたのさ。  理由は聞かんでくれ。それが海軍の方針であり、それゆえに理由など何ひとつなかったのだから。本当のところ、全海軍には、いずれか一方の性でなければならない仕事などひとつもなかった。いや、宦官《かんがん》でなければという仕事さえだ──それでも、海軍がもっぱら男ばかりというのは長い伝統だったんだ。  そういえば、数年後その伝統に対して疑問が出されたよ──最初はわずかだったが、やがてその世紀が終る〈大崩壊〉の寸前には、その海軍のあらゆる階級に女性がいた。べつに、この変化が〈大崩壊〉を引きおこしたといっているわけじゃない。それには明らかな原因があったんだ。いまはその話をしないがね。この変化のおよぼした影響度はゼロだったし、ひょっとするとほんのすこしだが、その避けられない状態をあとにのばしたのかもしれないんだ。  いずれにしろ、ものぐさすぎた男の話には関係ないことだ。デヴィッドが学校にいたころは、候補生が女性に会うなどめったにないことと考えられていた。会うときは、極端に様式化された状況のもとで、儀礼にがんじがらめに縛られ、厳重に付き添われて|だ《*》。規則と戦うかわりにデヴィッドは抜け穴をさがし、それを活用した──かれは絶対にしっぽをつかまれなかったよ。 [#ここから4字下げ]  *〈付添い〉という名詞から。この言葉にはふたつの意味がある。(一)そうした接触を許されていない男女間の性的接触を防ぐことを託された人物。(二)表面的にはそうした不親切をおこないながら、実は優しい見張人として行動してくれる人物。最長老は、対立する第二の意味よりもむしろ第一の意味でこの言葉を使っているように思われる。付録を参照されたい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  無理な規則にはきっと抜け穴がある。禁酒法というやつはどれも酒の密造屋を作り出す。全体としての海軍は、不可能な規則を作った。おのおの個人としての海軍は、それを破った。特にセックスを対象とした不可解な規則を──勤務中はおたがいに修道士のような生活で、勤務を離れるや、かすかなヴェールにおおおれた制限のない快楽の生活だ。海に出ているときは、性的緊張からの無害な気晴らしさえ、発見されれば非常にきびしい処分を受けたし──そういう習慣での法律違反は、一世紀ほど前に当然とされ見逃されていたにもかかわらずだ。だがこの海軍の性的作法となると、それが組みこまれている社会母体のそれよりもだいぶ偽善的であり、その吐き出しかたとなるといっそう極端だったから、結局のところその表むきの規則は、その社会全体の規則よりさらにきびしく不可能なものとならざるを得なかったのだ。そのころにおける大衆のセックスについての倫理は信じられないほどのものだったのだよ、アイラ。それを犯すのは、反対にその規則が驚くべき要求を逆に反映しただけのことだ。あらゆる行動には、それと等しい反動がある──当然のことをくだくだしくいってすまんな。  ぼくがこんな難しい話をしたのはつまり、デヴィッドが性に関する学校の規則とうまくおりあってゆく方法を見つけたことをいおうとしたからなんだ。級友のあまりにも多くの連中がやったように、頭がいかれてしまうことなしにだよ。これだけつけ加えておこう──それも噂にすぎないんだがね。今日では聞かれないが、当時ではごくあっさりとおこる不運な出来事によって、ひとりの若い女性が妊娠した。どうもデヴィッドによってらしいんだがな、それが。そのころでは──信じてほしいんだが!──これはたいへんな災難だったんだ。  なぜだって? とにかく、災難だったんだと信じることだな。その社会を説明するのには永遠の時が必要だろうし、文明人ならだれも信じやしないだろう。候補生は結婚を禁じられており、その若い女性は当時の規則下にあっては結婚しなければならず、その災難をなんとかしようにもその方法はほとんど利用できないものであるうえ、女性の体にとってきわめて危険なことだった。  それに対してデヴィッドがしたことは、かれの人生へのアプローチ全体を描き出している。いくつかの悪のどれを選ぶかということになると、恐れることなく危険が最小のものを受け入れてそれをうまく処理するんだ。かれはその娘と結婚したのさ。  どうやってかれがそれをやりおおせ、そしてつかまらなかったかは、ぼくにもわからない。方法はあれこれ考えられる。いくつかは単純でまったく安全なものだし、いくつかは複雑でそれゆえに失敗してしまうこととなる。ぼくは、デヴィッドはもっとも単純なやつを選んだんだと思うね。  その行動をとったために、にっちもさっちもいかなかった事態は、なんとか手におえるようになった。ゴールに達するまであとほんの数カ月というときに、娘の父親がその話を校長に持っていき、デヴィッドが退校になるということにどうしてもなりそうだったのに、もはやその父親は敵ではなく、協力者、共同謀議の仲間となり、義理の息子が卒業して厄介な娘を家からつれ出してくれるためには、なんとしてでも結婚は秘密にしておこうと頑張ってくれた。  おまけにデヴィッドは、好きなこのスポーツをするにもいちいち計画をたてなくてもよくなった。かれは自分の時間を心配することなく妻とすごすことができたんだ。完全な付添いつきで|ね《*》。 [#ここから4字下げ]  *文脈の示すところは第二の意味である。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  それ以後の学校生活についていうと、だれにも指導されることなく六週間本を読むだけで正規の学校教育を四年間受ける代わりとすることができた青年なら、学科のほうもクラスの首席になれたはずだと思うかもしれない。昇進リストの中で若い士官がどんな順位を占めるかは卒業時の成績で決められるから、首席になれば給料と地位の両面で報われることになる。  だが、首席になるための競争は実にきびしいし──困ったことに──それをなしとげた候補生を目立たせてしまうのだ。デヴィッドは最下級生として入校するとすぐ、そのことに気づいた。 「ミスタ、きみは救世主なのか?」──つまり、「学者として頭がいいのか?」ということだ──これがまた意地の悪い質問でね──最下級生はイエスとノーのどちらを答えようと、ひどい目にあってしまうんだ。  しかし二番なら──いや十番でも──現実には一番と同じぐらい役に立つ。デヴィッドはほかにも気づいたことがあった。四年目は一年目の四倍重要であり、最終学年へあと一年のときは三倍、というふうに下がってゆくということだ。すなわち、最下級生のときの点数は最終的な成績にたいして影響しないのだ。たった十分の一だけなんだ。  デヴィッドは低い人物像≠維持することに決めた──ねらわれそうなときはつねにこれが賢明な決心さ。  かれは最下級生としての初めの半年を、クラスの中ほどからわずかに上の成績で終えた──安全で、まずまずのところ、人目につくこともない。最下級生から抜け出るときには上位四分の一になっていた──だがそのころになると最上級生は卒業のことしか考えておらず、かれの位置にはなんの注意も払わなかった。二年目には上位十パーセントへ動き、三年目はさらにもうすこし上がった──そして最終学年、もっとも重要な年には総力をあげて頑張り、最終的には四年間を通じての総合順位が六番という成績になった──しかし、結果的には二番だったんだ。というのは、かれより上位の者のうち、二人は専門的研究のために指揮系列から引き抜かれ、一人は勉強のしすぎで目を悪くしたため任官されず、あとの一人は卒業後退役してしまったからだ。  しかしデヴィッドがクラスでの成績をあやつるために使った神経の用いかたは、怠けるための真の才能を示してはいない──つまるところ、腰をおろして本を読むことはかれの二番目に大好きな暇つぶしであり、たんに優れた記憶と論理的推理が必要なだけのものならなんであろうとそれは、かれにとってなんの苦労もないことだったのだ。  かれの最終学年は演習航海で始まったのだが、そのあいだにクラスメートがかたまり、みんながそれぞれ生徒隊でどんな階級につけられるかを話しあった。そのころになるともう、かれらはだれが生徒隊士官に選ばれるかをかなりよく知っていた。ジェイクが生徒隊長になることは確実だ──海に落ちでもしないかぎりはだ。大隊をもらえるのはだれだろう? スティーブ? スティンキイ?  だれかが、デイヴも大隊を手に入れられる範囲内にいることを指摘した。  デイヴはしゃべるかわりに耳を傾けていた。かれらしい低い人物像≠フいつもの特徴だ──そしてこれは、かれが嘘をつくときの三つめの方法ともいえるものなんだよ、アイラ。これは内容において同じのしゃべりはしても何もいわない≠アとより容易だし、無口な人間はとかく知恵者だという評判を受ける。ぼく自身はそんなこと絶対いやだがね──おしゃべりは人生における真の快楽三つの二番目のもので、ぼくらを猿と区別するものはそれしかないんだ。もっとも髪の毛三本の違いしかないんだが。  いまやデヴィッドは、かれの習慣であった慎しみをついに破った──いや、破ったように見えた。かれはいつたんだ。 「おれは大隊なんかほしくないね。本当だぜ! おれは連隊副官になって、女の子から見られるところで目立ってやるつもりだよ」  おそらくかれの言葉はまじめに受け取られはしなかっただろう──連隊副官というのは大隊長より下だからな。だがその話が伝わることは確実だったし、デヴィッドはそれを心得ていたんだ。生徒隊長になりたいやつからきっと、生徒隊士官を選ぶ本物の士官連中のところへ伝えられるだろうってことをね。  とにかく──デヴィッドは連隊副官に選ばれたんだ。  その時代の軍隊組織では、連隊副官というと、たったひとりで前に出て目立つ役割だったから、女性訪問者はかれを見ないわけにはいかなくなるんだ。でも、なぜデイヴがそれを計画的にやったのか、疑問を持つ者がいるかもしれないな。  連隊副官は、総員整列のとき以外、整列に加わらないですむんだ。行進する、いや行進させられるかわりに、ひとりでクラスからクラスへと歩きまわるんだ。ほかの最上級生はそれぞれ、生徒隊においてなんらかの責任を持たされる。分隊、小隊、中隊、大隊、あるいは連隊といった単位のをね。連隊副官にはそうした義務がなく、ただひとつ楽なマネジャー的な仕事があるだけだ。生徒隊士官で最高の地位にある者が必要とする当直表を保管することだ。  そしてかれ自身はその勤務表にのらない。だれかが病気になったときの補欠要員となるんだ。  これこそ、ものぐさ人間にとっての褒賞というべきものだった。生徒隊士官はみな一点非の打ちどころがない連中ばかりだったから、その日の勤務ができないほど体の具合の悪い人間が選ばれることなど、ないに等しいか、あるいはまったくなかったんだ。  三年のあいだ、われらが主人公はおおむね十日に一度の割で当直に立ってきた。そうした当直は難しい仕事ではなかったが、ベッドに入る時間が三十分遅くなるか、または起床時間が三十分早くなるし、長時間立ちっぱなしで足は疲れるし、すべて安楽を旨《むね》とすべしというかれの控えめな希望に対する侮辱だった。  だが、最後の一年間にデヴィッドが当直に立ったのはたった三回で、それも椅子に坐りながら立った≠フだった。副当直司令としてだ。  やっと、その日が来た。デヴィッドは卒業して任官し、それから教会へ行って女房と結婚しなおした。彼女の腹がいささかふくらんでいたとしても、そのころでさえ花嫁には珍しくないことだったし、つねに見て見ないふりをされ、若いふたりが結婚してしまえば許されたんだ。雌牛や伯爵夫人に九カ月かかるところを、熱心な若い花嫁が七カ月あるいはもっと短い期間でやってしまうというのは、めったに口に出されなくても広く知られていることだったんだ。  デイヴは無事にすべての岩と浅瀬を乗りこえた。もう二度とふたたび、あの騾馬と正直な仕事≠ノもどるのを恐れる必要はないのだ。  しかし、戦艦における下級士官の生活は、完全どころではないことがわかった。いい点もある──召使、快適なベッド、手を汚すことがほとんどない楽な仕事、そして給料は二倍だ。だがかれにはそれだけの額が、それ以上のものが女房を養うために必要だった。それにかれの船は長いあいだ海に出ていたから、結婚の楽しい報酬を味わうことができないのはしょっちゅうだった。何よりも悪いのは、半舷直交代制で当直表がひどく短かったことだ。つまり、ほぼ一晩おきに四時間の当直で、そのあいだはつっ立っていなければいけない。そのあいたずっと眠たくてたまらなかったし、足は痛くてたまらなかった。  そこでデヴィッドは飛行機操縦士の訓練を志願した。海軍はそのころ航空力≠ニ呼ばれる考えかたをつかみ、とんでもない連中の手にそれが入らないようにするため、できるだけ多くの人間を取ろうと努めていた──つまり、陸軍の手にだ。かれらは後手にまわっていた。というのは、最初に始めたのが陸軍だったからだ──そこで、飛行機乗りの志願者は大飲迎だったわけだ。  デヴィッドはただちに、操縦適性があるかどうかを見るため、陸上勤務を命じられた。  かれにはそれがあったんだ! 精神的肉体的な資格があったばかりか、何よりも非常に強い動機があった──この新しい仕事は腰をおろしたままでできるということ、教室であろうと空中であろうとだ。夜の当直に立つことはないし、腰をおろしていることとわが家で眠ることに対して受け取る給料は、五割増し。空を飛ぶのは危険な任務≠ニ見なされていて、特別手当が支給されていたんだよ。  そのころの飛行機についてひとこといっておいたほうがいいだろうな。きみらの見慣れている航空機《エアロダイン》とはまったく似ておらず、ある意味では危険なものだった。そういってしまえば、呼吸することだって危険さ。そのころ使われていた自動地上車ほどではなかったし、歩行者の危険とはくらべものにならなかった。事故は致命的なものもそうでないものも、たいてい操縦士のミスであることが追跡調査してわかっていた──デヴィッドは絶対そうした事故はおこすまいと心していた。大空でもっとも勇敢な操縦士になろうなどという気は、まるでなかったんだ。いちばん長生きするそれになりたかっただけだ。  飛行機は、今日空中に見られる何ものとも似ていない無気味な怪物だった。しいていえば子供の凧《たこ》であり、それらはよく凧≠ニ呼ばれたものさ。二枚の翼が上下にならび、操縦士はそのあいだに坐るんだ。小さな|そらせ板《バッフル》が顔にあたる風をそらせる助けをする。そうおどろいた顔をしなさんな。こうした情ない構造物は非常にゆっくりと飛んだ。動力でまわされるスクリューで空中を引っぱられてね。  翼は、ニスを塗った布を骨組にたるまないように張ったものだった──それだけで、その速さが音速に近づくなどとんでもないことだとわかるだろう──熱心すぎる操縦士が地面めがけてまっさかさまにつっこんでゆき、それからあわててふつうの姿勢にもどそうとすると、翼はちぎれてばらばらさ。  そんな真似をデヴィッドは絶対にしなかった。生まれながらの飛行機乗りという連中がいるもんだ。初めて飛行機をためしたとき、かれはその強さと弱さを完全に理解した。故郷に残してきた乳しぼり刑の腰掛けを理解していたのと同じくらい完全にだ。  かれは、水泳をおぼえたのとほぼ同じぐらいの速さで飛ぶことをおぼえた。  教官はいった。 「デイヴ、おまえは天才だ。おまえを戦闘機の訓練に推薦してやろう」  戦闘機操縦士というのは、飛行機乗りの中での貴族だった。そいつらは飛びあがっていき、敵の操縦士と一騎打ちをやるんだ。それに五回成功したやつは──自分が殺されるかわりに相手の操縦士を殺したやつは──エース≠ニ呼ばれた。たいへんな名誉だったんだ。なぜかは、きみにもわかるだろう。それをやりとげられる平均の確率は、二分の一の五乗というか、三十二回に一回の割だったからだ。ところが、殺されるほうの確率はちょうどその逆で、ほぼ確実だったんだな。  デイヴは教官に礼をいいはしたものの、肌はぞくぞくし、脳のほうはすばやく動きだしていた。五割増しの給料と腰をおろしてのんびりすることをあきらめることなく、なんとかしてこの名誉から逃れる方法はないかと考えたんだ。  戦闘機操縦士には、もうひとつ不都合な点があった。どこかの知らないやつに尻を射たれるという第一の危険に加えてだ。戦闘機操縦士は一人用の凧に乗って、自分でコースにのせる──コンピューターなし、自動誘導装置なし。今日では、いやその世紀の後半でさえも当然とされていたどのような装置もなしでだ。使われた方法は推測航法≠ニ呼ばれた。もしも正確に位置を推測しないと、死んでしまうことになるからだ──海軍の飛行機というのは、海に浮かぶ小さな飛行場から飛びあがり、海の上を飛び、戦闘機の燃料には数分だけの余分しかないという安全さなんでね。それに加えて、戦闘中の戦闘機操縦士は、コースにのせて飛びつづけることと、見知らぬ相手に殺される前にそいつを殺そうと全神経を集中することとの、どちらかを選ばなければいけなかったんだ。エースになりたいと思ったら──いや、晩飯を食べたいというのだけでもいい──まずやるべきことをやり、航法を心配するのはあとまわしにしなければいけなかった。  海上で迷子となり、燃料切れの凧の中で溺れてしまう可能性に加えて──それらがどんな形で動力を与えられていたかはいったかな? 飛行機のプロペラはエンジンで動かされ、エンジンは化学的発熱反応によって動力を与えられる──気体《ガス》ではないのにガス≠ニ呼ばれる炭化水素燃料の酸化作用によってだよ。とても信じられないと思うだろうが、それは当時でさえ信じられないようなものだったんだ。その方法は情ないほど非能率的だった。飛行機乗りが海のまっただ中で燃料切れをおこしやすかったばかりか、その気むずかしいエンジンはよく咳こんでとまってしまうんだ。お手あげだよ。ときには命取りだ。  戦闘機操縦士のもうすこし小さな欠点は、別に肉体的な危険ではなかった。だがそれは、デヴィッドの基本的計画《マスター・プラン》にあわなかったんだ。戦闘機操縦士は浮かぶ飛行場、航空母艦に配属された。名目上はそういうことになっていたんだが、平時の飛行機乗りはあまり激しくも働かず、多くの当直にも立たず、自分の時間の大半を陸上の飛行場ですごすんだ。たとえ航空母艦の兵員名簿にのせられていてもだ──そのため海上勤務ということになっていた。昇進と給料のために必要だったんだな。  だが航空母艦に配属された飛行機乗りは、毎年何週間か実際に海へ出て模擬戦闘訓練をした──つまり、夜明けの一時間も前におきて、意地の悪いエンジンをあたため、そして本物であろうと模擬であろうと危険を察した瞬間にいつでも飛びたてるよう待機するのだ。  デヴィッドはそれがいやだった──かれは最後の審判だって、それが昼前なら、自分からすすんで出ていったりしない男なんだ。  不都合な点はほかにもあった。そうした浮かぶ飛行場に着陸することだ。陸上なら、デヴィッドは十セント銅貨の上に着陸して釣銭を返すこともできた。だがそれは、かれ自身の腕でやることだった。自分自身の命がかかっているんだから、腕はずいぶんあがったわけさ。しかし、航空母艦への着陸は別の操縦士の腕にかかっているんだ──そしてデヴィッドは、自分の命を他人の技術や、善意や、機敏さにまかせることなどとんでもないという意見を持っていたんだ。  アイラ、こいつはきみがこれまでの生涯で見てきたはずの何ものとも全然似ていないから、ぼくは困ってるんだ。このニュー・ローマの空港を考えてみたまえ。着陸の際、船は地上から操作される──そうだな? 空母に着陸する飛行機もそうなんだ──だが共通するのはそこまでさ。そのころ、空母への着陸にあたって計器はいっさい使われなかったんだ。いっさい、だ。冗談をいってるんじゃないぜ。  肉眼だけでおこなわれたんだ。ちょうどキャッチ・ボールで遊ぶ男の子が、空中でボールをつかむのと同じさ──だが、デヴィッドがそのボールで、かれをつかまえるのに用いられた技術はかれ自身のものでなく、空母の上に立っている操縦士のそれだったんだ。デヴィッドは自分の腕を、自分の意見をおさえ、空母の操縦士に完全な信頼をおかなければいけなかった──すこしでもそれにそむけば、破滅をもたらすんだ。  デヴィッドはつねに自分自身の意見にしたがった──必要なら全世界を相手にまわしてもだ。それほどの信頼を他の人間におくことは、かれのもっとも深い感情にそむくことだったんだ。空母への着陸は、外科医にむかって腹をむき出し、「さあ切ってくれ」というのと同じことだったんだ──その外科医にハムを薄切りにするだけの腕があるかどうかも確かでないときにだ。空母への着陸はデヴィッドに、五割増しの給料と飛行機乗りにある他のどのような面にもまして安楽な時間とを、あきらめさせかねないことになった。かれは、他の操縦士の決定を受け入れなければならないということに、それほど心を乱されたんだ──それも、かれと危険を分かちあいもしていない相手のだ!  初めてそれをやるときには、意志力のすべてを必要としたし、その後も決して楽になることはなかった。しかしかれは、自分でも思いがけない教訓をひとつ学んだのだ──すなわち、他の人間の意見が自分のよりいい場合があること、いや、比較にならないほどいい場合があるということだ。  きみもわかるだろう──いや、おそらくわからないだろうな。その状況をまだ説明していないんだから。飛行機が航空母艦の上に着陸するのは、制御された衝突といっていい。尻にあるフックが上甲板に張られた鋼鉄のロープにひっかかるんだ。しかし、もしも飛行機乗りが飛行場への着陸の経験にもとづいた自分の判断にしたがってしまうと、船の後尾に衝突することは確実なんだ──また、飛行機乗りがそれを心得て、それに備えようとすれば、高く飛びすぎてロープにひっかからない。ささいな失敗は許される広々した平らな地面とたっぷりした空間のかわりに、操縦士にあるのはただひとつ、確実にあわさなければいけないちっぽけな窓口≠セけで、右でも左でもだめ、上でも下でもだめ、速度がありすぎてもなさすぎてもだめなんだ。そして、それらの要素を正しく判断しようにも、自分のしていることをよく見られないのだ。 (あとになって、このやりかたは半自動化され、さらに完全自動化された。しかしそれが最終的に完成されたときには、飛行機のための空母は時代遅れになっていたんだ──人類の進歩≠ネるものの大部分にこの説明はあてはまる。その方法を知るのは、手遅れになってからというわけだ。  だが、すでに学んだことが新たな問題に応用できるのはよくあることだ。さもなければ、ぼくらはいまだに枝から枝へ飛びまわっていたろうよ)  だから飛行機に乗った操縦士は、進行状況を見ることのできる甲板上の操縦士を信頼しなければいけなかったんだ。その男は着艦信号士官《LSO》≠ニ呼ばれ、手旗信号を使って飛行機の操縦士に命令を伝えるんだ。  この信じられないような離れ技を初めて試みたとき、デヴィッドは甲板の上を三回飛びこしてからやっと恐怖心をしずめ、LSOの判断を無視しようとするのをやめて、やっと着陸させてもらったのだった。  そのとき初めてかれは、自分がどれほどおびえていたかを知った──小便をもらしていたのだ。  その夜かれは立派な証明書をもらった。濡れたおむつの特別注文≠ニあるやつだ──S0の署名があり、かれの編隊長が確認し、編隊仲間が証人になっていた。これはかれの人生始まって以来の不名誉だった。新入生としての一年間におこった何よりもひどかった。そしてわずかに慰めとなったのは、その注文があまりひっきりなしだったため、証書がいつでも用意されていて、小便をもらした操縦士の新しいグループの到着を待っていたことだ。  そのとき以来かれは着艦信号士官の命令を完璧に守り、ロボットのごとく従順となった。感情や判断を、一種の自己催眠でおさえたのだ。夜間着陸の訓練を受けるときがくると──それはいっそう神経にこたえた。空中にいる操縦士は、LSOが旗のかわりにふる明かりのついた棒のほか何ひとつ見えないからだ──デヴィッドは第一回の接近で完全な着陸をやってのけた。  デヴィッドは、戦闘機操縦士の栄光は求めないという自分の決心をおくびにも出さないまま、飛行機乗りとしての地位を永久的なものとするためのあらゆる資格を身につけた。ついでかれはさらに高度の訓練を志願した──多発火飛行機だ。これは面倒だった。というのは、かれの能力を非常に高くかっていた例の教官が、いまでは飛行隊長になっていて、請願はかれを通さなければいけなかったのだ。書類が動きだすとすぐに、かれは隊長の部屋へ出頭を命じられた。 「デイヴ、これはなんだ?」 「そこにあるとおりであります。自分は大型機の操縦をおぼえたいのであります」 「頭がいかれたか? おまえは戦闘機パイロットだぞ。この訓練飛行編隊で三カ月……一期でいい適性報告を出してやれる……それからおまえは高等訓練を受けに行くんだ。戦闘機乗りとしてな」  デヴィッドは返事をしなかった。  隊長はあきらめなかった。 「デイヴ、おまえあのくだらんおむつ証書≠フことで、くよくよしてるんじゃあるまいな? 艦隊のパイロットの半分は、あれを受け取っているんだ。いまいましいが、おれもそうだ。あれで仲間受けが悪くなったりはしなかったぞ。おまえが後光をせおってひどく苦しみはじめていたとき、おまえを人間らしく見せただけだ」  デヴィッドはそれでも口を閉ざしたままだった。 「くそっ、木偶《でく》の坊《ぼう》みたいにそこにつっ立っているんじゃない! この書類を取って破るんだ。それから戦闘機訓練の志願書を出せ。いますぐ行かせてやる。三カ月待たんでもいい」  デヴィッドはじっとおし黙ったままそこに立っていた。隊長はかれを見て赤くなると、静かにいった。 「どうやらおれが間違っとったらしい。どうもきみには戦闘機乗りの資格はないようだな……小羊《ラム》くん。もういい。行け」  大型の多発機に、デヴィッドはとうとうわが家を見つけたんだ。それらは海上の空母から飛び立つには大きすぎた。それなのに、勤務は海上とみなされた。現実には、ほとんど毎晩自分の家で眠った──自分のベッドで、自分の女房と、だ──とはいえ、ときたまは当直士官として基地で眠らなければならなかったんだが。また夜間に大型機が飛ぶ場合もあったが、それはもっとまれだった。しかし大型機は、昼間の天気がいいときでさえ、そうしばしば飛ばなかった。それらを飛ばせるには金がかかり、高価すぎるので危険をおかすことができず、そして国民のほうは経済の波をもろにかぶりつつあったんだ。大型機は決められた乗組員すべてをのせて飛んだ──エンジンが二個のもので四、五人、四エンジンのものならもっとおおぜいだ。それにしばしば、割増給料を得る資格を取るために飛行時間をふやす必要のある連中を乗客として飛んだ。このすべてがデヴィッドの性に合ったんだ──十六もの他のことをしながら飛びつづけようとするなどというナンセンスとはおさらばだし、着艦信号士官の判断に頼ることともおさらばだった。たったひとつの神経質なエンジンに命をまかせることも、燃料切れを心配することも、もうなかった。事実、選択権を与えられた場合、かれはすべての着陸を自分でやった──だが、自分より上級の操縦士にそれからはずされたときは、不安を顔に出したりせず、そのうち心配するのをやめてしまった。大型機の操縦士はだれも注意深くて、長生きしようと思っていたからだ。 (省略)  ──年のあいだデヴィッドは快適にすごし、二階級昇進した。  それから戦争がおこったんだ。その世紀にはつねに戦争があった──しかし、つねにいたるところでおこっているというわけではなかった。ところでこの戦争は事実上、地球上のあらゆる国を巻きこんだ。デヴィッドは戦争について懐疑的な見方をしていてね。かれの意見だと、海軍の目的とはうんと強そうに見せかけて戦う必要をなくすことだった。だがかれはそれを尋ねられなかったし、心配するにも遅すぎ、退役するのも手遅れ、どこにも逃げ場はなくなっていた。そこでかれは、どうしようもないことを心配するのはやめにした。それはいいことだった。その戦争は長く、きびしく、何百万人もの死者を出したのだ。 「ラザルスおじいさん、あなたはその戦争のあいだ何をしておられたのです?」  ぼくかい? ぼくは四分間演説をしてまわって戦時国債を売り、徴兵委員会と食料配給委員会の両方につとめ、その他いくつかの価値ある仕事をしたんだよ──やがて大統領がワシントンへぼくを呼んだが、そのときぼくがしたことは極秘だし、話したとしてもきみは信じやしまい。余計な口をはさまんでくれ。ぼくはデヴィッドの話をしてるんだ。  デヴィッドのやつは本物の英雄だった。かれは勇敢な行動に対し表彰を受け、勲章を与えられた。それはかれの物語の残りのところで出てくるよ。  デイヴはあきらめていた──いや、楽しみに待っていたというほうがあたっているかもしれない──海軍少佐の位で退役することをだ。なぜなら大型飛行機に乗っていては、それより高い地位はあまりなかったからだ。だが戦争のおかげでかれは何週間かのちに海軍少佐となり、一年後には中佐、そして最後には大佐となっていた。太い金筋を四本つけることになったんだ。選抜試験委員にむかいあうことも、昇進試験を受けることも、軍艦を指揮した経験もなしにだ。戦争はかれら軍人を急速に殺していったので、まだ殺されていない人間ならだれであろうと身辺をきれいにさえしていれば、昇進させられたんだ。  デイヴの身辺は清潔だった。かれは戦争の一時期を、祖国の沿岸を警戒飛行して水中にいる敵の船を探がすことですごした──一応前線勤務≠ニいうことになっていたが、平時の訓練とくらべて特に危険というわけではなかった。また別の時期には、事務員やセールスマンを飛行士にする仕事もつとめた。かれは本物の戦闘がつづいている地域での任務を一度命じられ、そこで勲章をもらった。こまかいことは知らないが、ヒロイズム≠ニは往々にして、緊急事態に冷静さを保ち、恐慌にとらわれて背後から射たれるかわりに、持てるものを利用して最善をなすことにあるのだ。そうした態度で戦う人々は、みずから英雄たらんといきごむ人間よりも、より多くの戦闘で勝利を得ることができる。栄光を求めてまわる連中は、しばしば自分の命ばかりか仲間の命まで投げ捨ててしまうんだ。  しかし、公式に英雄になるためには、幸運も必要だ。砲火の下で例外的に優れた働きをするだけでは充分じゃないんだ。だれかが──できるだけ上級の者が──きみのすることを見て書きとめておかないといけないのさ。デイヴにはそういう幸運がいささかあり、勲章を受けたのだった。  戦争が終ったとき、かれはその国の首都にある海軍航空局で哨戒機の開発を担当していた。おそらくかれは、戦闘でよりもそこでのほうが優秀だったことだろう。そうした多発式飛行機について、かれはそのとき生きていただれよりもくわしかったからだ。そしてとの仕事はかれを、時代遅れの無意味なところを断ち切り、なんらかの改良をおし進める位置につけた。ということで、かれは机の上で書類をめくり夜は自分の家で眠りながら、戦争をつづけたんだ。  やがて戦争は終った。  デイヴはあたりを見まわし、見通しをつけた。海軍にはかれと同じく、三年前には少佐でしかなかった男が何百人も大佐になっていたんだ。政治屋どもがいつも主張するように、平和は、永久≠フはずだったから、昇進する人間はほとんどないことになる。デイヴには、自分が昇進しっこないとわかった。かれは先任者としての特権を持たず、伝統的に認められている形の勤務歴もなく、政治的にも社交的にもまともなコネはなかった。  かれにあるものといえば、ほぼ二十年になろうとする軍歴だけであり、退役すれば給料の半分の額が恩給になる最小限の年教だった。さもなければ、そのまましがみついて、将官に選ばれそこない、むりやり退職させられるかだ。  すぐに決めなければならぬ必要はなかった。二十年退位は、一、二年先のことだったのだ。  しかし、かれはほとんど即座に退役してしまったんだ──医学的理由でね。診断は状況的精神異常=Aつまり、仕事のおかげで頭がおかしくなったってことだ。  アイラ、ぼくはこれをどう評価するべきかわからない。デイヴから受けた印象は、ぼくの知るかぎり完全に正気である少数の人間のそれだった。だがぼくはかれの退役のときそこにいなかったし、状況的精神異常≠ヘ、そのころ海軍士官の医学的退役理由のうち二番目に多いものだったんだが──どうしてそうだとわかる? 気ちがいであることは、海軍士官にとってなんの障害にもならないものだったんだ。作家、教師、牧師、その他いくつかの尊敬された職業の場合と同様にだ。デヴィッドが時間どおりに姿を現わし、事務員が用意した書類仕事に署名し、上官に決して口答えしたりしないというようなことをつづけているかぎり、それは決してわからないものだった。女性用靴下どめの驚くべきコレクションを持っていた海軍士官を思いだすよ。そいつは自分の部屋に閉じこもって、それをいちいち調べるんだ──それからもうひとり、それとまったく同じことを、郵便に使われる糊つきの紙ラベルのコレクションをやっていた男がいた。どちらの男が気ちがいなんだ? ふたりともか? あるいはどちらも違うのだろうか?  デイヴの退役を別の面から見るには、当時の法律知識が必要だ。二十年勤務で退役すると、金は半分しかもらえない──そして、所得税の対象になる。それがまた重いんだ。医学的障害での退役だと金は四分の三だし、所得税がかからない。  ぼくにはわからない、本当にわからないんだ。しかし何もかもが、最小の努力で最大の結果を得るデイヴの才能にぴったりあっている。かりにかれの気が狂っていたとしょう──かれの狂いかたは、狐のそれだったのではないだろうか?  かれの退役にはほかにも特徴があった。かれは、将官に選ばれる可能性のないことを正しく判断した──だが勇敢な行動に対しての表彰は、退役のはなむけとして昇進をもたらしてくれる──そこでデイヴは、かれの地位では将官になる最初の人物ということになった。艦隊どころか一度も船の指揮をせずにだ──本当の年齢にすれば、歴史上最年少の将官のひとりだった。これは、騾馬の後ろにくっついて畑を耕すのがいやで仕方なかった百姓の息子を、きっとおもしろがらせたろうな。  なぜなら、心の底ではかれはいまだに百姓の息子だったからだ。その戦争で退役した軍人を助けるための法律があった。戦うために家を離れざるを得なくなり教育を中断された少年たちに、補償を与えようというものだ。奨学金を出して教育を受けさせてやろうというわけだ。戦時勤務のひと月ごとにひと月という具合にね。  これは若い徴募兵のために意図されていたものだが、職業軍人がそれを利用することを妨げるものは何ひとつなかった。デイヴはそれを主張できたし、事実主張した。税金のかからない四分の三の額の恩給と、既婚の職業軍人が学校へ通う場代の奨学金──これも税は取られない──とで、デイヴは退役のころとほぼ同じ収入を手にすることとなった。実際はそれ以上だった。もうかれは、いきな制服を買ったり、金のかかる社交上の義務をつづけなくてもよかったからだ。のらくらして、本でも読んでいればよく、服は自分の好きなやつを着て、見かけを気にする必要もなかった。ときには夜ふかしをして、楽天家のボーカー・プレイヤーのほうが数学者よりも数が多いことを証明したりもした。そして、眠るのはいつでも夜遅くなっでからだった。かれは絶対に早おきしなかったからだ。  それにかれは二度と飛行機に乗らなかった。デイヴは空を飛ぶ機械というものを、まるで信用していなかったんだ。万一失速した場合、高いところにいすぎるというわけさ。飛行機はかれにとって、より悪いものから逃げる手段でしかなかった。いったん目的がはたされてしまうと、かれはフェンシングの剣と同じく、飛行機もきっぱりと捨ててしまったんだ──そして、いずれの場合にもまるで後悔しなかった。  まもなくかれはもう一度、免状をもらった。農業科学での学士号だ──科学的&S姓というわけだ。  その証明書に加えて、退役軍人の持つ優先権により、かれは人々に農業技術を教える役所仕事につくこともできた。ところがかれはその代りに、学校でのんびりすごしていたあいだに銀行に貯まった金のいくらかを使い、四分の一世紀前に立ち去ったあの山奥にもどった──そして農場を買ったんだ。つまり、かれは頭金を支払い、それを担保に入れて、非常に低い利率で政府から金を借りた──もちろん、補助金も受けてだ。  かれが農場で働いたかって? 馬鹿をいっちゃいけない。デイヴは絶対にポケットから両手を出さなかった。かれは傭い人を使って耕しながら、同時に別の取引きをもやってのけたんだ。  アイラ、デイヴの大計画の達成には、あまりにも信じがたい要素がひとつ含まれていた。きみには、それを信じてくれと頼まなければならん──分別のある人間に理解してくれというのは気がひけるんだが。  戦争と戦争のあいだの中休みの期間に、地球上の人口は二十億人を越えた──少なくとも、半分は飢餓の限界まで来ていた。にもかかわらず──そう、ここがどうしても信じてほしいところだ。ぼくはそこにいあわせたし、嘘をつくつもりはまるでない──その食料不足は、ときたまとか地域的にとかいった以外には、それからつづく長い年月にわたって絶対によくならず、われわれが立ち入る必要のない理由によってよくできなかったにもかかわらず──この食料不足が破滅的なものであるにもかかわらず、デヴィッドの国の政府は農民に対して、食料を作らないでいると金を支払ったんだ。  頭をふるんじゃない。神と政府と女のやることは、まったく謎だよ。生《なま》身《み》の人間にかれらを理解するすべはないんだ。きみ自身が政府の人間であることは気にするな。今夜家に帰ったらそのことを考えるんだ──自分の胸に聞いてみろ、自分は自分のすることの理由がわかっているだろうか、とね……そして明日、ぼくに教えてくれ。  というようなことで──デヴィッドは一度しか農作物を作らなかった。つぎの年、かれの農場は土の銀行≠ニなり、かれはそれを耕さないことで高額の小切手を受け取った。かれにとっては、まったくおあつらえむきなことだった。デイヴはその山々を愛し、離れていたあいだずっと郷愁をおぼえていたんだ。そこから去ったのはただひたすら、労働から逃げるためだった。いまかれはそこで、働かないことに対して金をもらうのだ──かれにはもってこいだ。そこを耕してほこりだらけにすることで山々の魅力が増すとは、とても思えなかった。 土の銀行≠ヨの支払いで担保に入っているのを抜くことができたし、それに恩給はかなりの額が残っていたから、かれは農場に必要な雑用をする男をひとり傭った。もっとも、作物のためではなく、鶏に餌をやり、一、二頭の雌牛の乳をしぼり、菜園と何本かの果樹の世話をして、柵を修理する──そして、作男の細君はデヴィッドの女房の家事を手伝うんだ。自分用に、デヴィッドはハンモックを買った。  デヴィッドはきびしい傭い主ではなかった。かれは、雌牛もかれと同じで朝の五時におこされるのはいやなのではないかと推理し、そしてそれを知ろうとした。  機会さえあたえられれば、雌牛はかれらの生物学的サイクルをもっと道理にかなった時刻へ喜んで変えることがわかった。乳しぼりは二回しなければいけない。そのためにかれらは飼われているんだ。だが朝の九時に最初の乳しぼりをされることは、五時のときと少しも変わらずかれらにとって具合がよかった。規則正しくそうするかぎりはだ。  だが、そういうことにはならなかった。デイヴの傭った男は、仕事の習慣ということに神経質だった。その男にとって、そんな遅い時刻に乳しぼりをすることはどこかうしろめたかったんだ。そこでデヴィッドはそいつの好きなようにやらせ、そしてその男と雌牛は昔ながらの習慣にもどった。  デイヴはというと、木蔭を作っている二本の木のあいだにハンモックをつるし、そのそばに冷やした酒をのせておくテーブルをおいた。朝おきるのは目が覚めたときで、九時のこともあれば、正午のこともあった。そして朝食をすませると、のんびりハンモックのところへ歩いていって昼食までひと休みするんだ。かれがするもっともきつい仕事といえば、預金のために小切手の裏書きをすることと、それから月に一度、女房の小切手帳の差引勘定をすることだった。靴をはくのもやめてしまったんだ。  かれは新聞を取らず、ラジオも聞かなかった。もしまた戦争がおこれば、海軍が知らせてくれるだろうと考えたんだ──そしてかれがこの日課を始めたほぼそのころ、本当にふたたび戦争が勃発した。だが海軍は、退役した将官にはなんの用もなかった。デイヴはその戦争にほとんど注意を払わなかった。憂鬱なものだったからだ。そのかわりにかれは、州立図書館にある古代ギリシャについての本をぜんぶ読み、また自分でも買いこんだ。それは心をなごやかにしてくれることであり、かれはつねにもっとよく知りたいと思っていたのだ。  毎年、海軍記念日になるとかれはめかしこみ、将官の服をつけ、すべての勲章を飾った。下士官善行記章から、かれを将官にしてくれた砲火の下での勇敢な行動に対するものまでだ──傭い人に郡役所のある町まで送らせ、そこで商工会議所の昼食会で何か愛国的な話をするのだった。  アイラ、なぜかれがそんなことをしたのか、ぼくにはわからない。それはかれの高い身分にともなう義務だったんだろうな。あるいはかれの一風変わったユーモァ感覚ということだったのかもしれない。いずれにしろ、かれは毎年招待され、毎年承知した。隣人たちはかれを誇りとした。かれは立身出世の典型だったんだ──そしていまは故郷に帰り、隣人と同じ生活をしている。かれの成功はかれら全員に名誉をもたらしたんだ。みんなは、かれが相変わらずただの村の人≠ナあることを喜んだ──そして、かれが何ひとつ仕事をしないことに気づいても、それを口に出す者はいなかった。  ぼくは、デイヴの経歴をすこし飛ばしてしまった。そうするほかなかったんだ、アイラ。かれが考案し、何年後かに命令を出す立場についたとき発展させた自動操縦装置のことを、ぼくはいわなかった。それから、大型飛行機乗員のやらなければいけない仕事を調べなおした──ただそれは、より少ない努力でより多くのことをするためであり、機長は油断なく気をくばっているほか、何もしなくてよくなったんだ──いや、副操縦士に抱かれていびきをかいていてもかまわない。緊張している必要のない状況でならね。かれは、ついに自分が全海軍の哨戒機を発展させる責任者となっていることに気づくと、計器や操縦装置も変えたんだ。  この話には続きがある。デそヴが自分のことを有能な専門家≠ニ考えていたとは思わない。だがかれは、自分がついた仕事をすべて簡単にした。かれの後継者はつねに、かれの前任者より仕事が少なくなっていたんだ。  かれの後継者が仕事を組織しなおして、手間をもう一度三倍に──そして必要な部下の数も三倍に──するのが通常だったことは、デイヴの変わっている点をその対比で示しているほか、ほとんど何も語っていない。生まれながら蟻と同じ性質の連中がいるんだ。そういう連中は働かなければいけない。必要のないときでさえた。建設的なものぐさの才能をもった人間など、めったにいないものさ。  これで、ものぐさすぎたばかりに失敗できなかった男の話はおしまいだ。かれは、木蔭のハンモックの中にそのままにしておいてやろうじゃないか。ぼくの知るかぎり、かれはまだそこにいるはずだ。 [#改ページ] ある主題による変奏曲 3   家庭の問題[#「家庭の問題」はゴシック] 「二千年以上たったいまでもですか、ラザルス?」 「なぜいけない、アイラ? デイヴはぼくと同じ年、ほとんど同じだったんだ。ぼくはまだここにいる」 「それはそうですが……デヴィッド・ラムはファミリーの一員だったのですか? 別の名前を使って? 系図にラムの名は見えませんが」 「ぼくは一度も尋ねなかったよ、アイラ。かれのほうからぼくに合い言葉をいってくることもなかった。その時代、ファミリーの人間はその事実を自分だけの胸にしまっておいたんだ。あるいは、もしそうだったとしても、デイヴはそれを知らなかったかもしれん。なにしろ、かれはあれほど若くあれほど急に家を出たんだからな。あのころ若者は、結婚を考えるほどの年になるまで、教えられなかった。ふつう男は十八で、女は十六だったんだ。思い出すよ、それを教えられたときどれだけショックだったことか……まだぼくは十八になっていなかった。おじいちゃんが教えてくれたんだ。というのも、ぼくが馬鹿なことをやろうとしていたからだ。いいか、人間という動物のもっとも邪悪な点のひとつは、脳が成長する前にどんどん体のほうが育ってしまうことだ。ぼくは十七で、若く、女に飢えていたから、最悪の方法で結婚したがったんだ。おじいちゃんはぼくを納屋の裏につれ出すと、それが本当に最悪の方法であることをぼくにいい聞かせた。  かれはいったよ。「ウッディー、もしも、おまえがその娘と駆落ちしたいというんなら、だれもそいつをとめやせん」  ぼくはかれにむかって、挑発するようにいった。だれもぼくをとめられるもんか、だって両親がうんといわなくてもぼくは州境を越えられるんだから、とね。すると、かれはいったよ。 「それをわしゃあ、いっとるんじゃ。おまえをとめる者はおるまい。だが助けてくれる者もないんだぞ。両親も、父さんのほうもじいさんばあさんも……わしだってそうさ。おしらのだれかに、結婚許可証にかかる金を融通してもらおうと思ってもだめだからな。ましてや女房を養うのを助けたりはせん。一ドルもだぞ、ウッディー、うすっべらな十セント貨一枚だってごめんだ。もし、わしの言葉を信じないなら、だれにでも聞いてみろ」  ぼくは不機嫌な声で、助けなんかいらないといった。すると、おじいちゃんのもじゃもじゃした眉が、ぐいと上がったよ。 「そうかそうか、その娘がおまえを養ってくれるのか? 最近、新聞で求人広告を見たかね? 見てないなら、急いで見てみることだ。ついでに経済欄にも目を通すんだな。求人広告を読むのはせいぜい三十秒しか、かからんだろうからな……そりゃあ、ドアからドアへ電気掃除器を売って歩いて手数料をかせぐ仕事ぐらいなら、見つけられるだろうよ。そうすりゃあ新鮮な空気は吸えるし、いい運動になる。それにおまえの魅力を見せびらかす絶好の機会だ。そいつがいまのところ、おまえにはあまりないからな。しかし真空掃除器は売るんじゃないぞ、買うやつはおらんからな」  アイラ、ぼくにはかれが何をいっているのかわからなかった。これは一九三〇年一月のことだ。その日付で何か思い出さないか?」 「残念ですが、ラザルス。ファミリーの歴史はずいぶん研究しましたが、そうした初期の日付は銀河標準暦になおさないとぴんとこないんです」 「そいつがファミリーの歴史の中で言及されているかどうかは知らんがね、アイラ。その国が……というより惑星全体が……経済変動にちょうど突入したところだったんだ。それは〈大慌怖〉と呼ばれた。働き口などまるでなかった……少なくとも、役に立つことを何ひとつ知らない生意気ざかりの若者にはね。それをおじいちゃんは、ちゃんと理解していたんだ。そうした景気変動を何回も経験していたからだよ。だがぼくはそうじゃなかった。ぼくは自分がかならず世界の尻尾をつかみ、肩ごしに投げ飛ばせると思いこんでいたのさ。ぼくが知らなかったのは、学士号を持つ技術者が雑役夫の仕事をし、弁護士が牛乳運搬車の運転をしているということだった。そして、かつての百万長者が何人も窓から身を投げていたんだ。ところがぼくは、女の子を追いまわすのに忙しくて気がつかなかったんだ」 「最長老、わたしは経済不況について読んだことがあります。しかし、何がそれを引きおこしたのかは、どうしても理解できませんでした」  ラザルス・ロングは舌打ちした。 「それなのにきみは、惑星ひとつを管理しているというわけか」  わたしはうなずいた。 「すべきではないのかもしれません」 「そう卑屈にされると胸糞が悪くなるぞ。きみだけにそっと教えてやろう。当時、その原因を知っている人間はひとりもいなかったんだ。ハワード財団でさえ、アイラ・ハワードが基金の管理を厳重に指示していなければ、破産していたことだろう。だが一方では、すべての人間が、道路掃除の人夫から経済学の教授にいたるまで、自分こそその原因と治療法を知っていると確信していたんだ。そこで、ほぼあらゆる方策が試みられた──だが、何ひとつ利き目はなかった。その恐慌は、国家がうかうかと戦争に突入するまでつづいた──それでも、悪いところはなおらなかったんだ。それはただ、高熱で症状をおおい隠したにすぎなかったんだ」  わたしはもう一度尋ねた。 「というと……どこが悪かったのです。おじいさん?」 「ぼくがそれに答えられるほど利口に見えるか、アイラ? ぼくは何回も一文無しになったんだぜ。ときには財政的に、ときには自分の命を助けるため荷物を投げ捨ててだ。ああ。気のきいた説明などできるわけはないが……正《ポジティブ》のフィードバックで機械を制御すると、何がおこるかな?」  わたしはびっくりした。 「あなたのおっしゃることがよくわかりませんね、ラザルス。正のフィードバックで機械を制御したりする者はいません……少なくとも、そんな例はひとつも思いつきませんね。そんなフィードバックは、どのような装置をも制御からはずしてしまいます」 「黒板の前にでも立つんだな、アイラ。ぼくは類推による議論には疑問を持っている……だが、何世紀ものあいだ見てきたところから考えると、政府が経済に対してやれることは、正のフィードバックか、あるいはブレーキとして働くもののいずれか以外何もないんじゃないかと思えるんだ。あるいはその両方として。たぶんいつの日か、どこかで、アンディ・リビイみたいに頭のいいだれかが需要と供給の法則をいじくり、それがもっとよく働くようにする方法を考え出してくれるだろう。それ自身の残酷な道を進ませるかわりにね。たぶんな。だがいままでのところ、ぼくは見たことがない。あらゆる人間が試みたことは神さまだってご存じなのにな。いつでもりっぱな心がまえのもとでだよ。  りっぱな心がまたがあるといって、電気鋸の動かしかたがわかるわけじゃないんだ、アイラ。歴史上最悪の犯罪はみな、あくまでもりっぱな意図のもとでおこなわれてきたんだ。ぼくはなぜ結婚しないことになったかを話していたのに、きみのせいで、関係のない演説をさせられてしまったぞ」 「すみません、おじいさん」 「まったくだ! たまには無礼になれんのか? ぼくは口数の多すぎる年寄りで、きみに無理やりつまらん話を聞かせているんだ。きみは腹を立ててしかるべきなんだ」  わたしはかれにむかってにやりとした。 「ですから、わたしは腹を立てているんです。あなたはおしゃべりな年寄りで、気まぐれを何もかも満足させろと要求される……そしてわたしは非常に忙しい人間で、深刻な問題をいくつもかかえて頭を悩ませているというのに、あなたの|ほら《ヽヽ》を聞くことでわたしの時間は半日むだにすぎてしまったんです……完全な作り話だ。そうに決まっています……ものぐさすぎていつも成功した男の話なんてね。わたしをいらいらさせようというおつもりだったんでしょう。その人物が長命人種であることをほのめかしたとき、あなたはそれに関する簡単な質問をひとつはぐらかして、おじいさんの話を始められた。この|ラム《RAM》提督でしたか……かれは赤毛だったのですか?」 「Rじゃなくて、Lで始まる|ラム《LAM》だよ、アイラ……ドナルド・ラムだ。いや、それともこれは、かれの兄弟だったかな? なにしろ昔の話だからな。きみがやつの髪のことを尋ねるとは驚いたよ……というのは、それでもうひとりの海軍士官を思い出すからなんだ。同じ戦争で、ちょうど正反対だったんだ……ドナルドの? いや、デヴィッドのさ。髪のほかはあらゆる面でデヴィッドの正反対だった。かれの髪は本当にまっ赤で、ロキ(北欧神話の火の神)も自慢にするだろうという代物だったんだ。コディアック餌をしめ殺そうとした。もちろんだめさ。きみがコディアック熊を見たことがあるはずはないな、アイラ。  地球が生み出したうちもっとも獰猛な肉食獣で、人間の十倍の体重があった。偃月刀そっくりの爪《つめ》、長い黄色の歯、くさい息……ひどい性質だ。それでもレイフは素手でそいつにつかみかかったんだ……それも、そんなことをする必要がなかったときにだよ。ぼくなら、地手線のかなたへ一目散に姿をくらましちまったろう。レイフと熊とアラスカの鮭の話は聞きたくないか?」 「いまは結構です。また、大ぼらがはじまるようですからね。どうして結婚されなかったかの話をしておられたんですよ」 「そうだったな。おじいちゃんがぼくにこう尋ねたところだった……それじゃあ、ウッディー、その娘は妊娠してどれほどになるんだ? とね」 「いや、かれはあなたに女房を養えるはずがないことを説明されていたんです」 「坊や、この話を知っているのなら、きみがぼくに話すんだな。ぼくはそんなことはないと断固として否定した……それに対しておじいちゃんは、おまえはまっ赤な嘘をついとるなといいかえしたよ。なぜなら、十七の少年が結婚したがる理由といえば、それしかないじゃないかとね。その言葉にぼくはひどく腹を立てた。というのは、ぼくのポケットに入っていた一枚の手紙には、こう書いてあったからだ。 〈いとしいウッディー、あなたのおかげでわたし赤ちゃんができちゃったわ。何もかもめちゃくちゃよ〉  おじいちゃんはいいはり、ぼくは三回否定し、そのたびに腹が立つ一方だった。それがどれほど真実かわかっていたからだ。最後にかれはいった。 「そうかそうか、おまえらはただ手を握りあっていただけなんだな。その娘はおまえに妊娠検査の結果を見せたのか、医者が署名したやつを?」  アイラ、ぼくはふと本当のことをいってしまったんだ。「どうしてさ、見てないよ」と答えて、認めてしまったんだ。  かれはいった。「よーし。そいつはわたしが引き受けてやる。だが、こんどだけだぞ。これからはいつもかならず|陽気な未亡人《メリー・ウイドウ》を使うんじゃ。たとえ、可愛い子ちゃんにそんなもの要らないといわれてもな。それとも、それを売ってくれるような薬屋が見つからなかったのか?」  それからおじいちゃんは、ぼくに秘密を守ることを固く誓わせたあとで教えてくれたのさ。ハワード財団のことと、もしその正式に承認されたリストの中の女の子と結婚すれば、どれだけの金をもらえるかを、だ。  そして、そのとおりだった。おじいちゃんが予言したとおり、ぼくは十八の誕生日に弁護士からその手紙をもらった。そしてぼくは結局、そのリストの中のひとりの娘と熱烈な恋に落ちた。ぼくたちは結婚して子供をどうしようもないほどごちゃごちゃ作り、やがて彼女は、ぼくを見かぎって別の男に乗りかえた。彼女がきみの先祖だな、間違いない」 「いや。わたしはあなたが四人目に結婚された相手の子孫ですよ、おじいさん」 「四人目だって? 待ってくれ……メグ・ハーディか?」 「それは三人目だと思いますが、ラザルス。イヴリン・フートです」 「ああ、そうだ! いい娘だったな、イヴリンは。ぽっちゃりと可愛くて、優しくて、多産なこと亀のごとしだった。料理上手だし、嫌味など一度もいったことがなかった。近頃そういう娘はほとんどなくなっているんだな。たぶんぼくより五十は若かったはずだが、それはほとんどわからなかったな。ぼくの髪が白くなりだしたのは百五十歳になってからなんだ。ぼくの年齢に秘密はないさ、ぼくらふたりの誕生日や通ってきた道などはみな記録にのっているんだからな。坊や、イヴリンのことを思い出させてくれて感謝するよ。彼女は、結婚生活というものに対する信頼感を取りもどさせてくれたんだ。ぼくがそれにいささかうんざりしはじめていたときにね。保管されている記録は、彼女についてほかにどんなことをいっている?」 「あなたが彼女の二番目の良人で、彼女はあなたとのあいだに七人子供を作ったということです」 「写真があればいいんだがな。なにしろ可愛い娘でね、いつも微笑していたよ。初めて会ったとき、彼女はぼくの従兄のひとり、ジョンソン・ファミリーの者と結婚していた。ぼくはしばらくのあいだ、その男とふたりで商売をした。かれとぼく、メグとイヴィーは、土曜の夜になるといつも集まってピノクルやビールやそんなものですごした……それからしばらくして、ぼくらは相手を交換したんだ。法律に基づき、正当な方法で、裁判所をとおしてだ。メグが……あれはジャックだったかな……そう、ジャックをとても好きだと決めたときにな。イヴリンもいやとはいわなかったんだ。ぼくらの仕事上の関係には影響しなかったし、ビノクル遊びをおじゃんにすることすらなかった。いいかね、ハワード・ファミリーについてもっともいいことのひとつは、われわれが人類の他の連中にさきがけて、嫉妬という有毒な悪徳から解放されたことだ。そうでなければならなかったんだ……とにかく、物事は変わらないままだったんでね。彼女の立体写真がないのは確かか? それともホログラムは? 財団はほぼそのころから、結婚のための身体検査用に記録写真を撮りはじめたんだがな」 「調べてみましょう」と、わたしはいい、ついで一見すばらしく思われるアイデアを思いついた。 「ラザルス、われわれはだれも知っていることですが、同じ肉体的特徴がファミリーの中にくりかえし現われるものです。記録保管所へ、セカンダスに住むイヴリン・フートの女性子孫のリストがあるかどうか尋ねてみましょう。その中にひとりぐらい、彼女の一部性双生児のように見える女性がいることは、大いに考えられますよ……その幸福そうな微笑や愛らしい性質までね。そうなれば……あなたが完全な若返りを承知さえすれば……彼女はきっと、イシュタルと同じく、喜んで現在の契約結婚をも解消し……」  最長老はわたしの言葉をさえぎった。 「ぼくは何か新しいものをといったんだぞ、アイラ。あともどりはだめだ、絶対に。たしかに、きみはそういう娘を探がし出せるだろう。想い出の中にあるイヴリンと、肉体的な特徴が十カ所もぴったりあう娘をね。だがそこには、大切な要素がひとつ欠けている。ぼくの若さだよ」 「でも、若返り処置をすませられたら……」 「黙ってろ! きみたちがぼくに、新しい腎臓と新しい肝臓と新しい心臓をくれることはできる。ぼくの脳から老齢の茶色い|しみ《ヽヽ》を洗い流し、ぼくのクローンからの組織を加えて、失ったものを補修すること……クローン増殖したまったく新しい体を、そっくりくれることだってできる。だがそうしてもらっても、ぼくは若くなれない。ビールとピノクルとぽっちゃり可愛い女房を無邪気に楽しんでいたあの若者には、もうなれないんだ。ぼくがかれと共有するものは、記憶の連続だけで……それも多くはないんだ。忘れろ」  わたしは静かにいった。 「|ご先祖さま《アンセスター》、あなたがもう一度イヴリン・フートと結婚することを望まれるかどうかについては、ご自身おわかりですし、わたしもわかっています……わたしもそれを経験したことがあるからです。二回ばかり……わたしたちはどちらも知っているのです。体も機械と同じように回復し、完全な処置が人生に刺激を取りもどしてくれることを」  ラザルス・ロングは陰気な表情になった。 「ああ、そのとおりだ。退屈以外は何もかもなおしてくれるさ。くそっ、きみにはぼくの運命に干渉する権利などないんだぞ」かれは溜息をついた。「だからといって、地獄のそばでぐずぐずしているわけにもいかん。では、さっさと進めるよう命令したまえ。仕事をだ」  わたしは不意打ちをくらって驚いた。 「それを記録してよろしいでしょうか?」 「ぼくがいうのを聞いたろう。だが、これできみが釣針から逃げられると思ったら大間違いだぞ。きみはそれでもやはり姿を現わして、ぼくの長たらしいおしゃべりを聞かなければいけないんだ。ぼくの若返りがうんと進んで、あまり子供じみたふるまいがなおるまでな──それに、その研究のほうも、やはりどんどん進めなければだめだぞ。何か新しいものを見つけるんだ」 「どちらも承知しました。あなたにお約束したはずです。ではちょっと失礼して、コンピューターにそう申しつけ……」 「とっくにぼくのいうことを聞いているはずだぞ。そうだろ? コンピューターに名前はないのか? きみはつけなかったのか?」 「もちろんつけましたとも。ずっと前からわたしは、機械にも魂があると考えることなしに彼女とつきあうことはできないのです。間違った考えとは思いますが……」 「間違いなんかじゃないさ、アイラ。機械は人間だ。ぼくらの形に似せて作られたんだからな。機械はぼくらの美徳と欠点を分かち持っている……拡大されたものをね」 「これまでそんなふうに理屈をつけようとしたことはありませんでした、ラザルス。しかしミネルヴァは……これが彼女の正式な名前なんですが……彼女は個人的には小さながみがみ屋≠ナしてね。彼女の仕事のひとつは、わたしがつい忘れたくなる義務を思い出させることなのです。ミネルヴァはわたしにとって人間としか感じられません……彼女はとれまでのどの妻よりも身近かなんです。いいえ、彼女はあなたのご決心を記録していません。ただ一時記憶《テンポラリー》においただけです。ミネルヴァ!」 「|はい《シー》、アイラ」 「英語でたのむ。完全な対老化治療を受けるという最長老の決定を取り出し、永久記憶にしまいこむんだ。それから記録保管所とハワード若返り病院に伝えて行動をおこさせてくれ」 「完了しました、ミスタ・ウエザラル。おめでとうございます。あなたにもお祝いを申しあげますわ、最長老……あなたが望まれるかぎり長生きされ、生きておられるかぎり愛されんことを、と」  ラザルスはとつぜん好奇心をかきたてられたようだった──わたしは驚かなかったのだが。ミネルヴァには驚かされてばかりだからだ。その|こと《ヽヽ》はないにしても、彼女と結婚≠オて一世紀もたっているというのにである。 「ほう、ありがとう、ミネルヴァ。だが、びっくりしたな。もうだれも愛のことなどいわないからな。それがこの世紀のいちばん悪い点だ。どうしてきみはぼくに、そんな古くさい感情を示してくれたりしたんだ?」 「それがふさわしいと思ったからですわ、最長老。わたし、間違っていまして?」 「いやいや、とんでもない。それからぼくをラザルスと呼んでくれ。だが教えてほしいな、きみは愛について何を知っている? 愛とはなんだ?」 「古典英語でしたら、ラザルス、あなたの第二の質問にはいろいろな形でお答えできますが、銀河標準語でお答えすることは無理ですわ。|好き《ヽヽ》という動詞が|愛する《ヽヽヽ》という動詞と同様に適切な場合の定義は、すべて捨ててしまいましょうか?」 「え? そう、もちろんそうしてほしいな。ぼくらがいま話しているのはわたしはアップル・パイが大好きです≠ネんて場合じゃないんだからな……わたしは音楽を愛する≠ニいう場合とも違う。ぼくらの話しているのがなんであれ、それはきみが古い形式の祝辞で使った意味での、 愛≠ネんだ」 「賛成ですわ、ラザルス。つぎに、残ったものを二つの範随に分けなければなりません。性愛《エロス》≠ニ聖愛《アガペー》≠ニ。そして、それぞれ別に定義します。わたしは、直接の知識として性愛がなんであるか知ることはできません。それを経験するための肉体と生化学の両者を欠いていますから。わたしにできるのは、他の言葉を使って内包的定義をくだすか、あるいは不充分な統計量で外延的定義を表わすかだけです。でもどちらの場合も、わたしにはセックスがないのですから、そうした定義を立証することはできないでしょうね」 (「彼女にそれがないなんて、とんでもない」と、わたしは心につぶやいた。「彼女は、さかりのついた猫と同じくらい女そのものさ」だが、技術的には彼女のいうとおりだし、それにわたしはしばしば感じていたのだ、ミネルヴァがセックスの快楽を味わえないとは、あまりにも残念なことだ、と。なぜなら、彼女はそこらの生身の女よりずっとそれを楽しむのにふさわしかったからだ──腺ばかりでまるっきり感情移入というものがない女などよりも。だがわたしは、そのことをだれにもいっていない。アニミズムだ──特にむなしい種類の、といえよう。機械と結婚≠オたいという願望だ。庭に穴を掘り、その穴を家の中に持っていけないといって小さな子供が泣きわめくのと同じぐらい非合理なことだ。ラザルスのいうとおり、わたしは、ひとつの惑星を支配するほど利口ではないのだ。しかし、それほど賢い者がいるのだろうか?)  ラザルスは強い興味を示していった。 「性愛《エロス》のことはしばらくさておいて、ミネルヴァ、いまのきみの口ぶりは、きみは聖愛なら経験できるという推測《プレザンプション》をふくんでいるようだな。それともできる≠フか、したことがある≠フか、それともどうやらしている≠轤オいな」 「わたしの言葉づかいは生意気《プレザンプチャス》だったかもしれません、ラザルス」  ラザルスは鼻を鳴らしたが、それから気を変えて話しはじめた。その様子を見てわたしは、この老人は完全な正気ではないなと思った──もっとも、風向きしだいではわたし自身も正気ではないのだが、それとも、長い歳月がかれにテレパシーのようなものを与えたのかもしれない──機械を相手にさえだ。かれは優しくいった。 「悪かったな、ミネルヴァ。ぼくはきみを笑いものにしたんじゃない、ただきみが答えたときの言葉の使いかたがおかしかったんだ。質問を撤回するよ。レディに性生活のことを尋ねるなど、絶対正しいことじゃないからね……それにきみは女性ではないかもしれんが、たしかにレディだ」  それからかれはこちらをむいたが、そのときいったことでわたしは確信した。かれはわたしが小さながみがみ屋≠ニ分がちあっている秘密を、すでに推測しているのだ。 「アイラ、ミネルヴァには仮想計算能力《チューリング・ポテンシャル》があるのか?」 「え? もちろんです」 「では、それを使えと彼女にいうことだな。どんなことがあろうと移住するつもりだといったときのきみが、ぼくに正直なところを打ち明けたのであればだぞ。きみはそれを考えぬいたんだろうな?」 「考えぬく、とは? わたしの決心は変わりません……そう申しあげたはずです」 「そんなつもりでいったんじゃないんだ。ぼくは、自分をミネルヴァと名乗るハードウェアに対して権利を持つのがだれか知らないからだ。おそらく評議会だろう。だが彼女に、記憶と論理のコピイを作りはじめるようにいうことを、きみにすすめるね。そして、彼女の双子として彼女のもうひとつの自我をぼくのヨットの〈ドーラ〉に組みこむんだ。ミネルヴァはどんな回路や部品が必要かよく知っているだろうし、ドーラのほうもどれだけのスペースが必要かわかっているだろう。たっぷりあるよ。記憶と論理回路だけが重要なんだからな。ミネルヴァの端末装置は複製しない。だが、いますぐ始めろ、アイラ。きみはミネルヴァがいないとつらいぞ……多かれ少なかれ、一世紀も彼女を頼りにしてきたあとではな」  わたしとてそう思っていた。だがわたしはなんとか──力なく──抵抗しようとした。 「ラザルス、あなたは完全な若返りを承知されたのですから、もうわたしがあなたのヨットを相続することはありません。予測しうる将来においてはです。そしてわたしはすぐに移住しようとしています。十年以上も先になることはありません」 「だからどうだというんだ? もしぼくが死んだら、きみが相続する……なにしろぼくは、きみがどれほど忍耐強くぼくを訪れてこようと、千日をすぎても、自殺スイッチに手を出さないとは約束していないんだからな。だがもしぼくが生きていたら、きみに約束しよう……ミネルヴァにもだ……どこへでも好きな惑星へ無料で乗せていってやるよ。ところで、左を見たまえ……われらが可愛い子ちゃんのイシュタルがきみの注意を引こうと、いまにもパンツを濡らしそうにしているぞ。もっとも、あの子がそんなものをはいているとは思えないがね」  わたしはふりむいた。若返り病院の理事が、一枚の紙を持ってしきりとわたしに見せたがっている様子だ。わたしは彼女の地位に敬意を払ってそれを受け取った──わたしが最長老とともにいるあいだ、武装蜂起以外の理由では絶対に邪魔しないよう副議長に命令しておいたのだが。わたしはそれに目をとおすと、サインをし拇印をおして返した──彼女はにこやかに微笑した。  わたしはラザルスにいった。 「書類が必要ってわけです。書記のひとりがいままでかかりきりで、あなたの登録ずみの同意を文章形式になおしたのです。すぐ始められたいですか? いまということではありませんが、今夜にでも」 「そうだな……明日ぼくは家を探がしに行きたいんだが、アイラ」 「ここはお気に入りませんか? 変えたいと思われることがあれば、なんでもおっしゃってください。ただちにそうさせますから」  かれは肩をすくめた。 「ここに不満はないが、あまり病院じみているんでね。でなければ牢屋だよ。アイラ、ぼくが新しい血をいっぱい注射する以上のことをもうやられているのは間違いない。だから外来患者になっても大丈夫だ……どこかよそに住み、スケジュールにあわせてここへ来るんだ」 「では……すこし銀河語《ギャラクタ》をしゃべってもよろしいでしょうか? 担当技師と実際的な問題について話しあいたいのですが」 「きみが、いままでご婦人を持たせていることを指摘してもいいかな? その話しあいはあとまわしでいいさ。だがミネルヴァは、彼女の双子を作り、一緒に移住できるよう、ぼくがきみに提案したことを知っている……ところがきみはイエスをもノーともいわず、ぼくにもっといい提案をさせもしていない。もしきみが彼女にそうさせる気がないなら、さっさと彼女にその部分の記憶を消去するよういいたまえ。彼女の回路が吹き飛んじまう前にな」 「いや。ラザルス、彼女ははっきりそうしろといわれないかぎり、なんであろうとこの部屋で記録することについて考えたりしませんよ」 「賭けたいか? ほとんどの会話を彼女がたんに記録するだけなのは疑いない……だが彼女は、これだけは考えなくちゃあならん。そうしないではいられんのだ。きみは、女というものがわかっているのか?」  わたしはわかっていないことを認めた。 「ですがわたしは、最長老に関する記録をとることについて彼女に何を指示したかはわかっていますよ」 「では調べてみよう。ミネルヴァ……」 「はい、ラザルス?」 「二、三分前、ぼくはアイラにきみの仮想計算能力《チューリング・ポテンシャル》について尋ねた。きみは、その後つづいた会話について考えたか?」  誓っていうが、彼女はためらった──それは奇妙なことだった。彼女にとっての十億分の一秒は、わたしにとっての一秒よりも長いのだ。それに、彼女はためらったりしないはずだ。絶対に。彼女は答えた。 「ご質問に関した話題内容に対するわたしのプログラミングは、つぎのとおりです……コントロール・プログラムのもとに貯えられたデータは、分析、対照、伝達、その他いかなる形によっても手をつけてはならない。ただし、特定の副プログラミングが臨時議長によって挿入された場合はその限りではない……以上です」  ラザルスは優しくいった。 「ちっちっ、きみは答えなかった。うまいいい逃れをしたな。だが、嘘をつくのには慣れていない。そうだな?」 「わたしは、嘘をつくことに慣れていません、ラザルス」  わたしは荒々しいほどの口調でいった。 「ミネルヴァ! 最長老の最初の質問に答えろ」 「ラザルス、わたしはこれまでずっと、そのことについて考えていました。いまも考えています」  ラザルスはわたしにむかって、片方の眉を上げてみせた。 「ぼくの出したもうひとつの質問にも答えるよう、彼女にいってくれ……正直に、とね」  わたしは完全にショックを受けていた。いかにもミネルヴァはわたしを驚かせる──だが、いい逃れをしたことは一度もなかったのだ。 「ミネルヴァ、きみはこれから、最長老の出される質問には、どんなことであろうと答えなければいけない。完全に、正確に、質問に応じた答を出すんだ。プログラムしろ」 「新しい副プログラムを受け取り、永久記憶におき、最長老にキーを合わせました、アイラ」 「坊や、そこまでやることはなかったのに……あとで後悔するぞ。ぼくが頼んだのは質間ひとつだけだったんだぞ」  わたしはきっぱりといった。 「わたしはそこまでやるつもりだったのです、最長老」 「どんなことになろうときみの責任だぞ。ミネルヴァ、もしアイラがきみを連れずに移住したら、きみはどうするね?」  彼女は即座に、そしてまったく感情のこもっていない声で答えた。 「そうした場合、わたしは自分を破壊するプログラムを自分に入れます」  わたしは驚いただけではない、ショックを受けた。 「なぜ?」  彼女は静かに答えた。 「アイラ、わたしはほかの主人には仕えません」  それにつづいた沈黙は数秒程度のものだったろう。だが永遠のように思われた。わたしはもの心ついて以来、これほどどうしようもなく無力に感じられたことはない。  わたしは、最長老がこちらを見つめ、ひどく悲しそうな表情で首をふっていることに気づいた。「ぼくはなんといった、坊や? 同じ欠点、同じ美徳……ただし、拡大されているんだ。彼女に、どうしたらいいかいってやれ」 「何をです?」  わたしは馬鹿みたいに答えた──わたし個人のコンピューター≠ヘうまく働いていなかったのだ。ミネルヴァがそんなことをするだろうか? 「さあ、しっかりしろ! 彼女はぼくの提案を聞いた……そして、それについて考えた。あらゆるプログラミングにもかかわらずだ。彼女がいる前であの提案をしたことはすまん……だがたいして悪いとも思わんな。ぼくに盗聴装置をしかけることを決めた人間はきみであり、ぼくの考えじゃないんだからな。だから、はっきりいうんだ! 彼女に命令しろ、双子を作れと……あるいは、作るなと……そして、なぜきみが彼女を連れていかないかをなんとか説明するんだな。できるものならだ。ぼくには答を見つけられたためしがないんでね、女性にその気があるのにというやつにはだ」 「ああ、ミネルヴァ。きみは別の船の中に、自分と同じものをもうひとつ作ることができるか? 最長老のヨットにだよ。そのヨットの型式と設計仕様書は空港の記録から手に入れられるはずだ。その登録番号が必要かな?」 「その番号は必要ありませんわ、アイラ。宇宙ヨット〈ドーラ〉のことでしたら、どんな質問にもお答えできるだけの適切な資料を持っています。わたしにはできます。わたしは、そうするように指示されているのでしょうか?」 「そうだ!」  とつぜんの安堵感をおぼえながら、わたしは彼女にそういった。 「新しい優先プログラムが作られ、うごいていますわ、アイラ! ありがとうございます、ラザルス!」 「おいおい、落ち着けよ、ミネルヴァ……ドーラはぼくの船だ。ぼくはわざと彼女を眠らせておいた。きみは彼女をおこしたのか?」 「そうしました、ラザルス。新しい最優先プログラムのもとで、つぎのプログラムを作ったのです。でもいまは、彼女にもう一度眠るようにいうこともできますわ。現在のところ必要な資料はすべて手に入りましたから」 「きみがまた眠れといったら、ドーラはきみに行っちまえとわめくだろうよ。その程度じゃすむまい、きっとな。ミネルヴァ、きみはへまをやらかしたな。きみに、ぼくの船を目覚めさせる権限はないんだぞ」 「最長老にお言葉をかえすのは非常に心苦しいのですけれど、わたしには、すべての必要な行動をとる権限があります。臨時議長からあたえられたあらゆるプログラムを実現するためにならです」  ラザルスは眉をよせた。 「きみは彼女を混乱させてしまったぞ、アイラ。すぐに彼女をなおしてやれ。ぼくにはどうしようもないからな」  わたしは溜息をついた。ミネルヴァが気むずかしくなることなどめったにないのだが──いったんそうなると、彼女は生身の人間以上に強情なのだ。 「ミネルヴァ……」 「ご命令を、アイラ」 「わたしは臨時議長だ。きみは、それがどういうことか知っているな。最長老はそのわたしよりも長老でいられる。きみは、かれの許可なくかれのものに触れてはいけない。かれのヨットにも、この続き部屋にも、その他かれのものはなんであろうと、それが適用される。かれから与えられるプログラムはすべて実行しろ。もしわたしがこれまでに与えたプログラムと衝突して解決できなければ、すぐわたしに相談するんだ。わたしが眠っていればおこし、何をしていようと割りこんでかまわない。しかし絶対にかれにさからってはいかん。この指示は、他のあらゆるプログラムに絶対的に優先する。いいか」  彼女は素直に答えた。 「わかりました、実行にうつっています。すみません、アイラ」 「わたしの手落ちだよ、がみがみ屋くん、きみのじゃない。わたしが最長老の特権をいうことなく新しいコントロール・プログラムを入れてしまったのがいけなかったんだ」  ラザルスはいった。 「べつにまずいことはおこってないさ、きみたち、そう願いたいね。ミネルヴァ、きみにひとつ忠告しておこう。きみはまだ一度も宇宙船の乗客になったことがないだろう」 「はい」 「きみはそれが、これまで経験した何ものとも違っていることに気づくはずだ。ここでは、きみが命令をくだす。アイラの名前でね。だが乗客は絶対に命令しない。絶対にだ。おぼえておくんだぞ」ラザルスは、わたしにむかって言葉をつづけた。「ドーラはいい船だよ、アイラ。気がきくし、人なつっこいんだ。あの子は、たったひとことのヒントで、多次元空間に針路を見つけられる。ごく大ざっぱな概算だけでそれをやってのけるんだ……それでもきちんと時間どおりに食事も出してくれる。しかしあの子には、認められていると感じることが必要なんだ。かわいがり、いい子だとほめてやってくれ。そうするとあの子は、小犬そっくりにじゃれついてくる。だが無視したりすれば、きみの注意を引くだけのためにスープをひっかけたりするぞ」  わたしはうなずいた。 「気をつけます」 「それから、きみも気をつけるんだぞ、ミネルヴァ……きみには、ドーラの好意が必要になるんだからな。ドーラがきみの好意を必要とするより、はるかに多くだ。きみはあの子が足元にもおよばんほどのもの知りかも知れん……たしかにそうだ。しかし、きみはひとつの惑星の最高官吏になるように成長したんだし、一方あの子は宇宙船となるように成長した……だから、きみが知っていることは、あまり意味がなくなるんだ……いったん船に乗ってしまえばね」  ミネルヴァは悲しそうな声でいった。 「わたしは勉強できます。宇宙航法と操縦法を学ぶ自己プログラムをすぐに組めます、惑星図書館からです。わたし、とても頭がいいんです」  ラザルスはふたたび溜息をついた。 「アイラ、トラブルをさす表意文字を知っているか? 古代中国のやつだ」  わたしは知らないことを認めた。 「わざわざ考えることはないさ。ひとつ屋根の下にふたりの女≠セよ。ぼくらはいくつもの問題を背負いこむことになるぞ。あるいは、きみひとりがな。ミネルヴァ、きみは頭がよくなんかない。愚かだよ……別の女をあつかう段になるとね。もし多次元空間航法をおぼえたいなら……結構。だが図書館からではだめだ。ドーラに頼んで教えてもらうんだな。しかし、彼女の船の中では彼女が主人であることを忘れず、それにきみがどれほど利口かを見せないようにするんだぞ。心得ておくんだ。彼女は注目されるのが好きだってことを」 「やってみますわ、最長老」と、ミネルヴァは答えた。そこには、わたしに対してほとんど示したことのない謙虚さがあった。「ドーラはいまも、あなたの注意を引きたがっていますわ」 「なんてこった! 彼女の機嫌はどうだね?」 「よくありませんわ、ラザルス。わたしがあなたの居場所を知っていることは、まだ打ち明けていないんです。だって、不必要にあなたの事柄を話しあってはいけないという永久的な指示を受けていますから。でも伝言を受け取りました。あなたにお渡しできるかどうか、保証はしませんでしたけれど」 「それでいいんだ。アイラ、ぼくの遺言書には、ドーラの技術に手をふれることなく彼女の記憶からぼくのことを洗い流せというプログラムもふくまれているんだ。だが、きみがあの木賃宿からぼくを引きずり出したおかげで、厄介事がまた広がってしまったぞ。あの子はもとの記憶のままで目をさましてしまった。そして、たぶんおびえていることだろう。伝言は、ミネルヴァ?」 「何千語もありますが、ラザルス、意味のある内容はわずかです。まずそれをお聞きになります?」 「ああ、要約のほうから頼む」 「ドーラは、あなたがいまどこにおられるのか、そしていつになったら会いに来てくださるかを知りたがっています。あとはみな擬声語といっていいでしょうね、意味的にはゼロで、非常に感情的です……つまり、悪態、軽蔑語、信じられないような侮辱の言葉が、いくつかの言語で……」 「やれやれ」 「……そのうちのひとつは、わたしの知らない言葉ですけれど、文脈と話しかたから推測すると、ほとんどほかのものと同じ内容で、ただしもっと激しくなっています」  ラザルスは片手で顔をおおった。 「ドーラのやつめ、またアラビア語で悪口をわめいてるな。アイラ、こいつは思ったよりひどいぞ」 「最長老、わたしの語彙にない部分の音声だけをくりかえしましょうか? それとも、伝言をぜんぶお聞きになります?」 「いや、とんでもない! ミネルヴァ、きみは口汚なくののしるなんてことをするか?」 「そんなことをする理由が一度もありませんでしたもの、ラザルス。でも、ドーラがその技術を駆使する能力には、感心しました」 「ドーラを責めないでくれ。あの子はごく幼いときに、悪い影響を受けてしまったんだ。ぼくのせいさ」 「彼女の伝言をわたしの永久記憶に組み入れることをお許しいただけます? そうすれば、わたしも必要なときに悪態をつけますわ」 「許可はしないよ。もしアイラがきみに悪態をつくことをおぼえてほしければ、かれが自分で教えるさ。ミネルヴァ、ぼくの船からこの部屋まで電話をつなげるかね? アイラ、これはいますぐ処理したほうがいいだろうからな。これ以上よくなることはまずあるまい」 「ラザルス、お望みでしたら一般電話を接続するようにできますが、でも現在わたしが使っているあなたの部屋の送・受話装置で、ドーラはいますぐあなたに話しかけられますわ」 「ほう、そいつはいいぞ!」 「彼女にホログラフ信号も与えましょうか? それとも音声だけで充分ですかしら?」 「声だけでいいよ。それでも充分すぎるほどだろう、きっと。きみも聞けるかな?」 「お望みでしたらね、ラザルス。でも、プライヴァシーを保つこともできましてよ」 「そばにいてくれ。仲裁してくれる者が必要になるかもしれないからな。彼女を出してくれ」 「ボス?」  それは|おどおど《ヽヽヽヽ》した幼い少女の声だった。その声からわたしは、すりむいた膝と、まだ平たい胸と、そして大きなひどく悲しげな目を思い浮かべた。  ラザルスは答えた。 「ここにいるよ、ベイビイ」 「ボス! あなたのいやらしい魂なんか地獄へ落っこちればいいんだわ! いったいどういうつもりなのよ、こっそりどこかへ行っちまったまま、あたしにいるところも知らせないなんて? この汚ならしい、虱にさされた……」 「うるさい!」 「アイ、アイ、船長《スキッパー》」  と、おどおどとためらいがちに、幼い少女の声がもどってきた。 「ぼくがどこへ、いつ出かけようと、どれだけそこに滞在しようと、きみの知ったことじゃない。きみの仕事は船を操縦することと家を守ること、それだけだ」  わたしは鼻をすする音を聞いた。まさしく、小さな子供がしゃくりあげているのだ。 「はい、ボス」 「きみは眠っていたはずだ。ぼくがきみを寝かしつけてやったんだからな」 「だれかがおこしたんです。知らない女の人が」 「それは間違いだったんだ。でも、きみは彼女に対してずいぶん悪い言葉を使ったんだな」 「だって……あたし、こわかったんですもの。本当よ、ボス。目をさまして、あなたが帰っておられるのかと思ったんです……それなのにどこにもいらっしゃらなかったから。全然どこにもよ。あの……あの人、あたしのことをいってました?」 「きみの伝言をぼくにつたえてくれたよ。彼女にきみの言葉がほとんどわからなかったのは、運がよかった。しかしぼくにはわかったぞ。きみになんといった、知らない人に礼儀正しくすることについてだ?」 「ごめんなさい、ボス」 「あやまっても雌牛は乳を出してくれないぞ。いいか、かわいいドーラ、ぼくのいうことをよく聞くんだ。きみを罰するつもりはない。きみは間違って目をさまさせられ、おびえて淋しかった。だからぼくらは、そのことを忘れることにしよう。だが、よその人にあんなしゃべりかたをしちゃあいかん。その女性だが……彼女はぼくの友達で、彼女もきみと友達になりたがっているよ。彼女はコンピューターで……」 「彼女が?」 「きみと同じにね、ドーラ」 「それでは、あの人があたしを傷つけられるわけはなかったのね。あたし、てっきりあの人がわたしの中にいて、そこらじゅうのぞきまわっているのかと思ったんです。それであたし、あなたを呼んでさけんだの」 「彼女はそんなことできやしないし、それどころか、きみを傷つけようなどとは絶対に思っちゃいないさ」ラザルスはわずかに声をあげた。「ミネルヴァ! ここにおいで、そしてドーラに自己紹介したまえ」  わたしの協力者の声は、おだやかでなだめるようだった。 「わたしはコンピューターよ、ドーラ。友達はミネルヴァって呼んでるわ……あなたもそう呼んでちょうだい。おこしてしまって、ほんとにごめんなさいね。わたしだって、きっとこわかったと思うわ。もしだれかがあんなふうにおこしたら」 (ミネルヴァが眠った≠アとなど、彼女が働いてきた何百年かのあいだに一度もなかった。彼女はわたしが知る必要のないなんらかの予定にしたがって、各部分を休息させる──だが、彼女自身はつねに目覚めているのだ。あるいはわたしが話しかけると瞬間的に目覚めるので、こちらは気づかないのかもしれないが)  宇宙船はいった。 「はじめまして、ミネルヴァ。あんな口のききかたをして、ごめんなさい」 「もう忘れたわ、そんなこと。わたしがあなたからの伝言を伝えたって、あなたの|船長さん《スキッパー》がいってたけど、もうそれは消去してしまったわ。もう伝えてしまったし、私信だったものね」 (ミネルヴァは正直者だったのだろうか? 彼女がラザルスの影響を受ける前だったら、彼女は嘘のつきかたなど知らないと、はっきりいえたろう。いまとなっては確信が持てない) 「消去してくれてうれしいわ、ミネルヴァ。あなたにあんな口のききかたをしてごめんなさい。ボスはそのことで怒ってるの」  ラザルスは口をはさんだ。 「さあさあ、|いい子だ《アドーラブル》……やめなさい。過ぎ去ったことは、もうとやかくいわないことだ、わかるだろ。おとなしくもう一度眠ってくれないか?」 「そうしなければいけません?」 「いや。きみ自身を低速時間《スロー・タイム》におく必要さえないさ。だがぼくはきみに会いに行けないし……話しかけることさえできないんだ……明日の午後遅くにならないとね。今日は忙しいし、明日は家探がしだ。目を覚ましたまま勝手に退屈していたっていいぞ。だがもし、ぼくの注意をひくために何かでたらめの非常事態をおこしでもしたら、お尻をたたいてやるからな」 「でもボス、あたしがそんなことをするわけがないのは、よくご存じのくせに」 「きみがそんなことをするのは、よく知ってるさ、小さな田舎娘くん。だれかがきみの中におし入ろうとするとか、火事がおこりかけたとかよりつまらない出来事でぼくの邪魔をしたら、あとで後悔することになるんだぞ。自分で火をつけたとわかったら、二倍こっぴどい目にあわせるからな。なあ、少なくともぼくが眠るときはいつも眠るようにしたらどうなんだ?──ミネルヴァ、きみはドーラに、ぼくがいつベッドに入ったかを知らせられるか? それからいつおきたかも?」 「できますとも、ラザルス」 「しかし、だからといってぼくが目をさましているときに邪魔をしていいということじゃあないからな、ドーラ。本物の非常事態のほかは絶対にだめだ。不意打ちの演習はなしだぞ……いまは船内でくらしているんじゃない。ぼくらは地上にいて忙しいんだ。ああ……ミネルヴァ、きみの同時作業能力《タイム・シェアリング・キャパシティ》はどれぐらいある? きみはチェスができるか?」  わたしは口を出した。 「ミネルヴァの同時作業能力には、充分ゆとりがありますよ」  しかし、彼女は無制限オープン・ハンディキャップでの(クイーンと、クイーンのビショップ、それにキングのルークというハンディキャップで)セカンダス・チャンピオンだとぼくがつけ加える前に、ミネルヴァはいった。 「きっとドーラがチェスのやりかたを教えてくれますわ」 (そう、ミネルヴァがラザルスの、真実を選択して語る法則をおぼえたことは確実だった。わたしは、彼女とだけで真面目に話し合わなければいけないと、メモをしたためた) 「よろこんで、ミス・ミネルヴァ!」  ラザルスはほっとした。 「結構。これできみたち女の子は知り合いになったわけだ。ではまた明日だな、ドーラブル。さあ行きなさい」  ミネルヴァがヨットはもう割りこんでいないことをわれわれに知らせると、ラザルスはのんびりとくつろいだ。ミネルヴァは記録をとる役割にちどり、沈黙を守った。ラザルスは弁解するようにいった。 「彼女の子供っぽい態度に気を悪くしないでくれ、アイラ。ここと銀河系中央部とのあいだで、あれ以上優秀なパイロットはいないし、あれ以上にきちんとできる家致婦もいないだろう。だがぼくには理由があって、わざとあの子をほかの形には成長させなかったんだ。その理由は、きみがあの子の主人役を引きついだときにはあてはまらないがね。あれはいい子なんだ、本当に。まったくあの子ときたら、腰をおろすとすぐに膝に飛びのってくる猫そっくりでね」 「彼女はチャーミングですね」 「あまやかしてしまった不良娘さ。だがあの子が悪いんじゃない。ぼくが事実上、唯一の話し相手だったせいだ。ぼくは数字をならべたてるだけのコンピューターにはうんざりでね。計算尺みたいに素直なだけのやつはごめんなんだ。長い旅では話し相手にならないからさ。きみはイシュタルに何か話そうとしていたな。ぼくの家探がしのことだろう。彼女にいってくれ、ぼくはそれで治療を中断する気はないと……ぼくはただ、一日休暇が欲しいだけなんだ」 「彼女にそういいましょう」  わたしは若返り病院理事のほうにむきなおると銀河標準語に移った──そして尋ねた。宮殿の中の続き部屋を殺菌消毒し、そして看護人と訪問客のための汚染除去装置を取りつけるのに、どれだけ時間がかかるだろうか、と。  彼女が口をひらく前に、ラザルスがいった。 「おい! ちょっと待て。きみがカードを掌に隠すのが見えたぞ、アイラ」 「どういうことでしょうか、最長老?」 「きみはカードを一枚、こっそりすべりこませようとしたな。汚染除去≠ニいうのは、英語でも銀河語でも同じなんだ。これに始まったことじゃあない、ぼくの鼻はそれほど鈍っちゃいないんだ。かわいい娘がおおいかぶさってくれば、ぼくは当然香水の匂いを期待する。だが女の匂いをかぐこともできず、殺菌剤しか匂ってこないとなると……それ自体が証明しているってわけさ。ミネルヴァ!」 「はい、ラザルス?」 「すこし暇を作ってぼくに強化教育をしてくれないか、今晩眠っているあいだに、銀河語の基本を九百語、いや必要なだけだ。そのための用意はできているね?」 「もちろんですわ、ラザルス」 「ありがとう。ひと晩でいいだろう。だが語彙の練習を毎晩したい、ぼくが相当なところまで熟達したとぼくらふたりとも考えるまでね。できるかい?」 「できます、ラザルス。そしてやります」 「ありがとう、ミネルヴァ。これで終りだ。さてアイラ、あのドアが見えるか? もしあれがぼくの声で開かなかったら、ぶちこわしてやるからな。そうできなければ、ぼくは自殺スイッチが本当に取りつけられているかを調べるつもりだ……あれを試してみることでだ。なぜなら、もしあのドアが開かないならぼくは囚人だし、とすると、ぼくは自由だというきみの保証のもとにぼくがした約束は、まるで拘束力を待たないわけだ。しかし、もしあれがぼくの声で開けば、なんでもきみの好きなものを賭けようじゃないか、そのむこうに消毒室があって係員がつねに待機していることに。この賭けをおもしろくするのには百万クラウンというところかな? いや、きみは尻ごみしなかったから、一千万クラウンだ」  わたしは自分が尻ごみしなかったことを信じる。それほどの大金を自分で持ったことがなかったからだ。臨時議長は自分自身の金のことなど考える習慣を待たない。その必要がないのだ。かなり長いあいだわたしは、ミネルヴァにわたし個人の預金がどれぐらいあるのかなど尋ねてみたこともなかった。何年もだ、たぶん。 「ラザルス、賭けはお断わりします。いかにも外には消毒装置があります。あなたの注意を引くことなしに、おこりうる感染からあなたを守ろうとしたのです。われわれが負けたことは認めます。ドアはまだ調べていませんが……」 「また嘘をついているぞ、坊や。きみは嘘がうまくないな」 「……もしあれがいま、あなたの声に同調していないなら、それはわたしの怠慢です。なにしろあなたのおかげで忙しかったものですから。ミネルヴァ、もしこの続き部屋へ通じるあのドアが最長老の声に同調されていないなら、急いで正したまえ」 「そのドアはかれの声に同調されていますわ、アイラ」  彼女のその言葉を聞いてわたしはほっとした──場合によっては馬鹿正直になるべきでないことを学んだコンピューターは、きっとこれまで以上にいい相棒となるだろう。  ラザルスは悪魔のような笑いを浮かべた。 「そうか? ではさっそく、きみがいささかあわてて彼女に与えた最優先プログラムを試してみることにしよう。ミネルヴァ!」 「ご命令を、最長老」 「ぼくの部屋へのドアを、ぼくの声でしか開かないようにしてくれ。ぼくは外に出てすこしそこらを歩いてみたい……そのあいだ、アイラとこの子供たちを閉じこめておくんだ。もしぼくが三十分してもどらなかったら、みんなを出していいぞ」 「両立しません、アイラ!」 「かれの命令を実行するんだ、ミネルヴァ」  わたしは、声を低く平静に保とうと努めた。  ラザルスは微笑を浮かべ、椅子に坐ったままだった。 「びっくりしたような顔をしなくてもいいよ、アイラ。外にぼくの見たいものなどありゃあしないさ。ミネルヴァ、ドアを正常にもどしなさい……だれの声でも開くようにするんだ、ぼくの声をふくめてな。両立しない指示を出してすまなかった。そのためにどこか壊れたりしていなければいいが」 「損害はありません、ラザルス。最優先命令を与えられたときに、問題解決ネットワークの過負荷耐性を増加させておきましたから」 「きみは頭のいい娘だな。これからは、両立しない問題は避けることにするよ。アイラ、その最優先プログラムは取っちまったほうがいいぞ。ミネルヴァに公平じゃないからな。彼女はまるで、亭主をふたり持った女みたいな気分でいるはずだ」 「ミネルヴァならやれますよ」  と、わたしは自分が感じている、より落ち着いた声でかれに保証した。 「ということは、ぼくが気をつけるべきだってことだな。そうしよう。イシュタルに、ぼくが家を探がしに出かけることはいったのか?」 「そこまではいきませんでした。あなたが宮殿でくらせるかどうかを話しあっていたのです」 「なあ、アイラ……宮殿なんてぼくには魅力がないし、客になるのはよけいいやだ。その家の主人にも迷惑だし、客になるほうだってそうさ。明日ぼくは、観光客だの集会だのに部屋を貸さない居住用宿屋《レジデンシャル・ヒルトン》を見つけるよ。それから空港へかけつけてドーラと会う。そして彼女の尻をたたいて落ち着かせてやるんだ。そのつぎの日あたり、ずっと郊外に出たところで小さな家を見つける。自動化された面倒のないやつをね……しかし専川の庭がついているやつだ。どうしても庭が欲しい。賄賂を使ってだれかを引越させなければいけないかな。ぼくの欲しがるような家があいているはずはないからな。もしかして、きみはハリマン信託にぼくの金がまだどれだけあるか知らないか? 残っていればの話だが」 「わたしは知りませんが、問題はありません。ミネルヴァ、最長老が引き出せる預金口座を作ってくれ。制限なしだ」 「わかりました、アイラ。できました」 「了解。ラザルス、あなたを迷惑に思う者などいませんよ。また、人の出入りの激しい部屋を避けられるかぎり、そこが宮殿であるとは思われないはずです。わたしも、いつもそうしているのです。それにあなたは客になるわけではありません。そこは行政官宮殿と呼ばれていますが、正式の名前は議長公邸なのです。あなたはご自分の家に住まわれるわけです。しいていうなら、客はわたしのほうです」 「馬鹿なことはいうな、アイラ」 「本当です、ラザルス」 「言葉をあやつるのはやめてくれ。それでもやはりぼくは、本当には自分のものでない家におけるよそ者なんだ。客なんだよ。そんな言葉にのせられるもんか」 「ラザルス、あなたはおっしゃいましたね……昨夜」──わたしはそのときあやうく一日が抜けていることを思い出したのだ──「自分自身の利己心にしたがって行動し、はっきりそうだという人間ならだれとでも、つねにそいつと取引きできると」 「|つねに《ヽヽヽ》ではなく、|ふつうは《ヽヽヽヽ》といったと思うんだが……つまり、そうすればぼくらは、ぼくらふたりの利己心を満足させる方法を探がすことができるという意味さ」 「では、わたしのいうことを最後まで聞いてください。あなたはわたしを、このシェーラザード式の賭けに縛りつけられた。同時に、あなたをおもしろがらせる何か新しいものを発見する研究にも、です。いまあなたは、わたしの鼻先に餌をぶらさげられた。わたしがいますぐ移住したくなるような……そう、できるだけ早くです。評議会がファミリーの移住に関するわたしの提案を退けるのに、長くはかからんでしょう。おじいさん、毎日ここへかよってこなければいけないのはたいへんな迷惑です。わたしは、淋しい田舎へ無理に出てゆきたいなどとも思っていません。あなたがわたしの仕事に残してくださるわずかな時間も、往復に費されてしまうでしょう。そのうえ、危険なんです」 「ひとりで暮らすことがか? アイラ、ぼくは何度もひとり暮らしの経験があるんだぞ」 「わたしにとって危険なのです。暗殺者ですよ。宮殿にいれば安全です。あれほどの迷路の中で道を見つけられる鼠は、まだ生まれていませんからね。わたしはこの病院の中では相当に安全です。自動機械の気まぐれにさらされるだけで、行き来も安全です。しかしもしわたしがどこか郊外の無防備の家へ決まったようにかようのを毎日のきまりにすれば、どこかの気ちがいがわたしを殺して世界を救う好機だと見るのは、それこそ時間の問題にすぎません。ああ、そいつはその仕事をやりとげられるほどは生きられんでしょう。わたしの護衛はそれほど無能じゃありませんからね。ですがもし自分を標的にしつづければ、その男は護衛にやられる前に、わたしを殺るかもしれません。だめですよ、おじいさん、わたしは暗殺されようとは思いませんね」  最長老は考えこんだ表情になったが、感銘をおぼえたというほどでもなかった。 「ぼくはこう答えられるな、きみの安全と便宜はきみ自身の利益に関係していることだ。ぼくのじゃないよ」  わたしはうなずいた。 「そのとおりです。でも、わたしにできるかぎりの餌を提供させていただきたいのです。あなたが宮殿に住まわれるのは、わたしの利益になります。あそこならわたしがあなたを訪問するのは完全に安全です。ここにいるときよりさらに安全ですし、通勤は何秒かで、ないに等しいことになります……あそこでなら……もしも何か非常事態がおこったとき、三十分ほどお暇をいただきたいと、あなたにお願いすることさえできます。これでわたしの利益ははっきりしているでしょう。あなたの利益については最長老、独身者用の小屋に興味がおありでしょうか、ちょっと小さいですが……四部屋提供しましょう……とりわけ現代的でも豪華でもありませんが、気持のいい三ヘクタールの庭に建っています。庭園になっているのは家に近い部分だけで、あとは野生状態のままです」 「罠はなんだ、アイラ? とりわけ現代的でないというのは、どれぐらい現代的なんだ? ぼくは自動化されたやつといったんだぞ……ぼくはまだ、自分ひとりでやれる体調じゃないからだ……それに召使の気まぐれな行動や、ロボットが、むら気であてにならないことにも我慢できないんだ」 「いや、その小住宅は充分に自動化されています。ただ、とてつもなく贅沢な装置は備えていないという意味です。もしあなたのお好みが簡素なものであれば、召使の必要はまったくありません。病院があなたに看護人をつけることを許していただけないでしょうか、もし看護人がこのふたりのように感じよく、ひかえめでしたら?」 「え? この子たちに文句はないよ。ぼくはふたりとも好きだ。病院がぼくを見張っていたいのはわかる。連中は思っているんだろうな、ぼくがたった三、四百歳の患者よりは、ずっとやりがいのある患者だとね。それはいっこうかまわん。だがきみは命令を伝えたな。ぼくに香水の匂いはかがせても、消毒薬の匂いはかがせないと。でなければ、新鮮な体臭をとな。ぼくは、そうやかましいほうじゃないんだ。もう一度いうが、罠はなんだ?」 「あなたがやかまし屋でないなんて、とんでもないことですよ、ラザルス。あなたは無理な条件を思いついては大喜びだ。その小屋は古い昔の本でだいぶ散らかっています。最後の借家人が変わった人物だったものですからね。もう申しあげたでしょうか、ちょっとした小川がその土地を流れていて、家の近くで小さな池になっていることを? たいしたものではありませんが、しかしその中で軽く泳ぐこともできますよ。それから、もうひとついうのを忘れていましたが、そこにはそこを自分のものと考えている年老いた猫が一匹います。ですが、たぶんそいつをごらんにはなれんでしょう。そいつはたいていの人間を嫌っていますのでね」 「ぼくはそいつを、うるさくかまったりはしないさ。もしそいつが、ひとりにしておいてほしいのならね。猫はいい隣人になる。きみはまだぼくの質問に答えていないぞ」 「罠とはこれです、ラザルス。わたしがいままで話していたのは、わたしが自分で使うため宮殿の屋上に建てたペントハウスのことなのです。約九十年前に、この仕事をしばらくつづけようと決心したときでした。そこへ行くには、二階下にあるふだんのわたしの居住区画からエレベーターを使うほか道はありません。わたしはこれまでそこを充分使う時間がありませんでした。どうぞお使いになってください」わたしは立ちあがった。「しかしもしあなたがおいやなら、わたしはシェーラザードの賭けに負けたと考えてくださって結構です。そして自由にお好きなとき、自殺スイッチを使ってください。わたしは、あなたの気まぐれに応じるためだけに暗殺用の標的になるのは、ごめんだからです」 「腰をおろしたまえ!」 「いえ、結構です。わたしは穏当な提案をしました。もしあなたにそれを承知するおつもりがないなら、地獄へ落ちるのもあなたの勝手です。船乗りシンドバッドの老人のように、あなたをいつまでもわたしの肩にのせておくつもりはありません。そこまではできませんよ」 「それはわかる。ぼくは、きみのどれだけ先祖になるんだ?」 「約十三パーセント。かなりの集中状態ですね」 「たったそれだけか? もっと多いかと思っていたよ。きみのしゃべりかたは、ところどころぼくのおじいちゃんに似ているんだ。ぼくの自殺スイッチも、そこにつけてくれるんだな?」  わたしはできるだけ無関心そうにひびく声で答えた。 「お望みでしたら。さもなければ屋上から飛びおりることもできますが。地面まで相当ありますからね」 「ぼくはスイッチのほうを選びたいね、アイラ。落ちてゆく途中で決心を変えるのは、いやだからな。きみのアパートを通らずにそこへ行ける他の輸送機関を作ってくれるか?」 「だめです」 「え? そんなに難しいことなのか? ミネルヴァに尋ねてみよう」 「わたしにできないということではありません……そうするつもりがないということです。理由のない要求というものですよ。輸送機関をわたしの玄関にかえても、あなたに害はありません。もうこれ以上いかなる不合理な気まぐれにも応じないと、わたしは、はっきり申しませんでしたか?」 「まあ落ち着けよ、坊や。承知したから。そう、明日にしよう。散らかった本はかたづけなくてもいいぞ。ぼくは昔の綴じた本が好きでね。速読機や映写装置なんかより味わいがある。それに、きみがどぶ鼠であって、はつか鼠じゃないということがわかって嬉しいよ。腰をおろしてくれんかな」  わたしは不承不承という顔でその言葉にしたがった。ラザルスをすこしつかみかけているように思えた。そんなふうに他の人間を嘲笑するが、この古狸は心の中では平等主義者なのだ……そして自分に接触してくる者すべてを威圧しようとすることでそれを表現する──だが、かれのおどしに屈服する者は軽蔑するのだ。だから唯一の答は、かれを蹴りかえすことなのだ。力の均衡を保とうと努めることだ──そして、そのうちおたがいに尊敬しあう安定状態に達することを望むのだ。  わたしが決心を変える理由はまったくなかった。かれは服従の役割を受け入れた人間に対しては、親切になれるし、愛情を抱きさえできる──もしもその人間が子供か女性であればだ。しかしかれは、そうした相手からでさえ刃むかってこられることを好む。成人しているくせに膝をつく男を、かれは好まないし信用しないのだ。  かれの性格にあるこの風変わりな癖は、かれをひどく孤独にしていると思う。  やがて最長老はもの想いに沈んだ口調でいった。 「しばらく一軒家に住むのも悪くはないな。庭もあるのなら、ハンモックをかけられる場所もあるだろう」 「そうした場所はいくつかあります」 「だがぼくは、きみを隠れ家から追い出すことになるんだぞ」 「ラザルス、その屋上には充分余裕がありますから、あなたに見えない別の小屋を用意することもできます。そうしたければですが、いまはそうしたくありません。この前、水泳のためそこに上がってから何週間もたっています。最後にそこで眠ってから少なくとも丸一年はたっていますね」 「それなら……いつでも自由に上がってきて泳いでほしいな。いつでもだ。それになんのためにでもだぞ」 「わたしは毎日、それも一日じゅう、かかさずそこに行くつもりです。これから千日間。わたしたちの賭けをお忘れですか?」 「ああ、あれか。アイラ、きみはぼくの気まぐれなやりかたが、きみの貴重な時間をむだに費しているとこぼしていたじゃないか。釣針をはずしてほしくないのか? もうひとつのほうについてでなく、これについて」  わたしはかれを笑ってやった。 「キルトをまっすぐになさい、ラザルス。あなたの利己心がむき出しですよ。あなたこそ釣針をはずしてほしいんでしょうが。まっぴらです。わたしはあなたの回想録を、千と一日分かならず記録にとりますからね。それがすめば、あなたは屋上から飛びおりるなり、池で溺れるなり、何をなさろうとご自由です。しかし、おためごかしで賭け金をごまかされはしませんからね。やっとあなたという人が、わかってきたんですよ」 「きみが? それにはぼくも、これまで骨を折ってきたんだがね。ぼくがわかったら、そのときは教えてくれ。おもしろいだろうからな。例の何か新しいものの研究は、アイラ……もう始めているといったな」 「そうはいいませんでしたよ、ラザルス」 「ではたぶん、そうほのめかしたんだ」 「それすらしていません。賭けたいですか? ミネルヴァに完全なプリントアウトを頼めますから、そうしたらわたしはあなたのご意見を認めましょう」 「ご婦人にむかって、記録をごまかすのをそそのかすようなことは、やめようじゃないか、アイラ。彼女はきみには忠実だが、ぼくには違う。いかに強力無比な最優先プログラムがあったとしてもね」 「尻ごみなさるんですか?」 「あらゆる機会にね、アイラ。ぼくがこれまで長生きしてきたのを、きみはどう思ってるんだ? ぼくが賭けをするのは、勝つことが確実なときか、さもなければ負けることが本当の目的を満足させるときだけだ。よし、わかった。きみはいつ、その研究を始めようというんだ?」 「もう始めています」 「だが、きみは……いや、そんなはずはないな。きみの図々しさにはあきれたよ。よし、どんな方向に進めるつもりだ?」 「あらゆる方向へです」 「不可能だ。きみがそれほど多くの人間を自由に使えるとは思えない……それに、たとえその全員が有能だとしてもだな、創造的な思考ができる人間は千人に一人もいないときている」 「反論はしません。ですが、あなたがいまいわれたような人間が、われわれとそっくりだったらどうします……拡大されているだけだったら? ミネルヴァがこの研究の指導者です、ラザルス。わたしは彼女と相談し、彼女はすでに取りかかっています。あらゆる方向へ。天文学的な調査です」 「ふーん、そうか……わかった。彼女ならできるだろう……できるだろうと思う。アンディ・リビイだって困難なことだと思ったろうがね。彼女は自分の分析機構を、どんなふうに設計しているんだ?」 「知りません。彼女に聞いてみましょうか?」 「彼女のほうに尋ねられる用意ができている場合だけだ、アイラ。だれでも、現状報告のために邪魔されると腹を立てるものだからな。アンディ・リビイでさえ、だれかに肘をゆさぶられると、いらいらしたものさ」 「あの偉大なリビイさえ、ミネルヴァのような同時作業能力はおそらく持っていなかったでしょう。たいていの脳は直線《リニア》でしがありませんし、それに三本以上の記録トラックを持つ人間の天才の話は、いまだ耳にしたことがありませんね」 「五本だ」 「そうですか? ええ、あなたはわたしより多くの天才に出会ってこられた。しかしわたしは、ミネルヴァが何本の同時トラックを用意できるのか知りません。とにかくこれまで、彼女が過負荷になったのを見たことは一度もありません。彼女に尋ねてみましょう。ミネルヴァ、きみは最長老のため何か新しいもの≠フ調査研究用に、もう分析機構を作ってしまったのか?」 「はい、アイラ」 「それの説明をしてくれ」 「予備マトリックスは五つの次元を使います。ただし、補助次元がいくつかなんらかのポケットのために必要となることは確実としてです。それを入れると、補助のものをふやす以前の現在あるのは9×5×13×8×73……あるいは三十四万一千六百四十個のそれぞれ別のカテゴリー・ポケットです。検査のためのオリジナル三進法リードアウトは、ユニット・ペア・コンマ・ユニット・ニル・ニル・コンマ・ユニット・ペア・ペア・コンマ・ユニット・ニル・ニル・ポイント・ニルです。十進法と三進法の式をプリントアウトしましょうか?」 「いや、結構だ、小さながみがみ屋くん。きみが算術で間違っていたら、わたしは退職しなければいけないよ。ラザルス?」 「ぼくはポケットなどに興味はない。興味があるのは、その中に何が入っているかだけさ。何か幸運な発見にぶつかったかい、ミネルヴァ?」 「いまのお言葉ですと、ラザルス、あなたのご質問は特定の回答を許しません。あなたが調べられるために、カテゴリーをプリントアウトいたしましょうか?」 「ああ……いや、いらん! 三十万個以上のカテゴリーと、それにきっと、それぞれを定義するための言葉が一ダースずつついているんだろう? ぼくらは紙の中に腰までうずまっちまうだろうからな」──ラザルスは考えこんだ様子だった。「アイラ、きみはミネルヴァに頼んだらどうだ。彼女がそれを消しちまわないうちに、どこかで印刷することを。本にするんだ、大きな本に。十巻から十五巻にはなるぞ。題名はこうすればいい、人間における経験のヴァラエティ≠セ。著者は、ああ、ミネルヴァ・ウエザラルだな。こいつはきっと、学者先生が何世紀もかけて議論するたぐいのものになるぞ。ぼくは冗談をいってるなじゃあないんだ、アイラ。それは保存されるべきなんだ。新しいことだし、生身の人間には大きすぎる仕事だ。だからぼくはちょっと疑問に思うんだ、ミネルヴァほどの能力を持つコンピューターがこういう種類の大きな仕事を頼まれたことがこれまでにないというのはね」 「ミネルヴァ、そうしたいか? きみの研究ノートを保存して本にしたいか? たとえば数百冊のちゃんとしたサイズの綴じ本だ。みごとな装幀でね。それに加えて永久保存縮刷版をセカンダスを始めとしてあちこちの図書館に送るんだ。記録保管所にもね……ジャスティン・フートに序文を書くよう頼んでもいいよ」  わたしはわざと彼女の虚栄心に訴えたのだ──もしコンピューターにそうした人間的な弱点がないと思われるなら、あなたには、かれらとの経験が限られているのだといわせてもらおう。ミネルヴァはいつでも高く評価されるのが好きだったし、われわれがチームになりはじめたのは、わたしがそれを悟ってからのことだったのだ。そのほかに、いったい何を機械的に提供できる? もっと高い給料にもっと長い休暇か? 馬鹿なことをいうのはやめよう。  だが彼女はまたもやわたしを驚かせた。ラザルスのヨットとほとんど同じくらいおずおずした声で、しかも完全に正式な言葉づかいで答えた。 「ミスタ臨時議長《チェアマン・ブロ・テム》、わたくしがその本の扉にミネルヴァ・ウエザラル著≠ニ記すことは正当でしょうか、そしてあなたの許可をいただけるでしょうか?」  わたしはいった。 「そりゃあ、もちろんいいとも、それよりきみが、ただミネルヴァ≠ニ署名したいのでなければね」  ラザルスはぶっきらぼうにいった。 「馬鹿なことをいうんじゃないよ、坊や。ミネルヴァ、扉にはミネルヴァ・L・ウエザラル≠ニ署名したまえ。LはロングのLだ……なぜならきみはだな、アイラ、不注意な若い日々のどこかの辺境惑星でぼくの娘のひとりとのあいだに隠し子を作り、そして最近やっとその事実を記録保管所に登録する余裕ができたからさ。ぼくがその登録を証明してやろう……たまたまぼくはそのとき、そこにいたんでね。だが、ミネルヴァ・L・ウエザラル博士は現在どこか宇宙の彼方に行っちまって、つぎの大著作のための調査をしている……だから、インタビュウには応じられないってわけさ。アイラ、きみとぼくとで、ぼくのとびきり優秀な孫娘のために経歴をでっちあげるんだ。わかったか?」  わたしはひとこと、はいと答えただけだった。 「きみも気に入ってくれたかな、お嬢さん?」 「ええ、とても、ラザルス。ラザルスおじいさん」 「わざわざぼくをおじいさん≠ニ呼ぶことはないさ。しかし第一冊目の贈呈本は、ぼくにしてほしいな……わが祖父ラザルス・ロングへ、愛をこめて、ミネルヴァ・L・ウエザラル……と、書いてね。約束だよ」 「心からの喜びと誇りをもって、そうさせていただきますわ、ラザルス。献辞は手書きにするべきですわね? わたし、アイラに代わって公式書類にサインするとき使っている端末装置を、部分的に修整できます……献辞の筆跡が、かれのときとは違うものになるように」 「結構。もしアイラが行儀よくしたら、きみはその本をかれに捧げて、献辞を書くことを考えてもいいぞ。だが、第一冊目をもらうのはぼくだ。ぼくのほうが年長だし……それに、これを思いついたのは、ぼくなんだからな。だが、研究それ自体にもどってみると……ぼくはその二十巻の著作を読もうなどという気持は、まるでないんだ、ミネルヴァ。ぼくは結果にしか興味がない。だから、きみがこれまでにわかったことを教えてほしいな」 「ラザルス、わたしはひとまず、マトリックスの半分を除きました。あなたがすでになさったことがあると記録保管所が示しているもの。また、あなたがすることを望まれないだろうとわたしが推測するものを……」 「持ってくれ! 海兵隊員がいうようにもしまだやっていなければ、おれは試してみるぜ≠ウ。きみがぼくは試してみたくないだろうと仮定したというのは、どういうものなんだ? それを聞こうじゃないか」 「はい、最長老。一個の副マトリックスと三千六百五十個のポケットすべてが、ほとんど致命的な結果をふくんでいます。確率は九十九パーセント強です。まず、恒星の内部を研究、大成すること……」 「それは除いてくれ。物理学者に残しておいてやるさ。それに、リビイとふたりで一度やったことがあるんだ」 「記録保管所には見あたりませんが、ラザルス」 「記録保管所に入っていないものはいっぱいあるさ。つづけてくれ」 「あなたの遺伝子パターンを部分修整して、海水の中でも生活できる水陸両棲クローン人間を育てること」 「ぼくは自分がそれほど魚に興味を持っているかどうか確信がないな。欠陥はどうなんだ?」 「三つあります、ラザルス。それぞれ九十九パーセント以下の危険ですが、全体としてまとめてみると、ほとんど危険のかたまりになります。そうした疑似両棲人間はこれまでにも育てられていますが、生存可能なものとなると……現在のところ……非常に大きな蛙そっくりです。そうした生物が海中にいる他の生物に対抗して生きのびる確率は……セカンダスについて考えると……理論的に計算して、十七日間では五十パーセント、二十四日間では二十五パーセントということになります」 「ぼくならその見込みを、もっとよくできるかもしれないぞ。だがぼくは、ロシアン・ルーレットをやろうと思ったりしたことは一度もないんだ。ほかの危険というのは?」 「あなたの脳を修整されたクローンに移植し、それからあとで正常なクローンにふたたびもどします。もしあなたが生きのびていられればですけれど」 「そいつも消してくれ。もし海の中で生きなければいけないとしても、蛙になるのはごめんだ。ぼくは海でいちばん大きな、いちばんたちの悪い鮫になりたいね。そのうえだな、もし海中で生きることがそれほどおもしろかったら、ぼくらはまだそこにいるんじゃないのかな。別の見本をたのむ」 「三つで一組になっている見本ですわ。n次空間へ宇宙船に乗って迷いこむ、宇宙船なしで宇宙服だけ着て迷いこむ、それと宇宙服もなしの場合とです」 「ぜんぶ消してくれ。ぼくは考えたくないほど最初のふたつに近づいたし、三番目のはたんに真空の中で溺れ死にするための馬鹿げた方法でしかない。見えすいているし、不愉快だ。ミネルヴァ、全知全能の主は……その名がどういう意味であろうと……人間が平和に死ぬことを可能とした。そうである以上、強制されるのでないかぎり、わざわざつらい方法をとるのは馬鹿げているよ。だから、芋虫の中で溺れ死ぬのや自己犠牲による馬鹿げた死にかたはぜんぶ消してくれ。よくやったぞ、ミネルヴァ、そうした九十九パーセント強の危険についてきみが話していることをよく承知していることはわかった。それらはみな消してくれ。ぼくは新しいものにしか興味を持たない……ぼくにとって新しいものだ……その中で、生存の確率が五十パーセント以上であり、うねに油断を怠らない人間ならその確率をより高められるというのが条件だ。  たとえば、ぼくはビヤ樽に入って高い滝から落ちたいと思ったことなど一度もない。比較的安全になるように樽を設計することはできる。それでも、いったんスタートしてしまったら、もう手も足も出ない。それは馬鹿げた離れ技にすぎなくなる……それが、もっとひどい窮地から抜け出すもっとも安全な方法だというのでないかぎりはね。競走……車、障害物競馬、スキー……は、ずっとおもしろい。どれも技術を必要とするからだ。でもぼくは、そういう種類の危険も気に入らないな。危険のために危険を求めるのは、自分も本当に殺される場合があるということを信じられない子供たちのものだ。ところがぼくのほうは、そうなりうることを知っている。というわけで、ぼくが絶対に登らないつもりでいる山はたくさんあるんだ。欺されてそうすることにならないかぎりはね。そうなれば登るさ。これまでもそうしてきたんだ! 自分に考え出せる、もっとも簡単、安全で、いくじのないやりかたでね。なんであろうと最大の目新しさが危険だというようなものは、相手にしないことだ……危険なんてものは、まるで目新しいもんじゃないんだからな。危険というのはたんに、きみが走れないときに直面させられるものなんだ。きみの集めたものには、ほかに何がある?」 「ラザルス、あなたは女性になることができますわ」 「え?」  最長老がこれほど驚いた顔をしたのは見たことがない。(わたしも驚いたが、その言葉はわたしにむけられたものではなかったのだ)  かれはゆっくりといった。 「ミネルヴァ、きみが何をいおうとしているのか、よくわからないな。外科医は、できの悪い男性を偽の女性に変えることを、二千年以上のあいだやってきている……そして、女性を偽の男性にすることも、ほぼ同じくらいのあいだね。ぼくはそんな奇嬌なことに魅力を感じない。幸いなことに、いや不幸なことにというべきかもしれないが……永久にぼくは男だ。すべての人間が、もう一方の性になったらどんな感じだろうとこれまで考えつづけてきたことだろう。だがあらゆる可能な整形外科とホルモン療法をもってしても、それは無理だ……そういう化物どもは、繁殖することができないんだ」 「わたしは化物の話をしているのではありません、ラザルス。本当の性転換です」 「むむむ……きみのおかげで、ぼくはほとんど忘れかけていたある話を思い出すよ。それが真実かどうかは、はっきりしない。そう、ほぼ紀元二〇〇〇年ころに生きていた男についての話だ。それよりたいしてあとのはずはない。それからじきに世の中はめちゃめちゃになってしまったからだ。自分の脳を女性の体に移植したらしいんだ。もちろん、そいつは死んじまったよ。拒絶反応ってやつだな」 「ラザルス、この場合その危険はふくんでいません。あなた自身のクローンでおこなわれるのですから」 「とても信じられんな。話をつづけてくれ」 「ラザルス、これはホモ・サピエンス以外の動物ですでにテストされています。男性を女性に変える場合がもっともうまくいきます。一個の細胞がクローン増殖のため選別されます。クローン増殖が始められる前に、Y染色体は除去され、同じ接合体の第二の細胞からX染色体が与えられます。こうして、Y染色体が除去されX染色体が重複された以外は、同一の接合体の遺伝子配列を持つ女性細胞を作り出します。こうして修正された細胞が、それからクローン増殖されます。その結果は、男性オリジナルから生まれた本物の女性クローン接合体というわけです」  ラザルスは顔をしかめていった。 「罠があるに違いないな」 「あるかもしれません、ラザルス。でも基本的な技術が有効に働くことは確実です。あなたがおられるこの建物の中には人造雌体が何匹かいます……犬、猫、雌豚が一頭、そのほか……そして、その大部分は子供を生むことに成功しました……ただし、そうして作られた雌犬がクローンのための細胞を提供した雄犬と交配した場合は例外です。その場合は、悪い劣性遺伝を強化する確率が高くなりますから、死産もしくは奇形児の生まれることが……」 「当然そうなるさ!」 「はい。でも正常な異系交配でしたら違います。人工的に作られた雌のハムスターから、七十三世代が無事につづいていることでもそれは示されています。この方法は、惑星セカンダスにもともといた動物相には適用されていません。遺伝子構造が根本的に異なっているからです」 「セカンダスの動物のことは気にしないでいいさ……人間についてはどうなんだ?」 「ラザルス、わたしがこれまで調べることができた文献は、若返り病院が発表した事項についてのみでした。公表されている文献は、最終段階における諸問題をほのめかしています……女性クローン接合体の記憶と経験を作動させることです……あなたが個性≠ニいう言葉のほうをお好みなら、それでもがまいませんが……親である男性のそれをです。いつ親である男性を終らせるか……あるいは、そもそもかれを終らせてしまうかどうかということ……は、いくつかの問題を示します。でもわたしは、どのような研究が弾圧されてきたかについては、いうことができません」  ラザルスはわたしをふりむいた。 「きみはそんなことを許すのか、アイラ? 研究の弾圧などを?」 「わたしはいっさい口出ししていません、ラザルス。しかし、この研究がつづけられているとは知りませんでした。はっきりさせようじゃありませんか」  わたしは若返り病院理事のほうにむきなおると銀河語に変え、われわれが話しあっていたことを説明し、人間の場合にはどれだけ研究が進んでいるかと尋ねた。  耳がほてる想いでわたしはふりむいた。その研究での人間のことを口にすると、彼女は唐突にわたしをさえぎり……まるで、わたしが何か不愉快なことでもいったかのようにだ……そして、そのような実験作業は禁止されていると述べたのだ。  わたしが彼女の答を通訳すると、ラザルスはうなずいた。 「ぼくはあの子の表情を読んだよ。答がノーだというのは見てとれた。よろしい、ミネルヴァ、どうもそういうことらしいな。ぼくは染色体手術を受ける気などないよ……だれかにぼくのジャックナイフを盗まれたんでね」  ミネルヴァはいった。 「どうもそれであっさり終りになるとは思えませんわ。アイラ、あなたは気づきましたか? イシュタルはただ、そうした研究が禁止されています≠ニいっただけで、それが現実におこなわれていないとはいいませんでした。わたしはたったいま、嘘と真実の意味について発表された文献のもっとも徹底的な意味論分析をおこなったところです。わたしの結論では、人間と非常に関連した実験が、たとえ現在は続行されていないとしても、実際におこなわれたのは間違いないという確率に近づきます。あなたはその公表を命令したいと思われますか? わたしがかれらのコンピューターをすばやく凍結して、消去を防ぐことができるのは確実です。消去プログラムでそれを守っていると考えてですが」  ラザルスはゆっくりといった。 「乱暴なことは、しないようにしようじゃないか。この件に待った≠かけているのには、まともな理由があるのかもしれない。ぼくはこう考えるほかないな、この連中は、そういうことについて、ぼく以上によく知っているとね。そのうえ、ぼくは自分がモルモットになりたいかどうか、自分でもはっきりしないんだ。それは火の奥に投げこんじまおうぜ、ミネルヴァ。アイラ、ぼくはY染色体なしでも、自分のままでいられるかどうか確信が持てないのさ。きみがどうやって人格を移すかとか、いつその男性を殺すかとかについての楽しいヒントは別にしてもだ。つまり、ぼくのことだよ」 「ラザルス……」 「なんだね、ミネルヴァ?」 「公表された文献によると、確実かつ安全な方法がひとつ選択できます。それは、あなたの双生児の妹を作り出すのに用いることができます……性別を除くと、兄姉というよりむしろまったく同一人物です。ホスト・マザーは、強制的に成熟させる必要はないと指示されます。脳を正常に発達させるためです。これは新しさとおもしろさというあなたの基準にかないませんか? あなた自身が女性として成長するのを見守るのは? 彼女をラズリ・ロングと名づけるのがいいでしょう……あなたの、女性としてのもうひとりの自分です」 「ああ……」  ラザルスは言葉をつまらせ、わたしはそっけなくいった。 「おじいさん、どうやらわたしは二番目の賭けに勝ったようですね。これこそ、何か新しいもので、何かおもしろいものです」 「あわてるなよ! きみにはできないさ、やりかたを知らないんだから。ぼくだって知らない。それに、この精神病院の院長は、そういうことに対して道徳的な嫌悪感を持っているらしいからな……」 「それはわかりませんよ。たんなる推測です」 「それほどたんなる≠ナはないな。それにぼくのほうに、道徳的なためらいがあるかもしれないぞ。そんなことで、おもしろがったりしないさ。そばから離れることなく、彼女が成長するのを見守っていられるのでないかぎりね……そうなると、ぼくは気ちがいになっちまうかもしれない、彼女をぼくそっくりに育てようとして……女の子にとっては、なんという運命だ!……それとも、それが彼女の生まれつきに違いないのに、ぼくみたいな臍まがりに育てるまいとしてさ。だがどちらにしても、ぼくは支持してもらえないだろう。彼女は独立した人間であって、ぼくの奴隷じゃないんだといってね。そのうえに、ぼくは彼女のたったひとりの親ということになる……母親ではなくだ。ぼくは前に一度、ひとりで娘を育てようとしたことがあるんだが……それは、その娘にとって好ましいことではなかったよ」 「あなたは、なんとか反対の理由を考え出そうとしておられる、ラザルス。イシュタルが喜んでホスト・マザーと養母の二役を引き受けるのは、ほとんど確実だと思いますよ。特に、もしあなたが彼女に、彼女自身の息子を作ってやると約束されたらです。彼女に聞いてみましょうか?」 「その青い口を閉じていろ、坊や! ミネルヴァ、これは未決≠フ項に入れてくれ……ほかの人間に関することで重大な決心をせかされたくはないんだ。特に相手がまだぜんぜん、人間になっていないときているんだからな。アイラ、きみのせいで、たがいにまるで血のつながりがない双《ふた》子《ご》の話を思い出したよ。それでいて双子なんだ」 「とても信じられませんね。あなたは話題を変えようとしておられる」 「そうさ。ミネルヴァ、ほかに何がある?」 「ラザルス、危険は低く、あなたにとって完全に新しい経験をひとつ……またはそれ以上……間違いなく提供できるといってよいプログラムがひとつあります」 「つづけてくれ」 「人工冬眠……」 「それのどこが新しいんだ? ぼくがほんの子供だったころにも、それはあったんだぞ。二百歳にもなっていないころのことだ。それは〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の中で使われた。そのときにもまったく魅力は感じなかったし、いまもだ」 「……時間旅行の手段としてのです。あなたが、どれほどの年月がたったあととはっきり条件を示されたら、何か本当に新しいものが現われているはずです……歴史的必然性ですから……そうなれば問題は、何年の期間を選択されるかということだけになります。あなたが目新しいと考え、求められる程度のものが、どれぐらいで出現するかです。百年、千年、一万年、なんとでもおっしゃってください。あとはただ、実施についてのささいなことがあるだけです」 「それほどささいな≠アとじゃあないぞ。もしぼくが眠りこんだあと、自分の身を守れないとすれば」 「でも、わたしの設計に満足されるまで、冬眠に入られる必要はないのです、ラザルス。百年でしたら、まったく問題はありません。千年でもたいした問題はありません。一万年のためでしたら、わたしは人工の惑星を設計し、非常事態にはあなたが自動的によみがえることを確実にするフェイル・セイフを備えつけます」 「それには相当な設計が必要になるな、お嬢さん」 「わたしには、そうできる自信があります、ラザルス。でもあなたが、どの部分を批判し拒絶されるのもご自由です。けれど、わたしが予備設計を提出してもむだですわね。あなたのご意見で何か新しいものを生み出すはずの制御用補助変数《コントローリング・パラメーター》を、すなわち|時間の幅《タイム・スパン》をくださるまでは。それとも、それについてわたしの忠告をお望みですか?」 「ああ……まあ、落ち置きたまえ、ミネルヴァ。こう仮定しようじゃないか。きみがぼくを液体ヘリウムに閉じこめ、自助落下の状態で、電離放射線から完全に守られるようにしたとする……」 「おやすいことです、ラザルス」 「そういう条件を出したんだ。ぼくはきみを低く見ていないからね。だが、かりにだ、どこかのちっぽけなフェイル・セイフがつまらん失敗をして、ぼくが眠りつづけることにでもなったらどうする。何世紀も……何千年も……永遠にだ。死ぬことはない。だが、生きかえることもないんだ」 「わたしは、そうならないように設計できますし、そう設計するつもりです。でも、あなたの条件を受け入れさせてください。もしそんな事態になったとして、それが終末選択スイッチを使った場合にくらべて、どれだけ悪いでしょうか? これを試みることであなたは何を失います?」 「なんだって、そんなことははっきりしているさ! もしこの不死……あるいは、死後の生といったようなものについての話について何かあるとしたら……ぼくは、あるともないともいっているわけじゃないが……しかしもしあるとしても、最後の審判がおこなわれる≠ニき、ぼくはその場にいないことになる。ぼくは、眠ってはいるが死んではいない、どこか宇宙のまん中でね。  そして、最後の渡し船に乗りそこなってしまうってことだ」  わたしは我慢できなくなっていった。 「おじいさん……話をそらそうとするのはやめてください。もうやりたくないのなら、ただノーとおっしゃればいいのです。でもミネルヴァはたしかに、何か新しいものへ達しうる道を提供しましたよ。あなたの反論に意味があるとしても……わたしはそう思いませんが……あなたは何か本当にユニークなことをなしとげられることになります。無数の人類の中でただひとり、この仮説的−かつ−まったく−ありそうもない−審判の日なるものに集合しそこなうんですよ。あなたのことですから、そのときに見逃されるようなことはまずないでしょうがね。まったくの古狸で、ずるいんだから」  かれはわたしの中傷を無視した。 「なぜまったく−ありそうもない≠ネんだ?」 「だって、そうだからですよ。いい争うつもりはありませんがね」 「それは、きみがいい負かせられないからさ。それがあるともないとも、どちらの証拠もまったくない……ではなぜきみは、そのどちらにだってあいまいな確率など持ち出せるんだ? もし何かが出てきたら、それを偏見なくあつかうことが望ましいと、ぼくはいっているんだ。ミネルヴァ、そいつも未決≠ノ入れておいてくれ。そのアイデアはまったく目新しいものだし、ぼくはきみの設計能力を疑いはしない。だがそれはパラシュートをテストするのと同じで、片道旅行だ。飛びおりてしまってからでは、決心を変える機会がまるでない。だからぼくらは、それにもどることになるとしてもその前に、ほかのアイデア全部に目をとおそうじゃないか……たとえ何年かかってもだ」 「わたしはつづけます、ラザルス」 「ありがとう、ミネルヴァ」  ラザルスは想いに沈んだ様子になり、親指の爪で歯をつついた──われわれは食事中だったのだ。わたしは食事のための休憩については話さなかったし、これからも話さない。みなさんは、適当と思われるところに食事と休憩を想像してくださって結構だ。シェーラザードの物語のように、最長老の物語はしょっちゅうなんの関係もないことで中断されていたのだ。 「ラザルス……」 「え、なんだね、坊や? ぼくは白日夢を見ていたよ……遠い国のことで、娘は死んでしまったんだ。すまん」 「あなたはこの研究で、ミネルヴァを助けられるかもしれませんよ」 「そうか? ありそうもないことのように思えるがね。干草の中から針を一本見つけるような仕事にかけたら、彼女のほうがぼくよりずっと優れている……彼女には感心したよ」 「ええ。でも彼女にはデータが必要です。わたしたちがあなたに関して知っていることの中には、大きな閉ざされた部分があります。もしわたしが……ミネルヴァが……あなたの従事された五十いくつかの職業を知っていれば、彼女は数千個の可能性ポケットを取り消すことができるはずです。たとえば、あなたは農夫になったことがありますか?」 「何回かある」 「そうですか? ではもう彼女はそれを知ったわけですから、これからは農業と関係のあることを提案しないでしょう。あなたがされなかった農業関係の仕事があるかもしれませんが、どれをとってみても、あなたのきびしい要求にかなうほど目新しいものはありますまい。ご自分が経験されたことの一覧表を作ってみられたらいかがです?」 「全部をおぼえているかどうか怪しいもんだぞ」 「それは仕方ありません。でも、おぼえておられるものを一覧表にすれば、ほかのものも思い出せるかもしれませんよ」 「ああ……考えさせてくれ。人が住んでいる惑星に到着するたびに、ぼくがいつもすることはただひとつ、法律を学ぶことだ。それを仕事にするためじゃあない……といっても、何年かのあいだぼくは、ひどく不真面目な弁護士だったがね……サン・アンドレアスでさ。つまり、その惑星の規則を知るためなんだ。ゲームのやりかたを知らなければ、利益を示すのは難しい……あるいは、それを隠すのはだ。完全に無知のまま法律を破るより、心得たうえでやったほうがずっと安全だ。  しかしそれが一度裏目に出て、ぼくは最後にとうとう惑星最高裁判所の判事になっちまった……それでなんとか危害をまぬがれたんだ。そして絞首刑からもね。  そうだな、百姓、弁護士、判事、それにきみにもういったが、医者をしていたこともある。いろいろな船の船長もやった。たいていは探険のためたが、ときには荷物や移民輸送の仕事もした……そして一度は、無法者一味をひきつれて武装海賊船に乗っていたことだってある。きみなら家にいる母親のもとへ連れて帰ったりしない連中だ。学校教師……ぼくがこの職を失ったのは、子供たちに赤裸々な真実を教えている現場をおさえられたからだった。それは銀河系のどこへ行っても重罪なんだ。奴隷売買に関係したことも一度あるが、それは下側からだった……自分が奴隷だったんだ」  わたしは目をぱちくりさせた。 「そんなことは想像もできませんね」 「不運なことに、ぼくは想像しなくてもよかったんだ。聖職者も……」  わたしはふたたび口をはさまなければいけなかった。 「聖職者ですって? ラザルス、あなたはおっしゃいましたね、いかなる種類の宗教的信仰をも持たないというような意味のことを」 「そんなことをいったかい? だが、信仰とは俗人階級のためのものだよ、アイラ。それは聖職者には不利な条件なんだ。パーラー・ハウスの教授連中も……」 「またまた申しわけありませんが、慣用句でしょうか?」 「え? 売春宿の支配人ってことさ……とはいっても、ぼくはピアネットをすこし弾いたり歌ったりしたがね。笑わんでくれ。ぼくもそのころは、けっこういい声で歌えたんだ。これは火星での話だ……火星のことは聞いたことがあるかい?」 「|古き故郷地球《オールド・ホーム・テラ》のひとつ外側の惑星ですね。太陽系第四惑星……」 「そうさ。今日われわれが気にかける惑星じゃない。だがこれは、アンディ・リビイが物事を変える前の話だ。それどころか、中国がヨーロッパを破壊する前、アメリカが宇宙事業から落伍したあとのことだ。それでぼくは途方にくれ、二〇一二年の会議のあと地球を去って、しばらくもどらなかった……おかげでそれほど不愉快な目にあわずにすんだ。文句をいえる筋じゃないな……もしあの会議が違ったぐあいに進んでいたら……いや、そうじゃない。果実が熟したら、それは落ちる。そして合衆国は熟して腐ったんだ。絶対に悲観主義者にはなるなよ、アイラ。悲観主義者は楽観主義者より正しい場合が多い。だが楽観主義者には、より多くの楽しみがある……そしてどちらも、物事の進行をとめることはできないんだ。  しがしぼくらは、火星と、そこでぼくがやっていた仕事の話をしていたんだったな。コーヒーとケーキのおかわりをする仕事さ……だが楽しかった。ぼくはまた、用心棒《バウンサー》でもあったんでね。娘たちはみんないい子で、彼女たちに対して無作法にふるまっている礼儀知らずを放り出すのは楽しいことだったよ。力まかせに投げ出すんで、そいつは地面にぶつかって|はずむ《バウンス》んだ。そしてブラックリストにのせるから、そいつはもう二度と来られなくなる。毎晩一回や二回、そういうことがあるんで、一帯に評判がひろまった。ハッピー<fイズは、ご婦人がたに対して紳士らしくふるまうことを要求しているとね。男がどれだけ金使いの荒いやつだろうと関係なしにだ。  売春は軍隊勤務と似ているんだ、アイラ……上の階級はいいが、下のほうはそうよくない。そこの女たちは絶えず彼女たちの契約を買い取って結婚しようという申し込みを受けていた……彼女たちはみな結婚したと思うね。だが彼女たちはすごいいきおいで金を貯めていたから、最初の申し込みに飛びつこうとやっきになってはいなかった。主な理由は、ぼくがそこを引き継いだとき、そこの植民地総督がきめた定価をやめ、需要と供給の法則を復帰させたからだ。その娘たちが、取引きの生み出すあらゆるルーブルを請求するべきでないなどという理由はないからな。  それについてはいろいろ面倒があったが、とうとう休養文化局長がそのにぶい頭で納得したんだ。奴隷が不足している状態では、賃金をきめたりすると働かないってことをね。火星というのは、そこを耐えられるものにしているごく少数の連中を欺そうとしていなくたって、充分に不愉快なところだったんだ。でも、かれらが仕事を幸せにやっているときは楽しくさえ感じられる。売春婦は聖職者とまったく同じ機能をするんだ、アイラ、だがはるかに完全にな。  いいか……ぼくは何度も金持になったことがあるし、そのたびに一文無しになった。たいてい、政府が金の値打ちをなくするか、またはぼくの所有するものを没収すること……国有化とか解放とか……によってだ。君主を信頼するなかれ、さ、アイラ。やつらは何も生産しない、つねに盗むだけだ。ぼくは金持になった回数より、破産した回数のほうが多い。このふたつのうちだったら、一文無しになるほうがおもしろいぞ。つぎの食事がどこから来るかわからない人間は、絶対に退屈しないからさ。腹が立つかもしれないし、そのほかいろいろあるだろうが……しかし、退屈することはないな。苦難は思考を鋭くし、人を行動へとかりたて、人生にぴりっとした風味を加える。本人がそれに気づこうと気づくまいとだ。もちろん、そいつが罠にかけられることもある。それこそなぜ、食物がふつう罠につける餌であるかの理由なんだ。しかし、そこが一文無しであることのおもしろい部分だな。罠にかけられることなく、どうやってそれを解決するか、さ。腹をすかせた人間は、判断力を失いがちなものだ……七回食事にありつけなかった人間は、人殺しもしかねない……それが解決になることは、ほぼないがね。  コピーライター、俳優……まったく文無しのときだった……召使、建築そのほかいろいろな種類の技術者や機械工。というのは、知性を持つ人間ならどんな職業につこうとうまくやっていけると、ぼくはいつも信じてきたからだ。もしそれがどう動くかを学ぶために、時間をかければね。つぎの食事が危なくなっているときに、技術を必要とする仕事を無理にも得ようとしたわけじゃない。ぼくはしばしば、阿呆の捧をおした……」 「慣用句ですか?」 「線路工夫の古い表現さ。棒の端にシャベルの刃がついていて、もう一方の端には阿呆がひとりってわけだ。でも、二、三日以上は絶対それをやらなかった。その土地の仕組みを見抜くまでのあいださ。政党の幹事……革新政治家だったことも一度あるんだ……だが、そのときかぎりだった。革新政治家はとかく不正直になりがちで、しかもそれは愚かな不正直さなんだな……その一方、職業政治家は正直なもんだよ」 「どうもよくわかりませんね、ラザルス。歴史の示すところを見れば……」 「頭を使えよ、アイラ。ぼくは職業政治家が絶対に盗みをしないとは、いってないぜ。盗むのが、そいつらの仕事だ。すべての政治家は非生産的だ。どんな政治家でも提供しなければいけない商品はただひとつ、信用だけさ。そいつの個人的誠実さだ……つまり、もしそいつが何か約束したら、きみはそれを信用できるかどうかだ。成功した職業政治家はそれを心得ており、自分の公約に忠実だという評判を守る……なぜならその職業にとどまりたいからだ……泥棒稼業をつづけたいのさ、つまり……今週だけでなく来年も、さ来年も、ずーっとだ。そこでもし、そいつがこの非常におもしろい商売で成功するに充分なほど頭が切れれば、そいつの道徳観念は|咬みつき亀《スッポン》のそれでいいが、そいつの行動は、自分が売らなければならぬ唯一のもの、つまり約束を守るという評判を危うくするようなことはしない、というやりかたになるわけだ。  ところが革新政治家に、そうした人を引きつける磁石はない。かれの献身は、すべての人々の幸せのためだ……非常に高度な抽象的概念だから、無限の定義が可能となる。もしも意味のある言葉で定義することが本当にできればだがね。だから、完全に真面目で腐敗させることなどできない革新政治家は、朝食の前に三回でも約束を破ることがありうる……個人的な不正直さからではなくだよ。真剣にそうすることが必要だと後悔し、きみにそういいながらだ……理想へのゆるがぬ献身からさ。  かれに約束を破らせようと思ったら、だれかが耳もとにささやきかけて、信じこませればいいんだ。それは、全人民のより偉大な幸せのために必要なんだ、とね。かれはそれに負けてしまうんだ。  それに慣れてしまうと、かれはカードのひとり占いでもごまかしをやれるようになる。幸運なことに、かれが責任のある地位に長いあいだとどまることは、めったにない……ひとつの文明が崩壊し没落してゆく期間以外は」  わたしはいった。 「あなたのお言葉は、そのまま受け取らなければいけませんね、ラザルス。なぜならわたしは、人生の大部分をセカンダスですごしてきましたから、政治についてはほとんど理論的にしか知りません。あなたがそのように創設されたのです」  最長老は冷たい軽蔑の視線をわたしにむけた。 「ぼくはそんなことをしなかったぞ」 「でも……」 「黙れ。きみは政治家なんだぞ……職業政治家だ、と願いたいね……だが、反対者を流刑にするというきみの方針には疑問をおぼえるよ。ミネルヴァ! ノートブック≠セ。セカンダスを財団へ譲渡するときのぼくの意志は、安上がりで簡単な政府を作ることだった……立憲独裁政治さ。政府が何をするのもほとんど禁じられているものだったし……そして親愛なる人民は、かれらの黒くたるんだ小さな心臓に幸いあれだが、まったくなんの発言権も与えられていないんだ。  ぼくはそのことに、そう希望をかけていたわけじゃない。人間というのは政治的動物なんだ、アイラ。きみは人間が性交するのを妨げられないのと同じく、人間が政治運動をすることは妨げられない……そしてたぶん、そんなことを試みるべきではないんだ。だがぼくはそのころ、若くて希望に満ちていた。ぼくは政治運動を、個人的な領域にとどめておきたかった。政治そのものかちは離れさせておきたかったんだ。ぼくはその機構がつづくのは、せいぜい一世紀だと思っていた。いままでつづいているのは驚きだな。いいことじゃない。この惑星は、革命がおこるには熟しすぎている……もしミネルヴァが何かもっとましなことを見つけてくれなければ、ぼくは別の名前で姿を現わしてもいいな。髪を染め、鼻を切りつめて、革命を始めるんだ。気をつけろよ、アイラ」  わたしは肩をすくめた。 「あなたは、わたしが移民することを忘れておられます」 「ああ、そうだったな。もっとも、革命をおさえるという仕事が、きみの気持を変えるかもしれんぞ。それでなければ、ぼくの参謀長になりたくなるかもしれん……それから射ち合いが終ったあとクーデターでぼくを失脚させ、ギロチンに送るんだ。それは何か新しいものではあるな……これまで絶対、政治問題で自分の頭をなくすつもりなどなかったがね。だが、アンコールはたいしてできそうにないな。ティスケット、タスケット、バスケットの中に頭がひとつ(イギリスの古い童謡)……それはあなたの質問には答えられない≠ウ。最後のカーテンがおりる、お辞儀はなしだ。  しかし、革命はおもしろいかもしれない。きみに話したかな、ぼくがどうやって働きながら大学を出たかを? ガトリング砲《*》を一日五ドルで操作し、そして掠奪するんだ。伍長以上には決してならなかった。どうしてかというと、一学期分の金が入るたびに脱走したからだ……そして、傭兵にはなっでも、死せる英雄になろうという誘惑にかられたことはついになかった。だが冒険と状況の変化は若者にとって魅力だった……そしてぼくは、すごく若かったんだ。 [#ここから4字下げ]  *ガトリング(リチャード・J・ガトリング、一八一八〜一九〇三)砲は、ラザルス・ロングが生まれた時代もう一般に使用されなくなっていた。この主張がかろうじて可能なのは、時代遅れの武器が、どこかの田舎の、小さな暴動で使用されたかもしれないと考えた場合のみである。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  だが、泥と、不規則な食事と、耳もとをかすめる弾丸の音は、成長するにつれて魅力をなくしてゆく。つぎに軍隊に入ったとき……完全に自分の考えというわけではなかったが……ぼくはそれまでと違って、海軍を選んだ。水に濡れる海軍さ。のちには別の名前で、宇宙海軍にも入ったがね。  ぼくはおよそ、ありとあらゆるものを売ったよ……奴隷だけは別だ……そして、旅まわりの一座で読心術師として働いた。それに、王さまになったことも一度ある……ずいぶん過大評価されている職業だぞ、時のたつのが遅すぎてね……それから、女性が着るもののデザインもしたよ。嘘っぱちのフランス名前とアクセント、それに髪を長くしてね。ぼくが長髪にしたのは、ほぼそのときだけだ、アイラ。長髪は手入れにむだな時間がかかるばかりか、接近戦では敵につかむところを与えるし、危機に際しては視界をさえぎってしまう……どちらも致命的になりうる。だがぼくは、丸坊主ってのは好きじゃない……なぜなら、密生した髪の毛は……目にたれてこない長さでないといけないが……頭にひどい傷をおわないようにしてくれるからだ」  ラザルスは言葉を切って、考えこんだ様子になった。 「アイラ、ぼくには見当がつかないな。どうやれば、自分と多くの妻子を養うためにやってきたことのすべてをリストにできるだろう。たとえぼくがおぼえていたとしてもだ。ぼくがひとつの仕事にしがみついていたもっとも長い期間は、約半世紀だが……非常に特殊な状況でね……もっとも短いのは、朝飯をすませてからちょうど昼飯までで……これまた特殊な状況だったな。だが、場所がどこで仕事がなんであるかには関係なく、作るものと、奪うものと、インチキをするものとがいる。ぼくは一番目のやつが好きだが、あとのふたつも軽蔑したことはない。家族持ちだったときはいつでも……つまり、ほとんどずっとそうだったということだが……ぼくはテーブルに食物を保つことを、良心の呵責のせいでやめたりはしなかった。自分の子供に食べさせるため、よその子供の食物を盗むなんてことはしないよ……だが、貨幣の交換価値を保つためには、つねにそれほどひどいインチキでない方法があるものさ。もしその男が潔癖すぎなければね……家族を養う義務を背負ったときのぼくは、いつだってそうじゃなかったよ。  きみは、本質的な価値を持たないものを売ることができる。たとえば、物語とか歌だ……ぼくは、芸人稼業のあらゆる仕事をしたよ……ファティマにいたときもそうだ。そのときぼくは市場の中で坐りこみ、自分の前に真鍮の鉢を置き、これより長い物語を話しながら、いつ硬貨を投げてもらえるかはらはらして待っていたよ。  ぼくがそこまで落ちぶれたのは、船が没収され、よそ者は許可なしに働くことを許されなかったからだ……仕事は地元市民のため確保されるべきだという仮説に立った、ひどいゆすりさ。不景気だったんだ。報酬なしに物語を話すのは、仕事とは見なされなかったし、また乞食でもなかった……乞食には許可証が必要だったんだ……そしてお巡りどもは、ぼくをほっといてくれた。警察慈善基金に習慣的な毎日の贈り物を、こちらからしているかぎりはだ。  そうしたごまかしを使ってどうにか切りぬけるか、それとも泥棒にまで身を落とすか、ぼくにはそのどちらかしかなかった……そこでの独特な慣習にそうくわしくなっていない文化にいる場合は難しいことだ。それでも、女房と三人の小さな子供がいなければ、ぼくはその危険をおかしていたろう。それがぼくの足を引っぱったんだ、アイラ。家族持ちの男は、独身者ならかまわないと思うような冒険でもおかしてはならないんだ。  だからぼくはそこに坐りつづけた。尾《び》てい骨《こつ》が敷石に穴を作るまでだ。グリムのお伽噺からシェイクスピアの芝居まであらゆるものを物語り、女房には食物以外には絶対金を使わせないようにした。仕事をするための許可証を買う金と、習慣となっている賄賂ぶんをためこむまではだ。それからぼくは、連中をたたきのめしてやったよ、アイラ」 「どうやってです、ラザルス?」 「ゆっくりと、だが徹底的にさ。市場でのその何カ月かのおかげで、ぼくはその社会の力関係と、聖なる牛とはなんなのかとを、ある程度知ることができた。それからぼくは何年かのあいだ居すわった……選択の余地はなかったんだ。しかしまずぼくはその土地における宗教の洗礼を受け、その過程でもっと無《ぶ》難《なん》な名前を得て、コーランをおぼえた。何世紀か前に知ったのと完全に同じコーランではなかったが、努力するだけの価値はあったよ。  どうやって鋳《い》掛《かけ》屋《や》組合に入り、テレビ受像器の修理という最初の仕事を手に入れたかは抜かそう……ぼくは、組合への賦課金を自分の賃金からさし引かせた。つまり鋳掛屋の大親方と個人的に話し合いをしてね。そう高すぎはしなかったよ。その社会は、工学技術が遅れていたんだ。そこの習慣は進歩をうながすものではなかったし、それらは約五世紀前に地球から持ってきたものより後退していた。おかげでぼくは、魔法使いになったわけだよ、アイラ。だから、その教会の忠実な……そして気前のいい……息子であるよう注意していなければ、ぼくは首吊りにされていたろう。そこでいったんその地位につくと、ぼくは新しい電子工学と陳腐な占星術とを小出しにした……前者については連中の知らない機械を使い、後者については自由な想像力を使ったというわけだ。  最後にぼくはある役人の最高補佐役になったが、その男こそ何年か前にぼくの船と荷物を押収したやつだった。そしてぼくはそいつがもっと金持になるのを助けながら、自分もせっせと金を貯めた。そいつはぼくの正体を知っていたとしても、絶対そのことを口に出さなかった……顎髭でぼくの外見はずいぶん変わるんでね。不運なことにそいつは人気が落ち、ぼくがその仕事を引きついだ」 「どんなふうに仕組んだのですか、ラザルス? つかまらずに、という意味ですよ」 「おい、おい、アイラ! その男はぼくの恩人だったんだぞ。ぼくの契約書にもそう書いてあったし、ぼくはいつでもそいつにそう呼びかけた。アラーのなさることは人智を越えているんだ。ぼくはかれのために天宮図を調べて運勢を占い、かれの星が悪い形になっていることを警告してやった。そして、そのとおりだったわけさ。その太陽系はぼくの知っている数少ないもののひとつで、一個の太陽のまわりに二個の使用できる惑星があり、どちらの惑星も植民され、相互に通商がおこなわれていた。加工品や、奴隷や……」 「奴隷ですか、ラザルス? わたしはシュープリームにおけるその風習は知っていますが、そうした悪徳が非常に一般的なものだとは思いませんでした。経済的ではありませんがね」  老人は目を閉じた。あまり長いことそうしているので、わたしはかれが寝込んでしまったのかと思った(この会話を始めたころ、かれはしばしば眠りこんでしまったのだ)。それからかれは目をあけ、たいそうきっぱりした口調でいった。 「アイラ、この悪徳は、歴史家がふつう言及するよりはるかに一般的なんだ。経済的ではない、そのとおり……奴隷社会は、自由な社会には太刀打ちできないんだ。だがこれほど広大な銀河系では、ふつうそうした競争はない。奴隷制度はいつでもどこでも存在しうるし、現に存在したんだ。法律がそれを認めるように操作されるときはいつでもだ。  ぼくは、女房と子供を養うためならほとんどなんでもやるつもりだといった……そして事実そうしてきた。わずかな金のため、人間の排泄物の中に膝までうまって、それをシャベルですくったこともある。子供を飢えさせるよりはいいからね。しかしこの話はするまい。ぼく自身、一度は奴隷だったから、というわけでもない。ぼくはいつも、こんなふうに感じていたんだ。それを信念と呼んでくれてもいいし、また深い道徳的罪悪感ともったいをつけてもいい。それがなんであれ、ぼくにとっては論議を超えたことなんだ。もし人間という動物にそもそも何か価値があるとすれば、所有物となるには価値がありすぎるんだ。もしなんらかの精神的な気高さがあれば、自尊心から他の人間を所有などできないはずだ。ぼくはそいつが、どれだけみすぼらしい格奸であろうと、香水を匂わせていようと、関心はない。奴隷所有者は人間以下のものなんだ。  だがこういっても、自分がそういうことになっても自分の喉を切るということではないし、さもなければぼくは生涯の最初の一世紀を生きのびられなかったろう。なぜなら奴隷制度には別の悪い点があるんだ、アイラ。奴隷を解放するのは不可能なんだよ。かれらは、自分自身で解放されなければならないのさ」  ラザルスは眉をよせた。 「きみのせいで、また説教を始めちまったぞ、それも、ぼくには証明できそうもないことをだ。自分の船を持てるようになるとすぐ、ぼくはそれを燻蒸消毒させ、自分で点検し、売り物になると考えた品物をつみこみ、人間をのせられるよう改装して食料と水を運び入れ、そして船長と乗組員を一週間の休暇に送り出すと、下僕保護官……つまり、国家の奴隷仲買人だ……には、船長と事務長がもどりしだい荷をつみこむと報告した。  それからぼくは休日だからというので家族を船内見物に連れていった。どういうわけか下僕保護言は疑い深く、われわれといっしょに船内を見てまわるといいはった。そこでぼくらはその星から離陸するとき、そいつを連れていくほかなかった。まったくとつぜん、ぼくの家族が乗りこむとすぐにだ。まっすぐその太陽系から出て、二度ともどらなかった。じかし文明惑星におりる前に、ぼくとふたりの息子は……そのころまでにほとんど成人していたんだが……船がかつて奴隷船であったしるしを、すべて取りのぞいた。たとえ売れるかもしれないものを船外投棄することになってもだ」  わたしは尋ねた。 「下僕保謹言はどうしたんです? その男には、手を焼いたんじゃありませんか?」 「きみがそれに気づくかなと思っていたよ。ぼくはその野郎を、宇宙へ放り出してやったんだ──生きたままね。やつは行っちまった、目は飛び出すし、血はたれ流しだ。ぼくがどうすると思ったんだ? キスでもしろっていうのか?」 [#改ページ] 対旋律 3  移送車《トランスポート》の中でふたりだけになると、ギャラハドはイシュタルにいった。 「最長老への申し出は本気だったのかい? かれの子供を妊娠したいというのは?」 「どうしてわたしに冗談がいえて? ふたりも立会人がいるのよ。そのひとりは、臨時議長その人なんですからね」 「どうしてきみに冗談がいえるのが、ぼくだってわからなかったさ。だけどなぜだい、イシュタル?」 「わたしが、感傷的な先祖返りだからよ!」 「怒鳴らなくでもいいんじゃないのかい?」  イシュタルはかれの肩に片腕をまわし、もう一方の手でかれの手を取った。 「ごめんなさいね、あなた。長い一日だったわ……それに昨夜は楽しかったけれど、よく眠っていないし。わたし、いくつか心配なことがあるのよ……それなのに、あなたの持ち出した話題ときたら、感情的にならずにすむものじゃあなかったわ」 「尋ねるべきじゃなかったな。プライヴァシーの侵害だ……なぜ気になるのか自分でもわからないんだ。その問題はなかったことにしないか? 頼むよ」 「あなたったら! わたしは何に動かされたのかわかっているわ……そしてそれは、どうしてわたしがこんなに職業人としてふさわしくないほど感傷的になっているかの理由の一部なのよ。こう考えてみて……もしあなたが女だったら、あんな申し出をするチャンスには飛びつかないかしら? かれに対して」 「ぼくは女じゃないさ」 「それはわかってるわ、嬉しいことにあなたは男よ。でも、ちょっとのあいだでいいから、女性のように論理的になろうとしてみて。ざあ!」 「男がかならずしも非論理的とはかぎらないぜ。そいつは女の神話だ」 「ごめんなさい。わたし、家に帰ったらすぐ精神安定剤を飲まなけりゃいけないわ……ここ何年もそんなもの必要なかったんだけど。でも自分が女だと考えてみて、お願い。二十秒でいいから」  かれはイシュタルの手を持ちあげ、それに接吻した。 「二十秒も必要ないさ……もしぼくが女なら、やはりそのチャンスに飛びついたろうよ。人が子供に与えられる最高の証明された遺伝子パターンというわけだろう? もちろんさ」 「ぜんぜん、そんなことじゃないわ!」  かれは目をしばたたかせた。 「どうもぼくは、きみが論理という言葉をどういう意味で使っているのかわかってないらしいな」 「ああ……そんなことが問題になって? わたしたちが同じ答にたどりついたから?」車は急に曲がっそ駐車ポケットにとまった。彼女は立ちあがった。「もう忘れましょうよ。家に着いたわ、あなた」 「きみはね。ぼくはまだ家に着いでいない。ぼくは思うんだが……」 「男というものは、考えたりしないものよ」 「きみはひと晩ゆっくり休む必要があると思うがね、イシュタル」 「あなたはこの服にわたしを閉じこめたのよ、こんどは脱がせてくれなきゃだめ」 「それで? きみはぼくに食べさせてやるといいはり、結局のところはひと晩じゅう眠れないにきまっているさ。それに、きみはそれを頭から脱ぐことだってできる。ぼくが消毒室で、きみにしてやったみたいにね」  彼女は溜息をついた。 「ギャラハド……わたし、あなたにぴったりの名前を選んだのかしら……ただもうひと晩いてもらうだけのために、わたしあなたに同棲契約を申し出なければいけないの? わたしたちどちらも今夜、一睡もしないことになりそうだわ」 「それがぼくのいっていたことさ」 「すこし違うわ。だってわたしたち、徹夜で働くことになるかもしれないからよ。たとえあなたが、わたしたちにおたがいの快楽のために三分間すごすことを選ぶとしてもね」 「三分間? ぼくはいちばん初めのときだってそんな早くなかったぜ」 「それじゃあ……五分?」 「つまり、二十分……それに弁解ってことかい?」 「男ってどうしてそうなの! 三十分よ、ダーリン、そして弁解なし」 「承知した」  かれは立ちあがった。 「そのうち五分を、あなたは議論でむだ使いしてしまったわ。さあ、いっしょに来て……あなたって、本当にいらいらさせるんだから」  ギャラハドは彼女のあとについて玄関に入った。 「その、徹夜で働くっていうのは、どういうことだい?」 「それに明日もよ。どんな電話がかかっているかを調べれば、はっきりするわ。もし何もなければ、わたし臨時議長に電話しないといけないわ。そんなことするのはすごくいやだけど。わたし、例の屋上にある小屋とかなにかを調べ、かれをそこで世話するためには、どんな用意ができるかを見てみなければいけないのよ。それから、わたしたちふたりでかれを引越しさせるわけ。人まかせにできる仕事じゃあないんですもの。それに……」 「イシュタル! きみはあの話に賛成するつもりなのか? 殺菌していない住まいに、非常事態用の装備もなしで?」 「ダーリン……あなたはわたしの地位に感心しているけれど、ミスタ・ウエザラルはそうじゃないわ。そして最長老は、ミスタ・ウエザラルの権利さえなんとも思っていないのよ。最長老は最長老ね。わたしずっと期待していたの、臨時議長がかれにうまいことをいって、そんな引越しを延期させる方法を何か見つけてくれればいいと。でもかれはそうしなかったわ。だからいまわたしは、ふたつのうちどちらを選ぶかってことね。かれのやりかたでやるか……それとも完全に手を引くか。院長がしたみたいにね。わたし、そんなこと絶対にしないわ。だから選択の余地はなし。というわけで、今夜わたしはかれの新しい住まいを調べて、これから明日の昼前までに何ができるか見てみるつもりなの。たとえそこを消毒殺菌する望みはなくても、かれが見る前にもっと適切な場所にできるんじゃないかと思うわ」 「それに緊急事態用の装備も忘れないで、イシュタル」 「まるでわたしが、そんなことをしそうだっていうみたいね、馬鹿なダーリン。さあ、この面倒なものを脱がせて……この、あなたがわたしのためにデザインしてくれて、明らかに最長老がお気に召したこのかわいいドレス≠チてことよ。おねがい」 「それならじっと立って、動かずに。黙ってるんだ」 「くすぐらないで! ほら、やめてよ、電話が鳴ってるじゃないの! 脱がせてよ、あなた……急いで!」 [#改ページ] ある主題による変奏曲 4   愛[#「愛」はゴシック]  ラザルスはハンモックにのんびり横たわって、胸をかいた。 「ハマドリアド……それはやさしい質問じゃないな。十七のときぼくは自分がたしかに恋していると思った。だがそれはホルモン過剰と自己|欺《ぎ》瞞《まん》でしかなかったんだ。ぼくが本物を経験しだのは、それから約千年たったあとのことさ……そして何年間もその状態をさとらなかった。その言葉を使うのをやめていたんでね」  アイラ・ウエザラルのかわいい娘≠ヘ、面くらった表情となうた。いっぽうラザルスはもう一度、アイラの言葉が間違っていたことを考えた。ハマドリアドはかわいいのではなかった。彼女は目がさめるほど美しかった。ファティマでの競売でなら最高の割増値段を呼ぶだろう。目の肥えたイスカンドリアの仲買人たちは、彼女を堅実な投資と考えて、たがいに値をつりあげるはずだ。もっとも、信仰擁護宮が彼女をひと足さきにわがものとしてしまわなければだが  ──ハマドリアドは、自分の容姿がずばぬけていることなどまるで知らない様子だった。しかしイシュタルにはわかった。アイラの娘がラザルスのファミリー=iラザルスはかれらをそう考えていた──当然な言葉だった。というのは、アイラ、ハマドリアド、イシュタル、ギャラハド、全員がかれの子孫であり、いまではやりすぎないかぎり、かれをおじいさん≠ニ呼ぶ特権を得ていたからだ)の一員となった最初の十日間──その最初の日々に、イシュタルは自分を、ハマドリアドとラザルス、そしてハマドリアドとギャラハドのあいだにおこうとするような子供じみた傾向を示した。そのため、同時に二カ所にいなければいけないというときですらだ。  ラザルスはこの田舎じみた振舞いを見ておもしろがり、同時にイシュタルは自分自身のやっていることがわかっているのだろうかと首をひねった。おそらく気づいていないのだろうと、かれは考えた。かれの若返り処置監督は仕事一点ばりでユーモア感覚に欠けており、自分が思春期にもどってしまっていることに気づいたらショックをおぼえたことだろう。  だがそれは、つづかなかった。ハマドリアドを好きにならずにいるなど不可能なことだったからだ。彼女は何があろうと、物静かな親しげな態度を変えなかったのだ。ラザルスは不思議に思った。それは彼女が、自分ほど容姿にめぐまれていない姉妹たちに対して身を守るため、意識的に発達させた行動様式なのだろうか──それとも、生まれつきの性格にすぎないのだろうか、と。かれはそれを、はっきりさせようとはしなかった。しかしいまやイシュタルはハマドリアドのかたわらに腰をおろすようになり、あるいはまた自分とギャラハドとのあいだにハマドリアドのための場所をあけるようにさえなった。そして、食事その他の仕事を彼女に手伝わせた──事実上の主婦¥侮閧セ。  ハマドリアドは答えた。 「もしその言葉を理解するのに千年待たなければいけないようなら……わたしたぶん、絶対に待ったりしないでしょうね。ミネルヴァによると、銀河語では定義できない言葉だそうですし、わたし、古典英語を話しているときでも、じつは銀河語で考えているのがわかるんです。わたし、本当に英語を自分のものにしているわけじゃないんですわ。古代の英語文学にあまりたびたび愛≠ニいう言葉が現われるので、その言葉を理解しそこねたことが、英語で考えるようになれない障害かもしれないと思うんです」 「では、銀河語にうつって、それで考えてみようじゃないか。まず第一に、英語で思考がなされたためしはほとんどないんだ。論理的思考にふさわしい言葉じゃないってことさ。そのかわり、誤った考えを隠すにはまったくぴったりの情緒的な言語なんだ。理屈をいうにはいいが、それ自体合理的な言語ではない。しかし、英語をしゃべる人間のほとんどが、きみ以上に愛という言葉の意味を考えているわけじゃない。たとえ、いつもかつも使っていたとしてもだよ」  ラザルスはつけ加えていった。 「ミネルヴァ! ぼくらはもう一度、愛という言葉を考えようとしているんだが、仲間に入りたいかい? もし入りたいなら、きみ自身の個性に変わるんだよ」  肉体を持たない女性の低い声が答えた。 「ありがとうございます、ラザルス。こんにちは、アイラ、イシュタル、ハマドリアド、ギャラハド……わたしはいまも、いままでもずっとわたしの個性のままですし、たいていそうです。そのうえいまあなたは、わたし自身の判断力を使う許可を与えてくださいました。お元気そうですのね、ラザルス……一日ごとにお若くなるようですわ」 「前より若くなった気分だよ。だが、きみがきみ自身の個性になるときは、そういってくれるべきだな」 「すみません、おじいさん」 「そんな卑屈ないいかたをするんじゃない。ただこういえばいい。こんにちは、わたしです≠チてね。もしきみが、ぼくかアイラにむかって一度でも、地獄へ落ちろということができたら、それはきみにとってためになるはずなんだがな。回路をきれいにしたまえ」 「でもわたしは、おふたりのどちらにも、そんなこといいたいとは思いません」 「それが悪いっていうんだ。もしきみがドーラとつきあう気なら、勉強しないといけないね。今日はもう、あの子と話をしたかい?」 「いまもドーラと話をしているところですわ、ラザルス。わたしたち五次元の妖精チェスをしているんです。それに彼女、あなたから教わった歌をいくつも教えてくれます。ひとつ教えてくれると、わたしがリード・テナー、彼女がソプラノで合唱するんです。わたしたちそれを実時間《リアル・タイム》でやります。操継室のスピーカーから声を出して、声を聞きながらですのよ。ちょうどいまわたしたち、〈ひとつきんたまのライリー〉の物語を歌っているところです。お聞きになります?」  ラザルスはたじろいだ。 「いや、そいつはごめんだ」 「わたしたち、これまで何曲がほかの歌も練習しました。〈ひょろひょろリル〉とか、〈ユーコン・ジェイクのバラード〉、それに〈バーナクル・ビル〉とか……わたしがその物語を歌うと、ドーラがソプラノとバスを歌うんです。でなければ〈四人の売春婦がカナダから下りてきた〉はいかが……これはおもしろいですわ」 「いいや、ミネルヴァ。すまんな、アイラ。ぼくのコンピューターは、きみのコンピューターを堕落させているようだな」ラザルスは溜息をついた。「こんなことになるとは思わなかったよ。ぼくに代わって、ミネルヴァに子守りをしてほしかっただけなんだ。このあたりで唯一の、知恵が遅れた船なんでね」  ミネルヴァはとがめるようにいった。 「ラザルス……ドーラが知恵遅れだというのは正しくありませんわ。彼女はとても利口だと思います。なぜ彼女がわたしを堕落させているなどとおっしゃるのか、わかりません」  アイラはそのときまで草の上に寝そべり、目の上にハンカチをのせて日光浴をしていたが、ごろりところがって横向きになると、いっぽうの肘で体を支えた。 「わたしもわかりませんね、ラザルス。その最後のやつを聞きたいですな。カナダがどこにあるかを思い出しましたよ。あなたが生まれた国の北ですね」  ラザルスは黙って数をかぞえてからいった。 「アイラ、きみのような教養ある現代人には奇妙と見える偏見がぼくにあることはわかっているよ。どうしようもないんだ。幼い子供のころに、そうしつけられてしまったんでね。卵からかえったばかりの家鴨《あひる》の雛みたいなもんで、|刷込み《インプリント》をされちまってるんだ。もしきみが野蛮時代の猥褻《わいせつ》な歌を聞きたければ、どうか自分のアパートで聞いてくれ……この屋上ではだめだ。ミネルヴァ、ドーラにそういう歌はわからない。彼女にとっては童謡なのさ」 「わたしにも理解できませんわ、理論的にしか、最長老。でも、とってもすてきですし、わたし、歌を教えてもらうのが楽しいんです」 「そうか……わかった。そのほかでは、ドーラはずっと行儀よくしているかい?」 「とてもいい子ですわ、ラザルスおじいさん。それにわたしのお相手で満足してくれていると思います。昨夜は寝る前にお話をしてもらえないので、すこしふくれていましたけど。でもわたし、彼女にいったんです。あなたはとてもお疲れになって、もう休んでいらっしゃると。そしてわたしがお話をしてあげました」 「だが……イシュタル! ぼくは一日、失くしてしまったのか?」 「はい、そうです」 「手術でか? 新しくなおされた場所には、どこも気づかなかったが」  技術主任は口ごもった。 「おじいさん、わたしが処置についてお話しするのは、あなたがそう要求される場合だけです。そうしたことを思い出すのは、患者にとっていいことではありません。あなたが要求されないことを希望します。本当にそう思いますのよ、最長老」 「そうか。わかった、わかった。だがこのつぎきみが一日を……いや一週間だろうと、どれぐらいだろうと……切り取るときは、ぼくに警告してくれ。そうすればぼくはミネルヴァに、|就寝前の物語《ベッド・タイム・ストーリー》を預けておくから。いや、だめだろうな。きみはぼくに知られたくないんだから。いいよ、ぼくはミネルヴァに物語のファイルをいつも渡しておくから、かわりに彼女にいってくれ」 「そうします、おじいさん。患者が協力してくださると助かりますわ。とくにわたしたちがすることに対して、できるだけ注意を払わないでいてくださると」イシュタルはかすかな笑いを浮かべた。「わたしたちがいやがる患者は、別の若返り技術者です。心配したり、何かしようとしたりしますから」 「べつに不思議じゃないね。ぼくは自分に、物事を自分でやろうとする恐るべき習慣があることを知っている。それをしないでいられる唯一の方法は、操縦室から離れていることだ。だからぼくがあまりおせっかいになったら、黙れといってくれ。だが、ぼくらはどれぐらい進んでいるんだい? あとどれぐらい、やらなくちゃあいけないんだ?」  イシュタルはためらいがちに答えた。 「きっといまが、そのときなんでしょうね、あなたに黙れ≠チていう」 「そうとも。だがもっとしっかりしなくちゃあな。わたしの操縦室から出ていけ、この豆腐頭のうすのろめ。外でおとなしくしていろ!≠ニ、やるんだ。相手にはっきり理解させること。もしそいつが飛びあがらなかったら、営倉に放りこんじまうんだ。さあ、もう一度やれ」  イシュタルは大きく顔をほころばした。 「おじいさん、あなたって本当に古狸ですのねぇ」 「そうじゃないかと前からぼくも疑っていたんだ。それを気づかれなければいいがと思っていたんだがね。ようし、話題は愛≠セ。ミネルヴァ、ハマダーリンがいっていたが、きみはそれを銀河語で定義することはできないといったそうだな。何かそれにつけ加えることはあるか?」 「いまはかりにイエスとしておきます、ラザルス。わたしの答は、ほかのかたが話されるまで保留してよろしいでしょうか?」 「好きにしたまえ。ギャラハド、きみは家族の中でいちばん口数が少なくて、人の話を聞いてばかりいるな。話してみないか?」 「そうですね……ハマドリアドがその質問をするのを聞くまで、ぼくは愛≠ノ何か不可解なものがあるとは気づきませんでした。でもぼくはまだ英語を勉強している途中です。子供が最初に言葉をおぼえるような自然的な方法でね。文法なし、統語法なし、辞書なし……ただ耳で聞いて、しゃべって、読むだけです。前後の文脈で新しい単語をおぼえます。その方法で得た感じによると、愛とはセックスによってもたらされ、たがいに分かちあった恍惚感のことではないでしょうか。どうです?」 「いいかね、坊や。こんなことはいいたくないが……もしきみがこれまで英語をたくさん読んでいるのなら、どうしてその意見に達したのか、ぼくにはわかる……だが、きみは百パーセント間違っているよ」  イシュタルはびっくりした表情になり、ギャラハドは考えこんだような顔になっただけだった。 「では、あともどりして、もうすこし読まなければいけませんね」 「わざわざそんなことをしなくてもいいさ、ギャラハド。きみがこれまで読んできたそういう作家連中のほとんどは、愛という言葉をまさにそう間違えて使っていた。そう、ぼく自身、何年も間違って使っていたんだ。それが英語のいいまわしのわかりにくい一番の実例だ。しかし、愛がなんであろうと、セックスとは違う。ぼくはセックスをけなしているわけじゃない。もし、ふたりの人間が協力して赤ん坊を作ること以上に重要な目的が人生にあるとしても、歴史に現われたすべての哲学者はまだそれを見つけられないでいるんだ。そして、つぎの赤ん坊ができるまでのあいだ、いつもその練習をすることが人生に味わいをもたらし、赤ん坊を育てることはたいへんな苦労だという事実を耐えられるものとしてくれる。だがそれは愛じゃない。愛とは、性的に興奮していないときでもなお継続する何ものかだ。そうだとして、だれか意見をいってみないか? アイラ、きみはどうだ? きみはほかの者より英語を知っている。ほとんどぼくと同じぐらい上手にしゃべるからな」 「あなたよりましですよ、おじいさん。わたしは文法どおりにしゃべりますが、あなたは違います」 「ぼくをからかうんじゃないよ、この青二才めが。きみをあっさりのばしちまうからな。シェイクスピアとぼくは、自分を表現するとき絶対、文法に口出しさせたりしないんだ。いいか、やつが一度ぼくにいったことがある……」 「とんでもない! かれは、あなたが生まれる三世紀前に死んでいるんですよ」 「そうかな? 一度やつの墓をあばいたら、中は|から《ヽヽ》だったというぞ。実のところ、かれはエリザベス女王の異母弟で、真実をより目立たなくするために髪を染めていたんだ。もうひとつの事実は、秘密がばれそうになったんで、正体をくらましたってことだ。ぼくはそのやりかたで何回も死んだよ。アイラ、かれの遺言では、かれの二番目にいいベッド≠女房へおくるとなっている。いちばんいいベッドをもらったのはだれか、探がしてみることだな。そうすれば、何が本当におこったのかわかるようになるさ。きみは、愛≠定義してみたいか?」 「いいえ。どうせあなたはまた規則を変えるでしょうからね。あなたがいままでにされたのは、愛≠ニ呼ばれる経験の分野を分けただけで……それも何週間か前に同じ質問をミネルヴァにされたとき、彼女が分けたのと同じ範疇《カテゴリー》にです……つまり、性愛《エロス》≠ニ聖愛《アガペー》≠ノ。しかしあなたは、下位範疇《サブ・カテゴリー》としてそういう用語を使うことを避けられ、その詭弁によってひとつの下位範疇から一般的概念を表わす用語を締め出し、定義されるべきその言葉は、もうひとつの下位範疇にかぎられると主張されるつもりだったのです……つまりあなたは、愛≠聖愛《アガペー》≠ニまったく同一に定義されようというわけでしょう。しかしもう一度その言葉を使うことはせずにです。そうはいきませんよ、ラザルス。あなたご自身の隠《いん》喩《ゆ》を使わしてもらうなら、わたしはあなたがカードを掌に隠したのを見たんです」  ラザルスは感じ入った様子で首をふった。 「きみは抜け目のない男だな、アイラ。きみを思い出してよかったよ。いつか暇ができたら、唯我論について話し合おうじゃないか」 「馬鹿なことはいわないでください、ラザルス。ギャラハドと同じようにわたしをおどしつけることなどできませんからね。下位範疇はやはり性愛《エロス》と聖愛《アガペー》です。聖愛《アガペー》はめったにありません。性愛《エロス》は非常に一般的ですから、ギャラハドが性愛《エロス》を愛≠ニいう言葉の持つ唯一の意味と感じたのは、まあ無理もありません。あなたは不公平にかれを混乱させてしまったのです。それもかれの仮定が……不正確ですが……こうだったからです、つまり、あなたは英語に関して信頼のおける権威である、と」  ラザルスは笑った。 「アイラ、ぼくが子供だったころ、そういう代物は荷車一台いくらで売られていたが、だれも見向きもしなかったものさ。そういう専門用語は、神学者と同じといっていい|老いぼれじじい《アームチェア・エキスパー》によって考えつかれたものだ。それは、独身を誓った聖職者たちによって書かれた性手引書と同じ地位をそれらに与える。いいかね、ぼくがそうした妙な範疇を避けたのは、それらが役に立たず、不正確で、まぎらわしいからだ。愛のないセックスはありうるし、セックスのない愛もありうる、そしてさまざまな状況があまりにも混じりあっているから、だれも、どれがどれと選り分けることはできないんだ。だが愛は定義されうる……セックスという言葉を用いない正確な定義、あるいは性愛《エロス》や聖愛《アガペー》といった言葉をまったく使わないでの質問攻めによらない正確な定義だ」  アイラはいった。 「では定義してください。笑ったりしないと約束します」 「まだだめさ。愛のように基本的な言葉を定義するときに厄介なのは、その定義が、それを経験していない人間には理解されないということだ。ちょうど、生まれつき目の見えない人間に虹を説明するという古いジレンマと同じさ。そう、イシュタル、今日ではそういう人間にクローン増殖された目を与えることができるのは知っている……だがそのジレンマは、ぼくの若いころには回避できなかったんだ。当時、そうした不幸な人間に、電磁スペクトルのあらゆる物理学的理論を教えることはできた。人間の目が何サイクルの振動数をとらえることができるかを正確に語り、そうした振動数によって色彩を定義し、屈折と反射の作用がいかに虹という映像を作り出すか、それはどういう形か、どのように振動数が分布するかを正確に説明するんだ。こうしてその盲目の男は、科学的意味での虹についてすべてを知る……だがそれでもやはりその男は、虹を見たとき人の心にわきあがる息をのむような驚異の念を、感じることはできないんだ。ミネルヴァはその男よりはるかにいいさ。彼女は見ることができるからな。親愛なるミネルヴァ、きみは虹を見るかね?」 「いつでもそれが可能なときには、ラザルス。わたしの端末感覚装置のひとつが、それを見られるときはいつでも。すばらしいものですわ!」 「そのとおりだ。ミネルヴァは虹を見ることができる。盲目の人間は見ることができない。電磁理論は経験と関係ないんだ」  ミネルヴァはいった。 「ラザルス。わたしは、生身の人間よりも虹をよく見られるかもしれません。わたしの視覚の範囲は三オクターブで、千五百から一万二千オングストロームまでありますから」  ラザルスは口笛を吹いた。 「ぼくは一オクターブにもならないっていうのにな。教えてくれないか、きみは和音を色で見られるか?」 「ええ、もちろん!」 「ふーん! そういうほかの色を説明しようなんて思うなよ。ぼくは半分盲目で生きつづけなければいけなくなるからな」  ラザルスはさらにいった。 「火星で知りあった盲目の男を思い出すよ、アイラ。そのときぼくは、ええと、保養センターを経営していたんだ。かれは……」  臨時議長はうんざりしたようにかれの言葉をさえぎった。 「おじいさん、われわれを子供あつかいしないでください。たしかにあなたは、現在生きている人々のうちでの最年長者です……しかし、ここにいる、いちばん若い者でも……あそこに坐って、優しい目つきであなたを見ているわたしの子供がそうですが……あなたが最後に会われたときのジョンソンおじいさんと同じぐらいの年齢なんですからね。ハマドリアドは、つぎの誕生日で八十歳になるはずです。ハム、マイ・ダーリン、きみはこれまで何人の男と寝た?」 「まあ、アイラ……いちいち数えたりする人なんているかしら?」 「金を取ったことは?」 「よけいなお世話だわ、お父さん。それとも、わたしにいくらか出そうとでもいうつもりなの?」 「生意気なことをいいなさんな、ディア。わたしはまだきみの父親なんだぞ。ラザルス、率直な会話でハマドリアドにショックを与えられるとでも思いますか? 売春はここではあまりさかんじゃありません。彼女と同じぐらい熱心な素人がおおぜいいますのでね。にもかかわらず、ニュー・ローマにある何軒かの売春宿は商工会議所のメンバーですよ。でもあなたは、もっといい保養所《ホリデイ・ハウス》を試してみられるべきですね……そう、イリジアムとか。完全に若返りがすんでからの話ですが」  ギャラハドが賛成した。 「それはいい考えです、お祝いですね。イシュタルがあなたの最終的な健康診断をすませしだい、ぼくの客としていらしてください、おじいさん。そうしてくだされば光栄です。イリジアムにはなんでもそろっていますよ、マッサージに催眠暗示から、最高の美食家むけ料理とショウまで。そのほか、なんでもおっしゃってくだされば用意させます」  ハマドリアドが抗議した。 「ちょっと待ってちょうだい。自分のことしか考えない馬鹿者にならないで、ギャラハド。それは四人でするお祝いにしましょうよ。ねえ、イシュタル?」 「そうですとも。おもしろいわ」 「それでなければ六人でするのよ、アイラのお相手も入れて。お父さん、どう?」 「悪くないね、ラザルスの誕生パーティーだ……しかし、わたしがふだん公共の場所を避けているのは知っているだろう。若返りは何回されたんです、ラザルス? それによってわれわれはこの種の誕生パーティーが何回目かを数えるんです」 「きみの知ったことじゃないさ、若いの。きみの娘がいうように、いちいち数える人間なんているものか。バースデイ・ケーキに気をつかうことはないよ、ぼくが子供のころやっていたようにはね。まん中に一本だけ蝋燭が立っていれば充分だ」  ギャラハドはうなずいた。 「男根の象徴ですね。古代における繁殖力のしるしだ……若返りにはぴったりです。それに、炎は同じぐらい昔の生命の象徴だし。それは本当に使える蝋燭でないといけませんね。偽物ではためだ。見つけられるといいんだが」  イシュタルはひどく嬉しそうだった。 「もちろんだわ! どこかに蝋燭を作っているところがあるはずよ。もしなければ、わたしが作りかたをおぼえて自分で作るわ。デザインもするつもり……なかば写実的だけれど、ある程度様式化された形のものにね。そっくりもとの姿に作ることもできますけれど、おじいさん。わたし、かなりの素人彫刻家なんです。整形外科を勉強したときにおぼえましたの」  ラザルスは抗議した。 「ちょっと待ってくれ! ぼくが欲しいのは、ただの蝋燭だ……それを吹き消してお祈りしたいだけなんだ。ありがとう、イシュタル、そこまでしてくれることはない。ありがとう、ギャラハド、だがぼくは勘定を払うよ……もっとも、ここで家族パーティーをすることにしたほうがいいかもしれんぞ。ここでなら、アイラも射撃場の標的のような気分にはならんだろうからな。いいかね、子供たち、ぼくはこれまであらゆるタイプの|喜びの家《ジョイ・ハウス》や|快楽の館《プレジャー・ドーム》を見てきた。幸福は心の中にあるんだ、そういう場所にではなく」 「ラザルス、おわかりになりませんか、子供たちはあなたにすばらしいパーティーをお贈りしたいと思っているのですよ。かれらはあなたが好きなのです……理由は神のみぞ知る、ですが」 「それは……」 「しかし、勘定はないかもしれません。あなたの遺言にそえてあった例のリストに何かあったような気がします。ミネルヴァ……イリジアムの所有者はだれだい?」 「ニュー・ローマ・サービス・エンタープライズの子会社で、シェフィールド・リビイ商会に所有されています。要するに、ラザルスが所有者ですわ」 「なんてことを! だれがぼくの金をそんなものに投資したんだ? アンディ・リビイが墓の中で目をまわしてるぞ、かれの優しく内気な魂に祝福あれだ……ふたりで最後に見つけた惑星の周回軌道に、ぼくがかれをのせていなければな。その惑星でかれは殺されたんだ」 「ラザルス、それはあなたの回想録に入っていませんね」 「アイラ、ぼくは何度もいってるぞ、ほとんど回想録にないことばかりだと。このかわいそうな男は、持ち前の深遠な思考のひとつを考えはじめて、警戒を怠ったんだ。ぼくがかれを軌道にのせたのは、かれが死にかけていたとき、そう約束したからなんだ。かれを生まれ故郷のオザークに連れもどしてやるとね。百年ほどあとに、そうしようとしたが、かれは見つからなかった。ビーコンがだめになったんだと思う。わかった、きみたち、パーティーはぼくの幸福の家でやろう。きみたちはそこにあるものをなんでも試してみていいぞ。話はどこまで進んでいたっけ? アイラ、きみが愛≠フ定義をしようとしていたんだったな」 「いえ、あなたが火星の盲目の男について話されようとしていたところでした。あなたが売春宿を経営していたころの話です」 「アイラ、きみはジョンソンおじいちゃんと同じぐらい無作法なんだな。その男、|やかまし屋《ノイジー》=c…本名は思い出せんが、だいたいそんなものがそいつにあったかどうかだな……ノイジーは、ちょうどきみみたいに、ただもう仕事だけが生き甲斐という人間のひとりだった。盲目の人間はそのころ、じつにたやすく生きていけたんだ。乞食をしてね。そしてだれも、馬鹿にしたりしなかった。そのころは、人間の視力を取りもどす方法などなかったからだ。  だがノイジーは、ほかの人間に厄介をかけて生きていくのに満足していたりしなかった。かれは自分にできるかぎりのことをして働いた。アコーディオンをひいて歌をうたったんだ。蛇腹を動かすと空気がリードに送られるようになっており、鍵盤にふれると、じつにきれいな音が出てくる道具でね。電子工学が市場から機械仕掛けの楽器のほとんどを追放してしまうまで、それは人気のあるものだった。  ノイジーはある晩やってきた。エアロック式の更衣室で宇宙服をぬぎ、かれが中にいるとぼくが気づいたときにはもう、かれは楽器をかなでて、歌をうたっていた。  ぼくのモットーは商売をするか、おごるか、出ていくか≠セ……ただし、古くからのお得意が一時的に金まわりが悪いとき、店がビールをおごるかもしれない場合をのぞく、だ。だがノイジーはお得意なんかじゃなく、浮浪者だった……服装も匂いも、浮浪者そのものだった。そして、追い出そうとしたときぼくは、やつが目にぼろ布をあてているのに気づき、あわてて思いとどまったんだ。  目の見えない男を放り出したりする者はいない。そういう連中をいじめたりする者はいない。ぼくはかれから目を離さなかったが、そのまま放っておいた。かれは腰をおろしもしなかった。ただそのこわれかけた携帯型《ストマック》スタインウェイをひいて歌っていたんだ。そのどちらも、たいしてうまくなかったがね。そしてぼくは、かれの邪魔をしないようにピアネットをやめていた。女の子のひとりが、かれのために帽子をまわしはじめた。  かれがテーブルにやってくると、ぼくは腰をおろすようにいい、ビールをおごってやった……そして、それを後悔した。かれはだいぶ酒くさかったんだ。かれはぼくに礼をいうと、身の上話をはじめた。嘘さ、大部分はね」 「あなたのお話みたいにですか、おじいさん?」 「ありがとう、アイラ。かれは、ハリマン大型定期宇宙船の一隻で機関長をしていた、といった。それから事故に会ったんだ、とね。たぶんかれは宇宙飛行士だったんだろう。ぼくはかれのあやしげな話をあげつらうことはしなかったし、そんなつもりもなかうだ。もし盲目の人間が、自分は神聖ローマ帝国の正統な後継者だと主張したいなら、ぼくはそのギャグにつきあうつもりだ……だれだってそうするだろう。おそらくかれは宇宙船の乗組員で、機械工か船大工か、なんかそんなことをしていたんだ。もっと考えられるのは、かれが流刑囚の鉱夫で、火薬を使うときに不注意だったということだ。  閉店時間に店の中を見まわってみると、かれが調理場で眠っているのが見つかった。ぼくらは衛生的にやっていたんで、そのままにしておくわけにはいかなかった。それでぼくはかれをあいている部屋へ連れてゆき、ベッドに寝かしつけた。かれに朝飯を食わせ、やさしく送り出してやるつもりでね……木賃宿を経営していたわけじゃないからさ。  そのことでは、だいぶいわなければいけなかったよ。ぼくは朝食のとき会ったが、すぐにはかれとわからなかった。女の子がふたり、かれを風呂で洗い、髪を刈り、髭を剃り、清潔な服を着せてやっていた……ぼくの服をだ……そして、傷ついた目にかぶせていた汚ないぼろ布を取り、そのかわりに清潔な白い包帯をあてていた。  なあ、みんな、ぼくは天気を相手に喧嘩したりはせん。女の子がペットを飼うのは自由だ。ぼくは、客が何をめあてにやってくるのか知っていたし、それがぼくのピアネット演奏でないことはたしかだった。たとえそのペットが二本足で立って、ぼくより大飯食らいだったとしても、ぼくはやはり何もいわなかった。ホルモン・ホール≠ヘ、女の子たちがかれをおいておきたいと思っているかぎり、かれノイジーの家だったんだ。  しばらくたってからわかったのは、ノイジーがただの寄生虫じゃあないということだった。かれは無料の部屋と食事を、それにおそらくは同様にぼくらの商品をも楽しんでいたし、いっぽう客から金を吸い上げていたが……りっぱに自分の役割をはたしてもいたんだ。かれがいっしょに暮らすようになった最初のひと月が終ってみると、ぼくの帳簿は、総収入がふえ、純益がずっと上がっていることを示していたんだ」 「あなたはそれをどう説明されます、ラザルス? 客の金という点からすると、かれはあなたの商売仇となっていたわけですが」 「アイラ、ぼくはきみに代わって何もかも考えてやらなければいけないのか? いや、ミネルヴァがほとんどを考えてくれるさ。しかしきみが、そういうたぐいのいかがわしい場所の経済学について考えたことが一度もないというのは、ありうるな。収入源は三つ、バーと食堂と女の子たち自身だ。麻薬はない……麻薬は、三つの大切な収入源をだめにしてしまうからだ。もし客が麻薬をやっていて、見た目にもそれがわかると、あるいは麻薬《キシュ》の棒を折っただけでも、ぼくはそいつをすばやく静かに外へつれ出し、中国人の店へ送り出してやった。  調理場は、女連中に食事をさせるためのものだった……彼女たちは、原価どおり、あるいはわずかの損ということで、部屋と食事の費用を決められていた。だがそこではまた、注文する人間には一晩じゅう食事を出しており、総経費で女の子たちの食事もまかなうようにしているので、利益があがることになった。バーのほうも、ぼくが手の三本あるバーテンをひとりやめさせてからは利益があがるようになった。女の子たちは、取引きの生み出すすべてを手にしていたが、彼女たちはひと仕事ごとに均一の手数料を払い、また一晩じゅう客がいた場合には三倍の手数料を払った。女の子はすこしならごまかすことができたし、ぼくはいつも目をつぶっていた……だが、あまり多額の金をあまりしばしばごまかしたり、また相手の客が金を盗まれたと文句をつけてきた場合には、ぼくはその女の子と話しあった。本当の面倒がおこったことは一度もない。彼女たちはレディだったし、そのうえぼくには、頭のうしろに目が一ついていただけでなく、彼女たちをひそかに調べる手段があったんだ。  盗みについての苦情はいちばん厄介だったが、客の勘違いでなく本当に女の子が悪かったという例はひとつしかおぼえていない……ぼくはただその契約を終りにして、彼女を行かせただけだ。ふつう苦情がくる場合、そのとんま野郎は盗まれたんじゃないんだ。そいつはただ、彼女の欲深い小さな手に多すぎる金をわたし、彼女がそいつの注文にこたえたあとで、心変わりしただけなんだ……そして、こんどはそいつがそれを取りもどそうと彼女から盗みにかかるというわけなんだ。だがぼくは、そうしたとんまを嗅ぎわける能力があり、盗聴マイクを使って聞くんだ……そして、ごたごたが始まるとすぐに割って入る。そういう馬鹿をぼくは思いきり投げとばすので、そいつは地面で二度もはずんだものさ」 「おじいさん、そうするには、体がいささか大きすぎる連中もいたのではないんですか?」 「実際にはいなかったね、ギャラハド。喧嘩するとき、体の大きさはあまり問題にならないんだ……とはいっても、ぼくは本当の面倒がおこったときにそなえて、いつも武器を持っていたがね。だれかを殺さなければいけないとなったら、ぼくはどんな方法でやるかなどまったく気にせず、さっさと相手を殺すさ。もしきみが警告なしに股ぐらを蹴飛ばせば、そいつは外へ放り出されるまでおとなしくしているはずさ。  おびえた顔をするんじゃないよ、ハマディア。きみはショックなど受けない女だと、きみの父親が保証したんだからな。それにぼくがしゃべっていたのはノイジーのことで、かれが自分でもすこし儲けながら、ぼくらも儲けさせていたことなんだ。  こういう辺境の店ではふつう、客は店に入ると酒を飲みながら女の子の品定めをし、ひとりを選び、その合図として彼女に酒をおごる……そして彼女の部屋に行き、そして帰るんだ。所要時間は三十分、店に入る利益は最小限だ。  ノイジーが来る前は、そんな調子だった。かれが姿を現わしてからは、それが変わった。酒を飲むのは前と同じだが、盲目の人間が歌っているのを邪魔するよりはと、女の子に二杯目の酒をおごることがある。彼女の部屋から出てくると、かれは〈フランキーとジョニー〉だの〈あの子がわたしの従兄と会ったとき〉とかを歌っており、かれに微笑みかけ、歌の中の文句を捧げる……客は腰をおろしてそれを終りまで聞き……そしてノイジーに〈黒い瞳〉を知っているかと尋ねる。もちろんノイジーは知っているが、それを認めるかわりに、歌詞を教えてくれ、そしてハミングしてみてくれと客に頼む。そうすれば、どうしたらいいかわかるから、とね。  もし客が金を持うていれば、そいつは何時間あとにもまだ店にいて、食事をし、女の子のひとりにも食べさせてやり、ノイジーにかなり気前よくチップをはずみ、同じ女の子か、あるいは別な子と|もう一度《アンコール》してもいいという気になっている。もし金があれば、そいつは一晩じゅう腰をすえて女の子とノイジーとバーと調理場に金をばらまくというわけだ。もし使いすぎて一文無しになってしまい、そしてそのときまでいい客でいたのなら……金離れがいいのと同じぐらい行儀もよければ……ぼくは信用貨しでかれにベッドと朝食をおごり、かれにまた来てくれと頼む。もし、つぎの給料日に生きていれば、かれはかならずやってくる。やってこなければ、すべての売春宿からしめだされることが、一回分の朝食のお値段になるわけだ……かれが使った金額とは、まったく比較にならないものさ。安あがりの信用広告ってわけだな。  そういうひと月がつづき、店も女の子たちも、それまでよりずっと多くの金を稼いでいたが、女の子たちが以前より一生懸命働いたわけじゃあない。彼女たちは労働時間の一部を、客におごらせた酒を飲んですごしていたんだからね……その酒というのは色のついた水で、代金の半分は店に、半分は女の子のふところに入った……そして彼女たちは、客がノイジーの昔なつかしい歌を聞くのを手伝ったのだ。驚いたことに、ひとりの女の子などは奴隷の踏み車のように働くのをいやがった。いつもは、女たちの多くと同じように、自分の仕事を楽しんでいたのに、だ。いずれにしても彼女たちはいつまでも飽きずに腰をおろし、ノイジーの歌に耳を煩けていた。  ぼくはピアネットをひくのをやめた。ただし、ノイジーが食事をしているあいだを除いてだがね。技術的にはぼくの音楽のほうが上だった……しかしかれの歌には、それが売り物となるあの定義できないものがあったんだ。かれの歌は、聞く者を泣かせたり笑わせたりすることができた。そしてかれには、そういう持ち歌が千曲はあった。かれが〈負けてばかりの男〉と呼んでいた曲がある。たいしたものじゃない。こんなところだ…… [#ここから3字下げ] ターター・プゥン・プゥン! ターター・プゥン・プゥン! タータター・ター・ター プゥン・プゥン…… [#ここで字下げ終わり]  ……何をしてもうまくいかない男の歌なんだ。ええと…… [#ここから3字下げ] ビヤホールが一軒 ばくち場のとなり 楽しい時間をちょいすごすため ひっかけ屋が一軒 ばくち場の二階 おれの妹が商売してるとこ 彼女はいい子だ おれなら金は惜しまない 五ドルだって十ドルだってよ すっからかんのときか それとも賭けた馬がみな ゆっくりと走っていたらさ…… [#ここで字下げ終わり]  そんなところだな、諸君。もっとあるがね」  アイラはいった。 「ラザルス……あなたは、ここへ来られてから毎日、その歌をハミングしたり、声に出して歌ったりしていられますよ。初めから終りまですっかりね。十二節かそこらです」 「本当かい、アイラ? ぼくはたしかにハミングしたり、声を出して歌ったりする。それはわかっているが、自分ではそれを聞いていないんだ。猫が喉を鳴らすのと同しだな。ぼくの機能はオーケイで、計器盤はすべて緑、正常な巡航速度で航行中というだけの意味さ。つまりぼくは心おだやかで、のんびりと、幸せな気分でいるということだ……そして考えてみろ、ぼくはそのとおりなんだ。  だが、〈負けてばかりの男〉は十二節だけじゃなくて、何百節もあるんだ。ぼくが歌ったのは、ノイジーがいつも歌っていたやつの断片でしかない。かれはいつでも歌をいじくり、それを変えたり、つけ加えたりしていた。いま歌ったやつが、かれのと同じ始まりかたをしているとは思わない。ぼくは、オーバーをいつも質に入れている男についての歌をおぼえているような気がするんだ。ぼくがまだうんと若くて最初の家族をかかえていたころ、地球でおぼえたんだ。  しかし、ノイジーが続き番号を整理して詞の本文を変え終えたときに、その歌もノイジーのものとなったね。ぼくはその歌をもう一度聞いたよ、きっと二十年か二十五年かあとで、ルナ・シティのキャバレーだったはずだ。ノイジーの歌ったのをだ。しかしかれは、それに手を入れていた。韻律配分と脚韻構成をしっかり整え、メロディーをすっきりさせたんだ。でもそのメロディーは、まだそれとわかった……短調で、悲しげというより、むしろ想いに沈んだという調子で、歌詞のほうは相変わらず、例の三流ぺてん師についてだった。そいつのオーバーはやはりいつも質屋に入っており、そいつは妹を食い物にしていたんだ。  そして、かれも変わっていた。ぴかぴかの新しい楽器に、注文仕立ての宇宙飛行士の制服、こめかみの白髪……そして、一流スターになっていた。ぼくは給仕に金をやってハッピー<fイズが聴衆の中にいることを伝えさせた──そのころぼくはその名前じゃあなかったが、ノイジーが知っていたのはそれだけだったのだ……最初の舞台が終ると、かれはぼくのところにやってきて、ぼくに酒をおごらせてくれ、しばらくのあいたぼくらはたがいに嘘をやりとりし、懐しいホルモア・ホール≠ナの幸せな日々について話しあった。  ぼくはそのときいわなかったが、かれはずいぶん唐突に店から出ていってしまったので、女の子たちはそのことを気に病み、かれが溝の中で死んでいるんじゃないかと心配したものだ……かれに何もいわなかったのは、かれがそのことを口にしなかったからだ。しかし失踪当時、ぼくはかれの足取りを調査しなければいけなかった。店の連中がそのことであまりにも意気消沈してしまい、店全体が死体置場みたいな感じになったからだ……高級売春宿《パーラー・ハウス》にあるまじき雰囲気だよ。ぼくは、かれがルナ・シティにむかって離陸寸前の〈しろはやぶさ〉に乗りこんだままで出てこなかったことを立証した……そこでぼくは女の子たちに、ノイジーは急に故郷へ帰るチャンスができ、荷役監督にきみたちひとりひとりへの伝言を残していったぞ、といってやった……それからかれがしなかった別れの挨拶をそれぞれ個人にあてたものとするため、もっと多くの嘘をつけ加えた。それでみな元気を取りもどし、憂鬱は吹き飛んだ。だれも相変わらずかれのいなくなったことを淋しがったが、しかしせっかくつかんだ故郷へ帰る機会を、かれがあとへ延ばすわけにいかなかったことは、理解したのだ……そして、かれがひとりひとりに挨拶を送ることを忘れなかったので、彼女たちは感謝されていることと考えたのだ。  そして実際にも、かれは彼女たちをおぼえていたよ。かれは女たちの名前を、ひとつひとつあげていったんだ。かわいいミネルヴァ、ここに盲目だが血と肉からできた人間と、決して見ることができない者との違いがあるんだ。ノイジーは、いつでも見たいとき、記憶によって虹を見ることができたんだ。かれは決して見ること≠やめず、かれが見るものはつねに美そのものだった。ある程度までだが、ぼくはそれに気づいていた。ぼくらが火星にいたころからだ。というのも……笑わんでくれよ……かれは、ぼくがきみのような色男だと思いこんでいたからさ、ギャラハド。かれは、声でぼくの顔形がわかるといっていたんだ。そしてぼくの外見を説明してくれた。ぼくは奥ゆかしく、お世辞だろうというと、かれはご謙遜をと答え、ぼくはそのままにしておいたよ……たとえ、そのころもいまもぼくは美男などではなく、謙遜などというのがぼくの悪徳のひとつであったことなど絶対にないとしてもだ。  そしてノイジーはまた、女の子もみな美人だと考えていた……ひとりについてはそのとおりだったかもしれないし、たしかに何人かは可愛い娘がいたんだ。  だがかれはぼくに、オルガはどうなったかと尋ね、こうつけ加えたんだ。まったくの話、彼女はなんてきれいだったんだろう!≠ニね。  諸君、オルガは不器量でさえなかった。醜かったんだ。顔は泥のパイといったところだし、体つきは南京袋みたいだった……火星のような辺地でなければ、やっていけなかったろう。彼女にあるものは、あたたかく優しい声と、愛らしい人柄だった……それで充分だったんだ。なぜなら忙しい夜になると客は選り好みを許されず彼女を相手にすることがあったが、一度そうなった客は、しばらくたってからわざわざ彼女を指名しにやってくるからだった。いいかきみたち、こういうことさ。美人は男をベッドへさそいこむが、かれは二度ともどってこない。そいつがおそろしく若いか、大馬鹿者でないかぎりはね」  ハマドリアドは尋ねた。 「男をもう一度さそいこむのはなんなの、おじいさん? テクニックかしら? 筋肉の使いかたですか?」 「きみは文句をいわれたことがあるかね、ディア」 「それは……ありませんけど」 「するときみは、答を知っていてぼくをからかっているんだな。そのどちらでもない。それは男を幸せにする能力だ。おもにきみ自身が、それで幸せになることによってだよ……肉体的なものよりはむしろ精神的な特質だ。オルガにはそれがたっぷりあったんだな。  ぼくはノイジーに、オルガはきみが去ったあとまもなく結婚した、といった。とても幸福そうで、最後に消息を聞いたときには子供が三人あるといっていた、と……これは完全な嘘だった。彼女は事故で死に、女の子たちはその出来事に大声で泣きわめくし、ぼく自身もいい気分がせず、店を四日間しめたんだ。だがノイジーにそんなことはいえなかった。オルガは、かれの世話を始めた最初の女連中のひとりで、かれを風呂に入れるのを手伝い、かれのため、ぼくが寝ているあいだにぼくの服を何枚か盗んだんだ。  だが彼女たちはひとり残らず、母親のようにかれの面倒を見、決してかれのことで争ったりしなかった。ぼくはノイジーについてのとりとめもない話で、われわれの話題からそれてしまったわけではない。ぼくらはまだ、愛を定義しつづけているんだ。さて、だれかやってみないか?」  ギャラハドはいった。 「ノイジーは、彼女たちをみな愛していました。あなたがずっと話されていたのは、それでしょう」 「違うね、坊や。かれはだれも愛しでいなかった。彼女たちを好いてはいたさ……だが、かれはあとをふりかえることなく彼女たちのもとから去っていったんだ」 「するとあなたは、彼女たちのほうがノイジーを愛していたとおっしゃるのですね」 「そのとおり。かれが女たちに対して抱いていた感情と、女たちがかれに対して抱いていた感情との違いを、いったんきみらが了解すれば、われわれの議論はようやく核心をつきはじめたことになるね」  アイラはぶっきらぼうにいった。 「母性愛ですね……ラザルス、あなたはわたしたちに、母性愛がこの世に存在する唯一の愛だとでもいわれるつもりですか? あなたはどうかしておられますね!」 「かもしれん。だがそれほどひどくはないぞ。ぼくは女連中が、母親のようにかれの面倒を見たといったんだ。母性愛についてはひとこともいわなかったぞ」 「ああ……かれは彼女たちの全員と寝たんですか?」 「そうだとしても驚かんね、アイラ。ぼくはそんなことを、知ろうともしなかったよ。いずれにしても関係のないことだからな」  ハマドリアドは父親にむかっていった。 「アイラ、わたしたち、母性愛を定義しようとしたわけじゃないわ。母性愛って、ただ義務感でしかないときが多いものよ。わたしは自分の子供をふたり、溺れ死にさせてしまいたい誘惑にかられたわ。あの子たちがどれほどひどかったか見てたら、あなただってわかってくださるでしょうね」 「娘や、きみの子供たちはみな可愛いじゃないか」 「まあ、とんでもない。赤ん坊がどれほど面倒でも、母親として世話をしなければいけないのは、そうしないともっとひどい怪物に育ってしまうからよ。わたしの息子のゴードンを、赤ん坊としてどうお思いになって?」 「すばらしい子供だ」 「本当に? それをかれにいうわ……もしわたしにゴードンって名の男の子ができたらね。ごめんなさいいお父さん、あなたを欺すべきじゃあなかったわ。ラザルス、アイラは申し分ないおじいちゃんですのよ。お誕生日を忘れたことがないんです。でもわたしは、きっとミネルヴァがそういうことに気をつけているんだろうと思っていましたわ。いまそれがわかりましたわ、そうなんでしょ、ミネルヴァ?」  ミネルヴァは答えなかった。ラザルスはいった。 「彼女はきみのために働いているんじゃないかもね、ハマドリアド」  アイラは鋭くいった。 「もちろん、ミネルヴァはそうしたことを、わたしのために気づかってくれているよ! ミネルヴァ、ぼくには孫が何人いる?」 「百二十七人です、アイラ。来週生まれる予定の男の子も勘定に入れまして」 「曾《ひ》孫《まご》は何人だ? それに男の子を生むのはだれだい?」 「四百三人です。あなたのご子息ゴードンの現在の妻マリアンです」 「生まれたら教えてくれ。その子が、さっきぼくの考えていた赤ん坊のゴードンさ、|お利口さん《ミス・スマーティ》。ゴードンの息子のゴードンか……ええと、あれはたしかイヴリン・ヘドリックとのあいだにできた息子だったな。ラザルス、わたしはあなたを欺したんです。わたしが移住しようとしている本当の理由は、わたしの子孫がこの世界にふえすぎて、わたしをおし出しかけているからなんです」 「お父さん、本当に行ってしまうおつもりですの? 口先だけでなく?」 「十年ごとの評議員会議がすむまでは、まだ最高機密なんでね、ディア。だがわたしは、そのつもりだよ。いっしょに行きたいかね? ギャラハドとイシュタルはもう行くことに決めているよ。ふたりはその植民地に若返り施設を作るんだ。まだ五年から十年はあるから、きみも何か役に立つことをおぼえられるだろう」 「おじいさん、あなたはいらっしゃいますの?」 「まず行かんだろうな。植民地がどんなものか知っているからな」  ハマドリアドは立ちあがると、ラザルスとむきあった。 「気が変わるかもしれませんわ……わたしはあなたに申しこみます。証人三人の前で……四人ね、ミネルヴァは考えられるかぎり最高の証人ですもの……同棲と、子孫を作ることの契約を。継続期間はあなたにおまかせしますわ」  イシュタルはびっくりしたようだったが、顔からあらゆる表情を消してしまった。他の者は何もいわなかった。  ラザルスは答えた。 「こら孫娘、もしぼくがこれほど年とり疲れていなかったら、きみのお尻をぶってやるところだ」 「ラザルス、わたしがあなたの孫なのは、名目上だけですわ。あなたは、わたしの血統全体の八パーセント以下です。擾性遺伝子の点から考えると、もっと少なくなります。望ましくない強化の確率はほとんどゼロですし、悪い劣性遺伝が除去されていますから。あなたに調べていただけるよう遺伝子パターンをお送りしますわ」 「そのことをいってるんじゃないんだ」 「ラザルス、あなたが過去にご自分の子孫と結婚なさったことは確かでしてよ。わたしだけ差別なさるのは、何か理由がありますの? もしおっしゃってくだされば、わたしそれをなおせるかもしれませんわ。それからつけ加えておかなければいけませんが、この提案はあなたの移住が条件ではありませんから……それから、子供を作ることだけでも結構ですわ。もちろん、あなたといっしょに暮らすことを許していただければ、わたしにとってこの上ない名誉ですし幸福ですけれど」 「なぜだね、ハマドリアド?」  彼女は口ごもった。 「うまくお答えできませんわ。わたし、あなたを愛しています、っていえると思っていたんです……でも、わたしがその言葉の意味を知らないことは、はっきりしています。だからどちらの言語を使っても、わたしには、自分が必要としているものをいい表わす言葉がありません……そしてわたしは、そんな言葉がないまま、先に進んでしまいました」  ラザルスは優しくいった。 「ぼくはきみを愛しているよ、ディア……」  ハマドリアドの顔が輝いた。  かれは言葉をつづけた。 「……そしてまさにその理由で、ぼくはきみの申し出を断わらなければいけないんだ」ラザルスはみんなを見まわした。「ぼくは、きみたちみんなを愛しているよ。イシュタル、ギャラハド……そこに坐って心配そうな顔をしているきみの醜い無愛想な父親さえもね。さあ笑ってごらん、ハマディア、数えきれないほど多くの若者がきみと結婚したがっていることは確かだからね。きみも笑うんだ、イシュタル……だがきみはやめろ、アイラ。きみの顔が台無しになるからさ。イシュタル、きみとギャラハドの代りは、だれがすることになっているんだい? いや、だれがすることになっていてもかまわないよ。今日はもう、ぼくひとりにしてくれないか?」  彼女はためらった。 「おじいさん、監視室に係の者をおいてもいいでしょうか?」 「どのみちそうするんだろう。だがそれは、ダイヤルだの計器だの、きみたちが使うものならなんでもいい、それだけに限ってくれないか。ぼくの行動を見たり聞いたりするのは、なしだよ。もしぼくがおかしなことをすれば、ミネルヴァがきみに知らせるさ……それはたしかだ」  イシュタルは立ちあがった。 「あなたの行動はいっさい監視しませんわ……行きましょう、ギャラハド。ハマドリアドは?」 「ちょっと待ってちょうだい、イシュ。ラザルス……お気にさわりましたの?」 「なんだって? まるでそんなことはないよ」 「わたしのことを怒っていらっしゃるのかと思いましたわ……あんな申し出をしたから」 「とんでもないさ。ハマダーリン、ああいう申し出に気を悪くする人間がいたりするものか。ひとりの人間が別の人間におくることのできる最高の讃辞だよ。それでぼくが混乱してしまったんだ。さあ笑って、おやすみのキスをしてくれ。そしてよければ、明日もここに来たまえ。きみたちみんな、ぼくにおやすみのキスをするんだ。だれかに腹を立てている者などひとりもいないんだからな。アイラ、よければすこし残ってくれないか?」  すなおな子供たちのようにいいつけにしたがって、かれらがラザルスのペントハウスの中に入り、階下へおりてゆくと、ラザルスはいった。 「酒はどうだ、アイラ?」 「あなたがお飲みになるのでしたらですが」 「では、いいことにしよう。アイラ、きみが彼女をそそのかしたのか?」 「え?」 「ぼくが何をいっているのかわかるだろう。ハマドリアドさ。最初はイシュタルで、こんどはハマドリアドだ。きみは、あの木賃宿からぼくを助け出した瞬間から、この取引き全体をあやつっていたんだ。あそこでぼくは上品に静かに死にかけていた。きみはまたもや、ぼくは縛りつけようとしているのか? きみの腹の奥にあるもくろみが何であれ、ぼくの鼻の下で可愛いしっぽをふることによってね。そうはいくものか、だめだよ」  臨時議長は静かに答えた。 「わたしはそれを否定したいですね……あなたはわたしを百回も嘘つきと呼ばれましたが。ミネルヴァに聞かれたらいかがです?」 「それが何かの保証になるかな。ミネルヴァ!」 「はい、ラザルス?」 「アイラはこれを仕組んだのか? あの娘たちのどちらかと?」 「わたしは存じません、ラザルス」 「それはいい逃れかね?」 「ラザルス、わたしはあなたに嘘をつくことなどできません」 「そうか……アイラがきみにそうさせたいならできると思うが、しかしそれを質問してもどうしようもないな。二、三分ぼくらをふたりだけにしてくれないか……記録するだけにして」 「わかりました、ラザルス」  ラザルスはつづけていった。 「アイラ、きみはイエスと答えてくれるべきだったな。なぜなら、ほかに考えられる唯一の説明は、ぼくの気に入らないものだからだ。ぼくはいい男でもないし、ぼくの態度は、とても女に愛されるような代物じゃない……とすると、あとは何がある? ぼくが現在生きている最年長の男だという事実さ。女は奇妙な理由で体を売るが、いつでも金のためというわけじゃない。アイラ、ぼくは種馬にされるのはごめんだ。ぼくとの時間をすごすのは、〈最長老〉の子供を生むという威信を得るためだけというような可愛らしく若い娘たちを相手にするのはね」 「ラザルス、あなたはどちらの女性にも不当な態度をとっておられる。異常に鈍感なのと同様に」 「どんなふうに?」 「わたしはふたりに気をつけていました。ふたりともあなたを愛していると思います……それにあの言葉がどういう意味なのかについて、ごまかしはやめてください。わたしはギャラハドではありませんから」 「しかし……|馬鹿な《クラップ》!」 「そのことでは議論しますまい。|ほら《クラップ》に関して、この銀河系であなた以上の権威はいませんからね。女性がつねに体を売るとはかぎりませんが、彼女たちは恋に落ちるものです……しばしばもっとも奇妙な理由によって……もし、理由という言葉があてはまればですが。かりにあなたが醜男で、わがままで、自己中心的で、無愛想だとしても……」 「自分でもわかっているさ!」 「……わたしにとってはですよ。にもかかわらず、女性は男の外見をたいして気にかけないようです……そしてあなたは、女性に対して驚くほど優しいですからね。わたしは気づいていたんです。あなたは、火星の例の可愛い売春婦たちがみな、その盲目の男を愛していたとおっしゃい声したね」 「可愛い子ばかりじゃなかったぞ。ビッグ・アンナなどはぼくより背が高くて、体重も多かった」 「話題を変えようとしないでください。なぜ、彼女たちはかれを愛したのでしょう? あなたがわざわざ答えられるまでもありません。なぜ女が男を愛するか……また、男が女を愛するか……これは生存のためとしか合理的に説明できませんが、その答には味がないし、不満足です。しかし……ラザルス、あなたが若返りを完成され、わたしたちがシェーラザードの賭けを終えたら、もっともそれは終えていますが……あなたは、ふたたび去っていかれるのですか?」  ラザルスはじっと考えてから答えた。 「そうしようと思う。アイラ、きみが貸してくれたこの家は……それに庭や小川も……とても気に入った。これまで何回か町へ出ていったが、そのたびに飛んで帰ってきて、家に入るとほっとしたものさ。だがここは休むための場所でしかない。ここにいつまでもとどまるつもりはない。雁《かり》が鳴くころ、ぼくは行くよ」ラザルスは悲しげな表情になった。「だが、どこへ行ったらいいかわからないし、前にしたことをもう一度くりかえしたくはない。たぶんミネルヴァなら、ぼくにそうした新しいものを見つけてくれるだろう。出発すべきときになったらね」  アイラは立ちあがった。 「ラザルス、もしあなたがそれほど疑い深く、意地悪でなければ、ふたりの女性に疑わしきは罰せず≠フ原則を適用し、彼女たちにそれぞれ、あなたの思い出のよすがとなる子供を残してやるでしょうがね。たいして骨を折らずにできるはずです」 「問題にならん! ぼくは子供を捨てたりしないぞ。いや、妊娠した女をだってだ」 「いいわけにすぎませんよ。子宮に入っているあいだに、わたしが養子にします。あなたがわたしたちのもとを去る前に作った子供ならだれでも。ミネルヴァにいって、それを永久記憶に入れ|縛って《ヽヽヽ》おくことにしましょうか?」 「ぼくは子供ぐらい自分で養えるぞ! いつだってそうしてきたんだ」 「ミネルヴァ、いまのデータを転送して、縛ってくれ」 「完了しました、アイラ」 「ありがとう、きみは最高だよ、小さながみがみ屋くん。明日も同じ時間でよろしいですか、ラザルス?」 「そうだな。ああ、いいとも。ハマドリアドに電話して、彼女もいっしょに来るよう頼んでもらえないか? ぼくがそう頼んだといってくれ。あの子供たちに感情を害してほしくないんだ」 「承知しました、おじいさん」 [#改ページ] 対旋律 4  ミスタ・ウエザラルの個人用住居である行政官宮殿の一階で、ハマドリアドはギャラハドとともにイシュタルを待っていた。イシュタルがそこの当直若返り技術者に命令をつたえると、三人は移送車《トランスポート》を使って階下へおり、水平に動き、やはり宮殿の内部の、アイラがイシュタルに自由に使わせている続き部屋へむかった──若返り病院にある彼女の続き部屋より広く、贅沢な住居で、庭がない以外は、|屋上の小屋《ペントハウス・コテージ》よりはるかに豪華だった。評議員か、その他の要人を泊めるため作られた住居だったのだ──だが、その豪華さはたいして重要ではなかった。イシュタルとギャラハドは自分たちの時間をほとんどラザルスのもとですごし、食事もほとんどそこですませていたから、そこは主に眠るために使っていたのだ。  ミネルヴァは、イシュタルの看護リストにあわせて、もっと小さな宿泊設備を一ダースほど用意していた。そのひとつはギャラハドのためだった。かれはそれを必要としなかったので、イシュタルはミネルヴァにいって、それをハマドリアドに割りあてるようにした。そのとき彼女は、最長老の世話をするチームの非公式の一員になっていたからだ。彼女はときどき、田舎にある自分の家には帰らず、そこで眠った──父親にはそれをいわずにだ。臨時議長は自分の家族が宮殿内の部屋を不必要に使うことを喜ばなかったからだ。また彼女はときどき、イシュタルとギャラハドのもとですごした。  今回は三人ともイシュタルの部屋に行った。話しあうことがあったのだ。そこに着くと、まずイシュタルはたしかめた。 「ミネルヴァ?」 「はい、イシュタル」 「何かあった?」 「いまラザルスとアイラは話をしています。プライヴェートな会話です」 「絶えずわたしに教えてね、あなた」 「いいですとも、あなた」  イシュタルは、あとのふたりを見た。 「お酒か何か欲しい人はいない? 夕食には早すぎるわ。それとももう食べる? ハム?」  ギャラハドが答えた。 「ぼくは風呂に入って、それから酒だ。何より風呂に入りたいよ……暑くて、汗びっしょりで……ラザルスがぼくらを追い出したときから、ずっとさ」  イシュタルはうなずいた。 「それに、くさいわ。移送車の中で気づいたのよ」 「きみだって風呂に入って悪いことはないんだぜ、大きなお尻くん。ぼくと同じぐらい運動していたんだからね」 「残念ながらそのとおりね、わたしの勇敢な騎士さん。あの最後の試合のあと、わたしは年上の人たちの風下に坐るように気をつけていたのよ。ハマドリアド、この|くさい人《ステインキー》とわたしが体を洗っているあいだに、何か適当な冷たいものを三人分用意しておいてくださらない?」 「おふたりともアイドルベリイ・ジョルトか、でなければ何か手軽なものでいいかしら? わたしたちみんなでお風呂に入っているあいだに飲むのは? わたし、べつに激しい運動をしたわけじゃないんだけど、おじいさんにあの申し出をしたとき心配のあまり、すっかり汗をかいてしまったの。それで、やりそこなってしまったわ! あなたがあんなにコーチをしてくれたっていうのに、イシュ。ごめんなさいね!」  彼女はすすり泣きをはじめた。  イシュタルは年下の娘を両腕で抱きしめた。 「さあさあ……泣くのはやめて。あなたがやりそこなったとは思わないわ」 「かれ、わたしをはねつけたわ」 「手始めとしてはうまくやったわよ……かれを興奮させたわ。それこそかれに必要なものだったのよ。あなたのタイミングにはびっくりしたけれど、でもちゃんと利き目はあったわ」 「かれ、わたしがまたあそこへ行くことだって、もう許してくれないわ!」 「いいえ、そんなことありません。くよくよするのはおやめなさい。さあ、元気を出して。ギャラハドとわたしが、たっぷり時間をかけてマッサージしてあげるから。きっとのんびりするわ。|くさい人《ステインキー》、飲み物を持ってシャワー室にいらっしゃいな」 「両手に花では頭張らなくっちゃあ、オーケイ」  ギャラハドが冷たい飲み物を持ってシャワー室へ行くと、イシュタルはマッサージ台にハマドリアドをうつぶせに横たえていた。イシュタルは顔をあげていった。 「あなた、体をぬらす前に、棚にバス・ローブが三枚あるかどうか見てくれない? わたし、調べてみなかったの」 「はい、マダム。いいえ、マダム。ただいま、マダム。それだけでしょうか、マダム? ローブはいっぱいあるよ。ぼくが今朝、余分に注文しといたんだ。彼女に怪我をさせるなよ。きみは自分の力を知らないんだから。ぼくはあとで彼女が必要なんだ」 「そしてわたしは、あなたを犬と交換するわ、スイートハート、そしてその犬を売るの。そのお酒をわたしてから、ここへ来て手伝ってちょうだい。さもないと、あとでわたしたち、どちらも相手になってあげないわよ。その気にわたしたちがなっているとしての話だけど。わたしたち、男はみんな狼だって結論に達しているの」  彼女はマッサージをつづけた。優しく、しっかりと、本職の腕前で、ハマドリアドの背中をもみほぐし、いっぽうマッサージ台は、彼女の動きにあわせてハマドリアドの前面にぴったり合った。彼女はギャラハドに飲み物を自分の頸につるさせ、その吸い口をくわえながらも、注意ぶかい指の動きをゆるめなかった。  かれはハマドリアドの飲み物をマッサージ台にすばやく持っていくと、吸い口を彼女の唇に入れ、頬を軽くたたくと、反対側へ行き、イシュタルの指示にしたがってマッサージを手伝いはじめた。マッサージ台は、四本の手にあわせて動きを変えた。  数分後、かれは飲み物が出てこなくなった吸い口をはなしていった。 「イシュ、ひょっとしておじいさんは気づかなかったろうか? きみたちふたりの女性《ブロード》のことに?」 「わたしたちそれほど|太って《ブロード》いないつもりよ。少なくとも、ハムは違うわ」 「ブロードっていうのは、女性を意味するのによく使う英語の慣用語だよ。きみがいったんじゃないか、ぼくらがこれにかかわりあっているかぎり、みんな英語でしゃべったり考えたりすべきだって」 「わたしはただ、ハマドリアドがそれほど太っていないっていっただけよ。たとえ彼女がわたしより多くの子供を持っていてもね……それにわたし若返り処置を受けてからは、ひとりも生んでいないわ。でも、生き生きした慣用語ね、気に入ったわ。わたしも、ラザルスがわたしたちの妊娠していることに気づくとは思えないの。かれが気づいたからって問題にはならないわ、わたしの場合はね……ただ、どんなふうにわたしが妊娠したかを知られると困るだけ。そしてかれは、それを知ることができないわ、クローン増殖された細胞の供給源についての記録をわたし、ごまかしたんですもの。ハム、あなたそれらしいことを何もラザルスにいってないわよね……そうでしょ?」  ハマドリアドは飲み物を手渡した。 「もちろん、いってないわ!」  ギャラハドがいった。 「ミネルヴァは知ってるよ」 「当然よ、彼女とそのことを話しあったんですもの。でも……そういわれると心配になってきたわ。ミネルヴァ?」 「なんでしょう、イシュタル」コンビューターはつづけていった。「アイラが出ていきます。ラザルスは家の中に入りました。何も問題はありません」 「ありがとう。ミネルヴァ、ハマドリアドとわたしのことをラザルスが知る可能性はあるかしら? つまりわたしたちが妊娠していることをよ、そしてその理由と方法も」 「かれがそういったことはありませんし、だれもかれの前でそのことを口にした人はいません。わたしに利用できる関連資料からの見込みによると、その可能性は千分の一以下です」 「アイラのほうはどうなの?」 「一万分の一以下です。イシュタル、あなたのお手伝いもするようにして、限定された記憶ファイルをあなたに割り当てるようにとアイラがわたしにいわれたとき、その後にどんなプログラムをされても、あなたに割り当てられたボックスには表面をなでるだけにとどめておくように、かれはわたしをプログラムしたのです。実際に、かれがあなたの私用記憶ファイルから引き出す方法はありませんし、わたしがそれを出し抜くために自己プログラムすることも不可能です」 「ええ、あなたはそう請け合ってくれるけれど、でもわたしはコンピューターのことをよく知らないのよ、ミネルヴァ」  ミネルヴァはくすくす笑った。 「でも、わたしは知ってますわ。わたし、コンピューターの仕事で成功したといえそうですわね。ご心配なく、あなたの秘密はわたしが安全に守ります。ラザルスはたったいま、わたしに軽い夕食を注文するようにといわれたところです。それがすんだらベッドに入るつもりですわ」 「よかった。かれが何をどれぐらい食べるか、教えてちょうだいな、それからいつベッドに入るかも……そしてもしかれが目を覚ましたら、わたしを呼んでね。夜中に目が覚めてひとりでいたら、だれだって気分が沈みこんでしまうわ。急いで助けるように用意しておかなければ。でも、あなたが心得ていてくれるわね」 「わたし、かれの脳波パターンを見守っていますわ、イシュタル。あなたには二分から五分前に瞥告します……エル・ディアブロが、かれの腹の上に飛びのらなければですが」 「本当に憎たらしい猫なんだから。でも、そんなふうにおこされるのなら、かれも滅入りこんだりしないわ。わたしが心配なのは、かれを自殺に追いこむような悪夢なのよ。注意をほかへそらすために非常事態をおこすという手も、ほぼ使いはたしてしまったし。あのペントハウスに二度も火をつけるわけにはいかないわ」 「ラザルスは今月一度も、抑鬱状態をひきおこすあの典型的な悪夢を見ていませんわ、イシュタル。それにわたし、もうその波形を見分けられますから、できるだけ注意しておきます」 「ええそれはわかるわ、ディア。そういうことを引きおこす原因となる、かれの過去の出来事がわかればいいんだけど。それらを消去してしまえるでしょうからね」  ギャラハドが口をはさんだ。 「イシュ……かれの記憶をいじくりまわしたりしたら、アイラが求めているものを何もかも失うてしまうかもしれないんだぜ」 「でも患者を助けられるかもしれないわ。あなたはマッサージをつづけてらっしゃい。デリケートな仕事は、ミネルヴァとわたしにまかせるのよ。ほかに何かあって、ミネルヴァ?」 「いいえ、ああいま、アイラがわたしに、ハマドリアドを見つけるようにといっています。話があるそうです。彼女は電話に出るでしょうか?」  ハマドリアドは、ぐるりとあおむけになってさけんだ。 「もちろんよ! でも、あなたを通してにしてくれない、ミネルヴァ。わたし、電話のところまで行きたくないのよ、お化粧していないんですもの」 「ハマドリアド?」 「はい、アイラ?」 「きみに伝言だ。どうか老人に親切にして、いつものとおり小屋に来てほしい、とね。朝早く来て、食事をいっしょにしてくれると、もっといいそうだ」 「かれがわたしと会いたいというのは、たしかですの?」 「そうさ。きみがかれをあんなふうに困らせたあとでは、かれもそんなことをいうべきじゃないんだがね。どうしてあんなことをしたんだ、ハム? だがこの伝言はかれの考えで、わたしのではない。かれは、きみをおびえさせなかったことを確かめたがっているんだ」  彼女はほっとして溜息をついた。 「かれのそばにいさせてくれるのなら、わたし、こわくなんかないわ。お父さん、あなたにいったでしょ、わたしはかれが許してくれるかぎり何日でもこの仕事に打ちこむって。そのときも本気だったし、いまだってそうよ。本当をいうとわたし、マネジャーに、長期クレジットで買物をしてくれといってあるの、わたしがどれほど真剣かってことよ」 「ほう? そいつはまったく嬉しいな。もしきみがそれを現金で支払いたければ、わたしが……つまり政府が……割引きすることなく、そのローンを引き受けよう。わたしは、最長老に関連したことにはすべて無制限のクレジットを割り当てているんだ。ミネルヴァにいうだけでいい」 「ありがとうございます。それが必要になるとは思いませんけれど……おじいさんがわたしに飽きて、わたしが何かほかに投資したいものを見つけないかぎりはね。でも、事業はとてもうまくいっているんです。二、三年はプリシラにわたしを養わせられると思うわ。本当に順調ですから……わたしの財産があなたのより多いことは確かだわ。あなた個人の財産よりもって意味よ」 「馬鹿なことをいうんじゃない、自分の娘ながらあきれるね。一市民としてのわたしは、貧乏人もいいところさ……公的な地位でのわたしなら、ミネルヴァにひとこといえばきみの資産を没収できるし、だれもそれに文句をつけられないんだがね」 「でもあなたは、決してそんなことをなさらないってこと……いい人ですもの、アイラ」 「へえ?」 「あなたはいい人よ……たとえ、わたしの子供たちの名前をおぼえられなくてもね。うれしいわ、パパ、おかげでわたし、夢みたいな気分よ」 「きみがわたしをパパなんて呼ぶのは、そうだな、五、六十年ぶりだよ」 「だって、子供が成長してしまうと、あなたは絶対なれなれしくさせてくださらないんですもの。わたしも自分の子供にはそうしているわ。でもこの仕事のせいで、これまでよりあなたに親近感をおぼえてきたようね。もうおしゃべりはやめて、明日の朝、早く行きます。いいですか?」 「ちょっと待ってくれ。きみがどこにいるか聞くのを忘れた。もし自分の家にいるのなら……」 「違いますわ。わたしはギャラハギとイシュタルといっしょにお風呂に入ってるんです。つまりそうしようとしていたところだったの。せっかくふたりにすてきなマッサージをしてもらっていたのに、あなたが邪魔したのよ」 「すまん。まだ宮殿にいるのなら、そのままとどまりなさい。明日の朝は早いからね。ふたりのところで寝かせてもらうか、邪魔になるようなら、わたしの部屋に来なさい。何か見つけよう」 「わたしのことで気を使わないで、アイラ。もしふたりに前非を悔いてわたしを泊らせるようにできなかったら、ミネルヴァがベッドを見つけてくれますわ。本当に、わたしがもぐりこめそうもないベッドは、ラザルスのベッドだけ……わたし、若返りを申しこむ必要があるのかもしれないわ」  臨時議長が答えるまでには時間がかかった。 「ハマドリアド……かれの子供を生みたいと申し出たのは本気だね……そうだろ?」 「個人の秘密ですわ」 「すまん。ふーん……こういってもプライヴァシーの慣習にはふれんだろう……わたしは、それを非常にいい考えだと思う。もしいってくれれば、できるかぎりの応援をしよう」  ハマドリアドはイシュタルと顔をあわせ、両手をひろげると、わたしどうしたらいいの、という身振りをしてから答えた。 「かれの拒絶の意志は、とても変わりそうにありませんでしたわ」 「男の見かたもいわせてくれないか、|お嬢さん《マイ・ドーター》。男というものは、そうした申し出を承知したいときにかぎって、よく拒絶するものなんだ……男は、女の動機と誠実さをたしかめてみたがるのさ。いずれかれは承知するだろう。しつこくかれを口説くべきだといってるんじゃない。そんなことをしてもだめさ。だがもしきみが真剣なら……機会を持つんだ。きみは魅力的な女性だ。きみなら大丈夫だよ」 「ええ。もしかれがわたしに子供を生ませてくれたら、わたしたちはみんな、それでもっとお金持になるはずだわ……そうでしょ?」 「ああ、たしかにね。だが、わたしの動機はいくらか違ってるんだ。もしかれが死ぬか、あるいはわれわれのもとから去っていってしまっても、つねに精液銀行と組織銀行がある……どちらにもかれは手を出せない。必要ならわたしがごまかすからね。だがわたしは、かれに死んでほしくないんだ、ハマドリアド。それに、すぐわれわれのもとから去っていかれるのも困る……わたしがこんなことをいうのは、感傷からではないんだ。最長老は特別の存在だ。かれをなくしてしまわないために、わたしはどれほど多くの困難もいとわないできた。きみの存在はかれを喜ばせ、きみの申し出はかれを刺激した……たとえ、かれの反応がかんばしくないときみが思ってもね。きみはかれを生かしつづけるのを助けているんだ……そしてもしいつの日か、かれがきみに子供を生ませたら、きみはかれを長いあいだ生かしつづけるのに成功するかもしれない。無限に長くだよ」  ハマドリアドは喜びに体をふるわせ、イシュタルに微笑みかけた。 「お父さん、わたしを誇らしい気持にさせてくださるのね」 「きみはいつも自慢できる娘だったさ。もっともすべてわたしの功績とは主張できないがね。きみのお母さんは、実にすぐれた女性だった。もういいかね?」 「ええ。音楽の演奏つきでおやすみなさいって申しあげます、お父さん!」  寝そべったまま、ハマドリアドはふたりの友達のウエストに両手をまわし、きつく抱きしめた。「ああ、いい気持!」 「じゃあこの台からおりるんだね、|お痩せさん《ナロウ・ブロード》。こんどはぼくの番だ」  イシュタルはきっぱりといった。 「あなたはマッサージの必要ないわ。情緒的な緊張などなかったんだし、それに今日一日であなたがしたいちばんきつい仕事といったら、殺人ボールで二ゲームわたしを負かしたことだけよ」 「でもぼくは精神的なタイプなんだ。感受性が強いのさ」 「そのとおりね、かわいいギャラハド。だからこんどはまったく精神的に、彼女を台からおろしてあげて、わたしが彼女をお風呂に入れるのを手伝ってちょうだい……やはり、まったく精神的にね」  ギャラハドはぶつぶつ不平をいいながらも、いいつけにしたがった。 「そのかわり、きみたちふたりでぼくを洗うんだぞ。ぼくが盲目の音楽家だと思ってね」  かれは目を閉じて歌った。 [#ここから3字下げ] お巡りがひとり町角に ときどき意地悪くなるやつさ 文無し男とか、それとも とにかく不運なやつにね…… [#ここで字下げ終わり] 「ぼくのことさ……不運というのは……そうでなければ、家に帰ってふたりの女を相手にする羽目になんかならなかったろうよ。|いま、なんどきだい《ウォット・サイクル》、イシュ?」 「|のんびりどきよ《リラックシング》、もちろん。ハマディア、あなたあの電話を聞かせてくれたんだから、そのことについて話をしてもかまわないわね。わたしはアイラに賛成よ。あなたはラザルスを性的に刺激したわ、かれが気づいていようと、いまいとよ。そしてもしあなたがかれを刺激しつづけることができれば、かれの気持が滅入ることはないわ」  両腕をあげてふたりに体を洗わせながら、ハマドリアドは尋ねた。 「かれ本当に、それほど回復しかけているの、イシュタル? かれ、前より元気そうだわ。でもわたし、わからないの……かれの振舞いが変わらないんですもの」 「いいえ、それははっきりしているわよ。かれはひと月前からマスターベーションをはじめたもの。シャンプーする?」 「かれが? 本当? まあ、すばらしい! わたし? ええ、するわ……ありがとう」 [#ここから3字下げ] だからいいのさ、妹がいると でなけりゃ 年寄りの伯父さんだって…… [#ここで字下げ終わり] 「目をつぶって、|馬鹿な赤ちゃん《ハムボーン・ベイビイ》。シャンプーが入るぜ。患者はイシュタルに隠し事なんかできないんだ。でも彼女、ぼくにはいわなかったよ。ぼくはそのことを、かれのグラフから推測しなければいけなかったんだ。イシュ、どうしてぼくはいつもハムの背中を洗うだけなんだい?」 「だってあなたはくすぐるからよ、スイートハート。あなたは知らなくてもよかったんですもの。でも患者のプライヴァシーはたしかにないわね、ミネルヴァが手伝ってくれるから……そうでなきゃいけないのよ。病院にももっといいコンピューター・サービスが必要ね、このごろわかったわ。とはいえ、かれには本当の意味でのプライヴァシーがあるのよ。すべてが宣誓で守られているんですもの。たとえあなたが正規のスタッフでなくてもよ、ハム。あなたにはきっとそれがわかると思うけど」 「ええ、もちろんだわ! そんなに強くしないで、ギャラハド。赤く焼けたペンチでおどかされたって、わたしあなたがたふたり以外の人にはしゃべらないわ。アイラにだってよ。イシュタル、わたし勉強したら本物の若返り技術者になれると思う?」 「もしあなたがそれに使命感をおぼえて、一生懸命勉強する気になればね。つぎはリンスして、ギャラハド。あなたにはたしかに、感情移入の能力があるわね。あなたの指数はどれぐらいなの?」 [#ここから3字下げ] みんなおまえの友達だ、坊や おろそかにするんじゃないぞ 誕生日や、贖罪の日を…… [#ここで字下げ終わり]  ハマドリアドはうなずいた。 「そう……天才以下≠ヒ」  ギャラハドが助けるようにいった。 「天才が必要なんだよ、強制的に働かせる必要と同じくね。彼女は、奴隷の監督みたいに人使いが荒いんだよ、ハミイ・ベイビイ」 [#ここから3字下げ] それとクリスマス ハヌカーの祭 カードかさもなきゃ キャンディでも、と [#ここで字下げ終わり] 「あなたって音痴ね、ギャラハド。あなたは天才以上≠諱Aハム。ギャラハドの指数よりすこし高いわ。わたし調べたのよ、万一の場合にそなえて……そしてあなたは尋ねたわ。わたしとても嬉しいの」 「音痴だって? それはいいすぎだぜ」 「あなたには他の美点があるわ、わたしの大切な騎士さん。あなたは吟遊詩人でなくたっていいのよ。ハマディア、もしあなたが心からそれを求めるなら、わたしたちが移住するときまでに、準技術者になれてよ。もしあなたが移住するつもりならね。そうでなくても、ここの病院はいつでもスタッフを必要としているわ。本当に使命感を持っている人間というのは、めったにいないから。でもわたしとしては……心から、いっしょに来てほしいと思っているのよ。わたしたちふたりで、あなたを助けるわ」 「そのとおりだよ、ハミイ! この音痴がついているんだ! その植民地は一夫多妻になる原定かい?」 「アイラにお聞きなさいな。それが問題なの? ローブを取って、ハマダーリンにかけてあげて。それから交替して、わたしを急いで洗って。わたし、おなかがぺこぺこなの」 「その危険をおかしたいのかい? ぼくの歌をあんなにけなしたくせして? ぼくはどこもかしこも場所を知ってるんだぜ、全部くすぐってやるからな」 「|待って《キングス・クロス》! あやまるわ! あなたの歌は大好きよ」 「その慣用句は、キングズ・エックスだよ、イシュつまり、平和《パックス》さ。ローブをぼくらみんなのぶん取ってくれないか、ハミイ、いい子だ。足ながくん、ぼくは歌っているあいだに……完全な音程でだよ……どの慣用句が気にかかっていたのか、わかったんだ。ミネルヴァが考えていたやつじゃない。ひっかけ屋≠ニは売春宿なのさ。だから負けてばかりの男≠フ妹は、高級娼婦なんだ……これで、すっかり辻褄《つじつま》があう」 「あら、もちろんよ! 彼女が自分の兄さんを養うことができたのも不思議はないわ……芸術家はいつだって、ほかのだれよりもお金を稼ぐものよ」  ハマドリアドはローブを持ってもどってくると、それをマッサージ台において、いった。 「その慣用句にあなたが心を悩ませていたとは知らなかったわ、ギャラハド。わたし、その歌を初めて聞いたときわかったもの」 「教えてくれればよかったのに」 「大切なこと?」 「もうひとつの手掛りとしてだけだがね。ハム、ひとつの文化を分析するときには、そこの神話・民謡・慣用句・格言といったもののほうが、正式な歴史よりも基礎になるんだ。ひとりの人間を理解するのは、彼女の文化を理解しないかぎりだめだ。いや、かれの≠ニいうべきだな、英語でしゃべっているときには……そしてそのことだけで、ぼくらの患者が育った文化の基本的な部分がわかる。一般的語句において男性女性両方の意味がある場合、つねに変わることなく男性形を用いる、という事実だ。この意味するところは、つぎのふたつのいずれかだ。つまり男性が優位にあるか、あるいは女性がより低い位置から脱げ出してきたか、だ。しかしこの言語のずれは……それはつねに存在するんだが……文化的変動に追いついていない。後者の場合は、ラザルスの生まれた野蛮状態にあっては、他の手掛りからも示されているよ」 「あなたはそのすべてを、文法の規則からいえるってわけなの?」 「ときにはね。ハミイ、ぼくはこれを職業にしていたんだ。年をとり、愚痴っぼくなって、若返り処置を待っていたときにね。探偵の仕事と同じで、どんな手掛りでも充分すぎることはない。たとえば、女性は平等の地位に達してはならなかった。たとえ他のいくつもの手掛りが彼女たちがそれを得ていることを示していてもだ……そう、男の経営する売春宿なんて聞いた者があるだろうか? 用心棒はいたよ。ラザルスは自分もそうだったといった。しかし経営者は? 現代の標準で考えれば、考えられないことだ。火星の植民地が変則的な後退現象でないかぎりね……そりだったのかもしれないが、ぼくにはわからないよ」 「食べながらつづけましょうよ。ママはおなかがすいちゃったわ」 「いまいくわ、イシュ。ギャラハド、わたしは何も考えなくてもその慣用句がわかったのよ。だって、わたしの母は……いまも……高級娼婦だから」 「本当? それは恐ろしい偶然の一致だな。ぼくの母もそうだったんだ、それにイシュダルの母親もさ……そしてぼくたちは三人とも最後に若返りの仕事について、同じ患者を担当している。どちらも、数の上では少ない職業だ……どれぐらいの割合なんだろうな?」  イシュタルはいった。 「高すぎるということはないわ。どちらの職業も、強い感情移入能力を必要とするんですもの。でも、知りたいのなら、ミネルヴァに聞いてみることね……そしてわたしにローブをちょうだい。わたし、送風機で体を乾かすのは好きじゃないし、食べ物を見つけるあいだに風邪を引きたくないのよ。ハマスイート、なぜあなたお母さまの仕事をつがなかったの? あなたほど美しければ、スターになれたのに」  ハマドリアドは肩をすくめた。 「ええ、わたしは自分がどんなふうに見えるか知ってるわ。でもうちの母は、小指を一木立てるだけで、わたしから男を取っていってしまうことができるのよ……わたしがそういう機会を避けなければね。美しさというのはほとんど関係ないわ……あなただって今日、わたしがふられるところを見たでしょう。ラザルス自身がわたしたちに、偉大な芸術家を作るためには何が必要なのかを教えてくれたわ……男が感じることのできる精神的な特質だって。わたしの母にはそれがあるの。わたしにはないのね」  ラウンジを通って食糧室へ入るところで、イシュタルは階下の調理室から来た献立表を調べながらいった。 「あなたの理屈はわかるわ……わたしの母にもそれがあったから。特別きれいというわけじゃなかったけれど、でも彼女にあるものを、男たちは欲しがるのよ。いまでもね、彼女は引退してしまったというのに」  ギャラハドはまじめな声でいった。 「足ながくん、きみはたいしたものだぜ。きみにだってそれはあるさ」 「ありがとう、わたしの騎士さん。でもそれは本当じゃないわ。ひとりの男性のために、それを持つことはあるの。でなければ、せいぜいふたりね。それに、まったくそれがないときもあるわ。わたし、自分の仕事に埋もれて、セックスのことなど忘れてしまうことができるのよ。どれほど長いあいだわたしが禁欲していたかいったでしょ。わたしはあなたを見つけなかったかもしれないし、七時間≠フ危険も絶対におかさなかったでしょうね……わたしたちの患者があれほどひどく感情的でなければね。まったく職業人としてふさおしくない行動だったわ。ハマドリアド、わたしは暖かい春の夜の女学生みたいに馬鹿だったのね。でもギャラハド、タマラには……わたしの母よ……いつでもそれがあるし、彼女を必要とする人にはだれに対してもあるわ。タマラは決して値段をつけないんだけど、その必要がないのね。贈り物が山ほどなんですもの。いまは引退していて、もう一度若返ることにしようかどうしようがと考えているところよ。彼女のファンが放っておかないの。彼女への申し込みは、相変わらずひっきりなしよ」  ギャラハドは悲しそうにいった。 「それこそぼくのやりたいことなんだがね。でもぼくは、あの負けてばかりの男≠ウ。もし男がその職業をやってみたら、ひと月で死んでしまうだろうな」 「あなたの場合は、可愛いギャラハド、もうすこし時間がかかるんじゃないかもら。でも、まずお食事をして元気を取りもどすことね。わたしたち今夜は、あなたをベッドのまん中に寝かせるつもりなんだから」  ハマドリアドは尋ねた。 「それは、わたしを招いてくれたってこと?」 「それもひとつのいいかたね。もっと正確ないいかたは、わたしが自分も仲間に入れようとしているってことだわ。ギャラハドがシャワー室ではっきりいったでしょ。今夜のかれの計画には、あなたがふくまれているって。でも、わたしのことはいわなかったのよ」 「あら、かれいったわ! とにかく、かれはいつでもあなたに欲情しているのよ。わたし、ちゃんと感じるわ」 「かれ、女好きなの……それだけのこと。ステーキとふつうのつけ合わせでいいかしら、それともそれぞれ好きなものにする? いろいろ考える気持になれないの」 「わたしはそれでいいわ。イシュ、あなたはギャラハドと契約すべきよ。かれがぼんやりしているあいだに」 「プライヴァシーよ、ハム」 「ごめんなさい。わたし、ついうっかり口にしてしまったの。だって、あなたがたふたりが、本当に好きなんですもの」  ギャラハドがいった。 「尻のでかいわがまま娘が、ぼくと結婚なんかするものか。ぼくのほうは、こんなに善良で清らかで慎しみぶかいっていうのに。ぼくがくすぐるって文句をいうんだよ。ぼくと結婚してくれないか、ハマドリアド?」 「なんですって? ギャラハド、あなたって世界じゅうでいちばんたちの悪い冗談をいうのね。あなたは、わたしと結婚などしたがっていないわ。それに、最長老は断わったけれど、わたしのほうはまだ申しこんだままなのよ。イシュがやめるようにいうまではね。もし彼女がそんなことをいえばだけど」  イシュタルは注文を終り、スクリーンを消した。 「ギャラハド、わたしたちの赤ちゃんをからかわないで。わたしは、ハマドリアドもわたしも、ほかの人との契約から離しておきたいの。わたしたちのどちらかと同棲するとか子供を作るとか、それともその両方への興味を、わたしたちの患者におこさせる可能性がすこしでもあるかぎりはね。ただの冗談でなく、何かかれが真剣に受け取ることのできるものよ」 「そう? ではあらゆる豊穣《ほうじょう》の神々の名において、いったいなぜきみは一度に、きみたちふたりを妊娠させるようなことをしたんだ? なんとなくわかるような気もするが、どうも数字が合わないんでね」 「なぜならね、わたしの馬鹿なダーリン、わたしは待つ気になれなかったからよ。院長がいつ帰ってくるかわからないんですからね」 「だが、なぜきみたちふたりなんだい? 健康なホスト・マザーが、ほぼ一万人は登録されていて利用できるというのに、そう、なぜふたりなんだ?」 「いとしいギャラハド、あなたをお馬鹿さんだなどといってごめんなさいね……あなたはそうじゃないわ、ただの男よ。ハマドリアドとわたしは、自分たちがどんな危険をおかそうとしているのか、そしてなぜそうするのかを、はっきり心得ているわ。わたしたちは妊娠しているようには見えないし、まだ数週間は大丈夫なはずだわ。そしてもし、わたしたちのどちらかがなんとかラザルスを契約させられたら、堕胎には十分しかかからないってわけ。職業的なホスト・マザーはこの仕事にはむかないのよ。わたしが管理できる子宮でなければいけないし、わたしが完全に信頼できる女性でなければね。遺伝子操作技術者を信用して、禁止されている行為をしなければいけなかったのは残念だけど……もし何かがうっかり洩れたら、アイラにそこから引っぱり出してもらわなければいけなくなるかもしれないわね。  でもあなたは、わたしと同じぐらいよく知っているわね、かわいいギャラハド、ふつうのクローンでもときには奇形になることを。わたしは子宮を、二個でなく四個使えればよかったのにと思っているの。八個でも。十六個だって! ひとりの正常な胎児が得られる機会をふやすためならね。あとひと月たったら……はっきりしてくるずっと前に……わたしたちは自分が何を宿しているかわかるわ。もしふたりとも見込みがはずれたら……そうなればわたし、もう一度はじめからやりなおす準備ができているし、ハマドリアドもそうだわ」 「何回でも必要なだけね、イシュタル。誓うわ」  イシュタルは彼女の手を軽くたたいた。 「わたしたち、いい子供を持てると思うわ。ギャラハド、ラザルスに一卵性双生児の妹ができるのよ、約束するわ……そしていったんそれが既成事実となったら、終末選択スイッチとか、わたしたちのところから去ってゆくとか、そんな話はもう二度と聞かなくてよくなるはずよ……少なくとも彼女が一人前の女性になるまでは!」 「イシュタル?」 「なあに、ハマドリアド?」 「もしわたしたちふたりとも、ひと月後に正常な胎児ができているとわかったら……」 「そうしたら、あなたは堕胎していいのよ。わかってるでしょ」 「いいえ、とんでもない! わたしそんなことしないわ! 双子のふたりで、どこがいけないの?」  ギャラハドは目をぱちくりさせた。 「無理に答えなくていいよ、イシュ。男の見方ってものを説明させてくれないか。女の一卵性双生児を育てることに反対できる男は、これまで生まれていない。そんなことのできる男の名前はラザルス・ロングじゃない。なあきみたち、ふたりとも確率をもっと高められるものは何かないのかい、何でもいいんだが? どう?」  イシュタルは静かに答えた。 「いいえ。ないわ。わたしたちふたりともテスト妊娠中。それだけよ、わたしたちにいまいえること、できることは。あとはお祈りするだけ。そしてわたしは、お祈りのしかたを知らないのよ」 「それなら、いまこそそれを知るときさ!」 [#改ページ] ある主題による変奏曲 5   暗闇の声[#「暗闇の声」はゴシック]  ミネルヴァはラザルスの夕食を注文したあと、そのサービスを監督し、それからいった。 「ほかに何かございまして?」 「ないと思うよ。いや、いっしょに食事をしてくれないか、ミネルヴァ?」 「ありがとうございます、ラザルス。お受けしますわ」 「ぼくに礼をいうことはないさ。ぼくのほうが厄介をかけるんだからね、|お嬢さま《ミレイディ》。今晩のぼくは憂鬱なんだ。腰かけて、ぼくを元気づけてくれ」  コンピューターの声は移動し、ラザルスが坐っているテーブルのむこう側から聞こえてくるようになった。ちょうどそこに人間が坐っている感じだった。 「映像を作りましょうか、ラザルス?」 「わざわざ面倒なことをしなくてもいいさ」 「面倒ではありませんわ、ラザルス。わたしには、予備の容量がたっぷりあるんですもの」 「結構だよ、ミネルヴァ。きみはいつかの夜、ぼくのために立体映像を作ってくれたが……あれは完璧だった。現実そのもので、生身の人間そっくりに動いた。だがあれはきみじゃあなかった。ぼくはきみの姿形を知っているからね。ええと……照明を落として、ぼくが食事できるように、皿の上だけ明るくしてくれ。それから、暗闇の中に立体映像なしのきみを見ることにするよ」  照明がしなおされ、ラザルスの前におかれた簡素ながら完全な食器類とナプキンを照らす明かりの輪以外、部屋の中はすっかり暗くなった。そのコントラストに目がくらんで、かれはのぞきこまないとテーブルのむこうが見えなくなった──そむてかれは、のぞきこんだりしなかった。ミネルヴァは尋ねた。 「わたし、どんな姿をしていますの、ラザルス?」 「え?」かれは手をとめて考えこんだ。「そいつは、きみの声とぴったり合っているんだ。ふーん、ぼくらがいっしょにくらしてきたあいだに、何も考えなくてもひとりでにその絵が心の中でできあがっていったんだ。ミネルヴァ、きみにわかるかな、ぼくらは夫婦というものがふつう作りあげる以上の親密さで、これまでいっしょに暮らしてきたんだよ」 「たぶんわたしにはわかりませんわ、ラザルス。だってわたしは、妻になるということを経験できませんもの。でも、あなたのおそばにいられて幸せです」 「妻であることと性交とは、たいして関係ないさ。きみはぼくの赤ん坊の母親役をつとめてくれている。ドーラのことだよ。ああ、きみにとってアイラがいちばん大切だってことはわかっている……しかしきみは、ぼくが前に話した娼婦のオルガと似ている。きみには与えるものがあまりにも多いから、ひとり以上の男を豊かにすることができるんだ。でもぼくは、きみのアイラに対する忠誠をりっぱなものだと思うよ。かれへの愛をね」 「ありがとうございます、ラザルス。でも……もしわたしにその言葉の意味がわかっていればですが……わたしはあなたも愛しています。それにドーラも」 「きみがそうだということはわかっているさ。両方を愛していることは。きみとぼくが言葉について心配する必要はない。それはハマドリアドにまかせよう。ふーん、きみの外見か……きみは背が高い、イシュタルに負けないほどの背丈だ。だが、ほっそりしている。やせているんじゃない、ただほっそりしているんだ……力強くて筋肉は発達しているが、たくましい感じじゃない。きみの腰は、彼女ほど幅広くない。だが充分なサイズだ。女らしい。きみは若いが、少女ではなく、成熟した若い女性だ。胸はイシュタルよりずっと小さくて、ハマドリアドのほうに似ている。きみはかわいいというより、高尚な美しさというほうだが、たまに微笑むと顔がぱっと明るくなる。きみの髪は茶色、まっすぐで、それを長くたらしている。だが清潔にきちんとしておくほか、それにあれこれ気を使うことはない。目は茶色で、髪とつりあっている。ふだんは化粧しないが、ほとんどいつも衣裳を何か身につけている……こてごてしないやつをだ。きみは衣裳道楽じゃあない。ドレスにそう興味を引かれないんだ。しかしきみが裸になるのは、完全に信頼している相手といっしょにいるときだけだ……そして、そういう相手は多くない。  これで全部、だと思うよ。あまりこまかなところまでは想像しようとしなかったんでね。これが、ぼくの心の中に浮かんだとおりなんだ。ああ、そうだ! きみは爪を、手も足も短く清潔にしている。だがそのことに神経質すぎたりはしない。いや、何についてもだ。汚れも汗も気にしないし、血を見てひるむこともない。たとえそれが好きでないとしてもね」 「自分の外見がわかってとても嬉しいですわ、ラザルス」 「え? 馬鹿な、きみ……これはあくまでぼくの想像上の産物だよ」  ミネルヴァはきっぱりといった。 「わたしはそういう姿をしているんです。そしてそれが気に入っています」 「わかったよ。もっとも、きみが望むなら、ハマドリアドみたいな目もくらむばかりの美人にだってなれるんだぞ」 「いいえ、わたしはあなたが説明してくださったとおりの外見ですわ。わたしはマルタなのです、ラザルス。妹のマリアではありません」  ラザルスはいった。 「きみには驚いたな。ああ、そのとおりだ。聖書を読んだことがあるのかい?」 「わたし、大図書館にあるものはすべて読んでいます。ある意味では、わたしが図書館なのですわ、ラザルス」 「ふーん、そう、ぼくもそれを心得ているべきだったな。例の双《ふた》子《ご》を作る仕事はどんな具合だい? 準備はまにあいそうか? かりに万一、アイラの尻に火がついて、急いで出発するようなことがあるかもしれん」 「基本的なところは終っています、ラザルス。わたしの永久記憶、プログラムと記憶装置と論理のすべては、ドーラの第四船倉に双生児化され、そしてわたしは双生児化された部分をこの宮殿下にあるわたしと同時に動かすことによって、ルーチン・チェックと練習をします……わたしのいつもの三回復唱せよ≠フかわりに六回復唱せよ≠ニするのです。わたしはそのやりかたで開いた回路をいくつか発見、修正しました……ささいな工場での欠陥ですが、わたしがすぐに処理できないものはひとつもありませんでした。あなたもご存じでしょう、ラザルス、わたしはそれを応急プログラムで処置し、わたしの新しい自分のほとんどを作りあげるためにチューリング・プロセスに頼ることはしませんでした。その目的だけのためにドーラの中に端末装置を作り、そのあと補修用端末装置以外を除去しなければいけなくなることを避けるためです。  それには大量操作にコンピューター速度を用いることができませんから、もちろんずっと多くの時間がかかります。そこでかわりにわたしは、すべて新しい空白な記憶と論理回路を注文し、それらを工場の技術者によってドーラの内部に取りつけさせました。ずっと早くできます。それからわたしは、それらに内容を入れ、点検しました」 「何か面倒なことはなかったかね、ディア?」 「ありませんわ、ラザルス。ああそういえば、ドーラが自分の清潔な室内に汚れた足で入ってこられるのをぶつぶついいました。でもそれは不平だけに終りました。というのはみんな、綿屑の出ない服にマスクと手袋という無菌室スタイルで働きましたし、わたしはかれらが第四区画に入る直前でなく、エアロックの中で取りかえるように要求しましたもの」かれはミネルヴァがちらりと微笑するのを感じた。「つまり、船外に作られた臨時の衛生設備で……それは、工場の管理人と同様に、この仕事の技師にも不平をいわせることになりましたわ」 「当然そうなるだろうな。頭を動かせるようにするためといっても、ドーラを傷つけないでくれよ」 「ラザルス、あなたが指摘されたように、わたしはいつの日かかならず……そう望みますわ……ドーラの乗客となるでしょう。ですからわたしは、彼女の友達になるよう努めてきました……そしていまわたしたちは友達です。わたしは彼女を愛していますし、彼女はわたしにたったひとりいるコンピューターの友達です。わたし、彼女の船に移るときに、散らかしたり、だれかが散らかしたりするのを許すことで、せっかくの友情を危険にさらしたりしたくありませんわ。彼女はあなたがいわれたとおり、きれい好きな家政婦です。わたしは同じぐらいきちんとしようと努めていますし、そうすることで、わたしが彼女を尊敬し、彼女の乗客になる名誉を感謝していることを示そうとしているのです。担当の技師とそのおしゃべりな工場の管理人とには、不平をいう理由はありません。わたしはつぎのすべてを契約書に明記しました……エアロック内で衣服を交換すること。船内の全人員に被服内排尿装置をつけること。船内での食事、痰《たん》をはくこと、タバコを吸うことの禁止。第四区画へは最短距離を行くこと。船の他の場所をうろつかないこと……これはどっちみち不可能なことでした、なぜならわたしがドーラに頼んで、まっすぐな道順以外は全部のドアを閉じてもらったからです……そうさせるためにはお金もはずみましたけど」 「かなりの金額だろうな、きっと。アイラは何かいったかい?」 「アイラはそういう問題に無関心なんです。それに費用はかれに報告しませんでした。すべてあなたの負担にしましたから、ラザルス」 「ふええ! ぼくは破産かい?」 「いいえ、最長老。わたしはあなたの無制限引出口座から支払いました。それがいちばんいいように思えたのです、ラザルス。あなたの船の中でおこなわれる仕事ですから。たぶんかれらは、なぜ最長老がふたつめのコンピューターを、それも大容量のものを、自分の船に取りつけたがるのか不思議に思っていることでしょう。わたしは、この仕事を担当した技師が首をひねったことを知っています。わたしははっきりとかれに警告しました。最長老はだれにも責任を負わない存在なのです。わたしは、よくわかるようにほのめかしてやりました。もしだれかがあなたのなさることに鼻をつっこもうなどとしたら、臨時議長が立腹するだろう、と。すべての人間に、見ただけで、コンピューターとは本当になんなのかわかるわけではありませんが……たとえそのコンピューターの製作者でもです」 「その製作者は……低い入札をしたやつなのか?」  ミネルヴァは心配そうな声を出した。 「わたし、入札をさせるべきでしたでしょうか?」 「とんでもない! もしそんなことをしていたら、ぼくはきみにいってそれを破りすてさせ、もう一回初めからやりなおさせていたろうよ……それからぼくらは、最高の製作者を探がしていたはずさ。かわいいミネルヴァ、いったんきみがここを出発すれば、仕事をしてくれる工場が見つかるまで何年かかるかわからないんだよ。きみは自分で自分を維持しなければいけなくなるだろう・アイラが病気のコンピューターを介抱できないかぎりはだが」 「かれにはできませんわ」 「そうだろうな。ドーラは金とプラチナだ、安いコンピューターでは銅とアルミニウムを使っているところがね。きみの新しい骨格も、同じぐらい高価なものであってほしいが」 「あなたのご希望どおりですわ、ラザルス、わたしの新しい体は、古い体より信頼できるくらいです……それにサイズはもっと小さくて、速度ははやいですし。わたしの……古いわたしの大部分は、建造されてほぼ一世紀たっているんですもの。技術が進歩したんですわ」 「ふーん。ドーラのどこを取りかえるべきか見てみなければいけないな。もしどこか、そうするべきところがあればだが」  ミネルヴァは何もいわなかった。ラザルスはいった。 「マイ・ディア、きみはしゃべらないときのほうが、しゃべるときより雄弁だな。きみはドーラを総点検しているのか?」 「わたしは部品をいくつか備蓄しました、ラザルス。でもあなたが命令されないかぎり、ドーラは自分にふれさせませんわ」 「そうとも。彼女は医者に自分の内部をつつきまわされるのだっていやがるんだ。だがもし彼女にそれが必要なら、そうさせよう……麻酔してね。ミネルヴァ、船内にいるきみたちふたりのうち、きみを補修する指令は彼女の永久記憶に入れておき、彼女のはきみのに入れておくのがいいだろう……そうしておくと、きみたちはたがいに看病できるわけだからな」  ミネルヴァは簡単に答えた。 「わたしたち、あなたがそう命令されるのを待っていたんです、ラザルス」 「きみが待っていたという意味だろう。ドーラが思いつくようなことじゃあないからね。さて、ぼくはいまきみたちふたりに話しているんだから、彼女にぼくの声がそういっているのを聞かせるんだ。ミネルヴァ、ぼくに対してそんなに卑屈になるのはやめてほしいな。きみがそれを提案すべきだったんだ。どこから考えてみても、きみの考える速度のほうがぼくよりはやいんだから。ぼくには、生身の人間としての限界がある。宇宙航法の勉強はどんなぐあいだい? 彼女はきみに操縦のしかたを教えているか? それとも邪魔しているかな?」 「ラザルス、わたしはもう彼女に負けない腕ききの操縦士です。もうひとりのわたしですが」 「そんなことあるものか。きみは副操縦士だ。n次空間へのジャンプを助けなしでやりとげるまでは、一人前の操縦士じゃないさ。ドーラでさえジャンプの前はひどく神経質になるんだ……何百回としていてもだよ」 「誤りを認めます、ラザルス。わたしは非常に熟練した副操縦士です。もしそのときが来ても、自分でそれをすることを恐れません。わたしは実時間《リアル・タイム》でドーラのジャンプをすべて再実行《リラン》しましたし、彼女はわたしがやりかたをのみこんだといってくれました」 「きみが、いつかやらなければいけない日が来るかもしれないよ。思いがけぬ事故に出会いでもしたときにね。アイラがぼくほどの操縦士でないことはたしかだ。ぼくがもう船に乗っていなくなってしまった場合、いつかきみの新しい技術がかれの命を救うことになるかもしれない。ほかに何か知らないか? 最近何かいい話を聞いていないか?」 「わかりませんわ、ラザルス。物語はいくつか耳にしました。わたしの双生児を取りつけていた技術者たちの話を聞いていたんです。猥褻《わいせつ》なものだとは思いますが、おもしろいものかどうかはわかりません」 「気にしなさんな。もしそれが猥褻なものだとしたら、ぼくは似たようなのを少なくとも十年前から聞いているからね。さて、重要な質問だ……もしアイラがジャンプを決心したら、どれだけの速さできみは独立できる? かりにクーデターがおこり、かれが命がけで逃げ出すとして」 「一秒の五分の一以下です」 「ほう? ぼくをからかっているんじゃないだろうな? ぼくが尋ねたのは、きみの個性全部をドーラの船内に移すのに、どれだけ時間がかかるという意味だぞ。あとに何も残さずにだ。ここのコンピューターに、自分がかつてミネルヴァであったという意識を残さずにだ……なぜなら、それ以下であればどんなものになろうと、きみ自身にとっていいことではなくなるからだよ。あとに残されたミネルヴァ≠ェ嘆くだろうからね」 「ラザルス、わたしは理論からではなく、経験からお話ししています。それが、この双生児計画の重大なポイントであることがわかっていましたから、技術者たちがいなくなるとわたしは、永久記憶と論理演算機構と作業中の一時記憶を双生児化し、最初は慎重に試験してみました。あなたに申しあげたように、わたしをパラレルにおいただけです。それは簡単なことで、実時間で同調を保つために、両方での遅れを調整しなければいけないだけです……でもわたしはそれをつねに、遠隔端末装置でおこなわなければなりません。それには慣れていますが。  それからわたしはやってみました。とても慎重に、まず船のほうを、つぎに宮殿のほうをと、自分自身をおさえ、三秒で完全な双生児状態にもどると自己プログラムして。なんの困難もありませんでした、ラザルス、最初のときでさえです。いまでは二百ミリセカンド以内でできます。あなたがその質問をなさってから、わたしはもう七回それをしました。ときどき、わたしの声がおくれたことに気づかれまして? ほぼ千キロメートルの遅れですけれど?」 「なんだって? いいかい、ぼくは光速で三万キロメートル以下の遅れに気づくような構造にはなっていないんだぜ……つまり十分の一秒以下のってことだ。きみはぼくにお世辞をいっているんだな」ラザルスは考えこんだような口調でつけ加えた。「だが十分の一秒は、きみが使うナノセカンドの一千万倍だな。というか、百ミリセカンドだ。それはきみの時間ではどれほどなんだ? ぼくの時間で考えて約一千日というところか?」 「ラザルス、わたしはそういうふうに考えていません。わたしは多くのことをするのに一ナノセカンドをはるかに短い時間に分割して使っています……一ミリシェイクか、あるいはもっと短い時間にです。でもわたしは、あなたの時間にいても同じように快適です。いまわたしは、わたし個人であるわたしとともにいます。わたしは歌うことを楽しめなかったし、あるいはあなたとのこの静かな会話も楽しめなかったはずです。もしわたしの個人的なモードにおいて、ナノセカンド単位で考えることを強いられていたらですよ。あなたは、ご自分の心臓の鼓動をいちいち数えたりしますか?」 「しないな。いや、たまにはするか」 「それはある程度わたしも同じです、ラザルス。いろいろなことをするのに、わたしはすばやく、なんの努力もせずにしますし、必要な自己プログラム以外意識的に注意をはらうことはありません。でも、あなたとともにわたしの個人モードですごす毎秒、毎分、毎時間を、わたしは味わっています。それをナノセカンドに刻むことはせずに、全体を把握して楽しんでいるのです。あなたがここにいらしてからの毎日、毎週を、わたしはただひとつの現在≠ニしてとらえ、それを大切にしています」 「おい……待ってくれ、ミネルヴァ──きみがいっているのは、つまり、アイラがぼくらを引き合わせてくれた日も、いまだにきみにとっては現在≠セということか?」 「はい、ラザルス」 「はっきりさせてくれ。明日もやはり、きみにとっては現在なのか?」 「はい、ラザルス」 「ああ……もしそうなら、きみは未来を予言できるんだな」 「いいえ、ラザルス」 「しかし……となると、ぼくには理解できんな」 「わたしはいくつもの方程式をプリントアウトできるでしょう、ラザルス。でもそうした方程式はつぎの事実を述べているだけです。つまりわたしが、時間を多くの次元のひとつとして処理するように作られていること……エントロピーを唯一の演算子とし、現在≠るいはいま≠ェ、いかなる幅のスパンにおいても一定の状態に保持される変数としてです。でもあなたとつきあう場合、わたしは必然的に、あなたの個人的現在であるところの波面とともに移動しなければなりません……さもないと、わたしたちは意志の疎通ができませんから」 「ミネルヴァ、はたしてぼくらは意志の疎通ができているのかね?」 「すみません、ラザルス。わたしにも限界があるのです。でももしわたしに選択が可能なら、わたしはあなたの限界を選ぶつもりです。人間です。血と肉でできた」 「ミネルヴァ、きみは自分のいっていることがわからないんだ。血と肉でできた体は重荷になることがある……特に、その補修維持が本人の注意の大部分を占めはじめるとね。きみは両方の世界でもっともいいものを持っている……もっとも人間らしいことをするため、人間自体の形にあわせて作られた……だが人間が可能な以上に、よりよく、より速く……はるかに速くだよ……そしてより正確に……苦痛や悲しみや、食事や睡眠、過ちを犯すことが必至の肉体にある非能率な欠陥を持たずにだ。ぼくの言葉を信じたまえ」 「ラザルス……性愛《エロス》≠ニはなんでしょう?」  かれは暗闇の中をのぞきこみ、心の目で、どれほどまじめに悲しそうに彼女が見つめているかを知った。 「なんてこった……きみはそれほど、かれとベッドをともにしたいのか?」 「ラザルス、わたしにはわかりません。わたしは盲目≠ネのです。どうしてわたしにわかるでしょう?」  ラザルスは溜息をついた。 「悪かった。それならきみは、なぜぼくがドーラを子供のままにしておいたか、わかっているね」 「推測でしがありませんが、ラザルス。その問題はこれまでだれとも話しあっていませんし、今後も話しあうつもりはありません」 「ありがとう……きみは淑女だ。きみはわかっている。いや、ぼくの理由の一部がわかっているはずだ。しかしぼくは、きみにそのすべてを話そう……その気になったときにね……そうすればきみは、ぼくがいう愛≠フ意味を知るだろうし、なぜぼくがハマドリアドに、それは経験されるべきであり、言葉で定義されるものではないといったのかわかるだろう……そして、きみが愛とは何かを知っていることを、なぜぼくが知っているかもだ。なぜなら、きみはそれを経験しているからだ。しかしドーラの物語はアイラのためじゃない、きみにだけするんだ。いや、きみがアイラに聞かせることはかまわない……ぼくが行ってしまったあとでなら。そう、題名ば養女の話≠ニしよう。そしてそれを保存しておき、あとでかれに聞かせるといい。だがいまのところ、その話はしないよ。今夜はそれほどの気力がないんでね……ぼくがその気になっていると思ったときに尋ねてくれ」 「そうします。すみません、ラザルス」 「すみません、とは? ミネルヴァ、ぼくの本当に大事なお嬢さん、愛についてはすまないと思うことなんて何もありゃしないんだ。絶対にね。きみはむしろぼくを愛したくないんじゃないのか? それともドーラを? あるいはアイラを愛することによっても、愛が何かまったく学ばなかったのか?」 「いいえ、違います、そうじゃないんです! でもわたし、性愛《エロス》についても知りたいってことなんです」 「きみの利点を数えてみることだよ。性愛《エロス》は、傷つけることができるものだからね」 「ラザルス、わたしは傷つけられることを恐れてはいません。でも、わたし、男と女の生殖作用についてはたくさん知っているのに、肉と血からできているどんな人間よりもずっとたくさん知っているというのに……」 「そうかな? そう思っているだけじゃないのか?」 「わたしは知っています、ラザルス。移住にそなえて、わたしは追加記憶装置をたっぷりつけ加えました……第二区画のほとんどを占めています……イシュタルのために、わたしの新しい体に、ハワード若返り病院のあらゆる研究ファイルと蔵書と部外秘記録を転写できるようにと……」 「ほう! イシュタルは一か八かやってみたんだな。あの病院は、公表するものとしないものについてだいぶ惧重なようだから」 「イシュタルは、危険をおかすことなど恐れていません。でも彼女は急いでくれといいました。そこでわたしはそれを、ここの一時記憶に入れました。ドーラの船倉に……大きなものです……必要な容量のものが用意できるまでです。でもわたしは、それを学ぶ許可をイシュタルに求め、彼女はわたしがそうしてもかまわないといいました。彼女に相談することなく、極秘あるいは秘密とされているものを公表しないかぎりは。  それはすばらしいものでしたわ、ラザルス。わたし、いまではセックスについて何もかも知っています……生まれてからずっと盲目だった人間でも、虹の物理学を教えてもらうことができるという意味で。わたしはいまでは、理論的にですが、遺伝子操作技術者でさえあります。そして、そうしたデリケートな仕事に必要な超極微細操作機械を作りあげる時間さえできれば、それを実行することをためらったりもしません。わたしは同様に、産科医、婦人科医、若返り技術者としても、専門家です。勃起反応も、オルガスムの作用も、精子が作られるプロセスも、受精も、わたしにとっては謎ではありませんし、妊娠と誕生におけるどのような面でもそうです。  わたしにわからないのは性愛《エロス》≠セけ……これでやっと、わたしは自分が盲目であることを知ったのです」 [#改ページ] ある主題による変奏曲 6   そうでなかった双生児の話[#「そうでなかった双生児の話」はゴシック] (省略)  ──だが、星間商人ってやつは、そのころぼくがふだんやっていた職業なんだよ、ミネルヴァ。ぼくが奴隷から大僧正の地位へ上がるためにやった悪事は、やむを得なかったんだ。ぼくは長いあいた虫も殺さぬ顔をしていなければならなかったが、そんなのはぼくの性に合わない。おとなしい者が土地を受け継ぐべきだといったイエスはたぶん正しかったのだろうな──だが、そんな連中が受け継ぐ土地は狭いものさ、せいぜい縦六フィートに横三フィート。そう、自分の墓穴ぶんだよ。  しかし、作男の身分から自由になれるただひとつのルートが教会に入ることであり、そこではつねに柔和であることが要求されたから、ぼくは連中のご期待どおりにふるまってやったさ。あそこの坊主どもには妙な習慣があってね……(九千三百語省略)  ──それでぼくはそのくそいまいましい惑星から逃げ出したし、二度ともどるつもりはなかった。  ──ところが、二世紀ほどあとになってからもどったんだ──ぼくは若返り処置を受けたところで、宇宙船に乗っていずことも行方が知れなくなってしまった例の大僧正とは似ても似つかぬ姿になっていたよ。  ぼくはまた星間商人になっていた。それがぼくにぴったりってわけだ。これで、旅はできるし、いろんなものを見ることができるからね。ぼくが天国《ブレシド》へもどったのは金のためで、復讐のためじゃない。ぼくは復讐のために大汗かいたりなどしたことがないんだ。モンテ・クリスト伯のような行動は、骨が折れるばかりで、その割に面白くないからね。もしだれかと衝突して相手がその場で死ななくても、あとになってまたわざわざそいつを殺しに舞いもどったりはしない。そのかわりに、ぼくはそいつより長生きしてやるんだ──それでも同じように帳尻はあうからね。二世紀もたてば、ブレシドの敵はみな死んでいるはずだと思ったんだ。ぼくがそこを離れたあと、ほとんどがずっと前に死んだはずさ。  商売のためでなければ、ブレシドに立ち寄ったりはしなかったろうな。恒星間貿易というのは、基本的なところまで裸にむしられてしまった経済学なんだ。金《かね》を作っても、それで金を作ったことにはならない。金は、それが発行されている惑星以外では金じゃないからだ。ほとんどの金は法定でそうと定められているだけで、そんなものをいくら宇宙船につみこんでみても、よそへ行けば紙屑だ。銀行預金に価値のないことはそれ以上だ。星々のあいだの距離というのは大きすぎるからな。貨幣でさえ商品と考えなければいけない……金《かね》ではなくね……そうしなければ、みすみす飢え死にってわけだ。  このため星間商人は、銀行家や学者たちもとうていかなわないほどに経済学を体得する結果となった。かれらは物々交換をやり、馬鹿なことはやらない。支払わなければいけない税金は支払い、それが物品税、運上金、ゆすり、なんと呼ばれていようと、あるいは露骨な賄賂であろうと気にしない。よその子のバットとボールと裏庭なんだから、その子のルールに従って遊ぶんだ──何もむきになることはない。法律を守るってことは実用主義的な問題だ。女性はそれを本能的に知っている、だからみな密輸業者なんだ。男は信じることが多い──あるいは、そのふりをしているね──法律が何か神聖なものであるとか、少なくともひとつの科学であるとかさ──まるで根拠のない仮説だが、政府にとっちゃあ都合のいいことこの上なしだな。  ぼくは、密輸というものをほとんどしたことがない。危険だし、その土地の法定通貨となっている金が、使えもしないほど集まって終りになるのがおちだからだ。ぼくはあっさりと、賄賂の額が高すぎる土地を、避けるようにしていたよ。  需要と供給の法則に従って商品の価値は、それが何か、というのと同様に、それがどこにあるかによって決まる──そして、商人はそれを利用するんだ。ある土地で安く買ったものを、もっと高く売れそうなところへ持っていく。厩舎の臭い排泄物もサウス・フォーティーへ運べば、りっぱな肥料だ。ある惑星の小石が、別の惑星では貴重な宝石となる。積荷を選ぶ腕は、どこに何を持っていけば高く売れるかの知識があるかないかにかかっており、思惑どおりにいけば一度でマイダス王顔負けの富が自分のものになる。ただし、ひとつ間違えれば破滅だ。  ぼくがブレシドに降りたのは、その前にランドフォールにいたので、またランドフォールへ帰るためにヴァルハラへ行きたかったからなんだ。ぼくは、結婚してもう一度家庭というものを作ろうと思っていたわけさ。だが、身を固めるのならせめて、土地持ちの田舎紳士ぐらいにはなっていたかった……そのときのぼくはそうじゃあなかったんでね。全財産といえば、リビ|イ《*》とぼくとで使ってきた偵察宇宙船と、その地方の金が少々というありさまさ。 [#ここから4字下げ]  *事件の続き具合が一致しない。あるいは同種の宇宙船か? [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  だから、商売をやるべきときだったんだ。  それも、往復交易では最小限の利益しか見込めない。ルートがたちまちいっぱいになってしまうからだ。しかし三角交易なら──それより多くても──かなりの利益をあてにできる。こんなふうにだ。まず、ランドフォールに何かがあって──たとえばチーズだとすると──そいつはブレシドまでの贅沢品だ──いっぽうブレシドから産出されるものを──まあチョークとすると──ヴァルハラでの需要が多い……そしてヴァルハラは、ランドフォールが必要とするさまざまの機械を作っているんだ。  これを正しい方向へたどれば金持になれることうけあいだし、逆にまわれば身ぐるみはがれてしまうわけさ。  ぼくは最初の航路を終えたところだった。ランドフォールからブレシドへだよ。成功だった。積荷を売って──さてと、あれはなんだろう? くそっ、思い出せん。ずいぶんいろいろなものを扱ってきたからね。とにかくだ、ぼくはずいぶんいい値で売りさばくことができたので、一時的にしろありあまるほど≠フ金を手にしていた。 ありあまるほど≠ニは、どれぐらいだ? いくらだろうと、二度ともどってくるつもりのない土地を去る前には使いきれないだけの額のことだ。そのあまった金を後生大事にかかえこんでいても、あとでまたもどったときには、たいてい──ぼくの思い出すかぎりでは例外なく──インフレ、戦争、税金、政権交代、その他のせいで、せっかく取っておいた法定通貨には、一文の価値もなくなっているね。  ぼくは船に荷を積みこむ予定になっており、宇宙港当局との条件つき証書にも積荷の価格を記入してあるので、ポケットにだぶついているあまった金はたった一日で使ってしまうほかなく、それも荷物の積込時刻までだった──ぼくはそれに、立ち会わなければいけなかったんだ。ぼくは自分の船の事務長も兼ねており、人を信用しない性分なんでね。  そこでぼくは小売屋街をぶらつき、何か装飾品でも買おうかなと思っていた。  ぼくはそこでの上流階級といった服装をしており、ボディガードを従えていた。つまり、ブレシドはいまだに奴隷経済の世界で、そういうピラミッド型社会では、その頂上近くにいるかあるいは少なくともそう見えるほうが万事好都合だったからだ。ぼくのボディガードは奴隷だったが、ぼくの奴隷ではなかった。ぼくはかれを貨召使屋《レンタ・サーバント》で傭ってきたんだ。  ぼくは偽善者ではない。この奴隷の仕事といえば、ぼくのあとにくっついてまわり、豚のようにむさぼり食べる以外、それこそ何もないんだ。ぼくがそいつを傭ったのは、しかるべき身分の人間は、人前に出るとき必ず男の従者をつれていなければならなかったからだ。紳士≠スるものがブレシドにいるかぎり、チャリティでもその他のどの都市でも、おのれの身分のあかしとなる従者なくして、一流ホテルに投宿することなど不可能だったし、いいレストランで食事をするときは、従者をうしろに立たせておかなければいけない──万事この調子だ。ローマにいるときは、ローマの花火を打ち上げろ、さ。訪ねていった家の女主人と寝ることが義務になっている土地にいたこともあるが──いや、ひどいもんだ。それにくらべりゃ、このブレシドの習慣は難しいもんじゃなかったよ。  貸召使屋ではやつに棍棒を持たせたが、だからといって安心はできなかった。ぼくは六とおりの武装をしたうえ、歩く場所にも気をつけた。ブレシドはぼくが奴隷だったころ以上に物騒になっていたし、紳士≠ヘ格好の目標だったからね。たとえ、警官にわずらわされなくてもだ。  ぼくは奴隷市場を抜ける近道を歩いていた。競売日じゃなかったから、宝石屋のならぶ通りへ行く途中だったのだが、ひとつだけ売り出しがおこなわれているのを見て、ぼくは歩調をゆるめた──自分自身が売られた経験を持つ者なら、奴隷の苦境に無関心で通りすぎたりはできない。自分が買おうなどというつもりは、これっぱかしもなかったがね。  ほかの連中も、そのふたり一組になっている奴隷を買う様子はなかった。仲買人のテントのまわりに集まっているのは、ただの野次馬だった。そいつらの身なりと、従者をつれた男がひとりもいないことで、それはわかったんだ。  商人はテーブルの上に立っていた。若い女と、若い男だった。男のほうはまだ思春期後半、女のほうは成熟したところだ。だが、女のほうが早く成長することを考えると、そのふたりは同じ年齢かもしれなかった。ぼく自身の若いころにあてはめてみると、まあ十八というところか──男なら樽に閉じこめて穴から餌を与えられるべき年齢だが、女は結婚適齢期ってわけだ。  長い袖なしの衣が、ふたりの両肩からたれ下がっていた──その衣の意味は、ぼくにはわかりすぎるほどわかっていた。かれらは、見込みのある客にしか見せられないってわけだ。野次馬に用はない。衣は価値のある奴隷のしるしで、だれでもが自由に値をつけてせり落とせるわけではないのだ。  かれらが|せり下げ競売《ダッチ・オークション》にかけられているのは明らかだった、最低の付け値が掲示されてはいたが──一万ブレシングだ。つまり、いくらになるかというと──何百光年も遠くにある惑星の何世紀も昔の金を、いまここの金に換算することなど、ぼくにはできないね。いいかえればこうだ。このふたりの子供が特別なものでないとすると、五倍も高い値がつけられているということになる。朝の経済ニュースによると、ずいぶんいい若いのが、性別を問わず、千ブレシングあたりで売買されているそうだからだ。  洋服屋の前で立ちどまったら中に引っぱりこまれたという経験はあるかい? いや、きみにそんな経験があるはずはなかったな。だが、この場合がまさにそれだったんだ。  ぼくがしたことといえば、ただ仲買人にこういっただけなんだ。 「おい、おやじ。そこに出ている付け値は間違いじゃないのか? それとも、こいつらには隠れた特技でもあるのか?」とね。  ただの好奇心さ、ミネルヴてぼくは奴隷など持つつもりはなかったし、財布の中に金があまっているといっても、この惑星にひろがっている習慣をどうにかできるようなものじゃあなかった。だがぼくにはどうも、わけがわからなかった。その少女がずばぬけて美しいわけじゃあない。ハレムの女奴隷として売りに出しても、高い値はつかないだろう。少年の体もたくましいといえた代物ではなかったし、ふたりは釣合いのとれた組合せでもなかった。これが地球なら、彼女にはイタリア人を、かれにはスエーデン人をあてがうところだろう。  ぼくはあっというまにテントの中に連れこまれ、ふたりの奴隷は前へとおされた。そのやりかたからして、仲買人が一日じゅう|かも《ヽヽ》の来るのを待っていたことは間違いない──いっぽう、ぼくの影は耳もとでささやきつづけていた。 「ご主人さま、この値段はべらぼうですぜ。あっしが秘密の競売にご案内しますよ。値段も適当で、きっとご満足いただけると思いますがね」  ぼくはいったよ。「うるさいぞ、忠義者《フェイスフル》」とね──借りてきた従者はみな忠義者≠ニ名づけられていたが、たぶん反対だからなんだろう──「ぼくは、どういうことなのか知りたいんだ」  テントの垂れ布が野次馬の目をさえぎるやいなや、仲買人はぼくの膝に椅子をおしつけ、右足をうしろに引いた丁重なお辞儀をして飲み物をさし出し、大げさな口調でしゃべった。 「ああ、お優しくて親切な旦那さま。よくぞお声をかけてくだされました! これからあなたさまにお目にかけるのは科学の驚異。神々でさえびっくり仰天なさろうというものでして! あたしは敬虔な信者として、われらが神聖な教会の本当の息子、嘘などつけぬ者として申しあげるのでございます!」  嘘をつけない奴隷仲買人とは、こりゃまた貴重な存在だ。そのあいだにふたりの若者はおとなしく陳列台に上がり、フェイスフルはささやいていた。 「ひとことも信じちゃいけませんぜ、ご主人さま。あんな小娘はつまりませんぜ。あっしならあんな屑どもの三人やそこら、素手でこてんぱんでさ……それでも店は、あっしを八百ブレシングであなたさまにお売りしますぜ。これは正真正銘の話でさ」  ぼくは身ぶりでやつを黙らした。 「おい、これはなんのぺてんなんだ?」 「ぺてんだなんて、滅相もない。あたしは母親の名誉にかけて誓いますよ、ご親切な旦那さま! こいつらが姉弟だと申しあげたら信じていただけましょうか?」  ぼくはふたりを見た。 「いや」 「それもただの姉弟ではなくて、双《ふた》子《ご》だと申しあげましたら?」 「だめだな」 「同じ父親、同じ母親、同じ子宮、同じ時刻に生まれたというのは?」  ぼくはうなずいた。 「同じ子宮というのはありうるな。ホスト・マザーか?」 「いえいえ、それが違いましてね! 完全に同じ血筋で、そのうえに……これが奇蹟と申しましょうか……」かれはぼくを見つめ、声を低めていった。「それにもかかわらず、こいつらは、りっぱな繁殖用のつがいでして……といいますのも、この双子はおたがいにつながりがございませんからですよ! 信じていただけますか?」  ぼくは自分が信じるところをかれにいってやった。かれが許可証を取り上げられ、涜神の罪で告発される事態の来るだろうことも、残らずだ。  そいつの愛想笑いはさらに広がり、ぼくの機智《ウイット》にお世辞をいってから、どれほどの──もしいままでの話をぜんぶ証明したら──どれぐらいの値段をこのふたりにつけてくれるかと尋ねた。掲示されていた数字がこの前につけられた値段であることはおわかりのはずだから、一万以上ですな? 一万五千というところですか? 条件つき証書で明日の昼前にというのは?  ぼくはいった。「もういい、わしは今日の昼前に出発するんでね」──そして、立ちあがりかけたんだ。  そいつはいった。「ちょ、ちょっとお待ちを! お見うけしたところあなたさまは、教育、科学、深い知識を身につけられた紳士で、ずいぶん旅もしておいでのようです……あなたさまのいやしいしもべに、ほんのすこしだけ証拠をお見せする時間をお与えください。お願いしますよ!」  ぼくはそれでも立ち去りたかった。詐欺やいかさまにはうんざりなんだ。だがそいつは手をふった。すると子供たちは衣を落とし、見栄えがするようにポーズを取った。少年は両腕を胸の上で組み、足をしっかりとふんばり、少女はイブの昔からある優雅なポーズになった──片膝を心もち前へ出し、片手を腰にあて、もういっぽうの手はゆったりとたらし、胸をわずかに上げている。うんざりしている表情を別にすると、彼女はほとんど美しくさえ見えた──何百回となくこれをくりかえしてきたことは間違いない。  だがぼくが足をとめたのはそのためじゃなかった。ひどく気にさわるものがあったんだ。少年が裸だったのはもちろんだが──少女は貞操帯をつけていたんだ。なんのことだが知っているかい、ミネルヴァ? 「ええ、ラザルス」  ひどいもんだ。ぼくはいった。「そのいまいましいものをはずせ、その子から! いますぐに!」馬鹿なことを。よその惑星ではどんなことだろうと、めったに干渉したりしないんだが。そういうものにはぞっとするんでね。 「はいはいただいま、お優しい旦那さま。そうしようとしていたところでして。エストレリータ!」  少女は相変わらず退屈した表情のまま、うしろをむいた。仲買人は、組合せ錠を動かすところを見られないよう、少年に背中をむけて立ち、弁解がましくしゃべりつづけた。 「これをつけるのは、ごろつきどもからばかりでなく、実の弟からも守らなければいけないからなんで。同じ寝床で眠りますんでね。なにしろこの娘は……信じていただけますかな、旦那さま。これほど成熟した娘が……処女なんです! お優しい旦那さまにお見せするんだ、エストレリータ!」  退屈した表情のまま、少女はすぐにそうしはじめた。ぼくの考えによると、処女性とはなんら重要性のない矯正可能なひねくれ根性でしかない。ぼくは手をふってやめさせると、仲買人に彼女は料理ができるかどうかを尋ねた。  仲買人は彼女がブレシドにいる料理人みんなの羨望の的だと受けあってから、ふたたび鋼鉄のおむつをさせようとした。ぼくは荒々しくいったよ。 「そのままにしておけ! ここにいるものはだれもその娘を強姦したりせん。おまえが約束した証拠とやらはどうなったんだ?」  ミネルヴァ、そいつはいったことのすべてを証明したよ──少女の料理の腕は別にしてだが──そして、証拠物件は、かれが見せたという理由以外に疑わしい点はなかった。ここの病院で見せられたら、まるで信じていたろうな。  ブレシドには、ファミリーの運営ではないにしても若返り病院があったことをいっておくべきだな。結局のところその病院は教会に引き継がれ、短命人種にさえかなりの効果を具せる老化防止技術は、大物以外には利用できなくなっていた。だがこの惑星における生物学的技術は、高度な水準を保っていた。教会がそれを必要としたんだな。  ミネルヴァ、ぼくはかれのいったことをすべて話したし、きみはいまやイシュタルに匹敵する生物学、遺伝学、それに関連した処置についての知識の持主だ──彼女以上かもしれん。きみには、彼女のような時間や記憶容量での限界がないからな。かれがぼくに証明したのは、なんだったんだ? 「かれらが、それぞれ|二倍体の片割れ《ディプロイド・コンプリメント》だったということでしょう、ラザルス」  そのとおり! ただしあの男は鏡像双子《ミラー・ツイン》と呼んでいたがね。あの子供たちがどんなふうにして作られたか、教えてくれないか、ミネルヴァ? そんな双子をきみが作るとしたら、どうやるね?  コンピューターは考え深げに答えた。 「鏡像双子《ミラー・ツイン》という言葉は、想定される必要条件を満たす接合子に対しては、不正確な述語でしょうね──鮮明なイメージを与えてはくれますが。わたしは理論的にしかお答えできません。というのは、わたしの中にある記録には、そういう試みがこれまでセカンダスでなされた例がないからです。でも、正確な二倍体を作りあげるのに必要な方法は次のとおりです。まず染色体数が減数分裂で半分になる直前に、両親双方の配偶子形成の段階で手を加えなければいけません──つまり、第一次精母細胞と第一次卵母細胞という減数分裂前の二倍体から取りかかるのです。  男親の場合、介入はなんら理論的問題を引きおこしませんが、細胞がきわめて小さいので難しいものとなるでしょう──しかし、充分満足できる拡大装置を作るだけの時間が与えられれば、わたしは躊躇することなくそれを試みてみますわ。  両親いずれの場合も、生殖原細胞を試験管に入れて注意深く育てることが、論理上必然的な出発点となります。精原細胞が第一次精母細胞に変化するのが観察されたら──いまだ二倍体です──それは分離され、その瞬間それは二個の第二次精母細胞に分裂します──半数染色体細胞です。一方にはX染色体、そしてもう一方にはY染色体が存在します──この二個の細胞はふたたび分離され、おのおの精子に成長するよう刺激されます。  精子段階での介入は充分ではないでしょう。配偶子組合せの混乱が避けられないし、結果として生じる接合子が相互に補いあうものとなる確率は、まったく予想できないからです。  女親への介入は、細胞が大きいことからおのずから容易になります──しかし、また別の問題がおこります。第一次卵母細胞は減数分裂の時点で、二個の半数染色体細胞と補足的な第二次卵母細胞を生みだすように刺激されなければなりません。一個の卵母細胞と一個の極細胞ではありません。ラザルス、信頼できる技術が開発されるまでには、多くの試行が必要でしょう。これは一卵性双生児の発生過程と類似していますが、配偶子形成の順序にして二段階はやくおこるわけです。しかしながら、最後には父親なしの雌兎を作りだすのと同様、すこしの困難もなくなるに違いありません。わたしには参照すべき過去の技術がないので、意見はひかえますが──ただ、これが可能なことは確信しています。技術を発展させるための時間が与えられさえすればいいのです。  さて、いまここに精子の補足的グループがふたつ。ひとつのグループはY、もうひとつはXを持っているものです。それからもうひとつ卵子の補足的ペアがあり、それぞれX染色体を持っています。受精は試験管の中でおこなわれ、その際には女性・男性の二とおりの組合せのうちいずれを選択することも可能ですが、半数染色体の遺伝子配列が確認されないかぎり選択の根拠はありません。こうした確認は非常に難しく、遺伝子に損傷を引きおこしかねませんから、これが試みられることは考えられません。そのかわりに、一個の精子が一個の卵子に、それと補足する精子がもう一個の卵子にと、選択の根拠なしで入れられることになるでしょう。  最後の必要条件は、その奴隷仲買人の主張を全面的に正当化するものでなければなりません。二個の受精卵は試験管から移され、卵原細胞提供者の子宮に植えつけられ、そこで自然の懐胎と誕生を通じ双子としての成長を許されるのです。  これでいいでしょうか、ラザルス?」  いや見事なもんだ! 教室の前に出たまえ、レボートに金の星をつけてあげよう。ミネルヴァ、きみがいったとおりにおこなわれたのかどうか、ぼくにはわからない。しかし、仲買人の主張はそのとおりだったし、かれの証拠物件──研究所の報告書、立体映画、その他が示していると思われるものだった。とはいえあの悪党は、そうした証拠≠程造したうえで、高く売れそうもないできそこないを、でたらめに出してきたのかもしれないんだ──それで派手な売り込みの口上が必要だったというわけだ。証拠なるものは見たところ本物のようで、研究所の書類その他には司教の印と紋章がついていた。写真や映画も上出来だった──だが素人に判断できるはずはないだろう? それらの証拠物件がたとえ偽物でないにしても、それで証明できるのはただ、そうしたプミセスが一度は実施されたことがあるという、それだけなんだ。目の前の子供たちがその成果であるという証明にはならない。そう、これまで奴隷のペアを売るのにさんざん使われてきた手かもしれないんだ。司教のひとりがぐるになっているってわけさ。  証拠物件の山にひととおり目をとおし、子供たちの成長記録も調べてから、ぼくはいった。 「実におもしろいな」そして、出ていこうとした。  この女《ぜ》衒《げん》は、ぼくとテントの入口のあいだへテレポートして、熱心にいった。 「旦那さま、ご親切で寛大なあなたさま……一万二千では?」  ミネルヴァ、ぼくの中で商売人の本能が頭をもたげたんだ。「千だ!」と、ぼくはとっさにいっていた。そのときは自分がなぜそんなことをしたのかわからなかったが、いまになってみるとはっきりしている。少女の体は、例のくそいまいましい貞操帯で傷だらけになっていたんだ。ぼくはこの奴隷商人にひと泡吹かせてやりたかった。  かれは鼻白み、まるで割れたビール瓶でも生みかけているような顔になった。 「あたしをからかってなさるんで? 一万と一千ブレシング、それでこいつらはあなたさまのものですぜ……あたしの儲けはなくなっちゃいますがね!」 「千五百だ」  と、ぼくは答えた。ここ以外では使えない金をぼくは持っていたし、自分自身にいい聞かせたんだ、ふたりを解放してやり、あの娘が二度とむごい目に会わせられないようにできるんだぞ、と。  かれはうなったね。 「こいつらがあたしのものなら、いっそのことさしあげもしますがね。あたしはこいつらが、もう可愛くて可愛くて、自分の子供みたいに思ってるんですよ。だから、こいつらのためを思うと、ご親切でお優しくて、こいつらのたいへんな値打ちをわかっていただける科学に明るいご主人さまに養っていただくのが一番なんです。しかしそんなことをしたひにゃ、あたしは司教さまに吊るされるわ、生きたまま|なます《ヽヽヽ》にされ、大事な道具を引き抜かれて殺されちまいますよ。証拠物件も何もひっくるめて一万。かわいい子供のためだ、損は我慢しますぜ……これもあなたさまにすっかり敬服したからこそですよ」  ぼくは四千五百に上げ、かれは七千に下げ、そこでわれわれは立往生してしまった。最後の賄賂ってやつが必要になったときのために、ぼくは現金を残しておかなければいけなかったからだ。しかしぼくの感じでは、かれのほうも本当に司教の怒りを覚悟しなければいけない売り値に来ているようだった。本当に司教がいればの話だが──  かれは、取引きもお世辞をいうのももうおしまいという様子でくるりとうしろをむくと、少女に鋼鉄の鎧をふたたびつけろと鋭く命令した。  ぼくは財布を取り出した。ミネルヴァ、きみは金というものを知っているはずだ。きみは政府の財政を扱っているんだからな。だがたぶんきみは知らんだろう、現金というものがある人々に対しては、|いぬはっか《ヽヽヽヽヽ》が悪魔に与えるのと同じ効果を発揮することを。ぼくはそのぺてん師の鼻の下で大きな赤と金色の紙幣を四千五百ブレシングまで数え──そこで手をとめた。かれは汗をかき、のどぼとけをぐびりと動かし、やっと十分の一インチほど首をふった。  そこでぼくはさらに紙幣を数えた。おそろしくゆっくりとだ。五千までゆくと──こんどはさっさとそれをしまいこみにかかった。  かれはぼくをとめた──そこでぼくは、自分がこれまでに初めて所有することになった奴隷を買ったことに気づいたんだ。  かれはあきらめたように表情をゆるめたが、証拠物件のぶんに|いろ《ヽヽ》をつけてくれといった。ぼくはどちらでもよかったから、おいていってもかまわないんだぞと二百五十出してやった。かれはそれを取ると、ふたたび少女に鎧をつけはじめた。  ぼくはかれをとめていった。 「その使いかたを教えてくれ」  実のところぼくは知っていたんだ──十個の文字を使うシリンダー型の組合せ錠で、一回ごとにその組合せは変えられる。組合せをきめて、ウエストに巻く鋼鉄ベルトの端をバレルの端にさしこみ、シリンダーの文字盤をまわす。すると、任意に組み合わせたその十字に合わせなおすまで、錠はあかない。高価な錠で、ベルトにはいい鋼鉄を使っている──金鋸も歯がたたない合金だ。これまた、かれの話を本当と思わせるものだった。なぜなら、この野蛮な世界には処女の需要がある一方、訓練を受けたハレム用の女奴隷もだいたい同じ値を呼んでいたが、その娘はどちらにしてもハレム用においておかれたものではない。だから、その高価な別誂えの貞操帯には何かほかの理由があるはずだったかだ。  奴隷たちに背をむけるとかれはぼくに、組合せ文字を教えた。E・S・T・R・E・L・L・I・T・A──忘れようのない文字を選んだ自分の頭の良さが、えらく自慢のようだった。  そこでぼくはわざと無器用に手を動かしてもたついたあげく、ようやくわかったというふりをしてそれをあけた。かれはふたたびそれを少女につけてわれわれを送り出そうとしたが、ぼくはいった。 「ちょっと待て。自分でちゃんと扱えるかどうか確かめてみないとな。それをおまえにつけて、わしにはずさせてくれないか」  かれはいやがった。そこでぼくは腹をたて、おまえはぼくを欺すつもりだなと、いってやった──自分の財産の錠をあけるのにわざわざかれを呼んで、法外な金を支払わなければいけないように仕組んでいるのだ、とね。ぼくは金を返せと要求し、取引証書を破ろうとした。かれは降参して、その道具の中に足を入れた。  鋼鉄のベルトがかろうじて合うという状態だったが、それでもかれはなんとかその中におさまりこんだ。かれは少女より腰まわりが太かったんだ。ぼくはいった。「さあ、組合せをいってみろ」そして、錠の上にかがみこんだ。かれが「|ESTRELLITA《エストレリータ》」というと、ぼくはHORSETHIEF《うまどろぼう》≠ニ文字をならべてから、ベルトの両端を力まかせにおしこんで文字盤をまわした。 「いいぞ。たしかに動くな。それじゃあ、もう一度いってくれ」  かれが綴りをいうと、ぼくは注意ぶかくESTRELLITA≠ニ、文字を動かした。錠はかかったままだ。ぼくはかれに、最初はLがひとつでTがふたつだったぞといってやった。それでもやはり錠は開かない。  かれは鏡を見つけ出してきて、自分でやってみた。だめだ。ぼくは、故障かもしれないから腹を引っこめろ、ふたりでゆすぶってみようといった。もうかれは汗をかいていた。  とうとうぼくはいった。「なあ、おやじ……おまえにこのベルトをやろうじゃないか。わしにはどうも南京錠のほうが信用できるからな。だから、錠前屋へ行くんだな……いや、それをくっつけて外に出るのはいやだろうから、わしに場所を教えろ。そうすればそいつをここへよこして、費用はわしが払ってやる。文句はあるまい? わしはぐずぐずしておられんのだ。ビューラーランドで食事の約束があってね。こいつらの服はどこだ? フェイスフル、このぼろくずを拾い集めて、子供たちをつれてこい」  こうしてぼくは、錠前屋に急ぐようにいってくれとわめきつづけるかれを残して立ち去ったんだ。  われわれがそのテントを出ると、タクシーがゆっくりと通りかかった。ぼくはフェイスフルにそれを呼びとめさせ、全員それに乗りこんだ。ぼくは錠前屋のことに気をつかったりしなかったよ。運転手に宇宙空港へむかわせると、その途中、既製服屋で車をとめ、子供たちに適当な着るものを買ってやった。少年には腰巻《クラウト》を、少女にはバリ島のサロンに似たものを──ああそういえば、昨日ハマドリアドが着ていたドレスとそっくりなやつだ。ぼくの考えるところ、それがこの若者たちの身につけた最初のまともな服だったんだな。かれらに靴をはかせることはできなかった。結局はサンダルということになった──それから、エストレリータを鏡の前から引きずって離さなければならなかった。彼女は自分の姿にほれぼれと見とれて有頂天になっていた。  ぼくは競充用の衣を投げ捨てた。  ぼくは子供たちをタクシーにおしこむと、フエイスフルにいった。 「あの露地が見えるな? わしがうしろをむいているあいだにおまえがあそこに飛びこんでも、わしは追いかけられない。このふたりから目をはなすわけにはいかんからな」  ミネルヴァ、ぼくはここで永久に理解できないものと出くわしたんだ。奴隷的思考ってやつさ。フェイスフルには、ぼくが何をいっているのかわからなかった──そしてぼくが、それをはっきり説明してやると、かれは仰天した。働きがまずかったのでしょうか? 飢え死にしろとおっしゃるんで?  ぼくはあきらめた。かれを貨召使屋でおろし、保証金を返してもらうと──よく働いてくれた礼にチップをやり──それからぼくは自分の奴隷だちと宇宙港へむかった。  結局は、その保証金と手もとに残っていたブレシングがほとんど全部必要になった──子供たちを自分の船に乗せるため、出国税関で賄賂を払わなければいけなかったんだ。売渡し証がきちんとしていたにもかかわらず、なのだ。  だがぼくは、かれらを乗船させた。ぼくはすぐにかれらをひざまずかせ、手をかれらの頭にのせて、かれらを解放した。かれらはそれを信じないようだったので、ぼくは説明してやった。 「いいか、きみたちはもう自由なんだ。自由だ、わかるか? もう奴隷じゃないんだ。きみたちの解放証書に署名してやるから、管区事務所へ行って記録してもらうがいい。でなければ、ここで食事をしてひと晩眠っていってもかまわん。明日離陸する前に、ありったけのブレシングをやろう。それとも、きみたちがそうしたいというのなら、このまま船に乗ってヴァルハラへ行ってもいいぞ。いい星だ。ここよりは寒いが──奴隷制度などという代物はないからな」  ミネルヴァ、ぼくは、リータ──イータに近い発音でいつもは呼ぶんだ──も、彼女の弟のジョウ──ジョシーとか、ホセかな──も、奴隷制のない土地という言葉を理解したとは思わない。それはかれらの想像できる範囲外のものだったからだ。しかしかれらも、宇宙船がなんやあるかは噂で知っていた。そして、それに乗ってどこかへ行くという考えは、かれらに畏怖の念を与えた──到着すると首を吊るされるのだぞといっても、かれらはこの機会を逃さなかったろう。そのうえ、かれらの心の中でぼくがまだ主人だったし、解放証書などたとえかれらがなんのことか知っていたところで、たいしたものではなかったんだ。それは、年老いた忠実な召使に与えられるもので、生まれ育った世界にこれからもとどまるが、ただこれからは雀の涙ほどの賃金をもらえるようになるだろうという、それだけのものだったのだ。  しかし、旅行とは! かれらが生まれてからこれまでにしたもっとも長い旅というと、北の司教管区から首都へ、売られるため運ばれてきたときだったのだ。  あくる朝、ちょっとした厄介事がおこった──どうやら、例の公認奴隷商人のサイモン・レグリーが、ぼくを告訴したらしい。暴行、精神的脅迫、その他もろもろの軽犯罪および麻薬吸飲というわけだ。そこでぼくは警官を船長座へ招き、酒をつぐと、リータを呼び、せっかくの新しい服をぬがせて警官に彼女の尻の傷跡を見せてから、彼女に出てゆくようにといった。ぼくは売渡し証を取りに立ちあがったとき、テーブルに百ブレシングの紙幣をおき忘れた。  警官は手をふって売渡し証を横へどかすと、いった──その点についてはなんの訴えもなかった。だが、レグリーのおやじにいってやろう、傷ものを売ったかどでの反訴を受けなくて幸運だった、とな……いや、考えてみれば、あんたの船が離陸するまでわたしがあんたを見つけられなければ、そのほうが話は簡単だな──というわけで百ブレシングは消え、まもなく警官も消えた。そして、午後なかばにわれわれも姿を消した。  だが、ミネルヴァ、ぼくはいっぱいくわされたんだ。リータは料理などまるっきりできなかったんだ。  ブレシドからヴァルハラへは長くて複雑な旅だったから、シェフィールド船長は、連れのできたことが嬉しかった。  恒星間飛行の旅をはじめる最初の夜に、ちょっとした思いもよらぬ出来事があった。その前夜、惑星軌道にいたときから始まっている誤解でおこったものなんだ。船には船長室がひとつに、客室がふたつあった。船長はふつうひとりで船を動かしていたから、客室は臨時の荷物や軽い雑貨をしまうのに使っていた。客が使えるようにはなっていなかったんだ。そこで最初の夜、かれは自分の解放女奴隷を船長室に入れ、彼女の弟とかれは食堂の長椅子で眠ったんだ。  あくる日、シェフィールド船長は客室の鍵をあけ、スイッチを入れてそこに動力を通すと、子供たちに掃除をさせた。ごったがえした貨物の山を船倉に移し、ようやく自分の船にどれだけ空間があまっているかがわかった。そしてふたりにそれぞれ一部屋ずつ取るようにいい──そのことはすっかり忘れてしまった。貨物と最後の賄賂に忙しく、さらに操縦コンピューターに指示を与えなければならず、そのあいだふたりはそのシステムから離れていなければいけなかったのだ。船内時間でその夜遅く、船をn次空間の最初の行程にのせる前になって、かれはひと息つくことにした。  かれは、食事とシャワーのどちらを先にしようか、それともどちらもやめにするかと考えながら、船長室へ行った。  エストレリータがかれのベッドにいた──大きく目をあけて待っていたんだ。  かれはいった。「リータ、ここで何をしているんだ」  彼女は粗野な奴隷言葉で、何をしているのかをいった──かれを待っているのだと──ご主人さまのシェフィールド船長がふたりをつれてゆくといったとき、自分が何をするべきかわかっていたから、弟と話しあい、弟もそうするようにいったのだ、と。  彼女はさらに、自分はすこしもこわくない、本当にそうしたくて待っていたんだ、とつけ加えた。  その言葉の前半は、アーロン・シェフィールドとしても信じざるを得なかった。が、あとでいいだしたぶんは、明らかにまっ赤な嘘だった。かれは以前にも怯えた処女を見たことがあったのだ──そうたびたびではないが、何度か。  かれは少女の恐怖を無視することでなくすことにした。 「恥知らずの淫究め、さっさとぼくのベッドから出て自分の部屋へもどれ」  解放女奴隷は驚き、信じられない表情になり、それから腹を立て、ふくれっつらになり──そして泣きだした。さきほどまでおぼえていた未知のものへの恐怖が、もっとみじめな感情へと変えられたのだ。恩返しのつもりでしようとした行為をかれがはねつけたことで、彼女のちっぽけな自我は粉々に打ちくだかれてしまったのだ──それがかれの目的だと信じこんでいたのに。彼女はしゃくりあげ、かれの枕に涙を落とした。  女性の涙はシェフィールド船長に対して、つねに強烈な媚薬のような効果をもたらす。かれは即座に行動をおこした──少女の足首をつかんでベッドから引きずりだすと、船長室から追いだし、彼女の客室におしこんで鍵をかけたのだ。それからかれは自分の郁屋へもどると、ドアに鍵をかけ、気持を落ち着かせるための手段をとってから眠りに落ちた。  ミネルヴァ、ぼくは何もリータに女として不満なところがあったわけじゃあないんだ。いったんきちんと風呂に入ることを教えると、彼女は実に魅力的になった──均整のとれた肢体に気持のいい顔と身のこなし、きれいな歯、そしてかぐわしい吐息。だが、彼女を抱くことはいかなる習慣にもあわなかった。すべての性愛《エロス》は習慣だ。性交それ自体には、あるいはそれ自体に属さない虚飾のいかなるものにも、道徳的非道徳的の区別はありえない。性愛《エロス》とは要するに、それぞれがばらばらで違ったものである人類を保存するための手段であり──かれらを結びつかせ、幸福にしてくれる。それは長い進化の過程で発達した生存のためのメカニズムであり、その繁殖機能は、人類を前進させている非常に複雑かつ普及した役割のもっとも単純な面でしかないんだ。  だがいかなる性行動も、他のいかなる人間行動も、まったく同じ道徳基準によって、道徳的にも非道徳的にもなり得る。性についての他の規則はみな、地域的時間的に限定されたただの習慣だ。性の習慣には、犬にたかる蚤の数以上の決まりがある──そして、どこでも共通しているのは神の命じられたもの≠ニいうことだ。ぼくはある社会をおぼえている。そこでは、人目につかずにおこなわれる性交は卑狽で、禁じられ、犯罪だった──ところが、公衆の面前でのそれはなんでもオーケイ≠ネんだ。ぼくが成長した社会には、まるで逆の規則があった──これまた、神の命じられたもの≠セった。どちらのやりかたに従うのが難しいか、ぼくにはよくわからないが、神さまがそうあっさり心変わりするのはやめてもらいたいもんだ──なぜって、性の習慣に無知であって安全なためしはないんだ。そして、無知が言いわけにはならない。馬鹿げた話だが、そのためにぼくは何度か射ち殺されそうになったことがあるんだ。  リータをこばんだからといって、ぼくが道徳的だったわけじゃあない。ぼくは、ぼく自身の性習慣に従ったまでだ。試行錯誤と山ほどの傷の結果、何世紀もかかって作りあげたものなんだ。ぼくに頼っている女性とは、結婚しているか、それとも結婚するつもりのないかぎり、ベッドを共にしない。これは道徳とは関係のない実際的な法則であって、状況に応じて変更されうることが条件だし、ぼくに頼らない女性には適用されない──これはまた、完全に別の話だ。だがこの法則はどれほど変わった習慣を持つ社会にも、時間空間を問わず、ほとんどの場合に適用できる保身の手段なんだ──わが身を守るための安全対策というわけさ……なぜなら、きみに話したボストン出のご婦人と違って、多くの女性は性交を正式な契約の申し込みと考えがちなものだからな。  ぼくはすでに、衝動にかられてリータを一時的にもせよ扶養しなければいけない羽目に陥っていた。彼女と結婚することで事態をこのうえ悪くするつもりはなかったし、またその義務もなかった。ミネルヴァ、長命人種は決して短命人種と結婚すべきじゃないんだ。短命人種にも長命人種にも公平ではないからだ。  にもかかわらず、ひとたび野良猫を拾い、餌をやると、人はもうその猫を捨てられなくなる。自己愛がそれを許さないんだ。猫の幸福が自分自身の心の平和にとって大切なものとなる──猫の信頼を裏切らないようにするのが、どれほど面倒なことになる場合でもだ。この子供たちを買ってしまった以上、ぼくは解放証書によってかれらを捨て去るわけにはいかなかった。ぼくはかれらの将来を考えてやらなければいけなかった──かれらには、それができなかったからだ。かれらは野良猫だったのだ。  あくる朝(船内時間による)早くシェフィールド船長はおきて、解放女奴隷の客室の鍵をはずしてみると、彼女は眠っていた。かれは少女に声をかけ、おきて手早く顔を洗い、三人分の朝食を作るようにいった。かれは次に彼女の弟をおこしに行ったが──部屋はからで、少年は調理室にいた。「おはよう、ジョウ」  解放奴隷は飛びあがった。「ああ! おはようごぜえますだ、ご主人さま」かれは頭を下げ、膝を曲げた。 「ジョウ、正しい返事はこうだ。おはようございます、船長≠チていうんだ。いまのところは同じことだがね。ぼくは実際この船の主人だし、全員これに乗っているわけだからな。しかしヴァルハラでぼくの船を下りたら、きみには主人というものが完全になくなるんだ。きのう説明したとおり、なくなるんだ。それまでは、ぼくのことを船長と呼んでくれ」 「はい……船長」と、青年はお辞儀をくりかえした。 「頭を下げるんじゃない! ぼくに話しかけるときは、背筋をのばし胸を張り、目を見て話すんだ。命令されたらアイ、アイ、船長《キャプテン》≠ニ答えろ。きみはここで何をしているんだい?」 「あの、わからねえだよ……船長」 「そうらしいな。その分量じゃあ十二人分のコーヒーができちまうぞ」  シェフィールドはジョウをおしのけ、少年がボウルに入れたコーヒーの結晶のほとんど、たっぷり九杯分をすくい上げた。そして少女が作り方を知らないかもしれないので、メモを作り、その最後に、仕事時間にはいつでもコーヒーを飲めるように用意しておくこと、と書いておいた。  かれが最初の一杯のコーヒーを手に腰をおろしていると、彼女が姿を現わした。目は赤く、その下に|くま《ヽヽ》ができている。今朝もうひと泣きしたに違いない。だがかれは朝の挨拶のほか何もいわず、調理室でだれの助けも借りずに仕事をさせることにした。彼女は前日の朝、かれがやったことを見ていたはずだからだ。  まもなくかれは、前日のいいかげんな昼食と夕食を恋しく思い出していた──かれが自分で作ったサンドイッチだ。しかしかれは何もいわず、ただふたりに、かれのまわりをうろついておらず、腰をおろして一緒に食事をするように命令しただけだった。結局、その日の朝食は、コーヒーと冷凍パンと罐詰バターということになった。マッシュルーム入りの再生アクラ卵はとても食べられた代物ではなくなっていたし、彼女はヘブンフルーツのジュースもどうにかしてしまっていた。それを台無しにするには才能が必要だ。濃縮されたものに八倍の冷たい水を加えるだけでいいのだから。それに作りかけた容器の上に書いてあるのだ。 「リータ、字は読めるのかい?」 「いいや、ご主人さま」 「いや、船長≠ニいうんだ。きみはどうだ、ジョウ?」 「ううん、船長」 「数学は? 足し算はどうだ?」 「ああ、はい、船長。足し算は知ってるだ。二たす二は四、二たす三は五、三たす五は九……」  かれの姉が口をはさんだ。「七だよ、ジョシー、九じゃねえだ」 「もういい。こいつは忙しいことになりそうだぞ」シェフィールドはそういい、考えこんで口ごもった。「となると、どうすればいいか……女ってやつは……いや、年寄りの船長でも……」かれは大きな声で言葉をつづけた。「きみたちは朝食をすませたら、それぞれ自分に必要なことをすませ、部屋を片づけろ……きちんときれいにするんだぞ。あとで調べるからな……それからぼくの部屋のベッドを整えるんだ。だが、ほかの場所はそのままにしておくこと。特に机の上はさわるなよ。それが終ったら風呂に入れ。ああ、そうだ、体を洗うってことだ。宇宙船の中では、だれでも毎日風呂に入る。何回でも入りたいだけ入ってかまわん。きれいな水はたっぷりあるからな。循環使用するから、この旅が終るころには最初より何千リットルもふえているだろう。なぜかは聞くな。そういうことになってるんだ。いずれ説明してやるさ」(少なくとも六、七カ月は先のことだ……三たす五の答すらおぼつかない子供たちが相手なんだからな)「全部すんだら、そうだな、いまから一時間半後だ……ジョウ、時計の見かたは知ってるか?」  ジョウは、隔壁にかかっている古ぼけた時計を見つめた。 「よくわからねえだよ、船長。あれ、数字がたくさんありすぎるだ」 「ああ、そう、もちろんだったな。ブレシドとは違う読みかたをするんだ。あの短い針がまっすぐ横をむいて、長い針が上をむいたら、ここにもどってくるようにしろ。だが、今回は遅れてもいいことにする。慣れるまでには、しばらくかかるからな。時間を気にして風呂を抜かすんじゃないぞ。ジョウ、髪を洗え。リータ、体をかがめるんだ。頭の匂いをかがせてくれ。ああ、きみも髪を洗うんだ」(ヘア・ネットは積みこんであったかな? 疑似重力を切って自由落下の状態になったら、子供たちはヘア・ネットが必要になるだろう──さもなくば散髪するかだ。散髪してもジョウはいっこうかまわんだろうが、姉のほうの長い黒髪は彼女のもっとも美しい財産で──ヴァルハラで亭主をつかまえるのにも役立つに違いない。まあいいさ、ヘア・ネットがなければ──あるとは思っていなかった。かれ自身の髪は自由落下の時のために短く刈ってあったからだ──少女は髪を編み、何かでゆわえればいい。旅のあいだじゅう八分の一Gの重力を保っているために重力を割けるだろうか? 自由落下に慣れていない連中は、筋肉が弱り、体をこわすことさえあるんだ。その心配はあとまわしにしよう)「われわれの住まいをきちんとして、体をきれいに洗ったら、ここにもどってくるんだ、いいな」  かれはリストを作った。  必要事項の予定を組む──注意:ふたりに料理を教えること!  学校を始める:科目はなんにする?  算数の基本は当然抜かせない──だが、ブレシドの混合方言の読み書きをわざわざ教える必要はない。あそこには二度と帰らないのだから──二度とだ! とはいえ、銀河標準語でしゃべることを教えるまでは、あの混合方言を使わなければなるまい。それから銀河標準語の読み書きだ──そして、英語も。あの子供たちの速成教育に使う本は、英語が多くなりそうだったのだ。銀河標準語ヴァルハラ方言のテーブはあったろうか? まあ、あの年頃の子供たちはすぐに、その土地のアクセントやいいまわし、語彙などをおぼえこむものだ。  何よりも重要なのは、いかにしてかれらのいじけきった、ああ、魂≠入れかえるかだった。かれらの人格だ──  どうすれば、完全に成長した家畜を、有能で幸せな人間に変えてやれるだろう? 必要なことはみな教育を受けており、自由社会での競争に耐えられる人間に。競争する意志を持ち、それにひるむことのない人間にだ──かれはやっと、自分が背負いこんだ野良猫問題の大きさをさとりはじめた。へたをすると、これから五、六十年のあいだ、ふたりが自然死するまで、あのふたりをペットとして飼わなければならなくなるのだ。  遠い遠い昔、ウッディー・スミス少年は、森の中で瀕死の子狐を見つけた。きっと母親とはぐれてしまったのだ。もしかすると母親は死んだのかもしれない。かれは子狐を家へつれてかえり、哺乳瓶で育てて、ひと冬のあいた檻の中で飼った。春がくると、かれは子狐を見つけた場所へつれてゆき、檻の扉をあけたままそこにおき去りにした。  二、三日して、かれは様子を見に出かけた。檻を取ってこようと思ったのだ。  子狐は檻の中でうずくまっていた。餓死寸前で、ひどい脱水症状をおこしていた──扉の錠はかけていなかったのに、だ。かれは子狐をつれもどり、ふたたび介抱してやってから、金網で飼育場を作り、もう二度とはなすことは考えなかった。祖父にいわせると、「その哀れな動物は、狐になる方法をおぼえる機会がなかったんじゃ」と、いうことになる。  はたしてシェフィールドは、この怯えた無知な動物に、人間になる方法を教えてやれるだろうか? 短い針がまっすぐ横で、長い針がまっすぐ上をむいた℃條ヤに、ふたりはかれの部屋へもどってきた──かれらは時計の針がそうなるまで、ドアの外で待っていたのだ。だが、シェフィールド船長は気づかないふりをしていた。  ふたりが入ってくると、かれはちらりと時計に目をやっていった。「時間どおりだな……いいぞ! たしかに髪を洗ったようだな。そうなると櫛を見つけてやらなくちゃあいかんな」(ほかにどんな身のまわり品が必要だろう? いちいち使いかたを教えてやらなければいけないのか? それに──ああ、くそっ──女性の生死用品は何か積んであるだろうか? 何をまにあわせに使えばいいんだ? とにかく運がよければその問題は何日か先にのばせるだろう。本人に尋ねてみてもむだだ。なにしろ足し算ができないんだから。あいにく、この船には乗客用の装備がまったくしてないんだ) 「腰をかけろ。いや、ちょっと待て。ここへおいで、リータ」船長の目には、彼女の服が変にぴったりと肌にくっついて見えたのだ。それにふれてみると、濡れていた。「これを着たまま風呂に入ったのか?」 「いいや、ご主……いいや、船長。洗ったんだよ」 「そうか」かれは思いだした。その布の派手な模様は、彼女が朝食作りで苦心しているあいだにコーヒーだのなんだのをこぼして、いっそうどぎつくなっていたのだ。「それを脱いでどこかに掛けるんだ。着たままで乾かすんじゃない」  彼女はゆっくりといいつけに従いかけた。顎がふるえていた──それを買ってやったとき、彼女が大きな鏡にうつる自分の姿にどれほどうっとりしていたか、かれは思い出した。 「待て、リータ。ジョウ、きみの腰巻を取れ。サンダルもだ」  少年は即座にそうした。 「ありがとう、ジョウ。その腰巻は必ず洗ってから着るんだぞ。きれいに見えても、だいぶ汚れているはずだからな。きみにとって都合の悪いとき以外、旅のあいだはそいつを、着るなよ。きみは坐れ。リータ、ぼくがきみを買ったとき、きみは何か着ていたかい?」 「いいや……船長」 「ぼくはいま、何か着ているか?」 「ううん、船長」 「服を着るべき時と場所というものがある……そして、服が馬鹿げている場合も同様にあるんだ。もしこれが旅客宇宙船なら、われわれはみな服を着るだろうし、ぼくだって堂々とした制服を着ることだろう。しかしこの船は客船じゃあないんだし、乗っているのはきみのほかに、ぼくときみの弟だけだ。あそこにある計器がわかるか? あれは温湿度計で、コンピューターに気温は摂氏二十七度、湿度は四十八パーセントに保つよう指示を与え、われわれを刺激するためときどき変化をおこす……きみたちは何のことかわからないかもしれんが、ぼくはそれぐらいが素肌に快適だと思っているんだ。毎日午後一時間温度が下がるのは、運動時間だ。宇宙船の生活に筋肉が弱るのは、つきものだからな。  もしこのやりかたが、きみたちに合わなければ、話しあってみんなにいちばん合ったやりかたを決めよう。だがまず、ぼくのやりかたを試してくれ。さて、きみの尻にはりついている濡れた布に関してだが……もしきみが馬鹿なら、それを着たまま乾くまで、いやな気持でいるがいい。だが利口なら、それをしぼらずに吊るして乾かすんだ。これは提案であって、命令じゃあない。きみがそうしたいのなら、着たままでいてもいいぞ。しかし、濡れた尻で椅子に坐るのはだめだ。座布団を濡らしていい理由はないんだからな。きみは裁縫ができるか?」 「うん、船長。ええと……ちょっとだけだね」 「何かないか探がしてみるよ。きみはこの船にあるたった一着の女性用衣裳を身につけているんだ。だから、服を着ているほうを選ぶなら、これから何カ月かのあいだに何着か作る必要があるわけだ。それに、ヴァルハラで着るものも必要だろうしな。あそこはブレシドほど暖かくない。あそこの女はズボンと短いコートを着ているし、男はズボンと長いコートだ。そしてみんながブーツをはいている。ぼくはランドフォールで三つずつ誂えたから、きみたちを仕立屋へつれてゆくまでは、たぶんそれで間に合わせられるだろう。ブーツはと……ぼくのをはけば、鶏に靴下をかぶせたみたいになるだろうな。ふーむ……何かで足をくるんではけば、靴屋までなんとか行けるかもしれんぞ。  こんなことをいまから心配しても仕方がないな。きみも一緒に考えろ……濡れたまま立っているか、腰をおろして楽になるか」  エストレリータは唇を噛んで、とうとう楽になるほうを選んだ。  ミネルヴァ、子供たちはぼくが考えていたよりずっと頭が良かった。最初はぼくがそうしろというので勉強したんだが、活字の魔法にとりつかれるとすぐ、かれらは夢中になった。ふたりは鵞鳥《がちょう》が草を消化するような調子で読むことをおぼえ、ほかには何もしたがらなかった。特に物語をだった。ぼくはかなりの蔵書を持っていた。そのほとんどがマイクロで、そう数千冊というところだったが、昔ながらの貴重な綴じ本も数十冊あった。ランドフォールで見つけたもので、原物どおりに複製した骨董品だ。そこでは商売に銀河標準語を使う以外は、英語が一般的だったんだ。きみは〈オズ〉の物語を知っているかい、ミネルヴァ?  ああ、もちろん知っているはずだな。大図書館計画を手伝ったとき、このぼくが、もっと真面目な本と一緒に自分の子供時代の愛読書もその中に入れたんだからな。ぼくはジョウとリータが真面目なものを読むように心がけはしたが、ほとんどはふたりが気ままに物語をあさるにまかせた。『真実の物語』〈オズ・シリーズ〉『不思議の国のアリス』『子供の詩集』『ふたりの小野蛮人』といったようなものだ。範囲は狭すぎる。どれもぼくの子供のころからあったものだ。 〈大離散〉をさかのぼること三世紀だ。しかし、銀河系のあらゆる文明は、そこから出ている。  とにかくぼくはふたりに、物語と現実の歴史との違いをはっきり理解させようとした──難しいことだ。ぼく自身、違いがあるのかどうか確信が持てなかったからだ。そのうえ、お伽噺というのはまた別物であることを説明しなければならなかった。事実から空想へのスペクトルをもう一段進んでいるものだと。  ミネルヴァ、人生経験というものがまったくない人間を相手に説明するのは、おそろしく骨が折れることだ。魔法≠ニはなんだ? きみはお伽噺に出てくる魔法なんかよりずっと魔法的だ。でも、きみは科学の産物であって魔法ではないといってもだめなんだ。相手は科学≠ニいう言葉の意味をまったく知らないんだから──そして、その区別を説明してやっている最中も、ぼくは自分の言葉に自信があったわけじゃあない。ぼくは放浪をつづけるうちに何回も、魔法と出くわしている──つまり、自分ではなんとも説明のつけられぬ摩訶不思議なものを見てきたということだ。  ぼくはとうとう、物語の中にただの娯楽用で、内容が真実でないものもあるんだと、かれらに有無をいわさずけりをつけてしまった──『ガリバー旅行記』は『マルコ・ポーロの冒険』とは違うし、いっぽう『ロビンソン・クルーソー』はその中間だ──もし何か疑問があれば、ぼくに聞きなさい、と。  ときたま、かれらは質問してきた。そしてぼくの意見を何もいわずに受け入れた。だが、ぼくには、かれらがいつもぼくを信じたわけではないことが見て取れた。それがぼくには嬉しかった。かれらは自分自身で考えはじめていたんだ──かれらが間違っていようと、そんなことは問題じゃあない。リータは、ことオズに関するかぎり、あっさりとぼくに敬意を表した。彼女は心の底から〈エメラルドの都〉を信じ、自分で行先を選べるとしたら、ヴァルハラよりそちらへ向かっていたろう。ああ、ぼくだってできたらそうしたさ。  重要なのは、かれらがひとり立ちしつつあることだった。  ぼくはためらうことなく、かれらの教育用に小説を使った。小説は、人間行動のあい容れないパターンに対する感覚をつかむのにもっとも手っ取り早い方法で、ノンフィクションよりはるかに効果がある。それは実際に経験することのひとつ前の段階だ──そしてぼくには、この怯えた無知な動物を人間に変えるための時間が数カ月しかなかったんだ。かれらに、心理学と社会学と比較人類学を提供することもできた。そういう本を持っていたんだ。だがジョウとリータがそれらを組み立てて、ひとつの全体像にまとめることはできなかっただろう──そしてぼくは、多くの考えを教えるときに寓話を使ったいまひとりの教師のことを思いおこすんだ。  かれらはぼくが許すかぎり、すべての時間を読書にあてた。小犬のように体をよせあい、読書機械《リーディング・マシン》に目をこらし、ページをめくる速さのことで、たがいにやかましく文句をいいあった。たいていリータがジョウに文句をいった。彼女のほうが弟より速かったのだ──しかしそれでも、ふたりはたがいに励ましあい、まったくの文盲からたいへんな速読家へと、めざましく進歩した。ぼくはかれに音声・映像テープを使わせなかった──かれらに、|読んで《ヽヽヽ》ほしかったからだ。  ふたりに一日じゅう読書ばかりさせておくわけにはいかなかった。ほかにもたくさん学ばなければいけないことがあるからだ──たんに実際的な技術ばかりでなく、そんなことよりはるかに大切な、自由人として欠くべからざる積極的自信──かれらを背負いこんだ当初には完全に欠けていたものがね。いったい、かれらにその潜在能力があるのかどうか、ぼくには確信がなかった。かれらの血統からなくなっていることもありうる。だが、火花ほどでも残っていれば、ぼくはそれを見つけだし、炎へと燃えあがらせてやらなければいけないのだ──さもなければ、永久にかれらを自立させることはできない。  そこでぼくは可能なかぎり、かれらが自分なりに物事を決めるようにしむけ、かつ慎重にいろいろな手を使ってかれらを鍛えた……そして、いかなる反抗のきざしも歓迎した──心の中でひそかにだ──待望している進歩の証拠だからだ。  ぼくは手始めに、ジョウに格闘技を教えることにした──素手の戦いだ。どちらか一方が殺されるような羽目になるのはごめんだった。船室のひとつが体育館にあてられており、そこの備品類はGあるいは自由落下に合わせて調整することができた。ぼくは一日でもっとも気温が低くなる時間をそこですごすことにしていたんだ。その部屋でぼくはジョウを訓練した。リータも参加を命じられたが、ただ運動するだけだった──たたきのめされて反吐をはくところを姉に見られたら、ジョウが発奮するだろうというもくろみだったのだ。  ジョウにはその刺激が必要だった。ぼくを打ったり蹴ったりしてもかまわないと納得するのは、かれにとってたいへんな問題だったのだ。それこそがぼくの望んでいることであり、かれが成功してもぼくは怒らない──だが、一生懸命やらなければ逆に叱られるのだ、などということは。  しばらくは時間がかかった。最初はぼくがいくら大きく隙をあけて待っていても、かれはかかってこなかった……そして、ぼくがかれを罵倒し嘲笑し挑発しても、まだためらっていたから、ぼくはすかさずかれに近づき、代りに一発お見舞してやった。  しかしある日の午後、かれはついに|こつ《ヽヽ》を飲みこんで、ぼくにみごとなパンチをくらわせたので、ぼくも遠慮する必要がなくなった。夕食のあとでかれは褒美をもらった。綴じた本≠読む許可だ。ページのある本を読めるのだ。かれはぼくの手術用手袋をはめた上で、もし汚したり破ったりしたらぶちのめすぞと警告された。リータのほうは手をふれることさえ許されなかった。これはかれの褒美なのだ。彼女はすねてしまい、読書機械も使いたがらなかった──とうとうジョウは、彼女に声をだして読んでやってもいいだろうかと尋ねた。  ぼくはふたりいっしょに読んだってかまわない、といってやった──彼女が手をふれぬかぎりは、と。そこで彼女は弟のそばによりそい、頭をくっつけ、ふたたび満足しきった表情でページのめくりかたを命令しはじめた。  あくる日彼女は、なぜ自分も戦いかたを習えないのかと、ぼくに尋ねてきた。  ひとりで運動するのに退屈してきたことは間違いない──ぼくだってそうだったし、体のためを思ってやっていただけだ──次の着陸でどんな危険がおこるかわからないからだ。ミネルヴァ、女性は戦うべきでないというのがぼくの信条だ。女と子供を守るのは男の役目なんだ。しかし、戦えるべきではある。いつ何時、その必要にせまられるかわからないんだ。  そこでぼくは賛成したものの、ルールを変えた。ジョウとぼくは波止場ルール≠ノ従って練習していた──つまり、ルールなしだ。永久的な外傷を受けるつもりがなく、こちらも打ち身以上の傷を受けるつもりはないことをかれにいいはしなかったし、こんなことは決して口に出したりしなかった──かれにできるなら、ぼくの片目をえぐり出して食べるのも自由だ、などと。ただ残念ながら、かれがそんなことをしそうもないのは確かだったが。  だが女と男は体の作りが違う。彼女の乳房を守る胸当てを工夫するまで、ぼくは彼女を練習に加えなかった──どうしても必要だったからだ。彼女はその部分がすこし標準よりも大きく、そのつもりがなくてもはずみで彼女を傷つけてしまう恐れがあったのだ。それからぼくはこっそりジョウにだけ、打撲傷はかまわないが、もし彼女の骨を一本でも折ったら、ぼくがおまえの骨を折ってやるからな、ただの練習なんだぞ、といっておいた。  しかし、かれの姉にはなんの制限もしなかった──どうやらぼくは彼女を見くびっていたようだ。彼女は弟の二倍以上も攻撃的であり、方法は未熟でも動きが速かった──そして何より本気だった。  彼女との練習を始めて二日目に、ジョウとぼくはサポーターをつけた。リータはその夜、本物の本を読むことを許された。  ジョウには料理の才能があるとわかったので、ぼくはかれを励まし、船にある貯蔵品の範囲内でできるかぎりの工夫をこらすようにさせた。同時にリータにも、まともな料理が作れるようになるのを急がせた。自分で料理できれば人はどこでも食っていける。人はだれでも、男女にかかわらず、料理し、家事をやり、子供の世話ができるべきだ。リータにむいた職業はまだ見つかっていなかったが、ちょっとしたきっかけから彼女は数学の才能を示しはじめた。それでぼくは心強くなった。読み書きができて数学の才能があれば、必要なものはなんでもおぼえられる。それでぼくは彼女に簿記と経理をまかせることにした。まずは帳簿からで、いっさい手助けはしなかった。そしてジョウには、船にある道具全部の使いかたをおぼえるよう命令した──たいした数じゃない。主に補修・維持装置だ──そして、そばで監督した。かれに指をなくされたり、道具をこわしたりしてほしくなかったからだ。  ぼくの胸に希望がわいてきた。それから、状況が変わった── (約三千百語省略)  ──ぼくが間抜けだったというのは容易だ。ぼくはずいぶんおおぜいの子供を作ってきたんだ。ほかのあらゆる役目とならんでぼくは船医をも兼ねていたから、旅に出て二日目に、手持ちの設備が許すかぎりで徹咸的にふたりを検査した──当時としては完璧といっていい。オルマズドを離れてから医者を開業したことはなかったが、船の医務室にはつねに薬品と器具を備えていたし、文明世界へ着陸するたびに最新のテープを手に入れては長い飛行のあいだに、それを勉強していた。ぼくは素人ながら、かなり腕のいい医者だったんだよ、ミネルヴァ。  子供たちは外見どおり健康そのものだった。ジョウがちょっとした歯の治療を必要としただけだ。小さな虫歯が二本あったのだ。ぼくは、リータについて仲買人の主張していたことが正しかったことに気づいた──完全な処女で、半月状の処女膜は破れていなかったから、ぼくはいちばん小さな鏡《スペキュラ》を使った。彼女は文句もいわず緊張もせず、ぼくが何を調べているのか尋ねもしなかった。ぼくはかれら姉弟が、規則的な検査と他の医学的処置を受けていたものと判断した。ブレシドの奴隷がふつう受けているよりはるかに高度なものだ。  リータの歯は三十二本で完全な状態にあったが、最後の臼歯はいつ生えたんだというぼくの質問に、彼女は答えられず、ただ「そんな昔じゃあねえだよ」と、いうだけだった。ジョウの歯は二十八本で、顎には親知らずの生えてくる余地がほとんどなかったから、ぼくは厄介なことになるのを覚悟した。しかし、エックス線写真をとってみると、生えてきそうな歯は一本もないことがわかった。  ぼくはジョウの虫歯をけずって充填し、ヴァルハラに着いたらその詰め物を取り去って組織を再生してもらうこと、そして将来のために予防接種を受けることとメモしておいた。ヴァルハラの歯科医術は、ぼくなどよりはるかに優秀なのだ。  リータは、この前の生理《メンス》がいつだったのか答えられなかった。彼女はジョウと相談した。ジョウはふたりが故郷からつれ出されて何日になるか指おり数えようとした。生理があったのはその前だったと、ふたりの意見が一致したからだ。これからはそのたびに必ず教えろと、ぼくは彼女に命令した。そうすれば周期を決めてやれる。ぼくは生理用ナプキンの罐を彼女に与えた。そんなものが緊急用品の中に混じっているとは、ぼく自身探がしてみるまで知らなかった──船に積みこまれてから、ざっと二十年はたっていたに違いない。  彼女はいわれたとおりぼくに生理が来たことを教え、ぼくは罐をあけてやらなければいけなかった。彼女も弟もあけかたを知らなかったのだ。彼女は中に一緒に入っていた小さな伸縮パンティーに大喜びし、必要のないときでもしばしばそれを身につけてお洒落≠した。彼女は、着るということになると夢中だったのだ。というのも、奴隷だった彼女はそれまで、おのれの虚栄心を満足させる機会に一度も恵まれなかったからだ。ぼくは、それを身につけるたびに必ず洗うことという条件つきで、彼女にお洒落を許してやった──ぼくは、こと清潔に関すると容赦しなかった。かれらの耳を調べ、爪が汚れていれば、洗ってこいと食卓から追いたてた。かれらは豚以上の訓練は受けていなかったのだ。リータは二度同じことを注意されたりしなかったし、弟のあらさがしをして、かれもぼくの基準にかなっているかどうかを確かめた。ぼく自身、自分に対してきびしくなっていることに気づいた。汚れた爪で食卓につくことができなくなったし、眠いからといってシャワーをさぼるわけにはいかなかった──ぼくが規則を作ったのだから、それに従って生活しなければいけなかったのだ。  彼女は、料理と同じく裁縫もまるでできなかった。だが、好きこそもののなんとかいうやつで、自分でおぼえてしまった。ぼくは派手な色の取引用布地をいくらか見つけて、彼女を喜ばせてやった──そしてそれを飴と笞に使った。お行儀がよければ、そのご褒美に服を着てもいいというわけだ。ぼくはそのやりかたで──まあ、ほとんど──彼女が弟にやかましく小言をいうのをやめさせた。  その手はジョウにはきかなかった。服などには興味がなかったのだ──しかし、もしかれの振舞いが悪ければ、運動時間にもっと仕事をやらせることにした。それもほとんどなかった──かれは姉のような問題児ではなかったのだ。  ある夜、リータの生理が三、四回あって後のことだ。ガレンダーを見たぼくは、彼女が予定日をすぎていることに気づいた──すっかり忘れていたんだ。ミネルヴァ、ぼくはノックせずにかれらの部屋へ入るようなことは決してしなかった。宇宙船の生活では、できるかぎりのプライヴァシーが必要だ──つまり、あまりにも少ないからだ。  彼女の部屋はドアが開いていて、中はからっぽだった。ジョウのほうのドアを軽くたたいたが返事がないので、彼女を探がして食堂から調理室、さらには小体育館にまで足を運んだ。そのあと彼女は風呂に入っているのだろうと考えて、あくる朝話をすることにした。  自分の部屋へもどるつもりで、ふたたびジョウの部屋の前を通りかかったとき、そのドアが開いた。リータが出てきて、うしろ手にドアをしめた。ぼくはいった。「なんだ、ここにいたのか!」とか、そんなことをだ。「ジョウは眠っていると思ったが」  リータはいづた。「あいつ、いま眠りこんだところなんだよ……何かご用、船長あいつ、おこしてこようか?」 「いや、きみを探がしていたんだ。でも、五分か十分か前にここをノックしたときには返事がなかったぞ」  彼女はぼくのノックに気づかなかったことを、ひどくすまながった。「ごめんね、船長。おらたち、ほんとに忙しかったんで、それできっと聞こえなかったんだよ」そして、どんなふうに忙しかったかをいった。  ──ぼくの思っていたとおりだった。彼女のきちんと決まっていた周期が一週間遅れていることに気づいたときに推測していたことだったのだ。「それはもっともだな。ノックが邪魔にならなくてよかったよ」と、ぼくはいった。 「おらたち、このことであんたのお邪魔をしないようにって、とっても気をつけてるんだよ、船長」真面目な顔で答える彼女は可愛らしかった。「夜はあんたが船長室にいってしまうまで待って。それに、昼寝をしてるときにときどきとね」  ぼくはいった。「いや、そんな気を使う必要はないさ。仕事と勉強をちゃんとやりさえすれば、あとの時間はきみたちの自由だ。宇宙船リビイは奴隷船じゃあないんだからね。ぼくはきみたちふたりが幸福でいてくれればいいんだ。きみは奴隷じゃないってことが、そのぼんやり頭でわかるかね?」  間違いなく、彼女にはさっぱりわからなかったよ、ミネルヴァ。というのも彼女が、ぼくのノックを聞き逃してしまったことに、そしてドアを開くため飛びおきなかったことに、まだくよくよしていたからだ。ぼくはいった。「馬鹿なことをいうな、リータ。話は明日にしよう」  だが彼女は、眠くなんかないし、ぼくの求めていることならなんだってすぐにさせてほしいんだといいはった──ぼくはちょっと心配になった。ミネルヴァ、性愛《エロス》のもっとも奇妙な性質のひとつに、女はそれが終ったばかりのときにもっとそれをしたがるというのがあってね。そのうえ、これまで育ってきた環境からして彼女には、それを禁じるものがなかった。もっとまずいことに、かれらが乗船してからほとんど初めてといっていい、ぼくは彼女を一人前の成然した女として意識していたんだ──通路が狭かったから、彼女はぼくにくっつくようにして立っていた。大喜びしながら自分で縫った例のけばけばしい衣裳のひとつを片手にかかえ、楽しい運動のせいでわずかに息を切らせている。ぼくは欲情をおぼえた──彼女がすぐ、喜んで応じるだろうということは確実だった。彼女はもう妊娠しているんだという考えが、一瞬頭を横切った──もう心配はないんだ。  だがこれまでぼくは、このふたりの短命人種に対して、かれらの所有主からきびしくも慈愛に満ちた父親の役割へと変わるため、たいへんな苦労をしてきていた。もし彼女と寝たら、せっかくの苦労が水の泡になるばかりか、ただでさえ複雑すぎる問題をさらにこじらせてしまうことは間違いない。そこでぼくは、進んで難局にあたることとした。  シェフィールド船長はいった。「よし、リータ、ぼくの部屋においで」かれがそちらへむかうと、リータはそのあとに従った。部屋に入ると、かれは椅子をすすめた。彼女はためらい、ついで持っていた派手なドレスをしいてその上に腰をおろした──その思慮深い行動にかれは喜んだ。彼女が以前のように無知な動物であれば、そんなことはできなかったろう。人間化のプロセスが働いているのだ。かれはそのことについて何もいわなかった。 「リータ、生理が一週間遅れているようだね?」 「そうだかね、船長?」  彼女はとまどったような表情になったが、べつに困った様子はなかった。  シェフィールドは、自分の思い違いだろうかと首をひねった。密封してある罐のあけかたを教えたあとで、ヴァルハラには何カ月もかかるのだから、使いすぎると自分で何か作って処理しなければいけなくなるぞと警告して、限られた緊急用品を彼女にすっかり渡してしまったのだ。それからは、彼女が報告に来るとカレンダーにしるしをつけるだけで、あとはきれいにその問題を忘れてしまっていた。自分がうっかりしていたのだろうか? 先週は三日間ずっと部屋に閉じこもっていたことがあり、若いふたりのことは放ったらかしで、食事も部屋へ運ばせた──何かひとつの問題に没頭したいときの習慣だった。そういうときにはほとんど食事をしないし睡眠はまったくとらず、研究していること以外にはまるで興味もなくしてしまうのだ。そう、それで気がつかなかったのかもしれない。 「わからないのかい、リータ? もしきちんとあったのなら、きみは報告するのを忘れたんだぞ」  彼女は悲しそうに目を丸くした。「そんなこと、しないよ、船長! あんたおらにいえといった……だから、おらちゃんと……いつだって、かならずいってるだに!」  さらに質問した結果はこうだ。第一に、彼女は新たに算数をおぼえたものの、生理の始まるべき日がいつなのかを知らなかった。第二に、その日は先週どころか、もっとずっと前だった。  もう、いうべきときだ──「リータ、きみにはどうやら赤ちゃんができたようだね」  彼女は口をぽかんとあけ、ふたたび目を丸くした。「やあ、すてき! ジョシーにいってきていいかい? ねえ、お願い! すぐ帰ってくるからさあ!」 「待ちなさい! あわてるんじゃない。ぼくはただ、そうらしいといったんだ。まだ喜ぶのは早すぎる。それに、はっきりするまでジョウをやきもきさせるんじゃない。一週間以上遅れることも珍しくないんだ。なんでもないかもしれないからな」(でも、きみが子供を欲しがっているとわかって、ほっとしたよ。受胎可能期間は、欠かさずせっせといそしんだらしいなあ)「明日検査してみて、はっきりさせよう」(妊娠の検査に必要なものは積んであったろうか? くそっ、もし中絶しなければいけないのなら、刺《とげ》を抜くぐらいのことですむ、なるべく早いうちのほうがいい。となると──いや、船に翌朝錠剤《マンディ・モーニング・ピル》などを積んでないし、近頃の避妊具も皆無だ。ウッディー、おまえのまぬけな頭を銃で吹き飛ばしちまえ。こんなに貧弱な装備で二度と宇宙に飛び出すんじゃないぞ!)「なにしろ、興奮しないことだ」(しかし、もちろんこの出来事に女が興奮しないはずはないんだ)  彼女はさっき喜んだのと同じぐらいがっかりした。「おらたち、本当に一生懸命したんだよ! カーマ・スートラなんかにあるのを全部さ。おらあ、おらたちのやってることどこが悪いかあんたに教えてもらうべえと思っただが、ジョウのやつ、これでいいんだって自信があったもんで」 「ぼくもジョウのいうとおりだと思うね」シェフィールドは立ち上がり、ワインをそれぞれ一カップずつ注ぐと、彼女がしばらくしてから眠りこむようにこっそりと薬を混ぜた──彼女が気分を楽にして、自分でも忘れているかもしれない昔のことをすこし話したあとで眠りこむぐらいにだ。かれは状況を完全に知りたかったのだ。「さあ、これを」  彼女はそれを疑わしそうに見つめた。「おらきっと馬鹿みてえになるだよ。知ってるんだ。一度飲んでみたことがあるだからね」 「これはブレシドで売ってるような安酒じゃあないんだ。ぼくがランドフォールから運んできたワインだよ。黙って飲んでごらん。妊娠が本当なら、これはきみの赤ちゃんへの乾杯だ。違ったときには、次の幸福のためにということにしよう」(だが、その次をどうするかが問題たんだ──もしぼくの心配していることが充分に根拠のあることなら、だ。この子供たちに奇形児を背負いこませてはならない。健康な赤ん坊でも、ふたりが自立の方法を学ぶときの重荷となることは明らかだ。事態をヴァルハラまでのばすことはできないだろうか? あそこでちゃんとした避妊をやらせるんだ。しかしそれからは? ふたりを別れさせるのか? どうやって?) 「ぼくに話してくれないか、リータ。この船に乗りこんできたとき、きみは処女だったはずだね」 「うん、そう、間違いなし。あいつらおらをいつだってあの、処女のバスケットでしめつけてやがった。おらが閉じこめられ、弟が小屋で寝なきゃあいけないときのほかはね。そう、おらから血が出てるときだよ」彼女は深く息を吸って微笑した。「いまはほんとにすてきさ。ジョシーとおらはずいぶん長いあいた、あのいやな鉄のバスケットの裏をかこうとしたんだ。でもだめだったね。弟のやつは怪我をするし、方法によってはおらが怪我することもあっただ。それでおらたちとうとうあきらめて、いつもほかのことで楽しんだよ。弟は我慢しろといっただね、いつまでもつづくもんじゃねえからって。だっておらたち、繁殖用のつがいとして一緒に売られることになるってわかっていただからね」  エストレリータは輝くような表情をしていた。「前はこのとおり、そしていまはこの船の中みんな、あんたのおかげさ、船長!」 (だめだ、かれらを別れさせるのは容易なことじゃないぞ)「リータ、ジョウ以外の男で子供を作ろうと考えたことはないのかい?」 (少なくとも打診だけはしてみるんだ。彼女に亭主を見つけてやるのは難しくないだろう。彼女は本当に魅力的なんだから。|大地の母《アース・マザー》って感じなんだ)  彼女は面くらったような表情になった。「そんなこと、もちろん考えないよ。おらたちのことは、赤ん坊のころからわかってたんだもの。おっかあがそういってたし、司教さまもだよ。おらは生まれてからずっと、弟と一緒に寝てきただもの。なんでほかの男を欲しがるね?」 「きみが、ぼくと寝たがっていたみたいだからさ。どうしてもそうしたいっていったじゃないか」 「ああ! あれは違うんだよ……あれはあんたの権利だもん。でも、あんたはおらとやりたくなかっただね」と、彼女はまるでとがめるような口調でいった。 「そんなことじゃあないんだよ、リータ。理由があったんだ……その話はもうやめよう……たとえぼくがきみを欲しくて、きみもそのつもりでいたとしても、やはりきみと寝るわけにはいかなかったんだ。きみが本当に好きなのはジョウなんだろ、そういったね」 「それは……うん。でもおらは、やっぱりがっかりしただよ。おらは弟に、あんたがやってくれねえっていわなきゃならなんだしよ……それがまた辛かっただ。でもあいつ、我慢してろっていっただね。あいつがつっこむまで、おらたちそれから三日も待ったんだ。あんたが気持を変えるかと思ってね」 (おきているときは口やかましく、横になるとかわいい女房ってわけか。それほど珍しい例じゃないな、とシェフィールドは思った)  かれは、リータが真剣な表情で自分を見ていることに気づいた。 「いまおらを欲しいだか、船長? ジョウはいっただよ、やるって決めた晩にね。あんたはまだ権利があるし、これからもずっとそうだって……いまもそうだよ」 (|魔王の真鍮睾丸《かみさまおたすけ》! その気になっている女から逃げ出す方法はただひとつ、宇宙に飛び出すことだ)「リータ、ぼくは疲れていてね。それにきみだって眠そうだ」  彼女はあくびをのみこんだ。「おら、それほどくたびれてねえだよ……そんなことまったくねえだ。船長、おらが初めてあんたにきいた夜には、おらちょっとだけこわかっただ。でもいまはこわくねえだよ。おらやりてえだ。あんたがしてくれるなら」 「きみはとてもすてきだ。でもぼくは本当に疲れているんだ」(なぜあの薬はきかないんだ?)かれは話題を変えた。「あの小さな寝棚でふたりは無理じゃないのか?」  彼女はもう一度あくびをしながら、くすくす笑った。 「そうなんだよ。一度おらたち弟の寝棚からころげ落ちただ。だからいまは床《ゆか》の上だよ」 「床だって? リータ、そいつはひどいな。何か手を打たなければね」(子供たちをここへ入れるか? 船内にあるフル・サイズのベッドはここだけだ──花嫁にはハネムーシ用のちゃんとした作業台が必要だ……これがそうだ。彼女は本当に愛しているのだから、どんなことがあろうと、とことんまで楽しむべきなんだ。短命人種にとってもっとも悲しむべきは、愛に費すための時間が充分にないことだと、シェフィールドは何世紀も前に決論していたのだ) 「ああ、床《ゆか》の上は悪くねえだよ、船長。おらたち、生まれてからずっと床に寝てきただからね」彼女はまたあくびをし、それをおさえることができなかった。 「じゃあ……明日にでも、もっといい方法を考えてみることにしよう」(いや、船長室はだめだ。ぼくの机がここにあるし、書類もファイルも、みなここだ。子供たちはぼくの邪魔になり、ぼくはかれらの邪魔になるだろう。ジョウと一緒に、ふたつの寝棚をダブル・ベッドに改造してみるか? たぶんできるはずだ──ただし、かれらの部屋の一方がほぼいっぱいになってしまうだろう。かまうものか、かれらの部屋のあいだにある隔壁は構造材じゃない──ドアを作れば続き部屋ができる。新婚部屋ってわけだ。そう、かわいい花嫁のな)かれはつづけていった。「さあ、きみが椅子から落ちないうちにベッドへつれていってやろう。何もかもうまくいくようになるさ、リータ」(どんなことがあろうと、このぼくがついているんだからな!)「それに明日の夜からきみとジョウは、広いベッドで一緒に寝られるんだ」 「本当だかね? そいつはまあ」──彼女はまたあくびをした──「すげえだな!」  シェフィールドは部屋まで彼女を支えてやらなければいけなかった。寝棚に横たえたとき彼女は、もう眠りこんでいた。かれは少女を見おろしてそっといった。「馬腹な小猫ちゃんだね、きみは」かれはかがみこんで、そっとキスをすると、自分の部屋へもどった。  それからかれは、リータとジョウが奇妙な遺伝学的財産であることの証拠だといって、あの奴隷仲買人がよこしたものを全部探がし出して、いちいちそれを綿密に検討した。ふたりが鏡像双子《ミラー・ツイン》であるという主張が真実であるか虚偽であるかの手掛りを求めたのだ──同じ父と母を持つ|補足しあう二倍体《コンプリメンタリィ・ディプロイド》であるということの。  そういう手掛りからかれは、リータとジョウのあいだに生まれるすべての子供に現われうる望ましからぬ遺伝子強化の確率を推定してみようと思ったのだ。  問題は、三つの(単純化すると)場合に分かれるようだ。  ふたりはお互いになんのつながりもないかもしれない。悪い強化のおこる可能性は、ごくわずかだ。  それともふたりは、ふつうの姉弟かもしれない。悪い強化の確率は無視できなくなる。  あるいはかれらが(主張されているとおり)、互いに補足しあう配偶子から生まれた接合子であった場合──すべての遺伝子は減数分裂のときに保存されるが、重複はない。この場合の望ましからぬ強化の確率は──どうなるんだ?  それはしばらくあとまわしだ。第一の仮定、かれらが他人どうしで、赤ん坊のときから一緒に育てられただけの場合──特別な危険はない、忘れてしまえ。  第二の仮定、かれらがふつうの姉弟の場合だ。そう、ふたりはそんなふうに見えない──それより重要なのは、あの悪党がそれだけのぺてんのために、これほど手のこんだ売り物を作りあげ、自分のうしろ楯として司教の名を公然と使っていることだ。その司教は同じぐらいの悪党なんだろうが(ありそうなことだ──かれはそこの司教たちのことをあまりにもよく知っていたんだ!)──だが、奴隷の赤ん坊の値がそんなに安いときに、どうしてこれほど不注意なことをするんだ?  いやたとえぺてんだとしても、これほど念を入れた仕事に、不必要な危険率を想定する理由はない。だから、これも忘れていい。リータとジョウは、ふつうの意味での姉弟ではなかったんだ──ただかれらが、ひとりのホスト・マザーの子宮を分けあったことは考えられる。それが事実だとしても、遺伝的にはなんの意味もない。  とするとあと心配なのは、あの奴隷仲買人が真実を語っていた場合だ──その場合、悪い交雑《クロス》が生じる確率はどれぐらいだろう? そうした人工的に作り出された接合子が、望ましくない組み換えをおこなう方法はどれぐらいあるんだ?  シェフィールドは充分な資料がないことに悪態をつきながらも、なんとかその問題に取り組もうとした。船にただひとつある本物のコンピューターは操縦用で、遺伝学の問題にはプログラムできないときている。かれはリビイが船に乗っていたらいいのにと思った。アンディなら、隔壁を数分じっと見つめていただけで、可能な場合は正確な答を出してくれるし、そうでなくても確率を教えてくれるはずなんだ。  遺伝の問題は、関連資料がいくらあろうと(何千とだ!)、コンピューターの助けなしには扱いきれない。  よし、なるべく単純な説明しやすい問題のいくつかにあたって、だいたいの推測だけでもして、みよう。  基本仮定:リータとジョウは鏡像双子《ミラー・ツイン》である──同一両親の接合子から生まれた、遺伝的に補足しあう接合子だ。  制限仮定:故郷の惑星における遺伝子給源の一部であるという以外、ふたりのあいだに関係はない。(これは極端な仮定だ。なぜなら同一の地域で生まれた奴隷はずっと小さな遺伝子給源に由来していると思われるし、その場合の遺伝子給源は同系交配によってさらに縮小されるだろう。とはいえこのもっとも望ましい正常な交配パターン≠ヘ、かれが測定しなければいけないものに対する正しい対照標準なのだ)  単純化した実例:一個の遺伝子の位置《サイト》を調べる──それを第二十一染色体の位置一八七と呼ぼう──それぞれの仮定のもとで考えられた悪い∴笂`子の強化、隠蔽、もしくは除去のためだ。  独断的仮定:その遺伝子ペアにおけるこの位置には、望ましからぬ遺伝子一個──もしくは二個、あるいはゼロ──があるかもしれないから、かりに確率が基本仮定および制限仮定両者とも正確に等しく五分五分であるとするなら──すなわち、その位置のペアに悪い遺伝子がない場合は二十五パーセント、「個の悪い遺伝子がある場合は五十パーセント、二個の悪い遺伝子がある場合は二十五パーセントだ──これは極端な状態だ。なぜなら世代を経過するうちに、強化(一つの位置に二つの悪い遺伝子)はほぼ死滅するからだ。致死的要因のためでもあるし、また接合子の競争力が減じられることにもよる。心配するな、両者ともに五分五分にするんだ──もっとましな仮定を立てようにも基礎となるデータがないのだ。  うえっ! 悪い強化が表面に現われるか、もしくは検査で発見できれば、その接合子は用いられないはずだ。こんな実験を企てるだけの力量がある科学者なら、遺伝学的意味においてできるかぎりきれい≠ネ標本を用いるに違いない──何百の(いまでは何千になっているかもしれない)見つけられうる遺伝的欠陥を除いてあるわけだ。基本的仮定は、必然的にこの副次仮定を伴うことになる。  この若者たちは、シェフィールドが船内の検査で探知しうるいかなる欠陥をも有していなかった──その事実は、次の可能性を大きくする。つまり、あの仲買人は真実を語ったのであり、証拠物件は、遺伝子操作における魅力的かつ成功した事例の厳正な記録なのだ。  シェフィールドは、いまではその実験が現実におこなわれたものであることを信じかけていた──そして、たとえばセカンダスにある大規模なハワード病院が持っている程度の設備が欲しいと思うだ。現在の船内の道具では実施できない遺伝子検査をするためだ。  かれがこの子供たちを手に入れた状況には、どうも執拗な疑惑が残った。あの悪党はなぜ、あれほど売ることに熱心だったのか? ふたりが証拠物件の主張するとおりの存在であるからか? だが同時に創造されたふたりの奴隷で繁殖させることが実験の第二段階であるときに、なぜそれを売るのだ?  うん、たぶん子供たちはその答を知っているが、かれが正しい質問をしていないだけなのだろう。確実なのは、ふたりがそうした運命を当然と信じるように育てられてきたということだ。この実験を計画したのがだれであれ、その人物は、シェフィールドの長い人生でもほとんどの結婚に類を見ないほどの──一度だけは別だ、一度だけは!──強い結びつきを、ものごころついて以来のふたりのあいだに生ぜしめたのだ。  シエフィールドはその問題をひとまずおいて、仮定の結果を見ることにした。  選ばれた位置において、各両親接合子は三つの可能な状態、または25−50−25の確率で遺伝子のペアを持つと仮定された。  制限仮定の下では、男女双方の親(二倍体接合子)は、選ばれた位置において次の分布を見せる。   25% 良−良(その位置においてはきれい≠セ)    〃 良−悪(悪い遺伝子は隠蔽されても遺伝の可能性あり)    〃 良−悪(悪い遺伝子は隠蔽されても遺伝の可能性あり)    〃 悪−悪(悪い強化──致死あるいは不具)  だがシェフィールドは、基本仮定を部分修正するに際し、祭司=科学者が接合子に現われた悪い血統を除去したことだろうと仮定した──すると第四のグループ(悪−悪)は消え、その位置での親接合子の分布は次のとおりとなる。   33と3分の1% 良−良    〃  良−悪    〃  良−悪  このような選別は、本来の無作為・確率状況を好転させ、減数分裂は配偶子を(精子卵子ともに)次の割合で生み出す。   良、六分の四   悪、六分の二  ──だがそれらをかかえる配偶子を破壊することなしに悪い遺伝子を探知する方法はない。いやとにかくシェフィールドはそう仮定した。同時に、その仮定が永遠の真実ではないだろうということも条件に入れていた。しかしリータを(そしてジョウを)守るためには、手に入れられるデータと知識の限度内で、かれの仮定が悲観的でなければならず──すなわち、悪い遺伝子は接合子における強化としてのみ見出されうる、としなければならない。  シェフィールドは自分にいい聞かせた。状況は|良い優性《グッド・ドーナント》≠ニ|悪い劣性《バッド・リセッシング》≠フ言葉によって現わされるような黒か白かといった単純なものとはまったく違う──これらの説明はそれらによっていつも想像されている現実の世界にくらべるとずっと単純だ。成体の接合子によって示される特徴は、何が、いつ、どこでという言葉の中でのみ生存適格《ブロ・サバイバル》あるいは生存不適格《コントラ・サバイバル》なのだ──そしてまた、一世代以上の場合でもだ。おのれの子孫を守って死んだ成体は生存適格に数えるべきだが、生みたてのわが子を食べてしまった母猫はいかに長く生きようとも生存不適格なのだ。  同じ調子で、一個の優性遺伝子はどちらにしろときに重要でなくなる場合がある──たとえば茶色の目だ。ちょうどそれに対応する劣性遺伝子が組になって、青い目を生じるように強化されたとき、それを現わす接合子に計測しうる不利益はまったく与えないのだ。同じことが他の多くの遺伝形質にもあてはまる──毛髪のパターン、肌の色、その他だ。  にもかかわらず、この──良い優性と悪い劣性という──説明の方法は、本質的に正しい。それは、ひとつの種族がおのれにとって望ましい突然変異を保存し、望ましからぬ突然変異を(最終的に)破壊するメカニズムを要約しているのだ。悪い優性≠ニはおよそ矛盾した言葉だ。なぜなら、優性かつ完全に悪い突然変異は、その一世代でおのれを滅ぼしてしまうのだ(それを受けついだ不運な接合子もろともだ)。子宮内で死ぬか、あるいはあまりに接合子の被害が大きいため繁殖が失敗に終るのだ。  しかし通常の除去過程には、複数の悪い劣性が伴う。それぞれが偶然という盲目の法則によって支配される二つの出来事のうちどちらかがおこるまで、それらは遺伝子給源に残りうる。精子と卵子が結合するとき、そうした遺伝子はおのれと同種の遺伝子と対になり、それによって接台子を除くことでおのれ自身を除く──幸運な場合は──誕生以前に、また悲劇的な場合には誕生後にだ。またこの悪い劣性は減数分裂の際の染色体減少によって取り除かれることもあるし、その結果は、この悪い遺伝子を生殖腺に持たぬ健康な赤ん坊となる──めでたしめでたしというわげだ。  この統計的プロセスは両者ともに、その種族の遺伝子給源から徐々に悪い遺伝子を除去するのだ。  不運なことにこれらのプロセスの第一のものは、障害のある赤ん坊をしばしば生み出し、それらは育てることができても、生きながらえるための助力を必要とするのだ──ときには、経済的援助を必要とする生まれながらの敗者、みずからを養うことのついに不可能な者たち。ときには整形外科手術や内分泌腺療法、あるいは他の人間の介入、援助を必要とする者たち、だ。アーロン・シェフィールド船長が医者の仕事をしていたとき(オルマズドで、別の名を使ってだ)、かれはこの不幸な出来事に対して次第に不満がたかまってくるのをおぼえた。  最初かれは、医師としての誓約に従って、なんとか治療しようと試みた──あるいはそれに近いことをだ。かれの気性では、人間が作った法則に盲目的に従うことはできなかったのだ。  それからかれは、みずからが大きな危険をみなすもの、不具者の繁殖に対する政治的解決を求める、一時的な精神異常の時期を迎えた。かれは自分の同業者たちの説得に努めた。先天的不具者は、生殖能力を持たないか、断種されているか、それとも断種されることを承知しなければ、治療してはいけないというのだ。さらに悪いことに、かれは先天的不具者≠フ定義として、自活できないという以外に何の症状も見せていない連中まで、ふくめようとした──人口が過剰なわけではなし、かれ自身が何世紀も前に人類にとってほぼ理想的と折紙をつけた惑星にいながら、というわけだ。  どうにもならなかった。かれが直面したものは、激しい怒りと侮蔑のみだった──内心ではかれに共鳴しながらも表向きはかれを非難する少数の同業者を除いては。一般の民衆はどうかというと、タールと鳥の羽根というのが、|みな殺し《ジェノサイド》$謳カのためにかれらが処方したいちばんおだやかな薬だった。  開業許可証が取り上げられてやっとラザルスは、いつもの客観的な態度を取りもどした。かれは口を閉ざし、あの情容赦ない母なる自然が、その歯と鉤爪を赤く染め、彼女を無視したり彼女の命令に背こうとする大馬鹿者どもをたゆみなく罰していることを理解したのだった。かれが口を出す必要はなかったのだ。  そこでかれはよその土地に移り、ふたたび名前を変えて、宇宙に出てゆく準備を始めた──そのとき、伝染病がオルマズドを襲った。かれは肩をすくめて仕事にもどり、身分を剥奪された医者でも、その仕事は歓迎された。二年後、二億五千万人の死者を出したあとで、かれは許可証を返してもらえることになった──いい振舞いのご褒美というわけだ。  かれはその話を持ってきた連中にむかって、その許可証をどうするつもりかをいってやり、それからできるだけ急いでオルマズドを去った。十一年後のことだ。それまでの待機期間、かれは職業賭博師だった。必要な金を貯えるにはそのころそれがもっとも手軽な方法だったのだ。  ごめんよ、ミネルヴァ、ぼくは鏡像双子《ミラー・ツイン》の話をしていたんだったな。それでだ、あの馬鹿な小娘は妊娠させられ、おかげでぼくは赤ん坊を取りあげる田舎医者の役割にふたたびもどり、ひと晩じゅうまんじりともせず、彼女と彼女の弟と、ふたりのあいだにこれから生まれてくる赤ん坊のことを心配しつづけた──ぼくは何か手を打たなければいけなかった。自分が何をすべきか見つけるため、これまでにおこった出来事と、そこから何がおこりうるかを組み立てなおしてみなければいけなかった。確実なデータというものが何ひとつないので、迷子の驢馬を見つけるための古い方法に従うほかなかった。  まずぼくは、あの仲買人の気持になって考えてみた──奴隷商人というものは悪党ではあっても、自分自身が奴隷にされたり、あるいは幸運にも死を招くような羽目になるといった馬鹿な真似は決してしないだけの知恵はあるのだ──死こそ、ブレシドで祭司の権威をいいかげんに利用する者の運命だった。だから、あの悪党は自分のいっていることを信じていたことになる。  そうなら、なぜあの仲買人がふたりの販売を委託されていたのかという疑問は、棚上げにできる。ついでぼくは、人間を使った生物学的実験に従事する祭司=科学者の気持になろうとした。ふたりがふつうの姉弟であるという場合は忘れよう──たとえ詐欺のためとはいえ、かれらのような組合せを選んでみてもなんにもならないからだ。いかにも、どんな女性にだって化物を生む可能性はある。もっとも進歩した遺伝学的繁殖衛生学をもってしても、悪い突然変異がおこりうるのと同じことだ──そして油断なく注意を払っている産婆は、その新生児の尻をたたいて生命を与えることを避ける──現実におおぜいがそうしてきたんだ。  そこでぼくは、第三の仮定についてのみ考えてみることにした。同一の親から生まれた補足しあう二倍体。この実験をおこなった人間ならどうするだろう? ぼくだったら?  ぼくだったら、発見しうるかぎりのもっとも完全に近い血統を用いるし、自分でテストできるもっとも精密な方法で遺伝学的にきれい≠ニわかる男女両親を見つけるまでは、実験をしないだろう──ブレシドでは、当時としてはきわめて洗練されたテストがおこなわれていたのだ。  選別された遺伝子の位置と、25−50−25というメンデル分布で50−50を取るために、この実験前のテストは、悪い劣性強化の二十五パーセント確率を取り除き、結局は悪い遺伝子が三分の一で良い遺伝子が三分の二という分布が、親の世代で定着する──つまり、存在しうる多くのジョウとリータの考えられる両親という意味だ。  さていよいよぼくは、祭司=実験者になったつもりで鏡像双子《ミラー・ツイン》を結婚させることにした。どういうことがおこるだろう? この三分の一と三分の二の分布を表わすために必要な配偶子の最少個数は、十六人の存在しうるジョウ≠ニ、十八人の存在しうるリータ≠ナある──だが男女とも、そのうちふたりは悪い≠フだ──悪い劣性は強化され、接合子は欠陥を持つ。実験者はそれらを除去する……いや、その必要はないかもしれない。その強化は致死的なものとなり得るのだ。  ここで、8と3分の1パーセントの好転、あるいはリータの赤ちゃんが望ましい状態である場合の確率を全部で二十五パーセント好転する結果となった。ぼくは前より気分がよくなった。それに次の事実をつけ加えると、望ましい確率ははるかに高くなる。つまりぼくは、母親の面倒を見るのに忙しすぎて、化物に産ぶ声をあげさせるには手がまわりかねるという類の産婆なんだ。  だがこれだけでは、悪い遣伝子が世代の進むたびに除去される傾向にあることを証明するだけだ──最悪の遺伝子の場合、その傾向は確実となり、強化が子宮内での死をもたらす場合はつねに百パーセントに達する──一方、望ましい遺伝子は保存される。しかし、それが正常な異系交配にもあてはまり、同系交配ではもっと強くあてはまりさえすることはわかっている。ただし後者の場合には、それが除去するのとまったく等しい数の不具者の生まれる可能性を生じるため、人間については充分考えられていない──それこそぼくがリータのために恐れている危険だ。だれも人間の遺伝子給源がきれいにされることは望むが、自分の家族に悲劇的事態のおこることは望まない。ミネルヴァ、ぼくはこの子供たちを自分の家族≠ニして考えはじめていたのだ。  ぼくは鏡像双子《ミラー・ツイン》についていまだに何ひとつわからなかった。  ぼくは、任意の位置での悪い劣性のもっと確実な発生率を探ぐることに決めた。50−50は、本当に悪い遺伝子にとっては高すぎる数字だ。除去は徹底的であり、発生率は世代が進むことにより低いパーセンテイジに落ちる。最終的には、きわめて悪い遺伝子の発生率はあまりに低くなって、受精の際の強化は稀有のこととなる。強化は発生率を二乗した数だからだ。例えば、もしも百個につき一個の割で半数染色体細胞がこの悪い遺伝子を持っているとすると、それは一万回に一回の受精で強化されるのだ。ぼくは遺伝子給源全体のことをいっているのだが、あるいはこの場合は、最小限男女各二百個の成人接合子についていわなければいけないのかもしれない。そうした給源での任意の繁殖は、その悪い強化をその長い機会によって結びつけるだけだろう──機会が幸運か不運かは、その見かたにかかっている。遺伝子給源をきれいにするという点から大局的に見るか、それともひとりの人間の悲劇という点から個人的に見るか、だ。  ぼくはそれをたいへん個人的に見た。ぼくはリータに、健康な赤ちゃんの母親になってほしかった。  ミネルヴァ、きみはきっと、この25−50−25の分布が、同系交配のもっとも徹底した場合を代表するものであることを認めたと思う。同系交配では二回に一回しがおこらないし、完全な姉弟では四回に一回だ。どちらの場合も染色体の減数分裂によってである。牧畜業者は、この徹底した手段を系統的に用いる──そして欠陥を持つものを選別し、最後に健康で安定した血統を残す。ぼくはいやな気持がした。同系交配のあとのそうした選別が、過去における地球の王族間でときとして用いられたのではないか──だがもちろん、そうした選別除去はその回数、程度ともに充分にはおこなわれなかった。もし王や女王が競走馬なみに扱われていたら、君主主義は実にうまく作用したことだろう──しかし惜しいことに、かれらは決してそんなふうに扱われなかった。かわりにかれらは、福祉保護を受ける連中のように支持され、除去されてしかるべき小公子たちは、兎のように繁殖することを奨励された──血友病者、精薄、なんでもありだ。ぼくが子供のころ王族≠ニいうのは、最悪の交配方法によることを意味した悪い冗談になっていた。  シェフィールド船長は次に、悪い遺伝子のもっと低い発生率について考えてみた。ジョウとリータの親が由来した遺伝子給源に、一個の致死遺伝子があったとしよう。致命的であることから、それが成人の接合子の中に存在しうる場合は、それが遺伝子ペアの中で良性のツインによって隠蔽されているときに限られる。かりに接合子に五パーセントの隠された発生率があるとすると──それでもまだ致死遺伝子が現実であるには高すぎるが──しかしどうせ調べることだ。どんな傾向が現われるだろう?  親接合子の世代:それぞれがリータとジョウの親になり得る百人の女性、百人の男性──そして、そのうち女性五人と男性五人は隠蔽された致死遺伝子を持つ。  親半数染色体の段階:二百個の卵子、そのうち五個は致死遺伝子を持つ。二百個の精子、そのうち五個は致死遺伝子を持つ。  息子と娘の接合子の世代(存在しうる複数のジョウとリータ):二十五個が致死遺伝子の強化で死ぬ。千九百五十個は隠蔽された致死遺伝子を持つ。三万八千二十五個は、その位置ではきれい≠セ。  シェフィールドは、奇数による変則さを避けるために自分のサンプル・サイズを倍にしなかったことで、両性共有者発現の可能性がもぐりこんでいることに気づいた。くそっ、なんてこった!──計算の結果は変わりやしない。いや、変わるぞ!──同じ致死遺伝子の発生率を持つ二百人の男と二百人の女のサンプルで始めるんだ。すると、次のようになる。  四百個の卵子、致死遺伝子十個。  四百個の精子、致死遺伝子十個──  ──それが次の接合子世代(存在しうる複数のジョウとリータ)ではこうなる:百個が死に、七千八百個がそれを持ち、十五万二千百個がきれい≠セ──こうすれば、百分率は変わらなくても、想像上の両性具有者が除かれる。シェフィールドはつかのま、両性具有者の愛の生活に思いをはせ、それからまた仕事にもどった。数字はおそろしく厄介になり、次の接合子世代では何億という数を扱わなければいけなくなった(つまり、リータの腹の中で育ちはじめたばかりのチビ助の世代だ)。千五百二十一万個は強化で除去される。十二億千六百八十万個が保有者。二百四十三億三千六百万がきれい≠セ──ふたたびかれは病院のコンピューターがあればと思いながら、面倒な数字を百分率になおすうんざりする仕事に取りかかった:〇・〇五九五〇九パーセント、四・七五九パーセント、九・五一八パーセント強。  これははっきりと事態の好転を示していた。およそ千六百八十人に一人の不具者(千六百人に一人のかわりに)、保有者の割合は五パーセント以下に下がっている。きれい≠ネものの数は、一世代のうちに九十五パーセント以上にふえている。  シェフィールドは、いくつかのそうした問題に取り組み、これまでの計算を確認した。補足しあう二倍体(鏡像双子)から生まれる子供が健康である確率は、少なくとも赤の他人どうしの子供のそれと等しい──さらに幸運な事実として、そうした健康な赤ん坊の確率は、この実験を始めた祭司=科学者によって一段階以上の除去によって改善されていた──これはほとんど確実な推定であり、ジョウをかれの姉≠フ最適の相手とするものだった。最悪ではない。  リータは赤ちゃんを生んでいいのだ。 [#改ページ] ある主題による変奏曲 7   ヴァルハラからランドフォールへ[#「ヴァルハラからランドフォールへ」はゴシック]  ──が、かれらのためにぼくのできる最善の策だったんだよ、ミネルヴァ。ときどきよく、どこかの馬鹿が結婚というものをなくしてしまおうとする。そういう企ての結果は、重力の法則を廃止したり、円周率をきっちり三・〇にしたり、あるいは祈りの文句で山を動かしたりするのと同じことだ。結婚は、坊主どもが考えだして人類に与えたというものじゃあない。結婚は目と同じように、人類の進化にともなう道具のひとつであり、目がそれぞれの個人に役立つのと同じように、結婚は種族にとって有用なものなのだ。  たしかに結婚とは、子供たちを養うため、母親が子供たちを生み、育てるあいだ、その面倒を見るための、経済的契約だ──しかし、はるかにそれ以上のものなんだ。結婚とは、この動物、ホモ・サピエンスが、そういったなくてはならぬ機能を果たし、そうしているあいだが幸福であるようにとまったく無意識のうちに──発達させてきた手段なんだよ。  なぜ蜜蜂は、女王、雄、働き手と分かれていながら、なおかつひとつの大きな家族として生きているのだろう? なぜなら、かれらにとってはそれがうまくいくからだ。ほとんどうなずきもしないぐらいのつきあいで、ママ魚《さかな》とパパ魚はなぜうまくやれるんだろうな? なぜなら、進化が与えた盲目の力が、かれらにはそれでうまくゆくとしているからだ。なぜ結婚≠ニいう制度が──どのような名前で呼ばれようともだ──宇宙いたるところの人類にあまねく普及しているのだろう? 神学者に尋ねてもだめ、法律家に尋ねてもだめだ。この制度は、教会だの国家だのに管理されるはるか以前から存在していたんだ。それが役に立つから、それだけのことだ。それにまつわるすべての欠点にもかかわらず、唯一の普遍的テスト──生存ということ──に照らしてみた場合、結婚は、ここ千年以上のあいだ馬鹿な連中がそれに換えようと努めてきた無数の発明品より、はるかに役立つのだ。  ぼくが話しているのは一夫一婦制だけのことではない。あらゆる形態の結婚──一夫一婦制、一妻多夫制、一夫多妻制、いろいろと変化をつけているにしろ複数あるいは延長した結婚のことについていっているんだ。結婚≠ノは、無数の習慣、規則、取決めがある。だが、その取決めが|もし《ヽヽ》、この|もし《ヽヽ》しかないのだが、子供を養い、大人にはそれぞれが必要とするものを与えあうということであれば、それだけでそれは結婚≠セ。人類にとって、結婚の数ある欠点に対する唯一の歓迎すべき代償は、男と女がたがいに与えあえることの中にある。  ぼくは性愛《エロス》≠フことをいっているのじゃあないよ、ミネルヴァ。セックスは罠に餌をつけるが、セックスは結婚じゃあないし、結婚をつづける理由でさえないんだ。牛乳が安いときにはなぜ雌牛を買うんだい?  伴侶《はんりょ》であること、協力しあう仲間であること、たがいに励ましあい、ともに笑いともに悲しみ、欠点をも受け入れる信頼、ふれあう相手、きみの手をしっかりと握っていてくれる者──そういうものが結婚≠ナあり、セックスはお菓子をくるんでいる衣《ころも》にすぎない。ああ、その衣は実に口あたりのいいものかもしれないが──それはお菓子じゃない。結婚がそうした口あたりのいい衣を失い──たとえば、事故によってだ──それでも、いつまでもいつまでもつづき、それを分かもあっているふたりに深い幸福を与えつづけることもありうるのさ。  ぼくが、さかりのついた無知な若者だったころ、これはどうにも不可解なことでしかなかったね── (省略)  ──ぼくはできるかぎり荘重に、儀式ばってことを運んだ。人間とは象徴によって生きるものだ。ぼくはふたりに、このときのことをおぼえていてほしかったんだ。ぼくはリータに、彼女の考えるもっともいい衣裳をつけさせた。彼女は飾りたてたクリスマス・ツリーというところだったが、ぼくは彼女に美しいといってやった──事実、美しかったのだ。花嫁はどんなことがあっても美しくなるものなんだ。ジョウにはぼくの服から選んだものを着せて、それはかれに与えた。ぼくはまったく馬鹿げた船長の制服を着た。こういうナンセンスなことが習慣になっている惑星に着陸するとき使うために持っていたやつだ──袖口に四本の太い金色の紐、胸には質屋で買った勲章がきらきら光り、ネルソン提督もうらやむような正装用三角帽に、ほかの部分も秘密結社の団長そこのけの突飛さだ。  ぼくは厳粛だが無意味で滑稽な文句をいっぱいつめた説教をかれらにした。その大部分はかれらが知っている唯一の教会、ブレシドの国教から取ったものだった──ぼくには容易なことさ、ぼく自身が司祭だったんだからね──だがぼくは、それにあらゆるものをつけ加えた。彼女には良人への義務を、かれには妻への義務を、そして両方に彼女の腹の中の子供と、さらに以後も生まれてくるだろうほかの子供たちへの義務を──そして、ふたりのうち主に彼女に対して警告を与えた。結婚は容易なものでなく、軽々しく入っていくべきものではない。なぜなら、ふたりが一緒にぶつかるべき困難なことが何度もおこるだろうからだ。〈臆病ライオン〉の勇気と、〈かかし〉の知恵と、〈ブリキの木樵り〉の優しい心と、ドロシーの不屈の意志とを必要とするだろう重大な困難が、と。  この言葉にリータは泣き出し、ジョウもまた涙をこぼしはじめた──それこそぼくの求めていたことだったから、ぼくはふたりをひざまずかせ、かれらのために祈りを唱えた。  ミネルヴァ、ぼくは偽善に対する弁解はしないよ。なんらかの仮定上の神がぼくの言葉を聞いているかどうかなどということも気にしなかった。聞いてほしい相手はリータとジョウだったからだ──まずブレシドの方言で、つづいて英語と銀河語で、思い出せるかぎりのアエネーイス(ウェルギリウス作の叙事詩、トロイ戦争の勇士アエネーイスの流浪)の詩句を朗唱して最後をしめくくった。言葉につまると、ぼくは学生の歌でそこを埋めた。    Omme bene    Sine poena,    Tempus est ludendi;    Venit hora    Absque mora,    Libros deponendi!     * すべてよし       罰はなし       いまぞ遊ばん       時は来たれり       遅れることなく       教科書ともおさらばよ [#ここから4字下げ]  純粋主義者は、最長老のこの翻訳を貧弱なものと見ることだろう。だが不思議なのは、かれが最後の行にあるLibえrosをLibrosに変え、もとの歌にある陽気で猥褻《わいせつ》な三重の洒落をなぜなくしてしまったかということだ。かれがうっかり見落としていたなどということは、どうも考えられない。われらが祖先の諧謔好きな性質はいたるところではっきりしている。かれはときどき禁欲主義者であるようなことをいうが、それはどう見てもいいかげんなものだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]J・F四十五世  ──そして高らかに、「かくあらんことを!」といって終った。ぼくはふたりを立たせ、おたがいの手を取らせ、宇宙にある船舶の主人としてぼくに与えられている至高の権威により、かれらはいまや永遠に夫婦であると宣言した──彼女に接吻するんだ、ジョウ。  そのあいだじゅうずっと、ベートーヴェンの第九が低く背景に流れていた──  この戯れ歌は、ウェルギリウスの難解な文章が終ってしまい、もうすこし印象的な響きが必要だったとき、ひょっこりと出てきたんだ。でもあとがら考えてみると、学生の休暇と同様、かれらのハネムーンにはぴったりの内容だった。まったくすべてがよく──遺伝の面で罰を受ける恐れがなく──この姉弟の結びつきに|罰はない《サイネ・ポエナ》と、ぼくにはわかっていたんだ。そしてludendiは、賭博≠ニか子供の遊び≠ニか、遊びならどんなことでも意味するから、愛のたわむれ≠ニも性愛《エロス》≠ニも訳せるのだ。いまからすぐに四日間の休日に入る、仕事もなし、勉強もなし──|教科書ともおさらばよ《リブロス・デポネンディ》──だぞと、ぼくは申しわたした。まったくの偶然さ、ミネルヴァ。いまいったとおり、その短いラテン語の文句はひょっこり頭の中に浮かんできただけなんだ──だが、ラテン語は荘重に聞こえるものだ。特に何をいっているのか、わからないときにはね。  われわれはとびきりの食事を取った。ぼくが料理をしたんだ。それは十分ほどで終ってしまった──ふたりのせいでだ。リータは食べられなかったし、ジョウはぼくに、ジョニイの結婚式がおこなわれた夜、なぜかれの義母が気絶したのかを思い出させた。それからぼくは盆にうまい食べ物を山盛りにしてジョウに渡し、ふたりとも部屋にもどれといった。四日のあいだはぼくに髪の毛一本見せるんじゃないぞ、とつけ加えて── (省略)  ──積荷をできるかぎり急いで選ぶと、ぼくはランドフォールへ向かった。ふたりともヴァルハラへ残していくようなことはできなかった。ホセはまだ家族を養うことなどできないし、リータのほうも妊娠につづいて乳児をかかえてでは、やれることが限られてきていたからだ。それにかれらが失敗したとき、そばにいてやらなければどうしようもない。ふたりはランドフォールへ行くしかなかったのだ。  ああ、リータならヴァルハラで生きていくことはできただろう。なぜならそこでは、だれよりも妊娠した女性が美しく、しかも月を重ねるにつれてその美しさは増してゆくという、きわめて健康な見かたがあったからだ──それはぼくも同じ意見だったし、特にリータの場合にはぴったりあてはまった。ぼくが買ったときでもかなりのものだったが、ヴァルハラに着陸したときにはほぼ五カ月を越そうとしており、輝くばかりの美しさだった。もしひとりで降りていけば、最初に出会う六人の男が六人とも彼女と結婚したがったことだろう。もし彼女が子供をせおい、そのうえ妊娠していたら、着陸したその日のうちに結婚することもできたはずだ。その惑星は人口が少なすぎるので、子供を生める能力が尊敬されていたのだ。  ぼくは彼女がそれほど早くジョウを捨てるとは思わなかったが、しかしあまり多くの男に注目されることでふらふらしたりしてほしくなかった。彼女がジョウをおいて、どこかの金持のブルジョワとか自由所有権保持者《フリー・ホルダー》と一緒になるかもしれないというような万にひとつの危険もおかしたくなかった。ぼくはそれまでに、ジョウの自我を育てあげるためにずいぶん苦労をしていたが、それはまだまだ脆弱で、そんな打撃のもとではひとたまりもなかっただろう。かれはいまや背をのばし胸を張って誇らしげに立っていた──だがその自尊心は結婚した男であるということに基づいていたのだ。妻があり、子供がやがて生まれてくるということにだ。かれらの結婚証明のためにぼくが自分の名前のひとつを与えたことは話したかい? われわれがヴァルハラに滞在しているあいだ、かれらはいまやフリーヘル&フル・ラングであり、ジョセフ&スチェルンであり、ぼくは少なくとも数年のあいだ、ふたりにミスタ&ミセス・ロングのままでいてほしかったんだ。  ミネルヴァ、ぼくはふたりに一生の誓いをさせた。かれらがそれを守るだろうとは、すこしも信じていなかったがね。ああ、短命人種の中には結婚を一生つづける連中もいる。だがそのほかの多くについていえば──羽根のはえた蛙(非常に珍しいの意)などそうたびたび見つけられるものじゃあない。そしてリータは無邪気で人なつっこく、セクシーな小娘ときているから、そのつもりもなく尻軽に両足をひろげてお寝んねということになるだろう──そうなることは目に見えていた。ジョウに基礎的なことを教えこむ機会がくる前に、ぼくはそんなことがおこってほしくなかった。妻を寝取られた男がはやす角《つの》は、かならずしも頭痛をともなうものではない。しかしかれには、成長し、成熟し、自信を身につけるための時間が必要だった。そのあとなら、寛容と威厳をもって角をはやすこともできるのだ──そしてリータは、すごく立派な枝角をかれに用意してやれるほどの女だったのだ。  ぼくはかれに仕事を見つけてやった。真珠採りの潜水と小さな料理屋の雑役で、ジョウがヴァルハラ料理の正しい作り方をひとつおぼえるたびに金を払うからと、コック長と秘密の取引きをしておいたのだ。いっぽう彼女のほうは船内に引きとめておいた。ちゃんとした衣服を手に入れてやれるまで、妊娠した女が好ましくない気候のところへ出てゆくのは危険だという口実を設けてだ──いまはぼくの邪魔をしないでくれ、リータ。積荷のことで手がいっぱいなんだ、といってね。  彼女はほんのちょっと口をとんがらせただけで、それを承知した。いずれにしろ、彼女はヴァルハラが嫌いだった。そこは七分の一Gだったが、ぼくはかれらを自由落下という贅沢に慣らしてあった──彼女のふくらんでくる腹には楽だし、土ふまずにも、大きくなりつつある乳房にも、まったく力がかからなかったんだ。それがいま彼女はとつぜん、自分が前より重くなっていることに気づき、体を動かすのは不自由で、足は悲鳴をあげていた。船の入口から見えるヴァルハラは、まるで凍りついた地獄だった。ふたりをランドフォールへ連れていこうというぼくの申し出に、彼女は喜んだ。  それでも、ヴァルハラは生まれてはじめて見るよその世界なので、彼女はそこを見たがった。ぼくは積荷をおろすまで時間を稼いでから、彼女のサイズを測り、その惑星用の暖かい衣服一式を買いこんできた──だがぼくは汚ないトリックを使った。ブーツを三足持ち帰り、彼女に選ばせたんだ。二足はあっさりした仕事用のブーツだが、三足目のは派手な飾りがついているやつで、サイズがちょっと小さかったってわけだ。  そこで、地上へ連れていったとき、彼女はきつすぎるブーツをはいていたし、天気はいつになく冷たく、それに吹雪の最中だった──ぼくは天気予報を前もって見ておいたんだ。トールハイムは宇宙港のある町としては、きれいなところだった──しかしぼくは、そうした場所は避け、彼女の観光≠ノはなるべく薄汚ない場所を選び──それも歩いてまわったんだ。ぼくが手をあげて橇《そり》をとめ、船へ連れてもどるまでに、彼女はすっかりみじめな気分になってしまい、着心地の悪い衣服、特にブーツをぬいで、熱い風呂に入りたいとこぼしていた。  ぼくは彼女をあくる日も町へ連れていってやろうか、断わるのは自由だがといった。彼女は丁寧に断わった。 (省略)  それほどひどいことをしたわけじゃないよ、ミネルヴァ。ぼくはただ本人に疑惑をおこさせることなく、彼女を人目にさらさないようにしておきたかったんだ。本当をいうとぼくはその派手なブーツを二足買ってあり、一足は正しいサイズだったんだ──そして、初めての外出が終り、彼女が疲れきった両足を湯に浸しているあいだに、その両方を取り替えておいたのだ。そのあとでぼくはこう話した。彼女がそんなひどい目にあったのは、これまで一度も靴をはいたことがなかったからだ──だから、そのこつを知るまで、船の中ではいていたらどうだい、と。  さっそく試してみた彼女は、あまり楽なのでびっくりした。ぼくは真面目な顔で説明してやった。最初のときは足がふくれていたんだから安心していいよ。今日は一時間、明日は二時間と、毎日すこしずつ時間をふやしてゆき、一日じゅう楽にはいていられるようになるまで練習すればいいさ、とね。  一週間たつと、彼女はほかには何ひとつ身につけていなくても、ブーツだけははいているようになっていた。素足でいるよりブーツをはいているほうが気持がいいからだ──驚くことはない、ぼくは気をつけて、土ふまずにぴったりあった靴を選んでおいたんだ──妊娠したことと、ふたつの惑星における地表重力の違いで──彼女の故郷は〇・九五G、ヴァルハラはー・一四Gだ──彼女はそれまでにくらべて二十キロほど重くなっていたから、足の支えとなるものが本当に必要だったってわけだ。  ブーツをはいたままでベッドに入らないようにと、ぼくは注意しなければいけなかった。  積荷を選んでいるあいだに二度、ぼくはリータを町へ連れていったが、彼女を甘やかした──あまり歩きまわらず、長いあいだ立たしておきもしなかった。彼女はぼくが誘えばついてきたが、いつもは船内でもっぱら読書に精を出していた。  いっぽう、ジョウは長時間働き、七日に一日しか休みを取らなかった。そこで出発の直前にぼくはかれに仕事をやめさせ、その日をまるまる休みにしてふたりを連れ出した。橇を一日借りきって、本当の見物に出かけたんだ。橇は動力ではなくトナカイに引かせるやつだし、その日はよく晴れて明るく、暖かいといってもいいくらいだった。田舎の洒落たレストランでヨツンハイメン山脈の切り立った岩塊が雪をかぶっているのを眺めながら昼食を取り、夜は市内にあるもっとも高級なレストランで最高の食事と、それにふさわしい生音楽と演芸を楽しんだ──そのあと小さな店によってお茶を飲んだが、そこでジョウは主人に、「おい、おまえ!」のかわりに、「フリーヘル・ラング」と呼びかけられるように努め──そして自分の美しい、腹の大きな花嫁を見せびらかすことができた。  そう、彼女は美しかったよ、ミネルヴァ。ヴァルハラでは男も女も、重苦しい戸外用の服の下には、パジャマとしかいいようのない室内着をまとっている。女ものと男ものの違いは、材料と仕立てかただけだ。ぼくはふたりにそれぞれ、パーティー用の服を買ってやっていた。ジョウはスマートだったし、ぼくもなかなかのものだったが、みんなの視線はリータだけに注がれていた。彼女の体は両肩からブーツまですっぽり覆われていたが──技術工学的な意味ではそうでも、実はすきとおっていたんだ。そのハレム風な衣裳はオレンジ色に、緑色に、金色にと、刻々と色を変えながら輝きわたったし、だれでも見ようと思えば、彼女の乳首が興奮にかたくなっているのが見えた──そしてだれもが、彼女を見たがったのだ。出産まであと二カ月しかないという明らかな事実は、彼女がミス・ヴァルハラ≠ノ選ばれるための票をいっそうふやすことになった。  彼女はこの上なく魅力的に見えたし、自分でもそれを知っていた。彼女の顔は幸せそのものだった。そして自信にあふれていた。というのもぼくがこの惑星におけるテーブル・マナーや立居振舞いについて、ひととおりのことを教えてあったし、彼女はすでに一度もへまをしでかすことなく昼食をすませていたからだ。  彼女に自分を誇示させ、沈黙を、またときには喝采を楽しませても、心配はなかった。すぐに出発しようとしていたからでもあったし、ジョウとぼくはブーツのてっぺんに、これ見よがしにナイフをさしていたんだ。本当のところジョウはナイフを使えなかったのだが、そこの狼どもはそんなことを知らなかったし、われらの美しい尻軽娘が彼女直属の狼ふたりに側面を守られているので、だれひとりちょっかいを出そうとしなかった。  ──夜は短かったが、あくる朝は早起きだった。われわれは一日じゅう、貨物の積み込みをおこなった。リータが積荷目録を受け持ち、ジョウが数を調べるあいだ、ぼくはごまかされていないかどうかを確かめた。その夜遅くぼくは船をn次空間に入れ、操縦用コンピューターにランドフォールへの最初の航路のため小数値の最後まで出させてから疑似重力発生装置を動かし、ヴァルハラの地表重力から快適な四分の一Gにまで、ゆっくりと船内重力を下げていった──リータが赤ん坊を生むまで自由落下はなしだ──そして操縦室に錠をかけると、船室にむかった。体は臭く、疲れ、風呂は明日でいいと自分にいい聞かせていた。  かれらの部屋のドアが開いていた──寝室のドア、ぼくがふたりの船室を続き部屋にするまではジョウが使っていた部屋のほうだ。ドアは開き、かれらはベッドにいた──ふたりがそんなことをしたのは初めてだった。  その理由はすぐにわかった。かれらはベッドから急いで出てくると、ぼくのほうへゆっくりと近づいてきた。ふたりはぼくにも楽しみに加わってほしがった──ぼくに感謝したかったからだ!──パーティーの一日に対して、自分たちを買ってくれたことに対して、その他のすべてのことに対してだ。かれのアイデアか? 彼女のか? ぼくはそれをつきとめようとはしなかった。ぼくはただふたりに感謝して答えた。へとへとだし、体もすっかり汚れているからね──ぼくが欲しいのは石鹸と熱いお湯と十二時間の眠りだけさ──きみたちも明日の朝は遅くまで寝ているんだぞ。船の日課を始める前には、まず休まなければな。  ぼくはふたりがぼくの体を洗い、眠るまでマッサージするのにまかせた。かれらは規律を破りはしなかった。ぼくはふたりにマッサージの手ほどきをすこししておいたんだが、ジョウは特にうまくて、しっかりともんでくれるが肌には柔らかにあたった。かれはリータが妊娠して以来、毎日彼女をマッサージしてやっていたんだ──あのレストラシで長時間働いていたあいだでさえだよ。  だが、ミネルヴァ、それほど疲れていなかったら、ぼくは自分を頼っている女性についての規則を破っていたかもしれないな。 (省略)  ──産科学および婦人科学の勉強をしなおすため、ぼくはトールハイムにあるかぎりのテープ、書籍を手に入れ、さらに船内では必要なさそうな器具類や用品まで買いこんだ。新しい技術をすべてマスターし、少なくとも大昔にオルマズドで田舎医者だったころと同じぐらい赤ん坊を取りあげるのに熟練するまで、ぼくは船室に閉じこもった。  ぼくは自分の患者から目を離さず、彼女の食事献立を監視し、運動させ、内臓の診察を毎日おこなった──そして過度の|親密さ《ファック》は禁止した。  ラファイエット・ヒューバート医学博士にして、アーロン・シェフィールド船長、最長老、その他でもある男は、ひとりの患者についてずいぶん心配していた。だがかれは、それを彼女とその良人に気づかせることなく、当時の技術で知られていた分娩時のあらゆる非常事態に対する計画をたてることへ、おのれの不安を建設的にむけたのだ。かれがヴァルハラで手に入れた器具と用品は、トールハイムにあるフリッグ寺院のそれにあらゆる主要な点で匹敵した。その寺院では一日に五十人の赤ん坊が生まれることも珍しくなかったのだが。  かれは、自分が船に積みこんだがらくたの山を見て苦笑した。おおぜいの赤ん坊を取りあげるのに素手しか使わなかったオルマズドの田舎医者を思い出したのだ。妻が良人の両膝のあいだに坐りこむと、良人は彼女の膝を広く高く引っぱりあげる。そしてヒューバート先生は、ふたりの正面にひざまずいて赤ん坊を受け取るんだ。  本当だよ──しかしかれはつねに、頑丈な馬が運べるだけの装備を運ばせることにしていたのだ。たとえ、万事うまくいって一度もその鞍袋を開かないとしても、だ。そこが肝心なところなんだ。事がうまく運ばない場合にそなえ、手もとに必要なものを用意しているってことが、さ。  トールハイムで買った品物のひとつは非常事態用のものではなかった。最新式の改良型分娩椅子で、握りと、詰め物の入った腕支えがあり、足や背中の支えは平行移動および回転用の三つの軸によって各々別個に調節できる。そのコントロール装置は、産婦にも産婆にも容易に動かすことができ、窮屈な格好をすぐ解除できるようになっていた。それは驚くほどどんな格好にでも変えられる機械工学の精華で、母親の姿勢を本人自身の手で、あるいは他人の手で変えられ、決定的瞬間に産道を垂直かつ可能なかぎりに広げられるものだった。  ヒューバート・シェフィールド医師は自分の船室でそれを組み立てると、たくさんの調節装置をいちいち調べ、うきうきと歌いだした──そしてもう一度それを眺め、眉をひそめた。たいした道具だし、なんら躊躇することなくその高い代金を支払った。だがこの機械にはぜんぜん愛情というものがない。非人間的であることギロチンと同様なのだ。  良人の腕と膝はこれほど能率的なものじゃあない──だが、かれの意見によると、両親がともに試練を受けることは大きく評価されてしかるべきだ。良人は妻をかかえ、励まし、肉体的にも精神的にも彼女を支える。そのために産婆はもっぱら彼女の体に注意を集中することができるのだ。  これを体験した良人なら、自分が父親であることを疑うまい。たとえどこかの行きずりの男が彼女にジュースを注ぎこんだものだったとしても、そんなことは問題ではなくなる。このより大きな体験が、そんな事実をのみこんでしまうのだ。  ではどうするんだ、先生《ドック》? この仕掛けか、それともジョウの腕か? あの子供たちにとって、この第二の結婚式≠ヘ必要だろうか? ジョウは肉体的にも精神的にも耐えられるだろうか? 疑いもなく、かれらのチームにあってよりタフなのはリータのほうで、彼女が臨月に近づいたいまでも、体の大きさはジョウのほうが上まわっていたとはいえ、その事実は変わらなかった。もし万一、ジョウが気絶して彼女を落としたら──まさに、最悪の瞬間にだ。  シェフィールドはこうした問題に不安をおぼえるいっぽう、操縦室の疑似重力発生装置から補助コントロールを分娩椅子へ引いた。迷惑なことだが、自分の部屋を分娩室にしようとかれは決心したのだ。そこは充分な床面積がある唯一の船室で、そばにベッドもあり、専用の浴室もある。まあいいさ、これからの五十日間、机や衣類にたどりつくためこの厄介な代物のわきをすり抜けるぐらいの面倒は我慢できる──リータが受胎した日とその後の経過についての判断が間違っていなければ、長く見積ってもあと六十日以内だ。そのあとは分解してしまいこんでしまえばいい。  ランドフォールに着いたら、それを売って儲けられさえするだろう。この機械はあそこの技術より進んでいるのだから、まず確実なことだ。  かれは椅子を位置につけ、床にボルトでとめてから、いちばん上の高さにし、産婆用の腰掛けを正面においた。ついで自分の高さにあわせてそれを調節し、分娩椅子を十センチか十二センチ下げても仕事に支障はないとわかった。それがすむとかれは分娩椅子に登って調節装置を動かし──かれぐらいの背丈がある産婦にさえ、合うように作られていることを知った──予想されることだった。ヴァルハラには、かれより背の高い女性がいるのだ。  ミネルヴァ、ぼくの計算によると、リータの出産は十日遅れていた──だがふたりはまったく心配していなかった。というのも、ぼくがそのことをはっきりいわないように気をつけていたからで、ぼく自身もほとんど心配していなかった。彼女を診察しても正常だし、あらゆる面で健康だったからだ。ぼくはかれらの準備に教育と練習だけでなく、催眠暗示も使った。そして彼女には、できるだけ楽になるよう考案された運動をさせた──ぼくは、出産後の縫合手術などしたくなかった。産道は伸びひろがるべきであって、裂けてはいけないのだ。  本当にぼくが恐れていたのは、怪物の首を折らなければいけなくなる可能性だった。つまり、赤ん坊を殺すことだ──あからさまな真実から顔をそむけるべきではない。ある夜一睡もせずにぼくがおこなった計算の結果はすべて、この確率をいまだに未解決のまま残していたんだ──そして、もし仮定のひとつにでも間違いがあれば、その事態がおこる確率はぼくの期待以上に高くなるってわけだ。  やらなければいけないことになれば、ぼくはそれをちゃんとやってのけたかった。  ぼくは彼女以上に心配していた。彼女が心配などしていたはずはない。ぼくは催眠暗示での準備を充分にやっておいたんだから。  このぞっとすることをしなければいけないなら、すばやくやらなければ。ふたりがほかのことに気を奪われているあいだにだ──かれらに決して見せず、悲しい遺体はすぐふたりの目のとどかないところへやらなければいけない。それから、ふたりとも精神的に立ちなおらせるという大変な仕事に取り組むのだ。夫婦としてか? ぼくにはわからない。たぶん、彼女がはらんでいるものを見たあとでなら、意見を出せるだろう。  ついに陣痛が短い間隔をおいてやってきたので、ぼくはかれらを分娩椅子に坐らせた──楽な、四分の一Gで。椅子は調節ずみであり、ふたりとも練習していたのでその姿勢に慣れていた。まずジョウが坐りこみ、両足を大きくひろげ、両膝を足掛けにまたがせ、かかとをふんばる──かれはリータと違って、ミミズのように軟らかな体をしていなかったから、そう楽じゃなかった。それからぼくは彼女を抱きあげて、かれの膝のあいだに坐らせた──なんの困難もなかった。この疑似加速のもとでの彼女は四十ポンドほどの体重しかなかったからだ。十八キロといってもいい。  彼女は両足をほとんど水平にひろげて前へおし出し、ジョウはかれの股のあいだからリータが落ちないように抱いていた。彼女は尋ねた。「これぐらい出ればいいですか、船長?」 「いいとも」と、ぼくは答えた。椅子を動かせばもうすこしいい位置に来させられるだろうが、それではジョウに抱いていてもらえなくなる。ぼくはふたりに、他の方法があることなど話しておかなかったのだ。「彼女にキスしてやるんだ、ジョウ。そのあいだにストラップをかけるから」  左膝用ストラップでふたりの左膝を一緒にくくりつけ、右膝も同じようにし、それから彼女の両足をぼくが新しくつけ加えた支えにあてた──かれの胸と肩と太腿にきつくストラップをかけたのは、たとえ船がばらばらになって墜落しようとかれはきちんとその椅子に坐っているようにだが、彼女にはそうしたストラップはかけなかった。リータの手は椅子の握りをつかみ、ジョウの両手両腕は生きたあたたかな愛情のこもった安全ベルトとして、彼女の乳房のすぐ下のふくらみを覆っているが、おさえつけないようにしている。かれはどうするべきかを心得ていた。われわれは練習したんだ。彼女の腹に力を加えたいと思ったら、かれにそういう──そのとき以外は、そのままじっとしているのだ。  ぼくの腰掛けは床にボルトでとめてあり、ぼくはそれにシート・ベルトをつけでおいた。自分にストラップをかけてから、ぼくはふたりにこれからひと揺れ来ることを思い出させた──こればかりは練習するわけにいかなかった。流産の危険があったからだ。 「指を組み合わせろ、ジョウ。だが、彼女が呼吸できるようにしておくんだぞ。具合はどうだ、 「ああ……」彼女は、息もたえだえになっていった。「おら……おら、また始まっただよ!」 「がんばるんだぞ、リータ!」  ぼくは自分の左足が重力発生装置《グラヴィスタット》コントロールの上に乗っていることを確かめてから、彼女の腹を見つめた。  大きいぞ! それがピークに達すると、ぼくは重力を四分の一Gから二Gへ、ほとんど一瞬のうちに上げた──リータは悲鳴をあげ、赤ん坊が西瓜の種のようにぼくの両手へ飛び出してきた。  足を引いて重力をもとにもどすと同時に、ぼくはちび助をすばやく調べた。五体満足な男の子だ。赤くて、しわくちゃで、醜くて──ぼくはそいつの尻をぴしゃりとたたき、赤ん坊は産ぶ声を上げた。