地球の緑の丘 ロバート・A・ハインライン 目次 宇宙操縦士 鎮魂曲 果てしない監視 坐っていてくれ、諸君 月の黒い穴 帰郷 犬の散歩も引き受けます サーチライト 宇宙での試練 地球の緑の丘 帝国の論理 [#改ページ] 宇宙操縦士  ふたりが出かけようとしたときに、電話がかれの名を呼んだ。  彼女は哀願した。 「答えないで……開演に間に合わなくなるわ」 「どなたです?」  と、かれは呼びかけた。テレビ電話の映像板が明るくなり、オルガ・ピアースの顔が現われた。彼女の後ろに、月世界航空のコロラド・スプリングス事務所が映っていた。 「ペンバートンさんをお呼びしています。ペンバートンさん……あら、あなたなの、ジェイク。仕事よ。二十七号便。スプラ=ニューヨーク(ニューヨーク上空の人工衛星ステーション)から宇宙ターミナルまで。二十分以内に、ヘリコプターをさし向けますわ」  かれは抗議した。 「どうしたんだ? ぼくは、勤務表で四番目だぜ」 「四番目だったのよ。いまは、ヒックスの交替操縦士……あの人、たったいま、精神分析医にだめだっていわれたの」 「ヒックスが精神分析でだめ? そんな馬鹿な!」 「ところがそうなの。用意していてね、さよなら」  かれの妻は、十六ドルもするレースのハンカチをくしゃくしゃに丸めていた。 「ジェイク、こんなことってないわ。三カ月ものあいだ、あなたの顔がどんなだったのかしらって思うようになるほど、ろくに会えもしなかったのよ」 「すまん、フィリス。ヘレンを連れてショウに行ってくれ」 「まあ、ジェイク。ショウのことなど、どうだっていいの。わたし、ただあなたを、あの連中が探せないところへ連れていきたかったのよ」 「劇場で呼び出されたろうよ」 「いいえ! あなたがいい残しておいたこと消しちゃったもの」 「フィリス、ぼくを首にさせるつもりかい?」 「そんな目でわたしを見ないで」  彼女は、良人が口をきいてくれればと思い、話が横にそれたことを悔みながら相手の言葉を待った。自分がいらだっているのは、失望からではなく、良人が宇宙へ行くたびに、その安全を心配するからなのだということを、どうしたらわからせられるのだろう。  彼女はやけになって言葉を続けた。 「ねえ、あなた。こんどの飛行は、どうしてもというんじゃないのでしょう。あなたはまだ、制限時間だけも、地球にはいないのよ……お願い、ジェイク!」  かれはタキシードを脱ぎはじめていた。 「もう千べんもいったろう……操縦士というものは、規則書片手の宇宙弁護士みたいに、決まりきった手順で仕事ができるもんじゃあないんだ。ぼくの行先についての伝言を消してしまうなんて、フィリス、なぜそんなことをするんだい? ぼくを地上勤務にさせたいのかい?」 「そうじゃないわよ、あなた。でも、こんどだけはって……」 「飛ぶ機会を与えてくれたら、ぼくは引き受けるんだ」  かれは、こわばった表情で部屋から出ていった。  十分後にもどってきたかれは、宇宙へ出ていくときの服装をして、あきらかに上機嫌になって、口笛を吹いていた。 ……客がケイシイを訪ねてきた、四時半に、そいつがキスして……  かれは妻の顔を見ると、すぐ口笛をやめて、尋ねた。 「ぼくのコートはどこにあるんだい?」 「取ってきますわ。何か食べるものを作りましょうか」 「腹いっぱいでは、大きな加速度に耐えられないってことは知っているじゃないか。それに、もう一ポンド余計に運ぶのに三十ドル損してもいいのかい?」  ショートパンツ、ランニングシャツ、サンダルにウエストポーチというかれの格好では、もうすでに、約五十ポンドは軽いということでボーナスをもらえるのだ。  彼女は、サンドイッチと一杯のコーヒーぐらいでの罰金など、二人にとって何でもないことだといい始めたが、それはまた新たな誤解を生み出すだけのことだった。  二人とも、ヘリタクシーが屋上に下りてくるまで、ほとんど話さなかった。かれは妻に別れのキスをし、見送りには出てくるなといい、彼女はそのとおりにした──ヘリコプターの離陸する音を聞くまでは。それから彼女は屋上にのぼって、その姿が見えなくなるまで見つめていた。  旅行する人々は、地球から月への直行便がないことに不平をいっていた。このたった四万キ口ほどの旅行をするのに、三種類のロケット船にのり、二つの宇宙ステーションで乗り換えなければいけない。すべては金のせいなのだ。  通商委員会は、現在の三段階旅行によって地球から月まで行くときの料金を、一ポンドあたり三十ドルと決めた。  直行便のほうが安くつくだろうか?──地球から噴射して離陸し、月では空気のない中で着陸をおこない、引き返し、大気内での着陸をおこなう宇宙船となると、たった一度の旅行のために、重い特殊装置をいっぱいつけなくてはならない。これでは、一ポンド千ドルでも儲けがないことになる! フェリーボート、地下鉄、急行エレベーターを一緒にしたものを考えてみろというんだ。  そこで月世界航空は、地球から人工衛星ステーションのスプラ=ニューヨークまでのものすごい上昇に、カタパルトから発射でき、地球への帰還着陸用の翼もあるロケットを使っている。  ステーションから、月のまわりをまわっている宇宙ターミナルまでの長い中間航路用の宇宙船は、快適だといわれている──が、着陸装置はない。〈さまよえるオランダ人〉と〈フィリップ・ノーラン〉は、決して着陸しないのだ。  これらの宇宙船は、建造も宇宙でおこなわれ、翼のあるロケットの〈空の妖精〉とか〈ほたる〉に似ているというのは、プルマン一等寝台車がパラシュートにそっくりだというようなものだった。 〈月こうもり〉と〈グレムリン〉は、宇宙ターミナルから月へ飛び下りるだけのものだった──翼はなく、繭《まゆ》のような形の加速度緩衝ハンモック、巨大な噴射管用の個別制御装置などがついている。  乗換え場所は、空気調節装置のついているタンク以上のものではない。もちろん宇宙ターミナルは、火星と金星への旅行にも使われるので、ちょっとした町ではあるが。スプラ=ニューヨークのほうは今日でもいまだに原始的なもので、ガンリンスタンドに食堂兼待合室がついたもの以上ではない。気持ちの悪くなった乗客に、一Gに相当する遠心力サービスを始めてからも、五年にしかなっていないのだ。  ジェイク・ペンバートンは、宇宙空港事務所で目方をはかり、それから、カタパルトにのっている〈空の妖精〉のところへ急いだ。かれは作業衣をぬぎ、ゲート係にわたすと、ふるえながら宇宙船の中に飛びこんだ。そして自分の加速度ハンモックに入ると、眠りこんだ──スプラ=ニューョークまでの上昇飛行は知ったことではない。かれの仕事は深宇宙にあるのだ。  かれは、カタパルトの衝撃と、パイクス・ピークの山腹を突進するときの、ずしんと神経にこたえる感覚で目を覚ました。〈空の妖精〉がピークの上をまっすぐ飛び上がり、自由飛行に入ると、ペンバートンは息をつめた。もしロケット噴射管が点火しなかったら、連絡ロケット操縦士は、なんとしてでも翼を使って滑空させ、着陸しなければいけないのだ。  ロケットは定刻どおりに咆哮したので、ジェイク・ペンバートンはまた眠りについた。 〈空の妖精〉がスプラ=ニューヨークに係留されると、ペンバートンは、ステーションの星間航法室へ入っていった。かれは、ショーティ・ワインスタイン、計算機《ザ・コンピューター》が勤務についているのを見て嬉しくなった。ジェイクはワインスタインの計算を信頼していた──自分の船、自分の乗客、自分の命が、その計算にかかっているとき、これはいいことだ。ペンバートン自身、操縦士になるために、並の数学者より優れていなければいけなかったが、自分の能力の限界を知っていたので、軌道を計算する連中の天才ぶりに感心するようになっていたのだ。 「やあ、腕ききパイロットのペンバートン、宇宙の罰当たり操縦士のお出ましか!」  ワインスタインはかれに一枚の紙片を渡した。ジェイクはそれを見ると、びっくり仰天した。 「おい、ショーティ……きみは、間違いを犯しているぜ」 「え? そんなことがあるものか。メイベルは間違いを犯すことができないんだからな」  ワインスタインはそういいながら、壁面を埋めている巨大な航法コンピューターにむかって手をふった。 「間違えたさ。観測基準点をやさしいものにしてくれた……ベガ、アンタレス、レギュラスか……きみは操縦士に楽をさせてくれるつもりだな。組合から追い出されるぞ」  ワインスタインは照れくさそうだったが、嬉しそうにしていた。 「まだ十七時間ほどは出発しなくていいのか。それなら、朝の便でやってきたのに」  ジェイクの思いはフィリスのほうにもどっていった。 「国連が、朝の便を禁止したんだ」 「ほう……」  ジェイクは口を閉じた。ワインスタインもかれと同じで、何も知らないのはわかっていたからだ。たぶん、地球のまわりを警官のようにまわっている原爆ロケットに、かなり接近して通過するからだろう。安全保障理事会の幕僚連中は、地球という惑星の平和を守る最高機密に関しては、なんの情報も与えないのだ。  ペンバートンは肩をすくめた。 「では、もしぼくが眠っていたら、三時間前に呼んでくれ」 「うん、きみのテープはそれまでに用意しておくよ」  かれが眠っているあいだに〈さまよえるオランダ人〉は、静かにその鼻を係留台につっこみ、エアロックをステーションに合わせ、月世界市《ルナ・シティ》からの乗客と荷物を下ろした。かれが目を覚ましたとき、宇宙船の船倉はいっぱいになっており、燃料は補給され、乗客が乗っていた。  かれは郵便局のラジオ・デスクによって、フィリスからの手紙はないかと探した。見つからなかったので、彼女はターミナルのほうへ送ったのかもしれないと、自分にいい聞かせた。かれはレストランに入ってゆき、ヘラルド・トリビューンの電送版を買い、坐りこむと漫画と朝食に没頭した。  向かいに坐った男が、ロケットの技術についてつまらない質問をして、かれを悩ませ、ペンバートンのシャツに刺繍してある記章を見まちがって、船長≠ニまで呼びはじめた。ジェイクはその男から逃れるために大急ぎで朝食をすませ、自動操縦装置からテープを取って、〈さまよえるオランダ人〉に乗りこんでいった。  船長に報告すると、かれは手すりをつたい、操縦室に泳ぐようにして入っていった。それから操縦席に体をバックルでとめると、点検をはじめた。  ジェイク・ペンバートンが弾道追跡装置の点検を終わったとき、ケリー船長が漂いながら入ってきて、隣りの椅子に坐った。 「タバコを吸わないか、ジェイク?」 「あとにするよ」  かれは仕事を続け、ケリー船長はちょっと眉をよせてかれを見つめた。マーク・トウェインの書いたミシシッピー川ものの船長や水先案内《パイロット》のように──そして同じ理由から──宇宙船の船長は、その船、乗組員、積荷、乗客を指図するが、操縦士《パイロット》はその旅行の出発から終わりまで、いかにその宇宙船を操縦するべきかについて、最終的な、法律的に疑問の余地のない支配者なのである。  船長は、与えられた操縦士を断ることができる──だが、それだけなのだ。ケリー船長は、ポケットの中につっこんだ紙片をつかみ、当直中だった会社の精神分析医が、それを渡したときにいった言葉を考えていた。 「ぼくはこの操縦士に許可を出しはするがね、船長。でも、きみがいやだといってもいいんだ」 「ペンバートンはいい男ですよ。何かあるんですか?」  精神分析医は、朝食の最中の男をなやませる馬鹿な旅行客のふりをしながら観察したことを、よく検討してみたのだ。 「あの男は、過去の記録が示しているより、ちょっと非社交的になっている。何か考えごとがあるんだな。何か知らんが、当分のあいだは、それに耐えられるだろう。ぼくらは、かれに注意したほうがいいね」  ケリー船長は答えた。 「操縦士になって、あの男と一緒に来てくれませんか」 「そうしてほしいんならね」 「まあいいでしょう……あいつを連れていきますよ。只乗りを乗せていくこともありませんからな」  ペンバートンは、ワインスタインのテープをロボット操縦装置に入れてから、ケリー船長のほうに向いた。 「操縦用意よろしい、船長」 「用意よければ、発進」  ケリー船長は、もうやりなおしのきかない決定をした自分自身の声を聞いて、かえってほっとした気分だった。  ペンバートンはステーションに、離せと信号した。巨大な船は、空気でふくらまされた衝角でおされ、千フィートほど離れた空間に漂ってゆき、一本の綱でつながれた。それからかれは、船の重心にあるジンバルの中のはずみ車を急速に回転させて、船を飛んでゆく方向にむけた。船はニュートンの運動の第三法則のおかげで、反対の方向にゆっくりと回転していった。  テープに指令されて、ロボット操縦装置は操縦士用の潜望鏡のプリズムを傾け、船が正しい方向にむくと、ベガ、アンタレス、レギュラスが一つになって輝いて見えるようにした。ペンバートンは、その方向に船を慎重に動かした──ここで六十分の一度でも狂わせると、目的地では二百マイルも離れることになるのだ。  三つの光が一点に重なると、かれははずみ車をとめ、ジャイロをしまいこんだ。次にかれは、三つの星をそれぞれ観測することによって、船の方向を確かめた。大洋を渡る船長が六分儀を使ってやるようなものだが、くらべものにならないほどずっと正確な道具だった。  この観測をしても、ワインスタインが命じたコースの正確さについては何もわからない──それは神の言葉として信じておくほかないのだ──それでも、ロボット操縦装置とそのテープが、計画どおりに動いていることはわかる。かれは満足して、最後の綱を捨てた。  出発まで七分──ペンバートンは、その時刻表示にロボット操縦装置が噴射を開始させるためのスイッチを入れた。かれは両手を手動操縦装置の上において、ロボットが失敗したらすぐ代われるようにと待機したが、体の中で、例の、逃れられない苦しいような興奮が、しだいにたかまってゆくのを感じた。  アドレナリンが急激に多くなってゆき、時間感覚が引き伸ばされ、耳の中ががんがん嗚りはじめたのに、かれの心は妻のフィリスのほうにもどってゆくのだ。  彼女に不平が生じてきたのも当然だと、かれは考えた──宇宙飛行士《スペースメン》は結婚などすべきじゃあないのだ。もしかれが着陸するときに事故でもおこったら、彼女が飢えることになるというのではない。困るのは、彼女の欲しているのが、保険ではなくて良人であるということなのだ──あと六分。  もし定期航路で働いたら、彼女は宇宙ターミナルに住むこともできる。  だめだ──宇宙ターミナルでぶらぶらしている女は、だめになってしまう。そりゃあフィリスは、尻軽女や、飲んだくれ、にはならないだろうが、ただ、頭が変になるだろう。  あと五分だ──かれ自身、宇宙ターミナルなんかどうでもいい。宇宙なんか何だ! 惑星間旅行のロマンスだって──文字の上ではいいが、その実体はお見通し。仕事。単調さ。見るべきところなし。むやみに忙しいかと思うと、退屈いっぽう。家庭生活なし。  どうして地道な仕事について、夜は家にいるようにしなかったんだ。  わかっていたさ! かれは宇宙操縦士であり、仕事を変えるにも年を取りすぎているのだ。  三十にもなり、女房持ちで、いい給料に慣れているものが、いまさら商売替えする機会などあるものか? (あと四分)ヘリコプターを歩合で売りでもしていたら、格好よく見えるだろうか?  そりゃあ、灌漑してある土地でも買うことはできるかもしれない、そして──その年でか! おまえに畑が耕せるぐらいなら、牛に平方根が解けるだろうよ! 訓練期間中にロケットを選んだときから、一生の道は決まってしまったんだ。電子工学のほうへでも行くか、それとも除隊兵奨学資金でも取っていたら──いまとなっては、もう遅すぎる。除隊後すぐハリマン月世界開発会社へ飛びこんで、月の鉱石の上を跳ねまわった。それで、だめになってしまったんだ。 「調子はどうだい、ドック?」  ケリー船長の声は緊張していた。 「あと二分とちょっとだ」  この野郎──出発ぎりぎりのときに操縦士に聞かなくたって、よくわかっているくせに。かれは最後に、もう一度潜望鏡をのぞいた。アンタレスがちょっとずれているようだ。かれはジャイロをはずし、傾けて、はずみ車をまわし、一瞬ののち、乱暴にガシッととめた。星の光はまた一点になった。どうやったかなんて説明はできない。それは教科書や教室では知ることのできない名人芸であり、正確な手さばきだった。  二十秒……経度測定時計《クロノメーター》の表面に光の玉が秒をきざんでゆき、いつでも手動で点火するか、あるいは、もし自分の判断が命ずれば、スイッチを切ってこの飛行を拒絶することにするか、かれは緊張して待機した。  度をこすほど慎重な決定は、ロイド保険がかれとの契約を解消することにもなりかねないが、向こうみずな決定は、かれのライセンスどころか、かれの生命──ほかの人々の生命まで引き換えにしてしまうのだ。  だがかれは、保険業者もライセンスも、いや、生命のことさえも考えていなかった。事実、かれは何も考えていなかった。かれは感じていた。かれの神経が宇宙船のすべてに張りめぐらされたかのように、船を感じていたのだ。  五秒……安全装置がはずれる。四秒……三秒……二秒……一……  かれが、手動噴射ボタンをおしたのと同時に、轟音がおこった。  ケリー船長は、噴射でおきた擬似重力にほっとしながら見まもっていた。ペンバートンはダイアルを走り読みし、時間に注意し、スプラ=ニューヨークから跳ねかえってくるレーダーで進行状態を調べるなど、大忙しだった。ワインスタインの数字、自動操縦装置、船そのもの、すべてがぴたりと合っていた。  何分かののち、ロボットが噴射を切るべき重要な瞬間がせまってきた。ペンバートンは、指先を手動停止装置の上におきながら、レーダースコープ、加速計、ペリスコープ、クロノメーターに注意を注いでいた。  一瞬前まで轟々とジェットを噴射していたのが、次の瞬間、宇宙船は自由軌道に乗り、月にむかって、音もなく突進していく。人間と自動装置があまりにも一体化していたので、ペンバートン自身、どちらが電源を切ったのかわからなかった。  かれは計器盤をもう一度見てから、バックルをはずした。 「船長、さっきのタバコをいただきましょう。それから、乗客にベルトをはずしてもらって結構です」  宇宙で、副操縦士《コ・パイロット》は不要だ。そして、操縦士ならだれでも、ほかの人間と操縦室を共有するぐらいなら、歯ブラシを共有するほうがましだというだろう。操縦士は、発進のときに約一時間、接触のときにも同じぐらい働くが、自由飛行のあいだは、きまりきった点検と修正作業をするほかは、ぶらぶらしているのだ。  ペンバートンは次の百四時間を、食事、手紙書き、睡眠──とりわけ睡眠に使うための準備を始めた。  目覚ましに起こされると、かれは船の位置を点検し、それから妻に手紙を書き始めた。 [#ここから2字下げ]  ぼくの大切なフィリス……あの夜をふいにしたことで、きみが怒ったのをとがめはしない。ぼくだって、がっかりしたんだ。でも、我慢してくれ、ダーリン。ぼくが定期航路に乗れるようになるのも、そう遠い話じゃあないんだ。十年もすれば引退して、ふたりで、ブリッジやゴルフやそういったのをやれるようになるんだ。そりゃあ、ずいぶん辛いこととは思うが…… [#ここで字下げ終わり]  スピーカーが鳴った。 「やあ、ジェイク……よそゆき顔になってくれ。操縦室にお客を連れていくからな」 「船長、操縦室にお客はお断りですよ」 「なあ、ジェイク。そのとんま野郎は、ハリマン親爺自身が書いた手紙を持っているんだ……できるかぎり丁重に……とか何とかね」  ペンバートンは、急いで頭を働かせた。断ることはできる──だが、大物に逆らってみても意味はない。 「オーケイ、船長、短くしてくださいよ」  客は、陽気で、ばかでかい男だった──ジェイクの見るところ、八十ポンド分は重量超過料金を取られたことだろう。その後ろから、十三歳ぐらいの、そいつに瓜ふたつの男の子が、入口から飛びこんできて、制御卓に突進した。  ペンバートンはそいつの腕をつかみ、できるだけ優しくいおうとした。 「坊や、その手すりにつかまっているんだよ。頭をぶつけてもらいたくないからね」 「はなせ! パパ……はなさせてよ」  ケリー船長が口をはさんだ。 「判事さん、坊ちゃんは、じっとしておられるほうがいいと思いますが」 「う、うん……よろしい。坊や、船長さんのいうとおりにするんだ」 「でも、パパ!」  ケリー船長は急いでいった。 「シャハト判事さん、これは一等操縦士のペンバートンです。かれが、いろいろとご説明します」 「よろしく、操縦士くん。いろいろとすみませんな」 「ご覧になりたいのは、どんなものでしょう、判事さん?」  と、ジェイクは用心深く尋ねた。 「ああ、あれもこれもです。子供のためなんですよ……この子には、初めての旅行でね。わたしのほうは、宇宙では古狸……ひょっとすると、この船の乗組員の半分より、飛んだ時間は長いかもしれないな」  判事はそういって笑ったが、ジェイク・ペンバートンは笑わなかった。 「自由落下飛行のときには、たいして見るものがありませんが」 「いや結構。のんびりさせてもらうだけで、いいんです……な、船長さん」 「ぼく、操縦席に坐りたいよ」  と、シャハト二世がいいだした。ペンバートンはぎょっとし、ケリー船長は急いでいった。 「ジェイク、坊やに操縦装置を説明してあげてくれないか? それがすんだら行くから」 「何も説明してくれなくていいんだ。ぼく、ぜんぶ知っているんだから、アメリカ少年ロケット操縦士≠ネんだよ……ぼくの記章見たかい?」  少年は、制御卓のほうへ飛んでいこうとした。  ペンバートンはその子をつかみ、操縦士の椅子におしこみ、ストラップをかけた。それからかれは、制御盤の電源を切った。 「何しているの?」 「説明できるように、操縦装置へゆく電気を切ったんだよ」 「ジェットを噴射させないのかい?」 「しないんだ」  ジェイクは早口に、ボタン、ダイアル、スイッチ、メーター、いろんな仕掛けに、観測鏡など、それぞれの使用法と目的を説明しはじめた。  少年は体をねじらせて尋ねた。 「隕石はどうなの?」 「ああ、あれかい……地球と月のあいだを五十万回旅行して、一度ぐらいぶつかるかな。隕石は少ないんだ」 「それでもさ、もしあったら? 大変なことになるだろう」 「大丈夫さ。衝突防止レーダーが、あらゆる方向にむかって八百キロは守ってくれているんだ。もし何かが三秒間まっすぐこちらにむかってきていたら、レーダーに直結した装置が、ジェットを噴射させるんだ。最初にまず、警報ベルが鳴り、全員が何でもいいからしっかりしたものをつかむ。すると一秒後には……ブーン! ぼくらは、早いところ、そこから逃げ出すんだ」 「馬鹿げているなあ。ねえ、カートライト准将がコメット・バスター号で、どういうふうにやったか教えてあげようか……」 「操縦装置にさわるんじゃない!」 「あんたの船じゃないよ。パパがいってたぜ……」 「おい、ジェイク!」  名前を呼ばれて、ペンバートンは魚のように体をひねり、ケリー船長のほうに向いた。 「ジェイク、シャハト判事がお知りになりたいのは……」  ペンバートンは横目で、少年が制御盤に手をのばすのを見た。かれはそちらを向いて、怒鳴ろうとした──ジェットが耳の中でとどろき、加速度がかれをひっつかんだ。  経験をつんだ宇宙操縦士は、ふつうなら、無重力から加速状態に変わっても、猫のように体をひるがえせるものだ。だが、ジェイクは、つかまろうとしていたのではなく、少年をつかまえようとしていたのだ。かれは後ろにひっくり返り、シャハト判事を避けようとして体をひねったために、開いていた下の気密ドアのふちに頭をぶつけ、のびてしまい、次のデッキまですっ飛んでいった。  ケリー船長が、かれをゆすぶっていた。 「大丈夫か、ジェイク?」 「ああ、大丈夫……」  かれは起き上がり、轟音と床をふるわせている震動に気がついた。 「……ジェットだ! 電源を切れっ!」  かれはケリー船長をつき飛ばし、操縦室へ飛びこんでゆき、噴射停止ボタンをたたいた。突然、耳が鳴るような沈黙の中で、かれはまた重さをなくした。  ジェイクはふりむき、シャハト二世のストラップをはずし、ケリー船長のほうへおしやった。 「船長、お願いだ、この物騒な野郎を操縦室から出してくれ」 「はなせ! パパ……こいつがいじめるんだ!」  父親のほうのシャハトは、すぐさまかんかんになった。 「どうしたというんだ? 息子をはなしなさい!」 「あなたの大事な息子さんが、ジェットを噴射させたんですがね」 「坊や……ほんとかね?」  少年は目をそらせた。 「ううん、パパ。あれは……隕石だったんだよ」  シャハトはまごついた表情になり、いっぽう、ペンバートンは怒っていった。 「隕石を避けるため、レーダー装置でジェットを噴射させるようになっているって話したんですよ。この子は嘘をついています」  シャハト判事は、いわゆる心を決める≠ニいうプロセスをすませてから答えた。 「息子は決して嘘をつかないんだ。恥ずかしくはないのかね、大人が小さな子供に罪をきせようとするなんて。あんたのことは報告しますぞ。来なさい、坊や」  ジェイクはその腕をつかんだ。 「船長。この人が出ていく前に、操縦装置の指紋写真を取ってほしいもんですな。あれは隕石じゃあなかった。この子がスイッチを入れるまでは、制御盤の電気はとまっていたし、衝突防止回路が警報を嗚らしたはずですからな」  シャハト判事は、用心深そうな顔つきになった。 「こいつはおかしいな。わたしはただ、息子の人格に対する中傷に反対しただけだ。何の被害もなかったことだし」 「何の被害もなかったですと? 腕や頭をやられたのはどうなるんです? それに燃料の浪費、船をもとにもどすのには、もっと使わなくちゃあいけないんだ。ご存知でしょうな、宇宙の古狸さん。宇宙ターミナルに軌道を合わせようとするとき、ほんのちょっとの燃料が、どれほど貴重なものになるか? それに足らなくなったら、どうなるんです? 船を助けるために、貨物を捨てなければいけないかもしれない……運賃だけでも、トンあたり六万ドルかかっている貨物ですよ。指紋でだれの責任か、通商委員会にもわかるでしょう」  また二人だけになると、ケリー船長は心配そうに尋ねた。 「ほんとに荷物を捨てるんじゃあないだろうな? 非常用の予備が使えるはずだ」 「ターミナルまで行きつくこともできないかもしれないんですよ。どれぐらい噴射していたかです」  ケリー船長は頭をかいた。 「ぼくもぼんやりしていた」 「加速記録器をあけて、調べてみましょう」  ケリーは顔を輝かせた。 「ああ、そうだ! あの子供が、そうまで浪費していなかったら、船をまわして、同じ時間だけもどせばいい」  ジェイクは首をふった。 「質量比が変わったことを忘れていますよ」 「そ……そうだ!」  ケリー船長は、困ったような顔になった。質量比……噴射していたあいだに船は、燃焼した燃料分の重さを失ったのだ。推力は同じだが、押される質量は小さくなっていったのだ。正しい位置、コース、速度にもどるには、弾道計算上、複雑な問題となる。 「でも、きみにはやれるね。そうだろう?」 「やらなくちゃあしょうがありませんよ。でも、ここにワインスタインがいてくれたらと思いますね」  ケリー船長は乗客の様子を見に出ていき、ジェイクは仕事にかかった。かれは、天文観測とレーダーで位置を調べた。レーダーは、三つの要素をすぐに出してくれたが、正確さは限られている。太陽、月、地球を観測して位置はわかったが、コースと速度は、まったくわからなかった。その目的のために、二回目の観測ができるときまで待つわけにはいかない。  ワインスタインの予測コースに、シャハトの息子のいたずらの影響を考え合わせることによって、推定位置が推算できた。これは、レーダーと肉眼の観測におおむね合ってはいたが、かれにはまだ、元の軌道にもどり、目的地まで到達できるかどうかわからなかった。いま必要なのは、これからどれぐらいかかるか、船の速度にブレーキをかけて軌道と合わせるのに、残っている燃料で充分かどうかを計算することだった。  宇宙では、秒速何マイルといった速さで目的地に着くことは感心しない。時速何百マイルというのんびりした進みかたでも同じだ──皿の上に卵をおくようなもので、ぶつけてはいけないのだ。  かれは、最小限の燃料でやるにはどうすればいいかと、計算に頑張りはじめたが、手元にある小さな事務用電子計算機では、スプラ=ニューヨークにある何トンものIBMコンピューターにかなうはずもなく、それにかれはワインスタインでもないのだ。三時間後、解答らしいものが出てきたので、かれはケリー船長を呼んだ。 「船長、シャハトと息子をほうり出すことから始めてもらいましょうか」 「喜んでやるよ。ほかに方法はないのかい、ジェイク?」 「積荷を捨てなきゃあ、あんたの船を安全に運んでいける約束はできませんよ。噴射する前に捨てたほうがいいんです。そのほうが安上がりになりますからね」  ケリー船長はためらっていた。片足をなくしでもするほうが、まだましだというようだった。 「何を捨てたらいいか、考える時間をくれよ」 「いいですとも」  ジェイク・ペンバートンは悲しげにまた数字にもどり、そんなことをせずにすむような間違いをやらなかったかどうか、見つけようとしたが、やがてもっといいことを考えついた。かれは通信室を呼んだ。 「スプラ=ニューヨークのワインスタインにつないでくれ」 「ふつうの通信距離外ですが」 「わかっているよ、こちらは操縦士だ。安全優先権で……緊急だ。むこうにしっかりビームを合わせて、外さないようにしてくれ」 「ええ……わかりました、やってみます」  ワインスタインは自信がなさそうだった。 「なんとまあ。ジェイク、ぼくには教えられないよ」 「馬鹿いうな。ぼくのために問題を解いてくれ!」 「いいかげんなデータで、正確なものは出せないよ」 「そのとおりだ。しかしきみは、ぼくの持っている道具を知っているし、それを使うぼくの腕前もどれぐらいか知っている。いまよりは、ましな答えを出してくれ」 「やってみよう」  ワインスタインは四時間たって返事をしてきた。 「ジェイクか? 答えが出た。きみは予定されたスピードに合わせるために、逆噴射し、それから位置を修正しようとした。オーソドックスだが、不経済だ。そのかわりにぼくは、すべてを一つの操船行動として、メイベルに解かせた」 「ありがたい!」 「そう急ぐな。そうすれば燃料は節約できるが、充分じゃあない。もとの軌道にもどって、荷物を捨てずにターミナルに着けるかどうか、わからないよ」  ペンバートンはその言葉を飲みこんでから答えた。 「ケリーにそういうよ」 「ちょっと待った、ジェイク。こいつをやってみてくれ。最初からやりなおすんだ」 「え?」 「ぜんぜん新しい問題だと考えるんだ。きみのテープにある軌道のことは忘れろ。現在のコース・スピード・位置から、ターミナルの軌道に合う、いちばん安上がりの軌道を計算する。新しい軌道をつかむんだ」  ペンバートンはぽかんとした。 「それには、まったく気がつかなかった」 「もちろんだ。その船の小型計算機では、解くまでに三週間かかるよ。書く用意はできているかい?」 「ああ」 「これがデータだ」  ワインスタインは読み始めた。読み合わせたあとで、ジェイクはいった。 「これで、むこうに着けるんだな?」 「たぶんね。きみのくれたデータが、できるかぎり正しくて、ロボットと同じぐらい正確に指示に従い、どんな修正も要しないほどうまく噴射させることができたら、なんとか向こうに着けるはずだ。たぶんだよ。とにかく、幸運を祈る」  波がゆれるような受信状態で、最後の言葉は、はっきりしなかった。  ジェイクはケリー船長に伝達した。 「荷物は捨てないでいいですよ、船長。乗客にベルトをしめさせてください。噴射を始めます、あと十四分だ」 「よろしい、操縦士」  新しいコースを取りはじめ、点検をすませると、かれにはまた、時間の余裕ができた。かれは、書きかけの手紙を取り出して読み、それから破ってしまった。 最愛のフィリス≠ニ、また書き始めた。 [#ここから2字下げ]  この旅に出てから、ぼくは真剣に考え、やっと自分が馬鹿だったという結論に達した。こんなところで、いったいぼくは何をしているのだろう? 家がいい、ぼくは妻に会いたいんだ。  ガラクタを運ぶために、どうしてぼくは、生命ときみの心の平和を賭けなければいけないんだ? 馬鹿者どもを月までとどけてやるために、なぜ電話ばかり気にしていたりしたんだ……ボートを漕ぐこともできないようなとんまを、初めから家にいたほうがいいようなやつを。  金だ、もちろん。ぼくは仕事を変える危険を恐れていたんだ。いまの給料の半分もくれる仕事も見つけられないかもしれない。でも、きみにその勇気があるなら、ぼくは地上に下りて、初めからやりなおそう。愛しているよ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]ジェイク  手紙をしまうと、かれは眠りにつき、少年ロケット操縦士≠フ全隊員が、かれの操縦室を占領してしまった夢を見た。  すぐ近くから月を眺めることは、宇宙から見る地球の姿に次いで旅行客の目を引くものだ。だがペンバートンは、ターミナルにまわりこんで近づいていくあいだも、全乗客がベルトをしていることを主張した。貴重な残り少ない燃料で軌道を合わせようと操作するとき、観先客を喜ばせるために、船をふらつかせることはまっぴらだったのだ。  月のふくらみをもう一度まわると、ターミナルが見えてきた──船尾を先にしていたから、レーダーだけに見えたのだが。何度か短くブレーキ用の噴射をしたあと、ペンバートンは新たなレーダー圏に入り、かれは船の接近をワインスタインの数字から割り出したカーブとくらべた──一方の目で時間を、他方は観測鏡を、次に図面を、その次に燃料計をと見ていって。  ケリー船長は気をもんでいた。 「どうだい、ジェイク? やれそうか?」 「そんなこと、わかるもんですか? 投げ荷の用意をしておいてほしいですね」  かれらは、荷物を捨てることになったら液体酸素にしようと意見が一致していた。それなら手を使わなくても、外側のバルブから噴出させてしまえる。 「それをいうなよ、ジェイク」 「くそっ……やらずにすませられるなら、ぼくだってやるもんですか」  かれはまた操縦装置に指を走らせていた。噴射音がその言葉をかき消した。それがとまったとき、無電連絡回路がかれを呼んでいた。 「こちら、〈さまよえるオランダ人〉の操縦士」 「ターミナル管制室……スプラ=ニューヨークから、きみが燃料不足だといってきている」 「そのとおり」 「近づくな。外側でスピードを合わせてくれ。乗換えの船を送って、きみに燃料を補給し、乗客は引き取る」 「やれると思うよ」 「それはやめて、補給まで待ってくれ」 「おれの船をどう操縦しようと、口出しするな!」  ペンバートンはスイッチを切ると、不機嫌そうに口笛を吹きながら、制御盤を見つめた。ケリー船長は、心の中でつぶやいた。 ケイシイが火夫にいいました。坊や飛び出せ、飛び出せ坊や、機関車二つがぶつかるぞ! 「きみは、なんとしても係留台に入れるつもりか、ジェイク?」 「いや……そんなことは、するもんですか。ターミナルの横腹に穴をあけるようなことはできませんよ。それも、お客を乗せていたんではね。だが、五十マイルも外で速度を合わせて、引き船を待つ気はありませんよ」  かれはターミナルの軌道のすぐ外側にニア・ミスするように、ワインスタインの数字はおかまいなく勘で操縦した。かれの狙いはぴったりあたり、ターミナルにぶつからないように、最後の瞬間に修正して貯蔵燃料を浪費しなくてもすんだ。最後に急停止しなければ、そのまま行き過ぎてしまうことがはっきりしたとき、かれはもう一度ブレーキをかけた。そして動力を切ろうとしかけたとき、噴射管がせきこんで、ぶつぶついい、止まってしまった。 〈さまよえるオランダ人〉は、ターミナルの外側五百ヤードの真空の中を、ターミナルと同じ速度で漂っていた。  ジェイクは無電のスイッチを入れた。 「ターミナル……引き綱の用意をしてくれ。引っぱりこんでもらうから」  報告書に書きこんでから、シャワーを浴び、手紙を無線電送してもらおうと郵便局にむかおうとしたとき、伝声管がかれに最先任操縦士《コモドア・パイロット》事務所へ来いと呼んだ。やれやれ、シャハトのやつがお偉方を怒鳴りつけたんだな……あの野郎、いったい何株ぐらい持ってるんだろう? それにまだほかにもある……おれは管制室にくってかかったんだ。  かれは、堅くなって出頭した。 「一等操縦士ペンバートンです、サー」  最先任操縦士ソームズは頭を上げた。 「ペンバートン……やあ。きみは資格を二つ持っているな……宇宙ステーション間飛行と真空着陸の」  話をそらすのはやめたらどうなんだ、とジェイクは心の中でつぶやき、はっきりと口に出していった。 「こんどの飛行のことでは、まったく弁解する気はありません。もし最先任操縦士に、わたしの操縦室の使いかたかお気に入らぬなら、辞職させていただきましょう」 「きみは、何のことをいっているんだい?」 「わたしは、その……乗客からの苦情はなかったのでしょうか?」  ソームズは何でもないことのようにいった。 「あいつは、ここへやってきたよ。だが、ケリー船長の報告も、きみのジェット主任のも、スプラ=ニューヨークからの特別報告も来ているんでね。すばらしい操縦だったじゃないか、ペンバートン」 「会社から文句はなかったというんですか?」 「ぼくが操縦士をかばわなかったことがあるかい? きみは完全に正しかった。ぼくなら、あの男をエアロックから放り出していたろうよ。それより仕事の話にかかろう。きみは宇宙ステーション間の任務についているが、ぼくはルナ・シティへ、臨時に特別便を送りたいんだ。ぼくのためにやってくれないか?」  ペンバートンはためらい、ソームズはあとを続けた。 「きみが救った酸素は、宇宙研究計画用のものなんだ。かれらは、北トンネルのロックを吹き飛ばしてしまい、何トンもの酸素をなくしてしまった。仕事はとまってしまい……賃金だの違約金だのと、一日約十三万ドルの損害なんだよ。〈グレムリン〉はここにあるが、〈月こうもり〉が入ってくるまでは、操縦士かいない……きみのほかにはな。さてと?」 「しかしぼくは……ねえ、最先任操縦士。ぼくの噴射着陸では、おおぜいの命が危ないですよ。ぼくは長いあいだやっていないし、もう一度訓練を受けて、試験してもらわなければ」 「乗客なし、乗組員なし、船長もなし……きみの生命だけなんだ」 「やりましょう」  二十八分後、〈グレムリン〉の不格好だが強力な船体の中に入ったかれは、発進した。軌道速度を殺すために、一度強く噴射させ、月にむかって落下させていけば、あとは尻尾を下にして着陸させるときまで、何の心配もないのだ。  かれはいい気分だった──二通の手紙を取り出すまでは。かれが送りそこなった一通と、ターミナルで渡されたフィリスからの一通だ。  フィリスからの手紙には、愛情がこもっていた──だが、うわべだけ取りつくろったものだった。かれがとつぜん出発してしまったことには触れていなかったし、職業のこともまったく無視していた。その手紙は、立派さの見本みたいだったが、それがかれを心配させた。  かれは手紙を二通とも破り捨てて、また書き始めた。その中では、こんなことも書いた。 [#ここから1字下げ]  ……これまではっきり口に出したことはなかったが、きみはぼくの仕事を恨んでいるんだ。ぼくらが暮らしていくためには、ぼくは働かなければいけない。きみにも仕事がある。それは女が昔から長いあいだやってきた仕事だ……幌馬車に乗って平原をわたり、中国から帰ってくる船を待ち、爆発のあった鉱山の出口に待ち……笑いながら別れの接吻をし、家では良人の世話をするという仕事だ。  きみは宇宙操縦士と結婚した。だから、きみの仕事の一部は、ぼくの仕事を朗らかに受け入れてくれることにある。それをわかってくれさえしたら、きみにはできると思うのだ。そうなってほしい。いままでのままでは、おたがいによくないからだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]信じてくれ、きみを愛しているんだ [#地付き]ジェイク  かれは、着陸のために船を下へむけるときがくるまで、そのことをじっと考えていた。  高度二十マイルから一マイルまで、かれは自動操縦装置に制動噴射をまかせたが、それから、ゆっくりと降下してゆくあいだに手動装置に変えた。  完全な真空における着陸は、軍用ロケットの発射と逆だ──自由落下、それからジェットを長く噴射させ、宇宙船が地面についたとき、ぴたりと停止する。実際、操縦士は──金星のこの部分では、重力と長く戦っていると、燃料を使い切ってしまうぞというように、どれぐらいまで降下しているかということを、かなり早く感じられなくてはいけないのだ。  四十秒後、時速百四十マイルちょっとで落下しているとき、かれはペリスコープの中に千フィートほどの塔を発見した。三百フィートのところで一秒ちょっとのあいだ五Gほど噴射させ、それを切り、月でのふつうの噴射、六分の一Gにした。それから、ほっとしながらそれをとめた。 〈グレムリン〉はゆっくりと、激しい噴射で月面の土を散らしながら、衝撃もなく、ゆうゆうと着陸した。  地上勤務員があとを引き受け、気密乗用車がペンバートンをトンネルの入口へ運んでいった。ルナ・シティに入ると、報告を書き終わる前に、ボーイに呼ばれた。電話を取ると、スクリーンの中からソームズが微笑んでいた。 「ペンバートン、着陸場のテレビで着陸を見たよ。きみに、復習の必要はないね」  ジェイクは顔を赤らめた。 「サンキュー、サー」 「どうしても、宇宙ステーション間の飛行につきたいというのではなかったら、ルナ・シティ定期便をやってもらってもいい。ここに住むか、ルナ・シティに住むか? どうだい?」  かれは、気づかぬあいだにいっていた。 「ルナ・シティです。やりますよ」  かれは、ルナ・シティ郵便局に入りながら、三つめの手紙を破ってしまった。電話のデスクで青いムーン・スーツを着た金髪にいった。 「カンザス州ダッジ・シティ、郊外六四〇三、ミセス・ペンバートンを頼む」  彼女はジェイクを眺めた。 「あなたがた操縦士って、ほんとにお金づかいが荒いのね」 「ときには、電話も安いものだよ。急いでくれないか」  フィリスは、もっと前に書いておこうと思っていた手紙の文句を考えようとしていた。淋しいとか楽しみがないとか、そんな不平をいっているのではなく、かれの身の安全を心配する緊張に耐えられないのだ、ということは、手紙の中でいうほうが楽だった。ところが、それを論理的にしめくくろうとすることは、まったく不可能なのだ。もし、かれが宇宙を捨てられないなら、はっきりとかれをとめることができるだろうか? 彼女には、まったくわからなかった……電話に呼ばれて、かえってありがたいぐらいだった。  スクリーンはまだ空白のままで、声が聞こえてきた。 「長距離、ルナ・シティからです」  恐怖が、彼女の心臓をしめつけた。 「こちらは、フィリス・ペンバートンですが」  長ったらしい遅延だった──電波が地球と月を往復するのに三秒ほどかかることを、彼女は知っていた。だが、そんなことは思い出さなかったし、思い出したところで、安心できなかったろう。彼女の心に浮かんだのは、破れさった家庭、寡婦となった自分のこと、そしてジェイク、宇宙で死んでしまったいとしいジェイクのことだった。 「ミセス・ペンパートン?」 「そうよ! 急いでちょうだい」  また待たされたあの人を、気分をこわしたまま、落ち着かないままで送り出し、そのためあの人の判断が狂ったのではないのかしら? あの人は、仕事にでかけるときに文句をいったわたしだけを思い出しながら、宇宙で死んでしまったのではないかしら?  わたしはあの人が必要としたときに、あの人に背くことをしたのではないかしら? わたしのジェイクが、エプロンの紐にくくりつけられるような人ではないことを、よく知っていたのに。男は──母親っ子ではない、大人になった男は──ママのエプロンの紐など引きちぎってしまうべきなのだ。  それなのに、なぜあの人を縛りつけようとしたのだろう? わたしには、よくわかっていたのに、わたし自身の母親もそんなことはしないように注意してくれたのに。  彼女は祈った。  そして、別の声──ほっとして、彼女の膝は抜けそうになった。 「きみかい、フィル?」 「そうよ、ダーリン、そうよ! 月で何をしてらっしゃるの?」 「長い話だ。一秒一ドルじゃ、あとから話すよ。ぼくの知りたいのは……きみに、ルナ・シティへ来る気はあるかどうかってことだ」  こんど返事がくるまでのしようことない遅延に悩むのは、ジェイクの番だった。フィリスが心を決めかねて、ぐずついているのではないかと、心配になるのだった。やっと彼女の声が聞こえてきた。 「もちろんよ、あなた。いつ、立ちましょう?」 「いつ……おい、理由も聞きたくないのかい?」  理由なんて問題じゃないわと、彼女はいおうとしたが、すぐにいった。 「ええ、話して」  遅れは同じように存在していたが、もう二人とも気にならなかった。ジェイクは妻にニュースを話し、そしてつけくわえた。 「コロラド・スプリングスへ走って、オルガ・ピアースにお役所仕事をやってもらうんだ。荷作りに帰ろうか?」  彼女はすぐに考えた。とにかく帰ってくるつもりなら、そんなことは始めからいわないだろう。 「いいわ。わたし自分でやれる」 「いい子だ。何を持ってきたらいいとか、そういうことは、長い手紙を電送するよ。愛しているよ、さようなら!」 「わたしも愛しているわ。さようなら、あなた」  ペンバートンは、電話室から口笛を吹きながら出てきた。フィリスはいい女だ。信頼できる。  かれには、なぜ妻を疑う気になれたのか、どうしてもわからなかった。 [#改ページ] 鎮魂曲  サモアの高い山の上に墓がある。その墓標に刻まれているのは、この言葉。 [#ここから3字下げ] 大いなる星空のもと 墓を掘りてわれを横たえよ。 喜びに生き、喜びて死すわれ、 志《こころ》もてみずから横たわれり! わが墓に誌す詩《うた》はこれなり── ここにかれ、あこがれの地に眠る、 海より出でし海の子の故里《ふるさと》は海、 山より出でし山の子の故里はここなり。 [#ここで字下げ終わり]  この同じ詩句が別のところにもある──圧搾空気の容器からもいだ荷札に走り書きで、大地にナイフでつきさしたものだった。  博覧会《フェア》という点では、そうたいした博覧会ではなかった。不滅のダン・パッチの血を引く馬だと称するものが何頭も出ていたが、幌《ほろ》馬車レースもあまり興奮をまき起こしそうもなかった。天幕や売店も敷地を埋めきれないくらいで、大道商人もがっかりしているようだった。  D・D・ハリマンの運転手は、なんでこんなところで止まれといわれたのか、見当もつかなかった。ふたりはカンサス・シティの重役会議に──つまり、会議に出るのはハリマンだけだが──向かっているのだった。運転手のほうは、十八番街の暗黒街に関係したことで、個人的に急ぎたいという理由があったが、ハリマンは止めたばかりか、まわりをぶらつきさえする。  競馬場の向こうの広い敷地の入口に、旗とズック布のアーチがあった。赤と金の文字が書いてある。   月ロケットはこちら!![#「月ロケットはこちら!!」はゴシック]    本当に飛ぶところが見られます!    公開飛行    一日二回    月へ一番乗りしたのと同型!!    それに乗って飛べます!    五十セント  九つか十の少年が、入口にうろうろしてポスターを見つめていた。 「坊や、ロケットを見たいかい?」  子供は目を輝かした。「えっ、おじさん、もちろん見たいよ」 「わたしも見たいんだ。おいで」ハリマンはなかにはいって、ロケットをよく見てもいいというピンクの切符を二枚買って、五十セント払った。子供は自分の切符をうけとると、幼いものの単純さから、先に立ってかけていく。ハリマンは卵型のずんぐりした曲線をながめた。くろうとの目で、これが胴のまんなかを微細調整装置がとりまいている、単一噴射型だと見てとる。機体の見世物じみた赤の上に金文字で書いた名前を、めがねごしにしげしげと見る。ケア・フリー号。彼はさらに二十五セント払って、操縦室にはいった。  窓の放射線よけの何枚もある厚いフィルターのせいでうす暗くなっている機内に目がなれてくると、いとおしむように鍵盤のようなスイッチの列と、その上の半円型の各種ダイアルに目を休めるのだった。なつかしい装置のひとつひとつが、ちゃんとあるべきところにある。彼はそれを、胸に刻みこむぐらい知りつくしているのだった。  全身であたたかい液体のような満足感にひたりながら、彼が操縦盤を見て思いにふけっていると、パイロットがはいってきて、彼の腕に手をかけた。 「すいません。飛行のため、おもりを切り離さなければならないんですが」 「えっ?」ハリマンはびっくりして、やがて声のぬしをながめた。格好のいい頭とたくましい肩をしたちょっといい男──目つきにはむちゃそうなとこがあり、口もとはひとりよがりのところがあるが、顎はがっしりしている。「いやあ、これは失礼、機長」 「いえ、いいんですよ」 「ところで、その、ねえ、機長──」 「名前はマッキンタイアです」 「マッキンタイア機長、こんどの飛行に客を乗せるわけにいかないかね?」老人は熱心に身をのりだしていった。 「ええ、よかったらもちろんどうぞ。いっしょに来てください」彼はハリマンを門のそばの事務所と書いた小屋に案内する。「先生、健康診断のお客さんだよ」  ハリマンはびっくりしたような顔をしたが、医者にうすべったい胸を聴診器でさぐらせ、腕にゴムの帯を巻きつけさせた。やがて、医者はゴムをはずすと、ちらっとマッキンタイアの顔を見で首をふる。 「だめかね、先生?」 「そのとおり」  ハリマンはふたりの顔を見くらべた。「心臓は大丈夫だ──ただ、ときめいているだけだ」  医師はピクンと眉を上げた。「そうですかな? しかし、問題は心臓だけじゃない。あんたの年では骨がもろくなってるんです。ロケット発射の危険をおかせないくらいもろいんですな」 「気の毒ですが」パイロットはつけ加えた。「ベイツ郡フェアー協会が、あたしに発進の加速度で怪我する恐れのある人を乗せさせないように、この先生を頼んでよこしてるんですよ」  老人はしょんぼりと肩を落とした。「まあ、そんなことだろうとは思ったよ」 「すいません」マッキンタイアがまわれ右して出て行きかけたが、ハリマンは外までついていった。 「失礼だが機長──」 「なんでしょう?」 「きみときみの──その、機関士が、ひと飛びしてから、わたしと食事をつきあえんかな?」  パイロットはふしぎそうにハリマンの顔を見た。「別にかまわないと思いますが。それはどうも」 「マッキンタイア機長、わたしにはどうも、地球と月の往復ロケットの仕事をやめるなんて人の気が知れんのだがね」バトラーの小さな町では一流のホテルで、特別食堂を占領してフライド・チキンと焼きたてビスケットの食事に、ヘネシーのスリー・スターとコロナ・コロナスが出ると、三人とも気楽になんでもしゃべれるなごやかな空気になった。 「とにかく、おもしろくなかったからですよ」 「おいおいマック、そんないい方はよせよ──G禁令にひっかかったことは、自分でもわかりきってるくせに」マッキンタイアの機関員がブランデーのおかわりを注ぎながらいった。  マッキンタイアはふてくされたような顔になる。「ふん、一杯や二杯飲んだからどうしたっていうんだ? とにかく、あのくらいならおれだってシャンとなれたんだぞ──とにかく、おれが腹にすえかねたのが、あのくそやかましい規則だったんだ。そういうおまえこそなんだ? 密輸屋!」 「たしかに密輸をやったさ! あれだけみごとな石がごろごろしてるのに、地球にもって帰りたいと思わないやつがどこにいる。おれは一度、こんな大きなダイヤモンドを……だが、つかまってさえいなけりゃ、今夜はルナ・シティにいたはずだな。おまえもそうだぞ、飲んだくれの喧嘩屋……みんながおれたちに酒をすすめ、女たちは笑顔でさそいをかけてくる……」彼は顔を伏せると静かに泣きはじめた。  マッキンタイアが彼をゆすぶった。「酔ってるんですよ」 「かまわんよ」ハリマンが手を出して止めた。「ところで聞きたいんだが、月にもう行けなくなって本当に満足できるかね?」  マッキンタイアは唇を噛んだ。「いや──もちろんこいつのいうとおりですよ。こんなドサまわりはちっともほめた仕事じゃないですからね。ミシシッピ峡谷のあっちこっちで、カボチャ野郎どものにぎやかな行事があるところへ、ぼろロケットで片っぱしから飛んでまわって、寝るのは旅まわりの連中のキャンブ、飯はオイルこんろで作ったものですからね。半分は保安官の見張りつき、あとの半分はなんとかかんとか予防協会の地面から離れてはいかんという禁令にしばられてるんです。とてもロケット・マンの生活とはいえませんよ」 「きみが月に行けるようになるのに、何か助けになることはないかな?」 「そうですねえ……あります。地球と月との往復ロケットの職にはもどれませんが、もしルナ・シティに行くことができれば、会社の鉱石を運んで飛ぶ月面飛行の仕事につけるんです──向こうはいつでもそのパイロットが不足してるし、会社もあたしの経歴なんか気にもかけませんよ。もし、それでおとなしく仕事を勤めていれば、いずれはまた地球との往復ロケットにももどしてくれるかもしれないんですよ」  ハリマンはスプーンをひねくりまわしていたが、やがて顔をあげた。「きみたち若いふたりで、取引きをする気はあるだろうな?」 「ことによっては。なんです?」 「ケアー・フリー号はきみのものだね?」 「ええ。つまり、チャーリーとあたしのもので──もっともひとつふたつ、借金の担保にはいってますがね。それが何か?」 「あのロケットをわたしがチャーターしたいんだ──きみとチャーリーに、わたしを月へつれていってもらいたいんだ!」  チャーリーはビクッとすわりなおした。 「マック、この人のいうこと、聞いたかい? おれたちにあのぼろロケットで、月へ行ってもらいたいんだってよ!」  マッキンタイアは首をふった。「ハリマンさん、それはできませんよ。あのぼろロケットはガタがきてるんです。地球の引力圏から出られるような燃料は使えませんよ。いまではあたしたちも、あいつにちゃんとした燃料を食わせてないんです──ただのガンリンと液体空気だけですよ。それでも、チャーリーはいつも修理にすっかり時間を食われてるくらいなんです。そのうちに、あいつは破裂しますよ」 「ねえハリマンさん」チャーリーが口を出した。「遊覧旅行の許可をとって、会社のロケットで行ったんじゃいけないんですか?」 「だめなんだ」老人は答えた。「わたしにはそれができんのだよ。きみたちも知ってるとおり、会社が月開発の独占の許可を国連からとったのには条件がついている──何人《なんびと》も肉体的に耐えうるという資格なしには、宇宙に出してはいかんというのだ。成層圏外のすべての人間の安全と健康に、会社が全責任を負っているんだ。この権利を認める公式の理由が、宇宙旅行の最初の数年間の不必要な人命の損失をさけるためということだったからな」 「それで、健康診断にパスしないんですか?」  ハリマンはうなずいた。 「しかし、そんなことは問題じゃないな──あたしたちを雇おうというくらい金があるなら、なんだって会社の医者ぐらい買収しちまわないんです? 前にもそういう例はありましたよ」  ハリマンは悲しそうな笑顔を見せた。「それはわかってるよ、チャーリー、だがわたしにはきかないんだ。ほら、わたしはちょっと名が知れすぎているだろ? わたしの名は、くわしくいうとディロス・D・ハリマンなんだよ」 「なんですって? あんたがあのD・D? だったら、そんなばかな! あんた自身、あの会社の大株主で──あの会社はあんたのもの同然じゃないですか! 規則があろうとなかろうと、あんたなら好きなことはなんでもできるはずだ」 「そう考えてる人は珍しくないよ。だが、そうじゃないんだ。金持というものは、ほかの人間より自由がきくものではないんだ。むしろ、自由がきかない、ずっと不自由なものだよ。わたしも、いまきみにいわれたことをやってみようとしたが、ほかの重役どもがやらせてくれんのだ。会社の権利を失うのを恐れているんだな。連中にしては後始末にたいへんな金がかかる──その、いわば権利を持続するための政治工作の経費だな」 「へえー、こいつはおどろき──マック、わかるかい? 金がうなるほどあって、その金を思うように使えないなんてなあ」  マッキンタイアは答えなかった。ハリマンが話をつづけるのを持つ。 「マッキンタイア機長、もしロケットがあったら、わたしをつれてってくれるかね?」  マッキンタイアは顎をなぜた。「法律にひっかかりますよ」 「それだけのことはするよ」 「ハリマンさん、こいつはもちろんやりますよ、マック、もちろんやるよな。ルナ・シティ! すごいぞ!」 「ハリマンさん、どうしてそんなに月に行きたいんです?」 「機長、これはわたしが全生涯かけて、どうしてもやりたかったことのひとつだったんだ──子供のころからの願いだったんだ。きみに説明できるかどうか、自分でもわからないがね。きみたち若いひとは、わたしたちが飛行機を見ながら育ったように、ロケット旅行の時代に育ってきた。わたしはきみたちよりずっと年上で、少なくとも五十はちがうだろうからね。わたしが子供のころは、人間が月に行けるなんて、それこそだれひとりとして信じていなかった。きみたちは生まれたときからロケットを見てきて育っているし、最初の月ロケットが月へついたのは、きみたちが少年時代になる前だった。わたしが子供のころは、そんなことをいったら笑われたよ。 「しかし、わたしは信じていた──信じこんでいたんだ。ヴェルヌを読み、ウェルズを読み、スミスを読み、われわれにできることだと信じていた。われわれがやりとげるんだと信じていた。自分で月の表面を歩きまわり、月の裏側をながめ、空に浮かぶ地球の顔を月からながめるひとりになろうと、心をきめたんだ。 「弁当ぬきにしても、わたしはいつもアメリカ・ロケット協会の会費を払ったものだった。自分たちが月に行く日を近づけるのに協力しているのだと信じたかったからだ。ところが、いざその日がきてみると、わたしはもう年寄りになっていた。長生きしすぎたくらいだが、わたしは死ねない……死なんぞ! この足で月を踏むまでは死ねない」  マッキンタイアは立ち上がって、手をさしのべた。「ロケットを見つけてください、ハリマンさん。操縦はあたしがやります」 「でかしたマック! ほらハリマンさん、だからこいつはきっとやるといったでしょ?」  カンサス・シティヘの北への三十分の道のりを、ハリマンは考えごとと居眠りでつぶした。老人特有の浅い夢ばかり見る眠りだった。長い人生のいろいろなできごとが、とりとめもない夢となって胸のうちを走りぬける。こんなこともあった……そう、一九一〇年だった……あたたかい春の夜、少年がいう。「パパ、あれなあに?」「あれはハーレー彗星だよ、坊や」「どこからきたの?」「知らないな、坊や。遠い空のどこかからだよ」「すごーく、きれーだねー、パパ。手にとってみたいな」「坊や、それはだめだよ」 「あなた、そんなとこにつっ立ってて、わたしたちがうちを建てるために貯めたお金を、気違いじみたそのロケット会社に注ぎこもうなんて、わたしによくいえますわね?」「なあシャーロッテ、頼むよ! 気違いじみてなんかいない、健全な投資なんだよ。すぐに空がロケットでいっぱいになる日がくるんだ。船も汽車も時代おくれになる。ヘンリー・フォードに資本を出した先見の明のある連中がどうなったか見てごらん」「この話は前にも出ましたよ」「シャーロッテ、人間が地球から飛び立って、月に行く、ほかの惑星にも行く日がくるんだよ。これはそのはじまりなんだ」「そんな大声でどならずにいられないんですの?」「すまん、しかし──」「頭が痛くなってきたわ。床にはいるときは、お願いですから少しは静かにしてみてちょうだい」  彼はベッドに行かなかった。ひと晩じゅうベランダに腰をおろして、満月が空をまわって行くのを見つめていたのだった。朝になったらとっちめられるだろう。とっちめられて冷たい沈黙。だが、彼はくじけなかった。たいていのことなら妥協したが、彼はこのときだけは妥協しなかった。しかし、今夜はもう彼のものだ。今夜は長いなじみの月と水いらずでいられる。彼は月の表面をさぐるようにながめた。クリシウム海はどこだ? おかしなことに、見つけ出せなかった。子供のころはいつもはっきり見つけられたものだった。めがねをとりかえなければいけないのかもしれない──近ごろのたえまない事務所仕事は目によくない。  しかし、見る必要はないのだった。何がどこにあるか、彼はすっかり知っていた。クリシウム海、フェクンディタティス海、トランキリタティス海──呼びあげるだけで、胸がすっとする名だ!──アペニネス、カルパシアンス、それに謎の放射線を描いているおなじみのタイチョ。  二十四万マイル──地球の周の十倍だ。たしかに、人類はそれっぱかりの空間はつなぐことができる。そういえば、手を伸ばせばとどきそうじゃないか──ほら、そこの|にれ《ヽヽ》の木立のかげで月がうなずいている。 「ディロス、ちょっとまじめな相談があるのよ」「はい、お母さん」「あんたが来年、大学に行きたいと思ってたのはわかってるわ──」(思ってただって! それが生き甲斐だったのだ。シカゴ大学に行って、モールトンのもとで勉強し、それからヤークス天文台に行って、フロスト博士自身の指導のもとに働く)──「それに、わたしもそうさせてやりたいと思ってたのよ。だけど、お父さんがなくなって、女の子たちも大きくなり、家計のやりくりがますますむずかしくなってきたのよ。あんたもまじめによく手助けしてくれたわ。きっとわかってくれるわね」「はいお母さん」 「号外! 号外! 成層圏ロケット、パリ到着の全貌! 号外!」遠近両用のめがねをかけたやせた小男が、号外をひったくるようにして事務所に帰っていった。「これを見ろよ、ジョージ」「あ? ふーん、おもしろい。だが、これがどうした?」「わからんのかね? こんどは月だぞ!」「へえ! だがディロス、きみはばかだなあ。きみの悪いとこはそこだよ。あのつまらん雑誌を読みすぎることだ。そういや、うちのせがれも先週、そんなものを読んでた。冒険ストーリーとかなんとかいう雑誌だったが、わたしはちゃんと叱《こ》言《ごと》をいってやったよ。きみのうちでも、きみにそういうしつけをしておけばよかったんだ」ハリマンは中年の細い肩をいからした。「やっぱりロケットは月に行くぞ!」相手は笑った。「勝手にしろよ。坊やがそんなに月がほしいなら、パパがおみやげに買ってきてやるからね。ただ、手形割引きと手数料のことを忘れんようにしてくれよ。金がはいってくるのはそっちのほうからなんだからな」  大型車はうなりをあげてペイシオ街を走り、アーマー通りにはいっていった。老ハリマンはびくっと居眠りから目ざめ、何かひとりごとをつぶやく。 「しかしハリマンさん──」手帳を手にした若い男は、明らかに困りきっていた。老人は邪険に「いまいったとおりだ。売るんだ。わたしの持株をすっかり現金にしたいんだ。それも、できるだけ早くな。スぺースウェイズ社のもスペースウェイズ補給会社のも、アーテミズ鉱業もルナ・シティ観光のも、全部だぞ」 「暴落しますよ、株のまともな値打の現金にはなりませんよ」 「わたしがそのくらいのことを知らんと思うのか? そのくらい平気だ」 「リチャードソン天文台とハリマン奨学基金に遺贈することになってた分はどうなります?」 「ああ、そうだな。そっちの分は売るな。財団法人を作るんだ。もっと前にやっておけばよかったな。ケーメンズのせがれにそういって、書類を作らせてくれ。あの男がわたしのやりたいことは心得ている」  内線テレビ電話のスクリーンがパッとついた。「ハリマンさん、お客さんですが」 「とおしてくれ。エシリー、用事はそれだけだ。早くやれ」エシリーといれかわりに、マッキンタイアとチャーリーがはいってきた。ハリマンは小走りに迎えに出て行く。 「おはいり、さあ、こっちにな。よくきてくれた。かけなさい、さあ。葉巻はどうかね?」 「ハリマンさん、お目にかかれて何よりです」チャーリーも挨拶した。「実は、会いにくるようにいわれたと思ったので」 「どうしたんだ?」ハリマンはふたりの顔を見くらべた。マッキンタイアが答える。 「ハリマンさん、あたしたちにいってた仕事の件ですが、まだ本気ですか?」 「本気かだって? 当たり前さ。協力してくれるんじゃないのか?」 「もちろんですよ。あたしたちも、いま仕事が必要なんです。ねえ、あのケアー・フリー号はいま、オセージ河のまんなかで、噴射装置がインジェクターのところまでまっぷたつに割れてころがってるんです」 「そいつは驚いた! 怪我はなかったんだね?」 「ええ、捻挫とかすり傷だけでした。とびおりたんですよ」  チャーリーが笑っていった。「この歯でナマズをくわえどりにしましたよ」  すぐに三人は用談にかかった。「きみたちに、わたしのかわりにロケットを一台買ってもらわなければならんな。わたしが大っぴらに買うわけにはいかんのだよ。会社の連中にこっちの狙いを気づかれて、止められちまうからな。金は、必要なだけ出すよ。月旅行用に改造できそうなロケットを、何かさがしてくれ。成層圏ヨットとしてどこかの道楽者が買うんだとかなんとか、うまい話をでっちあげてな。南極と北極の観光ルートを作るつもりだといってもいいな。宇宙旅行に改造すると疑われないようにさえすれば、口実はなんでもいい。 「ロケットが手にはいり、運輸省の成層圏飛行の許可をとったら、西部の砂漠のどこかへ行くんだ──適当な場所は、わたしがさがして買っておく。わたしもそこで、きみたちと落ちあうよ。それから、地球の引力圏から脱出するための燃料のタンクをつけて、インジェクターと計器類なんかもとりかえ、月まで飛べるように改造するんだ。どうだね?」  マッキンタイアは、自信のなさそうな顔をした。「ずいぶん大仕事になりますよ。チャーリー、ドックや工場なしに、それだけの改造ができると思うか?」 「おれにかい? もちろんできるさ──そのごつい手の協力があればね。ほしいという道具と材料さえくれれば、それにあまりせかされなければね。もちろん、そう擬ったものにはならないだろうが──」 「だれもしゃれたものを作れといってるんじゃない。おれがスイッチをいれはじめても、爆発しちまわないようなロケットがほしいだけだ。アイントープ燃料は、冗談じゃすまないんだからな」 「爆発するようなものは作らないよ」 「ケアー・フリー号でだって、そう思ってたんだろうが」 「そいつはあんまりだぜ、マック。ねえハリマンさん──あのおんぼろロケットは鉄屑同然だったし、それを承知で使ってたんですよ。こんどはちがうんだ。ちゃんと金もかけてまともにやれるんだ。そうでしょ、ハリマンさん?」  ハリマンは彼の肩をたたいた。「もちろんだとも、チャーリー。必要な金はいくらでも出す。そこんとこは少しも心配しなくていい、ところで、この前話した給料とボーナスでいいんだね? きみたちに小づかいに困るような思いをさせたくないからな」 「ご承知のとおり、わたしの依頼人たちは彼のいちばん近親であり、心から彼のためを思っています。われわれはハリマン氏の過去数週間の行動は、ここに提出せられた証拠に示されるとおり、かつて財界の切れものだった人物も、老衰してきたということをはっきり示しておると思うものです。したがって、たいへん残念なことではありますが、本廷のお許しを得ることができますれば、ハリマン氏を禁治産者として、氏の財政的利益ならびに将来の相続人や遺産受取人の利益を守るため、後見人をつけることを願うものであります」弁護士はいい気持そうに腰をおろした。  ケーメンズ氏が立った。「裁判長に申しあげます。尊敬すべき原告側弁護人の弁護がすんだようでしたら、わたくしはここで彼の最後の言葉将来の相続人ならびに遺産受取人の利益を守る≠ニいう言葉が、原告側の論旨のすベてを現わしてしまっていると申したいのです。原告側はわたくしの依頼人がすべての行為において、彼の甥《おい》や姪《めい》やその他の遺産受取人が余生を不労所得でぜいたくに暮らせるように行動すべきだと信じていることは明らかであります。彼の妻はなくなり、彼には子供もありません。これまで彼が妹たちやその子供たちに気前よく援助をあたえてきたことは明らかであり、資産のないそういう近親には年金を用意していたことも明らかです。 「ところがいま、まるで禿鷹のように──いや禿鷹よりひどい!──彼らは彼を平和に死なせることも認めず、残ったわずかの余生に自分にふさわしい方法で富を享楽しようとするのまで妨害しようとするのです。彼が株を売ったことは事実です。しかし、老人が隠退しようというのが奇妙でしょうか? 清算に当たって彼が帳簿上のいくらかの損失をうけたことも事実です。しかし、ものの値打は、それによってきたるものによって定まる≠烽フです。彼は隠居して現金を求めた。そのどこが異常なのです? 「彼がこれまであれほど愛してきた近親と、その行為について話しあうことを避けたのも事実です。しかし、甥や何かに、大の男がいちいち相談しなければならないという法律や規則がどこにあります? 「したがって本弁護人は、依頼人が自分の所有を自分の好きに使う権利があることを認めていただきたいと思います。原告側の訴えを却下して、よけいなおせっかい屋を追い払っていただきたいと思います」  判事はめがねをはずし、考えこみながらめがねをふいた。 「ケーメンズさん、本廷はあなたのいわれるとおり、個人の自由というものに高い敬意を払っています。ですから、すべてはあなたの依頼人の利益だけを考えてきめられると安心してくださってよろしい。しかし、人間というものは年をとるもので、もうろくもするし、そういう場合は守られなければなりません。 「本件はあすまでよく考えることにいたします。休廷」  カンサス・シティ・スター紙より── 「変わり者の百万長者失踪」 「──休廷後、公判に現われなかった。執行吏はハリマンがよく現われる場所をさがしまわったあげく、彼が前日からどこにも姿を見せていないと報告。法廷侮辱で逮捕状が出たが──」  砂漠の夕日はホットなダンス・オーケストラより食欲増進に効《き》く。チャーリーはハム・グレービーの残りをパンできれいにふきとって片づけることによって、それを証明してみせていた。ハリマンが若いふたりに葉巻を一本ずつ渡し、自分も一本とった。 「医者がこいつは心臓によくないといってたがね」彼は葉巻に火をつけながらいう。「この基地できみたちと落ちあってからは、あまりからだの調子がいいんで、医者の話が信じられなくなってきたよ」青みをおびたグレイの煙の雲を吐くと、話をつづける。「人間のからだなんて、何をするのがいいか悪いかというより、やりたいことをやってるかどうかによることのほうが多いような気がするな。わたしはいま、自分のやりたいことをやってるんだからね」 「人生では、それ以上に願えることはないですよ」マッキンタイアも同意する。 「ところで、いま仕事のぐあいはどうがね?」 「あたしのほうは、かなりまとまってますよ」チャーリーが答えた。「新しいタンクの二回目の圧力テストもすんで、きょうは燃料パイプも仕上がりましたよ。地上でのテストは、目盛りテスト以外はすっかりすみました。こいつも大して時間はかかりませんよ──目盛りがどこかでひっかからなければ、四時間ですむんです。マック、そっちはどうだい?」  マッキンタイアは指を折って数えながらいった。「食料と水は積んだ。宇宙服三着と予備一着に、道具箱も積んだ。薬も積んだ。座席もみんな、成層圏飛行用の標準型になってる。月の最近の運行暦がまだついてないだけだ」 「いつくるはずなんだ?」 「もうくるころなんだ。もっとも、そいつはどうでもいいんだ。ここから月まで行くのがどんなにむずかしいかなんてたわごとは、世間を感心させるためのハッタリだよ。結局、行く先は見えてるんだからな──大洋の航海とはちがわあ。六分儀と、いいレーダーがあれば、暦や星座表なんかごそごそやらなくたって、相関速度というやつの一般的な知識だけで、月の上のどこにでもお好みのところにつけてやるよ」 「コロンブス船長殿、自慢は聞かなくてもいいよ」チャーリーがいった。「だんながそのシャッボをちゃんと床にぶち当てることができるくらい、認めてやるからね。全体として、もう用意はいいのかってことを聞きたいんだ。いいんだね?」 「そのとおり」 「そういうことなら、今夜テストをやってもいいな。何か落ちつかないんだ──あまり調子よくいきすぎてるんでな。手を貸してもらえれば、夜中までに片づいて寝られるんだがね」 「よかろう、この葉巻を吹かしおわったらな」  しばらくはだまって葉巻を吹かす。めいめいが来たるべき月旅行のことと、それが自分にどういう意味があるかを考えていた。ハリマン老人は生涯の夢がすぐにも実現するという期特に、とりついて離れなくなった興奮を押えようとしていた。 「ハリマンさん──」 「うん、なんだね、チャーリー?」 「どうしたら金特になれるんですかね、あんたみたいに?」 「金持に? わからんなあ。わたしは金持になろうと努力したことはないんだ。金持とか有名人とか、そういうようなものになりたいと思ったことがないんだ」 「本当ですか?」 「そうだよ。ただ長生きして、なんでも見てやりたいと思っただけだ。わたしみたいな人間も珍しくはなかったよ、わたしみたいな子供が大勢いたな──アマチュア無線をやってる連中もそうだし、望遠鏡を作るやつ、飛行士気ちがいもいた。科学クラブというのもいろいろあったし、地下室の実験室だとか、SFクラブなんかあって──電気と実験という雑誌一冊のほうが、デューマの全作品を集めたよりもロマンチックだと考えてるような子供たちだった。ホレーシオ・アルガーの立身出世小説の主人公にはなりたくなかったが、宇宙船は作りたかったんだな。とにかく、そういう人間もいたわけだ」 「驚いたなあ、すごくおもしろそうな話だな」 「おもしろかったよ、チャーリー。いろいろ欠点もあったが、すばらしいロマンチックな世紀だった。それに、一年ましにすばらしくなり、ますますおもしろくなってきたんだ。そう、わたしは金持になりたかったことはない、長生きして、人間が星に行くまで生きていたかっただけだ。神様のご加護があれば、自分で月までも行きたいと思っただけだ」彼は一インチにもなる白い葉巻の灰を丹念に皿の上に捨てた。「いい一生だったよ。文句をいうところはないね」  マッキンタイアが椅子をうしろに引いた。「チャーリー、用意がよければ行こうぜ」 「よしきた」  みんな立ち上がる。ハリマンが口を開きかけて、そこで胸を押えた。死人のような蒼白な顔になる。 「マック、抱きとめろ!」 「薬はどこだ?」 「そのチョッキのポケットだ」  ふたりは彼を長椅子に横たえて、小さなガラスのカブセルをハンカチにくるんで割り、彼の鼻先につきつける。揮発性の液がカプセルから気化して、彼の顔にちょっと血の気をとりもどさせたようだった。ふたりは大して手も出しようがないのだが、できるだけのことをして彼の意識がもどるのを持つ。  チャーリーが不安な沈黙を破った。「マック、これではつれては行かれないぜ」 「なぜだ?」 「つれてったら人殺しだよ。最初の加速ショックに耐えられやしないぜ」 「そうかもしれん。だが、自分で求めてることなんだぞ。彼の話を聞いたろうが」 「だけど、やらせるわけにはいかないぜ」 「なぜだ? 心から願ってることをやりたいという男に、命の危険をおかしてはいけないというのは、おまえの仕事でもないし、あのくそいまいましいおせっかいな政府の仕事でもないぞ」 「それにしたって、やっぱりそんなことをしてはいい気持はしないぜ。こんなすばらしい親爺さんをよ」 「だったら、この親爺さんをどうしてやりたいというんだ? カンサス・シティに送りかえして、親爺さんを心臓麻痺で死ぬまで気違い病院にとじこめちまおうとしている禿鷹どもに渡しちまうというのか?」 「と──とんでもない──そんなことは」 「行けよ、テストの用意をしておけよ。おれもすぐ行く」  太いタイヤをつけた砂漠用の車が、翌朝基地の門から乗りこんできて建物の前に止まった。きびしい顔つきだが人の好さそうなずっしりした体格の男がおりて、戸口に出できたマッキンタイアに声をかける。 「あんたがジェームズ・マッキンタイアかね?」 「なんの用だね?」 「わたしはここらの連邦保安官補だ。あんたの逮捕状をもってるよ」 「罪状は?」 「宇宙安全保護法違反の共謀容疑だ」  チャーリーもふたりのところへ顔を出す。「マック、どうした?」  保安官補が答えた。「あんたがチャールズ・カミングズらしいな。あんたにも逮捕状が出てる。ハリマンという男のも出てるし、あんたたちの宇宙ロケットに封印しろという裁判所の命令だ」 「宇宙ロケットなんかないぜ」 「その大きな小屋にはいってるのはなんだ?」 「成層圏ヨットだよ」 「そうか? とにかく、宇宙ロケットが現われるまで、そいつに封印しておくことにしよう。ハリマンはどこだ?」 「すぐそこにいるよ」、チャーリーはマッキンタイアの苦い顔を無視して、しかたなしにそっちを指さす。  保安官補がそっちに首をむける。チャーリーの一発は、顎のとっ先から一インチの何分の一もそれていなかったにちがいない。保安官補は静かに地面に倒れてしまったからだ。チャーリーはその上に立ちはだかって、拳をなぜながらうなっていた。 「ちくしょう──野球でショートをやっててくじいた指だぜ。いつでもこの指をやられるんだ」 「親爺さんをロケットのキャビンにつれていけ」マックがおっかぶせるようにいう。「彼用のハンモックにベルトでとめるんだぞ」 「アイアイ、サー」  ふたりはトラクターでロケットを格納庫から引き出すと、発射にふさわしい凹地をさがして、砂漠のほうに向きを変えて出ていった。ふたりともロケットに乗りこむ。右側の展望窓からマッキンタイアの目に保安官補の姿が見えた。なさけない顔つきでロケットを見送っている。  マッキンタイアは安全ベルトをしめ、からだにぴったりの座席におさまると、機関室への伝声管でいう。「チャーリー、用意はいいか?」 「準備完了。だけど、まだ発射できないぜマック──このロケットには、まだ名前がついてないんだ!」 「おまえのご幣《へい》かつぎの相手をしてるひまはないよ」  ハリマンの細い声がふたりに聞こえた。「狂気《ルナティック》と名づけろ──ルナ・シティに行くんだから、こんなぴったりした名前はないぞ!」  マッキンタイアは座席のクッションに頭を落ちつけると、スイッチをふたついれ、つづいて手早くたてつづげに三つスイッチを押した。狂気《ルナティック》は大地から昇った。 「親爺さん、どうです?」  チャーリーは老人の顔を心配そうにさぐった。ハリマンは唇をなめて、やっと口をひらく。「大丈夫だよ。こんな気分のいいことははじめてだ」 「加速ショックはもうおわりましたよ。これからは、もうあんなひどいことはないですよ。ちょっとからだを動かせるように、いまベルトをときますが、そのままハンモックにいたほうがいいと思いますね」彼はベルトを引っぱった。ハリマンはうなり声を半分こらえた。 「どうしました?」 「なんでもない。なんでもないんだ。ただ、そっち側はそっとやってくれ」  チャーリーは老人の脇腹を、技術屋特有の自信に満ちた微妙な指ざわりでなぜまわす。「親爺さん、あたしに嘘はつけませんよ。しかし、着陸するまでは大したことはできないな」 「チャーリ──」 「なんです?」 「窓のほうへ移れんだろうか? 地球を見たいんだよ」 「まだ何も見えませんよ。ロケットのかげにかくれてますからね。方向転換したら、移してあげますよ。そうだ、いいことがある。眠り薬をあげましょう。方向転換したら起こしてあげますよ」 「いらない!」 「なんです?」 「目はさましている」 「なんでもいわれるとおりにしてあげますよ」  チャーリーは猿みたいな身のこなしで、ロケットの鼻部に行き、パイロット席の称平環《シンバル》につかまった。マッキンタイアが問いかけるような視線を向ける。 「ああ、たしかに生きてはいるよ」チャーリーはいった。「だが、ひどい容態だ」 「どんなにひどい?」 「とにかく、あばら骨が一本や二本は折れてるな。それ以外のことはわからないよ。マック、月につくまでもつかどうかわからないぜ。心臓がなんだかすごく波打ってたよ」 「きっともちこたえるよ。しぶとい爺さんなんだ」 「しぶとい? カナリアみたいに弱々しいぜ」 「そういう意味じゃない。腹の底のほうがしぶといんだ──問題はそこだよ」 「どっちにしても同じことだ。全員異状なしで到着したいんだったら、うんと静かに着陸したほうがいいぜ」 「そうするよ。月をまるひとまわりして、うず巻き式の接近カーブを描いて当たりをやわらかくしよう。燃料は充分にあるつもりだ」  ロケットはいま引力圏外に出ていた。マッキンタイアがロケットの向きを変え、チャーリーはキャビンにもどってハンモックのベルトをはずし、ハリマンをハンモックごと横の窓のところに移す。マッキンタイアはロケットの後尾が太陽に向くように直角に方向転換すると、ロケットの縦軸を中心にしてゆっくり回転させ、それによってわずかながらも人工重力を作るように、反対側のふたつの接線方向に向かうロケットを短く噴射させた。方向転換して最初の無重力状態は、無重力状態特有の吐き気で老人を悩ましたが、パイロットはこのお客さんの不快をできるだけ救おうとしたのだった。  しかし、ハリマンは自分の胃袋の状態になど気もつけていなかった。  あった! 何回も思い描いてきたものが、すべて目の前に! 月はこれまでに見たこともない大きさで、どうどうと窓の前をかすめ去っていく。おなじみの表面の起伏すべてが、浮き彫りのようにくっきりと見える。ロケットがゆっくりまわりつづけ、月にかわって地球が見えてきた。思っていたとおり、地球は地球から見た月よりも何倍も大きな高貴な月のように見えた。しかも、銀色一色の月には考えられないくらい、はなやかで色っぽい美しさだった。大西洋の海岸近くが日没に当たっている──影の線が北アメリカの海岸線をたてに画し、キューバを切り、南米を西岸だけを残して暗闇にかすませる。ハリマンは太平洋のやわらかい青をながめ、両大陸のグリーンと茶のやわらかいまざった地肌を感じ、両極の青と白の冷たさを嘆美した。カナダと北部諸州は雲でおおわれていた。大きな低気圧が大陸にひろがっているのだ。雲は極地よりももっと輝かしい白にまぶしいくらい光っている。  ロケットがゆっくりまわり、地球が視野からかくれ、星が窓の前を流れる──昔から知っていた同じ星だが、もっとはっきりと明るく輝いて、完全に純粋な黒一色の背景にまばたきもしない。やがてまた月が現われて、彼の思考を占有しようとするだろう。  たいていの人間には長い一生をかかってもあたえられないような、おだやかな幸福を彼は味わっていた。これまでに生き、星を見上げ、星にあこがれたすべての人間の気持がわかるような気がする。  長い長い時間がたち、彼はながめ、まどろみ、夢を見ていた。少なくとも一度は本当の深い眠りか、あるいは錯乱状態になってしまうかしたにちがいない。妻のシャーロッテに呼ばれたような気がして、はっと目をさましたからだ。「あなた!」妻の声はいっていた。「あなた! はいっていらっしゃい! 夜風で風邪を引いて死んじまいますよ」  かわいそうなシャーロッテ! 彼にとってはいい妻だった。いい女房だった。彼女の死ぬときのただひとつの心残りが、夫が自分の身のまわりのことをちゃんとできないのではないかという心配だけだったろうと、彼は確信していた。夫の夢と夫の必要としていることを彼女がいっしょになって追わなかったというのも、彼女が悪いわけではない。  チャーリーはロケットが月の裏側にまわったとき、ハリマンが右舷の窓から見られるようにハンモックを吊った。千枚もの写真でおなじみになっているいろいろな地形を、彼は故国にでも帰ってきた喜びで見つけ出すのだった。マッキンタイアはゆっくりとロケットを、月の地球に向かった側にまわし、フェクンディタティの海の東、ルナ・シティから十マイルばかりのところに着陸する用意をした。  あらゆる点を考えて、そうへたな着陸ではなかった。地上からの誘導もなく、レーダーを見てくれる副操縦士もなしに着陸しなければならなかった。静かに着陸させようとあせったあまり、目標から三十マイルばかりそれてしまったが、冷静に最善をつくした。しかし、それにしても着陸のショックはあった。  着陸して、軽石のほこりがまわりに静まると、チャーリーが操縦室に上がってきた。 「お客さんはどうだ?」マックがたずねる。 「いま見てくる。だが、見こみはなさそうだな、いまの着陸はなっちゃないぜ」 「ちぇっ、あれでも最善をつくしたんだぞ」 「わかってるよ。気にするなよ」  しかし、お客は生きていたし、鼻から血を流し、唇にピンクの泡を吹いていたが、意識はあった。力なくハンモックのカバーからはい出そうとしている。ふたりが力を合わせて手を貸した。 「宇宙服はどこだ?」というのが最初の言葉だった。 「落ちついて、ハリマンさん。まだ外へは出られませんよ。先に応急手当てをしておかなくては」 「服をとってくれ! 応急手当てなぞ、あとでもいい」  言葉もなく、ふたりは命令にしたがった。ハリマンの左脚は文字どおり使いものにならなくなっていて、気閘室から出るときもふたりが両側からかかえるようにしなければならなかった。しかし、月の重量でわずか二十ボンドになってしまうとるにたらないからだは、少しも重荷にはならなかった。ロケットから五十ヤードばかりのところに、腰をおろしてすわれるところを見つけると、焼け石のかたまりに頭をもたれさせて、景色を見させてやる。  マッキンタイアは老人のヘルメットにヘルメットをよせていった。「町へ行く荷物の支度をしてくるまで、ここにおいてきますから、景色を見ててください。四十マイルの旅だから、すぐですよ。それに、予備の液体空気のビンや食料なんかも用意しなきゃなりませんからね。すぐもどりますよ」  ハリマンは返事をしないでうなずき、宇宙服の手袋のまま、ふたりの手を驚くほどの力で握りしめた。  彼はいやにひっそりとすわったまま、月の土を両手でこすり、大地に対して奇妙に軽い圧力を感じていた。やっと心の平和が得られたのだ。怪我ももう痛まなかった。恋いこがれていたところへきたのだ──どうしてもやりたいことをやったのだ。西の地平線に、地球が最後の四分の一を見せている。みどりとブルーの巨大な月だ。頭上では太陽が、黒一色に星をちりばめた空から照らしおろしてくる。それに、下にあるのは月、月の土なのだ。いま、月にいるんだ!  満足感が大水の上げ潮のように全身をひたし、骨のすみずみにまでしみわたるのを感じながら、彼は静かにあお向けになった。  一瞬、気持がそれる。また自分の名を呼ばれたような気がしたのだった。ばかな、わたしも年をとった──どうも気持があっちこっちとおさまらなくていかん──ハリマンは考えていた。  キャビンではチャーリーとマックが、荷担に肩から吊る紐をつけていた。「さあできた。これでいいだろう」マックがつぶやく。「親爺さんを起こしたほうがいいな。もう出かけなければなるまい」 「起こしてこよう」チャーリーが答えた。「抱きあげてかかえてくるよ。目方なんてないみたいなもんだ」  チャーリーはマッキンタイアが思っていたより長い間、帰ってこなかった。ひとりで帰ってくる。マックは彼が気閘をしめるのを持って、ヘルメットをはねあげた。「どうかしたのか?」 「担架なんかいらないよ。必要なくなったんだ。ああ、本当なんだ」彼は言葉をつづけた。「親爺さんは死んだよ。必要なことはやってきたよ」  マッキンタイアは何もいわずにかがみこむと、粉っぽい灰の上を歩くのに必要な太いスキーのようなものをとりあげた。チャーリーもそれにならう。やがて、ふたりは予備の空気のビンを肩にかけると、気閘を出た。  ふたりは外に出ても、気閘の外のドアを閉める手間はかけなかった。 [#改ページ] 果てしない監視 [#ここから2字下げ]  九隻の船が月基地を発進した。宇宙に出ると、八隻が、もっとも小さな一隻を中心にして、球形の編隊を組んだ。地球に到着するまで、その編隊は組まれたままだった。  その小さい船には宇宙軍将官の記章がつけられていた。だが、船内に命あるものはいなかった。その船は客船ですらなく、放射性物質積載用の電波操縦ロボット船だった。この飛行にその船が運んでいたものは、一個の鉛の棺と──そして、永遠に鳴りやまぬガイガー・カウンターだけだった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──ニューヨーク・タイムズ文書保管庫 [#地付き]二〇〇九年六月一七日、フィルム三八、社説「十年後」より   1  ジョニイ・ダールクィストは、ガイガー・カウンターに煙草の煙を吹きつけた。かれは顔をしかめて苦笑いし、もう一度やってみた。いまはもう全身が、放射能に汚染されてしまっているのだ。吐く息すら、煙草の煙すら、ガイガー・カウンターに悲鳴をあげさせるのに充分なのだ。  もうどれぐらいここにいたのだろう? 月の上では、時間にはあまり意味がない。二日か? 三日か? 一週間か? かれは、過去に心をもどしてみようとした。心の中で、はっきり時間がわかる最後のときは、朝食の直後、副司令官がかれに使いをよこした、あのときだった。 「ダールクィスト中尉、副司令官のお呼びにより出頭しました」  タワーズ大佐が顔を上げた。 「おう、ジョン・エズラか。坐れ、ジョニイ。煙草はどうだ?」  ジョニイは坐った。とまどいはしたが、悪い気はしなかった。かれはタワーズ大佐を尊敬していた。その明敏な頭脳と、人を掌握する能力と、その戦歴を。ジョニイに戦歴はなかった。かれは核物理学で学位を取ると同時に将校に任官し、現在は月基地のミサイル係将校になっているのだ。  大佐は政治について話したがった。ジョニイは面食らった。やがて、タワーズは要点にふれてきた。世界の管理を、政治家の手にまかせておくのは安全ではない。権力は、科学的に選ばれたグループの手に握られなければいけない。つまり──警察軍《パトロール》の手に、というのだ。  ジョニイは、ショックを受けたというよりは、度胆を抜かれてしまった。タワーズ大佐の意見は、抽象論としては、いちおうもっともだった。かつての国際連盟はだめになり、現在の国際連合は何がきっかけでばらばらになってしまうかわからない。そして、次にふたたび世界大戦がやってくる。 「そんな戦争の結果がどれほどひどいものになるか、きみにはわかるだろう、ジョニイ」  ジョニイはうなずいた。タワーズは、いわんとするところがわかってくれて嬉しいといった。先任ミサイル将校は一人でも仕事ができるが、専門家が二人いるに越したことはない。  ジョニイは、びっくりして坐りなおした。 「大佐どのは、何かなさるおつもりなのですか?」  かれは副司令官の話を、ただの話だけだとばかり思っていたのだ。  タワーズは微笑した。 「われわれは政治家じゃあない。むだ話はしない。行動するのだ」  ジョニイは思わず、口笛を吹いた。 「いつ始めるのでしょう?」  タワーズ大佐はスイッチの一つを入れた。ジョニイは、いきなり自分の声が聞こえてきたのに驚いた。ついで、その会議の録音が、下級将校用食堂でのことだと気づいた。その政治論議には覚えがあった。あのとき、かれは途中で出ていったのだが……それでよかったんだ! だが、スパイされていたとは面白くない。  タワーズ大佐はスイッチを切って、いった。 「行動はすでに起こしているさ。だれが安全で、だれが危険かはわかっている。たとえばケリーだ……」スピーカーのほうに手をふって、「ケリーは政治的に信頼できない。きみは、朝食のときかれがいなかったことに気がついたろう?」 「え? かれは当直だと思っていましたが」 「ケリーの当直時代は終わったよ。ああ、心配するな。怪我はしていないからな」  ジョニイはその言葉の意味を考え、そして尋ねた。 「わたしはどちらのリストに入っているのでしょう? 安全なほうですか? 危険なほうですか?」 「きみの名前には、疑問符がついているんだ。しかし、わしは以前から、きみは頼りになる男だと主張してきた……わしに恥はかかさんだろうな、ジョニイ?」  大佐は愛想のいい笑顔を見せた。  ダールクィストは返事をしなかった。タワーズ大佐は鋭くいった。 「さあ……きみはどう思うのだ? 答えろ」 「はい……では申し上げますが、いささか手にあまる仕事ではないでしょうか。月基地が地球を支配しているのは事実ですが、月基地そのものは、船からの攻撃にたいしては、実に容易な標的です。ミサイル一発で……終わりです!」  タワーズ大佐は一通の電文を取り上げて、かれに渡した。それには、こう書かれていた。 洗濯できた──ザック 「これは、トリグブ・リエ号の全ミサイルを使用不能にしたという意味だ。同様の報告を、心配する必要がある船のすべてから受けている」かれは立ち上がった。「よく考えて、昼食後に来たまえ。モーガン少佐がきみの助けをすぐ必要としている。ミサイルの制御周波数を変更するためだ」 「制御周波数を?」 「当然だろう。ミサイルが目標に達する前に邪魔されたくはないからな」 「何ですって? 戦争を防止するためだといわれたはずですが」  タワーズはあっさりと、その質問をかたづけた。 「戦争はおこらん……心理的デモンストレーションにすぎない。重要でない町を一つか二つやるだけだ。全面核戦争を防ぐためのちょっとした放血手術だ。簡単な算術だ」  かれはジョニイの肩に手をおいた。 「びくついてはいないだろうな。そうなら、初めからミサイル係将校にはならんはずだ。これは外科手術だと考えるんだ。それときみの家族のことを」  ジョニイ・ダールクィストは、さっきから家族のことを考えていたのだった。 「お願いです、大佐どの、司令官にお目にかからせてください」  タワーズは眉をよせた。 「代将には会えない。わかっていると思うが、わしは代将に代わって話している。もう一度会おう……昼食のあとで」  代将に会えるはずはまったくなかった。代将は死んでいたのだ。だがジョニイは、そのことを知るよしもなかった。  ダールクィストは食堂にもどり、煙草を買うと、腰をおろして一服した。かれは立ち上がると煙草をもみ消し、基地の西エアロックにむかった。そこで宇宙服を着こむと、エアロック係のところへ行った。 「スミティー、あけてくれ」  宇宙海兵は驚いた顔になった。 「タワーズ大佐の命令がなければ、どなたも月面にお出しできません。聞いておられないのですか?」 「知っているさ! 命令簿を見せろ」  ダールクィストはそれを受け取ると、自分にあてた許可証を書き、タワーズ大佐の命令により≠ニして、その下に署名した。 「副司令官に電話して確かめてみるがいい」  エアロック係は、それを読むとポケットにしまった。 「いえ、それにはおよびません、中尉どの。あなたのお言葉だけで結構です」 「副司令官によけいな心配はかけたくないというんだな、え? わかるよ」  かれはその中に入り、内側ドアをしめると、空気が吸い出されるのを待った。  月面に出ると、日光に目がくらんだ。まばたきしながら、かれは急いで軌道ロケットのターミナルヘ行った。ロケット車が一台待っていた。それにもぐりこむと、フードを引き下ろし、発進ボタンを押した。  ロケット車は丘陵群にむかって突進し、いっきにそこをつき抜けると、デコレーション・ケーキに立てた蝋燭のように、ミサイル・ロケットが一面にならぶ平原に出た。だがすぐ、さらに続く丘陵群をつらぬく第二のトンネルにもぐりこんだ。  胃がねじれるような減速がかかり、ロケット車は地下の核爆弾貯蔵庫にとまった。  ダールクィストは下りると、携帯無線機のスイッチを入れた。入口に宇宙服を着て立っている警備兵が、控え銃の姿勢を取った。 「おはよう、ロペス」  と、ダールクィストは声をかけて、そのそばを通りすぎ、エアロックにむかった。かれはそれを引っぱりあけた。  警備兵は、もどれ≠ニいう合図をした。 「ちょっと! 副司令官の命令がないと、だれも中に入れません」そいつは、銃を持ちかえて、パウチの中を探り、書類を取り出した。「これを読んでください、中尉どの」  グールクィストは手をふって、それを退けた。 「その命令はおれが書いたんだ。おまえこそよく読め。読み違えをしているぞ」 「どう読み違えているんです、中尉どの」  ダールクィストは書類を引ったくり、ちらりと見ると、その一行を指さした。 「いいか……副司令官が特に指定したるものを除き≠ニあるだろう。これはミサイル係将校のことなんだ。モーガン少佐とおれのことだ」  警備兵は弱った顔になった。ダールクィストはいった。 「わからないのか。この特に指定したる≠ニいうところを見ろ……それは、服務規定のミサイル貯蔵庫、機密保持、その他の事項に関する手続き≠フところにあるんだぞ。まさか、兵舎に忘れてきたんじゃあないだろうな」 「いえ、そんなことはありません、中尉どの! 持っています」  警備兵は、パウチに手を入れた。ダールクィストは書類を返した。警傷兵はそれを受け取り、ちょっとためらったあと、銃を尻に立てかけて書類を左手に持ちかえ、右手でパウチの中を探りだした。  ダールクィストは銃をひったくると、そいつの両足のあいだにつっこみ、ぐいとひねった。かれはその銃を遠くへ投げ、エアロックの中に飛びこんだ。たたきつけるようにドアへ手をかけたとき、警備兵がやっと起きあがり、拳銃に手をのばすのが見えた。かれは外側ドアを急いでしめた。同時に弾丸がドアにあたり、指がびりっとしびれるのを感じた。  かれは内側ドアへ体をおどらせ、空気注入レバーをひねると、大急ぎで外側ドアに飛んでかえり、ハンドルに全身の重みをかけた。すぐに、そのハンドルが動き始めるのを感じた。警備兵は上げようとし、中尉はおし下げようとしているのだが、月の低重力下の体重ではうまくおさえられない。かれの目の前で、ハンドルはじりじりと上がりだした。  核爆弾貯蔵庫から、空気注入弁を通して空気がロック内にほとばしった。ダールクィストは、エアロック内の気圧が宇宙服内の気圧と等しくなりはじめたのか、宇宙服が体におちついてくるのを感じた。かれは力を抜き、警備兵がハンドルを上げるのにまかせた。もう問題はない。いまや、十三トンの気圧が、ドアをかたくおさえつけているからだ。  かれは核爆弾貯蔵庫への内側ドアがもどってしまわないように、ラッチを開いた。内側ドアがあいているかぎり、エアロックは作動しない。だれも入ってこられないのだ。  その部屋の中に入ったかれの前に、ミサイル・ロケット一基について一個ずつの核爆弾が、自熱発生的連鎖反応の可能性をなくすだけの充分な距離をおいて、何列にもならべられていた。  それは現在、この宇宙で知られているかぎりもっとも恐ろしいものだが、いまはもうかれのものだった。ダールクィストは、それと、それを悪用しようとするものとの間に立ちふさがっているのだ。  しかし、ここに来てしまったものの、この一時的優位をどう使っていいのか、かれには何の計画もなかった。  壁のスピーカーが、とつぜんわめきだした。 「おーい! 中尉どの! そこで何をしているんです? 気でも狂ったのですか?」  ダールクィストは答えなかった。ロペスは混乱するがままにしておくのがいいのだ──何もわからないあいだは、どうするべきか心を決められないことになる。そして、ジョニイ・ダールクィストには、しぼり出せるかぎり一分でも多くの時間をかせぐ必要があった。ロペスはなおも、文句をいい続けた。しかし、ついに黙ってしまった。  ジョニイは、盲目的な激しい衝動につき動かされて行動した。この爆弾を──かれの爆弾を──重要でない町の一つか二つに対するデモンストレーション≠ネどに使わせてはいけないという思いに。でも、この次はどうしたらいいんだ? タワーズはエアロックを通り抜けられない。だから、どこもかしこも凍りつくまで、じっと坐っていることだ。  自分をごまかすな、ジョン・エズラ! タワーズは、入る気になれば入ってこられるんだ。外側ドアに高性能爆薬を仕掛ければ──空気は一度に抜け去り、このジョニイは、破裂した肺から流れ出る血に溺れて死ぬだろう──そして、爆弾は、すこしも損なわれることなく、そこにならんでいることだろう。月から地球への跳躍に耐えられるように作ってある爆弾には、なんの損害も与えられないのだ。  かれは、宇宙服の中に留まっていることに決めた。爆発的減圧にさらされるのは、あまりぞっとしない。死ぬんなら、年へてからゆっくりと死にたいものさ。  あるいは、ドリルでドアに穴をあけて空気を抜き、ロックを破壊せずにドアをあける方法もある。それとも、いままでのエアロックの外側に、もうひとつ新しいロックを作ることだってタワーズはやるかもしれない──いや、これはやりそうもないなと、ジョニイは考えた。  クーデターの成否は、そのスピードにかかっている。とすれば、タワーズはまず間違いなくもっとも迅速な方法を取るだろう──爆破だ。  ロペスはいまごろもう、おそらく基地を呼んでいるだろう。タワーズが宇宙服を着てここに着くまで十五分、あるいはもうすこし短いか──そして、ドカーン! パーティは終わりだ。  十五分──  十五分以内に、爆弾はふたたび反逆者たちの手に落ちるかもしれない。十五分のうちに、かれは爆弾を使用不能にしておかなければいけないのだ。  核爆弾とは、プルトニウムのような、核分裂をおこす金属を二個かそれ以上くっつけたものにすぎない。ばらばらに切り離しておけば、一ポンドのバターも同じで、爆発はしない。ぱちんとくっつけると、爆発する。  複雑なのは、その金属を、正しい形で、正しいときに、求められているところで、くっつける仕掛けと回路と起爆装置だ。  その回路は、核爆弾のいわば頭脳≠ナあり、これは容易に破壊できる──だが、爆弾そのものは、そのあまりの単純さゆえに、かえって、非常に破壊しにくいものなのだ。  ジョニイは頭脳≠たたき壊そうと決心した──それも大急ぎで。  手近なところにある道具といえば、爆弾を取り扱うときに用いる、ごく簡単なものだった。ガイガー・カウンターと、携帯用無線機回路のスピーカーと、基地に通じるテレビ電話と、それに爆弾そのものを除くと、部屋には何もなかった。  工作の必要がある爆弾は、ほかのところに運ばれた──爆発の危険を恐れてではなく、人員の放射能被爆を軽減するためだ。爆弾の中の放射性物質はタンパー≠フ中に埋めこまれていた。これらの爆弾の場合、タンパーは金だ。金は、放射線のうちアルファ線、および恐るべきガンマー線の大部分を遮蔽するが、中性子はおさえられない。  プルトニウムの出す、つかみどころのない危険な中性子は、野放しにしてしまうほかない。そうしないと、連鎖反応を──つまり、爆発をおこしてしまう。だからその部屋の内部は、目には見えず、ほとんど探知もできないが中性子の雨に洗われている。ここは不健康な場所なのだ。できるかぎり短時間内に退去することが、規則だった。  自然放射能や宇宙線や、月の表層地殻に残る放射能の痕跡、それに中性子によって部屋じゅうに蓄積された二次放射能のために、ガイガー・カウンターは鳴り続けだった。  自由になった中性子は、ぶつかるものには何にでもとりついて、放射能を帯びさせるという恐るべき特性を持っている。コンクリートの壁だろうと、人体であろうと、おかまいなしなのだ。やがては、この部屋も廃棄しなければいけないときがくるのだ。  ダールクィストはガイガー・カウンターのつまみをまわした。計器は鳴りやんだ。かれは抑制回路を使い、いま存在していたレベルでの自然放射能ノイズを、切っておくことにしたのだ。その音が、ここに留まっていることの危険を思い出させて、不愉快だったからだ。  かれは、放射性物質関係者がつねに携帯している放射能被爆フィルムを取り出してみた。それは直接反応タイプのもので、さっきここに入るまではきれいだったのだ。いちばん敏感な端のほうが、すでにかすかに黒ずんでいた。フィルムのまん中あたりに、赤い線が一本とおっている。一週間にフィルムがその線まで黒くなるまで放射能にさらされたら、理論的にはおだぶつ≠ノなるのだと、ジョニイは思い出した。  邪魔になる宇宙服など、脱いでしまえ。必要なのはスピードだ。仕事をやるだけやって、降伏するのだ──こんな熱い≠ニころにぐずぐずしているよりは、捕虜になったほうがはるかにましだ。  かれは道具箱からボール・ハンマーを取って、すぐ仕事にかかった。手を休めたのは、テレビのピックアップを消したときだけだった。最初の爆弾にはてこずった。頭脳≠フカバー・プレートを壊しにかかったのだが、すぐいやな気持ちになってしまう。生まれてから今日まで、精密な装置は、大切にあつかうことを心がけてきたからだろう。  かれは勇気をだして、ハンマーをふった。ガラスが音を立てて割れ、金属がきしんだ。気分が一変した。かれは破壊することに、一種の恥ずべき喜びを感じはじめていた。かれは熱意をこめて仕事に精を出した。ハンマーをふれ、くだけ、ぶちこわせ!  あまり熱中していたので、かれは、自分の名前が呼ばれていることにも気づかなかった。 「ダールクィスト! 答えろ! そこにいるのか?」  かれは汗をぬぐって、テレビのスクリーンを見た。タワーズの困惑した顔がにらんでいた。  ジョニイは、爆弾をまだ六個しか壊していなかったことに気づいて、ショョクを覚えた。仕事をやり終えられずに、捕らえられてしまうのだろうか? いや、そんなことはできない! 何がなんでも、やりとげなければいけないんだ。ごまかせ、おい、何とかごまかせ! 「はい、大佐どの? 呼ばれましたか?」 「呼んだとも! いったい、これは何の真似だ?」 「申しわけありません、大佐どの」  タワーズの表情が、ちょっとゆるんだ。 「ピックアップをつけろ、ジョニイ。おまえが見えん。その音は何だ?」  ジョニイは嘘をついた。 「ピックアップはついております。故障しているのでしょう。あの音は……その……実をいいますと大佐、わたしは、だれもここへ入ってこられないように、ちょっと細工をしているのです」  タワーズはためらった。それから、固い口調になった。 「ダールクィスト中尉、きみを病気と見なして、軍医のもとへ送ることにしよう。しかし、とにかく、そこからすぐ出てこなければならん。これは命令だぞ、ジョニイ」  ジョニイはゆっくりと答えた。 「まだ出られません、大佐。わたしは心を決めようとして、ここに入りました。まだ決心はついておりません。大佐は、昼食後に会いに来いといわれました」 「それまではきみの居住区画にいろという意味だったのだ」 「イエス・サー。しかしわたしは、爆弾の監視当直につかなければいけないと考えました。あなたが間違っていると、わたしが判断した場合に備えてです」 「判断するのはきみではない、ジョニイ。わしはきみの上官だ。きみはわしに服従することを誓約しているのだぞ」  これは時間の浪費だ。この古狐は、すでに一個班をよこしているかもしれないのだ。 「イエス・サー……しかしわたしは、平和を守ることも誓約しました。大佐、ここへ来て、そのことを話しあわれませんか? わたしも、間違ったことはしたくありませんからね」  タワーズは微笑した。 「それはいい考えだ、ジョニイ。そこで待て。きみの考えもきっと変わるはずだ」  かれはスイッチを切った。  ジョニイはいった。 「はいよ。おれを、うすら馬鹿だと信じこんでいてほしいもんだ……この汚らわしいできそこないが!」  かれはハンマーを取り上げると、稼いだ時間を有効に使おうとした。  そしてほとんどすぐに、かれは手をとめた。頭脳≠壊すだけでは充分でなかったことに、とつぜん気がついたのだ。  ここには予備の頭脳≠ヘないが、充分な資材を備えたエレクトロニクス工作室がある。モーガンなら、爆弾の制御回路の代用品ぐらいわけなく作れる。いや、おれにだってできる──そうきちんとしたものではなくても、役に立つものを。畜生! やはり、爆弾そのものを破壊しなければいけないんだ……それも、あと十分で!  だが、爆弾は金属のむくの固まりで、ぶあついタンパーに入れられており、そのすべてが大きな鋼鉄の発射装置につながっている。できることではない──十分以内には。  畜生!  もちろん、一つだけ方法はある。かれは制御回路をよく知っていた。だから、壊す方法もよく知っていた。たとえばこの爆弾だ。安全バーを取りはずし、次に近接爆発信管をはずし、遅延回路をショートさせ、接極子回路を手で切り……あっちをはずし、こっちをくっつければ、たった一本の長い針金だけで、爆発させてしまえるんだ。  他の爆弾も、この谷そのものも、天国よ来ませりと吹っ飛ばしてしまうか。  そうするとジョニイ・ダールクィストも一巻の終わりだ。それが欠点だ。  こう考えながらもずっと、かれは考えたことをすべて実行していった。そして、現実に爆発させる段階まできた。いつでもやれるとなると、爆弾が恐ろしくなった。かがみこんで、飛びかかろうとしているように思えた。ダールクィストは冷汗を流しながら立ち上がった。  かれは自分にその元気があるのかどうか、わからなかった。尻ごみしたくなかった──それと同時に、尻ごみすればいいとも思った。かれは上着を探り、エディスと赤ん坊の写真を取り出して、話しかけた。 「きみたち……これをやりとおせたら、そのあとは赤信号を無視するようなことでも、ぜったいにしないからね」  かれは写真にキスして、ポケットにしまった。あとは待つほか、何もすることがなかった。  タワーズは何をぐずぐずしているんだろう? ジョニイはタワーズが確実に爆発の圏内にいるようにしたかった。いったい、なんというタチの悪い冗談なんだ! おれが……ここに坐りこみ、あいつを吹っ飛ばすスイッチを入れようとしているとは。そう考えると、くすぐったくなった。それが、もっとましな考えを思いつかせた。なぜ、自分まで吹っ飛ばす必要がある──しかも、生きたままで?  もう一つの手があったのだ──死人のスイッチという手が。ちょっとした細工をして、おれの手が、その細工のスイッチなりレバーなりの上においてあるかぎりは、最後の段階、つまり爆発する段階まではいかないようにしておく手だ。そうしておいて、やつらがドアを爆破するとか、撃ってくるとかしたら──そのとたんに、ボイーンだ!  もっといいのは、そうやって反逆者どもを釘づけにしておくことができれば、遅かれ早かれ救援がやってくることだ──ジョニイは、国連宇宙警察軍の大部分が、この憎むべき反乱に加わっていないと確信していた。となると──ジョニイは堂々と故郷に凱旋だ。すばらしい妻子との再会! かれは警察軍をやめて、教師になる。かれの当直は終わったんだ。  そのあいだじゅう、かれは手を動かしつづけていた。電気仕掛けにするか? いや、そんな時間はない。ごく単純な機械的リンケージでいい。かれがその仕組みを考えつき、作り始めたか始めないかのうちに、スピーカーがさけびだした。 「ジョニイ!」 「大佐どのですか?」  かれの手は忙しく動きつづけていた。 「入れてくれ」 「でも、それは、大佐どの、約束にはありませんでした」  くそっ、長いレバーに使えるものはどこかにないのか? 「わしはひとりで入っていく、ジョニイ。男の約束だ。顔をつき合わせて話そうじゃないか」  あいつが男の約束だと! 「スピーカーでお話しできますよ、大佐どの」  おい、あったぞ──道具棚の上にぶらさがっている物差しだ。 「ジョニイ、これは警告だ。わしを入れろ。さもないと、ドアを爆破するぞ」  針金だ──かなり長くて、堅い針金が必要だ。かれは宇宙服のアンテナをむしり取った。 「そんなことはされないほうがいいですよ、大佐どの。爆弾がだめになってしまいます」 「真空は爆弾を傷つけたりしない。ごまかすのはやめろ」 「では、モーガン少佐にお聞きになるといいですね。真空は確かに損傷を与えないが、爆発の結果おこる急激な減圧が、回路を破壊してしまうのです」  大佐は爆弾の専門家ではなかった。かれは数分のあいだ、口を閉ざしていた。ジョニイは仕事を続けた。  タワーズ大佐が、ふたたび口を開いた。 「ダールクィスト……下手な嘘をつくな。モーガンにあたってみたぞ。もし宇宙服を脱いでいるなら、六十秒以内に着ろ。これから、ドアを爆破する」  ジョニイはいった。 「いや、それはできませんな……大佐は死人のスイッチ≠ニいうのを聞いたことがありますか?」  さあ、釣合い重りと──それに、紐だ。 「何だと? 何の意味だ?」 「ぼくは、十七番を手動で爆発させるような仕掛けを作った。ちょっとしたトリックをつくったんだ。ぼくが握っている紐を離さないうちは、爆発しない。だが、もしぼくの身に何かおこれば……爆弾は爆発する。あなたは爆心からほぼ五十フィートのところにいる。よく考えて行動することですな」  短い沈黙があった。 「わしは信じないぞ」 「信じない? モーガンに聞いてみることです。かれならぼくを信じるでしょう。かれなら、テレビで見て、調べてみられますからね」  ジョニイは、宇宙服のベルトを物差しの端に結びつけた。 「テレビのピックアップは故障しているといったではないか」 「嘘をついたんだ。こんどはぼくが証明しよう。モーガンに電話させてみるんだな」  すぐにモーガン少佐の顔が、スクリーンに現われた。 「ダールクィスト中尉か?」 「やあ、糞野郎。ちょっと待て」  非常な注意をはらって物差しの端をおさえつけながら、ダールクィストは最後の接続を完了した。なおも慎重に握っている手をベルトのほうに移し、床に坐り、一方の手をのばすとテレビ・ピックアップのスイッチを入れた。 「おれが見えるか、糞野郎?」  モーガンは固い口調で答えた。 「見える……この馬鹿騒ぎは何のためだ?」 「おれが考えたびっくり箱のせいさ」  かれは説明した──どの回路をどう切断し、どの線をどうショートさせ、どの部品をどう一時的につなぎあわせたかを。  モーガンはうなずいた。 「だが、おまえははったりをいっているな、ダールクィスト。おまえはまだ、K回路を切断していないに違いない。自分自身を吹っ飛ばしてしまう勇気はないだろうが」  ジョニイが面白そうに笑った。 「もちろん、切っちゃあいないさ。しかし、そこが傑作なところなんだ。おれが生きているかぎり、爆発はしない。だが、もしおまえの汚ならしいボスが、元大佐どののタワーズがドアを爆破したら、おれは死んで、爆弾は爆発する。おれはどうでもいいが、あいつにとっては、どうでもよくはないだろう。やつに話してやるんだな」  かれはスイッチを切った。  しばらくすると、タワーズがまたスピーカーで呼びかけてきた。 「ダールクィスト!」 「聞いているよ」 「命を捨てる必要はない。出てくれば、給与は全額支給で予備役にまわしてやる。家族のもとへ帰れるんだぞ。約束する」  ジョニイはかっとした。 「おれの家族のことを口にするな!」 「かれらのことを、考えてやれといっているんだ」 「黙れ。きさまの穴へ帰れ。かゆいところをかきたくなっているんだ。うっかりすると、きさまの鼻っさきで爆発がおこるかもしれんぞ!」   2  ジョニイはびくっとして坐りなおした。居眠りをしていたのだ。手は紐を放してはいなかったが、もし放していたらと考えると、ぞっと身ぶるいした。  爆弾の起爆装置を解除しておき、かれらがおれを掘り出そうなどとはしないだろうということに賭けてみるか? だが、タワーズはもう首までどっぷり反逆行為に入っているから、危険を冒して侵入してこないとも限らない。侵入してきて、爆弾が解除されていたら、おれは殺され、爆弾はタワーズの手に入ることになる。  だめだ、おれもどうせ、ここまでやってしまったんだ。ほんのすこし眠りたいだけのために、おれの娘を独裁政権のもとで育てさせたりするものか。  かれはガイガー・カウンターが音を立てているのを聞き、抑制回路を働かせてあったことを思い出した。室内の放射能が増え始めているのにちがいない。たぶん頭脳♂路をばらばらにしたことだろう──その回路は当然汚染されていたはずだ。プルトニウムのすぐそばに、あまりにも長いあいだ接続していたのだから。かれは、被爆フィルムを引っぱりだしてみた。  黒い部分は、赤線にむかって広がりつつあった。  かれはそれをしまって、ひとりごとをいった。 「おい、そろそろこの行き詰まりを打開しないと、おまえは時計の文字盤みたいに光りだしちまうぞ」  これは言葉の綾というものだった。汚染された動物の筋肉組織は光りだしたりしない──ゆっくりと死んでゆくだけだ。  テレビ・スクリーンが明るくなった。タワーズの顔が現われた。 「ダールクィストか? きみに話がある」 「どこかへ行って凧でもあげてろ」 「きみが、わしらの仕事をやりにくくさせたことは認めよう」 「やりにくくだと、馬鹿な……おれは、とめてしまったんだ」 「いましばらくはな。わしは、ほかの爆弾を取りよせている……」 「嘘をつくな!」 「だが、きみのためにわしらの計画は遅れている。そこで提案があるのだ」 「興味はないね」 「待て。これが終われば、わしは世界政府の主席になる。いまからでも協力してくれれば、きみをわしの内閣の行政長官にしてやろう」  ジョニイは、そんなものになっても仕方がないと答えた。タワーズはいった。 「馬鹿なことをいうな。死んで何の得があるというんだ?」  ジョニイはうなり声をあげた。 「タワーズ、おまえはなんという下賤な野郎なんだ。おまえはさきほど、おれの家族のことを口にしたが、おまえのような安物のナポレオンの下で生きていくぐらいなら、おれはいっそ、かれらに死んでもらいたいよ。さあもう行け……おれはすこし考えごとがあるんだ」  タワーズはスイッチを切った。  ジョニイはまたフィルムを出してみた。さきほどよりも黒くなっているようではなかったが、それだけになんとしても、時間がなくなりつつあることを思い出させた。  かれは腹がへり、のども渇いていた──それに、いつまでも起きているわけにもいかない。地球から船が着くには四日かかる。かれは、それ以上早く救援が来るとは期待していなかった。そして、四日間はとうていもちそうもない──いったん黒い部分が赤線を越えたら、かれはもう助からないのだ。  かれに残された唯一のチャンスは、爆弾をみな修理できないまでに破壊して、外へ出ることだ──フィルムがこれ以上黒くならないうちに。  かれは、いろんな方法を考えた、そして仕事にかかった。つり皮の先に重りをつるし、それに紐をつないだ。もしタワーズがドアを爆破しても、死ぬ前にこの仕掛けを引っぱれるだろう。  月基地の修理能力では手に負えないまでに爆弾を破壊してしまうには、骨は折れるが単純な方法があった。それぞれの爆弾の心臓部は、プルトニウムの半球が二つだ。その切断面は、くっつけられたとき、完全な接触がおこなわれるように、なめらかに磨きあげられている。それがすこしでもうまくいかなければ、連鎖反応が妨害され、それに依存する核爆発はおこらないのだ。  ジョニイは、爆弾のひとつを分解しはじめた。  まず、四つの突起を壊さなければいけない。次に、内部構造を包んでいるガラスの筒をたたき壊す。それがすめば、爆弾の分解は簡単なものだった。やっと、かれの前に鏡のように光る半球が二つ現われた。  ハンマーでひっぱたく──と、一方はもはや完全無欠ではなくなっていた。もう一撃すると、もう一方の半球はガラスのように砕けた。その結晶構造を、ちょうどうまい具合にたたいたからだ。  何時間かののち、死ぬほど疲れ果てたかれは、爆発がおこりうるようにしておいた爆弾のところへ帰っていった。なんとかして気分を落ち着け、極度の注意をはらいながら、かれはその起爆装置を解除した。やがて、その銀色の半球も役に立たないものになった。この部屋にはもう、使える爆弾は一つもなくなっていた──世界でもっとも高価で、もっとも有毒な、もっとも恐るべき金属による莫大な財産が、床のあちこちに散乱していた。  ジョニイはその恐ろしい物質を眺め、声に出していった。 「さあ、宇宙服を着て、ここから出るんだ……タワーズは何というかな?」  かれはハンマーを吊そうと思い、道具棚にむかって歩いた。通りかけたとき、ガイガー・カウンターがとつぜん激しく鳴った。  ガイガー・カウンターはプルトニウムにほとんど反応しない。だが、プルトニウムがおこす二次汚染には反応する。ジョニイはハンマーを見て、それをガイガー・カウンターに近づけた。カウンターは悲鳴をあげた。  ジョニイはあわててそれを投げ出し、宇宙服のほうへもどりかけた。  前を通りかけると、カウンターはまた鳴った。かれは、はっと立ちどまった。  かれは、片手をカウンターに近づけた。音はすぐに速くなり、大きく響きつづけた。かれはつっ立ったままポケットに手をのばし、被爆フィルムを取り出した。  それは端から端まで、まっ黒になっていた。   3  体内に入ったプルトニウムは、急速に骨髄に達する。そうなったら処置なしで、犠牲者はおしまいだ。そこから出る中性子は全身をかけめぐり、組織をイオン化し、原子を放射性同位元素に変えて、破壊し、殺す。致死量は信じられないほどの少量だ。食卓塩一グレインの十分の一でも充分以上だ──ほんの小さなひっかき傷から入るぐらいの量でいいのだ。歴史的なマンハッタン計画≠フあいだ、唯一の可能な救急法は、即座に大切断手術をおこなうことだと考えられていた。  ジョニイはこうしたことをみな知っていたが、もう何もかれの心を乱しはしなかった。かれは床に坐り、大切に残してあった煙草に火をつけて、考えた。かれの長い当直のあいだにおこった出来事が、心の中をかけめぐっていた。  かれは煙をガイガー・カウンターに吹きかけ、それがいっそううるさく鳴るのを聞いて、ユーモアのかけらもない笑いを洩らした。いまではかれの呼吸すら熱い>氛沍潔tから二酸化炭素として吐き出されたものも、炭素一四なのだろう。それも、もう問題ではない。  もう降伏しても意味はないし、ここまできて、タワーズに満足を与えてやる必要もない──かれは、ここで、この当直を全うしようと思った。それに、まだ爆弾が一個いつでも爆発するんだという脅《おど》しを続けておけば、爆弾を作る材料を取りに、やつらがここへやってくるのを防げるはずだ。結局は、それが重要なことかもしれない。  かれは、自分が不幸ではないという事実を、驚きもなく受け入れた。もうこれ以上、どんな心配も悩みもないと思うと、快適ですらあった。痛みもなく、不快さもなく、もう空腹ですらなくなっていた。肉体的にはまだまだ調子がよかったし、精神的には平和で落ち着いた気分だった。かれは死んだのだ──死んだことをはっきりと知っていた。それでも、まだしばらくのあいだは、歩き、息をし、眺め、そして感じることができるのだ。  かれは、淋しいとも思わなかった。独りぼっちではなかったからだ。そこには、戦友が大勢いた──堤防の穴に指をつっこんでいる少年、動けないほど弱っているのにまだ戦線へ運んでいけといいはるボウイー大佐、死にかけながらも死をものとせぬ挑戦の言葉をつぶやいているチェサピーク号の艦長、闇の中をじっとのぞいているロジャー・ヤング。かれらが、この薄暗い爆弾貯蔵庫の中で、かれのまわりに集まってきたのだ。  それからもちろん、エディスもいた。かれが知っている顔は、彼女だけだった。ジョニイは、妻の顔がもっとよく見えればいいのにと思った。エディスは怒っているのだろうか? それとも、良人を誇りに思って、幸福なのか?  誇らしい一面、不幸だった──かれは、さっきよりずっとはっきり彼女が見えたし、その手を感じることさえできた。かれは、じっとそれを握っていた。  やがて煙草が、指のところまで燃えてきた。かれは最後の一服を吸い、ガイガー・カウンターに息を吹きかけ、もみ消した。それが最後の煙草だったのだ。かれは何本かの吸殻を集めると、ポケットから見つけ出した紙きれで、煙草を一本巻いた。それに火をつけると、エディスがもう一度現われてくれるのを、ゆったりと待った。  かれは実に幸福だった。  スピーカーがふたたびかれの名前を呼んだとき、ジョニイはまだ爆弾のケースにもたれたままで、吸殻から作った最後の煙草が、火が消えたまま、そばにころがっていた。 「ジョニイ? おい、ジョニイ! 聞こえないのか? こちらはケリーだ。すべては終わったからな。ラファイエット号が着陸して、タワーズは頭を撃ち抜いたぞ。ジョニイ? 答えてくれ」  かれらは外側ドアをあけると、先頭の男は、ガイガー・カウンターを長いポールの先につけて前にのばしながら入ってきた。かれは入口で立ちどまり、急いでもどりながらさけんだ。 「ヘイ、チーフ! マジック・ハンドか何か自動操縦の道具がいるぞ……ああ、それから、鉛の棺もだ」 [#ここから2字下げ]  その小さな船と護衛船隊とが地球に到着するのに四日かかった。その四日間、地球のすべての人々が、その到着を待った。九十八時間のあいだ、テレビはすべてのスポンサー付き番組を中止した。そのかわりに、哀悼の曲が果てしなく奏でられた。〈サウルからの葬送行進曲〉、〈ヴァルハラのテーマ〉、〈ゴーイング・ホーム〉、そして宇宙警察軍歌〈着陸軌道〉と。  九隻の船はシカゴ宇宙港に着陸した。遠隔操縦のトラクターが、棺を小さな船から下ろした。その船は燃料を再補給され、脱出軌道に乗せられて、外宇宙の彼方へと発射された。二度とふたたび、より小さな目的のために使用されることがないために。  そのトラクターは、なおも続く葬送曲の中を、ダールクィスト中尉が生まれたイリノイの町へと進んだ。  棺は、安全な接近距離を示す障壁の中央の台上におかれた。その周囲の警備に立った宇宙海兵は|反せ銃《リバーズ・アームズ》をし、頭をたれた。人々がその円の外側に群がる。葬送の曲はなおも続いた。  山と積まれた花々がしおれたあと、長い長い充分な時間がたってから、その鉛の棺は、今日見られるとおり大理石の中に納められたのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 坐っていてくれ、諸君  月を植民地にするためには、広場恐怖症の者と閉所恐怖症の者との両方が必要だ。しかし、宇宙へ出ていく人間は恐怖症じゃあないほうがいいから、むしろ広場愛好者と閉所愛好者のほうがいい。どこかの天体の上や、その内部や、惑星のまわりの空虚な空間に恐怖をおぼえる人は、母なる地球にしがみついているに限る。  われらの地球から遠く離れたところで生計を立てようとする者は、そこが自分の棺桶になるかもしれないと思いながら、狭苦しい宇宙船の中に嬉々として閉じこめられていなければいけないし、しかも宇宙自体の無限に広がる虚空そのものに、たじろぐようなことがあってはいけない。|宇宙の人々《スペースメン》──宇宙で働く人々、パイロット、ジェットメン、航宙士、その他──は、数百万マイルもの自由に行動できる余地があるのを好む連中なのだ。  それに反して月への植民者は、もぐらのように土の下を掘りまわっていると気分がのんびりする連中であるべきだ。  ルナ・シティへの二度目の旅行のとき、ぼくはリチャードソン天文台を訪れた。そこの大望遠鏡《ビッグ・アイ》を見るのと、休暇の費用を生み出せるような話を見つけるのとの両方からだった。ぼくがジャーナリスト組合の名刺を見せ、ちょっとばかりお世辞をいうと、会計係長が中を案内してくれた。ぼくらは北のトンネルへ入っていった。それは、コロナ観測所を建設する予定地にむかって掘り進んでいるものだった。  つまらない旅だった──スクーターに乗り、完全に何もないトンネルの中を進んでいく。スクーターを下りてエアロックを通り抜ける。別のスクーターに乗って、前と同じことをくりかえす。そのあいだに、ノールズ氏は時間つぶしに宣伝めいた話をした。かれは、こんな説明をしてくれたのだ。 「このトンネルは臨時のものでしてね……二つめのトンネルが掘りあがると、両方をつなぐんです。それからエアロックを取りはらい、このトンネルの中に北へむかう歩道をつけ、もうひとつのに南へむかう歩道をつけます。それができあがると、三分ほどで行き来できるようになるわけです。まるでルナ・シティみたいに……マンハッタンみたいにね」  また次のエアロックに入ったときに──それは七つめぐらいのだったが、ぼくは尋ねた。 「なぜ、いますぐ、エアロックをなくしてしまえないんです? これまでのところ、気圧はどのロックでも、両側とも同じだったじゃないですか?」  ノールズは問いかけるように、ぼくを見た。 「あなたはセンセーショナルな記事を書くためだけに、この天体の特殊性を利用しようとされているんじゃあないでしょうな?」  ぼくはちょっといやな気がして、かれにいった。 「いいですか、ぼくは口が固いという点では、物書き商売のだれにも負けないつもりです。だがもし、この計画に何かまともじゃないところがあるのなら、すぐに引き返して、このことは忘れることにしましょう。ぼくは、検閲などされたら、黙っていないほうですから」 「まあまあ、お手やわらかに、ジャック」  と、かれは穏やかにいった──ぼくのファースト・ネームを呼んだのは、初めてだった。ぼくはそれに気づいたが、割引きして考えることにした。 「だれひとりあなたを検閲したりはしませんよ。われわれは喜んで、あなたがたに協力します。ですが、これまでに月は、あまりにも悪い宣伝をされているのです……されるべきでない宣伝をね」  ぼくは何もいわなかった。  かれは口調を強めていった。 「建設の仕事はどれも、それぞれに危険をともなうものです……そして、利点もあります。ここで働く者は、マラリアにかかることもなければ、ガラガラ蛇に気をつける必要もありません。月で潜函工になるほうが、デモインで文書係になるより、ずっと安全なことは数字で証明できますよ……あらゆる点を考慮にいれてね。たとえば、月では骨折というものがほとんどありません。重力が弱いですからね……デモインの文書係は、浴槽に出入りするたびに命を賭けているわけです」  ぼくはさえぎった。 「オーケイ、オーケイ……だから、ここは安全だというわけですね。問題は何です?」 「確かに安全なんです。いっておきますが、これは会社の数字でもないし、ルナ・シティ商工会議所のものでもありません。ロンドンのロイドのものです」 「では、不必要なエアロックを作ってあるのですね。なぜです?」  かれは、しばらくためらってから答えた。 「地震で《クエイク》す」  地震。|地球での地震《アースクエイク》──|月での地震《ムーンクエイク》、月震か。ぼくは後ろに滑りすぎてゆくカーブした壁をちらりと見て、デモインにいればよかったと思った。だれだって、生き埋めにはなりたくない。だが、それが月でおこったら──まず、助かる望みはないだろう。いくら早く救助に来てくれても、肺が破裂してしまう。空気がないんだから。  ノールズは話を続けた。 「そうしばしば起こるものではありませんが……それに備えておかなければいけません。いいですか、地球の質量は月の八十倍あるんです。だから、ここでの潮汐力は、月が地球に影響する場合の八十倍なんです」 「何ですって……月には水などないでしょう。どうして、潮の干満などがあるんです?」 「潮汐力をおこすには、必ずしも水を必要としません。そんな心配はせず、単に認めるだけでいいんです。不均衡な力がかかり、それが地震を起こしうるわけです」  ぼくはうなずいた。 「なるほど。月では、すべてのものを気密にしておかなければいけないので、それで地震に気をつけなければいけないんですね。これらのエアロックは、あなたがたの被害を最小限にするためですか」  ぼくは、自分がその被害にあった場合を想像しはじめた。 「イエスでもあり、ノーでもありますね。エアロックは、確かに事故をある程度までにくいとめるでしょう。もし起きても……起きることはないでしょうが……ここは安全です。まず第一に、これがあるために、われわれはトンネルのある部分を気圧なしで仕事ができ、ほかの部分に影響を与えないですみます。  しかし、エアロックは、それ以上に役に立ちます、それぞれが一時的な膨張継手でもあるんです。堅い構造物をつなぎ合わせれば地震に持ちこたえられますが、このトンネルのように長いものは、どうしても壊れてしまうか、空気が漏れるところができてしまいます。弾力性のある密閉はなかなか難しいのです」  ぼくは議論するどころではなく、心配になってきて尋ねた。 「ゴムはだめですか? 地球でぼくは自動車を持っているんですが、走行距離はもう二十万マイルになっているのに、デトロイトで作られたときに密閉して以来、まだ一度もタイヤに手をつけたことはありませんよ」  ノールズは溜息をついた。 「技術者をひとり連れてくるべきですね、ジャック。ゴムに軟らかさを持たせている揮発性物質は、真空の中では沸騰してなくなり、ゴムは堅くなってしまいます。弾力性のあるプラスティックも同じです。それは、低温にさらされると、卵の殻のようにもろくなってしまうのです」  ノールズが話しているうちに、スクーターはとまり、ぼくらが下りると、そこのエアロックから六人の男が出てきた。かれらは宇宙服を着ていた。というより、圧力服といったほうがいいかもしれない。その服には、酸素ボンベの代わりに吸気ホースをつける接続口がついており、遮光眼鏡《サン・バイザー》がなかった。どの男もヘルメットを脱いで後ろにおしやり、服の前のジッパーを開いて、そこから頭をつき出しているので、まるで頭が二つあるように見えた。ノールズは呼びかけた。 「おい、コンスキー!」  男たちの一人がふりむいた。きっと六フィート二インチはありそうだが、そのサイズにしては太っている。地球で計れば、三百ポンドぐらいだろう。かれは嬉しそうに答えた。 「やあ、ノールズさん……おれが昇給したというんじゃないだろうな」 「きみはいまでも、金を取りすぎているじゃないか、ファッツォ。ジャック・アーノルドと握手したまえ。ジャック、これはファッツォ・コンスキーです……かれは、四つの惑星でもっとも優秀な穴掘りですよ」 「たった四つかい?」  コンスキーは反問した。かれは圧力服から右腕を出し、素手でぼくの手を握った。ぼくは会えて嬉しいといい、握りつぶされないうちに手を引っこめようとした。  ノールズは続けていった。 「ジャック・アーノルドは、このトンネルをどうやって密閉するのか知りたいそうだ……一緒に来てくれ」  コンスキーは天井を見つめた。 「ノールズさん、あんたがそういうのなら仕方がないが、おれはたったいま出番が終わったところなんだぜ」  ノールズはいった。 「ファッツォ、きみは欲張りで、そのうえ人づきあいの悪いやつだなあ。よし……一時間半の手当てだ」  コンスキーはくるりと振り向いて、エアロックをあけ始めた。  そこから先のトンネルは、ぼくらがいままで通ってきた部分と同じように見えた。違う点はスクーターの線路が敷いていないことと、電灯が臨時のもので、かりに引いた電線から吊されていることだけだった。このトンネルは二百フィート先で、丸いドアがついた隔壁で行き止まりになっていた。太った男はぼくの視線を追って、説明した。 「あれは可動|気閘《ロック》だ……そのむこうには空気がないんだよ。おれたちは、あのすぐ向こう側を掘っているんだ」 「あなたがたがいままで掘っていたところを、見せてもらえますか?」 「一度もどって、あんたに服を着てもらわなくちゃあだめだね」  ぼくは首をふった。このトンネルには気球のようなものが一ダースほどあった。玩具のゴム風船のようなものだ。それらは正確に空気圧とつりあっているらしく、ほとんど上がりも下がりもせずに空中に浮いていた。  歩きながらコンスキーは、目の前にあるのを一つわきへおしやり、ぼくが尋ねる前に説明してくれた。 「トンネルのこの部分は、今日気圧をかけたところだ……これらの|つきまとい《タグ・アロング》は、目に見えない空気洩れの場所を探しだすんだよ。この内側はねばねばでね。洩れるところに吸いよせられると、破れて、糊みたいなもんが吸いこまれ、すぐに凍って、洩れている穴を密封してしまうんだ」  ぼくは知りたがった。 「それで、永久的な修理をしたことになるんですか?」 「冗談じゃない! それは、補修をやる連中に、熔接箇所を教えるだけさ」  ノールズは指示した。 「弾性接続部《フレキシブル・ジョイント》を見せてあげてくれ」 「こちらへ来てくれ」  トンネルを半ばまで行って立ちどまるとコンスキーは、管状のトンネルの壁を完全にぐるりとまわっている輪の部分を指さした。 「百フィートごとに弾性接続部が設けてあるんだ。こいつはガラス繊維の布で、二個の鋼鉄の区画がくっつくところに、パッキングとして詰めこんである。トンネルにある程度の伸縮性を与えているわけだな」  ぼくは聞きかえした。 「ガラス繊維の布だって? そんなもので空気が洩れないようにできるんですか?」 「布では密封しはしないさ。それは力をもたせるためだよ。布を十枚重ねて、それぞれのあいだにシリコン・グリースをつめてある。こいつは外側から内側にむかって次第に質が低下してくるが、五年ぐらいはもつから、それまでにまた新しく布をはるってわけだ」  ぼくはコンスキーに、この仕事が気に入っているかどうか聞いてみた。何か面白い話が手にいれられるかと思ったからだ。かれは肩をすくめた。 「いいよ。文句はないね。気圧も地球の大気圧と同じでね。おれがハドソン川の下で働いていたときなどは……」  ノールズは口をはさんだ。 「それに、ここでの給料の十分の一だったしな」  コンスキーは抗議した。 「ノールズさん、情ないことをいわないでくれよ……金のためじゃあないんだ。問題は仕事の技術面さ。金星を見てみなさいよ。金星でもいい給料はもらえるが、あそこでは爪先立って歩かなきゃいけないんだ。土はあまり軟らかいんで、凍らさなくちゃあいけない。あそこで働くには、本物の潜函工でなきゃあだめでね。ここの連中の半分は、ただの鉱夫だ。ちょっとした潜函病にかかるのでも、やたらと怖がるんだからな」 「きみが金星を出てきたわけを話してみろよ、ファッツォ」  コンスキーは威厳を保った声でいった。 「では、可動シールドを見ようか、みなさん?」  しばらくそのあたりを見たあと、ぼくはそろそろ帰ろうとした。見るものはほとんどないし、その場所を見れば見るほど、気味が悪くなってきた。コンスキーがもどるほうのエアロックのドアをあけようとしたとき、何かがおこった。  ぼくは気がつくと両手両膝をついており、あたりはまっ暗だった。悲鳴をあげてたのかもしれない──自分ではわからない。  耳がガンガン鳴っていた。ぼくはやっと起き上がり、そのままそこを動かなかった。これまでに見たうちでいちばんの暗さ、完全な暗黒。ぼくは盲目になったのかと思った。  懐中電灯の光がさっとさし、ぼくをとらえ、そしてそのまま動いていった。ぼくはさけんだ。 「どうしたんだ? 何が起こったんだ? 地震か?」  コンスキーの声がのんびりと答えた。 「騒ぎなさんな……地震じゃあないね。何かの爆発みたいだ。ノールズさん、大丈夫かい?」 「だと思うね」かれは息を大きくついた。「何だったんだ?」 「わからん。ちょっと見てみよう」  コンスキーは立ち上がり、懐中電灯の光を動かし、口笛を低く吹きながらトンネルの中を照らしていった。その電灯はポンプ式のものなので、光はちらついた。 「しっかりしているみたいだが、あの音は……おう! この野郎!」  かれの光線は、床に近い、弾性接続部の一点にむけられていた。  |つきまとい《タグ・アロング》気球が、その場所へ集まりかけていた。三個はもうそこにたどりつき、ほかのものもゆっくりと、そちらへ漂っていくところだ。見ていると、一つが破裂し、べたべたの固まりにくずれて、洩れている場所を示した。  穴は破裂した気球をあっというまに吸いこんで、しゅうしゅう音を立て始めた。もう一つの気球がそこへころがっていき、ちょっと揺れていたあと、それも破裂した。こんどは、その洩れている場所がゴム状の固まりを吸いこむのに、前よりすこし長い時間がかかった。  コンスキーはぼくに懐中電灯を渡した。 「押しつづけていてくれ、坊や」  かれは体をよじって右腕を圧力服から出し、そのときちょうど三つめの気球が破裂した場所を素手でおさえた。  ノールズは尋ねた。 「ファッツォ、どうだ?」 「何ともいえないな。親指ぐらいの穴だ。ひどい勢いで吸っている」 「どうしてそんな大きい穴があいたんだろう?」 「おれにはわからん。外から突かれたんだろうな」 「きみは、洩れをとめているな?」 「そう思うよ。もどって、計器を見てきてくれ。ジャック、かれに電灯を渡せ」  ノールズはエアロックへ走ってもどり、やがてさけんだ。 「気圧は落ち着いているぞ!」  コンスキーは呼びかけた。 「副尺は読めるかい?」 「もちろん。副尺でも一定している」 「どれぐらい落ちている?」 「一ポンドか二ポンドだ。もとの気圧はいくらだったんだ?」 「地球の標準」 「では、一ポンドと十分の四だな」 「悪くないな。ついでにやってくれ、ノールズさん。ロックのむこうの区画に道具箱がある。三号パッチか、それより大きいのを持ってきてほしいんだ」 「わかった」  ドアが開閉する音が聞こえ、ぼくらはまた、まったくの闇の中に取り残された。  ぼくは何か声を出したらしく、コンスキーにしっかりしていろといわれた。  やがてドアの音がして、またありがたい光線がさしてきた。 「あったかい?」  コンスキーの問いに答えるノールズの声はふるえていた。 「いや、ファッツォ、だめだ……むこう側には空気がない。むこうのドアがどうしても開かないんだ」 「何かつまっているんだろうな」 「いや、わたしは圧力差計《マノメーター》を調べてみたんだ。隣りの区画には空気がないぞ」  コンスキーはまた口笛を吹いた。 「みんながここへ来てくれるまで、待たなきゃあだめらしいな。そうなるとだな……おれを照らしていてくれ、ノールズさん。ジャック、おれが服を脱ぐのを手伝ってくれ」 「どうするつもりだ?」 「パッチが手に入らないとなると、手製のを作らなきゃあね、ノールズさん。手に入るものは、この服しかない」  ぼくは手伝い始めた──かれの片手は、空気洩れの穴をふさいでおかなければいけないので、脱がせるのは容易でなかった。  ノールズはいった。 「わたしのシャツを穴に詰めてくれてもいいよ」 「そいつはフォークで水をかい出すようなもんだ。この服でなければだめだよ。この圧力に耐えるものは、ここにはほかにないからな」  圧力服を脱ぐと、かれはぼくに服の背中の部分を平らにのばさせ、そして穴から手を離した。ぼくが圧力服を空気洩れの場所にたたきつけると、コンスキーは急いでその上に坐りこんだ。  かれは楽しそうにいった。 「これでいい……コルクを詰めたのも同じだ。待つしかないな」  ぼくはかれに、なぜ圧力服を着たまま空気洩れの上に坐らなかったのかと聞こうとした。そしてすぐ気づいた。その服の尻のところは、絶縁物のために皺がよっている──かれは、気球が残した粘着物の上にのせてふさぐ平らな物が必要だったのだ。 「手を見せてくれ」  と、ノールズはいった。 「たいしたことはないよ」  だが、ノールズは調べた。ぼくはそれを見て、ちょっと気持ちが悪くなった。かれの掌には出血斑ができており、血だらけで、まだ血がにじみ出ていた。ノールズはハンカチをたたんで傷にあて、ぼくのハンカチでそれを縛りつけた。 「みなさん、すみませんな」と、コンスキーはいい、そしてつけ加えた。「時間つぶしをしなくちゃあ。ピノクルでもやらないか?」  ノールズは尋ねた。 「きみのカードでかい?」 「そんな、ノールズさん! まるで……まあ、いいよ。いずれにしても、会計係長が博打をやるのはまずいからな。会計係長といえば、圧力服で働くのがどんなことか、あんたにもこれでよくわかったはずだ、ノールズさん」 「一ポンド十分の四の差があることか?」 「組合ではきっと、そういう見解を取るだろうな……この状況では」 「では、わたしが、その洩れる場所に坐ることにしたら?」 「だが、そのレートは助手にも適用されるんでね」 「オーケイ、守銭奴め……では三倍だ」 「そのほうが、あんたの優しい人柄にずっと似つかわしいよ、ノールズさん。このまま、のんびりと長いあいだ待ちたいもんだ」 「きみは、どれぐらい待つことになると思う、ファッツォ?」 「そうだな、かりにリチャードソン天文台からやってくるとしても、一時間とはかからないだろうな」 「ふーん……みんながわれわれを探すことになると、どうしてわかるんだ?」 「え? 事務所では、あんたがどこにいるのか知らないのかい?」 「知らないと思うよ。今日は、もどらないといってきたんだ」  コンスキーは考えた。 「おれはタイム・カードをガチャンとやってこなかった。おれがまだ中に入っていることを、みんなは知っているはずだ」 「そう、みんなは知るさ……明日になって、きみのカードが事務所に届かなかったらな」 「入口にあの馬鹿がいた。三人余分に入っていることを、知っているさ」 「それも、かれが交替の者に伝えるのを忘れていなければだ……それに、かれがこれでやられていなければの話だ」  コンスキーは考えこんだ。 「そう、そういうことだな……ジャック、その電灯をおすのはやめたほうがいい。酸素を使いすぎるだけだからな」  ぼくらは闇の中にずいぶん長いあいだ坐りこみ、何かおこったのかについて推理した。コンスキーは爆発に違いないといった。ノールズは、以前貨物ロケットが離陸直後に墜落したのを見たときのことを思い出したといった。  会話が途切れると、コンスキーが何かの話をした。ぼくも話そうとしたが、あまりに心が乱れて──あまりに恐ろしくて、というほうが本当だ──気のきいた話などまったく思い出せなかった。ぼくは悲鳴を上げたくなった。  長い沈黙が続いたあとで、コンスキーはいった。 「ジャック、電灯を貸してくれ、思いついたことがある」  ノールズは尋ねた。 「何だい?」 「詰物さえあれば、あんたがおれの圧力服を着て、救援を求めに行けるわけだ」 「圧力服用の酸素がないぞ」 「だから、あんたにといったんだ。あんたはいちばん体が小さい……だから、服の中の空気だけで、隣りの区画を通り抜けられる」 「それは……オーケイ。だが、詰物には何を使うつもりだ」 「おれはその上に坐っているよ」 「え?」 「おれがその上に坐っている大きな尻さ。おれはパンツを脱ごう。片方の尻を穴にあてがっておけば、完全に密封しておけるのは保証するぜ」 「だが……ファッツォ、それはだめだ。きみの手がどうなったか見るがいい。わたしがもどってくるまでに、きみは皮膚から出血死してしまうぞ」 「おれは死なないとして、二対一で賭けてもいいぜ……五十ドルでどうだ?」 「もしわたしが勝てば、どうやって取り立てるんだ?」 「あんたって、頭がいいんだな、ノールズさん。だがね……おれには二インチか三インチの厚さで脂肪がついているんだ。それほどたくさんは出血しないよ……せいぜいあざができるぐらいのもんだ」  ノールズは首をふった。 「そんな必要はない。もしこのまま静かにしていれば、五、六日はこうしていられるだけの空気がある」 「空気じゃないんだ、ノールズさん。そろそろ冷えてきたことに気がつかないか?」  ぼくは気づいていたが、そのことをまったく考えていなかった。恐ろしいのと惨めな気持ちとで、寒いことなどは意に介さなかった。ぼくは、いまになってそれに思いあたった。電力線が不通になったので、暖房装置もだめになったのだ。だんだん冷えてゆくにちがいない……しだいしだいに冷たくなっていくのだろう……冷たく……冷たく。  ノールズ氏も、それに気づいた。 「オーケイ、ファッツォ、その手でいこう」  コンスキーが支度をするあいだに、ぼくは圧力服の上に坐った。かれはパンツを脱ぐと、気球を一つつかまえ、それを破ると、内側のねばねばしたものを自分の右の尻に塗りつけた。それから、ぼくのほうに向いていった。 「オーケイ、坊や……巣から出てくれ」  ぼくらは素早く交替したから、あまり空気を失わなかったが、洩れ口は怒ったようにシューと鳴った。 「安楽椅子みたいにいい坐り心地だよ、みなさん」  といって、かれは笑った。  ノールズは急いで圧力服を着ると、懐中電灯を持って出ていった。ぼくらはまた、闇の中に残された。  やがてコンスキーの声がした。 「暗くてもできるゲームがあるんだが、ジャック。あんた、チェスはやるかい?」 「え、やるよ……真似ごとぐらいだが」 「あれはいい遊びだ。ハドソン川の下で仕事をしていたとき、減圧室の中でよくやったもんだ。ひとつなぐさみに、二十ドル賭けてやらないか?」 「え? ああ、いいとも」  かれは干ドルといってもよかったんだ。ぼくには、どうでもよかったんだから。 「よし、キングの歩をキング3へ」 「ええと……キングの歩をキングの4へ」 「ありきたりの手だな? ホーボーケンで知り合いになった女を思い出すな……」  かれが話したその女のことは、チェスとはまったく関係はないが、彼女がいかにもといったタイプの女だったことはわかった。 「キングのビショップをクイーンのビショップ4へ。その女の妹のことも思い出したぜ。彼女はいつでも赤毛だったわけじゃあなかったらしいんだ。だが、人にはそう思わせておきたかったんだな。だから彼女は……すまん。あんたが動かす番だぜ」  ぼくは考えようとしたが、頭がぐるぐるまわっていた。 「クイーンの歩を、クイーン3へ」 「クイーンをキングのビショップ3へ。とにかく、彼女は……」  かれは、細部にわたってくわしく話した。それは目新しい話ではなく、実際にかれに起こったことかどうか疑わしかったが、それでもぼくを元気づけた。ぼくは実際、闇の中で微笑さえもらした。かれはつけ加えた。 「あんたの番だぜ」 「ああ」  ぼくは、盤面を思い出せなかった。ぼくはルークでキングを守ろうと決めた。ゲームの初めにはまずそれが安全な手だ。 「クイーンのナイトを、クイーンのビショップ3へ」 「クイーンが進んで、あんたのキングのビショップの歩を取る……詰みだ、ジャック。あんたはおれに二十ドル借りができたぜ」 「へえ? どうしてそんなことに?」 「最初からの指し手をやりなおしてみるかい?」  かれは順番に指し手をいった。  ぼくは、盤面をやっと思い浮かべた。 「あれえ、ひどいもんだ! きみは、与太話でぼくを引っかけたな!」  かれはくすくす笑った。 「あんたは赤毛の女ではなくて、おれのクイーンをよく見張っているべきだったんだ」  ぼくは大声で笑った。 「何かほかに面白い話を知ってる?」 「いいとも」  かれはまた別のを話した。しかし、ぼくがもっと話させようとすると、かれはいった。 「ちょっと休ませてくれ、ジャック」  ぼくは立ち上がった。 「大丈夫か、ファッツォ?」  かれは答えなかった。ぼくは闇の中を、手探りしながら近づいていった。かれの顔は冷たくなっていて、ぼくが体にさわっても、口をきかなかった。かれの胸に耳をあてると、鼓動がかすかに聞こえたが、手足は水のように冷たかった。  ぼくは、かれをほぐさなければいけなかった。かれは、その場で凍りついていたのだ。氷のように感じたが、それが血にちがいないのはわかっていた。ぼくはかれをこすって正気づかせようとしたが、空気が吸い出される音がしたので、はっとしてやめた。ぼくはズボンを引きちぎるように脱いだ。そしてまっ暗な中で狂ったように正確な場所を見つけ、その穴に右の尻をしっかりとおしつけた。  ぼくは、吸引カップにはまりこんだようにしっかりと捕えられた。氷のように冷たい。ついで火のような熱さが体じゅうに広がった。しばらくすると、鈍痛と寒さのほかは何ひとつ感じなくなった。  どこかに明かりが見えた。ちらついて、また消えた。ドアのしまる音がした。ぼくはさけび始めた。ぼくは絶叫した。 「ノールズ! ノールズさん!」  明かりがまた、ちらついた。 「帰ってきたよ、ジャック……」  ぼくはわめきだした。 「ああ、きみはやったんだな! やったんだな!」 「だめだった、ジャック。次の区画までも行けなかった。ロックまでもどってきて気を失ったんだ」かれは言葉を切り、ぜいぜいあえいだ。「大きな穴が……」電灯がちらりと光って消え、床にころがって音を立てた。「助けてくれ、ジャック」かれは怒ったようにいった。「わからないのか、助けてほしいのが! なんとかして……」  かれがつまずいて倒れる音が聞こえた。ぼくは呼んだが、かれは答えなかった。  ぼくは立ち上がろうとしたが、しっかりと床にくっついていて動けなかった。瓶のコルクだ……  ぼくは意識を取りもどした、うつむけに横たわっている──下は、まっ白なシーツだ。 「気分はどうです?」  と、だれかが尋ねた。ノールズがバスローブを着て、ベッドのそばに立っていた。 「あんたは死んだんだ」  と、ぼくはかれにいった。  かれはにやりと笑った。 「とんでもない……危ないところで、みんなが助けに来てくれたんだ」 「何がおこったんです?」  ぼくはまだ自分の目が信じられず、かれを見つめた。 「想像したとおりだった……ロケットの墜落だった。無人郵便ロケットが、操縦不能になって、トンネルの上にぶつかったんだ」 「ファッツォはどこです?」 「やあ!」  ぼくは顔をそちらにまわした。コンスキーが、ぼくと同じように、顔を下にして横たわっていた。  かれは愉快そうにいった。 「あんたには二十ドル貸しがあるぜ」 「きみには借りがある……」なぜか知らないうちに、涙が頬をつたっていた。「オーケイ、ぼくは二十ドル借りている。だが、それを取り立てるには、デモインまでこなくちゃあだめだぜ」 [#改ページ] 月の黒い穴  月に着いたあくる朝、ぼくらはラザフォードへ行った。  父さんとレーサムさんは──レーサムさんというのは、ハリマン・トラストの人で、父さんはこの人に会いに、ルナ・シティまでやってきたんだ──父さんとレーサムさんは、いずれにしても仕事のことで行かなければいけなかった。  それでぼくは父さんに、ぼくも連れていくことを約束させたんだ。そんなときでもなければ、月の表面に出られそうもなかったからだ。そりゃあ、ルナ・シティだって悪くはない。でも、ルナ・シティの地下通路とニューヨークの地下街と区別できるかっていうんだ──もちろん、歩く足が軽いのは別にしてだよ。  父さんがホテルの部屋に入ってきて、みんな一緒に出かけようといったとき、ぼくは床に坐って弟とマンブルティ・ペグ(ジャックナイフ投げ)をやって遊んでいた。母さんは横になっており、チビスケを静かにさせてと、ぼくにいいつけていた。母さんは地球を出たときからずっと宇宙酔いで、そのときもきっと気分がよくなかったのだろう。チビスケはさっきから照明をいたずらしていて、黄昏≠ゥら砂漠の太陽≠ワで次々とスイッチを切りかえたり、またもどしたりしていた。ぼくはチビスケの首っ玉をつかまえて、床に坐らせた。  もちろん、ぼくはもう、ふつうならマンブルティ・ペグなんかやらない。でも月だと、すごく面白いゲームなんだ。ナイフは本当に空中に浮いて、どんなことでもできるんだ。ぼくらは、新しいルールをたくさん作り上げた。  父さんはいった。 「計画変更だよ、マイ・ディア。みんなで一緒に、ラザフォードへ行くんだ。さあ、元気を出して行こう」  母さんはいった。 「まあ、そんな……あたしはとても行けそうにないわ。あなた、ディッキーとお行きなさいな。ベビー・ダーリンとあたしは、ここで一日、ゆっくりしているわ」  ベビー・ダーリンとはチビスケのことなんだ。  そういう扱い方はまずいってことを、母さんにいっておくべきだったんだ。チビスケのやつ、あぶなくぼくの目をナイフでえぐり出しそうにしてから、いったんだ。 「だれが? なあに? ぼくも行くよ。さあいこう!」  母さんはいった。 「さあさあ、ベビー・ダーリン……母さんに世話を焼かさないでよ。ふたりで映画に行きましょね、ふたりっきりで」  チビスケはぼくより七つ年下だ。でも、やつに何かさせようと思ったら、絶対にベビー・ダーリンなんて呼んじゃあだめなんだ。すぐに、やつはわめき始めた。 「かーちゃんはぼくも行けるっていったい!」  金切り声でさけぶんだ。 「いいえ、ベビー・ダーリン、そんなことはいいませんよ、あたしは……」 「とーちゃんはいったよ!」 「まあリチャード、あなた、そんなことをベビーにおっしゃったの?」 「いいや、いわんよ、マイ・ディア。わしはいった覚えなどないよ。たぶんわしは……」  チビのほうが早かった。 「いったよお、ディッキーが行くとこは、どこでもつれてくっていったよお。やくそくしたよやくそくしたよ」  こうなったらチビスケにはかなわない。やつはいつまでも、だれがああいったのこういったのと、でたらめを並べたてるからだ。  いずれにしろそういうわけで、二十分後、ぼくたち四人はそろってレーサムさんとロケット空港に行き、ラザフォード行きのシャトルに乗りこんだ、というわけだ。  旅は十分ぐらいしかかからなかったし、ほとんど何も見えなかった。ロケットがまだルナ・シティの近くを飛んでいるときに、地球がちらっと見えただけで、やがてそれも見えなくなった。  ぼくらが行く原子力工場はみな、月の裏側にあったからだ。  ロケットにはたぶん十二人ほどお客が乗っていたが、慣性飛行に入ったとたん、みな宇宙酔いにかかってしまった。母さんもだった。人によっては、いつまでたってもロケットに慣れることができないのだ。  しかし母さんも、着陸してふたたび地下に入ったとたんによくなった。ラザフォードはルナ・シティのようではなかった。船に通行管《チューブ》が伸びてくるのではなく、与圧された車が出迎えにやってきて、ロケットのエアロックにぴたりとくっつくのだ。それからバックして、地下の入口まで一マイルほど走る。ぼくはこれが気に入ったし、チビスケもそうだった。  父さんは仕事のことでレーサムさんと行かなければいけないので出かけてしまい、母さんとチビスケとぼくとは研究所めぐりの観光ツアーの一行に参加させられた。  それも悪くはないが、興奮させられるようなところは、まったくなかった。ぼくの見るところ原子力工場なんて、どれもこれも似たりよったりだ。ラザフォードは、シカゴの郊外にある本社工場とちっとも変わらなかった。というのはつまり、どんなものだろうとすべてのものが、見えないか、覆いがしてあるか、遮蔽されているか、ということなんだ。  見えるものは、いくつかのダイアルと計器盤とそれを見つめている人ばかり。オークリッジのような遠隔操作になっているんだ。ガイドが、中でやっている実験の話をして、映画をいくつか見せ──それでおしまいなんだ。  ぼくは、ガイドが気にいった。かれは宇宙軍団≠ノ出てくるトム・ジェレミイに似ていたからだ。かれに、宇宙飛行士《スペースマン》ですかと尋ねると、かれはちょっと変な顔でぼくを眺め、そうじゃない、ただの植民地警備隊の隊員だと答えた。それからかれは、ぼくに、どこの学校に行っているのか、ボーイ・スカウトには入っているのかと尋ねた。かれは、ラザフォード・シティ、第一団、月こうもり班の班長だといった。  班は一つしかないとわかった──月には、スカウトはあまり多くないらしい。  父さんとレーサムさんは、ぼくらの見学が終わりかけたときに、もどってきた。ちょうどそのとき、パーリンさんは──ぼくらのガイドだ──戸外ツアーについて話し始めていた。かれは、まるで棒読みしているような調子でいった。 「ラザフォードのガイドつき観光コースには……宇宙服を着て、月面見物をすることも入っています。特別の料金はいただきません。悪魔の墓場≠ニ一九八四年の惨劇≠フ跡を見に行くのです。この旅行はオプショナルです。危険なことは何もありませんし、これまでだれひとり事故にあわれた方もありません。ただし、この旅行に参加される方々には、安全についての棄権証書にそれぞれ署名していただくことが委員会によって求められております。見物はほぼ一時間かかります。残られる方々のためには、映画もございますし、コーヒー・ショップには冷たい飲物もございます」  父さんは両手をすりあわして、断言した。 「これこそ望みのもの……レーサムさん、間に合うように帰れてよかった。どんなことがあろうと、これは見逃したりしませんぞ」  レーサムさんはうなずいた。 「おもしろいですよ、ローガンさん……奥さんも、きっと気に入られるでしょう。わたしまで一緒に行きたくなるぐらいです」  ダディは尋ねた。 「どうして行かれないんです?」 「いや、わたしは、あなたがもどってこられて、ルナ・シティに発たれるまでに、例の書類を作っておいて、あなたと所長のサインをもらえるようにしておきたいですからね」  ダディはすすめた。 「あなたも遊ばれることにしたらいかがです? 男の言葉が役に立たないなら、紙に書いた契約書などそれ以上に役に立ちませんよ。書類など、あとでニューヨークに送ってくださればいいんですから」  レーサムさんは首をふった。 「いや、本当のところ……わたしは何十回も月面に出ていますしね。でも、そこまで一緒に行って、宇宙服を着るのを手伝いましょう」 「あら、大変……」  と、母さんはいった。行く気になれなかったんだ。窮屈な宇宙服に閉じこめられるのには耐えられそうになかったし、おまけに強い太陽光線にさらされると、必ず頭痛がしてくるのだ。 「馬鹿なことをいいなさんな、マイ・ディア。一生に一度のチャンスなんだよ」  と、父さんがいうと、レーサムさんもそばから、宇宙服にはフィルターがついており、日光がぎらぎら光るようには見えないと説明した。  母さんはいつもいやがるのだが、いつも降参してしまう。女の人というのは、筋が一本とおってないんだろう。昨夜だって──ルナ・シティ標準時で、地球の夜にあたる時間のことだ──母さんはホテルの地球展望室での夕食に着て出るつもりで、洒落たムーン・スーツを買っておいた。ところが、いざとなると怖じ気づいてしまった。父さんに、太りすぎているからこんなドレスは着られないと、文句をいいだしたんだ。  そう、肌がびっくりするぐらい見えてしまう服だった。でも、父さんはいった。 「何をいうんだ、マイ・ディア。きみは素晴らしいよ」  母さんは結局それを着て、楽しい時間を過ごしたんだ。特に、どこかのパイロットが誘惑しようとやってきたときなんか。  今回だって同じだった。母さんはついてきた。ぼくらは宇宙服を着る部屋に入った。パーリンさんがみんなを集めて、棄権証書にサインさせているあいだ、ぼくはあたりを見てまわった。  つきあたりに、月面に出るエアロックへのドアがあり、それには小さな丸窓がついている。そして、そのドアのむこうのもうひとつのドアにも、同じような窓があった。そこからのぞくと、むこうの月面が見えるようになっているのだ。月面は、窓にはまっている琥珀色のガラスを通してさえも、やはり熱そうで、ぎらぎら光り、おとぎの国の景色のように見えた。  そこには、宇宙服が二列にずらりとかけられていた。まるで人間の脱け殻みたいに見える。ぼくは、パーリンさんがそばにやってくるまで、そのへんをうろうろと嗅ぎまわっていた。 「小さなお子さんは、コーヒー・ショップのホステスがお預かりいたします」  と、パーリンさんは母さんにいった。かれはチビスケの頭をなでようとして手を出したが、チビスケがその手に噛みつこうとすると、あわてて手を引っこめた。  母さんはいった。 「ありがとうございます、パーキンスさん。それがいちばんでしょうが……でも、わたしは、この子と一緒にここに残っていたほうがいいと思いますわ」  パーリンさんは穏やかにいった。 「わたしは、パーリンと申します……その必要はございませんよ。ホステスはきちんと、お子さんの面倒を見てくれますから」  なぜ大人というものは、子供の前で、子供には言葉がわからないと思っているような話し方をするんだろう? 黙ってかれをコーヒー・ショップの中へ放りこんでしまうべきなんだ。  チビスケのやつはたちまち、自分がおいてけぼりをくわされそうになっていると気づいてしまった。やつは、挑戦的な目つきであたりをにらみまわして、大声でいった。 「ぼくも行く。やくそくだよ」  母さんは、やつをとめにかかった。 「まあ、ベビー・ダーリン、聞き分けがないのね。母さんはそんなお約束しませんよ……」  でもそれは何の役にも立たず、チビスケは音響効果を大きくした。 「ディッキーが行くところには、どこだってつれていくっていったあ。ママがやくそくしたあ、ぼくが病気のときだよう。やくそくしたあやくそくしたあ……」  とめどなくこれを続けるし、声はしだいに高くなる。  パーリンさんは困った顔になった。母さんはいった。 「リチャード、この子をなんとかしてくださいな。だいたい、約束したのはあなたなんですからね」  父さんは驚いた表情になった。 「わしが、マイ・ディア? いずれにしろ、別にそれほど面倒なことはないじゃないか。ディッキーがすることは何でもさせると約束したというなら、あっさり連れていけばいいんだ」  パーリンさんは咳払いした。 「残念ながら、それはできません。大きいほうの息子さんには、婦人用の宇宙服をお着せできます。お年のわりには大きいですからね。でも、小さいお子さん用の装備はおいてないんです」  たちまちのうちに、ぼくらはひどくこんがらがった騒ぎを、引きおこしてしまった。チビスケはいつも母さんをキリキリ舞いさせる。その母さんは父さんに、同じ効果をおこさせる。すると父さんはいつも、顔をまっ赤にしてぼくに無理難題をいいだす。これは一種の連鎖反応だ。しかも、ぼくがいちばん最後だから、次にあたる相手もいない。親たちは実に簡単な解決法を見つけた──ぼくが残って、かわいいベビー・ダーリンの餓鬼の面倒を見ろというんだ。 「だって、父さんはいったじゃない……」  ぼくは文句をいいかけた。  父さんはぼくをさえぎった。 「そんなことはどうでもよろしい! こんな人前で、一家がいがみあうなど、とんでもないことだ。おまえは、母さんのいったことがわからないのか?」  ぼくはやけくそになり、声を低くしていった。 「ねえ、父さん……もし一度も宇宙服を着ないままで、月の表面に出ないで地球へ帰すつもりなら、ぼくが行く別の学校を見つけてくれなきゃあだめだよ。ぼくはもう、ローレンスビルには行かないからね。みんなの笑い者になっちまうもの」 「その話は、家に帰ってからだ」 「だって、父さんはぼくにきちんと約束したんだよ……」 「いい加減にしろ、坊や。もうこの問題は打ち切りだぞ」  レーサムさんはそのあいだ、近くに立って成り行きを見ていたが、何もいわなかった。でもここまでくると、かれは父さんにむかって眉をぴくりと動かし、もの静かにいったものだ。 「ああ、R・J……あなたの言葉は契約書も同じだと思っていましたが?」  ぼくに聞こえてはまずいものだったろうし、ほかにはだれも聞こえなかったと思う。そのほうがいいんだ。父さんのほうが間違っていることを、ほかの者が知っているとわからせたって、何の役にも立たないからだ。というより、いっそう父さんのご機嫌を悪くするいっぽうだからだ。ぼくは急いで話題を変えた。 「ねえ、父さん、ぼくたちみんなで行けるかもしれないよ。あそこにある宇宙服はどうなの?」  ぼくは、柵に錠のかかった入口がついている中の棚を指さした。その棚には二ダースほどの宇宙服が吊されていたが、その端のほとんど見えないところに、小さな宇宙服が一着吊されていた。そのブーツは、隣に下がっているやつの腰あたりまでしかないのだ。  父さんの顔は、たちまち明るくなった。 「ほう! こいつはおあつらえむきだ! パーリンさん、なあパーリンさん、ちょっと待って! あんたは子供向きの宇宙服はないといったが、あそこにあるやつは、ちょうど合うと思うがね」  父さんは、もう入口のラッチをがちゃがちゃやり始めた。パーリンさんはそれをやめさせた。 「あの宇宙服は使えませんよ、お客さん」 「え? なぜなんだ?」 「この柵の中の宇宙服はみな、個人の所有物なんです。貸出用ではありませんから」 「何だって? そんな馬鹿な……ラザフォードは公共施設だ。わたしは、あの宇宙服をうちの子供に使わせたいね」 「いえ、そういうわけにはいきません」 「所長にかけあうよ」 「ぜひともそうしていただかなくてはいけなくなりますね。あの宇宙服は、所長の娘さんのために特にあつらえたものですから」  そして、本当にそういうことになった。レーサムさんは所長さんを電話に呼び出し、父さんが所長さんに話し、それから所長さんがパーリンさんに話し、最後にまた所長さんと父さんが話をした。所長さんは、宇宙服をお貸しすることはいっこうに差し支えない、特にあなたになら喜んでお貸しするけれども、自分としては、幼い年齢の者を月面に連れていけとパーリンさんに命令するわけにはいかない、というのだ。  パーリンさんはなかなか強情だったが、ぼくは無理もないと思った。でも父さんはかれをなだめてしまい、やがてぼくらはみな宇宙服にもぐりこみ、圧力を検査され、酸素の供給を調べ、それから携帯無線機《ウォーキー・トーキー》のスイッチを入れた。  パーリンさんは無線で点呼を取り、ぼくらに注意をした。ぼくらの無線通信は、みんなが同じ回路になっている。だから、話をするのはほとんどかれにまかせること、用もないことはしゃべらないこと、そうでないとだれも聞こえなくなってしまう、といったことだった。  それから、ぼくらはエアロックに入った。パーリンさんはそのあいだに、みんながひとかたまりになっていること、どれほど速く走れるかとか、どんなに高く飛べるかというようなことを、勝手にやってはいけない、などと注意した。ぼくの心臓は、もうどっきんどっきん暴れまわっていた。  エアロックの外側ドアが開き、ぼくらはぞろぞろと月の表面に出た。ぼくが想像していたとおりの素晴らしさだった。でも、あまり興奮していたので、そのときには、それにちっとも気づかなかった。太陽の輝きは、生まれてから見たこともないほど明るい光だったし、影の部分は黒インクみたいで、いくら見つめても何も見えないんだ。  無線をとおして聞こえてくる声のほか、何も聞こえないが、それも手をのばして切ってしまえる。  軽石は軟らかく、腰のまわりに煙のように舞い上がり、静まると、スローモーションの映画のように、ゆっくりと舞い落ちていった。ほかに動くものは何ひとつなかった。想像もできないほどに、すべてが死に絶えた場所だ。  ぼくらは小道を、かたまって進んでいった。ただし、途中で二度ほど、チビスケが二十フィートも飛び上がれるのを知ってはしゃぎだしたので、列を離れて追いかけなければいけなかった。ぼくはやつを引っぱたきたかったが、宇宙服を着た人を引っぱたいたことがあるかい? 何の役にも立たないんだ。  やがてパーリンさんは、みんなに止まるようにいい、そして話しだした。 「このあたりが悪魔の墓場です。みなさんの後ろにある二つの切り立った頂きは、この平原から約五千フィートの高さにそびえていますが、まだ一度も測量されていません。これらの尖った山……あるいは記念碑《モニュメント》は、黙示録や神話の中の人物の名前をつけられています。この幻想的な景色が、巨大な墓場を思わせるからです。ベルゼブル、トール、シバ、カイン、セット(聖書に出てくる悪魔、北欧神話雷神、ヒンズー教破壊神、アダムの子、エジプト獣神)……」  と、かれはまわりの山々を指さしながらいった。 「……月地質学者のあいだでも、この奇怪な形状の起原については、まだ意見が一致しておりません。ある学者は、空気と水の作用によるものだといい、同様に火山活動のあった証拠だとも主張しています。もしそうなら、これらの尖塔状の山は、考えられないほどの遠い昔から、立っていたにちがいないということになります。というのは、みなさんもご存知のように、月は……」  あとはスペースウエイズ・マガジンに毎月載っているようなことばかりだったが、ただぼくらは、読むのではなく見ていた。読むのと見るのとは、ほんとうに違うものだ。  それらの尖った山々は、ぼくらが去年の夏に行ったコロラド・スプリングスの神々の庭園≠ノあるホテルの下の岩山を、ちょっぴり思い出させた。  しかし、こっちのはそれよりずっと大きく、しかもその上には、青い空のかわりに、まっ暗な闇と、冷たく鋭い星々とがあるばかり。なんだか気味が悪かった。  別の警備隊員がカメラを持って、ぼくらについてきていた。パーリンさんが何かほかのことをいいかけたが、チビスケがわいわい騒ぎ立て始めた。ぼくは、だれにも聞かれないうちに、やつのスイッチを切ってしまい、パーリンさんが話し終わるまで、切っておいたままにしておいた。  パーリンさんは、切り立った山々と星空を背景にして写真をとるから一列にならんでほしいといった。 「ヘルメットの中で顔を前のほうにつきだして、顔がわかるようにしてください。みなさん、いい顔をして。はい!」  もうひとりの男が写真をとり終わると、かれはつけ加えた。 「お帰りのときにはプリントができています。一枚十ドルです」  ぼくは、考えてみた。学校でのぼくのクラスに一枚はどうしても必要だし、それに一枚はだれにあげるとしても──とにかく、もう一枚は必要だ。誕生日のお小遣いがまだ十八ドル残っている。あと足りない分は、ママを口説けばなんとかなるだろう。そこでぼくは、二枚注文した。  ぼくらは長い坂を登っていき、とつぜんクレーターの上に出た。それは、あの大惨事でできた穴だった。それだけが、最初の研究所の跡として残っているものだった。ぼくらの足元から直径二十マイルにわたって広がり、その底は軽石ではなくて、泡状で、緑色に光るガラスで覆われていた。そこには、記念碑が立っていた。 [#ここから3字下げ] 〈ここに永遠の眠りにつける人々〉  カート・シェーファー  モーリス・ファインシュタイン  トマス・ドゥーリイ  ヘイゼル・ハヤカワ  G・ワシントン・スラッピイ  サム・ハウストン・アダムズ   ──人間を自由なものとする真理のために死す              一九八四年八月十一日 [#ここで字下げ終わり]  ぼくは何だか変な気持ちがしてきたので、後じさりし、パーリンさんの話を聞きにいった。父さんやほかの人たちが質問し、パーリンさんが説明していた。 「だれも正確なことは知らないのです……何も残りませんでしたからね。今日では、データはみな、計器から出るとすぐ、テレメーターでルナ・シティへ送られます。ここでの事件が起こったのは、見通し線中継ができる前のことだったのです」  だれかが尋ねた。 「もし、この爆発が地球上で起こっていたら、どうなっていたでしょう?」 「お話しするのもいやなことになったでしょうね……だからこそ、研究所は月の裏側に作ったのです」パーリンさんは時計をちらりと見た。「さあ、みなさん、出発の時間です」  みんなが小道のほうへ、ぞろぞろもどりかけた。そのとき、母さんが悲鳴を上げた。 「ベビー! どこなの、ベビー・ダーリン?」  ぼくは驚いたが、そのときはまだ、恐ろしくはなかった。チビスケはいつもそのへんを走りまわり、いまはここでも、こんどはあちらという具合だったが、遠くへ行ってしまうことはなかった。いつもだれか、金切り声でさけぶ相手が欲しいからだ。  父さんは母さんの体に片手をまわし、もう一方の手でぼくに合図した。 「ディック……」と、父さんは噛みつくようにいった。その声が、ぼくのイヤホーンに鋭くひびいた。「おまえ、弟をどうしたんだ?」  ぼくは答えた。 「ぼくが? ぼくを見ないでよ……最後に見たときは、母さんが手を引いて、この丘を登っているところだったよ」 「いいわけはやめろ、ディック。わしらはここへ着くと、母さんは腰を下ろして休み、かれにおまえを呼びにやったんだ」 「だって……母さんはそうしたかもしれないけど、あいつはぼくのところへなど、顔も見せなかったよ」  そういうと、母さんはこれ以上だせないぐらい興奮した声で、悲鳴をあげ始めた。ほかのすべての人が聞いていた──聞くほかなかったんだ。回路はその一つしかなかったのだから。パーリンさんがやってきて、母さんの無線機のスイッチを切った。とつぜん沈黙が訪れた。  パーリンさんは命令した。 「奥さんの面倒を見るんです、ローガンさん……お子さんを最後に見たのは、いつです?」  父さんはかれの役に立てなかった。みんなは母さんの無線機のスイッチを入れ、すぐにまた切った。役に立たないばかりか、ぼくらの耳をだめにしてしまいそうだったからだ。パーリンさんは残りのぼくらにむかっていいだした。 「どなたか、われわれと一緒にいた小さな子供を見かけませんでしたか? 何か役に立つことをご存知でないかぎり、答えないでください。だれか、その子供が離れていくのを見ませんでしたか?」  だれもいなかった。きっとあいつは、みんなが背をむけてクレーターを見ていたときに、抜け出していったのだろう。ぼくがパーリンさんにそういうと、かれはうなずいた。 「ありそうなことだね……さあ! みなさん、よく聞いてください。わたしはこれから、その子供の捜索にかかります。いまおられるこの場所にいてください。ここから動かないように。十分以上は離れていませんから」  だれかが尋ねた。 「なぜ、みんなで行かないんだ?」  パーリンさんは答えた。 「なぜかというと、いまのところ、迷子は一人だけだからです。それを一ダースにはしたくありませんから」  そういうとかれは、一歩五十フィートもの大股で、ふわふわと跳んでいった。  父さんはパーリンさんのあとを追おうとしたが、すぐにやめたほうがいいとわかった。とつぜん母さんがしゃがみこんだと思うと、膝をつきながら、ゆっくりと泳ぐように地面へ倒れていったからだ。  みんなが一度にしゃべり始めた。どこかの馬鹿が母さんのヘルメットを脱がせたがったが、父さんはそれほど狂っていなかった。  ぼくは無線を切って、自分の考えがまとめられるようにし、あたりを見まわし始めた。みんなから離れずに、クレーターのふちに立って、できるだけ多くを見ようとした。ぼくは、いままで歩いてきた方向に振り向いた。クレーターをのぞくのは、意味がない──そこにいたら、皿の上にいる蝿のようによく見えたはずだから。  クレーターの外側は違う。ぼくらのまわり一|街区《ブロック》ほどの広さの中にだって、一個連隊もの人数を隠すことができたろう。岩があらゆる方向にむかって突っ立っており、穴がいっぱいあいた家ほどもある丸石に、尖塔に、峡谷と──まったく雑然としているのだ。  ときどき、パーリンさんの姿が、兎を追う犬のようだが、ずいぶんゆっくりと跳ねまわっているのが見えた。実際には、飛んでいるのも同じだった。大きな丸石のところへ来ると、かれはその上を飛びこえるのだが、いちばん高く上がったところで、よく見えるようにと、顔を下にむけて水平になるのだ。  やがてかれはぼくらのほうにもどり始めたので、ぼくは無線のスイッチを入れた。まだおおぜいが、がやがやしゃべっていた。だれかがいった。「日暮れまでに見つけないと大変だぞ」すると、だれかが、「馬鹿をいうな。太陽はまだ一週間は沈まないよ。問題はその子の酸素だ。この服は、せいぜい四時間ぐらいしかもたないんだ」その相手が、「そうか!」とさけび、それから低い声になって、「水から出た魚みたいに……」といいかけた。それを聞いて、ぼくははじめて恐ろしくなったんだ。  どの女の人か、のどがつまりそうな声でいった。「かわいそうに、あの子! 窒息しないうちに見つけださなければ……」すると、ぼくの父さんが鋭くさえぎった。「そんないいかたをするのは、やめろ!」だれかがむせび泣いている声が聞こえた。母さんだったのかもしれない。  パーリンさんは、もうすぐそばまで来ていて、そしていった。 「みんな、静かに! 本部を呼ばなければいけないんだ」そして、切迫した声で続けた。「こちらパーリン、エアロック管制室どうぞ。パーリンから、エアロック管制室どうぞ!」  女の声が答えた。 「パーリン、どうぞ」  かれは何事が起こったのかを告げたあといった。 「スマイスをよこして、この一行を連れて帰させてくれ。わたしはここに残る。近くにいる警備隊員をのこらずよこしてくれ。それに、経験のある月面労働者の中からも志願者を集めてくれ。最初に出発するやつに、方向探知器を持たしてほしい」  ぼくらは、長くは待たなかった。その人たちは、いなごのようにぼくらにむかって群がり集まってきた。時速四、五十マイルで走ってきたにちがいない。それはきっと素晴らしい見物だったろうと思う。もし胃が、あれほどむかついてなかったら。  帰されるというので、父さんはパーリンさんと議論を始めたが、パーリンさんに黙らされてしまった。 「あなたが初めから馬鹿げたわがままを通さないでくださったら、われわれはこんな面倒に巻き込まれずにすんだのです。あなたが、お子さんから目を離さないでいたら、かれは行方不明にもならなかったでしょう。わたしにも子供がいますが、自分の始末もつけられないような子供を月面に出したりはしません。お帰りください……あなたの世話までするような重荷は、背負いきれませんから」  もし母さんがまた気を失わなかったら、父さんはパーリンさんと、なぐりあいを始めていたことだろう。ぼくらは、みんなと一緒に帰った。  それからの二時間はずいぶん辛いものだった。ぼくらは管制室のすぐ外に坐らせてもらった。そこでは、パーリンさんが捜索を指揮している声が拡声機から聞こえていた。  初めのうちは、みんなが方向探知器を使いはじめたらすぐに、チビスケをつかまえるだろうと思っていた──たとえチビスケが何も話さなくても、やつの電気の雑音か何かを見つけるんだろうと──だが、そううまくはいかなかった。それには何も入ってこなかったし、捜索隊のほうも、何も発見できなかった。  もっと事態を悪くしたのは、母さんも父さんも、ぼくをいっこうに責めようとしないことだった。母さんは低い声で泣いているだけで、父さんは母さんを慰めているばかり。ぼくのほうを見るときは妙な表情をしていた。実のところ、ぼくなどまったく眼中になかったのだろう。だが、もしぼくがどうしても月面に出たいと強情を張らなかったら、こんなことは起こらなかったのにと父さんは考えているのだろうと、ぼくは思った。それで、ぼくは父さんにいった。 「そんな目でぼくを見ないでよ、父さん。だれもぼくに、チビスケに注意していろなんていわなかったんだもの。ぼくは、母さんと一緒にいるとばかりに思っていたんだ」  父さんは何も答えず、首をふっただけだった。ひどく疲れて、なんだか小さくちぢんだみたいに見えた。  母さんはぼくにくってかかるどころか、泣きやみ、微笑さえ浮かべてみせた。 「ここへおいで、ディッキー」母さんはそういって、片手をぼくにまわした。「だれもあなたを責めたりしていませんよ、ディッキー。どんなことが起こっても、あなたのせいではないんですからね。それを覚えていて、ディッキー」  そこで、ぼくは母さんにキスされるまま、しばらく一緒に坐っていた。でも、気分は前より悪くなった。ぼくはチビスケのことを考えつづけた。外のどこかにいて、かれの酸素はしだいに少なくなっているのだ。ぼくのせいじゃあないかもしれない、だが、ぼくは防ぐことがでかたかもしれないんだと、わかっていた。  あいつを母さんに、まかせっきりにしたのがいけなかったんだ。母さんは、そういうことに弱いのだ。母さんは、きちんと紐でゆわえておかないと、頭をどこかに忘れてくるような人なんだ──飾り物みたいなんだ。母さんはきれいだ、でも、実際的じゃあない。  もしチビスケが帰ってこなかったら、母さんはさぞかしまいってしまうだろう。父さんだってそうだし──ぼくだってそうだ。チビスケはまったくうるさいやつだ。でも、あいつが足元にまつわりついて、わいわいいっていないと、どうも変な気分になりそうだ。  ぼくは、あの言葉をふと思い出した──水から出た魚みたいに″。以前、うっかりして水槽を壊したことがある。そのときどんなだったか、いまだに覚えている。きれいなもんじゃあなかった。もしチビスケがあんなふうに死ぬんだとしたら──  ぼくはそのことはなるべく考えないようにし、なんとかしてやつを見つける助けになることを、考え出さなければいけないと決心した。  しばらくすると、もしぼくに探す手伝いをさせてもらえれば、見つけ出せると確信を持つようになった。だが、もちろん大人たちはそうさせてはくれないに決まっている。  所長のエヴァンズ博士が、またやってきた──最初にぼくらが帰ってきたときに会ったのだ──そして、何か自分にできることはありませんか、ローガン夫人のご気分はいかがですかと尋ねた。博士はいった。 「こんなことが起こるとは、夢にも思いませんでしたよ……いまわれわれは全力をあげて探しています。ルナ・シティから鉱石探知器を取りよせています。それでお子さんの宇宙服の金属を探りあてられるかもしれませんから」  母さんが警察犬を使えばといったが、エヴァンズ博士は笑いもしなかった。父さんはヘリコプターをといいかけ、気がついて、ロケットはどうだろうと、いいなおした。エヴァンズ博士は、ロケットから月面をこまかく調査することなど不可能だと説明した。  しばらくしてからぼくは、博士をわきのほうでつかまえ、捜索に加わらせてくれと頼んだ。かれは丁寧だったけれども、あまり心を動かされていないようだったので、ぼくは食いさがった。すると、博士は尋ねた。 「どうして、きみなら発見できると思うの? いまここへ出てこられるかぎり、月にもっとも経験のある連中が探しているんだ。きみがそのあとについていこうとなどしたら、きみまで行方不明になってしまうか、怪我することになってしまうだろうね、坊や。この地では、いったん目印になるものを見失ったら、どうしようもない迷子になってしまうんだよ」  ぼくはいった。 「でも、博士……ぼくはチビスケを……あの、ぼくの弟を、世界じゅうのだれよりもよく知っているんです。ぼくは迷子になっても……いや、つまり、迷子になりはしても、弟と同じような形で迷子になります。だから、だれかに、ぼくのあとをつけさせてくれればいいんです」  かれは考えこみ、そしてとつぜんいった。 「そいつは、やってみる値打があるぞ。わたしも一緒に行こう。さあ、服を着よう」  ぼくらは急ぎ、三十フィートの歩幅で進んだ──エヴァンズ博士が、ぼくをつまずかせまいとして、ベルトのところをつかまえているんで、それで精いっぱいだったのだ。  パーリンさんがぼくらを待っていた。かれはぼくの計画に疑念をもっているようだったが、それでもうなずいた。 「昔ながらの迷子のロバを探すやりかたも、ひょっとすると成功するかもしれないが……しかしわたしは、正規の捜索も同じように続けさせますよ。さあ、|ちびくん《ショーティー》、この懐中電灯を持って。影にはいったとき必要なんだ」  ぼくはクレーターのへりに立ち、自分がチビスケになったつもりで考えてみた。退屈し、みんなの注意を引けないので、いくらか不機嫌になっていたかもしれないチビスケは、次にどうするだろう?  ぼくはその斜面をぴょんぴょんスキップしながら下りていった。別にどこへ行こうというあてはなく、チビスケならそうしたろうというように。それから立ちどまり、母さんや父さんやディッキーが自分に気がついたかどうか見ようとして、ふりかえる。ぼくはきちんと尾行されていた。エヴァンズ博士とパーリンさんが、ぴったり後ろについていた。ぼくは、だれにも見られていないつもりになって前進した。  もう、最初につき出ている岩のかたまりのすぐそばに来ていたので、ぼくはいちばん先頭のやつの後ろにもぐりこんだ。ぼくを隠すほどは大きくなかったが、チビスケなら充分に隠せるものだった。かれならきっと、そうしたろうという感じがした。あいつは隠れんぼが大好きだった。──自分が注目の的になれるからだ。  ぼくはそのことをよく考えてみた。チビスケがその遊びをやるとき、隠れようと思うと、つねに何かの下にもぐりこんだものだ。ベッドとかソファだとか自動車だとか、流しの下だってあった。ここには、いい場所がいくらでもある。岩には、噴出孔や出っ張りがいたるところにあるからだ。  ぼくはそれらを調べ始めたが、希望は持てそうになかった。そのまわりのすぐ近くでさえも、そんなところが百カ所もあるにちがいない。  四つめの窮屈な穴から出てきたとき、パーリンさんがやってきて、話しかけた。 「このあたりはもうみんなで、ひとつ残らず懐中電灯で照らしてみたんだよ……むだだと思うがね、ショーティー」 「うん」  と、ぼくはいったが、探しつづけた。大人には無理でも、ぼくにはもぐりこめるところがあることが、わかっていたからだ。ぼくはただチビスケがぼくも入れないようなところを選ばなかったようにと願った。  次から次へと続けているうちに、ぼくはしだいに寒くなり、体がこわばり、ひどく疲れてきた。月での直射日光は熱い。ところが日陰にちょっと入ったとたん、寒くなる。そんな岩の下は、まったく暖まることがないのだ。  ぼくたち観光客用の宇宙服は充分に絶縁されているが、特別な絶縁はというと、手袋と長靴と尻の部分だけだ──そしてぼくは、ほとんどの時間を腹ばいになって、窮屈なところにもぐりこんでいたんだ。  ぼくはあまりにひどくしびれてきて、動くのもやっとで、体の前面は氷みたいに感じられた。それに、そのおかげで、もうひとつ心配が重なった──チビスケはどうなんだ? あいつも寒いんじゃないか?  もし、あの魚がどんな格好になったかを、そしてぼくが行き着く前にチビスケが凍え死んでしまうのではないかということを考えなかったら、ぼくはやめていたろう。ぼくは参りかけていた。それに、そういった穴の中はちょっと恐ろしかった──すぐ先がどうなるのか、まったくわからないのだから。  いくつめかの穴から出てきたとき、エヴァンズ博士はぼくの腕をつかみ、ヘルメットをぼくのにくっつけた。それで、声かじかに聞こえた。 「もうあきらめたほうがよさそうだな、坊や。きみはもうすっかり参っているのに、まだ一エーカーも調べていないんだよ」  ぼくはかれをおしのけた。  次の場所は、地面から一フィートと離れていない、小さな出っ張りだった。ぼくは懐中電灯で中を照らしてみた。空っぽで、すぐに行きどまりみたいだった。だがすぐぼくは、曲がり角があることに気づいた。ぼくはべったり腹ばいになって、もぐりこんでいった。曲がると、すこし広くなり、下に落ちこんでいた。ぼくは、これ以上深いところまで進んでみても仕方がないと思った。チビスケがまっ暗なところを、そう遠くまで這っていくはずがない。でもぼくは、もうちょっと先まで這っていき、光を下にむけてみた。  長靴の片方がつき出ていた。  これで話すことは、ほとんど終わりだ。ぼくはそこから出てくるとき、あぶなくヘルメットを壊してしまうところだったが、それでもチビスケを後ろに引きずってきた。やつは猫のようにぐったりとし、変な顔をしていた。ぼくが出てくると、パーリンさんとエヴァンズ博士がおおいかぶさり、ぼくの背中をたたいたり、さけんだりした。  やっと息がつけるようになると、ぼくは尋ねた。 「死んじゃったの、パーリンさん?」  パーリンさんは調べた。 「いや……のどのところが脈をうっている。ショックと寒さでまいったんだ……でも、この服が別誂えだったから……急いで連れて帰ろう」  かれは両手でチビスケを抱き上げ、ぼくはそのあとについていった。  十分後、チビスケは毛布に包まれ、熱いココアを飲んでいた。ぼくも、すこし飲んだ。みんなが一度にしゃべりだし、母さんはまた泣きだした。でも母さんはいつものようになっていたし、父さんもシャンとなっていた。  父さんは小切手を書いてパーリンさんに渡そうとしたが、かれはそれをおしのけた。 「報酬など何も要りません。あなたのお子さんがかれを見つけたのです。ひとつだけ、お願いがあるんですが……」 「はい、何でしょう?」  父さんはいまや優しさのかたまりだった。 「月から離れておいていただきたいんです。あなたは、ここに住む方ではありません。あなたは開拓者タイプではないですからね」  父さんはおとなしく受け入れ、まばたきひとつせずに答えた。 「そのことはもう、妻と約束しましたよ……だから、心配ご無用です」  パーリンさんが出ていくとき、ぼくはついていって、そっと話しかけた。 「パーリンさん……これだけいっときたいんです、ぼくはまた来たいってことを……あなたさえいやでなければ」  かれはぼくと握手していった。 「もちろんきみは、また来るさ、ショーティー」 [#改ページ] 帰郷 「急いでね、アラン!」  帰るのだ──地球へまたもどるのだ! 彼女の胸は高嗚っていた。 「ちょっと待ってくれ」  良人が空っぽのアパートの中を調べてまわるあいだ、彼女はいらいらしながら待っていた。地球=月間の貨物料金がばか高いので、家具類を運ぶのは愚かなことだ。それでかれが持っていくバッグ以外は、すべてを金に換えたのだ。気がすんだかれは、エレベーターのところで妻と落ちあった。  ふたりは、管理部のある階まで上がっていくと、〈ルナ・シティ協同組合──サービス部支配人アンナ・ストーン〉と記されているドアの前に立った。  ミス・ストーンは、暗い表情でふたりのアパートの鍵を受け取った。 「マックレイさん……では、本当にお別れですのね?」  ジョゼフィーンは噛みつくようにいった。 「わたしたちの気持ちが変わるとでも、お思いなの?」  支配人は肩をすくめた。 「いいえ。あたしは三年前から、あなたがたがそのうち地球にもどられるだろうと思っていました……あなたの苦情からですわ」 「わたしの苦情……ミス・ストーン、わたしはこの、与圧された兎小屋みたいなところで、信じられないほどの不便に、みなさんと同じように耐えてきたつもりですわ。わたし、あなたを個人的に責めるつもりはありませんけれど、でも……」  彼女の良人は注意した。 「そうむきになるなよ、ジョー!」  ジョゼフィーンは赤くなった。 「すみません、ミス・ストーン」 「いいんです。あたしたち、物事の見かたか違うだけですわ。あたしは、ルナ・シティがまだ空気を詰めたカマボコ兵舎三軒でしがなく、それらを結ぶトンネルを四つん這いになってくぐり抜けなければいけなかった時代から、ここに住んでいたんですから……」  彼女はがっしりした手をつきだした。 「……また地ネズミの生活にもどって、お幸せに過ごされることをお祈りします。心からですのよ。ホット・ジェット、グッド・ラック、そして無事な着陸を」  エレベーターにもどってから、ジョゼフィーンは口をとがらせた。 「地ネズミだなんて、ひどいわ! わたしたち、新鮮な空気を呼吸できる、生まれ故郷の惑星のほうが好きだというだけじゃない……」 「きみだって、その言葉を使うぜ」  と、アランはいった。 「でもわたしは、一度も地球を離れたことがない人たちのことをいったのよ」 「ぼくらはもう何度も、地球を離れるなんて非常識なことをしなければよかったって、いいあったじゃないか。ぼくらは心の底では、地ネズミなんだよ、ジョー」 「それはそうだけど……アラン、あなたっていやな人ね。今日は、わたしの一生でいちばん幸せな日なのよ。あなたは、故郷へ帰るのが嬉しくないの?」 「もちろん嬉しいさ。故郷へ帰るのは素晴らしいよ。馬に乗ったり、スキーをしたり……」 「それに、オペラ、本当の、ライブのグランド・オペラよ。アラン、わたしたち、マンハッタンで一週間か二週間か過ごさなくちゃだめよ、それから田舎に行くの」 「きみは、顔にあたる雨を感じたがっていたとばかり思っていたが」 「それも欲しいの。そのすべてがいますぐに欲しいし、待てないわ。ええ、ダーリン、まるで牢屋から出ていくみたいだわ!」  彼女は、良人にしがみついた。  エレベーターがとまり、かれは妻の腕をほどいた。 「めそめそ泣くなよ」  彼女は夢見るような口調でいった。 「意地悪ね、アラン……わたし、とっても幸せよ」  ふたりは銀行通りで、ふたたび足をとめた。ナショナル・シティ銀行の係員が、もうかれらの預金の振替手続きをすましてくれていた。 「故郷へお帰りですって? ここにサインをどうぞ。それから指紋と。うらやましいですな。狩猟に魚釣りと」 「ぼくは海水浴のほうが好みでね。それに、ヨットですよ」  ジョーはいった。 「わたしは、ただもう緑の森と青い空を見たいだけ」  係員はうなずいた。 「おっしゃりたいことは、よくわかりますよ。長いあいだ見ていないし、それにずいぶん遠く離れている。ええ、楽しんできてください。三カ月か、それとも半年の休暇ですか?」  アランは、そっけなくいった。 「もう帰ってこないんです……水槽の中の魚みたいな生活は、三年もすればもう充分です」 「そうですか?」係員は書類をかれのほうにおしやり、無表情につけ加えた。「では……ホット・ジェット」 「ありがとう」  かれらは地下一階へ上がっていき、ロケット空港までの市内横断滑走動路《クロスタウン・スライドウォーク》に乗った。滑走動路トンネルは、ある地点で地表に出て、気密の覆いになっている。西側の展望窓から、月の表面が見えていた──そして、丘々のむこうに、地球が。  その巨大な、緑色で、豊饒そのものの地球が、まっ黒な月の空と、きびしく、またたかない星々を背景にして浮かんでいるのを見ると、ジョーの目にはすぐに涙があふれてきた。故郷──あの美しい惑星が、わたしのものなのだ──アランのほうは、それをもっと思いいれもなく眺め、グリニッジに注意した。日の出の線がいま、南アフリカに触れたところだった。八時二十分ごろだろう。急いだほうがいい。  ふたりは滑走動路を下りると、見送りに来た何人かの友達の腕に抱かれた。 「おい……いままでどこにいってたんだ? 〈グレムリン〉の発射は七分後だぞ」  マックレイは答えた。 「だが、ぼくらはそれには乗らないんだ……お断りーっさ」 「乗らない? それじゃあきみたち、気が変わったのかい?」  ジョゼフィーンは笑った。 「かれのいうのは、こういうことなの、ジャック。わたしたち、急行で行くことにして、予約を取り換えたわけ。だから、まだ二十分はあるわ」 「すごいな! 金持の旅行客が二人か、え?」 「だって、余分の料金はそれほど高くないし、それに途中で二回も乗り換えして、宇宙で一週間も待たされるのいやですもの。急行なら二日で帰れるところをよ」  彼女は裸の腹を、意味ありげになでた。 「ジョーは、自由落下飛行《フリー・フライト》がだめなんだ」  と、彼女の良人は説明した。 「そうか、ぼくだってだめさ……旅のあいだじゅう気分が悪かった。でも、あなたが気持ち悪くなることはないと思うよ、ジョー……もう、月の重力にすっかり慣れているんだから」  彼女はうなずいた。 「そうかもしれないわね……でも、六分の一の重力と無重力とでは、ずいぶん違うわよ」  ジャック・クレイルの妻が、口をはさんだ。 「ジョゼフィーン・マックレイ、原子力宇宙船に乗ったりして、命を危険にさらすの?」 「あらどうして、ダーリン? あなただって原子力工場で働いているじゃない?」 「まあ! 工場では、いろいろ用心をしているわ。商業委員会は、急行便など最初から許可すべきじゃなかったのよ。古いかもしれないけど、わたしなら、来たときと同じように、ターミナルからスプラ=ニューヨーク経由で帰るわね」  クレイルがたしなめた。 「彼女をこわがらせようとしてもだめさ、エマ……ふたりはそういう船から虫《バグ》を取り除くために働いていたんだから」 「満足できるところまではできなかったわ。でもわたし……」  アランが妻をさえぎった。 「もういいじゃないか……その問題は決着がついたんだし、それにぼくらはまだ急行便の発射場へ行かなくちゃあいけないんだぜ。さよなら、諸君! 見送りをどうもありがとう。みなさんと知り合いになれて素晴らしかった。神の国へ帰ってくることがあれば、ぼくらのところへ訪ねてきてほしいね」 「さようなら、きみたち!」「さよなら、ジョー……さよなら、アラン」「ブロードウェイによろしくな!」「お別れね……手紙を忘れないで」「さようなら……」「アロハ……ホット・ジェット!」  ふたりは切符を見せ、エアロックに入り、空港本部建物《レイポート・プロパー》と急行便発射場を結ぶ気密シャトルに乗りこんだ。「つかまっててくださいよ」と、シャトルの運転手が肩ごしにいった。ジョーとアランは急いでクッションの中に沈みこんだ。ロックが開いた。前方のトンネルには空気がないのだ。五分後、かれらは二十マイルむこうの坂を登っていた。その丘は、急行便ロケットの吐き出す放射能からルナ・シティを守る蓋の役目をしていた。  スパロウホーク号の中で、ふたりはある牧師の一家と同じコンパートメントになった。神学博士シモンズ師は、こんな贅沢な旅行をする理由について説明する必要を感じたらしい。かれは、夫人が小さな女の子を、かれらの席のあいだへ担架のような形に据えつけた小さな抗加速度座席にベルトで縛りつけるのを見ながらいった。 「子供のためなんです……あの子はまだ、一度も宇宙に出たことかありませんのでね。何日も続けて具合が悪いままにしておくような危険はおかしたくなかったんです」  警告のサイレンが鳴ったので、みんながベルトをしめて横になった。ジョーは胸が激しく打ち始めるのを感じた。やっと……やっと、待ちかねたときが!  ジェットが噴射し、かれらをクッションにおしつけた。ジョーは自分がこれほど重く感じられるとは、思ってもみなかった。来るときよりもずっと、ずっと、ひどいものだった。加速が続くあいだ女の子は、言葉にいいつくせない恐怖と不快感に泣きさけんでいた。  永遠とも思える時間がたっていったあと、とつぜん無重力状態が訪れた。船が自由落下飛行をはじめたのだ。恐ろしいまでに締めつけてくる重量が胸の上から去るとすぐ、ジョーの心臓は体と同じように軽くなった。アランは上のベルトをはずして上半身をおこした。 「どう、気分は?」 「ええ、いい気分よ!」ジョーもベルトをはずして、かれと向かいあった。すると、しゃっくりが出た。「つまり、そのつもりなんだけど」  五分後の彼女は、つもりどころではなくなっていた。死んだほうがましと思うばかりだった。アランはコンパートメントから泳ぎ出して宇宙船の船医を見つけ、その医師が注射してくれた。  アランは、注射がきいて妻が眠りこむのを待ってラウンジへ行き、かれ自身の宇宙酔いの手当てをしようとした──マザーシルの船酔い薬をシャンパンで流しこむのだ。しばらくするとかれは、この二つの特効薬がきかないことを認めざるを得なくなっていた──あるいは、その二つを混ぜてはいけなかったのかもしれない。  小さなグロリア・シモンズは宇宙酔いにならなかった。彼女は重さがなくなったのが面白いらしく、えくぼのある風船みたいに飛んでいっては、床や頭上や隔壁にぶつかっては跳ねかえっていた。ジョーは、その子が手のとどくところまで泳いできたら絞め殺してやろうかと、心の中でかすかに考えていた──だがそれは、とても手にあまる仕事のようだった。  減速はのろのろした感じだったが、吐き気のあとでは、ありがたい救いだった──小さなグロリアだけは例外だった。恐怖と苦痛で、彼女はまた泣きはじめた。それを母親が懸命になって説得しようとしていた。父親は祈っていた。  長い長い時間がたって、かすかな衝撃があり、サイレンの音がした。ジョーはやっと頭を持ち上げてみた。 「いまのは何なの? 事故かしら?」 「それじゃないだろう。着陸したんだと思うね」 「そんなはずないわ。まだブレーキをかけているのよ……鉛みたいに体が重いんですもの」  アランは弱々しい微笑を浮かべた。 「ぼくもだよ。これが地球の重力さ……思い出したかい?」  女の子は泣き続けていた。  宇宙空港で、シモンズ夫人がスチュワーデスを待つというので、ふたりは牧師一家に別れを告げた。  マックレイ夫妻は宇宙船から、おたがいを支え助けあいながら、よろめき出た。 「これ、重力のせいだけじゃないわ。そんなはずないもの……」  と、ジョーは文句をいった。両足が、目に見えない流砂に捕えられているようだった。 「……だってわたし、遠心加速機に乗って地球標準重力の練習をしたんだから。故郷《くに》のY≠ナ……いいえ、ルナ・シティでってこと。わたしたち、宇宙酔いで体が弱っているのね」  アランは、自分の体をしゃんとさせていった。 「そうだな。もう二日も、何ひとつ食べてないんだから」 「アラン……あなた何も食べなかったの?」 「いや。ろくなものはって意味さ。きみは腹がすいているかい?」 「飢え死にしそうよ」 「キーンのステーキ・レストランで夕食ってのはどうだい?」 「素敵だわ。ああ、アラン、わたしたち、帰ってきたのね!」  彼女の目に、また涙がにじんできた。  かれらはチューブでハドソン渓谷を走り、グランド・セントラル駅に着いたあと、シモンズ夫妻の姿をまた見かけた。チューブの発着場でバッグが出てくるのを待っていたとき、ジョーは牧師がつぎのチューブ・カプセルから、腕に娘を抱き、夫人を後ろに従えて、いかにも重そうな足取りで出てくるのを見た。かれは子供を用心深くそっと地面に下ろした。グロリアは一瞬、そのふっくらとよく肥えた両足でふるえながら立っていたが、すぐに、ぐにゃりと倒れてしまった。彼女はそこに横たわったまま、哀れな声で泣きだした。  宇宙船乗組員が一人──その制服からパイロットと思える男が立ちどまり、気の毒そうに子供を見て尋ねた。 「月の生まれですか?」 「はい、そうなのです、この子は月の生まれなのです、サー」  こんなトラブルにあっても、シモンズの礼儀正しさは薄れないらしい。 「起こして、抱いていかれることですね。彼女はもう一度、初めから歩き方を練習しなおさなければいけないってことですよ」  そういうと、その宇宙船乗組員は悲しげに首をふって、滑走動路に乗って行ってしまった。  シモンズ夫妻はいっそう困ったように、汚れるのもかまわず、子供のそばに腰を下ろしてしまった。  ジョーは、助けてあげたかったが、自分もひどく弱っているので駄目だった。アランはと見まわすと、ちょうどバッグが届いたところで、そちらのほうで一所懸命だった。バッグはかれの足元に置かれていた。かれはそれを持ち上げようとして、あっけにとられた。まるで、床に釘づけにされているようなのだ。かれは中に何が入っているか知っていた。マイクロフィルムとカラーフィルムが数巻、土産物がすこし、洗面用具、そのほかどうしても必要なものとで……質量五十ポンドほど。それほど重いはずはない。  だが、そうだった。かれは、五十ポンドが地球でどれぐらいの重さなのかを忘れてしまっていたのだ。 「ポーターですが、ミスター?」  話しかけてきたのは白髪の痩せた男だったが、そのバッグをあっさりと持ち上げてしまった。 「行くよ、ジョー」  と、アランは声をかけて、そいつのあとについたが、変な気分だった。ポーターはアランの苦しそうな歩き方に合わせて、歩調をゆるめた。 「月から着いたところですか?」  と、ポーターは尋ねた。 「ああ、そうだ」 「予約はされましたか?」 「いや」 「ついてらっしゃい。コモドアのデスクに友達がいますから」  かれはふたりを、コンコースの滑走動路につれていき、そこからホテルに案内した。  外へ食事に出るには疲れすぎていたので、アランは夕食を部屋に持ってこさせた。そのあと、ジョーは熱い浴槽の中で眠りこんでしまい、かれは妻を出すのに苦労した──彼女は、お湯が与えてくれる浮力が気に入ったのだ。だがかれは、ラバーフォームのマットレスも同じくらいに楽だからといって、やっと彼女を説得した。ふたりは非常に早く眠りについた。  彼女は朝の四時ごろ、もがきながら目を覚ました。 「アラン、アラン!」 「え? どうしたんだ?」  かれは電灯のスイッチを手さぐりしながら尋ねた。 「あの……何でもなかったのね。わたしはまた、船にもどった夢を見ていたの。そして、噴射管がはずれて飛んでいってしまったわ。アラン、どうしてここは、こんなに息苦しいの? 頭が割れそうに痛いわ」 「へえ? 息苦しいはずはないがな。この部屋は空気調節《エア・コンディション》されているんだから」かれは、空気を嗅いだ。「ぼくも、頭が痛いな」 「では、なんとかしてよ。窓をあけて」  かれはベッドからよろめき出たが、外の空気にあたると震えあがり、急いでベッドにもぐりこんだ。窓から大都会の咆哮が入りこんできたので、もう一度眠れるかどうかあやしいものだと思ったとき、妻がまた口を開いた。 「アラン?」 「え。何だい?」 「あなた、わたし寒い。そちらにもぐりこんでいい?」 「いいとも」  暖かく快い陽光が、窓から流れこんでいた。それが目にあたると、かれは目を覚まし、そばで妻がもう目を覚ましていることに気がついた。彼女は溜息をついて、体をすりよせてきた。 「ああ、ダーリン、見て! あの青い空を……わたしたち、帰ってきたのよ。あんなにきれいだってこと、忘れていたわ」 「帰ってきたのは素晴らしい、確かにね。気分はどうだい?」 「ずっとよくなったわ。あなたは?」 「大丈夫……だと思う」  かれはカバーをおしのけた。  ジョーは金切り声をあげて、それをまた引きよせた。 「そんなことしないで!」 「え?」 「ママの大きな坊やはベッドを出て、あの窓をしめてくるの。そのあいだママは、ベッドの中にいますからね」 「ああ……わかったよ」  かれは昨夜よりだいぶ楽に歩けた……が、ベッドにもどるほうがよかった。そうしてから、かれは電話のほうにむいて大声でいった。 「サービス!」  それは、甘いコントラルトの声で答えた。 「ご注文をどうぞ」 「オレンジ・ジュースとコーヒーを二人分……それにコーヒーのお代わりと……卵が六個、ミディアムのスクランブルで、それからふすま入り小麦のトースト。それに、タイムズとサタディ・イブニング・ポストを頼む」 「十分お待ちください」 「ありがとう」  髭を剃っていると、料理配達用戸棚のブザーが嗚った。かれはそれに答え、ベッドにいるジョーのところへ朝食を運んだ。食事が終わると、かれは新聞をおいていった。 「その雑誌から顔を上げてもらえるかい?」 「喜んで。これ重すぎて、とっても持っていられないの」 「ルナ・シティから縮刷版を取りよせたらどうだい? 八、九倍か、それ以上はしないだろう」 「馬鹿なこといわないで。ところで、何がいいたかったの?」 「このかびくさい小部屋から出て、着るものを一緒に買いにいかないか?」 「うう……ん。だめ、ムーン・スーツで外に出るのはやめておくわ」 「見つめられるのがいやなのかい? そんな年になっても、まだ気取りたいっていうのか?」 「いいえ、ご主人さま。わたしはただ、ナイロン六オンスにサンダルばきだけで、外気に体をさらしたくないだけよ。先に、何か暖かい服が欲しいの」  彼女は毛布の中へもっともぐりこんだ。 「完全な開拓向き女性がねえ。服屋をここへよこそうか?」 「そんな贅沢はできないわ。ねえ……あなたはいずれにしても出ていくんでしょう。暖かくさえあればいいから、何か古着でも買ってきてくださらない?」  マックレイは頑固な表情になった。 「ぼくは以前、きみの買物をしたことがあったね」 「こんどだけよ……お願い。ザックスへ走っていって、ウール・ジャージーの青い街着を買ってきて。サイズは一〇よ。それから、ナイロンのストッキングを一足と」 「ああ……わかった」 「それでこそいい子よ。わたし、のんびりなんかしていられないの。電話したり、会ったり、お昼を約束した人たちのリストが、あなたの腕の長さぐらいあるんだから……」  かれはまず、自分の買物から片づけた。かれの趣味のいいショーツと袖なしシャツも、ここでは吹雪の中の麦藁帽子ぐらいにしか暖かそうじゃなかったからだ。実際にはそれほど寒くなかったし、陽のあたるところでは気持ちのいいぬくもりを感じるのだが、つねに変わらず華氏七十二度を保っているルナ・シティに慣れた人間にとっては、やはり寒そうに思えてしまうのだ。かれは地下街からなるべく離れないようにし、出ても五番街のアーケードの下から離れないようにした。  かれはセールスマンが、わざと田舎者に見える服を着せたのではないかと不審に思った。だが、それは暖かかった。それに重くもあった。胸のあたりの痛みが、そのおかげでふえたし、歩きかたもいっそうぎごちなくなった。地球むきの足になるまでには、どれぐらいかかるのだろうと、かれは考えた。  母親タイプのセールスウーマンが、ジョーの注文をさばいてくれ、ほかにケープもつけてくれた。かれは帰ろうとし、荷物の重さによろめいて、地上タクシーをとめようと手をふったが、だめだった。だれもかれもが、ひどく忙しそうに見えた。一度などかれは、十代の少年にぶつかって、危なくつき倒されそうになった。「気をつけろ、このじじい!」と、少年は怒鳴り、かれが返事をする間もなく、すっ飛んでいった。  かれは、体じゅうが痛くなり、熱い風呂に入りたいとそればかり考えて帰りついた。だが、そういうわけにはいかなかった。ジョーに客が来ていたのだ。 「ミセス・アプルビイ、これが主人ですの。アラン、こちらはエマ・クレイルのお母さまよ」 「まあ、初めまして、博士……それとも教授とお呼びすべきでしょうか?」 「ミスターです……」 「……わたくし、あなたが町においでと聞き、|あの子《プア・ダーリン》のことを何かとおうかがいしたくて待っていられなくなりましたの。娘はどうしておりまして? 痩せていますでしょうか? 丈夫そうでしょうか? このごろの若い娘たちときましたらねえ……わたくし、娘にいつもいってましたのよ、外に出なくちゃあいけませんって……わたくし毎日、公園を散歩しますのよ……だから、わたくしをご覧くださいな。娘は写真を送ってくれました……いまも、どこかに持っていますわ……あら、とにかくどこかにあると思いますの……それで、娘はちっとも丈夫そうに見えませんのよ、栄養不良みたいで。ああいう合成食品ときたら……」 「彼女は合成食品など食べませんよ、ミセス・アプルビイ」 「……きっと、ひどいものに違いありませんわ。もちろん、味などは問題外だとわかっていますし……何とおっしゃいまして?」 「お嬢さんは、合成食品など食べておられませんよ」アランはくりかえした。「ルナ・シティでありあまるほどあるものというと、新鮮な果物と野菜ぐらいなものなんですよ。空気温度調節工場がありましてね……」 「それですのよ、わたくしの申していましたのは。わたくし、月の上の空気調節の機械から、どうして食物が出てくるのか、わけがわかりませんの」 「月の中のです」 「……でも、それが健康的なはずはありませんわ。うちの空気調節機だってしょっちゅう故障をおこしますし、それはもうひどい匂いがしますのよ……まったく、我慢できませんわ……空気調節機みたいな簡単なものは、月でも作れるでしょうから……もちろん合成食品も作れるとお考えでしょうが……」 「ミセス・アプルビイ……」 「はい、博士? 何とおっしゃいまして? どうかわたくしに……」  マックレイは絶望的な気持ちになりながらいった。 「ミセス・アプルビイ……ルナ・シティの空気調節工場というのは、水耕農園のことなのです。植物や緑のものを育てるタンクなんです。このタンクは、空気中から炭酸ガスをとって、酸素をだします」 「でも……それ確かですの、博士? わたくしがエマから聞いたところでは……」 「絶対に確かです」 「そうですの……わたくし、そういうことがわかるようなふりはしませんわ。わたくし、芸術家タイプなんですの。亡くなったハーバートがよく申しておりましたわ、……ハーバートというのはエマの父親なんですのよ。自分の仕事の機械のことだけに夢中でしてね、でもわたくしいつも気をつけて、いい音楽を聞かせたり、ベストセラーの本の批評を読ませるようにしていましたわ。でも残念ながら、エマは父親の血を引きましたのね……わたくし、あの子がやっているあの馬鹿げた仕事を、なんとかしてやめてくれないかと思っていますの。まったくの話が女性の仕事ではありませんわ。そう思われません、ミセス・マックレイ? 原子とか中性なんとか、それに空気の中を動きまわっているもののことなど何もかもですわ。わたくしも、そんなことは科学は役立つ@唐ナみな読んでいますのよ、新聞の……」 「彼女はそれにかけてはずいぶん優秀ですし、そのお仕事が気に入っておられるようですわ」 「ええ、そうかもしれませんわね。それが重要なことですわ、たとえどれほど馬鹿げていても、いま自分のやっていることで幸せを感じられるのがね。でもわたくし、あの子のことが心配なんですの……文明から離れて埋もれてしまい、ふさわしい話し相手もなく、お芝居もなく、文化生活もなく、社交界もなく……」 「ルナ・シティでは、ブロードウェイで成功した演劇はみな、立体放送をしていますわ」  ジョーの声には、かすかに苛立たしさがこもっていた。 「まあ! そうですの? でもそれはただ、劇場へ行くというだけのことではありませんのよ、マイ・ディア。それは立派な人々の社交場なのです。わたくしが娘のころは、両親が……」  アランは大きな声で、口をはさんだ。 「一時だ。昼飯は食べたかい、マイ・ディア?」  ミセス・アプルビイは、びくっとして背をのばした。 「まあ、大変! わたくし、飛んでいかなければ。わたくしのドレスのデザイナーが……ひどい暴君なんですけれど、でも天才ですのよ。彼女のアドレスをお教えしなければいけませんわね。楽しゅうございましたわ、あなたがた。娘のことをいろいろお聞かせくださって、ほんとにお礼の申しようもございません。あの子も、あなたがたのように、物わかりがよければどんなにいいかと思いますわ。あの子も、わたくしがいつでも喜んで迎えるようにしていることは、よく知っているんですけれどねえ……もちろん、あの子の主人もですわ。では、わたくしの家へもちょくちょくお寄りくださいまし。わたくし、月の上で暮らしておられた方々とお話しするのが、好きでございますのよ……」 「月の中にです」 「……そうしていると、娘のそばにいるような気がするものですから。では、さようなら」  ドアのロックを下ろすと、ジョーはいった。 「アラン、わたし、飲まなくちゃあ」 「ぼくもさ」  ジョーは、買物を早く切り上げた。ひどく疲れたからだ。四時にはふたりで、馬車に乗っていた。パカパカというのんびりした蹄鉄の音を聞きながら、セントラル・パークで秋の景色を楽しんだ。ヘリコプターや鳩や、それにオーストラリア行きロケットが飛んでいったあとの空に残した縞が、風景に牧歌的な美しさと静けさとを与えていた。ジョーは、喉元にこみあげてきた固まりをのみこんで、ささやいた。 「アラン、きれいね?」 「本当だ。やはり、故郷はいいな。ところできみは、四十二丁目がまた壊されていたことに気づいたかい?」  部屋にもどると、ジョーはベッドにくずれ伏した。アランのほうは靴をぬぎ、すわりこんで足をこすりながらいった。 「今日は、一晩じゅうはだしでいるぞ。畜生、なんてまあ足が痛いんだ!」 「わたしもよ。でも、今夜は、あなたのお父さまの家に行くことになっているのよ、あなた」 「え? くそっ、忘れていたよ。ジョー、何を落ち着いているんだい? 電話して延期してもらおう。ぼくらは旅の疲れで、まだ半死半生じゃないか」 「でも、アラン、お父さまはあなたのお友達をいっぱい呼んでいるのよ」 「どうせ、つまらんやつばかりさ。ニューヨークには、本当の友達なんかだれもいやしない。来週にしようよ」 「来週……ええ……そうね……ねえアラン、このまますぐ田舎に行ってしまわない?」  ジョーの両親は彼女に、だいぶくたびれてはいたが、コネチカットに小さな農場を残してくれていたのだ。 「二週間ほどはまず、演劇と音楽で過ごしたいといっていたじゃないか。とつぜんの心変わりはなぜなんだい?」 「教えてあげるわ、窓枠を見てて」彼女は正午からあけっぱなしにしておいた窓のところへ行くと、ほこりの上に二人の頭文字を書いてみせた。「アラン、この町は汚いわ」 「一千万人の人間がほこりを出さないことを期待しても無理さ」 「でも、わたしたちこんなものを肺の中に吸いこんでいるのよ。スモッグ取り締まりの法津はどうなってしまったのかしら?」 「これはスモッグじゃない、ただの町のほこりだよ」 「ルナ・シティは絶対にこんなことなかったわ。白いものだって、飽きるまで着ていられたのに。それがここでは、一日ともたないでしょうね」 「マンハッタンには屋根がないからね……それに──どんな空気ダクトにもほこりは入るさ」 「屋根を作るべきだわ。これでは、凍えるか息がつまってしまうかのどちらかだわ」 「きみは、顔に雨のかかるのを味わいたくてたまらなかったのじゃあないのかい?」 「いやなこといわないでよ。わたしは、清らかな、緑の田舎で雨に打たれたいのよ」 「オーケイ。いずれにしろ、ぼくは本を書き始めたい。きみの不動産管理人に電話しよう」 「わたしが今朝かけたわ。いつでも引っ越しできるのよ。わたしの手紙がついてすぐに準備を始めたんですって」  父親の家でのパーティは立食形式だったが、ジョーはすぐ椅子に腰をおろして、食べ物を運んでもらった。アランも坐りたいのは山々だったが、主賓としての立場上、痛む足をこらえて立っていなければいけなかった。料理をのせてあるテーブルのところで、父親がかれを引きとめた。 「さあ、この鵞鳥のレバーを試してみろ。グリーンチーズのあとでは、なかなかいけるぞ」  アランは、本当にうまいと答えた。 「さてと、息子や、おまえみなさんに、旅行の話をしてあげなければいけないよ」 「スピーチはだめだよ、ダディ。ナショナル・ジオグラフィックを読んだほうがましだよ」 「とんでもない!」かれは、ふりむいた。「みなさん、お静かに! これからアランが、月世界人《ルナティック》の生活についてお話しします」  アランは唇を噛んだ。実のところ、ルナ・シティの市民たちは、おたがいをルナティック=i月の≠ゥら転じて気ちがいの意)と呼んでいる。だが、ここでは同じ意味には聞こえない。 「でも、本当に、何も話すことはありません。おしゃべりを続けて、食べてください」 「きみがしゃべれよ、ぼくらは食べるから」「ルーニイ(馬鹿・気ちがいの意)・シティのことを話してくれ」「|月の人間《マン・イン・ザ・ムーン》は見たかい?」「話してくれ、アラン。月の上で暮らすのはどんなものだい?」 「月の上でじゃない。月の中でさ」 「どこが違うんだ?」 「ああ、違いはないかもしれないな……」  かれはためらった。月の植民者が、地下で暮らしていることを、なぜことさらに強調するのか、その理由を説明する方法は実際にはない──ただ、それは何となくかれの気にさわるのだ。ちょうど、サンフランシスコの市民が、フリスコという言葉が気にさわるように。 「……ぼくらがそれをいうときには、月の中で≠ニいうんだ。ぼくらは、月の表面にほとんどといっていいほど出ない。例外は、リチャードソン天文台の連中とか、鉱山師とかだけです。居住区は当然、地下にあります」 「なぜ当然なんだい? 隕石が恐ろしいからかい?」 「地球で雷を恐れる以上ではないさ。地下にもぐるのは、熱と寒さとを絶縁するためと、気圧調節を容易にするためだ。その両方ともに、地下のほうがずっと安くつくし、作業も簡単なんだ。月の土は仕事がしやすいし、隙間が魔法瓶の真空のような役目をするんだ。実際、真空なんだからね」  真剣な目つきでひとりの女性が話しかけた。 「でも、マックレイさん……高い気圧の中に住んでいて耳を傷めませんの?」  アランは空気を手であおいでみた。 「ここの気圧と同じなんですよ。十五ポンドです」  彼女はわけがわからないといった顔になったが、またいった。 「ええ、そうでしょうね。でも、ちょっと想像しにくいですわね。あたし、洞窟の中に閉じこめられたら、ぞっとしてしまうと思いますわ。破裂してしまうこともあるんでしょう?」 「十五ポンドの気圧を保っているのは、別に問題じゃあありません。技術者は平方インチ当たり数千ポンドの気圧の中でも働いていますからね。いずれにしろ、ルナ・シティは船のように、コンパートメントに分かれているんです。まったく安全なんですよ。オランダ人は堤防の後ろで暮らしている。ミシシッピーの下流へ行けば、土手がある。地下鉄、大洋を渡る定期船、飛行機がある……それはみな人工的な形での生き方でしょう。ルナ・シティが特に変わっているように見えるのは、ただ遠くにあるからなんですよ」  彼女はぶるっと震えた。 「あたし、こわいわ」  もったいぶった小男が、人をおしわけて前に出てきた。 「マックレイさん……科学のためとか、そのほかいろいろなことは認めるとして、どうして納税者の金が、月の植民地のためなどに浪費されなければいけないんでしょうな?」  アランはゆっくりとそいつに答えた。 「あなたは自分で答えを出してしまわれたようですが」 「では、それをどう正当化するんです? 聞かせてくれませんか、サー」 「正当化する必要はありませんよ。月の会社は、すべて何倍にも利益をあげています。アルテミス鉱山、スペースウエイズ、スペースウエイズ食料公団、ダイアナ・レクリエーション・センター、エレクトロニクス・リサーチ社、ルナ生物学研究所、それからすべてのラザフォード工場についてはいうまでもない……それらを考えてみるんですね。宇宙研究計画がすこしは納税者の負担になっていることは、ぼくも認めますよ。あれはハリマン財団と政府との協同事業ですからね」 「では、それは認めるんですな。それが物事の原則というもんだ」  アランの足は、さきほどからひどく痛んでいた。 「何の原則だ? 歴史的に見ると、研究はつねに引き合っているんだぞ」  かれはそいつに背をむけて、鵞鳥のレバーのおかわりを求めた。  男のひとりが、かれの腕にふれた。それは昔の同窓生だった。 「アラン、あの馬鹿をやりこめたことに敬意を表明するよ。いつかだれかにやられる必要があったんだ……どうも、あいつは何かの過激派みたいだからな」  アランは苦笑いした。 「癇癪をおこすんじゃなかったよ」 「いやいや、きみは立派だったよ。ところでアラン、ぼくは明日の夜、ほかの町から来たバイヤーを二人ほど、どこか面白いところへ案内することになっているんだ。きみも来ないか?」 「そいつは嬉しいが、でもぼくらは田舎へ行くんでね」 「いやいや、このパーティを逃すのはもったいないぜ。とにかくきみは、これまで月に埋もれていたんだ。そんなひどく単調な生活のあとじゃあ、すこしのんびりするべきだよ」  アランは頬に血がのぼってくるのを感じた。 「ありがとう。だが……きみは、月のムーン・ヘイブン・ホテルの地球展望室を見たことがあるのか?」 「いや、ない。もちろん金でもたまったら、行ってみようとは思ってはいるがね」 「ほう、あそこには、きみにむくナイト・クラブがあるんだ。きみはダンサーが三十フィートも空中に飛び上がって、落ちてくるときに空中でゆっくりトンボがえりをするのを見たことがあるかい? ルナシイ・カクテルを試してみたことは? 低重力で、ジャグラーがどんな軽業を見せるか知っているかい?」  そのとき、ジョーが部屋のむこうから目で合図した。 「ちょっと失礼、女房が呼んでいる」かれは行きかけ、肩ごしにふりかえっていった。「ムーン・ヘイブンは宇宙船乗組員の巣みたいなもんじゃあないんだ。ついでにいっておくと……そこはダンカン・ハインズ協会推薦のところなんだ」  ジョーはまっ青になっていた。 「あなた、わたしをここから連れ出してちょうだい。息がつまりそうなの。ほんとに気分が悪いの」 「いいとも」  ふたりは言い訳をいって失礼した。  ジョーは目を覚ますと、鼻風邪を引いていた。それで二人はすぐヘリタクシーを呼び、田舎の家へむかった。眼下には低く雲がたれこめていたが、その上の天気は上々だった。陽光と回転翼の眠気をさそうような音が、かれらに帰郷の喜びをまた取り返してくれた。  アランが、ものうい回想を破った。 「おかしなもんだな、ジョー。きみが何といおうと、ぼくは月に帰る気はないんだ。ところが……昨夜のぼくは、口を開くたびにルーニイの弁護ばかりしていたよ」  彼女はうなずいた。 「わかるわ。ほんとよ、アラン。地球が平べったいと信じているとしか思えないような人がいるわ。人によっては本当には何ひとつ信じていないし、何でも当然のような顔をしているけれど、何もわかっていないのだっているわ……わたし、どんなのがいちばん癪にさわってくるのか、わからなくなってきたわ」  かれが着陸したときは、霧がたちこめていた──だが家は清潔だったし、管理人が火をおこして、冷蔵庫には食料品をつめておいてくれた。  コプターが着陸してから十分後には、二人は熱いパンチをすすって、体の芯から疲れを追い出していた。アランはのびをして、いった。 「これはいいな……やっぱり、帰ってきたのは素晴らしかったよ」 「そう、まあね。ハイウェイを別にすればだけど」  家から五十ヤードと離れていないところを、新しい急行貨物スーパーハイウェイが走っているのだ。坂にさしかかって、大きなディーゼル車がうなるのが聞こえた。 「ハイウェイのことなんか忘れろ。後ろを向いて、まっすぐ森の中を見てごらんよ」  森の中の短い散歩を楽しめるまでには、かれらの足ももとにもどっていた。それに運よく暖かい小春日和が長いあいだ続いた。掃除婦は仕事が上手で、口数が少なかった。  アランは本を書きだすためにと、三年間の研究の成果を整理しはじめた。ジョーは統計作業でかれを助けたり、料理の喜びを覚えたり、夢を紡ぎ、休息をとることができた。  トイレットが止まってしまったのは、霜が下りた最初の日だった。  村の鉛管工に無理に頼みこみ、あくる日に来てもらえることになった。そのあいだかれらは一時的に、ずいぶん昔に建てられ、いまも薪の山のむこうに、どうやら家の格好をして残っている建物に避難した。そこは蜘蛛の巣だらけで、あまりに風通しがよすぎた。  その鉛管工は、さっぱり元気づけてくれなかった。 「浄水槽と濾過パイプを新しくしなけりゃいけねえな。それから、新しい備品も買ったほうが得だし。千五百ドルか六百か……計算してみなきゃあわからねえが、それぐらいはかかるな」  アランはいった。 「わかった……今日から始めてもらえるかい?」  そいつは笑いだした。 「旦那、あんた何にも知らねえんだな。このごろじゃあ、材料や人手を集めるのがどんなものかってことを。まあ来年の春でしょうな……地面から霜がなくなったら、すぐ始めまさあ」 「そんな馬鹿なことを、きみ。費用はかまわないから、すぐにやってくれ」  男は肩をすくめた。 「気の毒だが、だめだよ。じゃあどうも」  男が行ってしまうと、ジョーは癇癪を爆発させた。 「アラン、あいつ、わたしたちを助けたくないのよ」 「うん……たぶんな。ノーウォークから呼んでみよう。あるいはニューヨークからでもな。冬のあいだじゅう、きみをあの鉄の処女まで、吹雪をついて通わせるわけにはいかんよ」 「そんなこと、したくないわね」 「絶対だめさ。きみは、すでに一度、風邪を引いているんだからな」かれは憂鬱そうに、じっと火を見つめた。「どうもこれは、ぼくの場違いなユーモア感覚がおこした災難らしいよ」 「どういうこと?」 「うん、ぼくらが植民者だったという噂が伝わって以来、ずっと悪ふざけの対象にされていたことは知っているだろう。ぼくはあまり気にしなかったが、腹にすえかねるのも中にはあった。先週の土曜日、ぼくがひとりで村へ行ったのを覚えているだろう?」 「ええ。何かあったの?」 「床屋で、やつらはぼくをからかい始めた。初めのうちは勝手にいわしておいたんだが、そのうち、腹の虫がおさまらなくなってきた。ぼくは月の話を始めた、完全なでたらめをね……真空虫に空気の化石とか、古臭い、陳腐な話をさ。だいぶたってから、やつらはかつがれていることに気がついたんだ……それがわかったとき、だれも笑わなかったよ。われらが錆止め衛生技術者氏も、そいつらのひとりだったんだ。ごめんよ」  ジョゼフィーンは良人に接吻した。 「いいえ……たとえ雪の中を進軍しなければいけなくても、あなたがかれらに、すこしは仕返しをしてくれたと思うと、元気が出てくるわ」  ノーウォークの鉛管工はずっとましだったが、雨とみぞれで仕事は遅れた。かれらは、どちらも風邪を引いてしまった。その惨めな九日め、アランが机にむかって仕事をしていると、買物から帰ったジョーが、裏口から入ってくる物音が聞こえた。かれは仕事にもどったが、しばらくして、彼女がただいま≠いいに入ってこないことに気がついた。かれは様子を見にいった。  彼女は台所の椅子にくずおれ、声をころして泣いていた。かれは、あわてて尋ねた。 「ジョー……ハニイ・ベイビイ、いったいどうしたんだ?」  彼女は顔を上げた。 「わたし、あなたに、い、いたく、なか、ったのよ……」 「鼻をかんで。それから、目をふいて。ぼくにいいたくなかったとは、どういうことなんだ。いったい何があったんだい?」  彼女は話した、ハンカチでときどき中断しながらも。まず、雑貨屋がクリネックスを切らしているといった。そして彼女がそこにあるじゃないかというと、それは予約品だと答えたというのだ。そのあげくに主人は、かれらが、「よそ者の労働者を町に入れて、村の正直者の口からパンを取り上げた」とまでいったのだ。  ジョーはついに爆発し、アランと床屋のことを持ち出した。主人はいっそう依怙地《いこじ》になっただけだった。 「そいつはいうのよ……おらはあんたの旦那が月へ行ったことがあるかどうかは知らねえし、そんなこたあどうでもいい。おらんとこでは、そういうもんはあんまり仕入れねえだ。それにいずれにしろ、あんたらには買ってもらいたくねえだね……だって。ねえ、アラン、わたし、悲しいわ!」 「そいつが、これから悲しがるほどじゃあないさ! ぼくの帽子はどこへ行った?」 「アラン! あなたは、家から出ちゃいけないわ。喧嘩などしてほしくないの」 「その野郎に、きみをおどかさせたくないのさ」 「もう、二度としないわよ。ねえあなた、わたし一所懸命に努めたのよ。でも、これ以上ここには我慢できないわ。村人たちのことばかりじゃあないの。寒いし、ゴキブリは出るし、しょっちゅう風邪を引くわ。わたし、すっかり疲れたし、足がいつも痛いの」  彼女はまた泣きだした。 「まあまあ! いいとも、すぐ出発しよう。フロリダへ行こう。きみが太陽の光の中で横になっていたら、ぼくはそのあいだに本を片づけるよ」 「あら、わたし、フロリダなんかへ行きたくないわ。わたしは、家へ帰りたいのよ!」 「え? きみはつまり……ルナ・シティにもどりたいというのかい?」 「そうよ、あなた。あなたが帰りたがっていないことは、よく知っているわ。でも、わたし、もう我慢できないの。ほこりや寒さや、漫画に出てくるような配管工事のせいだけじゃなくて……理解されていないことなのよ。ニューヨークだって、似たようなものだったわ。地ネズミたちは、何にもわかっちゃいないのよ」  アランは彼女に、にやりと笑いかけた。 「放送を続けろよ。波長は合っているから」 「アラン?」  かれはうなずいた。 「ぼくはもう、ずいぶん前から、自分が心の底から月世界人《ルーニイ》だってことに気づいていたんだ……でも、きみに話すのがこわかった。ぼくの足だって痛かった……それに、奇形児のような扱いをされるのに、つくづく愛想がつきていた。ぼくは我慢しようと努めたが、地ネズミどもには我慢できない。あの月にいる友達が、懐かしく思われてしようがなかったよ。かれらは文明人だからな」  彼女はうなずいた。 「これは偏見なんでしょうね……でも、わたしも同じように感じるわ」 「偏見じゃないよ。正直に考えてみよう。ルナ・シティへ行くには何が要る?」 「切符ね」 「洒落のつもりかい? 観光客としてじゃあないよ。むこうで職を得るためには、何が必要なのかさ。きみはその答えを知っている。知能だ。一人の人間を月へ送るには莫大な費用がかかる。そこで生活させるには、もっとかかる。その勘定を引き合うものとするには、その人間が多くのものを持っていなければいけない。高い知能指数、高い適応能力、高い教育……その人間がそばにいると、気分がよく、楽しくなり、興味を持てるといったことのすべてだ。ぼくらはわがままになっていたんだ。地ネズミどもがあたりまえのものとして受け入れている人間の意地悪さが、ぼくらには耐えられないことだとわかったんだ。ルーニイはできが違うからだ。ルナ・シティが、人間の作ったうちでもっとも快適な環境だという事実は、問題外だ……問題は、人間なんだ。家へ帰ろう!」  かれは電話のところへ行き……旧式な、話すだけの道具だった……そして、財団のニューヨーク事務所を呼び出した。棍棒みたいな受話器を耳にあてて待っているあいだに、彼女はいった。 「もし、やとってくれなかったら」 「実は、ぼくもそれが心配なんだ」  かれらは、月の会社が一度やめた人間を再雇用することはめったにないのを知っていた。身体検査も、二度目はずっときびしいという噂だ。 「ハロー……ハロー。財団ですか? 徴募課をお願いします……ハロー……スクリーンはつけられないんです。この電話は、暗黒時代の遺物なんです。こちらはアラン・マックレイ。生化学者です。契約番号二二四〇七二九、それから妻のジョゼフィーン・マックレイ、二二四〇七三〇。ぼくたち、もう一度契約したいんです。再契約をお願いしたいといったんです……オーケイ、待ちます」 「祈りましょう、あなた、祈りましょうよ」 「祈っているよ……何ですって! ぼくの仕事はまだあいている? それはありがたい! それで、妻のほうはどうでしょう?」  かれは心配そうな表情で相手の声に聞き入っていた。ジョーは息をころしていた。やがてかれは、送話器の口をおさえていった。 「おい、ジョー……きみの仕事はふさがったそうだよ。二級経理士の臨時の仕事をやる気があるかどうかと聞いている」 「やるといって!」 「それは嬉しい。テストはいつ受けられます? よかった、ありがとう。さよなら」かれは受話器をおき、妻のほうにむいた。「身体検査と心理テストは、いつでもこちらの都合がいいときでいいそうだ。職業試験は免除してくれる」 「それじゃあ、何を待っているの?」 「何も待たないさ」かれはノーウォーク・コプター・サービスのダイアルをまわした。「マンハッタンまで運んでくれますか? なんだ、そいつは困ったな。レーダーはないんですか? わかった、わかった。いいよ、さよなら!」かれは鼻を鳴らした。「コプターは、天気が悪くて、みな着陸しているそうだ。ニューヨークに電話して、新式のを呼んでみよう」  九十分後、かれらはハリマン・タワーの頂上に着陸していた。  心理学者は非常に丁寧だった。 「胸を診察してみる前に、こちらをすませておくほうがいいでしょう。坐って、あなたがたのことを話してください」かれは話を引き出しながら、ときどきうなずいた。「なるほど。それで配管は直ったのですか?」 「修繕中ということになりますね」 「足の痛みには同情しますよ、ミセス・マックレイ。わたしもここでは、足のつけねがしょっちゅう痛みます。で、それが本当の理由なんですね?」 「とんでもない!」 「でも、ミセス・マックレイ……」 「本当に違うんです……本当に。わたしのいおうとすることをわかってくれる人々と、お話がしたいんです。わたしの本当に悪いところは、自分と同類の人々が恋しくてホームシックになったということなんです。わたしは家に帰りたいんです……そのためには、その仕事がどうしても欲しいんです。そうすれば、落ち着けると、わかっているんです」  医者は重苦しい顔になった。 「あなたはいかがです、ミスター・マックレイ?」 「そう……ぼくもだいたい同じようなことです。ぼくは本を書こうと努めてきましたが、できませんでした。ぼくもホームシックなんです。家へ帰りたいんです」  フェルドマンは、とつぜんにっこりと笑った。 「それは、そう難しいことじゃあないでしょう」 「というと、ぼくらは合格したんですか? あと、身体検査さえ通れば?」 「身体検査のことは考えなくて結構です……やめられるときの検査が、ごく最近でしたから。もちろん、アリゾナへ行っての再調整と検疫だけはしなければいけませんがね。それから、この試験は非常に難しいはずなのに、なぜこんなにやさしかったのか、たぶん不思議に思われているでしょう。その理由は簡単です。われわれは、高給にひかれてもどってくる人々は欲しくない。月にいれば幸福で、できるだけ長いあいだいられるような人が欲しいんです……つまり、ルナ・シティを故郷《ホーム》と考える人々がね。あなたがたはいま、月に恋い焦がれている。だから、われわれもあなたがたに、月に帰っていただくのです」  かれは立ち上がって、手をさしだした。  その夜、コモドア・ホテルにもどってから、ジョーはあることを思い出して、はっとした。 「アラン……わたしたち、前のアパートにまた入れるかしら?」 「さあ、わからないなあ。ストーンのおばさんに電報を打っておくことはできるが」 「それより、電話しましょうよ。アラン、それぐらいの贅沢はできるわ」 「いいとも! ぼくがかけるよ!」  月=地球間電話が通じるのに約十分かかった。ミス・ストーンの気むずかしい顔が、ふたりの顔を見ると、ちょっとやわらいだ。 「ミス・ストーン、ぼくたち、家へ帰りますよ!」  例によって三秒間の時差があり、それから── 「ええ、知っていますよ。二十分ほど前に、テープが来ましたからね」 「え。それで、ミス・ストーン、ぼくたちがいたアパートは、空いているでしょうか?」  ふたりは待った。 「あたしがおさえておきました。あなたがたが、間もなく帰ってくることは、あたし、ちゃんとわかっていましたから。お帰りなさい、月世界人《ルーニイ》さんたち」  スクリーンの映像が消えると、ジョーはいった。 「彼女がいったこと、どういう意味かしら?」 「ぼくらはパスしたということらしいな。ロッジのメンバーになれたってわけさ」 「そうらしいわね……ああ、アラン、見て!」  彼女は窓に歩みよった。空をよぎる雲から月が顔を出したところだった。それは三日月で、ちょうど豊かの海が──月にいる女の後頭部の巻毛にあたる部分──が、日の出の線によって明るくなっていた。その巨大な暗い海の右端近くに、かれらの心の目だけに見える小さな点がある──ルナ・シティだ。  三日月は、高層建築物群の空高く、清らかに、銀色に冴えてかかっていた。 「ダーリン、きれいじゃない?」 「確かにね。故郷へ帰るのは素晴らしいな。そう、鼻を垂らすなよ」 [#改ページ] 犬の散歩も引き受けます 「ジェネラル・サービスでございます……わたくしはミス・コーメットと申します!」  彼女は映像スクリーンにむかって、人なつっこい愛想の良さと、人間味とは関係のない能率の良さをうまく調和させた口調で呼びかけた。  スクリーンはちょっとちらついたあと、すぐに、大金持の未亡人といった女性の立体映像になった。太って、気むずかしく、服装はごてごてしすぎ、運動は不足している。  その映像はいった。 「おお、マイ・ディア……あたし、ほんとに困ってしまったのよ。助けていただけるかしら?」  ミス・コーメットは、その婦人の服装と宝石類をすばやく値踏みし(本物なら、たいしたものだと思いながら)、これは相当儲かるお客だと決めて、甘えるような声で答えた。 「何なりとお申しつけください……では、お困りの内容をお聞かせくださいませんでしょうか。まず、お名前をどうぞ」  彼女は、自分を馬蹄形に取り巻いているデスクのボタンをおした。信用調査部と記されているボタンだ。  その映像は念をおした。 「でも、これはずいぶん面倒なことなんですのよ……ピーターとしたことが、腰の骨を折りましてね……」ミス・コーメットは、すぐに医療部のボタンをおした。「……あたしが、ポロは危ないからって、あれほどいっておきましたのにねえ。母親というものが、どんなに苦労の多いものか、あなたにはおわかりにならないでしょうね。特にまた、こんなときにねえ。まったく、困ったことですわ……」 「ご令息のお手当てを当社にご依頼でしょうか? その方は、いまどこにおいででしょうか?」 「手当てをですって? 何を馬鹿げたことを! それはメモリアル病院にまかせてありますよ。ずいぶん寄付しましたんですの。あたしが心配しているのは、あたしのディナー・パーティのことなんですよ。皇太子妃殿下が、さぞいやな顔をされるだろうと思いましてね……」  信用調査部からの返事のライトが怒ったようにしきりにまたたいていた。ミス・コーメットは相手にみなまでいわせずに答えた。 「わかりました。あなたさまに代わって当社でお取り計らいさせていただきます。お名前をどうぞ、それからご住所と、現在おいでのところをお聞かせくださいませんか」 「でもあなた、あたしの名前を知らないの?」  ミス・コーメットはうまくかわした。 「おおよそ存じてはおりますが……でも、ジェネラル・サービスは、お客さまの秘密を絶対に守ることにしておりますので」 「ええ、そうね、もちろん。行き届いているのね。あたしは、ミセス・ピーター・ヴァン・ホグバイン・ジョンソンです……」  ミス・コーメットは、驚きを顔に出すまいと努力した。この依頼人なら、信用調査部をわずらわすまでもなかったのだ。だが、調査部からの透明板がすぐ明るくなり、〈信用程度AAA──無制限〉という文字が現われた。ミセス・ジョンソンはなおも続けた。 「……しかし、あなたの会社でも、どうにもできないんじゃないかって思いますよ。だって、あたしは、一度に二つの場所にはいられませんもの」  ミス・コーメットは、きっぱりと保証した。 「ジェネラル・サービスは、難しいご依頼ほど喜んでお引き受けします。では……詳しく、お聞かせいただけないでしょうか?」  彼女は、その女性をおだてたり、すかしたりしながら、かなり筋道の通った話を聞き出した。彼女の息子のピーターV世という男は、もう何年も前からグレース・コーメットが立体グラビア版でお馴染みになっている顔で、のらくらと日を送っている金持の道楽者連中に影響されてか、考えられる限りのあらゆる服装で出かけていく、いわば珍腐なピーター・パンといった男だった。  その男が無分別にも、よりにもよって母親のもっとも大切な社交的行事がおこなわれる日の午後に怪我をした──大怪我をした。しかも、さらに無分別なことに、母親から大陸を半分も離れたところで、その事件をおこしたのだ。  ミス・コーメットはその話を聞いているうちに、ミセス・ジョンソンが、息子を自分の思いどおりにできるよう安全につかんでおくため、すぐ病床にかけつけ、ついでに看護婦を自分で選ばなければいけないと思っていることを知った。  ところが、その晩に催される彼女の晩餐会は、過去数カ月をかけた慎重な準備工作がもたらした頂点となるものだった。彼女はいったいどうしたらいいのだろうか?  ミス・コーメットは心の中で、ジェネラル・サービス社の繁盛と彼女自身の非常な高給とが、主としてこの顧客のような社会の寄生虫の愚かさと、無能と、怠慢のおかげだということを思いかえしながら説明した。  ジェネラル・サービス社は、大型のポータブル立体映像スクリーンを夫人の客間にすえつけ、夫人が令息のもとへ急ぎながら、同時に来客たちに挨拶し、事情を説明できるように手配し、彼女のパーティをとどこおりなく運営し、社交的な成功となるようにする。社交界のあしらいにもっとも熟練しており、その本人自身に相当な社会的地位があり、しかもジェネラル・サービス社と関係のあることがだれにも知られていない人物に、その晩餐会のいっさいを任せることにしようとミス・コーメットはいい、さらに、こんどの問題をうまく処理すれば、ミセス・ジョンソンは聡明な女主人《ホステス》であり、同時に献身的な母親だという評判がひろがるから、むしろ災いを転じて、社交上での勝利にすることができるとつけ加えた。 「二十分ほどで、お邸にスカイ・カーをさし向けますから……」彼女はそういいながら、輸送部と記されているボタンをおした。「それであなたさまを、ロケット空港にお送りいたします。当社の若い社員を一人、それに同乗させますから、空港への途中で、その他の細かいことをお申しつけください。ニューアーク行き十六時四十五分発のロケットに、あなたさまご自身のコンパートメントとおつきのメイドさんの座席を予約いたしましょう。どうぞもうご安心ください。あなたさまのご心配はジェネラル・サービスが代わってお引き受けいたします」 「まあ、ありがとう、マイ・ディア。おかげで助かりました。あたしのような地位の者が、どれほど大きな責任を負わせられているか、わかっていただけたらと思いますよ」  ミス・コーメットは、さも同情したように職業的な相槌をうちながら、この変わったお婆さんからは、もっと多くの料金をしぼり取れそうだと判断し、心配そうにいった。 「マダム、だいぶお疲れのようにお見受けしますが……ご旅行中、女性のマッサージ師をおつけいたしましょうか? お体にご心配がおありでしたら、医師をお連れになるほうがいいかもしれませんわ」 「まあ、ずいぶん思いやりがおありなのね!」 「では、両方をおつけいたしましょう」  ミス・コーメットはそれに決めて、スイッチを切った。そして特別チャーター便のロケットをすすめたらよかったと、かすかな後悔を覚えた。料金表にのっていない特別サービスは、必要経費プラスということになっている。このような場合におけるプラス≠ニは、交通費として最高のものを意味しているのだ。  彼女はスイッチを業務部に切り換え、機敏そうな目をした若い男がスクリーンいっぱいに現われると、いった。 「スティーブ、録音文書化《トランスクリプト》の用意をして……スペシャル・サービス、3Aよ。あたしは即時サービスを手配したわ」  かれの眉が上がった。 「3Aだって……ボーナスだな?」 「間違いなしよ。このうるさがた婆さんの仕事を片づけること……うまくよ。それから……このお客の息子が病院に入っているの。かれについている看護婦を調べてちょうだい。もしもその一人に、セックス・アピールをほんのすこしでも持っているのがいたら、その女を首にして、ゾンビーみたいなのを代わりに雇って」 「わかった、文書化を始めてくれ」  彼女はまた、スクリーンを消した。小部屋《ブース》の中のサービス受付≠フライトが自動的に緑に変わったかと思うと、すぐまた赤に変わり、別の人物の姿がスクリーンに映った。  こんどのは金を浪費する愚かな相手ではない。グレース・コーメットの見るところ、きちんと髪を整えた四十代なかば、腹は出ておらず、目が鋭く、厳格そうだが都会風で上品な男性だった。フォーマルなモーニング・コートの上にまとったケープを、注意深く無造作に見えるように後ろへはねている。 「ジェネラル・サービスでございます……わたくしはミス・コーメットと申します」  彼女がそういうと、その男は切り出した。 「ああ、ミス・コーメット、あなたのチーフに会いたいんだが」 「交換台主任《スイッチボード・チーフ》のことでございましょうか?」 「いや、わたしはジェネラル・サービスの社長に会いたいんだが」 「ご用のおもむきをお聞かせくださいませんか? わたくしがお手伝いできると存じます」 「悪いが、説明はできない。すぐ社長に会わなければいけないんだがね」 「ジェネラル・サービスといたしましても、まことに申し訳ございませんが、クレアー社長は非常に多忙でございますから、前もってのお約束をお取りになり、理由をお聞かせいただけないと、ご面会は不可能でございます」 「いま、録画しているかね?」 「しております」 「では、録画するのをやめてくれないか」  彼女は、お客から見えるところにあるコンソールの上のレコーダーを切った。だが、デスクの下に隠してあるスイッチを入れて、それをまた作動させた。ジェネラル・サービス社は、ときどき非合法な行為を頼まれることがある。それで、秘事にかかわる社員は、万全を期することにしていた。相手はシャツのひだのあいだから何かを取り出し、彼女のほうに向けた。立体効果のために、かれはスクリーンの中から手をつき出したように見えた。  熟練した彼女は、驚きを顔に表わさなかった──それは、この惑星の高官であることを示す記章《バッジ》で、その色は緑だった。 「わたくしが、お取り次ぎいたします」  と、彼女はいった。 「結構。あなたが待合室に来て、わたしを案内してくれませんか? 十分後でどうです?」 「そこで、お出迎えいたします。ミスター……ミスター……」  だが、かれはスイッチを切ってしまった。  グレース・コーメットは、交換台主任へスイッチを切り換えて、交替を頼んだ。それから彼女は自分の交換台のスイッチを切り、いまの会話を秘密に録音してあるスプールを録画装置からはずし、心を決めかねて見つめたあと、それをデスクの上にあいている穴に入れた。そこの強力な磁場で、その軟らかい金属にまだ定着していないパターンを消去してしまったのだ。  若い女性が、小部屋の後ろのドアから入ってきた。金髪で、化粧が濃く、動作が遅くて頭もややにぶそうだった。だが、まったくそんなことはないのだ。彼女はいった。 「オーケイ、グレース……何か引き継ぐことは?」 「ないわ。交換台《ボード》はからよ」 「どうしたの? 気分が悪いの?」 「いいえ」  グレースはそれ以上何も説明せずに小部屋を出ると、リストに載せられていないサービスを受け持っている交換手たちの小部屋をいくつか通りすぎ、次にカタログ係が働いている大広間に入っていった。それらの小部屋や大広間には、いまグレースが出てきた小部屋ほど複雑な装置はおかれていない。そこには非常に大きな分厚い本が一冊、つまりジェネラル・サービスがふつうに取り扱う仕事の規定料金が記されているものと、ありきたりのテレビ電話が一台あり、カタログ係はそれを使って、ふつうの顧客が求めることを何でも引き受けることになっていた。  もし顧客の依頼することがカタログには載っていないような特別な性質のもののときは、それはグレースのような機略縦横の貴族階級《アリストクラーク》に移されるのだ。  彼女は近道をしてマスター・ファイル室を通り抜け、にぎやかにさえずっている何十台ものパンチ・カード・マシンのあいだの通路を通り、その階のロビーに出た。圧搾空気エレベーターが彼女を、社長室のある階までいっきに運び上げた。社長の受付係はもちろん彼女を呼びとめたりしないし、彼女が来たことを告げた様子もない。だがグレースは、その女性の指先がヴォーダーのキーを忙しくたたいているのを見逃さなかった。  十億クレジット規模の会社の社長室に、交換手はふつう入っていったりしない。だがジェネラル・サービス社は、この惑星の他のありふれた企業とは組織を異にしていた。それは他に比類のない事業であり、ここでは特別な才能がリストにのせられ、買われ、売られる商品であり、中でもあらゆることを知っていて、すぐに機知を働かせて対処できることが、もっとも重要だった。  この会社の階級組織では、社長のジェイ・クレアーが最初にくる。かれの助手のソンダーズ・フランシスが二番め、そのすぐ次にくるのが無制限交換台を受け持つ二十四人の交換手であり、グレースはそのひとりだった。かれらと、種類別に入っていないきわめて困難な任務を扱う現場交換手《フィールド・オペレーター》は、事実上、ひとつのグループだった──というのは、無制限交換台交換手と現場交換手は、随時に持場を交換することがあるからだ。  かれらの下にくるのが、この惑星の全地域にわたって散在している何万人もの社員だ。それは上は経理部長、法務部長、マスター・ファイル部長、それから地方支局支配人、カタログ係を経て、下は臨時雇い労働者にまでおよんでいた──臨時雇いは、いつなんどきにでも注文があると口述筆記する速記者、晩餐会でいつでも空席をふさげるジゴロ、アルマジロと訓練した蚤とを賃貸しする男まで含まれていた。  グレース・コーメットはクレアー氏のオフィスに入っていった。その建物の中で電子記録装置や通信装置がごたごた置かれていないのは、この部屋だけだった。その部屋にあるのは、何も置かれていないかれのデスクと、椅子が二脚、それに立体スクリーンだけで、それも使っていないときには、クランツの有名な絵『嘆きの仏陀』のように見えるようになっていた。そのオリジナルは実のところ、建物の千フィートも下の二重地下室におかれていた。 「やあ、グレース」かれはそう声をかけると、一枚の紙を彼女に渡した。「これをどう思うか話してくれ。サンスは、ごたごたしているというんだが」  ソンダース・フランシスは大きく見開いたやさしげな目を、チーフからグレース・コーメットに移したが、社長の言葉を肯定も否定もしなかった。  ミス・コーメットは読んだ。 [#ここから2字下げ] [#ここからゴシック] あなたは余裕がおありですか? あなたはジェネラル・サービスをお使いになれますか? あなたはジェネラル・サービスを使わずにすませられますか????? [#ゴシック終わり]  このジェット・スピードの時代に、あなたはご自分でお買物に、お支払いに、住居の管理にと、時間を浪費することがおできになりますか?  当社は赤ちゃんのしつけから、猫に餌をやることまでお引き受けします。  当社はあなたに代わって家を借り、あなたの靴も買ってまいります。  当社は奥さまのお母さまへの手紙を書き、小切手の合計金額の集計もいたします。  どんなに大きな仕事でも、どんなに小さな仕事でも、喜んでお引き受けします。  しかも、そのすべてを驚くほど安い料金で! [#ここで字下げ終わり] [#地付き]ジェネラル・サービス社  [#地付き]ダイアルは|HURRY・UP《おおいそぎ》     なお、当社は、犬の散歩も引き受けます。  クレアーはいった。 「どうだい?」 「サンスのいうとおり、泥臭いですわ」 「なぜ?」 「理屈っぽすぎ、言葉が多すぎ、迫力がありません」 「では、採算がかろうじてとれているような市場で、人の心をつかむいい宣伝文句はないかな?」  彼女はしばらく考えていたが、やがてかれの鉛筆を借りて書いた。 [#ここから2字下げ]  あなたは、だれかを殺したいとお考えですか? (それでしたら、ジェネラル・サービスに電話するのは、おやめください)  でも、そのほかの仕事でしたら、ダイアルHURRY・UPをどうぞ。  お得になります!  なお、当社は、犬の散歩もお引き受けします。 [#ここで字下げ終わり]  クレアー氏は用心深くいった。 「うん……ああ、よさそうだな。これを試してみよう。サンス、これをタイプBのエリアに出してみるんだ。二週間、北アメリカだ。そして、反響を知らせてくれ」  フランシスが穏やかな表情を変えずに、それを持っていた鞄に入れた。 「さて、いまいったとおり……」  グレース・コーメットは口をはさんだ。 「チーフ。わたくし、ある人にあなたとのご面会を手配しました……」彼女は指輪時計をちらりと見た。「時刻はあと二分四十秒後。政府の方です」 「うまくあしらって帰してくれ。わたしは忙しい」 「緑のバッジですよ」  かれはさっと顔を上げた。フランシスでさえ、興味を覚えた表情になった。  クレアーはいった。 「そうか? きみはその人との会話を文書化したか?」 「消しました」 「消したって? そうか、そのほうがいいと思ったんだな。きみの勘はいつもよかった。その人を通してくれ」  彼女は何か考えこんだような表情になってうなずき、部屋を出ていった。  その人物がちょうど一般受付室に入るところを見つけた彼女は、かれを先導して六カ所ほどのゲートを通った。それぞれに警備員がおり、もし彼女がついていなければ、いちいち呼びとめて身分と用件を尋ねられたところだった。  かれはクレアーのオフィスに入って腰を下ろすと、あたりを見まわした。 「クレアーさん、あなたと二人だけでお話ししたいのだが?」 「フランシスくんは、わたしの右足同様です。またミス・コーメットとは、もう話されたはずです」  その人物は、ふたたび緑の記章を取り出して見せながらいった。 「そうですか……まだ、名前をお知らせする必要はないと思います。あなたがたの慎重さは承知しておりますが」  ジェネラル・サービスの社長は、じれったそうに背をのばした。 「すぐ用件をおうかがいしたいですな。あなたは儀典局長のピエール・ボーモンさんですね。政府は、当社に何かを依頼されたいのでしょうか?」  ボーモンは相手の調子が変わっても、まったく動じなかった。 「あなたはわたしをご存知らしい。よろしい、すぐ用件に入りましょう。政府は、ある仕事を依頼するかもしれません。いずれの場合も、ここでの話は絶対に外部に洩れては困るので……」 「ジェネラル・サービスが関係することは、すべて内密です」 「これは内密どころか、極秘なんです……」  かれはちょっと言葉を切った。  クレアーはうなずいた。 「わかりました……どうぞお続けください」 「クレアーさん、あなたは面白い組織をお持ちですね。あなたがたは、いかなる種類の依頼でも引き受けると豪語しておられるそうだが……料金さえ折りあえば」 「それが、合法的な仕事であればです」 「ああ、もちろんそうでしょう。だが、合法という言葉はいろいろと解釈できるものです。あなたの会社が第二次冥王星探険隊の準備一切を引き受けて実行されたことには、敬服しています。あなたがたの方法のいくつかは、ああ、天才的ですね」 「もしも当社の活動について何か批判がおありであれば、正式の手続きを経て当社の法務部に対しておこなわれるのがいいかと思いますが」  ボーモンは、かれのほうにむかって掌で押すような仕草をした。 「いや、違いますよ、クレアーさん……どうか! 誤解しないでください。わたしは、批判がましいことをいっているわけじゃあありません。感服しているのです。実に素晴らしい考え方をされる! あなたなら、素晴らしい外交官になれたことでしょう!」 「外交辞令の応酬はやめましょう。ご用件は何です?」  ボーモン氏は口をかたく結んだ。 「かりにあなたが、この太陽系にいる知的生命体の種族それぞれの代表者十二人を接待しなければいけない立場になり、しかもそれぞれを完全に心地良くさせ、満足させたいと思われたとします。あなたには、それができるでしょうか?」  クレアーは口に出しながら考えた。 「気圧、湿度、放射線密度、大気、化学作用、文化状況……こういったものはみな簡単です。だが、加速度はどうです? 木星人に対しては遠心機を使えばいいとしても、火屋人とタイタン人となると……これは事情が変わってくる。地球の標準重力を減らす方法はありませんからね。だめとなると、かれらを接待するとしたら、宇宙空間か月でなければだめでしょう。そうなると当社では、扱いかねます。われわれは、成層圏より外でのサービスは、まったくおこないませんから」  ボーモンは首をふった。 「成層圏の外にはなりません。地球の表面でおこなうことが、絶対の条件となると考えていただきたいのです」 「なぜですか?」 「ジェネラル・サービス社では、依頼人がなぜ特殊なタイプのサービスを求めるのかについて、質問するのが通例ですか?」 「いいえ。失礼しました」 「いや、いいですよ。だが、どういうことをやらなければいけないのか、そしてなぜそれを秘密にする必要があるかを理解していただくためには、もっと情報が必要でしょう。近い将来、この地球で、ある会議が開催されるのです……遅くとも九十日後にです。その会議を招集するまでは、それが開催されることを絶対に外部に洩らせないのです。もしもその計画がある方面で事前に察知されると、会議を催す意義がまったく失われてしまうのです。  この会議は、太陽系における第一流の、ええと、科学者たちの円卓会議であり、去年の春、火星で開かれたアカデミーの総会と、だいたい同じような性質と規模のものと思っていただけばよろしい。あなたがたには、その代表者たちを接待する準備を一手に引き受けていただきたいのです。ただし、必要なときがくるまでは、そのような準備を進めていることを、末端のほうには知らせぬようにしておいていただきたい。その詳細については……」  クレアーはさえぎった。 「あなたはわれわれが、このご依頼を引き受けるものと決めておられるようですな。お話の様子でわかりましたが、この仕事では当社がとんでもない大失敗を犯す危険があります。ジェネラル・サービス社は失敗を好みません。あなたもご承知だし、われわれもよく知っているとおり、低重力下にある人々は、高重力のところに来ると、数時間で健康に重大な障害をおこします。惑星間会議は常に低重力の惑星で開かれるのが普通であり、将来もそうでなければいけないと思います」  ボーモンは辛抱強く答えた。 「そうです……これまでは、いつもそうでした。そのために地球と金星とは、外交上大変なハンディキャップを負わされていることを、あなたはご存知ですかな?」 「お話がよくわかりませんが」 「わかっていただく必要は、必ずしもありません。政治的駆け引きは、あなたがたとは無関係ですからな。ただそういうハンディキャップがあることを承知しておいてください。そして政府は、こんどの会議をぜひとも、この地球で開催しようと決意しているのです」 「なぜ、月《ルナ》ではいけないのですか?」  ボーモンは首をふった。 「それては、まったく状況が変わってきます。われわれが管理してはいても、ルナ・シティは条約港です。心理的にいって、同じではありません」  クレアーは首をふった。 「ボーモンさん、あなたには、このジェネラル・サービス社の性質がおわかりでないらしい。わたしに、外交上の微妙な駆け引きがよくわからないにしてもです。われわれは、奇蹟をおこなうわけではありませんし、またそんな約束もしません。われわれは単に、前世紀でのいわゆる走り使いにすぎず、ただそれがスピーディな仕事をする法人組織になっただけのことです。われわれは、昔の召使い階級が近代化したもので、決してアラジンのランプから出てくる魔神《ジン》ではありません。われわれのところには、科学的な意味での研究施設さえありません。われわれはただ、現代の発達した通信交通手段と組織をできるかぎり利用して、すでにできるとわかっていることを実施してゆくだけなのです」  かれは向う側の壁にむかって手をふった。そこには、この会社の古くからの有名な商標が浮き彫りにされていた──それは、首につけられた革紐をしゃにむに引っぱって、電柱を嗅ごうとしているスコッチ・テリアの商標だった。 「あれが、われわれのおこなっている事業の精神です。われわれは、多忙なため自分で飼犬に散歩をさせる暇のない人々に代わって、犬の散歩をさせてあげるのです。わたしの祖父は、犬の散歩を引き受けて金を稼ぎ、それで大学を出た男です。わたしは、いまも犬を散歩させています。わたしは奇蹟をおこなうお約束はできませんし、また政治に手を出そうとも思っていません」  ボーモンは、両手の指先を丁寧に合わせた。 「あなたがたは、料金を取って犬の散歩をさせる。もちろん、そうされている……わたしの家の二頭も散歩させてもらっていますからな。五ミニム・クレジットとは、ずいぶん安い料金じゃありませんか」 「そのとおりです。でも、十万頭の犬を、日に二回ずつ散歩させれば、収入の総額は大きなものとなります」 「この犬を散歩させる収入は、相当なものになりますよ」 「いかほどでしょう?」  ボーモンは、かれのほうに視線をむけた。 「クレアー社長、この結果生じてくることは、ああ……円卓会議を開催すれば、この惑星にとって文字どおり何千億クレジットもの効果を生み出すことになるのです。われわれは決して、牛の口を縛りつけて穀物を踏ませたりしませんよ。変ないいかたをして失礼ですが」 「いくらでしょう?」 「必要とした経費の三十パーセント増しでどうでしょう?」  フランシスは首をふった。 「それでは、たいした金額になりませんよ」 「よろしい、くだらない値切り方はやめましょう。では、紳士がたにおまかせして……失礼、ミス・コーメット!……この仕事にふさわしい値段を決めていただきましょう。わたしは、あなたがたのこの惑星および人類に対する忠誠心を信頼して、必ず妥当な値段を決められることと信じます」  フランシスは椅子に背をもたせかけて何もいわなかったが、満足したらしい様子だった。  クレアーはさえぎった。 「ちょっと待ってください……われわれはまだ、その仕事をお引き受けしたとはいっておりませんよ」 「もう値段の相談をしたはずですが」  と、ボーモンはいった。  クレアーは、フランシスからグレース・コーメットに視線を移し、つぎに自分の指を見つめたが、やがて答えた。 「二十四時間いただけませんか、それが可能かどうか検討してみましょう……そのあと、あなたの犬の散歩をお引き受けできるかどうかお返事することにしましょう」 「必ず引き受けていただけると思っていますよ」  と、ボーモンは答えると、ケープを肩にまとった。 「さてと、天才諸君……災難を背負いこんだのかもしれないぞ」  と、クレアーは苦々しそうにいった。 「わたくしは、以前から現場の仕事にもどりたいと思っていましたわ」  グレース・コーメットはそういい、フランシスは意見を述べた。 「すべてのことに担当者を決めよう、重力問題以外はだか……引っかかりはそこだけだ。あとはみな、決まりきった仕事だから」  クレアーはうなずいた。 「そのとおりだ……だが、それを早く何とかしておいたほうがいいぞ。それがだめだとなると、大変な費用をかけて準備したことが、結局はまったく支払いを受けられなくなる恐れがある。だれにやらせるかな? グレースはどうだ?」 「ぼくもそう思う……彼女は十まで数えられるからな」  と、フランシスかいうと、グレース・コーメットは冷やかにかれを見た。 「サンス・フランシス、あたしはときどき、あなたと結婚したのを後悔することがあるわ」  クレアーは警告した。 「家庭争議を会社に持ちこんでは困るな……いったいどこから手をつけるかだな」  フランシスはきっぱりといった。 「重力についてもっとも知識を持っている人物はだれかを、まず知ることだ。グレース、クラスウォール博士をスクリーンに呼び出してくれ」 「はい」彼女はうなずいて、立体コントロール装置のところへ歩いていった。「これがこの仕事のいいところね。自分ではなにも知らなくていい。だれに聞けばいいかということさえ知っていれば」  クラスウォール博士は、ジェネラル・サービス社の正式スタッフの一員になっていた。とりたてて決められた仕事はない。かれが安楽に暮らせるような給料を支払うほか、かれが科学出版物を購読し、学者たちがときどき開く会議に出席するための費用を無制限に引き出せる口座を与えておくだけの価値が、かれには充分にあるものと、会社は考えていた。クラスウォール博士は、科学の研究者として、何かひとつのことに打ちこんでいく性質には欠けていた。かれは生まれついての学術愛好家《ディレッタント》だった。  会社はときどきかれに質問した。それで充分採算が取れるのだ。  クラスウォール博士の優しそうな顔が、スクリーンから彼女に微笑みかけた。 「やあ、きみか! 聞いてくれ……最新号のネイチャーに実に面白いことが出ている。こいつはブラウンリー理論の間接証明になるもので……」  彼女はさえぎった。 「ちょっと待ってください、博士……あたし、急いでますの」 「何だね、マイ・ディア?」 「重力について、いちばんよく知っているのはだれでしょう?」 「どんな形でのことをいっているんだね? 天体物理学者に用があるのか、それとも理論力学の立場から問題を扱いたいのか? 初めのほうならファーカソンが第一人者だと思う」 「何が重力を働かせているのかを知りたいのです」 「場の理論だな? それなら、ファーカソンではだめだ。かれはもともとが図形弾道学者だからね。きみのいう問題なら、ジュリアン博士の業績が、まず決定的に権威あるものだ」 「どこへ行けば、その方に会えるでしょう?」 「会えないね。かれは去年死んだよ、気の毒に。大きな損失だ」  グレースは、それがどれほど大きな損失かをいおうとしたが、それをやめて尋ねた。 「では、いまかれの靴をはいているのはだれでしょう?」 「だれがどうしたって? ああ、きみは洒落をいっているのか! わかった。現在における場の理論の第一人者の名前を知りたいんだね? まず、オニールだろうな」 「どこにいるのでしょう?」 「調べなければわからないね。わたしもかれのことは、すこししか知らん……気むずかしい男だよ」 「どうぞお願いします。それまでに、そういうことであたしたちにすこし教えてくれる人はいないでしょうか?」 「会社の技術部にいる、あの若いカーソンに頼んでみたらどうなんだ? うちに入る前には、そういう問題に興味を持っていた男だからね。頭のいい青年だ……わたしはかれと面白い話をしたことが何度もあるよ」 「そうします。ありがとうございました、博士。オニールの住所がわかったらすぐ、社長に連絡してください。大至急です」  彼女はスイッチを切った。  カーソンはクラスウォールの意見に同意したが、疑わしそうな顔つきだった。 「オニールは、傲慢で協調性に乏しい人です。ぼくはかれの下で仕事をしたことがあるんです。でもかれは確かに、現在生きている他のだれよりも、場の理論と宇宙構造論のことをたくさん知っています」  カーソンは首脳部に招かれて、現在の問題を説明されたのだ。そしてかれも、解決の方法がわからないことを認めた。  クレアーはいった。 「われわれは、この問題を難しく考えすぎているんじゃあないかな……わたしにすこし考えがある。カーソン、もしわたしが間違っていたら、指摘してくれ」 「話してください、チーフ」 「ああ、重力加速度は、ある一つの質量が近づくことによって生じる……そうだね? 地球の重力は、地球が近くにあるから生じている。では、地球の表面のある地点に、非常に大きな質量の物体をおいたら、その結果はどうなるだろう? その物体が、地球の引力を相殺する作用をしないだろうか?」 「理論的にいえば、確かにそうです。だがその物体の質量は、途方もなく大きなものでなければいけないことになります」 「どんなに大きくてもいいんだ」 「チーフ、あなたはおわかりになっていません。ある地点における地球の引力を相殺するためには、この地球と同じ大きさの他の惑星を、その地点で地球と接触させなければいけないことになります。もちろんあなたの目的は、地球の引力を完全に消し去ろうというのではなく、それを少なくしようというだけですから、もっと小さな質量の物体を用いて、それの重心からその問題の地点までの距離が、地球の重心から問題の地点までの距離よりも短くなるようにすれば、ある程度目的を達することができるかもしれません。  しかしそれでも、まだ充分とはいえませんね。引力というものは距離……この場合は、この物体の半径ですが……その二乗に反比例して大きくなるものですが、また、質量とそれによって生じる引力とは、直径の三乗に正比例して小さくなるのです」 「すると、どういうことになるんだ?」  カーソンは計算尺を出して、しばらく計算した。やがて、かれは顔を上げた。 「お答えするのも気がひけます。どうしても結果を出したいとなったら、かなり大きな小惑星が要りますね。鉛のものが」 「小惑星なら、前にも動かされたことがある」 「ええ、しかしそれを持ち上げておくのに何を使いますか? だめですな、チーフ。大きめの小惑星を地球表面のある地点の上にさし上げて、その位置を保たせようとしても、それに用いる動力源とそれを実際に使える手段など、とうてい考えられないことです」 「そうか、思いつきとしては良かったがなあ」  といって、クレアーは考えこんだ。  グレースのなめらかな額には、その討論を聞いているうちに皺がより始め、そこで口をさしはさんだ。 「お話を聞いていると、非常に重い小さな物体を使えば効果的らしく思えますわね。どこかで読んだことがあるんだけれど、一立方インチの大きさで何トンもの重さのある物質があるそうですわね」  カーソンはいった。 「矯星の芯《コア》がそうです……だがそれを手に入れるには、数日間で数光年の距離を飛べる宇宙船とその星の内部を採掘する装置と、新しい時空間理論が必要となるでしょうね」 「よくわかった。それはやめだ」  フランシスはいった。 「ちょっと待ってくれ……磁力は重力と非常に似ているんじゃあないのかい?」 「まあ……そうです」 「重力の小さな惑星からやってくる連中を磁化する方法はないのかな? かれらの肉体の化学作用は、どこか変なものじゃあないのか?」  カーソンは賛成した。 「それはいい考えですね……しかし、かれらの肉体の代謝作用がいくら変だとしても、それほどまでに異常なわけはありません。かれらはそれでも有機体ですからね」 「そうは思わないね。豚に羽根が生えたら、それは鳩さ」  そのとき、立体表示器《ステレオ・アナンシェーター》が明滅した。そしてクラスウォール博士が、オニールはウイスコンシン州ポーテイジの別荘にいると知らせてきた。かれをスクリーンに出すのはひかえたし、社長がどうしてもというのでなければ、なるべく呼び出さないほうがよかろうといった。  クレアーはかれに礼をいってから、みんなのほうに向きなおって、いった。 「われわれは時間を無駄にしているぞ……何年もこの仕事をやっているからよくわかっているはずだ、われわれが技術的問題を決定しようとなどするべきじゃあない。わたしは物理学者ではないし、重力がどう作用しようと知ったことではない。それはオニールのやることだ。そしてカーソンの仕事だ。カーソン、すぐウイスコンシンへ行って、オニールにこの仕事をやらせろ」 「わたしがですか?」 「きみだ。この仕事はきみの担当だ……それに見合う報酬を出す。すぐ空港へ飛べ……そこにロケットとクレジットのファクシミリが、きみを待っている。六、七分以内に離陸できるはずだ」  カーソンは目をしばたたいた。 「ここでのぼくの仕事はどうなります?」 「技術部に話しておく。経理部にもだ。さあ行け」  何もいわず、カーソンはドアに向かった。そこに着くまでに、かれは走りだしていた。  カーソンが出かけたあと、かれが報告してくるまで、かれらにはすることがなかった──といっても、他の三つの惑星と四つの主要な衛星における物理的かつ文化的な詳細を、各天体それぞれの表面における特有の重力加速度の点だけを除いて再現する仕事にとりかかった。  こんどの仕事は、目新しくはあるが、決して本当に困難なものではない──ジェネラル・サービス社にとっては。それらの問題に対するすべての解答を知っている人物は、どこかにいるはずだ。そしてジェネラル・サービス社という融通のきく大組織は、そんな人物を探し出し、雇い入れ、そして働かせることができるような体制になっていた。無制限交換手とカタログ係の大部分は、そのような仕事を興奮もせず、あわてずに処理できるのだ。  フランシスは無制限交換手のひとりを呼び出した。かれはだれかを特に選びはせず、ちょうどうまく交換台があいていた係員を呼んだ──かれらはすべてが、できます!≠ニ答えられる社員ばかりだったのだ。フランシスは、かれにこの仕事を詳細に説明して聞かせると、すぐにそれを忘れてしまった。仕事は必ず、時間までにおこなわれるのだ。パンチ・カード・マシンが今までよりすこし高い音で鳴り、立体スクリーンが輝き、地球上のあらゆる地域にいる優秀な若者たちが、いまやっている仕事をやめて、実際の仕事をおこなう専門家を探し出すのだ。  かれがクレアーのほうへ向きなおると、相手はいった。 「ボーモンという男は、いったい何をやろうとしているんだろう? 科学者の会議だなどといっていたが……臭いぞ!」 「ジェイ、あんたは政治に興味を持っていないとばかり思っていたがね」 「興味ないね。惑星間の問題だろうが何だろうが、この商売に関係がないかぎり、政治には全然かかわりたくない。だが、何が計画されているのかを知っておれば、われわれはもっと大きな儲けを生み出せると思うよ」  グレースは口をはさんだ。 「あの……こう考えていいんじゃないかしら、すべての惑星の重量級《ヘビー・ウエイト》が集まって、ガリアを三つに分割しようとしているんでしょうよ」 「そうだ、しかしそれで儲けるのはどこだろう?」 「たぶん、火星でしょうね」 「そういうことだろうな。金星のやつには、骨を一本投げてやるんだろう。そうだとすると、全木星貿易会社で、ちょっと投機をやっておくといいな」  フランシスは警告した。 「おいおい……そんなことをしたら、世間がすぐに気づいてしまうよ。これは極秘の仕事なんだぜ」 「きみのいうとおりだろうな。それでも、目を大きく開いておいてくれよ。この仕事が終わるまでに、パイの一切れをせしめる方法が何かあるはずだ」  グレース・コーメットの電話が鳴った。彼女はそれをポケットから出して答えた。 「はい?」 「ミセス・ホグバイン・ジョンソンという人が、あなたと話したいといってるの」 「あなたにまかせるわ。あたしは交換台から離れているのよ」 「彼女、あなたじゃないと話をしないというのよ」 「わかったわ。彼女をチーフの立体スクリーンに出してちょうだい。でも、あなたもスイッチをいれたままにしておいてね。あたしが話したあとは、あなたにまかせるから」  スクリーンが輝きはじめ、そのまん中にミセス・ジョンソンの肉づきのいい顔だけが、平面像で現われた。その顔がうめくような声でいった。 「おお、ミス・コーメット、だれかが大変な失敗をしましたね。このロケットには立体映像がないんですよ」 「シンシナティで取りつけさせます。それまで二十分ほどですわ」 「確かですか?」 「必ずそういたします」 「ほんとにありがとう! あたしはあなたと話していると、ほんとに安心するの。実はね、あなたに、あたしの社交秘書になってもらおうかと思っているんですよ」  グレースは無表情に答えた。 「ありがとうございます。でも、わたくしは、この会社と契約しておりますので」 「なんて馬鹿げた退屈なことを! そんなの破ればいいんですよ」 「いいえ、残念ですが、ミセス・ジョンソン。さようなら」  彼女はスクリーンのスイッチを切り、また電話にむかって話した。 「経理にいって、彼女の料金を倍にさせてちょうだい。それから、あたしはもう彼女とは話さないから、そのつもりでね」彼女は電話を切ると、その小さな道具を荒々しくポケットにつっこんだ。「社交秘書ですって!」  夕食がすみ、クレアーが住まいにしているアパートメントに引きとったあとになって、やっとカーソンから連絡があった。フランシスはそれを、かれのオフィスで受けた。 「うまくいったか?」  と、かれはカーソンの映像が現われると、すぐに聞いた。 「だいぶうまくいきました。ぼくはオニールに会いました」 「それで? かれはやってくれるか?」 「それは、かれにこの仕事ができるか、という意味ですね?」 「そう……かれには、できるのか?」 「それが妙なところなんです……理論的に不可能じゃないかと、ぼくは考えていました。ところが、かれと話しあってみると、できると確信するようになりました。オニールは、場の理論に新しい見通しを持っています……かれが、一度も公表していない理論です。あの人は天才ですね」  フランシスはいった。 「かれが天才だろうと、馬鹿な蒙古人だろうと、そんなことはどうでもいい……かれは、重力を軽減するようなしろものを作れるのか?」 「作れるとぼくは信じます。必ず作れると、ぼくは信じています」 「結構。きみはかれを雇ったか?」 「いいえ。そこで引っかかってしまいました。だからいま、あなたに連絡しているんです。こんな具合なんです。ぼくはうまく、かれの上機嫌のときにぶつかりました。そして、ぼくは以前かれと一緒に仕事をしたことがあるし、ほかの助手たちほどかれの気にさわるようなことをしていなかったので、夕食をつき合えといってくれました。ぼくらはいろいろと話しあい……かれをせかすことはできないんです……それからぼくは、こんどの提案を持ち出しました。かれはすこし興味を持ったようでした……その着想に対してであって、提案にではありませんよ……それからかれは、ぼくとその理論を議論しはじめました。ぼくに説いたというほうが正しいでしょうね。でも、それを実際の仕事としてはやらないというんです」 「どうしてだ? きみは充分な報酬を提供しなかったのだろう。ぼくがかれに交渉したほうがよさそうだな」 「だめですよ。フランシスさん、だめです。あなたは、おわかりになっていない。かれは金に興味をもっていないんです。働かなくてもやっていけるほどの財産があるんです。自分の研究や何だろうとしたいことに必要とする以上の金を持っているんです。そしていまのところは、波動力学理論の研究に忙しく、ほかのことで邪魔されるのを極度に嫌っているのです」 「きみは、こんどの仕事がいかに重大なものかを、かれに理解させたのか?」 「イエスでもあり、ノーでもあります。まあ、大体がノーですね。なんとかして理解させようとしたんですが、いま自分が望んでいるもの以外、かれにとって何ひとつ重要なものはないらしいんです。これはいわば、知識人にとっての紳士気取りにあたるんでしょうか。自分以外の者のことなど、まったく関心がありません」  フランシスはいった。 「わかった……これまでのところ、きみはよくやってくれた。このあとは、次のようにやってくれ。ぼくがスイッチを切ったらすぐ業務部を呼び出し、かれが重力理論についてしゃべったことで思い出せることを何もかも文書化させろ。ぼくらはかれに次ぐ権威者を雇い、その文書化したものを与え、何か実行に移せるアイデアを得られないかどうか試してみることにする。そのあいだに、調査班を作り、オニール博士の背景を調べさせよう。かれだって、どこかに何かの弱点があるはずだ。問題はそれを発見することだけだ。ひょっとすると、どこかに女を囲っているかもしれないし……」 「そんな年齢はとっくに過ぎていますよ」 「……あるいは、どこかに私生児を隠しているかもしれん。調べてみよう。きみはそのままポーテイジに滞在してくれ。かれを雇うことはできないとしても、きみを雇うように仕向けることはできるかもしれん。きみはぼくらのパイプラインだ。それを、いつでも通じるようにしておきたい。ぼくらは、かれが欲しいと思っているもの、あるいはかれが恐れているものを、何でもいいから見つけなければいけないんだ」 「かれは、いかなるものも恐れていません。それは確実です」 「では、何かを欲しがっているだろう。金や女でなければ、ほかの何かだ。それが自然の法則だよ」  カーソンはゆっくりと答えた。 「怪しいものですね……そうだ! ぼくはあなたに、かれの趣味のことを話しましたか?」 「いや。それは何だ?」 「陶磁器です。ことに、明朝《みんちょう》の陶磁器です。かれは、世界でも最高のコレクションを持っています。だが、かれが欲しがっているものを、ぼくは知っています」 「そうか、それを早くいえ、いうんだ。もったいぶるな」 「小さな磁器の皿です……鉢というのかな、直径四インチに高さ二インチほどのもので、中国語の名前がついています。忘却の花≠チて意味の言葉です」 「ふーん……たいしたものではなさそうだが。きみは、かれがそれをひどく欲しがっていると思うんだな?」 「そうだとわかっているんです。かれは、その立体写真を書斎において、いつでもそれを眺めています。しかしその話をすると、かれの心を傷つけますよ」 「その品物を、いまだれが所有しており、どこにあるのか調べよう」 「ぼくは知っていますよ。大英博物館です。だから、かれはそれを買えないんです」  フランシスは考えこんだ。 「そうか……よし、そのことは忘れろ。仕事を進めてくれ」  クレアーがフランシスの事務室に下りてきて、三人はそのことを話しあった。その報告を聞くとクレアーはいった。 「これにはボーモンが必要になってくるな……大英博物館の品物を持ち出すには、政府の力が要るだろう」フランシスは気むずかしい顔になった。「それで……きみはなにを心配しているんだ? どこかまずいところがあるかい?」  グレースが答えた。 「ええ……大英帝国が、惑星連盟に加入したときの条約を覚えていらっしゃるでしょう?」 「わたしは、歴史がまったく苦手でね」 「こういうことなんです。たとえ惑星連盟政府でも、英国議会の承認を得なければ、大英博物館の品物には手をつけられないんじゃあないでしょうか?」 「そんなことはないだろう。条約があろうがなかろうが、惑星連盟政府は最高主権者だ。ブラジル事変のときに決定されたことだ」 「それはそうですわ。でもそうすれば、下院で必ず質問が出るに決まっています。それは、ボーモンがどんなことをしても避けたがっていることにつながります……世間に知れわたることに」 「わかった。それで、きみはどうすればいいと思っているんだ?」 「あたしの考えでは、あたしとサンスが二人でそっとイギリスへ行き、忘却の花≠ェどれほどしっかりと台座に釘づけされているか……そして、その釘づけをしたのはだれなのか、またその男の弱点は何か、ということを見つけるのがいいと思いますわ」  クレアーの目は、彼女からフランシスへと移った。かれは、最愛の妻と同意見だということを示す無表情さで、じっと前方を見つめていた。  クレアーはうなずいた。 「オーケイ……思いどおりにやってくれ。特別ロケット機を出すか?」 「いいえ。ニューヨークを真夜中に出発するには、まだ時間がありますわ。バイバイ」 「バイ。明日、電話してくれ」  あくる日、グレースが社長をスクリーンに呼び出すと、かれは顔を見るなりさけんだ。 「驚いたな、きみ! 髪をどうしたんだ?」  彼女は手短に説明した。 「その男を見つけました。弱点は金髪娘でした」 「きみは、皮膚まで色を抜いたのか?」 「もちろんよ。お気に召しまして?」 「実に素晴らしいが……わたしは、これまでのきみのほうがいいな。だがサンスはどう思うかな?」 「かれは何とも思いませんわ……仕事ですもの。チーフ、問題の件については、あまり報告することはありません。これは、いかがわしい手を使わなければいけなくなります。普通の方法でやろうとすれば、地震でもおこさないかぎり、あの墓場からは何ひとつ持ち出せるものではありませんもの」 「取り返しのつかないようなことはしてくれるなよ」 「あたしをご存知でしょう、チーフ。決してあなたにご迷惑のかかるようなことはしません。でも、これは高価なものにつきますよ」 「もちろんだ」 「では、いまはこれだけです。また明日、スクリーンでお目にかかりますわ」  あくる日、彼女はまたブルネットにもどっていた。クレアーは尋ねた。 「どうしたんだ? 仮装しているのかい?」 「かれが弱い金髪娘は、あたしのタイプじゃなかったんです。でも、かれの好みに合った金髪娘を見つけました」 「役に立ったかい?」 「役に立つと思いますわ。サンスはいま、ファクシミリを作らせています。うまくいけば、明日お目にかかれます」  ふたりはあくる日、姿を現わした。見たところ、手ぶらで来た様子だった。  フランシスはいった。 「ジェイ、部屋を締めきったほうがいい。それから話そう」  クレアーは、干渉シールドを動かすスイッチをおした。かれのオフィスはすぐ、棺の中よりももっと秘密を保てるところとなった。かれはうながした。 「どうなった? 手に入れたか?」 「かれに見せるんだな、グレース」  グレースは後ろをむいて、しばらく衣装をさぐっていたが、やがてこちらに向きなおり、それをそっと社長のデスクに置いた。  それは、美しいなどというものではなかった──美そのものだった。その微妙で単純な曲線には何の装飾もついていない。装飾などつけたら、その美しさを汚してしまっていたろう。それを目にした三人は、声をひそめて話した。物音を立てたら、それはこなごなに砕けてしまいそうに思われた。  クレアーは手を伸ばしてさわろうとしたが、思いなおして手を引っこめ、かがみこんで、それを見つめた。不思議にも目の焦点が合わない──その鉢の底を見つけようとしても、見つからなかった。かれの視力は鉢の中へ深く深く吸いこまれ、光の中に溺れてしまうのではないかとさえ思われた。  かれは顔をぐいと上げ、目をしばたたかせて、ささやいた。 「たいしたもんだ……わたしは、こんなものが存在していることすら知らなかった」  かれはグレースを見たが、目をそらせてフランシスを見た。フランシスは目に涙をためていたが、自分のほうもぼんやりしていたのかもしれない。  フランシスはいった。 「チーフ……ねえ、これをうちのものにして、こんどの仕事をぜんぶ断ってしまっては?」  フランシスは疲れた口調でいった。 「このことばかり話していても仕方がないな……ぼくらがこれを持っていることはできないよ、チーフ。ぼくはあんなことをいいだすべきじゃあなかったんだ。あんたも、ぼくに耳を貸すべきじゃあなかった。オニールをスクリーンに呼び出すことにしよう」 「こいつの処分を決める前に、もう一日待ってみるのはどうだ」  と、クレアーは思い切っていい、また忘却の花≠フほうに視線をむけた。  グレースは首をふった。 「いけませんわ。明日になれば、手放すのがもっと辛くなりますもの。あたしには、ちゃんとわかります」  彼女はきっぱりとした態度で立体スクリーンのほうへ歩いていき、その操作盤にさわった。  オニールは騒がしく邪魔されたことに腹を立て、ついで通信できないように切っておいたスクリーンに対して緊急信号を用いたことに、もっと腹を立て、鋭い声でいった。 「どういうつもりだ? 公職についてもいない一般市民が、通信を切っているのに、わざわざ騒がしく呼び出すとは? 理由をいえ……ましな理由のほうがいいぞ、さもなければ、わしはおまえたちを訴えるからな!」 「われわれのために、ちょっとした仕事をしていただきたいのです、博士」  と、クレアーは落ち着いた声でいいだした。  オニールは、腹を立てるよりも、驚きが先にたったようだった。 「何だと? きみはそこにつっ立って、わしのプライバシーを侵害し、そしてわしにきみのために働けと頼むのか?」 「報酬はあなたが満足されるものになります」  オニールは答える前に十まで数を勘定しているようだった。かれは慎重にいい始めた。 「きみ……世間には、どんなものでも、どんな人間でも、金で買えると考えている連中がいるらしいな。そういうのが、その信念のままどうこうするのは勝手だ。だが、わしは売り物ではないぞ。きみはそういう連中のひとりらしいから、この会見をきみにとって高くつくものにしてやろう。いずれわしの弁護士から通知がいくだろう。おやすみ!」  クレアーは勢いこんでいった。 「ちょっと待ってください、あなたは陶磁器に興味をお持ちだと思いますが……」 「そうならどうした?」 「かれに見せたまえ、グレース」  グレースは忘却の花″を、うやうやしく捧げもって、スクリーンの前にさし出した。  オニールは何もいわなかった。かれは前にかがみこんで、見つめた。かれはスクリーンを突き抜けてよじ登ってきそうだった。そして、やっといった。 「きみは、それをどこで手に入れた」 「どこでもいいでしょう」 「それを買おう……きみのいい値で」 「これは売り物ではありません。しかし、あなたにさしあげてもいい……ただし、あなたとわたしのあいだで、ある協定がまとまればです」  オニールはかれを見つめた。 「それは盗品だ」 「それはあなたの思い違いです。それに、そんなことをいわれて喜ぶ者はいないでしょうな。ところで、その仕事のことですが……」  オニールは、その鉢から目を離した。 「このわしに、何をしろというのだ?」  クレアーは、こんどの問題を話した。聞き終わると、オニールは首をふって、いった。 「そんな馬鹿なことができるものか」 「われわれは、ある理由から、それが理論的に可能だと感じています」 「ああ、そうだろう! 永久に生き続けることさえ、理論的には可能だ。だがまだ、それに成功したものはだれもいないぞ」 「われわれは、あなたなら、この仕事ができると思っています」 「おだててもむだだ。おい!」オニールは、人さし指をスクリーンからつき出した。「あのカーソンという若造をわしのところへよこしたのは、きみだな!」 「かれはわたしの命令で動いています」 「どうも、きみのやりかたは気にくわんな」 「この仕事をやっていただけませんか? そして、これというのは?」  クレアーは鉢を指さした。  オニールはそれを見つめ、唇を噛み、やがていった。 「ではもし……わしが正直に取り組み、わしの全力をつくし、きみの求めるものを与えようとして……失敗したとしたら?」  クレアーはくびをふった。 「われわれは、結果に対してのみ支払います。ああ、あなたの給料はもちろんですが、これは違います。これは、あなたが成功した場合のボーナスとするものです」  オニールはいまにも承知しそうに見えたが、とつぜんいった。 「きみは、カラー立体写真でわしをごまかしているのかもしれん。このいまいましいスクリーンごしではわからんな」  クレアーは肩をすくめた。 「では、見に来られたらいかがです?」 「そうしよう。そうするとも。そこから動かずにいてくれ。きみはどこにいるんだ? きみの名前は、何というんだ?」  二時間後、かれは嵐のように飛びこんできた。 「わしを騙したな! 花≠ヘまだイギリスにあるぞ。わしは調べたんだ。わしは……わしは、この両手で、きみを制裁してやるからな!」 「自分でとっくり、見てみることです」  クレアーは一歩わきへ動き、オニールがかれのデスクの上を見るのに、自分の体が邪魔にならないようにした。  かれらは、オニールに見させておいた。かれが静かに見ていたい気持ちを察して、そっとしておいた。長い時間がたってから、かれはみんなのほうに向きなおったが、何もいわなかった。 「いかがです?」  と、クレアーは聞いた。  かれは、かすれ声で答えた。 「わしは、きみの、そのいまいましい機械を作ろう……ここへ来る途中、どうアプローチするかを考えついたんだ」  その会議の第一回会合が開催される前日に、ボーモン自身がやってきた。 「ただの社交的訪問です、クレアーさん……あなたがたがやってくださったことに対して、わたしは個人的に心からお礼を申し上げたいと思って、やってまいりました。そして、これをお渡しするためにも」  これというのは、取り決めてあった料金にあたる中央銀行の小切手だった。クレアーはそれを受け取ると、ちらりと見てうなずき、デスクの上においた。 「すると……政府は、われわれのおこなったサービスに満足されたわけですね」  ボーモンはきっぱりといった。 「それは、控え目なおっしゃりかたです……まったくのところ、わたしはあなたがたが、これほどのことをされるとは思ってもいませんでした。カリストの代表たちはいま、あなたの会社が用意された小さなタンクに乗り、見物してまわっています。かれらは大喜びですよ。これは秘密ですが、わたしはこんどの会議で、かれらがわれわれに有利な投票をしてくれるのを、充分期待できるものと思っています」 「重力シールドは、うまく作用しているんですね?」 「完全です。わたしは、かれらに引き渡す前に、観光用タンクの中に入ってみました。まるで自分の体が、童話にでも出てくる羽根のような軽さになりましたよ。あまり軽いので……危なく宇宙酔いになりそうでした」かれは微かに苦笑した。「それから、木星人用アパートにも入ってみました。これはまた、ぜんぜん逆でした」  クレアーはうなずいた。 「いつもの体重の二倍半になったのでは、どうしてもおしつぶされそうな感じでしょうからね」 「難しい仕事の幸福な終わりかたですよ。わたしはもう、失礼しなければいけません。ああ、それからひとつ小さなことを……わたしはオニール博士と、かれの新しい発見をほかのことで使う件で政府が興味を持つかもしれない可能性について、話しあいました。簡単にいうと、ジェネラル・サービス社から、オニール効果に関する権利をわたしに譲渡していただくのが望ましいのですが」  クレアーは考えこみ、『嘆きの仏陀』を見つめながら親指を噛んだ。そして、ゆっくりといった。 「ノー……残念ですが、それは難しいですね」  ボーモンは尋ねた。 「なぜです? そうしてもらえれば、法廷での裁断とか、それに付随する時間の浪費を避けることができます。わたしたちは、あなたがたのサービスは認めていますし、充分な補償をする用意があるのです」 「はあ……あなたはまだ、事態を充分理解しておられないと思いますよ、ボーモンさん。われわれがオニール博士と取り交わした契約と、あなたがわれわれと交わされた契約とのあいだには、ある程度の開きがあるのです。あなたはわれわれにある種のサービスと、そのサービスを成しとげるために必要な動産を求めました。そしてわれわれはそれを提供しました……料金をいただいてです。すべてがうまく解決しました。  しかし、われわれとオニール博士との契約によって、かれはわれわれに雇われていたあいだ、専従社員となっていたのです。かれがおこなった研究の結果と、それを具体化させるための特許権は、ジェネラル・サービス社に所有権があります」  ボーモンはいった。 「そうでしょうか? オニール博士は、そうは思っていませんよ」 「オニール博士は間違っています。まじめな話ですが、ボーモンさん……たとえばあなたが、|ぶよ《ヽヽ》を殺すために攻城砲を作ることをわれわれに依頼されたとします。それを一発発射しただけで、商売人たるわれわれが、その攻城砲を捨ててしまうとお考えですか?」 「いいや、そんなことはされないでしょうな。あなたは、どうされるおつもりです?」 「われわれは、商業的に重力調整機を開発しようと思っています。それにすこし手を加えれば、火星でずいぶん高く売れると考えられます」 「なるほど、そのとおりでしょう。だが、失礼ながら率直にいうとですな、クレアーさん、それは残念ながら不可能ですよ。強制力を持つ公共方針として、この装置は地球上のみに使用を限定すべきです。実のところ、政府はこの問題に干渉し、それを政府の独占物とすることが必要と見るでしょうな」 「あなたは、オニール博士を静かにさせておく方法を考えられましたか?」 「事情が変わるかもしれないと思ったので、まだ別に考えていません。あなたは、どうお考えで?」 「会社を作ることです。そして、かれに会社の株を持たせて社長とします。うちにいる有能な若い社員を取締役会会長にします」かれはカーソンを考えていた。「そして、株もだいぶ出まわることになるんです」  かれはそうつけ加えて、ボーモンの顔色をうかがった。  ボーモンはその餌を無視した。 「そして、その会社は、政府と契約を結び……政府を独占的顧客とするのですか?」 「そういうことです」 「ふーん……それならうまく行きそうだ。わたしは、オニール博士と相談したほうがいいでしょうな」 「どうぞどうぞ」  ボーモンはオニールをスクリーンに呼び出して、低い声で相談した。正しくいうと、ボーモンの声は低かったが、オニールはマイクロフォンが壊れそうな大声だった。  クレアーは、フランシスとグレースを呼び、これまでのいきさつを説明した。  ボーモンはスクリーンからふりむいた。 「博士があなたと話したいといっていますよ、クレアーさん」  オニールは冷やかにかれを見た。 「わしはなぜ、こんなたわごとを聞かされなければいかんのだ? オニール効果は、あんたの財産だというのは、何のことです?」 「博士、あなたとの契約書にそう書いてありますよ。覚えていないのですか?」 「契約書だと! わしは、そんなくだらんものを読んだことなど一度もない。だが、はっきりいっておく。きみを法廷に引きずり出すぞ。わしをそんなふうに馬鹿扱いするなら、きみをぐるぐる巻きにふん縛ってくれる」  クレアーはなだめた。 「ちょっと待ってください……われわれは決して、法律手続きにすぎないことに便乗しようとなどとは思っていませんし、あなたの権利をとやかくいう者もいません。わたしが考えていることの概略を説明させてください……」  かれは手早く計画を話した。オニールは黙って聞いていたが、その結論を聞かされても、かれは依然として表情をやわらげず、ぶっきらぼうにいった。 「そんなことに興味はない……わしとしては、それはみな政府に渡してしまうべきものだ。わしは、そうさせる」 「これについては、まだひとつ別の条件があります」 「いうだけむだだ」 「ぜひとも、いわなければいけません。これは紳士協定にしかなりませんが、非常に重要なものです。あなたは忘却の花≠管理しておられますね」  オニールは急に用心深い表情になった。 「管理とはどういう意味だ。あれはわしが所有している。いいか……わしが所有しているんだぞ」  クレアーは同じ言葉をくりかえした。 「所有しておられますね……それでも、あの契約についてわれわれが譲歩する代わりに、ひとつだけわたしの希望を受け入れてください」 「それは何かね?」  と、オニールは聞いた。鉢のことをいいだされて、かれの自信はすこしぐらついたのだ。 「あなたはあれを所有し、ずっと手元においておかれるわけです。だが、ひとつ約束していただきたいことがあります。それは、わたしと、フランシスと、ミス・コーメットとは、ときどきいつなんどきでも、あれを見に行ってもいいということにしてくれませんか?」  オニールは信じられないといった表情になった。 「あんたがたは、ただあれを見るだけのために、ここに来たいというのか?」 「それだけです」 「見て楽しむだけに?」 「そのとおりです」  オニールは初めて、感心したようにかれの顔を見た。 「わしはこれまであんたを理解していなかった、クレアーさん。謝罪します。会社とか何とかの馬鹿げたことは……あんたの好きなようにやってください。わしはどうだってかまわん。あんたとフランシスさんとミス・コーメットは、いつでも好きなときに花≠見に来られて結構ですとも。約束します」 「ありがとう、オニール博士……みんなに代わってお礼をいいます」  かれは失礼にならない程度に、できるだけ早くスイッチを切った。  ボーモンは、以前にもまして感服したようにクレアーを眺めていた。 「この次からは、あなたがたが細かい点を処理されるのに、わたしは無用な干渉などしないことにしましょう。では、失礼します、みなさん……ミス・コーメット」  かれが出ていき、ドアがするする下りて閉まると、グレースはいった。 「これですっかり片づいたようですわね」  クレアーは答えた。 「そうだ……われわれはかれに代わって、かれの犬を散歩させてやった≠けだ。オニールは欲しがっていたものを手に入れ、ボーモンも望みがかなったし、それ以外のものも手に入れた」 「かれは、いったい何を求めているんでょう?」 「わからない。だが、太陽系連盟の初代総裁になりたいといったことじゃあないのかな。もし、そういうものがいつかできたときの場合にはだがね。われわれがかれの膝の上に置いてやった切札があるんだから、かれはそれをやりとげるかもしれない。きみはオニール効果の潜在的な力がわかっているかい?」  フランシスは答えた。 「漠然とはね」 「宇宙を航行するのに、あれがどれほど役立つか考えてみたか? また、他の惑星に植民するときに、どれほど多くのことが可能になるか考えてみたことがあるかい? それに、遊びの面での用途も? あれだけでも、莫大な財産が作れるのだ」 「それでぼくらは、何を手に入れるんだ?」 「何を手に入れるって? そりゃあ、金に決まっているよ、きみ。金がざくざく入ってくる。人が欲しがるものを提供すれば、必ず金が入ってくるのだ」  かれは、スコッチ・テリアの商標をちらりと見上げた。  フランシスはいった。 「金か……ああ、そのとおりだな」  グレースは、それにつけ加えた。 「とにかく……あたしたち、好きなときに、花≠見に行けるのよ」 [#改ページ] サーチライト 「彼女には、きみの声が聞こえるのか?」 「もし彼女が、月のこちらの面におればです。彼女が、船から外に出られて、しかも彼女の宇宙服の通信装置が壊れていなければ……彼女がそれのスイッチを入れておればです。もし彼女が生きているならです。船は沈黙しており、レーダー・ビーコンもつきとめられていませんから、彼女もしくはパイロットが生き残っているとは思われません」 「彼女を見つけなければいけないんだ! 待機しろ、宇宙ステーション。ティコ基地、答えろ」  返事は三秒ほど遅れた。ワシントンから月へ、そしてまたもどるのに。 「月基地、司令官」 「将軍、月にいる全員をベッティの捜索に出せ!」  光速による遅れが、答える声をいやいや話している感じにした。 「閣下、月がどれほど大きいかご存知でしょうか?」 「そんなことはどうでもいい! ベッティ・バーネスは、そこのどこかにいるんだ……だから、彼女が見つかるまで、全員で捜索しろ。もし彼女が死んでおれば、きみの貴重なパイロットも死んでいたほうがよくなるんだぞ!」 「閣下、月はほぼ千五百万平方マイルあります。わたしの握っている部下全員を使っても、各自が千平方マイル以上を捜索しなければいけないことになります。わたしはベッティに、最高のパイロットをつけました。そのかれが答えられないときに、こういったおどしには耳を貸しません。だれからもです、閣下! 月の条件を知らない連中にどうしろこうしろといわれることには、いやけがさしているのです。わたしの忠告は……わたしの公式助言はです、閣下……子午線ステーションに試みさせることです。かれらは奇蹟をおこせるかもしれません」  答えは、ただきつけるように返ってきた。 「よろしい、将軍! のちほどきみと話そう。子午線ステーション! きみたちの計画を報告しろ」  エリザベス・バーネス、天才少女ピアニスト盲目のベッティ≠ヘ、月で前線基地の慰問演奏旅行をおこなっていた。彼女はティコ基地で聴衆を驚嘆させ、それからジープ・ロケットでファーサイド軍用基地《ハードベース》に飛び、月の裏側に淋しく暮らしているわれらのミサイルマンたちを慰めようとした。彼女は一時間以内にそこに着くはずだった。彼女のパイロットは、安全パイロットだった。そういった船は、毎日ティコとファーサイドのあいだを、無人操縦で往復しているのだ。  離陸したあと、彼女の船はそのプログラミングからはずれ、ティコのレーダーからも消え失せた。それは……どこかにいるのだ。  宇宙にではない。そうであれば、助けを無線で求めたことだろうし、そのレーダー・ビーコンは他の船、宇宙ステーション、地上基地から見つけられたはずだ。その船は墜落したのだ──あるいは緊急着陸をしたのだ──広大な月のどこかに。 「こちら、子午線宇宙ステーションの所長です……」  遅れは気がつかないほどのものだった。ワシントンと二万二千三百マイルしか離れていない上空のステーションのあいだを電波は、ほんの四分の一秒ではねかえってくるのだ。 「われわれは地球側ステーションをつなぎ、こちらの呼びかけで月を覆うことにしました。地球と月とわれわれから見て安定した位置にあるニュートン・ステーションからの放送で、反対側を覆います。ティコから出た数隻の船が月のへりの軌道をまわります……そのへりの地帯は、われわれからとニュートンからの電波の蔭になっているのです。もしわれわれに聞こえたら……」 「わかった! レーダーによる捜索はどうなんだ?」 「閣下、レーダーに映る地表のロケットは、ほかに百万もある同じ大きさのものと同じです。われわれにあるただひとつのチャンスは、かれらに答えさせることです……かれらに、そうできたらですが。超高性能識別レーダーは数カ月かければ見分けるかもしれません……だが、ああいう小さなロケットで使う宇宙服は、六時間分の空気しか備えていません。われわれは、かれらが聞きつけ、答えることを祈っています」 「かれらが答えると、きみたちは無線方向探知器をかれらのほうに向けるんだな。え?」 「いいえ、閣下」 「いったい、なぜそうしないんだ?」 「閣下、方向探知器は、この仕事には役立ちません。無線信号が月からやってくることがわかるだけです……それでは、助けになりません」 「博士、きみはベッティの声を聞くかもしれないが……どこに彼女がいるかわからないというのか?」 「われわれは、彼女と同じように盲目なのです。ただ、彼女が案内してくれることができるだろうと期待しているのです……もし、彼女にわれわれが聞こえればですが」 「どうやって?」 「レーザーを使ってです。強力な、非常に細いビーム光線です。彼女はそれを聞き……」 「ビーム光線を聞くだと?」 「はい、閣下。われわれはレーダーのように走査するための装置を作っています……それで何も見えるわけではありませんが。しかし、われわれはそれをラジオ周波数の搬送波に乗せるように変調し、それから可聴周波数に変える……そしてそれをピアノでコントロールするようにするんです。もし彼女がわれわれを聞けば、こちらが月を走査し、ピアノでスケールを弾くあいだ、耳を澄ましていてくれと頼みます……」 「そのすべてを、小さな女の子が死にかけているときにか?」 「大統領閣下……黙れ!」 「いまのはだれだ?」 「わたしはベッティの父親です。オマハからつないでもらいました。お順いです、大統領閣下、静かにして、かれらを働かせてください。わたしは娘に帰ってきてほしいんです」  大統領はかたい声で答えた。 「わかりました、バーネスさん。続けろ、所長。必要なことは何でも命令しろ」  子午線ステーションで、所長は顔をふいた。 「何か反応は?」 「ありません。ボス、あのリオの放送局をなんとかできませんか? あれがちょうど、同じ周波数にどっかり乗っているんです!」 「やつらに煉瓦でも落としてやるか。それとも爆弾か。ジョウ、大統領に話せ」 「聞こえた、所長。かれらは黙らせる!」 「しーっ! 静かに! ベッティ……ぼくの声が聞こえるかい?」  通信士は夢中になって調整した。  スピーカーから、少女の軽やかな甘い声が聞こえてきた。 「……だれか、聞こえた? まあ、うれしい! 急いで来てね……少佐は怪我をしているの」  所長はマイクロフォンに飛びついた。 「うん、ベッティ、急いでやるよ。でもきみの助けが要るんだ。そこがどこかわかるかい?」 「月の上のどこかだと思うわ。船がひどい揺れかたをしたので、かれをからかおうとしたら、そのとき船が墜落したの。あたし、ベルトをはずしてから、少佐を見つけたら、かれ動いていないの。死んではいません……そうは思えないわ。かれの宇宙服はあたしのと同じようにふくらんでいるし、ヘルメットをくっつけると、何か聞こえるもの。いまやっと、ドアをあけたところよ」  彼女は続けていった。 「ここはファーサイドじゃないわよ。むこうなら夜のはずでしょ。あたし、日光の中にいるわ、間違いなしに。この服がずいぶん暑いもの」 「ベッティ、きみは外にいてくれよ。われわれが見えるところに、いなければいけないんだ」  彼女は笑った。 「いい冗談ね。あたし、耳で見ているわ」 「そうだ。きみはわれわれを、きみの耳で見るんだ。聞いてくれ、ベッティ。われわれはビーム光線で月の走査を始める。きみはそれをピアノの音として聞くことになる。われわれは、月を八十八のピアノの音符に区切った。聞こえたら、それだ!≠チてさけんでくれ。それから、何の音を聞いたかをいうんだ。それ、やれるね?」  彼女は自信を持って答えた。 「もちろんよ……そのピアノがちゃんと合っていたらね」 「合っているよ。よし、始めるよ……」 「それよ!」 「何の音だい、ベッティ?」 「Eフラット、まん中のCの一オクターブ上」 「この音かい、ベッティ?」 「そういったわ、あたし」  所長は呼びかけた。 「そいつは、格子のどこだ? 雲の海だって? 将軍に伝えろ!」  かれはマイクロフォンにむかって話した。 「われわれはきみを見つけかけているよ、ベッティ・ハニイ! これからわれわれは、きみたちがいる部分だけを走査する。それで段取りを変えるからね。そのあいだ、きみのダディと話したいかい?」 「まあ! できるの?」 「できるとも!」  二十分後、かれは割りこみ、はずむ会話の切れはしを聞いた。 「……もちろん違うわよ、ダディ。ええ、船が落ちたときは、ちょっぴりこわかったわ。でも、みんなであたしの面倒を見てくれるもの、いつもそうよ」 「ベッティ?」 「はい、おじさん?」 「また、われわれに教えて欲しいんだ」 「いまよ!」彼女はつけ加えた。「それはウシガエルのG、三オクターブ下ね」 「この音?」 「そうよ」 「それを格子でつかみ、将軍に船を上げろと伝えろ! それで、一辺が十マイルの正方形になったぞ! さてと、ベッティ……きみのいるところは、ほとんどわかった。われわれはもっと細かく焦点を合わせるからね。中に入って、すこし涼しくなるかい?」 「あたしそれほど暑くないの。汗をかいているだけよ」  四十分後、将軍の声が響きわたった。 「連中が船を見つけたぞ! 彼女が手を振っているのが見えるそうだ!」 [#改ページ] 宇宙での試練  たぶん人類は、宇宙に飛び出すなどということを、してはいけなかったのだろう。われわれの種族には、生まれついての本能的な恐怖というものが、ふたつだけある。騒音と落下に対する恐怖だ。あんなおそろしく高いところへ──落ちても……落ちても……際限なく落ちていけるような高いところへ、正気の人間がどうして行く気になれたのだろう──もっとも、宇宙飛行士《スペースメン》というのは、みんな狂っているんだ。そんなことは、だれでも知っている。  医者はみな、ずいぶん親切だったなと、かれは考えていた。 「きみは運がよかったよ。それを覚えていてほしいね。まだ若いんだし、恩給ももらえるんだから、将来の心配は何もしないですむ。手足だってちゃんとそろって、元気なんだからね」 「元気だって!」  思わずかれの口調は、馬鹿にするなといったものになった。  主任精神科医は、穏やかにいいはった。 「いや、わたしは本気だ……きみのその、ちょっとした癖など、何でもないさ……もう宇宙へは出ていけないってことを別にすればね。正直、高所恐怖症は、ノイローゼともいえないと思うね。落ちることへの恐怖なんてものは、当たり前で、健全なものだ。きみの場合は、それがちょっと普通より強すぎるだけで……それも、きみの経験したことから考えると、異常とはいえないね」  思い出させられると、かれはまた震えだした。目を閉じると、ふたたびかれの下で星々がぐるぐるまわるのが見えた。落ちてゆく……どこまでも落ちてゆく。精神科医の声が耳に入り、かれはわれに帰った。 「しっかりするんだ、きみ! まわりを見てみろ」 「すみません」 「いやいいんだ。聞いておきたいんだが、これからどうする?」 「わかりませんね。仕事を見つけますよ、たぶん」 「会社が仕事をくれるはずだがね」  かれは首をふった。 「宇宙空港の近くを、うろついていたくないんです」  かつては立派な男であったことを示す小さなバッジをシャツにつけ、キャプテンと儀礼的肩書で呼びかけられ、これまでの実績から宇宙パイロットのサロンに出入りさせてもらい、どこかのグループに近づくといつでも仲間うちの話はやめられてしまい、蔭で何をいわれているのかと気になる──いやだ、まっぴらだ! 「それが賢明だろうな。新しく出なおすのがいちばんいい。少なくとも当分のあいだ、もっと元気になるまではね」 「ぼくは、これを克服できるようになるでしょうか?」  精神科医は唇をかたく閉じた。 「可能性はある。これは機能的なもので、外傷《トラウマ》ではないんだから」 「だが、あなたはそう思ってはおられないんでしょう?」 「そうはいってない。正直いって、わたしにもわからないんだ。だいたい、人間を動かしているものは何なのか、われわれには、まだよくわかっていないんだからね」 「そうですか。では、もう失礼したほうがよさそうですな」  精神科医は立ち上がって、手をのばした。 「何か用があったら声をかけてくれ。いずれにしても、また顔を出してほしいな」 「ええ」 「きみはよくなるよ。わかっているんだ」  だが、その精神科医は、患者が出ていくと首をふった。その男は宇宙飛行士の歩き方をしていなかった。ゆったりした、動物的な自信が消え去ってしまっていたのだ。  その時代、大ニューヨークでも天蓋ができているのはごく一部だけだった。かれは地下街を通ってその区画へ行き、独身者用の部屋がならんでいる路地を探した。空室あり≠フ明るいサインが出ている最初の部屋で、かれはスロットに硬貨を入れ、ジャンプ・バッグをそこに放りこむと、すぐ出かけた。交差点にあるモニターで、いちばん近くにある職業紹介所の所番地を教わった。  そこへ行って、受付デスクの前に坐り、申込用紙に指紋をおし、書きこみはじめた。それは、ふりだしにもどったような、妙な気分だった。練習生になる前のころから、職探しはこれが初めてだったのだ。  名前を書きこむのをあとまわしにしたかれは、最後になっても、まだためらっていた。世間に知られるのは、うんざりしているからだ。本名を知られたくなかった。わいわい騒がれるのももちろんいやだったが──何よりもいやなのは、だれにだろうとかれは英雄だといわれることだった。やがてかれはウイリアム・ソンダーズ≠ニ大文字で名前を書くと、用紙をスロットに落としこんだ。  三本めのたばこも吸い終わりかけ、四本めをつけようかとしているところに、やっと目の前のスクリーンが明るくなった。ブルネットの美人が映ったので、思わず見とれていると、その映像がいった。 「ソンダーズさん、どうぞお入りください。十七番のドアです」  そこにはブルネットの本物がいて、椅子とたばこをすすめた。 「どうぞお楽に、ソンダーズさん。わたし、ミス・ジョイスです。あなたのお申し込みのことについて、お話ししましょう」  かれは椅子に坐ると、黙って待っていた。  かれが何もいおうとしないので、彼女は言葉をつづけた。 「ところで、お書きになったウイリアム・ソンダーズという名前ですが……もちろん、わたしたちには、あなたがどなたなのか、指紋からわかっています」 「そうでしょうな」 「もちろん、わたしもあなたのことは、世間に知られていることぐらいは知っていますが、このウイリアム・ソンダーズと名乗られたことからですね、ミスター……」 「ソンダーズです」 「……ミスター・ソンダーズ、わたしはファイルを調べてみる気になったのです」彼女はマイクロ・フィルムのスプールを取り上げ、そこに書かれたかれの本名が見えるようにした。「これであなたのことは、だいぶよくわかりました……世間で知っている以上に、あなたが求職申込書に書かれた以上にですわ。立派な経歴ですわ、ミスター・ソンダーズ」 「ありがとう」 「でも、あなたを仕事につけるのに、それを使うわけにはいきません。あなたがご自分をソンダーズだと主張されるかぎり、わたしのほうでは、あなたの経歴を口にすることもできないわけですから」 「名前はソンダーズです」  かれはきっぱりというのではなく、抑揚のない口調でそういった。 「あわてないで、ミスター・ソンダーズ。その名声を正しく使えば、応募者がずっと高い初任給を得られるような場所がたくさんありますのよ……」 「興味ありませんね」  彼女はかれを見て、無理じいしないことにした。 「では、お好きなように。Bの受付室へ行ってください。職種区分と技能テストを受けられますから」 「ありがとう」 「あとで決心を変えられるようなことがおありでしたら、ミスター・ソンダーズ、わたしたち、いつでもよろこんでやりなおしますから。あのドアからどうぞ」  三日後、かれは注文生産の通信機が専門の小さな会社に勤めていた。かれの仕事は電子工学部品を較正することだった。心を集中していなければいけなかったが、かれほどの訓練と経験のある人間には、やさしくて、心穏やかな仕事だった。三カ月の試用期間が過ぎると、かれは見習社員クラスをとびこえて昇進した。  労働、睡眠、食事、ときには夕方から公共図書館ですごしたり、YMCAへ体を動かしに行くといった、それ以外の世界から絶縁した生活をかれは送り──どんなことがあろうと、空があけっぴろげに見えるようなところには一度も出ようとはせず、高いところは劇場の二階席にすら上がろうとしなかった。  過去の生活は、心の中から締め出してしまおうと努めたのだが、記憶はまだ生々しかった。うっかりしていると、白昼夢を見てしまうのだ──星の光が鋭い、火星の凍ったような空、あるいはヴィーナスバーグの騒々しい夜の生活。ガニメデ空港の頭上に赤っぽくふくらみ覆いかぶさっていた木星。信じられないぐらい巨大で、空いっぱいになり、上下がおしつぶされたようになっていたあの姿。  あるいはまた、惑星から惑星への淋しい航路で、長い当直にあたったときの甘い静けさを味わいなおすこともあった。だが、そういう想い出が危険だった。かれの新しい心の平和に、そういうものが、鋭い切り口をつけるのだ。  ついずるずると思い出してしまうのは、ヴァルキューレ号の鋼鉄の船体に出ている最後の|取っ手《ハンドホールド》を死に物狂いになってつかもうとしていたことだ。指がしびれ、失敗し、そして足元は底なし井戸のような宇宙だ。  それから、はっと気がつくと現在の地球にもどっているのだが、どうしようもなく体がふるえて、椅子や作業台などに、ついしがみついてしまうのだ。  初めて仕事中にそんな症状がおきたとき、ふと気がつくと同僚のジョウ・タリーが、不思議そうに見つめて尋ねた。 「どうしたんだ、ウイリアム? 二日酔いかい?」  かれはやっと答えた。 「何でもない。ちょっと寒気がするだけだ」 「薬をのんだほうがいいよ。行こう……昼飯にしよう」  タリーが先に立ってエレベーターへ行き、一緒に乗りこんだ。社員はほとんど──女性もふくめて──下へゆくときはドロップ・シュートのほうを選ぶのだが、タリーはいつもエレベーターを使った。ソンダーズ≠ヘもちろん、一度もドロップ・シュートなど使ったことがなかった。それで自然に、いつもふたりで昼食をとるようになったのだ。  かれもドロップ・シュートが安全なことは知っていたし、たとえ電気がとまっても、安全ネットが各階ごとにパッと飛び出すようになっていることはわかっていたが──それでも、思い切ってドロップ・シュートのへりから飛び下りることができなかったのだ。  タリーは、ドロップ・シュートで下りると、土踏まずのところが痛くなるのだとみんなにいっていたが、実は自動装置というものが信用できないからだと、ひそかにソンダーズに打ち明けていた。ソンダーズも、わかったような顔をしてうなずき、何もいわなかった。  これでかれは、タリーに温かい気持ちを持つようになった。新しい生活を始めてこのかた、かれが他人に対して防衛的ではなく、友好的になれたのは、これが初めてだった。タリーには、自分について本当のことを話したくなってきたぐらいだった。ジョウがかれを英雄扱いしないと確信できるなら──かれだって英雄の役割が、本当に嫌いなわけではないのだ。  子供のころは宇宙空港のまわりをうろついて、あわよくば宇宙船の中にもぐりこんでやろうと機会をうかがったり、学校をさぼって離陸を見に行ったりして、いつかは英雄になることを夢に見た。宇宙航路の英雄になり、何か信じられないほど危険な探険から、凱歌をあげて帰ってくるところを、夢に見たものだ。  だがそのころの、英雄はどのように見えるべきでどんな態度を取るべきだという考えが、いまだにそのまま残っているのでやっかいなのだ。開いている窓際から尻ごみしたり、屋根のついていない広場を横切って歩くのが恐ろしかったり、宇宙の果てしない深さを考えただけで、しどろもどろに口がきけなくなってしまうことなど、その英雄像には含まれていないからだ。  タリーはかれを、自宅の夕食に招いた。かれは行きたかったが、返事をしぶり、タリーの住まいがどこなのかを尋ねた。住まいはシェルトン・ホームズだと、タリーは答えた。ジャージーの平野をぶざまなものにしてきた、例の巨大な、箱型の家畜小屋みたいな建物のひとつだ。 「遠いな、帰りのことを考えると」  ソンダーズが、恐ろしいものに身をさらさずにそこまで行く道をいろいろ考えながら、あいまいに答えると、タリーはかれを安心させた。 「帰ることはないさ。余分の部屋があるんだ。こいよ。うちの女房は料理ができるんだ……それで置いているようなものさ」  かれはうなずいた。 「じゃあ、行くとしよう……ありがとう、ジョウ」  地下鉄のラ・ガーディア線に乗れば、かれの家から四分の一マイルのところまで行ける。そこから先は、屋根のついた道路がなければ、地上タクシーに乗って、窓のシェードをしめていけばいい。  行くと、タリーは廊下でかれを迎え、声をひそめて詫び言をいった。 「きみの相手には若い女性を呼ぶつもりだった。ところが、義弟の野郎が来ちまってね。こいつがいやなやつなんだ。すまん」 「気にするなよ、ジョウ。呼ばれただけで、ぼくは嬉しいんだ」  確かにそうだった、ジョウのアパートが三十五階にあると知ったとき、かれも最初は困ったことになったと思ったが、その高さをまったく感じないので嬉しかった。明かりが輝き、窓はみなきちんとしめてあり、足元の床も岩のようにがっしりしていた。かれは、ほのぼのと安らかな気分になった。驚いたことに、タリー夫人は本当に腕のいい料理人だった──かれは独身者の常として、素人料理など信用していなかったのだ。  自分の家のようにくつろぎ、安全で、しかも大切な仲間として求められているという楽しい感じに、かれはひたっていた。ジョウの義弟の、挑戦的で手前勝手な言葉も、ほとんど聞き流すことができたほどだった。  食事のあと、かれはビールのグラスを持って安楽椅子にくつろぎ、ヴィデオ・スクリーンを見た。ミュージカル・コメディをやっており、こんなに心から笑ったのは、何カ月ぶりかだった。やがてコメディが終わって宗教番組になった。国民大聖堂合唱団だった。そのままにしておき、片方の耳で合唱を聞きながら、もう片方で、ほかの連中の会話を聞くともなしに聞いていた。 〈旅人たちへの祈り〉という合唱を半分以上聞いてから、かれはやっとかれらが歌っている文句に気づいた。 [#ここから3字下げ] ……主よ、われらが祈りを聞きとどけたまえ 海原にありて危難にかこまれたる者のために すべてのうちの全能なる主よ み力は大いなるものより小さきものへのび そのゆるぎなき掟に星々をみちびきたまい なが作りたまいしものすべてが畏れおののく おお、偉大なる主よ、その慈悲と恩寵を 宇宙に旅するわれらにたまわらんことを [#ここで字下げ終わり]  スイッチを切ってしまいたいと思ったが、最後まで聞かないではいられなかった。望みなくさすらうものの耐えがたい郷愁で、胸に痛みを覚えたが、聞くのをやめることはできなかった。まだ候補生だったころから、この賛美歌を聞くと、涙が目からあふれそうになるのだ。いま、かれはほかのみんなから顔をそむけて、頬を流れる涙を隠そうとしていた。  合唱が最後のアーメン≠ナ終わると、かれは急いでほかの番組に──ほかの何でもいい──スイッチを切り換え、そのまま機械の上にかがみこんで、それをいじっているようなふりをしながら、顔つきをふつうにもどした。それからかれはふりかえり、うわべはのんびりしているように見せたが、腹の中にできた痛いほどの固いしこりは、だれにでもはっきり覚られてしまうように思われた。  義弟とかいう男は、まだしゃべりまくっていた。 「やつらを、併合しちまうべきだ……そうするべきなんだ。三惑星同盟だと……馬鹿ばかしいにもほどがある! 火星でわれわれがやることに、何をしていいとか悪いとか指図する権利が、あいつらのどこにあるんだ?」  タリーは穏やかにいった。 「でもエド……あそこはその連中の星だったんだ。そうだろ? とにかく、連中が先に住んでいたんだからな」  エドはそれを一蹴した。 「われわれはインディアンに、北アメリカに来てほしいかなんて聞いたかい? 使い道を知らないやつが、そいつをひとり占めしている権利などないさ。うまく開発すれば……」 「エド、きみは投機をやったな?」 「え? だいたい政府が、あんな弱腰の婆さんどもの集まりみたいでなかったら、あれは投機なんてことにはならなかったはずなんだ。先住民の権利≠ェ聞いてあきれるよ。退化した連中の集まりに、何の権利があるんだい?」  ソンダーズは、このエド・シュルツと、よく知っているただひとりの火星人クナース・スースを、いつしか比較して考えていた。  紳士のクナースは、エドが生まれたころにはもうかなりの年頃だったはずだが、いまでも火星人の中では若者の部類に入っているのだ。クナース……そう、クナースは、友達とか信頼できる知人となら、何もいわずに、また、何もいう必要もなく、何時間でもじっと一緒に坐っていられた。ともに成長する≠ニ、火星人は称していたが──全火星人はそのようにともに成長していき、政府など必要としないものとなっていた。地球人がやってくるまでは。  ソンダーズは一度、その友達に、なぜかれがそんなに働かず、あまりにも少ないもので満足しているのかと尋ねたことがあった。一時間以上もたって、そんなぶしつけな質問をしたことを後悔しはじめたころになって、クナースは答えてくれた。 「祖先があまり働きすぎたので、わたしは疲れているんです」  ソンダーズは坐りなおし、義弟氏のほうに向いた。 「火星人は退化などしていませんよ」 「へえ、そうですか? あなたは専門家らしいな!」 「火星人は退化などしていない。ただ、疲れているだけなんですよ」  ソンダーズがなおもそういい張ると、タリーはにやりと笑った。  義弟はそれを見て、ぷっとふくれた。 「どんな根拠があって、そんなことがいえるんです? あなたは火星に行ったことがあるんですか?」  ソンダーズは自分が警戒心をなくしていることに、とつぜん気がつき、用心深く反問した。 「あなたはどうなんです?」 「そんなことは関係ない。れっきとした人々が、みないっていることでね……」  かれはエドにいいたいことをいわせておいて、二度とさからわないことにした。タリーが、朝早く起きなければいけないんだから、そろそろ寝る用意をしたほうがいいんじゃないかといってくれたので、かれはほっとした。  タリー夫人に、素晴らしい夕食のお礼とおやすみの挨拶をしたあと、かれはタリーに連れられて客用寝室へ行った。 「どうしようもないあの親類じゅうの鼻つまみから逃げるには、これしか手がなかったんでね。きみは、いつまでだって起きていていいんだ……ここなら、よく眠れるよ。正真正銘新鮮な空気が入ってくるほど、高いところにある部屋だからね」  タリーはいいわけをいったあと、窓際へ歩いて、そこをあけ、窓から顔を出して二度ほど大きく息を吸った。そして、窓から離れながら言葉を続けた。 「本物の空気が何よりだよ……おれはどうも、根っからの田舎者なんだな。おや、ビル、どうしたんだ?」 「何でもない。いや、何でもないよ」 「ちょっと顔色が悪いみたいだが。とにかく、ぐっすり眠るんだね。きみのベッドは、七時に目覚ましが鳴るようにしといたが、まだまだたっぷり眠れるよ」 「すまないな、ジョウ。おやすみ」  タリーが出てゆくとすぐ、かれは勇気をふるいおこし、足を前に進めて、窓をしめた。冷汗をかきながらかれは、窓から顔をそむけ、また換気装置のスイッチを入れた。それがすむと、ベッドのふちにぐったりと尻を落とした。  たてつづけにたばこを吸いながら、かれはしばらくそうしていた。その手に握ったと思っていた心の平和は本物でなかったのだと、わかりすぎるほどわかってくる。残されたのは、恥ずかしさと、果てしなく続く苦しみだけだった。エド・シュルツみたいな、桁ちがいに程度が低い阿呆にもへこまされていなければいけないほど落ちるとは──このくらいなら、ヴァルキューレ号の仕事をやめるのではなかったと思うぐらいだ。  やがてかれは、パウチから正常飛行《フライ・ライト》≠フ錠剤を五粒出して飲むと、ベッドに入った。しかしすぐ、またベッドから出ると、やっとの思いで窓をほんのすこしあげ、眠りこむと明かりが消えるようになっているベッドの装置をいじって消えないようにし、その埋め合わせをした。  どれぐらいかわからないが、ずいぶん長いあいだかれは、ぐっすりと眠り、夢を見ていた。また宇宙にもどっていたのだ──というより、そこから離れたことは一度もないという夢だった。嬉しかった。目がさめてみたら、今までのことはただの悪夢にすぎなかったと気づいたときの嬉しさでいっぱいだった。  その静けさが泣き声で乱された。最初はかれも、ただ漠熱とした不安を覚えただけだったが、そのうち何か自分に責任があるような気がしてきた──自分がなんとかしなければいけないという感じだった。それが、落ちてゆく感じに変わるのは、その裏にひそむ夢の中の論理に基づいたものだろうが、かれにとっては現実だった。何かつかもうとし、手がすべりかけ、すべってしまい──足の下には何もない。あるのは、宇宙のまっ黒な深淵だ──  かれは息をあえがせながら目を覚ました。ジョウ・タリーの家の客室のベッドで、電灯が明るくまわりを照らしていた。  ところが、泣き声はしつこく続いていた。  かれは首をふり、そして耳を澄ました。それは確かに現実のことだった。いま、何だかわかった──猫、声からすると子猫だ。  かれは体をおこした。宇宙飛行士《スペースメン》は伝統的に猫好きだが、かれがそうでなかったとしても、これは調べる気になって当然だ。それにかれは猫好きときていた。宇宙船の中の生活で、猫がきれい好きなことや、速度に対する適応性、それに人間が行くところにはどこへでもつきまとうほかの動物を、船内から一掃してくれるのに役立つといったことは別にしても、かれは猫そのものが好きだった。だから、かれはすぐに起き上がって、猫を探してみた。  急いで見まわし、子猫が部屋の中にいないことはわかったが、耳がその居場所へと案内してくれた。声は、わずかにあけてある窓の隙間から入ってきていた。かれは尻ごみし、立ちどまり、考えをまとめてみようとした。  これ以上は何もしてやる必要などないんだと、かれは自分にいい聞かせた。もし窓の外から鳴き声が聞こえてくるのなら、どこか近所のほかの窓から聞こえてくるのにちがいない。だがかれには、これは自分自身を騙そうとしているのだとわかっていた。その声は、すぐ近くだった。ちょっと考えられないことだが、その猫はかれがいる部屋のこの窓のすぐ外、通りから三十五階上の窓の外にいるのだ。  かれは腰を下ろして、たばこをとんとんとたたいた。ところが吸口のあたりが指のあいだでつぶれてしまった。かれはそれが床に散らばるのもかまわず、立ち上がり、おずおずと六歩、窓にむかって足を進めた。まるで何かに引っぱりよせられているようだった。床に両膝をつき、窓枠にしっかりつかまると、窓を大きくあけた。そのままかれは窓敷居にしがみつき、ぎゅっと目をつぶってしまった。  しばらくたつと、窓敷居がいくらかしっかりしているように思えてきたので、目をあけ、はっと息をのみ、また目をつぶってしまった。やっとまた目をあけると、星空や下の通りは見ないように気をつけた。猫はかれの部屋の窓についている外のバルコニーにいるのだろうと、なかばあてにしていた──まともな説明がつくのは、それぐらいしかなさそうだったからだ。だがバルコニーはなかったし、猫がいそうなところはどこにもなかった。  しかし、ニャアニャア嗚く声は、前よりもっと大きくなってきた。どうも、嗚き声は、ま下から聞こえてくるようだった。かれは窓敷居にしがみついたまま、窓から無理やりゆっくりと顔を出して、下をのぞいてみた。下のほう、窓のへりから四フィートばかり下のところに、狭い張り出しが建物の壁にそってずっとついていた。その張り出しに、哀れっぽく、まるで鼠の子みたいな子猫がのっかっていた。そいつがかれを見上げて、またニャアと鳴いた。  片手で窓敷居にしがみつき、窓から体を出さずに、もう一方の腕をのばしても、ちょっと届きそうもない──思いきって、そうしてみることにしてもだ。タリーを呼ばうかとも思ったが、そこでまた思いなおした。タリーはかれより背が低いし、手ももっと短い。それに、このとんまな阿呆猫が、飛び下りるか、落ちるかする前に、いますぐ助けてやらなければいけない。  かれはやってみた。左腕で窓敷居にしがみつき、両翼を窓から乗り出し、右手を下にのばしてみた。そこで目をあけて、まだ子猫のところまで一フィートか十インチかあるとわかった。子猫は不思議そうにかれの手の方向を、くんくんやっている。  かれは、骨が音を立てるまで腕を伸ばしてみた。つかみ上げようとするかれの指先から、子猫はすぐに逃げると、張り出しの上をちょこちょこと六フィートも向うに進んでとまった。そこに坐りこんで、子猫は顔を洗い始めた。  かれはそろそろと部屋に引っこむと、窓際の床に泣きながら坐りこみ、ささやいた。 「おれにはできない……できない。もう一度なんて、だめだ……」  ロケット船ヴァルキューレ号は、地球=月宇宙ターミナルを出発してから二百四十九日目、火星の外側の衛星デイモスにある火星ターミナルに近づいているところだった。主任通信士で操縦士交替要員でもあるウイリアム・コールは、いい気持ちで寝ているところを、助手にゆさぶり起こされた。 「おい、ビル! 起きてくれ。困ったことになった」 「え? どうしたんだ? 困ったことって何だ、トム?」  十五分後、かれは部下のいうことが誇張でないと知った。かれはそこで、親爺≠ノ事情を報告した──第一針路探知レーダーが壊れている。火星がレーダー・パイロットの最大探知圏内に入るとすぐ、トム・サンドバーグが定期点検をおこない、それで発見したのだ、と。船長は肩をすくめた。 「直すんだな、きみ……それも早くやったほうがいい。必要だからな」  ビル・コールは首をふった。 「どこも壊れていないんですよ、船長……船内のほうはね。どうもアンテナがすっかりいかれてしまったような具合なんですがね」 「そんなはずはないがね。流星警報も出ていなかったくらいだからな」 「何だって考えられますよ、船長。金属疲労で、あっさり取れちまったのかもしれないし。でもわれわれはどうしても、あのアンテナはつけ替えなければいけません。船の自転《スピン》をとめてください。出ていって、直します。自転がとまっているあいだに、代わりを応急修理でつけておきます」  ヴァルキューレ号は、建造された当時としては豪華船だった。人工の重力場を作る方法を、まだだれも知らない昔に建造されたものだった。  それでも乗客の快適さのために、擬似重力を備えていた。施条《ライフル》した銃から出た弾丸のように、船はその主軸を中心に際限なく回転するのだ。それによって生じた角加速度──遠心力と誤称されていたが──そのために乗客はベッドにちゃんと落ち着けたし、しっかりと床に立つこともできた。  その自転は、旅の最初、ロケットが噴射をやめるとすぐ始まり、到着のための操船を必要とするときになって初めてとめるのだ。その運動を起こしているのは魔法ではなく、船の中心線につけてあるはずみ車の逆回転に対する反作用なのだ。  船長は困ったような顔をした。 「自転はもうとめ始めたが、そう長いあいだ待ってはいられないぞ。宇宙航行用レーダーをパイロット用に応急使用できないのか?」  コールは、航行用レーダーをなぜ近距離作業に代用できないのか説明しようとし、やめたほうがいいと決めた。 「できないんです、船長。技術的に不可能なんです」 「わしがきみの年齢だったころは、何でも応急使用できたものだがな! とにかくなんとかしてくれ。このまま盲目着陸するわけにはいかん。たとえハリマン勲章をくれるといっても、できんことだ」  ビル・コールは、ちょっと考えてから答えた。 「自転がとまらないうちにでも、出ていって取り替えなければいけませんな、船長。ほかにどうしようもありませんからね」  船長は顔をそむけた。顎の筋肉が動いた。 「では、修理の用意をしてくれ。早くするんだぞ」  修理に必要な道具を持ってコールが行ってみると、エアロックにはすでに親爺≠ェ入っていた。驚いたことに、船長はすっかり宇宙服を着こんでおり、ビルに命令した。 「わしに、どうすればいいか説明してくれ」 「外に出られるつもりですか、船長?」  船長はあっさりうなずいた。  ビルは船長のウエスト・ラインを見た。そんなものが、昔あったあたりをだ。なんてこった、親爺はどう見ても三十五歳にはなっているにちがいないぞ! 「残念ながら、そうはっきり説明できないんですよ。それに、修理は自分でやるつもりでしたから」 「わしは、自分でやりたくないような仕事を、人にやってくれと頼んだことはない男だ。さあ、説明してくれ」 「失礼ですが、船長……片手でぶら下がることができますか?」 「それとこれと、何の関係があるんだ?」 「それは、四十八人の乗客が乗っていますし、船長、そして……」 「黙れ!」  同じように宇宙服を着こんだサンドバーグとかれが、親爺を助けて穴から下ろした。ロックの内側ドアがしめられ、空気がなくなったあとで。ロックの外の宇宙は、広大な、星々が散りばめられた虚無だ。船の自転がまだ続いているので、外にむかうすべての方向は下≠セ。何百万マイルか無限の下だった。  もちろん、船長には命綱をつけておいたが──それでもやはり、船長の頭が底なしの黒い穴に消えてゆくのを見ると、まるで沈みこんでゆくような感じがする。  命綱は数フィートのあいだ着実にのびていったあと、とまった。そのまま何分間かとまったままなので、ビルはかがみこみ、ヘルメットをサンドバーグのにくっつけて話した。 「足をつかまえておいてくれ。ちょっとのぞいてみる」  かれはロックから下に首を出して、見まわした。船長はとまり、両手でぶら下がっている。アンテナの位置とは、まるで離れたところだ。かれは急いでもどり、逆さまになった。 「おれは出ていくよ」  両手でぶら下がり、船長が立ち往生しているところまで、右左と体をふって移ってゆくのは、たいして難しくなかった。ヴァルキューレ号は宇宙空間用の船で、地球の宇宙空港でよく見かける流線型のものではなく、ターミナルで修理工が便利なように、その船体のいたるところに手がかりがついていた。船長のところまで達すると、船長がつかまっている同じ足場につかまり、いまかれが離れてきた前の足場に、船長が体をふってつかまるのを手伝うことができた。五分後には、サンドバーグが船長を穴から引っぱり上げ、ビルもあとから急いではい上がった。  かれはすぐ、船長の宇宙服から工具ベルトをはずして自分の体につけると、また穴を下りてゆき、親爺が元気を取りもどし、文句がいえるようになり、まだ自分でやるといっても間にあわないように、出ていった。  足元に永劫のすべてがあったが、体をふりながらアンテナを取りつける場所まで行くのは、そう難しくなかった。宇宙服がちょっと邪魔だった──手袋のせいで指先がうまく使えないだが、宇宙服には慣れていた。船長を助ける仕事で、ちょっと息切れしてはいたが、そんなことを考えている暇はなかった。宇宙船の自転が勢いを増してきたので、ちょっととまどったが、それはエアロックのほうがアンテナの位置より自転軸に近いせいだった。だから、離れてゆくにつれて、体は重く感じられてきた。  代わりのアンテナを運ぶのも厄介なことだった。大きくもないし重くもなかったが、取りつけるのは不可能だとわかった。体を支えるのに片手が要るし、もう一方の手でアンテナをおさえ、そして、レンチを扱うのにもう一本手が要る。どうしてみても、手が一本足りない。  とうとうかれは、命綱をぐいと引っぱって、サンドバーグに綱のたるみをもっと作ってもらった。片手で腰から命綱をはずし、綱のはしを足場に二回とおし、そこに結びつける。先の六フィートほどは、あまして垂らしておいた。そのぶら下がっている端を、もうひとつの足場に縛りつけた。そうやってできたのは、ループ、綱の輪、水夫長の椅子などと呼ばれるもので、アンテナをくっつけるあいだ、かれの体重を支えてくれるのだ。それから仕事はかなり速く進んだ。  もうすこしで片づくところだった。あとは、かれがぶら下がっている足場から反対側の、端のボルトをひとつだけ締めればいいのだ。アンテナはすでに二つの点で固定されており、回路の接続もすんでいた。そちらのボルトは、片手で締められると思った。かれは足場から離れ、猿のようにひょいと飛び移った。  最後のボルトを締め終わると、レンチが手からすべった。それは手から離れ、落ちていった。それが離れてゆくのを、かれはじっと見つめていた。遠く遠く遠く、下へ下へ下へ、小さくなって見えなくなるまで。宇宙の深い暗闇を背景にして、太陽の光を浴びて明るく輝くそれを見つめていると、かれは目まいがしてきた。それまで仕事に忙しくて、下を見る暇がなかったのだ。  かれはぶるっと震えて、いった。 「片づいてからでよかったぜ。取りにいくには遠すぎるからな」  かれは帰ろうとしかけ、そしてそうできないことに気づいた。  いまの場所に来るのに、かれは命綱の足場をゆらゆら動かし、その反動で手が届かないあと数インチのところへアンテナを通りこしてきたのだ。いま、命綱のループは静かに垂れ下がっており、手が届かない。来るときのやりかたを逆にすることはできないのだ。  かれは両手でぶら下がり、パニックを起こすんじゃあないぞと自分にいい聞かせた──切り抜ける方法をなんとかして考え出すんだ。反対側にまわるのは? だめだ、ヴァルキューレ号のそちらの鋼鉄の肌は、つるつるだった──六フィート以上ものあいだ手掛りはない。たとえ疲れていなくても──実際は疲れていたし、ちょっと寒かったが──たとえかれが元気だったとしても、チンパンジーでもなければ、そこへ飛んだりするのは不可能だった。  かれは下を見た──そして、後悔した。  下には星々のほか何もなかった。下、下、無限の下までだ。船がかれとともに自転しているので、星々も大きくまわっている。永劫に続く虚無と暗闇と寒さ。  かれは、自分がつかまっている唯一の狭い取っ手に、体ぜんたいを引き上げようと、両足の爪先を引っかけようとしていた。むだな、力を浪費する努力だった。かれは、やっとそれをやめられるほどにパニックをおさえつけ、そしてぐったりとぶら下がった。  目をつぶったままでいるほうが楽なのだが、すぐまた目をあけて見ないではいられなくなるのだ。北斗七星が大きく動いてゆき、次に間もなくオリオン座がやってきた。船の回転数からそのあいだの時間を計算してみようとしたが、頭がはっきり働いてくれず、しばらくすると、目をつぶらずにはいられなくなった。  両手が固くなり──冷たくなってきた。かれは片手でぶら下がり、もう一方の手を休めるという動きを繰り返そうとした。左手をはなすと、その手にピンや針でつき剌さるような痛みが走り、それを体の横にたたきつけた。やがて、今度は右手を休ませるころだと思った。  ところが、左手が取っ手のところまで上がらない。片手で引っぱり上げるだけの余力がなくなってしまったのだ。すっかり伸び切ってしまって、左手がとどくように右腕をちぢめられないのだ。  右手の感覚がまったくなくなってきた。  滑るのが見えた。滑っていく──  とつぜん体の緊張がゆるんだので、落ちていくのがわかった……落ちていくのが。船がかれから遠ざかってゆく。  気がつくと、船長がおおいかぶさるようにしていた。 「じっとしているんだ、ビル」 「ここは……」 「安心しろ。デイモスからのパトロールが、きみが落ちたとき、すぐそばまで来ていたんだ。きみが落ちていくところを望遠鏡で見て、軌道を合わせて拾ってくれたんだ。歴史始まって以来のことだろうな。さあ、じっとしているんだ。きみは病人なんだ……あそこに、二時間以上もぶら下がっていたんだからな。ビル」  ニャアニャアと鳴く声が、また聞こえてきた。こんどは前より大きく聞こえる。かれは両膝をついて起き上がると、窓敷居の上から近づいてみた。  子猫は張り出しの上にいたが、前よりもさらに左のほうによっている。かれは子猫と張り出し以外は何も見ないように用心しながら、もうすこし外へ首を出してみた。かれは呼びかけた。 「おいで、ニャンコ! おいで、ニャン、ニャン、ニャンコ! おいで、おいで、ニャンコ!」  子猫は顔を洗うのをやめて、きょとんとした顔をする。 「おいで、ニャンコ」  かれはそっとくりかえした。窓敷居にかけていた右手を離し、おいでおいでと手をふった。子猫は三インチほど近よってきたが、そこで坐りこんでしまった。 「こっちだよ、ニャンコ」  かれは口説きながら、できるかぎり遠くまで腕をのばした。  ふわふわした毛の玉は、すぐまた退いていった。  かれは腕を引っこめて考え、こんなことをしていても何にもならないとわかった。張り出しの上へすべり下りていってそこに立っても、片手でつかまっていられるから、完全に安全だ。それはわかっているし、安全だということもわかっている──下を見る必要はないんだ!  中に体を引きもどすと、向きなおり、細心の注意をはらいながら両腕で窓敷居にしがみつき、両足を建物の外壁にそって下ろしていった。かれは目を、用心深く、ベッドの角からそらさないようにしていた。  張り出しは、どこかへ動いてしまったようだった。見つからないのだ。きっと足が通りすぎてしまったのだろうと思い始めたころになって、やっと片方の爪先がそこにあたった──ついで、両足がそこにしっかりとついた。幅は六インチぐらいありそうだ。かれは息を深く吸った。  右腕をはなして体をまわし、子猫と向かいあった。相手はこの成り行きに興味を持ったようだが、もっとそばによって調べてみようとは思わないようだった。左手で窓枠をつかみ、そろそろと張り出しの上を進んでいけば、窓の端のところでやっと子猫に手がとどきそうだ──  かれは赤ちゃん式に、足を交互にではなく、片方ずつ動かして進んでいった。両膝をかるく曲げ、かがみこんで、やっと手がとどくところまで来た。子猫は手探りするかれの指先を嗅ぎ、ぱっと後ろに飛び下がった。小さな足が一本、張り出しを踏みはずし、あわてて足場を取りもどした。かれは腹を立てていった。 「この馬鹿チビが! 脳味噌をぶちまけたいのか?」  かれは、つけ加えていった。 「そんなのが、あればの話だがな」  状況は絶望的だった。窓につかまっていたのでは、子猫はいくら手をのばしてもとどきそうにない。ニャンコ、ニャンコと、かれは望みを失いつつも呼び、それからそれをやめて考えた。  もうあきらめてもいいころあいだ。  子猫が近づいてこようと決心するまで、一晩じゅうでもこうして待ちかまえていることもできる。あるいは、前進して、つかまえるかだ。  張り出しは、かれの体重を支えるだけの幅が充分にあった。体をちぢめて、壁に平たくはりついていけば、左手に体重をかけている必要はない。かれは、ぎりぎりのところまで窓につかまって、ゆっくりと前進した。進んでいるとは思えないぐらいののろさだ。とうとう窓に手がとどかないところまで出ていった。左手が、なめらかな壁にぴたりとあたった。そこでかれは、うっかり下を見てしまった。切り立った壁の下、はるか下の明かりに照らされた歩道を。  かれは視線をもどし、ほんの二フィート前方の、目と同じ高さの一点を見つめた。かれはまだ同じところにいた!  そして、子猫もそこにいた。ゆっくりとかれは足を開き、右足を前に出し、両膝を曲げた。右手を壁にそってのばし、子猫の頭ごしに、ちょっとむこうまでやった。  その手をさっと下ろした。蝿でもたたくときのような手つきだった。さかんに引っかいたり噛みついたりする毛の玉をつかんでいるような感じだった。  それでもかれは完全にじっとしていて、子猫が怒りくるってもがいているのをやめさせようとはしなかった。両腕を広げたまま、体を壁にぴたりとつけて、かれは引きかえしはじめた。行先は見えず、ふりかえって見ることも、わずかなところで保っているバランスを崩すのでできなかった。帰りは長かった。そこへ出てきたときより、長く感じられた。やっと左手の指先が窓枠にするりとかかった。  それからあとは、何秒かですんだ。両腕が窓にかかり、右膝が敷居をこえた。かれは窓敷居の上でひと休みし、溜息をつくと、大きな声でいった。 「おい! 危ないところだったな。おまえ、あんなところを歩いたら危ないじゃないか、この小さなニャンコめ」  かれは歩道を見下ろした。確かにずいぶん下だった──それに、固そうだ。  星々を見上げると、実にきれいで、実に明るく輝いていた。かれは窓枠の一方に背中を、反対側に足をつっぱって体を支えると、星を眺めた。子猫はかれの腹のあたりにおさまって、ごろごろいいはじめた。ぼんやりとそいつをなでながら、かれはたばこを探した。  明日は宇宙空港へ行って、身体検査と心理テストを受けてみようと、かれは心を決めた。子猫の耳をかいてやりながら、かれはいった。 「小さな、ふわふわ頭くん……どうだ、ぼくと一緒に、長い長い旅に出てみないか?」 [#改ページ] 地球の緑の丘   1  これは宇宙航路の盲目詩人<宴Cスリングの物語だ──もとより、きちんと認められた伝記ではない。きみたちは学校で、かれの詩を朗読したことがあるだろう。 [#ここから3字下げ] わが生をうけし地球に いまひとたび立たせたまえ わが目をして、青空に浮く雲に 涼しき地球の緑の丘に、安らわせたまえ [#ここで字下げ終わり]  それとも、フランス語か、ドイツ語で読んだか。エスペラント語だったかもしれない、頭上にひるがえる地球の虹の旗のもとで。  何語だろうと、そんなことは問題じゃない──要は、それが地球人の言葉だったってことだ。これまでだれひとり、〈緑の丘〉を舌たらずの金星語に翻訳した者はいないし、あの乾ききった回廊でこの詩をガアガア読んだりささやいたりした火星人も、いまだかつていなかったはずだ。  この詩は、われわれのものなのだ。われわれ地球人は、ハリウッドのゾクゾクするような映画から人工放射性物質まで、ありとあらゆるものを輸出してきたが、この詩は地球だけのものだ。どこにいようと、地球人の息子や娘たちのものなのだ。  われわれはみな、ライスリングについて、実に多くの物語を聞いている。ひょっとすると、いまこれを読んでいるきみも、出版されたかれの作品を学問的に研究して何かの学位をものにしたか、しようとしたひとりかもしれない──『宇宙航路の歌』『大運河、その他の詩集』『高く遙かに』そして『船を上げよ!』などで。  それでも、学校時代だけでなく、ありとあらゆるところで、かれの歌をうたい、かれの詩を口ずさんできたきみにしろ、まず賭けてもいいのは──きみが宇宙飛行士でないとしての話だが──出版されていないライスリングの歌のほとんどを、聞いたことがないだろうということだ。つまり、〈監督がおれの従姉妹に会ってから〉〈あの赤っ毛の金星都市娘《ビーナスバーグ・ギャル》〉〈ズボンをおろすなよ、船長〉〈二人用の宇宙服〉とかの歌をだ。  もちろん、家庭雑誌に引用できるものではない。  ライスリングの名声は、用心深い出版プロデューサーと、かれが一度もインタビューされたことがないという幸運によって、保護されている。 『宇宙航路の歌』が出版されたのはかれが死んだ週だった。それがベストセラーになると、生前のかれを知る人々の思い出話をつなぎあわせ、出版社側の思いっきり潤色したPR用伝説が世間に流布した。  その結果、公式に伝えられるライスリングのイメージは、その信憑性において、ワシントンの斧やアルフレッド大王のパン焼き話と、どっこいどっこいのものになってしまった。  実のところ、かれはとうていきみたちが客間に招きたくなるような人物ではなかった。社交にはまるで不向きな男だった。どこといってぱっとしない容貌風采を別にしても、かれは慢性の掻痒性放射能火傷にかかっていて、いつもいつもぼりぼり掻いていた。  ハリマン社創立百周年記念版の作品集用に、ヴァン・デル・ヴールトが描いたライスリングの肖像画は、口をいかめしく引き結び、視力を失った目を黒い絹の眼帯でおおった、悲劇の中の人物といった風情だ。だが、かれは、いかめしいところなどまるでない男だったのだ──ライスリングの口は、歌ったり笑ったり飲んだり食ったりに忙しく、かたときも結ばれていたためしはなかった。眼帯も、あり合わせのぼろ布で、たいてい汚れっぱなしだった。目が見えなくなってから、かれはしだいしだいに、身だしなみには気を使わなくなっていた。 |うるさい《ノイジー》<宴Cスリングは、だれにも負けないいい目をした二等ジェット機関士だった。RS〈おおたか〉号の乗組員として、木星の小惑星帯へ往復する環状飛行《ループ・トリップ》に参加した当時のかれは、だ。  当時の乗組員たちは、あらゆる権利放棄証書に署名したものだった。宇宙飛行士に保険をかけろなどといったら、保険会社の連中に一笑されるのが落ちだった。宇宙災害事故防止法などはまだ聞いたこともなく、会社が何かの責任を取るとしても、それはただ給料に対してだけだった。  ルナ・シティより遠くへ出ていった船の半分は、二度ともどってこなかった。宇宙飛行士たちは気にかけなかった。かれらは喜んで参加を志願したし、そのだれもが、ハリマン・タワーの二百階から飛び下りる賭けにでも応じたものだ。相手が三対二の条件を承知し、ゴム底の靴をはいてもいいといえば。  その中でもジェット機関士はとりわけ無鉄砲で、手に負えなかった。かれらにくらべたら、船長、レーダー士、航宙士などは(そのころ、船荷監督や客室係などはまだなかった)、おとなしい草食動物だった。ほかの連中は、船長の安全着陸の技術を信頼していたが、ジェット機関士たちは、ロケット・モーターの中につながれている盲目で邪悪な悪魔どもに対しては、そんな技術など無力なことを知っていたのだ。 〈おおたか〉は、化学燃料から核動力炉に切り換えることに成功した──というか、それでも爆発しなかった──ハリマン社の最初の船だった。ライスリングは、この船のことならよく知っていた。それは深宇宙用に改造される前、ルナ・シティ航路やスプラ=ニューヨーク・ステーションとレイポート間の往復を何度もくりかえした古い船だ。かれは、その船の月航路で働き、火星のドライウォーターへのその最初の深宇宙飛行にも乗りこんだ──そして、誰もが驚いたことに、無事帰還した。  木星の小惑星帯への環状飛行に乗り組み契約をしたころ、ライスリングは本来ならもう機関長に昇進していてしかるべきだったが、ドライウォーターへの処女飛行のあと、勤務中、計器を見つめているべきときに歌をひとつと詩をいくつか書いているのを見つかり、解雇され、ブラックリストに乗せられ、ルナ・シティで下船させられた。そのとき書いていた歌は〈船長といえば親も同然〉という戯れ唄で、活字になどとてもできない冒涜的な対句でしめくくったものだが、ほとんど世には知られていない。  ブラックリストなど、かれには何ほどでもなかった。かれはルナ・シティで、ある酒場の主人の中国人からワンサムの勝負にいかさまを使ってアコーディオンを取り上げ、それからは、鉱夫相手に歌をうたっては振舞い酒とチップにありつく日々をおくっていたが、宇宙飛行士の消耗率がおそろしく高いので、会社の代理人が、かれにもう一度機会を与えてやろうという気になった。  それから一、二年のあいだ、かれは月世界航路の乗り組みを実直に勤め、深宇宙にもどり、ヴィーナスバーグの繁栄にすこしばかり貢献し、古代首都のあとに第二植民地が築かれた火星の大運河の岸辺をさすらい、タイタンへの二回目の飛行で、足の指と耳に凍傷を負った。  そのころ、物事は急速に変化していた。ひとたび動力炉推進が受け入れられると、月=地球系から外へ出る船の数を限定するのは、乗組員がそろうかどうかだけになった。ジェット機関士は少なかった。船体重量を軽くするために、隔壁は思いきり薄くされ、いつ見舞われるかわからない放射能照射の危険に自分をさらしてもいいと思う女房持ちの男性は、そうざらにいなかったのだ。  ライスリングは父親になりたいなど、さらさら思わなかったから、われもわれもと人々が殺到する黄金時代ともいうべきそのころにあっても、かれにはつねに仕事口が待っていた。かれは頭の中にわいてくる歌詞をアコーディオンの伴奏にのせて歌いながら、太陽系を何度も何度も往来した。 〈おおたか〉号の親爺は、かれを知っていた。船長ヒックスは、ライスリングが初めてその船の乗組員になったときの航宙士だった。  ヒックスはかれに呼びかけた。 「よく来たな、|うるさいの《ノイジー》……酔っぱらっていないのか? それとも、名簿にはおれが代わってサインしてやろうか?」 「こんなところで売っている安酒じゃあ、酔っぱらおうたって酔えないよ、船長」  ライスリングはサインして、アコーディオンを引きずりながら、下りていった。  十分後、かれはもどってきて、船長に暗い声でいった。 「船長、二番ジェットの具合がよくない。カドミウム・ダンパーがゆがんでいるんだ」 「なぜ、おれに話すんだ? チーフにいえ」 「したさ。だがやつは、それで保つというんだ。やつは間違っているぜ」  船長は乗組員名簿を指さした。 「名前を消して、下船しろ。おれたちは、三十分後に船を出す」  ライスリングは相手を見つめ、肩をすくめると、下へもどっていった。  木星小惑星帯までは長い道のりだった。〈たか〉クラスの老朽船だと、慣性飛行に移る前、三当直じゅう噴射をしなければいけない。ライスリングは二直目の当直にあたった。そのころ、ダンパーを動かすのは、複式遊尺と危険度計器を頼りに、手でやることになっていた。計器が赤を示したとき、ライスリングはそれを直そうとしたが、うまくいかなかった。  ジェット機関士は待っていたりしない。それがかれらの、かれらたる所以《ゆえん》なのだ。ライスリングはすぐ緊急開放装置を開き、その|熱い代物《ホット・スタッフ》をやっとこで探った。そのとき明かりが消えたが、かれはひるまなかった。舌が口の中を知っているようにジェット機関士は機関室のことを知っていなければいけないのだ。  明かりが消えたとき、かれは鉛の遮蔽板の上にさっと視線をむけた。放射能の青い輝きは、すこしも見当をつける助けにならなかった。ライスリングは急いで顔をそむけ、手探りで作業を続けた。  どうにかやりおえると、かれは伝声管にむかってさけんだ。 「二番ジェットがとまった。頼むから、すこし明かりをくれ!」  明かりはついていた──非常用回路が働いたのだ──しかし、かれには役立たなかった。あの青い放射能の輝きこそ、かれの視神経が反応した最後のものだったのだ。   2 [#ここから3字下げ] 時間と空間はまわりめぐり 星々の散りばめるこの眺めを作る 悲しい喜びにあふれる静かな涙は いまも銀色に輝いて広がり 大運河の岸辺には昔ながらに 真理の塔がもろくも群れ立ち この世ならぬ優雅さが この美しい土地を音もなく安らかに守る これら、塔の群れを築いた種族は疲れはて かれらの伝説も忘却のかなたに消えうせた 岸辺を洗う澄みきった水は神々のこぼした涙 その神々も去って久しい この凍りついた空のもと 年老いた火星の鼓動はにぶく打ち 薄い大気は音もなくささやく 生ある者はすべて死ななければならぬと…… それでも、レースのような真理の塔は 美しいマドリガルを歌い 大運河の岸辺に、美は 永遠に崩れることなく生きつづける [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──『大運河』より  [#地付き]ラックス・トランスクリプション社 [#地付き](ロンドン、ルナ・シティ)の承認による  帰途、かれらはライスリングを火星のドライウォーターで下船させた。乗組員たちは帽子をまわして賤別を集め、船長は月給の半分を奮発した。それですべてだった──終わり──要するにかれは、運がつきてしまわないうちに足を洗いそこねた宇宙放浪者のひとりになったということだ。  かれは、鉱山師や考古学者たちに混じって一月ほどのあいだ〈ハウ・ファー〉にとぐろを巻いて過ごした。アコーディオンと歌を引き替えに、たぶんいつまでもそこに留まっていることができただろう。だが、宇宙飛行士は、同じところに留まっていたのでは死んでしまう。そこでかれは地上車をヒッチハイクしてドライウォーターに舞いもどり、それからマーソポリスへ行った。  首都はまさに高度成長のさなかにあった。各種の工場が大運河の両岸に建ちならび、その廃棄物が悠久の昔からの水を濁らせていた。それはまだ、開発に名を借りて文化的遺跡を破壊することを禁止する三惑星協定が締結される以前のことで、この世のものとも思われない優雅な姿を誇っていた塔の半数は取り壊され、残ったものも改造され、地球人が居住できる与圧式の建物に変えられつつあった。  しかしライスリングは、そうした変化をいっさい目にすることがなく、そうした状況をかれに説明してくれる者とてなかったから、かれがふたたび見た<}ーソポリスは、かつてのまま、交易のために近代化される以前の姿だった。かれの記憶力は優れていた。かれは古代火星の偉人たちがくつろいだ川岸の遊歩道にたたずみ、盲いた目の前に広がる美しさを見た──氷のように青く平らな水面は、潮の干満にも動くことも、風に波立つこともなく、火星の空に鋭く輝く星々を静かに映しており、そのかなたには、繊細なレースのような胸壁やひらめき飛ぶような塔の群れがあった。重く荒々しい地球のような惑星では、あまりにもろい構造の塔が。  その結果が『大運河』だった。  マーソポリスにいまや存在せざる美を見ることを可能にしたライスリングの意識内の微妙な変化は、その後のかれのあらゆる生活領域を浸していった。女性はなべて、美女となった。  かれは女性たちを、まず声によって知覚し、それに外見や容貌をあてはめた。相手が目が不自由とあっては、よほどの根性曲がりでもないかぎり、穏やかに優しい口調で話しかけるものだ。亭主にはがみがみいう女も、ライスリングに対しては声を和らげた。  こうしてライスリングの世界には、美女と心豊かな男たちだけが住むようになった。 〈暗黒星過ぎゆくとき〉〈ベレニスの髪〉〈緑の子馬の死の歌〉など女っ気がないままに宇宙に生きる放浪者たちの恋歌の多くは、かれの感覚が醜い現実に汚されなかったことによる賜物だった。かれの対象へのアプローチは円熟し、従来の駄洒落は歌に、ときには立派な詩となった。  いまやライスリングはありあまるほどの時間に恵まれ、美しい言葉のすべてをつかみ、頭の中でそれがうまく歌いだすようになるまで、その歌詞に心を砕いていればよくなっていた。あの何度も同じリズムが繰り返される〈ジェット・ソング〉── [#ここから3字下げ] 視界良好、すべて完了 ロックが吐息とともに閉まり ライトは緑にまたたく 点検が終われば、あとは祈りの時間 船長がうなずき、船は噴射する── 聞け、ジェットを! きみの背中に轟く音を聞け きみが寝相に背をのばすとき 肋骨が胸を締めつける 首が体にねじこまれる 船の痛みが感じられる 重圧にきしむのがわかる 上昇するのがわかる! 推進するのがわかる! ゆがめられつつある鋼鉄よ、よみがえれ! ジェットに乗って! [#ここで字下げ終わり]  ──それが心の中に宿ったのは、かれがジェット機関士だったときではなく、ずっとあとになって火星から金星へヒッチ・ハイクの途中、昔の仲間の当直に付きあっていたときだった。  ヴィーナスバーグの酒場で、かれは新しい歌と、そして古い歌もいくつか唄った。するとだれかがきっと帽子をまわし始め、もどってくるときには、ふつうの吟遊詩人の場合の二倍か三倍もの金が入っていた。それは、眼帯の蔭にある雄々しい魂を誰もが認めているということだった。  気楽な生活だった。どの宇宙港もわが家であり、どの船も自家用のようなものだった。どの船長も、盲目のライスリングとかれの|絞り箱《スクイーズ・ボックス》を、規定外の積荷だからといって拒絶しようなどとはしなかった。かれはヴィーナスバーグからレイポート、ドライウォーター、新上海《ニュー・シャンハイ》へ、あるいはその逆のコースを、気の向くままに往来した。  けれども、スプラ=ニューヨーク・ステーションより地球に近づいたことはなかった。『宇宙航路の歌』の契約書にサインしたのも、ルナ・シティとガニメデのあいだのどこかを航行中の客船の特別二等船室でのことだった。  かれの詩集の最初の発行人ホロヴィッツは、二度目の新婚旅行でたまたま同じ船に乗り合わせ、船内のパーティでライスリングが唄うのを聞いて、これはいけると商売の勘を働かした。そして、さっそくライスリングを通信室に閉じこめ、その詩集の内容となった全作品を唄わせ、テープに取ってしまった。  続いて出版された三冊の詩集も、ホロヴィッツが代理人をヴィーナスバーグへ派遣し、ライスリングをつかまえて酒びたりにさせ、思い出せるかぎりのすべてを唄わせて本にしたものだ。 『船を上げよ!』は厳密にいえば全部が全部ライスリングの作ったものではない。もちろん、その多くはライスリングの作品だし、〈ジェット・ソング〉は間違いなくかれのだが、その詩集におさめられたほとんどは、かれの死後、放浪時代のかれをよく知っていた人々から採譜されたものだ。 〈地球の緑の丘〉は、できあがるのに二十年を要した。われわれの知っているもっとも初期の形のものは、まだライスリングが盲目になる前、金星で年季契約の出稼ぎ連中と酒を飲んでいたときに作られた。その文句の大半は、その連中が前借り金を払いおえ、もしも地球へ帰れたらやりたいことだった。その詩句は卑俗なものも、そうでないものも、ごったまぜだが、少なくとも最後の繰り返し部分だけは、間違いなく〈緑の丘〉だ。 〈緑の丘〉の最終稿が、いつ、どこでまとめられたのか、われわれは正確に知っている。  そのころ、金星のエリス島に、イリノイ州五大湖まで、直行しようとする宇宙船があった。それは〈たか〉クラスの中ではもっとも新しかったが、だいぶガタのきた〈はやふさ〉号で、ハリマン企業が地球の諸都市と宇宙植民地のあいだに開設しようとしている特別料金の急行定期便の最初の船だった。  ライスリングは、それに乗って地球に帰ろうと思いたった。自分の作った歌にそそのかされたのか──それとも、生まれ故郷のオザークを、もう一度だけ見ておきたい衝動にかられたのかもしれない。  会社はもはや無賃乗船を許していなかった。それぐらいはライスリングも知っていたが、まさかそれが自分にも適用されるとは、夢にも考えていなかった。かれは宇宙飛行士としては年を取りすぎていたし、特権をちょっと過大に解釈していたのかもしれない。だが、耄碌してはいない──自分がハレー彗星や土星の輪やブリュースター峰とならぶ宇宙の記念碑となっていることを心得ていただけだ。  かれは乗組員乗降口から歩いて入り、下りてゆき、最初に見つけた空席の対加速寝椅子にゆったりと落ち着いた。  出発前最後の船内点検にやってきた船長が、かれを見つけてなじった。 「こんなところで何をしているんだ?」 「地球まで荷物になるが、ひとつ頼むよ、船長」  ライスリングには、船長の四本の金筋をあらためてみるまでもなかったのだ。 「この船ではだめだ。規則は知っているはずだ。足を下ろして、とっとと出ていってもらおう。すぐに発進だ」  その船長は若かった。ライスリングの現役時代が過ぎてから学窓を巣立った世代に属していたが、どういうタイプかはライスリングにもわかっていた──危険に満ちた深宇宙で経験をつむ代わりに、ハリマン・ホールで五年間、候補生としての練習航行しか知らないやつだ。ふたりは、経歴も根性も、おたがいにまったく触れ合うもののない他人同士だった。宇宙は変わりつつあったのだ。 「なあ、船長、まさかこの哀れな年寄りから、生まれ故郷へ帰る機会をもぎ取るだなんて、むごい仕打ちはなさるまいな?」  船長はためらった──通りがかりの乗組員が何人か足をとめ、聞き耳を立てていたからだ。 「わたしには、どうしようもないね。宇宙危険防止法第六条だ……免許を受けた乗組員もしくは、本法に基づいて公布された法規に準拠する船舶に有料の乗客として乗船する以外、何人といえども宇宙空間に立ち入ることはできない……だ。さあ、立って、とっとと出ていってくれ」  ライスリングは組んだ両手を枕にして、ごろりと寝ころんだ。 「出ていかなけりゃあいかんのなら、歩くのはごめんだ、かつぎ出してもらおう」  船長は唇を噛んでいった。 「先任衛兵伍長! この男をかつぎ出せ」  船内警備係の男は、あらぬほうを見つめた。 「わたしには、できません、船長。肩をくじいていますので」  いましがたまでその場にいた他の乗組員たちは、いつの間にかひとり残らず隔壁のペンキの中に消え失せたかのようだった。 「よし、ではできるやつらを集めろ!」 「アイアイ、サー」  かれもまた消えてしまった。  ライスリングはふたたび口を開いた。 「いいかい、船長……おたがいに、つっかかり合うのはやめようじゃないか。あんたがそのつもりになれば、わしを乗せてもあんたの落度にならん口実は見つかるはずだ……遭難宇宙飛行士救助の条項さ」 「遭難した宇宙飛行士だって、驚いたな! あんたは遭難者どころか、宇宙の口先男のほうじゃないか。あんたがどういう男だってことぐらい、知っている。もう何年も、この太陽系をわがもの顔に放浪しつづけているんだろう。だが、わたしの船を利用されるのはごめんだね。あの条項は、事故で船に乗りそこねた乗組員の救助を目的とするもので、宇宙のいたるところを無銭旅行させるためのものじゃあないんだ」 「だがなあ、船長。わしが船に乗りそこねたのではないと、どうしていい切れるんだ? わしは乗船契約をした乗組員としての最後の旅行以来、一度も地球に帰っていないんだ。法津には、帰らせてもらえるとあるよ」 「だが、それはもう何年も前のことだ。あんたの期限はもうとっくに過ぎてしまってる」 「そうかな? その条項には、その特権を行使していい期限については、ひとことも書いてないよ。ただ、その特権が与えられると書いてあるだけだ。行って、調べてみるがいい。船長、もしわしが間違っていたら、わしは自分の二本の足で立って出ていくのはもちろん、あんたの部下の前で、はいつくばって謝罪しよう。さあ……行って調べてきてくれ。さっぱりするぞ」  ライスリングは、相手がにらみつけているのを感じた。だが、船長は背を向け、その部屋から出ていった。ライスリングは、自分が盲目であることを利用して、船長を追いつめたことはわかっていたが、悪い気はしなかった──それどころか、かえって、してやったりという気分だった。  十分後、サイレンが鳴り、発進準備のための命令をくだす声が、船内伝声管を通じて聞こえてきた。ロックが溜息をもらすような皆をたてて閉まり、鼓膜につたわるかすかな気圧の変化から発進の間近なことを感じると、かれは立ち上がり、足を引きずって機関室に下りていった。発進のとき、噴射するジエットのそばにいたかったのだ。〈たか〉クラスなら、どの船だろうと、だれに案内してもらう必要もなかったのだ。  事故がおこったのは、最初の当直時間中だった。ライスリングは監督官の椅子にのんびり腰を下ろし、アコーディオンの鍵盤をまさぐりながら、〈緑の丘〉の新しい歌詞をひねり出そうとしていた。 [#ここから3字下げ] 割り当てにはあらざる空気を いまひとたび吸わせたまえ 制限なく欠乏なきところにて [#ここで字下げ終わり]  そして何か、もっと何か、地球≠轤オい文句を──それが、なかなか浮かんでこないのだ。かれは、もう一度やってみた。 [#ここから3字下げ] われらがいとしき母なる星よ 地球のすずしき緑の丘に吹く 甘きそよ風にわが肌をなぶり わが心をいやしたまえ [#ここで字下げ終わり]  このほうが前よりすこしはましだな、とかれは思った。 「こんどのはどうだい、アーチー?」  と、かれは落ち着いた響きとなったエンジン音をとおして尋ねた。 「なかなかいいぜ。終わりまで、すっかり聞かせてくれ」  主任ジェット機関士のアーチー・マクドゥガルは、宇宙でも酒場でも、ライスリングとは古くからのつき合いだった。遠い昔、何億マイルもの昔には、かれはライスリングの下で働く見習機関士だった。  ライスリングはうなずき、それからいった。 「おまえたち若い連中は、苦労知らずだな。何もかも自動装置がやってくれるんだから。おれがひねくりまわしていた時代には、寝ずに番をしなけりゃいけなかったもんだ」 「いまだって、寝ずの番だよ」  ふたりは専門家同士の仕事の話を始め、マクドゥガルはライスリングの時代の手動遊尺式制御装置に取って変わった直接反応ダンピング装置の説明をした。ライスリングは新しい装置に納得がいくまで、手探りし、質問した。かれは、自分がまだれっきとしたジェット機関士であり、現在の放浪生活は、だれでもよくありがちな会社とのもめごとが解決するまでの方便にすぎないのだと、勝手に考えることにしていたのだ。 「わかるぞ。ダンパー・プレートは、まだ昔と同じ手動式だな」  と、かれはすばしこく動く指でそこに触れながらいった。 「ああ、連結桿を除いては全部な。計器の目盛りが見にくいんで、おれはそいつをはずしてしまったんだ」 「取りつけておいたほうがいいんじゃないのか。必要になる場合がないとも限るまい」 「さあね、それはどうだかな。おれの考えじゃあ……」  それがどうなのか、ライスリングは永久にマクドゥガルの考えを聞けないことになった。というのは、そのとき事故が突然おこったからだ。マクドゥガルはまともに放射能の奔流を浴びて、立っていたその場で即死した。  ライスリングは何がおこったのかを直感した。かつては習性となっていた反射的動作がよみがえった。かれは緊急開放装置を開き、同時に操縦室への警報ブザーを鳴らした。それから、連結桿がはずしてあったことを思い出した。かれはできるだけ遮蔽板の蔭になるように身をかがめながら、手探りで連結桿を探した。機関室にあるものの所在位置で、わからないのはそれだけだった。盲目の暗黒に閉ざされていても、かれにとって機関室の中は、どこよりも明るかった。隅から隅まで、どこにどんな装置があるか、弾き慣れたアコーディオンの鍵盤と同じぐらいよくわかっていた。 「機関室! 機関室! いまの警報は何だ?」  ライスリングはさけんだ。 「来るな! ここは汚染されているんだ」  顔に、体のふしぶしに、砂漠の太陽が照りつけてくるような熱が感じられた。  必要なレンチが見つからないので、思いつくかぎりだれかれなしに罵りの言葉を吐きながら、かれはやっと連結桿を取りつけた。それから手で、応急処置に取りかかった。時間のかかる面倒な仕事だった。やがてかれはジェットを、炉をふくめて何もかも捨てるほかないと決断した。  まずかれは報告した。 「操縦室!」 「こちら、操縦室だ」 「第三ジェットを投棄する……緊急事態だ」 「そちら、マクドゥガルか?」 「マクドゥガルは死んだ。こちらはライスリングが当直中だ。録音の用意をしろ」  返事はなかった。船長はびっくり仰天してしまったのだろう。いずれにしろ機関室の緊急事態に干渉することはできなかった。船長には船と乗客と、そして乗組員の安全をはかる責任があった。ドアは閉めたままにしておかなければいけないのだ。  続いて、録音用にと響いてきたライスリングの言葉に、船長はいっそう驚いたにちがいない。それは、こうだった。 [#ここから3字下げ] われら金星の土に朽ちるもの その腐った吐息に嘔吐する 汚れた死のうごめく いまわしきその密林よ [#ここで字下げ終わり]  それからライスリングは作業を続けながら、太陽系の惑星をそれぞれあげつらっていった──荒涼とした月のまぶしい土を──土星の虹のリングを──タイタンの凍りついた夜を──そのあいだ、絶えずジェットをすこしずつ投棄していき、汚染物質を取り除きながら。そしてかれは、最後を繰り返しの言葉で締めくくった。 [#ここから3字下げ] 宇宙の星々を次々にまわり まことの価値を求めたわれら 連れ帰れかし、いまこそは 人類の生まれ故郷の星へ 地球、その涼しき緑の丘に [#ここで字下げ終わり]  それからかれは、ほとんど放心状態のまま、思い出したように、直した最初の歌詞に取り組んだ。 [#ここから3字下げ] まるくそびえる空が呼ぶ 宇宙飛行士よ帰れと 総員待機! スタンバイ! 自由落下! やがて眼下の灯は消え去り 地球の子らは船出する とどろくジェットを駆って 地球の民は高く跳躍する 遠く高く、はるけきところに [#ここで字下げ終わり]  いまや、ジェットは一基なくなり、ガタガタとよろめきながらではあったが、船は無事に地球へ帰れるようになっていた。自分がどうなのか、ライスリングには確信がなかった。やけどは、だいぶひどいようだなと、かれは思った。見えはしなかったが、明るい薔薇色の霧が室内に立ちこめていることを、かれは知っていた。かれは排出弁を瞬間的に開いては空気を船外に排出し、それを何度かくりかえして、放射能よけの防護服さえ着ていればだれが入ってきても大丈夫なレベルにまで、放射能汚染度を低くした。その仕事をやりながら、かれはもう一度、こればかりは間違えようもなくライスリングの作になる最後の歌詞を伝えた。 [#ここから3字下げ] わが生をうけし地球に いまひとたび立たせたまえ わが目をして、青空に浮く雲に 涼しき地球の緑の丘に、安らわせたまえ [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 帝国の論理 「そう感傷過多な馬鹿になるなよ、サム!」  ジョーンズはなおもいいはった。 「センチメンタルだろうが、なかろうが……あれはまさに奴隷制度さ。金星でおこなわれているのは、まさに奴隷制度なんだ」  ハンフリイ・ウインゲートは、ふんと鼻を鳴らした。 「そんなのは、まったくのお笑い草だね。あの会社の労働者たちは、雇われているんだ。合法的な契約によって働いているんだし、あそこに入るのは自由意志によるんだからな」  ジョーンズはかすかに眉を上げた。 「そうか? じゃあ、仕事をやめれば、監獄に放りこまれるってのは、いったいどんな契約なんだ?」 「そんなことはないさ。二週間前に予告さえすれば、だれだってやめられるんだ……そのはずだぜ……ぼくは……」  ジョーンズは、うんざりした口調でいった。 「ああ、わかっているさ。きみは弁護士だからな。契約のことについちゃあ、何もかもご存知だろうよ。しかし、困ったことにはだなあ、このうすのろ野郎、きみにわかるのは、法律的な文章だけだってことさ。自由契約だと……馬鹿な! おれがいいたいのは、事実なんだよ。法律上のことじゃあない。契約書になんと書いてあろうが、そんなことはどうでもいい……とにかく、その連中は奴隷なんだよ!」  ウインゲートはグラスをあけると、それを下においた。 「すると、ぼくをうすのろ野郎だっていうんだな? ようし、ではきみは何だかいってやろうか、サム・ヒューストン・ジョーンズ……きみはだな、社交界の青くさい伊達男さ。きみは一度だって生活のために働いたことなどないから、働かなくちゃあならんってことが悲惨なことのように思えるのさ。まあ、待てよ……」  ジョーンズが口を開こうとするのをさえぎって、かれは話を続けた。 「ぼくのいうことを聞くんだ。金星で会社に雇われている連中は、地球上の同じクラスの連中よりずっとましな生活をしているんだぜ。かれらには、仕事も食べ物も、寝るところも保証されている。病気になれば、医療設備もあるんだ。あの階級の連中の困った点は、働きたがらないってことで……」 「いったい、働きたいやつなんているのかい?」 「まぜっかえすなよ。問題はだな、もし連中を相当きつい契約でおさえておかないと、いい仕事でも、それに飽きがきたとたん、連中はそれを放り出して、地球へただで送り返してくれと会社に要求するってことだ。そりゃあ、こういうことは、きみのように立派で寛容な精神の持主には起こりえないことだろうがね。とにかく、会社は株主に対して責任があるからな……たとえば、株主の一人であるきみに対してさ……世界が自分たちを食べさせてくれるのは当然だと思っているような連中に、惑星間輸送船を走らせることなどできないよ」  ジョーンズは苦い顔で認めた。 「これは参ったね、きみ……株主だと指摘されたのは参ったよ。まったく、株主だなんてお恥ずかしい次第さ」 「じゃあ、なぜ売っちまわないんだ?」  ジョーンズはいやな顔をした。 「いったいそれが何の解決になるんだ? 持ち株を売ってしまえば、そんな事実を知っているという責任から逃れられるというのか?」  ウインゲートはいった。 「やれやれ、どうしようもないな。酒でも飲めよ」 「飲むともさ」  と、ジョーンズは答えた。それは、予備士官としての実習航行を終えて、かれが地球に帰ってきた最初の夜だった。埋め合わせに大いに飲む必要があった。まったくまずかったなと、ウインゲートは思った。あの航路が金星に寄港するものだったのは、まったくまずかった── 「起きろ! 起きろ! みんな起きろーっ、ぐうたら野郎ども! 寝床から出ろ! しゃっきりするんだ!」  耳ざわりな声が、ウインゲートの痛む頭をのこぎりびきにした。目をあけたが、ギラリとした白い光に目がくらみ、あわててまた閉じてしまった。しかし、その声は、かれをそのままにそっとしておいてはくれなかった。  そいつは、しわがれ声でさけんだ。 「朝食十分前だ……さあ、早く食いにこい。さもないと飯を捨てちまうぞ!」  かれはもう一度目をあけ、震えるほどに意志の力をふりしぼって、そのまま開いていようとした。大勢の足が目の前を通りすぎていた。デニムのズボンに包まれているのがほとんどだが、何もはいていないのもある──ぞっとするような毛むくじゃらな素足だ。  男たちの声ががやがやと響いており、そこから言葉のはしばしは聞きとれるが、まとまった内容は聞きとれなかった。それらの声に、絶えず金属音のオブリガートがつきまとっている。こもったような、そしてどこまでも広がっていく音だ──シュル、シュル、ズシン! シュル、シュル、ズシン!  そいつをしめくくるズシンという音が、痛む頭にはこたえたが、それでも、もうひとつの音、どこから響いてくるのかわからず、それから逃れる術もない、単調なシュルシュル音に神経を苛立たせられるのにくらべれば、まだましだった。  空気には人間の体臭がいっぱいにこもっていた。小さなスペースに、人間をつめこみすぎているのだ。悪臭ふんぷんというほどでも、酸素の供給が不充分だというほどでもない。だが、その部屋に充満しているのは、汚れきってもいないが、風呂から出たばかりでもない人間の体が、寝具で温められて発散する、いささか新香に似たむっとする匂いだ。それが息をつまらせ、食欲を減退させる──かれの現在の状態では、まさに反吐が出る思いだった。  かれはようやく、まわりの様子がすこし呑みこめてきた。どうやら寝棚部屋のようなところにいるらしい。起きようとしている男たち、ぶらぶらしている男たち、服を着ようとしている男たち、男でいっぱいだ。かれは狭苦しい四段の寝棚のいちばん下に寝ていたのだ。自分のまわりを動きまわっている足のあいだから、まわりの壁にずらりと同じような寝棚が見え、壁から離れたところにも、支柱を使って、床から天井までそんな棚が作ってある。  だれかがウインゲートの寝棚の端にやってきて、靴下をはこうと、でかい尻をかれの足首に乗せた。ウインゲートが足を引き抜くと、その見知らぬ男はかれのほうに顔をむけた。 「ありゃあ、尻を乗せてしまったか、すまんな相棒」そして、人が良さそうにつけ加えた。「そっから早く出たほうがいいぞ。警備係下士官にどやしつけられて、寝棚を上げさせられることになりかねないぜ」  そいつは大きな欠伸をひとつすると、ウインゲートのことなど、もうすっかり忘れたといった顔つきで立ち上がった。 「ちょっと待ってくれ!」  ウインゲートは急いで声をかけた。 「はあ?」 「ここはどこだ? 留置所の中かい?」  その男は、ウインゲートの血走った目と、むくんだような、洗っていない顔を、あまり関心はないが、悪意もなさそうな表情で見つめた。 「やれやれ、おめえ、前借りの金をみな飲んじまうような馬鹿をしてしまっただな?」 「前借り? いったい何のことをいっているんだ?」 「正直な話、おめえ、自分がどこにいるのか知らねえのか?」 「そうなんだ」 「へええ……」  周知の事実をなんでいわなきゃいけないんだといった表情をその男は浮かべたが、ウインゲートの顔がいかにも、知りたくてしょうがないというふうに見えたのか、こういった。 「つまりおめえは、イヴニング・スター号に乗って、金星へ向かっているところだがな」  しばらくすると、その男はウインゲートの腕に手をかけた。 「そうがっかりしちまうことはねえさ、相棒。別に騒ぎ立てるほどのことはねえ」  ウインゲートは両手を顔からはなして、こめかみに押しつけた。 「これは本当のことじゃあない……こんなことはありえない……」  そうかれはいった。まるで、自分自身にいい聞かせるような口調だった。 「やめなよ。朝飯を食いに行こうぜ」 「何も食べる気になんかなれないんだ」 「馬鹿いうな。そりゃあ、気持ちはわからんでもねえ……おれ自身にしてみてもよ、ときにはそんな気持ちになるからな。飯を食えば気分も変わるさ」  その問題は、そこへやってきた警備係下士官が、警棒でウインゲートのあばらをぐいとこじって、解決してくれた。 「ここをどこだと思っていやがる……病室か、一等室か? 早く寝棚を上げちまえ」  ウインゲートの新しい仲間がとりなしてくれた。 「まあまあ、そう怒らんで。こいつは今朝どうかなっちまってるんで」  そういいながら、男は大きな片手でウインゲートを引っぱりおこし、もう一方の手で寝棚をすくい上げて、壁におしつけた。かぎがソケットにうまくはまり、寝相の壁にぴったりくっついて倒れてこない。 「おれの見まわりを邪魔するつもりなら、こいつはそのうち見られたざまじゃあなくなるぞ」  警備係下士官はそう予言して、去っていった。ウインゲートは素足のまま、床の上に立ちすくみ、自分が下着しか着ていないことに気づくと、いっそううろたえて呆然としていた。かれの仲間は、その姿をじっと見つめていた。 「おい、あんた、枕を忘れているぜ。これだ……」  男はそういって、壁といちばん下の寝棚とのあいだにある隙間に手をつっこむと、透明なプラスチックに覆われた平たい包みを取り出し、その封を切って、中身を出した。ぶあついデニムの上下つなぎになった作業服だ。ウインゲートは礼をいって、それを着こんだ。その相棒はつけ加えていった。 「朝飯のあとにでも、どけち野郎にスリッパを出してもらうんだな……いまのところは、食わなきゃあ」  ふたりがそこに着いたときには、列の最後尾がもう調理室の窓口から離れてしまったあとで、窓はしまっていた。ウインゲートの相棒は窓をたたいた。 「おい、あけてくれ!」  勢いよく開くと、出てきた顔がいった。 「二度目はだめだぜ」  相棒は、下りかけた窓を手でおさえた。 「二度目じゃねえんだよ、兄弟、初めてなんだ」 「じゃあどうして、時間どおりに来ねえんだ?」  炊事係はぶつくさいったが、それでも携帯口糧のカートンを二つ、引き渡し窓の広台にたたきつけるように置いてくれた。相棒の大男はそのひとつをウインゲートに渡すと、床に坐りこみ、調理室の壁に背をもたせかけた。  そいつは口糧の包装をむきながら尋ねた。 「おめえ、何て名前だね? おれはハートリイ……大口《サッチェル》のハートリイっていうんだ」 「ぼくの名はハンフリイ・ウインゲート……」 「オーケイ、ハンプ。会えて嬉しいぜ。ところで、さっきおめえが騒いでいたのは、どういうわけなんだ?」  そいつは、とても口に入りそうもない焼き卵をスプーンですくい上げては、カートンのコーヒーで流しこんでいた。  不安に顔をひきつらせながら、ウインゲートはいった。 「それがね……どうも、ぼくは誘拐されてきたらしいんだ」  かれはハートリイの飲み方を真似ようとして、茶褐色の液体を自分の顔に浴びせかけてしまった。  ハートリイはあわてて口を出した。 「おい……そんなやり方じゃあ無理だよ。吸口を口の中に入れて、そっと吸うんだ。こうさ」  男はやってみせ、言葉を続けた。 「だが、おめえの考えはどうも、ぴんとこねえな。雇ってほしいやつが列を作って待っているぐらいの会社がだぜ、誘拐なんかする必要はねえはずなんだ。何があったんだい? 何も覚えちゃあいねえのかい?」  ウインゲートは思い出そうとした。 「ぼくが最後に覚えているのは……ジャイロの運ちゃんと料金についていい合いをしていたことだ」  ハートリイはうなずいた。 「あいつら、しょっちゅうインチキをやりやがるから。それで、おめえはそいつにのされでもしたのかい?」 「そいつは……いや、そんなことはなかったと思うよ。それは大丈夫だったらしいが、ただ、ひどい二日酔いなんだ」 「いまによくなるさ。イヴニング・スター号が弾道式ロケットではなくて、反重力船だったってことに感謝することだぜ。そうでなきゃあ、もっと気持ちが悪くなっていたはずさ」 「どういうことだ?」 「つまり、この船は、航行中に加速したり減速したりしているんだ。乗客がいるから、そうしなければいけないんだよ。貨物船で送られていたら、違っていたんだぜ。そいつらは決められた弾道で打ち上げられたあと、旅のあいだずっと無重力のまま航行するんだ。そうなると、新米は死ぬ苦しみなんだぞ!」  かれはげらげら笑った。  ウインゲートは、宇宙酔いの辛さにかかずらっている気分ではなかった。 「どうしてもわからないのは……どうしてぼくが、この船に乗りこむことになったのかなんだ。連中が間違ってぼくを乗せてしまったなどということは考えられるか? つまり、だれかほかのやつと間違えてさ」 「考えられないよ。おい、飯は食わないのか?」 「もうたくさんだ」  ハートリイはその言葉を、いらないから食ってくれという意味に受け取り、たちまちウインゲートの口糧を平らげてしまった。ついで立ち上がると、ふたつのカートンを丸めてダスト・シュートの中に放りこみ、それからいった。 「それでおめえ、どうする気なんだ?」 「ぼくがどうするつもりだって?」ウインゲートは決意もあらたに断言した。「そうだ。まっすぐ船長のところへ行って、釈明を要求しよう。そうするんだ!」 「おれなら、そうはあせらないがなあ、ハンプ」  と、ハートリイは疑わしそうにいった。 「あせるなだと!」ウインゲートはいきなり立ち上がった。「うーん、頭が痛い!」  警備係下士官は手にあまるので、二人を主任警備官のところへ連れていった。ハートリイは、ウインゲートが主任警備官の部屋にいるあいだ、外で待っていることにし、忠告した。 「なるべく急いで話をつけたほうがいいぜ」 「どうして?」 「もう何時間かで月に着くんだよ。深宇宙航行のため、ルナ・シティで燃料補給をするときが、おめえの抜け出す最後のチャンスになるぜ。もし、歩いて帰るつもりじゃあなければな」  ウインゲートは喜んでうなずいた。 「それは考えてもいなかったよ。ぼくは、いずれにしても、往復してこなければいけないのかと思っていたんだ」 「そう驚くこともないさ。でも、モーニング・スター号には、あと一、二週間のうちに乗れるだろうよ。もし、連中のミスなら、おめえを送り帰してくれるはずだからな」  ウインゲートは熱っぽい口調でいった。 「そんなのを待っちゃあいられないよ……まっすぐルナ・シティの銀行へ行って、ぼくの銀行との信用状を作らせ、地球=月シャトルの切符を買うさ」  ハートリイの態度がかすかに変化した。かれはこれまで、信用状を作らせた≠アとなど一度もなかったからだ。そんなことができる男なら、あるいは船長のところへ行って、法律を曲げさせることだってできるかもしれない。  主任警備官はいかにも辛抱して聞いているといった顔つきで、ウインゲートの話に耳をかたむけていたが、話の途中でかれをさえぎり、移民名簿を調べ始めた。  Wの項までめくると、主任はその中の一行を示した。そこには、はっきりとかれの名前がのっていて、綴りも間違っていなかった。主任は命令した。 「さあ、出ていってくれ……おれの時間をつぶすな」  しかし、ウインゲートはあきらめなかった。 「この件について、あなたには何の権限もないはずだ……何ひとつないはずです。ぼくを船長のところへ連れていってくれることを要求します」 「なんだと、きさま……」  ウインゲートは、この男が自分をなぐろうとしていると、一瞬にして悟り、口をはさんだ。 「自分のすることに気をつけたほうがいいな。あなたは明らかに、故意によるものではない間違いの犠牲者だ……しかし、この船が免許を得ているもとでもある宇宙法の規定を、無視するようなことがあれば、あなたの法的な立場は非常に不安定なものとなる。船長は、あなたのそういう行動を連邦法廷で釈明するような事態になるのを、喜ぶとは思えませんな」  これで、その男が腹を立てたのは明らかだった。しかし、上役を危ない立場に立たせるようなことがあれば、大宇宙船の主任警備官の地位はおぼつかない。そいつは顎の筋肉をひきつらせたが、何もいわず、ボタンをおした。下級警備官が現われた。 「この男を事務長のところへ連れていけ」  そういうと、主任はくるりと背をむけ、船内通話装置である番号をまわした。  ウインゲートはほんのしばらく待たされてから、職権上、会社の代表者である事務長に会えることになった。事務長は詰問した。 「いったい、どういうことなんだ? 不平があるなら、朝の苦情相談のときになぜ申し出ないんだ?」  ウインゲートはできるだけはっきりと、わかりやすく自分の苦境を説明し、締めくくりにこういった。 「というわけですから、わたしをルナ・シティで下ろしていただきたいのです。明らかに、不慮の災難であるこの事態に関して、わたしは会社に何の迷惑もかけるつもりはありません……ことに、わたし自身がだいぶ賑やかにお祭り気分でいたことが、この過ちを招いたいくらかの原因であることも、認めているわけですから」  この演説をあいまいな表情で聞いていた事務長は、何の返事もしなかった。かれは机の片隅にうずたかく積んである書類フォルダーを調べ、その一冊を選びだすと、それを聞いた。それは規格サイズの書類を上部でとじてファイルしたものだ。これらの書類を時間をかけて、かれがゆっくりと改めるあいだ、ウインゲートは立ったまま待っていた。  事務長は喘息持ちのような音を立てながらその書類に目をとおし、ときどき歯をむき出しては、爪の先でそれをたたいた。すっかり神経がたかぶっているウインゲートは、もし事務長がこんど手を口へ持っていったら、怒鳴り声をあげて、手あたりしだい物を投げつけようと決心しかけていた。そのとき、事務長は、ウインゲートのほうに書類一式を机ごしに投げてよこした。 「それを見てみるんだな」  と、そいつはいった。  ウインゲートは、その言葉に従った。かれが見たものは、ハンフリイ・ウインゲートと金星開発会社とのあいだに結ばれた、金星における六年間の年季奉公契約書だった。 「これは、おまえのサインだろうが?」  と、事務長は尋ねた。  ウインゲートの職業的な用心深さが非常に役立った。かれは細かくそのサインをあらため、自分の知恵をふりしぼる時間を稼ごうとした。かれは、やっといった。 「そうですな……これはわたしのサインにずいぶん似ているといってもよろしいでしょうが、しかし、これがわたしのサインだと認めるわけにはいきませんな……わたしは、筆跡鑑定の専門家じゃあない」  事務長は顔をしかめてみせたが、その抗議を無視した。 「おまえと冗談をいい合っている暇はないんだ。さあ、この栂印を調べてみろ」  かれはインク・パッドを机ごしに押してよこした。ウインゲートは、しばらく考えこんだ。拒否権を使って、自分の立場を有利にしようか? いや、だめだ。そうすると、かえって自分の立場が悪くなる。別に栂印をくらべたって、損をするわけでもない。契約書の栂印が自分のであるわけはない。そんなことは──  ところが、それがそうだったのだ。訓練されていないかれの目にも、その二つの栂印はぴったり同じだった。かれはパニックを覚え、それを懸命になって押さえつけた。これは昨夜、ジョーンズと議論したおかげで現われた悪夢にちがいない。それとも、とんでもないことだが、これが現実だとしたら、これはでっち上げで、なんとかして弱点を発見しなければいけないんだ。自分のような男が、こんな罠にかかるわけがない。すべてが馬鹿げている。かれは、気をつけて言葉を選んだ。 「わたしは、あなたと議論するつもりなど、まったくありません。ある意味では、わたしもあなたも、たちの悪い冗談の犠牲になっているわけです。無意識状態にある男が、つまり昨夜のわたしがそうであったようにです、知らないあいだに栂印を取られてしまうことかありうるというのは、指摘するまでもないことでしょう。形式的には、この契約書は有効でありますし、あなたがそう確信しておられることはわかりますが、しかし、実のところ、この書類は契約書として必要な要素に欠けているのです」 「それは何だ?」 「両者が、契約関係に入るという意志です。サインがあり栂印が押されていても、わたしに契約の意志がなかったことは、他の理由によって容易に説明できます。わたしは弁護士を開業しておりまして、かなり成功していますし、そのことは所得税の申告書を見ればすぐにわかります。そのわたしが自由意志から楽な生活を捨て、所得のずっと低い六年間の年季奉公契約をするなどということは、ありえないことであり……どんな法廷でも、認められないことです」 「すると、おまえは弁護士か? 何かごまかしがあったってことかもしれないな……おまえがやったってことだぞ。どうしてここに、無線技師だなどと書いたんだ?」  ウインゲートは、この予期しなかった側面攻撃に、ふたたび心を引き締めた。実際に、かれは無線のエキスパートだった……お気に入りの道楽だった……しかし、どうして連中はそんなことを嗅ぎつけたんだ? 口を閉じていることだと、かれは自分にいい聞かせた。何も認めるんじゃないぞ。かれは抗議した。 「何もかもとんでもないことだ……わたしは船長にお会いしたい。十分もしないうちに、その契約などご破算にしてみせるから」  事務長はしばらく待ってから反問した。 「いいたいことはそれだけか?」 「そうです」 「よろしい。おまえはいいたいだけいったのだから、こんどはおれの番だ。よく聞けよ、宇宙弁護士野郎。この契約は、両惑星の中でもっとも有能な法律知識の持主によって起草されたものだ。能なしのごろつきどもが、それにサインし、前借り金をすっかり飲んじまったあげく、もう仕事などはしたくないとごねだす場合を、特に考慮に入れてあるんだ。  この契約書はだな、どこをどうつつかれてもびくともせんようになっているし、改訂をかさねて、たとえ悪魔が現われても、破ることはできないんだ。  いまの場合、おまえは相棒のうす汚れた浮浪者相手に、いかれた法律知識をふりまわしているわけじゃあないんだぞ。おまえが相手にしているのは、自分の法律的な立場はどうなのかを、はっきりと心得ている人間なんだ。  船長に会いたいだと……大きな船の司令官が、うぬぼれたおしゃべり野郎のたわごとを聞くことのほか、することがないとでも思っているのなら、ようく考えなおしてみるんだな! さあ、さっさと部屋へもどれ!」  ウインゲートは口をはさみかけたが、思いなおして出ていくことにした。これはだいぶ考えてみなければいけないようだ。事務長はかれを呼びとめた。 「待て。おまえの契約書のコピーだ」  そういって、かれはそれを投げつけた。白いうすっぺらな紙は床に舞い落ちた。ウインゲートは拾い上げ、黙って出ていった。  ハートリイは通路でかれを待っていた。 「よう、どうだったい、ハンプ?」 「あまりうまくいかなかった。その話はいましたくない。考える必要があるんでね」  二人は来た道をまた黙りこくってもどり、下の甲板へ降りる階段にむかって歩いていった。すると、ひとりの男が階段を上がってきて、かれらのほうにやってきた。ウインゲートはつまらなさそうに、そちらを見た。  かれは、もう一度見なおした。一瞬のうちに、ばらばらだった途方もない事件の、すべての鎖がつながった。かれは安堵の叫びをあげて、呼びかけた。 「サム! サム……このくそったれめ。おまえの細工だとわかるべきだったんだ」  これですべてのことが、はっきりした。サムのやつがこのインチキ誘拐をたくらんだのだ。どうせ、船長はサムの友達なんだろう──たぶん、そいつも予備士官なんだ──それで、やつらはお膳立てをしたってわけだ。なにか悪い冗談だとは思ったが、それでも、かれは怒るより救われた思いだった。それなら、その冗談の代価をジョーンズに支払わせてやろう。ルナ・シティから帰るときに。  ジョーンズが笑っていないことに気づいたのは、そのときだった。  それに──どうにもわけがわからないことだが──かれは契約労務者が着ているのと、同じ青いデニムの作業服を着ているじゃないか。そして、かれはいった。 「ハンプ……まだ、きみは酔っぱらっているのか?」 「ぼくが? とんでもない。いったいどうして……」 「大変な目におれたちが巻きこまれているってことが、わからないのか?」 「おい、馬鹿なことを、サム。冗談は冗談として、いいかげんにやめてくれ。わかったよ、うまくはめられたもんだ。まあ、いいさ……悪ふざけだったが」  ジョーンズは苦々しげにいった。 「悪ふざけだと? きみがおれにサインさせたときは、おれもふざけているんだとばかり思っていたがね」 「ぼくがサインさせただって?」 「そのとおりさ。自分が何をしゃべっているのか、きみはすごく自信たっぷりだったぜ。サインをしてだな、一カ月か二カ月、金星で過ごし、それから帰ってこられると、きみはいったんだ。きみはそのほうに賭けるとね。で、おれたちはドックへ行ってサインしたわけだ。そのときは、いい考えだというような気がしたよ……議論に決着をつける、唯一の方法だとね」  ウインゲートは低く口笛を吹いた。 「いや、ぼくはその……サム。つまり、ぼくには何の記憶もないんだよ。のびちまう前のことはまったく空白なんだ」 「ああ、そうだろうな。もっと早くのびちまってほしかったよ。といって、きみを責めているわけじゃない。無理におれをさそったんじゃないもんな。おれもとにかく、自分でも話の片をつけるつもりだったんだから」 「ちょっと待った。ぼくが、どんな目に会ったか聞いてくれよ。ああそうだ……サム、これは、ええと、サッチェル・ハートリイだ。いいやつだぜ」  ハートリイは落ち着かない様子で、二人のそばに立っていたが、前へ進み、握手をした。  ウインゲートはジョーンズにこれまでのことを話し、こうつけ加えた。 「だから、行ってみてもあまり歓迎はされないだろうよ。どうもぼくは、へまをやったらしい。しかしいずれにしても、苦情提出の時期がくれば、すぐにあんな契約は破棄できるさ」 「どうして?」 「ぼくらは、船が離陸する十二時間以内にサインしているんだ。これは、宇宙安全防止法違反だからな」 「そう……きみのいうことはわかる。月は、下弦だったから、地球の自転をうまく利用するために、やつらは真夜中すぎに船を発進させたはずだ。おれたちがサインをしたのは、何時ごろだったのかなあ?」  ウインゲートは契約書のコピーを取り出した。公証人のスタンプは十一時三十二分となっている。かれはさけんだ。 「しめたぞ! こいつには、どこかに弱点があるはずだと思っていたんだ。この契約書はこの点からしたって、無効だよ。航宙日誌もそのことを証明するだろうしな」  ジョーンズは契約書を調べてみた。 「見なおしてみろよ」  と、かれはいい、ウインゲートは素直に従った。スタンプは十一時三十二分を示していたが、それは午前で、午後ではなかった。 「でも、それはおかしいぜ」  と、かれは抗議した。 「確かにおかしいさ。しかし、これは公式文書だ。つまり、おれたちは午前中にサインをし、前借り金をもらい、積みこまれる前にどんちゃん騒ぎをやらかしたって筋書になるんだろう。サインをすることで、募集係となんだかごたごたを起こしたような記憶があるよ。おれたちは、前借り金をそいつに受け取らせて、納得させたんだろうな」 「しかし、午前中にサインするわけはない。そんなことはインチキだ。証明できるぞ」 「それは証明できるさ……しかし、地球へもどらずに、どうして証明できるんだ?」  しばらくのあいだ、どうにもならない議論を続けたあげく、ジョーンズは結論をくだした。 「じゃあ、こうしたらどうだ……いますぐ契約を破棄しようとしても、無駄なことだ。連中はおれたちを笑いものにするだけだ。なすべきは、金に物をいわせることだ。それも、大きな声でな。ルナ・シティで抜け出せる唯一の方法は、あそこにある会社の銀行を通じて、契約無効の保証金を出させることだ……もちろん、現金を、つまり大金を積むんだ」 「どれぐらいの?」 「まあ、少なくとも、二万クレジットくらいだろうな」 「それは不当だ……べらぼうな金額だ」 「不当かどうか心配するのはやめろよ、え? 連中はおれたちの尻尾を握ってしまっているんだぜ。この保証金は法律上では有効なものじゃあない。ただ、小さな会社の役員たちに、規定にない行動を起こさせる機会を与える意味では大いに役立つのさ」 「ぼくには、そんな保証金は作れないよ」 「そんなことは心配するな。それはおれがやるさ」  ウインゲートはその点でも議論したかったが、やめにした。とにかく、金持ちの友人を持っていると、実に便利なことがある。  ジョーンズは続けていった。 「おれは姉に電報を打つよ……その手配をしてもらうんだ」 「なぜ姉さんになんだ? なぜきみの会社あてにしない?」 「敏速な行動を必要とするからだ。わが家の財務管理をやっている弁護士たちなら、電文を確かめようと、血眼になって走りまわるだろう。連中はまず、船長に電報を送って、サム・ヒューストン・ジョーンズは本当に乗船しているのかどうかと尋ねるだろう。すると、やつはノー≠ニ返電する。おれはサム・ジョーンズとサインしているからね。家族のことを考えて、ニュースの種にならないようにと、おれも馬鹿なことを考えたものだ」  ウインゲートは、法律を扱っている同業者に漠然とした義理を感じて、とりなした。 「連中を責めるわけにもいかんだろう、他人の金を扱っているんだから」 「連中を責めているわけじゃないさ。とにかく、敏速に行動しなきゃあいけないし、姉ならおれのいうとおりにやってくれるからな。電文を受け取ると、すぐおれからだとぴんとくるような文章にするよ。いまや唯一の難関は、事務長が信用して電報を打たしてくれるかってことだ」  かれは、この任務を果たしに行って、なかなか帰ってこなかった。ハートリイも、友情と異常な出来事に人間的興味を抱いて、ウインゲートと一緒に待っていた。やっと現われたジョーンズは、唇をかたく結んで困惑の表情を浮かべている。ウインゲートは、その表情から、とつぜん何かひやりとしたものを感じた。 「だめだったのか? 許可は出ないのか?」  ジョーンズは答えた。 「ああ、許可はしてくれたさ……最後にはね。しかし、あの事務長ってやつは……どうも、抜け目のないやつさ!」  警報ゴングが鳴らなくても、ルナ・シティに着陸したことが、ウインゲートにはわかっただろう。月の弱い表面重力──地球標準の六分の一──に近づき、急激に重力が減る変化に、かれの弱りきった胃袋がすぐ反応したからだ。あまり食べていなかったのがよかった。  ハートリイとジョーンズは両方とも、深宇宙へ飛んだことがあるし、物を食べられるぐらいの加速度なら、別になんともなかったのだ。  宇宙酔いにかかる人間と、もう免疫になっている人間とのあいだでは、奇妙に同情というものが欠落してしまう。嘔吐したり、涙を流したり、胃がねじれるように痛む人間を見ると、なぜかわからないがおかしい、ということがあるのだ。  それが、人類をはっきりと、心の通い合わぬ二つのグループに分けてしまう──一方は面白がって軽蔑している連中、もう一方は絶望のあまり人をも殺しかねない憎しみに満ちた連中だ。  ハートリイもジョーンズも、こういう場合にあまりにもよく見られる先天的なサディズムを示す男──たとえば、親切ごかしに、塩漬けの豚肉は薬だよなどといったりするタイプ──ではなかったが、自分たちが気持ち悪くならないものだから(新米のころは自分たちも、魂がよじれるような経験をしたことを忘れて)、ウインゲートが死にまさる苦難≠ノ文字通りのたうちまわっているのも知らぬげだった──いや、ウインゲートの苦しみは、もっとひどいものだった。かれは、宇宙酔いや船酔いに悩む人々やハシッシュを吸う連中だけが感じる(と、いわれている)、あの時間が無限に続くという錯覚に苦しんでいた。  実のところ、月にとまっているのは四時間たらずだった。待ち時間が終わるころには、ウインゲートも、ジョーンズの電報の返事に興味を示す程度には、回復していた。ジョーンズが、いずれルナ・シティにある遠心分離機備えつけのホテルで泊まることができるさと、請け合ってくれてからは、なおさらだった。  しかし、返事は遅れた。ジョーンズは、姉からの返事が一時間以内に、たぶん、イヴニング・スター号がルナ・シティのドックに着く前にくるだろうと、期待していた。時間が過ぎてゆくうちに、かれはあまりうるさく通信室に聞きにゆくものだから、通信室の嫌われ者になってしまった。  過労ぎみの事務員が、十七回目にかれをすげなく追い払ったときに、出航用意の警報が鳴りわたった。サムはもどってきて、ウインゲートに自分の計画が失敗だったことを告げるほかなかった。  かれは、あまり望みがなさそうな口調でいった。 「もちろん、まだ十分あるからな……もし、出航する前に電報がとどけば、船長は最後の瞬間にでも、おれたちを下船させてくれるだろう。もどっていって、最後までねばってみるか。あまり望みはなさそうだがね」  ウインゲートはいった。 「十分か……こっそり抜け出して、逃げられはしないだろうか?」  ジョーンズはがっくりした顔つきをした。 「真空の中を走ったことがあるのかい?」  ルナ・シティから金星へ行くまでのあいだ、ウインゲートにはくよくよしている暇などほとんどなかった。洗面所の手入れと掃除について、ずいぶん多くのことを習い、この新しい技術の実習に、一日十時間を費やした。警備係下士官は、おそろしく物覚えのいいやつだったのだ。  イヴニング・スター号は、ルナ・シティを離れてから間もなく、地球との無線通信可能距離から出てしまった。金星北極植民地の宇宙空港アドニスに着くまで待つよりほかの方法はないのだ。そこにある会社の無線は、外合が続く六十日間と、それより短い、太陽による妨害のある内合期間を除いては、つねに通信が続けられるほど強力なものだった。  ジョーンズはウインゲートにいった。 「おれたちが着陸するころには、釈放許可を持った連中が待ちかまえていることだろうぜ。そうなれば、イヴニング・スターの帰りの便に乗って帰れるさ……こんどは、一等席におさまってな。最悪の場合には、モーニング・スターが来るまで待たなければいけないが、クレジットをすこし送ってきたら、それも悪くないさ。ヴィーナスバーグでそれを使えばいいんだ」 「きみは、前の航海のとき、そこへ行ったんだな?」  ウインゲートは、好奇心を声に現わして、そう尋ねた。かれは女好きの道楽者ではなかったが、三惑星の中でもっとも有名な、あるいは悪名の高い、その歓楽都市の忌まわしい評判は──その判断は個人によるが──相当な野暮天でも想像力をかき立てられるところがあったのだ。  だがジョーンズは首をふった。 「いや……それが運が悪くて! おれは、ずっと船体検査にかかりきりだったんだ。仲間の何人かは行ったらしいが……畜生!」  かれは低く口笛を吹くと、首をふってみせた。  しかし、かれらの到着を待っていてくれる者などだれもいなかったし、電報など一通も届いていなかった。かれらはまたもや通信室のまわりをうろついて、厳しい口調で自分たちの部屋へさっさともどって、上陸の用意をしろと命令された。 「……それも、急いでやるんだぞ!」 「また、労務者収容所で会うことにしようぜ、ハンプ」  自分の部屋へ急いでもどる前に、ジョーンズがいった最後の言葉がそれだった。  ハートリイとウインゲートが割り当てられた部屋の責任者である警備係下士官は、部屋の中の人間をだいたい二列に分け、船の拡声機から流れ出る金属的なさけび声に従って、中央通路へと誘導し、下級船客用出入り口へ通じる四つの甲板へ連れていった。  出入り口は開かれており、かれらはロックを通って、船外に出た──金星の自由な空気にふれたわけではなく、五十ヤードほどむこうにある建物へ通じる、金属板のトンネルに入ったのだ。  トンネルの中の空気は、ときどき放出される防腐剤の霧のため、いがらっぽく感じられたが、輸送船の中で、何度も再生され、腐りかけたような空気を吸わされてきたウインゲートには、それが新鮮で刺激的にさえ思われた。  それに加えて、地球の六分の五という金星の表面重力は、吐き気をおさえるには充分であり、しかも自分が身軽く、力が強くなったと思わせるぐらいの弱さだった──こういったわけで、かれはいくぶん、わけのわからぬ楽観的な気分に、なんとかやってやろうという気になっていた。  トンネルの出口は、比較的大きな部屋につながっており、そこは、窓こそなかったが、目に見えないところから照らしている光線で、まぶしくない程度の明るさだった。その部屋に、家具らしいものは何ひとつなかった。 「ぜんたーい……止まれ!」  警備係下士官が号令をかけ、ドアの内側で待っていた事務員らしい痩せた男に、書類を手渡した。そいつは書類をちらりと見ると、人数を数え、一枚の紙にサインをすると、下士官に渡した。それを受け取った下士官は、トンネルを船のほうへもどっていった。  事務員ふうの男は移民たちのほうにふりむいた。その男が布きれ一枚といった、これ以上短くなりようのないショーツをはいているだけで、その全身が足まできれいな褐色に日焼けしていることに、ウインゲートは気づいた。 「さあ、みんな……着ているものを全部ぬいで、あの屑入れの中へ放りこむんだ」  と、その男はおだやかな声でそういい、壁に取りつけてあるものを指さした。 「どうしてだ?」  と、ウインゲートは尋ねた。かれの態度は反抗的というわけではなかったが、黙って命令に従いたくないといったものだった。 「さあさあ……文句をいうな。きみたち自身のためなんだ。病気を輸入するわけにはいかんからさ」  男の声は同じようにおだやかだったが、その口調にはわずらわしさがこもっていた。  ウインゲートはいいかえすのをやめて、作業服のジッパーをはずした。かれの質問の結果を待っていた連中も、かれのするとおりにした。衣類、靴、下着、靴下、すべてが屑入れに投げこまれた。 「ついてこい」  と、そいつはいった。  次の部屋で裸の群れは、電気バリカンとゴム手袋で武装し、かれらを丸坊主にしようと待ちかまえていた四人の理髪師≠ノ迎えられた。ふたたびウインゲートは何か抗議してやりたくなったが、何をいってもしようがあるまいと観念することにした。  だが、女性労働者たちも、こんなふうに思いきった防疫処置を受けなければいけないのだろうかと、かれは思った。せっかく二十年ものばしてきた美しい髪の毛を、無残にちょん切られるのは、どんなにかくやしいことだろう。  その次は、シャワー室だった。暖かい霧状のお湯のカーテンが、部屋の中をいくつにも区切っていた。ウインゲートは不承不承ではなく、むしろ嬉々としてその部屋に入った。そして、地球を離れてから初めての、ちゃんとした入浴の味を満喫した。かれらは、刺激臭はあるが、よく泡の出る緑色の液体石鹸をふんだんに支給された。  案内した男と同様、裸同熱の男が六人ほど、湯の出る壁から離れたところに立って、全員が決められた時間ずっとシャワーにかかっているか、よく体を洗っているかを監視していた。ときには、細かな点まで、ひどくうるさく命令したりするのだ。そいつらは、白地に赤十字を浮き出させた物をベルトにつけ、それで自分たちのお節介さを正当化していた。  出口の通路では、暖かい空気が吹き出していて、体を完全に乾かしてくれた。 「じっとしていろ」  その命令にウインゲートが従うと、うんざりした顔つきの衛生係が、さわるとひやりとする消毒綿でウインゲートの上膊部をこすり、そこを引っかいた。 「それでよし、歩け」  その声で、ウインゲートは次のテーブルのところへ進んだ。同じことが、もう一方の腕におこなわれた。その部屋のつきあたりまで進んでいくころには、両方の腕は、二十カ所以上の小さな引っかき傷だらけになっていた。 「これはいったい、何のためなんだ?」  と、ウインゲートは、その最後の場所にいて、かれの名前をチェックし、傷の数を調べている衛生係に尋ねてみた。 「皮膚のテストだ……おまえの抵抗力と免疫性を調べているのさ」 「何に対する抵抗力だね?」 「何でもさ。地球と金星における病気に対するもんだ。まあ、金星にある病原体は、たいがい菌状腫だがね。さあ、進め。あとがつかえちまっているぜ」  そのことについて、あとでかれはもっと多くのことを聞いた。普通の地球人の体質を、金星むきの条件に切り換えるには、二ないし三週間かかるのだ。この条件づけが完金におこなわれ、この惑星での新しい危険に身をさらせる免疫性ができる前に、金星上にうごめく貪婪な見えない寄生菌にその皮膚を、特に粘膜をさらそうものなら、それは地球人にとって死を意味するのだ。  どの生命にとっても、その主要な特徴となっているのは、生命対生命のあくなき闘いだが、高度の代謝作用がおこなわれる金星のひどい湿地ジャングル地帯では、特にその闘いが激しくおこなわれている。地球上で、病原菌による病気をほとんど駆逐してしまった殺菌ウイルスは、わずかな一時的変異だけで、金星上の類似しているが別種の病気に有効であることが発見された。だが、飢えたかび類には別だった。  これまでに出会ったことがあるかぎりの、かび類による最悪の皮膚病を考えてみよう──白癬、頑癬、水虫、腐敗症、塩水疥癬、七年疥癬。それに加えて、かび、湿潤による腐食、錆、腐敗物に生える毒茸を考えてみるがいい。それらがどんどん成長し、みるみるうちに繁殖していく──眼球の中を、腋の下を、口の中の粘膜を、肺の中まで入りこんでいくところを心に描いてみることだ。  最初の金星探険隊は全滅だった。二度目のときは、小型の紫外線放射装置と、サルチル酸に水銀サルチル酸塩を充分に持っていったほうがいいと考えた分別のある医者が同行した。そして一行のうち三人が帰還した。  しかし、永久的な植民地にできるかどうかは、環境からの絶縁ではなく、適応にかかっている。ルナ・シティは、その考えを否定する例証となるかもしれないが、それは皮相的な見方だ。月世界人《ルナティックス》がかれらの都市全体を覆って密閉した空気のドームに依存しきっているのは事実だが、ルナ・シティは自給自足の植民地ではなく、前進基地にすぎないのだ。採鉱所として、観測所として、地球の引力圏外にある燃料補給基地として役に立つのだ。  金星はまさに植民地だ。入植者たちは、金星の空気を呼吸し、そこの食物を食べ、そこの気候と自然の脅威に、身をさらしているのだ。  ただ厳寒の極地──雨季の暑い日におけるアマゾンのジャングルの気候条件とほぼ同じところ──だけが、地球人の生きていける場所だったが、そこでもかれらは、環境生態学的にバランスが取れている湿地帯を素足で歩くのだった。  ウインゲートは支給された食物を食べた──腹いっぱいにはなるが、いいかげんな調理の仕方で、うまくなかった。ただ、金星産の甘酸っぱいメロンだけは別で、シカゴの高級レストランなら、かれが食べただけの分でも、中産階級一家族一週間分の食費ぐらいはふんだくられたことだろう──それから、かれは寝る場所を指定された。  サム・ヒューストン・ジョーンズを探してみたが、移民労務者たちの中には見つからなかったし、また、かれの姿を見かけたという者も見つからなかった。  条件調整所の勤務者のひとりが、労務差配人事務所の男に聞いてみたらと教えてくれた。ウインゲートはお世辞たらたらの態度で、そのとおりにしてみた。下っ端の事務員にはそういう態度を取ったほうが賢明だと、かれにもわかってきたのだ。 「明日の晩、もう一度来てみるんだな。リストが張り出されるからな」 「どうもありがとうございます。お手数かけてあいすみません。かれの姿が見えないし、ひょっとすると病気にかかっているのかもしれないと思いましてね。もし病人のリストに載っていたら、教えていただけませんか?」 「そうだな、ちょっと待てよ」係員は記録をめくってみた。「ええと……イヴニング・スター号に乗ってきたやつだな?」 「そうです」 「そうか、載っていない……ないな……いや、ここにあった。そいつは、ここでは上陸していないぞ」 「なんですって?」 「そいつは、イヴニング・スター号で、南極のニュー・オークランドへ行っちまったんだ。機械技術者の助手となっている。そのことをいってくれれば、すぐわかったんだ。ここに委託された金属関係の連中はみな、新しい南極の発電所に送られるんだ」  しばらくしてから、ウインゲートはやっと気を取りなおして、つぶやいた。 「どうもお手数をかけました」 「なあに、いいんだよ」  係員はそういって、むこうへ向いた。  南極植民地! かれは、自分にいい聞かせるようにつぶやいた。南極植民地。ただひとりの親友が、一万二千マイルも離れたところに。とうとうひとりぼっちになってしまったと、ウインゲートは感じた。罠にかかり、見捨てられてしまったのだ。  船の中で目が覚め、ジョーンズも同じ船に乗っていることがわかるまで、かれは自分の危険な立場がよくのみこめず、上流階級の自尊心も失っていなかった。内心では、こんなことは何かの間違いだ──人に知られている人間に、こんなことが起こるはずはないと、確信していたのだ。  だが、自分が不正なあるいは独断的な取り扱いなど、基本的に受けるはずがないといった確信を、もはや持ちえないほど、かれは人間的自尊心を踏みにじられてきた(そのいくぶんかは、主任警備官のおかげだ)。そしていま、頭を剃られ、何の同意も求められずに風呂に入れられ、輓馬具のようなふんどしを着けさせられ、故郷の社会から何百万マイルも離れたところへ運ばれたあげく、かれの感情などには何の関心もない連中、しかもかれの人格や行動の上に法的な権限を持っているという連中の意のままに扱われている。そのうえ、かれに援助の手をさしのべ、勇気と希望を与えてくれる唯一の人間との関係を断ち切られた現在、いかにかれといえども、この自分、社会的名声のある弁護士であり、すべての権威あるクラブのメンバーである──ハンフリイ・ベルモント・ウインゲートの身の上にだって、どんなことでも起こりうるのだということを、しみじみと悟らないわけにはいかなくなったのだ。 「ウインゲート!」 「おい、おまえのことだ、ジャック。さあ、入れ。かれらを待たすんじゃあない」  ウインゲートがドアをおして入ってみると、そこはかなり混み合った部屋だった。三十人あまりの人間が、部屋にずらりと坐っている。ドアの近くに係員が一人、デスクにむかって書類を忙しそうに調べていた。きびきびした様子の男がひとり、椅子がどけられた空間に立っており、その近くの低い壇に、部屋の照明のすべてが集められている。  ドアのところの係員が顔を上げ、鉄筆で壇をさしていった。 「みなさんに見えるように、そこへ上がるんだ」  ウインゲートはいわれたとおり前へ進み、ライトの明るさに目をしばたたいた。係員は読み上げた。 「契約番号四八二−二三−〇六……労務者、ハンフリイ・ウインゲート、六年、無電技術者、ただし免許なし。給与基準は六級のD。譲渡希望者は申し出てください」  かれの条件づけがすむまでに三週間がたっていた。ジョーンズから何の音信もない三週間だった。外気にさらされるテストを受けたが、別に病気にもかからず合格した。こうしてかれは、いまや年季奉公労務者として実際に働かされようとしているのだ。係員が報告を終わると、きびきびした男が、声をはりあげた。 「さあさあ、地主の旦那がた……この男は、特別優秀な男ですぞ。知性、適応性、常識といい、すべてのテストですばらしい点数を示していますよ。ただ、会社側で、最低入札価格を一千クレジットとしていることだけは申し上げておきます。しかし、荒野からすばらしい富を絞り取るために、優秀な男ならどうしても欲しいってときに、こんな男を会社のつまらん仕事で使うなんてのは、もったいなさすぎますからな。  この労務者を雇える幸福な旦那が、一カ月のうちにこいつを労務監督に仕立てあげられるってことは、わたしが保証してもよござんすよ。まあ、何はさておき、ご自分の目でよくご覧になるこった。こいつに話しかけてみるもよし、見てみられることですよ」  係員が、せりの男に何かささやくと、そいつはうなずいて、こうつけ加えた。 「お知らせしておくようにといわれましたんで、紳士と地主のみなさん、聞いてください。この労務者は、もちろん、記録にある先取特権に従い、法に決められているとおり、二週間の予告期間をくれと申しております」  かれは陽気な笑い声をあげると、この言葉の中に、とてつもない冗談が隠されているといったふうに、片方の眉を上げてみせた。だれも、そんな言葉に注意をはらう者はいなかった。  ウインゲートも、ある意味からは、これが冗談あつかいされるのも無理はないと、苦々しく認めないわけにはいかなかった。ジョーンズが南極植民地に送られたことを知ってすぐ、ウインゲートはその申し出をしたのだが、理論的にやめる自由はあっても、前借り金と往復旅費を稼ぎ出さないかぎり、それは飢え死にする自由を得ることにほかならないのだと気づいた。  何人かの地主たちが壇のまわりに集まって、かれを眺めながら、さかんに値踏みしていた。 「あまり、肉づきはよくないな」「わしゃあ、こういう頭のよさそうな連中は苦手でねえ。ごたごたを起こしがちだからなあ」「しかし、馬鹿なやつを雇っても、役には立たんぜ」「あいつは何ができるんだ? ちょっと、記録をのぞいてみるか」  かれらは係のデスクにやってきて、ウインゲートが検疫期間に受けたさまざまなテストや検査の結果を吟味した。ただひとり、ビーズ玉のような目をした男が、ウインゲートのそばにやってくると、壇に片足をかけて顔を近づけ、秘密の話でもするように話しかけた。 「あんな紙っきれなど、おれは興味がないんでね。おまえから、直接自分のことを話してくれないか」 「別に話すこともないんです」 「固くならんでもいいんだ。おまえはきっと、おれんところが気に入るぜ。まるで自分の家みたいなもんだ……雇い人のために、おれは無料のクロックをヴィーナスバーグまで走らせているんだ。ニグロを扱った経験はあるか?」 「いいえ」 「そうか。原住民はどっちみち、ニグロとはわけが違うからな。話し方が似ているだけだ。手荒な連中でも使いこなせるように見えるが、そんな経験はあるのか?」 「あまりありません」 「そうかい……おまえはきっと、控え目にいっとるんだろう。おれは、自分の口をきちんと閉じている男が好きなんだ。うちの若い衆は、おれを好いているね。おれは監督のやつに、絶対、かすりを取らせないからな」  壇のそばにやってきたもうひとりの地主が、口をはさんだ。 「そうか……あんた自身がそれを取っちまうからな、リグズビイ」 「よけいなでとをいうな、ヴァツ・ヒューゼン!」  新しくやってきた地主は、どっしりとした中年の男で、仲間を無視すると、ウインゲートに話しかけた。 「きみは予告の件を申し出たそうだが、なぜだ?」 「何もかも、間違いだったからです。ぼくが酔っぱらっていたものですから」 「とにかく、いまのところは真面目に働く気があるのか?」  ウインゲートはじっと考えてから、答えた。 「はい」  どっしりした男はうなずくと、自分の席へ重々しい足取りで帰ってゆき、服をぐいと引っぱって、幅の広いベルトを直した。  他の地主連中も席につくと、せり係の男が陽気な声をはりあげた。 「さあて、旦那がた、用意がよろしいようでしたら……この契約に対する最初の付け値をおうかがいしましょう。わたしは、自分の助手にこの男を雇えたらと思っているぐらいなんですよ。いや、まったく! さあ、いくら?」 「六百」 「おっと、旦那がた! わたしは、一千クレジットが底値だと申しあげたはずですがね?」 「それが本気だとは知らなかったよ。そいつは、怠け者みたいだからな」  会社の代理人は眉を上げてみせた。 「そいつはどうも。この男は壇から下ろしたほうがよさそうですな」  しかし、ウインゲートがおりる前に、ほかの声がかかった。 「千」  せり係はさけんだ。 「そうら、それで結構! 旦那がたが、こんな男を見逃すはずはないと思った。しかし、船だって、ジェット一本じゃあ飛ばないよ。どなたかもうひと声、千百の声は? さあ、旦那がた、労務者がいなければ儲けることはできませんぜ。さあ、もうひと声……」 「千百」 「リグズビイの旦那から、千百の声がかかった! こんな値段じゃあ、まったくの大安売りだ。だが、この値段じゃあ、どうかと思いますぜ。どなたか千二百は?」  どっしりした男が、親指を上にあげた。 「ヴァン・ヒューゼンの旦那が千二百ね。どうもこれじゃあ時間の無駄だ。二百きざみでいきましょう。さあ、それじゃあ、千四百の方は? 千四百の方? 千二百で決まりですか……千二百で決まり……」  リグズビイが不機嫌そうにいった。 「千四百」 「千七百」  と、ヴァン・ヒューゼンがすぐ応じると、リグズビイがいいかえした。 「千八百」  せり係がいった。 「おっとっと……二百以下のせりあげはなしですぜ」 「わかった、畜生め、千九百だ!」 「そうら、千九百だ、こいつはどうも書きにくい数字ですな。どなたか二千百は?」  ヴァン・ヒューゼンの親指が上がった。 「二千百が出ました。金を儲けるには金が要るってことですぜ。ほかにありませんか? ほかにありませんか?」そいつは、ちょっと息をついた。「二千百……二千百。もうあっさりあきらめるんですかい、リグズビイの旦那?」 「ヴァン・ヒューゼンのやつ……」  あとは口の中で、言葉にならない。 「いまのうちだよ、旦那がた。行きますよ、行きますよ……行った!」そいつは、激しく両手をただき合わせた。「……では、二千百クレジットでヴァン・ヒューゼンの旦那に売れました。おめでとうございます、旦那、みごとなせりでした」  ウインゲートは奥のドアから、新しい主人のあとについて出た。通路で、リグズビイが二人を呼びとめた。 「ようし、ヴァン、もうたっぷり楽しんだろう。二千でおれが損を少なくしてやるよ」 「どいてくれ」 「馬鹿なことをするな。この男は掘り出しものなんかじゃないぞ。あんたは、労務者をこき使う方法を知らん……おれは知っとるんだ」  ヴァン・ヒューゼンはかれを無視し、おしのけて通った。ウインゲートはそのあとについて、暖かい霧雨の中を駐車場へ歩いた。そこにはクロコダイル車が何列もならんでいた。ヴァン・ヒューゼンは、長さ三十フィートのレミントン型のそばで立ちどまった。 「乗れ」  クロックの長い箱型の胴体には、ヴァン・ヒューゼンが基地で買いこんだ品物が、満載されていた。荷物の上にかぶせてあるタール塗りの防水布に、六人の男が寝そべっている。ウインゲートが乗ろうとしたとき、その一人が体を動かした。 「ハンプ! おい、ハンプじゃないか!」  それはハートリイだった。ウインゲートは驚き、感情がたかぶってくるのを覚えた。かれはハートリイの手をしっかりとつかみ、友情あふれる罵声を投げあった。ハートリイはいった。 「おい、みんな……こいつがハンプ・ウインゲートだ。いいやつだぞ……ハンプ、こいつらが仲間だよ。あんたのま後ろにいるのは、ジミイってやつでね、そいつがこの乳母車を動かしているんだ」  そういわれた男はウインゲートに明るくうなずいてみせると、運転席についた。後部の覆いがある小さな客室に入ったヴァン・ヒューゼンが手をふると、運転手は両方の操縦レバーを引き、クロコダイルは泥をがたごとキャタピラーで分けながら、進んでいった。  六人のうち、運転手のジミイを入れた三人は古株だった。この連中は、主人が市場に運びこむ農場の産物と、かれが買って運んで帰る補給品の、積み下ろしと積みこみにやってきたのだ。ヴァン・ヒューゼンは、ウインゲートとハートリイのほかに、新規契約労務者を二人雇った。その二人は、ウインゲートがイヴニング・スター号に乗っているときや、管理事務所や条件調整所で見たことのある連中だった。  新入り連中はウインゲートも含めて、だいぶ参っているようだったが、農場から来た古株の連中は、いかにも楽しんでいるように見えた。荷物を運んで町へ行き来するのを、かれらは遠足のように考えているらしい。かれらはタール塗り防水布の上に横たわって噂話をし、新入りの連中と仲良くなって時間をつぶすのだ。  だがかれらは、個人的に立ち入った質問などは仕向けてこなかった。金星の労務者たちは、当人が自分から打ち明けないかぎり、会社の船で送りこまれるようになる前の経歴などを、あれこれ詮索したりはしない。それはもうすんだこと≠ネのだ。  アドニスの郊外を離れると、車は斜面をずるずる滑り下りてゆき、揺れながら低い土手を越えると、のろのろぱしゃりと水の中へ入っていった。  ヴァン・ヒューゼンが、客室と荷台を分けている隔壁の窓をあけるなり、さけんだ。 「馬鹿野郎! ゆっくり入れというのが、何度いえばわかるんだ?」  ジミイは答えた。 「すんません、ボス。つい、うっかりしてたもんで」 「ちゃんと目をあけていろ。しっかりしないと、運転手を代えちまうぞ!」  かれは荒々しく窓をしめた。ジミイは後ろをふりかえると、仲間たちにそっとウインクしてみせた。ジミイは両手をいそがしく動かしつづけていた。  沼地は植物がびっしり生い茂っていて、ちょっと見ると、固い地面の上を渡っているような感じだった。クロコダイルは、いまやボートとして機能し、キャタピラーの広い輪縁《フランジ》がパドル・ホイールの働きをしていた。くさび型をした車の先端が、灌木や沼地の草を押し分け、小さな木を押し倒す役目をする。ときどき、キャタピラーの耳が浅瀬の泥にくいこみ、障害物を乗り切ると、すぐに車はまた陸上車にもどるのだ。  ジミイのしなやかで、機敏な両手が休みなく操縦装置の上を走り、大木をよけ、つねにもっとも通りやすく、もっとも近い道を探し求めながら、かれは注意力を、地形と車のコンパスの両方に向けていた。  やがて、会話がちょっと途切れると、農場から来た一人が歌い始めた。かれは相当いけるテナーで、すぐに他の連中も歌い始めた。ウインゲートも、それを聞き覚えるとすぐに|繰り返し《コーラス》部分を唄っていた。  かれらは唄った。〈給料支払簿〉と〈監督がおれの従姉妹に会ってから〉を、そして、〈やつらはかれを藪の中で見つけた〉という物悲しい歌を。だが、その次は〈雨がやんだ夜〉という軽快な歌だった。それは、ありえないようなとんでもない出来事(たとえば、旦那がみんなに一杯おごった……≠ニいうような)を、果てしなく歌いこんだものだった。  ジミイが〈あの赤っ毛のヴィーナスバーグ娘《ギャル》〉というので喝采を受け、大合唱が起こったが、ウインゲートにはどうしようもない下品な歌としか思えなかった。だがそんなことを考えている暇はなかった。次の歌が、そんな気持ちを消し去ってしまった。  テナーが、ゆっくりと優しく、歌い始めた。ほかの連中が──ウインゲート以外のみんなが、繰り返し部分を合唱するあいだ、テナーは休んでいるのだ。かれは黙りこんで、物思いに沈んでいた。二番の三節目でテナーは歌うのをやめ、合唱がそれに代わった。 [#ここから3字下げ] ああ、書類にハンコつき、サインもすましゃあ (逃げろよ! 逃げろ!) 前借りつくりの恥まみれ、泥まみれ (ああ、その日が悔やまれる! 悔やまれる!) エリスの島で下ろされて、島の囲いに入れられて そこで知るのは、年季奉公に起こること── ボーナスなんぞは払ってくれず もいちど、年季のやりなおし! (ここにいろ! ここにいろ!) それでもおいらは給料ためて 前借りかえすよ、切符も買うよ (ほんとにそうか! ほんとにそうか!) みんな見ていろ、こんどの船で おいらはほんとに、おさらばよ (その日よこい! その日よこい!) そんな話は千べんも聞いた 嘘とはいわぬが、やってみろ わしらが見るのは、おまえがまたも ヴィーナスバーグですっからかん! 〔ゆっくりと話すように〕それで切符代もたまらねえ (逃げろよ、逃げろ!) [#ここで字下げ終わり]  この歌はウインゲートを、すっかり絶望的な気分にさせてしまった。食欲を減退させるような風景や、なま暖かい霧雨や、晴れた空のかわりにいつも変わらず金星を取り巻いている白い毛布のような霧のせいもあった。かれは荷台の隅に引っこんで、じっとしていた。だいぶたってから、ジミイが怒鳴った。 「明かりが見えるぞ」  ウインゲートは体を乗り出して、かれのこれからの新しいわが家みほうへ目をこらした。  四週間、サム・ヒューストン・ジョーンズからは何の音沙汰もなかった。そのあいだに金星はその軸を中心にして一回転し、十四日間の金星の冬が過ぎ、おなじ期間の夏も去り──といっても、雨量が多少多いことと、すこし暑くなることぐらいが、冬との違いなのだが──いまはまた冬がやってきた。  極地に近いヴァン・ヒューゼンの農場は、金星の他のほとんどの居住可能区域と同じく、決して暗くなることがなかった。何マイルもの厚さの密雲が、頭上低くかかる太陽の光を、夏のあいだはさえぎり、公式に夜とか冬とか呼ばれている二週間のあいだは熱を保ち、地平線のすぐ下にある太陽の光を拡散して、淡い光を生み出すのだ。  何の音沙汰もない四週間。太陽も、月も、星も、夜明けさえ目にすることのできない四週間。朝のさわやかな大気にふれることもなく、生命の躍動する昼間の太陽も見えず、心地よい夕方の影を迎えることもない。何もない。むし暑く、じっとりとした時の流れを区別してくれるものも何ひとつなく、ただ睡眠、仕事、食事、そしてまた睡眠という、単調な決まりがあるだけだ──地球の澄みきった青空に対する心のうずきは、激しくなるばかりだった。  新米は、他の労務者に挨拶代わりのおごりをするという万古不変の習慣にしたがって、かれは楽しみの液体──リラ──を手に入れるために、搾取者《スクイーザー》の伝票にサインしたのだが──初めて給料支払簿にサインしたとき、その友情の結果、仕事から解放される期間が四カ月延びるということを知った。  それ以後かれは、もう決して伝票にサインなどするまいと決心し、ヴィーナスバーグでの短い休暇を楽しむこともやめようと誓い、前借りの分と運賃を貯めるために、一クレジットでも倹約しようと思った。  ところが、その低アルコール飲料は悪徳でも贅沢でもなく、必需品だということがかれにもわかってきた。植民地のすべての照明設備に紫外線が入っているように、金星の人間生活にとって欠くべからざるものなのだ。泥酔させることなく、心に軽やかさを与え、不安から解放し、なくては眠れなくなる。  三晩を自責の念にかられていらいらと過ごし、監督の非友好的な視線のもとに疲れきった三日間を過ごすと、かれもほかの連中と同じく、一本買うためにサインしてしまった。その一本の値段で自由への道がじりじりと半日以上ものびてしまうものだとは、ぼんやりと感じていたが。  それにかれは、無電の仕事にもつかせてもらえなかった。ヴァン・ヒューゼンのところには、通信士がひとりいたからだ。帳簿の上では予備通信士ということになっていたが、ウインゲートはほかの連中とともに沼地へやらされた。かれは自分の契約書を読みかえしてみて、自分の雇い主がそうする権利があるという条項を見つけ、心の半分で──つまり、冷静に法の精神にのっとった司法官の心で──この条項が適切かつ正当なもので、決して不当なものではないことを認めた。  かれは沼地へと働きにいった。小さくておとなしい水陸両棲人たちを、おどかしたりすかしたりしながら、ヒヤシンサス・ヴィネリス・ジョンソーニという植物の、水中にある球根──金星ウイスキーのもと──を取り入れさせることを学んだし、かれらの女族長にジガレック≠フボーナスを約束して、うまく協力させることもできるようになった。それは紙巻煙草だけではなくあらゆる煙草の総称で、金星原住民との取引きには、主要な媒介物となるのだ。  かれは皮むきの仕事に代わり、のろのろと不器用な手つきで、海綿状の莢を切り取り、えんどう豆ぐらいの大きさの実を取る方法を学んだ。その実だけが売り物になるので、傷をつけたり傷めたりすることなく、そっくり取り出さなければいけないのだ。  莢から出る汁がかれの手を荒れさせ、その匂いで咳きこんだり、目が痛んだりしたが、この仕事は女性の労務者と一緒にやれるので、沼地の仕事よりも楽しかった。  女たちはこんな仕事を男より早くやれる。値打ちがあって傷つきやすい実を取り出すのには、女の小さな手のほうがずっと器用なのだ。男がこんな仕事にかりだされるのは、収穫が多すぎて、手が足りないときだけだった。  かれは、他の女たちがヘイゼルと呼んでいる母親のような感じの年老いた女性から、この新しい仕事を教わった。彼女は手を動かしながら教えてくれたのだが、その節くれだった手は、どうというはっきりした動きや技術も見せずに、着実に仕事を片づけていった。  ウインゲートは目をつぶりさえすれば、地球にもどって少年時代に帰り、台所で豆をむきながらおしゃべりをしているお祖母さんのそばにいるような気分になれた。  ヘイゼルはいった。 「くよくよするのは無駄だよ、坊や……仕事さえちゃんとやってりゃあ、悪魔だって恥ずかしくなっちまうさね。いまに良い日もくるってもんさ」 「どんな良い日が来るっていうんだね、ヘイゼル?」 「主の天使たちが立ち上がって、悪の力を滅ぼす日がくるのさ。闇の王子が穴の中に投げこまれて、予言者が天の子供たちを治めてくれる日がね。だから、心配することはないってこと。おまえさんがここにいようと、地球にいようと、良い日は必ずくるんだから。問題なのは、おまえさんがその恵みにあずかる資格があるかどうかってことなんだよ」 「その日が来るまで、ぼくらが生きていられることに間違いないのかい?」  彼女はあたりに目をくばり、体を乗り出して内緒話をするようにいった。 「その日が、もうすぐきそうなんだよ。いまでも、予言者は立ち上がって、この地に下りて、軍勢を集めておられるのさ。ミシシッピイ峡谷の清らかな農園から出てこられたお方でね、この世ではね」──彼女はいっそう声を低めた──「ネヘミア・スカダーという名前で知られているよ!」  ウインゲートは自分の驚きとおかしさが、あまりはっきり顔に出なければいいがと思った。かれは、その名前を覚えていた。地球ではたいしたこともないごろつきの、粗野な福音伝道師で、たまにニュースで冷やかされることもある程度の、問題にならないような男だった。  皮むき小屋の監督がふたりのベンチに近づいてきた。 「おい、ちゃんと仕事をしろ、ちゃんと! 遅れているじゃないか!」  ウインゲートがあわてて手を動かすと、ヘイゼルは助け船を出してくれた。 「そっとしといておやりよ、ジョー・トンプソン。皮むきを覚えるのには時間がかかるんだよ」  監督はにやりと笑って答えた。 「わかったよ、マム。でも、そいつを怠けさせてくれるなよ」 「わかってるさ。ほかの連中の心配でもしたらどうなんだね。このベンチは、割り当てはちゃんとやるからさあ」  ウインゲートは二日間、傷ものを作ってばかりで、仕事がはかどらなかったが、ヘイゼルができたのをまわしてくれており、監督もそれを知っていた。だが、みんなが彼女を好いていたし、監督ですら彼女が好きだったので、何もいわなかった。監督というのはだれも好きにならないもんだし、監督仲間のあいだでも好きになったりはしないものなのだが。  ウインゲートは、独身者用宿舎の外に立っていた。閉門時刻まで、まだ十五分ぐらいあった。金星へ来てからずっとつきまとわれている閉所恐怖症に似た気持ちから、なんとかして逃れようと無意識のうちに考えて、そこに立っていたのだ。だが、それは無駄だった。金星の戸外には、戸外らしさ≠ネんてものはなかったのだ。藪は空き地におしよせて入りこみかけていたし、鉛のように霧がたちこめた空はかれの頭をおしつけ、蒸気のような熱はかれのむき出しの胸に坐りこんでいる。しかし、いくら脱水装置があっても、寝相部屋の中にいるよりは、ここのほうがまだましだった。  かれはまだ、リラの夕方の分を飲んでいなかったし、そのせいでか不安で、気分が苛立っていた。それでもなんとか自尊心を奮い起こして、あの楽しい催眠薬に身をまかせる前に、何分間かははっきりした頭で物事を考えてみようとしていた。かれは考えた。もう何カ月かすれば、その機会があるたびに、おれもヴィーナスバーグへせっせと通うことになるだろう。あるいは、もっと悪くすれば、所帯持ち宿舎へ行く伝票にサインしたあげく、自分自身と生まれてくる子供たちに終身刑を宣告してしまいそうだ。  ここへ来た当座は、女性労務者などだれを見ても、平凡な顔立ちの上にぼんやりしていて、いっこうに魅力を感じなかったものだが、いまでは困ったことに、もうそれほど気むずかしく考えてはいられない。いや、ほかの労務者同様、気づかぬうちに、水陸両棲人を真似て、舌がもつれたような話し方をするようにまでなっている。  最初のうち、労務者たちを観察していた結果、二つの種類に大別できるとかれは思った。自然のままの子供と、破壊された大人だ。  前者は想像力に乏しい、ごく単純な連中だった。あらゆる意味で、かれらは地球にいたとき物事を知らなかったと思われる連中で、植民地文化をみても、それを奴隷制度などとは思えず、あらゆる責任から解放され、身分を保証され、たまには楽しみにもありつけるところだぐらいに考えている。  後者は打ちのめされた人々であり、追放された者たちだった。かれらはかつて、ちゃんとした連中だったのだが、性格上の欠陥か、何かの事故のせいで、その社会的地位を失ったのだ。たぶんかれらは、判事にこういわれてきたのだろう。「植民地へ行くというのなら、刑の執行を延期しよう」と。  自分の属する場がきまりかけていることに気づいて、かれは一瞬パニックに襲われた。自分は打ちのめされた人間になりかけていたのだ。地球上でのかれの背景はみな、心の中ですでにかすかになりかけている。ジョーンズに手紙を出すことも、ここ三日ほどはやめている。それに労働時間の終わりごろは、なんとかしてヴィーナスバーグで二、三日楽しめる口実を探そうとやっきになっている有様だった。  さあ、しゃんとしろ。いいか、しゃんとするんだと、かれは自分にいい聞かせた。おまえは堕落しかけているんだ。自分の心を奴隷の心に安んじさせようとしているぞ。きさまは、ここから脱出するのを、ジョーンズにまかせきりにしているじゃないか──どうして、かれが助けてくれると思いこんでいるんだ? かれは死んでしまっているかもしれないのだぞ。ぼんやりとした記憶の中から、かれは歴史上の哲学者の言葉を思い出した。おのれ自身を解き放たないかぎり、奴隷は自由ではありえない  わかった、わかった──さあ、しゃっきりしろ。元気を出せ。リラなど、くそくらえ──いや、それは実際的じゃあない。眠りは必要なものだ。ようし、じゃあこうしよう。消灯までリラをつつしんで、夕方のうちは頭をはっきりさせておき、計画を練るんだ。目をしっかり開いて、自分に何ができるのかを見つけるんだ。友達を作り、チャンスをねらうんだ。  薄闇をとおして、宿舎の門へ近づいてくる人影にかれは気づいた。近づくにつれて、それは女だとわかった。たぶん、女性労務者のひとりだろうと思ったが、すぐ近くになってみると、そうではなかった。アネク・ヴァン・ヒューゼン、地主の娘だった。  彼女は悲しそうな目つきの、がっしりした大柄な体格の金髪娘だった。仕事から帰ってくる労務者たちを見守っていたり、一人で開墾地を歩きまわっている姿を、かれは何度か見たことがあった。みっともなくもないが、そうかといって魅力的だというわけでもない娘だ。彼女のいささか育ちすぎた体は、すべての植民者たちが最小限身につけている馬具のようなものより、もうすこしましなもので覆う必要がありそうだった。  彼女はかれの前で立ちどまると、ポケット代わりの腰のパウチのジッパーをあけ、煙草を一箱取り出した。 「あちらで、これを見つけたの。落としたんじゃない?」  嘘だと、わかっていた。かれが見ていたかぎり、彼女は何も拾いはしなかった。しかも、その煙草は地球上で吸われている銘柄で、ここでは地主連中しか吸えないものだった。労務者の手に入るものではない。彼女は、いったいどういうつもりなんだ?  彼女の顔がこわばり、その胸が激しく上下しているのを見て、かれはどぎまぎしながら、この娘が自分に贈り物をしようとしているのだと悟った。しかし、なぜなんだ?  ウインゲートはじぶんの容姿や魅力について、それほど自惚れていなかったし、そんな資格があるとなどさらさら思っていなかった。しかし、かれが知らなかったのは、つまらぬふつうの労務者に立ち混じると、鶏の群れに入った鶴のように目立って見えることだった。しかし、アネクがかれを好ましく思っていることは、かれも認めるほかなかった。こんな作り話をしたあげく、ささやかながら、哀れなほど小さい贈り物をしようとする彼女の態度は、そうでも考えるほか説明のつけようがなかった。  かれを襲った最初の衝動は、彼女に肘鉄をくわそうかということだった。こんな娘からは何も欲しくなかったし、プライバシーを侵されたことに対する腹立たしさもあった。  それにこんなことになると、何か危険がふりかかってくるような予感が漠然としたし、習慣に対する冒涜となり、社会と経済の全構造を危殆に瀕させるようなことになるのではないかという気づかいもあった。  地主側からみれば、小作労務者などは現地両棲人とたいして変わりのない存在なのだ。小作労務者と地主の娘の仲が怪しいというようなことになれば、リンチにもなりかねない。  だが、彼女を追っぱらうほど、かれは心臓が強くなかった。彼女の目は愚かなあこがれに満ちており、それをふりはらうには非情な心が必要だった。そのうえ、そのそぶりには、押しつけがましいところも、内気ぶったところもなく、自然のまま、まるで子供のように素朴な態度だった。  かれは、友達を作ろうと決心したことを思い出した。ここに友情を求めている者がいる。それは危険な友情だ。しかし自由を求めるときに、有効な役目を果たすかもしれないのだ。  この無防備な娘のどこかに利用価値がありはしまいかと探っている自分に気づくと、かれは一瞬恥ずかしい気がしたが、別に害を与えようというわけじゃないと思いなおし、それに、ふられた女は恨みを忘れないという昔からの言い伝えもあることだしと、自分を勇気づけた。 「そう、そうかもしれないな」かれはあいまいにいって、こうつけ加えた。「とにかく、その銘柄はぼくの好きなやつなんです」  彼女は嬉しそうにいった。 「そう……じゃあ、とりあえず取っておいたら」 「ありがとう。あなたも一本吸いませんか? いや、それはまずいか。お父さんは、あなたがここにいるのを喜ばないでしょうからね」 「あら、父さんはお金の勘定で忙しいわ。あたい、出てくるときに、ちゃんと見てきたの」そう娘は答え、それで自分の、哀れにも可愛い嘘がばれてしまったのにも、気づかない様子だった。 「でも、あなた吸ってよ。あたい……あまり吸ったことないんだもの」 「たぶんあなたは、海泡石《メアシアム》のパイプで吸うほうがいいんでしょう……あなたのお父さんみたいにね」  そんなつまらない冗談でも、彼女は笑いこけてくれた。それから二人はとりとめのない話をかわし、今年の収穫はよさそうだとか、先週より今週のほうがいくら涼しいとか、夕食のあとでは新鮮な空気にちょっとふれるのが一番だとかいう話をしては、相槌を打ちあった。 「夕食のあとでは運動のために散歩などするの?」  と、彼女は尋ねた。  沼地で長い一日を労働で過ごせば、運動以上の効果があるさなどとはいわず、そうだとかれは答えた。  彼女は打ち明けた。 「あたいもよ……給水タンクのところを長いこと散歩するの」  かれは娘を眺めた。 「そう? よく覚えておくよ」  点呼の始まる合図が、別れるいい機会を作ってくれた。もう三分もいれば、デイトの約束をしなくちゃいけないところだったと、かれは思った。  次の日、ウインゲートは沼地の仕事にまわされた。皮むき小屋の仕事があまり忙しくなくなったのだ。クロックは長い曲がりくねった巡回路を、ごろごろ動きまわり、ぴしゃぴしゃ水をはねかえしながら、各監督詰所に一人かそれ以上の地球人を下ろしていった。  車の人員はしだいに少なくなり、ウインゲートとサッチェル・ハートリイ、それに監督と運転手のジミイの四人だけになった。すると、監督がまた車をとめろと合図した。車がとまるやいなや、三方から水をかき分けて、平たい頭にキラキラ目が光っている両棲現地人が顔を出した。  監督は命令した。 「ようし、サッチェル……ここらへんずっとが、おまえの割り当てだ。下りろ」  サッチェルはあたりを見まわした。 「小舟はどこにあるんです?」  その日の収穫を積みこむために、労務者たちは底の浅い小舟を使うのだが、クロックにはもう一隻も残っていなかったのだ。 「そんなものはいらんよ。おまえはこのへんをきれいにするんだ、植えつけができるようにな」 「わかりましたよ。でも……このへんには、人影もないし、乾いた土地もないからなあ」  小舟は二重の役を果たすのだ。もし、他の地球人と離れて仕事をすることになったり、安全な乾いた土地がないところでは、一種の救命艇の働きもする。自分を拾い上げてくれるクロックが沈んでしまったり、何かの理由で腰を下ろしたり、横になったりする必要が仕事中におこった場合にも、その小舟が役に立ってくれるのだ。  年寄りの労務者たちが、十八インチの深さの水の中に、二十四時間、四十八時間、七十二時間と立ち続けたあげく、あまりの疲労から倒れて痛ましくも溺れ死んだ男たちの、物悲しい話をしてくれたことがあった。 「あっちのほうに、乾いた地面があるんだよ」  監督は、四分の一マイルほど向こうの木立ちのあたりに向かって手をふって、そういった。  サッチェルは落ち着いた声で答えた。 「そうかもしれんな……調べに行ってみようじゃねえか」  かれはジミイのほうをちらりと見た。ジミイは指示を受けようと監督のほうを見た。 「馬鹿野郎! おれに逆らうんじゃねえ。下りろ!」 「参ったときに、しゃがみこめるような、二フィートほどのねば土よりましなものがなくちゃあな」  と、サッチェルはいった。  水の中にいる小さな現地人たちは強い関心を示して、このいい争いを聞いていた。かれらも、じぶんたちの言葉でしゃべりあっている。いくらか現地人英語《ビジン・イングリッシュ》のできる連中が、様子を尾鰭をつけていかにも興味ありげに、言葉のわからない連中に説明してやっている。すっかり頭に来ていた監督の怒りに、これは油を注いだようなものだった。 「これが最後だぞ……下りるんだ!」  サッチェルはその大きな図体を、床板にいっそうゆっくりとくつろがせながらいった。 「そうさね……その問題が片づいたんで、おれもほっとしているよ」  ウインゲートは監督の背後にいた。そのおかげで、サッチェルは少なくとも頭蓋に傷害を受けずにすんだのだ。というのは、監督が殴りかかったとき、ウインゲートがその腕をつかんだからだ。ハートリイもすかさず近づき、三人はしばらく乗物の床でもみあった。  ウインゲートが監督の握りしめた右手からブラックジャック(黒皮でつつんだ短い棍棒)をもぎ取っているあいだ、ハートリイは監督の胸を押さえつけていた。 「あんたが気づいてくれたんでよかったよ、ハンプ……さもなければ、いまごろおれはアスピリンのご厄介になっていたところさ」  と、サッチェルは感謝した。 「ああ、そんなところだろうな」  と、ウインゲートは答えると、沼地の奥深く、ブラックジャックを投げこんだ。両棲人が何人か、そのあとを追って水に飛びこんでいく。 「おい、もう起こしてやってもいいだろ」  監督は身をふり放して起き上がると、二人には何もいわずに、ずっと運転席で落ち着いていた運転手にくってかかった。 「なんだってきさま、おれに加勢しなかったんだ?」 「自分の面倒ぐらい、自分でみられるんじゃないかと思ってね、ボス」  と、ジミイはあたりさわりのない返事をした。  ウインゲートとハートリイは、その日の労働時間中、すでに仕事についている他の労務者たちの助手として働いた。監督は、職務につけるとき以外、二人を完全に無視した。だが、二人が宿舎で夕食前に体を洗っていると、母屋《ビッグ・ハウス》へ来いという命令が伝えられた。  かれらが地主の事務所へ入っていくと、監督がすでに雇い主と一緒にいて、満足げに、にやにやしており、ヴァン・ヒューゼンの表情はまったく苦虫を噛みつぶしたようだった。  かれはがなりたてた。 「おまえたちについて、大変なことを聞いたぞ……仕事は拒絶する、監督は痛めつける。すこし思い知らせてやるからな!」  ウインゲートは、まるで法廷のようなこの場の雰囲気に、すっかり落ち着いてきて、静かに話しだした。 「ちょっと待ってください、ヴァン・ヒューゼンの旦那……だれも、仕事を拒絶したりはしませんでした。ハートリイはただ、ちゃんとした安全措置がなされていないのに危険な仕事につくことはできないといっただけですよ。この騒ぎで、先に手を出したのは監督のほうです。われわれは正当防衛をしただけで、かれから武器を取り上げると、すぐに手出しはやめました」  監督がヴァン・ヒューゼンのほうにかがみこんで、その耳に何かささやくと、地主はそれまでよりもっと怒った表情になった。 「きさまらはそんなことを、現地人の見ている前でやったんだな。現地人の前で! きさまらは植民地法を知っているのか? こんなことをしくさって、鉱山送りにすることもできるんだぞ」  ウインゲートは否定した。 「いいえ……監督のほうが現地人の前で手を出したんです。われわれのほうはずっと受身で、防御いっぽうでした……」 「きさまらは、監督をのばしちまうほうが平和的だとでもいうつもりか? いいか、よく聞けよ……きさまらの仕事は働くことなんだ。監督の仕事はな、きさまらに、どこでどういうふうに働くかを命令することなんだぞ。かれは、わしの投資を無駄にしてしまうような役立たずじゃあない。どの仕事が危険かは、監督が判断することで、きさまらのすることじゃあないんだ」  監督がまたもや何かを、主人にささやきかけた。ヴァン・ヒューゼンは首をふった。もう一度何かいったが、地主は手をふって黙らせ、二人の労務者のほうに向いた。 「いいか……わしは飼犬に手を噛まれても、一度は我慢する。だが二度とは許さん。きさまら、今夜は晩飯とリラはなしだ。明日は、きさまらの態度いかんで決める」 「でも、ヴァン・ヒューゼンの旦那……」 「もういい。宿舎へ帰れ」  消灯になって、ウインゲートが寝棚にもぐりこむと、だれかが棒状の食べ物をその中に隠しておいてくれたことに気づいた。暗い中でそれをありがたく食べながら、こんなことをしてくれた友達はいったいだれなんだろうと、いぶかしく思った。その食べ物はどうやら胃の腑をなだめてくれたが、充分ではなく、リラがなければ眠れなかった。  かれは横たわったまま、寝室の中の息苦しいような暗闇を見つめ、男たちが眠っているあいだに立てるさまざまな苛立たしい物音を聞きながら、自分の立場を考えていた。これまでもひどいものだったが、耐えられないようなことはなかった。いずれあの執念深い監督から、地獄のようなひどい目にあわされることは、いまのかれにははっきりと予想できた。これまで見てきたことや、人づてに聞いたことから、すぐにもそうなることは、火を見るよりも明らかだった!  だれかの手が脇腹にふれるまで、一時間ほどのあいだ、かれはこの厄介ごとについて、くよくよ考えつづけていた。  声がささやくのが聞こえた。 「ハンプ! ハンプ! 外へ出るんだ。何か事件らしいぞ」  ジミイの声だった。  かれは注意しいしい寝棚の列から抜け出すと、ジミイのあとについて、そっと部屋から出た。サッチェルはもう外で待っており、そのそばにもうひとりの人影が見えた。  その人影はアネク・ヴァン・ヒューゼンだった。ウインゲートは、彼女がどうして、鍵のかかった宿舎に入ってこられたのだろうと思った。彼女の目は、まるで泣いたあとのように、はれぼったく見える。  ジミイが、あたりをはばかる低い声で、すぐにしゃべりだした。 「このお嬢さんの話だと、おれはおめえら二人を、明日アドニスに送りかえすことになっているそうだ」 「どうして?」 「お嬢さんが知っているわけはないさ。でも、おめえらを南へ売るつもりじゃねえかって、心配なさってるんだ。そんなことはねえと思うがね。親爺さんは、これまでだれひとり南へ売っぱらったことなどねえんだからな……しかし、監督をぶっ飛ばしたやつも、まだだれもいなかったんだ。だから、わからねえな」  かれらはしばらく役に立たない議論を続け、それからみんなが黙りこむと、ウインゲートはジミイに尋ねた。 「クロックの鍵はどこにしまってあるか知っているかい?」 「いいや、どうして?」 「あたい、取ってきてあげられるわ」  と、アネクが熱心に申し出た。 「でも、おめえはクロックを運転できないだろうが」 「おまえが運転するのを、何週間も見てきたからな」 「よし、まあできるとしてだな」と、ジミイはまだ反対した。「で、クロックで突っ走ったとすらあ。でも、十マイルも行きゃあ、道に迷っちまうぜ。たとえつかまらなかったとしても、飢え死にが落ちよ」  ウインゲートは肩をすくめた。 「ぼくは南へ売られたくないんでね」 「それは、おれも同感だね」  と、ハートリイはいった。 「ちょっと待ちな」 「いいさ、どうなったところで……」  ジミイが噛みつくような口調でいった。 「ちょいと待ちなって……おれが頭をしぼってるのが、わからねえのかよ?」  他の三人は、しばらくのあいだ沈黙を守っていた。やっと、ジミイが口を開いた。 「いいかね、お嬢さん。しばらく向こうへ行ってて、おれたちに相談させてくれませんか。話を聞かないほうが、おめえさんのためにもいいんだから」  アネクは傷つけられたような顔をしたが、それでも素直に、話が聞こえないところへ行ってくれた。三人はしばらく何事か相談し、やっとウインゲートは彼女に、こちらへおいでと呼びかけた。  かれは話した。 「すみましたよ、アネク……あなたのやってくれたこと、何もかもありがとう。どうやら、なんとかできそうです」かれはそこで言葉を切り、ぎこちなくこういった。「さあ、おやすみ」  彼女はかれを見上げた。  ウインゲートはどうすべきなのか、どういうべきなのか、わからなかった。やがてかれは、宿舎の角まで彼女を引っぱっていき、もう一度おやすみといった。かれは恥ずかしさに顔を染めながら、大急ぎでもどった。三人はまた宿舎の中に入った。  地主のヴァン・ヒューゼンも悩みごとがあって、眠れなかった。かれは自分の小作人たちを罰したくなかった。畜生め、どうしてやつらはおとなしくして、わしを安心させておいてくれないんだ? 近頃では、農場主には心の休まる暇がほとんどないときている。作物だって、作るよりも、アドニスで買うほうが安いときているんだ──少なくとも、利子を払うとそういうことになるんだ。  その夜、夕食のあと、不愉快な気分をまぎらわせるために、かれは帳簿に注意を集中することにしたが、いっこうにはかどらなかった。  あのウインゲートの野郎め……人手が欲しいというより、あの奴隷殺しのリグズビイの手から守ってやるために買い取ってやったんだぞ。監督はしょっちゅう人手不足だといっているが、実のところは、労務者を集めることに金を使いすぎているんだ。何人か売ってしまうか、銀行にもうすこし同じ担保で融資してもらうかだ。  労務者たちも、いまでは、経費分の値打ちもない。わしが子供だったころにやってきたような連中は、もう金星には送られてこないのだ。かれはまた帳簿の上にかがみこんだ。市価がもうちょっと跳ね上がってくれたら、去年よりも、銀行はもうちょっと割りをよくしてくれるかもしれない。  すこし前に、娘がやってきて仕事の邪魔をされた。アネクの顔さえ見れば、いつもかれは機嫌が良くなるのだが、こんどばかりは、彼女がいいたいことをいい、胸のたけを打ち明けるのを聞いて、すっかり怒ってしまったのだ。自分の思いだけにとらわれていた彼女は、自分が父親の心を、ほとんど目に見えるまでに傷つけてしまったことに、まったく気づかなかったのだ。  そしてこれが、ウインゲートに関するかぎり、問題の決着をつけてしまった。かれは面倒の種を始末してしまおうと決心した。ヴァン・ヒューゼンは、これまで見せたことのない荒々しい態度で、娘に寝てしまえと命令した。  もちろんこれはみな、わし自身の失敗なんだと、ベッドに入ってからも、かれは自分を責めたてた。金星の農場は、母親のいない娘を育てる場所じゃあない。かれのアネクヘンも、いまでは一人前の娘なんだ。こんな辺境で、どうしてあの娘が良人を見つけたりできるだろう? もし、わしが死んでしまったら、あの娘はどうなるんだ?  娘は何も知らないだろうが、残してやれるものは何もない。何もなし。地球へ帰る切符一枚さえもだ。いや、あの子を労務者の女房などにはできない。この年老い疲れた体が息をしているかぎり、決してそんな真似はさせないぞ。  そうだ、ウインゲートは処分しなければいけない。あのサッチェルとかいうやつもそうだ。しかし、南へ売るのは気が進まない。そう、これまで自分のところの労務者を、そんな目にあわしたことは、一度だってないんだからな。  かれは、この極地から数百マイル離れたところにある工場のような農場のことを、苦々しく思い出していた。そこは、かれの沼地よりつねに気温が二、三十度は高く、労務者の死亡は普通の必要経費に計上されているのだ。  だめだ、やはりわしは、やつらを労務者斡旋所に連れていくべきだ。そこでどこに売られようと、あとはこちらの知ったことではない。しかし、直接、南へ売っぱらうなんてことは、わしにはとてもできない。  そこで、ひとつ考えが浮かんだ。頭の中でちょっと計算してみたあげく、年季の終わっていない労務者二人を手放せば、アネクに地球行きの切符を手に入れてやるだけの金が浮くと思いついたのだ。  あとは姉が面倒をみてくれるに違いない。彼女とは、かれがアネクの母親と結婚するときに喧嘩別れしたきりだが、きっと娘の面倒ぐらい見てくれるだろう。そして、ときどき金をすこし送ってやればいい。アネクは、秘書か、女の子が地球でやれる仕事につけるような勉強ができるだろう。  でも、アネクのいない農場なんて、いったいどうなるんだ?  かれは自分自身の心配事に専念していたので、娘がそっと部屋を抜け出て、外へ出ていったことに気づかなかった。  ウインゲートとハートリイは、その次の日の仕事の点呼であとに残されたのを、わざと驚いてみせた。ジミイは母屋に呼ばれていったが、やがて、大きなレミントン型の車を小屋からバックさせて出てきた。かれは二人を乗せて、もう一度母屋へ走らせ、地主が出てくるのを待った。ヴァン・ヒューゼンはすぐに出てきて、自分の客室に乗りこんだが、二人には何もいわず、顔を見ようともしなかった。  クロコダイルはアドニスにむかって出発し、時速十マイルの速度で走っていった。ウインゲートとサッチェルは低い声で話し合い、様子を見、どうなることかと思っていた。うんざりするほど長い時間がたってから、クロックは停止した。客室の窓がとつぜんあいて、ヴァン・ヒューゼンが尋ねた。 「どうしたんだ? エンジンは大丈夫か?」  ジミイはにやりと笑ってみせた。 「いや、おれがとめたんですよ」 「どういうわけだ?」 「ここへ来て、見てみることですな」 「ようし、この馬鹿が!」窓がぴしゃりとしまり、ヴァン・ヒューゼンは小さな客室のまわりにでかい体をこすりつけるようにして、まわってきた。「このざまは、いったい何だ?」 「下りて、歩くんだね、旦那。これで終点だから」  ヴァン・ヒューゼンは答える言葉もないようだったが、表情がすべてをものがたっていた。  ジミイは続けていった。 「ああ、そうだよ……ここが旦那の終点さ。ここまでは、ずっと乾いた地面ばかり走らせてきたんだから、歩いて帰れるさ。おれがつけてきた道をたどっていきゃあ、いいんだから。おめえさんみたいなでぶっちょでも、三、四時間もあれば、家へ着くだろうよ」  地主はジミイから他の連中に視線を移した。ウインゲートとサッチェルは、親しみのない目つきで、すこしつめよった。 「行ったほうが身のためじゃねえのかな、でぶちゃん……頭から放りこまれんうちにな」  と、サッチェルはやんわりといった。  ヴァン・ヒューゼンはクロックの手すりに体をおしつけ、それを両手で握りしめ、きっぱりといった。 「わしは、自分のクロックから下りないぞ」  サッチェルは片手に唾をかけて、両手をこずりあわせた。 「よかろう、ハンプ。やつがそうお望みなら……」  ウインゲートはヴァン・ヒューゼンに向きなおった。 「ちょっと待てよ……ねえ、ヴァン・ヒューゼンの旦那……やむを得ないなら別だが、おれたちはあまり手荒な真似はしたくないんだ。とにかく、こちらは三人いるんだし、腹は決まってるんだ。静かに下りたほうがいいぜ」  年長者の顔からは、どうも、じっとりした熱気のせいばかりじゃなさそうな汗が、したたり落ちていた。胸が大きく上下し、一瞬、かれらに向かってくるかと思われた。だが、心の中で冷静な判断がひらめいたらしい。かれはがっくりし、挑戦的な顔の表情は、見るも哀れにたたきつけられたものに変わってしまった。  やがて、かれはおとなしく、気が抜けたように手すりを越えて車から下り、足首までの泥の中に、両膝をちょっと曲げた姿勢で立った。  地主を下ろした地点が見えなくなると、ジミイは車を別の方向にむけた。 「あいつは帰れるかなあ?」  と、ウインゲートが尋ねると、ジミイは反問した。 「だれが? ヴァン・ヒューゼンかい? 大丈夫さ、帰れるとも……たぶんな」  かれはいまや夢中になって運転していた。クロックは斜面を下り、舟の通れる水の中に飛びこんだ。しばらくすると、水草がなくなり、広い水面に出た。大きな湖に出たのが、ウインゲートにもわかった。むこう岸が靄に閉ざされている。ジミイは羅針盤でコースを決めた。  対岸はただの浜辺みたいだったが、大きな入江が隠されていた。ジミイはしばらくそれに沿ってクロックを進め、やがて停止させると、こういった。 「このへんのはずなんだがなあ」  あまり自信のなさそうな声だった。かれは空っぽの荷台の隅にあった防水布の下から、平べったい擢を取り出した。そいつを握って、手ずりから体を乗り出し、擢の先で水面をたたき、大きな音を立てた。バシャッ! バシャッ! バシャッ!  かれは待った。  両棲人の平たい頭がすぐそばの水面から出てきて、キラキラ光る楽しそうな目つきで、ジミイをじっと見つめた。 「ハロー」  と、ジミイはいった。  そいつは、かれらの言葉で何やら返事をした。ジミイもその奇妙なクワックワッという言葉を発音しようと口を広げながら、同じ言葉で答えた。現地人はそれを聞くと、また水の中へ姿を消した。  その男──あるいは、女──は、ほんの数分で仲間を連れてまた浮かんできた。 「シガレック?」  と、新しく浮かんできたやつが、もの欲しそうにいった。  ジミイは交渉した。 「そこへ着いたら、シガレックをやるよ、お嬢さん……さあ、ここへ上がってこいよ」  かれが手を出すと、現地人はそれにつかまり、しなやかに体をよじりながら上がってきた。そいつは、人間離れしているが、それでも妙に愛嬌のある小さな体を、運転席のそばに落ち着かせた。  その小さな水先案内人の導くままに、どれぐらい進んだのか、計器盤についている時計が狂っているので、ウインゲートには見当がつかなかったが、腹時計によると相当長い時間がたっていたようだ。かれは客室の中を引っかきまわして、鉄の箱に入った携帯口糧を引っぱり出し、サッチェルとジミイに分けた。現地人にもすすめてみたが、そいつはちょっと嗅いでみて、すぐ首を引っこめた。  それから間もなく、鋭く空気を切り裂く音がして、かれらの前方十ヤードほどのところに、水煙が上がった。ジミイはすぐクロックをとめた。  かれは怒鳴った。 「射つな! おれたち、弱い者だけだ」 「おまえたちは何者だ?」  姿は見えず、声だけが返ってきた。 「旅人仲間さ」 「おれたちから見えるところへ上がってこい」 「オーケイ」  現地人がジミイの脇腹をつついて、はっきりといった。 「シガレック」 「え? ああ、いいとも」  かれは煙草を、彼女が納得するだけあげ、さらにもう一箱、おまけをつけてやった。彼女は左の頬袋から紐を取り出し、それでもらったものを縛り、車から滑り下りた。そいつが稼いだ品物を水の上に高くかかげて泳ぎ去るのを、かれらは見送った。 「さあ、急いで面を見せろ!」 「いま行くよ!」  三人は腰までの深さの水の中に下り、両手を頭の上にあげたまま進んだ。四人編成の一隊が現われ、かれらを見下ろした。その連中は武器を下にむけ、いつでも射てるようにかまえていた。隊長が三人の服のパウチを調べ、隊員の一人にクロコダイルを見てこいといいつけた。 「警戒厳重なんだな」  と、ウインゲートは話しかけた。  隊長はかれをちらりと見て答えた。 「そうでもあり、そうでもなしさ……あの小さな連中が知らせてくれたんで、あんたたちがこちらへ来るのはわかっていたんだ。どんな番犬より、連中のほうが役に立つね」  かれらは、偵察隊の一員の運転で出発した。隊員たちは、それほど非友好的というわけではなかったが、話し相手になろうとはしなかった。 「知事に会うまで待つんだな」  と、かれらはいうのだ。  目的地は、かなり広く、かなり高い地面が続いているところだった。ウインゲートは、建物の数と人口が多いのに驚いた。 「こんな場所を、いったいどうやって秘密に保っておけるんだろうな?」  と、かれはジミイに尋ねた。 「もし、テキサス州が霧に包まれていて、イリノイ州ウォーキーガンぐらいの人口しかなければ、いろんなものが隠せるさ」 「しかし、地図にも出ていないじゃないか?」 「金星の地図なんて、そんなごたいそうなもんだと思っているのか? 馬鹿はいわねえもんだ」  ジミイから前もって聞かされていた、ほんのわずかの知識を元に、ウインゲートは逃亡労務者がなんとか生きていけるところといえば、藪の中のキャンプがいいところだと思っていたのだ。しかし、いま目の前にあるのは、文明社会と政府だった。  実際のところ、それは粗雑な辺境の文化であり、ごくわずかな法律と成文化されていない憲法によって成立している政府だったが、とにかく、しきたりはきちんと守られており、違反者は処罰されるのだ──たとえ、不公平な場合があっても、それは他の社会にもおこなわれている程度のものだった。  地球では社会の屑だったこれらの逃亡奴隷たちが、こんなに立派な社会を築きあげたという事実が、ハンフリイ・ウインゲートには驚異だった。  もっとも、ボタニイ湾の流刑囚たちがオーストラリアに高度の文化を作り上げたことは、かれの祖先にとって驚異だったわけだ。ウインゲートはボタニイ湾のことを驚く気にはなれなかった──それは、もはや歴史的な事実であり、歴史は人を驚かさないものである──起こったあとでは、だ。  知事の性格を知るようになってから、ウインゲートはこの植民地の成功を、ますます確信するようになった。知事は同時に、総司令官であり、下級と中級の司法官をも兼ねていた。(高等裁判所にあたるものは、全住民の投票によって決定され、その手順が、ウインゲートにはひどくまだるっこしいものに思えたが、住民たちには満足を与えているようだった)  司法官としての知事は、証拠についての法規や法理論を無視した判決をおこなうことがあり、これはウインゲートに、ペコスの西の法律≠ニいわれたインチキ老判事ビーンの話を思い出させたが、これまた住民たちは気に入っているようだった。  住民の中には女性が非常に少ないことから(男との比率は一対三だ)、多くの事件が起こったが、そんな事件こそ、知事の裁断が何よりも必要とされるものだった。  ここでは、従来の慣習かかえって厄介の種にしかならない場合があることを、ウインゲートも認めざるを得なくなってきた。かれは、知事が円熱した常識と、人間性に対する理解を備えて、人間の強烈な情熱による葛藤をさばき、うまくやっていくようにと、相互扶助の原則を示唆する手並みには感服しないわけにはいかなかった。こんなふうに問題をうまく処理できる人物なら、法律の素養など必要ないのだ。  知事は選挙によってその地位につき、やはり選ばれた議会の助言を受け入れていた。知事は他のどんな社会にいても、最高の地位に登りうる能力を持った人物だというのが、ウインゲートのひそかな意見だった。無限のエネルギーとたくましい生活力を持ち、つねに雷のごとき笑い声を発することができ──しかも、明確な判断をくだす能力と勇気に恵まれている。かれは生まれついての天才≠セった。  三人の逃亡者たちは、自分たちの立場を確立し、才能を生かして生活を支えていけるような仕事を探すために、二、三週間の余裕を与えられた。  ジミイはそのままクロックの運転手として留まることになった。車はいまではその共同社会に没収されていたが、いぜんとして運転手は必要だったからだ。運転手になりたい人間はほかにもいたが、当人の希望であれば、それを持ちこんだ人間に運転させるという暗黙の了解があったのだ。  サッチェルは農場での仕事についたが、それはかれがヴァン・ヒューゼンのところでやっていたのと、似たような仕事だった。仕事は前よりきついぐらいだが、のんびりとした気持ちでやれるので助かると、かれはウインゲートに語った。  ウインゲートはあまり農場の仕事にもどる気になれなかった。別に、はっきりした理由があるわけではなかったが、ただ、いやだったのだ。結局は、無電の経験が役に立つことになった。この社会には、低出力のはんぱな無電送受信機が一台あって、受信のほうはつねにおこなわれていたが、送信のほうは探知される危険がともなうので、ほとんど使われていなかった。  初期の逃亡奴隷キャンプは、無電を不用意に使ったため、会社の警察に一掃される結果になった。そんなわけで、よほど緊急な事態でもおこらないかぎり、かれらも使おうとはしないのだった。  しかし、無電は必要だった。小さな現地人のどこか間が抜けた手助けのおかげで、漠然と同盟関係にある他の逃亡奴隷の社会とは、ある程度の接触を保つことはできていたが、それではあまりに遅すぎたし、もっとも簡単な通信文以外を送ると、妙に混乱してしまい、わけがわからなくなってしまうのだ。  かれに技術的知識があるとわかると、ウインゲートは無電係に任命された。前任の無電係は藪の中で行方不明になっていた。かれの相棒は、通称をドック≠ニいう陽気な頑固爺さんで、送受信符号はわかるのだが、機械の維持と修理は何も知らない男だった。  ウインゲートは、その年代物の無電機を修理することに没頭した。部品不足から派生する問題は山のようにあり、何がなんでも間に合わせる≠ニいうさし迫った要求が、少年時代以後忘れていたある種の幸福感を与えてくれたが、それに気づく暇もなかった。  かれは、無線通信の安全性という問題に夢中になった。初期の無線通信の状況から思いついたことが、その手掛りになった。かれの機械は、ほかのすべてのものと同じように、周波数変調によって通信することになっていた。かれは以前、どこかで旧式な送信機の配線図を見たことがあったが、それは振幅変調によるものだった。手元にある部品は多くなかったが、それでもかれは、あり合わせの装置で、そういう形で発振して、また受信できそうな回路を考えだした。  かれはそれを試作する許可を、知事に求めた。すると知事は吠えるような声でいった。 「いけないなどと、いうもんか! わしには、きみのいうことはまったくわからんが、会社に探知されんような無線装置ができるのなら、すぐにやるべきだ。相談なんかせんでもいい。こいつは、きみの縄張りだ」 「送信するためには、現在の局を使わないようにしなければいけませんが」 「いいとも」  考えていたよりも、ことは複雑だったが、かれはドックの不器用だが熱心な援助もあって、どうにか仕事を進めていった。  最初の受信は失敗したが、五週間後、四十三回目の試みがどうやら実を結んだ。何マイルか向こうの藪で、その方式の小さな受信機を持っていったドックが、受信成功を伝えてきた。そのとき、ウインゲートがこの試作的段階にある送信機と同じ部屋においていたごく普通の受信機からは、何ひとつ聞こえてこなかった。  この仕事の一方、かれは自分の著作とも取り組んでいた。  どうして本など書く気になったのか、その理由はかれ自身にもわからなかったが。その著作というのは、地球上であれば、植民地制度反対を説く政治的パンフレットのたぐいと呼ばれるものだった。  ここでは、かれは自分の説を聞かせようにもだれひとり相手かいなかったし、また、それを読書大衆に提供する可能性も見つけられなかった。  金星はいまやかれのすみかだった。帰る機会など絶対にこないことを、かれは悟っていた。唯一の道はアドニスを通して開けてはいたが、そこには訴訟事件一覧表にある犯罪の半分ぐらいを占める数々の罪名、すなわち、契約違反、窃盗、誘拐、遺棄、共同謀議、政府転覆の陰謀などをずらりと並べた逮捕状が、かれを待っているにちがいないのだ。もし、会社の警察がかれを捕えたら、牢屋に放りこんだまま一生忘れてしまうだろう。  いや、本を書こうという考えは、出版を期待する気持ちからでは決してなく、自分自身の気持ちを整理したいというなかば無意識の要求から湧いてきたものだった。  それは、これまでかれが、生活にあてはめてきた価値判断の基準というものを、すべてくつがえされてしまったあとのことだった。かれ自身の精神衛生のためにも、新しい基準を形成することが必要なのだ。かれのようなごく平凡で、いささか想像力に乏しいとさえ思える性格では、自分の理論や結論を文字に現わしてみようと思うのは、自然な成り行きだった。  いささかおずおずと、かれはその原稿をドックにさし出した。ドックという仇名の肩書は、地球上での職業から由来したものだということを、かれは聞いていたのだ。一流校ではなかったが、どこかの学校で経済学と哲学の教授をしていたらしい。ドック自身、自分がどうして金星に来ているかという理由の一端を打ち明けてくれたこともあった。 「わしの教えていた女子学生の一人と、ちょっとした問題が起こってな……女房はその事件に対して同情しない立場を取ったし、大学の評議員会も同じだった。評議員会はその前から、わしの持論をいささか急進的すぎると考えていたんだな」 「本当に急進的だったのですか?」 「とんでもない! わしは、こちこちの保守派だったよ。だが不幸なことに、わしは保守的見解を発表するときに、比喩的な言葉を使わず、そのものずばりを口にしてしまう傾向があったんだな」 「いまのあなたは、急進的なんでしょうね」  ドックは眉をかすかに上げた。 「まったく違うね。急進的だの保守的だのというのは、感情的態度に使う言葉であって、社会学的意見には関係のないものさ」  ドックは原稿を受け取り、読み終わり、何も意見をいわずに返した。ウインゲートは、意見を聞かせてくれとせまった。 「そうだな、きみ、ぜひにというなら……」 「はい」 「……それならいうが、きみは社会および経済の問題を扱う上において、もっとも陥りやすい間違いにはまりこんでいる……悪魔の理論≠ニいうやつだな」 「はあ?」 「きみは、物事を、あっさりと無知に基づく悪のせいだと考えている。植民地における奴隷制度は何も目新しいものではない。それは帝国主義的発展に避けることのできない結果であり、古い財政機構が自動的にもたらす成り行きなんだ」 「ぼくは、銀行の演じる役割についても指摘しておきましたが」 「違う、違う、違う! きみは銀行家たちを、悪党連中だと考えている。そうではない。地球にいる会社の重役や雇用主や支配階級だって、そうではないんだ。人間とは必要に迫られて行動するものであり、そのあとから行動を説明するために、合理的な理論を築き上げるものなんだ。それは、強欲ですらない。奴隷制度は、経済的には不健全で非生産的なものだが、人間は環境に強いられると、いつでもあっさりと、その中にはまりこんでいくものだ。種類のちがう財政的組織が……ただし、これは別の話になるな」  ウインゲートは、なおもかたくなに主張した。 「でも、やはりそれは、人間の意地悪さに基づいていると思いますね」 「意地悪さじゃあないね……単なる愚かさにすぎないよ。証明してあげることはできないが、そのうち、きみにもわかるだろう」 沈黙の無電≠ェ成功した結果、知事はウインゲートに長期の出張を命令し、自由連盟内のキャンプをまわって、新しい装置を備えるのを助け、その使用法を教えてくるようにといった。  四週間というもの、かれは忙しく働きつづけたが、心は満ち足り、敵に対する自由人たちの立場を強化するのに、激しい戦闘によってかち得たものにまさる多くのものを捧げることができたのを知って、ほのぼのとした思いになった。  そしてわが家となったキャンプに帰ってくると、かれを待っていたサム・ヒューストン・ジョーンズの姿を見つけたのだ。  ウインゲートは走りだして、さけんだ。 「サム! サム!」  かれは相手の手を握りしめ、背中をたたき、センチメンタルな男が涙を見せまいとするときにやる、愛情のこもった悪態をついた。 「サム、この悪党め! いつ来たんだ? どうやって逃げてこられた? いったい、南極からここまで、どうやってたどりついたんだ? 転売されて逃げ出したのか?」  サムは答えた。 「よう、ハンプ……一度にひとつずつだ。それに、もっとゆっくり話せ」  だが、ウインゲートはしゃべり続けた。 「ああ、でも、きみのまずい顔を見られて、ほんとに嬉しいんだ。そして、きみがここへ来てくれたこともね……ここは素晴らしい土地だぜ。全連盟の中でも、もっとも前途洋々とした土地だよ。きみも、きっとここが気にいるぜ。みないいやつばかりだし……」  ジョーンズはかれを見つめて尋ねた。 「いったいどうしたんだ? きみは、商工会議所の会頭にでもなったのかい?」  ウインゲートも相手を見つめ、それから笑いだした。 「ああ、わかったよ。でも、本気でいっているんだ。きみもきっとここが好きになるよ。もちろん、地球にいたときとは、まったく違うさ……だがあれはみな、もう過ぎ去ったことだ。こぼしたミルクを嘆いてみても仕方がない、というからな」 「待てよ。きみは思い違いをしているよ、ハンプ。いいか、ぼくは逃亡奴隷じゃない。ぼくは、きみを連れもどしに来たんだ」  ウインゲートは口をぽかんとあけ、閉じ、またあけた。 「だが、サム、それは不可能だよ。きみにはわからないんだ」 「わかっていると思うがね」 「わかっていないよ。ぼくには、帰るということができないんだ。帰ったら裁判を受けることになるし、そうなると死刑にされることは目に見えている。法廷の慈悲にすがって刑を軽くしてもらっても、自由になるまでには二十年もかかるだろう。だめだよ、サム、不可能なんだ。きみはぼくが告発されている問題を知らないからな」 「ぼくが? それを解決するために、ぼくだって、ちょっとした金を使わせてもらったがね」 「なんだって?」 「きみがどんなふうにして逃亡したか知っているよ。クロックを盗み、主人を誘拐し、二人の仲間をそそのかして逃げたんだろ。この問題を片づけるために、ぼくもありったけのお世辞と、ちょっとした金を注ぎこんだんだぜ。いや、まったく……なんだってもうすこしお手柔らかなやつをやってくれなかったんだ、ハンプ、殺人、強姦、郵便強盗なんてやつを?」 「そうか、サム……ぼくはそんなことは何ひとつやらなかった。きみに迷惑をかけるからな。きみのことは、計算に入れていなかったんだ。ぼくは自分だけの考えでやっていた。金のことはすまなかった」 「なあに。金などぼくにとっては何でもないんだ。腐るほどある。きみも知ってのとおり、両親が勝手に増えるようにしておいてくれたからな。ぼくはただ、きみの足を引っぱっただけだ。すると、すっぽり抜けたというだけだよ」 「オーケイ。すまん」ウインゲートの微笑には、ちょっと無理したところがあった。慈善をほどこされるのを好む人間はいない。「だが、どういうふうにしてやってくれたんだ? ぼくにはまだ、どうもよく飲みこめないんだが」 「ああ」  ジョーンズは、着陸するとすぐ離ればなれにされたので、ウインゲートと同じようにずいぶん驚き、がっかりしてしまった。しかし、地球からの救助の手がさしのべられるまで、どうすることもできなかった。かれは南極で金属工として長いあいだ働きながら、どうして姉は、かれが救助を求めているのに答えてくれないのだろうと、心配しながら待っていた。かれは最初の電報を補うため、彼女に手紙を書いた。それしかかれがとれる通信手段はなかったからだ。しかし、返事が来ないまま何日もが過ぎていった。  やっと彼女からの通信が届いて、謎が解けた。かれの地球への電報を、彼女はすぐには受け取っていなかったのだ。というのは、彼女もイヴニング・スター号に乗っていたからだ──いつものように一等船客として、それもメイドの名前で一等船室にいたのだ。  ジョーンズは説明した。 「ぼくの家の者は、噂の種になるのを嫌って、そんなことをする癖があるんだ……もし、ぼくが姉ではなく、弁護士たちに電報を打つか、姉が事務長に本名をあかしていたら、最初の日に会えたはずだったんだがね」  電報は、金星がそのころ、地球から見てちょうど太陽の反対側にまわっていたので、金星にいた姉の手へ回送することが不可能だった。地球日で六十日のあいだ、地球から金星への通信は途絶されていたのだ。電報はそのまま、記録に留められ、彼女の手に届くまで、同族会社の連中のあいだでもみくちゃにされていたわけだ。  それを受け取るやいなや、彼女は小さなつむじ風を起こした。二十四時間のうちに、金星にいるジョーンズ名義で相当な額の金が払いこまれ、契約破棄の金が支払われて、たちまちかれは解放されたのだ。ジョーンズは話をしめくくった。 「そういうわけでね……あとは、帰ってから姉に、ぼくがどうしてこんな面倒に巻き込まれたのかを、説明しなければいけないだけだ。姉は、きっと耳の痛いことをいうだろうな」  ジョーンズは北極行きのロケットをチャーターし、すぐにウインゲートの足跡をつきとめたのだった。 「もう一日あそこに我慢していれば、すぐにきみをつかまえられたんだぞ。ぼくらは、きみの元の旦那を、門から一マイルほど手前で拾い上げたくらいなんだからな」 「すると、あの老いぼれ悪党め、帰りついたんだな。それを聞いて嬉しいぜ」 「それに運もよかったんだ。もしあいつが帰れなければ、きみを助けだせないことになっていたかもしれないんだ。あいつもよくやったよ。心臓が目いっぱい速く打っていたからな。ここでは、遺棄罪は極刑にあたるんだ……もし、あいつが死にでもしていたら、間違いなく死刑を宣告されていたってことを知らないのか?」  ウインゲートはうなずいた。 「ああ、知っているよ。しかし、その死体が労務者の場合には、そのために地主がガスを嗅がされたって話を聞いたことはないがね。だが、それは要点からはずれているな。それから、どうしたんだ?」 「ああ、あいつはまったく不機嫌だった。それも無理はない。もっとも、きみのほうも無理はないがね。だれだって南へは売られたくないからな。それで、てっきりきみはそう思いこんだんだなと、ぼくは考えた。それで、クロックの代金をかれに支払い、きみの契約金も払った……ぼくをよく見ろよ。ぼくはきみの新しい旦那なんだぞ……それからきみの友人二人の契約金も支払っておいた。ところが、それでもやつは満足しないんでね、とうとうぼくは、やつの娘が地球へ帰る一等の切符も買わされたよ。その娘に仕事を見つけてやることもね。彼女はまるでもっさりした大きな雌牛だが、ぼくの家には、もうひとりぐらい居候がいたってかまわないからな。とにかく、相棒、きみはもう自由の身だ。ただひとつ残っている問題は、知事がぼくらに、ここから去ることを許すかどうかってことだ。どうもうまくいきそうにないな」 「ああ、それが問題だ。それで思い出したが……ここが、どうしてわかったんだ?」 「説明するのも大変なほどの探偵仕事さ。それで、こんなに長くかかっちまったんだよ。奴隷ってのは、口がかたいからね。とにかく、明日、知事と話す約束になっているよ」  ウインゲートは、なかなか寝つかれなかった。最初の歓喜の嵐が去ると、かれは迷いはじめたのだ。自分は、帰りたいと思っているのか? 法律のもとへ、自分を雇ってくれるなら、どちらの側にでも立って、その利益のために技巧をつくす世界へ、無意味な社交界の約束のもとに、かつては自分がその中で動きまわり働いていた、肥え太った成金どもの空虚で不毛なおよそくだらない生活へ──ここの人々とともに働き、戦ってきたこの自分が、そんな生活に帰りたいと思っているのか? いまとなっては、無線通信機でのおよそ時代錯誤的な小さな発明≠したことが、かれが地球でやってきたどんなことよりも、大きな価値があるように思えてくるのだった。  ついで、かれは著作のことを思い出した。  あれが出版できるかもしれない。そうすれば、合法的な奴隷制度のもとに人間が売り買いされるという、この恥ずべき非人間的なやりかたを暴露できるかもしれない。かれはいまや、完全に目覚めていた。やるべきことがあったのだ! これこそ、自分の仕事だ──地球へもどり、植民地の人々のために訴えよう。人生を決定的なものにするのはこれかもしれない。自分は、この仕事をやるべき男なのだ。社会的な背景にも恵まれているし、それにふさわしい訓練も受けている。世間の人々を説得できるはずだ。  かれは深い眠りに落ち、心地よいさわやかな微風に吹かれる夢を、そして、あざやかな青空の夢をみた。それから、月の光の夢も……  ジョーンズが知事と話をつけてくれたが、サッチェルとジミイは残ることにした。サッチェルはいった。 「こういうことなんだ……おれたちは、地球へ帰ったって、なんてことはないからな。そうでもなきゃあ、はなから船に乗りこんだりしないさ。それにあんただって、こんなろくでなしを二人も、とてもじゃないが面倒みきれないぜ。それほど悪いところじゃないし、いまにもっとましなところになるさ。おれたちはここに残って、そういう努力をしてみるよ」  二人は、ジョーンズとウインゲートを乗せたクロックを運転して、アドニスまで送った。公式には、いまやジョーンズがみんなの所有者になっているのだから、もう何の懸念もないわけだった。官憲というものは、自分らが手出しできないことには、知らんぷりをするものだ。  そのクロックは、ジョーンズがお土産だといってむりやり積みこんだ物資を満載して、逃亡者のキャンプヘ帰っていった。実のところをいうと──ごく安全に、しかも会社上層部の疑惑を招くことなく──緊急の必要物資を入手できる絶好の機会だということが、知事に、かれの選挙区の秘密を暴露することになるかもしれない危険をおかす決意を固めさせる要素となったのだ。はっきりいって、奴隷制度の廃止のために戦うというウインゲートの計画に、知事はまったく期待をよせていなかった。  サッチェルとジミイに別れを告げることが、こんなに辛く、これほど気を滅入らせるものだとは、ウインゲートも予期していないことだった。  地球に帰ってきてからの最初の二週間というものは、ウインゲートとジョーンズの両者ともにあまりに忙しくて、おたがいに顔を合わせる暇もないくらいだった。  ウインゲートは帰りの船の中で、原稿をなんとかまとめ、その二週間は出版社の待合室とお馴染みになることで過ごしてしまった。そして、形式的な断り状以上の関心を示してくれたのは、一社だけだった。 「残念ですが、まあ、すこしでも売れる見込みがあれば、たとえ難解なものであろうと出版したいんですがね。どうも、だめですな。正直いって、これにはまったく文学的な価値がないと思うんですよ。訴訟のための上申書でも読むほうがましですな」  ウインゲートはむっつりと答えた。 「わかるような気がしますよ……大きな出版社は、時の権力に反対するものは、どんなものであろうと印刷できないということですな」  出版社の社長は、口から葉巻をはずすと、口を切る前にこの若者の顔を見つめ、そして静かにいった。 「その言葉にわたしは腹を立てるべきなのかもしれないが……そうは、しませんよ。それは、世間に広く信じられている妄想ですな。あなたのいう時の権力なるものは、この国では、そんな圧迫を加えちゃあいませんのでね。大衆が買うものをわれわれは出版するんです。われわれはそのために商売しているんですからね。  聞く気がおありなら、あなたの本を売れるものにする方法を話しましょう。あなたには協力者が必要です。書くこつを知っていて、しかもそれにしっかりした芯をとおせる人間がね」  ウインゲートが代作者《ゴースト・ライター》から原稿を受け取った日に、ジョーンズが訪ねてきた。ウインゲートは文句をいっていた。 「聞いてくれ、サム……このとんでもない先生は、ぼくの本をこんなものにしてしまったぜ。いいか、……また、激しい鞭の音がひびいた。相棒の弱りきった体が、おののいている。やつは咳を一度もらすと、自分の鎖の重みに耐えかねたように、腰までの水の中へゆっくりとのめりこんでいった=c…なあ、サム、こんなところを見たことがあるか? それに、こんどの題名ときたら……『わたしは金星で奴隷だった』……これじゃあ、まるで告白雑誌だよ」  ジョーンズは何もいわずにうなずいた。ウインゲートは続けた。 「ここんとこを聞けよ……まるで、囲いの中の家畜のように、体をよせあっている彼女たちの裸体は汗で光っていた。女奴隷たちはちぢこまって=c…くそっ、読めたもんじゃないよ!」 「ああ、連中は装具しか身につけていなかったからな」 「それはそうだ……しかし、こんなことはまったくなかったぜ。金星の服ってのは、あそこの気候に適するように作られているだけだ。こんなふうにいやらしく書くなんて許せないよ。やつは、ぼくの本をまったくのエロ本にしちまいやがった。しかも、それを弁護するだけの神経はあるんだ。社会的な共感を得るためには、誇張した言葉も仕方がありませんだとさ」 「そう、そいつのいうことにも一理あるな。『ガリヴァー旅行記』にもすこしきわどい文章があったし、『アンクル・トムの小屋』の鞭打ち場面なんかは、子供に読ませたくないものな。『怒りの葡萄』はいうまでもなしさ」 「そうか、ぼくはそんな安っぽいセンセーショナリズムなど、まっぴらごめんだね。いまぼくの前にあるのは、だれにでもすぐ理解できる、完全にはっきりした問題なんだからな」  ジョーンズは口からパイプをはなした。 「いまでも、そうか? きみの目が開くには、いったいどれぐらいかかるだろうと、ぼくはずっと思いつづけていたんだ。きみの問題というのは、いったい何なんだ? すこしも新しい問題じゃあないんだぜ。そんなことは昔の南部にもあったし、カリフォルニアにも、メキシコにも、オーストラリアでも、南アフリカでもあったことなんだ。なぜだ?  発展途上にある自由経済の社会では、その要求を満たすだけの貨幣制度が確立していない場合、植民地開発のために母国の資本を使うわけだが、それが母国では最低生活水準の労働賃金を作り、植民地では奴隷労働をもたらす結果になる。富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる。  支配階級と呼ばれる側のほうが、いかに善意を持っていても、それを変えることはできないんだ。それはだなあ、根本にある問題が、科学的分析と数学的頭脳によって初めて解決できる種類のものだからだ。きみは、そういうことを、大衆に説明できると思うのかい?」 「やってはみられるさ」 「でも、以前、ぼくはきみにこのことを説明しようとしたことがあったが、どれだけきみを納得させられたかな……きみが、その結果を見てしまう前のことだよ。しかも、きみは頭がいい人間なんだからな。だめだよ、ハンプ、こんなことを他人に説明するのは至難の業だし、興味を持たせるには抽象的すぎるんだ。きみは、このあいだどこかの婦人クラブで話をしたんじゃあなかったのかい?」 「ああ」 「どうだった?」 「そう……始める前に議長に呼ばれて、話を十分間でまとめてくれといわれたよ。全国婦人連合会長がちょうど来るんで、時間がつまっていたんだそうだ」 「ふうん……それで、きみの偉大な社会的メッセージがどの程度に考えられているのかわかったわけだ。しかし、気にすることはないぜ。もし、連中に理解できるだけの能力があったら、十分間でも、充分その問題を説明できたはずだ。だれかを納得させられたかい?」 「ああ……あまり自信はないよ」 「自信がないなんて、体裁のいいことをいうなよ。たぶん、連中は拍手はしたろうよ。だがそのあとで、何人が集まってきて、小切手にサインをしたがったね? だめだよ、ハンプ、この問題は口先だけの理屈じゃあ片づかないんだ。  自分を煽動政治家に仕立て上げるか、さもなければ、例のネヘミア・スカダーって男みたいに野次馬をけしかける政治的説教師にでもなるかだ。われわれは楽しい思いをしながら地獄にむかう。それは、破滅の日が来るまで、とまることがないんだよ」 「でも……くそっ! ぼくらは何もできないのか?」 「何もできないんだよ。もっと何もかもが悪くならんかぎりは、人間なんてなんとかしようなんて気持ちにはならないものさ。まあ、酒でも飲もう」