大西洋横断トンネル万歳!
ハリイ・ハリスン/水嶋正路訳
サンリオSF文庫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ(この底本にはルビはありません)
(例)白鷹秀麿《しらたかひでまろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丸の内|倶楽部《くらぶ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]
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目次
序――オベロン・ウォー
I 陸と陸を結ぶ鎖のはじまり
1 いそぎの伝言と危険な瞬間
2 重大な決意
3 ロイアル・アルバート記念館
4 飛行艇にのって
5 殺し屋
6 虎穴にて
U 海底で
1 異常な旅
2 二百地点
3 つかの間の出会い
V 海の嵐
1 アングラ・ド・ヘロイスモ市
2 陰謀暴露
3 深海の危険
4 実験の終り
5 すばらしい日
わかれの言葉
訳者あとがき
ハリスン・ノート――水鏡子
[#改ページ]
[#2字下げ]序
科学にまったく興味がなく、未来にもほとんど好奇心がないので、SFがひじょうに面白いなどとは想像したこともなかった。それどころではない。SFが面白いなどというキングズリイ・エイミス氏[#ここから割り注](一九二二年生まれの英国小説家)[#ここまで割り注]のごときインテリは、ひねくれ者か気取り屋のいずれかで、いわば良家に育ち、りっぱな教育を受けた人びとが、フットボールや、その他労働者的もしくはプロレタリア的娯楽が面目くてたまらないと夢中になって見せるたぐいだ、といつも思っていた。こんなおろかなことを考えていたわたしだから、もちろん、ハリイ・ハリスン氏の作品はひとつも読んだことはなかったし、同氏の名前さえ聞いたことがなかった。ところが、幸福な偶然のおかげで、クリスマス後の週の書評に、この『大西洋横断トンネル、万歳!』一冊だけが送られてきたのである。小説の書評をする者が、チャップマン訳のホメロスをはじめて読んだときの詩人キーツのような感情を味わうことは、ごくまれなことである。エイミス氏は、SFを解するほうびとして、この小説のなかで、英国の外務大臣エイミス卿としてチラッと登場している。歴史がちがった方向に進んでいたならば、一九七三年に存在したかもしれない英国の外務大臣として登場するのである。こうして、ついに不滅の名を成しとげたことは、幸運な、まことに幸運なエイミスと言わなければならない[#ここから割り注](キングズリィ・エイミスの小説には『幸運なジム』というのがある)[#ここまで割り注]。
この小説の牧歌的世界を成り立たせる前提条件としてハリスン氏は、ひとつの大きな歴史的仮定を設定している。それはつまり一千二百十二年、ナバス・ド・トロサの戦いにキリスト教徒軍が、もし敗れていたならば、という仮定である。ここからイベリア半島が回教領となり、いまもそのままで、大カリフ朝の一部にとどまったとか、クリストファー・コロンブスのアメリカ発見という事件は起こらず、それはキャポットを待たねばならなかったとか、また、アメリカが独立戦争に敗北して、イギリス植民地にとどまったというような結果を引き出してくる。そのほかの結果については、説明するのがちょっとむつかしいが、ハリスン氏はいとも朗らかに、それらを記述する。とにかく、あらゆる場合に充分な説明を要求するのは面倒なことであろう。ドイツはまだ、いくつかの公国に分裂して相たたかっているし、フランスではまだ王制が存続し、イギリスでは依然として貴族が支配し、通貨の十進法はまだ行なわれていない。飛行機は巨人機で、乗り物は石炭をたいてゆっくりと走っているが、一方、列車は核動力を用いている。ジョージ・ワシントンには子供がある。いちばん面くらうのは、おそらく、ケインズ卿が九十歳代で、まだ存命していて、まだ美しく自由な英国に、その有害な影響をおよぼし始めた段階だという点であろう。
小説の途中で、降霊術者の霊媒がトランス状態に入って、もし一千二百十二年、ナバス・ド・トロサの戦いでキリスト教徒軍が勝っていたならば、現在、存在するであろう世界を見る場面があるが、その世界はつぎのように描かれている。
「ウウウ……ウウウ……ペニシリン、石油化学製品、物品購買税、所得税、販売税、炭痘熱……ウールワース店、マークス・アンド・スパークス店……変な物が見える。軍隊、戦争、殺人、何千何万トンの爆弾が都会や人の上に降る。奴をにくめ、殺せ。毒ガス、細菌戦争、ナパーム弾、原子爆弾、水素爆弾……それ、それは……ギャッ!」
霊媒は発作を起こす。これを見ていた人びとはみな、これは現実というよりも空想科学小説の材料だと思う。
わたしが学んだ予備校の校長が、もしも、テルモビレーの戦いでレオニダスが、ペルシア軍の進撃を一時くい止めることができなかったならば(ひょっとすると、サラミスの戦いでギリシア軍が負けていたならば、だったかもしれない。どちらだったか忘れた)、何が起こったか、ということで、よく陰気な予言をしたものだ。ところが、その恐ろしい予言というのが、せいぜい、サマセット州、シェプトン・マレット、クランモア在のオール・ハローズ校のぼくたち、古典クラス六年学級の者全部が、今頃はクッションに寝そべって、水煙管でハシシを吸っていることだろう、という程度のたわいない予言であった。現代の人たちの嗜好を知っているわたしとしては、今日の人が、これとまったく同じ予言をしても、すこしも驚かない。しかし、ハリスン氏の想像力はもっと豊かな構想をしめしており、こんなにも美しい世界が出現していたならば、と何度も羨望の吐息をもらさずにはいられないほどである。
筋は複雑で、ひじょうによく出来ている。下品さをまだ知らない、というか、暴力的娯楽への低劣な趣味をまだ持たない世界にあって、小説の主人公は、正当防衛でやむなく殺し屋を殺して、はげしい後悔の気特に苦しめられる。悪党の仮面がはがれたとき、われらの主人公は、「なぜ、きみが、りっぱな社会人であるきみが、なぜ、こんないやらしい行動をしたのか?」と問い、そのあとで、情をかけて、かれにピストル自殺をゆるし、家名を救うことを認めてやる。
小説は、大西洋の海底にトンネルを建設する計画から始まる。猛速力で走り、磁気の反発力で真空中に支えられる列車のためのトンネルである。ブルネルのもともとの発案である真空動力の鉄道をハリスン氏が復活させなかったのは残念だが、無い物ねだりをするわけにはいかない。ここでは、真空はトンネル内の空気抵抗を除去する手段として用いられているに過ぎない。工事担当者のアメリカ人技術者オーガスチン・ワシントンは、言うまでもなくレキシントンの戦いに敗れたのち、イギリス軍に銃殺される謀反人ジョーシ・ワシントンの子孫である。ワシントン大尉は、女王陛下を説得して、アメリカに独立を、ともかく連邦自治領の地位を認めさせようという望みをいだいている。またかれは、イギリス最大の技術者で全トンネル計画の父であるサー・イザンバード・ブラシイ・プルネルの美しき令嬢アイリスに、上品な騎士的熱愛の情を寄せているが、父親は、大尉の技術者としての力量に嫉妬して、娘に近づくことを拒み、二人を大いに苦しめる。アイリスは美女であるとともに、よき娘でもあり、父には娘の自分しかいないのだからと言って、けっして父親をみすてない。
フランス人の悪だくみによる破壊工作で、幾多の冒険、間一髪の危機がおとずれるが、興味を殺ぐといけないから、その説明はしないことにする。こんにち的な舞台装置のなかにヴィクトリア朝小説の安定性と上品な空気を持ちこんだハリスン氏の手際のよさによるのだろうが、気どり屋とそしられる危険をかえりみず、あえてわたしは、善良な美女アイリスと、勇者オーガスチン大尉の結婚式の場面で、赤んぼうのように泣いたことを告白して、いささかも恥じるものではない。心から推薦できる小説である。(『スペクテイター』一九七二年十月書評)
[#ここから地付き]
オベロン・ウォー
コーム・フローリィ・ハウスにて
[#ここで地付き終わり]
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[#ページの左右中央]
I 陸と陸を結ぶ鎖のはじまり
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1 いそぎの伝言と危険な瞬間
パディントン駅を発車したときの「快速コーンウォル号」は、べつにどこといって変わった点もない平凡な列車だった。たしかに設備は新しく清潔で、一等車の座席に付いた金色の飾りふさは、なるほど豪華な感じだが、しかし、そういうものは、表面的な飾りにすぎない。ところがじつは、この列車は英国では類の無いものだった。英国に類がないということは世界に類がないということになるが、それでも、構内の錯綜する線路やポイントの上を、その大きな黄金色の機関車が鼻面を突きだすようにして走り出し、ついで、トンネルや切り通しのなかを走りぬけてゆくときは、べつに、どこといって変わった点も見えなかった。このあたりでは、まだ普通の路盤で、ほかの列車もみな共通に使っている。ところが、その巨大な機関車と、それに引っぱられるカッチリと連結した客車が、円筒状になってテムズ川の川底深くもぐり、サリー州にきて地上に姿を現わしたとき、やっとその特異性が明らかになってきた。路盤まで特別のものになってきたのだ。線路も、継ぎ目なしに熔接したものを特別のまくら木にのせた単線で、いまだかつてないまっすぐな、なめらかなレールが、深い切り通しのなかにキラめき、丘陵地帯の白亜のなかをまっすぐにえぐり、ガッチリした鉄橋を矢のように、一直線に渡って川を越えてゆく。方向を変えるときも、じつに長い距離をかけて、できるだけ浅いカープで曲がるという融通のきかないレールだ。なぜこんなレールを使うのか。それは、列車の速度がドンドン増していって、ちかくの畑や木々が、パッパッとひらめく緑のモヤのように消えてゆくようになったとき、すぐに分かってきた。遠くの景色だけが、やっとはっきり見えるが、それも見えたと思ったとたんに、たちまち後方に滑り去る。
アルバート・ドリッグの坐っている車室には、ほかにだれひとり乗客の姿もなく、それがかれには、とても嬉しかった。この列車が、ロンドンから南西部コーンウォル州の海港ベンザンスまでの往復を、これまでほとんど一年間、無事故で走ってきたことは知っているが、頭のなかで知っているのと、いま、実際にそれを経験するのでは大違いだった。ロンドンーペンザンス間の全行程は二八二マイルだ。それを二時間五分キッカリで走破するという――途中停車時間を含めて、平均時速一五〇マイルを優に上まわるという信じられないような高速だ。こんな猛スピードで走るように人間はできているだろうか? 他人はどうか知らないが、わたしはそんなふうにはできていないぞ、とドリッグは、ゾクゾクと背筋が寒くなってきた。いくら一九七二年の現代だって、いくら英帝国が現代的で、先端的だといったって、そうはいかない、というようなことを考えていたが、しかし、皺ひとつない黒服と黒チョッキに身を囲め、真っ白な堅カラーを付け、膝にピカピカ光る皮カバンを置いて、棒を呑んだような恰好で、しゃちこばって坐っているドリッグの姿からは、そんな内心は全く推察することもできなかった。上の荷物置きに、キッチリと巻いたコウモリ傘と黒い山高帽がのせてあるので、かれがロンドン商業区の人だということが分かった。およそ、ロンドン商業区の人間は、けっして人前で、心の奥の感情をさらけ出すようなことはしないものだ。だが、そうは言っても、車室のドアがスルスルと音も無く開いて、ロンドン訛りの陽気な、「お茶、お茶はいかが?」という声がかかったときには、さすがに、かれもちょっとギクリとしないわけにはいかなかった。
時速一五〇マイル――いや、それ以上なんだ! それなのに、窓下の棚にのせたコップに茶を入れているときも、コップは落ち着いて、動きもしない。
「三ペンスになりますです」
ドリッグはポケットから六ペンス貨をとり出して、「ありがとう」とつぶやいている売り子の手に渡したとたん、気前がよすぎた、と後悔したが、もう売り子の姿はなく、ドアはしまっていた。もし自前で、こんなにチップを出したのなら、ゲッソリとしたに達いないが、しかし、社用旅行だから、必要経費につけておけばいい、と考えると気も楽になる。それに、お茶も、いれたばかりの熱い、おいしいものだから、だいぶん神経も静まった。ここでウイスキーでも一杯やれば、よほど気分がよくなる、と思って、給仕を呼ぶのに、いまにもボタンを押そうとしたときに、ふとかれは思い出した。そうだ、タトラー紙やぺ・メル紙で盛んに見かける、しかし、ごく僅かな人しか行かないという特別展望車というのがあったぞ。かれは、残りのお茶を飲むと立ちあがり、はみ出した鎖を袖口に押しこんだ。厄介なことに、書類カバンが片方の手首のカフスに留め金で固定して外れないようにしてある。この恰好では、どう見ても完全な紳士とは言えない。しかし、なんとか注意ぶかく細工すれば鎖を隠すことはできる。特別展望車、そうだ、あそこがいい!
廊下の敷物は濃い金色で、赤いテラテラとしたマホガニー材の鏡板の色つやと微妙な対照を見せていた。展望車へは、もう一台車両を通りぬける必要があったが、ふつうの列車のように、聞きにくいドアを無理にあけようとしなくても、近づいてゆくと、何か目に見えない装置が、それと察して、どこかに隠れた電気モーターの微かな音とともに、サッと開いた。もちろん、通りすぎてゆく車室の窓のなかをのぞきこむようなことはしないが、りっぱな服装の男や優雅な装いの女、何人かの子供たちが静かに坐って、なにか読んでる姿が、チラリと横目で見えた。すると急に、ワンワンとやかましい犬の声がして、思わず不用意にドリッグの目は引きつけられた。見れば、二人の地主風の紳士が座席に足をのせて、一本の赤ブドウ酒をいっしょに飲んでいるその足元で、五、六匹の大小さまざまの猟犬がひしめき合って、主人たちの注意を引こうとしている。それから、ドリッグは展望車に着いた。
ここでは、自動装置ではなくて、最高の人間的サーヴィスが行なわれていた。彫刻を施した堂々たるドアにはガッシリとした真鍮の取っ手が付いていて、その横に、浅い円形帽をかぶったボーイが立っている。ボーイは制服の胸の二列のボタンをキラめかせながら、こちらの目を見るや、
「『ロンドンーランズエンド間鉄道』の特別展望車によくおいでくださいました」と挨拶して、ドアの取っ手を引っぱった。
豪華を内部に足を踏みいれて、これは、新聞の写真どころではないぞ、とドリッグは思った。列車のなかという感じは全然しない。ひじょうに高級な特別クラブの雰囲気だ。片側が床から天井まで、巨大なクリスタル・ガラスの窓になっていて、赤いビロードのカーテンが縁どりをしている。窓の前にはテーブルが並べてあって、客がゆったりと坐って、過ぎゆく田園の風景を見物できる仕組みになっている。反対側は、長いバーになって、ギソシリと並んだ酒瓶が、そのうしろの見事なカット・グラスの鏡に映っていた。バーの左右に窓があるが、これが微妙な作りのステンド・グラスで、そこから陽が差しこんで、敷物の上に色付きの模様がいろいろと移り変わっている。が、ステンド・グラスといっても聖者の姿は映らない。ここで考えられる聖者というと、スチプンスン[#ここから割り注](ジョージ・スチブンスン、一七八一―一八四八。イギリス人。鉄道の発明家、敷設者)[#ここまで割り注]とか、プルネル[#ここから割り注](マーク・イザンバード・ブルネル、一七六九―一八四九.フランス生まれの発明家、技師。フランス革命を逃れてイギリスに来る。テムズ川トンネルを建設する)[#ここまで割り注]などの、先見の明ある、たくましい鉄道の聖者たちのコンパスや地図を片手にした姿だろう。かれらの左脇には、歴史を動かした機関車「キャプテン・ディック号」[#ここから割り注](一八〇一年、英人技師リチャード(ディック)・トレヴィシックが制作した蒸気機関車。初めて乗客を乗せて引っ張ったもの)[#ここまで割り注]や、「ロケット号」[#ここから割り注](一八二九年ジョージ・スチーブンスが制作した蒸気機関車。これによって鉄道輸送が確立した)[#ここまで割り注]が置かれるが、だんだんと時代が、はるか右のほうへ進んでゆくと、ついに、強力な原子力機関車「無敵号」、つまり、いまこの列車を引っぱっている大機関車が出てくることになる。ドリッグは窓際の席に坐って、書類カバンをテーブルの下に隠し、ウイスキーを注文して、ゆっくりとそれを飲みながら、オルガンの陽気な軽音楽の調べをきいていた。一番奥の所で、ひとりの音楽家がにこやかな笑顔を見せながら、オルガンをひいているのだった。
これこそ本当の贅沢だ、とドリッグの心はもう、ハムステッドの「王様亭」に飛んでかえって、若い者が感心して、ポカンと口をあけ、目をまるくして、こちらの話をきいている場面を想像しては楽しんでいた。ウイスキーの一杯目がすまないうちに、もう列車はソールズベリの停車駅に近づいて速度を落としていた。停車すると、プラットホームに小学校の制服を着た男の子たちが集まっていて、目をキョロキョロさせながら車内をのぞきこんでくる。そこへ、ひとりの警官が現われて追っぱらう、という光栄を、ドリッグはウイスキー・グラスを片手に満ちたりた気特で見物していた。仕事を終ると警官は、手をあげて車内の乗客に挨拶し、きっぱりとした堂々たる歩調で去っていった。またもや「快速急行コーンウォル号」は高速で走りだし、ドリッグはウイスキーの二杯目とサンドイッチを注文し、まだそのサンドイッチを食べているうちに列車はエクセターの最後の途中停車駅に着いた。そして、サンドイッチを食べ終るか終らないうちに、もう列車は終点のベンザンスに近づいて速力を落とし始めたので、ドリッグは、急いで帽子と傘を取りにもどらねばならなかった。
列車を降りて、機関車のそばを通りかかると、警備兵が並んでいる。黒っぽい格子縞の短いスカートに、白ゲートルという優雅な軍服のスコットランド兵だ。着剣したリー・エンフィールド銃を構えて、きびしい顔付きをしている。かれらのうしろに、「無敵号」の黄金色の巨体がそびえているが、これこそ世界でもっとも特異な、もっとも強力な機関車だ。急ぎの使命があるのに、ドリッグは、ほかの降車客たちと同様、そのキラキラ光る長い車体のそばまで来ると、思わず、足がにぶった。見れば、黒い駆動輪は自分の身長くらいの高さがあり、白い蒸気を吐きだす丸くふくれた気筒から突き出ているピストン棹は、自分の脚よりまだふとい。車体の下のほうの機械部は、旅でちょっとよごれているが、それでも、外装は全部継ぎ目なしの黄金張りで、太陽のようにかがやいている。十四金の外装で、これ位の車体になると、その金額は大したものになる。だが、金額も金額だが、兵士たちが守ろうとしているのは、その黄金ではなく、そのなめらかな、継ぎ目のない、煙突もない外装の内部に隠されている推進機械である。政府は原子炉と言うだけで、あとは沈黙をまもって機関車を警備している。ドイツのどこの国でも、その秘密を手に入れるためならば一年分の国庫収入でも惜しまずに投げだすだろうし、フランス王おかかえのスパイが、もう何人も掴まったという噂もある。警備の兵士たちは厳しい目付きで通行人を見つめている。ドリッグは急いでそこを通りすぎた。
作業事務所は駅の上階にあり、かれはエレベーターに乗って、すぐに四階に上がっていった。管理部室に近づくと、ドアが開いて、なかから一人の工夫らしい男が出てきた。膝まである長靴、鋲を打ったこんな長靴をはいて、緑色のコールテンのズボンをはいていれば、鉄道工夫としか思えない。分厚いズックのシャツの上に、うす黒く汚れているが、まだ、たしかに虹色のチョッキを着ている。ふとい柱のような頸には、もっとはでなネッカチーフを巻いている。ドアを開けているのだが、こちらの入るのをじゃまして、薄青い目でじっと見つめている。その日は、日焼けした栗色の顔に、びっくりするほど澄んだ目だった。
「あんた、ドリッグさんだろう? 開通式でテープを切ったときに見たよ。ほかのときにも見たがね」
と、この男は言った。
「すみませんが、通してください」
と言うのに、まだ、ふとい腕でじゃまをされて、どうしようもない。
「あんたは知らんだろうが、わしは『喧嘩のジャック』さ。ワシントン大尉の工夫長だよ。大尉に会いたいんだったら、ここにはいないよ」
「どうしても会う必要があるのです。緊急の用件です」
「そんなら、今夜、交替のあとになるね。現場にとっついてなさるから、面会人は受けつけないな。そのカバンに書類が入ってるんなら、わしがとどけてやるよ」
「それはダメです――これは、わたしが本人にわたすことになっているので」
と言うと、ドリッグは、チョッキのポケットから一つの鍵をだして、書類カバンをあけ、なかに手をいれた。なかにはリンネルの封筒が一つ入っているきりで、それを、ちょっと引き出して、封の金色の紋章をチラッと見せた。すると喧嘩のジャックは、ドアの取っ手を押えていた手を放して、
「侯爵かね?」
「そうです、御本人です」
と答えるドリッグの声に、気どった自己満足の調子がひびくのはどうしようもなかった。
「それじゃ、まあ、来なさるか。作業着を着でもらわんとこまるよ。現場は汚れとるからね」
「どうしても伝言を伝えなくてはいけませんのでね」
一本の作業列車が工夫長を待っていた。工具の補充品の入った箱を績みあげた無蓋貨車を一台だけ引っぱっていく、ずんぐりとした電気機関車だ。二人がのりこむと、すぐに動きだした。機関手のうしろの踏み板に乗っているのだ。線路は町をすぎ、畑を突っきると、暗いトンネルのなかへ入った。ここの明りは、照明のついた計器類の文字盤から来るぼんやりとした光くらいしかないので、ガタガタゆれる闇のなかへはうりだされてはたまらない、とドリッグは機関車にしがみついていた。それからまた陽のなかへ出てきて、また速力を落として第二のトンネルに近づく。今度のトンネルはさっきのよりもずっと大きくて、石灰岩の石材と大理石の柱で仕上げてあるが、その大理石柱の上に、ドーリア式につくったまぐさがあり、ここに、「大西洋横断トンネル」と深く文字が刻みつけてあった。「大西洋横断トンネル」。ながいあいだ、会社に勤めてきた身だが、それでも、この文字を目にしたときは、ドリッグは何か陶にこみ上げてくるものを感じた。
大西洋横断トンネル。なんという野心だろう。冷静を人たちが、この言葉の魔力にとらえられたのだ。いまはまだ、この堂々とした入口のなかにトンネルはわずか一マイルほどしか伸びていない。しかし、いまだにこの人ロには、人の胸を撮らせるような何物かがある。地中にもぐり、海の下をくぐり、青黒い海原の下を数千マイル疾走して、また新世界の陽のなかに出てくるというのだ。
灯火が、だんだんゆっくりと走りすぎるようになって、ついに作業列車がとまったのはひとつのコンクリート壁の前だった。この壁が巨大な栓のようになって、トンネルを密閉しているのだった。
「終点だよ。ついて来なされ」
と声をかけると、喧嘩のジャックは図体に似合わぬ軽い身ごなしでヒラリと飛びおりて、
「あんた、トンネルのなかを歩いたことがあるかね」
と言った。
「いや」
とドリッグは、あっさり認めた。男たちが歩きまわって、なにか訳のわからない指図を交し合っている一方で、ガラン、ガランと金属の落ちる音がアーチ型の天井にひびく。天井に吊った裸電球に照らし出されているのは、奇妙な機械類や、レール、車両、名も知れぬ道具類などの集まったダンテ的な光景だった。
「心配はいりませんぜ、ドリッグさん。ヘマなことをやらんかぎり、家にいるみたいに安全ですぜ。わしは、ずっと鉄道やトンネルで食ってきたが、あばら骨を二、三本折ったのと、顔の骨にひびが入ったのと、脚をいっぺん骨折したのと、それに一度か二度、負傷したくらいで、ピンピンしてますぜ。さあ、こっちへ」
喧嘩のジャックの物騒な話で安心したわけでもあるまいが、ドリッグは、工夫のあとにつづいてコンクリートの壁に付いた鋼鉄製のドアのなかへ入った。入ったとたんに、ガチャンとこれが閉じた。見ると、ここは、ひとつの小さな部屋になっていて、真ん中に、ずっと、いくつかベンチがつづき、一方の壁にロッカーが取りつけてある。突然、シューと物音がして、遠くで、ポンプがズキンスキンと動きだす音がしたかと思うと、ドリッグは耳に妙な圧迫を感じた。その不安そうな表情に気がついて、喧嘩のジャックが、
「空気、圧搾空気、それだけのことでさ。せいぜい二十ポンドですな。六〇ポンド以上の気圧で働いてきた人間の言うことだからたしかですぜ。いったんなかへ入っちまえば気になりませんや。さあ、これを着て」
と言って、ひとつのロッカーから作業衣をひっぱり出して、ハタハタとひろげ、
「これなら服の上から着られる。さあ、そのカバンを持ってるから着なされ」
「これは、はずせないんですよ」
とドリッグは、鎖を全部ひきだして見せた。
「鍵は無いのかね?」
「わたしは持ってないのです」
「いやなに、そんなことは簡単だ」
と言うと、工夫は一本の大きな折りたたみ式のナイフをとり出した。その手つきの無駄の無い素早さから見ると、前にもかれが、これをとっさに使ったことがあるのが分かる。ナイフに触れると、サッと、長い、ギラギラした刃が飛びだした。これを握って喧嘩のジャソクは一歩踏みだしてくる。ドリッグは思わず身を引いた。
「これ、これ、あんたの手を切るとでも思ってるんですかい? この服にちょいと手術をするだけですわい」
ズバリと袖口から脇の下までを切りひらき、もう一度刃をひねって、作業着の胴横の部分を切りひらくと、ナイフをたたんで、元の場所にしまいこむ。ドリッグが切り裂かれた作業着を着ると、書類カバンは簡単に胴の横から出てきた。ドリッグが作業着をつけると、工夫長は、もう一枚の作業者をズタズタに切りさいて――この男は会社の備品をなんとも思っていない ――切りひらかれた袖のまわりに巻きつけてくれた。この作業が終るころには、もうポンプも止まっていて、向こうの瑞のもうひとつのドアが開いて、ポンプ作業員が首を出し、ドリッグの山高帽を見ると、額に手をやって挨拶した。
隔壁の、もう一つのもっと大きな鋼鉄ドアから、小型貨物列車が出てくるところだった。喧嘩のジャソクが、唇をすぼめて、耳をつんざくような鋭い口笛を吹くと、列車の運転士がそれを聞きつけてエンジンをとめた。
「『片目のコンロウ』 っていう奴でさ」と喧嘩のジャックはドリッグに耳打ちした。「なぐり合いになると、おそろしい奴でね。拳骨をかためて、いつでも喧嘩の用意をしてるって奴でさ。つぶされた片目の仕返しだってわけでね」
コンロウは、赤い片目でギラギラとにらみつけていたが、二人が横に乗りこんでくると、また、ゴトゴトと貨車を発車させた。
「現場の具合はどうだね?」
と喧嘩のジャックがきくと、
「砂だ」
と片目のコンロウは答えて、ペッと噛みタバコの汁を闇のなかへ吐きだし、
「まだ砂だ。ぬれた砂だ。上のほうがゆるんでるんで、天井が吹き飛ばされんように、ワシントンさんは圧力を下げなすった。すると水が、下にどっぷり溜りやがって、ポンプが全部、全力回転ていうわけだ」
「気圧のせいでさ」
と喧嘩のジャックが説明してくれるが、使者のドリッグには興味がない。「ここでは頭の上に、六〇フィートから一二〇フィートの海水があって、そいつが砂を上から押して、いつもトンネルのなかに入ろうとしてるわけですな。それで、こちらは、そうさせるものかと気圧を上げるんだが、なにしろ、このトンネル、高さが三〇フィートあって、上と下とでは圧力に違いが出る。そこが問題で、圧力を上げて、上のほうの調子がよくなると、今度は、下の圧力が低くなるんで、底から水が港み出してきて、わしらは水泳ということになる。ところが、下の圧力を上げて、底の水をしめ出そうとするとだ、今度は上のほうに圧力がかかりすぎて、天井に穴が明いて、それが海底にとどいて、頭の上からドンと水が入ってくることがある。だがまあ、こんなことは、あんたは心配せんでもいいんだ」
と言われても、ドリッグは心配せずにはいられない。なぜか、両手がふるえるので、ガタガタと鎖が鳴らないように手首の鎖をしっかり掴んでいなければならなかった。たちまち列車の速度が落ちてきて、トンネルの行きどまりがはっきりと見えてきた。それは一枚の大きな重い金属の楯で、これで工夫たちは、その外側の土砂から守られて、この楯に穿たれた、いくつかのドア状の穴を通じて土砂を掘るようになっていた。
ドリルが上のほうで、キンキン、ブルプルと鳴り、下で機械式シャベルが掘りくずされた土砂をすくい、待ちかまえた貨車に積みこむという光景は、一見、混乱した、気ちがいじみたものに見えたが、しかし、ドリッグの慣れない目にも、仕事が秩序をもって能率的にすすんでいることは、たちまちはっきりしてきた。喧嘩のジャックにつづいて、ドリッグも列車から降り、その金属板に近づき、それに付いた金属の階段をのぼって、ひとつの穴のところまで上がっていった。
「ここで待っていなされ。連れてきますで」
と工夫長が言う。
そう言われなくてもドリッグは、もうこれ以上一歩もすすみたくなかったし、それにまた、会社への忠誠心とはいえ、よくもまあ、こんなところまで来たものだ、と我ながら感心した。目のまえ二、三フィートのところに、土砂がむき出しになっている。
灰色の砂と固い粘土だ。シャベルがこれに食いこみ、下に待っている貨車に落とす。作業全体になんとなく無気味で恐ろしいものがあり、ドリッグは視線をそらして、喧嘩のジャックのほうに移したが、かれは、いま、カーキ色の服を着て、大きな編上げ靴をはいた、背の高い男と話をしていた。その男が向きを変えて、その古典的を鼻の線が見えたとき、やっとそれがオーガスチン・ワシントン大尉だと気がついた。以前、会社や重役会議で見かけたことがあるだけで、あのりっぱな身なりの紳士がこんなたくましい技師だったとは思いもよらないことだった。だが、もちろん、ここにはシルクハット姿の紳士なんか一人もいない……
そのとき、叫び声とも悲鳴ともつかぬ声が上がって、みんながいっせいに、そのほうを振りむいた。ひとりの工夫が前の黒い砂の面を指さしている。砂が、金属の楯から、見る見るうちに縮んで退いてゆくのだ。
破裂だ! とだれかが叫んだが、ドリッグには何か恐ろしいことが起こりかけているというだけで、ほかのことは、さっぱり分からない。急な、混乱した場面になり、工夫たちが走り回って何やらしている一方で、砂が絶えず後退していって、ついに、突然、大きな笛のような音が聞こえたと思うと、直径二フィートは充分ある一つの穴がポッカリと開いた。とたんに風が起こって、ドリッグは体がぐらつき、耳が痛くなったかと思うと、なんと、その砂の穴のほうに向かって、シリジリと吸いよせられてゆくではないか。恐怖で石のように体がこわばり、ドリッグは必死で金属板にしがみついたが、頑丈な木の板が何枚も風で金属板から引きはがされて、吸いつけられ、バラバラに砕けて暗い穴のなかに消えてゆくのだ。
ひとりの工夫が、たくましい両腕に藁の俵を高々とかかげて、吸いこむ風力に抵抗して体を反らせながら、ヨロヨロと前に出てきた。喧嘩のジャックだ。突然、皆殺しにしようと襲ってきた危険を相手に闘おうとしているのだ。藁俵を持ちあげたその手から、俵は、風の力にもぎとられて、砂の穴に叩きつけられ、平たく穴の口をふさいだが、それもほんの一瞬で、たちまち穴のなかへ消えてしまった。
喧嘩のジャックはよろめいて、安全なところへもどろうとして、何かにしがみつこうと片手を鋼鉄の隔壁に伸ばしている。いまにも指先がふれようとするが、どうしてもとどかない。恐怖というより、腹立ちのうなり声を上げながら、かれは、うしろにグラリと揺れると、風のためにヒョイと立ちあがってしまい、頭から先に穴のなかへ引きこまれた。
ながい恐ろしい一瞬を、かれは、まるで、瓶のコルク栓のように、穴のところにひっかかって、両脚だけをハタハタさせていたが、やがて、すっかり穴のなかへ消えてしまい、あとは、さえぎる物の無くなった空気がヒユーヒユー、ゴーゴーと鳴りだした。
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2 重大な決意
アルバート・ドリッグはもちろん、工夫たちはみな、アッというまの悲劇に、体がしびれて立ちすくんでしまった。肉体的困難、努力、事故、突然の大怪我などの毎日に慣れたたくましい男たちだが、あまりの突然さに動転してしまったのだ。ところがそこに、ひとりだけ、動き、行動を起こして、みんなを金しばりにしている力を打ち破るだけの落ち着きをもった男がいた。
「おれにつづけ!」
とワシントン大尉は叫ぶや、この種の事故にそなえて作ってあった角材製の防護物に飛びついていった。ある長さの厚板をふとい角材に打ち付けて、人の背の高さくらいのドア状の盾に作ったものだ。重すぎて、とてもひとりでは動かせそうになかったが、ワシントンは、これの端を掴んで、全力をふりしぼって、優に二フィートは引き出した。
その動きに、ほかの者もハッと目がさめたように動きを起こして、そばに駆けより、防護物を掴み、持ちあげて、押しだしてきた。空気圧が、それをかれらの手からもぎ取り、掘り抜き部分にピシャリとたたきつけて、やっと破裂口をふさいでくれたが、まだ、厚板のすきまからシューシューと空気が強く流れている。それでも、とにかく、激しい流れは一応おさまった。ワシントンの指図で、工夫たちは、今度は災害を食いとめ、封じこめようと忙しく働きだした。一方、その頭上の、あの金属の楯の一番大きな穴から、一台の奇妙な機械が出てきた。なめらかに動く強力な水力シリンダーの力で押しだされてくるのだ。軍艦の砲塔のような恰好に見えないこともないが、ただ、大砲のかわりに四本の長いチューブが付いていて、そのチューブの先が削岩ナイフになっている。このナイフが破裂ロの上のほうの砂に当てられ、作業員の操作で、すぐに回転をはじめた。猛烈な勢いで回転して、チューブが柔らかい砂のなかに沈んでゆき、砲塔そのものが掘り抜き部分に接触するところまでくると、すぐに穴掘りは中止され、バルブが開かれた。すると、すぐに砲塔に白い霜が現われた。
一方、ひとりの筋肉たくましい工夫が斧をふるって、さっき当てた木の防護物の真ん中の、ちょうど破裂口のあたりを叩き割って、ひとつの穴をあけた。ところが、猛烈な空気圧で、穴が明いたとたんに、斧が手からもぎ取られて穴のなかへ消えてしまった。工夫はヒョロヒョロと後ずさりして、笑い声をあげながら両手を上げた。見れば、空気圧で斧がもぎ取られた跡が、手の平に、すりむけた筋になって残っている。かれが脇へさがるやいなや、ふといホースが、この穴に突っこまれて、ポンプが動きだした。
それから数秒すると、ビューヒユーと甲高い音を立てていた空気の流れが消えはじめ、破裂口ができた濡れた砂の上に、氷の膜が張りだして、ヒヤリとするような空気があたりに流れだした。空気の激しい流れが完全にとまると、ワシントンはポンプの停止を命じた。すると急に、あたりに沈黙が落ちて、みんなの耳がジーンと鳴った。ベルの音が聞こえたので、見ると、ワシントン大尉が野外電話のハンドルをまわしている。
「無電で至急、船につないでくれ」
連絡がつき、みんなが食いつくように耳をすましていると、大尉は、一言、「報告せよ」と噛みつくように言っただけで、あとは、うなずいて聴いている。だがやがて、固唾をのんで待っている工夫たちに、「無事だ。生きている、けがもない」と知らせた。
工夫たちはワーツと歓声をあげて、帽子をほうりあげたが、ワシントンは両手をあげて、それをおさえて、説明をはじめた。
「船の上から破裂が起こったのが見えたんだ。泥しぶきが四十フィートあがったから、泡の上がってくる現場にできるだけ接近したら、ちょうど、喧嘩のジャックが吹きあげられてきたそうだ。空中に吹き飛ばされたが、海面に落ちたところを直ちに収容したと言っている。意識はなかったが無傷だった。意識がもどって目があく前に、どなっていたそうだ。さあ、みんな、仕事にもどれ。きょうはまだ、十二フィート掘るぞ」
作業が調子をとりもどすと、ワシントン大尉はドリッグのほうを振りむいて、がっしりとした肉の厚い手で掘手をして、
「ドリッグさんでしたね、侯爵の私設秘書の?」
と言った。
「そうです、それに重役会の秘書も勤めております」
「忙しいところをお目にかけましたね。びっくりなさらなかったでしょうな。トンネル握りには、むつかしい問題がつきものだが、しかし、ごらんのとおり、備えがあれば処理できないものでもないのです。このあたりでは、海底部に一本の溝が走っています。おそらく、海水とわれわれを隔てる砂は五フィート以上もないでしょう。だから、破裂事故が起こる可能性は、いつもあるわけです。しかし、いち早く蓋をして、ガウワン安定剤を使ったおかげで、すぐに穴は封印されましたよ」
「どうも、さっぱり分かりませんが」
「いやいや、そんなことはありませんよ。簡単なことです」と説明をはじめるワシントン大尉のロに本物の熱気が光りだした。「われわれの頭の上の砂は水びたしになっていますね。だから、このトンネルの土からかかる水の重さを支えるために、トンネル内で庄搾空気を使っているわけで、これで、砂にストンと穴が明いて海底に達してしまったのです。木のバリケードで一時的に、その穴をふさいで、ガウワン安定機を持ち出してくる時聞かせぎをしていたのです。あのドリルは、なかが空洞で、充分に深くこれを打ちこんで、すぐに液体窒素をポンプで送りこんだのです。この液体はマイナス三四五・五度で、まわりの物を一瞬に冷凍します。そして今度は、あそこのパイブで、泥と水を混ぜたのをポンプで送りこんだわけです。すると、これが凍って、穴をふさぐ栓になったというわけです。この危険な地域を掘ってゆくあいだ、ここは冷凍状態にしておいて、トンネルの壁の鉄板で封印しておきます。終りよければ、すべてよし。これで万事うまくいきました」
「ほんとうですね。それに工夫長も助かって良かったですね。船が近くにいたのは、運が良かったですねえ」
と言うと、ワシントンは、するどい目でじっとこちらを見つめて、
「いや、けっして偶然じゃないんですよ。それは、あなたもご存じのはずですよ。この現場付近に船を配備しておくのは経費のむだづかいだと最近、重役会から注意する手紙が来たが、あれには、たしか、あなたの署名がありましたね」
「そうです。しかし、あの署名は、文案作製者として出ているだけで、そういう問題には、わたしは何の責任もないんです。重役会の意向を伝えるただの伝達機関ですよ。しかしもし、お許しがいただけるならば、きょう、この目で見たことを忠実に報告書に作成して、あなたの先見の明によって、いかにしてひとつの人命が救われたかを強調しておきますよ」
「技術のおかげですよ、ドリッグさん」
「いや、先見の明だと思いますよ。カネよりも人命を優先させる先見の明です。わたしは、ただそう書いておきます。そうすれば、そういうふうに決着がつくでしょう」
ドリッグの声の熱気にちょっとワシントンは閉口したらしく、すばやく話題を変えて、
「ずいぶん長いあいだ、おまたせしたが、なにか重要な用件でしょう、わざわざ、こんな遠くまで来られたのは」
「連絡事項です」
ドリッグは書類カバンの錠をあけて、なかに入っている一枚の封筒をとり出した。黄金色の封印を見て、ワシントンは、かすかに眉を上げると、すばやく封を破って、文面に目をとおした。
「内容はご存じですか?」
とワシントンが手紙を折りたたんで、指のあいだで、それをしごきながらきくと、
「いえ、わたしの知っているのは、侯爵御自身で、その手紙をお書きになったことと、ある重大な用件があるから、あなたがロンドンに出向かれるために、あらゆる便宜を計るように命令を受けたこと、これだけです。すぐに出発しましょう」
「いますぐ立つ必要がありますか? 上り初発の直通列車は九時だから、ロンドン着は、どうしても夜明けになりますよ」
「いや、とんでもない」とドリッグは笑顔になって、「『快速コーンウォル号』の臨時列車が、とくにあなたのために仕立ててあります。もう待っているはずですよ」
「そんなに急なことですか?」
「そうです。もっとも緊急を要する用だと侯爵閣下がとくに、その点、念を押されましたので」
「そうですか。それじゃ着がえをして……」
「失礼ですが、あなたのホテルの給仕長に指示がしてあるはずだし、列車に乗られたら、身の回のものを詰めたカバンをおとどけすることになっていますから」
ワシントンは、なるほど、とうなずいた。決心したのだ。かれは振りむいて、騒々しい工事現場に大声を張りあげて、
「頑固屋、喧嘩のジャックがかえってくるまで、きみが工夫長をやってくれ。仕事をつづけるんだぞ」
と言うと、もうそれ以上することもなく、ドリッグの先に立って、金属の楯を通りぬけて、さっきの電気機関車のほうへ歩いていった。そして、二人で機関車に乗りこんで、隔壁のところまで帰ってくると、ちょうど、喧嘩のジャックが気密室の扉から出てくるのにバッタリ出くわした。
「あんなことは二度とごめんでさあ」とどなるように言う喧嘩のジャックは、全身ずぶぬれで、額や肩にいくつも打ち身をこしらえているが、これは海底をズリ抜けたときにできたものだ。「樽の栓みたいにくっついて、もうこれで終りかと思いやしたぜ。そうしたら、ボンと鉄砲玉みたいに飛びあがって、何もかもが真っ暗になったと思ったら、気がつくと、上にゃ空が見えるし、きたならしい野郎どものつらが見えるし、というわけで、こりゃ天国にきたか、地獄にきたか、と思ったですわ」
「きみは絞首刑にでもならんと死なん男だよ。さあ、現場にもどって、調子を落とさず交替時間までしっかりやるよう、監督をたのんだよ」
とワシントンは平静な調子で言う。
「しょうちでさ。サボル奴は、あの穴のなかへ突っこんで、わしみたいに、ポーンと海の上にほうり上げてやりまさ」
と言うと、かれはクルリと背を向けて、足を踏みならしながら現場へ向かっていった。こちらは気密室へ入って、椅子に坐った。
「あの男、働いていいんですか……?」
と長い沈黙のあと、思いきってドリッグがきくと、
「いや、ほんとうはよくないんですが、しかし、休めと言っても聞くような男じゃないですよ。工夫たちには、わたしたちとは違う生活態度があって、それは尊重しなくてはいけないのです。たとえ怪我をしたって、潜函病にかかったって、あれは絶対に認めやしません。病院にいかせようと思ったら、脳天をぶんなぐる以外に手はない。そんなことをしたら、それこそ一生うらまれるでしょう。あの連中が、肝だめしだといって、幅十フィート、深さ百フィートある通風トンネルの上を飛びこすのを見たことがあるが、つづけざまに三人がしくじって、落ちて死んでしまい、四人目が笑いながら、うまく飛びこえたのを見ましたよ。うまく飛びこした、と思ったら、その男をかこんで、みんなで出ていって、死んだ仲間のお通夜だと称して、歩けなくなるほどビールを飲んでくるんですからね。だれひとり、悔んだり、悩んだりする者はない。たしかに、獣じみた、乱暴な生活だといえば、そうには達いないが、しかし、それでこそ、男が出来あがるということも確かですよ」
熱した語気になったことを恥じるのか、ワシントンは、その後、作業列車がトンネルを出て、ペンザンスに着くまで黙っていた。夕闇になり、西の空の赤い雲の縞がうすれてゆく。何本もひろがっているレールのいたるところに、チラチラと光がまたたいているのは、構内勤務の者が転轍機の標識燈にパラフィン油を入れて、芯に火をつけていくからだった。人混みが消えて駅は静かになり機関車の、「無敵号」の車体だけが、いよいよ巨大な姿でうずくまって、みがいたばかりの黄金の車体の上に標識燈の赤や青の光を照り返している。
つないでいるのは二台の客車で、特別展望車と「谷間の王者」と呼ばれる車両だけだった。これは侯爵、そのほか重役会の役員のための専用車で、この車両専門のウォーカーという白髪の初老の男が、乗降口の踏み段の下にひかえていた。ウォーカーは以前、ある重役の執事をつとめていた男だが、齢をとったので、この閑職についたのだった。
「風呂の湯が入っております。それに、お召し物もひろげてあります」
「それはありがたい――しかし、まず一杯やりたいな。ドリッグさん、よかったら、いっしょに飲みませんか。ながい暑い日で、一カ月分どころじゃない興奮でしたからねえ」
「よろこんでいただきます」
特別展望車のドアのところには、はでな制服姿のボーイが立っていて、二コニコしながらドアをあけてくれたが、ワシントンは、急に足をとめて、
「この子は寝なくてもいいんですか。いくら特別の旅だといっても、ドアくらい自分であければいいですからね」
と言った。
少年はしょげた顔になり、下唇がふるえたが、ドリッグが、
「みんな志願して来たんですよ、ワシントン大尉。ほかの者も、このビリーも志願してきたんです。その気持を分かってやらなくちゃ」
「そうですか。それじゃ出発ですな」とワシントンは笑い声をあげて展望車のなかへ入り、「レモネードを一つ、ビリーにやってください。われわれもレモネードを飲みましょう」と言った。
オルガン奏者が、こちらを振りむいて、ニッコリと笑い、みごとな金歯を見せると、すぐに「悩むのはおやめ」を熱烈な調子でひきだした。ワシントンは、かれにもビールを一杯おごり、自分もジョッキを傾けて、ほとんど一気に飲みはした。列車は、じつに、なめらかに滑りだして、ほとんど気がつかないうちに走っていた。
二、三杯やり、風呂にはいり、服を着替えているうちに、いつのまにか旅は終っていた。パディントン駅のプラットホームはガランとして、ただ、ピカピカ光る十八フィートの車体の、六枚ドア付きの黒いロールス・ロイスがむかえに来ているだけだった。従僕がドアをあけている。二人が乗りこみ、従僕が運転手のそばに坐るや、すぐに車は走りだして、ハイド・パークを回り、コンスティテューション・ヒルをのぼり、バッキンガム宮殿を過ぎ――ここは舞踏会か何か、重要な行事があって窓がすべて煌々たる明りを放っていた――数分ののち、大西洋会館の前に到着した。ぺル・メル通りにある会社の事務所である。正面ドアが開いている。一言もいわずに、ドリッグは先に立って、エレベーターに近づき、書斎に上がってゆく。モロッコ皮と黒っぽい木の家具のはいった、静かな書斎に入ると、二人は門番が外側のドアをしめるのを待った。しめたのを確認するとドリッグは、本棚のひとつにひそかにとり付けてある掛け金にさわった。すると、本棚の一部がドアのように完全に開いた。かれは、そのなかを指さして、「閣下が私室でお待ちになっています。あなたが重役会に出席になるまえに、二人だけでちょっと話があるということです。どうぞ」と言った。ワシントンがなかへ入ると、秘密のドアはうしろで閉じて、もうひとつのドアが前に開いた。
侯爵がデスクに坐って、なにか書きものをしていたが、はじめ、顔もあげなかった。優稚な部屋で、豪華な銀や真鍮の器、おもおもしい先祖の肖像画などが飾ってある。坐っている侯爵のうしろにカーテンが開いていて、そこから、セント・ジェイムズ公園を見はらす景色の向こうに、ビッグ・ベンの塔(国会議事堂の大時計塔)を望む眺めがある。その眺めが、大きな張り出し窓にかこまれて、ちょうど額ぶちいりの絵のようになっていた。その時計が、いかめしく時を打ちはじめたときに、侯爵はペンを置いて、ワシントンを近くの椅子に招きよせ、
「じつは、かなり重大な件なのだ」と切りだした。「そうでなければ、こんな乱暴なやりかたで、呼び出したりはしないよ」
「お手紙の様子で、それとは察しましたが、肝心の用件には触れてありませんでしたが」
「それは、いま話する。しかし、じつは、ここに来てもらったのは、その、つまり、どう呼んでいいかな、まあ、個人的問題とでも言っておくが、それについて、二人だけで話があったのだ」
侯爵閣下は落ち着かない様子だった。両手の指を胸の前で組んだり、ほどいたり、家系特有の大きな額をこすったり、ふりかえって窓の外を眺めたりしたかと思うと、また前に向きなおり、
「言いにくい話なんだよ、ワシントン大尉。われわれのそれぞれの家に関係があってな。先祖のことで、われわれの間に、ひょっとすると悪感情があるかもしれない。あると断定はしないが、しかしこう言えば分かるだろう」
たしかに、こう言われれば、ワシントンにも分かった。それで侯爵の困惑がこちらにもいくぶん伝わってきた。だが、いままでずっと、その重荷を抱いて暮らしてきたので、侯爵よりは、まともに、それを見つめることができる。秘密の罪として隠しておくよりは、いま白日のもとにさらけ出すほうがいいのだ。
「過去は過去です」とワシントンは切りだした。「初代のコーンウォリス侯爵が、わたしの先祖のワシントンを反逆者として処刑したことは、歴史上の事件で、だれもが知っていることです。わたしは、べつに、それを恥とも感じないし、閣下や、閣下の家族に、なんら個人的うらみも持っておりません。それは誓ってもかまいません。レキシントンの戦闘は正々堂々たる戦閥で、正々堂々たる勝利に終り、大陸軍は敗れたのです。初代侯爵は軍人だったから、個人的にいかに気がすすまなくても、命令に服する以外にどうしようもなかった。ご存じのように、処刑を命じたのは国王御自身でした。ジョージ・ワシントンは反逆者だった――しかし、それもただ、戦争に負けたから、そうなっただけのことです。もしも勝っていたら愛国者ということになったでしょう。しかもかれには勝者になる資格があった。主義主張が正当だったからです」
「そのころの歴史は、あまりよく読んでいなくてね」
と侯爵は、デスクに目を落として答えた。
「閣下、率直な物の言いかたをお許し願いたいのですが、これは、わたしにとって非常に切実な問題なのです。反乱と、反乱後の植民地に残った悪感情のために、いまだにアメリカは植民地としてとり残されていますが、ほかの植民地、たとえばカナダやオーストラリアは、帝国内で完全な独立自治領の地位を得ています。閣下にも御存じいただいたほうがいいと思いますが、わたしは独立運動では活発に働いていますし、女王陛下がその地位を認められる日を早めるために、できるかぎりの努力はするつもりなのです。」
「それには、心から賛成だよ。きみもよく知っているはずだが、わたしは固い保守主義者だから、そういう方法でなら、自治領の資格を認めるという党の方針は強く支持しておるんだ」
と言いながら侯爵は立ちあがって、机をドンと叩き、それから、その手を差しだしたが、最初この挨拶の形式を抜きにしたのは両家の微妙な関係があったからだろう。ワシントンも同じようにしないわけにはいかず、立ちあがって、しっかりと握手をした。二人はそのままの姿勢で、長いあいだ立っていたが、侯爵がまず、目を落として、手を放し、この思いがけぬ感情の発露にまごついたかのように、こぶしを口に当てて咳ばらいをした。しかし、これで、気まずい空気が晴れて、話がしやすくなった。
「ワシントン、じつは、このトンネル計画だがね、むつかしいことになったんだ」と言いだした侯爵は、顔までむつかしくなって、額は、まるで鋤を入れた畑のように皺だらけ。口の両はしがぐっとさがって、ポッテリした頬が二、三センチはさがった。
「最初から、この大計画には二つの顔があった。公的な顔と私的な顔だが、いま問題にしているのは、私的な顔だ。たしか、きみも、多少は知っているはずだが、これだけの規模の事業になると融資の問題がいろいろと複雑になる。しかし、最大のねらいが、いかに政泊的なものか、そこは知らないだろうね。要するに、これは、政府の計画、つまり一種の巨大な公共土木事業なんだ。びっくりしたろう、え?」
「たしかにほんのすこし驚きました」
「それは当然だよ。この国や、その強大な帝国領は、強者が指導し、ほかの者がその指導にしたがい、弱者や弱小企業は敗北するという健全な考えの上に成り立っていて、政府や国王は私的企業の問題には首を突っこまないことになっておる。こういう原則は、経済情勢が順調で、健康な英国ポンドの太陽がみんなの上を暖かく照らしている時はまったくけっこうなんだが、いまや、その太陽に雲がかかっていることは、きみもよく知っているだろう。辺境開発がどんどん伸びていたときは、束インド会社、ハドソン湾会社、インカ・アンデス会社、その他いろいろな会社の富が流入してきたおかげで、英国は肥えふとったものだ。ところが、辺境開発がとうとう大洋の線まで達してしまって、世界経済がある種の平穏期に入ってしまったらしいのだ。企業がもう拡張できない段階に達すると今度は縮少するが、この産業縮小の傾向は、かなり永続的なものだ。なんとか、これを打開するための手を打つ必要があった。生活補助を受ける人間が毎日ふえてゆく。救貧院は満員になる。慈善事業は限界に達する、というわけで、なんとか対策を講じる必要があった。そこで対策が打たれたのだ。ある企業家たち、ある大企繁の代表者たちが非公開の会議を開いて、この間題の全面的解決は、私的企業の能力を越えているという結論を出した――もちろん、その決論を出すについては、かなりの躊躇があったのだよ。
それで、今度は、経済分野の専門学者が議論に加わって、かれらの主張で、その秘密会議を拡大して、そこに議会からの委員会を参加させることにきまった。トンネル計画が最初に出てきたのは、この時点だよ。英国とアメリカ植民地両方の全経済に影響して刺激をあたえるという大計画だ。ところが、計画の大きいところが、この計画の唯一の欠点になって、これを賄おうにも充分な私的資本が集まらなかった。そこで、ついに、最終的な、信じられないような手段がとられた。王室からの融資が必要だという話になったわけだ」と、ここで侯爵は意識的に声を低くして、
「女王に御相談申しあげたのだ」
これは驚くべき内幕ばなしだった。大西洋横断トンネル会社の内情には通じていたが、いまのいままで、夢にも気づかなかった重大な秘密だった。はじめ、ワシントンは呆然としたが、やがて目を細くして、そこから派生する意味をいろいろと考えているうちに、いつのまにか無意識にシェリー酒のグラスをとり上げて、口元に運んでいた。いつのまにか侯爵が立ちあがって、サイド・ボードの上のカットクリスタル製の装飾瓶から二つのグラスに注いでいたシェリー酒だった。
やっとワシントンは口を開いて、
「政府は、どの程度、融資しているのですか?」
「やり出したからには最後までやるという主義でね。投資家がこれまで引きうけたのは必要額全体の約十二パーセントで、女王陛下の政府が出資に応じたのは八十パーセント――それ以上はダメだ」
「それでは、まだ八パーセント不足ですね?」
「そのとおりだ」
と答えて侯爵は、手をうしろに組んで、それをこねまわすようにしながら部屋の端まで歩いていって、またもどってきた。
「わたしは、はじめから疑問をもっていた。いや、重役会の者はみんな、はじめから、たしかに疑問視していたのだ。ところが、ケインズ卿に押しきられてしまってね。女王の顧問をしている、あの経済学の本を何十冊と書いている人だ。たしか九十を越えているはずだが、いまだにピンピンしていて、だれとでも渡り合う人だ。この人にみんなが説得されてしまってね。トンネルができあがったら、どんなに好都合にゆくかということを説明されると、けっこうずくめに聞こえたものだ。金は回る。資本は流動する。投資家には健全を利益がある。トンネル建設の需要をみたすのに、いろいろな企業が拡大する。各方面の雇傭が増す。充分な儲けが小商人にも回る。要するに健全経済が出現する、と説得されたんだよ」
「それは本当かもしれませんよ」
「そりゃたしかに本当だろう――この計画全体がつぶれないかぎりはね。しかし、残りの八パーセントの工面がつかぬことには計画は破産する。そしたら、もっとひどいことにならないにしても、また元どおりの不景気にもどってしまう。ところがだ、こんな言い方をして失礼だが、きみ、手綱をしぼって、投資をしぶっているのは、アメリカ植民地の連中なんだよ。いまいましいじゃないか。それで、そこのところを、きみに尽力してほしいのだ。きみ以外に、それができる者はいない。トンネルの運命はきみの力にかかっていると言っても誇張じゃないんだよ」
「必要とあらば、どんなことでもやります。その点はおまかせください」
とワシントンは、静かに、素朴に答えた。
「承知してくれると思っておったよ。そうでなかったら、こうして、ここへ来てもらうようなことはしなかったよ。乱暴な呼びかたをして許してくれ給え。きょうはずいぶん長い日だったな。まだ終ってないがね。アメリカ植民地議会や総督とは話し合いがついている――そう、かれらとも相談したんだ。アメリカの経済も、わが国同様、衰弱しておって、南北アメリカの個人投資に見合うだけの公共投資ができない。洪水を必要としておるのに、チョロチョロと小川ていどの投資しかない現状だ。この現状をここで根本的に一変させる必要がある。きみは、もちろん、アメリカの重役会の会長のロックフェラーを知っておるね。それに、アメリカ側のトンネル工事の担当者マキントッシュも知っているだろう、ブラシイ・ブルネル社の代理人をしている男だ。その二人が二人とも、計画促進のために、役職を降りることを承知してくれたんだ。その二つの役をひとつにして、それをきみが担当するように今夜、指令を受けることになると思う」
「え? それは!」
「神がこれを認めて、援助してくださることを! われわれが先ず考えたのは、この地位につく者を優秀な技師にすることだった。きみなら充分、職責を果たしてくれることは分かっている。つぎに考えたのは、きみが植民地人だということ、つまりアメリカ人の仲間だということだ。だから、この事業には、はっきりとしたアメリカ的なひびきが伴う。なるほど、独立反対派のなかには、きみの家柄をいみ嫌う連中もいることはいる――その点は率直に認めなければならないだろう――しかし、そういうのは少数派だと思う。きみがこの地位について、尽力してくれれば、社債の売れ行きに拍車がかかって、ひいては工事も続行できると期待しておるんだよ。どうだね、引きうけてくれないかね?」
「もう約束しましたよ。いまさら、引きさがる気はありません。しかし、簡単に決まるとも思えませんが」
「ひとつだけ厄介な点があるが、それは分かっておるね」
「サー・イザンバードでしょう。このトンネルの設計は、まったくあの人の考えです。そもそも発想からして、そうです。わたしはただ、その命令を実行している雇い人にすぎません。その点は代理人のマキントッシュと同じですが、マキントソシュは技師じゃない。もしも、わたしがこの大役を引きうけねばならないとすると、あらゆる面で、サー・イザンバードと殆んど同等の位置に立つことになりますが、そうなれば、かれはこころよく思わないでしょう」
「それどころじゃないよ、きみ。こういう結果になるという話をして、もう慎重に打診したんだがね」そのとき、机の上の閃光信号がついて、やわらかくブザーが鳴った。「重役会の者が食事がすんで、もどってきたようだ。わしもいかねばならん、きみに会ったことは、だれにも知らせてはいかんのでね。書斎で待っていてくれたら、あとで呼びだす。もし予定どおりに事が運んだら――投票するから予定どおりいくと思うが――そうしたら、いま言った提案の概略を記したメモをきみの手元にとどける。そのあとで、きみは重役会に呼びだされるからね。ほかに方法がないのだ」
机の上のボタンにちょっと触れるとドアが開いて、ワシントンは、またさっきの書斎にもどった。
やわらかな革張りの肘掛椅子があり、かれは、ほっとして、そこに身を沈めた。それから数分して、ドリッグが何か入り用のものはないか、と聞きに出てきたとき、ワシントンは、じっと考えにふけっていて、ほんのちょっと目を上げて、首を横にふっただけだった。なにしろ、これは、たしかに出世の絶頂には違いないのだ――そこに登りつければの話だが。そりゃ登りつけるにきまっている。その点には自信がある。故郷マウント・ヴァーノンの祖先伝来のあの田舎家、独立反対派の暴徒に襲われて焼け落ちた、蔦のからまるあの大きな屋敷の廃墟の、物陰に建てた素朴な田舎家、あの田舎家の門口で、母や妹に手をふって最後の別れをして以来、出世の頂上に登りつくということは疑ったこともなかった。ワシントンという名にまつわる不名誉にもかかわらず、いや、そのためかもしれないが、マサチューセッツ工科大学を首席で卒業して、いまはもう技師になっている。寄宿舎の裏で、夜、人目を避けて、何度も、なぐり合いの喧嘩をしたが、それだけでなく、学校では首席を通すため、みんなの先頭に立つため、もっと、もっと激しい闘争をやり、こぶしと頭の両方を使ってたたかい、家名の恥をすすごうとしてきた。卒業後は、しばらく国防工兵隊で兵役に服した――ROTC(予備将校訓練団)の補助金がなかったら、大学は絶対に出られなかったろう――国防工兵隊にいるときは、はじめて実地に働くよろこびをぞんぶんに味わったものだ。西部国境ではスペイン植民地のことで例によって、いろいろと紛争があって、そのために、ニューヨークの植民地当局は、ここに軍用鉄道を敷設することが必要という決定を下した。それからまた、難攻不落のロッキー山脈を横断する鉄道用地を調査して、頑強きわまる岩盤を打ちぬくトンネル工事で奮闘して、一年間、思うぞんぶん仕事をしてまったく爽快を気分だった。この経験で人生が変わった。これ以後、自分が何をしたいかが、はっきり分かった。それで、英帝国の各地から集まる選りぬきの秀才にまじって、エディンバラ大学の有名なジョージ・スチブンソン奨学金の試験を受けて、みごと、これを獲得した。この奨学金を受けると、自動的にブラシイ・ブルネル大建設会社の幹部にとり立てられることになっているが、これも、そのとおり実現した。エディンバラ大学では、イギリス人の級友たちが、植民地出身という経歴に対して、いや、そのためだろうが、かすかに口を歪めて軽蔑を示すようなことがあるにはあったが、それでもエディンバラ大学はすばらしいところで、生まれてはじめて、ワシントンという家名に眉をひそめぬ人たちのあいだに身を置いた経験だった。この大学の学生が、帝国の辺境の、これまで四百年間のちいさな戦闘を、ひとつひとつをくわしく憶えているということはありえないのだ。だから、ワシントンといったところで、ヒンズー人やモホーク族、ビルマ人、アズテック人、その他の連中と同じ一植民地人にすぎをいわけで、こういう無名の集団のなかに、よろこんで身を浸していたのだった。
短期間に急速に出世してきたが、いま、その絶境に近づこうとしている。しかし、あまり高のぞみして失敗しないように用心することだ。いや、高のぞみではないぞ。いま、イギリス側を掘りすすんでいるように、アメリカ側の技術面を担当して、これを推進することが、おれにはできるはずだ。独立推進派の出資金をまず募るわけだが――しかし、独立反対派にしても、敵が好景気で、ハデに浮かれているのを見たら、たぶん欲を出して、腹の虫をおさえて便乗してくるだろう。
だが一番大事なのは、これが、もっと重要な、ある問題に関係してくる点だった。
じつはかれは、口には出さないが、心に深く、家名の恥をすすごうという決意を秘めていた。妹に話し、彼女が理解してくれたあの日、まだ二人が幼い子供だったあの日以来、これは、だれにも明かしたことのない決心で、何をするにも、いつも意識してきたことだった。つまり、かれは、自分の責任でやることは何でもすべて、あの男――祖国のために奮闘して、その報いとしてイギリスの弾丸に倒れた、あの高貴な男、あの男のためにやることだ、と意識してきたのだった。
「ワシントン大尉、ワシントン大尉」
という声が心のなかにひびいた。そのとき、やっとかれは、さっきから、この声が聞こえていたのに気がついた。ハッとして、かれは、ドリッグの差しだす封筒を受けとり、それを開いて読み、もう一度、ゆっくり読み直した。コーンウォリス侯爵の言ったとおり――動議が通過して、あの役目が回ってくるという。
「いっしょにおいでください」
というドリッグの声で、ワシントンは立ちあがり、チョッキの皺をのばし、上着のボタンを留めた。そして、渡されたメモを手にしたまま、秘書のあとについて会議室に入り、長い黒いテーブルの端に立った。部屋中が静まって、みんなの目が、こちらに注がれている。コーンウォリス卿がテーブルの上席から話しだした。
「ワシントン大尉、われわれの伝言は読んで了解してくれたね?」
「了解しました。現在、サー・ウィンスロップ・ロックフェラーとマキントッシユ氏が担当しておられる二つの役目を、ひとりで果たすようにという要請のように理解しましたが。皆さんの承認ずみだとおっしゃるのですね」
「そうだ」
「それなら、心から喜んで、お引きうけします。ただ、その前に、ひとつだけ条件があります。この措置について、サー・イザンバードの御気持をお聞かせ願いたいのですが」
これはまるで、牡牛にむかって赤旗をふるようなものだった。忠誠な英国人の前で女王を侮辱したり、フランス人を「カエル野郎」とののしるのと同じことだった。サー・イザンバードは、すぐに立ちあがって、両方の振りこぶしで、みがき立てられた紫檀のテーブルをグッとおさえつけるようにした。目はランランと光り、鼻孔はひろがり、顔は青ざめている。小柄な人だが、この人が怒りだすと、大きな人でもふるえだす。しかし、ワシントンがべつに震えもしなかったのは、ふるえるような型ではなかったせいだ。二人はまるで対照を絵にかいたようだった。ひとりは背が高く、もう一方は小柄。一方は中年で、なめらかな肌の大きなひたいは、年をとるにつれて、いよいよ大きくなってくるのに対して、もう一方は、ひたいは同じように広いが、顔は日に焼け、雨風に雛を刻んでいる。一方は百ギニーもする一流仕立ての、一分のすきもない背広を着こみ、下は、よくみがいた手縫いの靴から、上は剃りあげた頭にいたるまで、見るからにりっぱなイギリス紳士だが、片方は、りっぱな身なりの植民地人。なるほど、服は上等だが、見るからに、いなか仕立てで、はいている靴も体裁よりは実用一点ぼりのゴツゴツしたものだった。
「わたしの気特を聞きたい。わたしの気持を聞きたい、と言われるのですな」とサー・イザンバードは切りだした。その口調は物やわらかだが、声は、大きな部屋の隅々にまで通り、おだやかな調子だけによけいに不吉にひびいた。「それでは、わたしの気特を申しあげるが、今度の措置には強い反感、まったく反対の気特でいる。それだけです」
「それでは」とワシントンは、自分のために置かれた椅子に坐りながら答えた。「終りです。この役目は引きうけるわけにはいきません」
完全な沈黙になった。呆然たる沈黙というものがあるなら、たしかにこれだった。サー・イサンバードは、あっさり的を外されて拍子ぬけし、空気が風船から洩れるように怒りが消えるにつれて、ゆっくりと椅子に坐りこんだ。
「しかし、きみは引きうけたじゃないか」
と面くらった侯爵が、みんなを代表して言うと、
「わたしは、重役会が全員一致で決定したと思ったから引きうけたのです。しかしいまの意見で、重大な変更があったものと考えます。わたしの会社の社長であり、このトンネル工事の設計者であり、世界一流の技師であり、土建業者である人が反対だ、とおっしゃるのならば、お受けすることはできません。そういう決定にさからってまで、引きうけることは正直に言ってできません」
いまやすべての目が、サー・イザンバードに注がれたが、その顔には、強力な頭脳のなかで行なわれる計算を示す、表情の急激な変化が表われていて、なかなか興味あるものだった。最初の怒りの表情が驚きへと変わり、ついで、ひたいに皺が寄って考える顔付きになり、つぎに、結論に達して無表情になり、ついに、かすかな微笑が、影のように浮かんだり消えたりした。
「よく言った、ワシントンくん。しかし、きみのその決心はどうかな。わたしのことを非難してはいけない。わたしは、きみの誠実な友人で、きみを正当に評価している。きみは古典教育も受けているようだ。さていまや、決定の責任が、ひとり、わたしの肩にかかっているが、それを回避はしない。こういう問題については、きみは、どうやら見かけ以上によく分かっているらしいという印象をわたしは受けた。話がかけられたから応じただけで、そうでなければ、こんな大胆な態度には出てこなかったろう。それならば、そういうことにしておこう。トンネルはどうしても通す必要があるし、トンネルを通すには、きみがどうしても必要らしい。きみが優秀な技師だという点は認める。わたしの命令に従い、わたしの設計にしたがって作業を進めるのならば、りっぱな工事ができるだろう」
と言って、かれは小さいがガッシリとした手を伸ばして、水のはいったコップをとり上げた。アルコール類は全然飲めないのだ。まわりから拍手のようなものがひびいた。議長の槌がドンと鳴り、閉会になった。決定が行なわれ、工事の続行がきまったわけである。重役会の者たちがワシントンにお祝いを言ったり、たがいに事びの言葉を交している一方で、サー・イザンバードは、ひとりムッツリと立っていたが、ワシントンがみんなから解放されると、やっと、そばに寄ってきて、「きみ、わたしといっしょに車に乗ってくれないか」と言った。頼みとも命令ともつかぬロ調だった。
「かしこまりました」
二人は黙って、エレベーターで下に降りた。門衛がドアをあけてくれ、口笛を吹いて車を呼んでくれる。二人乗りの二輪車の乗り物で、背が高くて、黒くテラテラと光っている。駁者が高い座席に坐って手綱をにぎっているが、その手綱は下のほうに垂れて、ひとつの新式機械、ロンドンの中心部から徐々に馬を追い退けてゆく新式機械につながっている。さっそうとした誇り高い馬ではなくて、ずんぐりとした、金属製の、黒レンガのようなエンジンが、三つの車輪の上に載っているのだ。一番先の車輪を手綱でひと引きすると、この乗り物は軽く歩道の緑石に寄せられ、もう一方の手綱を引くと、エンジンが切れて、ゆっくりと止まる。
乗りこむとき、サー・イザンバードは「進歩したものだ」と言った。「馬は、ロンドンの厄介物だった――糞とかハエとか病気をまきちらして。だが、もう、そんなこともない。この新式の乗り物は、電気で静かに、なめらかに走るし、むかしの蒸気車のような音も立てない。いやな排気ガスも出さない。うしろの荷物入れに電池が入っているのだ――車軸に電線が付いているのを見たろう。さあ、蓋をしめてくれ。ぬすみ聞きはごめんだよ」
というのは、御者の丸い陰気な顔に向かって言ったのだった。天井穴から、迷い出た赤い月のような御者の顔が、のぞきこんでいたのだ。
「すみませんな、だんな。まだ行く先を聞いてませんので」
「マイダ・ヴェイル百八番地だ」
という声と共にピシャリと蓋がしまって、サー・イザンバードは、ワシントンのほうに向き直った。
「いっしょに、わしの家に来るのだと思っているのなら、そんな考えは、棄てることだ」
「わたしは……」
「それは間違った考えだ。ただ、二人で話がしたかっただけだ。とにかく今夜はアイリスが、アルバート記念館で、何かバカげた神学的集会みたいなものがあって、出かけておるから、面倒をことがなくてすむ。あれは、ひとり娘で、いざとなれば、親に従う子だ。それに、あの子は、わしと同じような考え方をするところがある。きみが、わしの責任を削るために、重役会の敵の陣営に加わった。今度は、わしの地位を狙うかもしれない、と言ったら、あの子は――」
「そんな!」
「待ちたまえ。これは議論じゃない、警告だ。きみが、わしの代埋人になって、完全に叛いたという話をしたら、なぜ、今後きみに我が家の門をとぎすか、娘は、すぐに理解してくれると思う。そして、朝、メッセンジャーを通じて、きみのくれた指環をクラブにとどけるだろう。仕事上の関係は、仕方がないからつづけるが、娘との婚約は終ったと諒解してくれ。今後、きみを家に歓迎することはない。アイリスと連絡することも、今後一切キッパリとやめてくれ」と言うなり、かれは天井の蓋をステッキの頭で、音たかく打って、「とめろ。それじゃ、失礼」と言った。
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3 ロイアル・アルバート記念館
ほそい雨が降って、アルバート記念館付近の家並みの前の黒い舗道は、いよいよ薄暗くなり、黄色いガス燈の火が、下の通りに、ひとつひとつ鏡のように映っていた。記念館のドアはみんなしまり、通りには人影もなかったが、ただひとり、街角から急に現われた人影があった。紳士だった。帽子や服が、雨にぬれるのもかまわず、大急ぎでやってくる。階段を二つずつ上がり、記念館のドアのひとつをパッと押しひらくと、門衛の大きな制服姿と鉢合わせした。こんな大きな男に前に立たれては、進もうにも進めない。
「もう始まっております。みなさん、席におつきでございますので」
「じつは、会いたい人があってね」とワシントンは答え、なんとか気特を静めようとしたが、こんなに暗闇からいきなり出てきたのでは、怪しまれても仕方がないと思った。
「緊急の用件でね――必要なら切符を買うが」
「まことにお気の毒ですが、切符売場はしまっておりますので」
このときはもう、ワシントンは片手に財布を握っていて、半クラウン銀貨を二枚、相手の手にすべりこませ、
「ほんとうに方法はないのかね? ちょっとなかへ入って、相手をさがすくらいはいいだろう、 え?」
と言った。キラッと銀貨が光って、すぐに消えたが、門衛の態度は奇蹟のように変わり、一歩うしろへ退って、片手をふり、
「かしこまりました。どうぞ、お通りください」
と言った。
扉が静かに後ろにしまると、ワシントンはあたりを見回した。人は少ない。暗がりで見たところ、どうも客は、ほとんどが女性で、このなかから、ひとりの女性を見つけるには、どうしたらいいかと思った。みんなは、じっと、舞台の読書台の前に立った小柄な男の話に耳を傾けている。灰色のひげを生やした、黒のスカル・キャップをかぶった男だ。そのうしろに、赤いビロード張りの、背無しのソファーがひとつあって、そこに、かなり肥った、平凡な女があお向けになっていたが、眠っているのか、無意識なのか分からない。じつに変な取り合わせだが、そこが妙に人を引きつけるところがあって、いま観衆のなかからアイリスを見つける手がかりのないままに、ワシントンは、いつのまにか耳を傾けていた。
「……マダム・クロチルダが何と言ったか、お聞きになったとおりです。マーチン・アラーハ・ゴントランという名を、ひじょうに不愉快な経験の最中に口にしたのです。この名を大声で叫んで、その重要性をしめしたわけです。これは、さっき、わたしが時間多重性の理論について輪郭を説明したときに、触れたことに関係があります。時間には、アルファ交点とわたしが名付けているこういう、いくつかの点があるのですが、わたしの時間多重性の理論は、このアルファ交点の存在によって支えられているのです。もしもアルファ交点が存在するものならば、わたしの理論には相当の妥当性があり、研究に価するかもしれない。もし存在しなければ、それならば、時間というものは、川のように、一本の大きな水流のように、流れつづけるもので、わたしの規定する、多岐的な、並行的な複数の小川ではないのであります。もし、そこにアルファ交点が存在しないのならば、わたしは誤っているのであります」
「謹聴、謹聴」
とワシントンはつぶやいて、前に見える何列にも並んだ、黒い愛らしい頭のなかに、ひとつの目当ての愛らしい黒い頭をさがした。
「ひとつの重要なアルファ交点を探すのに数年かかりました。マダム・クロチルダは、その接触をなしとげた最初の透視者でありまして、それほど、この仕事はむつかしいのであります。最初、マダム・クロチルダは、大変な苦労の末、やつと、ブントランという一語を発しました。わたしは、この言葉の意味を、長いあいだ、深く調べてみました。その結果、正しい手がかりを発見したと思ったのですが、今夜、みなさんの前で、わたしの発見が正確だったことが明らかになったわけです。つまり、『マーチン』とわたしが言ったとき、マダム・クロチルダは、欠けていた第三の部分を補ってくれました。『アラーハ』 でした! ここで、名前が、つまり、われわれの言うアルファ交点をピタリと正確に指し示す重要で完全な名前が明らかになったのです。マーチン・アラーハ・ゴントラン。この男は何者だったか? 申し上げましょう。この無名の男、この無学文盲の羊飼こそ、そのひび割れしたタコのできた手に、ひとつの世界の創造を握っていた人物であります。ここで、みなさんにお考え願いたいのだが、一千二百十二年、七月十六日という日付です。場所はイベリア半島。キリスト教徒軍と回教徒軍のあいだに大戦闘が行なわれようとして準備中という時点、両軍は、それぞれの陣地で、武装したまま寝につき、焚火は低く燃え、明日の戦いにそなえて体力を養っているという夜です。しかし、すべての者が眠っていたわけではない。たとえばこの羊飼、マーチン・アラーハ・ゴントランは、ある戦友に自分の計画を打ち明け、その戦友はまた、何人かの戦友に語り、そして結局、ゴントランは、ムーア兵に捕まりました。なにしろ野蛮な時代でして、人間はたがいに苦しめ、痛めつけ合っていたわけですが、いかなる拷間、いかなる苦しみを受けたか、それは、やさしい女性には聞き苦しいことなので申しますまい。とにかく、ゴントランは、死ぬ前に白状しました。羊飼なので知っていた秘密の、警備の手薄な間道に、その夜キリスト教徒軍をみちびき、回教徒軍の背後を突く計面だったことを、かれは白状したと言えば充分でありましょう。ゴントランは死にました。だから、この計画は失敗に終りました。しかしもしこの計画が成功していたら、いかなることが起こったか、ここをみなさんにお考え願いたいのです。回教徒軍ではなくキリスト教徒軍が、明くる日のナバス・ド・トロサの戦い、おそらく当時のもつとも決定的な戦いに勝利を持たであろうことは、ほぼ確実であります。さらに推測をすすめていただきたい。もし、キリスト教徒軍が、この戦いに勝っていたならば、さらに、ほかの戦いにも連戦連勝していたかもしれない。それならば、イベリア半島は、回教の大カリフ朝の一部ではなくて、いまごろは、フランスやプロシアのようにキリスト教国になっているかもしれません。ヨーロッパ大陸のあの遠い半島が、イギリスにとって、どういう重要性があるのか、と言う人があるかもしれない。それならば、お答えいたしましょう。原因はかならず結果に結びつくものであって、じつに重大な意味を持つのであります。原因と結果。イベリア半島をキリスト教徒が支配するならば……」
講演者のうしろで、マダム・クロチルダのふとった体がモゾモゾと動きだして、その喉から、吐息とも、あえぎともつかぬ声が洩れてくる。聴衆も、それに応えるかのように、ホーッとあえいで、ザワザワと身動きをはじめたので、メンドーザ博士は片手をあげて、これを制しなければならなかった。
「これでいいのです、正常なのです。だから、どうぞ御安心ください。ごらんください、医者がちゃんと、万一にそなえて舞台脇にひかえております。透視者にとっては、体の緊張が大きく、ときには、――はあ、これは――ちょっと反動も起こりますが、しかし、すぐに処還します。ごらんください、カーテンがしまって医者が駆けつけてきました。万事うまくゆきます。客席の照明を明るくするようにお願いいたします。ちょっとここで休憩時間をいただいて、またすぐに出てきますが、そのあいだ、エスキモーの儀式の詠歌のレコードをお聞きください。これは、わたしのアルファ交点理論の基礎に非常に重要な点、つまり日常的時間と生物学的周期との基本的関係を検討しているときに、北極圏の北のほうに住むこの頑健な原住民の冬の野営地で、わたしが、自分で録音したものです。それでは、みなさん、失礼いたします」
と言うと、会場の明りがつき、小柄な博士はカーテンの割れ目を探そうとして、ちょっとまごついたが、すぐに姿を消した。その一方で、獣じみた、甲高い、悲鳴のような声に混じって、ドスンという鈍い物音が聞こえる。ワシントンは、この思いがけない機会をつかんで、急いで通路へ降りていって、目指す顔をさがした。
すると前から二列目の、通路から入ったすぐのところに彼女がいた。黒い髪をうしろに引きつめて、黄金色の留め金で愛らしくとめた、目鼻立ちの申しぶんなく整った女性だった。舞踏会などで新聞社のカメラマンが見つけて大喜びする、目を見はるような美女である。唇は、ルージュもつけていないのに赤く豊かで、ほかの娘がいかに念入りに手入れをしても、とても、こうはなれない。いつもながら、一目みて、ワシントンは幸福でいっぱいになり、言葉も出てこなかった。だが彼女のほうは、その視線を感じたのか、チラッと目をあげた。そしてワシントンと気がつくと、びっくりしたような表情が急にほころんで、じつに暖かい微笑が浮かんだので、いよいよ、ワシントンは言葉が出てこなくなった。
「まあ、ガス[#ここから割り注](オーガスチンの愛称)[#ここまで割り注]、いらしたの! うれしいわ」と言われても、ワシントンは言葉が出てこないので、笑顔を返すばかりだ。
「ジョイス・ボードマンをご存じ? ご存じないでしょう。極東からお帰りになったところなのよ。ジョイス、わたしの婚約者のオーガスチン・ワシントン大尉」
かれは差し出された手をとって、軽く会釈したが、魅力的な女性だと思ったきりで、すぐ、「お会いできて光栄です。ところで、アイリス、こんなふうに邪魔してわるいと思うんだけど、いま、コーンウォルから上京してきたところで、また午前中に向こうに帰るのだけど、ちょっと、いっしょに話ができないものでしょうか?」
彼女は何か答えようとしたが、かれの態度や声に、なにか異常なものを感じたらしく、口から出かかった言葉をのみこんで、ほかのことを言いだした。その言葉つきには、二十歳を過ぎたばかりの娘にしては珍しいキッパリしたところがあった。
「いいですわ。マダム・クロチルダが失神して、ちょっと故障が入ったようですから。もしも、博士のお話がまた始まっても、ジョイスに明日きけばいいんですわ。ねえ、ジョイス、いいでしょう?」と言ったが、ジョイスは答えようにも、反対しようにも、そのひまはなかった。たぶん、その口を封じようとしたのだろう、アイリスはずいぶん早口だった。「ありがとう。それじゃ自動車がむかえにきたら、もう車で帰ったからと言ってくださいね」
と言って、彼女はワシントンの腕をかり、二人は出口に向かった。門衛が車を呼んでいるとき、すぐに話を始めねば、とワシントンは思い、
「車がくるまえに話しておかなくてはいけないんだけど――きみのお父さんとぼくは、意見が食いちがってね」
「そういうことはよく起こることよ。わたしだって、いつも食いちがってますもの。ほんとうにお父さまったら、世界一、信念がかたいんだから」
「今度は、もっと深刻でね。きみの家に来てはいけないと言われた――それに、もっと言いにくいことだが――もう、ぼくたちは二度とたがいに会ってほしくない、と言われるんだ」
アイリスは口をつぐみ、長いあいだ考えこみ、たのしそうな微笑はゆっくりと消えていったが、それでも、かれの腕をしっかり組んで離さなかった。ワシントンは、よけいに――この上もなく愛していたのだが――いとしい思いが募った。
「それじゃ、そのことをお話しましょうよ。そして、どんなことがあったのか、残らず教えてくださるわね。それじゃ、えーっと、そう、パディントンのグレート・ウエスタン・ホテルのラウンジへ行きましょう。帰り道だし、あそこのお茶とお菓子は、たしか、あなた、おいしいって言ってらしたわね」
車に乗って、二人きりになり、雨の降るハイド・パークの暗がりのなかを走ってゆくとき、ワシントンは、きょうの事件を残らず彼女に話してきかせた。コーンウォリス侯爵との秘密の話は省いて、ほかのことは洗いざらい話した。なぜ、この役目が自分に回ってこようとしているのか。この役目が会社にとっても、自分個人にとっても、どんなに重要かを説明して、最後に、彼女の父親との最終的な、決定的な許し合いの内容を、ほとんど一語一語繰り返すようにして説明した。終ったときは、もうホテルの前まで来ていたので、これ以上話もできず、二人はホテルの大階段をのぼり、席に坐って、お茶とケーキを注文した。ガスがブランデーのダブルをひとつ注文したことを忘れてはならない。どうしても飲みたい気分だったのだ。茶碗に茶が入ってから、やっとまた、話が始まった。
「ガス、ずいぶん恐ろしいことになったのね、恐ろしいわ」
「お父さんのおっしゃることが正しいとは思わないだろうね?」
「正しいか、正しくないかより、わたしの父親ということを忘れるわけにはいかないの」
「アイリス! まさか本気じゃないだろうね? きみは二十世紀の女だよ。ヴィクトリア時代の影のうすい女じゃないよ。いまでは投票権も持っている。いや、少なくとも来年は投票権がある。エリザベス女王のもとで、女は前にはなかった自由を持っているんだよ」
「そうよ。分かっているわ。そして、あなたを愛しているのよ、ガス。でも、だからといって、家族の絆を切ることはできないわ。あなたもおっしゃるように、まだ、わたしは成年に達しないのよ。まだ六カ月、成年に達しないで、お父さまの家に暮らすのよ」
「きみ、まさか――」
「いいえ、ほんとうよ。こんなことを言うの、とてもつらいのよ。でも、あなたとお父さまが、二人で、その恐ろしい問題を解決してくださるまでは、わたしは、ひとつのことしかできないの。ガス、ねえ、ガス、ほんとうに、どうしようもないのよ」
こう言って彼女が、左手の指環をはずし、それを彼の手の平に置いたとき、彼女は、あえぎ、その胸のなかには激しい感情が波うっていた。
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4 飛行艇にのつて
なんとすばらしい六月の天気だろう。海港サザンプトンの町並みに興奮が満ち、それがドックにも砕け波のように打ちよせている。ほほえむ太陽に合わせるように、人びとも笑顔を見せて、たがいに声をかけ、二、三人ずつ連れだって、ブラブラと海岸通りのほうへ歩を運んでいる。やがて正午になる。色あざやかな幔幕や旗が、沖風にパタパタとはためき、港内のおだやかな水面には、何隻も小さな船がミズスマシのようにスイスイ走っている。遠くのほうに列車のかすかな汽笛の声がして、山々にこだますると、散歩していた人びとが、にわかに緊張の色を見せて、すこし急ぎだした。ロンドンから、船と連絡する列車がやってくるのだ。技師たちが到着するのだ! 汽笛の声に、ガス・ワシントンは没頭していた仕事から、やっと目をはなした。車室中いっぱいに拡げた青写真、グラフ、図表、図形、設計図、同案、ポンドやドルの計算、その他いろいろと厄介な書類から、やっと顔を上げたのだった。しつこい疲労の痛みのある口元のあたりを指先でつまみ、それから、痛い目をこする。大変な量の仕事だった。やり過ぎだという人もあるだろうが、やむをえなかったのだ。だが、まず、当分はこれでよかろう。列車はドックに向かって、カープを描いてくだってゆく。かれは、散らばった書類や記録をたたんで、ふくれ上がったカバンにしまいこんだ。頑丈な、実用一点ばりの、ふとい締め皮と真鍮の留め金のついた馬皮のカバンである。正確にいうと、ぶち馬の皮で、白と茶の毛のハデな模様がまだ残っている。以前、かれが乗っていた馬、極西で有意義な仕事をしていたとき、さかんに乗っていた子馬の皮だが、これはまた別の話である。カバンを詰め、留め金を掛けていると、列車は、ガタガタとポイントを通過して、埠頭に出てきた。このとき、前方の発着場に待っている「エリザベス女王号」の姿がはじめて見えてきた。
それは、目の痛みもスッと消えるような眺めだった。工学の驚異というか、技術の枠と大胆さをつくした前代未聞のものだ。陽を浴びた真白な船体が浮かんでいる。船首は埠頭についているが、船尾は、はるかに流れのなかに突き出している。乗降用の踏み板が前甲板にかかり、その甲板の旗柱には、英国旗が誇らしげにひるがえっていた。船体の両脇の、ずっと先のほうまで、二枚の巨大な翼が張りだしている。幅のひろい白の翼で、その下に驚くほど大きなエンジンがついていた。エンジンは左右にそれぞれ四基、全部で八基あり、それぞれに四枚羽根のプロペラが付いている。ところが、プロペラは、羽根が一枚一枚、みな人間の背より大きいという代物だった。じつは、この「エリザベス女王号」というのは、キュナード船運会社の誇りであり、世界最大の、世界一豪華な飛行艇であった。これまで六カ月間、選りぬきの乗員を乗せて、世界中を飛びまわり、世界の海、世界の陸に英国旗をひるがえしてきたが、この試験飛行中は、どんな故障が起こったにしても、会社は秘密にしてきた。いまや長期にわたった試験飛行も終って、かねてからの予定航路、つまり、各女王号の有名な北大西洋航路、サザンプトン・ニューヨーク間三千マイル以上の距離を無着水で飛ぶという航路に就こうとしているのだった。ガス・ワシントンは、これに乗りこむことになっていた。だが、公爵、その他の貴族、産業界の大物、少数のヨーロッパ貴族、貴族に列せられた大俳優などの名を並べた乗客名簿の一番下あたりに、一介の技師にすぎないガスが、かすんだように名前を入れてもらって、ここへ乗りこんできたのは、けっして偶然ではなかった。乗客はたった百人だが、各寝台に、少なくとも十人から百人の申し込みがあった。そこで、上層部に圧力がかけられて、方々のクラブでブドウ酒を飲みながらの静かな話し合いがあり、何度か慎重な電話での相談が行なわれた。このトンネル事業では財界も王室も影響をうける。だからアメリカの財政的協力をうながすために、あらゆる手を打つ必要があるという点で、財界と王室は意見が一致した。それならば、ワシントンを、ぜひアメリカ植民地に送らねばならない。そのためには最もふさわしい体裁、つまり最大級の宣伝効果をあける格式をもって送り出すのが望ましい、ということに決まったのだった。
この処女飛行は二度とこない機会だった。それは前から分かっていたが、これに乗りこむには、ワシントンは二週間分の仕事を五日ですます必要があった。そして実際、五日間で片づけ、用意をととのえて、こうして港に到着したのだった。カバンの錠をかけ、車室のドアをあけて、プラットホームに降りた人たちに加わったが、そうたくさんはいない。ほかの人たちが新聞社のカメラの前に出られるように、かれはうしろへさがった。みんなが列車で来たわけでもない。ふくれる群衆をおさえていた柵が開かれて、二台の自動車が通った。背の高い、黒い、おもおもしいロールス・ロイスだった。これが通って、柵がしまりかけたときに、向こうの通りから、一声、横柄な汽笛の声がひびいた。また、柵が急いで開かれると、長い車体のシュコーダ蒸気自動車が一台通っていった。ヨーロッパの王族の愛用車である。車輪は六つあり、うしろの一組の駆動輪は、ほかの二組のほとんど二倍ちかくある。それに後部には、エンジンと給炭機を入れた小部屋まで付いている。羽根のような蒸気を吹きあげて、また一声、汽笛を鳴らすと、かすかな煙を残して、すっと通りすぎていったが、銀張りの窓枠の奥に見えた堂々たる人物は、前ばかり向いていて横には目もくれなかった。とにかく、記念すべき日だった。
プラットホームの先のほうには、駅のコーヒー店が開いていて、どうやら記者連中だけが出入りしているらしい。列車から降りた人たちはすぐに乗船していく。ガスは、コーヒー店でビタースを一杯のんで、気分爽快になったが、たちまち記者に見つかって、とりかこまれた。かれらを相手に気楽に話し合い、トンネルについての質問にも率直に答え、すべてがまったく順調に予定どおり着々と進んでいるから、この事業は完成するだろう。心配はいらない、と語った。しかし、グラスを手にしているところを写真にとるのは勘弁してほしい。なにしろトンネルの資金のなかには、絶対禁酒家の出資も含まれているのだから、と頼むと、もっともだといって、みんなが了承してくれた。そこで、かれが、みんなに一杯おごろうと申し出ると、一同は、お礼を言って、それを受けた。幸先のよい出発になりそうだった。
ガスがコーヒー店の外の日なたに出てきて見ると、飛行艇の乗降用踏み板のあたりには人影はなく、みんなが乗りこんだあとだった。踏み板をのぼって、前甲板にあがり、そこで出むかえの士官の敬礼を受けた。が、その敬礼は中途半端なもので、ピッチリと筋目のついた制服のズボンの横から上がりかけた手が、ピカピカ光るひさしのついた帽子まで行きつかないうちに止まってしまい、いきなりサッと前に伸びてきて、掘手をもとめた。
「鷹の目ワシントンだろう!」
時間が一瞬に逆転して、ガスはふたたびエディンバラの下宿にもどり、教室に坐り、叩きつけてくる雨にさからってプリンス通りを歩いてた。
「鷹の目」というのは、そのころの、ある人気小説の伝説的な主人公のことで、たいていのアメリカ植民地出身の学生がつけられた渾名だった。ワシントンは満面に笑みを浮かべて、差しだされた手をとり、しっかりと掘りしめ、
「アレックだったね? ずいぶんな空軍ひげで顔を隠してるが、アレック・ダレルだな?」
「そうだ、鷹の目、そのとおりだ。苦労したんだぞ、このひげには」と言いながら、そのみごとなひげを、こぶしでちょっとさわって、「空軍に長いあいだ勤めて、それから海軍航空隊に移って、それからキュナード杜が飛行士の優秀な奴をもとめて軍をさがしまわったときに、ここへ移ってきたんだ」
「はにかみ屋は相変わらずと見えるな?」
「うん、相変わらずな。きみが来たのは嬉しいよ。さあ、ブリッジに来て、みんなに会ってくれ。おれは一等機関士だ。みんないい奴だぜ。みんな元軍人でね。こういう大きいのを扱うとなると軍人以外にはないからな。事務長を除くと、ほんとうの会社の人間はひとりも乗っていないんだ。しかも事務長はブリッジの出入りはできないことになっているんだ」
二人は船尾のほうに歩いてゆき、ブリッジの高い窓の真下にある乗客入口を避けて、「乗員専用口」と記した小さなドアを押して入った。なかはひろぴろとした部屋で、左右と前面が窓になり、機械器具、操縦装置などがいっぱい入っている。舵手は一番前方の座席につき、その左右に機長と一等航空士の座席がある。部屋のうしろの部分に無電技師と航空長のそれぞれの小部室のドアがあいていた。部室の壁はチーク材の鏡板になり、計器盤はクルミ材とクローム。床は隅から隅まで、一面に目のつんだウィルトン絨毯がしいてある。いま、配置についているのは当番の舵手ひとりで、座席について、じっと前方を見つめ、指を舵輪の取っ手にかるくかけていた。
「士官はみな非番で、例によって一等乗客とおしゃべりだ。ありがたいことに、おれはエンジンを見る仕事で、その仲間入りはかんべんしてもらえるんだ。どうだ、機関室を案内してやろうか。おもしろいぞ。そのカバンは、ちょっと、そこの航空長の部屋にはうりこんでおけばいい、ガラ空きだからな」
しかし航空長は、そうは思わないだろう。なにしろ電話ボックスほどの広さしかないのだ。おかげでガスはカバンを置く場所を見つけるのに苦労した。アレックがひとつのハッチをあけ、らせん階段を先になって降りて、前部船倉に案内してくれたが、そこでは港湾労働者たちが、手荷物、スーツケース、大型トランクなどの積みこみを終って、その上から網をかぶせて固定している最中だった。その横のせまい通路をつたって、ずっと船尾のほうへゆく。
「乗客甲板が上にあるんだが、ここを通っていくとお客さん連中と顔を合わせずにすむんだ」
上のほうで、かすかな人声に混じって、陽気に演奏する楽団の生きのよい音楽がきこえた。
「上に十人編成のプラス・バンドがいるらしいね――まさか、そんなものまで積んではいないだろうね」
「いや、軽くして積んでいるんだ――つまりテープをね。総重量に気をつけてないと、百トンを越しちまって、飛べなくなるからな」
「重量を気にしている様子には見えなかったがね」
「もういっぺん言ってくれ――いや、その気があったら重役会に言ってくれよ。重さを気にしないのがキュナード杜の伝統なんだよ。クロームとか真鍮、チークなどをはがしたら、もう百人は乗せられるんだがね」
「そうなると快適さは違ってくるよ。会社は、量でなくて質を望んでいるんだろう?」
「そういうところだ。おれなんかが心配することじゃないがね。さあ、このエレベーターに乗った。二人じゃ窮屈だが、身をちぢめてくれ」エレベーターは自動式で、ボタンを押すとドアがしまって、軽くのぼっていった。「翼は胴体の真上にある。エレベーターでゆくと能率的だ」
エレベーターから出ると、そこは胴体と直角に交わる、天井の低い廊下になっていた。両端におもおもしいドアがあり、その枠に取っ下と指示燈がとりつけてある。機関士が右のほうを向いて制御装置のスイッチを入れると、そこのドアがゆらりと開いて、小さな部屋が現れた。エレベーターとほとんど同じくらいのせまい部屋だ。
二人がなかに入ると、「エアロック」だとかれは言う。ドアがうしろに閉じて、また前のドアがあいた。「機関室を気密構造にしても意味がないから、かわりにこうしてあるんだ。さあ、『エリザベス女王号』左舷機関室にようこそ。ここではおれが指揮官なんだ」
と言ったとたんに、油じみた作業服を着たひとりの水兵が、ものぐさな恰好で敬礼して、片手の親指でうしろを指して、
「まだ燃料を入れてます。燃料庫をいっぱいにするそうです」
「十時までにすませておけと命令したはずだぞ」
「そう伝えましたんです」
と答える水兵の声には、まるで累代の憂いを、全部その痩せた肩で支えているような無限の悲哀がこもっていた。
「ふむ、それじゃ、もういっぺん伝えてやる」と機関士は言って、ブツプツと二十ほど悪口を吐きちらしたが、いかにもそれは、船乗り的な、また軍人的な癖だった。かれは、ドスドスと足を踏み鳴らしながら、床にはめ込んだ一つの大きな鉄板に近づいて、固定してある取っ手を外し、パッと鉄板を跳ねあげた。その穴の端のところをつかんで下をのぞくと、水面まで二十フィートは充分ある。穴の下へ頭と上半身を突きだし、宙づりのような恰好になって、「オーイ、そこのはしけ」とかれはどなった。
ガスも、その向かいに膝をついた。下の作業が全部見える。一方の端にポンプ装置のある一機の大きなはしけが、「エリザベス女王号」の機体にピッタリと横づけになっていた。はしけから太いパイプが何本も蛇のように伸びあがって、機体の横に組みこんだバルブに接続していたが、いまその最後の一本が切り離されようとしていた。切り離されたとき、黒い石炭粉がモウモウと飛び散って、空の巨竜の横腹をよごした。これを見ると、一等機関士は、石炭粉に負けるものかとばかりに、はなやかな悪口雑言をまき散らした。しかし、パイプがみな離れると、直ちにバルブの栓がしまり、ホースが活動を始めて、たちまち機体は元どおりきれいになった。アレックは嬉しそうな目付きで体を引き上げると、パッと前へ駆け出していって、機関室の電話にとりついた。電話のベルが二回鳴り、真鍮の指示器の針が文字盤をひと回りして、またエンジン「暖」のところへもどった。
「左舷、一。ブタン吸入バルブだ」
「了解、了解」
とさっきの水兵が答え、二人は直ちに複雑な作業を始めた。
もちろん理論は知っていたが、実際にこの大型エンジンが動くのを見るのは、ガスは、これが初めてだった。この床になっている翼の下から、大きな図体のターボプロップ式エンジンの、ほんの一部が盛り上がっているが、このエンジンのひとつひとつが、五七〇〇馬力の力を持っているのだ。まずブタン・ガスを入れ、電気モーターのスイッチを入れると、大シャフトが鈍い音を立てて回転を始める。燃えるガスの力で、タービン翼の回転速度が増して、ついに適当な温度と圧力に達すると、アレックはひとつの目盛を軽くボンと叩いて満足そうな様子を見せ、ブタンの流入を止め、同時に、ポンプのスイッチを入れて、粉末状石炭の微粒子をエンジンのなかに送り込んだ。ここで微粒子は瞬時に発火して高熱を発する。飛行艇は抑えた力のためにゴーゴーと音を立てて震動を始めたが、アレックが制御装置を調整すると、スーッとおさまった。
「飛び上がってからも、かなりのあいだ、おれはここにいるよ。まだ右舷エンジンをかける仕事があるんだ。ブリッジにいってみたらどうだ。電話をして、きみが行くと言っとくよ」
「じゃまになるだろう?」
「そんなことがあるもんか。この空飛ぶ白鯨について、君がひとつ質問したら、向こうは大西洋横断パイプのことで、一ダースの質問をしてくるぞ。さあ、いってこい」
機関士の言ったことには大して間違いはなかった。空軍中佐メイスン機長がじきじきに挨拶に現われて、ゆっくりしていけと言ってくれた。ブリッジのなかは静かだ。物静かな調子で命令が出て、敏速に実行されるので、興奮しているのは外だけという印象だった。ドックで群衆が手をふり、大声をあげている。ポートの汽笛がひびく。正午きっかりに、ともづなが解かれ、曳き船が大きな図体の飛行艇の鼻面を引っぱって岸から離し、海峡のほうへ引きずっていく。メイスン機長は、キュナード杜の機長にしては若かったが、貫録をつけるために堂々とした顎ひげを生やしていた。自分の機を誇りにしていて、
「ワシントンさん、この飛行艇はね、吃水線重量一九八〇〇〇ポンドですよ。へさきから、ともまでの長さ二四〇フィート。階段の一番下から中央尾部垂直板のてっぺんの見張所までの高さが七二フィート。こういうと、まるで文法の最上級の練習みたいだが、全部事実ですよ。尾部には二〇〇〇馬力のタービンがあって、これは境界層とかプロペラ後気流を調整するための空気を流しているだけだが、これで、ふつうの翼の三倍の浮力がつきます。なにしろ、四〇〇フィート足らずの滑走で、時速五〇マイルで離水するんですからね。機体の両側にミゾが走っていて、これで、しぶきの上がるのを防いでいます。それじゃ、しばらく失礼しますよ」
曳き綱が解かれ、舵輪をまわして、滑走の方向を定めると、舵手は操縦装置から離れて機長に席をゆずつた。警察ボートが汽笛を鳴らして、港内の小さな船の退避を命じると、機長は左手で飛行舵柄をおさえ、右手で、「全速前進」の合図の鐘を鳴らした。甲板がかすかに振動して、タービンが全速回転のうなりを上げ、「エリザベス女王号」は、スルスルと滑りだして、どんどん速力を増してゆく。水に浮かんでいるのか、宙に浮き上がったのか、その境い目が全然感じられない。この大飛行艇そのものが、あまりにもどっしりとした、ゆったりした感じなので、空中に上がるというより、外の町が下に落ちていって、オモチャのように小さく縮み、機がゆっくりと西に転ずるにつれて、横に傾いていくという印象だった。いまや下に、ワイト島が滑りすぎてゆくが、光る大洋に浮かぶ緑色の漂流物のカケラほどにしか見えない。海峡上空にさしかかる。イギリスが右翼の下に縮んでゆく。ガスはカバンをとりあげて、そっと下に降りていった。はじめて見る広漠とした海に、縞をつけて飛び上がる勝利の一瞬を乗員たちと共にしたことは幸福だった。
短い廊下をうしろへ伝ってゆくと大特別室にきた。ここでは乗客たちが、おたがいに見たり、見られたりしていた。テーブルに坐っている者、大きな丸窓から外を眺めている者などがいて、バーはにぎわっていた。部屋自体は名前ほど大きくないが、黒っぽい、反った天井に、何の仕掛けか、きらめく星々や、流れる雲などが映しだされて、いかにも大きな部屋のなかにいるような幻覚があった。ガスは人のあいだを縫って歩いていったが、ひとりの案内人と目が合うと、かれが、個室へ案内してくれた。小さいが何もかも整った部屋だ。ホッとして、肘掛椅子に坐り、ひと休みという気分で、しばらく丸窓の外を眺める。「個室」とレッテルを貼った自分のカバン類が置いてある。ここにも書類が入れてあって、これにも目を通さねばならない。だが、しばらくは、ゆったりと腰を落ち着けて、部屋の素朴な美しい造りを眺めては感心していた――壁に掛かっているのは、たしかに、あれはピカソの本物の石版画だ――夜になれば、この椅子とデスクが折りたたまれて消え、寝台が出てくるのだろう。やがてかれはアクビをし、背伸びをして、カラーをゆるめ、カバンをあけて仕事を始めた。昼食のドラが鳴っても、それにはかまわず、ギネスの生ビールを一杯と、パンにチーズにピクルズという労働者の弁当のようなものを取りよせて、これですませ、おおいに仕事の能率を上げた。もう一度ドラが鳴って、夕食が知らされたときは、大いに空腹を感じて、みんなといっしょに食事をしようと、仕事を脇へ片づけて立ちあがった。ところが、最初の相客は、裕福だが、身分の低いお婆さんだった。身につけた宝石類と、そのしゃべる母音のひびきで、すぐにそれと分かった。ガスは、そそくさと食事をすませて個室へもどった。
留守をしているあいだに、ベッドが引き出され、シーツのあいだに電気湯タンポが入れてあった。部屋が快適な就寝温度に下げてある。パジャマも枕の上に載せてある。腕時計を見ると十時だが、五時間すすめてニューヨーク時間に合わせる。あしたは、めちゃくちゃに早い時間に起こされるだろう。時速三〇〇マイル、飛行時間十五時間。到着はニューヨーク時間午前十時頃だが、こちらの体にすれば午前五時だ。できるだけよく眠らねば。あしたは忙しい一日になるぞ。一日ではない。週、月、年、いやこれから先、ずっとこの忙しさに追い回されるのだ。忙しいのはかまわない。トンネルにはそれだけの価値がある。あらゆる価値があるのだ。かれはアクビをして、シーツのあいだに滑りこみ、明りを消した。丸窓のカーテンは明けたままにしておいた。眠りに落ちるまえに絢爛とした星の動きを眺めようと思ったのだ。
その次にかれが感じたのは、上からおさえつけられる感覚、もがき、溺れる感覚、息ができずに死ぬ感覚だった。かれは、激しく手足をバタつかせて、自分をあさえつけている頑丈な手につかみかかり、声を上げようとしたが、鼻と口をふさがれているのだ。
夢ではない。夢で匂いをかいだことなど一度もないしこんなふうに鼻をふさがれて、息の詰まるような、甘い匂いで押しふさがれたことなど一度もない。
そう思った瞬間に、すっかり口がさめた。完全に目がさめて、息をつめ、呼吸をとめた。スペインで何度も軍医の手伝いをして、負傷者の顔の上の容器にエーテルを注いだことがあるが、そのとき、外に洩れる頭のクラクラする匂いをかがぬように息をつめることを学んだのだ。いま、何が起こっているのか分からぬままに、そのときの知識を応用していたのだが、もう一息でも吸いこんだが最後、意識を失うことだけは分かっていた。
明りはついていないが、もがきながら、かれは、力いっぱいのしかかってきて、おさえこもうとしている奴が、少なくとも二人はいる、と分かってきた。何か冷たい物が手首に掛けられようとしている。同時に両足首が何かで締めつけられた、と思うと、今度は、暴れているこちらの体の上に重たい物がのしかかってきて、エーテルの布を顔に押しつけてくる。
拷問の苦しみだ。できるだけ長い間あばれ、それから、あばれるのを止めて、息をしたい時間を通りこして、もう息をしなければ死ぬという恐ろしい死の一歩手前の瞬間まで必死にこらえ、さらに自殺的な努力を重ねて、この一点まで通過して、暗黒のなかに沈んでゆくと意識したときやっとエーテルの布が顔から外れた。
はじめかれは、肺のなかに残っていた悪い空気を鼻から抜き、それから、激しい体の欲求をこらえて、ゆっくりゆっくりと、少しずつ肺のなかに空気を吸いこんでいった。こうしている間にも、頑丈な手が、こちらの体を掴んで、持ちあげ、ドアのほうに担いでゆくのを感じていた。はじめ、ドアはほんの少し開かれ、それから大きく開かれて、運び出された。廊下には仄暗い夜間燈がついている。かれは目をごく細くあけて、いかにも気を失っているさまを装い、大急ぎでドアから担ぎ出されるとき、横にぶち当てられても、体をグッタリしたままにしていた。
廊下にはだれの人影もない。だれひとり、助けを求めるものもいない。全身を黒服でかためたこの二人の男だけだ。黒手袋をはめている。大きな眼鏡のついた黒い防毒マスクのような物がその顔の上に張り出している。二人の男、二人の暴漢が、どこか知らないが、おれを、あわてて運び出していくのだ。
エレベーターのところへ来た。ドアがあくと明るい光が流れたので、かれはすぐに目を閉じた。だが、その瞬間に気がついた。これは、一等機関士といっしょに船倉から機関室まで上がったエレベーターじゃないか。どういうことだ? なかへ押しこまれ、二人もギュウギュウ押しこんできて、こちらの体を支えている。ハアハアと荒い息づかいをしながら黙って上がっていく。一言もしゃべらない。二人が襲いかかってきて、手足をしばって、かれを無意識にしたつもりで、何か良からぬ目的のために、どこかへ運んでいくのに、一分もかからなかった。
どこへいくのか。たちまち答えはやってきた。左舷機関室だ。今朝、機関室にいったときの道筋をもういっぺん辿っている。気密室に入る。一方のドアがしまるともう一方のドアが開き、排気弁のシューシューという蛇のような音がきこえた。
まだワシントンは、どうすることもできなかった。いま暴れたら、またエーテルで失神させられる。今度は永久にだ。この沈黙、この囚われの状態をぶち破るため、行動を起こせと、神経は大声で叫んでいるが、しかしかれは何もしなかった。中側のドアが聞いたときは、もう頭はスッキリと軽くなっていた。できるだけ深い息をして、できるだけ多量の酸素を血液中に送りこんでいたのだ。このドアの向こう側は非与圧区域で、空気が高度一二〇〇〇フィートの外気の希薄さになっていることを知っていたからだ。この空気のなかでは、呼吸するだけで灰色の無意識に落ちて、死んでしまう。この連中、それを狙っているのか? ここに放って置いて、殺そうというのか? しかし、なぜだ。何者だ。何を狙っているのだ?
おれを殺そうとしている。二人がかれの体をデッキの冷たい金属板にドスンとおろし、すぐ横の上蓋の取っ手をガチャガチャやりだしたとき、とっさにそれを悟った。アレック・ダレルが、サザンプトンで逆さにぶらさがったあの上蓋だ。あのときは、落ちても二五フィート下の海に落ちるだけだったが、ここでは、二〇〇〇フィート墜落していって無惨な死をとげる。
グッと力を入れると上蓋が開いて、時速三〇〇マイルのプロペラ後流が流れこみ、四基の大エンジンの轟音がかき消された。ワシントンがさっきから考えていた行動に出たのは、この瞬間だった。
曲げていた両脚をグッと伸ばしたのだ。すると足の先が、すぐ手前にいた男の膝のうしろに当たった。男は一瞬、ふらついて両腕を気ちがいのように振り回したかと思うと、アッというまに冷たい外の夜気のなかに消えた。
ガスは、それより早く床をにじり進んで、火災報知機に近づき、必死に立ちあがって、頭をそれにぶち当てた。ガラスがくだけて、皮膚に食いこむ。そして、ふらつきながら、もうひとりの男に向き直った。
無酸素症は一瞬にやってくる。無意識になったと思ったら、っぎに死がやってくるのだ。このマスクには酸素タンクがあるんだろう。そうでなければ、こいつも、すぐに倒れる。意識をしっかりもつて闘うのだ。意識を失ったら、穴のところへ引きずられて、さっきの奴みたいに夜のなかへ放り出されるぞ、とそればかり、かれは考えていた。
だが、目がふさがってきて、ズルズルと体が崩れ落ち、意識を失って、かれは甲板にのびてしまった。
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5 殺し屋
「お天気のいい、けっこうな日よりです。ちょっと雲が出ていますが、大したことはありません」
給仕がカーテンをサッとあけると一筋の日光が個室のなかに差しこんでくる。慣れた手つきで、寝台の脇机の引き出しを開け、その上に、お茶の入ったコップを置き、同時にワシントンの胸に機内新聞を載せた。ワシントンが目をさまして、目をパチパチさせているあいだにドアは静かにしまって給仕は出ていった。
アクビをしたときに新聞が目に入り、見出しに目を通すと、「ペルーにて地震発生、死者数百人を出した模様。ライン川沿いにてふたたび砲撃はじまる。ニューヨーク市、セイサール・チャーベイス氏を歓迎」などと出ている。この新聞はニューヨークの航空会社で組まれて、それからラジオ・コピーで飛行艇にとどけられることをかれは知っていた。濃い、うまい茶だ。それに、ぐっすりと眠った。だが、何か変な感じがする。顔の横がこわばったような感覚だ。ちょっとさわってみると、そこに包帯が巻いてある、と思ったときに、パッとドアが開いて、背の低い、丸々と肥った男が鉄砲玉のように飛びこんできた。黒い服を着て、立て襟カラーをはめた牧師らしい男だ。そのすぐうしろからメイスン機長も入ってきた。
「おお、大変、いやまったく大変、うっかりしてました」
と肥った男は、こぶしを握ったり開いたりしながら、頸から掛けた太い十字架をまさぐったり、その上に重ねた聴診器をボンボン叩いたりしている。神か、医術の神アスクレピオスか、どちらが、もっとも助けになるか迷っている様子だ。
「うっかりしてましたわい。給仕に言っておくつもりが、ついウトウトしてしまって、まったく申し訳ない。安静にするのが一番ですぞ。回復期の病人は寝かせておくのが一番。もちろん、あなたのことです。わたしじゃない。さて、よろしいかな?」
と言いながら、ガスの下瞼を柔らかく指でおさえて、引きおろし、まるで永遠の魂がそこに宿っているといわんばかりに真剣に畏敬をこめて、そこを覗きこんだ。
ガスは一瞬まごつき、あわてたが、それと共に恐怖感が襲ってきて、胸がドキドキして、パッとひたいに汗が浮きだした。「それじゃ、あれは夢じゃなかった、悪夢じゃなかったんだ。あれは事実だったのか」とつぶやいた。
機長はうしろのドアをしめ、だれにも聞かれないようにしてから、深刻な顔でうなずいて、 「そうです、事実だったんですよ。ワシントン大尉。といっても、どういう事実だったか、こちらには分からないから、できれば、そこをできるだけ早く教えてほしいのです。分かっているのは、左舷機関室で、グリニッジ平均太陽時間零時十一分に火災警報が鳴ったということだけです。ちょうどそのとき右舷機関室にいた一等機関士がすぐ飛んでいったら、あなたがひとり、デッキで意識を失って倒れていた。いまのままの服装で、火災報知機のすぐ下に倒れていて、顔に引っかき傷があった。その傷口にガラスのかけらが入っていたので、頭をぶつけて火災警報を鳴らしたらしいということが分かったのです。足首と手首がくくられていたから、やむをえなかったのでしょう。デッキのすぐ横の出入口が開いていました。分かったのは、これだけなんです。たまたま、ボツナワ[#ここから割り注](南アフリカの一国)[#ここまで割り注]の司教が乗っておられて――この方ですが――この方が医者でもあるというので、来ていただいて、手当してもらったのです。手錠を切り離すと、司教の指図で、安静にしておくのがよいということになったのです。これだけです。分かっているのは。何かほかに知っていることはありませんか?」
「あります」と答えたガスの声は、しわがれていた。二人の男が見つめていると、ガスの穏やかな、ほとんど、ぼんやりした表情が深い絶望らしい表情に変わった。あまりに深い絶望に見えたので、牧師医者がアッと叫んで、身をのり出したほどだった。だが、片手をあげて、ガスはそれを制し、深く息を吸いこんだ。苦痛のうなり声のような、うつろな音がする。それから息を吐き出したが、まるで全身をふるわす溜息のようだ。
「思い出しました。すっかり思い出しました。男をひとり殺しました」
苦痛を感じて目をさまし、あわてたこと、暗闇のなかで格闘のすえ押さえこまれたこと、相手のひとりが機外に消え、自分がもう死ぬかもしれないと思った最後の恐ろしい瞬間のことなど、最初は、とぎれとぎれに語り、思い出すにつれて、だんだん早口になってきたが、二人の聴き手は、一言も言わずにじつと耳をすましていた。話がおわると、世間から離れて暴力とは縁のない生活をしてきた穏やかな司教は、涙をうかべていたが、その隣に立った機長の目には涙などなく、きびしい理解の表情が表われた。
「自分を責めることはないですよ。後悔なんかしてはいけません」と言う機長は、まるで命令口調だ。「じつに卑劣な犯罪だ。それに対して身を守って闘ったことは誉めるべきことで、非難することでない。わたしだって同じ立場に立ったら、必死の勇気をふるって、同じことをしたと思いますよ」
「しかし、機長、あなたではなくて、わたしだった。わたしには、忘れられない心の傷になって残るでしょう」
「自分を責めてはいけない」
と司教は突然自分が医者であることを思いだして、自分の時計とガスの手首をゴソゴソつかみながら言った。
「責めるとか責めないではなくて、どう受けとるかの問題なのです。わたしは、恐ろしいことをした。それが正当防衛だとしても、やはり恐ろしさは変わらない」
「なるほど、たしかにそうでしょう」とメイスン機長は、ちょっとぶっきらぼうに答えて、ひげを引つぱった。「しかし、もう少し深く調べたいのです。その襲ってきた連中がだれだったか――動機は何だったか、分かりますか?」
「いや、分かりません。敵はないはずなんだが」
「なにか連中に特徴がなかったですか? 声の調子とか、髪の色とか?」
「ありません。黒い服を着ていたし、マスクも手袋も黒だったし、一言もしゃべらず、完全に沈黙して行動してましたから」
「悪魔だ!」
と司教は興奮して、聴診器で十字を切った。
「いや、ちょっと待ってください。おぼえているとすればそこだな。そう、何か、しるしがあった。青いしるし、刺青みたいな。片方の奴の手首だった。おさえこまれたときに、手袋が服の袖口からずれて、それが、すぐ鼻先に見えた。手首の内側だった。こまかい点は全然おぼえてません、ただ、何か青いものだった」
「どっちの奴です?」と機長がきく。「落ちた奴か、もう一方か」
「それは分かりません。ほかのことに気を取られてましたからね」
「それはそうですね。そうなると、その刺青の奴がまだ残っているチャンスは五十パーセントはある――共犯者のあとを追って外に落ちていないかぎりは。しかし、乗客の手首を調べるには、どんな口実を使ったらいいか。乗組員のことはよく分かっているが、しかし……」
と言いかけたときに、急に機長は口をつぐんだ。何か思い当たったらしく、急に暗い、険しい顔付きになったかと思うと、きびしい命令口調で、
「ワシントン大尉。きみは、ここで、じっとしていてくれたまえ。医帥が面倒をみてくれるし、どうか、医師の指示どおりにしていただきたい。わたしはすぐにもどってくる」
こう言うと機長は、こちらが何をきくひまもなく、出ていった。司教はもう一度、念入りに診察して、疲労しているが異状なしと診断し、鎮静剤を飲むようにすすめた。が、ワシントンは、穏やかに、しかし、きっぱりとことわった。
ワシントンは静かに横になったまま、引きしまった顔付きで、自分のした行為を考え、こういう罪の記憶を背負って、将来、自分の人生はどういうものになるだろうか、と考えていた。この罪を受けいれ、これと共に生きることを学ぶことだ。数分横になっているあいだに、かれは相当な成熟を遂げ、老成したのだった。だから、機長がふたたび部屋に現われて、目を上げたときのワシントンの顔は、ほとんど別人のように見えた。機長のうしろがザワザワして、一等機関士と二等航空士が、両側からコックの白い服の腕をあさえつけるような恰好で入ってきた。
たしかにコックだ。背の高い、がっしりした体格で、全身白ずくめの服装に料理長の帽子を高々とかぶっている。血色は悪いが、口ひげはきれいにととのつている。まごついたような顔をしている。ドアがしまって、小さな部屋が息づまりそうなほどいっぱいになると、機長が、
「これは、ジャックといって、この機のコックで、就航以来、コックをつとめて、キュナード社勤続十年以上になります。昨夜の事件は何も知らないと言って、オーブンに入れたパンの焦げることばかり心配しているんですが、わたしのテーブルの給仕を何十回とやっているので、ひとつおぼえていることがあるんです」
と言って、パッとコックの右腕をつかんで引っぱり、袖口を引きあげた。すると手首の内側に、ひとつの青い刺青が、青白い肌にびっくりするほど鮮やかに浮きだしていた。錙[#錨の誤植か?]と綱、それに、格子にからんだ花々と横坐りになった人魚の姿とを組み合わせた図柄だ。ワシントンは、記憶にある日ではない黒の服を着せてみた。すると、あの手袋をはめた頑丈な両手の力が感じられ、荒い息づかいまで聞こえてきた。司教が止める手を振りきって、ワシントンはベッドから降り、コックの真っ正面に立ちはだかって、相手の数センチ前に顔を突きつけて、
「こいつだ。殺そうとしたのはこいつです」
数秒間、愕然とした表情がコックの顔に張りついていた。恐怖と混乱を絵にかいたような顔で、こちらをさぐるように見つめてくるのを、ワシントンは、真正面からはね返して、相手の魂を突き刺すような視線を注いでいた。すると、両側からおさえていた二人の士官の手に、コックのふるえだすのが感じられた。絶望に襲われたのか、全身がふるえだして、とうとうおさえるどころか、両方から支えてやらねばならぬほど力が抜けてしまった。とうとう、コックは口を聞いたが、とめどもなくしゃべりだす。
「そうだ。わたしはあそこにいた。だが、すすんでやったんじゃない、無理にやらされたんだ。好きでやったんじゃない。神さまが証人だ。それに思い出してください――あんたは気を失って倒れた。だから、やろうと思えば、わたしは命令どおりにやれたんだ。やったとしても、あんたは抵抗できなかったはずだ。あんたを見のがして、あそこに残していったのはわたしだ。殺さないでくれ、お願いだ。すき好んで、こんなことをやったわけじゃない……」
手を放してやると、コックは、洗いざらい白状した。二十年前はじめて英国に来て以来の生活と経歴を全部吐きだした。パリで苦しい失業生活をしていたときに、友人に助けられて不法入国者として英国にやって来たところ、友人だと思っていたこの連中が、友人どころか、フランス王の秘密工作員だったという。これは、よく使われる単純な手口だが、絶対に失敗のないものだ。仕事を手伝ってくれと頼まれると、ことわるわけにはいかない――ことわると、身分を暴露されて、英国当局に通報され、投獄されて、国外追放になる。ひとつ言うことをきけば、つぎつぎと仕事を押しつけられ、しかも、ひとつひとつ、その記録が保存されてゆく。それが全部、非合法な仕事ばかりで、結局は、脅迫の網のなかにがんじがらめになって、抜け出せなくなる。いったん、網のなかにかかると、それ以後は、めったに使われない。こういう状態の者を、その汚い仕事の筋では、冬眠者といっているが、家をあたえてくれた国のふところで、不発爆弾のように眠っていて、いざというとき即座に爆発して、火の手を上げるという仕掛けだ。命令を受けて工作員に会ったら、それがこの飛行艇の乗客だった。脅迫され、辱められ、言うことをきかないとフランスにいる家族が無事にすまないぞときた。きかないわけにいかない。真夜中にまた会い、それから、あの恐ろしい事件が起こった。そして秘密工作員が外に落ちたが、こうなると自分ひとりで、こんな犯罪を遂行する気になれなくなったのだ、という。ワシントンは聴いて、話がよく分かり、かれの指示で、コックは向こうへ連れ去られていった――よく事情が分かって気の毒になったのである。その後、ナローズ海峡に近づいて、ニューヨーク港に着水する数分前になって、機長が最終的な知らせをもって現われた。
「もうひとりは完全に謎です。フランス人ではないらしいんですが。この種のプロですよ。手荷物には一枚の書類もないし、服には仕立て屋のしるしもない。完全な空白です。しかしイギリス人ですね――話し相手になった乗客がみな、その点は確かだと言ってます。それに相当顔のきく奴だった。そうでなかったら、これには乗れなかったはずですよ。細かい点は全部、ロンドン警視庁に知らせたから、いまごろドックで、ニューヨーク警察が待機しているはずです。まったく分からん事件だが、自分の敵がだれか、全然わかりませんか?」
ワシントンは、最後のカバンに鍵をかけ、グッタリと椅子に腰をおろすと、
「機長、たしかに昨夜までは、敵があるなんて全然考えてませんでした。フランス秘密警察と連繋して、秘密工作員を雇う敵なんてね。しかし、やっと分かりましたよ。いまになって、はっきり分かりました」
とかれは苦笑いをした。
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6 虎穴にて
三番衝で一台のトラックが運転をあやまって、高架鉄道の下の柱をかすって跳ねかえり、歩道の縁石に乗りあげて、消火栓をつぶした。そのあげく、横向けにひっくり返って、ドッと積荷を道路へ投げだした。積荷は、何十包みという雑色の旗布で、これが破れて、四方八方へはでな旗布をひろげてしまった。ところが偶然、事故現場が、騒動が起こるのにもってこいというか、法と秩序の維持にこれほど悪いところは無いという場所だった。つまり、イロコイ・インディアンの酒場の正面だった。酒場で飲んでいた連中がゾロゾロと見物に出てきて、消火栓から流れだした水のなかをジャブジャブと嬉しそうに奇声をあげながら近よってきて、何が入っているのか見ようとして、包みを破ろうとする。暑い夏の口なので、赤銅色のこの連中、たいていが上半身はだかで、下は、きゃはんを付け、鹿皮の靴をはいているだけだ。たまに頭にバンドを巻いて、羽根を差したのがいる。大きな旗布をズルズルと引きだして、体に巻きつけ、ゲラゲラ大声で笑っている連中を見て、あわてたトラックの運転手が、運転席の窓から体をのりだして、こぶしをふりまわしている。うまくいけば、騒ぎもこの程度でおさまり、大した面倒も起こらずにすんだかもしれないのに、あいにく、この「笑い水亭」のつい二軒先に、「クランシィの店」というのがあった。アイルランド人だけを得意先とする、まず同程度の酒場だ。この二軒の飲み屋が寄り合っていることで、これまで警察はさんざん悩まされ、地区の平和もずいぶん乱されてきたが、これから先も、きっと厄介の種になることだろうし、事実、いまも何か起こることは目に見えていた。はたして、アイルランド人たちも騒ぎを知って、通りに出てきて、なんやかんやと注釈を加えながら指さしているのは、インディアンたちの天性の陽気さがうらやましいのだろう。これから何が起こるか、もう分かりきったことだ。すぐに、だれかが足をひっかけられて、ひっくり返り、「バカヤロー」とか何とか大声を上げると、なぐり合いが始まって、たちまち入り乱れての大乱闘になった。イロコイ・インディアンは、町に入るとき、法律の定めで、斧とか皮はぎナイフを一時預けにするか、町に住んでいる場合は、携帯を禁じられているが、そんなもの位、酒場のテーブル・ナイフですぐ代用がつく。アイルランド人のほうも同様、ある重さを越える樫の棒とか、りんぼくの杖を持ち歩くことを禁じられていたが、酒ぴん、椅子の脚などを代用品にして乱闘に加わった。インディアンの奇声、聖者、聖家族の名前などが飛び交い入り混じって、インディアンとアイルランド人は衝突した。本式の戦争ではなく、運動会の楽しみのようなものだから、死者や重傷者は出なかったが、頭をけがする者、骨折する者、それに、ほんの申し訳程度に、頭の皮と毛をひんむかれたのが一人は出た。通過してゆく列車の轟音がひびいて、うれしそうな乱闘の声がかき消される。列車の音が遠ざかったとき、警察のサイレンの音がひびいた。見物人たちが遠巻きにして喜んで見物している一方で、物売りたちが、手押し車を押して、抜けめなく、飲み物や食べ物を売っている。じつに楽しい事件だった。
イーアン・マキントッシュは、この光景を見て、じつにけしからんと思った。およそスコットランドのキャンベルタウンやマクリアニッシュでは見られない事件だ。スコットランド人を大酒飲みの、喧嘩好きの、と言うやつは、まず植民地に来てみることだ、と憤慨して、大きく鼻を鳴らした。鼻を鳴らすくらいは簡単なことだった。なにしろ、かれの鼻は、そのためにできたような、一枚岩が張りだしたような雄大な鼻である。この鼻こそがかれの顔の道具立ての、いや体全体の中心だ。体つきは小さく、ほっそりしているし、何から何まで灰色の物を着ているのは、これだけが、ちゃんとした似合った服装だと思っているからだ。だから、一番りっぱなのは鼻だった。その雄大さと、簿記その他こまかいことに一生懸命になるせいで「かぎまわり屋」という渾名を奉られているが、これはぴったりの渾名だったかもしれない。といっても、そんなことはかれの面前では、いや鼻先では、だれも口にはしなかった。
さていま、かれは三番街を横ぎって、乱闘の場にフンと別れの鼻息を鳴らすと、四十二番通りを急いだ。人混みの中をかき分けたり、ひょいとかわしたりしながら、懐中時計を引っぱりだす。もちろん時間きっかりだ。時間に遅れたことはない。こんないやな約束でも時間にはぴったりだ。フンと鼻を鳴らして、門番が手をかけるより早く「提督ホテル」のドアを押しあける。もう一つフンと恥を鳴らして、サーヴィスもしない門番の物ほしそうな顔を撃退する。ホテルに入ったのは二時きっかりで、もうワシントンが到着しているのを見て、嬉しくはないが、まずは満足だった。旧知の間柄なので握手をする。そのときはじめてマキントッシュは、いままで逸らしていた相手の顔の半面にガーゼがついているのに気がついた。ガスはその視線を察して、
「最近の事件でしてね。車のなかでお話しましょう」
「いや車はいりません。サー・ウィンスロップが自分の車をよこしてくれます。ああいう色は不愉快だから、有難いですよ」
「そうですね、べつに車は黒くする必要はありませんね」
妙なことを言う人だな、とガスは面白く思った。二人は階段を上がって、高架式になったパーク・アヴェニュー街の入口にのぼっていく。すると、そこに長い黄色い車体のコード・ランドウが待っていた。クロームの排気管やワイヤーの車輪がキラキラと光る。運転手がドアをあけてくれる。乗りこんで、運転席との境の窓がしまると、ガスは飛行艇上での事件を話した。「これで全部です。コックはそれ以上何も知らないし、警察も、共犯者の身元や、だれがかれを雇ったのか分らないといっています」
マキントッシュはフンと鼻を鳴らした。せまい車のなかではいやに高くひびく音だ。それから、まるで鳴りかたの出来ばえをほめるように、鼻先をボンボンと軽くたたいて、
「分かっているんですよ。われわれだって分かります。証明するとなると別問題だが」
「しかし、わたしには本当にわかりませんが」
ガスはびっくりした。
「あなたは技師だ、オーガスチン。あなたみたいな技師には、わたしは、とうてい成れないが、しかし、あなたは、トンネル掘りに夢中で、その商業面というか、イギリスの株式取引、パリの株式取引のことには無関心だったでしょう」
「話がどうも分かりませんが」
「それじゃ、こう考えてごらんなさい。だれかに傷つけられるのは、自分がいままでだれを傷つけてきたか、それを考える時期だということですよ。たくさん金があるが、ひょっとすると、それがちょっと減るかもしれない、という人がいるでしょう。将来を考えると、ちょっとどころか、ひどく減る。とすれば、何とか手を打たねばいかんと考える連中ですよ。国際的に顔が利いて、パリ警視庁の然るべき筋に接触できるという連中がね。パリ警察は、英国を悩ますチャンスとあらば飛びつきますよ。とすると、だれになりますかね?」
「まるきり見当がつきません」
「無邪気なんだね、あなたという人は!」と言ってマキントッシュは、内緒話をするしぐさで、一本の指を鼻の脇に当てたが、その指ばかりか、手までが大方かくれてしまう。
「それでは、おたずねするが、トンネルか出来て、海底にもぐった場合、水の上にいるのはだれですかな?」
「飛行艇。しかし、トンネルの競争相手になるわけじゃなし。大洋航路の汽船は、しかし……」
と言いかけてガスは、ハッと息をのむ表情になった。マキントッシュは、冷たい笑顔を浮かべて、
「慎重に手を打っているだろうから、黒幕を突きとめるのは、これは、むつかしいでしょう。しかし、命令は出せますよ――冗談めかして命令することだってできるし――トマス・ベケット[#ここから割り注](トマス・ア・ベケット一一一八―七〇。カンタベリー大僧正。ヘンリー二世の対教会対策に反対して不興を買う。王の冗談とも本気ともつかぬ言葉に動いた四人の騎士によってカンタベリー寺院にて殺される)[#ここまで割り注]を思い出してごらんなさい――命令がつぎつぎと伝達されていって、指令が出る。野心のある男が出てきて、金が手渡される。これ以上くわしくは言わないが、言おうと思えば言えますよ。これからは充分用心することですね」 車はウォール街の、ひとつの背の高い建物の前に止まった。ガスは、考えこみながら車から降りた。トンネルは穴をほるだけではない。殺し屋も仕事の危険のうちだ。重役会もそうだ。しかし、こっちのほうは、少なくとも心がまえができているし、この一週間、いろいろと事実を集めたり、数字を確かめたりして準備してきた。やらねばならぬ仕事だと覚悟してからというものは、先のことが真っ暗で、不安な思いに悩まされてきたが、運を天にまかせて、その間へ飛びこむことだ。おれの将来は、当然、きょうのこの会合に大きくかかっているのだ。だが昨夜は、もっとずっと露骨な、暴力の闇と顔を合わせて、おれの意志は強められた。やるべきことはやらねばならぬやってみせるぞ。
サー・ウィンスロップ・ロックフェラーは知っていたので、握手をした。それから、名前や評判だけしか知らない他の重役会の面々に紹介された。みな立志伝的人物で、生々とした、自信のある連中ばかり。その二十一人のそれぞれ異なった人間が、ひとりに固まって見えてくる。このひとり、このひとつの集団を説得するのだ。長いテーブルの指定の席についたとき、そこの灰皿の様子から見て、もうかなり前から会議が始まっているな、とガスは察した。痰つぼのほうは、みんな狙いが上手と見えて、全然よごれていない。もう、おれの新しい地位についての提案が議題に出たらしい。そのあとで本人が出てくるようにお膳立てがしてあるのだ。窓を縁どるどっしりとしたカーテン、豊かな葉巻の香りには議論の名残りは無いが、数人が苦虫を噛みつぶしたようなきびしく引きしまった顔をしているのを見ると、意見の食いちがいがあったらしい。たしかに、ここでは、ロンドンの重役会のような全員一致の統一はないのだ。しかし、これは覚悟の上だ。植民地人の気特は分かっている。だから、どんな反対でも乗りきれるように資料を整理してきた。
「みなさん」とサー・ウィンスロップが言いだした。「いままで、ある件について、つまり、わたしが重役会の会長をやめて、ワシントン大尉がこれに替り、さらに大尉が、ここのトンネルの技術面の責任者になるという問題について、議論してきました。この新しい人事は、この事業の直面する破滅的な財政事情から見て、やむをえないものであります。およそ、この事業計画を進めるためには、なんとしても財政面の立て直しが必要であります。そして議論の結果、大尉の話をきき、その検討がすむまで投票を延期することに決まったわけであります。さて、ワシントン大尉が見えました。ああ、ストラットンさんが質問を始められるようです」ストラットン氏の痩せた体が、舞いあがるハゲタカのように椅子から立ちあがった。黒い服地に白い肌。暗い目がすわり、指を突きだしている。いつ見てもゾッとするが、怒声を浴びせてくるいま、よけいにゾッとする姿だった。
「いけません、断じていけませんぞ。ワシントンなどという名の人間が、わが社を代表するなどとは、認めるわけにはいきませんそ。絶対にダメです。まるでイスカリオテのユダか、ボンテス・ビラト、あるいはガイ・フォークスを会長に頂くような……」
「ストラットン、話を、目下の問題に限定してもらって、歴史の講義は別の機会に願いたいもんだね」
こう物静かに、しかし、辛辣に釘をさしたのは、ゆったりと椅子に坐った、丸々と肥った小さな男だった。胸の上まで白い顎ひげをひろげ、大きな黒い葉巻を旗竿のように口から突っ立てている。ところが、眼光は刺すように鋭くて、ゆるんだような、柔らかそうな外観とは裏腹な感じだった。
「いや、最後まで言わしてくれ、グールド、黙っていてくれ。忘れてはいかんこともあるんだ――」
「忘れたほうがいいこともあるよ。もう二百年にもなろうかという昔の話じゃないか。それなのに、もういっぺん反乱軍と戦おうというのかね。もういいじゃないか。あんたの先祖は王党派だった。ご先祖にはけっこうなことだった。勝ったんだからね。もし負けておったら、いまごろは反逆者呼ばわりされておるだろう。それだけじゃないよ。ドイツ人あがりのジョージ王に、気の毒に、無理じいして銃殺させたように、あべこべに今度はジョージ・ワシントンに銃殺されておったことだろうよ。そういうことで、やましい気特がするんだろう、え? それで、いつも、こういう話になると引っかき回すんだろう。わたしにも記録を見ると先祖があってね、そのうちのひとりが巻きこまれておるんだが、ハイム・ソロモンというおバカさんだ。革命軍に金を出して、何もかも失って、最後はイースト・サイドで樽から出して漬物を売っておったという男だよ。だが、こんなことでわたしは悩むだろうか? とんでもない。わたしはいまでは純粋の王党派だよ。王党派には金があるし、わたしにも金があるからさ。過去のことは過去のことだよ」
「それじゃ、お前さんも、ワシントン同様、先祖運がわるかったんだ」とストラットンはやり返した。プリブリして髪の毛が逆立っている。服の袖からシャツの袖が銃のように突きだして、まるでだれかを射ち殺さんばかりの恰好である。「わたしなら、ベラベラと、そんなことはしゃべりはせんぞ。とにかく一般大衆は、あんたのそういうみっともない系図のことは知らんが、しかしワシントンという名前には、ぬぐいがたい汚点がついておる。こんなけがらわしい名前に関係したことをやりだすと、それこそアメリカ大衆は、武器をとって立ちあがりますぞ」
「くだらんことを言うもんじゃないぞ、ヘンリー」とゆったりした、ふといテキサス風の声をひかせたのは、テーブルのずっと下手に坐っていた大男だった。ほかの者とはちがって、この男だけは縁の大きな帽子をかぶっていた。
「西部者は、ニューイングランドがどこか、それを思いだすのも大変でな。ましてや、ヤンキーどものゴタゴタ騒ぎをこまごまと思い出すなんて、とんでもないことじゃ。それで、この技師さんが株を売ってくれるというのなら、それなら、この人を雇うことにして、話はそれで終りじゃ」
「わしも賛成だ」と深い、ふとい声で答えたのは、まだもっと下手に坐っていた赤銅色の男だった。「インディアンには、白人というものは全部悪党だということしか分からん。一八六〇年の平和までに、インディアンはずいぶん殺されたもんだ。もしチェロキー族の土地で石油が見つからなかったら、いまごろ、こうして、わしが坐っていることもないだろう。わしは、この技師を雇うことに賛成だ」
この後で、もっと盛んな議論があって、結局、議長が槌を叩いて、これを制し、ガスに向かってうなずいた。ガスは立ちあがって、みんなのほうに顔を向け、
「ストラットン氏の発言は非常に重要であります。もしもワシントンという名が、このトンネル建設に有害だということならば、それは慎重に考えねばなりません。もしも、それが事実ならば、わたしは、いま、問題になっている役職を直ちに退きます。しかしながら、ほかの方々もどうやら同感だとお見受けしましたが、古い憎しみは新しい時代では忘れ去るのがよい、とわたしは感じるのであります。はじめ、十二州が、独自の政府をつくろうとして失敗して以来、ここは、いまでは三十一州とカリフォルニア自治領を含むまでに成長しました。これらの州には現在、インディアン諸部族が住んでおりますが、さっきの、酋長ヒマワリの発言のとおり、インディアンは、われわれの昔の戦争などには何の関心もありません。またインディアンのほかに、バルト諸国の戦争から逃れてきた者、ロシアでの虐殺から逃れてきたユダヤ人、堤防決潰[#決壊におなじ]の災難を避けてきたオランダ人、デンマーク人の占領を逃れてきたスウェーデン避難民、そのほかにも、われわれの昔の争いごとに何の関心もない人たちが、たくさん、ここには住んでおります。こういう人たちは、わたしの祖父の名前よりも、投資に対する利益が何パーセントあるか、ということに、はるかに関心があると思われます。わたしの祖父の名前など、この際、つまらない、無関係な問題であって、重要なのは、わたしが立案した、投資を誘致する計画であります。この計画の説明を聞いていただいて、その上で、わたしが今度の役職につく資格があるか否か、投票していただきたい、というのが、わたしの希望であります。そうでないと、いいかげんな買物することになりましょう。まず、計画の説明をさせてください。そのあとで、その計画に利点があると認められたら、計画を出す個人のためではなく、その計画自体のために投票ねがいたいと思います。計画がよくないと思われたら、それならば、わたしは適任者ではないのだから、そのときはイギリス側のトンネルにもどって、この件はもう終りになります」
「はっきりした話じゃないか。最後まで聞こう」
という声があって、みんなの賛成の叫びのなかにストラットンの異議はかき消された。ガスはうなずいて、カバンを開き、充分準備してきた書類を山のように取りだした。
「みなさん、わたしの唯一の目的は、このトンネルを救うことです。ここにあるのが、その計画書です。トンネルを救うために、やってきたわけで、それ以外に目的はありません。したがって、もしも、わたしが看板になることが、トンネル建設推進の助けになるのならば、それならばわたしは、会社の看板になって表にぶら下がりましょう。しかし、わたしは技師であります。わたしの本当の願いは大西洋トンネルの実際の工事に参加することです。だが、イギリスの重役会は、わたしをアメリカ側のトンネルの責任者とすれば、これがアメリカ的事業でもあることがアメリカ大衆に分かって有利だ、と判断したのです。しかし、わたしとしては、マキントッシュ氏に替って責任者になるのではなく、同氏を助けて、協同して責任をとりたいと願うのであります。マキントッシュ氏には、工事全般にわたっての第一助手として、さらに、補給、輸送、管理面での、わたしの上司ではなくとも、同僚として、とどまっていただきたいと願うのであります。氏はこの方面の専門家だからであります」。フンーとラッパのように大きく鼻を鳴らす者があって、少なくともひとりは賛成していることが分かった。
「このアメリカ重役会について言うならば、わたしの立場は文字どおり看板でありたいと考えております――もっとも、これは内聞にお願いいたします。わたしはまったく財政問題には無知ですので、サー・ウィンスロップに従来どおり、仮りに、そのつとめをつづけていただきたい――公にも、そのつとめを果たしていただく日が来るまで、つづけていただきたいと思います。
わたしは、このトンネル工事を担当したい、りっぱな工事をしたい。しかも早く完成して、投資にかなりの収益が上がるようにしたいのでありまして、これが、わたしの第一の役目であります。第二の役目として、わたしは、このトンネル事業を宣伝しなければならない。投資者が群がり集まって、ドルを、どんどん出してくれるように宣伝するという仕事であります」
「謹聴、謹聴」と叫ぶ者があり、また、「どういうふうにするのか?」と声を上げる者もあった。
「それはこうです。現在の工法をやめて、いままでとは違う、もっと早くて、安い、経済に広い影響をあたえるような工法に切りかえるのであります。そういうふうに経済を刺激することが、たしか最初の目的のひとつだったと思います」
「サー・イザンバードは、それをご存じですか?」
とマキントッシュが大声を張りあげた。顔が赤くなって、両方の黒い鼻の孔が、巨砲の砲口のように狙いをつけている。
「率直に言って――ご存じありません。しかし、何度も議論はしました。だが、現在のスリッフ・カスティング工法をつづけて、それが万一できなくなった段階で、別の工法を考えるという決定を下されました。わたしは、それは誤っていると主張しましたが、部下である以上、どうすることもできません。しかしいま、いわば独立指揮権があたえられるというのであれば、その権限で、もっと現代的な、もっとアメリカ的な工法に切りかえて――」
「裏切りだ!」
「そんなことはありません」
「話をきこうじゃないか、スコットランドの。まともなことを言っておるんだから」
と言ったのはテキサスの男だった。
ふたたび座が静まって、またガスは話がつづけられるようになった。少なくとも何人かは共感をもって聞いている。今度は納得させれば、それでいいのだ。カバンから一枚の設計図をとり出して、かかげて見せると、一座はシンと静まりかえった。
「これが現在の工法です。スリッフ・カスティング工法(接ぎ木式型どり工法)といい、最も現代的な技術と言われているものです。トンネル掘削保護枠を押しすすめてゆき、土砂を取りのぞきながら、この大きな金属チューブを、そのうしろから差しこんでゆきます。そのあとで、このチューブの外側に補強棒をはめこんで、それから、コンクリートをポンプで流しこみます。コンクリートが固まるのを待って、また、チューブを前進させてゆく。結局、最後には、ピッタリと型どりされたトンネルが連続してできあがるのであります。保護枠の前進速度は日によって違いがありますが、一日平均三十フィートを上回ることはけっしてありません。一日三十フィートというのは大した能率です。しかし、ここで、大西洋の幅を考えていただきたい。もし一日平均三十フィートで着実に進むとなると――一日三十フィート進むという保証は全然ないばかりか、おそらく、それすら下回る確率のほうが大でありますが――大西洋の中央点でイギリス側から来たトンネルと、できれば同時に出会うのに要する日数が、ほぼ十万五千日になります。ということは、皆さん、二百年以上かかるということです」
ゲンナリしたような呟きが洩れ、雑記用紙に急いで計算する者があったのも無理はなかった。「たしかにガッカリさせる数字です。投資者はもっと早く収益を上げることを望むでありましょう。しかし、幸いにして、この数字は最終的、決定的なものではありません。ここで、わたしは新しい工法に変更することを捷案したいのであります。この技術でいくと時間が大きく短縮されるばかりか、アメリカ経済の全面に大きな刺激があたえられることになりましょう。造船、鉄鋼、土木その他各方面が経済的に大浮上し、それが同時にまた、工事の時間を短縮することにもつながるのであります」
「十年くらいに締まるか」
とだれか叫ぶ者があって、それを聞いて興奮する者、とたんに失望する者があったのも無理からぬことだった。するとだれか、騒ぎのなかで声を張りあげ、みんなを代表するように、
「どういうふうにするのか、そこを聞かしてほしい!」
と言う者があった。
ワシントンがカバンのなかから一枚の図面を取りだし、これを広げて、みんなの前に掲げると一座の騒ぎは徐々におさまっていった。
「これからその方法を説明いたします。こらんのとおり、これは長さ約九十フィート、強化コンクリートで作ったトンネルの一区分です。このトンネルには、その内部に二本の鉄道トンネルが並び、さらに、その下に一本の小さな作業トンネルが通じております。現在振り進めているトンネルは、こういう構造になっております。この小さなトンネルは通洞と呼ぶもので、まず最初にこれを掘ります。そうして、これから掘り進んでゆく岩や土の性質を調べて、ほかの二つの大きなトンネルを掘ってゆくときに、いかなる問題に直面するかを、あらかじめ知るわけであります。二つの大きいトンネルは両方平行して掘ってゆき、ところどころで共通の部屋を設けて、これを接続させます。全体的に見て、複雑な高度な技術を要する工法であり、これまで、日に平均.三〇フィート掘り進めてきたことは非常な幸運だったと言わねばなりません。ただひとつ不幸なことは、まだ数千マイル掘り進まねばならない点であります。そこで、わたしは、ここに、一見まだ試みたことのない、新奇な技術を紹介したいのですが、じつは、この工法は、このアメリカで、すでに実験すみであり、成功していることをお断わりしておかねばなりません。デラウエア湾やミシシッピー川の下のトンネル、さらに、ホンコン港の下のトンネルなど、世界各地で実験すみであり、成功を収めているのであります。その工法とは、こういうものです。まず、陸上で、トンネルの区分の形をきめて、あらかじめ型で作っておいて、それから海上を予定の水域まで運んでいって、これを沈めるのであります。最上の条件で先ず作り、それから欠点を調べ、つぎに乾燥硬化の時期をまって、やっとトンネルの一部として使用するわけです。
「みなさん、これが何を意味するか、想像がつきますでしょうか? 大西洋岸の北から南への全域における、さらにメキシコ湾における、あらゆる造船所、あらゆる新設工場がトンネル区分の生産に入るのであります。五大湖地方、セント・ロレンス川流域においてさえ、工場は忙しい操業に入るでありましょう。膨大な量の鉄鋼やコンクリートが、いっときに必要になることでしょう。鉄鋼やコンクリートに投資した人びとが大きな利益を上げることは言うまでもありません。品物が調達できる人と分かれば、だれでも契約を結ぶことができるようになるでしょう。つまり、アメリカ経済は、この大きな経済的注射を打たれた場合、活気づかぬはずはないのであります。トンネルは完成するでありましょう。しかも、その工事の最中に、偉大なるこのアメリカは、新しく生まれ変わるのであります」
ドッと拍手喝采が起こった。ガスの熱気に重役会の人びとが巻きこまれ、みんなが、かれの言葉を信じたのだった。雑記用紙に、また急いで計算する者があるかと思うと、「ウォール・ストリート」紙に急いで目をとおして、鉄とコンクリートの相場を調べる者がある。もう何人かは、ポケット電信機を使って、証券会社と連絡をとろうとしていた。いままでになかった新しい生気が部屋にあふれてきて、この激しい熱狂に巻きこまれない者は、ほとんどない有様になった。ただひとり、マキントッシュだけは冷静に構えていて、部屋の騒ぎが静まるのを待って、
「この提案はサー・イザンバードに知らせる必要があります。あの方の承認がなければ何もできません」
と言った。とたんに、口笛を鳴らしたり、叫んだりの激しいヤジが起こったが、サー・ウィンスロップが、みんなを代表するように、
「その必要はないと思います。トンネルの財政問題が暗礁に乗りあげたのです。そうでなければ、この会議もなかったし、ワシントン大尉がいまの資格で派遣されることもなかった。大尉は、ロンドンから独立した権限をもっておられる。これを忘れてもらっては因ります。自由裁量権をもっておられるのですぞ。もしアメリカ側で財政的責任が果たせないとなると、トンネルはできない。もし、この技術的変更で成功が保証されるとすれば――わたしは、成功うたがいなしと思うが――それならば、この技術を用いなければならない。ほかに方法はないでしょう」
それから、いろいろと質問があり、それに対して事実をもって、適確な応答が行なわれたが、また、ちょっとした反対意見も出た。主に反対したのは例のニューイングランドの紳士で、
「わたしの言うことをよく聞いてほしい。これは大失敗になりますぞ。ワシントンなどという名前を持ちだしたが最後、その結果は――」と言いだしたとたんに、ゴウゴウたる非難の声があがって、もみ消されてしまった。その騒ぎのなかに、「こいつの頭の毛をはいでしまえ!」という声があがったが、それはむつかしいことだった。なにしろ、髪の毛は、とっくの昔に消えていたからだ。しかし、この発言で、かれはハッと頭に手をやって、急いで坐りこんでしまったから、とにかく反対はおさえこまれて、ほかに反対意見を出す者もなくなった。それから、口頭による採決が行なわれ、拍手喝采で可決され、ようやくまた一座が静まったが、そのとき、マキントッシュが立ちあがり、怒りで震えながら、みんなに向かって最後の発言をした。
「それならそれでよろしい。わたしは議論しない。しかし、この処置は、このトンネル計画を発案し、その設計を行なった偉大な人物に対する侮辱だと、わたしは考えます」と言って、ここで一本の指を突きつけるようにして、「オーガスチン・ワシントン、きみを家庭に招いてくれた人、たしか、きみがお嬢さんと婚約しているあの人に対する侮辱だと思う。この決定が、あのお嬢さんにどういう効果をもつか、考えたことがありますか?」
部屋中がシンと静まりかえった。雇い主で友人でもあるサー・イザンバードを擁護しようとする熱意のあまり、マキントッシュは上流社会の掟をやぶって、みぐるしい人身攻撃に踏みこんだのだった。発言しながら、気がついたのだろう、もともと顔色の顔をいっそう灰色にして、坐りかけたが、ワシントンがこちらに向き直ったのを見て、また立ちあがった。ワシントンは目がすわり、表情がきびしく引きしまっている。だが、注意ぶかく観察している者の目には、かれの手の甲のすべての筋、すべての血管が浮きだしている有様、強く握りしめたこぶしの節が真白になっている有様が見えたことだろう。
「わたしは、ただいまの発言があったことを喜びます。いずれ、だれかが、それに触れるに違いなかったからです。先ずはじめに申しておきますが、わたしは、サー・イザンバードを師として、雇い主として賛美し、尊敬し、最大の敬意をはらうのみであります。かれは、この新しい技術を用いることは待つようにと命令された。もちろん、待つ時間と金のゆとりがあるならば、われわれは待ちます。しかし、その余裕はない。それゆえに、いまのところ、実行に移すかれの許しは得ていないが、少なくとも理論的には許しを得たひとつの計画をもって進もうというわけです。わたしはあの人に対して、好意しかもつていないし、わたしに対するあの人の態度もよく理解しているつもりです。オリンボスの山頂にひとり立つ者は、ほかの者に場所をゆずることを好みません。かれは、技師として、建築家として、たしかに現代の第一人者です。アメリカ側でのわたしの職務について、ロンドンで投票があった際、あのかたは個人的侮辱を受けたと感じられました。その気持もよく分かります。それにまた、わたしが家を訪ねることも禁じられた。しかし、あの人の考え方では、それが正しいのだから、わたしは少しも非難する気はありません。また、お嬢さんとわたしとの婚約も解消すると言われて、その通りになった。そうあってほしくはなかつた、という以外に、皆さんと、ここで、個人的感情を論じるつもりはありません。だが、事実は、いま申したとおりです。ある意味では、それでよかったのです。そのために、わたしは自由になり、正しい決定、自分のためではなく、トンネルのために正しい決定を下すことができたのですから。
「わたしの示した方針で金を集め、トンネルを作りましょう」
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U 海底で
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1 異常な旅
小さな艦内は、ほとんど完全な静寂だった。人間の作った艦内構造や装置類がなければ・この静寂は完全なものになったろう。なにしろ三十尋のこの大西洋の海中では全然物音はない。しかし、上の海面では、波がくだけ、船の霧笛がうめき声をひびかせているかもしれない。ニューファンドランド沖の大浅瀬[#ここから割り注](グランド・バンクス)[#ここまで割り注]では、ほとんど年中、霧の晴れ間がなく、船はそのなかをさぐるようにして通ってゆく。海面ちかくでは海の生き物がうめき声を発している。小エビがカチカチと音を発し、イルカはビー、ビーと鳴き、魚はピチャピチャと音を立てている。しかし、この小型潜水艦が進んでゆく水深では、そんなものはない。ここでは深海の永遠の静寂があるばかりだ。艦外が静かなら艦内も同じくらいに静かで、ただ遠くに、スクリューを回す電気モーターのうなり、スーッというかすかな通気孔の音、それに、隔壁の、操縦士の頭の上あたりに留めた小ガラス時計のカチカチと鳴る音が、意外に大きく聞こえるだけだ。何分間か、全然、会話がなかったが、その沈黙で余計に、そのひびきが耳についた。操縦士は乗客の視線が時計のほうに移ってゆくのを見て、ニッコリとして、「大尉、時計をごらんですね」
と言ったが、その声にはかなりの誇りが感じられた。
「ええ、そうです」とワシントンは答えたが、まさか、耳ぎわりな音に気を留めないわけにはいかない、と言うわけにもいかない。
「これは古い物ですね?」
「そうです。古いも古い、一番古い物の一つというしろものですよ。世界最初の小ガラス時計をつくったのは、わたしの祖父でしてね。オコネル通り[#ここから割り注](アイルランド、ダブリン市の繁華街)[#ここまで割り注]の質屋で、ドイツの山国渡りのそういう時計を見たのがキッカケになったんです。カッコー時計だと言ってましたが、すっかり夢中になったらしいんですね。時計職人だったせいでしょう。郷里のキャシェル[#ここから割り注](アイルランド、南西部マンチェスター県の町)[#ここまで割り注]にもどってから、自分でひとつ作ろうとしたんですが、カッコー鳥があまり好きじゃないんで――大きな、きたならしい鳥で、ほかの鳥の巣に卯を生んだりする不作法なやつでしょう――それで、小ガラスにして、小さな、こわれた塔にしたんです。小ガラスは、よくそういうところに棲んでるでしょう。そういうことで、小ガラス時計ということになって、ポツリポツリと作っているうちに、これが、お城を見にくるイギリスの観光客に受けて、たちまち新しい産業ができあがって、いまじゃ、そのキャシェルの広場に、おじいさんの銅像が立ってますよ」
この賛辞を強調するかのように、丁度このとき、その時計が時刻を打ち、僧院の廃墟の扉のなかから小ガラスが現われて、カア、カアとかすれた声で鳴くと、また奥へ引っこんでいった。
「もう二時ですか?」とワシントンは自分の腕時計を見ると、暗い穴のなかへ隠れた小ガラスと大体、時間が合っている。「全速で進んでいるんですか?」
「全速です。大尉。ノーチラス号の最高速度です」と操縦士は速度レバーをガチンと、さらに強く最高のところへ押しつけた。「とにかく、もう目的地点です」
オトゥールは、海中の暗がりの見通しがきくように舷側燈を消した。艦の上方には緑色の明りがあったが、深度が増すにつれて、これも消え、下にはいまや真っ暗な闇があるばかりだ。しかし、舷側燈の光が消えてしまうと、下の暗闇の底に何かが見える。世界の始まり以来、夜が支配していたところに明りが見えるのだ。ひとつ見えたか、と思うと、またひとつ、またひとつというふうに現われる。潜水艦の深度が増すにつれて、海底に、まるで星が群がるように明りが集まり、昔の静かな海底には存在しなかった工業地帯が出現した。
まず目をとらえたのは、みにくく海底にしがみついている機械だった。大きな、ずんぐりとした図体の、ぶざまな、ゴツゴツした、異様な機械だ。起重機のように腕を突き出し、物見やぐらがあり、支柱で支えられた機械だ。頑丈な橋の大桁に、鋲を打ちこんだような恰好に見えるのは、その全体の優に九十五パーセント以上が海中にむき出しになって、まわりの水圧と均衡をとっているためだ。構造もむき出しなら、何本か伸びた腕もむき出しだ。キャタピラーは板金をつなぎ合わせたもので、これが頑丈な鋳鉄の車輪の上を回る仕掛けになっている。キャタピラーのうしろに、その動力源の電気モーターを組みこんだ、丸くふくれた出っ張り部がいくつもあるが、これは、よほど注意して見ないと分からない。しかし、この大きな機械のうしろに、一個のメロンのような恰好でぶらさがっているのは原子炉で、これはすぐ目についた。ほかにも、さや豆のような形のケースに入ったモーターがいくつかあり、これが歯車とケーブルを回すのだが、なかでも一番重要なのが機械の前部に、丸い突起になって載っている。これは操縦室兼乗組員居住区だった。ここは気圧調整をした快適な環境で、すべての物がそろっているから、陸上の自然界に帰らなくても、数ヵ月つづけて生活できる。ところで、この居住区を支えている構造だが、これがまたずいぶん大きなもので、その広々とした居住区でさえ、自転車のハンドルの上にチョコンと載ったひとつのタマゴ程度でしかない。自転車といえば、たしかにこの機械の構造は、ある面では自転車に似ていた。
この大きな機械は、製作者は、「浚渫機第四挑戦号」と呼んでいたが、使う人間は「のろま号」と呼んでいた。それは最大速度が時速約一マイルしか出せなかったせいに違いない。「のろま号」がいま、這いもせず、作業もしていなかったのは好都合だった。もし動いていたら、全然見えもしなかったことだろう。作業中の「のろま号」は、それこそ世界最大のイカも顔負けするような真っ黒な煙幕をモウモウと吹き出すのだ。腕をグッと伸ばして、一台のバスほどの大きさの回転刃を海底にザクザクと食いこませると、刃のまわりに圧搾水流が起こって、砂や沈泥などの沈澱物を激しく打つ。水に打たれ、刃に切り立てられて、さすがの永遠の海床も、動き、くずれて、浚渫機の口のなかに吸いこまわる。浚渫機は、ドロドロしたこの土砂を吸いあげ、持ちあげ、ずっと脇へ運んでいって、そこで吐きだす。吐きだされたものは、だんだん積もっていって、小山のようになる。こういうふうに、海底をかき回すために、こまかい土砂の粒が雲のように水中にひろがり、全然視界がきかなくなるが、そこはまた、新しい科学装置を使って、問題を解決する。音波は、水の透明、不透明に関係なく水中を伝わる。この性質を利用して、音波探知機がとらえた反響音をスクリーンに映しだして、掘ったばかりの前方の溝の状態を知るわけである。しかし今のところ、「のろま号」の仕事も一段落して、掘削機は高く上に持ちあげられていた。
ほかにも、いろいろな機械が海底に坐っていた。ジョウゴ状の鼻をもった不恰好な装置があるが、これは鼻先から砂利を溝のなかへ吐きだす機械である。だがこれも仕事を終って、溝から後退し、かき立てられた沈泥も落ち着いていた。いまや最終段階の仕事が始まっていたのだ。掘ったばかりの溝に砂利が敷きつめられると、それを目がけて、上のほうからゆっくりと沈んでくるものがある。あらかじめ作った、大きな重いトンネルの一部分である。長さ百フィートのこの一区分には、コンクリートと補強用鋼鉄棒数十トンが使われているうえに、外側を耐久性エポキシ樹脂で何層にも固めてある。こういうふうに、あらかじめ作っておいて、耐久検査をしたうえで、目的の海底地点まで安全輸送をして、たえず長くなってゆくトンネルに接続するという手順である。トンネル区分に埋めこんだいくつかの環に、太いケープルが何本も引っかけられて、これが上に伸び、上に浮かんだもっと大きな浮きタンクに接続している。トンネル区分には、もともと浮力はない。トンネル内部に通った何本かのチューブの両端は海中にむき出しになっている。大きな頑丈なトンネル区分は、水のなかで宙づりになり、いまワシントンが乗っている艦の姉妹艦の四隻の小型潜水艦に引っぱられて、ゆっくりと漂うように進んでゆく。潜水艦はたがいに信号を交し、止まったり、動いたり、横に位置をずらしたりしながら、とうとう溝の上の正確な点に到着する。それから、浮きのバラスト・タンクに水を入れ、ゆっくりと沈んでいって、トンネル区分を、その受け床の上にそっと横たえる。すると、大きな自動調整式接合部が正確に作動して、新しい区分は前の区分と連結する。四隻の潜水艦はうなりながら下降してゆき、艦首部の作業装置を操作して、水圧式ジャッキを接合部の張り出しツバに噛ませ、ゆっくりと二つを締めつけて一つに合わせる。締め合わせていってゴム封が「トメ」のところまで潰れたところで、やつとジャッキを止め、おさえておいて、締め金具をはめこむ。このとき海底には何台も機械が動きだしていて、接合部に封印金具をはめこもうとして待機している。この金具のはめこみがすむと、特殊注入式水中凝固コンクリートが、接合部のまわりに注がれて、接合箇所が見えないように固めてしまう。
すべてが申し分なく順調に進んで、海底の機械類は、巣のまわりのアリのように勤勉に働いていた。だが、順調なためにかえってガスは、横に転がっている残骸に気をとられた。あわや、トンネル計画全体を破滅させるかと思われた危険物だ。
ひとつのトンネル区分だった。砕けた、ずんぐりとした図体の一方を海底の沈泥に深く埋めている。
あれはたった二十四時間前のことだつたか。きのうのことだったのか。それだけしか経っていないのか。あの瞬間を忘れる者はいないだろう。トンネル区分を吊すケーブルが切れて、海底のトンネルめがけて落ちだしたとき、「のろま号」が、ちょうど、その真下にいたのだ。ところが、そのとき、ひとり乗りの潜水艦が、うまい具合に丁度よい場所にいて、必要なことを全部やってくれた。ちいさな潜水艦は、スクリューを回しながら持ち場にがんばっていて、落ちてくるトンネル区分を全力をふるって、ちょっと横にずらせ、おかげで、下の機械とトンネルは救われたのだ。だが、潜水艦は、巨大な構造物にまっこうから立ち向かった代償を払わされた。トンネル区分が海底に衝突して砕けたとき、まるで、それはハンマーのように立ちあがって、仕返しに小橋なチビを叩いたのだつた。ひとりが死んで大勢の者がすくわれた。アロイシアス・オブライアンは、その名を栄誉の記念碑にとどめることだろう。だれも死を望む者はないが、あれはもっとも名誉ある、願わしい死で、最初の犠牲者だった。トンネル完成までには、これからも多くの犠牲者が出ることだろう、と思ってワシントンは重い溜息をついた。操縦士は乗客の視線の方向を見て、その心中を言葉で聞くようにはっきりと理解した。
「りっばな奴でしたよ。ウォーターフォードの出身だけど、あいつはりっばだった。アイルランド人は潜水艦に乗せると優秀ですよ。自慢じゃないですよ、これは。疑う者があったら、あの一千トンの墓の下に眠るあいつのことを話してやってください。だが、焦れないでください、大尉。また新しいトンネル区分が、あれの代りがやってきます。まだ五、六時はかかるが、とにかく着実に近づいてきます。うまくいきますよ」
「そうだといいな、オトゥール。ほんとうに、そうあってほしいよ」
つぎのトンネル区分がもう到着して、海底の明りのなかに姿を見せていた。トンネルの塊が、向こうの暗い海中で待ちかまえていて、最後の一本が潜水艦に引かれて大急ぎで近づいて.くることはガスには分かっていた。ガスの命令で、潜水艦は溝に沿って、すこし進み、工事用潜函[#ここから割り注](防水した箱で、この中に入って水面下で建設工事をするもの)[#ここまで割り注]から突き出ている、もう完成した、二つのトンネル区分のところへ近づいた。この潜函は、やがてグランド・バンクス駅になるもので、ここは水深わずか十一尋。駅の建設用の砕石の積みおろし作業も、それだけらくになるわけだ。人工島の水面下の部分が、海上さして伸びあがっているのが見える。はしけが、つぎつぎに石や砂を付け加えるにつれて、だんだん成長する島だ。ガスは、自分の時計を見、頭上を指さして、「浮上」を命じた。
ここの海面に浮きドックがつないである。すぐその横に浮上すると、艦に、ドスンと音を立てて、磁気鈎が接着して、艦は所定の位置に引きよせられた。オトゥールが装置を操作すると、甲板のハッチが開く。ガスは、さわやかな、しめった海風を顔に受けながら甲板に上がった。海中にいるうちに、いつのまにか陽は沈んで、それまで暖かい陽に阻まれて動けなかった霧が、遅れを取りもどそうとばかりに、あわてて帰ってくるところだった。霧が吹き流しのようにドックの上を流れ、北の海の九月の夕暮れはヒンヤリとさむい。艦に向かって降ろされた梯子をのぼってゆくと、上で水兵が待っていて敬礼し、「艦長がよろしくと申しております。艦がお待ちしています。乗艦されたらすぐに出発する、とのことであります」
ガスはアクビをしながら、水兵の後についていった。きょうは夜明けの大分前から起きていた長い日だった。しかし、いつから始まったか、もう思い出せないが、こういう日は、もうずいぶん長いあいだ続いているのだった。ヒゲをそろうとして鏡をのぞいて、これが自分かと、ときどきギョッとすることもある。長いあいだ陽から遠ざかっているので、顔が不健康に青ざめて、目の下に黒いクマができている。それに重い責任を長いあいだ背負いすぎて、鬢に白いものも見えてきた。だが、なにも悔むことはないのだ。これは、やり甲斐のある仕事、価値のある仕事なのだから。ただ、いまひとつだけ残念なのは、今夜一晩グッスリ眠れると思ったのに、英国軍艦「ポアディシア号」ですごすという点だった。「ポアディシア号」というのは、荒波の上を走る時のその走り方から、「骨折号」という愛称を乗組員からもらっている艦で、アメリカ沿岸警備隊配属のホーバークラフト型最新就航檻である。どんな大時化の海でも、砂地でも、沼地でも、いや地面でも、五十ノット出すという艦で、税関のよろこびであり、密輸業者の恐怖の的だった。しかし、全速力を出すと、デコボコ道をスプリング無しで走るトラックのような走り方になるから、一晩ゆっくり眠りたいというときは有難くない乗り物だ。しかし、いまの場合、重要なのはスピードで、睡眠ではないし、スピードとなると、この風変わりな艦の得意とするところだった。ストークス艦長みずから、歩み板の一番上に迎えに出ていて、心からの歓迎の笑みを浮かべながら、ワシントンの手をとった。
「本艦に乗っていただいて光栄です、ワシントン大尉」と静かな口調であいさつしたかと思うといきなり大砲のような大声で、甲板の水兵たちに、「ともづなを解け!」と号令し、また振りかえって、「予報によると、波のうねりは中程度ですから、ほとんど一晩中五十五ノットは出せるはずです。海がその程度に静かなら、ブリッジハンプトンへの推定到着時間は夜明けになるでしょう。ところで、記者がひとり乗りこんできまして、どうにも降ろすわけにもいかなくて。申し訳ないんですが」
「いや、いいんですよ、艦長。大体、宣伝のおかげで、このトンネル工事が進んできたんですから、記者が会いたいと言うのなら、会いますよ」
士官食堂に入ってゆくと、その記者が立ちあがった。がっしりとした体格の、薄茶色の髪の男で、チェックの服を着て、記者の伝統的な山高帽をかぶっている。電子機械を駆使する新しい型の記者で、箱のような録音機を背負い、一方の肩の上からマイクロフォンが突きだし、片方の肩からはカメラのレンズがのぞいている。「ニューヨーク・タイムズ紙のビアモントです、ワシントン大尉。そして、各社代表です。記者はひとりしか乗せないというので、くじ引きで当ったもんだから、AP、UP、ロイター、デイリイ・ニューズを兼ねているというわけでして。そこで、二、三質問がありますが――」
「質問にはよろこんで応じますが、ちょっと待ってください。ホーバークラフトに乗るのははじめてなんで、出発のときを見物したいんですよ」
出発には一秒の無駄もなかった。艦をドックに繋ぐローブを解いている最中に、もう艦尾の塔の二基の大プロペラが回りだし、それと同時に、海面を吹きつける推庄プロペラが回りだしたのだろう、大きな艦体が揺れたかと思うと、スッと浮き上がりだしたのは、じつに奇妙な感覚だった。六フィート、八フィート、十フィートと、どんどん上がっていって、文字どおり空気のクッションの上に乗り、水面から完全に離れてしまった。推圧プロペラはいまや銀色の円板に見える。プロペラ軸の先で前に、また後ろにと傾くことのできる円板だ。軸の先で銀の円板は傾きながら旋回し、前後にというより、いま横に傾いた恰好で旋回している。その圧力で、艦はドックからフワリと離れる。ふたたび、推庄プロペラが回る。今度はフルスピードで回る。すると、少しずつポアディシア号は速度を増して、波の上を走りだし、グングンとスピードを上げながら南の夜のなかへ疾走していつた。ところが速度が上がるにつれて、揺れも増してきて、棚板が鳴り、戸棚のなかの海図がガタガタ音を立てるので、ガスは柔らかいソファに坐ってホッとした。ビアモントも、その向かいに坐って、手持ちの制御装置のボタンを押した。
「ところで、ワシントン大尉、アメリカ側が勝つでしょうか? これは、このごろ、みんなが考えてることですが、いかがでしょう?」
「勝つとか、負けるとかの問題ではないんですがねえ。工事の進行具合は、まったくと言っていいほど偶然で、イギリス側がグレイト・ソール・バンク浅瀬[#ここから割り注](イギリス西南端ランズエンドの西方、北緯四九度、西経十一度付近の大陸棚の一部)[#ここまで割り注]の駅に達するのと大体同時に、アメリカ側が大陸棚の駅に達するということですよ。べつに兢争していたわけじゃない。事情もちがえば、距離だってちがいますからね」
「それはたしかに違います。だからこそ余計に、この兢争――競争じゃないと言われるが――が面白くなるわけですよ。アメリカ側のトンネルのほうが三倍も長くて……」
「三倍にはなりませんよ」
「しかし、ずいぶん長いことは確かでしょう。それをイギリス側と同じ時間で仕上げるということ自体が、全アメリカ人の勝利だし、誇りなんです。この上で、あなたがアメリカ側トンネルを通って、イギリス海峡を通りぬける一番列車に問にあうようにロンドンに着けたら、もっと大きな勝利になりますよ。一番列車のパディントン駅発までには、もう、三〇時間たらずだが、間にあうと思いますか?」
「大丈夫でしょう」
ホーバークラフトはいまや最大速度に達して、まるで狂った鉄道車両のように、波の上を叩きつけるような恰好で走っていた。唾を飲みこむようにしてカラーをゆるめるビアモントのひたいに細かい汗の玉が浮きだしている。たしかに、胃の弱い人にはホーバークラフトは、おすすめできる乗り物ではない。とは言え、気分が良かろうが悪かろうが、ビアモントはさすがに記者で、なおも頑張って、
「トンネル区分のひとつがこわれたそうですが、これが、あなたの勝利の何か障害にならないでしょうか?」
「勝つとか負けるとかいうのは、どうもいただけませんね。そういう問題じゃないんですよ。ご質問の点だが、それは、ない。べつに大した影響はありません。工事中の事故も考えて、余分に作ってあったのです、予備の分が。いまごろは最後のトンネル区分が現場に向かっていて、今夜中に据えつけを終るでしょう」
「ところで、植民地調査局ロングアイランド支部のJ・E・フーバー氏の意見によると、今度のケーブル切断事件には破壊工作の疑いがあって、それに関連して一人の男を拘留中だということですが、これについて何か感想はありませんか?」
「べつに何もありません。あなた同様、そういうことは全然知らないんですからね」
とガスは無表情に答え、これがけっしてはじめての破壊工作事件ではないということは気ぶりにも出さなかった。記者は青い顔になっていて、そんなことに気がつくゆとりもない。それでもまだ頑張って、どんよりした目をすえ、しわがれた声で、
「はじめ、賭け元は、五対三とあなたに有利に賭けていたが、あの事故があってから、五対五に落ちてしまいました。どうでしょう、ロンドンの時間にあなたが間に合うか合わないかということで、こういう大金が賭けられるのは気になりますか?」
「いや、全然。賭けごとという悪癖はないので」
「あなたの悪癖というと、どんなものでしょうか?」
「そういう質問には答えないのがそのひとつでしょうね」
二人はたがいにニヤリとしだが、ビアモントの笑顔は凍りついたように、こわばっている。もう文字どおり真っ青で、「ボアディシア号」は相変わらず元気に山のような波にぶつかってゆくのに、かれのほうは口をきくのも、難儀になってきた。
「それじゃ話をまじめにしまして……説明していただきたいんですが……トンネルにとって……海底の……こういう駅の重要性……」
「わかりました。ここに海の水を全部出してしまった世界立体地図があれば分かるんですが、イギリス諸島や北アメリカに接する海は、よその海にくらべると、ひじょうに浅いのです。北アメリカには大陸棚があって、浅瀬が海岸ぞいに北のカナダまで伸びて、ニューファンドランド島を通り越して、深海平原に接するグラント・バンクス大浅瀬に達している。ここから水中の断崖が始まります。険しくて鋭い、深い断崖で、地上のどの山脈を見ても、これほど鋭く切り立ったところはありません。ごらんになったと思うが、グラント・バンクス駅を作りかけている人工島があったでしょう。あの島を越すと、急にストンと深くなって一万五千フィート以上、つまり.三マイル以上の深さになります。グレイト・ソール・バンク浅瀬にあるイギリスの二百地点は、水深四二フィートで、ここも深さ三マイルの海底に落ちこむ崖ぶちです。この二点までか浅瀬工事の限界で、これから先は違ったトンネル、違った列車が必要になるのです。だから、連結駅の建設と同時に……」
と、ここまで言って、ガスはやめてしまった。記者の姿が消えたのだ、ヒーッという声を上げると、記者は口に手を当てて飛び出していった。ガスは鉄のような体をしているから、こういうふうに苦しむ人があるのは知っているが、どうして、そんなことになるのか、なんだか不思議な気がした。だが、とにかく、これで休息の時間ができたわけで、そこでブリッジヘ上がってゆくと艦長の姿があった。そこで二人はちょっと、この新型艦の工学技術のことで興味ある話をしていたが、やがて艦長が、わたしの部屋を使って休んでくれ、と言う。艦長室のベッドは、じつに気特がよく、ガスはたちまち深い眠りにおちたが、安眠したわけではなかった。完全にくつろいで、ゆっくりと眠ることはできず、給仕が、吸い口の付いた茶碗のような容器を持ってきたときには、ガスはもう目を開けていた。
「魔法びんから入れたばかりのコーヒーです。砂糖、クリームもお気に召すように入れたつもりです。この上の吸い口から飲んでください。こぼれ防止管ですが、ちょっと慣れたら簡単にいきます」なるほど簡単で、コーヒーもうまかった。顔を洗い、手早くひげを剃ると気分もグンとよくなり、また、ガスはブリッジヘ上がっていった。艦尾のほうを見ると、海は近づく朝の光に黄金色にそまっているが、艦首のほうは、まだ暗い夜の世界だ。それでも星はだんだんと薄れ、ロングアイラントの低い輪郭がクッキリと浮かんでいる。マントク岬の燈台の光がキラキラと歓迎の合図を送っているかと思うと、すぐに燈台の姿が、白んでくる空のなかに、はっきりと浮かんできた。一晩中ブリッジを離れなかった艦長は、ワシントンに朝の挨拶をすると、一枚の紙切れをわたした。
「二、二分前に無電で入ったものです」
開いて見ると、
「イギリス軍艦ボアディジア号上のワシントン大尉へ。最後区分取りつけ密封予定どおり継続。EOC八フィートガウアン連結予定みな元気。サッパー」
「無線技師は面くらったらしいですよ。しかし二度繰り返して受信したから間違いないと言ってます」
「たしかに間違いありません。これ以上の吉報はありませんよ。トンネル区分の全部のはめこみが終って、防水接着剤を塗りつける準備に、いま密封工事をやっている最中だと言ってきたんです。ご存じでしょうが、トンネル区分をグランド・バンクス大浅瀬から逆に伸ばして、こちらから進んでゆくトンネルにつなごうとしているのです。海底の測量はむつかしいし、トンネルが出会うときは幾分ゆとりがいります。トンネル区分を水中で作ることはできても、作ってあるものを短くすることはできません。それで連結部の誤差が八フィート出たわけですが、これは予定の計算とほとんどぴったりでした。いまこの両端のあいだに泥を流しこんでいる最中で、それがすめば、ここをガウアンで安定させます。液体窒素で凍結させるので、穴を通すことができるわけです。万事予定どおりです」
知らないうちに、ブリッジには他の者も集まっていた。舵手、水兵、士官などがガスの話に耳を澄ましていて、みんながワッと歓声をあげたので、ガスははじめて気がついたのだった。
「静まれ!」と艦長はどなりつけた。「新兵みたいなまねをするな、水兵らしくないぞ」
と叱りつけながらも艦長も笑顔になっているのは、みなと同様、熱狂しているからだ。
「ワシントン大尉、どうも、あなたのおかげで本艦の規律が乱れるようですなあ。だが、今度の場合にかぎって大目に見ることにしましょう。たしかに、われわれは英国海軍沿岸警備隊で、女王陛下に忠誠という点では人後に落ちないが、やはりアメリカ人にはちがいない。これまで、あなたがしてきたトンネル工事、現にしつつある工事ほど、アメリカ人を団結させ、アメリカの伝統を認識させた例は、わたしの記憶では、ほかにはない。きょうはすばらしい日です。われわれは、百パーセント、あなたを支持しますよ」
ガスは、しっかりと艦長の手を握り、
「艦長、その言葉をけっして忘れません。どんな賞にもまさる言兼です。わたしの仕事は、アメリカの団結のためにやることです。それ以上の目的はないのです」
やがて艦はブリッジハンプトンの外港に入っていった。速度を落としているので、もう大きな幕のようなしぶきは上がらない。ロングアイランド先端ちかくのこの小さな眠ったような町は、トンネル工事が始まって数年のうちにすっかり変わってしまった。ここは、トンネル大計画のアメリカ側の終点で、古い住民の白い木造家屋が海岸ぞいにポッリポッリと残っているが、大方は、ドック、傾斜路、造船所、組立て工場、倉庫、操車場、会社、兵舎、ビルなどのなかに埋もれてしまい、町全体に好景気の活気がみなぎっていた。「ボアティジア号」は海岸さしてすすみ、寄せ波に乗って砂浜に乗りあけ、やっと正まった。飛びちる嵐のようなしぶきが収まったと思ったとたんに、一台の警察車か走ってきて、スリップしながら止まり、運転手がドアをあけて、傾斜路を降りてくるワシントンに敬礼した。
「お出迎えするように命令を受けておりました。特別列車がお待ちしています」
なるほど列車が待っていた。そればかりか、早起きの群衆が歓呼しながら出迎えている。いや、早起きなのではなく、眠らなかった連中だ。もう消えてしまったが、焚火をかこんで、ひやりと冷たい晩をまんじりともせず、トンネル工事本部から伝えられるワシントンの旅行情況を、一語も聞きもらすまいと頑張っていた人たちだった。みな、ワシントンの味方で、かれこそは英雄だというので、ワシントンがプラットホームに現われたときは、歓呼の声はごうごうたる熱狂に高まり、群衆はまるで、火にかけたスープ鍋のように煮えたぎり、ゆれ動いて、いっせいに、そばに寄ろうとしてどよめいた。旗や幕をめぐらしたスタンドかできていて、そこでバンドか顔を赤くしてラッパを吹き立てているが、雷のような歓声にかき消されて、音楽なんかさっぱり聞こえない。だれもかれもがワシントンに挨拶の言葉をかけて、握手をしようとする。服に手をふれようとする。警察の力でも防ぎきれない勢いだが、そこは一団の労務者たちが、ガッチリした体と長靴で周りをかためて、ワシントンを列車のところまで案内していく。その途中にスタンドがあり、ここにワシントンは上がって、二、三人のシルクハット姿のおえら方と素早く握手をして、群衆に向かって手を振った。群衆は、それに応えて、いよいよ高く歓呼したが、すぐにまた静まったので、ワシントンの声がよく聞こえた。
「ありがとう。きょうはアメリカの日です。それでは出発します」
と簡潔で正確な挨拶を残すと、また列車のほうへ歩きだす。列車のところへくると、たくましい赤銅色の手が上から伸びて、引っぱり上げるようにして乗せてくれた。電気機関車には、一台の客車しかつながれていない。乗降台に足をのせたとたんに動きだし、グングンと速力を増して、ポイントをガタガタと通過し、「大西洋横断トンネル」と誇らしげに刻んだ黒い穴めがけて突進してゆく。
座席につくと、さっき引っぱり上げてくれた手が、たちまち給仕する手に変わって、一本のビールを持ってきて、栓を開けて、泡の立ったビールを出してくれた。ビールと牛肉は、工夫たちの命の糧で、夜昼いつ出てきても、すっかり慣れていたから、ガスはいつもの事だという調子で瓶をつかんで口に当てた。赤銅色の手の上は、もう一本にぎっている。かれもそれを口に当てて、一気に半分飲んで、フーツとうまそうな溜息をもらした。
赤銅色の手の主というのは、イロコイ・インディアン、オネイダ部族出身のサッパー・コーンプランターという男で、トンネルの工夫長であり、ワシントンの誠実な友人だった。身長二メートルをこす赤銅色の筋骨たくましい男で、髪と目が黒い。簡単に腹は立てないが、いったん怒りだすと、バージニアハムのような大きな拳骨、石灰岩のように固い拳骨をふるう正義漢だ。
右の耳に小さな黄金のイヤリングをつけて、そこに大鹿の歯を一本つるしている。物を考えるときの癖で、それを、いま、指先でひねくり回しているが、この歯にどんな魔力がひそんでいるのか、こうしていると、頭のなかの考えが一つにまとまってくるのだ。うまく一つにまとまったときに、それを持ち出してくる。
「大尉、この工事はどうも、きわどいですな」
「わたしが一人で考えた計画でやったんだが、むつかしいと思うかね、サッパー」
「いや、そういうことはないですが、ただどうも余裕がない。計画全体に、まさかの場合にそなえてのゆとりというか、無駄というものがないと思いますがね。まさかの場合をトンネル掘りは、いつも考えておく必要があるのと違いますか。トンネル区分は、収まるべきところに収まって、つなぎ目の水中コンクリートも流しこんだし、何もかもが順調にいってます。最後の五つの区分は、つなぎが固まるまで時間をかける必要があるから、まだ水がいっぱい入ってますが、指図があったら、すぐ作業にかかりますよ。前もって電話をして、排水しておきますか?」
「いや、その必要はないよ。コンクリートの固まるまで出来るだけ時間をかけなくてはいかんからね。ただ、ちゃんと作業にかかれるように機械設備の用意だけはしておいてくれ。ところで、駅での連絡はどうなってる?」
「空軍のヘリコプターが着いて、燃料を積んで待機してます。ガンダー空港[#ここから割り注](ニューファンドランド島にある英国の空港。ニューヨーク市と北欧を結ぶ航空路上にあり北米における最大の空港の一つ)[#ここまで割り注]では「ウエリントン号」も待ってますよ。神の御恵みがっづくかぎり大丈夫でしょう。だが、御恵みだけというわけにもいかないようで、大西洋沖合に低気圧があって、風力九の雪まじりの風が吹いて、ニューファンドランドの方向に進んでくるから、えらいことになりそうですよ」
「それより早く着きたいね」
「それを祈って乾杯しましょう」とサッパーは言うと、椅子の下からビールをもう二本とり出した。
どんどん速力を増しながら、列車は大西洋海底の黒いトンネルのなかを深くもぐり、ついさっき、ホーバークラフトで走ってきた道筋を逆に引きかえしていった。しかし、海上の天候から遠ざかった、不規則な風波に邪魔されないこの海底の鉄路は、科学の手で平坦にしてあるので、海上よりずっと高速が出せるのだった。数分のうちに暗闇を突っぱしる列車の速度は、海上速度の二倍に達した。もう二、三本ビールを飲んで二、三時間すごし、鉛管工用の小型発炎装置と鉄鍋一個という急造炊事場で牛肉とジャガイモの食事をつくって、満腹したかと思うと、もう列車は終点に近づいて、速度を落としていた。
終点のギリギリのところで止まった。運転士は緊急の場合だというので、むきになって、前輪を線路の切れめの数インチ手前で止めたのだった。たちまち二人は飛びおりて、待っていた貨車に這い上がって工事現場へ向かう。現場は近い。ボーッとかすんだ明りが頭上をいくつもかすめ通り、トンネルの封印箇所がグングンせまってくる。
「この長靴をはいてください。水を出してしまうまでは濡れますからな」
とサノパーは、尻まで来るような大きな長靴を渡す。
ワシントンが長靴をはいているうちに貨車はとまった。飛びおりると、もうサッパーは、トンネルの片側にある変な機械にとりついて、いろいろなレバーや計器を調整しはじめる。一方で、もうさっきの貸車は唸りを立てて、もと来た方向へ走りさった。ガスは、そこに集まっている工夫たちに加わった。工夫たちが暖かく挨拶してくるのに、ガスはひとりひとり名前を呼んで応える。サッパーが、手伝ってくれと声をかけると、みんながいっしょに手を持して、例の機械をゴロゴロと押して、トンネルの壁際に寄せ、太い電線を脇へ寄せて邪魔にならないようにした。
「大尉、これで、いつでもいけますぜ」
「発射」
工夫長がマスター・スイッチを入れると、レーザー装置から、一本の細い真っ赤な光線が射して、トンネルをふさぐ錆びた鉄板のずっと上の方に当った。ところが、これが普通の光ではない証拠に、鉄板が見る見るうちに白熱して、とけて流れだした。
「脇へ寄れ」とワシントンが命令する。「前のほうのトンネルは海からさえぎられているが、それでも水がいっぱい入って、それに物凄い水圧がかかっている。レーザー光線で穴があいたとき、水が……」
と説明しているうちに、強烈な光線で、分厚い鉄の壁に穴があいて、たちまち、男の腕ほどの太さの水が吹きだしてきた。
それは、まるで悪魔の群のような声を上げて、ドッとトンネル内を百フィートほど逆流してきたかと思うと、しぶきを上げて崩れた。工夫長サッパーは、ほんやり立っているわけではなく、まだ、鉄板の一番上のところに光を当てて、そこを丸く、くり抜こうとしている。ところが、完全にくり抜くことはできなかった。向こう側の水圧が大きくて、頑丈な鋼鉄が、前にひんまけられて破れてしまい、一本の水柱が、つんぼになるような轟音を発しながら吹き出してきたのだ.こうなると、トンネル内の温度は下がり、つめたいしぶきで湿気が上がり、ぼんやりとモヤがかかって、視界さえはっきりしない。しかしそれでも、レーザー光線の照射はつづいて、鉄の壁の真ん中に長方形の穴をあけてゆく。穴は、鉄板のむこう間の水位がドがるにつれて、下へ伸びてゆくが、それが鉄壁の半分のしるしのところに通したとき、ワシントンは無線電話装置で、トンネルのグランド・バンクス側と接触した。距離は、わすかし十分の一マイルしかないか、直接通話はできない。まずかれの声は、電話でブリッジハンプトンまで逆送され、ここから無線で海を越えて送られるのだ。
「完全に通せ。水位は下がった。すべて大丈夫だ」
とワシントンは電話で命令した。
「ポンプではしんどいですわ」
とサッパーが、くるぶしまで上がってくる黒い水を陰気な目付きで見つめている。ここの水は八十マイル離れた、通風塔の設備のある一番近い人工島まで、ポンプで送りもどさねばならないのだ。
だが、「溺れる心配はない」とガスは答えるだけだった。サッパーは、耳飾りの大鹿の歯をひねって、この答えを考えながら、それでも光線を発射しつづけて、ついに、上がってくる水位のところまで鉄板を切り裂いた。光線が水に当って、パテパチ、シューシューと音を立てる。ここまで裂いて、やっと、サッパーは人ひとり通れる位の穴にひろけた。
「しばらくは、水位はこれ以上さがらんだろう。さあ、いこう」
と、ほとんど腰のところまで来た冷たい水を見てガスは言う。
ワシントンを先頭にして、一同は鉄板の穴をくぐり抜け、その向こうの渦まく水のなかをザブザブと進む。あっというまに、ズブぬれになり、たちまち骨の髄まで冷えきってしまったが、だれひとり不平を言うものもない。明るい懐中電燈であたりを照らしながら進んでゆくが、会話といえば、トンネル内部の技術的な問題だけだ。つなぎ目はきちんと封印されていて、水洩れはない。工事はほとんど終って、ここはほとんど完成している。行く手をはばんでいるのは、八フィートの凍結した泥だけで、これが、大きな栓になって、トンネルの端にはまって、向こうの区分に接している。工夫たちは、それぞれシャベルをひとつずつ持ってきたが、いまそれを使うときだった。外から泥をボンフで流しこんだときに、泥の一部がトンネルの少し奥へ逆流して、まだ固まっていなかったのだ。工夫たちは、腕をピストンのように動かして、懸命に、この泥を削りはじめる。みんな、一言も言わない。この真剣な作業で、ぬれた泥は削りとられて脇へ投げすてられ、通路が通った。しかし、どんなにたくましい工夫のシャベルでも、白く凍りついた泥の封印には歯が立たない。ところが、ちょうどこのときに、グラインディングの音がして、ガーッという音が起こり、バラバラと土砂が飛びちって、目の前の囲い土の面から、いきなりギラギラ光るドリルの先が突き出てきた。
「とおったぞ!」
とサッパーが叫び、激しい鬨の声を上げると、みんながそれにワァーッとあわせた。ドリルが引っこむと、ガスが、その穴のところまで這いあがり、穴のなかへ声をかけた。ずっと奥に明りが見える。穴に耳を当てると、向こうから答える声が聞こえてくる。
「とおったぞう!」
とまた穴の奥に向かって叫ぶかれの口には、いままでにない光があった。そのまわりを工夫がかこんで、シャベルに寄りかかりながら、洗濯女のようにペチャクチャとおしゃべりをしている一方で、向こう側の工夫と機械によって、穴は二、三インチから一フィート、二フィートへとひろがっていく。
「これでよし。ロープをとおしてくれ」
とサッパーが、穴のなかへ声をかけると、すぐにロープの先が出てきた。これを掴んで、先を頑丈な輪にして、ワシントンが、これを頭の上からかぶり、腋の下にしっかりととめ、それから、身をかがめて穴のなかへ首を突っこんだ。穴の向こう側の連中が、これを見て歓声を上ける。歓声を上げながらロープをグイグイと引っぱる。それにつれて、ワシントンはゴツゴツぶっかったりひっかかったり、ズルズルすべったりしながら、とうとう向こう側へ出た。顔が赤くなって、息切れがしているが、とにかく出た。出たかと思うと今度は、大勢の男たちが寄ってたかってワシントンを胴上げするような恰好で、すぐ横に待っていた車に乗せた。乗ったとたんに車は走りだす。ロープを外そうともがいているうちに車はとまり、ワシントンは飛びおりて、エレベーターに飛び乗った。足を踏みいれたとたんに、エレベーターは、ガタガタとシャフトを昇りはじめて、グランド・バンクス大浅瀬の午後の海の光のなかへ出てきた。かなり息をはずませ、体についた土ぼこりをはらいながら、並んでいる士官たちの前を走って、奇妙な乗り物に駆けよろうとする。
印刷物や写真から情報を得て、立体的な実物をまだ見たこともないのに、知ったつもりでいると、いざ本物の丸みのある姿に実際に接したとき、想像と実体のあいだに天地の違いのあることが実感されるものだ。ガスはこれまで、充分読んで、ヘリコプターがどんなものか位は知っているつもりだったが、いま、実物を口の前にして、どんなに思いちがいをしていたかを思い知らされ、ハッとして、よろめきそうになった。走っていたのが速歩になって、そばに寄ってゆくかれの顔に、ありありと畏怖の表情が表われている。
まず第一に、このヘリコプターは思っていたよりずっと大きかった。さか立ちをしたロンドンの二階式バスほどもある。タマゴ型というより、タマゴそのものの恰好で、細いほうを高く上に突き立て、ふといほうを下にして、そこから長い曲がった脚が二本出ている。この脚は着陸するとき、胴体から飛びだしてくるが、飛行中は、胴体にうまく作った四みのなかへしまいこまわるようになっている。タマゴの上の三分の一は透明になっているが、この透明部の一番上に一本の鋼鉄のシャフトが立っていて、これが二つの、巨大な、四枚羽根のプロペラを支えている。プロベラはシャフトのふくらんだ部分をはさんで上下に重なっている。こういう点を見ていると、タマゴ型の胴体のドアがパッと開いて、縄梯子がガラガラと足元まで降りてきた。ドアからひとりの男が首を出して、「どうぞ乗ってください。すぐ出発します」と言う。
メリオニスや、カーナヴィンなどのウェールズの町のことを話す声には、一種独特の、うたうような抑揚がある。ヘリコプターのドアへ這い上がったガスは、なかに、髪の黒い小柄な英国空軍中尉ジョンズと名乗るウェールズ人を見ても、べつに驚きはしなかった。
「座席はそこです。それがベルトです」
と言いながら、こちらか座席につくよりも早く、ジョンズは飛ぶような手つきで操縦盤を操作して、エンジンを入れる。下のほうで、シューシューと物音が起こって、たちまちそれがゴウゴウたる唸りになると、頭上の二つの長いプロペラが動きだし、たがいに逆方向に回りだした。やがてプロペラがテラテラ光る二枚の円板になると、ヘリコプターは身ぶるいして、まるで目をさました獣のように体をゆすったかと思うと、すぐに、まっすぐ空中へ飛びあがった。ボタンを押すと、脚が胴体に引っこみ、ちっぽけな人工島が下に遠のいて消えてゆき、やがて東西南北に海だけしか見えなくなった。
「ワシントン大尉、大尉は技師だから、こういうヘリコプターには興味がおありでしょう。二千馬力だすタービンがありましてね。これで二つの、プロペラを逆方向に回して、時速二百十七マイルの最高速度を出します。運航は信号電波でやりますが、いまはガンダー信号に合わせてあります。あの計器の針を、その方位に保つだけで、まっすぐ目標へ飛んでくれます」
「燃料は?」
「液体ブタンガス、ひじょうな高カロリーです」
「そうでしょうね」
数分するとニューファンドランド島が見えてきて、セント・ジョンズ市かスーツと眼下に流れ去る。海岸ぞいに飛び、つぎに海岸を縁どる無数の湾上を通過する。ジョンズは、下の紫色を眺めると、操縦盤に目をもどし、手をひとつのスイッチに伸ばした。
「一番燃料タンクがほとんど空です。二番タンクに切りかえます」
スイッチを入れる。ところがタービンがゴロゴロと鳴るだけで、すぐに止まってしまった。
「こいつはおかしいぞ。しかし心配いりません。三番タンクをいれます」
とかすかに眉をひそめながら、またタンクを切りかえだが、やっぱりエンジンは止まったままで、高度が下がってきた。
「おや、おや。それじゃ四番タンクだ」
ところが、これも空になっている。
「墜落してたまるか。こうなったら軟着陸だ」
「着水ですよ」
と海原を指さしながらガスは言う。
「やあ、これは一本やられましたな。だが一番タンクには、まだ陸に着けるくらいの燃料は残っているはずですよ」と言いながら、自分のこの言葉に元気をとりもどしたらしい。一番タンクに切りかえると、すぐにタービンはゴーゴーとうなりだして、機は力強く上昇をはじめた。海岸のほうに機首を転じながら、飛行将校は、スイッチの上の計器類をボンボンと順番に叩いては首をひねり、
「みんな滴量になっているのに、おかしいな」
「ガンダー基地に無線で知らせたらどうでしょう?」
「いい考えだが、残念ながら、できません。試験機なので、無線の設備がないのです。しかし、ほら、あそこの畑の向こうに農家が見える。たぶん電話があるでしょうから連結できるはずです」
その言葉に挑戦するかのように、このときエンジンが咳こむような音を立てて止まり、機首がわずかに下がって、ゆるやかな下降をはじめた。ジョンズは急いで着陸用脚をおろす。着陸態勢に入ったとたんに、機は耕した畑の真ん中に着地した。すぐに操縦士は床のドアを押しあけ、下の迷路のような機械類のなかへ首を実っこむ。
「面白いな」とかれはスパナーを片手に、下の円筒型タンクをガンガン叩きながら言う。
「からっぽだわい。全部からっぽだ。こいつは面白いや。あそこの農家に電話があったら、こいつは報告しなくちゃ」
ハッチのボタンはすぐ見つかった。ガスは、ハッチを押しあけ、縄梯子を投げおろし、それが下に着かないうちに、もう降りだし、降りるとすぐに、早足で畑を横ぎって農家の手前のちいさな森のほうに向かい、刈り株畑を全速力で突っぱしった。列車がロンドンを出るまでに何時間あるか、という思いが頭のなかを走る。暗さを増す空が、時間の消えてゆく不吉なしるしだ。午前九時に列車は出る、朝の九時だ。なのにおれは、その前日の夕方に大西洋のこちら側を走っているのだ。いくら走っても、大西洋を越えるわけにはいかない。このときはじめて、間に合わないかもしれないという不安をガスは感じた。いままでの努力は、すべて無駄だったか――と思いながらもかれは走った。「あきらめる」というのは、ガスの知らない言葉だった。
小道、木の柵、そして、やつと木立がまばらになって一軒の木造の農家が見えてきた。だがドアがしまっている。人影もないし、鎧戸も降りている。空き屋だろうか? そんなはずはない。こぶしを上げて、ガスは何度も何度も音高く戸を叩いた。もうだめか、とあきらめかけたときに、掛け金のゴトゴト動く音がして、隙間があき、疑り探そうな目がのぞいた。顔は、まだもっと疑り深い。白くなりかけたヒゲのモジャモジャといっぱい生えた顔、そのヒゲまでが疑り深い感じだ。
「え?」
と疑わしそうな声でつぶやくだけで、何も言わない・′
「わたしはワシントンというものですが、じつはちょっと困っているんです。乗っていた飛行機がお宅の畑に不時着しました。ぜひ電話をお借りして連絡をとりたいのです。料金はお払いします」
「電話はねえよ」
と言うなり、ドアは開いたときより早くしまった。ワシントンは、すぐにドアをドンドン叩いた。するとまた、しぶしぶ間く。
「それじゃ、電話のある一番近い家を教えてくれませんか」
「近所に家なんかねえよ」
「それじゃ電話のある一番近い町は――」
「町なんかねえよ」
「それなら、どこにいけば電話が見つかるか、話が出来るようになかに入れなさい」
とワシントンは大声で吼えた。なにしろ物凄い騒音のなかで、いつも命令を出している声である。ちゃんとした礼儀作法が通じないときには、これが通じるのだ。ドアは、しぶしぶとだが、とにかく前よりは大きく開いた。ワシントンは家主のあとから足音たかくなかに入り、黄色い明りのついた粗末な台所に入った。ワシントンは、固くうしろ手を組んで、台所のなかを行ったり来たりしながら、このはっきりしない百姓から、周囲の情勢をさぐり出して、これからどうするかを考えようとした。五分たっぷりかけて質問した結果、なんとか重い口から引きすり出したのは、けっきょく、時間をかけても、どうしようもないということだった。―番近い町も遥か遠く離れているし、隣人はなし、交通手段も要するに馬しかないのだ。
「それではどうしようもない。もうだめだ」
ガスは悲しい言葉を口にすると、バシッとこぶしを手の平に叩きつけ、それから、ランプに腕時計をかざして時刻を見ようとした。夕方の六時。いまころは空港に着いて、イギリスに向けて、超音速ジェット機「スーパー・ウェリントン号」に乗りこんでいるはずなのに、こんな田舎家の台所に釘づけとは。いま六時。夜十一時にロンドンに着いて、列車の発射は朝九時。ランプの火がジーッと鳴って、かすかに揺れ、腕時計はいやでも時間の切迫を告げている。ランプの火がまた揺れる。ガスはゆっくりとランプのほや、透明なガラスのほやに目を上げた。なかでマントルが白熱している。
「これは……なんの火……かね」
ときびしい顔付きで、口こもりながらガスが聞くと、
「ガスでさ」
としぶしぶ答える。
「どんなガスかね」
「タンクに入ってまさ。トラックが入れにくるんで」
と聞くと、ガスは目に希望を浮かへて、クルリとまた男に向きなかった。
「フロパンかね? どう? そんな言葉を聞いたことがないかね」
隠そうと頑張りながらも、とうとう農夫は吐き山した。
「なにか、そんなもんだ」
「プロパンだ。北国で使えるものというと、そういう液化ガスしかない。ブタンは低温では気化しないからな。まだ望みはある。そのガスをタンクごと買いたい。それから、金を払うから、荷車に馬をつけて、そのタンクを運んでもらいたい、どうだね?」
「いやだね」
「百ドル出そう」
「さあねえ」
「二百ドル出す」
「いま出してくれろ」
ガスは即座に財布を出し、紙弊をバシリとテーブルの上に置いた。ひげ面がこれを見て、はっきりと首を横に振った。
「植民地のかねじゃ受けとれねえ。カナダのかねか、イギリスのでなきゃ、だめだ」
「どちらもない」
「なら、売らねえ」
こんなことでは、ガスはへこたれなかった。海原に打ち勝ってきた男が、田舎の農夫に負けるはずがない。
「それなら物々交換でいこう」
「何を持ってるだね?」
「これだ」と言って、ガスはアッという間に腕時計をはずし、相手の目の前に、じらすようにブラプラと振って見せた。「四本針、七つボタンの防水時計だ。二三七ドルしたものだ」
「時計はある」
「しかし、この時計はちがう。これは耐ショック性で、自動巻きで、月、曜日表示式だ。このボタンを押すと時間が出てくる――小さなベルが六回鳴ってね――その上ひじょうに小さなラジオを内蔵していて、これが政府の気象予報局にいつも合わせてある。それは、このボタンを押すといつでもちゃんと報告してくれる」
「……航行中の小型船舶への警告とか、雪予報とか強風予報……」
そんなことは、べつに聞いても聞かなくてもいい予報だが、しかし、黙って説明を聞いているうちに、だんだんとすごい性能に思えてきて、農夫は、おずおずと節くれ立った手を伸ばして、ビクビクしながら時計にさわり、「よし、買った」と言った。
それから肉体労働が始まった。どうすることもできず、ただ時間を過ごした挫折感には、肉体労働はじつに効果的な鎮痛剤だった。パラフィンランプの明りを頼りに、格闘するようにして重いタンクを荷車に載せ、いやがる馬をつないで、小道を引っぱってゆく。力いっぱい押して、畑のなかのわだちを越え、明りのついたヘリコプターのほうへ近づいてゆくと、ジョンズがハッチから首を出して声をかけた。
「故障を見つけましたよ。燃料を満量にしたのはぼくだから、こいつはおかしいですよ。タンクがからっぽなのに、計量器がどういう訳か満量としか出ないようになってるんですよ。これは――」
「破壊工作ですよ。しかし、プロパンを見つけたからもういい。願わくば、これがガンダー空港までもってくれたらいいんだが」
胴体カバーを外すには数秒しか掛からなかった。たちまち、ずんぐりした燃料タンクが現われると、ジョンズは、パッと手の平に唾を吐きかけ、道具箱に手をのばした。
「燃料を移す道具がないから、これを外すしかないですな。大尉が上の留め金をやってくださったら、わたしは、この締め金をやります。あっと言うまに外れますよ」
二人は懸命に働き、金属を叩く音がひびき、ときどき手元がすべって、レンチで手の甲を叩いて血を出し、「畜生!」と口のなかでののしるだけで、無言だった。タンクをはずし、地面に引きずり倒すと、こんどは更に力をふりしぼって、プロパン・タンクを、そこに、なんとか持ち上げて取りつける。
「あとでトラックで、このタンクを返しにきて、こいつを片づけるからな」
とジョンズが言うと、農夫はしぶしぶとうなずいた。
新しいタンクを固定するには何本かの紐で締め上げねばならず、バルブへの固定には、かなり手こずったが、とにかく一時間以内に仕事は終り、最後の接続部も締め終り、カバー板も元の場所へはめた。仕事をしているうちに風が強くなっていた。カンテラの明りのなかに、テラテラと雪が流れ飛んでゆくのを見てもガスは何も言わない。操縦士のほうも懸命に働いているだけだ。だが、ガスは時計をチラッと見た。だがもう腕時計がないのだ。しかし時間はまだあるはずだ。新型ジェット機『ウエリントン号』は時速六〇〇マイル以上出すということだ。だとすると、時間がないはずはない、と考えているうちに仕事はすみ、最後の締め金を締め、最後のテストも終って、二人は、また縄梯子をのぼり、これを巻き上げた。スイッチを入れると、大きなエンジンが動き出し、また轟々たるひびきを立てて蘇った。ジョンズが着陸燈をつけると、カッと射す強い明りのなかに雪が激しく降りしきり、強い光にわびえた馬が、荷車を後足で蹴りっけたかと思うとガタガタと走って逃げていった。それを大声を上げて農夫が追っかけてゆく一方で、ヘリコプターのプロペラが回りだす。だんだん回転が速くなって、ついに機体は上昇をはじめ、どんどん高度を上げて、やがて激しい雪風のなかへ飛び去った。
「計器飛行でいきます」とジョンズが自信ありげに静かな声で言う。「ここから空港までは五○○フィート以上の障害物は何もないから、高度を一〇〇〇にして飛びます。それより高く飛んで燃料を無駄づかいすることもないですからね。誘導電波に乗って、高度計をにらんでおれば、それですむことです」
ところが、「それですむ」ことでもなかった。じつは、一マイル飛ぶことに天候が悪化して、とうとう大きな機体が、まるで子供の凧のように激しく風にもまれる始末になった。操縦士の沈着冷静な技術と電光石火の反射神経のおかげで、やっと進路を保っている有様だ。平然と構えているが、操縦士のシャツのカラーが汗でぬれて、その苦しさを物語っている。ガスも一言もいわず、じっと座席に坐って、機の金色の円錐形の明かりのなかを吹きなぐる雪に目を向けている。刻一刻と過ぎる時間を考えまいとしているのだ。まだある、まだ時間はあるはずだ。
「やあ、あれを見てください、ちょっと見てください!」
と陽気な声で操縦士がチラッと指さす先を見ると、電波標識の針がグルグルと狂ったように回っている。
「故障だ!」
「いや、そうじゃなくて、発信機の上、空港の上にきたということです。しっかり掴まっていてください。降下しますよ」機は高度を下げ、見えない陸に向かって一気に降下してゆく。高度計はどんどん下がり、雪が猛烈な勢いで走り過ぎる。
「何か見えますか、大尉?」
「雪だ。雪と闇だけだ。まてよ……ちょっとまて……アッ! 見えるぞ、左のほうに何か明りがある。下にもっと見えるぞ」
「ガンダーです。さあ、連中がちゃんと迎えに出て、機をおさえてくれるぞ。しっかり坐っていてくださいよ。操縦むきの理想的お天気じゃないですからね」
と言いながらも、あざやかな操縦ぶりだ。着陸態勢に入り、手早く装置を操作し、絞り弁をしぼって降下速度をゆるめ、また降下する。ついに、ズルズル、ドスンという音があって機は着陸し、絞り弁が閉じられて、エンジンは止まった。
「ジョンズ、きみの努力はけっして忘れないよ」
とガスは操縦士の手を暖かく振った。
「ふつうの英国空軍の任務ですよ、大尉。まだ、勝てますよ、大尉」
そうだろうか? 雪嵐のなかを突っばしつて暖房したビルのなかに入り、そこにいた将校たちに大急ぎで紹介されたとき、なぜか、みんなが不安な様子をしているのに気がついた。だれひとりこちらの目をまともに見る者がない。
「なにか困ったことでもあるんですか?」
と司令官の空軍中佐にきくと
「じつはあるんです。こういう嵐に飛行機を飛ばせるのは気がすすまないが、しかし、やろうと思えばできます。滑走路の除雪もやろうと思えば、いまできる。その点は間題ないのです。ところが風がときどき時速一〇〇マイルを越したもので、『ウエリントン号』が吹き上げられて、着陸装置がこわれてしまったのです。いま修理中なんですが、いくら早くても夜中の十二時前に終るとは思えないのです。それでもまだ、ロンドンには時間前に者けます。ところが、もしこの嵐が、このまま衰えずにつづくとすると――気象局はつづくと言ってますが――ロンドンに着く前に全部の滑走路が閉鎖されてしまいます。これではどうにもなりません。この点、なんとも申し訳のしょうがないのですが」
ガスは何か答え――何を言ったか自分でも、はっきりしなかったが――湯気の立つ茶を礼を言いながら受けとり、にがい失望を味わった。飛行士たちは、その気持を察して、かれをひとりにしておこうとして、ほかの仕事に散っていった。ああ、なんということだ。ここまでやってきたのに。これほど努力して、これほど困雉を乗り越え、障害とたたかってきたのに、最後のどたん場になって、こんな目に会うなんて。破壊上作には負けなかったのに、自然の力に組み伏せられたんだ。こんなにがにがしい気特で胸がいっぱいになり、いま自分がどこにいるのかも忘れ、さっきからひとりの将校が前に立っているのに、しばらく気がつかない始末だった。敗北の表情の貼りついた顔を上げると、前にひとりの将校が立っている。すぐにガスは気をとり直したので、感情は顔から消えた。
「わたくしはクラークです。クラーク大尉です。失礼ですが、ひとつの提案といえそうなものをお耳に入れたいのですが」
痩せて、すこし顔の禿げかかった、金縁の眼鏡をかけた、見るからに誠実そうな将校だった。その声には、まだデヴォンシャーっ子の柔らかさと巻き舌のアールの音が残っていたが、田舎者の雰囲気はどこにもない。
「どうぞ聞かしてください。どんな提案でも有難く拝聴します」
「実物をお見せするほうが簡単だと思いますので、こちらにおいでくださいませんか」
二人は、いくつもつづく廊下を伝って別棟に来た。この上地では、どんなによい時節でも雪や雪あらしに襲われることがあるので、廊下という設備で、天候とは無関係に交通を確保しているのだつた。二人が入ったのは実験室のような部屋だった。電線が走り、台の上には電気装置があり、それら一切を支配するように、一方の壁面いっぱいに、大きな黒いケースに入った機械が取りつけてある。このマホガニー材のケースの前面に付いたガラス窓のなかに、回転運動をする枠や真鍮製伝動装置などが見える。クラーク大尉は、いかにもかわいい奴といわんばかりに、そのなめらかなケースを軽く叩いて、
「ブラベッジ・エンジンです。これまでの一番大きな、一番複雑なものです」
「ほんとうに、すばらしいですね!」
とワシントンは、一瞬、自分の不幸も忘れて、心から感嘆した。「こんな大型ははじめて見ましたよ。たいへんな記憶量でしょうね?」
「ごらんのとおり、必要十二分です」
と言ってかれは、パッと派手な手つきでドアを開けた。なかにはギッシリと何列も並んだ銀色の円板、小さな穴のたくさんあいた円板がゆっくりと回転している。棹に付いた金属の指が、回転する円板を撫で、穴に出会うと、上下に揺れてカチリと鳴る。たえず柔らかい金属音がさざめいて、ときどき何かシューという音、ガタガタという音が起こる。この音の洪水のなかに何か不調なものを聴きとったのか、クラーク大尉は、ちょっと首をかしげて耳をすますと、すぐ横手のパネルをあけ、うしろの台からオイルの罐をとり上げ、「たしかに手入れは要るが、りっぱな機械ですよ」と言って、ひとつのカムの受動歯車のベアリングに油をさした。受動歯車が、なめらかな、複雑な形の真鍮製類似カムに触れて、上下するあたりだ。「いまでは完全な電動式ブラベッジ・エンジンをつくって、コンピューターなんていってますがね、なにも違いがあるわけじゃない。なるほど、ずっと小型にできているが、欠陥だらけですよ。わたしは、ガッチリした金属の機械が好きですね。たしかに歯車の連続部に逆回転という事故があることはあるが……」
「おもしろい話ですが……」
「アッ、すみません、大尉。ほんとうにすみません。話にちょっと夢中になってしまって、申し訳ありません」と言ってかれは、あわててオイル罐を落とし、また拾い上げて台の上に載せ、パネルを閉じると、向こうのドアを指さして、「どうぞ、ブラベッジ・エンジンをごらんになったあとは、あちらへどうぞ。あちらのほうが、もっと興味があるかもしれません」
たしかに興味ある物だった。ドアのなかへ入ると、そこは大きな格納席になっていた。真ん中に、背の高い、槍のような形のロケットが立っている。高さは五〇フィート、もしくはそれ以上、基底部の直径六フィート。ひれが付いていて、ほっそりとした厳しい形をもち、色は青黒く、強烈な印象だ。
「『黒騎士号』。わが軍の最優秀の、最強力のロケットです。ひじょうな高性能の液体燃料式エンジンを装備して、過酸化水素を混ぜた燈油を使うので抜群の信頼度があります。操縦装置もひじょうに敏感です。飛行中は無線信号を発信しますが、これはさっきごらんになったブラベッジ・エンジンが監視しているのでコース調整ができます。このロケットで、ある実験をして、成功したんですが、やがてこれが実用化されるかもしれません。ご想像がつくでしょうが、ここからクロイドン[#ここから割り注](英国サリー州にある特別市。空港がある)[#ここまで割り注]までのロケット郵便です。郵政省が興味を見せましてね。クロイトンに電気コンピューターがあって、『黒騎士号』が大西洋上空を飛んでくるときに、その信号をとらえて誘導し、エンジンを止めたり、なんやらして、パラシュートで降下させる……」
ここまできたとき、クラーク大尉は口ごもって、声が途切れてしまった。ワシントンがゆっくりと向き直って、じっと凄い目付きでにらんだのだ。
「いや、まあ、最後まで聞いてくださいこいまのところ、まだ実験計画の段階です。しかし、まだ失敗したことはないんです。郵便物はちゃんと届きます。たが、これから何が起こるか、それは分かりません。ものすごい加速度で、たぶん人間が乗ったら死んでしまうでしょう、ところが前にチンパンジーを乗せて実験したことがあるんです。いまはリージェント公園動物園にいるデイジーという可愛い奴ですが、こいつはまったく平気らしくて、降ろされたときバナナを五本ペロリと食べましたよ」
「もし、わたしの推察どおりのことを考えておられるのなら、そりゃ話に乗りますよ。この花火に乗って大西洋を越える志願者になれと言われるのなら、なります。ただし、朝九時前に向こうに着くという条件でですよ」
デヴォンシャー出身の技術将校が考えていたのは、たしかにこの事だった。説明を聞けば聞くほどガスは、まだ、敗北の歯のあいだから勝利をもぎとる可能性があるという確信が湧いてきた。そこで、ほかの数人の技術将校と司令官が呼び集められて協議が始まり、無線電話でロンドンに接触して、さらに協議をかさねた結果、とうとう反対意見を出す者が無くなり、賛成者が圧倒的多数になって、このすばらしい新計画を実行するほかないという結論が出た。
あとは数時間で終る仕事だけということになって、みな懸命になってその仕事をやった。北極の嵐が荒れくるい、建物に叩きつけてくるが、建物のなかでは、その嵐に打ちかち、時間、空間、距離を征服して新世界から旧世界へ人間を数十分で送りとどけるという機械に、みなが取っ組んでいた。燃料を積み込んだり、機械を調整したり、複雑な全回路系統を検査したりする一方、ロケットの高いところでは、職工たちが、内部のゴム張り作業、数十ガロンの水の吸入作業をしていた。
「この水が秘訣ですよ」とクラーク大尉は、目をかがやかせながら言う。「自然から教わった知恵ですよ。羊水なんですよ。どこを見るかという分別さえあったら、ちゃんと見つかる知識だが、われわれは、そこへ目を向けて、それに気がついて、実用化したわけです。ご存じのように、1Gというのは引力、地表の引力です。加速度と引力は同じものらしい。少なくとも、前にオクスフォードにいたアインシュタインというドイツ人が、そう言ってます。加速度がついて2Gになると、不快感が起こる。3Gになると苦しくなる。5G、6Gとなると意識の変調が起こって、死んだり、心臓麻痺を起こしたり、失神したりという厄介なことが起こります。ところが、液体のなかに浮かんでいると、被験者は――たいていはサルですが――50Gになっても、ピンピンしていました。これをやろうというわけです。宇宙を飛ぶ母胎というところでしょうか、ハッハッ」
「ずつと水に浸ったきりですか? そんなに長くは息をとめられませんがね」
「それは無理でしょう……アッ、ワシントン大尉、からかってらっしゃるんですね? いや、それができるんですよ! いや、じつに簡単にできるんです。水は冷たいが、潜水服を着て、酸素マスクをはめて浸っているから、らくなもんですよ」
「らく」なものでもないな、とガスは、宇宙を飛ぶ浴槽のなかに助けおろされるときに思った。水中に沈んで、言われたとおり、ベルトの留め金をとめ、ゆっくりと注意ぶかくマスクのなかで呼吸する。上の歪んだ顔や手が消え、ロケット先端の円錐部がガンという音と共に閉じたときは一瞬不安な気持がしたが、しかし、なかなか面白い。すべての音が水に吸収される。ボルトをしめるガンガン、ギリギリという金属音が聞こえ、やがて沈黙した。
これが一番いやな瞬間だった。闇のなかで孤独に待つ時間が。高性能燃料を積みこんだ円筒の一番てっぺんで、ひとり、たったひとりで閉じこめられている。こんな孤独ははじめてだ。待つ。ローラーの上の屋根を開けて、発射前の点検、スイッチの確認をしているのだろう。これには数分かかると聞いたが、こんなに長い気がするとは驚いた。時間感覚が狂ってしまったらしい。数分たったか――数時間すぎたのか? 故障でもあったか、事故でも起こったのか。もしそうなら、ここから脱出できるだろうか。それとも、火柱のてっぺんの、グラグラ煮えかえる鍋のなかで茹で殺されるのか。つぎつぎと不安な想像が突き上げてきて、口をきくことができるなら、大声で叫びたいほどの緊張だった。
すると物音が聞こえた。泣き声みたいな、地獄の永遠の責苦に泣く悲鳴のような声。ゾッとしてガスは、襟首の毛のさか立つのを感じたが、なんのことはない、高速ボンフが作動を始めて、燃料を燃焼室に送りこむ音だと分かった。はじまったのだ! その瞬間、遠くにゴロゴロという音、ゴーッというひびきが起こり、もの凄い音になってきて、思わず両手で耳をふさがずにはいられなくなったかと思うと、何か見えないものが胸の上に飛びのってきて、メチャクチャになぐりつけて、下へ下へと押す。打ち上けだ!
長い長い、はかりしれぬほどの時間、圧迫がつづいたが、突然エンジンが止まって、圧力はスッと消えた。惰力で進みだしたのだ。エンジンが動いていた、あの永遠にも思えた数分間に、ロケットは、火を吹きながら上昇して、嵐をぬけ、大気圏、成層圏を突きぬけて、ついに地球をつつむ最後の空気層の切れはしも飛び越え、真空空間のなかを弧を描いて飛んでいったのだ。大西洋は百マイル、二百マイルの下に遠ざかり、前方に英国がせまる。ロンドン近郊のまどろむような都会クロイドンの空港に待ち受ける電気コンヒユーターは、機械式コンピューターと同様、欠陥があると言っていたが、今度ばかりはクラーク大尉のその話は間違いであってほしい、とガスは願った。
だが、惰力飛行がつづくうちに胸の動悸はおさまり、かなり落ち着いてきて、陽気な気分にさえなってきた。うまくいこうが、いくまいが、これは世界の記憶に残る旅だ。フランス作家の書いた、あらゆる交通手段を使って八十日で世界を一周するというあのロマンチックな小説の現代版じゃないか。いま、おれは、あの物凄い想像力の持ち主ジュール・ヴェルヌ氏さえ思いつかなかった手段で旅行しているのだ。たしかに、これは賭ける値打ちのあるゲームだ、と落ち着いた気分で考えているうちに、またエンジンが点火するのを感じたが、ゆったりとした気分なので、微笑さえしていた。今度は落下してゆく。サリー州上空を落下する。操縦装置が働いて、方向をさだめて落下してゆく。最後の瞬間にカチッと音がして、いきなりグイッと引っぱられる衝撃があったが、たしかにこれは、パラシュートの開くしるしではなかったか。またグッと衝撃がきて、今度は、たしかに動きが止まった、と思った。着いたのか? 証拠はすぐに現われた。ガチンという金属音、ドスンという衝撃があり、またそれが繰り返され、ガリガリと金属のこすれる音が起こったかと思うと、たちまち、頭上のロケット先端の円錐部が消えて無くなり、そのかわりに明るい青空を背景に、いくつかのぼやけた人の顔が現われた。言うまでもなく、猛速力の空の旅で、夜から昼へ飛びこんできたのだ。かれは水のなかで立ちあがり、顔を水から突きだし、マスクをはぎとって、暖かい、うまい空気を吸いこんだ。悪い歯ならびをむき出して笑顔を見せている男が、スパナーを握って見おろしている。その横に、青い制帽をかぶって、四角いボール紙を持った、厳しい顔付きをした男がいて、「英国の税関です。このカードに課税品と禁制品のリストがありますが、ごらんになって、申告されるものは何かありませんか?」
「何もありません。手荷物一個ありません」
たくましい手が伸びて、体を水槽から引き上げてくれ、背の高いロケットに立てかけた車輪付きの台の上に載せてくれた。白いコンクリートの向こうに緑の樹々が見える。ひとかたまりになった出迎えの人びとの姿があり、ワーッと遠くで歓声を上げている。ワシントンは税関吏を振りかえり、
「いま何時でしょうか?」
「九時ちょうど十五分前です」
間に合うだろうか? ロンドン市中の駅までどれ位あるだろう? 十マイル、いや、少なくとも十二マイルはあるだろう。助けようと差しだす手を押しのけて、ガスは梯子をあわてて降り、滑り落ちるようにして、つまずきながら地面に降り立って、ふと振りかえって見ると、前に、見なれた親しい人影が立っていた。
「『喧嘩のジャック』じゃないか!」
「そうですよ。さあ、急いで。まだ、間に合いますぜ。ここに服が入ってます」
と言って、ガスの手にひとつの紙包みを押しこむが早いか、こちらに向かってバックしてくる一台の妙な乗り物のほうへせき立てる。
「あの運転手は『稲妻のルイジ・ランブレッタ』でさ。外国人だが、いい腕してますぜ。さあ乗った、出発、出発」
「お目にかかれて光栄です、シニョーレ」
と運転手が声をかけた。坐ると同時に、ピシャリと座席が背中に張りつく。「こいつは一〇〇〇マイル・レースの優勝車なんで心配いりませんぜ。二百馬力で、風みたいに走りますぜ。蒸気式タービンで、燃料はガソリン。フレオンを冷却液に使ってます。警察が出て、パトニー・ブリッジの先まで、ずっと道をあけてますぜ。ドライブにはいい日ですわい」
車は、うなり声を上げて突っぱしり、横すべりして真横になりキーキーとゴムの悲鳴を上げながら、時速一〇〇マイル以上の速力でロンドン街道に出てきた。踏みだす群衆を押しとどめている警官、振り立てている旗などがテラテラ見える。なにもかもがお祭りさわざだ。ちいさな座席で身をよじるようにしながら、なんとかガスは潜水服を脱いだが、脱いだ潜水服は気流につかまって、アッというまに吹っ飛んでいった。それで、今度は注意して、小包みをあけ、下着、シャツ、ネクタイ、背広を引き出した。こういうものを身につけるのは骨が折れたが、とにかく付けて、ネクタイまでちゃんと結んだ。
「時間は?」と大声できくと
「九時一分です」
「それじゃ、もうだめだ……」
「いや、まだ大丈夫、シニョーレ」
時速三五〇マイルの猛スピードでパトニー・ブリッジにかかる。「手筈ができてるんで。電話で聞きました。英国中が応援してるんで、女王まで応援してますぜ。バッキンガム宮殿を出る時間を遅らせたんですわ。すばらしい女ですな。いま馬車でゆっくりと駅に向かっている最中。まだ、あきらめるのは早いですぜ」
うまくいくだろうか? こんな超人的努力をしたあとで失敗がくるのだろうか? すべては神の手にある。神が幸運を恵んでくれることを願うばかりだ。ブレーキ、アクセル、タイヤのきしり、せまい通りを横すべりして横向きになる。ハンドルをひとひねりして野良犬を避けるのだ。もうひとつ角を曲がると駅だった。坂道を降りてプラットホームに向かって突っぱしる。片側に女王の公式馬車が空になって止まっている。
列車が出てゆくところだった。
「心配ご無用。お医者さん、また診てもらいますぜ!」
ふとい笑い声をあげ、荒い口ひげを片手でひねりながら、運転手は、剛胆にも、真っ赤な血のような車をプラットホームへ突進させる。駅員や見物人がクモの子を散らすように逃げるなかを列車に追いつき、その横を走り、速度をゆるめて、車輪をプラットホームの端の四、五インチのところまで寄せて、列車と速度を合わせ、列車の開いたドアに車を寄せる。
「さあ、シニョーレ、降りてくださいよ。もうプラットホームの端ですぜ」
一瞬にしてガスは座席の上に立ちあがり、レース・カーの丸味のある車体の上に立ち、運転手の頭に片手をついて体を支えながら、列車から伸びた手を掴み、一気に列車のなかへ飛びこんだ。振りかえると、運転手は立ちあがるような恰好でブレーキを踏み、車は横すべりしてねじれ、プラットホームの端の列柱に衝突した。ガスは、ゾッとしたが、それでも運転手は煙を吹く残骸のなかから手をふって、うれしそうに大声で叫んでいた。
「こちらでございます。席がとってありますので」
と給仕が言った。
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2 二百地点
みどりの英国が外を突つぱしる。畑や小川が刺し子の掛けぶとんのように流れ去る。車輪の下を過ぎる青い川筋。黒い橋も動き、教会の尖塔のまわりにかたまる灰色の石の家の村々も動き、畑で手をふる人の群れ、後脚で立ちあがる馬、はえたてる犬なども、アッというまに滑り去っては消える。まるで、この幸運な日に、この高速列車に乗る幸運な旅客のために、田園がみずからを聞いて見せている観があった。それほど「快速コーンウォル号」の乗り心地はなめらかで、じっと坐っている人たちの目の前で、英国全土がわざわざ行列して見せてくれているような感じだった。
このトンネル列車に一番乗りしたのは、ひじょうに幸運な少数者だった。ロンドンから、アイルランド南の遥か大西洋沖合に浮かぶひとつの人工の島、二百地点、つまり最寄りの陸から一〇〇マイル以上へだたるこの二百地点まで、途中停車なしに一気に突っぱしるというのだ。女王とフィリップ王子が乗車され、皇太子もモスクワ訪問中のところを、わざわざこの初列車に乗車されるために特別列車によってお帰りになった。そのほか、貴族の顔もちらほらと見えたが、ダービー競馬や上流名士の集まる劇場開演日ほどの数ではなかったのは、きょうという日が科学の日、科学技術の勝利の日で、学士院会員の教が貴族院議員を上回ったせいだった。また、財界の大物連や会社社長などの顔ぶれも見え、ある有名な女優の顔もあったが、これは、財界のある大立者と特別のつながりのあることで納得できた。それからまた、シャンペン酒の大盤振舞いがあった。何十本、何十箱、いや、冷凍室いっぱいの盛大なもので、これは比較的知られていないが、あるりっぱなシャトーから、大西洋トンネル会社が一九六五年の上物ストックを買い取って、提供したものだった。「快速コーンウォル号」の廊下や車室には、この黄金の酒が川のごとく流れ、人びとはさかんに杯をくみ交しては、このいまのすばらしさ、大英帝国の土木技術の優秀性、ポンドの強さ、世界平和、この日のほこらしさを祝ったものであった。
また、数は非常に少ないが報道人も乗っていた。はじめ座席の関係で数を削られたのだが、この歴史的事件を完全に世界に報告するのに、ぜひ必要だというので、また数をふやしたのだった。全世界の人が同時にテレビで見られるように、ひとりのカメラマンがあらゆる事を撮影していたが、もちろんBBCの視聴者がまっさきに見るのに決まっていた。一方、世界の各新聞は、ロイター紙の記者の報告で溝足せねばならぬことになっていたが、フランスの読者だけは、小柄な色の黒い記者の書く記事が読めるようになっていた。この記者は、体の大きな英米系の同業者のうしろに押しやられていたが、これは裏から手を回して乗りこんできた男で、少なくともこれで、大西洋トンネル会社で、ひとつの首が飛ぶことが予想された。それから、「印刷局広場のカミナリおやじ」[#ここから割り注](英国タイムズ紙の渾名)[#ここまで割り注]の好意的な注目が大いに必要だというので、タイムズ紙の記者が同乗していたことは言うまでもない。そのほかに、二、三の有力新聞の記者も乗っていたが、そのなかに、いかつい肩をした、大柄なニューヨーク・タイムズの記者がいたのは、「大西洋横断」トンネルなんだから、としつこくねぼって、やっと認められたおかげだった。
こういう記者連中は、すぐにワシントンに質問したがるのだった。なにしろ、かれの旅のひとつひとつの刺激的な、息づまるような事件を追ってきた世界中の読者には、ワシントンこそは、もっとも注目すべきニュース種だった。旅の終点を数時間後にひかえたいま、これまでのくわしいところを残らず聞かせてほしい、と記者たちは要求する。ワシントンは、シャンペンをすすりながらそれに答え、ヘリコプターやロケットに乗って心臓のとまる思いをしたこと、ロンドンまで狂気のように車で駆けつけ、危機一髪で間に合ったことなどを語った。すると記者たちが、あの車を運転していたラムブレッタは、ほんのかすり傷を負っただけで、何も後悔していないと教えてくれた。そればかりか、ある大衆新間がラムブレッタの体験談を五桁の値段で買いとったというので、ガスは大いに愉快だった。こういうふうにベンザンスまでの車中、ひっきりなしにガスは質間攻めにされたが、記者が社に記事を送るというので、やっと解放された。ところが、記者たちにそれをさせたのでは、列車の電話、電報が完全にふさがるというので、あらかじめ使用が禁じられていた。ただしタイムズ紙の記者は例外で、短い一報を入れることだけは認められていた。ところが、この不便を解決するために、ベンザンスでひとつの袋を降ろすという手筈ができていた。「新聞」と大きく書いた大きなズックの袋に、手早く報告や記事が詰めこまれ、一番上にフィルムが入れられるのだった。これだけでなく、ほかにもいろいろと器用な手が打ってあり、記者たちは、任務遂行のためバラバラと散っていった。高速車が何台も畑の横に止まっていて、それぞれ特殊な色の社旗をひるがえして待機している。記事を入れた容器が列車から投げられると、拾い上げて走りだすという手筈だ。競争用オートバイに乗ったひとりの男が、しばらくのあいだ列車と平行して走り、最後に池のなかに突っこむ光景が見られたが、水のなかに落ちてもまだ、包みを結んだ輪を離さなかった。かと思うと、列車の通過する川筋には、網を装備したモーターボートが同隻も待ちかまえている姿もあった。
記者のインタービューから暫く解放されて、はじめてガスは車室にいって、指定の座席に坐り、ここでまた、ほかの乗客たちのお祝いの言葉やシャンペンの乾杯を受けた。だがこのときは、みんなの注視から逃れることができた。ちょうど列車の速度が落ちてきてベンザンス市内を通過しようとしたからだった。数千の市民が出て、ワーワーと歓声を上げ、英国旗を振りたてている有様が、まるで、色はなやかな小鳥がパタパタと飛びまわっているような感じだ。新聞社の例の袋が、プラットホームに待つ電報係たちに投げられると、また列車は速度を増して市内を通過し、トンネルの黒い口に向かって走りだした。横の待避線に満員列車が数本待機していて、このトンネル通過列車第一号の後につづこうとしている。グングンと速度を早めて、「快速コーンウォル」号は轟音と共に黒いトンネル口へ入った。突然の闇に、キャーツ、キャーツと興奮した女性の悲鳴が上がる。だが、ガスは慣れていたから、闇のなかへ列車が入ると目をとじてしまい、乗客がトンネルの闇を見るのに飽きて、こちらに向き直ったときは、もうぐっすり眠っていた。これまでの旅の疲れが出たのだろうと、みんなが思いやって、声を低くしてくれたので、おかげでゆっくりと安眠できた。起きたのは、やっと二百地点到着十分前と、車内放送があったときだった。 放送を聞くと、たちまち電気の通じたような興奮が車内を走り、ふだんは皮肉な世慣れた連中までが、その雰囲気に感染して、窓の外の闇をじっと見つめたり、立ちあがったり坐ったりして、なんとなくソワソワしはじめた。列車の速度がだんだん落ちてきて、ついに前方に灰色のものが見えてきたかと思うと、突然、カッと明るい日光が射してドキッとさせられ、列車は空の下に出た。からっぽの操車場を抜け、ポイントをいくつか通過して、轟々たるひびきと共に駅に近づくと、たちまち待機していた楽団が、生き生きとした「深海のトンネル」の旋律を演奏しはじめる。とくにこのときのためにサー・ブルース・モントゴメリーに頼んで作曲してもらった曲で、これが初演奏だった。駅は、大きく清潔で、ひろびろとして、ガランとした感じだったが、やがて、列車から人があふれ出して、いろいろな設備を見ては、「オーッ」とか、「アーッ」とか、しきりに感嘆の声を上げている。感心するのも無理はない。駅のはるかに高い天井は、完全なガラス張りになっていて、そこから青空と、空高く舞うカモメの姿が見えるのだ。このガラス天井を支えているのが鋳鉄製の列柱で、これは白くエナメルが塗ってあり、接合部と柱頭部には鉄製の魚とか、イカ、クジラなどの装飾があり、それが支柱自体の造りのなかに巧みに鋳込まれている。こういう物は青い色で仕上げてあったが、白と青とのこの配色が、駅構内全体に貫かれていて、実際の広さ、大きさより、はるかに広々とした明るい感じを出しているのだった。
赤いカーペットを持ってきて、巻きひろげると、女王陛下御一行が降車され、乗客たちはうやうやしくうしろへ下がった。カメラマンたちが、ピカピカとフラッシュをたいて散っていくと、また別のカメラマンが出てきてフラッシュをたく。
いかに謹厳な人でも、いかに表情を動かさぬ人でも、駅の正面玄閲を支える雪花石膏の列柱のあいだを歩いて外に出たときは、思わず一瞬足がにぶって、息を呑まずにはいられなかった。ここには、ハッとするようなすばらしい遠景、これまでどこにも見られなかった全く新しい景色がひらけていたのだ。幅の広い白い階段が下のほうに降りていって、ひとつの遊歩道に達している。この遊歩道には、いろんな色彩のモザイク模様が埋めこんであり、それが目を奪うような華やかな色彩に照りかがやいているのだつた。アーチ型の模様あり、波型あり、くねくねとうねる帯状の色彩ありという具合で、リオデジャネイロ市のコパカバナ湾の遊歩道を思わせるものがあったが、たしかに、そこから、少なからぬデザイン上の影響を受けている点はたしかだった。この遊歩道の向こうにひとつの野原がある。手入れのゆきとどいた、目にしみるような緑の芝生のうねる緑地で、ゆるやかな坂になってくだり、向こうの海原の濃い青に接し、小波が岸に寄せては砕けている。どこの岸からも遠くへだたったこの大海原には、きよらかな水を汚すガラクタひとつ、屑ひとつ見えない。東西南北どちらを遠く眺め渡しでも島影ひとつ見えず、ただ、水面を滑走する何隻かのヨットの白い翼が僅かに目に入るばかりである。ところがこの島に降り立つ人が、ここの階段を降りてゆくと、もっとすばらしい物が現われるのだつた。この遊歩道は、新しいこの人工島の海岸線にそってつづいていて、一歩すすむごとに信じられないようなものが出てくる。
まず現われるのは一大ホテルだった。一面に花の咲く下の庭のなかへ翼をながく伸ばす一方、青い丸屋根付きの塔が、いくつも調和を保って空高く伸びあがっている建築である。テラスでは楽団がダンス曲を演奏して、通りかかる人びとをクロスを掛けたテーブルへと誘い、テーブルの横には黒い装いの給仕たちが、お茶を注ごうと待ちかまえている。ホテルのあたりや遊歩道沿いには、休日の気配がある。休日が、息を凝らして待ちかまえているという雰囲気である。たくさんの資材を海上輸送でここへ運びこんできて、トンネルが開通したときは客が来るのだからというきわめて楽観的な期待で、こういうホテルを建てて、用意は万端ととのつているのだが、一度もまだ実際に使ったことがないのである。レストランやダンス・ホールがあるかと思うと、そういう優稚な建築のうしろに狭い路次[#原文ママ]があって、遊園地の回転木馬や観覧車や、ココナツ落としゲーム、居酒屋などに通じているという具合で、要するに、だれでも何か楽しめるようにできていた。
遊歩道をもっと先へ進むと、真白な砂浜がいくつもあり、やがて一番のりの海水浴客の姿が見えた。ソロソロと水のなかへ踏みこんでワーツと驚きの声を上げている海水浴客である。ここはメキシコ暖流の通る真ん中に当っていて、ブライトンやブラクプールなどとは比較にならないほど水が温かくて健康的なのである。砂浜のうしろのほうには、ハトリン社経営の「二百地点休日キャンプ場」の小塔や塔が予約客の到着をいまや遅しと待ちかまえ、拡声器はもう声を張りあげて、最初の到着客を刺激的なグループ遊びへと呼びかけている。ほかにも、まだいろんな施設があり、ブラプラとゆく散歩客の目は、華やかな色彩や美しい装いに引きつけられる。もっと先へ進んで島の向こう側へ回りこむと、ヨット・ハーバーがあり、きょうのすばらしいこの日を見物しようと、ここまで航行してきた船が、ぎっしりと華やかに並んでいる。さらに先へ進むと、頂上に樹々の生えたひとつの丘があり、ここで遊歩道は、ひとつの野外円形劇場に突き当って行きどまりになっているが、ここでは折しも、この野外舞台には打ってつけのギリシャ劇が始まろうとしていた。見るものすべてが、目にこころよく、また、そういうふうに作られていた。じつはこの丘で、島の半分が隠れていたわけで、この隠れたところに、工業団地や鉄道待避線、商業ドックなどが位置していた。要するに、二百地点と大西洋トンネルのために、壮大な計画がめぐらされていたわけで、その魅力に引かれて投資家が群がり集まったということである。まったく、すばらしい日だった。
ワシントンは、ホーヴ市[#ここから割り注](イギリス南部サクセスの都市、イギリス海峡に臨む)[#ここまで割り注]からきた商店主や、城から出てきた貴族と同様、きょうという日の華やかな賑わいと散策を楽しみ、ブラプラと歩いていたが、やがて疲労をおぼえて大ホテルへと赴いた。「大西洋タワー・ホテル」で、ここに、かれのために一室が予約されていた。一個のカバンがもう何週間も前に送りつけてあり、これが開かれて、なかの物が出してあったし、テーブルの上には花や祝電が山積みになっていた。それをいくつか読み、横へ置くと、これまでの数時間の激しい動きの反動でグッタリした気分になったので、ホテルのサービスのシャンペンを一口、二口すすってから風呂に入った。やがて気分爽快になり、元気も出てきたところで、いま着ているツイードを、ここの気候に合った熱帯向きの軽い絹のスーツに着換え、ネクタイを付けようとしたときに電話のチャイムが鳴った。電話を引き出しから出し、マイクロフォンをテーブルの上に置き、受話器を耳に当てて、スイッチを入れると、コーンウォリス卿の秘書ドリッグの聞き慣れた声がした。旅の成功の祝いを述べたあと、いまホテルのテラスにいるので、都合がついたら来ていただきたい、という卿からの招待を伝える。
「すぐにまいります」とガスは答えて、電話を切ると、ボタン穴にひとつの花を差し、卿との面会にそなえて最後の一杯のシャンペンを飲んだ。
海を見はらす、そのひっそりと隔離されたバルコニーに集まっていたのは、ひとつの小さなエリート集団だった。日暮れ方の太陽を浴び、なんともいえぬほど心地よい微風に吹かれている。いろいろな酒をきれいにそろえた食器棚があるので、給仕に雰囲気を邪魔されずに、勝手に好きな酒が飲めるようになっている。もし空腹になれば、大きなクリスタルガラスの鉢に白チョウザメのキャビアが、砕いた氷で冷やしてあるから味わってみればいい。その食器棚の上のほうに、一枚の大きな詳しい北大西洋の海図が掛けてあり、そこにトンネル掘削のコースが記入されていた。そこに、みんなが、かわるがわる目をやっては、笑顔を浮かべているのだった。サー・イザンバード・ブラシイ・ブルネルは、いつもはきちんとした服装なのに、珍しく今日はくつろいで、上着を開け、チョッキのボタンも半分はずした恰好で、さわやかな海風にときどきクンクンと鼻を鳴らしては、チビチビとペリエ水のグラスをなめていた。その向かいで、コーンウォリス卿が信じられないような上物のヘネシーセブン・スターをくつろいだ様子で味わっている。これはペリエ水よりは少し強い。ヘネシー・[#原文ママ]セブン・スターを味わう一方、ときどき、ジャマイカ葉巻をくゆらしている。この葉巻はずいぶん長い、ふといもので、灰がまた一段と白い。サー・ウィンスロップ・ロックフェラーは、まだこういう酒を飲むには早すぎると考えて、手元に瓶を引きよせて、赤ブドウ酒のグラスをチビチビとなめていた。二人とも落ち着いて、ほとんど雑談ばかりし、つぎの仕事にエネルギーを向けるまでの、当面の仕事が終つたという安堵感にひたっていた。とどく報告はすべて順調だし、どこにもとがめる点はない。まったく、すばらしい日だった。
オーガスチン・ワシントンが案内されて入ってくると、三人とも申し合わせたたように、いっせいに立ちあがり、たがいに賞賛、歓迎の握手を交した。三人が、この新しいトンネル旅行時代の開幕を華やかに飾った若い技師の旅の成功を祝うと、ワシントンのほうは、あらゆることを可能にしてくれた点、二人の資本家に感謝し、また先輩技師に対しては、このトンネルをそもそも実現に持ちこんだ計画と努力について、お礼を述べた。サー・イザンバードは、それを当然のこととして、うなずいた。だが、みんながまた席について、サ―・ウィンスロップが注いだブドウ酒のグラスをワシントンが受けとると、サー・イザンバードは、長いあいだ考えていた件について話を切りだした。
「ワシントン、きみとは長いあいだ疎遠にしてきた。だが、そういう個人的なゆき違いはあっても、たがいに会社のためには全力を尽してきた。しかし、過ぎたことは、ダムから落ちた水みたいなもので、過去は過去として忘れる時がきた、とそういう気持に、わたしはなっておるのだ。ここにいるロックフェラーが、またアメリカ重役会の会長になる。この二人の前で、アメリカ・トンネルでのきみの仕事がみごとだったと宣言するよ」と言って、ここでグラスをすすると、ほかの二人が、「いいぞ、いいぞ!」と熱烈に叫んだ。するとまた言葉を継いで、「間違ったときは、わたしは率直にそれを認めるたちだ。あらかじめ、トンネル区分を作っておいて、これを沈めるという技術は、ふつうに想像されるほど危険なものではないし、工事もたしかに早い。きみの証明したとおりだったことを認める。きょう列車で走ったトンネルの完成のために、この技術は用いられて、きみの主張の正しかったことが証明されたわけだ。今後は、もっと緊密に協力して働くことが、わたしの願いだ。それから、もう一度、きみをわが家で歓迎するからね」
不意を打たれてガスはハッと椅子から立ちあがりかけて、また坐り直した。頬がかすかに青白くなっている。この何気ない社交的辞令が、最近くぐり抜けてきたあの旅行のどんな危険な冒険よりも体にこたえた証拠だ。だがかれが、ブドウ酒を少し飲んで、また話しだしたときは、前と変わらない平静な態度だった。
「そう言っていただいて心から有難いと思います。ご存じと思いますが、やっぱり、あなたは現代一流の技師だし、建築家だとわたしは考えていますし、あなたの下で働くことを喜びと考えています。御宅をお訪ねするのも嬉しいことです。お嬢さんは、御宅にいらっしゃいますか……」「アイリスは元気にしている。いっしょにここに来ているんだ。きみに会えば喜ぶと思うが、そういう話は、あの子とはしないもんだからね。さて、新しい仕事のことを話そうじゃないか。きょうはうまくいったが、あすはかならず問題が起こってくるから、備えをしておく必要がある。さて、完成したこの二つのトンネルは重要なものだ。もし、わたしの見た数字が正確だとすると、それぞれ利益を上げてくれるだろう。この二百地点は、やがてもっとも近代的な大きな港に発展してゆくことだろう。ここで英国向けの商品を降ろし、列車に乗せて迅速に確実に送り出すわけだから、英国海峡ルートや、ロンドン港の旧式な施設に頼らなくてもすむようになるだろう。
それからここの温泉地、保養地としての将来も、きょう、はっきりとこの目で見たと思うのだ。さて、大西洋の向こう側でも、グランド・バンクス駅が同様の機能を発揮しだすことだろう。それにまた、漁船団が、新鮮な魚を植民地に急送しようとして、そこで水揚げをすることだろう。けっこうなことだ。しかし、われわれは、会社の名前を本物にするために、さらに前進して、大西洋を横断する必要がある。その予備調査や報告はもうすんでいる。いまこそ、それを最終的に実行に移すときだ」
これには、みんなが熱烈に同意した。熱意のつぎには融資問題を考える段階だが、ここで、大西洋横断トンネル会社の二人の会長が立ちあがって財政状態の説明をした。イギリス側もアメリカ側も、要するに申し分のない建全財政だという。大西洋両岸で、最近、国民経済が伸びている。もちろん、これはトンネル工事が原因だが、大勢の人が、利益を上げることができて、これを投資しようと待ちかまえているのが現状だという。会長たちは、あまり熱心に説明していたので、四人が四人うなずいているわけでもないことに気がつかなかった。何の障害もないと思っていたらしい。しかし、ガスは、暗い顔をして、グラスの柄をいじりながら、ときどき壁の海図に目を上げたり、まさか重大な秘密が沈んでいるはずもないのに、グラスのなかのブドウ酒をのぞきこんだりしている。心のなかで闘っている様子である。事実、そのとおりで、長年閉ざされていたドアが、ふたたび開かれたわけで、これには心から感謝している。しかし、これからの自分の発言で、また閉じてしまう。確実にそうなる。しかし、それを言わずに、この場を去るわけにはいかない。科学的な事実だから、言わずに済ますわけにはいかない、というふうに、心と頭の戦いがつづいていた。沈黙の戦いだが、砲弾や爆弾のどんな戦闘よりも恐ろしい破壊的な戦闘だった。だが、とにかくかれは結論に達し、背筋を伸ばして、ブドウ酒を飲みほし、発言の機会のくるのを待った。その機会は、融資のこまかい点が決まって、技術問題が話題になったときに、すぐにやつてきた。そこでかれは立ちあがって、海図に近寄り、しっかりとした指でトンネルの予定コースをたどって見せた。
「ご存じのとおり、これからが最も長い困難な工事の始まりです。この区間の運輸方法については、サー・イザンバードが、ある画期的な方法を提案されまして、調査の結果によっても、その天才的な閃きが正しかったことが証明されました。真空リニア式電気路線で、今後、これで交通運輸面が大きく開けてくることでしょう」
「話の途中ですまないが」とコーンウォリス卿が口を出した。「どうも、わたしにはそこのところが、よく分からないんだ。そこで、何とか説明してくれたら、ほんとうに有難いんだがね。国際的融資ということなら、ややこしいことでも何とか理解できるが、電子とか何とか、そういうことになると、頭が鈍ってくる」
「何を言ってるんだね、チャールズ。もう上何回も説明してやったろうが。話を先に進めようじゃないか」
とプリプリして割り込んだのはサー・イザンバードだ。
「いや、よければ、説明を先にお願いしたいな」とサ―・ウィンスロップもホッとした顔で言う。「分からないのが、わたしひとりでないと分かってうれしいね。じつは頭が悪いのかと、ちょっと心配してたんだ。説明してくれないかな、ワシントン」
サー・イザンバードは、時間を無駄にしてけしからんとプツプツ言い、鉱泉水をグッと一息にあおったが、とにかく引きがった。それほど腹を立てているのだ。ガスは、それを承諾と受けとり、説明をはじめた。
「サー・イザンバードの案を支えている埋論は非常に複雑ですが、その結論は簡単なものですから、理論に立ち入る必要はないでしょう。まず、トンネルを一本の巨大な長さのパイプ、頑丈な完全なパイプと考えていただきましょうか。このパイプのなかにある空気は、この地球大面の大気と同じ気庄になっています。ということは、つまり、一インチ平方あたり、約十五ポンドということになります。この空気は列車内の乗客に呼吸させるという役目しか持たない。これは、たしかに乗客には必要だが、トンネルの工事技術には何の意味もないことです。この程度の気圧では、トンネルの壁の耐久力に何物かを加えて、それで上からのしかかってくる巨大な水圧を支えるということもできない。工学的な観点から見ると、列車の速度を制限し遅くするという意味で、この空気は、じつは邪魔になります。それなら、空気をなくすればよい。これは簡単にできます。そうすれば、動力をもっと小さくして、しかも列車の速度は上がるわけです」
「しかし、人はどうなる、乗客は。息をせねばならんだろう!」
「もちろん息はします。列車は、高空飛行の飛行機のように気密状態にして一定の気圧に保っておきます。トンネル内の空気が無くなれば、いままで考えられなかったような速度が出せます。時速八〇〇―九〇〇―いや、一〇〇〇マイルだって出ないことはないでしょう」
「しかし、それでは車輪やベアリングが、速力に耐えられんだろう」
「そのとおりです、サー・ウィンスロップ。車輪の無い列車を作るわけです。列車内に強力な磁石をとり付ける。するとこれが軌道に装置した同じくらい強力な磁石と反発し合って、文字どおり列車を空中に浮かびます。だれでも知っていますが、ひとつの磁石を下に置くと、その磁場に支えられて、もうひとつの磁石は宙に浮きます。こういうわけで、列車は真空トンネル内で浮きます。それなら、この列車をどうやって動かすか? ここにサー・イザンバードの天才的な答えが用意されているわけで、リニア式牽引エンジンで動かすのです。この複雑な発明について説明するのはやめますが、まあ、電気モーターを逆にして、モーターの一部を列車に載せ、もう一部をトンネルの路盤の上にずーっと伸ばして取りつけたもの、両者のあいだに何の物理的な接触も要らないし、望ましくもないものと言えば充分でしょう。それからこの列車は大陸棚の端から三マイル下の深海平原に落下してゆく勢いで速力をつけます。つまり真空チユープのなかに、密封した列車を入れて、これをトンネル内に浮かせて全然何物とも接触させない、空気分子とも接触させない。そして重力によって、これにはずみをつけて動かし、電力によって、その動きを継続させるというわけで、トンネルの全計画と同様、現代的な輸送手段です」
二人の資本家は安堵の溜息をついて、二つ三つ質問して疑間点を明らかにしたので、また、ガスが話をつづけたときは、興味を起こし、知識をもった、ちいさな聴衆になっていた。
「すでに明らかになったように、新しい輸送手段もできたし、トンネルをつくるために前もってトンネル区分を作っておく方法も開発されているわけですが、いよいよ、くわしい測量と掘削が始まる前に、最終措置として、トンネルを通すべきコースを選ばねばなりません。ところが、海底は、なかなか複雑な性質を持っているから、この点、非常な注意が要ります。大西洋の底は、いきなり切り裂いてゆけるような、砂地の礁湖ではありません。それどころか、ここは地表より、もつと複雑で、ゴツゴツした変化の多い風景を呈しているのです。もちろん、深海平原というものも、いくつかあって、これは海面下、平均一万六千フィートのところに拡がっていますが、しかし、そのほかの地形も考えに入れておく必要があります。大西洋の中央には南北にかけて中央大西洋海嶺が伸びています。これは大山脈ですが、実際には山並みが二列にならんで、そのあいだに中央裂線の溝が走っているものです。この山並みと中央裂線に対して、ところどころに九十度の角度で巨大な深い峡谷が交差しているが、これは断裂帯といわれるもので、地球表面のしわに似たものです。それからまだほかに、いろいろな物があります。たとえば、ミド・オーシャン・キャニオン[#ここから割り注](中部大洋峡谷・グリーンランド西側の大陸傾斜、北緯六五度あたりから発しニューファンドランド北東の海床を南東に進み、北緯四〇度、ソーム深海平原に達する長大な海底峡谷)[#ここまで割り注]というもので、これは、いわば、海底に横たわる川床のようなものです。それから海底の山々、島々、それに海溝――これは非常に深い裂け目で、たとえば、この海図のここですが、これなどは深さ五マイル以上ある。それから、まだまだほかに考えておくべき点があります。たとえば海底地震とか噴火活動ですが、これは大部分、特殊な地域にかたまっています。それから、中央大西洋海嶺の中央裂線ちかくの海底の非常な高温度とか、この海底が一年に約二インチの割合で大陸が移動してゆくのにつれて、動いているという事実も考えておく必要があります。それからまた、この中央裂線の海底深部から新しい物質が隆起してきて、一年二インチの速度でひろがっていくらしいのですが、これは、地質学者も確認していることです。みんなこれは問題ですが、どれひとつとして解決できないほどの問題ではありません。この海図のトンネル予定コースを見てください。いまいった障害はみな避けて通っています。この大陸棚の端の二百地点から始めるとすると、トンネルは大体、北北西に向かって、四十一Gと呼んでいる断裂帯に沿って進みます。この断裂帯は、中央大西洋海嶺の末端とアイスランド南のレイキャネス海嶺の末端とに接するものです。こうして、このあたりで終りになっている中央裂線を横断する危険を避けるわけです。さて、そこからさらに西に進んで、断裂帯から出ると、今度は南へ方向を転じて、ミド・オーシャン・キャニオンの横をとおり、ミルン海山の高峰を迂回してソーム深海平原に達します。この地点で、トンネルはほとんど真北に転じて、ロレンシア沖積錐[#ここから割り注](カナダ東岸で大西洋にそそぐセント・ロレンス川が、運んできた土砂を大陸傾斜に扇状に積み上げた堆積。グランド・バンクス大浅瀬の南に位置する)[#ここまで割り注]を昇って、大陸棚のグランド・バンクス駅で、既に敷設してあるトンネルに接続するというわけです。ところが、このコースには、二、三の欠点があるのではないでしょうか」
サー・イザンバードの坐っているあたりから遠雷のようなひびきか起こったが、ガスは無視してつづけた。
「断裂帯では海床温度が高いので、溝を掘らずに、海床に直接、トンネル区分を横たえることになっているし、その区分も、穴があけてあって、そこから海水が入って冷やすような特殊な構造になっています。ところが、このコースはそういう地理的障害を避けるために、直線距離をゆく場合より二倍の良さになる、したがって費用も倍になる、というのが最大の欠点ではないでしょうか」
「おい、おい」とサー・イザンバードはとうとう爆発した。「そういうことは前に話がすんだはずだろう。海底は直線では進めない、ということは分かっているはずだ。どうしろというのかね?」
静まりかえったなかで、ガスはポケットから一枚の紙を出して拡げた。外でカモメの声がきこえ、遠くでオーケストラの演奏するのが聞こえるが、バルコニーでは、みんなが静かに話に聴き入っていた。
「これが、わたしの提案です」とガスは、積極的に、しっかりとした態度で話しだした。「その方法も説明いたします。わたしの案は、トンネルを二百地点から、まっすぐ南に向けて、ビスケイ深海平原の平坦な海床の上を通して、アゾレス諸島中の一基地までもってゆく。ここで、グランド・バンクスから、オーシャノグラフアー断裂帯[#ここから割り注](アゾレス諸島のわずか南のところで中央大西洋海嶺と交差する断裂帯)[#ここまで割り注]沿いに、ほとんど真東の方角へ進んできたトンネルのもう一方の部分とつなぐ、という案です。このコースでいくと、さっきのコースの長さの半分以下になるし、思いがけぬ利点もあります。アゾレス諸島の基地で積荷を降ろして、アフリカとか、大陸向けの船に、これを積みこめるわけだから、航海距離が大きく締まります。さらにその上、最終的には、アゾレス諸島からスペインまでもう一本のトンネル線が考えられます。こうなると、ヨーロッパ大陸と南北アメリカ間に列車連絡ができあがります。こうなればまったく驚くべき結果が生まれるでしょう。そのときは、シベリア横断鉄道の終点プロヴィデニヤ太平洋港で列車に乗って、シベリア、ロシア、ヨーロッパを通過し、大西洋の下をくぐり、アメリカを横断し、カナダ横断鉄道に接続して、アラスカに達し、もう一度太平洋沿岸で旅行を終るということになります。これで、地球の円周の少なくとも九十九パーセントを旅行したことになります」
ここで、大きな声で質問が出て、もっとくわしいことを聞きたいと熱心に求める声が上がったが、サー・イザンバードが、こぶしでテーブルを叩き、「きちがい沙汰だ。まったく狂人の夢にすぎん。いや、さっきも話に出た中央大西洋海嶺が無かったら、あるいは可能かもしれん。海嶺には中央裂線が付いておる。たしか、それは、この地点では少なくとも幅一マイル、深さ数マイルはあったはずだ。渡れるはずがない。その案はダメだ」
「そんなことはありません。この谷は渡れます。その計画書を、いまここに持っています。水中橋で渡るのですよ、みなさん」
沈黙のなかにサー・イザンバードの軽蔑の笑いがラッパのようにひびいた。
「バカバカしい! たわけた話だ! この深さで、トンネルを支える橋が一マイルもかけられるはずがないじゃないか」
「そのとおりです。かけられません。ですから、この橋にマイナスの浮力を持たせるわけです。トンネル区分が持っている浮力です。トンネルは重りをつけて沈めるまでは、この浮力を持っています。橋はこの浮力で海底の峡谷の上に浮かぶわけで、ところどころを重いケーブルで固定するのです」
今度は完全な沈黙になり、ガスはパリッと音を立てて設計書を一同の前にひらき、どういうふうにして、この橋を作るか。浮かぶからには、どういうふうにして両端の年間二インチの動きを吸収するか、そのほか細かい点をくわしく説明すると共に、あらゆる質問に答えた。やがて、この計画が、不測の要素が出てこないかぎり、先の計画より、あらゆる点でずっと優れていることが明らかになった。しかし、ほかの者よりもずっと前にサー・イザンバードはそのことがわかって、テーブルから突っ立ち、腕組みをして、はるかに沈んでゆく夕日をじっと見つめていた。ほかの者が質問を出しつくし、熱気もしずまり、ほっと一息ついたとき、かれはこちらを振り向いて、冷然たる目付きでガスを見すえた。その目付きの冷たさは北極の夜の猛烈な寒風をもしのぐかと思われた。
「ワシントン、きみはこれを計画的にやつたな。何か企むところがあって、わしの計画と取り替えるために、それを持ち出したんだろう」
「とんでもないことです。誓って、わたしは……」
「この計画、またはその修正案が採用されることは確実だ。トンネルはアゾレス諸島まで通る。そして、きみは名誉を得ることは間違いなしだ。わたしは、自分の野心よりトンネルのほうを大事だと思うから、いままでどおり仕事をつづけるが、しかし、きみ個人に対しては、なんの敬意も持たないぞ。だから、もう、わたしの家に歓迎するわけにはいかないことを承知してほしい」
相手の言葉の終らぬうちにガスはうなずいていた。こうなる運命だったのだ。
「こうなることは、はじめから分かっていました」とガスは話しだしたが、この素朴な言葉のなかには無量の思いがこめられていた。
「あなたに対しては、わたしは好意しか持っておりませんし、また、何の害を働こうという気特もありません。個人的利益よりもトンネルのほうが大事だと思っていることを信じていただきたい気特です。ですから、いまのお言葉を考えてみて、わたしとしては、『大西洋横断トンネル会社』での地位を辞して、退職するより仕方ありません。わたしが社内にいることが不穏な空気を生んで、この大事業の完成をさまたげるのならば、わたしは消えましょう」
と声は物静かだったが、部屋にいた者はみんな一瞬呆然として沈黙してしまった。が、たちまち、サー・イザンバードが、「辞意を受けよう。やめてもらってけっこうだ」と答えた。
これには、ほかの二人は、いよいよ口がきけなくなり、ガスも椅子から立ち上がって部屋を出ようとしたが、そのときコーンウォリス卿が声をかけた。
「ちょっと待ってくれないか、ワシントン。一方的な話はいかんのだ。何が第一なのか、じっくり考えなくては。いや、これは困ったことになったわい」と言いながらもコーンウォリス卿は、混乱した頭のなかを懸命にまとめて、この土壇場になっても、まだ何か妥協の線を求めようとした。
「ワシントン、きみの提案は聴いた。考慮する必要があると思う。サー・イザンバード、きみの意見は尊重するが、しかし、イギリス、アメリカの両重役会の会員全体の意見をきみが代表することはできないのだし、わたしやウィンスロップに代って発言するわけにもいかないのだ。そこで、提案したい、いや提案するが、この場で、どうするか考えて、なにか結論が出たら、きみに報告する。その話し合いが終ったとき、どこにいつたら連絡がつくか、それを知らせてくれないかね、ワシントン大尉」
「わたしの部屋にいますから」
「わかった。それでは何か結論が出たら、すぐに知らせることにする」
ガスは部屋から出た。ドアがうしろで、ガチリと重い掛け金の音と共にしまって、なんだか決定的に事が終ったような感じがした。
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3 つかの間の出会い
まわりには上機嫌と好意が満ち、趣味のよい服装をしたカップルやグループが生き生きと話し合い、友だちたちは元気のよい声で呼びかけ合い、ホテルのボーイたちは、ロビーの人混みのなかを伝言や電報を持って走りまわっている。きっと、それはみんな、たのしい健全な内容のものにちがいない。洪水のような大変な生気がみんなを包んでいたから、きつと、それがヒタヒタと寄せて窓々から溢れだし、舗道を流れて、人びとの笑顔をさそい、欄干にとまっているカモメまでが喜びの声を上げるのだろう。しかし、この陽気さの海を一隻の暗い船が揺れながら進んでゆく。まわりから切り離された孤独な、深い不幸の雰囲気を漂わせた男である。こういうすばらしいものを作り出した当人なのに、勝利のいまになって、その努力の成果を受ける人びとから切り離されてしまったのだ。
気特が沈んで、どうしようもないほど重い気分で、感覚が麻痺して不幸さえ感じられないほどだった。しかし、しっかりした足どりで静かに歩いていく真面目な顔には、底しれない心の不幸など全然表われていない。トンネルがすっかり生活になってしまったいま、それと関係が切れてしまうと、抜けがらになったような気がする。自分が腹立たしいような気にもなるが、しかし、もう一度、こんなことがあっても、やはり同じことをやるだろうと思う。どうしても、新しいコースにしなくてはならないのだ。トンネルを救うことが自分個人のマイナスになるとしても、やはり、トンネルを救わねばならない。こういう暗い思いを抱いて、エレベーターの前にゆき、そのドアが開くのを待った。ドアはすぐに開いた。
水力学を応用したドアで、地中ふかく埋めこんだシリンダーのなかを動くピストンで作動する開いたドアの前から一歩脇へ寄ると、中からひとりだけで乗っていた人が出てきて、バッタリと顔を合わせた。ところが運命の偶然か、天のサイコロのめぐり合わせか、それはついさっき話に出たアイリス、つまり、サー・イザンバードの娘だった。
「アイリス」
と言ったきり、もうガスは何も言えない。彼女の顔と優雅に装ったその姿が、黄金色の光につつまれたようで、はっきりと見えない。
「お老けになったのね、ガス」
と彼女のほうが、はるかに現実的な女の目を働かせている。
「でも、そのちょっとした白髪で、たしかに何物かが加わった感じがしますわ」
現実的な彼女だったが、最初しっかりしていたその声が、なんとなくあやふやな震えを帯びてきて、ここで会話はとぎれてしまい、そのまま二人は立ちつくして、たがいに見つめ合っていた。どれ位そうしていたか、エレベーター係のボーイが、
「各階に上がりますので、どうぞ、お客さま」
と高い声で言った。
これでハッとして、二人は脇へ寄り、ほかの人たちが乗るように道をあけたが、ザワザワと動いた大勢の人のなかで、二人はまるで立ち騒ぐ海のなかに立っているように孤独だった。アイリスは相変わらず輝くばかりに美しい。いや、いままでなかった成熟の優稚さが加わって、前よりも美しくなった、と思いながら、かれの視線は自然に動いて、彼女の左の腕から手、指へと降りていったが、キッドの手袋をはめているので指は見えない。アイリスはその視線の意味を察して、ニッコリとして、
「指環は、はめていませんわ、ガス。まだ父といっしょに暮らしていますのよ、静かに」
「いまさっき、父上とお会いして、話をしてきたばかりです。はじめはごく親しい話だったのに、しまいには、ずいぶんきつい言糞になってしまって」
「父らしいですわ」
「親しい調子のときは、また家庭に歓迎すると言っていただいたのに、荒い調子になると……」
「そこのところは後でうかがうことにして、いまは、はじめの部分を聞かせてくださいね」
いまのひとときは、たとえつかの間でも、掴みかかって、もぎとらねばならない。後のことはどうなるにしても、父親が出した交際のパスポートは、いち早く掴んで使わねばならないとアイリスは直感したのだった。
「どこか、いっしょに坐れるところはないでしょうか?」
「ちょうどいいところを知っています」
とガスは答えたが、じつは、そんな場所は全然知らなかった。ただ彼女と同様、いまのこの機会を両手でしっかりと掴まねばならぬと意識していただけだった。それで「ちょっと失礼」と言って近くにいたボーイに声をかけて、いくらかの金を握らせた。手っとりぼやく都合をつけてもらうためだった。その効果はあったらしく、直ちに二人は、ひとつの食堂の奥の、ひっそりとした小部屋に案内された。ひとりの給仕が現われ、注文を受けると、すぐに姿を消し、たちまちまた飲み物を持って現われる。以前とはちがって、アイリスは今度はお茶ではなかった。あれから成年に達していた彼女は、人前でアルコールを飲む新しい自由な女のひとりにもなっていた。彼女の飲み物はティオ・ぺぺ・シェリーで、ガスはブランデーのダブルだった。
「きみの健康のために、アイリス」
「あなたの健康のために。あなたの健康のほうが大事ですわ。健康も命も、ずいぶんぞんざいに扱ってらっしゃるようだから」
「こないだの旅行のこと? あれはやむを得なかった。それに、ほとんど危険もなかったし」
「ずいぶん危険な旅行でしたわ。ロンドンの静かな部屋に坐って、今度こそ最後じゃないかと思っている者には」
「まだ、ぼくのことを心配してくれているんですか?」
「まだ、あなたを愛しているわ」・
この言葉には深い誠実と真実がこもっていたから、何年間かの時の溝が消えてしまい、いままで別れたことなど一度もなかったような感じになった。ガスの手が、待ち受けていた彼女の手をさぐり、テーブルの下でしっかりと握りしめた。
「ぼくだって、きみを愛するのをやめたことはない、一瞬もない。もう待つのもこれで終りになってほしい。いまでも、ここにきみの指環を持っているのだよ。いつか返せる日がくるだろうと待っていたんだ」
「いま返してくださる?」
アイリスが言うと、かれの手がゆるんで放れていったので、言葉で言われるよりはっきりと、彼女には事情が分かった。
「きみがお父さんと別れる気さえあれば、いま返せるんだよ」
「さっきおっしゃった、『きつい言葉』、そう、あれを聞かなくては。聞きたくないのだけれど」
と言うと彼女はグラスの酒を飲みはした。頬が酒と感情のために赤く上気するのを、ガスは黙ってうっとりと眺め、こんな人は世のなかに二人といない。この人以外にはだれも愛せないと思った。
「ぼくは、トンネル計面の変更を提案した。お父さんの元の計面を修正して大変更を加える提案だ。ところが、それで意見の食い違いが起こってしまった。ぼくの修正案を個人的攻撃だと、お父さんはとってらっしゃる。そのとおりなのかもしれない。だから、家に歓迎すると言われたすぐあとで、撤回されてしまった。日下の情勢はそういうことなんだ」
トンネル建設会社から辞職したことは、彼女の同情に露骨に訴えることになるので、どんなことがあっても口には出せなかった。
「ほんとうに困った情勢なのね。もう一杯、お酒を注文してくださらない? 夢がもどってきたと思ったら、またすぐ潰されてしまうなんて、娘のだれもが味わう経験じゃないんですもの」
シェリー酒が来て、彼女がグラスに唇を触れると、ガスは一番大切な質問をした。
「その夢は、潰してしまわないといけないのだろうか? きみは二十一歳を越した成人だよ。お父さんの不興を押しきって、ぼくと結婚してくれないか?」
「ガス、できればそうしたいのよ。でも、父のそばを離れるわけにはいかないの」
「しかし、どうして? 埋由を聞かしてくれないか?」
「ええ、いいわ。ひとつ理由があるの。これは、わたしに愛情がないからじゃなくて、義務があるからだということを、ぜひ知っていただきたいから、お話するのよ。わたしの母は亡くなったわ。それに兄たちは、あなたと同じように技師で、いつも遠くに離れているから、父のそばには、わたしひとりしかいないわけでしょう。これからお話するのは、ほんとうにだれに言ってもいけない固い秘密なのよ。わたしと、お医者さまと、二、三人の信頼できる召使いだけしか知らないわ。父は体の具合が悪いの。たしかに昔と同じように爆弾を落としたり、どなったり、わめいたりしているけれど、やはり齢なのね。心臓発作を起こしたの、それもひどいのを。あんまりひどくて、四、五日間、生死をさまよったのよ。だから、わたしが世話をして、なにかと父が面倒がることを片づけなければいけないの。お医者様のおっしゃるには、今度、発作がきたら危ないんですつて。ほんとうに危ない、とおっしゃるの。だから、もしわたしが、父を棄てて、その気持に逆らうようなことをしたら、ピストルの引き金を引くように、確実に死なせてしまうことになるわ」
これ以上つけ加えることはなかった。二人は、しばらく黙って坐っていたが、やがて彼女は立ちあがり、かれもまた立ちあがった。彼女は、やさしくかれの頬にキスをし、かれのほうもよそよそしいキスを返したが、これ以上のことをすると、感情が溢れだすので、がまんしたのだった。「さよなら」と言って彼女は去っていった。そのうしろ姿を見まもっていると、ついに彼女は金メッキの柱のうしろに消えた。それを見とどけると、またかれは、腰をおろし、ブランデーのグラスをたちまちあけた。冷たい世界で、ただひとつ暖かく燃える酒だ。もう一杯注文する。そのあとで、給仕が行ったり来たりしないですむように、瓶一本を注文した。
ところが、いくら飲んでも酔わないのだ。瓶の酒はどんどん減っていって、もう失くなるところまできているのに、体のなかに冷たい芯があって、それが一向に消えない。仕事が消えた、愛していた仕事が消えたのだ。まわりには絶望があるだけだ。こういうふうに、かれは長いあいだ坐っていたが、ふと気がつくと、給仕が肩のそばに立って、電話機を差しだしている一方で、機械工が電話線を壁のなかの隠れたソケットに接続している。
「ワシントン大尉、電話でございます」
コーンウォリス卿の深い大きな声がして、
「ワシントン、きみかね? ホッとしたよ。もう同時間も探しておったんだよ」
「はあ?」
「探しておった、と言っておるんだよ。こっちは大変でな。サー・イザンバードは、あのとおり、気むずかしい人だからな。が、ともかく結局は折れてくれた。われわれと同様、すべてを後回しにしてトンネルのことを考えると約束してくれた。ワシントン、きみもそうしてくれるな」
「卿!」
「もちろん、承知してくれるな。それなら、辞意を引っこめて、われわれといっしょにやってもらいたいんだ。きみが必要なんだよ。二百地点からアゾレス諸島までの簡単なほうの工事は、サー・イザンバードがやるそうだ。きみには、中央裂線を渡るあの厄介なトンネル橋のアメリカ部分をやらすと言っておるよ。どうだね。やってくれるか? 会社にとどまってくれるかね?」
沈黙が長びき、コーンウォリス卿の心配そうな息づかいが電話線にひびいた。ブランデーをずいぶん飲んだのに、一瞬に酔めてしまい、答える声には、ただ決然とした調子しかなかった。
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V 海の嵐
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1 アングラ・ド・ヘロイスモ市
はるか沖合で、雷が石の舗装道路を大樽が転がるようなひびきを立て、稲妻がときどきジグザグに閃めいて、棚びく黒雲を不吉に照らしだしては、一瞬、火と闇の交錯する天の牧場のような非現実的な光景、青白い海の上にかかる地獄のような光景を出現させる。嵐の到来を告げる大粒の雨が飛んで、桟橋付近の石の上にしぶきを上げ、突風に吹きつけられては海岸に何列にも並ぶ背の高いヤシの木々が震えザワめいている。港に入ってくる曳き船が、白い蒸気を汽笛から吹きあげて、たがいにあわただしく信号を交しているが、海岸で見物しているものには、白い蒸気が見えるだけで、数秒たたないと、その悲しげなうめき声は聞こえてこない。曳き船が急いでいるのも、もっともなことで、じつは近づく嵐に、波が高くなりはじめ、波頭から白いしぶきが旗のように流れはじめている。それでも、曳き船は用心しながら急がねばならなかった。なにしろ、うしろに引っぱっている大きな鯨のようなトンネル区分が何百トンという図体で、急激な動きを許さないのだ。その丸い背中が水面スレスレで、立ち騒ぐ波がその上に砕けて、まるで水面に浮かび上がった灰色の不吉な海の怪獣のように見える。用心しながら、気ちがいみたいに汽笛を鳴らしながら、やつとトンネル区分は、防波堤のうしろの安全な港に引きいれられ、待ちかまえていたブイに繋がれた。
監督事務所の台の上から、港、工場構内、操車場、車庫、連絡駅、線路、起重機、工事現場、造船台、倉庫などの変化に富んだ工業地帯風景が、くっきりと眼下に見わたされる。これらすべてがガスの監督下にあって、ここで数千人の労働者がかれの命令で働いている。もう見なれた景色だが、いくら見ても飽きることがない。蒸気の柱が立ちのぼり、「曳航完了、ロープ外し、準備よし」の長い汽笛がひびくと同時に、手元のラジオがトンネル区分繋留の成功を知らせた。ガスは強力な双眼鏡をおろし、つかれた目をぬぐい、それから自分の生活である、まわりの生き生きとした喧騒に目を向けた。鋲打ち機がガンガンひびき、金属の触れ合う音が反響する。ケーブルをきしらせてトラクターが重量物を動かしているかと思うと、ピーピーと小さな汽笛を鳴らす操車場の小さな機関車が、煙をパクパク吐きながら、迷路のような線路をあちこちとせわしげに行ったり来たりしながら貨車を入れ替えている。また一方では、大きな起重機が腕を動かして、船倉から荷物を持ちあげたりしている。雨脚がだんだん近づいてきて、とうとうガスの顔にも落ちてきたが、日焼けした肌をひんやりと冷やしてくれるので有難い。きょうは、暑い、うっとうしい日だった。シャツのそではまくり上げ、ゲートルも極薄の木綿のあや織りだが、それでも、たまらなく暑いので、雨はまったく有難い。ヘルメット帽までぬいで、あお向くと、顔にしぶきが散って気特がいい。通り雨が本降りになってきたときに、やつとガスは事務所のなかに逃げこんで、タオルをとり上げた。事務員たちは、それぞれの仕事をつづけているが、工夫長サッパー・コーンプランターが大きな書類束を持って、そばに寄ってきた。
「労働者の各組全部の工事報告やら時間表を持ってきましたぜ。就業時間とか労働時間数、病気日数、何でもかんでも全部そろってます。こいつに目を通すのは、えらい時間のむだですなあ」
「たしかに無駄は無駄だがね。しかし、やらねばならんことはやるより仕方がないよ」と言ってガスは腕時計を見ると、すばやく決断をくだし、「使いの者に、これをぼくのホテルにとどけさせて、机に置いといてくれないか。そうすれば今夜見られるからね。単位当りの費用がかさんできて、ニューヨークでは心配しているんだ。費用がかさんできた原因も、そのあたりにあるのかもしれない。今夜、その書類を調べてみて、できれば、その統計のカスのなかから真実の粒をほじくり出してみるつもりだ。混雑して足を踏みつけられないうちに、帰るよ、きょうは」
「この気候でトンネル掘りは喉が乾きますぜ。工夫には、どうしても元気づけに、ビール、ブドウ酒、ウイスキーがたっぷり要りますぜ」
「そりゃ確かにそうだ。ぼくの居場所は分かってるね。何かあったら連絡をたのむよ」
仕事場を通っていくと、嵐はもう通りすぎた後で、雨粒がヘルメット帽にポトポトと落ちるだけだ。ここは、重いトラックで泥がたえずコネ回されるので、膝までくる長靴が必要だった。広い海岸の通り「大西洋通り」までくると、暑い昼寝をすませた連中が、ブラプラと散歩している。ガスも、その人混みにまじって歩きだした。散歩しているのは、ほとんど世界各地からやってきたあらゆる社会階層の連中で、見ているだけでも面白いし、ガスはこの時間が楽しみだった。トンネル工事のおかげで、アゾレス諸島のこの島、テアセイラ島の首都アングラ・ド・ヘロイスモ市は、ねむったような亜熱帯の町から一変して、活気にみちた騒々しい国際都市に変化していた。
もちろん、非番の工夫たちの姿もある。大西洋の両側からきた工夫たちで、スカーフ、はでなチョッキ、長靴、帽子などを身につけて、人混みを押し分けるような恰好で歩いている。オリーブ色の肌の島民は、少人数に見えるけれども、島に繁栄が訪れてきたのだから、べつにかれらは不平を言うこともなかった。魚だけが海からの収入だった時代には思いもよらなかった繁栄だ。昔は、パインアップル、バナナ、オレンジ、タバコ、茶などの現金売りの収穫物が、あやふやな世界市場で売りに出されていたが、いまやこういう産物は現地で熱狂的に売れて、外へ持ち出す必要もない。それに工夫だけが客筋でもない。トンネルが伸びるところ、給料袋から金が出るところに男ばかりか――困ったことに――その金を目当てに女たちまで集まってくるのだ。正直な労働者の財布からできるだけたくさんのカネを薄ぎたない自分の財布へ移すことを人生唯一の目的としている種類の女たちだ。また人混みのなかには賭博師の姿も見える。黒い服を着て、ツヤのある口ひげを生やし、白い手を持った男たちだ。この連中はつねにピストルをしのばせている。サイコロの振りがおかしいとか、札の配りかたがどうだとか、うっかりケチをつけたら、このピストルで脅迫される。金貸しもいる。金もうけのできそうな相手だと見ると、いつでも現金を用立ててくれるが、いったん借りると、とんでもない利子を取られる。三百パーセント、四百パーセントの利子も珍しくはない。こうなると聖書に高利貸しが禁じられているも理解できる。ほかに、商人たちも来ているが、商品を前にひろげて、定価を明らかにするまともな商売人ではない。折りたたみ式の箱を持ったり、ビロードの袋を隠しポケットにしのばせたりして、指環、時計、ダイヤモンド、ルビーなどを、おかしい位安い値で売ろうとする半ヤミ商人だ。こんなに安くするのは「ヤバイ」品、つまり盗品だからと、匂わせたり、ささやいたりするが、こんな物を盗むやつは、よっぽど頭のおかしな泥棒だろう。指環は緑色に変わってしまうし、時計も中にアプラ虫が入れてあり、これが死ぬと止まってしまう。ダイヤモンドやルビーも落とすと粉々のガラスにくだけるという代物だ。女たちもいる。ああ、じつに哀れな夜の女だ。だまされ、かすめとられ、奴隷のように縛られ、ワナにはめられ、地獄の暮らしに突き落とされた彼女らの生活は、とうてい印刷した文字で人の目に入れられるようなものではない。文字のインクが熱してきて、紙を焦がし頁を焼き消してしまうことだろう。彼女たちのそういう生活、そういう商売を見るには、やさしい読者の目が耐えられないことだろう。
ほかにも、また別種の連中が歩いている。イベリア半島やアフリカから、帆船に食料を積んできたムーア人の商人だ。アゾレス諸島くらいの島かずでは、ここに生活している大勢の人口を養う食料は生産できない。肌の黒い、カギ鼻の男たちで、頭布の付いたアラビアマント風の服を着て、片手を鋭いナイフにかけ、物めずらしいこの異教徒の辺境の風物に、好奇の目をそそぎながら、しっかりとした足どりで歩いてゆく。それからまた、ときどきフロック・コート姿の実業家の姿も目についた。ここではさかんに商取引がおこなわれているのだ。実業家の制服のような物を着てのおしのびの行動だから、フランス人かプロシア人かポーランド人かデンマーク人かオランダ人か、そこのところは見ただけでは、さっぱり分からない。そのほか、まだまだ大勢の人びとがたえず変化しながら、しかし、けっして変化せぬ人間の洪水になって歩道にあふれていた。 ガスはこの人の流れを見物するのを、いつも楽しみにしていたが、お気に入りのコーヒー店の「エル・タムピコ」にやってくると、通りからほんの二、三フィート高くなったポーチのひとつのテーブルに腰をおろした。そして、ポーチを囲んでいるふとい真鍮の手すりに腕をかけて、会釈している主人に挨拶に手をふり、大急ぎでやってきた給仕に笑顔を向けた。給仕はガスの愛飲しているヴィーニョ・ド・ケイロ(芳香酒)という地酒の冷やしたのをもってきてくれた。微妙な香りのある甘口のブドウ酒で、バラの味と匂いがある。これをすすると気特が休まる。仕事は順調、何も文句をつけるところはない。ところが人通りを見物しているうちに、横のテーブルで背をこちらに向けて坐っていたひとりの男が、そばによってくる気配が目の端に入った。これが偶然の動きではなかった証拠に、ガスだけにしか聞こえない低い声で話しかけてくる。「ミスター・ワシントン、あんたの工夫よく働くね。たくさん食べ物いる。食わす、たっぷり食わす、カネかかるね。わたし、たくさん、カン詰めのハム持ってる。とても上等のハム、びっくりするほど上等。ここに見本ある」
と言って、テーブルの上に何かベタリと置いた。思わずガスが日をやると、いきなり肘先に出てきたナプキンの上に一切れの肉が載っている。相手を無視するように、肉のほうも見て見ぬふりをしたが、まだしつこく、
「見てください、上等の肉。バルカン半島の山の豚の肉。食べてください。おいしいよ。特別価格で売る、安いよ。それから、テーブルの下で、あんたに手数料わたす。金がいいね、ギャッ!」
と妙な声をあげたのは、いつのまにかうしろから、サッパー・コーンプランターが現われて、いきなりこの男の首筋と尻を掴んで、ヒョイと持ちあげ、通りに放りだしたからだった。放りだされると、男は一目散に走って消えてしまった。ガスは豚肉をつまみ上げて、持ち主に返そうと、ポイッと通りへ投げだしたが、舗道をうろついていた脚の長い島の犬に食べられてしまった。
「また砂を混ぜたコンクリートでも売りにきたんですか?」
とサッパーは立ったまま、一仕事終ったという顔で、グラスにブドウ酒をついでいる。
「いや、今度はちがう。テラッと聞いたところでは、船から盗んできた肉か、腐りかけの肉か何からしい。しつこい連中がいるもんだねえ」
サッパーは「ふーん」と低い声で答えると、コーヒー店のなかへ消えた。ガスはブドウ酒をすすった。商人たちは、ガスを買収できないはずはないという考えをすてきれないのだった。だれでも、ある金額で買収できる、だれでも近づけない者はないというのが商人たちの生活経験で、この経験に基づいて、しつこく接近してくる。ガスはもう大分まえから、こういう連中と話をするのはやめていて、外出するときはいつでも、ひとりの部下を身辺に置いて、なにげなく見えるゼスチャーで会話中断の合図を送ることにしていた。よくある事件なので、すぐに豚肉の一件は忘れてしまい、ブドウ酒のグラスを重ねているうちに、おだやかな熱帯の夕暮れが迫ってきた。涼しくなり、気分もさわやかになると、まだ続いている人の流れのなかに入って、のんびりとした足どりでテラ・ノストラ・ホテルに向かったが、これは島の最高のホテルで、ここに一室をとってあるのだった。最高のホテルといっても大したことはないし、トンネルがここに来てからというものは、ほかの全ホテル、全レストランと同様、ものすごい混雑ぶりだった。ホテルの支配人は、ガスに泊ってもらうことを大変な誇りにしていたので、うれしそうな顔をしてお辞儀をしながら、使いの者がさっき届けてきた包みを渡した。これを受けとるとガスは、島の人たちが大好きな遅い夕食を食べる前に、すこし書類でも調べておこうと自分の部屋へ上がっていった。 部屋の錠をあけてみると、係りの女中が電燈を、またつけ忘れたのか、真っ暗だ。よくあることなので、何とも思わずにドアをしめ、手さぐりでスイッチをひねった。ところがつかない。停電だな。石炭式発電所というのは、おそろしく能率が悪いな。しかし、ロビーには明りがついていたぞ。おかしいな、と思いながら、またドアのほうを振り返ったとたん、パッと懐中電燈の光が目を射た。だれだ。とにかく、よからぬ考えを持った奴にちがいない。とっさに光めがけて飛びかかろうとしたとき、その光のなかにヌッとピストルを撮った手が現われた。ニッケルメッキの高性能のやつだ。
「カネでも取る気できたのか?」
と冷たく言うと、
「いや、そうでもないね」と答える口調は、たしかにアメリカ人の調子だ。「まあ、だれが入ってきたか見たいと思ったのさ。ひとりかどうか確かめる気もあったしね。それにこのピストル、こんなものをチラつかせて、失礼だとは思ったが、なにしろこの闇だ。うっかり早まったことをされても困るから、その用心だよ。あぶないところだった」
「さあ、ここに財布がある。これを持って出ていってくれ。ほかにこの部屋にはカネめの物はない」
「ありがとう。しかし結構だよ」と闇のなかで答える声には笑いが含まれていた。
「どうも誤解しているようだな」という声がして、懐中電燈の光をこちらに向けたまま、スイッチのあたりをガタゴトいわせていたかと思うと、明りがついた。
三十五、六の男だった。ごく普通のアメリカ人旅行者の恰好をしている。ビーズで飾ったはでな色のインディアン・シャツを着て、魚釣り人用の、緑の目びさしのある帽子をかぶり、そのひさし一面にいままで訪ねた場所の記念バッジをつけている。膝までの半ズボンに、鋲を打った頑丈な靴。頸からカメラと撮影用小道具をぶらさげ、バンドにはワイヤー式レコーダーを下げている。これは日夜、見物するものの説明をしてくれる機械だ。笑顔になると、ひじょうに朗らかな顔で、いま笑顔を見せているが、しかし落ち着いたときの目は、氷のように冷ややかな鋭いものだということが分かる。大きな顎やつぶれた鋭いカギ鼻には鷹の獰猛なクチパシを思わせるものがある。ガスはゆっくりと念入りに観察し、銃口の前にじっと立ちながらも形勢逆転の機会をうかがっていた。しかし、すぐにそれは無用と分かった。男がワイヤー・レコーダーの底にさわったかと思うと、ケースが開いて秘密の引き出しが現われ、ここにピストルを入れて、ひとつの小さな物をとり出したのだ。そして、また革のケースをパチンと閉じて、笑顔のまま、金属のバッジを差しだした。
「ワシントン大尉、お目にかかれて光栄です。リチャード・トレイシイという者で、ピンカートン事務所のニューヨーク支局長です。これは、わたしのバッジですが、証明のためにこの手紙を見せるように言われています」
と言って渡した大きな封筒は、封蝋で閉じてあり、その上に、サ―・ウィンスロップの印があって、開けた形跡はなかった。開けてみると、一目でロックフェラーの直筆と知れる短い手紙が入っていた。
R・トレイシイ氏を紹介します。氏は、わたしがひそかに使っている人で、当面の問題において完全に信頼してもらってよい人物です。
[#地付き]W・ロックフェラー
「これの内容は知ってますか?」
「趣旨だけは知っています。わたしが、ある調査をしているということ、そのことを知らせるのは、あなただけだということでしょう。それから、報告するように言われたんですが、わたしを雇ったのはサ―・ウィンスロップ個人で、資金はかれ個人から出ていること、わたしの存在を知っているのは、あなた一人だという点です」
「何を調査してらっしゃるのか聞かせてもらうわけにはいかんでしょうね?」
「いま、言おうと思ったところです。破壊工作ですよ。じつにきたない策動でしてね。五つ六つはご存じだろうが、ご存じないのがもっとありますよ」
「カナダで、ヘリコプターのあるはずの燃料がなかったというような事件ですか?」
「そうです。それから、グランド・バンクス駅につなぐ直前のトンネルのケーブルが切れた事件がありましたね。あれもそうだし、操作場の車庫が倒れた事件とか、ほかにまだまだある。ちょっと前にこの島に来たんですが、かなり突っこんで調べところ、ひとつの強力な組織があることを突きとめました。こいつがトンネル完成を妨害するために動いているわけですが、資金をたっぷり持っていで、残忍で、それこそ何でもやる連中ですよ」
「しかし、だれですか、黒幕は。何のためにそんなことをするんでしょう?」
「いまのところは想像しかできませんがね。しかし、わたしは事実だけを問題にするほうで、想像はしないことにしているんです。が、まあいずれ分かってくるでしょう。いまのところ、協力を求めるために接近したわけでして、じつは、わたしと数人の者がここ数ヵ月間しらべてきたところ……」
「驚いたな! 全然知りませんでしたよ!」「知らなくて当りまえです。わたしの部下は最高ですからね。何人かはトンネル工事で働いてるから、顔をご覧になってるはずですよ。方々に送りこみましたからね。ところで、そのうちのひとり――雄ヤギという渾名で、雄ヤギみたいな、ぶかっこうな、ワイ談好きな男ですがね――こいつに破壊活動組織から誘いがかかってきたんで、手を貸す約束をしたと、こういうことなんです。ここで、あなたの協力が必要になってくるのです。つまり、雄ヤギを敵の組織へ送りこむためにですな、カネのかかったひとつの破壊行為をわざと演出する、その場を、ぜひつくってほしいのです。これで敵の正体が分かったら、一気に襲って一網打尽にできますよ」
「なるほどね。考えてみましょう。しかし、すこし考えを練る必要がある。だが何か策を思いつくと思いますよ。ひとつ、相談してみますかな……」
「いや、それはやめてください。こっちの命があぶなくなる」
「よく分かりませんが」
「率直に言いましょう。この問題では、これまでにほかの社の者が何人も雇われて、怪死を遂げているのです。会社内部のだれかが破壊活動組織とつながっているというのがサー・ウィンスロップの確信でして、わたしもまったく同意見です」
「そんな!」
「いや、事実です。だれか特別に事情を知った奴がいるはずです。それもひとりじゃない。それが分かるまで、われわれとしては危険を冒すわけにはいかない。だから、こういうふうに、こっそりと部屋に忍びこんだんです。わたしがこの仕事に関係していることを知っているのは、あなたと、サー・ウィンスロップだけです」
「しかし……」
「いや、いけません。だれにも話してはいけません。そうしてもらいます」
というわけで、だれにも知らせないことになって、合言葉と連絡方法の打ち合わせが行なわれ、ひとつのはでな破壊活動が考え出された。打ち合わせが全部おわると、秘密調査員は手首に巻いた身分証明用の腕環のようなものを開いた。それは送受用ラジオで、これでひとりの仲間と連絡をとってホテルのこの部屋に敵の監視がないことを確かめた上で、明りを消し、ドアからスルリと抜けだして、来たときと同様、こっそりと姿を消した。
その夜、ガスは、おそくまで書類を調べていた。ところが注意を集中しなければならないのに、気が散って、正体不明の破壊活動組織のことをしきりに考えていた。何者だろう――会社内部のだれが、このきたない計画に加わっているのだろう? やっとベッドに入ったときも、なかなか眠れず、骨をしゃぶりまわす犬のように、いつまでもこの考えを追いつづけていた。
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2 陰謀暴露
さんさんと日の照る午後。物音が全然ない。金属をたたくハンマー、足音、モーターの音、およそ人間の立てる物音は全然なく、ほとんど完全にちかい静けさだ。たしかに防波堤に寄せる波音、空を飛ぶカモメの声はきこえるが、これは自然界の音で、人間とは無関係だ。ひろびろとしたトンネル工場内では、みんなひとりのこらず仕事をやめて、見晴らしのきくところへのぼって、目の前のドラマを見つめているのだ。塀、屋根、起重機などに、ブドウのふさのように人がとりついて、目前の悲劇をじっと黙って見つめている。一隻の背の丸い小型潜水艦が、全速力で港外に走り出てゆく姿に、吸いつけられるように目を向けているのだ。一番見晴らしのきく高い監督事務所だけには物音と動きがあった。ひとりの無線技師がスイッチをひねったり、ダイヤルを回したりしながら、マイクロフォンを掘りしめて、潜水艦と連絡をとろうとしている。その額から大粒の汗が流れベンチにしたたり落ちるが、本人は気がつかない。
「繰り返す。ワシントン大尉の命令だ。繰り返す。艦をただちに放棄せよ。分かるか、ノーチラス号、分かるか?」
無線技師の頭の上のスピーカーが、ガラガラと音を立て、ザーザーと雑音をひびかせたかと思うと、大きな声が、「分からんぞ、お前さん。本じゃないんだから、読んで分かるというわけにはいかんのだ。しかし、聞こえるのは、はっきり耳元で聞こえるぜ。前進をつづける」
溜息とも歎息ともつかぬものが、耳をすましている人びとから起こった。ガスが、みんなを押し分けるようにして出てきて、無線技師の手からマイクロフォンを取り、スイッチを入れ、
「こちらはワシントン――命令だぞ、オトゥール。ただちに操縦装置を閉鎖して脱出せよ。モーターボートで救助する。どうぞ」
電波がザワザワ、バリバリと音を立てる。
「命令は従うべきものだというのは分かっています、ワシントン大尉。だが申し訳ないが、今度ばかりは従えません。これほどこのオンポロ艦のスピードが出たのははじめてで、ものすごいスピードですよ。計器の赤じるしが、まだ上がっていきますが『危険』に達するまでには、充分沖に出られるでしょう」
「原子炉は消せないのか?」
「それはどうも無理らしいです。点火したときに、消火棹が最後まで出てしまって、装置を動かしても、手で押しても、元にもどらなかったんです。こちらは原子力技師じゃないんで、どうして直していいか、さっぱり分からなかったもんで、艦をちょっと沖へ出すのがいいと思ったんです」
「操縦装置を閉鎖して脱出しろ」
「ちょっと遅すぎます、大尉。艦尾のほうで、何もかもがパチパチ音を立てて熱くなってきたようです。水平航行には操縦装置をセットできますが、潜航には無理です。潜航します、できるだけ深いところへ持ってゆきます。それでは通信を終ります、無線は水中では働きませんので……」
と声がだんだん細くなって消えた。ガスの手からマイクロフォンが落ちて、ガタガタと音を立てた。はるか沖合で潜水艦の潜航する白い波頭が見え、やがてそれも消え、海面はうつろに静まった。
「水中電話で呼び出せ」
とガスが言うと、
「やってみましたが――応答がありません。スイッチを入れてないらしいです」
それから沈黙、まったくの沈黙だった。口から口へと噂が行きわたって、これから何が起こるか、つまり、ひとりの男がみんなのために何をしようとしているかが分かったのだった。みんな沖のほうに目を注いで、艦が潜っていったあたりの、まぶしい海面を目を細めて見まもっている。何が起こるか、それは分からない。この原子エネルギーの原理がどういうものか、それは理解できないが、しかし、それがどんな姿をとって現われるか、それは感じで分かるような気がするのだ。ついに起こった。はるか沖の海が、突然煮えたぎるように騒いだかと思うと、海自体が丸く瘤のように膨れ上がってきたのだ。深海にひそむ凶悪な怪物がもがき上がってきたのか、それとも新しい島が生まれかかっているのかという光景だ。この無気味な海の腫れ物が、だんだん大きくなってきたとき、物凄い衝撃があった。男たちはひっくり返り、起重機はグラグラと揺れ、積み重ねた鉄板がグヮングヮンと恐ろしい音を立てる。一方、海面はなおも膨れつづけて、高さ数百フィートの大水塊になり、その真ん中から猛烈な勢いで一本の白煙の柱が立ちのぼった。モクモクと渦巻く物凄い白煙だ。それがグングンと信じられないような勢いで、高く高く上がっていき、近くのピコ島の大きな峰の高さまで達すると、バッと、みだらに地獄の花のように開いた。やがて、白煙の塔のてっぺんに、ひとつの白い雲が傘のように坐ったが、そこに赤い電光がひらめいている。いやらしいものだが、無気味な美しさを持っている。空に膨れた毒キノコ。死骸をくらう死神そのものといった毒キノコだ。
岸から見ている者は、恐ろしいこの光景から目を離すこともできず、横に立っている仲間にも気がつかない始末だった。やがて、だれからともなく、ひとりまたひとりと帽子をとって胸に当て、たったいま死んだ勇者の冥福を祈った。
「きょうは仕事は休もう。その発表をしたら、みんな帰ってくれ」
と沈黙のなかで突然ガスが言った。
沖では風が吹いて、もう原子雲は薄れ、吹き散らされてゆく。ガスは、その有様に一瞥をくれると、ヘルメット帽をグッとかぶって、歩きだした。足はひとりでに町通りへ向き、そこからコーヒー店エル・タムピコに向かう。店に来ると、給仕が、あたふたと愛用のブドウ酒をとりに走り、それを持ってきて、さっき見えたあの不思議なものは何ですかと聞く。が、ガスは、ブドウ酒も質問も手を振ってことわり、ウイスキーを注文した。ウイスキーが運ばれてくると、大きなグラスに注いで、一気にあおり、また一杯ついで、じっとグラスのなかを見つめている。何分か、その姿勢だったが、やがて片手を上げて、額に当てたのは合図だったらしく、護衛の大きなインディアンの姿が、うしろの戸口に現われ、そばに寄ってきた。
「放り出してやる紋もいませんな」
とサッパーは言う。
「うん。まあ坐って、一杯やってくれ」
「ウイスキーか。いいですな」とグラスを一息に飲みはして、ホッと吐息を洩らし、「これこそ火酒というもんだな」と言った。
「もっとやってくれ。この瓶一本あけてもいいよ。ここでしばらく飲んで、あとからついてこないようにしてくれ。わたしはなかへ入って裏口から抜けるから」
インディアンは一瞬まごついた顔になったが、すぐにニヤリと明るい笑顔を見せて、
「なるほど、そいつはいい考えだ。インディアンもやりますぜ。女を相手にして悲しみをまざらすわけですな。ひとつ、いいところを教えてあげようかな……」
「それもいいが、自分の面倒を見る位の齢はくっているから、いいんだよ。ただ、ここに坐っていてくれたらいい」
ガスは微笑を噛み殺して立ちあがった。どこにいくか分かってくれたら有難いんだが、と思いながら、振り返りもせずにガスは食堂のなかを抜けて、化粧室へとつづく階段をのぼっていく。だが、その暗い廊下に入ると、立ちどまって、あとからつけてくる者はないか、と耳を澄ました。人の気配がないのを確かめると、すばやく静かに廊下の突き当たりの窓に近づいて、それを引き上げる。錠はかかっていない。よく油がひいてあるので音もなく開いた。スッと一度に身を出すと、外の出っ張りに体を支えて窓を閉め、下の暗い路地に飛び降りる。だれも見ている者はない。ひび割れのした、ドアも飾りも無い、のっぺりした壁が目の前にあり、いやな匂いのするクズ入れの樽がいくつかすぐ近くに立っている。陽のさす路地の出口に通行人が歩いてゆくのが見えるが、だれも中をのぞきこむ者はない。だが、万全を期すために、路地の出口の通行人の姿がなくなるまで待ち、そのときが来たとき、サッと音も立てずに、ななめ向かいの建物の引っこんだドアに走り寄った。ドアが開いて、かれが入ると閉じた。
「うまくいきましたか? 見られませんでしたか?」
とトレイシイが聞く。
「大丈夫、うまくいった。サッパーが横をかためています」
調査員はうなずくと、先に立って別室へ案内した。ここは鎧戸が降り、カーテンが引いてあって、電燈があかあかとついていた。テーブルの上にラジオが一台置いてあり、それを前にして坐っていたひとりの男が、振り向いて立ちあがった。
「ほんとうに、幽霊になったような気がしますよ」
と言ったその男は、オトゥールだった。
「よくやってくれたな」
「まあ、俳優の素質があるんですな。それに監督もなかなかうまかったし。いや、ほんとうに一時は、ノーチラス号に乗って、これから沖に出ていって海葬になるんだという気分で、胸が迫りましたね。いい船だった。あんなふうに沈んだのは残念だが」
「いや、りっぱな最後だった。解体工場でこわされるより、ずっとよかった。パッキング押さえはゆるみが来ていたし、気密室はひび割れが始まってたからね。ああいう最後で、りっぱに役に立ってくれたんだ」
「そうですね。しかし、専門書にあるような放射能の危険はありませんか?」
「その心配は無い。いまの風向きでは放射能は、ずっと航路から外れたところに運ばれるし、海水中の放射性物質は、拡散して無害になると気象学者は言っている」
「それは安心だな。それが安心となると、さあ今度は、監督の今夜の大冒険ですね。それでこそ、ノーチラス号の沈没も意味がある。ぼくも行っていいですか?」
「いや、それはいかん!」
と命令口調で言ったのは調査員トレイシイだった。ベルトの前に差しこみ、上着で隠したビストルに手をかけようとしている。部屋の隅の椅子に静かに坐っていたひとりの男が、サッと立ちあがったが、見れば、銃を握っている。
トレイシイは手を振って、それを制し、
「落ち着け、ピカリング。いっしょに来やしない。ワシントン大尉、わたしがほかにもうひとり、事情を話してもいいと言ったとき、その人は、事が全部終るまで、この部屋を出さないという固い約束でしたね」
「そうだよ、トレイシイ。そう約束した」とガスは答えると、何のことかよく分からないという顔で見ている潜水艦の操縦士のほうを振り向いて、
「こうしなくてはいかんのだ、オトゥール。きみの艦を破壊して、沖へ持ち出して爆破し、無線を使って、乗っているように見せかけることが重要だ、これは極秘事項だ、というわたしの命令を受けて、きみはこの間題に関係してきた。たぶん事情はいくらか分かったと思うが、分かったなら、胸に収めておいてもらいたい。そして、この部屋にピカリングといっしょにいてほしい。何より、きみ自身のためだ。死にもの狂いの連中が相手だから、こちらもどうしても死にもの狂いにならざるをえない。もし今夜きみがこの部屋を出ようとしたら、この二人のどちらかにきっと撃ち殺されるよ」
秘密調査員は二人とも黙ってうなずき、オトゥールは、肩をすくめて引きさがつた。
「それなら仕方ありません。きょうほ一度自殺してるから、二度目の自殺というのはごめんです」
「この明りの下に坐ってください。だれに分かっても困るんでね。分かったら失敗だ」とトレイシイはガスに言い、用のすんだピストルをまた上着の下に隠した。
トレイシイの巧みな指づかいで、ワシントンの顔が、たちまち別人に変わってゆく。あまり見事なのでオトゥールは歓声を上げるばかりだ。はじめ顔と両手に茶色の染料をすりこむ。それから、口のなかに詰め物をふくませて両頬をふくらませ、つぎに黒鉛筆で、すばやく顔に線を入れて皺をつくる。鼻の孔は、見えないようにリングを入れて、孔を丸く拡げるが、最後の仕上げは、濃い黒い口ひげで、これをゴム溶液で貼りつけ、頭に、口ひげに合ったカツラをつける。鏡をのぞきこんで、ガスはアッと息をのんだ。まったくの別人だ。ラテン系の紳士、島の人間だ。さっき椅子に坐っていた自分とは似ても似つかぬ男だ。感心しているガスの横で、トレイシイが、自分の顔にいそがしく細工して別人に変化すると、今度は二足の靴と二着の服をとり出した。襟の折り返しの大きな、肩に詰め物の入った、細い縦じまのスーツだ。二人がこの服に着がえると、オトゥールはヒューと口笛を吹いて、
「いやあ、驚いたなあ。道ですれ違っても、これじゃ絶対わかりませんよ、ほんとうですよ」
「そろそろ出発の時刻だ」
とトレイシイは腕時計を見ながら、軽くうけ流し、
「回り道をして、約束の場所に行かねばならんのでね」
と言った。
変装しているうちに外は暗くなっていて、トレイシイが選んだ横町や路地は鼻をつままれても分からないほどの闇だったが、迷わずに目指す場所に着いたのを見ると、この町の地下世界の地理に、よほど通じているらしい。通り過ぎてきた百ほどのドアと一向変わらないひとつの暗い戸口の前で立ちどまると、かれは、ガスの耳元に口を寄せ、
「残忍な連中で、きっと武器を持っている。なんならもう一挺ピストルがありますよ」
「いや、いりません。ぼくは平和主義者なんで、そういうものはきらいなんですよ」
「必要な道具ですよ。しかし大学時代、ボクシングで、ずいぶん鳴らしたそうですね。職業ボクサーになれと誘いがかかったのも一度や二度じゃないそうですな。いざ接近戦というときは、鉄拳をふるってもらうのも結構ですな」
「それはそうですね。そうなったらよろこんで腕だめしをやりますよ」
この戸口は、海岸通りに並ぶ不潔な飲み屋の一軒の裏口だった。この店には、大部屋を見おろすバルコニーのようなものがあって、ここで紳士、もしくは紳士として通っている連中が、下の大部屋の騒々しい有様を見物しながら比較的落ち着いて酒がのめるつくりになっていた。ガスとトレイシイは、このバルコニーの手すりのそばのテーブルに坐った。すると、黒い目をした、ルージュを塗った女が二人、近づいてくる。トレイシイは手を振って追つばらう。給仕が店一番のシャンペンを持ってきたが、びっくりするほど値は高いのに、味は薄い、すっぱいしろものだ。二人はグラスに口をつける恰好だけして、飲まなかった。グラス越しに、ガスにだけしか聞こえない小声でトレイシイが、「いる。ドアの横のテーブルにいる奴、ひとりで飲んでいる奴だ。振り返らないで。われわれ以外にも監視しているのがいるから」
[#底本に字下げなし]トレイシイが渡してくれた一本の細い葉巻に何気ない様子で火をつけると、ガスは、汚れた床にマッチを棄て、何くわぬ顔で下の人混みに目を向けた。酒を飲んだり、大声を上げたり、ばくちを打ったり、ののしったりの騒々しい連中だ。土地のやくざ、土工、あらくれ船乗りなどが集まる魔窟じみたところだ。
ほかの連中を眺めていたぼんやりした目付きを、ドアの横の男の上に這わせる。たえずしかめ面をしている醜い男で、これが前にトレイシイが「雄ヤギ」と呼んだ秘密調査員だった。土工の服装をしているのは、トンネルの海岸通り部分で土工として働いているからだ。この男があの問題の潜水艦に接近して、「破壊工作」をし、それが表面的に成功して、大胆な行動によって実力を証明したというので、組織のほかの連中と落ち合って、報酬を受けようとしているのだった。ちょうどこのとき、下のワアワアいう声のなかに、何度も聞いた雄ウシのような太い声をガスは聞きつけた。それでまた、下の人混みに目を這わせ、神経を引きしめて無表情を装い、ゆっくりと眺めてから、グラスを上げて顔の前に持ってくると、
「下に工夫がいる。イギリス側からきたわたしの工夫長の『喧嘩のジャック』だ。あれに感づかれたら……」
「感づかれないよう祈ろう。感づかれたら、もうだめだ。作戦を立て直さなくちゃいけない。あいつがイギリスの連中といっしょに今日来たのは知ってたが、よりにもよって、ここへ飲みにくるとは。まったく運が悪いな」
ところが、もうひとつ運の悪いことが重なって、通りに、しわがれた蛮声がひびいたかと思うと、ドアが大音響をあげて開き、スッとサッパー・コーンプランターが入ってきたのだ。今朝、ガスがとってやったウイスキー瓶の、ほとんど空になったのを片手に握って、ひどく酔っぱらっている。この騒々しい御到着に気がつかなかった連中には[#ママ]かれは、バーのグラスを振動させるような大声を張りあげて挑戦した。
「だれでもやっつけてやるぞ! ひとりがいやなら、三人たばになってかかってこい。たたき伏せてやるわい! 六人たばになって……」
「インディアンの大ボラ吹きめが」
という野次に、サッパーは凍りついたようになって、目を細め、ゆっくりと頭を野次をとばした奴のほうへまわしてゆく。その動きが回転式砲塔のように無気味で、両眼が二門の大砲のように物騒な気配を見せている。この様子を見ながら、喧嘩のジャックが、ノッソリと立ちあがった。
それを見て、
「そんなら、お前のほうは、イギリスのウソつき野郎か」
とサッパーがやり返したので、聞いていたガスは思わずウーンとうなった。こう言ったときのサッパーは、すっかり正気にもどった顔になって、ドアの横枠にバシッとビール瓶を叩きつけ、ギザギザになったのを片手に掘りしめる。喧嘩のジャックは、立ちあがって椅子を横に蹴りとばして、一歩前に出ると、「ビール瓶がいるのか、インディアン? 白人の拳骨がこわいかい?」
と言うと片手を突き出した。掘りしめた拳が、まるで小型のシャベルのようだ。バシッとサッパーがビール瓶を投げ棄てて前に出てきた。
「白人ならだれでも拳骨を使うが――ひとりでも、腕ずもうの出来る奴がいるかい?」
「おう、お前のやることなら、何でもやれるぞ、もっとうまくやれるわい」
二人がドスドスと床板をふるわせながら、たがいに近よってきたので、あいだにいた者は飛んで逃げた。鼻を突き合わせるところまできたとき、やっと二人はとまって、目をギラつかせ、歯をむき出したが、その恰好たるや、まるで鼻面を突き合わせた水牛というか、退くに退けない二台の機関車のようだ。申し合わせたように、無言で一歩わきへ寄ると、二人は、さっき空いたテーブルの前に坐り、のっていたグラスや酒瓶をザーツとなぎ落とし、上着を脱ぎすて、シャツの腕をまくり上げ、きずだらけのテーブルに右の肱をドスンとついた。睨み合いながら手を握り合い、ギュッとしぼり上げる。ガッチリと組み合って、下のテーブルが砕けんばかりの勢いだが、たがいに相手を傷つけるには足らない。しっかりと握り合うと、双方が力をふりしぼって、相手の手の甲をテーブルにねじ伏せようと頑張りだした。どちらかの手の甲がテーブルについたら勝ちという単純なゲームで、強い者、頑張りのきく者が勝つにきまっているから、たいていはあっけなく片がつく。
ところが、いまの場合、そうはいかなかった。二人の巨人が互角に戦ったとすれば、これがそれで、両方とも1センチたりともゆずらないのだ。全力を振りしぼっているから、筋肉は、ねじれた鋼鉄のように浮きあがり、腱は鉄棒のように固くなっている。互角といえば互角で、どんなに頑張っても、両方ともビクリともしない。大勢の見物人は、とび出すような目付きで、巨人の戟いぶりを見まもる。水を打ったような沈黙のなかで、喧嘩のジャックのシャツの肩がビリッと音を立てて破れ、そこから隆々たる筋肉がのぞいた。またすぐに、サッパーのたくましい肩のあたりに音がして、またシャツが破れた。それでもまだガッチリと組み合ったまま動かない。いずれも負けるものか、勝ちをゆずるものかという気迫だ。
バリッと鋭い音がして、テーブルの板が二つに割れて落ちた。支えるものがなくなった二人は、まだ組み合ったまま、ゆっくりと立ちあがり、おそろしい力で押し合っている。人間の筋肉と骨が耐えられるのが不思議だと思われるような物凄い力だ。
おそれの吐息が部屋中にゆきわたったのは、いま現実に見ている光景が、ほとんど信じられないからだった。ザワザワというざわめきが、だんだん大きくなり、パラパラと拍手が起こり、それに混じってイロク[#ママ]イ・インディアンがかたまっているテーブルから、鬨の声がひとつ聞こえた。これに応えてイギリス人の土工が、「へし折ってやれ、喧嘩のジャック!」と声をかけると、また二、三人、声をかけた者があった。ところが妙なことに、この声にサッパーが影響を受け、手は少しもゆるめず、相手の顔に目を上げ、歯をくいしばって、言いにくそうに、「おまえ……土工長……喧嘩のジャックか?」ときいた。
喧嘩のジャックも、やっぱり歯をくいしぼって、やっとのことで、「そうだ」と答えた。
そのとたん、びっくりするような事が起こった。突然サッパーが力を抜いたのだ。不意をくらってジャックは均衡をくずし、横倒しになり、体がねじれたところを、サッパーが肩を一発パンと叩いたのだ。その結果がどうなるか、これは予想がつく。喧嘩のジャックはこんな扱いに、おとなしく引きさがっているような男ではない。ゴロゴロところがって、完全に一円周を描くと、また正面から相手に向き直った。が、今度は、両手の拳を固めて、叩きのめしてくれんという体勢だ。だが、飛びかかる前にインディアンが声をかけた。
「おい、おれは、土工長のサッパー・コーンプランターだよ」
するとジャックは拳をおろして、体をまっすぐに伸ばした。さっきのインディアンと同じ、あきれたような顔をしている。しばらくこうして向かい合っていたが、やがて両方とも笑顔になって、たちまちドッと笑いだした。体をゆすって大笑いしている。見物していた連中は、あっけにとられたが、もっとびっくりしたことに、体の大きな土工たちが、急にたがいに肩を抱き合ったかと思うと、近くのテーブルの酒瓶を掴み、笑いながら、いっしょに飲み合いながら、外へ出ていってしまった。
「これは、どういうことかね、あんたなら説明できるだろう」
とトレイシイが言うと、
「そりゃできる」とガスは答えた。
「知っていると思うが、サッパーはここの工夫長で、喧嘩のジャックはイギリス側の工夫長だ。二人とも、相手の評判は知っているし、たがいに、わたしの親友だということも知っている。それなら土工同士も仲間で、喧嘩する理由はないし、かえって、いっしょに飲むのが当り前というわけで、いま飲みだしたということだね」
と言いながら、秘密調査員「雄ヤギ」が坐っているテーブルに目をもどした。ところが、さっきの騒ぎに気をとられて、しばらく目を離していたすきに、テーブルはからになっている。驚きを懸命に隠し、
「いってしまった。うっかりしているうちにいってしまったぞ!」
計画がダメになったのだ。ついうっかりして、組織の連中をつかまえる好機を逃してしまったと思って、ガスは恥ずかしくなり、がっかりした。ところがトレイシイのほうは平気な顔で、大きな懐中時計をとり出した。旧式の大型のもので、その文字盤を眺めながら落ち着いた調子で、
「あんたが、騒ぎを見ているうちに、わたしはちゃんと監視していたよ。あんなことで気をとられるほど素人じゃないからね。騒ぎの最中、連絡係が隙をねらって堆ヤギに合図して、二人で抜け出していった」
「それならそうと言ってくれたらよかったのに。いまとなれば、もう連中は見つからんだろう」
「いや、それはちがう、正反対だ。すべて順調に運んでいる。さっきも言ったが、敵の見張りが何人もいたんだ。だから二人が出た直後に、その後を追ったら、感づかれて厄介なことになったろう。しかし、このとおり憤重に構えていたから、このまずい酒の支払いもして、――」と言って、テーブルに二、三枚の硬貨を投げ、「騒ぎもおさまったあとで、出ていけるというわけだ。こうなれば、つけられる心配もない」
と言って、またチラリと懐中時計に口をやってから、それをしまいこむと立ちあがった。
明らかに失敗したのに、いやに落ち着いているのに驚きながら、ガスはその後について暗い廊下を伝い、また通りへと出てきた。見すぼらしい並木道に来ると、トレイシイは海岸通りのほうに折れた。
「ワシントン、もう秘密にすることもないので打ち明けるがね、きみの仕事にも職業上の秘密があるように、われわれにもある。ピンカートン事務所の秘密というのは最高でね、調査員の雄ヤギのやつは、じつは右の靴のなかに、ある装置を隠してるんだ。靴底の革のなかに埋めこんであって、まず普通にさぐったのでは見つからない。さっき連結をとったとき、奴は、踵を強く踏みつけた。これで靴底に仕組んであった電池のなかの薄い膜が破れて、その半分に入っていた酸が片方に流れこんで、いままで働いていなかった装置が強力な電池になって働きだしたんだ。こうして電流が、これまた靴底に埋めこんである強力な小型無線発信機に流れていく。その信号が、奴のズボンの縫い目に織りこんだ電線に伝わる。これが、奴のベルトのなかのアンテナに接続していて、ここから強力な短波信号を送りだすんだ。ぼくがさっき時計を見てたろう?」
「うん。なんでまた急に時間を気にしだしたのかと思ったが」
「いや時間を気にしたんじゃない。この時計には小型受信機、つまり、維ヤギが送る無線電波を受けとる方向探知機が入ってるんだ。ほら」
と言って、時計を引きだして手の平にのせた。近くのガス燈で文字盤がはっきり見える。竜頭を押すと、時針がやわらかに光って回り、海へ向かう通りのほうを指した。竜頭の手を離すと、また元にもどり止しい時刻を示す。
「よくできてるだろう。さあいこう。連中はこの先だ。奴らの姿が見えないのは好都合だ。姿が見えないのは、こちらも見えないということで、油断しているということだ。無線で方角は分かる」
通りには充分な明りがあり、人通りもあったので、二人は群衆にまざれて、ぶらぶらと歩いた。ところが、通りが明りのない暗いドックで行きどまりになると、これで散歩は終わったというように、くるりと回れ右をして、二人はまた元きた道を引き返した。最初の曲がり角まで来ると立ちどまって、やはり何気なく散歩しているような恰好で、しばらく立ち話をしていたが、じつは後からつけてくる者がないかどうか、トレイシイが確認していたのだった。
つけてくる者がないことを確かめると、トレイシイは交差道路の物陰にガスを引っぱりこんだ。
「連中は海岸道路のどこかだということは確かだ。探知機がその方向を指している。こちらは、連中の目的地がはっきり分かるまで、港と平行に進むことにしよう」
というわけで、二人はゴミ屑やガラクタにつまずいたり、闇をうろつくネコやネズミをふんずけたりしながら進んでいったが、またトレイシイが四つ角で立ちどまって、探知機をしらべた。「こいつはおもしろい。元へちょっともどってるぞ。ワシントン、きみは技師で測量師だから分かるだろう。ここで、通りの下手に向かって方位を調べて、またすこしつぎの通りのほうへ引き返して、もう一度クロス方位を調べるんだ。できるか、連中の位置が決定できるか?」
「それは、ぼくの専門だよ」
とガスは、自信ありげに答えると、方向探知機の小さな針の指す方向を、片目で、すかすようにして見た。
もう一度同じことをしてから、しばらく考えていたが、やがてトレイシイの先に立って、ある地点まで歩いた。ここから、暗い波止場の向こうに何隻か船がとまっているのが見える。ガスはためらいもせず、
「あそこだ」
「あの船か? たしかか?」
「仕事から気を外らされることはない、ときみは言ってたが、ぼくだって同じだよ」
「そうか。それなら安心だ。さあ、最後の幕の始まりだぞ」
トレイシイは、数ヤード元の方角へ引き返すと、ひとつの笛を唇に当てて、勢いよく吹いた。ところが、シューと軽く空気の洩れる音がするだけなので、ちょっとガスは驚いた。その顔を見てトレイシイは笑顔になり、
「超音波さ。つまり波調が高すぎて人間の耳には聞こえないが、人間用の笛じゃないんでね。いまにわかる」
と言っているうちに二人の男が現われた。先頭の男が紐につないだ小さな犬を連れている。トレイシイは、犬のそばに寄って頭をなでてやり、
「あの音を開いたら、来るように訓練してあるんだ。これはその合図を待っていた部下だよ」
「全然気がつかなかった」
「プロだからね」
トレイシイは、てきぱきと命令をくだし、それからまたガスと二人で先へ進んだ。
「ぼくの部下たちが、この地域を包囲して綱をしぼってゆくが、攻撃の指揮はぼくがとらねばならん。きみは、いっしょに来る必要はない――」
「きみの命令どおりに動くつもりだがね」
「よし、そう言ってくれると思っていた。それじゃ、この小さなドラマの最後の幕が降りるときに立ち会ってもらおう」
トレイシイが先になって、猫のように静かに進む数ヤードあとをガスが追ってゆく。二人とも陰の外に出ないように壁に身をつけるようにして、例の船に近づいてゆく。甲板にはひとつの小さなランプがついて、古びたタラップをぼんやりと照らしている。トレイシイはちょっと立ちどまって、船を見あげた。そのとき、かれのうしろの壁からひとつの人影が現われて、飛びかかろうとした。
注意するひまもない。ガスも躍り出して、強烈な電光石火のアッパーカットを、こいつの顎にきめた。ガチッという鋭い音に、ハッとしてトレイシイが振り向くと、ドスンと小さな音がして、男が持っていた棍棒が舗道の敷石に落ちた。二人がかりで気絶した男を地面にねかせる。
「助かったよ、ワシントン」と専門家からお礼を言われて、ガスは充分報いられた気特になった。「みごとな一撃だった。意識がもどる前に部下たちが処埋してくれるだろう。逃走の道をふさぐために、いま仲間が網をちぢめているはずだし、高速モーターボートが海上逃走を防いでくれるはずだ。いよいよ最後の一幕だ。きみの方向割り出しは正確だったよ。いま見た方向探知機でも同じだった。雄ヤギはあの船だ。さあいくぞ」
幽霊のようにスッとトレイシイが動きだした数歩あとをガスが追う。船尾に書いた船名が読みとれる。デア・リーベストート号、ルツェルン。スイス船籍だ。ごまかしにきまっている。こうして、本当の船名と持ち主の国籍を隠しているんだ。だが、これも長くはつづかないぞ。船の上は物音ひとつなく閲につつまれていたが、ただ舷門のところにだけ、裸電球がひとつぼんやりとついていた。トレイシイは、まるで乗組員のような調子でスタスタと近づいて、タラップを上がってゆく。ガスも遅れずにつづく。ところが、物音を立てないようにしていたのに、監視していた奴がいたらしく、トレイシイが甲板に上がったときに、ひとりの男が物陰から出てきて、タラップを上がりかけているガスに向かってボソボソと話しかけてきた。トレイシイが、これに答えて下を指さす。男が振り向く。その瞬間にトレイシイの手がひらめいて、その男の頸に何かやつた。すると、この男、しばらく硬直したように動かなかったが、やがて体を折るようにして倒れた。
それでもまだ何事も起こらない。ガスは信じられない気特だった。船に上がってきたのに、二人の男を気絶させたのに、それでもまだ発見されない。運が良すぎて、このままいくとも思えないが、どうかこのままつづいてほしい。トレイシイが開いた戸口で待っている。ガスが近づくと、耳元に口を寄せて、
「甲板室は静かだし、ブリッジにもひとりもいない――とすれば、奴らは下にちがいない。できるだけ静かについてきてくれ」
と一言うと、かれは重い鉄ドアを押し開けた。なかに、ほの暗い廊下がある。スッとトレイシイは滑りこんだ。一番目のドアは暗い。トレイシイは、チラッと目をくれただけで、ここを通りすぎる。つぎのドアも暗く開いている。だが三っ目のドアはしまっていた。トレイシイは身をかがめて鍵穴をのぞきこむ。そしてポケットから医者の聴診器をとり出して、ドア板にこれを当てて聴いた。音がないことを確かめると、聴診器をポケットに入れ、手を振ってガスをうながし、階段の吹き抜きを指さした。気をつけながら、ゆっくりと二人はここを降りる。すると、すぐに捜査の成果が現われた。ここの甲板のドアが一つ半開きになっていて、そこから一筋の明りが洩れ、プツプツと話し声が聞こえるのだ。トレイシイはまだ先になって、もうひとつ暗い戸口を過りぬける。ガスもピッタリとうしろにつづく。ガスが、その戸口の前を抜けようとしたとき、ナイフを握った黒い人影が躍りかかった。
とっさの反射神経でガスは命びろいをした。相手が飛びかかつてきたとき、ガスはサッと身を引いて、振りおろすナイフの下に身を沈め、相手のその手を掴んで、いっしょに転がったのだが、馬乗りになられてしまった。ところが反対側の隔壁に二人がブチ当ったショックで、相手が一瞬ボンヤリしたのだ。それをすかさず、ガスが下から拳骨で一発突きあげると、相手はフーッと吐息を洩らしてクタクタとなり、ナイフが手から落ちて金属の甲板に大きな音を立てた。
そのあとの沈黙のなかで「あれは何だ? 通路で何か音がしたぞ」という声がドアのなかからはっきり聞こえた。
トレイシイはピストルを握って、ドアを大きく蹴りあけると、「警察だ。逮捕する!」と大声で叫んで躍りこんでいった。
叫び声、ピストルの音、悲鳴のなかへガスも飛びこみ、乱闘の真っ最中に踊りこんだ。大きな船室が走り回る男たちでいっぱいに見える。ひとりが逃げようとするところを、ガスが立ちふさがり、腹に一発プチこむと、そいつは二つ折れになった。顎のさがったところを、もう一方の拳骨で突き上げる。乱闘のなかに飛びこんだガスは、喉元めがけて切りつけてくるナイフを防ごうとして片腕を上げた。二の腕に矢の突き通るような痛みを感じたが、もう一方の拳を、したたかにぶちこんで、一瞬にして相手を倒した。
これで戦闘は終ったが、ガスはそれに気がつかず、傷の痛みを無視して、フラフラと立ちあがった。いためつけられた連中が部屋のあちこちに、いろんな恰好をして転がっているが、堆ヤギが、意識のある奴の上に馬乗りになって、そいつの頭をガンガンと甲板に打ち当てて気絶させようと頑張っている。トレイシイは、あちこちと機敏に動きまわって、意識のある奴と見ると、かたっぱしから手錠をかけてまわっていた。やがて、雄ヤギが仕事を終って立ちあがり、手のほこりをはらって、部屋の向こうの閉じたドアを拍さし、
「あいつが騒ぎの最中にあそこへ入りましたぜ。『灰色の男』、親玉ですぜ」
トレイシイは、すぐに情勢を判断し、物騒な自動ピストルが転がっているのをひとけりして雄ヤギのほうにやると、雄ヤギは、すかさずそれを拾い上げた。
「捕虜を監視しろ。できるだけ大勢生かしておきたいからな」
と言いながら、トレイシイは全速力で走っていって、ドアをバシンと肩でぶち破り、なかへ飛びこんだ。ガスも、もう負傷した腕をハンカチでしぼり上げていて、すぐ後から飛びこみ、身をまっすぐに起こしてピストルを構えながら、
「やめろ、万事休すだ」
とどなった。
どなられた男は、言われたとおり、やっていたことをやめて、ゆっくりと立ちあがりかけたが、片手に一束の書類を握っている。ひとつの金属製の屑カゴに、ほかの書類といっしょに、これを突っこもうとしていたらしい。屑カゴのなかで、ブスブスと煙を出しながら火がチラついている。これを見るや、ガスは飛びだして、屑カゴを蹴り倒し、火を踏み消した。踏み消して、やつと相手を見た。ついに秘密の敵を捕えたのだ。
なるほど「灰色の男」だ。机の横にまっすぐに立って、片方の拳を机につき、もう一方を胸に当てているが、からだ全体がかすかに揺れている。頭から爪先まで全身灰色ずくめの服装だ。灰色の靴にかぶせた靴被いも灰色なら、上等の仕立てのズボンも上着も灰色。ブロードのワイシャツも、ネクタイも灰色。かぶった中折れ帽も、面を隠した覆面まで灰色で、そこに二つ穴があいているが、そこから覗いている目までが灰色だった。男の手が机のほうに伸びてゆくのを見て、「動くな!」
とトレイシイがどなった。男はギクリとして手を引っこめ、かすれた小声で、
「この引き出しにカネが入っているんだ。外の連中に払うカネだが、みんな、きみらにやる。何千ポンドの大金だ。ちょっと背を向けていてくれたらいい。それだけだ、たのむ。そのあいだに、わしはここから出る――」
「こら、バカにする気か! おれは、ピンカートン社の者だ。大西洋横断トンネル会社に雇われてる身だぞ。おれの名誉を台無しにするような賄賂なんて、この世にはないんだ。おまえは捕った、終ったんだ、勝負はついたんだ」
灰色の男は、ガックリと打ちのめされて、クタクタとその場に崩れ折れた。その有様が、あまり悲劇的なので、ガスは手をかして起こしてやろうかと思ったほどだ。
威厳らしきものがすっかり消えて、ワナワナと体をふるわせ、手をうしろに回して何か探しているのは、椅子を引き寄せて坐るつもりだろう。トレイシイはさすがに場かずを踏んでいるだけあって、激しい口調で、
「さあ、その覆面をとってもらいましょうかね―――いやなら、こちらがとってやろうか」
「いや……たのむ、やめてくれ……」と、あえぎながら嘆願するが、そんなことはトレイシイは平気で、銃を構えて踏みだすと、片手で覆面と帽子をひっつかんで一気に引きむしった。現われた顔を見て、ガスはハッとした。
知っている男だった。夢にも疑わなかった人間、いまごろ、こんなところに出てくるとは考えられない男だった。
「この男を知っているか?」
とガスがトレイシイにきくと、
「札つきの犯罪者さ」
とトレイシイは答える。
「いや、そんなはずはない。ちがう。しかし、ここにいる。信じられないな」
「そんなら、こいつを知っているのか?」
「知るも知らないも、これはヘンリー・ストラットンだよ。ボストンのりっぱな金融業者で、大西洋横断トンネル重役会のニューヨークの会員だよ」
「それなら、とうとう親玉を捕えたらしいな。重役会の会員とはねえ! 秘密を全部知っていて、どこでも好きなところを襲ったというのも当りまえだな」
二人が話しているあいだ、ストラットンは打ちのめされた恰好で、ぼんやりと、うつ向いて坐っていた。ところが二人の話が終ると、もがくようにして身を起こして、以前の力を少し取りもどした声で、
「きみたち、お願いするから、わたしを逃がしてほしい。この恥辱、わたしの家族、きみたちには分かるまい。逃がしてくれたら、約束する、わたしは……」
「だめだ!」
と答えたトレイシイの声には、動かぬ死刑の宣告というか、すべてを押しつぶす運命のような重みがあり、ストラットンは、またクタグタと崩れ折れてしまった。
「わかった。きみの言うとおりだ。こんなことを頼んではいけなかったんだ。必死の人間が、せっぱつまった頼みだった。もう、わしの運命はきまったな。考えてみれば、はじめからこうなる運命だったのに、気がつかなかった」
「しかし、なぜだ!」とガスは、大声で言った。「どうして、きみのような、ちゃんとした、尊敬されている社会人が、こんなひどいことをやったんだね?」
ストラットンは、ゆっくりと目を上げ、ユーモアのかけらすらない、さびしい微笑を浮かべると、
「どうして? ワシントン、きみは、そういう質問をする人だったねえ。きみという人は、普通の人間の、なまぐさい人間的な問題に全然なやまない人だからね。トンネルつくりの機械だよ、きみは。人間の弱さをもつていない。なぜかと聞くんだね? それなら話そう。まったく汚い話だ。たった一歩踏みはずしたために地獄に落ちたという話だ。わたしは重役会の役員だ。だから、会社に自分のすべてを授資したが、欲を起こして、もっと、もうけたいと思ってね、トンネルの株をもっと買おうとして、わしが管理しておったある資産の株を、ひそかに売ったんだ。もちろん最初の配当金が入りしだい、その金は返すつもりだった。ところがこの株が、ある海運会社の株でね。わたしの家は昔から海運業とつながりがあるんだ。わたしの行動はひそかに監視されていたんだね、それに全然気がつかなかった。すると、わしに接近してきた奴がいる―――まあ、海運関係者とでも言っておこうか。この連中は、わしのやったことを全部知っていたんだ。その上で、わしを助けてやると約束してくれた。そして実際、わしの行為がバレないように助けてくれた。そのお返しに、ちょっとしたことをやってくれと言うのだ。それでわしは重役会内部のスパイになって、情報を流してやり、これで抜きさしならぬ立場に追いこまれてしまった。それからは、連中は、ますます要求を出してきて、結局、ごらんのとおりの結末さ。表面では重役会のりっぱな一員でありながら、裏面では、トンネル破壊に全力をつくす秘密組織の指揮者だ。ああ、これでせいせいした! とうとう終ったよ」
「だれだね、こういうことをきみに強いたのは?」
とガスがきくと、
ストラットンは、だるそうな仕草で船室中に散らばる書類に手を振り、
「それは、そこらに書いてあるから、読んでくれたらすぐ分かる。海運業者、外国、とにかくあらゆる権力者、悪党どもは、トンネルができたら不利益をこうむると思ったわけだ。英国や英帝国につねに悪意をもつ外国はそう感じた。こうして、いまだかつて存在したことのない犯罪組合ができあがったが、くわしいことは、みんな、そこらに書いてある。わしの手紙類、複写、覚え書き、指令書の類は細大もらさずとってある。なにしろわしは、徹底して組織的、能率的なニューイングランドの実業家だからね、取引のことは、どんなに小さいものでも、きちんとしているんだ。必要なものは、全部そこにそろっている。それがあれば、一味と組織を完全に破壊できるはずだ。やがて全貌が明らかにされるさまが目に見えるようだな。わしの評判もそれで永久におしまいだろう。だから、ひとつだけ願いをきいてほしい。この書類を集めて、二、三分だけ、この部屋から出ていってほしい。長くはかからない。ここには小さな窓がひとつあるきりだから、逃げられないことは分かるだろう。たのむ。名誉を重んずる人間として頼む、きいてくれ」
「だめだ、おまえは一番重要な証人だからな」
とトレイシイがきっぱり断ると、
「いいじゃないか」
とガスが命令口調で言った。「証人が要るというのなら、外に証人はたくさんいる。わたしの問題は、破壊工作をストップさせて、その黒幕をあばくことだ――その秘密が、ここらの書頑にあるというんだろう。見ろ、この名前を! 有名人や大会社がズラリと並んでいるじゃないか! いろんな連中が逮捕されて、株の値下りが起こって、破壊工作はパッタリと止むだろう。外国政府には手がつけられないが、さかんに関係していた点は暴露されるから、これでしばらくはおとなしくなるだろう。必要なものは、ここにそろってるんだから、ストラットンの願いをきいてやるのがいい、とわたしは思う」
そう言われてトレイシイは、ちょっとためらったが、やがて肩をすくめて、
「まあ裁判には支障ないだろうし、ぼくの報酬も変わらないだろうから、きみが、どうしてもというなら――この決定の全責任をとるのだったら――」
「とるとも。サー・ウィンスロップ・ロックフェラーも、この決定は支持してくれるはずだ」
書類を集めて、部屋から出てゆこうとする二人のうしろから、破滅した男の激しい声がかかった。「ワシントン、きみをにくむ。きみの世界のすべてを、わしはにくむ。しかし、家族のためには、いやいやながら、礼を言うよ」
ドアをしめて出ると間もなく、部屋のなかで一発の銃声がひびき、すべてはまた静寂にかえった。
[#改ページ]
3 深海の危険
ここ大西洋海面下二マイルは、永遠の夜の国、闇と沈黙と静寂の領域、黒い水のうつろな世界である。海面には、風が吹き、天気が変化し、波が砕け、潮流がさわぎ、生命が生まれているが、それは、一万フィート以上うえの世界である。この上の世界では、日光が照り、プランクトン、つまり、日光なしでは生きられぬ顕微鏡的微生物が棲息し、この海ゆく牧草地ともいうべきプランクトンを食べる小さな魚類が遊泳し、また、この小魚類を食べる大型の魚類が泳いでいる。ここには太陽エネルギーがあり、酸素があって、そのおかげで深海の生命体が生まれるが、深くなるにつれて、生命体の量も減り、ついに深度一マイルになると、この間に住む小さなパケモノじみた魚族は、ごくまばらになってくる。針のような歯を持つ、目玉の飛び出した魚類で、横腹にずっと船窓のような光の列が付いたり、前に光をブラ下げたりした、体はごく小さいが猛魚である。たとえば、キアスモドン・ニゲルのような魚で、これは、長さわずか二インチしかない。しかし猛烈に貪欲で、自分より大きな魚を呑みこんでしまう。だが、この深度一マイルのところが、いわば最後の戦場で、これより深くなると、生命体はほとんど見られず、動きもなく、深度三マイルになると海底に達する。ここには、海面のカナリア海流とは逆方向にすすむ大きな潮流がある。しかし、ここは、暗黒の、虚無の、生命なき、静寂の、変化なき世界である。
だが、あそこに見えるのは、何か遠くからこちらに近づいてくるのだろうか。そんなことがあるだろうか。光か? そうだ、たしかに光だ。明るい光の点々が、果てしない夜のなかを着実に動いている。たぶん、一群の魚族だろう。光の点がだんだんふえてきて、ずっと連なり、その先はぼーっと闇のなかにうすれている。だがまて、魚といっても二種類いるらしい。小さいもの、といっても、比較的ちいさいというだけで、青クジラくらいのやつが、おそろしく大きな海蛇のまわりをとり囲んでいるのだ。この巨大な海蛇は、体をくねらせながら泳いでいるが、胴に光の列がながながとついている。その列の長いこと、長いこと、なんと一マイル以上あるではないか。これは何だ。海蛇が、比較的ちいさな魚たちにつかまって、その体に頑丈なヒモを結びつけられ、引っぱられていくのだ。だが、この小さいほうの魚は何だろう。固いなめらかな皮膚をもち、目はないのに、燃えるような光を放って、唸り声をあげ、ザワザワと音高く深海の静寂を騒がしている。生きものではない。金属製の殻だ。この生命なき国に侵入する勇気をもった唯一の生きもの、動物のなかでもっとも大胆不敵な動物、つまり人間を乗せた金属の殻だ。
ほかのすべての潜水艦の先頭を進んでいるのは、ノーチラス二号だった。同名の原子力潜水艦よりも、はるかに強力で複雑にできた艦で、機械装置類を操作するのに三十名の乗員を乗せている。だが、艦の操縦には、ほとんど人員は要らない。操縦はノーチラス二号と同じく簡単で、付属装置の操作に、この人員が必要なのである。竜骨に付けたいくつかのリールから、鋼鋏ケーブルが何本も伸びて、長さ一マイルに達する曳航物の前面につながっているが、自動装置がたえずケープルを監視していて、一定の緊張度を保っている。圧力があまり高くなるとケーブルを繰り出し、圧力が落ちると、すこし巻きこむ。ケーブルの緊張度についての情報は、電線を通じて、艦内のほとんど四分の一を占める巨大なブラベッジ・コンピューター・エンジンに送られる。また、このコンピューターは、ほかの全潜水艦のケーブルの情報も受けとって、それを監視し、緊張度と曳航状況を調整しているから、全艦が一体となって巨大な荷物を引っぱってゆくようになっていた。このコンピューター・エンジンとほかの艦との連結には電線は用いられず、また別種の接続が行なわれていた――各艦体に取り付けた原子ランプの発する光線が、その役を果たしていたのだ。このレーザー光線は水中を簡単に走るので、そのエネルギーをさまざまに調整して、必要情報を伝達していた。万事がうまく運び、すべてが好調に作動したのは、この計画をまず思いついた人類の本質的な器用さへの賛辞だったが、いまやこの計画も最終段階に近づいていた。ニューヨーク市から出発した路線は、水の下を潜って、新トンネルのなかに入り、海床を突っぱしり、そこから、海床の亀裂である断裂帯に入り、ここを走り上がって、中央大西洋海嶺の山中に進むが、この山々は海嶺を二分する峡谷の端のところで終っている。さて、大西洋の向こう岸でも、ほぼ同じ長さの路線がロンドンから出発してトンネルに入り、アゾレス諸島まで伸びて、ここでちょっと上にあがって、また深海平原へもぐってゆき、ついで断裂帯に達し、峡谷の対岸に達する。ここで両方のトンネルは終り、はるか目に見えないほど深く落ちこんだ中央裂線の両断崖で、トンネルの末端の黒い穴をたがいに向き合わせる恰好になったのである。
そしていま、ついに驚くべき海蛇のような、長さ一マイルのトンネルが、ゆっくりと泳ぎながら目的地点に近づこうとしているのだった。トンネル兼橋というべき物で、橋とはいうものの、支持物からぶら下がる普通の橋ではなく、浮き上がって、支持物を上から引っぱる、アベコベの橋である。鋼鉄とコンクリートで見事に作ったトンネル橋である。蛇のように、うねりくねりしながら泳いでゆくが、その動きの秘密は、各区分をつなぐ関節にあって、ここが、フイゴのような形の頑丈な鋼鉄でできている。この鋼鉄は深海の水圧に耐える強度をもつが、必要に応じて曲がるだけの柔軟性も具えている。このトンネル橋こそ、ヘラクレス的偉業ともいうべき大西洋横断トンネルを完成させる強大な構造物であり、二つの大陸をつなぐ最後の環だった。各区分の製作には、方々の場所で二年の年月がかかった。できあがると、ハドソン川上流の集合地点、つまり、ベネディクト・アーノルド将軍[#ここから割り注](アメリカ軍人。一七四一―一八〇一アメリカ独立戦争で活躍したが、のち、イギリスに内通して、ウエスト・ポイントを明渡そうとして発覚。イギリスに逃げる)[#ここまで割り注]に関係深いウエスト・ポイント要塞の廃墟の下まで曳航されてきた。そして、ここでまた、新たな戦いが行なわれた。人間と自然との戦い、果てしない海を征服しようとする戦いである。一区分、一区分とトンネル橋は接続され、検査され、ついに驚くべき建造物が完成した。そして、干潮時に、これを水中に沈め、海へ押し流して、旅が始まったのだが、いまや、その旅も終りに近づこうとしていたのだつた。
ブリッジではオトゥールが操縦装置についていた、と言うより、操縦装置を見まもっていた。この艦の進路も例のコンピューターが決めていたからだ。
「ちょっと慣れが必要ですね」
とかれは腕組みをして、レバーやボタンのほうへ指先を伸ばすまいとし、羅針盤の針がちょっと振れて、また止まる様子をうさん臭そうに見ながら言う。
「架橋地点からの音波信号の誘導で進んでいることは分かっているんです。艦底部のあの機械のやつが、その方向に進路を合わして、エンジンを動かしたり、何やかんや全部やっているということは、頭では分かっているんです。しかし、どうしても信じられませんな」
「いや、信じているんだよ」とガスは、テーブルの上の地図にかがみ、ゆっくりとした着実な進み具合を目に入れながら、笑顔で答える。「きみがしたがっているのは、ちょっとした活動だよ。なぐり合いだとか、二、二杯ひっかけるとか、そういうことだろう」
「やあ、それは、オトゥールの名に対する屈辱ですなあ!」と答えるが、全然本気ではなく、笑顔を浮かべている。「しかし、じつを言うと、ギネス・ビールを一杯やるのも悪くないな、と思っていたんです」
そのとき、操縦盤に赤い電気がついたので、かれは、サッと手を伸ばして調整した。
「十マイルに接近、正面です」
「それでは減速だ。峡谷に着いたとき、ほぼ前進ゼロにしたいからね。そうすれば、潮流に対して艦を操作できる」
と言って、ガスは下のコンピューター部門に必要な命令を下した。
大きな海蛇の速度はだんだん落ちていく。減速するのに数マイルかかるほど図体が大きいのだ。音波信号機は、下のほうに置かれていて、これが艦を正しい地点に誘導してゆく。そこに着くと、前進が止まって沈下が始まる。しずかな水中を、まっすぐ海底潮流のなかへ一マイル下降するのだが、この海底の流れは、動きはゆるいが、それでも、これほど大きなトンネル橋になると、受ける力は強大なものになる。潮流は、これまたコンピューターが、あらかじめ念入りに計算考慮した一要素であり、橋が最後の一マイルの下降を始めたときも、架設箇所はまだ数マイル下流になっていた。巨大なトンネル橋は、一定速度で沈下していくにつれて、また一定速度で前進してゆき、ある一定深度の一定地点で停止することになっているのだ。
最後の沈下が始まった。各トンネル区分の微妙な水圧機構が働いて、バラスト・タンクに海水が注入されるにつれて、ゆるやかに全体が沈んでゆくので、水圧が増しても、トンネルは、つねに一定の僅かな浮力を保っている。徐々に沈んでゆく――ついに、下に赤っぽい明りが幾つも見えた。このレーザー光線を受けてコンピューターは、直ちに、この情報を消化し、速度を早める艦、減速する艦が出てきて、トンネルは曲がり、また、まっすぐになって深海中にまだ隠れて見えぬ橋台と一線上にならんだ。
「そら、見えるぞ」とガスが、テレビ・スクリーンに映った暗い橋の点々とした明りを指さした。こういう深海のなかを動く潜水艦には、窓とか穴に類したものは、いっさい取り付けがきかず、艦体をタマゴ型にして、外殻を厚くしてあるので、テレビが使われていた。それで、外を見るときは、艦首、艦尾、檻の上側、竜骨などに取りつけた受信装置によって電気的に行なっていた。いま、下や前方の明りをとらえたのは竜骨の受信装置だった。「小数点以下五位まで正確にコースを進んでいるぞ」とガスが、横のコンピューターの目盛りを読みながら言った。
これから、もっとも微妙な、危険な作業が始まるのだった。ここの潮流は、時速ほぼ一・五ノットで、着実に、なめらかに動いている。問題にならない微速で、これが海面ならば、水泳の上手な人なら乗りきるだろう。ポートでも漕いで進めるし、高速モーター・ポートなら問題にもならない。水中でも、何も引っぱらないで、独自に行動する潜水艦ならば、ほとんど気にもしない流れだ。ところが、こういうふうに大きな物を引っぱってゆくときは、この潮の流れが最大の問題になる。なぜかというと、厚さ三〇フィート、長さ一マイルの橋になると、表面積がひじょうに大きくなり、これに潮流が当ると、押す力は大変なものになる。ひじょうな力で、全潜水艦が力を合わせても、もちこたえられるかどうか怪しいし、ましてや、これに抗して動くことなどできたものではない。だからトンネル各区分を、ちゃんとその場所に収める作業は、ただの一回の失敗も許されない慎重な作業だった。
これをするためには、各ケーブルを谷の両側に、同時に取り付け、ちゃんと固定しなければならない。各潜水艦から伸びている曳航用のロープは、それよりずっと太い橋のケーブルにつないである。それぞれが、直径一ヤードを越すふといものだが、それというのも、二つの役目を果たすからだ。まず、引っぱってゆくときに使うのと、所定の場所に着いたとき、橋を正しい位置に固定する永久的な繋留ケーブルにするためである。橋トンネルの中央区分から伸びているケーブルが一番ながく――両岸の突出部に接続する必要があるので長さ半マイルを優に越す――端に近づくにつれて短くなっている。位置に収まると、これらの多くの鋼鉄ケーブルは、橋をしっかりと固定する一方、橋の持つ浮力でピーンと張る。いま、このケーブルの固定作業が始まろうとしていた。
峡谷両岸の崖のきわは、スベスベした大きな岩面になっていて、ここは無数の明りで、あかあかと照明されていた。なにしろ、ここの作業は、人間の肉眼で見てやる作業で、どんな自動機械も、ここでは何の助けにもならない。ガッチリとした岩面に、ドリルで穴をあけて、橋を固定するための怪物のような、ふとい錨が、いくつもセメントづけにしてある。この錨には、ぶかっこうな付属品が付いているが、ここに最後に巨大な締め金具を取り付けて、ケーブルを適当に緊張させることになっている。だが、これはまだ後の作業で、目下のところ、ケーブルを手早く、正しく取り付けなければならない。このために、それぞれの錨から、バネ仕掛けの大きな顎が突きだしている。ケーブルが、この顎のあいだにはさまれると、顎は巨大なネズミ捕り器のように、バネが跳ねて瞬時に閉じ、そのギザギザの歯が、しっかりと噛み合う一方、自動式電気モーターの働きで、さらに強く噛み合わせるという仕組みである。何十回と訓練中にテストを繰り返したので、うまくいくはずだった。どうしても、うまくいかないと困るのだ。
下へ、下へと巨大な建造物は沈み、曳航する各潜水艦は、ブラベッジ・エンジンのたえず発する指令にしたがって慎重に、あちらへ、こちらへと引っぱる。各艦のなかでは、換気孔から洩れるつぶやきとか、遠くにきこえるエンジンの音、大コンピューターの操作員のときどき交す言糞くらいしか聞こえず、ほとんど完全な沈黙が支配している。動きもなく、音もないのに、各艦では緊張のあまり、呼吸をするのも苦しいと感ずる者がいるほどだ。引くに引けない決断、とり返しのつかぬ一瞬なのだ。
着実に下降する。あかあかと照らし出された下の錨が、テレビ・スクリーンにだんだん大きく映ってきて、それぞれの錨の上の岩に記した大きな赤い番号が、はっきりと、どぎつく見える。そして、なおも沈下はつづき、崖がいよいよ接近してくる。操縦士たちは、関節が白く浮き出すほど、こぶしを掘りしめて、艦がコンピューター頭脳の指揮で自動的に動いてゆくさまを、じっと見つめるばかりだ。複雑な艦の操作より、何もせずにじっと待って、こうして見つめているほうが、どれほどつらいか。古い岩面が細かいところまで見え、新しく作りつけた物が、どぎついまでにクッキリと目に入る。なおも下降する。
「一号、九号、接続せよ。一号、九号、接続せよ。独自に行動せよ」
命令回路に明瞭に素早く声が回り、各艦の各スピーカーから大きくひびいた。待ちにまった命令、肉声の命令である。最初の二隻がケーブルを引いて走りだした。橋の両端に十本のケーブルが付いているが、一号と二号は、岩面突出部の橋台の一番上につなぐので最も短く、九号、十号は、径間の中央から橋台の一番下までとどくので最も長くなっている。一番短いのと、長いのとが対になったケーブルを引っぱって、二隻が、いまやコンピューターの指揮から離れて、独自に行動を起こし、競走のように全速で進んできて、ケーブルをつなごうとした。この二隻が終ると、つぎの二隻が接近してケーブルを留めるのだが、トンネルが係留のための正しい位置にある二分間に、作業を終らなければならない。両端の四本のケープルを留めて、トンネル橋を固定して、潮流に対して持ちこたえさせるのが当面の仕事である。この合計八本が、しっかり留まれば、橋はちゃんと収まるべきところに収まるわけで、その計算は正確に行なわれていた。いったん、この八本が留まれば、残りのケーブルは、一本ずつ正確につなぐことができる。しかしまず、この四本をしっかりと留めておかねばならない。そうでないと、潮の流れで橋が押し流されて、どんな事故が起こるか分からない。
ノーチラス二号は、全力回転のエンジンのうなりを上げながら、先頭きって繋留箇所に進んだ。オトゥールは、やっと操縦装置を忙しく操作しはじめたが、深度を下げながらも、竜骨の曳航索をゆるめ、へさきの曳航索を引きしめることを忘れなかった。この曳航索は、繋留ケーブルにバネ仕掛けでつながれ、いままでゆるんでいたものだ。この索の巻き胴とモーターとは、艦の鼻面から二〇フィート前方に突きだした円材にとりつけられていて、前方カメラではっきり見ることができた。艦が目標点に着く大分まえに、重い繋留ケーブルは巻きこまれて、円材の先のすぐ上に、二〇フィートのオレンジ色のペンキ塗りの部分がピタリと来ていた。ここが目標箇所だ。ここに待ちかまえている錨の先の顎が噛みつけば、つなぎ作業は成功である。この部分なら、橋の湾曲許容範囲だし、ケーブルが自然に作る弧の範囲にふくまれる。オレンジ色の部分の中程のところに黒ペンキで帯をつけて正確な場所を示してあるが、ここが最良の簡所だった。
オトゥールは、芸術家のような微妙な手つきで大きな檻を操作する。艦体を横転させて、艦首の円材を上に向け、待ちうけている錨の顎に向かって、重いケーブルを持ち上げながら突き出してゆく。ちょっとうしろにさがり、また突き出すという作業だが、橋台の突出部にブチ当てるほど突き出してはいけない。ゆっくりと上に向かい、そろそろと流れるように動き、修正しながら進む円材は、まるで的に向かって伸びてゆく巨大な一本の指のようだ。操縦士のうしろに立っているガスも、無意識のうちに息を殺していた。橋台がだんだん近づいて、いまにも艦が、そこへ突っこみそうに見えた。
「やったぞ!」
とオトゥールが喜びの叫びを上げた。鉄の顎が、大きな金属のワニのように、ケーブルの黒い帯のところをガチンと噛んで、しめつけたのだ。噛んだときの勢いがひじょうに強く、その衝撃が艦内に伝わったほどだった。
「さあ、離脱します」
オトゥールは二つのボタンを押した。曳航索のなかを走る線に電流が通じ、これで繋留ケーブルと曳航索をつないでいる錠が爆破された。曳航索が垂れさがる。これを、電気モーターのうなりを上げて巻きこみながら艦は後退した。
「九号も接続したぞ」とガスが、竜骨の受信装置から監視スクリーンに送られた光景を見て言う。「二号、十号、接近を始めよ」とかれは命令回路に指令した。
ちょうど、そのとき、起こったのである。架橋工事の最もむつかしいとき、成功か失敗かが秒単位の、カミソリの刃のような、きわどいところで決まるという瞬間に起こったのだった。だが、世界の時間は、人間的水準の時間とは違う。というより、地理的時間は、地球表面でいとなまれる短い人間の存在には無関心だと言うべきであって、教千年、いや数十万年を最小単位として経験するものだ。溶解した岩石が潮流のように流れて、その上に浮かぶ固い地殻を圧迫するにつれて、地球中心部に圧力が、だんだんと蓄積されてゆく。ゆっくりと蓄積される圧力だが、休みもなく高まるもので、そういつまでも持ちこたえられるものではなく、いずれは解放されなければならない。岩石ちゅうの深い継ぎ目が開いて、大きな塊りの位置が変わり、石と石とがこすれ合って、圧力が均等になり、地球は、また安定する。これは地理的時間の流れのなかで見れば、ちいさな事件で、つねに動いている強大な力と比べた場合、まったく微々たるもので、計るにも、いや、目にとめるにも足らないかもしれない。しかし、それでも、人間の仕事を破壊するに充分な大きな事件である。
固い地球の内部に物凄い大巨人が眠っていて、何かブツブツとつぶやきながら寝返りでも打ったような、深いゴロゴロという物音が起こった。物凄い音で、上の固い石がゆれて、それが水に伝わり、水が潜水艦の固い鋼鉄を打って、艦体を激しくゆすぶり遠ざかっていった。
「地震だ!」とガスは、投げ出された甲板から立ちあがりながら言った。
「海底地震だ、いまごろ……」
と言って、テレビ・スクリーンにはっきりと映った海中の様子を見て、かれは呆然として立ちすくんでしまった。地震の動揺が、錨につながれたケーブルに伝わり、それらが生き物のように、うねりくねりして、衝撃波が留め方のまだ不安定な上の橋に伝わっていく。なるほど橋や繋留ケーブルは、こういう衝撃や地震の揺れを吸収するようには出来ていた。しかし、ガッチリとつなぎ、しっかり留めたひとつのまとまりとして耐えるように出来ているにすぎない。二十本のケーブルで耐えるところを、いまや二本で持ちこたえているのだ。橋はどんなことになるか! どんなことになるか、そんな先のことを考える余裕はガスにはなかった。目の前で起こっている損害のほうが重大だった。猛烈に引っぱられ、ゆさぶられてケーブルは切れかかっている。
見るのも恐ろしい。かといって、そらすこともできない目の前で、コンクリートで留めたふとい鋼鉄の錨がバラバラに崩れて外れていく。一瞬の自失から立ち直ると、通報器をつかんで、ガスはどなった。「二号、後退するか、ケーブルを切り離せ。きこえるか?」
「接続できます、接――」
と言いかけたとき、悲劇に襲われて、声が途切れた。二本のケーブルがちぎれてプラブラになった橋が、上のほうでクネクネと動いて、つながっているケーブルを振り回したのだ。潜水艦二号は、自分のケーブルを錨に接続しようとした瞬間に、まるで紐の先に結びつけられた子供の玩具のように、振りまわされて岩面に叩きつけられたのだ。艦体が割れ、この水深での信じられないような水の重圧がのしかかり、艦を完全に破壊してしまうのに、ものの一秒もかからなかった。まったく一瞬の出来事で、乗組員は自分の悲運を察知する瞬間さえなかったに違いない。
ガスはいま、死者を悼むひまさえなかった。生きている者、まだ橋につながれているほかの潜水艦、橋そのものの運命を考えなければならない。何秒間か、かれは無理に気持をおさえつけて、行動に移る前に、あらゆる要素を論理的に考えようとした。その一方、通報器から、さまざまな声や質問、苦悶の叫びなどがガンガンひびく。ひとつの決断に達すると、ガスは、命令スイッチを激しく入れて、冷静な、はっきりした声でマイクロフォンに叫んだ。
「すべての連絡回路を明けよ。沈黙せよ、完全に沈黙せよ。こちらはワシントン、沈黙せよ」
数秒間で命令どおり、通報器の声は消えた。消えるやいなや、ガスは、
「第二区分指揮者、報告せよ。こちらの端で、いま地震があって、ケーブルがはずれた。そちらの状況はどうか」
すぐに応答があった。
「こちらは第二区分指揮者、すべて異状なし。ケーブル四本を接続し、つぎの二本にかかるところです。こちらのケーブルにも若干の振動と動きが見えます」
「それでは、つぎの二本を接続して、作業を中止せよ。追って命令があるまで待て。第一区分の全艦に告ぐ。われわれのケーブルは外れた。橋が正常に複するまで、つなぐことはできない。すべての奇数番号の艦に告ぐ。すべての奇数番号艦は、ケーブル離脱装置を作動させよ。そして南へ進んで橋から離れ、はずれたケーブルの範囲から離脱せよ。そのあとで橋の上へもどれ。繰り返す、上だぞ。外れたケーブルは下になるぞ。今度は、偶数番号艦に告ぐ。ただちに北へ方向転換し、潮流に逆らって全速前進、同時に、橋と同じ水深まで浮上せよ。かかれ」
必死の作戦だった。この不測の事態を克服するため数秒間で立てた計画で、各人、各艦がバラバラになりながらも、たがいにつながっている深海の闇のなかで、失敗なく実行しなければならぬ複雑な戦略だった。ガスは心の目に橋を見て、なすべきことを、もう一度こまかく調べ、これ以外に打つべき手がないことを確信した。
漂っている橋は、一方の塊だけがつながれている。反対側の東の絶壁だけがつながっている。西側は外れているから、潮流に押されて、南の流れの方向へ曲がるだろう。どんどん曲がっていけば、橋は折れて、空気を充たした各区分に浸水する。すると、橋は浮力を失って、垂れ下がるような恰好になり、全体に割れて破壊されてしまう。そんなことがあってはならない! まず打つべき手は、このノーチラス二号といっしょに潮流の向かう南側から引っぱっている全奇数番号艦を切り離すことだ。これらの艦の繋留ケーブルで、潮流と逆方向へ引っぱろうとすれば、まるで巻きねじるような恰好になって、橋はねじれてしまい、たちまち破壊されてしまう。もし、万事がうまくいっていれば、いまごろは全奇数番号艦はケープルを離して、橋の上へ逃れているはずだ。ノーチラス二号は、外れたケーブルの下にいるから、方向を変えて潮流を逆に進み、それから浮上して、まだ繋留ケーブルを付けている艦といっしょになることができる。これらの艦は、いま、橋の曲がるのを食い止めようとして、エンジンを全力回転にして、北の方向に引っぱっているだろう。どうか、うまくゆくように! ノーチラス二号が上に向かっていくとき、テレビ・スクリーンにゾッとするような光骨が映った。艦の上部の受信装置が捉えたのだ。橋についた明りの列が、もう直線ではなくて、外れたほうの端が潮で南に押し流されて、巨大なCの字に曲がっているのだ。ガスは一目見るなり、通報器にスイッチを入れ、「ケーブルを離した全艦に告ぐ。橋の西の端を引っぱっている上の艦のところへ急行せよ。磁気鈎を使って、これらの艦と接着し、同時に全力で逆進せよ。橋の曲がるのを食い止めるのだ。まっすぐにするのだ」
ノーチラス二号が先頭を切って進み、頑張っている一隻の潜水艦の横へにじり上がり、これに接したかと思うと、艦体の強力な電磁気の働きで、ピタリとくつついた。くっつくが早いか、両艦のエンジンは、大きな唸りを上げ、スクリューが全速逆回転する。このききめがあるかどうか、すぐには分からない。橋はまだ、どんどん曲がって、外れている端がとうとう真南の方向へ向いてしまった。橋の柔軟性は、設計者は、たしかに考えていたのだ。しかし、こんな緊張は考えていなかった。こうなれば、いつ折れるか分からない。
しかし折れなかった。一隻、また一隻と、離れていた艦が僚艦に接着して力を合わせて引っぱる。恐ろしいほど曲がった橋を、まっすぐにすることはできないが、それでもやっと曲がるのは食いとめたらしい。潮流の力に勝つことはできないが、少なくとも敗けるのは食いとめた。だが、もつと力が要る。
「第二区分の全艦に告ぐ。ケーブル繋留作業を続行せよ。こちらは、やっと持ちこたえた。各艦はケーブルをつないだら、ただちに全速力で、こちらへ来て、僚艦に接着せよ。こちらは援助を求めている」
援助はやってきた。つぎつぎと暗闇から潜水艦が浮かび上がってきて、くっついて並んでいる艦に、二隻、三貸、四隻とひっついてきて、まるでブドウの房のように固まり、ケーブルを引っぱったのだ。どんなに強く引っぱっても、はじめは何の効果も見えなかった。しかし――カーブが浅くなってきたのだろうか? ガスが目をこすったとき、オトゥールが、
「ほんのちょっとうしろへ動いているようです。ぼくは、いいかげんなことは絶対に言いませんよ」
と言った。その途端に通報器が信号音を発し、「こちらは『アネモネ号』。こちらは断崖のそばですが、南への動きは止まりました。いま、ひじょうにゆっくりと、しかし、確実に、北へ動いています」
「『アネモネ号』、ありがとう。よく報告してくれた。『ペリウィンクル号』、きこえるか?
「こちらは 『ペリウィンクル号』」
「きみの艦には、重い引っかけ鈎の装置がある。橋の動いている部分まで接近して、南側の第二ケーブルの位置を確認せよ。繰り返す。「三番」と書いた第二のケーブルだぞ。第一ケーブルは、つないだが、切れた。この「三番」ケーブルを下へ伝っていって、オレンジ色のしるしのところまで行き、そこを掴んで、「三号錨」につなげ。分かったか」
「了解。出発します」
エンジンを全力回転にして引っぱりつづけると、さすがの橋も、じりじりと潮に逆らって引きずられ、とうとう正しい位置にもどった。そこに押さえつけているあいだに、『ペリウィンクル号』が、つぎつぎとケーブルを掴んでは、とりつけていった。潮流の下手のケーブルが全部とりつけられたとき、やっとガスは命令を出して、いままで引っぱりつづけていたケーブルの取り付け、固定作業を許可した。最初の一本が降りて、固定されると、ホッとしてかれは体をゆるめ、深い、体の震えるような呼吸をした。
「一隻やられて、乗員が死んだな」
と長い努力のすえ、やっと記憶がもどってきたガスは言ったが、オトゥールやほかの乗組員たちが、畏怖に似た気特で、こちらを見て、うなずいているのには気がつかない。するとオトゥールが、みんなを代表して、
「やりましたね。ワシントン大尉。地震に耐えて、やりましたね。ほかのだれにもできないことを大尉はやった。よい仲間が死んだけれど、あれはだれにもふせげなかった。しかし橋は、ちゃんと収まるべきところに収まった。これ以上の死傷者はもう出ない。やりましたね!」
と言った。
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4 実験の終り
「サニングデイルにつながりました。どうぞ電話室でお話しください」
とクラブの給仕が知らせてくれた。ガスはうなずいて、電話室のガラス・ドアに急いだ。皮張りの肘掛椅子がひとつあり、四方の壁は、にしき張りになっている。肘掛椅子に坐ると、ちょうど頭のくる、両側の、張り出したところに拡声機が内蔵されている。肘を掛けた指先のところにスイッチがあり、口の前にマイクロフォンがくる。ガスはスイッチを入れた。
「もしもし、こちらはワシントンですが」
「ガス、あなたですの? 電話をくださってありがとう。いま、どこにいらっしゃるのかしら?」
「クラブです、ロンドンの。ジョイス、あなたにお願いしたいことがあるんですが」
ガスはいままでに何度もジョイス・ボードマンに会い、ロンドンにきたときは昼食にさそい出していたが、それは、彼女がいまでもアイリスとよく会っているからだった。ジョイスは幸福な結婚生活に入っていた。彼女はガスがどんなに悩んでいるか、よく知っているので、アイリスの消息なら何でも知っているかぎり、くわしく話してくれた。話をきいても、べつに大した慰めにもならないけれど、きかないよりはましなので、本当の理由はけっして言わないが、ガスは、こういう食事を楽しみにしていた。ジョイスのほうも楽しみにしていた。電話の向こうで一瞬、沈黙があった。いままで、ガスが物を頼んだことなど一度もないのだ。
「もちろん、わたしにできることなら、よろこんでお役に立ちますわ」
今度はガスの沈黙する番だった。こういうふうに心の秘密を打ち明けるのは気まりがわるい。こぶしを握りしめる。しかし、言わねばならない。
「つまり、その、個人的なことで、もう、お察しがつくと思うのですが。新聞で知ってらっしゃると思うけど、トンネルはもうすぐできあがります。その最後の打ち合わせでロンドンに来たんですが、あしたの午前中にニューヨークに帰ります。それで一番列車とか何とかという問題はすっかりケリがつくはずで、ロンドンの用件もほとんど終りました。それで、わたしがしたいのは――それが、わたしには直接できなくて――どうでしょうか、アイリスと会えるようにしていただけませんか?」
と一気に吐き出して、フーッとガスは溜息をついて椅子にもたれかかった。ジョイスが笑っている。ガスは顔が赤くなるのを感じた。ジョイスがあわてた口調で、
「ごめんなさい、笑ったりして。じつは、あんまり変な偶然だったので、おかしくなったの。憶えていらっしゃるかしら。たしか、はじめてお会いしたとき、アルバート記念館でしたわね?」「そうです。あのときのことは忘れません」
「そうでしょうね。わかりますわ。でも、あのとき講演がありましたわね、哲学者で科学者で、ジューダ・メンドーザ博士という方が、とっても面白い時間理論の説明をなさったでしょう。あれから、博士の講演には、みんな出てますの。アイリスといっしょのことも、ときどきありました。ところが、きょうの午後、博士が霊媒のマダム・クロチルダといっしょに見えて、ちいさな夜会をすることになってますのよ。大きな観衆の前ではうまくいかないので、こういう催しになったわけですけれど、ほんの僅かしか客は見えませんの。もちろん、あなたも歓迎しますわ。二時なんですよ。アイリスも来ますわ」
「それは都合がいい。有難う」
「何をおっしゃるのよ。それじゃお待ちしてますわよ」
「くるな、と言われたって行きます!」
車に乗っているあいだも、列車で田舎を少し走るあいだも、窓の景色など全然見ず、ガスは心のなかばかりを見つめていた。どうしよう。何と言おう。われわれの未来は、サー・イザンバードの手に振られている。だがかれは、今朝会ったときでも不機嫌だった。もうトンネルは完成したのに。あの人は、一体、気特の変わることがあるのだろうか。変える気があるのだろうか。
おだやかな夏の日だった。カープを描く通りの両側の古い家々は色とりどりの一面の花々に囲まれ、ミツをたっぷり吸った蜂がブンブンと花に群れている。雨風にさらされた木の色、赤茶色の屋根のタイル、みどりの芝生、青い空と申し分ない気特のよい日で、ガスは元気が出てきた。世の中は、こんなにおだやかで、トンネルもほとんど出来あがったんだ。われわれのあいだも何とか話がつくに違いない。これまで、余りにも長いあいだ犠牲の日々を過ごしてきた。もうこれ位でケリをつけなくてはいけない。
ベルを鳴らすと、ひとりの女中が現われて、なかへ入れてくれた。ジョイスが床まで引きずる長いドレスを着て現われて、
「アイリスは、もうすぐ来ますわ。さあ、こちらへ来て、ほかの人たちにも会ってくださいね」と言った。
たいていは女性客で、知った顔はひとりもなく、口のなかで、「こんにちは」とガスは挨拶するだけだった。男の客が二人いた。顎ひげを生やした大学教授がひとり。背広の襟の折り返しに食べ物のカスをひっつけて、ドイツ語なまりのきつい男だった。ガスは、シェリー酒のグラスを受けとると、急いで、もうひとりの男の横に坐った。この人も研究畑の人だが、少なくとも噂は知っていた。オクスフォードのオール・ソールズ学寮の学長オールディス帥だ。姿勢のしゃんとした背の高い人で、鼻と顎の恰好が堂々としている。シェリー酒など口もくれず、大きなウイスキー・グラスを片手に握っている。こんなところへ来て何をしているのかとガスは一瞬不審に思ったが、そうだ、大学の研究のほかにこの人は、アージェントマント・ブラウンという筆名で、SFをたくさん書いているのだった、と思い出した。異世界の理論には、ずいぶん興味を持っているに違いない。二人は、しばらくのあいだ話をした。学長は、トンネルと、その技術面に強い興味を持っていて、ガスの説明を熱心にきいてはうなずいていた。話が終ったときにアイリスが入ってきた。急いで断りを言ってガスは立ち、彼女のそばに寄って、
「とても元気そうですね」
と挨拶したが、そのとおりで、両の目尻のこまかい雛のために、かえって彼女の魅力は増していた。
「あなたもお元気? トンネルの完成が近いって、父が言ってましたわ。とっても誇らしくて、なんとも言えない気特ですわ」
人前では二人とも、これ以上は何も言えなかったが、彼女の口には、もっと深い意味が表われていた。憧れと、孤独の夜のむなしさを訴える日だ。ガスはその目の色を理解し、たがいに少しも心の変わっていないことを察した。二言、三言かわしているうちに会が始まるという知らせがあった。窓にカーテンが引かれ、部屋のなかはぼんやりとした薄明りになった。みなが半円形になて[#ママ]、メンドーザ博士の前に坐る。博士は暖炉を背にして、モーニング・コートの尻尾の下にうしろ手を組んで、冷たい暖炉から暖をとるような姿勢で立っている。その横にソファーがあり、そこに、丸々と肥ったマダム・クロチルダが横になっていた。博士は大きな声で咳ばらいをした。あたりが完全に静まると、スカル・キャップをちゃんと載せるようにボンボンと叩き、ふさふさとした顎ひげをしごいているのは、ひげの存在を確かめるような仕草だ。それから話を始めた。「さて、きょうのこの席には、はじめての方の顔もありますが、おなじみの人たちも見えております。それでは、わたしどもの真剣な調査の結果を二、三、説明したいと思います。いま、わたしたちが生きているこの世界に対して、もっとも重大な意味を有するアルファ交点は、たったひとつしか存在しません。しかもそれは、わたしたちは知らないが、しかし、わたしたちのものと言えるもう一つの世界についても最も重大な意義を有するのであります。そのアルファ交点とは、一千二百十二年に殺された貧しい羊飼マーチン・アラーハ・ゴントランです。これから探求しようとする、このもうひとつの世界をアルファ2と、わたしは名づけておりますが、わたしたちのこの世界は、もちろんアルファ1であります。このアルファ2において、あの羊飼は生き、ムーア軍はナバス・ド・トロサの戦に敗れたのでした。その結果、スペインというキリスト教国がイベリア半島の一部に出現しました。現在のイベリア回教王領のあたりですが、それと共に、ポルトガルという、もうひとつの小さな国が生まれました。それから、いろいろな事件があって、これらの騒々しい、精力的な新興国家が拡張を始め、新世界に植民者を送りだし、そこで戦争を起こし、地球表面は変化を遂げるのであります。ここで、ちょっと英国を見てみましょう。英国はどうなったか。英国民はどうなったのか。ジョン・キャボットは南北アメリカを発見しなかったのか。英国の勇者たちはどうしたのかなどと盛んに、わたしは質問されます。その答えは、「チューリップ戦争」という妙な名の内乱に英国が衰弱するアルファ2の世界にあるらしいのであります。この内乱のこまかい点まではっきりとは分かりませんが――マダム・グロテルダにもはっきりしないのですが――英国はオランダではないのだから、たぶん、「バラ戦争」というのが正確でありましょう。英国の精力は内乱に消耗され、フランス王ルイ十一世は、その内乱にたえず関係して、老齢まで生きました」
「ルイ王は十九のときに天然痘で死んだが、けっこうなことだった」
とオールディス学長はつぶやいた。メンドーザ博士は、ハンカチで鼻をかんで、話をつづける。
「まだ分からない点がいろいろありますが、きょうは、その不明点を二、二明らかにできるだろうと思います。歴史を忘れ、スペイン語をしゃべるあの不思議なアズテック族、インカ族などというややこしい問題をすべて忘れて、今年の、きょうの、現在時点のアルファ2の世界の状態を説明しようというのであります。それでは、マダム、どうぞ」
みんながじっと見つめていると、博士は何度か念入りな催眠術の仕草を繰り返し、呪文をとなえて霊媒を催眠状態に引き入れた。マダム・クロチルダは、その小山のような胸の上に両手を組んでスヤスヤと眠りこみ、安らかな深い呼吸をしている。博士が彼女をアルファ2の世界に接触させようとすると、無意諭のうちに彼女は抵抗して、ピクビクと体を震わせ、頭を左右に振ったりする。ところが博士はがんばって彼女の逃げるのを許さず、ついにその意志を服従させると、彼女はおとなしくなった。
「話しなさい」という博士の命令に従わざるをえない。「いま、あなたは、わたしたちが知って、問題にしている世界に入った。さあ、まわりにその世界の有様が見える。その世界の様子、英国の様子、アメリカ植民地の様子について話し、わたしたちに報告するのです。その話が聞きたい。さあ、話すのです」
マダム・グロテルダは話しだした。ところが、はじめは何のことか分からない単語が飛び出してくる。前後の脈絡から外れた単語だろう。たわいない単音節語ばかりだが、そのうちにだんだんと言っていることがはっきりしてきた。
「ウウウ……ウウウ……ペニシリン、石油化学製品、物品購買税……所得税、販売税、炭痘熱……ウールワース店、マークス・アンド・スパークス店……空を飛ぶ大きな船、地上の大都会、人、人、人。ロンドン、パリ、ニューヨーク、モスクワが見える。変なものが見える。軍隊が見える。戦争、殺人、何千何万トンの爆弾が都会の上、人の上に降る。奴を憎め、奴を殺せ、毒ガス、細菌戦、ナパーム弾、爆弾、大きな爆弾、原子爆弾、水素爆弾、爆弾が降る、兵隊が戦い、殺し、死ぬ。憎む。それは、それは……ギャッ!」
最後は悲鳴になった。そして、何か目に見えぬ獣に振り回される大きな縫いぐるみ人形のように、マダム・クロチルダの体はソファーの上で、パタパタとノタ打ち回るのだ。ガスは思わず、そのそばへ駆け寄ったが、博士が手を振って断ろうとする。そこへ、この種の発作に備えて待機していたのだろう、台所にいた医者が顔を出した。ガスが席へもどりかけると、うしろの戸口のところに、おびえた顔が見えた。この家のあるじのトム・ボードマンだ。前に一度見た顔だ。おびえた目付きで、自分の家の客間の異様な光景を一目みると、二階へ飛んで逃げていった。メンドーザ博士は、ハンカチで顔をふきながら、また言いだした。
「これ以上は無理です。マダム・クロチルダは、どうしてもこの領域に近づきません。耐えられないのです。それはなぜか、それは明らかです。恐ろしい悪夢のような力が動いておるのです。聞いていて、われわれとしても、残念ながらある結論を出さずにはいられません。おそらく、こんな世界は存在しないでしょう。聞くだけでも恐ろしく、どうして、そんなことになったのか、とうてい想像もつかないからであります。ですからこれは、霊媒の無意識から発した奇怪な想像にすぎないのでありましょう。これはこの種の研究では、つねに警戒すべき点です。この問題は、できればもつと深く追究するつもりですが、成功の見込みはなさそうです。かつて、わたしが望んでいたようにこの世界と接触する望みは、ほとんどなさそうであります。むだな望みということでしょうか。われわれは、たとえ不完全なものでも、この、いまの世界に満足しなければなりません」
「もつとくわしい点は分かりませんか?」
とオールディス学長がきくと、
「お望みならば、お聞かせすることはできます。ですが、おそらくそれは現実よりはSFの題材にふさわしいものでしょう。ほかの人はともかく、わたしはああいう世界には住みたくないですね」
部屋の方々で同意のつぶやきが聞こえた。この機会にガスは、アイリスの手をとって、部屋のなかを通り、フランス窓を通り抜け、庭へさそい出した。技もしなうほど生ったリンゴの樹々の下を散歩しながら、さっきの変な経験の記憶を振りはらうようにして、ガスはいま自分にとって一番切実な間題を切りだした。
「アイリス、ぼくと結婚してくれませんか」
「したいわ。でも――」
「おとうさんのこと?」
「父はまだ具合が惑いの。それに働きすぎなの。父には、わたしが必要なんです。トンネルができあがったら、どこかへ転地に連れていって、引退させようと思ってます」
「さあ、引退なさるだろうか」
彼女はうなずいて、力なく首を横にふると、ガスの両手をとり、
「その自信はないわ。ねえ、ガス、こんなに何年も待って、結局、わたしたちの未来はないのかしら」
「そんなことがあってはいけないんだよ。一番列車が通ったときに、父上にぼくから話してみる。トンネルが完成したら、もう意見の食い違いなんて問題じゃないんだからね」
「でも、父には問題でしょうね。きびしい人だから」
「おとうさんの家を出て、結婚してくれないか」
「それはできないわ。人を傷つけて自分の幸福を求めるなんて、できないもの」
ガスの論理も彼女と同じで、それでこそ、いよいよ愛情も増すのだったが、しかし離ればなれでいなければならぬという彼女のその言葉には、心情的に耐えられない思いだった。引き裂かれた不幸な二人は、たがいに手を差しのべて、しっかりと握り合い、たがいの目のなかを見つめ合った。アイリスの目に涙はなかった。もう涸れ果てたのだろう。ひとつの雲が太陽にかかって、二人の上に闇が落ち、心のなかまで闇にそまった。
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5 すばらしい日
なんという日だろう。生きているのが、なんとすばらしく感じられる日だろう! きょうという日にめぐり合った子供らは、年老いてからも、この日の思い出が色あせることはないだろう。未来のある日、暖炉の火のそばに坐って、まだ生まれぬ子供たち、目を丸くして聴きいっている子供たちに、きょうのすばらしさを語って聞かせることだろう。ニューヨークの市役所公園に、明るく陽はキラめき、木々の葉に涼しいそよ風が渡り、ゆっくりと散歩するおとなたちのあいだを、子供らがフープを回して嬉々として走りまわっている。きょうの良き日に、いろいろな人びとが集まってきて、この小公園はまったく世界の縮図となっている。元の原住民レナピ・インディアンとか僅かばかりのオランダ人(剛胆にもかれらは、イギリス人に庄倒される前、ここに植民地を打ち立てようとした)、つぎにここに植民地をつくろうとしたスコットランド人、アイルランド人、そのほかヨーロッパ各国から渡来した移民の姿があって、歴史の一面が再現されていた。それに、まだまだ、ほかのインディアン部族の顔も見える。高い羽根飾り付きの帽子を、はなやかに、おごそかにかぶったアルゴンキン・インディアン。西のほうから来た「黒足族」、「カラス族」。さらにもっと西の奥のほうからやってきたプエプロ族、ピーマ族に、南から訪れたアズテック族、インカ族などの顔ぶれも見える。みな多彩な羽根作りのマントを付け、儀式用の斧、梶棒をたすさえて、輝くばかりのはなやかさである。もちろん棍棒には、恐ろしい黒曜石の刃のかわりに黒ゴムがはめてある。そのほかマヤ族などの南方から来た何百というインディアンの姿もあり、みなブラブラと歩きまわっては、おしゃべりをしたり、何か指さしたり、まわりの情景を楽しみながら見物したり、アイスクリーム、トウモロコシパン、ホットドック、トウモロコシ・ケーキ、焼肉パイ、風船、おもちゃ、花火、旗などの買物をしている。熱狂した子供らに追っかけられて、犬がなきながら走っていく一方で、きょうの酔っぱらい第一号が、ニューヨーク市の青服の警官に捕って、護送車へ引っぱられていく。何もかもが申し分なく、この世はじつにすばらしく見えた。
市役所の階段のすぐ前のところに観覧台ができて、金箔を貼り付け、旗が垂らしてある。観覧台の前のほうに、挨拶をする人のためにマイクロフォンがいくつも並べてあり、うしろで、オーケストラが元気よく演奏している。もう政治家が何人か式辞に立って、きょうのこの日のめでたさとか、自分の大功績について自画自賛の演説をしたが、そんなものは式辞のあいまに熱狂的に演奏される音楽と同様、だれも聞いているものはなく、背景音楽ていどの効果しかなかった。たしかに、音楽のひびきは楽しいが、そんなものは、ここに集まってきた大勢の人には、その場かぎりのものだ。かれらは、もっとほかの驚くべきもの、政治家や音楽よりもつと記念すべきものを見に来たのだった。それは列車、陽にキラめくあの列車である。ブロードウェイの中央にずーっと砂をまいて砂のなかに枕木を置き、そこに線路が据えつけてあるが、交通のじゃまになるなどとケチをつける人はひとりもいなかった。夜の間、列車は左右を行進する兵士にまもられて、ゆっくりと後退して朝を待っていたからである。いまその列車が姿を見せ、観覧台のすぐ前に最後尾車の展望台の手すりが来ていた。テラテラ光る車両の連なりが線路のずっと先に伸び、陽に照り映えている。車体は、大洋の濃い青のエナメルで塗られ、窓のまわりは白く縁どりがしてある。これがトンネルの正式の色である。各車両に、黄金の飾り文字で、誇らしく、「大西洋横断急行」と書きつけてある。車両も魅力的だが、しかし一番人だかりがあったのは機関車のまわりだった。柵にギユウギュウと押しつけられて見物人は見ているが、その柵の前に国民義勇軍第一近衛連隊の兵士たち、背の高いたくましい兵士たちが、ぎっしりと隊列を組んで警護に当っている、膝までの長靴、吊りベルト、儀式用斧、毛皮製軍帽、着剣したライフル銃を前に支えた物々しい恰好だ。しかしまた、なんという機関車だろう! イギリス区間の「ドレッドノート号」(無敵号)の姉妹機関車で、「インペラトール号」(皇帝号)と呼ばれているが、そのツヤツヤとした純銀の外装は、高慢なばかりの輝きを放っている。この大機関車の機関士は、なんでもマサチューセッツ工科大学出の博士だそうだが、「ドレッドノート号」同様、原子炉を動力としているから、その噂はほんとうだろう。
運のよい乗客たちが到着しはじめた。列車の裏側の空き地に、乗りつけた車をとめてこの列車に乗りこんでくるのだが、トンネル完成一番列車の切符を、なんとかうまく手に入れた金持ち、有力者、芸能人たちだ。いろんな有名人の乗車する姿を見て、群衆から歓声が上がる。市役所の尖塔の時計の針が発車時刻に近づくと、最後の式辞の大げさな文句の切れっばしが群衆の上に流れて、興奮は高まってくる。最後尾車の展望台に大西洋横断トンネル会社会長サー・ウィンスロップ・ロックフェラーが姿を見せて、式辞を述べているのだが、近くのものは、ちょっと関心があっても、一番うしろにずっと離れた人たちには聞こえない。やがてこの外側の群衆のなかにザワメキが起こり、突然、唱和する声があがり、だんだん、それが大きくなってきて、とうとう式辞の声が、ほとんどかき消されてしまった。
「ワシントン! ワシントン! ワシントン!」
と大歓声がひびき渡る。
ますます大きくなってきて、全聴衆が声をそろえだすと、サー・ウィンスロップは大衆の意志に敬意を表して、ニッコリと笑顔になり、片手をふってワシントンを前にくるよううながした。周囲の高いビルディングから、ドッと爆発するような歓声がおこり、よく肥えた鳩がいっせいに雲のように飛びたち、ハタハタと羽音を立てて飛び回る。歓声がつづき、また一段と高まると、ワシントンは両手を差しあげた。すると群衆は徐々に静まり、やがて完全に沈黙した。みんなが時の人ワシントンが何を言うか、それを聞いて記憶にとどめておきたいと願っているのだ。
「アメリカの同胞諸君よ、きょうはアメリカの日であります。このトンネルを掘り削り、アゾレス駅までの一マイル、一マイルを建設したのはアメリカ人であります。何人かのアメリカ人が工事途中に命を落としましたが、それは価値ある目的のための死でありました。われわれアメリカ人は、いまだかつて人類がなしたことのない業績を成しとげ、いまだかつて存在したことのないものを作り上げ、いまだかって無き勝利をかち得ました。これはみなさんのトンネル、みなさんの列車、みなさんの成功なのであります。と言いますのは、もしアメリカ人民の鉄のごとき意志の後押しがなければ、けっして、これは完成できなかったからであります。心からなる挨拶を送り、お礼をのべ、お別れを申し上げます」
ドッと歓声や拍手が起こってやまない。おかげでアメリカ植民地総督の式辞を述べる声が、すぐ前にいるものにもさっぱり聞こえないが、これは悲劇でも何でもなかった。その式辞が終ると、今度は総督夫人が進みでて、一言二言あいさつの言葉を述べると、列車にシャンペンの瓶を打ち当てて割った。やっと群衆が沈黙したのは、「インペラトール号」が、つんざくような汽笛の音をひびかせたときだった。そばにいた者が耳をおおったほどの物凄い音だった。公園の方々の柱にとり付けた無数のスピーカーから物音がひびく。この公園の同種の音と反響しながら、はるか遠くから渡ってくる物音である。つまり、ロンドンのパディントン駅から直接に放送されてくるラジオの信号音である。
「みなさん、御乗車ください」とニューヨークの車掌が言うと、大西洋の両端で乗務員の笛が同時に鳴りひびく。群衆は声をひそめている。もう列車の音だけしか聞こえない。ドアのしまる音、指図する声、またひびく汽笛の音があって、ついに時計の針が定刻をさすと、ブレーキのゆるむ音と深い金属音が起こって、両列車は、なめらかに動きだした。これを合図に、群衆が声もかれよとばかりに、いっせいに歓呼の声を上げ、走りさる列車を追って走りだし、熱狂的に手を振り立てている。こうなると、もうおさえることはできない。ワシントンはじめ、車上の名士たちは、展望台の上に降りた透明の天蓋のなかから、それに応えて手を振っている。旅は始まったのだ。
ハドソン川の下のトンネルに入るや、ガスはバーの設備をした車両に出かけた。ここに入ると、大きな拍手と挨拶の声に出むかえられ、たくさんのグラスを差し出されたので、二、三杯、それを受けて飲んだ。だがトンネルを抜けて、クィーンズ区に出てくるとガスは、あいさつをして自分の席にもどった。もどってきてみると、車室はからっぽで、オヤッと愉快な驚きを味わった。どうやら、みんなは、さっきの満員のバーに行っているらしい。そこでガスは、ひとり落ち着いて坐り、窓の外を飛ぶように過ぎてゆく小さな家々、ロング・アイランドの牧草地、農場などの景色を眺めていた。一方、顔のなかでも、いろいろな思いや記憶が万華鏡のように移り変わってゆく。とうとう完成したか。だが実感が湧いてこない。工事に投入された大勢の人間、何十万時間の苦しい努力、トンネル区分、レール、海底の浚渫作業、潜水艦作戦、線路の末端。何もかもが終ったのだ。顔、名前が頭のなかに渦まく。いまもし、かれがこの疲れに身をまかせたら、深く激しい疲労に押し流されてしまったことだろう。だがガスは、そうはならず、成功という現実に支えられて揚々たる気分だった。ついに大西洋トンネルの完成だ! ドッとくる激しい空気の流れと共に、列車はブリッジハンプトンでトンネルに入り、大西洋の浅い海底へくだり、ガスの頭のなかがどんどん早く動きだすのと調子を合わせるように、ぐんぐん、スピードを上げ、やがてまたスピードを落として、明るく陽の差すグランド・バンクス駅に達して、スルスルと構内にすべりこんだ。そのプラットホームの向かい側に、チューブ状の深海列車が待っている。ふつうのときなら、こちらの乗客がこの列車のところへ歩いていって乗りかえ、コンテナに詰めた手荷物も積みかえるという手順で、数分間ですんでしまうところだが、きょうは初列車だというので、乗客がこの人工島の見物ができるように一時間の余裕がみてあった。操車場、貨物集積場、漁船の水揚げするドックなどは、もういままでに充分見ているから、ガスは、プラットホームの向こうの深海列車のところにゆき、自分の座席にまたひとりで坐り、また深い物思いにとらわれていた。ほかの乗客たちがおしゃべりをしながら帰ってきて、深海列車の席につき、車内の豪華な設備を見て、オーッと感嘆の声をあげたり、空気制動のドアがスーッとしまるのを見ては、ホーッと感心したりしている。巨大なバルブが開く。車輪をもたぬ列車は、長いキラキラ光る鋼鉄の部屋のなかへ、フワリと浮かんで入ってゆく。ここは気密室だ。ドアが閉じられ、しっかりと封じこめられると、ポンプが動きだし、空気が除去され、列車全体が完全真空状態のなかで宙づりになる。このときやっと、もう一端のバルブが開いて、テラテラと光る銀色の列車は、その奥の真空トンネルのなかへすべりこんでいってスピードを上げ始めるのだ。どれほどのスピードなのか、車内では、いっこう感じられないが、それがかえってよく、ロレンシア沖積錐の斜面を走りおりるときのスピードはどんどん上がって、最大速度、時速二〇〇〇マイルちかくになっていた。窓の外は何も見えないから、すぐに乗客はあきてきて、急ぎ足で歩く給仕に食べ物や飲み物を注文したり、カードの封を切ってゲームを始めたりする始末だったが、ガスは外の景色が記憶に残っていた。海床を走る天井つきの溝が、オーシャノグラファー断裂帯の大きな谷に向かって突進してゆき、その中央部で浮き橋をわたる有様が目に浮かぶ。ここで何人かのりっぱな男が死んだのだ。列車は、いま、アッという間にそのトンネルをくぐり、その橋を渡り、もうアゾレス駅に向かってのぼり始めている。もう一度、ここで気密室にすべりこむが、今度は外から空気を入れるためだ。
乗客は知らないことだが、列車はブラベッジ・コンピューターの誘導で走っていた。このコンピューターが、途中の二つの駅での停車時間を調整し、列車の速度も制御していたので、いま大西洋横断急行のアメリカ発の列車がゆっくりと駅構内に入ってきたとき、同時に逆方向からイギリス発も到着して、同時に両列車はブレーキをかけ、大西洋の中間で、みごとに同時に停車した。 ここでは、二つか三つの式辞のために、ほんの数分間の停車しか予定されておらず、すぐに両列車は逆方向に出発することになっていた。ところが、ガスが向かい側の列車を眺め、その窓から手をふる大勢の乗客の姿を見ていると、ボンと肩をたたかれた。振り返ると、ひとりの制服姿の車掌が立っていて、
「ワシントン大尉、ごいっしょに来ていただけませんか?」
と言う。その声に心配そうな気配があるのを感じて、ガスは、すぐにうなずいて立ちあがった。ほかの人に聞かれなかったかと思ったが、べつにだれも気のついた者はなかったらしい。あたりの物珍しさに気をとられて興奮しているのだ。車掌は先に立っていって、プラットホームに降りるらしい。ガスは、そのうしろから何事なのか、と聞いた。
「どうもはっきりしないのですが、なにか、サー・イザンバードのことらしいんです。あなたさまをすぐ、お連れするようにとのことでした」
急いで向かいの列車のそばに寄ると、アイリスが現れて、ガスの手をとり車内の廊下の先まで引つばっていって、「父のことなの。また発作をおこしたの。あなたに会いたいと言っているのよ。お医者さまは……」と言いかけたものの最後までは言えず、いままで気丈に抑えていた涙があふれてきた。ガスは自分のハンカチを出して、軽く彼女の目をおさえてやり、
「さあ、連れていってください」と言った。
サー・イザンバードの車室には医者がひとりいて、窓にはカーテンが引いてあった。毛布にくるまれたサー・イザンバードの姿を見るなり、一目でガスは事態の深刻さを察した。大技師は体がちいさくなり、ぐっと老けたように見える。目を閉じ、かすかにあえいでいる唇に、はっきりと青い色が出ている。医者がグックリとしたその腕に注射を打っているので、それがすむのを待って、「おとうさま」とアイリスが声をかけた。それ以上言葉が出てこない。
目がゆっくりとあいて、しばらくこちらを見ていたが、
「お入り……二人とも……お入り。ドクター、どうも体に力が……力がない……」
「無理もありません。お分かりにならなければ……」
「体を支える物がいる……話ができるように。注射だよ、分かっているだろう」
「いま刺激をあたえるのは、これは、どうもよくないと思いますよ」
「もってまわった言い方だな……刺激すると死ぬということだね。まあ、それも仕方がない。とにかく死ぬ……もう少し、この体が動くようにしてほしい。それだけだ、わたしの望みは」
医者は、ほんの一瞬考えたが、すぐに決断を下し、カバンのなかから薬を出して用意をする。黙って見つめているガスとアイリスの前で、何本かの注射が打たれると、病人の頬にほんのりと赤味がさしてきた。
「うんと良くなったな」
ともがくようにして身を起こそうとする。
「一時的なものです。あとから……」
と医者は言うが、
「あとはあとだ」と幾分、病人は以前の調子を取りもどし、「ドクター、わたしはね、この一番列車で最後まで走るよ。なんなら、そのいまいましい注射を打ちつづけても終点まで連れていってもらうよ。さあ、ドクター、それじゃ、グランド・バンクス駅まで席を外してくれ。そこへ着いたら、また助けてもらって乗りかえるからね」と言って、ドアの閉まるのを待ってから、こちらを向いて、「わたしはバカなことをしてきた。いまやっと分かった」
「そんな!」
「いや、聞いてくれ。トンネルはできあがった。だから、われわれの喧嘩も終りだ。喧嘩したのならばだが。神の御前に出るときが迫ってくるにつれて分かってきたんだが、われわれのあいだの面倒は、わたしがきみの能力を認めなかったことに、ほとんどの原因があったと思う。そうだとすれば、すまないと思う。しかし、もっといかんのは、自分の利己的な気持で、二人の人間を苦しめてきたという気がするんだよ。このことは、ほんとうに、まったくすまないと思っている。いちじは確か、きみたち二人は結婚したがっていたと思うが、いまでも変わりはないかね?」
すぐにアイリスはうなずいて、片手を出してガスの手を握った。
「それなら、そうしなさい。何年も前にそうすべきだった」
「おとうさまを一人にしてほおけなかったわ。いまでも、そんな気特はないのよ。わたし、そう決心したのよ」
「バカなことを。すぐに結婚することだ。もう、わしのことは心配することはないのだよ」
「おとうさま!」
「そうだよ。わたしはもう逝くよ。そのほうがいいんだ。人間というものは、臨終の床でバカなことをして、笑いものになるか、バカだったことを認めるかのどちらかだ。そのあとは死ぬのがいいということだな。さあ、ドクターを呼んでくれ、もうちょっと助けがいる」
とっくに発作で死ぬところを、いままでもたせてきたのは、その弱った体のなかの強靭な意志の力だった。薬の力が助けになっているが、かれをいま支えているのは、その意志力だった。グランド・バンクス駅に着くと、ひとつの担架が待っていた。これに乗せられて病人は乗りかえた。ほかの乗客たちも、いそがしく乗りかえる。今度は見物している時間はない。ふたたび列車はトンネルに突入した。サー・イザンバードは呼吸するのに全意志力を注ぐ必要があるのか、カッと目を開いて前をにらんでいる。実際、生きつづけるのに意志力が必要なのだ。二、三分すると車室のドアが開いた。ガスが目を上げると、ひとりの青年が立っている。それを見てすぐにガスは立ちあがった。アイリスは、ていねいな会釈をした。
「どうか気にしないでください。わたしたちは、みな、サー・イザンバードの容態を心配しています。いかがですか?」
「まずまずでございます、殿下」
とガスは答える。
「それは、けっこうでした。ちょっと、ワシントン大尉。おひまがあるなら、わたしの母がお話をしたいと申しておるのですが」
二人が車室を出ていくと、アイリスが父親の冷たい手をにぎった。ガスが帰ってきた。
「どうだったね?」
と病人が、その足音に気がついて目をあける。
「じつにりっぱな女性です。工事完成の御祝辞をいただきました。それから、ナイト爵を授けるというお話でしたがー――」
「まあ、ガス!」
「それは辞退しました。もっとほかに頂きたいもの、わたしの国のために望みたいものがあると申し上げたところ女王陛下には、すっかりお分かりの様子でした。この工事が始まってから、独立の話が盛んに出ていて、外相のエイミス卿が、しきりに女王を説得されていたのです。英国よりアメリカ植民地のほうがいいと、卿は考えることもあるらしい、との陛下の御言葉でした。知らないところで事は進んでいたようです。これで、とうとう、アメリカは独立ですよ!」
「まあ、ガス。とうとうね! あなたの望みが、とうとう果たされたのね!」
「爵位を受ければよかったのに。植民地なんか放っておけばよかったんだ」
サー・イザンバードは窓の外に目をやってじれったがっていたが、ガスとアイリスは長い熱いキスをした。やがて、パッと一気に明るくなってトンネルが終ると、ロング・アイランドの緑のイモ畑が見えた。
「やあ、とうとうやったな。大西洋横断トンネル。大西洋の下を走りぬいたぞ」
とサー・イザンバードは満足そうに言い、ステッキの先で床をドンと突いた。
そして目を閉じてニッコリしたかと思うと、もう二度と、その目は開かなかった。
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わかれの言葉
チェシャ州の緑の田園に、教会の鐘が陽気に鳴りわたって人びとに呼びかけている。それを聞くものは、思わずニッコリとせずにはいられない。ブラシイ家先祖伝来のバルクリー屋敷のすぐ近くにあるこの教会は、古色蒼然としたノルマン建築で、まわりをこんもりとした生け垣や花々にかこまれ、道路からは、わずかにその塔しか見えない。教会の裏手には、手入れのゆきとどいたバラ園の、色とりどりの香りのよい花々に接した中庭がある。いまここに、三人の人が立ち、その二人の男が手を握り合っていた。
「きみには、いくらお礼を言っても足らないね」
とガスが言うと、
「バカ言え!」とアレック・ダレルが答える。「きみの役に立って、こちらがうれしがってるんだぜ。花婿の付き添い役っていうのは生まれてはじめてなんだ――じつは、教会へ足を向けたのも久しぶりでね。とにかくいろいろと役得もあった。ちょっと特別休暇ももらったし、前からほしいと思ってたモーニング・スーツも服屋のツケで買ったし、花嫁にキスするチャンスもあったからね。もういっぺんさせてもらうかな」とキスをすると、アイリスは目を輝かせて笑い声を上げた。白のレースに包まれた美女の幸福この上もないといった花嫁姿である。
「ほんとうに披露宴には出られないのかね」
「うん。もちろん出たい気特は山々だが、軍務があるからね。ふるびた『エリザベス女王号』とはおさらばしたんだよ。大西洋を牛乳配達みたいに、行ったり来たりするのはウンザリしてね。きみのあのトンネルを大勢の連中といっしょにくぐるのと変わりないかちな。なにしろ、ぼくのいるところは機関室だろ。それでまた軍人にもどったんだ。仲間は大喜びだよ」
「英国空軍は、きみなしにはやってはいけんと言ってるんだろう」
とガスが笑うと、
「そのとおり」とアレックは声を低くして、
「じつは、だれにも洩らしてはいけない秘密だが、もちろん新聞で読んで知っていると思うが、ほら、大陸でちょっとゴタゴタしているところがあるだろう。厄介なことというと、きまって外国人だが、フランスの問題が終つたと思ったら今度はザクセン人だ。プロシア人に劣らぬくらい悪いからね、この連中。ライン川越しに砲弾の売り買いをやっていたが、豚小屋や何やそういうものを吹っ飛ばしているうちは、だれも問題にしなかった。ところが、高性能爆弾で行楽地の町を攻撃したんだ。ホテルの正面を吹っ飛ばしたんだ。英国人がこの町にいるから、ほっとくわけにはいかん。もちろん引き揚げの最中だが、まだ残っている。それで海軍出動ということになったと言う奴もいるがね」
三人いっしょに庭門のところまで来ると、アレックはここでガスと握手をし、また厚かましくアイリスにキスした。おどろいたことに、だれも気にする様子がない。
「むかしの『カレジァス号』(勇者号)の姉妹号の、『インヴィンシブル号』(無敵号)というのに乗ってるが、両方とも同じものだと思っている連中もいるが、じつはちがうんだ。あらゆる点で、こっちのほうが十年は現代的にできてるね。ぼくの機関室は火夫が十人配属されているが、これで自動装置が故障しても、手でカマが焚ける。両翼に七つずつ、合計十四個の蒸気タービンがあって、これでプロペラをまわすんだ。航続距離は秘密だが、じつは相当なもんだ。備砲も相当なもんで、重機関銃に軽機関銃。二つの機尾の砲塔には小型機関砲、機首の砲塔には約7インチの無反動砲二門という具合だ。こいつでライン川の上を飛んでいって、奴らの船の鼻先へ、二、三十発プチ込んでやれば、まあ、英国人を砲撃するまえに考えなおすだろう」
と言うと、かれは小道を歩きだした。肩をグッと引いた、軍人らしいさっそうとした歩き方だが、振り返って、じつに軍人らしからぬ笑顔を見せて手を振った。幸福な新婚夫婦がたがいに腰に手をまわした姿で見送っているのを見ると、大声で、「アメリカ独立のお祝いを言いたかったんだ。ガス、大統領に立候補したらどうだ。ワシントン大統領というのは、ちょっと妙なひびきだが、わるくないぜ。きみならきっといけるぞ。がんばれ!」
口笛をふきながら角を曲がると、かれの姿は見えなくなった。
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訳者あとがき
作者ハリイ・ハリスン氏が一九三五年、アメリカ合衆国コネチカット州に生まれ、軍隊生活を経て、コマーシャル・アーチストの仕事をしたのち、SF作家の生活に入り、おどろくべき多作家ぶりを発揮し、SF作家協会長などを勤めながら、一九五〇年以降はヨーロッパに居住していること、および、作品の質、傾向、作品目録などについては、本SF文庫の、ハリスン氏の作品、ステンレス・スチール・ラット・シリーズの翻訳(那岐大訳)の各巻末の大和田始氏による解説にくわしいので、無知な訳者としては何も付けくわえることはない。
『大西洋横断トンネル、万歳!』は、「序」でオベロン・ウォーが解説しているように、一千二百十二年、ナバス・ド・トロサの戦いで、もしキリスト教徒軍が敗北していたならば、という仮定から出発する「もう一つの歴史」物語である。主人公オーガスチン大尉が、こんにちの非情で暴力的な同類とはちがって、知勇すぐれた英雄でありながら、心やさしき騎士的人物とされているのは、「もう一つの歴史」のヴィクトリア朝的環境から来る必然だといえばそれまでだが、たしかに、そこには一種の新鮮さがあり、また、こんにちの嗜好への批判が感じられる。
『SF百科図鑑』(サンリオ刊)によると、この小説は、ウォード・ムーアの『われらに祝典を』(World Moore:Bring the Jubilee)、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(早川書房)、(Fred Hoyle:The Man in High Castle)とともに、「もう一つの歴史」テーマの三大傑作ということである。読者の愛読を乞う。
一九七九年八月[#地付き]水嶋正路
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ハリスン・ノート[#地付き]水鏡子
1、「死の世界1」(1960)創元経理文庫
2、「ステンレス・スチールラフット」(1961)サンリオSF文庫
3、「殺意の惑星」(1962)早川文庫SF
4、「死の世界2」(1964)創元推理文庫
5、「宇宙兵ブルース」(1965)早川文庫SF
7、「人間がいっぱい」(1966)早川SFシリーズ
8、「テクニカラー・タイムマシン」(1967)早川文庫SF
9、「死の世界3」(1968)創元経理文庫
11、「囚われの世界」(1969)サンリオSF文庫
12、「ステンレス・スチール・ラットの復讐」(1970)サンリオSF文庫
13、「宇宙船ドクター」(1970)児童向。あかね書房
17、「ステンレス・スチール・ラット世界を救う」(1972)サンリオSF文庫
18、「大西洋横断トンネル、万歳!」(1972)サンリオSF文庫
23、「原子力衛星が落ちてくる」(1977)徳間書店
24、「ステンレス・スチール・ラット諸君を求む」(1978)サンリオSF文庫
訳出された長篇の数が十四。まだあと一、二冊紹介されそうな気配がある。ジュヴナイルや共作を含めても二十五冊にしかならないから、全体の三分の二近くが訳されたことになる。海のむこうで圧倒的な支持を受け、その熱気が日本にまで伝わってくる現代SFの立役者たちが、まあル=グィン、バラードあたりは別格として、いまひとつ紹介量に恵まれない現状を思えば、過分ともいえる待遇である。六〇年以降の長篇が十冊以上も訳されている作家なんて、あと調べてみると二人しかいない。キース・ローマーとロバート・シルヴァーバーグである。
四十年代にジョン・キャンベルJrの編集するアスタウンディング誌を中心に最初の黄金時代を築いたアメリカSFは、都会派と呼ばれるギャラクシイ誌、F&SF誌の参加した五十年代前半にひとつのピークを迎えた。それが五十年代後半から、マンネリ、二番煎じ、小手先のひねり、といった不満の声が聞こえてくるようになる。個々の作家をみれば、ウォルター・ミラーJr、コードウェイナー・スミス、アルジス・バドリスといったクセのある顔ぶれが結構並んでいるのだけれど、SF界全体として前向きに発展していこうといった活気に欠けている面があったのである。
こうした状況は、六〇年代後半になって大きく変わる。先進諸国を軒なみ襲った若い世代の造反の波がアメリカSF界にも押し寄せてきて、直接的にはイギリスの新しい波≠フ流入が引き金となって、エリスン、ディレーニ、ゼラズニイの三人に象徴されるアメリカ・ニューウェーブ派を中心とした二度目の黄金時代が始まったのである。
その熱気の中で様々な動きが起こってくる。ワークショップ、オリジナル・アンソロジィ、ミルフォード作家会議、アカデミズムの接近、等々。時代を代表する顔も、一方で保守派、ベテラン作家の奮起、巻き返しの動きを生みつつ、ウーマン・リブ運動と直接間接に影響を受けた女流作家群、ル=グィン、ウィルヘルム、ティプトリイらにバトン・タッチされていく。(その後、七〇年代後半から、アメリカSFは空前のブームの中で、むしろ低迷期に入ってきたようだ。) このようなアメリカSFの流れの中でのハリスンの動きを追ってみると、ジグザグの面白い軌跡を描くのだが、そのことは後に回して、処女長篇の発表時期を気にしてみたい。
一九六〇年。黄金時代にSFに狂いはじめ、低迷期のSF界にどっぷりひたりこんだ後の作品である。そして前にあげた二人の作家シルヴアーバーグとローマーも五八年、六二年に処女長篇を発表している。この三人を結びつけよう、というのは牽強付会にすぎる気もしないではないが、低迷状態に吹き込んでくる外からの風がなかったとすれば、こうした下り坂の時期にでてきた新人作家の目標とするのはまず何よりも面白い小説を書こうということだろう。それは彼らにとってのSFの世界やアイデアというものが視界を切り拓いてくれる衝撃性よりも、顔の中の子供部屋に散らばっているオモチャとしての親愛感の方が強いのと、二重三重のマイナー・チェンジが繰り返される状況に身を置いてきたこととの関連という形で考えてみたのだけど、いかがなもんだろうか。
ユーモアと冒険を身上に多彩なアイデアをかろやかに料理するローマー、ハムレットばりの深刻ぶったみけんのたてじわをポーズに趣向をこらしたメロドラマを披瀝するシルヴァーバーグ、次々と新しい題材に挑戦し、その度に作風さえも変えてみせるハリスン。このそれぞれに異なる持ち味の三人を項点に三角形を作ってみると、現代アメリカSFの良質通俗路線≠ニいうと語感が悪いが、物語性を重視するエンターテインメント・タイプのSFを大体包みこめる気がする。(対抗馬として、アシモフ・アンダースン・シェクリイ三角形というのはどうだろうか。アイデアとメッセージを核として、それをできるだけ効果をあげるよう型にきめる。結構を重視するエンターテインメント・タイプとでも言ってみよう)
こういう変な三角形づくりに走ってみたりするのも、実を申せば英米SFの流れの中でのハリスンの位置づけに悩んでいるせいである。一党一派の一匹狼というわけではない。保守本流キャンベル門下の優等生で、アナログ誌(旧アスタウンディング誌)の次期編集長候補の噂さえ流れた人間が、オールディスと意気投合してニュー・ウェーブの良き理解者となるのだから面白い。SF界のタブーを容赦なく攻撃しながら、実際の創作の立場はむしろ伝統に忠実である。六〇年代後半の第二期黄金時代に対しては批判派に回り、ネビュラ賞、ヒユーゴー賞を愚作ばかりが受賞するという理由で、今後自分の作品を賞の対象からはずす、と宣言したりする。
極めて頑固な保守派のくせに、好奇心旺盛で浮気性なところがある。そしてかなりのあまのじゃくでもある。だから、その作品をみていくと、いったいどのあたりがハリスンの核になっているのか、首をかしげてしまうほど腰がさだまらない。
作品はだいたい三つのタイプに仕切れる。
(1)、冒険を主体にしたアイデア・ストーリイで、全篇スポットをあてられっぱなしのいささか必死の感ある主人公の活躍で次第に世界の秘密が解き明かされていく。「死の世界」「ステンレス・スチール・ラット」「囚われの世界」などがこれにあたる。
(2)、近未来を舞台に、ひとつの事件の引き起こす波紋をじっくり書き込んでいく。「人間がいっぱい」「原子力衛星が落ちてくる」
(3)、「宇宙兵ブルース」「テクニカラー・タイムマシン」等の風刺味の強いユーモア、パロディ類。
本書「大西洋横断トンネル、万歳!」はやや異色だが、分ければ(2)に入るだろう。
そこに流れている姿勢は、まず面白いSFを書くこと、そしてSFらしいSFを書くこと、それからマンネリズムに落ち込まないことだろう。
現状に満足できなくて、更にすぐれたものを目指すという改良型ではない。そういう作家がしばしば同工異曲の単一パターンにしぼられてしまうのに対し、ハリスンは逆に同じパターンの話を作らないように努力しているようなところがある。
例えば三冊の紹介のある「ステンレス・スチール・ラット」のシリーズをみてみよう。もちろんこのシリーズの魅力は犯罪性向の強いヒューマニスト、<するりのジム>という主人公の性格に負うところが大きいのだが、彼を軸に展開していく作品世界はそれぞれ全く異なるビジョンを楽しませてくれる。第一作は主人公ジムとヒロイン、アンジェリナの一対一の智恵くらべ。第二作はひとつの国家の構造的弱点を突いて、自壊作用を生み出す話。三作目になるとガラリ変わって、タイム・パラドックス。懐かしい<時間の環>を編んでみせる。
あのナントカ・テーマというやつは、小説を外づらだけで区分けしていくようで、釈然としないものを感じるのが普通なのだけど、ハリスンに限っていえば、非常に都合がいいのである。どうもこの人、かつて自分の感動したそういったテーマ、アイデアをうまく消化して、再生産しようという形で小説を書いている気がするのだ。そうしたアイデアを処理するのにどういう作風が最適だろう? と逆に逆に話が酸成されていくような。
理由は二つ。テーマ、アイデアが実に幅広く、その関心のありかたに強い関連・方向性を感じとれないこと。登場人物の描き込み、みたいなことは「人間がいっぱい」が一番出来がいいと思うのだが、その後の作品の中には、かえって処女長篇の「死の世界」よりも薄っぺらいキャラクターがうろつきまわったりする。テーマに応じて調整しているとみて間違いないと思う。こうしたことがひとつ。
二。テーマがモロなんですな。正面きって持ち出してくるものだから、ものによっては陳腐ときめつけられても仕方ないものまである。「人間がいっぱい」人口爆発。「死の世界」「殺意の惑星」生態学的テーマ。「囚われの世界」――これはテーマをいうと、話が半分割れてしまう。半村良の「妖星伝」のメイン・アイデアのひとつと似かよったトリックが仕掛けられていることだけを付け加えておこう。「原子力衛星が落ちてくる」題名通り。それにパラレル・ワールドの物語である。本書「大西洋横断トンネル、万歳!」(最近はパラレル・ワールドという言葉も廃れつつあるようで、オルタネイティブ・ユニヴァース、改変宇宙というのをよく目にする)つながりのないそれぞれ別個のテーマに、正面きって向かっていくってのは、よほど総体としてのSFに愛着をもっていなければできない不経済なやりかただとは思えませんか?
そろそろハリスンの特長をまとめてみよう。
まず根本的には保守的な作家だということである。理想とするのは四十年代SFの感動の復活ということだろう。F&SF的な文学的なSFでもなく、ギャラクシイ的な社会派でもない、あくまでアナログ=アスタウンティング・タイプの”本格SF≠ナある。但し四十年代SFのイミテーションを書くほどの馬鹿ではない。常に新しい時代のセンスを取り込みながら、その核となる部分にはアナログ的な”本格SF″が息づいていることを要求する。
ところがこうした伝統尊重主義者でありながら、権威とかあるいは自由を束縛していく動きに対しては非常に強い反発をする。ある意味ではいかにもアメリカ人的といえる。それがSF界への一連のタブー批判や、極めてリベラルな(但し公式主義的な)政治姿勢、ハインラインの「宇宙の戦士」を徹底的にパロい風刺した「宇宙兵ブルース」のような作品を産む原動力になっている。
ただし、小説の結構といった面になるとかたくなに保守的になる。読者が途中でほりなげかねない実験的手法はオールディスとの長いつきあいにもかかわらず、ほとんど使用したことがない。(これはもしかするとオールディスが、今の道をいったほうがいいとハリスンに忠告しているような気がする)「人間がいっぱい」「宇宙兵ブルース」というオールディスと出遭ったばかりの昂揚気分横溢期をはずすと、どの長篇もみんなハッピー・エンドというのも、これはちょっといただけないのだけど、ハリスンの創作倫理の一端をみせている。実は「殺意の惑星」というのがとても好きなのだが、この小説で、格調高い悲劇となって幕を降しそうにみえて、どたん場でディック顔負けの崩壊感覚を味わわされて唖然とした経験がある。
最後の特徴としてあげたいのは多方面にわたる好奇心と知識欲である。例えば「人間がいっぱい」の巻末には三十冊を越す社会学系統の参考文献が挙げられているが、「死の世界」や「囚われの世界」の生物学的知識、あるいは政治学、民俗学、経済学と例をあげていくときりがない。本書でもトンネル工学の説明、巧みに仮構されたもうひとつの歴史、その中での政治的経済的網の目、そしてヴィクトリア朝風俗。(最後のは明らかにイギリス作家たちのノスタルジィが伝染したものである。C・プリーストの「スペース・マシーン」などとくらべてみるとおもしろい)とにかくこうした大量の知識が、次々事件が待ち受ける起伏に富んだストーリイの中にはちきれんばかりにつめ込まれている。成功すれば配慮の行き届いた立体感あふれる力作になるが、下手をすると多くのことを語ろうとしすぎてかえって全体がばらついてくることがある。どの作品がどうだとは言わないことにしておこう。
しかし知識欲、必ずしもいい面ばかりとは言えないようだ。ハリスンの場合、知識に引っぱられ、振り回されているようなところも多分にある。ミイラとりがミイラになるということですな。とくにぼくが反発を感じるのは、評価する人の多い、リベラルな政治的発言の部分である。小説の面白さというのは構築された架空世界を味わうということだと思うのだけど、そのひとつの重要な要素として作者の生き方、人生観が吐露されて読者に共鳴を起こさせるという面がある。そういう風な箇所で朝日新聞かなんかの論説風なフレーズが並ぶとちょっと白ける。喋っている内容がどうのというのではなく、作者の生の声のもつ親しみが型通りの演説風文章のせいで消えてしまうことがときどきある。題材が割とジャーナリスティックな場合が多いだけ、余計そう感じるのかもしれないが。
ハリスンの作品の質は安定して、総じて高い。SFの伝統を背負いつつ、現実世界の多方面に強い問題意識を抱いている作家というのは確かに貴重な存在だ。しかし、彼のあの該博な知識と強い現実認識とテクニックを思うとき、彼が深く沈潜し、あの知識を自在に駆使して、彼にとつての根源的なテーマ、それがなにかは見当がつかないが――を追求していけば、きっとおそるべき傑作が生まれるにちがいない。
じっくり腰を据えたハリスンを。
ハリスンの中短篇は全体にメッセージ色が強くてそんなに好きではない。ただ一篇だけお勧めしたい作品がある。
The Streets of Ashkelon「異星の十字架」(SFマカジン74年9月号 浅倉久志訳)
機会があれば一度読まれるといい。ハリスンという作家のイメージがまたちょっとちがってくるのではないかと思う。
底本:
(一般小説) [ハリイ・ハリスン] 大西洋横断トンネル、万歳! [1972] (サンリオSF文庫).zip 39,426,486 ae9190409c86d1028e653a9912ea93be2e5b876b
公開:2011/02/10
入力:スチール
校正:2011/03/21 スチール