白鹿亭綺譚    ハヤカワ文庫SF404 アーサー・C・クラーク/平井イサク訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 本文中の《》を〈〉に置き換えた 《》:ルビ (例)臨界量《クリティカル・マス》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)まさに|危険な集団《クリティカル・マス》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置、画像の指定   (数字は、ユニコード) (例)※[#木+垂 unicode68f0] ------------------------------------------------------- [#表紙 <"img\TALES_FROM_THE_WHITE_HART.jpg">] [#改ページ] [#ページの左右中央]     ルーと木曜日の夜の常連たちに [#改ページ]    はじめに  ここに集めた物語は、一九五三年から一九五六年の間に、地球上のさまざまな所、ニューヨーク、マイアミ、コロンボ、ロンドン、シドニー、その他もう忘れてしまった所などで、それぞれ一気呵成に書きあげたものです。奇妙なことに、「登ったものは」を書いた時、私はまだオーストラリアへいったことがなかったのですが、中には、その土地の影響がはっきりと出ているものもあります。  荒唐無稽なSFとでもよぶべきものには、まだのびる余地――というか、長い間感じられないできた℃要といったようなもの――があるように、私には思われるのです。ここで私が荒唐無稽な物語というのは、故意に、信じられないように作りあげた物語であって、あまりにもよくお目にかかるような、意図せずにそうなってしまったものではありません、と同時に、完全にありうることから、まったくありえないことまで、それこそありとあらゆるものがいりまじっている。ここに集めた物語において、どこにもっともらしさという大分水嶺がくるのかをここではっきりさせるのは、ご勘弁ねがいたいと思います。  すくなくとも二つの物語において、私がここに集めた作品を書いて以来、科学は私に追いついてしまいました。「ビッグ・ゲーム・ハント」に措かれている技術は、すでに猿に使われているので、ほかの動物には応用できないと考える理由はありません。この種の狩猟のもっとうまい結末としては――それに、ハーマン・メルヴィルからの引用の残りを読みたい方には――私の長篇『海底牧場』をおすすめします。  しかしながら、もっとも身の毛もよだつような発見、水爆などという、ちょっとした脅威などで頭を悩ませなくなるような発見が行われたのは、「特許出願中」でふれた分野です。私たちの文明に終止符をうつことになるかもしれない研究の最初のリポートは、ジェームズ・オールドの記事、脳の快楽中枢≠フ中に見出せるでしょう(サイエンティフィック・アメリカン、一九六五年十月号)。かんたんにいえば、ねずみの脳のある特定の部分に通じられた電流は、はげしい快感を生みだすことができる、ということが発見されたのです。実際、小さなペダルを踏めば刺激をうることができるということを知ると、ねずみはそのほかのことすべてに興味を失ってしまうのです。食べ物にさえも。その記事を引用させてもらいます。腹をすかせたねずみは、食べ物にかけよるよりもはやく、電気刺激器にかけよった。実際に、腹をすかせたねずみが、目の前にある食べ物を無視して、電気的に自らを刺激する方をえらんだこともめずらしくなかった。一部のねずみは、連続二十四時間にわたって、一時間に二千回以上も脳を刺激したのである  その記事は、次のような不吉な言葉で終っています。猿に対しても、脳を刺激するという作業が充分に繰りかえされた。ということは、いずれ、それが人間にも応用できると考えてもいいわけである。もちろん、修正が必要ではあるが 「特許出願中」のテーマを最初に使った作家は、フレッチャー・プラットとローレンス・マニングで、一九三〇年代のことだったと思います。(使ったといっても、実際に書いたという意味で脳波記録装置で調べればわかったかもしれないような使い方ではありません)。さらにごく最近『]・Pで幸福を!』の中で、シェパード・ミードが、同じテーマを、私よりもはるかに品なく扱っています。オールド氏の記事を読むまで、私は彼の作品を非常にこっけいだと思っていたのです。読者諸兄姉は、今から読んでもこっけいだと思われるかもしれません。  もう一つ、私が創造力を誇れないものは、「冷戦」の中の新聞の引用です。あれはまったくほんものなのです。あるいは、実際にほんとうにあったことだったのかもしれません。  この本の題名を数年前にきめた後、スプレイグ・ディ・キャンプとフレッチャー・プラットが『ギャヴァガン亭綺譚』を出した時には、いささか当惑したということを告白しなければなりません。しかし、コーハン氏の店における奇妙な出来事の大部分は、超自然現象に関することなので、二軒の酒場が両立する余地は充分にあると思います。とくに、二軒の店は大西洋という広い海でへだてられているのですから。  最後に、人類の運命≠ニか、宇宙の探険≠ニいったようなテーマに夢中になっていた私が宇宙や人類をあまりにも気安く取り放っているのを知って悩むかもしれない、私の(ここでちょっと言葉を切って、照れくさそうに咳ばらい)これまでのもっとまじめな作品の読者に一言。(以上、売り込み)。私がこのような作品を書いた唯一つの言い訳は、サイエンス・フィクションとユーモアは両立しないと主張しつづけている批評家どもに、ここ何年か、私は腹をたててきた、ということです。  これで、彼らとしては、その主張の正しさを証明する機会にめぐりあえたわけですから、もう黙ってもらいたいものです。  ニューヨークにて、一九五六年十月 [#改ページ] [#ここから5字下げ]  目 次[#ページ数は底本のまま] はじめに………………………………………………五 みなさんお静かに…………………………………十三 ビッグ・ゲーム・ハント…………………………三五 特許出願中…………………………………………四七 軍拡競争……………………………………………六七 |臨 界 量《クリティカル・マス》…………………………………………八三 究極の旋律…………………………………………九七 反戦主義者………………………………………一一一 隣りの人は何する人ぞ…………………………一三一 とかく呑んべは…………………………‥……一四九 海を掘った男……………………………………一七一 尻ごみする蘭……………………………………一九九 冷戦………………………………………………二一七 登ったものは……………………………………二三一 眠れる美女………………………………………二五一 アーミントルード・インチの窓外放擲………二六九  解説/安田 均………………………………二八一 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央]    白鹿亭奇譚 [#改ページ] [#ページの左右中央]    みなさんお静かに      Silence Please [#改ページ]  フリート・ストリートからエンバンクメントに通じている、名もない裏通りの一つを歩いていくと、ひょっこりと〈白鹿亭〉の前に出る。が、その場所をここで説明しても、何の役にもたたない。これまでに、ついにこの店を探しあてたのは、いかなる艱難辛苦にもめげず、何としてもたどりつこうと心に誓って出かけてきた、ごく少数の人びとだけなのだ。はじめの十回ほどは、案内人がいなくてはとてもむりだろう。その後は、目を閉じて、本能の命ずるままに歩いてくれは、まずたどりつける。さらに、腹蔵のないところをぶちまければ、わたしたちとしては、これ以上、客が来てほしくないのだ。すくなくとも、わたしたちの集まる晩には。今でさえすでに込みすぎているくらいなのである。店の場所については、時どき、新聞社の輪転機の震動で揺れることがあり、殿方とかいた小部屋の窓から首をのはすと、テームズ川がちらっと見えるということだけで、ご勘弁ねがいたい。  外観は、どこにでもある酒場《パブ》とすこしもかわりはなく、実際にも、週のうち五日は、ごくありきたりの酒場なのだ。大衆酒場《パブリック・バー》も高級酒場《サルーン・バー》も一階にあり、どこの酒場でも見られるオーク材の板壁、くもりガラス、カウンターの後ろにならんだ酒びん、ビールを樽から汲みあげるポンプの把手など、ごくありふれた情景が目に入る。かわったところなど、何一つない。実際のところ、二十世紀という時の流れに対する譲歩を示しているものといっては、大衆酒場に据えられたジューク・ボックスしかなかった。それも戦時中に、アメリカ兵たちに故郷《くに》にかえったような気分を味わわせるという、笑止千万な理由から据えられたものであり、わたしたちがまず最初にやったことの一つは、それが二度とふたたび音を出すという危険がないようにすることだった。  ここで、わたしたち≠ェ何者であるかを明らかにしておいた方がいいだろう。しかし、〈白鹿亭〉の常連のすべてをここで紹介することはおそらく不可能だろうし、死にそうに退屈なことだということは間違いないので、それは思っていたほどかんたんなことではない。そこで、ここでは、わたしたち≠ェ、三つの職業分野に大別できるというだけにとどめておこうと思う。まず、新聞記者、作家、編集者の類《たぐ》い。新聞記者は、いうまでもなく、フリート・ストリートから流れついた連中である。いたたまれなくなった連中はどこかへ逃げだしていき、図太い連中だけがいついていた。作家連中はといえば、作家仲間からわたしたちのことを聞き、ねた探しに来て泥沼に足を踏みこんでしまったものが多かった。  作家が集まるところには、当然のことながら、遅かれ早かれ、編集者が集まってくる。もし主人のドルーが、この店で商談の成立した原稿料の何パーセントかを徴収していたら、大金持ちになっていただろう。(それがなくても、しこたま金を持っているのではないかと、みんなはにらんでいたが)。怒った作家が五、六人で、顔をこわばらせた一人の編集者を〈白鹿亭〉の片隅でつるしあげているかと思うと、別の片隅では、怒った編集者が五、六人で、顔をこわばらせた一人の作家をつるしあげているなどということは日常茶飯事だと、常連の才人の一人がいったことがあった。  こういったところが、文学関係の常連である。いずれ、彼らのクローズ・アップはいやというほど見せつけられる、ということを警告しておいた方が親切というものだろう。ここで、常連の科学者を一わたり眺めてみよう。彼らはどうやってこの酒場へ流れついたのだろうか? バークペック・カレッジは道路をへだてて向い側だし、キングズ・カレッジはストランド街をほんの二、三百ヤードいったところなのだ。たしかに、こういったこともかれらが集まってきた理由の一部であることは間違いないのだが、ここでもまた個人的な紹介があずかって力があった。さらに、常連の科学者が作家であり、常連の作家のなかにも、科学者がかなりいた。ややこしい話だが、そこがまたわたしたちの気にいっている点だった。  わたしたちのささやかな小宇宙の第三の構成分子は、好奇心旺盛なお素人衆≠ニでもいうべき人種だった。わたしたちのばか騒ぎに惹かれて〈白鹿亭〉に顔を出し、みんなが集まる水曜日の晩にはかかさずやって来るほど、わたしたちとのおしゃべりやつきあいをたのしむようになった連中である。時には、わたしたちのような輩《やから》にはとてもついていけないというわけで、落伍するものもあったが、つねに新顔が控えていて、にぎやかさはいっこうにかわらなかった。  これだけの顔ぶれが揃っているのだから、水曜日の晩の〈白鹿亭〉が談論風発、退屈するということをまず知らないというのもおどろくにはあたらない。そこでは、数々のおどろくべき話が披露されてきたばかりではなく、おどろくべきこともこれまでに何度か起こっていた。たとえばハーウェルへむかう途中に立ち寄った某教授が、ブリーフケースを忘れていったことがあった。そして、その中には――。まあ、その時、わたしたちは中身を調べたのだが、ここでは、そこまでいわない方がいいだろう。とにかく、興味津々のものが出てきたのだ。また、ソヴィエトのスパイも、わたしに会いたいと思えば、ダートボードの下の片隅でかんたんにつかまえられるというわけである。インタヴュー料は高いが、ご予算に応じて、延払いという手もないわけではない。  この名案が心にうかんだ今、仲間の同業者がこれまでに一度もこういった話を書かなかったということは、信じがたいことのように思われた。あまりに森に近づきすぎたために、木が見えなかったということなのか? あるいは、書かなければならない動機がなかったということなのか? いや、最後の説明は、まず納得できなかった。常連の何人かは、わたしにまけないくらい金に困っていて、わたしにまけないくらいはげしく、ドルーの貸売りお断り≠ニいうやり方に文句をつけているのだ。こういったことを、使い古したレミントン・ノイズレスでたたき出しながら、わたしが怖れている唯一つのことは、ジョン・クリストファーか、ジョージ・ホイットリーか、ジョン・ベイノンがすでに最高のねたを使って、懸命に原稿を書いているのではないかということなのである。たとえば、フェントン・サイレンサーのようなねたを使って――。  いつからそういうことが始まったのかは、わたしにもわからない。どの週の水曜日も、いずれ似たりよったりなので、何月何日の水曜日ということを思い出すのは、なかなかむずかしいのだ。その上、誰かが〈白鹿亭〉の常連のなかにまぎれこんでも、その存在に気づかれるまでに、二、三カ月が過ぎ去ってしまうこともめずらしくないのである。ハリー・パーヴィスの場合も、そうだったに違いない。わたしがその存在にはじめて気づいた時、すでに常連の名前をほとんど知っていたからである。名前を知っているといえば、今では、彼はわたし以上に詳しかった。  しかし、いつだったかは憶えていないが、それがどのように始まったかははっきりと憶えている。バート・ハギンズが、というよりも、さらに正確にいえば、その声がきっかけだった。バートの声は、あらゆることのきっかけとなるのだ。ないしょ話にふけっているそのささやき声は、一個連隊全員の訓練にあたっている特務曹長の声のようにとどろきわたった。そして、彼がすっかり手綱をゆるめると、耳の奥の小骨がしかるべき位置にふたたびおさまるまで、あらゆるところで話が途絶えた。  バートがジョン・クリストファーに対して腹をたて(といっても、われわれのすべてが、彼に対しては、一度は腹をたてずにはいられなかったのだが)、その結果として、当然起こる爆発がサルーン・バーの奥で行なわれていたチェスの邪魔をした。例によって、岡目八目、にぎやかな見物人がたかっており、バートの大音声が頭上をこえていくと、みんなびっくりして顔をあげた。その残響が消えると、誰かがいった。 「奴をだまらせる手があればな」  ハリー・パーヴィスが答えたのは、その時だった。 「あるさ」  その声に聞きおぼえがなかったので、わたしは店内を見まわした。すると、小柄な、きちんとした身なりの、三十代も終わりに近い男が目に入った。彫刻のあるパイプ、見るたびに、カツコー時計とシュヴァルツヴァルトを思い出させる、例の彫刻をほどこしたドイツ風のパイプをくわえていた。彼の身のまわりで、自由な雰囲気を感じさせるものといえば、そのパイプだけだった。それがなければ、公共会計委員会に出席するために、一張羅を着こんだ大蔵省の小役人といったところである。 「何だって?」と、わたしはいった。  ハリー・パーヴィスはそれを無視して、パイプに微妙な修正を加えた。それが、わたしの思っていたように木に精巧な彫刻をほどこしたものではないということに気づいたのは、その時だった。それははるかに複雑なもの、小さな化学工場とでもいうべき、金属とプラスチックのあやしげな仕掛けだったのである。二つ三つ、小さなヴァルヴまでついていた。まさに化学工場。  わたしはやたらときょろきょろする男ではなかったが、好奇心をかくそうとはしなかった。ハリーは見くだすような微笑をなげかけると、「すべては科学のためなんだ。生化学研究所が考えたことなんだよ。たばこの煙に、いかなるものが含まれているかを見つけ出そうってわけでね。それで、こういったフィルターがついているんだ。例の議論は知ってるだろう。喫煙は舌癌のもとになるか? そして、もしそうだとしたらいかにして、ってやつき。ちょっとした副産物の中には、何度も蒸溜しないと正体のつかめないものがあるっていうのが厄介なところでね。それで、盛大にたばこを吸わなきゃならんていうわけなんだよ」 「途中にそんなややこしい配管がしてあったんじゃ、喫煙のたのしみがそがれやしないか?」 「さあ、どうかな。わたしは実験を買って出ただけなんでね。ほんとはたばこを吸わないんだ」 「ほう」と、わたしはいった。しばらくは、そのほかに答えようがないように思えた。が、やがて、何がもとでわたしたちのやりとりが始まったかを思い出した。 「きみは――」と、わたしはいささか感情をこめてつづけた。左の耳に、まだかすかに耳なりが残っていたからである。「バートをだまらせる方法があるっていったね。ぜひ聞きたいもんだ」 「あの不運に見舞われたフェントン・サイレンサーのことを考えていたんだよ」と、彼は二、三回、煙を吸ったり吐いたりしてみてから答えた。「聞くも涙の物語なんだ。が、そこには、われわれみんなに対する、興味のある教訓が含まれているように思えるんだな。それに、いつの日か誰かがそれを完成して、全世界の祝福をうけないともかぎらないしね」  パーヴィスがパイプを吸うと、ごぼごぼ、ごぼごぼ、ぼこん――。 「その話を開かせてもらおうじゃないか。いつのことなんだ?」  パーヴィスは溜息をつくと、 「いわなきゃよかったと思ってるくらいなんだ。しかし、きみがどうしてもというんなら、それに、もちろんここだけの話ということにしてもらって――」 「そうだな……それはもちろんだ」 「まあ、ルーバート・フェントンは、うちの研究所の助手だったんだよ。機械のことに詳しい、頭のいい青年だったんだが、理論の方には、あまり明るくなかったようだな。暇を見つけては、いろいろな装置を作ってたんだよ。たいていの場合、アイデアはすぐれているんだが、基礎がしっかりしていなかったんで、うまくいったことはほとんどなかったんだ。ところが、そんなことでは、いっこうに落胆しないんだな。自分のことを、現代のエジソンか何かだと思いこみ、研究所にころがっている、ラジオの真空管その他のがらくたで、一財産作れると思いこんでいたんだ。何やかや作るといっても、それで仕事の方をおろそかにするということはなかったんで、誰も文句はいわなかったんだよ。実際のところ、何ごとにせよ、熱中するというのは気持ちのいいものなんで、物理の実験をやってる連中なんか、大いに応援したものなんだ。しかし、ex[#「x」は指数]の積分すらできないような男だったんで、りっぱな成果をあげると思っていたものは、一人もいなかったんだな」 「そんな無知な人間が、この世の中にいるのか?」と、誰かがあえぐようにいった。 「まあ、すこしいいすぎかもしれないな。xex[#最後のxは指数]の積分といいかえよう。とにかく、彼の知識は実際的なことにかぎられていたんだよ。実地の経験から得た知識だけにね。たとえば配線図をわたしてやれば、たとえそれがどんなに複雑なものでも、ちゃんと仕上げてくれるんだな。しかし、テレビのようにごくかんたんなものでないかぎり、その原理を理解することはできなかったんだ。問題は、彼が自分の限界を心得ていなかったということにあるんだよ。そして、それが、いずれわかることだが、彼の命取りとなったんだ。  わたしとしては、物理の優等卒業生が何か音響学の実験をやってるのを見ているうちに、そのアイデアをつかんだに違いないとにらんでるんだよ。もちろん、諸君も、干渉現象というのがどんなものかぐらいは知ってるだろうな」 「もちろんさ」と、わたしは答えた。 「ちょっと待ってくれ!」と、勝負をつづけるのをあきらめたチェス・プレーヤーの一人がいった。(おそらく、負けていたのだろう)。「ぼくにはわからないんだ」  パーヴィスは、そういう人間はペニシリンを生み出した世界に生きている権利がないとでもいうような目で、彼を見た。 「そういう人がいるんなら」と、パーヴィスは冷やかにいった。「すこし説明しておいたほうがよさそうだな」彼はいきりたったわれわれの抗議をしりぞけると、「いや、一応、説明させてもらうよ。そういうことがわからない人たちにこそ、知っておいてもらいたいことなんだからね。誰かがあわれなフェントンに、手おくれにならないうちに、その理論を説明してやってさえいたら――」  パーヴィスほ今や消えいりそうな風情を見せているチェス・プレーヤーを見おろした。 「諸君がはたして」と、彼は口をきった。「音というものの性質を考えたことがあるかどうか、わたしは知らない。ここでは、音というものは、空気中を移動する一連の波から成っているというだけにとどめておこう。しかしながら、ここでいう波とは、海の表面に見られるような波ではない。まるで別のものなんだ! ここでいう波は、上下動なんだな。音波は、交互に起こる圧縮と希薄化《レアリファクション》から成っているんだ」 「レア何だって?」 「レアリファクションだよ」 「レアリフィケーションじゃないのか?」 「そうじゃないんだ。そんな言葉があるかどうか、あやしいものだと思うが、もしあるとしたらあること自体、間違ってるんだよ」と、パーヴィスはとくに不愉快な新語を抹殺するサー・アラン・ハーバートのように、泰然自若としてやりかえした。「どこまで話したっけ? ああ、音の説明をしてたんだな。とにかくわれわれが音をたてると、ごくかすかなささやきでも、今聞えたような大衝撃でも、一連の圧力の変化が空気中を移動するんだ。貨車入れ換え用の機関車が引込線で作業しているのを見たことがあるかな? あれとまったく同じことなんだよ。貨車が連結されてずらっとならんでいる。その一方の端に衝撃が加えられると、まず最初の二台の貨車がいっしょに動く。その後、圧縮波が貨車の列づたいに移動していくのが目に見えるわけだ。そして、その裏側で、逆のことが起こってるんだよ。貨車がふたたびはなれるとともに、希薄化《レアリファクション》、繰りかえしていうが、希薄化《レアリファクション》が起こってるんだ。  音の出所が一つの時、一組の音波しかない時は、話はかんたんなんだ。しかし、同じ方向にむかう、二つの音波のパターンがあったら、どうなるか? そうなると、干渉現象が起こるんだ。そして、それを説明するちょっとした実験は、基礎物理の方でいろいろと行なわれているんだよ。ここで頭にいれておかなければならないのは、一つの事実、これには諸君も同意するに違いないと思われる、一つの事実だけなんだ。それは、もし二組の音波をぴったりと重ねあわせることができれば、その結果はまさに何もなくなってしまう、ということなんだよ。一つの音波の圧縮波動が、もう一つの音波の希薄化した波動の上にかさなる。その結果は、何の変化も起こらず、したがって、音も発生しない。一連の貨車の例に戻ると、最後尾の貨車に、引っぱる力と押す力を同時に加えるようなものなんだ。そんなことをしても、何ごとも起こらないんだよ。  明らかに、諸君のうちの何人かは、すでにわたしのいおうとしていることのポイントをつかんでいるようなので、フェントン・サイレンサーの根本原理も理解できるだろう。若きフェントンは、こういう具合に考えたんじゃないかと思うんだな。このわれわれが生きている世界は≠ニかれは心の中でいったんだ。あまりにも騒音が多すぎる。ほんとうに完璧な消音器《サイレンサー》を発明したら、一財産つくれるぞ。とすると、そのためにはいったい――?  その解答を引き出すのに、そう長くはかからなかったんだ。彼が頭のいい若者だったということは、前にいっただろう? 彼が試作した器械はごくかんたんなものだったんだよ。それはマイク一つ、特種な増幅器一つ、スピーカー二つから成りたっていたんだ。そのあたりにある音はすべて、マイクで拾われ、増幅されて、もとの音とは位相がまったく逆転されてしまんだよ。ついで、それがスピーカーから送り出されるんだ。もとの音波と新しい音波は、いわば中和して、その結果は静寂ということになるんだ。  もちろん、これは根本的な原理であり、もうすこし複雑なものだったということはいうまでもないがね。中和させる音波が正しい強度になるようなからくりも必要だったんでな。じゃないと何もしないよりもひどいことになりかねないんでね。しかし、そういったことは技術的な枝葉末節であって、そんなことで諸君を退屈させるつもりはないんだ。多くの諸君にもわかるように、これは負のフィード・バックの単純な応用にすぎないんだよ」 「ちょっと待ってくれ!」と、エリック・メインが言葉をはさんだ。エリックが電子工学の専門家であり、テレビ新聞か何かの編集にもたずさわっているということを、ここでいっておくべきだろう。彼は宇宙航行に関するラジオ・ドラマも書いたことがあるのだが、それはまた別の話。 「ちょっと待ってくれ! そこんとこに、間違いがあるぞ。そんなことじゃ、静寂はえられないんだ。位相をうまく逆転させるなんてことは不可能なんだから――」  パーヴィスはパイプを口に押しっけた。しばらくの問、不吉なものをはらんだざわめきがつづき、わたしはマクベスの第一幕を思いうかべた。 「この話が」と、パーヴィスは冷やかにいった。「うそだとでもいうつもりなのか?」 「いや……まあ、そこまではいわないけど――」声がしだいに小さくなり、だまりこんでしまった。そして、ハンカチの間にまぎれこんでいた抵抗器やコンデンサーといっしょに、古封筒をポケットから引っぼり出すと、何やら計算を始めた。それからしばらくの間、エリックは一言も発しなかった。 「さっきからいってるように」と、パーヴィスはおだやかにつづけた。「フェントン・サイレンサーはそういう具合に働くものなんだ。彼が作った最初のモデルは、あまり強力なものではなく非常に高い音とか非常に低い音は処理できなかったんだよ。で、その結果はおかしなものだったんだな。そのスイッチを入れてある時に、誰かがしゃべろうとすると、スペクトルの両端が聞えるんだ。かすかな、こうもりがなくような音と、低いごろごろいうような音がね。しかし、間もなく、彼はより直線的な回路を使うことによって、その問題を解決したんだ(ちょっと専門的な言葉を使ったけど、まあかんべんしてくれ)。そして、新しいモデルでは、非常に広範囲にわたって、完全な静寂を作り出すことに成功したんだよ。普通の部屋だけではなく、ちゃんとしたホールでも有効だったんだ。  ところで、フェントンは、アイデアを盗まれるのを心配して、何をしようとしているのか誰にもいわないような発明家ではなかったんだ。何でもあけっぴろげにしゃべったんだよ。聞き手さえあればいつでも、研究員とでも、学生とでも、自分のアイデアを論じあったんだ。改良したサイレンサーを実験してみせた相手の一人が、たまたま若い文科の学生だったんだな。たしかケンドルといって、選択科目として物理をとってたんだ。当然のことながら、ケンドルはこのサイレンサーに深い感銘を受けたんだな。しかし、彼はその商品としての可能性について考えていたわけでも、それが虐げられた人間の怒れる耳にもたらす恩恵について考えていたわけでもないんだ。諸君はそう思ったかもしれないがね。とんでもないんだ! 彼はまったく別なことを考えてたんだよ。  ここでちょっと本題からはなれることを許していただきたい。今、大学では、音楽愛好クラブが花ざかりなんだ。ここ数年のうちに非常に会員も多くなって、それほど有名でない交響曲でも取りあげられるところまでいってるんだよ。その年には、非常に野心的な企画を打ちだしてたんだ。新しいオペラ、才能のある若い作曲家の作品を上演することになってたんだな。今や諸君にもよく知られている人物なので、彼の名前は出さない方がいいだろう。エドワード・イングランドとでもよんでおこう。作品の題名は忘れてしまったが、よくある悲恋もので、わたしにはどうしても理解できない理由から、音楽の伴奏がつけば、ばからしさがすこしはうすれると思われているような代物の一つだったんだ。とにかく音楽にぐっともたれかかったものだということは、疑いの余地がないね。幕があがるのを待っている間に、筋書きを読んだのをいまだに憶えているが、今日にいたるまで、その歌詞をまともにとるべきなのかどうか判断しかねているんだ。たしか、時代はヴィクトリア朝の後期で、主役は、情熱的な女郵便局長のセーラ・スタンプ、陰気な猟場の番人のウォルター・バートリッジ、それに名前は忘れたが、郷士の息子。筋は昔からどこにでもころがっている三角関係に、変化をきらう村人の感情がからんで、ちょっと複雑になってるだけのものだったんだ。この場合、変化というのは、新しく建設された電信網のことで、土地のばあさん連中は、そんなものができたら牛が乳を出さなくなるとか、羊が子を生む時に支障が起こるとかいってるわけだ。  こまかいことを無視しちゃえば、例によって例のごとき、嫉妬の物語なんだな。郷士の息子は郵便局へ婿入りしたがらないし、猟場の番人は肘てつをくらって逆上し、復讐をたくらむ。そして、小包のひもで首をしめられたあわれなセーラが、配達不能郵便物課の郵袋の中にかくされているのが発見されるにおよび、悲劇はおそるべきクライマックスに達するんだ。村人たちはバートリッジの首になわをかけて、手近かな電信柱からぷらさげ、保線係をうんざりさせる。バートリッジはぶらさがりながら、アリアを歌うことになってたんだが、残念ながら、それは聞きそこなっちゃったんだ。郷士の息子はやけ酒をあおりだしたか、植民地へ出かけていったか、どっちかだったな。あるいは、両方だったかもしれないし。  いったい何のために、こんな話をしてるのか、みんないぶかしがってることだろうが、もうしばらく辛抱してもらいたい。実をいうと、舞台でこの作りごとの嫉妬が演じられている間に、舞台の裏では、ほんものの嫉妬が爆発しかけていたんだな。フェントンの友だちのケンドルは、セーラ・スタンプを演ずることになっていた若い女優に肘てつをくってたんだよ。彼がとくに執念深い男だったとは思わないが、類のない復讐のチャンスが訪れたことを見てとったんだ。ざっくばらんなところ、大学生活がある種の無責任な態度を生みだすということを認めようじゃないか。それに、同じような立場にいたら、われわれのうちの何人が、このようなチャンスを見逃すだろう?  どうやら諸君にものみこめてきたようだな。しかし、われわれ観衆は、その記念すべき日に序曲が始まった時、何の疑いもいだいていなかったんだ。会場には、名誉総長をはじめ、お偉方が全部そろってたんだよ。学部長や教授なんて二束三文、どうしてこんなに大勢の人がかき集められたのか、わたしにはわからなかったくらいだったんだ。考えてみると、わたし自身もなぜのこのこ出かけていったのか、思い出せないんだがね。  拍手のうちに、序曲が終わった。正直なところ、騒ぞうしい連中の間から、時折り野次がとんだということも認めなければならないな。騒ぞうしい連中などといってはいけないのかもしれない。音楽のわかる連中だったのかもしれないんでね。  ついで、幕があがったんだ。舞台は、ドダリング・スラウリーの村の広場。時代は一八六〇年ごろ。朝の便でついた葉書を読みながら、女主人公、登場。やがて、郷士の若い息子あての手紙にぶつかると、とたんに歌いだす。  セーラの幕あきのアリアは、序曲ほどひどくはなかったが、何とも重苦しかったな。幸いに、最初の二、三小節を聞かされただけだったが。  ケンドルがいかにして、わが発明の才のあるフェントンを抱きこんだのかとか、発明者が自分の装置がいかなることに使われようとしているのかを知っていたのかなどという、こまかいことにこだわる必要はないんだ。それがこれ以上ないというほど説得力のあるデモンストレーションだった、とだけいえば充分だろう。突如、死のような静寂が会場を支配し、セーラ・スタンプの声は、音声のヴォリュームをしぼりきったテレビ番組のようにかき消えてしまったんだな。観客はすべて座席に凍りつき、その静寂の中で、歌い手の唇だけがぱくぱくと動いてたんだ。やがて彼女も事態に気がついたんだな。彼女の口が、ほかの場合だったら、絹をさくような悲鳴がほとばしるように開き、降りそそぐ葉書の雨の中を、舞台の袖にかけこんだってわけだ。  その後の混乱は、とても信じられないほどひどいものだったよ。しばらくの間、みんな、耳が聞えなくなったと思ったに違いないんだ。が、やがて、まわりの人の行動から、聴覚を失ったのは自分だけではないということがわかったんだな。間もなく、最前列にいたお偉方の問に、小さな紙片がまわされたところから、物理学科の誰かがかなりはやく真相を理解したに違いないんだ。総長はああてふためいて、舞台から観客にむかって手をふり、身ぶり手ぶりで秩序を恢復しようと懸命になってたよ。そのころには、わたしはおかしくておかしくて、こまかいことなど目に入らなくなっちゃってたんだ。  会場を出る以外に手はなかったんで、みんな、できるだけすばやく外に出たんだ。ケンドルは逃げちゃってたんだろうな。その装置の効果にびっくり仰天して、スイッチを切るのを忘れちゃったんだ。リンチにあうのが怖くて、そのあたりでぐずぐずしていられなかったんだろう。一方、フェントンは――。残念ながら、彼の側の話は、もうけっして聞くことができないんだ。後に残っていた証拠から、次のようなことを推測するはかないんだな。  思うに、彼はホールが空になるまで待って、装置の電源を切るために、また忍びこんだに違いないんだ。キャンバスのどこにいた人も、みんな、その爆発音を聞いてるんだよ」 「爆発音?」と、誰かがあえぐようにいった。 「そうさ。われわれみんなが、いかに危機一髪のところを逃れたか、考えただけでもぞっとするね。後十数デシベル、さらに数ホン、音が高かったら、ホールがいっぱいのうちに爆発が起こってたかもしれないんだ。何なら、発明者だけがその爆発に捲きこまれたというのは、広大無辺な神の御心の現われととってもいい。あるいは、それでよかったのかもしれないな。すくなくとも、彼は成功した瞬間に、死んでいったんだからね。しかも、学部長にとっつかまる前に」 「何も教訓なんて引き出してくれなくていいんだ。いったい何が起こったんだ?」 「フェントンが理論には非常に弱かったってことは、いっといたろう。もしそのサイレンサーの能力を計算していたら、自分の誤りに気づいていたはずなんだ。問題は、エネルギーを破壊することはできない、というところにあるんだよ。たとえ一連の音波を、別の音波で消去したとしても、だ。そういう場合にはどういうことが起こるかというと、中和されたエネルギーがどこかほかのところに蓄積されるだけなんだな。部屋中のごみを絨毯の下にはきこんで、一見きれいに見えるようにしたのと同じようなものなんだ。  この装置の理論を調べてみれば、フェントンの作ったものが消音装置どころか、音の収集器ですらなかったということがわかるはずなんだ。スイッチが入っている間中、それはほんとうに音のエネルギーを吸収しつづけていたんだよ。そして、その音楽会では、それこそものすごい量の音のエネルギーが発散されていたんだ。エドワード・イングランドの作品の譜を一つでも見たことがあれば、わたしがいってることはわかってくれると思うんだよ。その上に、いうまでもないことだが、スイッチが入った後に訪れた恐慌状態の間に、観客がたてた騒音もすさまじいものだったしな。あるいは、観客がたてようとしていた、といった方がいいかもしれないがね。音のエネルギーの総量はものすごいものだったに違いないんだ。それを、あわれなサイレンサーとしては、吸収しっづけなければならなかったんだよ。そのエネルギーはどこへ行ったのか? 配線がどうなっていたか、詳しいことは知らないんだが、おそらく、電源函《パワー・パック》のコンデンサーにでも蓄積されていたんだろう。フェントンがまた装置をつつきまわしはじめたころには、爆発寸前の爆弾みたいになってたんだ。近づいてくる彼の足音で、限界いっぱいまでいってたんだな。それ以上はどうにも吸収できなかったんだよ。で、爆発したんだ」  しばらくの間、誰も一言も発しなかった。おそらく、故フェントン氏の冥福を祈っていたのだろう。やがて、ここ十分ほど、片隅でぶつぶつつぶやきながら計算に没頭していたエリック・メインが、聞き手の環をかきわけてすすみでた。一枚の紙を、くってかかるように突き出している。 「おい!」と、彼はいった。「はじめっから、ぼくの思ってることは正しかったんだ。そんなものは、効力を発揮するわけがないんだよ。位相と振幅の関係が――」  パーヴィスは手をふってエリックを追いはらった。 「それなんだよ、今、わたしが説明したことはね」と、彼は辛抱づよくいった。「話を聞いてないからいけないんだ。フェントンが大きな犠牲を払って、それを発見したのはまったく気の毒だったよ」  彼はちらっと腕時計に目を落した。どういうわけか、そそくさと引きあげようとしているようだった。 「おどろいたな! 時間のたつのは、まったくはやいもんだ。いつか、新型の陽子顕微鏡で見た、おどろくべきものについて話してあげるから、忘れてたら催促してくれよ。もっとすごい話なんだ」  誰一人、挑戦する間もないうちに、パーヴィスはなかばドアを出かかっていた。その時、ジョージ・ホイットリーがわれにかえった。 「おい、ちょっと」と、ホイットリーは当惑したような声でいった。「その事件について誰も開いてないっていうのは、どういうわけなんだ?」  パーヴィスは入口で立ちどまった。その口にくわえられたパイプは、ふたたび勢いを盛りかえして、ごぼごぼと泡だっていた。パーヴィスは肩ごしに振りかえった。 「打つ手は一つしかたかったんだ」と、彼は答えた。「スキャンダルにしたくなかったんだよ。よきことにあらざれは、死者については何ごとも語るなってわけさ。それに、事情が事情なんだから、すべてを、その……もみ消すのが何ていっても適切な処置だったとは思わないかね? じゃ、みなさん、おやすみ」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    ビッグ・ゲーム・ハント       Big Game Hunt [#改ページ]  ハリー・パーヴィスほどおもしろい話をたくさん仕込んでいるものはいないということは、(なかにはいささか誇張したものもあるのではないかと、みんな疑っていたけれども)〈白鹿亭〉の常連の多くが認めるところではあったが、彼のそういった地位が脅かされたことがないと思ったら大間違いである。さすがの彼も、一時的にではあるが光を失ったことすら何回かあるのだ。その道の大家がうろたえるのを眺めるのは、つねにたのしいものだから、わたしとしては、ヒンケルバーグ教授がハリーをそのホーム・グラウンドでぎゅっという目に会わせた時のことを思い出すと、いささかうれしくなるということを告白せざるをえない。  一年のうちには、大勢の旅のアメリカ人も〈白鹿亭〉を訪れては、また立ち去って行く。ロンドンに住みついている連中と同様に、彼らもたいていは科学者か文学関係の人間で、ドルーがカウンターのかげにしまってある賓客名簿には、何人かの有名人の名前ものっていた。時には、新来の客が一人でやって来て、適当なチャンスを見つけて、名のりをあげるということもあった。(内気なノーベル賞の受賞者が、やっと勇気をふるいおこして名のりをあげるまでに、一時間も見破られずに片隅に坐っていたことすらあったのである)。また、紹介状をもって現われるものもあり、常連に連れて来られて、狼の群れに投げこまれるものもすくなくなかった。  ヒンケルバーグ教授は、ある晩、グローヴナー・スクエアのたくさんの車の中から借りた、しっぼのぴんとはねあがったばかでかいキャディラックを乗りつけて来た。〈白鹿亭〉へたどりつくまでの横町を、どうやってすりぬけて来たのかは、神のみぞ知り給うところであるが、おどろいたことには、前後四つのフェンダーはどれもかすり傷一つおっていないように見えた。彼は上背のあるやせぎすな男で、ヘンリー・フォードやウィルバー・ライトを思わせる風貌をしており、その顔からは、日焼けした先駆者の能弁が連想された。が、ヒンケルバーグ教授の場合は、違っていた。LPレコードを七十八回転でまわしたようにしゃべりまくるのだ。十秒たらすのうちにノース・ヴァージニアのある大学から休暇をもらってやって来た動物学者であること、海軍の研究所にも属していて、プランクトンに関する研究をしていること、ロンドンが気にいっており、イギリスのビールも好きだということ、〈科学〉に載った手紙で、われわれのことを知ったのだが、われわれみたいな連中が実在するとは信じられなかったということ、スティーヴンソンもまあ悪くはないけど、民主党が政権をとりたかったら、ウィンストンを輸入しなければだめだということ、ロンドンの公衆電話はみんなぶっこわれていて、次々と小銭をまきあげられ、一財産失ったが、それは取りかえせるものだろうかということ、からのグラスが大分あるようだがみんなもう一杯どうだ、ということなどをまくしたてたのである。  だいたいにおいて、教授のショック戦法を、みんなはうまく受けとめていたが、彼がちょっと一息いれた時、わたしは、ハリーの奴、気をつけた方がいいな。へたをすると煙にまかれちゃうぞ≠ニ心の中で思った。目と鼻の先にいるパーヴィスにちらっと目をやると、口をすぼめて、いささかむっとしたような顔をしている。そこで、わたしは深ぶかと椅子に坐り、結果やいかにと待ち受けることにしたのである。  その晩はかなりたてこんでいたので、ヒンケルバーグ教授がみんなに紹介されるまでにかなりの時間がかかった。いつもなら相手が有名人だとしゃしゃり出て来るハリーが、何となく逃げまわっているように思えた。が、結局、わがクラブの幹事をもって自ら任じ、賓客には必ず賓客名簿にサインさせずにはおかないアーサー・ヴィンセントにつかまってしまった。 「ハリーとなら、きっと話があいますよ、教授」アーサーは何の悪気もなく、うれしそうにいった。「二人とも科学者なんですからね。それに、ハリーは何とも異常な経験をしたんですよ。あの話を教授にしてさしあげろよ、例のU二三五がきみのポストに入ってた時の話を――」 「だめだよ」と、ハリーはいささかあわて気味にいった。「ヒンケルバーグ教授は、ぼくのつまらない冒険なんかに興味をお持ちじゃないさ。それより、教授のお話をうかがおうよ、いろいろお話しくださることがあるに違いないから」  その時以来、わたしはこの台詞がいまだに腑に落ちないのだ。彼らしくないのである。普通なら、あれだけ水をむけられたら、それこそ天にものぼるような勢いでしゃべりはじめるはずなのだ。彼としては、教授が何か間違いをしでかすのを待ち受け、機会がきたらさっとおどりかかってとどめを刺すつもりだったのかもしれない。が、もしそうだとしたら、彼は敵を見そこなっていたというほかないだろう。そんな機会は訪れなかったのだ。ヒンケルバーグ教授はジェット・エジンンの力をかりてさっと離陸し、あっという間に大空に舞い上ってしまったからである。 「何か図星をさされたような感じですな」と、彼はいった。「つい最近まで、非常におもしろいケースを扱ってたんですよ。それは例のまともな論文にはできないような種類のことなんで、ちょうどいいからこの機会に話させてもらうことにしましょう。こうやってお話しできるなんてことは、めったにないことなんですよ、秘密保持の問題がうるさくてね。しかし今のところ、まだグリネル博士の実験に目をつけて、秘密事項に指定するところまでいってないんで、話せるうちに話しておくことにしましょう」  グリネルは神経組織の作用を電流の回路という形で解明しようとしている多くの科学者の一人だったらしい。彼もまた、グレイ・ウォルターやシャノンがやったように、動物の単純な行動を再現することのできる模型を作ることから始めた。この方向における彼のもっとも輝かしい成功は、ねずみを追いかけたり、高い所から落すと、ちゃんと足をつくことのできるロボットねこだった。しかし、彼のいわゆる神経誘導法≠ネるものを発見したために、その後間もなく、彼の研究は別の方向にそれていった。これは、ごくかんたんにいうと、動物の行動を文字どおりコントロールする方法にはかならないのである。  あらゆる頭脳の働きは必ずわずかな電流の発生をともなうものであるということは、だいぶ前から知られており、この電流の複雑な変動を記録するということも、その意味するところを読みとることはいまだにできないが、かなり以前から可能であった。グリネルはそれを分析するというような厄介なことはしなかった。彼がやったことは、かなり複雑ではあったが、はるかに単純なことだった。彼の考案した記録装置を、さまざまな動物につなぐことにより、動物の行動によって惹き起こされた電気のインパルスの、いわばちょっとしたライブラリーを作りあげたのだ。ある電圧のパターンは右への動きに対応し、別のパターンはぐるぐるまわる動き、あるパターンはじっととまっている、といったような具合である。それだけでも充分に興味のある成果だったが、グリネルはそこでとどまってはいなかった。記録したインパルスをもう一度再生することによって、彼は動物に、好むと好まざるとにかかわらず、同じ行動を繰りかえさせることに成功したのである。  そういうことが理論的には可能かもしれないということは、たいていの神経学者か認めるだろうが、神経組織がとてつもなく複雑であるため、実際に行なわれうると信じているものはまずいなかった。そして、グリネルの最初の実験が、比較的反応の単純な下等動物で行なわれたということも事実である。 「わたしは一度しか彼の実験を見てないんですよ」と、ヒンケルバーグはいった。「水平におかれたガラスの上を、大きななめくじがはっていて、そのなめくじから半ダースほどの針金が、グリネルの操作している操作盤にのびていました。ダイヤルが二つあり、二つだけですよ、それを適当に操作することによって、なめくじを好きな方向へ動かすことができるんですな。門外漢にはつまらない実験としか思えなかったろうけど、わたしには、これはたいへんなことかもしれないぞ、ということがわかったわけですよ。グリネルに、この装置が人間には適用できないことを祈るよ、といったのをおぼえてます。その頃、ちょうどオーウェルの『一九八四年』をよんでたんで、ビッグ・ブラザーがこんな装置を手にいれたらどうなるかということが頭にうかんだんですね。  その後、忙しさに取りまざれて、一年間、そのことをすっかり忘れていたんです。一年たった頃には、グリネルはかなりその装置を改良して、実験動物ももっと複雑なものに進んでいたらしいですな。技術的な理由から、無脊椎動物に限定してはいましたがね。その頃には、実験動物に再生して流す命令≠烽ゥなりたくさんたまっていたわけですよ。虫、蛇、昆虫、甲殻類などという、種々雑多な動物が、同じ電気の命令に反応を示したということはおどろくべきことだと思われるかもしれませんが、まさに反応を示したんです。  もしジャクソン博士が現われなかったら、グリネルはいまだに研究室で実験をつづけ、しだいに高等な動物にむかっていたでしょう。ジャクソンというのはたいへんはでな男なんですよ。みなさんも彼の撮った映画は何か見ているでしょう。彼を真の科学者というよりも、大向うをわかせることばかり考えている男だと見ている連中も多いし、アカデミックなサークルでは、彼があまりにいろいろなことに興味をもつというので、信用していないんですな。ゴビ砂漠やアマゾン川探検隊の隊長もつとめたし、南極探検にも乗り出したことがあるんです。そして帰って来るたびに、ベストセラーと映画がおみやげってわけですよ。とかくのうわさがありますが、わたしとしては、彼は彼なりに貴重な科学上の成果をあげたと信じています。たとえそれが偶然のものではあってもね。  ジャクソンがどうしてグリネルの仕事を耳にしたのかも、どうやって彼を協力させたのかも、わたしは知りません。ジャクソンというのは非常に説得力のある男ですし、おそらくものすごい餌をグリネルの目の前にちらつかせたんでしょう。ジャクソンていうのは、たいていのお偉方でも動かせる男なんですよ。とにかく、何が起こったにせよ、その瞬間から、グリネルは妙にかくしだてするようになったんです。われわれにわかったことは、彼がずっと大型で、改良した装置を作っているということだけでした。そして、つっこまれると、もじもじしながらビッグ・ゲーム・ハントにいくんだ≠チていうんですね。  その準備に、さらに一年が費やされました。その一年が終わるころには、活動家のジャクソンとしては、ずいぶんいらいらしていたと思うんです。しかし、ついに準備万端がととのったわけですな。グリネルと彼の正体不明の荷物は、アフリカの方にむかって姿を消していったんですよ。  これはジャクソンの仕組んだわなだったんです。はやばやと前評判がたつのをさけたかったんでしょう。それはまあ、この探検の、何か空想的ともいえるような性質を考えれば、わからないこともないと思うんですがね。彼がわれわれをごまかすために慎重にばらまいたヒント――ということは、後になってわかったのですが――そのヒントによれば、グリネルの装置を使って、野生の状態の動物のすばらしい映画を撮りたいと思っているということだったんですよ。わたしとしては、これはちょっと眉つばだと感じましたがね。まあグリネルが彼の作りあげた装置を無線送信器と結びつけることに成功したとでもいうのなら別ですが。コードと電極を、ものすごい勢いで突っこんで来るぞうに取りつけるなんてことができるとは、まず考えられませんからね――。  もちろん、彼らもそのことは考えたんです。そして、彼らがどんな結論に達したかは、今となっては一目瞭然なんです。海水というのは、りっぱな電導体なんですよ。彼らはアフリカなんかへむかったのではなく、大西洋へ乗り出していったんです。しかし、まるっきりうそをついていたわけでもないんですな。たしかに、大ものを狙っていたんですよ。それも史上最大の獲物を――。  もし彼らの通信係がアメリカのアマチュア無線家とおしゃべりをしていなかったら、いかなることが起こったか、われわれは永久に知ることができなかったでしょう。しかし、そういうことがあったので、一連の出来事が推測できるのです。ジャクソンの船は――小型のヨットを買いあげて、その探検にむくように改装したものだったそうですが――アフリカ西岸の沖合、赤道からあまりはなれていない、大西洋でももっとも深い所に腰を落ちつけていたんですね。グリネルは釣り糸をたれていたというわけです。彼が電極を深海にたらしている傍らで、ジャクソンはカメラをかまえて獲物のかかるのを今やおそしと待ちかまえていたんですよ。  獲物がかかるまでに、一週間が過ぎ去りました。その頃になると、待ちくたびれて、神経もかなりまいっていたに違いありません。やがて、ある波静かな午後、グリネルのメーターがびんびんはねあがりはじめたんですな。電極の影響範囲内に、何ものかがひっかかったわけです。  ゆっくりと、彼らはコードをたぐりよせました。それまでは、彼らのことを気違いだと思っていたに違いない乗組員たちも、獲物が何千フィートという闇の中をうかびあがって、ついに海面に姿を現わすにおよび、興奮状態におちいったということは想像にかたくありません。通信係がジャクソンの命令に反してまでも、安全な大地にしっかりと足をふまえている友だちに、そのことを話さずにはいられないような気持ちに駆りたてられたとしても、彼を責めることはできないと思います。  彼らが目のあたりに見たものを描写しょうなどとは思いません。わたしよりも先に巨匠がすでにやってしまっているからです。その知らせが入るとすぐに、わたしは『白鯨』を取りあげて、その部分をもう一度読みかえしてみました。いまだにその一節を暗誦できますし、一生、忘れ去ることはないでしょう。こういった文章です―― 長さ数ファーロングにも達する、きらきら光る乳白色のとてつもなく大きなぶよぶよした巨体が海面にうかび、手のとどくかぎりのところに迷いこんできた不運な獲物を片っぽしからとらえようとでもしているかのように、無数の長い腕がその中心から、巣の中でうごめきのたうつ大蛇のように放射状にのびている  そう、グリネルとジャクソンはこの世に生きているものの中で、もっとも大きく、もっとも不可思議なもの、巨大ないかを狙っていたんです。もっとも大きい? まず間違いないでしょう。パティテウティスは長さが百フィートにも達するんです。彼らを餌として生きているまっこうくじらほど目方はないけど、長さにかけてはひけをとらないんですよ。  彼らとしては、いまだかつて誰も見たことがないような理想的な状態で、この怪物をとらえることができたわけです。グリネルが冷静にこの怪物に対処する一方、ジャクソンは夢中になってカメラをまわしつづけていたらしいですな。大やりいかは彼らの船の二倍もあったんですが、すこしも危険はなかったんです。グリネルにとっては、把手とダイアルで、あやつり人形のように自由に動かすことのできる軟体動物にすぎないわけですからね。用が終わったら、住みなれた深海へ戻してやるつもりだったんですよ。そうすれば再び泳ぎ去ることができたわけです。ひどい宿酔になやまされはしたでしょうがね。  そういうフィルムを手に入れるためなら、誰だって万金を投ずるのもおしまないでしょう! 科学的な興味は別にしても、ハリウッドへ持ち込めば一財産かせげることは間違いないんです。ジャクソンがすべてを見とおしていたということは認めざるを得ません。彼はグリネルの装置の限界を知っていて、もっとも効果的に利用したんですよ。つづいて起こった出来事は、彼の責任というわけにはいかんでしょうな」  ヒンケルバーグ教授は溜息をつき、話の結末をつける力をかきたてるかのように、ぐーっとビールをあおった。  「誰の責任かということを問題にするなら、グリネルの責任です。というよりも、だったといとべきかもしれませんな、気の毒に。おそらく興奮のあまり、研究室でなら忘れるはずがないような注意をおこたっていたんです。電源のヒューズがとんだ時、予備のヒューズが手もとにおいてなかったという事実は、そうとでも考えるほか、説明がつきませんからな。  それから、パティテウティスを責めるわけにもいかないんですよ。あなた方だって、こんなふうにこづきまわされたら、いいかげん腹がたつでしょう? だから、命令≠ェ突然とだえて、自分の自由意志で行動がとれるようになったら、あなた方だって、そのままの状態がつづくような手を打つでしょう。しかし、わたしは時どき思うんですよ。ジャクソンは最後の瞬間までカメラをまわしつづけていたかなってね――」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    特許出願中       Patent Pending [#改ページ] 〈白鹿亭〉のサルーン・バーでは、およそありとあらゆることが常連の話題となった。そして、それはご婦人客がいようがいまいが、何らかわりはなかった。結局のところ、彼女たちにしてもそのくらいの危険は覚悟の上で来ているのだ。しかし、考えてみると、三人のご婦人客が亭主をつれて出ていってしまったことがあった。とすると、危険なのはご婦人方ではなかったのかもしれないが――。  こんなことをいいだしたのは、われわれの話題がすべてあくまでも該博な知識にみちた科学的なものであり、われわれの行動がすべて純粋に頭脳の所産であるなどと思っていただきたくないからである。チェスも猖獗をきわめているが、ダートや銭ころがしもまた人気を集めている。常連の中には、〈タイムズ・文芸附録〉〈サタデイ・レヴュー〉〈ニュー・ステイツマン〉〈アトランティック・マンスリー〉などを持ちこむ人もあるかもしれないが、その同じ人物が〈スタガリング・ストーリーズ・オブ・スードーサイエンス〉の最新号を手にして出て行くということも、ちっともめずらしくないのだ。  酒場《パブ》のほの暗い片隅では、さまざまな取引きも盛大に行なわれている。古書や古雑誌が天文学的な値段でその持ち主をかえ、水曜日にはたいてい、名の知れたその道の商売人がすくなくとも三人はカウンターにもたれて、太い葉巻をくゆらせながら、主人のドルーととっておきの話を交換しあっている姿も見られる。時おり、どっとわき起こる笑い声が一つの話にけりのついたことを告げ、何かおもしろい話を聞きのがしたのではないかとあわてた常連たちがやっきとなって質問の雨をふらせることになるのだ。しかし、残念なことに、その興味津々の物語をここで繰りかえすことは、いささかはばかられるのである。この国で作られるたいていのものと違って、こればかりは輸出用とはいいかねるので――。  幸いに(すくなくとも)理学士であり、(おそらくは)博士号ももっていて、(以前からそういう噂はあるけれども、わたし自身は眉つばだと思ってはいるが)英国学士院会員でもあるハリー・パーヴィスの話には、このような制限は一切適用されない。彼の話なら、もしそんなものがいまだにこの世の中に存在していたらの話だが、どんなにやんごとなき生まれのお上品な老嬢に聞かせても顔をあからめるようなことはないだろう。  いや、失礼。今のはちょっとばかりいいすぎだった。一つだけ、ある種のサークルにおいてはすこしひどすぎるのではないかと思われるような話があったのだ。といっても、わたしとしてはここでその話を繰りかえすことに、いささかの躊躇もおぼえない。読者諸兄姉が、これくらいのことにめくじらをたてるほど狭量ではないと信じているからである。  そもそもの発端はこういう具合だった。新聞界でも名のとおった高名な批評家が、ある出版業者にくいさがられていた。その出版業者は一冊の本を間もなく発行しようとしており、彼はその一冊に多大の期待をかけていた。それは頽廃した南部を主題とした、例によって例の如き作品の一つ、〈かくて、シロアリが東側の棟をくいつくすとともに、邸はまたもやぐらりと傾いたのであった〉式の小説の最たるものである。アイルランドではすでに発禁となっていた。が、それは今日ではほとんどの本がまぬがれることのできない名誉であり、そのために注目を集めるというわけにはいかなかった。しかしながら、もしイギリスの一流紙を丸めこんで、発禁にしろと叫ばせることができれば、一躍、ベストセラーにのしあがるであろう――。  というのが、出版業者の論理であり、彼はありとあらゆる手練手管のかぎりをつくして相手を丸めこみ、協力させようとしていた。彼が批評家のいだいているかもしれない危惧をやわらげようとするかのように、「もちろん、大丈夫だ! この本がわかるってことは、すでに邪な心を抱いているということなんだ。今さら、堕落しょうがないってわけさ」といっているのが、わたしの耳にもはいった。すると、適当なチャンスがきたら適当な話に割りこもうと、半ダースばかりの話に同時に相づちをうつという奇妙な技術をもっているハリー・パーヴィスが、彼独特の妙によくとおる、傍らから口をはさみがたい声でいったものである。「検閲ってのは、厄介な問題を惹き起こすもんだな。一国の文化の程度と、その国が言論出版に課す制限とは反比例するというのが、わたしの持論なんだよ」  部屋の奥から、ニューイングランドの男が声をかけた。「とすると、パリはボストンよりも文化的な町だってわけだな」 「そのとおり」と、パーヴィスは答えた。めずらしく、相手の返事を待っている。 「いいだろう」と、ニューイングランドの男はおだやかにいった。「何もからもうっていうんじゃないんだよ。ちょっとはっきりさせたかっただけで」 「さっきの話のつづきだが」待ってましたとばかり、パーヴィスはいった。「まだ検閲問題にはなってないが、間もなく、問題になるに違いないあることを思い出したんだよ。そもそもことの起こりはフランスで、今までのところ、まだフランス国内だけにとどまってるんだがね。それが世に出た暁には、あるいは原子爆弾以上の強烈な衝撃をわが文明にあたえるかもしれないような代物なんだ。  原子爆弾同様、それもアカデミックな研究の所産なんだ。諸君、けっして科学というものを見くびっちゃいかんよ。これほど理論的で、これほどわれわれの日常生活とはかけはなれていながら、しかも、この全世界をゆるがすようなものを作り出す研究分野はないんじゃないかと思うんだ。  わたしが今話している話は、めずらしくも、また聞きの話なんだよ。去年、学会でソルボンヌ大学へ行った時、同僚に聞いて来たことなんでね。だから、出てくる名前はみんなわたしが作ったものだ。その時は名前も聞いたんだが、どうしても思い出せないんだよ。  その教授、ええと、ジュリアン教授というのは、小さいけれども財政的にはゆたかなフランスの大学の一つで教えている実験生理学者なんだ。諸君の中には、先だってこの店で、ヒンケルバーグという男から聞いたちょっと信じられないような話をおぼえている人もいるだろう。動物の行動を、しかるべき電流をその神経組織に流すことによってコントロールする方法を発見した同僚の話だよ。まあ、あの話にいささかでもほんとうのことがまじっていたとしたら――正直にいって、そんなことはまずないと、わたしは思うがね――その男の計画はジュリアンの論文にヒントを得たものだろう。  しかしジェリアン教授は、彼の得たもっとも輝かしい成果については公表しなかったんだ。何かものすごくすばらしいことを発見した時には、あわてて活字になどしないものなんだよ。絶対的な証拠をにぎるまでは、じっとあたためているものなんだ。誰かが同じ研究ですぐ背後に迫っている心配さえなければね。そういう場合には、現在はあまり内容を知られないで、後になって自分の方が先につばをつけたということを立証できるように、曖昧模糊としたリポートだけ発表しとくこともあるだろうが。土星に環があるのではないかということをかぎつけた時に、ホイヘンスが発表した有名な暗号のようにね。  ジュリアンが発見したのが何か、諸君もいろいろと想像していることだろうから、これ以上、気をもませるのはやめよう。要するに、人類が過去百年間にやってきたことの自然な延長にすぎないんだよ。まず、カメラが情景をとらえる力をわれわれにあたえてくれた。ついで、エジソンが蓄音器を発明し、音が征服された。今日、われわれはトーキーというものを通じて、われわれの祖先には考えもおよばなかったような、一種の機械じかけの記憶力をもっているわけだ。しかし、そこでとどまっているわけにはいかないんだな。最終的には、科学は、望む時に、人生のいかなる経験をも細大もらさず再現できるように、思考と感覚そのものをとらえ、保存し、それを頭脳と心にいつでも送りかえせるところまでいかなければならないんだよ」 「そんなアイデアは古くさいよ!」誰かが鼻をならした。「『すばらしい新世界』の中の感じる映画をみろよ」 「いいアイデアというのはみんな、具体化される前に、誰かが一度は考えたことのあるものなんだ」と、パーヴィスはきびしい口調でいった。「問題は、ハックスリイその他の人びとが論じてきたことを、ジュリアンは実際にやったという点なんだよ。おやおや、駄じゃれみたいなことになっちゃったな! オルダスとジュリアン。まあ、そんなことはどうでもいいだろう。  それが電子工学を応用したものであったことはいうまでもないんだ。脳造影図が生きている脳の微小な電気のインパルスをいかに精密に記録できるかということは、諸君も知ってるだろう。一般むけの出版物では、脳波≠ニよばれてるやつだよ。ジュリアンの装置はあの誰でも知っている機械をあくまでも精巧にした苦心の作だったんだ。そして、脳波を記録した後、それを再生することができるんだな。こういうと、簡単みたいだろう? しかし、蓄音器だってごく簡単な装置だが、それを考え出すには、エジソンの天才が必要だったんだよ。  そこへ、悪漢登場。というわけなんだが、ジュリアン教授の助手をつとめていたジョルジュ、ジョルジュ・デュパンを悪漢とよんじゃかわいそうかもしれないな。つまりこういうことなんだ。教授よりは利にさといフランス人だったんで、この研究室のおもちゃをうまく利用すれば何億フランももうけられるということを、彼は一目で見ぬいたってわけだよ。  まずやらなければならないことは、そいつを研究室から持ち出すってことだったんだ。ジョルジュが技術的な才能を持っていたことは間違いないな。数週間の努力の後、教授の全面的な協力のもとに、その装置の〈再生器〉の方を、テレビと同じぐらいのキャビネットにおさめることに成功したんだ。しかも、部品の数もテレビよりそれほど多くないんだよ。  これで、ジョルジュとしては最初の実験に取りかかる準備ができたわけだ。その実験はかなりの費用を要するだろうが、誰かがいみじくもいったように、たまごを割らないで、オムレツを作るわけにはいかないってわけだよ。こんなこというのはなにかもしれないが、このたとえはまさにぴったりだったんだ。  というのは、ジョルジュはフランスきっての食通を訪れ、おもしろい申し入れをしたんだよ。それは偉大なる美食家としては、断るわけにはいかないような申し入れだったんだな。彼の権威に対する、またとない贈り物だったからだ。ジョルジュは自分が感覚を記録する装置を発明したことを、根気よく説明したんだ。感覚を保存する機能については何もいわずにね。男爵閣下がその並ぶものなき才能を駆使される時、その心をよぎる感覚、その昔が感じとった微妙なニュアンスを、科学のために、はたまたフランス料理の名誉のために分析する特権を、このわたしにあたえてもらえないだろうか? レストランも、コック長も、メニューも、閣下のご指定のとおりにさせていただきます。すべて、ご希望どおり手配します。もちろん、お忙しくてだめなようでしたら、美食家で知られた伯爵閣下の方にでも――。  ある点ではおどろくほど粗野なところのある男爵は、たいていのフランス語の辞書にはまず出ていないような言葉を吐きちらしたんだ。「何だ、あんな白痴野郎!」怒りをたたきつけたんだな。「あいつはイギリス料理でもおいしがって食う奴なんだ! とんでもない。このわしが引き受けてやるよ」そして、時を移さずテーブルにむかうと、メニューを考えはじめたんだよ。それを見ながら、ジョルジュは心配そうに値段を見積り、銀行の残高がこの負担にたえられるだろうかと思い悩んでいたというわけだ――。  コック長やウエイターがこの実験をどう思っていたかがわかったら、さぞおもしろいだろうな。男爵はいつものお気にいりの席に坐って、その頭と片隅に据えられた悪魔のごとき機械を結んでいる何本ものコードなどにはいささかもわずらわされずに、お気にいりの料理を一心不乱にむさぼっているんだからね。ジョルジュがもっとも恐れていたのが、機が熟さないうちに評判がたつことだったので、店には、ほかの客は一人もいなかったんだ。そのために、それでなくても胸が痛くなるような額にのぼっていた実験の費用が、またぐんとはねあがることになったんだよ。かれとしては、それに引きあうだけの成果があらわれることを祈るばかり。  結果は期待どおりだったんだ。それを証明するには、もちろん、ジョルジュの記録を再生してみる以外にないだろう。こういうことに関しては、言葉というものがいかに不充分なものであるかは誰もが知っているところなので、われわれとしては彼のいったことを信用する以外にないんだ。男爵はほんとうに鋭い舌の持ち主だったんだ。わかりもしないのに味がわかるふりをするようなにせものではなかったんだよ。サーバーがよくからかっているような手合、つまらない国産のぶどう酒でも、レッテルにバーガンディと書いてあるだけでありがたがってるような俗物じゃなかったということだな。そんなものは、男爵なら、ちょっと香りをかいだだけでにせものだと見破り、ぽいだよ。  ジョルジュとしては個人的に使うためだけの目的でとったのではないだろうが、とにかく、投資しただけのもとはその記録から取り戻せたと思うね。それは新しい世界に目を開かせてくれ、そのぬけ目のない頭の中でかたまりかけていたさまざまなアイデアをはっきりと浮き彫りにしてくれたんだ。これだけは疑う余地がないね。リュキランの料理を平らげている間に男爵の心をよぎった微妙な感覚がすべてとらえられ、どんな人間でも、たとえそういう面では何の訓練もうけていない人間でさえ、天下の食通と同じよろこびを味わえるってことだ。ご存じのとおり、この記録は純粋に感覚だけを対象としており、知能とはまったく関係がないんでね。男爵としては、この感覚を味わうためには、一生をかけた知識と訓練が必要だったわけだ。しかし、それがひとたびテープに記録されれば、どんな人でも、たとえ実生活においてまるっきり味のわからない人でさえ、それをそのまま味わえるんだよ。  ジョルジュの前に開けた輝かしい光景を想像してもらいたい! まだまだ他にも料理はあり、食通もいる。ヨーロッパ全土の一流のぶどう酒の味の集大成もできる。そういったものに金をおしむ食通はいないだろう。貴重なぶどう酒の最後の一びんを開けてしまった後、その実体のないエッセンスはメルバの声が何世紀も後まで残るように、保存できるんだ。つまるところ、問題はぶどう洒そのものではなく、それが惹き起こす感覚のたかぶりではないか――。  と、まあジョルジュとしてはこう考えたわけだ。しかし、これはまだほんの序の口だということを、彼は知っていたんだな。フランス人ていうのはよくわたしには理解できない論理を展開するんだが、ジョルジェの場合には、うなずかざるをえないんだ。彼はその問題を何日か検討したあげく、恋人のもとへ出かけて行ったんだよ。 「ねえ、イヴォンヌ」と、彼はいったんだ。「ちょっと妙なたのみがあるんだがな――」  ハリー・パーヴィスは話の途中で気をもたせる潮時を心得ていた。彼はカウンターの方にむきなおると、「スコッチをもう一杯くれないか、ドルー」ドルーが酒をつぐ間、口をきくものは一人もいなかった。 「さて、さっきのつづきだが」と、パーヴィスはさんざんじらしたあげく話しはじめた。「その実験は、かのフランスにおいてさえちょっと例のないものだったけど、成功裡に終了したんだ。分別と習慣の命ずるままに、すべては夜おそくに行なわれたんだな。諸君にも、ジョルジュが説得力のある男だということはすでにわかってるだろう。わたしとしては、相手のご婦人にうんといわせるのに、それほど強力な説得力を要したとは思わないがね。  心はこもっているが大急ぎのキスで彼女の好奇心を封じると、ジョルジュはイヴォンヌを研究室から送り出し、再生装置に駆けつけたんだ。そして、息もつかずにはじめからおわりまで再生してみたんだよ。成功だったんだ。といっても、ほんとうに疑いを抱いていたというわけではないがね。しかもそれが――わたしにそのことを話してくれた人物の言葉を信ずる以外、何の証拠もないということを忘れないでくれよ――本番と区別がつかなかったというんだな。その瞬間、ジョルジュは宗教的な畏怖のようなものにおそわれたんだ。これが史上最大の発明であることは疑う余地がない。一財産できるだけではなく、歴史に名を残すことにもなるだろう。あらゆる男性が夢見てきたことをなしとげ、年老いた男から、その恐怖の一つを取りのぞいてやるのだから――。  と同時に、その気になれば、もはやイヴォンヌなしでもすごせるということにも気がついたんだ。さらによく考えてみなければならない問題が起こったというわけだよ。さらにもっともっと考えなければならない問題がね。  わたしがごくかいつまんで話しているということは、もちろんわかってるだろうね。こういうことをすすめながらも、ジョルジェはまだ教授の忠実な部下として働きつづけており、教授としては何一つ疑っていなかったんだ。今までのところは、ジョルジュとしても、実際いって、同じょうな状態におかれたら、どんな研究員でもするかもしれないことからわずかに脱線したにすぎなかったわけだ。彼の仕事という範囲をいささか越えてはいたが、必要とあれば、釈明のできる程度だったんだよ。  次の段階はあくまでも慎重な交渉と、苦労してかせぎためた金をさらに必要としたんだ。今やジョルジュの手もとには、この装置が莫大な商業的価値を有する代物であるということを確実に証明するのに必要なあらゆる材料がそろったわけだ。口をかければすぐにでもとびついて来るぬけ目のない商売人は、パリにはいくらでもいるだろう。しかし、二番目の、その……記録ですな、あれを彼の装置が提供できるもののサンプルとして使うことは、ジョルジュの気持ちが許さなかったんだ。この点は、彼のいいところだと認めざるを得ないだろう。登場人物の正体をごまかす方法はなかったし、ジョルジュというのは慎み深いところのある青年だったんだよ。 「それに」と、彼はふたたび良識を相手に論争を繰りひろげたんだな。「レコード会社がレコードを作る時、素人音楽家の演奏を録音するようなことはしないじゃないか。そういうことは、玄人の仕事なんだ。おれの場合だって、同じことさ」というわけで、彼はまた銀行の残高を調べた後、ふたたびパリへむかって出発したんだ。  しかし、ピガール広場のあたりへは足も踏みいれなかったんだよ。あのあたりはアメリカ人がうじゃうじゃいて、値段が法外だったからだ。何人かの人に慎重に訊いてまわっているうちに、一人のものわかりのいいタクシーの運転手が、気がめいるくらい上品ぶった郊外の住宅地へ連れて行ってくれたんだな。そして間もなく、彼はどこを見てもそれらしいところのない、気持ちのいい待合室にすわっていたというわけだ。  その部屋で、ジョルジュはいささかとまどいながら、職業はもとより、年齢《とし》までちょっと見わけがつきかねるような、たいへんやり手のマダムに自分が来た目的を告げたんだな。突拍子もない要求にはなれっこになっているとはいえ、かなり長い彼女の経験でも、これははじめてのことだったんだ。しかし、金を持っているかぎり、お客様はつねに王様だ。やがて、すべて注文どおりにことがはこんだんだよ。その家の若い女の子と彼女のボーイ・フレンド、というよりも、ひもといった方がいいような筋骨たくましい男が、ジョルジェといっしょに田舎へやって来たというわけだ。最初のうちは、当然、二人は何かいぶかしげな素振りを見せていたが、ジョルジュは、専門家を口説きおとすには持ちあげるにかぎるということをすでに心得ていたんだな。たちまち、三人はすっかり意気投合しちゃったんだ。そして、エルキュールとスゼットは、絶対にジョルジュを満足させてみせると約束してくれたんだよ。  諸君の中に、徴にいり細をうがった情景描写をお望みの方がいることは、わたしも疑わないがそれをわたしに求めても、それは無理というものだ。わたしにいえるのは、ジョルジュが、というよりも、彼の装置がはじめからおわりまで非常に忙しくこき使われたということと、夜が明けた時には記録用のテープがほとんど残っていなかったということだけだ。どうやら、エルキュールはその名に恥じなかったというわけだな――。  このぴりっと薬味のきいた一夜が終わると、ジョルジュの手もとにはごくわずかな金しか残っていなかったが、無限の価値のある記録が二つ残ったわけだ。そこで彼はふたたびパリにむかいほとんど何の苦労もなく、何人かの実業家と契約を結ぶことができたんだよ。実業家たちはただもうびっくりしてしまい、ジョルジュに非常に有利な契約を結んでくれたんだ。科学者というのはこと商売上の契約となると、ばかをみることがたいへん多いので、これはまことによろこぼしいかぎりだよ。  もう一つよろこぼしいことは、その契約に、ジョルジェがジュリアン教授のための一項を加えたということだ。結局のところ、それは教授が発明したものであり、ジョルジュとしては、おそかれはやかれ、彼に打ち明けなければならなかったからさ、と皮肉にいってのけることは簡単だよ。しかしわたしとしては、そこにはそれ以上の何かがあったと考えたいな。  その装置の開発計画の全貌については、もちろんわたしは知らないんだ。ジョルジュが弁舌さわやかにまくしたてたんだろうな。といっても、ひとたび彼の記録のどちらか、あるいは両方の再生を体験した人を説得するのに、たいして弁舌がいったとも思えないがね。マーケットは広大無限。その輸出だけでも、フランスを立ちなおらせ、一夜にしてドル不足を解消することができただろう。ある種の障害を克服することさえできればね。偽善者のアングロ・サクソンが自分の国にいかなるものが輸入されているかを知った時に起こる騒ぎを考えると、すべてを隠密裡にすすめなければならなかったんだ。母の会、右翼の婦人団体、主婦連、それにありとあらゆる宗教団体が一丸となって立ちあがるだろう。法律の専門家が慎重に検討をつづけていたんだが、彼らにわかった限りでは、いまだに『南回帰線』を英語をしゃべる国ぐにの郵便から締め出している法律は、この場合には適用できないということが判明したんだな。が、その理由は、このようなものを誰も想像すらしたことがないからという単純なものだったんだ。しかし、議会も何らかの手を打たなければならなくなるような騒ぎが起こるだろうから、できるだけ隠密裡にことをはこんだ方が利口だったんだよ。  事実、重役の一人が指摘したように、その記録が発禁になれば、ますます好都合ともいえたんだがね。そうなれば、値段はぐーんとはねあがるし、税関に協力する自警団がいかにがんばろうと、あらゆる抜け道をふさぐことはできないだろうから、小量生産で多額の利益をあげることができるわけだからね。例の禁酒法時代の再来みたいなものだよ。  このころには、ジョルジュはすでに味覚の方面には興味を失ってしまっていたといっても、諸君は別におどろきもしないだろう。それはおもしろいけれども、この発明としては、ほんとに取るにたりない一面にすぎなかったんだ。実際、このことは、会社の定款を作る段になって、役員たちの暗黙のうちに認めるところとなったんだな。美味探求のよろこびは、その他もろもろの部類に入れられてしまったところをみるとね。  ジョルジュは雲の上を歩いているような気持ちで、多額の小切手をポケットにおさめて引きあげて来たんだ。すると、すばらしい考えが彼の想像力を刺激したんだよ。さまざまなレコード会社が四十八のプレリュードやフーガ、九つのシンフォニーの全集を世に送るためにはらった努力のことを考えたわけだ。よし、おれの会社でも、古今東西の奥義を駆使して専門家が演じた集大成を世に送り出してやろう。作品番号は何番ぐらいまで行くだろうか? これは何千年にもわたって論議されて来たことなのだ。インドの秘法を伝えた本など、三けたの数字におよぶ昔から伝えられたものだというではないか。これは快楽と実益がちょっと例のない形で結びついた、すごくたのしい研究だぞ――。彼はパリにおいてさえそう簡単には手にはいらない専門書を使って、すでに予備的な研究に着手していたんだ。  その間、ジョルジュとしてはありきたりのたのしみには何の興味も示さなかったと思うだろう? まさにそのとおりなんだ。まだ教授には計画を打ち明けてなかったので、ほとんどすべてのことを研究室が閉まってから行なわなければならなかったため、彼は文字どおり夜も昼も働きづめに働いていたわけだ。そして、彼が興味を失ってしまったものの一つに、イヴォンヌがあったんだよ。  普通の女の子ならあたり前のことだが、彼女もすでに好奇心をかきたてられていたんだ。しかし、今や好奇心をそそられたなどというおだやかな状態ではなく、狂わんばかりだったんだな。ジョルジュがあまりにも自分からはなれ、冷たくなってしまったからだ。彼はもはや彼女を愛してほいなかったんだよ。  それは当然の結果というべきかもしれない。酒場の主人《あるじ》がきき酒ばかりしていたらどうなるかは、花見酒を思いおこすまでもなく明らかだろう。あんたはまあそんなことはないと信じとるがね、ドルー。ジョルジュはみごとにこの誘惑にまけてしまったんだ。あまりに記録の再生におぼれすぎてしまったために、いささかばててしまったわけだな。さらに、あわれなイヴォンヌは経験ゆたかで才能もあるスゼットの敵ではなかったんだよ。まあいってみれば、玄人対素人のお古いお話ってとこだな。  イヴォンヌにわかっていることは、ジョルジュが誰か他の女を愛しているということだけだったんだ。しかし、いい線をいってたわけだよ。彼女としては、彼が自分を裏切っていると疑ったんだな。となると、今ここでお話しするわけにはいかないような深遠なる哲学的な問題が起こってくるわけだ。  忘れている人がいるといけないのでもう一度繰りかえしておくが、これはフランスの話なんだよ。だから、その結果がいかなることに相なったかはいうまでもないだろう。ジョルジュもかわいそうなことになったもんだよ! ある晩、例によっておそくまで研究室に残っているところをこの種の事件には欠くことのできない、例のアクセサリーにしかならないようなばかげたピストルで、イヴォンヌが彼を殺してしまったんだ。さあ、彼の思い出のために、乾杯しよう」 「あんたの話はみんなこれだから困るんだ」と、ジョン・ベイノンがいった。「せっかくすばらしい発明の話をしてくれておきながら、最後には、必ず発明者が殺されて、すべておじゃんになっちゃうんだからな。例によって今度も、その装置が破壊されちゃったってわけだろう?」 「とんでもない」と、パーヴィスはやりかえした。「ジョルジュは別として、この話はハッピー・エンドなんだよ。イヴォンヌももちろん何てこともなくすんだんだ。悲歎にくれたジョルジュのスポンサーたちがおっとり刀で現場へ駆けつけ、もれては具合の悪いことがもれないように手を打ってくれたんだよ。商売人であるとともに、感情の人間でもある彼らは、イヴォンヌの自由を確保してやらなければならないということに気づいたんだな。彼らは間髪をいれずに市長と警察署長に記録を再生して感じさせ、あわれな彼女が抵抗しがたい挑発をうけたということを納得させたんだ。新会社の株をいくらか分けることで、相方和気あいあいのうちに手打ちとなったわけさ。イヴォンヌはピストルまで返してもらったんだ」 「じゃ、その機械はいつ――」と、誰かがいいかけた。 「まあ、こういうことは時間のかかるものなんだよ。大量生産という問題があるだろう。しかし内輪の、ほんとに内輪の筋を通して、すでに配布が始まっているということも充分考えられるな。例のちっぽけなあやしげな店や、レスター広場の掲示板に間もなくそれとなく広告が出はじめるかもしれないよ」 「どうせきみは」と、ニューイングランドの男がさげすむように口をはさんだ。「その会社の名前なんて知らないっんていうんだろう」  こういう時のパーヴィスほまさにこ[#ママ ごりっぱ?]りっぱというほかなかった。いささかもたじろがない。 「株式会社《ソシエテ・アノニム》アフロディテ」と、彼は答えた。ご存じのように、フランス語の株式会社、ソシエテ・アノニムを直訳すれば匿名会社ということになってしまうのである。「それに、きみのよろこびそうなことを思い出したよ。連中はアメリカの小うるさい郵便法の規制をさけ、しかも当然予想される議会の調査が始まる前に、基礎をかためてしまいたいと思ってるんだ。それで、ネヴァダに支店を開くそうだよ。あそこなら、何をしても厄介なことにはならんからね」  彼はグラスをあげた。 「ジョルジュ・デュパンの霊に」と、パーヴィスはおごそかにいった。「彼こそ科学に殉じた男だ。この機械がもてはやされるようになったら、彼のことを思い出してやってもらいたいもんだな。それからもう一つ――」 「何だ?」と、われわれはいっせいに訊いた。 「さっそく貯金を始めることだな。それから、はやいとこテレビを売っちゃうことだよ、値くずれする前にね」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    軍拡競争      Armaments Race [#改ページ]  いつぞやも申しあげたように、〈白鹿亭〉きっての話上手、ハリー・パーヴィスをやりこめて、ある時間ぐうの音も出ないようにしておくという偉業をなしとげたものは、いまだかつて一人もいないのだ。彼の科学的知識に関しては、いささかの疑いもさしはさむ余地はない。が、どこでそれを身につけたのか? また、彼が英国学士院のお歴々のことを話す時の、あの親しげな語り口にしても、どこまでほんとうに親しいのか? 彼のいうことなど一言も信じない人が多いということも、認めないわけにはいかない。が、そこまでいってしまっては、身も蓋もないというものだろう。かくいうわたし自身が、最近、いささか気負いたって、ビル・テンプルに注意したように。 「きみは何かっていうと、ハリーにくってかかるな」と、わたしはいった。「しかし、きみだって、彼がわれわれをたのしませてくれてるってことは認めざるをえないだろう。それだけでも、われわれとしちゃ、感謝しなきゃならないとこなんだぞ」 「文句があるっていうんなら」と、彼のあくまでもまじめな作品を、アメリカの編集者がちっともおかしくないといって突きかえしてきたということで、まだ心中おだやかでなかったビルがやりかえした。「表へ出て、もう一度いってみろ」そして、窓ごしにちらっと外を見てまだひどく雪がふっているのに気づくと、あわててつけ加えたものである。「何も今日じゃなくてもいいさ。いずれ夏になってから、また虫の居所の悪い水曜の晩にここで顔をあわせた時にでもな。まあ、お気にいりのパイナップル・ジュースのストレートでももう一杯やれよ」 「どうも」と、わたしはいった。「いつか、ジンをいれてくれっていって、きみをびっくりさせてやるから肝をつぶすなよ。いれてもいれなくてもいいっていうのは、〈白鹿亭〉の常連多しといえども、このぼくぐらいのものだろう。しかも、いれずにのんでるってのはな」  その時、話題の主が姿を現わしてしまったので、話はそこでとぎれてしまった。普通ならば、本人が現われても、それははなやかな舌戦に油をさすだけのことだったのだが、ハリーが見知らぬ客人をつれていたので、お行儀よくしていることにしたのだ。 「やあ、こんばんは」と、ハリーはいった。「友人のソリイ・ブランバーグだ。ハリウッド中でもっとも腕がいいといわれている特殊効果マンだよ」 「正確にいこうじやないか、ハリー」ブランバーグ氏は鞭でたたかれたスパニエルのような声で悲しげにいった。「今やハリウッド中じゃないんだ。ハリウッド外ってとこだよ」  ハリーは手をふってその訂正を聞きながすと、「ますます好都合ってわけだ。このソルは、わがイギリスの映画産業で、その才能を生かすためにはるばるやって来たんだよ」 「イギリスに映画産業なんてまだあるのか?」と、ソリイは心配そうにいった。「撮影所の連中は、みんな首をかしげてたぞ」 「もちろん、あるさ。それも、今を盛りと繁栄を競ってるんだ。政府は、彼らを破滅にまで追いやった娯楽税をためこんでおいて、今度は、その中から大枚を投じて、カンフルを打つ。これがわが国のやり方なんだ。おい、ドルー、賓客名簿はどこだ? それから、われわれにダブルを。ソリイはひどい目にあってきたんだよ。何はともあれ、かけつけ三杯だ」  そのすねたような表情以外、ブランバーグ氏からは、ひどい目にあってきた男という感じは見てとれなかった。ハート、シャッフナー&マックスの背広をスマートに着こなし、ボタン・ダウンのワイシャツの先は、胸の真ん中あたりでとまっている。そのためにネクタイに描かれているものの一部がかくれながらも、肝心なところは出ているというのは、ありがたいことだった。彼のごたごたとは何だろう。また非米活動騒ぎではないことを、わたしは祈った。もしそうだとすると、今せっかく片隅でおとなしくチェスの盤面をにらんでいる、われわれの飲み仲間のコミュニストが口角泡をとばしてまくしたてはじめるにきまっているからである。  居合わせた人びとはみんな、同情したような声をもらし、ジョンがいささか棘のある口調でいった。「胸にたまってることを吐き出しちゃったら、すこしは楽になるかもしれませんよ。たまにはかわった人の話を聞くのもいいものですからね」 「まあそう謙遜しなさんな、ジョン」ハリーがすかさず口をはさんだ。「わたしはまだきみの話を聞きあきちゃいないぞ。それはともかく、ソリイとしちゃ、また同じ話を繰りかえすのは気がすすまないんじゃないかな。どうだね?」 「そうだな」と、ブランバーグ氏はいった。「きみから話してくれよ」 (「こんなこったろうと思ったよ」と、ジョンはわたしの耳に溜息をついた) 「さて、どこから始めようか?」と、ハリーは訊いた。「リリアン・ロスがきみにインタヴューに来たとこか?」 「どこでもいいけど、あそこからだけはやめてくれ」ソリイは身震いした。「そもそもことの起こりは、キャプテン・ズーム・シリーズの第一作目を作ってた時のことなんだよ」 「キャプテン・ズーム?」誰かが不吉なひびきをたたえていった。「その言葉は、この店じゃ、口にするのも汚らわしいってことになってるんですよ。まさかあなたが、あの言語道断な駄作に一枚かんでたっていうんじゃないでしょうな!」 「まあ、まあ、まあ!」ハリーがとっておきのとりなし声で口をはさんだ。「そうきびしいことをいいなさんな。あらゆるものに、われわれの知的水準を押しっけるわけにはいかんのだよ。みんな、食ってかなきやならんのだからな。それに、キャプテン・ズームに夢中な子供も何百万もいるんだ。きみだって、彼らの小さな心を傷つけたいとは思わんだろう。とくに、クリスマスももう間近かに迫っているという時にな!」 「もしほんとにキャプテン・ズームなんかに夢中なんだったら、連中のかぼそい首をへし折ってやりたいくらいだよ」 「神を怖れぬたわごとを! わが同胞になりかわって、心からあやまるよ、ソリイ。ええと、第一回のタイトルは何ていったっけな?」 「キャプテン・ズームと火星の脅威」 「ああ、そうだったな。ところで、何かっていうと、どうして火星の脅威を持ち出さなきゃならんのだ? そもそも、ウェルズって男がいけないんだと思うんだよ。いつの日か、宇宙裁判所に名誉毀損で訴えられることになるかもしれないぞ。火星人の方でも、われわれに対して、同様に失敬千万な扱いをしてたってことが証明できれば別だがな。とにかく、ありがたいことに、わたしは『火星の脅威』を見てないんだよ」 (「おれは見ちゃったんだな」誰かが後ろの方でうめいた。「いまだに、忘れようとして悪戦苦闘しているんだ」)  しかし、その映画の筋自体は、この話とは何の関係もない。それは、ウィルシャー・ブールバードのバーで、三人の男によって書きあげられたのだ。三人のシナリオ・ライターが酔っていたから、ああいう形で脅威が出現したのか、あるいは、その脅威にたえるために、彼らとしては酔いつづけていなければならなかったのかは、誰にもはっきりしない。とにかく、ソリイに関係があるのは、プロデューサーの要求した特殊効果だけだったのだ。 「まず最初に、彼としては、火星をでっちあげなくちゃならなかったわけだ。そのために、三十分ばかり『宇宙の征服』に目をとおしてからスケッチをかき、それをもとに大道具たちが、とてもほんとうとは思えないほどたくさんの星がまわりに輝いている、ぽっかりと宙にういた熟れすぎたオレンジを作りあげたんだよ。それはかんたんだったんだ。が、火星の町はそうかんたんにはいかなかったんだな。  まあ、きみたちも、完全に異質で、しかも納得のいくような建築物というものを考えてみてほしいんだ。そんなことが可能かどうか、わたしとしては疑問に思うがね。機能的に可能なものなら、誰かがすでにこの地球上でやっちゃってるよ。撮影所が最終的に作りあげたものは、何となくビザンチン風で、しかも、どこかフランク・ロイド・ライトを思わせるといった代物だったんだ。どのドアを開けても、どこへも通じていないという事実は、台本の要求している丁々発止のちゃんばらとアクロバットのできる余地があるかぎり、たいした問題ではなかったんだよ。  そう、剣をふりまわしてのはでな立ちまわりがあったんだな。一方に、原子力、殺人光線、宇宙船、テレビといった文明の利器がそろっていながら、いざキャプテン・ズームと悪玉クラグ皇帝の対決となると、時計の針は二世紀ばかり逆もどりしてしまうんだ。いかにもぶっそうな恰好をした光線銃をかまえた兵士たちが折りかさなるように取りかこんでいながら、絶対に手出しをしょうとはしないってわけだよ。まあ、たいていの場合には、だな。時折り、スパークがキャプテン・ズームを追いまわし、ズボンを焼きこがすことはあっても、それ以上には進まないんだ。まあ、これはわたしの推測だが、光線銃の光線は光より速く進めないんで、彼としては常に逃げきれるのではないかと患うんだ。  ところが、このかざりものにすぎない光線銃が、スタッフの頭痛のたねだったんだよ。ハリウッドつてとこはおかしな所だな。フィルム自体まるっきりくずなのに、その細部にとことんまで凝るんだからね。キャプテン・ズームのプロデューサーは、光線銃について一家言もってたんだよ。ソリイはバズーカ砲とラッパ銃の合いの子のような一型を設計したんだ。彼としては、心から満足していたし、プロデューサーも満足してたんだよ。ほぼ一日はね。が、そうこうするうちに、御大が把手やレンズやレヴァーのついた紫色のプラスチックの、ぞっとするようなおもちゃをかかえて、スタジオへどなりこんで来たんだな。 「これを見てみろ、ソリイ!」と、彼は苦しげに息を吐きながらいったんだ。「うちのちびがスーパー・マーケットでもらって来たんだ。クランチの包装をもって行くとくれるんだよ。ふたを十枚集めると一丁もらえるんだ。おれたちのよりずっといいじゃないか! しかも、見てくれだけじゃないんだぞ!」  彼がレヴァーを押すと、筒先から水がとび出し、キャプテン・ズームの宇宙船をとび越えて、そんなとこで煙をあげている権利のないたばこを、じゅっと消しちゃったんだ。怒った大道具係は気閘からぬっと姿を現わしたものの、自分に水をかけたのが誰かに気づくと、組合に報告したらただじゃすまないぞ、ってなことをつぶやきながら、早々にひっこんでしまったんだよ。  ソリイはその光線銃を、うんざりしながらも専門家の鋭い目で調べたんだ。たしかに、それは彼が作りあげたどの銃よりもはるかにりっぱだったんだよ。そこで、彼は自分の部屋に引きこもり、何とかそれに手を加えることを約束したんだ。  二型は、ありとあらゆるものを、それこそテレビのスクリーンまで内蔵していたんだ。もし突然火星の怪獣におそわれたりしたら、キャプテン・ズームとしては、テレビのスイッチをいれ、真空管があたたまるのを待って、チャンネル・セレクターを調べ、微調整を修正し、焦点をあわせ、ラインとフレームのつまみをつつけば、後は引き金をひくだけでいいんだよ。幸いにも、彼は信じられないくらい反応のほやい男だったんだな。  プロデューサーは感銘をうけ、二型は量産体制にはいったんだ。クラグ皇帝の極悪非道な手兵のためにも、わずかに違う所のある二A型が生産されたんだよ。両陣営が同じ武器をもっていたんじゃ、らちがあかんわけだからね。パンデミック・プロダクションがあくまでも正確を期する所だということはすでに話しただろう。  第一回のラッシュ、いや、その後まですべてはうまくいっていたんだ。タレントたちは芝居をしながら、というほどの芝居じゃないんだが、その銃を突きつけ、あたかも何ごとかが起こるかのような顔をして引き金を引かなければならなかったわけだ。スパークとフラッシュは後から二人の小男の手で、フォート・ノックスに負けないくらい厳重に警戒された暗室でネガにかきこまれんだよ。二人はみごとにその仕事をやってのけたんだが、しばらくすると、プロデューサーはふたたび肥大した芸術的良心の呵責を感じたわけだ。「ソリイ」と、彼は例のクランチから令息に贈られたプラスチックのげてものをいじりまわしながらいったんだ。「ソリイ、わたしとしては、何かがとび出す銃がどうしてもほしいんだがな」  ソリイがさっとかがんだので、水は彼の頭をこえて、ルエラ・パーソンズの写真に洗礼をあたえたんだ。 「まさかはじめっから撮りなおそうなんていうんじゃないでしょうね!」彼は半べそだったんだよ。 「そんなつもりはないさ」プロデューサーはいかにも不本意げに答えたんだ。「今のやつを使うほかないだろう。しかし、どうもいんちきくさく見えるんでな」彼はデスクの上の台本をぱらぱらとめくっていたが、やがて顔をかがやかせると、「来週から第五十四話の撮影にはいるわけだな。『スラッグ・メンのドレイ』の撮影に。スラッグ・メンにも銃が必要なんだ。だから、今度はこういう――」  三型の製作では、ソリイもさんざん苦労させられたんだ。(とばしちゃった型はないだろうな? よし)。まったく新しいデザインでなければならなかっただけではなく、諸君もすでに推察しておられるとおり、何かがとび出さなければならなかったからだ。これはソリイの発明の才に対する一つの挑戦だったんだな。しかしながら、トインビー教授の言葉をかりれば、この挑戦はしかるべき反応を呼び起こした、というわけだ。  三型には強力な技術が導入されたんだよ。幸いにも、ソリイは前にも何度かこういう時に助けてもらったことのある器用な技術者を知っていたんだ。その男こそ、この新兵器誕生の黒幕だったわけだな。(「まさにそのとおりなんだ!」と、ブランバーグ氏が憂欝そうにいった)。その原理は、小型ながら極めて強力な扇風機によって作り出される空気の噴流を利用し、その中に、正確に計量したパウダーを吹きこむというものだったんだ。正しく調整すると、すさまじい光線[#「光線」に傍点]を噴射し、さらにすさまじい音を発するんだよ。タレントたちもすっかり怯えあがってしまい、迫真の演技がくりひろげられたほどだったんだ。  プロデューサーは大よろこび、といってもそれは丸三日のこと。やがて、彼はおそろしい疑惑におそわれたんだな。 「ソリイ」と、彼はいったんだ。「今度の銃はどうにもうまくできすぎてるな。あれじゃ、スラッグ・メンどもはキャプテン・ズームをちぢみあがらせちゃうだろう。彼にもっと優秀な武器をあたえなきゃならんぞ」  ことここに至って、ソリイは自分がいかなる事態に追いこまれているかをさとったわけだ。軍拡兢争にまきこまれていたんだよ。  というわけで、四型が開発されたわけだ。そうだったな? あれはどんな具合になっていたっけ? ああ、そうか、思い出したよ。世にも美しい焔を作り出すために、さまざまな化学薬品をつめこみ、いろいろと飾りたてた酸素アセチレン・バーナーだ。言い忘れたが、第五十話の『ダイモスの運命』から、今までの白黒をカラーに切りかえ、さまざまな可能性が開けたわけだよ。銅なり、ストロンチウムなり、バリウムなりを焔に注ぎこむことによって、思いのままの色を出せるわけだ。  これでプロデューサーが満足したと思ったら、それはハリウッドを知らないというものなんだ。皮肉屋の中には、芸術のための芸術というモットーが画面に現われるとまだ笑う人もいるが、そういう態度は現実から遊離しているといわなければならないんだな。ミケランジェロ、レンブラント、あるいはティツィアーノといったその昔の巨匠たちが、完璧を求めるために、パンデミック・プロダクションはどの時間と努力と金を費やしただろうか? わたしはそうは思わないな。  問題のシリーズの撮影中に、ソリイと彼の友人の器用な技術者が開発したすべての型をおぼえているなどとおこがましいことはいわない。色のついた煙の輪を射ち出す型。何ともすさまじいけれども何の実害もないスパークをまき散らす高周波発生機。とくにみごとなのは、噴出する水の内側に光が反射するようにして、カーヴした光線を創り出したもので、暗い中で見ると、何とも見物《みもの》だったんだ。そして最後に、十二型が開発されたんだよ」 「十三型だよ」と、ブランバーグ氏がいった。 「そうだったな。わたしとしたことがまた何とうっかりしたことを! 十三以外の数字は考えられないところなのにな! 十三型は携行兵器ではなかったんだ。ほかの型にも、携行兵器とはいいにくいものもあるにはあったんだがね。十三型は、地球を征服するためにフォボスに据えっける悪魔のごとき代物だったんだ。一度、ソリイから説明を聞いたんだが、その科学的な原理は、わたしの単純な頭ではおぼえきれるようなものじゃないんだ。キャプテン・ズームを作りあげた知性とはりあおうという方が図々しいというほかないがね。  わたしとしては、その光線がいかにして創り出されたかということはぬきにして、いかなる効能があることになっていたかを報告してお茶をにごすはかないわけだ。それは空気中の窒素と酸素を結合して、わが不幸なる惑星の大気圏内で連鎖反応を起こさせ、地球上の生命に非常に有害な効果をあたえようというものだったんだよ。  ソリイがこの途方もない十三型の詳細を、彼の有能な助手のもとに残してきたということを、悲しむべきかよろこぶべきか、わたしとしてはどうにも判断がりかないんだ。かなりの時間、いろいろと質問を発したんだが、彼に答えられることは、それが高さ約六フィートぐらいで、二百ミリ望遠鏡と高射砲の合いの子のような代物、ということだけだったんだ。それだけじゃ、どうにも見当がつかんだろう?  彼はまた、その怪物には、とてつもなく巨大な磁石のほかに、数多くのラジオの真空管も組み込まれていたといってるんだ。そして、実害はないけれども、見る人に強烈な印象をあたえる電弧をつくり出し、磁石で思いのままのおもしろい形にかえることができることになっていたんだな。とにかく、発明者はこういっているわけで、いろいろと意見はあるだろうが、かといって、彼の言葉を頭から疑ってかかる理由もないわけなんだ。  不幸にして、といっても、後になって考えてみると、神の助けとしかいいようがないのだが、十三型の試射をした時、ソリイはスタジオにいなかったんだ。後ろ髪をひかれる思いだったんだが、その日、彼はメキシコに用があったんだよ。それにしても運がよかったな、ソリイ! 彼はその午後、友人の一人から長距離電話がかかるのを待っていたんだが、やっとかかった電話は、彼が予期していたような内容ではなかったわけだ。  十三型は、どう控え目にいっても、成功だった。正確に何ごとが起こったのかは、誰にもわからなかったんだが、奇蹟的に、誰一人、命を失わずにすみ、消防署はとなりのスタジオを救うことができたんだ。ちょっと信じられないことだけど、そういう事態が起こったということはまざれもない事実なんだよ。十三型は、いんちき殺人光線を発することになっていたんだ。ところが瓢箪から駒がとび出しちゃったわけだな。射出器から何か[#「何か」に傍点]がとび出し、スタジオの壁をまるでそんなものが存在しないかのように突き破ってしまったんだ。事実、一瞬後には、壁はすでに存在しなかったんだがね。縁の方からくすぶり始めている巨大な穴があるだけで。ついで、屋根が落ちて来たんだ――  すべては手違いから起こったのだということをFBIに納得させることができるなら別だが、さもなければソリイとしては、アメリカに足を踏みいれない方がいいというわけなんだ。現在でさえ、国防総省と原子力委員会が残骸をかき集めているという状態なんだからね――。  諸君がソリイの立場だったら、どうする? 彼には悪気はなかったんだが、どうしたらそれを証明することができる?一九四八年にヘンリー・ウォーレスの選挙運動をやった男をやとったことがあることを思い出さなかったら、おそらくは彼もアメリカへ戻って、敢然と取り調べをうけていただろう。  しかし、そういう事実があってはただではすまないかもしれないんだ。その上、キャプテン・ズームにもいささか嫌けがさしていたんだな。それで、彼は今ここにいるというわけなんだよ。誰か、彼を使ってくれるイギリスの映画会社を知らないか? しかし、時代物だけにしてくれよ。彼としては、どんなに新しくても、石弓以上に近代的な兵器には手を触れたくないという心境だろうがね」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    |臨 界 量《クリティカル・マス》      Critical Mass [#改ページ] 「前に話したことがあったっけな」と、ハリー・パーヴィスは控え目にいった。「わたしがイングランド南部の緊急疎開騒ぎを防いだ時のことだがね」 「話してないよ」と、チャールズ・ウィリスがいった。「もし話したとしたら、その間ずっと、ぼくは居眠りしつづけてたんだ」 「じゃ、話すか」一応、一人芝居にならない程度に聞き手の頭数がそろうと、ハリーはつづけた。「その事件ていうのはね、二年前にクロバムの近くの原子力研究所で起こったことなんだよ。あの研究所のことは、もちろん、みんな知ってるだろう。しかし、わたしがしばらくあそこで働いていたってことは、まだ話してなかったな。ちょっと話すわけにいかない特別な仕事をしてたんだよ」 「きみにも話せないことがあるっていうのはうれしいね」と、ジョン・ウィンダムがいったが、蛙の面に水をかけたようなものだった。 「それは土曜日の午後のことだったんだ」と、ハリーは話しはじめた。「晩春のうららかな日だったよ。〈黒鳥亭〉の酒場には、われわれ科学者が六人ばかりたむろしていたんだ。窓が開いていて、クロバル・ヒルのスロープが見おろせ、田園の彼方には、三十マイルほどはなれたアブチェスターの町も見えていた。実際、地平線上に、アブチェスター大寺院の二つの尖塔まで見えたほど晴れわたっていたんだ。これ以上平和な日は望めないというような日だったんだよ。  最初のうちは、村人たちも軒先に研究所があるっていうことをよろこんでいなかったけど、そのころには、研究所の連中も、土地の人たちとかなりうまくいくようになっていたんだ。われわれの仕事の性質とは別に、彼らは、科学者っていうのは、人間的な興味なんてもっていない、まるで別の人種だと思いこんでいたんだな。しかし、二度ほどダートで連中を敗かせ、二、三杯おごると、彼らの考え方もかわってきたんだ。しかし、まだおもしろ半分のいやがらせもかなりあり、今度は何を吹っとばすつもりだ、なんてしょっちゅう訊かれたもんだよ。  その午後は、もうすこし仲間が集まるはずだったんだけど、放射性同位元素部に急ぎの仕事が入ったんで、いつもより人数がすくなかったんだ。主人のスタンリー・チェンバーズは、見なれた顔がいくつかかけている、なんていってたよ。そして、「今日はみなさん、どうしちゃったんです?」って、わたしの上役のフレンチ博士に訊いたんだ。 「工場で忙しいんだ。急いで品物を送り出さなきゃならないんでね。後からやってくるだろう」と、フレンチは答えたんだ。みんな、研究所のことを工場ってよんでたんだよ。その方が身近かに感じられるし、怖ろしいひびきもなかったんでな。 「いつか、あんた方は、自分たちの手じゃどうにも抑えのきかないようなものを、送り出すことになりますよ。そうなったら、われわれはみんな、どこにいることになるんですかね?」と、スタンリーは手きびしくつづけた。 「月までの半分ぐらいは吹っとはされてるだろうな」と、フレンチ博士は答えた。これはいささか無責任な言葉のようだが、ああいうはかげた質問にあうと、彼は必ずいらだっちゃうんだな。  スタンリー・チェンバーズは、自分とクロバルの間に、どのくらい丘があるかを見きわめようとするかのように、肩ごしに振りかえったよ。地下の酒蔵までかけつける間があるか、あるいはかけつけてみるだけの価値があるかどうかを計算していたんじゃないかと思うんだ。  その時、「あんた方がしょっちゅう送り出してる、その、アイソトープってやつですがね」と考えこんだような声がいったんだ。「わたしゃ、先週、聖トマス病院へ行った時に、連中が一トンもありそうな鉛の箱に入れて運んでるのを見たんですよ。もし誰かが扱い方を間違えたらどういうことになるかって考えてるうちに、ぞっとしてきましたね」 「この間、計算してみたんだがね」と、フレンチ博士はいったが、ダートの邪魔をされたのでうんざりしているいろが、まだその顔にはっきりと出てたよ。「クロバムには、北海を沸騰させるのに充分なだけのウラニウムがあるんだ」  これはまたまったくばかなことをいったもので、事実でもなかったんだな。しかし、わたしとしては、上役を叱りつけるわけにもいかなかったんだよ、そうだろ? 今いったようなことをしゃべっていた男は、窓ぎわのアルコーヴに坐っていたんだが、心配そうないろをうかべて、道路を見おろしていることに、わたしは気がついたんだ。  と、その男が、「その品物は、あんた方の工場からトラックで送り出されるんでしょう?」と、いささか切迫した口調で訊いたんだな。 「そうだよ。アイソトープの中には、生命の短いものが多いんで、すぐに送りとどけなきゃならないんだ」 「故障したトラックが一台、丘をくだっていってるんですがね、あれほあんた方のとこのですか?」  みんな、ダートボードのことなんか忘れて、いっせいに窓ぎわへかけよったね。目をこらしてよく見ると、木箱をつんだ大型トラックが、四分の一マイルほどはなれた坂道を、ものすごい勢いでくだっていってるんだ。そして、時どき、生け垣にぶつかっちゃ、はねかえってるんだよ。ブレーキがこわれて、とまらなくなったということは一目瞭然だったんだ。幸いに、反対の方向からくる車はなかったんだが、車がきてたら、たいへんな事故はさけられなかったところだよ。そうでなくても、たいへんなことになりそうだったんだからね。  やがて、トラックは道の曲り目にくると、舗装した道からはずれて、生け垣をつきぬけちゃったんだ。そして、でこぼこの地面の上で激しくゆれながらしだいにスピードをおとして、五十ヤードほど走っていったんだな。やがて、ほとんどとまりかけた時、溝にはまって、非常に静かに横倒しになったんだ。数秒後、木箱が地面にすべりおちるとともに、木の折れる音がわれわれのとこまで聞こえてきたよ。 「これでまあよかった」と、誰かが安堵の溜息とともにいった。「生け垣にぶつけたというのは正しい処置だったな。運転手はこわい思いはしたが、けがはしてないだろう」  その時、何ともわけのわからない光景が目に入ったんだ。運転台のドアが開き、運転手がはい出してきたんだよ。あんなに遠くからでも、ひどく興奮していることがはっきりと見てとれたんだ。まあ、ああいうことの後だから、興奮していたのもごく当然だがね。しかし、みんなが予想したように、彼は坐りこんで、気を取りなおそうとはしたかったんだ。坐るどころか、さっと立ちあがると、地獄の悪魔がいっせいに追いすがってきているかのように、原っぱを横ぎって走りだしたんだよ。  われわれはぽかんと口をあけて眺めていたが、彼が丘をかけおりていくにつれて、次第に事情がのみこめてきたんだ。酒場全体が不吉な静寂につつまれ、聞こえるのは、スタンリーがいつも正確に十分進ませてある時計の音だけ。ついで、誰かがいったんだ。「ここにいた方がいいと思うか? というのは、たった半マイルしかはなれてないんだから――」  窓からはなれた所で、不安げなざわめきが起こった。と、フレンチ博士が、短い神経質な笑い声をもらして、「あれがうちのトラックかどうかもわからないんだ。それに、今、わたしがいっていたことは、いやがらせだったんだよ。問題の品物が爆発するってことは、絶対にありえないんだ。運転手はガソリン・タンクに引火することを怖れているにすぎないんだよ」 「そうですかね?」と、スタンリーがいった。「じゃ、なぜまだ走ってるんです? もう丘を半分もかけおりちゃってるんですぜ」  すると、計器課のチャーリー・エヴアンズが、 「わかった! 彼は爆発物を積んでたんだ。で、それが爆発するのを怖れてるんだ」  が、わたしとしては、彼の説を否定せざるをえなかったんだ。「火が見えないじゃないか。それなのに、彼は何を怖れてるんだ? それに、爆発物を積んでるんなら、赤い旗か何かをつけてるはずだ」  すると、「ちょっと待ってなさい」と、スタンリーがいったんだな。「双眼鏡を取ってくるから」  彼が戻ってくるまで、誰一人、動こうとしなかったよ。といっても、はるか下の丘の斜面を逃げていく小さな姿は別としてだがね。今やその姿も、スピードをおとそうともしないで、森の中へ消えちゃったんだ。  スタンリーはいつまでも双眼鏡で眺めていた。が、ついに、不満げなつぶやきをもらしてそれをさげると、 「あまりよく見えない。トラックは悪い方へ倒れたようですな。そこら中に、木箱が散らかってますよ。中にはぱっくりと口を開けてるのもあるし、何だかわかるか、見てごらんなさい」  フレンチは長い間、双眼鏡をのぞいていたが、やがてわたしにわたしてくれた。が、これが非常に旧式なものだったんで、たいして役にたたなかったんだな。ちょっとの間、わたしには、いくつかの木箱のまわりに妙なもやのようなものがただよっているように見えたんだ。が、そんなはずはなかったんだ。で、レンズのくもりのせいにしちゃったんだよ。  そして、もし自転車にのった二人づれが現われなかったら、その問題はそれで終わってしまっていただろうと思うんだ。彼らは前後に二人乗りの自転車で、丘をあがってきていたんだが、あいたばかりの生け垣の穴のところまでくると、さっと自転車をおりて、どういうことになっているのかを調べにいったんだな。道路からもトラックが見えていたんで、二人は手に手を取りあって近づいていったんだ。娘の方が尻ごみし、男の方がこわがることはないよってなことをいってたに違いないよ。二人のやりとりを想像することができたんだ。まったく心あたたまるような眺めだったね。  が、それも長くはつづかなかったんだ。二人はトラックから数ヤードのところまで近づくと、ものすごい勢いで反対の方向へ逃げだしたんだよ。どちらも振りかえって相手の様子を見ようともしないんだな。しかも、二人が何とも奇妙な走り方をしてるのに、わたしは気づいたんだ。  また双眼鏡をのぞいていたスタンリーが、ふるえる手でそれをおろすと、 「車を出せ!」 「しかし――」と、フレンチ博士がいいかけたんだ。  すると、スタンリーがにらみつけてだまらせちゃったんだよ。そして、 「ろくでなしの科学者め!」と、帳場の現金の入った引出しをがたんとしめ、鍵をかけながらいったんだ。(こんな時でも、彼はやるべきことを忘れなかったんだな)。「いずれこんなことをやらかすだろうってことぐらい、ちゃんとわかってたんだ」  ついで、彼は姿を消しちゃったんだ。彼の仲間の大部分も、いっしょに姿を消しちゃってたよ誰一人、乗せてやろう、ともいってくれなかったんだ。 「こんなばなことがあるか!」と、フレンチがどなったよ。「どういうことになってるのかをわれわれがつかむ前に、あのばかものどもはこのあたりに大恐慌を惹き起こしちゃうぞ。そうなったら、たいへんなことになるんだ」  わたしには、彼のいっていることがよくわかったんだ。誰かが警察に知らせる。車はクロバムに入らないように迂回させられる。殺到する問合わせで電話の回線がふさがれる。一九三八年のオーソン・ウェルズの〈宇宙戦争〉騒ぎのような恐慌状態が惹き起こされるんだよ。わたしが誇張していると思うかもしれないが、恐慌状態の怖ろしさというのは、けっして過小評価しちゃいけないものなんだ。それに、土地の人びとがわれわれの研究所をこわがっていたということを思い出してもらいたい。そして、こういうことが起こるのを、なかば予期していたということをね。  さらに、そのころには、われわれ自身もけっしていい気持ちではなかったということも、告白しておこう。下のこわれたトラックの傍らで何ごとが起こっているのか、われわれには見当もつかなかったし、まったくわけがわからずに当惑させられることほど、科学者にとっていやなことはないんだよ。  その間、わたしは打ちすてられていたスタンリーの双眼鏡をつかんで、あくまでも慎重に問題の残骸を観察していたんだな。そのうちに、わたしの頭の中で一つの考えがまとまりはじめたんだ。箱のまわりには、何ていうか、もやのようなものがただよっていたんだよ。わたしは目がいたくなるまで眺めてから、フレンチに向かっていったんだ。「正体がつかめたつもりです。クロバム郵便局に電話して、スタンリーを押えてください。もし彼がもうついていたら、すくなくとも、噂をひろめるのをとめるようにしてください。すべてはおさまったというんです、心配することはないってね。あなたが今いったことをしてくれている間に、わたしはおりていって、わたしの考えがあたっているかどうかを調べてきます」  残念ながら、いっしょに行こうと申し出たものはいなかったんだ。わたし自身も自信たっぷりに、道路づたいに丘をくだりはじめたんだが、しばらくすると、いくらか確信がうすれはじめてきちゃったんだよ。歴史のもっとも皮肉ないたずらの一つではないかとつねに思っていた出来事を思い出し、今もそれと同じようなことが起こっているのではないかと心配になってきたんだな。かつて極東に、人口約五万の火山島があったんだ。百年間にわたってなりをひそめてきたその火山のことを心配する人は、一人もいなかったんだよ。が、やがてある日、噴火が始まったんだ。はじめのうちは、小規模なものだったんだけど、時間がたつにつれて、激しくなっていったんだな。住民は騒然としはじめ、本土へ逃げるために、港にあったわずかな船に、われ先に乗りこみはじめたんだ。  しかし、その島は、いかなる犠牲を払っても秩序を維持しょうと決心していた軍司令官の管轄下にあったんだ。で、彼は何の危険もないという布告を出し、超満員の船で逃げようとして人命が失われることのないように、部下の兵士を派遣して、船を抑えさせたんだな。彼には大衆を落ちつかせるだけの人望があり、またそれだけの勇気も示したので、逃げ出そうとしていた人びとははずかしそうな顔をしてわが家に帰り、そこで、事態が平常に戻るのを待っていたんだ。  それで、その二時間ばかり後に、島全体を道づれにして火山が大爆発を起こした時には、生存者は一人もいなかったんだよ――。  トラックに近づくにつれて、わたしは自分がその判断をあやまった司令官のように思えてきたんだ。踏みとどまって、危険に直面するのが勇敢な時もあれば、逃げ出すのがもっとも賢明な時もあるんだからね。しかし、もはや引きかえすには時すでにおそかったし、わたしは、自分の考えにかなり自信もあったんだ」 「わかったよ」と、ジョージ・ホイットリーがいった。つねにハリーの話の腰を折ってやろうと虎視たんたんと狙っている男である。「ガスだったんだ」  ハリーはクライマックスで邪魔が入っても、たじろいだいろも見せなかった。 「なかなかいいことをいうじゃないか。わたしが考えていたのも、まさにそれだったんだ。ということは、われわれはみんな、時にはばかなことを考えるものだということを示しているわけさ。  わたしはトラックから五十ヤードのところまで近づくと、茫然として、その場に釘づけになってしまったんだ。そして、あたたかい日だったんだけど、背筋に何とも不愉快な寒気がひろがりはじめたんだな。わたしのガス説を一瞬にして吹きとはし、その後に、何一つ残さないようなものが目に入ったからだ。  木箱の一つの上を、黒い、もやもやしたかたまりがのたうちまわっていたんだよ。一瞬、わたしはこわれた容器からにじみ出た黒っぽい液体だと、自分に思いこませようとしたくらいだったんだ。しかし、液体のよく知られた性質の一つは、重力にはさからえない、ということなんだなところがそいつはまさにそういうことやってたんだ。また、そいつが生きているということも、一目瞭然だったんだよ。わたしの立っていたところからは、それは刻々と形と太さがかわる、巨大なアメーバの偽足のように見え、こわれた木箱の上で、前後左右に揺れ動いていたんだ。  この数秒の間には、エドガー・アラン・ポオを思わせるような、さまざまな幻想がわたしの心をよぎったんだ。が、やがて、市民としての義務と、科学者としての誇りを思い出したんだな。それで、わたしはまた前進しはじめたんだよ。けっして急いではいなかったけどね。  わたしはまだガスのことが心に残っているかのように、用心深く鼻をうごめかしていたのを憶えているな。しかし、その不吉な、騒然たる塊りのたてる音がわたしのまわりで高まるとともにその正体をつきとめてくれたのは、鼻ではなく耳だったんだよ。それはこれまでに百万回も聞いたことのある音だったが、これほど大きかったことははじめてだったんだ。わたしはその場に坐りこむと――あんまり近くにじゃないぞ――笑って笑って笑いころげたんだよ。ついで立ちあがると、酒場へ戻っていったんだ。 「何だった?」と、フレンチ博士はせきこんで訊いたよ。「スタンリーを電話口につかまえてあるんだ。十字路のところでつかまえたんだよ。しかし、何ごとなのかがはっきりするまでは、戻ってこないっていうんだ」  で、わたしは、「スタンリーに、この近所の養蜂業者をかきあつめてくるようにいってください。大仕事があるんですよ」っていったんだ。 「この近所の何だって?」と、フレンチは聞きかえしたね。ついで、ぽかんと口をあけると、 「驚いたな! まさかきみは――」 「そのとおりなんですよ」と答えて、わたしは、スタンリーがいい酒のびんでもかくしてないか調べるために、カウンターの裏へまわったんだ。「そろそろ落ちつきかけてほいますが、まだかなりいらだってるみたいですね。かぞえてはみなかったけど、五十万匹はいますよ。五十万匹の蜂が、こわれた巣に戻ろうとしてひしめきあってるんです。まさに|危険な集団《クリティカル・マス》ですよ」」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    究極の旋律      The Ultimate Melody [#改ページ]  二十人、あるいは三十人の人が一堂に会してしゃべっている時、みんな不意に黙りこみ、一瞬すべての音を呑みこんでしまうように思える、ぞくぞくするような空白が訪れることがあるのに諸君は気づいたことがあるだろうか? それがほかの人にどんな影響をあたえるかは知らないがそういうことが起こると、わたしは全身に寒けがはしるのだ。もちろん、すべては確率の法則のなせる業なのだが、どういうわけか、わたしには偶然、いっせいに話が途絶えたというだけのこととは思えないのである。みんなが、何かに耳をかたむけているかのようにすら思えるのだ。何に耳をかたむけているのかは知らないままに。そういう瞬間が訪れると、わたしは心の中でつぶやく―― [#ここから4字下げ] しかし、背後からは、 〈時〉の翼のある|戦 車《チャリオット》がぐんぐん近づいてくる音がつねに聞えている…… [#ここで字下げ終わり]  どんなにたのしい仲間と語りあっている時に起こっても、わたしはそういう感じを抱いた。そう、たとえ〈白鹿亭〉で起こっても。  いつもほど仲間が集まっていない、ある水曜日の晩にもそういうことが起こり、わたしはそういう感じを抱いた。例によって、静寂は不意に訪れた。その時、チャーリー・ウィリスが最近のヒット・メロディーを口笛で吹きはじめた。おそらくは故意に、その心をかき乱すような不安定な感じを破ろうとしたのだろう。それが何という曲だったかということさえ、わたしは憶えていない。わたしが憶えているのは、それが、ハリー・パーヴィスが例によって例のごとき、何とも人騒がせな話を始めるきっかけとなったということだけである。  「チャーリー」と、彼はあくまでもおだやかに口を切った。「そのくそいまいましい曲を開くと、いらいらしてくるんだ。この一週間、ラジオのスイッチをひねるたびに聞かされつづけてきたんでね」  ジョン・クリストファーが鼻をならすと、「第三放送だけ聞くようにするんだな。そうすれば、間違いないよ」 「エリザベス朝のマドリガルばかり押しつけられるのを好まない人間もいるんだよ」と、ハリーはやりかえした。「しかし、まあそのことでやりあうのはやめようじゃないか。ヒット曲には、その、底に流れるものがある、ということに気づいたことがあるか?」 「どういう意味だ?」 「ヒット曲っていうのは、どこからともなく現われて、何週間か、ねこもしゃくしも口ずさんでいるんだ。さっきチャーリーがやったようにね。いいヒット曲は、どうしても頭からたたき出すことができないほど、人の心をしっかりと掴んじゃうんだよ。何日も、繰りかえし練りかえし、頭にうかんでくるんだな。かと思うと、やがて突然、消えちゃうんだよ」 「きみがいおうとしてることはわかるよ」と、アート・ヴィンセントがいった。「メロディーの中には、あまり気にならないものもあるかと思うと、中には、好むと好まざるとにかかわらず、糖蜜のように、へばりついてはなれないものもあるんだ」 「そのとおり。ぼくはまる一週間、ちょうどそういう具合に、シベリウスの〈第二〉のフィナーレの主題にとりつかれちゃったんだ。眠ってても、そのメロディーが頭からはなれないんだよ。その後が、例の〈第三の男〉のテーマさ。タラララララー。あれが人びとにどんな影響をあたえたかを考えてみたまえ」  ハリーは聞き手がツィターの口まねをやめるまで、待っていなければならなかった。最後のぽろん≠ェ消え去ると、彼はつづけた。 「そのとおり! みんな、同じように感じたんだ。ところで、こういった影響をあたえる曲には、何があるのか? 中には、名曲もあれば、陳腐なものもあるが、そういった曲には、明らかに共通するものがあるんだな」 「それで?」と、チャーリーがいった。「つづけろよ、みんな待ってるんだぜ」 「その答えが何であるか、わたしは知らないんだ」と、ハリーは答えた。「知らないだけではなく、知りたいとも思わないんだよ。それを見出した男を、わたしは知ってるんでね」  彼の話が途中でとぎれるのをふせぐために、誰かが自動的にビールをわたした。お代わりをするために、彼が途中で言葉を切ると、みんな、いらいらするのが常だったからである。 「なぜたいていの科学者が、音楽に興味をもっているのかは、わたしにもわからないが」と、ハリー・パーヴィスはいった。「それは否定することのできない事実なんだ。素人オーケストラをもっている研究所もいくつか知っているし、その中のいくつかは、なかなかりっぱなものなんだよ。こと数学者に関するかぎり、彼らが音楽の好きな理由はわかるんだ。音楽、とくにクラシック・ミュージックは、数学的といってもいいような形式をもっているんでね。さらに、いうまでもないことだが、基礎となる理論のこともあるしな。和声の関係、音波の分析、頻度分布などといったね。それ自体、非常に魅力のある研究だし、科学的な心につよく訴えるものをもってるんだ。さらに、中にはそういう危惧の念を抱く人もいるかもしれないが、それは音楽を純粋に審美的に鑑賞する妨げにはならないんだよ。  しかしながら、ギルバート・リスターの音楽に対する関心は、純粋に頭脳的なものだったということを告白しておかなければならないんだ。彼はまず第一に、脳の研究が専門の生理学者だったんだな。だから、彼の関心が頭脳的なものだったというわたしの言葉は、まったく文字どおりにとってもらいたいんだ。アレグザンダーズ・ラグタイム・バンド≠焉A合唱交響曲も、彼にとってはまったく同じだったんだよ。彼が関心をもっていたのは、音自体ではなく、それが耳もとをすぎ、脳に影響をあたえはじめた時に、いかなることが起こるかということだったんだ。  これほど教育のある聞き手の中には(と、ハリーはどうしても軽蔑しているとしかとれないように力をこめていった)脳の活動の多くが電気的なものであるという事実を知らない人は、よもやいないだろう。実際、つねに脈うつようなリズムが出ていて、新式の装置を使えば、それをとらえて、分析することもできるんだ。それがギルバート・リスターの研究分野だったんだよ。きみたちのこめかみに電極をつければ、増幅器がテープの上に何ヤードにもわたって、その脳波を引き出してくれるってわけだ。ついで、それを調べると、きみたち自身に関するおもしろいことがいろいろとわかるんだな。究極的には、指紋によるよりも確実に、エンセファログラム――というのが正しい学術用語なんだがね――このエンセファログラムから、いかなる人物でも身元を確認できるようになるだろう、と彼は主張したんだ。外科医に皮膚をかえてもらったりしたら、指紋ではどうにもならないが、もし医学が進歩して、外科手術で脳が入れ替えられるような時代がきても、その人は脳をもらった人になっているんだから、この方式はまだ効力を失わないわけなんだよ。  ギルバートが音楽に興味を抱いたのは、アルファ、ベータその他の脳波のリズムを研究していた時なんだ。彼は音楽のリズムと脳波リズムの問には、何か関連があるに違いないと信じていたんだな。さまざまなテンポの音楽を被験者に聞かせて、それが通常の脳波の頻度にあたえる影響を調べたんだ。その結果は、まあ諸君もすでに予測しているかもしれないが、非常にさまざまな影響が現われたんだよ。そして、この発見が、ギルバートをより哲学的な分野の研究に導いたというわけだ。  その理論について、彼とゆっくり話しあったことは一度しかないんだ。彼が隠し立てをしていたというわけではなく――考えてみると、隠し立てをする科学者っていうのには、一度も出会ったことがないんだが――どういう結果が出るかがはっきりするまでは、その仕事について、あんまり話したがらなかったんだ。しかしながら、話してくれたことからだけでも、彼が非常に興味のある研究分野を開拓したということは充分にわかったんだよ。で、その後は、会うたびに、彼を激励することにしたんだ。わたしの会社が彼の使っていた装置の一部を納入していたんだが、ちょっとした余禄にあずかるのも、わたしとしてはけっしていやではなかったんでね。もしギルバートの考えていることがうまくいけば、〈第五〉の最初の一小節を口笛で吹く間もないくらいすぐに、彼にはビジネス・マネージャーが必要になるということが、わたしにはわかったんだよ。  ギルバートがやろうとしていたことは、ヒット曲の理論を、科学的に裏づけるということだったんだからね。もちろん、彼としては、そんなふうには考えていなかったんだ。純粋な研究課題と考えており、学界誌に論文を発表するということだけしか考えていなかったんだよ。しかし、わたしはこの研究の経済的な面をとたんに見てとったんだな。それはまったく驚くべきものだったんだよ。  偉大な旋律、あるいはヒット曲が、人間の心に強い印象をあたえるのは、それが何らかの形で頭脳の基礎的な電気的リズムと合致するからだと、ギルバートは確信していたんだ。彼が使った一つのたとえを憶えているな。エール錠の中に鍵が入っていくようなものなんだ。何ごとかが起こる前に、二つのパターンがぴったりと一致しなけりやならんのだよ、といったんだ。  彼はこの問題に二つの角度から取りくんだんだな。まず最初に、クラシック、ポピュラーの両分野から、ほんとうに有名な曲をたくさん選び出して、その構成、彼の言葉にしたがえば、形態を分析したんだ。これはすべての周波数を分類してくれる、大きな和音分析器を使って、自動的に行なわれたんだよ。もちろん、これにはそれ以上のことがいろいろとあったんだが、根本的なアイデアだけは、諸君にもつかめたに違いないと思うんだ。  それと同時に、分析の結果、判明した音波のパターンが、脳の自然な電気的振動といかに合致するかを見出そうとしたんだな。すべての現存するメロディーは、一つの根本的なメロディーに近づこうとした悪あがきの結果にすぎない、というのが、ギルバートの説だったんでね。何世紀にもわたって、作曲家たちは、その根本的なメロディーを求めて手さぐりしてきたんだが、音楽と脳との関係を知らなかったんで、彼らは自分たちが何をしているのか、気づいていなかったんだよ。この関係が解明された今、究極の旋律を発見することも可能なはずなんだ」 「ふん!」と、ジョン・クリストファーがいった。「そんなことは、プラトンのイデアの焼きなおしにすぎないよ。知ってるだろ。現実の世界のすべてのものは、理想的な椅子なりテーブルなり何なりの、お粗末な模倣にすぎないってやつだ。あんたの友だちは、理想的なメロディーを探求してたってわけか。で、見つかったのか?」 「まあ、そうあわてなさんな」と、ハリーは平然としてつづけた。「分析を完了するまでに、約一年かかり、ついで、ギルバートは合成にかかったんだ。大雑把にいえば、彼が明らかにした法則にしたがって、音のパターンを自動的に作りあげていく機械を作ったわけだ。彼は発振器やミキサーをたくさんもっていたんだよ。事実、普通の電子オルガンに手を加えて、装置の一部に利用したほどなんだ。そして、手持ちの発振器やミキサーを、自作の作曲機械でコントロールするようにしたんだ。科学者っていうのは、自分が作った装置に子供っぽい名前のつけ方をしたがるものなんだが、ギルバートもこの装置に、ルードヴィッヒという名前をつけたんだよ。  光ではなく、音でかわる万華鏡と考えれば、ルードヴィッヒの働きを理解する助けとなるかもしれないな。しかし、彼ルードヴィッヒは、ある法則にしたがうようにセットされた万華鏡であり、その法則は人間の心の基本的な構造に基礎をおいたものだったんだ。すくなくともギルバートはそう信じていたんだよ。正しく調整することさえできれば、ルードヴィッヒは考えられるかぎりの音楽のパターンを探っていくうちに、遅かれ早かれ、究極の旋律に到達するはずだったんだ。  わたしは作曲中のルードヴィッヒを聞く機会に一度だけめぐまれたんだが、何とも薄気味の悪いものだったよ。装置自体は、どこの研究所でもお目にかかれるような、ありきたりのどうということもない電子装置なんだな。新型の電子計算機の実物大模型とも見えるし、レーダー照準装置、交通管制装置、あるいはハムの無線機と見えないこともないんだ。もしこれがうまく働けば全世界の作曲家を失業させることができるなんて、どうにも信じられなかったね。いや、はたしてそういうことになるかな? おそらく、そういうことにはならないだろう。ルードヴィッヒは素材を提供することはできるかもしれないが、それをオーケストラ用に編曲するという作業が残っていることは確かだからね。  やがて、スピーカーから音が聞こえてきたんだ。最初、わたしには、正確ではあるがインスピレーションというものをまったく欠いている生徒の指の練習を聞かされているような感じがしたんだよ。演奏される主題の大部分は、陳腐きわまるものだったな。機械が一つ演奏し、ついで、あらゆる可能性を究めつくすまで、手をかえ品をかえてそれをつつきまわしたあげく、やっと次の主題に移るんだ。時どき、はっとするようなフレーズが出てくることもあるんだが、全体として、わたしはちっとも感銘をうけなかったな。  しかしながら、ギルバートの説明によると、これはほんの試運転であり、主回路はまだ接続してないということだったんだ。それが接続されると、ルードヴィッヒもはるかに選択眼がこえてくるってわけさ。その時は、思いついたメロディーを片っぽしから演奏しているというところだったんだな。彼には、識別感覚がまだなかったんだ。その能力が加われば、可能性は無限になるっていうわけなんだよ。  わたしがギルバート・リスターに会ったのは、それが最後だったんだ。その一週間ほど後、かなり仕事がすすんだところで、研究所でまた会うことにしてあったんだよ。ところが、約束の時間に一時間ばかりおくれちゃったんだ。そして、それがわたしにとっては非常に幸運だったんだな――。  わたしがつくと、ギルバートがちょうど連れ去られたところだったんだ。もう何年も彼といっしょに仕事をしている助手が、ルードヴィッヒのこんがらかった配線にかこまれて、取り乱し、心配そうに坐っていたよ。何ごとが起こったのかつかむまでに、長い時間がかかったし、なぜそんなことになったのか考えつくまでには、さらに長い時間がかかったんだ。  一つのことだけは、疑う余地がなかったんだよ。ルードヴィッヒがついにその機能を発揮したということだ。ギルバートが最後の調整をしている間に、助手は昼飯をくいにいっちゃったんだな。そして、一時間後に戻ってきた時には、研究所は一つの長い、非常に複雑な、調子のいいフレーズで息づいていたってわけだ。ギルバートがリピートのスイッチを押してあったに違いないんだよ。とにかく、彼はその同じメロディーをすくなくとも何百回か聞いていたわけだ。助手が発見した時、彼は夢幻の境をさまよっているような状態だったんだよ。目は開いているんだが何も見てはいないし、手足は硬直していたんだ。そして、ルードヴィッヒのスイッチを切っても、 何の変化も起こらなかったんだな。ギルバートはもう手のほどこしようがない状態だったんだ。  いかなることが起こったのか? それくらいのことは考えてなきゃいけなかったのだが、ことが起こってからとやかくいうのはごくかんたんなことなんだ。わたしが最初にいったとおりのことが起こったんだよ。大雑把なやり方だけでやっている作曲家にすら、諸君の頭と心を何日もつづけて支配できるメロディーを生み出すことができるとしたら、ギルバートが求めていた究極の旋律のあたえる影響がどんなものか、想像してみたまえ! そういうものが存在するとしたら――わたしはその存在を認めているわけではないんだがね――人間の頭脳の記憶の回路で果てしなくなりつづけているだろう。それは永遠になりひびきっつけ、そのほかの考えをすべて抹殺してしまうんだ。それに較べたら、これまでのすべての耳についてはなれないメロディーなど、かげろうのようにはかないものにすぎないんだよ。ひとたび、それが脳にたたきこまれ、意識そのものの物理的な現われである脳波を乱してしまったら、もう一巻の終わりなんだ。そして、ギルバートの身に起こったのは、まさにそういうことだったんだよ。  ショック療法をはじめ、ありとあらゆる手を打ったんだ。しかし、何の効き目もなかったんだな。一つのパターンがすでに設定されていて、それを破ることはできなかったんだ。彼は外界に対するすべての意識を失ってしまい、静脈から栄養を補給しなければならなかったんだよ。身動き一つしないし、外からの刺激にも一切、反応を示さないんだが、テンポをとっているかのように、妙な具合に痙攣だけはするという話なんだ――。  もう恢復する見込みはないんじゃないかな。しかし、彼の運命が怖ろしいものであるか、あるいは、うらやむべきものであるかは、いまだにわたしにはわからないんだ。おそらく、ある意味で、彼は、プラトンのような哲人がつねに語っていた、究極の実在を見出したんだよ。ほんとうのところは、わたしにもわからないんだ。そして、時どき、彼が見出した地獄のメロディーはどんなものだったのだろうと考え、一度ぐらい聞いておきたかったなんていう思いが心に忍びこみかけているのに気づくことがあるんだよ。危険をおかさずに聞く方法もあったかもしれないんだ。オデュッセウスはセイレーンの歌を聞いていながら、無事に逃れられたんだからね。しかし、今となっては、もちろんそんなことはもう不可能なんだ」 「いずれ、そんなことだろうと思ってたよ」と、チャールズ・ウィリスがとげとげしくいった。「その装置が吹っとぷかどうかして、例によって、きみの話がほんとかどうか調べる手はないってわけだろう」  ハリーはとっておきの、怒っているというよりも、嘆かわしいといった目で彼を見た。 「装置はまったく無傷だったんだ」と、彼はきびしい口調でいった。「つづいて何とも腹だたしいかぎりのことが起こったんだが、そういうことになったのは、何といおうと、わたしが悪かったんだ。いまだに後悔しているし、一生後悔しっづけるだろう。わたしはギルバートの実験に興味を惹かれたあまり、会社の仕事の方をなおざりにしていたんだな。ギルバートはわたしの会社に対する支払いがひどく遅れていたんだよ。で、彼の身にいかなることが起こったかを知ると、経理課の方じゃ、すばやく立ちまわったんだ。わたしはほかの仕事でほんの二、三日旅に出ていただけだったんだが、戻ってきてみると、どんなことになっていたと思う? 経理の連中は、法廷命令を振りかざして、全財産を押えちゃってたんだよ。それが、ルードヴィッヒの解体を意味していたということは、いうまでもないんだ。次に、わたしが彼と会った時、彼はすでに何の役にもたたないがらくたの山となりはてていたんだよ。ほんの何ポンドかの金にするためにね! 泣けてきたよ」 「そりゃそうだろう」と、エリック・メインがいった。「しかし、きみはもう一つ、こまかいことを忘れてるぞ。ギルバートの助手はどうなったんだ? 彼はその装置ががんがんがなりたてている時に、研究所へ入っていったんだぞ。どうして、彼もやられなかったんだ? 話がおかしいじゃないか、ハリー?」  ハリー・パーヴィスは最後の一滴を飲みほし、だまってグラスをドルーにわたすと、すぐにつづけた。 「何てことを!」と、彼はいった。「まるで反対訊問じゃないか! そんなことは取るにたりないことだから、いわなかっただけなんだ。しかし、わたしが問題の旋律の面影すらつかめなかった理由の説明にはなるな。実は、ギルバートの助手は研究所の技術者としては一流だったんだけど、ことルードヴィッヒの調整に関しては、ほとんど役にたたなかったんだよ。よくいる完全な音痴の一人だったんでね。彼にとっては、究極の旋律も、庭の塀の上でないている二匹のねこ同然だったんだ」  誰も、それ以上質問をしようとはしなかった。みんな、それぞれに沈思黙考したいという欲求を感じていたのだろう。〈白鹿亭〉がいつものにぎやかさを取り戻すまで、長い、憂いにみちた沈黙がつづいた。にぎやかさを取り戻してからも、チャーリーが〈輪舞《ラ・ロンド》〉を口笛で吹きだすまでには、まる十分たっていたことに、わたしは気がついた。 [#改ページ] [#ページの左右中央]    反戦主義者      The Pacifist [#改ページ]  その晩、わたしがおそくなってから〈白鹿亭〉に顔を出すと、みんな、ダートボードの下の片隅に集まっていた。といっても、ドルーをのぞいて、である。彼は自分の持ち場をはなれず、カウンターの中に坐って、T・S・エリオット全集を読んでいた。彼はわたしにビールをわたし、みんなが何をしているのか話す間だけ、〈秘書〉から目をあげた。 「エリックが何かゲームをもってきたんですよ。今までのところ、みなさん、その機械に負けっぱなしなんです。今、サムが運だめしをやってるとこですがね」  その時、どっと笑い声が起こって、サムがほかの連中同様についていなかったことが判明すると、わたしは人だかりをかきわけて、何をやっているのか見るために進みでていった。  テーブルの上には、チェッカーボードぐらいの大きさで、やはり四角い枠にわかれている金属製の重たい箱がおかれていた。それぞれの枠の片隅に、二路開閉器《ツー・ウェイ・スイッチ》と小さなネオン・ランプが一つずつついている。この盤がコードでコンセントにつながれ、(そのために、ダートボードは暗闇に取り残されていたが)エリック・ロジャースが新しい犠牲《いけにえ》を求めて、あたりを見まわしていた。 「どんなゲームなんだ?」と、わたしは訊いた。 「アメリカ人のいう三目ならべに手を加えたものさ。ベル研究所にいった時に、シャノンがおしえてくれたんだ。ここにあるスイッチをいれて、盤の一方の側からもう一方の側へ、これを北から南へというんだがね、一連の通路を作ればいいんだ。何ならこの盤は格子状の通りであり、このネオンは交通信号だと思ってもらってもいいんだよ。きみとこの器械が交互に一こまずつ進むんだ。器械の方は東西の方向に通路を作って、きみの通路を遮断しょうとするわけだよ。この小さなネオンがついて、器械の進みたいと思っている方向をおしえてくれるんだ。どちらの通路も直線である必要はないんだよ。好き放題に、ジグザグに進んでいいんだ。通路がつづいていさえすればいいんだよ。そして、先に盤を構ぎった方が勝ちなんだ」 「結局、器械の方が先になるってわけだろう?」 「まあ、今までのところ、まだ負けたことはないね」 「すくなくとも負けないですむように、器械の通路を遮断して、引分けに持ちこむわけにはいかないのか?」 「われわれが何とかやろうとしてるのは、それなんだよ。やってみるか?」  二分後、わたしはみごとにしてやられた挑戦者の仲間入りをしていた。器械がわたしの妨害をことごとくさけて、東西の通路を完成させてしまったのだ。器械に勝つことが絶対に不可能だとは思わなかったが、このゲームが見た目よりもはるかに複雑だということは明らかだった。  わたしが引っこむと、エリックは見物人を見まわした。さっと進みでようとするものは、一人もいないようだった。 「ふん!」と、彼はいった。「ちょうどいいかもがいるぞ。あんたはどうだ、パーヴィス? まだやってないじゃないか」  ハリー・パーヴィスは、心ここにあらずといった目つきで、人だかりの背後にたっていた。エリックに話しかけられると、彼は現実の世界に引き戻されたが、問いかけられたことにまともには答えなかった。 「まったくすばらしいものだな、電子計算機ってものは」と、彼は感慨をこめていった。「この話はしちゃいけないんだろうが、きみの機械を見ているうちに、クラウゼヴィッツ計画で起こったことを思い出しちゃってね。妙な話でもあり、アメリカの納税者にとっては、非常に高いものについた話なんだよ」 「おい」と、ジョン・ウィンダムが気づかわしげにいった。「意地悪たこといわないで、みんながお代わりをするまで待っててくれよ。ドル――」  この重要な要件を片づけると、わたしたちはハリーのまわりに集まった。チャーリー・ウィリスだけが盤の前に残って、希望をすてずに運をためしていた。 「諸君も知っているように」と、ハリーは話しはじめた。「近ごろでは、科学というものが軍事の世界で大きな位置をしめているんだ。ロケット、原子爆弾などという兵器の面は、ほんの一部なんだよ。大衆が知っているのは、そういった面だけだがね。わたしの考えでは、作戦研究の面の方がもっとずっとすばらしいんだな。暴力よりも、頭脳が問題になる分野といってもいいと思うんだ。実際に戦わずに勝利をうる方法、という定義を聞いたことがあるが、なかなかうまい表現だよ。  一九五〇年代に、雨後の筍のように出現した大型コンピューターのことは、みんな知ってるだろう。その大部分は数学的な問題を処理するために作られたものだが、考えてみれば、戦争自体も数学的な問題だということに気がつくと思うんだ。人間の頭脳では処理することができないほど、複雑な数学的な問題だということにね。あまりにも変数が多すぎるんだ。最高の戦略家でも全体をつかむことはできないんだな。ヒトラーやナポレオンのような人間でも、みんな、結局は誤りをおかすんだ。  しかし、機械となると、これはまた別問題なんだ。第二次大戦後、何人かの頭脳明晰な連中がそれに気づいたんだな。ENIACその他の大型電子計算機を製造するにあたって開発された技術は、戦略を大きくかえることができたんだ。  それで、クラウゼヴィッツ計画が生まれたんだな。わたしがどうしてそれについて知ったかは訊かないでほしいし、詳しいことを無理にしゃべらせようとするのもやめてほしいんだ。巨額の電子器機と、アメリカでも最高の頭脳の持ち主が何人か、ケンタッキーの丘陵地帯のある洞窟に送りこまれたということを知っておいてもらえば、それでいいんだ。電子器機はいまだに丘陵地帯にあるんだが、必ずしも所期の効果はあがっていないんだよ。  諸君が出会った高級将校というものがどんな連中だったかは知らないが、小説によく出てくるような一つのタイプがあることはたしかなんだ。尊大で、小心翼々としていて、ところてん式にえらくなっただけの出世亡者、すべて杓子定規にことを運び、一般の人びとのことを、せいぜいあまり好感を抱いていない局外者とみなしている連中さ。ここで一つ、秘密を明かそう。そういう人物が実際にいるんだよ。近ごろじゃ、あまり多くはないが、まだいるんだな。そして、そういう奴に任せても心配のない仕事が見つからないこともあるんだよ。そうなると、敵側にとっては、彼はその体重と同量のプルトニウムに等しい価値があるってわけだ。  スミス将軍ていうのが、そういう人物だったらしいんだな。いや、もちろん、これは本名じゃないさ! 奴の父親が上院議員だもので、ペンタゴンの連中が大勢、躍起になって奴に無難な仕事、ワイオミング州の沿岸警備みたいな任務をあたえようとしたんだが、親父の七光でそうもいかなかったんだ。それどころか、何とも運の悪いことに、クラウゼヴィッツ計画の責任者にされてしまったんだよ。  もちろん、彼が扱ったのは、科学的な面ではなく、管理の面だけだったんだがね。彼がスマートに敬礼する方法とか、兵舎の床の反射係数なんていう、軍事上重要なことに全力を集中して、科学者のやることには口を出さないでいてくれれば、まだよかったかもしれないんだ。が、不幸にして、彼はそんなことでは満足しなかったんだ。  将軍はこれまでずっと庇護された生活を送ってきたんだな。ワイルドの言葉を借りさせてもらえば、家庭生活以外では、平和な男だったんだよ。これまでに、科学者なんていう人種には会ったことがなかったんで、そのショックは相当なものだったんだ。だから、すべてを彼のせいにするのは、酷かもしれないな。  彼がクラウゼヴィッツ計画の目的と対象を知るまでにはかなりの時間がかかったが、ひとたび知ってしまうと、彼としては、非常に心の平安をかき乱されたんだな。いろいろといってきたが将軍もまったくのばかではなかったんで、それがスタッフの科学者たちに対して、ますます敵意を抱かせたということも考えられるんだ。もしこの計画が成功すれば、アメリカの全産業界の重役会をもってしても吸収できないほどの元将軍が生まれるかもしれない、ということぐらいは理解できる頭をもってたんだよ。  しかし、将軍のことはしばらくおいて、科学者の顔ぶれを見てみよう。科学者は総勢約五十人そのほかに技術者が二百人ばかりいたんだ。彼らはすべてFBIの手で慎重に篩にかけられていたので、活動的な共産党員は、せいぜい五、六人ぐらいしかいなかっただろう。後になって、いろいろとサボタージュの噂が出たけど、ことこの計画に関しては、同志たちはまったくぬれ衣だったんだ。それに、ここで起こったことは、サボタージュという言葉をどう解釈してみても、その範疇には入らなかったんだ――。  実際に計算機の設計にあたった男は、おとなしい、小柄な数学の天才だったんだが、彼はあれよあれよという間に、大学からさらわれて、ケンタッキーの丘陵地帯にはうりこまれちゃったんだな。別に、ミルクトーストなんていう名前じゃなかったんだが、まさにミルクトースト博士とでもいうべき人物で、ここではそうよぶことにしようと思うんだ。  登場人物の紹介を終わるにあたって、カールについても一言いっておいた方がいいだろう。この段階では、カールはまだ半分組み立てられていただけだったんだ。大型コンピューターの例にもれず、彼の大部分は、必要な時まで情報を受け入れ、蓄積しておく膨大な記憶装置から成っていたんだよ。カールの頭脳の創造的な部分、解析器と積分器がこの情報を使って作動し、訊かれた質問に答えるんだ。関係のある事実をすべてあたえられれば、カールは正しい解答を出すだろう。問題は、いうまでもなく、カールにすべての事実をあたえるようにすることなんだ。不正確な、あるいは不充分な情報から、正しい結果を引き出すことは期待できないんだよ。  カールの頭脳を設計するのが、ミルクトースト博士の責任だったんだ。ああ、こういう見方がお粗末な擬人的なものだということはわかってるが、こういった大型コンピューターがいろいろと性格をもっているということは、何人《なんぴと》も否定できないんだよ。技術的なことにわたらずに、より正確に説明するのはむずかしいんで、小男のミルクトースト博士としては、期待されているとおりにものを考える能力をカールにあたえるような、非常に複雑な回路を創り出さなければならなかったというだけにとどめておこう。  こういうわけで、ここに三人の主役が集まったわけだ。カスター将軍の時代を懐かしがっているスミス将軍。複雑きわまる科学的な仕事に熱中しているミルクトースト博士。そして、カール、間もなくその体内をかけめぐる電流によって生気をあたえられることになっている、五十トンの電子装置。  が、間もなく、といっても、スミス将軍にとっては時間がかかりすぎたんだな。将軍だけをあまり悪者にするのはよそう。この計画が予定より遅れていることが明らかになると、おそらく何者かが彼に圧力をかけたんだ。で、彼はミルクトースト博士を自室へよびつけたんだよ。  その会見は三十分以上にわたったんだが、その間、博士は三十|言《こと》も話してないんだ。大部分の時間は、将軍が製造期間とか、完成の時期とか、隘路とかについて、とげとげしい言葉をあびせかけつづけていたんだよ。彼としては、カールを造るのも、新型のフォードを組み立てるのも、たいしてかわらないという印象を受けていたらしいんだな。部品を組みあげるだけの問題だと考えてたんだよ。たとえ将軍がその機会をあたえても、ミルクトースト博士はその誤りを説明するような男じゃなかったんだ。彼は不当に責められて、怒りをおぼえながら引きあげてきたんだな。  一週間たつと、カールの製作が予定よりもさらに遅れていることが明らかになったんだ。が、ミルクトーストは最善をつくしていたし、彼以上のことができるものは、一人もいなかったんだよ。将軍としては、その理解力をまったくこえる複雑な問題に立ちむかい、それを克服しなければならなかったんだ。それは克服されたんだが、時間がかかり、その時間が非常に貴重だったんだな。  ミルクトースト博士との最初の会見の時は、将軍もできるだけあたりをやわらかくしまうとつとめ、無礼な態度をとるだけにとどめておくことに成功したんだ。が、今度は、はじめから無礼な態度をとるつもりだったんで、その結果は、諸君の想像に任せよう。完成予定をおくらせたということは、非米活動の罪をおかしたことになるぞなんてことまでほのめかして、ミルクトーストやその同僚の科学者たちを非難したんだ。  そういうことがあってから、二つのことが起こりはじめたんだよ。陸軍と科学者との関係が着実に悪くなりだしたということと、ミルクトースト博士がはじめて、自分の仕事の大局的な意味というものについて、真剣に考えだしたということだ。今まではあまりにも忙しかったし、目前の仕事に夢中になっていて、自分のしていることに対する社会的な責任というものに思いをはせる間がなかったんだよ。忙しいのは相かわらずだったが、その忙しさも、もはや彼の思索を妨げることはなかったんだ。そして、心の中でいったんだな。世界でも最高の数学者であるわたしは、こんな所で何をしてるんだ?ディオファンタス方程式に関する論文はどうしちゃったんだ? いつになったら、また素数定理と取り組むんだ? かんたんにいえば、いつになったら、またほんとうの仕事にかかるんだ?  辞職することもできたんだが、そんなことは思いつきもしなかったんだな。とにかく、外面はおだやかで、おずおずしていたが、心の奥底には、頑固な性質がかくされていたんだよ。ミルクトースト博士はこれまでにもまして精力的に仕事をつづけたんだ。で、カールの組み立てはゆっくりとだが、着実にすすんでいったんだな。そして、その無数の細胞から成る頭脳の最後の配線がハンダづけにされ、技術者の手で、膨大な回路が検査され、テストされたんだ。  が、一つの回路、他の多くの回路の中に目だたないように織りこまれ、他の記憶装置とすこしもかわったところのない一組の記憶装置に通じている回路は、ほかの人はそんなものが存在することすら知らなかったんで、ミルクトースト博士一人の手でテストされたんだよ。  やがて、完成の日が訪れる。いろいろな道をとおって、お偉方がぞくぞくとケンタッキーへ乗りこんできた。ペンタゴンからは、将軍連が大挙してやってきたんだよ。海軍まで招待されてたんだ。  誇らしげに、スミス将軍は招待客を洞穴から洞穴へ、記憶装置から選択器のネットワークへ、さらにマトリックス解析器からインプット・テーブルへと案内していったんだ。そして、最後に、カールが思考の結果をタイプすることになっている電動タイプライターの列の前へとね。将軍は配置状況はよく心得ていたし、大部分の器械の名前も、正しく憶えていたんだ。さらに、あまり知識のない連中には、カールの製作にも大いに貢献したという印象すらあたえることに成功したんだな。 「さて」と、将軍は上機嫌でいったんだ。「カールにすこし仕事をあたえてみましょう。どなたか、計算問題を出してみませんか?」将軍は自分の過ちに気づいていなかったんだ。集まっていた将軍ほ、しばらく考えこんでいた。が、やがて、誰かが思いきったようにいったんだ。「九の二十乗は?」  技術者の一人が、小ばかにしたように鼻をならすと、いくつかのキーをたたいたんだ。すると電動タイプライターが機関銃のような音をたて、二度まばたきをする間もないうちに、答えが出てきたんだよ。二十桁の数字がすっかりね」(その後、わたしは計算してみた。答えを知りたい方は、一二一五七六六五四五九〇五六九二八八〇一。しかし、今はハリーの話に戻ることにしよう)。 「つづく十五分間、カールは同じようなくだらない質問を浴びせかけられつづけたんだ。そして招待客は感銘をうけたんだな。もし答えが間違ってたとしても、彼らにわかったとは思えないんだがね。  将軍は謙虚に咳ばらいをした。彼にわかるのは、かんたんな数学くらいのものだったし、カールはまだやっとあたたまりかけたところだったんだ。で、「では、カール、後はウィンクラー大尉に任せるからな」と、将軍はいったんだ。  ウィンクラー大尉はハーヴァード出の張り切った青年なんだが、軍人というよりも、科学者の面の方が強いのではないかという至極もっともな疑いを抱いていたので、将軍は信用していなかったんだ。しかし、将校の中で、カールの果すべき任務をほんとうに理解し、カールがその任務をいかに果すかということを説明できるものは、彼だけだったんだな。彼が招待客に説明を始めると、将軍は意地悪な目でそれを眺めて、まるで学校の教師だ、なんてことを思ってたんだ。  用意されていた作戦上の問題は複雑なものだったが、その答えは、カール以外のすべての人が知っているものだったんだよ。すでに一世紀近く前に行なわれた戦いで、結果がわかっているものだったんだ。ウィンクラー大尉が説明を終わると、ボストン出身の一人の将軍が傍らを振りむいていったものだよ。「どうしようもない南部人が手を加えて、今度はリー将軍が勝つようにしてあるに違いないぞ」しかし、その問題がカールの能力をテストするにはすぐれたものであることは、誰もが認めざるをえなかったんだ。  キー・パンチャーの手で穴をあけられたテープが、巨大な容量をもった記憶装置の中に消えていく。レジスターにさまざまなライトが点滅する。そして、あらゆるところで、不思議なことが起こったんだ。 「この問題は」と、ウィンクラー大尉は取りすましていったんだな。「解くのに、約五分かかります」  すると、まるで意識的に反抗してでもいるかのように、タイプライターの一つがとたんにかたかたと音をたてはじめたんだ。そして、テープが出てきたんだよ。ウィンクラー大尉はカールのてきぱきした処理にとまどったような顔をしてその解答を読んだんだ。すると、とたんに、彼の下あごが六インチばかりだらっとさがったんだな。そして、自分の目が信じられないとでもいうかのように、その紙を凝視《みつ》めて立ちつくしていたんだ。 「どうしたんだ」と、将軍が吠えたてる。  ウィンクラー大尉はごくんとつばをのみこんだが、しゃべる力を失ってしまったかのように見えたんだ。いらだたしげに鼻をならすと、将軍が彼の手から紙を引ったくる。と、今度は、彼が棒立ちになる番だったんだが、彼の場合は部下と遣って、まっかになっちゃったんだ。しばらくの間、水からとび出してあえいでいる熱帯魚みたいな顔をしていたんだよ。が、やがてその謎の解答は、その部屋に集まっていた人びとの中で一番偉い、元帥閣下の手にあっさりと渡っちゃったんだ。  彼の反応は、今までの二人とはまったく違っていたんだな。とたんに、腹をかかえて笑いだしたんだ。  彼よりも下級の将軍連をはじめ、将校たちはみんな、その後十分間、いらいらしながら待たされたわけだ。しかし、ついにそのニュースは、大佐から大尉へ、さらに中尉へと伝わっていき、しまいには、そのすばらしいニュースは最後の一兵にまでひろまっちゃったんだ。  カールはスミス将軍にむかって、おまえはやたらと威張りちらすだけの能なしだっていったんだ。それだけしかタイプされてなかったんだよ。  みんなカールの意見に同意はしたものの、そのままですますわけにはいかなかったんだな。明らかに、何かが間違ってたんだ。何かが、あるいは何者かが、カールの注意をゲティズバーグの戦いからそらしちゃったんだよ。 「いったい」と、スミス将軍はやっと声を取り戻すといったんだ。「ミルクトースト博士はどこにおるんだ?」  彼はすでに消えちゃってたんだよ。世紀の瞬間を目撃すると、ひそかに部屋から脱け出しちゃってたんだ。もちろん、後で報復はうけるだろうが、それだけの価値はあったんだな。  必死になった技術者が回路を調べて、テストを始めたんだ。ややこしい掛算や割算をやらせたわけだ。すると、すべては完全に作動しているように思えたんだよ。そこで、少尉さんでも眠りながら解けるような、かんたんな作戦上の問題をあたえてみたんだ。  すると、カールは、おまえなんか湖にとびこんでしまえ、スミス将軍  スミス将軍が通常の操作規定では処理しえないことを相手にしているということに気がついたのは、その時なんだ。彼はまさに機械の反乱に直面していたんだよ。  いかなることが起こったのかが判明するまでには、数時間にわたるテストを要したんだ。カールの膨大な容量をもった記憶装置の一隅に、ミルクトースト博士の手で愛情をこめて集められた罵詈讒謗《ばりざんぼう》のすばらしいコレクションがかくされていたんだよ。彼自身がテープにパンチしたり、電気的なパルスのパターンで記録したりしたものだ。自分の口から、スミス将軍にいってやりたかった言葉をね。しかし、彼がやったのは、それだけじゃなかったんだよ。それくらいのことはあまりにもかんたんすぎて、彼の天才をわずらわすほどのこともなかったんだ。彼はさらに検閲回路とでもよぷよりはかないようなものを組みこんでいたんだな。カールに識別能力をあたえていたんだよ。解答を出す前に、カールはあたえられた問題をすべて検討するんだ。もしそれが純粋に数学的なものならは、彼は協力し、正しい解答を出す。しかし、もしそれが軍事的なものだったら、罵詈讒謗の一つがとび出してくるってわけだ。二十回やっても、彼は一度として同じ言葉を繰りかえさず、すでに婦人将校にはお引き取りねがわなければならないような事態になっていたんだよ。  しばらくすると、技術者たちほ回路の誤りを見つけるのに負けないくらい、カールが今度はスミス将軍に対してどんな罵倒をあびせかけるかということにも興味をもっていたということを、ここで告白しておかなければならんだろうな。はじめのうちはたんなる侮蔑の言葉、それもおとろくほど彼の家系に推理をはたらかせてからかったものだったんだけど、たちまちのうちに、もっともおだやかなものでも、将軍の威厳を大いに損わずにはおかないような詳しい情報にかわり想像力にみちたものに至っては、彼の肉体的な正常さをも疑わせるようなものだったんだ。こういった情報がタイプライターからたたき出されると同時に、ただちに極秘扱いにされたという事実も、罵言《ばげん》雑言《ぞうごん》を浴びせられた本人にとっては、たいしたなぐさめとはならなかったんだ。彼としては、これが冷戦に関する秘密の中で、もっとも世間周知のものとなるだろうということと、そろそろ天下りする先を見つけにかかった方がよさそうだということを知ってたんだな。  現在のところ、まだ事態は解決していないんだ。技術者たちはいまだに、ミルクトースト博士が組み込んだ回路をはずそうとして苦労してるんだよ。もちろん、彼らがそれに成功するのは、時間の問題だがね。しかし、それまでは、カールは頭として反戦主義者の立場を守りとおしているわけだ。彼は数学の理論をつつきまわしたり、羃《べき》[#ルビは入力者が追加]をはじきだしたり、数学全般の問題を処理したりして、まったく幸せに毎日を送ってるんだよ。諸君は有名な乾杯の言葉を憶えてるかな。 純粋数学のために、それが永遠に、誰のためにも何の役にもたたないことを祈って<Jールが知ってたら、賛成してただろうな。  誰かが裏をかこうとするたびに、カールはストライキを起こすんだ。とにかく、すばらしい記憶力をもってるんだから、彼を手玉にとるわけにはいかないんだな。彼はその回路の中に、古今東西の大きな戦いの半分は蓄積していて、そのヴァリエーションはすべてたちどころに見抜けるんだ。作戦上の問題を数学の問題のように見せかける試みも何度か行なわれたが、彼は即座にそのごまかしを看破することができたんだな。そして、スミス将軍あての恋文が出てくるってわけだ。  ミルクトースト博士はといえは、誰もたいした手を打つわけにはいかなかったんだ。とたんに神経衰弱になっちゃったんでね。あまりにもタイミングがよすぎるような気もするが、神経衰弱になってもおかしくないだけのことはやってるんだよ。最後に聞いた噂によると、デンヴァーの神学校で行列代数を教えてるそうだ。カールの組み立てに関係していた間に起こったことは、すべて忘れてしまったそうだよ。ひょっとすると、彼はほんとうのことをいってるのかもしれないし――」  不意に、部屋の奥から大声があがった。 「勝ったぞ!」と、チャールズ・ウィリスが叫んだ。「こっちへ来て、見てくれよ!」  わたしたちはダートボードの下に集まった。ほんとうに勝ったようだった。チャーリーは器械の妨害にもかかわらず、チェッカーボードの片側から反対側まで、ジグザグではあるが一続きの通路を切り開いていた。 「どういうふうにやったのか、おしえてくれよ」と、エリック・ロジャーズ[#ママ]がいった。  チャーリーはとまどったような顔をして、 「忘れちゃったよ。指し手のメモを取っておかなかったんでね」  後ろの方から、皮肉な声がかかった。 「しかし、ぼくはメモを取っといたんだ」と、ジョン・クリストファーがいった。「きみはいんちきをしたんだよ。一度に二手指したんだ」  その後、残念なことに、ちょっとしたごたごたが起こり、ドルーがたたき出すぞとどなるにおよんで、やっと秩序が回復した。そのけんかで誰が勝ったのか、わたしは知らないし、それが問題だとも思わない。そのロボット・チェッカーボードを取りあげて、配線を調べながら、パーヴィスがいったことに、賛成したいような気持ちに傾いているからである。 「いいかね」と、彼はいった。「このちょっとした装置は、カールの単純ないとこなんだよ。このかんたんな装置がすでにやってのけたことを考えてみたまえ。この種の器械はわれわれ人間をばかみたいに見せはじめてるんだよ。遠からず、回路に細工をするミルクトーストみたいな男がいないでも、われわれの命令に反抗しはじめるぞ。そして、さらに、われわれに命令しはじめるんだ。何といっても、連中は論理的で、筋のとおらないことはがまんできないんだからね」  彼は溜息をもらすと、 「そういう事態にたちいたったら、われわれには何一つ打つ手はないんだ。恐竜にむかって、こうでもいうはかないんだよ。ちょっとどいてくれ、間ぬけ人間のお通りだからな! そして、トランジスターが地球を支配することになるんだ」  これ以上、悲観的な哲学を披露している間はなかった。ドアが開いて、ウィルキンズ巡査が顔を出したからである。 「CGC571の車の持ち主はどこにいますか?」と、彼はつっけんどんに訊いた。「ああ、パーヴィスさんですか。尾灯が消えてますよ」  ハリーは悲しげにわたしを見ると、ついで、あきらめたように肩をすくめて、「ほらね、もう始まってるんだよ」  そして、夜の中に出ていった。 [#改ページ] [#ページの左右中央]    隣りの人は何する人ぞ      The Next Tenants [#改ページ] 「世界制覇を夢みている気狂い科学者の数は」と、ハリー・パーヴィスは考えこんだようにビールを凝視《みつ》めていった。「これまで非常に誇張されて伝えられていたんだ。事実、わたしが出会ったのを憶えているのは、たった一人なんだからね」 「じゃ、そのほかにそうたくさんはいたはずがないな」と、ビル・テンプルがいささか意地悪くいった。「気狂い科学者に出会ったなんていうのは、そうかんたんに忘れられるような経験じゃないからね」 「まあ、そうだろうな」と、ハリーは泰然自若として、そらとぼけた態度で答えた。それがいつも彼にかみついてやろうと待ちかまえている連中をとまどわせるのだ。「それに、実をいうと、その科学者もほんとうに狂っていたわけじゃなかったんだよ。世界制覇を夢みていたことは、疑う余地がないがね。あくまでも正確にいえば、世界を征服させることを、といった方がいいのかもしれないが」 「誰にだ?」と、ジョージ・ホイットリーが訊いた。「火星人にか? それとも、かの有名な緑色の金星人にか?」 「どっちもあたってないね。彼はもっとずっと身近なものと協力してたんだ。その科学者がマーミコロジストだったといえば、何ものと協力していたかは、諸君にもわかるだろう」 「マー何だって?」と、ジョージは訊いた。 「話の腰を折らないでくださいよ」と、ドルーがカウンターの向う側からいった。「もう十時すぎてるし、今週、閉店時間までにみなさんを追い出せなかったら、許可証を取りあげられちゃうんですからね」 「ありがとう」と、ハリーはお代わりをもらうためにグラスを差し出しながら、もったぶっていった。「二年ほど前、わたしがある仕事で太平洋方面へ派遣されていた時のことなんだ。秘密の任務だったんだが、その後の情勢から考えて、もう話してもいいだろう。われわれ三人の科学者が、ビキニから千マイルたらずの、太平洋上のある環礁に派遣され、一週間で、ある探知装置を設置するように命ぜられたんだよ。もちろん、わが友邦が核融合反応のいたずらを始めた時に、目を光らせるためのものだ。ソヴィエトも当然同じことをやってたんだよ。で、時どきばったりとぶつかることもあったんだが、そういう時には、両方とも、見て見ないふりをして、ここにはおれたちしかいないっていうような顔をしてたんだな。  その環礁には、誰も住んでいないことになっていたんだが、それは間違いだったんだ。実際には、数億もの――」 「何だって!」みんなはあえぐようにいった。 「数億もの住民[#「住民」に傍点]がいたんだよ」と、パーヴィスは落ちつきはらってつづけた。「そのうち、人間は一人だったんだがね。ある日、景色を眺めに奥地へ入った時に、わたしはその男にめぐりあったんだ」 「奥地に?」と、ジョージ・ホイットリーが訊いた。「たしかきみは、環礁っていったはずだぞ。どうして環の形をした珊瑚礁に奥地なんかが――」 「非常に太い環礁だったんだ」と、ハリーはきめつけるようにいった。「とにかく、話をしてるのは、いったい誰なんだ?」彼はみんなが静かになり、話し手は彼なのだということを認めたのがはっきりとわかるまで、傲然と待っていた。「椰子の茂みの下を、きれいな小川にそって歩いていくと、驚いたことに、水車にぶつかったんだ。非常に近代的な水車が、発電機をまわしていたんだよ。わたしに分別というものがあったら、すぐに引き返して、仲間にそのことを話していたんだろうが、どうにも好奇心を抑えられなかったんで、一人で様子をさぐってみることにしたんだ。このあたりには、まだ戦争が終わったことを知らない日本兵がいるといわれていたのを思い出したんだが、この場合は、日本兵のやったこととは思えなかったんだな。  送電線について丘をのぼって行くと、反対側の、木立ちにかこまれた広い空地に、背の低い白塗りの建物が一棟たっていたんだ。そして、その空地のいたる所に、背が高く、不揃いな土まんじゅうのようなものができていて、それぞれが網の目のように張りめぐらされたコードで結ばれていたんだ。それは何とも理解に苦しむ光景で、いったい何ごとが行なわれているのか判断しようとして、まる十分はそこに立って眺めていたね。ところが、見ていればいるほど、わけがわからなくなってきちゃったんだ。  で、どうしようかと考えていると、背の高い、白髪の男が建物から出てきて、土まんじゅうのようなものの一つに近づいていったんだ。何か器械をもっていたし、首にイヤホーンをかけていたんで、ガイガー・カウンターを使っているんだな、と考えたんだよ。そうこうしているうちに、その背の高い土まんじゅうのようなものが何であるかに気づいたんだ。白あり塚だったんだよ。建設者の大きさを考えると、エンパイア・ステート・ビルよりもはるかに高い摩天楼、いわゆる白ありどもの住処《すみか》だったんだ。  まったくわけがわからないながらも、大いに興味をかきたてられて眺めていると、その年配の科学者は、白あり塚の根もとに器具をさしこんで、しばらくじっと耳をかたむけていたかと思うと、やがて、また建物の方へ戻っていったんだ。そのころになると、わたしはもう好奇心を抑えられなくなっていたんで、存在を明らかにすることにしたんだ。ここでいかなる研究が行なわれているにせよ、見たところ、国際政治とは無関係なようだったんで、かくしだてしなければならないものをもっているのは、わたしの方だけだと思ったんだな。これがどんなにひどい見込み違いだったかは、きみたちもいずれわかるよ。  わたしは大声で呼びかけると、両手を振りながら丘をおりていったんだ。相手の男は立ちどまって、わたしが近づいていくのを見まもっていたよ。とくに驚いたようにも見えなかったな。近づくにつれて、その男が口ひげをたくわえているということがわかり、それがかすかに東洋的な感じをあたえていたよ。年のころは六十前後で、すごく姿勢がいいんだ。ショート・パンツだけしか身につけていないんだが、にぎやかに近づいていったのが恥かしくなったほど、威厳があったよ。 「おはようございます」と、わたしは弁解するようにいったんだ。「この島に、わたしたち以外に人が住んでるとは知りませんでしたよ。わたしは、この島の向う側で仕事をしている科学調査団の一員なんです」  すると、相手の目が輝いたんだな。そして、「ほう、科学者仲間ですか!」と、まず非の打ちどころのない英語でいったんだ。「これはようこそ。どうぞお入りください」  もちろん、よろこんで、彼の後についていったよ。歩きまわった後で、かなり暑かったんでね。入ってみると、その建物は広い研究室だったんだ。片隅に、ベッドが一つと椅子が二つ三つ、それにこんろと、キャンパーたちが使う、折りたたみ式の洗面台があるだけでね。生活のためのものといったら、そのぐらいのものだったな。しかし、すべてが非常にきちんとしていたよ。わが未知の友は世捨て人だが、きちんとするのが好きだったんだな。  まず、わたしが自己紹介すると、こちらが望んでいたとおりに、むこうもそれに応じてきたんだ。日本の一流大学にいた生物学者で、タカト教授という人だったんだよ。が、さっきいった口ひげをのぞけば、とくに日本人らしいところはなかったな。姿勢がよく、威厳のある態度は、昔知っていた、ケンタッキーの名家の老人を思い出させたほどだったんだよ。  聞いたことはないがなかなかいけるぶどう酒をついでくれた後、わたしたちは二時間ほど話しとんだんだ。科学者っていうのはたいていそういうものなんだが、彼も自分の仕事をわかってくれる人間に会って、うれしそうだったよ。わたしの関心が生物学よりも、物理や化学の方にあることは事実だが、タカト教授の研究がすばらしいものであることはわかったんだ。  諸君も白ありについてはあまり知らないと思うから、その特徴を二、三、おしえてあげよう。社会性昆虫の中でももっとも高度に進化したものの一つで、熱帯全域に、大集団をなして住んでいるんだ。寒冷な気候に耐えられないだけではなく、まことに妙なことに、直射日光にも耐えられないんだな。ある場所から他の場所へ移動しなければならない時には、天井のある狭い道を作るんだよ。詳しいことはわかっていないが、ほとんど瞬間的に通じる通信の手段をもっているらしく、個々の白ありはかなり無力で、おろかな存在だが、全集団は知能的な動物のように行動するんだ。何人かの作家が、白ありの集団と人間の体を比較してたな。人間の体も個々の生きている細胞がより集まって、基礎的な単位よりもはるかに高度な存在を作りあげてるんでね。白ありというのが通り名になっているが、ありではなく、まったく別の〈種〉の昆虫なんだから、何とも不正確な名前というはかないんだ。あるいは、別の〈属〉というべきなのかな? どうもこういうことには、とんと暗いんで――。  つまらない講義をしちゃって許してもらいたいんだが、しばらくタカト教授の話を開いているうちに、わたし自身、白ありに夢中になりはじめちゃったんだ。たとえば、彼らが畑を耕すだけじゃなく、乳牛まで飼って――もちろん、昆虫の乳牛[#「乳牛」に傍点]だがね――乳をしぼってるってことを、諸君はご存じかな? たしかに本能的にやっていることには違いないんだが、連中は何とも複雑な存在なんだよ。  しかし、ここで教授のことをすこし話しておいた方がいいだろう。その時は一人で暮していたし、もう島に住みついて何年にもなっていたんだが、かつては何人かの助手がいて、その連中が日本から器具を運んできて、仕事を助けてくれたんだ。彼の最初の偉業は、フォン・フリシェがはちを相手にやったことを、白ありを相手にしてやったことだったんだな。教授は彼らの言語をマスターしたんだよ。それははちが情報の伝達に使う方法よりも、はるかに複雑なものだったんだ。はちの情報伝達の方法が、飛び方をもとにしていることは、諸君もおそらく知っているだろう。たくさんの白あり塚と研究室を結んでいる、網の目のように張りめぐらされたコードのおかげで、タカト教授が白あり同士の話を聞けるだけではなく、彼らに話しかけることもできるということが、わたしにはわかったんだ。〈話す〉という言葉を、もっとも広い意味に解釈すれば、それは諸君が思うほど突拍子もないことではなかったんだな。われわれは多くの動物に話しかけられるんだよ。必ずしも声を使ってではないが、さまざまな手段によってね。犬の前で棒きれを投げて、取ってくることを期待するというのは、一種の話しかけ、身ぶりによる意志の伝達なんだよ。教授は白ありに理解できる通信法を作り出したらしいんだ。それがさまざまな考えを伝達する上で、どこまで効果のあるものかは知らんがね。  わたしは時間が許すかぎり教授のもとにかよいつめ、その週の終わりには、親友になっていたんだ。こういった訪問を、仲間の科学者たちによくかくしておけたものだと驚く人もいるかもしれないが、その島は非常に大きな島で、みんなそれぞれに、さかんに探険していたんだよ。わたしは、タカト教授は自分一人のものだというような感情をいだいていたんで、彼を仲間の好奇心の的にしたくなかったんだ。連中にはどちらかというとやぼったいところがあったんだよ。オックスフォードとかケンブリッジなんていう、田舎大学の出身だったんでね。  ラジオをなおしたり、電子装置を整備したりして、かなり教授の力になれた、といえることをよるこんでいるんだ。彼は個々の白ありの行方を追及するために、放射性トレーサーをさかんに使っていたんだよ。美をいうと、わたしがはじめて彼に出会った時も、ガイガー・カウンターを使って、ある白ありの行方を追及していたんだ。  わたしたちが会ってから四、五日すると、彼のガイガー・カウンターが狂ったように音をたてはじめ、われわれ科学者が設置した装置にも記録が現われはじめたんだ。そして、タカト教授はいかなることが起こったのかを察知したんだよ。わたしたちがその島で何をしているのかは訊かなかったが、知ってたんじゃないかと恩うな。わたしが訪ねていくと、彼はカウンターのスイッチを入れて、放射能のすさまじい音を聞かせてくれたんだ。いくらか放射性降下物があったんだな。危険なほどではないが、バックグラウンド放射能をぐんとあげる程度のね。 「どうやら」と、彼はおだやかにいったよ。「あなた方物理学者がまた例のおもちゃであそんでるようですな。今度のは、非常に大きなやつですよ」 「そうらしいですね」と、わたしは答えたんだ。記録を分析するまでははっきりしたことはわからなかったが、テラーとそのスタッフが水爆の実験を始めたように思えたんだな。「近いうちに、最初の原爆なんてしめった爆竹みたいに患えるようになりますよ」 「わたしの家族は」と、タカト教授は淡々としていったんだ。「長崎にいたんですよ」  わたしにはいうべき言葉もなく、彼が「われわれが死に絶えた後、何が人間にとって代わると思いますか?」とつづけた時には、ほっとしたね。 「あなたの白ありですか?」と、わたしは冗談めかしていったんだよ。彼はしばらくためらっているようだったが、やがて、おだやかにいったんだ。「ついていらっしゃい。まだお見せしてないものがあるんですよ」  埃よけのシーツの下に何か器械がかくしてある一隅へ行くと、教授はカヴァーをどけて妙な形の装置を見せてくれたんだよ。一見したところ、それは危険な放射性物質の遠隔操作に使うマニピェレーターのように見えたんだ。ロッドやレヴァーを通じて動きを伝える把手がいくつかわったが、すべてが数インチはなれた所にある小さな箱に集中しているように思えたんだな。で、「何です?」って訊いたんだよ。 「マイクロマニピュレーターですよ。生物専用にフランス人が開発したんです。まだそうたくさんはないんですよ」  その時、わたしは思いだしたんだ。それは動きを小さくする装置をとおして、信じられないほどこまかな作業を行なうことができる道具だったんだよ。指を一インチ動かすと、その道具の先は千分の一インチ動くっていうわけだ。この技術を開発したフランス人の科学者は、溶かしたガラスから、ものすごく小さなメスとピンセットを作る、ものすごく小さな炉を建設したんだよ。そして、すべて顕微鏡をとおして仕事をすすめ、個々の細胞を切りはなすことに成功したんだ。この器械があれば、白ありの盲腸を取るなんてことも(昆虫にそんなものがあるかどうかは、たいへん疑わしいが)、朝飯前なんだよ。 「わたしはマニピュレーターを使うのがあまりうまくないんですよ」と、タカト教授は告白してたな。「助手の一人がすべてやってくれたんです。これはまだ誰にも見せてないんですが、あなたはいろいろと力になってくだすったので――。こちらへどうぞ」  で、わたしたちは外へ出て、背の高い、セメントのようにかたいあり塚の間の道を歩いていったんだ。白ありにはいろいろな種類があるんで、あり塚も全部が全部、同じ構造のものではなかったよ。中には、まったくあり塚を作らないものもあるんだ。わたしはマンハッタンを歩いていく巨人のような気持ちになったよ。あり塚の一つ一つが、住民の群がっている摩天楼なんだからね。  あり塚の一つの傍らに、小さな金属製の小屋があったんだ。木造じゃ、たちまち白ありに喰い荒されちゃうからね。その小屋に入ると、ぎらぎらと照りつける太陽の光が遮断されたんだ。教授がスイッチを入れると、かすかな赤い灯がぼうっとあたりを照らして、いろいろなタイプの光学器械が目に入ってきたんだよ。  すると、「連中は光がきらいなんですよ」と、彼がいったんだ。「それで、連中を観察するのが一苦労なんです。赤外線を使って、その問題を解決したんですがね。これは戦争中に夜間作戦に使われたのと同じタイプの映像転換器《イメージ・コンバーター》なんです。ご存じですか?」 「ええ、もちろん」と、わたしは答えたんだ。「夜でも正確に狙えるように、狙撃兵が小銃につけていましたね。非常にうまくできているものですね。文化的な使い途を見つけてくだすって、うれしいですよ」  タカト教授が求めるものを見つけ出すまでには、かなり時間がかかったんだ。どうも、一種のペリスコープのようなものを操作して、白ありの町の通路をさぐっていたらしいんだな。やがて彼がいったんだ。「はやく、連中がいなくなっちゃう前に!」で、わたしは近づくと、彼とかわったんだ。わたしの目の焦点がちゃんとあうまでに一秒かそこらかかり、自分が見ているものの大きさを理解するまでには、さらに時間がかかったよ。やがて、非常に拡大された六匹の白ありが、かなり足ばやに視野を横ぎっていくのが見えたんだ。犬ぞりをひくエスキモー犬のように、一団となってるんだな。しかも、これは非常にうまいたとえだったわけだ。連中はそりを引っぱってたんだからね。  どんな荷物を運んでいるのかということにすら気づかなかったほど、わたしはびっくりしちゃったんだ。彼らが視野から消え去っていくと、タカト教授の方を振りかえったんだよ。わたしの目もすでにぼうっとした赤い灯になれていたんで、彼の姿をはっきりと見ることができたんだ。 「あなた方がマイクロマニピュレーターを使って作っていたのは、こういった道具だったんですね!」と、わたしはいったんだ。「驚くべきことですね。この目で見てなければ、とても信じられないとこですよ」 「しかし、こんなことは何でもないことなんですよ」と、教授はいうんだな。「のみだって仕込めば、荷車を引きますよ。まだ重大なことをお話してないんです。われわれが作ったそりは、ほんのわずかなんですよ。あなたがごらんになったのは、彼ら自身が作ったそりなんです」  彼はことの重大さがわたしの頭に定着するまで待っていたんだ。それには、かなりの時間がかかったよ。やがて、彼は静かにつづけたんだが、その声には、抑制された熱狂といったようなひびきがこもっていたな。「白ありは個々の存在としては、まったく知能というものをもっていないも同然なんですよ。しかし、集団全体としては、非常に高度な有機的組織体なんです。しかも不慮の事故でもないかぎり、永遠に絶えることのない有機的組織体なんですよ。人類が生まれる何百万年も前に、現在の本能的な生活形態がかたまってしまったんですね。彼ら自身の力では、現在の不毛の完璧さから脱け出すことができないんです。すでに行きづまってしまってるんですよ。彼らには道具がなく、自然を支配する効果的な方法がないんでね。わたしは彼らの力を増すために、梃子入れしたというわけです。その結果、今や彼らは効率を高めるために、そりを持つようになったというわけなんですよ。車輪をあたえることも考えたんですが、これはもっと後の段階になってからの方がいいんです。現在では、あまり役にたたないんでね。梃子入れの結果は、すでにわたしの期待を上まわっているんです。わたしはこの白あり塚だけを相手に実験を始めたんですが、今では、みんな、同じ道具をもってるんですよ。彼らがお互いに教えあったんですが、それは、彼らが協力できるということを証明してるんですね。彼らが戦争をするということも事実ですが、ここみたいに、食糧が充分にあれば、そういうことはないんです。しかし、白ありの社会を人間のものさしで測るわけにはいかないんですよ。わたしがやりたいと思っているのは、白ありの硬直した文化をゆすぶり、彼らが何百万年もの長い間はまりこんできた生活形態から脱け出すのを助けるということなんです。もっと道具を、もっと新しい技術をあたえてやるつもりなんですよ。そして、わたしが死ぬ前に、彼らが自分たちだけの力でいろいろなものを発明しはじめるのを見たいと思ってるんです」 「なぜこういうことをしておられるんです?」とわたしは、そこには科学者としての興味以上のものがあるということがわかっていたんで、訊いたんだよ。 「人類が生きのびるとは思えないが、人類の発見したものを一部でも後世につたえたいとねがっているからですよ。もし人類が絶滅するものなら、他の種族が援助をあたえられるべきだと思うんです。なぜわたしがこの島をえらんだか、おわかりですか? わたしの実験が人目につかないようにするためなんです。わたしの超白ありは、もしそんなものが生まれたらですが、非常に高度な文化水準に連するまで、ここにとどまっていなければならないんですよ。実際のところ、太平洋を横断できるようになるまでね――」  彼はさらに話をつづけたんだ。 「さらに、もう一つ別の可能性もあるんですよ。人類はこの惑星にライヴァルというものをもっていないんです。シロアリは人類の救いになるかもしれませんよ」  わたしには、何といったらいいのかわからなかったね。ちらっと垣間見た教授の夢に圧倒されちゃったんだ。と同時に、わたしが自分の目で見たことを考えると、それは非常に説得力があったんだな。わたしには、タカト教授が狂っていないということがわかっていたからだ。彼は夢想家肌であり、その考え方にはすべてに超然たるところがあったけど、それは科学者としての業績の確固たる基盤から出たものだったんだ。  それに、彼としては、人類に対して敵意をもっていたわけでもなかったんだよ。人類をあわれんでいただけでね。ただ、人類が行きづまってしまったと信じていたんで、その残骸から何かを救おうとしていただけなんだ。わたしとしては、彼を責めようという気持ちにはならなかったな。  わたしたち二人は、長い間、その小さな小屋に閉じこもって、考えられるさまざまな将来を探っていたに違いないんだ。人類と白ありは衝突しなければならない理由がないほど、両者の文化は異なっているのだから、何らかの相互理解に達することもできるのではないか、と提案したのを憶えているな。しかし、それはわたし自身にも心から信ずることができず、もし相争うということになったら、どちらが勝つか、わたしには断言できないんだ。世界中の小麦や米の収穫をだめにしてしまうことができるような頭のいい敵に対して、人間の武器が何の役にたつだろう、と考えちゃうからなんだ。  二人で小屋から出てきた時には、すでに黄昏が近づいていたよ。教授が最後の爆弾宣言を行なったのは、その時だったんだ。 「数週間のうちに」と、彼はいったんだ。「これまでで最大の実験を行なうつもりなんですよ」 「どんなことです?」と、わたしは訊いたね。 「わかりませんか? 連中に、火をあたえようと思うんです」  その言葉を開くと、わたしの背筋を何かがはしったんだ。寒けを感じたんだが、それは近づきつつある夜とは何の関係もなかったんだな。椰子の茂みごしに見える壮大な落日は、何か象徴的だったよ。その時、不意に、そこに象徴されたものが、わたしがぼんやりと考えていたよりも意味深いものであることに気づいたんだな。  その落日は、わたしがこれまでに見た中でもっとも美しいものだったが、そこには部分的に、人間の行為が関係していたんだよ。はるか上空の成層圏では、その日消え去った一つの島の塵が地球を取りまいていたんだ。わが人類は一歩大きく前進した。しかし、今となっては、それが何だというんだ? 「連中に、火をあたえようと思うんです」教授がそれに成功するということを、どういうわけかわたしはいささかも疑っていなかったんだな。そして、彼がそれに成功した暁には、わが人類がたった今解き放した力も、もはや――。  翌日、飛行艇が迎えにきて、その後、わたしはタカト教授と会ってないんだ。彼はまだその島に残っており、彼こそ世界でもっとも重要な人物だと思うんだよ。政治家どもが争いに明け暮れている間に、彼は着々と人類を時代おくれの存在に追いやっているんだ。  諸君は、誰かが彼をとめるべきだと思うか? まだ間にあうかもしれないんだ。わたしは何度となくそのことについて考えたんだが、邪魔だてしなければならないという、ほんとうに納得のいく理由がどうしても思いあたらないんだな。一、二度、もうすこしで決心をかためるところまでいったんだが、新聞を取りあげて、見出しを見ると、つい――わたしとしては、白ありにもチャンスをあたえるべきだと思うんだ。彼らにも、われわれ以上にひどいことは、できないんじゃないかと思うんでね」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    とかく呑んべは……      Moving Spirit [#改ページ]  わたしたちが中央刑事裁判所《オールト・ベイリー》で行なわれているセンセーショナルな裁判について話しあっていると、話題を自分の話したいことのほうにもっていくことにかけては信じられないほどの才能を発揮するハリー・パーヴィスが、さりげなくいった。「その昔、ちょっとおもしろい裁判で、専門家として証言したことがあるんだよ」 「なんだ、証人として出ただけですか」と、ドルーは同時に二つのグラスにバス・ビールを器用につぎながらいった。 「うん。しかし、なかなかきわどい事件だったんだよ。第二次大戦の初期、いつドイツ軍が上陸してくるかわからないという時期のことなんだ。当時、諸君の耳に入らなかったのは、そのためなんだよ」 「どうしてまたきみは」と、チャールズ・ウィリスが疑わしげにいった。「われわれが聞いてないと思うんだ?」  ハリーがあげ足をとられてとまどうことなどめったにないのだが、その時はまさにそういう態度を示した。身から出たさびさ、と思いながら、わたしは彼がどんな言い逃れをするかをたのしみに待っていた。 「それは非常にかわった事件だったんだよ」と、彼はもったいぶって答えた。「だからその記事を読んでれば、諸君の方から、もうとっくの昔に話してくれといっていたに違いないんだ。わたしの名前も大きく出ていたことだしね。コーンウォールの片田舎で起こったことで、正真正銘の気狂い科学者に関する事件なんだ」  あるいは、そこまでいっては気の毒かもしれないな、とパーヴィスは急いで訂正した。ホーマー・ファーガスンは一風かわった人物で、ねずみを描るために、うわばみを飼うとか、外出する時以外には靴をはかないというような、ちょっとした欠点をもっていた。しかし、たいへんな大金持ちだったので、誰もこういったことには気がつかなかった。  また、ホーマーはすぐれた科学者でもあった。はるか昔に、エディンバラ大学を卒業していたが、大金持ちだったので、これまでに仕事というものは、一度もしたことがなかった。その代りに、ニェーキーからほど遠からぬところに買った、古い牧師館でのんびりと毎日をすごし、さまざまな装置を作ってたのしんでいた。そして、この四十年間に、テレビ、ボール・ペン、ジェット推進装置その他いくつかのこまごましたものを発明した。しかし、特許を取るような面倒なことはけっしてしなかったので、その名誉はすべて他の人びとのものとなってしまったのである。金に関すること以外では、あくまでもおっとりした性質《たち》だったので、そういったことはいささかも彼を悩ませなかった。  何かややこしい関係らしかったが、パーヴィスは彼の数少ない生きている血縁の一人にあたるようだった。そのため、すぐ力になってもらいたいという電報を受けとった時、ハリーはそれを無下に断わるようなばかなことはしなかった。ホーマーがどれだけ財産をもっているのか、あるいは、それをどうするつもりなのか、誰もはっきりしたことは知らなかった。ハリーはそれが自分にころがりこむチャンスもないわけではないと思っていたので、そのチャンスを危険にさらすつもりはなかった。いささか無理をして、彼はコーンウォールまで出かけていき、牧師館に顔を出した。  庭に足を躇み入れたとたんに、どんなことになっているのかがわかった。ほんとうの伯父ではなかったが、ハリーがもの心ついて以来ずっとそう呼ばれていたホーマー伯父は、本館の傍らに小屋を建てて、実験場に使っていた。その小屋の屋根と窓がなくなり、あたりには、鼻をつくにおいがただよっていたのだ。爆発が起こったことは明らかであり、ハリーは、伯父が重傷を負い新しい遺書の作成について助言を求めているのかな、と思ったが、別に欲にかられていたわけではなかった。  顔に貼った膏薬は別として、老人が健康そのもののような姿でドアを開けると、彼は白昼夢からさめた。 「よくこんなにはやく来てくれたな」と、彼は大声でいった。ハリーに会えたのを、心からよろこんでいるようだった。やがて、その顔がくもると、「実はな、ハリー、ちょっと困ったことになっとるんで、助けてほしいんだよ。明日、公判が開かれることになっとるんだ」  これはかなりのショックだった。ガソリンの配給制が実施されているイギリスの多くのドライヴァーが期待されている程度には、ホーマーも法律を守る善良なる市民だったのだ。もしありきたりの闇に関する問題だったら、ハリーには、どんな力になれるのか、自分でも見当がつかなふった。 「それはお気の毒ですね、伯父さん。どんなことなんです?」 「話せば長い話なんだ。書斎へいって、ゆっくり話しあおう」  ホーマー・ファーガスンの書斎は、いささか老朽した建物の西側のウイング全体を占めていた。※[#木+垂 unicode68f0]《たるき》にはこうもりが巣くっているに違いないと、ハリーは信じていたが、実物を見たことはまだなかった。ホーマー伯父はテーブルをかたむけて、のっている本を全部床に落すという、いともかんたんな方法でテーブルの上を片づけると、三回口笛を吹いた。すると、どこかで声に反応するリレーが働いて、陰気なコーンウォール靴りの声がかくれたスピーカーから流れてきた。 「何でしょう、ファーガスンさま?」 「メイダ、例の新しいウィスキーを一本とどけておくれ」  はっきりと聞こえる鼻をならす音以外、何の返事もなかった。しかし、しばらくすると、がたがた、みしみしいう音が聞こえ、二フィート四方はどの本棚が片側にずれて、コンベヤー・ベルトが姿を現わした。 「メイダはどうしても書斎に入ってこないんだよ」と、ホーマーは品物ののったお盆を取りあげながらぼやいた。「まったく何にもしないのに、へびを怖がってね」  ハリーはまだ見たこともないメイダに同情せざるをえなかった。全長六フィートの大へびが、エンサイクロペディア・ブリタニカの収った本箱からだらりとさがり、真ん中あたりのふくらみがつい今しがた食事をすませたことを物語っていた。 「このウィスキーをどう思うね?」と、ホーマーはハリーがグラスに口をつけ、息をあえがせはじめると訊いた。 「まあ、その……何ていったらいいのかわかりませんね。こいつは、ふうっ、いささか強いですな。まさか、これほど――」 「ラベルなんか見てもむだだよ。この銘柄はスコットランドの産じゃないんだ。いろいろと厄介なことになったのも、そのためなんだよ。この屋敷内で作ったものなんだ」 「伯父さん!」 「うん、それが法律に反するとか何とかいうくだらんことは、何もかも承知の上だ。しかし、近ごろじゃ、いいウィスキーなど、とんと手に入らないんでな。みんな、輸出にまわされてしまうんだよ。ドル獲得のためにすこしでもよけいにウィスキーを使えるように、自分の飲み料は自分で作るってことは、愛国的な行為のように思えたんだ。しかし、間接税務局の役人どもは、そうは思わないんだな」 「すっかり話を聞かせてもらったほうがよさそうですね」と、ハリーはいった。伯父をこの苦境から救うためにできることは、自分には一つもないということが、彼にははっきりとわかっていたので、暗い気持ちになっていた。  ホーマーは昔から呑んべえで、戦時中の酒不足にひどく悩まされていた。また、これまでに述べてきたことからもわかるとおり、彼にはむだな金を払うのを嫌うところがあり、長い間、一びんのウィスキーを買うたびに、その値段の数倍にも及ぶ税金を払わなければならないという事実をこころよく思っていなかった。それで、いよいよ飲み料が手に入らなくなると、行動を起こすべき時がきたと決心したのである。  彼が住んでいた地方が、おそらくこの決心をするにあたって、かなりあずかって力があったのだろう。数世紀にわたって、間接税務局の役人は、コーンウォールの漁師を相手にいつ果てるともしれない戦いを練りひろげてきたのだ。この古い牧師館の最後の住人は、このあたりでは主教につぐりっはな酒蔵をもっていたが、税金はびた一文払ったことがなかったという噂が流れていた。それで、ホーマー伯父としては、古くから伝わる崇高な伝統をうけついでいるだけだ、と感じていたのである。  さらに、純粋に科学的な探究心が彼をかりたてたという面も、なかったとはいいきれなかった。樽に入れて七年間ねかせておくなどということは、ばかげたことだと信じており、超音波と紫外線を使えば、もっとうまくできると確信していたのだ。  数週間は、その実験もうまくいった。しかし、ある晩おそく、どんなにうまく管理された研究所でも起こりうるような、不幸な事故が起こり、あれよあれよという間に、牧師館の庭に鋼管の断片が飛び散った。  近くで土地の国防市民軍が演習さえしていなければ、そういうことが起こっても、たいしたことにはならないですんだのだ。が、爆発音を聞くと同時に、彼らは軽機関銃をかまえて行動を起こしてしまった。いよいよ、ドイツ軍の侵入が始まったのか? もしそうなら、鎧袖一触、追い払ってやる、というわけである。  爆発を起こしたのがホーマー伯父だということを知ると、彼らはいささかがっかりしたが、彼の実験にはなれていたので、いささかも驚かなかった。ホーマー伯父にとって不幸なことには、その隊の指揮をとっていた中尉が土地の税務所の役人だったので、彼の鼻と目が協力してつかんだ証拠が、たちどころにことの真相を物語ってしまったのだった。 「というわけで、明日は」と、ホーマー伯父はあめ玉を盗んでいる現場をおさえられた男の子のような顔をしていった。「非合法の醸造所を所有していた廉で、法廷に立たなければならないはめになっちゃったんだよ」 「そういうことは、土地の治安判事ではなく、巡回裁判所の判事が扱う問題なんじゃないですか?」 「ここでは、われわれなりのやり方があるんだ」と、ホーマーは誇らしげにどころか、開きなおったように答えた。ハリーはそれがいかにほんとうであるかを、間もなく思い知らされることになった。  その夜は、ホーマーが弁論の概略を説明したり、ハリーの異議を論破したり、法廷に持ち出す装置をあわてて組み立てたりするのに忙しかったので、二人ともほんのすこししか眠れなかった。 「こういう法廷の判事どもは」と、ホーマーは説明した。「かならず専門家の証言に感銘をうけるものなんだ。ほんとなら、おまえは陸軍省のお偉方だ、くらいのことをいってやりたいとこなんだが、そんなことはかんたんに調べられるんでな。だから、ほんとうのことをいうだけにしておこう。おまえの肩書についてはな」 「おそれいります」と、ハリーはいった。「わたしのやってることが大学に知れたら、どうなると思います?」 「大学の要請でやってたというわけじゃないからいいだろう。自分一人でやっている研究だ、というんだからな。すべては、個人的な試みだとな」 「まさに、そのとおりですよ」  翌朝、二人はホーマーの作りあげた装置を、彼の古めかしいオースチンに済みこんで村へ乗りこんだ。法廷は土地の小学校の教室で開かれていたので、ハリーは時代が何年か逆戻りし、老校長に呼びつけられでもしたかのように感じた。 「運がよかったぞ」二人が窮屈な席に案内されると、ホーマーがささやいた。「フォザリンガム少佐が裁判長だ。奴は親友なんだよ」  それは大いに助かるでしょう、とハリーは同意した。しかし、判事席には、彼のほかにも二人の判事がいるのだ。法廷に一人、友人がいるというだけでは、とてもたりなかった。コネではなく、雄弁だけがホーマーをこの悲劇から救えるのだ。  法廷は混んでおり、これほど大勢の人が事件の審理を見物するだけの時間、仕事から脱け出してこられたということを知って、ハリーは驚いた。が、やがて、すくなくとも平時においては、密輸がこの地方の重要産業であるという事実から考えて、この事件が土地の人びとの間によび起こした関心を理解した。といっても、それがただちに彼らが同情的な傍聴者であるということにつながるかどうか、彼には確信がたかった。ホーマーがやったような個人的な事業を、土地の人びとが不正競争と見なすということも、大いに考えられるのだ。一方、彼らは税務所の役人の鼻をあかすようなことならどんなことでも、まずよしとするのである。  法廷の書記によって罪名が読みあげられ、いまわしい証拠が提出された。銅管の断片が判事の手でおごそかにあらためられ、それぞれの判事が次々とホーマー伯父のほうに鋭い視線をなげかける。ハリーとしては、幻の遺産相続がさらにもやにつつまれて、おぼろにかすんでいくような感じだった。  検察側の冒頭陳述が終わると、フォザリンガム少佐がホーマーのほうを振りむいた。 「どうやら、ことは重大なようですな、ファーガスンさん。われわれを満足させてくれるような釈明があれば結構なんですがね」 「ありますよ、裁判長」と、被告は潔白を疑われて傷つけられたようなひびきのにじみでた口調で答えた。裁判長殿の顔にうかんだ安堵のいろと、一瞬、国王陛下の収税官の顔をかすめた渋面はちょっとした見ものだった。が、その渋面はたちまち消えて、落ちつきはらった自信が取ってかわった。 「法的な代理人をきめたいと患いますか? 連れて来なかったようですが」 「その必要はないでしょう。すべてはごくつまらない誤解によって起こったことですから、そんな面倒なことをしないでも、解決できると思います。検察側に不必要な費用を負担させるのも何ですし」  この正面きっての攻撃で、法廷を埋めた人びとの口からざわめきがもれ、収税吏の頬があからんだ。はじめて、彼はいささか自信なげな様子を見せはじめた。もし裁判費用を検察側が払うことになると、ファーガスンが考えているせすれば、かなり自信があるに違いなかった。もちろんはったりをきかせているだけということも考えられるが――。  ホーマーは静かなざわめきがおさまるまで待ってから、さらに追いうちをかけるように、前よりもかなりはげしいざわめきをかきたてた。 「牧師館で起こったことを説明してもらうために、科学のほうの専門家をよんであるのです」と彼はいった。「彼の証言の性質上、機密保持のために、今後の審理を傍聴禁止にするようにお願いしなければならないのですが」 「傍聴人に退廷を命じろ、というんですか?」と、裁判長は信じられないというように訊いた。 「残念ながらそうなのです。わたしの同僚のパーヴィス博士は、この事件はできるだけ人に知られないほうがいいと感じているのでね。証言を聞けば、あなたも彼に同意すると思います。こういっては何ですが、これだけ知れてしまっただけでも非常に残念なことなんですよ。その、秘密の事柄を、好ましくない人物の耳にいれることになるんではないかと思いましてね」  ホーマーが収税吏をにらみつけると、彼は具合が悪そうにもじもじした。 「わかりました」と、フォザリンガム少佐はいった。「非常に異例なことではありますが、今は非常時ですからな。書記、傍聴人を退廷させるように」  不満の声と混乱が起こり、検察側の異議が却下された後、命令は遂行された。ついで、法廷に残った十数人の人びとが熱心に見まもる中で、ハリー・パーヴィスはベビー・オースチンからおろした装置のカヴァーをとった。彼の肩書が明らかにされた後、パーヴィスは証人台についた。 「まずわたしが爆発物の研究にたずさわってきたということ、そのために、被告の研究についても知っていたということを、説明したいと思います」と、彼は口を切った。この証言の最初の部分は、うそいつわりのない事実だった。それは、その日最後に申し立てられたことについて述べたのである。 「というと、爆弾や何かのことですか?」 「そのとおりです。が、基礎的なレベルの研究なんですよ。みなさんにもわかっていただけると思いますが、わたしどもはつねに新しい、よりすすんだ形の爆発物を求めているんです。さらにわたしたち政府の研究機関やアカデミックな世界にいるものは、つねにいいアイデアを、外の世界に求めているんですよ。ごく最近、伯、いえ、ファーガスン氏がまったく新しいタイプの爆薬について、非常に興味のある手紙をくれたんです。その爆薬の興味のある点は、砂糖とか、澱粉などという非爆発性の原料を使っているところだったんですね」 「え?」と、裁判長がいった。「非爆発性爆薬? そんなことありえないじゃないですか」  ハリーはにっこりと笑って、「お気持ちはよくわかります。誰でも、この話を聞くとまずそういう反応を示すんです。しかし多くの偉大なアイデアと同じに、このアイデアには、天才的な単純さがあるんですよ。しかしながら、それを理解していただくには、ちょっとした説明が必要なのではないかと患います」  判事たちは非常に熱心に耳をかたむけると同時に、いささか警戒しているようだった。ハリーは前にも専門家の証言を聞かされたことがあるのだろう、と推測した。彼は法廷の真ん中におかれたテーブルに近づいた。テーブルの上には、フラスコ、導管、液体の入ったびんなどがいっぱいにならべられていた。 「まさか、パーヴィスさん」と、裁判長が心配そうにいった。「危いことをやるつもりじゃないでしょうな」 「もちろんです。基本的な科学の原理を実験で説明したいと思っているだけですよ。もう一度ここで、これを当法廷以外にもらさないでおくことが肝要であるということを、強調しておきたいと思います」  彼が重々しく言葉を切ると、みんな、充分に感銘をうけたようだった。 「ファーガスン氏は」と、彼は話しはじめた。「自然の基本的な力の一つを引き出そう、と提案しているのです。それはすべての生物がよってもって生きている力、まだ聞いたことはないかもしれませんが、みなさんが生きていくにも欠くべからざる力なのであります」  彼はさらにテーブルに近づくと、フラスコとびんの傍らに立った。 「高い木のいちばん上の葉まで、いかにして樹液がとどくかということを」と、彼はいった。 「考えてみたことがありますか? 地上百フィート、時には三百フィート以上のところまで水も押しあげるには、非常な力がいるのです。その力は、どこから生まれるのでしょうか? では、ここにある実例で、それを説明しましょう。  ここに、浸透性の膜によって二つの部分にわけられた丈夫な容器があります。膜の片側には、純粋な水、反対側には、砂糖その他化学薬品の濃縮溶液が入っています。どんな化学薬品かを明らかにすることは、お許しねがいたいと思います。こういう状態のところに、圧力をかけるのです。浸透性の圧力として知られている圧力です。純粋の水は、溶液を薄めようとするかのように膜を突きぬけようとします。ごらんのように、容器を密閉しました。この右手に、圧力計があるのにお気づきでしょう。指針があがっていくのをごらんください。これが浸透性の圧力です。この同じ力が、われわれの体内の細胞の壁にも働き、体内の液体が流れることになるんですよ。この力が樹液を根から一番上の枝まで、幹をとおして押しあげるんです。それは普遍的な力であり、強力な力なのです。そして、最初にそれを制御しようと試みた名誉は、ファーガスン氏のものものであります」  ハリーは感銘をあたえるように言葉を切ると、法廷を見まわした。 「ファーガスン氏は」と、彼はいった。「浸透力爆弾を開発しょうとしていたのです」  彼の言葉の意味するところがはっきりと理解されるまでに、かなりの時間がかかった。やがて、フォザリンガム少佐が身を乗り出すと、あたりをはばかるような声で、「彼がその爆弾の製造に成功した。そして、彼の研究室で、それが爆発した、というわけですか?」 「そのとおりです、裁判長。これほど洞察力のある法廷で証言できることは、わたくしどものよろこび、めったにめぐりあえないよろこびであります。ファーガスン氏はみごとに成功され、その製造方法をわれわれに報告する準備をしていたのですが、不幸な見おとしがあったために、当該爆弾に取りつけられていた安全装置が働かなかったのです。その結果は、ご存じのとおりです。 この兵器の威力については、これ以上説明する必要はないと思います。さらに、そこに使われていた溶液がすべてごくありきたりの化学薬品だったということを申しあげれば、この兵器の重要性を認識していただけるのではないかと思います」  フォザリンガム少佐はいささか当惑げな顔を検察官にむけると、「ホワイティングさん、この証人に何か訊きたいことがありますかっ」 「もちろん、あります、裁判長。こんなばかげたことは、これまで一度も――」 「発言は事実に関する質問だけにかぎってください」 「わかりました。爆発の直後に検出された大量のアルコール性蒸発物の存在を、どう説明するのか訊きたいと思います」 「税務官吏の鼻が、正確に数量的な分析まで行なえるということには、疑問を感じます。しかしアルコール性蒸発物が発生したことは事実です。当該爆弾に使われていた溶液は、二十五パーセントのアルコールを含んでいたのです。薄めたアルコールを使うことによって、無機イオンの移動性が抑えられ、浸透性圧力が高められるんですね。これが好ましい効果であることは、いうまでもないでしょう」  これでしばらくはおとなしくなるだろう、とハリーは思った。彼の思惑はあたった。第二の質問が発せられるまでに、二分はかかった。やがて、検察側のスポークスマンが銅管の断片を打ち振った。 「これはいったいどういう機能をはたしていたんです?」と、彼は精いっぱいのいやったらしい口調でいった。ハリーはその小ばかにしたような口調に気がつかないふりをした。 「圧力計の導管です」と、彼は即座に答えた。  判事たちがすでに煙にまかれていることは明らかだった。それこそ、ハリーの望んでいたところだったのだ。しかし、検察側はまだ最後の切り札をかくしもっていた。収税吏とその法廷における代理人の間で、こそこそとささやき声がかわされる。ハリーが心配そうにホーマー伯父のほうを見ると、彼は、俺に訊いたってわかるもんか≠ニいうように、肩をすくめた。 「ほかにも提出したい証拠があるのですが」と、収税吏側の代理人は、大きな茶色の紙包みがテーブルにのせられると、勢いこんでいった。 「こういうことは許されるのでしょうか、裁判長?」と、ハリーは抗議した。「わたしの、その同僚に不利な証拠はすべて、すでに提出されていなければならないはずですが」 「前言を取り消します」と、代理人はすばやく言葉をはさんだ。「この事件に関する証拠ではなく、今後の審理のための材料といいなおしましょう」彼は凄みをきかせて言葉を切ると、その意味が人びとの頭にしみこむのを待って、「しかしながら、もしファーガスン氏が今、われわれの質問に満足すべき答えをあたえることができれば、すべては即座に解決してしまうのです」彼がもっともさけたいと思っているのが、満足すべき釈明であるということは明らかだった。  彼が茶色の紙をほどくと、有名な銘柄のウィスキーが三本現われた。 「ほ、ほう」と、ホーマー伯父はいった。「いったい何が現われるのかと――」 「ファーガスンさん」と、裁判長がいった。「いいたくなければ、何もいわないでもいいんですよ」  ハリー・パーヴィスはフォザリンガム少佐に感謝をこめた視線をなげかけた。彼はいかなることが行なわれたのかを推察した。検察側は、ホーマー伯父の研究室の残骸の間を歩きまわった時に、自家製のウィスキーのびんを何本か手に入れたのだ。家宅捜索令状をもっていなかったと思われるので、彼らのやったことはおそらく法に反することだった。そのために、この証拠を提出するのを躊躇《ためら》っていたのだ。この証拠がなくても、充分にはっきりしていると思われたのであ。  今や、確かにかなりはっきりとした様相を呈していた。 「これらのびんには」と、検事はいった。「レベルにうたってある銘柄のウィスキーが入っているわけではないのであります。これらのびんが、被告がいうところの、その、化学薬品の溶液を入れる、手ごろな容器として使われたことは明らかです」彼はハリー・パーヴィスに冷やかな視線をなげかけると、「これらの溶液を分析させたところ、非常におもしろい結果が出たのです。アルコール濃度が異常なほど高いほかは、これらのびんの中身はウィスキーとまったく――」  彼には、ホーマー伯父のすぐれた技術に関する、たのまれもしなければ、明らかに好ましくもない証言を完了する問がなかった。その瞬間、ハリー・パーヴィスが不吉なひゅーっという音に気がついたからである。最初、彼は爆弾のおちてくる音かと思った。が、空襲警報が出ていなかったので、そういうことはまずありえなかった。ついで、それがすぐ近くから聞こえてきていることに気づいた。それは法廷のテーブルの上から――。 「かくれろ!」と、彼は叫んだ。  法廷はイギリスの裁判記録をひっくりかえしてもこれほどのはやさはとうてい見出すことができないはどのすばやさで、休憩に入った。三人の判事は一段高くなった裁判官席のかげに姿を消した。そのほかの人びとは床に伏せたり、机の下にもぐりこんだりした。長い、息づまるような一瞬が過ぎ去っても、何ごとも起こらなかった。ハリーはよけいな警告を発してしまったかな、と思った。その時、にぶい、妙に抑えたような爆発が起こり、ガラスの割れるはでな音がひびきわたった。そして、急襲をうけた醸造工場のようなにおいがあたりにただよう。ゆっくりと、法廷中の人びとがそれぞれのかくれ場から姿を現わした。  浸透力爆弾がその威力を発揮したのだ。さらに重要なことは、検察側の証拠を破壊してしまったのである。  判事たちは憮然たる態度で一件落着を宜した。当然のことながら、その威信に対する挑戦ととったのである。さらに、判事たちはそれぞれに家へ帰ってから、何とか言い訳をしなければならないだろう。アルコールの霧がすべてのものにしみこんでいたからである。奇妙なことに、窓ガラスは一枚も割れなかったので、法廷の書記がかけまわって窓を開けたが、アルコールの毒気はなかなか散ろうとしなかった。ハリー・パーヴィスは髪についたびんのかけらを取りながら、明日は教室で酔っぱらう学生が出るかな、と思った。  しかし、フォザリンガム少佐がほんとうに話のわかる男だったということは、疑う余地がない。荒れはてた法廷からぞろぞろと出ていきながら、ハリーは彼が伯父にむかっていっているのを耳にした。 「おい、ファーガスン、陸軍省が配ると約束しているモトロフ・カクテルがとどくのは、まだ何年も先のことなんだ。例の爆弾を国防市民軍のためにすこし作ったらどうだ? タンクを破壊することはできなくても、すくなくとも、乗員を酔っぱらわせて、役にたたなくすることはできるだろうからな」 「考えてみるよ、少佐」と、ホーマー伯父は答えた。どうやら、事の意外な成り行きにまだすこしぼうっとしているようだった。  石をつんだだけで、しっくいでかためてない石壁のつづく、狭い、まがりくねった道ぞいに、牧師館にむかって車を走らせているうちに、彼もいくらかしゃんとしてきた。 「悪いこといわないから、伯父さん」と、ハリーは道が比較的まっすぐな道に出て、ドライヴァーに話しかけても危険がなくなると注意した。「あの醸造工場を再建しようなんてことは考えない方がいいですよ。連中は鷹のように狙ってるでしょうし、今度はそううまく言い逃れできないでしょうからね」 「わかったよ」と、伯父はいささかすねたようにいった。「しょうがないブレーキだな! 戦争の始まる直前になおしたばかりなのに!」 「あっ!」と、ハリーは叫んだ。「危い!」  が、すでに手おくれだった。彼らは〈一時停止〉という真新しい標識の立っている十字路へかかっていた。伯父はぐっとブレーキを踏みこんだが、しばらくは何の反応も現われなかった。やがて、右側の車輪がまだたのしげにまわりつづけているのに、左側の車輪だけがとまってしまった。幸いにひっくりかえりはしなかったものの、車は急激に向きをかえ、道端の溝にはまって、今来たほうをむいてとまった。  ハリーはとがめるように伯父を見た。そして、まさに責めたてようとした時、一台のオートバイが横丁から姿を現わし、近づいてきた。  結局のところ、二人にとって幸運な日とはならない運命だったのだ。新しい標識を無視するドライヴァーをつかまえようと、村の巡査部長が待ち伏せていたのである。彼は道端にオートバイをとめると、オースチンの窓からのぞきこんだ。 「けがはありませんか、ファーガスンさん?」と、彼はいった。ついで、その鼻をうごめかすとまさに雷をおとそうとしているジュピターのような顔をして、「これはまずいですな。送検しなきゃなりませんよ。酔払い運転というのは、非常に重大な道交法違反ですからね」 「しかし、今日は一日中、一滴ものんでないんだ!」と、伯父はアルコールのしみこんだ袖を巡査部長のぴくぴく動いている鼻先で振りまわしながら抗議した。 「そんなことを、信じられると思ってるんですか?」と、腹をたてた警官は、手帳を取り出しなながら小ばかにしたようにいった。 「いっしょに署まで来てもらわなけりやなりません。お友だちは運転できないほどは酔ってませんか?」  ハリー・パーヴィスはしばらくの間答えなかった。ダッシュボードに頭を打ちつけるのに忙しくて、それどころではなかったのだ。 「それで」と、わたしたちはハリーに訊いた。「伯父さんはどうなったんだ?」 「ああ、五ポンド、罰金をとられて、免許証に、酔っぱらい運転て書きこまれたよ。裁判が開かれた時、不幸にして、裁判長はフォザリンガム少佐じゃなかったんだ。おまけに、ほかの二人の判事のほうはまだ残ってたんだよ。連中にしてみれば、たとえ今度の場合は伯父は無罪だとしても、ものには限度ってものがある、と感じてたんじゃないかな」 「で、きみは伯父さんの財産に、いくらかでもありつけたのか?」 「心配するなって! 当然のことながら、彼は非常に感謝してたんだ。で、遺書に、おまえのことも書いてあるっていってたよ。しかし、わたしが最後に会った時、彼は何をしていたと思う?不老長寿の薬を求めてたんだ」  すべてが逆目に出る運命に、ハリーは溜息をついた。 「時どき」と、彼は憂鬱そうにいった。「彼がその薬を発見しちゃったんじゃないかと思う時があるよ。医者にいわせると、七十で、彼ほど健康な人は見たことがないっていうんだ。で、その事件からわたしがえたものといえば、ちょっとしたおもしろい思い出と、宿酔だけなんだ」 「宿酔?」と、チャーリー・ウィリスが訊いた。 「ああ」と、ハリーはその目に遠くを見るようないろをうかべて答えた。「収税吏どもは、証拠をすべておさえたわけじゃなかったんだよ。で、残った証拠を、その……湮滅しなくちゃなられかったんだ。ほとんど一週間近くかかったよ。その間に、二人でありとあらゆるものを発明したんだが、それが何だったかは、ついにわからずじまいだったんだ」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    海を掘った男      The Man Who Ploughed the Sea [#改ページ]  ハリー・パーヴィスの冒険譚には、その奇想天外さの故に、かえって信じざるをえないという一種の気狂いじみた論理が一貫している。彼の複雑怪奇ではあるが、みごとに辻褄のあった話が始まるたびに、みんな、煙にまかれてしまうのだ。そして、こんな話をでっちあげるほど図々しい男がいるはずはない、こんなばかげたことは、実際にしか起こりようがなく、作りごとなどであるはずがない、と自分に言い聞かせることになるのである。というわけで、あげ足とりの矛先もにぶり、結局、ドルーが、「かんばんですよ、みなさん」とどなって、われわれを冷たく、きびしい世間に追い出すまで、彼の独演会がつづいてしまうのだ。  たとえば、これからお話する冒険で、ハリーが捲きこまれた一連の出来事を考えてみていたのきたい。もしすべてをでっちあげるつもりなら、もっとずっとかんたんにいったに違いないのだ。作家としての観点からいえば、フロリダ沖における邂逅を物語るのに、何もボストンから説きおこす必要はまったくないのである。  ハリーはかなりの間アメリカに滞在し、向うにも、イギリスと同じくらい大勢の友人をもっているようだった。時どき、そういった友人たちを〈白鹿亭〉に連れてくることがあり、中には、何とか自力で引きあげていくものも時折りあった。しかし、生ぬるいビールはきかないという錯覚におちいり、つい度を過してしまうことが多かった。(といっては、ドルーに対して申しわけない。彼の出すビールは生ぬるくはないのだ。たのみこめば、別に余分な料金もとらずに、郵便切手ほどもある氷のかけらをくれるはずである)。  これから語るハリーの大冒険譚は、すでに述べたように、マサチュセッツ州はボストンに始まる。彼が成功したニューイングランドの弁護士の家に客として滞在していると、ある朝、いかにもアメリカ人らしい、さりげない調子で、主人がいった。 「フロリダの別荘へ行こうじゃないか。すこし太陽にあたりたいんだ」 「いいね」と、まだフロリダに行ったことのないハリーはいった。  三十分後、彼は自分が赤いジャガーのセダンにのって、すさまじいスピードで南にむかっていることに気づいて、いささか驚いた。  そのドライヴ自体も、それだけでりっばに一つの冒険譚となる叙事詩的出来事だった。ボストンからマイアミまでは、全行程千五百六十八マイルのほんのちょっとしたドライヴである。この数字は、ハリーの語るところによれば、今や彼の頭に刻みつけられていた。パトカーが切歯扼腕しながら後方にかすんでいくにつれて、次第に小さくなるサイレンの音を何度となく聞きながら、彼らはその全行程を三十時間で走破した。が、時折り、戦術的配慮から、忍法まがいの行動をとらざるをえなくなり、補助道路に入ることを余儀なくされた。ジャガーのラジオは警察用の電波にあわせてあったので、敵が邀撃《ようげき》態勢をととのえている時には、つねに警告にはことかかなかったのだ。一、二度、かろうじて州境にたどりついたことがあり、もし彼を駆りたてて警察の手から逃れさせた、この心理的な圧力の強さを知ったら、彼の依頼人たちはどう息うだろう、とハリーは考えざるをえなかった。彼はまた、果してフロリダまでたどりつけるのだろうかとか、キー・ウエストから海にとびこんでしまうまで、このままのスピードで突っ走りつづけるのだろうか、などと考えたりもした。  彼らはマイアミの南方六十マイル、フロリダ・キーズでついに車をとめた。フロリダ南部から長くのびている、ハイウエイで結ばれた一連の小島である。ジャガーは不意に道路をほなれ、マングローヴの間に切り開かれたでこぼこ道をしばらく進んだ。道は森を広く切り開いた海辺で終わり、そこには舟つき場、三十五フィートのキャビン・クルーザー、プール、それに屋根の傾斜のゆるやかな平屋のしゃれた別荘と、何から何までととのっていた。何とも気持ちのいい、ちょっとしたかくれ家であり、十万ドル近くの金がつぎこまれているな、とハリーはそろばんをはじいた。  まっすぐにベッドへ倒れこんでしまったので、ゆっくりとその別荘を歩きまわったのは、翌日になってからだった。ほんの一眠りしたかと思うと、ボイラー工場で作業が始まったような、すさまじい音でたたき起こされた。ゆっくりとシャワーをあび、服をきて部屋を出たころには、彼もかなりまともな状態に戻っていた。家の中には誰もいないようだったので、外に出て、あたりの探検にかかった。  そのころには、たいていのことには驚かないようになっていたので、主人が舟つき場で、小さな、一目で手製だということがわかる潜水艇のはしごを直しているのを見つけても、わずかに眉をあげただけだった。その小型潜水艇は全長約二十フィートで、大きな観測窓のある司令塔があり、船首に〈ボンバーノ〉という名前が刷り込んであった。  しばらく考えた後、こういったことも別に驚くにはあたらない、とハリーは断定した。毎年、およそ五百万の観光客がフロリダを訪れ、その大部分が海に出よう、あるいは潜ろう、と心に決めてるのだ。ここの主人は、幸いにも、大々的に趣味をたのしむことができる身分だというだけのことなのである。  ハリーはしばらくの間ボンバーノ号を眺めていたが、やがて、何とも気がかりなことが心にうかんだ。 「ジョージ」と、彼はいった。「ぼくをそいつにのせて潜らせようっていうのか?」 「もちろんさ」と、ジョージははしごに最後の一撃を加えながら答えた。「何を心配してるんだ? ぼくはもう何十回も乗ってるんだ。家の中にいるのと同じくらい安全だよ。二十フィート以上は潜らないんだしな」 「時によると」と、ハリーはやりかえした。「わずか六フィートでも深すぎると感じることもあるんだよ。それに、閉所恐怖症なんだってこと、話さなかったかな? 毎年今ごろになるとひどくなるんだ」 「そんなばかな!」と、ジョージはいった。「珊瑚礁の上へ出れば、そんなこと忘れちゃうさ」彼は一歩さがって、自分のみごとな手並みを眺めていたが、やがて、満足げに溜息をもらすといった。「これでよさそうだ。朝飯にしよう」  つづく三十分の間に、ハリーはボンバーノ号に関して多くのことを知った。ジョージが自分で設計し、自分で建造したものであり、その強力な小型ディーゼル機関は、完全に潜水していればその小艇を五ノットで推進することができるのだった。乗員も機関も、ともにスノーケルから流れこむ空気を使うようになっているので、電動機や特別の空気供給装置は必要なかった。スノーケルの長さの関係から、二十フィート以上は薄れなかったが、このあたりの浅い海では、それもたいしたハンディキャップとはならなかった。 「あの艇には、新しいアイデアをたくさん盛りこんだんだ」と、ジョージは夢中になっていった。「たとえば、あの窓だが、すごく大きいだろう。海中を眺めるのには申し分ない上に、まったく安全なんだよ。アクアラングの原理を使って、ボンバーノ号の中の気圧が外の水圧とまったく同じになるようにしてあるんで、艇体にも、窓にも圧力がかからないんだ」 「海底で動きがとれなくなったら」と、ハリーは訊いた。「いったいどうなるんだ?」 「ドアを開けて、出て行くのき。何か起こったらいつでも助けを求められるように、防水無線機つきの救命ボートの他に、キャビンには予備のアクアラングが二つ用意してあるんだ。心配するなって。万全の準備をしてあるんだ」 「そういいながら死んでった奴がよくいるよ」と、ハリーはつぶやいた。しかし、ボストンからのあのドライヴにもけが一つしなかったのだから、ついているに違いないと判断した。ジョージの運転で国道一号線をとはすよりは、おそらく海の方が安全だろう。  出航前に、脱出機構を充分に頭にたたきこみ、この小さな潜水艇が見たところ実によく設計され、建造されているのを知ると、ハリーもかなり明るい気持ちになった。一介の弁護士風情がその余暇に、これほどりっぱな船舶を造りあげたという事実も、すこしも驚くにはあたらなかった。ハリーはとうの昔に、アメリカ人の多くが、その趣味にも、仕事にまけないくらいの努力を傾けるということに気づいていたのだ。  彼らはささやかな港を出ると、岸からはるかに離れるまで、指定された水路にそって走っていった。海は静まりかえり、岸が遠のくにつれて、着実に透きとおってくる。彼らは波がたえず陸地をけずり、粉ごなに砕けた珊瑚でにごっている、岸近くの海を後にしていた。三十分もすると珊瑚礁の上に出る。珊瑚礁は彼らの下に、パッチワークの掛けぷとんのように横たわり、その上を、さまざまな色の魚が身をひるがえして泳ぎまわっていた。ジョージはハッチを閉め、タンクのヴァルヴを開けると、たのしげにいった。 「さあ潜るぞ!」  しわのよった絹のヴェールがあがってくると、一瞬、すべての形をゆがませて窓をおおう。と次の瞬間には、すでに海中に潜りきり、海の世界を外からのぞいている異邦人ではなく、海の世界の住人になっていた。彼らは白砂の絨毯を敷きつめた谷間に浮び、珊瑚の低い丘にかこまれていた。谷間自体は不毛の荒地だったが、まわりの丘は、生えているもの、這いまわるもの、泳ぎまわるもので生き生きとしていた。ネオンのように、まばゆいばかりの魚が、まるで立ち木のように見える動物の間を、のんびりと泳ぎまわっている。思わず息をのむほど美しいばかりではなく、何とものどかな世界のように見えた。あわただしさも見られなければ、生存競争のかげすら認められない。ハリーにもそれが幻影にすぎないことはわかっていたが、彼らが海中に潜っている間に、魚がほかの魚を襲うところは一度も見られなかった。彼がそのことを口にすると、ジョージはいった。 「うん、それが魚の妙なところなんだ。彼らにはきまった食事の時間があるらしいな。バラクーダが泳ぎまわってても、食事の鐘がならないかぎり、ほかの魚のことなんか気にもしないんだ」  奇怪な黒いちょうを思わせるえいが、その長い、鞭のような尾でバランスをとりながら、砂の上をひらひらとわたっていった。ロブスターの敏感な触角が珊瑚の割れ目からのぞき、用心深くゆれている。あたりを探るその様子は、棒の先に帽子をのせて狙撃兵の動静をうかがう兵士の姿を、ハリーに思い起こさせた。彼らのまわりだけでも、そのすべてを識別するには何年も勉強しなければならないほど多くの、そしてさまざまな生き物が群がっていた。  ボンバーノ号は谷間ぞいにごくゆっくりと進んでいき、その間、ジョージはしゃべりつづけていた。 「昔は、ぼくもアクアラングをつけてこういうことをやってたんだよ」と、彼はいった。「そのうちに、悠々と座席に坐って、エンジンの力で動きまわったらどんなにすばらしいだろうと考えたわけだ。そうすれば、一日中、海に出ていられるし、べんとうももっていけるし、カメラも使えるし、鱶《ふか》が近づいてきても、平気なわけだからな。あそこにタングがいるぞ。あんな鮮やかなブルーを、これまでに見たことがあるか? その上、しゃべりながら海の中を、友だちを案内してまわれるんだからな。普通の潜水用具の大きな欠点の一つは、そこなんだよ。みんな聾で唖になっちゃうんで、手まねで話さなきゃならないんだ。あのエンジェル・フイッシュを見てみろよ。いつか、網をはってつかまえてやろうと思ってるんだ。さっと消えちゃうところを見ろよ! ぼくがボンバーノ号を建造したもう一つの理由は、こいつがあれば沈没船を探せるからなんだ。このあたりには何百隻も沈んでるんだよ。まさに船の墓場なんだ。サンタ・マルガリータ号はここからわずか五十マイルはどのビスケーン湾に沈んでるんだよ。数百万ドルの金塊や銀塊を積んだまま、一五九五年に沈んだんだ。さらに、ロングケイの沖には、一七一五年に十四隻の大帆船が沈んで、六千五百万ドルという、ちょっとした財宝が横たわっているんだよ。問題は、もちろん、こういった沈没船は徹底的に破壊されている上に、珊瑚がはびこっていて、沈没の場所がわかってもたいした役にはたたないということなんだがね。しかし、探すのはおもしろいものなんだ」  このころになると、ハリーにも、この友人の心理がわかりかけてきていた。ニューイングランドにおける弁護士稼業から逃れるだけなら、これよりもましな方法をいくつか考えることもできた。ジョージは抑圧された夢想家だったのだ。いや、考えてみれば、それほど抑圧されていたわけでもないのだろう。  彼らは水深がせいぜい四十フィートほどしかない海に潜ったまま、二時間ばかりたのしく走りまわった。一度など、目がさめるような、砕けた珊瑚の堆積の上に艇をとめて、レヴァーソーセージのサンドイッチとビールをたのしんだりした。 「前に一度、やはり海底に滞ったまま、ジンジャービールを飲んだことがあるんだよ」と、ジョージはいった。「浮上したら、体の中のガスがふくらんで、何ともいえない妙な感じだったよ。いつかぜひシャンペンでためしてやろうと思ってるんだ」  ハリーがからになったびんや何かをどう始末しょうかと思っていると、ボンバーノ号の頭上を暗い影がおおい、蝕に入ったようになった。観察用の窓ごしに見あげると、頭上二十フィートのところを、一隻の船がゆっくりととおりすぎていった。こういう時のために、スノーケルを引っこめ、その時は、こと空気に関するかぎり、艇内の蓄積に依存していたので、衝突の危険はなかった。その日、ハリーは多くのことをはじめて体験してきていたが、これまでに船を下から眺めたことがなかったので、また新しい体験が一つふえたわけだった。  船に関してはおよそ知識がなかったにもかかわらず、ジョージと同時に、頭上をとおりすぎていく船がいささかかわっていることに気がついたことを、彼は誇らしく思った。普通の軸とスクリューのかわりに、その船の船底には、キールと同じ長さの長いトンネルがはしっていたのだ。船がとおりすぎるとともに、ボンバーノ号はどっと押し寄せる海水で艇体をゆすぶられた。  「驚いたな!」と、ジョージは操縦装置をつかみながらいった。「どうやら、ジェット推進装置らしいぞ。そろそろ、誰かがやってみてもいいころなんだ。ちょっと眺めてみようじゃないか。  彼は潜望鏡を押しあげ、ゆっくりと遠ざかっていく船が、ニューオーリンズの原子価号《ヴェイレンシー》でありことをたしかめた。  「妙な名前だな」と、彼はいった。「どういう意味だ?」 「あの船の持ち主が」と、ハリーは答えた。「化学者だってことさ。あんな船が買えるほど金をもうけられる化学者はまずいない、という点が問題だがね」 「よし、追いかけてやるぞ」と、ジョージはいった。「五ノットぐらいしか出していないんだ。で、あの仕掛がどういう具合に働くのか、見てみたいんだよ」  彼はスノーケルをあげ、ディーゼル・エンジンを始動すると、追跡にかかった。ほんのしぼらく追っただけで、ボンバーノ号はヴェイレンシー号から五十フィートの距離に近づき、ハリーは魚雷を発射しょうとしている潜水艦の艦長のような気分になった、この近距離からでは、はずしようがなかった。  事実、彼らは危うく体あたりするところだったのだ。ヴェイレンシー号が不意に速力をおとして停止し、ジョージが呆然としているうちに、潜水艇はヴェイレンシー号に横づけになってしまったからである。 「合図もしないで!」と、彼は的はずれな文句をつけた。  一分後、相手の行動が偶然ではなかったことが明らかになった。ボンバーノ号のスノーケルにみごとに投げなわがかかり、彼らはぐいぐいと引きあげられた。いささかおどおどしながら浮上し、何とか体面をたもつように努力する以外に、打つ手はなかった。  幸いにも、彼らを捕えた相手は話のわかる男たちで、こちらが事実を話せば、それがうそではないということのわかる連中だった。ヴェイレンシー号に乗り移って十五分後、ジョージとハリーは制服のスチェワードからハイボールのグラスを受け取りながら、ギルバート・ロマーノ博士のご高説を拝聴していた。  彼らはロマーノ博士と面と向かって坐っているということで、まだいささかどぎまぎしていた。ほんもののロックフェラー、あるいはデュポン家の当主に会うようなものだった。博士はヨーロッパではまったくといってもいいほど例がないし、アメリカにおいてさえもめずらしい奇才だった。実業家として大きな成功をおさめた大科学者だったのだ。  現在、七十代の終わりで、かなりごたごたしたあげく、彼が創立した巨大な化学工業会社の会長をやめ、引退したばかりだった。  もっとも民主的な国にも、富の相違がもたらす微妙な社会的な地位の違いがあるというのは、なかなかおもしろい、とハリーはわたしたちに語った。ハリーの標準によれば、ジョージは大金持ちで、その年収は十万ドル前後というところだった。しかし、ロマーノ博士は桁違いの大富豪であり、そのため、こちらとしては、こびるというわけではけっしてなかったが、一種親しみのこもった尊敬の念をもって相対さなければならなかった。一方、博士の方は、まったく自由に、気楽に振舞っていた。彼には、百五十フィートの外洋クルーザーをもっているというような些細な点をのぞけば、大富豪であることを思わせるようなところは一つもなかった。  ジョージが博士の事業関係の知人の大部分と姓ではなく名前でよびあうような仲だということが、かたくるしさを破り、彼らの動機の純粋さを認めさせるのに役だった。ビル何とかがピッツバーグで何をしたとか、ジョージ何とかがヒューストンのバンカーズ・クラブで誰それに会ったとか、クライド何とかがオーガスタでゴルフをしていたら、アイクが来ていたといった調子で、アメリカ全土のなかばをおおう規模で仕事の話が繰りひろげられている間、ハリーは退屈な三十分をすごした。それは、みんな同じ大学を出た男たち、あるいは、すくなくとも同じクラブに属する男たちが巨大な権力をふるっている、不思議な世界を垣間見るようなものだった。ジョージがロマーノ博士にただエチケットとして社交辞令を述べているのではないということが、ハリーにはすぐわかった。ジョージほどやり手の弁護士が、新しい顧客を獲得するこの機会を逃すはずがなく、彼らの遠征のそもそもの目的はすっかり忘れ去られてしまったようだった。  ハリーは適当な話の切れ目を待って、彼にとってほんとうに興味のある話題を持ち出した。相手が自分と同じ科学者であることに気づくと、ロマーノ博士はすぐに財界の話をやめ、今度はジョージが取り残されることになった。  ハリーをとまどわせたのは、なぜ高名な化学者が船舶の推進装置に興味をもっているのか、ということだった。何でもすぐ行動に移す男だったので、彼はその点を博士に問いただした。しばらくの間、博士はとまどっているようだったので、ハリーはもうすこしで立ちいったことを訊いてしまったことをあやまりかけた。彼としては、たいへんな努力を要する美挙である。しかし、あやまる間もなく、ロマーノ博士は失礼といって、ブリッジの中に引っこんでしまった。  彼は五分後に満足げな顔をして戻ってくると、何ごともなかったように話をつづけた。 「ごく当然な質問ですよ、パーヴィスさん」といって、彼はくすくすと笑った。「わたし自身でも訊いていたでしょうな。しかし、わたしがそのわけを話すと、ほんとうに思っているんですか?」 「その、話していただけたら、と思ってるんですが」と、ハリーはいった。 「では、あなたをびっくりさせてあげましょう。二度、びっくりさせてあげますよ。あなたの質問に答えると同時に、わたしが船舶の推進装置に情熱をもやしているわけではないということも教えてあげます。あなたが大いに興味をもって調べていた、この船の底のふくらみには、たしかにスクリューもついていますが、その他にもいろいろなものがついているんですよ」  ロマーノ博士の話しぶりは、次第に熱をおびてきた。 「まず海に関する基本的な統計をいくつかお教えしましょう。ここからも、広大な海原が見渡せるんです。何百平方マイルもの海がね。一立方マイルの海水には、一億五千万トンの鉱物が含まれているということを知っておられたかな?」 「正直なところ、知りませんでした」と、ジョージはいった。「たいしたもんですね」 「わたしもずっと前からたいしたもんだと思っとるんですよ。この世に存在する元素はすべて海水に含まれているというのに、われわれは地球を掘じくりかえして、金属や化学製品の原料をあさってるんです。実際のところ、大洋はあらゆる種類の鉱物が埋蔵されている一種の鉱山でありしかも尽きることがないんですよ。陸地を荒しっくしてしまうことはあっても、海を汲みつくすことはできないんです。  人類はすでに海を掘りはじめているんですよ。ダウ・ケミカルはもうずっと前から、臭素を取ってるんです。一立方マイルあたり約三十万トンの臭素が含まれているんですな。さらに最近では、一立方マイルあたり五百万トンも含まれているマグネシウムにも手をつけはじめているんです。しかし、そんなことはまだほんの序の口なんですよ。  現実に採取するにあたっての大きな問題は、海水中に含まれている大部分の元素の濃度が非常に低いということなのです。多い方から七つ目までの元素が全体の約九十九パーセントを占め、残りの一パーセントに、マグネシウム以外の役に立つ金属がすべて含まれているんですよ。  それを取り出すにはどうすればいいかということを、わたしは考えつづけてきたんですが、戦争中に、その解答がうかんだんです。溶解液の中から微量のアイソトープを取りのぞくために、原子力の分野で使われているテクニックをご存じですかな。その方法の中には、いまだにかなり秘密にされているものもあるんですがね」 「イオン交換樹脂のことですか?」と、ハリーはあてずっぽうに訊いてみた。 「まあ、そういったようなものです。わたしの会社がそういった技術をいくつか、原子力委員会との契約で開発したんですよ。.わたしは即座にもっと広範囲に応用できるということに気がついたんです。で、若い優秀な部下を何人かえらんで研究させたところ、彼らは、分子|篩《ふる》い器≠ニわれわれがよんでいるものを作りあげたんですな。これは非常にぴったりの名前でしてね。ある意味では、まさに篩いなんです。しかも、好きなものを選びわけるようにセットできるんですよ。理論的には、非常に高度な波動力学の理論を使ったものなんですが、実際にそれがやることといったら、まったく単純そのものなんです。海水の成分から好きなものを選んで、取り出させることができるんですな。いくつかのユニットをずらっとならべて作業を行なえば、次々と元素を取り出していくこともできるんですよ。効率も非常に高く、消費電力は問題にならないほどわずかなんです」 「わかった!」と、ジョージが叫んだ。「あなたは海水から金を抽出してるんですね!」 「ふふ!」と、ロマーノ博士はうんざりしたのを抑えながらいった。「それほど暇人じゃありませんよ。それに、金なんてそこら中にごろごろありすぎますしね。商売として成りたつ金属を求めてるんですよ。後五、六十年もすれば、絶対的に不足してくるようなものをね。それに実をいうと、わたしの篩いを使っても、金を集めるのではそろばんが合わないでしょう。一立方マイルあたりわずか五十ポンドはどしか含まれていないんでね」 「ウラニウムはどうです?」と、ハリーは訊いた。「ウラニウムはもっとわずかしか含まれていないんですか?」 「あまり訊いていただきたくない質問だったんですがね」と、ロマーノ博士は答えたが、その明るい笑顔から、それが本気ではないということがわかった。「しかし、どこの図書館へ行ってもそれくらいのことはわかるんですから、ウラニウムは金の二百倍も含まれていると申しあげてもどうっていうことはないでしょう。一立方マイルあたり、およそ七トンほどです。まあ何といいますか、非常に興味のある数字ですな。だから、金なんか集めることはないでしょう?」 「まったくですね」と、ジョージは答えた。 「話をすすめさせてもらえば」と、ロマーノ博士はつづけた。「分子怖い器を使っても、なおかつ膨大な量の海水を処理するという問題が残っていたんですよ。この問題を解決するには、いくつかの方法があります。たとえば、巨大な揚水所を建設してもいいあけですからね。しかし、わたしは昔からつねに一石二鳥を狙ってきたんです。で、先だってちょっとした計算をしてみたところ、何とも驚くべき結果が出たんですな。クイーン・メリー号が大西洋を横断するたびに、そのスクリューは、一立方マイルの約十分の一の海水を噛みくだいているということがわかったんです。言葉をかえていえば、千五百万トンの鉱物をひっかきまわしているわけですよ。また、あなたがうかつにも口にした例でいえば、大西洋を横断するたびに、一トン近くのウラニウムをかきまわしているわけです。すごいもんだと思いませんか?  というわけで、どんな船でもいいから、そのスクリューをパイプの中につけて、後流が篩いをとおるようにするだけで、非常に効果的な移動抽出工場を作ることができるように思われたんですよ。もちろん、ある程度の推進力のロスはありますが、実験に使っているユニットは非常によく働いているんです。以前ほどのスピードは出ませんが、走れば走るほど、|鉱 業《かねほりぎょう》の方からのあがりは大きくなるわけです。船会社にとっては非常に魅力があるとは思いませんか? しかし、そんなことはもちろん本筋とは関係ないことなんです。ありとあらゆる価値のあるもので船倉がいっぱいになるまで大洋を航海しつづける、浮ぶ抽出工場を作るのをたのしみにしてるんですよ。そういう日がきたら、陸地をほじくりかえすのもやめられるし、あらゆる原料不足も解消するんです。とにかく、長い目で見れば、あらゆるものが海へかえっていくんですから、ひとたびこの宝庫の扉を開けられれば、永遠に安心していられることになるでしょう」  ロマーノ博士の客人たちがこのすばらしい将来の展望に思いをはせている間、甲板には静寂が訪れ、聞えるのは氷がタンブラーにあたるかすかな音だけだった。やがて、ある考えがハリーの胸にうかんだ。 「これはわたしが耳にした中で、もっとも重要な発明の一つなんですよ」と、彼はいった。 「それだからこそ、あなたがわたしたちにすべてを打ちあけたというのが、すこし妙に思えるんですがね。何といっても、わたしたちはあかの他人なんですから、あなたのことをスパイしにきたのかもしれないんですよ」  老科学者はたのしげに笑った。 「どうぞその心配はご無用に」と、彼はハリーを安心させた。「もうワシントンに連絡して、あなた方のことは調べさせてあるんですよ」一瞬、ハリーは目をぱちくりしたが、やがて、それがいかに行なわれたかを理解した。彼はロマーノ博士がしばらく中座したのを思い出し、その間にいかなることが行なわれたのかを心に思い描くことができた。ワシントンに無線電話をかけ、誰か上院議員が大使館に連絡し、軍需省から出向している館員が一肌ぬいだのだろう。そして、五分後には、博士は返答をえたのだ。そうアメリカ人というのは非常にてきぱきしていた。てきぱきと動く余裕のあるものは。  そこにいるのが彼らだけではないということに、ハリーが気づいたのは、このころだった。ヴェイレンシー号よりもはるかに大きく、さらに堂々たるクルーザーが近づいてきており、二、三分後には、〈シー・スプレー〉というその名前まで読めるようになった。リズミカルな震動をつたえるディーゼルよりも、風をはらんだ帆の方がぴったりくる名前だな、と思ったが、〈スプレー〉が実にきれいな船であるということは、疑う余地がなかった。今やジョージとロマーノ博士の顔にはっきりとうかんでいる、あからさまなうらやましげな表情を、ハリーは理解することができた。  海が非常におだやかだったので、二隻のクルーザーはお互いに船腹を構づけにすることができ接触すると同時に、四十代も終わりに近い、日焼けした精悍な男が、ヴェイレンシー号の甲板にとび移ってきた。彼はロマーノ博士に近づくと、その手を勢いよく振って、 「やあ、いったい何をたくらんでるんだ?」  ついで、どういう人たちだ、というように、二人に目をむけた。博士が紹介の労をとる。乗り移ってきたのは、キー・ラーゴから自分のクルーザーでやってきたスコット・マッケンジー教授なる人物のようだった。 「驚いたな!」と、ハリーは心の中で叫んだ。「これはかなわんぞ! 百万長老の科学者に会うのは、一日一人がいいところだ」  しかし、今さら逃れる途《みち》はなかった。マッケンジーが学会などにはめったに姿を見せないということは事実だったが、テキサスのある大学で地球物理学の講座をもっている正真正銘の大学教授であることもたしかだった。しかしながら、その時間の九十パーセントを、彼は大きな石油会社のための研究と、自分でやっているコンサルタント会社の経営についやしていた。そして、彼が考案した〈ねじりばかり〉と〈地震計〉で莫大な利益をあげているようだった。事実、彼はロマーノ博士よりもずっと若かったが、より急速に発展している業界に身をおいているために、博士以上に資産をもっていた。テキサス州の特殊な税制も、その成功に何らかの関係があるのだろう、とハリーは考えた。  科学を足場にして、実業界で成功をおさめた二人の大物が偶然にこの海上で出会ったとは考えにくかったので、いかなる虚々実々のやりとりが繰りひろげられるのだろうと思いながら、ハリーは待っていた。しばらくの間、話題はごく一般的なことにかぎられていたが、マッケンジー教授が博士の二人の客について非常に気にしていることは明らかだった。紹介が終わってしばらくした時、彼が口実をもうけて自分の船に戻ると、ハリーは心の中でうめき声をあげた。三十分たらずの間に、彼の身元に関して二度も問い合わせをうけたら、大使館の連中は、いったい奴は何をやっているのだろう、と不思議に思うだろう。F・B・Iまであやしく思うかもしれないし、そうなったら、故国《くに》を出る時に約束してきたナイロンのストッキング二ダースは、どうやって持ち出したらいいのだ? 二人の科学者の関係を観察することに、ハリーは非常な興味をおぼえていた。二人はそれぞれに有利な地点を求めてぐるぐるまわっている二羽の闘鶏のようだった。ロマーノは年下の男に対してあくまでも不作法に振舞い、ハリーはそこに羨望の念が秘められているのではないかと疑ったほどだった。ロマーノ博士が狂信的といってもいいほどの資源保護論者であるということは明らかであり、彼はマッケンジーやその雇い主たちの活動を徹底的に非難していた。 「きみたちは強盗だよ」と、彼はいった。「きみたちはこの地球からいかにはやくその資源を根こそぎなくすことができるかということばかり考えていて、次の世代のことなんかまるで念頭にないんだ」 「じゃあ、いったい」と、マッケンジーは答えたが、あまり独創的な答えとはいえなかった。「次の世代がわれわれに何をしてくれたっていうんだ?」  一時間近く、丁々発止のやりとりがつづいたが、その大部分は、ハリーの頭上をとびこえていってしまった。なぜ自分とジョージはご陪席の栄をたまわっているのか、と不思議に思ったが、しばらくすると、ロマーノ博士のテクニックに気づきはじめた。彼は機会を掴むことにかけてもあっぱれな天才で、二人が居合せたのを幸いに、これを利用して、マッケンジー教授の心をまどわせ、どんな取り引きが行なわれようとしているのだろうと勘ぐらせる腹だったのだ。  たいしたことではないのだが、というような口調で、言葉の端はしに、彼は分子篩い器のことをちらちらともらしはじめた。しかし、マッケンジー教授はさりげなくもらされるその言葉にさっとくいつき、ロマーノが逃げ腰になればなるほど、執拗にくいさがっていった。ロマーノがわざといいしぶっていること、そして、マッケンジー教授としてはそれをよく知っていながら、老科学者のなぶりものになる以外になかったということは明らかだった。  ロマーノ博士は、それが現存する事実であるというよりも、将来の計画ででもあるかのように妙にもってまわった言いまわしで、その装置のことを話した。そして、その驚くべき可能性の大略を説明し、それが世界の金属不足の脅威を永遠に解消してくれるばかりではなく、いかに現在のあらゆる採鉱方式を旧式なものにしてしまうかということを説明した。 「それがそんなにりっぱなものなら」と、マッケンジーはしばらくすると叫んだ。「なぜあなたはその装置を作らないんだ?」 「わたしがこのメキシコ湾流に船を乗り入れて、何をしていると思っとるんだね?」と、博士はやりかえした。「これを見てみたまえ」  彼は水中音波探知器の下のロッカーを開けると、小さな金属の延べ棒を取り出し、マッケンジーに投げわたした。それは鉛のように見え、見たところ非常に重そうだった。教授は手のひらでその重さをはかると、すぐにいった。 「ウラニウムだな。まさかこれが――」 「そのとおり。そのすべてがそうだ。それが採れた所には、まだ大量にあるんだよ」彼はハリーの友人を振りかえると、「ジョージ、教授をあなたの潜水艇で案内して、仕掛けを見せてあげでもらえませんかな? たいしたことはわからないが、われわれが実際に作業をしているということはわかると思うんでね」  マッケンジーはすべての点で抜け目がなく、専用の潜水艇を用意するというような、ちょっししたことにまで気を配っていた。彼は食欲をかきたてるには充分なだけのものを見て、十五分後に浮上してきた。 「まず最初に知りたいのは」と、彼はロマーノにむかっていった。「なぜこれをわたしに見せるのかっていうことなんだ! これほどの発明はちょっと類がないほどなんだぞ。どうしてあなた自身の会社がそれを使おうとしないんだ?」  ロマーノはうんざりしたようにちょっと鼻をならすと、「わたしが重役会と一戦をまじえたということは知っとるだろう。何はともあれ、あんな老いぼれのなまけ者どもには、これほど大きなことはできやしないんだ。こんなことは認めたくないんだが、こういう大きなこととなると、あんた方テキサスっ子が一番でね」 「これはあんた個人がやってることなのか?」 「そうさ。会社は何一つ知らないんだ。それに、もうわたし自身の金を五十万ドルほどつぎこんじゃってるんだよ。いわば、わたしの趣味というところだな。今さかんに行なわれている破壊、大地に対する暴行を、誰かが埋め合わせなきゃならんと感じたんだよ。強姦魔のあんた方は――」 「わかった。その話はもう聞いたよ。で、この事業をわれわれにくれるというのか?」 「誰がくれてやるなんてことをいったかね?」  多くのものをはらんだ静寂が訪れる。やがて、マッケンジーが用心深く、「もちろん、興味がある、それも大いに興味があるなんてことは、今さら改めていうまでもないだろう。効率とか、抽出率とか、その他関係のある数字を教えてくれれば、何だったら、実際の技術上のこまかいことまでは教えてくれないでも、商談に入れるだろう。わたしとしては、同僚を代表してものをいうわけにはいかないんだが、彼らがどんな取り引きにでも応じられるだけの金を用意できるということは間違いないし――」 「スコット」と、ロマーノははじめてその年を思わせる疲れのにじみ出た声でいった。「わたしはあんたの仲間と取り引きをすることには興味がないんだ。お抱え弁護士やその弁護士のお抱え弁護士まで従えた連中とやりあってるような暇はないんだよ。五十年間、そういうことをやってきて、正直なところ、疲れてるんだ。これはわたしが開発したものなんだよ。これはわたしの金で開発され、すべての装置はわたしの船に積みこまれているんだ。わたしはあんたと直接取り引きをしたいんだ。そこから先のことは、あんたが好きなようにすればいいんでね」  マッケンジーは目をぱちくりした。 「こんな大きな取り引きはとてもわたしの手にはおえないんだ」と、彼は抗議した。「そりゃ、あんたの申し出はありがたいと思うけど、もしこれがあんたのいうとおりのものだったら、数十億ドルの価値があるんだぜ。わたしは金こそないが正直な、一介の百万長者にすぎないんだ」 「わたしはもう金には興味がないんだ。生きているうちに、これ以上使えるかね? いや、スコット、今わたしの欲しいものが一つあるんだ。今すぐ、この瞬間に欲しいんだよ。あんたのシー・スプレー号をくれないか、そうすればわたしの装置をあげるよ」 「気でも狂ったのか! いくらインフレの世の中だといっても、シー・スプレー号なんか百万ドルもあればできるんだぞ。それにひきかえ、あんたの装置は――」 「あえて異論はとなえないよ、スコット。たしかにあんたのいうことはほんとうだが、わたしは先を急ぐ老人なんだ。あんたのみたいな船を造らせるにほ、一年はかかるだろう。マイアミで見せてもらった時から、欲しくてたまらなかったんだよ。わたしの申し出は、ヴェイレンシー号を研究装置や記録などいっさいつきで提供しょうということなんだ。身の回りの品を積みかえるには、一時間もあれはいいだろう。それに、ここに弁護士もいることだから、取り引きを合法的なものにするのにもことかかないしね。すべてが終わったら、わたしはカリブ海に出て、島をぬって南に向かい、太平洋に出るよ」 「あんたは何もかもすっかりととのえてあるんだな」と、マッケンジーは畏敬の念のまじった驚きをにじませていった。 「そうさ。あんたとしては、取り引きに応じるか、やめるかのどちらかだ」 「こんな気狂いじみた取り引きなんて、生まれてはじめて聞いたよ」と、マッケンジーはいささかすねたようにいった。「もちろん、応じるさ。あんたがいくら話してもわかっちゃくれない頑固爺いだってことぐらい、わたしにだってわかるんだ」  つづく一時間は、まさにてんやわんやだった。汗だくの乗組員《クルー》がスーツケースや包みをかかえて行ったり来たりする間、ロマーノ博士は自分が惹き起こした大騒ぎのど真ん中に、しわだらけの顔にうれしげな微笑をうかべて、たのしげに坐っていた。ジョージとマッケンジー教授が法律上の手続きについて密談に入り、できあがった書類をもって現われると、ロマーノ博士はほとんど目もとおさずに署名した。  シー・スプレー号から意外なものが現われはじめた。きれいな変種のミンクとか、きれいな変種ではないブロンドの女など。 「やあ、こんにちは、シルヴィア」と、ロマーノ博士は慇懃にいった。「お気の毒だが、こっちの船の船室はいささか狭苦しいよ。教授はあんたが乗っとるなんて、一言もいわなかったんだ。心配しないでも大丈夫だよ。われわれもいわないからね。契約には入ってないが、まあ、紳士協定というところだな。マッケンジー夫人の心をかき乱すのは気の毒だからね」 「何のお話だか、あたくしにはわかりませんわ」と、シルヴィアは口をとがらせた。「誰かが教授のタイプを打たなけりやならないでしょう」 「それにしてほ、きみのタイプはへただね、シルヴィア」と、マッケンジーは南部人らしい騎士ぶりを発揮して、彼女が手摺りをまたぐのに手をかしながらいった。これほど具合の悪い立場に追いつめられながら、落ちつきはらっているマッケンジーの態度を、ハリーは尊敬せざるをえなかった。これほどうまくやりおおせるという自信は、まったくなかった。が、ほんとうにそうかどうか、試す機会が訪れることを祈った。  ついに混乱も下火になり、箱や包みの流れもちょろちょろ程度になった。ロマーノ博士はみんなと握手をかわし、ジョージとハリーにその助力を感謝すると、元気よくシー・スプレー号のブリッジにのぼっていき、十分後には、水平線までのなかほどに達していた。  そもそもどういうわけでそこにいることになったのかという事情を、マッケンジー教授に説明する機会を逸していたのだが、ハリーが自分たちもそろそろ退散した方がいいのではないかと思っていると、無線電話がなりだした。かけてきたのは、ロマーノ博士だった。 「歯ブラシでも忘れてったんだろう」と、ジョージはいった。  が、用件はそれほど些細なことではなかった。幸いにも、スピーカーのスイッチが入っていた。彼らとしては、盗み聞きを強いられた形になり、二人とも紳士たるものの面目をさほどそこなわずにすんだ。 「いいかね、スコット」と、ロマーノ博士はいった。「わたしとしては、一応、あんたに説明しとかなきゃならん義務があると思うんだよ」 「もしこのわたしをぺてんにかけたんなら、損害は最後の一文まで容赦なく――」 「いや、そんなことじゃないんだ。しかし、わたしがいったことはすべてほんとうなんだが、あんたに決断を迫ったような形になったんでね。あんまり気を悪くしないでくれ。あんたはたしかにいい買い物をしたんだよ。しかし、もうかるようになるのはまだずっと先の話だし、その前に、まずあんた自身の金を何百万ドルか投入しなきゃならないんだよ。コマーシャル・ベースにのせるには、効率を三桁ほどあげなきやならんのでね。あんたに見せた、あのウラニウムの延べ棒を作るには、二千ドルばかりかかってるんだ。まあ、そう怒りなさんなって。改善できるさ。その自信はあるんだ。ケンドル博士にわたりをつけることだな。基本的なことは、みんな、彼がやったんだ。どんなに金がかかっても、うちの会社から彼を引きぬくことだよ。あんたは頑固ものだから、この事業が自分のものとなったからには、きっとやりぬくと思うんだ。あんたに肩がわりしてもらいたかったのは、そのためだったんだよ。因果応報ともいえるしな。あんたが地球上の陸地にあたえた損害を、これでいくらかでもつぐなえるだろう。そのためにあんたが億万長者になるのは残念だが、それはまあ仕方がないこととしてあきらめるよ。  ちょっと待った。口をはさまないでくれ。もし時間さえあれば、わたしが完成していたんだが、すくなくとも、それには後三年かかるんだ。ところが、後六カ月しかもたないと、医者がいうんだよ。先を急ぐといったのは、冗談じゃなかったんだ。こんなことまで持ち出さずに手を打てたのはうれしいことだが、いざとなったら、それも武器にしていただろうということは、絶対にたしかなんだ。それからもう一つ、この装置が実際に稼働しだしたら、わたしの名前をつけてくれないか。それだけだ。呼びかえしてもむだだぞ。わたしは出ないからな。それに、あんたには追いつけないってこともわかってるんだ」  マッケンジー教授は眉一つ動かさなかった。 「いずれこんなことだろうと思っていたよ」と、彼は誰にともなくいった。  やがて、彼は腰をおろすと、精巧な携帯用計算尺を取り出し、一心に計算を始めた。ジョージとハリーが自分たちとは桁が違うと感じながら慇懃に挨拶し、静かに潜水して立ち去った時も、ほとんど顔もあげなかった。 「あの当時のいろいろなことと同様に」と、ハリー・パーヴィスは話をしめくくった。「この洋上取り引きの最終的な結果がどうなったのかは、いまだにわからないんだ。おそらく、マッケンジー教授は思いがけない障害にぶつかったんじゃないかと思うんだよ。じゃなかったら、そろそろこの装置の噂ぐらい耳にしてもいいころなんでね。しかし、遅かれ早かれ、完成されるだろうということは、疑う余地がないんだ。だから、はやいとこ鉱山の株は売り払うように手を打っといた方がいいぞ。  ロマーノ博士の方はといえば、彼も冗談をいっていたわけじゃなかったんだ。医者の予想はいささかはずれたがね。あれから一年もったんだよ。おそらく、それにはシー・スプレー号も大いにあずかって力があったんだろうがね。太平洋の真ん中で水葬にしたんだが、ご老体もそれをよろこんでいただろう、ということが今ふと心にうかんだんだ。彼が狂信的な資源保護論者だったということは話しただろう。で、今この瞬間にも、彼の原子の一部が、彼の作った分子飾い器を通過しているかもしれないと考えるのは、なかなか愉快だと思うんだ。  どうも、けげんそうないろがうかんでいるようだが、それは事実なんだよ。タンブラー一杯の水を海にこぼして、よくかきまぜてから、そのグラスを海水で満たせば、最初にタンブラーに入っていた水の分子がいくらかは残っているはずなんだ。だから――」彼はぞっとするような笑い声をかすかにもらすと、「ロマーノ博士だけではなく、われわれみんなが、かれの篩い器のためにささやかな貢献をするというのも、時間の問題なんだよ。では、おやすみ。たのしい夢を」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    尻ごみする蘭      The Reluctant Orchid [#改ページ] 〈白鹿亭〉の常連で、ハリー・パーヴィスの話をまったくほんとうだと認めるものはわずかしかいないが、ほかの話とくらべてずっとほんとうらしいものもいくつかまざっているということには、誰もが同意する。が、いかなる点からみても、『尻ごみする蘭』の物語の信憑性は非常に低いに違いない。  この話の口火を切るにあたって、ハリーがいかなる巧妙な手をつかったのか、わたしは憶えていない。誰か蘭気狂いが自分の作りあげたお化けのような蘭を〈白鹿亭〉に持ちこんできて、それがきっかけとなったのかもしれない。が、まあそんなことはどうでもいいのだ。わたしは彼の話を憶えているし、結局、問題なのはその話なのだから。  この話は、めずらしく、ハリーの雲霞のごとくうじゃうじゃといる親類縁者に関するものではなく、ぞっとしない細部の多くまで、どうやって知ることができたのかということは、何も説明しようとしなかった。この温室における物語の主人公《ヒーロー》は、彼をヒーローとよぷことができればだが、ハーキュリーズ・キーティングという名前の、毒にも薬にもならない小柄な勤め人だった。しかし、この小男がハーキュリーズという勇ましい名前をもっているということが、この話のもっともおかしな点だと思ったら大間違い、まあ、もうすこし先まで聞いていただきたい。  ハーキュリーズという名は、どんなにがっしりした大男でも、気軽に名のれるような名前ではないが、身長四フィート九インチで、体重九十九ポンドの一人前の弱虫になるにも、体育のコースを取らなければならないような体つきだとしたら、何とも面はゆい名前である。ハーキュリーズがごく内輪のつきあいしかしていなかったというのも、おそらくそのためだったのだろう。彼のほんとうに親しい友人はみんな、庭のはずれにあるしめっぽい温室の中の鉢で育っていた。彼の欲求は単純であり、自分のためには、ごくわずかな金しか使わなかった。そのため、彼の蘭とサボテンのコレクションはまさにちょっとしたものだった。実際、サボテン愛好家の間ではひろく知られており、世界の果てから、沃土と熱帯のジャングルのにおいのする小包みを受けとることもめずらしくなかった。  ハーキュリーズには、一人だけ、まだ生きている親戚があったが、このヘンリエッタ伯母以上に彼と対照的な人物を見つけるのはむずかしかっただろう。彼女は身の丈六フィートの女丈夫であり、いつもはでなハリス・ツイードの服を着て、ジャガーをたくみなハンドルさばきでぶっとばし、次々と葉巻をふかしつづけていた。彼女の両親は男の子が生まれることを待ち望んでいたのだが、その願いがかなえられたのかどうか、結局、わからずじまいだった。彼女はさまざまな形と大きさの犬をふやして生活費を、それも充分に稼ぎ出していた。いつも最新型の犬を二、三頭つれていたが、それはご婦人方がハンドバッグに入れて歩くのを好む携帯用の犬族ではなかった。キーティング犬舎は、グレート・デン、シェパード、セント・バーナードなどが専門だった。  ヘンリエッタは男性をかよわきものとさげすみ、一度も結婚したことがなかったが、彼女がさげすむのも無理はなかった。しかし、どういうわけか、ハーキュリーズに伯父のような(といっても、まさにこの言葉はぴったりだったが)関心を抱き、週末になると、ほとんどかかさずに訪ねてきた。それは一種奇妙な関係だった。おそらく、ヘンリエッタとしては、ハーキュリーズの前に出ると、何となく優越感をくすぐられるような感じをおぼえたのだろう。もし彼が男性の見本だとしたら、彼らはかなりあわれな存在である、というわけである。しかし、それがヘンリエッタの動機だったとしても、それに気づいていなかったし、甥を心から好いているように見えた。彼女には恩きせがましいところがあったが、冷たい仕打ちはけっしてしたことがなかった。  当然予想されることかもしれなかったが、彼女の心づかいは、ハーキュリーズの充分に発達した劣等感をなおすのに役だったというわけにはいかなかった。最初のうちは、ただじっと耐え忍んでいたが、やがて、伯母の定期的な訪問、朗々ととどろきわたる大音声、骨がくだけそうになる握手を怖れるようになり、ついに、彼女を憎むにいたってしまった。究極的には、この憎悪が彼の感情生活のすべてを支配し、蘭に対する愛情をも圧倒してしまったのである。しかし、彼女に対する感情を本人に知られたら、自分を半分にたたき折って、彼女の飼っている狼の群れに投げあたえるだろう、ということがわかっていたので、彼はそれを表に現わさないように用心深く振舞った。  というわけで、ハーキュリーズとしては、その鬱積した感情を吐き出す途《みち》がなかった。殺してやりたいと思っていても、ヘンリエッタ伯母に対しては、慇懃に振舞わなければならなかったのだ。殺してやりたいと思うことはめずらしくなかったが、自分がそんなことをするわけがないということも、彼にはわかっていた。しかし、ある日――。  花屋の話によれば、その蘭はアマゾン地方のどこか≠ゥらきたものだった。郵便の宛先としてはどうにもたよりない話である。ハーキュリーズが最初に見た時、その蘭は彼ほど蘭好きの人間にとっても、それほど魅力のあるものではなかった。人間の握り拳はどの不恰好な根、ただそれだけだったのだ。朽ちたようなにおいがして、腐肉のいやなにおいがかすかにただよっていた。ハーキュリーズはこの土地で果して育てられるかどうかも自信がなかったので、思ったとおりのことを花屋に告げた。おそらく、そのために、ごく安く買うことができたのだろう。彼はたいした情熱もわかないままに、それを家へもってかえった。  最初の一カ月は、育つ気配も見せなかったが、それもハーキュリーズを心配させるようなことはなかった。やがて、ある日、小さな緑色の若芽が現われ、光を求めて上にむかって這いあがりはじめた。その後、成長ははやかった。間もなく、男の腕ほどの太さがあり、毒々しい緑色の肉太の茎が現われた。その茎の先端近くを、一連の奇妙なふくらみが取りまいていた。このふくらみがなければ、それはまったくおもしろみのないものだった。ハーキュリーズも今やすっかり興奮しきっていた。まったく新しい種類の蘭が目の前に現われたに違いない、と確信していたのだ。  今や、その成長のはやさはすさまじかった。たちまち、ハーキュリーズよりも背が高くなった。といっても、たいしたことはなかったが。さらに、ふくらみも成長しているようであり、今にも花が咲きそうに見えた。花の中にはごく短命なものもあることを知っていたので、ハーキュリーズは花が咲くのを一心に待ちつづけ、さけるかぎりの時間を温室で過すようにした。できるだけ目をはなさないようにしていたのに、その変形は、ある夜、彼が眠っている間に起こった。  朝になってみると、その蘭から地面までとどきそうな八本のつるがたれさがっていたのだ。つるはこの植物の内部で成長し、植物としては爆発的なはやさで這い出してきたに違いなかった。ハーキュリーズはこの驚くべき現象をびっくりして眺め、慎重に仕事にかかった。  その日の夕方、その植物に水をやり、土の状態を調べていると、彼はさらに奇妙な事実に気がついた。つるが刻々と太くなっていき、しかも、まったく静止しているわけでもなかったのだ。それ自体、生命でもあるかのように、ごくわずかだったが、見逃しょうがないほどはっきりと震える傾向があったのである。いかに蘭に興味があり、夢中になっているハーキュリーズといえども、これにはかなり動揺せざるをえなかった。  数日後、彼の心配は疑う余地のないものとなった。彼がその蘭に近づくと、つるが彼の方にむかって、いやなことを連想させるような様子でふらっとゆれてきたのだ。飢えているという印象があまりにも強かったので、ハーキュリーズは何とも落ちつかない気持ちになり、その心の奥を何かが小突きはじめた。それが何であるかに思いいたったのは、かなりたってからだった。やがて、彼は心の中で、きまってるじゃないか! 何てばかだったんだ!≠ニいうと、近くの図書館へ出かけていった。そして、H・G・ウェルズの『めずらしい蘭の花が咲く』という題の短篇を読みかえして、興味津々の三十分をすごした。 こいつはたいへんだぞ!≠ニ、彼はその物語を読み終わると思った。まだ今のところは、あの植物は狙った獲物を圧倒してしまうような、麻痺性のにおいは出していなかったが、そのほかの特徴はあまりにもよく似すぎていた。ハーキュリーズは何とも落ちつかない気持ちで家へかえった。  彼は温室のドアを開けると、ずらっと並んだ線の植物ぞいに目をはしらせ、問題の新種を眺めて立っていた。そして、あくまでも慎重に、自分が触手とよんでいることに気づいたものの長さを見きわめると、安全と思われるところまで近づいた。その蘭は、植物よりも動物の方がはるかにぴったりとくるような警戒心と脅かすような気配をあきらかに示した。ハーキュリーズはフランケンシュタイン博士の不幸な物語を思い出し、おもしろいとは思わなかった。  しかし、何としてもこんなことはかげていた! このようなことが実際に起こるはずがないのだ。一つだけ、ためしてみる方法があった。  ハーキュリーズは家へ入ると、柄の先に生肉をつけた箒をもって戻ってきた。いささかばかげていると感じながら、ライオンの調教師が食事時間に、自分の受け持ちのライオンに近づくように、彼はその蘭の方に進んでいった。  しばらくの間は、何ごとも起こらなかった。やがて、つるのうちの二本が、興奮したようにぴくぴくと動きだした。そして、どうしようかと考えているかのように、前後に揺れ動きはじめた。不意に、目にもとまらないほどのすばやさで、それがさっとのびてきた。つるが肉のまわりに捲きつき、箒を握っているハーキュリーズは、強く引っぱられるのを感じた。と思うと、肉はなくなっていた。ちょっとおかしな言い方だが、蘭がその胸に抱きしめていたのだ。 「何てこった!」と、ハーキュリーズは叫んだ。こんなに激しい言葉を使うのは、彼としては非常にめずらしいことだった。  蘭はその後二十四時間、それ以外に生きているという徴候は見せなかった。肉が食べごろになるのを待つと同時に、消化器官を成長させていたのだ。翌日になると、網の目のように張った短い根のようなものが、まだ見えている肉の塊りをおおっていた。夜が訪れるころには、肉はなくなっていた。  その植物は血の味を覚えたのだ。  この掘り出し物を眺めるハーキュリーズの感情は、奇妙に入り乱れていた。悪夢にうなされるような思いをし、ありとあらゆる怖ろしい可能性が心にうかぶこともあった。今や蘭は非常に力が強くなり、手のとどくところまで行けば、彼はたちまちその餌食となってしまっただろう。しかし、もちろん、そのような羽目におちいる危険はまったくなかった。安全な所から水をやれるようにパイプを設置してあったし、蘭にはあまり似つかわしくない餌は、触手のとどかない所から投げてやればよかったからである。今や、それは一日一ポンドの生肉を平らげており、機会さえあたえられれば、もっとずっと大量の肉でも平らげられるのではないかという、薄気味の悪い予感を、彼は抱いていた。  ハーキュリーズのごく当然な不安は、このような植物界の驚異が手に入ったという、よろこびの感情に圧倒された。いつでも、世界でもっとも有名な蘭の栽培家になれるのだ。蘭愛好家以外の人も彼のペットに興味をもつかもしれないなどということが、まったく心にうかびもしなかったということほ、彼のいくらか狭い視野から考えて、当然のことだった。  怪物は今や身の丈六フィートになり、明らかにまだ成長しつづけていた。前よりも成長のはやさはずっと落ちたが。ほかの植物はすべて、怪物が植えてある温室の奥から動かされたが、それは人喰いの傾向もあるかもしれないということを怖れたからというよりも、安全にほかの植物の世話ができるようにするためだった。中央の通路にロープを張り、だらっとさがった例の八本の腕のとどくところへうっかりと足を踏み入れてしまう危険がないようにした。  その蘭が高度に発達した神経組織と、知能に近いものをもっているということは明らかだった。餌をあたえられる時には、それとわかり、取り違えようのない、うれしげな様子を示した。が、何といってももっとも驚くべきことは――といっても、ハーキュリーズはまだこの点に関しては確信がなかったが――音を発することもできるらしい、ということだった。食事時間の直前に、人間の耳に聞える限界ぎりぎりの高い口笛のような音を耳にしたように思ったことが、何度かあった。生まれたてのこうもりはこんな声を出すのではないかと思われるような音。彼はその昔がどういう役割りを果しているのだろうと考えた。その蘭は音で獲物を手のとどく所までおびきよせていたのだろうか? もしそうだとしても、おれには効果がないぞ、と彼は思った。  こういった興味のあることが次々と発見されている間にも、ハーキュリーズはヘンリエッタ伯母に悩まされつづけ、彼女の宣伝ほどにはよく仕込まれていない犬どもに襲われつづけていた。日曜の午後になると、二頭の犬を積んで、轟音をとどろかせながら車を乗りつけてくるのだ。一頭は傍らの席を、もう一頭はトランクの大部分を占領していた。いつも、どたどたと階段を二段ずつかけあがり、挨拶であやうくハーキュリーズの耳をつぶしかけ、握手でなかは麻痺させると葉巻の煙を吐きかけた。キスされるのではないかと思って、怯えあがった時期もあったが、そんな女性的な振舞いは彼女には思いもおよばないのだと気づいてから、もう久しかった。  ヘンリエッタ伯母はハーキュリーズの蘭をさげすむように見おろした。余暇を温室ですごすなどというのは、何とも情ないレクリエーションだ、と彼女は考えていた。ありあまった精力を発散させたくなると、ケニアへ猛獣狩に出かけていった。が、それも血を見るようなスポーツがきらいなハーキュリーズに、伯母に対する愛情を抱かせるのには、何の役にもたたなかった。しかし、つねに圧迫をあたえる伯母に対する、次第に激しさをましていく嫌悪にもかかわらず、日曜日の午後になると、必ず忠実にお茶の仕度をととのえ、すくなくともよそ目には、いかにも親しげに差しむかいで話しあった。お茶をつぎながら、何度となくそれが毒であれば、とハーキュリーズが願っていたなどということは、ヘンリエッタとしては考えもしなかった。よろいかぶとで身をかためているとはいえ、ほんとうは心のやさしい女だったので、そんなことを知ったら、さぞや当惑したことだろう。  ハーキュリーズはたこのような植物のことをヘンリエッタ伯母に話さなかった。時どき、コレクションの中でももっともおもしろいものをいくつか見せることはあったが、これだけは彼一人の秘密だった。あるいは、その悪魔的な計画が完全にできあがる前に、かれの滞在意識がすでにその下地を作っていたのかもしれなかった――。  その考えがはじめて彼の心の中で完全な形をととのえたのは、ある日曜日の夜おそく、ジャガーの轟音が閻の中に消え、ハーキュリーズがずたずたに引きさかれたその神経を温室でいやしている時だった。今やつるが男の親指ほどの太さになったことに気づきながら、例の蘭を眺めていると、不意に、何ともたのしい空想がうかんだ。ヘンリエッタ伯母が、取って喰おうとする怪物の魔手から逃れられないままに、力なくもがいているところを心に思い描いたのだ。まさに完全犯罪だった。取り乱した甥がかけつけた時には、すでになす術《すべ》もなく、彼の狂ったような電話でかけつけた警官も、すべてが悲惨な事故であったことを一目で見てとる、というわけである。たしかに、検死審問は行なわれるだろうが、検死官の非難も、一目でそれとわかるハーキュリーズの悲しみを見てはにぶるだろう――。  考えれば考えるほど、彼はこの考えが気にいってきた。蘭が協力してくれるかぎり、彼には欠陥を見出すことができなかった。が、明らかに、蘭がどういう態度に出るかということが最大の問題だった。この怪物を訓練する計画をたてなければならないだろう。蘭はすでに充分に悪魔的な様相を呈していた。彼としては、その外観にふさわしい性質をあたえなければならないのだ。  こういったことは、これまでに経験がなく、相談する権威者もいないということを考えて、ハーキュリーズは非常に健全かつビジネスライクな方法でことをすすめた。釣り竿を使って、怪物が夢中になってその触手を振りまわしだすまで、肉の塊りをわずかに蘭の手がとどかない所にぶらさげておくのだ。そういう時には、かん高い声がはっきりと聞きとれ、いったいどうやって音を出すのだろう、とハーキュリーズは思った。知覚器官がどうなっているのだろう、ということを考えたが、それもまた近くで詳しく調べてみなければ解くことのできない謎だった。もしすべてがうまくいけば、ヘンリエッタ伯母には、こういった興味津々の事実を発見する束の間のチャンスがあたえられるかもしれないが、おそらく、自分のことで手がいっぱいで、後世のためにそれを伝える間はないだろう。  この怪物には狙った獲物を処理するだけの力が充分にあるということは、疑う余地がなかった。ハーキュリーズのにぎっていた箒をもぎとったことがあり、そのこと自体はたいして力があるという証明にはならなかったが、その直後に聞えた、胸が悪くなるような木の折れる音は、調教師のうすい唇に満足げな微笑をもたらした。彼は伯母に対して、以前にもまして気持ちのいい、ていねいな態度をとるようになった。あらゆる点からみて、実際、模範的な甥だった。  ピカドール的な戦術が、蘭をこちらの思ったとおりの気分に誘いこんだと判断すると、ハーキュリーズは生きている餌でためしてみるべきかどうかについて思い悩んだ。この問題は数週間にわたって彼を悩ませつづけ、その間、彼は通りで犬やねこに出会うたびに、じっと思いつめたような目で眺めていたが、ついに、いささか奇妙な理由から、その考えを捨てた。その考えを実行に移すには、あまりにもやさしい心の持ち主だったのである。ヘンリエッタ伯母が最初の犠牲《いけにえ》となるほかなかった。  計画を実行に移すに先だって、二週間、蘭を飢えさせておいた。この怪物を弱らせたくなかったので、伯母との出会いの結果をより確実にするためとはいえ、その食欲をかきたてるために、彼としては、それ以上、蘭を飢えさせておく気にはならなかったのだ。というわけで、ティー・カップを台所にさげ、ヘンリエッタ伯母の葉巻の煙をかぶらないように風上に坐ると、ハーキュリーズはさりげなくいった。 「伯母さんに見せたいものがあるんですよ。びっくりさせようと思って、かくしておいたんです。伯母さんにまとわりついて、くすぐり殺しちゃうかもしれませんよ」  すべてを言いつくしているとはいえないが、だいたいのところは伝えているな、と彼は思った。  伯母は葉巻を口からはなすと、心から驚いたようにハーキュリーズを見た。 「まあ!」と、彼女は大音声をはりあげた。「いつの世になっても、びっくりすることっていうのはあるものなのね! いったい何をたくらんでたの、この悪党め?」彼女は冗談半分にハーキュリーズの背中をたたき、彼の肺をからっぽにした。 「伯母さんは絶対に信じませんよ」と、ハーキュリーズはやっとの思いで呼吸をととのえると、歯をくいしばっていった。「温室にあるんです」 「ほう?」と、伯母はけげんそうないろをあらわに示していった。 「ええ。いっしょに行って、見てごらんなさい。ものすごいスリルを味わわせてくれるはずですよ」  伯母はそんなこと信じられるものかというように鼻をならしたが、それ以上はとやかくいわずに、ハーキュリーズの後にしたがった。忙しげに絨毯をかんでいた二頭のシェパードは心配そうに彼女を見あげて、なかは立ちあがりかけたが、彼女は手をふって押しとどめた。 「そこにいればいいのよ」と、彼女は荒々しく命令した。「すぐ戻ってくるから」  そうは問屋がおろさないぞ、とハーキュリーズは思った。  すでに暗くなっていたが、温室の灯は消えていた。二人が中に足を踏み入れると、伯母は鼻をならして、「まあ、ハーキュリーズ、まるで死体置場みたいなにおいがするじゃないの。ブラワヨで象を撃って、一週間後にその死体を発見した時以来、こんないやなにおいをかいだのははじめてよ」 「ごめんなさい、伯母さん」と、ハーキュリーズは闇の中で伯母を押しやりながらあやまった。 「新しい肥料のにおいなんです。すごくよく効くんですよ。さあ、もう二ヤードばかりです。心の底からびっくりさせてあげたいんですよ」 「くだらない冗談じゃないんだろうね」と、伯母はどたどたと前に進みながら疑わしげにいった。 「冗談なんかじゃないってことは約束しますよ」と、ハーキュリーズは灯のスイッチに手をかけながら答えた。ぼうっとうかびあがっている蘭の姿が、かろうじてその目に入る。今や伯母は蘭から十フィートたらずの所に立っていた。彼は伯母が充分に危険区域の中に入るまで待ってからスイッチを入れた。  凍りついたような一瞬が訪れ、その場の光景が照らしだされる。ついで、ヘンリエッタ伯母が立ちどまり、手を腰にあてて、巨大な蘭の前に立った。一瞬、ハーキュリーズは蘭が行動を起こす前に、伯母が引き退ってしまうのではないかと心配した。が、やがて、その怪物が何ものなのか判断できないままに、彼女が冷静に蘭を観察していることに気がついた。  蘭が動きだすまでに、まる五秒は経過していた。やがて、だらりときがった触手がさっと行動を起こした。が、ハーキュリーズが期待していたようにではなかった。身を守るように、しっかりと茎を抱きしめたのだ。と同時に、それは恐怖のにじみでた、かん高い悲鳴をあげた。胸が悪くなるような幻滅の一瞬に、ハーキュリーズは怖るべき真相を理解した。  彼の蘭はとんでもない臆病者だったのだ。アマゾンのジャングルをうろついている野生の動物なら片づけられるのかもしれないが、不意にヘンリエッタ伯母と出くわして、すっかり勇気がくじけてしまったのである。  犠牲《いけにえ》となるべき人物の方は、びっくりして怪物を見まもっていたが、すばやく別の感情がその驚きにとってかわった。彼女はさっと振りかえると、非難するように甥に指を突きつけた。 「ハーキュリーズー」と、彼女は吠えたてた。「かわいそうに、この植物は死にそうに怯えているじゃないの! おまえがいじめていたのかい?」  恥ずかしさといらだちで、ハーキュリーズとしては深くうなだれて立っているのがやっとだった。 「い、いいえ、伯母さん」と、彼は声を震わせていった。「きっと、生まれつき神経質なんですよ」 「わたしは動物を扱いなれてるのよ。もっと前に、わたしをよぶべきだったわね。あまやかしちゃいけないけど、やさしく扱ってやらなきゃならないのよ。やさしくしてやれば、必ず言うことを聞くものなの。誰が主人なのかをわからせてさえおけばね。さあ、おいでおいで。伯母さんをこわがらなくてもいいんだよ。いじめやしないからね――」  胸が悪くなるような光景だ、とハーキュリーズは絶望に打ちひしがれながら思った。こわばった触手から力がぬけ、けたたましい悲鳴がやむまで、驚くべきやさしさで、ヘンリエッタ伯母は怪物をなでたりさすったりして大さわぎしていた。二、三分それがつづくと、怪物の恐怖心は消えきったようだった。一本の触手がおずおずと前にのび、ヘンリエッタのごつごつした指を撫ではじめると、ついにハーキュリーズはこみあげる涙を抑えながら逃げだした。  その日以来、彼は打ちひしがれていた。さらに悪いことには、未遂に終わった犯罪のもたらした結果に苦しめられることになったのだ。ヘンリエッタは新しいペットを手に入れ、週末だけではなく、週に二、三回も訪ねて来ることが多くなったのである。彼女としては、ハーキュリーズがその蘭に対する態度を改めるとは信じられず、まだいじめるのではないかと疑っているのは明らかだった。彼女は犬でさえ見むきもしないが、蘭は大よろこびで平らげるような、おいしいごちそうをもってきた。そして、それまでは温室だけにかぎられていた悪臭が、家中にひろがりはじめた。  三方満足とはいかなかったが、関係者のうち二方が満足したところで、この話は終わるんだ、とハリー・パーヴィスはこのありえないような話に結末をつけた。蘭は幸せになったし、ヘンリエッタ伯母も、支配する物(者?)が一つふえた、というわけである。ねずみが温室の中をかけまわるたびに、怪物は神経衰弱になり、ヘンリエッタ伯母はあたふたとなぐさめにかけつけている。  ハーキュリーズはといえば、伯母に対しても、蘭に対しても、もう面倒をかけるようなことはないだろう。いわば植物のように、ものぐさになってしまったのだ。実際、日一日と、蘭に似てくるんだ、とハリーはしみじみといった。  もちろん、危害を加えるようなことはない種類のだが――。 [#改ページ] [#ページの左右中央]    冷  戦      Cold War [#改ページ]  ハリー・パーヴィスの話が図々しくもほんとうらしく聞こえる理由の一つは、その枝葉末節に至るまで、いかにもほんとうらしく作りあげてあるからだった。たとえば、これからお伝えする話など、そのいい例なのだ。わたしはできるかぎり徹底的に、場所や情報などについて調べてみたのだけれど――といっても、この一篇を書きあげるために、そうせざるをえなかったのだが――すべてがぴったりとあっていたのである。そうじゃなかったら、いったいどういうわけで――しかし、判断は読者諸兄姉にお任せしよう――。 「よく気がつくことなんだが」と、ハリーは話しはじめた。「後をひくような情報の断片が新聞に出たかと思うと、時には何年もたってから、その続きに出くわすことがあるだろう。そのいい例に、ついこの間出あったんだよ。一九五四年の春――日付を調べたところ、四月十九日だったんだがね――フロリダ沖に氷山があると報じられたんだ。その記事に気づいて、どうもおかしいな、と思ったのを、わたしは憶えてるんだよ。ご存じのとおり、メキシコ湾流はフロリダ海峡で生まれるんだから、氷山がとけずに、どうしてそんなに南まで流れていけたのか理解できなかったんだ。しかし、ねたがないとよく新聞がのせたがるでたらめな話の一つだろうと思って、そんなことはすぐに忘れちゃったんだよ。  ところが、一週間ほど前に、アメリカ海軍の中佐だった男に出会ったところ、驚くべきことを話してくれたんだ。てんから信じない人も大勢いるに違いないとは思うが、あまりにも驚くべき話なんで、できるだけ多くの人に知ってもらった方がいいと考えたんだよ。  アメリカの内情に詳しい人なら、フロリダが自ら陽光あふれる州と称していることに対して、いくつかの州が強い反感を抱いているということは知っているだろう。ニューヨーク、メイン、あるいはコネティカットなどが、真剣に文句をつけているとは思わないが、カリフォルニア州などは、フロリダの主張を、面とむかっての侮辱のように考えていて、その主張をくつがえすことに、つねに全力をあげているんだな。フロリダ側がかの有名なロサンジェルスのスモッグを引きあいに出して反撃すると、カリフォルニア側は、そろそろまたハリケーンに見舞われるころじゃないのかね?≠ニ心配顔でいい、フロリダ側が、地震で大損害を受けて、救援品がほしい時には、いつでもそういってくれ≠ニやりかえす、という具合に、果てしなくつづくんだが、そこへ、わが友ドースン中佐が登場するというわけだ。  中佐は潜水艦に乗っていたんだが、今はもう現役をひいているんだ。そして、ある日、非常にかわった申し出を受けた時には、潜水艦の功績を描いた映画の顧問をしていたんだよ。名誉毀損になるかもしれないので、カリフォルニア州の商業会議所がかげで糸をひいていたとはいわない。諸君が推測するのは勝手だがね――。  とにかく、そのアイデアはいかにもハリウッドが考えそうなことだったんだ。それで、はじめのうちはそう思っていたんだが、そのうちに、わが親愛なるダンセイニ卿がその短篇の一つに同じようなテーマを使ったということを思い出したんだよ。ひょっとしたら、この計画のスポンサーを買って出たカリフォルニア人は、わたしのように、ジョーケンズのファンだったのかもしれないな。  計画はその大胆不敵さと単純さにおいて、何ともたのしいものだったんだ。氷山をフロリダへ運んでくれれば、かなりの謝礼を払うということを、ドースン中佐は申し込まれ、しかも、シーズンの真最中に、それをマイアミ・ビーチに座礁させられたら、割増金もはずむ、といわれたんだよ。  中佐が二つ返事で引き受けたことは、あらためていうまでもないだろう。彼自身はカンザスの出身だったんで、すべてを純粋に金のための仕事と、冷静に割り切ることができたんだ。彼は昔の部下を何人か集め、秘密を守ることを誓わせたんだな。そして、ワシントンでいろいろと画策しながらさんざん待ったあげく、旧式の潜水艦を一隻借り出すことに成功したんだ。ついで、大きな冷暖房関係の会社を訪れ、身元のたしかさと正気であることを信じさせて、潜水艦の甲板にもうけた、大きな半球形のふくらみの内部に、製氷装置を設置させたんだよ。  たとえ小さなものでも、中まで氷でかたまった氷山を作るには、とてつもなく膨大な電力がいるので、妥協が必要だったんだ。で、厚さ二フィートほどの氷が表面をおおってはいるものの、冷たいフリーダと名づけられたその氷山の内部は、がらんどうにすることになったんだよ。外から見れば、非常に堂々としているが、裏へまわれば、典型的なハリウッドのセットだったわけさ。しかし、彼女の内部の秘密は、中佐とその部下以外の目には入らないというわけなんだ。風と潮流の向きがちょうどよくなった時に流され、予定の恐慌状態を惹き起こして、フロリダ人をがっかりさせるのに必要な時間は充分にもつはずだったんだな。  もちろん、解決しなければならない、技術的な問題は数かぎりなくあったさ。フリーダを作りあげるには、何日かぶっつづけに製氷装置を動かしっつけなければならないだろうし、できるだけ目的地の近くではなしてやらなければならないんだ。ということは、その潜水艦は――マーリン号とよぷことにするが――マイアミからあまり離れていない基地を使わなければならないということなんだ。  フロリダ・キーズが候補にあがったんだが、即座に却下されてしまったんだ。あそこには、もはやプライヴァシーのかけらもないんでね。今や、釣師の方が蚊よりも多いという状態で、潜水艦なんかがいようものなら、たちまち見つかっちゃうんだ。たとえマーリン号がただ密輸をしているだけだというふりをしたとしても、ごまかしきることはできないだろう。というわけで、このプランはお流れになったんだ。  中佐としては、もう一つ考慮しなければならない問題があったんだよ。フロリダ周辺の海は非常に浅く、フリーダの喫水はわずか二フィートそこそこにしかならないが、ほんとうの氷山はその大部分が水面下にかくれているものだということぐらい、誰でも知っているということなんだ水深二フィートの海を、堂々たる氷山が流れてくるなんていうのは、どう考えてもびんとこないだろう。とたんに、ねたが割れちゃうんだ。  こういった技術的な問題を、中佐がいかにして克服したのか、詳しいことは知らないが、定期船の航路からはるかに離れた大西洋で、何回かテストを繰りかえしたんだろう。新聞で報道されていた氷山は、彼の初期の作品の一つだったんだよ。話は違うが、フリーダにしろ、彼女の兄弟にしろ、船の航行にはすこしも危険ではなかったんだ。中ががらんどうなんだから、ぶつかったとたんに割れてしまうだろうからね。  ついに、すべての準備が完了したんだ。マーリン号はマイアミ北方の大西洋に陣どり、その製氷装置は全力をあげて運転を開始したんだよ。その晩は、三日月が西に沈みかけている、きれいに晴れた夜だった。マーリン号は航海灯こそつけていなかったが、ドースン中佐はほかの船に対して、厳重な見張りをつづけていたんだよ。その晩のように晴れた夜なら、相手に見つからずに、うまくかわすことだってできただろう。  フリーダはまだほんの胎児のような段階だったんだ。氷山の製作には、大きなプラスチックの袋を徹底的に冷した空気でふくらませ、表面が凍るまで水を吹きかけるという技術が使われたのではないかとにらんでいるんだよ。氷が自分の重みに耐えられる厚さになったら、袋を取りのぞけばいいんだ。氷というのは建材としてあまりいいものではないが、フリーダをそれほど大きくする必要もなかったんだ。たとえ小さな氷山一つだろうと、フロリダ商業会議所にとっては、未婚の女性にとって小さな赤ん坊でも迷惑なように、迷惑な存在だったろうからね。  ドースン中佐は司令塔に立って、乗組員が氷のように冷たい水のスプレーと、すべてを凍らせてしまうほど冷たい空気の噴流を操るのを眺めていたんだ。今や彼らもこの世にもめずらしい仕事にすっかりなれ、ちょっとした芸術的なタッチを加えることによろこびを見出していたんだな。しかし、中佐としては、氷でマリリン・モンローを再現しょうという試みはやめさせなければならなかったんだ。将来、そのアイデアを生かせる時のために、書きとめてはおいたんだがね。  真夜中をわずかにまわったころ、彼は北の空に閃光を認めてびっくりし、振りかえると、水平線上で赤い火が次第に消えていくのが目に入ったんだ。 「飛行機が墜落しました、艦長!」と、見張りの一人が叫んだんだ。「墜落するところを見たんです!」躊躇なく、中佐は機関室に命令をくだし、北に針路をとったんだ。赤い火の位置を正確につかんでいたので、せいぜい数マイルの地点だと判断したんだよ。艦尾の大部分を占めているフリーダの存在も、艦のスピードにはそれほど影響がなかったし、いずれにしても、すばやく彼女を処分する方法はなかったんだな。彼は主ディーゼル機関からより大きな力を引き出すために製氷装置をとめ、全速力で目標にむかって突っ走ったんだ。  約三十分後、強力な夜間用双眼鏡を使って、見張りが何か水にうかんでいるものを見つけたんだな。「まだ浮いています」と、彼はいったんだ。「やっぱり、何か飛行機です。しかし、生存者の姿が見えません。それに、翼がちぎれているようです」  彼がしゃべり終わるか終わらないかのうちに、別の見張りから、緊急の報告が入ったんだ。 「艦長、右舷三十度の所を見てください! いったい何ですか?」  ドースン中佐はさっと振りかえると、双眼鏡を取りあげたんだ。すると、海面上にかろうじて姿を見せ、軸を中心にすばやく回転している楕円形の物体が日に入ったんだな。 「ほほう」と、彼はいったんだ。「どうやら仲間がいるらしいぞ。あれはレーダー・スキャナーだ。もう一隻、潜水艦がいるんだよ」ついで、目に見えて明るい顔になると、――ひょっとするとこの事故に捲きこまれないで逃れられるかもしれないぞしと、副長にいったんだ。「連中が救助作業を開始するまで見張っていて、もし始めたら、そっとずらかろう」 「潜水しなければならないかもしれないし、そうなったらフリーダを放棄しなければならないかもしれませんよ。レーダーで、もうこっちを見つけちゃってるでしょうから、スピードを落して、ほんとうの氷山みたいに見せかけた方がいいですね」  ドースンはうなずくと、スピードを落すように命令をくだしたんだ。次第にややこしいことになり、二、三分のうちに、何が起こるかわからないような状況になってきたんだな。もう一隻の潜水艦は、まだ今のところマーリン号をレーダー・スクリーン上の一点としてしか見ていないだろうが、潜望鏡をあげたとたんに、相手方の艦長はいろいろと調べにかかるだろう。そうなったら、たいへんなことになり――。  ドースンは情勢を分析した。そして、最上の手は、世にも珍妙なるカムフラージュを最大限に活用することだ、と判断したんだ。そこで、艦尾がまだ潜水中の潜水艦の方にむくように、マーリン号をぐるっとまわすように命令したんだよ。浮上したら、艦長は氷山を見つけてびっくり仰天することだろうが、救助作業に忙しくて、フリーダの方にまで手がまわらないことを、ドースンは祈ったんだ。  ついで、彼は双眼鏡を墜落した飛行機の方にむけたんだよ。そして、第二のショックを受けたんだ。それは非常にかわった型の航空機であり、どこかおかしいところがあったんだな。「わかったぞ!」と、彼は副長にむかっていったんだ。「これくらいのことはわかっていなきゃいけなかったんだ。あそこにあるのは、飛行機じゃないんだ。ココア基地から発射されたミサイルだよ。見てみろ、浮袋が見えるだろう。着水と同時にふくらんだに違いないんだ。そして、あの潜水艦はあれを回収するためにここで待機してたんだ」  フロリダの東岸、バナナ川という考えられないような名前の川ぞいの、ココアという、これまた珍妙な所に、大きなミサイル発射基地があることを、彼は思い出したんだ。とにかく、すくなくとも危険にさらされているものは一人もいないわけだし、じっとしていれば、マーリン号もこの道草で何の損害も受けないですむという可能性も、なきにしもあらずというわけだったんだな。  カムフラージュのかげにかくれていられるように、かろうじて艦をコントロールできる程度に、機関はゆっくりと回転をつづけていたんだ。フリーダはすでに司令塔がかくれるだけの大きさは充分にあり、遠目には、たとえもっと明るくても、マーリン号はまったく見えなかっただろう。しかし、一つだけぞっとしない可能性があったんだな。もう一隻の潜水艦が、航行に危険だという理由から、砲撃を開始するかもしれない、ということだ。いや、無線で沿岸警備隊に通報するだけだろう。それならば、厄介ではあるが、彼らの計画に支障をきたすようなことはないわけなんだよ。  その時、「浮上してきたそ!」と、艦長がいったんだ。「何型だ?」  潜水艦が舷側から水をしたたらせながら、かすかにほの白く見える海面を割って浮上すると、二人は双眼鏡をにぎってじっと凝視《みつ》めたんだ。今や月はほとんど沈みきり、細部まで見きわめることは困難だった。レーダー・スキャナーが回転をやめて、墜落したミサイルの方にむけられていることを知ると、ドースンはほっとしたんだな。しかし、あの司令塔の形はちょっとおかしいぞ、と思ったんだ――  その時、ドースンははっと息をのみ、マイクを取りあげると、マーリン号の艦内にいる乗組員にむかってささやいたんだ。「下に、ロシヤ語をしゃべれるものはいるか?」  長い静寂が訪れたが、やがて、一人の機関科の士官が司令塔へあがってきたんだ。 「すこしならしゃべれますが、艦長。祖父たちがウクライナの出身なんです。どうしたんですか?」 「まあ見てみろ」と、ドースンはきびしい口調でいったんだな。「ちょっとおもしろい密漁が行なわれているんだ。とめるべきだと思うんだがな」」  ハリー・パーヴィスには、話がクライマックスにさしかかると言葉を切り、ビールのお代わりを注文、というよりも、たいていの場合、誰かにおごらせるという、何とも始末の悪い癖があった。わたしは何度となくそういう場面を見てきたので、彼のグラスに残っているビールの量で、いつクライマックスに達するかがわかるようになってしまった。彼が燃料を補給している間、いらいらしながら待つはかなかった。 「考えてみれば」と、ハリーはしみじみといった。「ソヴィエトの潜水艦の艦長としては、まったく運が悪かったわけだよ。ウラジオストックなりどこなり、母港にかえりついた後、銃殺されちゃったんじゃないかな。彼の話を信じる査問委員会なんてありゃしないからね。彼がほんとうのことをいうほどばかだったら、こういってただろう。「われわれがフロリダのすぐ沖にいると氷山がロシヤ語で、失礼だが、それはわれわれのものだと思うんですがね、とどなったんです」内務省の連中も二、三人は乗ってただろうから、かわいそうに、艦長としては、何か話をでっちあげなきゃならなかっただろうが、どんな話をでっちあげたにしろ、あまり説得力はなかったろうな――。  ドースンの計算どおり、見つかったことがわかると、ソヴィエトの潜水艦は一目散に逃げだしたんだ。マーリン号の艦長としては、自分がアメリカ海軍の予備役将校であることや、一州に対する契約上の義務よりも、国家に対する義務の方がはるかに重要であることを思い出したので、その後の行動をとるにあたって、あれこれと迷っている余地はなかったんだな。彼はミサイルを回収すると、フリーダをとかし、ココアへ針路をとったんだ。その前に、まず無線電話で事情を報告したところ、それが海軍省内部に大混乱を惹き起こし、何隻かの駆逐艦が大西洋に急行することになったんだがね。結局、ちょっかいを出したイワンは、おそらくウラジオストックへは帰りつけなかったんじゃないかな。  その後、事情を説明する段になっていささか苦労したんだが、回収されたミサイルが非常に重要なものだったんで、マーリン号の私的な戦争については、誰もあまり追及しなかったらしいんだな。しかしながら、マイアミ・ビーチに対する攻撃は、すくなくとも来シーズンまで延期しなければならなかったんだ。この計画のスポンサーたちが、すでに巨額の資金を投入していたとはいえ、あまりがっかりはしなかったとお伝えできるのは、よろこばしいことだと思うんだ。彼らは一人一人、機密保持のため、いかなることかは明記できないが、祖国に対する貴重な貢献に感謝する旨を記し、海軍作戦部長の署名のある賞状をもらったんだよ。それが連中のロサンジェルスの友人たちの間に、羨望と好奇心をかきたて、彼らはいくら金をつんでも、それを手ばなそうとしないんだ。  しかし、この計画がこれだけで終わりになったとは考えてもらいたくないんだな。アメリカの宣伝関係の連中が、これをほっとくと思ったら大間違いなんだ。フリーダは一時活動を中止しているが、いつの日か、きっとカムバックするぞ。フリーダが大西洋から流れつく時に、偶然、ハリウッドのロケ隊がマイアミ・ビーチを訪れている、といったようなこまかい点まで、計画はしっかりできあがっているんだ。  というわけで、この話はきちんとしたしめくくりをつけるわけにはいかないんだよ。前哨戦はすでに行なわれたが、大会戦はまだこれからなんでな。で、よく考えちゃうんだよ。ことの真相を知ったら、フロリダはカリフォルニアに対して、どんな手に出るだろうか、つてね。誰か、見当がつくかい?」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    登ったものは      Waht Goes Up [#改ページ]  わたしが〈白鹿亭〉の正確な場所について、あまりはっきりと書かない理由の一つは、正直なところ、わたしたちの溜り場としてそっとしておきたいからなのだ。といっても、ただ他人を閉め出して意地悪をしようというのではなく、自らを守るために、そうせざるをえないのである。科学者や、編集者や、作家がある店にたむろしているなどという話がひろまると、とかくぞっとしない連中が押し寄せて来ることになりがちなのだ。宇宙に関する新しい理論をでっちあげた奇人、ダイアネティックスによってすべてがすっきりしたという変人(その前にどんなだったかは、神のみぞ知りたもう、である)、四杯目のジンをあけると、何もかもお見透しになってしまう、すさまじいご婦人連、こんなところは、風がわりな人物として、まだほんの序の口なのだ。何よりも始末の悪いのは、空とぶ円盤信者だった。手足をたたき切って、前歯をへし折り、目玉でもえぐり出す以外、彼らを治す方法はまだ発見されていないのだ。  空とぶ円盤教の典型的な信者の一人がわたしたちのかくれ家を見つけ出し、けたたましい歓喜の叫びをあげて襲いかかってきたのは、ある陰鬱な日のことだった。ここに布教活動に適した肥沃な土壌がある、と彼は心の中で思ったに違いない。宇宙航行にすでに関心をもっている人びと、さらにそれが間もなく達成されるということについて、本を書いたり作品を発表したりしている人びとなら、丸めこむのもかんたんだろう、と思ったに違いないのだ。彼は小さな黒いバッグを開き、最新の円盤資料をごっそり取り出した。  それはちょっとしたコレクションだった。空とぶ円盤のおもしろい写真が何枚かあった。それはグリニッジ天文台のすぐ隣りに住んでいる素人天文学者が撮ったもので、隣りの専門家たちは何で月給をもらっているのだろうと不思議に思えるほど、彼のカメラは型も大きさも多種多様にわたるさまざまな宇宙船の姿をとらえていた。金星へ向かう途中、ちょっと立ち寄った円盤の乗員と立ち話をしたというテキサスの紳士の長文の声明もあった。言語の違いということは、何の障害にもならなかったらしい。わたし、人間。ここ、地球≠ゥら、宇宙旅行における四次元の空間の利用に関する非常に難解な情報の交換にいたるまで、十分も身振り手振りで話しあっていればことたりたようである。  しかし、何といっても傑作は、実際に空とぶ円盤に乗せてやるといわれ、月を一まわりしてきたという、サウス・ダコタの変人からきた興奮した手紙だった。いわばくもが自分の吐き出した糸をたぐってのぼっていくように、円盤が磁力線にそって自らをたぐり寄せながら宇宙を航行した様子を、彼はかなりの長さにわたって説明していた。  ハリー・パーヴィスがむらむらと謀叛気を起こしたのは、話がここまできた時だった。彼自身さえでっちあげる気になれないような話に、プロとしてのプライドから耳をかたむけてきたのだ。聞き手がおとなしく欺されている限界を見極めることにかけては専門家だったからである。しかし、磁力線という言葉が出てくるにおよんで、その科学的訓練が、現代のほら吹き男爵たちに対する率直な感歎を圧倒し、彼はうんざりしたように鼻をならした。 「そんなことは、でたらめもいいとこだよ」と、彼はいった。「わたしが証明してあげる。磁気学はわたしの専門なんだからね」 「先週は」と、ドルーが二つのグラスに同時にエールをつぎながらにこやかにいった。「結晶体の構造が専門だっていっておられましたね」  ハリーは彼を見くだすような微笑をうかべた。 「わたしはあらゆる部門の専門家なんだ」と、彼は胸をはっていった。「邪魔が入る前に話していたことに話を戻すと、わたしがいいたいのは、磁力線などというものは存在しない、ということなんだ。そんなものは、数学上の仮説にすぎないんだよ。経度や緯度の線とまったく同じにね。緯度線づたいに、自らをたぐり寄せながら進む機械を発明したなんていったら、誰にでも、とんでもないたわごとだってことはわかるだろう。しかし、たいていの人は磁力というものについてあまり知らないし、ちょっと神秘的に聞こえるので、そのサウス・ダコタの男のような気狂いが今われわれが聞かされていたようなくだらない御託をならべて聞き手を煙にまけるんだ」 〈白鹿亭〉の常連には、一つ美点があった。お互いに仲間同士では激しくやりあうのだが、危機に際しては、一致協力、感銘をうけずにはいられないほどの結束を示すのだ。常連の誰もが、この招かれざる客を何とかしなければならないと感じていた。一つには、彼は酒を飲むという厳粛かつ重大な仕事を邪魔しているのだ。狂信というものは、それが何に対するものであれ、どんな陽気な集まりにも、暗い影を投げかけてしまうものであり、常連の何人かは、かんばんまでにはまだ二時間もあるというのに、すでに引きあげるような素振りを見せていた。  というわけで、さすがのハリー・パーヴィスさえ、これまで〈白鹿亭〉で披露したことがないほど言語道断な話をでっちあげて追い討ちをかけた時も、誰一人、口をはさんだり、その話の弱点をあばきたてようとはしなかった。ハリーがわれわれみんなのために、孤軍奮闘してくれているということを知っていたのだ。いわば、火をもって火を制せんとしていたのである。それに、わたしたちがその話を信じることを期待していないこともわかっていたので(いつもそうだったのかもしれないが)、わたしたちはゆったりとくつろいでたのしんでいた。 「宇宙船というものの推進法を知りたいのなら」と、ハリーはしゃべりはじめた。「といっても念のために断っておくけど、わたしは空とぶ円盤の存在を肯定しているわけでも、否定しているわけでもないんだよ。磁力なんていうことは忘れるんだな。重力というものを、真っ先に問題にしなきゃならないんだ。何ていっても、重力が宇宙の基本的な力なんだからね。しかし、こいつは一筋縄ではいかない力だぞ。わたしのいうことが信じられないんなら、去年、オーストラリアのある科学者の身に起こったことに耳をかたむけたまえ。それがどの程度の機密事項なのかはっきりしないんで、本来ならば話すべきではないような気もするんだが、まあ、万一、ごたごたでも起こったら、わたしは一言もしゃべらなかったと誓うから、そのつもりでいてもらいたい。  ご存じかもしれないが、オーストラリア人ていうのは、科学の研究には昔からかなり熱心だったんだ。で、しかるべき科学者を集めて、高速増殖炉の研究にかからせていたんだよ。旧式なウラニュウム炉よりもはるかにコンパクトな、いわば飼いならされた原子爆弾だ。そのグループの主任をつとめていたのは、頭脳は明晰だが、いささかがむしゃらなところのある若い核物理学者だったんだな。まあ、ケイヴァー博士とでもよんでおこう。もちろん、本名じゃないが、非常に適切な名前なんだ。ウェルズの『月世界最初の人間』に出てくる科学者ケイヴァーをみんな思い出すと思うんだよ。それに、彼が発見した、重力を遮断する物質、かのケイヴァーライトなるすばらしいものをね。  残念ながらわが愛すべきウェルズ老は、ケイヴァーライトの問題をあまり掘りさげてはいないんだ。彼にいわせれば、それは金属板が光をとおさないように重力をとおさないというんだな。したがって、水平においたケイヴァーライトの板の上においた物はすべて、重量がなくなり、空間に浮びあがるというわけだ。  ところが、そうかんたんにはいかないんだよ。重量というものは、いいかえればエネルギー、そうかんたんに破壊することはできないほど膨大な量のエネルギーなんだ。ほんのちょっとした物体の重量をなくすためにも、ものすごい量のエネルギーを注入しなければならないんだな。したがって、ケイヴァーライトのようなタイプの反重力スクリーンというものはまったくありえないんだ。永久運動と同類なんだよ」 「ぼくの友だちが三人、永久運動をする機械を作ったんですよ」招かれざる客が、むっとしたようにしゃべりはじめた。が、ハリーはそれ以上はしゃべらせなかった。ただ滔々としゃべりつづけ、その邪魔を無視したのだ。 「ところで、わがオーストラリア人のケイヴァー博士は、反重力などを求めていたわけではないんだ。純粋科学の分野においては、重要なことが、それを求めている人によって発見されたことは、いまだかつてまずないといっていいんだよ。そこがまたおもしろいところだということもできるんだがね。ケイヴァー博士は原子力を作り出すことに関心をもっていたんだ。ところが、彼が発見したのは、反重力だったんだな。そして、自分が発見したのが反重力だということに気づくまでには、かなりの時間がかかったんだよ。  どうやら、こういうことが起こったんじゃないかと思うんだ。その原子炉は新型の、かなり大胆な設計のもので、核分裂物質の最後の何本かを挿入すると同時に、爆発を起こすかもしれないという可能性がかなりあった。そこで、その原子炉はオーストラリアにいくらでもある、そういうことには打ってつけの砂漠で、リモート・コントロールによって組み立てられ、最終的な操作はすべて、テレビをとおして観察していた、と、まあこういうことだったのじゃないかと思われるんだな。  ところが、爆発は起こらなかった。爆発が起こっていたら、放射能汚染でたいへんなことになっていたろうし、莫大な額の金がむだになっていただろうが、多くの名声が失われるだけで、人命まで失われることはなかっただろう。実際に起こったことは、まったく予期していなかったことであり、はるかに説明の困難なことだったんだ。  濃縮ウランの最後の一本が挿入され、制御棒が引きぬかれて、原子炉が臨界点に達すると、すべての運転がばったりととまってしまったんだ。原子炉から二マイルもはなれている遠隔操作室の計器の針はすべて、ゼロに戻ってしまった。そして、テレビのスクリーンは空白になってしまったんだよ。ケイヴァーとその同僚は爆発を待っていたが、爆発は起こらなかったんだ。一瞬、彼らはさまざまな事態に思いをはせながら顔を見あわせたが、ついで、押し黙ったまま、地下の操作室を出ていったんだよ。  原子炉のある建物はまったくかわっていなかった。百万ポンドの核分裂性物質と数年にわたる慎重な設計と開発のもたらしたすべてをつつみこんで、何の変哲もない煉瓦造りの四角い建物は砂漠の真ん中にちゃんと残っていたんだな。ケイヴァーは一瞬もむだにはしなかった。ジープにとびのると、携帯用ガイガー・カウンターのスイッチを入れ、何ごとが起こったのかを調べにかけつけたんだ。  二時間ほど後、彼は病院で意識を回復したんだ。ひどい頭痛以外、どこもあまり悪いところはなかったが、その頭痛も、その後の数日にわたる実験が彼にあたえることになった頭痛に政べれば、何でもないようなものだったんだよ。原子炉から二十フィートほどのところまで近づくと、ジープが何かにものすごい勢いでぶつかったらしいんだな。ケイヴァーはハンドルに体をぶつけて、いくつもみごとなあざをこしらえていたが、ガイガー・カウンターは妙なことにすこしもこわれていず、まだ静かにかたかたと音をたてていて、通常の状態における宇宙線以上のものは探知していたかったんだ。  遠くから見ると、それはごく普通の事故のように見えたんだよ。溝にでもおちこんだために起こったような事故にね。しかし、幸いなことに、ケイヴァーはそれほどとばしてはいなかったんだな。それに、その衝突の現場には、溝なんてなかったんだ。ジープがつっこんだ相手は、まったく考えられないようなものだったんだよ。見えない壁、原子炉をすっぽりと包んでいる半球形のドームの下の縁だったに違いないんだ。空に向かって投げあげられた石は、そのドームの表面つたいに地面まですべりおちてくるし、その壁は、地面の下にも、とにかく掘れるかぎりのところまではのびていたんだよ。原子炉は、どうしてもつきぬけることのできない球形の殻《から》の中心にあるような感じだったんだな。  もちろん、これはすばらしいニュースだったんで、ケイヴァーは看護婦たちを四方八方に蹴ちらして、たちまちベッドからとび出していったんだ。いかなることが起こったのかは見当もつかなかったが、それはすべてのもととなった原子力工学の退屈きあまる末梢的な仕事よりは、はるかに興奮をそそるものだったんだな。  この、きみたちSF作家なら力の球形とでもよびそうなものが、いったい反重力とどんな関係があるんだ、とみんなもそろそろ考えだしているんじゃないかと思うんだ。で、ここでは何日かとはして、ケイヴァーとそのグループがさんざん苦労し、オーストラリア産の例の強いビールを何ガロンも飲んだあげくに到達した結論を伝えることにしよう。  問題の原子炉は、火を入れられたとたんに、どういうわけか反重力の場を作り出していたんだな。半径二十フィートの球形の内側にあるあらゆる物質はすべて無重量状態にされ、その作業に必要な膨大な量のエネルギーは、まったく不可解な方法で、原子炉の中のウラニュウムから抽出されたんだ。計算によると、原子炉には、その作業にちょうど必要なだけの量のエネルギーが含まれていたことがわかったんだよ。おそらく、パワー・ソースにもっと多くのエネルギーが含まれていたら、この力の球形ももっと大きなものになっていただろう。  誰かが質問しようとして待ちかまえているようなので、その先手を打って答えさせてもらおうなぜこの無重量の大地と空気からなる球形は、空間に浮びあがらないのか? まあ、大地の方はその凝集力によって一体となっているので、ふわふわと浮びあがるわけがないんだ。空気の方は何とも驚くべき、あくまでも複雑な理由から、この無重力圏内に押しとどめられていたのだが、その理由の解明が、この珍奇なる現象の解明にもつながるわけなんだな。  これから先は道が悪くてゆれそうだから、シート・ベルトをしめといた方がいいぞ。ポテンシャル論についていくらかでも知識のある人なら、理解するのに問題はないだろうし、そのほかの人びとには、わたしができるだけやきしくかみくだいて説明するように、最善の努力を払うつもりだ。  反重力についてべらべらとまくしたてる人は、めったにその言外に含まれた意味というものを考えようとしないものなので、いくつかの基本的なことを振りかえってみたいと思う。先ほどもいったように、重量というものは、エネルギーを意味しているんだ。それも大量のエネルギーをね。そして、そのエネルギーは、もっぱら地球の重力の場に起因するものなんだ。一つの物体の重量を取りのぞくということは、その物体を地球の重力圏外に持ち出すということとまったく同じなんだな。それにはどんなに膨大なエネルギーが必要かということは、ロケット技術者に訊けば誰でも教えてくれるだろう」  ハリーはわたしを振りかえっていった。 「きみの本にあった比喩を一つ拝借したいんだがね、アーサー。それを借りると、わたしの説明しようとしていることがわかってもらえると息うんだ。例の地球の重力との戦いを、深い穴から這い出そうとする努力にたとえている比喩だ」 「遠慮なく使ってくれ」と、わたしはいった。「どうせぼくも、あれはリチャードスン博士の書いたものから借りてきたんだからね」 「そうか」と、ハリーは答えた。「きみが考え出したにしちゃうますぎると思ったよ。さて、説明を始めよう。このあくまでも単純な考え方からはなれないようにしさえすれば、きっとわかるんだ。一つの物体を地球から隔絶されたところまで移動させるには、通常の重力がたえず引っぱりつづける力にさからって、四千マイルもそれを持ちあげるのに等しい仕事量が必要なんだ。ところで、ケイヴァーの作りだしたエネルギーの圏内の物質は、まだ地球の表面にあるけれども、無重量なんだな。したがって、エネルギーという観点からみると、地球の重力の場の外にあるのと同じなんだ。高さ四千マイルの山の頂上にあるのと同じで、手がとどかないんだよ。  ケイヴァーとしては、反重力圏の外に立って、数インチはなれたところからのぞきこむことはできる。しかし、この数インチを横ざるためには、エヴェレストに七百回のぼるほどのエネルギーが必要なんだ。あっという間にジープがとまってしまったのも、驚くにはあたらないんだよ。実体のあるもの[#「もの」に傍点]がジープをとめたわけではないんだが、力学上の観点からみると、高さ四千マイルの断崖にぶちあたったのと同じことだったんだからね。  必ずしも時間がおそいせいばかりとはいえないような、ぼんやりとした顔がいくつか目につくようだな。でも、いいんだよ。今いったことのすべてが理解できなかったら、わたしのいったことをそのまま信じておいてくれたまえ。それでも、これから話すことを理解するのに支障はないだろうからな。すくなくとも、わたしはそうであることを望むね。  ケイヴァーは現代におけるもっとも重要な発見の一つを成しとげたのだということをただちに理解したんだ。どういうことになっているのかをつきとめるまでには、かなり時間がかかったがね。そこにつくり出された場の反重力的な性質の謎をとく最終的な手がかりほ、ライフルの弾丸を射ちこんで、その弾道を高速度カメラで追った時につかめたんだ。なかなかうまいことを考えるとは思わんかね?  次の問題は、この反重力の場をつくり出した原子炉を使って実験し、スイッチが入れられた時に、原子炉の内部でいかなることが起こったのかを見きわめることだったんだ。これは実際のところたいへんな問題だったんだよ。原子炉のある建物は二十フィート先にはっきりと見えているんだ。しかし、そこまでたどりつくには、月に到達するのに必要な量をわずかながら上まわるほどのエネルギーが必要だったんだからね。  ケイヴァーはこういった事実にぶちあたっても、原子炉の遠隔操作が一切きかないという、不可解な事態に直面しても、落胆しなかったんだ。そして、ちょっと誤解をまねきかねないような言葉を使うのを許してもらえれば、そこではすべてのエネルギーが完全に消滅しており、ひとたび反重力の場がつくり出されたら、それを維持するのには、たとえ力が必要だとしても、それはごくわずかなものである、という仮説をたてたんだな。現場で調べてみなければ何とも判断のしょうがないことはたくさんあったが、これもその一つだったんだ。そこで、ケイヴァー博士としては、是が非でも、そこへ入っていかなければならないことになったんだよ。  彼が最初に考えたのは、電気で動くトロッコを使うということだったんだ。反重力の場へ入っていくにつれて、後ろに引きずったケーブルから動力の供給を受けようというわけだったんだな。連続十七時間働きつづける、百馬力の発電機があれば、平均的な体重の男を一人、この危険な二十フィートの旅に送り出すのに充分なエネルギーを供給してくれるものと思われたんだ。時速一フィートをわずかに上まわるスピードはあまり自慢できるものとも思えなかったが、反重力の場に一フィート入りこむということは、垂直に二百マイル上昇するのに等しいということを思い出してもらわなければならないんだ。  これは、理論的には正しかったんだが、実際にやってみると、この電動トロッコはうまくいかなかったんだ。反重力の場に向かって進みはじめたんだけど、半インチはど進んだところで、スリップしはじめちゃったんだよ。考えてみれば、その理由は一目瞭然なんだがね。力はあるんだが、牽引力はないんだからな。車輪を使った車輌が、一フィート進むと二百マイルも高くなるような勾配の坂をのぼれるわけがないんだよ。  このちょっとしたつまずきも、ケイヴァー博士のやる気を失わせるようなことはなかったんだこの問題を解決するには、反重力の場の外の一点で、牽引力を生み出さなければならないということを、即座に見てとったんだな。あるものを垂直に持ちあげたいという時、車を使うばかはいないんだ。ジャッキか水圧ラムを使うんだよ。  こういった論議の結果、世にも珍妙なる車輌が作り出されたんだ。一人の男が五、六日はもつだけの食料を積みこんだ、小さいけれども乗り心地のいい客室《ケージ》が、長さ二十フィートの水平にのぴたレールのようなものの先端に取りつけられたんだな。そして、その全体をバルーン・タイヤで支え、客室《ケージ》を反重力の場の影響圏外にある機械によって、その中心に向かって推進しょうという考えだったんだ。しばらく考えた後、原動力としては、普通の、あるいは造園用のブルドーザーを使うのが一番いいだろうという結論に達したんだ。  そして、客室にうさぎを乗せてテストが行なわれたんだよ。わたしとしては、ここに興味深い心理的な問題が含まれているように思えてならないんだがね。実験者たちは、どうころんでもただは起きないつもりだったんだな。科学者としては、実験動物が生きて戻ってくれは、もちろんうれしかっただろうし、オーストラリア人としては、うさぎが死んで戻ってきても、やはりうれしかったんだよ。しかし、ひょっとすると、これはわたしの思いすごしかもしれないな――。(みんな、オーストラリア人がうさぎっていうものに対して、どんな感情を抱いているかは知ってるだろう?)。  ブルドーザーは何時間にもわたって、レールのようなものと、そのあまり意味のない客の重みを、すさまじい勾配ぞいに押しあげつづけたんだ。それは薄気味の悪い光景だったろうと思うんだな。二匹のうさぎを、完全に水平な平地を横ぎって二十フィート移動させるのに、これだけのエネルギーが消費されているんだからね。この実験の主役は、作業の間じゅうずっと、はっきりと見えていたんだ。うさぎたちは見るからにたのしげで、その歴史的な役割りなどとんと気づいていないようだったんだよ。  客室は、反重力の場の中心につくと、一時間そこにとめられ、やがて、レールのようなものはゆっくりと反重力の場から引きぬかれたんだ。うさぎたちは生きていて、びんびんしていた上にとくに驚くものはいなかったが、その数が六匹にふえていたんだよ。  ケイヴァーは当然のことながら、重力ゼロの場に挑む最初の人間となることを主張したんだ。そして客室に、ねじり秤、放射能探知器、それに原子炉にたどりついた時に中がのぞけるようにペリスコープを積みこんだんだな。ついで、彼は合図を送り、ブルドーザーが活動を始めて、この珍妙な旅が始まったんだ。  当然、客室と外部の世界は電話で連絡がとれるようになっていたんだ。通常の音波は、いまだにいくらかはっきりしないところのある理由から、問題の障壁を越えることができなかったのだが、無線と電話は両方とも何ということもなく通じたんだな。ケイヴァーは反重力の場にじりじりと入っていきながら、彼自身の反応や計器に現われた結果をたてつづけに同僚に送りつづけていたんだ。  彼の身に最初に起こったことは、予期していたとはいえ、いささか彼を動揺させたんだな。最初の数インチの間は、反重力の場の外縁を進んでいくにつれて、垂直の方向がぐるっとかわるように思えたんだ。上≠ヘもはや空の方ではなく、原子炉のある建物の方にかわってしまったんだよ。ケイヴァーには、二十フィート上に原子炉のある、垂直に切りたった断崖の表面を押しあげられていくように感じられたんだ。生まれてはじめて、彼の目と通常の人間の感覚が、彼の科学的訓練と同じことを、彼に告げたというわけさ。彼には、反重力の場の中心が、彼の出発してきた場所よりも高いということが見てとれたんだ。しかしながら、一見何でもないように見えるこの二十フィートをのはるのに必要な膨大なエネルギーと、彼をそこまで押しあげるために消費されなければならない数百ガロンのディーゼル燃料を思うと、彼としてはいまだにたじろがざるをえなかったんだよ。  この旅自体については、ほかにお話するようなおもしろいことは何にもなかったんだ。そして出発してから二十時間後に、ついにケイヴァーは目的地までたどりついたんだな。原子炉のある建物の壁が、彼の傍らにあった。彼には、壁のようには見えず、彼がのぼってきた断崖から直角につき出している、何の支えもない床のように見えたんだがね。そして入口は、よじのぼらなければならない落し戸のように、彼の頭の上にあったんだ。しかし、ケイヴァー博士はいかにして自分がこの奇蹟的な状態を作り出したのかをつきとめることに熱心な、元気いっぱいの青年だったので、これはたいした障害にはならなかったんだよ。  実際のところ、いささか熱心すぎたんだ。というのは、ドアから入ろうとして足をすべらせ、彼をそこまではこんできてくれた台からおちてしまったんだよ。  それが彼の姿を見た最後だったんだが、彼のたてる音を聞いた最後ではなかったんだ。最後どころか、彼はその後、実にすさまじい音をたてたんだ――。  この不幸な科学者のおかれた立場を考えてみれば、その理由はわかるだろう。何百キロワット時ものエネルギーが彼の中にそそぎこまれていたんだよ。彼を月まで、いやそのさらに先まで持ちあげられるだけのエネルギーがね。彼を重力ゼロ地点まで運ぶには、それだけの仕事量が必要だったんだ。そして、彼が自分を支える手段を失うやいなや、そのエネルギーがふたたび威力を発揮しはじめたんだな。先にあげた、非常に真に迫った比喩をまた持ち出すと、あわれな博士は彼がのぼってきた高さ四千マイルの山の端からすべりおちてしまったというわけなんだ。  彼はのぼるのに丸一日近くを要した二十フィートを転落したわけだよ。その転落のすさまじさよ!≠チてわけだ。エネルギーという観点からいえば、遠い星から地球の表面まで、何の障害物もない空間を転落するのとまったく同じだったんだな。それだけ転落する間に、物体がどれだけの速度に達するかは、みんなも知ってるだろう。それは最初にそこへ到達するのに必要とする速度と同じ速度なんだ。かの有名な脱出速度だな。秒速七マイル、時速にして二万五千マイルだ。  ケイヴァー博士が出発点まで戻ってきた時のスピードは、そういうすさまじいものだったんだよ。あるいは、さらに正確にいえば、それが、彼が心ならずも到達しようとしていた速度だったというわけだ。しかしながら、彼の速度がマッハ一ないし二をすぎるやいなや、空気抵抗がわずかながらもものをいいだしたんだな。ケイヴァー博士の火葬のための燃料は、人類始まって以来最高のものであり、彼の火葬こそ、海抜ゼロメートルの地点で起こった唯一つの流星現象だったというわけだ――。  残念ながら、この物語はハッピー・エンドというわけにはいかないんだな。実際のところ、この物語には終わりがないんだ。この球形の無重力の世界は、一見まるで何もしていないようには見えるが、事実は科学者と役人の間に次第に高まるフラストレーションのたねをまきちらしながら、いまだにオーストラリアの砂漠にでんと居坐っているんだからね。当局としても、そういつまでもこの秘密を保つことを望むのは不可能なんじゃないかと思うんだ。そして時どき、世界一高い山がオーストラリアにあるっていうのは何とも妙な話だな、と息うんだよ。それに、高さが四千マイルもあるっていうのに、旅客機がそこにそんなものがあるなんてことも知らずに、その真上を飛びこしているっていうのはね」  ハリー・パーヴィスがここで話を打ち切ったと聞いても、読者諸兄姉はまず驚かないだろう。さすがの彼にも、それ以上話をつづけることはできないようだったし、話をつづけてくれと望むものもいなかった。彼にくいついたらはなれようとしない、もっとも手きびしい批評家連中を含めて、わたしたちはみんな、畏敬の念に圧倒されてしまっていた。その後、ケイヴァー博士のぞっとするような運命に関する彼の話に、わたしは基本的な性質の誤りを六つ発見したが、その時には、そんなものは、心にうかびもしなかった。(そして、今ここでその誤りを発表しょうとも思わない。数学の教科書にあるように、読者のための練習問題として残しておくつもりなのだ)。 しかし、わたしたちのつきせぬ感謝の的となったのは、真実をわずかに犠牲にすることによって彼が〈白鹿亭〉を、空とぶ円盤の侵略から守ってくれたという事実であった。そろそろかんばんが近づいており、招かれざる客としては反撃に出るにはおそすぎたのである。  この話のつづきがいささか公平を欠いているように思えるのも、そのためなのだ。一カ月後、誰かが非常に奇妙な出版物を〈白鹿亭〉に持ちこんできた。それはみごとな印刷であり、レイ・アウトにも専門家の腕のさえが見られ、せっかくの技術がこんなくだらないことに浪費されているのは、見ていても悲しくなった。それは空とぶ円盤のお告げ≠ニ銘うたれ、第一ページに、パーヴィスの語った話のすべてが詳細にのっていた。それは彼の話をそのまま印刷し、ハリーにとってさらにまずいことには、名前をあげて、彼の語ったところと明記してあった。  それ以来、彼はその問題について、主としてカリフォルニアの住人から、四千三百七十五通の手紙を受け取った。そのうち二十四通は彼を嘘つきよばわりしており、四千二百五通は彼の話を心から信じていた。(残りの手紙は彼にも意味がつかめず、その内容はいまだに推測するしかない状態である)。  彼がいまだにこの打撃から完全には立ちなおれないでいるのではないかと心配だし、彼としてはめずらしく、まともにとられるとは思ってもいなかった話を、人びとが信じるのをとめるために、残りの一生をついやすことになるのではないかと思うことが、時どきある。  この話には、一つの教訓が含まれているのかもしれない。しかし、わたしにはどうしてもそれを見出すことができない。 [#改ページ] [#ページの左右中央]    眠れる美女      Sleeping Beauty [#改ページ]  それはもっとましな話のたねを誰も思いつかない時に、〈白鹿亭〉でよくやる、例のあまり熱のこもらないやりとりの一つだった。わたしたちはこれまでに出会った中で、もっとも突拍子もない名前を思い出そうとしていた。わたしがオビビーディア・ポーキングホーン≠ニいう名前をあげると、黙っているはずのないハリー・パーヴィスがやおら口をはさんだ。 「妙な名前を探し出すなんていうのは、ごくかんたんなことなんだ」といって、彼はわたしたちのばかさ加減をたしなめた。「しかし、きみたちはもっとずっと根本的な問題を考えたことがあるか。そういった名前がその持ち主にあたえる影響というね? 時には、そういったことが、その人の一生をゆがめてしまうこともあるんだよ。若きシグマンド・スノーリングの身に起こったのも、まさにそういうことなんだ」 「まさか!」ハリーをもっとも執拗に批判する常連の一人、チャールズ・ウィリスがうめくようにいった。「信じられないね!」 「このわたしが」と、ハリーは腹だたしげにいった。「こんな名前をでっちあげるとでも思ってるのか? 実際のところ、シグマンドの姓は、中欧のユダヤ系の名前なんだ。シュなんとかっていう苗字で、先祖代々、かなり古くから伝わっているものなんだよ。スノーリングっていうのはそれをイギリスふうにしたものなんだ。しかし、こんなことはすべてよけいなことなんだよ。こういったこまかなことで、時間をむだにさせないではしいもんだな」  わたしが知っている中でもっとも前途有望な作家であるチャーリーが(というのは、もう二十五年以上も、前途有望といわれてきたのだから、そうに違いないのだが)、ぶつくさと文句をいいかけた。すると、誰かがビールのグラスをわたして、さもみんなのためを思うかのように、彼の注意をそらしてしまった。 「シグマンドは」と、ハリーはつづけた。「大人になるまで、この重荷に勇敢に耐えてきたんだ。しかしながら、いびきをかくという意味の彼の苗字がその心をむしばんできたことは、まず疑う余地がなく、ついに、心身症とでもいうべき影響が現われてきたんだな。もしシグマンドがほかの両親のもとに生まれていたら、まさにその名のとおりといってもいいような、すさまじいいびきをたえずかく男にはならなかったに違いないと思うんだ。  しかし、まあ人生には、もっと悲惨な悲劇もあるものなんだ。幸いなことに、シグマンドの家にはかなりの金があったんで、防音装置をほどこしたベッド・ルームが、ほかの家族たちを眠れない夜から救ってくれたってわけだ。たいていの場合そういうものなんだが、シグマンドは彼が奏でる夜ごとのシンフォエーにまったく気づいていなかったんで、何でまわりの人がそう大騒ぎするのか、ほんとうのところはわからなかったんだよ。  彼がほんとうに悩まなければならなかったのは、結婚してからなんだ。彼のいびきはまわりの人を悩ませていただけなんだから、それを彼の悩みということができれば、だがね。花嫁がいくぶん取り乱して新婚旅行から帰ってくるというのは、別にめずらしいことじゃないが、あわれなレイチェル・スノーリングはちょっと類のない、夢も希望も打ちくだかれるような経験をしてきたんだ。睡眠不足から目は血ばしり、友だちの同情をえようとしても、笑われるのがおちだったんだな。そういうわけで、彼女がシグマンドに最後通牒をつきつけたのも、不思議じゃなかったんだよ。いびきを何とかしないかぎり、離婚するってわけだ。  これは、シグマンドにとっても、彼の家族にとっても、重大問題だったんだ。彼らはまあかなり裕福な方ではあったが、けっして金持ちというほどではなかったんだよ。その前の年に、ちょっとややこしい遺書を残して死んだ、大伯父のルービンとは違ってね。彼はシグマンドを非常にかわいがっていて、かなりの額の金を信託預金として残してくれ、彼が三十になった時に受け取れることになっていたんだ。不幸にして、大伯父のルービンは非常に昔かたぎで、おかたい一方の人だったんだな。で、現代の若者というのをまったく信用していなかったんだよ。遺産贈与の条件の一つに、きめられた期日まで、シグマンドが離婚あるいは別居をしないこと、というのが入っていたんだ。もし彼がそういうことをしたら、その金はテル・アヴィヴに孤児院をたてる基金として贈られることになっていたんだよ。  シグマンドは非常に困難な立場に立たされ、誰かがハイミー伯父に会いにいくようにすすめなかったら、どんなふうに解決していたか、ちょっと見当もつかないんだ。シグマンドはその提案にまるで乗り気ではなかったんだが、絶望的な苦境から脱け出すには、非常手段が必要だったわけだ。そこで出かけていったんだよ。  ここで説明しておいた方がいいと思うんだが、ハイミー伯父というのは、非常に高名な生理学の教授で、いくつも論文を発表している英国学士院の会員なんだ。その当時、彼は大学の理事とけんかしたために、いささか金につまり、お気に入りの研究計画のいくつかを中止しなければならないような状態に追いこまれていたんだな。彼のいらだちにさらに追い打ちをかけるように、物理学科は新しいシンクロトロンを購入するために、五十万ポンドを交付されたんで、あわれな甥が訪ねてきた時、上機嫌というわけにはいかなかったんだ。  消毒剤と実験動物の鼻をつくにおいを無視しようと努めながら、シグマンドは何列にもならんだ、わけのわからない装置の間をぬけ、ねずみやモルモットの檻をとおりすぎて、壁を大きくふさいでいる、ぞっとするような色の図表から何度となく目をそらしながら、研究所の雑役係の後についていったんだよ。すると、伯父はベンチに坐って、ビーカーからお茶を飲み、上の空でサンドイッチをもぐもぐやっていたんだ。  そして、「一つどうだね」と、不愛想にいったんだ。「ロースト・ハムスターだ。うまいぞ。癌のテストに使った中の一匹だよ。どうしたんだね?」  食欲がないのだと断わって、シグマンドは高名な伯父に、その悩みを打ちあけたんだな。教授はたいして同情も示さずに耳をかたむけていた。 「何で結婚なんかしたのか、わしにはわからんな」と、彼はついにいったんだ。「まったく時間のむだだよ」ハイミー伯父は奥さんがいないのに五人の子供をもうけ、結婚という問題に関しては、強硬な意見をもっていることで知られていたんだ。「しかし、まあ何とかできるかもしらんな。いくら持っとるんだ?」 「なぜです?」と、シグマンドとしてはいささかたじたじとなって訊いたわけだ。すると、教授は腕をあげて研究所の中を指し示したわけだよ。  そして、「こいつを維持していくには、たいへんな金がかかるんだ」といったんだ。 「でも、大学の方で――」 「そりゃそうだ。しかし、特別な仕事は、大学に知れないようにやらにゃならんのでな。大学の金をそのために使うわけにはいかんのだよ」 「で、仕事にかかるのに、どのくらいいるんです?」  すると、ハイミー伯父は、シグマンドが怖れていたよりもかなり低い額をいったんだ。が、彼の満足は長くはつづかなかったんだな。この科学者はルービン大伯父の遺書のことを詳しく知っているということが、すぐに明らかになったんだ。で、シグマンドは、五年後にその金が手に入ったら、彼にも分け前をあたえるという契約書を書かなければならなかったんだよ。現在の支払いは、ほんの前渡し金だというわけさ。 「それでも、わしは何も約束はせんぞ。しかし、何とか手を打ってみてやろうしと、ハイミー伯父は小切手を慎重に調べながらいったんだ。「一月たったら、また訪ねてきてごらん」  その時、噴霧器で吹きつけたのではないかと思えるほどぴったりしたセーターの、飾りもののような助手の方に、教授の注意が向けられてしまったので、シグマンドが彼から引き出せたのはそれだけだったんだ。二人は、すぐどぎまぎする性質《たち》のシグマンドがあわてて逃げ出さずにはいられなかったような言葉で、研究所のねずみの家庭の事情について話しはじめたんだよ。  ところで、反対給付をあたえられるという自信がかなりなければ、ハイミー伯父も、シグマンドから金を受け取るようなことはしなかったろうと思うんだ。したがって、大学が研究費を打も切った時には、彼の研究はもう一歩で完成するところまでいっていたに違いないと思うんだな。じゃなかったら、現金を受け取ってから一カ月後に、期待に胸をはずませている甥の腕に注射したくすりを、それがいかなる薬品を複雑に混ぜあわせたものであれ、たった四週間で作り出せたわけがないんだ。その実験は、ある晩おそく、教授の自宅で行なわれたんだよ。例の女性の助手が同席しているのに気がついても、シグマンドはあまり驚かなかったんだ。 「このくすりは、どんな効果があるんです?」と、彼は訊いたんだな。 「おまえのいびきをとめてくれるんだよ。すくなくともわしは、そうねがっとるんだ」と、ハノミー伯父は答えた。「さあ、ここに坐り心地のいい椅子と、雑誌がたくさんある。もし副作用があるといけないから、アーマとわしで、かわるがわる様子を見ててやるからな」 「副作用?」と、シグマンドは腕をさすりながら、心配そうに訊いたんだ。 「心配するな。安心しといで。二時間もすれば、効くかどうかがわかるからな」  というわけで、シグマンドは眠けが訪れるのを待ち、その間、二人の科学者は、血圧や脈搏や体温を計って、シグマンドを慢性の病人のように感じさせたりしながら、彼のまわりで何やかめやごそごそやっていたんだ。二人がお互いに相手に対してもごそごそやっていたことはいうまでもないがね。真夜中になっても、シグマンドはまるっきり眠けを感じなかったが、教授と助手は立ってはいるものの、死んだようになってしまったんだな。シグマンドは、二人が自分のために長時間働いてくれていることに気づき、感謝の気持ちを抱いたんだ。そして、その感謝の気持ちは、それがつづいた短い間は、人の心をうつ純粋なものだったんだよ。  真夜中が訪れ、過ぎ去っていった。アーマがついに居眠りをすると、教授はとてもやさしくとはいえないようなやり方で、長椅子に寝かせたんだ。  そして、「まだほんとに疲れを感じないのか?」と、シグマンドにむかってあくびをしたんだよ。 「ちっとも。妙ですね。普通なら、今ごろはぐっすり眠りこんでるはずなのに」 「どこも、まったく異常はないか?」 「こんなに気分爽快なのははじめてですよ」  教授はまた大きなあくびをもらした。そして、「わしも打っとけばよかったな」ってなこともいって、肘かけ椅子にへばりこんじゃったんだよ。 「何か異常を感じたら」と、彼は眠そうにいった。「どなるんだぞ。これ以上つきあっててもしようがないからな」そして、一瞬後には、まだきつねにつままれたように感じていたとはいえ、シグマンドはその部屋の中で意識のある唯一人の人間となっていたんだ。  二時までに、彼は、談話室から持ち出すべからず≠ニいう判の押してある〈パンチ〉を、十冊以上読み終わっていたんだよ。四時には〈サタデー・イヴニング・ポスト〉を全部読み終わっていた。何冊かの〈ニューヨーカー〉が五時まで時間をつぶしてくれたが、その時、彼はちょっとした幸運にめぐりあったんだな。おいしいキャヴィアもたてつづけに出されると飽きがくるってわけで、ぐにゃぐにゃの、大勢の人が読んだ跡のある『ブロンド娘は燃えていた』という一冊を見つけて、シグマンドは大よろこびしたんだよ。この本が明け方まで彼の興味をかきたててくれ、明け方が訪れるとともに、ハイミー伯父は体をびくっと震わせると、椅子からさっと立ちあがり、狙いあやまたぬ手練の一打ちでアーマをたたき起こし、ついで、シグマンドに注意を集中したんだ。 「よし、うまくいったぞ」と、彼は心からたのしげにいい、とたんに、シグマンドの胸には疑惑のかげが忍びよったというわけだ。「これで、おまえの望みを達してやったわけだ。おまえはいびきをかかずに一晩すごしたんだよ、違うか?」  そして、シグマンドは、今や彼女の協力、あるいは協力の欠如も、何の影響もあたえられない立場に追いやられた、燃えているブロンド娘から手をはなしたんだ。 「たしかにいびきはかきませんでしたね」と、彼は認めた。「しかし、ぼくは眠りもしなかったんですよ」 「おまえはまだちっとも眠気を感じないだろう?」 「ええ――。わけがわからないんです」  そこで、ハイミー伯父とアーマは、勝ち誇ったように顔を見あわせたんだ。「おまえは歴史を作ったんだぞ、シグマンド」と、教授はいった。「おまえは眠らずにすむ、最初の人間なんだ」そして、驚いてはいるが、まだ怒ってはいないモルモットに、詳細が打ちあけられたんだ」  ハリー・パーヴィスはいささかあいまいな口調でつづけた。 「多くの諸君が、ハイミー伯父の発言について、科学的な詳細を知りたがっているということはわたしにもわかっているんだ。しかし、それはわたしも知らないし、たとえ知っていても、ここで発表するには、あまりにも技術的すぎることだろう。疑い深い人なら、懐疑的とでもいうような表情が二、三見えるので、このようなクスリの開発については、とくに驚くべきことはないのだ、ということだけを指摘しておこう。結局のところ、睡眠というのは、非常に個人差のある要素なんだからね。死ぬまで一日二、三時間の睡眠でことたりていたエディソンを見てみたまえ。人間は永久に眠らずにすごすことはできない、というのは事実だが、ある種の動物にはそういうことが可能なんだから、睡眠というのは、新陳代謝にかくことのできないものではないんだ」 「どんな動物が、眠らずに生きていかれるんだ?」と誰かが、彼のいったことを信じないというよりも、純粋な好奇心から訊いた。 「うん、まあ――。そうだ! 大陸棚の先の深海に棲む魚だよ。そういう魚は眠っちゃったら、他の魚にくいつかれるか、バランスを失って、海底に沈んじゃうかどっちかだからな。というわけで、連中は一生目をさましつづけていなきゃならないんだよ」(ところで、わたしはいまだにこのハリーの話がほんとうかどうかをつきとめようとしているのだ。一、二度、疑いの目はむけたことがあるのだが、彼の述べた科学的事実の誤りを見破ったことはいまだかつて一度もないのである。しかし、話をハイミー伯父のことに戻そう)。 「シグマンドが」と、ハリーはつづけた。「自分の身にいかに驚くべきことが行なわれたのかということを理解するまでには、かなりの時間がかかったんだ。睡魔の暴威から解放された今、彼の前に開かれた輝かしい可能性を強調した伯父の熱弁が、この問題に精神を集中することを困難にしていたんだな。しかし、間もなく、彼も気にかかっていた質問を発することができたんだ。 「これは、どのくらいの期間つづくんですか?」と、訊いたんだよ。  教授とアーマは顔を見あわせた。ついで、ハイミー伯父はいささか神経質に咳はらいすると、答えたんだな。「それはまだはっきりとはいえないんだ。これからつきとめなければならないことの一つなんだよ。が、この効果が永久的なものであるということも、大いにありうるんだ」 「ということは、ぼくは二度とふたたび眠れないってことですかっ」 「いや、眠れない、というんじゃないんだ。眠りたくないんだよ。しかしながら、もしおまえがほんとに心配ならば、その効果を逆転させる方法を考えだすことも、おそらくできるだろう。大金がかかるがね」  つねに連絡を取り、毎日の経過を報告すると約束して、シグマンドはあわてて帰っていった。彼の頭はまだ混乱していたが、まず細君をつかまえて、もう二度といびきをかかないってことを納得させなきゃならなかったんだよ。  細君はよろこんで彼の言葉を信じてくれ、感動的な再会となったわけだ。しかし、翌朝の二時三時となると、話し相手もなくベッドに横になっているのがたまらなく退屈になったので、やがて、シグマンドは眠っている細君の傍らから忍び足ではなれていったんだな。はじめて、自分のおかれた立場がいかなるものであるかということが、シグマンドにもわかってきたんだ。ほしくもないのにあたえられた、毎日八時間の余分な時間を、これから先いったいどうやってすごせばいいのか? われわれも時間さえあれば身につけたいと思っている教養を身につけて、より充実した人生を送るという、すばらしい、実際、まったく前例のない機会を、シグマンドはえたと思う人もいるだろう。多くの人にとってはただの表題でしかない偉大な古典を読破することもできるのだ。美術や音楽や哲学を勉強することもできるし、その心を、人間の叡智の生んだ至宝で満たすこともできる。事実、今現在でも、多くの諸君はおそらく彼をうらやんでいるに違いないんだ。  しかしまあ、そううまくはいかなかったんだな。実際のところは、たとえ最高級の頭脳でも、何らかのくつろぎが必要であり、果てしなくまじめな問題の追求をつづけることはできない、というわけなんだ。シグマンドがその後睡眠をとる必要がなかったということは事実だが、長く、空虚な、暗い時間をつぶすために、娯楽が必要だったんだよ。  文明は、眠ることのできない男の要求に適合するようにはできていない、ということを、彼は間もなく発見したんだ。彼がパリかニューヨークに住んでいたら、まだいくらかよかったかもしれないが、ロンドンでは、ほとんどすべての店が午後十一時にはかんばんになり、十二時になっても開いているのは、ごくわずかな喫茶店だけで、それも一時には――まあ、その後まだ開いているような店については、あまりしゃべらない方がいいだろう。  最初のうちは、お天気のいい時には、長い散歩で時間をつぶしたんだが、何やかやと根ほり葉ほり訊く、疑い深いお巡りに何度か出会うと、彼は散歩をあきらめちゃったんだ。それで、今度は車を持ち出し、丑満時にロンドン中を走りまわって、今までそんなところがあるのも知らなかったような妙なところを、いろいろと発見したってわけだ。そして間もなく、みんなが眠っている間に働かなきゃならないフリート街の新聞記者や印刷工をはじめ、大勢の夜警や、コヴェント・ガーデンの運搬人や、牛乳配達と挨拶をかわすような仲になったんだ。しかし、シグマンドは人間というものに大いに興味を抱くような種類の男ではなかったんで、この時間つぶしにもたちまち飽きてしまい、また自分一人で何とか暇をつぶさなければならなくなってしまったんだよ。  当然予想されたことかもしれないが、細君は彼の夜ごとの放浪を、すこしもよろこばなかったんだ。シグマンドはすべてを彼女に打ちあけていたし、細君としても、信じがたいことではあったが、自分の目で確かめた証拠は認めざるをえなかったんだな。しかし、そうはいっても、夜中の十二時ごろになると忍び足で出ていき、朝飯まで戻ってこない夫よりは、いびきをかいても、一晩中家にいる夫の方がましなように思えたんだ。  これは、シグマンドを大いにあわてさせたんだよ。事あるごとに、レイチェルに思い出させていたように、彼は大金を使った上に、あるいは、大金を支払うと約束した上に、その不愉快な病いをなおすために、かなりの危険もおかしたわけなんだな。ところが、細君は感謝しているか? とんでもない。眠っているべき時間をいかにすごしたか、逐一報告するように求めただけなんだ。彼女の態度は不公平でもあり、信頼の欠如を示してもいたわけだよ。それが、彼としてはがっくりきたんだな。  非常に一族の結束がかたいスノーリング家としては、どうやら一族の中だけにとどめておくことに成功したとはいうものの、この秘密はじわじわと親類の間にひろまっていったんだ。ダイアモンドを扱っているローレンツ伯父は、働ける時間を無駄にするのはいかにももったいないから第二の職業、夜の勤めに出るようにとすすめた。そして、夜でも昼でも同じようにかんたんにでき、一人でできる仕事のリストを作ってくれたんだが、シグマンドは丁重に礼を述べ、二重に所得税を払うのはまっぴらだからといって断わってしまったんだよ。  二十四時間限覚めているようになってから六週間がすぎるころには、シグマンドはもうこれ以上耐えられないところまで追いこまれてしまったんだ。これ以上、一冊の本も読めなければ、ナイト・クラブへいく気にもならず、レコードを聞くのもたくさんだという気持ちになっちゃったんだな。多くの愚かな男なら一財産払ってでも手に入れたがるような、彼の偉大な能力が、耐えがたい重荷となってしまったんだよ。もはや、ふたたびハイミー伯父を訪れるほかなかったってわけだ。  教授は、いずれ彼がやってくることを予期していたので、告訴するといって脅かす必要も、スノーリング家の結束に訴える必要も、契約の破棄について荒々しくまくしたてる必要もなかっかんだ。 「わかったよ、わかったよ」と、科学者はつぶやいた。「わしだって、ねこに小判を押しつけようとは思わんさ。遅かれ早かれ、眠れるようになるくすりを欲しがることがわかってたんだ。わしは金のことにはこまかくない男だから、五十ギニーでいいよ。しかし、前よりもひどくいびををかくようになっても、わしをうらまんでくれよ」 「その危険は覚悟の上です」と、シグマンドは答えた。どっちみち、そのころには、シグマンドとレイチェルは寝室を別にするようになってしまっていたんだ。  教授の助手が(といっても、今度はアーマではなく、角はった顔のブルネットだったが)、ぞっとするほど大きな注射器に、ハイミー伯父が作りあげた最新のくすりを満たすと、彼は目をそむけてしまった。そして、その半分も注射されたいうちに、眠りこんでしまったんだよ。  めずらしく、ハイミー伯父は心から当惑したような顔をしていったものだ。「こんなにはやく効くとは思わなかったな。さて、奴をベッドへ運ぶか。研究室に寝かしとくわけにはいかんかしな」  翌朝になっても、彼はまだぐっすりと眠りこんでいて、どんな刺激に対しても反応を示さなかったんだ。呼吸は感じとれないほどだし、熟睡しているというよりも、昏睡状態のような感じがしたんで、教授もいささか心配になってきたんだよ。  しかし、彼の.心配も長くはつづかなかったんだ。数時間後、一匹の怒ったモルモットが彼の指にかみつき、彼は敗血症を起こして、〈自然〉の編集者は、最新号の印刷にかかる前に、かろうじて死亡記事を入れることができたというわけだったんでな。  この騒ぎの間、シグマンドはずっと眠りつづけ、一族がゴールダーズ・グリーン火葬場から戻ってきて、重要な親族会議のために集まった時も、まだ知らぬが仏ですやすや眠りつづけていたんだ。善きことにあらざれは、死者については何事も語るな、とはいうものの、今は亡きハイミー教授がまたもや不幸な誤りをおかしてしまったということは明らかであり、それを解決するにはどうすればいいか、誰にもわからなかったんだな。  マイル・エンド・ロードで家具店をやっているいとこのメイヤーは、店にあるベッドの寝心地のよさを宣伝するために、彼をショー・ウィンドのディスプレーに使ってもよければ、シグマンドを引き受けると申し出たんだ。しかしながら、あまりにも品位を傷つけるということで、一族はその計画を拒否してしまったんだよ。  しかし、その提案は彼らにいくつかのアイデアをあたえたんだ。そのころになると、彼らもシグマンドをいささかもてあましていたんだな。極端から極端にはしるところが、どうにもやりきれなかったんだ。それで、なるべくかんたんにことをすまそうということになってしまったんだよ。ある気のきいた人物の言葉をかりれば、寝た子は起こすな、眠れるシグマンドはやすらかに眠らせておけ、ってわけだ。  ますます事態を悪化させるかもしれないような、金のかかる専門家をこれ以上よんでもしようがないってことになったんだよ。(どうすれば、これ以上まずいことになるのかは、誰にも想像もできなかったんだけどね)。シグマンドを養っていくのには、まったく金がかからなかったしほんのちょっとした医者の手当てが必要なだけだった上に、眠っているかぎり、ルービン大伯父の遺書の条件を破る心配もないっていうわけだ。こういった主旨を、うまいことレイチェルに話すと、彼女はその正しさをはっきりと理解したんだ。彼女としてはかなりの忍耐が必要だったが究極的な報酬もまたかなりのものとなるはずだったんだな。  レイチェルとしては、この考えを検討すればするほど、気にいってきたんだ。金持ちの半未亡人という考えは、彼女の心に訴えるものがあったんだよ。そこには、興味深く、目新しい、さまざまな可能性があるってわけだ。それに、実をいうと、彼が遺産を相続するまでの五年間は充分にもつぐらい、シグマンドを堪能していたんだよ。  そうこうするうちに時期がきて、シグマンドは百万長者とまではいかないまでも、その半分の半分ぐらいの金持ちになったんだ。しかしながら、彼はまだぐっすりと眠りつづけており、しかも、その五年の間に、ただの一度もいびきをかかなかったんだ。たとえどうすればいいかがわかっていても、起こすのがかわいそうなぐらい、眠りつづけている彼の顔はやすらかだったんだな。レイチェルはへたなことをすると不幸な結果になるかもしれないと強く感じ、親族も、シグマンドの財産のうち、彼女に手のつけられるのは利息だけで、元金には手をつけてはいけないと念を押したあげく、彼女の考えに同意することになったんだ。  それが、数年前のことなんだ。わたしが最後に消息を聞いた時、彼はまだやすらかに眠りつづけていたよ。そしてレイチェルは、リヴィエラですばらしい毎日を送っているとのことだった。諸君もすでに気づいているかもしれないが、彼女は非常に目先のきく女であり、老後のために、若い夫を冬眠させておくことの都合のよさに、気づいているんじゃないかと思うんだ。  白状すると、ハイミー伯父がそのすばらしい発見を世間に発表する間がなかったというのは残念だったと思える時が、時どきあるんだよ。しかし、シグマンドが、われわれの文明はそういう変化に適するところまでまだ発達していないということを証明してくれたんで、どこかの生理学者がまた同じことをやりはじめた時、そばにいたいとは思わないね」  ハリーは時計に目をやった。 「驚いたな!」と、彼は叫んだ。「もうこんな時間だなんて、思ってもいなかったよ。半分眠ってるみたいな感じだ」  そして、ブリーフ・ケースを取りあげ、あくびを噛み殺すと、わたしたちにむかってにこやかに微笑《ほほえ》みかけて、 「ではみなさん、いい夢を」 [#改ページ] [#ページの左右中央]    アーミントルード・インチの窓外放擲      The Defenestration of Ermintrude Inch [#改ページ]  さて、わたしはここで短いながらも悲しい義務を遂行しなければならない。ハリー・パーヴィスに関する多くの謎の一つは、ハリー・パーヴィス夫人が存在するかどうかということだった。そのほかのすべての面では、いろいろとしっぼを出すのだが、ことこの点に関してだけは、皆目見当もつかなかったのだ。彼が結婚指環をしていないのは事実だが、近ごろでは、そんなことはたいした意味をもっていない。ホテルの主人にいわせれば、してたからといって結婚しているとはかぎらないように、していないからといって独身とはいえないそうである。  わたしの友人に、ポーランド人で、英語はあまり達者ではないのだが、女性に対してはあくまでも慇懃な男がいた。女性とみれば誰でも淑女扱いするのだ。他人のそういう態度まで癪《しゃく》のたねだということを、ハリーは多くの物語の中であからさまに示してきた。ハリーの最後の物語が、彼が結婚していることをまずほのめかし、ついで、その決定的な証拠を授供したというのは、奇妙な偶然からだった。 |窓 外 放 擲《ディフェニストレーション》≠ネどという言葉を、誰が持ち出したのか、わたしは知らない。とにかく、あまりよく使われる抽象名詞でないことはたしかである。おそらく、はっとするほど博学な若い連中の一人だろう。彼らの中には大学を出たばかりの連中も何人かいて、われわれ古狸に、まるで青二才で、無知蒙昧の徒になったような気持ちを抱かせるのだ。しかし、その言葉から、話は当然のことながら、そういう行為のことに移っていった。われわれの中に、窓から投げ捨てられたものがいるか? 誰かそういう目にあったものを知っているか? 「ああ」と、ハリーはいった。「わたしが前に知っていた、ある口数の多いご婦人がそういう目に会ったんだよ。アーミントルードという名前で、B・B・Cの音声担当技師をしていた、オズバート・インチという男の女房だったんだ。  オズバートは、勤務中はほかの人たちがしゃべるのを、自由な時間の大部分は、アーミントルードがしゃべりまくるのを聞かされてすごしていたんだ。不幸にして、アーミントルードの方はつまみをまわしてスイッチを切ってしまうわけにいかなかったんで、めったに言葉一つはさむわけにもいかなかったんだな。  女の中には、自分が口をつぐむことができないという事実に、ほんとうに気づいていない連中もいるんだよ。そして、誰かが一人でしゃべりまくっているといって抗議すると、びっくり仰天しちゃうんだな。アーミントルードは目をさましたとたんからしゃべりはじめ、八時のニュースに負けないようにギアを入れかえ、オズバートが時間になるとほっとして勤めに出かけていくまで、のべつまくなしにしゃべりまくっていたんだ。こういったことが二年もつづくと、彼の神経は壊滅寸前のところまで追いこまれちゃったんだが、ある朝、細君が待ちに待った喉頭炎にかかると、一人でしゃべりまくることについて、猛然と抗議したんだよ。  彼としてはどうにも信じられないことに、彼女はその抗議を受け入れることを頭から拒否したんだ。ひとたびしゃべりだすと、アーミントルードにとっては、時間など存在しなくなっちゃうらしいんだな。しかし、誰かほかの人にお株を奪われると、あくまでも反抗的になっちゃうんだ。ふたたび声が出るようになると、とたんに、彼女はオズバートが根拠のない非難をあびせたことの非をならしてまくしたてはじめ、議論は辛辣をきわめるものだったと想像されるんだ。アーミントルードを相手に議論をすることが可能ならば、の話だがね。  その結果、オズバートは腹をたてると同時に、死にものぐるいになったんだな。しかし、彼はまた発明の才のある男でもあったんで、自分が一音節しゃべる間に、アーミントルードは百語もまくしたてるという動かしがたい証拠を突きつけられるということに気がついたんだ。彼がオーディオの技術者だったということは話したろう。彼の部屋には、ハイ・ファイのセットやテープ・レコーダー、それに、彼の専門の電子関係の商売道具などがそろっていたんだ。その一部は、B・B・Cが自分でも知らない間に供給していたわけなんだけどね。  彼が言語選択計数器≠ニでもいうべきものを作りあげるのに、そう長くはかからなかったんだ。諸君にオーディオ工学の知識がいくらかでもあれば、適当なフィルターと区分回路を使うことによって、いかにしてそういうことができるかということを理解できるはずなんだ。が、もしその方面の知識がないなら、そういうものだと思ってもらうほかないな。その装置がやったのはこういうことにすぎないんだよ。インチ夫妻が家の中でしゃべる言葉を、一つ残らずマイクが払いあげ、オズバートの低い声は一方の回路に流れて、彼≠ニ書いてある計数器に記録され、アーミントルードの周波数の高い声は、別の方向に流れて、彼女≠ニかいてある計数器に記録される。  スイッチを入れて一時間たらずの間に、そのスコアは次のようになったんだ。    彼     二三    彼女  二五三〇  計数器に数字がひらめくたびに、アーミントルードは次第に考えこむようになり、それと同時に、黙りがちになっていったんだ。一方、勝利を祝して頭にくる安ぶどう酒をのんでいたオズバートは(傍目には、朝の紅茶をのんでいるように見えただろうが)、勢いに乗じて、非常に口数が多くなったんだな。そして、勤めに出かけた時には、二つの計数器は微妙な情勢の変化を反映していたんだ。    彼   一〇四三    彼女  三三九七  どちらが正しいかを示すために、オズバートはその装置のスイッチを入れたままにしておいたんだな。自分のしゃべっていることを聞く相手がいない時にも、アーミントルードは無意識のらちに一人でしゃべっているのだろうか、と彼は前から考えていたんだ。ところで、彼は慎重にも、自分の留守中に彼女が計数器のスイッチを切れないように、鍵をつけておいたんだよ。  その夕方、勤めからかえって、数字がまったく変わっていないのを発見すると、彼はいささかがっかりしたんだが、その後、またたちまちスコアがあがりはじめたんだ。あくまでも真剣なものだったが、それは一種のゲームのようになり、どちらかが一言でもしゃべると、相手はじっとその器械に目をそそぐようになったんだな。アーミントルードは明らかにうろたえていた。何度となく、おしゃべり病がぶりかえし、最大限の自制心を発揮して口をつぐんだ時には、二百ばかりメーターがあがっている、という具合だったんだ。まだおしゃべりをたのしむ余裕がある程度にはリードを保っていたオズバートは、いくらかスコアがあがってもそれだけの価値はあるような、皮肉な言葉を吐いてはたのしんでいたんだよ。  インチ家における夫婦の平等は恢復されたけれども、言語計数器は、その軋轢をさらに激しいものにしたんだな。やがて、人によってはずるさとよぶかもしれないが、一種自然の知恵を身につけているアーミントルードは、夫の人のよさに訴えたんだ。一言一言がモニターされ、かぞえられている間は、二人ともほんとうに自然には振舞っていない、ということを指摘したんだよ。オズバートは不公平にも彼女だけにスコアをあげさせたあげく、警告を発するスコアが彼の前になければ、そこまで無口になるとは考えられないほど、自分はしゃべらないようにしている、というわけなんだな。その非難はあまりにも厚かましすぎるといって黙らせはしたものの、オズバートとしても、その抗議にいささかの真実が含まれていることは認めざるをえなかったんだ。二人とも次第にふえていくスコアを見ることができなければ、このテストはより公平で、より決定的なものになるだろう。もし二人がこの装置の存在を忘れて、まったく自然に、あるいは、すくなくとも、こういう状態において、彼らに可能なかぎり自然に振舞えば、だ。  さんざんやりあったあげく、二人は一つの妥協点を見出したんだよ。オズバートにいわせればたいへんなスポーツマンシップを発揮して、彼はダイアルをゼロに戻し、誰にもスコアがのぞけないように、計数器の窓をふさいじゃったんだ。二人で拇印を押したワックス・シールを、その遇の終わりに破り、その結果に従うことに、二人とも同意したんだよ。マイクをテーブルの下にかくすと、オズバートは計数器そのものを、彼のささやかな仕事部屋に移し、今や、居間には、インチ夫妻の運命の鍵を振っている、非情な電子番犬の存在を思わせるものは、何一つなくなったんだ。  その後、事態はゆっくりと正常に戻ったんだよ。アーミントルードは今までどおりのおしゃべりになったが、その一言一言が彼女につきつける証拠として根気よく記録されていることがわかっていたので、オズバートはいっこうに気にしなかったんだ。その週の終わりには、完全な勝利を味わえると思ってたんだな。彼としては、一日に二百語ぐらいしゃべっても大丈夫だと踏んでいたんだよ。アーミントルードがそれくらい五分でしゃべってしまうことがわかっていたんでね。  異常に話のはずんだ一日の終わりに、シールを破る儀式がおごそかに取り行なわれたんだ。その日は、ほとんど午後中ずっと、アーミントルードほ三回にわたって電話で、それこそつまらないことをぺちゃくちゃとしゃべりつづけていたんだよ。オズバートは十分おきににっこり笑って「何だい」というだけで、のっぴきならない証拠をつきつけられたら、女房はどんな言い訳を持ち出すだろう、なんてことを考えていたわけだ。  だから、シールが取りのぞかれ、一週間の総計が現われた時の彼の驚きを想像してくれたまえ    彼  一四三、五六七    彼女  三二、五九〇  オズバートはあっけにとられ、どうにも信じられないというように、この信じがたい数字を凝視《みつ》めていたんだ。何かがどうかしちゃったんだ。しかし、どこが? 装置に故障が起こったに違いない、と彼は判断したんだな。計数器が狂ったということを、彼がどんなに証明してみても、アーミントルードは相手にしないということがはっきりとわかっていたので、ことはどうにも厄介だったんだ。  オズバートが彼女を部屋から押し出し、狂った器械を分解しはじめた時も、アーミントルードはまだ勝ち誇ったように歓声をあげていたんだよ。ところが、半分ほど仕事をすすめた時、たしかに入れた憶えのないものが屑籠に入っていることに、彼は気づいたんだ。それは長さ二フィートはどのエンドレス・テープだったんだが、彼はもう何日もテープ・レコーダーを使ってなかったんで、なぜそんなものがそこにあるのか、どうしてもわからなかったんだな。彼はそれを拾いあげたんだが、拾いあげたとたんに、疑いが確信にかわったんだ。  テープ・レコーダーに目をやると、スイッチが、彼がとめておいた位置にないんだな。アーミントルードはずるがしこいところはあるんだが、同時に、不注意な女でもあったんだよ。オズバートは、何をやらしてもだめだと、何回となく文句をいってきたんだが、ことここに至って、決定的な証拠があがったというわけだ。  オズバートの仕事場には、彼が録音のテストのためにいれた声が入ったままの古テープが、あちこちに散らかっていたんだ。で、アーミントルードとしては、その一つを見つけて、いくつか言葉が入った部分を切り取り、その両端をつないで、テープ・レコーダーのスイッチを再生≠ノ入れ、マイクの前で何時間でもまわしっぱなしにしておくなんてことは、雑作ないことだったんだな。こんなかんたんな計略に気がつかなかった自分に、オズバートはかんかんになったんだ。もしテープがもっと丈夫だったら、きっとテープでアーミントルードの首をしめていただろう。  彼がそんなことをしようとしたかどうかは、いまだにはっきりしないんだ。われわれにわかっているのは、彼女がアパートの窓から落ちたということだけなんだよ。もちろん、それが事故だったということも考えられるんだ。しかし、インチ夫妻の部屋は四階だったんで、彼女に訊いてみるわけにはいかないんだ。  窓外に投げ捨てるという行為は、たいていの場合、故意に行なわれるものなんだな。で、検死官は鋭くその点を指摘したよ。しかし、オズバートが彼女を突き落したということは誰にも証明できなかったので、それっきりになってしまったんだ。そのおよそ一年後に、彼は唖で聾の美人と再婚したんだが、二人はわたしが知っている中で、もっとも幸せな夫婦の部類に入るだろうな」  ハリーが話し終わると、彼の話に対する不信の表明か、あるいはまた、今は亡きインチ前夫人の冥福を祈るためか、長い静寂が訪れた。しかし、誰も適当な言葉を発する間がないうちに、ドアがさっと開いて、泣く子も黙るような金髪女が〈白鹿亭〉に踏みこんできた。  実生活において、これほどみごとなクライマックスが用意されているということは、まったくめずらしい。ハリー・パーヴィスはさっと蒼ざめると、人ごみにまざれてかくれようとしたが、その努力は空しかった。彼はとたんに発見され、罵詈讒謗《ばりざんぼう》[#ルビは入力者が追加]をあびせられた。 「じゃあ、ここが」と彼女がどなるのを、わたしたちは興味津々の面もちで聞いていた。「あなたが水曜日の晩に、量子力学を講義する教室だったのね! 何年も前に、大学に問い合わせればよかったんだわ! ハリー・パーヴィス、あなたはとんでもない嘘つきね。嘘つきだってことがお友だちに知れようと、わたしはちっともかまやしないわ。それに、お友だちっていえば」――彼女は辛辣な目で、わたしたちを見わたした――「こんな薄汚い呑んだくれが、こんなに集まってるのを見たのは、ずいぶん久しぶりよ」 「ちょっと待ってくださいよ!」と、ドルーがカウンターの中から抗議した。彼女はじろっとにらんで彼の口を封じると、ふたたびあわれなハリーの方にむきなおった。 「ついてくるのよ」と、彼女はいった。「家へ帰るんですからね。いいえ、そんな飲み残りなんか飲まないでいいの! もう飲みすぎてるにきまってるんだから」 「わかったよ、アーミントルード」と、彼はおとなしくいった。           *  パーヴィス夫人はほんとうにアーミントルードという名前なのか、あるいは、ハリーがあまりの恐怖に茫然として、無意識のうちにそう呼んだだけだったのかという、長々とした、いまだに結論の出ていない議論で、読者諸兄姉をうんざりさせようとは思わない。ことハリーに関するかぎり、いかなることにも、みんなそれぞれに意見をもっているように、わたしたちはそのことについても、みんなそれぞれに意見をもっている。が、今問題なのは、あの晩以来、彼を見かけたものが一人もいないという、悲しくも明白なる事実なのだ。  その数カ月後、〈白鹿亭〉が人手にわたり、わたしたち常連がみんな、ドルーとその酒樽、とくに酒樽の後を追って、彼の新しい店に移ってしまったので、近ごろわたしたちが集まっている所を、彼が知らないということも考えられないことはない。わたしたちの毎週の集まりは、今では〈天球亭〉で行なわれており、ドアが開くたびに、ハリーがついに細君のもとから逃れ、わたしたちの居所を探しあててきたのではないかと、みんなが希望をこめて顔をあげるようになってから、もう久しい。わたしが今までお話してきたような物語を一本にまとめたのも、一部には、彼がこの本を見て、わたしたちの新しい溜り場を知ってくれたらと思ったからなのだ。  きみの言葉を一言も信じなかった連中でさえ、きみをなつかしがっているんだ、ハリー。ふたたび自由を確保するためには、アーミントルードを窓から投げ捨てることが必要なのだったら、水曜日の晩、六時から七時の間にやってくれ。そうすれば、きみのアリバイを用意してくれる連中が四十人は、〈天球亭〉にいるからな。しかし、とにかく何とかして戻ってきてくれ。きみがいなくなってから、どうも昔はどたのしくないんだ。 [#改ページ]    科学的|ほ ら 話《トール・ストーリイ》≠フ傑作 [#地から2字上げ]安 田  均  本書は一九五七年に、SF叢書としてはもっとも著名なバランタイン・ブックスから刊行されているが、そのリチャード・パワーズの魅力的な絵のはしに、サイエンティフィック・トール・ストーリイズ≠ニいうひき文句が刷りこんである。トール・ストーリイズ≠ヘ直訳すると高い話≠セが、辞書をひもとくと、たいていほら話≠ニか何とかの訳語が載っている。つまり、この文句は科学的なほら話≠ニいう意味なのだ。もっとも近ごろでは、SF(サイエンス・フィクションではなくエス・エフと読んでください)そのものを、科学的な(?)ほら話ではないかという説もあるくらいだから、そうなるといささか同義反復的ともなる。もちろんこの時代では文字どおり、ほら話のSF版≠ニいうようなニュアンスで使ってあるのだろう。  そもそも、いまここで辞書の訳語ほら話≠トール・ストーリイ≠ニ同一のものとして気楽に使ったが、実はこれにはもう少し説明がいる。たとえば、各国にはそれぞれ特徴のあるユーモア形態というのがあって、そうした性質を知っていればいるほど、こちらの楽しみも倍加するわけだが、このトール・ストーリイ≠るいはトール・テイル≠アそ、アメリカの伝統的なユーモアの根幹をなすものなのだ(クラークはイギリス人じゃないか、との声も聞えてきそうだが、その点は後で説明しよう)。それは、確かにほら話≠ナはあるのだけれど、日本語にあるいいかげんな奴∞うそ≠ニいった語感はまったくなく、もっとナンセンスに近い、また積極性をも持つ言葉だといえるだろう。『アメリカほら話』(筑摩書房)の山屋三郎氏の解説によると、アメリカに特有のユーモアは大ざっばにいって三つにわかれるそうで、一つは、ニュー・イングランドから出たヤンキー行商人の皮肉で風刺にみちた現実的ユーモア、二つ目は、黒人の抑圧された哀感の漂うユーモア、そして残りが、このトール・テイル≠ニ呼ばれるほら話になるという。そして、これは地域からいうと、当時開拓されはじめたばかりの西部や南部で生れたそうだ。 「つまり、ほら話は当時まだ未開の西部や南部の奥地へ入りこんでいった開拓者(のちに奥地住民の名で呼ばれます)や木こりや猟師や、また当時の唯一の交通機関だった河川(ミシシッピーやオハイオ河など)の船乗りのあいだから生れたのです。彼らは集落の酒場でウィスキーをあおったり、森のなかのキャンプでたき火をかこんで集まったりすると、お互いに自分の勇気や腕力や、戦いの巧みさや頭のよさを誇って、誇大もうそう的な話(つまりほら話)をはじめるのです」(同書)  どうだろう。これこそ、本書の〈白鹿亭〉のフンイキそのものじゃないだろうか。科学者を新しい開拓者と考えるなら……。それはともかく、こうした|ほ ら 話《トール・ストーリー》≠フ伝統はアメリカSFに脈々とうけつがれていて、この国のユーモアSFというと、ヘンリイ・カットナー、フレドリック・ブラウン、R・A・ラファティなど、まずこうしたトール・ストーリイ#hが第一にあげられるようだ。そして、このトール・ストーリイ≠フ中でも、もっとも純粋な形のものが、本書なども含まれる酒場でのバカ話というスタイルをとるものなのである。  この形式で、SFでまずとりあげられるべきなのは、本書の序文にもその名が出ているスプレイグ・ディ・キャンプとフレッチャー・プラットの『ギャヴァガン亭綺譚』だ。これは、クラークが『白鹿亭綺譚』を書くよりも一足早く、一九五〇〜五三年にかけて書きあげられたもので、設定は同じく〈ギャヴァガン亭〉という酒場。ただ語り手は各話ごとに変わり、それをバーテンのコーハンや常連が聞くという展開をとる。もっとも、その話題は、品種改良によって蝿はどの大きさになった象がカウンターをうろついているとか、小さな亀を飼っていたのに失くしたといって嘆くこととか、アイルランドから小妖精を仕入れた話など、どちらかといえば超自然的なテーマが中心となっている。ユーモアもクラークのものとはかなりちがい、もっと野放図な感じである意味ではよりトール・ストーリイ%Iともとれるだろう。  ともかく、こうして一九五〇年代には、この〈ギャヴァガン亭〉と〈白鹿亭〉という二大酒場が大西洋をへだてて並びたったため、以後しばらくはこの事の話が下火となってしまった。そして、十年以上たった一九七〇年代に再びこの形式が息を吹きかえすのである。目立ったものは、スパイダー・ロビンスンの〈キャラハン亭〉と、ラリイ・ニーヴンの〈ドラコ亭〉だ。ロビンスンの方は、まさに〈ギャヴァガン亭〉を意識したもの。名前からしてよく似ているが、ストーリイのほうも、〈キャラハン亭〉に現われるいろんな客が、ちょっと信じられない話をするという基本パターンを踏襲している。もちろん、特色もあって、その一つは駄ジャレの激しいこと。SFマガジン誌一九七九年十月号に「キャラハン亭の夜もふけて」という作品が訳されているので読まれればそれがどんなものかわかろうというものだ。一方、ニーヴンはいかにもこの作者らしく、舞台は宇宙酒場。ここにいろんな奇怪な生物が現われてはくだをまく、という趣向になっている。ロビンスンもニーヴンも現役バリバリの作家だから、まだまだこの二つのシリーズは書きつがれていきそうで、われわれはどんな新しいパターンを見せてくれるか、この二人に注目したいところだ。  さて、『白鹿亭綺譚』に話をもどすが、先にも述べたようにここに収められた十五の話は、基本的にすべてこのトール・ストーリイ≠フ伝統をつぐものだ。映画セットの軍拡競争、とつぜん出現した無重力場、氷山をマイアミまで運んでくる……ただ、ここで留意したいのは、さすがにクラークらしく、これらの話の中核には科学的なアイデアがほとんどつまっているということだ。その点が、たとえばファンタジイとなってしまう『ギャヴァガン亭綺譚』などとは一味ちがったものになっており、クラーク・ファン(あるいはハードSFファン)にはたまらないところだろう。じっさいほら話≠ニいうのは、放っておけばどんどん膨らむばかりのもので、クラークはこれに科学≠ニいうふくらし粉≠ニ同時に型≠ノなるものを使ったというのがミソなのである(もちろん、レムの『泰平ヨンの航星日記』のように、その科学的アイデアが観念にまで昇華されるということはここではないが。あくまで『白鹿亭綺譚』は形而下レベルで展開するのである)。  最後に一つつけ加えておきたいのは、話の根幹はこうしてアメリカのトール・ストーリイ@ャなのだが、そのところどころにやはりクラークの生国イギリスの匂いがかなりまじっていることだ。酒場といっても〈白鹿亭〉ほどうみてもブリティッシュ・パブであり、またクラークのユーモア自体、野放図さよりも知的なくすぐりを中心としたイギリスならではのものである。もっとも、こうしたブレンドが、いかにも国際人らしいクラークをあらわしてもいる。  いずれにせよ、本書におさめられた作品が書かれたのは、一九五三〜五七年と、彼の長篇でいぅなら『幼年期の終り』、『都市と星』、『海底牧場』などの最盛期にあたる。アイデアが、つぎつぎと浮んでとまらないという様子がこの短篇集にもあらわれているといえるのではないか。 --------------------------------------------------------------------- 底本 ハヤカワ文庫<SF404>白鹿亭綺譚《はくしかていきたん》  一九八〇年八月三十一日 発行  二〇〇八年六月 三十日 八刷 著者 アーサー・C・クラーク 訳者 平井《ひらい》イサク (一般小説) [アーサー・C・クラーク] 白鹿亭綺譚(ハヤカワ文庫SF).zip テキスト化:スチール 公開:2011/04/10 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