2061年宇宙の旅 アーサー・C・クラーク 山高昭 訳 [#(img/03/000a.jpg)入る] [#(img/03/000b.jpg)入る] [#(img/03/000c.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/03/001.jpg)入る] [#(img/03/002.jpg)入る] [#(img/03/003.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/03/005.jpg)入る] [#(img/03/006.jpg)入る] [#(img/03/007.jpg)入る] [#(img/03/008.jpg)入る] [#(img/03/009.jpg)入る] [#(img/03/010.jpg)入る]      覚 え 書 『2010年宇宙の旅』が『2001年宇宙の旅』の直接の続篇ではないように、本書も『2010年宇宙の旅』からの直線的な続篇ではない。それらはすべて同じ主題の変奏曲と見なすべきであり、同じ人物や状況の多くが含まれてはいるが、必ずしも同じ宇宙のなかでおこってはいない。  スタンリー・キューブリックが(人間が月に着陸する五年前に!)、語り草になるような、いいSF映画≠フ企画を提案した一九六四年以後における状況の進展によって、それ以前の本が書かれたときには存在さえしなかった発見や出来事が、あとの作品には織りこまれて、完全な整合性を保つことは不可能になっている。『2010年宇宙の旅』は、一九七九年に木星の接近飛行を行なったボイジャーの輝かしい成功の所産であり、それにもまして野心的なガリレオ計画の成果を見るまでは、その領域に戻るつもりはなかった。  ガリレオ計画は、木星の大気に探査機を投下するとともに、二年近くを費やして主要な衛星のすべてを訪問するはずだった。それは一九八六年五月にスペースシャトルから打ち揚げられ、一九八八年には目標に到達することになっていた。そこで、一九九〇年ごろには、木星やその衛星からの新しい情報が豊富に利用できると期待していたのだが……。  残念にも、チャレンジャー号の悲劇が、その筋書きをご破算にしてしまったのだ。いまはジェット推進研究所の清潔な部屋に鎮座しているガリレオは、こうなると別の打ち揚げ手段を見つけねばなるまい。それが木星に達するのが予定より七年遅れにすぎないとしたら、上出来というべきだろう。  わたしは待たないことに決めた。 [#地付き]アーサー・C・クラーク   [#地付き] スリランカ、コロンボ   [#地付き]    一九八七年四月   [#改ページ] [#改ページ]  第一部 魅惑の山      1 凍りついた歳月 「七〇歳の肉体にしては、すこぶる良好な健康状態だよ」  医療装置《メドコン》の最終的なプリントアウトから顔をあげながら、グラズノフ博士が所見を述べた。 「せいぜい六五歳と判定するところだな」 「それは嬉しいね、オレッグ。しかも、わたしは一〇三歳なんだから──きみが充分に承知しているようにな」 「また始まった! ルデンコ博士の著書を読んだことがないのかと思われるぞ」 「親愛なるカテリーナか! われわれは、彼女の一〇〇歳の誕生日に、お祝いの会を計画していたのに。そこまで行き着けなかったのは実に残念だ──それというのも、彼女が、あまりにも多くの時間を地球で過ごしたせいだよ」 「皮肉なもんだ。重力は老化のもと≠ニいう例の有名な謳い文句を発案したのは、彼女なんだからな」  へイウッド・フロイド博士は、わずか六〇〇〇キロメートルの彼方にあって絶えず変化する美しい惑星の眺めを、感慨深げに見つめていた。  そこを歩くことは、もう二度とできないのだ。旧友たちのほぼ全員が死んだあとも、生涯を通じて最も愚劣な事故のせいで、まだ達者でいるというのは、それ以上に皮肉なことだった。  地球に戻ってからわずか一週間にしかならないとき、山ほどの注意をされ、そんなことを自分は[#「自分は」に傍点]絶対にしでかすまいと決意したにもかかわらず、二階のバルコニーから足を踏み出したのだった(そう、彼は祝杯を挙げていたのだ。だが、それは当然の報酬だった──レオーノフ号が帰還した新しい世界で、彼は英雄扱いされていた)。複雑骨折が合併症をおこし、パストゥール宇宙病院で処置するのが最善ということになった。  それは、二〇一五年のことだった。そして──とても信じられなかったが、壁にはカレンダーが掛かっていた──いまは二〇六一年なのである。  へイウッド・フロイドにとって、病院での地球の六分の一という重力は、生物時計を遅らせただけではなかった。これで生涯に二度目なのだが、彼の生物時計は、なんと逆行させられたのである。  人工冬眠が老化の過程を停止させるに留まらないことは──一部の権威者は否定したが──いまや広く信じられていた。それは若返りを促進するのだった。現にフロイドは、木星への往復の旅で若くなったのだ。 「それじゃ、わたしが行っても大丈夫だと、本当に思うのかね?」 「この宇宙に大丈夫[#「大丈夫」に傍点]などというものはないよ、へイウッド。わたしにいえるのは、生理学的な支障はないということだけだ。どうせ、きみを取り囲む環境は、ユニバース号に乗っていても、こことほとんど変わらないだろう。あそこには、パストゥールが提供できるような──ええと──最高水準の医療技術があるとはいえないにしても、マヒンドラン博士は優秀な医師だ。もし彼の手に負えないような問題があれば、きみを再び人工冬眠して、われわれのもとに送り届ければいい。代金引き換えでな」  それは彼が望んでいた判定ではあったが、その喜びは、なんとなく悲しみと表裏一体だった。  半世紀に近い住みかや、後半生の新しい友人と、何週間も別れることになるのだ。また、いまではラグランジュ博物館の主要な展示物の一つとして月の裏側の空に浮かんでいる原始的なレオーノフ号にくらべれば、ユニバース号は豪華定期客船であるとはいえ、長期の宇宙旅行には依然として若干の危険な要素が存在していた。とくに、いま彼が加わろうとしているような前例のないものであれば……。  しかし、それこそ彼が求めているものかもしれなかった──たとえ一〇三歳になっても(あるいは、故カテリーナ・ルデンコ教授の複雑な老人医学による説明では、老いてますます盛んな六五歳ということになるのだが)。過去一〇年のあいだに、あまりにも安楽で整然とした生活に対して、増大する不安と漠然たる不満を意識するようになっていた。  太陽系の各所で進行する多くの刺激的な事業計画──火星の再生、水星基地の開設、ガニメデの緑化──があっても、自分の興味や、いまもあり余るエネルギーを本格的に集中できる目標は存在しなかったのである。  二世紀前に、科学時代の最初の詩人の一人は、オデエッセウス(ユリシーズ)の口を通して、彼の心境を余すところなく要約していた。 [#ここから3字下げ] 生命に生命を重ねたとて それはあまりにも短かったし、自分に与えられたものは 残り少ない。だが、その一刻一刻は、あの永遠の沈黙から なおしばらくは救われて、新しい事物をもたらすのだ。そして およそ三年ものあいだ、自分自身を、またこの老いた魂を 内に秘めて隠したのは卑しむべきことだった。 人間の思索の最果てを超えて 沈みゆく星のごとくに知識を求めようと 思いこがれていたものを。 [#ここで字下げ終わり] 三年≠ヌころか!  四〇年の余にもなるのだ。ユリシーズが聞いたら、さぞかし愛想が尽きることだろう。だが、次の一節は──彼の心に刻みこまれており──それにもまして適切なものだった。 [#ここから3字下げ] われらを深い海が押し流すかもしれない。 極楽島に行き着いて、われらの知る 偉大なアキレスに会うかもしれない。 失われたものは多いが、残されたものも多い。そして いまのわれらには、古き日々に大地や天を動かした 強大な力はないが、いまあるがままのものである。 いまも変わらぬ雄々しい心は 時間と運命によって弱められはしたが、意志の力は強く 努力し、求め、見つけだし、屈することはない。 [#ここで字下げ終わり] 求め、見つけだし……  そうだ、いまや彼は、自分が何を求めて見つけようとしているかを知った── なぜなら、それがどこにあるはずであるかを、的確に知っていたからだ。何かの破局的な出来事がおこらぬかぎり、それを取り逃がすことは絶対にありえなかった。  それは、ずっと意識的に目指していた目標ではなかったし、それがどうしてこれほど突然に支配的なものになったのかは、いまもって、あまり定かではなかった。またもや人類に感染した熱病に対して──彼の生涯で二度目のことだ! ──自分には免疫があると思っていたものだが、ことによると思い違いだったのだろう。それとも、予期せぬ招待を受けて、ユニバース号に乗船する著名な賓客の短いリストに加わったのが、彼の想像力をかきたて、自分に潜んでいたことさえ知らなかった熱狂を目覚めさせたのだろうか?  ほかの可能性もあった。これだけの歳月を経てもなお、一九八五〜八六年の遭遇が一般大衆にとって、いかに竜頭蛇尾の結果だったかは、いまも記憶に新たなところだった。いまこそ以前の失望を償って余りある──彼にとっては最後であり、人類にとっては最初の──好機だったのである。  二〇世紀の当時には、接近飛行だけが可能だった。今回は、アームストロングやオルドリンが月面に一歩を印したのに劣らず、それなりの先駆的行動として、実際の着地が行なわれるだろう。  二〇一〇〜一五年の木星探査計画からの生き残り、へイウッド・フロイド博士は、遙かなる宇宙の果てから再び戻ってきて、刻一刻と速度を増しながら太陽をまわろうとしている亡霊のような訪問者に、遠く思いを馳せた。そして、数あるうちで最も有名なこの彗星は、処女飛行の途上にある未完成の宇宙定期客船ユニバース号と、地球と火星の軌道の中間で遭遇することになるだろう。  まだランデブーの正確な位置は決定していなかったが、彼はすでに決意していた。 「ハレー彗星──さあ行くぞ……」へイウッド・フロイドは小さな声でいった。 [#改ページ]      2 最初の望見  天界の華麗な美しさを存分に味わうには地球の外に出る必要があるというのは、真実ではない。星空というものは、宇宙空間にあってさえ、あらゆる人工的な照明から遠く離れて澄みきった夜に高い山から眺めるのにくらべて、それ以上の壮麗さを見せることはないのだ。大気圏の外側で星々は明るさを増しはするが、その違いを目で本当に感知することはできない。しかも、天球の半分を一望のもとにおさめる壮大な景観は、どんな展望窓でも提供できないのである。  しかし、へイウッド・フロイドは、とくに徐々に回転する宇宙病院の影の側に居住区が入った場合には、自分専用の宇宙の眺望で充分に満足を感じていた。そのときには、その長方形の視界は恒星、惑星、星雲で埋められた──そして、ときによっては、太陽の新たなライバルとなったルシファーが、ほかのすべてのものをかき消してしまった。  その人工的な夜が始まる約一〇分前になると、彼は暗がりに目が完全に慣れるように、室内灯のスイッチを──赤い非常用の予備灯までも──すっかり切るのだった。宇宙工学者としてはやや遅まきながらも、肉眼による天文学の楽しみを覚えて、いまではほとんどの星座を、そのわずかな部分を見ただけで識別できるようになっていた。  彗星が火星の軌道の内側を通過しているとき、その年の五月は毎晩≠フように、その位置を星図のうえでたどっていた。性能のいい双眼鏡を使えば容易に見つかる天体ではあったが、その助けを借りることをフロイドは頑固に拒んでいた。この難問に自分の年老いた目がどれだけ応じられるかを知ろうとして、ささやかなゲームをやっていたのだった。  すでにマウナケア山にいる二人の天文学者が視覚によって彗星を見たと主張していたが、彼らを信用する者は誰もおらず、パストゥールのほかの在住者からの同様な言動は、それ以上に疑いの目で迎えられていた。  だが今夜は、少なくとも六等星の明るさを持つと予測されていた。運が向くかもしれない。  彼はガンマ星からイプシロン星までの線をたどり、それを底辺とする仮想的な正三角形の頂点を見つめた──まるで、もっぱら意志の力だけで、太陽系の彼方に視力を集中できるかのように。  そして、あったぞ! ──七六年前に初めて見たのとそっくりに、目立たないが見まちがえようもなかった。どこを見ればよいかを正確に知っていなかったら、それに気づきもしないか、あるいはどこか遠くにある星雲として片づけていたことだろう。  それは彼の肉眼に、完全な円形をした小さなぼやけた斑点としか見えなかった。いかに目を凝らしても、わずかな尾の痕跡も識別できなかった。だが、何ヵ月にもわたって彗星に付き添ってきた探査機の小集団は、すでに塵やガスの爆発の先駆けを記録していたし、それはまもなく星々を横切って輝く吹き流しとなって、それを生みだした太陽と正反対の方向を指すことになるだろう。  ほかの者たちと同じく、へイウッド・フロイドも、それが太陽系内域に入ったときに、冷たく暗い──いや黒色[#「黒色」に傍点]に近い──核が変貌を遂げるのを眺めた。  七〇年におよぶ凍結のあとで、水、アンモニアその他の氷の複雑な混合物は、融けて沸騰しはじめた。ほぼマンハッタン島の形──および大きさ──をした空飛ぶ山塊は、宇宙の焼き串の上で五三時間ごとに一回転していた。絶縁する外皮のなかに太陽熱が滲みこむにつれて、揮発するガスはハレー彗星を、孔の開いたボイラーさながらに振舞わせた。水蒸気の噴流が、塵やごちゃ混ぜの有機物質と混じり合って、半ダースの小さなクレーターから噴射していた。その最大のものは──およそサッカー場の大きさだが──その局部における明け方から約二時間のあいだ、規則的に噴出を繰り返した。それは地球の間欠泉にそっくりであり、即座にオールド・フェイスフル(アメリカのイエローストーン国立公園にある間欠泉)と命名された。  彼は、そのクレーターの縁に立って、すでに宇宙空間からの映像から知りつくしている暗い歪んだ地形の上に太陽が昇るのを待っているという空想に、早くもふけっていた。確かに契約書には、ハレー彗星に着地したとき、乗組員や科学要員でない乗客が船外に出ることについては、何も触れていなかった。  一方からいえば、それを明確に禁止する注意事項もなかったのである。  わたしを止めるのは一仕事になるだろうな、とへイウッド・フロイドは思った。いまでも宇宙服が扱えることには自信がある。それでも、もし失敗したら──。  彼は、かつてタージマハルの訪問者が洩らした言葉を読んだのを思い出した。 「こんな遺跡を見たら、明日は死んでもいいな」  彼は[#「彼は」に傍点]、ハレー彗星で充分に満足するつもりだった。 [#改ページ]      3 再 突 入  例の気まずい偶発事件は別としても、地球への帰還は容易なものではなかった。  その最初の衝撃は、ルデンコ博士が彼を長い眠りから目覚めさせた蘇生の瞬間の直後におこった。ウォルター・カーノウが彼女のそばに浮かんでおり、半ば意識を回復しただけの状態ではあっても、フロイドにはどこかが妙だとわかった。  彼が目覚めたのを見る彼らの喜びには、いくらか誇張があって、緊張した雰囲気を隠せないでいた。彼が完全に回復したときに、二人は初めてチャンドラ博士がもういないことを知らせたのである。  火星の彼方のどこかで、あまりにも人知れずだったので、モニターも正確には特定できなかったのだが、彼はとにかく生きるのをやめたのだ。宇宙空間に浮かべられた遺体は、そのままレオーノフ号の軌道をたどり、とうの昔に太陽の劫火に焼きつくされていた。  死亡の原因はまったく不明だったが、マックス・ブライロフスキーは一つの見解を表明し、それはきわめて非科学的なものではあったが、カテリーナ・ルデンコ軍医中佐でさえ、反論しようとはしなかった。 「ハルを失っては、生きていられなかったのさ」  人もあろうにウォルター・カーノウが、もう一つの感想をつけ加えた。 「ハルは、どう思うだろうな。あの向こうにいる何かは、われわれの放送をモニターしているにちがいない。遅かれ早かれ、彼は知ることだろう」  そして、いまはカーノウもいなくなった──小さなジェーニャを除く誰もかれもだ。彼女とは二〇年も会っていなかったが、クリスマスごとに期日を違えずカードが送られてきた。その最後のやつは、いまでも彼のデスクの上にピンで留めてあった。それには、贈り物を積んでロシアの冬の雪のなかを疾走するトロイカを、恐ろしく飢えた顔つきの狼たちが眺めているところが描いてあった。  四五年間だ!  ときによると、レオーノフ号が地球軌道に帰還して全人類の喝采を浴びたのは、つい昨日のことのような気がした。しかし、それは奇妙に控え目な喝采であって、丁重ではあるが心からの熱狂が欠けていた。木星探査計画は、総体として、あまりにも成功しすぎたのだった。それはパンドラの箱を開き、その内容の全面的な解明は、まだ今後に残されていた。  ティコ磁気異常一号(TMA1)として知られる黒いモノリスが月面から発掘されたとき、その存在を知っている者は一握りにすぎなかった。ディスカバリー号が木星への不運な飛行を行なったあとで、世界は初めて、ほかの知的生物が四〇〇万年前に太陽系を通過し、その名刺を残したことを知ったのだった。その知らせは新事実だった──だが、意外なものではなかった。その種のことは、数十年にわたって予想されていたのである。  しかも、それらのことは人類種属が出現する遙か以前におこったのだ。遠い木星の付近で、ディスカバリー号に何かの不思議な出来事が降りかかったとはいえ、それが船内での故障以上のものだという現実の証拠はなかった。TMA1の哲学的な帰結は深甚だったとはいえ、実際問題として人類はいまなお宇宙で孤独な存在だった。  いまや、それはもう真実ではなかった。わずか数光分の彼方に──大宇宙にあっては目と鼻の先に──星を創造する能力を持ち、うかがい知れぬ独自の理由に基づいて地球の一〇〇〇倍の大きさの惑星を滅ぼせる知能が存在した。それ以上に不気味なことに、ディスカバリー号がルシファーの灼熱の誕生によって焼きつくされる直前に木星の衛星から送信してきた最後のメッセージから、それが人類の存在を知っていることがわかったのだ。 [#ここから2字下げ] これらの天体は、すべてきみたちのものだ──ただしエウロバは除外する そこに着陸を企ててはならない [#ここで字下げ終わり]  その新しく明るい星は、それが年間に数ヵ月だけ太陽の向こう側を通過するときを除いて夜を追い払い、人類に希望と恐怖をもたらした。  恐怖──未知なるものは、とくに全能の力と結びついて現われた場合には、深い原始的感情を呼び覚まさずにはおかなかった。希望──それが地球の政治にもたらした変化のためだった。  人類を団結させられる唯一のものは宇宙からの脅威だと、しばしばいわれてきた。ルシファーが脅威であるかどうかは、誰にもわからなかった。だが、挑戦であることは確かだった。そして、結果としては、それで充分だったのだ。  へイウッド・フロイドは、パストゥールという高みから、まるで彼自身が異星人の観察者であるかのように、その地球政治の変化を見守っていた。初めのうちは、すっかり回復しさえすれば、宇宙空間に留まる意志は少しもなかった。担当医にとっては不可解な頭痛の種だったが、そのためには、まるで理屈に合わない時間を要したのである。  後日の平穏な心境から振り返ってみると、どうして自分の骨が治癒を拒んだのか、フロイドには手に取るようにわかった。とにかく、地球には戻りたくなかったのだ。あの空を覆う青と白のまばゆい球体は、自分には無意味な存在だった。どうしてチャンドラが生きる意志を失ったか、よく理解できるときがあった。  例のヨーロッパからの飛行便で、最初の妻といっしょでなかったのは、まったくの偶然からだった。もうマリオンは帰らぬ人であって、その思い出は、誰か他人のものといってもよい別の人生の一部に思えたし、そのあいだに生まれた二人の娘は、それぞれの家族をかかえた愛想のいい他人になっていた。  だが、キャロラインは、実際には選択の余地がなかったとはいえ、彼自身の行動が彼女を離れてゆかせたのだった。なぜ自分が、二人の築いたすばらしい家庭を捨てて、太陽から遠く離れた冷たい荒涼たる場所を流浪したかを、彼女は決して理解しなかった(自分自身にしても、本当に理解していたのだろうか?)。  探査計画の半ばが終わる前から、キャロラインが待ってくれないことは知っていたが、クリスは許してくれるだろうと必死に願っていた。だが、その慰めさえも、かなえられなかったのだ。息子には、父親のいない期間が長すぎたのだった。フロイドが戻ったころ、クリスは、キャロラインの生活においてフロイドの位置を占めた男を、新たな父親としていた。  その断絶は絶対的なものだった。そこからは絶対に立ち直れまいとフロイドは思ったが、もちろん彼は立ち直った──かろうじてではあったのだが。  彼の肉体は、その無意識の願いと狡猾にも共謀した。パストゥールでの長い療養生活のあとで、ついに地球に戻ると、たちまち彼はすこぶる容易ならぬ症状を──骨壊死を疑わせるものを含めて──おこしたので、ただちに軌道に送り返されてしまった。それ以来、月への何度かの小旅行のほかは、そこにずっと留まり、ゆっくり回転する宇宙病院のゼロから六分の一という重力の環境条件のもとで暮らすことに、完全に適応したのだった。  世捨て人ではなかった──とんでもない。療養中でさえも、報告を口述し、無数の委員会で証言し、報道機関の代表のインタビューを受けていた。彼は有名人であり、その体験を楽しんだ──それが続いているあいだは。それは心の傷をまぎらすのに役立った。  最初のまる一〇年間──二〇二〇年から二〇三〇年まで──は、まるで矢のように過ぎ去るかに思えたので、もうはっきりと思い出すのは難しかった。お定まりの危機、スキャンダル、犯罪、天変地異があった──とりわけカリフォルニア大地震は、ステーションのモニター・スクリーンを通じて、身のすくむ恐怖とともに、その余波を見守ったものだった。  好条件のもとで倍率を最大にあげれば、個々の人間を映し出すこともできた。だが、彼のいる神のごとき高みからでは、燃えあがる都市から逃げまどう小点を識別することは不可能だった。地上のカメラだけが、真実の恐怖を見せたのだった。  その一〇年のあいだ、結果はあとになって初めて見えてきたのだが、政治のプレートは地殻のそれに劣らぬ仮借ない動きをした──もっとも、その動きは、時間≠ェ後戻りするかのように、逆の方向へだったのだが。なぜなら、地球の初めにあたってはパンゲアという単一の超大陸があり、それが長い年代にわたって分裂したのである。人間種属も、それと同じく、無数の部族や国家に分かれた。  いまや、それは一つに溶け合って、古い言語や文化の隔壁はぼやけはじめていた。  その過程をルシファーが加速はしたが、それは何十年も前に、ジェット時代の到来が全地球規模での観光旅行の流行を触発したときから始まっていた。ほとんど同時に──もちろん偶然ではなかったが──人工衛星とファイバーオプティックスが通信に革命をおこしていた。二〇〇〇年一二月三一日の歴史的な長距離通話料金の廃止によって、あらゆる電話は市内通話となり、人類種属は自らを、お喋り好きの巨大な家族に変貌させることによって、新しい千年期を迎えたのだった。  たいていの家族と同じように、これも常に平和な家族ではなかったが、その争いも全惑星を脅かすものではなくなっていた。二度目の──そして最後の──核戦争では、最初のとき以上の数の爆弾は、戦闘に使われなかった。ちょうど二個だった。しかも、キロトン数は大きかったものの、両者とも人口のまばらな石油施設を目標としたので、死傷者は遙かに少なかった。その時点で、中国、アメリカ、ソ連の三大国は賞賛に値する機敏さと英知をもって行動し、生き残った戦闘部隊が正気に戻るまで戦闘地域を封鎖したのである。  二〇二〇〜三〇年の一〇年間になると、強国のあいだでの本格的な戦争は、前世紀のカナダとアメリカがそうであったように、とても考えられないものになっていた。これは、人間の本性が非常な進歩を遂げたためではなく、それどころか、死よりも生を取るという正常な選択のほかには、いかなる単一の要素も関与しなかった。平和を維持する仕組みの多くは、意図的に計画されたものでさえなかった。事の成り行きに職業政治家が気づく前に、それはしかるべき場所におさまって、立派に機能していたのだった……。 平和の人質♂^動を考えついたのは、政治家でも、いかなる主張の理想主義者でもなかった。その名称そのものからして、どんな瞬間をとっても一〇万人のロシア人観光客がアメリカにおり、五〇万人のアメリカ人がソ連にいて、その大多数が配管工事に文句をつけるという慣例の気晴らしにふけっていることに誰かが気づいてから、それよりずっとあとになって、つけられたものだった。そして、おそらくそれ以上に重要なことは、どちらのグルーブにもきわめて掛けがえのない個人──富豪、特権階級、権力者の男女──の多数が、均衡を失するまでに含まれていたのである。  そして、仮に誰かが望んだとしても、大規模な戦争を計画することは、もはや不可能になっていた。一九九〇年代に、進取の気性に富む報道機関が、三〇年間にわたって軍部が所有していたものに匹敵する解像力を持った写真衛星を打ち揚げはじめたとき、透明の時代≠フ幕開けが始まった。ペンタゴンやクレムリンは激怒した。しかし彼らも、ロイター、AP、それに軌道通信社の不眠不休のカメラには歯が立たなかった。  二〇六〇年になると、世界の完全な武装解除はできていなかったが、事実上は平和が保たれており、残った五〇個の核兵器は、すべて国際管理のもとにあった。例の人望のある君主、エドワード八世が初代の地球大統領に選出されたときには、意外なほど反対が少なくて、一ダースの国家が異議を唱えたにすぎなかった。それらの国々は、いまなお頑固に中立を守るスイス(とはいっても、そこのレストランやホテルは、新たな官僚たちを大歓迎したのだが)を初めとして、それ以上に狂信的な独立心の持ち主で、いまやイギリスとアルゼンチンが互いに相手に押しつけようとする企てを、ことごとく拒否しているフォークランド諸島の住民まで、大きさも重要性もさまざまだった。  もっぱら寄生体質を持つ巨大な兵器産業の解体は、世界経済に未曾有の──それどころか、ときには不健全な──刺激を与えた。もはや、ずば抜けた工学的頭脳や不可欠な原材料が、事実上のブラックホールに吸いこまれる──もっとわるいことに破壊に注ぎこまれる──ようなことはなくなった。むしろ、世界を再建することによって、何世紀にもわたる破壊と放置を埋め合わすのに役立たせることができた。  そして、新たな世界を建設するために。いまこそ人類は、戦争の精神的代替物≠、そして想像を絶する永劫の未来までも種属の余剰エネルギーを吸収しうる、野心的な課題を発見したのである。 [#改ページ]      4 大 立 者  ウィリアム・ツァンが生まれたとき、彼は世界で最も高価な赤ん坊≠ニ呼ばれた。この称号を二年のあいだ保持しただけで、それから自分の妹に奪われてしまった。彼女は、いまだにそれを保持しており、いまでは家族法が廃止されているから、それを脅かされることは決してないのである。  彼らの父親である伝説的人物サー・ローレンスは、中国が一家族には子供一人≠ニいう厳しい規則を再制定していたときに生まれた。彼の世代は、心理学者や社会科学者に、果てしない研究の素材を提供した。兄弟や姉妹がおらず、多くの場合には叔父や叔母もいない社会というものは、人類の歴史に類例がなかったのだ。人間種属の柔軟性か、それとも中国の大家族制度が持つ長所か、どちらに起因したのかという結論は決して出ないだろう。それでも、その異常な時期の子供たちが、不思議なほど傷跡を残していないという事実は、依然として残っているのである。  しかし、もちろん影響を受けなかったわけではなく、サー・ローレンスは、自分の幼年時代の孤独さを埋め合わせるべく、いささか劇的な形で最善を尽くしたのだった。  二二年に彼の第二子が生まれたとき、許可制度は法律になった。子供は好きなだけ生めるが、ただし妥当な納付金をおさめればのことだった(この仕組み全体がまるで言語道断だと考えたのは、生き残りの頑固な古参共産党員ばかりではなかったが、彼らは生まれたての人民民主主義共和国議会の現実主義的な同僚たちにくらべて少数派だった)。  第一子と第二子は無料だった。第三子は一〇〇万ソルの料金を要した。第四子は二〇〇万、第五子は四〇〇万、といったぐあいだった。建前として人民共和国に資本家はいないという事実は、気楽な態度で無視されてしまった。  若きツァン氏は(当然ながら、それはエドワード国王が彼を大英帝国の二等勲爵士に叙する以前のことだったが)、なんらかの目標があるのかどうかを、とうとう明らかにしなかった。第五子が生まれたときには、依然としてかなり貧しい百万長者だった。だが、彼はまだ四〇歳にすぎなかったし、香港の買付けに懸念したほど多くの資金を要しなかったので、かなりの額の小銭を手にしていた。  伝説では、そういうことになっている──もっとも、サー・ローレンスに関する多くの物語と同じく、事実と神話とを区別するのは困難だった。彼が有名な議会図書館の靴箱大の海賊版で最初の大身代を築いたという根強い噂には、絶対にひとかけらの真実もない。  分子記憶モジュールの闇商売は、そもそもが地球外での活動であって、アメリカが月面協定に調印しないために可能になったのである。  サー・ローレンスは超億万長者ではなかったが、彼がつくりあげた事業の複合体のおかげで、地球で最大の財閥になっていた──いまなお新天地≠ニして知られる場所での卑しいビデオカセット行商人の息子としては、決して小さくない成功だった。  彼は、おそらく第六子の八〇〇万も、第八子の三二〇〇万さえも、念頭になかったのだろう。第九子のために前払いせねばならなかった六四〇〇万は世界中で評判になり、第一〇子のあとになると、彼の将来の計画が次の子供にかかる二億五六〇〇万を超えるかどうかについて賭金が積まれた。しかし、この時点で、鋼鉄と絹の属性を絶妙な比率でかねそなえるレディー・ジャスミンは、ツァン王朝が充分に確立されたと判断したのである。  サー・ローレンスが宇宙開発事業に自ら関与するようになったのは、まったくの偶然からだった(そんなものがあるとすればだが)。もちろん、彼は広汎な海運や航空の大企業を所有していたが、これらは五人の息子やその同僚が担当していた。サー・ローレンスの最愛の事業は情報伝達にあり、(わずかに残された)新聞、書籍、(紙と電子による)雑誌、そして何にもまして世界を結ぶテレビ・ネットワークだった。  そのころ、彼は長い歴史を持つ壮大なペニンシュラ・ホテル(半島酒店)を買収して、それを住居と本社に使った。かつての貧しい中国人の少年には、富と権力の象徴そのものに思えた建物だった。彼は、広大なショッピング・センターを地下に押しこむという単純な手段によって、そのまわりを美しい公園で囲んだ(彼が新たに設立したレーザー掘削会社は、その過程で大きな利益をあげ、ほかの多くの都市への先例を示した)。  ある日、港の向こう側に見える比類ない都市のスカイラインを眺めていた彼は、それ以上の改善が必要だと結論した。ペニンシュラ・ホテルの低い階からの眺めは、数十年このかた、ひしゃげたゴルフボールのように見える大きな建物に遮られていた。これを取り除くべきだと、サー・ローレンスは決めたのである。  世界で五指に入ると広く認められていた香港プラネタリウム(香港大空館)の所長は、それとは違う見解であって、たちまちにしてサー・ローレンスは、どれほど金を積んでも抱きこめない人物を発見したことに満悦していた。二人は忠実な友人になった。  しかし、ヘッセンシュタイン博士がサー・ローレンスの六〇歳の誕生日のために特別の上演を用意したときには、自分が太陽系の歴史を変える手助けをすることになろうとは、夢にも思わなかったのである。 [#改ページ]      5 氷の中から  一九二四年にツァイス社が最初の試作品をイエナに建造してから一〇〇年以上を経過しても、いまだに何基かの光学的なプラネタリウム投射機が使われていて、観客の頭上に威風堂々と聳え立っていた。  しかし香港では、その三世代目の装置が数十年前に引退させられて、それよりも遙かに融通性のある電子装置が採用されていた。大きなドームの全体は、基本的には、数千の個々のパネルからなる巨大なテレビ・スクリーンであって、ありとあらゆる映像を表示することができた。  そのプログラムは──例によって──二二世紀に中国のどこかにいた無名のロケット発明者に捧げる言葉から始まった。最初の五分間は大至急の歴史的概観で、そこでは銭学森《チェン・シュエソン》博士の経歴を強調するあまりに、ロシア人、ドイツ人、アメリカ人の先駆者たちに正当な功績を認めるのが不充分だと思われた。  彼の同国人たちが、ロケット発展史において、彼にゴダード、フォン・ブラウン、コロリョフに劣らぬ重要性を付与したとしても、そういう時代と場所において、彼らは許されるべきだった。そして、彼が有名なジェット推進研究所の創設に貢献し、カリフォルニア工科大学の初代ゴダード教授職に任命されたあとで母国に帰郷することを決めたとき、でっち上げの容疑によってアメリカで逮捕されたことに憤激するのは、彼らにも確かに正当な理由があったのだ。  一九七〇年に長征一号ロケットによる中国最初の人工衛星が打ち揚げられたことには、ほとんど触れられなかったが、それは当時すでにアメリカ人が月面を歩いていたからだろう。それどころか、残りの二〇世紀は数分間で片づけられ、物語は二〇〇七年に宇宙船チェン号が──全世界の面前で──隠密に建造されたことに移っていった。  中国の宇宙ステーションだとばかり思っていたものが、突如として軌道から発進して木星に向かい、コスモナウト・アレクセイ・レオーノフ号に搭乗したロシア・アメリカ探査計画の一行に追いついたときに、ほかの宇宙航行大国が示した周章狼狽ぶりを、語り手は過度に得意がりはしなかった。その物語は充分に劇的であり──悲劇的でもあって──どんな粉飾も必要ではなかったのだ。  残念ながら、それに伴うべき真正の視覚的素材は、きわめて少なかった。このプログラムでは、特殊効果や後日の長距離写真探査からの論理的な再構成に、大部分を頼らざるをえなかった。氷に覆われたエウロパの表面での短い滞在のあいだに、チェン号の乗組員たちはあまりにも忙しくて、ビデオの記録を撮ったり、無人カメラを設置することさえ、とてもできなかったのである。  にもかかわらず、そのときに語られた言葉は、あの木星の衛星への最初の着陸というドラマの多くを伝えていた。接近するレオーノフ号からのへイウッド・フロイドによる実況放送は、その情景を設定するのに驚くほど役に立ったし、それの画面を構成すべきエウロパの写真の蓄積は豊富だった。 「いまこの瞬間、わたしは船内で最も強力な望遠鏡を通して眺めている。この倍率にすると、それは肉眼で見た月の一〇倍の大きさに見える。そして、世にも不気味な眺めだ。  表面は一様なピンク色で、いくらか小さな褐色の斑点がある。あらゆる方向に曲がりくねった細い線からなる、入り組んだ複雑な網の目で覆われている。実際のところ、静脈や動脈のパターンを示した医学教科書の写真に、実によく似ている。  これらの地形のいくつかは、数百あるいは数千キロメートルもの長さがあって、どちらかといえば、パーシヴァル・ローウェルそのほか、二〇世紀初頭の天文学者が火星に見たと思った架空の運河に似ている。  だが、エウロパの運河は、もちろん人工のものではないが、幻覚ではないのだ。そればかりか、そこには水[#「水」に傍点]が──少なくとも氷が──たたえられている。この衛星は、平均して五〇キロメートルの深さの海洋によって、大部分を覆われているのだから。  太陽から遙かに離れているために、エウロパの表面温度はきわめて低い──およそ零下一五〇度だ。だから、一つしかない海洋は、ひと塊りの氷のブロックになっていると思うかもしれない。  意外なことに、そうではないのだ。なぜなら、エウロパの内部には、潮汐力で生じる多量の熱があるからだ──隣りのイオで巨大な火山を活動させているのと同じ力だ。  だから、氷は絶えず融けたり、割れたり、凍ったりして、地球の極地に浮かぶ氷冠にあるような割れ目や水路を形成する。いまわたしが見ているのは、その入り組んだ割れ目模様なのだ。  その多くは黒くて非常に古いものだ──おそらく数百万年を経ているだろう。だが、純白に近いのも少しはある。それらは口を開けたばかりで、わずか数センチメートルの厚さの皮がかぶさっている。  チェン号は、こうした白い筋の一つ──〈大運河〉と命名された長さ一五〇〇キロメートルの地形──のすぐそばに着陸した。たぶん中国人たちは、推薬タンクに水を汲みこんで、木星の衛星系を探査してから地球に帰還できるようにするつもりだったと思われる。それは容易ではあるまいが、彼らがきわめて慎重に着陸地を選んだのは確かであり、自分のすることを心得ているにちがいない。  なぜ彼らがそれほどの危険をおかしたか、そしてなぜエウロパに対する権利を主張しているかは、いまや明らかだ。燃料補給地。それは全太陽系への鍵かもしれない……」  だが、そういうふうに事態は進まなかった。人工的な空を満たした縞と斑の円盤の下で、豪華な椅子にもたれかかりながら、サー・ローレンスは思った。  エウロパの海洋は、いまだに不可解な理由によって、依然として人類には手の届かないところにあった。また、手が届かないばかりか、見ることさえできなかった。木星が太陽になって以来、その内側の衛星は、内部から湧きあがる水蒸気の雲に隠されてしまったのだ。  彼が眺めているエウロパは、二〇一〇年当時のものであって、今日の姿ではなかった。そのころの彼は少年にすぎなかったが、自分の同郷人が──その政策にはどれほど不賛成であっても──処女天体に最初の着陸をしようとしているのを知って感じた誇らしい気持は、いまでも思い出すことができた。  そこには、着陸を記録すべきカメラなど、もちろんなかったが、その再構成は見事な出来ばえだった。それが運命の宇宙船であって、漆黒の空からエウロパの氷冠へ向かって音もなく降下し、〈大運河〉と命名された、凍ったばかりの色あせた氷の帯のそばに降り立とうとしているのだと、心から信じることができた。  その次に何がおこったかは、誰もが知っていた。おそらく賢明なことだろうが、それを視覚的に再現しようとはしなかった。それに代わって、エウロパの映像は消えてゆき、すべてのロシア人にとってのユーリ・ガガーリンのように、すべての中国人が見慣れた肖像写真が現われた。  最初の写真は、一九八九年の卒業の日のルーパート・チャンだった──まじめな若い科学者、ほかの一〇〇万人との見分けはつかないし、二〇年先の歴史との出会いは少しも予感していない。  解説者は静かな音楽を背景にして、チェン号の科学担当官に任命されるまでのチャン博士の経歴の要点を、手短かに要約した。写真は時間の断面を切りながら年齢を増してゆき、最後は探査計画に出発する直前のものだった。  サー・ローレンスには、プラネタリウムが暗いことがありがたかった。チャン博士が、受信されるかどうかも知らずに、近づくレオーノフ号に向けて送ったメッセージに聞き入る彼の目に、涙が浮かぶのを見たら、友人も敵も驚いたことだろう。 「……あなたがレオーノフ号に乗り組んでいるのは知って……あまり時間はないかも……わたしの宇宙服のアンテナを、それらしい方向に向けて……」  送信は、何秒か途絶えてじりじりさせたあとで、それほど音量に変化はないが、ずっと明瞭に聞こえてきた。 「……この知らせを地球に中継してほしい。チェン号は、三時間前に破壊された。わたしが唯一の生存者だ。宇宙服の送信装置を使っている──充分な有効距離があるかどうか、見当もつかないが、これが唯一の手段だ。どうか注意して聞いてくれ。エウロパには生命が存在する[#「エウロパには生命が存在する」に傍点]。繰り返す。エウロパには生命が存在する[#「エウロパには生命が存在する」に傍点]……」  送信は、またもや弱くなっていった……。 「……現地の夜半から直後のことだった。休みなくポンプを動かして、タンクは半分近くまで満たされていた。リー博士とわたしは、パイプの絶縁を点検しに、外へ出ていった。チェン号は、大運河の岸から三〇メートルほどのところに立っている──いや、立っていたのだ。パイプは、そこからまっすぐに伸びて、氷の下へもぐりこんでいる。非常に薄い──その上を歩くのは危険だ。暖かい湧昇流が……」  またもや長い沈黙……。 「……何も問題はなかった──五キロワットの照明が宇宙船から吊られていた。クリスマス・ツリーのようだ──氷を通して美しく輝いた。燦爛たる色彩。リーが最初にそれを見つけた──深みから浮かびあがってくる巨大な黒い塊り。初めは魚の群れだと思った──一つの個体にしては大きすぎる──そのとき、それが氷を突き破りはじめた……。  ……濡れた海草の巨大な葉のようなものが、地面を這ってきた。リーはカメラを持ってこようとして、宇宙船に走り戻った──わたしは残って、送信機で報告しながら見守っていた。そいつは非常にゆっくり動いたから、走れば簡単に追い抜くことができた。わたしは、不安というよりは興奮を感じていた。どういう種類の生き物かは見当がついているつもりだった──カリフォルニア沖にある大型海草《ケルプ》の森林の写真を見たことがあるのだ──だが、それはとんでもない思い違いだった。  ……それが難渋しているのがわかった。いつもの環境より一五〇度も低い温度で生きのびることは、とてもできそうになかった。前へ動くにつれて、固く凍りついていった──ガラスのように破片が砕け散った──しかし、それでも宇宙船に向かって、黒い津波のように、しだいに遅くなりながらも前進していた。  そのときになっても、あまり驚いていたので、まともに考えることができず、それが何をしようとしているのか、想像がつかなかった……。  ……宇宙船を這い上がり、前進しながら一種の氷のトンネルをつくっていた。たぶん、これが寒気を遮断していたのだろう──シロアリが泥の通路によって太陽光線から身を守るように。  ……何トンもの氷が宇宙船に。まずアンテナが折れた。それから着陸脚が曲がりはじめるのが見えた──いっさいが夢の中のようなスローモーションで。  宇宙船が倒れかけたとき、そいつが何をしようとしているのかに、わたしはやっと気がついた──そのときには、もう手遅れだった。破滅を免れることができたものを──照明灯のスイッチを切りさえすれば。  たぶん光合成生物なのだろう、氷を透過してくる太陽光線によって生命のサイクルが誘発されるのだ。それとも、蛾のように灯火に誘われたのかもしれない。われわれのフラッドライトは、エウロパが経験したことのないほど明るいものだったにちがいない……。  そのとき宇宙船は倒壊した。船体が割れ、凍結した水蒸気が雪片となって群がるのが見えた。照明はすっかり消えたが、一つだけがケーブルに残って、地上から数メートルのところで前後に揺れていた。  その直後に何があったのか、わたしには記憶がない。ふと気がつくと、宇宙船の残骸のそばで灯火の下に立っていて、積もったばかりの細かい粉雪が、まわりを一面に覆っていた。その中に自分の足跡が、くっきりとついているのが見えた。そこまで走っていったにちがいない。おそらく一、二分しかたっていなかったのだろう……。  植物は──まだそれを植物だと思っていた──動かなかった。衝撃で損傷したのかと思った。大人の腕ほどの太さがある大きな部分が、折れた小枝のようにちぎれていた。  そのとき本体の幹が、また動きだした。それは船体から離れて、わたしの方に這い寄りはじめた。そいつに光感受性があると確信したのは、そのときだった。わたしは一〇〇〇ワットの灯火の真下に立っていたのだ。もう揺れはとまっていた。  カシの木を思い浮かべてほしい──多数の幹や根を持ったバンヤンノキなら、もっと適当だが──それが重力で平たくなりながら、地面を這ってこようとするのだ。それは、灯火から五メートル以内に近づくと拡がりはじめて、わたしを囲んで完全な円周を描いた。おそらく、それが許容限界──光の誘引作用が反発作用に転ずる距離──だったのだろう。それから数分間は、何もおこらなかった。死んだのかと思った──ついに固く凍りついてしまったのかと。  そのとき、枝の多くに大きな蕾ができかけているのを見た。まるで開花の低速度撮影映画を見ているようだった。事実、それらが花だとばかり思っていたのだ──それぞれが大人の頭ほどもある花だと。  繊細な美しい色彩の皮膜が開きはじめた。そのときになってさえ、この色彩を見たことのある人間は──生き物は──いないのだという思いが心に浮かんだ。この天体に、われわれの灯火が──運命の灯火が──持ちこまれるまで、これは存在しなかったのだ。  巻きひげだか、雄しべだかが、弱々しく揺れていた……いったい何事がおこっているのかを知ろうとして、自分を取り巻く生きた壁に近づいた。そのときも、ほかのどんなときにも、この生き物に対する恐怖は少しも感じなかった。危害を加えられることはないと確信していた──そもそも、そいつが意識を持っているとしてだが。  何十もの大きな花が、さまざまな開花の段階に達していた。いまでは蛹から出てくる蝶──翅が皺だらけで、まだ弱々しい──を連想させた。わたしは、ますます真相に迫っていたのである。  だが、それらは凍えかけていた──できるそばから死んでいた。やがて、それらは一つまた一つと親の蕾から落ちた。しばらくは、陸地に取り残された魚のように跳ねまわった──そこでやっと、それらの正体に気がついたのだった。それらの皮膜は花弁ではなかった──鰭《ひれ》か、それに相当するものだった。これは、この生き物の自由に遊泳する幼生期なのだ。おそらく一生の多くを海底に固着して過ごし、それからこうした移動性の子孫を送りだして、新たな領分を探しにいかせるのだろう。地球の海洋にいるサンゴのように。  わたしは膝をついて、その小さな生き物の一つを注意深く観察した。もう美しい色彩は薄れかけて、くすんだ褐色になっていた。花弁状の鰭の一部はちぎれ、脆い破片となって凍りついた。それでも、まだ弱々しく動いており、わたしが近づくと逃げようとした。どうやって、わたしの存在を感じたのだろうかと思った。  そのとき、わたしが雄しべ≠ニ呼んでいたものには、どれも先端に明るい青色の点がついていることに気がついた。それは小さなスター・サファイアか、ホタテガイの外套膜に並ぶ青い目のように見えた──光を感じはするが、本当の像は結べないのだ。見ているうちに、鮮やかな青色は薄れて、サファイアは光沢のない普通の石になった……。  フロイド博士──あるいは、ほかのどなたでも、これを聞いておられる方──もう、あまり時間がない。まもなく、木星がわたしの送信を遮るだろう。だが、もう話すことは、ほとんど残っていない。  何をすべきかは、わかっていた。例の一〇〇〇ワットの灯火は、地面の近くまで垂れさがっていた。それを何度か引っ張ると、火花が雨のように散って、灯火は消えた。  もう手遅れではないかと思った。数分間は何もおこらなかった。そこで、わたしは、まわりを取り囲むもつれた枝の壁まで歩いていって、それを蹴とばした[#「蹴とばした」に傍点]。  その生き物は、ゆっくりと体をほどいて、運河の方へ後退しはじめた。光はたっぷりあった──何もかも、手に取るようによく見えた。ガニメデとカリストが空にかかり──木星は巨大な細い鎌形──イオの電磁束管の木星側の端にあたる夜側では、壮大なオーロラが拡がっている。ヘルメット灯を使う必要はなかった。  わたしは、その生き物に水際までついてゆき、ブーツの下で氷の破片が絶えず砕けるのを感じながら、相手の動きが遅くなると、なおも蹴りつけてせきたてた……運河に近づくにつれて、本来の住みかが目前だと知っているかのように、力とエネルギーを増すらしかった。生き延びて、また蕾がつけられるだろうか、とわたしは思った。  それは、いくつか最後に死んだ幼生を異質な土地に残して、水面の下に消えた。露出した自然水が何分間か泡立っていたが、やがてそれを保護する氷のかさぶたが、上にある真空とのあいだを遮断した。それから、わたしは、何か救えるものはないかを見るために、宇宙船に戻っていった──そのことについては話したくない。  博士、お願いしたいことが二つだけある。いつか分類学者が、この生物を分類するときには、わたしにちなんだ命名をしてくれたらと思うのだが。  そして──次の宇宙船が帰還するときには──われわれの骨を中国に持ち帰ってくれるように頼んでほしい。  あと数分で木星に隠れるだろう。誰かに聞こえているのかどうか、知りたいものだが。ともかく、また見通しがきくようになったら、このメッセージを繰り返すつもりだ──わたしの宇宙服の生命維持装置が、それまで持ちこたえてくれればだが。  こちらはエウロパにいるチャン教授、宇宙船チェン号が遭難したことを報告している。われわれは大運河のそばに着陸して、氷の外れにポンプを据えつけた──」  送信は不意に弱くなり、一瞬だけ戻ってから、雑音レベル以下になって完全に消えてしまった。チャン教授からのメッセージは、もうそれ以上は聞こえてこなかった。だが、それはすでに、ローレンス・ツァンの熱意を宇宙空間に向けさせていたのである。 [#改ページ]      6 ガニメデの緑化  ロルフ・ファン・デル・ベルクは、適切な時期に適切な場所にいた適切な人物だった。ほかの組合わせでは成功しなかったろう。もちろん、そういうふうにして歴史の多くがつくられるのだが。  彼が適切な人物だという意味は、アフリカーナ(南アフリカ生まれのオランダ系住民)難民の二世で、経験を積んだ地質学者だったからである。どちらの要素も、同じく重要だった。  彼がいたのが適切な場所だったというのは、そこが木星で最大の衛星──外に向かって、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストのうち三番目──でなければならなかったからである。  時期の点は、それほど決定的ではなかった。その情報は、少なくとも一〇年間にわたって、データバンクの中で時限爆弾のように時を刻んでいたのだから。  ファン・デル・ベルクは、それに五七年まで出くわさなかった。そのときでさえ、自分の頭がおかしくないことを確信するのに、あと一年かかった──そして、彼が元の記録を占有し、自分の発見が誰にも繰り返されないようにしたのは、五九年になってからだった。そのとき初めて、彼は安心して主要な問題──次に何をするか──に専念できることになった。  これも多くの場合と同じように、そもそもの発端は、ファン・デル・ベルクとは直接に関係のない分野での、一見すると些細な観測結果から始まった。惑星工学専門調査団の一員である彼の仕事は、ガニメデの天然資源を探査して目録をつくることだった。隣りの禁じられた衛星にちょっかいを出すなど、あまり関わりのあることではなかったのだ。  だが、エウロパは、誰にしても──とりわけ、すぐ隣りにいる人々なら──長くは無視できない謎の衛星だった。  それは七日ごとに、以前は木星だった明るいミニ太陽とガニメデとのあいだを通過し、一二分間も続くような日食をおこすのである。その最接近のときには、地球から見た月よりもやや小さい大きさになるが、軌道の向こう側にあるときは、その大きさのわずか四分の一にまで縮まった。  その日食は、しばしば壮観だった。ガニメデとルシファーのあいだに滑りこむ直前に、エウロパは不気味な黒い円盤になり、新しい太陽の助けによって形成された大気を、その太陽の光が抜けて屈折されると、深紅の炎の輪に縁取られるのだった。  人間の寿命の半ばよりも短いあいだに、エウロパは変貌を遂げていた。常にルシファーに面する半球の氷の地殻は、融けて太陽系で二つ目の海洋をつくった。それは一〇年にわたって上の真空に向かって泡立ち沸騰したすえに、平衡に達したのだった。いまやエウロパは、水蒸気、硫化水素、二酸化炭素と二酸化硫黄、窒素、そのほか雑多な稀ガスからなる、希薄ではあるが有効な──人類にとってではないが──大気を持っていた。いささか誤った名称だが、この惑星の夜側≠ヘ、依然として永久に凍りついていたけれども、いまやアフリカほどの大きさを持つ地域には、温和な気候と、液体の水と、少数の散在する島々があった。  これらのことは──あまりそれ以上はないのだが──地球の軌道にある望遠鏡を通して観測されていた。二〇二八年に最初の大規模な調査団がガリレオ衛星に打ち揚げられたころ、すでにエウロパは永久的な雲の外套に覆われていた。レーダーによる慎重な探査によっても、一つの面に滑らかな海洋が、もう一つの面に同じくらい滑らかな氷があること以外は、ほとんど何も明らかにされなかった。エウロパは、太陽系で最も平坦な不動産の代表という評価を、いまなお維持していたのである。  一〇年後になると、それはもはや真実ではなかった。何か劇的なことが、エウロパにおこっていた。いまではエベレストに近い高さの独立峰があり、薄明地帯の氷を抜けて聳え立っていた。おそらく何かの火山活動が──隣りのイオで絶えずおこっているように──この物質の集塊を突き上げたのだろう。途方もなく増大したルシファーからの熱の流れがあれば、そういう事象を触発することも可能だった。  しかし、この自明の解釈にも問題があった。ゼウス山は不規則なピラミッドであって、通常の火山のような円錐形ではなく、レーダーの走査でも特徴的な熔岩の流れは一つも見られなかった。ガニメデの望遠鏡が束の間の雲の切れ目を通して撮った数枚の不鮮明な写真によれば、それは周囲の凍りついた地形と同じように、氷でできているように見えた。正解がどうであれ、ゼウス山の出現は、それに占領されている天体にとって悪夢のような出来事だった。というのは、不揃いな舗装のように夜側に拡がっている、割れた氷塊の全体的なパターンは、様相を一変していたのである。  ある異端的な科学者が、ゼウス山は宇宙の氷山≠ナあり、宇宙空間からエウロパに落下した彗星の断片だという学説を提唱した。孔だらけのカリストは、そうした衝突が遠い過去におこったという豊富な証拠を提供していた。この学説は、すでに自称開拓者たちが山ほど問題を抱えこんでいるガニメデでは、ひどく評判がわるかった。彼らは、この学説にファン・デル・ベルクが次のような説得力ある反論を加えたとき、心からほっとしたのである。  これだけの大きさを持つ氷塊は、衝突に際して砕けているはずだ──そうでなかったとしても、小さいとはいえエウロパの重力が、たちまち崩壊させていただろう。レーダー観測によれば、ゼウス山は確かに絶えず沈下してはいるが、全体としての形状は少しも変わらなかった。氷が正解ではなかったのだ。  もちろん、エウロパの雲の下に一個の探査機を送れば、この間題には決着がつくはずだった。残念ながら、ほとんど切れ目のない雲の層の下に何があるにせよ、それは好奇心を助長するようなものではなかった。 [#ここから2字下げ] これらの天体は、すべてきみたちのものだ──ただしエウロバは除外する そこに着陸を企ててはならない [#ここで字下げ終わり]  宇宙船ディスカバリー号が破壊される直前に中継してきた最後のメッセージは忘れられていなかったが、その解釈については、果てしない議論が続いていた。着陸≠ニは無人探査機も含むのか、それとも人間が乗った宇宙船だけを指すのか? それに、有人と無人とを問わず、接近飛行についてはどうなのか? また、上層大気に浮かぶ気球なら?  その解明を科学者は切望したが、一般大衆は明らかに不安を感じていた。太陽系で最大の惑星を爆発させる能力を相手にするのでは、軽率な行動は慎むべきなのだ。しかも、イオ、ガニメデ、カリストをはじめ数十の小さな衛星を探査して開発するには、数世紀を要するだろう。エウロパは、あとまわしにすればいいのだ。  だから、ガニメデでやる仕事が山ほどあるのに(水耕農場のための炭素──燐──窒素を、どこで見つけるか? バーナード断層崖は、どのくらい安定しているのか? この先もフリギアで土砂崩れの危険があるか?≠サの他、その他……)、現実的な重要性のないものを研究して貴重な時間を無駄にするなと、ファン・デル・ベルクは一度ならずいわれたものだった。  だが彼は、頑固さというボーア人の祖先が築き上げた特性を受け継いでいた。ほかの無数の事業計画に従事しながらも、肩越しにエウロパを振り返りつづけていたのである。  そして、ある日、わずか数時間だけだが、夜側からの強風によって、ゼウス山付近の空が晴れあがった。 [#改ページ]      7 変わり目 [#ここから3字下げ] わたしも、自分のものだったすべてに別れを告げる……。 [#ここで字下げ終わり]  どんな記憶の奥底から、こんな一節が意識の表面に浮かんできたのだろうか?  へイウッド・フロイドは目をつぶって、そうした過去に精神を集中しようとした。明らかに戦争の詩だ──ところが、カレッジを出てからは、ほとんど詩を読んでいなかった。その当時でさえ、短い英文鑑賞セミナーの期間を除いては、実にわずかなものだった。  それ以上の手がかりがなくては、この一節を厖大な英文学の集積から見つけだすのは、ステーションのコンピューターでも相当な──おそらく一〇分間もの──時間を要するだろう。だが、それではカンニングになるから(高くつくことは、もちろんだが)、フロイドは、この知的な挑戦を受けて立つことに決めた。  もちろん戦争の詩に決まっている──でも、どの戦争だろう? 二〇世紀には、実に多くの戦争があったから……。  まだ彼が頭の中の暗闇を探っていたとき、六分の一Gのもとに長期滞在した者が持つ自然なスローモーションの優雅な動きを見せながら、来客たちが到着した。  パストゥールの社会には、遠心的階層≠ニ名付けられたものが強く影響を及ぼしていた。一部の者はハブの無重量状態から決して離れないのに対して、いつか地球に帰ることを望む者は、ゆっくり回転する巨大な円盤の縁にある、正常に近い重量の環境条件を好んだ。  ジョージとジェリーは、いまやフロイドにとって最も古くて親しい友人だった。それは驚くべきことだった。彼らとのあいだに、目に見える共通点は、ほとんどなかったのである。いささか波瀾万丈な自分の情緒的履歴──二回の結婚、三回の正式な契約、二回の非公式な契約、三人の子供──を振り返ってみると、ときどき彼らを訪ねてくる地球や月の甥≠スちによっては少しも影響されない、彼らの関係の長期的な安定が、しばしば羨ましく感じられるのだった。 「きみたちは、一度も[#「一度も」に傍点]離婚を考えなかったのかね?」  あるとき、冗談半分に訊ねたことがあった。  例によって、ジョージは、言葉につまったりなどしなかった(彼の曲芸的ではあるが実に真剣な指揮ぶりは、古典的な交響楽団の復活に大きな力を発揮したのである)。 「離婚だって──とんでもない」というのが、彼の打てば響くような返事だった。「殺したくなるのは──しょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]だがね」 「もちろん、無事にはすむまいがね」ジェリーが、やり返した。「セバスチャンが、ばらすだろうからな」  セバスチャンというのは、このカップルが病院当局との長い闘争の末に持ちこんだ、お喋りの美しいオウムだった。それは言葉が話せるだけでなく、シペリウスのバイオリン・コンチェルトの冒頭の数小節を真似することができた。ジェリーが半世紀前に──アントニオ・ストラディヴアリに大いに助けられながら──名声を築いた曲だった。  いまやジョージ、ジェリー、セバスチャンに別れを告げるときが来ていた──ほんの数週間のことかもしれないし、永遠の別れになるかもしれなかった。そのほかの別れの挨拶は、ステーションのワイン貯蔵室を空っぽにした一連のパーティーによって、もうすっかりすませてあり、やり残したことは何も思いつかなかった。  初期の機種だが、いまも申し分なく機能するコムセックのアーチーを、いっさいの来信が処理できるようにプログラミングして、適切な返事を出したり、緊急の個人的な用務をユニバース号に乗った自分に転送するようにしてあった。これだけの年月を経ても、希望する誰とも話せないというのは、不思議な気分だろう──もっとも、その埋め合わせとして、望ましくない相手を避けることもできるのだ。  旅が始まって数日もすれば、宇宙船は地球から遠く離れてリアルタイムの会話は不可能になり、いっさいの交信は録音された音声か電送文字によるほかはなくなるだろう。 「あんたは友達だと思っていたのにな」ジョージは不満そうな口振りだった。「おれたちを遺言執行人にするとは、汚いやり口だぞ──しかも、何も残してはくれんのだからな」 「多少は意外なことがあるかもしれんよ」フロイドは、にやりとした。「どうせ、細かいことはアーチーがすっかり処理するだろう。あれの理解にあまることがあった場合に、わたしあての郵便物を点検してほしいだけなんだ」 「あれ[#「あれ」に傍点]にわからなけりゃ、おれたちだって同じさ。あんたの科学関係の学会とかいった類いのくだらんことを、どれだけおれたちが知っているというんだ?」 「それらは自動的に始末がつく。わたしが不在のあいだに、あまり清掃係が部屋を取り散らかさないように、見ていてくれないか──そして、もしわたしが戻って来なければ──届けてほしいものが、ここに少しある──大部分は家族だがね」  家族!  彼ほど長く生きた者には、喜びだけでなく苦痛もあった。  飛行機事故でマリオンが死んでから、六三年が──六三年! ──過ぎていた。いま彼は良心の呵責を感じた。そのとき経験したはずの悲しみを、思い出すことさえできなかったのである。でなければ、せいぜい人為的な再構成であって、本物の記憶ではなかった。  もし彼女がまだ生きていたら、お互いにとって、二人はどれほど大切なものになっていたろうか? いま生きていれば、彼女はちょうど一〇〇歳になっているはずだが……。  そしていま、かつては彼があれほど愛した二人の小さな娘は、六〇代も末の愛想のいい白髪の他人になっていて、娘たちにも子供が──そして孫もだ! ──できている。最後に数えたところでは、そちらの側の家族は九人になっていた。アーチーの助けがなかったら、彼らの名前を覚えていることさえ不可能だったろう。だが、少なくとも彼らは一人残らず、愛情よりは義務感からだとしても、クリスマスには彼のことを思い出した。  もちろん二度目の結婚は、中世のパリンプセスト(羊皮紙に書いた文字を消して、その上に別の文を書いたもの)に書いた後日の文章のように、最初の結婚の記憶と重なりあっていた。それも、五〇年前に、地球と木星とのあいだのどこかで終わりを告げた。彼は妻と息子の両方と和解できることを願っていたが、無数の歓迎式典の合間に一度だけ短時間の面会をしたあとで、事故のためにパストゥールへ島流しにされたのだ。  その面会は、不首尾に終わった。かなりの出費と困難を克服して、宇宙病院そのものに──いや、それどころか、まさにこの部屋に──準備された第二の面会も同じだった。そのころクリスは二〇歳になり、結婚したばかりだった。フロイドとキャロラインを結びつけるものが一つあったとすれば、それはクリスの選択に対する不満だった。  それでも、ヘレナは、すばらしい妻であることがわかった。彼女は、結婚からわずか一ヵ月で生まれたクリス二世にとって、いい母親だった。そして、ほかの多くの若い妻と同じようにコペルニクス大事故で未亡人になったときも、冷静さを失わなかった。  クリス一世も二世も、きわめて違った形ではあったが、ともに父親を宇宙空間に奪われたということには、不可思議な皮肉があった。フロイドが八歳の息子のもとに短時間だけ帰ったのは、まったくの他人としてだった。クリス二世は、少なくとも人生の最初に一〇年だけは父親を知っていて、それから彼を永遠に失ったのだった。  そして、このところ、クリスはどこにいるのだろうか? キャロラインもヘレナも──いまや二人は無二の親友になっていた──彼が地球と宇宙空間のどちらにいるかも知らない様子だった。だが、それは珍しいことではなかった。クラビウス基地の日付印を押した葉書だけが、彼が月面で最初に訪れた場所を家族に告げていた。  フロイドに来た葉書は、いまでも彼のデスクの上に、目立つようにテープで留めてあった。クリス二世は、ユーモアの──そして歴史的な──感覚を充分に持ちあわせていた。彼は自分の祖父に、例の有名なモノリスの写真を送ってきたのだ。半世紀以上も前に、ティコの発掘現場で、それを囲んで集まった宇宙服姿の人影の上に聳え立っている光景だった。  そのグループにいるほかの者たちは、いまはみんな死んで、モノリスそのものも、もう月面にはなかった。二〇〇六年になって、多くの論議の末に地球へ運ばれて──本来の建物の神秘的な模写として──国連広場に置かれたのである。もはや自分たちが唯一の存在ではないことを、人類に思い出させようとしたのだった。五年後になって、ルシファーが空に輝くと、そんな戒めは必要がなくなった。  その葉書を剥がしてポケットに滑りこませたとき、フロイドの指は少し震えていた──ときとして、右手が独立した意志を持っているかに思えるのだった。ユニバース号に乗船するとき身につけているのは、これがほとんど唯一の私物になるだろう。 「二五日間か──いないことに気がつかないうちに、あんたはもう帰ってきているだろうよ」ジェリーがいった。「ところで、ディミトリが同乗するというのは本当かね?」 「あの小さなコサックか!」ジョージが鼻を鳴らした。「二二年には、彼の第二交響曲を指揮したもんだ」 「ラルゴのときに第一バイオリンが吐き気をおこしたやつじゃないか?」 「いや──あれはマーラーで、ミハイロビッチじゃないよ。それに、いずれにしても、あれは金管楽器だったから、誰も気がつかなかった──不運なチューバ演奏者を除いてはな。彼は次の日に自分の楽器を売り払ったもんだ」 「きみたちのつくり話だろう!」 「もちろんさ。ともかく、あいつめによろしく伝えてくれよ。それから、ウィーンでの夜のことを覚えているかどうか、聞いてくれないかな。ほかに誰が乗るんだね?」 「強制徴募隊の恐るべき話を聞いたことがあるな」ジェリーが考えこみながらいった。 「いっておくが、それはひどい誇張だよ。われわれ一人一人を、知能、機知、美貌、カリスマ性、その他の美徳に基づいて選んだのは、サー・ローレンスその人だぞ」 「消耗品としてじゃないのか?」 「さあ、そういわれてみれば、われわれはみんな、ありとあらゆる賠償義務をツァン航空宇宙会社に対して免責する、気のめいるような法律文書に署名することになっていたな。ところで、わたしの分は、そのファイルに入っているよ」 「それをおれたちが請求できる見込みはないかね?」ジョージが期待するように訊ねた。 「ないな──わたしの弁護士によれば、抜け道はないそうだ。ツァンは、わたしをハレー彗星まで往復させ、食事と水と空気と展望のきく部屋を提供することに同意している」 「それで、その見返りとしては?」 「わたしは戻ってきてから、最善を尽くして将来の宇宙旅行を奨励し、何度かテレビに出て、いくつかの記事を書くことになる──生涯に一度の機会が与えられるにしては、すこぶる妥当なものだ。ああ、そうだ──もう一つ、乗客仲間を、互いに楽しませること」 「どうやって? 歌や踊りでかね?」 「まあ、否応なしに聞かされる聴衆を、わたしの回想録から抜粋した一部で悩ませられればいいのだがな。それでも、本職には太刀打ちできないと思うよ。イーヴァ・マーリンが乗船するのを知っていたかね?」 「なんだって! あのパーク・アヴェニューの穴蔵から、どうやって彼女を誘い出したんだ?」 「彼女は、きっと一〇〇歳以上で──おっと、すまんな、へイ」 「七〇歳前後で、五歳多いか少ないかだよ」 「少ないことはないさ。『ナポレオン』が公開されたとき、おれはまだ子供だったぞ」  三人がそれぞれに、あの有名な作品の記憶をたどっているあいだ、長い沈黙が続いた。一部の批評家はスカーレット・オハラを彼女の最高の演技としていたが、一般大衆にとってイーヴァ・マーリン(本名イヴリン・マイルズ、ウェールズ南部のカーディフ生まれ)は、いまでもジョゼフィーヌと結びついていた。  もう半世紀近い以前のことだが、デイビッド・グリフィンの挑発的な叙事詩的作品は、フランス人を喜ばせ、イギリス人を憤激させた──もっとも、いまとなればどちらの側も、彼が芸術的衝動のままに時おり歴史の事実に手を加えたこと──とくに皇帝がウェストミンスター寺院で戴冠式を行なう最後の劇的な場面で──は認めているのだが。 「そいつは、サー・ローレンスのすごい離れ技だな」ジョージが、しみじみといった。 「いくぶんかは、わたしの功績かもしれないよ。父親が天文学者だったから──わたしのところで仕事したこともあったよ──彼女は科学にいつも非常な興味を持っていた。そこで、わたしが何度かテレビ電話をかけたわけだ」  へイウッド・フロイドは、自分も人類種属の相当な部分と同じく、GWTWマークHの出現以来ずっとイーヴァに恋していた、とつけ加える必要を感じなかった。 「もちろん」と彼は続けた。「サー・ローレンスは大喜びだった──それでも、彼女が通りいっぺんではない興味を天文学に持っていることを、納得させねばならなかった。さもなければ、この旅での親睦は大失敗かもしれないからな」 「それで思い出した」  ジョージはそういいながら、それほど充分には隠していなかった後ろの包みを 取り出した。 「あんたに、ちょっとした贈り物があるんだ」 「いま開けてもいいかね?」 「見せても大丈夫かな?」ジェリーが心配そうにいった。 「そういうことなら、誰がなんといっても開けるぞ」  フロイドは、そういいながら、明るい緑色のリボンをほどき、包み紙を開いた。  その中には、きちんと額縁におさめられた絵が入っていた。あまり美術のことは知らなかったが、それは前にも見たことがあった。それどころか、それを忘れられる者がいるだろうか?  波に揉まれるにわかづくりの筏には半裸の漂流者が群がって、ある者は死にかけ、ある者は水平線の船に向かって必死に手を振っていた。その下に表題がついていた。 [#ここから2字下げ] メデューズ号の筏(テオドール・ジェリコー、一七九一〜一八二四) [#ここで字下げ終わり]  そして、さらにその[#「その」に傍点]下には、ジョージとジェリーが署名したメッセージがあった。 「向こうまで行く途中が楽しみの半分」 「きみたちは、ろくでなしのカップルだが、わたしは大好きだよ」フロイドは、彼らを二人とも抱き締めながらいった。  アーチーのキーボードにある〈注意〉灯が、勢いよく点滅した。出発の時間だった。  友人たちは、言葉よりも雄弁な沈黙を守りながら、部屋を出ていった。へイウッド・フロイドは、最後にもう一度、これまで一生の半ば近くものあいだ自分の小宇宙だった、小さな部屋を見まわした。  そして、さっきの詩の最後の一節を、不意に思い出したのだった。 [#ここから3字下げ] わたしは幸せだった。そしていま幸せに出てゆく。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]      8 宇 宙 船 団  サー・ローレンス・ツァンは感傷的な人間ではなく、あまりにもコスモポリタンだったから、愛国心を真剣に考えることはなかった──もっとも、大学生時代には、第三次文化大革命のときに流行した人工の弁髪を、しばらくだけ試みたことはあったのだが。しかし、プラネタリウムで再現されたチェン号の遭難事件は彼を深く感動させ、その広大な影響力とエネルギーの多くを宇宙に集中させる原動力になった。  それからまもなく、彼は月面に週末旅行をして、下から二番目の息子チャールズ(三二〇〇万ソルの子供)をツァン宇宙運送の副社長に任命した。その新会社は、カタパルトで打ち揚げられて水素を燃料とする、自重一〇〇〇トン以下のラムロケット二機を所有するにすぎなかった。それらは遠からず時代遅れになるだろうが、サー・ローレンスが数十年後に必要になると確信する経験を、チャールズに獲得させるはずだった。なぜなら、宇宙時代が、やっと本格的に始まろうとしていたのだ。  ライト兄弟と低廉な大量空中輸送の到来とを隔てた年月は、半世紀と少しだった。太陽系という遙かに大きな試練に応じるまでには、その二倍の時間を要したのである。  それでも、一九五〇年代にルイ・アルヴァレのチームがミューオンに触媒される核融合を発見したときには、それが人迷わせな実験室の珍物にすぎず、単なる理論的な興味の対象としか思われなかった。偉大なラザフォード卿が原子力の可能性を冷笑したように、いつか低温核融合≠ェ実用的な重要性を持つことを、アルヴァレ自身が疑っていた。  それどころか、二〇四〇年になって初めて、安定なミューオニウム・水素化合物≠ェ思いがけずも偶然につくられたことが、人類史の新しい一章を開いたのだった──まさに中性子の発見が原子力時代のきっかけになったように。  いまや、最小限の遮蔽を施した、小さな携帯用の動力炉が、建造できるようになった。すでに莫大な投資が通常の核融合に対して行なわれていたから、世界の公益事業は──当初においては──これに影響されなかったが、宇宙旅行への衝撃はただちに表われた。これに匹敵するのは、一〇〇年前の空中輸送におけるジェット革命だけだった。  もはやエネルギーの制約を受けない宇宙船は、遙かに大きな速度に到達することができた。いまや太陽系における飛行時間は、何ヵ月ではなく、いわんや何年でもなくて、何週間の尺度で測られるようになった。  だが、ミューオン駆動もやはり反動推進駆動であり、化学的な燃料を利用する先祖と、原理的にはなんら変わりのない高性能ロケットなのだ。それには、推進力を与える流体作業物質──ただの水──が必要だった。  太平洋宇宙港が、この有用な物質に欠乏するようなことは、ありそうにもなかった。次の寄港地である月面では事情が違っていた。サーベイヤー、アポロ、また月面探査計画によっても、微量の水さえ発見されなかった。もし月に、かつて固有の水があったとしても、長い年代におよぶ隕石の衝突で蒸発し、宇宙空間へ吹き飛ばされてしまったのだ。  少なくとも、月学者はそう信じていた。それでも、ガリレオが自分のつくった最初の望遠鏡を月に向けて以来、それに反証する手がかりが、ずっと見えていたのだった。いくつかの月の山々は、日の出から数時間のあいだ、雪をかぶせたかのように明るく輝くのだ。なかでも有名な実例は、壮大なクレーターをなすアリスタルコスの縁である。  あるとき現代天文学の父であるウィリアム・ハーシェルは、それが月の夜のなかで非常に明るく光るのを観測して、活火山にちがいないと判断した。それは間違いだった。彼が見たものは、凍りつく暗黒の三〇〇時間のあいだに凝結した束の間の薄い霜の層から反射された、地球の光だったのである。  アリスタルコスから曲がりくねって遠ざかる渓谷、シュレーター谷の下に巨大な氷の堆積を発見したことは、宇宙飛行の経済学を一変させる方程式の中の最後の因子だった。惑星までの長い輸送の出発にあたり、月は地球の重力場のいちばんはずれの傾斜に高く位置して、まさにそれが必要な場所に補給所を提供できるだろう。  ツァン船団の第二号であるコスモス号は、地球・月・火星航路で貨物と旅客を運ぶように──また数十の団体や政府との複雑な協約を通じて、なお実験的段階にあるミューオン駆動の試験船として──設計されていた。雨の海の造船所で建造された同船は、有効搭載量ゼロで月から上昇するのにちょうど充分な推力を持っていた。そのあとは、軌道から軌道へと航行して、どんな天体にも二度と接触はしないだろう。  例によって鋭い宣伝の感覚を持つサー・ローレンスは、この宇宙船の処女飛行を、二〇五七年一〇月四日、スプートニク・デーの一〇〇年祭に開始するように計画した。  二年後、コスモス号には姉妹船ができた。ギャラクシー号は地球・木星航路のために設計され、有効搭載量に多大の犠牲を払ってではあるが、木星の衛星のどこへでも直接の航行ができるだけの推力があった。必要なら、修理のために月面の停泊地に戻ることさえできた。  これまでに人類が建造した最も速い乗り物だった。仮に推薬の全質量を一挙に燃やして加速すれば、秒速一〇〇〇キロメートルの速度に到達するだろう──これは、一週間で地球から木星まで、そして一万年ちょっとで最も近い恒星までゆける速度だった。  船団の三番目の宇宙船──そしてサー・ローレンスの自慢と喜びの対象──は、二隻の姉妹船を建造するときに学んだすべてを体現していた。だが、ユニバース号は、もともと貨物輸送を目的としてはいなかった。この宇宙船は、当初から宇宙航路を──太陽系の宝石たる土星までまっすぐに──航行する一級の定期旅客船として設計された。  この宇宙船の処女航行のために、サー・ローレンスは、それまでにもまして劇的なことを計画したが、再編全米トラック運転手組合月面支部の争議による建造の遅れのために、彼の目算は狂ってしまった。ユニバース号がランデブーのために地球の軌道を出発するのに先立つ二〇六〇年も末の月々は、初期飛行試験を行なってロイズの認定を受けるだけの余裕しかなさそうだった。きわどいことになりそうだった。  ハレー彗星は、たとえ相手がサー・ローレンスでも、待ってはくれないだろう。 [#改ページ]      9 ゼ ウ ス 山  探査衛星エウロパ六号は一五年近く軌道にあって、耐用年数を遙かに超えていた。それを取り換えるべきかどうかは、ガニメデの小さな科学の世界で、少なからぬ論議の的だった。  その内部には、いまでは無用に等しい映像システムといっしょに、慣例的なデータ収集装置の一式が積まれていた。いまも申し分なく正常な作動状態にありながら、これらがエウロパについて日常的に示すものは、切れ目のない雲の景色だけだった。  ガニメデにいる過労ぎみの科学者チームは、一週間に一度だけ高速走査モードで記録に目を通し、それから生データを地球へ高速送信した。全体として見れば、エウロパ六号の寿命が尽きて、その退屈な何ギガビットもの奔流がついに薄れれば、むしろ彼らはほっとすることだろう。  いまや、何年このかた初めてだが、それは胸を躍らせるようなものを提示していた。 「軌道七一九三四だ」  最新のデータダンプを検討するやいなやファン・デル・ベルクを呼び寄せた、天文学副部長がいった。 「夜側から近づいて──ゼウス山にまっすぐ向かっている。もっとも、あと一〇秒は何も見えるまい」  スクリーンは真っ黒だったが、ファン・デル・ベルクには、そこから一〇〇〇キロメートルの下界を覆う雲の下を過ぎてゆく、凍りついた風景を想像することができた。エウロパは七地球日ごとに一回の自転をしているから、あと数時間もすれば、そこを遠い太陽が照らすだろう。 夜側≠ヘ、全期間の半ばにわたって充分な光を受けるのだから──ただし熱は来ないが──本当をいえば薄明側≠ニ呼ばれるべきだった。それでも、これには感情に訴える妥当性があったので、不正確な名称が定着してしまった。つまり、エウロパでは、日の出≠ヘあっても、ルシファーの出≠ヘなかったのである。  そしていま、探査機が急速に動くために一〇〇〇倍にも進行速度を増しながら、その日の出が始まろうとしていた。暗闇のなかから、スクリーンを二分して、かすかに光る帯が現われてきた。  あまりにも突然に光の爆発がおこったので、ファン・デル・ベルクは、原子爆弾の閃光を見ているのかと錯覚するところだった。それは一瞬のあいだに虹のすべての色を通り抜け、続いて太陽が山の上に跳び出すと純白になった──それから、自動フィルターが回路を遮断すると消滅してしまった。 「これだけだよ。このときにオペレーターが勤務中でなかったのが残念だな──カメラを下へ向ければ、通過しながら、あの山がよく見えたものを。だが、きみが見たがることは知っていた──たとえ、それがきみの学説を否定していてもな」 「どうして?」  腹を立てるより先に、その意味がのみこめないで、ファン・デル・ベルクがいった。 「これをスローモーションで調べてみれば、わたしのいう意味がわかるだろう。あの美しい虹の効果だが──大気によるものではないよ──あの山そのもの[#「あの山そのもの」に傍点]がおこしているのだ。それがやれるのは氷だけだ。またはガラスだが──あまり可能性はなさそうだな」 「ありえないことではないですよ──火山は天然ガラスを生じることができます──ただし、ふつうは黒色だが……そうか!」 「どうしたね?」 「それが──観測データを調べおわるまで、責任は負いませんよ。でも、まず間違いなく水晶──つまり透明な石英──です。あれなら、立派なプリズムやレンズがつくれます。もう少し観測ができる可能性は?」 「ないと思うよ──これは、まったくの幸運だった──太陽、山、カメラが、おあつらえむきの瞬間に一直線に並んだのだ。あと一〇〇〇年は、二度とおこるまい」 「ともかく、感謝します──コピーを送ってもらえますか? 急がなくてもいいです──ちょうどこれからペラインまで実地調査に行くところで、戻ってくるまでは見る暇がないでしょう」  ファン・デル・ベルクは、どちらかというと遠慮がちに軽く笑った。 「ねえ、もしあれが本当に水晶だったら、ひと財産ですよ。われわれの支払残高の問題を解決する助けにさえなるかも……」  しかし、もちろん、それはまったくの空想だった。エウロパがどんな奇蹟を──または財宝を──隠しているにせよ、ディスカバリー号からの例の最後のメッセージによって、人類種属はそこに近づくことを禁止されているのである。  五〇年後になっても、その禁制が解かれた様子は少しもなかったのだ。 [#改ページ]      10 愚 者 の 船  旅が始まってからの四八時間というもの、その快適さと広さ──ユニバース号の居住設備に見られる途方もない贅沢さ[#「贅沢さ」に傍点]──が、へイウッド・フロイドには、とても信じられなかった。  それでも、同船者の多くは、それが当然と心得ていた。それまでに地球を離れたことのない者は、どんな[#「どんな」に傍点]宇宙船でも、こんなものだと思っていたのだ。  この状況を正しい視点から見るためには、航空の歴史を振り返ってみる必要があった。彼は自分の一生のあいだに、いま後方に小さくなってゆく惑星の空におこった革命を目撃した──いや、それどころか体験したのだ。不体裁なレオーノフ号と高性能なユニバース号とのあいだには、ちょうど五〇年の歳月が横たわっていた(実感としては、それを心から[#「心から」に傍点]信じることはできなかった──しかし、数字に反論しても無駄だった)。  また、ライト兄弟と最初の旅客ジェット機とを隔てる年月は、ちょうど五〇年だった。その半世紀の初頭において、勇気のある飛行家は、ゴーグルをかけ、剥き出しの椅子に坐って風にさらされながら、野原から野原へと跳び移った。その末期には、お祖母さんたちが、大陸のあいだを時速一〇〇〇キロメートルで安らかに眠りとおしていた。  だから、ことによると、この特等室の豪華さや優雅な装飾にも、そこを絶えず整頓する担当のスチュワードがいることにさえも、驚くべきではないのかもしれない。たっぷりとした広さの窓は、彼がいる続き部屋の最もきわだった特色だったが、一瞬たりとも弱まることのない無慈悲な宇宙空間の真空に抗して、その窓が支えている数トンもの気圧のことを考えると、初めのうちは少しも気が休まらなかった。  事前の文献によって心の準備ができていたはずだとはいえ、最大の驚きは重力が存在することだった。ユニバース号は、コースの中間点で方向転換する数時間を除いては、連続的な加速のもとで巡航するように建造された最初の宇宙船だった。その巨大な推薬タンクに五〇〇〇トンの水が満たされれば、一〇分の一Gに達することができた──たいしたものではないが、固定されていない物体が動きまわるのを防ぐには充分なものである。これは、とくに食事の際に都合がよかった──もっとも、あまり勢いよくスープをかきまわさないことを乗客が覚えるまでには、数日を要したのだが。  地球から四八時間のところで、早くもユニバース号の住民は、はっきりした四つの集団に階層化していた。  スミス船長と宇宙士たちが、上流階級を構成した。その次に来るのが乗客で、それから乗組員──下級船員とスチュワード──だった。それから三等船客が……。  この[#「この」に傍点]表現は、五人の若い宇宙科学者が、自分から進んで採用したものだった。最初は冗談のつもりだったが、あとになると、ある程度の苦々しさがこもっていた。彼らの窮屈な応急装備の住居を自分自身の豪華な船室とくらべてみたフロイドは、彼らの立場を理解することができたし、やがて彼らの苦情を船長に伝えるパイプ役を務めるようになった。  それでも、あれこれ考えあわせれば、彼らにも不満をいう理由はあまりなかった。あわただしい出発準備の最中にあって、彼らやその装備を収容する場所が少しでも[#「少しでも」に傍点]取れるかどうかは、きわどい問題だったのである。いまでは彼らも、彗星が太陽をまわって再び太陽系の最果てへと去っていく前の決定的な日々のあいだに、それの周囲に──また地上に[#「地上に」に傍点]──装置を配置することが楽しみになっていた。  科学チームのメンバーは、この旅によって名声を確立するだろうし、そのことを彼らは知っていたのである。極度に疲労したり、いうことを聞かない観測装置に腹を立てたときにだけ、彼らは騒々しい通風装置、閉所恐怖症をおこしそうな船室、時おりの異様な出所不明の臭気について、愚痴をこぼしはじめるのだった。  ただし、食事は例外であり、そのすばらしさは、誰もが認めていた。 「ずっと上等ですよ」スミス船長が彼らに保証した。「ダーウィンがビーグル号で食べたものよりはね」  それに対して、ヴィクター・ウィリスは、すかさず揚げ足を取った。 「どうして彼が[#「彼が」に傍点]、それを知っているんだ? それに、話は違うが、ビーグル号の船長は、イギリスに戻ってから喉を切ったんだよ」  おそらく惑星で最も有名な科学解説者(彼のファンにとっては)、あるいは通俗科学者(同じくらいに数の多い批判者にとっては。彼らを敵と呼ぶのは不当だろう。彼の才能への賞賛は、ときにしぶしぶとではあっても、広く共通していたのである)であるヴィクターなら、やりそうなことだった。その柔らかな中部太平洋の訛りと、テレビでの開けっぴろげなゼスチャーは、各所でパロディーの種にされたし、背丈の長さのひげを復活させたことも彼の功績とされていた(または非難されていた)。 「あれほどの[#「あれほどの」に傍点]毛髪を伸ばす者は」と批評家はよくいったものだった。「隠すべきものが多いにちがいない」  六人の要人のうちで、いちばん顔を知られているのが彼であることは、間違いなかった──もっとも、もはや自分を有名人と見なしていないフロイドは、いつも彼らを指して、皮肉まじりに〈高名な五人〉と呼んでいたのだが。イーヴァ・マーリンは、ごく稀れに自分のアパートメントを出た場合でも、パーク・アヴェニューを誰にも気づかれずに歩くことができた。ディミトリ・ミハイロビッチは、彼にとっては非常な悩みのたねなのだが、平均的な身長よりたっぷり一〇センチメートルは低かった。このことは、彼が大編成のオーケストラ──本物にせよシンセサイザーにせよ──を好むことを説明する役には立つかもしれないが、世間の印象を強めはしなかった。  クリフォード・グリーンバーグとマーガレット・ムバーラも、〈有名な無名人〉の範疇に含まれた──ただし、この状況は地球に戻れば、きっと変わるだろうが。水星に最初に着陸した男は、例の人好きはするが特徴がなくて、非常に覚えにくい顔の持ち主だった。しかも、彼がニュースを独占した日々は、いまでは三〇年の過去になっていた。また、トークショーやサインセールに中毒していない多くの著作家と同じく、ミズ・ムバーラも、数百万の読者の大多数から顔を知られていないはずだった。  彼女の文筆上の名声は、四〇年代に世間を騒がせたものの一つだった。ギリシャの神々の学術的研究などは、ふつうならベストセラーのリストに入るようなものではなかったが、ミズ・ムバーラは、その永遠に不滅な神話を、現代の宇宙時代という背景の中に据えたのだった。一世紀前ならば天文学者と古典学者にしか馴染みがなかった名前が、いまではあらゆる知識人の世界観の一部を占めていた。  ガニメデ、カリスト、イオ、タイタン、イアぺタス──あるいは、カルメ、パシファエ、ハイペリオン、フェーべのような、もっと無名の天体からさえ──ほとんど毎日のようにニュースが流れてきていた……。  神々(また、それ以外の多くのもの)の父であるジュピター=ゼウスの複雑な家族関係に焦点を置かなければ、彼女の書物も適度の成功をおさめたに留まったろう。そして、幸運にも天才的な編集者が、彼女のつけた原題『オリンピアからの眺め』を『神々の情熱』に変えたのだった。妬ましい学者たちは、たいていそれを『オリンピアの情欲』と呼んだが、それを自分が書けばよかったのにと、決まって思うのだった。  それほど意外なことではなかったが、初めて愚者の船≠ニいう言葉を使ったのは(さっそく同船者がつけた呼び名でいえば)マギー・Mだった。ヴィクター・ウィリスがそれに跳びついて、さっそく興味をそそる歴史的な類例を発見した。一世紀近く前に、ほかならぬキャサリン・アン・ポーター(『愚者の船』の著者)が、科学者や作家のグループといっしょに遠洋定期船に乗って、アポロ一七号の打ち揚げと月面探査の第一段階の最後を見物していたのだった。 「考えてみるわ」ミズ・ムバーラは、そのことを聞かされると、不気味な口調でいった。「ことによると、第三の『愚者の船』を出す時期が来ているのかもしれない。もちろん、わたしたちが地球に戻るまでは、知るよしもないわけだけれど……」 [#改ページ]      11 嘘  ロルフ・ファン・デル・ベルクが思考とエネルギーを再びゼウス山に向けられるようになったのは、何ヵ月もたってからだった。ガニメデの開発は、すべての時間を投入しても足りないくらいだったし、計画中のギルガメシュとオシリスを結ぶモノレールのルートを調査するために、ぶっつづけに数週間もダルダノス基地の本部を離れていたのだった。  三番目に位置する最大のガリレオ衛星の地勢は、木星の爆発このかた急激に変化し、いまも変わりつつあった。エウロパの氷を融かした新しい太陽は、四〇万キロメートル離れたここでは、それほど強力ではなかった──それでも、そっちを永遠に向いた表面の中心部を温暖な気候にするには充分な暖かさだった。北緯および南緯四〇度まで、小さな浅い海ができていた──あるものは、地球の地中海に劣らぬ広さだった。  二〇世紀当時にボイジャー探査計画によって描かれた地図のうち、いまも生き延びている地形は、あまりなかった。融けている永久凍土層と、内側の二つの衛星に作用しているのと同じ潮汐力に誘発された時おりの地殻の変動とは、新しいガニメデを地図製作者の悪夢と化していた。  だが、まさにその同じ要因が、そこを惑星工学者の楽園にしてもいた。乾燥して遙かに無愛想な火星を別にすれば、いつか人間が開けた空の下を無防備のまま歩けるかもしれない場所は、この天体だけだったのである。  ガニメデには豊富な水、あらゆる生命の化学物質が、そして──少なくともルシファーが輝いているあいだは──地球の大部分よりも暖かい気候があった。  何よりもいいことに、全身を覆う宇宙服は、もう必要がなかった。大気はいまだに呼吸に適さないとはいえ、なんとか簡単な顔マスクと酸素ボンベが使えるだけの密度があった。あと数十年もすれば、これさえ不要になる──はっきりした日付については言葉を濁しながらも、微生物学者たちは、そう断言していた。  すでにガニメデの地表には、酸素を発生するバクテリアの菌種が散布されていた。大部分は死んだが、その一部は繁殖して、大気分析図の上で徐々に上昇する曲線は、訪問者全員に対してダルダノスが誇らしげに掲げている最初の展示物だった。  ファン・デル・ベルクは、いつか再びゼウス山の上を通過しているときに雲が晴れることを願って、エウロパ六号が送ってくるデータを油断なく見張っていた。見込みがないことは承知のうえだったが、かすかな可能性でもあるうちは、ほかの研究手段を探ろうとはしなかった。急ぐことはなかったし、遙かに重要な仕事をかかえていた──それに、結局のところ、事の真相はきわめて些細なつまらないことだと判明するかもしれなかったのだ。  そのとき、エウロパ六号は、まず間違いなく偶然的な隕石の衝突の結果だろうが、突如として寿命が尽きたのである。  地球ではヴィクター・ウィリスが、いまや前世紀のUFO狂が残した隙間を埋めて余りある勢力になっている〈エウロパ信者〉をインタビューして、多くの者の目から見れば、むしろ自ら招いて物笑いのたねになっていた。  ある者は、探査機の活動停止が、下界の天体からの敵対行為によるものだと論じた。それが一五年間にわたって──本来の耐用年数の二倍に近かったのだが──干渉も受けずに機能していたということは、まるで問題にもしなかった。  ヴィクターの名誉のためにいっておくが、彼はこの点を強調したし、信者たちのほかの主張を大部分は粉砕した。だが、大方の意見は、そもそも彼らに宣伝の場を与えるべきでなかった、というものだった。 頑固なオランダ人≠ニする同僚の表現を充分に楽しんで、それに恥じないように最善をつくすファン・デル・ベルクにとっては、エウロパ六号の機能停止は抵抗しがたい挑戦だった。お喋りで閉口するほど長生きな探査機の沈黙は、少なからぬ安堵感をもって受け止められていたから、後継ぎのための資金が得られる望みは、これっぱかりもなかった。  それでは、ほかに何があるのか?  ファン・デル・ベルクは腰を据えて選択の余地を検討しはじめた。彼は地質学者であって天体物理学者ではなかったから、数日後になってやっと、自分がガニメデに降りてきてこのかた、解答は目の前にぶらさがっていたことに、突如として気づいたのだった。  アフリカーンス語は、悪態をつくのに、世界で最も適した言語の一つである。礼儀正しく喋ってさえ、罪のない局外者を傷つける怖れがあるのだ。ファン・デル・ベルクは、何分間か鬱憤を晴らしてから、ティアマト天文台に通話をした──それは赤道直下に設置されていて、まばゆいルシファーの小さな円盤が、いつも頭の上にあった。  宇宙でも桁外れに壮大な対象を取り扱っている天体物理学者は、惑星のように小さな汚らしいものに一生を捧げている地質学者ごときには、恩着せがましい態度を見せる傾向がある。だが、この未開の地では、みんなが助けあっていたし、ウィルキンズ博士は興味を示したばかりか、好意的でもあった。  ティアマト天文台は唯一の目的をもって建造されていたが、それは実をいえば、ガニメデに基地を設定する主たる理由の一つなのだった。  ルシファーの研究は、基礎科学者にとってばかりでなく、原子核工学者、気象学者、海洋学者にも──また、それに劣らず政治家や哲学者にも──途方もない重要性を持っていた。一つの惑星を太陽に変換できる存在というのは、茫然とするほどの想念であり、多くの者を夜も眠られなくさせた。  その過程を、できうるかぎり学ぶのは、人類にとって当を得たことだろう。いつか、それを真似する必要が──または妨げる必要が──あるかもしれないのだ……。  そこでティアマトは、ありとあらゆるタイプの計測装置でルシファーを一〇年以上も観測し、その電磁スペクトルの全帯域を絶えず記録するとともに、小さな隕石孔に吊るした一〇〇メートルの小さなパラボラアンテナからのレーダーで積極的に調べていた。 「うん」ウィルキンズ博士がいった。「われわれはエウロパやイオを頻繁に見ている。だが、われわれのビームはルシファーに固定してあるから、それらが天体面を通過する数分間しか見えない。それに、きみのいうゼウス山は昼側のぎりぎりにある──だから、そのときには、いつも隠れているわけだ」 「それは[#「それは」に傍点]、わかっているよ」ファン・デル・ベルクが、ややもどかしげにいった。「しかし、ほんの少しだけビームをずらして、一直線に並ぶ前にエウロパが眺められるようにできないのかね? 一〇度か二〇度の角度があれば、充分に昼側に入れるだろう」 「ルシファーを外して、軌道の向こう側にいるエウロパを正面から見るには、一度[#「一度」に傍点]で充分だろう。だが、そうなると三倍以上の距離になるから、反射されたエネルギーは一〇〇分の一になる。それでも、うまくゆくかもしれんな。試してみよう。周波数、波の包絡面、偏光、そのほかそちらの遠隔計測の連中が役に立つと思うものならなんでも、特性を知らせてくれよ。ビームを数度だけ回転させるような位相変換回路網を取りつけるのに、そう時間はかかるまい。それ以上のことは、見当がつかないな──これは、われわれが考えたことのない問題だ。もっとも、ことによると、やるべきだったのかもしれんが──それにしても、氷と水のほかに、エウロパで何が発見できると思っているんだ?」 「それがわかっていれば」ファン・デル・ベルクが快活にいった。「助けを求めてはいないんじゃないかね?」 「それに、わたしの方にしても、これを発表するとき対等の共同研究者とすることを求めてはいるまいな。わたしの名前がアルファベット順で最後に来るのは、残念なことだよ。きみが一字だけ、わたしの前に来るわけだからな」  それが一年前のことだった。長距離走査には充分な精度がなく、エウロパが合になる直前に昼側を見るためにビームをずらすことも、予想したよりは難しいことがわかった。それでも、とうとう観測結果が入ってきた。コンピューターがそれを解析して、ファン・デル・ベルクは、ルシファー後におけるエウロパの鉱物分布地図を最初に眺める人間になったのである。  それは、ウィルキンズ博士が予測したように、大部分が氷と水で、硫黄の堆積が散在する玄武岩が露出していた。だが、異常なものが二つあった。  一つは、画像処理過程での人工産物のようだった。長さ二キロメートルの完全にまっすぐな形状があって、ほとんどレーダー波を反射しなかった。ファン・デル・ベルクは、それについて知恵をしぼるのを、ウィルキンズ博士にまかせた。彼に関心があるのは、ゼウス山だけだったのである。  その正体を明らかにするには、長い時間を必要とした。なぜなら、そんな代物が可能だと夢想するのは、狂人──または、ひどい自暴自棄に陥った科学者──だけだったからである。いまになって、あらゆるパラメーターを精度の限界まで点検したあとでさえ、まだそれが心の底からは信じられなかった。そして、次の行動を思案しようとさえしなかったのである。  自分の名前や名声がデータバンクを通して拡がることを切望するウィルキンズ博士が通話してくると、まだ結果を分析しているところだと、彼は言葉を濁した。だが、とうとうそれ以上は引き延ばせなくなった。 「あまり大騒ぎするようなことはないよ」彼は、少しも疑わない同僚にいった。「珍しい形態の石英にすぎない──まだ、地球の標本と突き合わせているところだ」  仲間の科学者に嘘をついたのは、それが初めてであり、惨めな気持だった。  だが、ほかにどうすればよかったのか? [#改ページ]      12 パウル伯父さん  ロルフ・ファン・デル・ベルクは、パウル伯父に一〇年も会っておらず、二人が面と向かって会うことは二度とありそうもなかった。それでも、この老科学者には非常な親近感を持っていた──その世代の最後の生き残りで、祖先の生活様式を(めったにないことだが、そうしたいときには)思い出すことのできる唯一の人間だった。  パウル・クリューガー博士は──家族の全員や友人の大部分からはパウル伯父さん≠ニ呼ばれていたが──自分が必要とされるときには、生身の肉体でか、または五億キロメートルの電波回線の向こう側で、いつでも情報や助言を用意して待っているのだった。素粒子物理学に対する彼の貢献をノーベル賞委員会が黙殺したのは、もっぱら極度の政治的圧力があったためという噂だった。この分野は、いまや二〇世紀末の全面的な大掃除のあとで、再び絶望的な混乱に陥っていたのだ。  それが事実だとしても、クリューガー博士は恨みを抱かなかった。謙虚で控え目な博士は、亡命者仲間の闘争的な党派のあいだにさえ、個人的な敵は一人もいなかった。それどころか、あまねく深い尊敬を受けていたので、南アフリカ合衆国を再訪問する招待を何度も受けたが、そのたびに丁重な態度で辞退していた。その理由は──彼は急いで説明したのだが──合衆国内で何かの肉体的危険を感じるからではなく、懐旧の念が耐えがたいことを恐れてのことだった。  いまでは理解できる者が一〇〇万人もいない言語を用いるという保護手段を利用していてさえ、ファン・デル・ベルクはきわめて慎重で、腕曲な表現を使ったり、近しい親戚のほかには意味不明と思われる引用をしたりしていた。  それでも、パウルは甥のメッセージを苦もなく解読したものの、それを真に受けることはできなかった。若いロルフが馬鹿な真似をしたのではないかと心配し、できるだけ自尊心を傷つけないように断わるつもりだった。性急に公表しないでよかったな。少なくとも、沈黙を守るだけの分別はもっている……。  だが、仮に──まったく仮にのことだが──これが真実だとしたら?  パウルの頸すじで、とぼしい髪の毛が逆立った。ありとあらゆる可能性のスペクトル──科学、金融、政治──が突如として目の前に展開し、考えれば考えるほど、恐るべきものに思えてきた。  敬虔な祖先たちとは違って、クリューガー博士には、重大局面や難局に際して呼びかけるべき神がなかった。いまは、神が欲しい心境に近かった。だが、よしんば祈ることができたとしても、本当の救いにはなるまい。コンピューターの前に坐って、データバンクから呼び出しはじめたときは、自分の甥が途方もない発見をするのと、まるでたわごとを話しているのと、どちらを望んでいるのか、自分でもわからなくなっていた。  こんな驚くべき冗談を人類に仕掛けることが、悪魔には本当にできるのだろうか?  パウルは、神は狡猾ではあるが悪意は持たないという、アインシュタインの言葉を思い出した。  空想にふけるのをやめろ、パウル・クリューガー博士は自分にいい聞かせた。おまえの[#「おまえの」に傍点]好き嫌い、おまえの[#「おまえの」に傍点]希望と恐怖など、この問題には絶対に関係ないのだ……。  太陽系の幅の半分を越えて、彼に難問が投げかけられてきた。その真実を明らかにしないかぎり、彼には心の平安がないことだろう。 [#改ページ]      13 「水着を持ってこいとは、誰もいわなかった……」  スミス船長は、ちょっとした意外な知らせを、五日めの方向転換のわずか数時間前まで隠していた。予期したとおり、それについての発表は、茫然とした信じがたい態度で迎えられた。  最初に立ち直ったのはヴィクター・ウィリスだった。 「水泳プール[#「水泳プール」に傍点]だと! 宇宙船の中でか! 冗談だろう!」  船長は後ろにそりかえって、成り行きを楽しむ構えになった。この秘密に以前から参画しているへイウッド・フロイドに笑顔を向けた。 「さよう、コロンブスが聞いたなら、後世の船にある設備の一部には驚嘆することでしょうな」 「飛びこみ台はあるのかな?」グリーンバーグが、しみじみとした口調で訊ねた。「カレッジでは、チャンピオンだったものだが」 「実をいえば──あるんですよ。たった五メートルですがね──それでも、ここの一〇分の一Gという基準値でなら、三秒間の自由落下ができます。それに、もっと長い時間をお望みなら、きっとカーチス機関長が、喜んで推力を減らしてくれますよ」 「まさか!」機関長が、そっけなくいった。「そして、わたしの軌道計算を台なしにするんですか? 水が這い出てくる危険があることは、もちろんですがね。ほら、表面張力が……」 「球形の[#「球形の」に傍点]水泳プールを備えた宇宙ステーションが、前にあったんじゃないかな?」誰かが訊ねた。 「自転を開始する前に、パストゥールのハブで試みたよ」フロイドが答えた。「とても実用にはならなかった。無重量状態では、それを完全に囲みこむ必要があった。それに、あわてると、大きな水球の中では、かなり簡単に溺れてしまうんだ」 「記録に名を留める一つの方法だな──宇宙空間で溺れた最初の人間とね──」 「水着を持ってこいとは、誰もいわなかったわ」マギー・ムバーラが抗議した。 「水着をつける必要[#「つける必要」に傍点]がある者なら、そうすべきだったろうな」ミハイロビッチがフロイドに囁いた。  スミス船長はテーブルをたたいて、騒ぎを静めた。 「いいですか、もっと重要なことですよ。ご存じのように、本船は真夜中に最大速度に達して、減速を開始せねばなりません。そこで、二三〇〇に駆動が停止され、船体を逆転します。〇一〇〇に再び噴射を開始するまで、二時間の無重量状態が続きます。  お察しのとおり、乗組員はかなり忙しくなります──われわれは、この機会を利用してエンジンの点検や船体の検査をしますが、これはエンジンの作動中にはできないことです。その際には、ベッドの上から拘束ベルトを緩く締めて眠ることを、とくにお勧めします。固定していない品物があって、再び重量が戻ったときに面倒をおこさないかどうかを、スチュワードが点検するでしょう。何か質問は?」  集まった乗客が、なおも意外な知らせに茫然として、どう反応するかを決めかねているかのように、深い沈黙が続いていた。 「こんな贅沢をする経費についての質問を期待していましたが──ないようですから、こちらから申し上げましょう。これは贅沢でもなんでもありません──費用は少しも必要としないのですが、これが将来の旅行のきわめて有益な要素になることを望みたいものです。  ご存じのように、本船は反動推進質量として五〇〇〇トンの水を携行せねばなりませんから、それを有効に利用するのが得策というものです。二号タンクは、いま四分の三が空になっています。旅の最後まで、これをそのままにしておくつもりです。そこで、明日の朝食のあと──浜辺でお会いすることにしましょう……」  ユニバース号を宇宙に送り出すための突貫作業を考えれば、これほど歴然と不要不急なものに、たいへんな手間をかけているのは、驚くべきことだった。 浜辺≠ヘ、幅が約五メートルの金属床で、巨大なタンクの周囲の三分の一に沿って湾曲していた。向かいの壁面は、そこから二〇メートルの距離にすぎないのに、投影した映像を巧みに利用して、無限の彼方にあるかのように見せていた。サーファーたちが、中景をなす波に乗って海岸を目指していたが、いつまでたっても海岸には到達しなかった。彼らの向こうには、どんな旅行案内業者でもツァン海洋宇宙社のタイパン号だと即座に見分けられる美しい快速大型旅客帆船が、いっぱいに帆をふくらませて地平線を動いていた。  その幻覚を完全なものにするために、足もとには砂があり(所定の場所からあまり遠くへ動かないように、わずかに磁気を帯びていた)、短い長さの浜辺は、よほど注意して調べないかぎり実物と区別のつかない椰子の木立で終わっていた。頭上には熱帯の太陽があって、牧歌的な風景を締めくくった。あの壁のすぐ向こうには本物の[#「本物の」に傍点]太陽があり、どこの地球の浜辺よりも強烈に輝いているのだということを実感するのは難しかった。  まったくのところ、設計者は、利用できる制約された空間を使って、すばらしい仕事をしていた。 「打ち寄せる波がないのが残念だな」とグリーンバーグがいったのは、いささか不当に思えたのである。 [#改ページ]      14 検  索  どんな事実≠ノしても──いかに充分に立証されても──それが一般に承認された何かの原理的な枠組みに適合するまでは信じないというのが、科学における適切な原則である。  もちろん、ときによっては、一つの観察が枠組みを崩壊させて、新しい枠組みを構成せざるをえないこともあるが、それはきわめて稀れなことである。ガリレオやアインシュタインが一世紀に一度ならず現われることはめったにないし、それは人類の心の平安にとって結構なことなのだ。  クリューガー博士は、この原則を完全に受け入れていた。甥の発見を自分自身で説明できるまでは、そして神の直接の行為によるほかはないと思えるかぎり、それを信じるつもりはなかった。いまでもきわめて有効なオッカムの剃刀をふるいながら、ロルフが間違いをおかした可能性が、かなり大きいものと思っていた。もしそうなら、それを明らかにするのは、非常に簡単であるはずだった。  パウル伯父は、それが実に困難なことを知って、ひどく驚いたのだった。レーダー遠隔測定による観測の解析は、いまでは確立した権威ある技術であり、パウルが相談した専門家は、かなりてまどってから、誰もが同じ答をした。  彼らは必ず質問した。 「こんな記録を、どこで手に入れたのかね?」 「すまんな」彼は答えた。「それを教える権限はないのだよ」  次の段階は、この不可能事が事実だという前提で、文献をあさりはじめることだった。どこから始めるべきかも不明だから、途方もない仕事になりそうだった。  一つのことだけは、絶対に確実だった。力ずくで真正面から攻撃したのでは失敗するに決まっていた。それはまるで、レントゲンが]線を発見した翌朝に、その説明を求めて当時の物理学会誌を探しはじめるようなものだったろう。彼が必要とする情報が現われるのは、まだ何年も先のことだったのである。  だが、少なくとも、自分の探しているものが、現存する科学知識の厖大な山のどこかに埋もれているという、一か八かの可能性はあった。  パウル・クリューガーは、ゆっくりと慎重に、受容と排除を並行して行なうように設計された自動検索プログラムを設定した。それは地球に関連する参照文献──その数は間違いなく数百万にのぼるだろう──をすべて除外して、もっぱら地球外に関する引用に専念するはずだった。  クリューガー博士の名声がもたらす利益の一つは、コンピューターを無制限に利用できる権利だった。彼の知恵を必要とする各種組織に要求した報酬の一部が、それだったのである。この検索は、高くつく請求書の心配をする必要がなかった。  結果として、それは意外なほど少額だった。彼には運が向いていた。その検索は、わずか二時間三七分後に、二一四五六番目の参考文献で終わったのである。  表題だけで充分だった。  パウルがあまり興奮したので、専用のコンピューターは彼の声を識別しようとせず、全文をプリントアウトさせる命令を繰り返さねばならなかった。  ネイチャー誌は、その論文を一九八一年に掲載しており──彼が生まれる五年近くも前だった! ──その一枚きりのページに目を走らせた彼は、甥の考えが初めから正しかったばかりか、それに劣らず重要なこととして、これほどの奇蹟がいったいどうしたらおこるかも、知りえたのだった。  その八〇年前に出た雑誌の編集者は、優れたユーモアの感覚を持っていたにちがいなかった。外惑星の中心核を論じた研究論文などというものは、何気ない読者の注意をとらえるようなものではなかった。ところが、この論文には、人目を惹く異例の表題がついていたのである。彼のコムセックなら、それがかつて有名な歌の一節だったことを、すぐにも教えてくれていただろうが、もちろん、それはまるで無関係なことだった。  いずれにせよ、パウル・クリューガーは、ビートルズについても、彼らのサイケデリックなファンタジーについても、聞いたことがなかったのである。 [#改ページ] [#改ページ]  第二部 黒い谷の雪      15 ランデブー  そして、いまやハレー彗星は、あまりにも近くて見えなくなっていた。皮肉なことに、地球の方にいる観測者たちは、いまでは彗星の軌道と直角に五〇〇〇万キロメートルまで伸び、目に見えない太陽風に吹き流されて長旗のようにはためいている尾が、遙かによく眺められたのである。  ランデブーの朝になって、へイウッド・フロイドは不安な眠りから目を覚ました。彼が夢を見るのは──少なくとも夢を覚えているのは──いつにないことであり、これから数時間後に予想される興奮が原因であることは間違いなかった。それにまた、近ごろクリスから便りがあったかと訊ねてきたキャロラインからのメッセージも、いくらか気がかりだった。  ユニバース号の姉妹船であるコスモス号の現在の部署につけてやったときも、クリスはありがとう≠ニもいわなかったと、彼はやや手短かに返信した。おそらく、もう地球・月航路に飽きてしまって、どこか別の場所に刺激を求めているのだろう。 「例のとおりだ」とフロイドはつけ加えた。「気が向いたら便りをよこすだろう」  朝食の直後に、乗客と科学チームは、スミス船長からの最終的な状況説明を聞くために集合した。もちろん科学者たちにとっては必要のないことだったが、彼らが少しは苛立ちを感じたとしても、そんな子供じみた感情は、この世のものとも思われない主展望スクリーンの壮観を見て、たちまち吹っ飛んでしまったことだろう。  ユニバース号が飛びこもうとしているものは、彗星ではなくて星雲のように見えた。いまや前方の空には、一面の霧が立ちこめていた──均一な濃さではなく、黒みを帯びた斑が点在し、輝いた筋や明るく光る噴流が縞模様をなして、すべてが中心点から放射状に伸びていた。いまの拡大率では、核は微小な黒い点となってかろうじて見えるだけだが、それを取り巻く現象の源になっていることは明らかだった。 「あと三時間で駆動を停止します」船長がいった。「そのときには、核までわずか一〇〇〇キロメートルで、速度はほとんどゼロになるでしょう。若干の最終的な観測をして、着陸点を確認する予定です。  そこで、一二〇〇ちょうどに、本船は無重量状態になります。それに先立って、いっさいの物品が適切に収納されているかどうかを、担当の船室スチュワードが点検します。方向転換の際とまったく同じですが、ただし今回[#「今回」に傍点]の場合は、再び重量が戻るのが二時間後ではなく、三日後になります。  ハレー彗星の重力ですか? 問題になりません──毎秒毎秒一センチメートル以下──地球での約一〇〇〇分の一です。充分に長く待っていれば感知できますが、その程度のものです。物体が一メートル落下するには一五秒かかります。  安全のために、ランデブーと着地をするあいだは、ここの展望ラウンジに全員が集合して、座席ベルトを正しく締めていただきたい。いずれにせよ、ここからは最高の展望が得られるのですし、全作業を終えるのに一時間以上はかかりますまい。ごく弱い推力修正を加えるだけですが、どの方向から来るかわかりませんし、軽い知覚障害をひきおこすかもしれません」  もちろん、船長がいうのは宇宙酔いのことだった──だが、この言葉は、全員の総意によって、ユニバース号では禁句とされていたのである。しかし、必要に迫られた場合に悪名高いプラスチックバッグの用意があるかを確かめるように、多くの手が座席の下にある収納箱に伸びたのは、注目すべきことだった。  拡大率が増すにつれて、展望スクリーンの映像は大きくなっていった。その一瞬、フロイドは、自分が宇宙船に乗って、数ある彗星のうち最も有名なものに近づいているのではなくて、飛行機で薄い雲の層を抜けて降下しているかのように感じた。  核は大きく明瞭になっていった。もはや黒い点ではなく、不規則な楕円だった──いまは宇宙の大洋に忘れられた、あばただらけの小さな島だ──それから突如として、それはまぎれもない天体になった。  まだ大きさの感覚はなかった。フロイドは、目の前に拡がるパノラマの全体が、さしわたし一〇キロメートルもないことを知っていたが、自分が月ほどの大きさの天体を見ているのだと思いこむこともできた。だが、月は縁がぼやけてはいないし、その表面から水蒸気の小さな──また二つの大きな──ジェットを噴射してもいないのだ。 「おやっ!」ミハイロビッチが叫んだ。「あれはなんだ?」  彼は明暗界線のすぐ内側にあたる核の下端を指さした。まぎれもなく──信じられないことに──その彗星の夜側で、一つの灯火が規則正しいリズムで点滅していたのである。二秒か三秒ごとに一回の割合で、点、滅、点、滅、を繰り返していた。  ウィリス博士が、例の独特なそれは一言で説明できるさ≠ニいう咳払いをしたが、スミス船長の方が先を越した。 「ご期待にそむいて申し訳ありませんな、ミハイロビッチさん。あれは試料採取探査機二号の標識灯なんですよ。あそこに一ヵ月のあいだ腰を据えて、われわれが見つけにくるのを待っていたんです」 「なんてこった。あそこに誰か──何か──がいて、歓迎してくれているのじゃないかと思ったのに」 「そうはいきますまい。ここでは、もっぱら自力に頼ることになります。あの標識灯は、ちょうど着陸を予定した場所にあります──ハレー彗星の南極に近く、目下のところ、いつも暗闇の中にあります。おかげで、生命維持装置に負担をかけずにすみます。温度は太陽に照らされる側で一二〇度──沸騰点より遙かに上です」 「彗星が湯気を吹いているのも、不思議ではないな」ディミトリが、動じる様子もなくいった。「あのジェットは、あまり無害なようには見えないな。近づいても大丈夫だということは確かかね?」 「夜側に着地するのは、それがもう一つの理由です。そちら側では、少しも活動していないのです。さて、ここで失礼して、ブリッジに戻らねばなりません。新しい天体に着陸するのは、これが初めてのチャンスです──もう二度とあるかどうか」  スミス船長の聴衆は、いつになく黙りこんだまま、徐々に散っていった。展望スクリーンの映像は正常な大きさに戻って、核は再びかろうじて見えるほどの点に縮まった。それでも、この数分のあいだにさえ、わずかに大きさを増したように思われたが、それは錯覚ではないかもしれなかった。  出会いまで四時間足らず。宇宙船はなおも彗星に向かって、時速五万キロメートルで突進していたのである。  この段階まできて、主駆動装置に何か異変がおこったら、ハレー彗星が誇るクレーターのどれよりも立派なものができることだろう。 [#改ページ]      16 着  陸  着陸は、スミス船長が望んでいたとおりのあっけなさだった。  ユニバース号が接触した瞬間を知ることは不可能だった。着地が完了したことに乗客が気づいて、遅まきながら歓声を挙げたのは、まる一分間もあとのことだった。  宇宙船は、高さ一〇〇メートルにすぎない丘陵に囲まれた、浅い谷間の一方の端に降りていた。月面のような風景が見られると予想していた者は、すっかり驚いたことだろう。これらの地形は、数十億年にわたる微小隕石の衝突によって磨かれた月面の滑らかな緩い傾斜とは、似ても似つかなかった。  ここには、一〇〇〇年以上の年代を経たものは存在していなかった。この風景にくらべれば、ピラミッドの方が遙かに古かった。ハレー彗星は、太陽をまわるたびごとに、太陽の熱火によって造形しなおされ──小さくなった。一九八六年の近日点通過からでさえ、核の形状は微妙に変化していた。  ヴィクター・ウィリスは、隠喩を臆面もなく融合させながら、それでも巧みな表現で、見物人たちにいった。 「ピーナッツ≠ェ、くびれた細い腰になったぞ!」  確かに、ハレー彗星には、あと何回か太陽をまわれば、ほぼ同じ大きさの二つの破片に分裂しそうな徴候があった──一八四六年に天文学者を驚かせたビエラ彗星のように。  重力が存在しないに等しいことも、異様な風景を助けていた。月面でさえ数分とはもちそうもない、シュールレアリスムの芸術家によるファンタジーのような蜘蛛の巣状の形態とか、とんでもない角度に傾いた岩の堆積とかが、あたり一帯に散らばっていた。  スミス船長はユニバース号を極地の夜の奥深くに──太陽の焼けつくような熱さから、たっぷり五キロメートル離れて──着陸させることに決めたのだが、それでも照明は充分だった。  彗星を取り囲むガスと塵の巨大な外被は、この地域にふさわしいような輝くハローを形成した。南極の氷の上に揺らめくオーロラのようだった。そして、それでも充分でなければ、満月の数百倍の光を、ルシファーが提供していた。  予期していたとはいえ、色彩を完全に欠いていることは失望だった。ユニバース号の降りた場所は、露天掘りの炭鉱と間違えそうだった。実をいえば、それほどかけ離れた形容ではなかったのだ。なぜなら、周囲の黒色の多くは、雪や氷にすっかり混じりあった、炭素およびその化合物によるものだったからである。  当然の権利として真先に宇宙船を出たスミス船長は、ユニバース号の主エアロックから、そっと体を押し出した。彼が二メートル下の地面に着くまでには、無限の時間がかかりそうに思えた。それから粉末状の表層をひとつかみ取ると、それをグローブに覆われた手の中で調べた。  船内では、歴史書に記されるはずの言葉を、みんなが待っていた。 「胡椒と塩のように見える」船長はいった。「氷を融かしたら、すばらしい作物が育つかもしれん」  探査計画の予定には、ハレー彗星のまる一日≠ナある五五時間を南極で過ごし、それから──何も問題がなければ──きわめて不明確な赤道の方へ一〇キロメートル移動して、完全な一昼夜のサイクルにわたって間欠泉の一つを調べることが含まれていた。  ペンドリル科学部長は、時間を無駄にしなかった。ほとんど着地と同時に、同僚といっしょに二人乗りのジェットそりで、待っていた探査機の標識灯を目指して出発した。彼らは、一時間もしないうちに、プリパッケージした彗星の標本を持って戻ってくると、それを誇らしげに冷凍処理した。  そのあいだに、ほかのチームは、脆い地殻に打ちこんだ柱にケーブルをつないで、谷に沿って蜘蛛の巣のように張りめぐらした。これらは、無数の計器を宇宙船に連結する役をするだけでなく、野外での動きをずっと容易にした。ハレー彗星のこの地域では、扱いにくい外部行動ユニット(EMU)を使わずに調査ができた。ケーブルに索を取りつけ、それをたぐって進むだけでよかった。実質的に一人乗りの宇宙船であって、共通の厄介事をすべて含んでいるEMUを操作するより、ずっと楽しくもあった。  乗客たちは、これらを魅せられたように眺めながら、通話回線の会話に聞き入って、発見の興奮に仲間入りしようとした。一二時間ほどもすると──元宇宙飛行士のクリフォード・グリーンバーグの場合には、それより遙かに短かったのだが──拘束された聴衆としての楽しさは薄れはじめていた。  やがて、外に出る≠アとについての話題が盛んになった──ただし、ヴィクター・ウィリスだけは例外で、彼は日頃にも似あわず、すっかり黙りこんでいた。 「彼は怖いんだと思うよ」軽蔑したように、ディミトリがいった。  この科学者が完全な音痴だと知って以来、ヴィクターをひどく嫌っていた。これはヴィクターに対して、すこぶる不当な仕打ちだったが(彼は雄々しくも、自分の持つ奇妙な欠陥の研究のために、モルモットになることを承知したのだった)、ディミトリは不機嫌な口ぶりで心に音楽を持たぬ者は、とかく謀叛や、謀略や、略奪をするものだ=iシェークスピア『ヴェニスの商人』五幕一場から)とつけ加えるのを好んだ。  フロイドは、地球の軌道を離れないうちから、もう心を決めていた。マギー・Mは、何事でも試みるほど負けん気であり、そそのかす必要もないだろう(彼女のモットー著述家は新たな体験の機会を拒絶すべきでない≠ヘ、周知のごとく、その生活の情緒面に強い影響を与えていた)。  イーヴァ・マーリンは、例によって一同をやきもきさせたが、フロイドは彗星の私的観光旅行に彼女を同伴しようと決めていた。評判を裏切らないためには、せめてそのくらいのことはする必要があった。この伝説的な世捨て人を乗客名簿に入れるのに彼が一役買ったことは、誰もが知っており、二人が恋愛関係にあるというのが、いまや絶え間ないジョークになっていたのだ。ディミトリと船医のマヒンドラン博士は、二人のまるで罪のない発言を嬉しそうに曲解して、二人を羨望と畏敬の目で見ると告白したものだった。  初めに少し腹を立てたあと──それが、あまりにも鮮明に若き日の情感を蘇らせたからだった──フロイドは、そのジョークに逆らわないことにした。だが、そのことをイーヴァがどう思っているかは知らなかったし、それまでのところ訊ねてみる勇気はなかった。  いま彼女は、この密集した──秘密が六時間以上も守られることは少ない──小さな社会にあってさえも、周知の控え目な態度を保持していた──三世代にわたって観衆を魅了してきた、あの神秘的な雰囲気を。  ヴィクター・ウィリスのほうは、ハツカネズミと宇宙飛行士が苦労して立てた計画も台なしにできるような、恐るべき小さな事実を、発見したばかりのところだった。  ユニバース号には、曇り止めと反射防止加工によって比類ない宇宙空間の展望を保証する、最新のマークXX宇宙服が備えつけてあった。そして、ヘルメットのサイズは何種類もあるというのに、ヴィクター・ウィリスには、大手術でもしないかぎり、そのどれも寸法が合わなかったのである。  彼は一五年を要して、そのトレードマークを完成させた(おそらく感嘆のあまりだろうが、ある批評家は、それを装飾刈り芸術の極致≠ニ呼んだ)。  いまや、ヴィクター・ウィリスとハレー彗星とのあいだを遮るものは、彼のひげだけだった。いずれは彼も、どちらを選ぶかを決めざるをえないだろう。 [#改ページ]      17 黒い雪の谷  スミス船長は、乗客の船外活動(EVA)という思いつきに、意外なくらい異議を唱えなかった。ここまではるばると来て、彗星の土を踏まないのは無意味だという意見に賛成した。 「指示に従ってくれるかぎり、何も問題はありますまい」お定まりの状況説明のなかで、彼はいった。「いままで宇宙服を着たことがなくても──その経験があるのはグリーンバーグ中佐とフロイド博士だけだと思いますが──これは非常に着心地がいいし、完全に自動式です。エアロックで点検したあとは、制御や調節の心配をする必要もありません。  絶対的な規則が一つ。いちどきに船外活動ができるのは、二人ずつだけです。むろん、専任の案内役が一人ついて、五メートルの命綱でつながります──もっとも、必要があれば二〇メートルまで繰り出せますがね。それに加えて、あなた方は二人とも[#「二人とも」に傍点]、われわれが谷に端から端まで張った二本の誘導ケーブルに固定されます。道路の規則は地球と同じく、右側通行です! 誰かを追い越したければ、バックルのクリップを外すだけのことです──ただし、あなた方の一人は[#「一人は」に傍点]必ずケーブルにつながっていなければなりません。そうすれば、宇宙空間へ漂流してゆく危険はありません。何か質問は?」 「船外には、どれだけ長くいられるんですの?」 「お好きなだけです、ミズ・ムバーラ。しかし、少しでも不快感があったらただちに戻ることを、お勧めします。おそらく、最初の外出では、一時間が最適かと思います──もっとも、ほんの一〇分間としか思えないかもしれませんがね……」  まったく、スミス船長のいったとおりだった。時間経過ディスプレイを眺めたへイウッド・フロイドは、早くも四〇分たったとは信じられない気がした。しかし、それほど驚くことはないはずだった。すでに宇宙船からは一キロメートルも離れていたのだ。  ほとんどあらゆる点で先輩にあたる乗客として、彼は最初に船外活動をする特権を与えられた。そして、同伴者については、本当のところ選択の余地がなかったのである。 「イーヴァといっしょにEVAだって!」  ミハイロビッチが大声で笑った。 「反対のしようがあるまい! たとえ」彼は、思わせぶりな笑みを浮かべていった。「いまいましい例の宇宙服が、思うような船外活動をさせてくれないとしてもだ」  イーヴァは少しも躊躇せずに同意したが、いくらか熱意を見せるわけでもなかった。イーヴァらしいな、とフロイドは苦い気分で思った。  幻想が破れたといえば誇張になるだろう──彼の年齢になると幻想はほとんどなかった──だが、失望はした。それも、イーヴァに対してというよりは、むしろ自分に対してだった。彼女は、しばしば比較されてきたモナ・リザと同じく、批評や称賛を超越した存在だったのだ。  もちろん、そんな比較は滑稽だった。ラ・ジョコンダは神秘的であるが、決してエロチックではなかった。イーヴァの魅力は、両者が独特な結びつきをして、それに無邪気さが加わったところにあった。半世紀を経てもなお、三つの要素すべての痕跡が、少なくとも信者の目にはいまだに見えていた。  欠けているのは──フロイドは悲しい気持で認めざるをえなかった──真実の個性なのだ。彼女に心を集中させようとすると、目に浮かぶものは彼女が演じた登場人物ばかりだった。かつてイーヴァ・マーリンは、すべての男の欲求の反映である。だが、鏡には人格がないのだ≠ニいった批評家に、不承不承ではあれ同意していた。  そしていま、彼らと案内人が〈黒い雪の谷〉に伸びる一対のケーブルに沿って動いているとき、この類い稀れな神秘の生き物が自分の横にいて、ハレー彗星の地表を漂っているのだ。  この名称は、フロイドがつけたものだった。どんな地図にも決して書かれないとはいえ、そのことを子供じみた気持で誇りに思っていた。地球の気象ほどにもはかない地形を持つ天体の地図は、つくられるはずがないのだ。自分の周囲の光景は、どんな人間の目も見たことがない──また今後もないだろう──という認識を、彼はしみじみと味わった。  火星または月でなら、ときには──いくらか想像を交え、異様な空を無視すれば──地球にいるつもりにもなれる。ここでは不可能だった。なぜなら、聳え立つ──しばしば覆いかぶさる──雪の彫刻は、重力に対して最小限の譲歩を示しているだけなのだ。どちらの方向が上なのかを知るには、よほど注意深く周囲の状況を眺める必要があった。  きわめて堅固な構造をもつ点で、〈黒い雪の谷〉は異常だった──水と炭化水素の氷からなる揮発性の吹きだまりに埋まりこんだ岩石質の岩盤。地質学者たちは、その起源について、いまだに論争しており、なかには、これが実は彗星が遠い昔に出会った小惑星の一部なのだと主張する者もいた。粉末にしてみると、有機化合物の複雑な混合物であって、いくらか凍結したコールタールに似ていることが明らかになった──もっとも、その生成に生命が役割を演じていないことは確かだったが。  小さな谷の底にかぶさる雪≠ヘ、完全に黒くはなかった。フロイドが懐中電灯のビームを動かすと、まるで無数のダイアモンドでも埋まっているかのように、ピカピカと輝いた。彼は、ハレー彗星の上に本当にダイアモンドがあるだろうかと思った。なるほど、炭素は充分にあった。だが、それをつくりだすのに必要な温度と圧力が存在しなかったことも、同じくらいに確実だった。  フロイドは、突然の衝動に駆られて手を伸ばすと、ふた掴みの雪を取った。そうするためには、命綱に両足を当ててふんばる必要があり、ぶらんこ曲芸師として綱を渡っているような──ただし逆立ちでだが──滑稽な姿を思い浮かべた。頭と肩を埋めても、脆い地殻はほとんど抵抗を示さなかった。それから索を軽く引くと、ハレー彗星の一部を掴んで体をおこした。  ふわふわした結晶質の塊りを、ちょうど掌におさまるくらいの玉に固めながら、それをグローブの絶縁を通して感じられ[#「感じられ」に傍点]たらいいのにと思った。それは漆黒の色をして目の前にあったが、左右に転がすと一瞬の閃光を放った。  そして彼の空想の世界のなかで、それは不意に純白になった──彼は再び少年に戻り、幼い日の冬の運動場にいて、幼年時代の亡霊に囲まれた。それぞれに真っ白な雪のつぶてを持ち、あざけったり脅したりする仲間の叫びを聞くことさえできた……。  その思い出は、束の間ではあったが、衝撃的だった。それは耐えがたい悲しみを呼びおこした。一世紀の時間を隔てたいまは、自分を囲むそれらの亡霊の友達を、ただの一人も覚えてはいなかったのである。それでも、かつてはその何人かを愛したことがあったのだと、彼は知っていた。  目に涙があふれ、指が異星の雪の玉を握り締めた。それから、その情景は消えていった。彼は再び自分を取り戻した。いまは、悲しみではなく勝利の瞬間なのだ。 「どうだ!」  へイウッド・フロイドが叫ぶと、その声が宇宙服の反響する小さな宇宙にこだました。 「わたしはハレー彗星に立っている──これ以上に何を望むことがある! いま隕石がわたしに命中したとしても、一つも不服はいわないぞ!」  彼は腕を挙げると、星々に向かって雪玉を放り投げた。非常に小さくて黒かったから、それはほとんど即座に見えなくなったが、彼は空を見つめつづけた。  そのとき、突如として──思いがけなくも──上昇して、隠れている太陽の光線を受けた雪玉が、不意に光を爆発させて姿を現わした。煤のように黒くても、太陽の目もくらむような明るさを存分に反射して、かすかに光る空を背景に、はっきりと見ることができた。  フロイドは、それが最終的に消えるまで見守っていた──蒸発したのかもしれないし、遠ざかって小さくなったのかもしれない。頭上の強烈な放射の奔流の中では、長く生きのびることはないだろう。  だが、自分の彗星をつくりだしたと主張できる者が、この世に何人いるだろうか? [#改ページ]      18 オールド・フェイスフル  まだユニバース号が極地の影の中に留まっているあいだも、すでに彗星の慎重な探査は始まっていた。  まず、一人乗りのEMUが、穏やかな噴射によって昼側と夜側の両方に行くと、興味をひくものを片っ端から記録した。予備的な調査が完了すると、五人までの科学者グループが備えつけのシャトルで飛んでゆき、要所要所に装備や計器を配置した。  レディー・ジャスミン号は、無重量状態でしか機能できなかったディスカバリー号時代のスペースポッドとは、天地雲泥の差があった。これは文字どおりの小宇宙船で、軌道にあるユニバース号と火星や月や木星の衛星とのあいだで、人員や軽い貨物を輸送するように設計されていた。これを貴婦人のように取り扱っている機長は、腹に据えかねる素振りをしながら、小さい惨めな彗星を飛びまわることなど、まるでレディーの体面にふさわしくないと苦情を述べたのだった。  ハレー彗星が──少なくとも地表には──予想外の落とし穴を隠していないことを納得したスミス船長は、極地から機体を飛び立たせた。一〇キロメートルほど移動すると、ユニバース号は別世界に入った──数ヵ月も続くかすかな薄明の世界から、昼夜が交代する土地へである。そして、夜明けとともに、彗星は徐々に活気づいた。  あきれるほど近く見えるギザギザな地平線から太陽が顔を出すと、地殻をあばたにしている無数の小さなクレーターに、その光線が斜めに射しこんだ。その大部分は無機塩がこびりついて狭い口を塞がれ、何も活動せずにいた。  ハレー彗星で、これほど鮮やかな色彩を見せる場所は、ほかにどこもなかった。それらは生物学者を迷わせて、かつて地球でおこったように、ここでも藻類の成育という形で生命が始まりかけていると思いこませた。多くの者は、自分では認めたがらないだろうが、その希望を捨てていなかったのだ。  ほかのクレーターからは一筋の水蒸気が空に立ち昇り、その向きを変えさせる風がないために、不自然なほどまっすぐな線を描いて移動していた。  ふつうは、一時間か二時間のあいだ、ほかには何もおこらなかった。それから、凍りついた内部に太陽の暖かみが浸透するにつれて、ハレー彗星は──ヴィクター・ウィリスの言葉を借りれば──鯨の小群のように&ャ出を始めるのだった。  その表現は、写実的ではあったが、もっと正確な彼らしい隠喩には及ばなかった。ハレー彗星の昼側から生じる噴流は、間欠的ではなく、数時間にもわたって絶え間なく続いていた。そして、曲がりくねったり、地表に逆戻りしたりせずに、空高く昇りつづけて、それが助けてつくりあげた輝く霧のなかに消えていった。  初めのうち科学チームは、この間欠泉を、まるで火山学者が予測しにくい状態にあるエトナ山やべスビアス山に近づくように、用心深く取り扱っていた。ところが、しばらくすると、外見は物凄そうに見えても、ハレー彗星からの噴出は異常に穏やかで、お行儀がいいことを発見したのである。  水が出てくる速さは、通常の消火ホースからと同じ程度で、ほとんど暖かみはなかった。それは、地下の源泉から抜け出して数秒後に、突如として水蒸気と氷の結晶の混合物になった。ハレー彗星は、上に向かって[#「上に向かって」に傍点]降る絶え間ない吹雪に包まれていた。この控え目な射出速度でさえ、出発点に戻ってくるような水はなかった。彗星が太陽をまわるたびに、その生命の水は、飽くことを知らぬ宇宙空間の真空へと、流出してゆくことだろう。  スミス船長は、さんざん説得されたあげくに、昼側で最大の間欠泉であるオールド・フェイスフルから一〇〇メートル以内まで、ユニバース号を移動させることに同意した。  それは圧倒されるような光景だった。白っぽい灰色の霧の柱が、この彗星の最古の地形の一つと思われる幅三〇〇メートルのクレーターに開いた驚くほど小さな孔から、何かの巨大な樹木のように生えていた。しばらくすると、科学者たちはクレーター一帯を這いまわって、そこの(残念ながら、完全に生命のない)多彩な鉱物標本を採集し、聳え立つ水と氷と霧の柱そのものに、温度計や試料採取瓶を無頓着に差しこんだ。 「噴出が諸君たちの誰かを宇宙空間に放りあげたら」船長が警告した。「すぐに救出してもらえると期待するなよ。それどころか、戻ってくるまで待つだけかもしれんぞ」 「あれは、どういう意味なんだ?」ディミトリ・ミハイロビッチが、くびをひねりながら訊ねた。  例によって、ヴィクター・ウィリスの返事は速かった。 「天体力学では、予想どおりに物事が進むとはかぎらんのだよ。ある程度の速度でハレー彗星から投げ出されたものは、そのあとも基本的には同じ軌道を動くことになる──大きな違いをおこすには巨大な[#「巨大な」に傍点]速度変化が必要なんだ。だから、一公転したあとで、二つの軌道は再び交叉する──そして、きみは、ちょうど出発した地点に戻るわけだ。もちろん、七六年先のことだがね」  オールド・フェイスフルから遠くない場所に、およそ誰にも予測できなかった別の自然現象があった。それを初めて眺めたとき、科学者たちは自分の目が信じられなかった。ハレー彗星の数ヘクタールにわたって拡がり、宇宙空間の真空にさらされていたものは、まるで変哲のない湖であって、いちじるしく黒いことだけが異常だった。  明らかに、水ではありえなかった。この環境に安定して存在できる液体といえば、重い有機物の油脂かタールしかなかった。実をいえば、ツオネラ湖は、むしろピッチに似ており、厚さ一ミリメートルもない粘着性の表層を除いては、まったくの固体だったのである。このきわめて弱い重力のもとでは、現在の鏡のように平坦な形になるまでには、長い年月を要したにちがいない──おそらく、太陽をまわって、その火に暖められる旅を何度も重ねてからのことだったろう。  船長がストップをかけるまで、この湖はハレー彗星の主要な観光名所になった。その上をまったく普通に、ほとんど地球上と同じように歩ける[#「歩ける」に傍点]ことを、誰かが発見した(このいかがわしい名誉を主張する者はいなかったが)。表層の膜には、ちょうど充分なだけの粘着性があって、足場が確保できたのである。しばらくすると、乗組員の大部分が、水の上を歩いているかのように見える自分の姿を、ビデオで撮影してもらっていた。  そのころ、スミス船長はエアロックの内部を視察して、タールが壁をたっぷりと汚しているのを発見し、それまで誰も見たことのないほど怒りに近い態度を示した。 「宇宙船の外側に[#「外側に」に傍点]」彼は歯を食いしばりながらいった。「煤がつくだけでも、うんざりしているんだ。ハレー彗星は、これまで見たうちで最高に汚らしい[#「最高に汚らしい」に傍点]場所だぞ」  それからというもの、ツオネラ湖を散歩する者は、一人もいなかったのである。 [#改ページ]      19 トンネルの終点  お互いに誰もが知り合っている小さな独立した宇宙にいて、赤の他人に出会うほど大きなショックはなかった。  中央ラウンジに通じる通路をのんびりと漂っていたへイウッド・フロイドは、この気味わるい体験をしたのだった。彼はびっくりして侵入者を見つめながら、どうしてこれほど長いあいだ、この密航者が発見されずにすんだのだろうかと思った。相手の男は、気まずさと虚勢の入り混じった表情で、こちらを見返しており、明らかにフロイドが先に口をきくのを待っていた。 「なんと、ヴィクターじゃないか!」やっと、フロイドがいった。「きみだとは気づかずに、失礼したな。それでは、科学のために最大の犠牲を払ったのかね──それとも、きみのファンのために、というべきかな?」 「そうだよ」ウィリスが無愛想に答えた。「なんとか一つのヘルメットに頭をねじこみはしたが──このいまいましい顎ひげのこすれる音がひどくて、わたしの言葉が誰にも聞こえない始末だ」 「いつ外へ出てゆくんだね?」 「クリフが戻ってきたらすぐにな──彼は、ビル・チャントと洞窟探検に行っている」  一九八六年に行なわれた最初の接近飛行で、この彗星の密度は水よりずっと小さいことが示唆されていた──その理由は、きわめて多孔質の物質からなるか、または内部が穴だらけであるかしかなかった。どちらの説明も正しいことがわかったのである。  初めのうちは、いつも慎重なスミス船長が、洞窟探検などは固く禁じていた。ペンドリル博士が、主任助手のチャント博士は経験を積んだ洞窟学者であり──それどころか、この探査計画に彼が選ばれたのは、まさにそれが理由の一つだったことを強調すると、彼もやっと考え直したのだった。 「この弱い重力では、落盤などありえない」気が進まない船長に向かって、ペンドリルがいった。「だから、閉じこめられる怖れもないわけだ」 「道に迷うことはないかね?」 「そんなことを持ち出せば、チャントは自分の専門に対する侮辱と受け取るだろう。マンモス・ケーブに二〇キロメートルも入った経験があるんだよ。いずれにせよ、誘導ロープを繰り出してゆくわけだから」 「連絡は?」 「ロープにはファイバー・オプティックスがしこまれている。おまけに、宇宙服の通話機は、おそらく行程の大半で機能するだろう」 「ううむ。彼は、どこに行きたがっているんだ?」 「最適の場所は、エトナ・ジュニアの麓にある、例の活動を停止した間欠泉だ。あれは、少なくとも一〇〇〇年は活動していない」 「それなら、あと数日間は静かにしているだろうな。よかろう──ほかに誰か行きたい者がいるのかね?」 「クリフ・グリーンバーグが志願している──バハマで、水中の[#「水中の」に傍点]洞窟探検を、何度もやったことがある」 「わたしも一度だけやった──一度でたくさんだった。クリフに、きみは大事な体なんだといってやれ。入口が見えるところまでなら入ってもいい──それ以上は駄目だ。それに、もしチャントとの連絡が途絶えても、わたしの許可なしに彼を追ってはならん」  めったなことでは許可しないぞ、と船長は心の中で思った。  チャント博士は、洞窟学者は子宮に戻りたがっているという古いジョークをよく知っており、それには反論できる自信があった。 「あそこは、ゴツン、ドスン、ゴボゴボという音で、ひどく騒々しいにちがいない」彼は主張した。「ぼくが洞窟を好きなのは、非常に平穏で時間を超越しているからだ。鍾乳石が少し太くなったのを別にすれば、一〇万年のあいだ何も変化しなかったんだよ」  だが、いまや細くても絶対に切れないはずの索でクリフォード・グリーンバーグと連結しながら、ハレー彗星の内部へ深く漂い進んでいる彼は、ここではそれが通用しないことに気がついていた。まだ科学的な証拠は何もないが、彼の地質学者としての本能は、この地下の世界が生まれたのは、宇宙の時間尺度からすれば、ほんの昨日のことだと告げていた。いくつかの人間の都市よりも若いのである。  いま長い緩やかな跳躍をしながら進んでいるトンネルは、直径が約四メートルで、その無重量に等しい状態は、地球でやった洞窟潜水の記憶を鮮明によみがえらせた。弱い重力が、そういう錯覚をおこさせていた。まるで、やや大きな重しを身につけているために、ゆっくりと下へ沈んでゆくかのようだった。抵抗が少しもないことから、水ではなくて真空の中を動いているのだと思い出すだけだった。 「ちょうど、きみが見えなくなりかけている」入口から五〇メートルのところにいるグリーンバーグがいった。「電波回線は、まだ良好だ。眺めはどうかね?」 「どういったらいいかな──形状の区別が少しもつかないから、説明のしようがない。いかなる種類の岩でもないな──触ると崩れてしまう──まるで巨大なグリュエール・チーズの中を探検しているような気分だ……」 「有機物質だというのか?」 「うん。もちろん、生命とは関係がない──だが、完全に生命の原材料だ。あらゆる種類の炭化水素だ──これだけの試料があれば、化学者が大喜びだぞ。ぼくが見えるか?」 「きみの灯火の光だけで、それもどんどん薄れている」 「ああ──ここに本物の岩が少しあるぞ──もとからあったようには見えないな──たぶん侵入してきたものだろう。わあ──金鉱を見つけたぞ!」 「冗談だろう!」 「むかし西部で大勢の者をだました代物だよ──黄鉄鉱だ。もちろん、外域の衛星には珍しくないが、どうしてここにあるかは、ぼくも知らんよ……」 「視覚的な接触が切れた。きみは入口から二〇〇メートルのところにいる」 「いま明瞭な層を通過している──隕石の残骸らしい。その当時には、刺激的なことがおこっていたにちがいない──その日付が決定できればいいが。あっ!」 「そんな声を出さんでくれよ!」 「すまん──あまりびっくりしたもんでね。前方に大きな空洞がある──こんなものがあるとは、予想もしなかった。ビームで照らしてみよう……。  ほとんど球形だ──さしわたし三〇ないし四〇メートル。それから──とても信じられん──ハレー彗星は意外なものだらけだ──鍾乳石に石筍とは」 「それが[#「それが」に傍点]、どうして意外なんだ?」 「ここには、いうまでもなく、自然水も石灰岩もない──それに、これだけ弱い重力だ。どうやら、一種の蝋らしいな。たっぷりビデオで撮影するまで、ちょっと待ってくれよ。突拍子もない形をしている……蝋燭が滴ってできるような。これは妙だぞ……」 「今度はなんだい?」  チャント博士の声は、不意に音調が変わり、グリーンバーグは即座にそれを感じた。 「柱の何本かは折れている。それらが床に転がって。まるで……」 「どうした!」 「──まるで何かが──それに──ぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]ようだ」 「そんなばかな。地震で折れるということはないか?」 「ここに地震はない──間欠泉による脈動だけだ。ことによると、ある時期に、大きな噴き出しがあったのかもしれない。いずれにせよ、何世紀も前のことだ。倒れた柱の上に、この蝋状物質の膜ができている──厚さ数ミリメートルだ」  チャント博士は、徐々に落ち着きを取り戻した。想像力が過剰な人間ではなかった──洞窟探検は、そういう人々を、たちまち淘汰してしまうのだ──だが、この場の雰囲気そのものが、ある種の不安な記憶を触発したのだった。しかも、その倒れた柱は、何かの怪物が逃げようとして壊した檻の格子に、あまりにもよく似ていたのである……。  もちろん、そんなことは、まったくばかげている──だが、チャント博士は、どんな予感でも、どんな危険の徴候でも、その根源を突きとめるまでは、決して無視してはならないことを学んでいた。その用心のために命拾いしたことが、一度ならずあった。自分の恐怖のもとを探り当てないうちは、この部屋から先へは行かないつもりだった。そして、恐怖という言葉が適切であることを認めるほどに誠実だった。 「ビル──大丈夫か? 何をしているんだ?」 「まだ撮影中だ。この形状のなかには、インドの寺院の彫刻を思わせるものがあるな。エロチックといってもいいような」  彼は、自分の心が恐怖と真正面から対決するのを故意に回避し、ある意味で心象風景をぼやかすことによって、相手に不意打ちをくわせようとした。さしあたっては、記録や試料の採取という純粋に機械的な行為が、彼の注意力の大半を占めていた。  健全な恐怖に何も不都合はない、と彼は自分にいい聞かせた。それが恐慌状態にまでエスカレートしたときに、初めて人を殺すことになるのだ。  彼は生まれてから恐慌状態を経験したことが二度あって(一度は山の斜面で、一度は水中で)、その冷ややかな感触を思い出すと、いまでも身震いが出るのだった。それでも、いまは──ありがたいことに──その状態には遙かに遠かった。なぜなら、理解はできないながらも、不思議な安心感があったからだった。  この状況には、喜劇的な[#「喜劇的な」に傍点]要素があったのである。  そして、やがて彼は、声をあげて笑いはじめた──ヒステリーではなくて、ほっとした笑いだった。 「きみは、むかしの『スター・ウォーズ』の映画を見たことがあるかね?」彼はグリーンバーグに訊ねた。 「もちろんだ──五、六回もな」 「というのは、何が気にかかっていたかが、わかったんだよ。ルークの宇宙船が小惑星に突っこんで──そこの洞窟に潜んでいる巨大な蛇の怪物にぶつかるシーンがあったな」 「ルークの宇宙船じゃない──ハン・ソロのミレニアム・ファルコン号だ。それに、あの気の毒な動物が、どうやって暮らしを立てているんだろうと、いつも思ったもんだ。ときたま宇宙からこぼれてくる一口の餌を待つんでは、ひどく腹がへったにちがいない。それに、どうせレイア姫では、オードブルにするのが関の山だったろう」 「そんな餌になるつもりは絶対にないぞ」いまやすっかり落ち着いたチャント博士がいった。「ここに生命があるとしても──そうなら、すばらしいがね──食物連鎖はきわめて短いものだろう。だから、ネズミより大きなものが見つかったら、びっくりするだろうよ。むしろ、キノコのほうが可能性があるな……さてと──ここから、どっちに行くか……空洞の向こう側に、出口が二つある。右のやつのほうが大きい。そっちにしよう……」 「ロープは、どれだけ残っている?」 「ああ、たっぷり半キロメートルはある。さあ行くぞ。いま空洞の中央にいる……ちくしょう、壁から跳ね返されたぞ。いま、手がかりを掴んだ……頭を先にして入ってゆく。滑らかな壁、前と違って本物の岩だ……これはまいった……」 「どうかしたかい?」 「これ以上は先へ行けない。またもや鍾乳石だ……あいだが狭すぎて抜けられない……しかも太すぎて、爆薬でなければ折れないな。それに、もったいないよ……美しい色だ──ハレー彗星で初めて見る本物の緑と青だ。ビデオに撮るから、ちょっと待った……」  チャント博士は、狭いトンネルの壁で体を支えながらカメラを向けた。グローブのはまった指を高感度スイッチに伸ばしたが、見当が狂って主照明を完全に消してしまった。 「だめな設計だ」彼はつぶやいた。「これで三度目だぞ」  彼は、その失敗を、すぐには元に戻さなかった。うんと深い洞窟でしか体験できない静寂と真暗闇は、いつも気分のいいものだった。自分の生命維持装置が出す穏やかなバックグラウンド・ノイズが静寂を破っていたが、少なくとも──。  ──あれはなんだ?  これ以上の前進を妨げている鍾乳石の格子門の向こうに、明け方の最初の光のように弱い輝きが見えた。それは、目が暗闇に慣れるにつれて、ますます明るくなるように思われ、かすかな緑が感じられた。いまでは、前方にある障害物の輪郭をさえ見ることができた……。 「何をしているんだ?」グリーンバーグが心配そうにいった。 「なんでもない──観察しているだけだ」  そして考えているのだと、つけ加えてもいいところだった。考えられる説明としては、四とおりあった。  何か天然の光ダクト──氷、結晶、その他なんでも──を通って、太陽光線が射しこむこともできる。だが、こんな深さまでか? まさか……。  放射能だろうか? カウンターを持ってくることは、初めから考えていなかった。ここには、重い元素など、無に等しいのだ。しかし、ここに戻ってきて、調べてみる価値はあるだろう。  何かの燐光性鉱物──彼が賭けるとすれば、それだった。  ところが、四つ目の可能性があったのだ──数あるなかで、最も見込みがなく、最も胸の躍る可能性が。  チャント博士は、インド洋の海岸で、月のない──そしてルシファーもない──夜に、輝く星々の下を浜辺に沿って歩いたときのことを、かたときも忘れたことはなかった。海は非常に穏やかで、ときどき波が足もとに力なく打ち寄せた──そして、きらめく光を爆発させたのである。  浅瀬に出てゆくと(踵を暖かい風呂のように囲んだ水の感触は、いまでも思い出すことができた)、一歩を踏み出すごとに、新たな光の爆発がおこった。水面の近くで両手を打ち合わせるだけでさえ、それを誘発することができた。  このハレー彗星の心臓部に、似たような生物発光をする生き物が進化できたろうか?  そう思いたかった。かくも繊細な天然の芸術作品を破壊するにはしのびなかったが──いま輝きを背にした障害物は、以前どこかの伽藍で見た祭壇の仕切りを、彼に思い出させた──戻って何かの爆薬を取ってくるほかはなさそうだった。さしあたりは、もう一つの通路があるから……。 「このルートは、これより先へは進めない」彼はグリーンバーグにいった。「だから、もう一つのほうを当たってみる。いま分岐点に戻るところだ──リールを巻き戻しにセットした」  不思議な輝きのことはいわなかった。それは、あらためて灯火のスイッチを入れたとたんに消えうせていた。  グリーンバーグは、すぐには返事をしなかった。それまでにないことだった。ことによると、宇宙船と話しているのかもしれない。チャントは心配しなかった。再び前進を開始したら、すぐにメッセージを繰り返すつもりだった。  その必要はなかった。グリーンバーグから、短い応答があったのである。 「わかった、クリフ──しばらく連絡が切れたかと思った。いま空洞に戻っている──これから、別のトンネルに入る。こっちは[#「こっちは」に傍点]塞がっていなければいいんだがな」  今度は、グリーンバーグがすぐに返事をした。 「残念だな、ビル。宇宙船に戻れ。緊急事態がおこった──いや、ここでじゃない、ユニバース号は万事順調だ。しかし、われわれは、ただちに地球へ戻らなければならないかもしれんのだ」  たった数週間のうちに、チャント博士は、折れた柱についての非常に納得できる説明を思いついた。近日点を通過するたびに、彗星が物質を宇宙空間へ噴射するにつれて、その質量分布は絶えず変わっていった。そこで、数千年ごとに、その自転が不安定になり──エネルギーを失って倒れかけた独楽[#「独楽」に傍点]のようにきわめて激しく──回転軸の方向を変えることになった。それがおこるとき、それから生じる彗星震は、マグニチュード5という、かなりの大きさに達することもあったのだ。  だが、明るい光の謎を解くことはできなかった。この問題は、いまや展開しかけているドラマによって、たちまち影が薄くなったとはいえ、チャンスを失ったという思いは、以後の人生で彼につきまといつづけるだろう。  しばしば誘惑に駆られたが、このことを彼は同僚の誰にも打ち明けなかった。だが、次の調査隊に宛てた、二一三三年に開封されるべき封書の覚え書を残したのである。 [#改ページ]      20 召  還 「ヴィクターを見たか?」フロイドが船長に呼ばれて先を急いでいると、ミハイロビッチが嬉しそうにいった。「彼は悲嘆に暮れているぞ」 「地球に帰る途中で、元どおりに生えそろうさ」いまのところ、そんな些事にかまっていられないフロイドは、にべもない口ぶりでいった。「わたしは、何があったのかを知りたいのだよ」  フロイドが行ってみると、スミス船長は、いかにも茫然とした様子で、まだ自分の部屋に坐っていた。  これが自分の宇宙船に関わりのある緊急事態だとしたら、彼は制御されたエネルギーの旋風となって、四方八方に命令を発していることだろう。だが、この状況では、地球からの次のメッセージを待つ以外に、彼にできることは何もなかったのだ。  ラプラス船長は、彼の旧友だった。こんな窮地に、どうして追いこまれたのだろう?  ラプラスの困難な状態が説明できそうな事故、航行のミス、装備の故障は、何一つ思い当たらなかった。また、スミス船長の見るかぎりでは、どんな形にせよ、ラプラスを救い出すためにユニバース号ができることはなかった。事業本部は、きりきり舞いしているだけだった。これは、例のとおりに弔電を発して最後のメッセージを記録するほかに手の打ちようがない、宇宙では日常茶飯事とされる緊急事態の一つらしかった。  だが、フロイドに知らせを伝えた彼は、こうした疑惑や留保を、毛ほども見せなかった。 「事故がおこった」彼はいった。「ただちに地球に戻って、救出作戦のための装備を整えるようにという命令だよ」 「どういう事故だね?」 「われわれの姉妹船、ギャラクシー号だ。木星の衛星を調査していた。そして不時着をしたんだ」  彼は、信じがたい驚きの表情が、フロイドの顔に現われるのを見た。 「そう、そんなことはありえない。しかし、肝心な話はこれからだ。宇宙船は立往生しているんだよ──エウロパに」 「エウロパだって!」 「そうなんだよ。破損したが、どうやら人命の損失はないようだ。まだ詳細な知らせを待っているところだが」 「いつのことだね?」 「二一時間前。ガニメデに報告するのに、てまどったんだ」 「それにしても、われわれに何ができる? こちらは、太陽系の反対側にいる。燃料補給に月の軌道まで戻って、それから木星まで最短の軌道をとる──それには──そうだ、少なくとも数ヵ月かかるだろう」(そして、レオーノフ号の当時なら──とフロイドはつけ加えた──数年かかったことだろう……) 「わかっている。しかし、何事かができる宇宙船は、ほかにないんだ」 「ガニメデに所属する衛星間フェリーは?」 「あれは、軌道での作業用としてしか設計されていない」 「カリストに着陸したことがあるぞ」 「ずっと低エネルギーの仕事でな。確かに、有効荷重が無視できるほどなら、エウロパには、かろうじて降りられる。そのことは、もちろん検討されているがね」  フロイドは、船長の言葉をほとんど聞いていなかった。この驚くべき知らせを、まだ噛みしめているところだった。半世紀このかた初めて──また歴史上で二度目だが──宇宙船が禁じられた衛星に着陸したのである。そのことは、不吉な思いをかきたてた。 「どう思う?」彼は訊ねた。「エウロパにいる──誰か──何かの仕業だと?」 「そのことを考えていた」船長が、不機嫌な口調で答えた。「しかし、われわれは何年間もあそこを嗅ぎまわっていたのに、何もおこらなかったんだぞ」 「もっと端的にいえば──救出を企てた場合、われわれは[#「われわれは」に傍点]どうなるだろうね?」 「そのことが最初に頭に浮かんだ。だが、こんなことは推測にすぎん──もっと事実を知るまで、待たねばならないだろう。さしあたりは──これが、きみを呼んだ本当の理由なんだ──たったいま、ギャラクシー号の乗員名簿を受け取って、どうしたものかと思ったのだが……」  彼は、そのプリントアウトを、ためらいがちにデスクの上を滑らせてよこした。だが、へイウッド・フロイドは、リストに目を走らせる前から、何を予想すべきかが、おぼろげながらわかっていたのである。 「わたしの孫だ」憮然とした声だった。  そして、わたしの名を墓の向こうまで持っていける唯一の人間だ、と彼は心の中でつけ加えた。 [#改ページ] [#改ページ]  第三部 エウロパ式ルーレット      21 亡命者の政治学  あらゆる暗い予想があったにもかかわらず、南アフリカ革命は──そういう出来事にしては──比較的血を見ることなく終わった。  これについては、多くの害悪の責任を負わされていたテレビに、いくぶんかの功績がある。一世代前のフィリピンが、その先例をつくっていた。世界が見守っているのを知る男女の大多数は、責任ある態度で振舞うことが多かった。恥ずべき例外があったとはいえ、カメラの前での虐殺は少なかったのである。  アフリカーナの大部分は、不可避の運命を認識するや、権力の交代がおこる遙か以前に土地を離れた。そして──新政権が厳しく抗議したように──彼らも空手で去ったわけではなかった。数十億ランドが、スイスとオランダの銀行に移された。最後になると、ほとんど毎時間のように、ケープタウンやヨハネスバーグからチューリッヒやアムステルダムへの謎の飛行便が続いた。  解放の日を迎えたら、かつての南アフリカ共和国には、一トロイオンスの金も一カラットのダイアモンドも見つからないし、鉱山の現場は効果的に破壊されているだろう、といわれたものだった。一人の高名な難民は、ハーグの豪華なアパートメントに住んで、黒人《カフィール》どもがキンバリーの機能を回復させるには──できたとしても──五年はかかるだろう≠ニ得意げに公言した。彼の予想を完全に裏切って、デ・ビアス社は新たな名称と経営陣のもとに五週間足らずで再建され、ダイアモンドは新国家の経済における最も重要な要素になった。  一世代もしないうちに、若い難民たちは──保守的な年長者による必死の歯止め作戦にもかかわらず──二一世紀の根なし草文化≠ノ吸収されていった。祖先の勇気と決断を誇らしく記憶してはいたが、それを自慢することはせず、彼らの愚かさには近寄ろうとしなかった。家庭内でさえも、アフリカーンス語を話すものは、ほとんどいなかった。  しかし、まさに一世紀前のロシア革命の場合と同じように、時計の針を逆戻りさせようと──あるいは、少なくとも自分たちの権力と特権を奪った者の努力を妨害しようと──夢想する多数の者が存在した。ふつう彼らは、その鬱積した気持や敵意をプロパガンダ、デモ、ボイコット、世界評議会への請願に──そして稀れには芸術に──注ぎこんだ。ヴィルヘルム・スマッツの『ザ・フォールトレッカーズ』は、著者と厳しく見解を異にする者からさえ(皮肉にも)英文学の傑作と認められていた。  だが、政治活動は無力であり、熱望する現状回復を実現するには暴力しかないと信じるグループもいた。歴史のページが書き換えられると本気で思った者が大勢いたはずはないが、勝利が不可能ならば復讐でも充分に満足するという者も、少なくはなかったのだ。  完全な同化と絶対的な非妥協という両極のあいだに、あらゆる政治的な──また非政治的な──党派からなるスペクトルがあった。  デル・ブントは最大の組織ではなかったが、もっとも強力な組織だったし、もっとも資金が豊富であることは間違いなかった。この組織は、滅亡した共和国から密かに持ち出した富を、法人と持株会社の網の目を通じて支配していたからである。いまや、これらの大多数は、どこから見ても合法的であり、それどころか非常に高い信望を得ていた。  ツァン航空宇宙会社には五億というブントの金が投資され、その年間貸借対照表に、正式に記載されていた。二〇五九年に、サー・ローレンスは、ささやかな船隊の就役を促進するための新たな五億を、喜んで受け入れたのだった。  だが、彼の有能な情報収集機関にも、最近になってツァン航空宇宙会社が契約したギャラクシー号をチャーターした探査計画とブントとのつながりは、さっぱり掴めていなかったのである。とにかく、そのころハレー彗星は火星に近づいており、サー・ローレンスはユニバース号を予定どおりに出発させる準備で非常に忙しかったので、その姉妹船の日常的な運営には、ほとんど注意をはらっていなかった。  ロンドンのロイズは、確かにギャラクシー号の航行計画に対して若干の疑問を提起はしたが、それらの異議は速やかに処理されてしまった。ブントは、いたるところの主要な部署に人員を配置していたのだ。そのことは保険代理店にとって不運だったが、宇宙弁護士にとっては非常な幸運だった。 [#改ページ]      22 危険な貨物  その位置を数日ごとに数百万キロメートルも変えるばかりか、秒速数十キロメートルという速度範囲で変動している目的地のあいだに航路を成立させるのは、容易なことではない。規則正しい予定表などは不可能である。初めから諦めて、宇宙港で──または、少なくとも軌道で──待機しながら、もっと人類にとって都合よくなるように太陽系が配置替えするのを待たねばならないときもある。  幸いなことに、これらの周期は何年も前からわかるので、それを分解修理、改装、乗組員の上陸休暇のために有効に利用することができる。そして、ときには、幸運と積極的なセールスマン精神によって、たとえ往時の湾内一周@V覧船の宇宙版にすぎないとはいえ、なんらかの局地的なチャーター契約をまとめることもできるのである。  エリック・ラプラス船長は、ガニメデ付近での三ヵ月の待機が、まったくの無駄にならないことで上機嫌だった。惑星科学財団への予期せぬ匿名の補助金によって、軽視されている一ダースの小さな衛星に重点をおいた木星の(いまになっても、ルシファーの≠ニ呼ぶ者は一人もいなかった)衛星系の踏査に、資金が供給されたのだった。これらの一部は、訪問はおろか、充分な調査もされていなかった。  この探査計画を耳にするやいなや、ロルフ・ファン・デル・ベルクはツァンの運輸代理店に連絡して、いくつか控え目な問い合わせを行なった。 「そうです、われわれは最初にイオに向かいます──次にエウロパに接近飛行し──」 「ただの接近飛行ですか? どのくらいの近くを?」 「ちょっと、お待ちください──おかしいな、飛行計画書には具体的なことが書いてありませんね。しかし、いうまでもなく、〈禁止地帯〉よりも内部には入りません」 「ということは、最新の決定では一万キロメートルまでか……一五年前のものだが。ともかく、探査計画の惑星学担当として志願したい。資格証明書を送りますから……」 「その必要はありません、ファン・デル・ベルク博士。もう彼らは、あなたに白羽の矢を立てていますよ」 げすの後知恵≠ニいうが、過ぎたことを振り返ってみると(あとになれば、その時間は、たっぷりあったのだ)、このチャーター契約には多くの奇妙な点があったことを、ラプラス船長は思い出した。  乗組員の二人が急病になって、あわただしく交代した。補充ができて安心したあまり、いつもほど厳しく彼らの書類を点検しなかった (また、そうしていたとしても、書類が完備していることを知るだけだったろう)。  それから、積荷の悶着があった。彼は、船長として、船内に入ったものを何によらず検分する権利があった。もちろん、あらゆる[#「あらゆる」に傍点]品目について行なうのは不可能だが、充分な理由があるかぎり、調査を控えることはしなかった。宇宙船の乗組員は、概して、きわめて信頼すべき者たちである。しかし、長い勤務が退屈になることもあり、退屈をまぎらわす薬品で、地球ではまったく適法であっても、やめることが望ましいものがあるのだ。  クリス・フロイド二等宇宙士が怪しい積荷を報告してきたときは、またもや船内のクロマトグラフ探知器が、高品質の阿片の隠し場所を突きとめたのだろうと思った。主として中国人からなる乗組員が、時おりこれを愛用するのだった。  しかし、今回の場合、事態は重大だった──きわめて重大だった。 「第三貨物倉、品目2/456です、船長。積荷目録には科学装置≠ニあります。中味は爆薬です」 「なんだと!」 「間違いありません。これがエレクトログラフです」 「きみの言葉を信用しよう、ミスター・フロイド。その品目を検分したかね?」 「やっていません。これには封印がしてあって、だいたいのところ、高さ五〇センチメートル、横一メートル、長さ五メートルの箱です。科学チームが船内に運びこんだうちで、最大な荷物の一つです。〈壊れ物、取扱注意〉とラベルしてあります。もっとも、そういえば、どれでも[#「どれでも」に傍点]そうですが」  ラプラス船長は、考えこみながら、デスクの木目つきプラスチックの木≠、指でたたいていた(この模様は嫌いだったから、次の改装のときに始末するつもりだった)。そのわずかな動作でも体が浮かびあがりかけ、彼は反射的に椅子の支柱に足をからませた。  フロイドの報告はかたときたりとも疑わなかった──この新任の二等宇宙士はきわめて有能であり、彼が有名な祖父のことを一度も話題にしないのが、船長は気にいっていた──しかし、罪のない事情があるかもしれなかった。不安定な分子結合を持つ別の化学物質に探知器がだまされたということも、ないではなかった。  二人で船倉に降りていって、荷物を強制的に開封することもできた。いや──それは危険を伴うかもしれないし、法律上の問題を生じる可能性もあった。単刀直入に最高責任者と話すのがいいだろう。いずれにせよ、遅かれ早かれ、そうしなければならないのだ。 「アンダースン博士を、ここにお連れしてくれたまえ──それから、このことは誰にもいわないように」 「わかりました」  クリス・フロイドは、丁重ではあるがまったく不必要な敬礼をしてから、滑らかで自然な動きをしながら部屋を出ていった。  科学チームの主任は無重量状態に不慣れで、入ってくる動作は、ひどく不体裁だった。どうやら本心らしい憤慨も助けにはならず、みっともない恰好で、船長のデスクに何度か掴まらねばならなかった。 「爆薬だって! そんなわけがない! 積荷目録を見せたまえ……2/456……」  アンダースン博士は、携帯用キーボードに参照コードを打ちこむと、ゆっくりと読み上げた。 「マークXペネトロメーター、数量3=Aそうだとも──何も問題はない」 「しかし、いったいペネトロメーターとは」船長がいった。「どんなものですか?」  心配事があるにもかかわらず、彼は微笑を隠すのに苦労していた。その名称は、なんとなく猥褻な響きがしたのである。 「標準型の惑星試料採取装置だよ。これを落とすと、運がよければ──硬い岩石からでさえ──長さ一〇メートルにおよぶコアが取れる。それから、完全な化学分析の結果を送ってくる。水星の昼側のような場所──あるいは、最初の一つを落とす予定でいるイオ──を研究するには、唯一の安全な方法だ」 「アンダースン博士」精いっぱいの自制心を発揮しながら、船長がいった。「あなたは優秀な地質学者かもしれませんが、天体力学については、あまりご存じないですね。そもそも軌道から物を落とすことなど不可能で──」  科学者の反応が証明したように、この無知の告発は根拠のないものだった。 「あの馬鹿どもめ!」彼はいった。「もちろん、あなたに通告すべきだったな」 「そのとおり。固体燃料ロケットは、危険な貨物に分類されています。保険業者からの許可書と、安全装置が適切だという、あなた個人の保証が欲しいですな。さもなければ、船外に出すことになります。さて、ほかに小さな違反品は? 地震探査を予定しておられますか? あれには、ふつう爆薬が関与していると思いますが……」  数時間後、いくらか冷静になった科学者は、ほかにも二瓶の弗素を発見したことを認めた。これは、スペクトル分析のために、一〇〇〇キロメートルの距離から惑星を貫通できるレーザーのエネルギー源になるものだった。純粋な弗素は、人間の知る最も激しい物質といってもいいので、禁止品目のリストの上位にあった──だが、ペネトロメーターを目標物へ向けて駆動するロケットのように、これも探査計画には不可欠なものだった。  すべての必要な予防策がとられたことを、すっかり得心したラプラス船長は、科学者の陳謝と、この手抜かりは、ひとえに調査隊が大急ぎで準備されたためだという弁明を受け入れた。  アンダースン博士が真実を告げていることは間違いなかったが、この探査計画がどこか妙だと、彼は早くも感じていた。  いったいどのくらい[#「どのくらい」に傍点]妙であるのかは、知るよしもなかったのである。 [#改ページ]      23 焦 熱 地 獄  木星が爆発するまでは、太陽系のなかにあって、地獄にもっとも近いという点でイオが一歩を譲っていたのは、金星だけだった。ルシファーのために、イオの表面温度がさらに数百度あがったいまでは、もはや金星でさえもイオの敵ではなかった。  硫黄の火山や間欠泉の活動が倍加して、責めさいなまれる衛星の地形を、いまや数十年どころか数年のうちに造形しなおしていた。惑星学者は、地図作製の企てを完全に放棄して、数日ごとに軌道から写真を撮るだけで満足した。これらの写真から、活動する焦熱地獄の息をのむような低速度撮影映画を構成したのだ。  ロンドンのロイズは、探査計画のこの行程に対して法外な保険金を請求したが、一万キロメートルという最小限の距離を接近飛行する宇宙船にとって、イオは現実的な危険ではなかった──しかも相対的に静かな夜側を飛んでいるのでは。  近づいてくる黄とオレンジの球体──全太陽系でも類例をみない華麗な天体──を眺めているクリス・フロイド二等宇宙士は、いまから半世紀前に祖父がここへ来たときのことを、思いおこさずにはいられなかった。  ここでレオーノフ号は遺棄されたディスカバリー号とランデブーし、ここでチャンドラ博士は休眠状態にあるハルを覚醒させた。それから二つの宇宙船は、L1つまりイオと木星のあいだにある内部のラグランジュ点に浮かぶ、途方もなく大きな黒いモノリスを調査するために進んでいったのだ。  いまやモノリスはなかった──木星もだが。巨大な惑星の爆縮によって不死鳥のように昇ったミニ太陽は、その衛星たちを実質的にもう一つの太陽系に変えたが、地球に似た温度を持つ区域はガニメデとエウロパにあるだけだった。ルシファーの寿命の推定値には、一〇〇〇年から一〇〇万年までの幅があった。  ギャラクシー号の科学チームはL1点を感慨深げに眺めたが、いまやそこへ近づくのはあまりにも危険だった。  もともと木星と内側の衛星とのあいだには電気エネルギーの流れ、イオの電磁束管≠ェあったが、その強度はルシファーの出現で数百倍に増した。ときとして、このエネルギーの流れは電離したナトリウムの特徴ある光で黄色く輝き、肉眼に見えることさえあった。ガニメデの工学者のなかには、隣りで浪費されている何ギガワットかのエネルギーを汲み出そうと論じる者もいたが、そのための現実的な方法は誰も思いつかなかった。  最初のペネトロメーターが、乗組員たちから野卑な論評を浴びせられながら発射され、二時間後には、病んだ衛星に注射針のように突き刺さった。それは、五秒間──設計寿命の一〇倍──近くも機能しつづげ、イオによって破壊されてしまうまで、大量の化学的、物理的、レオロジー的な計測値を送信してきた。  科学者たちは有頂天になった。ファン・デル・ベルクは満足を感じただけだった。探査機が成功するのは予想していた。イオは、とんでもなくやさしい目標なのだ。だが、エウロパについての自分の考えが正しければ、第二のペネトロメーターは必ず失敗するだろう。  しかし、それで何かが証明されはすまい。失敗をひきおこす立派な理由は、一ダースも考えられそうだった。そして、失敗したら、着陸する以外に方法はないだろう。  もちろん、それは絶対に禁止されていた──人間の法律によってだけではなく。 [#改ページ]      24 シャカ大王  宇宙刑事警察機構《アストロポル》は──その仰々しい呼称にもかかわらず、がっかりするほど貧弱な地球外の組織だったが──シャカが実際に存在することを、認めようとはしなかった。南アフリカ合衆国もまったく同じ立場をとり、その名前を口にするほど融通のきかない者がいると、そこの外交官は当惑したり、憤然としたりするのだった。  だが、ニュートンの第三法則は、ほかの何やかやとともに、政治にも適用されるのである。ブントには過激派があって──彼らは、ときにはあまり強い口調ではなしに、それを否認しようとしたが──絶えず南アフリカ合衆国に対して陰謀を企んでいた。ふつうは商業的破壊工作に留まっていたが、ときには爆破、失踪、そして暗殺さえもおこった。  もちろん南アフリカ人は、これを軽視しなかった。それに対応して、独自の公式な対情報機関を設立したが、これもやや自由奔放な活動範囲を持っていた──そして、やはり、シャカについては何も知らないと主張した。もっともらしい否定≠ニいう、CIAの有益な発明を利用したのかもしれない。彼らの言明が真実である可能性さえあったのだ。  一説によれば、シャカは一つのコード名として出発したのだが、各種の影の官僚たちにとっては有用だったので、それ自身の生命を──たとえばプロコフィエフの〈キージェ中尉〉のように──獲得したのだという。そのメンバーが一人も裏切ったことがなく、逮捕されたことさえないというのを、このことは確かに説明するものである。  しかし、シャカが本当に存在すると信じる者にいわせれば、いくらかこじつけではあるが、これには別の解釈が可能なのである。その工作員は、心理的に条件付けされていて、少しでも取り調べられる可能性があれば、その前に自殺するというのだ。  真実がどうであれ、偉大なズールー族の専制君主の伝説が、死んで二世紀以上たってから、彼が知りもしない国々に影を落とすなどとは、誰も真面目には考えられなかった。 [#改ページ]      25 包み隠された世界  木星が点火され、その衛星系に〈大解凍〉の波が拡がってから一〇年間、エウロパは絶対に干渉を受けなかった。  それから中国人が高速の接近飛行を行ない、レーザーで雲海を探ってチェン号の残骸を突きとめようとした。目的は達しなかったが、彼らによる昼側の地図には、いまや氷の覆いが融けるにつれて出現した新大陸が、初めて描かれていた。  彼らはまた、長さ二キロメートルの完全に一直線な地形を発見したが、それはあまりにも人工的なものに思えたので、〈グレート・ウォール〉と命名された。その形状と大きさから、例のモノリスだろうと推定された──または、どれかの[#「どれかの」に傍点]モノリスだと。なぜなら、ルシファーの創成に先立つ数時間のうちに、無数のモノリスが複製されていたのだ。  しかし、しだいに濃さを増す雲の下からは、なんの反応も、また知能を伴う合図が来る気配もなかった。  そこで、数年後には、探査衛星が恒久的な軌道に乗せられ、風のパターンを調べるために高高度気球が大気圏に投下された。地球の気象学者は、これらに対する興味で夢中になった。なぜなら、中央の海洋と決して沈まない太陽を持つエウロパは、見事に単純化された気象のモデルを、彼らの教科書に提供したのである。  そこで、この衛星にもっと近づこうと科学者が提案するたびに行政官がよくいったように、エウロパ式ルーレット≠ェ始まったのである。平穏無事な五〇年のあとでは、それはいくらか退屈なものになってきた。ラプラス船長は、その状態が続くことを望み、アンダースン博士に充分な保証を求めていた。 「個人的にいえば」彼は科学者にいった。「わたしなら、装甲を貫通する一トンのハードウェアを、時速一〇〇〇キロメートルで頭の上から落とされたら、いささか非友好的な行為と見なしますな。世界評議会から許可が出たというのは、まったく驚きですよ」  アンダースン博士も、いささか驚いていた。もっとも、この探査計画が、金曜日の午後遅く開かれた科学小委員会の長い議事日程における最後の事項だったと知っていたら、驚きはしなかったかもしれない。そういう些細なことから、歴史がつくられるのである。 「同感だね、船長。しかし、われわれはきわめて厳しい制約のもとで行動しているから、彼らに干渉することになる可能性はないのだよ──ええと──そのエウロパ人とやらいうものに対してな。わたしは、海抜五キロメートルの目標を狙っているのだ」 「そう聞いていますよ。どうして、それほどゼウス山に興味があるんですか?」 「あれは、まったくの謎なのだよ。つい数年前には、あそこに[#「あそこに」に傍点]存在さえしなかった。だから、地質学者が夢中になるのも、理解できるだろう」 「そして、あなた方の機械が入っていって、それを分析するわけですね」 「そのとおり。それに──本当は、このことを話してはいけないのだが──その結果を秘密にして、暗号で地球に送るようにいわれている。どうやら、誰かが大発見の手がかりを掴んで、発表の先を越されないように万全を期しているらしい。科学者がそれほど狭量になれるとは、あなたに信じられるかね?」  ラプラス船長には充分に信じられたが、この乗客に幻滅を感じさせたくはなかった。アンダースン博士は、いじらしいまでに世間知らずなようだった。  何がおこっているにせよ──しかも、この探査計画には見かけよりも遙かに奥があると、いまや船長は確信していた──アンダースンは何も気がついていないのだった。 「わたしは、エウロパ人が登山に熱中していないことを祈るばかりですよ、博士。彼らのエベレストに旗を立てようとする企てを、少しでも妨害したくはありませんな」  ペネトロメーターが発射されたとき、ギャラクシー号の船内には、異常な興奮が漂っていた──お定まりの冷やかしさえ出なかった。探査機がエウロパに向かって長い落下をしている二時間のあいだに、乗組員のほとんど一人残らずが、文句のつけようがない正当な口実をつくってブリッジにやってきては、誘導操作を見守っていた。  衝突の一五分前になると、ラプラス船長は、宇宙船の新任のスチュワードであるロージーを例外として、あらゆる局外者に対する立入り禁止を宣言した。旨いコーヒーを満たした絞り出しバルブを、彼女が絶え間なく供給してくれなければ、その操作を続けることはできなかったのだ。  万事好調だった。大気圏に突入してまもなくエアブレーキが使用され、ペネトロメーターの衝突速度を許容できるまでに下げた。スクリーン上では、目標のレーダー映像が──のっぺらぼうで大きさの比較もできなかったが──しだいにふくれあがっていった。あと一秒というところで、すべての記録装置が自動的に高速度に切り換わった……。  ……だが、記録すべきものはなかった。 「これで、わたしも知ったわけだな」アンダースン博士が悲しそうにいった。「あの最初のレインジャー号が──カメラが働かないままで──月面に墜落したとき、ジェット推進研究所の者たちが、どんな気持だったかを」 [#改ページ]      26 夜  勤 時間≠セけが普遍的である。夜≠ニ昼≠ヘ、まだ潮汐力が自転を打ち消していない惑星に見られる、奇妙な習慣にすぎない。だが人類は、どれだけ遠く生まれ故郷の天体を離れようとも、地球の光と闇の周期によって遙かな太古に設定された、日々のリズムから逃れることはできなかった。  というわけで、世界時の〇一〇五、チャン二等宇宙士は、まわりの宇宙船内が寝静まっているとき、たった独りでブリッジにいた。ギャラクシー号の電子センサーが、どんな故障であれ、彼の能力で可能と思われるより遙かに早く探知するだろうから、彼が起きている必要も本当はなかったのだ。だが、サイバネティックスの一世紀は、予期せぬ出来事を処理する点では、人間の方が依然として機械よりわずかに有能であることを証明していた。しかも、遅かれ早かれ、予期せぬ出来事は必ずおこるのである。  コーヒーは、どうしたんだ?  チャンは不機嫌だった。遅れるなんて、ロージーらしくもなかった。この二四時間の大失敗のあとで、科学者や乗組員を襲った倦怠感が、あのスチュワードにも影響を与えたのだろうか、と彼は思った。  最初のペネトロメーターの失敗に続いて、次に打つ手を決定するために、あわただしい協議が行なわれた。一個だけユニットが残っていた。それはカリストを標的とするものだったが、ここで使ってもいいわけだった。 「ともかくもだ」アンダースン博士が主張した。「カリストには、これまでに着陸が行なわれている──あそこには、各種の割れた氷のほかには何もないのだ」  反対意見はなかった。  模様替えとテストのために二四時間遅れて、ペネトロメーター三号はエウロパの雲に打ちこまれ、先行機のとった見えない航跡をたどった。  今回は、宇宙船の記録装置に若干のデータが得られた──およそ半ミリセカンドのあいだだけだったが。二〇〇〇〇Gまで作動するように調整された探査機の加速度計は、指針が目盛りから振り切れる前に短いパルスを一つ発した。目を一つ瞬くより遙かに短い時間のうちに、何もかもが破壊されたにちがいなかった。  さらに憂鬱な二度目の事後検討のあと、地球に報告を送ってから、カリストやほかの外側の衛星に行く前に、エウロパをまわる高い軌道で今後の指示を待つことが決まった。 「遅くなってすみません」ローズ・マクマホンがいった(彼女が自分の運んでいるコーヒーよりわずかに黒いことは、この名前からでは想像がつかないだろう)。「目覚ましを間違えてかけたにちがいありません」 「われわれには幸運だったな」夜勤の宇宙士が笑いながらいった。「きみが[#「きみが」に傍点]宇宙船を動かしているんじゃなくて」 「誰にしても、なぜこれが動かせるのか、わけがわかりませんわ」ローズが答えた。「こんなに複雑に見えるものを」 「ああ、見かけほど大変じゃないんだよ」チャンがいった。「それにしても、教習課程では基礎的な宇宙理論を教えなかったのかね?」 「あの──教わりました。でも、あまりよくわからなかったんです。軌道とかなんとか、わけのわからない内容で」  チャン二等宇宙士は退屈しており、聞き手を啓発してやるのが親切というものだろうと思った。それにローズは、彼の好みのタイプでないとはいえ、魅力的であることは間違いなかった。ここでちょっと骨を折るのも、有効な投資かもしれない。職務を遂行したローズが眠りに戻りたがっているかもしれないとは、ついぞ思いつかなかった。  二〇分後、チャン二等宇宙士は航行コンソールに向かって手を振りながら、屈託のない口調で締めくくった。 「わかったろう、実際には大半が自動化されているんだ。いくつかの数字を打ちこみさえすれば、あとは宇宙船がやってくれる」  ローズは疲れた様子だった。時計を見てばかりいた。 「すまなかったな」チャンはにわかに後悔を感じた。「寝かせずにおくなんて」 「あら、いいえ──とても勉強になりましたわ。続けてください」 「絶対に駄目だ。いつか別のときにな。おやすみ、ロージー──それから、コーヒーをありがとう」 「おやすみなさい」  ローズ・マクマホン三級スチュワードは、まだ開けたままのドアの方へ(あまり熟達しない動作で)動いていった。それが閉じる音が聞こえたとき、チャンは振り返ろうともしなかった。  そういうわけで、数秒後に、まるで聞き慣れない女の声で呼びかけられたのは、相当なショックだった。 「ミスター・チャン──警報ボタンに触っても無駄よ──接続を切ってあるわ。これが着陸座標よ。宇宙船を降下させなさい」  いつの間にか居眠りをして、悪夢を見ているのだろうかと思いながら、チャンはゆっくりと椅子を回転させた。  ローズ・マクマホンだった人物は、楕円形の出入口のそばに浮かびながら、ドアの開閉レバーを握って体を安定させていた。何もかもが、すっかり変わって見えた。一瞬のうちに二人の立場は逆転した。これまで彼をまともに見たことのない内気なスチュワードは、いまや冷たい無慈悲な目でチャンを見据えており、彼を蛇に見こまれたウサギのような気分にさせた。  相手の手におさまる小型だが高性能らしい銃が、無用の飾りに見えた。それがなくても、彼女がきわめて手ぎわよく自分を殺せることを、チャンは少しも疑わなかった。  にもかかわらず、自尊心と職業的な誇りとが、なんらかの抵抗なしに屈伏すべきでないと要求していた。せめてのことに、時間ぐらいは稼げるかもしれないのだ。 「ローズ」  彼はいった──そして、いまや突如として不適当になった名前を発音するのに、彼の唇は困難を感じていた。 「これは、まるで途方もないことだぞ。たったいま話したことは──率直にいって本当じゃないんだ。この宇宙船を一人だけで着陸させるなんて、とてもできないよ。正しい軌道を計算するのに何時間もかかるだろうし、誰かに助けてもらう必要がある。少なくとも副操縦士に」  銃は、ぴくりとも動かなかった。 「見損なわないで、ミスター・チャン。この宇宙船は、古い化学ロケットのようにエネルギーを制約されないわ。エウロパの脱出速度は、たった秒速三キロメートルよ。おまえの訓練の一部には、主コンピューターが停止したときの緊急着陸が含まれていた。ここで、それを実行しなさい。おまえにやった座標に着地するのに最適条件になるまで、あと五分よ」 「そのタイプの着陸は」いまや汗びっしょりのチャンがいった。「不成功率が二五パーセントと推定されている」  本当の数字は一〇パーセントだが、この状況で若干の誇張は正当化されると、彼は思った。 「おまけに、そのテストに合格してから何年も経っている」 「そういうことなら」ローズ・マクマホンが答えた。「おまえは殺して、ほかの適任者をよこすように、船長に要求しなければならない。面倒だわ。こんどの機会を逃して、次のまで何時間か待たなきゃならないものね。あと四分よ」  チャン二等宇宙士は往生ぎわがよかった。ともかく、やるだけのことはやったのだ。 「その座標を見せろ」彼はいった。 [#改ページ]      27 ロ ー ジ ー  姿勢制御ジェットが出す、遠いキツツキのような最初の低い音を聞いたとたん、ラプラス船長は目を覚ました。とっさに、自分は夢を見ているのかと思った。いや、宇宙船は確かに、宇宙空間のなかで回転していた。  ことによると、片側が熱くなりすぎて、温度制御システムが若干の微調整をしているのかもしれない。そういうことは、しばしばおこって、温度限界に近いことに気がつくべき当直の宇宙士に対する罰点になった。  彼は電話しようとして、内線のボタンに手を伸ばした──誰だったかな──ブリッジにいるのはミスター・チャンだ。  その手は、動作を完了せずに終わった。  何日もの無重量状態のあとでは、一〇分の一Gでもショックだった。拘束する装着ベルトを外して寝棚から這い出すまではわずか数秒だったにちがいないが、船長には数分間に思えた。今度はボタンを見つけて、それを力まかせに押した。返事はなかった。  不意に重力を加えられた固定不充分な物体がドスン、バタンという音を立てるのを、無視しようとした。いろいろな物品は長い時間をかけて落下するように思えたが、やがて全開にした駆動の低く遠い叫喚が、唯一の異常な音として聞こえるだけになった。  船室の小さな窓のカーテンを勢いよく開けて、外の星々をのぞいた。宇宙船の軸がどこを向いているべき[#「べき」に傍点]かは、おおまかに知っていた。それが三〇度か四〇度の範囲内で判断できるだけでも、考えうる二つの可能性のどちらであるかが区別できるはずだった。ギャラクシー号に推力を加えれば、軌道速度を増すこともできるし、減らすこともできるのである。  いま船体は速度を失っており──したがって、エウロパに降下しようとしているところだった。  しきりにドアがたたかれ、実際には一分を経過しただけであることに船長は気づいた。フロイド二等宇宙士と、ほかの二人の乗組員が、狭い通路にひしめいていた。 「ブリッジは封鎖されています」フロイドが、息を切らせて報告した。「部屋には入れませんし──チャンは返事をしません。状況は不明です」 「わたしには、わかったような気がするよ」ラプラス船長は、ショーツをはきながら答えた。「遅かれ早かれ、どこかの狂人が必ずやると思っていた。われわれはハイジャックされて、行く先がどこであるかもわかっている。だが、目的[#「目的」に傍点]が、どうにもわからんのだ」  彼は時計に目を走らせて、素早く頭の中で計算した。 「この推力レベルでは、一五分以内に軌道から外れるだろう──大事をとって一〇分としよう。ともかく、宇宙船を危険に陥れることなく駆動を切ることができるかね?」  機関担当のユー二等宇宙士は、困った様子だったが、自分からしぶしぶと返事をした。 「ポンプ動力ラインの遮断器を切れば、推薬の供給を停止できます」 「そこに近づけるかね?」 「はい──第三デッキにあります」 「では、そこへ行こう」 「ええと──そうなると、独立の予備システムが引き継ぎます。それは、安全のために、第五デッキの閉鎖された隔壁の向こう側にあります──カッターが必要です──いや、間に合うようにやるのは不可能でしょう」  ラプラス船長は、それを恐れていた。ギャラクシー号を設計した天才は、あらゆる現実の事故から宇宙船を守ろうとした。人間の悪意から守る手段はなかったのだ。 「ほかに方法は?」 「与えられた時間内では、方法がないと思います」 「では、ブリッジに行って、チャンと──また、いっしょの誰かと──話せるかどうか、やってみよう」  いったい誰だろう、と彼は思った。正規の乗組員の一人とは考えたくなかった。  残るのは──そうだ、それが答だ!  何もかも明白だった。偏執狂の研究者が、学説の証明をしようとしたのだ。実験は失敗した。知識の探究が万事に優先すると決めて……。  あいにく、それは例の安っぽいマッド・サイエンティストのメロドラマにそっくりだったが、事実にはぴったりだった。これがノーベル賞への唯一の道だと、アンダースン博士が判断したのだろうか、と彼は思った。  その地質学者が、息を切らせ髪を乱して駆けつけたとき、その仮説はたちまち粉砕された。 「いったいぜんたい、船長──何があったのかね? 推力全開ではないか! 宇宙船は、上昇中か──それとも下降中?」 「下降中」ラプラス船長が答えた。「あと一〇分ほどで、エウロパにぶつかる軌道に入ります。操縦している誰かが、自分のすることを心得ているのを祈るのみです」  もう彼らはブリッジに来て、閉じたドアを前にしていた。向こう側からは、なんの物音も聞こえなかった。  ラプラス船長は、指を傷つけないかぎりで、なるべく強くドアをたたいた。 「わたしは船長だ! 中に入れろ!」  黙殺されるに決まっている命令を出すことを、多少ばからしく思ったが、少なくとも何かの反応があることを願ったのだった。驚いたことに、反応があったのだ。  室外向けのスピーカーが入って、声が聞こえてきた。 「ばかなことを考えないように、船長。わたしは銃を持っているし、ミスター・チャンは、わたしの命令に従っている」 「あれは誰だ?」宇宙士の一人が囁いた。「女のような声だぞ!」 「そのとおりだ」船長が苦々しげにいった。  これで、確かに可能性は限定されたが、事態の解決には少しも役立たなかった。 「何が目的だ? こんなことをして、ただですまないのは知っているだろう!」彼は、泣き言ではなくて、毅然とした声に聞こえるように努めながら叫んだ。 「エウロパに降りるのよ。そして、再び発進したいのなら、邪魔をしないことね」 「彼女の部屋は、塵一つありません」  三〇分たって推力が切られ、まもなくエウロパの大気圏をかすめる楕円に沿ってギャラクシー号が降下しているとき、クリス・フロイド二等宇宙士が報告した。  のっぴきならない立場だった。いまならエンジンを停止することも可能だろうが、それは自殺に等しいだろう。着陸するためには、それが再び必要になるのだ──もっとも、それも長時間を要する自殺の一形態にすぎないかもしれないのだが。 「ロージー・マクマホンだって! とても信じられん! 麻薬をやっていると思うか?」 「いや」フロイドがいった。「これは非常に入念に計画されている。彼女は、宇宙船のどこか[#「どこか」に傍点]に通信機を隠しているにちがいない。それを捜索すべきだ」 「おまえは、刑事のような口ぶりだぞ」 「もうやめろ、諸君」船長がいった。  感情がとげとげしくなりかけていた。主として、やり場のない口惜しさと、バリケードを築いたブリッジとの接触を続ける企てが、ことごとく失敗したことからくるものだった。 「大気圏に──あれが大気と呼べるならだが──入るまでに、あと二時間足らずだ。わたしは自分の船室にいる──万が一にも、あそこに通話してくるかもしれん。ミスター・ユー、ブリッジに待機して、何か事態の進展があれば、ただちに報告してくれないか」  一生のうちで、これほどの無力感を感じたのは初めてだが、何もしないでいるしかないときもあるのだった。船長室を出てゆくとき、誰かが沈んだ声でいうのが聞こえた。 「コーヒーが欲しいな。ロージーのつくるほどのを、いままで飲んだことがないよ」  そうだ。船長は苦い気分で思った。  彼女は確かに有能だ。どんな[#「どんな」に傍点]仕事をやらせても、それを徹底的にやるのだ。 [#改ページ]      28 対  話  ギャラクシー号の船内に一人だけ、この状況を単なる決定的な災厄としてでなく見ることのできる男がいた。  わたしは、死ぬことになるかもしれない。ロルフ・ファン・デル・ベルクは、心のなかでいった。しかし、少なくとも、科学に不滅の名を残すチャンスはあるのだ。ほんの気休めかもしれないけれども、船内にいるほかの者たちには、とても望めないことだ。  ギャラクシー号がゼウス山を目指していることを、彼はかたときも疑わなかった。エウロパには、ほかに重要なものはなかった。それどころか、どこの[#「どこの」に傍点]惑星であれ、これにいくらかでも匹敵するようなものはないのだ。  してみると、わたしの学説は──それがまだ学説にすぎないことを、彼は認めざるをえなかったが──もはや秘密ではないのだな。  どうして漏れたのだろう?  彼はパウル伯父を絶対的に信頼していたが、何か軽率なことをしたのかもしれなかった。それよりも、おそらく定例の作業として、誰かが彼のコンピューターをモニターしていたというほうが、ありそうなことだった。もしそうなら、老科学者の身は、かなり危険かもしれない。  ロルフは、彼に危険を知らせることができるだろうか──あるいは知らせるべきだろうか──と思った。通信担当の宇宙士が、非常用送信機の一つを通じて、ガニメデに連絡しようとしていることは知っていた。すでにビーコンによる自動警報信号が発せられていて、その知らせは、いまこの瞬間にも地球に届いているだろう。すでに一時間も、そこへ向かって進んでいるのだ。 「どうぞ」船室のドアを静かにノックする音を聞いて、彼はいった。「ああ──やあ、クリス。何か用件でも?」  クリス・フロイド二等宇宙士を見て、彼はびっくりした。ほかの研究者仲間に対する以上には、彼との付き合いはなかったのだ。われわれが無事にエウロパに着陸できれば、望んでいるよりも遙かに懇意になるかもしれないな、と彼は沈んだ気持で思った。 「こんにちは、博士。この近くに住んでいる人といえば、あなたしかいません。助けていただけるかと思って」 「こんな場合に、誰かを助けられるような者がいるのかな。ブリッジの方は、いまどうなっているね?」 「何も変わったことは。たったいま、あそこでドアにマイクを仕掛けようとしているユーやギリングズと別れてきたところです。それでも、中にいる者たちは、話をしていないようです。当然ですよ──チャンには、そんな暇はないはずですから」 「彼は、われわれを無事に降ろせるだろうか?」 「チャンは最高の腕前です。誰かにできるとすれば、彼をおいていませんよ。わたしは、あそこから飛び立つときのことを心配しているんですがね」 「驚いたな──そんな先のことまで考えていなかった。それには問題がないものと思っていた」 「ぎりぎりのところかもしれませんよ。いいですか、この宇宙船は、軌道上で行動する予定になっています。どこの大きな衛星に降ろすことも、計画に入っていませんでした──アナンケやカルメとランデブーしたいとは思っていましたがね。だから、エウロパで立往生することになる可能性もあります──とくに、適当な着陸地を探すために、チャンが推薬を余分に使えば」 「どこに彼が着陸しようとしているか、わかるかね?」  多少とも予期される以上の関心を見せないように努めながら、ロルフが訊ねた。それは失敗だったにちがいなかった。クリスが素早く彼を見たのである。 「いまの段階では、想像もつきません。制動操作が始まれば、もっと見当がつくかもしれませんが。しかし、あなたは、この衛星をよくご存じです。どこだと思いますか?」 「一つだけ興味深い場所がある。ゼウス山だよ」 「どうして、あそこに降りたいと思う者がいるのですか?」  ロルフは肩をすくめた。 「あれは、われわれが知りたいものの一つだ。高価なペネトロメーターを二つも犠牲にした」 「しかも、犠牲は遙かに大きくなりそうですね。何か[#「何か」に傍点]、お考えはありませんか?」 「あなたは刑事のような口ぶりだな」ファン・デル・ベルクは、少しも本気のつもりはなく、笑いを浮かべながらいった。 「妙ですね──この一時間のあいだに、同じことを二回いわれましたよ」  とたんに、船室内の雰囲気は微妙に変化した──まるで生命維持システムが自動的に調節を行なったように。 「ああ──わたしは冗談をいっただけだよ──本当にそうなのかね?」 「そうだとしても、それを認めるわけがありますまい?」  それでは返答になってないな、とファン・デル・ベルクは思った。だが、考えてみると、あるいは返答になっているのかもしれなかった。  彼は若い宇宙士をじっと見つめて、相手が有名な祖父に驚くほど似ていることに──初めてではないが──気がついた。クリス・フロイドは、いままでツァン船団の別の宇宙船にいて、今回の探査計画でギャラクシー号に乗り組んだばかりだと、誰かがいっていた──そして、どんな仕事でも有力なコネがある者は得だと、そいつは皮肉につけ加えたのである。  だが、フロイドの能力については、文句のつけようがなかった。彼は優秀な宇宙士だった。それだけの技量があれば、ほかの臨時の仕事をしても、それがものをいうかもしれなかった。ロージー・マクマホンを見るがいい──考えてみれば、彼女も、この探査計画の直前にギャラクシー号に乗り組んだのだ。  ロルフ・ファン・デル・ベルクは、何かの惑星間陰謀の、目に見えない広大な網の目に巻きこまれたような気がした。自然に対して発した質問に──ふつうなら──端的な答をもらうことに慣れた科学者として、この状況は嬉しいものではなかった。  しかし、無実の罪だと主張することは、とてもできないだろう。自分は、真実を──あるいは少なくとも真実だと信じることを──隠そうとしたのだ。そしていま、その偽りが連鎖反応のなかの中性子のように増殖していって、同じくらいに悲惨な結果を生むかもしれないのだ。  クリス・フロイドは、どういう立場にいるのだろうか? いくつの立場があるのか?  秘密が漏れたからには、ブントが関与していることは間違いないだろう。だが、ブント自体にも分派があり、それに対抗するグループがある。まるで鏡の間のようなものだ。  しかし、一つの点については、かなりの確信があった。彼の血縁関係だけが根拠だとしても、クリス・フロイドは信頼できるのだ。賭けてもいい、とファン・デル・ベルクは思った。この探査計画が存続するあいだ、彼が宇宙刑事警察機構《アストロポル》に所属させられたということに──その期間が、どれだけの長さになるか、または短さになるかは、いまや……。 「力になりたいな、クリス」彼は、ゆっくりといった。「たぶん察していると思うが、わたしは一つの学説を立てている。しかし、まだ完全な見当はずれに終わるかも──。  あと半時間で、真実がわかるかもしれない。それまでは、何もいわずにいたい」  そして、これは単なるボーア人の根深い頑固さではない、と彼は心の中でいった。もしも自分が間違っていたなら、わたし[#「わたし」に傍点]が彼らに凶運をもたらした愚か者だと知っている者たちの中で死にたくはないのだよ。 [#改ページ]      29 降  下  チャン二等宇宙士は、ギャラクシー号を遷移軌道に乗せることに成功し、意外であると同時に安心もしたのだが、それからあとずっと、この問題と格闘していた。  以後の数時間というものは、宇宙船は神の手に、あるいは少なくともサー・アイザック・ニュートンの手にゆだねられていた。最後の制動と降下の操作にかかるまで、待つほかにすることはなかったのだ。  最接近したとき宇宙船に逆ベクトルを与え、宇宙空間へ再び跳び出させるという形で、ローズにいっぱい食わせることを、ちょっとだけ考えた。そうすれば、宇宙船は安定な軌道に戻り、最後にはガニメデから救援の手が伸びるかもしれない。  だが、このもくろみには根本的な欠点があった。彼自身が救われるまで生きていられないことは、確実だったのである。チャンは臆病者ではなかったが、宇宙航路の死んだ英雄にはなりたくなかった。  いずれにしても、自分が次の一時間を生き残る可能性は、心細いものに思えた。彼は、まったく未知の土地に三〇〇〇トン級の宇宙船を、単独で[#「単独で」に傍点]降下させるように命令された。これは、たとえ勝手知った月面でも、やってみたくない離れ技だった。 「制動開始まで、あと何分ある?」ロージーが訊ねた。  たぶん、それは質問というよりは命令だった。彼女は明らかに宇宙航行の基礎を理解しており、チャンは相手の裏をかこうとする最後の狂気じみた幻想を諦めた。 「五分」彼はしぶしぶと答えた。「船内のほかの者たちに、準備の予告をしてもいいか?」 「わたしがやるわ。マイクを貸しなさい……こちらはブリッジ。あと五分で制動動作に入る。繰り返す、あと五分。以上」  船員室に集まった科学者や宇宙士たちにとって、このメッセージは、まるで予想していないものではなかった。彼らには、一つだけ運が向いていたのである。船外のテレビ・モニターはスイッチを切られていなかった。  ことによるとローズは、それを忘れていたのかもしれない。それよりは、気にもかけなかったという可能性のほうが大きかった。そこでいま、無力な見物人──文字どおりの囚われの聴衆(いやでも聞かされる聴衆の意)>氛氓ニして、彼らは目前に展開する運命の瞬間を見守ることができたのである。  いまや、エウロパの雲に覆われた鎌形が、後方展望カメラの視野いっぱいに拡がっていた。夜側に戻る途中で再凝結した水蒸気の濃密な一面の雲は、どこにも切れ目がなかった。着陸は最後の瞬間までレーダー制御で行なわれるだろうから、これは重大な問題ではない。しかし、可視光に頼らざるをえない見物人たちにとっては、苦しみが長引くことになったのである。  一〇年近くも非常な欲求不満をもってそれを研究してきた男ほど、近づいてくる天体を真剣に見つめている者はいなかった。脆弱な低重力チェアの一つに坐って拘束ベルトを軽く締めたロルフ・ファン・デル・ベルクは、制動が開始されて、かすかな重量が加わりはじめたのを、ほとんど意識しなかった。  五秒すると、推力は全開にされた。どの宇宙士も、自分のコムセットで、素早く計算していた。航法バンクから呼び出せないので、当て推量の部分が多くなり、ラプラス船長は計算結果が一致するのを待った。 「一一分だ」やがて彼は発表した。「彼が推力レベルを下げないものと仮定してだが──いまは最高限度を出している。また、一〇キロメートル──雲の層のすぐ上──の上空に停止、それからまっすぐに降りると仮定する。そうすれば、さらに五分かかるだろう」  その五分間の最後の一秒が最も決定的だ、とつけ加える必要はなかった。  エウロパは、その秘密を最後の最後まで守る決意らしかった。ギャラクシー号が雲海のすぐ上に静止して浮かんだときも、まだ下界には陸地──または海──の気配も見えなかった。それから、胸を掻きむしられるような数秒のあいだ、スクリーンは完全に空白になった──ただ、めったに使われない降着装置が、いまは伸ばされて、ちらりと見えるだけだった。それが数分前に出てきたときの音は、乗客のあいだに、しばらく一時的な不安をひきおこしたのだった。いまは、それが役目を果たしてくれることを祈るだけだった。  このいまいましい雲は、どれだけ厚さがあるんだ、とファン・デル・ベルクは思った。ずっと下まで続いているのか──。  いや、雲は切れて、薄くまばらになりかけていた──そこには、わずか数千キロメートルとしか見えない下界に、新しいエウロパが拡がっていた。  それは、まさしく新しいエウロパだった。そのことは地質学者でなくてもわかった。おそらく、四〇億年前の生まれたての地球も、このような姿であって、陸地と海が果てしない戦いを始める準備をしていたのだろう。  五〇年前まで、ここには陸地も海もなかった──氷だけだった。だが、いまやルシファーに向いた半球では氷が融けて、そこから生じた水は空へ沸騰し──夜側の永久冷凍庫に堆積していた。こうして一つの半球からもう一つへ数十億トンもの液体が移動すると、それまで遙かに遠い太陽の青白い光さえも知らなかった太古の海底が露出した。  たぶん、いつの日にか、これらの捩じくれた大地は、拡がる植生の覆いによって和らげられるだろう。いま、それは不毛な熔岩流と穏やかに湯気を立てる干潟であり、異常に傾いた地層を持つ岩塊が、ところところに隆起して、それを分断していた。ここは明らかに大きな地殻変動があった地域であり、エベレストの規模の山が最近になって誕生したとしても、決して不思議ではなかった。  そして、あそこだ──異様なほど近い地平線の上に聳え立っている。ロルフ・ファン・デル・ベルクは、胸がつまり、頸すじがうずくのを感じた。もはや間接の非人間的な観測装置の知覚を通してではなく、この目で憧れの山を見ているのだった。  よく知っていたとおり、ほぼ四面体の形だが、少し傾いて、一つの面が垂直に近くなっていた(この重力のもとでさえ、登山家にとっては、すばらしい目標だろう──とくにハーケンを打ちこめないとあっては……)。頂上は雲に隠れており、緩やかに傾斜して彼らを向いた面は、雪に覆われていた。 「あんな大騒ぎをしたのは、あれ[#「あれ」に傍点]のためなのか?」誰かが、うんざりしたようにつぶやいた。「おれには、まるであたり前の山に見えるぞ。どれか一つを見れば──」  黙れという声がして、彼は腹立たしげに静かになった。  チャンが適当な着陸地を探すのにつれて、いまギャラクシー号は、ゆっくりとゼウス山へ向かって漂っていた。主推力の九〇パーセントは、もっぱら宇宙船を支えるために必要だったから、側方への自由度はあまりなかった。おそらく五分は浮かんでいられるだけの推薬があった。そのあとでも、無事に着陸はできるかもしれない──だが、再び発進することは絶対にできないのである。  一〇〇年近く前に、ニール・アームストロングが同じジレンマに直面した。しかし、彼は、拳銃を頭に向けられながら操縦していたのではなかった。  それでも、最後の数分のあいだ、チャンは拳銃もロージーもすっかり忘れていた。あらゆる知覚は、目の前の仕事に集中された。彼は文字どおり、自分が制御している巨大な機械の一部になっていた。彼に残された人間的な感覚は、恐怖ではなくて昂揚した気分だった。これこそ、自分が遂行すべく訓練された仕事だ。いまは、自分の職業的経歴で、絶頂の瞬間なのだ──たとえ、これがフィナーレであるとしても。  そして、本当にそうなりそうだった。いまや山の麓まで一キロメートル足らずしかなかった──それなのに、着陸地点はいまだに見つからなかった。地形は信じがたいほど険しくて、渓谷に引き裂かれ、巨大な岩塊が散在していた。テニスコートよりも大きな水平の地面は見当たらなかった──そして燃料計の赤い線は、あと三〇秒を残すだけだった。  だが、やっと平らな表面が現われてきた──それまでに最も平坦な場所といってよかった。時間の枠内で唯一のチャンスだった。  彼は巨大で不安定なシリンダーを、その水平な地面に向けて巧みに操った──雪に覆われているようだった──うん、そのとおりだ──噴射が雪を吹き払っていた──だが、その下に何があるのか? ──氷のように見える──凍りついた湖にちがいない──厚さはどうだ──厚さはどうだ──。  ギャラクシー号の主ジェットによる五〇〇トンという猛烈な打撃が、さし招く危険な表面を打った。放射状の線の模様が、その上を急速に伸び拡がった。氷が割れて、巨大な氷の板がひっくりかえりはじめた。にわかに露出した湖水を猛烈な噴射が吹きつけると、沸騰する水が同心円状の波になって、みるみる拡がっていった。  チャンは、充分な訓練を積んだ宇宙士らしく、致命的な躊躇などすることなしに、反射的に行動した。左手は、安全装置のバーを引きちぎった。右手は、それが保護していた赤いレバーを掴んで、それを作動の位置へ引いた。  ギャラクシー号が就航したときから平和に眠りつづけていた〈取消し〉プログラムがあとを引き継ぐと、宇宙船を再び空へ放りあげた。 [#改ページ]      30 ギャラクシー号の着地  船員室では、不意に加わった推力全開は、死刑執行の停止のように感じられた。  選ばれた着陸地が崩壊したのを見て仰天した宇宙士たちは、逃れる道はただ一つしかないのを知った。その道をチャンが取ったいま、彼らは再び安心して息がつけるようになった。だが、その気分をいつまで楽しんでいられるかは、誰にも推測できなかった。安定した軌道に到達できるだけの推薬が宇宙船にあるかどうかを知っているのは、チャンだけだった。  そして、仮にあったとしても、拳銃を構えた狂人は、また降りることを命じるかもしれないと、船長は暗澹たる気持で思った。もっとも、彼女が本物の狂人だとは、かたときも思わなかった。自分のしていることを、ちゃんと承知しているのだ。  突然、推力に変化がおこった。 「第四モーターが停止しました」機関士の一人がいった。「不思議はありません──たぶんオーバーヒートです。この出力レベルでは、これだけ長くは耐えられません」  もちろん、方向の変化は感じられなかった──減少した推力は依然として宇宙船の軸に沿っていた──だが、モニター・スクリーンの展望は、狂ったように傾いた。まだギャラクシー号は上昇していたが、もう垂直ではなかった。それは、エウロパのどことも知れぬ目標を狙う弾道ミサイルになったのである。  またもや、突如として推力が下がった。テレビ・モニターの画面で、地平線は再び水平になっていた。 「彼は反対側のモーターを切った──宙がえりを防ぐ唯一の手段だ──だが、高度が維持できるか? うまいぞ!」  見守る科学者たちには、どこがうまいのか、わからなかった。モニターの展望は完全に失われ、視界を奪う白い霧に隠されていた。 「彼は余分の推薬を捨てているんだ──宇宙船を軽くしている──」  推力はゼロになっていった。宇宙船は自由落下状態にあった。  数秒のうちに、自分の捨てた推薬が宇宙空間へ爆発したときに生じた氷の結晶の巨大な雲塊を通り抜けた。そして、その下に、八分の一Gの重力で加速されながら、ゆうゆうと近づいてくるのは、エウロパの中央海洋だった。少なくとも、チャンが着陸地を選ぶ必要はなかった。  これから先は標準的な操作手続きであって、宇宙空間に出たことがなく、これからも出ることのない数百万の人々には、テレビゲームとしてお馴染みのものだった。  必要なことといえば、推力と重力との釣り合いをとりながら、降下する宇宙船を高度ゼロで速度ゼロにするだけだった。誤差の許容範囲はあったが、それほど大きくはなかった──初期のアメリカ人宇宙飛行士が好んでやり、いまチャンがやむをえず試みている水面着陸といえどもである。  もし彼が誤りをおかしても──そして、この数時間の試練のあとでは、彼を責めるわけにはゆかなかったのだが──パソコンがお気の毒です──あなたは墜落しました。もう一度やりますか? イエスかノーかで答えてください……≠ニはいわないのである。  間に合わせの武器を持ってロックされたブリッジのドアで待っている、ユー二等宇宙士と二人の同僚は、おそらくこの世で最も困難な任務を割り当てられていた。事態の推移を知るモニター・スクリーンはなく、船員室からのメッセージに依存するほかはなかった。盗聴マイクから聞こえてくる声もなかったが、それも不思議とはいえなかった。チャンとマクマホンには時間があまりないか、または会話の必要がなかったのである。  着水は見事に行なわれ、衝撃はほとんどなかった。ギャラクシー号は数メートル余分に沈んで、次に上下に揺れてから──エンジンの重みのおかげで──直立した姿勢のまま垂直に浮かんだ。  盗聴マイクから、初めて明瞭な音声が外の者たちに聞こえたのは、そのときだった。 「おまえは狂っているぞ、ロージー」怒りというよりは疲れきって諦めたチャンの声がいった。「これで満足したろう。おまえは、おれたち全員を殺したんだ」  拳銃の音が一つ聞こえ、それから長い沈黙が続いた。  ユーと同僚たちは、まもなく何事かがおこるはずだと思いながら、辛抱強く待った。やがて、ロックされたレバーが外れる音が聞こえ、彼らは持っていたスパナや金属棒を握り締めた。一人はやられるとしても、全員がやられるものか。  ドアが、きわめてゆっくりと開いた。 「すまん」チャン二等宇宙士がいった。「しばらく気を失っていたにちがいないよ」  それから、分別のある人間らしく、彼はまた気絶したのである。 [#改ページ]      31 〈ガリレオの海〉  よくも医者になんぞなれるもんだ、とラプラス船長は思った。そういえば、葬儀屋だってそうだ。ときには不愉快な仕事もあるというのに……。 「さて、何か見つけたかね?」 「いいえ、船長。むろん、適当な種類の装備がないものですからね。顕微鏡で初めて探知できるような埋めこみ装置もあるんですよ──少なくとも、そう聞いています。もっとも、ごく短距離にしか届かないはずですがね」 「たぶん、船内のどこかにある送信機に中継するのだろう──フロイドが捜索を提案している。指紋を採取したかね──それに何かほかの身元鑑定も?」 「はい──ガニメデと連絡がとれたら、彼女の書類といっしょに送ります。だが、ロージーが何者で、誰の手先であるかが、わかりますかね。ましてや、その目的[#「目的」に傍点]となると」 「少なくとも、あの女は、いくらか人間的な本能を見せたな」ラプラスが、しみじみといった。「チャンが取消しレバーを引いたときに、しくじったのを悟ったにちがいない。そのときに彼を射殺して、着陸をさせないこともありえた」 「われわれには、その[#「その」に傍点]ほうが、ずっとよかったでしょうよ。ジェンキンズとわたしとで、死体を廃物投棄口から外へ出したとき、何があったかを話しましょう」  船医は口をすぼめて、不快感に顔をしかめた。 「むろん、おっしゃるとおりでした──あれが唯一の方法だったのです。ところで、重しなどはつけませんでした。あれは何分間か浮いていました。われわれは、それが宇宙船から離れてゆくかどうかを見届けるために眺めていましたが、そのとき──」  船医は、言葉につまっているようだった。 「いったい、どうなったんだ?」 「何か[#「何か」に傍点]が水のなかから出てきました。オウムの嘴に似ていて、一〇〇倍ほども大きなものでした。そいつは──ロージーを──一口で呑みこむと、姿を消しました。ここには、何やらたいした仲間がいますよ。仮に外で呼吸ができたとしても、水泳は決して勧めませんな──」 「ブリッジから船長へ」当直宇宙士の声だった。「水中に大きな異変。三号カメラ──映像を出します」 「あれが、わたしの見た怪物ですよ!」船医が叫んだ。  彼は、避けがたい不吉な予感に、にわかに血が凍るのを感じた。もっと餌が欲しくて戻ってきたのでなければいいが。  不意に大きな図体が海洋の水面を破って、空中に弧を描いた。一瞬のあいだ、その巨大な形状が、大気と水との境に浮かんだ。  見慣れた姿は、異様なものに劣らず衝撃的である──思いもよらぬ場所にあるときは。船長と船医は、異口同音に叫んだ。 「鮫だ!」  巨体がしぶきをあげて海に落ちるまでに──その巨大なオウムの嘴を別にして──若干の微妙な違いがあることに気づくだけの時間があった。余分な一対の鰭があった──そして鰓《えら》はないらしかった。目もなかったが、嘴の両側に奇妙な突出部があり、何かほかの知覚器官かもしれなかった。 「もちろん、収斂進化ですな」船医がいった。「どこの惑星であろうとも、同じ課題には同じ解決法。地球をごらんなさい。鮫、イルカ、イクチオサウルス──海洋の捕食者は、どれも同じ基本的形態をとらねばならないのですよ。それにしても、あの嘴は、わけがわからんな──」 「今度は、何をやっているんだ?」  その生き物は、また浮かびあがったが、あの途方もない跳躍で疲れきったかのように、いまは非常にゆっくりと動いていた。それどころか、難渋して──いや苦しんで──いるらしかった。どちらか特定の方向へ動こうとするのではなく、尾を海にたたきつけた。  それは不意に最後の食事を吐き出すと、仰向けにひっくりかえり、生命を失って穏やかなうねりに揺れていた。 「なんということだ」船長は、嫌悪に満ちた声でつぶやいた。「何がおこったのか、わかるような気がする」 「まったく異質の生化学」船医がいった。  さすがの彼も、その光景には衝撃を受けたようだった。 「結局は、ロージーが犠牲者を出したわけだ」 〈ガリレオの海〉は、もちろん、エウロパを発見した男にちなんで名付けられた──その彼がまた、別の天体にあるずっと小さな海にちなんで名付けられたのと同じに。  それは、生まれてから五〇年にもならない、非常に若い海だった。そして、たいていの生まれたての赤ん坊がそうであるように、かなり騒々しいところもあった。  エウロパの大気はいまだに希薄で、本格的なハリケーンを発生するにはいたらなかったが、上空にルシファーが静止している熱帯の地点に向けて、周囲の陸地から間断なく風が吹いた。この常に正午の地点では、水が絶えず沸騰していた──この希薄な大気のなかでは、やっと飲みごろの茶ができる熱さしかない温度でも。  幸いにも、ルシファーの直下にあたる水蒸気の多い荒れた水域までは、一〇〇〇キロメートルの距離があった。ギャラクシー号は、最寄りの陸地から一〇〇キロメートル足らずにある、相対的に穏やかな水域に降下していた。最高速度を出せば、その距離は一秒の何分の一かで越えることができた。だが、いつも曇っているエウロパの低くたちこめた雲の下を漂流しているいまは、その陸地が最果てのクエーサーくらいの遙かな距離に思えた。  もっとわるいことに──そんなことがありうるならばだが──沖へ向かって絶え間なく吹く風が、海の奥へと彼らを運んでいた。そして、この新世界のどこかの処女地の浜辺に乗りあげることが、仮にできたとしても、いまより有利にはならないかもしれなかった。  だが、もっと快適にはなるだろう。感嘆するほど水の漏れない宇宙船も、航海に適するとは、とてもいえなかった。ギャラクシー号は、垂直の状態で浮かんで上下に揺れ、穏やかだが不安を感じる振動をした。乗組員の半数は、早くも船酔いをおこしていた。  損傷の報告に目を通したあと、ラプラス船長の最初の行動は、大小や形状を問わず船を扱った経験のある者をつのることだった。三〇人におよぶ宇宙航行の技術者や宇宙科学者のあいだには、操船の才能のある者が相当な数にのぼると考えるのが至当だと思えたのだが、五人のアマチュアの船乗りと一人の本職──ツァン海運会社を振出しにして、あとで宇宙に転職したパーサーのフランク・リー──さえもが、たちまちにして見つかったのだった。  パーサーは、航法用の器具よりも会計器機を(フランク・リーの場合には、二〇〇年を経た象牙の算盤だった)扱うほうが慣れているとはいえ、やはり彼らも基礎的な操縦術の試験に合格しなければならなかったのだ。これまでリーには、自分が持つ海事の技能を試すチャンスが一度もめぐってこなかった。いま南シナ海から一〇億キロメートル近くも離れた場所で、彼の出番がまわってきたのだった。 「推薬タンクに水を満たすべきです」彼は船長にいった。「そうすれば、あまりひどくは上下に揺れないでしょう」  これ以上の水を船内に入れるのは愚かだと思えたから、船長は迷っていた。 「浅瀬に乗りあげる場合には、どうなるかね?」 どれだけの違いがあるんだ?≠ニいう、決まりきった意見をいう者はいなかった。まともに議論はしなかったが、陸地のほうが有利だと──そこに到達できればだが──想定されていたのである。 「タンクを空にするのは、いつでもできますよ。どうせ、岸に着いたら、宇宙船に水平位置をとらせるために、やらなければならないんです。幸い動力はあるから……」  彼は声を途切れさせた。  その理由は誰もが知っていた。生命維持システムを動かしている補助原子炉がなかったら、全員が数時間以内に死ぬことだろう。いまや宇宙船は──故障でもおこさないかぎり──いつまででも彼らを生かしておけるのだった。  もちろん、最終的には、みんな飢え死にするだろう。エウロパの海に食べ物はなく、毒だけだということは、たったいま劇的に証明されたばかりだった。  少なくとも、ガニメデとは連絡がとれたから、いまや全人類が彼らの苦境を知っているわけだった。  いま太陽系で最高の頭脳が、彼らを救おうとしていることだろう。それが失敗したとしても、ギャラクシー号の乗客と乗組員には、華やかに脚光を浴びながら死ぬという慰めがあるのだった。 [#改ページ] [#改ページ]  第四部 井  戸      32 進 路 変 更 「最新のニュースによれば」集まった乗客に、スミス船長がいった。「ギャラクシー号は海に浮かんでいて、きわめて良好な状態にあります。乗組員の一人が──女性のスチュワードですが──死にました。詳しいことは、わかりません。しかし、それ以外の者は、みんな無事です。  宇宙船のシステムは、どれも機能しています。多少の漏れがありますが、管理されています。差し迫った危険はないが、卓越風のために本土から昼側の中心へ向かって押し出されている、とラプラス船長はいっています。これは重大な問題というわけではありません──それより前に、まず間違いなく、いくつかの大きな島々に到達すると思われます。目下のところ、彼らは最寄りの陸地から九〇キロメートルのところにいます。大きな海生動物を目撃しましたが、何も敵意を示していません。  これ以上の偶発事件がないかぎり、食糧が欠乏するまで──もちろん、いまは厳しく消費制限されていますが──数ヵ月間は生き延びられるはずです。それでも、ラプラス船長によれば、士気は依然として旺盛です。  さて、ここからが、われわれの関与することです。われわれがただちに地球に戻り、燃料補給と整備を受ければ、逆行推進軌道を使ってエウロパに八五日で到達できます。いま就役中の宇宙船のうちで、あそこに着陸して、かなりの有効荷重を載せて再び発進できるのは、ユニバース号だけなのです。ガニメデのシャトルが補給品を投下できるでしょうが、それが限度です──もっとも、それが生死を分けることになるかもしれませんがね。  みなさん、この訪問旅行を中断するのは残念です──しかし、お約束したものを何もかもごらんにいれたことは、同意していただけると思います。それから、この新しい任務にも、きっと賛成してくださるでしょう──成功の可能性は、率直にいってわずかなものですが。とりあえずは、それだけです。フロイド博士──あなたとお話がしたいのですが」  ほかの者たちが、中央ラウンジ──これほど重要でない状況説明が数知れず行なわれた舞台──から、考えこみながら徐々に出てゆくあいだ、船長はメッセージで埋まったクリップボードに目を通していた。  いまでも紙に印刷された文字が最も便利な伝達媒体である場合があったが、ここにも技術が応用されていた。船長が読んでいるシートは、無期限に再使用できるマルチファックス材料でできており、つつましい屑籠に加わる負担を大いに軽減していた。 「へイウッド」もう儀礼は抜きにして、船長がいった。「察していようが、回線は過熱状態だ。それに、わたしの理解を超えることが、どっさり進行している」 「同じくだよ」フロイドが答えた。「クリスからは、まだ音沙汰がないかね?」 「ないな。しかし、ガニメデは、きみのメッセージを転送した。いまごろは届いているはずだ。推測できるとおり、個人的な通信を無効にする優先順位があるのだよ──だが、きみの名前は、もちろんそれを[#「それを」に傍点]無効にした」 「ありがとう、船長。わたしに手伝えることが何かあるかね?」 「実際のところ、ないな──あったら知らせるから」  二人が互いに言葉を交わす間柄のままでいるのは、これから相当な期間にわたって、これが最後になるといってもよかった。あと数時間で、へイウッド・フロイド博士はあの気の狂った老いぼれのばか≠ノなり、また短命な──船長の率いる──ユニバース号の反乱≠ェ始まることだろう。  それは、実をいえば、へイウッド・フロイドの思いつきではなかった。彼は、そうであればよかったのにと、心から思ったのである……。  ロイ・ジョルスン二等宇宙士は宇宙屋≠ツまり航行担当だった。フロイドは、彼と顔見知りだったが、おはよう∴ネ上のことをいう機会はなかった。だから、その航行士が彼の船室のドアをおずおずとノックしたとき、フロイドはびっくり仰天したのだった。  宇宙航行士は、一組の図表を持っていて、いささか落ち着かない様子だった。彼がフロイドの面前で威圧されるはずはなかった──いまでは、船内の誰もが、彼の存在には慣れっこになっていたのだ──だから、何かほかの理由があるにちがいなかった。 「フロイド博士」彼は口を開いた。  その口調は、いかにも切迫した不安感に満ちていて、未来のすべてを次の取引きの成功にかけたセールスマンを思わせた。 「あなたの助言が欲しいのです──助力も」 「いいとも──しかし、何をすればいいのかね?」  ジョルスンは、ルシファーの内側にあるすべての惑星の位置を示した図表を拡げた。 「木星が爆発する前に逃げ出すために、レオーノフ号とディスカバリー号とを連結した、あなたの遠いむかしの芸当からヒントを得たんです」 「あれは、わたしではなかった。ウォルター・カーノウが思いついたのだ」 「おお──それは知りませんでした。もちろん、ここには、ブースターになる別の宇宙船はありません──しかし、もっといいものがあるんです」 「どういう意味だね?」すっかり狐につままれた思いで、フロイドが訊ねた。 「笑わないでくださいよ。どうして推薬を取りに地球まで帰るんです──数百メートル向こうで、オールド・フェイスフルが、それを毎秒何トンも噴き出しているというのに? あれを捕捉すれば、三ヵ月ではなく三週間でエウロパまで行けます」  その考えは実にあたり前で、しかも大胆だったから、フロイドはあっけにとられた。半ダースもの反対理由が即座に浮かんだが、どれも致命的とは思えなかった。 「船長は、このアイデアを、どういっているかね?」 「彼には話してありません。だからこそ、あなたの助力が必要なのです。わたしの計算を点検して──それから、このアイデアを彼に話してほしいのです。彼は、わたしの意見など却下するでしょう──それは絶対に確かです──彼を責めはしません。わたしが船長だったら、やはりそうするだろうと思います……」  小さな船室では、長い沈黙が続いた。それから、フロイドはゆっくりといった。 「それが不可能だという理由のすべてを、わたしが提出しよう。それからきみが、わたしのどこが間違っているかをいう番だ」  ジョルスン二等宇宙士は、自分の指揮官を知り抜いていた。スミス船長は、生まれてこのかた、こんな途方もない提案は聞いたことがないといった。  彼の反対理由は、どれも充分に根拠があるもので、例の局外者が口を出すな≠ニいう態度は、あったとしても、ほとんど表には出さなかった。 「うん、理屈のうえでは、うまくゆくだろうさ」彼は認めた。「だが、実際上の問題を考えてみたまえ! あの代物を、どうやってタンクに入れるつもりだ?」 「技術者たちと相談したよ。宇宙船をクレーターの縁まで移動させる──五〇メートル以内に入っても絶対に安全だ。装備のない区画に配管があって、剥ぎとることができる──それからオールド・フェイスフルまでパイプをひいて、噴出が始まるのを待つ。あれが、いかに信頼できて、お行儀がいいかは、知っているだろう」 「だが、われわれのポンプは、真空に近い中では働かないぞ!」 「それは必要ない。間欠泉そのものの流出速度が、少なくとも毎秒一〇〇キロの速度で注ぎこむのに頼ればいい。オールド・フェイスフルが、すっかりやってくれるよ」 「あそこからは氷の結晶と水蒸気が出るだけで、液体の水じゃないぞ」 「船内に入れば、凍結するだろう」 「きみは、このことを、とことん考え抜いてあるんだな」しぶしぶと感嘆しながら船長がいった。「だが、とにかく、わたしには信じられない。そもそも、水の純度は充分なのか? 汚染物質はどうだ──とくに炭素粒子は?」  フロイドは、微笑せずにはいられなかった。スミス船長は、煤に対する強迫観念にとりつかれているのだった。 「大きなものは濾過すればいい。残りは反応に影響しないだろう。ああ、そうだ──ここでの水素同位体の比率は、地球よりもよさそう[#「よさそう」に傍点]だよ。いくらか余分の推力が得られさえするかもしれない」 「きみの同僚たちは、このアイデアを、どう思うんだ? もしまっすぐにルシファーに向かえば、彼らが家に帰れるのは数ヵ月先になるかもしれない──」 「彼らには話していない。しかし、これだけ多くの人命がかかっているのに、それが問題になるだろうか? われわれはギャラクシー号に、予定より七〇日も早く到達するかもしれないのだ! 七〇日[#「七〇日」に傍点]だよ! それだけのあいだに、エウロパで何がおこる可能性があるかを、考えてみたまえ!」 「時間の要素は、充分に意識しているさ」船長が噛みつくようにいった。「そのことは、われわれにも当てはまる。それだけ長期の旅に備えた食糧がないかもしれない」  いまや彼は小事にこだわっているぞ、とフロイドは思った。そして、わたしがそれに気がついていることを、知っているにちがいない。ここは如才なくしたほうがいいな……。 「余分の数週間でか? それほど余裕がないとは、信じられないな。ともかく、あまりにも豪勢な食事だったよ。しばらく食事を制限されれば、身のためになる者もいるよ」  船長は、冷ややかな微笑を浮かべた。 「ウィリスやミハイロビッチに、きみの口からいえばいいさ。だが、わたしは、そもそものアイデアが正気の沙汰ではないことを恐れているのだ」 「少なくとも、オーナーに当たってみようじゃないか。サー・ローレンスと話したいな」 「もちろん、きみを止めることはできん」できることを願っているような口ぶりで、船長がいった。「だが、彼がなんというかは、手に取るようにわかっているよ」  それは、完全に見当はずれだった。  サー・ローレンス・ツァンは、この三〇年というもの、賭をしていなかった。それはもはや、国際貿易における堂々たる地位には、そぐわなかったのだ。それでも、若いころには、禁欲的な政府が不意に公衆道徳心を発揮してそこを閉鎖するまで、香港競馬場での軽いスリルを味わったものだった。  賭ができるときには金がなくて、いまは世界最高の富豪として模範を垂れるために賭ができないなんて、世の中とはこうしたもんだ、とサー・ローレンスは、ときどき物足りない気持で思ったのである。  しかし、自分が誰よりも知りつくしているように、彼の実業界における全経歴は、一つの長期にわたる賭だった。最高の情報を集め、最善の助言を与えてくれるだろうと直感する専門家の意見を聞いた。それが間違っている場合には、たいてい間に合うように手を引いた。しかし、危険の要素は常にあったのだ。  いまへイウッド・フロイドからの覚え書を読んだ彼は、馬たちが蹄の音を轟かせて最後の直線に入るのを眺めてこのかた体験しなかったような、かつてのスリルをあらためて感じたのだった。  それこそ、まさに賭というものだ──おそらく自分の生涯で最大にして最後のものだろう──それをあえて役員会で述べる勇気はなかったが。まして、レディー・ジャスミンには。 「ビル」彼はいった。「どう思うね?」  彼の息子は(堅実で信頼できるが、おそらく彼の世代にはもう必要のない活気に欠けていて)予期したとおりの返事をした。 「理屈としては、まったくそのとおりです。ユニバース号には、それをやれる能力があります──理屈のうえでは。しかし、すでに宇宙船を一隻失っています。もう一隻まで危険にさらすことになるでしょう」 「あの宇宙船は、どうせ木星に──ルシファーに──行くのだよ」 「そうです──しかし、地球の軌道で完全な点検を受けてからです。それに、ここで提案されている最短飛行が何を意味するのか、それがおわかりですか? あの宇宙船は、あらゆる速度記録を破って、方向転換点で秒速一〇〇〇キロメートル以上を出すことになるでしょう!」  それは、これ以上は考えられないほど不適当な発言だった。父親の耳には、またもや蹄の轟きが響いたのである。  だが、サー・ローレンスは、こういっただけだった。 「彼らに少し試行させても、何も不都合はあるまい。スミス船長は、このアイデアに、手段を尽くして抵抗しているがね。辞職すると脅してさえいる。ところで、ロイズに対する立場を、ともかく検討してみなさい。ギャラクシー号の支払い請求を譲歩せねばならないかもしれんぞ」  とくに、ユニバース号を、それ以上に大きなポーカーチップとしてテーブルに出すとなれば、とつけ加えてもいいところだった。  そして、スミス船長のことが心配だった。ラプラス船長がエウロパで立往生しているいま、スミスは彼に残された最優秀の船長だったのである。 [#改ページ]      33 孔 の 栓 「カレッジを出てこのかた見たこともないほど、いいかげんな仕事だ」機関長が不満を漏らした。「だが、間に合わせるには、これが精いっぱいのところなんだ」  一時しのぎのパイプラインは、いまは活動を停止しているオールド・フェイスフルの噴出孔が下へ向かって尖った長方形の漏斗状となって終わる場所まで、化学物質がこびりついた、まばゆい岩の上を、五〇メートルにわたって伸びていた。太陽は丘の向こうに昇ったばかりだが、間欠泉の地下──または彗星下>氛氓フ溜まりが最初の暖かみに触れるのを感じるにつれて、早くも地面はかすかに震えはじめていた。  展望ラウンジから眺めているへイウッド・フロイドには、ほんの二四時間のあいだに、こんなにも多くのことがおこったというのが、とても信じられなかった。  何よりもまず、宇宙船は二つの対抗する党派に分裂した──その一つは船長に率いられ、もう一つは否応なく彼自身に率いられることになった。両者は互いに、よそよそしく礼儀正しい態度をとり、現実に殴りあいがあったわけではなかった。だが、ある方面では、いまや自殺狂フロイド≠ニいうあだ名をつけられていることを、彼は知ったのである。それは、あまり嬉しい名誉ではなかった。  それでも、何か本質的に不都合な点を、フロイド=ジョルスン作戦に発見できた者はいなかった (この名称も、やはり不当なものだった。彼はジョルスンにいっさいの名誉を与えることを主張した。すると、ミハイロビッチはいった。「責任を分かちあう覚悟がないのかね?」)。  最初のテストは、やや遅まきながらオールド・フェイスフルが夜明けを迎える二〇分先になるはずだった。だが、仮にそれが[#「それが」に傍点]成功して、スミス船長が予言した泥の懸濁液ではなくて、きらめく純粋な水が推薬タンクを満たしはじめたとしても、まだエウロパへの道は開けていなかった。  副次的ではあっても、無視できない要素は、著名な乗客たちの意志だった。  彼らは、二週間以内に帰郷できることを予期していた。いまや予想に反して、またある者は肝をつぶしたが、太陽系の半ばを横切る危険な任務に加わる羽目になったのだ──そして、それが成功したとしても、地球への帰還の日取りは不確定だった。  ウィリスは半狂乱だった。すっかり予定が狂ってしまいそうだった。彼は訴訟に訴えると口走りながら、あちこちとさまよったが、いささかも同情する者はいなかった。  これに対して、グリーンバーグは有頂天になっていた。これで、本物の宇宙空間での活動に返り咲けるのだった! そして、防音にはほど遠い自分の船室で騒々しい作曲に多くの時間を費やしていたミハイロビッチは、これに劣らず喜んでいた。この進路変更が彼に霊感を与えて、新たな創造性の高みに到達させることを、彼は確信していたのである。  マギー・Mは理性的だった。 「これで多くの人命が救えるものなら」彼女は、当てつけるようにウィリスを見ながらいった。「そもそも反対できる者がいるかしら?」  イーヴァ・マーリンは──フロイドは、彼女に事態を説明するのに格別の努力を払い、相手が状況を非常によく理解していることを知った。そして、まったく驚いたことに、ほかには誰もあまり関心を持たないように見える質問を発したのはイーヴァだった。 「エウロパ人が、わたしたちに上陸してほしくなかったら──たとえ友人の救出のためでも?」  フロイドは、あからさまな驚きを見せて彼女を眺めた。いまになっても、彼はまだ相手を本物の人間として認めることに困難を感じており、彼女がいつ何かの才気に満ちた洞察を見せるか、それとも底抜けの愚鈍さを見せるかは、予測がつかなかったのだ。 「それは非常にいい質問だよ、イーヴァ。本当のことだが、わたしは、そのことで努力しているんだよ」  それは真実だった。  イーヴァ・マーリンに嘘をつくことはできなかった。それは、なんとなく冒涜的な行為に思えたのである。  最初の一筋の水蒸気が、間欠泉の開口部の上に現われた。それは、真空に異様な経路を描きながら、上へ噴出して昇ってゆき、激しい太陽光線のなかでたちまち蒸発した。  オールド・フェイスフルが、また咳払いをした。雪白の──また驚くほど密集した──氷の結晶と水滴の柱が、見る間に空へ立ち昇った。誰もが持つ地球的な本能は、それが崩れて落下することを予期したが、もちろん、そうはならなかった。それは、さらに上へ昇りつづけ、わずかに拡がっただけで、しまいには、いまなお膨張を続ける彗星のコーマを構成する広大な輝く覆いに溶けこんでいった。  フロイドは、液体が流れこむにつれて、パイプラインが振勤しはじめるのに気がついて満足だった。  一〇分後、ブリッジで作戦会議が開かれた。まだ腹を立てているスミス船長は、かすかにうなずいてフロイドの存在を認知した。いっさいの発言を行なったのは、当惑した様子の首席宇宙士だった。 「さて、あれは意外なほどの効率で成功した。この速度でゆけば、二〇時間でタンクを満たすことができるだろう──もっとも、パイプをもっとしっかり固定する必要があるかもしれないがね」 「泥はどうかな?」  二等宇宙士が、無色の液体を入れた透明な絞り出しバルブを差し上げた。 「フィルターが、数ミクロンまで何もかも除去しました。安全を期するために、一つのタンクからもう一つのタンクへと循環させて、フィルターを二回通すことにします。火星を通過するまでは、残念ながら水泳プールは、お休みになるでしょう」  それは切実に必要としていた笑いを誘い、船長でさえ、いくらか緊張を緩めた。 「最低の推力でエンジンを稼動させ、ハレー彗星の水によって操作上の異常が何も出ないことを確認します。何かがおこれば、このアイデアをすっかり放棄して、アリスタルコス本船渡しの古き良き月の水を使って帰郷の途につきます」  みんなが、申し合わせたように誰かが発言するのを待つ、例の集団的沈黙≠フ状態が続いた。それから、スミス船長が気まずい沈黙を破った。 「みんなが知ってのとおり」彼はいった。「わたしは、そもそものアイデアに非常に不満である。それどころか──」  彼は急に話を変えた。彼がサー・ローレンスに辞表を送りつけることを考慮していたというのも、やはり周知の事実だった。もっとも、この状況にあっては、いささか無意味な意思表示だったろうが。 「だが、この数時間のうちに、いくつかのことがおこった。オーナーは、この計画に賛成した──われわれのテストで、何か根本的な反対理由が生じなければだ。それから──これは実に意外であり、そのことについて諸君以上には何も知らないのだが──世界宇宙評議会は進路変更を許可したばかりか、そうするように要請[#「要請」に傍点]してきて、そのための経費のいっさいを負担するといっている。理由は、わたしにもわからん。  だが、わたしには、まだ心配が一つある──」  彼は、いまへイウッド・フロイドが光にかざしながら軽く揺すっている小さなバルブに入った水を、疑わしげに眺めた。 「わたしは技術屋であって、化学のことなぞ知らん。その物質はきれいに見える[#「見える」に傍点]──しかし、タンクの内張りに影響は出ないだろうか?」  そんな振舞いをなぜしたのか、フロイドは自分でもわからなかった。そんな無分別は、まるで彼に似合わないことだった。ことによると、こんな論議にじりじりして、早く仕事に取りかかりたかっただけかもしれない。それとも、ことによると、船長の道義心を少し刺激する必要を感じたのかもしれない。  彼は素早い動作で留めコックを弾きとばすと、ハレー彗星の約二〇ccを喉に流しこんだのである。 「これが答だよ、船長」それを飲みくだしてから、彼はいった。 「それにしても、あれは[#「あれは」に傍点]」半時間後に船医がいった。「これまでに見たこともないほど愚かしい実演でしたな。あれにはシアン化物、シアン、そのほか何が含まれているかわからんことを、知らなかったのですか?」 「もちろん、知っていたさ」  フロイドは声をあげて笑った。 「分析結果は見たよ──ほんの数ppmだ。心配するほどのものではない。だが、実は意外なことがあるのだよ」彼は沈んだ声でいった。 「なんです、それは?」 「もし、この物質を地球に運ぶことができれば、これをハレー彗星特製の下剤として売って、ひと財産つくれるんだがね」 [#改ページ]      34 洗  車  こうして態度を決したいま、ユニバース号船内の空気は一変していた。もう論争はなかった。誰もが最大限に協力し、それから中心核が二回の自転を終わるあいだは──地球時間にして一〇〇時間だったが──ほとんどの者が不眠不休に近かった。  最初のハレー彗星の一日は、まだかなり用心深いオールド・フェイスフルからの汲み出しに当てられたが、日没が近づいて間欠泉の活動が衰えたときには、この技法を徹底的にマスターしていた。一〇〇〇トン以上の水が船内に取りこまれていた。残りの分のためには、次の昼間の期間で充分なはずだった。  へイウッド・フロイドは、図に乗るまいとして、船長の邪魔をしないように気をつかっていた。いずれにせよ、スミス船長には、処理しなければならない無数の雑務が控えていた。しかし、新しい軌道の計算は、それには含まれていなかった。それは地球で、繰り返し点検されていたのである。  いまや、この考えがすばらしかったことには疑問の余地がなく、ジョルスンが主張した以上の節約をもたらしていた。  ハレー彗星で燃料補給をすることによって、地球とのランデブーを含む二つの大きな軌道変更の必要がユニバース号から除かれた。これで、最大限の加速のもとにまっすぐ目的地に向かって、何週間もの節約をすることができた。危険の可能性はあるにもかかわらず、この構想を誰もが称賛していた。  まあ、ほとんど誰もが、ということだが。  地球では、にわかに組織された〈ハレー彗星から手を引け!〉協会が憤慨していた。その会員たちは(たった二三六人だが、人目を惹く手段は心得ていた)、人命救出のためであっても、天体からの略奪が正当化されるとは考えなかった。どうせ彗星が失うはずの物質をユニバース号が借用するだけだと指摘されても、納得しようとはしなかった。これは物事の原則なのだ、と彼らは主張した。彼らの怒りに満ちたコミュニケは、ユニバース号の船内に、おおいに必要だった軽い息抜きを提供した。  スミス船長は、相変わらず慎重な態度をとりながら、姿勢制御推進エンジンの一つで最初の低出力テストを行なった。これが使えなくなっても、宇宙船は充分にやってゆけるのだった。  異常はなかった。エンジンは、月面鉱床からの上等な蒸留水で稼動しているのと少しも変わりなく振舞った。  それから彼は、中央二号主エンジンをテストした。たとえこれが損傷しても、操縦性に支障はなく──全推力が落ちるだけのはずだった。それでも、宇宙船は完全な操縦性を保ってはいるものの、残りの四基の側エンジンだけでは、最高時の加速が二〇パーセント減になることだろう。  やはり、何も問題はなかった。懐疑論者たちまでへイウッド・フロイドに挨拶するようになりはじめ、いまではジョルスン二等宇宙士も村八分ではなくなっていた。  発進は、オールド・フェイスフルの活動が衰えはじめる直前の午後遅い時刻に予定された(これが七六年先にも残っていて、次の訪問者を迎えてくれるだろうか、とフロイドは思った。おそらく、そうなるだろう。一九一〇年当時の写真にさえ、それが存在するかすかな徴候が写っていたのだった)。  旧時代の劇的なケープカナベラル・スタイルでの秒読みはなかった。万事が整頓されていることを充分に納得すると、スミス船長は一号エンジンにわずか五トンの推力を加え、ユニバース号は彗星の核からゆっくりと上へ遠ざかった。  加速は控え目だったが、花火のような輝きが華麗に空を彩った──見物人の大部分が、まったく予期しなかったものだった。それまでのところ、主エンジンからのジェットは、もっぱら高度に電離した酸素と水素からなっていて、ほとんど目には見えなかった。そのガスが──数百キロメートル離れて──化学的に結合するほど冷却したときでさえ、その反応は可視スペクトルの光を出さなかったから、やはり何も見えなかった。  だが、いまユニバース号は、見ていられないほど明るい白熱した円柱に乗って、ハレー彗星から上昇していた。それは、まるで固体の炎の柱のように見えた。その炎が地面に当たったところでは、岩が四方へ飛び散った。永遠の別れに当たって、ユニバース号は、宇宙の落書きさながらに、ハレー彗星核に自分の署名を彫りこんだのだった。  目に見える支えなしに宇宙空間へ昇るのに慣れた乗客の大部分は、かなりの衝撃を受けた。  フロイドは、お定まりの解説を待った。彼のささやかな楽しみの一つは、ウィリスがする何かの科学上の間違いを見つけることだったが、それはめったにおこらなかった。また、それをやった場合でさえ、ウィリスは必ず何か非常にもっともらしい口実を用意していた。 「炭素だよ」彼はいった。「白熱した炭素だ──蝋燭の炎の中と同じことだ──ただ、いくらか高温だがね」 「いくらか、ね」フロイドがつぶやいた。 「そういういい方を許してもらえれば──」  ウィリスは肩をすくめた。 「──いまはもう純粋な水を燃やしているのではない。慎重に濾過されてはいるが、そこにはコロイド状の炭素が大量に含まれている。蒸留によってしか除去されない化合物もな」 「見事なものだが、ちょっと心配になるな」グリーンバーグがいった。「あれだけの放射線──エンジンに影響したり、船体をひどく過熱したりしないだろうか?」  それは非常にいい質問であり、多少の不安をおこさせた。フロイドはウィリスが応対するのを待った。だが、この要領のいい男は、抜け目なくボールを投げ返してよこした。 「それは、フロイド博士に答えてもらいたいな──なにしろ、これは彼のアイデアなんだから」 「ジョルスンの考えだよ。それでも、いい質問だな。しかし、本質的な問題ではないのだよ。推力全開になったときには、あれらの花火は一〇〇〇キロメートルも後方に離れてしまうだろう。あれを心配する必要はなくなるな」  いま宇宙船は、核から約二キロメートルの上空に浮かんでいた。まぶしい排気の輝きがなければ、太陽に照らされた小天体の面が、下界に拡がるはずだった。  この高度──または距離──では、オールド・フェイスフルからの円柱はわずかに拡がっていた。それはジュネーブ湖を飾る巨大な噴水の一つに似ていることに、フロイドは不意に気がついた。それらは、もう五〇年も見ておらず、まだいまも残っているのだろうかと思った。  スミス船長は操縦装置をテストし、船体をゆっくり回転させてから、それをY軸とZ軸に沿って上下左右に揺れさせた。いっさいが申し分なく機能しているようだった。 「発進時間まで、あと一〇分」と彼は通告した。「五〇時間にわたり〇・一G、次に方向転換点まで〇・二G──現時点から一五〇時間」  彼は黙りこんで、その数字がみんなの胸に滲みこむのを待った。それだけの長期にわたって、こんなに大きな加速を連続的に維持した宇宙船は、かつてなかったのである。ユニバース号が、適切に制動できなかったら、最初の恒星間有人宇宙船としても歴史に残ることだろう。  いま宇宙船は、水平方向──この無重力に近い環境で、そういう表現が使えるとすればだが──をとるように回転して、いまなお絶えず彗星から噴出している霧と氷の白い円柱を直接に指していた。ユニバース号は、そちらへ動きはじめた──。 「彼は何をしているんだね?」ミハイロビッチが心配そうにいった。  そういう質問を明らかに予期していた船長は、再び言葉を続けた。すっかり機嫌を直したらしく、その声には楽しそうな気配さえ漂っていた。 「出発する前に、一つだけ小さな用件がある。心配しないでもよろしい──自分のやっていることは承知している。それに、首席宇宙士も同意している──そうだね?」 「はい──初めは冗談かと思いましたが」 「ブリッジでは、どういうことになってるんだね?」今度ばかりは途方に暮れて、ウィリスが訊ねた。  いまや宇宙船は、間欠泉に向かって速い歩行ほどの速度で近づきながら、ゆっくりと横に回転しはじめていた。このわずか一〇〇メートルの距離から見ると、フロイドには、いっそうジュネーブの噴水という印象が強まった。  まさか、あそこに突っこむつもりでは──。  ──だが、そうだったのだ。上昇する泡立つ円柱に頭を突っこみながら、ユニバース号は軽く震動した。いまも、まるで巨大な間欠泉をえぐり技くかのように、非常にゆっくりと横転していた。テレビ・モニターや展望窓に映るものは、乳色の空白だけだった。  その行動が完了するまでに、一〇秒以上かかったとは思えなかった。それから、宇宙船は反対側に抜けた。  ブリッジにいる宇宙士たちから、いっせいに短い拍手がおこった。しかし、乗客たちは──フロイドも含めて──まだなんとなく、いっぱい食わされた気分だった。 「これで、出発の準備はできた」すっかり満足した口調で、船長がいった。「また清潔で立派な船体に戻ったぞ」  それから半時間というもの、地球と火星にいる一万人以上のアマチュア観測者は、彗星が明るさを倍加したと報告した。彗星観測ネットワークは過負荷によって完全に故障し、天文学の専門家たちは卒中をおこしそうになった。  だが、一般大衆は大喜びだったし、数日後になると、ユニバース号は、夜明けの数時間前に、もっとすばらしいショーを見せた。  一時間ごとに毎時一万キロメートル以上の速度を増す宇宙船は、いまや金星の軌道の遙か内側に入っていた。なおも太陽に──どんな自然の天体よりも遙かに速く──近づいてから近日点を通過し、それからルシファーへ向かうのだった。  地球と太陽のあいだを通過したとき、一〇〇〇キロメートルの白熱した炭素の尾は、四等星の明るさとなって容易に見ることができ、明け方の空の星座を背景として、ただ一時間のあいだにさえ感知できるほどの動きを見せた。  その救出任務の最初にあたって、ユニバース号は、世界の歴史のどんな人工物も及ばないほど、多くの人々に同時に目撃されることになったのである。 [#改ページ]      35 漂  流  姉妹船ユニバース号が向かっている──そして、どんな夢のような願望よりも遙かに早く到着するかもしれない──という知らせがギャラクシー号乗組員の士気に及ぼした効果は、幸福感としか呼びようのないものだった。未知の怪物に囲まれながら、異郷の海洋に頼りなく漂流しているという事実などは、にわかに重要性を失うかに思えた。  それは怪物自身も同じだった。それでも、彼らはときどき姿を見せて、みんなの興味をそそった。巨大な鮫≠ヘ時おり目撃されたが、屑物が船外に捨てられても、宇宙船の近くには絶対に来なかった。  これは、実に驚くべきことだった。この巨大な動物が──地球の同類とは違って──優秀な通信システムを持つことを、強く示唆していた。ことによると、彼らは鮫よりもイルカに近縁なのかもしれなかった。  地球の市場では目もくれないような小さな魚が、多数の群れをつくっていた。何度か試みた末、釣り自慢の宇宙士の一人が、餌をつけない針で、なんとか一匹を釣りあげた。エアロックの中へは持ちこまなかったが──どうせ、船長が許すわけがなかった──海へ戻す前に、彼は入念に大きさを測って写真を撮った。  しかし、得意になった釣り師は、この記念品の代価を支払わねばならなかった。彼が釣りのあいだに着ていた部分的与圧服には、船内に持ち帰ったとき硫化水素の特徴的な腐った卵の悪臭があり、彼は無数のジョークの的にされたのだった。それは、異質であり容赦なく敵対的な生化学を、改めて痛感させるものだった。  科学者たちの懇願も空しく、その後の釣りは許可されなかった。観察と記録はいいが、採集は駄目だった。それに、誰かが指摘したことだが、いずれにせよ彼らは惑星地質学者であって、博物学者ではなかったのだ。誰もフォルマリンを持ってくることを思いつかなかった──たぶん、どうせここでは役に立たなかったろうが。  あるとき宇宙船は、何か鮮緑色のものからなるマットかシートの中を、数時間にわたって漂流した。それは、さしわたし約一〇メートルの楕円形をつくっていて、ほぼ同じ大きさだった。その中をギャラクシー号が抵抗もなく突き抜けると、それらは後方ですぐに合体した。なんらかの群体生物だろうと推測された。  そして、ある朝、当直の宇宙士は水中から突き出た潜望鏡に仰天させられたが、それから我に返ると、彼は穏やかな青い目を見つめているのに気がついた。冷静さを取り戻した彼の言によれば、病気の牝牛のような目だった。それは、さして興味を示すこともなく、悲しげに彼をしばらく見ていてから、ゆっくりと海の中に戻っていった。  ここでは、あまり動作の速いものはいないらしかったが、その理由は明らかだった。ここはまだ低エネルギーの世界なのだ──遊離の酸素などはなかった。地球では、それが一連の連続的な爆発を行なって、動物が誕生して呼吸を始めた瞬間から生きることを可能にするのだったが。最初に出会った鮫≠セけが──最後の断末魔の発作として──いくらかでも急激な活動の徴候を見せたのだった。  たぶんそれは、人間たちには吉報だったろう。邪魔な宇宙服を着ていてさえ、彼らを捕まえられるものは──たとえその気があったとしても──おそらくエウロパにはいないのだった。  ラプラス船長は、宇宙船の操作をパーサーに委譲したことに、ほろ苦いおかしさを感じていた。こうした状況は、宇宙と海の記録に前例のないものだろうか、と彼は思った。  といっても、ミスター・リーにできることが、どっさりあったわけではないのだが。ギャラクシー号は、三分の一を水の外に出しながら垂直に浮かんだまま、間断なく五ノットで吹く風のために、いくらか横へ傾いていた。喫水線の下にある漏れ口はわずかであって、容易に処理することができた。それに劣らず重要なことは、船体がいまだに気密性を保っていることだった。  航行用の装備の大半は役に立たなかったが、自分たちの位置は正確にわかっていた。一時間ごとに、彼らの非常用ビーコンに対する精密な測定値をガニメデが知らせてくれており、ギャラクシー号が現在の針路を保つとすれば、あと三日以内で大きな島が見えるはずだった。それを逃せば、外洋へ進んでいって、最終的には生ぬるく沸騰するルシファー直下の地帯に到達することになる。それは必ずしも破局的な結末ではないが、まことに歓迎できない成り行きだった。  リー船長代理は、それを避ける手段を考えるために、多くの時間を費やした。  帆を使っても──適当な材料や索具があったとしてだが──ほとんど針路は変わらないだろう。彼は間に合わせの海錨を五〇〇メートルまで降ろして、利用できそうな海流を探したが、ひとつも見つからなかった。海底にも届かなかった。それは何キロメートルとも知れぬ深さにあったのである。  あるいは、それでよかったのかもしれない。おかげで、この生まれたばかりの海洋を絶えず揺り動かす海底地震から守られていたのだ。ときとして、衝撃波が高速度で通過すると、ギャラクシー号は巨大なハンマーでなぐられたように震動した。それから数時間して、高さ数十メートルもの津波が、どこかのエウロパの海岸を襲うはずだった。だが、ここの深い海では、その恐るべき波も、さざ波を立てるにすぎなかった。  何度か、突然の渦巻が遠くに目撃された。ひどく危険そうに見えた──ギャラクシー号を底知れぬ深みに吸いこみさえするかもしれない大渦巻──だが、幸いにも、それらは遙かな遠くにあって、宇宙船を水中で何回か回転させるにとどまった。  そして一度だけ、巨大なガスの泡が浮かびあがり、つい一〇〇メートル先で破裂した。それは、まことに壮観であって、「あれを嗅がずにすむのは、ありがたいことだ」という船医の心の底からの感想に、誰もが賛成したのだった。  このうえもなく異様な状況でも、たちまち日常的なものになるのは、驚くべきことである。  数日のうちに、ギャラクシー号船内の生活は単調な日課となり、ラプラス船長の主たる頭痛のたねは、どうすれば乗組員の暇な時間をなくしておけるかだった。怠惰ほど士気を衰えさせるものはなかったから、古い時代の帆船の船長は、どうやって長い航海のあいだ部下たちを忙しくさせていたのだろうかと、彼は思った。四六時中、索具をよじのぽったり、デッキを洗ったりしていたわけはないのだ。  科学者に対しては、その逆の問題があった。彼らは絶えずテストや実験を提案し、それを承認する前に慎重な考慮を払わなければならなかった。また、それを許せば、彼らは、いまやきわめて制約された宇宙船の通信回線を独占するだろう。  主要アンテナ集合体は、いま喫水線で波にたたかれており、もはやギャラクシー号は、地球と直接に話すことができなかった。惨めな数メガヘルツの帯域幅を使って、いっさいがガニメデで中継される必要があった。  生き残った唯一のテレビ回線は何よりも優先され、彼は地球のネットワークからの抗議に抵抗しなければならなかった。といっても、広々とした海、窮屈な船内、元気いっぱいではあるがしだいに毛が伸びてくる乗組員のほかは、たいして視聴者に見せるものはなかったのだが。  異常な量の通信がフロイド二等宇宙士に向けられているように思えたし、暗号にした彼の返事は非常に短くて、あまり多くの情報を含んでいるはずはなかった。  しまいにラプラス船長は、この若者と話すことに決めた。 「ミスター・フロイド」他人に邪魔されない自分の船室で、彼はいった。「きみのパートタイムの仕事について教えてくれれば、ありがたいのだがね」  フロイドは当惑した様子で、突風で宇宙船が少し揺れると、テーブルを掴んだ。 「そうしたいのはやまやまですが、許されていないのです」 「誰からだ、と聞いてもいいかね?」 「率直にいって、はっきりしないのです」  それはまったくの真実だった。  宇宙刑事警察機構《アストロポル》だろうと思ってはいたが、ガニメデで彼に状況説明をした物静かで威厳のある二人の紳士は、その情報を不思議にも提供しなかったのである。 「この宇宙船の船長として──とくに[#「とくに」に傍点]目下の状況にあっては──船内で何がおこっているかを知りたいのだよ。ここから抜け出せたとすれば、これからの人生の何年かを、わたしは特別審査裁判所で過ごすことになる。また、おそらくきみも同じことになるだろう」  フロイドは、かすかに苦笑いを浮かべた。 「救出されるだけの価値があるとは、とてもいえませんね。わたしの知っていることといえば、どこかの高いレベルにある機関が、この探査計画で事件発生を予想したが、それがどんな形をとるかは知らなかった、ということだけです。わたしがいわれたのは、油断なく見張っているようにということに尽きます。残念ながら、あまり役には立たなかったようですが、彼らが急場に調達できた適格者は、わたしだけだったのだと思いますよ」 「きみが責任を感じることはないと思うよ。誰に想像できたろう、ロージーが──」  船長は、不意に思いついて、口をつぐんだ。 「ほかの誰かを疑っていたのかね?」  たとえば、このわたしを?″とつけ加えたいところだったが、そうでなくても状況は申し分なく狂っていた。  フロイドは考えこんでいる様子だったが、やがて心を決めたらしかった。 「あるいは、もっと早くお話しすべきだったかもしれませんが、あなたがどれほど忙しいかを存じていたものですから。なんらかの形でファン・デル・ベルク博士が関与していることは間違いありません。いうまでもなく、彼はガニメデの住人です。彼らは奇妙な連中で、わたしには本当のところ理解することができません」  それに、好きになることも、とつけ加えてもよかった。あまりにも排他的で──よそ者には胸襟を開かないのだ。それでも、彼らを責める気には、とてもなれない。新たな荒野を開拓しようとする者は、誰でも似たりよったりだったのかもしれない。 「ファン・デル・ベルクか──うむ。ほかの科学者は、どうなのかね?」 「もちろん、彼らも調査されました。全員が完全に正当であり、誰にも異常なところはありません」  それは、まったくの真実ではなかった。シンプソン博士は、ある時期には少なくとも、厳密に適法であるよりも多くの妻を持っていたし、ヒギンズ博士のところには、きわめて好奇心をそそる書物の多数のコレクションがあった。  どうしてそこまで知らされたのか、フロイド二等宇宙士には見当もつかなかった。たぶん、あの指導者たちは、自分の豊富な知識を彼にひけらかしたかっただけかもしれない。宇宙刑事警察機構《アストロポル》のために(または、なんであるにせよ)働くことは、いくらか役得の楽しみがあるのだと、彼は判断したのだった。 「よろしい」船長は、このアマチュア探偵との会見を終わりながらいった。「だが、本船の安全にかかわるかもしれんことを、何か──どんなことでも──発見したら、ぜひ知らせてほしいがね」  目下の状況では、そんなものがあろうとは、とても想像がつかなかった。これ以上の危険などというものは、なんとなくよけいなものに思えたのである。 [#改ページ]      36 異星の岸辺  その島を視認する二四時間前になっても、ギャラクシー号がそこをそれて、広漠とした中央の海洋に吹き流されるかどうかは、依然として不明のままだった。ガニメデのレーダーが観測した宇宙船の位置は、大きな図表にプロットされて、船内の誰もが一日に何度も心配そうにそれを調べるのだった。  宇宙船が陸地に到達したとしても、困難は始まったばかりかもしれなかった。どこかの都合よく緩やかに傾斜した渚にそっと乗せられる代わりに、岩だらけの海岸でばらばらになるかもしれなかった。  リー船長代理は、これらの可能性を、鋭く意識していた。彼自身も、クルーザーに乗っていたときに、バリ島の沖合で決定的な瞬間にエンジンが故障して、難破したことがあったのだ。危険はほとんどなかったが、さまざまなドラマが繰り拡げられ、その体験を繰り返したいとは思わなかった──ここには救援に来てくれる沿岸警備隊がいないとなれば、なおさらのことだった。  彼らの苦境には、掛け値なしの宇宙的な皮肉がこもっていた。いま彼らが乗船しているのは、これまでに人間がつくった最先端の輸送機関の一つだが──太陽系を横断する能力さえ持っている! ──それなのに、針路を数メートルそらせることさえできないのだ。  とはいっても、彼らも完全に無力というわけではなかった。リーは、まだ何枚かの切り札を持っていたのである。  この急激に湾曲した天体で、その島が最初に見えたときには、わずか五キロメートルの距離しか残っていなかった。恐れていた断崖がないのを見て、リーは心からほっとした。その一方では、願っていた渚の気配もなかった。地質学者たちは、ここに砂を見つけるには数百万年早すぎると、前もって彼に警告していたのである。ゆっくりとすり砕くエウロパのひき臼が、その仕事を果たすには、まだ時間が足りなかったのだ。  リーは、陸地にぶつかることが確実になるとすぐに、着水の直後にわざと水を満たしたギャラクシー号の主要タンクから、排水を行なうように命じた。それからはきわめて不愉快な数時間が続き、少なくとも乗組員の四分の一が、それ以後の推移に関心を持たなくなった。  ギャラクシー号は、ますます激しく震動しながら、どんどん高く水から突き出していった──それから、盛大な飛沫をあげて横倒しになり、邪悪な旧時代にキャッチャーボートが空気を注入して沈まないようにした鯨の死骸のように、水面に横たわった。船体の坐りぐあいを見たリーは、船尾がやや低くなって、船首ブリッジが水面からちょうど出るように、浮力を調整しなおした。  彼が予想したように、ギャラクシー号は向きを変えて、舷側を風に向けた。このとき乗組員の新たな四分の一が能力を喪失したが、この最終幕のために準備した海錨を仕掛けるのに充分なだけの手助けは得られた。それは空箱を縛りあわせてつくった即席の筏にすぎなかったが、その抗力が作用して、近づく陸地へ船体を向けさせた。  いまや彼らは、自分たちが小さな岩塊に覆われて狭く伸びた渚に──じれったいほどの遅さで──進んでいるのを、見ることができた。砂が望めないとすれば、これが最善の代用物だった……。  ギャラクシー号が陸地に乗りあげたとき、早くもブリッジは渚の上に突き出ていたが、ここでリーは最後の切り札を出したのだった。酷使された装置が故障するのを恐れて、試運転は一度しかやっていなかった。  ギャラクシー号は、これを最後に降着装置を出した。下側のパッドが異星の地表に食いこむにつれて、激しい音響と震動がおこった。いまや船体は、この潮汐のない海洋の風と波に対して、しっかりと固定されたのである。  ギャラクシー号が最後の休息の場所を見つけたことは間違いなかった──そして、おそらくは、その乗組員にとっても。 [#改ページ] [#改ページ]  第五部 小惑星を抜けて      37 ス タ ー  いまやユニバース号は非常な速さで動いていたから、もはや太陽系のどんな自然の天体とくらべても、似ても似つかない軌道をとっていた。  太陽に最も近い水星は、近日点で秒速五〇キロメートルをかろうじて超える。ユニバース号は、最初の日のうちに、その速度の二倍に達していた──しかも、数千トンの水を減らしたときにくらべれば、これでも半分の加速度にすぎないのだった。  金星の軌道の内側を通過しているとき、それは数時間のあいだ、あらゆる天体のなかで太陽とルシファーに次ぐ明るさだった。その小さな円盤が肉眼でやっと見えたが、船内の最も強力な望遠鏡を使ってさえ、これという模様は見えなかった。金星はエウロパに劣らぬ頑固さで、その秘密を守っているのだった。  なおも太陽に──水星の軌道のずっと内側に──近づくことによって、ユニバース号は近道をとったばかりか、太陽の重力場による無料の後押しも受けたのだった。自然は常に帳尻を合わせるから、この取引きで太陽は若干の速度を失った。だが、その影響は、数千年も先にならなければ測定できないだろう。  スミス船長は、頑強な反抗のために傷ついた威信をいくらか回復するのに、宇宙船の近日点通過を利用した。 「これでわかったと思いますがね」彼はいった。「いったいどうして宇宙船にオールド・フェイスフルをくぐらせたかということが。あれだけの汚れを船体から洗い落としておかなければ、いまごろは猛烈な過熱状態になっていたはずですよ。それどころか、その負荷を温度制御装置が処理できたかどうかも、怪しいものですな──もうすでに地球レベルの一〇倍になっていますよ」  とてつもなく膨張した太陽を──真っ黒に近いフィルターを通して──眺める乗客たちには、彼の言葉が容易に信じられた。それが正常な大きさに縮まったとき、彼らはみんなほっと安心したのだった──そして、ユニバース号が火星の軌道を横切り、外側へ向かう飛翔の最後の行程に入るにつれて、それは船尾に小さくなりつづけていった。 〈高名な五人〉は、人生の予期せぬ変化に、それぞれ独自の形態をとって、みんな適応していた。ミハイロビッチは、おびただしい数の作曲を騒々しく続けており、食事のときに姿を現わして不道徳なお喋りをし、いあわせる犠牲者の全員、とくにウィリスをからかうのだった。グリーンバーグは、誰にも反対されることなく、自分から名誉乗組員となって、多くの時間をブリッジで過ごした。  マギー・Mは、この状況を悲しくも楽しそうに眺めていた。 「作家たちは」と彼女はいった。「どこかの場所で邪魔されずに──約束もなしに──いられれば、どれだけ多くの仕事ができることかと、口癖のようにいっているわ。灯台と牢屋が彼らの好みの実例よ。ですから、文句はいえないわね──ただし、研究資料を頼んでも、最優先メッセージのために遅れてばかりいるのは困るけれど」  ヴィクター・ウィリスでさえ、いまでは、ほぼ同じ結論に達していた。彼も、雑多な長期的計画に取り組むのに忙しかった。それに、彼が自分の部屋に閉じこもっているのは、もう一つの理由があった。ひげを剃るのを忘れたように見えるまでには、まだ数週間は必要だったのである。  イーヴァ・マーリンは──彼女が快く説明したように──好きな古典の記憶を新たにするために、娯楽センターで毎日何時間も過ごした。ユニバース号の図書室と映写設備が、旅に間に合うように備えつけられたのは、幸運なことだった。まだ相対的にはコレクションが少ないとはいっても、一生の何倍かをかけて見るには充分な量だった。  そこには、映画の曙の時代にいたるまで、視覚芸術の著名な作品のすべてがあった。イーヴァは、その大半を知っており、喜んで自分の知識を分け与えた。  もちろんフロイドは、彼女の話を聞くのが楽しみだった。そのとき、彼女は活気に満ち──偶像ではなくて並みの人間になった。彼女がビデオ映像という人工的な宇宙を通じてのみ現実の世界と接触が保てるというのは、悲しくも魅力的なことだと、彼には思えたのだった。  へイウッド・フロイドの波潤万丈な人生において最も異様な体験の一つは、火星の軌道より外側のどこかで、最初の『風と共に去りぬ』をいっしょに見ながら、イーヴァのすぐ後ろの暗闇に坐っていたことだった。有名な彼女の横顔が、ヴィヴィアン・リーの横顔を背景にしてシルエットをつくり、両者をくらべて見ることのできる瞬間があった──もっとも、一人の女優がもう一人より上だというのは難しかった。どちらも、独自の存在だったのである。  照明が点いたとき、イーヴァが泣いていたのを見て、彼はびっくりした。彼女の手をとって、優しく話しかけた。 「ボニーが死んだときには、わたしも泣いたよ」  イーヴァは、やっとのことで、かすかな笑みを浮かべた。 「本当はヴィヴィアンのために泣いていたのよ」彼女はいった。「わたしたちが再映画化のフィルムを撮影していたとき、彼女については、どっさり読んだわ──とても悲劇的な人生だった。それに、この惑星のあいだで彼女のことを話していると、神経症になったあとで気の毒な彼女をセイロンから連れ戻ったときに、ラリーがいったことを思い出すわ。わたしは遠い宇宙から来た女性と結婚したよ≠チてね」  イーヴァは、しばらく黙りこみ、また涙が(いささか劇的に、とフロイドは思わずにいられなかった)頬を伝った。 「それに、もっと不思議なことがあるわ。彼女は、ちょうど一〇〇年前に、最後の映画に出演したのよ──それが、なんだと思う?」 「いいなさい──また、わたしを驚かせてごらん」 「きっとマギーがびっくりすると思うわ──いつも書くといって脅かしている本を、本当に書いているならね。ヴィヴィアンの人生で最後の映画は、『愚者の船』だったのよ」 [#改ページ]      38 宇宙の氷山  思いがけずも暇を持て余すようになったいま、契約の一部でありながらのびのびになっていたヴィクター・ウィリスとのインタビューに、スミス船長はやっと応じた。ヴィクター自身が延期しつづけていたのだが、それはミハイロビッチが切断手術≠ニ呼ぶのをやめない事柄のせいだった。  社会的イメージを再生できるまでには、まだ何ヵ月もかかるため、彼はついに自分の映像抜きのインタビューを決意したのだった。あとから、地球のスタジオが、録画したショットを使って、でっちあげればいいのだ。  二人は、まだ一部の調度品を取りつけただけの船長の部屋に坐って、どうやらヴィクターの手荷物割当分の多くを占めていたらしい高級ワインを楽しんでいた。あと数時間もしないうちに、ユニバース号は駆動を停止して慣性飛行を始めることになっていたから、ここ数日のあいだ、これが最後のチャンスだった。  ヴィクターは、無重量状態でワインを飲むなどまっぴらだと主張した。貴重な年代物のワインを絞り出しバルブに入れるなど、とんでもないことだった。 「わたしはヴィクター・ウィリス、二〇六一年七月一五日、金曜日、一八三〇、宇宙船ユニバース号の船内です。われわれの旅は、まだ中間点には達しませんが、すでに火星の軌道を遙かに越えて、ほとんど最大速度に近くなっております。ということは、船長?」 「秒速一〇五〇キロメートルです」 「秒速一〇〇〇キロメートル以上──時速四〇〇万キロメートルに近いとは!」  ヴィクター・ウィリスの驚きは、まったく本心からのように聞こえた。彼が船長に負けないほど軌道要素を知っていることは、誰にも想像がつかないだろう。だが、彼の強みの一つは、自分を視聴者の立場に置いて、彼らの知りたいことを予想するだけでなく、その興味をかきたてる能力にあった。 「そのとおりです」船長は穏やかな誇りをもって答えた。「われわれは、この世の初めからのどんな人間とくらべても、二倍の速さで進んでいるのです」  あれは、わたしのいうべき台詞の一つだ、とヴィクターは思った。相手に先を越されるのは、気にくわなかった。だが、優秀なプロである彼は、素早く立ち直った。  鋭い方向性があって自分にしか見えないスクリーンのついた、有名な小さいメモパッドを見る振りをしながら、彼は一呼吸おいた。 「われわれは、一二秒ごとに、地球の直径だけ進んでいます。それでも、木──いや、ルシファーに到達するには、あと一〇日はかかるのです! これで、太陽系の大きさについて、いくらか見当がつくでしょう──さて船長、これは微妙な問題ですが、この一週間というもの、わたしはこれについて、ずっと考えていました」  ああ、やめてくれ、と船長はうめいた。またぞろ、無重量状態でのトイレか! 「いまこの瞬間にも、われわれは小惑星帯の心臓部を突き抜けており──」 (トイレのほうがよかった、とスミス船長は思った) 「──衝突による重大な損傷をこうむった宇宙船は、これまでに一つもありませんが、われわれは非常な危険をおかしているのではありませんか? なにしろ、ビーチボール大のものまで含めて、文字どおり数百万個もの天体があり、この区域の宇宙空間を公転しているのですから。しかも、所在がわかっているのは、数千にすぎませんよ」 「数千ということはない。一万個以上です」 「しかし、われわれの知らないのが、数百万はある」 「それはそうです。だが、それを知った[#「知った」に傍点]としても、あまり役には立ちますまい」 「どういうわけですか?」 「それをどうにかする手段は、何もないのですから」 「どうしてです?」  スミス船長は口をつぐんで慎重に考えた。ウィリスのいうとおりだ──これは確かに微妙な問題なのだ。将来のお客を尻ごみさせるような発言をすれば、本社からひどい叱責をくうだろう。 「まず第一に、宇宙空間は非常に広大なので、この区域でさえ──あなたの言葉を借りれば、この小惑星帯の心臓部でさえ──衝突する確率は無限小です。われわれは、小惑星を一つ、お目にかけたいと思っていました──われわれに可能な最大のものはハヌマンで、さしわたし三〇〇メートルという貧弱なものですがね──しかし、最大限に近づけたとしても二五万キロメートルの距離までです」 「しかし、この辺をうろついている未知の岩層のすべてにくらべれば、ハヌマンは巨大なものです。そのことが心配にはなりませんか?」 「地球で雷にやられる程度の心配ですよ」 「実をいうと、わたしも前に一度、コロラドのパイクス山で、危機一髪のところだったんですがね──稲妻と雷鳴が同時でした。それでも、危険が存在することは、お認めになりましたね──しかも、われわれが進んでいる途方もない速度によって、危険は増大しているんじゃありませんか?」  もちろん、ウィリスには、その答が充分にわかっていた。またもや彼は、刻々と過ぎる一秒ごとに一〇〇〇キロメートルずつ遠ざかってゆく惑星にいる、顔も知らない無数の視聴者の立場に身を置いているのだった。 「数字なしに説明するのは困難ですが」船長はいった(その文句を、どれだけ使ったことだろう。真実でないときでさえも!)。「速度と危険とのあいだには、単純な関係は存在しません。宇宙船の速度では、どんなものに[#「どんなものに」に傍点]ぶつかっても、破局的なことになるでしょう。原子爆弾が爆発したときに、そばに立っていたとしたら、それがキロトン級だろうとメガトン級だろうと、少しの違いもありますまい」  それは必ずしも相手が安心する説明ではなかったが、彼にとっては精いっぱいのところだった。ウィリスが、さらに論旨を進めようとする前に、彼は急いで言葉を続けた。 「それに、われわれが──ええと──多少の余分な危険をおかしているとしても、それには立派な理由があることを、強調させていただきたい。たった一時間の違いが、人命を救うかもしれないのです」 「ええ、われわれ全員が、それを認識していることは間違いありません」ウィリスは口をつぐんだ。 しかも、もちろん、わたしも運命をともにしている≠ニつけ加えようかと思ったが、それはやめにした。それは傲慢に聞こえるかもしれなかった──とはいっても、謙虚さを武器としたことはなかったのだが。  いずれにせよ、不可避の成り行きを手柄にすることはできない。いまや、歩いて帰る決意をしないかぎり、ほかの道を選ぶことは、ほとんどできなかったのだ。 「いまうかがったことから」と彼は続けた。「別の問題が出てきます。ちょうど一世紀半のむかしに、北大西洋で何があったか、ご存じですか?」 「一九一一年にですか?」 「ええ、正確には一九一二年ですが──」  スミス船長は次に来るものを察し、知らない振りをして協力することを拒んだ。 「たぶん、タイタニック号のことだと思いますが」彼はいった。 「そのとおり」雄々しくも失望を隠しながら、ウィリスが答えた。「その類似を認めたのは自分だけと思いこんでいる人々のうち、少なくとも二〇人から指摘されましたよ」 「どんな類似があります? タイタニック号は、単に記録を破ろうとして、受け入れがたい危険をおかしていたのですよ」  もう少しでしかも、充分な救命ボートも積んでいなかった≠ニつけ加えるところだったが、幸いにも宇宙船に唯一のシャトルは五人の乗客を運べるにすぎないことに気がついて、危うく思いとどまった。ウィリスが、その問題を取り上げれば、果てしない釈明が必要になるだろう。 「まあ、その比較はこじつけすぎだと、わたしは思いますがね。ただ、誰もが[#「誰もが」に傍点]指摘する、もう一つの類似点があるんですよ。タイタニック号の最初にして最後の船長の名前を、もしやご存じではありませんか?」 「まるで見当が──」スミス船長はいいかけた。  そのとき、彼は愕然としたのである。 「まさに、そのとおり」ヴィクター・ウィリスがいった。  その微笑は、ほくそ笑みと呼んでは寛大すぎるくらいだった。  スミス船長は、それらのアマチュア好事家たちが相手なら、喜んで一人残らず締め殺したことだろう。しかし、自分にきわめて平凡なイギリス名を残した両親を責めることは、とてもできなかったのである。 [#改ページ]      39 船長のテーブル  地球上の(また地球外の)視聴者が、ユニバース号内でのもっと非公式な論議を楽しめなかったのは、残念なことだった。  いまや船内の生活は落ち着いてきて、変化のない日常的なものになり、若干の定期的な出来事によって区切られていた──そのうちでもきわめて重要にして、もちろん最高に伝統のあるものは、船長のテーブルだった。  ちょうど一八〇〇になると、六人の乗客と五人の非番の宇宙士が、スミス船長と夕食をともにするのだった。いうまでもなく、北大西洋に浮かぶ宮殿の内部で義務づけられたような正装などは必要なかったが、いくらか服装の目先を変える試みは、いつも行なわれていた。  イーヴァは、どうやら無尽蔵の貯えがあるらしく、決まって何か新しいブローチ、リング、ネックレス、ヘアリボン、香水をつけてきた。  駆動中ならば、食事はスープから始まった。しかし、宇宙船が慣性飛行していて無重量状態のときには、オードブルだった。どちらの場合でも、メインコースが出る前に、船長が最新のニュースを報告するか──または、たいていは地球やガニメデからのニュース番組に刺激された最新の噂を打ち消しにかかるのだった。  非難と逆襲が四方に飛び交い、ギャラクシー号のハイジャックを説明するために、まるで奇想天外な仮説が提案された。存在を知られる秘密組織のすべて、また純粋に空想の産物である多くのものが指弾された。しかし、すべての仮説に共通することが一つあった。どれにせよ、もっともらしい動機を示すことができなかったのである。  明らかにされた一つの事実によって、謎は倍加した。宇宙刑事警察機構《アストロポル》の精力的な捜査活動は、故ローズ・マクマホン≠ェ、実はロンドン北部に生まれてロンドン警視庁に採用され──その後、幸先のよいスタートを切りながら、民族主義的な活動の廉をもって免職されたルース・メイスンだという驚くべき事実を立証した。  彼女はアフリカに移住して姿をくらました。明らかに、あの不幸な大陸の政治的地下組織に関与したのである。シャカの名がしばしば言及され、そのつど南アフリカ合衆国によって否定された。  いったい、これらのことがエウロパにどう関係するのかが、テーブルを囲んで果てしなく、また実りもなく論議された──とくに、マギー・Mが、一時はシャカについての小説を、このズールー族の専制君主が抱えていた一〇〇〇人の不幸な妻の一人の観点に立って書こうとしたと告白したときに。だが、この企画の取材が進むにつれて、彼女は反発を感じるようになった。 「シャカを放棄するころには」彼女は苦々しい口調で認めた。「現代のドイツ人がヒトラーに対して持つ感情が、痛いほどわかったわ」  旅が続くにつれて、そうした個人的な打ち明け話は、ますます珍しくなくなった。食事のメインコースが終わると、グループの一人に三〇分の発言権が与えられた。彼らのあいだには、一ダース分の人生にも相当する、しかも多数の天体上での経験が蓄積されていたから、それ以上に適切な食後の談話の材料を見つけることは、とても望めなかった。  いささか意外なことに、いちばん下手な話し手はヴィクター・ウィリスだった。彼は率直にその事実を認めて、理由を説明した。  彼は、弁解ともつかぬ口振りでいった。 「ぼくは、無数の聴衆を前にして演じるのに慣れきっているので、こうした好意的なグループと心を通じあうのは苦手なんだよ」 「もし好意的でなければ、もっとうまくゆくのかね?」いつも協力することに積極的なミハイロビッチが訊ねた。「それなら、用意することは簡単だが」  これに対して、イーヴァは、記憶がすべて芸能人の世界に限定されていたとはいえ、予想外に上手であることがわかった。とくに、彼女がいっしょに仕事をした有名な──また悪名の高い──監督たち、とくにデイビッド・グリフィンの話が得意だった。 「あれは本当のことなの?」明らかにシャカを念頭においたマギー・Mが訊ねた。「彼が女嫌いだったというのは」 「とんでもない」イーヴァが即座に答えた。「俳優[#「俳優」に傍点]を嫌っていただけよ。人間だとは思っていなかったわ」  ミハイロビッチの追憶も、やや限定された領域を占めていた──優秀な交響楽団やバレエ団、有名な指揮者や作曲家、それに彼らの無数な取り巻きたち。だが、舞台裏の陰謀や密通についての愉快な話、初日の舞台の妨害やプリマドンナたちの死闘の噂話を豊富に知っていたから、まるで音楽に無知な聞き手をさえ抱腹絶倒させ、快く時間延長を認められたのである。  異状な出来事を無味乾燥に説明するグリーンバーグ中佐の談話は、これ以上に対照的なものは考えられないほどだった。水星の──相対的に──温暖な南極への着陸は、こと細かに報告されていたから、改めて話すようなことには乏しかった。  誰もが関心を持った質問は今度は、いつ行くのか?≠セった。そのあとには、たいていまた行きたいか?≠ェ続くのだった。 「求められれば、もちろん行くよ」グリーンバーグは答えた。「しかし、どちらかといえば、水星は月のようになると思うんだ。覚えているだろう──われわれは一九六九年に月に着陸した──そして、一生の半分のあいだは、二度とそこに戻っていかなかったんだ。いずれにせよ、水星は月ほど利用価値がない──たぶん、いつかは価値が出るかもしれないがね。あそこには水がない。もちろん、月の上に少しでも見つかったのは、非常に意外なことだった。それとも、月の中に[#「中に」に傍点]というべきかな……。  水星着陸ほど魅力的じゃないが、ぼくはアリスタルコスの〈らば列車〉を創設するという、もっと重要な仕事をやった」 「らば列車だって?」 「うん。大きな赤道発射装置が建造されて、氷をまっすぐに軌道へ打ち揚げはじめるまでは、それを坑口から雨の海宇宙港まで運ぶ必要があった。そのためには、熔岩平原をならして道路をつくり、相当な数のクレバスに橋をかけることになった。それを、われわれは〈氷の道〉と呼んだ──たった三〇〇キロメートルだが、それを建設するのに何人もの犠牲者が出た……。 らば≠ニいうのは、巨大なタイヤと独立の車体懸架装置を持った八輪トラクターだ。これは、それぞれ一〇〇トンの氷を積んだトレーラーを、最高一ダースまで曳いていた。ふつうは夜間に運行した──その期間ならば貨物を遮蔽する必要がなかったんだ。  ぼくも何度か、それを運転した。輸送には約六時間かかった──スピードの記録を破るつもりなどなかったからね──そのあとで氷は、大きな与圧タンクに荷下ろしされて、日の出を待った。それが融けるとすぐ、ポンプで宇宙船に注ぎこまれた。  もちろん、まだ〈氷の道〉は残っているが、いま利用しているのは観光客だけだ。彼らに分別があれば、われわれがやっていたように、夜間にドライブするだろう。まるで夢のような眺めで、ほとんど真上に丸い地球があって、あまり明るいので、めったに自分の照明灯を使うことはなかった。そして、いつでも好きなときに友人たちと話すことができたが、しばしば通話機のスイッチを切って、彼らに無事を知らせるのは自動装置にまかせたもんだ。あの輝く空虚の中で、とにかく独りきりになりたかった──それがまだ残されているあいだに。なぜなら、それが長続きしないことを知っていたからだ。  いま彼らは赤道そのものを取り巻くテラボルト級のクォーク加速装置を建造しており、雨の海と晴の海には、そこらじゅうにドームが建っている。だが、われわれは、アームストロングやオルドリンが見たままの、本物の[#「本物の」に傍点]月の原野を知っているんだ──静の海基地の郵便局で観光客用の葉書が買える以前のね」 [#改ページ]      40 地球の怪物 「……きみが例年の舞踏会に出そこなったのは幸運だった。本当とは思えまいが、去年と同じくらいに、ひどいものだったよ。そして、またしても、わが在住のマストドン、親愛なるミズ・ウィルキンソンは、〇・五Gのダンスフロアだというのに、パートナーの足指を踏み潰してのけたもんだ。  さて、若干の用件だが。きみが数週間ではなく数ヵ月は帰らないとあって、きみのアパートメントを管理部が貪欲に狙っているんだ──よい隣人、ダウンタウンのショッピング区域に近い、晴れた日には地球のすばらしい眺め、その他、その他──きみの帰宅まで転貸を提案している。有利な取引きだと思えるし、きみには多額の貯えができる。保管してほしい手回り品があれば、ぼくたちが預かるから……。  さて、このシャカの件だがね。ぼくたちをからかうのが好きなことは知っているが、率直にいってジェリーもぼくも仰天したよ! なぜマギー・Mが彼を否認したかが、よくわかるな──そうとも、もちろん彼女の『オリンピアの情欲』は読んださ──非常に楽しいが、ぼくたちにとっては男女同権的すぎるな……。  なんという怪物だろう──アフリカのテロリスト集団が彼の名前で呼ばれている理由がわかるよ。自分の戦士が結婚すると、気まぐれに処刑するとは! それから、彼の惨めな帝国にいる気の毒な牝牛を、雌性であるというだけの理由でみな殺しにする! 何よりもひどいのは──彼が発明した、あの恐ろしい槍だよ。ぞっとするような作法だな、それで本式に紹介されなかった人々を突き刺すなんて……。  そして、ぼくたちホモにとっては、なんという恐るべき宣伝効果だろう! もう少しで宗旨変えしたくなるほどだ。ぼくらは、いつも自分たちが優しくて親切だと(もちろん、狂ったように才能があって、芸術的でもあるけれども)主張してきたが、いわゆる〈偉大な戦士〉(人々を殺すことに、偉大なところがありはしないだろうに!)の一部を、きみが垣間見させたいま、ぼくらの仲間を恥ずかしく思いそうになっている……。  なるほど、ぼくらはハドリアヌスとアレキサンダーのことを知っていた──だが、リチャード獅子王とサラディンについては、絶対に知らなかった。また、ジュリアス・シーザーは──彼は両刀使いだったが──アントニオもクレオも求めた。また、フリードリヒ大王は、いくらか埋め合わせる側面を持っている。彼の老バッハに対する扱いを見ろ。  ぼくがジェリーに、少なくともナポレオンは例外だと──彼の責任まで負わされることはないといったら──彼がなんといったと思う? ジョゼフィーヌが本当は男の子だというのに賭ける≠セとさ。こいつをイーヴァに試してごらん。  ぼくたちの士気を阻喪させたな、この悪党め、あの血まみれの筆で、ぼくらにタールを塗って(混喩を許してくれよ)。ぼくらを、知らぬが仏のままにすべきだった……。  にもかかわらず、ぼくらは、きみに愛情を捧げるし、セバスチャンも同じくだ。エウロパ人に会ったら、よろしくいってくれ。ギャラクシー号の報告から判断すると、彼らのなかには、ミズ・ウィルキンソンにぴったりのパートナーがいるようだ」 [#改ページ]      41 一〇〇歳人の回想録  へイウッド・フロイド博士は、木星への最初の飛行、また一〇年後のルシファーへの二回目の飛行について語るのを好まなかった。  何もかも遠いむかしのことだ──しかも、議会の委員会、宇宙評議会の委員会、ヴィクター・ウィリスのようなマスコミ関係者を前にして、一〇〇回も繰り返さなかったことなど、もう残ってはいなかった。  それでも、仲間の乗客への義務があり、それを免れることはできなかった。新しい太陽──また新しい太陽系──の誕生を目撃した唯一の生き証人として、いまや彼らが急速に近づいている天体に関して、何か特別な理解を期待されていた。それは的はずれな想定だった。そこにいて一世代以上も仕事をしてきた科学者や技術者にくらべれば、彼がガリレオ衛星について話せることは、遙かに限られていた。 本当のところ[#「本当のところ」に傍点]、エウロパは(ガニメデは、イオは、カリストは……)どんな場所か?≠ニ訊ねられると、彼はいくらか無愛想に、宇宙船の図書室で参照できる大部な報告書を引き合いに出すのが習わしだった。  しかし、類例のない体験だったものが一つあった。あのデイビッド・ボーマンが現われたときのことを、あれは本当だったのか、それとも自分はディスカバリー号の船内で眠っていたのかと、あれから半世紀たっても、ときどき思うのだった。宇宙船にも幽霊が出るというほうが、信じやすいような気がして……。  だが、あの空中に浮かぶ細かい塵が集合して、死んで一〇年近い男の亡霊のような像をつくったとき、それが夢だったはずはない。それが警告を与えてくれなければ(唇が少しも動かず、音声はコンソールのスピーカーから聞こえたことを、彼はまざまざと覚えていた)、レオーノフ号や乗組員の全員は、木星の爆発とともに蒸発していたことだろう。 「なぜ彼がそんな行為をしたかだって?」フロイドは、ある食後の談話のときに答えた。「そのことを、五〇年のあいだ考えてきたよ。モノリスを調べるためにディスカバリー号のスペースポッドで出ていったあと何者に変身したにせよ、彼は依然として人類とのなんらかの絆を保っていたにちがいない。まったくの異質な存在ではなかったのだよ。例の軌道爆弾の事件のおかげで、われわれは彼が──短時間だけ──地球に帰還したことを知っている。それに、彼が自分の母親にも以前のガールフレンドにも会いにきたという形跡が非常に濃い。こんなことは、あらゆる情感を捨て去った──その──何かがする行為ではないのだよ」 「いまの[#「いまの」に傍点]彼は、何者だと思うね?」ウィリスが聞いた。「そういえば──彼はどこに[#「どこに」に傍点]いるんだ?」 「ことによると、その最後の質問は無意味かもしれんよ──相手が人間であってもだ。自分の[#「自分の」に傍点]意識がどこに存在するか、きみは知っているかね?」 「抽象的な論議はごめんだよ。どうせ、脳髄のあたりのどこかさ」 「若者だったとき」  どんな真面目な議論も腰砕けにさせる才能を持つミハイロビッチが、ため息をついた。 「わたしのは一メートルほど下にあったよ」 「彼はエウロパにいると考えようよ。あそこにモノリスがあることはわかっているし、なんらかの形でボーマンがあれに関与していることは確かだ──あの警告を彼が取り次いだやり方を見てごらん」 「彼は二つ目の警告も取り次いだと思うかね、近づくなというやつも?」 「われわれは、いまそれを無視しようとしているわけだが──」 「──正当な目的のために──」  ふだんは議論を成り行きにまかせるスミス船長が、珍しく口をはさんだ。 「フロイド博士」彼は考えこみながらいった。「あなたは類い稀れな立場にいるが、われわれは、そのことを活用すべきだと思う。ボーマンは前にも一度、わざわざあなたを助けてくれた。もし彼が、いまでも近くにいるのなら、もう一度それをやる気があるかもしれない。わたしは、例のそこに着陸を企ててはならない≠ニいう命令が、ひどく心配なんだよ。もし彼が、その命令を──たとえば一時的に棚上げにすると──保証してくれるなら、ずっと気が楽になるんだがな」  フロイドが答える前に、テーブルのまわりで何人かが賛意を示した。 「うん、わたしも同じことを考えていた。もうギャラクシー号には、彼が連絡をとろうとする場合に備えて、何事にも──姿が現われたりとかだが──注意するように伝えてある」 「もちろん」イーヴァがいった。「彼はもう死んでいるかもしれないわね──亡霊が死ねるとすればだけど」  これにはミハイロビッチでさえ適切な言葉がなかったが、イーヴァはどうやら、自分の口出しを誰もあまり評価する者がいないと感じたらしかった。  それにひるむことなく、彼女はなおも発言した。 「ねえ、ウッディ」彼女はいった。「率直に電波で彼に話しかけたら、どうなのよ? あれは、そのためにあるんでしょう?」  その考えはフロイドにも浮かんだのだが、それを真剣に考慮するのは、なんとなく幼稚な気がしたのだった。 「やってみよう」彼はいった。「何も不都合はないと思うよ」 [#改ページ]      42 ミ ニ リ ス  今度ばかりはフロイドも、夢を見ていることを疑わなかったが……。  無重量状態でよく眠れたことがなかったし、いまユニバース号は動力を停止して、最高速度で慣性飛行を続けていた。あと二日すれば、一週間近い一様な減速が始まり、莫大な余分の速度を切り捨てて、エウロパとのランデブーができるようになるのだった。  しかし、拘束ベルトをいくら調節しても、いつも強すぎるか緩すぎるかであるように思えた。呼吸が困難になるか──それとも寝棚から漂い出たのに気がつくのだった。  あるときは、空中で目が覚めて、何分間かばたばたしたあげくに、疲れきって、どうにか近くの壁に泳ぎつくことができた。そのときになって初めて、そのまま待っていればよかったのだと思い出した。彼が努力するまでもなく、部屋の通気システムが、いずれは排気格子に引き寄せていてくれたことだろう。経験を積んだ宇宙旅行者として、そのことは充分に心得ていた。純然たる恐怖という以外には、弁解の余地がなかったのである。  だが、今晩は、どうやら何も手落ちはなかった。ことによると、重量が戻ってきたときに、あらためてそれに[#「それに」に傍点]適応するのが困難になるかもしれない。  彼は数分間だけ横になったまま目を覚まして、夕食での最近の議論を反番してから、ぐっすりと眠りこんだ。  夢のなかでは、テーブルを囲む会話が続いていた。若干の些細な変化があったが、彼は驚きもせずに受け入れた。たとえば、ウィリスは元どおりにひげを伸ばしていた──もっとも、顔の片側[#「片側」に傍点]だけだったが。これは何かの研究計画のためだろう、とフロイドは推測した。ただし、その目的を推測するのは困難だった。  どうせ、彼自身が厄介事を抱えていた。この小グループに、やや意外にも加わっているミルスン宇宙局長からの非難に、応戦していたのである。  どうやって彼がユニバース号に乗船したのだろうか、とフロイドは思った(まさか、密航していたのでは?)。ミルスンが死んで少なくとも四〇年になるという事実も、あまり重要とは思えなかった。 「へイウッド」彼の旧敵が発言した。「ホワイトハウスは、非常に当惑している」 「どうしてだか、見当もつきませんな」 「たったいま、きみがエウロパに送った電波によるメッセージだが。あれは国務省の許可を得ているのかね?」 「そんなものが必要だとは思いませんでしたよ。着陸の許しを求めただけです」 「ああ──そこだよ。誰に[#「誰に」に傍点]許しを求めたのかね? われわれは現地の政府を承認しているのか? きわめて逸脱した行為といわねばなるまいな」  ミルスンは、なおも舌打ちをしながら消えていった。これが夢にすぎなくて本当によかったな、とフロイドは思った。  今度はなんだ?  そうか、予想していて当然だったな。やあ、久しぶりだね。きみは、さまざまな大きさで現われるじゃないか? もちろん、TMA1でさえ、わたしの船室には押しこめないからな──それに、ビッグ・ブラザーなら、ユニバース号を楽にひと呑みできるし。  その黒いモノリスは、彼の寝棚からわずか二メートルのところに立って──いや、浮かんでいた。フロイドは、それが通常の墓石と同じ形状であるばかりか、同じ大きさでもあることに気づいて、その認識に不愉快なショックを感じた。その類似をしばしば指摘されてはいたが、いままではスケールの不一致が心理的衝撃を和らげていた。  ここで初めて、その外観が不安を与える──不吉でさえある──ことを感じたのだった。これが夢にすぎないことは知っている──だが、わたしの年齢では、少しでも思い出したくないのだ。  それにしても──ここで何をしている? デイブ・ボーマンのメッセージを持ってきたのか? きみはデイブ・ボーマンなのか?  まあ、本当に返事を予期してはいなかったんだ。この前には、あまり口数が多くなかったろう? だが、きみが近くにいると、いつも何事かおこる。六〇年前のティコでは、あの信号を木星に送って、われわれがきみを掘り出したことを自分の製作者に知らせたな。そして、われわれが一〇年後にそこへ行ったとき、木星に何がおこったかを見ろ!  今度は何を企んでいる? [#改ページ] [#改ページ]  第六部 ヘイブン      43 サルベージ  大地の上にいることに慣れたとき、ラプラス船長や乗組員が直面した最初の仕事は、新しい方位に順応することだった。ギャラクシー号の船内は、何もかも方向が狂っていたのである。  宇宙船は、二つのモードの操作を基本にして設計されている──まったくの無重量状態か、またはエンジンが推進していれば、軸に沿って上下の方向である。いまやギャラクシー号は、ほとんど水平に横たわっており、床がどれも壁に変わっていた。まるで、横倒しになった灯台に住もうとするようなものだった。家具は一つ残らず動かさねばならなかったし、少なくとも五〇パーセントの設備が適切に機能していなかった。  それでも、ある意味で、これは姿を変えた幸運であり、ラプラス船長は、それを最大限に利用した。乗組員はギャラクシー号のインテリアを──配管工事を優先順位として──模様替えするのに忙しくて、士気が衰える怖れはほとんどなかった。船体が気密性を保っており、ミューオン発電機が電力を供給しつづけるかぎり、差し迫った危険はなかった。  とにかく二〇日を生き延びさえすれば、ユニバース号という形で、空から救助の手が届くのだった。エウロパを支配する未知の力が、第二の着陸に異議を唱える可能性を口にしたものは、誰もいなかった。彼らは──みんなの知るかぎりでは──最初の着陸を黙認したのだ。まさか、人道的な行動に干渉するようなことは……。  しかし、いまやエウロパそのものは、あまり協力的ではなくなっていた。ギャラクシー号が外洋を漂流していたときは、この小さな天体を絶えず揺るがせる地震には、ほとんど影響されなかった。だが、あまりにも恒常的な陸地の一部となったいま、宇宙船は数時間ごとに地震動によって揺り動かされていた。もし正常な垂直の姿勢で上陸していたなら、いまごろは間違いなく転倒していたことだろう。  地震は危険よりは不愉快というべきだったが、三三年の東京大地震、四五年のサンフランシスコ大地震を体験した者には、悪夢をおこさせた。それらが完全に予測可能なパターンをとり、イオが内側の軌道を通過する三日半ごとに大きさと頻度がピークに達することを知っても、あまり助けにはならなかった。エウロパ自身の重力による潮汐力が、イオに少なくとも同等の損害を与えていることを知っても、あまり慰めにはならなかった。  六日間の激しい労働のあと、ラプラス船長は、ギャラクシー号が現在の状況で可能なかぎり整頓されたことに満足した。彼は休日を宣言し──乗組員の大半は眠って過ごしたが──それから、衛星における第二週の予定を作成した。  もちろん科学者たちは、まったく思いがけずも入りこんだ新しい天体を探査したがっていた。ガニメデから送信してよこすレーダー地図によれば、この島は長さ一五キロメートル、幅五キロメートルあった。海抜は最高で一〇〇メートルしかなかった──誰かが憂鬱そうに予測したことだが、本格的な大きい津波を避けるのに充分な高さではなかった。  これ以上に陰気で近づきがたい場所を想像するのは難しかった。半世紀にわたってエウロパの弱い風や雨にさらされても、地上の半分を覆う枕状熔岩が砕けたり、凍りついた岩の流れのあいだから突き出した花崗岩の露頭が緩んだりはしていなかった。それでも、いまやここは彼らの住まいであり、そこに名前をつける必要があった。  |死者の国《ハーデース》、焦熱地獄《インフェルノ》、冥府《ヘル》、|煉 獄《バーガトリー》……といった陰鬱で暗い名称は、船長から断固として却下された。彼は、もっと明るいものを望んでいたのだ。  勇敢な敵に捧げられる驚くべき現実離れした手向《たむ》けの名前は、真剣に考慮されたあと、三二対一〇、保留五で否決された。この島は、ローズランド≠ニは呼ばれない[#「呼ばれない」に傍点]ことになったのである。  最後に 港《ヘイブン》 ≠ェ、満場一致で可決された。 [#改ページ]      44 エンデュランス号 「歴史は決して繰り返さない──だが、歴史的状況は再現される」  ガニメデへの日例の報告を作成しながらも、ラプラス船長は、この言葉を噛みしめていた。  それは、いまや毎秒一〇〇〇キロメートル近い速さで接近しつつあるマーガレット・ムバーラが、ユニバース号からの激励のメッセージのなかに引用したものだった──そのメッセージは、彼から仲間の難船者たちに、いそいそと取り次いであった。 「ミス・ムバーラの短い歴史の講義は、士気を昂めるうえにきわめて効果があったと、どうか彼女に伝えてほしい。われわれに送ってくれるのに、あれ以上の言葉は考えられなかったろう……。  壁と床が入れ換わった不便さはあっても、かの旧時代の極地探検家にくらべれば、われわれは贅沢な暮らしをしている。一同のなかには、アーネスト・シャックルトンの名を聞いたことのある者はいても、エンデュランス号の叙事詩的な壮挙など、われわれは知りもしなかった。一年以上も浮氷に閉じこめられ──それから洞穴で南極の冬を過ごし──それから甲板のない小船で一〇〇〇キロメートルの海を渡り、地図にない山脈を越えて、いちばん近い村落にたどりつくとは!  しかも、それは手始めにすぎなかった。とても信じられないのは──また勇気を与えられるのは──その小さな島にいる部下を助け出すために、シャックルトンが四度も戻ってゆき──しかも彼らを一人残らず救出したことだ[#「しかも彼らを一人残らず救出したことだ」に傍点]! あの物語に、どれだけ励まされたかは、想像がつくだろう。次の送信のときには、彼の本をファックスしてもらえないだろうか──みんなが読みたがっている。  そして、そのこと[#「そのこと」に傍点]を聞いたら、彼はどう思うだろうか! 確かに、ああいう旧時代の探検家の誰とくらべても、われわれは遙かに恵まれている。前世紀もかなり遅くなるまで、いったん水平線の向こうに隠れると、残りの人類から完全に遮断されてしまったというのは、信じがたいことのような気がする。友人たちとリアルタイムで話せるほど光が速くないとか──地球から返事が来るのに数時間かかるとか──に文句をいうのは恥じるべきだ……彼らは数ヵ月も──一年近くも──まったく連絡がとれなかったというのに! 重ねて、ムバーラに──われわれの心からの感謝を捧げる。  もちろん、どんな地球の探検家にしても、われわれより非常に有利な点を一つ持っていた。少なくとも彼らは、空気が呼吸できたのだ。こちらの科学者チームは、外に出せと盛んに要求しており、われわれは船外活動のための四個の宇宙服を、六時間用に改造した。これだけの気圧があれば、全身装備は必要ないだろう──胸部で密封すれば充分だ──そこで、宇宙船の見える範囲に留まることを条件に、いちどきに二人が外へ出ることを許すつもりだ。  最後に、本日の気象報告をする。気圧は二五〇ミリバール、気温は二五度で変化なし、西からの突風は風速三〇キロまで、いつものとおり一〇〇パーセントの曇天、地震はリヒターの無制限マグニチュードで一ないし三……。  わかるだろうが、この無制限≠ニいう言葉の感じが、どうも気にくわないんだ──またもやイオが合の位置になろうとしているいまは、とくにそうだが……」 [#改ページ]      45 探 査 飛 行  何人かで揃って会いたいといわれるときは、たいてい悶着か、少なくとも何か困難な決定を意味していた。  ラプラス船長は、フロイドとファン・デル・ベルクが、しばしばチャン二等宇宙士も加わって、しょっちゅう熱心に討議しているのに気がついていたし、彼らが何を話しているかを推察するのは容易なことだった。それでも、彼らの提案は、やはり船長の意表をつくものだった。 「ゼウス山に行きたいだと! どうやってだ──甲板のない小船でか? シャックルトンの本を読んで、頭がおかしくなったか?」  フロイドは、いくらか気恥ずかしそうな顔になった。船長の言葉が図星だった。『南』は、いろいろな意味で刺激になっていたのだ。 「よしんば小船が建造できたとしても、それには時間がかかりすぎると思います……とくに、ユニバース号が一〇日以内に到着しそうだとなれば、なおさらのことです」 「それに、自信もありませんよ」ファン・デル・ベルクが、つけ加えた。「この[#「この」に傍点]ガリレオの海が帆走できるとは。われわれが食えないというメッセージが、ここの住民の全部には伝わっていないかもしれませんからね」 「では、残された道は、一つだけではないのかね? わたしは疑問を持っているが、説得されてみる気はあるよ。試してみろ」 「ミスター・チャンと相談しましたが、彼はできると保証しました。ゼウス山までは、たった三〇〇キロメートルです。シャトルは、あそこまで一時間もかからずに飛べます」 「そして、着陸する場所を見つけるのは? もちろん覚えているだろうが、ミスター・チャンは、ユニバース号のときには、あまり上首尾とはいえなかったぞ」 「何も問題はありません。ウィリアム・ツァン号は、宇宙船のわずか一〇〇分の一の質量です。おそらく、あそこの氷でも支えられたでしょう。われわれは、ビデオの記録に目を通して、一ダースもの適当な着陸地点を見つけました」 「しかも」ファン・デル・ベルクがいった。「操縦士は、ピストルを向けられてはいません。その点は有利かもしれませんよ」 「それは間違いない。だが、大きな難問は、こちら[#「こちら」に傍点]側にあるのだよ。どうやって、シャトルを格納庫から出すつもりだね? クレーンを取りつけられるか? こんな重力でも、相当な荷重になるぞ」 「その必要はありません。ミスター・チャンなら、飛び立たせられます」  ラプラス船長が、見るからに気の進まない様子で、宇宙船の中で[#「中で」に傍点]ロケットモーターを噴射させるという着想を吟味しているあいだ、長い沈黙が続いた。  小さな一〇〇トンのシャトル、ウィリアム・ツァン号は──ビル・Tという通称のほうが馴染みがあったが──もっぱら軌道での作業を目的として設計されていた。通常は格納庫≠ゥら穏やかに押し出されて、母船から充分に離れるまではエンジンを作動させないのだった。 「どうやら、きみたちは考え抜いてあるようだな」船長が不承不承にいった。「だが、発進の角度はどうなる? ユニバース号を回転させて、ビル・Tがまっすぐ上へ飛び上がれるようにしろと、いうんじゃあるまいな? あの格納庫は、片側を途中まで下がったところにある。島に乗り上げたとき、下側でなかったのは幸いだったな」 「発進は、水平に対して、六〇度の角度でせざるをえないでしょう。それは横推進エンジンで操作できます」 「ミスター・チャンがそういうなら、もちろん彼を信じよう。だが、その噴射が、どういう影響を宇宙船に与えるかな?」 「そうですね、格納庫の内部は破壊されるでしょう──でも、どうせ二度とは使わないでしょうから。それに、あそこの隔壁は偶発的な爆発に備えて設計されていますから、ほかの船体を損傷する怖れはありません。万一のことを考えて、消防班を待機させます」  それは、すばらしい考えだった──そのことに疑問の余地はなかった。これが成功すれば、探査計画も完全な失敗ではなくなるだろう。  この一週間のあいだ、ラプラス船長は、この窮境の原因となったゼウス山の謎のことを、ほとんど考えたことはなかった。生き残ることだけが問題だったのだ。だが、いまでは希望が、そして将来を考える余裕が出てきた。この小さな天体が、なぜ多くの陰謀の的であるのかを知るためには、いくらかの危険をおかす価値があるだろう。 [#改ページ]      46 シ ャ ト ル 「記憶を頼りにいえば」アンダースン博士がいった。「ゴダードの最初のロケットは、約五〇メートル飛んだ。ミスター・チャンは、その記録を破るかな?」 「もっと飛ぶさ──さもなければ、みんな[#「みんな」に傍点]にとって厄介なことになるぞ」  科学チームの大多数が展望ラウンジに集まり、宇宙船の船体に沿って、後方を心配そうに見つめていた。格納庫の入口は、この角度からでは見えなかったが、ビル・Tが──もし──出てくれば、すぐに見えることだろう。  秒読みはなかった。チャンは、ゆっくりと時間をかけて、ありとあらゆる点検を行なっていた──そして、好きなときに噴射するだろう。  シャトルは、最小限の質量にまで剥ぎとられて、一〇〇秒間の飛行ができるだけの推薬を積んでいた。万事好調ならば、それで充分なのだ。もし駄目なら、もっと積んでも無駄なばかりか、危険なことになるのだった。 「さあ行くぞ」チャンが、何気ない口ぶりでいった。  まるで手品のようだった。何もかもが、あまりにも速くおこったので、目がだまされたのだ。ビル・Tは水蒸気の雲に包まれたので、格納庫から跳び出すところは誰も見なかった。その雲が晴れると、もうシャトルは、二〇〇メートル離れて着地していた。  安堵の大歓声が、ラウンジを揺るがせた。 「やったぞ!」リー元船長代理がいった。「彼はゴダードの記録を破った──あっさりとな!」  ずんぐりした四本の脚で荒涼たるエウロパの風景のなかに立っているビル・Tは、大型になって優美さの損なわれたアポロ月着陸船のように見えた。しかし、ブリッジから眺めているラプラス船長の頭に浮かんだのは、そんなことではなかった。  むしろ、自分の宇宙船が海岸に打ち上げられた鯨であり、異質の環境で、どうにか難産を終えたかに見えたのだった。彼は、生まれた仔獣が生き延びるようにと願った。  すこぶる多忙な四八時間が過ぎると、ウィリアム・ツァン号は荷物を積みこまれて、島の上空での一〇キロメートル周遊コースでテストされ──出発の準備が整った。まだ、探査計画には充分な時間の余裕が残されていた。最も楽観的な計算によれば、ユニバース号は、あと三日間は到着できないし、ゼウス山への旅は、ファン・デル・ベルク博士の大量な器具を配置することを勘定に入れても、たった六時間を要するだけだった。  チャン二等宇宙士が着陸するやいなや、ラプラス船長は彼を自分の船室に呼んだ。船長は少し落ち着きがないぞ、とチャンは思った。 「よくやったな、ウォルター──しかし、もちろん、きみなら当然のことだが」 「ありがとうございます。それで、何か問題でも?」  船長は微笑した。一心同体になったチームでは、隠し事はできないのだった。 「例によって、本部の口出しさ。きみを失望させたくないが、この飛行をするのはファン・デル・ベルク博士とフロイド二等宇宙士だけにしろ、という命令を受け取っている」 「状況は、わかりましたよ」かすかな苦々しさをこめて、チャンが答えた。「なんと答えました?」 「まだ、何もいってない。だからこそ、きみと話したかったのだよ。この探査飛行が実行できる操縦士はきみしかいないといってやる覚悟は、すっかりできているよ」 「それは嘘っぱちだと、すぐわかるでしょう。フロイドなら、ぼくに劣らず上手にやれますよ。危険は少しもありません──故障は別ですが、これは誰にでもおこることです」 「きみが頑張るなら、それでも喜んで体を張るよ。どうせ、わたしを止めることは誰にもできないんだ──それに、地球に戻れば、われわれ全員が英雄だからな」  チャンは、どうやら何かこみいった計算をしていた。その結果に、いささか満足した顔つきだった。 「数百キロの有効荷重を推薬と交換すれば、新たな興味深い可能性ができますがね。もっと前に申しあげるつもりでしたが、あれだけの余分な道具のほかに[#「ほかに」に傍点]全乗員をビル・Tが運ぶことは、絶対に無理でしたから……」 「いわなくてもいいよ。〈グレート・ウォール〉だな」 「もちろんです。一度か二度の通過をすれば完全な探査ができて、あれの正体がわかりますよ」 「すっかり見当がついていると思っていたし、あのそばに行っていいものかどうか自信がないな。調子に乗りすぎるかもしれんぞ」 「そうかもしれません。でも、ほかにも理由があります。ぼくらの一部にとっては、それ以上に正当な理由が……」 「いってみろ」 「チェン号ですよ。あれは〈ウォール〉からわずか一〇キロメートルです。あそこに花輪を落としたいんです」  部下の宇宙士たちが真面目な顔で議論していたのは、それ[#「それ」に傍点]だったのか。いまさらのように、ラプラス船長は、もう少し北京官話を知っていれば、と思ったのだった。 「わかった」彼は静かにいった。「少し考えさせてくれ──それに、彼らが賛成するかどうか、ファン・デル・ベルクとフロイドに話してみなければ」 「それで、本部は?」 「冗談じゃない。これは、わたしが決めることだ」 [#改ページ]      47 破  片 「急いだほうがいいぞ」ガニメデ本部が勧告した。「次の合では、すごいことになるだろう──ガニメデ[#「ガニメデ」に傍点]が、イオといっしょに地震をおこすことになる。それに、おどかしたくはないが──こっちのレーダーが狂っていないとすれば、きみたちの山は、この前の測定のあとで、また一〇〇メートル沈んだぞ」  その速度でいけば、エウロパは一〇年のうちに、また平坦になってしまうな、とファン・デル・ベルクは思った。ここでは、地球にくらべて、どれだけ速く物事が進行しているんだろう。ここの場所が、地質学者に非常に人気があるのは、それが一つの理由なのだった。  こうしてフロイドのすぐ後ろにある控えの席に体を固定し、自分の装置のコンソールに文字どおり囲まれていると、彼は興奮と残念さが奇妙に入り混じった気持だった。あと数時間で、人生で最大の知的冒険は、どっちにせよ終わってしまう。これに匹敵するようなことは、もう二度とおこらないだろう。  かすかな恐怖もなかった。人間にも機械にも、絶大な信頼を寄せていた。一つだけ思いがけない感情が浮かんだのは、故ローズ・マクマホンに対する皮肉な感謝の思いだった。彼女がいなかったら、こんな機会は絶対に得られなかったろうし、半信半疑のまま墓に入っていたことだろう。  荷物を満載したビル・Tは、離昇に際して、一〇分の一Gをかろうじて切り抜けた。この種の仕事を想定されてはいなかったのだが、貨物を降ろして帰還の旅につくときは、もっとうまくやってのけるだろう。  ギャラクシー号を離れて上昇するのに長い時間を要するかに思え、船体の損傷とか、時おりの穏やかな酸性雨による腐食の跡とかを調べる時間がたっぷりあった。フロイドが離昇の操作に専念しているあいだ、ファン・デル・ベルクは、恵まれた観察者の立場から、船体の状態について即席の報告をした。それが適切な行為だと思えたのである──よしんば、運がよければ、ギャラクシー号が宇宙航行に適する状態であるかどうかは、もうすぐ誰の関心も呼ばなくなるとしてもだった。  いまやへイブンの全島が眼下に拡がっており、ファン・デル・ベルクは、リー船長代理が宇宙船を岸に乗り上げさせたとき、いかに見事な手腕を発揮したかを認識した。それを無事に上陸させられる場所は、わずかしかなかったのだ。非常な幸運も手伝っていたとはいえ、リーは風と海錨を最大限に利用したのだった。  まわりを霧が包んだ。ビル・Tは、抗力を最小にするために半ば弾道軌道を描いて上昇しており、あと二〇分は雲のほかに何も見えないはずだった。  惜しいことだ、とファン・デル・ベルクは思った。あの下界には何か興味深い生き物が泳ぎまわっているにちがいないし、それを見るチャンスは、ほかの誰にも永遠にないかもしれないのに……。 「そろそろエンジンを停止する」フロイドがいった。「万事異常なし」 「いいぞ、ビル・T。その高度を飛行する報告なし。いまでも、滑走路に降りる順番は、きみが先頭だよ」 「あのふざけたやつは誰だい?」ファン・デル・ベルクが訊ねた。 「ロニー・リムさ。信じないかもしれないが、あの滑走路に降りる順番は≠ニいうやつは、遠くアポロまで起源をさかのぼるんだ」  ファン・デル・ベルクは、その理由を理解することができた。おそらく危険で複雑な何かの大仕事の最中に人間があるとき、ちょっとした時たまのユーモアほど──行きすぎでないかぎり──緊張を和らげるものはないのだ。 「ブレーキ開始まで一五分」フロイドがいった。「ほかに誰かが送信しているかどうか、調べてみよう」  彼が自動走査を開始すると、電波スペクトルを急速に上昇してゆくチューナーが一つずつ選別するのに伴う短い中断に区切られながら、連続的なビー、ヒューッという音が小さな船室に反響した。 「そちらの地域的な無線標識とデータ送信だ」フロイドがいった。「もしやと思ったんだが──ああ、これだ!」  それは、かろうじて聞き取れる楽音となって、発狂したソプラノ歌手のように、急激に上下しながらさえずった。フロイドは、周波数計に目を走らせた。 「ドップラー効果は、ほとんどない──宇宙船は、すごい速さで減速している」 「それは、なんだね──文書か?」 「低速度ビデオだと思う。彼らは、適当な位置に来ると、ガニメデの大パラボラを通じて大量の資料を地球に中継している。ネットワークがニュースを欲しがっているんだ」  二人は、その魔力は持つが意味のない音に、何分か耳を傾けた。それから、フロイドがスイッチを切った。  ユニバース号からの送信は、人間の知覚には理解できないものだったが、ただ一つの重要なメッセージを伝えていた。救助の手が近づいており、ここにまもなく到着するのである。  半分は沈黙を埋めるためだったが、本心から興味を持ってもいたので、ファン・デル・ベルクは何気なく口をきった。 「近ごろ、お祖父さんとは、話したことがあるかね?」 話した≠ニいうのは、惑星間の距離が関係する場合には誤った表現だったが、これに代わるべき適切な言葉を提案した者はいなかった。ボイスグラム、オーディオメイル、ボカードなどが短期間だけ流行したが、やがて忘れ去られた。いまになっても、おそらく人類の大部分は、太陽系の広大な空間ではリアルタイムの会話が不可能であることを信じておらず、ときどき憤然とした抗議の声が聞こえてくるのだった。おまえたち科学者は、どうして何かの対策を考えられないのだ≠ニ。 「話したよ」フロイドがいった。「達者でいるし、会えるのが楽しみだ」  その声には、かすかな緊張が感じられた。彼らが最後に会ったのは、いつだろうな、とファン・デル・ベルクは思った。だが、それを訊ねるのは不躾けだろうと気がついた。その代わりに、それからの一〇分間を使って、フロイドといっしょに荷下ろしや据え付けの下稽古をし、着地したときに無用の混乱がないようにした。 ブレーキ開始≠フアラームが鳴ったのは、すでにフロイドがプログラム逐次開始をスタートさせた直後[#「直後」に傍点]だった。自分の身は有能な人間に預けてある、とファン・デル・ベルクは思った。落ち着いて、自分の仕事に専念できるのだ。  カメラは、どこだ? またもや、どこかへ漂っていったんじゃあるまいな──。  雲が晴れかかっていた。その下に何があるかは、レーダーが通常の視覚に劣らぬ鮮明さでディスプレイに出していたにもかかわらず、つい数キロメートル前方に山腹が聳え立つのを見るのは、やはりショックだった。 「あれを見ろ!」不意にフロイドが叫んだ。「左手のほうだ──あの二つの峰のそば──あれ以外、ありえない!」 「間違いなく、きみのいうとおりだ。少しも傷をつけていないと思うな──ただ跳ねを散らかしただけだ。もう一つのは、どこに命中したんだろう1」 「高度一〇〇〇。どの着陸地にする? ここからだと、アルファは、あまり適当とは思えないぞ」 「そのとおりだ──ガンマを当たってみよう。ともかく、山には近い」 「五〇〇。それじゃ、ガンマだ。二〇秒だけ上空に浮かぶ──そこが気に入らなければ、ベータに切り換えよう。四〇〇……三〇〇……二〇〇……(「幸運を祈るぞ、ビル・T」ギャラクシー号が、ぽつりといった)ありがとう、ロニー……一五〇……一〇〇……五〇……これはどうだ? 小さな岩が少しだけ──妙だな──割れたガラスのようなものが、一面に散っているぞ。あそこで誰かが乱痴気騒ぎをやらかしたな……五〇……五〇……ここでいいか?」 「申し分ない。降りよう」 「四〇……三〇……二〇……一〇……考えなおす必要はないね? ……一〇……いくらか塵を吹きとばしている、むかしニールがいったように──それとも、バズかな? ……五……接触したぞ! 簡単じゃないか? どうして、ぼくに給料を払う必要があるんだ?」 [#改ページ]      48 ル ー シ ー 「もしもし、ガニメデ本部。われわれは理想的な着地をした──いや、クリスがやったんだが。何かの変成岩の平坦な表面に──おそらく、われわれがへイブン石と命名したものと同じ擬似花崗岩だと思う。山の麓までは二キロメートルしかないが、これ以上に近づくべき必要は本質的にないということが、もう断言できるよ──。  いま上部宇宙着をつけているところだが、あと五分で荷下ろしを始める。もちろん、モニターは作動させておくし、一五分ごとに連絡をとる。ファン、送信終わり」 「これ以上に近づくべき必要はない≠ニは、どういう意味だ?」フロイドが訊ねた。  ファン・デル・ベルクは、にやりとした。この数分のあいだに、彼は何年も若返って、悩みのない少年に逆戻りしたかのようだった。 「キルクムスピケ」彼は楽しそうにいった。「まわりを見ろ≠ニいうラテン語だよ。まず、大きなカメラを出そう──うわっ!」  ビル・Tは不意に大きく揺れて、しばらくは降着装置の緩衝脚で大きく上下動を繰り返し、その動きが数秒以上も続けば、即席の船酔いをおこさせていたことだろう。 「地震のことは、ガニメデがいったとおりだ」ショックから立ち直ると、フロイドがいった。「何か重大な危険があるかな?」 「たぶん、ないだろう。合までには、まだ三〇時間あるし、ここは一枚の岩盤らしい。だが、ここで無駄な時間は使わないことだpy幸いにも、その必要はなさそうだ。ぼくのマスクはちゃんとなっているか? どうもぴったりしないんだがね」 「バンドをきつく締めてやろう。これでいい。強く息を吸ってみろ──よし、もう大丈夫だ。ぼくが先に外へ出る」  ファン・デル・ベルクは、その最初の小さな一歩を自分で踏みたかったが、フロイドが指揮官であり、ビル・Tに異常がない──そしてただちに発進できる態勢にある──ことを確かめるのは、彼の任務だった。  彼が小さな宇宙船を一度ぐるりとまわって、降着装置を点検してから親指を立てて合図すると、フアン・デル・ベルクは、彼と合流するために、梯子を降りはじめた。へイブンの実地踏査のときに、これと同じ軽量の呼吸用装具をつけたことがあったが、少し窮屈な感じがして、着陸地でひと休みすると、ちょっと具合を直した。それから顔をあげて──フロイドがしていることを見たのである。 「それに触るな!」彼は叫んだ。「危険だぞ!」  フロイドは、調べていたガラス質の岩の破片から、たっぷり一メートルは跳びのいた。それらは、彼の素人目には、ガラス窯からの出来そこないの溶融物に見えた。 「放射性じゃないだろうな?」彼は心配そうに聞いた。 「いいや。しかし、ぼくが行くまで離れているんだ」  フロイドは、ファン・デル・ベルクが厚い手袋をしているのに気がついて、びっくりした。宇宙飛行士であるフロイドは、このエウロパでは大気に素肌を露出しても安全だということに慣れるのに、長い時間が必要だった。ここ以外の太陽系のどこでも──火星でさえ──そんなことは不可能だった。  ファン・デル・ベルクは、きわめて慎重に手を伸ばすと、ガラス状の物質の長い裂片を拾いあげた。それは、この拡散した光のなかでさえ不思議な輝きを放っており、鋭利な刃ができているのがフロイドに見えた。 「既知の宇宙で、もっとも鋭いナイフだ」ファン・デル・ベルクが嬉しそうにいった。 「これだけの思いをしたのは、ナイフ[#「ナイフ」に傍点]を見つけるためだったのか!」  ファン・デル・ベルクは笑いだしたが、マスクをしていては容易なことでなかった。 「それじゃ、これがなんのことか、まだわからないのか?」 「わかっていないのは、ぼくだけらしいと思いはじめたところだよ」  ファン・デル・ベルクは仲間の肩を掴んで、ゼウス山の聳えたつ山塊に向かせた。この距離から見ると、それは空の半ばを覆い隠していた──この天体の全土を通じて、単に最大であるばかりか、唯一の[#「唯一の」に傍点]山だった。 「ほんのしばらく、この眺めを鑑賞していてくれ。重要な通話をしなけりゃならん」  彼はコムセットに一連コードを打ちこむと、〈準備完了〉の表示灯が点くのを待ってからいった。 「ガニメデ本部、ワン、オー、ナイン──こちらはファン。聞こえるか?」  最低の時間遅れがあっただけで、明らかに電子的な音声が返事をした。 「もしもし、ファン。こちらは、ガニメデ本部、ワン、オー、ナイン。受信準備完了」  ファン・デル・ベルクは黙ったまま、死ぬまで忘れられない一瞬を味わった。 「地球、インデント、アンクル、セブン、スリー、セブンに接続してくれ。次のメッセージを中継しろ。ルーシーは、ここにいる。ルーシーは、ここにいる<<bセージ終わり。復唱を頼む」  どういう意味だか知らないが、たぶん彼の通話を止めるべきだったかもしれないな。ガニメデがメッセージを繰り返すのを聞きながら、フロイドは思った。  だが、もう手遅れだった。それは一時間以内に地球に届くだろう。 「こんなことをして、すまなかったな、クリス」ファン・デル・ベルクは、にやりと笑った。「優先権を確保したかったんだよ──ほかの理由もあるがね」 「すぐに話しはじめなければ、この新型のガラス製ナイフで、一寸刻みにしてやるぞ」 「ガラスだなんて、とんでもない! まあ、説明はあとでもいい──このうえもなく魅力的だが、えらくこみいった話なんだ。だから、事実そのものを打ち明けよう。  ゼウス山は、ひと塊りのダイアモンドで、ほぼ一〇〇万トンの一〇〇万倍[#「一〇〇万倍」に傍点]の質量がある。もし、そういう表現をしたければ、およそ二掛ける一〇の一七乗カラットだ。しかし、全部が宝石としての品質を持つかどうかは、保証のかぎりでないがね」 [#改ページ] [#改ページ]  第七部 グレート・ウォール      49 聖  堂  クリス・フロイドは、ビル・Tから装備を下ろして、彼らが着陸した小さな花崗岩の一枚岩の上に据え付けながらも、頭上に聳える山から目を離すのに困難を感じていた。  ひと塊りのダイアモンドだって──エベレストより大きいのに! なんと、シャトルのまわりに散らばった破片は、一〇〇万どころか一〇億の値打ちがあるかもしれんぞ……。  一方からいえば、それらの値打ちは──まあ、割れたガラスのかけら程度かもしれなかった。ダイアモンドの価格は、常に業者や生産者によってコントロールされてきたが、文字どおりの宝石の山が市場に登場すれば、価格は明らかに暴落するだろう。  いまやフロイドは、これほど多くの利害関係者がエウロパを関心の的とした理由を、理解しはじめたのだった。政治的および経済的なからみあいは、果てしないものだった。  少なくとも自分の仮説を証明したいま、ファン・デル・ベルクは真剣で一途な科学者に戻って、これ以上は気を散らされずに実験を完結しようとしていた。フロイドの手助けを得ながら──かさばった設備のいくつかをビル・Tの窮屈な船室から出すのは、容易なことではなかったのだ──彼らは携帯用の電気ドリルで長さ一メートルのコアをえぐりとると、それを慎重にシャトルに運びこんだ。  フロイドなら違う優先順位をつけるところだったが、困難な仕事を先にやるのが理屈にかなっていることは認識した。多数の地震計を並べ、低い頑丈な三脚に全景テレビカメラを据え付けてから、ファン・デル・ベルクはやっと付近に転がっている測りしれない富の一部を集めにかかった。 「どう転んでも」危険の少ない断片の一部を注意深く選り分けながら、彼はいった。「いい記念品にはなるだろう」 「それを奪おうとして、ロージーの友人が、われわれを殺さなければね」  ファン・デル・ベルクは、相手を鋭い目で見た。本当のところ、フロイドは、どこまで知っているのだろうと思った──そして、彼らみんなと同じように、どこまで推測しているのだろうかと。 「秘密が公表されたいま、その甲斐はなかろうよ。およそ一時間もすれば、証券取引所のコンピューターは狂いはじめるだろう」 「この悪党め!」憎悪というより感嘆をこめて、フロイドがいった。「それじゃ、きみのメッセージは、そのためだったのか」 「科学者が、副業として、ささやかな利益を挙げてならないという法律はない──だが、小汚い雑務は、地球にいる友人にまかせてある。正直なところ、ここでやっている仕事のほうに、ずっと興味があるんだ。そのスパナをよこしてくれないか……」  ゼウス・ステーションの設定を終わるまでに、彼らは三度も地震で転がされそうになった。それはまず足もとの震動として感じられ、それから何もかもが揺れはじめた──それから、長びいた恐ろしい唸りが、四方八方から聞こえるような気がした。  それは空中をも伝わり、それがフロイドには何よりも不思議に思えた。自分たちの周囲に充分な大気があって、通信機がなくても短距離の会話が可能だということに、本当に慣れることはできなかったのである。  ファン・デル・ベルクが、まだ地震は少しも心配ないと保証したが、フロイドは専門家をあまり信用すべきでないことを学んでいた。なるほど、この地質学者は、たったいま自分の正しさを劇的に証明したばかりだった。嵐にもまれる船のように緩衝脚を上下するビル・Tを眺めるフロイドは、あと少なくとも数分はファンの幸運が続くことを願った。 「これでよさそうだな」  やっと科学者がいうと、フロイドはほっと安心した。 「ガニメデは、あらゆる回線で良好なデータを得ている。太陽パネルが充電を続けるから、電池は何年でも持つだろう」 「いまから一週間あとで、この装置がまだ立っているとは、とても思えないな。ここに着陸してから、あの山が動いたことは、誓ってもいいぞ──あれが頭の上から倒れてこないうちに、早く出発しよう」 「それより心配なのは」ファン・デル・ベルクが、笑いながらいった。「きみのジェット噴射が、ぼくたちの努力の結果をご破算にすることだよ」 「そんな怖れはない──ずっと離れているし、がらくたを山ほど降ろしたから、飛び上がるのに半分の出力ですむ。あと数十億も積みこもうというなら別だがね。それとも、数兆かな」 「欲張るのはよそうよ。どっちみち、地球に持ち帰ったとき、これにどれだけの価値があるかは、見当もつかないんだ。もちろん、博物館が大部分をさらってゆくだろう。その残りは──わかるもんか」  ギャラクシー号と交信するフロイドの指が、制御パネルの上にひらめいた。 「任務の第一段階が終了。ビル・Tの発進準備よし。飛行計画は打ち合わせのとおり」  ラプラス船長の返事が聞こえても、彼らは驚かなかった。 「先へ進むことに迷いはないかね? 忘れるな、きみたちに最終的な決定権があるのだ。どういう結論になっても、わたしは支持するぞ」 「はい、二人とも満足です。乗組員たちの気持は理解しています。それに、科学への利益は、測りしれないでしょう──二人とも、すっかり興奮しています」 「ちょっと待った──ゼウス山についての報告を、まだ聞いていないぞ!」  フロイドがファン・デル・ベルクを見ると、相手は肩をすくめて、それからマイクを取った。 「船長、いま話したら、われわれの頭がおかしいと思うでしょう──それとも、からかっているんだと。われわれが──証拠を持って──戻るまで、何時間か待ってください」 「うむ。きみたちに命令しても無意味だろうな? ともかく──幸運を祈る。それに、オーナーからもだ──彼は、チェン号を訪ねるのは、すばらしい着想だと思っている」 「サー・ローレンスは賛成すると思っていたよ」フロイドが仲間にいった。「それに、どっちにせよだ──ギャラクシー号が全損と決まっているからには、ビル・Tがそれほど損失を増すことにはならないだろう?」  ファン・デル・ベルクには、彼の観点が理解できたが、それを全面的に支持はしなかった。科学における名声は確立したが、それを楽しむ機会があることを、なおも期待していたのだった。 「ああ──ところで」フロイドがいった。「ルーシーとは何者だね──誰か特定の人なのか?」 「ぼくの知るかぎりでは違うな。彼女にはコンピューター検索のときにぶつかって、この名前が絶好のコード名になると思ったんだ──誰でもこれがルシファーと何か関係があると思うだろうし、それでみごとに迷わされるくらいに、半分は真実なんだ。  ぼくは聞いたことがなかったが、一〇〇年前に、すこぶる奇妙な名前のついたポピュラー・ミュージシャンのグループがあった──ビートルズ──綴りはB−E−A−T−L−E−Sだ──ぼくに理由を聞いても無駄だよ。そして、彼らは、同じくらい奇妙な題名の歌を書いたんだ。〈ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ〉。不思議じゃないかね? まるで彼らが知っていたかのように……」  ガニメデのレーダーによれば、チェン号の残骸は、ゼウス山の西方へ三〇〇キロメートル、いわゆる薄明地帯やその向こうの低温な土地の近くにあった。そこは永遠の寒気に閉ざされていたが、暗くはなかった。一年の半分は遠い太陽に明るく照らされていた。だが、ガニメデの長い太陽日の終わりになっても、温度はなお氷点の遙か下だった。液体の水はルシファーに面する半球にしか存在しないから、中間地帯には絶え間ない嵐が吹き荒れており、雨と霞、みぞれと雪が支配権を争っていた。  チェン号の不幸な着陸から半世紀たって、この宇宙船は一〇〇〇キロメートル近く動いていた。それは──ギャラクシー号のように──新たに出現したガリレオの海を数年のあいだ漂流し、いまの荒涼とした寂しい岸辺に落ち着いたにちがいなかった。  エウロパを横断する二度目の跳躍の終わりに、ビル・Tが水平飛行の姿勢をとるやいなや、フロイドはレーダーのエコーをとらえた。そのシグナルは、これだけ大きな物体にしては、意外なほど弱かった。雲を突き技けたとたんに、その理由がわかった。  人間を乗せて木星の衛星に着陸した最初の乗り物である宇宙船チェン号の残骸は、小さな円形の湖の中央に立っていた──その湖は明らかに人工的なもので、三キロメートル足らずの距離にある海と運河で結ばれていた。骸骨だけが残っていたが、それさえも全部ではなかった。死骸は、きれいに肉をつつき取られていたのである。  しかし、誰がやったのか、とファン・デル・ベルクは思った。ここには、生命の気配は何もなかった。そこの土地は、何年も見捨てられていたように見えた。それでも、何か[#「何か」に傍点]が計画的に、いやそれどころか外科的な精密さで、残骸を裸にしたことを、彼は少しも疑わなかった。 「どうやら、着陸しても安全なようだ」  フロイドはそういって、ファン・デル・ベルクがまるで放心したようにうなずいて賛成するのを、何秒間か待った。早くも地質学者は、見えるものを手当たりしだいにビデオに撮っていた。  ビル・Tは水辺に楽々と降下し、二人は冷たく黒い水の向こうにある、この人間の探究心への記念碑を眺めた。残骸に近づく適当な手段はなさそうだったが、それはどうでもよかった。  彼らは宇宙着をつけると、水ぎわに花輪を運び、それをカメラの前にしばらく厳かに捧げてから、そのギャラクシー号乗組員からの供え物を投げこんだ。  それは、見事につくられていた。利用できる原材料は金属箔、紙、プラスチックだけだったが、その花や葉は、どう見ても本物に思えた。まわり一面に短文や署名がピンで留められ、多くはローマ字ではなくて、古代から伝わりながら、いまや公式には使用されない文字で書かれていた。  ビル・Tに戻りながら、フロイドがしみじみといった。 「気がついたか──ほとんど金属は残っていない。ガラス、プラスチック、合成物質だけだ」 「あの肋材や支え梁は?」 「合成物だよ──ほとんど炭素と棚素《ほうそ》だ。このあたりにいる誰かは、ひどく金属に飢えていて──見れば、それとわかるんだ。おもしろいな……」  まったくだ、とファン・デル・ベルクは思った。火が存在しえない天体では、金属や合金の製造は不可能に近いし──まあ、ダイアモンドのような──貴重品だろう……。  基地に報告して、チャン二等宇宙士やその同僚から感謝のメッセージを受け取ると、フロイドはビル・Tを一〇〇〇メートル上空に上昇させて、西への飛行を続けた。 「最後の行程だ」彼はいった。「これ以上の高度をとるのは無意味だ──向こうには一〇分で着く。だが、着陸はしないつもりだ。グレート・ウォールが、ぼくらの考えているとおりのものなら、着陸はしたくない。素早く接近飛行をしてから、帰還の途につこう。そのカメラを準備しておけよ。これはゼウス山にもまして重要かもしれないぞ」  そしてまもなく、五〇年前に祖父のへイウッドが、ここからあまり遠くない場所で感じたことを、ぼくも知るかもしれないのだ、と彼はつけ加えた。万事順調なら、いまから一週間後に二人が会ったときには、どっさり話すことができるだろう。 [#改ページ]      50 無防備都市  なんという恐ろしい場所だ、とクリス・フロイドは思った。吹きつけるみぞれ、吹雪、ときたまちらりと見える氷の縞が入った風景──なんと、これにくらべれば、へイブンは熱帯の楽園だぞ!  それでも彼は、ほんの一〇〇キロメートル先にある、エウロパの湾曲の向こうの夜側は、それ以上にひどいことを知っていた。  意外にも、目的地に到着する直前に、あたりは突如として完全に晴れあがった。雲が高くなった──そして前方には、高さ一キロメートルに近い巨大な黒い壁が、ビル・Tの飛翔経路を遮って横たわっていたのだ。あまりにも大きいために、明らかに独自のミクロ気象が生まれていた。卓越する風はそのまわりにそらされて、風下には局地的な無風状態の地域が残されていた。  それは即座にモノリスと識別できた。そして、その麓には半球状の数百の構造物が保護され、かつて木星だった太陽からの低くかかる光線を受けて、亡霊のように白く輝いていた。  まるで雪でつくった旧式な蜜蜂の巣のようだ、とフロイドは思った。その外見の何かは、ほかの地球の記憶を呼びおこした。ファン・デル・ベルクが、彼の先手をとった。 「イグルーだ」彼はいった。「同じ課題──同じ解決策。このあたりには、ほかに建築材料はない。岩は別だが──ずっと加工しにくいだろう。それに、弱い重力が助けているにちがいない──あのドームのなかには、非常に大きなものもある。中に誰が住んでいるんだろう……」  まだ遙かに遠くて、この世界の果てにある小さな都市の通りを動くものは、何も見えなかった。そして、近づくにつれて、通りなどはないことがわかった。 「これは、氷でできたベニスだ」フロイドがいった。「イグルーと運河だけしかない」 「両生類さ」ファン・デル・ベルクが答えた。「予想してしかるべきだった。彼らは、どこにいるんだろう」 「ぼくらを恐れて逃げたのかもしれんぞ。ビル・Tは、中にいるより外のほうが、ずっと騒々しいんだ」  しばらくファン・デル・ベルクは、撮影したり、ギャラクシー号に報告したりして、多忙をきわめていた。やがて、彼はいった。 「何かの接触をすることなしには、とても立ち去れないぜ。きみがいったとおりだ──これはゼウス山より遙かに大きな問題だ」 「しかも、もっと危険かもしれん」 「進歩した技術の気配は、何も見えないがな──訂正、あそこにあるのは、古い二〇世紀のレーダー・アンテナのように見えるぞ! もっと近くに寄れるか?」 「そして、狙撃されるのか? 結構だよ。それに、浮揚時間が切れかけている。あと一〇分しかないぞ──帰還したければだがな」 「少なくとも、着陸して見てまわることはできないか? あそこに平らな岩がある。みんなは、どこにいるんだ?」 「怖がっているのさ、ぼくたちみたいに。あと九分。一回だけ町を横切ろう。できるだけのものを撮影しろ──ああ、ギャラクシー号、こちらは大丈夫だ──いまのところ、とにかく忙しい──あとで連絡するよ」 「いま気がついたんだが──あれはレーダーではなくて、同じくらい興味深いものだ。まっすぐにルシファーを向いている──太陽炉なんだ! 太陽が動かない──また火も燃やせない──場所では、まったく理屈に合っている」 「あと八分。みんなが家の中に隠れているのは残念だな」 「それとも、水にもぐっているかだ。あそこの、まわりに広場のある大きな建物が見られないか? あれは公会堂だと思うんだ」  ファン・デル・ベルクは、ほかよりずっと大きく、デザインもまるで違う構造物を指した。特大のパイプオルガンのように、垂直なシリンダーの集合体だった。しかも、イグルーの特徴のない白さとは違って、表面の全体にわたって複雑な斑模様を見せていた。 「エウロパ芸術だ!」ファン・デル・ベルクが叫んだ。「あれは、何かの壁画だぞ! もっと近く、もっと近く! 記録をとらなきゃ!」  フロイドは素直に、低く──低く──低く降下していった。それまでの浮揚時間の制限を、すっかり忘れてしまったようだった。そしてファン・デル・ベルクは、信じがたいものを見るショックを感じながら、彼が着陸しかけていることに突如として気がついた。  科学者は、急速に近づいてくる地面から目をもぎ離して、操縦士に視線を走らせた。  明らかにビル・Tを完全に制御してはいたが、フロイドは催眠術にかかったように見えた。彼は、降下するシャトルのまっすぐ前方にある、一定の点を見つめていた。 「どうしたんだ、クリス?」ファン・デル・ベルクが叫んだ。「自分が何をしているか、わかっているのか?」 「もちろんだ。彼が見えないのか?」 「誰が見えないかって?」 「あの男だよ、いちばん大きなシリンダーのそばに立っている。しかも、彼は呼吸用具をつけていないぞ!」 「馬鹿をいうもんじゃない、クリス! あそこには、誰もいやしないぞ!」 「ぼくらを見上げている。手を振って──見覚えがあるような──まさか!」 「誰もいないぞ──誰も! 上昇しろ!」  フロイドは、彼をまるで無視していた。完全な冷静さと技能で、ビル・Tを理想的な着陸点に誘導し、着地の寸前にモーターを切った。  彼は、計器の読みを徹底的に点検してから、安全装置をセットした。着陸の手順を完了してから初めて、彼は再び展望窓から外を眺めたが、その顔には訝しげだが幸福そうな表情が浮かんでいた。 「こんにちは、祖父さま」  彼は低い声で誰かに呼びかけていたが、ファン・デル・ベルクには見えなかったのである。 [#改ページ]      51 亡  霊  ファン・デル・ベルクは、もっとも恐怖に満ちた悪夢のなかでさえも、一人の狂人だけを道連れに、小さな宇宙カプセルに入って過酷な天体に取り残されるとは、夢にも思っていなかった。  しかし、少なくとも、クリスは暴力的ではないようだった。ことによると、うまく機嫌をとって再びシャトルを発進させ、無事にギャラクシー号まで飛んでゆけるかもしれないが……。  彼はまだ虚空を見つめ、ときどき唇を動かして無言の会話をしていた。異星の町は、依然として少しも人けがなく、もう何世紀も見捨てられているかと思えるほどだった。  だが、そのうちにファン・デル・ベルクは、ついさっきまで住んでいたことをおのずと示す、いくつかの徴候に気がついた。ビル・Tのロケットは、すぐ近辺の薄い雪の層を吹き飛ばしたが、小さな広場の残りは、いまだに軽く粉雪をかぶっていた。それは一冊の書物からちぎられた一ページであり、記号と象形文字に覆われていて、一部は読むことができた。  あっちへ重い物体が曳きずられ──または自力で不器用に進んでいったのだ。いまは閉じられた一つのイグルーの入口からは、見まちがえようもない車輪のついた乗り物の跡があった。あまり遠すぎて細かいことは見えなかったが、小さな物体は捨てられた容器らしかった。たぶん、エウロパ人は、ときによって人間のように不注意なのだろう……。  生命の存在は間違いなく、そこらじゅうに残っていた。ファン・デル・ベルクは、無数の目で──または、ほかの知覚で──監視されているのを感じたが、その背後にある心が友好的か敵対的かを知る方法はなかった。むしろ彼らは無関心で、侵入者が立ち去って、中断された不可思議な用務が続けられるのを、待っているだけかもしれなかった。  そのとき、クリスがまた、何もない空中に向かって口をきいた。 「さようなら、祖父さま」彼は静かに、かすかな悲しみを漂わせながらいった。  ファン・デル・ベルクのほうに向き直った彼は、通常の打ち解けた口調で、つけ加えた。 「彼は、もう行くべきときだといっている。きみはぼくが気が狂ったと思っているんだろうな」  同意しないほうが賢明だと、ファン・デル・ベルクは判断した。どっちみち、すぐに別の心配事が出てきたのだった。  いまフロイドは、ビル・Tのコンピューターが出したリードアウトを、心配そうに見つめていた。やがて彼は、弁解がましい分別くさい口調でいった。 「申し訳ない、ファン。あの着陸で、思ったより燃料を消費した。飛行の予定を変えなくてはなるまい」  あれはぼくらはギャラクシー号に戻れない≠ニいう意味の、かなり遠まわしな表現だな。ファン・デル・ベルクは暗澹たる気分だった。彼は、きみの祖父さまなんぞ、くそくらえ!≠ニいう言葉をやっと押し殺して、「それで、どうする?」とだけいった。  フロイドはチャートを調べていたが、さらに数字を打ちこんだ。 「ここに留まるわけにはゆかない(なんでだ?<tァン・デル・ベルクは思った。どうせ死ぬのなら、残りの時間を、できるだけ学ぶことに使ったらいいじゃないか=j。だから、ぼくらをユニバース号のシャトルが拾いあげやすい場所を見つけねばならない」  ファン・デル・ベルクは、心のなかで大きな安堵のため息を漏らした。それに気がつかなかったとは、なんて間抜けなんだろう。絞首台に曳かれる直前に刑の執行を延期された心境だった。  ユニバース号は、四日以内にエウロパに着くはずだ。ビル・Tの設備は、とても豪華とはいえないが、考えうる別の状況の大半にくらべれば遙かに好ましかった。 「この嫌な天候から逃げ出して──安定した平坦な地面──ギャラクシー号の近くに。もっとも、それがどれだけ役に立つか、わからないが──なんの問題もあるまい。五〇〇キロメートルは動ける──海を横切る危険はおかせないだけだ」  とっさに、ファン・デル・ベルクは、未練がましくゼウス山のことを思った。あそこでやれることが、山ほどあるものを。だが、イオがルシファーと一線に並ぶにつれてしだいにひどくなってゆく地震動を考えれば、それは絶対に不可能だった。  自分の装置は、いまでも作動しているだろうか。この目前の問題が片づきしだい、あらためて点検してみよう。 「海岸を赤道へ向かって飛ぼう──ともかく、シャトルが着陸するには最適の場所だ。レーダー地図によれば、西経六〇度近くのすぐ内陸に、いくらか平らな区域がある」 「知っている。マサダ高原だ」(そして、おそらく探査をもう少しやるチャンスも、とファン・デル・ベルクはつけ加えた。予期せぬ機会を無駄にしてはならん……) 「その高原に決めよう。さようなら、ベニス。さようなら、祖父さま……」  制動ロケットの低い轟音が消えたとき、クリス・フロイドは最終的に始動回路の安全装置をかけ、座席ベルトを外し、ビル・Tの限られた空間の許すかぎり手足を伸ばした。 「それほどわるくない眺めだ──エウロパとしてはだが」彼は快活な口調でいった。「これから四日がかりで、みんなのいうほどシャトルの糧食がひどいかどうかを知るわけだ。さて──ぼくらのうち、どっちが先に話すことにするかね?」 [#改ページ]      52 寝 椅 子 で  少し心理学を勉強すればよかったな、とファン・デル・ベルクは思った。そうすれば、彼の妄想の要素が分析できたろうに。もっとも、いまや相手は、まったくの正気に見えた──あの一つの主題を除いてはだが。  六分の一Gでなら、たいていの座席は快適だったが、フロイドは自分の座席を完全にリクライニングの位置に倒して、頭の後ろに手を組んでいた。それが、いまでもすっかり信用を失ってはいない古いフロイト流の精神分析の時代における、患者の典型的な姿勢だったことを、ファン・デル・ベルクは突如として思い出した。  彼は喜んで相手を先に話させた。一部は単なる好奇心からだったが、主たる理由は、このたわごとを早くフロイドに吐き出させるほど、治るのが──少なくとも無害になるのが──早くなると期待したからだった。だが、あまり楽観的な気分ではなかった。これほど強力な幻想が触発されるには、もともと何か重大な根深い問題があったにちがいない。  フロイドが全面的に彼と同意見で、すでに自己診断をしていたのは、彼の調子をすっかり狂わせてしまった。 「ぼくの乗員心理学的評価はA1プラス」彼はいった。「つまり、自分のファイルを見せてさえくれるわけだ──そんなのは一〇パーセントほどしかいない。だから、きみに劣らず狐につままれた気分なんだ──でも、確かに祖父を見た[#「見た」に傍点]し、彼はぼくに話しかけた。幽霊を信じたことはないが──そんなやつがいるもんか──これは彼が死んだことを意味するにちがいない。もっと親しくなっておけばよかった──会うのを楽しみにしていたんだ……それでも、これで思い出ができた……」  やがて、ファン・デル・ベルクが訊ねた。 「彼が何をいったか正確に[#「正確に」に傍点]話してくれ」  クリスは、やや力なく微笑してから答えた。 「完全記憶能力とかいうのは持っていないし、すっかり肝をつぶしていたから、あまり具体的な内容は覚えていないよ」  彼は言葉をとぎらせ、その顔には精神を集中する表情が現われた。 「不思議だな。こうして考えてみると、ぼくらは言葉を口にしたような気がしないよ」  なおわるいな、とファン・デル・ベルクは思った。死後の生命ばかりかテレパシーまでか。それでも彼は、次のように答えただけだった。 「まあ、その──ええと──会話の大略の要点をいってみろよ。忘れるなよ、きみが何か[#「何か」に傍点]いうのを聞いた覚えがないんだ」 「わかった。彼がいったのは、こんなことだ。おまえにまた会いたいと思っていたので、非常に嬉しいよ。きっと何もかもうまくいって、ユニバース号がまもなく助け出すことだろう=v  典型的な人当たりのいい霊魂のメッセージだ、とファン・デル・ベルクは思った。彼らは、有用なことや意外なことを何もいわないものなんだ──単に聞き手の希望や恐怖を反映するだけで。意識下からの無内容なこだま……。 「それから?」 「それから、ぼくが、みんなはどこにいるのかと聞いた──あそこに、どうして誰もいないのかと。彼は笑って、ぼくにはまだ意味のわからない返事をした。こんなことだった。おまえたちに危害を加える意志がなかったのは知っている──おまえたちが来るのを見たときには、警告を出すのがやっとだった。一人残らずの──≠アこで彼は、覚えていたとしても、ぼくには発音できない単語を使った──が水に入った──必要となれば彼らも非常に素早く動けるのだよ! おまえたちが去って、風が毒を吹き払うまで、彼らは出てこないだろう≠「ったい、どういう意味だい? ぼくらの排気は、とてもきれいな水蒸気だぞ──しかも、もともと彼らの大気の大部分は、それで構成されているんだ」  まあ、妄想が──夢とは違って──論理的であらねばならないという法律はないだろうな、とファン・デル・ベルクは思った。おそらく、毒≠ニいう概念は、優秀な心理学的評価にもかかわらず、クリスが直面することのできない何かの根深い恐怖を象徴するものだろう。それがなんであれ、ぼくの知ったことじゃあるまい。  毒だとさ!  ビル・Tの推薬質量は、ガニメデから軌道まで運びあげた純粋な蒸留水であって……。  だが、待てよ。それが排気口から出てくるとき、どれだけの温度になるのか? どこかで読まなかったかな……? 「クリス」ファン・デル・ベルクは、用心深い口ぶりでいった。「水が反応炉を通ったあと、全部が水蒸気として出てくるのか?」 「ほかに、どうなるっていうんだ? ああ、うんと高温になれば、一〇から一五パーセントは分解して、水素と酸素になるさ」  酸素だって!  ファン・デル・ベルクは、シャトルが快適な室温にあるというのに、突如として寒けを感じた。フロイドが、たったいま口にしたことの意味を理解しているとは、まず考えられなかった。その知識は、彼の通常の専門的知識の圏外にあった。 「クリス、地球の原始的な生物にとって、またもちろんエウロパのような大気に住む生き物にとって、酸素が致命的な毒だということを、知っていたか?」 「冗談だろう」 「そうじゃない。ぼくらにとってさえ、高圧では有毒なんだぞ」 「それは知っていた。潜水の教科で教えられたよ」 「きみの──お祖父さん──がいったことは、理屈に合っている。ぼくたちは、あの都市に、イペリットを撒いたのも同然だった。まあ、それほどにはひどくないがね──たちまち散ってしまったろうから」 「じゃ、いまは、ぼくのいうことを信じているのか?」 「信じないとは、いわなかったぞ」 「信じたら、気が狂っていたろうさ!」  それで緊張はほぐれ、二人は腹を抱えて笑った。 「きみは、彼が何を着ていたか、いわなかったな」 「子供のときの記憶にあるとおり、旧式な部屋着だった。とても快適そうだった」 「ほかに何か具体的なことは?」 「そういわれてみると、最後に会ったときにくらべて、ずっと若くて毛が多かった。だから、彼が──なんといったらいいのかな? ──実物だったとは思わないんだ。どこか、コンピューターのつくった映像のようだった。それとも人工的なホログラムかな」 「モノリスだ!」 「うん──ぼくも、そう思った。レオーノフ号で、デイブ・ボーマンが、祖父に姿を見せたときのことを覚えているか? ことによると、今度は、祖父の番なのかもしれない。だが、なぜだ? ぼくに何も警告しなかった──何か特別なメッセージさえもだ。さようならをいい、幸運を祈ってくれただけ……」  ほんのしばらく、彼は当惑して表情をくずしかけた。それから自制を取り戻すと、ファン・デル・ベルクに微笑みかけた。 「もう充分に話したぞ。今度は、きみが説明する番だ。いったい、一〇〇万トンの一〇〇万倍のダイアモンドが、どうしてここにあるんだ──ほとんど氷と硫黄からなる天体に。まともな説明なんだろうな」 「そうとも」ロルフ・ファン・デル・ベルク博士はいった。 [#改ページ]      53 圧 力 釜 「フラグスタッフで研究していたころ」ファン・デル・ベルクは話しはじめた。「太陽系は太陽、木星──その他の岩屑から構成されている≠ニ書いた天文学書にぶつかった。地球を適切に位置づけているだろう? また、土星、天王星、海王星に対しては、とても公平とはいえない──ほかの三つの気体の巨大惑星は木星の半分に近いんだから。  だが、エウロパから始めるのがいいだろう。知ってのとおり、ルシファーが加熱しはじめるまで、そこは平坦な氷だった──海抜は最高で数百メートルにすぎなかった──しかも、氷が融けて、多くの水が移動し、夜側で凍りついたあとでも、たいした違いはおこらなかった。詳細な観測が始まった二〇一五年から三八年まで、この衛星の全土を通じて、高い地点が一つだけあった──ぼくらは、それ[#「それ」に傍点]がなんであるかを知っている」 「もちろんだとも。しかし、それを自分の目で見たあとでさえ、いまだにモノリスを壁[#「壁」に傍点]として考えられないでいるんだ! ぼくはいつも、それがまっすぐに立っている姿を──または宇宙空間に自由に浮かんでいる姿を、思い浮かべてきたんだから」 「あれが、やろうと思えばなんでもやれるということを、ぼくらは学んできたと思う──ぼくらに思いつくことならなんでもだ──また、それ以上のこともね。  ところで、三七年になってから、一つの観測と次の観測とのあいだに、エウロパでは何かがおこった。ゼウス山が──一〇キロメートルもの高さがあるやつが! ──突如として現われたんだ。  それだけの[#「それだけの」に傍点]大きな火山が、数週間で跳び出すことはない。しかも、エウロパは、活発さという点では、イオには及びもつかないんだ」 「ぼくにいわせれば、充分に活発なもんだよ」フロイドが、不満そうにいった。「例の[#「例の」に傍点]やつを感じたろう?」 「しかも、それが火山だとしたら、大気圏に厖大な量のガスを吐き出していたはずだ。いくらか変化はあったが、そういう解釈を裏付けるには、遙かに及ばない量だった。いっさいは完全な謎に包まれていて、ぼくらは近寄るのを怖がっていたし──独自の事業計画で忙しかったから──奇想天外な理論を繰り拡げる以外には、たいしたことをしなかった。あとから考えれば、そのどれにしても、真実ほど奇想天外ではなかったんだ……。  ぼくは、五七年に行なわれた、ある偶然の観測から、そのことに気づいたが、数年間は本当に真剣には考えなかった。それから、証拠が有力になってきた。もっと奇妙でない解釈があるとしても、これには決定的な説得力があったのだ。  だが、ゼウス山がダイアモンドだと信じる前に、その説明が必要だった。優れた科学者なら──そして、ぼくは優れた科学者のつもりだが──それを説明する理論ができるまでは、どんな事実も本当に評価はできないんだ。その理論が間違いとわかっても──少なくとも何かの細かい点では、たいていそういうことになるが──それによって作業仮説を提供しなければならないんだ。  そして、きみが指摘したように、氷と硫黄の天体にある一〇〇万トンの一〇〇万倍のダイアモンドとなると、ちょっと説明を要するんだ。むろん、いま[#「いま」に傍点]となれば実に明白だし、その答が何年も前に見えなかったとは、なんて阿呆だったかと思うよ。ぼくが気がついていたら、多くの厄介事が避けられたかもしれん──少なくとも一人の命は救えたろう」  彼は考えこみながら口をつぐんだが、そのとき不意にフロイドに訊ねた。 「誰かが、きみにパウル・クリューガー博士の名前をいわなかったか?」 「いや。どうして、そんなことを聞くんだ? もちろん、彼のことは聞いているよ」 「ちょっと思いついただけだ。たくさんの奇妙なことがあったが、その答がすっかり明らかになるときが来るとは思えないな。  いずれにせよ、もう秘密ではないから、かまわないがね。二年前に、ぼくは内々のメッセージをパウルに送った。ああ、ごめん、先にいうべきだった──彼は伯父なんだよ──ぼくの発見の要約をつけてね。それを説明──または反論──できるかと訊ねたんだ。  コンピューターをいくらでも利用できる彼にとって、たいして時間はかからなかった。あいにく、彼が不注意だったか、それとも彼の回線をモニターしていたやつがいたんだな──きみの[#「きみの」に傍点]友人が誰であれ、いまごろは充分に見当がついているにちがいない。  何日かして、彼は科学専門誌ネイチャーから──うん、当時はまだ紙に印刷していたんだ! ──万事を説明できる八〇年前の論文を掘りだした。まあ、ほとんど万事を、かな。  それは、合衆国の大きな研究所の一つで仕事をしていた男が書いたものだ──もちろんアメリカ合衆国だよ──そのころ、南アフリカ合衆国は、まだ存在しなかった。そこでは核兵器の設計をしていたから、彼らは高温と高圧について多少の知識を持っていた……。  ロス博士が──それが彼の名前だがね──爆弾に関与していたかどうかは知らんが、そういう背景が彼に巨大な惑星の深部の状態について考えはじめさせたにちがいない。彼は一九八四年の──ごめん、一九八一年だった──論文のなかで──ところで、それは一ページにも満たない論文だったんだが──あるきわめて興味深い提言をしたんだ……。  彼は、気体の巨大惑星には、途方もない量の炭素が──メタン、 CH4 ──の形で──存在すると指摘した。全質量の一七パーセントにも達するんだ! 中心核の圧力と温度では──数百万気圧だ──炭素は分離して中心に沈降し──それから──もう察しがついたな──結晶するだろう。それは魅力的な理論だった。彼は、それを検証できる望みがあるとは、夢にも思わなかったろうな……。  というのが、物語の第一部だ。ある意味で、第二部は、それ以上に興味津々たるものがある。もう少しコーヒーはどうかね?」 「さあどうぞ。それに、もう第二部の見当がついたような気がするよ。どうやら、木星の爆発に関係があるな」 「爆発じゃない──爆縮[#「爆縮」に傍点]だ。木星は単に内側へ潰れて、それから燃えあがった。ある意味では、核爆弾の爆発に似ていた。ただし、この新しい状態は安定したものだった──つまりミニ太陽になったんだ。  さて、爆縮のあいだに、すこぶる奇妙なことがおこった。まるで、それぞれの断片が、お互いを通り抜けて[#「通り抜けて」に傍点]、向こう側に突き抜けられるかのように。その仕組みがどうであれ、山ほどの大きさを持つダイアモンド中心核の破片が、軌道に跳び出した。  それは何百回もの公転を繰り返し──あれだけの衛星の重力場によって摂動を受け──結局はエウロパにおさまったにちがいない。また、お誂え向きの条件だったはずだ──衝突速度がほんの秒速数キロメートルであるためには、一方の物体がもう一つに追いつく形だったはずだ。もし正面衝突していたら──そうだな、ゼウス山はおろか、いまエウロパは存在していないかもしれない! そのことで、ときに悪夢に襲われるんだよ。それがガニメデにいるぼくらに降ってくる可能性もあったんだと……。  できたばかりの大気も、衝突を和らげたかもしれない。それにしても、その衝撃は、凄まじいものだったにちがいない。わがエウロパの友人たちに、それがどんな影響を与えたろうな? もちろん大規模な地殻変動を誘発して……それは、いまでも続いている」 「それに」フロイドがいった。「政治的なやつもだな。いまやっと、その一部を認識しかけたところだ。南アフリカ合衆国が憂慮したのも無理はない」 「なかでも、とくにだな」 「しかし、誰にせよ、このダイアモンドに手が出せると、本気で思ったんだろうか?」 「ぽくらだって、それほど不首尾でもなかった」シャトルの後尾を身ぶりで示しながら、ファン・デル・ベルクが答えた。「ともかく、産業に与える心理的な[#「心理的な」に傍点]効果だけでも、絶大なものだろうよ。だからこそ多くの連中が、事実か否かを知ろうと必死になったんだ」 「もう彼らも知ったわけだ。これから、どうなる?」 「それは、ぼくの知ったことじゃない、ありがたいことにな。それでも、ガニメデの科学関係の予算に相当な貢献ができていればいいんだが」  ぼく自身にもな、と彼はつけ加えた。 [#改ページ]      54 再  会 「どうして、わたしが死んだなどと思ったのだ?」へイウッド・フロイドが叫んだ。「何年このかた、いまほど元気なことはないぞ」  茫然として立ちすくみながらも、クリス・フロイドはスピーカー・グリルを見つめた。  いっぺんに気持が明るくなるのを感じた──それと同時に、腹立たしい気分も。誰かが──何かが[#「何かが」に傍点]──残酷なわるふざけを自分に仕掛けたのだ。  だが、いったいなんの目的で?  五〇〇〇万キロメートル離れて──秒速数百キロメートルで近づきながら──へイウッド・フロイドも、いくらか憤慨した口ぶりだった。だが、元気いっぱいの快活な声でもあり、明らかにクリスが無事であることを知った喜びがあふれていた。 「それから、きみには、ちょっとした吉報があるぞ。シャトルは、まずきみたちを救出する。ギャラクシー号には緊急に必要な医療品を投下してから、きみたちのところまで飛んで、次の軌道上でわれわれとランデブーさせる。ユニバース号は、五周したあとで降下する。きみたちの友人が乗船してきたとき、彼らを迎えることができるわけだな。  いまは、それだけだ──最後に一言だが、無駄にした時間が取り戻せるのを心から楽しみにしているぞ。おまえの返事が──そうだな──三分ほどで届くのを待つ……」  一瞬、ビル・TTの船内に完全な沈黙がみなぎった。ファン・デル・ベルクには、仲間の顔を見る勇気がなかった。それからフロイドは、スピーカーのスイッチを入れ、ゆっくりといった。 「祖父さま──思い違いだったとは、とても嬉しいよ。まだ、ショックがさめないんだ。でも、このエウロパで会ったのは本当[#「本当」に傍点]だよ──ぼくにお別れをいったのも本当[#「本当」に傍点]だよ。たったいま話しているのを疑わないのと同じくらいに確信があるよ……。  まあ、そのことを話す時間は、あとでたっぷりあるだろう。でも、ディスカバリー号の中で、デイブ・ボーマンが話しかけてきたときのことを、覚えているかい? たぶん、それと似たりよったりだったんじゃないかな……。  あとは、シャトルが迎えにくるまで、ここにじっと坐って待っている。少しも不安はないよ──ときどき地震があるけれども、心配するほどのものじゃない。じゃ、会えるときまでね、大好きだよ」  その言葉を祖父に最後にいったのが、いつのことだったか、彼には思い出せなかった。  最初の一日が過ぎると、シャトルの船室は臭くなりはじめた。二日たつと、気にならなくなった──だが、もう食べ物があまり旨くないことでは意見が一致した。また、寝つかれなくなって、いびきに文句をつけるようにさえなった。  三日目には、ユニバース号、ギャラクシー号、それに地球までが頻繁に通報してきたにもかかわらず、退屈さが定着しはじめ、持ちあわせの猥談も底をついてしまった。  だが、今日は最終日だった。その日が終わる前に、レディー・ジャスミン号が、迷子たちを探しに降下してきたのだった。 [#改ページ]      55 マ グ マ 「だんなさま」アパートメントのマスター・コムセットが呼びかけた。「おやすみのあいだに、例のガニメデからの特別番組を呼び出しました。いまごらんになりますか?」 「うん」パウル・クリューガー博士が答えた。「速度一〇倍。音声不要」  無視できる前おきの部分がたっぷりあって、必要に応じてあとから見ればいいということを、彼は知っていた。できるだけ早く本筋を知りたかったのだ。  クレジットが画面をちらっと横切り、モニターの上では、ガニメデのどこかにいるヴィクター・ウィリスが、まったくの無言で激しい身振りをしていた。多くの現役の科学者と同じように、パウル・クリューガー博士も、ウィリスに対していくらか偏見を持っていたが、彼が有益な役割を果たしていることは認めた。  不意にウィリスの姿が消えて、それほど動きまわらない物体──ゼウス山──に画面が変わった。だが、どんな行儀のいい山の振舞いにくらべても、それは遙かに活発だった。この前のエウロパからの送信のあとで、それがどれだけ変化したかを見て、クリューガー博士はびっくりした。 「実際の時間尺度にしろ」彼は命じた。「音声もだ」 「……一日に一〇〇メートル近く、傾斜は一五度も大きくなりました。いまでは地殻活動が激しくなって──広範囲な熔岩流が麓を囲んでいます。ここにファン・デル・ベルク博士がおいでです。ファン、あなたの意見は?」  わたしの甥は、あれだけの経験を経たにしては、意外に元気そうだぞ、とクリューガー博士は思った。むろん、血統がいいから……。 「あの地殻は、明らかに当初の衝撃から回復しておらず、蓄積した応力によって崩壊しつつあります。ゼウス山は、われわれが発見して以来ずっと徐々に沈下を続けていますが、その速度は、この数週間のうちに途方もなく増大しました。日ごとに動きが見えます」 「これが完全に消えてしまうのに、どれだけかかると思いますか?」 「そんなことがおこるとは、とても信じられませんが……」  山の別のシーンに素早く切り換わり、ヴィクター・ウィリスが画面の外からいった。 「あれは[#「あれは」に傍点]、ファン・デル・ベルク博士の二日前の言明です。何かコメントは、ファン?」 「ええと──どうやら、わたしの間違いだったようですね。まるでエレベーターのように沈んでいます。とても信じられない──あと半キロメートルを残すだけです! もう、これ以上の予想をしたくはありません……」 「それが賢明ですよ、ファン。さて、あれは[#「あれは」に傍点]、つい昨日のことでした。ここで、カメラが破壊されるまでの連続した低速度撮影を、ごらんにいれましょう……」  パウル・クリューガー博士は、座席から身を乗り出して、自分が遠くからではあるが決定的な役割を果たした長いドラマの終幕を眺めた。  再生された画面をスピードアップする必要はなかった。すでに通常の一〇〇倍近くの速さになっていた。一時間は一分に圧縮された──人間の寿命が蝶の寿命になった。  彼の目の前で、ゼウス山は沈んでいた。その周囲から、融けた硫黄の噴流が、目もくらむほどの速度で空へ突進し、光り輝く鋼青色の放物線を描いた。まるで、聖エルモの火に囲まれた船が、荒れ狂う海に沈没するかのようだった。イオの火山の壮観といえども、この激烈な景観には及ばなかった。 「これまでに発見された最大の財宝が──視界から消えてゆきます」ウィリスが、沈んだ敬虔な口調でいった。「遺憾ながら、フィナーレをごらんにいれることはできません。もうすぐ、その理由がおわかりでしょう」  動きは、実際の時間尺度にまで遅くなった。問題の山は数百メートルを残すだけで、その周囲からの噴出物は、いまでは前よりもゆっくりした速度で動いていた。  不意に画面の全体が傾いた。絶え間ない地面の震動に対抗して雄々しく姿勢を保ってきたカメラの映像安定システムが、勝ち味のない戦闘を放棄したのだった。  一瞬のあいだ、まるで山が再び上昇に転ずるかに思えた──だが、それはカメラの三脚が転倒したせいだった。エウロパからの最後のシーンは、融けた硫黄の輝く波が装置を呑みこもうとするクローズアップだった。 「永遠に消えてしまった!」ウィリスが嘆いた。「これまでにゴルコンダやキンバリーが生み出した富のすべてよりも遙かに大きな財宝が! なんという胸も張り裂ける悲劇的な損失でしょう!」 「なんたる愚かな馬鹿者だ!」クリューガー博士が、いきまいた。「あの男には──」  ネイチャー誌に、もう一つの論文を送るべき時期が来ていた。そして、この[#「この」に傍点]秘密は、隠しておくには大きすぎたのである。 [#改ページ]      56 摂 動 論 [#ここから3字下げ] 発信:パウル・クリューガー教授、F・R・Sその他 受信:ネイチャー・データバンク(公共アクセス)編集部 [#ここから2字下げ]   〈ゼウス山と木星のダイアモンド〉  いまや周知のごとく、ゼウス山として知られるエウロパの地形は、本来は木星の一部をなしていた。気体の巨大惑星の中心核がダイアモンドからなるという提言は、カリフォルニア大学ローレンス・リバーモア国立研究所のマービン・ロスにより、古典的論文「天王星および海王星の内部の氷層──天界のダイアモンド?」( Nature,Vol.292,No.5822,pp.435-36,1981 )のなかで初めて行なわれた。驚くべきことに、ロスは、その計算を木星にまで拡張しなかったのである。  ゼウス山の沈下によって、切実な悲嘆の声が異口同音に発せられたが、そのような嘆きは愚劣というべきである──それは次の理由による。  詳細は次回の報文に譲るが、木星のダイアモンド中心核が持っていた当初の質量は、最低一〇の二八乗グラムと推定される。これはゼウス山の質量の一〇〇億倍である。  惑星の爆発および──明らかに人工的な──ルシファーの生成に際して、この素材の多くが消滅したことは疑いないとしても、ゼウス山が残された唯一の断片であるとは考えられない。多くはルシファーに再び落下したとしても、かなりの比率のものが軌道に乗ったはずであり──いまもそこに存在するにちがいない。初歩的な摂動論によれば、それは周期的に起点に戻ってくることが示される。むろん、正確に計算することは不可能だが、少なくともゼウス山の質量の一〇〇万倍が、いまなおルシファーの付近を公転していると推定される。したがって、いずれにせよきわめて不都合なエウロパに所在する一つの小さな断片が失われることには、ほとんど重要性がないといえる。この素材を捜索するため、可及的速やかに専用の宇宙レーダー・システムを設立することを提案するものである。  一九八七年当時から、ダイアモンド超薄膜が量産されてきたとはいえ、ダイアモンドの大量な製造は可能にならなかった。これがメガトンの単位で利用できれば、多くの産業を根底から変貌させ、全面的に新しい産業を成立させるであろう。とりわけ、一〇〇年近い以前にアイザックらが指摘したように( Science,Vol.151,pp.682-83,1966 参照)、きわめてわずかなコストで地球からの輸送を可能にする、いわゆる宇宙エレベーターを実現しうる建設材料は、ダイアモンドだけである。いま木星の衛星のあいだを公転しているダイアモンドの山は、全太陽系を開放するものかもしれない。これにくらべれば、古代の四次結晶形態の炭素の利用などは、いかにも取るに足りないと思えるであろう!  完壁を期して、いま一つ莫大な量のダイアモンドが存在する可能性のある場所に言及しておきたい──遺憾ながら、巨大惑星の中心核以上に近づきがたい場所であるが……。  中性子星の地殻は、主としてダイアモンドからなると示唆されている。既知の最も近い中性子星は一五光年の距離にあり、地表での重力は地球の七〇〇億倍であるから、これは必ずしも現実的な供給源とはいいがたい。  とはいえ──木星の中心核に手を触れることのできる日が来ることを、誰が想像したであろうか? [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]      57 ガニメデにおけるエピソード 「この情けない未開人の開拓者どもときたら!」ミハイロビッチが嘆いた。「呆れたもんだ──ガニメデのどこを探しても、グランドピアノの一台もないとは! わかっているさ──わたしのシンセサイザーのオブトロニックスをちょっぴり使えば、どんな[#「どんな」に傍点]楽器の音でも出せる。しかし、なんといっても、スタインウェイはやはりスタインウェイだ──ストラディヴァリがやはりストラディヴァリであるのと同様にな」  彼の不平は、まったくの本心でもなかったが、すでに地元の知識人のあいだに、いくらかの反響を呼びおこしていた。人気のある放送番組〈モーニング・メデ〉は、これに反発する論評さえしていた。 「わが高名なる賓客たちは、来臨の栄誉を賜わることによって、双方の[#「双方の」に傍点]天体の文化レベルを──一時的にもせよ──向上させたのである」  その攻撃の矢面に主として立たされたのは、後進的な原住民の啓発にいささか熱心すぎるウィリス、ミハイロビッチ、ムバーラだった。  マギー・Mは、ゼウス(ジュピター)とイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストとの熱烈な情事を、自由奔放に叙述したことによって、たいへんな物議をかもした。白い牡牛の姿をとってニンフのエウロパの前に現われることだけでもひどかったし、妻であるヘラの当然なる激怒からイオやカリストをかばう企ては、率直にいって気の毒なほど幼稚なものだった。しかし、多くの地元住民を当惑させたのは、神話におけるガニメデの性別が不適切なことだったのである。  公平を期するなら、この自称文化大使たちの意図は、まるで私情を抜きにしてとはいえないまでも、まったく称賛に値するものだった。ガニメデに数ヵ月も足止めをくうことを知った彼らは、状況の物珍しさが薄れたあとで、退屈の危険が存在することを認識した。そして、まわりの者たちの利益のために、彼らの才能を最大限に活用したいとも思ったのだ。  しかし、この太陽系のハイテクなフロンティアでは、まわりの者たちが利益を得たいとは思わなかった──または時間がなかった──のである。  これに対して、イーヴァ・マーリンは完全に適合して、心ゆくまで楽しんでいた。地球での名声にもかかわらず、ガニメデの住民で彼女の名前を知る者は、数えるほどしかいなかった。公共用の通路やガニメデ本部の与圧ドームを歩きまわっても、彼女のほうを振り向いたり、見覚えのある顔に興奮して囁きあったりすることはなかった。確かに顔は知られていた──だが、地球からの訪問客の一人というだけだった。  例によって控え目で有能な謙虚さのあるグリーンバーグは、この衛星の行政的および技術的機構にはまりこんで、すでに半ダースもの諮問委員会に属していた。あまり彼の貢献度が評価されたので、立ち去るのを許されないだろうと忠告されたほどだった。  へイウッド・フロイドは、同船者たちの活動を、のんびりと楽しそうに眺めていたが、その仲間入りは、あまりしなかった。いまの主たる関心は、クリスと心を通わせて、孫の将来の計画を助けることだった。  ユニバース号が──タンクに一〇〇トン足らずの推薬を残して──無事にガニメデに降りたいまでは、なすべきことが山ほどあった。  ギャラクシー号に乗っていた全員が救援隊に対して抱いた感謝の気持は、両船の乗組員が融合するのを容易にさせた。修理、分解点検、燃料補給が完了すれば、彼らはいっしょに地球へ戻ることになるだろう。サー・ローレンスが大幅に改善されたギャラクシー二世号の契約書を作成しているという知らせによって、士気はいちじるしく昂揚していた──もっとも、彼の弁護士たちがロイズとの争点に決着をつけるまで、その建造は始まりそうもなかったのだが。いまだに保険業者は、宇宙ハイジャックという前例のない犯罪は彼らの保険契約に含まれないことを、主張しようとしていた。  犯罪そのものについては、誰も有罪と宣告されなかったし、告発さえもなかった。これが、実力もあり充分な資金を持つ組織の手で、数年間にわたって計画されたことは明らかだった。南アフリカ合衆国は、声高かつ熱心に無実を主張し、公的な審問を歓迎するといった。デル・ブントも憤激を表明し、もちろんシャカの仕業とした。  クリューガー博士は、自分に宛てた郵便物のなかに、彼を裏切り者と非難する激烈だが匿名の通信があるのを見ても、驚きはしなかった。それらは、ふつうアフリカーンス語で書かれていたが、ときどき文法や言葉遣いに微妙な間違いを含んでいて、逆情報キャンペーンの一部であることを思わせた。  しばらく考えた末に、それらを彼は宇宙刑事警察機構《アストロポル》に引き渡した──たぶん、こんなものは、とっくに受け取っているだろうがな≠ニ、彼は皮肉な気分で思った。宇宙刑事警察機構《アストロポル》は感謝の意を伝えてきたが、予期したように何もコメントはなかった。  フロイドおよびチャン二等宇宙士、その他のギャラクシー号乗組員は、以前にフロイドが会った二人の謎めいた異邦人から、ガニメデで最高のディナーに招待された。この率直にいって期待外れな食事に招かれた者たちは、あとで情報を交換して、あの礼儀正しい訊問者たちはシャカに対する証拠固めを試みたのだが、あまり成果はなかったろうと判断した。  こうした出来事のきっかけをつくり──そこから職業的にも金銭的にも成果を得た──ファン・デル・ベルク博士は、この新たな好機にどう対処するかを考えていた。地球の大学や科学団体から数多くの魅力的な申し出を受け取っていた──しかし、皮肉なことに、それに応じることは不可能だった。いまではガニメデの六分の一Gのもとで長く生活しすぎていて、医学的には元に戻らぬ段階に達していたのである。  月は可能性として残っていた。へイウッド・フロイドが説明したように、パストゥールもそうだった。 「われわれは、あそこに宇宙大学を設立しようとしている」彼はいった。「一Gに耐えられない地球外の住人が、なおも地球とリアルタイムで意見交換ができるようにな。講堂、会議室、研究室をつくる予定だ──一部は単なるコンピューターの映像になるだろうが、実物にそっくりで、絶対に見分けがつかないだろう。それに、地球のテレビ・ショッピングをして、きみの不正利得を使うこともできる」  思いがけないことに、フロイドは孫を再発見したばかりか、義理の甥までつくった。いまや彼は、類例のない体験を分かちあうことによって、クリスに劣らずファン・デル・ベルクとの絆に結ばれていた。何よりもまず、聳え立つモノリスの存在のもとで、人けのないエウロパの都市に出現した亡霊の謎があった。  クリスは少しの疑いも抱いていなかった。 「いまと同じくらいはっきりと、祖父さまを見たし、声も聞いたよ」彼は祖父にいった。「でも、祖父さまの唇は、ちっとも動かなかった──おかしなことに、それが不思議[#「不思議」に傍点]だとは思えなかった。まるであたり前だという気がしたんだよ。その体験の全体を通じて──寛いだ雰囲気だった。ちょっと悲しげな──いや、物思いに沈んだ、というほうが適当かな。それとも、諦めかもしれない」 「あなたがディスカバリー号でボーマンと会ったことを、思わずにはいられませんでしたよ」ファン・デル・ベルクがつけ加えた。 「エウロパに着陸する前に、彼に送信しようとしたのだよ。幼稚な行為に思えたが、ほかの手段は何も考えつかなかった。彼が、なんらかの形で、あそこ[#「あそこ」に傍点]にいると確信していた」 「それで、どんな種類の返事もなかったんですか?」  フロイドは迷った。その記憶は急速に薄れかけていたが、自分の船室にミニモノリスが現われた夜のことを、不意に思い出したのだった。  何事もおこらなかったが、あの瞬間があってからは、クリスが無事でおり、二人は再会するという気がしていたのである。 「いや」彼は、ゆっくりといった。「何も返事はなかったよ」  結局のところ、それは単なる夢だったかもしれないのだ。 [#改ページ] [#改ページ]  第八部 硫黄の世界      58 火 と 氷  二〇世紀の末に惑星探査の時代が開幕するまで、太陽から遠く離れた天体に生物が生育できると信じる科学者は、少なかったことだろう。それでも、エウロパの隠れた海は、五億年にわたって、少なくとも地球の海に劣らず多産だった。  木星が点火される以前は、それらの海洋を氷の外皮が、上空にある真空から保護していた。氷の厚さは大部分の場所で数キロメートルあったが、脆弱な線に割れ目ができたり、引き裂かれたりした。  すると、不倶戴天の敵対する二つの自然力のあいだに、太陽系のほかの天体では類例のない直接的な接触ができて、短時間の戦闘がおこった。海と宇宙空間との戦争は、いつも同様な膠着状態で終わった。露出した水は、沸騰と凍結とを同時に行なって、氷の装甲を修復した。  近くにある木星の影響がなければ、エウロパの海は、遙かな過去に完全に固く凍りついていたろう。木星の重力は、この小さな天体の中心核を、絶えずこねまわしていた。イオを震動させる力は、激しさこそずっと小さいが、ここにも作用していた。  惑星と衛星の引っ張りあいは、絶え間のない海底の地震や土砂崩れをおこし、それは深海の平原を驚くべき速さで通りすぎた。  そうした平原には無数のオアシスが散在し、そのそれぞれが、内部から噴出する鉱物質を含む豊富な塩水のまわりに、数百メートルにわたって拡がっていた。それらは含んでいた化学物質を沈澱して、パイプや煙突のもつれた塊りとしながら、廃墟の城やゴシック様式の大聖堂のパロディーを自然の手でつくりだし、そこから黒い煮えたぎった液体が、何かの巨大な心臓に押しだされるかのように、遅いリズムで脈動しつつほとばしった。  そして、それらは血液と同じく、ほかならぬ生命のまぎれもない徴候だったのである。  沸騰する液体は、上方から漏れてくる恐るべき寒気を撃退し、海底に暖気の島を形成した。それに劣らず重要なのは、それらがエウロパの内部から、生命を構成する化学物質のすべてをもたらしたことだった。さもなければ完全に敵対的である環境のなかで、ここには豊富なエネルギーと食物があった。  こうした地熱孔は、地球の海洋にも発見されていた。人類がガリレオ衛星を初めて垣間見たのと同じ一〇年間のことだった。  この孔に近い熱帯地方には、繊細な蜘蛛に似た生き物が無数に生育し、それらは植物に類似しているが、大部分が運動能力を持っていた。そのあいだをナメクジや蠕虫《ぜんちゅう》に似た異様なものが這いまわり、あるいは植物≠食い、あるいは周囲の鉱物質を含んだ水から直接に栄養を得ていた。  この熱源──これら生き物のすべてが暖をとる海底の火──から非常な距離をおいて、カニや蜘蛛に似てないこともない、もっと頑丈で耐久力のある生物がいた。  たった一つのオアシスを研究するのにも、一群の生物学者が一生を費やすことになるかもしれない。古生代の地球の海とは違って、エウロパの隠された海洋は安定な環境ではなかったから、ここでは進化が急速に進んで、多数の奇妙な形態を生み出した。そして、それらすべては無期限の執行猶予の状態にあった。それぞれの生命の源泉は、それにエネルギーを供給する力が焦点を他に移すにつれて、遅かれ早かれ衰えて死滅することになる。  深海には、そういう悲劇の証拠が散らばっていた──生命の書から、まるごと一章を抹殺された場所にある、骨格や鉱物質に固められた遺骸の墓地。  人間よりも大きいトランペットのような巨大な貝殻があった。多くの形状の貝類──二枚貝や三枚貝さえもがあった。そして、さしわたし何メートルもあるラセン状の石があって、地球の海洋から白亜紀に謎のように消滅した美しいアンモナイトに、生き写しのように思われた。  多くの場所で、灼熱した熔岩が海底の谷に沿って何十キロメートルも流れるにつれて、深淵のなかに火が燃えていた。この深さでの圧力は巨大なものだったから、赤熟したマグマと接触した水は水蒸気となって蒸発することができずに、二つの液体が不安定な休戦を保って共存していた。  人間の来る遙か以前に、この別の天体の上で、異星の俳優によって、エジプトの物語に似たものが上演されていた。ナイルが砂漠の狭い帯状地帯に生命をもたらしたように、これらの暖気の川は、エウロパの深海に生命を与えたのだった。その川岸に沿って、めったに幅一キロメートルを超えない帯をなして、さまざまな生物種が次々に進化し、繁栄しては消えていった。  そして、一部のものは、重なりあった岩とか、海底に刻みこまれた奇妙なパターンの溝という形で、あとに記念碑を残したのだった。  深淵の砂漠のなかの狭い肥沃な帯に沿って、文化と原始的な文明の体系が生まれては滅びていった。そして、彼らの世界の外に知られることはなかった。なぜなら、これら暖気のオアシスのすべては、惑星そのものと同じように、互いに隔離されていたからだ。  熔岩流の輝きに浴しながら、熱気孔のまわりで栄養をとる生き物は、彼らの孤立した島を隔てる厳しい荒野を横切ることができなかった。もしも彼らが歴史家や哲学者を生みだしていたとすれば、それぞれの文化は、自分が宇宙で唯一のものと信じていたろう。  そして、それぞれは滅びる運命にあった。そのエネルギー源が散在し、絶えず移動しているだけでなく、それを駆動する潮汐力そのものがしだいに弱まっていたのである。彼らが真の知能を発展させていたとしてさえ、エウロパ人は、自分たちの天体が最終的に凍結するときに滅びねばならなかったのである。  彼らは火と氷のあいだに閉じこめられていた──ルシファーが彼らの空で爆発し、彼らの宇宙を開放するまでは。  そして、新たに生まれた大陸の岸辺近くに、夜のように黒い巨大な長方形の姿が現われたのである。 [#改ページ]      59 三 位 一 体 「上出来だったよ。これで、彼らも戻ってくる気をおこすまい」 「わたしは多くのことを学びつつある。しかし、これまでの人生が消えかけているのは、いまでも悲しい気持がする」 「それも忘れることだろう。わたしも、かつて愛した人に会おうとして地球に戻った。いまでは、愛よりも偉大なものがあることを知っている」 「それは、なんだろう?」 「思いやりが、その一つだ。正義。真実。まだ、ほかにもある」 「それを受け入れるのは、わたしにとっても困難ではない。わたしは非常な老人だ──わたしの種属の一人としては。青年時代の情熱は、とうに薄れている。どうなるのかね──本物の[#「本物の」に傍点]へイウッド・フロイドのほうは?」 「あなたは、どちらも同じように本物なんだよ。しかし、彼はまもなく死ぬだろう。自分が永遠の命を得たとは夢にも知らずにな」 「パラドックスだな──だが、それは理解できるよ。もし、そういう感情が残されるものなら、いつか感謝するときが来るかもしれない。お礼は、あなたにいうべきかな──それともモノリスにかね? 遠い以前に会ったデイビッド・ボーマンは、こういう能力は持っていなかったが」 「そのとおりだ。それだけの時間に、多くのことがおこった。ハルとわたしは、たくさんな物事を学んできた」 「ハルだって! 彼が、ここにいるのか?」 「いますよ、フロイド博士。わたしたちが、また会うことになるとは、予期していませんでした──とくに、こんな形ではね。あなたを共鳴させるのは、興味深い問題でした」 「共鳴? ああ──わかった。どうして、そんなことをしたのかね?」 「あなたのメッセージを受け取ったとき、ハルとわたしは、ここでの仕事を、あなたに助けてもらえると知ったのだ」 「助ける──あなた[#「あなた」に傍点]を?」 「そう、不思議に思うかもしれないがね。あなたは、われわれに欠けている多くの知識や経験を持っている。知恵といってもいい」 「ありがとう。わたしの孫に姿を見せたことは、賢明だったろうか?」 「いや。おかげで多くの不都合を生じた。しかし、あれは人間的な行為だった。こういう事柄は、それぞれを天秤にかけてみなければならないのだよ」 「あなたは、わたしの助けが必要だといったな。どういう目的のためにかね?」 「あれだけ学んできたのに、いまでも理解できないことが多いのだ。ハルはモノリスの内部システムを綿密に調べてきて、われわれは単純な仕組みの一部を制御できる。あれは多くの目的を果たす道具なのだよ。その主要な機能は、知能を触発することらしい」 「うん──それは想像がついていた。しかし、証拠がなかったのだよ」 「証拠はある。いまでは、それの記憶を──いや、一部をだが──取り出せるから。それは四〇〇万年前にアフリカで、人類種属へと導く刺激を、飢えた猿の部族に与えた。いまは、ここで、その実験を繰り返している──だが、恐るべき犠牲のもとにだ。  木星が太陽に改造されて、この天体が潜在能力を実現できるようになったとき、別の生物圏が破壊された。わたしが以前に見たままに、それをごらんにいれよう……」  大陸ほどの大きさの雷雲が織りなす稲妻のなかで、猛り狂う大赤斑の中心を落下してゆきながらも、それが地球のハリケーンを生むものより遙かに希薄なガスからできているのに、どうして何世紀も持続してきたのかを、彼は悟ったのだった。  静穏な深部に沈むにつれて、水素の風のかぼそい叫びは消えてゆき、頭上の高みから青白い雪片が、みぞれとなって降りしきっていた──すでに一部は合体して、炭化水素の泡からなり、かろうじて存在が感じられる山々をつくりながら。もう液体の水が存在できるほど暖かいが、ここに海洋はなかった。このもっぱら気体からなる環境は、それを支えるには希薄すぎるのだ。  雲の層を次々に抜けて降下すると、人間の視力でさえ一〇〇〇キロメートル四方よりも広い範囲が見渡せるほど澄んだ領域に入った。それは、大赤斑の壮大な渦巻のなかの細かな渦の一つにすぎなかった。  そして、そこには、人間が長らく推測してきながら立証できなかった、一つの秘密が隠されていた。  漂う泡の山々の裾を囲んで、輪郭の鮮明な小さい雲が無数にあり、どれも同じくらいの大きさで、似たような赤と褐色の斑点に飾られていた。それらが小さく見えるのは、周囲の非人間的な大きさと比較してのことだった。もっとも小さなものでも、かなり大きな都市を包みこんでしまうことだろう。  それらは明らかに生きていた。空中の山々の山腹を、遅い緩慢な速度で動きながら、巨大な羊のように斜面をかじっていた。そして、メートル波の周波帯で互いに呼びあい、その電波の声はかすかではあるが、木星本体の雑音や衝撃にも負けずに明瞭に聞こえた。  まさに生きた気球である彼らは、凍りつく高空と焼けつく深部とのあいだにある、狭い地帯に浮かんでいた。狭い地帯──それはそうだが、地球のどんな生物圏よりも遙かに広大な行動範囲だった。  生物は彼らだけではなかった。彼らのあいだを、小さすぎて注意しないと見落としてしまいそうなほかの生き物が、素早く動きまわっていた。それらのなかには、気味のわるいほど地球の飛行機に似ており、大きさも同じくらいのものがいた。だが、それらも生きていた──捕食生物か、寄生生物か──いや、むしろ牧夫かもしれない……。  ……ここでは、地球の海洋のイカを思わせるジェット推進をする魚雷形のものが、巨大な気球を狩りたてて、むさぼり食っていた。だが、風船たちも無防備ではなかった。彼らのなかには、電撃を放ったり、鉤爪の生えた長さ一キロメートルもあるチェーンソーのような触手で反撃するのもいた。  それ以上に奇妙な形もあり、ほぼあらゆる形状をきわめつくしていた──奇怪な半透明の凧、四面体、球体、多面体、捻じくれたリボンのからみあい……木星大気圏の巨大なプランクトンは、上昇気流のなかに薄物のように浮かんで、繁殖するまでの時間を生きながらえるようにつくられていた。それから深みへ押し流されて炭化し、新しい世代のなかで再利用された。  彼は地球の面積の一〇〇倍以上もある世界を探索しており、多くの不思議なものを見たが、ここに知能の徴候は少しもなかった。大きな風船の電波の声は、単純な警告や恐怖を伝えるだけだった。高度の有機的体制を発展させたと期待できそうな狩猟獣でさえ、地球の海洋にいる鮫のようなもので、頭脳を持たない自動機械なのだ。  そして、驚くほどの広大さと物珍しさにもかかわらず、木星の生物圏は脆弱な世界であって、霧と泡からなる場所であり、上層大気の稲妻によって形成される石油状物質が紡ぎだす、繊細な絹糸と紙のように薄い織物からなる場所だった。その構造が石鹸の泡よりも濃密なものは、ほとんど存在しなかった。この世界でもっとも凶暴な捕食動物でさえ、地球でいちばん弱い肉食獣が八つ裂きにできるのである……。 「それで、これだけの驚異が滅ぼされたのかね──ルシファーを創造するために?」 「そうだ。木星人は、エウロパ人と比較検討されて──不要とされたのだよ。おそらく、あの気体の環境のなかでは、彼らが本当の知能を発展させることはできないのだろう。だからといって、彼らを滅びる運命にすべきだろうか? ハルとわたしは、いまも、この疑問を解こうと努めている。それが、あなたの助けが欲しい理由の一つだ」 「だが、木星を滅ぼしたモノリスに、われわれ[#「われわれ」に傍点]がどうやって対抗できるのかね?」 「あれは道具にすぎない。桁外れの知能を持っている──だが、自意識[#「自意識」に傍点]はない。あれだけの能力があっても、あなたや、ハルや、わたしは、あれより上位にあるのだよ」 「わたしには、とても信じがたいな。いずれにせよ、何かがモノリスをつくったにちがいないぞ」 「わたしは、ディスカバリー号が木星に来たときに、それに一度だけ会った──というより、わたしに正視できるかぎりの範囲でだが。それは、これらの天体についての目的に奉仕させるために、わたしを現在の姿にして送り返した。それ以来、なんの音沙汰もない。いまや、われわれは独立した立場だ──少なくとも、さしあたりはね」 「それは心強い気がする。モノリスがあれば充分だな」 「しかし、いまはもっと大きな問題がある。何か手違い[#「手違い」に傍点]がおこったのだ」 「いまになっても恐怖が経験できるとは、思わなかったな」 「ゼウス山が落下したとき、この天体が完全に滅びる可能性もあった。あの衝突は計画に入っていなかった──それどころか、計画することなど不可能だった。いかなる[#「いかなる」に傍点]計算によっても、こんな出来事を予測はできなかったろう。それはエウロパの海底の広大な地域を荒廃させて、あらゆる生物種を抹殺した──われわれが大きな希望をつないでいたものの一部を含めてだ。モノリスまでが転倒した。損傷を受けて、プログラムが狂いさえしたかもしれない。あらゆる偶発事件に対処することは、明らかに彼らにもできなかったのだ。無限に近く、このうえもなく細心な計画も〈偶然〉が無駄にする可能性が常にある宇宙で、そんなことがどうしてできるだろう?」 「それは本当だな──人間でもモノリスでも同じことだ」 「われわれ三人は、この天体の保護者であると同時に、不慮の出来事の管理者でなければならない。あなたは、すでに両生類に会っている。これから、珪素で装甲された熔岩流のタッパーや、海から収穫しているフローターと出くわすことになる。われわれの仕事は、彼らが潜在能力を完全に発揮するように助けることだ──ここでかもしれないし、どこかほかの場所でかもしれない」 「それで、人類はどうなる?」 「人間社会の営みに干渉しようとする誘惑に駆られたときもあった──だが、人類に与えられた警告は、わたしにも適用されるのだ」 「われわれは、あまり忠実には従わなかったな」 「だが、まずまず忠実だったよ。とりあえずは、エウロパの短い夏が終わって、再び長い冬が来る前に、やるべきことが山ほどあるのだ」 「時間は、どのくらいあるのかね?」 「非常に少ない。わずか一〇〇〇年だ。それに、木星人のことを忘れるんじゃないぞ」 [#改ページ] [#改ページ]  第九部 三〇〇一年      60 真夜中の広場  セントラル・マンハッタンの森の上に、ただ一つ壮麗に聳えたつ著名な建物は、一〇〇〇年たっても、ほとんど変わっていなかった。それは歴史の一部であり、畏敬の念をもって保存されていた。あらゆる歴史的な記念碑と同様に、これも遠い以前にダイアモンドの超薄膜をかぶせられ、いまでは時間の爪跡を、ほとんど受け付けなくなっていた。  最初の国連総会に出席した者が見ても、九世紀以上を経過しているとは、とても思えないだろう。しかし、広場に立っている黒いのっぺらぼうの厚板には、好奇心をそそられるだろう。  それは、まるで国連ビルそのものを真似たかのような形をしていた。もし──ほかの誰かれと同じように──そこに手を伸ばして触ったとすれば、その漆黒の表面を指が滑る奇妙な感覚に、きっと面くらうことだろう。  だが、空の上の変貌ぶりには、それより遙かに面くらうだろう──それどころか、すっかり圧倒されてしまうのである……。  最後の観光客は一時間前に立ち去り、広場には人の気配がなかった。空には一点の雲もなく、いちばん明るい星のいくつかが、やっと見えていた。光の弱いものは、真夜中にも輝くことのできる小さな太陽にかき消された。  ルシファーの光は、古代の建物の黒いガラスばかりでなく、南の空にかかる細い銀色の虹までも照らしていた。それに沿って、またその周囲に、ほかの光が、きわめてゆっくりと動いていた。太陽系内の通商が、二つの太陽に属する多数の天体を結んで行き来しているのだった。  そして、充分に注意深く眺めれば、パナマ・タワーの細い線が、やっと見分けられた。それは、地球と散在する子供たちとを繋ぐ、ダイアモンドからなる六本の臍の緒の一つであって、赤道から六〇〇〇キロメートルの上空まで伸びて、〈世界を取り巻くリング〉に到達するのである。  不意にルシファーが、生まれたときに劣らぬ急速さで消えはじめた。三〇世代にわたって人間が知らなかった夜が、空を埋めつくした。追い払われていた星が戻ってきた。  そして、四〇〇万年のうちで二度目に、モノリスは目覚めたのである。 [#改ページ] [#改ページ]      謝  辞 [#ここから2字下げ]  次回の出現に際してのハレー彗星の位置を提供してくれたことに対して、ラリー・セシャンズとゲリー・スナイダーに特別の感謝を捧げる。わたしが導入した主要な軌道の摂動については、彼らに責任のないことである。  ローレンス・リバーモア国立研究所のマーヴィン・ロスには、ダイアモンドの中心核を持つ惑星という驚くべき概念ばかりでなく、この間題に関する彼の歴史的な論文(であることを願うが)に対しても、とくに謝意を表するものである。  旧友のルイ・アルヴァレ博士は、彼の研究を突拍子もなく外挿したことを、きっとおもしろがってくれると思うし、過去三五年間にわたる彼の多大な助言とアイデアに感謝するものである。  Cradle の共著者であるNASAのジェントリー・リーには、 Kaypro 2000 lap-portable をロサンゼルスからコロンボまで手荷物として運んで、わたしが本書を、風変わりで──それ以上に重要なことだが──隔離された各種の場所で書くことを可能にしてくれたことに、とくに感謝する。  五、五八、五九の各章は、部分的に『2010年宇宙の旅』から取った材料に基づいている(著者が自分のものから盗作できないとしたら、誰から盗作すればいいのか?)。  最後に、アレクセイ・レオーノフ宇宙飛行士が、わたしが彼とアンドレイ・サハロフ博士(両人の名を連ねて彼ら二人に『2010年宇宙の旅』を捧げたときには、まだゴーリキー市に追放されていた)とを結びつけたのを、もう許してくれることを願う。そして、モスクワでの接待役ならびに編集者だったワシーリ・ザハルチェンコに対しては、さまざまな異端者の──その大半は、もはや拘禁されていないことを喜ぶものだが──名前を借りることによって多大な迷惑をかけたことに、深甚なる遺憾の意を表明する。いつの日か、〈|技 術 青 年《チェーフニカ・マラジョージ》〉誌の購読者が、まるで謎のように消えた『2010年宇宙の旅』の連載が読めることを希望するものだが……。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]アーサー・C・クラーク   [#地付き] スリランカ、コロンボ   [#地付き] 一九八七年四月二五日   [#改ページ]      補  遺 [#ここから2字下げ]  この原稿が完成したあとで、ある不思議なことがおこった。わたしは小説を書いているつもりだったのだが、どうやら違っていたらしい。この出来事の連鎖を考えてみていただきたい。 (1)『2010年宇宙の旅』のなかで、レオーノフ号はサハロフ駆動≠ゥら動力を得ていた。 (2)その半世紀後には、『2061年宇宙の旅』八章で、一九五〇年代にルイ・アルヴァレらによって発見されたミューオン触媒による低温核融合≠利用して、宇宙船が動力を得ている(彼の自伝『アルヴァレ』ニューヨーク:ベイシック・ブックス、一九八七年、を参照のこと)。 (3)サイエンティフィック・アメリカン誌の一九八七年七月号によれば、いまやサハロフ博士は原子力による動力発生装置を研究しているが、その原理は「……ミューオン触媒すなわち低温♀j融合であって、電子に類縁の風変わりな短寿命の素粒子を利用するものである……低温核融合≠フ支持者たちは、ちょうど摂氏九〇〇度のとき主要な反応がもっともよく進行すると指摘している……」(一九八七年八月一七日付のロンドン〈タイムズ〉)。  いまや、わたしは、非常なる興味をもって、アカデミー会員サハロフおよびアルヴァレ博士からのコメントを待ち望んでいる……。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]アーサー・C・クラーク   [#地付き] 一九八七年九月一〇日   [#改ページ]      解  説 [#地付き]川 又 千 秋    ついさっき、僕は、一九六八年四月発行の〈2001年宇宙の旅〉映画パンフレットを引っぱりだしてきた。今はなきテアトル東京のロビーで、公開初日に購入したものである。これが、実に、なかなか興味深い代物なのだ。というのも、この豪華パンフレットには、当時の日本におけるSFを巡る状況、および、この映画作品がもたらした衝撃、というよりは、むしろ混乱の有様が、くっきりと記録されているからである。  パンフレットは、「……人類の歴史が始って以来、地球は100億の人が生れ、死にました……偶然の一致ですが、私達の住む宇宙、銀河には100億の星があります。この地球に生れ、死んだ男女の一人一人が星となって輝いているのです……」という、いかにもクラークらしい、ビューティフルな挨拶文ではじまっている。ケッサクなのは、その次の頁からだ。まず、ものがたり≠ニあり、冒頭に、「月は太古に地球から分かれてできた天体です。今でこそ死の世界と化していますが、約400万年前までは、僅かながら水や空気があったと思われます。ということは、当時の地球に似たなんらかの生物がいたに違いないと信じられているのです……」なる文章がでてくる。お分かりか? つまり、この筆者は、映画〈2001年〉のプロローグを、なんと! 太古の月面の情景描写だと思い込んでいるのである。猿人たちが触れたモノリスと、月面のクレーター内で発掘されたモノリスを同一物と見做したための単純な勘違いであろうが、パンフレットを読み進めば、そうした勘違いなり誤解なりが幾重にも積み重なって、この映画を取り囲んでいた様子が、よく分かる。  解説者の一人は、「映画は21世紀の宇宙探検物語になっているが……内容はS・Fではなく最も科学的に検討製作されてきたもので空想科学映画でないことを強調しておきたい」と書いた上で、結末部分に関し、「……やがてボウマン隊長が地上の我が家に帰還し、次々に起る不思議な光景をより幻想的に描いて行く、つまり現代版浦島太郎である」という解釈を下す。また、別の一人は、「……アーサー・クラークは、単なるS・F作家ではない。物理学、数学、電子工学を専攻した英国の科学者」で、また映画製作にあたっては、各分野の「専門技術者の協力を得ているだけに、いっそう信頼度の高い作品となっている」と、この映画の正統性≠強調し、観賞者は「……人類の、素晴しい知恵に感嘆すると共に……狭い地球上で、つまらぬことから互いに殺しあう人間自身の愚かさを反省させられるだろう」と結論する。その他の記事も大同小異の論調で、すなわち、解説者諸氏は、こぞって、映画〈2001年〉は、綿密な科学的考証によって製作されたものであるから単なる≠rFではなく、「人類の地球外での生活というテーマ」(本当に、こう、繰り返し書かれているのだ!)をシリアスに追求し、数十年後の現実≠目のあたりに描きあげた作品なのだと主張しているのである。そう。そのあたりが、映画〈2001年〉を迎えた一九六八年当時の一般認識であり、彼等、パンフレット執筆者たちの理解と誤解こそが、そのまま、当時の、SFを取り囲む状況だったと言っていい。  当時……このパンフレットを目にした僕等が、とても寂しい思いを味わったことは言うまでもない。しかし、また裏腹に、幾許かの優越感を覚えたのも確かだ。これが──これこそが、SFであることを、少なくとも、僕等は知っていたからだ。イッツ・オンリイ・サイエンスフィクション! 〈2001年〉は、彼等が言うところの、単なる≠rFに過ぎない。緻密な科学考証や、また当時にあって驚異的としか言いようのない特撮技術を駆使して、あたかも、それが数十年後(言うまでもなく、当時から見て)の現実≠ナあるかのように描き上げられてはいても、そのテーマの本質は空想∴ネ外の何物でもなく、僕等の意識を現実の暁から解き放つものであることを、僕等ファンは間違いなく理解できた。そう! だからこそのSFなのだ。  そして……その〈2001年〉の公開から二十年が過ぎた。さらに、その二十年の間に、アーサー・C・クラークの空想は、六十年先の未来へと投げかけられたことになる。それが、本書『2061年宇宙の旅』なのだ。  本書のゲラ刷りを手にして、僕は、しばらくの間、読みだすのをためらっていた。なんとなく、コワいような気がしてならなかったのだ。その理由を以下に記す。  本書の前に『2010年──』があり、僕は正直言って、あの作品の調子には、いささか驚かされたものだ。書評にも書いた文句なのだが、クラーク先生、楽しんでますなァ≠ニいうのが、僕の、とりあえずの感想だった。なぜ、そのことによって驚かされたかというと、さらに、それ以前、一九七五年に発表された長篇『地球帝国』の印象が、頭にこびりついていたためである。 『地球帝国』は、二十三世紀の太陽系社会を舞台とした、いかにもクラークらしいリアリスティックな未来小説だった。が、この作品を読みながら、僕は、そのリアリズムの精密さ故に、クラークの、ある種の焦り、苛立ちのようなものを感じずにはいられなかった。それに関し、僕は、こう書いたことがある──「クラークは、誠実に、精密に、自らの作品の中で、あり得べき未来≠考察し、描写し続けてきた。そして、ふと気付いたのではなかろうか。いかに蓋然性を検討し、必然性を積み上げて、リアルな未来像を構築してみても、結局、クラークは、そうした来たるべき〈現実〉の中に自分を置くことができない。これはどうすることも出来ない運命だ。それだけに耐え難い、容認し難い運命のはずである。……そんな、一種悲哀を伴う感情が、確かに『地球帝国』の底には流れていた」……だからこそ……クラークは、彼の哲学展開を後に押しやっても、より精緻に、より具体的に、自らの未来像を構築して、それを展望しようと試みたのではないのか。そう、思った。  そうした『地球帝国』の印象を抱えたままで、僕は『2010年──』にぶつかった。そのための、驚きだった。『2010年──』から、『地球帝国』を覆っていたような切実な感情は、完全に払拭されていた。なんとなく、悟りに達したかのような闊達さ、洒脱さだけが目についた。だから──『2061年──』を前に、僕はためらわずにいられなかったのだ。  この作品で、クラークは、いったい、どのような達観≠展開してくれるのか。そのあたりが、ヒジョーに気になって、僕にストレスをかけてきたというわけである。  そして、一読──。  いやはや! クラークは、さすがクラークであった。  この小説を読んでいると、太陽系が、まるでカリブ海か何かのような狭さに感じられてくる。いや、言うまでもなく、スペースオペラチックな意味ではない。その逆である。宇宙が、余りにも日常的に、ありありと描かれているための感想なのだ。  来世紀、再び巡ってきたハレー彗星から、前作で爆縮しミニ太陽と化した木星の衛星エウロパへと、物語は、無重力の宇宙、もしくは低重力の空間を舞台に展開する。  そして、クラークとともに、僕等は、彼の内にあって、すでに現実と等しく視えているに違いない未来世界、その宇宙の旅を体験することとなる。  SFの快感、その醍醐味を、久しぶりに満喫できたのである。  クラークの〈覚え書〉末尾のひと言──「わたしは待たないことに決めた」が、何より象徴的である。  そう! それが、恐らく、現在の彼の、偽らざる心境であろう。待つことを止めたクラークの、小気味よい空想力のギャロップ──ことに、第一部には、彼の、実に率直な願望が滲んでもいる──『2061年宇宙の旅』は、三倍速で未来へと急いだクラークからの、晴れやかなメッセージなのである。 [#改ページ] [#改ページ] [#(img/03/335.jpg)入る]