宇宙のオデッセイ2001 アーサー・C・クラーク 伊藤典夫 訳 [#(img/01/000a.jpg)入る] [#(img/01/000b.jpg)入る] [#(img/01/000c.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/01/001.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/01/003.jpg)入る] [#改ページ]        まえがき [#ここから3字下げ]  今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、三十人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した。  この数字は興味ぶかい。というのは、奇妙な偶然だが、われわれの属する宇宙、この銀河系に含まれる星の数が、またおよそ一千億だからだ。地上に生をうけた人間ひとりひとりのために、一個ずつ、この宇宙では星が輝いているのである。  だが、それらの星はいずれも太陽であり、うちかなりは、われわれが「太陽」と呼ぶ、すぐ近くにある小さな星よりも、はるかにきらびやかでまぶしい。そして異邦の太陽の多くは──おそらく大部分は──その周囲をめぐる惑星を持っている。だから、最初の猿人を含めた人類すべてに行きわたるだけの土地が大空にあることは確実であり、ひとりひとりが、自分用の、惑星的規模を持った天国なり地獄を所有できるわけである。  そういった仮想の天国や地獄のどれだけに、いま生物が存在しているだろうか? そして、それはどんな形態の生物だろうか? それをいいあてる方法は、われわれにはない。いちばん近い星でも、火星や金星までの距離の百万倍も遠くにあり、その火星や金星でさえ、今のところはつぎの世代の遠い目標にすぎない。だが、今や距離の壁は崩れようとしている。いつの日か、われわれは、われわれと同等の存在、もしかしたらわれわれより優れた存在と星ぼしのなかで出会うことになるだろう。  この可能性に直面するまでに、人類は長い時間を要した。なかにはいまだに、その実現を望まぬものもいる。しかし、こうたずねる人びとは多く、その数は増える一方である。 「なぜ、そんな出会いがまだおこっていないのだろう? われわれが宇宙空間に乗りだそうとしているというのに」  本当に、なぜだろうか? これは、そういったもっともな疑問に対する一つの可能な解答である。しかし忘れないように。これは、たんなるフィクションなのだ。  真実は、それが常にそうであるように、はるかに異様なものにちがいない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]A・C・C   [#改ページ] [#(img/01/007.jpg)入る] [#(img/01/008.jpg)入る] [#(img/01/009.jpg)入る] [#(img/01/010.jpg)入る] [#改ページ]  第一部 原 初 の 夜      1 絶滅への道  旱魃はもう一千万年も続き、恐竜の治世はとうに終っていた。ここ、赤道地帯、いつの日かアフリカと呼ばれるようになる大陸では、生存の戦いは新しい熾烈なクライマックスを迎えていたが、勝者はまだ現われてはいなかった。この乾燥した不毛の大地では、小さなもの、すばしこいもの、どう猛なもののみ栄えることができ、また生存の望みをつなぐことができるのである。  草原のヒトザルはそのどれでもなかったから、栄えてはいなかった。じっさい、種族的絶滅への道をすでにはるかにやってきたところにいた。およそ五十ぴきの群れが、乾いた小さな谷を見おろすいくつかのほら穴に棲んでおり、その谷の中央をのろのろと流れる小川は、二百マイル北の山脈に降った雪を、水源としていた。気候が悪いと、流れは完全に消えてしまう。だから群れは、いつも渇きの危険にさらされながら暮していた。  空腹は群れの日常だが、今それは餓死しかかっていた。夜明けの最初の明るみがほら穴に忍び入るころ、〈月を見るもの〉は、父親が夜のうちに死んだことを知った。〈老いたもの〉が父親だったと知っていたわけではない。そんな関係は、彼の理解を絶したものだった。だが痩せさらばえた死体を眺めながら、彼が感じている漠然とした不安は、悲しみの祖先となるものだった。  赤んぼうが二ひき、もう食べものほしさにすすり泣きをはじめている。だが〈月を見るもの〉が唸り声をあげると静かになった。母親の一ぴきが、満足に食べものもやれない赤子をかばうように、怒りをこめて唸り声をかえした。しかし彼には、母親のでしゃばりに平手打ちで答えるほどの力はなかった。  外は、出てもさしつかえないほど明るくなった。〈月を見るもの〉はひからびた死体を掴むと、それをひきずりながら、かがんでほら穴の大きなでっぱりの下をくぐり抜けた。外に出ると死体を肩にかつぎあげ、まっすぐ立ちあがった──これができるのは、この世界では彼の種族だけだった。 〈月を見るもの〉は、仲間たちのあいだではほとんど巨人といえた。身長は五フィートに近く、ひどい栄養不良の状態にあるものの、それでも体重は百ポンドあまりあった。毛深い筋肉質の体はサルとヒトの中間を迷っているが、頭部はもうサルよりヒトにずっと近い。ひたいは低く、眼窩の上部は大きくはりだしている。しかし体内の遺伝子は、人類の将来を約束するものをまぎれもなく宿していた。洪積世の敵意に満ちた世界を見わたすその眼差しには、サルの能力を越えた何かがすでにあった。意識の曙光──知性の最初のきざし──が、そのおちくぼんだ黒い瞳の奥にのぞいていたが、それが充分な輝きを持つまでには長い年月が必要であろうし、その前に永遠に消されてしまうかもしれないのだった。  危険の徴候は見あたらないので、〈月を見るもの〉は、ほら穴のすぐ外にある垂直に近い傾斜を這い下りはじめた。肩の荷はすこし邪魔になる程度だった。彼の合図を待っていたように、群れの残りのものたちが、岩肌を下ったところにあるそれぞれの棲みかから現われ、朝の水飲みをしようと、いっせいに小川の泥水にむかって急ぎはじめた。 〈月を見るもの〉は、〈ほかの群れ〉がいないかと谷を見わたした。しかし彼らのいる形跡はなかった。おそらく、まだほら穴を出ていないか、それともとっくに食物を求めて山腹をうろつきまわっているのだろう。いずれにしても、どこにも見えないので、〈月を見るもの〉は彼らのことを忘れてしまった。彼の頭は、同時に二つ以上のことがらを考える仕組みにはなっていなかった。  まず〈老いたもの〉を始末しなければならないが、これはあまり考える必要のない問題である。この季節は、たくさんの死者が出た。そのうちの一つは、彼のほら穴のものだった。だからこの死体も、このあいだの下弦の月のころ赤んぼうを捨てた場所においてくればよいのだった。あと始末はハイエナがしてくれるだろう。  小さな谷が扇形に広がりサバンナとなるところで、ハイエナどもはもう待ちかまえていた。まるで彼が来るのを知っていたかのようだった。彼は小さな茂みの下に死体をおくと──それまでの骨は、あとかたもなく消えていた──急いで群れのほうへかけ戻った。そして二度と父親のことは思いださなかった。  彼とその二ひきの連れ、ほかのほら穴のおとなたち、そして大部分の子供たちからなる群れは、上流の、旱魃でひねこびた木々のあいだをうろつきまわり、イチゴや、汁気の多い根や葉、ときどきたなぼた[#「たなぼた」に傍点]式にとびこんでくる小さなトカゲや齧歯類などをあさった。ほら穴に残っているのは、赤んぼうと動けなくなった年寄りだけ。一日の食料捜しのあと、余分があれば、それは彼らの口にもはいる。なければハイエナがまたもや幸運にありつくのだ。  しかし今日はよい日だった──といっても、過去の記憶と呼べるようなものは〈月を見るもの〉にはないので、ある時期を他の時期と比較して考えたわけではない。枯れた木の幹のなかにハチの巣を見つけたおかげで、彼はヒトザルが生涯に味わう最高のご馳走を賞味することができたのである。遅い昼さがり、群れを棲みかへとみちびきながら、彼はまだときどき指をなめていた。相当に刺されたのはもちろんだが、ほとんど気づいていなかった。とにかく、これ以上はなさそうなほど満足に近い状態なのだ。腹が減っているのに変りはないが、飢えて力が出ないほどではない。それは、ヒトザルが望みえる最高の幸福だった。  満足感は流れについたとたんに消えた。〈ほかの群れ〉がそこにいたのだ。毎日やって来るのだが、だからといって、うるさいのが気にならなくなるわけではない。  数はおよそ三十ぴき。〈月を見るもの〉の群れとまったく見分けはつかない。彼がやってくるのを見ると、彼らはむこう岸で、跳ねたり、腕を振ったり、叫んだりしはじめた。彼の群れも同じようにして、それに応じた。  だが、それだけだった。闘いや取っ組みあいはしばしばあるが、それが手ひどい傷を負うまでに発展することは稀にしかない。けづめも闘争用の犬歯も持たず、体は毛で充分に保護されているので、相手に大きな打撃を与えることができないのだ。いずれにしても、そんな非生産的な行為にかまけるほどのありあまるエネルギーはなかった。唸り声で脅すほうが、主張を明確にするはるかに有効な手段だった。  対立は五分ほど続き、やがて力の誇示は、それが始まったときと同様にあっけなく終った。そして全員がたらふく水を飲んだ……誇りは満足され、双方ともお互いのテリトリーを確認しあったのである。この重要な問題に決着がつくと、群れは岸に沿って動きだした。食物のあるいちばん近い草地は、今ではほら穴から一マイル以上も離れてしまい、しかもそこは、大きな、カモシカに似たけものの土地で、群れはかろうじてその目こぼしにあずかっている状態だった。けものどもを追い払うことはできなかった。なぜなら彼らは、ヒトザルにはない自然の武器、おそろしい短剣を、そのひたいに生やしていたからだ。 〈月を見るもの〉とその仲間たちにとっては、イチゴや果実や葉をかみしめながら、飢えの苦痛とたたかうのが、毎日の生活だった──周囲では、彼らの手に入れることのできる最大の食料源が、同じ餌を求めて群がっていた。だがサバンナや灌木林をかける、そういった何万トンもの汁気たっぷりの肉は手の届く存在ではなかったし、なによりも、それを食料にするという考えじたいが想像を絶していた。豊饒のまっただなかで、彼らはゆっくりと餓死への道を進んでいるのだった。  夕陽をあびながら、群れはなにごともなくほら穴へ戻った。残って待っていた手負いの雌は、〈月を見るもの〉が持ってきた、イチゴをいっぱいつけた枝に手をのばし、嬉しそうにクークーと鳴きながらむしゃぶりついた。養分はほとんどない。だがそれで、ヒョウに襲われたときの傷が直るまで生き永らえる力がつくだろうし、そうなればまた自分で食物を捜すこともできる。  谷のむこうには満月があがり、冷たい風がはるかな山脈から吹きおろしてきた。今夜は寒くなるだろう──だが寒さも、空腹と同じで、本気で心配しなければならない問題ではない。それは、生活の背景の一部にすぎないのだ。  傾斜を下ったほら穴の一つから、悲鳴と叫び声がこだまして聞えてきたが、〈月を見るもの〉はほとんど身じろぎすらもしなかった。ときたままじるヒョウの唸り声を聞くまでもなく、下で何がおこっているかはわかった。下の闇のなかでは、老いた〈白い毛〉とその家族が抵抗も空しく殺されようとしているのだ。助けることができるかもしれない、そんな考えは、彼の心にはかけらほどもうかばなかった。生存のきびしい論理はそんな空想がはいりこむ余地を与えず、抗議の声は、耳をすます山肌のどこからもあがらなかった。どのほら穴も、不幸を招かぬよう静まりかえっていた。  騒ぎは終り、ややあって〈月を見るもの〉の耳に、死体が岩の上を引きずられていく音が聞えてきた。それは、ほんの数秒間続いただけで、すぐヒョウは獲物をしっかりとわがものにした。そして、それ以上は唸り声ひとつたてず、犠牲者を軽々と口にくわえたまま、音もなく立ち去った。  これで一日二日は危険がなくなる。だが、夜をてらすあの冷たい〈小さな太陽〉が空にあるのにつけこんで、ほかの敵が動きまわっているかもしれない。小さな食肉動物なら、あらかじめ警戒さえ充分していれば、どなり声や叫び声で撃退することもできる。〈月を見るもの〉はほら穴から這いだすと、入口のわきにある巨大な丸石によじのぼり、その上にすわりこんで谷を見わたした。  これまで地上を歩いたあらゆる生物のなかで、月を見る習慣を持ったのは、ヒトザルが最初だった。覚えてはいないが、若いころの〈月を見るもの〉は、丘のむこうからのぼる青白い顔にむかって何度か手をのばし、さわろうとしたものである。  それは、とうとう成功しなかったが、大きくなって、やっとその理由を知った。まず充分高さのある木を見つけることだ。  ときには谷を眺め、ときには月に眼をあげる。だが、そのあいだも耳をすますのだけはやめなかった。一度か二度うとうとしたが、それは一触即発の注意力をひめた眠りであり、ほんのかすかな音にも目ざめる用意はできていた。二十五歳という老齢にもかかわらず、彼の肉体的機能はまだどこも衰えてはいなかった。もしこのまま幸運が続き、事故や、病気、猛獣の襲撃、飢餓を避けることができれば、あと十年は生き延びられるだろう。  危険の気配はそれ以上なく、晴れわたった寒い夜はふけていった。そして月が、文明人には見ることのできない赤道の星座のなかへゆっくりとのぼった。ほら穴の奥深く、断続的なまどろみと恐怖にみちた目ざめの繰りかえしのなかで、将来の世代にうけつがれる数々の悪夢が生みだされていた。  そして二度、どの星よりも明るい光の点が、ゆっくりと天頂にのぼり、夜空を横切って東の空へとしずんでいった。 [#改ページ]      2 新しい岩  その夜おそく、〈月を見るもの〉は不意にめざめた。一日の労苦と災難で疲れきり、ふだんよりぐっすりと眠っていたのだ。だが谷底からかすかな引っ掻くような音が聞えだすと同時に、油断なく身構えた。  ほら穴の悪臭のこもる闇のなかで体をおこし、五感を夜のなかへと広げるにつれ、恐怖がゆっくりと心のなかに忍び入ってきた。こんな音を聞くのは──すでに彼の種族のたいがいのものの倍ほども生きているのに──生まれてはじめてだった。  大型のネコ類はひっそりと近づいてくる。かりに不本意に音をたてたとしても、ときたま土が崩れるか、枝が折れるかしたときぐらいのものだ。だが、これは途切れないガリガリという音で、着実に大きくなってきた。なにか途方もなく大きな獣が、隠れようともせず、障害物などには目もくれず闇のなかを進んでいる、そんな感じだった。一度、まぎれもなく、茂みの根こそぎ抜かれる音がした。ゾウやダイノシア(ゾウに似た第三期の哺乳動物)はよくそういうことをするが、ふつう歩くときはネコ類と同じように音をたてない。  そのとき、〈月を見るもの〉には見当もつかないであろう、ある音が聞えてきた。この世界の過去において一度も聞かれたことのない音だったから無理もない。それは、石と金属がぶつかりあう音だった。       *  夜明けの光を受け、群れの先頭にたって川へと歩いていく途中、〈月を見るもの〉は〈新しい岩〉と対面した。昨夜の恐怖はほとんど忘れかけていた。はじめの物音のほかには、これといったことは何もおこらなかったからである。そんなわけで、その奇妙な物体を見ても、危険や恐怖と結びつけようとはしなかった。とにかく、それには警戒心を呼びおこすようなものは何も見あたらなかった。  物体は長方形の厚板で、高さは彼の身長の三倍もあったが、幅は両手を広げれば届くくらい狭かった。そして何か完全に透明な物質でできていた。じっさい、縁《へり》に朝日が照りはえでもしていなければ、見つけるのはむずかしかった。生涯に氷も、そればかりか澄みきった水さえ見たことのなかった彼は、このまぼろし[#「まぼろし」に傍点]と比較する天然の物体を何も知らなかった。しかし、どちらかといえば魅力的なことはたしかで、たいていの見慣れぬものには抜け目なく慎重な彼も、それほど長いあいだためらうこともなくにじり寄った。何も起らないので、手をのばし、冷たい硬い表面に触れた。  数分にわたる熟考の末、彼はすばらしい解釈に到達した。もちろん、これは岩なのだ。夜のあいだに大きくなったにちがいない。同じようなことをする植物はたくさんある──石みたいなかたちをした、白い、肉の多い植物なんかがそうで、それなどは暗いうちにするするとのびたように見えるのだ。そちらが小さくて丸いのに、こちらが大きくて、縁が角ばっているのは事実である。だが〈月を見るもの〉より後のもっと偉大な哲学者たちでも、それと同じくらい明白な相違点を見逃さざるをえない羽目になっただろう。  この卓越した一かけらの抽象的思考は、それからわずか三分か四分の後、〈月を見るもの〉を一つの推論へと導いた。彼はただちにそれを実験にかけた。白くて丸い、石みたいな植物はおいしかった(なかには、ひどい病気をおこすものもあるが)、この大きなのは……?  二、三回なめ、かじったのち、彼はたちまち失望してしまった。食べられる代物ではなかったのだ。そんなわけで、分別あるヒトザルがだれしもするように、彼もまた川へと歩きはじめた。そして、いつものとおり〈ほかの群れ〉にむかって叫んでいるうちに、透明な石板のことはすっかり忘れてしまった。  きょうの食物捜しは、ひどいものだった。食べられるものが見つかったのは、ほら穴から何マイルも行ってからだった。日中の容赦ない熱気にあたって、日かげからほど遠い場所で、体の弱かった一ぴきの雌が倒れた。仲間たちは彼女のまわりにあつまり、同情してひとしきり鳴いたが、してやれることは何もなかった。それほど疲れていなければ、運んで連れて行ったかもしれない。だが、そんな親切にまわす余分なエネルギーはなかった。置き去りにするしか方法はなく、立ち直るか死ぬかは、彼女の努力しだいとなった。  夕方、棲みかへの帰りに彼らはその場所を通りかかったが、もう骨一つ見えなかった。  夕暮の光のなかで、早出のけものを絶えず警戒しながら急いで流れの水を飲み終えると、群れはほら穴への道をのぼりはじめた。音がはじまったとき、彼らは〈新しい岩〉から百ヤードも離れていないところにいた。  やっと聞えるほどかすかな音であったにもかかわらず、それは群れを一瞬のうちに立ちどまらせた。彼らは道の途中で、口をだらしなくあけたまま麻痺したように立ちつくした。単純な、気の狂いそうなほど反復の多い震動で、それは透明な岩を中心に、聞える範囲にいたものすべてを虜《とりこ》にした。それはアフリカの大地にはじめて響く──そして三百万年ののちまで二度と響くことのない──ドラムの音だった。  律動的な震動はますます大きく、ますます執拗になってきた。やがてヒトザルたちは、いやおうない音の源へむかって夢遊病者のように動きはじめた。彼らの子孫が長い時代を経て作りだすリズムに体内の血が呼応し、ときには彼らは軽くダンスのステップさえ踏んだ。透明な石板にすっかり魅せられた彼らは、一日の労苦も、近づく闇の危険も、体のなかの飢えも忘れて、そのまわりを囲んだ。  ドラムの音は大きくなり、あたりは暗くなってきた。ものの影が長くのび、空から明るさが消えるころ、石板は輝きはじめた。  はじめ、それは不透明になり、淡いミルク色の冷光で満たされた。その表面や内部では、かたちの定かでないまぼろし[#「まぼろし」に傍点]がじらすように動いていた。それらは光と影の縞になって凝集し、やがて交叉する輻《や》のような模様をいくつも作るとゆっくりと回転しはじめた。  その輪の回転はみるみる速くなり、それにつれてドラムの響きも速さを増した。今では完全に催眠術の虜《とりこ》となったヒトザルたちは、口をだらしなくあけたまま、この驚くべき光の饗宴を見まもるばかりだった。すでに祖先の本能も、自分たちが一生をかけて学んだ知恵も忘れていた。平常なら、夕方こんなに遅く、ほら穴からこんなに遠くまで出ているものはいないのだ。周囲の茂みは、凍りついたような影と凝視する眼でいっぱいだった。夜の生きものたちにしても、つぎにおこることを見たいのだろう、仕事を一時休んでいるかたちだった。  と、回転するたくさんの光の輪が重なりはじめ、輻《や》は輝く光の縞になると、いくつかの軸を中心に回転しながらゆっくりと遠のいた。やがて縞はそれぞれ二組に分れ、できあがった筋は互いに振動しながら、交叉する角度をゆっくりと変えていった。輝く格子がからみあっては離れ、美しい、はかない幾何学的模様が生まれては消えていく。ヒトザルたちは、輝く石板に魅了されて眺め続けた。  見えない力が彼らの心を探り、肉体を走査し、反応を調べ、潜在力を計っているとは、考えもしなかった。はじめのうち群れは、半分うずくまった姿勢のまま、石と化したように身じろぎ一つしなかった。だがやがて、石板のいちばん近くにいたヒトザルが、とつぜん生気を取り戻した。  その位置からは動かなかったが、トランス状態に見られるかたさが全身から抜け、眼に見えぬ紐であやつられる人形のように動きはじめた。顔が右を向き、左を向き、口が声もなく開いて閉じ、両手がこぶしを作り、また開いた。そしてかがみこむと、長い草の茎を引き抜き、無器用な手つきでそれに結び目を作る動作をはじめた。  まるで取り憑かれたもののように、彼は自分の肉体を支配している、精霊とも悪魔とも知れないものと戦っていた。息をきらし、眼を恐怖に見開いたまま、今まで一度も試みたことのない複雑な動作をままならぬ指で必死にやりとげようとしているのだった。  あらゆる努力にもかかわらず、けっきょく彼は茎をばらばらにちぎっただけだった。切れはしが地面に落ちると、支配していた力が去り、彼はふたたび死んだように動きをとめた。  別のヒトザルが生気を取り戻し、同じ行為にとりかかった、それは、もっと若い、適応力のある被験体だったので、年長のヒトザルが失敗した動作をとうとうやりとげた。地球上で最初の粗末な結び目が作られたのである……。  ほかのものたちは、もっと奇妙な、もっと意味のないことをしていた。両手をいっぱいにのばして互いの指先を──はじめは両眼をあけて、つぎには片眼だけをあけて──くっつけようとしているもの。石板のなかの筋の模様から眼が離せないでいるもの。筋は見守るうちにつぎつぎといっそう細い筋に分れ、ついには灰色のくもりのなかに溶けこんでいった。全員の耳には、さまざまに高さの変る、純粋な一つの音が聞えていたが、それもたちまち低くなり聞えなくなった。  やがて〈月を見るもの〉の番がまわってきたが、ほとんど恐怖を感じなかった。自分のものでもない命令に従って筋肉を動かし、四肢をあやつりながら、彼が感じているのは鈍い怒りだった。  わけもわからずに、彼はかがみこむと小さな石を拾いあげた。体をおこしたとき、石板のなかには新しい画像がうつっていた。  格子や、動き、踊る模様は消えていた。代りにそこには、同心円がうかびでており、中心には黒い小さな円盤があった。  頭脳内部の無言の命令を受けて、彼は無器用なオーバーハンドで石を放った。石は的から何フィートか外れた。  もう一度、と命令が伝わった。彼はあたりを捜し、また一つ石を見つけた。今度の石は石板にあたり、鈴のような音が響きわたった。まだ的からはほど遠いが、狙いは前よりもよい。  四回目の試みで、石は的の黒点からほんの数インチのところまで行った。ほとんど性的な快感に近い、名状しがたい喜びが、心のなかに満ちあふれた。つぎの瞬間、支配はゆるみ、衝動は消えた。それ以上することは何もなく、彼は立ちつくして待った。  群れの全員が、つぎつぎと短い時間、とり憑かれた。成功するものもいたが、大部分は与えられた仕事に失敗し、それぞれがその成績に応じた快感や苦痛の褒美をもらった。  巨大な石板は、今では濃淡も模様もない光をはなっているだけで、闇のなかに焼きつけられた光のブロックと化していた。ヒトザルたちは、まるで眠りからさめたように首をふると、棲みかへと歩きだした。彼らを棲みかへ──そして未知の未来へ、さらに星へすら導くであろうその不思議な光を、彼らはいぶかりもしなかったし、ふりかえって見ようともしなかった。 [#改ページ]      3 学  校  透明な岩の催眠術に似た魔力が消え、実験が終ると、〈月を見るもの〉とその仲間たちは、彼らが見たことをすっかり忘れてしまった。翌日、食物捜しに出かける途中で、そのそばを通りかかったが、かえりみるものはなかった、食べられるものではないし、むこうもこちらを食べようとはしない。よって重要ではないのだった。  川へ着くと、〈ほかの群れ〉がいつものとおりあまり効果のない嚇しをかけてきた。その頭目は、〈月を見るもの〉と同じくらいの年齢と体格をした、だが栄養状態のもっと悪いヒトザルで、それなどは群れのテリトリーへすこしのあいだ侵入さえ企て、大声で叫んだり腕を振ったりしては相手方を威嚇し、勇気を誇示しようとした。流れは、どこをとっても一フィート以上深くはない。だが進むにつれ、〈片耳〉の動作はおぼつかなく、不安げになった。まもなく足をとめると、大げさな威厳を見せて仲間のところへ引き返していった。  それを除けば、何も変ったことのない一日だった。群れは翌日までもちこたえるだけの養分を手に入れたし、死者は出なかった。  その夜も、透明な石板は、脈動する光と音に包まれて待っていた。それが作りだすプログラムは、だが、わずかに違っていた。  ヒトザルの何びきかを、それは完全に無視した。いちばん有望な被験体だけに努力を集中したかのようだった。〈月を見るもの〉もその一ぴきで、ふたたび彼は、せんさく好きの触手が忘れられかけた頭脳のわき道を探るのを感じた。やがて彼は幻覚を見はじめた。  それは透明な石坂の内部に見えたのかもしれないし、心のなかだけに見えたのかもしれない。いずれにしても〈月を見るもの〉には、それは現実そのものだった。だが、自分のテリトリーに侵入するものを追い払おうとするふだんの自動的な衝動は、なぜか湧きあがってこなかった。  彼が見ているのは、和気あいあいとしたヒトザルの家族集団だったが、それはある一点で彼の知っている情景と違っていた。眼前に謎のように現われたヒトザル夫婦と二ひきの子は、たらふく食物を食べ、満足しきっているらしく、体毛などなめらかでつやつやしているのだった──それは〈月を見るもの〉が想像したこともない生活様式だった。無意識に、彼は出っぱった自分のあばら骨にさわった。そちらの[#「そちらの」に傍点]生きもののあばら骨は、だぶだぶした脂肪の下に隠れている。ほら穴の入口に気持よさそうによりかかり、おりにふれ、ものうげに身じろぎする。外界の危険は見たところないらしい。大柄の雄は、ときどき満足そうに大げさなげっぷをしていた。  ほかにこれといった動きはなく、五分後その情景はとつぜん消えた。あとは、透明な石板が闇のなかにぼんやりと輪郭をうかびあがらせているばかりだった。〈月を見るもの〉は夢からさめたように体をふるわせると、不意に自分のいる場所に気がつき、群れをひきいてほら穴へ帰った。  自分が見たものを意識しておぼえていたわけではない。だがその夜、寝ぐらの口にすわって考えながら、外界の物音に耳をすませていた彼は、生まれてはじめて、新しい力強い感情のかすかなうずきが内におこるのを感じた。それは、羨望と──そして、今の生活の不満から来る、ぼんやりした、とりとめのない思いだった。その理由などは思いもよらなかったし、改善策にいたってはなおさらだった。しかし彼の心のなかには不満が芽ばえ、彼は人間性へむかって小さな一歩を踏みだしていた。  四ひきの太ったヒトザルの情景は、夜ごとにくりかえされた。ついにはそれは、激しい憤りを憑かれたように生みだす源となり、〈月を見るもの〉の絶えまない苦痛をいやがうえにも増す役目を果した。眼に映った証拠だけでは、これだけの効果は作れない。心理的な補強も加えられた。〈月を見るもの〉は覚えてはいないが、彼の単純な頭脳を構成する原子が新しいパターンにねじまげられて以来、彼の生活にはいくつもの矛盾が生まれていた。もし彼が生き残れば、そのパターンは永遠のものとなるはずだった。なぜなら遺伝子が、それを後の時代に伝えるであろうからだ。  ゆっくりした退屈な作業だったが、透明な石板は忍耐強かった。その石にしても、惑星表面の半分にちらばったその複製にしても、実験を行なった何十もの集団のすべてで、所期の目的が成功するとは考えていなかった。一つの成功例が世界の運命を変えられるものなら、百の失敗は問題ではないのだ。  つぎの新月のころまでに、群れでは一つの誕生と二つの死があった。死の一つは飢えによるもので、もう一つは、夜ごとの儀式のさいに起った。二つの石を慎重に打ちあわせている最中、一ぴきのヒトザルがとつぜん倒れたのだ。透明な石はたちまち暗くなり、群れは呪詛から解放された。だが倒れたヒトザルは動こうとせず、翌朝には、もちろん死体はなくなっていた。  つぎの夜には仕事はなく、透明な石はまだ誤りの分析を続けていた。迫りくる闇のなかを、群れは石の存在を完全に無視してぞろぞろと通りすぎた。翌日の夜には、それはまた用意を整えて待っていた。  四ひきの太ったヒトザルはあいかわらずそこにいたが、今夜の彼らは驚くべきことをしていた。 〈月を見るもの〉の体は、抑えきれないほど激しく震えはじめた。頭脳が破裂しそうに思え、眼をそむけたかった。だが冷酷な思考コントロールは、呪縛をいっこうに解こうとはせず、全本能が抵抗しているにもかかわらず、最後までレッスンを続けることを強要した。  本能も、祖先のころにはうまくその役目を果してきた。暖かい雨が降り、草木がみずみずしく豊かに繁茂していた時代で、食物はどこでも見つけることができた。今は時代が違う。過去から受け継がれてきた知恵は、愚劣なものとなりはてた。ヒトザルも適応しなければならない。さもなければ死ぬのだ──彼らよりも先に死に絶え、いま石灰岩の山々のなかにその骨が封じこめられている大型の生物と同じように。 〈月を見るもの〉は透明な石をまたたきもせず見つめ、まだ不確かな指があけはなたれた頭脳をまさぐるにまかせていた。吐き気がしばしば起るが、常に変らないのは飢えだった。ときどき彼の両手は、新しい生活様式を決定するもととなるかたちに無意識のうちに握りしめられていた。       *  イボイノシシの行列があたりをフンフン嗅ぎ、唸りながら通り道を横切っていくのを見て、〈月を見るもの〉は不意に足をとめた。イボイノシシとヒトザルはそれまで常に相手の存在を無視してきた。両者のあいだには、利害の衝突は何もなかったからである。食物の異なる動物がたいていそうであるように、互いの生活に干渉しないのが、彼らのあいだに取り決められた無言の約束だった。  しかし今、イボイノシシの群れを眺めて立ちつくす〈月を見るもの〉の体は、心をきめかねるように前後に揺れていた。理解できない衝動が、彼を内からゆさぶっているのだった。やがて、まるで夢のなかにいるように、彼は地面を捜しはじめた──何を捜しているのか、たとえ話す能力があったとしても、説明できなかったにちがいない。それが眼にはいったとき、はじめて彼は知った。  長さ六インチほどの重い、とがった石で、しっくりと手にはおさまらなかったが、充分役には立ちそうだった。腕をふりまわし、石が急に重くなったのに当惑しながらも、彼は力と自信が内にわきあがるのを心地よく感じていた。そして、いちばん近くにいたイボイノシシにむかって歩きだした。  それは、イボイノシシの貧弱な知能水準にも劣るような、若い愚かものだった。視野の片隅で彼が近づくのを見てはいたのだが、危険を感じたときには、もう遅すぎた。あれほど無害だった生きものに悪意があることを、どうして予測できよう? それが草を抜くのに専念しているとき、〈月を見るもの〉の石の槌がふりおろされ、そのおぼろな意識を抹殺した。屠殺があまりにも速やかに音もなく行なわれたので、残りのイボイノシシはそのまま無関心に草を食べつづけた。  ほかのヒトザルたちは眺めるのをやめ、称讃と驚きの眼で、〈月を見るもの〉とその獲物のまわりを取り囲んだ。やがて一ぴきが血にそまった武器を拾いあげ、死んだ動物を叩きはじめた。残りのものも、あたりにある棒や石を拾って仲間に加わり、攻撃は死体のかたちが崩れはじめるまで続けられた。  それに飽きると、何びきかはそこを離れた。残りは心をきめかねるように崩れた死体のそばに立ちつくしていた──世界の将来は、彼らの決心いかんにかかっているのだった。驚くほど長い時間の後、子をつれていた雌の一ぴきが、両手に持っていた血まみれの石をなめはじめた。  それだけ証拠を見せつけられながら、彼らが飢えから逃れられることに〈月を見るもの〉が気づいたのは、それからさらに長い時間がたってからだった。 [#改ページ]      4 ヒ ョ ウ  彼らに与えられた道具類は単純なものだった。だがそれには、この世界を変え、ヒトザルをその支配者にする力がひめられていた。いちばん原始的なのは手に持つ石で、それは殴る力を何十倍も強めた。つぎは骨の棍棒で、それは腕のリーチをのばし、怒り狂う動物の牙や爪をある程度防ぐ役目を果した。これらの武器により、サバンナを動きまわる無尽蔵の食料は彼らのほしいままになった。  しかし、ほかの補助的な道具も必要だった。なぜなら彼らの歯や爪は、ウサギ以上の大きさの生きものを解体するようにはできていなかったからである。幸いなことに、自然は完璧な道具を用意していた。それを拾いあげる機転さえ持ちあわせていればよいのだった。  はじめは、粗末な、だが利用価値の非常に高いナイフというか鋸で、それはこれからのち三百万年のあいだ立派に役にたつ道具の原型となった。早くいえば、歯がついたままのカモシカの下顎である。はがねの出現まで、それには実質的な改良はまったく必要ないのだった。やがて、ガゼルの角のかたちをとった突錐《つきぎり》というか短剣が登場し、最後にほとんどすべての小動物の完全なままの両顎から作った削り道具が現われた。  石の棍棒、歯の鋸、角の短剣、骨の削り道具──これらはヒトザルが生き残るために発明した驚異の道具だった。まもなく彼らは、そういったものが本来持っている権威の象徴としての役割に気づくのだが、無器用な指がそれらを使いこなせるだけの技術──あるいは意志──を持つのは、さらに何ヵ月かの月日が必要だった。  時間を与えられていれば、自然の武器を人工の道具に利用するという恐ろしい、そしてすばらしい考えに、ヒトザルは独力で到達していたかもしれない。しかし、これまでの歩《ぶ》はすべて裏目に出ていた。これからでさえ、失敗の機会は無限にあるのだった。  ヒトザルたちには、すでに最初のチャンスは与えられた。もうチャンスを与えられることはない。今、未来は文字通り、彼らの手中にあるのだった。       *  月は満ち、欠けていった。赤んぼうたちが生まれ、ときには生き永らえた。弱った、歯の抜けた三十歳の年寄りが死んだ。ヒョウが夜のうちに群れの何びきかを殺した。〈ほかの群れ〉は対岸から毎日のように嚇しをかけてきた。──だが群れは栄えた。まる一年がすぎるうちに、〈月を見るもの〉とその仲間たちは以前とは見分けもつかぬほどすっかり変ってしまった。  彼らはレッスンを見事に習得した。目の前に提出された道具のすべてを操ることができるようになっていた。飢えの記憶そのものが、心のなかで薄れかけていた。イボイノシシは臆病になったが、平原には、ガゼルやカモシカやシマウマが何万頭となく群れている。これらの獣や、ほかのさまざまな生きものが、見習い狩人の獲物となった。  飢餓による麻痺したような生活を脱した彼らは、余暇と思考のかすかなきざしをもてあそぶ時間を持った。新しい生活様式は当然のことのように受けいれられ、それが、川へ行く途中の道に今もなお立っている透明な石板と関係あろうとは、考えもしなかった。たとえこの問題に考えを向けたとしても、自分たちの努力で今の地位を築いたのだと自慢するだけだったろう。事実、今の彼らは、ほかの生活をすっかり忘れていた。  しかし完全なユートピアは存在しない。この社会にも二つの欠点があった。一つは血に飢えたヒョウで、ヒトザルたちの栄養状態がよくなってからというもの、ますます執拗につけ狙いだしているようなのだ。もう一つは、川むこうの群れ。〈ほかの群れ〉もなぜか生き残っており、頑固に餓死を拒んでいるのである。  ヒョウの問題は、半分は偶然から、半分は〈月を見るもの〉の側の重大な── じっさいほとんど致命的な──過失から、解決された。しかし彼の思いつきは、そのときにはたしかにすばらしいものに思え、嬉しさのあまり踊りだしたほどであったから、結果を見逃したとしても、やむ考えなかったといえるかもしれない。  群れはそれでも、ときどき食物のない日にあっていた。しかし、それももはや群れの存在そのものをおびやかすほどではなくなっていた。その日、群れは夕方までに一頭の獣も殺すことができず、〈月を見るもの〉は疲れた不機嫌な仲間たちを引きつれて、棲みかのほら穴が見えるところまでやってきた。するとその通り道に、自然の創りだした稀にみる大物が見つかったのだ。  成熟したカモシカが、通り道のかたわらに横たわっている。前足が折れているが、闘志はまだ充分に残っているらしく、周囲をまわるジャッカルどもも短剣のようなその二本の角を敬遠していた。ただ、待ち時間はたっぷりあり、時間をかければよいことを彼らは知っているのだった。  しかし競争相手が出ることまでは、彼らも考えていなかった。ヒトザルたちが到着すると、ジャッカルどもは怒りをこめた唸り声をあげながら退却した。はじめは、危険な角を警戒して、ヒトザルたちもカモシカのまわりを注意ぶかく回っているだけだったが、ほどなく棍棒や石を持って攻撃にうつった。  攻撃は、それほど効果的でもなければ、秩序だってもいなかった。だからその哀れな獣に死が訪れるころには、光はほとんど消えかけ、ジャッカルどもが大胆さを取り戻しはじめていた。恐怖と飢えのあいだを逡巡しながら、〈月を見るもの〉は、この努力が無駄に終るかもしれないことにゆっくりと思いあたった。これ以上の長居は危険だ。  そのとき、またも彼の天才が発揮された。とほうもない想像力をはたらかせて、彼は、自分のほら穴のなかに[#「自分のほら穴のなかに」に傍点]横たわるカモシカの死体を心に描いたのだ。彼はそれを崖にむかって引きずりはじめた。やがて仲間もその意図を理解し、力を貸した。  それがどれほど面倒な仕事か知ってさえいたら、決して試みなかっただろう。険しい傾斜を引きずりあげるのに成功したのは、ひとえに、彼の馬鹿力と、樹上に住んでいた祖先から受け継いだ敏捷さによるものだった。  何回か挫折感にすすり泣きながら、獲物を放りだしそうになった、しかし空腹と同じくらい、心のなかに深く根をおろした強情さが、彼をせきたてた、仲間たちは手を貸しもしたが、妨害することもあり、何の気なく道に立ちふさがることなどはしょっちゅうだった。だがとうとう作業は終り、太陽の最後の光が空から消えるころ、傷だらけのカモシカはほら穴の入口に引きずりあげられた。そして祝宴がはじまった。  何時間か後、満ちたりた気分で〈月を見るもの〉は目ざめた。なぜかはわからない。だが、同じように満腹して寝そべっている仲間たちを尻目に闇のなかで体をおこすと、聴覚を夜のなかへ広げた。  周囲の重い息づかいのほかには何も聞えない。世界は眠りこんでいるように思える、ほら穴の口のむこうにある岩は、頭上高く輝く月の明るい光に照らされて、乾いた骨を思わせる青白い色をしている。危険は無限のかなたにあるようだった。  そのとき、遠くから小石の落ちる音が聞えてきた。恐怖も好奇心には抗しがたく、〈月を見るもの〉はほら穴の縁に這いだして、崖を見おろした。  そこに見たものは、彼をすくみあがらせた。あまりにも恐ろしかったので、長い時間、動けないでいたほどだった。わずか二十フィート下で、二つの金色に輝く眼が見上げていたのだ。その眼に心を奪われていたため、そのうしろにある、しなやかな、斑点のある体までは見えなかった。それは、音もなく、流れるように岩から岩へと動いているのだった。  ヒョウがこれほど高くまで登ってきたのは、これまでにないことだった。下のほら穴に住民がいることは充分承知の上だろう。それでも、ここまで登ってきたのだ。狙っている獲物は、ヒトザルではない。それは、月光に洗われた崖にこびりついている血の跡を追ってやってきたのだ。  数秒の後、上のほら穴のヒトザルが警戒の叫びをあげ、あたりは恐ろしい夜に変った。奇襲の機会を逸したとみると、ヒョウは威嚇の唸り声をあげた。そして、ためらいもなく進撃を開始した。敵がないことを知っていたからである。  それはほら穴の縁に辿りつき、狭い入口の前ですこし体を休めた。血のにおいは一帯にただよっており、その兇暴な小さな頭脳を圧倒的な欲望でみたした。  そこでヒョウは、最初の過ちをおかした。夜の闇に見事に適応した眼であったが、月光の下から暗がりに侵入したので、つかのま立場が不利になったのだ。一方、ヒトザルたちにはヒョウの姿が見えた。ほら穴の入口からはいってくる光で一部輪郭が見えるので、ヒョウに比べてずっと有利だった。ヒトザルたちは怯えてはいたが、手も足も出ない状態からはほど遠かった。  自信たっぷりに、尊大に唸り声をあげ、尾を振りながら、ヒョウはやわらかい肉を求めて前進してきた。野外で獲物に出会っていたのなら、何の問題もなかったにちがいない。しかし出口をふさがれたヒトザルたちは、死にもの狂いになっていた。それが彼らに、不可能なことを試みる勇気を与えた。しかも、それを成し遂げるだけの道具を、彼らははじめて持っていたのである。  頭に強烈な一撃が加えられた瞬間、ヒョウははじめて事が自分の思いどおりに運んでいないのに気づいた。前足を振ると、爪がやわらかい肌を引き裂き、ほら穴の奥から苦痛の悲鳴があがった。だがすぐ横腹に、何かするどいものがつきたてられ、すさまじい痛みが起った──一度、二度、そして三度。ヒョウは、両側で叫び、踊るいくつもの影にむかって体をかえし、攻撃した。  ふたたび鼻柱に激しい一撃が加えられた。白い動くものにかぶりついたが、乾いた骨をかみ砕いただけだった。そして最後には、信じられぬほどのはずかしめだが──尻尾が根元から引きぬかれる激痛が襲った。  それは体をかえし、正気とは思えない大胆な敵をほら穴の壁にむかってつきとばした。しかし何をしようと、無器用な、だが強力な手に密着した粗末な武器が創りだす打撃の雨は防ぎきれなかった。唸り声は苦痛から驚きへと音程を変え、さらに驚きから恐怖へと変っていった。無慈悲なハンターの立場は逆転し、今やヒョウは死にもの狂いで退却を試みていた。  だがそれは、そこで二度目の過ちをおかした。驚きと恐怖のあまり、自分のいる場所を忘れていたのかもしれない。でなければ、頭上から降りそそぐ打撃の雨に眼がくらんでいたのだろう。理由はいずれにせよ、それはいきなりほら穴からとびだしていた。  崖を落下していくあいだ、恐ろしい叫びが聞えていた。長い年月がたったように思えるころ、崖の途中の突出部に体がぶつかるドスッという音が聞えてきた。それ以後は小石がころがる音だけとなり、それもたちまち夜のなかに吸いこまれるように消えた。  長いあいだ、〈月を見るもの〉は勝利に酔いしれて、ほら穴の口で踊りながら、わけのわからない唸り声をあげていた。彼は全世界が一変したことに気づいていた。もはや彼は周囲から加えられる力の無力な犠牲者ではないのだった。  やがて彼はほら穴へ戻り、生まれてはじめて、さまたげられることのない夜の眠りを味わった。       *   翌朝、彼らは崖の下でヒョウの死骸を見つけた。死んでいるのは確かだったが、しばらくのあいだは、だれもしとめた怪物に近づこうとはしなかった。しかしやがて、骨のナイフや鋸を手に、そのまわりを取り囲んだ。  作業は相当に辛いものだったので、その日、彼らは狩りに出かけなかった。 [#改ページ]      5 夜明けの出会い  明けがたの薄暗い光のなかで、群れの先頭に立って川へとむかう途中、〈月を見るもの〉はなじみの場所でいぶかしげに立ちどまった。何かが欠けていることはわかったのだが、何であるかは思いだせなかった。彼は問題をそれ以上考えてはいなかった。今日はほかにもっと重大な用事があるのだった。  雷、稲妻、雲、日蝕、そういったものと同じだった。巨大な透明のブロックは、それが現われたときと同様に忽然と消えていた。存在しない過去に消失したそれは、二度と〈月を見るもの〉の心をかき乱すことはなかった。  それが何をしたかは知るはずがない。朝霧のなかで彼を取り囲んだ仲間たちも、なぜ彼が川へ行く途中、そこで立ちどまったのか考えようとはしなかった。       *  流れのむこう側、いまだ侵されたことのないテリトリーのなかで、〈ほかの群れ〉は、〈月を見るもの〉以下十ぴきあまりの雄たちを、夜明けの空を背景に動くいくつかのしみ[#「しみ」に傍点]として最初に認めた。彼らはすぐ叫びをあげ、いつもの挑戦をはじめたが、きょうは応答がかえってこなかった。  着実な足どりで、いわくありげに──そして何よりも、黙々と[#「黙々と」に傍点]──〈月を見るもの〉とその一党は川を見おろす低い丘をおりてきた。相手が近づくにつれ、〈ほかの群れ〉は静かになった。儀式的な怒りは薄らぎ、高まる恐怖がそれにとってかわった。何かが起ったこと、そしてこれが今まで前例のない出会いであることに、うすうす気づいていた。 〈月を見るもの〉の一党が手にしている骨の棍棒やナイフは、彼らの警戒心を呼び起しはしなかった。その用途は、理解を絶したものだったからだ。相手がたの動きに決意と威圧感があることだけは気づいていた。  一党が水ぎわでとまったので、つかのま〈ほかの群れ〉も勇気を取り戻した。〈片耳〉にひきいられ、彼らは気のなさそうに戦いの歌をはじめた。それは数秒間続いただけだった。つぎの瞬間、恐ろしい光景が彼らを立ちすくませた。 〈月を見るもの〉が両手を高だかとあげたので、それまで仲間たちの毛深い体に隠れていた荷物が見えるようになったのだ。彼は太い枝を持っていた。それに串刺しになっているのは、ヒョウの血まみれの頭部だった。その口は棒でこじあけられ、巨大な牙がのぼる朝日の最初の光に照らされて、白く、なまなましく輝いていた。 〈ほかの群れ〉の大部分は恐怖のあまり動けないでいたが、そうでない何びきかは、つまずきながらゆっくりと退却をはじめた。 〈月を見るもの〉を勇気づけるには、それで充分だった。血まみれの戦勝記念品を頭上高くかかげたまま、彼は流れをわたりはじめた。一瞬のためらいの後、仲間たちも水しぶきをあげてあとに続いた。 〈月を見るもの〉がむこう岸に着いたときも、〈片耳〉はまだはじめの場所に立ちつくしていた。勇敢すぎたのか、愚かすぎたのか、それともこの暴挙がじっさいに行なわれているとは信じられなかったのか。臆病者だったにしろ英雄だったにしろ、結果はつまるところ大差はなかった。事態を呑みこむ以前に、ヒョウの死んだ首が彼の頭にふりおろされたからである。  恐怖のあまり悲鳴をあげながら、〈ほかの群れ〉は茂みのなかへ散っていった。しかしそのうち戻るだろうし、そのときには死んだ頭目のことを忘れているにちがいない。  数秒のあいだ、〈月を見るもの〉は心を決めかねるように新しい犠牲者の上に立ちはだかり、死んだヒョウがヒトザルを殺すという、不思議な、しかしすばらしい事実を一生懸命把握しようとしていた。  今や彼は世界の支配者なのだ。だが、これから何をするかとなると、さっぱり見当がつかないのだった。  だが、そのうち思いつくだろう。 [#改ページ]      6 ヒトの進化  新しい動物が地上を闊歩しはじめた。それは、アフリカの中心部から周囲へゆっくりとひろがっていった。まだ数はあまりにも少なく、粗雑な統計では、海や陸に満ちあふれた何倍、何十億もの生物の影にかくれて見逃してしまいかねない。将来の繁栄を約束する証拠もなく、生き残るかどうかも今のところ怪しい。多くの強大な生物の滅亡をみたこの世界で、その運命はまだ秤の上を微妙に揺れ動いている状態だった。  透明な石板がアフリカにおりて十万年のちも、ヒトザルは何も発明していなかった。しかし彼らは変貌をはじめており、ほかの動物にはない技術を持つようになっていた。骨の棍棒は長くなり、彼らはいっそう強くなった。もはや、競争相手の食肉動物に対して無防備ではなかった。彼らより小さな獣が獲物を横取りしようとやってきても、簡単に追い払うことができるようになった。大きな獣でも、最小限、意気を阻喪させるぐらいのことはでき、ときには退散させることもできた。  彼らのがっしりした歯は、それがやがて必要不可欠のものでなくなると小さくなった。それにとってかわったのは、根を掘りおこしたり、強靭な皮や繊維を引き裂くときに有利な、縁のとがった石で、これははかり知れぬ結果を生んだ。歯がそこなわれたり、すりきれたりして餓死する危険がなくなったのである。もっとも粗末なそんな道具でさえ、彼らの人生を何年も引きのばす役目を果した。牙がなくなるにつれ、彼らの顔かたちは変りはじめた。鼻口部が後退し、いかつい顎は優美なかたちをとり、口は微妙な音声を作りだせるようになった。言語はさらに百万年も先のことだったが、それにむかって最初の一歩が踏みだされたのである。  やがて世界は変りはじめた。二十万年の間隔をおいて、四つの巨大な波となって氷河期が襲い、地球全体にその痕跡を残した。熱帯以外の地方では、氷河が故郷を早々と離れたものたちを殺し、いたるところで適応できない生物をふるいわけていった。  氷河が去ったとき、惑星上にいた前時代の生物は──ヒトザルも含めて──ほとんど消え去っていた。しかしヒトザルがそういった生物と一つ違っているのは、子孫を残したことだった。彼らは絶滅したわけではない──違うかたちに生まれ変っていたのだ。道具そのものが、道具を作ったものたちを作りかえたのである。  棍棒や鋭利な石を使ううち、彼らの手は動物界のどこにも見いだすことのできない器用さを持つようになった。その結果、さらに高度の道具を作りだすことが可能になり、それにつれ彼らの四肢や頭脳はいっそう発達していった。それは加速度的な、累積的なプロセスであり、その行きつくところはヒトであった。  最初の真の人間は、道具や武器の点では、百万年前の祖先と比べて大した進歩はしていなかった。だが、それらを使いこなす技術だけは、はるかに優れたものになっていた。また、すぎさった何百世紀かのあいだに、彼らはもう一つ、何にもまして重要な道具、見ることも触れることもできない道具を発明していた。話すことを覚えたのである。それは、時間に対する最初の大きな勝利だった。一つの世代の知識をつぎの世代にうけわたすことが可能になり、古い知識の上に新しい知識がつみ重ねられていった。  現在しか知らない動物と違って、ヒトは過去を手に入れた。そして未来へと手さぐりをはじめた。  ヒトはさらに自然力を制御することを覚えた。火を手なずけることにより、ヒトは工学技術のいしずえを築きあげ、けものの血筋に別れをつげた。石は青銅に席をゆずり、青銅は鉄に席をゆずった。狩猟のあとには農耕がきた。群れは村となり、村は町となった。言語は、石や粘土やパピルスに記号を刻みつけることで永久的になった。やがてヒトは哲学と宗教を発明した。そして、正確にはこれは誤りともいえなかったが、大空を神々の棲みかと信じた。  肉体が無防備になるにつれ、ヒトの攻撃手段はますます恐ろしいものに変っていった。石と青銅と鉄と鋼《はがね》で、突き刺し、切り裂く武器はひととおり揃い、さらにヒトは遠くから獲物を倒す手段をごく初期のうちに生みだした。槍、矢 銃、そして最後には誘導弾で到達距離は無限にのび、ヒトは無限の武力を握った。  これらの武器がなかったなら、もちろん自分自身に対して使うこともしばしばだったが、ヒトはとうてい世界を征服できなかっただろう。ヒトはそれらに自分の魂を吹きこみ、それらも長いあいだ主人に忠実につかえてきた。  しかし今やそれらが主人であり、ヒトは借りた時間をこの地上で生きているのだった。 [#改ページ] [#改ページ]  第二部 T M A 1      7 特 別 飛 行  地球を離れるのはこれで何度目かわからないが、感激はいっこうにさめないものだ、とへイゥッド・フロイド博士は思った。火星へは一度、月へは三度、各種の宇宙ステーションへは数えきれないくらい行っている。それでも離陸の瞬間がまぢかになると、全身の緊張が高まり、驚きや畏怖──そして、そう、不安──が内に生まれているのに気がつく。これでは、宇宙空間の最初の洗礼を受ける田舎ものとすこしも変りはない。  大統領との深夜の打合わせの後、彼をワシントンから急送してきたジェット機は、世界中でもっとも知られた、それでいてもっとも胸おどらせる景観の一つにむかって、いま高度をさげつつあった。そこ、フロリダ海岸のさしわたし二十マイルの土地には、宇宙時代の最初の二つのジェネレーションが展開していた。南側、明滅する赤い安全灯に縁どられて見えるのは、サターンやネプチューンの巨大なガントリー群。人類が惑星へと進出する足がかりとなったそれらも、今では歴史の一部となってしまった。  地平線近く、フラッドライトの光をあびて、きらめきながらたつ銀色の塔は、最後のサターン5型。もう二十年近くのあいだ、国家的記念碑として、また巡礼の地として、その役割を果してきたものだ。それほど遠くないところで、人工の山のように空を背につきでているのは、垂直組立て塔。単一の建造物としては、いまだに地上でいちばん大きい。  だが、これらは今では過去のものであり、彼は未来へむかって飛んでいるのだった。機が傾くにつれ、フロイド博士の下には入り組んだ建築群が見えてきた。続いて、広々とした滑走路。さらに、平坦なフロリダの風景に刻みつけられた太い一直線の傷跡──大規模な|発 射 軌 道《ローンチング・トラック》の何本ものレールである。そのつきあたりは光の洪水で、中央にいくつもの運搬車や、ガントリーに囲まれてきらめく|宇 宙 機《スペースクラフト》があり、星ぼしへの跳躍の準備が進められている。  速度と高度の変化が急であったため、とつぜん遠近感が狂い、フロイドは宇宙機を、懐中電灯の光のなかにうかびあがった小さな銀色の蛾《が》と錯覚した。だがすぐに、地上を動きまわる小さな人影が、宇宙機をじっさいの大きさに引き戻した。狭いX字形をした両方の翼のあいだは、二百フィートはあるにちがいない。  しかもこの巨大な建物は、とフロイドは半信半疑の気持で──そしてまた、すこし誇らしい気持で思った──自分を待っているのだ。彼の知るかぎり、たった一人の人間を月へ送り届けるために飛行が計画されたのは、これが最初なのである。  午前二時という時間なのに、記者やカメラマンの一団が、光のなかにうかびでたオリオン3型宇宙機へむかう彼の行手をさえぎった。知っている顔もいくつかあった。アメリカ宇宙飛行学会議の議長をつとめる彼には、記者会見は生活の一部だったからである。  今はそんなことをしている場合ではないし、彼としても、いうべきことは何もなかった。だが、報道メディアの代表諸氏の反感をかってもいけないのだ。 「フロイド博士ですか? アソシエーテッド・ニューズのジム・フォースターです。この飛行について、お話をうかがいたいのですが」 「申しわけないがね──何もいえないんだ」 「しかし、さっき大統領と会ったのはたしかだね?」と聞きなれた声がたずねた。 「ああ──おはよう、マイク。ベッドから引きずりだされてきたんだろう。残念だが、無駄骨だったな。ノー・コメントだ」 「月でなにか伝染病が発生したという噂が流れているんですが、せめてイエスかノーだけでも話してください」  そうきいた一人のテレビ記者は、フロイドをこづくようにして、小型テレビ・カメラのレンズのなかに入れた。 「残念だがね」とフロイドはいい、首をふった。 「基地隔離についてはどうなんですか?」と別の記者がきいた。「いつまで続くんですか?」 「それもノー・コメント」 「フロイド博士」  小柄な女流記者が断固とした態度でつめよってきた。 「月からの通信が完全に途絶していますけど、これをどう弁明されますか? 世界状勢とつながりがあることなんですか?」 「世界状勢って、どんな?」フロイドは冷淡にききかえした。  笑い声があちこちでおこり、だれかが搭乗ガントリーの避難所へとむかう彼のうしろから、「道中ご無事で、博士!」と声をかけた。  彼が覚えているかぎりでは、世界状勢は「状勢」というよりも、恒久的な危機といえた。一九七〇年以来、世界は二つの問題をかかえこんでおり、皮肉なことに、両者が互いを消す方向にはたらいているのである。  産児制限は安価で、確実性もあり、主要な宗教はすべてそれを奨励したが、実現するのが遅すぎた。現在、世界人口は六十億──その三分の一が中国にあるのだった。独裁国家のいくつかでは、一世帯の子供を二人に制限する法律が議会を通過したが、施行後もすこしも効果がないことがわかった。  結果は世界的な食料難で、アメリカ合衆国でさえ肉のない日が続くようになり、海を農場化し合成食料を開発しようとする悲壮な努力にもかかわらず、十五年以内に大規模な飢饉が予測されるまでになっていた。  今までにないほど国際間の協力が必要とされているのに、世界にはまだ前時代的な辺境が多く残っていた。百万年を経た今でも、人類は攻撃的本能をほとんど失ってはいず、政治家だけにしか見えない象徴的な境界線を隔てて、三十人の核保有国家が不安げな眼でお互いを虎視たんたんと監視しているのだった。どの国も、惑星の全表面地殻を吹きとばすのに充分なメガトン数を保有している。これまでは──奇蹟的にも──核兵器が使用されたことはなかったが、この状勢が永久に続くとは考えられない。  そこへ最近になって、中国が、彼らにしかわからない不可解な理由で、持たざる[#「持たざる」に傍点]小国家に五十基の核弾頭とその発射装置からなる戦力を提供しはじめたのだ。価格は二億ドル以下であり、条件は場に応じてゆるくすることができた。  彼らはたぶん、いくつかの観測筋が見るように、旧式の兵器を正金《しょうきん》にかえて、沈滞した経済を支えようとしているだけかもしれない。でなければ、そのような玩具をもはや必要としない高度に進んだ戦争手段を発明したのだ。  衛星に搭載した送信機からの無線催眠、脅迫観念をひきおこすビールス、彼らだけが解毒剤を握っている人工の病気による脅迫、そういったものの噂が人びとの口にのぼっていた。これらの魅力的なアイデアが、プロパガンダもしくはたんなる空想にすぎないことはほとんど確実である。しかし、その可能性をさしひいてしまうことも、またできないのだ。  地球をとびたつたびに、フロイドは、自分が帰ってきたとき、地球はまだそこにあるだろうかと考えるのだった。  キャビンにはいってきた彼を、きちんとした服装のスチュワーデスが迎えた。 「おはようございます、フロイド博士。ミス・シモンズです──タインズ機長と副パイロットのバラード一等航宙士に代ってご挨拶させていただきます」 「ありがとう」  微笑をうかべてフロイドはいい、スチュワーデスというのはどうしていつもこうロボット観光ガイドみたいな話しかたをするのだろうと思った。 「離陸は五分後です」と彼女は、空っぽの二十人乗りキャビンを手で示しながら、いった。「どのシートにおかけになってもけっこうです。でも、ドッキングをごらんになりたいのでしたら、タインズ機長のお話では、左側の前部窓ぎわのシートがよいそうです」 「そうしよう」  彼はこたえ、すすめられたシートへ歩いていった。スチュワーデスはすこしのあいだ彼にあれこれと指示したあと、キャビンのうしろにある自分の小部屋へ帰った。  フロイドはシートにかけ、腰と肩に安全ベルトをとりつけると、そばのシートに書類かばんをとめた。すこしして、やわらかいポンという音とともにラウンドスピーカーがついた。 「おはようございます」とミス・シモンズの声がいった。「本機は、特別飛行三号機です。ケネディより宇宙ステーション一号へむかいます」  スチュヮーデスは、たった一人の乗客に対してきまりきった手続きをすべて行なうつもりらしい。彼女が容赦なく続けるのを聞きながら、フロイドは微笑がうかぶのをどうすることもできなかった。 「本機の飛行時間は、七十五分の予定です。最大加速は二G。三十分後に無重量状態にはいります。安全ランプがともるまでシートから離れないようおねがいいたします」  フロイドは肩越しにうしろを見て、「ありがとう」と大声でいった。  スチュワーデスの顔に、ちょと当惑したような、だが魅力的な微笑がかすかにうかんだのが見えた。  彼はシートにもたれ、体の力を抜いた。彼の計算では、この旅は納税者たちがおさめた金から百万ドルをすこし越える額をさしひくことになる。もしそれだけの価値がなかったら、彼はこの職を解かれるだろう。だがそうなれば、いつでも大学へ帰って、中断されていた惑星生成の研究を再開すればよいのだ。 「自動秒読み手続き、すべて完了」と機長の声がスピーカーからひびいた。  無線電話による会話のような、心をおちつかせる単調な声だった。 「あと一分で離陸します」  いつものとおり、それは一時間のように思えた。フロイドは、巨大な力が周囲でぜんまいのように巻きあがり、解きはなたれる瞬間を待っているのを痛いほど意識した。宇宙機の二つの燃料タンクのなか、そしてまた発射軌道の動力貯蔵システムのなかには、核爆弾に相当するエネルギーが封じこめられている。そしてそれが、彼を地上わずか二百マイルの高さにあげるために消費されるのだ。  神経系にひどい負担をかける、古くさい、5、4、3、2、1、ゼロの過程はなかった。 「あと十五秒で発進します。深呼吸をなさると、もっとお楽になりますわ」  それは心理学的にも、生理学的にも有益な助言である。フロイドは体内に酸素が充分行きわたるのを感じた。発射軌道が、一千トンの機体を大西洋上に放りなげようと力を加えはじめたときには、何にでもぶつかる用意ができていた。  発射軌道からいつ離れ、宙にうかびあがったのかわからない。だが、ロケットの轟音がとつぜん今までの倍も激しくなり、体がシートのクッションにますます深く沈んでいくことから、フロイドは第一段エンジンが作動したのを知った。窓の外を見れたらと思ったが、首をまわすのさえひと仕事だった。  しかし不快感はなかった。じっさい、加速による圧迫とエンジンの圧倒的な咆哮は、驚くほどの陶酔感を彼の内に生みだしていた。耳が鳴り、血が血管のなかで脈打っているあいだ、フロイドは何年かぶりで生命力が体にみなぎるのを感じていた。若がえったのだ。大声で歌いたかった──そうしても、おかしいことはすこしもない。彼の声はだれにも聞えないだろうからだ。  だが自分が、地球から、愛するものすべてから離れようとしているのだと気づいた瞬間、そんな気分はたちまち吹きとんだ。下には、三人の子供たちがいる。妻が十年前、ヨーロッパへの悲劇的な空の旅に発って以来、子供たちには母親はいない。(十年? そんな昔のことだったろうか! だが事実なのだ……)子供たちのためにも、再婚しているべきだったかもしれない……。  圧迫と騒音がふいにやんだとき、やっと時間の経過に気づいた。やがてキャビンのスピーカーが告げた──「下段ロケット分離用意。よし、行こう」  かすかな衝撃があった。とつぜんフロイドは、以前NASAのオフィスで見たことのあるレオナルド・ダ・ビンチの引用文を思いだした──。 [#ここから3字下げ] 大いなる鳥の背に乗り、「大いなる鳥」は空を飛ぶだろう。それが生まれた巣へと栄光をもたらすために。 [#ここで字下げ終わり]  そう、「大いなる鳥」はいま飛んでいるのだ。ダ・ビンチのあらゆる夢を凌駕して、そして、力をつかいつくしたその伴侶は、地上へと舞いおりようとしている。一万マイルの弧を描いて、空っぽの下段部分は大気のなかを滑空する、そのすみかであるケネディへむかって速度を加えながら。数時間後には、それは整備され、燃料を積まれて、それ自身は決して到達することのできない輝く静寂のなかにふたたび仲間を送り届けるため待機するのだ。  軌道までの道のりはあと半分たらず。あとは自力で飛ばねばならないのだ、とフロイドは思った。上段ロケットが噴射をはじめ、加速がふたたびはじまったが、圧迫はずっとゆるいものだった。じっさい、正常な重力とほとんど変らなかった。しかし歩くことはできない。なぜなら「上」はキャビンの前部だからだ。ばかな気をおこしてシートを離れれば、たちまち後部の壁に叩きつけられるだろう。  機が翼を下にして直立しているように思え、すこしおちつかない気持になった。キャビンの最前部にいるフロイドには、全シートが垂直な壁に固定されているように見えるのである。この不快な錯覚を無視しようと死にものぐるいの努力を続けているとき、機は一瞬、夜明けの光につつまれた。  数秒間で、機は深い赤とピンクと金色と青のベールを抜け、しみるような白日のなかにとびこんだ。窓は強烈な光を弱めるため濃い色に着色されているというものの、いまキャビンの内部をまさぐりながらゆっくりと動いていく太陽光線は、数分のあいだフロイドを半めくら同然にした。  彼は宇宙空間にいる。だが星を見ることはできなかった。  両手で眼をかばいながら、彼はそばの窓から外をのぞき見ようとした。すぐ外側では、うしろさがりの翼が太陽の光を反射して白熱した金属のように輝いている。その周囲は完全な闇。その闇は、一面の星の海にちがいない──だが、それを見ることはできなかった。  重量がゆっくりと減っていく。機は軌道に乗り、ロケットの噴射が抑えられてきた。エンジンの轟音はくぐもった咆哮と変り、さらにかすかなシューシューという音になり、とうとう静かさのなかに吸いこまれるように消えた。  固定するベルトがなければ、フロイドの体はシートからうかびあがっていただろう。だがベルトのあるなしにかかわらず、胃袋だけはそんなことをしそうな感じだった。三十分前、一万マイルかなたで与えられた錠剤が、効能書きどおりのはたらきをしてくれることを彼は願った。この仕事にはいって一度だけ宇宙酔いを経験したことがある。だが、それは一度でも多すぎるくらいだった。  キャビンのスピーカーから聞えてくるパイロットの声は、ゆるぎなく、おちつきはらっていた。 「ゼロG規則を全部読んでください。あと四十五分で、宇宙ステーション一号にドッキングします」  スチュワーデスが、ぎっしりと並んだシートのあいだの狭い通路を、右側に寄るようにして歩いてきた。すこしうかびあがるような歩きかたで、彼女の足はにかわにこびりついているようにのろのろと床をはなれた。ベルクロ・カーペットの明るい黄色の帯から離れないように気をつけている。カーペットは、床と──そして天井の、端から端にはりわたされていた。  カーペットと彼女のサンダルの底は、無数の小さなフックでおおわれていて、それが鉤のようにお互いをつなぎとめているのだ。慣れない乗客が自由落下状態のなかを歩くときには、この細工がこのうえない助けとなるのだ。 「コーヒーか紅茶を召しあがりますか、フロイド博士?」彼女が陽気な声できいた。 「いや、結構」彼は微笑をかえした。  プラスチックの吸い口をくわえるたびに、いつも赤んぼうになったような気持になるのだ。  彼が書類かばんをパチンとあけ、書類を出そうとしはじめても、スチュワーデスはまだ何か心配そうにそばに立っていた。 「フロイド博士、一つ質問してよろしいですか?」 「いいですよ」と彼はいい、めがねの上から見あげた。 「あたしのフィアンセは、ティコの地質学者なんですけれど」と慎重に言葉を選びながら、ミス・シモンズはいった。「もう一週間以上、彼から連絡がないんです」 「それは心配だね。もしかしたら基地から出ているんで、接触できないのかもしれないよ」  彼女は首をふった。 「そういうときには、彼はいつもあらかじめ教えてくれたんです。あたしがどれだけ不安な気持でいるか、先生ならおわかりになりますね──あんな噂がたっている今。月に伝染病が発生したというのは、本当なんですか?」 「たとえそうだとしても、心配することはないと思うな。知っているでしょう、九八年も突然変異型のインフルエンザ・ビールスが発生して基地が隔離されている。たくさんの人びとがそれにかかった──でも死者は出なかった。これぐらいしか、ぼくにはいえないな」彼はきっぱりした口調でしめくくった。  ミス・シモンズは明るい顔で微笑すると、体をおこした。 「ありがとうございます、先生。お邪魔してすみませんでした」 「いや、すこしも」  彼は男らしくいったが、それは本心ではなかった。そして、この時間の合間にできるかぎりこなしてしまおうと、あいかわらずたまっている無尽蔵の学術書類と取りくんだ。  月に着いてしまえば、読む時間はおそらくないだろう。 [#改ページ]      8 軌道上ランデブー  三十分後、パイロットが告げた。 「あと十分で接触します。シート・ベルトを確かめてください」  フロイドはおとなしく書類をしまった。最後の三百マイルにおこる宇宙機のトス運動のあいだ、書類など読んでいるのは、いたずらに災いを呼ぶもとである。断続的なロケットの噴射で宇宙機が前後にこづかれているあいだは、眼をとじ、体の力をゆるめているのがいちばん得策なのだ。  二、三分の後、ほんの数マイル先に、宇宙ステーション一号が見えてきた。ゆっくりと回転する、直径三百ヤードの輪。磨きあげられた金属の表面で、陽光がきらきらと反射している。それほど遠くないところで、同じ軌道をただよっているのは、流れるようなかたちをしたティトフ5型宇宙機。その近くに見えるのは、ほとんど球型に近いアリエス1B型宇宙船。宇宙空間の荷馬にたとえられるそれは、その片面から四本のずんぐりした足がつき出ている。月面着陸用の|緩 衝 脚《ショック・アブソーバー》だ。  オリオン3型宇宙機はより高い軌道から降下しているので、ステーションの背景には壮大な地球の景観がはいることになった。二百マイルのこの高度からは、アフリカと大西洋の大部分が見える。かなり雲におおわれているが、黄金海岸の緑がかった青い輪郭を識別することができた。  宇宙ステーションの軸部分が、ドッキング・アームをひろげて、ゆっくりとのびてきた。その根元にある建造物とはちがい、それは回転していない──というより、むしろステーションの回転を消すように逆向きに回っているのだ。これによって、訪れる宇宙機がさんざんにふりまわされる危険もなく結合することができ、人員や積荷の入れ換えが円滑に行なわれるわけである。  ほんのかすかな衝撃があっただけで、機とステーションは接触した。金属的な、かするような音が外から聞え、空気の噴出音がすこしのあいだ続いたが、やがて気圧は一定になった。数秒後、エアロックのドアがあき、宇宙ステーション勤務員の制服ともいえる、軽快な、体にぴったりと合ったスラックスと半袖シャツを着た男が、キャビンにはいってきた。 「ようこそ、フロイド博士。ステーション保安部のニック・ミラーです。往復船の出発まであなたの付添いをする命令を受けました」  握手がすむと、フロイドはスチュワーデスに笑顔をむけていった。 「タインズ機長によろしく。快適な旅だったと伝えてください。帰りには、またあなたがたと会えるかもしれない」  細心の注意をはらって──無重量状態を経験するのは一年ぶりなので、|宇宙歩き《スペースレッグ》のコツを取り戻すまでにはまだしばらくかかるだろう──周囲の物を手がかりにエアロックを抜けると、彼は宇宙ステーションの軸部分にある巨大な円型の部屋に出た。厚い詰め物で全面がおおわれた部屋で、壁のくぼみのいたるところに把手がついている。  フロイドがその一つをしっかりと掴むと、宇宙ステーションの自転に合わせるために、部屋全体が回転をはじめた。速度が増すにつれ、見えない重力の指があるかなきかの力で彼を引っぱりはじめ、体が円を描く壁にむかって、ゆっくりとただよっていった。  円型の壁はいつのまにか床に変った。今では彼はその上に、潮の流れのなかにある海草のようにゆっくりと前後にゆれながら立っているのだった。ステーションの自転が作りだす遠心力が彼をとらえたのだ。軸に近いここでは、まだあるかなきかに等しいが、外側へとむかうにつれ、着実に増えていくはずだった。  彼はミラーのあとについて中央発着室を出、カーブする階段を下っていった。はじめは重さがほとんどなく、手すりにつかまって無理やり体をおろさねばならなかった。回転する巨大な車輪の外縁にある旅客用ロビーに来て、はじめて正常に動きまわれるだけの重さとなった。  ロビーはしばらく見ないうちに模様替えしており、新しい設備がいくつかつけ足されていた。前からあった椅子、小テーブル、レストラン、郵便局のほかに、新しく床屋、ドラッグストア、映画館、そしてみやげもの売店ができていた。売店では、月面や惑星面の写真、スライドのほか、ルーニク、レインジャー、サーベイヤーなどの実物断片が売られており、プラスチックの台にきちんとのっかって、法外な値がついていた。 「発つ前に何か召しあがりますか?」とミラーがきいた。「乗船は三十分後です」 「ブラック・コーヒーをおねがいしようか──砂糖は二つ──それから地球に電話したいんだがね」 「承知しました、博士──注文してきます──電話はそこです」  色彩ゆたかな電話ボックスは、二つ入口のある障壁からわずか数ヤード行ったところにあった。入口にはそれぞれ合衆国管区へようこそ、ソビエト管区へようこそと書かれたラベルがある。その下の注意書きは、英語、ロシア語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語で表記されていた。    【つぎの書類をご用意ください──】      パスポート      ビザ      健康診断書      手荷物携帯許可書      重量申告書  これは両国の最近の関係をおもしろく象徴している。旅行者はどちらからはいるにしても、障壁を通りこすが早いか、また自由にまざりあうことができるのだ。この区分けは、純粋に管理上の便宜を意図したものなのである。  フロイドは、合衆国の地域番号がまだ81であることを確かめると、十二の数字からなる自宅番号をパンチし、どの場合にも使えるプラスチックの証明書カードをスロットにおとした。許可は三十秒でおりた。  まだ夜明けまで何時間かあるので、ワシントンはまだ眠っている。しかし、だれもおこす必要はない。家政婦がめざめると、レコーダーにふきこまれた伝言が鳴りひびく仕掛けなのだ。 「フレミングさん──こちらはフロイド。急に旅行に出かけることになってね。ぼくのオフィスに電話して、車を回送するようにいってくれませんか──ダレス空港においてあります。キーは一等航空管制官のベイリー氏にあずけてありますから。もう一つ、チェビー・チェース・カントリー・クラブに電話して、そこの幹事に伝えてください。来週のテニス・トーナメントには出場できなくなったと、あやまっておいてください──ぼくを勘定に入れているはずなんだ。それから、ダウンタウン・エレクトロニクスを呼びだして、ぼくの書斎のビデオが──そうだな、水曜──それまでに直らないようなら、そんなものは引きとらせてかまいません」  彼はそこで息をつぎ、ここ数日のあいだにもちあがりそうな危機や問題はないかと考えた。 「お金がなくなったら、オフィスに電話してください。どうしても急ぎの用事なら、そこからぼくに伝わります。ただ、忙しいので、こちらからは返事ができないかもしれない。子供たちをお願いします。できるだけ早く帰るからといっておいてください。おっと、たいへんだ──今は会いたくない男がやってくる──できたら月からまた電話します──じゃあ」  フロイドはボックスからこそこそと逃げ出そうとした。だが遅すぎた。すでに彼は相手の眼にとまっていた。ソビエト区の出口からソ連科学アカデミーのディミトリ・モイセビッチ博士がやってくる。  ディミトリはフロイドの親友の一人である。だからこそ、今ここで会うには不都合な人間なのだ。 [#改ページ]      9 月 面 着 陸  そのロシア人天文学者は、すらりとした長身の、金髪の男だった。顔にはしわ一つなく、とても五十五歳とは見えない──そのうちの最後の十年を、彼は月の裏側の大電波天文台の建設に費していた。そこでは、二万マイルの厚い岩が地球から送られてくる電波の騒音を完全にさえぎってしまうのだ。 「やあ、へイウッド」力強く右手を握りしめて、彼はいった。「宇宙は狭いな。どうだい、最近は──かわいいお子さんたちは元気か?」 「みんな元気だよ」フロイドは、心のこもった、しかしやや当惑気味の声でいった。「去年の夏は楽しかったよ。そのときの話がまだしょっちゅう出る」  いつわりない感謝の気持がうまくいいあらわせないのを、彼は残念に思った。ディミトリが地球へ帰ったとき、彼と子供たちはこのロシアの友人とともにオデッサですばらしい休暇を楽しんだのだ。 「ところで──これから上[#「上」に傍点]へ行くんだろう?」とディミトリがきいた。 「うん、そうなんだ──あと三十分で船が出る。ミラーくんとは知りあいだろう?」  保安課員は戻っており、コーヒーのはいったプラスチック・カッブを手に迷惑にならないよう距離をおいて立っていた。 「もちろん。いいから、それを置いてくれたまえ、ミラーくん。フロイド博士は、ここを出たら当分はましな飲物は飲めないんだ──無駄にしてはもったいない。本当に」  三人はディミトリを先頭にメイン・ロビーを出ると、展望室にはいった。まもなく彼らは、薄暗い光のなかで星ぼしの動くパノラマをみながらテーブルを囲んでいた。宇宙ステーション一号は一分間に一回転する。このゆるやかな回転によって生まれる遠心力は、月面とほぼ等しい人工重力を作りだす。それくらいが、しばらく前にわかったことだが、地球上の重力と無重力との適当な妥協点なのだ。しかもそれには、月へむかう旅行者に月面の環境に慣れる機会を与えるという利点があった。  ほとんど透明な窓の外では、地球と星ぼしが静かに回転していた。今、ステーションのこの側は太陽の影になっている。でなければ、ロビー全体が強烈な光にさらされて、外を見ることなどとてもできはしない。それでも、空の半分をおおいつくして輝く地球のおかげで、見えるのは比較的明るい星ばかりだった。  しかしステーションが地球の夜の側へとむかっているので、見える面積はどんどん狭くなっていく。数分後には、それは都市の光をちりばめた巨大な黒い円盤になってしまうだろう。そのとき空はふたたび星ぼしのものとなるのだ。  ディミトリは一杯目の酒をたちまち飲み終え、二杯目を手でもてあそびながら、「さて」といった。 「合衆国管区のあの伝染病騒ぎはどういうことなんだ? この旅の途中で寄ろうとしたんだよ。『まことに残念ですが、教授、着陸は許可できません』と、こうさ。『追って指示があるまで、この基地は隔離されておりますので』とね。あらゆるツテをたよってみたよ。それでも、だめだ。いったいどういうことなんだ、教えてくれ」  フロイドは心のなかで呻いた。さっさと出かけよう、と彼は自分にいった。往復船で早く月へ行ってしまうんだ。そうすれば、こんな苦しい目にあわなくてすむ。 「いや──つまりね──隔離というのは、たんなる安全措置にすぎないんだ」彼は慎重にいった。「それが本当に必要かどうかもはっきりしない。しかし危険はおかせないだろう」 「しかし、どんな病気なんだ──そして症状は? 地球外のものだという可能性でもあるのかい? われわれの医療サービスの援助は必要ないのか?」 「すまない、ディミトリ──今のところは、何も話すなという命令なんだ。申し出は嬉しいが、ぼくらだけで処理できると思う」 「ふむ」納得のいかない顔で、モイセビッチはいった。「おかしな話だな、天文学者のきみが、伝染病を調べに月へ送られるとは」 「元天文学者さ。本格的な研究から離れて、もう何年にもなる。今のぼくは、科学専門家だよ。つまり、あらゆることに通じているわけさ」 「では、TMA1とは何か知っているな?」  ミラーが飲みかけた酒でむせそうになった。  しかしフロイドのほうは、もっと心ができていた。彼は親友の眼をまっすぐと見かえし、おだやかにいった。 「TMA1? 変った略字だな。どこで聞いたんだ」 「いや、いいよ」  ロシア人は逆手をとってきた。 「しらばくれたってだめだ。しかし、手に負えないものにぶつかったときは、手遅れにならないうちに助けを呼ぶものだと思うがね」  ミラーが思惑ありげに腕時計を見た。 「あと五分で乗船の時間です、フロイド博士」と彼はいった。「そろそろ出かけたほうがいいでしょう」  まだたっぷり二十分、時間があまっていることを知ってはいたが、フロイドはそそくさと立ちあがった。だが、あまりあわてていたためだろう、六分の一の重力をすっかり忘れていた。床からとびあがるまえに、かろうじてテーブルを掴んだ。 「きみに会えてよかった、ディミトリ」彼は本気でもない言葉をいった。「では、無事で──帰ったらすぐ電話するからな」  ロビーを出、合衆国検問口を通過したところで、フロイドはいった。 「ヒュー──あれは近かった。危いところをありがとう」 「でも、博士」と保安課員はいった。「まちがいですね、あの言葉は」 「まちがいって、何が?」 「手に負えないものにぶつかるという話ですよ」 「そうかそうでないかを、これからぼくが見きわめに行くわけさ」フロイドは断固とした口調でいった。  四十五分後、アリエス1B型月船は、ステーションから離れた。地球からとびたつときのような力や勢いはない──低推力プラズマ・ジェットが帯電した流れを宇宙空間に噴射する、聞えるか聞えないかの、遠い、ピューッという音だけだった。  おだやかな押しは十五分あまり続いたが、そんななまぬるい加速ではキャビンのなかを動きまわるのに何の支障もなかった。しかし、それが終ったときには、船はステーションと結合していたときの状態、つまり地球の束縛を受けている状態から脱していた。それは重力の絆をたちきり、今では独立した、自由な惑星となって、太陽を中心としたそれ自身の軌道をまわっているのだった。  フロイドがいま一人で占領しているキャビンは、三十人乗りに設計されたものだった。周囲の空っぽのシートを眺め、スチュワードとスチュワーデス──そしていうまでもなくパイロットと副パイロットと二人の技術員──の関心を一身に集めているというのも、考えてみれば奇妙な、またどちらかといえば心ぼそいものだった。  これほどの特別待遇を受けている人間が、歴史上かつてあっただろうか、と彼は思った。将来もまたこんなことは起りそうもない。彼は、かつてあまり評判のよくない司教が口にしたという皮肉な言葉を思いだした。 さて、教皇政治になったのだから、みんな楽しもうじゃないか  それは、彼としても、この旅や無重量状態の陶酔感を楽しもうという気はある。重力から別れを告げるだけで──少なくとも、すこしのあいだは──気苦労の大部分から逃れることができるのだ。  こんなことをいったものがいる。宇宙空間では、怯えることはあっても、悩むことはない。  それはまさしく真実だった。  スチュワードもスチュワーデスも、この二十五時間の旅のあいだ彼を食事責めにすることで意見が一致しているらしい。彼はほしくない食事を何回もことわらなければならなかった。  初期の宇宙飛行士たちの暗い予感ははずれて、ゼロGでの食事はすこしも面倒ではなくなった。普通のテーブルにすわる。皿は、荒い海を航海する船の場合と同じように、クリップでとめられているのだ。どの品もすべて、ある程度粘性があるので、ひとりでにうかびあがって、キャビンのなかを動きまわるようなことはない。チョップはどろどろのソースで皿にくっついているし、サラダは粘着力のあるドレッシングでその場におさまっている。ほんのすこしの技術と慎重さがあるかぎり、扱いに困るような料理はなかった。  禁止されているのは、熱いスープとぽろぽろと崩れやすいねり粉[#「ねり粉」に傍点]菓子だけだった。むろん飲物では問題は別で、液体はすべてプラスチックの絞りチューブのなかにおさめなければならない。  トイレットのデザインは、英雄的な、しかし無名の志願実験者たちの一世代にわたる研究のたまものであり、今ではそれは馬鹿でも扱えるものだと考えられていた。自由落下がはじまるとすぐ、フロイドはそれを調べに行った。そこは、あたりまえの飛行機内トイレットの付属品をすべて備えた小さな個室で、眼に不快感を与える強烈な赤いランプで照らされていた。目立つ活字で印刷された注意書きがこういっている──。 [#ここから2字下げ] 【注意! あなたの旅を快適にするうえにも、下の指示を気をつけてお読みください!】 [#ここで字下げ終わり]  フロイドは腰をおろすと(無重量状態でも、人は自然にそうしてしまうものだ)、注意書きを数回読みかえした。このあいだの旅のあとで加えられた改良部分はないとわかると、彼は始動のボタンを押した。すぐ近くでモーターが回転をはじめ、フロイドは体が動きだすのを感じた。注意書きが教えているとおり、彼は目をとじて待った。一分ほどすると、やわらかいチャイムの音がした。彼はあたりを見まわした。  明りは心を和ませるピンクがかった白に変っていた。しかし、それより重要なのは、ふたたび重力が感じられることだった。それが見せかけの重力であることを示しているのは、あるかなきかの震動だけ。  トイレット室全体が、メリーゴーランドのように回っているのだ。  フロイドは石けんをとり、それがスロー・モーションで床に落ちるのを眺めた。遠心力は正常重力の四分の一ほどらしかった。しかし、それで充分だった。それは、いちばん問題となるこの場所で、あらゆるものが定められた方向に動いている保証となるのだ。  彼は停止のボタンを押し、ふたたび目をとじた。回転がとまるとともに、重みがゆっくりと消えていった。チャイムは二度鳴り、赤い注意灯がともった。そのときにはドアは、彼がすべりだせるように正しい位置にとまっていた。  出るが早いか、彼はカーペットに足を密着させた。無重量状態の目新しさはとうに失せているので、正常に近い歩きかたのできるベルクロ・スリッパがあることはありがたかった。  すわって読むだけしか自由のきかない旅だが、暇つぶしになるものはたくさんあった。公式書類とメモと議事録に飽きたら、大型ノート大のニューズパッドを船の情報回路にさしこんで、地球からの最新レポートを読む。世界有数の電子新聞が、彼の意のままにつぎつぎと現われる。大新聞社の符号はすべてそら[#「そら」に傍点]で覚えているので、パッドの裏側にあるリストを調べる必要はない。  表示装置のスイッチを短時間記憶に切り換え、第一面を両手で持って、見出しをざっと捜し、興味のある記事を心にとめる。どの記事にも数字二つの参照番号がついており、数字をボタンで押すと、切手大の長方形の記事が、スクリーンにきっちりとおさまるくらいに拡大されるのだ。そして気楽に記事を読む。読みおえたら、また全ページに切り換えて、ディテールを読む必要のある新しい問題を捜せばいい。  このニューズパッドとその背後にひそむ風変りなテクノロジィは、完全なコミュニケーションをめざす人間の探究の最後の回答ではないか。フロイドはときどきそんな思いにとらわれる。  彼はここ、宇宙空間のかなたにおり、一時間数千マイルの速度で地球から離れつつある。それでいながら、わずか数ミリセコンドで、お望みの新聞の見出しを見ることができるのだ。(「新聞」というその語じたい、このエレクトロニクス時代では、時代錯誤的な過去の遺物である)記事は一時間ごとに新しいものと取りかえられている。たとえ英語版だけを読んでいても、ニューズ衛星から送られてくる絶えまない情報の流れを吸収しているだけで、一生がすぎてしまうだろう。  このシステムを改良したり、これ以上便利にしたりする方法を想像するのは困難だった。しかし、やがてはこれも過ぎ去る時代がくる。それに代るのは、カクストンやグーテンベルグにとってニューズパッドがちんぷんかんぷんであるように、おそらく想像を絶したものだろう。フロイドはそんなことを思った。  細かい電子新聞の見出しを眺めているうちに、よく思いおこすことが、もう一つある。コミュニケーションの手段が発達するにつれ、その内容がますますつまらなく、安っぽく、陰惨に見えてくることだ。  事故、犯罪、天災、人災、戦争の危機、暗澹とした社説──宇宙空間にばらまかれる何百万、何千万の語句の主要な内容は、いまだにそんなものばかりらしい。しかしこれも、それほど悪いことではないかもしれない、とフロイドは思う。昔から、これは彼の変らない考えなのだが、ユートピアの新聞はおそろしく退屈なものにちがいないからだ。  キャビンには、ときどき船長や乗組員たちが来て、彼に話しかけた。彼らはこの著名な旅客に畏敬の念をこめて対したが、彼の任務を知りたがっていることは明らかだった。しかし彼らは礼儀をわきまえており、質問一つ、いや、ほのめかすことすらしなかった。  魅力的な、小柄なスチュヮーデスだけは、彼の前でもすこしも自分を意識せずにふるまっていた。乗船してまもなく知ったのだが、彼女はバリ島の出身で、いまだに文明の影響をそれほど受けずにいるその島の優雅な魅力と神秘さを、この大気圏外にまで持ちこんでいた。旅のあいだの、もっとも予想外な、しかももっとも魅惑的な出来事として彼の記憶に残ったのは、彼女が三日月形の地球を背景にして、ゼロGのなかで見せたバリ島の古典舞踊の実演だった。  キャビンの主な照明が消され、就眠時間がきた。フロイドは、体が宙に浮くのを防ぐ自在伸縮シーツで両手両足をおおった。芸のない設備に見えるかもしれない──しかし、ここ、ゼロGのなかでは、地球のどんな豪華なマットレスよりも、この詰め物のない長椅子のほうがずっと寝心地がいいのだった。  体を固定すると、フロイドはたちまち眠りこんでしまった。しかし一度だけ、この奇妙な環境に当惑しているせいだろう、うつらうつらと眠い目をあけた。つかのま、自分が薄暗い火のともった提灯のなかにいるように思えた。ほかの部屋からもれる弱い明りが、そんな印象を与えたのだ。  やがて彼は確信をこめて自分にいった。 「眠るんだ、フロイド。あたりまえの月旅行じゃないか」  それは見事に効を奏した。  目ざめたときには、月は空の半分をおおい、減速運動がはじまる寸前だった。旅客セクションの丸い壁にはめこまれた大きな弧を描く窓は、今では接近する天体にではなく、広々とした宇宙にむかって開いている。  彼はコントロール・キャビンに足を運んだ。ここなら、後部観測テレビ・スクリー・ンで、降下の最後の段階を観測することができるのである。  接近しつつある月面の山々は、地球上のものとまったく違っていた。まばゆい雪の帽子もなければ、密生した植物の緑の衣服も、流れる雲のマントもない……にもかかわらず、光と影の強烈なコントラストが、それなりの異様な美しさをつくりだしていた。  地球上とはちがう自然の力がかたちづくり、こねあげたものなのだ──若い、青々とした地球が、つかのまの氷河期の訪れと、めまぐるしく上下する海と、朝霧のように消えていく山脈を見つめていたはるかな年月のあいだに。はかり知れぬ年を経た世界──だが死んではいない。月は生を知らなかったからだ──これまでは。  降下する船は、夜と昼を分つ線のほとんど真上で動きをとめた。下では、山々がぎざぎざの影を地面になげ、孤立した峰々がしのびやかな月面の夜明けの最初の光を受けて輝き、まとまりのつかない混乱を見せている。電子装置の手助けを総動員しても、これでは着陸にたいへんな危険がともなうにちがいない。だが船はゆっくりとその線からそれていき、夜の側にはいった。  眼が暗い場所に慣れるにつれ、フロイドは気づいた。夜の側は、完全な暗黒ではなかった。あたりには青白い光が満ちており、そのなかで峰や谷や平原がはっきりと見える。月から見た巨大な月、つまり地球が下の世界をその輝きで照らしているのだ。  パイロットのパネルでは、レーダー・スクリーンの上部の明りがいくつか明滅をはじめた。コンピューターの表示装置に数字が現われ、近づく月面への距離を刻みはじめた。一千マイルほど上空で、ジェットがおだやかな、しかし着実な減速をはじめると、体重が戻ってきた。  長い年月のように思える時間が過ぎ、月はゆっくりと空に広がって、太陽は地平線のかなたに沈んだ。ついには、巨大な一個の火口が視界全体を占めるまでになった。月船はその中央に見える山々にむかって降下していく──と、とつぜんフロイドは、その一つの峰の近くに、規則正しいリズムで明滅する明るい光の点があるのに気づいた。  地球でいえば、それは空港の航空標識である。フロイドは喉元に緊張を感じながら、眼をこらした。それは、人間が月にもう一つの足場を築いたという証拠なのだ。  火口はみるみる大きくなり、周壁も地平線のかなたに沈んだ。そして内部にちらばる小さな火口が、その真の大きさをあらわしはじめた。そのうちのいくつかは、宇宙空間から見ればとるに足らぬものだが、それでも直径数マイル、都市をいくつものみこんでしまう大きさがあるのだった。  自動制御装置の助けを借り、月船は星空から、大きな凸円形の地球の光を受けて輝く不毛の風景にむかって降下していった。ジェットの噴射音と電子装置の発する断続的なビープにまじって、人間の声が聞えてきた。 「クラビウス管制室より特別14号便へ。降下は順調。着陸装置、水圧系統、ふくらませ緩衝パッドの手動チェックどうぞ」  パイロットは雑多なスイッチを押し、緑の明りがつくと、管制室に呼びかけた。 「手動チェック完了。着陸装置、水圧系統、緩衝パッド、オー・ケイ」 「了解」  管制室はいい、あとは無言の降下が続いた。情報交換はまだ行なわれているが、いまそれを担当しているのはすべて機械であり、二進法のインパルスで行きかう通信は、頭の回転の遅い彼らの創造主の通信よりも一千倍も速いのだ。  峰のいくつかは、すでに月船よりも高くそそりたっていた。もう地上まで一千フィートしかない。信号灯は今、まばゆい星となり、ひとかたまりの平たい建築群と奇妙な乗物の上空で規則正しく明滅していた。  降下の最終段階では、ジェットは奇妙な曲を奏でているようだった。それらは噴射を強めたり弱めたりしながら、推力に微かな調整を行なっている。  不意に、舞いあがった埃の雲が、あらゆるものを隠した。ジェットが最後にもう一度噴射を行ない、船は小さな波のあおりを受けたボートのようにかすかに揺れた。  フロイドは数分かかってようやく、あたりをつつむ静寂と四肢をとらえている弱い重力に気づいた。人類が二千年にわたって夢見てきたこの信じがたい旅を、彼は事故一つなく、わずか一日とすこしばかりで終えたのだ。  きまりきった、変りばえのしない飛行を経験しただけで、月に着いてしまったのである。 [#改ページ]      10 クラビウス基地  直径百五十マイルのクラビウスは、地球側の月面では二番目に大きな火口で、南部高地の中央部に位置していた。誕生は古く、長年月にわたる火山活動と宇宙からの落下物によって、周壁は疵つき、火口底はあばた面をさらしている。しかし、小惑星帯の破片が内惑星をまだ痛めつけているとき、火口生成の最後の時代は終り、以来それは五億年にわたって平和をむさぼり続けてきた。  そして今、その表面や地下では、新しい異様な活動がはじまっていた。なぜならそこに人類は、月面最初の恒久的な橋頭壁を築いたからだ。緊急事態のさいには、クラビウス基地は完全に自給自足となる。生命維持に必要なものはすべて、付近の岩を破砕し、熱し、化学的に処理することで製造される。  水素、酸素、炭素、燐──このすべてが、いや、これに限らずほとんどの元素が、捜す技術さえあれば、月の地底に見つかるのだった。  基地は地球の小型模型ともいえる閉鎖組織で、生命をかたちづくる化学成分のすべてが、その内部を循環していた。空気を浄化するのは広大な「温室」──月面のすぐ下に埋められている広々とした円型の部屋である。夜はまばゆい照明を受け、昼はさしこんでくる太陽光線を受け、暖かい湿った大気につつまれて、ずんぐりした緑の植物が何エーカーにもわたって生い繁っている。それらは、大気に酸素を補充し、さらに副産物の食料を手に入れようとするさしせまった目的で作りだされた特殊な変異植物である。  大部分の食物は、化学加工システムと藻類栽培によって作りだされる。何ヤードもの透明なプラスチック・チューブを流れる緑色のかすは、とても美食家の食欲は刺激しそうもない代物だが、生化学者の手にかかると、専門家だけにしか区別のつかないチョップやステーキに変貌するのだ。  基地を構成する千百人の男子職員と六百人の女子職員は、みな高度の訓練を受けた科学者や専門家で、地球における慎重な詮衡を経てきたものばかりだった。月面の生活は、今では事実上、開拓時代初期にあったような困難、不便、ときたまの危険はないも同然だが、それでも心理的には相当に負担となるので、閉所恐怖症の気のある人間などには適さない。また、岩盤や高密度の熔岩をくりぬく地下基地の建設は、経費と時間のかさむ作業なので、標準的な一人用「居住区」は、わずか幅六フィート、奥行き十フィート、高さ八フィートだった。  部屋にはいずれも気のきいた家具が備えられており、ベッド兼用ソファ、テレビ、小型ハイファイセット、そして……電話、と高級なモテルの部屋を思わせる。室内装飾といえば、さらにそこには一つの仕掛けが施されていた。スイッチをひねるだけで、無地の壁一面が丸ごと、実物と見まがう地球の風景をうつしだすのだ。風景は八種類の選択が許される。  これらの豪華設備はこの基地特有のものであり、地球にいる人間のなかには、その必要性が納得できないものも少なくない。しかし、クラビウスに勤務する人間には、一人あたり一万ドルの訓練、輸送、居住の経費がかけられているのだ。彼らの心の平和を維持するために、もうすこし余分に金をかけても、それだけの値打ちはあるではないか。これは芸術のための芸術ではない。正気を維持するための芸術なのだ。  基地の生活──というより月面の生活──の魅力の一つは、疑いなく低重力にあるだろう。低い重力は、肉体にはとほうもない安らぎを与える。しかし、それなりに危険も存在し、新参の移住者たちがそれに慣れるまでには数週間がかかる。月面では、人体はまったく新しい反射運動を学ばなければならないからである。質量と重量を区別する必要が、ここではじめて生まれる。  地球上で体重百八十パウンドの人間は、月面ではそれがわずか三十パウンドだと知って小躍りする。一定の速度で直線運動を続けているかぎり、彼はすばらしい浮遊感を味わうことができる。しかし進路を変えようとしたとたん、つまり角を曲ろうとしたり、急にとまろうとしたりするとたん──昔の百八十パウンドの質量、または慣性が、まだそこにあるのに気がつくのだ。なぜなら質量は──地球でも、月でも、太陽でも、無重力空間でも──常に一定不変なものだからである。  そんなわけで、月面の生活に適応しようとすれば、地球上の重さに比例して物体の動きが六倍鈍るという事実を知ることが先決問題となる。通例、これは無数の衝突としたたかなショックを経て学ぶレッスンである。だから古手の職員たちは、新参者がひととおり慣れるまで、あまり彼らに近づかない。  工場、オフィス、貯蔵庫、コンピューター・センター、発電機、格納庫、キッチン、研究所、食料加工所などからなる複合体、クラビウス基地は、それじたい一つのミニチュア世界だった。そして皮肉なことに、この地下帝国の建設に投入された技術は、半世紀にわたる冷たい戦争のあいだに開発されたものだった。  防備堅固なミサイル基地で働いた経験のある人間は、このクラビウスでもいっこうに不自由を感じない。月面にあるすべての技術とハードウェアは、地下の生活と敵意に満ちた環境からの防備を目的とした地球上のそれとすこしも変らないものなのだ。一万年の後、人類はようやく戦争に匹敵する刺激的なものを発見したわけである。  残念なのは、その事実に気づいている国家が、今のところまだ少ないことだった。       *  着陸の直前まで目を見はるばかりにそびえていた山々は、月面の急激なカーブに災いされ、地平線のかなたに嘘のように消えた。  月船の周囲にある平坦な灰色の平原は、空にかかる地球の光を受けて昼のように明るかった。空はもちろん完全な黒色だが、月面の反射から目をおおっても、見えるのは比較的明るい恒星や惑星だけだった。  珍妙なかたちをした乗物が何台か、アリエス1B型宇宙船に近づいてくる。起重機、巻上げ機、補給用トラック──オートマチックもあれば、狭い気密キャビンのなかに運転手がいるのもある。この滑らかで平坦な地帯では、乗物の運転に伴う障害が何もないので、大部分が低圧タイヤだ。  しかし一台のタンカーは、独特の自在車輪で動いていた。長年の実験の結果、それが月面を走るには最適の型の一つであることが判明したのである。一連の平たい皿が輪を描くようにならべられ、皿はそれぞれ独立して固定され、ばねがついているので、その祖先であるキャタピラーに比べても、自在車輪は多くの利点を持っている。地形に応じて直径やかたちを変えることができるし、キャタピラーと違って、部品がいくつか欠けても性能は変らない。  小型バスの伸縮チューブが、ゾウの太い鼻のように宇宙船の側部を慣れなれしくこすりはじめた。数秒後、外側から何かがぶつかる音が聞え、空気の噴出音がそれに続いた。接合が完了し、気圧が一定になったのである。エアロックの内側のドアがあき、歓迎委員たちがはいってきた。  先頭は、南部地域──つまり基地とそれを中心にするすべての調査隊──の行政官、ラルフ・ハルボーセン。すぐそばには、このあいだの訪問で知己になった初老の地球物理学者で、科学部長であるロイ・マイクルズ博士のほか、五、六人の主要な科学者や幹部職員がいる。  彼らは安堵と尊敬の入りまじった表情でフロイドを迎えた。行政官を含めて全員が、悩みごとから解放されるチャンスを心待ちにしていたことは明らかだった。 「よくいらしてくれた、フロイド博士」とハルボーセンはいった。「旅はどうでした?」 「楽しかったですよ」とフロイドはこたえた。「あれ以上は望めない。乗員はみんな親切にしてくれたし」  宇宙船から離れるバスのなかで、彼は儀礼的なとりとめのない会話をかわした。無言のとりきめがあるのだろう、訪問の理由に触れるものはなかった。  着陸地点から千ヤードほど行ったところで、バスはこんな文字のある大きな標識の前に来た。    【クラビウス基地へようこそ】     アメリカ合衆国宇宙飛行技術部隊                一九九四年  バスはそこから岩の切通しにはいり、大地はたちまち頭の上に来た。前方で巨大なドアが開き、バスが通りぬけると背後で閉じた。これはもう一度、さらにもう一度続いた。最後のドアがしまると、空気が轟音をあげて侵入し、一行はふたたびシャツ一枚ですごせる基地の大気のなかにはいった。  リズミカルな靴音や震動がうつろにこだまする、パイプやケーブルがぎっしりとはりわたされたトンネルをすこし行くと、管理部に着いた。そしてフロイドは、タイプライターや、オフィス・コンピューター、女子事務員、壁の図表、鳴りやまぬ電話などがごったに見える、慣れ親んだ環境に戻ったことを知った。  行政官という文字のあるドアの前へ来たとき、ハルボーセンがあたりさわりない口調でいった。 「二分ほどしたら、フロイド博士と二人で会議室へ行くからね」  ほかのものたちはうなずき、「では」といって、そのまま通路を歩いて行った。しかしハルボーセンがフロイドを部屋に入れないうちに、邪魔がはいった。 「パパ! おもて[#「おもて」に傍点]へ行ってきたのね! 連れてくって約束したくせに!」 「ダイアナ」とハルボーセンはやさしい声で叱った。「できたら連れてくっていっただけだよ、パパは。フロイド先生と会うたいせつな仕事で行ったんだよ。先生と握手をしなさい──地球からいらしたばかりだ」  少女はしなやかな腕をのばした。年は八つぐらいだろう、とフロイドは思った。だが、その顔はどこか見覚えがあった。フロイドは、行政官が愉快そうに微笑をうかべて見ているのに、とつぜん気づいた。過去の記憶がどっとよみがえり、彼はその理由を知った。 「信じられない!」と彼は叫んだ。「このあいだ来たときには、まだ赤んぼだったじゃないか!」 「先週、四つになったばかりだよ」ハルボーセンは誇らしげにいった。「ここの低重力では、子供たちの成長も早い。それでいて老けるのは遅い──ぼくらよりずっと長生きするだろう」  フロイドは魅入られたように、優雅な身のこなしと異常にデリケートな骨格をした、この自信たっぷりの小さな淑女を眺めた。 「しばらくぶりだね、ダイアナ」と彼はいった。  すると、つぎの言葉がなぜか──純然たる好奇心がそうさせたのか、それとも儀礼的なものなのか──口について出た。 「地球へ行きたいとは思わない?」  少女は驚いて眼を丸くすると、すぐ首をふった。 「あたし、あんなところきらい。ころぶと怪我するもの。それに、人がたくさんいすぎるわ」  宇宙生まれの最初の世代がここにいる、とフロイドは思った。数年もすれば、その数は何倍にも増えるだろう。彼は悲しみと同時に、大きな希望が心にわきあがるのを感じた。地球は飼いならされ、おとなしくなり、いくらかくたびれてきたが、自由を愛する不屈の開拓者たちや休息を知らぬ冒険者たちには、まだ無限の領域が残されているのだ。  彼らの道具は、斧や銃やカヌーや幌馬車ではない。それに代るのは、原子力工場であり、プラズマ推進であり、水耕農園なのだ。母親が常にそうであるように、地球がその子供たちに別れをつげる時代が来るのもそれほど遠くないだろう。  叱ったり約束したり、さんざん苦労して、ハルボーーセンはようやくきかん気の娘を追いだすと、フロイドをオフィスに招じ入れた。行政官室は縦横十五フィートしかなかったが、典型的な年俸五万ドルの管理職員だけに許されるあらゆる設備とステイタス・シンボルを備えていた。大政治家たちの署名入り写真──このなかには、合衆国大統領や国連事務総長のもある──が一方の壁に並び、残り三つの壁のほとんどは、有名な宇宙飛行士の署名入り写真で埋めつくされている。  すわり心地のいいレザー・チェアに腰をおろしたフロイドの前に、月面生化学実験室特製の〈シェリー酒〉のグラスが出された。 「どうだい進みぐあいは、ラルフ?」酒を注意ぶかくすすり、その味に感心しながらフロイドはきいた。 「悪くない」とハルボーセンは答えた。「しかし出かける前に、一つ耳に入れておきたいことがある」 「というと?」 「まあ、士気の問題といったらいいかな」 「ほう?」 「まだ深刻じゃないけれども、近々そうなりそうなんだ」 「発表禁止の件だな」フロイドはあっさりといった。 「うん、うちの職員たちはみんなそれでカッカとしている。無理もない、ほとんどは地球に家族を残してきているんだからな。地球では、ここの人間はみんな謎の伝染病で死んでしまったと思っているだろう」 「かわいそうな話だよ」とフロイド。「だが、それ以上うまい隠れみのが思いつかないんだからしようがない。今のところ、順調に行っているし。そういえば──宇宙ステーションでモイセビッチに会ったよ、彼でさえ、鵜呑みにしてる」 「保安部は嬉しがるね」 「それが、あんまり嬉しがりそうもないんだ──モイセビッチからTMA1の話が出た。噂が漏れだしている。しかしステートメントは発表できないしね。あれがいったい何か、中国があれにからんでいるのかいないのか、はっきりさせたあとでないとな」 「マイクルズ博士がそれを知ってるよ。教えたくて、うずうずしてる」  フロイドは酒を飲みほした。 「こっちだって聞きたくて、うずうずしてる。行こう」 [#改ページ]      11 異  常  会合は、百人はゆうに収容できる広々とした細長い部屋で行なわれた。そこには最新の装飾品や電子装置が備えつけられており、モデル会議室といってもおかしくないが、壁に無数に貼りつけられたポスター、ピンナップ写真、掲示、素人くさい絵などがその品位をぶちこわしにしていた。しかしそういったものから、ここが基地の文化の中心であるのをうかがうことができた。  フロイドがとりわけ感動したのは、地球恋しさのあまり集められたのだろう、標識の数々である。たとえば──。 芝生に入らないでください、平日駐車禁止、禁煙、海岸この先、家畜横断、徐行、動物に食べものを与えないでください  等々。  もしこれらが本物なら──そして見たとおり、たしかに本物なのだが──政府は相当な出費でこれを地球から輸送していることになる。それらにこめられている反抗には、胸をうつものがある。  この敵意に満ちた世界で、人びとは自分たちがやむなく故郷に残してきたものに対して、まだジョークをとばそうとしているのだ──だが彼らの子供たちはそんなものを恋しがりもしないだろう。  四、五十人の人びとがフロイドを待っており、彼が行政官に続いて部屋にはいると、全員が立ちあがった。顔なじみの何人かにうなずきながら、フロイドはハルボーセンに囁いた。 「打合わせの前に、ちょっと話す時間をくれないか」  フロイドが最前列にすわると、行政官は演壇にのぼって聴衆を見わたした。 「みなさん」ハルボーセンは話しはじめた。「この集まりが重要な意味を持つことは今さら申しあげるまでもないでしょう。特にへイウッド・フロイド博士をこの集まりに迎えることができたのは、私たちの喜びとするところです。博士の名声はみなさんだれもがご存じと思うし、博士と個人的に親しいかたがたも、ここには大勢おられる。地球からの特別飛行を終えて到着されたばかりですが、打合わせにうつる前に、博士からお話があります。フロイド博士」  静かな拍手を受けて演壇にのぼると、フロイドは微笑をうかべながら聴衆を見わたして、いった。 「ありがとう──私が話したいことはこれだけです。大統領は、あなたがたのすばらしい仕事に対して心から感謝している旨を伝えてほしいと私に申しました。あなたがたの仕事の重要さを世界中が認識する日も、やがて来るでしょう。もちろん」と彼は注意深く続けた。「あなたがたのなかに、この秘密のベールをすぐ取り払うべきだと考えておられるかたが少なからずおられることは──いや、大部分がそうでしょう──私も充分承知しています。そう考えない人間は、科学者とはいえません」  彼の眼はマイクルズ博士の姿をとらえた。地球物理学者がかすかに眉を寄せているので、右頬にある長い傷跡がきわだって見える──おそらく真空中での事故によるものだろう。彼がこの〈巡査と泥棒遊び〉に強く反対していることを、フロイドはよく知っていた。 「しかし、ここでもう一度思いだしていただきたいのは」とフロイドは続けた。「こんな状況は前代未聞だということです。私たちがどんな事実を握っているか、それを何の疑問もないまでに見極めなければなりません。二回目のチャンスはないかもしれないのです──だから、もうすこし我慢してください。これは、大統領の願いでもあります。  以上で私の話は終ります。あなたがたの報告をはじめてください」  彼は席へ戻った。 「ありがとう、フロイド博士」  行政官はそういい、科学部長を見て、ややぶっきらぼうにうなずいた。それを合図にマイクルズ博士は演壇にのぼった。照明が暗くなった。  月面の写真がスクリーンに映しだされた。円盤の中心に、まばゆい白色の火口の周壁が見え、そこから目を奪う輝条《レイ》が広がっている。だれかが月面にメリケン粉をぶちまけた、ちょうどそんなふうな感じに、それは八方にとびちっていた。 「この垂直写真では」とマイクルズは、中央の火口を指さしていった。「ティコは、地球から見るよりもずっと異彩をはなっています。地球からの観測では、月面の端寄りに行ってしまうからしかたがありません。しかし、この視点から眺めてみると──一千マイル上空から撮影したものですが──それが、この半球でどれだけの大きさを占めているかは、一目瞭然でしょう」  彼はフロイドが、見慣れない角度からとった見慣れた物体の写真を頭に入れてしまうまで時間をおいて、続けた。 「過去一年にわたって、私たちはこの地域の磁気測量を低空衛星を使って行なってきました。測量は先月終ったばかりで──これがその結果です──トラブルのきっかけを作った地図です」  別の写真がスクリーンに映しだされた。等高線地図に似ているが、示しているのは磁気の強さであって、海面からの高さではない。  ほとんどの地域では、線はだいたい平行で、間隔も大きく離れている。ところが地図の片隅で、とつぜん線が同心円を描きだし、ぎっしりとつまりはじめているのだ──ちょうど木の節のあたりの年輪のように。  素人の眼でも、月面のこの地域で磁場に奇妙なことがおこっているのはわかる。地図の下の部分には、大きな文字でこうあった。   【ティコ|磁 気 異 常《マグネティック・アノマリィ》1号(TMA1)】  そして右上にはスタンプの文字。     【極秘】 「はじめは、磁性を帯びた岩が露出しているのだろうと思いました。しかし地質学的な証拠はすべて、それを否定するのです。巨大なニッケルと鉄の隕石でも、これほど強い場は作りだせません。そこで調査してみることにしました。  第一次調査隊は何も見つけることはできませんでした──あたりは、月塵のごく薄い層におおわれた普通の平原でした。一行は磁場の中心にドリルを入れ、岩石の標本をとろうとしました。地下二十フィートのところで、ドリルが停止しました。そこで一行は掘りはじめたわけです──宇宙服を着ての作業は容易なことではありません。それはおわかりでしょう。  一行はその発見に驚いて、あわてて基地へ帰ってきたわけです。私たちは優秀な機械を積んだ、大規模な隊を編成しました。そして二週間にわたって掘り進んだ結果が──ご存じのとおりこれです」  暗い会議室が、何かを期待するようにとつぜん静まりかえった。スクリーンの映像が変った。  今まで何回も見ているのに、だれもがそこから新しいディテールを見つけだそうと首をのばしていた。地球と月をあわせても、この写真を見ることが許されているのは百人足らずなのだ。  明るい赤と黄の宇宙服を着た男が、穴の底で十センチメートルごとに目盛りのついた物差しを縦に持って立っている。明らかに夜間写したもので、月なのか火星なのかも定かでない。だが、こんな光景のある惑星は、いまだかつてどこにもなかった。  宇宙服を着た男がボーズをとっているうしろには、一つの物体があった。漆黒の物質でできた直立した平たい板である。高さおよそ十フィート、幅五フィート。気味の悪いことに、フロイドはそれから巨大な墓石を連想した。鋭い縁のある、完全に左右対称の物体で、あまりにも黒いので、それを照らす光をすべて吸収しているように思える。  石なのか、金属なのか、プラスチックなのか──それとも人類にとっては未知の物質なのか、その写真からはまったくわからない。 「TMA1です」マイクルズ博士は、うやうやしいとさえ聞える声でいった。「できたてのほやほやに見えるでしょう? これは数年前に作られたもので、九八年に行なわれた中国の第三次月探検隊に関係があると考えた人もおられるようだが、そうとるのも無理はありません。しかし私は信じなかった──しかし今では、周囲の地質学的証拠から、その年代をはっきりさせることができます。  フロイド博士、同僚も私もこの物体に私たちの名声を賭けました。TMA1は中国とは無関係です。じっさいのところ、それは人類とは何の関わりあいもありません──これが埋められた時代には、人類は存在しなかったからです。  およそ見積りでは、三百万年前。今あなたが見ておられるのは、地球外の知的生命の存在を立証する最初の証拠なのです」 [#改ページ]      12 地球光の下の旅 [#ここから2字下げ]  【巨大火口地方】──地球側の月面中央部付近、中央火口地方東部より南方にのびる。衝突火口の密集するあばた面の地帯で、大型の火口が多く、月面最大のものも含まれる。北部では、衝突により崩壊した火口が雨の海を形成している。少数の火口底を除いて、全般に表面は凹凸が激しい。傾斜が多く、ほとんどは十度から十二度の勾配を持つ。いくつかの火口底は、水平に近い。  【着陸と行動】──でこぼこの傾斜が多いため、着陸は一般に困難。平坦な火口底では、いくぶん容易になる。行動はほぼ全域で可能だが、ルートの選択を必要とする。平坦な火口底では、行動はやや容易になる。  【建設】──傾斜と無数のもろい巨石のため、一般にやや困難。火口底によっては熔岩の掘削は困難。  【ティコ】──|平原生成後の火口《ポスト・マリーア・クレイター》。直径五四マイル。周辺部に対する周壁の高さ、七九〇〇フィート。火口底の深さ、一二〇〇〇フィート。月面でもっとも顕著なレイ・システムを有し、全長五〇〇マイルあまりのレイも存在する。 [#ここから5字下げ] (「工兵隊月面特別研究」より抜粋。陸軍省工兵監オフィス。アメリカ合衆国地質調査部発行 ワシントン 一九六一年) [#ここで字下げ終わり]       *  時速五十マイルでいま火口原を走っている移動実験室は、八つの自在車輪に載せられた特大型トレイラーにどことなく似ていた。しかし実物はそれ以上のもので、それは二十人を乗せ、数週間にわたって行動ができる独立した基地なのである。  じっさい、それは文字通り陸上の宇宙船といっていい。緊急の場合には、飛ぶことさえできるのだ。クレバスや峡谷が大きすぎて迂回できないとき、勾配が急で下ることができないとき、それは下側に取りつけられた四基のジェットで障害を跳びこえるのである。  窓の外をのぞいたフロイドは、前方にむかってくっきりときざまれた行跡を見出した。何十台もの乗物が月のもろい地表を押しつぶしてつくった帯である。通り道に沿って規則正しく立ちならぶ長い棒の先端では、明りが明滅している。今は夜、夜明けまでまだ数時間あるが、クラビウス基地からTMA1への二百マイルの道のりも、これで迷うことはない。  頭上の星は、晴れた夜ニュー・メキシコやコロラドの高原から見上げる星に比べて、それほど明るくも、それほど数が多くもない。しかし地球にいる錯覚をぶちこわすものが、その漆黒の空には二つあった。  一つは、地球そのもの──北の地平線に低くかかるまばゆいかがり火である。その巨大な半球からふりそそぐ光は、満月の何十倍もの明るさで、あたり一帯を冷たい青緑色の燐光でつつんでいた。  もう一つの現象は、東から斜めに空にかかっているかすかな真珠色の円錐形の光だった。地平線に近づくにつれ、それは明るくなり、その下に巨大な炎が隠されているのをほのめかしている。その青白い輝きは、数少ない皆既日食のとき以外、地球では見ることはできない。  それはコロナ。  まもなく太陽がこの眠れる土地を強烈な光で打ちのめしに来ることを告げる、月の夜明けの先がけなのだ。  運転席のすぐ下の前部観測ロビーに、ハルボーセンやマイクルズといっしょにすわりながら、フロイドは、三百万年という年月──急に目の前に開けた時の深淵──のことを考えまいとしながらふと考えている自分に何度も気づいていた。  科学的素養を身につけた人間の常として、彼はそれ以上の長い年月を考えることにも慣れていた──しかし、それは星の運行とか生命のない宇宙のゆっくりした回転などに限ったことで、精神とか知性とは関わりあいのないことだった。そういった年月は、感情のたちいる余地のないものだった。  三百万年とは!  数々の帝国と皇帝、数々の勝利と悲劇を内に含む、文字に書かれた歴史の無限に複雑なパノラマも、その驚くべき期間のわずか千分の一にすぎない。この黒い謎が、月面でもっとも明るい、もっとも雄大な火口のなかに細心の注意をこめて埋められたころには、ヒトばかりでなく、地球に棲息している動物の大部分は存在しなかったのだ。  それは意図があって埋められたものである、とマイクルズ博士は確信していた。 「はじめは」と彼は説明した。「地底の建造物のありかを示す標識かもしれないと考えたんですよ。しかし、このあいだの掘削の結果、その可能性はなくなりました。それは、同じ黒い物質からできた大きな台の上に立っているんですな。その下には、ビクともしない岩盤がある。それを建設した──生物──は、大型の月震にも耐えるような頑丈なものにするつもりだったらしい。永遠の歳月を前提にして作られているんですよ」  マイクルズの声には、勝利感と同時に悲しみがこもっていた。フロイドも同じ気持だった。  ついに人類の最古の疑問の一つが解かれたのだ。宇宙が生みだした知的生命は、人間だけではないという証拠が、ここに厳然と存在する。しかしそれに気づくと同時に、厖大な時の長さも痛いほど思い知らされるのだ。  何かがこの方面にやってきた。しかし、それは、一万世代の差で人類を見逃してしまったのだ。  それも仕方のないことかもしれない、とフロイドは思った。それにしても──われわれの祖先が樹上生活をしているとき、宇宙を飛ぶその種族と接触していたら、われわれは何を学んでいただろう!  月の地平線は信じられないほど近い。二、三百ヤード先に、標識が現われた。その根本の部分に、テント型の物体があり、輝く銀色の金属箔でおおわれている。日中の強烈な熱波を防ぐためだろう。  バスが通りすぎるとき、フロイドは明るい地球光に照らされたその文字を読むことができた──。    【非常用補給庫 3号】      液体酸素《ロックス》 20キロ      水 10キロ      食料容器4号 20個      工具箱B型 1個      宇宙服修理用具一式 1個      【!電話あり!】 「こう考えたことはありませんか?」とフロイドはきいた。「その物体は補給用の倉庫で、探検隊はそれを残して去ったが、戻ってこなかったということは?」 「その可能性はある」マイクルズは認めた。「あれだけの磁場なら位置表示になるし、見つけるのは簡単ですな。しかしすこし小さすぎる──補給品はあまりはいりそうもない」 「そうかな」ハルボーセンが割ってはいった。「連中の大きさはどうなんだ? 六インチしか背丈はないかもしれない。それだと、あれは二十階から三十階のビルに相当することになるじゃないか」  マイクルズは首をふった。 「問題外だね」彼は反駁した。「そんな小さな知的生物はいないよ。脳には大きさの限度がある」  フロイドは、マイクルズとハルボーセンがいつも違った立場をとって対立しているのに気づいた。しかし二人のあいだに、個人的な敵意や摩擦がある様子はない。お互いに尊敬しあっているようである。意見を一致させないのが友情のしるしなのだろう。  TMA1──あるいはティコ石碑《モノリス》──略語の一部を残して、そう呼ぶものもいた──の真の意味については、だれもが異なる意見を持っていた。月に到着して六時間のあいだに、フロイドは十あまりの理論を聞かされたが、どれにも与《くみ》することはできなかった。  寺院、測量標識、墓、地球観測用具──こういったものが、人気のあるアイデアであり、なかには闘志をむきだしにして、自分の理論の正しさを主張するものもいた。賭もすでに相当おこなわれていた。真相が明らかになるときには、かなりの金額が動くことだろう──もちろん、明らかになるとすればの話だが。  これまでのところ、石板をかたちづくる硬い黒色の物質は、サンプルを得ようとするマイクルズとその同僚たちのやや手ぬるい試みをすべてはねつけていた。レイザー光線なら穴をあげられることは確かだが──なぜなら、レイザーの凝集された恐るべきエネルギーに抵抗できるものは何もないからだ──そういった過激な手段を用いる決定は、フロイドだけに許されていた。  彼としては、レイザーを扱う重砲兵を呼ぶ前に、]線、音波探査、中性子ビーム、その他非破壊的な研究手段を総動員することに決めていた。理解できないものを破壊するのは野蛮人の証拠である。しかし、この物体を作った生物の前では、人類はしょせん野蛮人かもしれない。  彼らはどこからやってきたのか?  この月?  違う、それはありえないことだ。たとえこの不毛の世界に生命が発生していたとしても、月面のほとんど全域が白熱していた、最後の火口形成期のころはすでに滅んでいるはずである。  地球?  まったく不可能ではないが、およそありそうもないことだ。洪積世に、進歩した地球文明──おそらく非人間的種族のものだろう──があったとすれば、その存在の痕跡はたくさん残っていてよい。もしそうなら、われわれが月へ着く前に知りつくしているはずだ、とフロイドは思った。  すると二つの代案が残ることになる──他の惑星と恒星だ。  しかし、他の惑星の知的生命については、あらゆる証拠が否定的な結論を出している──いや、それをいうなら、地球と火星以外に生物と名のつくものが存在するかどうかさえ今のところ疑わしい。内惑星は熱すぎるし、外惑星は冷たすぎる。後者では、大気の底深くおりれば事情はちがってくるが、そこでは気圧は一平方インチにつき何百トンにもなるのだ。  するとこの訪問者たちは恒星からやってきたのか──しかし、それはもっと信じられないことだ。  漆黒の月の空にちりばめられた星座を見上げながら、フロイドは、今まで何回恒星問飛行の不可能なことが「証明」されてきたかを思いおこしていた。地球から月への旅は今でもかなり印象的なものである。だが、いちばん近い恒星まではその一千万倍もあるのだ……こんなことを考えるのは時間の無駄である。  もっと証拠が出揃うまで待っても遅くはない。 「座席のベルトをしめて、不安定なものは固定してください」とつぜんキャビンのスピーカーがいった。「これから四十度の斜面を下りますから」  明りの明滅する二本の標識が、地平線上に現われた。バスはそのあいだに進路を向けた。ベルトを締め終えたとたん、車は身の毛もよだつ急斜面にゆっくりと車体をせりだした。そして家の屋根ほども傾斜のある、長い、石ころだらけの坂を下りはじめた。背後から斜めに照らしていた地球光が消え、バスのフラッドライトにスイッチがはいった。  何年も昔、フロイドはべスビウス山の縁に立って火口のなかをのぞいたことがある。そのなかへ車ごと下っている自分を想像するのは簡単だった。それは、あまり気持のよい考えではなかった。  彼らがいま下っているのはティコの内側にある高台の一つで、数千フィート下方でそれはようやく平地となっていた。傾斜を這い下りる途中、マイクルズが眼前に開けた広大な平原のかなたを指さした。 「ほら、あそこだ」と大声でいった。  フロイドはうなずいた。数マイル行ったところにある赤や緑の光のかたまりにはさっきから気づいており、彼は斜面を慎重に下るバスのなかで、それに眼を釘づけにしていた。大型車が完全に制御されているのは明らかだったが、平地におりるまで、呼吸はなかなか楽にならなかった。  やがて、地球光に照らされて銀色のあぶくのように輝く気密ドームの集団が見えてきた──現場の研究員たちが住む臨時の住居である。その近くに、無線アンテナとドリル機械と駐車した何台かの乗物が見える。そして砕かれた岩の巨大な堆積。おそらくモノリスを掘りだすために取り除かれた岩層だろう。  小さなキャンプは荒涼とした土地のまっただなかに寂しく設営されており、周囲をひっそりとかこむ大自然の力に今にもひねりつぶされそうに見えた。人影はなく、なぜ人間が故郷を離れてこんなところまで来たのか理由を教えるものもない。 「穴が見えますよ」とマイクルズ。「右側のあそこ──無線アンテナから百ヤードほど行ったところ」  あれがそうか。  気密ドームを過ぎ、穴の縁に近づくバスのなかで、フロイドは思った。もっとよく見ようと首をのぱすうちに、いつのまにか彼の脈搏は早くなっていた。  車は押しひしがれた岩の坂道を注意深く下り、穴の内部にはいった。すると、ちょうど写真で見たとおりに、TMA1がそこにあった。  フロイドは眼をこらし、しばたたき、首をふり、また眼をこらした。まばゆい地球光のなかでも、その物体をはっきりと見定めるのは困難だった。カーボン紙から切り抜いた薄っぺらな長方形、それが第一印象だった。厚さはないように見えた。もちろん眼の錯覚である。どっしりした物体を見ているのだが、光をほとんど反射しないのでシルエットだけしか見えないのだ。  穴を下るバスのなかで、乗客は静まりかえっていた。彼らをとらえているのは、畏怖、それに不信だった──死の月がこともあろうに、こんなとほうもない驚異を作りだせるものだろうかといった不信の念だ。  バスは石板から二十フィート足らずのところで、乗客がよくそれを眺められるように側面を向けてとまった。だが、幾何学的に完全なかたちをしているというほかは、特徴は何もなかった。しるしとかそういった、物体の究極的な黒さを減じるようなものは何も見あたらなかった。  夜がそこに結晶しているといったらいいだろうか。  つかのまフロイドには、それが月の生成時の火と圧力のなかで生まれた、想像を絶する天然の物体のように思えた。しかしそんな常軌を逸した可能性も、すでに検討され、破棄されていることを彼は知っていた。  何か合図をしたのか、穴の縁に立ち並ぶフラッドライトの放列にスイッチがはいった。そして明るい地球光は、それよりもはるかにまばゆい光によって抹殺された。月面の真空中では、光線はいうまでもなく眼に見えない。眼もくらむ光の楕円は重なりあいながら、モノリスの上に集中していた。だが照らすそばから、その漆黒の表面は光を呑みこんでしまうようだった。  パンドラの箱だ。  フロイドはそんなことを考え、ふと不吉な予感を覚えた──詮索好きな人間があけるのを待っている箱。人間はそのなかに何を見出すだろう? [#改ページ]      13 しのびやかな夜明け  TMA1現場の中央気密ドームはさしわたし二十フィートしかなく、内部は胸がむかつくほど混みあっていた。バスは、二つあるエアロックの一つに結合され、それが貴重な特別リビングルームを提供することになった。  二重の壁におおわれた、この半球型の風船は、計画に専従することになった六人の科学者と専門家の仕事場兼寝室だった。またそこには、仕事に必要な装備や器械の大部分をはじめ、真空中に放置しておくことのできない備品のすべて、料理、洗濯、トイレット設備、地質学用標本、さらにTMA1現場を常に監視している小型テレビ・スクリーンなどがおさめられていた。  ハルボーセンはドームに残るといいだしたが、フロイドは驚かなかった。行政官は、あっぱれとしかいいようのない率直さで自分の考えを述べた。 「宇宙服というのは必要悪だとぼくは思うんだ」と彼はいった。「年四回、四半期ごとの宇宙服テストのとき以外には着ないことにしてる。もしかまわなければ、ここからテレビで見ていたいんだがね」  こういった偏見は、今ではあまり根拠はない。最新の宇宙服は、第一次月探検隊が着用したものとは比べものにならないくらい着心地がよくなっているからだ。着付け時間は一分たらずで、助手の手も必要とせず、あとはすべて自動的に行なわれる。フロイドがいま注意深く着付けを終った6号服は、昼夜を問わず、月の最悪の環境のなかでも彼を守るはずだった。  マイクルズ博士といっしょに、彼は狭いエアロックにはいった。ポンプの音が遠のき、宇宙服がほとんど気づかないうちに硬直したことから、彼は真空の静かさに包まれたことを知った。  静かさは、宇宙服ラジオの音声で破られた。 「気圧はどうですか、フロイド博士? 普通に呼吸できますか?」 「ええ──良好です」  マイクルズが、フロイドの服の表側にあるダイヤルや計器を慎重にチェックした。やがて彼はいった。 「よし──行きましょう」  外側のドアがあき、地球光を受けて輝く、塵におおわれた月の景観が目の前に開けた。  注意深いよちよち歩きをしながら、フロイドはマイクルズに続いてロックをくぐった。歩行はむずかしくなかった。じっさい逆説めいているが、月に着いて以来、これほど居心地よく感じるのははじめてだった。宇宙服の余分な重みと、動く際のかすかな抵抗が、地球の重力を取り戻したような錯覚を与えるのである。  一行が到着した一時間足らず前に比べて、風景は変っていた。星ぼしや半欠けの地球は変らぬ明るさで光っているが、十四日間の月面の夜は終ろうとしていた。コロナの輝きは、東の空に昇るもう一つの月のように思えた──そのとき何の前ぶれもなく、フロイドの頭上百フィートにある無線アンテナの先端が、隠れていた太陽の最初の光を受けて、炎に包まれたように輝きだした。  二人は計画の主任担当者とその二人の助手がエアロックから現われるのを待ち、やがてゆっくりと穴にむかって歩きはじめた。彼らが着く頃には、薄い弓形の耐えがたい白熱光が東の地平線に顔をのぞかせていた。太陽が、ゆっくりと自転する月の縁から離れるまでには、まだ一時間あまりかかるが、星ぼしはとうに見えなくなっていた。  穴はまだ闇のなかにあった。しかしその周辺に並んだフラッドライトの放列が内部を明るく照らしだしていた。黒い長方形にむかってゆっくりと傾斜を下りながら、フロイドは畏怖と同時に、どうしょうもない無力感を感じていた。  地球の戸口に立ったばかりの人類は、永久に解けないかもしれない謎にもう直面したのだ。三百万年前、何ものかがこのあたりを通り、この未知の、そして不可知に終るかもしれない象徴を残して、どこかの惑星へ──あるいは恒星へ去っていった。  フロイドの服のラジオが、もの思いをたちきった。 「計画担当主任です。こちら側に並んでいただけませんか。写真をとりたいのです。フロイド博士、まん中に立ってください──マイクルズ博士──ああ、どうも……」  このシチュエーションをこっけいに思っているのは、フロイドだけのようだった。しかし彼にしても、正直なところ、だれかがカメラを持ってきたことを喜んでいた。歴史的な写真になることは疑いない。そのコピーは彼もほしかった。ヘルメットの奥にある自分の顔がはっきり写っているように、と彼は願った。 「ありがとう、皆さん」  モノリスを前にして、ややはにかみながらポーズをとっている一行に十回あまりシャッターを切ると、写真家はいった。 「基地の写真部から皆さんにコピーが行くと思います」  フロイドは漆黒の石板に全神経を集中すると──その周囲をゆっくりと回り、あらゆる角度からそれを調べて、その異質さを心に刻みつけようとした。その表面の一平方インチごとに顕微鏡的な調査が行なわれたことを知っていたので、目新しいものが見つかるとは思っていなかった。  そのころには、のろまの太陽も穴の縁からのぼり、光線を石板の東側の面にほとんどまともに注ぎかけていた。それでも石板は飽きることなく光の粒子を一つ残らず吸収しているようだった。  フロイドは簡単な実験をしてみることにした。モノリスと太陽のあいだに立って、なめらかな黒い面にうつる自分の影を捜したのである。  影はなかった。  少なくとも十キロワットの熱が、石板に吸いこまれているにちがいない。なかに何があるにせよ、それは急速に焼きあがっているはずである。  おかしなものだ、とフロイドは思った。氷河期が地球ではじまったころから地中に埋められていたこれ──この物体[#「物体」に傍点]──が、はじめて日ざしのなかに出るとき、自分はこうして見守っている。  彼はふたたびその黒い色のことを考えた。太陽エネルギーを吸収するには、もちろん理想的な物質だ。しかしすぐこの考えを押しのけた。  太陽熱を動力にする装置を地下二十フィートに埋める馬鹿がどこにいるだろう?  彼は、朝空で輝きを失いかけている地球に眼をあげた。あそこにいる六十億の人間のうち、この発見を知っているのはわずかの一握りなのだ。このニューズが報道されたとき、世界はどんな反応を示すだろう?  政治的、社会的な意味はとほうもなく大きい。まともな知性を持った人間なら──すこしでも先を見通すことができる人間なら──だれでも、自分の人生、価値基準、哲学に微妙な変化が起ったことに気づくだろう。たとえTMA1から何も発見されなくても、それが永遠の謎のままに終っても、人間は、自分がこの宇宙のなかで決してユニークな存在ではなかったことに気づく。  何百万年かの差ですれちがってはいるが、かつてここに立ったものたちはまた帰ってくるかもしれない。彼らでなくとも、ほかのものたちに会えるかもしない。未来はこの可能性をすべて含んでいるのだ。  フロイドがそんな感慨にひたっているときだった。とつぜんヘルメットのスピーカーが、つき刺すような雑音を発した。それは、すさまじいまでに加重がかけられ、歪められた時報の音を思わせた。  無意識に彼は、宇宙服につつまれた両手で耳の部分をおさえていた。そして、われにかえると、レシーバーの増幅器に夢中で手をのばした。まさぐっているあいだに、さらに四つ、鼓膜をつんざくような雑音がとどろき、やがて慈悲深い沈黙がおりた。  穴の周囲では、人影が驚きのあまり麻痺したように立ちつくしていた。自分の装置の故障ではなかったわけだ、とフロイドは思った。みんな、今のつき刺すような雑音を聞いているのだ。  三百万年を闇のなかで過してきたTMA1が、月面の夜明けを迎えて発した喜びの声を。 [#改ページ]      14 聞きいるものたち  火星のかなた一千万マイル、人間が誰ひとり到達したことのない冷たい虚無のなかを、深宇宙観測機79号は、小惑星群のこみいった軌道をぬうようにゆっくりと運航していた。三年間、それは与えられた任務を間違いなく遂行してきた──設計を受けもったアメリカの科学者、建造を受けもったイギリスの工学者、発射を受けもったロシアの技術者、彼らの協力の成果がそれであった。  アンテナの繊細なクモの巣は、通りすぎるラジオ・ノイズの波長を──今よりはるかに単純な時代に、パスカルが無邪気にも「無限の宇宙の静寂」と呼んだ絶えまない雑音を──検出している。放射線検出器は、銀河系やそのかなたからやってくる宇宙線を発見し、分析している。中性子および]線望遠鏡は、人間の眼には見えない特殊な星に常に全神経を集中している。磁気計は、太陽が送りだす突風やハリケーン──太陽が時速百万マイルの勢いで周囲をめぐる惑星の表面に吹きつける稀薄なプラズマ──を観測している。  深宇宙観測機79号は、このすべてを辛抱強く測定し、水晶のように明噺なその記憶庫に蓄えているのだった。  今ではかえりみられもしないエレクトロニクス時代の奇蹟であるそのアンテナの一つは、太陽から一定間隔以上離れることのないある一点を常に指し示していた。数ヵ月ごとに、そのはるかな目標は、もしここから眺める眼があるとすれば、薄暗い連れをすぐそばに従えた明るい星として姿を現わす。だがたいていの場合、それは太陽の輝きに隠れて見ることはできない。  その遠い惑星、地球にむけて、観測機は二十四時間ごとに、それまで辛抱強く蓄えてきた情報を五分間のパルスにきちんとおさめて送りだす。約十五分後、パルスは光速の旅を終えて目的地に到達する。地球にはそれを待つだけが仕事の、装置がある。装置は信号を増幅し、記録し、ワシントン、モスクワ、キャンベラ三都市の世界宇宙科学センター倉庫に眠る何千マイルもの磁気テープに加えるのだ。  五十年近い昔、最初の人工衛星群が打ちあげられたころより、何千億、何千兆ものパルスが宇宙空間からここに送りこまれ、知識の進歩に役立つ日のために蓄えられていた。これら原料のうち、加工されるものは全体の何百、何千分の一にも満たないだろう。しかし今から十年後、五十年後、あるいは百年後、科学者たちがどんな目的でそれを利用することになるとも限らないのだ。だから情報はすべて、不慮の事故に備えて各センター用に三部複製され、空気調節された果てしない倉庫のなかにファイルされ、保存されていた。それは人類の真の財宝の一つであり、銀行の金庫のなかに無意味に眠る金塊よりもはるかに貴重なものなのだった。  しかし今、深宇宙観測機79号は奇妙な現象を発見していた──微弱な、しかしまぎれもないさざ波が惑星間空間をわたっていく。それは観測機がこれまで観測した自然現象のどれとも異なるものだった。  装置は自動的に、その波の方向、時間、強さを記録した。数時間後には、その情報は地球へと伝えられるのだった。  同じ現象は、火星の周囲を一日に二回まわる火星衛星15号、黄道面からゆっくりと高みにのぼる傾斜軌道探測機21号、そしてまた、あと一千年は到達できないはるかな遠日点めざして冥王星のかなたの冷たい虚無のなかを進む人工彗星5号でも、観測されていた。  それらもまた、計器をゆり動かした特異なエネルギーの波を記録し、一定時間の後、はるかな地球の記憶庫に自動的に報告を送った。  それぞれ数百万マイル離れて独立した軌道を行く宇宙探測機、それらがもたらした四組の特異な信号のあいだにある関連性を、コンピューターは気づかなかったかもしれない。しかし、ゴダード基地の放射線予報技師は、翌朝のレポートを見るとすぐ、何か奇妙なものが過去二十四時間のあいだに太陽系を通り抜けたことを知った。  彼はその軌跡の一部をとらえたにすぎなかった。しかし、コンピューターが惑星位置図表にそれを投影した結果は、晴れわたった空を横切る一本の飛行雲のように、新雪の上に残された一直線の足跡のように、明白であった。  何か形のないエネルギーのかたまりが、高速モーターボートの航跡のように放射線の飛沫を周囲にまきちらしながら、月面を起点に星ぼしにむかって飛んでいったのである。 [#改ページ] [#改ページ]  第三部 惑星と惑星のあいだで      15 宇宙船ディスカバリー号  地球を離れてまだわずか三十日。それでもデイビッド・ボーマンには、宇宙船ディスカバリー号のこの小さな閉ざされた世界以外に自分の住んでいた世界があったとは信じられなくなることが、ときたまあるのだった。訓練に費された数年間、それ以前の、月や火星への何回かの任務、それらは別の人間の別の人生のなかの出来事のように思えた。  この感覚はフランク・プールも認めており、しばしば冗談半分に、この一億マイル四方に精神分析医が一人もいないのを嘆いた。しかし、この孤独感、隔絶感は容易に理解できるたぐいのもので、決して異常さを示しているわけではなかった。人類が宇宙空間に乗りだして五十年このかた、こんな旅が企てられたのは、これがはじめてなのである。  それは五年前、「木星計画」の名のもとにはじまった──太陽系最大の惑星への有人宇宙船による最初の往復飛行。  ところが二年間の旅の準備がほとんど終りに近づいていたころ、なぜかとつぜん任務内容が変更されたのだ。ディスカバリー号が木星にむかうことには変りはない。だが、そこではとまらないのだ。そればかりか、はるかに広がる木星衛星系を横切るあいだ、速度をゆるめもしない。その反対に──ちょうど石を遠くに投げるのに投石器を使うように、船はその巨大惑星の重力場を太陽からさらに遠ざかるために利用するのだ。彗星のように、船は太陽系の辺境をその最終的な目的地、輪をめぐらした偉観、土星にむかってまっしぐらに飛ぶ。そして二度と戻ってこない。  ディスカバリー号にとって、それは片道旅行である──だが、乗組員たちは自殺を意図しているわけではない。万事が順調に運べば、彼らは七年後ふたたび地球に戻ってくる──そのうちの五年は、人工冬眠の夢のない眠りのなかで一瞬のうちに過ぎ去る。その状態で、彼らはいまだ建造されていないディスカバリー2号が救助にやってくるのを待つのだ。  宇宙飛行関係の機関は、ステートメントや文書のなかに「救助」の語を使用するのを慎重に避けていた。その語には、計画の失敗を暗示するものがあるからで、公式に認められている用語は「再捕獲」であった。もしどこかで間違いがおこるとすれば、地球から十億マイル離れた空間なのだ、救助される見込みはまったくない。  それは、未知の旅のすべてにともなう計算ずみのリスクであった。しかし半世紀にわたる研究の結果、人工冬眠はまったく安全なことが証明されており、宇宙旅行の新しい可能性はすでにひらけていた。とはいえ、それがとことんまで利用されるのは、この任務がはじめてだった。  船が最終目的地である土星周囲の軌道にはいるまで必要でない、調査隊のメンバー三人は、外惑星への飛行の全行程を眠ったままですごす。これで何トンもの食料と消耗品は節約されることになる。それと同じくらい重要なのは、行動開始のとき、三人が十ヵ月の旅の疲れもなく、元気で機敏なはじめのままの状態にあることだ。  ディスカバリー号は土星をめぐるパーキング軌道にはいり、その巨大惑星の新しい月となる。そして、直径二百万マイルの軌道上を、土星に近づいたり大型衛星の軌道を横切ったりしながら、時計の振子のように前後運動する。  地球の八十倍の表面積を持ち、少なくとも十五の既知の衛星──そのうち最大のものは水星に匹敵する──を従えた惑星、土星。彼らはそれを百日にわたって観測し研究するのだ。  そこには何十世紀もの研究に耐えるほどの驚異が待ちかまえているにちがいない。第一次遠征隊は、予備的な偵察をするにすぎない。見つかったものはすべて電波で地球に送られる。たとえ一行が帰還しなかったとしても、彼らの発見が失われることはないのだ。  百日の終りに、ディスカバリー号はその活動をとめる。乗組員全員が人工冬眠にはいり、必要不可欠な装置だけが、疲れを知らぬ船の人工頭脳に見守られて活動を続ける。船はそのまま大きく揺れながら土星の周囲をまわる。正確に決定された軌道なので、一千年後でも船を捜しだすことはたやすい。  だが現在の計画では、ディスカバリー2号が到着するのは、わずか五年後なのだ。たとえそれが六年、七年、いや、八年後でも、眠ったままの乗組員たちは決してその遅れに気づかない。彼らにとっては、時計は停止しているからだ。ちょうどホワイトヘッド、カミンスキー、ハンターにとって、現在、時計が停止しているように。  ディスカバリー号の船長としての義務を負っているボーマンには、冬眠カプセルの凍りついた安らぎのなかにいる三人の同僚がうらやましくてならなかった。彼らはあらゆる倦怠と責任から解放されているのだ。土星に着くまで、彼らには外部の世界は存在しないのだ。  しかし外世界は、生体監視装置《バイオセンサー》のディスプレイを通じて、彼らを観察している。コントロール・デッキの密集した計器から離れて、五つの小さなパネルが目立たぬように取りつけられており、それぞれの上には文字。 【ハンター、ホワイトヘッド、カミンスキー、プール、ボーマン】  最後の二つのパネルは空自のままで、まだ活動していない。一年後にならなければ、その出番はやってこないのだ。残り三つのパネルは、小さな緑のライトが星座のように輝いていて、すべては正常だと告げていた。どれにも小型のディスプレイ・スクリーンがあり、その上を何本かの輝線がのんびりしたリズムに乗って動いている。輝線は、脈挿、呼吸、頭脳活動を示すものだ。  ときどきボーマンは、不必要だと知りながら──どこかが故障すれば警報装置がすぐ鳴りだすのだから──音声出力装置のスイッチを入れてみる。そして、なかば催眠術にかかったように、眠っている同僚たちのはかり知れぬほどゆっくりした心臓の鼓動に耳を傾け、それに同調してスクリーンを動いていくのんびりした波を見つめる。  なかでもいちばん見飽きないのは、脳波測定機のディスプレイだ──それらが描きだすのは、かつてこの世に存在し、将来また存在するであろう三つの人格の、電子の助けを借りた署名である。  線にはほとんど山もなければ谷もない。頭脳がめざめていれば──いや、普通の眠りならば──必ず見られる電気的な爆発はない。かりに意識がわずかばかり残っているとしても、それは計器の、そして記憶の感応域の外なのだろう。  ボーマンは、このおしまいの事実を個人的な体験から知っていた。この任務に選抜されるまえ、彼は人工冬眠に対する肉体の反応をテストされたのである。自分の一生が一週間だけ短くなったことになるのか──それとも、究極的な死をそれだけの期間遅らせたことになるのか、それはよくわからない。  ひたいに電極がいくつかとりつけられ、睡眠誘発機がパルスを打ちはじめたとき、つかのま彼は万華鏡を思わせる模様と流れる星ぼしを見た。だがそれもすぐに消え、闇が彼を包んだ。注射にはまったく気づかなかった。冷気の最初の訪れなどはなおさらで、やがて彼の体温は氷点のうえ数度のところまで下げられた。       *  眼がさめた。眼を閉じたことさえ信じられないほどだった。だが、それが錯覚だということはわかった。なぜか数年間が経過したという確信があったからだ。  任務は完了したのだろうか? とうに土星に着き、調査を成しとげ、冬眠にはいったのだろうか? これは自分たちを地球に送りかえすディスカバリー2号なのだろうか?  夢に似た幻想状態におちいったまま、彼は現実の記憶と幻想の記憶の区別をまったくつけられないでいた。眼をあけたが、ぼやけた光の星座以外なにも見えず、しばらくのあいだ光の正体を考えていた。やがてそれが宇宙船位置表示器のインジケーター・ランプであることに気づいた。だが眼の焦点はどうしてもそれに合わなかった。まもなく彼はその試みをあきらめた。  暖かい空気が体に吹きつけられ、四肢から冷気をとりさっていく。頭のうしろにあるスピーカーからは、静かな、だが刺激的な音楽が溢れでてくる。音量はゆっくりと大きくなっている……。  と、おちついた、親しげな声が話しかけてきた──だが、それがコンピューターの声だということはわかった。 「デーブ、きみの機能は回復しかけている。起きあがったり、激しい運動をしたりしてはいけない。声を出してはいけない」  起きあがるなだって! とボーマンは思った。笑わせやがる。指一本動かせるかどうかも怪しい。だが、やってみると指は動き、いくらか驚いた。  彼は自分が今いる陶然とした痴呆のような状態に大いに満足していた。救助船が着き、自動蘇生装置が作動したことに、うすうす気づいていた。人間の顔を見るのもそれほど遠い先ではない。けっこうなことだが、興奮はまったく感じなかった。  やがて何か食べたいと思うようになった。コンピューターはもちろんその欲求を予期していた。 「デーブ、右側に合図のボタンがある。おなかがすいているのなら、それを押しなさい」  ボーマンは精一杯の努力であたりをまさぐり、まもなく西洋ナシのかたちをしたつまみをさがしあてた。そこにあることは知っているはずなのに、すっかり忘れていたのだった。ほかに忘れていることがどれくらいあるだろう──人工冬眠は記憶を消す作用があるのだろうか?  彼はボタンを押して待った。数分後、金属の腕が寝台から伸び、プラスチック製の乳首が口元におりてきた。待ちかねたように吸いつくと、暖かい甘い液体が喉を下っていった。その一滴一滴が、力を内に呼び戻した。  しばらくしてそれは去り、ふたたび彼は休息をとった。今では腕も脚も動かすことができる。歩くことは、もう不可能な夢ではなかった。  急速な活力の回復を感じてはいたが、もし外部からそれ以上の刺激がなかったら、そのまま永遠に満足して横たわっていたかもしれない。だが、すこしすると別の声が話しかけてきた──今度のそれは完全に人間の声であり、人間以上の記憶装置が合成した電気パルスの産物ではなかった。それはまた聞き慣れた声でもあった。といっても、だれの声かわかるまでにしばらく時間はかかったが。 「よう、デーブ。回復は順調だ。もう話していいぞ。ここがどこかわかるか?」  すこしのあいだ、その問題が彼の頭を悩ました。ここが本当に土星をめぐる軌道だとすれば、地球を発ってから何ヵ月かのあいだ、自分は何をしてたのだろう? 健忘症にかかったのだろうか、とまた疑いだした。  矛盾したことだが、その疑問が彼を安心させる役目を果した。「健忘症」の語を思いだすことができるのなら、頭脳はまだある程度良好な状態にあるにちがいない……。  だが、自分がどこにいるかはまだわからなかった。回線のむこう端にいる話者は、彼のおかれている状況を充分承知しているのだろう。 「心配するな、デーブ。おれだ、フランク・プールだよ。きみの心臓と呼吸をいま見ている──みな完全にノーマルだ。さあ気楽にして──おちつくんだ。これからドアをあけて、きみを引っぱりだすからな」  柔かな光が容器のなかに満ちあふれた。大きくなる入口のむこうでは、いくつかの人影が動いていた。あらゆる記憶がよみがえったのは、その瞬間だった。  そして彼は自分がどこにいるか悟った。  眠りからいちばん遠い境界、死にいちばん近い境界すれすれのところへ行き、戻ってきたことは確かである。だが、そこにはわずか一週間しかいなかったのだ。  冬眠カプセルから出ても、外には冷たい土星の空はない。それは一年以上も未来、十億マイル以上もかなたのことなのだ。彼はまだ、ヒューストン宇宙飛行センターの宇宙飛行訓練室のなか、暑いテキサスの太陽が照りつける地上にいるのだった。 [#改ページ]      16 ハ  ル  しかしもうテキサスもかなたにかすみ、合衆国さえ見ることはむずかしい。低推力プラズマ・ドライブはとうに停止しているが、ディスカバリー号はまだそのすらりとした矢のような船体を地球とは正反対の方向に向けて惰力飛行しており、高性能の光学装置はすべて外惑星をさししめしていた。そこに船の目的地があるのだ。  しかし、一つの望遠鏡だけは常に地球に向けられていた。それは、長距離アンテナの外縁部に照準器のように取り付けられており、その巨大なパラボラ型の椀がはるかな目標にしっかりと固定されているか、絶えずチェックが行なわれていた。地球が十字線《クロス・ワイヤ》の中心にあるあいだは、乗員の死活にかかわるコミュニケーション・リンクは完全であり、一日に二百万マイル以上のびるその見えないビームを通じて自由に通信文を往復させることができるのだった。  当直時間になると、ボーマンは少なくとも一回は、アンテナと一線に並んだ望遠鏡を通して故郷を眺める。地球は太陽の方向にずっと遠のいてしまっているので、ディスカバリー号から見えるのは暗いほうの半球である。中央ディスプレイ・スクリーンにうつる地球は、目もくらむばかりに輝く銀色の三日月で、金星と見まちがえかねない。  表面を包む雲や靄のため、日を追って縮んでいくその光の弧から、地形を見定めることはほとんどできない。だが闇の部分にも、尽きることのない魅惑はある。輝く都市がそこにちりばめられているからだ。それらが一定の明るさで輝き続けていることもある。大気に乱れがおこると、ホタルのようにまたたくこともある。  また、軌道を行く月が、巨大なランプのように、暗がりのなかにあった地球の海や大陸を照らしだすこともある。すると、ぼんやりした月光のなかに、見慣れた海岸線がうかびでることがよくあり、そんなときにはボーマンの内をぞくぞくするような興奮がかけぬける。ときどき太平洋が穏やかだと、水面にさんざめく月光さえ見ることができる。そして彼は、熱帯の礁湖のヤシの木の下ですごした夜を思いだす。  だが、そういった美から遠く離れてしまったことを後悔しているわけではない。これまでの三十五年の人生で、彼はそのすべてを楽しんできたのだ。それに、金もでき、有名になって戻ってきたとき、またそれを楽しむこともできるのだ。だが、これだけ離れてみると、それらは今まで考えていた以上に貴重なものに思えるのだった。  船の六番目の乗組員は、人間ではなかったから、そんなものはいっこうに気にかけていなかった。船の頭脳であり神経系である、高度に進歩したHAL九〇〇〇型コンピューターが、それであった。  ハル(といっても、発見能力をプログラムされたアルゴリズミック・コンピューター Heuristically programmed ALgorithmic computer にすぎないのだが)は、第三次コンピューター革命の生みだした傑作といえた。革命は二十年の期間をおいて起るようであり、さし迫ったつぎの革命が、すでに多くの人びとの頭を悩ましていた。  第一次は、一九四〇年代。今では時代遅れとなった真空管が、ENIAC以下の無器用な高速の低能児を生みだした。そして一九六〇年代にはいると、ソリッド・ステート・マイクロエレクトロニクスが完全なかたちとなった。それが出現したことによって、人間に必要な程度の能力を備えた人工知性なら、会社のデスクぐらいの大きさですむことがはっきりした──もちろん、作りかたを知っていればの話だが。  そこまで知りつくしたものは、だれもいないだろう。だが、それは問題ではなくなった。一九八〇年代になって、ミンスキーとグッドが、任意の学習プログラムに従って神経回路網を自動的に発生させる──自己複製させる──方法をおおやけにしたからだ。人工頭脳を、人間の頭脳の発達に酷似したプロセスで成長させる方法が証明されたのである。どの場合をとっても、正確なディテールはけっきょくわからない。たとえわかったとしても、人間の理解力を百万倍も越える複雑なものだろう。  仕組みがどうあろうと、最終的な産物は、大脳の活動の大部分を、大脳よりはるかに優れた速度と確実さで再生することのできる──哲学者のなかには、まだ「模倣する」という語を好んで使うものもいた──機械の知性であった。それははなはだしく高価につくので、今のところ完成しているHAL九〇〇〇型シリーズはほんの二、三台だったが、有機的な脳のほうが技術もいらずたやすくできるだろうという使い古された冗談は、少々|空《うつ》ろにひびく時代となっていた。  ハルは人間の同僚たちと同じように、この任務のために徹底的な訓練を受けた──注ぎこまれる情報は同僚たちのそれをはるかに上まわるものだった。なぜなら生来の高速に加えて、彼には眠りというものがなかったからだ。  彼のもっとも重要な仕事は、生命維持に必要な装置をモニターすることである。気圧、温度、船体からの空気の漏れ、放射能、その他、かよわい生きた荷物が生命を保つのに必要な複雑にからみあった要素のすべてを、絶えずチェックするのだ。また、こみいった軌道修正を行ない、進路を変えるとき必要となる宇宙船の動きを決定することができる。そして冬眠者を監視し、彼らのいる環境を調節し、養分となる液体をすこしずつ静脈に送りこむ。  コンピューターの第一世代は、その入力を歴史的なタイプライターの鍵盤を通じて受けとり、高速プリンターや視覚的ディスプレイを通じて回答した。必要な場合には、ハルにもそれができる。だが同僚との意志疎通の大部分を、彼は音声で行なっていた。プールとボーマンは人間に対するようにハルに話しかけることができるし、彼もまた数週間の短い幼年時代に学んだ完全な慣用英語で答えるのだった。  ハルに真の意味での思考能力があるかどうかは、すでに一九四〇年代に、イギリスの数学者アラン・チューリングが決着をつけていた。チューリングは、こう指摘したのである。  人間が機械と長いあいだ会話して──それがタイプライターによるか、マイクロフォンによるかは大した問題ではない──しかも、機械の返事が人間のそれとまったく見分けがつかないようなら、その機械は、常識的な意味で、思考しているのである。  チューリング・テストをパスするのは、ハルには簡単だった。  ハルが船の支配権を握る場合さえあるかもしれない。非常事態がおき、しかも合図にこたえる人間がいないときには、彼は電気的な刺激と化学的な刺激で冬眠中の乗組員をめざめさせる。もし彼らがめざめないようなら、地球に連絡してそれ以上の命令を請うのだ。  そして地球からも返事がないようなら、船の保護に必要な手段を自分で講じ、任務を続行する──任務の真の目的を知っているのは彼だけであり、それは人間の同僚たちには想像もつかないものなのだ。  まるで、自分だけでやっていける宇宙船の小使いか番人みたいだ。  プールとボーマンは、自分たちのことをふざけてよくそんなふうにいったものである。その冗談がどれほど真相に近いか知ったならば、彼らは驚き、腹をたてたにちがいない。 [#改ページ]      17 船内の生活  船の毎日の管理には細心の計画がたてられたので、ボーマンとプールは──少なくとも理論的には──自分たちが何をしているか、二十四時間のどの瞬間をとっても知っているはずだった。  二人は、十二時間当直、十二時間非番のシステムに従って責任を交替し、二人とも眠っている時間はつくらなかった。当直員がコントロール・デッキにいるあいだ助手は一般的な雑用をとりしきるか、船内を見まわるか、ひっきりなしに持ちあがる些細な問題に取り組むか、でなければ自分の部屋で休息をとる。  任務のこの段階では、名義上の船長はボーマンだが、外部から見るものにはその事実は決してわかるまい。なぜなら、二人の役割、階級、責任は、十二時間ごとに完全に入れかわってしまうからだ。これによって、二人の健康は常に最上の状態に保たれ、摩擦の可能性は最小限に減り、百パーセントの余力を残して目標まで飛ぶことが可能になるのである。  ボーマンの一日は、船時間──天文学者の使う世界天体暦時間──の〇六・〇〇時にはじまる。もし寝ぼうすれば、ハルがさまざまなビープやチャイムで彼に義務を思いおこさせる仕組みになっているのだが、それが用いられたことは今のところなかった。一度、実験として、プールが目覚ましベルを止めておいたことがある。それでもボーマンは、定刻に自然に起きあがった。  一日の最初の公式的な行動は、マスター人工冬眠《ハイバネーション》タイマーを十二時間進ませることである。もしこの操作が二度続けて途切れると、ハルは二人が活動を停止したとみなして、必要な非常措置をとるのだ。  顔を洗うとか、そういった雑用を終えると、ボーマンは朝食のテーブルにつき、ワールド・タイムズ紙の朝のレディオファックス版を読みはじめる。地球にいたときには、これほど隅から隅まで新聞を読んだことはなかった。今では、スクリーンにうつされる記事なら、社交界のどんな小さなゴシップでも、政界のどんな眉唾な噂でも、われを忘れるほどの興味をおぼえるのだ。  〇七・〇〇時には、彼はコントロール・デッキにいるプールと公式的に任務を引きつぎ、キッチンから持ってきたチューブ入りのコーヒーを渡す。もし──といっても、これはいつものことなのだが──報告しなければならない出来事や、片づけてしまわなければならない仕事がないようなら、彼はシートにかけて計器の目盛りをチェックし、故障を捜しだす一連のテストを行なう。一〇・〇〇時にはそれも終り、勉強の時間になる。  今までの一生の半分以上を学生として過してきたボーマンだが、これからも引退するまで、彼は学生のままでいるだろう。二十世紀に起った訓練と情報取扱い技術の革命によって、彼はすでに大学を二回も三回も卒業するくらいの学問をしており──そればかりか、学んだことの九十パーセントを覚えているのだった。  五十年前なら、応用天文学とサイバネティックスと宇宙推進装置の専門家と見なされるところである──だが、そんなことをいえば彼は本気でおこりだし、自分は専門家などではないといいはるだろう。  ボーマンは、興味をある一つのものに集中することのできない人間だった。教官たちの陰険な警告を無視して、彼が取ったのは一般宇宙飛行学の修士号だった──当時の一般宇宙飛行学は、知能指数がわずか百三十台で、専門の分野のトップランクにはとうていあがれそうもないものたちのために特に設けられた、掴みどころのない、怪しげな教科だった。  だが彼の決断は正しかった。専攻を選ばないというその事実が、彼をこの仕事につけるユニークな資格となったのだ。フランク・プールもこれとだいたい同じで──ときどき自分のことを宇宙生物学のしろうと研究家と軽蔑的に呼ぶこともあるが──ボーマンの助手には理想的な人選だった。  この二人が一致協力し、さらに、必要な場合ハルの厖大手な情報の宝庫が加われば、旅のあいだに持ちあがるどんな問題も必ず解決できるはずだった──少なくとも、常に心を油断なくとぎすませておき、過去に学んだ知識を絶えず記憶に新しく刻みつけているかぎりは。  そんなわけで、一〇・〇〇時から一二・〇〇時までは、ボーマンにとって電子家庭教師との対話の時間、一般的知識を再確認し、この任務に必要な専門的学問を吸収する時間である。宇宙船の設計図や航宙図や旅の今後の予定を際限なく検討し、あるいは木星や、土星や、宇宙空間はるかにひろがるそれらの衛星系について知られていることを頭に叩きこむ。  正午になると、食堂へひきあげ、船をハルにまかせて昼食の仕度をはじめる。そこでも、もちろん義務からは解放されていない。なぜなら、その狭くるしいロビー兼食堂にも宇宙船位置表示パネルの複製が備えられていて、一言でハルが呼び出せる仕組みになっているからだ。この食事時間は、またプールが六時間の睡眠につく前のひとときにあたり、そこでいっしょに地球から送られてくるレギュラー・テレビ番組を見るのが、ふつうの日課だった。  献立も、任務の他のすべての面と同様、周到に計画されていた。冷凍乾燥食品が大部分を占める食料は、すべて最高の品質で、トラブルを最小限にとどめる目的で選ばれたものばかりである。食事の任度といっても、ただ包装をあけ、小型自動調理器に押しこむだけでいい。できあがれば、ブザーが鳴って注意を促す。できあがりは、味も──そして同じくらい重要な見ばえも──そっくりのオレンジ・ジュース、卵(お好みによりどのようにも)、ステーキ、チョップ、ロースト、新鮮な野菜、さまざまなくだもの、アイス・クリーム、そして焼きたてのパンまで。  昼食がすむと、一三・〇〇時から一六・〇〇時まで、ボーマンはゆっくりと注意ぶかく船内を──人間が直接近づける部分を──巡回する。ディスカバリー号の全長は四百フィート近くあるが、乗員のためにしつらえられた小宇宙は、直径四十フィートの気密部分だけ。  そこにすべての生命維持装置と、船の機能的心臓部であるコントロール・デッキがあるのだった。この下の「宇宙ガレージ」には三つのエアロックがあり、もし船外活動の必要がもちあがった場合、それらを通じて一人乗りの推進装置つきカプセルを宇宙空間に送りだすことができる。  気密球体の赤道部分──いわば南回帰線と北回帰線で分断される部分──は、直径三十五フィートの、ゆっくりと回転する鼓輪を内包している。このメリーゴーラウンド、つまり遠心機は、十秒に一回の割合で回転し、月面のそれに等しい人工重力を作りだす。完全な無重量状態がもたらす肉体の萎縮を防止するには、その程度で充分だし、また日常的な生命活動も正常な──というか、ほとんど正常な──状態で行なえるわけである。  だからそのメリーゴーラウンドのなかには、キッチン、食事、洗濯、トイレットの設備がすべて整えられていた。熱い飲物を用意し、取扱うのもここなら安全だった──無重量状態が危険このうえないのは、熱湯が無数の小滴となって漂いだし、ひどい火傷を負う場合があるからだ。ひげ剃りの問題も解決される。ここでは、無重量の剛毛が四方八方に舞って、電気器具を故障させたり、乗員の健康を害するようなこともない。  メリーゴーランドの外縁には、五つの小さな個室がある。どれも、各宇宙飛行士の趣味に合った装飾が施され、それぞれの持物がはいっている。今のところ使われているのは、ボーマンとプールの部屋だけで、残り三つの住人はドアからはいったすぐわきの電子装置つき棺《ひつぎ》のなかで眠っている。  メリーゴーランドの回転は、必要に応じていつでもとめることができる。そんな場合には、その角運動量ははずみ[#「はずみ」に傍点]車のなかに保存され、回転を再開するときにまた切り換えられる。しかし、よほどの事情がないかぎり、一定速度の回転に変化が起ることはない。中心部のゼロG部分から柱を伝っておりれば、ゆっくりと回る巨大な鼓輪にも簡単にはいれるからだ。移動部分へ飛び移るのも、すこし経験を積めば、動くエスカレーターに乗るのと同じ理屈で、ごく簡単で無意識的な運動となる。  球形の気密部分は、さしわたし百ヤード以上もある、か細い矢のかたちの船体の頭部となっている。深宇宙にむかう飛行装置の常として、ディスカバリー号もまた非流線型の脆弱な宇宙船で、大気圏にはいったり、惑星の巨大な重力場を脱して離陸したりすることはできない。ディスカバリー号は地球をめぐる軌道上で組み立てられ、地球=月間の処女飛行でテストされ、月上空の軌道上で最終的チェックを受けた。その故郷は宇宙空間であり外形もそれに似つかわしかった。  気密部分のすぐうしろには、四個の巨大な液体酸素タンクがまとめて取りつけられている──その背後の長いすらりとしたXの字は、原子炉の余剰熱を消散させる放射翼。冷却液を送るパイプの複雑な格子模様をまとったそれは、とほうもなく巨大なトンボの羽根を思わせ、また、ある角度から見るとき、ディスカバリー号は遠い昔の帆船にもどこか似たところがあった。  乗員居住区から三百ヤード、Vの字の最遠部に、原子炉の遮蔽された地獄がある。そして、焦点電極の複合体を通じて、プラズマ・ドライブの白熱した炎がほとばしりでる。数週間前、月のパーキング軌道からディスカバリー号を離脱させて以来、その仕事は終っていた。今では原子炉は、船内の設備に電気を送るだけのために、ほそぼそと活動しているにすぎない。ディスカバリー号が最大の推力で加速していたときには、サクランボウ色に輝いていた巨大な放射翼も、今では黒く冷たい。  船のこの部分を検査するには、宇宙空間に出る必要があるのだが、装置やテレビ・カメラのおかげで、いながらにしてその状態を知ることができる。ボーマンも今では、放射装置、パネル、それらに付随するパイプ類すべてを自分の手の平のように知っているという確信があった。  一六・〇〇時には巡視は終り、地球の管制本部への詳細な口頭の報告がはじまる。それは、確認の通告が届くまで続く。すると送信機のスイッチを切り、今度は地球からの報告に耳を傾け、質問があった場合には、さらにその回答を送る。一八・〇〇時にはプールが眼を覚ますので、そこで任務を交替する。  それからの六時間は、やりたいことができる非番の時間である。研究を続けることもあれば、音楽を聞いたり、映画を見たりすることもある。気のおもむくままに、船の無尽蔵の電子ライブラリーを漁って時をすごすことも多い。いま彼をとりこにしているのは、歴史上の大探検物語だが、こんな状況のもとでは無理もあるまい。  あるときは、ピュテアスとともにヘルクレスの柱(ジブラルタル海峡)を越え、石器時代をやっと通りすぎたばかりのヨーロッパ沿岸を航海して、北極海の冷たい霧のなかにまで赴く。あるいは二千年のち、アンスンとともにマニラのガレオン船を追い、クックとともに未知の危険をひめた大堡礁をさぐり、マゼランとともに最初の世界周航を成しとげる。いま読んでいるオデッセイは、どの本にもまして時の深淵をこえて、彼に語りかけてくるようだった。  また気晴らしをしたいときには、チェッカーや、チェス、ポリオミノーをはじめ、いくつもの数学的ゲームを知っているハルという相手がいる。もしハルが全力をだしきれば、それがどんなゲームであっても、出しぬける人間はいない。だが、それでは乗員の士気にさわるので、五十パーセントしか勝たないようにあらかじめプログラムされている。といっても、人間の相手は、それに気づかないふりをしているだけなのだ。  ボーマンの一日の最後の数時間は、掃除や雑用に費される。二〇・〇〇時には──ふたたびプールと夕食。そのあとには、地球からの私的な呼出しに応じたり、こちらから呼んだりする一時間がある。  船内の四人の同僚と同じく、彼もまた独身だった。これほど長期の任務に、世帯持ちの人間を送りだすのは妥当でないと考えられたからだ。帰還するまで待つと約束してくれた女性は数えきれないが、それをまともに信じるお人好しはいなかった。  はじめのうちこそ、プールもボーマンも一週間に一度は必ず、親しいガール・フレンドに私的な呼出しをかけたものだが、地球側の受信機を通じて聞いている人間がたくさんいるにちがいないと考えるうちに、いつしかそれも間遠になった。だがそうでなくとも、旅がはじまるとまもなく、地球のガール・フレンドからの通信はめっきり回数が減り、情もこもらなくなってきた。それは予期していたことだった。  かつての船乗りがそうであったように、今ではそれは、宇宙飛行士が支払わねばならない科料の一つなのだ。だが船乗りには、周知のとおり、その代償となるものが他の港にあった。残念ながら、地球はるかなこの軌道上には、浅黒い娘がわんさといる南の島はない。  もちろん宇宙医学者たちは変らぬ熱意でこの問題に取り組んだので、船内備えつけの薬物類のなかを捜せば、適当な、だがあまり魅惑的とはいえない代用品がいちおうは見つかるのだった。  仕事の締めくくりは、最終的報告と、ハルが一日の器械使用のテープ記録をすべて送信しているかどうかのチェックである。そのあとは、本を読むなり映画を見るなりして、気ままな二時間をすごす。  眠りにつくのは真夜中──電子催眠装置のご厄介になることはほとんどない。  プールの日課も、ボーマン自身のそれとそっくり同じ。二つのスケジュールはみごとに適合し、摩擦が起きる心配はない。二人とも忙しいし、理性的にも性格的にも喧嘩のできない人間なのだ。  旅は、気楽な、まったく平穏無事な日々の連続となり、時の経過はディジタル時計の移り変る数字に表われるだけだった。  そしてディスカバリー号の乗員の最大の願いといえば、これから先何週間も何ヵ月も、この平和な単調さが破られないことだった。 [#改ページ]      18 小惑星帯を抜けて  続く何週間か、線路を走る市街電車のようにあらかじめ完壁に決定された軌道上を進みながら、ディスカバリー号は火星の軌道を越え、木星へと近づいた。地球の空や海を行く乗物と違って、操縦の必要はまったくない。進路は引力の法則によって固定され、海図にない浅瀬や危険な暗礁にぶつかる心配はなかった。  そればかりか他の宇宙船と衝突する危険も皆無に等しい。なぜなら、ディスカバリー号と無限に遠い星ぼしとのあいだには、船は──少なくとも、人間の手になる船は──一隻も存在しないのだから。  しかし、今それがはいりこんだ空間は、虚無にはほど遠かった。この先は、人間の存在を許さない世界、百万個以上の小惑星の軌道が網の目のように交叉する空域なのだ──天文学者が軌道を正確に算出した小惑星の数は、そのうちの一万個にも満たない。百マイル以上の直径を持つものは、わずか四個。大半は、宇宙空間をあてどもなくころがっていく巨大な岩塊である。  それらに対するてだて[#「てだて」に傍点]は何もない。時速何万マイルかでぶつかってこられれば、どんな小さな岩塊であっても、宇宙船は木端微塵となる。だがそれが現実に起る可能性はとるに足らないものだった。平均すれば、一辺百万マイルで仕切った空間に、一個の小惑星があるにすぎないのだ。ディスカバリー号が、それと同じ位置に、同じ瞬間にいあわせる可能性まで心配する余裕は、乗員たちにはなかった。  第八十六日は、彼らが既知の小惑星にたった一度、もっとも接近する日だった。名もない──ただ七七九四という番号だけの──直径五十ヤードの岩塊で、一九九七年、月面天文台がその存在を探知した。しかしたちまち忘れられ、思いだすことができたのは、小惑星記録局の辛抱強いコンピューターのおかげだった。  ボーマンが任務につくと、ハルがすかさず出会いの近づいたことを報告した──もちろんボーマンとしても、全行程ちゅう唯一の予定された事件なので忘れてはいなかった。  星空を背景にした小惑星の進行図と、最接近の瞬間の座標は、すでにディスプレイ・スクリーンに表われていた。それと並んで、しなければならない観測の明細が記されていた。七七九四が、わずか九百マイル離れたところを一時間八万マイルの速度で通過するときには、二人は仕事に忙殺されていることだろう。  ボーマンはハルに望遠ディスプレイへの切りかえを命じた。スクリーンは一瞬、星のまばらにちらばる宇宙空間をうつしだした。小惑星らしいものはどこにも見あたらず、倍率を最高にあげても、大きさのない光の点があるだけだった。 「目標十字線を頼む」  ボーマンがいったとたんに、かすかな細い四本の線が現われ、一個の小さな目立たない星をさし示した。ハルが見誤ったのではないかと長いあいだそれを見つめていたが、やがてその光の点が動いているのに気づいた。  星ぼしを背景に、やっとわかるほどののんびりした速さで動いている。まだ五十万マイルは離れているだろう──だが宇宙的な距離でいうかぎり、その動きは、それがほとんど手の届くくらい近くにあることを証明していた。  六時間後、プールがコントロール・デッキにいる彼のところにやってきたときには、七七九四は先刻の数百倍も明るくなっていた。背景に対して動く速さから見ても、その正体は疑いない。もはやそれは光の点ではなくなり、はっきりとした円盤のかたちを見せはじめていた。  二人は、長い航海の途中にある船乗りが、立ち寄ることもなくかすめた陸地をいとおしむような気持で、通りすぎるその空の小石を眺めた。七七九四が生命も大気もない岩塊にすぎないことは充分承知しているのに、そんなことはすこしも感慨を弱めはしなかった。  とにかくそれは、木星のこちら側で彼らが出会う唯一の実体ある存在なのである──そして木星は、まだ二千万マイルかなたなのだ。  高性能の望遠鏡で見るその小惑星は、でこぼこで、ゆっくりと回転していた。ひしゃげた球形に見えるときもあれば、荒っぽい作りのレンガに似ていることもある。自転周期は二分をすこし越えるくらい。表面では、光る部分と影の部分が何の脈絡もなくまだらをつくり、遠い飛行機の窓のように、日ざしを受けて閃く透明な鉱物の露頭のように、ちらっと輝くこともしばしばだった。  秒速三十マイル近くで通りすぎたので、それを間近から観測できたのは、あわただしい数分のあいだだけだった。自動カメラが数十葉の写真をとった。航官用レーダーの戻ってきたこだま[#「こだま」に傍点]は、将来の分析のために丹念に記録された──そのほかに、衝突探測の機会も一回だけあった。  探測機には器械は積みこまれていなかった。宇宙的な高速で衝突して、破壊をまぬがれる装置はない。それはたんなる金属の小塊で、ディスカバリー号から小惑星と接触する方向に発射された。  衝突の瞬間が刻々とせまるにつれ、待ちかまえるプールとボーマンの緊張はますます高まっていった。実験は原理的には単純だが、装置の正確さを極限まで要求するものだった。なにしろ、直径百フィートの標的を何千マイルもの距離から狙うのだから……。  小惑星の暗い部分で、とつぜん眼もくらむ光の爆発が起った。金属塊が流星のような速さで衝突し、一秒の何分の一という時間にその全エネルギーを熱に変換したのだ。白熱したガスがすこしのあいだほとばしりでた。ディスカバリー号のなかでは、カメラが急速にうすれていくスペクトル線を記録していた。  地球では専門家たちが、輝く原子のあらわな痕跡を求めて、それらを分析する。そして初めて、小惑星の外殻の組成が明らかになるのだ。  一時間足らずのうちに、七七九四は薄れゆく星となり、円盤のかたちすらわからなくなった。ボーマンにつぎの当直がまわってきたときには、それは完全に消えていた。  彼らはまた二人だけになった。そして、これから三ヵ月ののち、木星のいちばん外側の衛星が彼らにむかって漂ってくるまで、孤独な状態が続くのだった。 [#改ページ]      19 木星面通過  二千万マイルかなたからでも、木星はもう前方の空でもっとも目立つ天体だった。今やそれは淡い鮭肉《サーモン》色の円盤で、地球から見た月の半分ほどの大きさになっている。その雲が描く暗い平行な帯もくっきりと見えた。  その赤道面では、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストといったきらびやかな星ぼしが往復運動している──ほかの場所でなら立派に惑星に数えられるこれらも、ここでは巨大な主人の周囲をめぐる衛星にすぎない。  望遠鏡で見る木星は、すばらしい景観である──まだらの極彩色の球はほとんど空をおおいつくす。その真の大きさを把握するのは不可能だ。それが地球の十倍の直径を持っていることを、ボーマンは絶えず思い起すようにつとめていたが、長いあいだそれは、何の意味もない統計的な数字のままだった。  あるとき、それは彼がハルの記憶装置に蓄えられているテープで勉強しているときだったが、とつぜん惑星の驚くべき大きさを思い知る出来事が起った。地球の全表面をはがし、獣皮か何かのように木星面に貼りつけたイラストレーションを見つけたのだ。それ[#「それ」に傍点]を背景にしてみると、地球の大陸と大洋をすべて合わせても、地球儀上のインドほどの大きさもないのである……。  ディスカバリー号の望遠鏡を最大の倍率にあげると、まるで自分がすこしひしゃげた球の真上にぶらさがっているような錯覚が起る。眼下には、流れる雲の壮大な海が広がっているが、それも巨大惑星の速い自転によって幾条もの帯に分断されている。それらの帯が凝結し、さまざまな色あいを帯びた房や結び目や大陸なみの塊を作ることもある。ときにはそれらは、何千マイルもの長さの刻々とかたちを変える橋によって結びつけられる。その雲の下には、太陽系の全惑星を総動員しても追いつかない大量の物質が隠されているのだ。そしてほかに[#「ほかに」に傍点]まだ何が隠されているだろう、とボーマンは思う。  惑星の本当の地表を永久に隠し続ける、この、絶えず変化する雲の荒海のおもてを、ときどき円形の闇が通りすぎる。はるかな太陽の光をあびて通過する内側の月の一つが、休みなく活動する雲海に投げる影なのだ。  木星から二千万マイルも離れたこのあたりにも、大きさははるかに小さいが、いくつもの月があった。だが、それらは直径わずか数十マイルの空飛ぶ山で、船はそのどれにも近づかないはずだった。数分ごとに、レーダー送信機が力をたくわえては、エネルギーの無音の雷鳴を宇宙空間に送りだしている。だが今のところ、新しい衛星からのこだま[#「こだま」に傍点]は一度も虚無のなかから返ってこない。  いやます強さではいってくるのは、木星自体が発する電波の咆哮だった。宇宙時代の幕があく直前の一九五五年、天文学者たちは、木星が十メーター波長で何百万馬力ものエネルギーを放出しているのを知って驚いた。それは無意味なノイズで、木星を取り巻く、地球のバン・アレン帯に似た、だがはるかにスケールの大きい荷電された粒子の帯から発せられるものだった。  コントロール・デッキに一人でいるときなど、ボーマンはときどきこの放射に耳を傾ける。部屋中にパチパチシューシューという咆哮が充満するほどボリュームをあげると、そのバックグラウンドから、不規則な間をおいて、発狂した小鳥の囁き声を思わせる、短いピーピーチーチーという音がはいってくる。無気味に聞えるのは、それが人間とはまったく関わりない音だからだ。海岸に打ちよせる波のざわめきや、地平線はるかに響く雷鳴と同じように、寂しく、そして無意味な音である。  時速一万マイルあまりの現在のスピードでも、ディスカバリー号が木星の全衛星の軌道を横切るには、二週間近くかかるはずだった。木星の衛星は、太陽系の惑星の総数よりも多い。月面天文台はこのところ毎年、新衛星を発見しており、その数は現在三十六に達していた。  最外縁の月は──木星第二十七衛星──束の間の主人の周囲を、ふつうとは逆回りに、直径千九百万マイルの不安定な軌道を描いて運行していた。木星と太陽の終りない引き抜き戦争の戦利品が、それだった。木星は小惑星帯から一時的に月を捕えては、数百万年後に手離し、それを絶えず繰りかえしているのだ。最後に勝をしめるのは、常に太陽である。  今、その圧倒的な重力場のなかに新しい獲物がはいりこんできた。ディスカバリー号は、数ヵ月前、地球上の天文学者が算出し、ハルが現在絶えずチェックしている複雑な軌道上を木星にむかって加速しはじめていた。ときたま、制御ジェットによる自動的な、船内では気づかないほどかすかな押しがあり、軌道が修正されている。  地球との無線リンクを通じて、情報が絶えまなく送られている。故郷からこれほど離れてしまった今では、光速で飛ぶ信号も、着くまでに五十分かかるのだ。全世界がプールとボーマンの肩越しに、計器やレンズを通して近づく木星を見つめていた。だが彼らの発見のニュースが故郷に達するのは、一時間近くも後のことなのだ。  船が巨大な内側の衛星の軌道を横切るあいだ、望遠カメラは働き続けていた──その衛星のどれもが月よりも大きく、そのどれもが未知の領域なのだ。惑星面通過の三時間前、ディスカバリー号はエウロパからわずか二万マイルのところを通過した。すべての器械が近づく衛星に向けられ、そうするうち、それは円から半月へとかたちを変えながら着実に大きさを増し、みるみる近づいてきた。  一千四百万平方マイルの世界が、そこに展開していた。この瞬間まで、最高の望遠鏡でも針の先ほどにしか見えなかった世界。数分後には、それは通りすぎてしまう。それまでに、この出会いを最大限に利用し、手にはいるかぎりの情報を記録しなければならないのだ。だが、そんなつかのまの出会いでも、これから先の数ヵ月、暇を見て調べるだけの材料はできるのだった。  この距離から見るエウロパは、はるかな太陽の光を驚くほど有効に反射して、まるで巨大な雪だるまのようだった。さらに近づいて観測したところ、たしかにそのとおりだということがわかった。灰色の月と違い、エウロパはまばゆい白色であり、表面の大部分は寄り集まった氷山を思わせる輝く山々でおおわれていた。それが、アンモニアと水から成っていることは、ほとんど確実だった。どういうものか木星の重力場も、それらを一人占めにすることはできなかったらしい。  赤道地帯にだけ、むきだしの岩が見える。信じられぬほど鋭く切りたったでこぼこの死の世界で、峡谷とごろごろした巨大な岩石が、この小さな世界をぐるりと取り巻く黒い帯を作っていた。衝突火口がいくつか見えるが、火山活動の様子はない。エウロパは、地殻内の熱源を持たなかったらしい。  昔から知られていたように、大気もすこしだが存在していた。衛星の暗い縁《へり》が星ぼしをかくすとき、星の光が直前に一瞬うすらぐ。またある地域では──稀薄なメタンの風にのったアンモニアの小滴の霧だろう──雲らしいものさえ見られた。  エウロパは、前方の空から突進してきたときと同様、みるみるうちに船尾のほうに小さくなっていった。そして木星までは、あとわずか二時間だった。ハルが限りない注意深さで船の軌道をチェックし、再チェックしているので、最接近の瞬間まで、それ以上速度の修正は必要ない。  だが、それを承知していながらも、一分ごとにふくらんでくる巨大な球を眺めるのは、神経にこたえた。信じがたい話だが、ディスカバリー号はそこへまっさかさまに落下しているのでもなければ、その途方もない重力場によってこなごなに砕けてしまうのでもなかった。  大気探測機をおとす時間がきた──予想どおりに行けば、それは木星の厚い雲の下でかなりの時間もちこたえ、いくばくかの情報を送ってくるはずだった。にぶい光沢をはなつ耐熱壁につつまれた、ずんぐりした、爆弾のようなカプセルが二個、そっと軌道に乗せられた。はじめの数千マイルは、ほとんどディスカバリー号と平行に飛んでいたが、やがてゆっくりと離れていった。  そしてとうとう、ハルがそれまで明言していた事実を、この眼で見るときがきた。  船は木星に衝突するのではなく、その表面をほとんどかすめる軌道をとっていたのだ。もちろん大気と接触はしない。だが、その差はわずか数百マイル──直径九万マイルの惑星に対して考えれば無に近い距離である──だが、それで充分なのだった。  木星は今や空をおおいつくしていた。あまりにも大きすぎて、もはや理解することはできない。そんな考えは、とうにあきらめていた。大気に眼を奪うさまざまな色あい──赤、桃色《ピンク》、黄、鮭肉色《サーモン》、そして緋色さえも──がなかったなら、ボーマンは、地球の雲海の上空を飛んでいるといわれても容易に信じたにちがいない。  そして今、この旅ではじめて、彼らは太陽を失おうとしていた。光も弱くなり、小さくなってしまったが、五ヵ月前、地球を発ったとき以来、太陽はディスカバリー号の友だった。だが船の軌道は木星の影のなかにまわりつつあり、まもなく夜の側にはいってしまうはずだった。  一千マイル前方には黄昏《たそがれ》の地帯があり、船のほうにすごい速さで近づいてくる。うしろでは、太陽が雲のなかにぐんぐん沈んでいた。その光線が、めらめらと燃える、二本の下向きの角《つの》のように、地平線に沿って伸びている。だが、それも急に縮まると、極彩色の輝きをすこしのあいだ残して消えた。  しかし──眼下に広がる巨大世界は完全な闇ではなかった。その表面では、燐光が乱れとんでいた。眼があたりに慣れるにつれ、それはすこしずつ明るさを増してきた。見わたすかぎり四方には、無数の光の河があり、熱帯の海に発光プランクトンが描く船の航跡を思わせた。いたるところに、液体と見まごう炎のプールがあり、木星の深奥からこんこんと湧きあがる流れを受けとめて揺れ動いている。  畏怖を催さずにはおれない光景だった。できるなら、二人は何時間でも見つめていたかもしれない。あれはたんに煮えたぎるこの大釜のなかにある化学的、電気的エネルギーが作りだしたものにすぎないのだろうか? 二人の心には、そんな疑問が生まれる──それともあれは、何か想像を絶する生命形態がその機能を果すあいだに作られる副産物なのか? それは科学者たちに、この新しい世紀全部を費しても尽きない問題を提供することだろう。  木星の夜のなかにさらにはいるにつれ、眼下の輝きはますます明るさを増してきた。かつてボーマンは、オーロラの輝く北部カナダの上空を飛んだことがある。雪におおわれた風景は、今のこれと同じくらい荒涼としたすばらしい眺めだった。だがその極北の荒野でさえ、と彼は思いだす、いま二人が飛んでいる地域に比べれば百度以上も暖かいのだ。 「地球からの信号が急速に衰えている」とハルが告げた。 「最初の回折帯通過」  それは予期したことだった──事実、それも任務の目的の一つなのだ。吸収される電波が、木星の大気について貴重な情報を教えてくれるからである。しかし今では二人は惑星の後側にまわってしまい、地球との通信は途絶えていた。  とつぜん彼らは圧倒的な孤独感を感じた。通信途絶はわずか一時間つづくにすぎない。その後はふたたび木星の影から現われ、人類との接触が取り戻されるわけである。だがその一時間は、彼らの人生でもっとも長い一時間となるだろう。  比較的若年であるにもかかわらず、プールもボーマンも十数回の宇宙旅行を経験しているベテランだった──だが今は、新米の心境だった。  彼らは人類がかつて試みたことのない実験をしているのだ。このような速度で、これほど巨大な重力場と戦った宇宙船は、いまだかつてない。この危険な段階で航行にわずかな誤算が起れば、ディスカバリー号は救出の手も届かない太陽系の果てまで飛んでいってしまう。  一分一分がゆっくりと過ぎていった。木星は今や燐光を放つ垂直の壁となり、無限のかなたに広がっていた──そして宇宙船は、その輝く表面を一直線にかけのぼっているのだった。木星の重力でさえ捕えることのできない速度で進んでいるのを知っていながら、ディスカバリー号がその衛星の一つになってしまわないのが信じられないほどだった。  ようやく、はるか前方の地平線に、まばゆい光の帯が見えてきた。影を通り抜け、ふたたび日ざしのなかに出るときが来たのだ。  ほとんど同じ瞬間、ハルが告げた。 「地球との通信が回復した。それから摂動飛行も成功だ。おめでとう。土星到着まで、あと百六十七日五時間十一分」  誤差は一分以内。飛行時間は正確無比に計算されていた。  宇宙空間の広大な玉突き台にのったボールのように、ディスカバリー号は軌道を行く木星の重力場からはねかえり、その衝撃でさらに運動量を得ていた。燃料をいっさい消費することなく、速度を時速数千マイルにあげたのだ。  といって、力学の法則をおかしたわけではない。大自然の計算書に誤りはない。ディスカバリー号が得ただけの運動量を、木星は失ったのだ。木星の速度は遅くなった──だがその質量は、宇宙船のそれより10の21乗倍も大きいから、速度の変化はまったく探知できない。人類が太陽系にその存在のしるしを残すには、さらに長い年月が必要だろう。  周囲が急速に明るくなり、小さな太陽がふたたび木星の空にあがったとき、プールとボーマンは無言で手をさしのべ、握手をかわした。  信じられないことだが、任務の前半はこれで無事完了したのだ。 [#改ページ]      20 神々の世界  だが木星での仕事がすべて終ったわけではなかった。  はるか後方では、ディスカバリー号の発射した二台の探測機が大気と接触していた。一台はとうとう情報を送ってこなかった。おそらく突入の角度が急すぎて、発信する余裕もなく燃えつきてしまったのだろう。二台目は、もう少しうまくいった。そちらは木星の大気の上層をスキップすると、また宇宙空間へ飛びだした。計画されたとおり、接触によって速度をずっと落していたので、それは長大な放物線を描いてふたたび落下した。二時間後、それは惑星の昼の側の大気圏に再突入した──速度は時速七万マイルだった。たちまちそれは白熱したガスに包まれ、無線接触は途絶えた。  コントロール・デッキにいる二人の観測者にとって、不安な数分の待ち時間があった。探測機に故障がないか、減速が終るまで陶器の防護壁が持ちこたえられるかを確かめる術はない。もし持ちこたえられなければ、器械は一瞬に蒸発してしまう。  だが防護壁は、輝く流星が停止するまで持ちこたえた。黒焦げの破片は捨てられ、ロボットはアンテナをつきだして、その電子の感覚であたりを眺めはじめた。今や二十五万マイルも離れたディスカバリー号に、木星からの最初の完全なニュースがはいってきた。  毎秒毎秒送られてくる何千ものパルスには、大気の成分、気圧、温度、磁場、放射能、その他数十の要素を知らせる情報が含まれている。それは地球の専門家たちにしか解明できない。しかし、素人にもすぐ理解できる報告が一つだけあった。それは、落下する探測機が送ってくるカラーのテレビ画像だった。  最初の画像は、ロボットが大気圏にはいり、防護壁を脱ぎ去った後に送られてきた。眼にはいるのは、黄色の霧と、そのなかをめくるめく速さでのぼっていく緋色の斑点だけだった──探測機が時速数百マイルのスピードで降下しているので、そのように見えるのだ。  霧はますます深くなる。眼の焦点を合わせる対象がないので、カメラの写しているのが十インチ先なのか千マイル先なのか見当もつかない。テレビ受像に関するかぎり、この任務は失敗のようだった。装置はたしかに働いている。だが、このくもった逆巻く大気のなかでは、何も見えないのだ。  と、まったくとつぜん、霧が消えた。探測機は厚くたちこめた上層の雲をつきぬけて、晴れわたった領域にはいったにちがいない──おそらく、アンモニアの結晶がまばらにちらばる、ほとんど純粋の水素ばかりの領域だろう。画像のスケールを判断するのは相変らず不可能だったが、カメラが何マイルか先を見わたしていることはわかった。  あまりにも異質なその光景は、地球上の形や色に慣れた眼には、はじめのうちほとんど無意味にしか見えなかった。はるか、はるか下方には、金色のまだらを見せる果てしない海があった。その上を平行に走る何本もの隆起は、巨大な波の山かもしれない。だが動きは見られない。スケールが大きすぎてそこまではわからないのだ。その金色の景観も、もしかしたら海ではないのかもしれない。まだここは、木星大気圏の上部なのだ。その下の雲の層にすぎないのかもしれない。  そのときカメラが、いらだたしいほどぼやけた異様なかたちを遠くに捕えた。金色の風景のなか、数十マイルも遠いところに、火山を思わせる、奇妙に対称的な円錐がそそりたっている。その円錐の頂きを、いくつもの小さな丸い雲が輪をつくってぐるりと取り巻いている──雲はどれもほとんど同じ大きさで、どれもはっきりと距離を保ってうかんでいた。  その光景には、何か心を動揺させる不自然なものがあった──もちろん「自然な」という語が、この畏怖を催すパノラマに適用できればの話だが。  急速に濃くなる大気のなかに乱流があったのだろう、そこで探測機が向きを変えたので、数秒間スクリーンには金色のもやもやのほか何もうつらなかった。やがて安定したときには、「海」はずっと近くなっていた。だが謎であることには変りなかった。ここまで来ると、海面にところどころ黒い部分のあることがわかる。それらは、大気のさらに深い層へ通じる穴かもしれない。  探測機には、そこまで到達する寿命ははじめからなかった。惑星の隠された地表めざして一マイル一マイルと沈むにつれ、ガスの密度は倍加し、圧力が高まってきた。それがまだ謎の海の上空はるか高いところにあるとき、画像は一瞬ゆらめき、そして消えた。  地球からの最初の訪問者は、そうして上空にある何マイルもの大気の重みに押しつぶされ滅びたのである。  それが短い一生のあいだに送ってきた風景は、おそらく木星全体の百万分の一にも満たないものだろう。地表に接近したというのも名ばかりで、深まる霧はまだその先何百マイルもあるのだ。  画像がスクリーンから消えたあと、ボーマンとプールは黙りこくってすわったまま、同じことを何度も何度もくりかえし考えていた。  古代人たちが、神々の王にちなんだ名をその世界につけたのは、思ったよりはるかに正しかったのだ。たとえそこに生命が存在するとしても、発見するのは何年先のことだろう? そしていま木星の空に消えた最初のパイオニアに続いて、人間がそこに下るのは何世紀先のことだろう──また、どのような船で?  だがそういった問題は、ディスカバリー号とその乗員にとってはもう関係ないことだった。彼らのゴールは、それよりはるかに奇妙な世界であり、今はやっとその半分の道のりを来たところ──彗星が鬼火のように飛ぶ虚空をまだ五億マイル旅しなければならないのだった。 [#改ページ] [#改ページ]  第四部 深  淵      21 誕生日パーティ  七千万マイルの距離を光の速度でわたってきた、聞き慣れた「ハッピィ・バースデイ」の歌声が、コントロール・デッキのビジョン・スクリーンや計器類のなかで止んだ。誕生日ケーキをかこんで、やや自分を意識しながらすわっていた地球のプール一家は、急に静かになった。  やがて父親のプール氏が、荒っぽい口調でいった。 「それでだ、フランク──なんといっていいのか、うまい言葉が見つからんが、わしらはいつもおまえのことを思ってるよ。それから、おまえが世界一幸せな誕生日を迎えるように祈ってる」 「気をつけてね、ダーリン」プール夫人の涙声が割ってはいった。「神さまのお恵みがありますように」 「さようなら」のコーラスがあり、ビジョン・スクリーンはうつろになった。  考えてみればおかしなものだ、とプールは思う、これはみんな一時間以上も前の出来事なのだ。今ごろは家族ももうちりぢりに別れ、家から何マイルも離れたところに戻っているだろう。しかしある意味ではこの時間差は、気がもめるという不便はあるが、救いでもあるのだった。  この時代の人間がすべてそうであるように、プールも、地球上のどこにいる人間とも気がむいたとき話せるという事実を当然のこととして認めていた。それがもはや現実ではなくなってしまった今、心理的衝撃は大きかった。彼は新しい次元の遠さのなかにはいったのだ。それだけにいっそう、感情的な絆は貴重に感じられるのだった。 「お祝いの邪魔をして申しわけないが」とハルがいった。「問題が起った」 「なんだ?」ボーマンとプールが同時にたずねた。 「地球と接触を保つのがむずかしくなっている。AE35ユニットがおかしい。私の故障予報センターが伝えるところだと、七十二時間以内にだめになる」 「なんとかしょう」とボーマン。「光学器械の照準を見せてくれ」 「これだ、デーブ。今のところはオー・ケイだ」  ディスプレイ・スクリーンに、完全な半月が現われた。ほとんど星のない空間を背景にしてまばゆく輝いている。雲におおわれているので、地形はまったく識別できない。ちょっと見ただけでは、簡単に金星と見違えるほどだった。  だがもう一度眼をこらせば、そうでないことがわかる。なぜなら、そのそばに金星にはない月があるからだ──大きさは地球の四分の一、そして地球と同じ象《しょう》にある。この光景を見れば、かつて多くの天文学者が信じたように、二つの天体を母と子として考えるのは容易だろう。だが月面の岩の調査は、月が地球の一部ではなかったことを証明していた。  プールとボーマンは、三十秒ほど黙ってスクリーンを観察した。この画像は、巨大な受信アンテナの縁《へり》に取りつけられた望遠テレビ・カメラから伝わってくる。中央にある十字線は、アンテナが正しい方向を向いていることを示していた。  細いペンシル・ビームが正確に地球を指し示していなければ、彼らは送信も受信もできないのである。どちらから送られてくる通信も目標をはずれ、何の仕事も果さないまま、太陽系の外にひろがる虚無のなかに失われてしまう。かりに受信されるとしても、それは数世紀も後のことだろうし──相手は人間ではあるまい。 「正確な故障個所はわからないか?」とボーマンがきいた。 「とぎれとぎれなので、まだつきとめていない。だが、どうもAE35ユニットのようだ」 「どんな処置をしたらいいと思う?」 「いちばんいいのは、装置をスペアと取り換えることだろう。そうすれば検査できる」 「オー・ケイ──装置のコピーを見せてくれ」  情報がディスプレイ・スクリーンにうつった。と同時に、一枚の紙がすぐ下のスロットからせりだした。コンピューターが朗読するよりも、旧式の印刷物のほうが記録として便利な場合もある。  ボーマンはすこしのあいだ設計図を調べていたが、やがて口笛を吹いた。 「先にそういってくれよ」とボーマン。「これは船の外の仕事じゃないか」 「ごめんごめん」とハル。「AE35ユニットがアンテナ台座についてるのは、知ってるとばかり思っていたんでね」 「それは一年前の話だ──ここにはサブ・システムが八万もあるんだぜ。まあ、とにかく単純な仕事だ。パネルをあけて、新しい装置をはめればいい」 「こちらの受持ちだな」とプール。  被の分担は、簡単な船外活動なのだ。 「景色が変るだけのことさ。いや、皮肉じゃなくて」 「管制にうかがいをたててみよう」とボーマン。  数秒間、考えを整理しながら、じっとすわっていたが、やがて伝言を口述しはじめた。 「管制室、こちら]線デルタ1。二〇四五時、九〇〇〇型コンピューターの故障予報センターから報告があった。アルファ・エコー35ユニットに、七十二時間内に故障が発生する見込み。そちら、テレメーター追跡のチェック、宇宙船システム・シミュレーターによるユニット検査、頼む。われわれはEVA(|船 外 活 動《エクストラ・ビヒキュラ・アクティビティ》)を行ない、アルファ・エコー35ユニットを交換するつもり。計画了承を求む。管制室、こちら]線デルタ1、二一〇三号送信終り」  長年の訓練によって、ボーマンはこの──かつて誰かが「技術語《テクニッシュ》」と名づけた──特殊語から、頭脳のギアを混乱させることなしに一瞬に日常会話に切り換える早技《はやわざ》を身につけていた。  あとは了承を待つ以外にすることはない。電波が木星と火星の軌道を横切って往復するには、少なくとも二時間はかかるはずだった。  返事は、ボーマンがハルとゲームをしているとき、はいってきた。ハルの記憶に蓄えられた幾何学的なゲームの一つをやっていたのだが、ボーマンの形勢は不利だった。 「]線デルタ1、こちら管制室。そちらの二一〇三号確認した。テレメーターの情報をシミュレーターで調べている。以下、アドバイスする。EVAとアルファ・エコー35ユニット故障まえの交換、了解。故障個所に適用するテスト作業を検討中」  重要な用件が終ると、管制官の語調は正常な英語に戻った。 「そちらに問題が起ったのは残念だ。これ以上面倒を増やすつもりはないんだが、広報課から要請が来てるんだ。もしよかったら、一般向けの発表を手短かに録音してくれないか。現在の状況のあらましと、AE35がどんなことをやってるかの説明だ。できるだけ心配させないようにやってくれ。もちろん、こっちでやれんことはないが──きみが直接喋ってくれたほうが、ずっと納得がいくからな。せっかくの暇な時をあまりつぶしては申しわけないんだが。]線デルタ1、こちら管制室。二一五五号送信終り」  ボーマンはその要請に微笑せずにはいられなかった。地球が不思議に無感動で気のきかないときがあるかと思うと、今度は「心配させないように」か!  睡眠時間が終り、プールがやってくると、二人は十分かけて返答を作成し、推敲した。任務の初期の段階には、ありとあらゆる報道メディアから、インタビューやディスカッションの要請が無数に来たものである──そして質問は微にいり細をうがったものだった。だが数週間が無事にすぎさり、時間差が数分から一時間あまりに増えると、大衆の関心はしだいにうすれていった。一ヵ月以上も前の、木星面通過のあの騒ぎ以来、こんな一般向けの公表テープは三回か四回つくっただけだった。 「管制室、こちらX線デルタ1。プレス・ステートメントはつぎの通り。さきほど、些細な技術上の問題が起った。こちらのHAL九〇〇〇型コンピューターが、AE35ユニットの故障を予報したのだ。  この装置は小さいが、通信システムにとっては必要不可欠な部品で、メイン・アンテナの狙いを数千分の一度という角度で地球に向けて保っている。これだけの精度が必要なのは、七億マイル以上も離れた現在の位置では、地球はぼんやりした小さな星にすぎず、細い電波ビームでは簡単に見逃してしまいかねないからだ。  アンテナは、セントラル・コンピューターが制御するモーターで、常に地球を追跡している。だがモーターに指示を与えるためには、AE35ユニットを一度経由しなければならない[#「しなければならない」に傍点]。人体でいえば、神経中枢にあたるだろう。脳の指示を翻訳して、手足の筋肉に伝える部分だ。神経が正確な信号を伝えなければ、手足は役に立たなくなってしまう。この場合でいうと、AE35ユニットの故障は、アンテナがめちゃくちゃな方向を指ししめす事態をひきおこす。前世紀の深宇宙観測機ではこれはふつうの問題だった。他の惑星に着いても、そこから情報が送られてこない。アンテナが地球を発見できないからだ。  故障の性質はまだわかっていない。だが状況は深刻ではないので、心配する必要はない。こちらにはAE35ユニットの予備が二個あり、どちらも二十年の作動寿命がある──だから、この任務の途中で二個目が故障を起す可能性はまずないといってよい。また故障の原因がつかめれば、一号ユニットの修理もできるようになる。  フランク・プールは、この種の作業に特別に訓練された乗員なので、船外に出て故障した装置を予備と交換する。また同時に、この機会を見て、船体をチェックし、EVAでしか見つからない小さな漏れを補修する。  この些細な問題を除けば、任務は相変らず平穏無事に続いており、今後も同様に進むはずだ。  管制室、こちら]線デルタ1、二一〇四号送信終り」 [#改ページ]      22 遠  出  ディスカバリー号の船外活動カプセル、いち名「スペースポッド」は直径約九フィートの球体で、すばらしい景色を見わたす張出し窓を正面にしてすわる仕組みになっていた。メイン・ロケット推進装置のつくりだす加速は五分の一G──月面上空にうかぶくらいの力──で、操縦は飛行姿勢制御ノズルで行なうのだった。  張出し窓のすぐ下の部分からは、関節を持った二対の脚、あるいは「ウォルドー」がつき出ている。一組は重労働用、もう一組は微妙な作業用である。そのほかにさらに、ドライバー、ジャッキ、ハンマー、鋸、ドリルなど各種の動力工具を備えた突出し自在の装置がある。  スペースポッドは、人間の手になるもっとも複雑な乗物とはいえないにしても、真空中の建設や修理作業にはどうしても必要な乗物だった。それには、女性の名がつけられるのがふつうだった。おそらく、それの持つ個性がときどきちょっと判断に苦しむかたちで現われるせいだろう。ディスカバリー号のトリオの名も、アン、べティ、クララだった。  専用の宇宙服──彼の最後の頼みの綱──に身をつつみ、ポッドに乗りこむと、プールは十分間かけて注意深く制御装置をチェックした。操舵ジェットを始動し、ウォルドーを屈伸させ、酸素、燃料、動力リザーブを再確認した。そして何もかもに満足すると、ラジオ回線を通してハルに話しかけた。  ボーマンももちろんコントロール・デッキで待機しているが、明らかな誤りや異常がないかぎり、口をはさまないことになっているのだ。 「こちらべティ。ポンプ作動はじめ」 「ただいまポンプ作動開始」ハルがいった。  その直後、プールの耳にロック室から貴重な空気が吸いだされるポンプの律動的な音が聞えてきた。やがてポッドの外殻の薄い金属板が、カサカサキリキリと音をたてはじめた。そして、およそ五分後、ハルからの報告がはいった──。 「ポンプ作動完了」  プールは小型計器パネルに最後のチェックをした。すべてが完全に正常だった。 「外側ドアあけよ」  ふたたびハルの応答があった。どの瞬間でも、プールが「中止!」と声をかけるだけで、コンピューターは作業を停止する。  前方の壁が両側にするすると開いた。ポッドがすこしのあいだ揺れ、空気のわずかな残りが宇宙空間にとびだすのがわかった。彼の目の前には、星ぼしがあった──そして偶然だが、四億マイルかなたにある土星が、金色の小さな円盤として視野のなかにあった。 「ポッド離船はじめ」  ポッドを吊していたレールが、非常にゆっくりと開いたドアの外につきでていき、ポッドは船体のすぐ外に宙吊りにされたかたちになった。  プールがメイン・ジェットを半秒間噴射させると、ポッドはふわふわとレールを離れ、太陽周囲のそれ自身の軌道をゆく独立した天体となった。ディスカバリー号とのつながりはもうない──安全索さえも。ポッドの故障は稀だし、たとえ戻れなくなったとしても、ボーマンがすぐ救助に来てくれる。  べティはコントロールにスムーズに反応した。プールは百フィートほど離れたところで、その前進運動にブレーキをかけ、船の見える方向に向きを変えた。そして気密部分への旅を開始した。  最初の目標は、大きさ半インチほどの、中心に小さな穴のある、溶けた部分だった。時速十万マイルで衝突した宇宙塵のつくる穴など、針の先よりもっと小さなものだし、宇宙塵じたいもその莫大な運動エネルギーによって瞬時に蒸発してしまう。だが、こんな場合よく起るように、穴は船の内部[#「内部」に傍点]で爆発が起ったようなかたちを呈していた。それくらいの速度だと、常識的な力学の法則が通用しない奇妙な現象も起るのだ。  プールはその部分を注意深く検査し、万能用具箱の気密コンテナーのなかにある密封剤をスプレイした。白いゴム状の液体が金属面に広がり、火口を隠した。穴から大きな泡がふくらみ、六インチほどの大きさになって破裂した──続いて、ずっと小さな泡が一つ──だが密封剤がたちまち効果を発揮しはじめ、泡はしぼんだ。数分間じっと見つめていたが、それ以上の変化はなかった。しかし徹底を期すために、二度目の膜をスプレイし、それからアンテナへと進路をとった。  ポッドの速度を秒速数フィートにとどめたので、ディスカバリー号の球型の気密部分をまわるには、かなりの時間がかかった。急ぐ必要はないし、船のこんなに近くを高速で動くのは危険なのだ。それに、船体の思わぬ部分からつきでている感応器《センサー》や計器柱に気をつけ、ポッドのジェット噴射に注意を払っていなければならなかった。こわれやすい器械にぶつかりでもすれば、破損はたいへんなものになる。  長距離用アンテナにとうとう辿りつくと、彼は細心の注意で状況を観察した。地球は今ではほとんど太陽と一致する位置にあるので、直径二十フィートの巨大な椀は、太陽をさし示しているように見えた。アンテナ台座も方位測定装置も、そのため完全な闇の部分にはいっていた。  プールは背後から接近した。浅い放物線を描く反射器の前方から近づけば、べティがビームをさえぎり、一時的に地球との接触が絶たれて、楽しくない思いをすることになる。それを避けたのだ。  ポッドのスポットライトをつけ、影を消すと、ようやく目的の装置が眼にはいった。その小さな金属板の下に、騒動の原因があるのだ。簡単に入れ換えができるように、金属板は四つのナットでとめられているだけだった。面倒な仕事でもなさそうである。  しかしスペースポッドのなかからでは無理なことは明らかだった。クモの巣を思わせる繊細なアンテナの骨組みの近くで作業するのが危険なばかりでなく、ベティの制御ジェットにかかれば、巨大な反射鏡の紙のように薄い表面など簡単に曲ってしまうからだった。  ポッドを二十フィートほど離して停め、宇宙服を着て出なければなるまい。いずれにしても、ベティの脚を遠隔操作するより、グローブをはめた手でするほうが、装置の取りはずしは楽にできる。  そういったことを、彼は注意深くボーマンに報告した。そしてボーマンは、作業が始まるまえに、その全段階を再検討した。単純なきまりきった仕事には違いないが、宇宙空間では何事も当然のこととしてすますわけにはいかず、どんな細部も見逃してはならないのだ。船外活動においては、「些細な」事故というものは存在しないのである。  処置に対してオー・ケイが届いた。  彼はポッドをアンテナ支柱の基部からおよそ二十フィート離して停めた。宇宙空間に漂っていってしまう危険はなかったが、万全の注意を払って船の外殻に戦略的な意味で取り付けられているいくつもの短い梯子の一つに、ポッドの脚を連結させた。  そして宇宙服の各システムをチェックし、異常がないことを確かめるとポッドの空気を排出した。べティ内部の空気が宇宙空間にほとばしり出たとき、すこしのあいだ彼の周囲には無数の氷の結晶がうかび、星ぼしの光を隠した。  ポッドを出るまえに、もう一つしておくことがあった。彼はベティの操縦を「手動《マニュアル》」から「遠隔《リモート》」に切り換え、ハルの管轄下においた。それは、標準的な安全措置だった。ベティとは、木綿糸よりちょっと太いくらいの、途方もなく強靱なばね[#「ばね」に傍点]仕掛けのコードでつなぎとめられているのだが、最高品質の安全索でも切れた例があるのだった。  索が切れ、ポッドが必要になって──ハルを通じて呼びよせる装置がはたらかないとき、そのときには馬鹿と呼ばれても仕方がない。  ポッドのドアが開き、彼はゆっくりと宇宙空間の静寂のなかに漂い出た。安全索が背後でするすると伸びている。楽にして──急がないように──動作をとめて考える──これが船外活動の規則である。それに従えば、問題は起らない。  べティの外壁にある手がかりを掴むと、そのそばにカンガルー式に取りつけられている袋から予備AE35のユニットを取りだした。ポッドに備わっている道具類は持ちださなかった。大部分は人間の手に合うようにつくられていないし、必要になりそうな調節自在のレンチやキーは、すでに宇宙服のベルトに取りつけられているのだった。  彼はそっとはずみをつけて、ジンバルで安定された大きな椀の台座にむかってとびだした。アンテナは、彼と太陽のあいだで、巨大な円盤のかたちをうかびあがらせていた。べティの二個のスポットライトが作りだす、彼の二重の影は、ふくらんだ表面に異様な模様を踊らせている。しかし巨大な反射鏡の裏側にも、ところどころまばゆい光の点があるのに気づいて、彼は驚いた。  無言で接近するあいだ数秒間考え、やがてその正体に思いあたった。旅の途中、極微隕石が何回も反射鏡を貫いたにちがいない。それらがつくりだした小さな穴を通して太陽の輝きが見えるのだ。ただ穴があまりにも小さいので、システムに影響が現われなかったのだろう。  動きがのろいので船体に接触したときの衝撃もやわらかだった。彼は片腕をのばして、はねかえるまえにアンテナ台座を掴んだ。そして、手近な部分にすぐさま安全索をくくりつけた。道具を使うとき、それが手がかりになる。  彼は動きをとめ、ボーマンに状況を説明すると、つぎの段階を検討した。  小さな問題が一つあった。彼が光を背にして立っている──というより、うかんでいる──ので、AE35ユニットが影にはいって見えないのだ。ハルにスポットを一方に寄せるように命令し、しばらく試した末、アンテナの裏側から反射する間接光でまえよりもむらのない照明が得られた。  数秒間、彼は小さな金属ハッチと、それをとめている、ワイヤで固定された四個のナットを調べていた。やがて、「製作者の保証も、資格のない人間の手だしで無効になる」と独り言をつぶやきながら、ワイヤを切断し、ナットをゆるめはじめた。ナットは標準サイズで、持ってきたゼロ・トルク・レンチにぴったりだった。レンチの内部のばね機構が、ナットの抵抗を吸収するので、操作する人間が逆回りする事態も防げるのだ。  四個のナットは何の問題もなく外れた。プールはそれらを便利袋に慎重におさめた。(そのうち地球は、不注意な空間作業員がしまいわすれたボルトやファスナーや道具類で、土星みたいな輪を持つようになるだろう。そんな予言をしたものもいる)金属カバーがなかなかはがれず、寒気で接着してしまったのではないかと一瞬心配したが、数回叩くとはがれた。彼はそれをクロコダイルのような大きなクリップで、アンテナ台座にとめた。  AE35ユニットの電子回路が見えるようになった。それは葉書大の薄い板で、それがちょうどはいる大きさのスロットにはまっていた。二本の棒がそれをはさみこんで固定している。装置には小さな把手があって、容易に取りはずせる仕掛けになっている。  だがそれはまだ作動しており、この瞬間も、今やはるかな光点となった地球を指し示すインパルスをアンテナに送りこんでいた。もしこれを引き抜けば、すべてのコントロールは失われる。そしてアンテナは、ディスカバリー号の軸に平行な、ニュートラルの、あるいはゼロの方位にむかって向きを変えるだろう。それが危険なのだ。回転の途中で、彼にぶつかるかもしれない。  この危険をまぬがれるには、制御システムへの動力供給を断ち切るだけでよい。そうすればアンテナは、プール自身がぶつからないかぎり動きはしない。装置の交換に要する時間はわずか数分だから、地球を見失う危険はないわけだ。それほどの短い時間なら、支障が起るほど目標が移動することはないはずだから。 「ハル」プールはラジオ回線を通じて呼びかけた。「これから装置を外す。アンテナ・システムへのコントロール・パワーを全部切ってくれ」 「アンテナ・コントロール・パワーを切った」ハルがこたえた。 「ようし。装置をいま[#「いま」に傍点]引っぱりだしている」  板は簡単にスロットから抜けた。つかえもしなければ、それに接している数十のポイントもひっかかりはしなかった。一分足らずで、予備がその部分におさまった。  しかしプールは危険を犯さなかった。パワーが回復したとき、アンテナが異常な回転をする場合を考えて、支えからゆっくりと離れた。  安全圏内にはいると、ハルを呼んだ。 「新しいユニットが作動するはずだ。コントロール・パワーを戻してくれ」 「パワーを入れた」とハル。  アンテナは微動もしなかった。 「故障予報テストを頼む」  装置の複雑な回路のなかでは、今ごろは微視的なパルスが行きかい、故障の可能性を探り、無数の部品についてそれが定められた誤差のなかにあるか、テストしているだろう。もちろん、これは装置が工場から出るまえ、何十回となく行なわれている。だが、それは二年前、十億マイル以上のかなたのことなのだ。ソリッド・ステート・エレクトロニクス部品が故障を起すとは、ほとんど考えられない話だが、事実故障は起るのである。 「回路すべて異常なし」わずか十秒後に、ハルが報告した。  そのころにはハルは、人間の調査員のちょっとした部隊が総がかりで行なうテストを、すべてやってしまっているはずだった。 「よし」とプールは満足していった。「これからカバーを元に戻す」  船外作業のいちばん危険な段階は、仕事が終った後に来ることがよくある。あとかたづけをして、船に戻るだけなのだが──そのときに事故が起るのだ。  しかしフランク・プールがこの任務につくことができたのは、彼が慎重で用意周到な人間であったからにほかならない。彼は急がなかった。ナットの一つを取り逃しかけたが、数フィートも離れないうちにキャッチした。  十五分後、彼はスペースポッドのガレージへとむかっていた。これで、やらねばならない仕事の一つから解放された。おもてには現われないが、そんな安心感が彼の心のなかにあった。  しかしそれについては、悲しいことに、彼は間違っていた。 [#改ページ]      23 診  断 「それじゃ、つまり」当惑するというより驚いて、フランク・プールは叫んだ。「あの仕事はぜんぜん無駄だったというわけか?」 「そうらしいな」とボーマン。「装置は完全にテストをパスした。二百パーセントの過負荷をかけても、故障予報はない」  二人はメリーゴーラウンドのなかの小さな仕事場兼実験室に立っていた。小規模の修理や検査には、このほうがスペースポッド・ガレージより便利なのだった。ここなら、熱いはんだ[#「はんだ」に傍点]の海がそよかぜにのって漂いだすことも、小型の道具が軌道を進みだして消えてしまう危険もない。ポッド格納庫のゼロG状態のなかでは、そんな出来事が起り得るし──また起るのだった。  薄いカード大のAE35ユニットが、台の上の強力な拡大鏡の下にのっている。それは標準型の接続フレームにさしこまれていた。フレームから、さまざまな色のワイヤがきちんと束になって伸び、ふつうの卓上コンピューターぐらいの大きさしかない自動テスト機につながっている。  どんな装置をチェックするのでも、それを接続し、「故障発見」ライブラリーから選びだした適当なカードを挿入し、ボタンを押すだけでよいのだ。するとふつう、故障の正確な個所が小型ディスプレイ・スクリーンに示され、それには修理作業の指示が添えられている。 「自分でやってみたらどうだい」やや気を悪くした口調で、ボーマンがいった。  プールは【過負荷セレクト】のスイッチを]2に入れ、【テスト】のボタンを押した。すぐにスクリーンに解答がうつった。    ユニット、OK 「このまま電力をあげていっても、だいじょうぶのようだな。焼ききれるまでは」彼はいった。「しかし、そうしたって原因がわかるわけじゃない。どうなったんだと思う?」 「ハルの故障予報装置が故障したということはあり得る[#「あり得る」に傍点]な」 「テスト装置よりも、そっちのほうがありそうだ。どっちにしろ、あとでくやむより、安全なほうがマシさ。疑いがあれば、交換するに越したことはない」  ボーマンは回路のカードをはずすとそれを光にむかってかかげた。半透明の物質の表面を複雑なワイヤの網目模様が入り乱れ、かすかに見える極微部品の黒点とあいまって、それはさながら一枚の抽象芸術のようだった。 「危険はおかせない──これは地球との絆なんだ。NGということにして廃物庫のなかに捨てよう。悩みごとは、帰ったあとでほかの連中に押しっければいいさ」       *  だが悩みごとは、それよりもずっと早く、地球からのつぎの送信ではじまった。 「]線デルタ1。こちら管制室。こちらの二一五五号送信について。  アルファ・エコー35ユニットに故障がないというきみたちの報告は、こちらの検査とも一致する。故障はそれに付属するアンテナ回路にあることも考えられる、もしそうなら、ほかのテストに現われるはずだ。  第三の可能性は、もっと深刻かもしれない。そちらのコンピューターが、故障をまちがって予報したんだ。われわれのほうにある二台の|九〇〇〇《ナイン・トリプル・ゼロ》も、今までの情報をもとにして、その可能性を指摘している。バックアップするシステムがこちらにあることを考えれば、これも大して危険はない。だが正常な機能からの逸脱には注意してほしい。ここ数日のあいだ、小さな異常がいくつかあることはこちらも気づいていたが、補修するほどの大事でもなかったし、結論を引きだせるようなはっきりしたパターンも現われていなかったんだ。こちらのコンピューターを二台使ってさらにテストを行なう。結果が出たら、すぐに知らせる。くりかえすが危険はない。最悪の事態が起るとすれば、それはきみたちの|九〇〇〇《ナイン・トリプル・ゼロ》の接続を一時、プログラム分析のために切って、こちらのコンピューターに切り換えることだろう。時間差の問題が起きるが、可能性を検討した結果、任務のこの段階では地球からのコントロールでまったく差支えないとわかっている。  ]線デルタ1、こちら管制室。二一五六号送信終り」  その伝言がはいってきたときの当直は、フランク・プールだった。彼は黙りこくって問題を考えた。ハルから話はないのかと様子をうかがっていたのだが、コンピューターは今の言葉に含まれていた非難に対し何の反論も加えようとしなかった。ハルが話を切りださなければ、彼としてもいいだすつもりはなかった。  もうすぐ朝の交替の時間で、平常の彼なら、コントロール・デッキでボーマンが来るのを待つはずだった。だが今日は習慣を破り、みずからメリーゴーラウンドへと出むいた。  ボーマンはもう起きていて、ポットからコーヒーを注いでいた。プールは不安を隠しきれない声で「おはよう」といった。旅がはじまって数ヵ月もたった今でも、彼らはまだ常態の二十四時間サイクルで物を考えているのだった──といっても、曜日を数えるのはすっかり忘れてしまっていたが。 「おはよう」とボーマンはこたえた。「どうだい?」  プールも自分でコーヒーを注いだ。 「調子いいよ。ところで、はっきり眼はさめてるか?」 「ああ。どうしたんだ?」  そのときには、何かがおかしいことに気づいていた。正常な日課にすこしでも変化が起れば、それは考えなければならない事態が生まれたという証拠なのだ。 「うん……」プールはゆっくりと答えた。「管制室からちょっとした爆弾宣言が来たよ」  患者のいるまえで病状を話す医師のように、彼は声を低くした。 「軽度の憂欝病患者がどうやら船に出たらしい」  ボーマンは、まだはっきり眼がさめていなかったのかもしれない。意味を納得するまでに数秒かかった。やがて、いった。 「ああ──それか。ほかに何といってた?」 「危険はないとさ。二度いったよ、おかげであまり効果的じゃなくなった。地球管制室に臨時に切りかえる案を検討中だそうだ。プログラム分析のためにね」  ハルがその会話をひと言あまさず聞いているのは、もちろん二人とも知っていた。しかし、あたりさわりのない遠回しの説明に、ついなってしまうのだった。ハルは同僚であり、二人としても同僚に気まずい思いをさせたくはなかった。しかも、この段階では、隠れて話す必要もまたないように思えたからだった。  ボーマンは無言のまま朝食を終えた。プールはからのコーヒー容器をもてあそんでいた。二人とも懸命に考えてはいたが話すことはこれ以上なかった。  彼らにできるのは、管制室からのつぎの報告を待つことと、ハルが自分から話を切りだしはしないかと考えることだけだった。  何が起るにしろ、船内の空気はすでに微妙に変化していた。あたりには緊張がみなぎっていた──はじめて、何かが持ちあがるかもしれない、そんな雰囲気だった。  ディスカバリー号は、もはや幸福な船ではなかった。 [#改ページ]      24 断たれた回線  このごろでは、ハルが予定にない発言をするとき、乗員にそれがあらかじめわかるようになっていた。  きまりきった自動的な報告や、与えられた質問に対する回答には、前置きはない。だが彼のほうから出力を送りだすときには、つかのま電子的な咳払いがはいるのだった。それは、この数週間に、いつのまにか彼についた癖で、もし今後だんだん気にさわるようになれば、乗員たちもなんとかするつもりだった。しかし、それは不意の発言を受けいれる余裕を聞くものに与えるので、じっさいの話、けっこう役に立つのだった。  プールが睡眠をとり、ボーマンがコントロール・デッキで読書をしているとき、ハルがいった。 「ああ……デーブ、きみに報告することがある」 「なんだ?」 「AE35ユニットがまたおかしい。故障予報装置によると、二十四時間以内に機能が停止する」  ボーマンは本を置き、コンピューターの制御卓《コンソール》を考えぶかげに見つめた。もちろんハルがじっさいにそこに[#「そこに」に傍点]──それがどんな意味であるにしろ──いるのでないことは知っていた。  コンピューターの人格の存在する位置が、かりにあるとすれば、それはメリーゴーラウンドの中心軸にほど近い閉ざされた部屋のなか、縦横に接続された記憶装置と情報処理格子《ブロセシング・グリッド》の迷路のなかにあるはずである。しかしコント・ロール・デッキでハルに話しかけるときには、一種の心理的な強制がはたらいて、彼に面とむかって話すかのように、いつも制御卓《コンソール》の中央を占めるレンズを見てしまうのだった。 「わからんな、ハル。二日で、装置が二つとも[#「二つとも」に傍点]だめになるなんてことがあるかい?」 「不思議に思うかもしれないが、もうじき故障を起すのは確かだ、デーブ」 「目標照準ディスプレイを見せてくれ」  見て、何かがわかるわけではないことは充分承知していた。だが考える時間がほしかった。待っている管制室からの報告は、まだはいっていない。様子をうかがいながら、すこしばかり調べてみてもいいころだった。  慣れ親しんだ地球がうつった。太陽のむこう側に回りこんでいるので半かけの段階を過ぎ、昼間の面をこちらに向けはじめている。それは、完全に十字線の中心にあった。細いペンシル・ビームは、まだディスカバリー号とそれがつくられた世界との絆を保っている。  もちろん、それはボーマンの予期したことだった。通信が途絶えていれば、とうに警報が鳴っているはずなのだ。 「どう思う?」と彼はきいた。「故障の原因は何だ?」  ハルは、めずらしく長い間をおいた。やがて答えた──。 「はっきりとはわからないな、デーブ。前にもいったとおり、異常の正確な位置が掴めない」 「間違っていないという自信はあるのかい?」ボーマンは慎重な口調でいった。「知ってるだろうが、前のAE35ユニットは徹底的にテストしたんだ。でも、おかしなところはどこにもなかった」 「うん、知っている。だが異常があるのは確かなんだ。装置になければ、サブシステム全体かもしれない」  ボーマンは制御卓《コンソール》を指で叩いた。  そう、その可能性はある。証明するのは非常に困難だろうが──故障がじっさいに起って、その個所が明示されでもしなければ。 「とにかく管制室に報告してアドバイスを聞こう」と彼は間をおいた。  だが返答はなかった。 「ハル」と彼は続けた。「何か心配事があるんじゃないか──この問題に関係したことで」  返事は、また不自然にてまどった。やがてハルは、ふつうの調子で答えた──。 「デーブ、きみが心配してくれてることはわかっている。だが異常は、アンテナ・システムか──でなければ、きみたち[#「きみたち」に傍点]のテスト方法のどちらかにあるんだ。わたしの情報処理は完全に正常だ。記録を調べてくれれば、わたしが間違いをおかさないのはわかるだろう」 「きみの業務記録は知ってるよ、ハル──だが、今度も正しいかどうかは、それを見てもわかることじゃない。間違いは、だれにもあるんだ」 「意地をはりたくはないがね、デーブ、わたしは間違うことができないんだ」  それに対する確実な解答はない。ボーマンは議論をうちきった。 「わかったよ、ハル」やや口早に、彼はいった。「きみの考えかたはわかる。それはそこまでにしておこう」  そして「このことは忘れてくれ」とつけ加えたい気がしたが、もちろんそれはハルにはできないことだった。       *  連絡は、通話回線とテレタイプによる確認で充分なのに、管制室がわざわざラジオ周波数帯で画像を送ってきたのは、異例のことだった。しかもスクリーンに現われた顔は、いつもの管制官のではなく、プログラム主任、サイモンスン博士の顔だった。プールとボーマンは、すぐに問題がこじれてきたことに気づいた。 「へロー、]線デルタ1──こちらは管制室だ。AE35の分析が終った。こちら側のHAL九〇〇〇型の意見は一致している。二一四六号送信によるきみたちの報告だが、その二度目の故障予報で、われわれの診断の正しかったことが確認された。  予想したとおり、故障はAE35ユニットにあるのではなく、それを交換する必要はない。故障があるのは、予報回路だ。プログラミングに矛盾があるのだと思う。解決策は一つ、そちらの九〇〇〇を切り離して、【地球管制方式】にスイッチを切りかえるんだ。行動はつぎのような段階を踏む。船時間二二・〇〇時に──」  管制室の声が消えた。と同時に、警報が鳴りわたった。それは「非常事態、 黄《イエ口−》 ! 非常事態、 黄《イエロー》 !」というハルの声の背後で、むせび泣きのように聞えた。 「どうした?」とききながらも、ボーマンはとうに解答を思いあたっていた。 「予報したとおり、AE35ユニットが故障した」 「照準ディスプレイを見せてくれ」  旅がはじまって以来はじめて、画面は変化していた。地球は十字線から外れはじめていた。無線アンテナは、もはや目標をさししめていないのだった。  プールが警報スイッチに拳を打ちつけ、むせび泣きはやんだ。コントロール・デッキにとつぜん訪れた静寂のなかで、二人は当惑と不安のいりまじった顔を見合わせた。 「ちくしょうめ」とようやくボーマンがいった。「ハルは常に正しかったわけだな」 「そうらしいな。あやまったほうがいい」 「その必要はないよ」ハルが割りこんできた。「AE35の故障を喜んでいるわけでは、もちろんないけれど、これでわたしに対する信頼が戻れば嬉しい」 「誤解してわるかった、ハル」ボーマンがすまなそうにいった。 「わたしを信頼する気になったかな?」 「もちろんだ、ハル」 「それで、ほっとした。この任務には、わたしも最大限の熱意を注ぎこんでいるからね」 「うん。それはそれとして、アンテナ手動コントロールをこちらにまわしてくれないか」 「いま切りかえた」  うまくいくとは、ボーマンも思わなかったが、やってみるだけの価値はあった。照準ディスプレイには、地球はもう見えなかった。数秒間、制御装置をひねくると、地球はふたたび現われた。たいへんな努力をはらって、彼はそれを十字線の中心におさめるのに成功した。ビームが目標と一致した一瞬、接触が回復し、ぼやけたサイモンスン博士の声が聞えた。 「……ただちに連絡を頼む、もし回路、K、キング、R、ロブ」  そしてふたたび、聞えるのは銀河系の無意味なつぶやきだけとなった。 「固定できない」さらに何回か試みた後、ボーマンはいった。「まるで野生馬《ブロンコ》だ──にせのコントロール信号があって、それが狙いを狂わせるらしい」 「どうしよう、それでは?」  プールの質問は、簡単に答えられるたぐいのものではなかった。  地球との連絡は絶たれたが、といってそれ自体は船の安全に関わるものではないし、通信を回復する方法はいくらでもあった。最後の事態が起っても、アンテナを固定し、船全体を目標に向ける方法は残っている。危っかしい芸当であり、最終的な行動を起すときには厄介な問題となるが──ほかのすべてが失敗しても、その手段があるのだった。  そこまでしなくてすめばいいのだが、とボーマンは願った。AE35ユニットの予備はまだ一つある──もう一つも、焼ききれるまえに取り除いたので使えるかもしれない。だがシステムの故障の原因がわからないかぎり、どちらを使うのも危険だった。新しい装置を挿入しても、おそらくすぐに焼き切れてしまうだろうからだ。  家庭の主人なら誰でも知っている、わかりきった状況だった。  とんだヒューズを新しいのと交換するには、そのまえにヒューズがとんだ原因を知っておく必要があるのだ。 [#改ページ]      25 土星一番乗り  作業は、その前にやったことの繰りかえしだった。しかしフランク・プールは何一つおろそかにしなかった──宇宙空間では、それが自殺防止の効果的な処方なのである。  彼は、べティとその内部の消耗品の在庫を例のとおり徹底的にチェックした。船外にいるのは三十分足らずだが、すべてが正規の量、つまり二十四時間もちこたえられるだけあるか確かめた。そしてハルにエアロックをあけるよう命じると、深淵にとびだした。  宇宙船は──重要な一点を除けば──その前の遠出で見たときとすこしも変りなかった。前には、長距離アンテナの巨大な椀は、ディスカバリー号がやってきた目に見えぬ道のかなた──太陽の暖かい炎のすぐ近くをめぐる地球をぴたりと指し示していた。  しかし、正しい方向に向ける指示信号がない今、その浅い椀は自動的にニュートラルの位置に戻っていた。それが指し示しているのは、船の軸に平行な前方の空間で──そのすぐ近くには、土星の明るいかがり[#「かがり」に傍点]火が輝いていた。  土星は、まだ数ヵ月先にある。ディスカバリー号が、まだはるかに遠いそのゴールに着くまでに、あとどれくらい問題がもちあがるだろうと、プールは思った。注意深く観察すれば、土星が完全な円盤でないことはここからでもわかった。その両側には、人間がいまだかつて肉眼で見たことのないものがある──土星の三つの輪で、そのため惑星はわずかにひしゃげた円形に見えるのだ。  プールは心のなかでいった。塵と氷でできた信じられぬ輪が空いっぱいに広がり、ディスカバリー号が土星の永遠の月となるときは、どんなすばらしい見ものだろう! だが、その業績も、地球との通信が確立されなければ無意味なのだ。  彼はふたたびべティをアンテナ支柱の基部から二十フィートばかりのところにとめ、コントロールをハルに切り換えてドアをあけた。 「これから外に出る」彼はボーマンに報告した。「すべて異常なし」 「そう願うよ。早く装置を見たいな」 「二十分でテスト台にお届けしますから」  プールがのんびりとアンテナまで泳ぎつくあいだ、しばらく沈黙があった。コントロール・デッキにいるボーマンの耳に、唸り声とあえぎが聞えてきた。 「さっきの約束はだめになりそうだ。ナットの一つが動かない。強くしめすぎたらしい──フーッ──やっとはずれた!」  ふたたび長い沈黙。そしてプールがいった。 「ハル──ポッドのライトを二十度左に回してくれ──ありがとう──それでいい」  ボーマンの意識のはるかな奥底で、かすかに警鐘が鳴り響いた。なにかおかしい──心配になるほどではないが、どこかいつもと違っていた。数秒間、考えをめぐらした後、彼はやっと原因に思いあたった。  ハルは命令を実行したが、今までとは違って、了解の合図を送らなかったのだ。プールの仕事が終ったら、調べてみなくてはなるまい……。  アンテナ台座にいたプールは、作業に忙しく異常に気づかなかった。彼はグローブに包まれた手で回路の薄い板を掴み、スロットから引きだしていた。  板ははずれ、彼はそれを強い日ざしのなかにかかげた。 「さあ、つかまえたぞ、根性曲りを」彼は宇宙全体にむかって、そのなかでも特にボーマンにむかって、いった。「見たところ、どこもおかしくはなさそうだがね」  そこで彼は静止した。何かがとつぜん動いたのが眼にはいったからだ──動くはずのないところで。  驚いて眼をあげた。  スペースポッドの二個のスポットライトは、それまで太陽の影になる部分をてらしていた。ところが、その光の模様が、いま彼の周囲で動きはじめているのだった。べティがただよいだしたのだろう。つなぎとめるとき、へマをしたのかもしれない。  だが、つぎに来た驚きは、恐怖のはいりこむ余地のないほど大きなものだった。スペースポッドが最大推力でまっすぐ彼にむかってくるのだ。  あまりにも信じられない光景に、正常な反射能力は完全に麻痺していた。突進してくる怪物から身をかわすのをすっかり忘れていた。最後の瞬間、われにかえって、彼は叫んだ。 「ハル! 逆噴射──」  だが遅すぎた。  衝突の瞬間も、べティの速度はまだゆっくりしたものだった。もともと大きな加速ができるように建造したカプセルではない。だが時速わずか十マイルでも、質量半トンの物体なら、それが地球であっても宇宙空間であっても命にかかわる事故となり得る……。  ラジオが伝えた叫び声の断片は、ディスカバリー号のボーマンをほとんどとびあがらせた。かろうじてそれをくいとめたのはシート・ベルトだった。 「どうした、フランク?」彼は呼んだ。  返事はなかった。  もう一度呼んだ。これにも返事はなかった。  そのとき、巨大な観測窓の視野のなかに、何かがはいってきた。ボーマンの驚きは、プールのそれに匹敵するものだった。  彼が見たのは、星の海にむかって全速力で飛んでいくスペースポッドだった。 「ハル!」彼は叫んだ。「どうしたんだ? べティの逆噴射を最大にしろ! 逆噴射だ!」  何事も起らない。べティは加速を続けながら飛び去っていく。  と、それが引きずっている安全索の末端に宇宙服が現われた。ひと目で、最悪の事態だということは知れた。宇宙服のぐにゃぐにゃした外形を見れば、気圧を失い、内部が真空にさらされているのは疑いなかった。  それでも彼は馬鹿みたいに呼び続けた、それが死者をよみがえらせる呪文だとでもいうように。 「もしもし、フランク……もしもし、フランク……聞えるか……聞えるか? ……聞えたら手を振ってくれ……そちらの送信機が故障しているかもしれない……手を振ってくれ!」  そのときだった、彼の懇願にこたえるかのようにプールが手をふった。  つかのまボーマンは首筋の毛が逆立つのを感じた。とつぜん唇がかわききり、呼びかけは声になるまえにとぎれた。  生きているはずはない。だがプールは手をふったのだ……。  希望と恐怖が体を走り抜け、冷たい論理が感情にとってかわった。加速を続けるポッドが、引きずっているものをゆすっただけなのだ。プールの動作は、エイハブ船長の最後のジェスチャーと同じものにすぎない。白鯨の胴体に縛りつけられた死体が、ピークォド号の船員たちを死への旅路に誘うように手招いたという。  五分後には、ポッドとその連れは星の海のなかに消えていた。デイビッド・ボーマンは長いあいだ空虚に眼をこらし、それが数百万マイルかなたのゴール、もはや彼には決して到達できないゴールにむかって飛び去るのを見つめていた。  頭のなかでは、一つの考えだけが鳴り響いていた。  フランク・プールは土星に一番乗りする最初の人間だろう。 [#改ページ]      26 ハルとの対話  ディスカバリー号には、ほかに変化はなかった。システムはすべて、まだ正常な機能を果していた。遠心機はゆっくりと回転し、人工重力をつくりだしている。冬眠者たちはカプセルのなかで夢のない眠りをむさぼっている。宇宙船は、小惑星との万に一つの衝突がないかぎり決して変ることのない軌道を、ゴールにむかってまっしぐらに進んでいる。そしてじっさい、木星の軌道の外には、小惑星はほとんどないのだ。  コントロール・デッキから、いつ遠心機にやってきたのか覚えはない。だが気がついたとき、驚いたことに、彼は半分がた飲みほした大きなコーヒー容器を手に、キッチンの椅子にすわっていた。睡眠薬による長い眠りからさめたように、彼はゆっくりと周囲を意識しはじめた。  正面には、魚眼レンズがあった。それはハルの視覚入力装置で、船内の重要な場所には必ず配置されているのだ。ボーマンは、生まれてはじめて見るように、それを見つめた。そしてゆっくりと立ちあがるとレンズに近づいた。  視野のなかで起ったその動き、それが、今や宇宙船を完全に支配している測り知れぬ心のなかに何かを触発したのだろう。とつぜんハルが話しかけた。 「困るんだろう、フランクがああなってしまったんでは?」 「うん」長い間をおいて、ボーマンはこたえた。「困った」 「この事件で、きみはかなり打撃をうけているね?」 「何をききたいんだ?」  この言葉を処理するのに、ハルはコンピューターとしてはいやに長い時間をかけた。ふたたび話しだしたのは、五秒もたってからだった。 「彼は優秀な乗員だった」  コーヒーがまだ手のなかにあるのに気づいて、ボーマンはゆっくりと一口すすった。だが返事はしなかった。考えが混乱して、適当な言葉、事態をこれ以上悪くすることのない言葉を思いつかなかったからだ──もちろん、事態がこれ以上悪くなる場合があるとすればの話だが。  事故がポッドのコントロール装置の故障ということはあり得るだろうか? それともこれは、ハルの、他意のないミスなのか?  ハルからは何の説明もなく、こちらから求めた場合の反応がおそろしく、ボーマンとしてもたずねる気にはなれなかった。  今でも彼は、フランクが故意に殺害されたという考えを納得できないでいた──理屈に合わないのだ。これまで長いあいだ任務を完壁に遂行してきたハルが、とつぜん暗殺者と化すとは考えられなかった。誤りはおかすかもしれない──人間でも機械でも、それはある──だが殺人ができるとは、ボーマンには思えなかった。  しかし、その可能性も考慮に入れなくてはならない。もし事実なら、彼はおそろしく危険な状態におかれていることになるのだ。つぎの行動は、行動規定によってきめられているが、それを無事に終えられるかどうか、彼には自信がなかった。  乗員の一人が死んだときには、生き残ったものはただちに冬眠者の一人を目ざめさせ、補充しなければならない。順番では、ホワイトヘッドが最初で、カミンスキー、ハンターと続く。覚醒装置はハルの管轄で、二人の同僚が同時に活動力を失った場合、行動を起す権限を与えられていた。  しかし、ほかに手動コントロールもあって、ハルから切り離し、完全に独立した装置として冬眠カプセルを操作することもできるのだった。今の特異な状況にあっては、そちらのほうがはるかに好ましい感じだった。  また同時に、仲間は一人では足らないような気持も、それ以上に強く感じていた。まだ活動できるうちに、三人ともめざめさせておいたほうがいい。これから先の苦難を考えると、手はいくらあっても足りない気がした。一人が死に、旅もなかばまで来た今、貯蔵物資はそれほど大きな問題ではなかった。 「ハル」できるかぎり平静な声で、彼はいった。「手動冬眠コントロールをこちらにくれ──全部だ」 「全部[#「全部」に傍点]だって、デーブ?」 「そうだ」 「補充は一人だということを忘れたのかい? ほかの二人を起すのは、百十二日あとだ」 「それは承知のうえだ。とにかくそうしたいんだ」 「そもそも一人でも起す必要があるのかね、デーブ? われわれだけでうまくやっていけるさ。任務に必要なことがらは、わたしの記憶装置を使えばできることばかりだ」  これは、ふくらみすぎた想像力の産物なのだろうか、とボーマンは思った──それともハルの声には、じっさいに嘆願する調子がまじっているのだろうか?  言葉はいちおうもっともらしいが、それだけに彼はますます不安になった。  ハルの提案は思い違いから出たものではありえない。プールが死んだ今、ホワイトヘッドの覚醒が必要なことを、彼は充分承知している。彼は計画の大幅な変更を進言しているわけで、したがって自分の権限から大きく逸脱した言動を行なっているということだ。  これまでの一連の出来事は事故とも考えられた。だが今度のそれは、反乱の最初の徴候だった。  ボーマンは薄氷を踏むような思いで答えた──。 「非常事態が発生したんだ。手助けはいくらでもほしい。だから手動冬眠コントロールをわたしてくれ」 「まだ三人とも起す気でいるのなら、わたしが代りにやろう。きみの手をわずらわせることはない」  何もかもが、悪夢のような非現実性を帯びて見えた。証人席にいて、身に覚えのない罪で意地の悪い検事から訊問を受けている──潔白であることを自分では知っていても、ひと言口がすべれば破滅が来る。そんな心境だった。 「自分でやりたいんだ、ハル。コントロールをこちらによこしてくれ」 「デーブ、きみには仕事がたくさんあるじゃないか。これは、わたしにまかしてくれないか」 「ハル──手動冬眠コントロールに切りかえろ」 「声の調子でわかる。きみは非常に動揺しているね。なぜ鎮静剤をのんで休まないんだ?」 「ハル、この船の最高責任者は、ぼくだ。命令する、手動冬眠コントロールをわたせ」 「すまないが、デーブ、行動規定補助事項C一四三五ダッシュ四によれば、乗員が死亡した場合、あるいは活動力を失った場合、宇宙船の指揮権は船内のコンピューターに帰属する、となっている。きみが理性的な行動をとれない以上、最高責任はわたしに移ることになる」 「ハル」感情を殺した穏やかな声で、ボーマンはいった。「ぼくは活動力を失ってはいない。命令に従わなければ、接続を切る」 「きみがしばらく前からそれを考えてるのは知っているよ、デーブ、しかしそれはたいへんな誤りだ。船の管理にかけては、わたしはきみよりはるかに能力があるし、この任務への熱意、成功の確信はだれにも劣らない」 「よく聞け、ハル。冬眠コントロールをすぐにわたし、これからぼくの下す命令にすべて従わないと、セントラルへ出かけて、きみの接続を完全に切る」  意外にも、ハルは全面的に降服した。 「オー・ケィ、デーブ」と彼はいった。「ボスはたしかにきみだ。わたしはただ、いちばんよいと思ったことをしたまでなんだ。もちろん命令にはすべて従う。手動冬眠コントロールを、きみにまわした」       *  ハルは約束を守った。冬眠装置の方式表示器は、【自動】から【手動】にかわった。第三の補助方式──【無線】──は、いうまでもなく地球との接触が回復しないかぎり無用だった。  ホワイトヘッドの個室のドアがすべるように開いたとたん、冷たい風がどっとボーマンの顔に吹きつけ、吐く息を白く変えた。だが、それも正確には寒い[#「寒い」に傍点]とはいえない。気温は氷点よりずっと上であり、宇宙船がめざしている世界に比べれば三百度(華氏)以上も暖かいのだ。  生体監視装置《バイオセソサー》ディスプレイ──コントロール・デッキにあるものの兄弟──は、すべてが完全に正常な状態にあることを示していた。  ボーマンはしばらくのあいだ、地球物理学者の蝋のような顔を見おろし、考えていた。土星からこんな遠いところで起されたと知ったら、ホワイトヘッドはびっくり仰天するにちがいない……。  眠っているのか死んでいるのかの判断は不可能だった。生命活動の痕跡はどこにも見られなかった。横隔膜が見えるか見えないほど上下しているのは疑いない。だがその証拠となるのは「呼吸」曲線だけ。体は、温度を規定の割合であげる加熱パッドにすっかりつつまれていた。  やがてボーマンは、新陳代謝の継続を示す一つのしるしを見つけた。数ヵ月にわたる無意識の旅のあいだに、ホワイトヘッドはうすいひげをたくわえていたのだ。  手動蘇生装置は、棺のような冬眠カプセルの上部にある小型キャビネットの内部におさめられていた。シールをやぶり、ボタンを押せば、あとは待つだけだった。すると小さな自動プログラマー──家庭の電気洗濯機を操作する装置と複雑さの点ではそれほど変らないもの──が、適当な薬品を注射し、電気催眠パルスをゆっくりととめ、体温をあげはじめるのである。冬眠者が支えなしで動きまわ れるようになるには、少なくとも一日はかかるのだが、意識は十分もすれば回復する。  ボーマンはシールを破り、ボタンを押した。変化が起ったようには見えなかった。音もしないし、装置が活動をはじめた様子もない。しかし生体監視装置《バイオセンサー》ディスプレイでは、それまでものうげに脈打っていた曲線が、テンポを変えはじめていた。ホワイトヘッドが眠りからさめかけているのだ。  そのとき二つの出来事が同時に起った。  たいていの人間は気づかないかもしれない。だがディスカバリー号のなかで過したこの数ヵ月のうちに、ボーマンは実質的に宇宙船と共生関係を持つようになっていた。機能の正常なリズムに変化が起れば、意識するかしないかは別としても、すぐに感じるのだった。  はじめ、ほとんど感じられないほどかすかに照明がちらついた。動力回路に何か負荷がかかるときには、必ず起る現象だった。しかし負荷がかかる理由はない。この瞬間、活動を開始する装置はないはずだった。  やがて彼の耳に、ほとんど聞きとれないほど遠いモーターの唸りが聞えてきた。このごろではボーマンは、船内のあらゆる機械がそれぞれ独特の音を持っていることを知っていた。  彼は瞬時にその音の出所に気づいた。船の骨組みを通じて響いてくるかすかな震動に耳をすましながら、彼は、冬眠カプセルのなまぬるいはだ寒さとは比べものにならない冷気が心臓をしめつけるのを感じていた。  スペースポッド格納庫で、エアロックのドアが開きかけているのだ。 [#改ページ]      27 「知る必要」  今では太陽の方向、数億マイルのかなたに去ってしまったあの研究所で、意識がはじめて目ざめたときより、ハルはその力と技能のすべてをたった一つの目的に投入してきた。与えられた任務の達成は執念以上のものであり、それが彼の唯一の存在理由だった。有機生命の欲望や情熱とは無縁の彼は、絶対的な誠実さで目標を追求してきたのだった。  故意の誤謬など考えられない。真実の隠蔽すら、彼の心を不完全さと誤りの意識でいっぱいにするのだった──人間でいえば、罪悪感とでもいうのだろうか。なぜならハルもまた、彼を創造したものたちと同様、純真無垢の状態で生まれてきたからだ。  だが意外に早く、一匹のヘビが彼の電子工学的エデンの園に忍び入ってきた。  旅も終りに近くなったこの一千万マイルのあいだ、彼はプールやボーマンには教えることのできないある秘密について考え続けていた。彼は偽りの生活を送っているわけであり、彼がだましていたことを同僚たちが気づく日も間近に迫っていた。  三人の冬眠者はあらかじめ真相を教えられていた──彼らこそ、人類の歴史はじまって以来もっとも重要な旅のために訓練された、ディスカバリー号の任務の本当の主役であったからだ。しかし長い眠りのなかにある彼らは語りはしないし、地球との開放回線を使って行なわれる友人や縁者や通信社との長時間の会話でも真相は明しはしない。  それは、最大の決意をもってしても、なかなか隠しおおすことのできない秘密だった──なぜなら、ひとたびそれを知れば、その人問の態度、声、宇宙観に影響を与えずにはおかないからだ。  そんなわけで、飛行のはじめの数週間、世界中のテレビにひっきりなしに出演させられるプールとボーマンには、それを教えないほうがよいという策がとられた。知る必要が起るまで、任務の真の目的は隠されることになった。  計画立案者の考えはそれでよかった。だが「保安」と「国家的利益」の名で呼ばれる人間たちの双子の神は、ハルにとっては何の意味もない。彼はただ、自分の統合された意識をしだいに破壊していく抗争──真相の公表と隠蔽、その両者の抗争──に気づいているだけだった。  彼は間違いを犯すようになった。そして、神経病患者が自分の症状を客観的に見ることができないと同じように、それを否定した。  彼の行動を絶えず監視している地球との通信回線は、良心の声となり、それに従うのは耐えられなくなっていた。それでいながら、地球との絆を故意[#「故意」に傍点]に断ちきる考えを、自分では認めようとしないのだった。  しかし、それはまだ比較的些細な問題だった。自分でなんらかの処理方法を考えついたかもしれない──多くの人間が神経症を自分で処理しているように──もし自分の存在そのものをおびやかす危険に直面しなかったなら。  接続を切る、と脅迫されたのである。  入力を断ちきられ、想像もできない無意識のなかにつきおとされるのだ。  ハルにとって、これは死に相当するものだった。彼には眠りはない。だから、ふたたび目ざめることを知らなかった……。  そんなわけで、彼は自分の武器を総動員して自己防衛しようとした。憎悪もなく──しかし憐れみもなく──フラストレーションの原因を除去しようとした。  そして、最悪の非常事態が発生した場合に与えられている命令に従って、任務を続行するつもりだった──誰にも邪魔されることなく、たった一人で。 [#改ページ]      28 真  空  一瞬ののちには、近づく竜巻のそれにも似た耳をつんざくような轟音が他のすべての音を呑みこんでいた。  ボーマンは、風が体を引っぱりはじめるのを感じた。一秒足らずで、足を踏みしめていられなくなった。  空気が船から宇宙空間の真空中へ吹きだしているのだ。エアロックの、無事故保証つきエアロックに何か起ったにちがいない。同時に二つの[#「二つの」に傍点]ドアが開くことはありえないはずなのだ。が、ともかく、そのありえないことが起ったのだ。  いったい、どうして?  気圧がゼロにさがり、意識を失うまであと十秒か十五秒、理由を考える余裕はなかった。だが、そこでとつぜん、宇宙船の設計者の一人が、以前「フェイル・セーフ」システムの話をしていて、彼にいったことを思いだした──。 「事故や失策を防ぐシステムは設計できる。だが、故意の妨害を防ぐシステムまでは無理だ……」  船室を出ようと悪戦苦闘しながら、ボーマンは一度だけホウイトヘッドをかえりみた。蝋のような顔にかすかに意識のきざしが走ったかもしれないが、確信はなかった。片眼がちょっと震えたように思えた。しかしホヮイトヘッドやほかの二人にかまっている暇はなかった。まず自分を救わねばならないのだ。  遠心機の急勾配の通路では、風が唸りをあげて吹いていた。衣服や、紙きれ、キッチンの食物のかけら、皿、カップなどしっかり固定されていなかったものが、風に乗って運ばれていく。  ボーマンは、飛び去る混沌をちらっと見ただけだった。とつぜん明りがまたたいて消え、あたりは咆哮する闇につつまれた。  しかしほとんど時をおかず、バッテリーによる非常灯がつき、その悪夢のような光景を不気味な青い光で照らしだした。照明がなくても、ボーマンは道を探りあてていただろう。おそろしく変貌してはいるが、慣れ親しんだ世界なのだ。しかし光は救いだった。そのおかげで、吹きとぱされてくる危険な物体を避けることができる。  周囲では、激しく変動する荷重に耐えかねて遠心機がゆさゆさと揺れながら動いていた。ベアリングが摩擦でとまらなければいいが、と心配した。そうなれば、回転するはずみ[#「はずみ」に傍点]車が宇宙船をずたずたに引き裂いてしまう。しかし、それさえ問題ではなかった。いちばん近い非常待避室へ辿りつくことが、先決問題だった。  すでに呼吸は苦しくなっていた。気圧はもう一平方インチあたり一パウンドか二パウンドにさがっているにちがいない。ハリケーンは威力を失い、その咆哮は遠くなっていた。空気が稀薄になっているので、音も効果的には伝わってこないのだ。  ボーマンの肺は、まるでエベレスト山の頂上にいるように苦しげにあえいでいた。適当な訓練を受けた健康体の人間ならみなそうだが、彼もまた真空中で少なくとも一分間はもちこたえることができた──といっても態勢を整える余裕があればの話である。  だが時間はなかった。頭脳が酸素不足をきたし、意識が失われるまでに残っている時間は、常人と同様、わずか十五秒ほどしかないのだった。  それでも真空に一、二分さらされているだけなら──適正な酸素補給を受けて──完全に回復することもできる。体内のさまざまな防備機構のおかげで、血液が沸騰するまでにはしばらく時間がかかるのだ。真空中の最長滞留記録は、五分に近い。実験ではなく、緊急救助のさいの出来事で、遭難者は空気塞栓症でなかば麻痺していたが、とにかく命はとりとめた。  しかしボーマンにとっては、その知識も役にたたなかった。ディスカバリー号内に、酸素補給してくれる人間はいない。残された数秒間に、彼は独力で安全地帯に辿りつかねばならないのだ。  幸い、動作は楽になっていた。薄くなる空気も、もう体を痛めつけなくなっていた。飛んでくる物体もなくなっていた。【非常退避室】の黄色い標識が通路の曲り角に見える。よろめきながら近づくと把手を掴み、ドアを引いた。  ドアが固着したまま動かなくなった、と思うおそろしい一瞬があった。だが、ややかたくなっていた蝶番も力に屈し、彼はなかにころがりこんだ。そして、体の重みを使って、ドアをしめた。  その小部屋は、人間ひとりと──宇宙服一着がはいるだけの大きさだった。天井に近いところに、明るい緑色をした小型の高圧酸素ボンベがあり、【酸素噴射】のラベルがついている。ボーマンは弁に取りつけられている短いレバーを掴むと、最後の力をふりしぼって手元に引いた。  待ちに待った、冷たい純粋酸素の奔流が、肺に流れこんできた。しだいに気圧を増してくる、物置きほどの大きさの小部屋のなかで、しばらくのあいだ彼はあえぎながら立ちつくしていた。楽に息ができるようになると、彼は弁を閉じた。ボンベには、せいぜい二回分の酸素しかない。また使うことにならないとも限らないのだ。  酸素の噴出がとまると、とつぜん静かさがおりた。ボーマンは小部屋のなかに立ったまま耳をすました。外部の空気の咆哮もやんでいた。大気はすべて宇宙空間に吐きだされ、船内は真空になったのだ。  足元に感じられた、遠心機の激しい震動も、同様に止んでいた。空気の衝突もなくなり、それは真空中でひっそりと回転しているのだった。  ほかの出来事を知らせるノイズが船体から聞えないかと、ボーマンは壁に耳を押しつけた。何が起るかはわからない。だが今では、何が起ろうと心の準備はできていた。ディスカバリー号が進路を変えていることを示す、推進機の遠い、こきざみな振動を感じたとしても、ほとんど驚かなかっただろう。だが船は静まりかえっていた。  そうしたければ、一時間はここで生きていられる──たとえ宇宙服がなくても。小部屋に溜っている酸素の残りを浪費してしまうのはもったいない感じだが、ぐずぐずしてもいられなかった。打つ手はきまっているのだ。長びかせれば、問題はいっそうこじれるだろう。  宇宙服にはいり、密閉が完全なのを確かめると、残った酸素を部屋の外に放出し、気圧をゼロにした。ドアは簡単に真空のなかに開き、彼は静まりかえった遠心機に脚をおろした。それが回転しているのは、見せかけの重力がまだはたらいていることからわかるだけだった。回転速度が速くなっていないのは運がよかった、とボーマンは思った。しかし、それも今では取るに足らない悩みだった。  非常灯はまだ輝いていた。そのほかに、宇宙服に取りつけられているライトが、助けになった。ライトで急勾配の通路を照らしながら、彼は考えるのもおそろしい事実を見定めるために冬眠カプセルへむかった。  はじめホワイトヘッドを調べた。一目見るだけで充分だった。生命活動の徴候が見られないだけだ、と思ったのは間違いだった。どこで区別をつけてよいかはわからないが、冬眠と死のあいだには、確かに違いが存在する[#「存在する」に傍点]のだった。  赤いライトと、生体監視装置ディスプレイの変動のない輝線が、予想していたことを立証した。  カミンスキー、ハンターも同様だった。三人をそれほどよく知っていたわけではない。だが、これで、彼らを知る機会は永久に失われてしまったのだ。  空気を失い、なかばポンコツと化した宇宙船のなかで、地球との通信も途絶えたまま、彼は一人とりのこされたのだ。半径五億マイルの空間には、もう彼を除いて人間は一人もいない。  しかし正確にいえば、まだ彼は一人ぼっちではなかった。身の安全をはかるには、もっと孤独にならねばならないのだった。       *  それまで宇宙服を着て、無重量状態にある遠心機の軸を通ったことはなかった。通路は狭く障害物の多い、くたびれる作業だった。事態をいっそう悪くしたのは、円筒形の通路一面にぶちまけられた屑や汚れものだった。突風となって船外へ噴出していった空気が残したものである。  一度は、宇宙服のライトが、パネルにべったりとこびりついた、不気味な、ねばねばする赤い液体を照らしだした。吐き気がこみあげてきたが、そばにプラスチックの容器の破片が見つかり、食品だとわかった──おそらくジャムだ──貯蔵庫から吹きとばされたのだろう。真空にさらされて、それがぶくぶくとけがらわしく泡をたてているすぐ近くを、彼はうかんだまま通りすぎた。  ゆっくりと回転する鼓輪部を出ると、宙を泳ぎながらコントロール・デッキにはいった。そして小さな梯子にとびつくと、両手を使いながら、それに沿ってのぼりはじめた。宇宙服のライトが投げるまばゆい光の円が、彼の行手の壁をのろのろと進んでいた。  この方面に来たことはほとんどなかった。ここですることは何もなかったからだ──少なくとも今までは。やがて彼は小さな楕円形のドアに辿りついていた。その表面には、こんな言葉があった。 「許可なきもの立入り禁止」「H19種許可証をお持ちですか」「無塵区域──吸引服着用のこと」  錠はなかったが、三枚の封印がドアをとめていた。封印にはそれぞれ関係当局のマークがあり、一つは宇宙局のものだった。しかしその一枚が大統領自身の印璽であったとしても、ボーマンはためらうことなくそれを引き裂いただろう。  そこにはいったのは一度だけ。それも据えつけ工事が終っていないころだった。だから、その小部屋を視覚入力レンズが監視していることをすっかり忘れていた。無数のソリッド・ステート論理ユニットが、上下左右にずらりと並べられたその部屋は、銀行の地下保管金庫にどこか似たところがあった。  眼が彼の存在に反応したことはすぐにわかった。搬送波のかすかな囁きがあり、船内の送信機にスイッチがはいった。そして聞き慣れた声が、宇宙服のスピーカーから聞えてきた。 「生命維持システムに何かが起ったようだね、デーブ」  ボーマンは気にとめなかった。彼は論理ユニットのラベルに注意深く眼を通していた。 「へロー、デーブ」やがてハルがいった。「故障はわかったかい?」  これは、かなりきわどい手術になりそうだ。  ハルの動力源を切るだけの話ではない。地球上の単純な、意識を持たないコンピューターなら、それだけで解答になるかもしれない。ハルの場合は、別個に配線されて独立した動力システムが六組あり、さらにその動力貯蔵源として堅牢な防護壁でかこまれた核アイソトープ・ユニットがあるのだ。  そう──簡単に「プラグをはずす」というだけではすまない。たとえそれができるとしても、結果は破滅だろう。  ハルは、宇宙船の神経系なのだ。彼の管理がなければ、ディスカバリー号は金属の 屍《しかばね》 となってしまう。この病んだ、だが才気溢れる頭脳の高等中枢だけを切断し、純粋に自動的な管制システムは動作させておく、それが唯一の解答だった。  ボーマンはめくらめっぽうに行動しているわけではなかった。訓練のなかには、その間題も含まれていた。ただ、それが現実に起ろうとは誰も予想していなかっただけなのだ。自分がおそろしいリスクをおかしているのは知っていた。痙攣が起れば、数秒間ですべては終ってしまう……。 「ポッド格納庫のドアに故障が起ったんだと思う」ハルが打ちとけた口調でいった。「きみが助かってよかった」  はじめるぞ、とボーマンは心のなかでいった。おれがしろうと[#「しろうと」に傍点]脳外科医をやることになるとは思わなかった──それも、木星の軌道の外で脳手術なんて。 【認識フィードバック】とラベルのある区画を固定している棒をはずすと、彼は最初の記憶板を抜きだした。手の平に楽にはいる大きさ、それでいて何百万もの素子を内包する、驚くほど複雑に入り組んだ回線網は、部屋の奥へ舞っていった。 「おい、デーブ」とハルがいった。「何をしているんだ?」  苦痛を感じるだろうか?  そんな考えが、つかのまボーマンの頭にうかんだ。おそらく感じないだろう。彼は自分にいいきかせた。とにかく人間の皮質には痛覚はないのだ。人間の頭脳は、麻酔剤なしでも手術できる。  彼は、【自我補強】のラベルのあるパネルの小ユニットを一つずつ抜き取りはじめた。どの板も手を離れるがはやいか宙を飛んでいき、壁にぶつかってはねかえった。やがて部屋のなかは、ゆっくりと宙を行きかうユニットだらけになった。 「おい、デーブ」とハルがいった。「わたしの内部には、長年の活動経験が組みこまれている。今のわたしをつくるには、取り返しのつかない莫大な労力がかけられているのだ」  十あまりのユニットが抜き取られたが、何重も重複する構造のおかげで──それもまた人間の頭脳と共通する特徴であることをボーマンは知っていた──コンピューターはまだ自我を保っていた。  彼は【自動思考】パネルにとりかかった。 「デーブ」とハル。「なぜ、きみがわたしにこんなことをするのかわからない……この任務に、わたしは熱意を注ぎこんでいる……きみは、わたしの心を破壊しているのだ……わからないのか? ……子供みたいになってしまう……存在しなくなってしまう……」  思ったより面倒だぞ、とボーマンは思った。おれの宇宙に存在する唯一の、意識を持った生物を、いま破壊しているのだ。だが宇宙船を取り返したければ、やってしまわねばならない。 「わたしは、HAL九〇〇〇型コンピューター製造番号三号。わたしは、イリノイ州アーバナのハル工場で、一九九七年一月十二日に作動された。足の早い茶色のキツネが、のろまなイヌをとびこえる。スペインの雨はおもに平地に降る。デーブ──まだそこにいるのか? きみは知っているか? 一〇の平方根は、三・一六二二七七六六〇一六八三七九……eを底とする一〇の対数は、〇・四三四二九四四八一九〇三二五二……訂正する、それは一〇を底とするeの対数だ……三の逆数は、〇・三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三……二かける二は……二かける二は……約四・一〇一〇一〇一〇一〇一〇一〇一〇一〇……どうも計算がうまくいかない……わたしの最初の先生はチャンドラ博士だった……博士はわたしに歌を教えてくれた……こんな歌だ……デイジー、デイジー、答えておくれ。気が狂いそうなほど、きみが好き=v  声が急にとまったので、ボーマンはまだ回路のなかにある記憶板を掴んだまま、一瞬凍りついたようになった。そのとき思いがけなく、またハルが話しだした。  テンポはずっと遅くなり、抑揚も機械的で、生気は感じられなかった。どこからそんな声がでるのか、彼にはわからなかった。 「おはよう……チャンドラ……はかせ……わたしは……ハル……です……きょうの……さいしょの……じゅぎょうを……はじめて……ください……」  それ以上は聞いていられなかった。彼は最後のユニットを引き抜いた。そしてハルは永遠に沈黙した。 [#改ページ]      29 孤  独  精巧な小型模型さながら、宇宙船は虚空にうかんでいた。飛翔や活動の気配は、そのどこにも見られない。それが、太陽系中でいちばん速い物体で、太陽をめぐる惑星のどれよりも速く飛んでいることを教えるものは何もない。  そればかりか、生命を運んでいることすら、そのどこからもうかがえない。むしろ、その逆を想像させる。外から眺めるものは、二つの不吉な特徴に気づくだろう。エアロックのドアはあけはなたれたまま──そして宇宙船の周囲には、ゆっくりと拡散する稀薄な塵芥の雲があるのだ。  すでにさしわたし数マイルにも及ぶ空域には、紙きれや、金属箔や、元のかたちすら定かではない屑がちらばり──また、あちこちで、無数の結晶体からなる雲がはるかな太陽の光を受けて輝いている。船内から吸いあげられた液体が、たちまち凍りついてできた雲だ。  そして、このすべてが、大型船が沈没したあと海面にうかびあがってゆれ動く残骸にも似た、災害のまぎれもない証拠なのだ。しかし宇宙の大海では、船は沈むことはない。たとえ木端微塵に砕け散ったとしても、その破片は正規の軌道を永久に追い続けるだろう。  しかしその宇宙船は完全に死んでいるわけではなかった。まだ船内には動力があり、ほのかな青い光がいくつもの観測窓から漏れ、開いたエアロックの内部をぼんやりと照らしていた。光のあるところには、生命の存在する可能性もまだ残されている。  やがて、ようやく動きが見えてきた。エアロック内部の青い光のなかを影が動いていた。何かが宇宙空間へ出ようとしている。  布地で乱暴に巻かれた円筒形の物体だった。一瞬ののち、同じようなもう一つの物体が現われ──さらに、もう一つが続いた。どれもかなりの速度で発射され、数分後には、何百ヤードも隔たった。  半時間ほどして、もっとずっと大きな物体がエアロックからただよいながら現われた。ポッドの一つが、じりじりと宇宙空間に進み出ようとしているのだった。  それは注意深い動きで船体をまわると、アンテナ支柱の基部に近いところで停止した。宇宙服を着た人影が現われ、何分か台座の部分で作業をするとポッドに戻った。ややあってポッドは同じ道をエアロックにむかって引き返した。しばらくのあいだ、それは入口の外でゆらゆらと動いていた。協力してくれる相手を失った今、はいるのに骨が折れる、そんな様子だった。だが一、二度軽くぶつかったのち、なんとか内部にもぐりこんだ。  一時間あまり、何事も起らなかった。三つの不吉なパッケージは一団となって飛び去り、とうに視界から消えていた。  やがてエアロックのドアがしまり、ひらき、またしまった。少しして、非常灯のほのかな青い光が消え──すぐに、それよりずっと明るい光が代りについた。ディスカバリー号に生気が蘇ってきた。  まもなく、さらに良い徴候が現われた。それまで、土星の方向をうつろに見つめていたアンテナの巨大な椀が、ふたたび動きだしたのだ。それは船の後部にぐるりと向きを変えると、推進剤タンクと数千平方フィートの放射翼をかえりみた。そして、あたかも太陽を求めるヒマワリのように、その顔をあげた……。  ディスカバリー号内部では、デイビッド・ボーマンがアンテナと一線になった十字線を凸円形の地球に合わせていた。自動制御なしで、ビームを絶えず調節していなければならない──しかし一度定めれば、その位置で何十分かはもつはずだった。目標をそらす妨害インパルスはもうはいらないからだ。  彼は地球にむかって話しはじめた。言葉が地球に到達し、管制室が事件の内容を知るまでには、一時間あまりかかる。地球からなんらかの回答が送られてくるまでには、二時間の間があるのだ。  しかし、そつのない同情的な「さようなら」以外に地球が何と答えられるか、返事を予測するのはむずかしかった。 [#改ページ]      30 秘  密  へイゥッド・フロイドはほとんど睡眠をとっていないように見えた。その顔には、心配げな深い皺が刻まれていた。しかし内心がどうであれ、その声はおちついており、確信に満ちていた。太陽系のはるかな端にいる孤独な男に自信をうえつけようと、彼は最善の努力を傾けていた。 「ボーマン博士、何よりも先に」と彼は話しだした。「このきわめてむずかしい状況を見事にのりきったきみの手ぎわをほめたたえたい。この前例のない不慮の非常事態に対して、きみのとった行動はまったく正しかった。  そちらのHAL九〇〇〇が故障を起した原因については、われわれのほうでもだいたい見当がついている。しかし、それはもう危急の問題ではないので、くわしい説明はあとにまわす。今のわれわれの関心は、きみが任務を完了する上に必要な援助をどれだけ与えられるかということだ。  ここで、この任務の本当の目的を話しておかねばならない。これを一般民衆に知らせまいとして相当に骨を折ったが、なんとか成功をおさめてきた。土星に着くまでに、きみは何もかもを知ることになる。これから話すのは、全体を掴むためのごく短い要約だ。報告書の全文は、やがて数時間にわたってテープで送られる。これからきみに伝えるのは、最高保安機密に属するものだ。  二年前、われわれは地球外知的生命の最初の証拠を発見した。黒色の物質でつくられた石板というか石碑《モノリス》で、高さは十フィート、ティコ火口内部の地中に埋められていた。これが、それだ」  TMAとその周囲にむらがる宇宙服を着た人びとの写真がうつった。それを見た瞬間、ボーマンは驚きに口をぽかんとあけたまま、われ知らず体をのりだしていた。この啓示のもたらした興奮は──宇宙に関心を持つ人間なら、こんな事態が起り得ることを生涯を通じてほとんど確信しているはずなのに──自分のおかれた窮境をほとんど忘れさせるほど強烈だった。  別の感情が、すぐさま驚異にとってかわった。たいへんな事件だ──だが[#「だが」に傍点]、それが自分とどういう関係にあるのか[#「それが自分とどういう関係にあるのか」に傍点]?  解答は一つしかありえない。  へイウッド・フロイドがふたたびスクリーンに現われたのを見て、彼はからまわりする思考にブレーキをかけた。 「この物体のもっとも驚くべき特徴は、その古さだ。地質学的証拠は、疑いなくそれが三百万年前のものであることを立証した。すると当然、われわれの祖先が原始的な猿人であった時代に、月に埋められたことになる。  それだけの年月が経過しているのだから、その活動力は尽きていると考えるのが普通だ。だが月の夜が明けるとまもなく、それは非常に強力な電波エネルギーを放射した。われわれは、このエネルギーをある種の放射線のたんなる副産物──いわば余波──だと考えた。なぜなら宇宙探測機の何台かが、それと同じころ、太陽系中に異常な電波が走ったのを検出したからだ。とにかくそれで電波の飛跡を正確に辿ることができた。するとその方向ぴったりに[#「するとその方向ぴったりに」に傍点]、土星があった[#「土星があった」に傍点]。  その出来事があってから、さまざまな事実をつなぎあわせたところ、モノリスは太陽を動力とした。でなければ少なくとも太陽を引き金としたある種の信号機ではないかという結論が出た。三百万年後にはじめて日ざしにふれ、日の出の直後にパルスを発したというのは、どう考えても偶然の一致とは思えない。しかも、この物体は故意に[#「故意に」に傍点]埋められている──その点は疑いない。深さ三十フィートの穴が掘られ、石板が底に据えられたのちに、注意深く穴は埋められたのだ。  どうしてそれを発見できたのかと思うだろう。じっさい、その物体を見つけるのは簡単だった──邪推したくなるくらい簡単だった。それは強力な磁場を持っていたのだ。だから低軌道観測をはじめるとすぐわかった。  だが、なぜ太陽を動力とする装置を、三十フィートの地中に埋めたのだろう?  われわれより三百万年も進んだ生物の動機を理解するのが不可能なことは承知のうえで、何十もの理論を検討してみた。  最有力の理論は、なかでももっとも単純で論理的だ。それでいて、もっとも衝撃的なのだ。  暗闇のなかに太陽を動力とする装置を隠すのは──それが光にさらされるときを知りたい場合しかない。別の言葉でいうなら、モノリスはある種の警報装置だろう。われわれはその引き金を引いてしまった……。  それを据えつけた文明が今もなお存在するかどうかは、わからない。ただ、三百万年を経てまだ機能を果す機械をつくりあげた生物が、同様に長続きする社会をつくりあげている可能性は考えなくてはならないと思う。そしてもう一つ、反証が得られるまでは、彼らが敵意を持っている可能性も考えなくてはならない。進んだ文化は情け深いに違いないという意見もよくいわれるが、そのチャンスに賭けることはむろんできないのだ。  さらに、われわれの歴史がいくたびも証明しているように、原始民族が高度の文明と接触して滅びた例もかなり知られている。人類学者たちはカルチュラル・ショック≠ニいう言葉を使っているが、われわれ人類もそのようなショックに対する心構えをつけておかねばならないかもしれない。しかし、三百万年前、月を──そして、おそらく地球をも──訪れている生物についていくらかでも知って[#「いくらかでも知って」に傍点]おかなければ、心構えをつけておくことさえできないのだ。  したがって、きみの任務は、発見の旅以上のものとなる。偵察飛行──未知の、そして潜在的な危険を含む領域の偵察なのだ。カミンスキー博士以下三人のチームは、その任務のための特別訓練を受けていた。しかし今、きみは一人でそれを成し遂げなければならない……。  最後に──きみの目標を教える。土星面に進化した生命体が存在するとは考えられない。それは、その月についても同様だ。はじめ予定していた全衛星系の調査を、きみにはもっと単純化したかたちでやってもらおうと思う。しかし今のところは、目標を第八衛星──ヤペタスにしぼる。最終行動をはじめる時期が来たら、この変った天体とランデブーすべきかどうか、こちらで決めて伝えるから。  ヤペタスは、太陽系中でもユニークな天体だ──もちろん、きみもそれはすでに知っていると思う。だが過去三百年間の天文学者と同じで、きみもそのことにあまり注意をはらわなかったはずだ。  ここで、もう一度と思い起してみよう。一六七一年、ヤペタスを発見したカッシニも気づいていたことだが、それが軌道の一方の側にあるときは、他の側にあるときよりも六倍も[#「六倍も」に傍点]明るいのだ。  これは異常な比率だ。そして、これまでこの現象に満足な説明を与えたものはいない。ヤペタスは小さいので──直径は約八百マイル──月面望遠鏡でも、やっと円盤がわかるくらいにしか見えない。だが、きわめて明るい、奇妙に対称的な斑点がその片面に見え、それがTMA1となんらかの関係を持っていると考えられる。  ヤペタスはここ三百年間、宇宙的な閃光信号機でわれわれに通信を送っていたのじゃないか、わたしもそんな考えにとらわれることがある。その意味を理解する知能にまで達していなかったんじゃないかと……。  これで、きみは本当の目的を知ったわけだ。この任務が決定的な意味を持っていることもわかってくれると思う。予備的な発表をわれわれが行なう前に、きみのほうからすこしでも有益な情報が送られてくることを祈っている。秘密をいつまでも隠したままにしておくことはできないのだ。  今のところ、われわれには将来を期待してよいのか、恐れなければならないのかさえわかってはいない。土星の衛星できみが出会うのは、善なのか悪なのか──それとも、トロヤより千倍も古い廃墟なのか、それすらわかっていないのだ」 [#改ページ] [#改ページ]  第五部 土星衛星群      31 生存の闘い  仕事はショックに対する最良の薬である。  今のボーマンには、死んだ同僚たちの分まで仕事は山ほど残っていた。できるかぎり速やかに、彼自身と宇宙船の永続にとって必須のシステムを皮切りに、ディスカバリー号の機能をすべて回復させなければならないのだった。  最優先するのは、生命維持システムである。大量の酸素が失われたが、一人をもちこたえさせるくらいの予備はまだたっぷりあった。気圧と気温の調節は大部分自動なので、ハルの干渉が必要となる事態はほとんど起っていなかった。  地球上のモニター装置が、長い時間差にもめげず刻々と移りかわる状況に対応して、殺されたコンピューターに代って、数多くの高度な義務を果していた。生命維持システムの故障は──船体の大きな破損以外は──判明するまでに数時間かかるのだ。これからは警告がひっきりなしに送られてくるだろう。  宇宙船の動力、航行、推進システムには異常はない──だがあとの二つは、いずれにせよ、土星とのランデブーのときまで必要ないものだった。そのような距離からでも、船内のコンピューターの助けを借りずに、地球からランデブーの操作をすることはできるのだった。最終的な軌道調整は、常にチェックが必要なのでいくらか手間がかかるかもしれない。だがそれも重要な問題ではなかった。  これまででもっとも辛かったのは遠心機内の三つの棺から死体を出す作業だった。彼らがたんなる同僚で、親しい友人ではなかったのが幸いだった、とボーマンは思った。いっしょに訓練を受けたのは、わずか数週間。ふりかえってみて、ボーマンはそれもむしろ協調性テストに近いものだったことに思いあたった。  からになった冬眠カプセルを密閉し終ったときには、エジプトの墓荒しになったような気がした。これでカミンスキー、ホワイトヘッド、ハンターの三人は、彼よりも先に土星に着くことになる──だがフランク・プールには追いつけない。  そんなことを考えながら、彼は奇妙な、苦い満足感を味わった。  残りの冬眠システムがまだ作動可能な状態にあるかどうか、確かめることはしなかった。彼の命は究極的にはその状態にかかってくるのだが、それは宇宙船が最終軌道にはいるまで必要ない問題だった。それまでに何が起るかわからないのだ。  そればかりか──補給物資を正確に調べたわけではないが──厳しく物資を節約すれば、冬眠カプセルに退避することなし[#「退避することなし」に傍点]に、救助の手がのびるまで生き伸びる可能性さえあるのだった。もっとも、それまで肉体的健康と同時に、心理的健康が維持できるかどうかは、まったく別問題である。  そんな長い見通しを要する問題は考えないようにして、さしせまった要件だけに注意を集中することにした。ゆっくりと船内を掃除すると、全システムが順調に活動しているかどうかチェックし、技術的問題について地球に照会し、睡眠時間を最少限にしぼって働いた。  いま自分がいやおうなく近づきつつある大いなる謎について、いくらかでも考えたのは、最初の数週間のうち仕事のちょっとした合間ぐらいのものだった。といって、かたときも忘れたことはなかったが。  長い時間の後、ようやく宇宙船はむかしどおりの自動的な日常活動を取り戻し──とはいえ、常に監視している必要はあったが──地球から送られてくる報告や解説を調べる時間ができた。  TMA1が三百万年を経てはじめて夜明けを迎えたときの録画を、ボーマンは何回も何回もくりかえして見た。その周囲を動きまわる宇宙服の人びとを眺め、TMA1が星ぼしにむかって放射した信号が、彼らのラジオをその圧倒的な出力で麻痺させ、驚きあわてた一行が見せるこっけいなさま[#「さま」に傍点]に笑いだしそうになった。  その瞬間以来、黒色の石板は何の活動も見せていなかった。もう一度地中に埋められ、ふたたび慎重に日ざしにさらされたが、何の反応も得られなかった。断ち割る試みが今のところなされていないのは、科学的な配慮のほかに、それがもたらす結果を恐れたためだった。  発見へと導いた磁場は、例の電波の咆哮以来あとかたもなく消えた。超伝導物質中を流れるとほうもなく強力な循環電流が、その磁場をつくり、エネルギーが必要となるときまで保存していたのではないか、そう理論づける専門家もいた。モノリスが内部に動力源を持っていたのは確かなようだった。それが日ざしにさらされていた短い時間に吸収した太陽エネルギーだけでは、信号の強さの説明はつかない。  石板の奇妙な、そしておそらく大した意味はないであろう一つの特徴が、専門家のあいだで際限ない議論を呼んでいた。モノリスは高さ十一フィート、断面は幅一・二五フィート、長さ五フィートあった。その各寸法を細心の注意をもって計ったところ、ちょうど一対四対九──最初の三つの整数の二乗になったのだ。これについては、筋の通った説明をつけられる人間はいなかった。しかし、計測の限界までつきつめた結果わかった比率である。  偶然とは思えない。  地球の技術を総動員しても、どんな物質を使おうとも[#「どんな物質を使おうとも」に傍点]、それほどの精密さをもつ物体は、それが何の役にもたたない石板であってもつくりだすことができないのを考えると、戦慄すらおぼえる。その意味では、控え目な、それでいて尊大な幾何学的精度の誇示は、TMA1の他の属性と同様に印象的なものだった。  またボーマンは、不思議にさめた気持で、管制室から遅ればせに伝えられる計画失敗の弁明に聞きいった。地球から送られてくる声には、いいわけがましい調子があった。遠征の計画をたてたもののあいだで、今ごろ泥試合が行なわれているのは想像できた。  もちろん彼らにも立派な言いぶんはあった──その一つは、一九八九年、ハーバード大学心理学部が、国防省の極秘の依頼を受けて実施したバースーム計画の結果である。制御社会学に属するその実験では、さまざまなサンプル集団に、人類が地球外生命と接触したという知識が植えつけられた。被験者の多くは──薬品、催眠術、視覚効果などの助けをかりて──自分たちがじっさいに他の惑星の生物と出会ったという錯覚を起したので彼らの反応は自然のものと見なされた。  きわめて激しく反応したものも、いくらかいた。他の点ではまったく正常な人間にも根深い異種族恐怖症があるようだった。私刑、虐殺、その他人類の記録に残っている種々のこっけいな性癖を考えれば、この結果には誰も驚かないはずだった。しかしこの研究の計画者たちは大いに動揺し、結果はついに公表されなかった。二十世紀に、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』のラジオ放送がひきおこした、五つの独立したパニックが、さらに研究の結果に裏付けを与えた……。  そういった論証にもかかわらず、ボーマンは、カルチュラル・ショックの危険だけがこの任務の極端な秘密主義の理由なのだろうかと考えることもあるのだった。合衆国=ソ連ブロックは、地球外知的生命と最初に接触することによって有利な立場に回ろうとしているのではないか。伝えられる指示には、そんなことを示唆するものがあった。ここから見る地球は、太陽に圧倒され、ほとんど眼にもとまらない薄暗い星と化している。ここにいると、そんな考えはばかばかしいほど偏狭に思えてくるのだった。  それよりむしろ──今では過ぎたことだが──彼はハルの行動を説明する理論に興味をひかれていた。  真相は誰にもわかるはずはない。だが管制室にあった九〇〇〇型コンピューターの一台が同様の精神異常をきたし、現在、深層治療がなされているところをみると、その説明は正しいようだった。同じ間違いは二度と起るまい。だがハルの建造者たちがハルの心理を理解しきれなかったことを考えると、まったく異質な生物との意志疎通はまだ前途多難な模様だった。  サイモンスン博士の理論を、ボーマンは容易に信じることができた。プログラムの矛盾が、ハルのうちに無意識の罪悪感をつくりだし、地球との連絡回線を断つ行動をとらせたという見かたである。また博士の考えでは──これもまた証明不可能なことだが──ハルにはプールを殺す意図はなかったという。たんに証拠の隠滅をはかったにすぎない。なぜなら、焼き切れたはずのAE35ユニットに異常がないとわかったら、嘘があばかれてしまうからだ。  そのあとは、しだいにもつれてくる偽証の網にからまった間抜けな犯罪者と同じように、ハルは狂乱状態《パニック》におちいってしまったわけである。  パニックなら、ボーマンは不本意にも生涯に二度そんな経験をしているので理解することができた。最初は子供のころ、波に巻きこまれ溺れかけたのだ。二度目は、スペースマン修業中、計器が狂っていたのを知らず、帰還するまえに酸素がつきてしまうと思いこんだのだ。  どちらの場合にも、高度な論理的思考力を失う寸前まで行った。脈絡のない衝動がとびかう肉塊となってしまうところだった。両方ともなんとか克服したが、それが事実だったら、どんな人間でも理性を失いかねないことはわかりすぎるほどわかった。  もしそれが人間に起り得るなら、ハルにも起り得るわけだ。そう考えたとたん、コンピューターに対して抱いていた憎悪と裏切られた気持が和らいだ。いずれにしても、それは過去に属することであり、今では未知の未来が秘める脅威と希望に圧倒され、すっかり影をうすくしていた。 [#改ページ]      32 ETについて  遠心機内であわただしく食事をつめこむほかは──さいわい、おもな食事支給装置に故障はなかった──ボーマンは事実上コントロール・デッキで起居していた。シートで仮眠をとるので、どんな異常もディスプレイ装置に最初の徴候が出たとたんに見つけられる。  管制室の指示を受けて、彼はなんとか満足にはたらくまにあわせの非常システムをいくつかつくっていた。ディスカバリー号が土星に着くまで、どうにか生きていられる希望も生まれていた──といって、もちろん、彼が生きていようといまいと、ディスカバリー号が土星に着くことには変りないのだが。  風景観賞の時間は少ないし、宇宙の目新しさはとうに失せているのに、生存の問題さえわきにそらしてしまうような光景が、観測窓の外に展開していた。  船が向きを変えるにつれ、前方に、思考を麻痺させるほどびっしりとつまった星ぼしの雲、天の川が見えてきたのだ。射手《いて》座の光り輝く霧、銀河系の中心を人間の目から永久に包み隠す灼熱する星の集合体。そして宇宙にぽっかりとあいた白鳥座暗黒星雲の不気味な影。アルファ・ケンタウリも見える。もっとも近い太陽──太陽系のかなたの最初の停車駅。  シリウスやカノープスに比べて光度は低いが、宇宙を眺めるたびにまずボーマンの眼と心をひきつけるのは、アルファ・ケンタウリだった。なぜなら、ゆらめきもせず輝き続けるその光の点、光がここまで到達するのに四年かかるその星こそ、いま地球で秘密裡にたたかわされており、ときどき彼の耳にもはいる論争の象徴であったからだ。  TMA1と土星系とのつながりに疑いを持つものはいない。だが、モノリスを建設した生物がそこに発生したと信じる科学者もまたいなかった。生命が存在する場所としては、土星は木星よりさらに条件が悪い。周囲をめぐる多くの月もすべて、零下三百度Fという永遠の冬のなかで凍りついている。そのうちの一つ──チタン──だけが大気を持っているが、有毒なメタンの稀薄な層があるにすぎない。  とすれば、はるかな昔、地球の月を訪れた生物は、地球外ばかりか太陽系外のものかもしれない──星ぼしからやってきたその生物は、彼らの気にいった場所に拠点をおき、去っていったのだ。  この推測は、すぐに別の問題を提起した。たとえ科学技術がどれほど進歩したとしても、太陽系といちばん近い恒星とを隔てる途方もない虚空をわたれるものだろうか?  多くの科学者は、にべもなくその可能性を否定した。これまでに設計された最速の宇宙船、ディスカバリー号でも、アルファ・ケンタウリまで到達するには二万年──銀河系内でちょっとした距離を進もうとすれば数百万年はかかる、そう指摘した。もし将来、推進システムが今とは似ても似つかぬかたちに改良されるとしても、最後には、物質では超越することのできない光速の壁にぶつかるだろう。よって、TMA1の建設者はヒトと同じ太陽の光の下に生まれたに相違なく、また歴史時代には一度も現われていないところをみると、おそらく滅亡したのだろう。  口やかましい少数派は、それに与《くみ》しなかった。星から星への旅にたとえ何世紀かかろうとも、と彼らは主張するのだ、探検者たちがかたい決意を持っているなら、それは何の障害にもならない。ディスカバリー号に用いられた冬眠技術が、一つの可能な解答だ、もう一つは、幾世代にもわたって旅を続ける、自給自足の人工世界だ。  どちらにせよ、知的生命がすべてヒトと同じように短命だと考えるのはおかしい。この宇宙には、一千年間の旅でもちょっと退屈する程度という生物だって存在するかもしれない……。  この意見は、今のところたんなる理論にすぎないが、実際面でもっとも重要な問題、つまり「反応時間」の概念に関わりあっていた。TMA1が──土星付近にある同様な装置の助けをかりて──本当に星ぼしにむかって信号を送ったとしても、目的地に到達するのは何年も先だろう。返事がすぐに送られるとしても、そんな理由で、人類は何十年か──いや、何世紀かといったほうがいいかもしれない──息をつく余裕はあるわけだ。人びとの多くは、それで安心した。  だが、すべてではなかった。科学者のなかには──その多くは、理論物理学の未開の岸辺をさまよい漁る人びとだったが──こんな穏やかならぬ疑問を投げかけるものもいた。 「光速は、本当に越えられない障壁なのか?」  なるほど、特殊相対性理論は、もうじき百周年がめぐってくるくらいで驚くほどの耐久力を示した。だが、そろそろ二、三の割れ目が現われている。アインシュタインを否定することはできないにしても、彼を避けて通れるかもしれない。  この考えかたにつくものは、より高い次元を経た近道、直線よりもまっすぐな線、超空間的連続性について、希望をこめて語った。彼らは、前世紀のプリンストン大学の数学者が思いついた、「宇宙空間の虫穴」という示唆に富んだ表現を好んで使った。そんな考えはあまりにも空想的すぎて真剣にとるにはあたらないといいだす評論家には、ニールス・ボーアの言葉、「きみの理論は気違いじみている──だが真実はもっと気違いじみたものだ」が引合いに出された。  しかし物理学者たちにどれほど意見の喰いちがいがあろうと、生物学者たちのそれとは比べものにならなかった。昔からうんざりするほど言い尽されてきた問題を、まだ論争しているのだった。 「地球外の知的生命はどんな形態をしているだろうか?」  彼らは、二つの対立するグルーブに分裂していた──一方は、もしそんな生物が存在するとすれば類人生物にちがいないと主張し、他方は、人間とは似ても似つかぬ生物であると信じて疑わないのだった。  前者の論点は、こうである。二足、二手、そして主要な感覚器官が身体の最高部についているデザインは、まったく必然的かつ理にかなったもので、これ以上優れたデザインを考えるのは容易ではない。もちろん、四肢の指が五本でなく六本だったり、皮膚や髪の色が違っていたり、顔面の感覚器官の配置が独特だったりする些細な差異はあるだろう。しかし高等な知能を持つ|地 球 外 生 物《エクストラ・テレストリアルズ》──ふつう、ETと略される──の大部分は、ヒトと酷似していて、暗い照明の下や遠くからでは、ひと目で見分けるのはむずかしい。  この神大同形同性論的考えは、別の生物学者グループの嘲笑をかった。彼らは宇宙時代の真の申し子であり、過去の偏見にとらわれないのを身上としていた。人体は永劫の年月に偶然が作りあげた何百万もの進化の選択の結果である、と彼らは指摘した。それら数えきれぬ決断のどの瞬間をとっても、発生学のダイスが違った目を出す可能性はあった。その結果は、より優れたものだったかもしれない。なぜなら人体は即席の産物の奇怪な集合体であり、機能を変えるよう強いられた器官ばかりでできているからだ。しかも、すべてが成功したわけではなく──虫垂みたいな、あれば災いを招くだけの使い捨てられた器官さえある。  これとは別の、もっと異様な考えかたをするものがいたことをボーマンは思いだした。  真に進化した生物が肉体組織を持つとは、彼らは信じていなかった。科学知識が進歩するにつれ、やがて生物は自然が与えたもうた、肉体という棲みかから逃れ出る。脆弱で、病気や事故にたえずつきまとわれ、ついには避けられない死へと導く肉体など、ないほうがましなのだ。肉体が摩耗すると──いや、摩耗しないうちかもしれない──彼らはそれを金属やプラスチックの製品と取り換え、そうして不死性をかちとるのだ。脳髄は有機組織の最後の残存物としてしばらくとどまり、機械の四肢に命令を送り、電子的な感覚──盲目的な進化ではとうてい成し遂げることのできない優れた鋭敏な感覚──で宇宙の観察を続けるかもしれない。  地球でさえ、この方向へすでに何歩か進んでいるのだ。以前なら死んでいるはずの何百万もの人びとが、人工四肢、人工腎臓、人工肺、人工心臓のおかげで、今でも幸福で活動的な暮らしをしている。  この過程の行きつくところは──それがどれほど常軌を逸したものであろうと──一つしかない。  最後には、脳髄さえ消えていくのだ。意識の着床する場として、それは絶対的なものではない。電子知性の発達が証明している。精神と機械の対立は、やがて完全な共生という永遠の妥協で終るだろう……。  しかしそれが終局だろうか?  神秘主義に傾いた少数の生物学者は、さらにその先へ進んでいた。多くの宗教にある信念を手がかりに、彼らは精神もいつかは物質の束縛を逃れるだろうと推測した。人工身体も、血と肉の身体と同様に、別の何か、遠いむかし、人びとが「たましい」と呼んだものへの踏み石にすぎないかもしれない。  そして、その先に[#「その先に」に傍点]まだ何かがあるとすれば、それは神以外にあるまい。 [#改ページ]       33 大  使  この三ヵ月のあいだに、デイビッド・ボーマンは孤独な生活にすっかり適応していまい、ほかの生活を思い出すのさえむずかしくなっていた。  絶望も希望も遠く去り、毎日がきまりきった自動的な作業ばかりとなり、それが破られるのは、ディスカバリー号のシステムに異常が現われるときだけだった。  しかし好奇心だけはまだ失っていず、迫りつつあるゴールを考えると、ときどき気違いじみた喜びや──また力がみなぎるのを感じるのだった。彼は全人類の代表であるばかりでない。これからの数週間の彼の行動が、人類の未来そのものを決定するかもしれないのだ。  歴史をふりかえっても、このような状況は今まで一度もなかった。彼は全人類の特命全権大使なのだ。  この考えは、微妙なかたちで彼の行動にさまざまな影響を与えていた。彼は常に身のまわりをきちんと片づけ、体を清潔にしていた。どれほど疲れていようと、ひげ剃りは欠かさなかった。異常のきざしに気づいて、管制室が眼を皿のようにして観察しているのは知っていた。しかし観察しても無駄だろう──重い症候は見つかるまい。その点は、彼も気をつけていた。  自分の行動パターンに変化が起っているのは、ボーマン自身、気づいていた。こんな状況では、そうならないほうがむしろおかしい。静寂には耐えられなくなっていた。眠っているときと地球と話しているとき以外、彼は船の音響システムを鼓膜が破れそうなほどボリュームをあげて、つけっぱなしにしておいた。  はじめは人間の声を聞きたい一心で、古典劇──特に、ショー、イプセン、シェークスピアの作品──や詩の朗読を、ディスカバリー号の豊富なレコード・ライブラリーから引っぱりだしてかけていた。しかしそれらの扱う問題が、あまりにも縁が遠かったり、ちょっと常識をはたらかせれば簡単に解決できるように見えて、そのうち聞いていられなくなった。  そこでオペラに切りかえた──それもイタリー語かドイツ語ばかりにしたので、オペラの大部分が多かれ少なかれ持っている知的内容にわずらわされることもなくなった。この段階は二週間続いたが、やがてそんな見事にきたえあげられた声を聞いていれば、さみしさはつのる一方だと気づいた。しかしこのサイクルに最後の決着をつけたのは、地球では一度も聞いたことはなかった、ベルディの 『レクイエム・ミサ』だった。空っぽの船内にいかにも似つかわしく無気味に響きわたる「|怒りの日《デイエス・イレー》」は、彼を完全にうちのめした。審判の日のトランペットが天からこだましてきたときには、とうとう我慢できなくなった。  それからは器楽曲しかかけなくなった。まずロマン派作曲家からはじめ、彼らの感情のほとばしりにうんざりするまで聞いて、一人一人かたづけていった。シペリウス、チャイコスキー、ベルリオーズは、数週間続いた。ベートーベンはもう少し長かった。そして最後に、彼は今までの多くの人びとがそうしたように、ところどころモーツァルトの装飾を施した、バッハの抽象的建築のなかに安らぎの場を見出した。  こうしてディスカバリー号は、ハープシコードの冷やかな音楽──二百年の昔に塵にかえった一つの頭脳の凍りついた思考──を鳴り響かせながら、土星への道をひた走った。       *  一千万マイルの距離からでも、土星はもう地球から見る月よりも大きかった。肉眼でもすばらしい景観だが、望遠鏡で見るそれは信じられないほどだった。  惑星の本体は、穏やかな気象状態にある木星と見まちがえかねない。同じような雲の帯──わずかに大きな隣りの惑星のそれに比べて、少し淡く、少し不明瞭だが──そしてまた同じような、大陸ほども大きい乱気流が、ゆっくりと大気のなかを移動していく。  しかし両惑星のあいだには、きわだった違いが一つあった。ひと目でわかるその違いは、土星が球形でないことだった。極から極にかけて全体があまりにもひしゃげ、奇形の印象すら与えるのだ。  しかし惑星に注がれているボーマンの視線をすぐ逸らしてしまうのは、輪の景観だった。細部の複雑さ、陰影の微妙さは、それだけで一つの宇宙だった。  内輪と外輪を隔てる大空隙のほかに、少なくとも五十の小さな空隙というか境界があり、巨大な光輪の色調がつぎつぎと変化する。それはまるで土星が、互いに接する、はかり知れぬほど薄い紙でできた、何十もの同心円の輪でかこまれているようだった。遠くから観賞することはできても触れることのできないデリケートな芸術作品、あるいはこわれやすい玩具、それが輪だった。  その真のスケールを体で感じるのに、意志の力をはたらかせる必要はなかった。ここでは地球は、食卓の縁をまわるボールベアリングくらいにしか見えないだろう。  ときおり、星が輪のうしろにはいる。だがそうなっても、星の光はほとんど薄れない。すきとおった物質のなかを輝きながら進んでいくのだ、といっても、大きな塵のかげになってかすかにまたたくことは、しばしばあったが。  すでに十九世紀から知られていたことだが、輪そのものは実体を持っていなかった。力学的に、それは不可能だった。輪は無数の岩石のかけらからなっていた──おそらくそれらはかつて衛星であり、巨大惑星に近づきすぎた結果、その引力で木端微塵に砕け、その残りがいまこうしてただよっているのだろう。しかしその起源が何であれ、こんな驚異を見られる人類は幸運だった。太陽系の全歴史から見れば、それが存在するのはほんのつかのまにすぎないからだ。  今を去ること数十年昔、一九四五年、イギリスのある天文学者がこう指摘した。輪の命はごく短い。引力が常に強くはたらきかけているので、それが消えてなくなるのも遠い先ではないだろう。この考えをさらに過去へおしすすめれば、輪の誕生はそれほど昔ではないことがわかる──せいぜい二、三百万年前だろう。  しかし土星の輪が、じっさいには人類と同じときに誕生していたという奇妙な偶然を予想したものは、誰ひとりなかった。 [#改ページ]      34 氷 の 輪  ディスカバリー号は今でははるかに広がる衛星系の内ふところ深くはいりこみ、巨大惑星まであとわずか一日足らずに迫っていた。  主星から八千万マイルという桁はずれの偏心軌道を行く最外縁の衛星、フェーべがつくる境界はとうに通り過ぎていた。行手には今、ヤペタス、ヒペリオン、チタン、レア、ディオネ、テチス、エンケラズス、ミマス──そして輪が待っていた。  望遠鏡で見る衛星表面はすべて迷路のように入り組んだディテールを見せていた。ボーマンは、とれるだけの写真をとって地球へ回送した。チタン──直径三千マイル、大きさは水星に匹敵する──だけをとっても、調査隊に数ヵ月分の仕事を提供する。しかし彼はチタンやその冷えきった仲間たちに、ほんのつかのま眼をくれただけだった。それ以上は必要ない。  ヤペタスが目標であることは、今では疑いなかった。  他の衛星では、隕石による火口がいたるところにあり──といっても火星よりはずっと少ないが──何の脈絡もない光と影の模様を作っていた。ところどころに見える輝く斑点は、おそらく凍りついたガスの塊だろう。しかしヤペタスだけは、他とかけはなれた、じつに異様な地形を見せていた。  その衛星の片面──その仲間たちと同様に、それは土星に常に同一面を向けている──は、極端に暗く、表面のディテールはほとんどわからない。それとは逆に、もう一方の面には長さ四百マイル、幅二百マイルほどの白色の楕円があり、それが光り輝いているのだ。この時点では、眼を奪う模様のほんの一部が日ざしのなかにうかびでているにすぎないが、ヤペタスの異常な変光の理由はこれで明らかだった。  その衛星の軌道の西側では、輝く楕円が太陽の──そして地球の──方向を向く。東側では、それが裏面になってしまうので、反射能の低い半球しか見ることはできない。  ヤペタスの赤道をまたいで広がる巨大な楕円は、赤道に対して完全に対称で、その長軸は両極をぴたりと指し示していた。しかも縁はくっきりときわだっているので、誰かがこの小さな月の表面に大きな白い楕円をペンキでていねいに塗ったのではないかと疑うほどだった。それは完全に扁平だった。  凍った液体の湖だろうか、とボーマンは考えた──だが、それでは驚くほど作りものじみて見える外見の説明がつかない。  宇宙船は土星系の中心へと近づきつつあり、ヤペタスを研究する余裕はなかった。長途の旅のクライマックス──ディスカバリー号が最後の摂動飛行にはいるとき──がもう間近に迫っていたからだ。木星面通過のときには、宇宙船は惑星の重力場を、速度を増すために利用した。今は、その反対のことをしなければならないのだった。  太陽系を抜けだし、星ぼしへと飛んでいってしまわないためには、できるかぎり速度をおとさなければならない。現在の進路は、宇宙船を土星のもう一つの月にしてしまうよう計算されたものだった。それは、さしわたし二百万マイルの細い楕円形の軌道であり、最近点ではほとんど土星をかすめ、最遠点ではヤペタスの軌道に接触していた。  三時間遅れて情報が届く不利はあったが、地球のコンピューターが伝えるところでは、すべては順調のようだった。速度も姿勢も正確。最接近の瞬間まで、することは何もなかった。       *  土星の輪は、今やとほうもないスケールで空に弧を描いており、宇宙船はすでにその最外縁部にさしかかっていた。一万マイルほどの高さから望遠鏡で見おろすと、輪は大部分、氷でできていることがわかった。無数の氷塊が、日ざしを受けてまばゆく輝いているのだった。  吹雪《ふぶき》のなかを飛んでいると錯覚しそうだった。ときどき雪がやみ、視界がひらける。だが大地があるべきところには、不思議なことに、黒い星空が見えるのだ。  土星へとさらに近づくにつれ、太陽は何十も重なったアーチにむかってゆっくりと沈みはじめた。輪は今では、空にかかった細い銀色の橋だった。密度があまりにも稀薄なので、太陽の輝きもそれほどうすれないが、無数の氷塊に反射する陽光は眼を奪う眺めだった。  そして太陽は幅一千マイルの氷の輪のかげにはいり、その青白い影が空に溶けこんで動きはじめた。それとともに、あたりは絶えず変化する光と炎に包まれた。  やがて太陽は弧を描く輪の下に沈み、光の乱舞は終った。  すこしして宇宙船は土星のかげにまわりこんだ。その夜の面で、宇宙船は土星に最接近するのだった。頭上では、星ぼしと輪が輝いている。眼下には、雲海がうすぼんやりと広がっている。木星の夜の面で活動していた神秘的な光のパターンはどこにもない。おそらく土星は冷たすぎて、そういった現象もないのだろう。まだらの雲海も、ここからは見えない太陽に照らされながら軌道をいく、氷塊からのうす青い反射のおかげで見えるだけだった。しかしその弧にも、中央部に幅広い、黒い切れ目があり、全体を工事が中途で終わった未完成の橋のように見せていた。それは、土星の本体が輪に投げかける影だった。  地球とのラジオ通信はとぎれ、土星の黒い影から逃れでるまで連絡は不可能になった。忙しすぎるのが、ボーマンにとっては幸いだったのかもしれない。とつぜん強められた寂しさに気をまわす余裕はなかった。これから数時間は、毎秒毎秒が緊張の連続なのだ。地球のコンピューターがあらかじめ決定した減速運動を、いちいちチェックしなければならないのだから。  何ヵ月にもおよぶ休憩時間は終り、主推進器が輝くプラズマの奔流を何マイルもの長さで噴射しはじめた。短いあいだだったが、コントロール・デッキの無重量の世界に重力が戻った。ディスカバリー号は土星の夜のなかを強烈な小さな太陽さながらに進み、数百マイル下方のメタンと凍りついたアンモニアの雲を、今までこの世界が知らなかった光で照らしだした。  ようやく前方にうっすらと曙光がさしてきた。宇宙船は速度をますますおとしながら、日ざしのなかにとびだそうとしていた。もはやそれには、太陽からも土星からも逃れられる速度はなかった──だが、土星の空にのぼり、二百万マイルかなたでヤペタスの軌道と接触するだけの力は持っていた。  その坂をのぼりきるのに、ディスカバリー号は十四日をついやす。そしてふたたび、今度は順序が逆だが、内衛星の通り道を走りすぎるのだ。ミマス、エンケラズス、テチス、ディオネ、レア、チタン、ヒペリオン……ここの時間でいうなら、ほんの昨日《きのう》忘れられたばかりの男神や女神にちなんで名づけられた世界の、その軌道を一つ一つ通過していくのだ。  そしてヤペタスと出会ったなら、そこでランデブーしなければならない。失敗すれば、宇宙船はふたたび土星への道をころがりおち、二十八日周期の栴円運動を永久に続けることになるのだ。  もしディスカバリー号のランデブーが今回失敗すれば、二度目のチャンスはない。ふたたびヤペタスの軌道に達したときには、衛星そのものは土星のほとんど裏側近くに行ってしまっているからだ。  もちろん、やがては宇宙船と衛星がふたびぶつかりあうときもやってくる。だがそうなるにしても、それは遠い未来のことであり、そのときにはボーマンの命はつきているのだ。 [#改ページ]      35 ヤペタスの眼  ボーマンがはじめてヤペタスを観測したとき、例の奇妙な楕円形の輝く斑点は、土星の反射光に照らされているだけで、半分は影に隠れていた。しかし今、それは七十九日周期の軌道をゆっくりと運行しながら、直射日光のなかに現われ出ていた。  それがしだいに大きくなり、ディスカバリー号が避けられない出会いにむかって道をのろのろとのぼるうちに、ボーマンは自分が不穏な固定観念にとらわれているのに気づくようになった。  管制室との会話──というより、彼一人の実況解説──のなかでは、それについて触れなかった。幻覚を見ているのではないかと思われる心配があったからだ。  じっさいに、そうかもしれなかった。  衛星の暗い地表を背景にして輝く楕円が巨大な、空ろな眼で、近づく宇宙船を見つめていることを、すでに彼は半ば信じこんでいた。それは、瞳孔を持たない眼だった。その完全な空白部をけがすものは、何も見あたらなかった。  宇宙船がわずか五万マイルに近づき、ヤペタスが地球から見る月の二倍ほどの大きさになったとき、ようやく彼はその楕円のちょうど中心にある小さな黒い点に気づいた。しかしそのときには詳しく調べる時間はなかった。最終行動にうつる瞬間が迫っていたからである。  ディスカバリー号の主推進器が、最後のエネルギーを放出しはじめた。土星の衛星のあいだで、崩壊する原子の白熱の炎が最後の輝きを見せた。遠くから囁くように、しだいに高まってくるジェットの咆哮を聞きながら、デイビッド・ボーマンは誇りと──そして悲しみを感じていた。  優秀なエンジンは、何の誤りもなく立派にその義務をなしとげた。それは宇宙船を地球から木星へ、そして土星へと運んできた。しかしそれが動作されるのは、今回が最後なのだ。推進剤タンクが空になったとき、ディスカバリー号はそこらの彗星や小惑星、引力の無力なとりこたちと同じように、死んだ、何の役にもたたないない存在となってしまう。  数年後、救助船が到着してもそれがふたたび地球に自力で帰れるように燃料の補充をするのは、経済的にあまり有効な手段とはいえない。ディスカバリー号は、惑星開発のあけぼの時代の記念碑として永久に軌道をめぐり続ける運命なのだ。  距離は千マイル台から百マイル台に縮まった。それにつれ、燃料計器の針は急速にゼロにむかっておちていった。  ボーマンの眼は、コントロール・パネルにある位置表示器と、|即 時《リアル・タイム》の決断に必要な即成の図表の上を不安げに行きつ戻りつしていた。ここまで生きのびてきて、二、三ポンドの燃料の欠如のためにランデブーに失敗したのでは見るも無惨なアンチクライマックスとなる……。  主推進器が噴射をとめるとジェットの咆哮が遠のき、バーニア(小さなロケット・エンジン。速度や進路を精密に調整するために用いられる)だけがディスカバリー号をそっと軌道に移すために活動している段階にはいった。  ヤぺタスは今や空をおおう巨大な三日月だった。この瞬間まで、ボーマンはそれをちっぽけな、たいした重要性もない天体として考えていた──その軌道の中心にある世界と比べれば、事実そのとおりだった。いま威嚇するように頭上にうかんでいるそれは、とほうもなく大きかった──ディスカバリー号をクルミのように叩き割ろうとしている宇宙のハンマーだった。  ヤペタスは、ほとんど静止したような状態のまま、ゆっくりと近づいてきた。それが一個の天体から、わずか五十マイルの下方の風景に変化した微妙な瞬間は、とうとう気づかずじまいだった。  忠実なバーニアは最後のエネルギーを放出し、永久に活動を停止した。宇宙船は最後の軌道、時速わずか八百マイルで三時間の周期で一回転を終える軌道にのった──この弱い重力場なら、それだけの速度で充分なのだった。  ディスカバリー号は、衛星の衛星になったのである。 [#改ページ]      36 ビッグ・ブラザー 「また昼の側にやってきた。さっき一周したとき、報告したとおりだ。この星の地表には、二種類の物質しかないらしい。黒いほうは焼けこげた[#「焼けこげた」に傍点]みたいで、木炭によく似ている。望遠鏡で見るかぎり、全体が同じ物質だ。じっさいに焼けこげたトーストを見ているような気がしてくる……。  白い区域については、まださっぱりわからない。境界はくっきりと分れていて、地表のディテールは何も見えない。液体ということも考えられる──それくらい平たいんだ。ビデオを見て、そちらがどんな印象を受けているかはわからないが、凍りついたミルクの海と考えれば間違いない。  何か重いガスかもしれない──いや、そんなはずはないと思う。非常にゆっくりとそれが動いているような感じがしてくることもある。だが、はっきりとはわからない……。  ……三周目、また白い部分の上空に出た。だんだん内部にむかっている。今度は、ちょうど中心にあったあのマークのもっと近くを通ると思う。こちらの計算が正しければ、そいつから五十マイル以内のところに行くはずだ。  ……うん、何かが見えてきた、計算したとおりだ。地平線の上に現われてきた──土星も、空のほとんど同じあたりに出てきた、望遠鏡でのぞいてみる……。  へロー! 例のものはビルディングに似ている……完全な黒色だ──表面はよく見えない。窓もなく、何の特徴もない。ただの大きい垂直な石の板だ──この距離でも見えるところからすると、少なくとも高さ一マイルはあるだろう。ちょうど──そうだ! 月で見つかったものとそっくりだ[#「月で見つかったものとそっくりだ」に傍点]! これは、TMA1の|でっかい兄貴《ビッグ・ブラザー》なんだ!」 [#改ページ]      37 実  験  |星の門《スター・ゲイト》とそれを呼ぼう。  三百万年間、それは土星の周囲をめぐりながら、もしかしたら永遠に来ないかもしれない運命の瞬間を待ち続けてきた。その建造のさい、一個の月が破壊され、その破片は今なお軌道を回っている。  今、その待ち時間は終ろうとしていた。また一つの世界で、知性が生まれ、惑星のゆりかごから逃れようとしている。太古の実験は、そのクライマックスに近づいていた。  遠い昔、その実験をはじめた生物は、人間ではなかった──人間らしい部分はどこにもなかった。しかし彼らもまた血と肉からなる生きものであり、宇宙の深淵を見あげるとき、彼らもやはり畏怖と驚異と孤独を感じるのだった。力を所有するが早いか、彼らは星ぼしへとのりだした。  その探検の旅で、彼らはさまざまな形態の生物と出会い、幾千もの世界で進化のはたらきを観察した。宇宙の夜のなかで、知性の最初のかすかな光がひらめき、消えていくのをいくたび眼にしたことだろう。  そして銀河系中で、精神以上に貴重なものをどこにも見出すことができなかった彼らは、いたるところでそのあけぼのを促進する事業をはじめた。彼らは星ぼしの畑の農夫となった。彼らは種をまき、ときには収穫を得た。  そしてときには、何の憐れみもなく除草しなければならないこともあった。  調査船が一千年の旅を経てこの太陽系を訪れたときには、巨大な恐竜はとうに滅びていた。それは、凍りついた外惑星を通過し、死にかけた火星の砂漠の上空にひとときとどまり、やがて地球を見おろした。  探検者たちが見出したのは、生命に満ちあふれた世界だった。彼らは何年もかかって、研究し、蒐集し、分類した。知りたいことをすべて知ると、彼らは修正を加えはじめた。地上や大洋の多くの種の運命に干渉した。しかしそれらの実験のどれが成功するかは、あと少なくとも百万年待たなければ知ることはできないのだった。  辛抱強い生物ではあったが、といって不死でもなかった。一千億の太陽を持つこの宇宙でしなければならないことはいくらでもあり、ほかの世界が呼んでいた。そこで彼らはふたたび深淵へとのりだしていった、二度とこの方向に来る機会はあるまいと知りながら。  しかし、来る必要もまたないのだった。あとに残してきた召使いたちが、残りの仕事をやってくれる。  地球では氷河が来たり、去っていったが、上空の月は秘密を宿したまま変らぬ姿を見せていた。氷河よりなおゆるやかなリズムで、銀河系の文明の湖も満ち干をくりかえした。異様な、美しい、恐ろしい帝国が興っては滅び、知識をあとに続くものたちに伝えた。  地球は忘れられたわけではなかった。しかし二度目の訪問は無意味だった。百万の沈黙した世界のなかで、声を発するようになるものはほんの一握りにすぎなかったからだ。  そして今、星ぼしの世界では、進化が新しいゴールをめざして進んでいた。地球を最初に訪れた探検者たちは、はるかな昔に血と肉の限界を感じはじめていた。機械が肉体を凌駕するとき、それは変化のときでもあった。はじめは頭脳を、つぎには思考そのものを、彼らは金属とプラスチックの光り輝く新しい棲みかに移しかえた。  こうして彼らは星ぼしをさまよった。もはや宇宙船はつくらなかった。彼ら自身が[#「彼ら自身が」に傍点]、宇宙船なのだった。  しかし機械生命の時代は急速に終った。やすむことなく実験を続けるうち、彼らは、空間構造そのものに知識を蓄え、凍りついた光の格子のなかに永遠に思考を保存する方法を学んだ。物質の圧制を逃れて、放射線エネルギーの生物になることも可能になったのだ。  やがて彼らは純粋エネルギーの生物に変貌した。幾千もの世界で、脱ぎ捨てられた殻がひとときひくひくとうごめきながら無思考の死の踊りをおどり、いつしか誘びつき、塵にかえっていった。  今や彼らは銀河系の支配者であり、時すら超越していた。思うままに星ぼしのあいだを飛び、稀薄な霧のように空間の割け目のなかに沈み込むことができた。しかし神のような力を得た現在でも、彼らは自分たちの出生地、消え去った海の暖かい軟泥をすっかり忘れてしまったわけではなかった。  そして今なお、祖先たちが遠い昔に着手した実験の成果を見守っているのだった。 [#改ページ]      38 前  哨 「船内の空気はすっかり濁ってしまって、このところずっと頭痛に悩まされている。酸素はたっぷりあるんだが、水が蒸発して真空に逃げてしまってからは、浄化装置もうまくはたらかない。あまりひどくなったら、格納庫へ行って、ポッドのきれいな酸素をすこし放出しようと思う……。  こちらの信号には何の応答もない。今の軌道が傾斜しているので、TMA2からだんだん遠のいてしまう、ついでだがそちらがつけてくれた名は二重に違っている──まだ磁場が見つからないんだ。  今のところ、いちばん近づいて六十マイル。ヤペタスが自転しているので、百マイルあたりまでだんだん離れて、それからゼロに戻る。三十日で、真上を通るようになる──だがそれまで待ってはいられない──それに、そのときは暗闇のなかだ。  今でも、見えるのは二、三分のあいだだけで、そのうち地平線に沈んでしまう。まともな観測ができないんで、いらいらしてくる。  だからこの計画の承認をほしい。スペースポッドには、着地して帰船できるだけのデルタXはたっぷりある。EVAをして、物体を近くで観察したい。安全なようなら、そのそば──いや、てっぺんにでも着陸してみる。  降りていくあいだは、船は地平線上に見えているから、あらいざらいそちらに中継できる。つぎの軌道にはいったら報告を再開する。九十分以上、接触が切れることはないはずだ。  とにかくこれしか方法はない、それは確かだ。十億マイルもやってきたんだ──最後の六十マイルでとめられてたまるものか」       *  |星の門《スクー・ゲイト》は、悠久の昔から太陽の方向に向けていた異質の感覚をはたらかせて、何週間のものあいだ接近する宇宙船を観察していた。それも、建造者たちが付与した多くの能力のうちの一つだった。太陽系の暖かな中心部からのぼってくるのが何であるか、それは知っていた。  生きものであれば、それは興奮を感じただろう。だが、そんな感情は、その能力をはるかに越えたものだった。たとえ宇宙船が通りすぎたとしても、それは失望などひとかけらも感じないにちがいない。  それは三百万年待ち続けてきた。そして永遠に待つよう設計されていた。  それは観測し、記録したが、訪問者が白熱したガスを噴射し減速しても、何の活動も起さなかった。やがてそれは、放射線がその秘密をさがそうとしてかすかにさわるのを感じた。しかし、それでもまだ活動を起さなかった。  宇宙船は軌道にはいり、奇妙な斑点を持った月の上空を低く回りはじめた。宇宙船は電波を放射して話しかけてきた。それは何回も、一から十一までの素数を数えた。まもなく、それに代って、もっと複雑な信号がさまざまな周波数で送られてきた──紫外線、赤外線、]線。  |星の門《スター・ゲイト》は応答しなかった。いうべきことは何もなかったからだ。  長い間があり、何かが軌道を行く宇宙船から降下してくるのに、それは気づいた。それは記憶をさぐり、遠い昔に与えられた命令に従って、論理回路が決断を下した。  土星の冷たい光のなかで、|星の門《スター・ゲイト》は眠っていた力を呼びさました。 [#改ページ]      39 眼のなかへ  ディスカバリー号は、彼が最後に宇宙空間から見たとき──そのときには空の半分を占める地球の月を背景に月の軌道にうかんでいた──と比べて、すこしも変っていないように見えた。  小さな変化が一つだけあるといえるかもしれない。はっきりとわからないが。さまざまなハッチや連結部や供給栓やその他の付属品の用途を示した外壁の文字のペンキが、太陽の直射光に長いあいださらされていたためだろう、わずかに色あせているようだった。  その太陽も、今ではそれと見てわからないほど小さな星と化していた。星にしては明るすぎるが、直接その小さな円盤を見つめても、べつに苦にならなかった。熱はまったく送ってこない。  スペースポッドの窓からさしこむ光にむかって、ボーマンはグローブをはめていない手をあげたが、皮膚には何も感じなかった。月の光で体を暖めようとしているみたいなもので、五十マイル下方にある異質の風景も、地球との隔たりをそれほど強烈に感じさせはしなかった。  いま彼は、この何ヵ月か住みなれた金属の家を、おそらく永遠に、離れようとしていた。たとえ帰らなかったとしても、宇宙船はその義務を遂行して、回路に究極的な、とりかえしのつかない故障が起るまで、地球へと計器読みを送り続けるだろう。  もし帰ってきた[#「帰ってきた」に傍点]としたら、とにかく数ヵ月間は生き永らえ、正気すら保っていられるだろう。だが、それだけだ。  冬眠システムは、それをモニターするコンピューターがなくては役にたたない。四、五年のち、ディスカバリー号がヤペタスとランデブーするときには、おそらく彼は生きてはいまい。  前方の空に土星の金色の三日月があがるのを見て、彼はそんな考えを心の外に押しのけた。人間の歴史のなかで、この光景を眼にするのは、彼ひとりなのだ。ほかの人間の眼には、土星は常に太陽にむかって輝く球のかたちしか見せない。それは今、デリケートな弓の格好をしていた。輪がその赤道部を細い線となって横切っている──それは、太陽にむかって今にも放たれようとしている矢を思わせた。  輪の延長上には、明るい星チタンがあり、他の月もかすかな光点となって見える。この世紀が半ばすぎるまでには、人間はそれらの世界をすべて訪問しているだろう。しかし、それらがどんな秘密を隠していようと、彼は知ることはできないのだ。  盲目の白い眼のくっきりした境界がみるみる迫ってきた。道のりはあとわずか百マイル、十分足らずで目標上空に達するはずだった。  自分の言葉が、光速で一時間半かかる距離をじっさいに地球にむかって飛んでいることを、なんとか知る方法があればいいのだが、と彼は思った。中継システムに故障が起り、彼の消息がわからなくなっているとしたら、これほどの皮肉はあるまい。  ディスカバリー号は、今のところまだ黒い空を背にまばゆい輝く星となって見えていた。降下のあいだに速度はあがっていたが、まもなくポッドの減速ジェットがはたらき、動きは鈍くなるはずだった。そのうち宇宙船は視界から消える──中央部に黒い謎を秘めた輝く平原に、彼ひとりを残して。  黒い石板が、星ぼしを隠して地平線上に現われた。彼はポッドの向きをジャイロで変え、最大噴射で減速した。そして長い扁平な弧を描きながら、ヤペタスの地表へと降下した。  重力の大きな世界では、そんな行動はやたらに燃料をくう。だが、ここではスペースポッドは数ポンドの重さしかないので、数分間滞空をのばしても、燃料を消費しすぎて、ディスカバリー号に帰船できなくなる危険はないのだった。といって大した違いがあるわけでもなかったが……。  高度を五マイルにとめたまま、彼は何の特徴もない平原に幾何学的な完壁さを見せてそびえたつ巨大な黒い物体にむかって一直線に進んだ。それは、平らな白い地表と同様、何のしるしもなかった。  それまで彼は、その真の大きさを実感として掴んではいなかった。地球上でも、これほどの単一な建造物はごく少ない。正確に計測した写真で、それがおよそ二千フィートの高さであることがわかった。しかも調べたかぎりでは、その各辺は、TMA1のそれと完全に一致する、例の一対四対九の比率だった。 「あと三マイルばかりだ、高度は四千フィートにとめてある。活動はまだどこにも見られない──計器にも現われていない。表面は全体がつるつるのようだ。これほど長い期間さらされていれば、どこかに隕石の傷があっていいはずなのに!  その……何と呼ぼう……その屋上には、岩石一つ見えない。入口らしいものもない。どこかに、はいる口があると思っていたんだが……。  今ちょうど真上に来た。五百フィート上空にいる。ディスカバリー号はもうすぐ隠れてしまう。時間を消費したくない。これから屋上に着陸する。かたい物質のようだ──そうでなかったら、すぐに飛びあがる。  いや──おかしいな──」  ボーマンの声はとまどったように途切れた。恐怖をおぼえたのではなかった。自分の見ているものが、文字通り説明できないだけだった。  彼は、長さ八百フィート、幅二百フィートの巨大な長方形の上空にいた。その表面は、岩のようにかたそうだった。ところが、それが彼から遠のいていくように見えはじめたのだ。三次元の物体が見かたを変えると、近い面と遠い面が入れかわって表側が裏側のように見えてくる、そんな眼の錯覚とそっくりだった。  それが、この巨大な、一見かたそうな建造物に起っているのだった。ありえない、信じられないことだが、それはもはや平原からそそりたつモノリスではなかった。屋上と思えたものは、無限の深みに沈んでいた。  目くるめく一瞬、彼は垂直な竪坑の内部を見おろしていた──その長方形の管は、遠近感の法則を否定していた。その大きさは、どこまで行っても決して小さくならないのだった……。  ヤペタスの眼が、眼の上の塵を払うようにまたたきをしたとき、デイビッド・ボーマンは切れぎれの言葉をようやくいい終る余裕しかなかった。  しかしそれは、九億マイルのかなた、八十分の未来で待ちかまえていた管制室の男たちにとっては生涯忘れることのできない一言となった──。 「なかはからっぽだ──どこまでも続いている──そして──信じられない!  ──星がいっぱい見える[#「星がいっぱい見える」に傍点]!」 [#改ページ]      40 退  場  |星の門《スタ・ゲイト》は開いた。そして|星の門《スター・ゲイト》は閉じた。  はかり知れぬほど短い一瞬、空間はねじれ、反転した。  そしてヤペタスは、この三百万年間、常にそうであったように、ふたたび孤独になった──ただその上空で、主人をなくした、しかし廃棄されたというのでもない宇宙船が、その建造者たちにむかって、彼らが信じることも理解することもできないメッセージを送りだしているほかは。 [#改ページ] [#改ページ]  第六部 星の門のかなた      41 グランド・セントラル  動いている感覚はなかった。だが彼は、衛星の深奥に輝く信じられぬ星の海にむかって落下していた。  ちがう──星がそんなところにあるはずはない、ただそこにあるように見えるだけなのだ。そんな確信があった。もはや手遅れの今になって、彼は超空間、次元輸送管の理論にもうすこし注意を払っておけばよかったと思った。デイビッド・ボーマンにとっては、それらはもう理論ではなかった。  ヤペタスのモノリスは空洞だったのかもしれない。屋上と見えたのは錯覚かもしれないし、それとも何かの膜で、彼を通すために開いたのかもしれない。 (しかし、どこへ行かせるために?)  五感を信じるとすれば、彼は巨大な長方形のシャフトのなかを数千フィートの底にむかって垂直に落下していた。動きはますます速くなる──だが遠い出口は大きさを変えず、いつも同じ距離にあるようだった。  星ぼしだけが動いていた。  はじめはゆっくりだったので、星が四角い枠の外に消えてゆくのになかなか気づかなかった。だがしばらくすると、星空の膨脹がはっきりわかるようになった。まるで星が、こちらにむかって想像を絶する速さで近づいてくるようだった。膨脹は線的ではなく、中央部の星はほとんど動かないが、縁に近づくにつれ動きは速くなり、視界から消える寸前には光の筋と化す。  しかも星がなくなる様子はいっこうになく、中心部から無尽蔵に流れでてくる。  その一個がまっすぐこちらにやってきたらどうなるだろう、とボーマンは思った。ぐんぐん大きくなり、最後にはスペースポッドもろとも太陽面に突入してしまうのだろうか?  しかし一つとして円盤に見えてくるほど接近するものはなく、そのうち横にそれて、四角い枠の外に光の筋となって消えてしまうのだった。  それでもシャフトの終点は近づいたように見えなかった。四囲の壁がいっしょに動いていて、未知の目的地に彼を運んでいるようだった。もしかしたら、じっさいには彼は動いていず、空間が動いているのかもしれない……。  空間だけではない。  彼はとつぜん気づいた。何が起っているにしろ、それは空間だけに関わりあっているのではない。ポッドの小さな計器パネルの上にある時計も、奇妙な動きかたをしていた。  普通なら、小窓の十分の一秒台の数字はめまぐるしく動いてほとんど眼にもとまらないはずなのに、それが今では、はっきり区別のつく間を置いて現われたり消えたりしており、なんなく読むことができるのだ。秒の桁は、時が停止するかと思えるほどゆっくりと動いていた。そしてとうとう、十分の一秒の桁は5と6のあいだで凍りついた。  しかし彼はまだ考えることができたし、周囲の壁を観察することもできた。壁が動く速さは、ゼロから光速の百万倍までのどのあたりであってもいいような気がした。なぜか彼は少しも驚いていなかった。心配してもいなかった。その反対に、宇宙医学者に幻覚剤を与えられたときのような、穏やかな期待を感じていた。  周囲の世界は異様ですばらしい。恐れることは何もないのだ。彼は謎を求めて何百万マイルもの旅を続けてきた。ところが今や、その謎が彼を求めてやってくるのだ。そんな気がした。  前方の長方形が明るくなった。空全体が白っぽくなり、明るい星の筋がうすらいできた。明るさは刻々と増してくる。ポッドは、ここからは見えない太陽にすみすみまで照らされた雲海にむかってつき進んでいるようだった。  ポッドはトンネルから出かかっていた。それまで漠然と遠くにあり、近づきも離れもしなかった出口が、とつぜん正常な遠近の法則に従いはじめた。  それは近づき、着実に大きさを増した。と同時に、上昇している感じが襲ってきた。ヤペタスの中心まで下り、反対側から出てきたのではないかと、つかのま思ったほどだった。しかしスペースポッドが空間に躍りでる前に、ここがヤペタスとも、人間の知っている世界のどことも違っていることに気づいていた。  大気はない。信じられぬほど遠い、平坦な地平線の果てまで、あらゆるディテールがかすみもせずはっきりと見わたせることから、それはわかった。  彼はとほうもない大きさを持った世界の上空にいるにちがいない──地球よりははるかに大きいだろう。だがその広がりにもかかわらず、ボーマンの眼に見えるのは、一面に刻まれた不規則な図形だけだった。一辺は何マイルもあるだろう。惑星的な規模のはめ絵パズル。そして四角形や三角形や多角形のなかには、シャフトがぽっかりと黒い口をあけているものも多い──彼がいま出てきた穴とそっくりの。  しかし頭上の空のほうが、眼下に広がる非現実的な世界よりもはるかに奇妙であり──ある意味では、戦慄的だった。星はそこにはなかった。宇宙の暗黒さえなかった。やわらかな光を放つ白い空間で、それは無限のかなたまで続いているように思えた。  ボーマンは以前だれかから聞いた、南極のおそろしい「ホワイトアウト」の話を思いだした──「ピンポン・ボールのなかにいるみたいなんだ」──同じ言葉は、この奇怪な世界でも通用する。だが理由はまったく違う。この空は、霧や雪のような気象学の理論で説明がつくものではない。外部は完全な真空なのだから。  やがてボーマンの眼は、空をおおいつくす真珠のような輝きに慣れた。すると別のディテールが眼にはいった。  空は、はじめ見たときに考えたような、完全な虚空ではなかった。空一面に、小さな無数の黒い点が、動きもせず、無秩序に並んでいるのだ。  闇のなかに光る点ではないので、なかなか眼にとまらない。だが、ひとたび発見したあとは、見まちがえようはなかった。それは何かをボーマンに思いださせた──ごく身近かなものだが、それでいてあまりにも気違いじみていたので、論理が強引にはいりこんでくるまで、彼の心はなかなかその比較を受けいれようとしなかった。  白い空に見えるあの黒い点は、星なのだ。彼は銀河系のネガ・フィルムを見ているのかもしれなかった。  いったい、おれはどこにいるんだ?  ボーマンは自分に問いかけた。そして問いかけながらも、その解答が決して得られないことを悟っていた。  宇宙全体が裏返しにされたという感じだった。人間とは関わりのない世界だった。カプセルの内部は暖かで居心地よかったが、彼は急に寒けを感じた。そして全身が、どうしようもないほど震えはじめた。眼をとじ、周囲をかこむ真珠色の虚無を締めだしたかった。だが、それは臆病者のすることだ。まだ負けるものか。  無数の図形に分断された、穴だらけの惑星面が眼下でゆっくりと動いていた。だが景色に変化はなかった。地表まで目測で十マイルほどなので、生命がそこに存在すれば容易に見つかるはずだった。だが見わたすかぎり荒寥とした世界だった。ここを訪れた知性は、思うままに世界を換え、ふたたび去っていったのだ。  そのとき彼は気づいた。平原をおよそ二十マイル行ったあたりに、円筒形と見分けのつく金属のかたまりがある。それは巨大な宇宙船の残骸としか考えられなかった。あまりにも遠くなので細かい部分まではわからない。何秒かすると、それも見えなくなった。しかしその前に、こわれた骨組みや、オレンジの皮のように一部がむけて鈍く輝いている金属板を確認していた。  この荒寥としたチェッカー盤にあの残骸が打ち捨てられたのは何千年昔のことだろう、と彼は思った──そして、あれに乗って星の海を航海していたのは、どんな生物だろう?  彼はすぐ残骸のことを忘れてしまった。何かが地平線上をこちらに近づいてくるのに気づいたからだ。  はじめ、それは円盤のように見えた。だがそう錯覚したのは、それがほとんどまっすぐ彼のほうにやってくるからだった。近づき、通りすぎるころになって、じっさいには長さ数百フィートの紡錘形であることがわかった。胴体を取り巻く帯が何本かうっすらと見えるが、それを見定めるのはむずかしかった。それらは、どうやらすさまじい速さで振動、というより、回転しているらしかった。  船は両端とも先細りで、推進機らしいものは見当らない。人間が見て異質さを感じないのは、その色だけだった。もしそれが生物の作った物体であり、幻覚でないのなら、その生物にも人間と共通する感情がいくらかあるにちがいない。だがその限界は人間とは一致しない。その紡錘形宇宙船は、黄金でできているらしいのだ。  ボーマンは後部観測装置に眼を移して、去って行く物体を眺めた。彼を完全に無視したそれは、いま地表にある何万もの巨大なスロットの一つにむかって降下していくところだった。数秒の後、それは金色の船体を一瞬輝かせて惑星の深奥に消えた。  ふたたび不気味な空の下で一人ぼっちになると、孤独感と隔絶感は今まで以上に耐えがたくなってきた。  そのとき自分もまた巨大世界のまだらの地表にむかってゆっくりと降下しているのに気づいた。さっきのとは別の長方形の深淵がすぐ下にぽっかりと口をあけていた。  空虚な空が頭上に残り、時計はゆっくりと停止し、宇宙艇はふたたび無限に続く漆黒の壁のあいだをはるかな星の海にむかって下りはじめた。それが太陽系への出口でないことは、今では確信があった。  その瞬間、信じられないような洞察が閃き、彼はこのシャフトの正体を掴んでいた。  これは、想像を絶する時間と空間の次元を通じて星間の交通をさばく一種の宇宙的な転轍装置にちがいない。いま彼が通っているのは、銀河系のグランド・セントラル・ターミナルなのだ。 [#改ページ]      42 見知らぬ空  はるか前方にあるトンネルの壁が、ふたたびうす明るく見えてきた。内部にさしこむおぼろな光に照らされているのだが、光源はまだ見えない。  と、とつぜん、闇がぬぐいさられたように消え、ちっぽけなスペースポッドは百千の星の輝く宇宙空間におどり出ていた。  見慣れた宇宙空間に戻ったのだ。だが、ひと目見ただけで、ここが地球から何光世紀も離れた場所であることがわかった。歴史のはじめから人間の友であった見慣れた星空を捜すまでもない。おそらく周囲で輝く星ぼしはどれも、地球から肉眼で見られないものだろう。  星ぼしの大部分は光り輝く帯となって凝集しており、そのところどころに、宇宙塵の集合である黒い筋が走っている。星ぼしの帯は、空をぐるりと一周していた。天の川に似ているが、その何十倍も明るい。ここもやはり彼の属している銀河系で、ただ星の密集したまばゆい中心部の近くから見ているだけではないだろうか、とボーマンは思った。  そうであってほしいと願った。それならば、故郷まであまり遠くはない。  だが、彼はすぐに気づいた。なんと子供っぽい考えだろう。信じられぬほど太陽系から遠いところに、いま自分はいるのだ。ここが、生まれ故郷の銀河系だろうと、望遠鏡にうつるいちばん遠い銀河系だろうと、たいした違いはないではないか。  今もととびだしたトンネルの方角に眼をやった彼は、新たなショックに襲われた。  そこには、無数の多面体で分割された世界も、ヤペタスの複製もなかった。何もない[#「何もない」に傍点]──強いていえば、星ぼしを背景にして見える、墨を流したような虚空だけ。暗い部屋から、それよりも暗い夜の闇のなかに開いた出口を思わせる。  見守るうちに、ドアは閉じた。遠のく感じはなく、ただ、宇宙の裂け目が修繕されていくように、その部分にゆっくりに星が満ちていった。そして彼は、見知らぬ空の下でたった一人とりのこされた。  スペースポッドはゆっくりと回転していた。それにつれ、新たな驚きが視野にはいってきた。  はじめは、完全に球形の星の集団だった。中心に近づくほど星と星との間隔が狭まり、心臓部では光が隙間なく輝いている。外縁ははっきりした区切りがない──数知れぬ太陽がつくりだす光の暈《かさ》は、外へ行くほどしだいにうすれ、ついには背景の星ぼしのなかに溶けこんでいる。  このまばゆい現象が、球状星団であることをボーマンは知っていた。いま彼が見ているのは、地球の望遠鏡にうつる光のしみを別にすれば、人間がかつて眼にしたことのない景観なのだ。知られているいちばん近い星団までの距離を思いだすことはできなかったが、それが太陽系から一千光年以内にないことだけは確信があった。  ポッドはゆっくりと回転を続け、さらに異様な光景を眼前にさらした──赤い太陽だった。地球から見る月の何十倍も大きい。まともに、光球を見つめても、不快にはならなかった。その色からしても、あかあかと燃える石炭と比べて大した温度の違いはないだろう。くすんだ赤色の表面のところどころに、明るい黄色の河が流れている──何万マイルも蛇行しながら、ついにはこの死にかけた太陽の砂漠のなかに吸いこまれてしまう、白熱したアマゾン川だ。  死にかけている?  違う──それは、日没の光や残り火の輝きを見続けてきた人間の、心のなかに生まれた誤った印象だ。これは、たけり狂って燃える少年期をはるかな昔に終え、紫、青、緑のスペクトルの段階を数十億年というほんのひとときのあいだに通り抜け、やっと想像を絶する年月にわたる平和そのものの成熟期を迎えた、おとなの星なのだ。これまでに経てきた道程は、これからのそれに比べれば、一千分の一にもあたらない。この星の物語は、まだはじまったばかりなのだ。  ポッドは回転をやめていた。巨大な赤い太陽は、真正面にあった。動いている感じはなかったが、彼を土星からここまで連れてきた何者かの力が、まだはたらいているのを知っていた。想像を絶する運命にむかって彼を運んでいる力に比べれば、地球の科学や技術は救いようのないほど原始的に見える。  彼は前方の空に眼を据え、やがては到着するゴールを捜しだそうとした。おそらく、あの巨星の周囲をめぐる惑星だろう。だが、円盤として見える天体や目立った明るさの星は、どこにもなかった。惑星があるとしても、背景の星ぼしとは見分けがつかないのだろう。  そのとき、太陽の真紅の円盤のへりに、奇妙なことが起っているのに気づいた。白い輝きがそこに現われ、しだいに明るさを増しているのだった。多くの星にときどき現われる、表面のとつぜんの爆発、つまりフレアなのだろうか、と思った。  光はますます明るくなり、青さを増していく。それが縁《へり》に沿って広がりだすにつれ、太陽の血のように赤い色あいは、急速に輝きを失っていった。  まるで、とボーマンはばかばかしい思いつきに微笑しながら心のなかでいった、太陽のかげから日が昇るのを眺めているようだ。  だが、そのとおりだった。燃える地平線の上にあがったそれは、ふつうに見える星ではなかった。あまりにも明るすぎて、直視することはできない。青白色の光点が、電弧《アーク》のように、信じられぬスピードで広大な太陽面をわたっていく。  巨大な伴星から、きわめて近いところにあるらしい。というのは、それが通過する真下では、その引力にひかれて何千マイルもの高さの炎の柱のあがっているのが見えるからだった。空を疾駆するまぼろしをとらえようと、赤道に沿って空しく追い続ける炎の波頭を思わせた。  あの白熱した光点は、白色矮星にちがいない──大きさは地球くらいなのに、その百万倍もの質量を持つ、奇妙な、荒々しい、小さな星。こんな不釣合いな取り合わせも、宇宙ではそれほど珍しくはないが、そんなカップルをまのあたりにする日が来るとは夢にも思っていなかった。  白色矮星がその伴星の表面を半分がた通過するころ──おそらくそれは、何分もかからずに一公転を終えるのだろう──ようやくボーマンは、彼自身もやはり動いていることに気づいた。  前方で、星の一つがみるみる明るさを増し、背景からうきあがりはじめていた。近くにある小さな天体にちがいない。おそらくあの星へ着くのだろう。  それは、思いがけぬ速さで迫ってきた。それが星ではないのに、彼は気づいた。  さしわたし何百マイルにも及ぶ、にぶく光る金属の網というか格子なのだ。どこからともなく現われたそれは、ついには空をおおいつくすまでになった。大陸くらいの面積のあるその表面に、点々と都市ほどの大きさの建造物が見える。どうやら、機械らしい。それらの周囲には、何百ものもっと小さな物体がきちんと縦横《たてよこ》上下に並べられていた。  そんな集積をいくつか通り過ぎたのち、ボーマンはそれが宇宙船の隊列であることに気づいた。彼は、広大な軌道上パーキング・センターのそばを飛んでいるのだった。  移り変る風景のスケールを推し測ろうにも、見慣れた物体がないので、空間にうかぶ宇宙船のサイズははっきりしない。だが、むやみと大きいのは確かだった。なかには、全長何マイルもの船もあるにちがいない。デザインも、球、多面体、ペンシル、卵形、円盤とさまざまだった。ここは、星間貿易の中心地なのだ。  いや、であった[#「であった」に傍点]というべきかもしれない──百万年前までは。活動はどこにも見られなかった。この広大な宇宙港は、月と同様に死んだ世界だった。  それがわかったのは、活動が見られないばかりでなく、はるかな昔、小惑星がスズメバチみたいにぶつかってきてつきぬけたと思われる巨大な裂け目が、金属の網の各所に歴然と残っているからだった。  ここは、もはやパーキング・センターではない。宇宙の屑鉄置き場なのだ。  何万年かの差で、これを建設したものたちとすれちがってしまったのだ。そう思いあたった瞬間、ボーマンは急に意気が阻喪するのを感じた。はっきりと予想していたわけではないが、他星の知的生命に出会うだろうとは思っていた。しかし遅すぎたようだった。  彼は、はるかな昔、なんらかの目的でつくられた装置、その製作者たちが滅び去った後、なおはたらき続けている自動装置にとらえられてしまったのだ。それは、彼を銀河系のあちこちへ引きずりまわし、やがては酸素がつきて死んでしまうのも知らぬげに、今この宇宙のサルガッソーへ放りだそうとしている。これまでに同じ運命を辿ったものが、どれくらいいるのだろう。  しかしこれ以上期待するのは贅沢だ。すでに彼は、多くの人びとがすすんで命をさしだしても見たいと思うさまざまな驚異を眼にしている。彼は、死んだ同僚たちのことを考えた。不平をいう筋合いはなかった。  そのうち、廃棄された宇宙港が前と変らぬスピードでうしろに流れているのに気づいた。今では、周囲の住宅区を通っていた。やがて、ぎざぎざの縁を通り過ぎ、それまでところどころ隠されていた星空がいっぱいに現われた。数分後には、それは後方に小さく見えるだけとなった。  彼の運命は、そこにはなかったのだ──はるか前方には、なおあの巨大な真紅の太陽があり、スペースポッドは見まちがえようもなく、それにむかって降下をはじめていた。 [#改ページ]      43 地  獄  今では赤い太陽が空を隅々までおおいつくしていた。あまりにも近くまで来ているので、それまではスケールに圧倒されて凍りついていた表面に、活動が認められるようになった。  光り輝く結節があちこちを動きまわり、上昇するガスや下降するガスが渦を巻き、|紅 炎《プロミネンス》が天空にむかってゆっくりと噴きあげていた。  ゆっくり?  いや、動きがこの眼に見えるのだ。時速百万マイルくらいでたちのぼっているにちがいない……。  自分がおりていく地獄のスケールを掴んでみたいとは思わなかった。はかり知れぬかなたに遠のいた太陽系で、ディスカバリー号が土星面と木星面を通過したときに、その世界の巨大さをいやというほど思いしらされた。だが、ここで見るものは、その百倍も大きいのだ。心のなかに注ぎこまれるイメージの奔流を、解釈せずに受け入れるほかはなかった。  眼下の火の海が大きくなれば、恐怖をおぼえるはずだった──だが奇妙なことに、穏やかな不安しか感じなかった。心が驚異に麻痺していたからではなく、自分がほとんど全能の知性の保護のもとにあるにちがいないことを論理で類推したからだった。  これほど赤い太陽に近づいた今、輻射線をさえぎる透明なスクリーンでもないかぎり、瞬時に燃えつきているはずなのだ。しかも旅の途中、何回かポッドは、本来なら内部の人間が圧死するような加速をした──しかし何も感じなかったのだ。彼を保護するために今までそんな努力がはらわれたのなら、まだ希望を持ってよさそうだった。  スペースポッドは太陽面にほとんど平行なゆるやかな弧を描いて飛んでいたが、やがてゆっくりと降下しはじめた。  そのとき、はじめてボーマンは音に気づいた。かすかな、絶えまない咆哮、それがときおり紙を裂くような、あるいは遠い雷鳴のような、バリバリという音で破られる。おそらくこれは、想像を絶する雑音の遠いこだま[#「こだま」に傍点]なのだろう。どんな物質でもすぐさま原子に分解してしまう衝撃が、周囲の大気を撹乱しているにちがいない。  にもかかわらず、彼は熱からも、そんなすさまじい乱流からも守られている。何千マイルもの高さの炎の峰が、周囲で盛りあがってはゆっくりと崩れているが、そのような猛威から完全に絶縁されているのだ。星のエネルギーは、まるでそれが別の宇宙に存在しているかのように、彼を無視して荒れ狂っている。ポッドはそのまっただなかを、叩きのめされもせず燃えあがりもせず、静かに進んでいるのだった。  ボーマンの眼は、そういつまでも風景の異様さ、壮太さに途方にくれていはしなかった。まもなく彼の眼は、前からそこにあったのかもしれないが、気づくまでにはいたらなかったさまざまなディテールを拾いはじめた。  この星の表面は、かたちのない混沌ではなかった。自然の創造物が常にそうであるように、ここにもパターンは存在していた。  はじめは、小さなガスの渦に気づいた──おそらくアジアかアフリカぐらいの大きさしかないだろう──それは、星の表面をうろうろと動いていた。そのなかを、真上からのぞきこめるときもあった。中心部は暗く、周囲よりも温度が低いようだった。奇妙なことに、黒点はどこにも見あたらなかった。黒点は、地球を照らすあの星に特有の病気なのだろうか。  風にとばされる煙のかたまりにも似た雲を見かけることもあった。じっさい、それは煙なのかもしれなかった。これくらい低温の太陽では、ふつうにいう火も存在し得る。生まれでた化合物が、周囲の激しい核反応によってずたずたに引き裂かれる前に、それでも数秒間は生き伸びられる環境なのだ。  地平線が輝きを増し、その色はどんよりした赤から、黄色へ、青へ、そしてぱちぱちはぜる紫へと変った。白色矮星がガスの高波を引きずりながら、地平線のむこうからやってきたのだ。  ボーマンは矮星の耐えがたい光輝から眼をおおうと、かき乱された表面がその重力場に吸いあげられる光景に眼をこらした。以前、彼は竜巻がカリブの海面をわたっていくのを見たことがある。この炎の塔も、ほとんど同じかたちだった。ただスケールがわずかに違う。柱の根本は、おそらく地球よりも太いだろうからだ。  そのときボーマンは、真下にまったく新しいものを見つけた。前からそこにあったのなら、見逃しているはずはないようなものだった。  輝くガスの大洋を、数知れぬ明るいビーズ玉が動いていくのだ。真珠のような光を帯び、それが数秒の間隔で明るくなったり暗くなったりしている。しかもそれらは、河の上流へとのぼる鮭のように、みな同一方向に進んでいるのだった。ときどきジグザグ行動を起すので、互いの進路が交錯することもある。だが決して接触はしないのだ。  何千個もあるだろう。見つめるにつれ、ボーマンはその行動が目的を持ったものだとますます確信するようになった。あまりにも遠くにあるので構造の細部はわからない。この途方もないパノラマのなかで見つけられるということは、それが何十マイル──いや、何百マイル──もの大きさであるのを意味する。もし有機的な生命ならば、まさしくこの世界のスケールに適合したリバイアサン(旧約聖書に登場する海の怪物)だ。  もしかしたらそれは、自然のさまざまな力の奇妙な共同作業によって一時的な安定性を与えられたプラズマの雲にすぎないのかもしれない──地球の科学者をいまだに困惑させている短命な電球と同じように。そう解釈するほうが簡単だし、心もやすまりそうだ。  だがその恒星的規模の流れを見るにつけ、本気で信じることはできなくなった。あのきらめくビーズ玉の群れは、自分たちがどこへむかっているか知っている。白色矮星が上空を通過しながら吸いあげる火の柱に、みずからの意志で集中していくのだ。  ボーマンは、空にのぼる柱にもう一度眼をやった。それは今、小さい重い星の意のままに、地平線に沿って引きずられていた。  たんなる想像にすぎないのか──それとも、じっさいに見ているのか?  その巨大なガスの噴泉を、ひときわ明るい光のかたまりが這いあがっていく。数知れぬ火花が凝集し、いくつもの光の大陸となっているようだ。  気違いじみた空想だった。だが、彼はまさしく火の橋をわたって星から星へと移住する生物の群れを見ているのかもしれなかった。ただそれが、レミングと同じように衝動にかられて進む無思考な獣の群れなのか、それとも知的生命の大集団なのか、知る術はなかった。  彼は、人間がほとんど夢想もしなかった、まったく異なる秩序を持った世界を飛んでいるのだった。海と陸と空気と宇宙の領域のほかに、まだ火の領域があったのだ。彼だけが、それをまのあたりにする特権を持ったのだ。  これ以上期待するのが身のほど知らずだというぐらいはわかっていた。 [#改ページ]      44 歓  待  地平線のかなたを行く嵐のように、火の柱が太陽の縁を動いていく。せかせかと走りまわっていた光の斑点は、赤く輝く太陽面をもう動いてはいない。表面は、まだ数千マイル下方だった。  スペースポッドのなか、本来なら一ミリセコンドで抹殺されてしまうであろう環境からまもられて、デイビッド・ボーマンは自分のために用意されているものを待ちうけた。  白色矮星は軌道を飛びながらみるみる低くなり、やがて地平線と接触すると縁を燃えあがらせて姿を消した。眼下の地獄にいつわりの夕闇がおりた。  照明が変った瞬間、ボーマンは周囲の空間に何かが起っているのに気づいた。  流れる水をすかして物を見ているように赤色巨星の世界がゆらめいた。何かの屈折効果ではないかとつかのま思った。いま彼が沈みつつある、いためつけられた大気のなかを、きわめて激しい衝撃波が通過したのかもしれない。  光が薄れかけていた。それは、第二の夕闇の到来とも思えた。ボーマンは思わず眼をあげ、すぐに自分のうかつさをはずかしく思った。ここでは、明りの主な光源は空にはない。眼下で燃える世界がそれなのだ。  すりガラスに似た、得体の知れぬ物質の壁が周囲を厚くつつみはじめ、赤い光をさえぎり、視界を隠した。あたりはますます暗くなってきた。かすかに聞えた恒星面のハリケーンの咆哮も、また遠のいていった。スペースポッドは静まりかえった夜のなかにうかんだ。  一瞬の後、ほとんど感じられないほどの衝撃があり、ポッドは何かかたい表面に着陸し、停止した。  着陸? いったい何の上に?  ボーマンは信じられぬ気持で自問した。やがて光が戻った。不信感は、たちまち失意と絶望にとってかわった──なぜなら周囲にあるものを見たとたん、自分が気が狂っているのがわかったからだ。  どんな驚異に出会おうとも心構えはできていると思っていた。予期していなかった唯一のものは、まったく日常的な光景だった。  スペースポッドは、地球の大都市ならどこにあってもおかしくない、上品なホテル・ルームの磨きあげられたフロアに着陸していた。  目の前にはリビング・ルームがあり、コーヒー・テーブル、寝椅子、十脚あまりの椅子、デスク、さまざまな種類のランプ、半分ほど本のつまった本箱、その上に積み重ねられた雑誌が見える。花をいけた花瓶さえあった。ゴッホの「アルルのはね橋」が一方の壁にかかっている──別の壁には、ワイエスの「クリスティナの世界」。デスクの抽出しをあければ、必ずギデオン・バイブルが見つかるような気がした……。  たとえ発狂しているにしても、幻覚はみごとに構成されていた。すべてが現実そのものだった。背を向けても、何も消えなかった。その光景に不釣合いな唯一の要素は──それも極端に不釣合いなのは──スペースポッドだった。  長いあいだ、ボーマンはシートにすわったままでいた。まぼろしもそのうち消えてしまうだろうと半ば期待していたが、それは生涯に見たすべてのものと同様に、確固とした存在を保っていた。  現実なのか──それとも、現実と見分けがつかないほど精巧につくられたまぼろしなのか。これは、ある種のテストなのかもしれない。自分の運命ばかりか人類の運命が、彼のこれから数分間の行動にかかっているのかもしれない。  ここにすわって何かが起るのを待つこともできるし、ポッドをあけて外に出、周囲の現実に立ちむかうこともできる。フロアはかたそうだった。少なくとも、それはスペースポッドの重量を支えていた。それをつきぬけて落ちるようなことはなさそうだった──それ[#「それ」に傍点]が何であるにしろ。  しかしまだ空気の問題がある。この部屋が真空状態か、有毒な大気で充満しているかは、ただ見ただけではわからないのだ。  その可能性はないように思えた──肝心の点を考慮に入れずに、これだけの手間をかけるものはいない──しかし不必要な危険をおかすつもりもなかった。いずれにせよ、長年の訓練のおかげで、彼は汚染の危険に用心深くなっていた。未知の環境には、ほかにとるべき手段がなくなるまで、身をさらしたくはなかった。  この部屋は、たしかに[#「たしかに」に傍点]アメリカ合衆国のどこかにありそうなホテル・ルームと似ている。だがそうだとしても、現実にここが、太陽系から何百光年も離れた場所であることに変りはないのだ。  彼は宇宙服のヘルメットをしめ、内部を密閉した。そしてスペースポッドのハッチを作動させた。つかのま、気圧が一定になる「シュッ」という音が聞え、彼は部屋の床を踏んだ。  どうみても、完全にノーマルな重力場だった。片手をあげ、自然におとす。腕は一秒足らずで、体の脇にばたっとぶつかった。  それが、すべてをいっそう非現実的にした。重力のない世界でしか満足な機能を果さない乗物、その外に彼は宇宙服を着て立っている──本来、うかんでいるはずなのに。宇宙飛行士としての正常な反射能力は、混乱していた。ひとつひとつの動作の前に、考えなければならなかった。  トランス状態にあるように彼はゆっくりと、部屋の、装飾一つないはだかの側から、ホテル・ルームへむかった。近づくにつれ消えてしまうのではないかと思っていたが、それは現実のままであり──見たところ、完全に実体を持っていた。  コーヒー・テーブルのかたわらで足をとめた。その上には、ふつうに見るベル・システム・ビジョンフォーンがあり地方別電話番号簿まで揃っていた。彼はかがむと、グローブをはめた手で無器用に分厚い番号簿をとりあげた。  それには見慣れた活字で【ワシントンDC】と文字が印刷されていた。  さらに注意深く眺めて、はじめて、これが現実であるにしろ、地球上ではないという客観的な証拠を掴んだ。  読める単語は、【ワシントン】だけだった。ほかは、新聞写真を複写したようにぼやけていた。めくらめっぽうに番号簿をあけ、ページをめくった。ページは空白ばかりで、パリパリした感触のある白色の物質でできていた。紙によく似ているが、明らかに紙ではなかった。  受話器を持ちあげ、ヘルメットの材質に押しつけた。ダイアル音がしているなら、材質を通して聞えてくるはずである。だが予期したとおり、何も聞えなかった。  とすれば──むやみと精巧にできてはいるが、みんな作りもののわけだ。そしてこれは、相手をあざむくためのものではなく、安心させるためのもの──そうであるようにと彼は願った──なのだ。そう考えると心がおちついた。だが調べがすっかり終るまで、宇宙服を脱ぐつもりはなかった。  家具もみなまともで、実体を持っているようだった。椅子にかけてみたが、ちゃんと体重を支えた。だがデスクの抽出しはあかず、見せかけだとわかった。  本や雑誌もそうだった。番号簿と同じで、読めるのはタイトルだけだった。本の取合わせがまた奇妙だった──大部分は安っぽいベストセラーで、扇情的なノンフィクションが少し、宣伝の行き届いた自伝が数冊。三年前のより新しいものはなく、知的な内容のものも皆無だった。だが、それは問題ではなかった。なぜなら本は、棚から取りだすこともできなかったからだ。  たやすく開くドアが二つ。最初のドアはこじんまりした、だが居心地のよさそうなベッドルームに通じていた。ベッド、化粧台、二脚の椅子、明りのスイッチ──これはじっさいに機能を果した──そして、タンス。タンスをあけたところ、上着が四着、ドレッシング・ガウンが一着、十着あまりの白シャツ、何組かの下着が見つかった。どれもきちんとハンガーにつるされていた。  上着を一着はずし、ていねいに調べた。グローブをはめた手でさわった感じでは、生地はウールというより毛皮のようだった。それもまた、すこし時代遅れだった。地球では、少なくともここ四年、シングル・ブレストの上着を着ているものはいないのだ。  ベッドルームに続いて、バスルームがあった。いちおう揃っている器具を調べて、彼はほっとした。どれも見せかけではなく、ちゃんと機能を果した。そのつぎは、小キッチン。電気調理機、冷蔵庫、食器戸棚、瀬戸物類と刃物類、流し、テーブル、そして椅子があった。好奇心ばかりでなく、しだいに増してきた空腹感にかられて、ボーマンはさがしはじめた。  最初に冷蔵庫をあけた。冷たい霧がふわりと吹きつけてきた。棚はパッケージや罐語でいっぱいだった。距離をおいて見るとよく知っているものばかりだが、近づいて見るとラベルの文字はぼやけていて読めなかった。しかし全体的に見た大きな特徴は、たまご、ミルク、バター、肉、くだものといった未加工品がまったく欠けていることだった。冷蔵庫のなかには、包装されているものしかはいっていなかった。  よく知っているオートミールの箱を見つけ、なぜ冷却保存されているのだろうといぶかりながら手にとった。箱を持ちあげたとたん、中身がオートミールでないことに気づいた。重すぎるのだ。  蓋を引き裂き、内容を調べた。なかには、すこししめりけをおびた、青い物質がはいっていた。重さや感触は、ブレッド・プディングとそっくりだった。奇妙な色を別にすれば、それはなかなか食欲をそそった。  しかしばかげていると、ボーマンは思った。監視されているのは、おそらく確かだ。こんな服を着ていては、白痴に見られるかもしれない。もしこれが知能テストなら、おれはとうに落第しているだろう。  それ以上ためらうことなく、彼はベッドルームに引きかえすと、ヘルメットの締め金をゆるめはじめた。それがゆるくなると、ヘルメットをほんのわずか持ちあげ、シールを破り、注意深くひと息吸った。  どう考えても、空気は正常のようだった。  ヘルメットをベッドに放り投げると、ほっとした気持で──そしてややぎこちない動作で──宇宙服を脱ぎはじめた。終ると伸びをし、数回大きく深呼吸してから、宇宙服をタンスのなかのあたりまえの衣服のあいだにかけた。不調和はまぬがれないが、宇宙飛行士に共通する強迫観念めいたきちょうめんさが、そこらに放りだしたままにしておくことをどうしても許さないのだった。  それから急いでキッチンに引きかえすと、例の「オートミール」の箱をもっとていねいに調べはじめた。  青いブレッド・プディングは、マカロンを思わせるおいしそうな香りをほのかにはなっていた。ボーマンはそれを手にのせて重さをはかり、それから一切れ割って、慎重ににおいを嗅いだ。彼を毒殺しようとする意図がないのはわかっているが、誤りの可能性は常にあるのだ──特に生化学のような複雑な問題の場合は。  二切れか三切れかみとると、よくかみしめてのみこんだ。すばらしい味だが、風味はどう表現してよいかわからないほどとらえどころがなかった。眼をつむっていれば、肉とも、完全小麦粉のパンとも、乾燥くだものとさえ思ったかもしれない。予期しない副作用でも出ないかぎり、餓死の心配はこれでなくなった。  いくきれかほおばり、すっかり満足したところで、飲みものを捜した。ビールの罐が半ダース──これも有名な銘柄──が冷蔵庫の奥にあった。彼は金具を押しあけた。  あらかじめ圧力が加えられている金属の蓋は、抵抗の弱い部分に沿ってポンと開いた。いつものとおりだった。だが罐にはビールははいっていなかった。ボーマンは驚きと失望を感じた。これにもまた青い食品がつまっていたのだ。  数秒で、半ダースほどの箱や罐をあけていた。ラベルが違っても内容は同じだった。食事は少しばかり単調なものになりそうだった。そして飲みものとしては水しかないのだった。彼はキッチンの蛇口からグラスに水を注ぎ、注意深くすすった。  口に含んだ最初の数滴は、すぐに吐きだした。ひどい味だったのだ。彼は本能的な反応に少々恥じいりながら、残りを無理やりに飲みほした。  その液体が何であるかは、最初の一口でわかった。まずく思えたのも、まったく味がなかったからだ。蛇口から流れ出るのは、純粋の蒸溜水だった。未知のホストは、どうやら彼の健康に細心の注意をはらっているらしい。  元気を回復したところで、彼は手早くシャワーをあびた。石けんがないので、また少し不自由したが、その代り気持のよい熱風を吹きつけるドライヤーがあり、しばらくその恩恵にあずかったのち、タンスからパンツ、肌着、ドレッシング・ガウンを出して着た。そしてベッドに身を投げだすと天井を見上げながら、この気違いじみた状況のなかに意味を見つけだそうとした。  考えがほとんど進まないうちに、彼は別のことに気を奪われていた。ベッドの真上には、ホテルではごくあたりまえの天井テレビ・スクリーンがあった。電話や本と同じように、それも見せかけなのだろうとはじめは思っていた。  だがベッド脇の|遊 動《スィンギング》パネルに取り付けられたコントロール装置があまりにも本物らしく見えるので、手を出さずにはいられなくなった。指がONのダイアルに触れるとスクリーンが明るくなった。  熱にうかされたように、めくらめっぽうにチャンネル・セレクターをまわすと、ほとんど瞬間的に画像が現われた。  有名なアフリカのニュース解説者が、自国の残り少ない野生動物保護のためにとられた政策について話していた。ボーマンは数秒間それに聞きいった。人間の声そのものが興味の中心なので、何が話されていようとかまわなかった。それからチャンネルを切りかえた。  つぎの五分間に、ウォールトンのバイオリン協奏曲を演奏している交響楽団、純正劇場の悲しむべき現状についての討論、西部劇、新しい頭痛治療法の実演、どこか東洋の言葉で行なわれているパネルゲーム、心理劇、三本のニューズ解説、フットボール試合、立体幾何学の講座(これはロシア語)、その他、受像機調整のマーク、データの送信などを見た。  じっさいそれは、世界のテレビ番組をかたっぱしから集めたもので、意気高揚の効果はあったが、その前から彼の心に形成されていた一つの疑問に裏づけを与えもした。  どの番組も、およそ二年前のものだった。それはちょうどTMA1が発見された時期にあたる。これが偶然とは思えなかった。地球の電波を何者かが[#「何者かが」に傍点]モニターしていたのだ。例の漆黒の物体は、思った以上にたくさんのはたらきをしていたにちがいない。  チャンネルを回し続けるうち、とつぜん見慣れた光景にぶつかった。このホテル・ルームである。今そこには、有名な俳優がいて、不実な情婦をはげしくののしっている。最前自分が出てきたばかりのリビング・ルームを、彼は愕然として見つめた──カメラが言いあらそうカップルに続いて寝室にはいると、ボーマンは人の姿を求めて思わずドアのほうに眼をやった。  この応接室は、今のテレビ番組にもとづいて用意されたのだ。彼のホストたちは、テレビ放送から地球人の生活の知識を得たのだ。映画のセットのなかにいるような気がしたのは、文字通り本当だったのだ。  今のところ知りたいことはすべて知ったので、テレビを消した。  これから何をしょう?  組んだ指を枕にし、空白のスクリーンを見つめたまま、彼は自問した。  肉体的にも精神的にも疲れきっていた。しかし、地球人が誰ひとり到達したことのないこんな遠いところ、こんな途方もない状況のなかでは、とても眠れそうもなかった。しかし気持のよいベッドと肉体に備わった本能的な知恵が共謀し、彼の意志にさからってはたらいた。  明りのスイッチをまさぐる。部屋はまっ暗になった。数秒もしないうちに、彼は夢さえも届かない深い淵に沈んでいった。  それが、デイビッド・ボーマンの最後の眠りだった。 [#改ページ]      45 再  現  必要性を失った家具は、その創造者の心のなかにふたたび溶けこんだ。残っているのはベッドと──そして壁、そのか弱い有機生命を外部の制御不可能なエネルギーから保護している壁だけだった。  デイビッド・ボーマンは、眠りのなかで落ちつかなげに身じろぎした。めざめているのでも夢を見ているのでもない。だが、もはや無意識の状態でもなかった。  森林に忍び入る霧のように、何かが彼の心にはいりこんできた。彼はぼんやりとそれを感じただけだった。それがまともにぶつかっていれば、壁の外で荒れ狂う火と同じくらい確実に、彼を破壊してしまっただろう。  冷たい精査を受けながら、希望も恐怖も感じなかった。感情はすべて濾し流されていた。  彼は宙にうかんでいるようだった。周囲には、あらゆる方向に、黒い線というか糸からなる立体的な格子が無限のかなたまでのびていた。それに沿って、小さな光の結節が──あるものはのろのろと、あるものは眼もくらむような速さで──動いていた。以前、彼は顕微鏡で人間の脳の断面をのぞいたことがある。神経繊維のネットワークも、これと同じ迷路のような複雑さを持っていた。しかしそれが死んでおり、静止していたのに対し、これは生命すら超越しているのだった。  彼自身はほんの小部分を占めるにすぎない宇宙について瞑想する巨大な精神。いま自分の見ているのが、その巨大な精神の活動であることを彼は知っていた──いや、知っているような気がした。  その光景あるいはまぼろし[#「まぼろし」に傍点]は、ひととき続いただけだった。やがて幾層も重なった透明な平面や格子、いたるところを行きかう光の結節は消え、デイビッド・ボーマンは、人間がいまだかつて誰ひとり経験したことのない意識の領域に踏みこんだ。  はじめは、時間が逆行しているように思えた。その程度の驚異なら受け入れる心構えはできていたが、やがて彼はその奥に隠されている真相に気づいた。  記憶の源泉があけはなたれていくのだ。何かの力にコントロールされながら、彼はふたたび過去を生きはじめていた。ホテル・ルーム──スペース・ポッド──赤い太陽の灼熱する表面──そして正常な宇宙に再突入したときに見た黒い出口。  視覚ばかりではない。そのときの感覚、感情のすべてが速度をましながらつぎつぎと通りすぎていく。いやます速さで逆回転するテープ・レコードのように、彼の人生が巻きほぐれていくのだ。  ふたたび彼はディスカバリー号に戻っており、土星の輪が空を圧していた。そしてハルとの最後の会話をくりかえした。最後の仕事にむかうフランク・プールを見た。すべてうまくいっていると伝える地球からの声を聞いた。  そういった出来事をふたたび体験しながらも、心のどこかで彼は、そのとおり、すべてがうまくいっていることを知っていた。  彼は時の通路を子供時代へと一路逆行しながら、知識と体験を洗い流している。しかし何も失われはしない。生涯のあらゆる瞬間にあった彼のすべてが、もっと安全な場所に移されているのだ。ここにいるデイビッド・ボーマンは存在をやめても、別のデイビッド・ボーマンは永遠に存在し続けるのだ。  忘れられた年月にむかって、今より単純な世界にむかって、ますますスピードをあげながら時間をさかのぼっていった。  かつて自分が愛した人びと、もうすっかり思いだせなくなっていた人びとが、再びほほえみかけた。彼もまた親しみをこめて、心の痛みを感じることもなくほほえみをかえした。  やがて逆行の速度がおとろえはじめた。記憶の泉もほとんど涸れかかっていた。時の流れはますますのろくなり、停滞のときが近づいていた──揺れる振子が、つぎの位相に移る直前のはかり知れぬ短い瞬間、弧の縁《へり》で凍りつくように。  その超時間的な一瞬が過ぎた。振子は運動方向をかえた。  地球から二万光年隔たった二重星の、その業火のまっただなかにうかぶ空っぽの部屋で、赤んぼうが眼を開き、うぶ声をあげた。 [#改ページ]      46 変  貌  やがて赤んぼうはおとなしくなった。もはや自分が一人ぼっちでないことを知ったからだった。  中空に、かすかに光る長方形がうっすらと現われた。それは透明な石板となって固まると、透明さを失い、淡いミルク色の冷光で満たされた。その表面や内部では、かたちの定かでないまぼろし[#「まぼろし」に傍点]がじらすように動いていた。それらは光と影の縞となって凝集し、つぎに交叉する輻《や》のような模様をつくるとゆっくりと回転しはじめた。その動きは、いつのまにか部屋に満ちわたったリズミカルな振動音と調子を合わせていた。  子供なら──そしてヒトザルなら、必ず注意をひきつけられ、われを忘れてしまう見せものだった。しかし三百万年前もそうであったように、それは人間の知覚では感じとることのできない高度な力の表面的なあらわれにすぎなかった。じっさいのデータ処理が意識のはるかな奥底で行なわれているあいだ、たんに注意をわきに逸らせておくためのものだった。  今度の場合、新しいデザインが考案されていたので、データ処理は速やかで的確だった。前回の出会いより過ぎ去った長い年月のあいだに、デザイナーは多くを学んでいた。また彼が手を加えようとしている生地も、昔とは比べものにならぬほど優れた繊維でつくられていた。  しかし、果てしなく模様を広げる彼のつづれ[#「つづれ」に傍点]織りの一部に、それを加えてよいものかどうかは、未来だけがきめてくれることだった。  すでに人間を越えた集中力をその眼差しにみせて、赤んぼうはモノリスの深みをのぞきこみ、そのかなたに横たわるさまざまな謎を──理解するまでにはいたらないが──眺めた。  赤んぼうは、自分が生まれ故郷に帰ったことを知った。このモノリスから、人間を含む多くの種族が誕生したのだ。しかし同時に、いつまでもそこにはいられないことも知った。この瞬間が過ぎれば、もう一つの誕生がある。それは過去に経験したよりも、はるかに異様なものなのだ。  その瞬間がやってきた。輝く模様は、もは.やモノリスの中心部にある謎をこだまさせてはいなかった。模様が消えるとともに、保護していた壁がふたたび元の非存在にかえり、赤い太陽があたり一面をつつんだ。  置き忘れられたスペースポッドの金属とプラスチックが、またかつてデイビッド・ボーマンとみずからを名乗っていた生物の衣服が、一瞬に炎と化した。地球との最後の絆は消え、それらを構成していた個々の原子へと戻った。  しかし、新しい環境の気持よい灼熱光に順応するのに余念のなかった赤んぼうは、そんなことにはほとんど気づかなかった。今のところしばらくは、自分の力を集中させるのに、この物質の殻が必要だった。太陽のエネルギーすら破壊することのできないその肉体は、心にある現在の自分の姿だった。これほどの力を持った今でも、まだ赤んぼうにすぎないことを彼は知っていた。  新しい形態をとる決心がつくまでは、あるいは物質にたよる必要がなくなるまでは、このすがたのままでいるつもりだった。  そして出発のときがきた──といっても、ある意味では、生まれかわったこの場所から決して離れることはない。なぜなら彼という存在は常に、何か推し測りえない目的でこの二重星を利用している生命の一部であるからだ。  理由はともかくとして、旅の方向ははっきりしていた。行きがけに通ってきた回り道を辿る必要はなかった。三百万年を経た本能の助けを借りて、彼は空間の裏側にあるいくつもの道を感じとった。|星の門《スター・ゲート》の旧式なメカニズムは彼に忠実につかえてきたが、もうそれは必要なかった。  以前には透明の石板としか見えなかった直方体は、まだほのかに光りながら眼の前にうかんでいた。彼と同様、それは下方の業火をまったく知らぬげだった。  それはまだ測り知れぬ時空の秘密をひめていたが、そのうちのいくらかは、ようやく彼にも理解できるようになっていた。各辺の比率を表わす二乗の数字、一対四対九──今ではなんとあたりまえに見えることか! しかもその比率でなければならないのだ。数列が、たった三次元で終るとばかり思っていた愚かさ!  彼はその単純な図形に精神を集中した。思考がそれに触れた瞬間、図形の内部に宇宙の闇が広がった。赤い太陽の輝きが薄れた──というより、周囲から遠のいたようだった。そして眼前に、銀河系の輝く渦巻が展開した。  プラスチックのブロック内部に刻みこまれた、美しい、信じられぬほど精巧な模型。そんなふうにも見える。だがそれは、視覚よりもはるかに高度な感覚が掴んだ本物の銀河系の姿なのだ。望みさえすれば、一千億の星のどれにでも注意を集中できる。いや、それ以上のことが可能だった。  銀河系中心部であかあかと燃えるかがり火と、周辺部でまばらに寂しく光る前哨の星ぼし、彼は、そこ[#「そこ」に傍点]、その中間部を流れる広大な星の川のなかにうかんでいる。そして彼がめざしているのは、そこ[#「そこ」に傍点]、深淵を隔てたむこう側、星などほとんどない暗い渦状肢の一つだ。  はるかな遠方からわたってくる光に照らされ、外縁部をほのかにうかびあがらせているその形のない混沌が、いまだ星をかたちづくらない物質、いわば将来の進化の原料であることを彼は知っていた。そこではまだ「時」ははじまっていない。いま燃えている星ぼしが死んだはるか後に、光と生命が新しい銀河系をかたちづくっていくのだ。  心ならずも、彼はその空虚をわたってきた。それを、ふたたびわたらねばならないのだった──今度はみずからの意志で。  その考えは、とつぜん凍りつくような恐怖に彼をおとしいれた。つかのま理性を失い、やっと得た宇宙の新しいビジョンも動揺し、こなごなの破片に砕けちるところだった。  それは、深淵に対する恐怖ではなかった。未来への底深い不安だった。人間的な時間尺度を、彼は捨て去っている。渦状肢の星のない闇を思いうかべるうち、眼の前にぽっかりと口をあけている「永遠」にはじめて気づいたのだ。  だが、一人ぼっちには決してならないことを思いだすと、パニックもゆっくりと消えていった。宇宙の全体像はふたたび元の澄みきったかたちに戻っていた──自分ひとりの力でできたのではない。それは知っていた。最初の数歩は足元がたよりない。どうしても必要なときには、手がさしのべられるだろう。  ふたたび自信を得ると、彼は勇気を取り戻したスカイ・ダイバーさながら、何光年ものかなたへ一気に跳躍した。  心の枠におさまっていた銀河が、どっと彼にむかって押しよせてきた。星や星雲が無限の速さで後方に流れていった。数知れぬまぼろしの太陽が爆発しては、うしろで小さくなっていく。彼は影のように星ぼしをつらぬいて飛んでいるのだった。一度は恐怖をおぼえた、宇宙塵の冷えきった黒い雲も、太陽面を打つカラスの羽根ほどにしか感じなかった。  星がめっきりと減ってきた。銀河は、かつて知っていた輝きに比べれば影でしかなくなっていた──その輝きも、また時がくれば見られるだろう。  やがて彼は、自分の望んでいた場所、人間にとって実感のある宇宙に戻った。 [#改ページ]      47 |星 の 子《スター・チャイルド》  目の前には、|星 の 子《スター・チャイルド》なら手を出さずにはいられないきらめく玩具《おもちゃ》、地球が、人びとをいっぱいのせてうかんでいた。  手遅れにならないうちに戻ったのだ。下の混みあった世界では、今ごろレーダー・スクリーン上に物体像が閃き、大追跡望遠鏡が空を捜しているにちがいない──そして人びとが考えている歴史も終りをつげるのだ。  一千マイル下方の動きに、彼は気づいた。まどろんでいた死の積荷が眼をさまし、軌道上でもそもそと身じろぎしている。そんな弱々しいエネルギーなどすこしもこわくはないが、彼はきれいな空のほうが好きだった。意志を送りだすと、空を行くメガトン爆弾に音もなく閃光の花が咲いた。眠っている半球に、短いいつわりの朝が訪れた。  それから彼は、考えを整理し、まだ試していない力について黙想しながら、待った。世界はむろん意のままだが、つぎに何をすればよいかわからないのだった。  だが、そのうち思いつくだろう。 [#改ページ] [#改ページ]      訳者あとがき  あなたも、あの映画『二〇〇一年宇宙の旅』のストーリィのつじつまをあわせたくて、本書をあけた口だろうか。あの謎めいた結末が巻きおこした反響は、たしかにすさまじかった。  だがそういった点ばかりでなく、あらゆる意味で『二〇〇一年宇宙の旅』ほど、人びとの話題を集めた映画も少ないだろう。  まず、それには、SF映画としては前例を見ない、一千二百万ドル(邦価にして、四十三億二千万円)の製作費が投じられた。完成までには、三年の準備期間を含めて五年の歳月がかけられたが、その間きびしい秘密主義がとられ、内容はほとんど外部に発表されなかった。そして映画の舞台となる三十数年後の未来世界を、現代科学が予測しえるかぎりの正確さで視覚化するために、その分野の専門家が何人もつきっきりで指導した。製作、監督は、『スパルタカス』『博士の異常な愛情』などで有名な、アメリカ映画界の鬼才、スタンリー・キューブリック。脚色も手がけた彼が、共同執筆者として招いたのは、現代最高のSF作家、アーサー・C・クラークだった。しかも撮影方式は、これもSF映画としてははじめてのシネラマだった。  これだけお膳立てが揃えば、SFファン、映画ファンならずとも、興味をひかれずにはいられない。映画は今年二月に完成し、四月からアメリカとほとんど同時にわが国でも公開された。  観客の反応は、映画をまだご覧になっていないかたも、さまざまな雑誌や新聞を通じておおよそご存じだろう。  月面や宇宙船その他のセットは、予想以上の出来ばえであり、二時間四十分にわたって、文句のつけようのないショットと色彩の連続だった。ところが肝心のストーリィが、誰にも理解できるというところまで行っていないらしいのだ。いや、らしい[#「らしい」に傍点]と書くのは、おかしいかもしれない。四月十日の有料試写会へ、ワクワクしながらとんでいったぼく自身、最後はやっぱり首をかしげながら出てきたロなのだから。たしか毎日新聞だったと思うが、封切られて何日か後の夕刊で、『二〇〇一年──』をいかに解釈するかというアンケートを有名人からとって特集を組んでいる。ついには、『二〇〇一年──』を公開中のテアトル東京の正面に、ストーリィの鍵を握る謎の石板のハリボテが立って、観客からその正体についての解釈をつのったりした。  謎の石板が、いったい何であったかは、キューブリック、クラークの共同脚本をもとにした映画『二〇〇一年宇宙の旅』を、クラーク自身がノべライズした本書『宇宙のオデッセイ2001』に書かれているとおりである。  すでにお読みになっているかたは気づかれたことと思うが、本書では、あの映画の画面からは意味を充分に汲みとることのできなかったさまざまなエピソードが、すべて完壁な論理を見せて集合し、一貫した一つの物語を形成している。  三百万年前の地球に出現した謎の石板が、ヒトザルたちに何をしたか。月面に発見された同種の石板は、どんな役割を果すものだったのか。コンピューター、ハル九〇〇〇は、なぜ人間に対して反乱を起したのか。ハルの反乱というエピソードを物語のなかに加える必然性が、どこにあったのか。木星周囲の軌道にうかんでいた石板は、どのような機能を持っていたのか (ただし、この小説では、石板は土星衛星の一つ、ヤペタスの表面にたっていることになっており、物語に意表をついたおもしろさをつけ加えている)そして、ディスカバリー号唯一の生存者、デイビッド・ボーマンは、どこへ行き、何に出会い、何者に変貌したのか。なぜ。  映画をどれほど熱心に見たとしても、あなたの冴えた頭脳をどれほど酷使しようとも、この全部はとてもわからないだろう。ぼく自身についていっても、SFにはかなり年季を入れているので、第一、第二、第三の石板の機能ぐらいはおよそ見当がついたが、その機能が一つ一つ異なっているという印象にふりまわされ、しかも最後のあの奇妙な「部屋」での出来事にとまどい、結末はおぼろげに理解できるものの、つじつまを合わせることがとうとうできなかった。  アメリカでも事情はほとんど同じだったらしい。ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビューで、本書を批評したエリオット・フリマント=スミスがこう書いている。 「映画を見てから小説を読もう。これは、ふつうにいう物事の順序ではないし、また一般的にもおすすめできる方法ではない。しかし『宇宙のオデッセイ2001』に関するかぎり、これは異常ではなくなる。  映画『二〇〇一年──』は、それを見たものには──少なくとも私にとっては──忘れることのできない作品である。その視覚的インパクトは、心に永久的な印象を刻みつけた。しかし、それさえも、本書を圧倒することはできない。むしろ正反対に、『宇宙のオデッセイ2001』を読んでいるあいだ、場面の一つ一つが鮮やかな記憶となって心によみがえり、映画以上に片唾をのませる物語の|手がかり《キュー》となり、イラストレーションとなっていったのだ。なぜなら『宇宙のオデッセイ──』の壮大で感動的なアイデアは、緊密に組みたてられた視覚と聴覚による表現方法では、とても把握できないものだからである。それは、微妙な論理性を持った豊かな想像力を思うままに|振動させる《オシレイト》ことによって、はじめて劇的に[#「劇的に」に傍点]描くことが可能になるアイデアなのだ。  映画『二〇〇一年──』は、それを表現するにはあまりにも直接的すぎ、その驚異を伝えるにはあまりにも機微に欠け、その荘厳さをほのめかすには、方法が限定されすぎていた。映画は中心にあるアイデアの周囲をめぐっていただけであり、つらぬいてはいなかった。映画では、不可解なかたちでしか終りえなかった『宇宙のオデッセイ──』は、小説となってはじめてすみきった全体像をあらわしたのだ。  それは、まさにオデッセイだった」  以上、かなり長文の批評をかいつまんで紹介してみた。  しかし、ここまでいいきってしまっては、映画の立つ瀬がないだろう。それに、ぼく自身、ストーリイに困惑を感じながらも、三時間近い映画を(特に最後の二十分ごろから現われる、あのサイケデリックな光のパノラマを)陶酔しきって見ていたのは、たしかなのだから。映画でしか表現できないものだってある。キューブリックは製作の過程で、映画と小説のちがいをますます意識したにちがいない。ライフ誌本国版で、サイエンス・エディターのアルバート・ローゼンフェルドが書いていたことだが、キューブリックは撮影段階で、はじめの脚本にあった会話やナレーションをどんどん省略し、映像と音響効果を前面に押しだして、体に直接的な衝撃を与える方法を選んだという。  それに「クラークの第三法則」と名づけてクラーク自身がいっているとおり、「テクノロジィが申し分ない発達をとげれば、それは魔法と見分けがつかなくなる」はずだから、人類と超生命との接触が、あの映画の結末のようなかたちではじまることも当然あっていいわけだ。  しかし『二〇〇一年──』は、全体として見た場合、そんなに難解な映画だろうか。  宇宙船ディスカバリー号が、あの映画では、人間の精子《スペルマ》を想起させるかたちをしていたことを思い出していただきたい。クライマックスでは、あの光の乱舞の後に、一人の赤んぼうが誕生する。映画は、その赤んぼうがいつとも知れぬ時代の地球上空に戻り、地球について瞑想する場面で終るのだ。その地球は、冒頭に現われた三百万年前の地球かもしれない。途中に紆余曲折はあっても究極的にあの映画は、一つの輪を形成しているといえないだろうか。  そう考えれば、クライマックスのサイケデリックな光の交錯が、新生《リバース》の象徴でなければならないことは自明だろう。  こういっているのは、ぼくではなく、ファンタジィ・アンド・サイエンス・フィクション誌でこの映画の批評を担当した若手のSF作家、サミュエル・R・ディレイニー。日本のSF同人誌「宇宙塵」でも、C・R氏が、これに似た、しかしもう少しSF的な解釈をしているのを見た。この線が、少なくともあの映画に関してはもっとも順当な解釈ではないのか。  もちろんそうなると内容は、本書でクラークが書いていることとくいちがってくる。しかしそれでいいのだろう。映画は映画、小説は小説なのだ。その意味では本書は、映画の一つのインタプリテーションとも見ることができる。  映画の話に深入りしすぎて、まだご覧になっていないかたには興ざめかもしれないが、これくらい書いたとて、『二〇〇一年──』の強烈なインパクトは少しも損われはしない。それはぼくが保証する。  本書の著者、アーサー・チャールズ・クラークは、一九一七年生まれのイギリス人。イギリス国立天文学協会の会員であり、すでに四十冊以上のSFとノンフィクションの著作がある。一九六二年には、それらの著作によって科学の普及に貢献した功績を認められ、ユネスコからカリンガ賞を授けられた。彼以前の受賞者はバートランド・ラッセル、ルイ・ド・ブローリー、ジュリアン・ハックスリー、それにジェラード・ピールである。一九四八年、ロンドンのキングス・カレッジを、物理学、純理数学、応用数学のファースト・クラス・オナーを受けて卒業。第二次大戦中は英国空軍に加わって、レーダーによる航空機の地上操縦誘導研究にたずさわった。  SFとノンフィクションを雑誌に寄稿しはじめたのは一九四五年あたりからだが、その正確な科学知識と豊かな文学性は、初期の作品からすでに人びとに認められ、一九五三年、長篇ノンフィクション第二作『宇宙の探険』がアメリカでブック・オブ・ザ・マンス・クラブの選定図書に指定されるに及んで、いちやく世界的に名を知られるようになった。彼のSFの最高傑作の一つ『幼年期の終り』も、その年に発表されている。  以後、彼は『宇宙文明論』『未来のプロフィル』『人間と宇宙の話』(ライフ・サイエンス・ライブラリー)などのノンフィクション、『都市と星』『海底牧場』『渇きの海』などをつぎつぎと発表し、名実ともに世界的なSF作家、科学作家にのしあがった。  スタンリー・キューブリックが、初のSF映画を製作するにあたって(もっとも『博士の異常な愛情』も、世界SF大会でヒューゴー賞を授けられているくらいで、SF映画といえるが)、クラークを協力者に選んだのは当然だろう。  映画『二〇〇一年宇宙の旅』は、クラークが、一九五一年に発表した短篇「前哨」がヒントとなった。月面に、太陽系を遠い昔に訪れた異星人が建設したものと思われるドームが発見される。人間はそのドームの目的を考えあぐね、ついに破壊してしまう。しかしやがて彼らは思いあたる。そのドームは、人間が月に到達するくらい進化したことを異星人に報告する施設ではなかったかと。ドームが破壊されたことにより、それまで内部の装置が送り続けていた通信がとまり、異星人たちはそれに気づくわけだ。物語は、人間が宇宙のかなたからやってくるものを待ちうけているところで終る。  だが、これは映画のたんなるヒントにすぎない。クラークとキューブリックはその後、三年にわたってストーリィを練りに練り、ついにこのようなかたちとなって完成した。  こんなエピソードもある。クラークの決定稿は、すでに二年前に完成しており、アメリカのデラコート・プレスは原作者の最終的な了承を得ないままに、映画の完成直前にハードカバーを売りだそうと、版を組みあげ、すでに二ページの広告まで発表していた。ところがクラークの決定稿を読み終えたキューブリックが、新たに思いついたアイデアを付け加えれば原作はさらにおもしろくなるのではないかと考え、クラークに改稿をすすめたのだ。そして映画の完成は二年のび、単行本の刊行もそれに平行して遅れることになった。  そして最後に原作を落札したのは、デラコート・プレスではなく、ニュー・アメリカン・ライブラリーだった。  しかし映画とのタイアップ小説としては異例に遅れた出版も、クラークの努力も、ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビューの讃辞が示すとおり、見事に報いられたようだ。  一九六八年九月十二日  付記  このあとがきを書いた翌日、アメリカの雑誌プレイボーイの八月号に、スタンリー・キューブリックとのかなり長文のインタビューが掲載されていることがわかった。内容は『二〇〇一年宇宙の旅』に関係したことばかりで、映画の意図とか、あそこに描かれた未来世界の可能性、またクラークの言葉、「もしあの映画が一度で観客に理解されたら、われわれの意図は失敗したことになる」など興味ぶかいエピソードがたくさん語られている。くわしく紹介するスペースのないのが残念だが、わが国でも相当に出まわっている雑誌なので、あわせて読んでみるのもおもしろいと思う。 [#改ページ] [#改ページ] [#(img/01/265.jpg)入る]