宇宙のランデヴー アーサー・C・クラーク 南山 宏訳 [#(img/000a.jpg)入る] [#(img/000b.jpg)入る] [#(img/000c.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/001.jpg)入る] [#(img/002.jpg)入る] [#(img/003.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/005.jpg)入る] [#(img/006.jpg)入る] [#(img/007.jpg)入る] [#(img/008.jpg)入る]      1 宇 宙 監 視  遅かれ早かれ、かならずおこることだった。一九〇八年六月三十日、モスクワはあやうく、三時間と四千キロの差で破壊をまぬがれた──大宇宙のものさしで測れば、まことに微々たる差とはいえ。一九四七年二月十二日、またもやソ連の一都市が、もっと間髪の差で難をのがれた。二十世紀に入って二個目の大隕石が、ウラジオストックから四百キロと離れていない場所で、当時開発されたばかりのウラニウム爆弾にも劣らない爆発をおこしたのである。  そのころ人類は、かつて月の表面をあばただらけにした|宇 宙 砲 撃《コズミック・ボンバードメント》の、最後のはぐれ弾《だま》から身を守るすべをもたなかった。一九〇八年と一九四七年の隕石は、さいわい無人の荒野に落ちたが、二十一世紀末の地球上にはもう、天からの砲撃演習に使えるような土地などは残っていなかった。人類はすでに、両極のすみずみにまで進出していたのだ。だから、不可避的に……。  二〇七七年の例年《いつ》になく美しい夏、九月十一日の朝九時四十六分(グリニッジ標準時)、ヨーロッパ一帯の住民は、東の空に出現した目もくらむばかりの火球を仰ぎ見た。数秒とたたないうちに、それは太陽よりも明るさを増し、天をよぎるにつれ──はじめは完全な無音で──湧きかえるような塵煙の太い尾を引いた。  オーストリア上空のどこかで、火球は分裂を始め、たてつづけに激しい震動をおこして、百万以上の人びとから、永久に聴力を奪った。だが、かれらはまだしも幸運だったのだ。  毎秒五十キロのスピードで、一千トンの岩石と金属が北イタリアの平原に激突し、数世紀にわたる営為の成果を、ほんの数瞬で灰燼に帰させた。パドアとヴェロナの町が、地表から払拭され、ヴェニスの最後の栄光は、この宇宙からの|鉄槌の一撃《ハンマー・ブロー》後、なだれこんできたアドリア海の水の下に、永遠に没したのである。  六十万の人間が死亡し、被害総額は一兆ドルを上まわった。だがそれ以上に、芸術の、歴史の、科学の──人類全体の未来の──受けた損失は、測り知れないものがあった。まるで、一朝にして敗れ去った大戦《いく》さのあとのようなありさまだった。  舞いあがった粉塵がゆっくりとしずまるあいだ、何日にもわたって全世界が、クラカトア噴火以来のすばらしい夜明けと日没を拝めた、という事実にも、人びとはすなおに喜べなかった。  最初のショックが去ると、人類は、歴史上かつてないほどの断固たる決意と団結とをもって、立ちあがった。このような災厄は、むこう一千年間は二度とおこらないかもしれないが、ぎゃくに明日おこることもありうる。そしてこのつぎおこるときには、もっとひどい結果にならないとはだれも保証できないのだ。  よろしい。今後このようなことは二度とおこさせない[#「今後このようなことは二度とおこさせない」に傍点]。  百年も昔、世界がずっと貧しく、資源もはるかに乏しかった時代、人類は自滅もかまわず、身内同士互いに相手の射ちだす兵器を破壊するため、富を浪費していたことがあった。その努力は日の目を見なかったが、獲得された技術は忘れられずに残った。その同じ技術が、今度ははるかに高邁な目的のため、とほうもなく巨大なスケールで生かされることになった。災厄をもたらす大隕石に、二度とふたたび、地球の堅い守りを突破されないようにするのだ。  こうして、〈宇宙監視《スベースガード》計画〉がスタートした。五十年後に──しかも、計画推進者がだれひとり、思いもかけなかった形で──それが役にたつときがきた。 [#改ページ]      2 侵 入 者  二一三〇年ごろ、火星に本拠を置くレーダー網は、日に十数個の割りで、新しい小惑星《アステロイド》を発見していた。スペースガード組織のコンピューターが、軌道を計算して巨大なメモリー・バンクに情報を貯蔵し、溜まっていく統計を数ヵ月ごとにまとめては、天文学者の一覧に供せるようにはからった。その統計はいまや、厖大なものになりつつあった。  十九世紀の夜が明けたそもそも最初の日に、最大の小惑星ケレスが発見されて以来、はじめの千個が収集されるまでには、百二十年以上かかった。以来何百という小惑星が、発見されては行方不明になり、また再発見された。群れをなして存在するそのさまは、ある天文学者が腹だちまぎれに空のウジ虫ども≠ニ呼んだほどだった。スペースガードの追っている小惑星の数が、五十万個に達すると知ったなら、かれはさだめし仰天したことだろう。  そのなかで五個だけ──ケレス、パラス、ユノ、エウノミア、ウェスターが、直径二百キロを越す巨塊で、あとの大部分は、せいぜい小さな公園をふさぐ程度の、特大型の玉石というところである。そのほとんどは、火星の外側に軌道をとっていた。  太陽にかなり接近して、地球を脅やかす危険のある少数の小惑星だけが、もっぱらスペースガードの関心を惹いた。そのうち、太陽系の存在するだろう未来永劫にわたって、地球から百万キロ以内を通過するものは、千に一つもなかった。  発見された年度と順序に従って、三一/四三九と最初に登録された物体が探知されたのは、まだそれが木星の軌道の外にいるうちだった。  位置については、べつに異常なところはなかった。いったん土星のむこう側まで出てから、ふたたび遠い主人、太陽の方角へ戻ってくる小惑星は、たくさんあった。ツーレUという小惑星などはいちばん極端で、天王星の失われた月ではないか、と思えるほどこの惑星すれすれにまで近づくのだ。  しかし、それほどの距離でもうレーダーに引っかかるというのは、前例がなかった。明らかに三一/四三九は、異常なサイズに違いない。エコーの強さから、コンピューターはその直径を、少なくとも四十キロとはじきだした。これほど大きい小惑星の発見は、この百年間絶えてなかったことだった。そんなに長い期間、見のがされていたというのは、信じがたいように見えた。  だが、軌道が算出されると、その謎は氷解した──ただし、さらに大きな謎がそれにとってかわったが。三一/四三九は、通常の小惑星が数年ごとに時計仕掛けの正確さでめぐっている楕円軌道を、たどっていなかった。  太陽系を訪れるのはこれが最初で最後の、孤独な恒星問の漂泊者だった──速度があまりに早すぎて、太陽の重力場では捕えきれないのだ。たぶん、木星、火星、地球、金星、水星の軌道を、外から内へ次々によぎりながらスピードをあげ、最後に太陽をひとまわりして、ふたたび未知の空間へと飛び出していくのだろう。  コンピューターが、「ねえちょっと! おもしろいものがありますぜ!」という信号を出しはじめ、三一/四三九の存在がはじめて人類の目に止まったのは、この時点である。  スペースガード本部では、ひと騒ぎあったあと、この恒星間の漂泊者にただの数字にかわる立派な名称を、大急ぎであたえることになった。天文学者たちは、もうとうの昔に、ギリシャとローマ神話の名前を使いはたし、いまはヒンズー教の神殿を漁りまわっていた。そこで三一/四三九は、ラーマ(インドの大叙事詩ラーマーヤナに出てくる英雄神)と命名された。  数日のあいだ、報道機関はこの訪問者をめぐって騒ぎたてたが、なにぶんあたえられる情報が少なすぎたので、思うにまかせなかった。ラーマについて判明した事実は、二つだけだったのだ──その異常な軌道と、およその大きさである。それとて、レーダー・エコーの強さにもとづいて計算された推定値にすぎない。望遠鏡を通して見ても、ラーマはまだ、弱々しい十九等星ほどにしか見えなかった──小さすぎて、円盤状にも見えないほどだった。でも、太陽系の中心部に突入すれば、月ごとに明るさと大きさが増してくる。永遠に姿を消すまえに、その形状と大きさに関するもっと正確な情報を、|軌 道《オービティング》観測所が集めてくれるだろう。  時間はたっぷりあったし、おそらくむこう数ヵ月のうちには、偶然まぢかな航路をとる商用宇宙船か何かが、いい写真を撮ってくれそうだ。ランデヴーをやることは、まずなさそうだった。毎時十万キロ以上の速度で諸惑星の軌道を横断していく物体と、物理的接触をおこなうのは、エネルギー・コストの点でまったく引きあわないのだ。  というわけで、世界はじきにラーマのことを忘れてしまった。だが、天文学者は忘れなかった。この新発見の小惑星が、新たな謎を次から次へと提示するにつれて、かれらの興奮はしだいにつのっていった。  まず第一に、ラーマの光量変化曲線の問題があった。変化がまったくなかったのだ。  あらゆる既知の小惑星は、一つの例外もなく、その輝きかたに緩慢な変動が見られ、数時間おきに盈《み》ち欠けをくりかえす。これは小惑星自体の回転と不規則な形状からくる、必然的な結果だということは、もう二世紀以上もまえから認められていた。くるりくるりとひっくり返りながら公転しているので、太陽に向ける反射面が不断に変化し、それにつれて輝きかたも変るのだ。  ところが、ラーマはそのような変化を示さなかった。これはまったく自転していないか、それとも完全に対照形をなしているか、のいずれかを意味していた。どちらの説明もひとしく、ありえないように見えた。  その後数ヵ月、この問題は宙に浮いたままだった。巨大な|軌 道《オービティング》望遠鏡はどれもこれもみな、宇宙の遠い深淵を覗きこむいつもの仕事に、出はらっていたからだ。空間《スペース》天文学は、金のかかるホビーで、巨大装置を一分使うだけで、ゆうに一千ドルはかかる。もしもっと重要な計画が、たった五十セントの集光装置一個の故障で、一時的に中断されなかったなら、ウィリアム・ステントン博士はけっして、ファーサイド二百メートル反射鏡をたっぷり十五分間も使用することはできなかっただろう。同僚天文学者の不運が、かれにとっては幸運だったわけだ。  ピル・ステントンが、自分の得たデータの価値を知ったのは、翌日、コンピューターに結果の処理をやらせてからだった。そのデータが表示スクリーン上にやっと写しだされたときでさえ、それが何を意味するのかをのみこむのに、数分はかかった。  けっきょく、ラーマから反射される太陽光線の強さは、完全に一定ではなかった。ごくわずかながら変動はしていた──探知するのも困難なほどだが、さりとて誤測はありえず、きわめて規則正しかった。  ほかのあらゆる小惑星同様、ラーマもやはり自転していたのである。ただ、通常の小惑星の一日≠ヘ、数時間なのに、ラーマのそれはたった四分[#「四分」に傍点]だった。  ステントン博士はすばやく計算してみて、その結果にますますわが目を疑った。この小世界の赤道部分は、時速一千キロ以上で回転しているにちがいない。とすると、もし着陸するなら、両極以外の場所を選ぶのは、剣呑《けんのん》というものだ。ラーマの赤道部分の遠心力は、その上に載っかるどのような物体も、ほとんど一Gに近い加速度をつけてはじき飛ばしてしまうにちがいない。  ラーマは、いわば宇宙のコケがつかない|転 が る 石《ローリング・ストーン》なのだ。そんな天体なら、とっくの昔にちりぢりばらばらに分解していてもよさそうなのに、ちゃんと一つにまとまったままでいるとは、驚嘆すべきことだった。  さしわたし四十キロで、自転周期がたった四分の物体──そんな天体がいったい、天文学的全知識体系のどこにあてはまるというのか?  ステントン博士は少しばかり想像力がたくましく、ややせっかちに結論へ飛びつきたがる性格の人間だった。かれはすぐさま一つの結論に飛びつき、そのおかげで数分間、はなはだ不愉快な気分におちいった。  天界動物園のなかでこの特徴を満たす唯一の標本は、崩壊した恒星という考えである。おそらくラーマは、死んだ太陽なのだ──立方センチあたり何十億トンという重量の中性子球体が、気ちがいじみた自転をしているのにちがいない……。  このとき、ステントン博士の恐怖に満たされた心のなかを、一瞬ちらとかすめたのは、かのH・G・ウェルズ不朽の名作「妖星《ザ・スター》」の記憶だった。はじめてこの話を読んだのは、ごく幼いころのことで、それがかれの天文学に対する関心に、火をつけたのだ。書かれてから二世紀以上の時を経てもなお、この作品は魔力と戦慄とを失っていなかった。  宇宙から来た天体が、木星に衝突したあと、太陽めがけて地球をかすめ落ちていくさいに惹きおこす、凄まじいハリケーンや津波、海になだれこむ都市といった光景のイメージを、かれはけっして忘れることはできないだろう。なるほどウェルズが描いた星は、冷たくはなく、白熱していて、破壊の多くは熱によって惹きおこされた、という違いはある。だが、このさいそんなことは問題ではなかった。  たとえラーマが冷たい天体で、ただ太陽の光を反射しているだけだとしても、その重力によって、ほとんど火と同じぐらい容易に、破壊をもたらすことができるのだ。  太陽系内に恒星が侵入してくれば、かならずその質量が、惑星たちの軌道を完全に歪めてしまうだろう。地球がほんの数百万キロ、太陽の方角──または太陽系外の方角──へずれるだけで、気候の微妙なバランスはいっぺんに崩れるのだ。南極の氷冠が溶ければ、低地はすべて洪水に見舞われるし、海洋が凍結すれば、全世界が永遠の冬に閉じこめられる。どちらかの方角にちょっとつつくだけで、こと足りるのだ……。  そのとき急に、ステントン博士は気分が楽になり、ほっと安堵の溜息をもらした。そんな考えはばかげていた。かれは自分を恥じるべきだった。  ラーマが縮退物質でできているはずはない。恒星大の質量がこれほど深く太陽系内に入ってくれば、かならずとうの昔に、大混乱を巻きおこしているはずである。全惑星の軌道が影響を受けるに決まっている。海王星や冥王星や冥妃星《ベルセボネ》(現在は未発見の第十番惑星に対する架空の名)が発見されたのも、もとはといえばそれがきっかけだったように。  そうだ。死んだ太陽ほども重い物体が、だれにも気づかれずに忍びよることは、こんりんざい不可能なのだ。  ある意味では、残念だった。暗黒星との遭遇だったなら、どんなにかすばらしい出来事だろうに。  だが、そのあいだも、怪物体は刻々と……。 [#改ページ]      3 ラーマとシータ 〈|宇宙諮問会《SAC》〉の臨時会合は、短時間で終ったが、大荒れに荒れた。  二十二世紀になっても、あいかわらず、古手の保守的な科学者連中が地位をたてに、会を牛耳る悪弊からぬけだす方法は、見つかっていなかった。実際、この問題のカタがいつになったらつくのか、それさえ見当がつかなかった。  さらにまずいことに、SACの現会長は、かの知らぬ者なき宇宙物理学者、オラフ・デヴィッドスン(名誉)教授だった。この男は、銀河宇宙よりも小さな物体には、あまり関心がなく、その偏見を隠そうともしない人物だった。  しかも、自分の分野の九十パーセントまでが、いまや宇宙に浮かぶ機械からの観測に願っていることを、認めざるをえないにもかかわらず、かれはそのことを少しも感謝していなかったのだ。その輝かしい経歴のなかで少なくとも三度、自説の証明のためにわざわざ打ちあげた人工衛星が、みごとに正反対の証明をやってしまったからである。 〈諮問会〉に提出された問題は、しごく単純明快だった。ラーマが異常な天体であることは、もはや疑問の余地がない──だが、はたして重要な天体だろうか?  あと数ヵ月もすれば、永遠に姿を消すとあれば、ためらっているひまはない。いま機会を逸すれば、二度とはないだろう。  かなり余分な費用はかかるが、ちかぢか火星から海王星のむこうまで飛ばす予定の宇宙探測機《スペース・プローブ》の軌道を修正すれば、ラーマとすれちがう高速弾道に乗せられそうだった。ランデヴーの望みはない。おそらく通過時間の最短記録になりそうだった。  なにしろ両物体は、たがいに時速二十万キロですれちがうのだ。ラーマを集中的に観察できるのは、ほんの数分──実際の接近撮影時間は、一秒とないだろう。しかし、装置さえ正しく作動すれば、それだけでも多くの問題の決着をつけるには充分だった。  デヴィッドスン教授としては、この海王星探測機にも強い偏見を抱いていたが、すでに可決されたことだったので、いまさら泥棒に追い銭をやることに意義を認めなかった。  かれは小惑星の追跡などいかに愚かなことであるか、そして新たに甦った宇宙大爆発《ビック・バング》生成論を今度こそ証明するために、月面に高解像力の新型干渉観測器を設置することがいかに必要か、滔々と弁じたてた。  これは重大な作戦ミスだった。なぜなら、この諮問会のメンバーのなかには、修正|定常宇宙論《ステディ・ステート》の熱烈な支持者が、三人もいたからだ。かれらも内心では、小惑星追跡などは金のむだづかいだという、デヴィッドスン教授の意見に賛成だったのだが……。  教授は一票の差で敗れた。  三ヵ月後、新しくシータ(ラーマーヤナに出てくるラーマの妻)と改名された宇宙探測機が、火星の内周衛星フォボスから打ち上げられた。七週間の飛行ののち、遭遇まであと五分という段階になって、装置が全開状態に切りかえられた。同時に、カメラ・ポッドの集団が放出されて、四方から撮影できるように、ラーマの周囲を飛びすぎた。  最初の画像が一万キロのかなたから送られてきたとたん、全人類の活動は、はたと停止した。  十億のテレビ・スクリーンに、一個のちっぽけななんの変哲もない円筒《シリンダー》物体の、一秒ごとに大きくなってくる姿が映しだされた。それが二倍のサイズに達したころには、もはやだれも、ラーマが天然の物体だというふりをすることはできなくなっていた。  その胴体は、幾何学的に完壁な円筒型で、まるで旋盤に──それも主軸の両センター間が五十キロもあるような──かけて作ったように見えるほどだった。両端は、一方の面の中央部に小さな構造物があるほかは、まっ平らの平面で、直径二十キロほどあった。遠距離からまだスケールの実感がぴんとこない状態で見ると、ラーマの形は、ごくありふれた家庭用のボイラーに、滑稽なくらいそっくりだった。  ラーマはとうとう、画面いっぱいに広がった。その表面は、光沢のないくすんだ灰色を呈し、月面のように無色の感じで、一点をのぞいてまったく特徴を欠いていた。円筒のちょうどなかごろのところに、大昔、何かがぶつかった跡のような、約一キロ幅の汚れ、というかしみ[#「しみ」に傍点]がついていたのである。  その衝撃が、ラーマの回転する壁面に損傷をあたえたようなフシは、まったくなかった。ただ、ステントンの発見を導いた光量のわずかな変動は、この汚点のせいであることが判明した。  ほかのカメラからの画像は、なんの新情報もあたえてくれなかった。それでも、カメラ・ポッドがラーマの微弱な重力場のなかを飛んだ軌跡から、もう一つ、重大な情報が割りだされた──円筒の質量だ。  中身の詰まった物体にしては、それは軽すぎた。いまさらだれもさして驚きはしなかったが、ラーマは中空の物体であることが、いまや明白になった。  長いあいだ期待され、長いあいだ恐れられてきた出会いが、とうとう実現したのだ。人類はいま、宇宙からの最初の訪問者を迎えようとしているのだった。 [#改ページ]      4 ランデヴー  ノートン中佐は、ランデヴーのいよいよ最後の瞬間に、もう飽きるほどくりかえし映してみた最初のテレビ画面を、ふと思いおこした。だが、電子工学的な画像では、どうしても伝えきれないものが一つある──それはラーマの圧倒的な巨大さだった。  月や火星のような天然の天体に着陸したときには、そのような印象を受けた覚えがなかった。これらは星であり、当然大きいものという期待があった。だから、木星の第八衛星に着陸したときにも、ラーマよりやや大きいぐらいなのに、ひどく小さい物体のように感じたものだ。  このパラドックスの謎ときは簡単である。中佐の判断は、これが人工物体で、人類がこれまで宇宙へ送りだしたいかなる物体より、何百万倍もでかい、という事実に大きく影響されていた。ラーマの質量は、少なくとも十兆トンはあった。いかなるスペースマンにとっても、これは畏敬の念をかきたてるだけでなく、恐怖をさえ覚えさせる重さだ。  人の手になる不滅の金属で作られたこの円筒物体が、ぐんぐん天空いっぱいに拡がるにつれて、かれが何度か、卑小感にとらわれ、憂欝さえ感じたのも、むりはない。  そのうえ、なんとなく危険な感じもあった。これはかれにとって、まったく新しい体験だった。これまでの着陸では、何を予期すべきかがわかっていた。不慮の事故がおきる可能性はつねにあったが、驚異に惑わされることはなかった。だが、ラーマの場合は、驚異だけが、ただひとつ確かなことなのだ。  いま、エンデヴァー号は円筒物体の北極≠フ上、ゆっくりと回転する円盤部分のど真んなかから千メートルもない高さのところに、停まっていた。  こちらの端が選ばれた理由は、太陽に向いているからだった。ラーマの回転につれて、中心軸付近にある、背の低い謎めいた構造物の影が、金属の平面を着実にすべっていく。ラーマの北面は、四分という一日の迅速な時の経過を刻む巨大な日時計だった。  五千トンの宇宙船を、回転する円盤面の中央に着陸させること自体については、ノートン中佐はまったく心配していなかった。巨大な宇宙ステーションの主軸部にドッキングさせるのと、少しも変わりはない。すでにエンデヴァー号の側面|噴射管《ジェット》が、船に同じ回転をあたえていた。航宙コンピューターの助けのあるなしにかかわらず、ジョー・キャルヴァート中尉が、船を雪の一片《ひとひら》のように、そっと降ろしてくれるはずだった。 「あと三分で」と、ジョーはディスプレー装置から目を離さずに、告げた。「こいつが反物質でできているかどうかがわかりますよ」  ノートンは、ラーマの起源に関する、身の毛のよだつような仮説を、ちょっぴり思いだしてにやにやした。もしこのありそうもない仮説が正しかったら、もうすぐ太陽系|開闢《かいびゃく》以来の大爆発がおこることになる。一千トンの物質が完全消滅すれば、惑星たちはつかの間のあいだ、第二の太陽を拝めるだろう。  もっとも、今度の任務には、この万に一つの可能性さえ、ちゃんと考慮に入っていた。  エンデヴァー号は一千キロの安全距離から、ラーマにひと吹き、ジェット噴射を浴びせかけてみたのだ。蒸気の雲が拡散しながら標的に到達したが、まったく何ごともおこらなかった──だが、ほんの数ミリグラムの正反物質反応でも、恐ろしい花火騒ぎがはじまるはずなのだ。  ノートンは、宇宙船の指揮官ならだれでもそうだが、用心深い男だった。かれはラーマの北面を、時間をかけてじっくり観察してから、降下地点を選んだ。熟考のすえ、最適の場所──きっかりど真んなか、中心軸そのものの上は、避けることに決めた。北極≠中心として、直径百メートルほどの輪郭のはっきりした円形部分が見え、それをノートンは、巨大なエアロックの外部弁にちがいない、と睨んだのだ。  この中空の世界を建設した生物たちは、自分たちの船を内部に取りこむ通路をもっていたはずである。論理的に考えて、ここがおもて玄関には最適だったから、自分の船でそのフロント・ドアを塞いでしまうのはまずいだろう、とかれは考えたのだった。  だが、この決定は別の問題を生みだした。もし中心軸からほんの数メートルでも離れた場所に降りると、ラーマの早い回転が、エンデヴァー号を徐々に北極≠ゥら遠ざけてしまう恐れがあった。最初のうちは、遠心力はきわめて微弱だが、それが容赦なく連続的に加えられるのだ。ノートン中佐は、自分の船が極の平面を、刻一刻スピードを増しながら滑っていき、円盤面のへりに達すると、時速一千キロの早さで宇宙空間へ放りだされてしまう光景を想像して、不愉快になった。  ただラーマの弱い重力場──地球の約一千分の一ほどある──が、それを防いでくれる可能性もあった。その重力場がエンデヴァー号を、数トンぐらいの力で平面に押しつけてくれるから、もし表面がざらざらしていれば、船は北極≠フ近くにとどまってくれるだろう。だが、ノートン中佐としては、あるかないかわからない摩擦力とまちがいなく存在する遠心力とを、両天秤にかけるつもりは、毛頭なかった。  幸いなことに、ラーマの設計者たちが、解答を用意してくれていた。極軸のまわりを、直径十メートルほどの低い、トーチカ状の構造物が三個、等間隔でとりかこんでいた。そのいずれか二つの中間に、エンデヴァー号を降ろせば、ちょうど船が打ちよせる波のおかげで、埠頭から離れなくなるように、遠心力によって押しつけられ、がっちり食いとめられることになりそうだ。 「十五秒で接触」と、ジョーが告げた。  複雑な制御装置の上で身を硬ばらせ、それに触れずにすむことを願いながら、ノートン中佐は、すべてがこの一瞬にかかっていることを、痛いほど意識した。たしかにこれは、一世紀半前の史上最初の月着陸以来、もっとも重要な意味をもつ着陸なのだ。  操縦室の窓の外を、灰色のトーチカがゆっくりとせりあがっていった。反動噴射管の最後のひと吹きにつづいて、ほとんど感じられないくらいの衝撃がきた。  過去数週間のうちに何度か、ノートン中佐は、この瞬間になんといおうか、と考えたものだった。だが、いざその場になってみると、キャリアが自然にかれの言葉を選び、中佐はほとんど機械的に、それが過去の谺《こだま》であることすら意識せず、こういった。 「こちらラーマ基地。エンデヴァーはただいま着陸を完了」  ついひと月前まで、中佐はこんなことになろうとは夢にも思っていなかった。命令がとどいたとき、かれの船は、小惑星警報ビーコンの点検と敷設という、いつもの任務についていた。エンデヴァー号は、侵入者が太陽を旋回して、ふたたび星のかなたへ飛び去ってしまうまえに、それとランデヴーできそうな太陽系内唯一の宇宙船だったのだ。  それでもなお、〈太陽系調査局《ソラー・サーヴェイ》〉所属のほかの三隻から、燃料をもらわなければならず、おかげでその三隻はもっか、タンカーが再補給してくれるまで、無力に漂流中なのだった。カリプソ、ビーグル、チャレンジャー各号の艦長たちとまた話を交せるようになるまでには、そうとう時間がかかるのではないか、とノートンは心を痛めていた。  こうして推進剤を余分に貯えてさえ、長い苦しい追跡であった。  ようやくエンデヴァー号が追いついたとき、ラーマはすでに、金星軌道の内側に入っていた。ほかの船では、とうてい追いつけなかったという点で、この特権はかけがえのないものではあるが、そのかわり今後数週間のあいだ、一瞬たりとも無駄に費やすことは許されない。このチャンスと引き替えなら、喜んで命を投げだす科学者が、地球上に千人はいるだろう。だが現実には、われわれ[#「われわれ」に傍点]だったらもっとずっとうまく仕事をやってのけるのに、などと切歯扼腕腕しながら、喰いいるようにテレビの画面をみつめる以外、かれらにもどうにもならないことなのだ。  かれらの考えはたぶん正しかっただろうが、ほかに手段はない。天上の力学《メカニクス》の無慈悲な法則は、人類の有するあらゆる宇宙船のなかで、エンデヴァー号だけを、ラーマと接触できる最初にして最後の船と定めたのである。  ひっきりなしに地球から送られてくる助言も、ノートンの責任を軽減してくれる助けには、ほとんどならなかった。そのくせ寸秒を争う決断を迫られるときには、だれの力も借りることができないのだ。 〈作戦司令部〉と交す無線の|時間ずれ《タイム・ラグ》は、すでに十分になり、なお増大していた。かれはときどき、電波通信の始まる以前の時代の偉大な航海者たちが、羨ましくなった。かれらは本部にいちいちお伺いをたてる必要もなく、ただ密封された命令書をかってに解釈すればよかった。たとえかれら[#「かれら」に傍点]がへマをやっても、だれにも気づかれずにすんだのだ。  とはいえ一方では、場合によっては決定を地球側に委ねることができることを、かれは喜んでもいた。  エンデヴァー号の軌道が、ラーマのそれと一致したいま、両者は一体となって太陽の方向へ突進していた。あと四十日でかれは近日点に到達し、太陽から二千万キロ以内のところを通過するだろう。これはあまりに近すぎて、危険だった。それよりずっと以前に、エンデヴァー号は残りの燃料を使って、より安全な軌道にまで脱出していなければならない。おそらく、探険を三週間続けたあと、ラーマに永遠の別れを告げることになりそうだった。  それから以後の問題は、地球まかせだ。エンデヴァー号は事実上お手あげの状態で、ほかの恒星へ到達する最初の宇宙船にしてくれる軌道の上を──ただし、到達するのはほぼ五万年先の話だが、どんどんつっ走ることになる。  だが、心配する必要はない、と〈作戦司令部〉は約束してくれた。採算は度外視して、なんとしてでもエンデヴァー号の燃料補給は遂行されるだろう──たとえ、追ってきたタンカーを、推進剤を最後の一滴まで移し終わったあと、宇宙空間に放棄しなければならないはめになったとしても。  ラーマは、生還不能の特攻任務は別として、どのようなリスクもおかす価値のある獲物だったのだ。そしてもちろん、生還不能になることさえ考えられた。その点で、ノートン中佐も幻想を抱いてはいなかった。  この百年間ではじめて、人間の問題に完全な不確定《アンサーテンテイ》の要素がまぎれこんできたのだ。不確定ということは、科学者にとっても政治家にとっても、我慢のならないことである。もしそれを解決する代償であるならば、かれらはエンデヴァー号とその乗員たちの命を犠牲に供することもいとわないだろう。 [#改ページ]      5 最初の船外活動  ラーマは墓石のように黙りこくっていた──というより、おそらく墓石そのものだった。  あらゆる波長にわたって、なんの無線信号もなかった。まぎれもなく太陽の加熱増大が惹きおこす微震動を別にして、地震計がキャッチできるほどの震動もないのだ。電流も流れていないし、放射能もない。  ラーマは無気味なくらいに静まりかえっていた。小惑星でさえ、もうちょっと騒がしいのではないか、とさえ思えてくるほどだ。  われわれは何を期待するというのだ? とノートンは自問した。歓迎委員会か?  失望すべきなのか、安心すべきなのか、かれにはよくわからなかった。いずれにしろ、主導権《イニシアチヴ》はどうやら、こちらにありそうだ。  かれの受けた命令は、二十四時間待ってから船外に出て、探険を開始せよ、というものだった。最初の一日は、みなほとんど一睡もしなかった。非番の乗員までが、むなしい探査を続ける装置を監視したり、ただぼんやりと観測窓から、完全に幾何学的な光景を眺めたりして、時間をつぶした。  この世界は生きているのだろうか? と、かれらは何度も何度も自問した。それとも死んでいるのか? あるいは、ただ眠っているだけなのか?  最初の船外活動《EVA》にあたって、ノートンは隊員を一人だけ同行させた──タフで機略縦横で、頼りがいのある士官カール・マーサー少佐だ。船から見えなくなるところまで離れるつもりはなかったし、もしトラブルがおきた場合、人数が多いほど安全になるとも思えなかった。ただ、念のため、部下をあと二人、宇宙服を着たままエアロック内に待機させておくことにした。  ラーマの重力と遠心力とのかねあいが生みだす、ほんの数グラムの重量は、なんの助けにも妨げにもならなかった。かれらはもっぱら、噴射装置に頼るほかなかった。できるだけ早い時期に、船とトーチカとのあいだに案内綱《ガイドライン》をあやとり式に掛けわたして、推進剤を浪費せずに動きまわれるようにしよう、とノートンは考えた。  最寄りのトーチカは、エアロックから十メートルしか離れていなかったので、ノートンはまずまっさきに、この着陸で船体が傷まなかったかどうか調べてみた。エンデヴァー号の船体は、トーチカの彎曲した壁に、数トンの重みをわけて止まっていたが、その圧力は均等に分散されていた。  かれはひと安心すると、こんどはこの円形構造物の用途を突きとめようと、周囲を漂い歩きはじめた。  数メートルも行かないうちに、滑らかな金属質の壁面がとぎれた箇所に出くわした。はじめかれは、それをなにか特別の装飾物ではないかと考えた。見たところ、なにも有用な機能をもっていそうには見えなかったからだ。  六本の放射状の溝、というか凹みが、金属面に深く刻みこまれ、そのなかに六本の交差した金属棒が、ちょうど枠《わく》のない車輪の輻《や》のように、小さな|こしき《ハブ》を中心にして嵌めこまれていた。だが、この車輪は壁面に埋めこんであるため、どっちの方向にも回転のさせようがなかった。  そのときかれは、しだいにつのる興奮とともに、どの輻の先端のところにも、一段と深い凹みがあり、手を(鉤《かぎ》爪でも? 触手でも?)かけやすい形になっていることに気がついた。もしこう立って、壁に向きあい、こう輻を引っぱれば……。  なんの抵抗もなくするりと、車輪は壁の外へ滑りでた。呆然として──というのも、可動部分はぜんぶ、とっくの昔に真空溶接されているとばかり思いこんでいたからだ──ノートンは車輪を握ったままつっ立っていた。舵輪を握った昔の帆船船長よろしくの格好で。  宇宙帽のひさしのおかげで、表情をマーサーに読まれずにすんだことをひそかに感謝した。  かれは驚愕しただけでなく、自分に腹をたててもいた。たぶんもう、最初のへまをしでかしてしまったのだ。いまごろラーマの内部では、警報が鳴りひびいていて、自分の無分別な行動が、制止のきかない何かの機構《メカニズム》を、すでに起動させてしまったのではないだろうか?  だが、エンデヴァー号からは、なんの異常も報告してこなかった。その感覚装置は、加熱による軋み音とかれらの移動のほかは、何も探知しなかった。 「さて、艦長《スキッパー》──回してみようか?」  ノートンは受け取った指令を、もう一度思いだしてみた。 きみの判断に任せるが、慎重に行動せよ  一《ひと》手進めるごとに、いちいち〈作戦司令部〉に指示を仰いでいた日には、一歩も動けないこと請けあいだった。 「きみはどう判断するかね、カール?」かれはマーサーに訊いた。 「これは明らかに、エアロックの手動装置だ──たぶん、動力故障のさいの非常用|予 備《バックアップ》装置じゃないかな。どんなに進歩していても、そうした予防措置を講じておかないテクノロジーなんて[#「なんて」に傍点]考えられない」 「一種の安全保障装置《フェイル・セーフ》でもあるね」と、ノートンは考えた。「システム全体に危険がないかぎり、動かせるようになっているわけだ……」  かれは向きあった二本の輻《や》をつかむと、足をふんばって、車輪を回転させようとした。車輪はびくともしなかった。 「きみも手をかしてくれ」かれはマーサーに頼んだ。  二人で一本の輻をつかむと、渾身の力をこめたが、やはりびくりとも動かなかった。  もちろん、ラーマの時計や栓抜きが、地球と同じ向きにまわらなければならない理由は、さらさらない……。 「逆の方向にやってみよう」と、マーサーが提案した。  今度は、なんの抵抗もなかった。車輪はほとんどぞうさなく、ぐるりと一回転した。それから、ごくわずかずつ重みが加わってきた。  五十センチむこうで、トーチカの彎曲した壁が、さながらのろのろと口を開ける 蛤《はまぐり》 のように、動きだした。漏出する空気の渦に追いたてられたいくつかの塵粒が、燦然たる陽光に捕えられたとたん、きらめくダイヤに変身して外へ流れでた。  いまこそ、ラーマへの道が開かれたのだ。 [#改ページ]      6 委 員 会 〈惑星連合〉の本部を、月の上に置いたのは重大な過ちだった、とボース博士はよく考えることがある。  必然的な結果として、地球がわがもの顔に振るまうようになっていた──ちょうど、ドームの外の光景に、地球がわがもの顔にのさばっているように。どうしてもここに建てねばならない[#「ねばならない」に傍点]、というのならせめて、あの眠りに誘いこむような円盤《ディスク》から、けっして魔の光のとどかない月の|裏 面《ファーサイド》にすべきだったのだ……。  しかし、もちろん、いまさら変えるには遅すぎた。いずれにせよ、かわるべき場所もなかった。植民地の好むと好まざるとにかかわらず、地球は今後も幾多の世紀にわたって、太陽系の文化的経済的|支 配 者《オーヴァーロード》として君臨するだろう。  ボース博士は地球の生まれで、三十になってから火星へ移民していた。だから、比較的感情に惑わされず、政治状況を見ることができるつもりだった。  かれは自分が二度と、故郷の星へ戻ることはあるまいということを知っていた。その気になれば、連絡船《シャトル》でここからたった五時間の距離だったのだが。齢《よわい》一一五、すこぶる健康ではあったが、すでに生涯の大半を馴れ親しんできた重力の三倍のそれに、肉体を順応させる再調節訓練《リコンディショニング》には、とても立ちむかう気になれなかった。  かれは自分の誕生の地から、永遠の追放を受けたのだ。とはいうものの、感傷的性格の人間ではなかったから、そのことで不当に憂欝になることはなかった。  時としてかれを憂欝にさせたのは、むしろ明けても暮れても同じ顔ぶれとつきあわねばならないことのほうである。医学のもたらした驚異のかずかずは、どれもすばらしいものだし、いまさら時計の針を逆戻りさせたいとは毫も望まない──でも、この会議テーブルのまわりに坐っている連中とは、もう半世紀このかた、いっしょに仕事をしてきた仲なのだ。  博士はかれらが、この議題ではどう発言し、あの議題ではどう票を投じるか、たなごころを指すように知っていた。かれらのうちのだれかが、いつか、とことん予想外のことを──まるきり気ちがいじみたことでもいいから──しでかしてくれないものかと、かれは心待ちしていた。  そしておそらく、かれらのほうでもまた、かれに対して同じような感じかたをしていたにちがいない。 〈ラーマ委員会〉は、じきに改組されるだろうことは目に見えていたが、いまのところはまだ、扱いやすい程度に小規模だった。かれの六人の同僚──水星、地球、月、ガニメデ、タイタン、トリトンの惑連《UP》代表委員──は、全員じきじきに出席していた。  本人自身の出席はやむをえなかった。太陽系距離になると、電子工学的外交は不可能になるからだ。年輩の政治家のなかには、地球では長いあいだ当然のこととされてきた即時通話に馴れすぎたあまり、電波が惑星間の深淵を飛び越えるには何分も、あるいは何時間もかかる、という事実にどうしてもなじむことができない者もいた。 「あんたがた科学者にも、どうにもできないのかね?」  地球とその遠い子供たちとのあいだには、直接面とむかった会話は不可能なのだと聞かされると、かれらはいつも苦々しげに、そう不平をかこったものだ。ただ月だけが、ほとんどあるかなきかの一・五秒の遅れですんだ──それでも、そこには微妙な政治的心理的なあやが含まれざるをえなかった。天文学的に見た生活面のこの事実ゆえに、月は──そして月だけ[#「だけ」に傍点]が──いつまでも地球の郊外という地位に甘んじなければならないのだった。  同じくじきじきの出席者に、同委員会の別メンバーとして選出された専門家のうち三人がいた。  天文学者のデヴィッドスン教授は、古い顔見知りである。今日は、いつもの癇癪もちらしいところが、影をひそめていた。ボース博士は、ラーマへの最初の探測機打ちあげにさきだってあった、例の内輪もめについては知る由《よし》もなかったが、教授の同僚たちがかれにそれを忘れさせなかったのだ。  セルマ・プライス博士は、テレビの出演回数の多さで、顔を知られていた。もっとも、彼女が最初に名をあげたのは、五十年前、あの広大な海洋博物館、地中海の干し上げ作戦に続いておこった考古学ブームの最中である。  ボース博士はあのときの興奮を、いまでもまざまざと憶えていた。ギリシャ、ローマ、そのほか十指にあまる文明の失われた財宝が、白日のもとにさらけ出されたのだ。このときばかりは、さすがにかれも、火星に住むわが身が残念でならなかったものだ。  宇宙生物学者のカーライル・ペレラも、当を得た人選だし、その点では、科学史家のデニス・ソロモンズも同じだった。ただボース博士としては、高名な人類学者コンラッド・テイラーの出席が、やや気にくわなかった。この男は、二十世紀後半のビヴァリー・ヒルズにおける思春期風習の研究で、学問とエロティシズムを独創的に結びつけたことで、名を高めた人物だった。  しかし、たぶんだれよりもこの委員会に選ばれてしかるべき人物は、リュイス・サンズ卿をおいてほかにはなかっただろう。その豊かな学殖にふさわしい都会的洗練の持主として、リュイス卿は、当代のアーノルド・トインビーと呼ばれるときにだけ、落ちつきを失うというもっぱらの評判だった。  この偉大な歴史学者は、じきじきの出席ではなかった。かれはこれほど重大な意義をもつ会合にさえ、地球を離れて出席することをかたくなに拒んだ。本物と寸分見わけのつかないかれの立体画像《ステレオイメージ》は、ボース博士の右隣りに、見かけだけの座を占めていた。この幻像に最後の仕上げをほどこすように、だれの機転か、一杯のグラスが、そのまえに置かれていた。  ボース博士としては、こういった種類の科学技術的|離 れ わ ざ《ツール・ド・フォルス》など無用の長物と考えていたが、にもかかわらず、申しぶんなく立派な人物でありながら、同時に二ヵ所に現われることに子供じみた喜びを示す人がいかに多いかは、驚くほどだった。  ときには、この電子工学的奇蹟が、とんだ悲喜劇を演出することもあった。かれがいあわせたある外交上のレセプションでのことだが、ある男がてっきり立体画像とばかり思いこんでいた人物を通りぬけようとして──気づいたときには、もう遅すぎた。それは本人そのものだったのだ。もっと滑稽だったのは、投影物同士、握手しようとしかけたのを目撃したときで、あれは……。  わが惑星連合火星大使閣下は、とりとめのない回想から、はっとわれに帰ると、咳ばらいをして告げた。 「では諸君、当委員会の開会を宣します。私としましては、この集まりはユニークな事態に対処するために、ユニークな才能の方方にお集まりいただいた会合、とこう申しあげても過言ではない、と考える次第です。われわれが事務総長から受けた意向としては、この事態を正しく評価し、必要に応じてノートン中佐に助言をする、ということであります」  これは奇蹟ともいえるほど、極端に単純化したいいかただった。だれもがそれに気づいていた。現実に非常事態に立ちいたらないかぎり、この委員会がノートン中佐に直接連絡をとることは、まずないだろうからだ──実際、中佐がこの委員会の存在を知らされているかどうかさえ、あやしいものだった。 〈ラーマ委員会〉は、〈惑星連合科学機構〉が、長官を通じ事務総長にとどけでて組織した臨時の会議だった。〈太陽系調査局〉が惑連《UP》の所属機関であることは、事実である──だが、活動[#「活動」に傍点]部門であって、〈科学機構〉に属しているわけではないのだ。でも、理屈からいえば、だからといって、たいしたちがいがあるわけではない。 〈ラーマ委員会〉が──それをいうなら、だれだろうと──ノートン中佐を呼びだして、有益な助言をして悪かろうはずはない。  しかし、|遠 宇 宙《ディープスペース》通信は非常に金がかかる。エンデヴァー号に連絡をつけるには〈惑星通信社《プラネットコム》〉を通す以外になかったが、この会社は、商売に厳格かつ能率的ということで有名な独立採算制の会社だった。同社の信用を取りつけるには、長い期間が必要で、現在どこかでだれかが、その働きかけをおこなっていたが、当面はまだ、〈惑星通信社〉の非情なコンピューターが、〈ラーマ委員会〉の存在を認めてもくれない状態だった。 「このノートン中佐という男だが」地球大使のロバート・マッケイ卿がいった。「かれにはとほうもない責任がかかっている。いったい、どんな人物なんだね?」 「私がお答えできる」  デヴィッドスン教授が記憶|装置《パッド》のキーボードに指をひらめかせた。スクリーンいっぱいに現われた情報に、顔をしかめると、即座にかいつまみはじめた。 「ウィリアム・チェン・ノートン、二〇七七年、大洋州《オセアニア》ブリスベーンで出生。シドニー、ボンベイ、ヒューストンで勉学。ついでアストログラードで五年間、推進機構を研究。二一〇二年に任官。通常の昇進をつづけ──第三次|冥妃星《ペルセボネ》探険で中尉。第十五次の金星基地建設作戦で、名をあげる……ふむ……ふむ……模範的記録……地球・火星の二重国籍……ブリスベーンに妻と子供が一人……ポート・ローウェルに妻と子供二人、三人目の選抜権あり……」 「妻の、ですか?」と、テイラーが無邪気に聞いた。 「いや、子供だよ、もちろん」相手の顔がにやつくのを見るまえに、教授はどなった。  控えめな笑いのさざなみが、テーブルの周囲に広がったが、人口過剰の地球の出身者たちは、興がるよりはむしろ羨ましげな表情をした。厳しい処置を講じるようになってから、一世紀になるのに、地球はまだ人口を、目標の十億以下におさえることができないでいた……。 「……太陽系調査局調査船エンデヴァー号の艦長に任官。木星の逆行衛星へ最初の航宙……うむ、これは面倒な仕事だな……本作戦準備の下命当時は小惑星点検任務……どうにか限界を突破し……」  教授はディスプレーを消して、同僚たちを見あげた。 「われわれはきわめて幸運だったようですな、あのように急な事態で動かせた唯一の人間が、この男だったというのは。そこらへんにいる並みの船長にあたっても、しかたなかったところだ」  かれはまるで、馬《め》手に短筒、弓手《ゆんで》に三日月刀といった典型的な宇宙航路の義足海賊を指すようないいかたをした。 「記録だけでは、有能な男だということしかわからん」と、水星(現人口は一一万二五〇〇人、ただし増加中)の大使が反駁した。「今回のようなまったく新しい事態に、どう対処できますかな?」  地球の上で、リュイス・サンズ卿が咳ばらいをした。一秒半遅れて、月面上のかれも同じことをした。 「必ずしも新しい事態とは申せませんな」かれは水星人をさとした。「たとえ、それが最後におこってから、三世紀たっているにしてもです。かりにラーマが死んでいて、つまりだれもおらなんだら──これまでのところ、証拠のすべてがそれを暗示しておりますが──ノートンはまさに、滅亡した文明の廃墟を発掘する考古学者という役どころです」  かれは、うなずいて賛意を表したプライス博士に、慇懃な答礼を返した。 「明快な実例は、トロイのシュリーマンやアンコール・ワットのムオです。予想される危険はごく小さなものですが、むろん、不慮の事故を完全に締めだすわけにはまいりません」 「でも、パンドラ主義者の連中が話しているような、|仕掛け爆弾《ブービー・トラップ》や起爆誘発機構《トリガー・メカニズム》については、どうお考えですの?」プライス博士が訊ねた。 「パンドラ?」水星大使がせきこんで聞きかえした。「なんのことです?」 「気ちがいどもの運動ですよ」  外交官がよく見せたがるような、大げさな当惑もあらわに、ロバート卿が説明役をつとめた。 「ラーマは陰険きわまる危険を隠している、と思いこんでいるのです。開けてはならない箱だ、というわけですよ、ご存じのように」  ほんとう[#「ほんとう」に傍点]にこの水星人が知っているかどうか、内心かれは危ぶんだ。水星では、古典の研究が奨励されていなかったからである。 「パンドラ──偏執狂《パラノイア》か」と、コンラッド・テイラーが鼻であしらった。「そりゃむろん、そういうことも考えられはする[#「考えられはする」に傍点]が、なんでまた知的な種族が、わざわざそんな子供じみた策を弄さねばならんのかね?」 「まあ、そんな不愉快なことは抜きにしても」と、ロバート卿はつづけた。「ラーマがじつは生きていて、人が住んでいるという不吉な可能性は、まだ残るわけですな。そうなると、事態は二つの文明の出会い、ということになる──きわめて異なる科学技術レベル同士のね。ピサロとインカ。ペリーと日本。ヨーロッパとアフリカ、というところです。だいたいにおいてその結果は、いつも悲惨でした──一方にとって、あるいは両方にとって。べつに私は、進言しているわけではありません。ただ前例を指摘しただけです」 「ありがとう、ロバート卿」と、ボース博士は答えた。  小さな委員会に二人も卿《サー》≠ェいるというのは、少々厄介だな、とかれは内心思った。このごろは、英国人ならたいてい爵位叙勲の栄誉に浴していた。 「これでわれわれは、警戒すべき可能性をあらかた検討し終えたと確信します。それにしても、もしラーマ内部の生物が──ええと──悪意をもっているとした場合、われわれが何をしたところで、大勢に影響はありますかな?」 「こっちが逃げれば、無視してくれるかもしれませんよ」 「そうかな──連中は何十億マイルも遠方から、何千年もかかって旅してきたんですがね?」  議論はどうやら離陸地点に到達し、かってにひとり歩きをはじめていた。ボース博士は椅子にもたれかかって、もうほとんど口を開かず、意見がまとまるのを待ちうけた。  結果は、かれの予期したとおりになった。いったん最初のドアを開けてしまったのなら、ノートン中佐が第二のドアを開けないですます、ということは考えられないという点で、全員が一致したのである。 [#改ページ]      7 ふ た り 妻  もし妻たちが私のビデオ電報《グラム》を較べあったとしたら──ノートン中佐は、心配よりもむしろおかしさを感じながら、考えた──こいつはよけいなもめごとを背負《しょ》いこむことになるぞ。  これからかれは、長い電文をしたためて、複写《デュープ》を作り、私的な音信と愛のささやきをちょっぴりつけ加えただけで、あとはほとんどそっくり同じ電報を、火星と地球へ打とう、という魂胆だった。  もちろん、まさか妻たちがそんなことをするとは、まず考えられなかった。スペースマンの家族にだけ許される特別割引を考慮にいれても、それは高くつきすぎる。また、なんのプラスにもならないことだった。両家族はたがいにすばらしい関係を保っていて、誕生日や記念日にはいつも、挨拶状の交換を欠かさなかった。  それでも、全体として見れば、女たちがこれまで顔をあわさなかったのは、おそらく結構なことだったし、これからもたぶん顔をあわすことはないはずだった。マーナのほうは火星生まれだから、地球の強い重力には耐えられなかったし、キャロラインはキャロラインで、いちばん長くて二十九分という地球上の旅でさえ嫌がった。 「この電送が一日遅れてすまない」  中佐は、あたりさわりのない前置きのあとで、切りだした。 「この三十時間、ずっと船から離れていたのでね、信じられないかもしれないが……。  何も心配することはない──万事思いどおりにうまく運んでいる。二日もかかったが、どうやらエアロック機構の通過を完了したところだ。はじめからこれこれこうとわかっていたら、そんなことは二、三時間ですんだだろう。だが、われわれは無茶をせずに、まずリモコンのカメラをさきに送って、全ロックの周囲を十回もめぐらし、これがわれわれを捕えこむ罠でない──通り抜けたあと[#「あと」に傍点]でだ──ことを確認したのだ……。  どのロックも、仕組みは片側に小穴《スロット》のついた、単純な回転シリンダーだ。まずこちらの入口を入って、シリンダーを一八〇度回転させる──すると、小穴《スロット》がもう一つドアとぱったり合って、そこから歩きでられるわけだ。いや、この場合は、浮かびでるというのかな。  ラーマ人は何ごともいちいち念を押さなけりゃ気がすまなかったらしい。このシリンダー・ロックは三つあって、外壁のすぐ内側、入口トーチカの真下に、次々に重なっている。爆薬でも使って吹っ飛ばさないかぎり、一つだって破れるとはとうてい思えないが、かりに破れたとしても、あとに第二、第三が控えているというわけさ……。  しかも、それで[#「それで」に傍点]まだほんの手はじめなんだ。最後のロックが開くと、そこは通路で、まっすぐに半キロ近く続いている。清潔そうで整然としていて、これは見たものすべてに共通だ。数メートルおきに、たぶん照明装置でも入れてあったんだろうが、小さな窓穴があるが、いまはただ完全な真っ暗闇。白状するけど、こっちはもうびくびくさ。  それから、壁にはべつに、約一センチ幅の平行した二本の溝が彫られていて、トンネルを端から端までずっと走っている。これらの溝は、何か一種の連絡装置《シャトル》みたいなものが、貨物──か人間──を曳いて往復してたんじゃないかと、われわれは考えている。いまそれを利用できたら、ずいぶん助かるんだがね……。  さっき、このトンネルの長さを半キロといったね。そう、地震波測定によって、外殻の厚さもだいたいその程度、ということがわかっていたから、明らかにわれわれはそれを、あらかた突き抜けたわけだ。そして、トンネルのどんづまりには、もうわれわれも驚かなかったが、またもや、例のシリンダー式のエアロックがあった。  そうだ、またもやだ。それから、もう一つまたもや[#「またもや」に傍点]だ。  ここの連中は何ごとも、三つひと組でやらないと気がすまなかったらしい。われわれはいま、最後のロック室にたどり着いて、通過の許可が地球から来るのを待っているところだ。  ラーマの内部は、あとほんの数メートル前方にある。このじりじりした不安感が消えてくれたら、どんなにうれしいことか。  きみは副長《エクゼック》のジェリー・カーチョフを知ってるね? あんまりほんもの[#「ほんもの」に傍点]の本をどっさり買いこむんで、地球からほかの星へ移民する金がなくて困ってるやつさ。まあ、そのジェリーがいうには、ちょうどこれとそっくりな事件が、二十一世紀の──いや、二十世紀のはじめごろにあったんだそうだ。  ある考古学者がエジプト王の墓を発見した。墓荒らしどもにまだやられていないものとしては、最初のやつだった。人夫たちが何ヵ月もかかって掘り進み、一つまた一つと部屋を抜けて、とうとう最後の壁にたどりついた。石組みが破れると、かれはランタンを突きだして、首を突っこんだ。目のまえには、部屋一杯の財宝が──金や宝石や信じられないものが輝いていたという……。  おそらくこのラーマも、墓だろう。ますますそう思えてきたよ。いまだに、音ひとつコトリともしないし、どんな活動の気配もないんだ。まあ、明日になれば、はっきりするだろう」  ノートン中佐は、レコーダーを止め≠ノ切りかえた。それぞれの家族へむけた私信を吹きこむまえに、この仕事についてまだいい残したことはないかな、と思案した。ふだんはここまで枝葉にわたって話すことはしなかったが、この場合は特別だった。  かれが愛する者たちへ送る電報は、これが最後になるかもしれない。そうなったら、自分が何をしていたかを、かれらに説明してもらうつもりだったのだ。  かれらがこの映像を見、この声を聞くころ、かれはすでにラーマの内部へはいっていることだろう──そこに待ちうける運命が、吉か凶かは知る由もなかったが。 [#改ページ]      8 中心軸を抜けて  とうの昔に世を去ったあのエジプト学者に、これほど強い親近感を抱いたのは、ノートンとしてもはじめてだった。ハワード・カーターがツタンカーメンの墓をのぞいて以来このかた、このような瞬間にめぐりあわせた人間は、絶えて一人もいなかったからだ──とはいいながら、この比較自体、ばかばかしいほどナンセンスではあった。  ツタンカーメンが埋葬されたのは、ほんのきのうのことである──四千年もたっていないのだ。それに比べて、ラーマは人類そのものより古いものかもしれなかった。〈王家の谷〉のあのちっぽけな墓は、かれらがいましがた通ってきたトンネルにさえ、すっぽり入ってしまうほどの大きさだが、この最後の封印のかなたに横たわる空間は、少くともその百万倍はある。そして、そこに秘められた財宝の価値についていうなら──まさに想像を絶するのだ。  少なくとも五分間は、だれひとり無電回路で口をきく者もいなかった。この訓練のゆきとどいたチームは、すべてのチェックが完了したときも、口頭で報告さえしなかった。マーサーはただ身ぶりでオーケーのサインを出し、中佐にトンネルの開口部へ前進するよう、手を振った。だれもが、いまこそ歴史的瞬間だということをわきまえていて、不必要な無駄口で雰囲気をぶち壊したくないかのようだった。ノートン中佐にもそのほうがありがたかった。いまこの瞬間、かれもまたいうべき言葉をもたなかったからだ。  かれはフラッシュライトの明りをつけると、ジェットを駆動させて、命綱をうしろへ曳きながら、みじかい通路をゆっくりと奥へ漂い進んだ。数秒後にはもう、内部にいた。  だが、なんの内部なのか?  目の前にはただ、墨を流したような闇があるだけだ。フラッシュライトの光線は、きらりともはね返ってこない。予期はしていたが、実際に信じてはいなかったことだ。どう見積もってみても、向こう側の壁は何十キロも先にあるはずと承知はしていたが、いま、それがまぎれもない事実であることを目が証明していた。  その暗闇の中へゆっくり漂いこみながら、かれは突然、命綱の存在を確かめずにはいられない衝動にかられた。その衝動は、これまで経験したことがないほど、生れてはじめて船外活動《EVA》に飛びだしたときのそれよりもさえ、強烈だった。  だが、これはばかげている。光年やメガパーセクで測るような広漠たる空間を眺めわたしたときにさえ、目暈ひとつ感じたことのないおれが、たった数キロ立方の虚空に、なぜびくつかなければならないのだ?  かれがまだこの問題をくよくよ考えているうちに、命綱の末端のはずみ止めブレーキがかかって、かれの体はごくかすかな反動とともに、ゆっくりと停止した。かれはむなしくさまようフラッシュライトの光束《ビーム》を、前方の暗黒から一転させ、たったいま出てきたばかりの表面の検分にかかった。  かれはいま、小さなクレーターの中央の真上に浮かんでいる、といってもよかった。そのクレーター自身が、ずっと巨大なクレーターの基部にある窪みだった。どちらを向いても、複雑な構造の段丘《テラス》と斜面──すべて幾何学的に正確で、明らかに人工の──が積み重なり、それが光のとどくかぎり遠くまで延びている。百メートルほど先には、こちらのと同形の、ほかの二つのエアロック機構が見えた。  それだけである。その光景には、これといってエキゾチックなところも見慣れないところもなかった。実際はむしろ、廃坑にかなり似かよったところがあった。  ノートンはかすかな失望を感じた。これだけ苦労したのだから、もうちょっとドラマチックな、奇想天外な新展開があってもよさそうなものではないか。  そのときかれは、いま見えるのはたかだか数百メートル先までだということを思いだした。この視界の範囲を越えた闇のなかには、面とむかう勇気もなくすほどの驚異のかずかずが秘められているかもしれない。  かれはやきもきしている仲間たちに、みじかい報告を送ってから、つけ加えた。 「これから照明弾を投げる──二分の遅発だ。行くぞ」  かれは渾身の力をこめて、小さな円筒をまっすぐ上方へ──あるいは外へ──投げだすと、フラッシュライトの光束に沿って小さくなっていくそれを見守りながら、秒を数えはじめた。十五秒とたたないうちに、それは見えなくなった。百秒に達したとき、かれは目にシールドをかぶせて、カメラを構えた。時間の見積もりにかけては、いつも正確だった。たった二秒の誤差で、突然、世界に光があふれた。そして今度こそ、期待はかなえられた。  この壮大な空洞全体を照らしだすには、何百万燭光の照明弾があってもたりなかったが、それでもいまや、その大ざっぱな設計をつかみ、その雄大きわまるスケールを実感できるほどには、見通すことができた。  ノートンは少なくとも幅十キロ、長さは見当もつかない中空の円筒物体の、一方の端にいた。中心軸のかれの位置からは、周囲をとりまく彎曲した内壁が、細部にいたるまで圧倒的な強烈さでこまごまと見えたので、かれの心はそのほんの一部分しか呑みこむことができなかった。なにしろ、たった一度の閃光を頼りに、世界全体の光景を見とどけようというのだ。  かれは意志をふりしぼって、その映像を心に焼きつけようと試みた。  周囲一面、クレーター≠フ段丘状になった斜面がせりあがり、最後に空をふちどる堅牢な壁面へと溶けこんでいた。いや──その印象はいつわりだ。地球と宇宙空間で通用する直感は、ひとまず捨て去って、新しい座標系に自分を慣れさせなければならない。  かれはいま、この不思議な裏返しになった世界の最低地点にいるのではなく、最高地点にいるのだ。ここからはあらゆる方向が下[#「下」に傍点]で、上ではない。もしこの中心軸から彎曲壁(もはや壁と考えてはならないが)のほうへ遠ざかるとすれば、重力は着実に増大するだろう。この円筒物体の内壁表面に到達すると、どの地点でも直立が可能になり、足は星々に、頭はこの回転世界の軸方向に向くことになる。  宇宙旅行の黎明期には、重力のかわりに遠心力が使われていたから、この概念自体は親しみ深いものだ。ただ、それをこんなとほうもないスケールに拡大すると、気が遠くなるようなショックを覚える。あらゆる宇宙ステーションのうちで最大のシンクサット・ファイヴでさえ、直径は二百メートルに満たない。その百倍の規模に慣れるには、しばらくの時がいることだろう。  かれをとりかこむチューヴ状の風景は、ところどころ森か、畑か、凍結湖か、あるいは市街とも見える明暗に彩られている。距離と、照明弾のしだいに弱まる光とが、識別を不可能にした。ハイウェー、運河、ないしはよく手なずけられた河川とも見えるせまい線条が、かすかながら目に見える幾何学的なネットワークを構成している。  そして、円筒世界のはるか奥、視界ぎりぎりのところに、いちだんと暗い帯が見えた。それは完全な環状を呈し、この世界の内側をぐるりとひとめぐりしている。ノートンはとっさに、古代人が地球のまわりをとり囲んでいると信じていた、あのオケアノス海の神話を思い出した。  おそらく、ここにあるのはもっと不思議な海なのだ──環状どころか、円筒形[#「円筒形」に傍点]なのだから。恒星間の夜を飛ぶうちに凍りついてしまうまでは、そこにも波が立ち、潮が満ち干き、海流が流れていたのだろうか──それに、魚はいるのか?  照明弾がすうっとうすれて消えた。黙示の時は終わった。  しかしノートンは、これから一生涯、いま垣間《かいま》見た光景が心に焼きついて離れないだろうことをさとった。将来どのような発見がもたらされようとも、この第一印象はけっして消し去られることはない。そして歴史≠ヘもはや、異星文明の創造物を見た人類最初の男、という特権を、けっしてかれから取りあげることはできないのだ。 [#改ページ]      9 偵 察 行 動 「われわれはただいま、円筒世界の軸沿いに、五発の長時間遅発照明弾を発射して、端から端まで綿密な写真撮影をおこなっているところです。おもな地形はすでにマップを完了しました。確認可能なものはごくわずかですが、いちおうそれぞれにかりの名称をつけました。  空洞内部の長さは五十キロ、幅は十六キロです。両端はおわん型ですが、かなり複雑な幾何学的設計になっています。われわれはこちら側の端を〈北半球〉と名づけ、もっか、ここ中央軸上に、最初の基地を建設中であります。  中央のこしき[#「こしき」に傍点]からは、輻射状に百二十度間隔で、三本の梯子《はしご》がほとんど一キロにわたって延びています。梯子はテラスというか、おわんをぐるりと一周している環状の台地《プラトー》のところで終わり、そこ[#「そこ」に傍点]から先は、やはり梯子と同じ方向に、三列の階段が下の平原までずっと続いています。たった三本の骨を等角度でとりつけた傘を想像していただければ、ラーマのこちら端の光景が、よくつかめると思います。  骨のそれぞれが階段で、軸の付近ではきわめて急傾斜ですが、眼下の平原に近づくにつれて、しだいになだらかになっています。これらの階段は──アルファ、ベータ、ガンマとそれぞれ名づけましたが──連続的ではなく、途中五ヵ所で環状のテラスに区切られています。われわれの見積もりでは、ステップの数は二万から三万はあるにちがいありません……たぶんこれは、緊急事態の際にだけ使用されたのでしょう。ラーマ人が──なんと呼んでも同じですが──自分の世界の軸部分に到達するのに、もっといい手段をもっていなかったとは、とうてい考えられないからです。 〈南半球〉のほうは、まったく様相を異《こと》にしています。一つには、階段がなく、中央の平面的なこしき[#「こしき」に傍点]部分がないからです。そのかわり、巨大な尖塔──長さが何キロもあります──が軸に沿って突きでており、周囲にもっと小ぶりの六本の尖塔が寄りそっています。全体の配置が非常に奇妙で、これが何を意味するのかは、見当もつきません。  両おわん部の中間に横たわる、長さ五十キロの円筒部分を、われわれは〈中央平原〉と命名しました。明らかに彎曲しているものに、平原≠ニいう言葉を使うのはばかげているかもしれませんが、感じからすればそれで正しいと思います。そこに降り立ってみれば、実際平らに見えるでしょうから──なかを這いまわるアリから見れば、びんの内側も平らに見えるにちがいないのと、同じ理屈です。 〈中央平原〉のいちばんめだつ地形は、ちょうど中間点をぐるりと完全にひとめぐりしている、十キロ幅の暗い帯です。氷のように見えるので、これには〈円筒海〉と名づけました。そのちょうど真んなかに、約十キロ長、三キロ幅の大きな楕円形の島があり、表面は高い構造物で覆われています。オールド・マンハッタンに似た感じなので、これにはニューヨークと名づけました。もっとも、これは都市とは思えません。むしろ巨大な工場か、化学処理場のように見えます。  しかし、郡市──でなくとも、町のようなものはあります。少なくとも六ヵ所あって、もし人間用に建てたものなら、それぞれ五千人は収容できそうです。われわれはこれらに、ローマ、北京、パリ、モスクワ、ロンドン、東京という名をあたえました……これらの町はハイウェーと、鉄道網のようなもので連結されています。  この凍りついた死の世界には、研究調査に幾世紀もの年月を必要とするほど、研究材料がたくさんあるにちがいありません。探険すべき広さは四千平方キロもあるのに、それをやる時間はたったの数週間。これでは、突入以来ずっと心につきまとって離れない二つの謎の解答さえ、得られるかどうか心配です──つまり、これを造ったのは何者で、どこがどう狂ってしまった[#「どこがどう狂ってしまった」に傍点]のか? という二つの疑問ですが」  記録はそこで終りだった。地球と月の上で、〈ラーマ委員会〉の面々は、ゆったりくつろいだ姿勢をとると、目の前に拡げられた地図や写真の検討を開始した。  すでに何時間も前から研究はしていたのだが、ノートン中佐の声があらためて、映像では伝達の不可能な一つの奥行きをあたえてくれたのだ。中佐はいまげんにそこにいる──この異常きわまる裏返しの世界に太古からつづいてきた夜を、照明弾が照らしだした短い数瞬のあいだだけとはいえ、じかにその目で見わたしたのだ。そしてかれこそ、これからくりだされる探険隊の隊長となるべき男だった。 「ペレラ博士、何かおっしゃりたいことがおありと思いますが?」  ボース大使は、長老科学者であり、この場でただ一人の天文学者であるデヴィッドスン教授に、最初の発言権をあたえるべきだったかな、とちらり思った。だが、この年老いた宇宙論学者はまだ、軽いショック状態から醒めやらず、明らかに平静を失っている。  かれは専門家としての全生涯を通じて、宇宙を巨大で非人格的な重力と磁力と放射線とがせめぎあう闘技場と見なしてきた。自然の体系の中で、生命が重要なひと役を演じているなどということはけっして信ぜず、地球や火星や木星などに生命が出現したのは、ほんの気まぐれな偶然にすぎないと考えていたのである。  しかし、いまや太陽系の外には、ただ生命が存在するどころか、人類がすでに到達した高みより、いや、今後何世紀もかかってようやく到達できそうな高さより、さらにはるかに高所にまで登りつめた生命が存在する、という厳然たる証拠が突きつけられたのだ。  そのうえ、ラーマの発見は、教授が長年説いてきたもう一つのドグマにも挑戦していた。問いつめられれば、かれとてもしぶしぶ、おそらく生命が他の恒星系にも存在するだろうとは認めたが、それが恒星間の深淵を押し渡れるなどと空想するのは愚かなことだ、とつねづね主張して譲らなかったのである……。  おそらくは、さすがのラーマ人も実際には失敗したのだろう。かりに、かれらの世界もいまは墓場と化した、と信じるノートン中佐が正しければの話だが。しかし、少なくともかれらはこの離れ業を、その結果に強い自信を抱いていたことを暗示するスケールで、試みたのだ。  一度おこったことならば、一千倍の星を数えるこの銀河系内では、かならず何度もおこっているにちがいない……そして、どこかでだれかが、けっきょく成功しているにちがいない。  これこそ、確たる証拠はないながらかなりの確信をもって、長年カーライル・ペレラ博士が説きつづけてきた命題である。いまやかれは、このうえなく幸せな人間だった。もっとも、同時にこのうえなく欲求不満におちいった人間でもあった。  ラーマはかれの主張を、じつに劇的な形で立証してくれたのに、かれ自身は、けっしてその内部にじかに足を踏みいれることも、おのれ自身の目で見ることさえもかなわないのだ。もしもこの場に悪魔が現われて、瞬間的なテレポーテーションのチャンスをあたえてくれたなら、かれは細かい条文などに目もくれず、すぐさま契約書にサインしたことだろう。 「ええ、大使閣下、少々おもしろい話をご紹介できると思いますよ。この物体はまぎれもなく宇宙の方舟《はこぶね》≠ナすな。これは宇宙旅行文学においては、古くからある着想で、その起源は、イギリスの物理学者J・D・バーナルまで遡ることができます。かれは一九二九年に──ええ、二百年も昔です──刊行した本の中で、この恒星間植民の方法を提案したのです。そしてあの偉大なロシアの先駆者ツィオルコフスキーなどは、もっと以前から、多少似かよったアイデアを発表しております。  ある恒星系から他の恒星系へ行きたいと思うならば、方法はいろいろあります。光の速度を絶対限度と仮定しますと──もっともこの問題も、依然として[#「依然として」に傍点]完全にはカタがついておりません、その逆の主張をお聞きおよびの向きもあるかもしれないが──」  ここでデヴィッドスン教授が腹だたしげに鼻を鳴らしたが、正式の異議は申し立てなかった。 「──小さな船で迅速な旅をすることも、巨大な船でゆっくりとした旅をすることもできます。  宇宙船が光速の九十パーセント、あるいはそれ以上に達することはできない、という技術的な理由は、まったくないように思われます。ということは、隣りあわせの恒星まで行くのに、五年から十年かかることを意味するでしょう──おそらく退屈な旅ではありましょうが、さほど非実際的でもありません。とりわけ、その寿命を世紀の単位で測れるような生物にとっては。この程度の期間の旅なら、われわれのものとさほど大きさのちがわない船で遂行することも、夢ではありません。  もっとも、おそらくそのような速度をだすことは、実際には不可能でしょう。かなりの荷重がかかっていますからね。忘れてはならんのは、旅の終りで減速をおこなうための燃料を、運んでいかねばならないということです、たとえそれが片道旅行であっても。ですから、時間はゆっくりとったほうが賢明かもしれません──一万年から十万年ぐらい……。  バーナルやほかの連中は、さしわたしが数キロもある移動可能の小世界に、何千人もの乗客を乗せ、何世代にもわたって旅を続けていくことで、これが可能だと考えました。当然、この世界は厳重に閉じられて、食料、空気、その他の消耗品をすべて循環利用《リサイクル》しなければならんでしょう。  だが、むろん、地球とて、まさしくそれと同じ仕組みで生きているのです──少々大きなスケールで。  ある作家は、そうした宇宙の方舟≠ヘ同中心的な球形に建造すべきだと提案し、別の作家は、遠心力が人工重力になるから、中空の回転円筒形がいいと主張しました──まさしく、われわれがラーマで発見したような──」  デヴィッドスン教授は、この締まりのない饒舌にとうとう我慢がならなくなった。 「遠心力[#「力」に傍点]などというものはありはせん。あれは技術屋の妄想じゃ。あるのは慣性だけですわい」 「お説のとおりですとも、もちろん」と、ペレラは認めた。「もっとも、回転木馬から振り落されたばかりの男を、その説明で納得させるのは骨かも知れませんがね。でも、このさい数学的な厳密さは必要ないようですし──」 「あいや、しばらく」ボース博士がいささかつむじを曲げて、口ばしを入れた。「おっしゃることは、わかっております。わかっておるつもりです。どうかわれわれの幻想をぶち壊さんでいただきたい」 「まあその、私としてはただ、概念的に見れば、ラーマにはさほど目新しいものはないということを指摘したかっただけでして。もっとも、その大きさは驚くべきものですが。とにかく人類はそのような物体を、すでに二百年前から想像していたのです。  ここで私は、もう一つの疑問に取り組んでみたいと思います。正確にどのくらいの期間、ラーマは宇宙空間を旅してきたか?  いまわれわれの手元には、その軌道と速度に関するきわめて正確な測定値があります。かりにラーマが、まったく進路上の変更をおこなっていないと仮定しますと、その位置を何百万年も以前までさかのぼることが可能です。われわれはラーマが、どれか近くの恒星の方角から来たのではないか、と予想しておりますが──それはまったく的はずれでした。  ラーマが最後に恒星の近くを通過してから、二十万年以上[#「二十万年以上」に傍点]はたっており、しかも問題の恒星は、不規則変光量であることが判明したのです──生命の存在する太陽系としては、もっとも不適当な太陽ともいえる星です。光度の変化幅が、一から五十倍以上にも達するのです。これではいかなる惑星でも、数年ごとに丸焼けと氷漬けをくり返すことになってしまいます」 「思いつきだけど」と、プライス博士が割って入った。「たぶんそれですべての説明がつくわ。きっとその星は、昔は普通の太陽だったのに、不安定になってしまったのでしょう。それで、ラーマ人は新しい太陽を見つけなければならなくなったのよ」  ペレラ博士は、この年老いた女流考古学者の頭脳に感心して、相手を傷つけないように優しく、そのまちがいをただしてやった。でも、もしかれのほうが彼女自身の専門分野では明々白々なことを指摘しようとしたら、彼女[#「彼女」に傍点]ならなんというだろう、とも思ってみた……。 「それはわれわれも考えました」と、かれは穏やかにいった。「しかし、恒星の進化に関する現在の理論が正しければ、この星は過去も安定だったはずはけっして[#「けっして」に傍点]ないのです──生命を育む惑星をもつことは、けっしてできなかったはずなのです。ですからラーマは、少なくとも二十万年、おそらく百万年以上も宇宙空間を旅してきたものと思われます。  現在それは、冷たく、暗く、死んでいるように見えますが、原因はほぼ見当がつきます。ラーマ人としては、ほかに選択の余地がなかったのかもしれません──おそらくかれらは、ほんとうに何かの災厄からのがれてきたのでしょうが、とんだ誤算をおかしてしまったのです。  いかなる閉じた生態系でも、百パーセント有効ということはありえません。つねにかならずむだなロスが出てきます──環境の劣悪化とか、汚染物質の蓄積とか。一つの惑星を汚染し枯渇させるには、何十億年もかかるかもしれません──だが、けっきょくいつかはそうなるのです。海洋は干あがり、大気は飛散してしまうのです……。  われわれの標準からすれば、ラーマはじつに巨大ですが、それでも惑星としてはひどくちっぽけなものです。船体からの気体の洩出と、生物学的な世代交代率にかんする筋のとおった推量とにもとづいて、試算してみたところでは、その生態系はほぼ一千年しか生き延びられない、という結果が出ました。せいぜい高く見積もっても、一万年というところでしょう……。  太陽が密集している銀河系の中心部でなら、恒星間を渡る時間としては、ラーマ程度の速度でも、それぐらいあれば充分でしょう。でも、星のまばらなこの付近の渦状肢内では、充分ではないのです。ラーマは、目的地に着くまえに、貯えの尽きてしまった船です。星々のあいだをさまよい流れる漂流船なのです。  ただしこの臆説には、一つだけ重大な欠点がありますので、他人から指摘されるまえに、自分で申しあげておきます。ラーマの軌道は、あまりにもぴたりと太陽系に狙いが定まっているので、偶然にそうなったのだという可能性は、除外できそうに見えることです。事実、ラーマはいまや、不安になるほど太陽すれすれめがけて突進しており、そのためエンデヴァー号は、過熱を避けるために、近日点のかなり手前で離脱しなければならない、と断言できます。  私としては、その意味がわかっているふりをするつもりはありません。おそらく、一種の自動的な末端誘導装置がまだ作動していて、建造者たちが死に絶えたあともずっと、ラーマを最寄りの適当な恒星へと導いているのでしょう。  そう、かれらは死に絶えている[#「絶えている」に傍点]のです。私は名誉にかけてそう断言します。内部から採取したサンプルはおしなべて、完全無菌の状態で──ただの一個たりとも、微生物が発見されておりません。みなさんは|生 体 仮 死 保 存《サスペンデッド・アニメーション》について、いろいろご存じでしょうが、この仮定は無視してよろしい。なぜ仮眠技術はほんの数世紀間しか有効でないか、根本的な理由があるからです──そして、われわれがいま扱っているのは、その何千倍も長期にわたる時間距離《タイム・スパン》なのですから。  したがって、パンドラ主義者やそのシンパたちは、くよくよ心配する必要がありません。私としては、じつに遺憾です。ほかの知的種族にめぐり会えたなら、どんなにすばらしいことでしょう。  しかし、少なくともわれわれは、昔ながらの一つの疑問の解答をえたわけです。われわれは孤独ではない。われわれにとって、星々は二度とふたたび同じものではなくなったのです」 [#改ページ]      10 暗黒への降下  ノートン中佐は痛いほどの誘惑にかられた──だが、かれにはまず、艦長として自分の船に対する責任があった。もしこの初動探索でなにかひどい手ちがいが生じたら、その埋めあわせをしなければならないのはかれなのだ。  となれば当然の帰結として、二等航宙士マーサー少佐ということになる。ノートンは、カールならこの任務に自分より向いていると、喜んで認めた。  生命維持システムの大[#「大」に傍点]権威であるマーサーは、この問題についていくつか、スタンダードな教科書を書いたこともある。みずから無数のタイプの装置をテストし、それがときには命がけのときもあった。かれの生体フィードバック・コントロールというものも、有名だ。あっというまに、自分の脈搏を半分に切りさげ、発汗を十分間ほどまでほとんどゼロに減少させることができる。このようなちょいとした有用な芸当のおかげで、かれは一度ならず命拾いをしているのだ。  だが、それほど立派な才能と知性に恵まれていたにもかかわらず、かれには想像力というものが、ほとんどまるきり欠けていた。この男にとっては、危険きわまる実験や任務も、ただの片づけねばならない仕事なのだ。けっして不必要な危険をおかさないし、普通一般に勇気と見なされるものの価値をまったく認めないのである。  机上に置いてある二つの座右銘が、その生活哲学を、ずばり要約してくれる。一つは「お前の忘れ物はなんだ?」で、もう一つは「勇気の撲滅に手をかせ」である。かれが腹を立てることといったら、自分が〈艦隊〉きっての勇者だ、と広く認められている事実ぐらいのものなのだ。  マーサーが決まれば、次の男は自動的に選べる──かれと一心同体のジョー・キャルヴァート中尉だ。  この二人に共通点を見いだすのはいささかむずかしい。華奢な体つきで、かなり神経の繊細なこの航宙士官は、無神経でものに動じない親友より十歳も若かったし、少佐は少佐で、中尉が原始的な映画芸術に示す情熱的な関心を、明らかにとんと解さなかった。  だが、雷がどこへ落ちるか予測はつかないとはよくいったもの。マーサーとキャルヴァートはもうだいぶ前から、親密な関係を結んでいるらしい。そこまでは世間にもざらにある。それより異常なのは、かれらが地球で一人の妻を共有し、その女がかれらの子供をそれぞれ一人ずつ生んでいる事実である。ノートン中佐は、いつか彼女に会ってみたいと願っていた。きっとこのうえなく非凡な女性にちがいない。この三角関係は、少くとも五年間続いており、いまでも等辺三角形を保っているらしい。  二人では、探険隊としてまだ不充分である。だいぶ昔から、チームは三人で組むのが最適、ということがわかっていた──というのは、もし一人が遭難した場合、生残りが一人だと運命を共にしかねないところを、二人ならまだ脱出の望みがあるからだ。  ノートンはあれこれ考えたすえ、技術軍曹のウィラード・マイロンを選んだ。この男はどんな機械でも動かしてしまう──それがだめなら、もっと秀れたやつをひねりだす──機械の天才で、異星の機械装置を見わけるにはうってつけの人物だ。  宇宙工科大《アストロテック》の助教授という本職から、長い安息休暇《サバティカル》(大学教授が通例七年目ごとにあたえられる研究・旅行などのための休暇)をもらっているこの軍曹は、自分より資格のある職業軍人たちの昇進を邪魔したくない、という口実で、将校任命辞令をことわったことがある。だれもこの説明を本気で受けとめず、ウィルには野心がないのだ、というのがみなの一致した意見だった。  かれは宇宙軍曹までならいいが、けっして正教授にはなろうとしない人間なのだ。昔からそうした考えかたをする下士官は無数にいたが、マイロンもまた、権力と責任の理想的な妥協点を見いだしていたのである。  かれらが最後のエアロックを漂い抜け、ラーマの無重力の軸線に沿って流れ出たとき、キャルヴァート中尉はいつもの癖でまた、自分が映画のフラッシュバックのさなかにいるのを発見した。ときには、こんなへんな癖は治したほうがいいのではないかと思うこともあるが、かといってべつに不都合なところもない。そうすることで、退屈そのものの状況がおもしろくなりさえしたし──いつか、それがかれの命を救わないとも限らないのだ。  つまりかれは、似たような場面に置かれたフェアバンクスやコネリーやヒロシら映画のヒーローたちが、どんな行動に出たか、それをつい思い浮かべてしまうのである……。  こんどの場合、かれは二十世紀初頭の戦争の一つに参加していて、いましも塹壕から打って出ようとするところだ。マーサーは、三人編成の偵察隊を率いて、中間対峙地帯《ノーマンズ・ランド》へ夜討ちをかける軍曹の役どころ。自分たちがいま、巨大な|弾  孔《シェル・クレーター》の底に身をひそめていると想像するのも、それほど困難ではない。ただしこの弾孔ときたら、どういうわけか内側が段丘《テラス》状にきちんと整頓された代物だが。  クレーターには、広い間隔をおいて並べた三個のプラズマ・アーク灯の光があふれかえり、その内部はすみずみまで、ほとんど影もなくあかあかと照らしだされていた。だが、そのかなた──最外部のテラスの縁を越えた向こう側──は、暗黒と謎そのものだった。  だが、心の目では、キャルヴァートはそこのどこに何があるかを、はっきり見透していた。まず一キロ幅にわたる平坦な環状の平面が横たわり、それを三つの部分に均等分割して、見かけは広い鉄道線路にそっくりな、三本の幅広の梯子が延びている。その段の一つ一つは、その上を何が滑ってもつかえないように、表面から中へ窪んでいる。  梯子の配置は完全に対称的だから、どれを選んだほうがよいという理由はなかった。エアロック・アルファにいちばん近い梯子が選ばれたのは、ただたんに便宜上の問題である。  梯子の段と段の間隔は、不愉快なほど離れているが、だからといって問題はなかった。軸端部から半キロ離れたクレーターの縁《ヘり》のところでさえ、重力はいまだに地球の三分の一ほどもない。かれらはほとんど百キロに達する機械と生命維持装置を運ぶのだが、それでもかるがると移動できるだろう。  ノートン中佐と|予 備《バックアップ》チームは、エアロック・アルファからクレーターの縁まで懸けわたされた案内綱《ガイドライン》づたいに、かれらと同行した。投光照明器の射程外に出ると、眼前にはラーマの闇が横たわっていた。ヘルメット灯の踊りはねる光のなかで見えるものはただ、梯子の最初の数百メートルの部分だけで、それは、平坦であるほかはこれといって特徴のない平面をよぎって、しだいに小さく遠ざかっていた。 (さて、ここで)と、カール・マーサーは考えた。(最初の決断を下さなけりゃならん。おれはこれから梯子を、登る[#「登る」に傍点]のだろうか、降りる[#「降りる」に傍点]のだろうか?)  これは些細な問題ではなかった。かれらは実質的にまだ無重力の状態にいるから、脳は好きなように参考システムを選べるのだ。そう思いたいという意思を働かすだけで、マーサーはいま自分が、水平面を見わたしているのだとも、垂直の壁面を見あげているのだとも、険しい崖っぷちから見おろしているのだとも、どのようにでも思いこむことができる。  複雑な仕事にとりかかるさいに、あやまった座標系を選んだため、深刻な心理学的問題を抱えこんでしまった宇宙飛行士の実例が、少なからずあるのだ。  マーサーは頭から先に進むことにした。ほかの移動方法ではなんともぎこちないし、そのうえこの方法なら、前方にあるものを見やすい利点がある。したがって、最初の数百メートルは、上へ上へ登っていくように想像するわけだ。重力がしだいに増大して、もはやその幻想を保てなくなったら、はじめて心理的方向感覚を百八十度切りかえればよい。  かれは最初の一段をつかむと、梯子の上にそろそろと体をもち上げた。移動は、海底をつたって泳ぐように、らくらくとできた──いや、事実は、水の抵抗がなかったから、それ以上にらくだった。あまり造作もないので、もっと早く行きたい誘惑に駆られたが、このような新事態のもとではけっして急いではならないことを、マーサーは経験的に知っていた。  イアフォーンをとおして、二人の仲間の規則ただしい息づかいがきこえた。異常はないという証拠だったので、かれは会話に無駄な時間をついやさなかった。ふりむいてみたい気もしたが、梯子の終着点にある台地にたどりつくまでは、危険をおかさないことに決めた。  段と段との間隔は一貫して半メートルで、登り始めた最初のうち、マーサーはほかにかわりの手段はないものかと思った。しかし、段の数を注意深く数えていき、二百段に達したところで、はじめて明らかな重量感を覚えた。ラーマの自転がようやく感じられはじめたのだ。  四百段目で、かれは見かけの体重を、約五キロと測定した。そのことにはなんの問題もなかったが、いよいよ体が上方へ[#「上方へ」に傍点]強く引っぱられだしたので、それ以上は登っているふりをするのが困難になってきた。  五百段目は、休息によさそうな場所だった。腕の筋肉が、不慣れな運動で硬ばっているのを感じる。たとえ、いまや移動の面倒を見てくれるのはすべてラーマで、かれはただ方向を定めさえすればよかったにしてもだ。 「すべて順調だよ、艦長《スキッパー》」かれは報告した。「ただいま中間点をすぎるところだ。ジョー、ウィル──問題はあるか?」 「こっちは快調──なんで止まってるんです?」ジョー・キャルヴァートが答えた。 「こっちも同じ」と、マイロン軍曹がつけたした。「でも、コリオリ力《フォース》に気をつけて下さい。だんだん強くなっています」(発見者の十九世紀フランスの数学者G・G・コリオリにちなむ。回転のため水平運動をそらす偏向力のこと)  それはすでに、マーサーも気づいていた。つかんだ段から手を離すと、漂う体がはっきり右によれようとする。ラーマの自転による当然の効果にすぎないことは百も承知だが、見た目にはいかにも、何か神秘的な力が、そっとかれを梯子から遠ざけようとしているようだ。 下≠ニいう方向がはっきり物理的な意味をもちだしたからには、どうやら以後の道中は、足を先にして進んだほうがよさそうだった。かれは一時的に方向感覚を喪失する危険をおかすことにした。 「気をつけろ──体の向きを変えるから」  その段をしっかりつかむと、かれは腕を使って、体をぐるりと百八十度回転させ、仲間の照明灯の光に一瞬、目がくらむのを覚えた。はるか上方の──いまやまぎれもなく上[#「上」に傍点]だ──険しい断崖の縁に沿って、弱々しい輝きが見てとれる。その光を背に、シルエットになって見える人影は、じっとこちらを注視しているノートン中佐と|予 備《バックアップ》チームの連中だ。かれらの姿はきわめて小さく、遠方に見え、かれは安心させるように手を振ってみせた。  マーサーは段から手を離して、ラーマのまだ弱々しい疑似重力の作用に、身をあずけた。次の段までの落下には、二秒以上もかかった。地球上なら、同じ時間内で三十メートルは落ちてしまうところだ。  落下の速度がじれったくなるほど遅いので、かれは事態の進展をちょっぴり早めるため、両手でぐいと押しやっては、一時に十数段ほどの距離を滑り降りることにし、途中、これは早すぎると思うたびに、足でもって降下にブレーキをかけた。  七百段目で、またもや停止すると、ヘルメット灯の光を下方に振りむけた。期待どおり、階段の降り口がわずか五十メートル下にあった。  数分後、かれらは最後の段の上にいた。宇宙に何ヵ月もいたあとで、堅い表面の上に立ち、その堅さを足の下に踏みしめるというのは、奇妙な感じである。体重はまだ十キロにも満たないが、それだけあれば、安定感を感じるには充分だ。目を閉じても、マーサーは自分がいま、ふたたび現実世界を踏みしめているのだということを、信じることができた。  階段がスタートするテラスというか踊り場は、幅が約十メートルあり、両側が上むきにそりあがって、闇のなかへ溶けこんでいる。マーサーは、それが完全な環状をなしていて、その上を五キロも歩けば、ラーマを一周して、ふたたびもとの出発点に戻れることを知っていた。  とはいえ、ここに存在する微弱な重力の下では、実際に歩くことは不可能だ。たいへんな大股で跳ねていくのがやっとで、それはなにかと危険なのだ。  階段はヘルメット灯の到達範囲のはるか下、暗黒の中へながながと延びており、見たところいかにも降りやすそうだった。だが、両側に走っている高い手すりにつかまって降りるほうが、無難だろう。  あまり不注意に足を運ぶと、空中へ弧を描いて飛びだしてしまわないともかぎらない。その結果は、おそらく数百メートル下の表面に、ふたたび着地することになる。その衝撃そのものには、さほど危険はないだろうが、とどのつまりは危険にさらされる恐れがある──ラーマの自転が、階段の位置を左へずらしてしまうからだ。そうなると、落下した体は、およそ七キロ近く下の平原まで切れ目なく弧を描いてつづいている、滑らかな彎曲表面にぶつかってしまう。  その結果は、トボガン橇も顔負けの猛烈な急滑降の始まりだ、とマーサーは考えた。となると、この弱い重力下でさえ、最終的な獲得速度は時速数百キロになりそうだ。おそらく、そのような無鉄砲な落下には、摩擦の力でブレーキをかけることも可能だろう。それができるなら、これはラーマの内部表面に到達するいちばん簡便な手段になるかも知れない。  だが、まず必要なのは、念には念をいれた用心深い実験からとりかかることだ。 「艦長《スキッパー》」と、マーサーは報告した。「梯子の降下には、問題がなかった。あんたが賛成なら、これから次のテラスにむかって降りてみるよ。階段での降下速度を測ってみたいんだ」  ノートンはためらわず答えた。 「やってくれ」蛇足だったが、つけ加えた。「くれぐれも慎重にな」  マーサーが一つの重大発見をするのに、さほど時間はかからなかった。少なくともこの二十分の一Gのレベルでは、普通の足運びで階段を降りることが不可能だったのだ。歩いて降りようとすると、じれったいほど退屈な、夢のなかを泳ぐようなスローモーションになってしまう。唯一の実際的な方法は、階段を無視して、手すりをこぎなから体を降ろしていくことだ。  キャルヴァートも同じ結論に到達していた。 「この階段は、降りるためじゃなく、登る[#「登る」に傍点]ために作られたんだ!」と、かれは叫んだ。「重力にさからって動くときは、段を利用できるが、下りのときは邪魔になるだけです。あんまり格好はよくないかも知れないが、いちばんいい降りかたは、手すりを滑り降りる方法らしい」 「そいつはばかげてますよ」と、マイロン軍曹は異論を唱えた。「ラーマ人が、そんなことをしたなんて信じられない」 「そもそも連中が、この階段を使ったかどうかも疑わしいぜ──これは明らかに非常用だよ。なにかの機械的な輸送システムを使って、ここへあがったにちがいない。ケーブル鉄道じゃないかな、たぶん。軸端部から走り下っているあの長い溝は、それで説明がつくよ」 「私はあれを排水溝じゃないかと考えてましたが──どちらともいえませんな。もっとも、ここでは雨が降ったことがあるのかどうか、疑問ですがね」 「降ったかもしれんぞ」と、マーサーはいった。「だが、おれはジョーの意見が正しいと思う。さあ、格好なんてくそ食らえだ。行くぞ」  手すり──たぶんそれは、手に似た何かにあわせて設計されたものだろう──は、すべすべした平らな金属の棒で、高さ一メートルの広い間隔で並んだ支柱に支えられていた。  マーサー少佐はその上にまたがると、両手でブレーキの強さを慎重に測りながら、滑りはじめた。  落ちつきはらった態度で、ゆっくりと速度をあげながら、ヘルメット灯の光の広がりの中を移動しつつ、暗闇の中かへ降下していった。五十メートルほど行ったところで、かれはあとにつづくよう部下に呼びかけた。  だれも口には出さなかったが、全員が童心に帰ったような気持で、嬉々として手すりを滑り降りていた。二分たらずで、つつがなく、気分よく一キロほど降下した。ちょっと早すぎるな、と感じたら、手すりをきつく握りしめるだけで、必要なだけブレーキをかけることができた。 「楽しんだようだな」かれらが二つ目のテラスに降り立ったとき、ノートン中佐が呼びかけた。「帰りの登りは、そうやすやすとはいかんだろうがね」 「こっちが知りたいのも、そこなんだ」マーサtは答えた。  かれは試すように行ったり来たりしながら、増大した重力の感触を確かめていた。 「ここではもう十分の一Gぐらいある──ちがいがはっきりわかるよ」  かれらはテラスの端まで歩みよって──もっと正確には滑りよって、ヘルメット灯の光を次に控える階段の上へ投げおろした。光束のとどくかぎりでは、いま降りてきた階段と寸分たがわないように見える──もっとも、写真を綿密に検討してみた結果、重力の漸増につれて、各段の高さが少しずつ減っていることはわかっていた。この階段は、登りに要する努力が、長い登りカーブのどの一点にあっても、ほぼ一定であるように設計されているらしい。  マーサーは、いまやほとんど二キロ上方になったラーマの〈軸端部〉のほうを見あげた。淡い光の輝きと、シルエットになった小さな人影が、おそろしく遠くに見える。そのときはじめて、かれはこのとてつもなく巨大な階段の全長を見通せなかったことが、急にありがたくなった。  冷静な神経と想像力の欠除に恵まれてはいても、もしかりに、垂直に倒立した円盤の内側の表面を──しかも、上半分が頭上にのしかかるように見えている状態で──こそこそと昆虫さながら、這いまわっているおのれの姿を見ることができたとしたら、はたして自分がどんな反応をおこすか、はなはだ心もとなかった。つい先刻まで、かれは暗闇を厄介なもののように思っていたのだが、いまや逆に、それを歓迎したいくらいの気持だった。 「温度の変化はない」かれはノートン中佐に報告した。「依然、氷点下だ。だが、気圧は予想通り上昇している──ほぼ三百ミリバールだ。この程度の低い酸素量でも、なんとか呼吸はできる。もっと下れば、まったく問題がなくなるだろう。おかげで、探険がひじょうにやりやすくなるよ。こりゃ大発見だ──呼吸装置なしで歩きまわれるはじめての世界ってわけだよ! 実際は、これからひと嗅ぎ試してみるところだ」 〈軸端部〉にいるノートン中佐は、やや不安げに身じろぎした。だが、マーサーは、自分がやることをつねにわきまえている点では、人後に落ちない。かれはすでに、納得のいくまで充分試験ずみなのだ。  マーサーは内外を等圧にすると、ヘルメットの留め金具をはずして、少し隙間を作った。用心深くひと息吸い、次にもっと深く吸ってみた。  ラーマの空気は死んでいて、かび臭かった。まるで、物質的な腐敗の最後の痕跡さえとうの昔に消滅してしまった太古の墓から、漂ってくるような空気だった。生命維持システムのテストに長年命をはりつづけるうちに鍛えあげた、マーサーの過敏すぎるほど鋭い嗅覚でさえも、これといって特別の匂いを嗅ぎつけることはできなかった。  かすかに金属的な感じの香りがあり、かれは不意に、月に降り立った最初の人間たちが、月着陸船《ルナー・モジュール》を再加圧したときに、火薬の焦げるような匂いがした、と報告していたことを思い出した。  月塵に汚染されたイーグル号のキャビン内は、むしろラーマのような匂いがしたにちがいない、とマーサーは想像した。  かれはヘルメットを閉じなおして、肺の中から異星の空気を吐き出した。生命の維持に必要なものは、何一つそこから検出できなかった。これでは、エヴェレスト頂上の空気に順化訓練を受けた登山家でも、たちまち死んでしまうだろう。だが、もう数キロも降りれば、問題はまた別だ。  ほかにここでしなければならないことは?  かれはまだ不慣れな弱々しい重力を楽しむ以外に、何も思いつかなかった。しかし、いまわざわざそれに体を慣らしたところで、どうせすぐまた、無重力の〈軸端部〉へ帰るのだから、なんにもならない。 「これより帰還する、艦長《スキッパー》」と、かれは報告した。「もっと先に進まなきゃならん理由もないし──ずっと下まで[#「ずっと下まで」に傍点]降りる準備が整うまではね」 「いいとも、帰りの時間を測ってみるが、気楽にやってくれ」  三、四段をひとまたぎに跳びあがりながら、マーサーはキャルヴァートが完全に正しかったことを認めた。これらの階段は降りるためではなく、登るため[#「登るため」に傍点]に作られたのだ。  うしろを振りかえらず、また登りカーブの目暈がしそうな険しさを気にしないかぎり、この登攀は楽しい経験になった。だが、二百段ほどすぎると、ふくらはぎに痛みを感じはじめたので、スピードを落すことにした。ほかの二人も同じだった。ちらりと肩ごしに見やると、坂のかなり下のほうにいた。  登りはまったく平穏無事な旅だった──ただもう階段が無限に続いているように見えるだけだ。ふたたび梯子のすぐ下にある最上階のテラスに立ったとき、かれらはほとんど息切れもしていなかったし、ここまで来るのに、十分しかかからなかった。十分間の休憩をとると、かれらは最後の垂直の一キロを登りだした。  ぴょんと跳んで──段をつかみ──跳んで──つかみ──跳んで──つかみ……簡単だが、うっかりすると注意が散漫になる危険があるほど、限屈なくり返しだった。梯子をなかばまで登ったところで、五分間休息した。このころになると、脚はもちろん、腕も痛みはじめていた。もう一度、マーサーは自分たちのしがみついている垂直な表面が、ほとんど見えないことを感謝した。この梯子が、光の輪のむこう、ほんの数メートルのところまでしかなく、もうすぐ登り終るだろうというふりをするのは、さして難しくなかったからだ。  跳んで──段をつかみ──跳んで──それから、まったく突然、梯子はほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]終った。かれらは〈軸端部〉の無重力世界に戻り、気づかわしげな友人たちにとり囲まれていた。この旅の往復は一時間以内ですみ、かれらはそこはかとなく、控えめな使命の達成感を覚えた。  だが、それで満足してしまうには少し早すぎた。あれだけ全力を投入したにもかかわらず、かれらはまだ、あのとほうもない階段のほんの八分の一足らずを征服したにすぎなかったからである。 [#改ページ]      11 男と女と猿と  ある種の女性たちには──と、ノートン中佐はとうの昔に決心していた──乗船許可をあたえるべきでない。  いまいましくも悩ましい乳房に、無重力状態が妙な作用を及ぼすからだ。  立派な乳房というものは、動かないときでもはなはだよろしくないが、いったん動き出して、共鳴が始まると、血の気の多い男性諸君にはとうてい耐えられない代物と化する。少なくともある重大な宇宙事故の一つは、ふくらみの充分な一婦人士官がコントロール・キャビンを通過した直後、乗員が急性の乱心状態におちいったのが原因だ、とかれはかたく信じていた。  一度この仮説を、その一連の論理を組み立てさせるきっかけを作った人間の名は明かさずに、ローラ・アーンスト軍医少佐に話してみたことがある。そんな心づかいは不要だった。かれらはたがいに、よく知りすぎているほどの仲だったからだ。  もう何年も前だが、地球上で、つかのま二人そろって孤独と憂欝に悩んでいたとき、一度だけ情を通じ合ったことがある。その後は二人とも大きく事情が変わったから、おそらくあのような経験を二度とくり返すことはなさそうだった(むろん、それはだれにも保証[#「保証」に傍点]できることではなかったが)。  けれども、この豊満な軍医が艦長室にゆらゆら入ってくるたび、中佐の胸には、去りにし昔の情熱が、谺《こだま》のようにはかなくよみがえった。彼女もまたそれを知っていた。楽しきは人生かなだ。 「ビル」と、彼女は切りだした。「登山屋さんたちを診断したけど、診断はこうよ。カールとジョーは上々の健康だわ──やった仕事に対しても、反応は正常よ。でもウィルは疲労と体力低下の徴候を示しているわ──細かいことはいいでしょう。かれは規定の訓練を、ちゃんと実行してないようね。かればかりじゃないわ。遠心訓練機をだいぶさぼってる人がいるようね。これ以上さぼるようだと、出欠を厳しく調べるわよ。そうお触れを回してちょうだい」 「わかりました、軍医殿。でも、弁解はあるんだよ。連中、ずっと働きづめだからね」 「頭と指だけはね、確かに。でも、体のほうはそうじゃないわ──キログラムやメートルで測れる本物の[#「本物の」に傍点]労働はしてないわ。ところが、これから必要になるのはそれなのよ、もしラーマを探険しようというのならね」 「では、探険許可をもらえるのかね?」 「ええ、慎重にことを運ぶなら。カールと二人で、ごく内輪に見積もったプランを作ってみたのよ──レベル・ツー以下なら、呼吸装置なしで行動できる、という前提で。もちろん、これは信じられないくらいの意外な幸運で、兵|站《たん》計画全体をすっかり変えてしまうほどだわ。わたしとしては、酸素のある世界という考えに、まだどうしても慣れることができないの……だから必要な補給品は、食料と水と保温服だけですむし、商売繁盛、いうことなしだわ。下へ降りるのはらくそうね。道中ほとんど、滑っていけばいいんだから。あのとても便利な手すりの上をね」 「いまチップスに、パラシュート・ブレーキつきの橇を作らせてるよ。人間を乗せるのは危険としても、荷物や機械の運搬には使えるだろう」 「すてき。それ[#「それ」に傍点]があれば、下りの旅は十分ですむわね。さもないと、一時間ぐらいかかるわよ。登りの時間は割りだすのがむずかしいわ。途中、一時間の休憩を二回入れて、六時間ぐらい見ておきたいんだけど。でも、これは経験を積むにつれて──それと[#「それと」に傍点]、体力がつくにつれね──かなり短縮できるでしょう」 「心理的要素はどうかね?」 「評価がむずかしいわ、こんなまるきり新しい環境では。暗闇がいちばん問題かもしれない」 「サーチライトを軸端部に取りつけるよ。下界の探険隊は自前の照明をもつほかに、いつも上から光を浴びているようにする」 「いいわ──それはとても助けになるでしょう」 「もう一つ。われわれは安全策をとって、探険隊を階段の途中まで行かせてから、戻すべきか──それとも、最初からいっぺんに下まで行かせてしまっていいか?」 「時間が充分あれば、慎重にいきたいところね。でも、時間は限られてるし、ぜんぶ降りても、べつに危険はないようね──降りてから、あたりを探るのもオーケーよ」 「ありがとう、ローラ──私が知りたかったのは、それだけだ。あとの細かいところは副長《エクゼック》に任せよう。それから、全艦員に遠心訓練機行きを命じるよ──一日二十分、半G下の訓練だ。これで満足かね?」 「いいえ、ラーマの下界はコンマ六Gよ。安全なゆとりを見こんでおきたいわ。三回に分けて──」 「あいた!」 「──それぞれ十分間──」 「それを決めるのは私だ──」 「──一日二回[#「二回」に傍点]」 「ローラ、きみという女《ひと》は残酷で、血も涙もない。でも、おっしゃるとおりにするよ。夕食の前に発表しよう。連中、だいぶ食欲をなくすだろうがね」  ノートン中佐としては、カール・マーサーがそわそわと落ちつかないのを見るのは、これがはじめてだった。いつものようにてきぱきと十五分のあいだ、兵|站《たん》面の問題を検討していたのだが、明らかに何かを思い悩んでいる様子なのだ。  艦長はその悩みがなんなのかをすばやく見抜いて、相手がその話をもちだすまで辛抱強く待っていた。 「艦長《スキッパー》」とうとうカールはいった。「この探険隊の指揮は、ほんとに[#「ほんとに」に傍点]あんたが取る気かい? もし手違いがあったとき、おれのほうが犠牲としてはずっと軽いんだがなあ。それにおれは、だれよりもラーマの奥に入ってるし──たとえ、五十メートルぽっちにしてもだ」 「認めるよ。だが、そろそろ指揮官がみずから指揮を取る潮時だし、こんどの旅には前回以上の危険はない、と判断したばかりじゃないか。もし厄介な徴候が見えたら、〈月面《ルナー》オリンピック〉に出られるぐらいの早さで、さっさとあの階段を逃げ帰ってくるよ」  かれは反論の続きを待ちうけたが、それはなかった。それでもカールは、まだ欝々と楽しめない風だった。ノートンは気の毒になって、やんわりと補足した。 「もっとも早さでは、ジョーにかないっこないだろうがね」  大男の緊張がほどけ、苦笑がゆっくりとその顔に広がった。 「それなら、ビル、だれかほかのやつを連れていけばいいさ」 「下に行った人間が、一人[#「一人」に傍点]は欲しかったんだが、われわれ二人はいっしょに行けんしね。マイロン軍曹教授|先 生 殿《へル・ドクトール》は、ローラの話だと、体重がまだ二キロ・オーバーだそうだ。あの口ひげを剃り落しても間に合わなかった」 「三人目はだれだい?」 「まだ決めてない。ローラしだいさ」 「彼女自身が行きたがってるね」 「そりゃだれだってそうさ。でも、彼女の名が自分の作った適任者リストのトップに挙がっていたら、私としてはひじょうに怪しむね」  マーサー少佐が書類を集めて、艦長室から出ていくとき、ノートンはつかのま羨望の痛みを感じた。艦内のほとんど全員が──最低限に見積もっても、約八十五パーセントが──なんらかの形で感情的な調節を工夫していた。艦長みずからがよろしくやっている船もあることは知っていたが、それはかれの流儀ではなかった。  エンデヴァー号の規律は、高度の訓練を受けた知性の高い男女間の、相互の尊敬の念にきわめて大きく依存していたが、指揮官が自分の地位を支えるためには、それ以上のものが必要なのだ。その責任たるや独特のもので、もっとも親密な友人たちからでさえ、ある程度の隔絶を必要とする。どのような関係であろうと、乗組員の士気を沮喪させる恐れがある。そうなれば、どうしても依怙《えこ》|贔屓《ひいき》をしているという非難を、避けることは不可能に近い。  この理由から、二階級以上離れた者同士の情事は、かたく戒められているが、それ以外に艦内でのセックスを規制する唯一のルールは、「通路で実行したり、シンプ(スーパーチンパンジー〔超猿〕の略)たちを驚かさないかぎり」ぐらいなものだった。  エンデヴァー号には、スーパーチンプが四頭いる。ただし、厳密にいえば、この呼称は不正確で、この艦の非人間乗組員はじつはチンパンジー種ではない。ゼロ重力下では、把握力のある尻尾はきわめて重宝だが、これを人間に取りつける試みは、残念ながらすべて失敗に終っていた。巨大類人猿に対しても、同じように不満足な結果に終ったあと、〈スーパーチンパンジー社〉はその目を猿の王国に向けたのだ。  ブラッキー、ブロンディー、ゴールディー、ブラウニーの家系をさかのぼると、その分家には、旧・新両世界(ヨーロッパと南北米大陸)のもっとも賢い猿たちが含まれており、それに、自然には存在しない合成遺伝子がプラスされていた。  かれらの養育と教育には、おそらく平均的なスペースマンのそれに匹敵するほどの費用がかかるが、それだけの価値はあった。いずれも体重は三十キロに満たず、食料と酸素は人間一人の半分の量しかいらない。それでいて、家事、初歩的な料理、道具の運搬その他十指にあまる日常的な仕事の面では、一頭が二・七五人分の働きをするのだ。  この二・七五人分というのは、会社の主張で、無数の時間=運動研究にもとづいた数字である。この数字は驚くべきものだったので、何かにつけて批判はある、実際正確なように見えた。というのも、シンプたちはじつに嬉々として、日に十五時間働いてくれ、どんなくだらない、反復的な仕事でも、けっして倦きることがないからだ。  というわけで、かれらは人類を雑事から解放してくれた。それは宇宙船のなかでは、すこぶる重大問題だった。  最近縁種の猿たちとは逆に、エンデヴァー号のシンプたちは素直で、従順で、御しやすかった。無性生殖化《クローン》されていたから、性もなく、おかげで厄介な習性上の問題も取り除かれていた。注意深く菜食主義者に仕込まれているので、ひじょうに清潔で、臭気も発さないし、ペットとしても完壁だ。ただ個人用には高価すぎて、買う余裕のある人間はいなかったが。  こうした利点の反面、シンプたちの乗船勤務には、問題もいろいろあった。かれらには個室をあたえなければならないのだ──当然、そこはモンキー・ハウス≠ニ名づけられた。かれらの小さな食堂はしみひとつなく、テレビ、ゲーム設備、プログラムされた教育マシンなど、なんでも備えられている。また、事故を避けるために、かれらは艦船内の技術区域に入ることを厳禁されている。これらの区域の入口には、赤のカラーコードがほどこされていて、シンプたちはそうした視覚的な障壁を心理的に通過できないよう、あらかじめ条件反射訓練を受けている。  また、コミュニケーションの問題もある。かれらの知能指数《IQ》は六十程度で、英語を数百語理解できるが、話すのは無理だった。類人猿や猿には、便利な声帯を取りつけることが不可能とわかったので、かれらはやむなく、手話で意思を表現しなければならなかった。  基本的な手真似《サイン》は、明快で、すぐ覚えられるようなもので、艦内のだれもが日常的な通信なら理解できるようになっていた。だが、流暢なシンプ語を話せる人間は、かれらの調教師、用度係主任のマッカンドルーズだけだ。  このラビ・マッカンドルーズ軍曹自身、シンプにそっくり[#「そっくり」に傍点]、というのが定評のあるジョークで、これはべつに侮辱でもなんでもなかった。毛足の短い、ほのかな色合いの毛皮と優雅な身のこなしをもつかれらは、きわめて美しい動物なのだ。かれらはまた、とても愛らしく、乗組員のみんながそれぞれ自分のお気に入りをもっていた。ノートン中佐のお気に入りは、その名もぴったりなゴールディーだ。  しかし、シンプたちとそうもたやすく心が通いあえるという事実は、新たな問題をおこす因《もと》にもなり、しばしば、宇宙空間でかれらを使役することに反対する強力な論拠に利用された。かれらは日常的な低次元の職務をこなすよう訓練できるだけなので、非常事態にさいしては、役にたつどころか、かえって足手まといになる。そのため、かれら自身にも人間の友人にもよけいな危険を招く恐れがあったのだ。  とりわけ、宇宙服の使いかたを教えこむのはむりとわかっていた。宇宙服の概念は、かれらにとって、遠く理解のおよばないものだったのである。  だれもそのことについては語りたがらなかったが、もし船体が破れたり、退船命令が出された場合には、どう処置しなければならないかは、だれもが承知していた。一度だけ、それが現実におこったことがある。そのときそのシンプ調教師は、受けた指令を必要以上に遂行してしまった。預りものとともに、同じ毒を仰いで死んだのである。以後、安楽死させる任務は、軍医長に委ねられることになった。医師なら、感情を殺して遂行できるだろうと考えられたからだ。  この責任が、少なくとも艦長の肩にかからなかったことを、ノートンは深く感謝していた。かれは、ゴールディーを殺すより、はるかに気の咎《とが》めを感じないで殺せそうな人間を知っていた。 [#改ページ]      12 神々の階段  ラーマの澄みきった、冷たい大気の中では、サーチライトの光束《ビーム》は完全に見えなかった。〈中央軸端部〉から三キロ下で、百メートル幅の楕円形の光が、巨大な階段の一部分を照らしだしていた。  闇に囲まれたなかに浮かぶ輝かしい光のオアシスは、さらに五キロ下の彎曲平原の方角へ、ゆっくりと移動していく。その中央には、三人の蟻のように小さな人間が、前方に長い影を投げながら動いていた。  かれらがそう望み、予期したとおり、完全になんの波乱もない下降の旅だった。  最初のテラスで、暫時停止し、ノートンは狭くてカーヴしたその出っ張りの上を数百メートル歩いてみてから、第二階へと滑降を開始した。そこでかれらは、酸素装置を捨て、機械の助けなしに呼吸するという、えがたい贅沢を満喫した。これからは、宇宙で人間が直面する最大の危険から解放され、衣服の気密性や酸素保有量などをいちいち心配せずに、楽な気分で探険がおこなえるのだ。  第五階に到達して、残すはあと一区画だけとなったころには、重力も地球上での半分近くに達していた。ラーマの遠心性回転がついに、その実力を発揮しはじめたのだ。かれはあらゆる惑星を支配している、ほんの少しのスリップにも情け容赦なく代償を求めるあの無慈悲な力に屈服しつつあった。下りの旅はそれでもまだ容易だが、いずれこの何千段もの階段を登って帰らなければならないのだ、という考えが、早くもかれらの心を蝕みはじめていた。  階段はもうだいぶ以前から、その目くらむような急勾配をやめ、いまはしだいになだらかに水平面へ近づきつつあった。その傾斜度は、もう一対五ほどしかない。それが最初は五対一だったのだ。いまや肉体的にも心理的にも、普通の歩行が可能になっていた。ただ弱い重力だけが、いま降りているのが地球上の大階段ではないことを教えてくれた。  一度ノートンは、アステカ文明の神殿遺跡を訪ねたことがあるが、そのとき受けた印象が谺《こだま》のように甦ってきた──ただし、百倍も強く増幅されて。ここでもかれは、同じ畏怖と神秘感に打たれ、呼べども還らぬ往昔《いにしえ》への哀惜の念を味わった。  それにしても、ここのスケールは時間的にも空間的にも、ケタはずれに大きかったので、心はそれを素直に受けとめることができなかった。しばらくすると、反応すらやめてしまった。遅かれ早かれ、自分はこのラーマさえもあたりまえのものとして受けいれてしまいそうな気がした。  地球上の遺跡とはとても比較できない側面が、もう一つある。ラーマは地球上に残っているどんな遺跡よりも──エジプトの大ピラミッドに比べてすら、何百倍も古い。それなのに[#「それなのに」に傍点]、なにもかもが真新しく見える[#「なにもかもが真新しく見える」に傍点]のだ。磨滅とか破損の形跡が[#「磨滅とか破損の形跡が」に傍点]、少しもない[#「少しもない」に傍点]のである。  ノートンはこの謎をさんざんいじくりまわしたすえ、やっと一つの臆説にたどりついた。  これまで調査してきたものは、すべて非常用の|予 備《バックアップ》システムの一部で、実際にはめったに使用されなかったのではないのか。かれはラーマ人が──地球上ではそれほど珍しくない肉体美崇拝論者でもなければ──この信じられないような長い階段や、頭上はるかに見えないYの字型をかたちづくっている他の二つの同類の上を、登り降りしている姿を、どうしても想像することができなかった。おそらくこれらの階段は、ラーマの建設のさいにだけ必要だったので、遠いその日以来、なんの役割も果していないのだろう。  当座は、そんな仮説でごまかせそうだったが、それでもしっくりこない感じだった。  何か、どこかが変だった……。  かれらは、最後の一キロメートルを滑降せず、長い、ゆるやかな足どりで一度に二段ずつ跳びながら下っていった。これなら、もうじき使わねばならない筋肉の鍛練になるだろうと、ノートンは判断したのだ。  そんなわけで、ほとんど気がつかないうちに、階段の終点まで来ていた。だしぬけに、それ以上の段がなくなった──ただ、いまはだいぶ弱まったサーチライトの光の中に、鈍い灰色の、平坦な表面が横たわって、数百メートル先の暗黒の中へと溶けこんでいた。  ノートンはその光を放っている、八キロ以上もかなたの〈軸端部〉の光源を振りかえった。マーサーが望遠鏡で注視しているのを知っていたので、陽気に手を振ってみせた。 「こちら隊長」ノートンは無電で報告した。「全員、元気だ──問題はない。計画どおり、先へ進むよ」 「けっこう」と、マーサtは応答した。「お手並みを拝見する」  短い沈黙があってから、別の声が飛びこんできた。 「こちら、艦上の副長《エクゼック》。ほんとのところは、艦長《スキッパー》、こっちはあまりけっこうじゃありませんよ。知ってのとおり通信社の連中が、この一週間ぎゃあぎゃあわめきっぱなしなんです。不滅の名講釈は期待してませんが、もうちょっとなんとかなりませんかね?」 「やってみよう」ノートンは含み笑いをした。「でも、まだ何も見えないんだ。まるで──そうだな、照明を暗くして、ただ一個スポットライトをつけただけの巨大な舞台といった感じだ。階段の登り口の数百段が、そこから上へ延びていて、頭上の暗闇の中へ消えている。目の前にある平原は、完全に真っ平らに見える──彎曲率がひじょうに小さいので、この限られた範囲では、曲がり具合が見えないんだ。そんなところかな」 「受けた印象をいってくれますか?」 「そうだな、ここはまだきわめて寒い──氷点下だから、保温服がたいへんありがたい。それと、むろん静か[#「静か」に傍点]だ。地球や宇宙で私の知っているどんなものよりも、静かだ。どこでも、なんらかの背景音といったものがつねにあるものだが、ここでは、あらゆる音が吸収されてしまう。周囲の空間がとほうもなく大きいので、谺も響かない。うす気味が悪いが、そのうち慣れたいものだ」 「どうも、艦長《スキッパー》。ほかにだれでも──ジョー、ボリス?」  話に窮したことのないジョー・キャルヴァート中尉が、喜んで応じた。 「私がどうしても思いを致さざるをえないのは、われわれが別世界の上を、そこの自然大気を吸いながら歩けたのは、今回がはじめてだ──かつてなかった[#「かつてなかった」に傍点]ことだ、ということです──もっとも、このような場所に、自然≠ニいう言葉を使うのは適当でない、とは思いますが。それでも、ラーマはきっと、その建設者たちの世界とよく似ているにちがいありません。われわれ自身の宇宙船もみな、ミニチュアの地球なのですから。たった二例ではあまりにも貧弱な統計ですが、これは知的な生命形態というものが、みな酸素呼吸者である、ということを意味してはいないでしょうか? かれらの仕事から判断しますと、ラーマ人はどうやらヒューマノイドのようです。ただおそらく、われわれよりは五割がた背が高そうですが。きみはそうは思わないか、ボリス?」  ジョーはボリスをからかっているのかな? とノートンは考えた。かれはどんな反応にでるだろうか……?  艦の全員にとって、ボリス・ロドリゴはいわば謎の人物だった。この物静かで威厳のある通信士官は、仲間うちの人気はあるが、けっしてかれらの活動に完全には溶けこまず、いつも少し距離を置いているように見えた──まるで、別のドラマーが叩くリズムに乗って行進しているように。  実際にもかれは、〈宇宙飛行士《コズモノート》キリスト第五教会〉の敬虔な信者だった。それ以前の四つがどうなったのか、ノートンはいまだに知らないし、この教派の儀式や式典にも暗かったが、ただその信仰の中心教義はつとに知られていた。かれらはイエス・キリストが宇宙からの訪問者であると信じ、その前提にもとづいて神学の体系を構築していたのである。  異常なほど多数にのぼるこの教派の信徒たちが、さまざまの資格で宇宙で仕事をしていることは、おそらくそれほど驚くにもあたらない。かれらは例外なく、有能で、誠実で、無条件に頼りにできた。とりわけかれらは他人に改宗を勧めようとしないので、どこへ行っても尊敬され、好かれさえした。それでもかれらには、どことなくかすかに無気味なところがあった。ノートンには、高等な科学技術教育を受けた人間がどうして、この派の信者たちがよく口にする論議の余地ない事実なるものを、いくらかなりとも信じこめるのか、そのへんのところがどうしても理解できなかった。  ロドリゴ中尉がジョーのたぶん、からかいをこめた質問にどう答えるかと待ちうけるうちに、ノートンは不意に、おのれ自身の隠された動機にはっと気がついた。  かれはボリスを、肉体的に壮健で、技術的に有能で、全幅の信頼をおけるという理由で選抜したのだが、同時に、心のどこか片隅では、かなり意地のわるい好奇心からこの中尉を選んだのではないか、と思いあたったのである。あのような信仰心を抱く人間は、ラーマという畏怖すべき現実にどう反応するだろう? かれの神学理念を混乱させるようなものに出会ったのだとしたら、どういうことになるか……それをいうなら、かれの神学理念を裏づける、というべきだろうか?  だが、ボリス・ロドリゴは、いつもの慎重さで、その手には乗ってこなかった。 「かれらは確かに酸素呼吸生物だろうし、ヒューマノイドという可能性[#「可能性」に傍点]もある。でも、いましばらく、様子を見ようじゃないか。運がよければ、どんな生物だったのか発見できるだろう。絵か、彫像があるかもしれないし──むこうのあの町には、死体さえあるかもしれない。あれがもし町だとしたならだが」 「いちばん近いのは、たった八キロ先だね」と、ジョー・キャルヴァートは期待をこめていった。  そうだ──と、艦長は考えた──だが、それは八キロ戻ることでもある──それから、あの気の遠くなるような階段をふたたび登らなければならないのだ。この危険はおかしていいのだろうか?  パリと命名したその町≠ヨの出撃は、行動予定表のトップに挙げられていたので、かれはいま、決断をくださなければならなかった。  食料と水は、たっぷり二十四時間の滞在分だけある。〈軸端部〉の|予 備《バックアップ》チームからは、四六時中見守られているし、この滑らかな、ゆるいカーブをもつ金属平原の上では、どんな種類の事故もおこりそうには見えない。ただ一つ、予想される危険は疲労だけだ。〈パリ〉に行くこと自体はすこぶる簡単だが、いざ着いたときに、数枚の写真をうつし、たぶん何か小さな人工物を収集してから引き揚げること以上に、いったい何ができるだろう?  しかし、そんな短時間の侵略でも、やってみる価値はありそうだった。時間はごくわずかしかない。ラーマは刻々と、エンデヴァー号が同行するには危険すぎる近日点に向かって、太陽方向に突進しているからだ。  いずれにせよ、決定の一部はかれがくだすのではなかった。艦内で、アーンスト博士が、かれの体に取りつけた生体テレメーター感知装置から送られてくるデータを注視しているのだ。もしも彼女が不満の意を表明したら、それで終りなのである。 「ローラ、きみの意見は?」 「三十分の休憩と、五百カロリーのエネルギー・モジュールを取りなさい。それからなら、出発していいわ」 「ありがとう、先生」と、ジョー・キャルヴァートが言葉をさしはさんだ。「いま、ぼくは幸福で死にそうだ。ぜひパリを見たいと、いつも思ってたんです。モンマルトルよ、いま行くぞ」 [#改ページ]      13 ラーマ平原  いつ果てるとも知れぬ階段をやっと下り終えて、ふたたび水平面の上を歩くことには、妙に贅沢な感じがあった。眼前の広がりは、実際、完全に平坦である。右を見ても左を見ても、フラッドライトに照らしだされた範囲ぎりぎりのところで、ようやく上反り気味のカーヴが感じとれるぐらいだ。  いってみれば、幅のきわめて広い、底の浅い峡谷を歩いているような感じだった。ほんとのところは、巨大な円筒の内面の上を這っているのであって、あの小さな光のオアシスの向こうでは、大地が高々とせりあがって空に接し──いや、空へと変化しているのだが、そんなことはとうてい信じられなかった。  一行はみな、自信にあふれ、控えめな興奮に酔ってはいたが、しばらくすると、ほとんど肌で感じられるほどのラーマの静寂が、重苦しくかれらの上に覆いかぶさりはじめた。歩くそばから、しゃべるそばから、音は谺《こだま》もおこさず闇のなかに吸いこまれてしまうのだ。一キロの半分も行かないうちに、キャルヴァート中尉は我慢しきれなくなった。  かれのささやかなたしなみの一つに、最近には珍しい──そう珍しいとは思わない人も多いが──芸があった。口笛である。かれは過去二百年間の映画の主題歌なら、伴奏の有無にかかわらず、ほとんどなんでも再生することができた。この場にふさわしく、まず、『へイホー、へイホー、仕事に出よう』から始めたが、行進するディズニーの小人たちの低音がどうもしっくりと決まらないので、あわてて『クワイ河マーチ』に切りかえた。それからかれは、だいたいの年代順を追って、半ダースほどの雄壮な主題曲を吹きとおし、極めつけに、二十世紀後半の有名なシド・クラスマンの名画『ナポレオン』のテーマをもってきた。  なかなかの名演だったが、けっきょくちっとも士気を盛りあげる役にはたたなかった。ラーマが必要としていたのは、バッハかベートーベンかシペリウスかチュアン・スンの荘厳さであって、軽快なポピュラー・ソングではなかったのだ。  ノートンがジョーに、あとあとのために力をセーブしておけと忠告しかけたとき、この若い士官も自分の努力がこの場にはふさわしくない、ということにようやく気がついた。それ以後かれらは、ときおり艦と交信するときをのぞいて、ただ黙々と前進した。  この勝負は、ひとまずラーマに軍配があがった。  このはじめての横断旅行の途中、ノートンは一ヵ所でまわり道をすることに決めていた。〈パリ〉は前方まっすぐ、階段の登り口と〈円筒海〉の岸のちょうど中間点にあるのだが、その進路から右へ、わずか一キロはずれたところに、〈直線渓谷〉と命名したきわめて人目を惹く、なんとなく謎めいた地形がある。深さ四十メートル、幅百メートルほどの、長い溝というか掘割で、両側が急な斜面になっており、いちおう用水路か運河ということにされていた。〈階段〉同様、これもまたラーマの彎曲面沿いに等間隔に置かれた、同じような二本の仲間をもっている。  三本の谷はおよそ十キロ近い長さに延び、〈円筒海〉に到達する直前で、だしぬけにとぎれていた──もしこの中をほんとうに水が流れるのだとすると、これは奇妙なことだ。しかも、〈海〉の向こう側でもやはり、このパターンがくりかえされていた。もう三本の十キロ長の溝が〈南極〉地帯まで延びているのだ。  気楽な徒歩を十五分もつづけると、かれらはもう〈直線渓谷〉のへりに到達し、しばらくその深みを見おろしながら、物思いにふけった。  完全に滑らかな壁が、六十度の勾配で傾斜している。階段も足場もない。堀の底は、氷に酷似した一枚の白い平坦な物質で埋められている。サンプルを採取すれば、まちまちな議論に結着がつくだろう。ノートンはそれを入手することに決めた。  キャルヴァートとロドリゴを錨《いかり》がわりにして、命綱をくり出させながら、かれは険しい斜面を懸垂降下していった。底に降り立ったとき、かれはてっきり足の下に、あのよく知っている氷のつるつるした感触を味わうものと決めこんでいたが、その期待はみごとにはずれた。摩擦度がずっと大きく、足をしっかりと踏んばれるのだ。この物質は、ガラスか透明な結晶の種類だった。指でさわってみると、冷たく、堅く、硬質な感じがした。  ノートンはサーチライトに背を向け、その輝光から目を隠して、凍結した湖の氷の下を見ようとでもするように、結晶物の底をのぞきこんだ。だが、見えるものはなかった。ヘルメット灯の光を集中してみたが、やはりだめだった。この物質は、透きとおってはいるが、透明ではないのだ。もしこれが凍りついた液体だとすると、その融点は水よりはるかに高そうだった。  かれは採鉱箱の中からとりだしたハンマーで、そっと叩いてみた。ハンマーは、がちんと鈍い、味気ない音をたててはね返った。もっと強く叩いてみたが、結果は同じ。そこでこんどは、渾身の力をこめて叩こうとしかけて、はたと思いとどまった。  この堅い物質を割ることは、とてもできそうには見えなかったが、かりに割ったとしても、どうなるというのだ?  かれは自分が、なにかとほうもなく巨大な板ガラスのはまった窓を壊しにかかっている、心ない野蛮人のような気がしてきた。もっといい機会があとでもあるだろうし、少なくともすでに、貴重な情報を発見したのだ。  いまやこの堀は、ますます運河には見えなくなっていた。なにしろ、唐突にはじまり、唐突に終って、どこにも通じていない風変わりな溝なのだ。それに、ここにいつか液体が流れていたときがあったとすると、どこかにその跡が、乾ききった沈澱物のかすみたいなものが、見つかってもよさそうなものではないか? ところが、まるで建設者たちがほんのきのう立ち去ったばかりのように、どこもかしこもぴかぴかに磨きあげられているのだ……。  またもやかれは、ラーマにまつわる根元的な謎に対峙させられていた。今度ばかりは、避けて通るのは不可能だった。ノートン中佐は、筋のとおった想像力ならもちあわせている男だが、もしもやたらとっぴもない空想に耽る性向《たち》だったら、現在の地位を得ることはなかっただろう。  だがいまは、生まれてはじめて、虫の知らせ──とはいわないまでも、一種の期待感にとらわれていた。ここではいっさいが、見かけとちがう。真新しい──と同時に、何百万年もの古さをもつこの場所には、何かこう、いうにいわれぬ奇妙なところがある。  深い想いに沈みながら、かれは小さな谷の長さに沿ってゆっくり歩きだした。それを見て、部下たちも命綱を腰に巻きつけたまま、へりに沿って進みはじめた。  これ以上何かを発見しようという期待はなかったが、かれはその奇妙な感情のおもむくままにしたがってみたかった。というのは、何か別の、心に引っかかるものがあったからだ。  ラーマの説明のつかない真新しさとは、関わりのない何かが。  ものの十メートルと歩かないうちに、突然かれは、雷に打たれたように悟った。  この場所には、見覚えがある。かれは以前ここに来たことがある[#「かれは以前ここに来たことがある」に傍点]のだ。地球や、暮らし慣れたほかの惑星の上でも、そのような経験は、とくに珍しいことではないにしろ、人を不安に落しいれる。たいていの人間は、一度や二度は体験したことがあるだろうが、ふつうは、以前見て忘れてしまった写真を思い出しただけとか、完全な偶然の一致とかの説明でかたづけてしまう──あるいは、神秘好きの人間なら、ある種のテレパシーを他人から受け取ったのだとか、自分自身の未来からのフラッシュバックだとか考える。  しかし、人類がかつて一人たり[#「一人たり」に傍点]とも見たはずのない場所に、見覚えがある──という感じはじつにショッキングだった。  数秒間、ノートン中佐はいままで歩いていた結晶質の滑らかな表面に、根を生やしたように突っ立ったまま、自分の感情をはらいのけようとした。おのれのきちんと秩序立っていた宇宙がすっかり転覆し、かれはいま、これまでほとんどいつも無視しつづけることのできた、現実のはずれにひそむ神秘の存在を、ついにかいま見せられて目が眩《くら》んでしまったのだ。  そのとき、おおいに安堵したことには、常識が救援に駈けつけてくれた。既視感《デジャヴュ》の不安な感じは溶けるように消え去って、若いころからのリアルな、確認の可能な記憶がとってかわったのである。  見覚えがあるのは事実だった──かれは以前、このように険しく傾斜した壁のあいだに立って、その壁がはるか無限の前方で一点に融合しているように見えるほど、遠方まで続いている光景を、たしかに見たことがあったのだ。ただしそれは、きれいに刈りこまれた芝草に埋もれている壁で、足もとは、滑らかな結晶物質ではなく、砕けた石で覆われていた。  あれは三十年前、イギリスで夏休みをすごしたときのことだっけ。ある学友に感化されて(顔は覚えていたが、彼女の名は忘れてしまった)、かれは当時、理工系の学生にたいへん人気のあった産業考古学の課目を取っていた。かれらは打ち捨てられた炭鉱や紡績工場を探険したり、破壊された溶鉱炉や蒸気機関車によじ登ったり、原始的な(そしてまだ危険な)核反応炉に驚きの目を見はったり、タービン推進する値打ちものの骨董品を、復元された自動車道路の上に走らせたりした。  もっとも、かれらの見たものぜんぶがぜんぶ、本物というわけにはいかない。長い歳月がたつあいだに、失われたものは多かった。人間はめったなことで、日常生活に用いるありふれた物品をわざわざ保存などはしないからだ。しかし、いざ複製が必要とあれば、いつでも丹誠こめて復元がおこなわれた。  というわけで、青年ビル・ノートンは時速百キロというご機嫌なスピードでつっ走りながら、見かけは二百歳だが、実際はかれより若い機関車の火室のなかへ、貴重な石炭を放りこむべく、シャベルを手に大奮戦したことがあった。とはいえ.グレート・イースタン鉄道の三十キロに及ぶ線路のほうは、発掘して実際に使用できる状態にまで戻すのには、たいへんな手間がかかったにせよ、まぎれもない本物だった。  汽笛を吹き鳴らしながら、かれらは山腹のなかへ突進し、煙に渦巻き、炎に照らされた闇の中を走った。驚くほど長い時間がたってから、かれらはトンネルの中から、急勾配の草土手に挟まれた、一直線に延びる深い切通しへと飛びだしたのだった。  すっかり忘れていたその光景が、いま眼前にあるそれとほとんどそっくりなのだ。 「どうしたんです、艦長《スキッパー》?」と、ロドリゴ中尉が呼んだ。「何か見つけたんですか?」  自分をむりやり現実に引きずり戻すと、強迫感がいくらか、ノートンの心から取り除かれた。たしかにこの場所には、謎がある。だが、それは人間の理解を超えたものではないかもしれない。ひとつ、かれの学んだ教訓があった。  なんとしてでも、ラーマに圧倒されてはならないのだ。その先には、失敗が待っている──たぶん、狂気さえも。 「いや」と、かれは答えた。「ここには何もないよ。私を引き揚げてくれ──これからまっすぐ〈パリ〉に直行しよう」 [#改ページ]      14 暴 風 警 報 「この〈委員会〉会議を招集しました理由は」と、惑連《UP》火星大使閣下はいった。「ペレラ博士のほうから、重大なお話があるからです。博士は、われわれがただちにノートン中佐と連絡をとるべきである、それには、幾多の難問を解決してようやく獲得した優先チャンネルを使ったらよい、とおっしゃっておられます。ペレラ博士のステートメントはやや専門的になるかと存じますので、そのまえに、現在の状況を総括してみることが順序かと存じます。プライス博士がそのほうの用意をしてくれました。ああ、そうそう──欠席者にかわって、ひと言お詫びを。リュイス・サンズ卿は、ただいまある会合の議長をつとめておられますので、ご参加いただけません。それと、テイラー博士が辞退を申し出ておられます」  後者の欠席については、かれはむしろ喜んでいた。この人類学者は、ラーマには自分の首を突っこめる部分がなさそうだと、はっきりしたとたん、にわかに興味を失ってしまっていた。多くの人がそうだったが、この動く小世界が死の世界であることに、かれもいたく失望したのだ。  ラーマ人の儀式や習性について、センセーショナルな本やヴィデオを作るチャンスは、おそらくあるまい。骸骨の発掘や工芸品の分類に精をだす連中もいるだろうが、その[#「その」に傍点]種のことは、とんとコンラッド・テイラーにはお呼びでなかった。かれが大あわてで駈け戻るとすれば、たぶん、かのシーラ島(最近地中海で発掘された古代文明の島)やポンペイのつとに名高いフレスコ壁画のような、すこぶる意味深な芸術作品が発見されたときぐらいなものだろう。  考古学者のセルマ・プライスは、それとまったく正反対の観点に立っていた。彼女は、住民にばたばた走りまわられて、冷静であるべき科学研究を邪魔されるよりは、無人の遺跡発掘のほうがお気に召していた。その点、地中海の海底は理想的だった──少なくとも、都市計画者や風景画家たちが割りこみはじめるまでは。そして、ラーマも完壁といってよかった。ただし、それが一億キロのかなたにあって、彼女がじきじきに訪れることはこんりんざい不可能、という憤懣やるかたない一点を除けばであるが。 「みなさんもすでにご存じのとおり」彼女は、はじめた。「ノートン中佐は、まったく何ごともなくほぼ三十キロの横断を完了しました。かれはみなさんの地図に〈直線渓谷〉の名で示されている、奇妙な堀を探険しました。この堀の目的はまだ皆目不明ですが、それがラーマの全長にわたって──〈円筒海〉の部分だけとぎれておりますが──走っている点からみて、また、この世界の円筒に沿って、百二十度間隔で同一の構造物が、ほかにも二本存在する点からみて、明らかに重要な目的をもつものと思われます。  その後、一行は左へ──〈北極〉での申し合せにしたがえば、東へ──進路を変え、〈パリ〉に到達しました。 〈軸端部〉の望遠カメラがとらえたこの写真からおわかりのように、そこは数百の建物の集まりで、あいだを広い通りが走っています。  さて、こちら[#「こちら」に傍点]の写真は、ノートン中佐の一行がその場所にたどりついたさいに、撮影したものです。もし〈パリ〉が都市であるとしたら、非常に風変わりな都市です。建物のどれ一つとして、窓もなければ、ドアもないことにご注意ください! 建物はすべて単純な長方形構造で、どれも高さは一様に三十五メートルです。それに、地面からにょきにょき生え出たように見えます──合せ目も接ぎ目もありません──壁の基部のところを大写しにしたこの写真をごらんください──壁から地上にそのまま変わっております。  私の思いますに、ここは居住区ではなく、貯蔵所か補給倉庫でしょう。この仮説の裏づけとして、この写真を見てください……。  約五センチ幅の、このような狭い横穴、といいますか溝が、あらゆる通りに沿って走っており、どの建物にもそれが続いていて──壁のなかへまっすぐ入っています。これは二十世紀初頭の市街電車の線路と、驚くほどそっくりで、明らかに輸送システムの一部にちがいありません。  公共の輸送機関を、各家庭へじかに接続させる必然性は考えられません。経済的に見てもばかげています──人間は数百メートルぐらい、いつだって歩けるのですから。でも、もしこれらの建物が、重機材の貯蔵所に使われるのだったら、筋がとおります」 「質問してもよろしいですか?」と、地球大使がいった。 「どうぞどうぞ、ロバート卿」 「ノートン中佐は建物の内部に一度も入れなかったのですか?」 「ええ。中佐の報告をお聞きになれば、かれの企てがすべて失敗したことがわかりますわ。はじめかれは、地下からしか建物の中へ入れないのではないか、と考えていましたが、その後輸送システムの溝が発見されたので、考えを変えました」 「中へ押し入ろうとはしたのですか?」 「方法が見つからなかったのです、爆薬か重い道具を使う以外には。中佐としては、ほかの手段がすべて失敗に終らないうちは、そうしたくないと考えています」 「わかったぞ!」デニス・ソロモンズが突然口をはさんだ。「かいこのまゆ℃ョだ!」 「なんとおっしゃいました?」 「二、三百年前に開発された技術です」と、科学史家はつづけた。「またの名を虫よけ玉℃ョという。何か保存しておきたいものがあるとき、それをプラスチック容器の中へ封じこんでから、不活性気体を注入するのです。最初は、次の戦争に備えて、軍事設備を保管しておく目的に使われました。昔は、船を丸ごと、この方式で保存しておいたものです。現在でも、保管空間のたりない博物館などで、幅広く活用されています。スミソニアン博物館の地下室に眠っている、何世紀も前のまゆ[#「まゆ」に傍点]のうちには、だれもなかに何が入っているのか知らないものさえあります」  忍耐は、カーライル・ペレラの長所の一つではなかった。かれは自分の爆弾を早く投下したくてうずうずしていたので、とうとうこれ以上自分を抑えきれなくなった。 「お願いです[#「お願いです」に傍点]、大使殿! まことにおもしろい話題ではありますが、私のほうの話は、いささか火急を要するように思いますので」 「ほかに問題点がありませんでしたら──では、どうぞ、ペレラ博士」  コンラッド・テイラーとちがって、この宇宙生物学者はラーマに失望していなかった。もはや生命の発見を期待していないことは事実である──だが、遅かれ早かれ、このすぱらしい世界を建設した生物のなんらかの遣物が発見されるだろうということを、かれは強く確信していた。探険はまだ始まったばかりなのだ。もっとも、エンデヴァー号が現在の太陽擦過軌道から余儀なく脱出するまでに利用できる時間は、恐ろしく短かったが。  しかもいまや、かれの計算が正しいとしたら、人類のラーマとの接触は予想以上に短くなりそうなのだ。というのも、ラーマがあまりに大きいため、これまでだれも気づかなかったのだが、ある些細なことが見すごされていたからである。 「いちばん最近の情報によりますと」ペレラは説明しはじめた。「いま一隊が〈円筒海〉に向かっているところで、いっぽう、ノートン中佐は別の一隊を指揮して、〈階段アルファ〉の登り口のところに、補給基地を設置させています。それが完成したら、かれは少なくとも二つの探険チームを、常時活動させておく肚づもりです。このようにして、限られた人的パワーを最高効率で使いたいと望んでいるわけです。  これはいいプランではありますが、実行に移すだけの時間的余裕はないかもしれません。実際、私としましては、非常警戒態勢と十二時間以内の全面撤退を勧告したいところです。理由を説明しましょう……。  ラーマにおこっている、むしろだれの目にも明らかなある変則事態を指摘する者がほとんどいないとは、驚くべきことであります。ラーマはいまや、金星の軌道の内側へ深く入りこんでいます──にもかかわらず、その内部はまだ凍りついたままです。しかし、この地点で太陽の直射にさらされる物体の温度は、約五百度にもなるはずなのです!  もちろん、その理由は、まだラーマが充分暖まる時間がないからです。ラーマは恒星問宇宙を渡っているあいだに、絶対零度近く──零下二百七十度まで冷えきっていたに相違ありません。現在、太陽に接近するにつれて、その外壁はすでに、鉛も溶けるぐらいに熱くなっていますが、内部は、その熱が厚さ一キロの外壁をしみとおるまで、依然冷たいままでいるでしょう。  たしか、皮が熱くて、中身はアイスクリームとかいう奇抜なデザートがありましたな──なんという名だったか、覚えておりませんが──」 「アラスカ焼き、ですよ。惑連《UP》の宴会では、人気のある菓子でしてな、あいにく」 「これはどうも、ロバート卿。それがラーマの現在の状況なのですが、それも長くは続きますまい。ここ数週間で、太陽熱は内部まで滲透し、あと数時間で、急激な温度上昇がはじまると思われます。だが、問題はそのこと[#「そのこと」に傍点]ではありません。どのみちラーマを離脱するころまでは、快適な熱帯性気候以上にはならないでしょうから」 「じゃあ、何が問題なのです?」 「一語でお答えできます、大使殿。ハリケーン[#「ハリケーン」に傍点]です」 [#改ページ]      15 〈円筒海〉の岸辺  いまやラーマのなかには、男女あわせて二十人以上いた──六人は平原に、残りはエアロック機構と階段を往復して、機械や消耗品を運んでいた。宇宙船のほうはほとんど人が出はらって、必要最少隈の当直人員だけが残っていた。  事実上エンデヴァー号を動かしているのは、四頭のシンプで、ゴールディーは艦長代理に任命された、などという冗談がもてはやされるほどだった。  探険の開始にあたって、ノートンが確立しておいた基本原則はたくさんある。もっとも重要な原則は、人類の宇宙進出開始当初にまでさかのぼるものだ。どのチームもかならず、既体験者を一人含めなければならない、とかれは決めていたのである。ただし、一人以上ではない。こうすれば、だれもが可能なかぎり早く経験を積む機会をもてるからだ。  というわけで、〈円筒海〉に向かった最初の探険隊は、隊長こそローラ・アーンスト軍医中佐だったが、既体験者として、〈パリ〉から戻ったばかりのボリス・ロドリゴ中尉を隊員に加えていた。三人目のピーター・ルソー軍曹は、〈軸端部〉の|予 備《バックアップ》チームに入っていた一人である。かれは宇宙空間偵察機器の専門家だが、こんどの旅では、おのれの目と小さな携帯用望遠鏡に頼らなければならなかった。 〈階段アルファ〉の登り口から〈円筒海〉の岸までは、十五キロそこそこ──ラーマの低重力下では、地球の八キロに相当する。ローラ・アーンストは、日ごろの主張に恥じない行動をとらねばならない手前、きびきびとした足取りを崩さなかった。かれらはちょうど中間地点で、三十分の休憩をとり、三時間のあいだ、まったく波乱のない旅を続けた。  ラーマの谺《こだま》のない闇をつらぬいて照射するサーチライトの光の中で、歩を運んでいくのもまた、単調このうえなかった。一行とともに前進するにつれて、その光の輪はしだいに、細長い楕円形に引き伸ばされていく。この光の短縮現象だけが、前進しているという目に見える唯一の証拠だった。〈軸端部〉の観測者からたえず距離確認の連絡がこなかったら、かれらは自分たちが一キロ踏破したのか、それとも五キロか十キロか、推量するすべもなかっただろう。一行はただとぼとぼと百万年昔から続いている夜の闇を、接ぎ目も見えない金属の表面を踏みしめて歩いていった。  だが、ようやく、はるか前方の、いまはかなり弱まった光の輪の限界付近に、何か新しい変化が見えだした。普通の世界なら、さしずめ地平線というところだが、一行が接近するにつれ、いままで歩いてきた平原が、そこで唐突に終っていることが見てとれた。かれらは〈円筒海〉の縁に近づいているのだった。 「あとわずか百メートルだ」〈軸端司令部〉が告げた。「ペースを落したほうがいい」  その必要はほとんどなかったが、すでに一行はそうしていた。平原の高さから〈海〉──もしこれがほんとうに海で、例の謎めいた結晶物質の一枚板でなければだが──の表面までは、まっすぐ切り立った五十メートルの絶壁である。  ラーマでは何ごとも既定の事実とみなすのは危険だということは、全員がノートンから叩きこまれていたが、〈海〉が本物の氷からできているということを疑う者は、ほとんどいなかった。それにしても、こちら側が五十メートルの高さなのに、いったいどうして南岸の断崖は五百メートルもあるのだろうか?  一行はまるで、世界の果てに近づいているような感じを抱かせられた。かれらの楕円形の光は、前方でぷっつり断ち切られ、どんどん短くなってくる。そのかわり、彎曲した〈海〉の表面をスクリーンにして、はるか向こうに、怪物的に遠方短縮された人影が出現し、あらゆる動きをいちいち拡大し誇張してみせた。  これらの影は、かれらが光の中を行進するあいだ、片時もそばから離れない道連れだったが、いまは断崖のへりのところでぷっつり断ち切られて、もはやかれらの一部とはとうてい見えなかった。さながらそれは、縄張りへの侵入者をかたづけようと待ち受けている、〈円筒海〉の生きもののようだった。  五十メートルの断崖の上に立ったおかげで、いまかれらははじめて、ラーマの曲線を賞味することができた。とはいえ、凍った湖が上向きに反りあがって円筒形を呈している光景などを、見たことのある人間はいなかった。それは見るからに不安定な光景だったので、視覚のほうがほかの解釈を見出そうと躍起になった。  アーンスト博士はかつて錯覚の研究をしたこともあるが、その彼女さえつかのま、自分の見ているものはじつは水平線の[#「水平線」に傍点]カーヴした湾であって、空中にせりあがっている海面なのではない、と思いこまされかかったほどだ。とほうもない現実を受け入れるには、相当に意志的な努力が必要だった。  まっすぐ前方、ラーマの中心軸に平行な方向にだけしか、正常さは存在していなかった。この方角にだけ、視覚と論理感覚とはむりなく一致した。こちらでは──少なくとも次の数キロに関しては──ラーマは平坦に見え、事実[#「事実」に傍点]平坦なのだ……そしてその向こう、かれらの歪んだ影と光の外縁のかなたに、〈円筒海〉を支配する孤島が横たわっていた。 「〈軸端司令部〉へ」と、アーンスト博士は連絡した。「光を〈ニューヨーク〉に当ててください」  長円形の光が沖のほうへ滑りだしたとたん、ラーマの夜のとばりが、かれらの上に落ちた。見えなくなった足もとの断崖を意識して、全員が数メートルあとじさった。そのとき、魔法じみた早変わりの舞台さながら、〈ニューヨーク〉の摩天楼が忽然と現われ出た。  昔のマンハッタンに似ているのは、表面だけだった。この地球の過去の宇宙版そっくりさんは、それ自身ユニークなところがあった。仔細に眺めれば眺めるほど、アーンスト博士はそれが都市などではないことを確信した。  本物のニューヨークは、人類の居住地ならどこもそうであるように、けっして完成するということがなかった。それどころか、ちゃんとした設計さえされていなかった。だが、この[#「この」に傍点]場所には、あまり錯綜を極めているため、ともすると見のがされやすいが、全体に一貫した調和とパターンが感じられる。これは管理能力にたけた知性によって考案され、設計され──そして完成されたものだった。ちょうど何か特別の目的に合わせて考案された機械のように。だから、完成してしまった後では、もう成長や変化を遂げる可能性など残されていないのだ。  サーチライトの光は、遠方の塔やドームや、連結した球体や交差したチューヴなどを、のろのろと探りまわった。ときおり、平たい表面がぎらりと燦めいて、反射光を送り返してくる。最初にこの現象がおこったとき、一同はどきりとした。まるでその不思議な島の上から、だれかが信号をかれらに送っているように見えたからだ……。  しかし、かれらがここから見てとれるものは、すでに〈軸端部〉から撮影した写真で、もっと細かい点までわかっているものばかりだった。数分後、かれらは光を戻してもらい、断崖の縁に沿って、東へと歩きはじめた。  きっとどこかに、〈海〉へと降りる階段か坂のようなものがあるはずだ、といちおうもっともな理屈が考えられていた。それに、腕ききの船乗りである乗組員の一人が、おもしろい臆測を立てたということもある。 「海のあるところ」ルビー・バーンズ軍曹は予言したものだ。「かならず港や波止場ありだわ──それに船もよ。船の作りかたで、その文明のすべてがわかるものなのよ」  彼女の同僚たちはこの意見を、いささか狭い物の見方ではあるにしろ、少なくとも、刺激的な見方にはちがいないと思ったのだ。  アーンスト博士がほとんど捜索を諦めて、ロープによる降下を用意しかけていたとき、ようやくロドリゴ中尉が狭い階段を見つけだした。崖っぷちの下の暗い蔭に隠れていて、ガードレールはおろか、その存在を示すものが何ひとつなかったので、ついうっかり見すごしかねない階段だった。それに、それはどこにも通じていないように見えた。五十メートルの垂直な壁を、急勾配で下って、そのまま〈海〉の水面下に没していた。  かれらはその階段をヘルメット灯で検査して、危険の可能性なしと見てとったので、アーンスト博士がノートン中佐から降下の許可を取りつけた。一分後、彼女は用心深く、〈海〉の表面をテストしていた。  彼女の足は、ほとんど摩擦もなく、前後につるつる滑った。まぎれもなくその物質は、氷のように感じられた。事実[#「事実」に傍点]、氷だった。  ハンマーで叩いてみると、その衝撃点からおなじみの形をした割れ目が、ぴぴっと四方に広がり、彼女はなんの苦もなく、欲しいだけの破片を採集できた。サンプル容器を明かりにかざしたときには、もういくらか溶けはじめていた。その液体は少し濁って見えたので、彼女は慎重にひと嗅ぎしてみた。 「大丈夫ですか?」ロドリゴが、ちょっぴり気づかわしげに、上から声をかけた。 「大丈夫よ、ボリス」彼女は答えた。「もしわたしの探知器をごまかした病原菌が、ここらへんにうようよしているとしたら、わたしたちの保険証券は、一週間も前に権利が消滅してるわ」  だが、ボリスのいうことにも、一理はある。あらゆるテストを完了したにしても、この物質が有毒であるか、あるいは未知の病気をかかえこんでいるという危険は、ごくわずかながら存在するのだ。普通の状況下だったら、アーンスト博士はけっして、そんなわずかな危険さえおかさなかっただろう。だがいまは、時間が切迫し、掛けられた賞金は莫大なものだった。もしエンデヴァー号を検疫隔離しなければならない破目になったとしても、そんなことは同船が積みこむ知識の船荷に比べれば、ごくごく小さな代償にすぎない。 「たしかに水だけど、とても飲む気はおきないわね──腐った海草の培養液みたいな匂いがする。研究室にもっていくのが、まだるっこしいわね」 「氷は歩いても大丈夫ですか?」 「ええ、岩みたいに堅いわ」 「じゃあ、〈ニューヨーク〉へ渡れますね」 「渡るですって、ピーター? あなた、氷の上を四キロも歩いたことがあって?」 「ああ、そうか──おっしゃるとおりです。スケートをよこせといったら、保管部のやつ、なんていうだろうなあ! たとえあったとしても、使いかたを知ってるやつは、あまりいないだろうな」 「ほかにも問題があるぜ」と、ボリス・ロドリゴが口ばしを入れた。「すでに気温が氷点を越えているのに気がつかないかい? もうじき、あの氷は溶けはじめるぜ。何キロメートルも泳げるスペースマンが、どれくらいいるかな? とてもじゃないが、この〈海〉はむりだよ……」  アーンスト博士は、断崖の縁のところでかれらに合流すると、サンプルの入った小瓶を得意そうにかざしてみせた。 「たった数CCの濁った水のために、ずいぶん歩かされたけど、これはこれまでに発見したどんな物より、ラーマについていろんなことを教えてくれそうだわ。さあ、お家に帰りましょう」  かれらは、この低い重力下ではいちばん快適な歩行手段であると判明した、例の緩やかな大股の跳躍で、一路、〈軸端部〉の遠い光めざして引き返していった。ときおりかれらは、凍りついた海の中央に鎮座する孤島に秘め隠された謎に、うしろ髪を引かれるように、あとを振りかえった。  一度だけ、アーンスト博士は、そよ風にそっと頬をなでられたような気がした。  だが、それは二度と感じられなかったので、彼女はすぐにそのことを忘れてしまった。 [#改ページ]      16 ケアラケクア 「あなたもよくご存じのとおりですな、ペレラ博士」と、ボース大使は辛抱強い諦めを含んだ声音でいった。「われわれはほとんどだれも、あなたほど数学気象学の知識を持ち合わせてはおらんのです。ですから、どうかわれわれの無知を哀れんでいただきたい」 「喜んで」と、宇宙生物学者は赤面もせずにいってのけた。「これから──もうすぐにです──ラーマの内部でおころうとしていることを申しあげれば、私の説明がよくおわかりいただけるでしょう。  太陽熱が内部に到達したために、いまやラーマの気温は、上昇寸前の状態にあります。私の受けとった最新情報によれば、すでに氷点を越えたといいます。〈円筒海〉はまもなく溶解を開始するでしょう。地球上の氷塊と違い、この海は底のほうから上にむかって溶けはじめます。その結果、何かおかしな影響が現われるかもしれませんが、私がもっと気がかりなのは、大気のほうであります。  熱せられるにつれて、ラーマ内の空気は膨張し──中心軸に向かって上昇しようとしはじめます。これが問題なのです。地上レベルでは、見かけは静止状態でも、実際には空気はラーマの自転と行動を共にしています──時速八百キロ以上で動いているのです。そして、軸に向かって上昇するときも、そのスピードを保とうとしますが──むろん、そういうわけにはまいりません。その結果生じるのは、暴風と乱気流です。私の見積もりでは、時速二百キロと三百キロのあいだの風速になります。  ついでながら、これと非常によく似た事態は、地球上でもおこります。赤道部分で加熱された空気──これは地球の時速千六百キロという自転にしたがっています──が、上昇して南北に流れるとき、同じ問題にぶつかるのです」 「ああ、貿易風ね! 地理学の講義で聞いた覚えがありますよ」 「そのとおりです、ロバート卿。ラーマにも貿易風が吹くのです、それもいやというほどの。もっとも、数時間も吹けば、あとはまた一種の平衡状態が復活するでしょう。そのあいだに、私はノートン中佐に、緊急避難──それもできるだけ早く──を勧告したいと思います。私としては、こんな電文を送ったらいかがと存じます」  ちょっぴり想像力を働かせるだけで──と、ノートン中佐は思った──ここは、アジアかアメリカの辺|鄙《び》な山|裾《すそ》に張った、応急的な夜営地だというふりをすることもできそうだ。ごたごたと散らかった寝袋だの、折りたたみ式の椅子とテーブルだの、携帯用発電機だの、照明器具だの、電子処理トイレだの、雑多な科学機器だのは、地球の上でもべつに場ちがいな物品ではない──とりわけ、生命維持装置もつけずに、男女が立ち働いているとあっては、なおさらそうである。 〈キャンプ・アルファ〉の設立には、たいへんな手間がかかった。なにしろ荷物という荷物を、一連のエアロック内は人手で運び、〈軸端部〉からは斜面を橇で滑降させ、それからやっと回収して開包しなければならなかったからだ。ときにはブレーキ用のパラシュートが開かずに、託送物が平原上を一キロも先まで行ってしまうことさえあった。それでも、二、三の乗組員は橇の便乗許可を願い出たが、ノートンはそれを固く禁じた。とはいうものの、いざという場合には、この禁令を再考しなければならないかもしれない。  こうした機材はほとんどぜんぶ、このまま放置していくことになりそうだ。いちいち運びあげるとなると、想像もつかないほどの労力を食うだろう──実際問題として、とても不可能な相談だ。  ときおりノートン中佐は、この奇妙なまでに清浄な場所を、ごみだらけにしたまま立ち去ることに、わけもなく恥ずかしさを感じた。最後に立ち去るとき、かれは貴重な時間をいくらか犠牲にしてでも、きちんと後片づけをしていこう、とひそかに思い定めていた。まずありえないことではあるにしても、万一、何百万年か後に、ラーマがどこかの太陽系内を飛び抜けるとき、ふたたび訪問客を迎えないともかぎらない。かれはその連中に、地球についていい印象をあたえたいような気がしたのである。  いっぽうで、かれはもう少し切実な問題を抱えていた。この二十四時間のあいだに、かれは火星と地球の両方から、ほとんどそっくり同じ電報を受け取っていた。それは奇妙な偶然の暗合に見えた。おそらく、おたがいに同情を感じているのだろう。それぞれ異なる惑星の上で安穏に暮らしていれば、どんな妻でもたいていはじりじりしたあげく、そうするものなのだ。かれらは多少あてつけがましく、たとえいまやかれがどんなに偉大な英雄であるにしても、家族に対する責任からはのがれられないのだということを、指摘していた。  中佐は折りたたみ式の椅子を拾いあげると、光の輪から歩みでて、キャンプを取りかこむ暗闇の中へ入っていった。プライヴァシーを得るには、これしか方法がなかったし、それに喧騒から離れたほうが考えがまとまるというものだ。  かれは背後の組織立った混乱に、わざわざ背を向けると、首からぶらさげたレコーダーに吹きこみはじめた。 「原文は個人用ファイルに、複写《デュープ》は火星と地球に送信。へロー、ダーリン──たしかに私は不精な通信者だが、なにしろもう一週間も船には帰ってないのでね。基幹定員以外には、全員、ラーマ内の〈アルファ〉と命名した階段の下で、キャンプ生活をしているんだ。  もっかのところ、三チームに平原を偵察させているが、なにぶん万事足だけが頼りなので、がっかりするほどはかがいかない。何かいい輸送手段でもあればいいんだがな! 電動自転車が数台でもあれば、こんな嬉しいことはないんだが……この仕事には、ぴったりな機械だからね。  きみは医学将校のアーンスト軍医中佐に会ったことがあるね──」  かれは不安そうにためらった。たしかにローラは、妻たちの一人に会ったことはあるが、どっちの妻だったっけ? これはカットしたほうがいいな──。  その文章を消去して、かれはまたはじめた。 「私の軍医官、アーンスト軍医中佐は、ここから十五キロ離れた〈円筒海〉へ、第一隊を率いて出かけた。予想どおり、そこは凍りついた水ということがわかったよ──もっとも、あの水はだれも飲みたいとは思わんだろうがね。アーンスト博士の意見だと、あれはむしろ水っぽい有機物の流動体で、ほとんどあらゆる炭素化合物や、燐酸塩、硝酸塩、何十種類もの金属塩を微量ずつ含有しているそうだ。生命の気配は、毛ほどもない──死んだ微生物すら見つからない。だから、われわれはまだ、ラーマ人の生化学的特性について、何もわからない……といっても、われわれとそうめちゃくちゃに異なる生物じゃあないだろうがね」  何かが、かれの髪を軽くなでた。多忙にまぎれて、つい刈るのを忘れていたが、このつぎ宇宙帽をかぶる前には、なんとかしなければならないだろう……。 「きみは〈パリ〉やそのほかすでに探険ずみの〈海〉のこっち側の町……〈ロンドン〉、〈ローマ〉、〈モスクワ〉などのビデオを見ただろう。あれらの町が、住居の目的で建てられたとは、とうてい考えられない。〈パリ〉は、ばかでかい貯蔵倉庫といった感じだ。〈ロンドン〉は、明らかにポンプ・ステーションに接続しているパイプで連絡された、円筒物体の集団だ。あらゆるものが密封されていて、中に何があるのか、爆薬かレーザーでも使わないかぎり、確かめるすべがない。ほかに方法がない、とはっきりするまでは、そんな手段には訴えたくないがね。 〈ローマ〉と〈モスクワ〉に関しては──」 「失礼ですが、艦長《スキッパー》。地球から最優先連絡です」  いまごろなんだろう?  ノートンはいぶかしんだ。たった数分夫が家族に話しかけることさえ許されないのか?  かれは通信軍曹から、通信文を受けとると、緊急かどうかの確認に、すばやく目を走らせた。それから、もっとゆっくり読みなおした。  一体全体、〈ラーマ委員会〉とはなんなのだ? どうしてこれまで聞いたことがなかったのだ?  かれは千差万別の会社、協会、職業団体──まじめなのもあれば、まるきり気ちがいじみたのもある──が、自分に連絡を取ろうと躍起になっていることを知っていた。その攻勢に対しては、〈作戦司令部〉が懸命に防いでくれていたから、もしこの連絡が重大と見なされないかぎりは、こっちへまわしてこないはずだ。 二百キロメートルの風──突発の恐れあり  ──なるほど、これは一考の要がありそうだ。とはいえ、この静まり返った夜に、それをまともに受けとれ、というのはどだい無理な相談だ。それに、いよいよ実のある探険に乗りだした矢先に、怯えた鼠みたいにこそこそ逃げだすのも、しゃくな話じゃないか。  ノートン中佐は髪を払いのけようと、片手をあげた。どういうわけか、また目の前に垂れかかったからだ。そのとき、ポーズなかばで、かれはぎくりと凍りついた。  この一時間のうちに、かれは数度、かすかな風の動きを感じていた[#「感じていた」に傍点]。あまりにかすかだったので、気にもとめないでいたが。けっきょく、かれはあくまで宇宙[#「宇宙」に傍点]船の指揮官であって、海上船の船長ではなかった。今の今まで、空気の動きなどには、これっぽっちも職業的な関心を呼びさまされなかった。このような状況に置かれた場合、とうの昔に死んだあの初代のエンデヴァー号の船長だったら、どうするだろうか?  ここ数年というもの、ノートンは危地におちいるたびに、その質問を自分にぶつけてきた。それはけっしてだれにも明かしたことのない、胸のうちの秘密だった。しかも、人生における重要事がたいていいつもそうであるように、この習慣は、まったくの偶然からはじまったのだ。  エンデヴァー号の艦長になってから最初の数ヵ月間、かれはその名が歴史上もっとも有名な船の一つにあやかってつけられたものだとは、まったく気づかなかった。過去四世紀のあいだに、エンデヴァーの名をもつ船は、海で十数隻、宇宙でも二隻はいたが、その栄えある初代は、大英海軍のキャプテン・ジェイムズ・クックが一七六八年から一七七一年にかけて世界を乗りまわした、あの三七〇トンのホイットピー運炭船である。  最初の軽い興味がたちまち熱狂的な好奇心──ほとんど強迫観念といっていいような──に変貌して、ノートンはクックに関する文献を、手あたりしだい読み漁りだした。おそらくいまや、かれはこの史上最大の探険家に関する世界有数の権威となり、その『航海記』を隅から隅までぜんぶ、暗語《そら》んじているほどだった。  たった一人の男があんな原始的な装備で、あれほどのことができたとは、いま考えても信じがたいように思える。だが、クックはたぐいまれな航海者であっただけではなく、科学者であり──野蛮な風潮の時代に生きたにもかかわらず──ヒューマニストだった。かれは部下たちに慈愛をもって接したが、これは当時としては、異例のことだ。前代未聞であったのは、自分の発見した新天地のときとして敵意を見せる野蛮人に対しても、まったく同じように振舞ったということである。  けっして叶わぬ夢とは知りながら、せめてクックのやった世界一周航海の一つでもいいから、後をたどってみたいというのが、ノートンの密かな夢だった。かれとしてはすでに、局部的ではあったが、クック船長が知ったらさだめし目を丸くしそうな劇的な旅立ちを体験していた。かつて一度〈グレート・バリアー・リーフ〉(オーストラリア北東岸に平行する大サンゴ礁)の真上を通る極軌道を飛んだときのことだ。ある晴れた日の未明、かれは四百キロの上空から、クイーンズランド海岸に平行して、白い泡を噛む汀《みぎわ》にくっきり縁どられた、あの恐るべき珊瑚の壁の絶景を見おろしたのである。  全長二千メートルの〈リーフ〉を旅するのに、かれは五分たらずしかかからなかった。あの初代エンデヴァー号が何週間も費やした危険な航海の道筋を、一望のもとに見渡すことができた。さらに望遠鏡をとおして、かれはクックタウンと、同船が〈リーフ〉の虎口をあやうく逃れたあと、修復のため浜辺に引き揚げられた入江を、一瞥した。  一年後、ハワイの〈|遠 宇 宙《ディープスペース》追跡ステーション〉を訪れた際に、かれはさらに忘れられない経験にめぐりあった。ケアラケクア湾に向う水中翼船に乗って、荒涼とした火口壁のそばを迅速に走りすぎながら、かれは胸の奥底が感動に揺さぶられるのを感じて、驚きもし、狼狽もした。ガイドが、科学者や技師や宇宙飛行士からなるかれの一行を、一九六八年の大津波≠ナ破壊される以前の記念塔にかえて建立された、光り輝く金属の記念塔のところへ案内してくれたのである。かれらは真っ黒な滑りやすい溶岩の上を、数メートルほど歩き渡って、渚《なぎさ》に立っている小さな飾り板の前に立った。小さな波が打ち寄せてしぶきを散らしていたが、かがみこんで板面の文字を読むノートンの眼中には、ほとんど入らなかった。 [#ここから3字下げ] 一七七九年二月十四日   ジェイムズ・クック船長、この付近にて殺される。 一九二八年八月二十八日   クック百五十年記念訪問団が最初の記念碑を献納。 二〇七九年二月十四日   三百年記念訪問団により再建さる。 [#ここで字下げ終わり]  あれはもう何年も前のことだし、一億キロも離れた場所の出来事だった。しかし、このような瞬間には、クックの頼もしい存在が、すぐ身近かに感じられた。心の奥深くで、いつものようにかれはこう訊ねた。 「では、船長──あなたの[#「あなたの」に傍点]お考えは?」  健全な判断をくだすにたるだけの事実がなく、もっぱら直感に頼るほかない場合に、それはかれが楽しむ軽いゲームなのだ。それはクックの才能の一部でもあった。かれはいつも正しい選択をやってのけた──ケアラケクア湾で最後を遂げるまでは。  通信軍曹は、指揮官が黙然とラーマの夜をみつめているあいだ、辛抱強く待っていた。夜はもはや完全な闇ではなかった。なぜなら、四キロほど離れた二地点に、探険隊のほのかな光点がはっきりと見てとれるからだ。  いざというときは、一時間以内でかれらを呼び戻せる、とノートンは考えた。それなら、たしかに問題はあるまい。  かれは軍曹のほうに向きなおった。 「こう返電してくれ。〈惑星通信社〉気付〈ラーマ委員会〉宛。ご忠告を謝す。万全の警戒をとる。突発≠フ文意、ご教示乞う。エンデヴァー号艦長ノートン」  かれは軍曹がキャンプの煌々と輝く照明の中へ消え去るまで待ってから、ふたたびレコーダーのスイッチを入れた。だが、思考の連鎖が断ち切られたいまとなっては、もう前の気分に戻ることはできなかった。手紙をしたためるのはまたのときにするほかない。  かれが当然の義務を怠けているときに、クック船長が救けの手を差しのべてくれることは、めったになかった。だが、突然かれは、十六年間の結婚生活中エリザベス・クックが夫といっしょにいられたのは、気の毒にもごく時たまで、それもごく短い期間だけだった、ということを思い出した。それでも、彼女は六人も子供を産み──その全員に先立たれてしまったのだ。  だから、光速度で十分以上かからないところにいるかれの妻たちだって、不平をいう理由などさらさらないはずではないか……。 [#改ページ]      17 春 来 た る  ラーマに来て最初の何夜≠ゥは、なかなか寝つかれなかった。暗闇に隠されたあまたの謎も重くのしかかってきたが、それ以上に不安にさせたのは静寂だった。  音の欠落というのは、自然な状態ではないのだ。人間の五感は、つねに入力《インプット》を要求する。それを奪いとられると、心はみずからその代用品を作りだしてしまう。  というわけで、眠りにつこうとすると、奇妙な騒音──それどころか人声が聞える、という苦情がさかんに出た──起きている者には何も聞えないのだから、これは明らかに幻聴だった。アーンスト軍医中佐は、そこでじつに単純で効果的な治療法を処方してやった。睡眠時間中はいつも、優しい静かなバックグラウンド・ミュージックがキャンプ中に流れるようにしたのだ。  だが、今夜はその治療法が、ノートン中佐には邪魔だった。かれは暗闇に向かって耳をそばだてつづけた。自分が何を聞きとろうとしているのかもちゃんとわかっていた。だが、かすかな微風がときおり顔をなぶることはあっても、遠方に風の立つ音ではないかと疑えるような物音は、まったく聞えてこなかった。それに、どちらの探険隊も異常な気配ありという報告を寄こさなかった。  とうとう艦内時間で真夜中ごろ、かれは眠りについた。緊急連絡に備えて、通信コンソールには常時、当直員がついていた。それ以上の警戒措置は、必要ないように思われた。  かれはもちろんキャンプ中の人間を、たった一瞬で叩きおこしたその音は、たとえハリケーンであろうと出せなかっただろう。まるで天が落ちたかと、あるいは、ラーマが真っぷたつに裂けたかと思えるほどの音だった。  まず、グワーンというつんざくような破裂音が轟き、ついで、百万個の温室が砕けるような、ガシャガシャンという崩壊音が、長い尾を引いて連続的に発生した。それは数分間続いたが、感じでは何時間にも思えた。それが遠方へ遠ざかるように薄れながらも、まだ続いているうちに、ノートンは通信センターに駈けつけていた。 「〈軸端司令部〉! 何がおこったんだ」 「ちょっと待ってください、艦長《スキッパー》。〈海〉際《ぎわ》の上空です。ライトを当ててみます」  八キロ頭上のラーマの〈軸端部〉から、サーチライトが光を平原に投げて前進させはじめた。光は〈海〉べりに到着すると、こんどはそれに沿って進みだし、この世界の内側を走査していった。円筒形の表面を四分の一ほど行ったところで、光はぴたりと停止した。  空中──あるいは、心がいまだにしつこく空と呼びたがっているもの──高く、何か異常なことがおこりつつあった。  はじめノートンには、〈海〉が沸騰しているように見えた。もはやそれは、永遠の冬に抱きこまれて静止も凍結もしてはいなかった。さしわたし何キロメートルにもわたる広大な海域が、荒れ狂っていた。それは刻々、色を変えていた。幅の広い白帯が、氷の上を押し進んでいくのだ。  突然、一辺が四分の一キロほどありそうな氷の板が、さながら扉が開くように、上むきに傾きはじめた。ゆっくり堂々と、それは空中に聳え立つと、サーチライトを浴びて、きらりきらりと輝いた。それから、滑るように水面下へ没していき、その水没点から八方へと、泡立つ高波がどんどん広がっていった。  そのときになってようやく、ノートン中佐は何がいまおこりつつあるのかを、完全にさとった。  氷が割れている[#「氷が割れている」に傍点]のだ。  この何日か何週間かを通して、〈海〉ははるか底のほうから溶けはじめていたのである。破壊音がまだ世界中に轟き、空中に谺しあっているので、なかなか精神集中をはかるのは難かしかったが、かれは懸命に、これほど劇的な異変を生じさせた原因を考えだそうとした。地球上で凍った湖や河が溶けだす場合とは、まったく様子がちがう……。  だが、それも当然だ! 現実におこったからには、もうまぎれもない。〈海〉は、ラーマの外壁を太陽熱が滲透するにつれて、下から溶けているのだ。そして、氷が水に変わると、その体積は減少する……。  そこで〈海〉は、上方の氷層より下に沈んで、氷の支えを取っぱらうことになる。日一日と、その緊張は増大し、ついにいま、ラーマの赤道を一周している氷の帯が崩壊をはじめたというわけだ。ちょうど中央の橋げたを失った橋のように。氷は何百という浮かぶ小島に分解し、それがたがいに押し合いへし合いしているうちに、これまた溶けていく。  橇を使って〈ニューヨーク〉へ行こうと、計画を練っていたことを思いだしたとたん、ノートンの血はさっと冷たくなった……。  激動は急速におさまりつつあった。氷と水の攻防が、ひとまず膠着状態に到達したのである。あと数時間たって、温度がもっと上がれば、水が勝利を収め、氷は跡かたなく消滅してしまうだろう。しかし、最後の最後には、やはり氷が勝利者になるのだ。ラーマは太陽をめぐったあと、ふたたび恒星間の夜へと旅立つのだから。  ノートンはやっと息をつくことを思いだした。それから〈海〉に近いほうの探険隊を呼んだ。安心したことに、ロドリゴ中尉は即座に応答してきた。大丈夫、水はかれらのところまでは来なかったのだ。高波は断崖のふちを越えることはなかったのである。 「これでわかりましたよ」と、かれは落ち着きはらって補足した。「なぜ断崖が必要[#「必要」に傍点]かってことがね」  ノートンは黙ってうなずいた。だが、それでもなぜ南岸の断崖は十倍も高いのか、ということの説明はつかないな、とかれは考えた……。 〈軸端部〉のサーチライトは、走査を続けながら世界をぐるりと一周した。目覚めた〈海〉は、確実に鎮まっていき、もはや転覆した浮氷から、沸きかえる白い泡が八方に広がることもなくなった。さらに十五分たち、波乱はだいたいおさまった。  だが、ラーマはもはや静かではなかった。それは眠りから醒めて、氷塊同士がたえず衝突しては、ぎりぎりと軋む音が聞えた。  春の訪れはまだちょっと先だが──と、ノートンは考えた──ともかく冬は終ったのだ。  そして、またもやそよ風が、以前よりも強く吹いていた。ラーマはもう充分警告を出していた。いまこそ去るべき時だった。  中間点を示す標識に近づきながら、ノートン中佐はこんども、上方の──下方もだが──眺めを隠している暗黒に感謝したかった。前途にはまだ、一万以上も段が続いていることがわかっていたし、それが急勾配で上昇カーヴを描いているさまも思い浮かべることができたが、それでも目に見えるのはそのほんの一部だけという事実は、心理的負担をだいぶ軽くしてくれた。  かれにとっては、これが二度目の登攀で、一度目の失敗からすでにいろいろ学んでいた。これほどの低重力下だと、ついもっと早足で登りたいという誘惑に強くかられる。足運びがじつに楽なので、ゆっくりと一歩一歩を踏みしめながら行くのがひどく苦痛になるのだ。  だが、それを怠ると、ものの数千段と登らないうちに、不思議な痛みが大腿やふくらはぎにおこってくる。存在すら知らなかったような筋肉が、抗議の声をあげはじめ、休憩時間を休むたびにだんだん長くとっていかなければならなくなるのである。終点に近づくころには、登る時間よりも休む時間のほうが長くなり、それでもまだたりなくなる。おかげで次の二日間、こむらがえりの痛さに悩まされどおしたものだ。もしあのとき艦内の無重力環境に戻らなかったとしたら、仕事など手につかなかったにちがいない。  そこで今回の旅では、かれは苦痛に感じるほどの緩慢さで進みはじめ、まるで老人のように登っていくことにした。いちばん最後に平原を去ったので、ほかの者たちは頭上半キロぐらいの階段上に、珠数つなぎに並んでいた。かれらのヘルメット灯がその向こうの見えない勾配を登っていくのが見えた。  かれは自分の使命が失敗に帰したことが、心中、腹立たしく、いまでも、これが一時《いっとき》だけの退却であることを願っていた。〈軸端部〉に着いたら、大気の混乱がやむまで待てばいい。おそらくあそこなら、台風の目のように静まりかえっているだろうから、予想される嵐を安全に切り抜けることができるだろう。  またもやかれは、地球上の現象から危険な類推をやってのけて、結論に飛びつきかけていた。一世界全体の気象というものは、たとえ定常的な状態にあっても、とほうもなく複雑な問題である。数世紀にわたる研究をへても、地球上の天気予報にはまだ、絶対的な信頼が置けないぐらいなのだ。しかも、ラーマはまるっきり新しい世界であるばかりか、もっか、急速な変化を遂げている最中ときている。気温も、ここ数時間で数度も上昇を示しているのだ。それでもなお、見かけはまちまちな方角から、二、三回、弱々しい突風が吹いてきたにもかかわらず、依然として予測されたハリケーンの徴候は現われていなかった。  かれらはいま、五キロ登ったところだった。この低い、着実に減少していく重力下では、これは地球上の二キロそこそこに相当する。中央軸から三キロ離れた第三レベルで、かれらは一時間休憩し、軽い飲物を摂《と》ったり、脚の筋肉をマッサージしたりした。呼吸を楽におこなえる地点としては、ここが最後だった。昔のヒマラヤ登山隊のように、あらかじめここに酸素供給装置を残しておいたので、いよいよ最後の登攀のために、かれらはそれを身につけた。  一時間後、一行は階段の頂上に──そして梯子の登り口に──たどりついた。これから先は、いよいよ残り一キロの直登だが、幸い、重力は地球のわずか数パーセントという弱さである。さらに三十分の休息をとり、酸素の慎重な点検をおこなって、最後の登攀への準備を整えた。  ここでもまた、ノートンは部下の安全をはかって、二十メートル間隔で全員先に登らせた。ここからは、ゆっくりと着実な、恐ろしく退屈な道中となる。いちばんいい方法は、すべての思考を心のなかから追いはらい、段を数えながら漂い登っていくことだ──百、二百、三百、四百と…。  一二五〇段目に到達したとき、だしぬけにかれは、何かへんな気配に気がついた。すぐ目の前の垂直な表面に輝いている光が、おかしな色を帯びている──しかも、いやに眩しすぎるのだ。  ノートン中佐には、登りのぐあいを確かめ、また、部下に警告を発する時間的余裕さえなかった。すべては一瞬のうちにおこった。  光が音もなく炸裂して、ラーマに夜明けが訪れたのである。 [#改ページ]      18 夜 明 け  その光はあまりにも眩しかったので、ノートンはたっぷり一分間、目をかたく閉じていなければならなかった。それから、そっと薄目を開け、まぶたの隙間から、鼻の先数センチにある壁面をみつめた。二度三度まばたきをして、ひとりでに滲み出てきた涙が洗い流されるまで待ってから、のろのろと頭《こうべ》をめぐらせて、夜明けを拝むことにした。  その光景には、ほんの数秒ほどしか耐えられなかった。かれはしかたなくまた目をつぶった。耐えられないのは、光の輝きではなく──光ならいずれは目も慣れるだろう──いまはじめて全貌を現わしたラーマの恐るべき|景 観《スペクタクル》だった。  ノートンとしては、何が見えるはずか正確に予期していたつもりだが、それでもその光景には、肝をつぶしてしまった。かれは抑えのきかない震えの発作に襲われた。溺れる者が浮袋にひしとしがみつくように、梯子の横棒を両手で握りしめた。前|膊《ぱく》部の筋肉が、固くしこりはじめ、同時に両脚──長時間登りづめですでに疲れきっていた──が、いまにも滑りそうになった。もし重力が弱くなかったら、かれは墜落してしまったかもしれない。  そのときになってやっと、日ごろの鍛練が物をいいはじめ、かれはパニックを鎮める最初の手あてにとりかかった。目のほうは依然閉じたまま、周囲の恐るべき眺望を忘れようと努めながら、深く、長く息を吸いこんで肺を酸素で満たし、疲労の毒素を体内の組織から洗い流しはじめたのである。  まもなく気分はだいぶよくなったが、かれはまだ目を開かずに、もう一つの行動を完了するまで待った。  右手を開くのには、かなりの意志力を必要とした──まるで言うことをきかない子供に対するように、言いきかせなければならなかった──が、どうやらそれを腰のところまで降ろすと、宇宙服から安全ベルトをはずして、最寄りの段にバックルを引っかけた。もはや、何がおころうが、落ちる気づかいはない。  ノートンはさらに二度三度、深呼吸をしてから──目はまだ閉じたままで──無線のスイッチを入れた。かれは自分の声が冷静に威厳をもって聞えるように念じながら、呼びかけた。 「こちら艦長《キャプテン》。みんな大丈夫か?」  かれは部下の名を一人一人チェックし、全員から──たとえ、多少震えを帯びた声であったにしろ──応答を受けとるにつれて、持ちまえの自信と自制心が急速に戻ってきた。部下は全員無事で、かれの指示を心待ちにしている。  かれはふたたび指揮官だった。 「耐えられる自信ができるまで、目を閉じたままでいろ。こいつは──肝をつぶすような眺めだからな。それでも圧倒される者は、下を見ずに登りつづけるんだ。いいか、もうすぐ重力ゼロ地帯に達して、落ちたくても落ちられなくなることを忘れるな」  訓練をつんだスペースマンにむかって、そんな初歩的事実を指摘してやる必要は、ほとんどなかったが、ノートンにしてみれば、ひっきりなしにそれを自分にいい聞かせておかなければならなかったのである。重力ゼロという考えは、いわば、おのれの身を害から護ってくれる一種のお守り札に相当した。目が何を訴えようと、ラーマはかれを八キロ下の平原まで引きずり降ろして、叩き潰すことはできないのだ。  かれにとってはいまや、もう一度両眼を開けて周囲を見まわすことが、急を要するプライドと自尊心の問題となった。だが、まず何よりもさきに、自分の体を支配下におさめねばならない。  かれは梯子を掴んだ手を両方[#「両方」に傍点]とも離して、左腕を横棒の一本に引っかけた。両手を握りしめたり開いたりしながら、筋肉のしこりがほぐれるまで待った。それから、充分気分がよくなったところを見はからって、目を開き、おずおずとラーマに顔をむけた。  青一色、というのが最初の印象だった。天に溢れる輝きは、陽光と見まごう恐れはなかった。むしろ、電弧《アーク》のそれといえた。とするとラーマの太陽は、地球のそれよりもっと熱いにちがいない、とノートンは思った。この事実はきっと天文学者の興味を惹くだろう……。  そしていまこそ、あの謎めいた謎の目的をかれは理解した。〈直線渓谷〉とその五本の同類は、巨大な照明装置以外の何物でもない。ラーマは、その内壁表面に等分に配置された六つの帯状太陽をもっているのだ。そのそれぞれから中心軸方向に、扇型の光が放たれて、この世界を隅々まで照らしだしている。ノートンは、それらの光がスイッチで明滅し、光と闇を交互に生みだすことができるのか、それとも、ここは永遠の昼の星なのかといぶかしんだ。  目もくらむような光の棒をみつめすぎたおかげで、両眼がまたもや痛みはじめた。かれはしばらく目をつぶるいい口実が見つかったことを喜んだ。この最初の視覚的ショックから、どうやら立ち直りかけたときになって、ようやくかれは、もっとずっと重大な問題に思いあたった。  だれが[#「だれが」に傍点]、あるいは何が[#「何が」に傍点]、ラーマの照明スイッチを入れた[#「ラーマの照明スイッチを入れた」に傍点]のだ?  人類が使用できる最高度に敏感な探知装置によれば、この世界は死んでいるはずだ。だがいまや、自然力の作用では説明のつかない何ごとかがおこりつつあった。ここには生命は存在しないかもしれないが、意識とか知覚なら存在している可能性があった。ロボットが久遠《くおん》の眠りから目覚めたのかもしれないのだ。おそらくこの光の爆発は、プログラムされていない、気まぐれな発作──新しい太陽の熱にでたらめの反応をおこした機械の断末魔のあえぎで、いずれまもなく沈熱を取りもどし、こんどこそ永遠の眠りにつくだろう。  それでもノートンは、そのような単純な説明が素直に信じられなかった。|はめ絵《ジグソウ》パズルの断片が、少しずつまとまりはじめてはいたが、まだまだたくさんの断片が欠けている。たとえば、磨滅を示すどんな徴候もないことだ──何もかもが真新しい[#「真新しい」に傍点]、という感じなのだ、まるでラーマがたったいま創造されたばかりであるかのように……。  本来なら、そんな考えかたには不安や、それどころか恐怖がつきもののはずだが、どういうわけか、そんな感情は少しも湧いてこなかった。逆に、ノートンは気分がわれ知らず浮き立ち──ほとんど喜びをさえ感じた。ここには、考えていたよりはるかに多くの発見が期待できそうだ。 「待った」と、かれは自分にいいきかせた。「〈ラーマ委員会〉にこのこと[#「このこと」に傍点]を知らせてからだ!」  それから、沈着な決意とともに、かれはふたたび目を開け、視界内にあるものを一つ一つ丹念に、脳裏に刻みつけはじめた。  まず、なんらかの基準体系を確立しなければならない。かれがいま見ているのは、人類がかつて見たなかでもっとも巨大な閉じた空間であり、そこを歩きまわるためには心理的な地図が必要である。  微弱な重力は、ほとんどなんの役にも立たなかった。というのも、ちょっと意志を働かせれば、上下≠フ方向を好きなように切り変えることができるからだ。ただ、方角によっては心理的な危険があり、その方角に捉われそうになるたびに、かれは大急ぎで方向転換をおこなわなければならなかった。  いちばん安全な想像《イメージ》は、さしわたし十六キロ、深さ五十キロの巨大な井戸のおわん型をした底にいる、と考えることである。このイメージの長所は、これ以上墜落する危険のないことだが、反面、重大な欠点もいくつかあった。  散在する町や都市──色と構造のちがう地帯については、それらぜんぶが聳え立つ壁面にしっかり固定されているのだ、と見なすことができた。頭上のドーム天井から垂れ下がっているようにも見える複雑なさまざまの構造物は、地球上の巨大な音楽室によく見られる懸垂式の枝付燭台《キャンデラブラ》と同様、おそらく気にもとめずにすますことができるだろう。  だが、どうしても受け入れがたい代物は、あの〈円筒海〉だ……。  それは井戸内壁の半ばまで登ったあたりにあり──水の帯がその内壁を完全に一周し、見たところなんの支えもなく張りついている。それが水である[#「である」に傍点]ことには、疑問の余地がない。まだらに残ったわずかな数の浮氷がきらきらときらめく、鮮烈なブルーの帯だ。しかし、空中二十キロの高さに完全な環を形成している垂直な海、というのはあまりにも不安定な現象だったので、しばらくするとかれは、かわりの考えかたを探しはじめた。  かれの心が場面を九十度切り変えたのは、そのときである。たちまち深い井戸は、両端の塞がった長いトンネルに変った。下≠ヘ明らかに、いましがた登ってきた梯子と階段の方向になった。この見方を採用したおかげで、ようやくノートンは、この場所を建設した設計家たちの抱いていた真のヴィジョンを理解できるようになった。  かれは高さ十六キロの彎曲した絶壁の表面にしがみついていた。絶壁の上半分は、完全にせり出し、いまは空の役をつとめているアーチ天井へと溶けこんでいる。足下では、梯子が五百メートル以上にわたって下降し、最後に、一段目の岩棚というかテラスで終っている。そこからこんどは、階段がはじまり、最初はほとんど垂直にこの低重力地帯を突っ切るが、そのあとは徐々に勾配を柔らげていき、途中五カ所のテラスを通過してから、遠くはるかな平原に到達している。はじめの二、三キロあたりまでは、個々の段を見わけられるが、それから先は、一本の連続的な帯と化していた。  その巨大な階段がながながと下降している光景は、圧倒的すぎて、その真のスケールを正しく認識するのは不可能だった。昔ノートンは、エヴェレスト山の付近を飛んで、その大きさに圧倒されたことがある。かれはこの階段の高さがヒマラヤ山脈ぐらいもあることを思いだしたが、実際のところ、この比較は無意味なことだ。  そして、ほかの二つの階段〈ベータ〉と〈ガンマ〉にいたっては、そもそも何かと比較すること自体が不可能なのだ。なにしろ空中へ斜めにせりあがっていったあげく、頭上はるかな高みへとカーヴしているのだから。  どうやらもうノートンも、うしろに背をそらせてふり仰ぐだけの自信を獲得していた──ほんの短いあいだではあるが。それからかれは、そんなものがそこにあることを忘れ去ろうと努めた……。  というのも、そのようなことをいつまでもくよくよ考えていると、そのうちラーマに関する第三のイメージが浮かびあがってきそうで、そればかりは、何がなんでも避けたいと願っていたからだ。  それもやはり、ラーマを垂直のシリンダーないし井戸と見なす考えかただった──ただしこんどは、自分がその底ではなく、てっぺん[#「てっぺん」に傍点]にいて、ちょうどドーム天井をさかさまになって這っている蝿さながら、五十キロメートルの垂直空間を背にしているというわけだ。このイメージに捉われそうになるたびに、激しいパニックに駆られてもう一度梯子にかじりつきたくなるのを、ノートンはあらんかぎりの意志力をふり絞ってこらえなければならなかった。  でも、時がたてば、このようなやみくもな恐怖は消え去るだろう、とかれは確信していた。ラーマのもつ驚異と神秘が、恐怖を追いはらってくれるだろう。少なくとも、宇宙の真実に面とむかう訓練を受けている者たちにとっては。おそらく、地球を離れたことがなく、四方八方一面の星々を見たことがない者には、こうした眺望は耐えられまい。だが、その眺めを受け入れられる人間がいるとしたならば、それはほかならぬエンデヴァー号の艦長と乗組員たちだ、とノートンは、断固とした決意とともに自分にいいきかせた。  かれは自分の精密時計《クロノメーター》を見た。この休息はたった二分つづいただけなのに、まるで一生涯のように思えた。体の慣性《イナーシャ》と衰微する重力場との克服には、ほとんど意を用いる必要もなく、かれは自分の体をゆっくり引きずり上げながら、残り百メートルの梯子登りを開始した。  エアロックに入る直前、かれは背後のラーマを振りかえり、すばやい一瞥で最後の調査をおこなった。ラーマはこの数分のうちにさえ、変貌をとげていた。 〈海〉から霧が湧きあがっていた。影のように立ち昇るその白い柱は、最初の数百メートルのあいだ、ラーマの自転方向に鋭く傾斜しているが、上方へ殺到する空気が超過速度を捨て去ろうとするにつれ、気流の渦となって消えていく。  いまや、この円筒世界の〈貿易風〉が、空中に模様を描きだしはじめていた。測り知れない歳月のうちにいまはじめて、熱帯性暴風雨が発生しようとしていた。 [#改ページ]      19 水星からの警告 〈ラーマ委員会〉のメンバーが全員そろったのは、発足後数週間で今回がはじめてだった。ソロモンズ教授は、中央海溝ぞいの採鉱計画を研究していた太平洋の深淵から、姿を現わした。それから、だれも驚きはしなかったが、テイラー博士がふたたび登場した。ラーマにも、無生命の人工物よりはネタになるものがありそうだという、少なくとも可能性だけはあることがわかったからである。  議長としては、ラーマのハリケーンに関するカーライル・ペレラ博士の予言が的中したとあって、てっきり今日は、かれがふだんにも増して独断的主張をおこなうだろうと予想していた。ところが、大使閣下がおおいに驚いたことに、ペレラはひどく控え目で、同僚たちの祝福も、かれとしては精いっぱいの当惑ぶりを示しながら受けとったのだ。  この宇宙生物学者は、事実、深い屈辱にさいなまれていた。〈円筒海〉の劇的な解氷は、ハリケーンなどよりずっと明白な現象だった──なのに、かれとしたことがそれをすっかり見落していたのだ。熱い空気が上昇することは覚えていながら、熱い氷が収縮することをころり忘れていたとは、かれにしてみればけっして自慢できる話ではない。  とはいうものの、博士のことだから、そんな不面目はじきに乗り越えて、いつもの尊大ぶった自信の塊りに戻ることだろう。  議長がかれを発言者に指名して、今後の気候の変化をどう予測するかと問いただしたとき、博士は用心深く即答を避けた。 「ぜひご理解いただきたいが」と、かれは説明した。「ラーマのような未知の世界の気象となると、ほかにもどんな驚きを秘めているかわかりません。しかしながら、私の計算がもし正しければ、これ以上嵐は発生せず、天候はまもなく安定するでありましょう。近日点までは──そして、それを越えてからも──温度はゆっくり上昇を続けますが、エンデヴァー号はそれよりずっと手前で離脱しなければなりませんから、このさい心配はありません」 「では、もうすぐ、なかに戻っても安全になるわけですかな?」 「ええと──そのようですね。はっきりするのは四十八時間後ですが」 「なんとしてでも戻ってもらわねばなりません」と、水星大使がいった。「ラーマについては、可能なかぎり多くのことを学ばねばならんのです。いまや、状況は完全に一変しましたからな」 「おっしゃる意味はわかっているつもりですが、念のためご説明願えますか?」 「もちろんですとも。これまでわれわれは、ラーマには生命が存在しない──というか、とにかく知的な制御は受けていない、と仮定してきた。しかし、こうなったからにはもはや、あれを遺棄船であるなどと見なすわけにはいきませんな。たとえ生命体は乗っていなくとも、なんらかの使命を果すようにプログラムされたロボット|機 構《メカニズム》によって操縦されておるのかもしれない──おそらくそれは、われわれにとっていちじるしく不利益な目的でありましょう。いかに不愉快であろうとも、われわれは自衛の問題を考慮しなければならんのです」  たちまち異議を申し立てるざわめきがおこり、議長は手をあげて静粛を取り戻さなければならなかった。 「大使のお話を最後まで聞いていただきたい!」かれは懇願した。「好むと好まざるとにかかわらず、私たちはこの考えを真剣に検討すべきです」 「大使殿のご意見には心から感服いたしますが」と、コンラッド・テイラー博士が、いんぎん無礼な口調でいった。「悪意の侵略に対するさように素朴な恐怖は、このさい除外してよろしいかと存じます。ラーマ人ほどに進歩した生物であれば、道徳心のほうもそれ相応のレベルに達しているはずです。さもなければ、かれら自身が自滅してしまっているでありましょう──私たちが二十世紀であやうくやりかけたように。そのことについては、私の新著『エトスとコズモス』のなかでも明らかにしておきました。みなさんのお手元にも、すでに一部ずつおとどけしたと思いますが」 「ええ、いただきましたとも。もっとも、多忙にまぎれて、まだ序文しか拝見しておりませんが。それでも、全体のご趣旨はよくわかっております。たしかにわれわれは、蟻塚に対してなんら邪悪な意図はもっていないでしょう。しかし、もしわれわれがその場所に家を建てたいとなったら……」 「これはまた、あのパンドラ党とやらに負けず、始末が悪い! そんなのは宇宙的|異人恐怖症《ゼノファビア》以外の何ものでもない!」 「ご静粛に、諸君! そのような議論からは、得るものは何もありません。大使殿、発言をお続けください」  議長は三十八万キロの空間を隔てて、コンラッド・テイラーを睨みつけた。かれは潜伏期を迎えた火山よろしく、しぶしぶ沈黙した。 「ありがとうございます」と、水星大使はいった。「危険の可能性はそれほどないかもしれませんが、人類の未来にかかわる場合には、用心の上にも用心が肝要です。それに、もしこんないいかたを許していただくなら、とりわけ憂慮しているのは、われわれ水星人であるかもしれません。われわれはほかのだれよりも、警戒すべき立派な理由がありそうだからです」  テイラー博士がわざとらしく鼻を鳴らしたが、またもや月からひと睨みくらって静かになった。 「なぜ水星には、ほかの惑星よりも理由があるのです?」と、議長が訊ねた。 「状況の力学的《ダイナミックス》側面に目を向けていただきたい。ラーマはすでにわれわれの軌道内に入っております。それが太陽をめぐって、ふたたび宇宙空間へ突進していくだろうというのは、単なる仮定に過ぎません。かりにラーマが減速行動をおこしたとしたら? 現実にそうなるとした場合、それがおこるのは近日点付近、いまから約三十日後でしょう。当方の科学者の話によりますと、もしそこで充分な速度変化があった場合、ラーマは太陽からわずか二千五百万キロの円軌道をとることになるでありましょう。その軌道から、ラーマは太陽系を支配することができるのです」  長い時間、だれ一人──コンラッド・テイラーでさえも──一語も言葉を発さなかった。委員会のメンバー全員が、この大使にみごとに代表されるような、気むずかしい水星人という民族について、さまざまな想いに耽っていた。  大多数の人びとにとって、水星はいわば、〈地獄〉に近いイメージをもたされていた。少なくとも、そこ以上にひどい場所が発見されるまでは、そうだった。しかし、水星人は、日が年より長く、日の出と日没が日に二回あり、溶融金属の川が流れる不気味な自分たちの惑星を、誇りに思っていた。水星に比べれば、月や火星はほとんどとるにたらない挑戦者である。金星に着陸するまで(着陸といえるならばだが)、人類は水星の環境以上に敵意に満ちたそれに出くわしたことがなかったのだ。  それでもなお、この世界はいろいろな意味で、太陽系の鍵を握る存在であることがわかってきた。あとから考えれば、これは当然のことのように思えたが、その事実がはっきり認識されたのは、宇宙時代′繹齔「紀もしてからである。そしていまや水星人は、そのことをだれにもけっして忘れさせなかったのである。  人類が到達するずっと以前から、水星の異常な比重が、重い元素の含有を暗示してはいた。それでも、その豊かな埋蔵量は驚異の的となり、人類文明を支える不可欠の金属が底をついてしまうのではないか、という恐怖を千年も先延ばしにしてくれたのだ。しかも、こうした宝は、太陽エネルギーが寒さの厳しい地球よりも十倍も大きい、願ってもない絶好の場所にあったのである。  無限のエネルギー──無尽蔵の金属。それ[#「それ」に傍点]が水星なのだ。その巨大な磁力発射台は、産出物を太陽系内のいかなる地点にも送りとどけることができる。また、エネルギーをトランスウラニウムの合成同位元素か純粋の幅射線の形で、輸出することもできる。そのうち水星のレーザー装置で、巨大な木星を暖めようという計画さえ出されたが、このアイデアはほかの惑星からは快く受けとめられなかった。木星を料理できるほどの技術は、惑星間のゆすりに悪用される可能性があまりにも大きいからだ。  そのような危惧があえて表明されたという事実は、水星人に対する一般的な姿勢を、あますところなく物語っている。かれらはそのタフさと優秀な技術力の点で尊敬され、あれほどの恐るべき世界を征服した実力を讃嘆されてもいた。だが、かれらは好意をもたれず、それにもまして全幅の信頼を置かれていないのだ。  それと同時に、かれらの物の見かたはよく理解することもできる。水星人はときどき、まるで太陽が私有物であるかのように振舞うことがある、というのはよくいわれる冗談である。かれらは太陽と親密な愛情関係で結ばれていた──ちょうど、昔のヴァイキングたちが海と、ネパール人がヒマラヤと、エスキモーがツンドラとつながりをもっていたように。かれらは、自分たちとその生活を支配し、左右している自然力とのあいだに、何かが割りこんでくることを、いちばん忌み嫌うのだ。  とうとう、議長が長い沈黙を破った。かれはいまだに、インドの太陽が忘れられなかったので、水星の太陽を考えると身震いした。だから、水星人のことを内心、野暮な技術的野蛮人だと考えていたにもかかわらず、かれらの考えをすこぶる真面目に受けとった。 「あなたのご意見には、一理あると思いますよ、大使」かれはゆっくりといった。「何か提案がおありですかな?」 「ええ、ありますとも。いかなる行動に出るにせよ、その前にわれわれは事実を知らなければなりません。われわれはラーマの地理──そのような言葉を使ってよければだが──については知っている。だが、その能力ということになると、皆目わからんのが現状です。問題全体を解く鍵はこうです。ラーマには推進システムがあるのか? 軌道を変更できるのか[#「軌道を変更できるのか」に傍点]? 私としましては、ペレラ博士のお考えに非常な関心をもっております」 「その間題については、ずいぶん考えてみましたよ」と、宇宙生物学者は答えた。「もちろん、ラーマも最初は、何かの発射装置によってはずみをつけてもらったにちがいないが、それは外部のブースターだったとも考えられます。もし推進装置を乗せているとしても、まだそれらしきものは発見されておりません。ロケット噴射管とか、それに似たようなものは、外壁のどこにも見あたらないことは確かです」 「内部に隠されているとも考えられる」 「確かに。でも、そうする必然性がちょっとありませんな。それに、推進燃料のタンク、エネルギー源はどこにあるんです? 船体の壁は中まで詰まっている──それは地震波調査で確認ずみです。北端|円蓋部《キャップ》の空洞は、すべてエアロック機構で説明がつきます。  残るはラーマの南端部だが、ここは例の幅十キロという水の帯にはばまれて、ノートン中佐はまだ到達できないでいます。この〈南極〉には、奇妙な|機 構《メカニズム》やら構造やらがごちゃごちゃ集まっていることは、写真でごらんのとおりです。それがいったいなんなのかは、皆目見当もつきません。  とはいえ、理屈からいってこれだけは私も断言できます。ラーマがほんとうに推進システムをもっているとしたら、それはわれわれの現在の知識の、完全に埒《らち》外にあるものです。実際、もう二百年も前からあれこれいわれている、あの奇想天外な|宇 宙 駆 動《スペース・ドライヴ》≠ニいうやつなのかもし知れません」 「その可能性を除外しないのですか?」 「むろん除外しません。もしラーマがスペース・ドライヴをもっていることが立証できたら──たとえ、原理に関しては何一つわからなくとも──それは大発見になるでしょうな。少なくとも、そのような物がありうることだけは判明するわけです」 「スペース・ドライヴとは[#「とは」に傍点]、いったいなんです?」地球大使がやや哀願口調で訊ねた。 「ロケットの原理では飛ばない、あらゆる種類の推進システムのことですよ、ロバート卿。反重力──そんなものが可能ならばだが──なら、まさに打ってつけですな。目下のところ、そのような推進法は暗中模索の状態で、ほとんどの科学者は、その存在さえ疑っていますがね」 「存在などせんさ」と、デヴィッドスン教授が口ばしを入れた。「ニュートンがすでに結着[#「結着」に傍点]をつけておる。反作用のない作用はありえない。スペース・ドライヴなぞというのは、まったくナンセンスじゃ。わしのいうことにまちがいはない」 「おっしゃるとおりかもしれません」と、意外にもの柔らかな口調で、ペレラは応じた。「でも、もしもラーマがスペース・ドライヴをもっていないとすると、推進装置はまったくないということになりますな。在来型の推進システムが、その巨大な燃料タンクといっしょに納まるような空間は、まるきりありませんからね」 「一つの世界がまるごと推進される、というのはちょっと想像できませんね」と、デニス・ソロモンズがいった。「なかの物体はどうなります? あらゆる物をネジ止めしなけりゃならんでしょう。あまりにも不便すぎる」 「まあ、加速度はたぶん非常に低いのでしょうな。最大の問題は、〈円筒海〉の水です。あれをどうやって防ぎ止めたら……」  だしぬけに、ペレラの声は小さくなり、目の表情がぼんやり虚ろになった。初期のてんかん発作か、心臓発作にでも襲われたように見えた。同僚たちは驚いたようにかれを見た。そのときかれは突然われに帰り、テーブルをこぶしで叩くと、叫んだ。 「もちろんだとも! それで何もかも説明がつく! あの南側の絶壁は──これで[#「これで」に傍点]ちゃんと筋がとおるぞ!」 「私にはとおらんよ」  出席中の外交官全員を代表して、月面《ルナー》大使が不平を鳴らした。 「ラーマを経線に沿って割ったこの断面図を見てください」ペレラは地図を拡げながら、興奮口調でつづけた。「お手元にコピーがありますか? 〈円筒海〉は二つの絶壁に挟まれたまま、ラーマの内側を完全に一周していますね。北側の絶壁は、高さが五十メートルしかありません。それに比べて、南側の壁は高さがほぼ半キロ近くに達しています。なぜ、こんな大きな差があるのか? これまでだれも、筋のとおった理由を考えつくことができませんでした。  しかし、もしかりにラーマが自力推進できる[#「できる」に傍点]としたなら──北端が先頭になるように加速されるとしたなら、どうでしょう。当然海の水は後退することになり、南側の水面が上昇する──おそらく数百メートルに達するでしょう。そこで、この絶壁が役立つことになる。待ってください──」  ペレラは猛然となぐり書きをはじめた。びっくりするほどの短時間で──二十秒以上はかからなかっただろう──勝ち誇ったように顔をあげた。 「これらの絶壁の高さから、ラーマが出せる加速の最大量《マキシマム》が割り出せます。もしそれが一Gの二パーセントを超えると、〈海〉は南側の大陸になだれこんでしまうでしょう」 「一Gの五十分の一で? たいした大きさじゃありませんな」 「たいした大きさですよ──一千万メガトンの質量にとってはね。天文学的な操船行動からすれば、これだけで充分なのです」 「まったくかたじけない、ペレラ博士」と、水星大使はいった。「おかげで考える材料がたくさん出てきました。議長──ノートン中佐に〈南極〉地方の調査の重要性を認識させることはできますか?」 「中佐は最善を尽していますよ。もちろん〈海〉が障害になっていますが、いまかれらは一種のいかだを作りにかかっています──せめて〈ニューヨーク〉までは行けるようにね」 「〈南極〉はそれより重要かも知れませんぞ。とにかく、私はこのことを〈惑連総会〉にかけようと思っております。ご賛同いただけますかな?」  べつに異議は出なかった。テイラー博士からさえなかった。だが、委員たちがそれぞれ回路のスイッチを切ろうとした矢先、リュイス卿が手をあげた。  この老歴史学者は、非常に寡黙な人だったから、いざ口を開いたときには、だれもが耳を傾けた。 「かりにラーマが──生きていて[#「生きていて」に傍点]、いろいろな可能性を秘めていることが確実になった、としましてですな。軍事関係では、古くからこんな格言がある。可能性、必ずしも意図ありということにはならないとな」 「意図をつきとめるまで、どれぐらい待たなけりゃならんのです?」と、水星人が聞いた。「意図を発見したときには、もうあとの祭りということになるかも知れませんぞ」 「すでにもうあとの祭りですわい。われわれはもはや、手も足も出んのです。実際、これまでだって、出せたかどうか疑わしい」 「私はそうは思いませんな、リュイス卿。やれることはいろいろあります──必要とあればね。しかし、時間は絶望的なほど切迫しています。ラーマは、太陽の火に暖められている|宇 宙 の 卵《コズミック・エッグ》≠ナす。いまにも孵《かえ》るかも知れない」 〈ラーマ委員会〉の議長は、率直な驚きの目で水星大使をみつめた。長い外交官経歴のうちで、これほど驚いたことはめったになかった。  水星人がこれほど詩的な想像力の飛躍を見せることができるとは、夢にも思っていなかったのである。 [#改ページ]      20 黙 示 録  部下のだれかがかれを中佐殿≠ニか、もっと悪くミスター・ノートン≠ニ呼ぶときは、いつも重大事が突発したときと決まっている。それに、ボリス・ロドリゴからそんな呼びかたをされた覚えは、これまで一度もなかったから、これは輪をかけて重大事にちがいない。ふだんでも、ロドリゴ中尉はくそまじめな人物で通っているのだ。 「どうしたんだね、ボリス?」艦長室のドアが閉まると、かれは訊ねた。 「対地球直接通信の艦内最優先使用許可をいただきたいのです、中佐殿」  前例のないことではなかったが、これは確かに異例[#「異例」に傍点]だった。  定時通信は最寄りの惑星の中継で送られる──このときは水星経由で通信していた──ため、たとえ経由時間は数分程度にすぎなくとも、宛先の当人のデスクまで通信文がとどくまでに五、六時間かかることがよくある。九十九パーセントまでは、それでも充分だが、緊急の場合は、艦長の裁量で、もっと直接的だがずっと費用のかかるチャンネルを利用することができるのだ。 「むろん、きみも知ってのとおり、それなりに充分な理由を聞かせてもらわなけりゃならんぞ。なにしろ使える周波数は、みんなもうデータ送信でふさがっているからね。きみの私的な緊急通信かね?」 「いえ、中佐殿。そんなこと[#「そんなこと」に傍点]よりはるかに重要なことです。自分は〈|母なる教会《マザー・チャーチ》〉へ通信を送りたいのであります」  なるほど、とノートンは思った。こいつはどう扱ったものかな? 「わけを説明してくれたら、嬉しいんだが」  ノートンの要求を後押ししたのは、たんに好奇心だけではない──もっとも、それも確かにあるが。ボリスに優先権をあたえるためには、その許可を正当化するだけの理由がいるからだ。  落ちついた青い瞳が、かれの目をひたとみつめた。ボリスが自制を失ったり、自若とした態度から遠ざかったりしたところを、見たためしがない。〈宇宙《コズモ》キリスト〉教徒たちは、みなこうなのだ。それがかれらの信仰の特徴の一つで、かれらが優秀なスペースマンになる一助ともなっている。  しかし、そのみじんも揺がない確信が、不幸にしてそのような〈黙示〉をあたえられなかった者にとっては、ちょっぴりわずらわしくもあった。 「それはラーマの目的に関わることであります、中佐殴。自分はそれを発見したと信じます」 「つづけたまえ」 「状況をごらんください。ここに完全にからっぽの、生命のない世界があります──ところが、それは人類の生存にぴったり適合しています。水が存在し、呼吸のできる大気があります。それは遠い宇宙の深淵から、正確に太陽系めざしてやって来ました──これがたんなる偶然の一致であるとは、とうてい信じがたいことです。しかも、それは真新しいだけではありません。まるでまだ一度も使われたことがない[#「まだ一度も使われたことがない」に傍点]かのように見えます」  ここまではわれわれも、何十回となくおさらいをしたものだ、とノートンは考えた。そのうえにボリスは何をつけ加えられるかな? 「われわれの信仰はそのような訪問を、どのような形をとるかは正確にわからないにしろ、期待するようにと教えてくれています。聖書にも暗示されています。もしこれが〈第二の来臨〉でないなら、〈第二の審判〉であるのかも知れません。ノアの物語は最初の審判を描いています。自分はラーマを宇宙の方舟《はこぶわ》≠ナあると信じます──救済に値いする者を救うためにに送られてきたのです」  艦長室のなかを、かなりのあいだ沈黙が支配した。言葉に窮したのはノートンではなかった。むしろかれの心には、たくさんすぎるほどの質問が渦巻いていた。だが、そのうちのどれをぶつけたら、駈け引きのうえで有利か確信をもてなかったのだ。  とうとうかれは、精いっぱい穏やかな、何気ない口調で切り出した。 「じつにおもしろい考えかただね。私の信仰はきみのとは違うが、じれったいほどもっともな考えかただ」  かれはべつに偽善を働いているのでもなければ、世辞をいっているのでもなかった。宗教的な衣を取り去ってみれば、ロドリゴの仮説には、少なくともほかの半ダースほどの仮説と同じ程度には、説得性に富んでいる。  かりに、何かの災厄がまさに人類に振りかかろうとしていて、慈悲深い高等な知性がそれについてすべてを知っていると仮定したら? そう考えれば、すべてがすこぶるきれいに説明できる。  だが、それでもまだ、いくつか問題はあった……。 「二つ三つ質問があるんだがね、ボリス。ラーマはあと三週間で、近日点に達するだろう。それから、太陽をまわって、ちょうど来たときと同じ早さで、太陽系から飛び去ることになる。〈審判の日〉としては、あるいは、ええとその、選ばれた者を運びこむには、あまり時間的余裕がない──それでも、その大仕事[#「大仕事」に傍点]はなんとかやり遂げねばならんことになるね」 「おっしゃるとおりです。ですから、近日点に到達したとき、ラーマは減速して、待機軌道に入らなければなりません──おそらく地球の軌道上に、遠日点がくることになるでしょう。そこでもう一度、速度変更をおこなって、地球とランデヴーするかもしれません」  これは不安になるほど説得的だった。もし太陽系内にとどまりたいのであれば、ラーマは正しい道筋をたどっていることになる。減速するのにいちばん効果的な方法は、できるかぎり太陽に接近して、ブレーキをかけることなのだ。もしロドリゴの理論──または、その修正説──に一理あるとすれば、それはもうじき証明されるだろう。 「もう一つあるよ、ボリス。いま何が、ラーマをコントロールしているんだね?」 「その点については、べつに参考になりそうな教義がありません。完全な自動操縦《ロボット》という可能性もあります。あるいは──心霊現象《スピリット》とも考えられます。生物学的な生命体の存在する徴候がないのは、それで説明がつくでしょう」  幽霊小惑星[#「幽霊小惑星」に傍点]か。  どうしてそんな言葉が、記憶の底から飛びだしてきたんだ? そのときかれは、何年も前に読んだばかばかしい小説のことを思いだした。そんなものを読んだかどうかボリスに聞くのは、やめたほうがいいなと思った。その種の読書がこの相手の趣味に合うかどうかは、疑わしいものだったからだ。 「こうしたらどうだろう、ボリス」ノートンは、突然心を決めていった。  かれとしては、あまり難しくならないうちに、この会見を切りあげたかったし、いい妥協点を見いだしたと思ったのだ。 「きみの考えを──ええと、千字以内にまとめることができるかね?」 「はい、できると思います」 「じゃあ、ストレートな科学的仮説に聞える形にまとめてくれれば、すぐ私から〈ラーマ委員会〉に、最優先で送りつけよう。同時にその写しが、きみの教会にとどくようにすれば、八方丸くおさまるというわけだ」 「ありがとうございます、中佐殿、心から感謝いたします」 「おっと、これは私の良心を満足させるためにやるわけじゃないんだ。ただ、〈委員会〉がどんな反応を示すか、それを見たいと思ってね。きみの意見に一から十まで賛成というわけじゃないが、ひょっとしたらきみは、何か重大なことを探りあてたのかもしれないからな」 「いずれにしろ、すべては近日点ではっきりするわけですね?」 「そうだ。近日点ではっきりするだろう」  ボリスが立ち去ると、ノートンは艦橋を呼んで、必要な許可指令を出した。かれとしては、この問題をスマートに解決したつもりだった。そのうえ、ボリスの考えが正しい[#「正しい」に傍点]という可能性もある。  かれはひょっとして、救いを受ける人数の中に入れてもらうチャンスをふやしたことになるかもしれないのだ。 [#改ページ]      21 嵐 去 り ぬ  もうすっかりおなじみになった〈エアロック・アルファ〉の通路を漂っていきながら、ノートンは、自分たちが性急なあまり用心を忘れたのではあるまいか、と恐れていた。  かれらはエンデヴァー号内で、まるまる四十八時間──貴重な二日間だ──万一、事態が急変したら即刻、離脱できるように待機していた。だが、何ごともおこらなかった。ラーマに残してきた装置類は、異常な活動をまったく探知しなかったのだ。がっかりしたことに、〈軸端部〉のテレビ・カメラは、視界を数メートルに縮めた霧のおかげで、まるでめくら同然にされてしまった。その霧は、いまやっと晴れはじめたところだった。  かれらが最後のエアロックの扉を操作して、〈軸端部〉周辺にあやとりのように張りめぐらした案内綱の中へ漂い出たとき、ノートンはまず、光の色あいの変化に驚かされた。もはやそれは目ざわりなブルーではなく、もっと柔らかで優しく、地球上の明るい靄《もや》がかかった日中を思い出させる色だった。  かれはこの世界の中心軸沿いに視線を走らせた──が、〈南極〉のあの不思議な峰々までずっとつながっている、輝きを帯びた、なんの奇もない白一色のトンネルのほかには、何ひとつ見えなかった。ラーマの内部は、完全に雲で覆われ、雲海のどこにも、切れ目ひとつ見えない。雲層の表面は、くっきりと輪郭がつけられていた。それはこの回転する世界の巨大な円筒形の中に、数片のちぎれた巻雲が浮かんでいるほかはからりと晴れたさしわたし五、六キロの中心核を残して、もう一つ、それより小さい円筒を作りだしていた。  このとほうもない雲のチューヴは、ラーマの六本の人工太陽によって、下から照らしだされていた。こちらの〈北方大陸〉の三本は、拡散する光の帯が、その位置をはっきり示しているが、〈円筒海〉の向こう側の三本は、一つに融けあって、ひと続きの輝く帯を形づくっていた。  この雲の下では、いま何がおこっているのだろうか?  ノートンは自問した。しかし少なくとも、ラーマの中心軸沿いに遠心力の作用でこれほど完璧に対称的な雲形を作りだした嵐は、いまやおさまりつつあった。ほかの突発事態が生じないかぎり、もう下へ降りても安全のようだ。  この再度の訪問では、ラーマに最初に深く入りこんだチームの起用が、適当であるように思われた。マイロン軍曹は──ほかの全エンデヴァー号乗組員と同じように──いまや、アーンスト軍医中佐の要求する肉体条件に、完全に合格だった。かれは説得力のある率直さで、もう二度と古い制服を着るつもりはないと、宣言さえしたほどだ。  マーサー、キャルヴァート、マイロンの三人が、すばやく大胆に梯子を泳ぎ″~りていくのを見守りながら、ノートンは、なんとたいした変りようかと気がついた。最初のときは、寒さと暗黒の中へ降下したのに、いまは光と熱の中に向かっている。そのうえ、これまでの訪問ではつねに、ラーマが死んでいるとばかり思いこんでいた。現在でも、生物学的な意味からすれば、それは正しいかもしれない。だが、確かに何かがうごめいている。  ボリス・ロドリゴの表現を使っても、けっして的はずれではないだろう。ラーマの霊は、いまや目を覚ましていた。  梯子の下のテラスへ到達して、階段を降りる準備をしているあいだに、マーサーは例によって、決まりきった大気テストをおこなった。ある種の事柄に関しては、かれはけっして妥協を許さなかった。まわりの連中が補助装置も使わず、すっかり気楽に呼吸しているときでも、かれは宇宙帽を開ける前に、かならず空気チェックをすることで知られていた。そのような度のすぎた用心の理由を聞かれたとき、かれはこう答えたものである。 「人間の感覚ってのは、当てにならんからね。それが理由さ。きみは大丈夫と思っているかもしれないが、次に深呼吸したとたん、ひっくり返ってしまわないとも限らん」  かれはメーターを見るや、「ちくしょう!」と叫んだ。 「どうかしましたか?」キャルヴァートが聞いた。 「壊れているんだ──あんまり目盛が高すぎる。でも、妙だな。これまでこんなことはなかったのに。呼吸回路で検査してみよう」  かれはコンパクトな小型分析器を、酸素補給装置のテスト・ポイントにさしこむと、しばらく黙って物思いにふけりながら立っていた。二人の仲間は、気づかわしげにかれを見守った。カールを動揺させたとなれば、これは真剣に受けとらなければならない。  かれは分析器を引き抜くと、もう一度ラーマの大気のサンプル検査に使ってから、〈軸端司令部〉を呼びだした。 「艦長《スキッパー》! 酸素の目盛を読んでくれ」  その要求に必要な時間より、ずっと長い中断が続いたあと、ノートンが応答してきた。 「どうもこっちのメーターは狂っているらしい」  マーサtの顔に、ゆっくりと笑いが広がった。 「五十パーセント以上じゃないか?」 「ああ、これはどういう意味だね?」 「われわれは全員、マスクをとれるということさ。こいつは便利じゃないかね?」 「さあ、わからんぞ」マーサーの声音にこめられた皮肉に、ノートンはお返しをした。「あんまり結構すぎて、ほんとうとは思えない」  それ以上、何もいう必要はなかった。スペースマンはだれでもそうだが、ノートン中佐も、あまりに結構づくめな事柄に対しては、根強い疑惑を抱くほうなのだ。  マーサーはマスクをほんの少し開くと、おそるおそるひと嗅ぎした。この高度でははじめて、完全に呼吸可能な空気だ。かび臭い、死んだような匂いは消え去っている。以前は何人かが呼吸に支障を来たしていた過度の乾燥も消えている。湿度はいまや、驚くなかれ八十パーセントもあった。まぎれもなく、〈海〉の解氷現象のおかげである。  空気中には、不快でないが、蒸し暑さが感じられた。ちょうどどこか熱帯地方の海岸の、夏の晩を思わせるような感じだ、とマーサーは思った。ラーマ内部の気候は、この数日間で劇的な進展を遂げたのだ……。  だが、なぜだ?  湿気の増大は問題ないが、酸素量の驚くべき増加のほうは、はるかに説明がむずかしい。ふたたび下降を開始しながら、マーサーは心の中で一連の計算をやり始めた。雲層の中へ入るころになっても、かれはまだ満足できるような結論に到達できないでいた。  それは劇的な経験だった。というのも、状況の推移がすこぶる唐突だったからだ。つい今の今まで、かれらはこの四分の一G地帯ではあまりスピードを出さないように、滑らかな金属手すりを握る力を加減しながら、澄んだ空気中を下へ下へと滑っていた。それがだしぬけに、何も見えない白霧の中へ突入し、視界が一挙に数メートルに落ちたのだ。  マーサーがあわててブレーキをかけたので、あぶなくキャルヴァートはかれと衝突するところだった──実際、マイロンはキャルヴァートにぶつかって、すんでのことに、相手を手すりから叩き落しそうになった。 「心配はない」と、マーサーがいった。「たがいに姿を見失わない程度に、間隔をあけるんだ。スピードはつけないように注意しろ。おれが突然止まらなけりゃならんかもしれんからな」  不気味に静まりかえった霧の中を、かれらは滑降しつづけた。キャルヴァートは、十メートル先の薄ぼんやりとしたマーサーの影を、やっと見ることができた。振りむくと、マイロンも同じくらいの距離でついてくる。考えようによっては、ラーマの漆黒の暗夜のなかを降りていったときよりも、これは気味が悪かった。あのときは、少なくともサーチライトの光が、前方に横たわるものを教えてくれた。しかし、こんど[#「こんど」に傍点]は、公海上で視界を妨げられたままダイヴィングするのに似ていた。  どのくらい降りたかを知る方法はなかったが、キャルヴァートがそろそろ第四レベルだなと推定したとき、突然マーサーがまたもやブレーキをかけた。一行がそろうと、かれはささやいた。 「耳をすませろ! 何か聞えないか?」 「ええ」一分後にマイロンがいった。「風の音に似てますね」  キャルヴァートは自信がなかった。かれは頭を前後に向けると、霧の中をかれらのところまでとどいたほんのかすかなざわめきの方角を突き止めようとしたが、やがてむだと知って、その試みを諦めた。  かれらは滑降を再開し、第四レベルに着くと、さらに第五レベルへ向ってスタートした。そのうちにも、例の音はだんだん大きくなり──しつこいほど耳慣れたものになってきた。四つ目の階段をなかばまで降りたころ、マイロンが呼びかけた。 「さあ、もうなんの音かわかりますか?」  本来ならとっくの昔に確認できていただろうが、それは地球以外の惑星では、とうてい連想が働きそうもない物音だった。霧をとおして、距離の見当がつかない源から聞えてくるその音は、落下する水流の絶えまない轟きだったのである。  数分後、雲層はそれがはじまったときと同じように、突然とぎれた。かれらは、低く垂れこめた雲海に光が反射してますます明るい、目も眩むようなラーマの昼の輝きの中へと飛びだしていった。眼下には、おなじみの彎曲平原が広がっていた──いまではその全周が見えないので、前よりもずっと心や五感に受け入れやすくなっている。かれらが見下ろしているのは広大な渓谷なのだ、〈海〉の上反りのカーヴは、ほんとうに外へ[#「外へ」に傍点]と向かっているのだ、というふりをすることも難しくはない。  一行が耳にした騒音の発生源も、そこにあった。三、四キロ離れた雲中の隠れた源から、滝がなだれ落ちているのだ。かれらはほとんどわが目が信じられない思いで、長いこと黙りこくったまま、それを凝視していた。理屈のうえでは、この回転世界の落下物体は、けっして直線的に落ちることができないとはわかっていたが、それでも、はすかいにカーヴしつつ、水源の真下から何キロも離れた場所へと落ちている彎曲した滝には、恐ろしく不自然なところがあった。 「もしガリレオがこの世界に生まれていたとしたら」マーサーがやっと口を開いた。「力学の法則をひねりだそうとして、さぞかし気が狂っただろうな」 「自分ではわかってるつもりだったが」と、キャルヴァートは答えた。「どのみち、ぼくは気が狂いかけてますよ。おたくはなんともない、教授《せんせい》?」 「もちろん、なんともないですよ」と、マイロン軍曹は答えた。「あれはコリオリ効果のそのものずばり、完壁な見本です。あれを教え子たちに見せてやりたいものですな」  マーサーはこの世界をまわっている〈円筒海〉の帯をみつめながら、考えにふけっていた。 「あの水に何がおこったか、気がついたかい?」とうとうかれはいった。 「そう──もう青くないですね。浅緑色といったらいいかな。あれは何を意味するんです?」 「おそらく、地球の海と同じ働きをするんだろうな。ローラはあの〈海〉を、生命が産みだされるのを待っている有機物のスープだと呼んでたよ。ひょっとすると、そんなことがおこったのかも知れんぞ」 「たった二、三日でですか! 地球じゃ何百万年もかかったというのに」 「三億七千五百万年さ、いちばん最近の測定によると。酸素の出どころは、あそこ[#「あそこ」に傍点]なんだ。ラーマは、|無 酸 素《アネーロビック》時代を飛びすぎて、光合成植物時代に到達したんだ──約四十八時間でね。明日になったら、いったい何が生まれてくるんだろう?」 [#改ページ]      22 〈円筒海〉横断  階段の下についたとき、かれらはまたショックを受けた。一見したところ、何者かがキャンプの中を通り抜けながら、機械類をひっくり返していき、こまかい物品などはひとまとめにして持ち去ったようだった。しかし、ちょっと調べてみた結果、いささかばつの悪い困惑が驚きにとって代わったのである。  犯人は風にすぎなかった。出発まえ、ゆるんだ荷物を縛りなおしておいたのだが、思いもよらない突風で、何本かのロープが切れたのにちがいない。散乱したものをぜんぶ回収するには、数日を要した。  ほかに大きな変化は見られなかった。ラーマの静寂も戻り、つかのまの春風も去った。〈平原〉のむこうには穏やかな海が広がり、百万年ぶりに浮かぶ船を待ちうけていた。 「シャンペンの瓶を割って、進水式ってのはどうだい?」 「たとえシャンペンがあったって、そんなもったいない真似は許せんね。どのみち、もう手遅れだよ。船はもう進水しちまってる」 「浮くだけは浮いてるね。賭けは負けだ、ジミー。地球に帰ったらはらうよ」 「名前をつけようじゃないか。何かいいアイデアはあるかい?」  その話題の主は、いま〈円筒海〉に降りていく階段の近くに漂っていた。六個の空《から》の貯蔵用ドラム罐を、軽金属の枠組でしっかり固定させた小型のいかだ[#「いかだ」に傍点]である。それを作り、〈キャンプ・アルファ〉で組み立て、さらに取りはずし自在の車輪にのせて平原を十キロ以上も運ぶ作業で、隊員たちは数日分のエネルギーを消費してしまった。だが、これは勝ち目のある賭けなのだ。  それだけの危険をおかす価値のある報酬が待っていた。五キロかなた、翳《かげ》のない光にきらめく〈ニューヨーク〉の謎の塔群は、一行がラーマ入りして以来ずっと、かれらを嘲りつづけてきた。その都市──であれなんであれ──こそ、この世界の中心であることを疑う者はなかった。何はさておいても、〈ニューヨーク〉には行かなければならない。 「まだ名前がないんですがね、艦長《スキッパー》──いいのがありますか?」  ノートンは笑ったが、すぐ真顔になってこたえた。 「とっておきのがある。|決  断《レゾリューション》号だ」 「どうしてですか?」 「キャプテン・クックの船の一つだった。いい名だよ──名前負けしないでほしいね」  しばし想いにふける沈黙があった。それから、この計画の担当責任者であるバーンズ軍曹が、三人の志願者をつのった。その場の全員が手をあげた。 「残念だわ──救命具が四つしかないの。ボリス、ジミー、ピーター──あなたがたはみんな航海の経験があるわね。このメンバーで行きましょう」  一介の女軍曹がこの場の主導権をにぎっていることを、奇異に思う者は一人もいなかった。艦内で船長免状を持っているのは、ルビー・バーンズだけだから、だれも異存のあろうはずはないのだ。彼女はレース用のトライマラン(三つの船体を並べたいかだ)で太平洋を横断したこともあり、たった数キロの死んだように凪いだ海などに手こずるとは考えられなかった。 〈海〉を最初に見たときから、彼女はそこを渡ろうと心にきめていた。人類がおのれの世界の海とかかわりをもって数千年、これにほんのちょっぴりでも似た海に出くわした船乗りは、だれもいない。ここ二、三日、心中を駈けめぐりつづける無意味な言葉を、彼女はふりはらうことができないでいた。 〈円筒海〉を渡ろう、〈円筒海〉を渡ろう……  それこそ、彼女がこれから試みることなのだ。  乗組員は即席のバケットシートに坐り、ルビーがスロットルを開いた。二十キロワットのモーターが唸りはじめ、減速ギヤのチェーンドライヴがぼんやりとかすみ、レゾリューション号は見物人の歓呼に送られてスタートした。  ルビーはこの荷重なら時速十五キロは出したいと思っていたが、実際には十キロ越えれば満足だった。断崖沿いの半キロのコースはすでに計測ずみで、彼女はその一周旅行を五分と三十秒で終らせた。ターンの時間を計算に入れれば、時速十二キロということになる。彼女はこの結果にすっかりご満悦だった。  動力なしでも、彼女のたくみな櫂さばきを助ける三人の元気旺盛な漕ぎ手がいれば、この速度の四分の一は出せるだろう。だから、たとえモーターが故障しても、二時間あれば岸に帰りつける。強力な動力電池は、この世界を一周するだけのエネルギーを供給できるが、念のためスペアを二個用意した。  いまや霧もすっかり晴れたし、ルビーのように用意周到な船乗りでさえ、羅針盤なしで船出する覚悟はできていた。  岸辺にあがると、彼女はスマートに敬礼した。 「レゾリューション号の処女航海は、つつがなく終了しました。指示をお待ちします」 「けっこうだ……提督。船出の準備はいつととのうかね?」 「貨物の積みこみが終り、港湾局長から出港許可をもらえればいつでも」 「では夜明けに出発しよう」 「アイアイ・サー」  地図上での海路五キロメートルは、たいした距離とも見えないが、いざ海上に出てみると、大ちがい。十分走っただけで、もう〈北方大陸〉に面する高さ五十メートルの断崖は、驚くほど遠ざかって見えた。ところがふしぎなことに、〈ニューヨーク〉はそれほど以前より近くなったとは思えないのだ……。  もっとも、その十分間、かれらはほとんど陸地には注意をはらわなかった。〈海〉の驚異にすっかり心を奪われていたからである。船出のときにはやたら飛びだした軽口も、もうだれも口にする者はない。それほどこの新しい体験は、かれらを打ちのめした。  やっとラーマに慣れてきたな、とノートンが感じるたびごとに、ラーマは新しい驚異を生みだすのだ。レゾリューション号が着実に前進するにつれ、かれらは巨大な波の谷間に落ちこむような感じがした──その波は垂直になるまで両側にせりあがっていき──ついで、頭上十六キロの地点で両翼が合体して液体のアーチをかたちづくるまで、せりだしてくるのだ。理性と論理がいくら否定しても、何百万トンもの水がいまにも空からなだれ落ちてくるのではないか、という懸念を、だれもふりはらうことはできなかった。  とはいうものの、みながいちばん感じていたのは、浮きたつような興奮だった。スリルはあるが、真の[#「真の」に傍点]危険は存在しない。もちろん、〈海〉自身がこれ以上の驚きを生みださないとしたならの話だが。  明らかにその可能性はあった。というのは、マーサーの予期したとおり、いまや海水は生きていたからだ。何度スプーンにすくってみても、地球の海洋にかつて棲息していた最古のプランクトンによく似た、球状で単細胞の微生物が、幾千となく含まれていた。  もっとも、そこには不可解なちがいもあった。この微生物には核がなく、また、いちばん原始的な地球生命体にさえ最低限必要なものが、ほとんど欠けているのだ。  ローラ・アーンスト──いまや彼女は船医と実験科学者を兼ねていた──は、この微生物がたしかに酸素を発生することを証明してくれたが、ラーマの大気増加を説明するには、あまりにも微量すぎた。もしそうだったら、何千どころか何十倍も存在していなければならないはずだ。  ついで彼女は、微生物の数が急速に減っており、ラーマの夜明け直後数時間はいまよりはるかに多量だったはず、ということを発見した。〈地球〉の初期の歴史を一兆倍の早さで駆けぬけるような、つかのまの生命の爆発があったようだ。おそらくいまはもう、燃えつくしたのだろう。波間に漂う微生物は分解をつづけ、体内の化合物を〈海〉へ返しつつあるのだ。 「泳がなければならなくなったら」と、乗組員はアーンスト博士に警告されていた。「口を閉じていることね。少量なら問題ないわ──すぐ吐きだせばいいの。だけど、このうすきみわるい有機金属塩は、そっくりそのまま有毒物質なのよ。わたしとしては、解毒剤を作るようなはめにはなりたくないわ」  さいわい、そんな危険はおこりそうもなかった。たとえ浮力タンクが二つぐらいパンクしても、レゾリューション号は海上に浮かんでいられる。(この話を聞いたとき、ジミー・キャルバートはおどかすようにつぶやいたものだ、「タイタニック号の例もあるぜ!」)。万一沈むようなことがあっても、粗末だが効果的な救命胴衣の助けで、水の上に頭を出していられるだろう。この件についてはローラは断定を避けたが、〈海〉に数時間つかっていても、命に別条はあるまいと踏んでいた。だからといって、それを奨励はしなかったが。  着実に船足をのばして二十分後、〈ニューヨーク〉はもはや遠方の島ではなくなっていた。それは現実の場所となり、望遠鏡と拡大写真を通してしか見られなかったその細部が、いまは堅牢な堂々たる建造物として姿を現わしつつあった。  この都市≠烽ワた、ラーマの多くがそうであるように、三重構造であることが、明らかになった。三つの同じような円形の複合建造物、というか超大構築物が、長楕円形の土台の上にそびえ立っているのだ。〈軸端部〉から撮影された写真によると、さらにそれぞれの複合建築物が、百二十度間隔で切られたパイよろしく、それ自体[#「それ自体」に傍点]三等分されている。  おかげで、探険任務はたいそう手間がはぶけそうだ。おそらく〈ニューヨーク〉の九分の一だけ調査すれば、全体がわかるだろう。とはいっても、たいへんな仕事であることに変りはなかった。少なくとも一平方キロにわたる建物と機械類の調査を意味する。しかもその一部は、空中何百メートルもの高さにそそり立っているのだ。  どうやらラーマ人は、三重反復性の技術を高度の域にまで完成させたようである。それはエアロック機構、〈軸端部〉の階段、人工太陽などに示されている。そして、とくに大事な場所では、かれらはその上の段階にまで踏みこんでいた。〈ニューヨーク〉は三重=三重反復性の好例といえそうなのだ。  ルビーはレゾリューション号の進路を、中央の複合建造物に向けていた。そこには、水面から島をかこむ壁ないし堤防の頂上まで、長い階段が伸びていた。ボートをもやうのにちょうどいい保留柱さえある。それに気づいたとたん、ルビーはすっかり興奮した。こうなっては、ラーマ人がこの異常な海を渡るのに使った船の一隻でも見つけないことには、気がすまない。  上陸一番乗りはノートンだった。三人の仲間をふり返って、かれはいった。 「私が壁のてっぺんにあがるまで、船で待っていろ。手をふったら、ピーターとボリスは私に合流する。ルビーはいざというときいつでも出航できるよう、待機していてくれ。私の身に何かおこったときは、カールに報告して、指示にしたがうこと。判断は的確に──だが、危ない橋は渡るなよ。わかったね?」 「わかりました、艦長《スキッパー》。ご幸運を祈ります」  ノートン中佐は運など信じていなかった。あらゆる関連要素を分析し、撤退線を確保するまでは、けっして新しい状況に飛びこまなかった。だが、またもやラーマは、信条のいくつかを破らせるはめにかれを追いこもうとしていた。  ここでは、ほとんどあらゆる要素が、未知なのだ──三世紀半昔、太平洋と〈グレート・バリアー・リーフ〉が中佐のヒーローにとって未知だったように……そうなのだ、こうなっては運否《うんぷ》|天賦《てんぷ》、その場のツキにすべてをまかせるほかはない。  その階段は、かれらが〈海〉の対岸で降りたのと、事実上|対《つい》になっていた。向こう岸にいる仲間たちは、きっと望遠鏡でまっすぐこっちを見ているにちがいない。まっすぐ≠ニいうのは、この場合的確な表現である。ラーマの軸方向に沿ったこの方角にかぎって、〈海〉はほんとうに真っ平らなのだ。真実、真っ平らな海は、ひょっとしたら全宇宙でここだけかもしれない。ほかのあらゆる世界では、どんな海だろうと湖だろうと、球体の表面に沿って、全方向に等しく彎曲していなければならないからである。 「もうじき頂上につく」  かれは記録のためと、五キロ離れたところで熱心に耳をかたむけている副指揮官のために、報告した。 「依然、音一つない静けさだ──放射能も異常はない。メーターは頭上にかざしている。この壁が放射線シールドの働きをしているといけないからね。それに、向こう側に敵でもいたら、まずこいつを撃ってくれるだろうし」  もちろん、これは冗談だが、それでも──たやすく避けられるときに、わざわざ危険をおかすのは、ばかげていた。  最後の段に足をかけたとき、この堤防の平坦な頂上は、厚さが十メートルほどあることがわかった。内側は、進路と階段が交互につらなりながら、二十メートル下の都市の主要平面へとつづいている。実際、かれは〈ニューヨーク〉を完全にかこんだ高い壁の上に立っているので、まるで特等席に坐ったように、市内をよく眺めることができた。  呆然とするほど複雑きわまる眺めだった。かれがまず最初にやったのは、カメラでもってゆっくり全景を走査していくことだった。それから仲間に手を振ってみせ、〈海〉のかなたに無線を送った。 「活動の気配はなし──すべてが静かだ。登ってこい──いよいよ探険に出発する」 [#改ページ]      23 ラーマの〈ニューヨーク〉  ここは都市じゃなく、機械だ。ノートンは十分後にそう結論したが、全島を横断しおわったあとでも、その結論を変える理由はみつからなかった。  都市であれば──住民の質がどうであるにせよ──なんらかの形の宿泊設備がなければならない。それが地下にでもないかぎり、ここにはそんな性質のものはいっさいなかった。もし地下にあるなら、入口や階段やエレベーターはどこだろう? 簡単なドアに類するものさえ、まったく見あたらないのだ……。  地球上でこの場所に似たものを強いてあげれば、巨大な化学処理工場だった。しかし、ここには備蓄された原料の山もなければ、それを移動させる輸送|機構《システム》らしきものすらない。ノートンには、完成した製品がどこから出てくるのか──ましてやその製品がはたしてなんなのか、見当もつかなかった。すべてが不可解で、少なからずいらいらさせられた。 「だれか見当のついた者はいないか?」とうとうかれは、聞いている全員にいった。「もしこれが工場なら、何を作っているのか? どこから原料をとりこむのか?」 「ちょっと思いついたんだがね、艦長《スキッパー》」対岸から、カール・マーサーが答えた。「〈海〉を使ってるんじゃないのかな。軍医《ドク》の話では、たいていの物質はみんな含まれているそうだから」  もっともらしい答だ。ノートンもすでにそれは考えていた。〈海〉に通じるパイプが埋設されていてもおかしくはない──事実、そうでないとおかしい[#「おかしい」に傍点]のだ。どんな化学工場だって、大量の水を必要とするのだから。  だが、かれはもっともらしい答にはあまり信を置かない主義だった。もっともらしい答は、往々にしてまちがっているものだ。 「考えかたはいいよ、カール。だが、〈ニューヨーク〉は海水をどうする[#「どうする」に傍点]んだね?」  長いこと、船からも〈軸端部〉や〈北方平原〉からも、答はなかった。そのとき、思いもよらない声が聞えた。 「わけないことです、艦長《スキッパー》。だけど、みんな笑うだろうなあ」 「いや、笑わんよ、ラビ。話してみたまえ」  用度係主任兼シンプ調教師のラビ・マッカンドルーズ軍曹は、ふだんなら技術的な議論に参加することなどおよそ考えられない乗組員だった。知能指数は並クラスだし、科学知識は無いにひとしい。だが、けっして愚かではないし、人に一目おかれるだけのもって生まれた聡明さがあった。 「まちがいなく工場ですよ、艦長《スキッパー》。たぶん原料も〈海〉から取るんです……とどのつまり、地球の上だってまったく同じだったじゃないですか、やりかたはちがうけど……。 〈ニューヨーク〉は工場にちがいないですよ──ラーマ人を作るための」  だれかがどこかでくすくす笑ったが、すぐに黙りこんだので、だれなのかはわからなかった。 「そうだね、ラビ」とうとう隊長はいった。「とっぴな考えだけに、あたっているかもしれない。この目で確かめたいような気もするが……せめて、本土に帰ってからにしたいね」  この宇宙版〈ニューヨーク〉は、広さはマンハッタン島とほぼ同じだが、幾何的図形はまるきり異なっていた。直線道路はほとんどなく、短い同心の弧とそれをつなぐ放射状の輻が、迷路のように入りくんでいる。もっともありがたいことに、ラーマ内では、けっして方角がわからなくなることはなかった。空を一瞥するだけで、この世界の軸がすぐにわかるのだから。  かれらはほとんど交差点ごとに立ちどまっては、全景走査をおこなった。何百枚というこれらの写真がきちんと整理されれば、この都市の正確な雛型を作るのは、根気はいるにしろ、かなりやさしい仕事になるだろう。だが、その結果生まれるはめ絵パズルは、科学者たちを何代にもわたっててんてこまいさせるだろうな、とノートンは思った。  ここの静寂に慣れるのは、ラーマの平原の静けさに慣れるよりもむずかしかった。都市にしろ機械にしろ、かなりの騒音がつきもののはずなのに、ここにはかすかな電気の唸りすらなく、かすかな機械の運動すらなかった。ノートンは何度となく地面や建物の壁に耳をあてて、物音を開きとろうとした。聞えるのは、かれ自身の血流の音だけだった。  機械類は眠っているのだ。空《から》まわりさえしていない。はたして機械はもう一度目ざめることがあるのだろうか、それになんのために?  例によって、何もかもが完全な状態におかれていた。どこかに辛抱づよく隠れているコンピューターの中で、たった一つでも回路が閉じれば、この迷路全体が息を吹きかえすのではないか、と信じたくなるほどだった。  とうとう都市の反対側にたどりつくと、かれらは囲壁の上に登って、〈海〉の南半分を眺めわたした。ノートンは、ラーマの半分近い世界への接近をはばむあの高さ五百メートルの断崖を、長いことみつめていた──望遠鏡調査の結果から判断すると、この南半分こそ複雑怪奇をきわめた部分である。この角度から見ると、そこはまがまがしい禁断の暗黒世界に見え、大陸一つをすっぽり牢獄の壁が囲んでいるようにも見えた。その全周にわたって、どこにも階段はおろか、いかなる接近の手段も見あたらなかった。  ラーマ人はどうやって〈ニューヨーク〉から南方領土へ渡ったのだろう、とかれはいぶかしんだ。たぶん〈海〉の下を走る地下輸送|機構《システム》があるのだろうが、同時に航空機ももっていたにちがいない。この都市には、着陸に使える広い場所が、たくさんあった。もしもラーマ人の乗物を発見できたら、たいへんな功績になるだろう──とりわけ、その運転方法がわかったとしたら(もっとも、数十万年放ったらかしにされてもまだ動く動力源、なんて存在するだろうか?)。見たところ格納庫かガレージ風の建物もたくさんあるのだが、まるで封水剤《シーラント》を吹きつけられたように、どこもかしこも滑らかで、窓一つなかった。  遅かれ早かれ、とノートンは苦々しくつぶやいた、爆薬かレーザー光線を使わなければならなくなるだろうな。だが、その決定はぎりぎり最後のどたん場までくだすまい、とかれは固く心に決めていた。  暴力を使いたくないというその心理は、半分はプライドから、半分は恐怖から出ていた。理解できないものはみなぶち壊すという、技術力だけは高い野蛮人のまねをしたくなかった。つまるところ、かれはこの世界では招かれざる客であり、だから、それらしく行動すべきなのだ。  恐怖のほうは──たぶんこれはちょっとオーバーで、懸念といったほうがあたっているだろう。ラーマ人はあらゆる場合に備えて手を打っておいたように見える。  かれはラーマ人が財産を守るために講じておいた予防措置を、知らされるはめにはなりたくなかった。本土に帰るときには、けっきょく手ぶらということになりそうだった。 [#改ページ]      24 ドラゴンフライ号  ジェイムズ・パク中尉は、エンデヴァー号内ではいちばんの新参士官で、|遠 宇 宙《ディープスペース》への探険任務は今回でやっと四度目だった。功名心は旺盛だし、昇進の時期も来ていたが、以前重大な軍規違反をおかしたことがあった。だから、決心をつけるまでに長い時間かかったのも、むりはない。  これは賭けだった。もし負けたら、そうとう厄介なことになる。経歴に傷がつくどころか、自分の首をしめることにもなりかねない。そのかわりもし成功すれば、一躍英雄になれるだろう。  だが、けっきょくかれを動かしたのは、そのどちらでもなかった。もしここで何もしなければ、自分は死ぬまで、むざむざチャンスを見のがしたことを悔やみながら過ごすにきまっている、という確信だった。とはいうものの、艦長に個人的会見を申しいれたときにも、まだかれはためらっていた。  こんど[#「こんど」に傍点]は何だ?  若い士官のあやふやな表情を分析しながら、ノートンは内心思った。かれはボリス・ロドリゴとの気骨のおれる会見のことを思いだしたのだ。いや、あんなものではないだろう。ジミーはどう見ても信心深いタイプではない。仕事以外の興味といえば、スポーツとセックス(両方いっしょならなおいい)しかないはずだ。  前者の話であるはずはないが、後者であってもほしくないな、とノートンは願った。同じ部署の指揮官ならかならず出くわす問題のほとんどに、かれも出くわしていた──ただし、任務遂行中の計画外出産という古典的問題だけはべつである。この状況はやたらジョークのタネになるわりに、実際にはまだおこったためしがなかった。もっとも、そのようなはなはだしい不公平が是正されるのは、たんに時間の問題だろうが。 「で、ジミー、なんの話だね?」 「名案があるんです、中佐殿。南方大陸への到達方法です──〈南極〉にも行けそうな方法です」 「聞かせてもらおう。どんな方法だね?」 「ええと──飛んでいくんです」 「ジミー、それだったら、少くともこれまでに五通りの提案を受けたよ──地球からいってきたばかげたアイデアまで入れれば、それ以上だ。宇宙服の推進装置を使う方法も考えてみたが、空気の抵抗があってとてもむりとわかった。十キロも行かないうちに、燃料切れになってしまうのだ」 「わかっております。でも、解決法があるんです」  パク中尉の態度には、完全な自信と押さえきれない不安とが奇妙に入りまじっていた。ノートンはまったく当惑した。  この坊やは何を心配しているのだ?  筋の通った提案ならけっして法廷からつまみ出されるはずはないことぐらい、私の性格を知りぬいているのだからわかりそうなものではないか。 「よし、つづけたまえ。実行可能な案なら、きみの昇進をさかのぼらせる面倒も見ようじゃないか」  その約束とも冗談ともつかない提案は、期待したほどの効果をあげられなかった。ジミーはむしろ気弱な笑いを見せ、何度か出だしに失敗してから、遠まわしに主題へアプローチすることに決めた。 「中佐殿は、去年私が〈月面《ルナー》オリンピック〉に出場したことを知っておられますね」 「むろんだとも。残念ながら優勝はできなかったがね」 「あれは機械が悪かったのです。原因はわかっています。あれの研究をやってる友人が、火星にいましてね、秘密研究なんです。世間をあっといわせたくて」 「火星に? そりゃ知らなかった……」 「知ってる人はあまりいません──このスポーツはあそこではまだ新しいんです。やっているのは、クサンテ・スポーツドームだけです。ところが、太陽系一の空気力学者は、火星にいるのです。あそこの[#「あそこの」に傍点]大気中で飛べるなら、どこへ行ったって飛べるわけです。  そこで思いついたのは、もし火星人がそのノウハウを総動員して、いい機械を作れば、月面ではまちがいなく[#「まちがいなく」に傍点]うまくいくだろうと──あそこは重力が半分しかありませんから」 「なかなかいい思いつきだが、それがどうわれわれの役にたつのかな?」  ノートンはすでに呑みこみはじめていたが、ジミーの口からそれをいわせたかった。 「で、私はローウェル・シティで友人たちと組織を作りました。連中はこれまでだれも見たことのないような、いろんな改良を加えた完全な|曲 技 飛 行 器《エアロバティック・フライヤー》を作りあげたのです。月面重力下のオリンピック・ドームにもっていけば、センセーション疑いなしです」 「そして、きみは金メダルか」 「そう願ってます」 「きみのアイデアを私が正確にのみこめたかどうか、いわせてくれたまえ。六分の一G下の〈月面オリンピック〉に登録できるスカイバイクなら、無重力のラーマ内ではいっそうセンセーショナルである。〈北極〉から〈南極〉まで中心軸沿いにまっすぐ飛べるし──帰ってくることもできる」 「ええ──やすやすとです。無着陸《ノンストップ》でも片道三時間かかるでしょうが、もちろん、休みたければいつでも休めます。中心軸の近くにとどまっているかぎりは」 「すばらしいアイデアだ。おめでとう。スカイパイクが正規の宇宙調査用備品でないのは、いかにも残念だね」  ジミーは適当な言葉を探すのに、苦労している様子だった。何度か口を開いたが、声は出てこなかった。 「よしよし、ジミー。しつこいようだが、完全なオフレコとして聞きたいんだが、きみはどうやってそいつを、こっそり運びこんだのかね?」 「そのう──娯楽用品∴オいで」 「まあ、嘘ではないな。で、重量は?」 「たった二十キロです」 「たった[#「たった」に傍点]だと! でも、思っていたほどじゃないな。ほんとのところ、そんな重さでバイクが作れるとは、驚きだ」 「十五キロのもありますが、脆すぎて、ターンするとたいていつぶれてしまいます。ドラゴンフライ号には、そんな危険性はまったくありません。前にいいましたように、完全に曲技飛行用ですから」 「|と ん ぼ《ドラゴンフライ》号か──いい名前だ。では、それをどう使う計画か話したまえ。それしだいで、昇進か軍法会議かを決めることにしよう。あるいは、その両方をね」 [#改ページ]      25 処 女 飛 行  ドラゴンフライ号とは、たしかにぴったりの名だった。  長い先細りの翼は、ほとんど目に見えず、ただある角度から光があたって屈折するときだけ、虹の色をおびる。デリケートなエアロフォイル部分は、さながら石鹸の泡に包みこまれているよう。このちっぽけな飛行器《フライヤー》を包んでいる被覆物は、たった数個分の分子の厚さしかない有機物質の薄膜だが、それでいて時速五十キロの気流の動きを制御し、規制できるほどの強靭さをもっている。  パイロット──同時に、動力源と誘導|機構《システム》をも兼ねる──は重心にある小さな座席に、空気抵抗を少なくするため、なかば仰向けの姿勢で坐る。操縦は、前後左右に自在に動く一本の桿によっておこなわれる。計器≠ニいえるものは、相対風の方向を示すために翼の前縁につけられた、おもりつきのリボンぐらいなものだ。  いったんその飛行器が〈軸端部〉で組みたてられるや、ジミー・パクはだれにもそれをさわらせようとしなかった。なれない手で触れれば、繊維だけでできた構造物の一つも折りかねないし、それでなくとも、きらめく翼を見れば、だれでもいじってみたいという誘惑にかられる。ほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]そこに物体がある、ということすら信じがたいほどなのだ……。  ジミーがその珍機械に乗りこむのを見守りながら、ノートン中佐は後悔の念にかられはじめた。ドラゴンフライ号が〈円筒海〉を飛びわたったあとで、あの針金みたいに細い支柱の一本が折れでもしたら、ジミーは帰還の方法がなくなるだろう──たとえ、向こうに無事着陸することができたとしてもだ。  かれらはまた、宇宙探険のもっとも神聖なルールの一つを破ろうとしていた。隊員が単独で[#「単独で」に傍点]救助の可能性のまったくない未知の領域へ飛びこむのだ。わずかな慰めは、いついかなるときでもかれの姿がよく見え、連絡もとりあえるということだけだった。もし災難に出くわしても、何がどうおこったのかは正確に知ることができるというわけだ。  しかし、これほどの好機を逸する手はなかった。運や宿命を信じる者にとって、ラーマの反対側に到達し、〈南極〉の秘める謎をまぢかに見る唯一、絶好のチャンスを無視するのは、神そのものに挑戦するにもひとしい。ジミーは自分がいま試みようとしていることを、同僚のだれにいわれるよりもはるかに深く知っていた。これこそまさしく、おかさねばならないたぐいの危険なのだ。失敗するかしないかは、ゲームのツキしだい。連戦連勝を望むのはむりというものだ……。 「注意して聞いてね、ジミー」と、アーンスト軍医中佐がいった。「大切なことは、力を出しすぎないことよ。いいこと、中心軸付近の酸素レベルは、まだとても低いの。息苦しくなったら、いつでもすぐ止まって、三十秒間呼吸を早めるのよ──それ以上はだめ」  操縦装置をテストしながら、ジミーは気もそぞろにうなずいた。そまつな操縦士席の五メートル後方にある|張りだし材《アウトリガー》の上に孤立した、方向・昇降舵のアセンブリー全体が、身をよじりはじめた。つづいて主翼のなかほどのところにあるフラップ形式の補助翼《エルロン》が、交互に上下動した。 「プロペラの回し役は、ぼくがやろうか?」二百年前の戦争映画の名場面が頭の中でつぎつぎ甦るのを押さえかねながら、ジミー・キャルヴァートは訊いた。「点火! 接続!」  おそらくキャルヴァート本人以外には、かれが何をいっているのかだれも理解できなかっただろうが、その場の緊張をやわらげる役にはたった。  ジミーはごくゆっくりとペダルを踏みはじめた。プロペラの弱々しげな幅広のファンが──翼同様、きらめく薄膜に覆われたデリケートな骨組だ──回転をはじめた。それは数回転しただけで、もう完全に見えなくなった。そしてドラゴンフライ号は、壮途についた。  ドラゴンフライ号は〈軸端部〉から一直線に飛びだし、ラーマの中心軸沿いにゆっくり移動していった。百メートル行ったところで、ジミーはペダル踏みをやめた。明らかに空気力学的な乗物が空中に静止しているところは、奇妙な眺めだった。たぶん、大型の宇宙ステーション内のごく限られた場所以外で、そうした光景が見られるのは、これがはじめてにちがいない。 「調子はどうかね?」ノートンが呼びかけた。 「反応は上乗ですが、安定性はよくありません。でも、原因はわかってます──無重力のせいですよ。一キロほど高度を下げれば、もっとよくなります」 「ちょっと待て──そうしても安全か?」  高度を失うことで、ジミーは最大の利点を犠牲にすることになる。中心軸上にとどまるかぎり、かれ──とドラゴンフライ号──は完全な無重量状態にある。何もしないで浮かんでいられるし、眠りたければ眠ることもできる。だが、ラーマが自転する中心線から離れるやいなや、遠心力によるにせの重量がかかってくるのだ。  したがって、同じ高度を維持できなければ、かれはどんどん落ちつづけ──同時に、どんどん重くなる[#「重くなる」に傍点]。加速のプロセスが始まり、最後は大惨事で終ることもありうるだろう。ラーマ平原上の重力は、ドラゴンフライ号が飛べるように設計されたそれの二倍はあるのだ。ジミーなら、安全着陸できるかもしれないが、二度と離陸できないことも明らかだった。  だが、かれはすでに何もかも計算ずみだったので、自信満々答えた。 「十分の一Gなら、なんの苦もなくこなせます。空気が濃ければ、もっとらくらくやれますよ」  のろのろとゆるい螺旋を描きながら、ドラゴンフライ号は空中を漂っていき、〈アルファ階段〉の線上をほぼたどって、平原へと降りていった。角度によっては、小さなスカイバイクの姿はほとんど見えなくなる。すると、ジミーだけが、宙に坐って必死に足を動かしているように見えた。ときおり、かれは時速三十キロまでスパートをかける。あとは止まるまで滑空しながら、操縦装置の手ごたえを確かめ、ふたたび加速に入るのだ。ラーマの彎曲表面からは、つねに安全距離をたもつよう、細心の注意をはらっていた。  低い高度のほうがずっとうまく飛べることが、まもなくわかってきた。ドラゴンフライ号はもはや、どんな角度にも横揺れしなくなり、翼を七キロ下の平原と平行させて安定をたもっていられるようになった。ジミーは数回大きく旋回してから、ふたたび上昇を開始した。最後に、待ちわびる仲間の頭上数メートルのところに停止したが、遅まきながらそのとき、かれはこの希薄な乗物をどうやって着陸させたものか、まったく自信のないことに気がついた。 「ロープを投げてやろうか?」ノートンはなかば本気で訊ねた。 「いえ、艦長《スキッパー》──こいつは自分だけでやらないと。むこうへ行ったら、助けてくれる人はいないでしょうからね」  かれはしばらく坐って考えていたが、やがて、短い急激な力走をくり返しながら、ドラゴンフライ号を〈軸端部〉に向けて進ませはじめた。力走をやめるたびに、空気の抵抗が行き足を止めるので、機体は急速に運動量《モメンタム》を失っていった。五メートルほど手前まで来ると、スカイバイクはまだ動いているのに、ジミーは飛びおりた。そのまま〈軸端部〉にクモの巣状にかけられた命綱の中で、いちばん近いやつに漂いよってつかみ、くるりと振りかえるや、近づいてくるバイクを両手で抱きとめた。その手なみがあまりにあざやかだったので、ひとしきり拍手が湧きおこった。 「お次に[#「お次に」に傍点]やります芸当は──」ジミー・キャルヴァートがいいはじめた。  ジミーはすばやく、賞賛の口を封じた。 「だいぶてこずったけど、いい方法を考えつきましたよ。二十メートル線に吸着弾をつけたやつをもっていけば、好きな場所に降りられます」 「脈を見せなさい、ジミー」軍医が命令した。「それから、この袋に息を吹きこむの。血液サンプルもとりたいわ。呼吸は苦しくなった?」 「苦しいのはこの高度でだけですよ。ねえ、なんで血がほしいんです?」 「糖レベルよ。どれだけエネルギーを使ったかがわかるわ。こんどの任務に必要なエネルギー量を、確かめておかなければね。ところで、スカイバイキングの耐久レコードはどれくらい?」 「二時間二十五分三・六秒。月面でです、もちろん──オリンピック・ドームの二キロ・サーキットでね」 「六時間までは引きあげられそう?」 「らくらくですよ、休みたいときに休めるんですから。月面でのスカイバイキングは、ここのに比べて、少なくとも二倍は苦しいんですから」 「いいわ、ジミー──実験室に戻りましょう。このサンプルの分析が終ったらすぐ、ゴーかノー・ゴーか判定をくだしてあげるから。べつに気休めをいうつもりはないけど──あなたなら大丈夫だと思うわ」  満足そうな微笑がジミー・パクの青じろい顔いっぱいに広がった。エアロックに向かうアーンスト軍医中佐のあとにしたがいながら、仲間たちに叫びかえした。 「頼むから[#「頼むから」に傍点]、手は触れないでくれよ! こぶしで翼を破られたら、たまらないからね」 「気をつけておくよ、ジミー」と、ノートン中佐は約束した。「ドラゴンフライ号には全員[#「全員」に傍点]立ち入り禁止だ──私を含めてな」 [#改ページ]      26 ラーマの声 〈円筒海〉の岸に達するまでは、この冒険がもつ真のスケールに、ジミー・パクは気づかなかった。そこまでは、既知の領域の上空だから、よほど破滅的な機体の損傷でも生じないかぎり、いつでも着陸して、数時間で基地まで歩いて帰れるのだ。  そのような選択の自由は、もはやない。もし〈海〉に落ちたら、すこぶる不愉快なことだが、毒を含んだ水中でたぶん溺れ死ぬだろう。たとえ〈南方大陸〉に無事に着陸できたとしても、ラーマの向日軌道からエンデヴァー号が離脱するまでには、かれの救出が不可能かもしれないのだ。  かれはまた、予想可能の災難はいちばんおこらない災難だという真理に、痛いほど気づいていた。これから飛ぶ完全に未知の地帯には、どんな驚きが待ちかまえているかしれやしない。たとえば、そこに飛行生物がいて、かれの侵入に反撃してきたら? ハトより大きなものと空中戦を演じるのは、願いさげだった。突つきどころが悪かったら、ドラゴンフライ号の空気力学はたちまち崩れてしまう。  とはいうものの、危険がなければ、功績にはならないし──冒険の意味もない。そうなったら、かれと喜んで入れ代わる人間がごまんと出てくるだろう。かれがこれからおもむく場所は、前人未踏であるだけではない──今後ふたたび人間の踏みこめない場所なのだ。全歴史を通じて、ラーマの南方領域を訪れるただ一人の人間になれる。恐怖が心に湧きあがるたびに、かれはすぐそう考えて自分をはげました。  かれはようやく、自分をとりかこむ世界の中で、宙空に坐っていることに慣れてきた。中心軸から二キロ下降したので、上下≠フ感覚もはっきりつかめるようになっていた。大地はほんの六キロ下方だが、天|穹《きゅう》は頭上十キロにある。天頂近くには、〈ロンドン市[#「市」に傍点]〉がかかっている。いっぽう〈ニューヨーク〉は、進路正面、まっすぐ前方にひかえていた。 「ドラゴンフライ号へ」〈軸端司令部〉が呼びかけてきた。「ちょっぴり下降しているぞ。軸から二千二百メートルだ」 「ありがとう」かれは返事した。「高度をあげる。二千に戻ったら教えてくれ」  これはかれも気をつけていなければならないことだった。気づかないうちに高度が落ちてくるのだが、それを正確に教えてくれる計器がないのだ。中心軸のゼロ重力地帯からあまり離れすぎると、二度とそこへ飛びあがれないおそれがある。さいわい、誤差の許容範囲がかなりあるうえ、常時だれかが〈軸端部〉で、望遠鏡ごしにかれの進みぐあいを監視してくれていた。  着実に時速二十キロの速さでペダルを踏みながら、いまや〈海〉の上空をだいぶ沖へ出ていた。あと五分で、〈ニューヨーク〉上空に達するだろう。すでにその島影が、〈円筒海〉を永遠にめぐりつづける船のように現われていた。〈ニューヨーク〉に到達すると、上空を一度旋回したのち、小型TVカメラで鮮明な安定画像を送りかえすため、数回停止した。  建物や塔や工場や動力ステーション──あるいは、それらがなんであれ──の景観は、魅力たっぷりではあるが、基本的な意味に欠けていた。その複雑な眺めをいくらみつめつづけたところで、何ひとつわかりそうにもない。いくらがんばったところで、カメラの詳細な記録にはおよぶべくもないのだ。そしていつの日か──おそらく何年もたってから──どこかの学究がその中に、ラーマの秘密を解く鍵を発見することになるかもしれない。 〈ニューヨーク〉を離れたあと、かれは〈海〉の残り半分をわずか十五分で横断した。無意識のうちに、水上を急スピードで飛んだからだが、南岸に到達したとたん、思わず気がゆるんで、速度を時速数キロにまで落してしまった。完全な未知の領域内に入ったにせよ、少なくとも陸地の上にいることは確かなのだ。 〈海〉の南限を示す巨大な断崖を越えるとすぐ、かれはTVカメラをぐるりとひとめぐりさせて、この世界をくまなく写しとった。 「おみごと!」と、〈軸端司令部〉がいった。「こいつは地図作成者の連中をうれしがらせるだろう。気分はどうだね?」 「上乗だよ──ほんのちょっと疲れたけど、思ったほどじゃない。〈極点〉まではあとどのくらいかな?」 「十五・六キロだ」 「十キロになったら教えてくれ。そこで休息をとるから。それと、また下降しないように注意を頼む。あと五キロになったら、上昇を開始するよ」  二十分後、世界はまぢかに追ってきた。円筒部分の端《はし》に到達し、いよいよ南側のドームに入ろうとしているのだ。  かれはラーマの反対側の末端から、望遠鏡ごしに何時間もここを研究したので、その地理はすっかり脳裏に刻みこまれていた。それでも、周囲に展開される壮観な眺めに対しては、充分な心がまえができていなかった。  ラーマの南端と北端は、ほとんどあらゆる点で完全に異なっていた。ここには三組の階段も、せまい同心円状の積層台地も、軸端から平原にかけてのなだらかなカーヴもない。そのかわり、長さ五キロ以上の巨大な中央尖塔が、中心軸に沿って突出している。そのまわりには、中央塔の半分ほどの小塔が六本、等間隔で並んでいた。全体の感じは、さながら洞窟の天井からたれさがるきわめて対称的な鐘乳石の一群のようだ。あるいは、見方をかえて、クレーターの底に立つカンボジア寺院の尖塔群というところか……。  これらのほっそりとした先細りの尖塔群をつなぎあわせ、そこからなだらかに下降して円筒平原に合体している|飛びひかえ壁《フライング・バットレス》は、いかにもがっしりとして、この世界の全重量をささえられるだけの強固さをもっているようだ。いや、おそらくそれこそ、これらの壁の機能なのだろう。だれかが指摘したように、もしこれがほんとうに異星の推進《ドライヴ》機関の構成要素であるならば。  パク中尉は用心ぶかく中央尖塔に接近すると、百メートルも手前でペダル踏みをやめ、あとはドラゴンフライ号の漂うにまかせた。放射能量を調べてみたが、ラーマ自体のきわめて低いバックグラウンド(自然放射能量)しか検出されなかった。地球人類の計器では探知不能の何かの 力《フォース》 が存在していないともかぎらないが、だとすれば、それは避けては通れない新らたな危険ということになる。 「何が見えるね?」〈軸端司令部〉が心配そうに訊ねてきた。 「〈|大きな角《ビッグ・ホーン》〉だけだ──完全にすべすべで──なんのマークもない──先端は鋭くとがっていて、針に使えるぐらいだ。そばへ寄るのもびくびくものさ」  なかばジョークだった。こんなにがっしりと巨大な物体が、これほど幾何学的に完全な一点に向かって先細りに仕上げられているとは、信じがたい離れわざである。ジミーはピンでとめられた昆虫のコレクションを見たことがあるが、愛機ドラゴンフライ号が似たような運命に出くわすのだけは、ごめんだった。  かれはゆっくりペダルを踏んで前進し、尖塔がさしわたし数メートルほど張りだしているあたりで、ふたたび停止した。小さな容器を開けると、野球ボール大の球体を慎重な手つきでとりだし、それを尖塔へ向かってかるく放り投げた。球体は漂い流れながら、見えるか見えないほどの細糸をくりだしていく。  吸着弾はなめらかに彎曲した表面にぶつかり──はね返らずに止まった。ジミーはためしにかるく細糸を引いてみてから、こんどは強く引っぱった。漁師が獲物をたぐりよせるように、いみじくも〈ビッグ・ホーン〉と名づけたものの先端めざして、ゆっくりドラゴンフライ号を近づけていき、最後に両手をのばして、機体と尖塔を接触させた。 「これもまあ、着陸のうちなんだろうな」かれは〈軸端司令部〉へ報告した。「ガラスみたいな感触だ──摩擦がほとんどなく、かすかにぬくもりが感じられる。吸着弾はうまく働いた。こんどは集音マイクを試してみよう……吸着板がうまくくっつくかどうか……導線をさしこんでと……何か聞えるかい?」  長い沈黙のあと、〈軸端司令部〉はうんざりしたような口調で答えた。 「コトリともしないね、いつもの加熱ノイズ以外には。ちょっと金属片でたたいてみてくれないか? 内部が空洞かどうかぐらいはわかるだろう」 「了解。お次は何を?」 「尖塔沿いに飛んで、半キロごとに完全走査をやりながら、異常なものを探してほしい。あとは、まちがいなく安全とわかったら、〈|小さな角《リトル・ホーン》〉のどれかに行ってもいいよ。ただし、あくまできみがゼロGの場所へ問題なく戻れるかどうかを、確認してからだ」 「中心軸から三キロあたりは──月面重力よりやや強いぐらいだ。ドラゴンフライ号の設計はそれに合わせてある。ちょっとがんばる必要がありそうだな」 「ジミー、こちら隊長だ。それについては考えなおした。きみのとった写真から判断すると、小さい塔も大きなやつと同じらしい。ズームを使って可能なだけカバーしてくれ。低重力地帯から離れてほしくないんだ……とくに重要と思われるものを発見したというのでなければな。その場合は、よく話しあおうじゃないか」 「了解、艦長《スキッパー》」  そう答えたジミーの声には、心なしかちょっぴり安堵の色が感じられた。 「〈ビッグ・ホーン〉から離れないことにします。では、もう一度出発」  ジミーは信じられない細さと高さにそびえる隆々にはさまれた狭い谷間へと、一直線に落ちていくような気がした。 〈ビッグ・ホーン〉はいまや、頭上一キロの高さにそそり立ち、六本の〈リトル・ホーン〉がかれをかこみこむようにぐんぐん巨大化していく。眼下の斜面《スロープ》をとり巻いているひかえ壁と飛びアーチの複合建造物が、急速に近づいてくる。  あのばかでかい建築群のうちのどこかに、はたして無事着陸できるかどうか、かれは心細くなってきた。もはや〈ビッグ・ホーン〉自体への着陸は不可能だった。しだいに裾野を広げていくその塔の重力は、いまや吸着弾の弱い力では太刀《たち》打ちできないほど強くなっているからだ。 〈南極〉に近づくにつれ、自分が巨大な大|伽藍《がらん》の丸天井の下を飛んでいる雀のように感じられてきた──もっとも、ここの大きさにくらべれば、人間の建てた寺院など百分の一以下のスケールしかないのだが。つかのまかれは、これはほんとうに宗教的な聖堂か、そうでなくともそれに似たものなのではないか、と考えかかったが、すぐにその考えをうち消した。  ラーマのどこを見ても、芸術的表現物はかけらもない。すべてが純粋に機能本位に作られていた。おそらくラーマ人は、宇宙の究極的な秘密を解明できたと信じていたのだろう。だから、人類を駆りたてている憧憬とか向上心とかにとりつかれることは、こんりんざいなかったのだ。  それは背すじのうそ寒くなるような考えで、平凡な、さほど深遠でもないジミーの哲学から見れば、まったく異質なものだった。かれは交信をすぐさま再開したい衝動にかられ、遠方の仲間たちに現状報告を送りかえした。 「ドラゴンフライ号、もう一度しゃべってくれ」〈軸端司令部〉は応答してきた。「内容がよく開きとれない──送信波のぐあいがおかしいんだ」 「くり返す──現在、六番目の〈リトル・ホーン〉近くにいる。吸着弾を使って、機体を固定しにかかってるところだ」 「一部しか聞きとれない。こっちのいうことは聞えるか?」 「ああ、完全に。くり返す、完全にだ」 「数をかぞえてみてくれないか?」 「一、二、三、四……」 「一部は聞えた。ビーコンを十五秒だけくれ。そのあと、音声に戻る」 「そら、いくぞ」  ジミーは、ラーマ内のどこにいても位置を知らせる低出力ビーコンのスイッチを入れ、秒読みをした。ふたたび音声交信に戻ると、不審げに訊ねた。 「どうなってるんだい? こんどは聞きとれるか?」  たぶん〈軸端部〉には聞えなかったのだろう。管制官がそのとき、こんどはTVを十五秒送れと要求してきたからだ。同じ質問を二度くり返すと、やっとジミーの通信は向こうへとどいた。 「よかった。きみのほうは聞えるんだね、ジミー。しかし、そっちの端では何かきわめて奇妙な事態が生じているらしい。聞いてくれ」  受信器を通して、かれ自身のビーコンの出す聞きなれた信号音が送りかえされてきた。最初のうちはいつもと変りなかったが、やがて気味のわるい歪みが混じりだした。千サイクルの信号音が、ほとんど可聴範囲以下のきわめて低い、くぐもったような脈動音によって変調をおこしていた。一種のバッソ・プロフンド(男声最低音の一種で、重くおごそかな旋律を歌うのに適したバス)的なはためき音で、振動が個々別々に聞きわけられた。しかも、その変調音がそれ自体変調を来たしており、ほぼ五秒間隔で高くなったり低くなったりをくり返している。  自分の無線送信器が狂ったのだとは、毛ほども疑わなかった。これは外部からの影響にちがいない。とはいうものの、それが何であり、何を意味するのかは、かれの想像の域を越えていた。 〈軸端司令部〉にしても、かれ以上に知ってはいなかったが、少なくとも理屈だけはつけてくれた。 「こちらの考えでは、きみはいま一種のきわめて強い力場──たぶん磁場のなかにいるにちがいない──周波数は約十サイクルだ。この強さでは、人体に有害かもしれない。ただちにそこを離脱したまえ──ひょっとしたら、局地性のものかもしれないからね。もう一度ビーコンをつけてくれ。そちらへ送りかえすから。そうしておけば、いつ干渉範囲を出たかが、自動的にわかる」  ジミーは着陸を断念すると、大急ぎで吸着弾をもぎとった。大円を描きながらドラゴンフライ号を転回させ、そのあいだも、イアホーンのなかではためく音に耳をすませつづけた。ほんの数メートル飛んだだけで、干渉の強度がみるみる衰えたことがわかった。〈軸端司令部〉の推測どおり、怪音はごくごく局地的なものだったのだ。  頭の奥でかすかに脈うつような怪音が感じとれる最後の地点で、かれはしばらく停止した。野蛮な原始人が無知ゆえの畏怖に打たれて、巨大な変圧器の低いうなりに耳をすませているようなものかもしれなかった。だが、そんな野蛮人でも、いま聞いている音がじつは、完全に制御されたまま活動の時節を待っている厖大なエネルギーから、少しずつ漏れ出る空電にすぎないということぐらいは、推量できるかもしれない……。  この怪音が何を意味するにしろ、ジミーはそこから逃がれ出たことを喜んだ。ひとりぼっちの人間がラーマの声に耳をかたむけるには、〈南極〉の建造物群がのしかかるように並び立つこんな場所は、とてもふさわしくなかった。 [#改ページ]      27 対 流 放 電  帰投しようと機首を転じたとき、ジミーにはラーマの北端が、信じられないほど遠く感じられた。  ここから見ると、あの三本の大階段でさえ、この世界を閉じているドームに刻みこまれたY≠フ字として、かろうじて見える程度なのだ。〈円筒海〉の帯は、広大な危険にみちた障壁となって、かれの脆い翼が、イカルスのように使いものにならなくなったら最後、ひとのみにしようと待ちかまえていた。  だが、往きにはなんの障害もなかったことだし、少し疲れを感じてはいたが、心配ごとはおこるまいと思った。食物にも水にも手をつけなかったし、興奮のあまり休息をとることも忘れていた。  帰りの旅ぐらいはリラックスして、気楽にいこう。そのうえ、うれしいことに、帰路は往路より二十キロは短いのだ。〈海〉さえのりきれば、〈北方大陸〉のどこにでも緊急着陸できる。その場合、ちょっと厄介なことにはなる。長行軍を覚悟しなければならないし、それ以上に、ドラゴンフライ号を見捨てなければならなくなるからだ──とはいうもの、この考えは、気分をすっかり楽にしてくれた。  かれは中央尖塔を逆に登るようにしながら、高度をとっていった。〈ビッグ・ホーン〉の尖った針は前方へ一キロにわたって延びており、これこそこの世界の回転軸ではないかとときどき感じた。  奇妙な感じに襲われたのは、もう少しで〈ビッグ・ホーン〉の先端に達しようというときである。虫の知らせというか、心理的にはむろんのこと、肉体的にも不快な感覚がかれを襲ったのだ。  突然、古い文句が心にうかんだ──なんの助けにもならなかったが──だれかがおまえの墓の上を歩いている  最初、かれは肩をすくめただけで、着実にペダルをふみつづけた。漠然とした不快感などといった些細なことを〈軸端司令部〉へ報告しようとは思わなかったが、その感覚が強まるにつれ、報告したい誘惑に負けそうになった。これは心理的なものではありえない。もしそうだとすれば、かれの精神は思ったより強いことになる。なぜなら、文字どおり皮膚がむずむずしはじめたのが感じられたのだから……。  すっかりびくついて、かれは中空に停止すると、状況を検討しはじめた。状況をひどく奇妙なものにしているのは、この押しつけるように重苦しい感じが、未経験のものでないという事実だった。以前にもあじわっているのだが、どこでだったのか思いだせないのだ。  まわりを一瞥したが、何も変化はしていない。〈ビッグ・ホーン〉の巨大な尖塔は数百メートル上にあり、その先には、ラーマの向こう端が空にかかっていた。八キロ下には、かれ以外にだれも見ることのできない数々の驚異にみちた〈南方大陸〉の複雑なつぎはぎ模様がよこたわっている。異境ではあるが、今では親しみもでてきた風景の中に、不安の種をみつけることはできなかった。  何かが手の甲をくすぐっている。しばらくは、確かめもせず虫がとまっているのだろうと思って、手ではらいのけようとした。とちゅうで、自分の行為に気づいて手をとめると、すこし間がぬけているなと思った。もちろん、ラーマで昆虫を見たものなどいないのだ……。  かれは手をあげると、不思議そうに見つめた。くすぐるような感じがまだのこっていたからだ。そのとき、かれは毛髪の一本一本がすべてまっすぐに突ったっているのに気づいた。前膊部も同様だった──手でさぐってみると頭髪もそうだった。  なるほどこれが[#「これが」に傍点]原因だったのだ。  かれはおそろしく強力な電界のなかにいるのだ。先刻感じた重苦しい感覚は、地球上でときどき雷雨に先立っておこるあの感覚だったのである。  自分の窮状を突然さとると、ジミーはほとんど恐慌状態におちいった。誕生以来いままでに一度も、肉体上の危険にさらされたことはなかった。すべてのスペースマンと同様に、巨大な機械に対して抱く恐怖の瞬間や、いろんなミスや未経験がもとで、自分が危|殆《たい》に瀕しているとあやまって信じてしまうことがよくあることも承知していた。しかし、これらの事態はいずれも数分とはつづいたためしがなく、ふつうはほとんどすぐに、そういった事態を笑いとばせたのだが……。  今度ばかりは、さっさと逃げだせる出口がない。いまにも猛威をふるいそうな巨大な力にとりかこまれ、突然敵意をむきだしにした空の下に、かれはたったひとり裸でいるのだ。  ドラゴンフライ号──もともと充分もろいものだったが──は、空中をただようクモの糸よりも弱々しく見える。つのりくる嵐の最初の一撃で、こなごなにされてしまうにちがいない。 「軸端司令部」かれはせきこんでいった。「まわりで静電気の量が高まっている。いまに雷雨がくるらしい」  まだしゃべり終らないうちに、背後で光がきらめいた。十も数えないうちに、最初のゴロゴロという音が達した。三キロ──〈リトル・ホーン〉のあたりだ。その方角を眺めた、六本の針塔のどれもこれもが燃えているように見えた。長さ数百メートルにおよぶブラシ放電が尖塔の先端から先端へとおどりまわり、さながら尖塔が避雷針の役目をはたしているようだ。  背後でおこっている現象は〈ビッグ・ホーン〉の先細の尖塔付近ならさらに大規模におこりそうだ。この危険な構造物からできるだけ遠くへはなれ、開放空間をさがすことが先決だった。ふたたびペダルを踏みはじめると、ドラゴンフライ号にあまり負担をかけないように心をくばりながら、できるだけ速くスピードをあげていった。と同時に、高度を失いはじめた。これは高重力地帯へ入ることを意味するが、その危険をおかす覚悟はできていた。八キロという距離は、大地からあまりに遠すぎて安心できないからだ。 〈ビッグ・ホーン〉の不吉な黒い尖塔はまだ放電からまぬがれていたが、厖大な電位が昂まりつつあることは明らかだった。ときおり背後で、なおも雷鳴がとどろきわたった。ジミーは、完全な晴天にこんな嵐が発生することがいかに奇妙であるかに気づいて、はっとした。そして、これが気象現象ではないことをさとった。実際にはラーマの南極ドームの下ふかく隠された源から、たんにエネルギーが漏れ出ているだけにすぎないのかもしれない。  だが、なぜいま[#「いま」に傍点]おこったのだ? そして、もっと重要なことは──つぎに何がおこるのか[#「つぎに何がおこるのか」に傍点]?  いまはもう〈ビッグ・ホーン〉の先端からかなり遠くへ離れていたので、まもなく雷光の範囲から外へ脱け出せそうだった。しかし、こんどは別の問題をかかえこむことになった。大気がしだいに荒れくるいはじめ、ドラゴンフライ号の操縦が困難になってきたのだ。風はどこからともなく吹いているようだが、状況がさらに悪化するようなら、このバイクのもろい骨組みは危険にさらされることになる。  自分の力と動きの変化からくる揺れをなくそうとつとめながら、かれは慎重にペダルを踏んだ。ドラゴンフライ号はかれの分身のようなものだったので、部分的にはうまくいった。だが、かれは突風が吹くたびに翼げたから聞こえるかすかなきしみと、翼がねじれるそのねじれかたにはらはらした。  ほかにも、かれを心配させるものがあった──かすかだが、おしよせるような音が確実にその強さを増しながら、〈ビッグ・ホーン〉の方角からやってくるようなのだ。高圧下のバルブからもれるガスの音のようにも聞こえるので、かれは自分が苦闘しているこの乱流と関係があるのだろうかといぶかった。原因はなんだろうと、それはかれの落ちつきをさらに失わせる根拠になった。  ときどきかれは、これらの現象を、手短かに、息つくひまもなく〈軸端司令部〉に報告した。そこにいるだれ一人として、かれに助言してやれず、何がおこっているのかを教えてやることさえできなかった。しかし、仲間の声を聞くのは慰めになった。たとえ二度とかれらに会うことはできないのだという恐怖を感じはじめていたにしろ。  乱流はますます激しさを増してくる。まるでジェット気流に突っこんだような感じだった──かつて地球上で、最高記録に挑んで高々度グライダーで飛んでいるときに経験したように。  だが、ラーマの内部ではいったい何が、ジェット気流をつくりだせるのだ?  かれは自分に正しい質問をしていた。それを系統だてて考えたとたん、すぐに答がわかった。  かれが聞いた音は〈ビッグ・ホーン〉のまわりで蓄積されたにちがいない、厖大なイオンをさらっていく対流放電なのだ。充電された空気がラーマの中心軸に沿って吹きだしていくにつれて、よその空気がうしろの低圧地帯へ流れこんでいるのだった。かれはその巨大な、いまや二重に危険になった尖塔をふりかえると、そこから吹いてくる突風の境をみきわめようとした。  最上の戦術は耳をつかって飛ぶことである。そして、あのシュッシュッという不気味な音からできるだけ遠ざかることだ。  ラーマはかれに選択の必要性を認めなかった。だしぬけに背後で炎が一面におこり、空をうめつくした。かれはそれが六本の炎のリボンに分れ、〈ビッグ・ホーン〉の先端から〈リトル・ホーン〉のそれぞれに伸びていくのを見てとった。次の瞬間、激動がかれのところに押しよせた。 [#改ページ]      28 イ カ ル ス  ジミー・パクには無電連絡をとるひますらほとんどなかった。 「翼がこわれる──墜落する──墜落する!」  すでにドラゴンフライ号は、かれのまわりで優雅に崩壊をはじめていた。左の翼が真中からぽっきり折れ、外側の部分だけが一枚の枯葉のように、ひらひらと舞っていった。右の翼は、もっとこみいった芸当を演じた。根もとからくるりとねじれて、先端が尾翼に絡まるほど急角度に、うしろへ折れ曲ったのだ。ジミーは、こわれた凧に乗って、ゆっくりと空から墜ちていくような気分だった。  しかし、かれは完全に無力ではなかった。プロペラはまだ動くので、かれに力が残されているかぎり、いくらか操縦の自由はきく。たぶん、五分間ぐらいはそれを利用できそうだ。 〈海〉までたどりつける望みはあるだろうか? いや──あまりにも遠すぎる。  そのときジミーは、自分がまだ地球流にものを考えているのに気がついた。いくらかれが達者な泳ぎ手でも、救助されるまでには何時間もかかるだろうし、そのあいだに、有毒な海水のために命がなくなるのは、まちがいない。唯一の希望は、陸の上に降りることだ。南側の垂直に切り立った断崖のことは、あとで考えることにしよう──もしあと≠ェあればだが。  まだこのあたりは十分の一Gの空域なので、落下はごくゆっくりとしているが、中心軸から離れるにつれて、まもなく加速がはじまるだろう。しかし、空気抵抗がその状況をさらに混みいらせるから、けっきょく、それほど下降速度はふえないはずだ。ドラゴンフライ号は、動力がなくなっても、ぶかっこうなパラシュートとして働く。あと数キログラムの推力を加えさえすれば、ひょっとしたら生死の境目を切り抜けられるかもしれない。それがいまはたった一つの望みだった。 〈軸端司令部〉は、すでに通話をやめていた。ジミーの仲間たちは、かれの身の上に何がおこっているのかをはっきり見てとり、言葉では力の貸しようがないことを知ったのだ。  ジミーはいまや生涯最高の飛行技術を発揮していた。かれは陰気なユーモアでこう考えた──おれの観客がこんなに少なくて、しかもおれの微妙な腕の冴えを鑑賞できない素人なのは残念だ、と。  かれは大きな螺旋を描いて降下していた。その傾斜角が水平に近いところでとどまっているかぎり、生存の可能性は充分にある。こわれた翼が完全にもげてしまうのを恐れて、全力を出すのは見合わせているが、ペダルを漕ぐことがドラゴンフライ号に浮力をつけるのに役立っているようだった。そして、南へ機首を向けるたびに、ラーマが親切にもかれのために用意してくれた壮麗な花火のショウを鑑賞することができた。  電光の流れは、まだ〈ビッグ・ホーン〉の先端から、下の小さな峰々へと踊り狂っていたが、いまではそのパターンの全体が回転していた。六つ叉の炎の王冠は、ラーマの自転に逆行し、二、三秒ごとに一回の回転をくりかえしているのだ。ジミーは、巨大な電気モーターの作動を眺めているような気がしたが、たぶんその比喩はまったく的はずれでもなかったろう。  かれがまだ平たい螺旋を描きながら、平原まであとなかばの高さまで降りたとき、急に花火のショウが途絶えた。かれは空中から電圧がひいてゆくのを感じ、そっちに目をやらなくても、腕の毛はもう立っていないことを知った。命がけの飛行の最後の数分間、かれの気をそらしたり、じゃましたりするものは、なにもなさそうだった。  ほぼどの地域に着陸できるか見当がついてきたので、かれは熱心な観察にとりかかった。  その地方の大部分は、チェス盤のような桝目に仕切られ、その一つ一つがてんでんばらばらの環境を形づくっていた。まるで気のくるった造園師が好き勝手に作れといわれて、空想力を極限まで発揮したかのようだ。碁盤目の一桝は一辺が一キロ近くある正方形で、大部分のそれは平坦に見えたが、固体かどうかは確信が持てなかった。色彩と地肌があまりにもまちまちなのだ。かれはぎりぎり最後の瞬間がくるまで、判断をさしひかえることにした──もし、実際に選択の余地があればだが。  あと数百メートルの高さになったとき、かれは〈軸端司令部〉へ最後の報告を入れた。 「まだいくらか操縦の自由がきく──あと三十秒で着陸──では、そのあとで」  これは楽観もはなはだしく、みんなもそれを知っていた。しかし、ジミーはさよならをいう気はなかった。自分が最後まで恐れることなくがんばりつづけたことを、仲間たちに知らせたかったのである。  事実、あまり恐怖を感じなかったし、これは自分としても意外だった。というのも、これまでかれは、自分をとりたてて勇気のある人間だと思っていなかったからだ。それはちょうど、自分とは直接関係のない、他人の奮闘ぶりを眺めているような気分だった。いや、むしろ、空気力学上の面白い問題を研究していて、いろいろなパラメーターを変えながら、何がおこるかを試しているのに近い。  かれが味わったほとんど唯一の感情は、いくつかの機会が──その中でいちばん重要なのは、来たるべき〈月面《ルナー》オリンピック〉なのだが──失われたことに対する、かすかな未練だった。すくなくとも、一つの未来は決定された。ドラゴンフライ号は、けっしてその勇姿を月面に現わすことはないだろう。  あと百メートル。  対地速度は許容できそうだが、どれぐらいのスピードで落下しているのか? だが、一つだけツイていることがある──地形は完全に平坦だ。渾身の力をふりしぼって、最後の推力をつけよう。  用意──はじめ!  右の翼が、その義務を果たし終って、ついに根もとからもぎとれた。ドラゴンフライ号は横転に移り、それを防ぐために、かれは全体重をかけて、スピンに抵抗した。かれが十六キロかなたでアーチのように弧を描いている風景をまっすぐみつめたとき、衝撃がおそった。  空がこんなにも堅いのは、不公平で、しかも不合理なことのように思われた。 [#改ページ]      29 最初の接触  ジミー・パクが意識を回復して最初に気づいたのは、割れるような頭痛だった。かれはむしろそれを歓迎したい気持だった。すくなくとも、まだ自分が生きているという、それは証《あか》しだ。  それからかれは身動きしようとしたが、とたんに体の節々の多種多様な痛みに見舞われた。しかし、試してみたかぎりでは、どこの骨も折れていないらしい。  そのあと、思いきって目を開けてみたが、すぐまた閉じてしまった。この世界の天井沿いに輝く帯状太陽を、まともにみつめていることに気づいたからである。頭痛の治療には、ちょっとおすすめできかねる眺めだった。  かれがまだその場に横たわり、体力がもどるのを待ちながら、あとどれぐらいしたら目を開けても安全だろうかと考えているとき、だしぬけにすぐ身ぢかで、何かが噛み砕かれるような音がした。その音のほうへごくそろそろと頭を向けてから、かれは思いきってまた目を開き──そして、あやうくふたたび意識を失いかけた。  五メートルたらず向こうで、大きいカニに似た生き物が、あわれなドラゴンフライ号の残骸を平らげているようすなのだ。  分別をとりもどしたジミーは、ゆっくりと静かに体を横に転がして、怪物から遠ざかりはじめた。いまにもはさみ[#「はさみ」に傍点]で捕まえられるのではないかと、胸がどきどきした。むこうが、すぐ隣りにもっとうまそうなご馳走があるのを発見したら最後だ……。  しかし、怪物はかれに一顧もあたえなかった。相互の距離が十メートルまで開くのを待って、かれは用心深く上体をおこした。  前よりも離れたこの位置からだと、相手はそれほど恐ろしくは見えなかった。低く平べったい体は、幅一メートル、長さ二メートルぐらいで、三つの関節のある六本の脚に支えられている。ジミーは、さっき相手がドラゴンフライ号を食べているように思ったのが、まちがいなのを知った。事実、どこにも口らしいものは見あたらない。怪物がやっているのは、じつは手ぎわのいい取り壊し作業だった。鋭いはさみ[#「はさみ」に傍点]を使って、スカイバイクをこまぎれに切り刻んでいるのだ。つぎに、不気味なほど人間の手に似かよった、ずらりと並んだ操作器管が、そのこまぎれを拾いあげて、背中の上へ山積みしてゆく。  だが、こいつは動物[#「動物」に傍点]だろうか?  最初見たときはそう思ったのだが、いまかれは考えなおしかけていた。相手の行動には、かなり高い知能をほのめかすような目的意識がある。純粋に本能だけで動く生物が、スカイパイクの残骸をこんなにていねいに収集するとは思えない──ひょっとして、巣を作る材料を集めてでもいるなら別だが。  まだかれを完全に無視しているカニに警戒の目をそそぎながら、ジミーはやっとの思いで立ちあがった。二、三歩よろよろと踏みだしてみて、なんとか歩けることがわかった。しかし、あの六本足が追いかけてきたら、逃げきれる自信はない。  それからかれは無電のスイッチを入れた。それがまだ作動することについては、一点の疑いも持っていなかった。かれ[#「かれ」に傍点]が生きのびられるぐらいの墜落なら、ソリッド・ステートの電子回路は、ビクともしないはずだ。  かれは低く呼んでみた。 「軸端司令部、聞こえるか?」 「よかった! 無事だったか?」 「ちょいと揺さぶられただけだよ。これを見てくれ」  ジミーはカメラをカニのほうに向けた。ちょうど、ドラゴンフライ号の主翼の最後の破壊を記録するのに、間に合った。 「いったい、そいつは何者だ? ──それに、なぜきみのバイクをむしゃむしゃやってるんだ?」 「こっちも知りたいよ。こいつ、ドラゴンフライ号をきれいに平らげちゃった。こっちに目をつけられちゃたまらないから、いまから退却する」  ジミーは一瞬たりともカニから目を離さずに、そろそろと後退した。むこうは、見落した破片がないか探しているらしく、ぐるぐるとしだいに大きな螺旋を描きはじめたので、ジミーははじめてあらゆる方向から、相手を眺めることができた。  最初のショックが薄れたいま、ジミーは相手がじつにスマートな生物なのをさとった。かれが自動的にあたえたカニ≠ニいう名は、ともすると誤解を招くかもしれない。もし、この相手がこうもべらぼうに大きくなかったら、カブト虫とでも呼びたいところだ。その甲羅には、美しい金属的な光沢がある。事実かれは、まちがいなく金属だと誓ってもいいほどの気持だった。  そいつはおもしろい考えだ。  すると、こいつは動物じゃなくて、ロボットなのだろうか?  ジミーはその考えを念頭において相手をみつめながら、その体のあらゆる特徴を分析した。口があるべきところには、さまざまの操作器管がついていたが、ジミーがそれから連想したのは、元気のいい男の子ならだれでも大喜びしそうな万能ナイフだった。そこには、やっとこも、探り針も、やすりも、いや、ドリルらしいものまであった。しかし、これだけの証拠ではまだ決定的といえない。地球の昆虫界も、これらの道具に相当するすべてと、それ以上に多くのものを備えているからだ。動物かロボットかという疑問は、まだかれの心の中で、完全なバランスをたもっていた。  本来なら、その問題を解決してくれるはずの眼が、かえってそれをあいまいにしている。第二保護被覆の中へあまりにも深く引っこんでいるので、そのレンズが結晶体なのかゼリー状なのかも、はっきりしない。そして、まったく無表情なうえに、おどろくほど鮮かなブルーだった。その眼は何度かジミーのほうを向いたにもかかわらず、ほんのかすかな興味の閃きすら示さなかった。  かれのおそらくは偏見にとらわれた意見からすると、それがこの相手の知能水準を物語っている。ロボットにせよ、動物にせよ、かりにも人間を無視するようでは、あまり頭がいいはずはない。  いまや相手は周回運動をやめ、まるでなにか聞こえないメッセージに耳をすますかのように、数秒間静止した。それから、いっぷう変った横揺れするような足どりで、〈円筒海〉の方角へと出発した。時速四キロないし五キロのスピードで、完全な直線を描いて去ってゆく。相手が二百メートルばかり遠ざかったときになって、ジミーのまだ完全にショックから覚めやらぬ心は、ようやく大変な事実に気づいた。  愛するドラゴンフライ号の最後の傷ましい残骸が、どこかへ運び去られようとしているのだ。かれはかっと頭にきて、がむしゃらに追跡をはじめた。  かれの行動は、まったく非論理的ともいえなかった。カニは〈海〉のほうを目ざしている──そして、もし救助隊がくるとすれば、それはこの方角しか考えられない。それに、この相手が戦利品をどうするつもりなのかも見とどけたかった。それがわかれば、むこうの動機も知能も明らかになるだろう。  まだ打撲傷が痛み、体の節々がこわばったままのジミーが、目的を持って動いているカニに追いつくには、何分かかかった。ようやく追いつくと、ジミーは相手がかれの接近を気にしていないという確信をもてるまで、一定の距離をたもって、ついてゆくことにした。そのときやっと、かれはドラゴンフライ号の残骸の中に水筒と非常食がまじっていることに気づき、そしてたちまち空腹と渇きにおそわれた。  なんということだ、時速五キロの容赦ない速度で、この世界のこちら側半分にある唯一の食料と水が、かれから逃げてゆく。どんな危険があっても、あれをとりもどさなくては。  ジミーは真うしろから、慎重にカニに近づいた。その背後にくっつきながら、六本の足の複雑なリズムを観察し、次の瞬間にどれがどの位置へくるかを予想できるまでになった。用意がととのうと、かれは早口に、「失礼」とつぶやいて、すばやく手をのばし、自分の財産をひったくった。  これまで、よもやスリの才能を発揮する日が来ようとは夢にも思わなかったジミーは、この成功に有頂天になった。一秒たらずで望みの物は手に入ったが、カニのほうは着実な足どりを少しも崩さなかった。  ジミーは十メートルほどうしろにさがると、水筒で唇を湿し、それから乾燥肉のスティックをしゃぶりはじめた。このささやかな勝利で、かれはだいぶ気分が晴れてきた。自分の暗い未来のことを、あえて考える勇気がわいてきた。  生命あるかぎり希望はある。とはいうものの、救助される可能性はあるとも思えなかった。かりに、かれの仲間たちが無事に〈海〉を渡れたとしても、どうやったら五百メートルも真下にいるかれらのところへたどりつけるのか? 〈軸端司令部〉はこう約束した。「降りる方法はなんとか見つけてやるよ。あの断崖が、どこにも切れ目なしに、この世界をとりまいているはずはない」と。  かれは、「どうしてだ?」と、訊ねたい誘惑にかられたが、思いなおしてやめたのだった。  ラーマの内側を歩いていちばん奇妙なのは、いつも自分の行く先が見えることだ。ここでは、地平線の下にそれが隠れるということがなく、世界の彎曲が逆にそれを目立たせている[#「目立たせている」に傍点]。  しばらく前から、ジミーはカニの目的地に気づいていた。前方にせりあがって見える陸地の中に、直径半キロほどの穴がある。それは〈南方大陸〉にある三つの穴のうちの一つだった。〈軸端部〉から見ても、どれほどの深さがあるかわからなかった代物だ。三つとも、月面の著名なクレーターにちなんで名前がつけられており、いまかれが近づきつつあるのはコペルニクスだった。その名はどう見ても適切ではない。なぜなら、ここには外輪山も、中央の高峰もないからだ。このコペルニクスは、完全に垂直な側面を持った、たんなる深い縦穴か井戸にすぎない。  その内部がのぞけるほど近づいたとき、まずジミーの目にうつったのは、少なくとも半キロほど下にある、不気味なにぶい灰緑色の池だった。それからすると、池の水面はほぼ〈海〉のそれと同じ高さになり、かれはこの二つがひよっとするとつながっているのではないかと考えた。  井戸の内部には、垂直な壁面の中へ完全に刻みこまれたかたちで、螺旋形の斜路《ランプ》が走っており、上から見た印象は、巨大な銃身の旋条をのぞきこんだのと似ていた。その溝がいったい内壁を何周しているのか、見当もつかないほどだった。何周分かのネジ谷を目でたどっているうちに、ますますこんがらがってきたジミーは、ようやくそこで気づいた。斜路は一つではなく、おたがいにまったく独立して、百二十度ずつ離れた、三つ[#「三つ」に傍点]の斜路があるのだ。ラーマ以外のどの世界へ持っていっても、この着想そのものが、壮大な建築学的偉業と見なされただろう。  三本の斜路は池の縁まで下降してから、その不透明な水面の下に消えていた。喫水線の近くに、黒いトンネルか洞穴らしいものがひとかたまりになっているのを、ジミーは見つけた。なんとなく物騒な感じで、中に何者かが住んでいるのではないかと、かれは考えた。  ひょっとしたら、ラーマ人は水陸両棲なのでは……。  カニが井戸の縁へ近づくのを見たジミーは、斜路の一つを下るつもりなのだろうと予想した──おそらくドラゴンフライ号の残骸を、分析評価のできる何者かのところへ運んでいくのだろう、と。ところが、むこうはまっすぐに井戸の縁へ歩みよると、ほんの数センチまちがえても墜落しそうなのに、なんのためらいもなく、体の半分近くを絶壁の上に乗りだし──そして勢いよく体をゆすった。ドラゴンフライ号の残骸は、ひらひらと舞いながら深淵に落ちていった。  それを見守るジミーの目には涙があふれた。かれは苦い気持で思った──こいつ[#「こいつ」に傍点]の知能はこの程度なのか。  ガラクタを始末しおえたカニは、くるりと回れ右して、十メートルほどしか離れていないジミーのほうへと歩きだした。おれも同じ運命にあうのかな、とジミーは思った。手に持ったカメラがあまり震えないことを願いながら、かれは急速に接近してくる怪物を〈軸端司令部〉に見せた。 「なにか助言は?」  かれは心配そうにささやいたが、役に立つ返事がもどってくるとは、あまり期待していなかった。いま自分が歴史を作りつつあるということがわずかな慰めであり、昔からこうした遭遇に際して推賞されているさまざまな方法が、かれの頭の中を駈けめぐった。これまでは、それらのすべてが、たんなる理論にしかすぎなかったのだ。それを実地に応用する人間は、かれが最初だった。 「むこうに敵意があることがはっきりするまでは、逃げるな」〈軸端司令部〉が、そうささやきかえしてきた。  どこへ逃げろというんだ、とジミーは腹の中で思った。百メートル競走ならこの相手をひき離せるかもしれないが、長距離ではこっちが先にへばるにちがいないという、おぞましい実感があった。  ゆっくりと、ジミーは伸ばした両手を頭上にあげた。二百年来、人類はこの身ぶりについて論争をつづけてきた。いったい、宇宙のどこに住むどんな生物でも、この動作を、「ほら──武器はないよ」と、受けとってくれるものだろうか? しかし、これ以上の案を思いついたものは、だれもいないのだ。  カニはなんの反応も示さないばかりか、足どりをゆるめもしなかった。完全にジミーを無視して、さっさとかれの横を通りすぎ、ひたすら目的物を追うように南へ向かった。  おそろしく間の抜けた気分で、ホモ・サピエンスの特命大使は、最初の接触≠ェ、かれの存在にはまったく無関心に、すたすたとラーマの平原のかなたへ歩み去ってゆくのを見送った。これまでの人生でもめったに味わったことがないほどの屈辱だった。だが、ジミーの持ち前のユーモアのセンスが、この急場を凌いでくれた。  まあ、生きたゴミ集めのトラックに無視されたと思えば、あまり腹も立たない。長いこと生き別れだった兄弟にめぐり会ったようにあいさつされたら、それこそ一大事……。  ジミーはコペルニクスの縁に引きかえして、その不透明な水面をのぞきこんだ。はじめてかれは、そこにおぼろげな姿が──なかにはかなり大きいものもある──水面の下をゆっくりと行きつ戻りつ動いているのに気がついた。まもなくその一つが、最寄りの螺旋斜路へと向かった。やがて長い上昇にとりかかったのは、多数の脚を持ったタンクのような代物だった。あのスピードなら、地上へたどりつくまでには一時間近くかかるだろう、とジミーは判断した。かりにその相手が危険だとしても、ひどく動きのにぶい危険だった。  つぎに目をひいたのは、それよりはるかに素早い、ちらちらした動きだった。場所は、喫水線のそばにある洞穴に似た入口の近く。何かが非常な速さで斜路を登ってくるのだが、かれははっきりとそれに目の焦点を合わせられなかったし、また、その形を見きわめることもできなかった。ちょうど、人間ぐらいのサイズの小さなつむじ風か、竜巻を見ているようだ……。  ジミーは目をしばたたき、頭をふり、数秒間じっと目を閉じた。もう一度目を開けたとき、妖怪は消えていた。  たぶん墜落の衝撃が思ったよりも神経にこたえているのだろう。幻覚を見たなどということは生まれてはじめての経験だ。こんなことは、〈軸端司令部〉にも恥ずかしくていえやしない。  最初ちょっと考えた斜路の探険は、わざわざやってみる気にはならなかった。エネルギーの浪費にきまっている。  かれが見たような錯覚をおこしたあの旋回する幻は、この決定とはなんの関係もない。  まったくなんの関係もない。  なぜなら、ジミーはもちろん幽霊の存在など信じていなかったからだ。 [#改ページ]      30 花  動きまわりすぎて、ジミーはのどが渇いていた。それとともにかれは、この陸地のどこにも人間が飲める水はないという事実を、痛いほど認識した。水筒の中身だけで、おそらく一週間は生きのびられるだろう──だが、なんのために?  地球最高の頭脳の持ち主たちが、まもなくかれの問題に能力を集中してくれるだろう。ノートン中佐のところへ、いろいろな助言が殺到することは、まちがいない。しかし、どう考えても、あの半キロの高さの断崖の表面を伝い降りる方法があるとは思えなかった。かりに充分な長さのロープが手もとにあったとしても、その端を固定できる場所がどこにもないのだ。  とはいうものの、なんの努力もせずに、はなから諦めてしまうのは愚かであり、それに男らしくもない。もし救助の手がさしのべられるとすれば、それは〈海〉からだろうし、そっちへ向かって進んでいるあいだは、まるで何ごともなかったように、自分の仕事をつづければいいのだ。  これからかれが通りぬけなくてはならない複雑な地形は、ほかのだれにも観察や撮影のできないものであり、それだけでも、かれの死後の名声は保証されている。かれとしては、なろうことなら、もっとほかの栄誉を選びたいけれども、まったくないよりはまLだった。  あわれなドラゴンフライ号が健在なら、〈海〉までの距離はほんの三キロにすぎないが、一直線にそこへたどりつける見込みはなさそうだった。行く手の地形にどうにも越えられない障害が存在する可能性は多分にある。しかし、それに代るルートもたくさんあるので、問題はなかった。ジミーは、巨大な彎曲した地図が自分の両側に遠く高くせりあがっているような感じなので、そのすべてを一望のもとに見ることができるのだ。  時間はたっぷりある。多少直線コースからそれても、いちばんおもしろそうな景色から始めようと、かれは考えた。  約一キロ右手に、カットグラスのようにきらきら輝く正方形が見えた──いや、とほうもなく巨大な宝石陳列場のようにだろうか。たぶんその考えが、ジミーの足をそっちに向かわせたのだろう。いくら死を前にした人間でも、数千平方メートルの宝石の園にちょっとした興味を惹かれるのは、人情というものである。  それが、砂の床の上いちめんに敷きつめられた、何百万、何千万もの石英の結晶であることがわかっても、かれはそれほど失望しなかった。その隣りの碁盤目は、さらにいっそう興味深かった。一メートルたらずのものから、五メートルあまりのものまで、高さのまちまちな金属製の中空の円柱が、一見でたらめなパターンでぎっしりと寄りそい、あたり一帯を覆いつくしている。通過はまったく不可能だった。あの円柱の森を強引に押しつぶして進めるのは、戦車だけだろう。  ジミーは結晶と円柱の境い目を歩いて、最初の十字路にさしかかった。右側の正方形は、針金を編んで作った巨大な敷物だ。かれは針金の一本を抜きとろうとしたが、どうやっても折れなかった。左側は、六角タイルのモザイク模様で、つなぎ目がまったく見えないほど滑らかに嵌めこまれていた。もしタイルが虹の各色に染め分けられていなければ、一枚の連続した表面に見えたかもしれない。ジミーはたっぷり暇をかけて、どこかに同色のタイルが隣り合わせに並んでいないだろうか、そうすれば境界が見分けられるのではないかと見渡したが、そんな例はどこにも見つからなかった。  十字路の全周に向かって、カメラをゆっくりパンさせながら、かれは悲しげに〈軸端司令部〉にたずねた。 「これをなんだと思う? とほうもなくでっかいはめ絵パズルの中へ、閉じこめられたような気分だ。それとも、これはラーマ人の画廊なのかなあ?」 「こっちも、さっぱり見当のつかんことではきみ同様だよ、ジミー。しかし、いままでのところ、ラーマ人の美術趣味を示すような根拠は一つもない。結論に飛躍しないで、もうすこし実例が集まるまで待とうじゃないか」  ジミーが次の十字路で見つけた二つの実例も、あまり助けにはならなかった。一つは、完全な空白だった──滑らかな、濃くも淡くもない灰色で、さわってみた感じは堅いが、油を塗ったようによく滑る。もう一つは、何倍何十億もの微細な小孔のあいたスポンジだった。片足をその上に乗せてみると、全表面が、ほとんど安定性のない流砂のように、足の下で気味わるく披うった。  その次の十字路では、驚くほど耕地と似かよったものに出くわした──ただし、どの畝《うね》も一メートルの深さに整然と揃っており、それを形成している材料は、やすりのような感触をもっていた。だが、そんなことはこのさいかれにとってどうでもよかった──というのは、その隣りの碁盤目が、これまで出くわしたどれよりも、思考を刺激したからである。  ついに、かれにも理解できるものが現われたのだ。しかも、それは少なからず不安をかきたてるものだった。  その碁盤目ぜんたいが、柵にとりかこまれていた。もし地球でそれを見かけたとしても、ふりかえって見る気もおきないだろうほどの、ごく平凡な柵である。どうやら金属製らしい柱が五メートルおきに並び、そのあいだに六本の針金がぴんと張られている。  その柵の内側には、第二の、まったく同一の柵があり──そしてその内側には、第三の柵があった。これもラーマの重複性《リダンダンシー》の典型的な一例だ。この囲いのなかに入れられたが最後、どんな獣でも逃げるのは不可能だろう。そこには出入口がない──囲いのなかへ入れるべき獣を追いこむために開く門が、どこにもないのだ。そのかわり、方形の真んなかに、ちょうどコペルニクスの小型版のような穴が、一つあいている。  これが違った状況のもとであったとしても、おそらくジミーはためらわなかったろう。しかも、いまのかれには失うべき何物もないのだ。かれはすばやく三つの柵を乗り越えると、穴に近づいて、中をのぞきこんだ。  コペルニクスとは違って、この井戸の深さは五十メートルぐらいしかなかった。底にはトンネルへの入口が三つあり、どれも象がすっぽりはいれるほど大きい。あるのはそれだけだ。  しばらくそれを見つめてから、ジミーはこう判断をくだした。  もしこの設備に何かの意味があるとしたら、あの底の床はエレベーターでなくてはならない。  しかし、そのエレベーターが何[#「何」に傍点]を乗せて上り下りするものかは、とうていわかりそうもなかった。ただ推測できるのは、それがきわめて大きい、したがって、たぶんきわめて危険なものではないか、ということだけだ。  それからの数時間、ジミーは〈海〉の縁にそって十キロあまりも歩いた。そして、さまざまな碁盤目は、かれの記憶のなかでもうろうと混じりあいはじめた。まるで巨大な鳥籠のように、テントに似た金網ですっぽりと覆われている方形もあった。また、一面に渦巻パターンの散らばった、凝固した液体の池を思わせるものもあった。しかし、そっとさわってみると、堅い手ごたえが返ってきた。それからまた、あまりにも完全な漆黒で、はっきりと見ることさえできないものもあった。触感だけが、そこに何かが存在していることを告げてくれた。  だが、いまやそこには微妙な変化がおこって、かれの理解できるような何物かが現われはじめたようだった。南に向かって順々につづいているのは一連の──ほかの言葉では言い表わせない──畑だった。まるで地球の実験農場を歩いているような感じなのだ。どの方形も、みごとに均《なら》された、滑らかな土の広がりであり、それはかれがラーマの金属的な風景の中で、はじめて目にした土だった。  巨大な一連の畑は、処女地で、生命がなかった──まだ一度も植えられたことのない作物を、待ちうけているようだった。  ジミーは、その目的はなんだろうかといぶかしんだ。ラーマ人のような高等生物が、どんな形にしろ、農業に従事するとは信じられなかったからである。地球でさえ、畑作りは人気のある趣味、エキゾティックで贅沢な食料の供給源でしかない。しかし、これらが丹念に準備された将来の農場であることについては、かれは誓ってもよいほどの確信があった。それにしても、こんなに清潔な感じの土は、見たことがない。どの碁盤目も、丈夫で透明な、一枚つづきの大きいプラスチックのシートで覆われていた。かれは土の標本を手に入れたさに、シートに穴をあけようとしたが、ナイフでは表面にひっかき傷さえつかなかった。  もっと内陸部には別の畑が並んでいて、その多くには、どうやら蔓性植物の支柱と思われる、金属棒と針金でできた複雑な構築物があった。それらは真冬の枯木のように、さむざむとしてわびしく見えた。これらの畑が経験した冬は、長い長い極寒だったにちがいない。そして、ここ数週間の光と温かさは、つぎの冬の訪れに先立つ短い幕間にすぎないのかもしれない。  ジミーの足をとめて、南へ向かってつづく金属の迷宮にじっと目を凝らすようにしむけたものがなんであったか、それは当の本人にもわからなかった。無意識に、かれの心は周囲のあらゆる細部をチェックしていたにちがいない。そして、この幻想的なまでに異質の風景のなかで、さらにいっそう異常な何ものかを見出したのだ。  約四分の一キロかなた、針金と棒でできた蔓棚の真中に、ぽつんと一つ、点のような色彩が輝いている。それはほとんど見分けられないほど小さく、そして目立たなかった。地球上にそれがあったとしても、だれもふりかえりもしないだろう。とはいえ、かれがそれに気づいた一つの理由は、まぎれもなく、それが地球のことを連想させたからだった……。  ジミーは、それにまちがいのないことがわかり、自分が期待願望にたぶらかされたのでないことがはっきりするまで、〈軸端司令部〉には報告を見合わせることにした。あと何メートルかという距離まで近づいたとき、ようやくかれは、自分の知っている形の生命が、この不毛で無菌のラーマの世界に侵入していたことに、完全な確信をもつことができた。  なぜなら、この〈南方大陸〉の縁近くで孤独にけんらんと咲いているのは、一輪の花だったからだ。  さらにそばへ寄るにつれ、ジミーの目にも、どこがどう狂ったのかがはっきりしてきた。この土の層を好ましくない生物の汚染から守っているらしい被覆物に、穴が一つあいている。そして、この綻びをくぐって、おとなの小指ほどの太さの緑の茎が上に伸び、支柱に絡みつきながら這い登っているのだった。地上約一メートルのところで、それは青味がかった葉を濃く茂らせていた。その葉むらは、ジミーが知っているどんな植物よりも、鳥の羽毛に近い形をしている。茎は目の高さで終わり、そこに、かれが最初一輪の花だと思ったものがついていた。いま、それがじつは固く密着した三つの花であることがわかっても、かれはなんの驚きも感じなかった。  花びらは、約五センチの長さの、鮮やかな色をしたチューヴだった。すくなくとも五十のそれが寄りあっまって一輪の花をかたちづくっており、おそろしく金属質の青や、董色や、緑色にぎらぎら輝いているので、植物界に属するものというよりは、むしろ喋の羽根を思わせた。ジミーは植物学についてはまるで素人だったが、それでも雄しべや雌しべに似た器官が影もかたちもないのには、首をかしげた。  ひょっとすると、地球の花に似ているのはまったくの偶然ではないか、という気もした。おそらくさんご虫のポリプに近いものなのかもしれない。いずれにせよ、これは受精の媒介者か、または食物として役だつ、小飛行生物の存在を暗示しているようだ。  それはたいした問題ではなかった。科学的定義がなんであれ、ジミーにとって、これは花だった。この不可思議な奇跡、この非ラーマ的な寄現象、この花の存在は、かれが二度と見ることがないだろうすべてのものを思いださせた。  どうあってもそれを手に入れようと、かれは決意した。  しかし、ことはそう簡単ではなかった。目標は、細い金属棒を組んだ格子細工に隔てられて、十メートルのかなたにある。格子細工は、一辺四十センチの立方形のパターンを、何重にも反復したものだ。もともとジミーはスカイバイクに乗るだけあって、痩せぎすのひきしまった体つきなので、その格子細工のすきまからもぐりこむ自信はあった。しかし、もう一度外へくぐり出るのは、別の問題かもしれない。中で向きを変えるのは不可能にきまっているから、そのままうしろ向きに出てこなくてはならない。  ジミーが花のことを説明し、あらゆる可能な角度からカメラをそれに向けると、〈軸端司令部〉もこの発見に大喜びだった。ジミーが、「いまからあれを取りにいく」と宣言しても、反対はなかった。かれも、反対のあるはずはないと思っていた。かれの生命はいまやかれ自身のものであり、なにをしようと勝手なのだ。  かれは衣服をすっかり脱ぎすて、すべすべした金属の棒を両手でつかむと、枠組の中へ体をくねらせはじめた。おそろしく窮屈だ。かれは、監房の鉄格子をすりぬけて脱出しようとしている囚人の心境だった。格子細工の中へ全身がすっぽり入ったとき、ひょっとして不都合があってはいけないので、うしろ向きに外へ出られるかどうかを試してみた。これは、まえに伸ばした両腕で引っぱるかわりに押さなくてはならないので、前進よりもはるかにむずかしかったが、中へはいったきり、袋のネズミになってしまうおそれはないように思われた。  ジミーは行動と衝動の男で、内省とは縁がない。棒と棒のすきまの狭い通路を苦労して這いくぐるあいだも、かれはなぜ自分がこれほどにもドン・キホーテ的な芸当を演じているのかを自問して、時間をむだにしたりはしなかった。これまでの生涯を通じて、ただの一度も花などに興味を持ったことのないかれだったが、いま、たった一輪の花をとるために、最後のエネルギーを賭けているのだ。  この標本がユニークで、非常な科学的価値があることは確かである。しかし、かれが欲しがる真の理由は、それが生命の世界との、そしてかれが生まれた惑星との、最後のつながりであるからだった。  にもかかわらず、その花に手のとどくところまできたとき、かれは突然気のとがめを感じた。  ひょっとすると、これは全ラーマでただ一つ育った花かもしれない。いったい、かれにそれを摘む権利があるのだろうか?  もしかれに言いわけが必要なら、ラーマ人自身もこの花を計画のうちには含めていなかったのだと考えて、自分を慰めることができただろう。明らかにこの花は、幾時代も遅すぎて──あるいは早すぎて──生まれてきた、変り種なのだから。  でも、かれはべつに言いわけを必要としていなかったし、ためらいもほんの一瞬のものだった。かれは手をのばし、茎をつかみ、ぐいと引っぱった。  花はやすやすと手折ることができた。かれはついでに、葉も二枚摘みとり、それから格子細工の中をゆっくりとあとずさりしはじめた。こんどは片手しか自由に使えないので、後退はきわめてむずかしく、苦しくさえあった。まもなく、かれは息をととのえるためにひと休みしなければならなかった。  羽毛に似た葉むらがしぼみかかり、首を失った茎がゆっくりと支柱からほぐれはじめたのに気がついたのは、そのときだった。魅惑と不安とのいり混じった気持で見守るうちに、植物ぜんたいが、まるで致命傷をうけた蛇が穴の中へ這いもどるように、少しずつ地中へひっこんでいった。  おれは美しいなにものかを殺してしまった、とジミーは自分にいい聞かせた。しかし、それも、もとはとはといえばラーマがかれを殺したからだ。  かれとしては、当然受けるべき報酬を手に入れただけのことだった。 [#改ページ]      31 終 端 速 度  ノートン中佐はまだ一度も部下を失った経験がなかったし、またそんな経験をしたいとも思わなかった。  ジミーが〈南極〉に向けて出発する以前から、すでに中佐は、万一の場合の救助方法をあれこれ考えていた。だが、その間題はあまりにもむずかしく、ちょっと解答が見つかりそうもなかった。これまでにかれがなんとかやってのけたのは、あらゆる見えすいた解決法を消去することだけだった。  どうすれば、半キロの高さの垂直な絶壁をよじ登れるというのだ、いくら弱い重力下といっても?  もちろん、適当な装具を──それに訓練を──もってすれば、登攀は簡単だろう。しかし、エンデヴァー号には一挺のピトン銃もなかったし、またそれ以外に、あの堅い、鏡のような壁面に、登攀に必要な数百本ものスパイクを打ちこめる現実的な方法は、だれも思いつけなかった。  ノートン中佐は、もっと風変りな解決法にもいちおう目を通してはみた。そのうちのあるものは、はっきりいって気ちがいざただった。ひょっとして、シンプの手足に吸盤をつければ、あの絶壁をよじ登れるのではないか、というようなたぐいだ。だが、かりにこのアイデアに実現性があるとしても、そうした装具の製作とテストに──そしてシンプにそれを使う練習をさせるのに──どれだけの時間がかかるだろう? そんな離れわざを演じてみせるだけの体力をもった人間がいるとは思えなかった。  つぎに考えられるのは、もっと高度のテクノロジーである。船外活動《EVA》用の噴射装置を使うというのも一つの手だが、これは無重力での操作を頭において設計されているので、推力が弱すぎる。いくらラーマの低い重力の中でも、人間ひとりの体重をもちあげることさえできないだろう。  船外活動《EVA》用の噴射装置に救助ロープだけをもたせて、自動制御で上へ送りこむことはできないだろうか?   かれはこの案をマイロン軍曹にはかってみたのだが、相手の返事はむざんにも希望をうち砕くものだった。まずそれには、重大な安定性の問題がつきまとう、とこの技術下士官は指摘した。かりに解決できるとしても、それには長い時間が必要だろう──限度をはるかに越えた長い時間が。  では、気球はどうか?  これにはわずかだが可能性がありそうに思えた。もし、気嚢の外皮と、十分に小型の熱源が考案できればの話である。ノートンも、まだこのアイデアだけは捨て去っていたかったのだが、ここへきてその難問は突然、理論上のものではなくなり、すべての居住世界でトップ・ニュースに扱われる生死の問題となった。  ジミーが〈海〉べり沿いに苦しい徒歩旅行をつづけているころ、太陽系に住む頭のいかれた連中の半数が、かれを救おうとやっきになっていた。かれらのよこす提案のすべては、〈艦隊司令部〉でいちおうふるいにかけられ、そのなかのほぼ千に一つが、エンデヴァー号へと転送された。  カーライル・ペレラ博士の提案は、二度重複してとどいた──一度は〈調査局《ザーヴェイ》〉自身のネットワーク経由で、そしてもう一度は、〈惑星通信社《プラネットコム》〉のラーマ最優先連絡を使って。ペレラ博士はこの提案に、約五分間の思考と、一ミリ秒のコンピューター時間をついやしただけだった。  最初、ノートン中佐は、それをきわめて悪趣味な冗談だと受けとった。だが、そのあとで発信人の氏名と、いっしょに添えられた計算に気がつき、はっと電文を見なおした。  かれはその電報をカール・マーサーに手わたした。 「これをどう思う?」と、かれはできるだけさりげない口調でたずねた。  カールはすばやくそれを一読してからいった。 「いや、こりゃまいった! もちろん、かれのいうとおりだ」 「確かかね?」 「かれは暴風の一件でも正しかったじゃないか、そうだろう? これぐらいのことは、おれたちも考えついてしかるべきだった。なんだか自分が間ぬけに思えてしかたがないよ」 「ここにお仲間がいるさ。次の間題はだ──どうやってそいつをジミーに打ち明ける?」 「打ち明けるべきじゃないだろうな……ぎりぎり最後の瞬間まで。もし、おれがかれの立場なら、そのほうがありがたいね。おれたちが救助に向かってると、それだけ教えとけばいい」  いまいる場所からは〈円筒海〉が隅から隅まで見渡せるし、またレゾリューション号のやってくるだいたいの方角も知っていたのだが、ジミーがその小さいいかだ[#「いかだ」に傍点]を発見したのは、それが〈ニューヨーク〉を通りすぎてからだった。そこに六人の人間が──それと、かれを救出するために持ってきた備品が──乗っているとは、とても信じられないぐらいだった。  いかだ[#「いかだ」に傍点]が一キロまで近づいたとき、ジミーはノートン中佐の姿を認めて、手を振りはじめた。まもなく、艦長《スキッパー》のほうもかれに気がついて、手を振ってよこした。 「きみが元気なのを知ってうれしいよ、ジミー」と、艦長《スキッパー》は無電で語りかけた。「私はまえに約束した──われわれは絶対にきみを見捨てない、と。さあ、これで私を信じるか?」  いや、まだ完全には──と、ジミーは思った。ことここに至ってもまだジミーは、これはみんなかれの士気をたもたせるための、思いやりのあるはからいではないかと、疑っていたのである。しかし、さよならをいうだけなら、中佐はわざわざ〈海〉を渡ってきはしないだろう。なにか成算[#「成算」に傍点]があるからにちがいない。 「信じますよ、艦長《スキッパー》」かれはいった。「そちらのデッキまで降りられたらね。さあ、どうやればそこまで行けるのか、教えてくれませんか?」  レゾリューション号は、いまや断崖のすそから百メートルの沖で、速度を落しつつあった。ジミーの見たかぎりでは、特別な備品はなにも積んでいないように見えた──もっとも、かれ自身何をそこに見つけるつもりだったのかは、はっきりしないのだが。 「あいにくだがな、ジミー──きみにはあんまりあれこれ心配をさせたくないんだよ」  なんとなく不気味ないいかた[#「いいかた」に傍点]である。  いったい、いまのはどういう意味だろう?  レゾリューション号は、沖あい五十メートル、眼下五百メートルの位置に停止した。ジミーは、マイクに向かって話している中佐を、鳥観図のように見おろすことができた。 「では始めるぞ、ジミー。この方法なら、きみはまったく安全だが、ちょいと度胸がいる。きみにその度胸がたっぷりあることはわかっている。いいか、きみはそこから飛び降りる[#「きみはそこから飛び降りる」に傍点]んだ」 「五百メートルも!」 「そうだ。だが、重力はわずか〇・五Gだ」 「なるほど──あなたは地球で二百五十メートル飛び降りたことがあるんですか?」 「だまれ。さもないと、次の休暇を取り消すぞ。こんなことぐらいは、きみもその頭で考えつくべきだったんだ……たんなる終端速度の問題なんだからな。この大気中では、どこまで落ちても時速九十キロ以上にはならない──二百メートルの落下でも、二千メートルの落下でも、おなじことだ。九十キロは快適というにはちょいときついが、いくらかそいつを減らす手はある。これからきみのやるべきことを教えるから、注意してよく聞け……」 「そうしますよ。よほどの名案でないと困りますがね」  ジミーはそれっきり二度と中佐の話をさえぎろうとはせず、ノートンが話しおわっても感想を述べなかった。  うん、たしかに筋は通っている。しかも、あきれるほど簡単だ。  こんなアイデアは、天才でなければ思いつかないだろう。それと、おそらく、自分ではそんなことをせずにすむ人間でなくては……。  ジミーは高飛びこみの経験がなかったし、スカイダイヴィングも試みたことはなかった。そんな経験があれば、この曲芸に対していくらか心理的に楽だったにちがいない。深淵の上に渡した一枚板のところへだれかを連れていって、あの上を歩いても絶対安全だと教えることはたやすい。しかし、かりに構造計算が非のうちどころのないものであっても、いわれた本人はやはり二の足を踏むだろう。  いまにしてジミーは、なぜ中佐がこの救出作戦の細部について言葉を濁していたのか理解できた。かれに思案する時間を、あるいは反論を思いつく時間を、あたえないためだったのだ。 「きみを急《せ》かしたくはない」ノートンの説得力のある声が、半キロ下からとどいた。「だが、早ければ早いほどいいんだ」  ジミーはかれの貴重なおみやげ、ラーマ唯一の花をみつめた。それを汚れたハンカチで丁寧に包み、上を結ぶと、断崖の縁からかるく投げ落した。  それはかれを勇気づけるようなゆっくりしたスピードで、ひらひらと落ちていったが、おかげでずいぶんひまもかかり、少しずつ小さく、小さくなっていき、ついに見えなくなった。だが、そのときレゾリューション号が前進を始めたので、むこうがそれを見つけてくれたことはわかった。 「美しい!」と、中佐が熱を帯びた声でさけんだ。「きっとこの花には、きみにちなんだ名がつくだろう。オーケイ──待っているぞ……」  ジミーはシャツを──いまではすっかり熱帯的になったこの気候では、これが唯一の上着だった──脱ぎすてると、考えぶかげにそれを広げた。徒歩旅行の最中に、何度これを捨ててしまおうと思ったことか。いまそのシャツが、かれの生命を救う手助けをしてくれるかもしれないのだ。  最後の見おさめに、ジミーはかれだけが探険した空洞世界と、遠い不気味な〈ビック・ホーン〉と〈リトル・ホーン〉の尖塔を、ふりかえった。それから、右手でシャツをしっかりとつかんで、助走をつけ、できるだけ断崖の縁から外へ飛びだした。  さて、もうこうなったからには、べつにあわてる必要はない。たっぷり二十秒間、この経験を満喫できるのだ。しかし、風が周囲で強まりだし、レゾリューション号がゆっくりと視野の中で大きくなってくるのを感じながら、かれは一瞬の時間もむだにしなかった。  シャツを両手でもち、両腕を頭上に伸ばして、布地が吹きつのる風をいっぱいにはらみ、中空のチューヴになるようにした。  パラシュートとしては、あまり成功とはいえなかった。落下のスピードが時速にして数キロ弱まるのはありがたいが、それほど重要ではない。このシャツにはもっと大切な役目がある──かれがすぱっと一直線に海中へ突っこめるように、体を垂直にたもっておく役目だ。  依然として自分の体はまるきり動いていない印象だったが、下を見ると海面がぐんぐんせりあがってくる。いったん行動をおこしてからは、なんの恐怖感もなかった。それどころか、自分をつんぼ桟敷においた艦長《スキッパー》に対して、ある種の憤慨さえ感じていた。  もし長いあいだ思案するひまがあったら、おれが怖がって飛び降りなくなると、いったい艦長《スキッパー》は本気で考えていたのだろうか?  最後の瞬間に、ジミーはシャツを離し、大きく息を吸いこみ、口と鼻を両手で押えた。教えられたように全身をピンと一本の棒のようにつっぱり、しっかりと股を閉じた。  落下する槍のように、きれいに着水するのだ……。  さっき中佐は約束した。 「地球の上で飛びこみ台から足を踏み出すのとおなじだよ。なにも問題はない──着水さえ、うまくやればね」 「で、もしうまくいかなかったら?」と、かれは訊ねたものだ。 「そのときは、またひきかえしてやりなおすさ」  何かが両足をばしっと打った──強い打撃だが、そうひどくはない。無数のぬらぬらした手が、かれの体をかきむしった。ごうごうと耳鳴りがし、圧力が高まる──両眼をしっかり閉じていてさえ、〈円筒海〉の深みへ一直線に潜ってゆくにつれて、闇がしだいに濃くなるのがわかった。  全力をふるって、かれは薄れゆく光のほうへと泳ぎ昇りはじめた。目を開けられたのは、ほんの一まばたきのあいだだけだった。そのとたんに、有毒な海水がまるで酸のように目にしみた。  もう無限の時間、水と戦っているように思え、ひょっとすると方向感を失ってじつは下向きに泳いでいるのではないかという、悪夢のような不安が一度ならずおそってきた。そこで、またもやほんの一瞬、目を開くのだが、そのたびに光は強くなってくる。  水面を割って顔を出したとき、かれはまだしっかりと目をつむったままだった。待ちこがれた空気を口いっぱい呑みこみ、体を横転させて仰向けに浮くと、あたりを見まわした。  エンデヴァー号が全速力でかれに向かってくるところだった。何秒かのちには、力強い手が体をつかんで、船上へ引きあげてくれた。 「水を飲まなかったか?」中佐は心配そうに訊いた。 「飲んでないと思います」 「とにかく、これで口をすすげ。よくやった。気分はどうだ?」 「まだよくわかりません。一分ほど待ってください。ああ、そうだ……どうもありがとう、みなさん」  その一分がまだすっかりたたないうちに、ジミーは自分がどんな気分かを、あまりにもはっきりと思い知らされた。 「どうも酔いそうなんです」かれはみじめな気分で告白した。  救助者たちは、信じられないという顔つきをした。 「こんな死んだように静かな──平らな海の上で船酔い?」  バーンズ軍曹はジミーの訴えを、彼女の運転技術の未熟さの現われ、と受けとったようだった。 「私なら、この海を平ら[#「平ら」に傍点]とはいわんな」  中佐が、空を帯のように一周している海に向かって、腕をぐるりとまわした。 「恥じいることはない──ひょっとして、きみはあの海水をいくらか飲んでいるのかもしれん。できるだけ早く吐きだしてしまえ」  ジミーが、まだ英雄には似つかわしくない姿で、出ないものをむりに出そうと苦労しているとき、だしぬけに、かれらの背後の空で閃光が走った。一同の目が〈南極〉をふりむき、ジミーもつかのま吐き気を忘れた。  大小の〈ホーン〉が、またもや花火ショウを始めたのだ。  一キロもの長さの炎の流れが、中央尖塔からその小さい同類に向かって踊りまわった。ふたたび炎の流れは、まるで目に見えない踊り子たちが電気の五月柱《メイ・ポール》(メーデーの日に花とリボンで飾りたて、周囲で踊る柱)にリボンを巻きつけてでもいるように、荘重な回転をはじめた。しかし、こんどはその回転がしだいしだいに速さを増し、ついには一つにぼやけて、明滅する光の円錐と化した。  それは、このラーマでいままでに見た何ものよりも畏怖をそそる眺めであるばかりでなく、同時にバリバリとはり裂けるような遠い雷鳴をともなって、圧倒的な力の印象をいっそう強めた。  華々しいエネルギーのデモンストレーションは、約五分間つづいた。それから、だれかがスイッチを切りでもしたように、突然ぱったりとやんだ。 「〈ラーマ委員会〉があれ[#「あれ」に傍点]をどう解決するか、知りたいもんだな」ノートンはだれにともなくつぶやいた。「だれかいい説明はないか?」  それに答える時間はあたえられなかった。ちょうどその瞬間に、〈軸端司令部〉からひどく興奮した呼出しがかかったからである。 「レゾリューション号! だいじょうぶか? あれを感じたか?」 「感じたかって、なにを[#「なにを」に傍点]?」 「地震だと思います──あの花火がやんだ直後に起きたにちがいない」 「損害は?」 「ないようです。それほど強烈じゃなかった──ちょいとびっくりしましたがね」 「こっちでは何も感じなかった。もっとも、感じるはずはない。〈海〉の上だからな」 「もちろんです。われながら間ぬけでした。とにかく、いまは万事おさまったようですよ……次回までは」 「うん、次回まではな」ノートンはおうむ返しにいった。  ラーマの謎は、どんどん大きくなるいっぽうだ。発見がふえるにつれて、ますますこの世界は理解しにくいものになっていく。  だしぬけに、舵輪のほうから叫びがあがった。 「艦長《スキッパー》──見て──空のあそこ!」  ノートンは目を上げて、すばやく〈海〉の全周を見まわそうとした。視線がほぼ天頂に達するまでは何も見えなかったが、次の瞬間、かれの目は、空の反対側に釘づけになった。 「なんてこった」  ゆっくりつぶやきながら、かれは次回≠ェすでにすぐそこまで来ていることをさとった。 〈円筒海〉の永遠の彎曲にそって、高潮がかれらのほうへと押しよせつつあった。 [#改ページ]      32 波  そんなショックを受けた瞬間にも、ノートンがまず心配したのは艦のことだった。 「エンデヴァー号!」と、かれは呼んだ。「状況を報告しろ!」 「何も異状ありません、艦長《スキッパー》」というたのもしい返事が副長から戻ってきた。「ちょっと震動は感じましたが、被害を受けるほどのものではありません。船体の向きが少し変化しましたが──〇・二度ぐらい傾いたとブリッジはいっています。ラーマの回転速度もいくらか変化したのではないかとのことです──正確な数値を出すにはあと二、三分かかります」  それではいよいよ始まったんだな、とノートンは考えた。思っていたよりもずっと早い、近日点までまだだいぶあるし、理論的にも軌道を変えるには早すぎる。しかし、ある種の軌道調整が行なわれたことは疑いようもない──もっと驚くようなことがどんどんおこるかもしれないぞ。  そのあいだにも、この最初の震動の影響は、いまにも落ちてきそうに見える頭上の〈円筒海〉に明らかに表われていた。波はまだ十キロほど向こうだが、〈円筒海〉の北岸から南岸までいっぱいに広がっている。岸に近いところでは泡だつ白い壁のようだが、水深のあるところではやっと目につくぐらいの青い線で、両側に砕け散っている部分よりずっと早く動いている。岸辺の浅い部分にひきずられて、波はすでに弓なりにそりはじめ、中央の部分だけが、先へ先へと進んでいるのだ。 「軍曹」と、ノートンは切迫した口調でいった。「これはきみ[#「きみ」に傍点]の役割だ。どうすればいい?」  バーンズ軍曹はいかだ[#「いかだ」に傍点]を完全に停止させると、一心に状況を検討しはじめた。その彼女の表情を見てノートンは大いに安心した。怯えの色は少しもない──ちょうど熟練した競技者が挑戦を受けて立つときのような、ある種の熱情を感じさせる興奮が、その表情にうかがえた。 「水深測定ができればいいのですが」と、彼女はいった。「充分な水深のあるところにいれば、何も心配することはありません」 「それなら大丈夫だ。われわれは岸からまだ四キロも離れている」 「そうですね。でも、きちんと確かめておきたいわ」  彼女はふたたびエンジンを動かすと、レゾリューション号をまわして、近づいてくる波にまっすぐ舳先が向くようにした。ノートンは、かなりのスピードで進んでくる波の中央部分が、かれらの場所に達するまであと五分とないとふんだが、その波もとくに危険なものにはなりえないとも思うようになっていた。  たかだか一メートルの何分の一しか高さのない波が押しよせてきたところで、船はろくに揺れもしないだろう。問題はそのはるか後から遅れてくる泡の壁で、それこそ本当の脅威なのだ。  突然、〈海〉のまっただなかに砕け波の帯が現われた。水面からわずか下に隠れていた長さ数キロにおよぶ壁に、波がぶち当ったのだ。同時に両側の砕け波は、深みへさしかかったように衰えていく。  抑波板だな、とノートンは思った……エンデヴァー号の燃料タンクにも同じものがある、もっともこれはその何千倍のスケールだが。波をできるだけ早く散らせおさえるために、〈円筒海〉中に複雑なパターンの壁が作られているにちがいない。たったいま注意しなければならないのはそれだ、われわれはその壁の真上にいるんじゃないか?  バーンズ軍曹のほうがかれよりワンテンポ早かった。レゾリューション号を急停止させると、すぐさま錨を放りこんだ。たった五メートルでそれは底についてしまった。 「錨を上げて!」と、彼女は乗組員に命令した。「ここから離れるのよ!」  ノートンも心底からそう思った。  だが、どっちの方向へ進めばいいのだ?  軍曹は船をフルスピードで、もうたった五キロの近さに迫っている波に向けて[#「向けて」に傍点]突進させた。いまはじめて、近づく波の音が聞えてきた──まさかラーマの内部で聞こうとは思いもよらなかった、遠くかすかな、だが、まごうかたなき轟音が。そのとき、音の強さが変化した。中央部分がふたたびおさまり──かわって両側がまたもや盛りあがりはじめたのだ。  かれは水中の抑波壁《バッフル》が等間隔で配置されているものと仮定して、その間隔がどれほどか見当をつけようとした。もしかれの考えが正しければ、ここまでにもう一つあるにちがいない。このいかだ[#「いかだ」に傍点]をその壁と壁の中間の深みの部分にもっていけさえすれば、かれらは安全だ。  バーンズ軍曹はエンジンを切ると、また錨を放りだした。それはするすると三十メートル沈んでいった。 「もう大丈夫よ」ほっと一息ついて、彼女はいった。「でも、エンジンは動かしておくわ」  いまは岸に沿って遅れてくる泡の壁が見えるだけだった。〈海〉の中央部はふたたび静まりかえり、ただほとんど目にもとまらない小波の青い線が、かれらに向かって進んでくるだけだ。軍曹は前方の撹乱にレゾリューション号をまっすぐ向けて、いざというときにはすぐ全速運転ができるように身がまえている。  そのとき、わずか二キロ前方で、海はふたたび泡だちはじめた。猛り狂ったような白い泡のたてがみがぐうっと盛りあがり、いまやその轟音が全世界を震わせているように思えた。〈円筒海〉の十六キロの高みから駆けくだってくるほんの小さなさざ波は、さながら山の斜面を吼えくだる雪崩《なだれ》のように思われた。ちょっとしたさざ波とはいえ、かれらを殺すには充分すぎるほど巨大なのだ。  バーンズ軍曹は乗組員たちの顔つきを見たにちがいない。轟音に負けじと彼女は大声をはりあげた。 「みんな何を怖がってるの? もっと大きな波を乗りきったこともあるわ」  それはまるっきり事実というわけではなかった。以前の体験のさいには、造りのいい波乗り専用の船に乗っていたので、間に合わせのいかだ[#「いかだ」に傍点]ではなかったのだが、それはあえて口にはしなかった。 「万一、飛び出さなければ[#「なければ」に傍点]ならなくなっても、わたしの命令があるまで待つこと。救命胴衣を点検するように」  彼女はじつに堂々としている、まるで闘いに臨むヴァイキングの戦士のように、一瞬一瞬を楽しんでいる、と中佐は思った。それに、彼女はおそらく正しいのだ──われわれがまるで見当ちがいをおかしていなければだが。  波はいよいよ高く、のしかかるように大きくなってきた。たぶん頭上の彎曲がことさらその高さを誇張しているのだろうが、とにかくそれはとほうもなく巨大で──その行く手にあるものをすべて沈めつくす、あらがうすべなき自然の力そのものという感じだった。  そのとき、ほんの数秒で、波は土台を急に取り払われでもしたように急速に衰えた。水中の抑波壁を乗り越え、ふたたび深みへと入ったのだ。一分ほどのちに波が到達したときには、レゾリューション号は数回上下動しただけだった。  バーンズ軍曹はすぐさま北にいかだ[#「いかだ」に傍点]を振り向けると、全速力で出発させた。 「ありがとう、ルビー──すばらしい指揮だった。だが、あの波が一周して戻ってくるまでに岸につけるだろうか」 「駄目でしょうね。二十分ほどで戻ってくるでしょう。でも、そのときにはもうすっかり減衰しきっていると思います。ほとんどそれと気づくこともないくらいでしょう」  波の脅威が去ったからには、リラックスして航海をのんびり楽しんでもよかった──だが、実際には陸地をふたたび踏みしめるまで、だれひとり心底から安心できそうになかった。抑波壁のためにあちこちで渦巻きが発生していて、妙に鼻にツンとくるすっぱい臭気──蟻をつぶしたときみたいな≠ニジミーがうまい形容をした──がわいていた。不快な臭気だが、懸念されるような船酔いを呼びおこすこともなかった。あまりに異質な匂いだったので、人間の生理も反応できなかったのだ。  一分後、波の最前線が水中の次の障害につきあたって、空高く盛りあがりはじめた。こうして後方から見ると、その光景はまるでなんということもなく、何分か前にあれほど怯えたことを、一同は恥ずかしく感じた。かれらはまるで自分たちが〈円筒海〉の主《ぬし》であるかのように感じはじめた。  だから、それからものの百メートルと行かないうちに、水面を割ってゆっくり回転する輪状物体が現われたときのショックは、いやが上にも大きかった。  金属的に輝くスポークは長さが五メートルはあり、水を滴らせながら浮きあが ってくると、ラーマのきつい白熱光を浴びてしばらく、くるくる回転していたが、やがて、ザブンと音をたてて水中へ戻った。まるでそれは、管状の腕をもつお化けヒトデを思わせた。  一見しただけでは、それが生物なのか機械なのかはっきりしなかった。ついでそれはくるりと寝返りをうつと、身体を半分沈めて、おだやかな余波に身をまかせながら浮き沈みしはじめた。  いまはかれらも、関節のある九本の腕が中央の円盤から放射状に突き出ている姿を、見てとることができた。腕のうち二本は外側の関節のところでちぎれている。ほかの腕の先には複雑に組み合わされた操作器管がついていて、ジミーはそれを見たとたん、前に出くわしたあのカニのことをはっきり思いだした。  二種の生物は同じ進化系列に属しているにちがいない──さもなければ、同じ設計台の上で製作されたものだ。  円盤の中央には、小さな砲塔が突出し、そこに三個の大きな眼がついている。二つは閉じており、一つは開いていたが、その一つも虚ろで物を見ているようではなかった。いま自分たちが見ているのは、ついさっき通り過ぎた水中乱流のために水面まで投げ飛ばされた、不思議な怪物の断末魔の姿であることを、だれも疑うものはなかった。  そのときかれらは、生物はそれだけではないことに気がついた。そのまわりを泳ぎまわっては、まだ弱々しく動いている腕にかみついているのは、育ちすぎのエビそっくりな、小さな二匹の生物だ。そいつらは文字どおり能率的に怪物を切りきざんでいるのに、怪物はその攻撃者たちに充分立ちむかえそうな自分のはさみを使おうともせず、なんの抵抗も見せない。  ふたたびジミーはドラゴンフライ号を食いつくしたカニのことを思いだした。かれは一方的な闘争の成りゆきを熱心に観察して、その印象をすばやく確認した。 「ほら、艦長《スキッパー》」かれはささやいた。「気づかれましたか──あれは食べてるんじゃありません。やつらには口なんかないんです。ただ細かく切りきざんでいるだけ[#「ただ細かく切りきざんでいるだけ」に傍点]なんです。ドラゴンフライ号もまったく同じ目に会いました」 「そうだな。やつらは解体してるんだ──まるで──まるで壊れた機械を解体するみたいに」  ノートンは鼻にしわをよせた。 「だが、壊れた機械がこんな匂いを出すとは思わなかった!」  そのとき別の考えが頭にうかんだ。 「たいへんだ──やつらがこっちに向ってきたらどうなる! ルビー、大急ぎで岸に戻してくれ!」  レゾリューション号は動力電池の寿命などまるで無視して、岸に突進した。後方では、あのお化けヒトデ──これ以上ぴったりした名前は思いつかなかった──の九本腕がどんどん短くちぎられていき、まもなくそのうす気味わるい光景は海の深みへと沈んでいった。  追ってくるものはなかったが、レゾリューション号が上陸地点に引き上げられ、上陸が無事完了してからやっと、かれらは胸をなでおろした。  神秘にみち、いまや邪悪な存在に急変した〈円筒海〉を振りかえりながら、ノートンは二度とだれにもこの海を渡らすまいと固く決意した。そこにはあまりにも未知の要素が多すぎ、また危険も多すぎたからだ……。  かれは〈ニューヨーク〉の塔や塁壁に目をやり、その先の陸地の暗い断崖を眺めた。もうあそこへ好奇心の強い人間が行くことはない。  かれは二度とラーマの神々に逆らうつもりはなかった。 [#改ページ]      33 蜘《く》  蛛《も》  今後は──とノートンはふれをまわした──〈キャンプ・アルファ〉には常時最低三人はいるようにし、うち一人はつねに見張りに立つこと。さらに、どの探険チームにも同じ手順を守らせることにした。ラーマ内部でどんな危険生物が活動を開始しているかわからないいま、敵意を明らかに現わしているものがまだひとつもないとはいえ、慎重な指揮官ならけっして無謀な真似をしないものなのだ。  特別の安全対策として、〈軸端部〉からは常時一人が、強力な望遠鏡によって監視を続けることになった。ここからなら、ラーマ内部の全地点が見渡せるし、〈南極〉さえたった数百メートル先のように見える。どの探険チームもその周囲はつねに一定の監視下に置かれることになるので、これでなんとか不意打ちを食う危険は避けられるように思えた。  じつに名案だった──が、これはまったくの失敗だったのだ。  その日最後の食事がすみ、二二〇〇時の就寝時刻まであと数分というとき、ノートン、ロドリゴ、キャルヴァートとローラ・アーンストは、水星のインフェルノ基地の中継装置から特別に送信されてくる、いつもの夕方のニュースに見入っていた。〈南方大陸〉を写したジミーの映画がとりわけ興味を呼んでいた──〈円筒海〉を横切って帰ってくるエピソードなどが、観る者をすっかり興奮させたのだ。科学者やニュース解説者や〈ラーマ委員会〉のメンバーまでが、あれこれ意見を述べ立てていたが、そのまたほとんどがたがいに対立していた。  ジミーが出くわしたあのカニのような代物が、はたして生物なのか、機械なのか、正真正銘のラーマ人なのか──それとも、そんな分類にはまるであてはまらない何か[#「何か」に傍点]なのか、意見がまったくまちまちだった。  胸のむかつく思いで、あのお化けヒトデが襲撃者たちに切りきざまれていくさまを見ているうちに、ふとかれらは何者かの気配に気づいた。キャンプ内に侵入してきた者がいるのだ。  最初に気づいたのはローラ・アーンストだった。彼女は突然ショックに身をかたくして、ささやいた。 「動いちゃだめ、ビル。そっと右側を見てちょうだい」  ノートンは頭をめぐらせた。十メートル先に、サッカーボール大の球形の胴体をのせた、足の細い三脚が立っている。胴体のまわりには、表情に欠けた三個の大きな眼がついていて、明らかに四方どこでも見渡せるようになっており、その下から鞭を思わせる三本の触手が出ていた。人間ほどの背たけもなく、とても危険とは思えないほど弱々しげだったが、だからといって、そいつに不意をうたれるまで全然気づかなかった不注意の弁解にはならない。  三本足ではクモやガガンボに似ているはずもないが、ノートンが気になったのは、それが地球上のいかなる生物も経験したことのない問題をどう解決したのかということだ──つまり、三本足でどうやって動くのかという問題である。 「あれは何だと思う、先生《ドク》?」かれはテレビのニュース解説者の声を切って、ささやいた。 「例によってラーマ特有の三重スタイルね。わたしの目には無害なように見えるけれど、あの鞭みたいなのが不愉快ね──クラゲの刺肢のように毒があるかもよ。坐ったまま何をするか見ていましょう」  数分間おとなしく注視していると、それは急に動きだした──そいつが現われたときになぜ見落してしまったのか、やっと理由が判明した。動きのなんとすばやいこと[#「すばやいこと」に傍点]。とても人間の五感ではついていけないほど異様な回転運動をしながら、地表を走っていくのだ。  ノートンの判断したところでは──高速度カメラでももちださないかぎり断定はできないが──一本ずつ順番に足を旋回軸にして、身体を回していくらしい。それに確信はなかったが、どうやら数歩[#「数歩」に傍点]ごとに回転方向を逆にし、いっぽう二本の鞭を進行につれて稲妻のように地上に叩きつけているようだった。その最高速度は──これまた見つもるのはきわめてむずかしいが──時速三十キロは少なくとも出せそうだ。  それはキャンプ中を猛烈なスピードで駆けまわって、ありとあらゆる物品に用心深くさわりながら調べまわっている。簡易ベッド、簡易椅子とテーブル、通信装置、食料コンテナ、電子処理トイレ、カメラ、飲用水タンク、工具類──それこそ何ひとつ見のがさなかったが、なぜか見守る四人はまったく無視されていた。明らかに、人間とその無生命の所有物とを区別するだけの知性はそなえているし、その行動には、組織的な好奇心と探究心とがまぎれもなくうかがえた。 「あれを調べてみたいわ!」  ローラはそれがすばやい旋回をつづけるさまを見て、どうにも我慢できないというふうに声をあげた。 「捕まえてみちゃいけない?」 「どうやって?」キャルヴァートがしごくもっともな質問をした。 「ほら──原始人のハンターがロープの一端におもりをつけたのを投げて、足の早い動物を倒すって方法があるでしょ。あれなら傷つけずにすむわ」 「それはどうかな」と、ノートンは答えた。「もしうまくいくとしても、そんな危険なことはやれないよ。第一、この生物がどれほどの知性をもっているかわからないし、その方法ではあの細い足は簡単に折れてしまうだろう。そうなると、われわれはとんでもない悶着にまきこまれることになる──ラーマや地球はもちろん、あらゆる連中から非難されるよ」 「でも、なんとか見本の一つぐらいは手に入れたいわ!」 「ジミーが取ってきた花で我慢しなけりゃならないだろうな──この生物たちは協力しそうにもないよ。第一、暴力はいかん。もし異星人が地球に降りてきて、きみを解剖のサンプルに最適だなんて決めたら、どんな気がする?」 「解剖しようなんて思ってないわ」ローラは不服そうにいった。「ちょっと調べてみたいだけよ」 「そうか、しかし異星人もきみと同様な考えだとしても、かれらを信じられるようになるまでは、きみ自身ひどくみじめな気分でいなければならないんじゃないかな。脅威と受けとられる恐れのある行動は、これを為すことを得ず、さ」  この台詞《せりふ》は〈宇宙船乗務規範〉からの引用で、ローラもそれは知っていた。科学上の要求は宇宙外交より優先権が下なのだ。  現実にはこんな大仰な考察をする必要はない。マナーの問題にすぎないのである。ここではかれらは全員訪問者にすぎず、それも許しもえずに闖入した侵入者なのだ……。  生物らしきものは調査を完了したようだった。キャンプを猛スピードでもう一度めぐると、突然、階段の方向へ飛びだしていった。 「階段をどうやってあがるつもりかしら?」と、ローラがつぶやいた。  疑問はすぐ解けた。クモはまるで階段を無視して、斜面をスピードをゆるめもせず駆けあがっていった。 「軸端司令部」ノートンが呼ぶ。「もうすぐそこにお客が行くよ。〈アルファ階段〉の第六区を見るといい。われわれを監視保護してくれていてほんとにありがとさん。ついでに礼もいっとくよ」  皮肉が通じるまで一分余もかかった。それから〈軸端部〉で任務についていた隊員が、急に弁明口調になった。 「えーと──あの、何か[#「何か」に傍点]見えてきました。艦長《スキッパー》がいまおっしゃったところに何かいます。ありゃなんですか?」 「私もそれを考えているところだ」  ノートンはそう答えながら、総員警戒<{タンを押した。 「キャンプ・アルファから全部署に告げる。たったいま三本足のクモのような生物の訪問をうけた。足は細く、背は約二メートル、小さな球形の体部をもち、ひじょうに早い回転運動で移動する。無害のようだが、好奇心が強い。気づかないうちに忍びよってくるかもしれない。確認しだい報告せよ」  最初の応答は、十五キロ東の〈ロンドン〉からとどいた。 「とくに異状はありません、艦長《スキッバー》」  同距離西へよった〈ローマ〉からも、眠たげな応答があった。 「ここも同じです、艦長《スキッパー》。ええと、ちょっと待ってください……」 「どうした?」 「さっきペンを置いたんですが──失くなってる! なんだろう──あっ!」 「はっきりいえ!」 「信じていただけないでしょう、艦長《スキッパー》。さっきメモを取っていて──自分は書くのが好きでありまして、だれのじゃまにもなりませんし──愛用のボールペンを使ってるんですが、二百年近く昔のやつでして──それが五メートルも向こうに転がってるんです! いま取りもどしました──やれやれ──どこも傷んでません」 「どうしてそんなところへ転がっていったんだ?」 「あの──ちょっとうとうとしてたのかもしれません。しんどい一日でしたから」  ノートンは溜息をついたが、叱ろうとはしなかった。部下はわずかだし、世界中を探険しなければならないのに、時間はごく限られているのだ。意気ごみだけでは疲労を克服できるものではないし、ひょっとしたらわれわれは不必要な危険までおかしている恐れがある。たぶん、部下をあんな小グループに分けて、こんな大きな地域をカバーさせようなどと欲ばるべきではなかったのだ。だが、いっぽうでかれは、なさけ容赦もなく過ぎていく日々と、解くこともできない謎の数々を、かたときも忘れることができなかった。  かれはいよいよ確信をもった。いまにも何かがおころうとしている。おそらくラーマが近日点に到達する──その瞬間に、軌道修正がおこることはまちがいない──ずっと以前に、脱出しなければならないだろう。 「軸端、ローマ、ロンドン──全員、よく聞いてもらいたい」ノートンは告げた。「夜間を通じ、三十分おきに報告してほしい。今後は、いついかなるときでもお客がのぞきにくる可能性を忘れてはならん。なかには危険なやつもいるかもしれないが、事故だけはなんとしても避けなければならない。この点については、みんな服務規定を覚えているはずだ」  その通りだった。それはかれらの基礎訓練に含まれているのだ──しかし、長いこと理論としていわれてきた知性ある異星人との物理的接触≠ェ、よもや自分の生涯のうちにおこるとは、だれひとり信じていなかった──ましてや、みずから実地に体験することになるとは、夢にも思っていなかっただろう。  訓練と現実とはまったく別ものである。いざその場になったら、人間本来の自己保存本能が働きださないとは、だれも保証できない。それでもなお、ラーマ内部で出会うあらゆる生物を、好意的に迎えてやることが必要なのだ、最後のどたん場になるまで──いや、それ以後になっても。  なろうことならノートン中佐は、宇宙戦争を引きおこした最初の男として、歴史に名を残したくはなかった。  数時間のうちに何万というクモが現われて、平原中に散らばった。望遠鏡で見ると、南方の大陸でも同じようにクモたちが横行していた──ただ、〈ニューヨーク〉島はそうではないようだ。  クモたちはもはや探険隊に注意をはらわなかった。しばらくすると、探険隊のほうもかれらに注意をはらわなくなった──もっとも、ときおりノートンは、軍医中佐の眼のなかに獲物をねらう食肉獣のきらめきを感じていた。クモの一匹に不運な事故でもおきれば、彼女が大喜びするのは明らかだが、科学上の興味だけでそんな事故を故意にしくむことは許可できない。  あのクモたちに知性がありそうもないことは、事実上確実と思われた。体部は脳的なものを収めるには小さすぎるし、あれだけ動きまわるエネルギーを貯えておく場所も、ちょっと見当がつかない。それでも、かれらの行動には、ふしぎなほど目的意識があり、統制のとれたところがあった。いたるところに現われるくせに、けっして二度と同じ場所には行かないのだ。やつらは何かを捜しまわっている[#「捜しまわっている」に傍点]、ノートンはしょっちゅうそんな印象を受けた。それが何であるにせよ、まだ発見はしていないようだった。  かれらはあいかわらず三本の大階段には目もくれず、まっしぐらに中央の〈軸端部〉まで登ってきた。たとえほとんど重力ゼロとはいえ、かれらがどうやって垂直に切り立った部分を登るのか、はっきりしなかった。ローラの臆測では、吸着盤を装備しているのだろうというのだが。  そのとき、彼女の雀躍《こおど》りすることがおこった。あんなに欲しがっていた標本が手に入ったのだ。まず〈軸端司令部〉から、一匹のクモが垂直壁から落ち、死んだのか動けないのか、とにかく第一テラスの上に横たわっている、との報告がきた。平原からそこまで急行したときのローラのスピード記録は、二度と破られることはないだろう。  台地についてみると、低速度の落下にもかかわらず、クモの足がぜんぶ折れていることがわかった。眼はあいていたが、外部からのテストにはまるで反応を示さなかった。  人間の死体のほうがまだしも生き生きしてるわ、とローラは思った。  その獲物をエンデヴァー号にもち帰ると、彼女はただちに解剖道具で仕事にとりかかった。  クモはじつにもろく、ほとんどさわらないうちにばらばらになった。足を胴体から取ったあと、デリケートな背中をはずしにかかると、オレンジの皮をむくように、円形に大きく三等分されてぱっくり開いてしまった。  わが目を疑うように、しばらくぽかんとしていたが──識別や確認のできるものが何ひとつなかったからである──気をとりなおすと、入念に連続写真をとった。それから、おもむろにメスをとりあげた。  どこから切ればいいのだろうか?  目をつぶって、でたらめに突き刺したいような気がしたが、それではあまり科学的とはいえないだろう。  メスの刃は、なんの手ごたえもなく沈んでいった。次の瞬間、アーンスト軍医中佐のきわめてレディらしからぬ悲鳴が、エンデヴァー号の隅から隅まで響きわたった。  マッカンドルーズ軍曹がおびえるシンプたちを、手こずりながらもなんとか鎮めるまでには、たっぷり二十分かかった。 [#改ページ]      34 閣下は遺憾ながら…… 「みなさんもすでにご存じのように」と、火星大使は口を切った。「前回の会議以来、じつに多くのことがおこっております。われわれが審議し──決断をくださなければならないこともたくさんあります。それゆえ、われらの高名なる同僚の水星大使がおられないことがことさら残念に思われます」  最後のひと言はかならずしも正確ではなかった。ボース博士は水星大使閣下が欠席しているからといって、とくに残念だなどと思っていなかった。どちらかといえば、心配しているといったほうがよい。外交官としての直観では何かがおこりつつあるのは確かだったが、優秀な情報網をもってしてもそれが何なのか、かれにはヒントすらつかめていないのだ。  大使閣下の欠席届はいんぎんではあるが、まったくわけのわからない手紙だった。閣下は遺憾ながら緊急やむをえない用事のためビデオでも出席できないというのだ。ボース博士には、ラーマより緊急で重要なことなどなにひとつ思いつけなかった。 「委員のお二人が発言を希望されています。デヴィッドスン教授からどうぞ」  委員会の科学者たちが興奮してざわざわしはじめた。騒ぎはじめたのは、あんな宇宙観にしばられた天文学者では、〈宇宙諮問会《SAC》〉の会長にふさわしくないと思っている者がほとんどだった。  かれはしばしば、知的生物の活動など星星や銀河に満ちみちたこの荘厳な大宇宙にとってはまるでとるにたりないことで、そうした事柄にあまりこだわるのは不作法、と思っているような印象をあたえていた。当然、まったく逆の立場に立つペレラ博士のような宇宙生物学者たちに好かれるわけがなかった。かれらにとっては、宇宙の唯一の意味は知性体を生みだすところにあるので、えてして純粋な天文学的現象をばかにしたしゃべりかたをする。 たんなる無機物≠ニいうのが、かれらお得意の捨て台詞《ぜりふ》だった。 「大使」天文学者は話しはじめた。「私はここ数日のラーマの奇妙な行動を分析し、ここで私が達した結論を述べたいと思います。そのいくつかはいささか驚嘆すべきものであります」  ペレラ博士はびっくりしたようだったが、すぐにすまし顔に戻った。かれとしてはデヴィッドスンが驚くようなことならなんでも大歓迎なのだ。 「最初に、注目すべき一連の出来事が、あの若い中尉《ルテナン》さん」──かれは陸軍風に|中 尉《レフテナント》と発音した──「が南半球へ飛んでいったときおきた。あの大放電それ自体は、壮観ではありましたが、さほど重要ではありません。むしろ、あのエネルギー量は相対的にはわずかなものだったともいえるのです。しかし、それはラーマの自転周期の変化および飛行姿勢──すなわち、宇宙空間における飛行方位の変化と同時におきています。これには莫大なエネルギーが必要だったにちがいありません。放電であやうく命をなくしかけた──ええと、パク氏には申しわけないが、あの放電は単なる副産物にすぎません──南極の大避雷針群によって最小限に押さえられながらも発生してしまった公害のようなものですな。  私はここから二つの結論を引きだしました。ある宇宙船が──われわれはラーマをそのとてつもない大きさにもかかわらず宇宙船と呼ばなければなりません──飛行姿勢を変えたときは、それは通常軌道の修正が近いことを意味しています。それゆえわれわれは、ラーマがただ通り過ぎてまた星々の世界に戻っていくのだという考え方のかわりに、わが太陽系の新たな惑星になろうとしているのだと信じている人々の見方を、真剣に考えてみなければならないのです。  もしそうとするなら、エンデヴァー号はただちに、もやいを解かなければならない──宇宙船でもそういうのでしょうな? ──かれらがこのままラーマ上にとどまっていると、大変な危険に見舞われる恐れがあります。ノートン中佐もすでにこの可能性に気づいているとは思うが、私はさらに警告を送るべきだと考えます」 「ありがとうございました、デヴィッドスン教授。どうぞ──ソロモンズ教授?」 「ちょっとひと言述べさせていただきたい」と、科学史家はいった。「ラーマはその自転を変えるのにジェットや反作用装置をなにも使わなかった[#「使わなかった」に傍点]ようですな。そこで、可能性は二つしかないと思います。  第一は、内部にジャイロスコープかそれに相当するものが備えられていること。しかし、それは巨大なものにならざるを得ません。どこにあるのでしょう?  第二の可能性は──われわれの物理学を根底からくつがえすものですが──ラーマは非反作用推進機関を備えているということです。デヴィッドスン教授は信じられないでしょうが、いうところのスペース・ドライヴです。もしそうなら、ラーマはほとんどなんでもできることになる。われわれは大ざっぱな物理的レベルですら、その行動をまるで予想できなくなるでしょう」  話がとんでもない方向にいってしまったので、外交官たちは明らかにいくらか当惑していたが、天文学者はおとなしく引っこんではいなかった。ここまで来てはもうひき返せるわけもない。 「失礼ではあるが、私としてはどうにもならなくなるまで物理学の法則を大事にしたい。ラーマにジャイロスコープが見つからないとおっしゃったが、まだよく探していないからかもしれんし、見落している可能性もある」  ボースはペレラがじりじりしはじめたのを見てとった。ふだんならこの宇宙生物学者も思索にふけるのを好むほうなのに、いまはまるでちがっていた。はじめて、かれは厳正な事実を手に入れたのだ。長いこと恵まれなかった不毛の学問が、一夜のうちに晴れ舞台に飛びだしたのである。 「ごもっともです──ほかにご発言がなければ、ペレラ博士からある重要な報告がありますので」 「ありがとう、大使。さて、すでにみなさんご承知のとおり、われわれはついにラーマの生命体の一サンプルを手にし、そのうえ数種をごく近距離から観察することができました。エンデヴァー号の軍医将校、アーンスト少佐がクモ状生物の解剖報告を送ってきております。同時に私自身、こんな状況下でなければ、とうてい信じられないような、困惑以外にない結果も含まれていることをまず述べておきましょう。  クモは明らかに有機体でありますが、その化学的性質は多くの点でわれわれのものとは異なっています──相当量の軽金属を含有しているのです。それでも私はこれを動物と見なすには、いくつか根本的な理由でためらっております。  第一に、口がなく、胃も、腸も──そう、食物を摂取する器官がまったくないようなのです。さらに呼吸器官もなく、肺もなく、血液もなく、生殖器官もないのです……。  いったい何ならある[#「ある」に傍点]のかと思われるでしょう。さよう、単純な筋肉組織、三本の脚と三本の鞭状の巻きひげ、もしくは触角を動かすための組織をもっています。それに脳もあります──かなり複雑でこの生物の驚くほど発達している三眼の視力に、そのほとんどの部分が関係しています。しかし、体組織の八十パーセントはハチの巣状の巨大電池で占められており、アーンスト博士が解剖をはじめたとき不快な思いをした理由はここにあるのです。もうすこし彼女に運があったら、もっと早く気づいていたかもしれません。というのは、このラーマの生物と似たものが地球上にもいる[#「いる」に傍点]からです──海中生物のうちのほんの一部ではありますが。  クモのほとんどの部分がただのバッテリーで、これは電気ウナギや電気エイに見られるのと同じです。ただこの場合には、これが防御として使われていないのは明らかです。この電池はこの生物のエネルギー源なのです[#「この電池はこの生物のエネルギー源なのです」に傍点]。そしてこれこそ、この生物が食べたり呼吸したりする器官を持たない理由です。そのような原始的装置は必要としていないのです。そして当然ながら、この生物は真空中でも完全に活動できるということになります……。  というわけで、われわれが手に入れたのは、どの点からみても、移動性の眼以外の何ものでもありません。操作器管すらないのです。あの巻きひげはあまりにも弱すぎます。この生物の設計図をあたえられたなら、私はきっとただの偵察装置だよといったにちがいありません。  その行動もこの説明に合致します。クモのしたことといえば、走りまわって観察したことだけです。それ[#「それ」に傍点]しかできないのです……。  しかし、ほかの生物はちがいます。カニ、ヒトデ、サメ──もっと適当な言葉があるといいのですが──これらは明らかに周囲の状況に対処していけるし、またさまざまな職務のため特殊化されているように見えます。かれらもまた電池をエネルギー源としているのではないでしょうか。というのはクモと同じように口がないと思われるからです。  これらの考察により提起された生物学的問題に対し、みなさんはすでに正しい認識をおもちのことと確信しております。このような生物が自然の進化で生まれてくるでしょうか? そうは思われません。かれらは機械のように、ある役目のために設計された[#「設計された」に傍点]ように見えます。ひとことでいえば、ロボット──生物学的《バイオロジカル》ロボット──であります。地球上には似かよったものが何ひとつない存在ということです。  ラーマが宇宙船であるなら、おそらくかれらもその乗組員の一部なのでしょう。いかにして生まれたか──または創られたか──は、私にはご説明できません。ただその答えは、あの〈ニューヨーク〉にあるように思われます。ノートン中佐と部下がもうしばらく滞在できれば、より複雑な構造をもち、その行動の予測もつかない生物たちともっと出会うかもしれません。この方向をたどっていけば、ラーマ人自身にも──この世界の真の創造者たちにも──会えるかもしれないのです。  そうなった暁[#「そうなった暁」に傍点]には、みなさん、疑問は、すべて氷解するでありましょう……」 [#改ページ]      35 特 別 便  ノートン中佐がぐっすり寝こんでいると、やにわに個人通信機が、楽しい夢の世界からかれをむりやり引きずりだした。  せっかく火星の家族と休暇をとって、太陽系一の活火山ニクス・オリンピカの荘厳な雪の頂きを飛び越えているところだったのに。ちびのビリーがかれに何か話しかけてきたところだったが、もう想い出せなかった。  夢が消えると、呼んでいるのは、艦内にいる副長だった。 「起こしてすみません、艦長《スキッパー》。司令部からトリプルA優先通信です」カーチョフは告げた。 「読んでくれ」ノートンは眠たげに答えた。 「できません。暗号《コード》です──指揮官開封≠ニなっています」  ノートンははっと眼がさめた。かれの長い軍歴中にも、そんなメッセージは三回しか受けとったことがない。そしてそれはいつもトラブルを意味した。 「くそ!」かれはののしった。「こんなときはどうしたらいいんだ?」  副長が答えるまでもなかった。二人とも状況は完全にわかっている。〈宇宙船乗務規範〉が予想もしなかった問題なのだ。通常は、指揮官が自室、つまり専用金庫の暗号《コード》|解読書《ブック》から数分以上離れているなどということはない。いますぐ出発すれば、ノートンは艦に──疲れ切ってだが──四、五時間で戻れるだろう。しかし、トリプルA優先権の通信にそんな生ぬるいことをしてはいられない。 「ジェリー」ついにかれはいった。「通信台にはだれがいる?」 「だれも。私一人で通信しています」 「レコーダーは切ってあるか?」 「妙なことに規則違反でして、切ってあります」  ノートンはにやっと笑った。ジェリーはこれまでつきあったなかでは最高の副長だ。なんでもちゃんと心得ている。 「OK。私の鍵がどこにあるか知っているな。あとで呼んでくれ」  次の十分間、かれはほかの問題のことを考えようとしながら──あまりうまくはいかなかったが──辛抱づよく待っていた。とり越し苦労する自分がいやだった。通信の内容など気をまわしてみてもわかるわけもないし、おまけにもうすぐ知らされるのだ。  悩むのはそれから[#「それから」に傍点]でいい。  カーチョフから返事がきたが、明らかに怖ろしいほど緊張している口ぶりだった。 「緊急というほどではありません、艦長《スキッパー》──一時間ぐらいなら、大差ないと思います。しかし、無線はやめたほうがいいでしょう。伝令に届けさせます」 「でも、なぜだ[#「なぜだ」に傍点]──まあ、いい──きみの判断を信じよう。エアロックのところはだれが運ぶ?」 「私が持っていきます。〈軸端部〉に着いたらお呼びします」 「そのあいだローラに艦をまかせることになるね」 「長くても一時間です。すぐ艦にもどります」  軍医将校は艦長代行の特殊訓練など、艦長が手術をできるわけもないのと同じように、受けてはいなかった。緊急事態ならたがいの職務をなんとか交替することができるかもしれないが、あんまりほめられたことではない。ままよ、今晩はすでに一つの命令が破られたところなんだから……。 「記録上は、きみは艦を離れてないんだぞ。ローラはもうおこしたかね?」 「はい。いい機会だってよろこんでますよ」 「医者に秘密を守る習慣があるのは幸運だ。受信通知はもう出したか?」 「もちろんです、艦長名で」 「よし、待ってるぞ」  もうこうなってはあれこれいろんな心配をするな、といってもむりな相談だった。 緊急[#「緊急」に傍点]というほどではありません──でも無線はやめたほうがいいでしょう……  これだけは確かだった。中佐は今夜はもう眠れないだろう。 [#改ページ]      36 バイオット監視者  ピーター・ルソー軍曹は、自分がなぜ宇宙軍に志願したのか、充分わかっていた。いろんな意味で、子供のころの夢の実現なのだ。  まだ六つ七つのとき望遠鏡にとりつかれ、少年時代はほとんど、あらゆる形とサイズのレンズを集めるのに時をついやした。そのレンズをボール紙の筒にはめこんで、だんだん倍率の高い機械を作るようになり、ついには月や惑星や、近くの宇宙ステーション、それに自宅の周囲三十キロ圏内の全光景にすっかり慣れしたしむようになった。  生まれたところもラッキーで、コロラドの山中だった。どちらを向いても、眺めはすばらしく、飽きることがなかった。毎年不注意な登山者たちをいけにえにする峰々を、かれはまったく安全に何時間も探険してまわったものだ。  そんなにいろいろ見ていながら、かれはそれをさらに想像力でふくらませた。岩山のかなた、望遠鏡の視野の向こうには、目を見はるような生きもののあふれる魔法の王国がある、そんな空想にふけるのが好きだった。そんなわけで、かれは長いこと、レンズを通して知った場所への訪問を避けつづけた。現実はとうてい夢にはかなわないことを、ちゃんと心得ていたからである。  それがとうとうラーマの中心軸上で、少年時代の自由奔放な空想も顔負けの驚異の数々を、調査できることになったのだ。  かれの眼前にはいま、この世界の全景が広がっていた──たしかに小さな世界ではあるけれど、それでも一人で四千平方キロを探険するとなれば、全生涯をかけねばなるまい。たとえそこが変化のない、死の世界だったとしても。  しかし、いまやラーマには、無限の可能性を秘める生命が甦っていた。|生 物《バイオロジカル》ロボットがほんものの生物ではないとしても、じつによくできたそのイミテーションであることには変わりない。  だれがバイオット≠ニいう言葉を作ったのかはわからないが、どうやら自然発生的に生まれて、たちまち愛用されるようになったらしい。ピーターが〈バイオット監視隊長〉に選ばれたのは、〈軸端部〉勤務の利点を買われたからで、おかげでかれは、バイオットたちの行動パターンがいくらかは呑みこめるようになってきた──少なくともそう信じた。 〈クモ〉はいわば移動感覚器官で、視覚を──それにおそらく触覚も──使って、ラーマ内部の全域を調べまわるのが役目である。一時は、何百という数のそれが高速で走りまわっていたが、二日とたたないうちにみんな消えてしまった。いまでは一匹でも見つけるのはむずかしい。 〈クモ〉にかわって登場したのは、いろとりどりのさらに奇想天外な生物たちで、適当な名前をつけるだけでも、ひと仕事だった。〈窓ふき屋〉は大きな雑巾《ぞうきん》状の足をもち、ラーマの六本の人工太陽をせっせと磨きあげていた。その巨大な影が反対側に投げかけられて、一時的な日蝕をひきおこした。  ドラゴンフライ号をたいらげたカニは、〈掃除屋〉だ。かれらはひっきりなしに〈キャンプ・アルファ〉に近づいてきては、キャンプのはずれにまとめて積みあげたごみ屑を、すっかりもち去ってしまった。ノートンとマーサーが立ちふさがって食いとめなかったら、ほかのものまで洗いざらい運び去ってしまっただろう。この対決は一同をはらはらさせたが、あっけなくケリがついた。その後は〈掃除屋〉たちも、さわってよいものがわかったと見えて、仕事をさせてくれるかどうか様子をうかがいに、定期的に現われるだけになった。  じつに適切な処置で、そこには高度の知能の存在が──〈掃除屋〉自体にか、それとも、どこか別の場所からコントロールしている何者かに──暗示されている。  ラーマにおけるごみ処理は、きわめて簡単で、ぜんぶ〈海〉に放りこんでしまう。おそらくそこで分解されて、再使用されるのだろう。そのプロセスは迅速で、レゾリューション号は、たったひと晩で影も形もなくなり、ルビー・バーンズをいたく怒らせた。ノートンはそれがりっぱに努めを果たしたこと──二度とだれにも使わせるつもりはなかったことを指摘して、彼女を慰めた。〈サメ〉どもには〈掃除屋〉ほどの識別力がなかったらしい。  新しいタイプのバイオットをみつけて、望遠鏡でうまく写真がとれたときのピーターの喜びようといったら、未知の惑星を発見した天文学者のそれにも劣らなかった。残念なことに、おもしろそうな種類の生物はみんな〈南極〉のほうにいるようで、〈ホーン〉の周辺でなにやら不可解な仕事をやっていた。ムカデに似た吸盤つきのやつがしょっちゅう〈ビッグ・ホーン〉自体を上下しており、いっぽう低いほうの尖塔のまわりには、カバとブルドーザーの合いの子みたいないかついのが、ちらり姿を見せた。二本首のキリンみたいのもいて、こいつは移動クレーンの役をしているらしい。  思うにラーマも、ほかの船と同じで、長旅のあとではテストや点検や修理が必要なのだろう。乗組員はすでにいそがしく立ち働いている。乗客はいつ現われるのだろうか?  バイオットの分類は、ピーターの主要任務ではない。あたえられた命令は、常時二、三のグループは出ている探険隊の監視をつづけて、トラブルに巻きこまれないように気をくばり、もし近づくものがあれば警報を出すことだ。手のすいた者がいれば六時間ごとに交替するが、十二時間ぶっ通しの勤務ということも、再三あった。  おかげでいまでは、ラーマの地形をかれほど知っている者は、ほかにだれもいなくなった。少年時代のコロラドの山々のように、すっかりおなじみのものになったのだ。 〈エアロック・アルファ〉からジェリー・カーチョフが出てきたとき、ピーターはすぐ、これはただごとではないと感じた。これまで睡眠時間中に人員の移動があったためしはなく、しかもいまは、|ラーマ時間《ミッション・タイム》で真夜中をまわったところなのだ。すぐピーターは、自分たちがどんなに人手不足の状態かということを思いだし、それ以上に事態の異例さに気がついて、ショックを受けた。 「ジェリー──艦のほうの責任はだれが受けもってるんです?」 「ぼく[#「ぼく」に傍点]だよ」  副長はそっけない返事をすると、宇宙帽をはねあげた。 「当直中にぼくが船橋《ブリッジ》を離れると思ってるのかい?」  かれは宇宙服の|物入れ《キャリオール》に手をつっこむと、ラベルがついたままの小さな罐詰をとりだした。濃縮オレンジ・ジュース・五リットル用≠ニあった。 「きみは名人なんだろう、ピーター。艦長《スキッパー》がお待ちかねなんだ」  ピーターは罐詰を手にして重さをはかってから、いった。 「充分な質量があればいいんですがね──最初のテラスで止まっちまうこともあるんですよ」 「まあ、プロにまかせるよ」  これはほんとうだった。〈軸端部〉勤務の者は、忘れものや急に必要になった小さな物品を投げ落してやる練習を、たっぷり積んでいる。コツは、低重力地帯をうまく通過させること、八キロにわたる下り坂の落下中に、コリオリ 力《フォース》 の影響でキャンプからあまり遠くにそれてしまわないように気をつけることだ。  ピーターは足場をしっかり固めると、罐をにぎって、崖の表面ぞいに放り落した。直接〈キャンプ・アルファ〉を狙わずに、わざと三十度近くはずして投げたのだ。  たちまち空気の抵抗で、罐詰は初速を失ったが、あとはラーマの疑似重力が肩がわりしてくれたので、等速で下方へと移動しはじめた。一度|梯子《はしご》の根もとにぶつかって、ゆっくりバウンドし、そのおかげで最初のテラスをうまく通過できた。 「もう大丈夫です」と、ピーターはいった。「賭けましょうか?」 「とんでもない」きっぱりと断られた。「ハンデがありすぎる」 「ずるいや。でも、断言します──キャンプから三百メートル以内で止まりますよ」 「あんまり近くないみたいだな」 「いつかご自分でやってごらんなさい。一度ジミーが二キロもはずしたことがあります」  罐はもうバウンドしていなかった。重力が強くなって、〈北ドーム〉の彎曲面にぴったり密着するようになったのだ。第二テラスを通過するころには、毎時二十から三十キロで転がるようになり、摩擦が許すほぼ最高速度に達した。 「あとは待つだけです」  ピーターは罐の行方を追うために、望遠鏡の前に腰をすえた。 「あと十分で着くでしょう。ああ、艦長《スキッパー》が出てきましたよ──この角度から見ても、みんなを区別できるようになったんです──ほら、こっちを見あげてます」 「望遠鏡のおかげで、すっかり自信がついたようだな」 「ですとも。ラーマ内でおこっていることをぜんぶ知っているのは、私だけです。少なくとも、さっきまではそう思ってました[#「そう思ってました」に傍点]」  悲しげにそうつけ加えると、とがめるような眼つきでカーチョフを見た。 「もっと楽しみたければ、艦長《スキッパー》は歯みがき粉も切らしたんだがね」  会話は尻すぼみにとぎれたが、ようやくピーターが口を開いた。 「賭けを受けてくれればよかったのに……ほんの五十メートルのところに着きましたよ……いま見ています……これで任務完了と」 「ありがとう、ピーター──よくやってくれた。もう眠ってもいいよ」 「眠れですって! 〇四〇〇時まで当直なんですよ」 「ごめんよ──きみは眠っていたにちがいないんだ。でなけりゃ、こんな夢を見るわけがないだろう?」 [#ここから3字下げ] 宇宙調査局司令本部発 SSSエンデヴァー号指揮官宛 通信優先度・AAA。機密分類・指揮官開封。記録抹消のこと。 [#ここから4字下げ] スペースガードより報告。超高速飛行体が十日ないし十二日前に水星より発進、ラーマに向う由。軌道変更なくば到着は三二二日十五時と予測。事前に撤退の要あるやも知れず。後報を待て。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]司令長官    ノートンはその電文を五、六度読みかえして、日付を頭にきざみつけようとした。ラーマにいると、日時を勘定するのがむずかしいのだ。現在が第三一五日だというのを知るのに、カレンダー時計をのぞかねばならなかった。  ということは、あと一週間の余裕しかないことになる……。  この電報は、文面自体背すじが寒くなるだけでなく、そこに暗示される言外の意味がまた怖ろしかった。水星人《ハーミアン》たちはこっそり秘密に飛行体を発射した──それ自体、〈宇宙法〉違反になる。  結論は明らかである。 飛行体≠ニはミサイルにきまっているのだ。  でも、なぜ[#「なぜ」に傍点]?  かれらがあえてエンデヴァー号を危険にさらすとはとても考えられない──いや、ほとんど[#「ほとんど」に傍点]考えられないというべきか。とすれば、いずれ水星人自身から、間にあううちに警報がくるだろう。緊急事態の場合、司令長官じきじきの命令がくれば、数時間のうちに撤退することもできるだろう。もっとも、ノートンはそんな撤退には、おおいに反対するつもりでいた。  ゆっくりした足どりで、深い物思いにふけりながら、かれは簡易生命維持兵舎へと歩いていくと、電報用紙を電子トイレのなかへ落した。シートカバーの下の割れ目からレーザー光線のまばゆい炎がひらめき、機密保持の要請は守られたことがわかった。  まったく残念なことだ、とかれは内心つぶやいた。あらゆる問題がこんなふうにたちどころに、そして衛生的にかたづいてくれたら、いうことなしなのだが。 [#改ページ]      37 ミ サ イ ル  ミサイルがまだ五万キロもかなたにいるときから、そのプラズマ減速噴射の炎は、エンデヴァー号の主《メイン》望遠鏡にはっきりととらえられた。そのころには、秘密はもう秘密でなくなっており、ノートンは不承不承、二度目の、おそらくは最後のラーマ撤退命令を出した。だが、いよいよほかに手段がなくなるぎりぎりまで、離脱するつもりはなかった。  減速行動を完了したとき、水星からの招かざる客は、ラーマからわずか五十キロに近づいて、どうやらTVカメラによる走査をはじめたらしかった。カメラ類はまる見えで──一個は船首に、一個は船尾に──数本の小さな無指向性アンテナと、大型の指向性パラボラアンテナが、遠く離れた水星の方角にぴたりと向けられている。  ノートンはどんな指令が電波に乗って送られてきて、どんな情報が送り返されているのだろう、といぶかしんだ。  しかし、すでに知っていること以外には何もわかるはずはないのだ。エンデヴァー号の発見したことはすべて、太陽系内の隅々にまで放送されている。この宇宙機は──ここへ到達するのに、あらゆるスピード記録を破っていた──たんに、その製作者たちの意志の延長に、目的を果たす装置にしかなりえない。その目的もまもなくわかるだろう。三時間後には、水星の惑星連合大使が〈惑連総会〉で演説をぶつ予定になっているからだ。  公式には、そのミサイルはまだ存在していなかった。なんの識別マークもつけていないし、正規のビーコン周波数も使っていない。きわめて悪質な法律違反なのだが、いまだに〈スペースガード〉は正式の抗議をおこなっていないのだ。  だれもがじりじりいらいらしながら、水星の出かたを待っていた。  ミサイルの存在が──同時に、その出所が──発表されてから、すでに三日たっている。そのあいだ終始、水星人たちはかたくなに沈黙を守ってきた。そうしたほうがいいときには、じつに巧みにやってのけるのが水星人なのだ。  水星に生まれ育った人間の精神活動を完全に理解するのは、ほとんど不可能なことだと主張した心理学者もいるくらいである。水星に比べ三倍も強力な重力のために、地球から永久追放された水星人たちは、月面に立ってほんの眼と鼻のさきにある祖先の──両親の場合さえある──惑星を眺めることはできても、けっしてそこを訪れることはできない。だから、当然ながら、かれらは地球へなど行きたくないと主張していた。  かれらはおだやかな雨、起伏のある草原、湖や海、青い空──映像記録を通してしか知ることのできないあらゆるものを、軽蔑するふりをする。かれらの惑星は昼間帯の温度がしばしば六百度にもなるほど、太陽エネルギーにどっぷりつかっているので、いかにもタフなように振る舞ってはみせるものの、それがこけおどしにすぎないことは、ほんの一分も観察すればわかるのだ。  事実、水星人は肉体的に脆弱になりがちで、その理由は、環境から完全に絶縁されていなければ生きていけないところにあった。かりに重力には耐えられても、地球の赤道地帯で暑熱にさらされたら、たちまち何もできなくなるだろう。  しかし、ほんとうに重大な問題にかんしては、かれらはたしかに[#「たしかに」に傍点]タフさを見せる。あの荒々しい星がまぢかにあるという心理的圧迫感、苛酷な惑星をこじあげて、生活に必要なすべてをもぎ取らねばならない技術的困難さ──両々あいまってスパルタ的な、多くの点で賞讃に値いする文化を生みだしている。水星人は頼りになる連中なのだ。いったん約束したら、かならずやりとげる──ただし、その勘定書は高いものになるかもしれないが。  かれら自身のジョークにこんなのがある。もし太陽が新星《ノヴァ》化する徴候をみせたら、水星人はそれを抑える請負い仕事を買って出るだろう──値段のおりあいさえついたらの話だが。非水星人の作ったジョークはこうだ。水星じゃ、芸術や哲学や抽象数学に興味を示す子供は、みんな落第させられてたちまち水耕農場送りなんだとさ。  犯罪者と精神病者については、これはジョークどころではない。犯罪など、水星では許されない贅沢《ぜいたく》のひとつなのだ。  ノートン中佐は一度だけ水星へ行ったことがあり、すごく感銘を受け──ほとんどの訪問者がそうだった──たくさんの友人もできた。ポート・ルシフェルでは一人の娘と恋に落ち、三年の結婚契約をしようとまで思いつめたのだが、金星軌道外の出身者に対するむこうの両親の強硬な反対にあってしまった。それでよかったのかもしれない。 「地球からトリプルA通信です、艦長《スキッパー》」艦橋《ブリッジ》からいってきた。「音声と予備電文で、司令長官からです。受領用意はよろしいですか?」 「電文はチェックしてファイルしておけ。音のほうは回してくれ」 「送ります」  へンドリックス提督の声は、淡々と落ちつきはらっており、宇宙史上未曾有の事態だというのに、まるでいつもの艦隊命令を出すような口ぶりだった。とはいっても、爆弾から十キロのところにいるのは、かれではないのだ。 「司令長官からエンデヴァー号指揮官へ。これは現在われわれの直面している状況の概要だ。〈惑連総会〉が一四〇〇時に開かれることは承知と思うし、議事内容も聞くことになろう。事前協議なしに行動に移らねばならない可能性もあるだろうから、以下の指示を出しておく。  そちらから送ってもらった写真類を分析した。飛行体は通常の宇宙探査機《スペ−ス・プローブ》で、高衝撃に耐えるよう改造されており、たぶん離陸時にはレーザー推進を用いたようだ。大きさも質量も五百ないし一千メガトン級の核融合爆弾と一致する。水星人はふだん採掘作業に百メガトン級のを使いなれているから、このていどの弾頭を組みたてるのは造作もなかっただろう。  専門家の見つもりによれば、この探査機はまた、ラーマの破壊に必要な最小の大きさだそうだ。船体のもっとも薄い部分──〈円筒海〉の下──で爆発させれば、そこに亀裂が生じ、あとは船体の自転によって自動的に崩壊するということである。  われわれの推測では、水星人がもしそのような行動を計画しているとしても、かれらはきみたちに充分な脱出時間をあたえるだろう。念のためいっておくが、この手の爆弾の出すガンマ線は、一千キロは離れていないと危険な可能性がある。  しかし、それ以上に重大な危険がある。ラーマの破片だ。重さが何トンもあり、時速一千キロに近いスピードで飛びちる破片は、きみの艦がどれほど[#「どれほど」に傍点]離れていても破壊できるだろう。したがって、脱出のさいは自転軸沿いに進むこと。その方角なら、破片は飛んでくるまい。最低安全距離は一万キロと考える。  この通信は傍受されることはない。多相《マルチプル》=偽装《シュード》=無作為《ランダム》通信回路で送られているので、私もふつうの英語でしゃべれるというわけだ。返信はそれほど安全ではないかもしれないから、慎重に送信し、必要に応じて暗号を使用するように。〈惑連総会〉の討議がすみしだい、また連絡する。通信終り。司令長官。以上」 [#改ページ]      38 惑 連 総 会  歴史の本によると──本気で信じる人はいないが──昔の〈国際連合〉には、百七十二国も加盟していたという。 〈惑星連合〉の加盟者はわずかに七星だが、それでもときには多すぎるほどだ。太陽からの距離の順でいうと、水星、地球、月、火星、ガニメデ、タイタン、トリトンである。  このリスト自体、あまりにも不完全で曖昧模湖としたもので、将来正しく訂正されなければならないだろう。批判者たちがつねづね指摘してやまないのは、〈惑星連合〉と称しながら、そのじつ加盟者の大半は惑星ではなく、衛星ではないかということだ。それに、四大巨星の木星、土星、天王星、海王星が入っていないのはおかしいではないかと……。  しかし、これらのガス体巨星にはだれも住んでいないし、将来もその見こみはない。同じことが、もう一つの重要な末加盟者、金星についてもいえそうである。いちばん情熱的な惑星技術者でさえ、金星を屈服させるにはあと何世紀もかかるだろう、という点では意見が一致していた。もっとも、水星人たちは早くからこの惑星に目をつけており、おそらく長期にわたる征服計画をねらっているにちがいない。  地球と月がそれぞれ別に代表を出しているということも、つねに争因の一つになっていた。ほかの加盟者は、それでは太陽系の一ヵ所に権力が集中しすぎる、と主張するのだ。だが、月には、地球以外のどの星よりたくさんの人口が住んでいるし──〈惑星連合〉の会議場がおかれている[#「おかれている」に傍点]のも、月である。そのうえ、地球と月はことごとに意見が対立しているから、将来も危険なブロックを組むことはまずなさそうだった。  火星は小惑星《アステロイド》群を信託統治下においていた──例外はイカルス・グループ(水星に管理されている)と、近日点を土星軌道以遠にもつひと握りの小惑星群──したがって、タイタンが領有権を主張していた──だけだ。やがていつか、小惑星でも比較的大きいパラス、ヴェスタ、コーノ、ケレスあたりがその重要性を増して大使を送るようになり、〈惑連〉加盟星の数は二《ふた》けたに達するようになるだろう。  ガニメデはただ木星を代表するだけでなく──だから、質量の点からいえば、太陽系のほかの部分ぜんぶを合わせてもかなわない──残りの五十かそこらある木星衛星群をも代表していた。この数字は、もし|小 惑 星 帯《アステロイド・ベルト》から一時的に保獲されたものを入れたらの話だが(法律家たちはこの点でまだ異議をとなえている)。同じ意味で、タイタンも土星とその環と三十いくつかの衛星群とをまとめて代表していた。  それに輪をかけてこみいっているのは、トリトンの立場である。この海王星の大衛星は、人類が定住する太陽系最外縁の天体で、結果的にその大使は、かなりの数の肩書をしょいこむことになった。かれが代表するのは、まず天王星とその八個の衛星(どれもまだ無人)、海王星とトリトン以外の三個の衛星、冥王星とその唯一の衛星、そして独りぼっちで衛星のない冥妃星《ペルセボネ》というぐあいだ。もし冥妃星以遠にも新惑星があれば、それもトリトンの管轄となるだろう。それでもまだたらないというつもりか、わが〈外周暗黒世界大使〉(ときどきそう自称するのだ)閣下は、もの欲しそうにこう訊ねたといわれている。 「彗星はどうするのです?」  この問題の解決は未来にゆだねよう、というのがおおかたの意見だった。  しかし、きわめてまじめな意味で、その未来がもう来てしまっていた。ある定義からすれば、ラーマはたしかに[#「たしかに」に傍点]彗星だからである。恒星間の深淵からやってくる訪問者は彗星だけで、その多くはラーマよりもっと太陽に接近する双曲線軌道をとる。宇宙法学者ならだれでも、その点で有利な主張を展開できるだろう──そして〈水星大使〉は名うての宇宙法学者の一人だった。 「水星大使閣下の発言を認めます」  各代表の席次は、太陽からの距離の順に左まわりとなっていたので、水星人は〈議長〉のすぐ右隣りに坐っていた。ぎりぎりの時間まで、かれはコンピューターに顔をくっつけていたが、ようやく、表示スクリーン上の通信が他人に盗み読みされるのを防ぐ同調めがねをはずした。  かれはひと束のメモを手にすると、きびきびした身ごなしで立ちあがった。 「議長ならびに誉れ高い同僚代表諸君、私はまず、われわれが直面している状況の短い総括からはじめたいと思います」  代表のなかには、短い総括≠ニ聞いて内心うめく者もいただろうが、水星人はいつも本気でものをいうことは、だれもが知っていた。 「ラーマと命名されたかの巨大な宇宙船、というか人工|小惑星《アステロイド》が探知されたのは、一年以上も前で、木星の外域においてであります。当初は自然の天体で、双曲線軌道をとって太陽をめぐったあと、また宇宙へ去っていくものと信じられておりました。  その真の正体が発見されるや、太陽系調査局船エンデヴァー号がランデヴー命令を受けました。私はみなさんとともに、このユニークな任務をかくもみごとに能率よく成しとげたノートン中佐とその部下に対し、お祝いを述べたいと思います。  当初、ラーマは死んでいると──何十万年間も凍結していては、とても蘇生の可能性はないと信じられておりました。厳密に生物学的な意味からすれば、この考えかたはまだ正しいのかもしれません。この方面の研究者の一般的見解として、いかなる複雑な有機生命も、|生 体 仮 死 保 存《サスペンデッド・アニメーション》の状態ではほんの数世紀以上は生きながえられない、とのことであります。たとえ絶対零度下においても、残存量子効果が結果的に細胞質情報を消し去りすぎて、とうてい蘇生を不可能にしてしまうのです。それゆえ一時は、考古学的にはとほうもなく重要であるにしても、ラーマはさほど大きな宇宙政治問題にはなるまいと思われておりました。  これがきわめて素朴にすぎる姿勢であったことは、いまや明らかであります。もっとも、ラーマが偶然にしてはあまりに正確に太陽方向をめざしている、と最初から指摘していた人もおりますが。  たとえそうだとしても、これは実験が失敗した結果なのだ、という主張もできるかもしれません──いや、実際にそういう主張もありました。ラーマはねらった目標には到達したのだが、乗ってきた知的生命体は生き残れなかったというのです。この見かたもやはり、あまり単純にすぎるようであります。われわれの当面している生物を見くびりすぎるといわざるをえません。  われわれが考慮に入れなかった誤りは、非[#「非」に傍点]生物的生命の生き残れる可能性でした。ぺレラ博士のきわめて説得力ある仮説は、すべての事実にぴったり適合しておりますが、もしこの説を認めるならば、ラーマ内で観察された生物は、ごく最近誕生したことになります。かれらのパターン、というか|型 板《テンプレート》は、中央情報バンクのようなところに蓄えられていて、機が熱すると、手ぢかの原材料──たぶん〈円筒海〉の金属有機物が溶けこんだ海水でしょう──から製造されるわけです。そのような離れわざは、現在のわれわれの能力ではまだ不可能ではありますが、理論的にはなんの問題も残されておりません。周知のように、ソリッドステート回路は、生体とちがい、情報を失うことなく無限の時間蓄えておくことができるのです。  かくしてラーマはいまや、完全に活動状態に入って、その製作者たち──だれなのかはともかく──の意図を遂行しようとしております。われわれの観点からすれば、ラーマ人自身が百万年前に死に絶えていようと、そうではなく、かれらもまた奉仕者たちにつづいて近いうちに再創造されようと、そんなことはどうでもいいのです。  ラーマ人がいようといまいと、かれらの意志はいま遂行されつつあり──今後も遂行されつづけるだろうからであります。  ラーマはまた、その推進|機構《システム》が作動中であることも証明してくれました。数日後には近日点に達し、そこで軌道の大修正をおこなうということが、論理的に考えられます。その結果、われわれはもうじき新しい惑星をもつことになるかもしれません──わが水星政府の管轄する太陽系空間を移動していくのですから。あるいはもちろん、軌道に何度も修正を加えて、太陽から好きなだけ離れた空間に最終軌道を定めるかもしれません。大きな惑星の衛星になることさえできるのです──たとえば、地球の……。  それゆえに、わが同僚諸君、われわれはいま、あらゆる範囲の可能性に直面しているのであります。しかも、そのうちいくつかは、きわめて容易ならざる可能性であります。これらの生物は友好的にちがいない[#「ちがいない」に傍点]から、われわれにはけっして干渉してこないだろう、と楽観するのは愚かなことです。わざわざ太陽系をめざしてきたからには、何か必要とするものがあるからに決まっています。一歩ゆずって、ただ科学調査の目的にすぎないとしても──その知識がどう使われるか、という点を考えていただきたい。  われわれが直面しているのは、何百年──いや、おそらく何千年──もわれわれより進んだテクノロジーであり、われわれの文化とは少しの共通点ももたないかもしれない文化[#「文化」に傍点]であります。われわれはラーマ内の生物学的ロボット──バイオット──の行動を、ノートン中佐が送ってきたフィルムから研究したすえ、ある結論に到達いたしました。それをこれからおつたえしたいと思います。  水星には不幸にして、観察対象となるような原住生物はおりません。しかし、むろんわれわれにも地球動物学の完全な記録があります。そしてそのなかに、ラーマと驚くほど似かよったものを発見したのです。  それはシロアリの群体《コロニー》であります。ラーマのように、それは統制された環境をもつ人工的世界です。ラーマのように、その機能は特殊化された一連の生物学的機械全体に依存しています──労働者、建設者、農夫──おまけに兵士までいるのです。ラーマにも〈女王〉がいるかどうかまでは知りませんが、〈ニューヨーク〉と呼ばれる島が同じような機能をはたしている、とだけ申しあげておきましょう。  もっとも、このようなアナロジーをどこまでも追いかけるのは、明らかにばかげています。多くの点で食いちがいが出てくるに決まっておりますから。しかし、あえてお聞きいただいたのには、わけがあるのです。  人類とシロアリとのあいだには、はたしてどの程度の協力や理解が可能でしょうか? 利害がかちあわぬときは、おたがいに我慢できます。だが、相手の領土や資源が必要なときには、容赦なく攻撃が加えられます。  われわれのもつ技術力と知性のおかげで、断固戦う決意をしたときには、つねにわれわれの勝利に終わっております。しかし、ときにはそう簡単に決まらないこともあり、長い眼で見れば、最後の勝利はシロアリのものだと信じている人さえいるほどです。  以上を念頭においたうえで、ラーマが人類文明にあたえるかもしれない──あたえるにちがいない[#「ちがいない」に傍点]とはいいませんが──すさまじい脅威のことを考えていただきたい。われわれは最悪の事態にそなえて、何か対抗手段をとったでありましょうか? まったく何ひとつとってはおりません。われわれはただ、話しあい、考え、学術的な文章を書いただけです。  ところで、わが同僚諸君、水星だけはそれ以上のことをやってのけました。〈二〇五七年宇宙条約〉の第三十四条、太陽系の安全を守るに必要ないかなる処置をもとる権利を定めた規定にもとづいて、われわれはラーマに向けて、高エネルギー核装置を急派したのであります。もちろん、使用せずにすめば、それに越したことはありません。しかし、いまや少なくとも、われわれは無力ではないのです──以前のようには。  われわれがなんら事前の協議なしに、一方的にことを運んだことは、問題かもしれません。それは率直に認めます。しかし、まにあううちにそのような同意をわれわれが取りつけられただろうとは、この場におられるどなたも──非礼はお許しください、議長──お考えにならないはずです。われわれのとった行動はわれわれ自身のためだけではなく、全人類のためなのだと考えております。未来の全世代はいつの日か、われわれの先見の明に感謝してくれることでありましょう。  とはいえ、ラーマほどのすばらしい人工物を破壊することは、悲劇──いや、犯罪でさえあることは認めざるをえません。もし人類への危険なしに[#「人類への危険なしに」に傍点]、この破壊を回避できる方法があるなら、われわれは喜んでそれをお開きしたい。現在のところ、それは見つからず、時間切れになろうとしています。  ラーマが近日点に達するまで、あと数日のうちに、決断をくださなければなりません。もちろん、エンデヴァー号には充分余裕をもって、警告を出しますが──ノートン中佐にも、いざとなったら一時間前の予告ですぐ退避できる準備をおこたらないよう、勧告したい。ラーマがいつなんどきまた、劇的変化をとげないとも限りませんから。  私の発言は以上であります、議長ならびに同僚諸君。ご静聴に感謝します。みなさんのご協力を期待します」 [#改ページ]      39 指揮官決定 「なあ、ボリス、水星人ていうのは、きみの神学にどうあてはまるんだね?」 「ぴったりすぎるほどですよ、中佐」と、ロドリゴ中尉は、ユーモアのない笑いをうかべて答えた。「善と悪との戦いは昔からつづいています。ときには、人類がそのどちらかにくみしなければならない場合もあります」  そんなことだろうと思っていた、とノートンは心の中でつぶやいた。この状況は、ボリスにとってショックにちがいないが、かれはあきらめて黙従する男ではない。〈宇宙《コズモ》キリスト〉派の人びとは、きわめて精力的で有能である。実際ある面では、かれらはおどろくほど水星人に似ていた。 「いい手がありそうだな、ロッド」 「はい、中佐。ごくごく簡単なことですが──爆弾を不発にしてしまえばいいんです」 「なるほど。で、どうやって?」 「小さなワイヤカッターを使います」  これがほかのだれかなら、ノートンも冗談と受けとったろう。だが、ボリス・ロドリゴとなると話は別だ。 「ちょっと待て! あれにはカメラがにょきにょきついている。水星人が黙って見ていると思うか?」 「もちろん。かれらに打つ手がありません。信号がかれらのところへいつ着いたにしても、そのときはもう手遅れなのです。作業は十分もあれば完了します」 「わかったよ。連中、きっと頭にくるだろうな。だが、一触即発のブービートラップがしかけられていないともかざらんぞ」 「考えられませんね。あれの目的はなんです? 特別製の深宇宙探険用の爆弾ですから、命令以外では[#「以外では」に傍点]爆発しないようにあらゆる安全装置がついているにきまってます。その程度の危険は覚悟のうえです──それに艦を危険から守ることもできます。あらゆる面を検討ずみです」 「きみなら、きっとやれる」と、ノートンはいった。  このアイディアは魅力的だった──どちらかというと誘惑的でさえある。水星人の裏をかくというところがとくにたまらなかった。このおそろしい玩具に何がおこったか気づいたとき──もうあとの祭りだが──かれらがどんな反応を示すか、これは大変なみものだ。  だが、ほかにも厄介な問題がある。それを考えれば考えるほどノートンには難問にみえてきた。かれはいま自分の全軍歴中で最高にむずかしく、かつ決定的な判断を迫られていた。  いや、そのような表現は適切ではない。かれはかつてどんな[#「どんな」に傍点]指揮官が直面したこともない難問に直面しているのだ。人類の未来がこの一事にかかっているかもしれない。  かりにもし水星人の考えが正しかったら[#「正しかったら」に傍点]どうするのか?  ロドリゴが出ていくと、ノートンは〈入室禁止〉表示のボタンを押した。この前はいつ使ったのか記憶になかったので、灯りがついたときには、ちょっとびっくりした。いまや乗組員がひしめき騒ぐ艦内にあって、かれは完全に孤独だった──時の回廊のむこうからかれをみつめているキャプテン・ジェイムズ・クックの写真をのぞいては。  地球と打合わせすることもできない。すでにあらゆる通信が傍受されている可能性があると警告されていた──たぶん爆弾の中継装置がその役をやっているのだろう。したがって、全責任がいまやかれの双肩にかかっているのだ。  あるアメリカ合衆国大統領──ルーズヴェルトだったかペレズだったか──の話をどこかで聞いたことがある。「責任のがれはするな」という座右銘をデスクの上に置いていたというのだ。ノートンには、その意味がもうひとつピンとこなかったが、現在その立場になってみると、その気持がよく理解できた。  何もしないで水星人の避難勧告を待ちつづけることもできる。だが、未来において歴史はかれをなんと評価するだろうか? ノートンは死後の名声や悪評などにはたいして関心がなかったが、さりとて、防ぐ力をもちながら、宇宙犯罪の従犯者として永久に記憶される気もさらさらなかった。  この計画は完璧である。ノートンが期待したとおり、ロドリゴはごくこまかな部分まで稠密に予測していた──爆弾にさわった瞬間引金をひいてしまうかもしれないというごくわずかな危険性まで考慮にいれている。そうなっても、ラーマの陰にいればエンデヴァー号は安全だというのだ。ロドリゴ自身、その瞬間に神として祀られるようになることを、完全な平静さで受けとめているようだった。  しかし、首尾よく爆弾を処理できたとしても、問題の解決からはまだほど遠い。なんとかやめさせる方法がみつからなければ、水星人はまたやるかもしれないのだ。とはいえ、最低一週間ほどは時間をかせいだことになるし、ラーマ自体も別のミサイルが到着するころには、近日点をはるかすぎている。そのときまでには、心配性の人たちの懸念もすべて反証されているだろう。もしかすると、その逆かもしれないが……。  やるべきかやらざるべきか──それが問題だ。  ノートンはかのデンマーク王子をこれまでになく身近に感じた。何をしようとも、結果が吉凶いずれになるかはきっかり五分五分のように思われた。かれはあらゆる決断の中で、もっとも倫理的にむずかしいそれに直面していた。自分の判断がまちがっていれば、すぐにわかるだろう。しかし正しかったとしても──それを証明することはけっしてできない。  これ以上議論してみても、あれこれとるべき道をいつまで考えつづけても、なんにもならなかった。迷いはじめたら最後、永遠に堂々めぐりをつづけるだけである。心を静めて、内なる声を聞くときが来ていた。  キャプテン・クックの穏やかだが確固たるまなざしが何世紀もの時を越えてかれをみつめ、かれも見かえした。 「わたしもそう思います」かれはつぶやいた。「人類は良心に恥じることなく生きていかねばなりません。水星人がどういおうと、生き残ることがすべてではないのです」  ブリッジ呼び出しボタンを押すと、ゆっくりといった。 「ロドリゴ中尉、来てくれたまえ」  そして目を閉じて、親指を椅子の拘束ベルトに引っかけると、ほんのわずかのあいだ完全なくつろぎを楽しもうとした。このつぎこんな気分になれるのは、きっとずっと先のことになるだろう。 [#改ページ]      40 サボタージュ  スクーターは不必要な部品をすべて取りはずされていた。いまではただむきだしの車体に推進装置、誘導装置、生命維持装置がついているだけだ。第二パイロットのシートまで取り除かれている。よぶんな質量は特別任務の貴重な時間をむだについやすことになるからである。  ロドリゴが一人で行くといいはった理由のひとつはそれだった、もっとも最大の理由というわけではなかったが。仕事自体は簡単で手助けがいるほどではないし、一人分の質量は飛行時間にして数分の格差となって現われる。丸裸にされたスクーターは三分の一G以上の加速が可能になり、エンデヴァー号から爆弾までわずか四分で行けるのだ。あとまだ六分ある。それだけあれば充分なはずだった。  ロドリゴは艦を離れるときに、一度だけ振りかえった。計画通りに、エンデヴァー号は中心軸から離れ、〈北端面〉の回転円盤上をゆっくりとよぎって行くのが目に入ってきた。かれが爆弾につくころには、爆弾とのあいだに、ラーマの巨体をはさむことになるだろう。  かれはゆっくり時間をかけて北極平面を飛びこえていった。まだ急ぐことはない。爆弾のカメラにはまだ姿をとらえられていないはずだし、こうすれば燃料を節約することになる。  ついでラーマの彎曲した縁を飛びこえた──ミサイルが見えた。それが生れた水星の上よりもすさまじい陽光に照らされてぎらぎら輝いている。  ロドリゴはすでに飛行指示をパンチしてあった。いまはただそのシークエンスを開始するだけだ。スクーターはジャイロで回転し、数秒後に急加速に入った。潰されそうな感じの重圧がかかってきたが、ロドリゴはすぐに順応することができた。ラーマ内部でもその二倍の重力をらくらくしのいできたし──第一、かれはその三倍もある地球上で生まれた男だった。  全長五十キロに達するシリンダーの巨大な曲面外壁が、爆弾に向かってまっしぐらに進むにつれて徐々に足もとに沈んでいった。それでもあまりに表面が滑らかで特徴もないため、そのサイズを推しはかるのは不可能だった──じっさい特徴にとぼしすぎて、回転していることさえもわかりかねるほどなのだ。  作戦開始後百秒にして、もう中間点にさしかかっていた。爆弾はまだその細部を見きわめるほど近くはないが、漆黒の宇宙をバックにますます明るく輝いている。星ひとつ目に入らないというのはおかしなものだ──明るい地球や目もくらむほどの金星すら見えない。じつは眼を閃光から守るための暗色フィルターのせいだった。  おれは記録を破っただろうとロドリゴは思った。こんなに太陽まぢかで船外任務についた人間は、いままでいなかったはずなのだ。太陽活動の不活発な時期だったことは運がよかった。  二分十秒後、警告灯がぽんと飛び出て明滅をはじめ、噴射が停止してスクーターは百八十度転回した。ただちに全噴射が再開されたが、いまやかれは毎秒毎秒三メートルという同じ気ちがいじみた速度で減速に入りつつあった──推進燃料の半分近くをすでに消費しているので、実際のところ加速時よりはいくらかましだ。  爆弾は二十五キロ先にある。あと二分でつくだろう。かれは最高速度を毎時千五百キロまで出していた──スペース・スクーターとしては完全に狂気のさたで、これまた記録破りだろう。しかし、これはきまりきった船外活動《EVA》などではないし、かれも何をしようとしているのかよく自覚していた。  爆弾がぐんぐん大きくなってきた。もう主《メイン》アンテナが──見えない水星にピタリと照準を合わせている──はっきりとわかる。あのアンテナから発せられた電波には、すでに三分前から、近づいてくるスクーターの映像が乗せられて、光のスピードで飛んでいるはずだ。それが水星につくにはまだ二分はかかるだろう。  水星人はかれの姿を見たときどうするだろうか?  当然、肝をつぶすほど驚くにちがいない。そしてこの光景を目にしたときには、すでに数分前にかれが爆弾とランデヴーしてしまっていることに、すぐ気づくにちがいない。おそらく上司が呼ばれることになるだろう──それにもまたいくらか時間がかかる。最悪の場合でも──つまり当直将校に起爆の権限があって、ボタンをただちに押したとしても──その信号が到着するまでには、さらに五分かかるのだ。  だが、ロドリゴはそんなあやふやな賭けをするつもりはなかった──〈宇宙《コズモ》キリスト〉教徒たちはけっして賭けごとなどしないのだ──そのような即座の対応などありえないと確信していた。  水星人はエンデヴァー号からの偵察機を破壊することをためらうにちがいない、たとえその意図をうすうす感じていたとしてもだ。かならずまずなんらかの形で通信を試みようとするだろう──それはもっと[#「もっと」に傍点]時間をかせげることを意味する。  理由はまだあった。たかがスクーター一台にギガトン爆弾を使うようなばかなまねをするわけがないということだ。標的から二十キロも離れたところで爆発させたのでは、まるでむだになってしまう。それよりまず動かしにかかるにちがいない。それならなおのこと時間がある……それでもかれは、最悪事態を想定しつづけていた。  起爆信号が最短可能時間でとどくことを予想して行動していたのだ──あとわずかに五分。  スクーターが最後の数百メートルを近づくあいだに、ロドリゴはまえもって望遠撮影の写真で調べておいた細部を、まのあたりに見るものとすばやく照合させていった。ただの写真の集積であったものが、いまは冷たい鋼と滑らかなプラスティックに──もはや抽象的な存在ではなくおそろしい現実に変っていた。  爆弾は長さ十メートル、直径三メートルの円筒形だった──奇妙な偶然だが、ラーマそのものの形に酷似していた。運搬ロケットの骨組に、むきだしの短いI型鋼の格子で固定されている。重心の関係か何かのせいだろう、ロケットの軸方向に対して直角に[#「直角に」に傍点]とりつけられているので、どことなく邪悪なハンマーの姿を連想させた。じっさい、世界を一撃で砕いてしまうハンマーにちがいない。  爆弾の両端からは、編み束になった何本ものケーブルが円筒状の側面に沿って伸び、格子を通ってロケット内部へと消えていた。すべての通信と制御がここでおこなわれているのだ。爆弾自体にはどんな種類のアンテナもついていなかった。ロドリゴがこの二組のケーブルを切断しさえすれば、あとはもう無害な金属のガラクタが残るだけになるだろう。  予想はしていたことだったが、なんだか簡単すぎるように思われた。時計をちらりと見る。ラーマの縁をまわってかれが出てきたのを水星人が見ていたとしても、かれの存在に気づくまで、まだ三十秒ある。邪魔なしでまるまる五分間仕事ができる──九十九パーセントの確率で、時間はもっとあるにちがいない。  スクーターが完全に静止すると、ロドリゴはすぐ、ミサイルの骨組にスクーターをひっかけ鈎でつないで、両者をしっかり固定させた。数秒とかからなかった。あらかじめ選びだしてあった道具をひっつかむと、完全絶縁宇宙服のおかげでいくらかぎくしゃくしながら操縦席を出た。  調べはじめて最初に目についたのは、次のような銘文の刻まれた小さな金属板だった。 [#ここから3字下げ] 〈動力技術省D局〉 ヴァルカノポリス一七四六四 サンセット大通り四七番地 お問い合せはヘンリー・K・ジョーンズまで [#ここで字下げ終わり]  もうじきジョーンズ氏はとてつもなく忙しくなるだろう、とロドリゴは思った。  大型のワイヤカッターで、ケーブルは簡単に始末できた。はじめの束を切り離したときも、わずか数センチ先に閉じこめられた地獄の炎のことなど、ほとんど考えなかった。これで爆弾の引き金を引いてしまっても、どうせそうと知ることはないのだ。  かれはまた時計に目をやった。一分とかかっていない。ということは、スケジュール通りということだ。あともう一本、予備ケーブルを切りさえすれば、水星人の憤激と挫折に満ちたまなざしに見守られながら、帰投することになる。  ちょうど二つ目のケーブル束にとりかかったとき、触れていた金属にかすかな震えを感じた。かれはびっくりして、ミサイルの後部に目をやった。プラズマ推進ジェットに特有の青紫色の光が、姿勢制御ジェットのひとつから出ている。  爆弾が動きはじめようとしていた。  水星からの通報は簡潔だが、あらあらしいものだった。それがとどいたのはロドリゴがラーマの縁をまわって消えてから、わずか二分後のことだった。 [#ここから3字下げ] エンデヴァー号指揮官へ インフェルノ市西、水星スペースコントロールより [#ここから5字下げ] 本通報受理後一時間以内に、ラーマ近辺を離れよ。軸方向へ全力加速で進むよう勧告する。受理通知を要求する。通報終り。 [#ここで字下げ終わり]  ノートンは読んでもまるで信じられなかったが、そのうち腹が立ってきた。全乗組員がラーマ内部にいて、全員が脱出するには何時間もかかることをすぐ返電してやろうかと、子供じみた衝動にかられた。しかし、それではなんにもならない──水星人の意志と神経を試すことになるだけだ。  それにまたなぜ、近日点までまだ数日あるのに、行動にうつることに決めたのか? 水星の世論が盛りあがりすぎて押さえきれなくなったので、かれら以外の人類に|既成の事実《フェイタコンプリ》≠押しつけようと決心したのだろうか。だが、これはこじつけすぎるように思えた。水星人の性格にはそんな過敏さはないはずである。  ロドリゴを呼びもどす手だてはなかった。スクーターはいま、ラーマの陰にあって電波はとどかず、視界に入るまで連絡はできない。つまり任務を果してもどってくるまで──あるいは失敗して帰るまで、だめだということだ。  タイムリミットまで待たねばならないだろう。時間はまだ充分ある──たっぷり五十分だ。そのあいだ水星に対してはもっとも手厳しい返事をしてやることに決めた。  通報は完全に無視して、次に水星がどんな手でくるか、見てやることにしたのである。  爆弾が動きだしたとき、ロドリゴが最初に感じたのは肉体的恐怖ではなく、もっとずっとあらあらしいものだった。宇宙は厳格な法則のもとに動き、それには神すらもしたがわざるをえないと彼は信じていた──まして水星人はなおさらのことだ。通信は光より速く送れない。水星がどんな手に出ようと、かれは五分先を行っているはずだったのだ。  偶然の一致としか考えられない──ちょっと信じられないほどだが、致命的な一致というだけのことだ。かれがエンデヴァー号から出発したちょうどそのころに、偶然、制御信号が爆弾に送りだされたのにちがいない。かれが五十キロ飛ぶあいだに、信号は八千万キロを飛んだのである。  もしかすると、ロケットの部分的過熱を防ぐための、自動的な姿勢修正にすぎないかもしれない。げんに外装の一部では、千五百度近くまで温度が上っているので、かれもできるだけ陰の部分にいるよう注意をおこたらなかった。  べつの推進装置が火を噴きだして、最初の噴射がおこした自転《スピン》を止めた。もう明らかに、ただの温度調節運動ではない[#「ではない」に傍点]。爆弾は新たにねらいを定めて、ラーマに向かおうとしているのだ……  この場におよんで、どうして[#「どうして」に傍点]こんなことに、などと思い悩んでもしかたがない。たったひとつかれにとって有利な点がある。このミサイルは低加速装置なのだ。最大加速でもせいぜい十分の一Gにしかならない。なんとかしがみついていられるだろう。  かれはスクーターを爆弾の骨組に止めている金具をチェックし、宇宙服の命綱ももう一度調べなおした。冷たい怒りがこみあげてきたが、決意はますます固まった。  この一連の動きは、水星人が警告もなしに爆弾を爆発させ、エンデヴァー号に逃げるチャンスもあたえないということなのだろうか? いや、それはありそうもない。野蛮だというだけでなく、全太陽系を敵にまわしそうな愚行とさえいえる。それに、自分たちの大使の厳粛な保証を無視してしまうことにもなる。  どんな計画があるにせよ、かれらがうまうまとやり遂げられるはずはなかった。  第二の通告は最初のそれとまったく同じ文面で、十分後にとどいた。これでタイムリミットを延ばしたことになる──ノートンにはまだ一時間あった。それに再度の呼びかけをする前に、明らかにエンデヴァー号からの返信を待っていたようだ。  ただ、いまはもうひとつの要素が生まれていた。すでにかれらはロドリゴのことに気づいているにちがいないし、次の行動を決めるのに数分かかるとしても、決断はもうくだされているだろう。すでに次の通達が発せられているということもありうる。いまにもとどくかもしれないのだ。  避難の準備をしなければならない。いつなんどき視界いっぱいに広がったラーマの壁が白熱し、太陽をもはるかにしのぐほどの勢いで一時に輝きだすかもしれないのだ。  主噴射がはじまったとき、もうロドリゴはしっかりと身体をしばりつけていた。わずか二十秒つづいただけで、噴射は切れてしまった。すぐに暗算してみると、ロケットの獲得速度は時速十五キロ以上になりえないとわかった。爆弾がラーマにつくには一時間以上かかる。もっと近くに寄って、事態にすばやく対処できるようにしておこうというだけなのかもしれない。だとすれば、賢明な処置ではある。  だが、水星人がどんな手を打とうと、もうあとの祭りだ。  チェックするまでもなく、時間の経過は頭に入っていたが、ロドリゴはちらりと時計に眼をやった。水星ではいまちょうど、かれが爆弾に向けて果敢に飛びつづけ、あと二キロほどに迫っているのが見えるころだ。かれの意図は疑いようもないし、もう仕事をやりおおせてしまったかどうか気をもんでいるにちがいない。  第二のケーブル束も、最初のと同じように簡単に始末できた。プロはみんなそうだが、ロドリゴも上手に道具を選んでおいたからだ。爆弾はもはや無力だった。もっと正確にいうなら、もはや遠隔制御で爆発させることは不可能だった。  しかし、いまひとつ可能性が残されていた。それを無視することはできなかった。外部には接触信管がないが、内部に対衝撃信管がとりつけられているかもしれない。ミサイル自体の運動はまだ水星人のコントロール下にあるから、いつでも望むときにラーマにぶち当てることができる。ロドリゴの任務はまだ完了していなかった。  あと五分後には、水星のどこかの|管 制 室《コントロール・ルーム》で、かれがロケットの上をはいずりまわって、手にしたちっぽけなワイヤカッターで人類の生みだした最強の兵器を無力にしようとしている姿が見られるだろう。かれはよっぽどカメラに向かって手を振ってやろうかと思ったが、品がないと思われるといけないので思いとどまった。なんといってもかれはいま、歴史[#「歴史」に傍点]を作っているのだ。そして何百万という人々が将来この光景を見るのだ──水星人たちが腹立ちまぎれに記録を消してしまわなかったとしたらの話だが。もっともそうなったとしても、かれには非難するつもりはなかった。  長距離アンテナの基台にたどりつくと、かれは側面を両手でたぐるようにして|パラボラ・アンテナ《ビッグ・ディッシュ》へ身体を漂いよせた。手になじんだカッターは、こんども多重送信システムをかるく始末し、ケーブルもレーザー波誘導装置もだいなしにした。最後にパチンとちょん切ると、アンテナはおもむろに回転をはじめた。思いがけなかったのでぎょっとしたが、わかってみればどうということもない。水星への自動照準がいかれてしまっただけなのだ。いまから五分後には、水星人はこの召使いと、すべてのコンタクトを失うことになる。力をとりあげられただけでなく、めくらつんぼになってしまうのだ。  ロドリゴはゆっくりスクーターにもどると、つないだ鈎をはずして、前部バンパーがミサイルのちょうど重心にあたるように、スクーターを転回させた。そしてフルパワーで噴射をはじめ、そのまま二十秒つづけた。  スクーターの何十倍という質量を押すので、なかなか手ごたえがなかった。噴射を止めると、ロドリゴは爆弾の新らしい速度ベクトルを慎重に見さだめようとした。  ラーマからはだいぶ離れることになりそうだ──が、見つけようと思えば、いつでも正確に位置を計算できる。なんといっても、きわめて高価な代物なのだ。  ロドリゴはどちらかというと、病的なほど誠実な男だった。それで、水星人から損害賠償で告訴されるかもしれないと心配しているのだった。 [#改ページ]      41 英  雄 「ダーリン」と、ノートンははじめた。「このばか騒ぎのおかげで、まるまる一日、むだになってしまった。もっともそのおかげで、こうしてお前に話すことができるわけだ。  私はまだ艦にいる。極軸の基地へ戻ろうとしているところだ。一時間前にボリスを拾いあげたが、平穏無事な当直が終ったばかりというような顔してたよ。私たちはもうけっして水星へ行けないだろうし、地球に帰ったときにだって、英雄扱いされるか悪者呼ばわりされるか、わかったもんじゃないと思っている。まあ、良心に恥じず、というところだ。私たちは正しいことをやったと確信してるよ。ラーマ人がサンキュー≠ニいってくれるだろうと思ってるぐらいだ。  あとわずか二日しか、ここにはいられない。ラーマとちがって、太陽から守ってくれる厚さ一キロの外装なんてないからね。艦体の一部はもう温度が上昇して危険なほどで、遮光スクリーンを張らなければならない。ああすまん──こんな話で退屈させるつもりじゃなかったんだが……。  そんなわけで、ラーマへはもう一度だけ行く時間しかないんだが、その機会はフルに利用するつもりでいる──もっとも、むちゃなことはしないから、心配しないでくれ」  かれは録音をやめた。ごくひかえめにいっても、そのいいかたは真実をごまかしていた。ラーマのなかでは、一秒一秒が危険と不確定要素でいっぱいなのだ。理解を越えた現象のもとで、くつろげる人間などいはしない。それにこの探険を最後として、二度と戻ってくることもなく、今後の作戦が危険にさらされることもないのだ。  かれは自分の運を目いっぱい使ってがんばってみるつもりだった。 「四十八時間後には、そんなわけで、この作戦もいよいよ終了というわけだ。それからあとまたどうなるかはわからない。もう知っているだろうが、この軌道にのるために、事実上、燃料を使いはたしてしまったのだ。地球帰還にまにあうようにタンカーとランデヴーできるか、それとも火星に降りなければならないか、まだ連絡を待っている。どうなるにせよ、クリスマスまでには家に戻れると思う。息子に|生物ロボット《バイオット》の赤ちゃんを持っていけなくてすまん、といっておいてくれ。そういう動物はいなかったってね……。  私たちは全員、元気だ、ひどく疲れてはいるがね。ぜんぶすんでしまえば、長い休暇をもらえるから、このつぐないをするつもりだ。世間がどういおうと、きみは英雄のワイフだって公言できるよ。そうだろ、世界をひとつ救った男の妻なんて、そうざらにはいないんだからね」  いつもの習慣で、テープのコピーを作るまえに、かれは慎重に聞きなおし、二家族のどちらにも不都合がないように気をつけた。どちらに先に会えるかもわからないなんて、考えてみればおかしな話だ。ふだんならかれのスケジュールは、非情厳格な惑星の運動によって、少なくとも一年前から決められているのだが。  それもこれもラーマ以前の話である。これからは何もかもが大きく変わることだろう。 [#改ページ]      42 ガラスの聖堂 「もし手を出したら」と、カール・マーサーはいった。「バイオットが邪魔しないか?」 「かもしれない。それも探りだしたいことのひとつさ。なんでそんな眼つきでおれを見るんだ?」  マーサーは、乗組仲間とよくやるあまり品のよくないジョークに笑うときのように、にんまりした。 「いままではな、艦長《スキッパー》、きみをまるでラーマの主みたいだと思っていたんだよ。だって、建造物を壊してまでなかに入るのを固く禁じていたじゃないか。なぜ変わったんだ? 水星人からなにかヒントをもらったのかい?」  ノートンは笑いだしたが、突然それをやめた。痛いところをつかれた質問で、思いついた答も正しいという自信がなかったのだ。 「いわれてみれば、ちょっと用心深すぎたかもしれない──厄介ごとはごめんだったのでね。しかし、もうこれが最後のチャンスなんだ。退却しなければならないのなら、危険も割引いて考えてかまわんだろう」 「無事に退却できればの話だろ」 「そりゃそうさ。だが、バイオットたちはこれっぽっちも敵意を見せはしなかった。それにあの〈クモ〉を別にすれば、われわれに追いつけるものはここにはいないだろう──必死に走らなきゃならんとしてもね」 「あんたは走ればいいだろう[#「いいだろう」に傍点]が、艦長《スキッパー》、おれは威厳をもって引きあげるつもりなんだよ。それにたまたま、バイオットがわれわれに危害を加えないわけを思いついたんだ」 「新説を持ちだすには遅すぎるよ」 「まあ、ともかく聞いてくれ。やつらはわれわれをラーマ人だと思ってるにちがいない。同じ酸素生物だと区別ができないのさ」 「それほどまぬけだとはとても思えないな」 「まぬけとか利口とかいう問題じゃない。やつらは特定の仕事のためだけにプログラムされていて、われわれの存在はその認識域内にないにすぎないのさ」 「そのとおりかもしれんな。そのうちわかるだろう──〈ロンドン〉で仕事にかかればすぐにでもね」  ジョー・キャルヴァートは昔の銀行強盗映画の大ファンだったが、まさか自分がその真似をすることになろうとは夢にも思っていなかった。だが、かれはいま、本質的にそれとかわらないようなことをしようとしていた。 〈ロンドン〉のがらんとした通りがなぜか脅迫感をあたえるのも、自分がやましく思っているからだと、ちゃんとわかっていた。実際には[#「実際には」に傍点]、まわりの密閉され、窓ひとつない建物に、自分たちを油断なく見張っている住人がいて、侵入者が何かに手をつけたらすぐにでも、大挙して襲いかかろうとしている、などとは毛ほども信じていなかった。事実、この複雑な建造物も、ほかの町々と同じように、ただの倉庫みたいなものだと確信していたのだ。  とはいえ、昔の数えきれないほどのギャング物などから連想するもうひとつの恐怖のほうは、もっと根拠がありそうだった。警報ベルが鳴らず、サイレンが叫ばなくとも、ラーマにもなんらかの警報システムがあると仮定するのは理屈にかなっている。そうでなければ、バイオットはいつどこで、そのサービスが要求されているか判断できないではないか? 「ゴーグルをつけてない者は、うしろを向くように」と、ウィラード・マイロン軍曹が注意した。  レーザー熔断器のビームにあたって、空気までが焼かれはじめると、硝酸化物の臭気がたちこめ、シューシューという音とともに、炎の刃が、人類の誕生以前から隠されてきた秘密を、いまこそ明かそうと切り進んでいった。  これだけのエネルギーの集中に耐えられるものはなく、切断はスムーズに、毎分数メートルという早さで進行した。意外なほど短時間で、人が通れるぐらいの壁が切り取られた。  切り取った部分がそのまま動かないので、マイロンはそっとたたいてみた──もっと強くたたいた──ついで、力いっぱいなぐった。それは内側へ倒れこんで、ガーンとうつろな反響を残した。  ラーマにはじめて入ったときもそうだったように、ノートンは古代エジプトの王家の墓を開けた考古学者をふたたび思いだしていた。黄金の輝きを期待したわけではない。ほんとのところ、穴をくぐりぬけて前にかざしたフラッシュライトをつけるまで、何があるかなどまったく考えてもいなかった。  ガラス製のギリシャ聖堂──それが第一印象だった。内部には垂直に伸びた透明な円柱の列また列がひしめいている、おのおのの柱の幅は一メートルほどで、床から天井まで伸びていた。柱は何百という数で、光のとどくかぎり整然と並び、さらにそのむこうの暗闇へと消えている。  ノートンは手ぢかの柱に歩みよって、光をその中へあててみた。光は円柱状のレンズを通って、むこう側で広がり、その先でまた集束し、また散らばり、それをくり返すたびに弱まりながら、ずっと先の列柱まで照らしだした。まるで混みいった光学展示物のただなかにいるような気がした。 「じつに美しい」実際家のマーサーが口を開いた。「でも、なんのためだ? ガラスの柱などたくさん並べてどうするつもりなんだろう?」  ノートンは柱をそっとたたいてみた。うつろのようではなく、水晶よりも金属的な感じがする。すっかりとまどってしまったので、ずっと昔に教わった忠告どおりにすることにした。 自信がないときは、何もいわずに次へ進め  最初の柱とまったく同じように見える次の柱へ向かおうとすると、マーサーの驚きの叫びが聞えた。 「さっきこの柱はたしかに中がからっぽだった──。それがいまはなにかが入っている」  ノートンはさっと振りかえった。 「どこだ? 何も見えないぞ」  マーサーが指さす方向に目をやった。そこには何もなかった。柱は完全に透明だった。 「これが見えないのかい?」信じられないというように、マーサtがいった。「こっち側に来てみろよ。あっ──見えなくなってしまった!」 「ここじゃいったいどうなってるんです?」キャルヴァートが詰問した。  なんとか理由が呑みこめるようになるまでには、数分かかった。  円柱は、どの角度から見てもどんな照明のもとでも透明というわけではなかった。ぐるりを回ってみると、突然、眼前に内容物が現われ、ちょうど琥珀のなかに眠る蝿のように、柱に埋めこまれているのがわかった──だが、すぐまた消えてしまうのだ。  それが何十となく見つかったが、ひとつひとつみなちがっていた。完壁な実体を備えているもののように見えながら、同一空間に存在していたりするのだ。 「ホログラムだ」と、キャルヴァートがいった。「地球の博物館みたいな」  しごく簡単明瞭な説明だったので、かえってノートンは疑問を感じた。柱から柱へと調べながら、その内部に蓄えられたさまざまな映像を呼びおこしていくうちに、その思いはますます強まった。  手工具(ただし、ばかでかくて奇妙な手に合わせたものだが)、容器、五本指以上でないと操作できそうもない鍵盤をもつ小型機械、科学計器類、驚くほど類型的な日常用品、これには地球のテーブルにはサイズがまるで合わないにしろ、ナイフや皿まであった……さらにもっとわけのわからない代物が何百となく、ときには一本の柱の中にごちゃまぜにされてつめこまれている。  博物館だったら、もう少し論理的な配列に、つまり関連品目別に分離してありそうなものだ。ところが、これはハードウェアを、ただ手あたりしだいに集めてあるように思われた。  つかまえにくい映像に苦労しながら、二十本近くの水晶柱の撮影を完了したとき、品目の取りあわせのきまぐれさから、ノートンの頭にひとつの手がかりが浮かんだ。  これはコレクションではなくて目録《カタログ》≠ネのかもしれない、気まぐれのように見えてそのじつ、完全に論理的なシステムにしたがって索引化されているのかもしれない。辞書やアルファベット順のリストなどで、どんなに突拍子もないものがいっしょに並べられているかと思いついて、このアイデアを仲間たちに話してみることにした。 「いいたいことはよくわかったよ」とマーサー。「ラーマ人だっておれたちの並べかたを見れば、驚くかもしれん──えーと、ほら──カム 軸《シャフト》 の次にカメラなんてね」 「でなければ、本《ブック》と|長ぐつ《ブーツ》です」キャルヴァートが数秒ほど頭をひねってから口をはさんだ。  このゲームは何時間でも遊べそうだが、やればやるほど場ちがいになるな、とかれは思った。 「そのとおりだ」とノートンは答えた。「これは三次元映像の索引カタログ──型板──あるいは、立体青写真といったところじゃないかな」 「なんに使うんですか?」 「ほら、バイオットについて立てられた仮説だよ……つまり、必要とされるまでは存在せずに、時至れば創造される──合成されるといったほうがいいか──どこかにしまってあった原型にもとづいてね」 「なるほど」いいながら、マーサーはじっと考えこんで言葉をついだ。「たとえばラーマ人が左手用の道具がいるときは、そのコード番号をパンチさえすれば、ここにある原型から複製が造りだされるというわけだな」 「そんなところだろう。実際上の細かい点はよくわからないが」  次から次と見ていくうちに、円柱はだんだん太くなって、このあたりではもう直径二メートル以上はあった。内部の映像も、それに応じて大型化されてきた。これを見れば、ラーマ人が実物大の型にこだわっていたことが、明確にわかる。ノートンは、もしそうだとしたらほんとうに大きいものはどうやって格納したんだろうと思った。  可能なかぎり調査範囲を広げるために、四組の調査隊が水晶の円柱のあいだに散らばり、ちらつく映像にピントを合わせるのに手こずりながら、かたはしから撮影していた。こんな幸運なんてそうそうあるもんじゃないと、現実にそれを手中にしながらも、ノートンは思った。ラーマ産工芸品映像カタログ≠見つける以上の幸運など思いもよらなかった。  ただある面では、これほど欲求不満にさせるものもなかった。光と影のあやなす虚像のほかには、ここには実際、何ひとつないのだ。眼には実物のように見えるものも、実際には存在していないのだ。  そうとわかってはいても、一度ならずノートンは、円柱をレーザーで切り開いて、なにか形あるものを証拠に地球へ持ち帰りたいという抑えがたい衝動にかられた。そのたびに、鏡にうつるバナナをとろうと手をのばす猿と変わらないじゃないかと、苦々しく思いかえした。  光学器械の一種と見られるものを撮影していたとき、キャルヴァートの叫び声が聞こえたので、かれは円柱をぬって駈けだした。 「艦長《スキッパー》──カール──ウィル──見てくれ、これを[#「これを」に傍点]!」  キャルヴァートはもともと興奮しやすいたちの男だが、いま発見したものは、どれほど大騒ぎしてもむりもないほどの代物だった。  直径二メートルの円柱の一本に、人類よりだいぶ上背があって、しかも直立生物のものと明らかにわかる精巧なよろい、もしくは軍服があったのだ。幅のせまい金属バンドが、身体の中央部、腰か、胸か、それとも地球の動物学では知られていない器官をとりまいていた。そこから三本の華奢な柱状物が立っていて、先細りに外へ伸び、先端は直径ゆうに一メートルはあろうという一個の完全な円形ベルトにつながっている。それを等間隔で取りまく輪は、上方の腕か脚にめぐらせるためのものにちがいない──三本[#「三本」に傍点]あるそれにだ……  たくさんの物入れやら、バックル、道具のつるされた弾薬帯(武器だろうか?)、パイプや導線、さらには、地球の電子工学研究所に置いても、少しも場ちがいに見えないような黒い小箱まで、いろとりどりのものが取りつけられている。全体から受ける印象は、複雑な宇宙服といったところだが、これを着用する生物の身体の一部しかカバーできないのははっきりしていた。  その生物がラーマ人なのだろうか?  ノートンは自問した。答はけっして知ることはできないだろうが、少なくともそれは、知的生物にちがいない──ただの動物にこれだけの複雑精巧な装備を使いこなせるはずはないからだ。 「背丈は二メートル半はあるな」と、マーサーが考えこみながらいった。「それも頭は別にしてだ──いったい、どんな[#「どんな」に傍点]頭がついてるんだろうな」 「手が三本──たぶん足も三本だろう。〈クモ〉と同じ構成だな、ただずっとスケールが大きいが。これは偶然の一致だと思うか?」 「そうじゃなさそうだな。われわれだって、ロボットを自分たちの姿に似せて作るもの。ラーマ人だってそうだと考えていいんじゃないかな」  キャルヴァートはいつになくおとなしく、この映像を畏怖に近いまなざしで見ていた。 「ラーマ人はわれわれがここにいることを知ってるんでしょうか?」かれは聞きとれないほどのささやき声で訊ねた。 「それはどうかな」マーサーは答えた。「われわれはまだ、かれらの意識のレベルまでも到達してないんじゃないか──水星人がいい線までいったことはたしかだがね」  立ち去りかねてじっとしていると、〈軸端司令部〉から、ピーターが心配でいても立ってもいられないとばかりに呼び出しをかけてきた。 「艦長《スキッパー》──脱出されたほうがよさそうです」 「なにごとだ──バイオットがこっちへ向かってくるのか?」 「ちがいます──もっと重大な事態です。光が消えかけています[#「光が消えかけています」に傍点]」 [#改ページ]      43 退  却  大急ぎでレーザーで開けた穴から出てみたが、ラーマの六本の太陽は依然明るく輝いているように、ノートンには思われた。これはてっきりピーターがまちがったにちがいない……かれらしくもないことだ……。  だが、ピーターはそんな反応を予想していたと見えた。 「ごくのろのろとはじまったんです」と、弁解じみた口調で説明した。「それで、気がつくまでに時間をだいぶ食ってしまいました。でも、疑いの余地はありません──計測もしました。光線のレベルは四十パーセント落ちています」  ガラスの聖堂の薄明りからおもてに出て、眼が慣れてくると、ノートンもかれの言葉が信じられるようになった。  ラーマの長かった一日に、いま黄昏が訪れようとしていた。  暖かさにはまだ変化がないのに、ノートンは肌寒さを感じた。これとちょうど同じ感じを、地球上であるすばらしい夏の日に、味わったことがある。まるで暗闇が落ちてきたか、太陽がその力を失ってしまったかのように、奇妙に光が弱くなった──それでいて空には雲ひとつないのだ。そのときやっと思いだしたのだが、部分日食がはじまっていたのだった。 「さあ始まったぞ」かれは厳しい口調でいった。「これより帰還する。全装備はその場に放置──二度と必要はあるまい」  望みどおりいよいよ、ある計画がその真価を見せることになった。この最後の探査行に〈ロンドン〉を選んだのは、階段に一番近かったからだ。ベータ階段の基部はわずか四キロ先にあった。  出発すると、かれらは一定のはねるようなリズムを崩さずに速足で進んだ。二分の一G下ではこれがいちばん楽なのだ。ノートンは、中央平原のはずれまで、疲れずにしかも最小時間で行けるぐらいのペースを見つもった。頭にこびりついているのは、〈ベータ階段〉に着いてもまだ八キロの登りが待ちかまえているということだが、実際に登りはじめてしまえば、だいぶ気が楽になるだろう。  最初の震動は、もう階段に着こうかというときにきた。ごくかすかだったが、ノートンは本能的に南を振りかえり、〈ホーン〉のまわりに火花が踊るのを見ようとした。だが、ラーマはどうも同じことをくりかえすつもりはないようだった。もし針先のように尖った峰々に放電がおこっているとしても、弱すぎて見えないのだろう。 「艦橋《ブリッジ》」と呼ぶ。「気がついたか?」 「はい、艦長《スキッパー》──ほんのちょっとしたショックでした。また姿勢変更かもしれません。ジャイロを見ています。まだ何も……待ってください! プラスに振れています! やっと探知できるぐらいで──一秒に一マイクロラジアン以下ですが、続いています」  やはりラーマは姿勢を変えはじめたのだ、ほんとにゆっくりとわずかずつ。以前のショックはにせの警告だったかも知れないが、こんどこそ本物にまちがいない。 「変化率が大きくなっています──五マイクロラジアン。もしもし、いまのショックを感じましたか?」 「ああ感じた。艦内全システムを作動準備せよ。急いで発進しなければならないかもしれん」 「もう軌道修正に入ったとお考えですか? 近日点まではまだだいぶありますが」 「ラーマがわれわれの教科書どおりに動くわけもない。もうすぐベータだ。あそこで五分間、小休止する」  五分間ではなんのたしにもならなかったのに、なんとなく長く思えたのは、光がどんどん、それもしだいに早く弱まっていくせいでもあったろう。  懐中電灯こそ全員が携行していたが、いまここで暗闇に取り残されたらと考えると、とても堪えられなかった。心理的に永遠の昼に慣れすぎてしまい、この世界をはじめて探険したときの状況を思いだすのも難しいほどなのだ。  みな、がむしゃらに逃げだしたくなってきていた──早く太陽の光のもとへ出ていきたい、この円筒の一キロもある壁の向こう側へ。 「軸端司令部!」ノートンは呼んだ。「サーチライトは動くか? すぐにも使ってほしいんだ」 「はい、艦長《スキッパー》。点灯します」  心強い閃光が、八キロ頭上から照らしはじめた。ラーマの暮れなずむ日の光とくらべても、情けないほど弱々しい光だが、前にも役にたったのだし、いま一度かれらの望みにこたえて、道を示してくれるだろう。  ノートンは苦々しく予期していたが、この登りこそかつてなく長く苦しいものになるにちがいない。何がおころうと、むやみに急ぐことは許されない。オーバーペースで進もうものなら、目のまわりそうなこのスロープのどこかでへたばってしまい、ストライキをおこした筋肉が機嫌を直してくれるまで、待たなければならないはめになるに決っている。  つらい毎日のおかげで、かれらはかつて宇宙探険におもむいたうちでは最高のチームにちがいないが、それにしても人間の筋肉と血液の能力には限界があるのだ。  とぼとぼと重い足をひきずりながら一時間も歩いて、ようやく階段の第四区画、平原から三キロの地点についた。ここからはずっと楽になる。すでに重力は三分の一Gに落ちていた。気がかりは次々におこる小さな震動で、ほかにはこれといってふだんと変った現象はなく、まだ光量もかなりあった。  一行はいくらか楽観的になってきて、ほんとにこんなに早く立ち去らなければいけないのかなといぶかりだすほどだった。確実なことはただひとつ、ここに戻ることはけっしてないということだ。ラーマの中央平原を歩くのも、これが最後なのだ。  第四台地で十分間の小休止をとっていたとき、キャルヴァートが突然大声をあげた。 「あの音はなんでしょう、艦長《スキッパー》?」 「音だと! ──何も聞こえないぞ」 「高音の汽笛みたいで──だんだん低くなってきます。聞こえるはずですよ」 「君の耳は私より若いからな──ああ、聞こえてきた」  汽笛の音は四方八方から聞こえてくるように思えた。まもなくそれは大きく耳をつんざくばかりの轟音となり、急激に低音へと変っていった。それから突然、鳴りやんだ。  数秒とおかずにまたはじまり、さっきと同じパターンをくりかえす。霧に包まれた夜の灯台の霧笛がもつ、あの悲しみに沈んだえもいわれぬ雰囲気とまったく同じ音色だ。  何かを、それも緊急の警告を伝えているようだった。人間の聴覚にはむいていないが、その意味は充分理解できた。ついで、さらに念を押すかのように、太陽の光までが警報を発しはじめた。  消えそうになるまで薄暗くなってから、明滅をはじめたのだ。明るい光球が、ちょうど球電のように、かつてこの世界を照らしていた六本の峡谷を疾走していく。両極から〈海〉へ向かって催眠術をかけるような同期リズムで動きながら、まちがえいようのない警報を発した。 「〈海〉へ!」と光は叫んでいた。  その呼びかけはさからいがたいほど強力で、振りかえらずにいられた者はひとりもなかった。だれもがいますぐラーマの〈海〉に飛びこんで忘却の世界に消えたいという衝動にかられた。 「軸端司令部!」ノートンはじりじりして呼んだ。「何がどうなっているか見えるか?」  すぐピーターの声がかえってきた。声には畏怖の念がこもり、少なからず怯えがあった。 「はい、艦長《スキッパー》。いま〈南方大陸〉を見わたしています。バイオットが何十となく──大きいのもいます。〈クレーン〉みたいなのや、〈ブルドーザー〉みたいなのや……〈掃除屋〉もたくさんいます。みんな〈海〉に向かってめちゃくちゃに走っています。いままであんなに速く動いているのは見たことがありません。いま〈クレーン〉が──崖っぷちから飛びだしました! ジミーみたいに、いやずっと早く落ちていきます……海面に当ってこなごなに砕けてしまいました……あっ〈サメ〉がきました、食らいついています……ああ、気持のいい光景じゃありません……。  平原を見てみます。どこか故障したらしい〈ブルドーザー〉がいます……ぐるぐる円を描いてまわっています。〈カニ〉が二匹襲いかかって、壊しはじめています……艦長《スキッパー》、早く戻られたほうがいいと思いますが」 「わかっている」  ノートンは思い胸にせまるものがあった。 「できるかぎり早く帰還する」  ラーマは嵐を前にした船がやるように、ハッチをばたばたと閉めているのだ。論理的に考えたわけではないが、それがノートンの受けた圧倒的な印象だった。  かれはすでに理性的に考えられなくなっていた。心の中で二つの感情が争っていた──脱出したいという願望と、空にひらめき走るいなづまの命令にしたがって、バイオットといっしょに〈海〉へ向かいたいという衝動とが。  ようやく次の台地についた──また十分間の小休止。筋肉にたまった老廃物をできるだけ除かなければならない。そしてまた出発だ──二キロの登りが待っているが、あまり考えないようにしよう ──。  低くなってはまた高音からはじまる気も狂うような汽笛の音が、不意にやんだ。同時に〈直線峡谷〉に輝いていた〈海〉方向への点滅も終った。ふたたびラーマの六本の帯状太陽は一定の光度で輝きだした。  しかしその光はどんどん弱くなり、まるでエネルギー源が衰えて、流出量が動揺をきたしたかのように、ときどきちらついた。かすかな震動もときおり足下に感じられる。  艦橋《ブリツジ》からは、ラーマがまだ徴かながら姿勢を変えており、ちょうど弱い磁界に磁針が反応するように、ゆっくり旋回しているといってきた。これはたぶん安心してもよいということだろう。ラーマの姿勢変更が終ったとき[#「終ったとき」に傍点]こそ、ノートシの真の心配がはじまるのだ。  バイオットはぜんぶいなくなった、とピーターが報告してきた。ラーマの内部で動いているものは、北端のおわん部を苦痛にあえぎながらのろのろと這いあがっていく人間たちだけとなった。  ノートンはずっと以前に最初の登りのとき感じためまいを克服していたが、このとき新たな恐怖が心に忍びよりはじめた。  平原から〈軸端部〉までの果てしない登りの途中は、ろくに手がかりがないのだ。もしラーマの姿勢変更が完了してしまって、加速が開始されたら、どうなる?  かりに軸方向に推進されると仮定しよう。北極方向へ加速が働くのなら心配することはない。登|攣《はん》中のこの斜面にもうちょっと押しつけられるだけですむだろう。だが、もしも南方向だったら、かれらは引きはがされて、はるか下の平原にたたきつけられてしまうことになる。  加速は実際は穏やかなものなのだ、とかれは自分にいいきかせて安心しようとした。  ペレラ博士の計算がいちばん説得的だ。ラーマは最大限五十分の一G以上の加速はできない、なぜならそれ以上では〈円筒海〉の海水が南岸の崖をのり越えて大陸を水びたしにしてしまう、というものだった。しかし、ペレラ博士は地球の研究室で心地よい椅子に坐っているのだ。自分たちのように頭上に重苦しく覆いかぶさる一キロ以上もの金属壁が、いまにも崩れ落ちそうに見える場所にいるのではない。それにもしかしたら、ラーマは定期的に洪水が起きるように設計されているかもしれない──。  いや、やはりそれはばかげている。何兆トンもあるものがかれを放りだすほどの加速で動きだすと考えるのは、理屈に合わない。それでもノートンは、残る登りのあいだ支えになる手すりからできるだけ離れないようにしていた。  無限とも思える時間がたって、やっと階段は終った。あとは垂直に数百メートル伸びている壁面に窪んだ梯子が、残されるだけとなった。もうここまでくれば、登る必要もない。〈軸端部〉にいるだれかがロープをたぐって、急激に減衰する重力に逆らいながららくらく下の者を引きあげることができるからだ。梯子の根もとでさえ、大の男がたった五キロの重さしかなく、終点では事実上ゼロだった。  ノートンは吊りあげられながら、思いだしたように梯子に手をかけて、かすかなコリオリ 力《フォース》 の働きで引き離されそうになるのを防ぐだけでよかった。ひきつりそうな筋肉も忘れて、かれはラーマの最後の姿に見入った。  いまでは、ちょうど地球の満月の晩ほどの明るさになっていた。全体の景色はまだはっきりと見えていたが、すでに細かなところは定かでなくなっている。〈南極〉は湧きあがってきた霧にところどころ隠され、ただ〈ビッグ・ホーン〉だけが突出して、小さな黒点として真向かいの位置に見えていた。  すでに細部の地図もつくられながらなお神秘に満ちみちた〈海〉のかなたの大陸は、いまだに変らないつぎはぎ細工の姿を見せている。あまりに遠く、また混みいりすぎていて、ちょっと見たぐらいではどうしようもないことがわかっていたので、ノートンはあっさり眺めただけですました。 〈円筒海〉の全周に沿って視線を走らせたときはじめて、幾何学的に正確に配置された暗礁に波が砕けているような、規則的なパターンの撹乱が水面に現われていることに、気がついた。ラーマの姿勢変更行動の影響だろうが、ほんの微々たるものだった。この程度ならバーンズ軍曹でも、あの失われたレゾリューション号で渡れといえば、喜んで出かけていくにちがいない。  かれはニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ、ローマ……〈北方大陸〉のすべての都市に別れを告げ、自分の破壊行為をラーマ人が許してくれるよう祈った。たぶんかれらも、それが科学的探究のためだったと理解してくれることだろう。  突然、かれは〈軸端部〉に着き、大勢の手に身体をひっつかまれると、すぐにエアロックへ運ばれていった。疲れ切った手足はぶるぶる震えてどうにもならず、自分の体を支えることもできなかったから、半身不随の病人のように扱われてもべつに不満はなかった。 〈軸端部〉の中央クレーターに降りていくにつれ、ラーマの空がだんだん狭くなっていった。内部エアロックのドアが永久にその眺めを閉じてしまったとき、かれは妙なことを考えていた。 「夜が訪れるなんておかしいじゃないか、いまラーマはいちばん太陽に近づいているというのに!」 [#改ページ]      44 スペース・ドライヴ  安全距離としては百キロもあれば充分だ、とノートンは見こんでいた。ラーマはいま巨大な暗黒の矩形となって、舷側を正確にこちらへ向け、太陽をさえぎるように浮かんでいる。  この好機をのがすのは愚とばかりに、かれはエンデヴァー号を完全にラーマの影の部分に入れるようにして、艦の冷却装置の負荷を減らし、遅れ遅れになっていた修理をかたづけられるようにした。ラーマの円錐形に広がった庇護の影もいつなくなるかしれず、できるかぎり利用するにこしたことはないと思ったのだ。  ラーマはなお姿勢転換をつづけていた。すでに十五度も向きを変え、もはや軌道の大幅な修正が迫っていることは疑うべくもなかった。〈惑星連合〉では、興奮がヒステリーと呼べるほどまで高まっていたが、エンデヴァー号にはほんのかすかなこだましかとどいていなかった。肉体的にも感情的にも、乗組員は消耗しきっていたのだ。  基幹要員を別として、〈北極基地〉から離陸したあと、全員が十二時間ぶっとおしで眠った。軍医の指示で、ノートン自身も電気鎮静機《エレクトロセゼーション》のお世話になった。それでもなお、かれは果てしなく階段を登りつづける夢を見た。  帰還二日目になると、ようやくすべてが平常にもどり、ラーマの踏査すら、なにか別の世界の出来事のように思えるほどになった。ノートンは溜っていたデスクワークを処理してしまうと、今後の計画を立てはじめた。しかし、〈調査局〉や〈スペースガード〉の通信回線にどうにかしてもぐりこんできたインタビューの申し出は、ぜんぶことわってしまった。  水星からはとうとう通報が来ずじまいだったので、〈惑連総会〉の開会は延期されていた。といっても、一時間の予告期間をおいていつでも再開できることにはなっていたが。  ラーマを去って三十時間、ノートンがひさかたぶりの深い眠りをむさぼっていると、急に乱暴にゆりおこされてしまった。ぐずぐずと悪態をつきながら、かすんだ眼をあけると、カール・マーサーの顔があった──優秀な指揮官のつねとして、かれは即座にぱっちり目覚めた。 「姿勢転換が終ったのか?」 「うん。もう岩のように動かない」 「艦橋《ブリッジ》に行こう」  全艦が待機していた。  シンプたちまでが、何かがおこりつつあるのを感じとったのだろう、気がかりそうにピーピー騒ぎ出し、マッカンドルーズがすばやい手話で安心させてやるまで落ちつきを取りもどさなかった。  だが、ノートンは座席にすべりこんでシートベルトを締めながら、まさかこんどはにせの警報じゃないだろうなと思った。  ラーマはいまやずんぐりとしたシリンダーにちぢんで、太陽の灼熱の外縁が、その縁からわずかに顔をのぞかせていた。ノートンはエンデヴァー号を操って、人工の日食本影部分に入れなおし、明るい星々を背景に、ふたたびコロナが真珠のような光彩となって現われてくるのを見ていた。ひとつだけ非常に巨大な、少なくとも五十万キロの高さはありそうな紅炎が見えた。その先端部など、まるで深紅の樹木のように思われた。  あとはただ待たなければならない、とノートンは自分にいいきかせた。大切なのはどれほど長くかかろうと倦むことなく、瞬時に対処できるように、すべての計器を整え、完壁な記録をとれるようにして、待つことなのだ……。  どこかがおかしい。星が動いていく、まるでかれが姿勢制御ジェットを噴かしたように。だが、かれはボタンひとつ触れていないし、実際に動いているのなら、身体で感じていいはずだった。 「艦長《スキッパー》!」と、航宙士席のキャルヴァートが切迫した声音で叫んだ。「艦が横転しています──星を見て下さい! それなのに計器にはなにも出てこないんです[#「それなのに計器にはなにも出てこないんです」に傍点]!」 「角速度ジャイロは動いているか?」 「異状ありません──ゼロ表示で微動しています。でも、われわれは一秒に数度のわりで横転しています!」 「そんなことはありえない!」 「むろんそうです──でも、ご自分でごらんになってください……」  すべての計器がだめとなったら、人間はみずからの視覚に頼るしかない。  ノートンにも、星空が実際にゆっくり回転しているとしか思えなかった。シリウスが左舷の縁に消えていく。コペルニクス以前の宇宙観に逆戻りしたみたいに、全宇宙が突然、エンデヴァー号を中心に回りはじめたのか、それとも星々が動かないというのなら、艦が回っているのか。  第二の説明のほうが正しそうだが、それもまた解決不能のパラドックスを含んでいた。もし艦がこの回転速度でほんとに回っているのなら、身体で──昔通りのいいかたをすれば、ズボンの尻で──感じる[#「感じる」に傍点]はずなのだ。それにジャイロというジャイロが、すべて同時に、しかもてんでに故障することなどありえない。  残された回答はただひとつである。エンデヴァー号の全原子が何かの力場に捕まっているにちがいない──それも強力な重力場だけがこのような効果を生みだせる。少なくとも、既知の[#「既知の」に傍点]力場ではあり得ないことだ……。  突然、星が消えた。燃える太陽の円板がラーマの陰から現われて、その輝きのために星々がかき消されてしまったのだ。 「レーダーには映っているか? ドップラーはどうだ?」  ノートンはこれもまた作動不能かもしれないと覚悟したが、それは思いすごしだった。  ラーマはついに航行をはじめた。その加速は〇・〇一五Gという穏やかなものだった。ペレラ博士はさぞ喜ぶことだろう、とノートンは思った。かれは最大加速を〇・〇二Gと予言していたからだ。そしてエンデヴァー号はなにかのはずみで、高速船の跡にできる渦に巻きこまれた浮遊物のように、ラーマの航跡にとらえられてぐるぐる回っているのだった……。  いくら時間がたっても、加速は一定のままだった。ラーマは徐々にスピードをあげながらエンデヴァー号から遠ざかっていく。距離が開くにつれ、艦の異常な動きもゆっくりとおさまり、通常の慣性の法則がふたたび働くようになった。いまとなっては、そのあおりをくらって短時間だけとらえられたエネルギーについては想像してみるしかなかったが、とにかくラーマがその推進スイッチを入れる前に、エンデヴァー号を安全距離まで離しておいてよかったとノートンはしみじみ思った。  あの推進《ドライヴ》メカニズムについては、それ以外はまったく五里霧中ながら、ただひとつだけ確かなことがあった。ラーマを新しい軌道にのせた力が、ガスの噴射でも、イオンやプラズマの放射でもないということだ。  曹長で教授のマイロンが信じがたいものを眼にしてショックのあまりいった言葉以上に、うまい表現はない。 「ああ、ニュートンの第三法則が行ってしまう」  とはいいながら、翌日、エンデヴァー号が頼りにしなければならなかったのは、そのニュートンの第三法則だった。艦は大切にとっておいた最後の燃料を、軌道を少しでも太陽から遠ざけようとして使いはたしたのだ。軌道の変化はわずかなものだったが、それでも近日点では、一千万キロの差となって出てくる。それはつまり、艦の冷却装置を九十五パーセントの能力で動かして助かるか、それとも確実な死の炎に飛びこむかの差だった。  操船を完了したとき、ラーマは二十万キロのかなたで、太陽の光輝に邪魔されてもはやほとんど見ることはできなかった。だが、レーダーによる軌道の正確な計測はまだ可能だった。そして観測すればするほど、わけがわからなくなってしまった。  何度も何度も計算をチェックしてみたが、どうしても信じられない結論に到達してしまうのだ。水星人の抱いた恐れも、ロドリゴの英雄的行為も、〈惑連総会〉の駈け引きも、すべてがみなむだな労力の浪費だったように見えた。  最終計算を目にしたとき、ノートンは、なんと宇宙的な皮肉だと思った。百万年ものあいだ見事にラーマを導いてきたコンピューターが、たった一度ごく些細なミスをおかしてしまったのだ──おそらく方程式のプラスとマイナスを取りちがえたのだろう。  これまでだれもが、ラーマは速度を落して、太陽の重力圏に入り、太陽系の新惑星になるにちがいないと確信していた。それがいま、まるで逆のことをしているのだ。  ラーマはスピードを上げていた──それも最悪の方向に向かって。  ラーマはしだいに速度をあげなから太陽へと落下していたのである。 [#改ページ]      45 不 死 鳥  新軌道の詳細が明らかになるにつれ、ラーマが災厄からのがれる道はいよいよないように見えてきた。  太陽にこれほど接近して飛んだのは、わずかに五指に満たない数の彗星だけだった。近日点では、水素核融合の地獄からわずか五十万キロ以内に近づくだろう。どのような物質でも、それほど近づいてしまっては、固体を保つことはできない。ラーマの船体を作る強力な合金をもってしても、その十倍の距離で融けはじめるだろう。  エンデヴァー号はいま、それ自身の近日点を通過して、みなを安心させながら、ゆっくりと太陽から遠ざかっていた。はるか前方のラーマは、より接近し、より早い軌道上をつき進み、すでにコロナの最外炎よりずっと内側に入りこんでいた。かれらの艦は、ドラマの大団円を特等席で見ることができそうだった。  そのときラーマは、太陽から五百万キロのところで、依然加速をつづけながら、自分のまゆを紡ぎだした。それまではエンデヴァー号の望遠鏡の能力いっぱいのところで、小さな輝く棒のように見えていたのが、突然、地平線になびくもやにかすむ星のように、きらめきはじめた。  いよいよ崩壊がはじまったのようにみえた。映像が乱れだしたのを眼にして、ノートンはかくも偉大な驚異が失われてしまうことを、激しく悲しんだ。だが、次の瞬間、ラーマがちらつくかすみ状のものに包まれて、依然として存在していることに気がついた。  まもなく、その姿は見えなくなった。かわってそこに見えるのは、円板状でない、きらきら輝く星のような物体だった──まるでラーマがちっぽけな球に収縮してしまったように。  何がおこったのかを一同がさとるまで、しばらく時間がかかった。ラーマはみごとに姿を消していた。いまでは、直径百キロはあろうという完全反射の球体に囲われていたのだ。見えるのはただ、こちらに近い側の部分に映る太陽自身の反射光だけだった。この保護|気泡《バブル》のなかで、おそらくラーマは太陽の灼熱地獄から守られているのだ。  刻一刻、気泡《バブル》はその形を変えていった。太陽の反射像がしだいに引きのばされ、ゆがめられていく。球体が長楕円体となり、その長軸がラーマの飛行方向を示すようになった。そのとき、二百年近くも太陽の定常観測をおこなってきたロボット観測機から、はじめて異常事態の報告が送られはじめた。  ラーマ近辺の太陽磁場に異変がおきつつあった。コロナを縫い、また圧倒的な太陽の重力をものともせずしばしば吹きあげる猛烈にイオン化されたガスの房を押しのけて、百万キロの長さに及ぶ力線が、輝く長楕円体のまわりに形成されていた。もちろん何ひとつ眼に見えはしない。ただ軌道をめぐる自動機器が、磁束や紫外線幅射量の変化を伝えてくるのだ。  ほどなく肉眼でも、コロナの変化がわかるようになった。かすかに光るチューヴというかトンネル状のものが、十万キロほどの長さにわたって、太陽の外層高く現われていた。それはわずかにカーブを示し、ラーマが進む軌道に沿って曲がっていた。そしてラーマ自体は──というより、それを包みこむ保護まゆは──コロナをつらぬくその幻のようなチューヴのなかを、どんどんスピードをあげながらすべり落ちていく光り輝くビーズ玉として、見えていた。  それはなおまだスピードをあげていた。いまや秒速二千キロを越え、太陽のとりことならないことは疑いようもなかった。  ついにいまこそ、ラーマ人の戦略が明らかになった。太陽にこれほど接近したのは、ただかすめ飛ぶことによって太陽からエネルギーを引きだし、未知の最終ゴールへ向かうスピードにさらに拍車をかけるためだったのである……。  ほどなく、エネルギーを引きだしているだけではなさそうだということがわかってきた。だれ一人として、確信の持てるものはなかった。なにしろもっとも近距離の観測機器でさえ、三千万キロも離れていた。だが、明らかに太陽からラーマ自体の中へ[#「ラーマ自体の中へ」に傍点]、物質が流入しているという徴候がうかがえたのだ。まるで宇宙をいく一万世紀の間に洩れだし、失った物質を補給しているかのように。  ラーマはますます速度を増しながら太陽をかすめていき、いまやそのスピードは過去に太陽系を通過した飛行物体のどれよりも早かった。二時間とたたないうちに、飛行方向は九十度以上も変ってしまい、自分がずうずうしくも侵入してきて心の平和をかき乱したこの世界に対し、まったくなんの関心もいだいていないという最後の、いささか人をこばかにしたような証拠を見せてくれた。  ラーマは黄道を飛びこえたあと、全惑星が公転している平面のずっと下、南方星域へと向かいはじめた。それが最終ゴールでないことは確実だったが、いまは大マゼラン雲をぴったり真正面にとらえ、銀河系のかなたに横たわる孤独の深淵をめざしているのだった。 [#改ページ]      46 間 奏 曲 「入りたまえ」  ノートン中佐は心ここにあらずといった風情《ふぜい》で、戸口の静かなノックに答えた。 「ちょっとしたニュースよ、ビル。最初に知らせておきたかったの、乗組員のみんなが騒ぎだすまえにね。それにどうせ、わたしの専門分野のことだし」  ノートンはまだぼんやりしているようだった。横になって頭の下で手を組み、眼は開いているのかつぶっているのか、部屋の明りも暗くしている──ほんとうにうとうとしているわけではなく、とりとめのない空想と物思いにふけっているのだった。  かれは一、二度眼をぱちくりさせると、突然正気づいた。 「すまない、ローラ──気がつかなかった。なんだって?」 「まさか忘れちゃったんじゃないでしょうね!」 「いじめんでくれよ、かわいい顔して。少し考えごとをしていたんだ、いまね」  アーンスト軍医少佐は、はめこみ式の椅子を引きだすと、そばにすわった。 「惑星間の危機がどうあろうと、火星の官僚機構の歯車はびくともしないらしいわ。ラーマのおかげもあったと思うんだけど。まあとにかく、水星人の許可がいる、なんていわれなくて幸運だったわ」  ぱっと目の前が明るくなった。 「そうか──ローウェル宇宙港から許可がおりたんだな!」 「そんなんじゃないわ──それはもうとっくに処理ずみよ」  ローラは手にした書類に眼をやると、「即時通告」と読んだ。「ただいま現在をもって貴下の新しい御子息が懐妊された。おめでとう」 「ありがとう。やっこさん、待たされたのを気にしないでくれるといいんだが」  宇宙飛行士《アストロノート》のつねで、ノートンも軍務についたときに断種してしまっていた。宇宙で長年月をすごすものにとって、放射線による突然変異は可能性ではない──確実におこることだった。二億キロかなたの火星でたったいま遺伝子の荷をおろしたばかりのかれの精子は、三十年間も冷凍にされたまま、この運命の日を待ちつづけていたのだ。  ノートンは出産日までに家に戻れるかなと思った。かれももう休みをとり、リラックスして、宇宙飛行士《アストロノート》として許されるかぎりの平凡な家庭生活を送ってもいいころだった。すでにこの作戦も事実上は終了していたから、かれは緊張をといて、もう一度自身の将来のこと、二つの家族のことを考えはじめていた。  そうだ、しばらく家にいるのもいい、そして失われた時間の埋め合わせをするのだ──いろんな方法で……。 「ここに来たのは」ローラはいやに弱々しくいいはった。「純粋に職務上の理由からですからね」 「長いつきあいじゃないか」と、ノートンは答えた。「お互いによくわかってるじゃないか。それに、きみはもう非番だろ」  こんな調子で、とかれは思った。いまごろは艦内中恋人同士ばかりにちがいない。どっちにしろ、家までまだ数週間もあり、作戦終了時の軌道祭≠ヘいつだってドンチャン騒ぎになるものなのだ。 「いま[#「いま」に傍点]何を考えてるの?」ずっと経ってから、ローラがなじるように訊いた。「センチになったりしないでね」 「ぼくらのことじゃないさ。ラーマだ。行ってしまったかと思うと寂しくなってきた」 「へええ、そうですか」  ノートンは相手の身体にまわしていた手に力をいれた。重さがなくていちばんいいのは、一晩中誰かを抱いていてもしびれたりしないことだと、かれはしょっちゅう思っていた。一G下のセックスは重苦しくて、ちっとも楽しめないと文句をいう人間もいるほどだ。 「よくいうだろ、ローラ、男は女と違ってね、心がツー・トラックになってるんだ。それに本気で──いやずっと[#「ずっと」に傍点]真剣に──行ってしまって寂しいと思ってるんだよ」 「よおーく、わかるわ」 「臨床医みたいだぞ。それだけじゃないんだ。いや、よそう」  かれは諦めてしまった。説明しやすいことではなかったし、かれ自身はっきりわからなかったのだ。  かれはこんどの任務で予想以上の成果をあげていた。ラーマでかれらが発見したことは、科学者たちを何十年も忙しくさせるだろう。そして、それ以上に、ひとりの死傷者も出さずにやり遂げたのだった。  しかし反面、失敗もあった。たとえ、いかように推測することはできても、ラーマ人の性質と目的については、ついになにひとつ知ることはできなかった。かれらは太陽系をただの再給油地点、|増 速《ブースター》ステーション──なんと呼んでもいいが──として使っただけで、あとはまるで鼻もひっかけず、より重要な仕事をめざして行ってしまったのだ。  人類が存在していたということすら、ついに知ることはないだろう。こんな徹底した無関心というのは、故意に侮辱されるよりずっとこたえる。  ノートンは最後にラーマを一瞥して、金星のかなたへ走り去っていくそのちっぽけな星を見たとき、なぜか自分の人生の役割は終ってしまったような気がした。まだ五十五歳だが、かれはあの中央平原に、もう人類の手のとどかない無情な距離に遠ざかってしまった神秘と驚異のなかに、自分の若さを取り残してきてしまったように感じた。どれほどの名誉と成功がもたらされようと、これから一生涯、かれの脳裏からは、龍頭蛇尾に終ってしまったという思いと機会を逸してしまったという考えが去らないだろう。  ノートンは心のなかでそうつぶやいた。しかしそれにしても、かれは少しうかつすぎた。  遠く離れた地球では、カーライル・ぺレラ博士が、どうして寝苦しい眠りから目が覚めたのか、まだだれにも打ち明けないでいた。潜在意識からのメッセージが、いまだに頭のなかで谺《こだま》をくり返していた。  ラーマ人は何ごとも[#「ラーマ人は何ごとも」に傍点]、三つ一組にしないと気がすまない[#「三つ一組にしないと気がすまない」に傍点]。 [#改ページ] [#改ページ]      訳者あとがき  ちょうど『幼年期の終り』の結末で、消えゆく地球を悲しく見守るカレルレンの気持──といったら大げさにすぎるだろうか。しかし、私はいまそれにいくらか似た気持をかみしめている。われらのクラークがとうとう公けの形でSF界からの引退≠宣言したからである。本書『宇宙のランデヴー』『地球帝国』(海外SFノヴェルズ既刊)『楽園の泉(仮題)』( The Fountains of Paradise )の三部作を最後に筆を折る、ということは以前からちらほら伝えられていた。げんに私自身、一九七〇年の国際SFシンポジウム≠ナ来日したクラークと個人的に話す機会をもったとき、彼がこう言っていたのを覚えている──あと三本、近未来テーマの長篇を書くつもりだが、その先はわからないと。  だが、それが改めて彼自身の発言として刊行物の中に記録されたとなると、私のような熱烈なクラーク・ファンにはやはり相当なショックである。科学とSFの総合誌≠ニか銘うたれて最近評判の〈オムニ〉一九七九年四月号で、彼はインタビュー記者の「今後二度と筆をとらないそうだが、それはSFだけということか」という質問に、こう答えている。 「たとえ親友の本のカバーに推薦文をといわれても、一行だって書きたくない。つまり、決心を強くかためなければということなんだ。一度でも例外を認めたら最後、こういったことは歯どめがきかなくなるからね。小説でもノンフィクションでも、少なくともいまの時点では、いいたいことはすべていい尽した。もっとも、五年かそこらして私のバッテリーが再充電されたら、もう一度筆をとらないとも限らないがね」  さらに、同じく近着の米SF研究同人誌ローカス第二二〇号にも、クラークはそのかたい引退の決意と身辺の近況とをつづった手紙をスリランカから寄せている。やや引用が長くなるが、最後の未訳長篇をのぞいて今後しばらく彼の新作に接する機会はなさそうだとあれば、ここはその手紙をある程度ナマの形で紹介するほうが、クラーク・ファンには親切というものだろう。 [#ここから2字下げ]  引退してからというもの、目のまわるような忙がしさで、とても仕事などできません。あんなわずらわしいことによく時間をさけたものだと、いまさらながら驚きます。私が筆をおいてから、つまり[#「つまり」に傍点]最後にスリランカを離れてから、もうじき二年になりますので、ひとつ近況を知りたいと思っておられる方のために──。  去る十二月、私はジャイエワルデナ大統領から、コロンボ近くに新設されたモラトワ自治大学の初代総長に任命される栄誉に浴し、仰天しています(学生数は全時制、定時制合わせて二千人。建築・工学・物理=応用科学の三学部)。むろん、運営や日常の実務面にはまったくタッチしません[#「しません」に傍点]から、私に就職や学位の依頼をしてきてもムダというものです(うらやましいだろ、アイザック)。  そのうえ大統領にもうひとつそそのかされ、チャンドラ・ウィックレメシンゲ教授(カーディフ大天文学)といっしょに、この国に高等研究所を設立する計画にも関係しています──最終的にはいわばミニ・プリンストンにしたいと考えています。チャンドラは最近、SF作家としても有名なフレッド・ホイルと共著で、生命は海洋ではなく宇宙空間で[#「宇宙空間で」に傍点]進化したと提唱する刺激的な本『|生 命 雲《ライフ・クラウド》』を書いた人です。 『幼年期の終り』は、ようやくユニバーサルとABC共同で制作される運びになったようです。私は関係しませんが、プロデューサーのフィル・ドゲールが脚本の検討にこちらへ来るかもしれません。天候しだいですが、最大限三日はそれにあてる覚悟です。  仕事に類するものは一切断る方針にもかかわらず、科学のいろいろな謎を追うテーマのTV番組一クール分のホストをやっています。でも、これは実入《みい》りのいいお遊びのつもりです。なにしろカメラの前にしゃしゃり出るのが好きなタチですので。(中略)  お国の友人には一九七七年末にお別れをいいましたが、同じことを七九年九月、イギリスでブライトン・シーコン≠ノ顔を出すついでに、やるつもりです。そのあとミュンへン経由でスリランカに戻りますが、同市では九月二十日に年次国際航官学会議に出席して、私の最後の長篇の(同時にチャールズ・シェフィールドの最新長篇の)テーマ──宇宙エレベーター≠ワたは軌道タワー>氛氓ノついて講演します。ひょっとしたらモスクワにもちょっと立ち寄って、作家同盟のみなさんにも挨拶するかもしれません……それ以後は、もうスリランカを離れる予定がありませんし、離れずにすめば、こんなうれしいことはないからです。もっともJPL(ジェット推進研究所)が送ってくれたボエジャーの木星接近記念の招待券には、正直いって心が動いたし、NASA長官からきた一九八〇年のスペース・シャトル打上げに関する最近の手紙(お乗りになる前に、一度飛ぶところを見ておいたほうがいいでしょう≠セって)にも、気持がぐらつく可能性なきにしもあらずですが……(中略)  もっかのところ私についての本が三冊進行中ですが、うち一冊はデイヴ・サミュエルスンが作ってくれる著作目録です。私自身は、二〇〇一年後半になるまで自伝(仮題を『つつましい天才』とでもしておきます)にとりかかる気はありません。私の著作のうち九点が、NAL(ニュー・アメリカン・ライブラリー社)との再交渉の結果、六ケタ(セントをはぶいて)の金額でまとまったところです。これで庭の下で建造中の二十八フィート級ディーゼル潜水艇(どうやって運びだすかは神のみぞ知るですが)と、イギリスから輸送中のホバークラフトの代金をはらえるでしょう。愛用の八インチ・セレストロンともども、これらのおもちゃに私の残り少ない自由時間(毎木曜日午前の約十分間)を当てなければなりません。当然、何かをとりやめることになるでしょう──ピアノのレッスンか、わがR2D2との練習時間かを。こいつはシトコ社製の恐るべきピンポン・ロボットで、毎秒二回のわりで考えられる限りいろんなチョップとスピンをかけた超音速サーブを打ってくるのです。クラークス・クロック・チームのキャプテンとして、私はもっか当地のチャンピオンたちに挑戦すべく、トレーニングにはげんでいます。  これ以上聞かされるのはもううんざりと思いますので、このへんで|さようなら《アユ・ボワン》。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]アーサー・C・クラーク    インド洋の小独立国スリランカに彼が深い愛着をいだき、早くからその市民権も獲得して、一年の大半をそこで暮してきたことはよく知られている。前記のインタビューで、この国とその美しい海に惹かれた動機を、彼はこう語っている。 「もとはといえば、宇宙が私をスリランカに結びつけたのだ。私がここでダイビングに興味をもったのは、宇宙飛行の特徴である無重量状態の再現に、海はうってつけだという単純な理由からだが、ダイバーたちと親しくなって、この国を何度も訪れるうちに離れがたくなり、定住するようになった……いまではスリランカ以外での生活は悪夢と同じだ」  同じ記事によれば、スリランカにおける彼の現在の典型的な一日は、次のように始まり次のように終る。まず朝六時半に起床して、紅茶を飲みながら、ボイス・オブ・アメリカを聞く。七時に朝食をとり、BBC放送に耳をかたむける。八時ごろからいつも二十冊は溜っている本を読みまくる。それから少なくとも一時間はピアノにむかう。日に十人までは訪問客に応対する。午後四時になると、近くの水泳プールに出かけ、二時間ほど激しいピンポン試合をやる。それから帰宅して、映画を見るか音楽を聞くかしたあと、九時に就寝。レセプション、カクテル・パーティ、ディナーのたぐいは時間の浪費なので、けっして出席しない。タイプライターも不用になったので、そのうちサンゴ礁に沈めて魚がたわむれているところを写真にとるつもりとか──功成り名を遂げていまや悠々自適の毎日を送るクラークの姿が、目に浮かぶようである。もし現在の生活にいささか不満があるとすれば、あれほど好きだったスキューバ・ダイビングができないことかもしれない。一九六二年に背骨を痛めて一時的な全身麻痺に冒されて以来、スノーケリング以上の潜水はやらないことにしているのだという。  それにしても、今年で六十二歳。まだまだ老けこむ年齢ではないし、この元気さなら永久に引退ということでもないような気がする。数年前にSFはもう書かないと宣言しながら最近カムバックしたロバート・シルヴァーバーグの例もあることだし、クラーク・ファンのみなさん、数年後の彼に期待しようではありませんか。  最後に、本書『宇宙のランデヴー』( Rendezvous With Rama )について。クラークの小説群を便宜的に分類すれば、おおむね近未来におけるテクノロジーの発展を見すえた科学¥ャ説と、遠未来や深宇宙を舞台に人類の将来を洞察する哲学¥ャ説の二系列に分けられる。そのようなテーマを追求する意識も文体も思想も、彼のばあいデビュー以来終始一貫変わることがなかった。創作上のテクニックについてすら、同じことがいえるのだ。三十年以上昔の登場第二作『太陽系最後の日』と本書とを読み比べてみれば、それはだれにも一目瞭然である。こんな作家もめずらしいが、それだけ最初から完成度が高かったからだといえるだろう。本書では、上述の二系列のテーマを交叉させたところがミソだが、その原型にしても、すでに初期の名短篇「前哨」や中篇「木星第五衛星」などに明確に現われている。  本書『宇宙のランデヴー』が一九七四年度のネビュラ、ヒューゴー両賞のほか、キャンベル賞、ローカス賞、ジュピター賞とあらゆるSF賞を総なめにした記録的作品であるにもかかわらず、SF界の外では『幼年期の終り』や『2001年宇宙の旅』ほどの反響を呼ばなかったのは、そのへんにも原因がありそうだ。  にもかかわらず、あなたがもし(私のように)根っからのクラーク・ファンであるなら、この作品にけっして裏切られることはないと保証できる。ここには彼の長所であり、欠点でもあり、まちがいなく強い魅力である人間への信頼、科学技術への信奉、素朴で崇高な理想主義、単純明快な筋立て、稚気たっぷりのユーモアなど、すべて外盛りこまれているからだ。その魅力は、たとえそこにセックスや人種差別や公害などの重大問題を避けて通る甘さはあるにせよ、ハインラインの通俗性やブラッドベリの感傷過多やアシモフの無味乾燥さなどよりはずっとましだ、と思わせるだけの強さがある。  このような身びいきめいた言いかたになるのも、ひょっとすると大阪万国博の年に私たちに好印象を残して帰ったこの作家の、稚気まんまんとした憎めぬ人柄のせいかもしれない。なにしろあの国際SFシンポジウム≠フ海外参加作家の中で、口のわるい日本作家たちにこきおろされなかったのは、このクラークぐらいのものだったのである。 (余談だが、本書中で登場する映画狂の青年士官の回想シーンに、実在の有名スターと並んでヒロシという架空スターの名が出てくる。同シンポジウム以来、彼と早川書房の副社長早川浩氏とが昵懇《じっこん》の間柄だということを知れば、クラークの茶目つ気ぶりをおわかりいただけるだろう)  いまふり返れば、本書の邦訳を私が引き受けることになったのも、あのときが縁だった。東京のホテル・ニュージャパンの一室で、クラークは自分で写したというUFO写真(もちろん誤認例。彼は有名な否定論者である)といっしょに、まもなく執筆にかかる長篇の作品メモ類を大事そうにとりだして見せてくれた。それがこの『宇宙のランデヴー』の創作メモだったのである。宝ものを見せる少年のような、そのときのはにかんだ表情が、私はいまでも忘れられない。  なおこの邦訳版は、SFマガジンに一九七五年から六年にかけて連載した拙訳を、全面的に改稿したものである。原書は英米その他の国でハードカバーとポケットブック数種にわたって刊行されており、内容にごくわずかながら異同があるが、原則としてヴィクター・ゴランツ社(イギリス)発行の一九七三年ハードカバー版に準拠した。  訳出にあたり、浅倉久志氏、伊藤典夫氏、矢野徹氏、ほか若いみなさんのご助力、ご教示をいただいたことを記し、あつく御礼申しあげたい。 [#改ページ] [#改ページ] [#(img/253.jpg)入る]