失われた大陸 E・R・バローズ /厚木 淳訳 [#(img/000a.jpg)入る] [#(img/000c1.jpg)入る] [#(img/000c2.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/001.jpg)入る] [#(img/002.jpg)入る] [#(img/003.jpg)入る] [#(img/004.jpg)入る]     は じ め に 「失われた大陸」という題名のもとにここに出版する小説が、エドガー・ライス・バローズの作品のなかでも折紙つきの珍品であり、また稀覯本《きこうぼん》SFであることはまちがいなかろう。これは作者の最初期の作品の一つであり、作者の生存中にはただ一度ぱっとしない雑誌、すなわち〈オール・アラウンド〉誌の一九一六年二月号に、読みきりの形で活字となっただけである。それには「三十度線の彼方」という風変わりな題名がついていた。  バローズの収集家でも、もっとも造詣《ぞうけい》の深い人だけが、この作品の存在を知っていた。いままでわたしはほかの収集家が苦労して本文をタイプした不鮮明な複写紙でこの作品を見ただけであり、そのタイプの写しは、べつの人が後生大事に保管している雑誌からとったものであった。一九五七年になって初めてバローズ愛好家で企業心のある出版者、ブラッドフォード・デイが限定本を刊行し、「三十度線の彼方」が手にはいるようになった。  ところで、この珍しい小説にはバローズの正真の作風が表われている──ジャングルの世界におけるはなばなしい冒険に、作者のSF的な、ときには冷笑的な未来観という風味が添えられている。初めて一般読者に提供される今回の版では、題名をもっとわかり易いものに変更した。バローズは第一次世界大戦の初期のあいだに未来の予言をしたわけだが、それでもなお彼の二十二世紀のビジョンには、さほど見当違いでもなさそうな要素が多々《たた》あることに、読者諸氏も賛同なさるものと思う。 [#地付き]──ドナルド・A・ウォルハイム     [#地付き]エイス・ブックス編集長   [#改ページ] [#(img/007.jpg)入る] [#(img/008.jpg)入る]      1  わたしはごく幼少の頃からずっと、二十世紀末のヨーロッパの歴史にまつわる謎に妙に心を奪われてきた。わたしがもっとも興味深く思うのは、いうなれば既知《きち》の事実に関してというよりも、西半球と東半球のあいだに人間の往来が跡絶《とだ》えて以来経過したこの二世紀間の知られざることについての考察──もちろん〈大戦〉が終結していたらの話ではあるが、〈大戦〉終結後のヨーロッパの状態の謎についての考察に関してであった。  わが国の検定歴史書の貧弱な内容から学んだところでは、北米合衆国と〈|東 半 球《オールド・ワールド》〉の交戦諸国間の外交関係断絶以後十五年間は、多かれ少なかれ不確実な情報がときおり東半球から西半球へともれてきていた。  そこへ、「東は東──西は西」なる独自のスローガンにもっとも端的に示された、あの歴史的な宣伝活動《プロパガンダ》の実現という事態が発生し、それ以後の交流はいっさい法令で停止された。  その前ですらも、大西洋にも太平洋にも機雷がばらまかれているという危険と障害のために、大洋横断の通商は事実上途絶していた。いったいいつ頃潜水艦の活動が終わったものかは不明だが、パン=アメリカの商船によって最後に目撃された潜水艦は巨大なQ一三八型であり、そいつは一九七二年秋バーミューダ沖でブラジルの油槽船めがけて二十九本の魚雷を発射したのである。激浪と、船長の優秀な操船術のおかげで、パン=アメリカ船はそこを逃れ、わが国の貿易に対して長いこと続いていた数々の不法行為のこの最後の一件を報告できたのだった。  わが国の昔の船舶がどれほど、|跳 梁《ちょうりょう》する血に狂ったヨーロッパの鋼鉄の鮫《さめ》たちのえじきとなったかは、神のみぞ知るところである。東西の水平線をひとたび越えて、ついに不帰《ふき》の客となった人と船は無数だった。だがそれらの船が潜水艦の吐き出す魚雷の前に最期を遂げたものか、機雷があてどもなく漂流する海域でそうなったのかを、生き延びて告げる者は一人としていなかった。  するとそのうちに、北極から南極までの西半球をただ一つの旗のもとにつなぐパン=アメリカ大連邦が成立し、その結果、〈|西 半 球《ニュー・ワールド》〉の海軍が統合されてかつて七つの海にその例を見ない史上最強の海軍が誕生した──古今未曽有の平和待望論の実現である。  その日以来アゾレス諸島の西岸からハワイ諸島の西岸までを平和が支配するようになり、東西いずれの人間も、あえて西経三十度、あるいは西経百七十五度を越えたことはない。三十度から百七十五度までがわれわれのもので──三十度から百七十五度までが平和と繁栄と幸福なのである。  そのむこうは未知の世界だった。少年時代の地理の本でさえ、その先のことは何一つ示しておらず、その先のことは何一つ教えられなかった。推測をすれば、はぐらかされた。二百年来、東半球は、パン=アメリカの地図や歴史書から抹殺されていた。小説でそのことを書くことさえ禁じられた。  治安パトロール船は三十度と百七十五度を哨戒《しょうかい》する。そのむこうから来る船に治安《ちあん》パトロール船がいままでに何回警告を発したことがあるのかは、政府の秘密公文書にしか示されない。しかしわたしは自分が海軍軍人なので、三十度の東なり百七十五度の西なりに煙とか帆が認められてからすでに二百年以上は経っているものと、軍のいい伝えから推測している。  |死 線《デッドライン》の彼方にある放棄された領域の運命は、憶測するしかない。中国で共和国が滅亡してから突如として蜂起《ほうき》した軍勢、すなわちソ連や日本から満州、朝鮮を奪い、フィリピン諸島の併合までもやった軍事力によって東半球が占領されたということは、いかにもありそうなことである。  二百六年前、百七十五度線上で、わたしの高名な祖先であるターク提督の手から、一九七一年布告の文書を受け取ったのは中国軍艦の艦長であった。わたしは黄ばんだ提督の日記のページから、そのときでさえもフィリピン諸島の運命がそれら中国の海軍将校たちによって予言されていたことを知った。  たしかに二百年以上のあいだ、三十度線を百七十五度のほうへ横切って、しかも生き永らえて体験談を語った者はいなかった──運命の手により、わたしがその線を越えて、またもどることになるまでは。  世論が、遠い昔に死んだ祖先たちの思いきった規制にとうとう反感を抱き、わたしの体験談が公《おおやけ》にされることを要求し、また平和と繁栄と幸福を三十度と百七十五度にとどめるよう命じた狭量な禁令を永久に撤廃するように要求したときまでは。  神の摂理《せつり》により、未開のヨーロッパを向上させる手段となる機会が自分に与えられたことを、わたしは幸いに思っている。苦悩や、退化や、底知れぬ無知──わたしが訪れたときヨーロッパはまさにそういう状態であったが、わたしはそれを改善する手段となったのだ。  わたしは東半球の野蛮な群衆が完全に立ち直るのを見るまで生きてはいまい──それは何世代にもわたる、たぶん長い歳月を要する事業であろう。東半球の人間の未開状態への逆行はそれほど徹底していたのだ。しかしその事業がもう始まっていることはわかっているし、わたしは寛大な同胞諸兄が委ねてくれたその事業の分担を誇りに思っている。  政府はすでに、わたしの三十度の彼方における冒険の完全な公式報告書を所有している。この物語では報告書ほど四角ばらず、願わくはもっと読ませる文体で述《の》べようと思う。  そうはいってもわたしは一介の海軍将校にすぎず、文才はいささかなりともあるとはいいがたいから、とうていこの主題の持つおもしろさを語りつくすことにはなるまい。わたしは、過去二世紀のあいだに一文明人にふりかかったこととしては無類の、驚異的な冒険をしたということに勢いを得て、どれほど語り口がまずくとも、事実がおのずと読者諸氏の興味を最後のページまで持続させてくれるものと信じている。  三十度の彼方! ロマンス、冒険、異民族、怪獣──この、活気のない繁栄と平和との退屈な時代には得られぬ、二十世紀の古人たちの生活のあらゆる興奮や狼狽──あらゆるものが、あらゆることが三十度のむこうにはあった。三十度線、つまり、ばかばかしい、あざとい現在と、屈託《くったく》のない未開の過去のあいだにある、目に見えぬ障壁の彼方に。  戦争や革命や暴動のあった古きよき時代にあこがれて嘆息しなかった青年はいない。わたしもそうした古い時代、過去の愛すべき時代の記録を大いに熟読したものだ。労働者が武装して働きに出かけ、銃や手榴弾や短刀でわたり合ったり、街路が血に赤く染まったりした時代のことを!  ああ、それにしても当時は生活に生き甲斐のある時代であった。夜出歩く者は、どこかの暗がりで「追いはぎ」に襲われて殺されるかもしれなかったし、森やジャングルには野獣が徘徊していたし、また野蛮人もいれば人跡未踏の地域もある時代だった。  いまでは西半球のどこにせよ、誰でも自分の家から歩いて行けるところに、あるいは少なくとも飛行機で行ける範囲に、学校の校舎が見あたらない所はない。西半球の荒れ地を徘徊するもっとも野性的な獣にしてからが北なり南なりの凍土にある政府指定の保留地内に、ねぐらを持ち、そこでなら物好きな人間が獣を観察したり、まったく無事に手からじかにパン屑を与えたりできるのだ。  だが三十度の彼方では!  わたしはそこへ行って、しかももどって来た。そしていまでは諸君もあそこへ行かれるのだ。三十度や百七十五度を越えることは、もはや恥辱や死によって罰せられる反逆罪ではなくなったのだから。  わたしの名はジェファースン・ターク。海軍大尉──偉大なるパン=アメリカ海軍、全世界に現存する唯一の海軍の大尉だ。  西暦二一一六年、北米合衆国アリゾナに生まれた。だから二十一歳である。  幼少の頃に、わたしはアリゾナ州のたくさんの都市や、人口過剰のいなかの地方にはうんざりしてしまった。二世紀以上のあいだターク家は代々海軍に人を送っていた。わたしは巨大な大洋の、自由で渺茫《びょうぼう》とした広がりに惹かれたように、海軍にも惹かれた。それで海軍に入隊し、世間並に水兵から進級して将校となり、昇進するにつれてわが軍の船舶のことを学んだ。進級は早かった。わたしの家族は海軍の知識を遺伝されているらしいのだ。一家の者たちは生まれながらの将校であり、わたしは海軍で昇進が早かったのを、特に自分だけの手柄とはしないのである。  二十歳のときには、SS96級の航空潜水艦コールドウォーター号を指揮する大尉となっていた。コールドウォーター号は史上初の空海両用船の一隻で、進水以来大幅に手を加えられており、同じようなタイプの新造船では幸いにも除かれている無数の弱点を所有していた。  わたしが指揮をとったときでさえも、コールドウォーター号は屑の塊も同然の代物《しろもの》だった。だが政府の天地|開闢《かいびゃく》以来の倹約精神がひき続きその船を現役にとどめ、まだかけ出しのわたしをその指揮にあたらせ、二百名の部下を乗せて、アイスランドからアゾレス諸島までの三十度の哨戒をするために出発させたのだった。  それまでわたしは、大型軍用商船に乗り組む軍務が多かった。軍用商船は実用向きの海軍の艦船で、その維持のために国民に重税を負わせていた旧来の海軍を、自活する船から編成された現今の艦隊へと変貌《へんぼう》させたものである。軍用商船は大陸から遠く散らばったパン=アメリカの島々へ貨物や郵便を運ぶあいだに、標的演習や射撃訓練をする充分な時間を見つけている。  軍務における今回の変更は、わたしがすこぶる歓迎するところであった。それは単独指揮という願ってもない責任をもたらしてくれたからなおさらのことだった。そして当然初めての自分の船に感ずる誇りのためにコールドウォーター号の数々の欠陥は見過ごしがちであった。  コールドウォーター号は二ヵ月の哨戒──この任務に当てられる規定の期間──のために充分に装備されてあり、他の船舶を目撃することでその単調さを破られることなどまったくないままに一月《ひとつき》がすでに経過した。  そのとき、第一の災厄がふりかかった。  われわれは約千メートルの高度で、嵐を乗り切ろうとしていた。一晩じゅう、波のように激しく上下に揺れる月光の射す雲上をさまよっていた。ときおり蒸気の壁が裂けると、そこを突き抜ける雷鳴の炸裂と稲妻の強烈な閃光《せんこう》が、海面のすさまじい暴風雨がつづいていることを告げていた。しかしわれわれはそうした状態の遙か上方にいて、かなり楽に上部の強風に乗って行ったのだ。  暁が訪れると、眼下の雲は柔らかく美しい金銀の壮麗な雲海となった。しかしその雲も、それが隠している嵐に打たれている大洋の恐怖や暗黒について、われわれをあざむくことはできなかった。  朝食にむかっていると機関長がはいって来て敬礼した。ただならぬ顔つきで、ふだんよりやや蒼白にさえなっていると、わたしは思った。 「どうした?」  機関長は、精神的に緊張したときの癖になっている身振りで、神経質に人さし指の背で眉をこすった。 「重力スクリーン発生機ですが」と機関長はいった。「第一発生機が一時間半ほど前にだめになりました。自分たちはそれ以来、修理にかかりきっていたのですが、修理不能だとご報告せざるを得ません」 「第二発生機で引続き供給を受けられるだろう。そのあいだに無電を打って救助を求めよう」 「しかしそれが問題なのであります。第二発生機は止まってしまいました。こうなることはわかっていたのです。自分は三年前にこれらの発生機に関する報告書を作成しました。そのときに二台とも廃棄《はいき》するよう勧告したのです。あの原理はまったくまちがっています。その二台がだめになりました」そして苦笑しながらいった。「少なくとも自分は報告書が正確であったと知って満足することになりましょう」 「岸に着くか、あるいは少なくとも途中で救援隊に会えるだけ予備のスクリーンはあるのか?」 「ありません」機関長は重々しく答えた。「もう降下しかけております」 「ほかに報告することは?」 「ありません」 「よし」  わたしはそう答えて、機関長を退《さが》らせると、無線通信士を電話で呼んだ。通信士が現われると、わたしは海軍長官への通信を伝達した。長官への連絡は、三十度と百七十五度で任務についている全艦艇から直通になっているのだ。  わたしはわが艦の窮境を説明し、残っているわずかなスクリーン・フォースのありったけを使って飛びつづけ、できるだけ迅速にセント・ジョーンズに進航すること、やむを得ず着水することになっても同じ方角に進みつづけるむねを述べた。  事故は三十度の真上、北緯五十二度で起こった。海面の風は暴風となって西から吹きつけていた。海面でそのような嵐を乗り切ろうと試みるのは自殺行為のようだった。コールドウォーター号は好天という条件のもとでしか、海上を航行するように設計されていなかったからだ。  制御できるときなら潜水するか空を飛べばどんな天候にあってもけっこう扱いやすかった。しかし肝心のスクリーン発生機がなくては飛行できないし、いったん潜水すれば浮上できなくなるから救いようがないのだった。  もっと新しい型の船ではこうした欠陥はみな取り除かれている。だが、眼下に激浪がとどろき、暴風雨が西から荒れ狂い、三十度線をわずか二、三海里うしろにひかえて、徐々に降下して行くコールドウォーター号に乗っていたその時には、そのようなことがわかっていたところで、なんの役にもたたなかった。  周知のように、三十度線か百七十五度線を越えれば、海軍の指揮官にはこの上なく悲惨な災難がふりかかることになっている。その不運な指揮官が、よくあることだが、この不当で無情な規則によって世間のもの笑いにされる前に自殺しないかぎり、すぐに軍法会議、そして左遷《させん》とくるのである。 [#(img/018-019.jpg)入る]  過去においては、この罪を緩和することのできる口実も状況も一つとしてなかった。 「彼が指揮にあたって、しかも船に三十度線を越えさせてしまった!」それで充分だった。それは、どう見ても指揮官の落度ではなかったかもしれない。たとえばコールドウォーター号の場合、重力スクリーン発生機が役立たなくなったのは、まさしくわたしの責任ではないのであって、それと同じことだ。  だが、きょう万が一にもたまたま風に吹かれて三十度線を越えたら──下のほうでひゅうひゅう鳴るのが聞こえているひどい西風を受けると、簡単にそうなりかねなかった──責任はわたしの双肩にかかることになるし、その点は重々承知していた。  ある意味でその規則は有効なものだった。その目的とするところを確かに達成したからだ。みなが東の三十度線と西の百七十五度線は避けたし、それらをすれすれに通らなくてはならなかったとしても、不可抗力以外のものによってそこを越えたためしはなかった。優秀な将校はそのいずれの線に近づいても感じでわかるものだという海軍のいい伝えは諸君もみなよくご存知だが、わたしとしては、羅針儀が手間《てま》|暇《ひま》かけて考えなくともすぐに北を見つけだすことが確かであるのと同様、そのいい伝えも真実であることを確信している。  昔のサンチェス提督は、三十度線は匂いでわかると主張するのが口癖であったし、わたしが航海した最初の艦の水兵たちは、航海長のコバーンには、北緯六十度から南緯六十度までの三十度線沿いの波は一つ残らず名前がわかっているのだと称していた。しかしわたしといえどもこれを保証する気は毛頭ない。  さてわたしの話にもどると、われわれは西風に頑強に抵抗してできるだけ早く三十度線から艦首をそらしながら、しだいに海面のほうへと降下しつづけていた。  わたしはブリッジにいたのだが、燦々《さんさん》たる陽光から雲の濃い蒸気へ入り、さらに雲を抜けて下のほうの激烈な暗い嵐の層へと下がりつづけるにつれて、わたしの意気も下降する艦とともに落ち、それにともなって希望の浮力[#「浮力」に傍点]も乏しくなるような気がした。  波浪はすさまじい高さにまで達しており、コールドウォーター号はそのような波に艦首を前にして直面するようにできてはいなかった。コールドウォーター号の本領は、荒れ狂う嵐のはるか上にある青空か、どんな嵐にも撹乱《かくらん》されないような大洋の深部にあるのだった。  下のすさまじい大渦巻に着水したときの見込みを推測したり、それと同時に救援機が到達するまでに経過する時間を暗算したりしていると、無線通信士がブリッジと梯子《はしご》をよじのぼって来た。  髪をふり乱し息を切らせてわたしの前に立つと敬礼した。一目見ただけで何かまずいことが起きたのがわかった。 「今度はどうした?」わたしはきいた。 「無線であります!」彼は叫んだ。「故障して送信できません」 「だが非常用の装置は?」 「なんでも試してみました。八方手を尽くしましたが、送信できません」  そして彼は直立してふたたび敬礼した。  わたしは思いやりのある言葉をちょっとかけて彼を去らせた。コールドウォーター号の他の艤装《ぎそう》と同様に通信装置が老朽化《ろうきゅうか》して使いものにならなくなったのは通信士の手落ちのためではないとわかっていたからだ。パン=アメリカに彼以上の通信士はいない。  わたしには無線の働かないことが彼の思うほどの重大事とは思えなかったが、それはおかしなことではない。ちょっとした思わぬ失策をすると、宇宙全体の調子までかならず狂ったように思うのが人間の常なのだから。  この嵐がわれわれを三十度線のむこうへと吹きつけたり、大洋の底へ沈ませるという運命になっているとしても、それを防ぐのに間に合うように救援が到着するはずがないことはわかっていた。ただ規則がそう要求しているから通信文を送るように命じたのであって、現在の窮境のなかで、それによって有利になることがあるなどと特に希望を持っていたわけではなかった。  無線と浮力発生機が同時に働かなくなったという偶然の一致をながながと考えている暇はほとんどなかった。というのは、それからまもなくコールドウォーター号が海面の上にあまり低く下がったので、竜骨を壊さずに波の上におりるという微妙な仕事に注意力をすっかり傾注せざるをえなかったからだ。  浮力発生機が使えるのであれば水中に入るのはぞうさのないことであったろう。つまりそうであるならば、巨大な波の底へ向かって四十五度の角度で突入するという簡単なことで済むところだった。熱したナイフがパターを切るように艦は水を割って入り、ほとんど衝撃もなく完全に潜水していたであろう──わたしはいままでに何度となくそうしてきている──だが永久に潜水したままになってしまうこと──指揮官や乗組員の生命を助けることには決してならない状態を恐れたので、とうていコールドウォーター号を潜水させることはできなかった。  ほとんどの将校はわたしより年長だった。一等航海士のジョン・アルヴァレスは二十歳年長である。艦が滑空して巨大な波にますます接近して行ったとき、彼はブリッジのわたしのかたわらにいた。わたしの一挙一動を見守っていたが、すこぶるりっぱな将校であり紳士であったから、よけいな口出しをしてわたしを困らせることはなかった。  艦がまもなく着水しそうだと見てとると、わたしは艦を回して風に舷側を向けるように命じた。そして巨大な波がのび上がって来て波頭で船体をとらえるまでそのままちょっとうろつき、そのあとスクリーン・フォースを急に逆転して大洋に着水するよう命じた。  艦は鯨の死骸のようにもがきながら波の谷間へ下りて行った。それから舵とプロペラを使って強引にコールドウォーター号を暴風の猛威のなかに引きもどし、冷酷な三十度線からしだいに遠くへ艦を推し進めて行くという戦いを開始した。  艦は激突して来る波風を受けて艦首から艦尾まで大破したし、またその間《かん》ほとんど半ば潜水していたが、たとえそうであっても、それ以上の事故が起きなかったらうまくいっただろうと思う。  ゆっくりとではあったが進航していたし、困難を切りぬけているように見え始めていたのだ。  アルヴァレスには、絶対に必要な休養をとるために下へ降りろと終始、命令していたのだが、彼は決してわたしのかたわらを離れなかった。二等航海士のポーフィリオ・ジョンスンも頻繁《ひんぱん》にブリッジに来ていた。彼は優秀な将校ではあったが、初対面のときから、わたしはなんとなく虫が好かなかった。彼がわたしの早い昇進を嫉妬の目で見ていることは後になって知ったが、それでも嫌悪感は薄れなかった。彼は年齢の点でも兵役の点でもわたしより十年先輩であり、わたしが未熟な初年兵であったときに自分が将校だったことを絶対に忘れることができなかったのではないかと思う。  わたしの操船術のもとにコールドウォーター号が暴風雨を切り抜け、無事に乗り切る見込みが出てきたことがしだいに明らかになるにつれて、ジョンスンの暗い顔に困惑と失望の影が濃くなるのがはっきり認められた。とうとう彼はブリッジを離れて下へ降りて行った。そのすぐあとで起きたことは直接彼に責任があるかどうかはわからない。だがわたしはそれ以来、その疑惑を抱いているし、アルヴァレスはわたし以上にジョンスンにその責《せめ》を負わせようとするのである。  ジョンスンは三十分ほど姿を消したあとでブルッジにもどって来たが、それは午前の当直時間の六点鐘頃であった。気が立っておちつかない様子だった──これはその当座ほとんど印象を与えなかったことだが、アルヴァレスもわたしもあとになって思い出した事実である。  彼がわたしのかたわらにまた姿を現わして三分と経たぬうちに、コールドウォーター号は急に進まなくなってしまった。  わたしはすぐそばにある電話をつかんで、機関長を艦内の電話に呼び出すボタンを押すと、なんと機関長はすでにわたしに連絡しようとして受話器のところにいたのであった。 「第一、第二、第五エンジンが壊れています」機関長は叫んだ。「残る三台のエンジンを無埋に働かせますか?」 「他にはどうしようもあるまい」わたしは送話器にどなりつけた。 「三台では暴風雨に耐えられません」 「それよりましな方法があるかね?」 「ありません」 「なら、残る三台でやってみろ、中尉」  わたしはそうどなり返して受話器をかけた。  二十分間コールドウォーター号は三台のエンジンで大海に抵抗した。三十センチも前進したかどうか疑わしい。しかし艦首を風に向けつづけているには充分であったし、少なくとも三十度線のほうへ漂流してはいなかった。  ジョンスンとアルヴァレスがわたしのそばにいたとき、前ぶれもなく艦首がす早くくるりとまわり、艦が波の谷間に落ちこんだ。 「残りの三台もだめになったな」とわたしはいい、しゃべりながら偶然ジョンスンを見ていた。  彼の薄い唇をよぎったのは、満足の微笑の影だったろうか? しかとはわからないが、少なくとも泣いていなかったことは確かである。 「艦長はいつも三十度線のむこうの偉大なる未知の世界に好奇心を持っていました」ジョンスンがいった。「好奇心を満たすには具合がよくなりましたね」  そしてそのとき彼の上唇をそりかえらせたかすかな冷笑はわたしの見まちがいだったはずがない。彼の口調か態度かに、わたしは気づかなかったが、いささか無礼なところがあったにちがいなかった。というのはアルヴァレスが間髪を入れず彼にくってかかったのだ。 「ターク大尉が三十度線を越えるときは、全員が一緒に越えることになるのだ。将校だろうと水兵だろうと大尉にたてつくやつはただじゃおかんぞ!」 「自分は反逆罪には関係しない」ジョンスンがどなった。「規則は明白であり、コールドウォーター号が三十度線を越えれば、ターク大尉を逮捕して、ただちに艦をパン=アメリカの水域にもどすよう全力を尺くすことは、あなたの責任ですぞ」 「コールドウォーター号が三十度線を越えても、自分は越えたことを知るまい」アルヴァレスが答えた。「また、艦内にいるほかの誰にもわからせてはならんのだ」  そういうとともにポケットから回転拳銃を引き抜き、わたしやジョンスンが阻止する前に、ブリッジにある全部の器具に一発ずつ弾丸をぶちこんで、修理不能なまでに破壊してしまった。  それからわたしに敬礼すると、忠誠と友誼《ゆうぎ》の犠牲者となって大股にブリッジを去った。なぜならばジェファースン・ターク大尉が艦に三十度線を越えさせたことは誰にもわからないとしても、一等航海士が、降等と死刑の両方で処罰せられるほどの罪を犯したことは全乗組員にあまねく知れるはずだからである。  ジョンスンは振り向いてわたしをしげしげとみつめた。 「一等航海士を逮捕しましょうか?」 「逮捕するな」わたしは答えた。「ほかの者にも逮捕はさせん」 「艦長も共犯になりますぞ!」彼は憤然として大声をあげた。 「下へ行ってよろしい、ミスター・ジョンスン。予備の器具の包みを解いて、ブリッジに然るべくすえつける作業にかかってくれ」  彼は敬礼して立ち去った。わたしはしばらくのあいだ激浪をじっと見つめて立っていたが、わが身を不意に襲った不当な運命や、はからずもわが家にもたらすことになった悲しみと汚名のことを惨めな気持で考えると胸がいっぱいであった。  それでもわたしの不名誉という重荷を終生背負う妻子のないことがせめてもの救いであった。  わが身の不運を思うにつれて、身の破滅を立証することになる例の法令の不当さをこれまで以上にはっきりと考えるようになった。そして当然その不当さに反感を抱くうちに腹が立ち、アナーキーと呼ばれた古人たちのあいだにかつて普及していた気慨ときっと似ていると思われる感情が、心中に芽生えてきた。  生まれて初めて、習慣や伝統や政府に対してさえも身内の感情がこぞって反発するのを覚えた。一瞬、反抗心が波のように全身を襲った。  初めは、確立している物事の条理──二世紀のあいだパン=アメリカを支配してきた迷信、すなわち、とうに故人となっているパン=アメリカ連邦の規約の立案者たちの先見には絶対誤りがないという盲信にもとづいた迷信──の神聖さに異端者のような懐疑の念を持ち、やがて最後には、不運と反逆の同義語の観がある愚劣で非常識な規則に対して、わが名誉と生命を最後まで守ってみせるという鉄石のような決意が生まれるに至ったのだ。  ブリッジにある破壊された器具をとりかえて、三十度線を越えるときには将兵全員に知らせてやろう。しかもその際はわたしの本心を吐露《とろ》し、逮捕しようとすれば抵抗し、そして死線を越えて艦をもどらせ、ニューヨークに着くまでは艦長のポストに留まることを主張するとしよう。それから細大洩らさず事情を報告するとともに、死線を永久に海から消すことを世論に訴えよう。  わたしには自分の正しいことがわかっていた。海軍創設以来もっとも忠実な将校だと思っていた。りっぱな将校であり、船乗りなのであるから、氷河期前の化石も同然の連中が二百年以上も前に、何人《なんぴと》も西経三十度を越えるべからずと宣言したからといって、おめおめと降等や解職を甘受してたまるものか。  そうした考えが心をよぎっているあいだでさえも、自分の任務の細目には精を出していた。わたしが海錨を装備するよう手配すると、こうした際でも水兵たちはその仕事を申し分なくやってのけていた。  コールドウォーター号は急速に転回してもう一度艦首を風上に向け、波の谷間をもがきながら進んだ結果、猛烈な横揺れは、幸いにも減少しつつあった。  ジョンスンが急いでブリッジにやって来たのはそのときだった。片方の目は腫れあがってすでに黒ずんでおり、唇は切れて血が流れていた。ジョンスンは敬礼という手続きすらふまずに、激怒のあまり蒼白になってやにわに話しかけてきた。 「アルヴァレス中尉に暴行されました! 中尉の逮捕を要求します。中尉が予備の器具まで破壊している現場を見つけたのです。しかも本来ならこちらが器具を守るために制止するところを逆に中尉に襲いかかられ、撲られたのです。艦長が中尉を逮捕されるよう要求します!」 「身分を忘れているぞ、ミスター・ジョンスン」わたしはいった。「きみが艦の指揮をとっているのではない。アルヴァレス中尉の行為は、まことに遺憾には思うが、中尉をその行動へと駆りたてた忠誠心と自己犠牲の上にたつ友誼を、わたしの心から消すことはできん。わたしがきみだったら、中尉の示した模範を自分のために参考にするところだ。さらに断わっておくが、ミスター・ジョンスン、わたしは艦が三十度線を越えても引続き指揮をとるつもりであり、ニューヨーク港で上官によって正当に任務を解かれるまでは、艦内のあらゆる将兵に絶対的服従を要求する」 「艦長は逮捕に服することなく三十度線を越えるといわれるつもりですか?」  彼の声は絶叫に近かった。 「そうとも。もう下へ行ってよろしい。そしてまたわたしに話しかけることが必要になったら、わたしはきみの上官なのだから敬礼を受ける資格のあることを忘れずにいてもらいたいものだ」  彼は赤面して少し躊躇していたが、それから敬礼し、まわれ右をしてブリッジを去った。  まもなくアルヴァレスが現われた。青い顔をしていた。その前に彼に会ったときからほんのちょっとのあいだに十も年をとったように見えた。アルヴァレスは敬礼をすると自分のやったことをごく簡単に話して、逮捕してくださいと頼んだ。  わたしは彼の肩に手をかけた。そして彼の行為をとがめはしたものの、自分の感謝の気持は彼のわたしへの忠誠心におとらず強力であることを明らかにしたときには、声がいささか震えていたろうと思う。それからわたしは死線を設定した規則を無視して、自分で艦をニューヨークに帰投させるという決意をざっと披瀝《ひれき》したのである。  アルヴァレスにその責任を分担してくれるよう頼んだのではなかった。逮捕を甘受することは拒絶し、故国でドック入りするまではアルヴァレスやその他のすべての将兵に、わたしの指揮への絶対的服従を要求するつもりだと、述べただけであった。  わたしの話を聞くとアルヴァレスの顔がぱっと明るくなった。彼は三十度線の外にあっても、内にいるときと変わらず、いつでもわたしの指揮権を認めるのにやぶさかでないと保証してくれた。が、わたしはそんな保証は必要でないと急いで告げたのである。  嵐は二日間猛威をふるいつづけ、そのあいだに風がほとんど一ポイントも方向を変えていないかぎり、艦は三十度をはるかに越えて南東にどんどん流されているにちがいないとわかっていた。その間《かん》ずっと、破壊されたエンジンや重力スクリーン発生機の修理にとりかかることは不可能だった。  しかしブリッジには器具のフル・セットがあった。というのはアルヴァレスがわたしの意図《いと》を知ったあとで、彼のキャンビンに隠しておいた予備の器具をそこから持って来たのだ。壊しているところをジョンスンに見られた器具はまた別の一そろいで、それがコールドウォーター号にあることはアルヴァレスしか知らなかったのだ。  正確な現在位置を定めたくて、いらいらしながら太陽を待っていると、四日目になって正午数分前にわれわれの不寝番が報いられた。  観測の結果を待つあいだ艦内の将兵は一人残らず興奮して神経をとがらせ、緊張していた。われわれが三十度線を越す運命にあることは、乗組員も、わたしとほぼ同じぐらい早くから知っており、どちらかといえばわたしは、誰も彼も全員がひどく楽しんでいたと信じている。というのは三十度と百七十五度の範囲内には冒険心やロマンスの気分を満たすものがほとんどなかったとはいえ、そうしたものを求める気慨は二十二世紀人の心にもまだ生きていたからであった。  水兵たちには責任の重圧はまったくかからなかった。彼らは処罰されずに三十度線を越えることができ、しかも帰国すれば英雄となるにちがいない。それにしても彼らの指揮官の帰国とは雲泥の差ではないか!  風はやはり北西から吹いていたが間断のない疾風《しっぷう》にまで落ち、それにつれて海面も静まってきた。  乗組員は、任務のため艦内にいなくてはならぬ者を除いて、全員がブリッジの下のデッキに整列させられた。艦の位置がはっきり確定すると、熱心に待ちうけている部下たちにわたしはじかに告げた。 「諸君」  わたしは手すりのところまで進み出て、上に向けられた赤銅色の面々《めんめん》を見おろした。 「諸君は艦の位置に関する情報を待ちかねている。それは北緯五十五度七分、西経二十度十六分と確定した」  わたしが間《ま》をおくと、活発にとりざたをするざわめきが、下に集まった水兵のあいだを走った。 「三十度線は越えた。しかしふたたびニューヨークでドック入りするまでは、各将校の分担にも、日課にも、規律にも変更はない」  話を終えて手すりからしりぞぐと、かつて治安パトロール船では聞いたこともないような万雷の拍手がデッキからあがった。それは古きよき時代、すなわち海軍の艦船は戦闘用に建造され、治安パトロール船は軍艦であり、大砲は無益な標的演習以外のことで閃光を発し、デッキが血に赤く染まった時代について読んだことのある物語を思い出させた。  海が静まると、破損したエンジンの修理に着手していくらか効果をあげることができたし、また重力スクリーン発生機に対する方策が万が一あるとわかったらそれらを働かせる目的で.部下たちを調査にもあたらせた。  われわれはエンジンのために二週間骨を折ったが、エンジンは人の手で細工した痕跡がまぎれもなく残っていた。わたしはこの災厄を調査して報告する委員会を任命した。だが委員会がしたことは、ジョンスンにすっかり同調している将校が五、六名そこに加わっていることをわたしに確信させただけであった。  というのは、それまでジョンスンにたいする嫌疑はなんら提起されていないくせに、委員会はわざわざ特別に答申のなかでジョンスンを潔白と断定していたからだ。  この間終始、艦はほとんど真東に漂流しつつあった。エンジンの修理作業ははかどって、あと二、三時間もしたら西のパン=アメリカの水域の方向に自力で航行できると期待できそうなほどだった。  わたしは単調さをまぎらすために魚釣りにふけり、その朝早くもそうした遠足に行くべく、ボートの一隻でコールドウォーター号を離れた。穏やかな西風が吹いていた。海は陽光にきらめき、頭上には雲一つない空。われわれ一行は小さな羅針儀だけを道案内に、獲物を求めて西へ進んだ。  わたしは避けられるかぎりは自分からは決して東のほうへ一インチたりとも進まないことにしていたからである。少なくともわたしは死線の規則に故意に違反したとは責められないはずであった。  ボートの定員数だけがわたしに同行していた──三名の部下で、小さなモーターボートをあやつるには充分すぎる人数だった。一人になりたかったので将校には同行を求めなかったのだが、いまではそうしたことをたいへんよかったと思っている。われわれの身にふりかかったことを考えると、ただ一つ残念なのは、ボートに乗り組んだ三人の勇者たちを同行させる必要があったことである。  首尾よくいった釣のために、われわれはもうコールドウォーター号が見えないほどはるか西へ来てしまった。昼の時間が過ぎていき、やがてついに午後の中頃に、わたしは艦にもどれと命令を下した。  東にいくらも進まないうちに水兵の一人が興奮した叫び声をあげ、同時に東のほうを指さした。一同が彼の示すほうを見ると、なんと水平線よりいくらか上に、空を背景にして浮き出たコールドウォーター号の輪郭が見えるではないか。 「エンジンも発生機も修理できたんだ」水兵の一人が叫んだ。  そんなことはありえないような気がしたが、やはり修理ができたとしか思えなかった。ついその日の朝ジョンスン中尉が発生機の修理は不可能ではないかと思うと、わたしに話していたのだ。ジョンスンは前々から海軍では最高の重力スクリーンの専門家と見なされていたので、わたしは彼にその仕事を受けもたせたのだ。彼はいままでに、さらに新型の発生機に組みこまれている改良をいくつか発明してもいたし、重力スクリーンの理論と実際については、現存のパン=アメリ カ人の誰よりも造詣《ぞうけい》が深いとわたしは確信している。  ふたたび制御可能となったコールドウォーター号を見ると、三人の水兵たちはよろこんで喝采した。だがわたしはどういうわけかそのとき説明ができなかったが、一身上の不幸の予感に奇妙に圧倒されたのだ。  そのときにパン=アメリカへの早期帰還や軍法会議を予想したということではない。なぜならわたしは、帰国に引き続いて断固やることになるはずの闘争をむしろ楽しみにしていたのだから。確かに、なにか他のものがあった。艦が海面より上昇しながらこっちへまっすぐに進んで来るのを見ているうちに、わたしの上に妙な陰を投げかける、何かはっきりしない、あいまいなものがあった。  自分が意気《いき》|銷沈《しょうちん》した根拠をつきとめるのに長くはかからなかった。というのは、われわれの姿は航空潜水艦のブリッジからも、そのデッキに群がる大勢の水兵の目にもはっきりと見えていたにもかかわらず、艦は水面から百五十メートル足らずの高度でわれわれの真上を通過して、一直線に西へと疾走して行ってしまったのだ。 [#(img/035.jpg)入る]  われわれは全員が大声を出した。その気がある者なら、みなこちらに注目しているはずだと充分承知していたが、それでも、わたしは艦上の者の注意を惹《ひ》くためにピストルを発射した。しかし艦は着実に遠ざかってしだいに小さくなり、やがてとうとう完全に視界から消えてしまった。 [#改ページ]      2  いったいこれはどういうことだ?  わたしはアルヴァレスに指揮をまかせてきた。アルヴァレスはもっとも忠実な部下である。アルヴァレスがわたしを見すてるなどということは絶対にありえない。  いや、ほかの解釈もできる。  二等航海士、ポーフィリオ・ジョンスンに指揮をとらせるような事態が起こったのだ。それにちがいない。  しかしその理由は?  憶測したところで無駄なことはあまりにも明瞭だった。コールドウォーター号は大洋のまっただなかにわれわれを置き去りにしたのだ。まちがいなく、われわれのうち誰一人として、その理由を知るまで生きながらえるはずはなかろう。  モーターボートの舵をとっていた青年は、コールドウォーター号がわれわれの頭上を通過するつもりであることが明らかになると、船首を転じて、いまもなおむなしくコールドウォーター号を追跡しつづけていた。 「船を反対方向に向けるんだ、スナイダー」わたしは指図した。「そして真東に向けておきたまえ、コールドウォーター号に追いつくことはできないし、これに乗って大西洋を横断もできない。唯一の望みはいちばん近い陸地へ行くことだが、わたしの判断にまちがいなければ、いちばん近いのはイングランド南西岸の沖にあるシリー諸島だ。イングランドのことは聞いたことがあるかね、スナイダー?」 「ニュー・イングランドという名前でむかしの人に知られていた、北米合衆国の地方があります。それが艦長のいわれるところですか?」 「いや、スナイダー、わたしのいうイングランドはヨーロッパ大陸の沖の島だったのだ。そこは二百年以上前に栄えた、とても強力な王国の所在地だった。北米合衆国の一部や、カナダ連邦の全部が、かつてはこの旧イングランドに属していたのだ」 「ヨーロッパですか」水兵の一人が興奮のあまり緊張した声でささやいた。「祖父は三十度線の彼方にある世界についていろいろの話をしてくれたものです。祖父はとても勉強家で、禁書の多くを読んでいました」 「その点ではわたしもそのおじいさんに似ているな」わたしはいった。「わたしも、ふつうの海軍将校が読むはずの本よりずっと多くの本を読んだからだよ。諸君も知るように、われわれは地理や歴史の勉強では、ほかの職業の人間よりも自由が許されている。  ポーター・ターク提督は二百年前にいた男で、わたしはその血統をひいているのだが、彼の蔵書や文書の多くはまだ現存しており、わたしの所有になっている。旧ヨーロッパの歴史や地理に関するものだ。わたしは巡航のときにたいていそのうちの数冊を持参するが、今回はとりわけヨーロッパとその近海の地図を持ってきた。今朝コールドウォーター号を離れるときにそれらを勉強していたので、運よくいま手もとに持っているのだ」 「ヨーロッパへ行ってみるおつもりですか?」さっき口を開いた青年、テイラーがきいた。 「ヨーロッパがいちばん近い陸地なんだ」わたしは答えた。「東半球の忘れられた陸地を探険するのはかねてからの念願だった。好機到来だよ。このまま海にいれば死ぬことになる。われわれの誰もが、ふたたび故国を見ることはないのだ。この禍《わざわい》を福に転じて、生きているうちに、わが民族のほかの連中には禁じられていること──三十度線の彼方にある冒険や秘密を楽しもうじゃないか」  テイラーとデルカートはわたしの真意を理解したが、スナイダーはいささか懐疑的だったと思う。 「そりゃあ反逆ではあるがね」とわたしは答えた。「われとわが身を処罰するように強制する法律は存在しないのだ。もしパン=アメリカに帰れたら、わたしはまっ先に、それと対決することを主張するがね。帰れないことはわかっている。たとえこのボートがそれだけの距離を運んでくれるとしても、三日分以上の水も食糧もない。  われわれは死命を制されたのだ、スナイダー、故国を遠く離れて、いまここ、このボートにいる者以外には一人の同邦の顔も二度と見ることなく死ぬようにとな。それはもっとも厳格な裁判官でも満足するような処罰ではないかね?」  その点はスナイダーにしても認めざるをえなかった。 「よろしい、それでは命のあるあいだは生きて、新たな一日一日がもたらしてくれる冒険や楽しみを、なんであろうと思う存分楽しむとしよう。どの日が最後の日になるのかわからんのだし、それもそう先の話ではない」  スナイダーはまだ危惧しているのが見てとれたが、テイラーとデルカートは衷心《ちゅうしん》から「アイ・アイ・サー!」と応じた。  この二人は性格を異にしていた。二人とも海軍将校の息子で、生まれながらの貴族の見本であり、自分でものを考えることなどとうていできない性質《たち》なのだ。  スナイダーは少数派だったのでわれわれは東へと進みつづけた。三十度を越え、本船から別れたせいもあって、わたしの権威はなくなっていた。わたしがいやしくもリーダーの地位を占めているとしたら、それは個人的な資質のみによるものであったが、もし運命が人間の能力によってある程度左右できるとすれば、引続き一行の運命を決める指導者としての能力が自分にあることをわたしは疑わなかった。  わたしは常に人を率《ひき》いてきた。頭脳と体力が健全でいるうちは、将来も常に率先していきつづけるであろう。追従するということは、ターク家の者には簡単に覚えられない技術なのだ。  三日目に初めて直正面に陸の見えるところまで来た。わたしは地図から推してシリー諸島と踏んだ。しかしひどい暴風が吹いていたので、とうてい上陸を試みることはできず、ランズエンドの縁に沿って英仏海峡にはいった。  歴史的な水域を航行しているのだと悟ったとき、わたしの全身に走ったようなスリルは、その瞬間まで経験したことがなかったと思う。成就《じょうじゅ》するのを見るなど望むべくもなかった終生の夢が遂に実現した──それにしても、なんたるみじめな条件のもとで!  絶対に生まれた国に帰ることはできない。生涯の最後の日まで国外放浪の身をつづけなくてはならないのだ。とはいえ、こうした思いさえも、わたしの熱情をくじきはしなかった。  わたしの目は水域を丹念に調べた。北のほうにコーンウォールの岩に囲まれた海岸が見えた。わたしのこの目が、二百年以上の空白のあとでそこに注がれた最初のアメリカ人の目だった。  もし歴史を信じてよいものなら、海峡のただ中に白帆を点在させ、無数の煙突の煙で空を黒くしているはずの古代貿易の形跡があるはずで、わたしはむなしく捜してみたが、見渡すかぎり海峡の激しく上下する海面は空《から》っぽで荒涼としていた。  真夜中へかけて風や海が静まったので、夜明けを少し過ぎた頃、上陸を敢行しようと陸のほうへ進むことに決めた。それというのも、真水と食糧がひどく欠乏していたのだ。  わたしの観察したところでは、ボートはちょうどラム・ヘッドの沖にあり、わたしはプリマス湾にはいってプリマスを訪れるつもりにしていた。わたしの地図から判断するとプリマス市は海岸の少し奥地にあり、そしてテマー河の河口にあるらしいデヴォンポートという名前のもう一つの都市もあった。  とはいえ、英国国民は船乗りの訪客に対する歓待でむかしから有名であったから、どちらの市にはいろうと、ほとんど違いはあるまいと思った。  湾の入口に近づくにつれて、漁船を捜した。朝もこのぐらい早い時間から仕事をやりに姿を現わすものと予期していたのだ。だがラム・ヘッドをまわって湾内にかなりはいったあとでさえも、船は見あたらなかった。またその海峡で比較的大きな船舶の道案内となるブイも照明も、そのほかのしるしもなく、わたしは首をひねってしまった。  沿岸にはうっそうと樹木が茂り、建物も人の気配も海からは見えなかった。湾を上り、テマー河へはいり、海峡の海原《うなばら》と同じくかき乱されることのない静寂が支配するなかをモーターボートで進んだ。見わたすかぎり、この森閑《しんかん》とした海岸に人が足を踏み入れた形跡は皆無だった。  わたしは途方にくれ、それから初めて、真相が直感的にじわじわとわかってきた。  ここには戦争の形跡がない。デヴォン海岸のこの地域に関するかぎり、戦争はとうのむかしに終わったらしいが、人間もいないのだ。が、イングランドに住民はいないと信じる気にはなれなかった。  このように推理してくると気づいたのだが、戦争状態がいまだに継続して、住民の全部がイングランドのこの地方から、侵略者に対してもっと効果的に自衛できるほかの地方へと引き上げたことも、まずありそうもなかった。  だが彼らのむかしの沿岸の防御施設はどうなったのだ? 敵が大挙して上陸し、目的地へ進攻するのを防ぐための何が、このプリマス湾にあるだろうか?  皆無だった。  先進的な軍事国家──往年の英国はその点で鳴らしたものだが──が、おめおめと、むき出しの海岸や、すぐれた港湾をこのように敵のなすがままに放棄したとは信じられなかった。  わたしはますます途方にくれるばかりだった。前途に立ちふさがる謎を解《と》くことができなかった。われわれはすでに上陸して、地図によれば大都市が尖塔や煙突を林立させている地点に、立っているはずだった。しかし、雑草や、いばらや、こんもり茂った草に濃く覆われた、起伏の多い、でこぼこの地面があるだけではないか。  かつて都市がそこにあったとしても、痕跡は残っていない。地面にでこぼこのむらがあるのは、大量のがらくたが長い歳月の下生えの堆積《たいせき》によって隠されていることを、それとなく示していた。  ご承知のように海軍の将兵は過去の伝統と追憶への儀礼上、そり身の短剣を帯びているが、わたしはそれを引き抜いて、足もとに生えている植物の根のあたりの土壌へ切先を突っこんでみた。  刃が土に十五センチほどはいったとき、何か石のようなものに突き当たった。障害物の周囲を掘っているうちに、やがてそれはぐらついてきた。埋まっていたところからとり出すと、そいつはかまどで焼かれたむかしの煉瓦であることがわかった。  ボートを託してデルカートはあとに残してきたが、スナイダーとテイラーはわたしといっしょにいた。わたしに見習って、二人は古物を発掘するという魅惑的なたのしみにとりかかった。各人がそうした煉瓦をどっさり掘り出してやがてその単調さにうんざりし始めたとき、スナイダーが突然興奮した叫びをあげた。  ふりむくと、わたしに調べられるように人間の頭蓋をかざしている。  わたしはそれを受けとって吟味《ぎんみ》した。額の真中に丸い小さな穴がある。その紳士はあきらかに侵略者から祖国を守っている最中に最期をとげたのだ。  スナイダーは捜索の戦利品をまた一つ高くかざした──金属製のスパイクと、錆びて腐食した金属の飾りで、頭蓋骨のすぐかたわらにあったものだ。スナイダーは短剣の先で、大きいほうの装具の表面から、泥や緑青をこすり落とした。 「銘が」と彼はいってその装飾品を手渡した。  それらはむかしのドイツの鉄かぶとのスパイクと装飾だった。まもなくわれわれは、自分たちの立っている大地の上で、そのむかし激戦が行なわれたというしるしを、ほかにもたくさん掘り出した。しかしわたしはそのときも、そしていまもって、ロンドン──侵略軍の当然の目的地であったろうと歴史は提言しているが──からほど遠い英国海岸にドイツの兵士たちがいたことをどう説明してよいかわからない。  説明をつけるにはこう仮定するよりないのだ。つまりイングランドが一時的にドイツ人に征服されたのか、あるいはあまりにも広大な規模の侵略が企てられたので膨大な数のドイツ軍がイングランド沿岸に投入され、必然的に上陸は多数の場所で同時に行なわれたということである。その後発見された品々はこの見解を強める傾向にある。  われわれはしばらくのあいだ短剣で掘ってまわり、やがてわたしは、過去のある時期にその地点に一つの都市があったこと、そしてわれわれの足下に、滅亡したむかしのデヴォンポートがあることを確信するにいたった。  戦争が少なくともイングランドのこの地方にもたらした大破壊のことを思うと、嘆息を禁じ得なかった。  さらに東の、もっとロンドンに近い場所では、事態はずっと違うのであろう。この二世紀という年月がわれわれアメリカ人にもたらしたように、わが親類筋の英国人たちにももたらしたはずの文明があることだろう。大都市や、耕作された畑や、幸福な市民がいることだろう。そこへ行けばわれわれは、長いこと音信不通だった兄弟として歓待されるだろう。  わたしが死線のアメリカの側を越えた先にあるものを知りたくてたまらなかったのと同じように、こちら側から三十度線を越えた彼方の世界のことをしきりに知りたがっている大国家を、われわれはそこに見出だすことだろう。  わたしはボートのほうをふりかえった。 「さあ、諸君! 河を上って樽を真水で満たし、食糧や燃料を捜そう。そして東へむかって明日は進軍すべく待機しよう。わたしはロンドンに行くつもりだ」 [#改ページ]      3  銃声が、はっとするほど唐突に廃部デヴォンポートの静寂を破った。  銃声はランチの方角から聞こえた。やにわに三人は韋駄天《いだてん》走りにボートのほうへ駆けだしていた。  ボートが見えるところまで来ると、デルカートがランチから百メートルほど内陸のところで、地面の上にある何かの上にかがみこんでいるのが見えた。声をかけると、デルカートは帽子を振り、身をかがめて一頭の小鹿をこちらによく見えるように持ち上げた。  その戦利品のことで彼におめでとうといいかけた矢先、右手やや前方から起きた恐ろしい野獣のような絶叫にはっとした。絶叫は、デルカートの立っているところから遠からぬ、繁茂したやぶの茂みから聞こえるようだった。ぞっとするような恐ろしい声で、それに似た声はかつて聞いたこともなかった。  われわれは絶叫の聞こえてくるほうに目をやった。  デルカートの口もとから微笑が消えた。そのとき彼とそれだけ離れていてさえも、彼の顔が急に蒼白《そうはく》になるのが見えた。彼は急いでライフルを肩にあてた。と同時にその叫びを発したものが、われわれのところからも見える距離にあったやぶの隠れ場所からのっそりと出て来た。  テイラーもスナイダーも、驚きと狼狽のあまり息をのんだ。 「あれはなんでしょうか?」スナイダーがきいた。  そいつは長身の人間の腰ぐらいの高さで、ひょろっと痩《や》せてしなやかであり、毛皮は黒い縞のついた黄褐色、喉《のど》と腹は白い。形態上は猫に似ている──ひげの生えた鼻にしわを寄せ、大きな黄色い牙をむき出すと、残忍な目とひどく恐ろしい形相をした巨大な猫、異常に発育した、とてつもない猫であった。  そいつはまっすぐデルカートめざして歩みより、というよりはしのび寄りつつあり、デルカートはすでにライフルでそれをねらっていた。 「あれはなんですか?」スナイダーがふたたび低いはっきりしない声でいった。  そのときになって、むかしの博物学の忘れかけていた絵が急に心に浮かび、わたしはその恐るべき野獣の姿に古代アジアの〈フェリス・チグリス〉(虎のラテン語)を認めた。〈フェリス・チグリス〉の標本は、そのむかし西半球に展示されていたのだ。  スナイダーとテイラーはライフルと回転拳銃で武装していたのに、わたしは回転拳銃しか携帯していなかった。わたしはスナイダーの震える手からライフルをひったくると、テイラーについて来るように声をかけ、喚声をあげながらいっしょに駆け出した。絶対確実にしとめられるほど全員が接近するまでのあいだ、野獣の注意をデルカートからそらすためである。  わたしはデルカートにむかって、われわれがそばへ行くまで撃つなと叫んだ。というのは、小口径の鋼鉄で覆われたわれわれの弾丸が、野獣を殺すどころか、ともするとさらにいっそう怒らせるだけに終わるのを恐れたのだ。  だがデルカートはわたしの言葉をとりちがえて、撃てと命じられたものと思った。  彼のライフルの銃声とともに虎はあきらかに驚いて急に立ち止まった。それから一瞬ふり向いて自分の肩に獰猛《どうもう》に噛《か》みついたが、そのあとでこの上なくすさまじい咆哮と絶叫《ぜっきょう》を発しつつ、ふたたびデルカートのほうへくるりと向きなおり、信じられないようなスピードで勇敢な男のほうへと突進した。  デルカートはいまや踏みとどまり、そのオートマティック・ライフルの性能が許すかぎりすばやく連射していた。 [#(img/048.jpg)入る]  テイラーとわたしも攻撃を開始した。虎はこちらに側面を向けていたので絶好の標的であった。とはいえ、われわれは犬猫に深傷《ふかで》を与えているように見えたにもかかわらず、その実は、しゃぼん玉を浴びせているも同然なのであった。  やつは魚雷のように真一文字にデルカートに突進した。テイラーとわたしは不運な同僚のほうへ向かって丈の高い草のあいだをこけつまろびつ走るうちに、虎がデルカートの上にあと足で立ち上がり、彼を地面に押しつぶすのが見えた。  毅然《きぜん》たるデルカートは一歩だに退《ひ》かなかった。二百年間の平和も、尚武の血統をひく彼の赤い血を弱らせはしなかったのだ。獰猛な野獣が殺到してくる下で倒れながらも、彼はなおも顔を敵に向けて銃を撃っていた。  彼が死んだと思ったその瞬間でさえも、わたしは彼が部下の一人であり、同期生であり、生まれながらのパン=アメリカの紳士であるという誇りでぞくぞくとしないではいられなかった。  それはまた陸海軍支持者の原則論の一つを彼が実地に証明したという誇りでもあった──つまり支持者にいわせれば、パン=アメリカ民族においては、軍事訓練が個人的勇気の鍛練に必要だというのだ。なぜならパン=アメリカ人は高度の文明国の日常生活に起こりがちな程度の危険にしか直面せずに数世代を過ごしており、しかも完全に組織された全能の政府の意のままになるありとあらゆる方法で保護されており、その政府はこれまた進歩した科学が提供する最高のものを利用しているからである。  デルカートのほうへ駆けて行くと、彼の上にのしかかった野獣は彼をやっつけているようには見えず、餌食《えじき》の上におとなしくじっと横たわっていることがわかって、テイラーもわたしもびっくりした。そしてすぐそばまで行き、われわれの銃口が獣の頭を狙ったとき、敵対行為が急にやんだ理由がわかった──〈フェリス・チグリス〉は死んでいたのだ。  われわれの弾丸の一発か、デルカートが発射した最後の一発が心臓を貫き、野獣はデルカートを地面に押し倒しながら前のめりに倒れたまさにそのとき死んでいたのである。  デルカートは少ししてからわれわれの助けを借りて、自分を殺すはずであった獣の死骸の下から這い出したが、あやうく虎口《ここう》を脱したことを示すかすり傷一つすら負っていなかった。  デルカートの快活さはすこしも失われていなかった。端整《たんせい》な顔をほころばせて虎の下から出て来たが、筋肉がちょっとでも震えていたとか、臆病さとか興奮のしるしがいささかでも声にあらわれていたということは、まったく認められなかった。  われわれは冒険が終わるとともに、この獰猛な獣が生息地からこれほど離れたところに捕われもせずにいる理由を憶測《おくそく》し始めた。  わたしが書物から学んだところでは、虎がアジア以外にいたという事実はなかったし、少なくとも二十世紀になってからはイングランドに野放しの野獣はいなかった。  われわれが話しているとスナイダーもやって来たので わたしは彼にライフルを返した。テイラーとデルカートが殺された鹿を拾いあげ、一同はランチのほうへとゆっくり歩きだした。  デルカートは虎の皮を持って行きたがったが、それを然るべく保存する手段がなかったので、わたしは許可を与えるわけにはいかなかった。  浜へ着くと鹿の皮をはぎ、食えそうな分量だけの肉を切りとった。そして真水《まみず》と燃料を入手するために河を上り続けようとふたたびボートに乗ろうとしていると、少し離れたところにあるやぶから一連の絶叫が起こって、ぎょっとさせられた。 「もう一匹の〈フェリス・チグリス〉だな」テイラーがいった。 「それとも十匹以上か」とデルカートがつけ加えたのだが、彼がそういっているうちにも、次々と八頭の虎が跳び出して来た──充分に生長した、堂々たるやつらだった。  やつらはわれわれを見ると怒り狂った悪魔のように襲撃してきた。  三挺のライフルでは勝負にならないと見たので、わたしは古人がいうところの〈虎《タイガー》〉は泳げないようにと心に念じながら、岸から漕ぎ出せと命令を下した。  案の定やつらはみな浜で立ち止まり、行ったり来たりしながら残忍な叫びをあげたり、ひどく毒々しい目つきでわれわれをにらみつけたりした。  モーターボートで走るうちに、まもなくずっと奥地からも同じような動物の叫び声が聞こえてきた。そいつらは水際にいる仲間の声に呼応《こおう》しているらしかったが、声のどえらい音量や、広い分布状態から見て、附近の地域には膨大な数の虎がうろついているにちがいないという結論に達した。 「やつらは住民を食い尽くしてしまったんだ」スナイダーは身震いしながらつぶやいた。 「そういうことだろうな」わたしも同意した。「やつらが人間の前でもすこぶる大胆で恐れることをしないのは、人間をぜんぜん知らないのか、あるいは自然にもっとも簡単に手に入る餌として人間に慣れきっているのかのどちらかだろうからね」 「それにしてもどこから来たんでしょう?」デルカートがたずねた。「アジアからここまで旅して来たなんてことがありますか?」  わたしはかぶりを振った。それはわたしにも謎であった。虎どもが山脈や河や広大なヨーロッパ大陸を横断して、生息地からこれほど遠くまで旅して来たと考えるのはまず理屈に合わないし、やつらが英仏海峡を渡って来たと考えるのはまったく不可能であるとわかっていた。それなのにやつらはここに、しかもわんさといるのだ。  テマー河を十キロほど上りつづけて樽を満たし、それから上陸した。鹿のステーキをいくらか調理し、コールドウォーター号に見捨てられてから初めて思いがけなくありつくことになったまっとうな食事をとるためである。  ところが火を起こして肉を料理する用意をしたかしないうちに、スナイダーがわたしの腕に触《さわ》って二百メートルほど離れたところにあるやぶの茂みを指さした。彼の目は、ランチを離れたときから絶えずきょろきょろと景色を見まわしていたのだ。  やぶを覆っている葉の蔭になかぱ隠れた大虎の黄と黒が見え、やつはわたしが見ているうちに堂々とこちらへ音もなく出て来た。少しすると一頭また一頭とそのあとにつづいて来たから、われわれが大急ぎでランチへ退却したことはいうまでもない。  その地域にはどうやらそれらの巨大な肉食動物がうようよとしているらしい。というのは、さらに三度、上陸して食事を料理しようと試みたあとで、料理のことはすっかり諦めざるを得なくなった。その都度《つど》、餌をあさる虎たちに追い払われたのだ。  化学燃料に必要な材料を手に入れることも同じように不可能だった。そして手もとにはほとんど残っていなかったので、貯蔵分の燃料は万一の際に使うためにたくわえておいて、折りたたみマストを檣座に立て帆を揚げて進むことに決めた。  |虎 之 国《タイガー・ランド》に別れを告げて──むかしのデヴォンにわれわれはそう命名した──間切りながら英仏海峡にはいり、ランチの船首を南東に変えてボウルト岬をまわり、ドーヴァー海峡や北海のほうへ海岸を上りつづけて行ったが、べつにうしろ髪を引かれる思いはなかったといえる。  わたしはできるだけ早くロンドンに着き、新しい衣服を手に入れ、素養のある人士と会い、東が西と訣別して以来二世紀の秘密をイギリス人の口から教えてもらおうと決意していた。  最初の停泊地はワイト島だった。ある朝十時頃にソレントにはいったのだが、正直のところ岸に近づくにつれて気がめいった。地図には燈台がはっきりと示されているくせに燈台は見えなかった。どの海岸にも人の住む気配がなかった。  われわれはあてどもなく人を捜しながら島の北岸沿いに進み、それからやっとニューポートがあったはずの東の突端に上陸した。が、そこには雑草や、大木や、からみ合った野生の木がやたらに生えているばかりで、人間の作ったものは何一つ見あたらなかった。  上陸する前に、部下たちのベルトや弾倉につまっている鋼鉄をかぶせた弾丸を柔らかい弾丸ととりかえさせた。そのように武装すると、いっそう虎と互格の条件になったような気分がしたが、虎の気配はなく、わたしはやつらが本土にかぎられているにちがいないと断定した。  食後われわれはテイラーをランチの番に残して燃料を捜しに出かけた。どういうわけか安心してスナイダーを一人にしておくことができなかった。わたしのイングランド訪問の計画を非難がましく思っているのはわかっていたし、機会さえあれば、われわれを見捨ててランチともどもパン=アメリカにもどろうとしないともかぎらない。  彼がそれをあえてやりかねない愚か者であることを、わたしは疑わなかった。  二キロほど内陸にはいって公園のような林を通過していたとき、はからずも、イングランド海岸を認めてから初めて人間に出くわした。  一団には二十人ほどの男がいた。毛深い半裸の男たちで、大樹の蔭で休息していた。男たちはわれわれを一目見るとあらあらしい叫び声をあげてさっと立ち上がり、休んでいるときにかたわらに置いていた長い槍をつかんだ。  男たちは一目散に五十メートルほど逃げ出し、それからふりむいてしばしわれわれを詮索していた。彼らはこちらが少数なのに勢いを得たと見え、槍をふりまわし、喚声をあげながら前進し始めた。  男たちは背が低くたくましいからだつきで、長髪と、もつれて汚物のからみついたひげを生やしていた。だが頭の形はよく、目は獰猛で好戦的とはいえ知的であった。  もちろんそうした肉体的な特徴はあとになって、それほど危険な興奮した状況ではなくなり、男たちを間近に観察するもっとよい機会ができてから認めたことである。そのときは、進歩した文明人を見いだすものと予想していただけに、わずか二十人ほどの野蛮人が襲撃して来るのを、あっけにとられて見ていたのだ。  こっちはめいめいがライフルと回転拳銃と短剣で武装していたが、肩を並べて野蛮人たちと対峙《たいじ》すると、射撃の命令を下して反目もしていない異国人たちに死や苦悶を与える気にはなれなかった。そこで、わたしは話し合いができるように当面彼らを制止しようと努めた。  この目的から、頭に浮かんだうちでもっとも自然に平和的な意図を表明する仕草として、左手の掌を相手に向けて頭上にあげた。それと同時に、こちらは友好的な者だということを大声で男たちに話しかけた。とはいえ彼らの態度からは、彼らがパン=アメリカ語なり古代英語なり──もちろん両方とも同じようなものである──を解することを示すものはなかった。  わたしの仕草を見、言葉を聞くと野蛮人たちは叫ぶのを止めて、二、三歩先のところで立ち止まった。それから、他の男たちよりも先頭にいて、わたしがその一行の酋長かリーダーだろうと察した一人が太い低い声で答えた。  が、その言語はわれわれに通じはしたものの、あきらかにその派生源である英語からはひどくゆがめられているので、意味を判じとるのに骨が折れた。 「何者だ?」と男がきいた。「そしてどこから来た?」  わたしはパン=アメリカから来たと告げたが、男は頭を横に振って、それはどこにあるかのとたずねるばかりだった。男にはパン=アメリカのことも、また彼の国とわが国を距てているとわたしが話した大西洋のことも初耳なのだ。 「パン=アメリカ人がイングランドを訪れるのは二百年ぶりなのだ」わたしがいった。 「イングランドだと? イングランドとはなんだ?」 「だってここはイングランドの一部じゃないか!」わたしは叫んだ。 「ここはグラビテンだ」男は自信を持って答えた。「イングランドのことなどぜんぜん知らんよ。それにわたしは生まれてからずっとここで暮らしてきたんだ」  グラビテンの起源に思いあたったのはずっとあとになってからだった。それが、以前イングランドとスコットランドとウェールズから成る大きな島に与えられていた名前、グレイト・ブリテンの転訛であることは疑いなかった。その後聞いたところでは、この語はグラブリティンとかグルブリッテンと発音されていた。  次にわたしはその男に、ライドかニューポートへの道を教えてもらえまいかときいた。だが男はふたたびかぶりを振って、そんな地方は聞いたこともないといった。そしてこの国には都市があるかとたずねると、男は都市という言葉を聞いたことがなく、わたしの言った意味が彼にはわからなかった。  わたしは自分のいう意味をできるだけ説明して、都市という言葉で、大勢の人間が建物のなかにいっしょに住んでいる場所のことを指したのだと述べた。 「ああ」男は大声でいった。「キャンプのことか? いかにもここには大キャンプが二つある。東キャンプと西キャンプだ。おれたちは東キャンプから来た」  住居の集団を表現するのにキャンプという言葉が使われたことから、わたしは当然、戦争を連想した(英語のキャンプには戦場や軍隊生活の意味もある)。そこでわたしの次の質問は、戦争は終わったのか、誰が勝ったのかということになった。 「いや、戦争はまだ終わっていない。しかしまもなく終わるだろうし、例によって〈|西はずれの者《ウエストエンダー》〉が敗走して終わることになるだろう、おれたち〈|東はずれの者《イーストエンダー》〉がいつも勝つのだ」 「そうではなくて」と、わたしは男が小さな島のとるに足りない部族間の戦争のことをいっているのだと思って、こういった。「ドイツとの大戦のことだよ。大戦は終わったのかい──そしてどっちが勝ったんだ?」  努はじれったそうに首を振った。 「あんたのいう、そうしたけったいな[#「けったいな」に傍点]国はどれも聞いたことがないな」  信じられないような話だが、それは事実だった。ほかならぬ〈大戦〉の戦場であったところに住む人間が〈大戦〉のことをまったく知らなかったのだ。われわれの知るかぎりでは、彼らのまわりじゅうで〈大戦〉が熾烈《しれつ》をきわめて遂行されていたときからわずか二世紀しか経っておらず、しかも大西洋のむこう側に住むパン=アメリカ人にとって〈大戦〉はまだ強烈な関心の的であったのだ。  ここには、ドイツのこともイングランドのことも耳にしたことがないという、生来のワイト島の住人がいるのだ!  わたしは新たな質問を思いついて、やにわに彼のほうを向いた。 「本土には何人《なにじん》が住んでいるんだ?」  わたしはそうきいてハンツ海岸の方角を指さした。 「あそこには誰も住んでいない。ずっと前にはおれたちの一族が海の向こうのあの土地に住んでいたそうだ。だが野獣があまり大勢の人間をむさぼり食ったので、人間はとうとうここへ追いやられてしまった。丸太や流木に乗って漕いで渡って来たんだ。その後はあの恐ろしい国に住む恐ろしい獣のせいで、あえてもどろうとした者はおらんわ」 「ほかの国民が船できみたちの国に来ることはないのか?」  彼はそれまでに船という言葉は聞いたおぼえがなく、その意味がわからなかった。だが男がはっきりといったところでは、彼はわれわれが来るまでは、旧ワイト島の〈東はずれの者〉と〈西はずれの者〉から成るグラビテンのほかにこの世界に人間はいないと思っていたそうだ。  新しい知人たちは、われわれが仲よくしたがっていることを知って安心すると、彼らの部落、つまり彼らのいうキャンプへ連れて行ってくれた。  そこへ行ってみると、千人ほどの人間がいて粗末な小屋に住み、狩猟の収穫や岸の近くで手にはいるような海産物を常食としていた。ボートを持たず、そんなものを知ってもいないからだ。  武器はごく原始的で、たたきつぶしておおざっぱに形を整えた金属片を先端につけた粗製の槍である。文学も宗教もなく、力の掟以外の法律は認められていない。火打ち石のかけらと鋼鉄を打ち合わせて火を起こすが、たいてい食べ物は生《なま》で食べている。  彼らのあいだで結婚は知られておらず、母親という言葉はあるのだが、わたしが〈父親〉という言葉で何を指しているのかは知らなかった。男性は女性の寵《ちょう》を得ようとして争う。嬰児《えいじ》殺しを働き、年寄りや不具者を殺す。家族は母と子から成っており、男たちは一つ小屋に住むこともあれば、別の小屋に住むこともある。血なまぐさい決闘のせいで男は常に女より数が少ないから、男性全部をいれる宿所があるのだ。  われわれは部落で数時間を過ごしたが、そこではたいへんな好奇心の的となった。住人たちはわれわれの衣服やいっさいの持物を吟味し、われわれが出発して来た見知らぬ国のパン=アメリカや、やって来た方法に関して質問の雨を浴びせた。  過去の歴史的なできごとに関して大勢の者に質問してみたが、彼らの島の狭い範囲内のことと、そこで暮らしている原始的で野蛮な生活以上のことは何も知らなかった。  ロンドンのことは耳にしたことがなく、本土には人っ子一人見つかるまいと、自信を持ってわたしに告げた。  わたしはこの目で見たことにすっかり悲観して彼らのもとを辞した。われわれ三人はランチへともどって行ったが、約五百人の男女や少年少女がついてきた。  化学燃料に必要な材料を獲得したあとで船出したときには、グラビテン人たちは岸に並び、きらきら光る水上を躍る優美なボートの見なれぬ眺めに声も出ないほど驚いて見えなくなるまで見送っていた。 [#改ページ]      4  テムズ河の河口にはいったのは二一三七年七月六日の午前中だった──わたしの知るかぎりでは二百二十一年ぶりにこの歴史的な河を分けて進んだ西側の船である!  それにしても引き船とか艀《はしけ》とか遊覧船とか燈台船とか浮標《ブイ》とか、むかしのテムズ河の生活を作りあげていたあの数知れぬ付き物はみなどこぱあるのだろうか?  なくなっていた! 何もかもなかった!  往時の世界貿易の中心地を、静寂と荒廃だけが支配していた。  わたしは、このかつての大水路をニューヨークや、リオや、サン・ディエゴや、ヴァルパライソ(南米チリーの海港)周辺の海と比較せずにはいられなかった。それらの海域は、われわれ海軍の人間がともすれば残念に思うほどまったく平和であった二世紀のあいだに、今日の姿になったのだった。そしてこの同じ期間に、何がテムズ河の水からそのかみ[#「かみ」に傍点]の威風をはぎとってしまったのか?  わたしは職業軍人なので、たった一言《いちごん》の理由しかみつけられなかった──戦争!  わたしは頭を垂れて、寂しく気の滅入《めい》る光景から目を伏せ、誰も破る気のないらしい静寂のなかを、人気《ひとけ》のない河を上って進んで行った。  地図によると以前のイーリスの所在地のあたりにちがいないと思われる岬に着いたとき、わたしは少し内陸に小さなカモシカの群れを発見した。いまではまたしてもすっかり肉をきらしていたのと、むかしのロンドンの所在地に都市をみつけるという期待をきっぱり諦めていたこともあって、わたしは上陸してカモシカを二頭手に入れようと決意した。  カモシカは臆病ですぐにおびえるにきまっているから、わたしが一人だけでしのび寄ることにし、部下たちには死骸を岸まで運ぶよう声をかけるまでボートで待つようにと告げた。  隠れ場所として得られる樹木ややぶを利用しながら草木のあいだを慎重にしのんで行って、獲物をたやすく撃てる距離にようやくたどりついたかつかないとき、雄鹿の枝角のついた頭が突然上にあがり、そうすると、まるであらかじめ打ち合わせてあった合図に従うかのように、その群れ全体がさらに内陸へとゆっくりと移勤しだした。  その進み方は緩慢だったので、わたしはまた射程距離に近づくまでやつらのあとをつけることにした。カモシカたちはきっとじきに立ち止まって草を食べるものと思ったからだ。  やつらは少なくとも一キロ半かそれ以上のあいだわたしの前方を進んで行ったにちがいなく、それからまた立ち止まってこんもりと茂った草の若葉を食べ始めた。  わたしはカモシカのあとをつけていたあいだじゅうずっと、〈フェリス・チグリス〉の存在を示すような気配や音がしないかと耳目《じもく》をそばだてていた。だがそれまでのところ、虎のかすかな徴候すらなかった。  今度は大きな雄鹿をうまく撃てると確信して、群れにそっと近づいて行くうちに急にあるものを目にし、そのおかげでわたしは驚きのあまり獲物のことなどすっかり忘れてしまった。  それはとてつもなく巨大な灰黒色の動物の姿で、巨大な肩を地上四、五メートルにもそびえさせていた。そのような野獣には生まれてこのかたお目にかかったことがなかったし、最初はなんであるのかわからなかった。生きている実物は、博物館に保存されている詰め物をした不自然な標本とはひどく外見が違うからである。  だがまもなくその巨大な動物の正体は〈エルファス・アフリカヌス〉つまり、古人がふつういうところのアフリカ象だろうと推察した。  カモシカはその巨大な野獣がはっきり見えていたにもかかわらず、それにはこれっぽっちも注意を払わなかった。またわたしは巨大な厚皮類を眺めるのに熱中するあまり雄鹿を撃つことをすっかり忘れ、そのうちに、あっと驚くような形で、そうすることが不可能になってしまった。  象は大きな耳をひらひらさせ、短い尾を振りながら、低いやぶの柔らかな若芽を食べていた。カモシカは象から二十歩足らずのところで草を食べつづけていたが、そのとき突然カモシカのすぐそばからすさまじい咆哮が起こった。そして後者のむこうにある青々とした草木の隠れ場所から大きな黄褐色の巨体が、小さな雄鹿の背中めがけてまっしぐらに飛びかかるのが見えたのだ。  たちどころに平穏無事なその場の状景は、名状しがたい混乱へと一変した。仰天《ぎょうてん》し、胆《きも》をつぶした雄鹿は苦悶の叫びをあげた。仲間たちは算《さん》を乱《みだ》して四方八方に跳び去った。象は鼻をあげてラッパのような大声をあげ、無我夢中に逃げる途上で小さな木を踏みつぶしたりやぶを踏みつけたりしながら、地響を立てて森を駆け抜けて行った。  巨大なライオンはすさまじいうなりをあげながら、餌食の死体のうえに立ちはだかった──わたしがこの「百獣の王」の堂々たる見本に見参するまで二十二世紀のパン=アメリカ人でこのような動物を見た者は一人もいなかったのだ。それにしてもこの爛々《らんらん》たるまなざしの悪魔は生気と活力に躍動し、毛皮には光沢があり、隙を見せず堂々として、うなり声を発している。  わが国の公立博物館の風通しの悪い広間の、ガラスケースに陳列された煤《すす》けてシミ[#「シミ」に傍点]の食った剥製とはなんという違いだったろう。  生きたライオンや虎や象──現在われわれのあいだで普段使っている名前よりも、むかしの人たちになじみ深かった共通語のほうが通りがよさそうなのでそちらを使うことにするが──そんなものは見たいとも、見ることになるとも思っていなかったから、この堂々たる野獣が獲物の死骸の上で世界に対する挑戦の咆哮を発したとき、わたしは畏敬の念が混じっていなくもない気持で見とれたものだった。 [#(img/064.jpg)入る]  その光景にすっかり心を奪われていたので、わたしはまったく我を忘れ、やつ、つまりその大ライオンをいっそうよく見るために立ち上がり、五十歩と離れていない丸見えの場所にたたずんでいたのである。  少しのあいだライオンは退却する象のほうに注意を向けてわたしのほうを見なかった。そこでわたしにはそのすばらしい均整や、大きな頭や、ふさふさした黒いたてがみで眼福を楽しむ暇が充分あった。  ああ、うっとりと心を奪われてそこに立っていた短いあいだに、どれほどの感慨が胸中に去来したことか!  驚異的な文明を見出だすつもりで来たくせに、かつては歴代の英国国王が支配していた領土に君臨する百獣の王をみつけたのだ。史上最大の政府の一つがあった場所から五キロと離れていない地点でライオンがわがもの顔にのさばり、その昔、世界一の大都会が影を落としていた場所は荒涼たる荒れ地と化しているのだ。  ただただ唖然《あぜん》とするばかりだった。だがこの憂鬱な問題について瞑想にふけることは、突然終止符をうたれる運命にあった。ライオンにみつけられたのだ。  一瞬、ライオンはわが故国のきたならしい剥製のように、声も出さず身じろぎもしなかったが、それもほんの束の間だった。やにわに凶暴きわまりないうなり声をあげると、わずかな躊躇も前ぶれもなしに襲いかかってきた。  ライオンは、珍種である人間を楽しむために、足下にあるすでに死んだ餌食を見すてた。現代イングランドの大肉食動物が人間を狩りたてたときの冷酷さから推すと、やつらがむかしはどんな嗜好《しこう》を持っていたにせよ、現在までに人肉に対する気味の悪い好みをしだいに持つに至ったと信じないではいられない。  わたしはライフルをさっと肩にあてながら、そこにはいっていた堅い被覆の弾丸を、弾頭の柔らかい弾丸にとりかえでおいたことを神に、すなわち先祖たちのあがめた古来の神に感謝した。というのは、〈フェリス・レオ〉(ライオンのラテン語名)を相手にするのはこれが初めての経験であったが、たまたま初弾が致命的な個所に命中しないかぎり、みごとに完成されたわがライフルでさえも豆鉄砲のように無用であることが、やつの襲撃に直面したとたんにピンときたからだ。  襲って来るライオンのスピードは、自分の目で見た経験がなければほんとうとは信じられまい。ライオンはスピードの出る体質ではないし、スピードを持続することもできないらしい。だが四、五十メートルぐらいの距離だと、ライオンに追いつくことのできる動物はこの世にいないだろうと思う。  やつは電光石火のように襲ってきたが、さいわいわたしは狼狽しなかった。どんな弾丸でもこいつを即死させることはできまいと察しをつけた。頭蓋骨を撃ち抜くこともできそうになかった。とはいえむき出しの胸のうえから心臓をみつけるか、もっとよいのは、肩か前肢を砕いて、さらに多くの弾丸を浴びせて仕止めるまでのあいだやつを阻止することなら望みなきにあらず。  やつがのしかかってくる寸前、左肩をねらって引き金を引いた。それがライオンを阻止した。  野獣は激痛と憤怒《ふんぬ》からものすごい咆哮を発し地上をごろごろ転がってわたしの足もとのあたりまで来た。近づいて来るうちにさらに二発を撃ちこみ、そしてやつが起き上がろうともがきながら、わたしをひっかこうとあがいているところを背骨へ一発ぶちこんだ。  それがライオンのとどめを刺したわけだが、正直なところ実にうれしかった。すぐうしろに大木があったので、わたしはその蔭にはいると幹にもたれて顔から汗を拭った。その日は暑かったし、力を出しきったのと興奮したせいでへとへとになってしまったのだ。  そこに立ってランチにもどる前に一息入れていると、なんの前ぶれもなく何かがこちらへ向かってまっすぐ空《くう》をきってひゅうと鳴った。それが木にあたって鈍いどさっという衝撃音が聞こえ、片側へよけてふりむいて見ると、わたしの頭があったところから十センチと離れていない幹に、重い槍が深々と突き刺さっているのが見えた。  槍はわたしのやや側面から飛来した。その瞬間は詮索する間もおかずに木のうしろに跳び、幹を楯にしてめぐりながら、わたしを殺したがっている者をみつけようと反対側のあたりをのぞいた。  今度は人間が相手だった──遺憾《いかん》ながら槍があきらかにそのことを教えている──だが不意打ちをくうか、背後から襲われるのでないかぎり、人間はさほど恐れるに足りない。  わたしは槍がとんで来たと思われる地点が眺められるようになるまで、その幹の前側へ慎重ににじり寄って行った。そこまで行くと、ちょうどやぶのうしろから出てくる男の頭が見えた。  そいつは、ワイト島で会った男たちとタイプがほぼ同じようだった。毛深くて粗野であり、ようやく全身が見えるところまで来ると、同じように原始的な装いをしていることがわかった。  男はわたしを捜してちょっとのあいだ周囲をじっと見ていたが、それから進んで来た。すると近くのやぶの青々とした隠れ場所から、やつとそっくりのほかの男たちが大勢姿を現わし、そのあとにつづいた。  わたしは相手とのあいだに大木をはさむようにして少し駆けもどり、充分に身を隠してもらえそうなやぶの茂みをみつけた。交渉してみる前に、彼らの実力と装備のほどを知りたかったのだ。  その見すぼらしい連中を一人でも無用に殺生《せっしょう》することは思いもよらぬことだった。彼らと話し合いたいと思いこそすれ、最後の土壇場《どたんば》でもないかぎり、高性能のライフルを彼らに対して使うという危険をおかす気にはなれなかった。  新しい隠れ場所に身をひそめると、わたしは男たちが木に近づくのを見守った。一行には三十人ほどの男とそれに女が一人いた──うしろ手に縛られて、男たちの二人に引きたてられているようすだった。  彼らはやぶがあるごとに注意深くのぞきこみ、たびたび立ちどまりながら用心深く前進して来た。ライオンの死体のところで足をとめた。その仕草や高い声から彼らがわたしの獲物のことでひどく興奮していることがわかった。  しかし男たちはまもなくわたしの捜索にもどった。そして彼らが進んで来るにつれ突然わたしは、その娘の番人たちが必要もないのに彼女を邪険に扱っているのに気づいた。  娘は、一隊のほかの者がわたしを通り過ぎて行ったあと、わたしの隠れ場所から遠からぬところで一度つまずいた。すると娘のかたわらにいた男の一人が乱暴にぐいと引っぱって娘を立ち上がらせ、げんこつで娘の口元をなぐりつけた。  とたんにわたしは血が煮えくりかえった。わたしは用心に用心を重ねなくてはならないのに、そんなことなどすっかり忘れて避難所から跳び出すと、その男のかたわらにとんで行って一発でなぐり倒した。  わたしの行動があまりにも唐突だったので、その男も相棒も準備ができていなかった。だが相棒はすかさずベルトに差していた短刀を抜いて敵意もあらわに突きかかり、それと同時に警告のだみ声を発した。  娘はわたしを見ると尻ごみし目を丸くして驚いた。そのとき敵がわたしを襲って来た。  わたしはやつの第一撃を前腕でかわすと同時に、強力な一発を顎に見舞ってうしろへとよろめかせた。だがやつはすぐにまたかかって来た。が、その短いあい間に回転拳銃を引き抜く余裕はあった。  やつの連れがようやくのろのろと立ちあがり、一団のほかの男たちがこっちへとんで来るのが見えた。かくなるうえは問答無用、おたがいの武器にものいわせるほかはなかったから、男が毒々しい形の短刀を持ってふたたび突きをいれて来るところを心臓をねらって引き金を引いた。  男は声もあげずに地面にくずおれた。お次に、わたしを攻撃しようとしているもう一人の番人に拳銃を向けた。やつもくずれ落ちて、わたしはその度胆《どぎも》を抜かれている娘と二人だけになった。  一団の残りの男たちは二十歩ぐらい離れていたが、どんどん接近して来るところだった。わたしは女の腕をつかんで、近くの木蔭の自分の背後に引きこんだ。というのは、男たちは仲間が二人とも倒れたので槍を投げようとしていたからである。  娘を無事木の蔭に置くと、わたしは前進して来る敵の見えるところに出て行き、自分は敵ではないから立ちどまって耳を貸してくれと叫んだ。だがやつらはそれに応じて嘲笑のわめき声をあげただけで、わたしめがけて二本の槍を投げた。が、それは両方ともあたらなかった。  その期《ご》に及んで戦わなくてはならないとわかったが、それでも彼らを殺すのは気が進まなかった。  わたしはまさに最後の手段としてライフルで二人を倒したが、そうするとほかの男たちは一時立ちどまった。わたしはふたたび彼らにやめてくれと訴えた。しかしこともあろうに彼らはこちらの思いやりを恐怖と誤解して、激怒と嘲笑の喚声とともにわたしを圧倒すべく再度とび出して来たのだ。  やつらをこっぴどくこらしめる必要があるのは、いまや明らかだった。さもなければ──自分が死に、娘をいま一度男たちに引き渡すことになる。死ぬことも引き渡すこともごめんだから、わたしはまた木のうしろから出て行き標的演習のような細心の注意を払って、攻撃者の先頭の者を一人ずつねらい撃ちし始めた。  野蛮人たちは二人ずつ倒れていったが、それでも復讐心に燃えた獰猛な連中が迫って来た。しかし、とうとう残り少なくなり、さすがに原始的な槍で近代兵器と戦う愚《ぐ》を悟ったらしく、依然として怒り狂ってわめきながらも西方へ退却した。  これで初めて、娘のほうへ注意を向ける機会ができた。  娘はそれまで、わたしがオートマチック・ライフルからわたしと彼女との敵に死神をお見舞いするあいだ、背後にじっと黙って立っていたのである。  中肉中背でスタイルがよく、輪郭のくっきりした美しい顔だちをしていた。額が秀でて、目は聡明で、美しくもあった。陽《ひ》にあたったためにびろうどのようになめらかな肌がいくぶんか日焼けしていたが、そのためにピチビチした娘らしい愛らしい容貌がそこなわれることはなく、むしろ強調されているともいえた。  娘の表情は不安の色を示していた──あとになって彼女の気性がわかるようになったから、それを恐怖と呼ぶわけにはいかない──そして驚愕の色が依然として目に表われていた。  彼女はうしろ手に縛られたまますっくと立ち、わたしの凝視に対して、穏やかで誇りの高い視線を返してきた。 「きみは何語を話すの?」わたしはきいた。「ぼくの言葉がわかる?」 「ええ」彼女は答えた。「わたくしの言葉と似ています。わたくしはグラブリティン人です。あなたは?」 「パン=アメリカ人さ」  彼女はかぶりを振った。 「それはなんですか?」  わたしは西のほうを指さした。 「大洋を越えたはるか遠くにある」  娘の表情が心もち変わった。かすかに眉をひそめたのだ。気づかわしげな表情が濃くなった。 「帽子をとってくださいな」  その奇妙な要請に応《こた》えて、いわれたとおりにすると、娘はほっとした表情になった。それから片側へ寄り、わたしの背後をのぞくように上体をかしげた。わたしは彼女が何を見つけたのかと思って急いでふりむいたが何も見えなかった。そこでくるっと向きなおると、彼女の表情がまた変わっていた。 「あそこからいらしたのではないわね?」そういって東のほうをさした。  それはなかば質問だった。 「海のむこうのあそこからではありませんね?」 「ええ、遠い西のパン=アメリカからさ。パン=アメリカのことを聞いている?」  娘は頭を振って否定した。 「あそこからいらしたのでなければ、どこからいらっしゃろうとかまいません。あなたがあそこからでないのは確かです。あそこから来た者には角としっぽがあるのですから」  わたしは頬がゆるむのをこらえるのに苦労した。 「あそこから来た者というと?」 「悪人なのです。わたくしの国では、そんな連中がいることを信じない人たちもいます。でも伝説があるのです──あるときあそこの人たちがグラブリティンに渡って来たという、それはそれは古い伝説です。海面から来たり、水中を通って来たり、空からさえも来たのです。大勢で来たので、大きな灰色の霧のようにこの土地を横切って進みました。その人たちは人殺しの雷電や煙を携えて来て、国の人々を襲い、何千人ずつとか何万人ずつとか殺しました。でもようやくこの国の人たちは彼らを水ぎわへ、海のなかへ、と追いもどして、そこで大勢が溺死しました。逃げた者もあって、国の人たちはそういう人を追って行きました──男も女も子供さえも彼らを追撃して行きました。お話はそれだけです。伝説によると、国の人々は二度と帰らなかったと伝えられています。皆殺しになったのかもしれません。まだむこうにいるのかもしれません。でも伝説には、こういうこともいわれています。つまり、国の人々が彼らを海のむこうへ追い返したとき彼らは、きっとまたもどって来るが、その際この岸を離れるときにはあとに人っ子一人生き残らないようにしてやる、と捨てぜりふを吐いたとか。わたくしはあなたがあそこから来たのかと心配だったのです」 「その男たちはなんという名前で呼ばれていたの?」 「ただ『あそこから来た者たち』と呼ばれていますわ」彼女は東のほうを指さしてそう答えた。「そのほかに名前があるなんて聞いたことがありません」  古代史に関するわたしの知識に照らし合わせると、娘が簡単に『あそこから来た者たち』と表現している連中の国籍に察しをつけるのはむずかしくなかった。それにしてもこの大陸の表面から文明の痕跡を一つ残らず消し去ったばかりでなく、国民の知識や言語から敵の名称までも除いてしまったとは、大戦はなんとも徹底的で唖然とするほどの惨禍《さんか》をもたらしたのにちがいない。  わたしには次のような仮定の上でしか説明がつかなかった。  すなわち、この国はあちこちにまばらに忘れられた少数の子供を除いては全住民が根絶《ねだ》やしにされ、その子供たちが神意によって、何か驚くべきやり方で生き永らえ、この地にふたたび人間が住むに至った。その子供たちは疑いもなくあまりに幼かったために親たちを圧倒した大変動についてはごくおぼろげなことしか記憶しておらず、その程度のことしか子供にいい伝えることができなかったというわけである。  わたしがパン=アメリカにもどって以来、コートラン教授が、真剣な考慮にまんざら値しないでもない別の仮説を提案している。博士は、むかしの英国人がわたしの説が示唆するような小さな子供を見捨てるということは、まったく人間の本能の域をはずれたことだと指摘する。  博士はむしろこう信じたいのだ。  敵がイングランドから追放されたのは、同盟国が大陸で広範囲の勝利を収めたのと同時であり、イングランド住民は自分たちが失ったものにとって代わる都市や畑を、征服した敵の領土の中にみつけたいと願って、破壊された都市や荒廃して血にまみれた畑を捨てて大陸へと移住したにすぎなかったのだと。  博学な教授はこう仮定する。  長くつづいた戦乱は親の熱愛という本能を弱めるよりは強くしたのであるが、ほかの人間本能を鈍くもして適者生存の法則を最高度までに高め、その結果、民族大移動となると、強い者、頭のよい者、狡猾な者が子孫ともども英国海峡なり北海の水域を横断dて大陸へ行き、不幸なイングランドには精神薄弱者と狂人用の収容所にいる無力な住人しか残していかなかった、と。  これに対するわたしの反論はこうである。  すなわち、イングランドに現在住んでいる人間は精神的に健全であり、したがって、精神異常は必ずしも遺伝しないという主張で博士はこれをあっさりと無視しているが、彼らが純然たる精神異常者の先祖の血統をひいているはずはないこと。またたとえ血統をひいているにしても、多くの場合、高度の文明的状態から未開の環境への復帰は──それはその当時の社会に精神病を誘発したものと考えられるが──数世代あとには最初の狂人の子孫の脳や神経から苦悩の跡をきれいさっぱりと拭い去ったであろうということである。  わたしは偏見を持っていると認めるのにやぶさかではないが、正直のところコートラン教授の説をあまり評価していない。自分がもっとも愛情を抱いている相手が、わけのわからぬことを口走る白痴とか、たわ言をいう狂人の子孫だと信じたくないのは当然であろう。  ところで話をつづけるのをうっかり忘れていた──つづけるのがわたしの願いなのだが、これからもたびたびわき道へそれるのではないかと心配である。グラブリティンの現代の話から彼らの祖先の、謎に満ちた過去へと通じている推測のわき道は、それほど多種多様にあるのだから。  わたしは立って娘と話しているうちに、ほどなくまだ娘が縛られていることを思い出した。詫びをいいながら短剣を抜いて、娘のうしろで手首を緊縛《きんぱく》している生皮の紐を切った。  娘は礼をいって、にっこり笑ったが、それはもっとずっと骨の折れる素仕をしたとしても充分報われたろうと思うほど美しい微笑であった。 「さて」とわたしはいった。「きみの家までおともして、きみが身内の保護のもとに無事もどったところを見とどけさせてください」 「いいえ」と娘は声に警戒の響をこめていった。「いっしょにいらしてはいけません──バッキンガムがあなたを殺します」  バッキンガム。  その名はむかしのイングランドの歴史上著名なものだった。その名がほかの多くの有名な名前とともに残っていることは、コートラン教授の説に対する反駁《はんばく》の最大の論拠の一つである。だがそれも過去への新しい扉を開いてはくれず、それどころか概して謎を消すというよりは深めている。 「で、バッキンガムとは何者で、なぜぼくを殺したがることになるの?」 「バッキンガムはあなたがわたくしを奪ったと考えるでしょう。そしてバッキンガムは自分がわたくしを欲しいと思っているので、わたくしを欲しがっていると彼が思う他人は殺すのです。二、三日前にもウェティンを殺したところです。母がかつてウェティンはわたくしの父親だと話してくれました。以前はウェティンが王でした。いまではバッキンガムが王なのです」  ここにはワイト島の人間よりいささかましな人間がいるらしい。この人々は、彼らのなかの一人を、王という肩書きを持つ支配者として認めているから、少なくとも文明的な政府のきざしは有しているにちがいない。それに父親という言葉も持ちつづけている。娘の発音はわれわれの言語と同じというにはほど遠かったが、ワイト島の〈東はずれの者〉たちのゆがめられた方言よりは、ずっとわれわれに近いものだった。  娘と話せば話すほど、ここ、つまり彼女の一族のあいだで、過去二世紀の歴史的な謎の解明に役立ちそうな記録や伝説をみつけることに望みを持つようになった。  われわれはロンドンから遠いところにいるのかと娘にきいたが、娘にはわたしのいう意味がわからなかった。わたしが壮大な石や煉瓦のビルや、広い通りや、公園や、宮殿や、無数の人間を描写して説明を試みたときも、彼女は悲しげに頭を振るだけであった。 「近くにそのようなところは全然ありません。〈ライオンのキャンプ〉だけには、ライオンたちがねぐらにする石の場所がありますけど、〈ライオンのキャンプ〉に人間はいません。誰がわざわざあそこへ行ったりするものですか!」  そして娘は身震いした。 「〈ライオンのキャンプ〉か。で、それはどこにあって、どんなところなの?」 「あそこですわ」  娘は西のほうの川の上手《かみて》を指さした。 「ずっと遠くから見たことはありますが行ったことはありません。わたくしはとてもライオンが怖いのです。ここはライオンたちの国で、人間がここに来て住むようになったのをライオンは怒っていますから」 「ずっとむこうには」と娘は南西のほうを指さした。 「虎の国があって、そこはここ、つまりライオンの国よりもっとひどいのです。虎はライオンよりもっと無数にいて、もっと人間の肉に飢えていますから。ずっと前にはここに虎がいましたが、ライオンと人と両方が虎を攻撃して追い払ってしまいました」 「こうした野獣どもはどこから来たの?」 「まあ、ずっとここにいたんですわ。ここは獣たちの国ですもの」 「やつらはきみの国の人を殺して食べはしないの?」 「始終ですわ。偶然出会ってこちらが小人数なために獣を殺せないときとか、獣のキャンプに近づきすぎたときにね。でもライオンが人間を漁《あさ》ることはめったにありません。なぜなら鹿や野牛のなかに要るだけの食べ物がみつかるのですし、わたくしたちが貢物《みつぎもの》をすることもあるのです。だって、人間はライオンの国への侵入者ではありませんか? 実のところ人間はライオンたちと折り合いよく暮らしています。そうはいっても味方に槍がたくさんあるときでなければ、わたくしはライオンと出会いたくはありませんけど」 「その〈ライオンのキャンプ〉とやらを訪ねたいな」 「とんでもないこと。訪ねるなんて!」娘は叫んだ。「そんなことをしたらたいへんよ。食べられてしまいます」  それから娘は少しのあいだ思いにふけっているように見えたが、やがてわたしのほうを向いた。 「もういらっしゃらなくてはいけません。バッキンガムがいまにもわたくしを捜しに来そうですから。あの人たちは、とっくにわたくしがキャンプからいなくなっていることを知っているはずです──とても厳重にわたくしを見張っているのです──そして捜しに出かけて来るでしょう。行ってください! わたくしはあの人たちが捜しに来るまでここで待ちます」 「いや、ライオンやほかの野獣がうようよしている土地にきみを一人で置いて行くわけにはいかん。ぼくをキャンプまで連れて行きたくないというのなら、彼らがきみを捜しに来るまでここで待とう」 「どうぞ行ってください!」彼女は哀願した。「わたくしを救ってくださったのですから、あなたを救いたいとは思いますが、バッキンガムに捕まったら助かるてだてはありません。あの人は悪人です。自分が王になれるようにと、わたくしを妻にしたがっているのです。わたくしがほかの人の妻になることを恐れて、わたくしの肩をもつ者なら誰でも殺すでしょう」 「バッキンガムはもう王だときみはいわなかったかな?」 「王ですわ。ウェティンを殺してからわたくしの母を妻にしました。でも母はじきに死ぬでしょう──とても年とっているのです──そうなったら、わたくしを手に入れた男性が王になります」  わたしはさんざん質問をしたあとでようやく事情がわかった。相続の系譜は女系であるらしい。男は妻の家族の家長であるにすぎない──それだけなのだ。その妻がたまたま「王家」でいちばん年長の女性であれば、その男は王というわけだ。子供の母親が誰であるかに関してはめったに疑問が起こることはない、と娘はいとも無邪気に説明してくれた。  これで、この娘がその共同体では重要人物であることや、バッキンガムが彼女を自分のものにしたいと熱望している理由がわかった。  とはいえバッキンガムは悪玉で悪い王になりそうだから彼女は妻になりたくないという。だがバッキンガムには権力があり、彼の意志をあえて阻止しようとする男はほかにいなかった。 「バッキンガムの妻になりたくないのなら、なぜぼくと同行しないの?」 「そうしたら、どこへ連れていらっしゃるの?」  どこへか、いや、まったくだ! そいつは考えていなかった。  だがその質問に答える前に、娘は首を振った。 「いいえ、一族を見捨てて行くことはできません。わたくしはたとえバッキンガムのものになっても留まって、できるだけのことはしなくては。でもあなたはすぐに立ち去らなくてはいけません。とりかえしがつかなくなるまで待っていないでください。ライオンたちはしばらくお供え物を得ていませんから、バッキンガムは初めての異国人をライオンへの貢物として捕まえるでしょう」  わたしには彼女の言葉の意味が完全にはわからなかったので質問しようとした矢先、がっしりとしたからだが背後から跳びかかって来て、大きな腕が首に巻きついた。ふりほどいて敵のほうを向こうともがいたが、あっという間に六人ほどの、屈強な半裸の男たちに圧倒され、いっぽうほかの二十人がわたしをとり囲み、そのうちの二人は娘をつかまえていた。  わたしは自分と娘が自由になるためにできるだけ奮戦した。少なくとも彼らを相手に善戦したという満足は得られたが、しょせん衆寡《しゅうか》敵せず。  彼らに負かされ、うしろ手に縛られて娘のそばに立つと、娘はわたしを憐れむようにみつめた。 「わたくしのいうようになさらなかったのが残念ですわ。これで心配していたとおりになりましたもの──あなたはバッキンガムに捕えられたのです」 「どれがバッキンガムだい?」 「おれがバッキンガムだ」がっしりした体躯のうす汚れた獣のようなやつが、わたしの前を肩で風を切って歩きながらほざいた。「で、おれの女を盗もうとしたおまえは何やつだ?」  すると娘が声をはり上げて、わたしは彼女を盗んだのではなく、それどころか彼女を誘拐しようとしていた〈象の国〉の男たちから救ってくれたのだと、説明しようと努めた。  バッキンガムは彼女の説明を聞くとせせら笑っただけで、まもなく命令を下し、一同は西へ向かって歩きだした。  一時間ほど行軍すると、やがて粗末な小屋が集合しているところへ来た。小屋は木の枝で作られ、皮や草で覆われており、泥のしっくいを塗ってあることもあった。部落のぐるりには、先端をとがらせて焼いて強くした若木の防壁が建ててある。  その柵は人間と動物の双方に対する防御装置で、なかには二千人以上の者が住み、小屋はとてもくっつき合って建っていて、ときには深い塹壕《ざんごう》のように一部が地下にあり、日射しと雨を防ぐというだけの柱と皮がのせてあった。  部落の古いほうの部分はほとんど全体が塹壕から成っていた。とはいえ、これが最初期の住居の形態であって、それがしだいにもっと乾燥した風通しのよい住居へと進化してきたのだ。こうした塹壕住居に、わたしは二十世紀の交戦国の作戦のあまりにも有名な一部を構成していた野戦塹壕の遺物を見たのである。  夏でかなり暑かったから、女たちは腰に軽い鹿皮一枚をまとっているだけだった。男たちも一枚の衣服で、それはたいてい野獣の生皮だった。男女とも髪は、額から後頭部へかけて結んだ生皮の紐でまとめている。この革のバンドには羽根や花や小さな哺乳動物の尾が差してある。誰もが野獣の歯や爪の首飾りをしていて、そのなかにはおびただしい金属の腕輪や足輪もあった。  実際彼らはひどく原始的な人間の徴候をすべてそなえていた──農業はおろか家畜を所有する段階にすらまだ達していない種族である。彼らは狩人──科学が認める人類進化の最低の段階──だった。  それでいながら、その形のよい頭や整った顔だちや知的な目を見ると、自分が同国人のなかにいるのでないとは信じ難かった。しかし彼らの生活様式や、裸《はだか》同然の身なりや、わずかなぜいたく品すら一つとしてないことを考慮に入れると、わたしは初めて、彼らが実際は無知な野蛮人にすぎないことを認めざるを得ないのだった。  バッキンガムはわたしの武器の用途や使用法はさっぱりわからないくせに、それらをとりあげ、キャンプに着くと、このみごとな捕獲品が自慢らしい態度を、ありありと見せながら、わたしと武器の両方を展示した。  住民たちはわたしに群がって衣服を調べ、ボタンやバックルやポケットやポケットのたれ[#「たれ」に傍点]を新たに発見するごとに驚きの嘆声を洩らした。  ほんの二世紀前には世界最大の都市のあった地点から石を投げてもとどくほどの場所でこのようなことがあり得るとはとても本当とは思えなかった。  わたしは曲がりくねった通りの一つのなかほどに生えている小さな木につながれたが、例の娘は一行がその囲い地にはいったとたんに釈放された。娘がキャンプの中央近くの大きな小屋へ急ぐ途中、住民はいかにもうやうやしく彼女に挨拶していた。  まもなく娘は、上品な容貌の白髪の婦人を伴ってもどった。その人物は彼女の母親であることがわかった。年配の婦人は、このような未開の不潔な場所ではまったく珍しく思えるほどの王者の威厳《いげん》をそなえて歩いて来た。  婦人が近づくと人々はわきへひれ伏して、婦人と娘とに広く道をあけた。二人がそばへ来てわたしの前で立ち止まると、年配の婦人が話しかけた。 「〈象の国〉の男たちから娘を救ってくださった模様を、娘が話してくれました。ウェティンが生きていたら、あなたを厚くおもてなししたでしょうが、いまではバッキンガムがわたくしをめとって王になっております。バッキンガムのような獣からは何も期待なさることはできません」  バッキンガムがわれわれから一歩と離れていないところに立って、興味《きょうみ》|津々《しんしん》で聴きいっているという事実も、婦人の舌鋒《ぜっぽう》をいささかたりとも和らげないようだった。 「バッキンガムは豚です」と婦人はつづけた。「臆病者です。ウェティンをうしろから襲って槍を突き刺したのです。バッキンガムも長くは王でいないでしょう。誰かがバッキンガムにむかって顔をしかめれば、あの人はあわてふためいて河へ跳びこみます」  人々はくすくす笑ったり、手を叩いたりしだした。バッキンガムは顔を真赤にした。彼に人望がないことはこれでわかった。 「バッキンガムに度胸があるならば」と老婦人がつづけた。「いまわたくしを殺すはずですが、大胆ではないのです。たいへんな臆病者です。あなたをお助けできるなら、わたくしはよろこんでそうしたいところです。でもわたくしは女王にすぎません──グラブリティンが強大な国であった時代から王家の血統を清浄に伝える助けをしてきた媒介《ばいかい》にすぎません」 [#(img/085.jpg)入る]  老いた女王の言葉は、わたしをとり囲んでいる好奇心の強い野蛮な群衆に顕著な影響を与えた。彼らは、老いた女王がわたしに対して友好的であることや、わたしが女王の娘を救ったことを知ったとたんに、それまでよりも親しみのある関心をわたしに払うようになった。わたしに有利なことをいろいろ話しているのが聞こえたし、わたしに危害を加えないようにという要求が出されていた。  だがそのときバッキンガムが割ってはいった。彼としては獲物を盗られるつもりはなかった。バッキンガムはいばりちらし、どなりつけて、群衆に小屋へもどるよう命じ、それと同時に戦士の二人に、バッキンガムの宿所に近い塹壕《ざんごう》の一つにある穴倉にわたしを監禁するよう命じた。  そこへ行くとやつらはわたしを地面へほうり出し、足首を縛り合わせてそれをうしろの手首にくくりつけた。わたしは腹を下に横たわったままそこへ置き去りにされた──ひどく不自由な無理な姿勢であり、それに加えて紐が肉に食いこむ苦痛があった。  ほんの二、三日前には、ロンドンの教養ある英国人のあいだで友好的な歓迎を受けるという予想にわたしは胸をいっぱいにしていた。今日あたりはロンドンきってのクラブの晩餐の食卓の貴賓席について、もてなされ、名士扱いをされているところだった。  ところが現実はどうだ!  わたしは手足を縛られて転がされ、まさに古都ロンドンの近郊にいるも同然であるはずなのに、まわりはすべて原始的な荒れ地であり、半裸の野蛮人の捕虜となっているのだ。  デルカートやテイラーやスナイダーはどうなったろう? わたしを捜すだろうか? とうていわたしをみつけることはできまいが、たとえみつけたところで、この獰猛《どうもう》な戦士の集団を相手に、デルカートたちに何ができるだろう?  彼らに通報できるとよいのだが。例の娘のことを考えた──彼女なら彼らに伝言できるのは確かだったが、どうやって娘に連絡ができるというのだ? 娘はわたしが殺される前に会いに来てくれるだろうか?  娘が手をこまぬいて全然わたしを助けようと試みないとは信じられなかった。だが思い出してみれば彼女は部落についてからは、まったくわたしと口をきこうとしていなかった。自由になったとたんに母親のもとへとんで行ってしまった。老いた女王を連れてもどって来たものの、そのときでもわたしに話しかけなかった。  これはあてにならぬと、わたしは思い始めた。結局、老女王以外には、まったく味方はいないという結論に達した。どういうわけかわからなかったが、恩知らずだという娘への怒りはとてつもなく大きいものになっていった。  女王への伝言を頼める人間が牢へ来るのを蜒々《えんえん》と待ったが、わたしは忘れられてしまったものらしい。  横になっている無理な姿勢は耐えられなくなってきた。からだをくねらせたり、ねじったりしたあげく、どうやら向きを変えていくぶんは横腹を下にすることができた。その位置で横穴の入口へ半面を向けて横たわっていた。  そのうちに、外の塹壕で動いている何かの影に注意をひかれた。少しすると四つんばいの子供の姿が現われた。小さな女の子が一人、目を丸くし、子供らしい好奇心に駆られながら小屋の入口まで這って来て、用心深くこわごわとのぞきこんだ。  初めは声をかけなかった。その小さな子がびっくりして逃げ出しては一大事と思ったのだ。だが子供の目が内部の薄明りに充分慣れた頃合いを見て、わたしは微笑した。  するとたちまちその目から恐怖の色が薄れ、こちらに応ずる微笑がそれにとって代わった。 「お嬢ちゃんは、なんていうの?」わたしはきいた。 「名前はメリーよ」子供が答えた。「ヴィクトリーの妹なの」 「それでヴィクトリーって誰?」 「ヴィクトリーが誰だか知らないの?」子供は驚いてそうきいた。  わたしは知らないよと頭を振った。 「ヴィクトリーを〈象の国〉の人たちから助けたくせに、ヴィクトリーを知らないっていうのね!」 「ああ、それじゃあれがヴィクトリーで、きみがその妹なのか! ヴィクトリーの名前をきいていなかったんだよ。だから、きみが誰のことをいっているのかわからなかったのさ」わたしはそう説明した。  願ってもない伝言係がやって来たものだ。運が向いてきたぞ。 「やってもらいたいことがあるんだがな、メリー?」 「あたしにできることならいいわ」 「おかあさん、つまり女王さまのところへ行って、ぼくのところに来てくれるように頼んでよ。頼みがあるんだ」  子供はそうするといって別れの微笑とともに立ち去った。  数時間とも思われるあいだ、わたしはメリーがもどって来るのをいまかいまかと、いらいらしながら待った。午後が過ぎ、夜が来たが誰も近くには来なかった。わたしを捕まえたやつらは食べ物も水ももってこなかった。腫れあがった肉に生皮の紐が食いこんで、その箇所がずきずき痛んだ。  やつらはわたしを忘れてしまったのか、それともここにほうっておいて餓死させるつもりなのだろう。  一度、部落のなかから騒然たる物音が聞こえた。男たちは叫び──女たちは悲鳴をあげたり、うめいたりした。いっときたつとこれは静まり、ふたたび長いあいだしんと静まりかえっていた。  あれは夜がなかば過ぎた頃にちがいない、小屋の近くの塹壕のなかで音がした。押し殺したようなすすり泣きに似ていた。まもなく戸口のむこうのほの明るいところを背景に輪郭だけの人影が現われた。それは小屋のなかへはいって来た。 「いるの?」子供らしい声がささやいた。  メリーだった! もどって来たのだ。  皮紐はもう痛くなかった。飢えと渇きの苦痛も消えた。自分を一番さいなんでいたのは孤独であることがわかった。 「メリー!」わたしは叫んだ。「いい子だ。やっぱりもどって来てくれたね。もう来ないのかと思いかけていたんだよ。女王さまに伝言してくれたかい? 来てくれるって? 女王さまはどこにいるの?」  子供のすすり泣きが激しくなり、悲しみにうちひしがれた様子で小屋の汚ない床に倒れ伏した。 「どうしたの? どうして泣くの?」 「女王は、あたしのお母さまは、あなたのところへ来ないの」子供はすすり泣きの合間にいった。「お母さまは亡くなったの。バッキンガムが殺したのよ。バッキンガムは今度はヴィクトリーを妻にするわ。ヴィクトリーは女王だから。バッキンガムはあたしたちをうちにとじこめたままにしていたの。ヴィクトリーが逃げ出すかと思ってよ。でもあたしは裏の壁の下に穴を掘って出たの。あなたは前に一度ヴィクトリーを助けてくれたし、今度もヴィクトリーとあたしを助けてくれるかもしれないと思ったからあなたのところへ来たのよ。助けるといってよ」 「縛られていてどうにもならないんだよ、メリー。そうでなければ、きみとお姉さんを助けるためにやれることならなんでもやるつもりだけど」 「あたしが自由にしてあげるわ!」  女の子は大声でそういうと、そばへ這って来た。 「自由にしてあげるわ。そうしたらバッキンガムを殺しに行けるわね」 「よろこんで行くとも」わたしは同意した。 「急がなくては」  子供は堅くなった生皮の固い結び目をいじくりながら話しつづけた。 「バッキンガムがじきにあなたを連れに来るから。バッキンガムは、ヴィクトリーを迎える前の明け方に、ライオンにお供《そな》え物をしなくてはならないのよ。女王を迎えるには、人間のお供えが要るの!」 「で、ぼくがそのお供えになる予定なのかい?」 「そうなの」子供は結び目を強く引きながらいった。「バッキンガムはウェティンを殺してからずっと、あたしのお母さまを殺してヴィクトリーを妻に迎えるために犠牲《いけにえ》を欲しがっていたの」  それを予想すると身の毛がよだった。わたしに運命づけられたぞっとするような最期のためばかりでなく、それがかつては文明人であった人種の悲しい堕落から生じたことを考えるからでもあった。  二十世紀の英国が誇った文明がこの無知と残忍さと迷信のどん底まで落ちたのだが、そうさせたものは? 戦争なのだ! わたしは、わが国古来の軍国主義的論拠の骨子がわたしの周囲でがらがらと崩壊するのを覚えた。  メリーは、わたしを緊縛《きんぱく》している紐に骨折っていた。やがて彼女の手に負えないことがわかった──かよわい子供の指を受けつけないのだ。だがメリーは、「あの人たち」が早く来過ぎないかぎりわたしをきっと自由にしてみせるといった。  だが悲しいかな、やつらは来てしまった。やつらが塹壕を下りて来る足音が聞こえたので、わたしはみつかってこらしめられるといけないから、メリーに隅に隠れるようにといった。メリーとしてもそうするよりしかたがなかったので、わたしのうしろの地獄のような暗闇へと這いこんだ。  やがて戦士が二人はいって来た。先頭のやつは、暗いなかでわたしの所在を知るための独特な方法を披露《ひろう》してくれた。自分の前方を猛烈に蹴とばしながらゆっくりと進んで来たのだ。やがてやつはわたしの顔を蹴ることになった。それでわたしの居所がわかったのだ。  すぐにわたしは手荒にぐいと引き立たされていた。野郎どもの一人が立ち止まってわたしの足首を縛っているいましめを切った。わたしは支えがないと立っていられないほどだった。二人はわたしを引いたり、たぐったりして低い戸口を抜け、塹壕を進んで行った。小屋から百メートルほどのところにある掘割道《ほりわりみち》のへりに、四、五十人の戦士の一隊が待っていた。  幾つかの手がわれわれのほうへさげられ、地上へと引き上げられた。それから長い行軍が始まった。  一行は露に濡れた下生えを踏みしめて歩き、行く手は周囲をとり囲む二十人ほどのたいまつ持ちに照らされていた。しかしたいまつは道を照らすためではない──それはたまたまそうなったにすぎない。たいまつは、まわりでうなったり、咳きこんだり、吠えたりしている巨大な肉食獣を寄せつけないために携帯されていたのだ。  そうした騒音はぞっとするものだった。その地域全体がライオンでいっぱいのように思われた。周囲の暗闇から黄緑色の目がわれわれに向かって悪意をこめて燃えていた。  一行は重い長槍をたずさえていた。それらをやつらは絶えずライオンのほうへ向けたままにしていたが、ふと耳にした会話のはしばしから知ったところでは、時たま火の恐怖もものかは、人間という餌にむかって跳びこんでくるライオンもいるらしかった。槍をいつも低くかまえているのは、そのようなライオンに備えてであった。  しかし、このいまわしい死の行進のあいだにその種のことは起こらず、暁を告げる最初の薄光がさすとともに、一行は目的地に着いた──密生した野性の森のなかの空地である。ここに、かっては美しい英国《アルビオン》を美々しく飾っていた古代文明の、わたしが最初に見た遺跡──ただ一箇のいたんだ石造のアーチが、滅びゆく壮観を呈してそびえていた。 「〈ライオンのキャンプ〉の入口だ!」一行の一人が畏怖《いふ》の念からかすれた声でつぶやいた。  ここで一行は跪《ひざまず》き、いっぽうバッキンガムは祈祷《きとう》のような薄気味の悪い吟唱をとなえた。それは長たらしくてわたしは一部しか覚えていないが、記憶に誤りなければ何やら次のようなものであった──。 [#ここから5字下げ] グラブリティンの王よ われら御前にひざまずき この貢物《みつぎもの》するなり。 王は王者のうちの王者! われらへりくだって一礼す! われらのキャンプに平和を。 国王、万歳! [#ここで字下げ終わり]  それから一行は立ちあがり、崩れかかったアーチへわたしを引き立て、その石造りのアーチに埋めこんであるアイボルトからさがっている、腐食《ふしょく》した巨大な青銅の輪に縛りつけた。  やつらのうちの誰も、バッキンガムさえもが、わたしに個人的な憎悪を感じてはいないようだった。人類の誕生以来原始人はそうだったとされているように、やつらは生来思いやりがなく残忍なのだが、ことさらにわたしを虐待はしなかった。  黎明《れいめい》が訪れるとともに周囲にいるライオンの数はずっと減ったようだった──少なくともいままでほど物音がしなくなった──そしてバッキンガムとその部隊がわたしを苛酷な運命に一人残して森のなかに消えるにつれて、一行がまだつづけている吟唱の声とともにライオンのうめき声やうなりも小さくなっていった。  ライオンどもはわたしが朝食用に置いていかれたのに気づかず、その代わりに自分たちを崇拝している人間のあとを追って行ったものらしかった。  しかしこの執行《しっこう》|猶予《ゆうよ》も束《つか》の間《ま》にすぎないことはわかっていたから、わたしは死にたくはなかったものの、正直なところ、むしろ早くつらい試練が終わって、忘却の平和が訪れてくれるようにと望んでいた。  人間とライオンの声は遠のき、やがてとうとう静寂があたりを支配し、それを破るものは鳥の美しいさえずりと木々のあいだの夏風のそよぎだけとなった。  この平和な森林地帯という環境で、これから恐ろしい事態が起こるはずだと信じるのは不可能なようだったが、この次たまたまこの崩れかかったアーチの見える範囲、匂いのする範囲にはいって来たライオンの通過と同時に、それはかならず起こるのだった。  わたしはいましめを切って自由になろうともがいたが、いっそうきつく腕をしめられるばかりだった。それからは長いあいだ無抵抗のままで、生涯のさまざまな場面を回顧した。  わたしは、もしも一瞬、距離というものをなくすことができて、わたしの家族や友人がロンドンの門にいるこの姿《ざま》を見ることができたら、さぞかしみなが驚愕《きょうがく》や懐疑や恐怖に圧倒されるだろうと想像しようとした。  ロンドンの門!  娯楽や休息の一夜が明けて仕事場へと急ぐ通勤者はどこにいるのだ? 電車の鐘のかんかんという音、自動車のホーンの金切り声、密集した群衆の大きなざわめきはどこにあるのだ?  群衆はどこに?  わたしがそう自間していたとき、連れのない、痩せこけたライオンが密生したジャングルから空地《あきち》の奥へのっそりと姿を現わした。百獣の王は肉趾《にくし》のある足で音もなく威風堂々と歩き、ロンドンの門のほうへ、わたしのほうへゆっくりと進んで来た。  怖かったかって?  怖いというのに近かったのではないかと思う。わたしは恐怖に襲われそうだと自覚したので、背を伸ばし肩を張りライオンの目をまっすぐに見て──待った──のを覚えている。  それは愉快な死に方ではなかった──一人ぼっちで手を堅く縛られ、肉食獣の牙や爪にかかるとは。確かに愉快な死に方ではなく、きれいな死にざまでもなかった。  ライオンが空地を半分ほど横切ったとき、背後でかすかな物音がした。巨大な猫は途中で立ちどまった。いまや尾の先をただひねる代わりに、尾で横腹をぴしりと打ち、低いうなりは雷のような咆哮に変わった。  目の前にいる野獣の憤怒をかきたてたものを一目見ようと首を伸ばすと、物音の主はアーチ状の門を駆け抜けてわたしのかたわらに来た──唇がいくらか開き、胸は波を打ち、髪が乱れ──百に一つも助かる望みを抱いていなかった者の目には、褐色の美しい幻覚かと見まがうばかりであった。  それはヴィクトリーだった。両腕にはわたしのライフルと回転拳銃が抱きしめられていた。雌鹿皮のスカートがそのしなやかな脚をきっちりと包んでいたが、そのスカートをおさえている雌鹿皮のベルトには、長いナイフが差してあった。  ヴィクトリーはわたしの足もとに武器をおろすと、ナイフを抜き、わたしを束縛しているいましめを切った。わたしは自由になったが、ライオンはいままさに襲いかかろうとしている。 [#(img/097.jpg)入る] 「逃げるんだ!」  わたしはかがんでライフルをつかみながらヴィクトリーに叫んだ。しかしヴィクトリーは抜《ぬ》き身《み》を手に構えてわたしのかたわらに立ったままだった。  ライオンはいまやすさまじい跳躍でこっちへ迫っていた。  わたしはライフルをあげて発射した。幸運な一撃だった。慎重にねらっている暇はなかったのだから。そしてその野獣がくずおれ死んで地面に転がると、わたしは跪《ひざまず》き、先祖たちの神に感謝を捧げた。  そして、やはり跪いたままふり返ると、娘の手をとってそれにキスをした。娘は顔をほころばせ、もう一方の手をわたしの頭においた。 「あなたのお国には妙な習慣がありますのね」彼女はいった。  わたしがロンドンの所在地のそこに跪いてイングランドの女王の手にキスをしているのを同胞が見ることができたら、彼らの目にはそれがさぞ奇妙に映《うつ》ることだろう。そう思うと、わたしは彼女のことばを聞いて笑いを禁じえなかった。 「さてそれで」とわたしは立ち上がりながらいった。「きみは安全な部落へもどらなくてはいけない。きみが無事に一人で道をつづけられるように近くまでおともする。そのあとぼくは同志のところへかえるように努めてみよう」 「部落へもどるつもりはありません」 「でもどうするの?」 「わかりません。でもバッキンガムが生きているうちは決してもどりませんわ。バッキンガムのところへもどるぐらいなら死んだほうがましです。あの人たちがあなたを部落から連れ出したあとでメリーがわたくしのところへ来て知らせてくれたのです。わたくしはあなたの奇妙な武器を見つけてそれを持ってあとを追って来ました。わたくしのほうが少し時間が余計にかかりました。ライオンたちに捕まらないようにたびたび木のなかに隠れなくてはならなかったのです。でも間に合いましたから、あなたはもうお友達のところへおもどりになるのも自由ですわ」 「そしてきみをここに残してかね?」わたしはびっくりして叫んだ。  彼女はうなずいたが、表面は大胆に見せていても一人で残されることを思って脅えているのがわかった。もちろんヴィクトリーを置いて行くことなどできなかったのだが、若い女性、しかも女王の世話を引き受けたとして、いったいわたしに何ができようか、わたしは途方にくれた。  わたしはこうした点をヴィクトリーに指摘したが、ヴィクトリーは形のよい肩をすくめて自分のナイフを指さすだけだった。  彼女は充分に自分の身を守れると思っているらしかった。  二人がそこに立っているうちに人声が聞こえてきた。それは、部落から来るときに通った森から聞こえた。 「わたくしを捜しているのです」ヴィクトリーがいった。「どこへ隠れましょうか?」  わたしは逃げ隠れするのは好かない。だがわれわれをとりまく数知れぬ危険や、いま携帯している比較的少量の弾薬のことを思うと、逃げればバッキンガムや戦士たちを避けられる上に、さらに逃げることのできない危急の時に備えて薬包をとっておくこともできるのだから、彼らと一戦を交えるのはためらわれた。 「むこうへも追って来るだろうか?」  わたしはアーチの道ごしに〈ライオンのキャンプ〉を指さした。 「いいえ決して」ヴィクトリーが答えた。「というのは第一にわたくしたちがあそこへ行きっこないと知っていますし、第二にあの人たち自身もとても行く勇気はないのです」 「では〈ライオンのキャンプ〉に避難しよう」  ヴィクトリーは身震いしていっそうわたしに身を寄せた。 「思いきっていらっしゃるおつもり?」 「いいじゃないか? バッキンガムからやられることはなくなるし、きみだって昨日から二度も見たように、この武器の前にはライオンといえども手も足もでない。それにこの方角だといちばん簡単に友人たちが見つけられるということもあるんだ。というのはテムズ河はきみたちのいう〈ライオンのキャンプ〉のなかを流れているし、友人たちがわたしを待っているのはテムズ河のもっと下流なのさ。思い切っていっしょに来る気はない?」 「あなたが連れて行ってくださるところなら、どこへでも行きますわ」ヴィクトリーはことばすくなに答えた。  そこでわたしは向きを変え、大アーチをくぐってロンドン市内へとはいった。 [#改ページ]      5  かつてはロンドン市であったところへ深くはいるにつれて、人間が過去において居住していた遺跡にちょくちょくおめにかかるようになった。  アーチから一キロのあいだには、過ぎし日の壮大な建物の残骸からできたと確かに思われる小さな丘や小山を覆う、多種多様な雑草ややぶしかなかった。  しかし、やがてこわれた壁が、崩れかけたてっぺんを、倒壊した仲間たちの草の生えた埋葬所の上にわびしく黙々とそびえさせている地域に出くわした。これらの悲しみの番人たちは、蔓草によってやわらげられてはいたが、その傷だらけの顔には、いまだに榴霰弾や爆弾の割れ目や深い裂け目が見えていた。  予想に反して、むかしのロンドンのこの区域にライオンが大挙してねぐらを作っている徴候はほとんどみあたらなかった。肉趾のある脚によって作られた使い古した通路は、われわれが通り過ぎた廃墟のうちの二、三の洞窟状の窓や戸口を通っており、一度などはこわれた石のバルコニーから、大きな黒いたてがみのライオンの獰猛な顔が、こちらをこわい顔で見下ろしているのを見かけたこともあった。  テムズ河の土手にぶつかってからはその土手を下手《しもて》へとたどって行った。かの有名な橋をこの目で見たくてたまらなかったし、河は、ウェストミンスター寺院やロンドン塔のあるロンドン市の一角へと案内してくれると推察したのだ。  それまでに通過して来た区域はまちがいなく中心地から離れており、したがって古い都のもっと中央に位置している地域ほどは大きな建築物が建てこんでいないことに気づくと、わたしは河をさらに下ればもっと大きな廃墟を見つけるだろうと思った。そこならロンドン橋が少なくとも一部は残っているだろうし、多くの過去の大建築物の壁もいくらかは残っていよう。比較的小さな建物のなかで見たほど完全な破壊は大きな建物にはないだろう。  しかし、その都で、めあての遺物があると判断した区域に至ると、ほかのどこよりもさらに甚大な大破壊の跡を見出すことになった。  テムズ河の水面には、ただ一つ石造建築の崩れかけた小山が、水上一メートルに突き出ている。それと向かい合って河のどちら側の土手にも廃墟の倒壊した山があり、草木が一面に茂っていた。  それがロンドン橋の残っているすべてだと信じざるを得なかった。というのは河沿いのほかのどこにも、橋脚や橋台のわずかな痕跡すらないのだから。  草に覆われたガラクタの大きな山のすそをまわると、突然、それまで発見したうちでももっともよく保存されている廃墟に出くわした。かつてはすばらしい公共の建物であったにちがいない一階全部と二階の一部がやぶや木々の大きな塚からそびえており、一方、こんもりと茂った蔦《つた》は壊れた壁の頂上へと上向きに営々と這い上がっている。  あちこちで灰色の石がまだ露出しており、そのなめらかに仕上げられた表面は戦争の傷跡でへこんでいた。堂々たる玄関がわれわれの前に陰気に悲しげに大口を開け、内部の大理石の広間をかいま見させていた。  中へはいるという誘惑は絶大だった。いまは思い出すすべもないほどに滅びた文明の、この残存している唯一の遺跡の内部を探険してみたかった。この同じ玄関を通り、まさにこれらの大理石の広間のなかを、グレイ(第一次世界大戦当時の政治家)やチェンバリン(同上)やキッチナー(同じく陸軍大臣)や、たぶんショー(同じく劇作家、小説家)が、ありし日のほかの大物たちとともに去来したのだ。  わたしはヴィクトリーの手をとった。 「行こう! この大建築物がなんという名で知られていたのかも、どういう目的を果たしていたのかも、ぼくは知らない。きみの先祖の宮殿であったのかもしれないよ、ヴィクトリー。なかにある偉大な玉座からきみの先祖は世界の半《なか》ばの運命を牛耳《ぎゅうじ》っていたのかもしれない。さあ!」  その大建築の円形の建物にはいったときには畏怖の念を覚えたと白状しなくてはならない。時代物のどっしりした家具が、数世紀前に置かれたところにまだ置いてあった。そうした家具は埃や壊れた石や、しっくいにまみれていたが、その点を除けば申し分ない保存状態にあったので、この前|人目《ひとめ》に触れてから二世紀が過ぎたとは本気にできないほどだった。  二人は手に手をとって大きな部屋を次々とさまよい、そのあいだにヴィクトリーは数多くの質間をした。わたしはヴィクトリーを生み出した民族の偉大さと権力を、初めていくぶんか認識し始めた。  いまではかびが生え朽ちかけている、すばらしいつづれ織が壁に掛かっていた。過去の歴史的な大事件を描いた壁画もあった。  ヴィクトリーは生まれて初めて馬の絵を見、野砲の砲列に挑戦している往年の騎兵を描いた大きな油絵にひどく感動した。  ほかの絵には蒸汽船や戦艦や潜水艦や、妙な形をした汽車があった──わたしにはすべてが小さく、外見が古臭く見えたが、ヴィクトリーにはすばらしく映った。ヴィクトリーは毎日それらの絵が見られるところに死ぬまでとどまりたいとわたしに告げた。  部屋から部屋へと通過したあげく、まもなく暗い陰気な大部屋へと出た。暗いのは高くて幅の狭い窓が蔦によってふさがれていたせいだ。一枚板のパネルをはめた壁を手探りで進むうちに、目がしだいに暗さに慣れてきた。つんと鼻をつく悪臭があたりに漂っていた。  大きな部屋の一辺を半分ほど横切ったとき、むこうの端から低いうなり声がして二人ははっと立ちどまった。  薄暗がりに目をこらすと、広間のいちばんむこう端に高くなった壇が見分けられた。壇上には、高い背もたれに大きな腕のついた、二つの大椅子がある。  イングランドの玉座だ!  それにしてもその辺にある妙な形のものはなんだろう?  ヴィクトリーが興奮してすばやく、わたしの手をぎゅっとにぎりしめた。 「ライオンですわ!」彼女が耳打ちした。  なるほど、いかにもライオンだった! 十頭あまりの巨躯が壇のあたりに寝そべっており、また玉座の片方の座席には小さな仔がからだを丸くしてまどろんでいる。  ほかならぬイングランド元首の玉座を占めているそれらの猛獣の光景を見て、二人が呆然自失の態でしばし立っていると、低いうなりが数回繰り返されて、大柄な雄がおもむろに立ち上がった。  その悪魔のような炯々《けいけい》たる眼光は薄明のなかをこちらへまっすぐに貫いた。やつは侵入者をみつけていたのだ。人間がこの野獣の宮殿にはいるなんの権利がある? やつはまた大きな顎を開き、今度は警告の咆哮が発せられた。  たちまちほかのライオンのうちの八頭から十頭が勢いよく立ち上がった。われわれを見つけていた大きなやつは、すでにこっちへゆっくりと進んで来ていた。  ライフルを構えはしたものの、この野獣の群れを前にしては蟷螂《とうろう》の斧に等しい。  先頭の野獣は突然ゆるい速歩に移り、すぐあとからほかのやつらもつづいた。もう全部が咆哮し、その大音声《だいおんじょう》のやかましさは宮殿の広間や廊下に反響し、これ以上は想像できないほど恐ろしい百雷の狂暴なコーラスとなった。  それから先頭のやつが襲来した。恐ろしい伏魔殿のなかにわたしのライフルの鋭い銃声が一度、二度、三度鳴った。三頭のライオンがもがき、歯がみをして床に転がった。  ヴィクトリーがわたしの腕をつかんで早口に「こっちへ! ここにドアが」といった。  二人はすぐに、小さな控えの間にはいった。そこから、狭い石の階段が上に昇っている。  ヴィクトリーをすぐ後にして、この階段を上へ上へと後退して行くうちに、残りのライオンの最初のやつが玉座の間を抜けて階段めがけてとびかかって来た。また発射したが、凶暴な野獣たちは、転落する仲間をとび越えてわれわれを追った。  階段はとても狭く──だからこそわれわれは助かったのだ──わたしがゆっくりと上に後退するあいだに、一度に一匹のライオンしかわたしを攻撃できず、わたしがやっつけたやつらの死骸がほかのライオンの突進を妨げたのだ。  ようやく二人はいちばん上に達した。長い廊下があって、戸口がたくさんついている。われわれのすぐうしろのドアはきっちりと閉められていた。そこを開けて中の部屋にはいれたら、野獣の攻撃から一息つけるだろう。  残りのライオンはすさまじく咆哮していた。一頭が音もなくごくゆっくりとこっちへ上って来るのが見えた。 「そのドアを開けてみて」とわたしはヴィクトリーに声をかけた。「開くかどうか試してみるんだ」  ヴィクトリーはそこへ駆けつけて押した。 「ノブをまわすんだ!」  ヴィクトリーがドアの開け方を知らないのがわかってわたしはそう叫んだが、彼女はノブというのがなんの意味かも知らないのだった。  わたしは近づいてくるライオンの背骨に弾丸を撃ちこんで、ヴィクトリーのそばへとんでいった。ドアは、初め内側へ開けようと努めても、いうことをきかなかった。錆《さ》びた|蝶 番《ちょうつがい》と膨張した木材が、ドアを固く固定している。だがやっと屈服し、もう一頭のライオンがちょうど階段のてっぺんまで上ったときに内側に開いた。  わたしはヴィクトリーを押して敷居を越えさせた。それからふり向いて、残忍な敵の新たな攻撃に応じた。  一頭のライオンは途中で転落し、もう一頭はまさにわたしの足もとでつんのめってその場にうずくまった。そこでわたしはなかへとびこんでドアをぴったり閉めた。  すばやく一瞥《いちべつ》すると、二人が避難した小さな部屋にはこれしかドアがないとわかった。わたしはほっと一息つき、部屋の外であと足で立ちあがっている悪魔どもを距てている頑丈な防壁の羽目板に、少しのあいだもたれかかった。  部屋のむこうには二つの窓のあいだに、上面の平らなデスクがあった。その向こう側の端近くに白と茶色の小さな山ができていた。わたしは一休みしてから部屋を横切って調べに行った。  白いのは漂白された人間の骨──一人の人間の頭蓋骨、首の骨、腕、それに上部の肋骨が二、三本だった。茶色のは朽ちた軍帽と軍服の上着のくずだった。デスクの前の椅子にはほかの骨があり、さらにほかの骨はデスクの下や椅子のまわりの床に散乱していた。  一人の男が腕に顔を埋め、そこに腰掛けたまま死んだのだ──二百年前に。  デスクの下には朽ちた緑色の、拍車《はくしゃ》付きの軍用長靴が一足あった。そのなかに男の足の骨がはいっていた。手の小さな骨のなかには、一見、新品同様の上等なむかしの万年筆があり、金属の表紙のついたメモ帳が人差し指の骨の上に閉じられていた。  大ロンドンのこの孤独な居住者! これこそ凄惨《せいさん》な──見るに忍びない光景であった。  わたしは金属の表紙のついたメモ帳を拾い上げた。そのページは朽ちてはり合わさっていた。ここかしこで一行の全部なり一部が読めるというだけだった。最初に読めたところは、その小冊子のなかほどに近かった。 「本日、国王陛下はタンブリッジ・ウェルズに向け御出発、皇后・・下は昨・・・襲された。崩御《ほうぎょ》なされぬことを祈り・・・わたしはロン・・の軍政長官・・・」  そしてさらに次のようにつづいていた──。 「本日百名死亡・・・ひどい・・・砲撃よりも悪・・・」  もっと終わり近くに次のくだりがみつかった──。 「国王陛下にお約束・・・お一人にてもど・・・ときここでお待ち申しあげ・・・」  もっとも読みやすい個所は次のページにあった──。 「ありがたい。われわれはやつらを追い払った。ただ一人・・・も今日、英国の地にはいない。だが、なんとひどい犠牲を払ったことか。フィリップ卿が国民に残るようにと力説してくださるよう、わたしは卿を説得しようと試みた。だが国民は死神への恐怖と、敵への憤激に逆上している。卿の話では海岸の都市は荷造りをし・・・海を渡してもらうのを待っているとか。誰一人、破壊された都市を再建するために残っておらず、イングランドはどうなることか!」  そして最後の記入事項──。 「・・二人だけだ。野獣ばかり・・・。いま宮殿の窓の下でライオンが一頭吠えている。国民は死神よりさらにいっそう野獣たちを恐れていたと思う。だが国民は去った。皆去ったが、その行先は? 大陸でもどれだけましな状態を見出だすことになるやら? 皆去り、わたしだけが残っている。国王陛下にお約束申しあげたから、もどられた節には、わたしが義務に忠実であったことを知ってくださるだろう。というのは、これからもお待ちするつもりだから。国王万歳!」  それがすべてだった。  この勇敢で永遠に無名な官僚はりっぱに|殉 職《じゅんしょく》したのだ──国と国王に忠誠を尽くして。彼を奪ったのは疑いもなく死神である。  記入事項の何個所かには日付がはいっていた。残っていた二、三の読みやすい文字や数字からみて、最期が訪れたのは一九三七年八月の某日であろうと判断されるが、決して確実というわけではない。  その日記は、わたしを少なからず悩ませていた謎を少なくとも一つは解明したわけで、いまになるとそれまで自分でその解答──イングランドにアフリカやアジアの野獣がいる謎を解かなかったことに一驚したのである。  動物園に収容されていた年月のあいだに馴化《じゅんか》されていた野獣たちは、本来、自然が彼らに意図していた野性的な生活をイングランドでとりもどすだけの素地《そじ》があり、いったん自由になるとおびただしく繁殖したのだ。  これは二十世紀のパン=アメリカに捕われていた外来種の動物とはいちじるしい対照をなしている。パン=アメリカのほうはしだいに数少なくなったあげく、二十一世紀のあいだのいつだったかに絶滅してしまったのだ。  宮殿[#「宮殿」に傍点]──そこがそうだとしたらの話だが──はテムズ河の土手から遠からぬところにあった。われわれが閉じこめられた部屋は河を見おろす位置にあり、わたしはその方角に逃げてみようと腹を決めた。  宮殿のなかを通って下に降りることは問題外であったが、戸外には一頭のライオンも見あたらなかった。その部屋の窓を通り越して、さらに上へとよじのぼっている蔦の茎は、わたしの腕ほどの直径だった。その茎がわれわれの体重を支えてくれることはわかっていたし、それ以上宮殿に留まってもなんの得にもならなかったから、わたしは蔦を利用して下に降りランチの方角へと河を下流へたどることに決めた。  娘がいるために当然わたしはずっと条件が不利になっていた。しかし娘を見捨てることはできなかった。かといって仲間たちと合流してからあと彼女をどう遇したらよいものか、さっぱり見当がつかなかった。  ヴィクトリーが重荷となり邪魔になるであろうことは確かだったが、彼女は同族のもとへもどってバッキンガムと結婚する意志が絶対にないことを、これまたはっきり表明していたのだ。  ヴィクトリーはわたしの命の恩人である。だから、ほかの考慮はさておいても、その一事だけでわたしが感謝の念と敬意を持ち、万難を排しても彼女の面倒をみるのは当然であった。それにヴィクトリーはイングランドの女王であった。  だが彼女に与《くみ》する最大の論拠は、彼女が逆境の女性であること──それも若くて絶世の美女だという点にある。  だから、わたしはヴィクトリーが部落にもどってくれることを内心では何度となく願ったものの、それを露ほども悟らせずに、自分にできることはなんでもして彼女の世話をし保護してきたのだ。  いまでは自分がそうしたことを神に感謝している。  閉じたドアのむこうではまだライオンが右往《うおう》|左往《さおう》していたが、ヴィクトリーとわたしは窓の一つへ向かってその部屋を横切った。すでに計画のあらましは告げておいたが、彼女は助けを借りずに蔦を下りられると断言していた。実際ヴィクトリーはわたしの問いかけに対して、かすかに微笑したのだ。  わたしは外へ身を乗り出すと、下り始め、地面から一メートル以内のところまで来て狭い窓とちょうど向かい合ったとき、耳元に吹きこまれたかと思うような獰猛なうなりにぎょっとした。すると、爪の生えた大きな肢《あし》がわたしをつかもうと斜間《はざま》から突き出てき、そのなかにうなっているライオンの顔が見えた。  わたしは蔦を握っていた手を離して地面までの残りの距離をとびおりたが、ひとえにライオンの前肢が蔦のふとい茎にぶつかったおかげで裂傷を受けずにすんだのである。  いまやライオンは地団太《じだんだ》を踏んで大騒ぎし、床から横幅の広い窓のでっぱりに跳びあがっては落ちたりして、爪で石造りの建物をひっかきながらこっちまで来ようと空しくもがいていた。だが開口部は狭すぎたし、石造りの建物はがっしりしすぎていた。  ヴィクトリーは下り始めていたが、わたしは窓のすぐ上で止まるようにと声をかけた。そしてライオンがうなりながらまた姿を見せるとその顔に三十三口径を一発撃ちこみ、と同時にヴィクトリーは野獣の前にすばやくすべりおりて、わたしが待ちかまえて伸ばしていた両腕のなかに落ちてきた。  われわれを見つけた野獣たちの咆哮は、ライフルの銃声と相俟《あいま》って、宮殿に住む獰猛なライオンの残余のやつらに、かつて開いたことのないほどすさまじい騒動を起こさせることになった。  わたしは、じきにライオンたちが知恵なり本能なりに導かれて屋内から飛び出し、われわれの足どり、つまり河へと向かうのではないかと恐れた。案《あん》の定《じょう》二人が河に着いたか着かぬうちに、いま出て来たばかりの建物の角を一頭のライオンが跳ぶようにして曲がると、われわれを捜すかのように立ったままあたりを見まわしていた。  ほかのやつらもそれにつづいて来た。  いっぽうヴイクトリーとわたしは、河のそばの堤防のそばのやぶの茂みの蔭にもぐりこんだ。野獣たちはしばし地面を嗅《か》ぎまわっていたが、われわれが脱出した窓の下の、二人が立っていた地点に近づくことはなかった。  まもなく黒いたてがみの雄が頭をあげ、ぴんと耳を立て爛々《らんらん》と輝く目で、二人がひそむやぶをまっすぐに凝視《ぎょうし》した。わたしは、てっきり見つけられたものと覚悟し、ライオンが威厳をもって小きざみに二、三歩こちらに出て来たときライフルをあげて狙いをつけた。  だが長い緊張のひとときのあとでやつは目をそらし、向きを変えて別の方角をにらみつけた。  わたしはほっと吐息《といき》をついたが、ヴィクトリーもそうだった。ぴったりくっついて横たわっているのでヴィクトリーのからだが震えるのが感じられたし、木の葉の同じ小さな隙間から二人がのぞいているので、頬と頬が触れんばかりだった。  ライオンのそぶりから、われわれを見つけたのではないことがわかると、わたしは顔を回して彼女に安堵の微笑を送ったが、わたしがそうしたとき、ヴィクトリーもてっきり同じ目的でこちらへ顔を向けた。とにかく二人の頭が同時にまわされたので、唇がかすめ合った。  ヴィクトリーはあきらかに当惑して身を引いたが、その目にははっとした表情が浮かんでいた。  わたしはといえば、一瞬、それまでに経験したことのない妙な気分を味わった。一風変わった、うずくような戦慄が血管を走って頭がぐらぐらした。どうにもその理由がわからない。  わたしは海軍将校であり、従って合衆国の上流社会にあったから、当然多くの女性を知っていた。現代の男はむかしの男と比べると冷淡で熱情のないやつらだ──一言でいうならば、一つの大きな情熱としてのあの恋愛《ラブ》というものは存在しなくなった──という学者たちの主張を、わたしはほかの連中とともにいままでは一笑に付していたものだ。  少なくとも現代文明社会の女性に関するかぎりは、思いのほか、そうした主張が正鵠《せいこく》を射ていたということしかいまでもわからない。わたしは大勢の女性とキスをしたことがある──若い女性や美人や、中年の女や年とった女性、それにしたくもないキスをしたその他大勢──しかしわたしの唇とヴィクトリーの唇が偶然に触れたあとの、あのなんともいえぬ、ぞくぞくする快感は、それまでに経験のないものだった。  その偶然のできごとに関心をそそられ、わたしはさらに実験を重ねたくてたまらなくなった。だがわたしがそれを試みかねなかったときに、また別の新たな、まったく説明のつかない力がわたしを抑制《よくせい》した。  わたしは生まれて初めて、かたわらに女性のいることに当惑を覚えたのだ。  そのままだったらその先どうなったかわからない。ところが、そのときに雌ライオンの純然たる女悪魔が、そいつの支配者でもあれば主人ともいうべき雄ライオンよりも鋭い目で、われわれを発見したのだ。雌ライオンはうなったり、黄色い牙をむき出したりして二人の隠れ場所のほうへ速歩でやって来た。  わたしは、それが自分の勘違いであって雌ライオンがほかの方角にそれてくれるようにと念じながら、ちょっと待った。だがそうはいかず──雌ライオンは速歩《トロット》からさらに駆歩《ギャロップ》に移った。  そこでわたしは発砲した。弾丸はまともに胸にあたったが、それでも野獣を立ちどまらせなかった。ライオンは痛みと怒りに絶叫しながら、矢のように進んで来た。そのあとからほかのライオンたちもつづいている。  これで万事休すかと思われた。二人がいるのは河のきわだった。逃げ道はなさそうだったし、これほど多くの獰猛な野獣を相手にしては、わたしの最新式のオートマティック・ライフルをもってしても不充分であることはわかっていた。  その場に留まっていたら自殺も同然であったろう。すでに二人とも立ち上がり、ヴィクトリーはけなげにもわたしのかたわらにふみとどまっていたが、そのときわたしは自分に許されている唯一の決断に達した。  まさに雌ライオンがそのやぶのむこう側に突入して来たとき、わたしは娘の手をつかむと身をひるがえし、背後にヴィクトリーを引っぱったまま土手の端を越えて河に跳びこんだのだ。  わたしはライオンが水を好まないことを知らなかったし、またヴィクトリーが泳げるのかどうかも知らなかった。が、留まっていれば猶予《ゆうよ》のない、恐ろしい死が目前に迫っていたから、一か八かやってみたのだ。  その地点では水流が岸の近くまできていたので二人はたちまち深みのなかにつかっていた。しかもありがたいことにヴィクトリーは力強く抜き手をきって泳いでおり、彼女に関する心配は杞憂《きゆう》に終わったのである。  だがわたしがほっとしたのも束の間、前記の雌ライオンはまぎれもない悪魔だったのだ。しばしのあいだはわれわれをにらみつけていたのだが、それから鉄砲玉のように河に跳びこんで、すばやく泳いで追って来るではないか。  ヴィクトリーは二メートルほどわたしより前に出ていた。 「向こう岸にむかって泳ぐんだ!」わたしは彼女に呼びかけた。  わたしは片手で命の次に大切な武器を守りながらもう一方の手で泳がねばならず、ライフルがだいぶ邪魔になっていた。  娘は雌ライオンが水にはいったのも、わたしが彼女よりもずっと遅く泳いでいるのも見ていたが、そこで彼女は何をしたと思う? なんと、わたしの横へとひき返し始めたのだ。 「進むんだ!」わたしは叫んだ。「向こう岸まで行ってから、ぼくの友だちが見つかるまで川下へとたどるんだ。ぼくがきみを行かせたことや、きみを守れという命令も出したことを告げなさい。進むんだ! 進むんだ!」  しかしヴィクトリーは二人がふたたび並んで泳ぐようになるまで待っただけであった。しかも、すでに長いナイフを抜いてそれを口にくわえているのが見えた。 「ぼくのいうとおりにしなさい!」  わたしはきびしくいったのだが、ヴィクトリーは頭を横にふった。 [#(img/117.jpg)入る]  雌ライオンはどんどん追いついてきた。やつは声も立てずに泳ぎ、顎がちょうど水に触れていたのだが、その唇のあいだから血が流れていた。肺に貫通銃創を受けているのは明らかである。雌ライオンはわたしを襲う寸前だった。まもなく前肢でわたしを押えこむか、あるいはその大きな顎でくわえるかするだろう。死期が迫るのを覚えたが、戦って死ぬつもりだった。  そこでわたしは向きを変えると、立ち泳ぎをしながらライフルを頭上に持ちあげて待機した。  ヴィクトリーが、われわれを襲わんとしている畜生に劣らず果敢な勇気をみなぎらせて、まっしぐらに泳いで来た。すべてはあっというまの出来事だったので、つづいて起こっためまぐるしい動きを詳しくは思い出せない。覚えているのは、自分が水から高くとび上がって逆手《さかて》に持ったライフルで、野獣の頭蓋骨に痛烈な一撃を加えたことや、ヴィクトリーが長い刃を片手にひらめかせながら、野獣に接近して突き刺すのが見えたこと、大きな前肢がわたしの肩に落ちて来たことや、わたしが貨物船の船首の前の藁くずのように水面下にさらわれたことである。  なおもライフルを握りしめてふたたび浮上すると、雌ライオンが目と鼻の先で断末魔の苦しみにもがいているところだった。わたしが浮上するのとほとんど同時に、ライオンは横倒しになり、一瞬気違いのようにあがいてから沈んでしまった。 [#改ページ]      6  ヴィクトリーはどこにも見えなかった。わたしは一人だけでテムズ河の水面に浮かんでいた。  わたしは、生涯を通じてあとにも先にもその短い一瞬ほどの精神的苦痛を味わったことはないと信じている。二、三時間前にはヴィクトリーを厄介払いしたいと願っていたのに、彼女がいなくなったいまでは、彼女をとりもどすためなら自分の生命でも投げ出していたことだろう。  わたしは、ヴィクトリーの姿が消えた地点のあたりを泳ぎまわろうと、疲れたからだに鞭うって向きを変えた。彼女が少なくとも一度は浮かび上がって、彼女を救う機会が訪れるようにと願ったのだ。  すると顔前の水が泡立ってヴィクトリーの頭が忽然と浮かび上がった。わたしが彼女をつかまえようとして泳ぎだそうとすると、うれしそうな微笑がヴィクトリーの顔をぱっと明るくした。 「死んではいらっしゃらなかったのね!」彼女は叫んだ。「河底であなたを捜していましたの。ライオンの一撃を受けて、きっとあなたは手足がきかなくなったと思いました」  そして雌ライオンはどこかとちらりと見まわした。 「いなくなったのですか?」 「死んだよ」 「あなたがライフルと呼んでいるもので殴った一撃で、ライオンは気絶しました」彼女は説明した。「で、わたくしはそばまで泳いで行って心臓にナイフを突き刺したのです」  ああ、なんというけなげな娘だ!  わたしは、これがわがパン=アメリカの女性だったら同じような状況下でどう行動したろうか、と思わずにはいられなかった。だがもちろん、わが国の女性は野蛮な原始生活の非常事態や危険に否応《いやおう》なしに対処するという鍛練を受けてはいないのだ。  二人がつい先刻離れたばかりの土手に沿って二十頭ばかりのライオンが、敵意をこめてうなりながら右往左往していた。もどることはできないから、二人は反対側の岸をさして泳いだ。  わたしは水泳には自信があり、その河を横切る能力のあることに疑問の余地はなかったが、ヴィクトリーについてはさほど確信がもてなかった。そこで彼女が万一助けを必要としたら、いつでも援助を与えられるようにとすぐうしろを泳いで行った。  しかしヴィクトリーにはそんな必要はなく、見たところは水にはいったときと同じように元気よく反対側の土手に着いた。  ヴィクトリーは驚異の存在だ。  ヴィクトリーといっしょにいると、彼女が驚異だという証拠が日ごとに新たに加えられる。それにわたしを驚かせたのは彼女の勇気や活力だけではなかった。その形のよい両肩の上に頭があったし、それに威厳もあった!  ああ、ヴィクトリーはその気になれば女王になれるのだ!  ヴィクトリーによると、河のこちら側のほうがライオンは少ないが、その代わりに狼がたくさんいて、一年の後半ともなると多くの群れをなして徘徊しているそうだ。現在やつらは北のどこかにいて、われわれは二、三頭に出くわすことはあっても、それほど恐れることはないという。  何よりも気になったのは、武器を分解して乾かすことだったが、身のまわりのぼろはどれもびしょぬれなので、それはかなり難しかった。だが結局日光と、それにさんざっぱらこすったおかげでうまくいった。とはいえ、それに差すオイルはなかったが。  われわれはヴィクトリーの見つけた野いちごや根菜を食べ、それからまた河下へと歩き出した。片側には獲物が、反対側にはランチがないかと絶えず注意していた。わたしの不在中は当然リーダーになったはずのデルカートが、わたしを捜してテムズ河を上って来るかもしれないと思われたからである。  その日の残りは獲物やランチを空しく捜し、夜になると星空の下に眠るために空腹のまま横になった。野獣の襲撃に対してまったく無防備であったから、わたしは夜の大半は目を覚ましたままで警戒にあたった。だが何も近づいて来なかった。ただ河の向こうでライオンの咆哮が聞こえ、一度は北のほうで野獣の遠吠えを聞いたような気がした──狼かもしれない。  要するにひどく不愉快な夜で、ふたたび野外で眠るはめになったら、睡眠中は攻撃を防げるような遮蔽物《しゃへいぶつ》を用意しようとそのときに決意した。  朝近くなってわたしはうとうとし、ヴィクトリーがやさしく肩をゆきぶって起こしてくれたときには太陽はすっかり昇っていた。 「鹿よ!」  ヴィクトリーは耳元でそうささやき、わたしが頭をあげると河上を指さした。膝で這って彼女の示すほうに目をやると、百八十メートルほど離れた小山の上に雄鹿が立っていた。  彼我《ひが》のあいだには絶好の隠れ場所があった。そこで、百八十メートルの距離でも弾丸はあたるかもしれなかったが、もっと近くへ這って行き、二人が切望している肉を確保し七ほうがよかろう。  その距離を五十メートルぐらい行ったが獣はやはりおとなしく草を食べていた。そこでさらに五十メートル前進すればそれだけいっそう確実に命中することになると思ったが、そのとき、急に雄鹿が頭を上げて河上のほうへ頭をそむけた。その全体の様子は、鹿が、そのむこうにあってわたしには見えない何かにはっと驚いたことを示していた。  鹿が急に逃げ出してしまったら、たぶんそれきりおさらばになると気づくや、わたしは肩にライフルをあてた。だがそうするうちにも動物は宙に跳ね、と同時に小山のむこうから銃声が響いた。  一瞬わたしは呆気《あっけ》にとられた。銃声が河下から聞こえたのなら、すぐさまわが部下の一人が発砲したと思ったであろう。だが河上から聞こえたから、まるでわけがわからなくなってしまった。  原始的なイングランドで、コールドウォーター号のわれわれ以外には誰が火器を持っているはずがあろうか?  ヴィクトリーはわたしのすぐうしろにいたが、わたしはそこから鹿を撃とうとしていたやぶの蔭に伏せるようにと彼女に身ぶりで示し、自分もそうした。雄鹿が確かに死んでいるのが見てとれたし、仕止めたやつが獲物をとりに近づいて来たら、隠れ場所からそいつの正体を見届けてやろうと待機した。  長く待つこともなく、小山の頂の上に一人の男の頭と肩とが現われるのを見ると、わたしは衷心から歓喜の叫びをあげながら、やにわに立ちあがった。それはデルカートだった。  わたしの声を聞くとデルカートは敵の攻撃にそなえてライフルをなかば持ち上げたが、すぐにわたしが誰だかわかって急いでやって来た。そのうしろにはスナイダーがいた。  二人とも河の北岸にいるわたしを見て仰天しており、わたしの連れを目にするとなおさらそうだった。  わたしはそこでヴィクトリーに二人を紹介し、彼女がイングランドの女王であることを告げた。最初、彼らはわたしが冗談をいってると思った。が、わたしが自分の冒険を詳しく話して大まじめであることを認識させると、デルカートたちはわたしのいうことを信じてくれた。  彼らの話ではわたしが狩からもどらなかったので、内陸のほうへとわたしのあとを追って行ったところ、〈象の国〉の男たちに出会い、やつらと短時間のあいだ一方的な戦闘を交えたそうである。そしてその後、捕虜を一人連れてランチにもどり、その捕虜からわたしが恐らく〈ライオンの国〉の者に捕まったのだろうということを聞いたという。  デルカートたちは捕虜を道案内にしてわたしを捜しながら河上へと出発したがモーターの故障でだいぶん遅れ、結局暗くなってから、ヴィクトリーとわたしが夜を過ごした地点の一キロ上流でキャンプをしたのだった。彼らは暗闇にまぎれてわれわれを通り越したのにちがいない。  それにしても、どうしてプロペラの音が聞こえなかったのかわからない。河の向こう側でライオンが耳をつんざくような大騒ぎをしていた最中にランチが通過したのでもないかぎりは。  われわれ一同は鹿を持ってランチにもどった。ランチではテイラーが無事でいるわたしに再会できたのでデルカートと同様によろこんでくれた。正直なところスナイダーはわたしが救われたことに有項天《うちょうてん》な気分を表わしたとはいえない。  テイラーは化学燃料の材料を発見していた。そして、それを抽出《ちゅうしゅつ》することがモーターの故障と相まって、わたしの捜索に出発するのが遅れた理由となったのだ。  デルカートとスナイダーがつかまえた捕虜は、〈象の国〉出身の、たくましい若い男だった。みんながきっぱり否定したにもかかわらず、その男は自分が殺されないということを依然として、信じられないのだった。  その捕虜は自分の名前は〈三十六〉だとはっきりといった。彼は十以上の数は数えられないのだから、その言葉の正しい意味がさっぱりわからないのは確かである。それは大戦中に英国軍隊に勤務した先祖の兵役番号がその男まで伝わったものかもしれないし、あるいは本来は先祖の者が戦った名声|赫々《かくかく》たる連隊の番号であったのかもしれない。  われわれが再会したので、さしあたりどのコースをたどるべきかを決定するために会議を開いた。スナイダーはやはり海へ向けて出発しパン=アメリカに帰ることに賛成だったが、デルカートとテイラーの良識はその提案をあざ笑った──そうしたところで二週間とは命が保《も》つまいというのだ。  野獣や、野獣同然の野蛮人に絶えず脅かされながらイングランドに留まることも、それに劣らず悲惨なように思われた。そこでわたしは、海峡を横断して大陸にもっと進歩した文明人が発見できないかどうかを確かめることを提案した。  わたしはヨーロッパのむかしの文化や栄光の形跡がきっと残っているものと確信していた。おそらくドイツは二十世紀の状態とたいして違っていないだろう。というのは、たいていのパン=アメリカ人と同様にわたしも、ドイツが〈大戦〉に勝ったのは確かだと思っていたから。  しかしスナイダーはその提案に異議を唱えた。ここまで来たことでさえいいかげんまずいというのだ。大陸へ行くことで事態をいっそう悪くしたくないという。  彼の言い草の結果はというと、わたしがとうとうかんしゃくを起こしたのだ。そして今後はわたしが最善と思うところを行なえばよいのだとスナイダーに告げた──つまり、わたしが一行の指揮をとるつもりであること、一行はまだコールドウォーター号に乗ってパン=アメリカ海域にいる場合と同じく、わたしの命令下にあると考えてよいといったのである。  デルカートとテイラーは即座に、かりそめにもそうではないなどと考えたことはないし、ここにいても三十度の向こう側にいるときと同じように、いつでもわたしに従い服従すると約束した。  スナイダーは何もいわずにふくれっつらをしていた。そしてそのときわたしは──前にも思ったように、しかもあとになってさらに痛感したように──われわれがコールドウォーター号から最後に下船したあの記憶すべき日に、偶然スナイダーがランチの乗組みの一員になるという運命にめぐり合わせなければよかったのにと思った。  ヴィクトリーは会議にあって発言権を与えられていたのだが、大陸かあるいはほかのどこか、つまり実のところ彼女が新しい風景を見たり、新しい冒険を経験したりできるところに行くのは大賛成であった。 「そのあとでグラブリティンにもどって来ればいいでしょう」彼女はいった。「そしてもしバッキンガムが死んでいなくて、わたくしたちがあの人を部下から切り離して殺すことができれば、わたくしは国民のところへもどり、わたくしたちはみな平和に幸福に暮らすことができます」  ヴィクトリーは、羊を一頭殺そうと計画しているときに示す程度の関心をもって、バッキンガムの殺害を口にした。だが残忍なのでも復讐心に燃えているわけでもなかった。実はヴィクトリーはとても優しくて女らしい女性なのだ。  だが人間の生命など三十度の彼方ではさして重要ではないのである──太陽が昇って沈むまでのあいだにおびただしい数の人間が塹壕で死んだ時代、その同じ塹壕に人間が縦に寝かされて土を上からふりかけられた時代、ドイツ人がその死体をたき木のように積み上げて火をつけた時代、女子供や老人が虐殺され、大きな客船が警告もなく雷撃された血なまぐさい時代の遺産なのだ。 〈三十六〉はやっとわれわれに彼を殺す意図がないことを納得《なっとく》し、ヴィクトリーと同じくわれわれに同行したがった。  大陸への横断は平穏無事であったが、ヴィクトリーと〈三十六〉が、海面を無事に船で進んだり、陸地からずっと離れたところにいるという目新しい経験に子供のようにはしゃいだことによってその単調さが軽くなったのだった。  スナイダーは例外であったかもしれないが、小人数の一行はこの上なく上機嫌な様子で笑ったり冗談をいったり、未来が用意してくれていそうな事どもを興味をもって話し合ったりした。つまり大陸では何を見出だすことになるのかとか、住民は文明人だろうか野蛮人だろうか、ということなどだった。  ヴィクトリーは文明人と野蛮人の相違を説明してくれるようにとわたしに頼んだ。わたしができるだけ明快に説明を試みると突然陽気にちょっと笑い声をあげて、「まあ」と叫んだ。 「それではわたくしは野蛮人ですのね!」  わたしも、いかにもきみは野蛮人だとうなずきながら、笑わずにはいられなかった。ヴィクトリーはそのことを途方もない冗談と思ったらしく気を悪くしなかった。だがそれからしばらくのあいだは、あきらかに物思いにふけって無言で腰かけていた。やがてわたしを見上げると、微笑している唇の奥で白い丈夫な歯を光らせた。 「もしあなたが『かみそり』と呼んでいらっしゃるあれを手になさって、〈三十六〉の顔から毛[#「毛」に傍点]を切り、〈三十六〉と衣服をとりかえたら、あなたは野蛮人に、そして〈三十六〉は文明人になりますわ。武器のほかに、あなたがたのあいだに違いはありません。あなたに狼の皮を着せて、ナイフと槍をあげて、グラブリティンの森に置いたら──あなたがたの文明は、あなたにどういうふうに役立ちますの?」  デルカートとテイラーはヴィクトリーの答えを聞いて苦笑したが、〈三十六〉とスナイダーはけたたましく笑った。わたしは〈三十六〉には驚かなかったが、スナイダーが大声で笑ったのはその場をわきまえぬことだと思った。実際のところスナイダーはどれほどわずかでも反抗の意志を示す機会があるごとに、それにつけこんでいるように思われた。  今後は実際の規律違反がありしだい、わたしが依然として指揮官であることを、とことんまでスナイダーに思い出させるような処置をとろうと、そのときに決心した。  スナイダーがひどくヴィクトリーに目を注いでいるのには気づかないわけにいかず、わたしはそれが気にくわなかった。彼がどんなタイプの人間なのかわかっていたからだ。しかしヴィクトリーを彼と二人だけにするような必要に迫られるはずはなかったから、彼女の身の安全には懸念《けねん》を覚えなかった。  野蛮人について話し合ってからというもの、わたしに対するヴィクトリーの態度が、がらっと変わったように思われた。彼女はわたしを敬遠し、スナイダーが代わって舵をとるときには、ランチの操縦法を覚えたいという口実で彼のそばに坐るのだった。ヴィクトリーは彼のわたしに対する反感を察知して、ただわたしを刺戟するという目的でスナイダーにつき合いを求めているのだろうか。  スナイダーもその機会を充分に利用していた。彼女に耳うちするために、たびたび娘のほうへ身をかたむけ、またよく笑ったが、それは彼にしては珍しいことだった。  もちろんわたしにとって、それはまったくとるに足らぬことだった。とはいえ、どういうわけか、その両名がそこにぴったりとくっつき合って坐り、互いに相手との交際を大いに楽しんでいるらしいのを見るとわたしはひどくいらいらし、ひどく気色が悪かった。だから、海峡横断の最後の二、三時間はちっとも楽しいとは思わなかった。  われわれはむかしのオステンデ(ベルギー北部の海港)の所在地の近くに上陸するつもりであった。しかしそこの海岸に近づくと、都市はもとより人間が住んでいた徴候もまったく見あたらなかった。上陸してからは、ブリテン諸島で見つけたのと同じ殺風景な荒れ地を周囲に見出だすことになった。ヨーロッパ大陸のその部分に、かつて文明人が足を踏みいれたという徽侯は少しもなかった。  イングランドでの経験以来同じような懸念はしていたものの、いまやいちじるしい失望の念と未来に対する深刻な不安を感じたことは否定できず、そのためにわたしは気が滅入って、ヴィクトリーとスナイダーが引続き親しくしていることによってもその気分はすこしも消えなかった。  わたしは、ヴィクトリーたちの問題に心をわずらわされていたことで自分に腹を立てていた。その教養のない小さな野蛮人に憤慨して、彼女がこうしたとかああしなかったとかいうことでいささかなりとも影響を受けていることや、一介の水兵に私怨《しえん》を抱くほど卑しくなれるということを自分に対して認めたくなかった。だがそのくせ、正直なところ、その両方をしていたのだ。  かつてオステンデのあったあたりには、われわれを引きとめるものがなかったので、ライン河の河口を捜して海岸をたどり始めた。文明人を求めてライン河を上ろうと思っていたのだ。ランチで行かれるところまで河上を探険するつもりだった。もしそこに文明がみつからなければ北海へもどり、エルべ河まで海岸づたいに行き、そしてエルべ河とベルリン水路をたどるつもりだった。  少なくとも、そこならわれわれが捜しているものが見つかるものと確信していた──そしてもし見つからなかったら、全ヨーロッパが未開の状態へともどってしまったということだ。  天候はいぜんとして良好で、行程はすばらしくはかどったが、ライン河沿いの至るところで同じ失望の種──文明人の形跡がないこと、実をいうと人間の形跡が全然ないことを発見したのである。  わたしは予想していたほどには近代ヨーロッパ探険を楽しんでいなかった──みじめだった。  ヴィクトリーも以前とは変わったように思われた。わたしもかっては彼女との交際を楽しんでいたのだが、英仏海峡横断の旅以降は彼女から遠ざかっていた。  ヴィクトリーはほとんどいつも、つんとすましていたが、むしろ彼女はスナイダーと親しくしたことを後悔していたのではなかろうか。というのはヴィクトリーが彼をまったく避けているのに気づいたからだ。スナイダーのほうは逆に以前のヴィクトリーの親密さに力を得て、彼女に近づくあらゆる機会を求めていた。  わたしはスナイダーの頭をぶんなぐる、もっともらしい口実があれば欣喜《きんき》|雀躍《じゃくやく》しただろう。だが逆説的には、スナイダーに悪意を抱くことをみずから恥じていた。自分がどうかしているのはわかったが、それがなんであるのかは知らなかったのだ。  数日間はずっとそんな状態で、一行はライン河を上る旅をつづけた。ケルンでは、はげましになるような徴候が見つかるようにと願っていたのだが、ケルンなど、てんから存在しなかった。そしてその河沿いには、そこまで一つも都会がなかったのだから、荒廃は時間だけがもたらしたよりも際限なく大きいものだった。  大砲や爆弾や地雷が、人間の建てたビルを一つ残らず倒したにちがいないし、そのあと自然が、人間の不行跡の無惨な形見を、そのうるわしい緑のマントで思いのままに覆ったのだ。かつて壮麗な寺院がドームをそびえさせていたところには壮麗な木々が亭々《ていてい》たる梢を聳立《しょうりつ》させ、かつては人間の血にひたされた土壌には、美しい野の花がひっそりと咲いていた。  自然は、人間が一度自然から奪って汚したものをとりもどしたのだ。  かつてはドイツ皇帝《カイゼル》が軍隊を閲兵したかもしれない場所で、一群れの縞馬が草を食べていた。カモシカがデージーの床で穏やかに休んでいたが、そこではたぶん二百年前に人間の業績に対しても神の御業に対しても見さかいなく、大砲が死と憎悪と破壊の恐るべき使者を撃ち出したのだろう。  われわれには新しい肉が必要であったが、わたしはその眺めの穏やかで平和な静寂さを、ライフルの銃声や、目前にいる美しい獣の一匹の死でそこなうことを躊躇した。だがそれはしなくてはならなかった──食べずにはいられないのだ。しかしわたしはその仕事をデルカートにまかせ、まもなく一同は二匹のカモシカとその景色を独占していた。  食べ終わるとランチに乗って河を上りつづけた。二日間は原始時代の荒れ地を通過した。二日目の午後に河の西岸に上陸し、ヴィクトリーとランチの護衛にはスナイダーと〈三十六〉とを残して、デルカートとテイラーとわたしの三人が獲物を求めて出かけた。  われわれは何も発見することなく河から一時間以上もとぼとぼと歩き、そこで赤い小鹿を一頭だけ発見し、それをテイラーが、手ぎわのよい百八十メートルからの一発で倒した。それ以上進むには時刻が遅くなりかけていたので、もっこ[#「もっこ」に傍点]を急ごしらえして二人がランチのほうへその鹿を運んでもどるいっぽう、わたしはさらに予備の食肉となる獲物を求めて百メートル先を歩いていた。  河までの道のりを半分ほど過ぎたとき、突然一人の男とばったり出会った。外見がグラブリティン人のように原始的で粗野であった──毛深い汚ならしい野蛮人で、頭をつけたまま乾燥した動物の皮のシャツを着ており、その頭は男の頭にのっかってボンネットとなり、ひどく恐ろしげで残忍な風采となっていた。  長い槍と棍棒で武装しており、棍棒は首にかけた皮ひもから背中へぶら下がっていた。足には皮のサンダルをはいている。  男はわたしを認めると一瞬立ちどまり、それから身をひるがえして森のなかに駆けこんでしまった。わたしは安心させるように英語で呼びかけたが、もどって来なかったし、二度と見かけなかった。  その野蛮人を見たことで、どこかほかで、もっと高度な文明状態にある人間が見つかるかもしれないという希望がまたもや高まった──わたしが切望していたのは文明人の社会だった──そこで前よりも軽い足どりで河とランチのほうへ進みつづけた。  ふたたびライン河が見えてきたとき、わたしは依然としてデルカートとテイラーよりもいくらか先にいた。だが水ぎわまで来ると、二、三時間前そこに残してきた連中に異常があったことに気づいた。  凶事を最初に告げたのは、ランチが以前の繋留地になくなっていることだった。それから少しして──男のからだが土手に横たわっているのを発見した。そのほうへ駆けつけると〈三十六〉であることがわかった。  立ち止まってグラブリティン人の頭をかかえあげると、かすかな呻きがその唇から洩れた。死んではいなかったが、重傷を負っていることは一目瞭然だった。  デルカートとテイラーがじきにやって来てわれわれ三人は〈三十六〉を介抱した。彼を蘇生《そせい》させて、前後の事情と他の者がどうなったかを話してもらいたいと思ったのだ。  最初に考えたのは、先刻野蛮な原住民を見かけたことから連想したものだった。三人の留守番はどうやら不意打ちをくらい、その襲撃で〈三十六〉が傷を負い、ほかの者は捕虜となったのだろう。そう思うと、実際に顔をがんと殴られたのも同然の思いがした──呆然となってしまった。  ヴィクトリーがあの得体《えたい》の知れぬ野獣どもの手に!  恐ろしいことだった。  わたしは〈三十六〉を蘇生させようと努めるあまり、哀れな〈三十六〉を揺さぶらんばかりだった。  わたしが自説をほかの者たちに説明すると、デルカートは片手を一度動かしただけで、その説を粉砕した。デルカートは、グラブリティン人の胸のなかばを覆っていたライオンの皮をまくって、〈三十六〉の胸にあるみごとな丸い穴を見せた──ライフル以外の武器ではあけようのない穴。 「スナイダーか!」  わたしは歯がみした。デルカートがうなずいた。それと同時に負傷者のまぶたがまたたいて、開かれた。〈三十六〉はわれわれを見上げ、意識のきらめきがごくゆっくりとその目にもどってきた。 「何が起きたんだ、〈三十六〉?」わたしは質問した。 〈三十六〉は答えようと努めたがその努力が咳《せき》をひき起こし、肺の出血をもたらした。彼はふたたびがっくりとくず折れた。彼は数分ものあいだ死んだように横になっていたが、それから、ほとんど聞きとれないぐらいの小声でしゃべった。 「スナイダーが──」 〈三十六〉は息をつぎ、またしゃべろうと努め、片手を上げ、そして河下を指さした。 「あの人たちは──もどって──行った」  それからけいれんを起こして息をひきとった。  誰も所信を声には出さなかった。だが意見はみな同じだったと思う。つまり、ヴィクトリーとスナイダーがランチを乗っ取り、われわれを置き去りにしたのだ。 [#改ページ]      7  われわれは死んだグラブリティン人のまわりに集まり、そこに立って、河が四百メートル河下のほうで急に西にカーブして見えなくなっているほうへと、空しく見下していた。それはまるで、無断でいなくなった彼らが貴重なランチ──この非友好的な野蛮な世界ではわれわれにとって生か死を意味するもの──とともにもどって来るのが見えるようにと期待しているかのようだった。  テイラーが視線をゆっくりとわたしの横顔へと転じるのが見えた、というよりは感じられた。わたしも目を向けて顔を見合わせると、彼の顔に浮かんだ表情が、わたしに将校としての義務と責任を思い出させてくれた。  テイラーの顔に反映されていたまったくの絶望感は、わたし自身が感じていたものとそっくり同じにちがいなかったが、その短い瞬間にわたしは、ほかの者の勇気をささえられるように自分の不安は隠そうと決意したのだった。 「われわれは見殺しにされた!」  テイラーの顔にはありありとそう書かれていた。まるでその表情が、開かれた本に印刷されてある言葉であるかのようだった。テイラーが考えているのはランチのことであり、ランチのことだけだった。  わたしもそうだろうか?  わたしはそうだと思おうと努めた。だがランチを失ったときに生じる以上の悲しみで胸がいっぱいになった──わたしが否定しようと努め──自認することを拒み──それでも執拗につきまとってきたあげく、こみあげてきて喉がつまるような、憂鬱で、苦しい惨めさだった。そして当然、部下に安心させる言葉を述べるはずなのに、口がきけなかった。  それから、ほっとしたことに激しい怒りが湧いてきた──これほど恐ろしい境遇に、三人の同胞を置き去りにして行った悪辣《あくらつ》な裏切者に対する激怒だった。女にたいしても同じ怒りを感じようとしたのだが、どういうわけかそれは感じられず、ヴィクトリーに有利になる口実を終始求めていた──若さや、経験のなさや未開人であることなど。  湧いてきた怒りが、束の間《ま》の絶望感を一掃してくれた。わたしは微笑して、そう暗い顔をするなとテイラーにいった。 「彼らのあとを追うんだ。そうすれば追いつく見込みがある。むこうは、たぶんスナイダーが望んでいるほど早くは進むまい。スナイダーは燃料や食糧を手に入れるために停船せざるを得ないし、ランチは河の屈曲に従わなくてはならない。むこうが回り道を通っているあいだにこっちは近道を行ける。それにわたしは地図を持っている──よかったよ! いつも身につけて持ち歩いていたんだ──で、地図と羅針盤があるからむこうより有利さ」  わたしの言葉は二人を元気づけたらしく、彼らはすぐさま出発して追跡するのに賛成だった。ぐずぐずする理由は何もなかったから、三人は河下へと歩き出した。  徒歩で進む道すがら、めいめいの心にまず第一に浮かぶ問題──スナイダーを捕えたら彼をどうするか──を話し合った。というのは追跡が進むにつれて、成功まちがいなしという楽観的な確信が生まれたのだ。実際問題として是が非でも成功しなくてはならないのだ。おめおめと余生を、このまったくの荒れ地で過ごすことは考えるだけでも不可能だった。  スナイダーの懲罰《ちょうばつ》の件では、はっきりした結論には到達しなかった。テイラーは銃殺に賛成だし、デルカートは絞首刑にすべきだと主張するのに対し、わたしはスナイダーの罪の重大さは充分認識していたものの、死刑を宣告する気にはなれなかったからだ。  ヴィクトリーはスナイダーのような男にどういう魅力を見出だしたのか、また自分はなぜ弁護の余地のないヴィクトリーの行為を弁護しようとするのか、彼女に有利な口実を見つけることに固執するのか、われながら不思議に思うようになった。  わたしにとってヴィクトリーはなんでもなかった。生命を助けてくれたせいで自然に抱いている感謝の念を別にすれば、ヴィクトリーに借りはなかった。彼女は半裸の小さな野蛮人だし──わたしは紳士で、しかも世界一の海軍の将校であった。双方のあいだに利害関係の密接な絆《きずな》があるわけがない。  この思考の筋も、前のもの同様に苦しいとは気づいたが、わたしがほかのことに心を向けようと努力しても、小麦色の楕円形の顔や、にっこりと歯並みのよい白い歯を見せる唇や、小ずるさの片鱗《へんりん》すら宿していないつぶらな目や、それまで見たこともない美しい姿態の天辺にあって左右に揺れる豊かに波うつ髪の映像へと、わたしの心は執拗にもどっていった。  この映像が現われるたびに、わたしはスナイダーに対する激しい怒りと憎悪に全身が冷たくなるのを覚えた。ランチのことは許せるがヴィクトリーを不当に扱ったら殺してやる──この手で殺してやる。そうわたしは決意した。  二日というもの河を北へとたどり、近道ができるところでは近道をとったが、たいていは、水流に平行しているけもの道[#「けもの道」に傍点]に限られていた。  ある日の午後、われわれは何キロもが節約になる狭い地峡をまっすぐに突っきったが、そこでは河は西へ曲がってからまたもどっていた。  難渋《なんじゅう》の日を過ごしたあとだったのでそこで休止することにしたが、真情を明かせば、みんなよほどの偶然でもないかぎりランチに追いつく望みはすてていたと思う。  休止の直前に鹿を一頭撃っていた。テイラーとデルカートがそれを料理しているあいだ、わたしは水筒を満たすために河へと下りて行った。ちょうどそれをやり終えてからだを伸ばしたとき、河上の屈曲部のあたりに浮かんでいるものが目についた。  ちょっとのあいだは、自分の目が信じられなかった。一隻のボートだった。  わたしはデルカートとテイラーに大声で呼びかけた。彼らはわたしの横へ駆けて来た。 「ランチだ!」とデルカートが叫んだ。  なるほどそれは例のランチで、われわれよりも上流から河下へ向かって漂流してくるところだった。  いままではどこにあったのだろう? われわれはどうしてそれを通り過ぎたのだろう? それに万一スナイダーと娘がわれわれを発見したら、いまどうやってランチに到達できるだろう? 「漂流している」テイラーがいった。「なかには誰も見えません」  わたしは衣服を脱ぎかけていた。すぐにデルカートもわたしにならった。テイラーには衣服とライフルを持ったまま岸にとどまるようにと命じた。そうすれば万一スナイダーがわれわれを見つけて姿を現わしてもテイラーはスナイダーを狙撃《そげき》できるから、一石二鳥だった。  われわれは力強く水をかいて、近づいて来るランチの進路へと出て行った。わたしはデルカートよりも逞《たくま》しい泳者だったから、じきに遙かに先へ出て、ちょうどランチがわたしに迫って来たときに水路の中央に達した。  ランチは舷側を向けて漂流していた。わたしは船べりをつかんです早くからだを引き上げたので、顎が舷側の上に出た。乗っている人間に見られたとたんに殴られるものと覚悟していたが打撃は受けなかった。  スナイダーが一人だけ船底に仰向けに横たわっていた。よじ登ってなかにはいり、スナイダーの上にかがまないうちからもう彼が死んでいることがわかった。それ以上スナイダーを調べることはせず、わたしは操縦台にとんで行って始動ボタンを押した。ほっとしたことに機械は反応があった──ランチは損傷を受けていなかったのだ。  わたしは接近してデルカートを拾いあげた。デルカートは目に映った光景に仰天し、すぐさまスナイダーの死体を調べ、生きている気配や、死因の説明となるものを捜した。  スナイダーは数時間前に死んで──冷たく硬直していた。だがデルカートの調査は効果がなかったわけではない。というのはスナイダーの心臓の上に、傷、すなわち長さ二・五センチほどの裂傷──鋭いナイフが与えたような裂傷があり、死んだ片手の指には長い茶色の髪が一筋つかまれていた──ヴィクトリーの髪は茶色である。  死人に口なしといわれるが、スナイダーはまるで死んだ唇が開いて事実をまくしたてたかのようにはっきりと、自分の最期について物語っていた。この獣は娘を襲い、彼女は貞操を守ったのだ。  われわれはスナイダーをライン河のほとりに埋葬したが、彼の最後の安息の地は石によってその位置を示されていない。獣に墓石は要らないのだ。  そのあと船首を上流に転じてランチで出発した。わたしがデルカートとテイラーに、娘を捜すつもりだと話したときには両名とも異議を唱えなかった。 「われわれは彼女を誤解していました」とデルカートがいった。「その罪ほろぼしにわれわれにできるせめてものことは、あの人を見つけて救うことです」  ランチで河を上りながら二、三分ごとに大声でヴィクトリーの名前を呼んだ。が、以前のキャンプ地までもどってもヴィクトリーは見つからなかった。そこでわたしは道程を引き返すことにし、テイラーにランチを操作させ、いっぽうデルカートとわたしは河のそれぞれ両岸に上がって、ヴィクトリーが上陸した地点の形跡を捜した。  何も見つからぬまま、最初にランチが流れ下って来るのを見たところの三、四キロ上流の地点まで行き、そこで最近たき火をしたあとを発見した。  ヴィクトリーが火打ち石と火打ち石用の鋼片を持ち歩いていたのをわたしは知っていたし、その火を起こしたのがヴィクトリーであることはまちがいないと思った。  だが彼女はそこで足をとめてから、どっちへ行ったのだろうか?  故国グラブリティンに近づけるようにと河下へ進みつづけるだろうか? それとも最後にわれわれといた上流へ行ってわれわれを捜そうとしたのだろうか?  わたしはテイラーに大声で呼びかけて、デルカートを乗せるために河を横断させた。二人がそのあとわたしに合流してわたしの見つけたものや、今後の計画について話し合うためだった。  わたしはデルカートたちを待つあいだ河を見渡して立ち、背後で東へとつづいている森へ背を向けていた。デルカートが流れの向こう岸でまさにランチに乗りこもうとしたとき、まったく何の前ぶれもなしにわたしは両腕と腰を乱暴につかまれた──すぐに三、四人が襲って来た。ライフルが手から、回転拳銃がベルトからひったくられた。  わたしはちょっとのあいだもがいたが、その努力が無駄だと知ると、そうするのをやめて敵を一目見ようと頭をまわした。それと同時に彼らのうちの数人がわたしの前にまわって来たのだが、驚いたことに目に映ったのはライフルや回転拳銃やサーベルで武装をしているが石炭のように黒い顔をした制服の兵士たちだった。 [#改ページ]      8  デルカートとテイラーはいま川のまん中にいてこっちへ来かけていたが、わたしはわたしを捕えた連中の意図が友好的なのかそうでないのかがわかるまでは遠ざかっているようにと彼らに呼びかけた。  忠実な二人の部下は進みつづけて黒人たちを全滅させたがった。しかし黒人は全員充分に武装して百人以上いたから、わたしはデルカートに被害を受ける範囲にははいらず、わたしが必要とするときまでその位置に留まるようにと命じた。  一人の若い将校がデルカートたちに呼びかけて手招きした。だがデルカートたちは来ることを拒絶し、そこで将校が命令を下した結果わたしはうしろ手に縛られ、それから部隊はまっすぐ東へと行軍して行った。  わたしは兵士たちが拍車をつけているのに気づいて奇妙に思った。だが午後遅く野営に到着すると、わたしを捕えた者たちが騎兵であることを知った。  平原のまん中に丸太造りの砦《とりで》があり、四隅のそれぞれに防塞があった。近づくにつれて、駐屯地《ちゅうとんち》の防壁の外に見張りつきで、一群れの騎乗用の馬が草を食べているのが見えた。小さくてずんぐりとした馬だったが、隠しおおせない鞍《くら》のすりむき傷が馬たちの使命を物語っていた。  柵の中の高い旗竿にひるがえる旗は見たことも聞いたこともないものだった。  われわれはまっすぐ構内へはいって行き、そこで四人の護送兵を除いて部隊は解散した。が、四人は例の若い将校のあとについてわたしを護送して行った。将校は一行を率いて、軽野砲の砲台が整列している小さな閲兵場《えっぺいじょう》を横切り、前面に旗竿のそびえている丸太の建物のほうへ行った。  わたしはその建物の内部へ、そして威厳のある軍人らしい態度の、風采の立派な老黒人の前へと伴われた。あとで知ったところによると、その老人は大佐で、わたしが捕虜となっているあいだに許されたきわめて親切な処遇はこの老人のおかげであった。  老人は部下の報告に耳を傾けてからわたしに質問するために向きなおったが、部下があげた以上の成果は得られなかった。それから老人は伝令を呼んで何か指示を与えた。兵士は敬礼して部屋を去り、五分ほどして毛深い年とった白人を連れてもどった──ちょうどスナイダーがランチともども消えた日に、森のなかで見つけたような野蛮で原始的な風貌の男だった。  大佐はどうやらそいつを通訳に使うことをあてにしたらしかったが、野蛮人がわたしに話しかけたとき使ったのは、黒人たちの言葉同様にわたしにはなじみのない言語だった。  老将校はついにあきらめて、首を振りながらわたしを退出させるよう指示した。  大佐の執務室から営倉へと連行されたが、そこには野獣の皮をまとった約五十人の半裸の白人がいた。その白人たちと話を交わそうとしたが一人としてパン=アメリカ語を解さず、またわたしのほうも彼らの言葉はちんぷんかんぷんだった。  一ヵ月以上ものあいだそこで捕虜になって、朝から晩まで例の司令官のいる司令部の建物の周辺の雑用をした。ほかの捕虜たちはわたしよりも辛い仕事に従事していた。わたしのほうがよい処遇を受けたのは、ひとえにあの老大佐の思いやりと眼識のおかげだった。  ヴィクトリーやデルカートやテイラーがどうなったかは知る由もなく、今後も知るだろうとは思えなかった。ひどく気が滅入った。だが与えられた仕事を精いっぱいに果たしたり、わたしを捕えた連中の言語を学ぼうとしながら時間をつぶしていた。  黒人たちが何者で、どこから来たのかはわたしにとって謎であった。有力な黒人国の前哨部隊だということはありそうなことだったが、その国の所在がどこなのか察しがつかなかった。  彼らは白人を下等なものと見なし、そのようにわれわれを遇した。彼らには独自の文学があり、多くの黒人たちは一介の兵士でさえも乱読家であった。  二週間ごとに挨まみれの騎兵が疲れ果てた馬に速歩をさせて駐屯地にはいり、司令部へふくらんだ郵袋《ゆうたい》を届けるならわしだった。騎兵は翌日には元気な馬に乗ってまた南へと去り、兵卒たちの手紙を、彼らがあとにして来たその謎の遠隔地にいる友人たちへ向けて運んで行くのだった。  部隊は馬に乗るときも徒歩のときもあったが、巡回任務と思われることをしに毎日駐屯地を出て行った。千人のその小兵力は、被征服国における遠隔地にある政府の威信を保つためにここに派遣されたものと、わたしは判断した。その憶測が正しいことは後日わかった。そしてここは、わたしが掌中におちた黒人国の新しい境界線に点在する、大きな一連の同じような駐屯地の一つにすぎなかったのだ。  わたしはだんだんと黒人たちの言葉を覚えた結果、面前で話される内容がわかるようになり、自分のいうこともわかってもらえるようになった。自分が奴隷の待遇を受けていること──黒人たちの手に落ちた白人は全部そのように扱われること──は初めからわかっていた。  ほとんど毎日、新しい捕虜が連行され、わたしがその駐屯地に連れこまれてから三週間ほどすると、そこに駐屯していた部隊の一つと交替するために、騎兵隊が南からやって来た。新部隊の到着後、野営内で大きな祝祭があって旧交が暖められ、新しい交友が生まれた。だがいちばん幸福なのは交替してもらう部隊の兵士たちだった。  彼らは翌朝出発した。彼らが閲兵場へ出て行くと、われわれ捕虜は宿所から行進させられて、彼らの面前に並ばされた。長い鎖が二本持ちこまれたが、それには一メートルおきに環のところに輪がついていた。最初はそれらの鎖の目的が解《げ》せなかった。が、まもなくわかることになった。  二人の兵士が力の強い白人奴隷の首に一つ目の輪をかちりとはめ、残りの奴隷も一人ずつ所定のところに駆り立てられて、われわれの首を連環でつなぐ作業が始まった。  大佐はその進行ぶりを立って見守っていた。やがてわたしに目をとめると、かたわらの若い将校に話しかけた。若い将校はわたしのほうへやって来て自分について来いという仕草をした。わたしは彼について大佐のもとへ連行された。  その頃までにはわたしも黒人たちの奇妙な言語のいくつかは理解できるようになっていたから、大佐から自分の身のまわりの召使として駐屯地にそのまま残るほうがよいかときかれると、できるだけ力をこめて、残りたい気持を表明した。  それというのも平《ひら》の兵士たちの白人奴隷に対する蛮行《ばんこう》をさんざん見ていたからで、預った奴隷たちのスピードをあげるために二十人ほどの兵士が携帯している大きな鞭でせきセてられたり、首を鎖につながれて、道のりも不明な行軍に出発したいという気は毛頭なかったからだ。  その駐屯地の六つの牢獄に収容されていた約三百人の捕虜がその朝、門を出て行ったが、いかなる運命、いかなる未来へ向かったものかは見当もつかなかった。哀れなやつら自身にしても、黒人の征服者に捕まって以来経験してきた奴隷状態──死が解放してくれるまでつづくはずの奴隷状態──をつづけるためにどこかよその場所へ行くという以外は、自分たちを何が待ちうけているかについてはおぼろげにさえも見当がつかないのである。  駐屯地でのわたしの立場は変わった。司令部の事務室の近辺で働くことから、大佐の住居へと移された。以前よりもずっと自由があり、もはや牢獄で眠ることもなく、大佐の丸太造りの家の調理場のはずれに専用の小部屋もあてがわれた。主人は常に親切にしてくれた。彼のもとでわたしは自分を捕えた連中の言語や、彼らに関してそれまでは謎だった多くのことを覚えた。  主人の名前はアブ・べリク。アビシニアの騎兵大佐であり、アビシニアという国はそれまで耳にしたことがなかったが、べリク大佐が断言したところでは世界最古の文明国であるとか。  べリク大佐はアビシニア帝国の首都アジス・アべバに生まれ、最近まで皇帝の親衛隊の指揮をとっていた。ところが、ある将校の嫉妬と野心と陰謀《いんぼう》が大佐に皇帝の寵《ちょう》を失わせ、大佐は君寵を失ったしるしとしてこの辺境の駐屯地に派遣されたのだった。  五十年ほど前、若い皇帝メネレク十四世は野心的だった。皇帝は首都の遙か北方の海の彼方に大世界のあることを知っていた。あるとき、皇帝は砂漠を横断して、領土の北の境界である青い海を見渡した。  そこには征服すべき別世界があった。  皇帝の臣下は海洋民族ではなかったが、メネレクは躍起《やっき》となって大艦隊を建造した。陸軍はヨーロッパへと渡った。陸軍はほとんど抵抗を受けず、五十年のあいだに皇帝の兵士たちは国境を北へ北へと進攻してきたのだ。 「東部や北部からの黄色人種は、いまわれわれが当地で持っている権利を得ようと争っている」と大佐はいった。「しかしわれわれは勝つ──われわれは世界を征服して、ヨーロッパやアジアの未開の異教徒全部に同じようにキリスト教を伝えるのだ」 「あなたがたはキリスト教徒ですか?」わたしはきいた。  大佐はびっくりしてわたしを見ると、そうだとうなずいた。 「わたしもクリスチャンですよ」わたしはいった。「わが国は世界一の強国です」  大佐は微笑を浮かべて鷹揚《おうよう》に首を振った。長上の判断に反対して幼稚な意見を述べる子供に接する父親のように。  そこでわたしは自分の論点を立証しにかかった。わが国の都市や陸軍や大海軍について話した。大佐はただちに反駁《はんばく》して数字を求め、数字が明らかになったときに、数の上でわが国が優勢なのは海軍だけなのをわたしも認めざるを得なかった。 [#(img/148.jpg)入る]  メネレク十四世はアフリカ大陸全部、それとブリテン諸島、スカンジナヴィア、東ロシアを除く旧ヨーロッパ全部の、まぎれもない支配者であり、アジアでは、かつてのアラビアとトルコに広大な属領や繁栄する植民地を有している。  皇帝は一千万の常備軍を持ち、その国民は、一千万から一千五百万にのぼる奴隷──白人奴隷──を所有しているのだ。  べリク大佐は大佐で、大洋のむこうにある大国のことを知ってひどく驚き、わたしが海軍将校であるとわかると、従来よりもさらに尊重してくれるようになった。わが国には少数の黒人しかおらず、その黒人たちは白人よりも低い社会水準にあるというわたしの所説は、大佐には信じにくいことだった。  べリク大佐の国では正反対が事実なのである。大佐は白人を劣等人種、つまり下等動物と見なしており、アビシニアの少数の白人の自由民さえも黒人と社会的にほぼ平等な立場など絶対に許されていない、と言明した。その白人たちは都会の貧民窟に、小さな白人租界に住み、白人と結婚する黒人は社会的に排斥《はいせき》されるのである。  アビシニア人の武器弾薬はわが国のものよりもはるかに劣っているが、武器の不備なヨーロッパの野蛮人を相手にしてはたいへん有効なものだった。アビシニア人のライフルは、二十世紀当時のパン=アメリカの連発銃に似たタイプのものだが、薬室の薬包に加えて弾倉には五つの薬包しかはいっていない。それらは騎兵用のものでも異常に長く、また正確無比である。  アビシニア人自体は容貌のすぐれた黒色人種である──背が高く、たくましく、美しい歯と整った顔だちをしており、はっきりとセム人型の傾向がある──わたしが言及しているのは純粋なアビシニア原住民のことである。  彼らは貴族《パトリシアン》──アリストクラシイ──であり、軍隊はほとんど彼らだけで統率されている。兵士のあいだでは、もっと唇が厚くて、横にひろがった低い鼻の、もっと低級な黒人が主体となっている。大佐が話してくれたのだが、この連中はアフリカの被征服族のなかから補充される。彼らはよい兵卒──勇敢で忠実である。彼らは読み書きができ、自信と誇りをもっているが、わたしがむかしのアフリカ探険家の話を読んだところでは、こうした資質は彼らのいちばん初めの頃の先祖には欠けていたのにちがいない。  概して、黒人種はそのむかし白人の支配下にあったときよりも、同色人の下にある過去二世紀のほうがはるかに栄えてきたことは明らかである。  わたしがその小さな辺境の駐屯地に捕虜になって一月《ひとつき》以上経った頃、一中隊だけを砦の守備に残して、指揮下の主力とともに東の国境に急行するようにとの命令がべリク大佐に届いた。わたしは身のまわりの召使として、気の荒いアビシニアの中馬に乗り大佐に同行した。  部隊は旧ドイツ帝国の中心部を抜けて十日間急行し、夜になると水辺で停止した。大佐の連隊がいままで宿営していたのと同じような小さな駐屯地を度々通り過ぎたが、いずれも一歩兵中隊か騎兵中隊が防備に残っているだけで、残りは北東、すなわちわれわれが移動しているのと同じ方角に撤退《てったい》したことがわかった。  むろん大佐は受けた命令の内容をわたしに打ちあけてはいなかった。しかし行動の迅速なことや、動員可能な軍隊がすべて北東へとせきたてられている事実から、ヨーロッパのその地域にあるメネレク十四世の領土にとってはきわめて重大な事態が迫っているのか、あるいは出来《しゅったい》したものとわたしは確信した。  白人の蛮族の単純な蜂起《ほうき》なら、やがて南からわれわれに合流してきたような大兵力の動員を要したとは思えない。騎兵や歩兵の大軍団があり、果てしなくつづく大砲輸送車や大砲があり、野営装備や弾薬や糧食を積んで覆いをし、馬に引かせた車輌は数知れなかった。  わたしはそこで生まれて初めてラクダを、つまり、ありとあらゆる種類の重荷をのせた大部隊のラクダを見たし、同じような務めを果たしている蜒々《えんえん》とつづく象を見た。それは驚異的な豪華|絢爛《けんらん》たる光景だった。というのは南から来た兵士や野獣は豊かな彩《いろどり》でけばけばしく着飾っており、わたしが見慣れていた灰色の制服を着た国境守備隊とはいちじるしい対照をなしていたからだ。  メネレク自身が出馬するという噂がとどき、そしてこの発表が軍隊をどれほど興奮の極に到達させたか、それはまるで奇蹟に等しかった──少なくともわたしのように白人で、数世紀のあいだ統治者は国民の意志によってわずか数年間職務に就《つ》くだけの平民にすぎない国の人間にとってはそうだった。  わたしはその状況を目撃すると、君主がみずから戦陣に立つことで麾下《きか》の軍隊の戦意を昂揚させるという効果について、つくづく考えずにはいられなかった。共和国と帝国の軍隊のあいだで、戦争におけるほかのすべての条件が同じであったら、帝国軍隊の側のヒステリーに近いほどのこの昂揚した精神状態は、大統領の兵士たちを圧倒するのではなかろうか? わたしにはわからない。  だがもしも、たまたま皇帝が来なかったら! そうしたらどうだろう? それもわからない。  十一日目に目的地に着いた──人口二万人ほどの、壁に囲まれた辺境都市。  われわれはいくつかの湖を過ぎ、いくつかの古い水路を越えてから城門にはいった。そのなかには木造建築のかたわらに、むかしの煉瓦や形よく刻まれた石造りの建物がたくさんあった。それらは、現在の街の敷地に建っていたむかしの都市の廃墟から持ってきた材料を使ったものだそうである。  その街の名はアビシニア語から翻訳するとニュー・ゴンダーという。それは旧ドイツ帝国のかつての首都、すなわちむかしのベルリンの廃墟の上にあるとわたしは思うが、新しい街に使われている古い建材のほかには往昔の都市の形跡はない。  われわれが到着した翌日、街は旗や吹き流しや豪華な敷物や幟《のぼり》で派手《はで》に飾りたてられた。噂が事実だとわかったからだ──皇帝が到着するのである。  べリク大佐はわたしに最大の自由を与えてくれ、二、三の務めをやり終えてからは好きなところへ行くことを許可してくれた。大佐の好意のおかげで、わたしはニュー・ゴンダーをぶらついたり、住民と話したり、この黒人都市を探索したりしてかなりの時間を過ごした。  わたしは将校の従卒であることを示す記章のついた準軍服を与えられていたので、黒人でさえまあ一目《いちもく》おいてくれた。とはいえ、彼らの態度から推して、実のところわたしは彼らの足下にある泥も同然であることはよくわかった。彼らは結構ていねいにわたしの質問に答えはしたが、わたしとおしゃべりを始めようとはしなかった。街のうわさ話をきいたのはほかの奴隷からである。  軍隊は西や南から陸続《りくぞく》と到着し、東へ向かって殺到して行った。  わたしは、街路の溝に埃を掃きこんでいる年とった奴隷に、兵隊たちがどこへ行くところなのかと質問した。奴隷はびっくりしてわたしを見た。 「そらあ、もちろん黄色人と戦うためさ」奴隷はいった。「黄色人は国境を越えてニュー・ゴンダーへと進軍中なんだ」 「どっちが勝つかね?」わたしはきいた。  奴隷は肩をすくめて、「わかるもんかい」といった。 「おれは黄色人が勝てばいいと思うが、メネレクは強い──メネレクを負かすには、たいした数の黄色人が必要だろうよ」  皇帝が市内にはいるのを眺めようと、群衆が沿道に集まっていた。わたしは人ごみが嫌いだがそのなかに位置を占めた。そうしてよかったと思っている。というのはほかのパン=アメリカ人なら見たこともないような、けばけばしい豪華な光景を目撃したのだから。  かつては歴史的な〈ウンター・デン・リンデン〉であったかもしれぬ広い目抜き通りを、美々《びび》しい行列がやって来た。先頭には赤いコートを着た軽騎兵連隊が騎乗していた──夜のように黒い巨人たち。ラクダに乗ったライフル兵連隊がいた。皇帝は巨大な象の背の金色の鞍かごに乗っていたが、その象は豪著《ごうしゃ》な掛け布にすっかり覆われ、燦然《さんぜん》たる宝石に飾られていたので目と足ぐらいしか見えなかった。  メネレクは中年を大分過ぎて、いささか目鼻立ちのたるんだ男だったが──彼の自称する〈予言者〉から皇統連綿たる者にふさわしい威厳のある態度でふるまっていた。  その目は輝いていたが狡猾であり、顔つきは好色と残忍の両方を表わしていた。若い頃はむしろ顔だちのよい黒人であったろうが、わたしが見たときには虫の好かぬご面相《めんそう》だった──少なくともわたしにとっては。  皇帝のあとからは軍隊のさまざまな部門の連隊がつづき、そのなかには象に乗った野砲の砲兵中隊もいた。  皇帝の象につづく軍隊の中央には、奴隷の大集団も行進して来た。わたしのすぐそばにいた街路掃除夫の老人は、その奴隷たちが、国境駐屯地の司令官たちによって辺鄙《へんぴ》な地区から連れて来られた贈物であると話してくれた。奴隷の大多数は女性であり、皇帝とその寵臣たちのハーレムに行く運命だそうだ。  それらの哀れな白人女性がいまわしい運命へ向かって通過して行くのを見ると、老いた白人は拳《こぶし》を握りしめた。わたしも情においては彼と同じだったが、女性たちの運命を変えることでは彼同様に無力だった。  一週間というもの軍隊はニュー・ゴンダーに出たり、はいったりしつづけた──はいるのは常に南と西からで、いつも東へとむかった。新来の部隊はそれぞれ皇帝に贈物を持って来た。南からは敷物や飾りや宝石を、西からは奴隷を。西部の国境駐屯地の司令官はほかに何も持って来るものがなかったからだ。  司令官たちが連れて来た女性の数から、彼らは皇帝の弱味を知っているものとわたしは判断した。  その後兵士が東からはいって来るようになったが、その兵士たちには、南や西からやって来る兵士の陽気な自信はなかった──それどころか、この兵士たちは有蓋《ゆうがい》の車に乗り、血まみれで、苦悶しながらはいって来た。  最初は八人か十人の小さな集団で、それから五十人とか百人単位で、そしてある日には一千人の傷ついて瀕死の兵士が車でニュー・ゴンダーに運ばれて来た。  メネレク十四世がおちつきを失い出したのはその頃だった。  五十年のあいだ皇帝の陸軍は向かうところ敵なしだった。当初はみずから出馬していたが、あとになると大会戦には、戦場から百五十キロ以内のところへ顔出しするだけで充分だった──下級の兵士たちには、陛下の栄光のために戦っているという知識だけが、勝利を得るのに必要だったのだ。  ある朝のことニュー・ゴンダーは大砲の轟《とどろ》きによって夢を破られた。それは、敵が帝国軍をその都市へと押しもどしつつあることを市民が知らされた最初であった。  埃まみれの伝令たちが前線から馬を駆ってはいって来た。新手《あらて》の軍隊が街から急遽《きゅうきょ》出動し、昼頃にはメネレクが幕僚《ばくりょう》に囲まれて馬で出て行った。  それから三日のあいだ砲声や小火器のぱちぱちいう音が聞こえた。戦線がニュー・ゴンダーから十キロと離れていなかったからだ。街は負傷者でいっぱいだった。市のすぐ外側では兵士たちが土塁を積む仕事に従事していた。  メネレクがこれまで以上の敗北を予想していることは誰の目にもあきらかだった。  やがて皇帝軍はそれらの新しい防御施設まで後退してきた。というよりは敵に遮二《しゃに》|無二《むに》後退させられたのだ。砲弾が市内に落ち始めた。メネレクはもどって来て、宮殿と呼ばれる石造の建物に司令部を設けた。  その夜、交戦が小休止した──休戦が取り決められていたのだ。  べリク大佐は、宮殿で催される宴会用の正装を着用するために七時頃わたしを呼んだ。死と敗北のさなかに、皇帝は幕僚たちに大晩餐会を催そうとしていた。  わたしは主人に同伴して給仕することになっていた──このパン=アメリカ海軍大尉、ジェファースン・タークが!  大佐の宿所という人目につかぬところではわたしも召使の仕事に慣れてしまっていたし、その仕事は大佐の自然の思いやりで軽減されてもいたが、普通の奴隷として公衆の面前に出ることを思うと、わたしの身内の微細な本能がことごとく反逆するのだった。それでも従うよりほかはない。  その夜、鞠躬如《きっきゅうじょ》として黒人の主人のうしろに立ち、ワインを注ぐやら、肉を切るやら、長い羽毛飾りのある羽根のうちわであおぐやらして経験した屈辱はいまだに話す気になれないほどだ。  わたしは大佐を好きになってはいたが、それでも彼を短刀で刺し殺してやりたいほど、わが身に加えられた侮辱を痛感していた。  だがようやく長い晩餐が終わった。食卓が片づけられた。皇帝は部屋の端にある壇に上がって玉座につき余興が始まった。それはまさに、むかしの歴史でしか予想できないようなもの──楽士や踊り子や手品師等であった。  深夜近くになって司会者はこう発表した。陛下がニュー・ゴンダーにご到着以来、陛下に献上された奴隷女が披露されます。宴の主役《あるじ》の陛下はお望みの者をお選びのあと、残りの奴隷を列席の客人に進呈なされます。ああ、なんと寛大なご仁慈であらせられることか!  部屋の片側にある小さなドアが開き、哀れな女たちがぞくぞくとくりこんで来て、玉座の前に長い列を作って並べられた。女たちの背中がこちらを向いていた。時折、女のなかでも大胆な者がふり向いて、その部屋や、華やかな正装を着用に及んだ幕僚たちの豪華な集まりを眺めるときに、偶然その横顔が見えるだけだった。それらは若い娘たちの横顔で可愛かったが、いずれの顔にもぬぐいようのない恐怖がしるされていた。  わたしは女たちの悲しい運命を考えると身震いが出て目をそらした。  司会者が娘たちに皇帝の御前《ごぜん》にひれ伏すように命ずる声と、娘たちが皇帝の前に跪《ひぎまず》いて額を床につける音が聞こえた。それからまた司会者の声がした。鋭い断固とした命令である。 「頭をさげろ、奴隷め! 陛下にご挨拶申しあげろ!」  男の口調にひかれて顔をあげると、ただ一人、ほっそりとした姿が平伏した娘の列のまん中にすっくと立ち、腕組みをしたまま顎をつき出しているのが見えた。娘の背がわたしのほうを向いていた──脅えた羊の群れのなかでそこに昂然《こうぜん》と立っている野性的な若い雌ライオンの顔が見たかったが、その顔は見えなかった。 「下げろ! 下げろ!」  司会者は娘のほうへ一歩踏み出して長剣を抜きかけた。  わたしは血が煮えくりかえった。黒人がわたしと同族のその勇敢な娘を殺そうとしているのに、手をつかねてここに立っていなければならないとは!   わたしは本能的に司会者の行く手をはばもうと前に一歩出た。だがそれと同時にメネレクが、その将校を押しとどめるふうに片手をあげた。皇帝は興味を持ったらしく、娘の態度には決して腹を立てていなかった。 [#(img/159.jpg)入る] 「尋ねようではないか」と穏やかな、機嫌のよい声でいった。「この若い娘が君主に敬意を表するのを拒む理由をな」  そして自ら娘にじかに質問をした。  娘はアビシニア語で皇帝に答えたが、それはたどたどしく、娘がほんの最近アビシニア語のわずかな知識を得たことをおのずと示す訛《なまり》があった。 「だれにも わたくし、ひざまずかない」と娘はいった。「わたくしに くんしゅ いない。このわたくし わたくしのくにのくんしゅ」  メネレクは娘の言葉を聞くと玉座にそりかえって、けたたましく笑い声をあげた。皇帝にならって──それが常にまちがいのない行動であるらしく──集まった客たちは皇帝以上にやかましく笑おうと互いに競い合った。  娘はさらに少し顎を突き出しただけだった──その背中さえもが彼女を捕えた者たちへの徹底的な軽蔑を公然と示していた。  最後にメネレクは顔をしかめるという簡単な方法でまた座を静め、その結果、皇帝の客たちは一人残らず陽気な態度を捨て競って渋面を作った。 「で、おまえは何者で、おまえの国はなんと呼ばれておるのか?」メネレクがきいた。 「わたくし ヴィクトリー、グラブリティンの女王」  娘が早口に、そしてあまりにも意表を突く答えをしたので、わたしは仰天して息をのんだ。 [#改ページ]      9  ヴィクトリー!  ヴィクトリーが、これらの黒人征服者たちの奴隷となってここに来ていたのだ。  わたしはふたたび彼女のほうへ行きかけたが、思いなおして踏みとどまった──こっそりとやる以外にはヴィクトリーを助けるために何もできない。こっそりやってさえ何か成し遂げられるだろうか? それはわからなかった。不可能であるように思われるがやって見るしかない。 「それでおまえは余に服従しないのだな?」ヴィクトリーがしゃべりおえると、メネレクはそう言葉をつづけた。  ヴィクトリーは断固と否定して頭を横に振った。 「それではおまえを第一に選ぼう」皇帝がいった。「その勇気が気にいった。それをくじくことで、おまえに対する楽しみが大きくなるからな。まちがいなくそれをくじいてやるぞ──ほかならぬ今夜にだ。この女を余の部屋へ連れて行け」  そして皇帝はかたわらの将校に身ぶりで合図した。  ヴィクトリーが一見おとなしく従ってその男のあとから出て行くのを見てわたしは驚いた。  わたしはヴィクトリーと口をきいたり、脱走を助けられる機会にそなえて近くにいられるように、あとについて行った。しかし玉座の間からほかのいくつかの部屋を通り抜け、長い廊下を通って尾行したあげく、それ以上進むのを兵士にさえぎられてしまった。例の将校がヴィクトリーを連行して行った戸口の前の衛兵である。  将校はほとんどすぐにまた姿を現わし、玉座の間《ま》のほうへもどり始めた。わたしは衛兵に追い返されたあとで彼が背を向けたあいだに、とある戸口に隠れていたのだが、将校が近づいて来るとその奥のまっくらな部屋へと身をひそめた。長いあいだそのままそこにいて、ヴィクトリーがなかに捕われている部屋のドアの前の衛兵を見守り、ヴィクトリーのもとへもぐりこめそうな好機の到来を待ちかまえた。  わたしはヴィクトリーを見て彼女だとわかったときの感激を充分に表現しようとしなかったが、これはどうにも筆舌に尽くしがたいからだ。わたしは数週間ものあいだヴィクトリーは死んだのか、それとも遙か西のほうにいて、実際はわたしにとって死んだも同然の取り返しのつかないことになってしまったものと考えていたのだ。ところが自分がいるその同じ部屋のなかにはからずも彼女を見つけたわけで、人間の姿を見てあれほど心を動かされることがあるとは思ってみたこともなかった。  わたしの身内にあるのは、ただヴィクトリーの近くに行きたいという、奇妙な気違いじみた衝動《しょうどう》だけだった。ヴィクトリーの手助けをするとか守るとかだけでは充分ではなく──彼女に触《ふ》れたい──抱きしめたいと思ったのだ。  わたしはそんな自分に呆れてしまった。  もう一つとまどったことがあった──それはふたたびヴィクトリーに会って以来自分が意気|軒昂《けんこう》となったことだった。死よりもひどい運命がヴィクトリーの目前に迫り、そしてわたしも一時間と経たぬうちに、たぶん彼女を守りながら死ぬとわかっていながら、それでも過去数週間よりは幸福だった──それもこれも、ほんの短時間、未開人の小娘の姿をふたたび見たせいだった。  そのわけがさっぱりわからず、わからないことで腹が立った。女性を前にしてそんな気持を味わったことはなく、しかも若い頃は何人かのすばらしい美人に恋もしているのだが。  メネレク十四世の宮廷の照明の暗い廊下にある、その戸口の蔭に立っているのは途方もなく長い時間に思われた。陰気くさいガス灯の炎が、衛兵の黒い顔にくすんだ青白い色を投げかけていた。やつはその場に根が生えたようだった。決してそこを離れることも、また背を向けることもなさそうだった。  わたしが身を隠してほんの少し経《た》ったとき、遠くで大砲の音がした。休戦が終わり、戦闘が再開されたのだ。そのすぐあとに市内で砲弾が破裂する音につれて大地が揺れ、それからは時折宮殿からさほど遠からぬところで引きつづき砲弾が炸裂した。  黄色人がふたたびニュー・ゴンダーを砲撃しているのだ。  やがて幕僚や奴隷が各人の任務に関する用件で廊下を通り始め、やがて皇帝が渋い顔で激怒しながらやって来た。皇帝は二、三の側近《そっきん》を従えていたが、部屋の戸ロ──ヴィクトリーが連れこまれたのと同じ戸口で彼らを退《さが》らせた。  わたしは皇帝のあとを追いたくてじりじりしたが、廊下は人でいっぱいだった。そのうちにみんなは、廊下の両側にある各自の部屋に引きとった。  一人の幕僚と奴隷とが、わたしの隠れていたまさにその部屋にはいって来た。やむを得ずわたしは二人が通り過ぎるまで片側の暗がりに貼《は》りついていた。それから奴隷が灯をともしたので、わたしは別の隠れ場所を見つける必要に迫られた。  大胆に廊下へ出ると、そこには皇帝のドアの前のただ一人の衛兵以外には誰もいないことがわかった。居住者たちから見とがめられずにわたしが姿を現わすと、衛兵はちらっと目を上げた。  わたしは即座に腹を決めてまっすぐ衛兵のほうへ歩いて行った。ぺこぺこと卑屈な表情をよそおうように努めたが、それがうまくいったのにちがいない。というのは衛兵がすっかり警戒心をといた結果、わたしは阻止される前に彼のライフルに手が届くところまで近づいてしまったのだ。そうなると──衛兵にとっては──手遅れだった。  わたしは一言も発せず、それを悟らせることもなく、やにわに衛兵のつかんだ手から銃をひったくり、と同時に鉄拳でやつの眉間《みけん》に痛烈な一撃を与えた。衛兵は仰天したあまり大声をあげることさえできず、不意を突かれてうしろへよろめいた。間髪《かんぱつ》を入れずわたしはライフルを逆手に持って、強烈な止《とど》めの一撃をくらわした。  時を移さずに室内へとびこんだ。からっぽだった!  わたしは失望のあまり逆上してあたりをねめまわした。この部屋からほかの部屋へ行く二つのドアがついていた。わたしは近いほうのドアへとんで行って耳を澄ませた。いかにも奥から人声がしていた。その一方は軽蔑《けいべつ》しきった冷静な女の声だった。恐怖は含まれていない。  ヴィクトリーの声だ。  ノブをまわし、ドアを内側へと押した。すると、まさにメネレクが娘をつかんで、部屋の向こうの端へと引きずって行くところだった。  と、その同じ瞬間に耳を聾《ろう》するばかりの轟音《ごうおん》が宮殿のすぐ外でした──砲弾がいままでよりもずっと近くに命中したのだ。その騒音は、わたしが勢いよく部屋を横切って突進する音を消してくれた。  しかしヴィクトリーがもがきながらメネレクを泳がせたので、彼の目にわたしが映った。ヴィクトリーは拳《こぶし》でメネレクの顔を打っており、メネレクはいまや彼女の首をしめかけていた。  メネレクはわたしを見るなり憤怒《ふんぬ》の蛮声《ばんせい》をあげた。 「何をしておるのだ、奴隷め? ここを出て行け? ここを出て行くんだ! 急げ、殺されんうちに!」  だがわたしは返事の代わりにやつにおどりかかり、ライフルの台じりで殴った。メネレクはヴィクトリーを床に落としてうしろへよろめき、それから衛兵を大声で呼びながらわたしにむかって来た。わたしはこれでもか、これでもかと殴りつけた。だがやつのごつい頭蓋骨は、わたしがさんざん傷めつけたにもかかわらず、装甲板みたいに堅かった。  メネレクはライフルをつかみながらわたしと組み打ちをしようとしたが、わたしのほうが力があり、やつのつかんだ手から武器をもぎとるとわきへ投げて素手《すで》で彼の喉《のど》をつかもうとした。  思い切ってライフルを発砲することはできなかった。銃声が、廊下のもっと奥に配置されている多数の衛兵を呼ぶことになるのが心配だったのだ。  二人はもみ合って部屋をまわり、殴り合ったり、家具を倒したり、床をころがったりした。メネレクは力の強い男で、しかも命がけで戦っていた。やつは絶え間なく衛兵を呼びつづけ、やがてとうとうわたしはメネレクの喉をつかむのに成功したが、そのときは遅すぎた。  メネレクの叫び声を聞いて、ドアが開くや、二十人ほどの武装衛兵が部屋になだれこんで来たのだ。  ヴィクトリーが床からライフルをつかんでわたしと衛兵たちのあいだに割ってはいった。わたしは黒人の皇帝をねじ伏せて、両手で喉をつかみ、息の根をとめかけていた。  そのあとのことはあっという間に起こった。頭上で裂けるような衝突音がしたかと思うと室内で耳をつんざく爆発音が起こった。煙と火薬の匂いが部屋に充満した。わたしがなかば呆然として、生命のなくなった敵のからだから起きあがると、ちょうどヴィクトリーがふらふらと立ち上がってこちらを向いたところだった。  しだいに煙が薄れると、衛兵たちのばらばらになった遺体が現われた。砲弾が宮殿の屋根を貫通し、皇帝の救援に来た衛兵隊の真うしろで炸裂《さくれつ》したのだ。  ヴィクトリーにもわたしにもあたらなかった理由は奇蹟としかいいようがない。室内はめちゃめちゃだった。天井には大きなぎざぎざの穴があき、廊下のほうの壁はすっかり吹きとばされていた。  わたしが立ち上がったときにはヴィクトリーも立ち上がっていて、こっちへ来かけた。だがわたしが負傷していないのを見ると立ちどまり、破壊された部屋のまんなかに立ってわたしを見ていた。  その表情は不可解だった──わたしを見てよろこんでいるのかどうか見当がつかない。 「ヴィクトリー!」わたしは叫んだ。「無事でよかった!」  そしてコールドウォーター号が三十度線を越境したにちがいないとわかったとき以来絶えてなかったほど嬉しさがこみあげてヴィクトリーに近づいた。  彼女の目にはそれに応《こた》えるような歓喜の色が見えなかった。その代わりに、ヴィクトリーは腹立たしげに小さな足を踏みならした。 「どうしてよりによって、あなたに助けてもらうことになったのかしら!」と大声でいった。「あなたは嫌いです!」 「わたしが嫌いだって? どうして嫌われなくてはならないんだ、ヴィクトリー? ぼくはきみを嫌いではない。ぼくは──ぼくは──」  何をいおうとしたのだろう?  ヴィクトリーのすぐそばまで行ったとき、突然大きな光明がさした。  どうしていままで気づかなかったのか?  初めてヴィクトリーに会って以来ときどき襲われたこれまでは説明のつかなかった気分も、この事実で納得《なっとく》がいった。 「どうして嫌われなくてはですって?」ヴィクトリーがおうむ返しにいった。「スナイダーが教えてくれたからです──わたくしをあの人にやると約束なさったそうですが、でもあの人のものにはなりませんでしたわ。スナイダーを殺したんです。あなただって殺してやりたい!」 「スナイダーは嘘をついたんだ!」わたしは叫んだ。  それからヴィクトリーをつかまえて抱きしめ、わたしのいうことに耳を貸すようにさせた。とはいえ彼女はもがき、若い雌ライオンのように争ったのである。 「きみを愛しているんだ、ヴィクトリー。いま愛しているし──いままでもずっと愛していたし、それにぼくにはそんな卑劣な約束など絶対にできっこないことを是非ともわかってもらわなくてはならん」  ヴィクトリーはもがくのをほんの少しやめたが、まだわたしを押しのけようとしていた。 「わたくしを野蛮人と呼んだではありませんか!」  ああ、そういうわけだったのか! あれがまだわだかまりを作っていたのだ。  わたしはヴィクトリーを抱きしめた。 「野蛮人を愛することはできないでしょう」彼女は言葉をつづけたが、もがくのはやめていた。 「ところがぼくは野蛮人を愛しているんだよ、ヴィクトリー! 世界一かわいい野蛮人をね」  ヴィクトリーはわたしの目を見上げた。それからなめらかな褐色の腕がわたしの首にまきついて、わたしの唇を彼女のそれへと引き寄せた。 「あなたが好き──ずっと好きだったの!」  ヴィクトリーはそういうとわたしの肩に顔を埋めてしゃくりあげた。 「いままではほんとうに悲しかったわ。でもあなたが生きているかもしれないと思うと、とても死ねなかったの」 [#(img/169.jpg)入る]  しばしのあいだ、二人は見つけたばかりの幸福以外は何もかも忘却してそこに立ちつくしていた。しかし、砲撃の激しさは増すばかりで、やがて宮殿の周辺に雨あられと降る砲弾は、三十秒と間《ま》をおかないようになった。  長くそのままそこにいればまちがいなく死を招くことになる。その部屋にはいって来たときの道を逃げるわけにはいかなかった。廊下がもう破片で埋まってしまったばかりでなく、廊下のむこうには、われわれを阻止する廷臣《ていしん》たちがまちがいなく大勢いるからだった。  部屋の反対側にもう一つドアがある。そこへわたしは先に立って行った。そのドアは、また別の部屋へ通じ窓が中庭に面している。その窓の一つからわたしは中庭を検分した。  一見したところ人はいなかったし、向かい側の部屋には灯がついていなかった。  ヴィクトリーが戸外へ出るのを助けてからわたしもあとにつづき、一緒に中庭を横切ると、向かい側にたくさんの幅の広い木のドアが壁についており、ドアとドアのあいだに小さな窓があるのを発見した。ドアの一つのすぐ前に立って耳をすますと、なかで馬がいなないた。 「馬小屋だ!」  わたしはそう耳打ちして、すぐにドアを押してなかにはいった。  周囲の市街からすさまじい騒音が聞こえ、戦闘の物音も間近に迫っていた──おびただしいライフルの射撃音、兵士たちの喚声、将校たちが叱咤するしわがれ声、そしてラッパの響。  砲撃は始まったときと同じように忽然《こつぜん》とやんだ。敵が街を|強 襲《きょうしゅう》して来たのだとわたしは判断した。というのは聞こえてきた物音が、白兵戦のそれであったから。  わたしは馬小屋のなかを手探りし、やがて馬二頭分の鞍《くら》と馬勒《ばろく》を発見した。だがその後、暗闇のなかにはたった一頭の乗馬しか見つからなかった。  反対側の、街路に通ずるドアは開いていて、男や女や子供の大群衆が西のほうへと逃げて行くのが見えた。徒歩の兵士や、馬に乗った兵士も、この気違いじみた都落ちに加わるようになっていた。時折、ラクダや象が、将校とか高官を避難先へと乗せて通った。市が今にも陥落《かんらく》しそうであることは明白だった──それは不安で夢中になっている暴徒の群れの、恐怖に襲われたあわてふためき方に充分、表われていた。  馬やラクダや象が無力な女子供を踏みつけて行った。ある兵卒は将校を馬から引きずり下ろし、馬の背にとび乗って西のほうへと、人で埋まった街路を疾走して行った。ある女は銃をつかんで宮廷の高官の頭を殴った。高官の馬が女の子供を踏み殺したのだ。悲鳴や悪態《あくたい》や命令や哀願が渦を巻いていた。  それは身の毛もよだつ光景──永遠にわたしの記憶に焼きつけられた光景だった。  逃亡する廷臣たちに見落とされたらしいたった一頭の馬にわたしは鞍を置き、馬勒をつけてから、馬小屋のなかの暗がりに少しさがって立ったまま、外を殺倒して行く群衆をヴィクトリーと見ていた。  群衆のなかにはいって行ったら、二人がそのときすでに陥っていた以上の危険をみずから招いていたことだろう。われわれは黒人の雑踏《ざっとう》が薄れるまで待つことにし、一時間以上もそこに立っていたが、その間《かん》に戦闘が市の東側で熾烈《しれつ》となり、住民は西をさして逃げて行った。あわてふためいて逃げて行く集団のなかに軍服の兵士がますますおびただしくなり、やがて終わり頃には街路が兵士たちでぎっしりとなった。  それは規律正しい撤退《てったい》などというものではなく、まったくの算《さん》を乱した敗走だった。  戦闘は刻々とこちらに近づきつつあり、とうとうライフルの音がまさに二人が見ている大通りで鳴り響いた。それから少数の勇士たちが退却して来た──彼らは少数の後衛で、しだいに西に後退し、煙をたてているライフルを躍起《やっき》になって操作しながら、われわれには見えない敵に、一斉射撃を加えているところだった。  しかしそれらの勇士はますます退却させられたあげく、敵の最前線が二人の隠れ場のむこう側まで来てしまった。  敵は、中背でオリーブ色の顔と、扁桃《アーモンド》状の目を持った男たちだった。わたしはむかしの中国民族の後裔《こうえい》だと見わけた。彼らは上等の軍服を着て上等な武器を持ち、非のうちどころのない規律のもとで勇敢に戦った。  わたしは街路で起きている刺激的な出来事に心を奪われていたあまり、背後から一団の男が近づいて来たのに気づかなかった。宮殿にはいってそこを捜索中の征服者の一隊だった。何が起きたか気づく前に捕虜になっていたほど不意に襲われたのだ。その夜は市の東の城壁のすぐ外で、逃げないように厳重に見張られ、そして翌朝は、東へ向かう長い行進を開始した。  われわれを捕えた連中は思いやりがなかったわけではなく、しかも捕虜の女たちは別扱いだった。われわれは、何日も行進し──日数が多過ぎて数えそこなったくらいだ──ようやく、むかしのモスクワの所在地にある別の都市──今は中国の都市──にやって来た。  そこは辺境の小都市にすぎないが、巧みに作られ、巧みに維持されている。ここには大軍が配置され、また現代の中国を太平洋まで横断する鉄道の終点もここにある。  市内で目にしたものすべてに高い文明の証拠がそろっており、そのことが、あの長たらしく、うんざりする行進中に捕虜全員に許された人情味のある扱いとも関連してわたしを力づけ、わたしの階級や家柄に値する待遇を当地の高官に懇請《こんせい》できるとよいがと思うようになった。  われわれを捕えた連中とは、中国語とアビシニア語の両方を話す通訳をあいだにいれなくては会話ができなかった。だがそうした通訳は大勢いて、わたしはその都市に着いてからまもなくそのうちの一人を説き伏せ、ニュー・ゴンダーから凱旋《がいせん》の途上、その軍勢の指揮をとっていた将校のもとに口頭の伝言を届けさせた。  誰か高官に自分の話を聞いてもらいたいという内容である。  わたしの要請に対する回答は、伝言を伝えさせた当の将校のもとへ出頭せよとの召喚状だった。軍曹が通訳といっしょに迎えに来てくれた。わたしは首尾よくヴィクトリーも同行させる許しを得ることができた──捕われて以来、彼女を一人だけ捕虜たちといっしょに置いて行くことは絶対になかったのだ。  嬉しいことに、われわれがその面前に案内された将校はアビシニア語を|流 暢《りゅうちょう》に話すことがわかった。パン=アメリカ人であることをその将校に告げると、彼はびっくり仰天した。わたしがヨーロッパに到着して以来口をきいたほかの人間とは違い、その将校は過去の歴史に精通していた──二十世紀のアメリカの状況をよく知っており、いくつかの質問をしたあとで、わたしが事実を話していることを納得した。  ヴィクトリーがイングランドの女王だと将校に話しても将校はさほど驚きを見せず、自分たちはむかしのロシアを最近探険したところ、むかしの貴族や皇室の子孫を大勢見つけたとわたしに話した。  将校はすぐさまわれわれ二人のために住み心地のよい家をしつらえ、召使と金をあてがい、その他の点でも万全の配慮と好意を示してくれた。  ただちに皇帝に電報を打つと将校はわたしに話してくれたが、その結果は、北京へ行って支配者の前に出頭するようにとまもなく命ぜられることになった。  われわれは、一国を貫通している快適な鉄道で旅をしたが、東へ進むにつれてその国はますます繁栄と富の形跡を示すようになった。  宮殿ではたいへん好意をもって迎えられ、皇帝は現代のパン=アメリカの状態について絶大な興味を寄せた。皇帝の話では、個人的には、東西のあいだに障壁を設けた厳しい規律の存在を遺憾《いかん》に思うが、それにしても先皇たちと同様に、大パン=アメリカ連邦の願望をそのまま認めることが、とりもなおさず世界平和の維持にこの上なく貢献すると思っていたとのことだった。  皇帝の帝国はアジア全体と、東は西経百七十五度までの太平洋の諸島を含んでいる。大日本帝国は百年以上前に中国に征服、併合されたので、もはや存在していない。フィリピン諸島は上手に管理され、中国帝国のもっとも進歩的な植民地の一つを構成している。  この大帝国を建設し、版図《はんと》のさまざまな未開民族のあいだに文明を普及するためには、二百年近くのあいだ最善の努力を傾注することが必要だったと皇帝はわたしに話した。皇帝は即位したときに、その仕事が完成したも同然であることを知り、関心をヨーロッパの教化へと向けたのだった。  皇帝の抱負は黒人の手からヨーロッパを奪回すること、それから〈大戦〉がそこの諸民族を一挙に転落させる前の高い地位へと、彼らを引き上げる仕事をこころみることであった。  その〈大戦〉では誰が勝利を収めたのかと皇帝にたずねると、彼は悲しげに頭を振ってこう答えた。 「おそらくパン=アメリカと中国、それにアビシニアの黒人だろう。戦わなかった民族だけが、勝利者に属するはずの報酬を残らず獲得した。参戦国は全滅の憂《う》き目をみただけだった。あの恐るべき戦争のかかりあいになった国に勝利はなかった。その点は、きみがその目で見て来て、誰よりもよく認識しているはずだ」 「戦争はいつ終わったのですか?」わたしは質問した。  皇帝はまたかぶりを振った。 「まだ終わってはおらぬ。ヨーロッパでは一度も正式に平和宣言がなされていない。しばらくのあいだは講和を結ぶ者が誰も生き残っておらなかった。そして生存者から生じた蛮族が、互いに争いつづけた。それ以上の社会状態を彼らは知らなかったからだ。戦争は人間の業績を破壊した──戦争と悪疫が人間を消してしまった。あのような戦争はもう二度と起こしてはならんのだ!」  ポーフィリオ・ジョンスンが、ジョン・アルヴァレスを拘禁《こうきん》してパン=アメリカに帰国したいきさつは、諸君がご存知のとおりだ。そしてアルヴァレス裁判が、政府といえども無視できぬ大衆運動をひき起こした模様も。  アルヴァレスの雄弁な訴え──彼自身ばかりではなくわたしをも弁護する内容──は歴史的であり、その結果もまた同様に歴史的である。わたしの捜索のために一艦隊が派遣されて大西洋を越え、三十度から百七十五度までを越えてはならないという制限が永久に撤廃され、艦隊の将校たちが北京まで案内されてヴィクトリーとわたしが宮殿で結婚したその当日に到着したという経緯も、これまたご存知のとおりだ。  わたしのパン=アメリカへの帰還は、一年前にいかに想像をたくましくしたとしても、その想像とはおよそかけ離れたものだった。母国への反逆者として受け入れられる代わりに、英雄として歓呼のうちに迎えられたのだ。  自分がまた帰国できたこと、わがいとしいヴィクトリーに与えられる好意的な取り扱いを見ることは嬉しかった。そしてデルカートとテイラーがライン河の河 口で発見され、すでにパン=アメリカにもどっていることを知ったとき、わたしのよろこびは完璧なものになった。  そしていまわれわれ、すなわちヴィクトリーとわたしは、兵士と軍需品と武力をもって、イングランドをその女王のもとにとりもどすためにもどって行こうとしている。  ふたたび三十度線を越えるわけだが、諸般の事情はなんと変わったことか!  東には進歩した中国、そして西には進歩したパン=アメリカ──懲罰を受け、そして許された、ヨーロッパを再建するために神が保持したもうた平和の二大勢力をひかえてヨーロッパの新時代が開幕するのだ。  わたしは経験を積み──辛酸《しんさん》を嘗《な》めた──が、三十度の彼方で二つの大きな栄冠を勝ちとった。  一つはヨーロッパを未開状態から救済する機会であり、もう一つは一人の可愛い野蛮人である。二つのうちでいっそうすばらしいほうといえば──むろんヴィクトリーだ。 [#改ページ] [#改ページ]     天下の奇書 [#地付き]訳 者    近き将来、地球上に君臨してきた|人  類《ホモ・サピエンス》が突如として絶滅の危機に瀕するという悲観的な予測は現代SFが好んでとりあげる主題の一つで〈人類破滅テーマ〉と呼ばれている。破滅の原因となるものはさまざまで、その例を本文庫に求めれば、天変地異や公害によるもの(J・G・バラード 沈んだ世界)、細菌や動植物の繁殖によるもの(ウィンダム トリフィド時代)、他の惑星からの侵略によるもの(ウェルズ 宇宙戦争)など、多種多様で材料にはこと欠かない。しかしその中でも特に現代人の関心をひくのは、世界戦争=原水爆戦争による人類の自滅という予想であろう。その悲惨な状況を冷厳に描いたSFとしてはネビル・シュートの〈渚にて〉がある。  本書は宇宙活劇《スベース・オペラ》風の設定を得意とするパローズにしては異色のSFで、あえて分類するならば、この〈人類破滅テーマ〉といえるものである。執筆されたのは一九一五年の七月から八月へかけて、そして発表されたのは翌一六年二月の〈オール・アラウンド・マガジン〉で、半世紀前というこの執筆年代を考慮に入れるならば、作者が描く紀元二一三七年の世界は、現代の世界の大勢を驚くほど適確に予言したものといわなくてはならない。  作者の洞察力の驚嘆すべき点はいくつかあるが、その一つは戦火による二十二世紀のヨーロッパの没落とアメリカによる救済という基本テーマである。現実にも、第二次大戦終結直後のアジアとヨーロッパが荒廃した国土と深刻な食糧難に見舞われ、勝者も敗者も等しく悲惨な状態にあったことはわれわれの記憶に新しい。そこへ世界の救世主としてさっそうと登場したのがアメリカであり、キリスト教的善意とドルの威力にものをいわせてマーシャル・プランを軸とする数々の救済活動を精力的に展開し、戦後世界の復興を推進したことはまぎれもない史実である。  その二は一九七一年(奇しくも本訳書刊行の年に当たるが)から始まる米中二大国による世界の分割というアイディアである。今年念願の国連入りを果した中国は米ソ二大国に桔抗《きっこう》する核所有の大国として世界政治の桧舞台に登場したわけで、まさしく十六世紀フランスの天才的な予言者ノストラダムスも顔負けの暗合といわなくてはならない。  そしてその三はヨーロッパ大陸でこの中国勢と覇《は》を争うアビシニアの黒人帝国の勃興という設定である(アビシニア、公式名称はエチオピア、実在のメネレク二世は一九一三年に死亡している)。  結局、パローズが描く二十二世紀の世界は、アメリカを中心とする白人国家(南北アメリカ大陸)、中国を中心とする黄色人国家(西ロシア、朝鮮、日本、フイリッピン)、エチオピアを中心とする黒人国家(アフリカ全土、ヨーロッパ大陸、東ロシア、トルコ、アラビア)に三分割されているわけで、二百年後の世界を予測する場合、すこぶる示唆に富む仮定であることは多言を要しない。  SFはかならずしも作者が予言警世の書として書くわけではないが、それにしても本書に盛られた予測のいくつかには、何やら背筋の寒くなるような無気味な印象をあたえるものがある。例えば検定教科書によって過去の歴史をいっさい暗黒の中に閉ざして国民に知らしめないパン=アメリカの国家権力が本書で言及されているが、これなどは四十年後にジョージ・オーウェルが、〈一九八四年〉の中で、よりシーリアスな形で追求したテーマである。  しかし、こうした観点を離れれば、本書はやはりバローズ一流の痛快な冒険小説であることに変わりはない。大日本帝国があっさり中国に併呑されてしまうのは、訳者としてはちと承服しがたいところだが、その一点を除けば、七つの海を支配したビクトリア女王の末裔《まつえい》であるやんごとないお姫さまが、丸裸で、しかもバッキンガム宮殿の中をライオンに追われて逃げ回るところなどは、なんとも愉快な話ではある。もっとも、誇り高きイギリス人の目から見れば、こんな不愉快なストーリーもないだろう。本書が四十年ものあいだ単行本として出版されず、作者の死後一九五七年になって初めて刊行されたという珍しいいきさつには何かこの辺の事情が影響しているのかもしれない。それにしても本書はノストラダムス張りの予言書として、未来戦争もののSFという枠を越えた天下の奇書と称讃してよかろう。 [#地付き]一九七一年十一月  [#改ページ] ■■■■ 作 者 紹 介 ■■■■■■■■■■■ E・R・バローズは、一八七五年シカゴで生まれた。さまざまな職業を転々としたあげく、三十五歳の時、小説に手を染め、やがて一九二一年〈オール・ストーリー〉誌二月号から「火星の月の下で」の連載を開始した。これがのちに「火星のプリンセス」と改題され、今日に至る歴史的な〈火星シリーズ〉の第一作である。以後〈火星シリーズ〉の連作を発表し、後年、全十一巻にまとめられた。地球と火星を舞台とした雄大なスケールと冒険小説のスリルを兼ねたこのシリーズは、スペース・オペラ(宇宙活劇)の端緒を開くとともに、その典型を確立した作品としてSF全盛期に多くの模倣者を輩出した。彼はまた〈火星シリーズ〉と平行して、〈ターザン・シリーズ〉全二十六巻を書き、さらに、〈金星シリーズ〉全五巻、〈ペルシダー・シリーズ〉全七巻など、全部で六〇冊以上の長短編を執筆し、SF、ミステリ、さらにウエスタンものなど娯楽文学の領域において、広範かつ熱狂的な読者を持つアメリカ一の人気作家となった。また第一次大戦に陸軍少佐として応召し、簡二次大戦には特派員としてマリアナ作戦に参加、一九五〇年、七十五歳で没した。詳細な解説は、本文庫既刊「火星シリーズ」、「金星シリーズ」の解説を参照のこと。 [#改ページ] [#(img/183.jpg)入る] [#(img/000b.jpg)入る]