時の凱歌 ジェイムズ・ブリッシュ 浅倉 久志訳 [#(img/04/000a.jpg)入る] [#(img/04/000b.jpg)入る] [#(img/04/003.jpg)入る] [#(img/04/004.jpg)入る] [#(img/04/005.jpg)入る] [#ここから3字下げ] 慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御命において…… 来たるべき日のにわかにいたるとき、 もはやその突然の到来を嘘といえるものはあるまい。 人々の失墜する日! 人々の高められる日! 大地がぐらりと揺れ、 山々は千々にくだけ、 風に散る塵芥となり、 そして、人々は三組に分かたれるであろう……  われらは汝(マホメット)より前のだれにも不死を授けておらぬ。 汝のみが死に、彼らが永遠に生きるとでもいうのか?  だれもみな死を味わねばならぬ身……  しかし、それは不意に彼らを襲い、彼らを立ちすくませるの  だ。それを押し返すにおろか、猶予さえ与えられはせぬ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──コーラン       [#地付き]五一章、二一章   [#改ページ] [#改ページ] [#(img/04/007.jpg)入る] [#改ページ] [#(img/04/009.jpg)入る] [#改ページ]     プロローグ  ……これまでに考察してきたとおり、他の文明世界と同じ一惑星だった地球は、大気層に束縛された二十億年の歴史ののち、その暦法による一九六〇年代に局地的な有人宇宙飛行を完成させていたが、島宇宙的規準からみた重要性は、地球暦二〇一九年に独自の|重 力 子 極 性 発 生 機《グラヴィトロン・ポラリティ・ジェネレーター》を開発するまで、かちとることができなかった。  二二八九年、地球の植民者はヴェガ専制政府と最初の接触を持った。片やその衰退期、片やその興隆期にあるこの二つの巨大文明の対立は、二三一〇年の〈アルタイルの戦闘〉において頂点に達した。のちにヴェガ戦争と呼ばれるものの発端である。六十五年後、地球は『|渡り鳥《オーキー》』と呼ばれる宇宙航行都市の一団を発進させたが、結果的にはこれがやがて銀河系の長期支配権を地球にもたらすことになった。  二四一三年、ヴェガ人類との長い争闘は、その母星ヴェガの攻囲と〈フォーツの戦闘〉を境に終わりを告げた。しかし、それに続いて、アロイス・フランタ提督魔下の第三植民艦隊によるヴェガ星系の焦土化が起こり、地球政府は、同提督を残虐行為と大量殺人の罪状で告発する必要に迫られた。事件は植民法廷において欠席裁判に付された。フランタは有罪を宣告されたが、判決に従うことを拒絶した。  強制逮捕におもむいた派遣隊の報告で、地球は第三植民艦隊のほぼ全勢力が提督とともに逃走したことを知り、二四六四年のBD(ボン恒星目録) 40゚4048 番星の戦闘に発展した。両軍とも大きな損害を受けたが決定的影響はなく、結果としてフランタは『宇宙皇帝』を自称することになった──いわゆる〈空白時代〉に地球管轄区域の外縁でぞくぞくと誕生した、まがいもの『帝国』の嚆矢《こうし》である。 〈空白時代〉は、公式には二五二二年、地球の局地的政府──二一〇五年からの官僚政治機構──の崩壊によって始まったとされるが、短期間の無警察状態を経たのち、当時すでにおびただしい数に達していた|渡り鳥《オーキー》都市に、実質的な無政府状態を発展させることを許した。この状態は、既知および未知の銀河系一円に彼らの交易路を増殖させるにあたって、きわめて好都合であった。  フランタ帝国の自己崩壊と、復活した地球警察が三五四五年から三六〇二年にいたる時期に行なった、その帝国の残片の最後的抹殺については、すでに述べた。この地球史において比較的重要でない部分を詳説したのは、それが異常であるからではなく、むしろ、この急速な実力上昇期における地球官僚勢力の分裂化の典型と思えたからである。  そしてこれもすでに述べたある|渡り鳥《オーキー》都市の歴史──フランタ帝国の歴史とほぼ並行して、三一一一年にその宇宙航行の経歴を開始した、ニューヨーク州ニューヨーク市のそれ──を合わせて比較すれば、地球がその二つの後継者、群小帝国と|渡り鳥《オーキー》都市に対してとった態度の違いが、歴然とするであろう。そして、のちの歴史は、地球のこの選択の正しさを証明した。なぜなら、銀河系の歴史から見てもかなりの長期間にわたって、この島宇宙を地球のための沃野に仕上げたのは、ほかならぬこの広域活動的な|渡り鳥《オーキー》都市の力であったのだから。  公式に死滅を宣告された慣習や文化は、往々、はるかのちになって、墳墓の下で身動きすることがある。もちろん、ある場合には、これは単なる反射性痙攣にすぎない。たとえば、地球文化の華麗な没落が、三九〇五年のアコライト星団ジャングルの戦闘に始まったことには議論の余地がないが、そのわずか五年後には、アコライト総監のラーナー警部なる人物が、宇宙皇帝を自称したのである。しかし、すでにジャングルでの|渡り鳥《オーキー》都市との交戦でかなり損傷を受けていたアコライト艦隊は、翌年地球警察の到着で殲滅され、ラーナー皇帝はその同じ年、アコライト星団に属する十流の惑星マーフィーの貧民街で、〈知恵の草〉の服用量を誤って死んだ。  より大規模な例としては、三九一三年の〈地球の戦闘〉が挙げられる。このとき、地球はかつての自身の産物である|渡り鳥《オーキー》都市群を敵に回したが、同時にヴェガ専制政府の意外な復活物からも狙われていた。ヴェガ人類が極秘に建造した軌道要塞が、長い放浪ののち、たまたまこの時機を選んで、その宇宙覇権に最後の賭けを試みたのである。  その敗北は、地球人との闘争で、つねに優勢な武力を持ちながら、はるかにすぐれたチェス戦術家である敵に不覚をとることが多かったヴェガ専制政府の敗北を、模型的に繰り返したものといえた。ヴェガ人類は、その特質として、予測をすべてコンピューターにまかせていたが、そのために大きな直観的飛躍と、それに基づいて行動する決断力を欠いていたのである。  相手の先を読むゲームでヴェガ軌道要塞にうち勝った|渡り鳥《オーキー》都市、すなわちわが模式都市ニューヨークは、それ自身の文明よりはるかにさきがけて、三九一八年に銀河系を去り、大マゼラン雲へと向かった。それが置きざりにした地球は、三九二五年、いわゆる|渡り鳥《オーキー》排斥法案なるものの批准によって、おのれの死を招いた。  ニューヨーク市が三九四四年に植民をはじめたマゼラン雲の一惑星は、三九四九年〈新地球《ニュー・アース》〉と命名されたが、じつはそれより以前の三九二五年に、すでに地球は恒星間の舞台から姿を消していた。そして、銀河系最大最美の星団からは、のちに銀河第四文明となる運命をになった〈ヘルクレスの網〉と呼ばれる異様な文明が、早くも最初のおずおずした触手を伸ばしつつあった。  それにもかかわらず、あらゆる歴史的観点から死を宣告された地球文明は、永久に葬られることをふたたび拒んだのである。〈ヘルクレスの網〉の、しのびやかながら仮借ない銀河系中心部での成長は、現在〈ギンヌンガ・ガップ〉として知られる革命的かつ宇宙的な物理的大異変によって、中断される運命を持っていた。  そして、たとえわれわれがその異変前の銀河系の記録を、いつに〈ヘルクレスの網〉の遺産に負うており、それによって、これまでの循環期には考えられなかったであろう、大宇宙の過去からの連続像を知りえたことは否めないとしても、ここになおかつ、少なからぬ畏怖とともに記しておかねばならない事実がある。  それは、この混沌と創造の瞬間に、突如として決定的な再登場を演じ、その宇宙的ドラマの中で、大胆で実り多い退場をなしとげていった地球人類のことなのである。 [#地付き]──アクレフ=モナレス──   [#地付き]『銀河・五つの文明の肖像画』  [#改ページ] [#改ページ]     1 |新 地 球《ニュー・アース》  この宇宙にまだ自分より年老いたものがあるという証拠に出会って、思わずハッとする経験を、ジョン・アマルフィは近頃何度となく味わっていた。そして、そんな自明の理に驚きを感じるようになった自分の醜態に、あらためて愕然とする。  この衝撃的な老齢の認識、背中にのしかかった一千年の歳月の重みは、ほかならぬ彼自身の病変の徴侯──いや、アマルフィとしては、むしろそれを新地球《ニュー・アース》の病変の徴候と考えたかった。  その驚愕にひとしお烈しく襲われたのは、着地して久しい廃市ニューヨークの街路を、一人黙然とさまよっているときだった。  市そのものが、すでにアマルフィより何千年期《ミレニア》も年老いた生命体なのだが、そうした古物にふさわしく、それはいまや単なる一つの死骸にすぎない。文字どおり、一つの社会の死骸ともいえる。なぜなら、いまでは新地球《ニュー・アース》の住民の誰一人、宇宙を航行する都市をもう一度建設しようとか、あるいはたとえほかの方法でも|渡り鳥《オーキー》の放浪生活に復帰しようとかいう考えを持っていないからだ。  新地球《ニュー・アース》に入植した当時の市民は、すでに原住民と、彼ら自身の子孫達の中で稀薄に散らばってしまい、今ではあの放浪時代のことを、どこか他人《ひと》事のように、かすかな嫌悪を持って振り返っている。たまたま野暮な人間が現われて、元の生活に戻ろうと提案したとしても、おそらく彼らはおぞけをふるってとり合おうとしないだろう。  第二、第三の世代にいたっては、|渡り鳥《オーキー》時代を歴史で知っているにすぎず、彼らの両親や祖父母を新地球に運んできた飛行都市の残骸などは、ちょうど古代の大気圏航空機のパイロットが、それよりまだ大昔の五段櫂つき奴隷船を博物館で眺めるように、とほうもなく不格好で旧式な怪物としか見ていない。  まして、故郷のレンズ状星雲──この二つのマゼラン雲も実はその銀河系宇宙の随伴系なのだが──に残った|渡り鳥《オーキー》社会に、その後何が起こったかについては、アマルフィを除いた誰もが、全く無関心なようすだった。  もっとも、それにも一理はある。故郷で何が起こっているかを知るのは、どのみち不可能に近いのだ。母星雲《ホーム・レンズ》からのあらゆる種類の放送波──文字どおり百万ものそれ──はその気があればいつでも聴取できるが、新地球《ニュー・アース》への移住からすでにかなりの年月がたっているため、これらの通信文を分類して一貫した意味を探りだすには、エキスパートの一団が数年間その仕事にかかりきる必要がある。そんな無益な、いわば懐古趣味的な苦行を希望する人間は、到底見つかるはずがない。  実はアマルフィが廃市へでかけたのも、その仕事を〈シティ・ファーザーズ〉に押しつけてみようかという、漠とした意図があったからだった。その名で呼ばれる巨大なコンピューター機構と記憶貯蔵装置《メモリー・バンク》は、ニューヨーク市が飛行を開始して以来、その工学技術、戦略、政策面のありとあらゆる定石的な問題を委託されてきたのだ。  求める情報が入手できた場合、どうするかについて、アマルフィはまだ何の計画も持っていなかった。ほかの新地球人達の関心をそこへ引きつけられる可能性がないことだけは、確かだった。せいぜい、半時間ほどのあたりさわりない世間話、という形でもなければ相手にはされないだろう。  結局のところ、新地球人達が正しいのだ。大マゼラン雲は、母星雲《ホーム・レンズ》から毎秒百五十マイル以上の速さで刻々と遠ざかりつつある──これは平均的な恒星系を一年がかりで横断できる程度のとるにたらないスピードには違いないが、いちおう新地球人の新しい心的態度を象徴しているのではなかろうか。彼らの目は、今や古代史の全てに背を向けて、進行方向へと向かっている。彼らにとっては、小マゼラン雲の彼方の|島 宇 宙 間 空 間《インターギャラクティック・スペース》で燃え上がった一つの新星《ノヴァ》の方が、季節によっては夜空の地平線から地平線までを大きく占めることもある母星雲での出来事より、はるかに大きな関心の対象なのだ。  むろん、宇宙飛行はまだ行なわれている。この小さな島宇宙に点在するほかの惑星との交易は、今でもやはり必要だからである。交易品の大部分は、普通の輸送船を利用して運ばれるが、工業プラントのような大きな機械設備になると、どうしても|重 力 子 極 性 発 生 機《グラヴィトロン・ポラリティ・ジェネレーター》、別名スピンディジーの力をかりねばおさまりがつかない。しかし、大勢は、局地的な自給自足産業の完成に向かっている。  アマルフィが、かつての市長室だったオフィスにただ一人坐って、故郷の銀河系から発信されているおびただしい通信波の分析を〈シティ・ファーザーズ〉に命じようとしていた時、だしぬけに相手の機械は、アマルフィの誕生より十一世紀前に死んだある人物の著作の一節を引用し始めた。この意外な断片の出現は、単なるウォーム・アップ過程の副産物だったのかもしれない〈シティ・ファーザーズ〉は、同時期に作られた複雑なコンピューターの例にもれず、しばらく作動を停止したあとでは、完全に正気にもどるまでに二、三時間を要するのである。  それともアマルフィの指が、長い空白にもかかわらず、確かな機械的熟練で意識の先を越し、彼の本当の悩み──新地球人達のこと──を問題の要素として組み入れてしまったのかもしれない。いずれにせよ、それは確かに適切な引用といえた──。 『もしこれがその勝利の生む果実の全てであるなら──かくも類《たぐい》なく凡庸な種族が、その無為無害の人生を永久に継続しうるためにのみ、人類の幾世代が苦しみ、生命をなげうち予言者と殉教者が火の中で歌い、すべての神聖な涙が流されるとすれば──むしろ、いさぎよくその戦いに敗れる方を私はとる。でなければ、少なくともあれほど壮大な発端を見せたものをかくも甚しく平板な結末から救うため、芝居の大詰に至る前に幕を下ろすべきである』 「何だ、今のは?」アマルフィはマイクに向けてどなった。 「うぃりあむ・じぇいむず著『信ズル意志』ノ抜粋デアル」(ジェイムズはアメリカの哲学者、心理学者) 「何にしろ、筋違いだな。本題へ戻ってもらおう。おっと待った──君は司書か?」 「ソウダ、市長」 「引用した著作はいつ頃の物だ?」 「一八九七年」 「よし、わかった。スイッチ・アウトして分析部門と交代しろ。この問題に関して、出力部に君がのさばり出る必要はない」  ライブラリー・マシンの電力消費が回路から切断されるのと同時に、流量計の針がヒョイと上昇し、一瞬後ふたたび下に沈んだ。だが、アマルフィはしばらく作業の手をとめてジッと坐ったまま、機械が提供した断章に心をはせていた。  この新地球《ニュー・アース》にも、と彼は考えた──おそらく、昔ながらの|渡り鳥《オーキー》がまだ少しは残っているだろう。たとえ、今すぐ思いつく名は、このジョン・アマルフィしかないにしてもだ。彼自身、これまで自分が生き抜いてきた歴史に対して、別に懐古趣味のための懐古趣味を抱いているわけではない。それどころか、忘れもしないが、新地球《ニュー・アース》の建設を立案したのは、ほかならぬ彼なのである。  最初の約四年間は、仕事、仕事で、脇目をふる暇もなかった。当時まだ命名されてもいなかったこの惑星が、IMT(|恒 星 間 大 交 易 団《インターステラー・マスター・トレイダーズ》)と称する悪名高い海賊都市《ビンドルスティッフ》の一味──母星雲では『狂犬』という呼び名の方が通っている連中──の避難所であり、同時にその封建領であるという発見は、植民開拓に大きな障害を予想させていた。その問題の解決には過激な手段をとるしかないと思われたし、事実、アマルフィはそれを実行にも移した。  しかし、三九四八年、ブラステッド・ヒースの戦闘でIMTが壊滅してからというものは、もはやアマルフィは何の問題も機能も持たない存在になってしまい、あげくの果て、この安定した秩序正しい社会に全く同化できない自分を見出すことになったのである。  さっきのジェイムズの引用は、かつて彼の市民だった|渡り鳥《オーキー》達とその子孫に対するアマルフィの感情を、ほとんど余すところなく要約していた。むろん、原住民達にそんな注文をするのは酷だろう。しょせん、彼らはそうしたいきさつには無知なのだし、それに『狂犬』の支配下での農奴生活のあとに迎えた、自治という前例のない難問と格闘している最中なのだから。  局地的な宇宙飛行ぐらいでこの間題の解決にならないのは、アマルフィにもよくわかっていた。大マゼラン雲に属する惑星は、どれをとっても大同小異だし、それに星雲そのものの直径もわずか二万光年にすぎない──この事実は、星雲内を一つの行政センターで統轄するには極めて好都合だが、かって一度の無着陸飛行でその都市を二十八万光年の彼方まで導いたことのある男には、およそ意味がない。  アマルフィが恋い焦がれているのは煎じつめたところ宇宙ではなく、不安定さそのものなのであり、つぎの惑星でどのような驚天動地の事件が待ち受けるかを全く予測できずに、未知の目的地へ向かう途上のあの気分なのである。  実をいうと、いまや長寿という要素は、アマルフィの上にふりかかった呪いのように思えた。無限に延長された寿命は、これまで|渡り鳥《オーキー》社会の必須条件の一つだった──事実、二十一世紀初頭の抗老化剤の発見までは、スピンディジーをもってしても、恒星間飛行は肉体的不可能事と考えられていた。そこに関係してくる距離は、短命の人間が有限の速度で行きつくには、あまりにも大きすぎたのだ。しかし、安定した社会の中で、文字どおり不死人として暮らすことは、その当人、いや、すくなくともアマルフィにとっては、永久にともった電球のように味気なかった。まるで、ソケットにさしこまれたまま、いつか忘れ去られてしまったような感じなのだ。  確かに、彼以外の旧|渡り鳥《オーキー》達は、うまく変身をやってのけたらしい──とくに、限られた宇宙放浪の経験しか持たない青年層は、長い余命期間をそれにふさわしい用途へ振り向けようと試みていた。五世紀、あるいはそれ以上も未来にならねば実を結ばないような、巨大な研究計画や開発事業に手をつけ始めたのだ。  たとえばニュー・マンハッタンでは、一研究チームの全員が、あらゆる面から反物質の問題にとりくんでいる。計画の理論の方を主だって担当しているのは、シュロッス博士──三六〇二年ゴート公国降伏のさい、亡命者として市に移住してきたフランタの科学者で、絶滅したフランタ帝国最後の生存種といえる男である。そして、計画の運営面は、そう遠くない昔、市の副パイロットであり、また支配人《マネージャー》の補欠候補でもあった、カレルという若手が受け持っている。  そのカレルによると、計画の第一目標は、反物質原子にとって可能な理論的分子構造の解明だという話だったが、シュロッスの熱心な援助のもとで、このグループの青年達が、ここ数世紀のうちにその人工物を実現するつもりでいるのは、すでに秘密でも何でもなくなっていた。それも、このラディカルなタイプの単純な化合物ではなく──それだけなら、数十年先には完成するだろう──完全に反物質だけで構成された、巨視的な人工物を作り上げるという。  もしそれまでに反物質塗料と、保管用の容器ができていたら、おそらくその想像を超えた爆発性の物質の上に、『|われに触れるな《ノーライ・ミー・タンジーリ》』(イエス・キリストの警告の言葉)という文句が書き込まれるのではないか、とアマルフィは思うのだった。  確かにそれも悪くはないが、科学者ではないアマルフィには参加のできない計画だった。むろん、その気になれば、自殺はじゅうぶん可能である。彼は不死身でもなく、真の意味の不死でさえない。その基本法則の持つ確率的性質のため、どんな人間にも不測の事故の予防を許さないこの宇宙、そこではいかに延長された生命も、底を割れば熱力学第二法則の局部的、かつ一時的な不連続にすぎないこの宇宙にあっては、不死とはしょせん無意味な言葉なのである。  アマルフィには、だが、自殺という考えはうかばなかった。もともと自殺者タイプではないのだ。むしろ、これほど疲労からも、消耗からも、絶望からも遠い気分は、今日が初めてのような気がしている。問題は、ただ彼が恐ろしく退屈しているということなのだ。  一千年期《ミレニア》を生きてきた彼の思考・感情パターンは、それがたとえどれほど理想的な物であっても一つの惑星と一つの社会体制だけには到底安住できないという、あまりにも強い信念のせいなのだ。それはまるで、千年間のたえまない文化から文化への転移が、彼の中に厖大な運動量《モーメンタム》を蓄積してしまい、いまの彼を〈行き止まり〉と書かれた頑丈な壁の方へ、しゃにむに押しやっているとしか思えないのだった。 「アマルフィ! やはり、あんたでしたか!」  ビクッとしたアマルフィは、『中断』スイッチを倒して、グルリと椅子を回転させた。もっとも、何世紀かなじんできたその声は、とっさに判別がついていた。三五〇〇年前後に市がその声の主を天文局長として乗り込ませて以来の、古い古いなじみだ。  穏やかな物腰に似ず、気みじかで偏屈な小男で、市の天文局長としては必ずしもはまり役とはいえなかったが、まだほかの|渡り鳥《オーキー》との人事交流《トレード》が可能だった時期でさえ、〈シティ・ファーザーズ〉に免職の根拠を与えなかったほど、再三の市のピンチにその責任を果たしてきた人物でもある。 「ハロー、ジェーク」と、アマルフィはいった。 「ハロー、ジョン」  天文技師はあいさつを返すと、セットされた管制盤を不思議そうに見た。 「あんたがこの廃市をうろついてるかもしれないとはへイズルトンから聞かされたが、正直、そんなことはすっかり忘れててね。コンピューター室へ入ろうとしたところが、通せんぼだ──二百トンもある気違いダンサーみたいに、機械がレールの上を往復しては、くっついたり離れたりしてる。てっきり、どこかのいたずら小僧が管制室に迷いこんで、パネルをいじっているのかと思った。一体、何をしてるんです?」  これは、アマルフィがそれまで自分にも訊いてみなかった単刀直入な質問だった。だが、ジェークには、通信波分析の計画のことは話したくない。ジェークがそれをどうこう言うからではなく、アマルフィの内なる自身にとっても、その答えは明らかなごまかしでしかないだろうからだ。  彼はいった。 「自分でもよくはわからん。ただ、何となくここへ来てみたかった。これが錆びるにまかせたままだと思うと、たまらなくてな。まだ何かの役に立つはずだと、いつも考えるんだよ」 「いや、それはだいじょうぶ」ジェークはいった。「ともかく、マゼラン雲はおろか、新地球のどこへ行ったとしても、〈シティ・ファーザーズ〉のようなコンピューターにはちょいとお目にかかれませんからな。どうにも世話のやける問題になると、今でもわたしはちょくちょくこの機械の手を借りる。シュロッスもそうらしい。何といっても、〈シティ・ファーザーズ〉はそのへんの連中には知りようのないことをごっそり知っているし、それに旧型のわりにはスピードもけっこう早いからねえ」 「それだけでは、かわいそうだな」アマルフィはいった。「昔、市は強力だった。そして、今も強力だ。中央原子炉は少なくともあと百万年は作動するだろうし、スピンディジーもまだ何基かは健在なはずだ──それだけの上昇力を、もう一度使う必要ができたときの話だが」 「なぜまたそんな?」天文技師はいかにも興味なさそうに問い返した。「とうにケリのついた問題じゃないですか」 「いや、そうだろうか? この都市ほどの試練を経てきた複雑な機構が、全く用をなさなくなるはずはない、とわたしは見るね。これは、時々〈シティ・ファーザーズ〉に意見を求めたり、原子炉の蓄積電力の一部を使ったりするような、限界的使用の意味じゃない。この都市は飛行するために作られた。今も、神かけて飛行を続けるべきなのだ」 「何のために?」 「さあ、それはわからん。探険のためかもしれんし、労働──われわれが昔やっていたような請負仕事──のためかもしれん。これだけの大きな機械でなくてはできないような仕事は、この星雲にもきっとあるはずだ──たとえ、これまでは見つからなかったにしても。何なら、それを探すための飛行だとしても、じゅうぶん価値はあるだろう」 「そりゃどうかな」ジェークはいった。「なにしろ、IMTとのいざこざでロケット爆弾の集中攻撃を受けた時に、相当手ひどくやられている──そこへ、あれからずっと雨ざらしにしてあったことも、いいわけはありませんな。そういえば、二十三丁目のスピンディジーは、確か着陸のときに完全におしゃかになったんじゃなかったですか。いくらあなたが上昇させようといきまいても、今のこの市じゃピクリとも身動きしないでしょうよ。さだめし、唸り声だけは派手に出すことでしょうがね」 「都市全体を持ち上げるとは言っておらんよ。それが無理なことぐらいは知っている。どのみち、この星雲のような小さな行動の場では、この市ほど手の込んだ機構はいらないのだ。あとへ残してさしつかえない物が、いくらでもある。それに、基幹定員だけを集めるにしたって、一苦労だろう。だが、もし市の一部分だけでも復旧できれば、それをもう一度飛行させて──」 「市の一部分? 花崗岩の竜骨《キール》を持った市を、どうやって分割するんです? しかも、その竜骨《キール》の上に一つのユニットとして構築された市を? あんたが選ぶというその一部分にもっとも必要な設備のどれかが、外郭地域のどこかに位置していて、切断も移動もできないなんてことは当然考えられる。そんな風に、全体が一つとして構成されているのがこの市なんだ」  むろん、そのとおりだった。アマルフィはいった。 「だが、仮にそれができるとしたら? 君はそれをどう受けとるね、ジェーク? 五世紀近くも|渡り鳥《オーキー》で暮らしたことのある君だ。失った物を、少しは懐かしいと思うだろう?」 「いや、全然」天文技師はあっさりと答えた。「実をいうとね、アマルフィ、わたしはあんなことは元来好きじゃなかった。ほかに行き場がなかったから、というのが本音ですよ。宇宙を飛びまわり、しょっちゅう警察と悶着を起こし、戦争し、ときには食うや食わずでいるあんたがたが、わたしには気違いとしか思えなかった。しかし、仕事をするための浮き島がもらえたおかげで、固定した天文台からではどんな望遠鏡を使っても望めない条件で、恒星や星系の観測ができることになったし、そのうえ食いっぱぐれもない。まあそんなこともあって、わたしはいちおう満足していた。しかし、選択の余地のできた現在、もう一度それをやるかと訊かれたら? むろん、ことわりますな。実はここへ来たのも、小マゼラン雲の向こうで降って湧いたように出現した、れいの新星《ノヴァ》に関する計算のためでね──実際、これほどすてきな問題には、ここ二世紀とんとお目にかかったことがないぐらいだ。管制盤が空いたら、ぜひ知らせてください。どうしても、〈シティ・ファーザーズ〉の手を借りないと片づきそうもないんで」 「わたしの方の用は済んだ」  アマルフィはそういって、椅子から立ち上がった。思いついたように管制盤を振り返って、さっきセットしかけた問題を──ただの身代わりでしかないと彼自身今ハッキリさとった問題を──命令回路から消去した。  鼻歌まじりで満足げに新星《ノヴァ》の問題のセット・アップにかかったジェークを置きざりにして、アマルフィはあてどもなく市内を歩きまわり、脈動する有機体であった当時の市を思いうかべようとした。  だが、無人の街路、空白の窓、そして新地球《ニュー・アース》の青空の下に広がった大気そのものの平板な静けさは、一種の侮辱にも思えた。足底にこたえる重力までが、この見馴れた環境の中に置かれてみると、アマルフィが人生の大半をそれに捧げた目的や価値を、あっさり否定し去っているようだった。  全くの質量だけによってやすやすと保たれた、すまし顔の重力。彼のはるかな、記憶にもない少年期からこの方、重力とはつねにスピンディジーの遠い騒音にともなわれた物、そして、人間によって創り出され、人間によって維持される物を意味していたのに。  憂欝になったアマルフィは、街路の散歩を打ちきって、市の地下へと向かった。少なくともそこなら、彼の記憶にある生きた実在としての市が、この不自然なほど穏やかな日ざしに嘲笑されることはないだろう。  しかし、結局はそれも、変わりばえのしない物とわかった。ガランとした穀倉や冷凍庫は、もはやこの市がつぎの惑星着陸《プラネツトフォール》まで一世紀もかかるような旅のための食料貯蔵を必要としないことを、ハッキリと彼にさとらせた。空の原油タンクは、手で触れるまでもなく、通りすぎる彼の足音にうつろな反響を返した。無人の合宿所は、亡霊──といっても死者のそれでなく、生者が別の種類の人生へと歩み去るとき、あとに残してゆくあの亡霊──に満ちみちていた。やはり無人の教室は、|渡り鳥《オーキー》都市に多い小ぶりな物だったが、これも現在の|渡り鳥《オーキー》達が、かつてのように、どれだけの子供を彼らの都市が必要とし、しかも哺育できるかという考慮にもはやわずらわされることもなく、彼らの惑星|新地球《ニュー・アース》で生み育てているおびただしい子供達のことを考えると、まるでお笑い草であった。  そして、やがてたどりついた市の竜骨《キール》そのものへの入口では、アマルフィの敗北の決定的徴候であり、シグナルである物が、彼を待ちうけていた。三九四四年、ブラステッド・ヒースへの着陸のさい、修理しようもないまでに壊れてしまった、二基のスピンディジーの溶けただれた残骸である。  もちろん、新しいスピンディジーを建造し、据えつけ、古いそれを取りはらえば済むことには違いない。だが、その作業には長い時日が掛かる。作業のための乾ドックも、この新地球《ニュー・アース》にはない。なぜなら、ここでは飛行都市はすでに滅び去った存在だからだ。その精神が滅び去ったように。  スピンディジー倉の冷えびえとした薄闇の中で、しかし、アマルフィはそれを試みる決心を固めていた。 「だが、そんなことをして何の得になるんです?」  へイズルトンがイライラと反問するのは、少なくともこれで五度目だった。 「いよいよ、気がふれましたな」  アマルフィにこれだけ遠慮のない口をきく人間は、新地球《ニュー・アース》にもほかにいないだろう。しかし、三三〇一年からアマルフィの支配人《マネージャー》をつとめてきたマーク・へイズルトンは、ボスの気質を知りぬいていた。  敏感で気むずかしく、怠け者で、衝動的で、時には危険な男でもあるへイズルトンは、これがほかの支配人《マネージャー》だったら、おそらく〈シティ・ファーザーズ〉に銃殺を宣告されただろう幾度かの失態──事実、彼の前任者はそのために射殺されている──を切り抜けて、生き残ったのだった。そして同時に、アマルフィの気持を読めるという、実証されない場合の多かった一方的な自信も、いまだに残しているのだった。  新地球《ニュー・アース》で、アマルフィの現在の心境をこの男以上によく理解してくれる旧|渡り鳥《オーキー》はいないはずだが、目の前のへイズルトンを見ていると、そんな期待も危ぶまれてきた。  そういえば、今夜のことにしてもそうだ。へイズルトンも、その妻のディーも──これはゴート公国降伏のさい、シュロッス博士と相前後して、ユートピアという惑星から市に移住してきた女性だが──|渡り鳥《オーキー》都市の市長が、|渡り鳥《オーキー》の不文律で、結婚をすることも、子をもうけることも禁じられているのを、そして、三〇八九年以来ニューヨーク市長をつとめてきたアマルフィが、どうしようもなくその伝統に縛られているのも、まるで忘れきっているように思えた。  特に、アマルフィが、いつに限らず支配人《マネージャー》の息子や孫たちに囲まれるのを好かないこと、そして、今のように、彼がなぜ|渡り鳥《オーキー》の慣習に執着するかを理解できそうな相手からその意見を聞きたいと思っている場合にはなおさらだということも、この二人は忘れているらしいのだ。  そうはいうものの、アマルフィに対して、独立した個体というよりむしろ共生体に近い反応を示せるのは、やはりマークのいい所だった。夕食のあと、子供達が早やばやと優雅な退場を始めたとき、アマルフィは、それがへイズルトンの差し金であるらしいことにすぐさま気づいた。  もっともそれが、惑星定住化の産物にほかならない大ぜいの子供達を前にしたアマルフィの不快さを、マークが薄々にでも察しとったからではないことは明らかだった。それは単にマークが、相談したいというアマルフィの欲求を直感で知って、何の迷いもなくディーの社交スケジュールをご破算にし、さっそくそのお膳立てを整えた、ということにすぎない。  その時ならぬ散会について、マークの息子達は孫達の就寝時間が来たからと言い訳をしたが、アマルフィは、この一家が晩餐に勢ぞろいする時はいつも盛大な祝宴が張られることも、眷族たちが隣りの建物──二日前へイズルトン夫妻がその大家族を育てた蜂の巣型の寝室──で泊ってゆくことも、ちゃんと知っていた。もっとも最近の夫妻の住居は、今一同が食事した大きな客間だけで成り立っているようなものだった。  食事を済ませたアマルフィは、大小とりどりの一族が行列を作っておやすみの挨拶をするのに、むず痒い気持で応待した。年端のゆかない子供達までが、へりくだった自己紹介と一緒に、ご老体に向かっていっぱしのスピーチを述べた。その両親達は、彼らの幼い頃の経験から、多忙な市長閣下が一人々々の名を憶えるような面倒な努力はしないことを、ちゃんとわきまえているらしかった。  急に帰りをうながされた子供達が失望をけなげに押し隠していることにも、別にアマルフィは感心する気が起きなかった。というより、彼らの失望になど気がつかなかったのだ。耳をかたむけるふりだけで、実は何も聞いていなかった。  たまたま、一人の少年に注意をひかれたのは、アマルフィがこの部屋に入った瞬間から、その子供が彼の顔に視線を釘づけにしていたためだった。これはひどく気になった。アマルフィは、自分が何か礼装の一つを着け忘れたのか、それとも顔に何かついているのだろうか、と怪しんだ。  まだシャボンの泡が残っているのではないかと、さっき彼に顎や眉や耳をこすってみさせたその張本人が口を開いたときには、アマルフィも思わず耳をそば立てたものである。 「ウェブスター・へイズルトンです。とても大事な用件で、いつかもう一度お目にかかりたいのですが」少年はいった。  まるで何週間も練習してきたような口ぶりには溢れるような熱望が込もっており、ふとアマルフィは、その場で会見の日どりを決めようかという気持におそわれた。  だがそうはせずに、彼は唸るようにいった。 「ウェブスターか、え?」 「はい。登録原簿《グレート・リスト》にぼくの出生が組み入れられたのが、ウェブスターの市を辞める時だったんです」  これは、アマルフィにはかなりのショックだった。  そんなに古い話なのか!  ウェブスターというのは、三六〇〇年頃、惑星ユートピアへの着陸直前に、市を離れる決心をした原子炉技師だ。もちろん、その後は、市の惑星ヒーに対する契約履行を妨害しようとした不法都市群の武力攻撃や、アコライト星団内の都市ジャングルで疫病都市に上陸した時の損害などがひき続いて、登録原簿《グレート・リスト》の空白はすぐには埋まらなかった。最初のうち、出生児が女ばかりに偏よったためもある。  それにしても、このウェブスターは、またひどく遅まきに生まれてきたものだ。どう見たところで、十四そこそこではないか。  ディーが口をはさんだ。 「実はね、ジョン。ウェッブが生まれたのは、登録原簿《グレート・リストr》がなくなってずっとあとですわ。ただ、この子にしてみると、昔のように後見市民がいると思う方が嬉しいんでしょう」  少年は一時澄んだ茶色の瞳をディーに向けると、男の世界から彼女を閉め出すようにいった。 「おやすみなさい、市長」  アマルフィはかすかな怒りを味わった。ディーをのけ者にすることなど、誰にもできはしない。たとえアマルフィにも、だ。昔一度だけそれを試みたことのある彼が、誰よりもよく知っている。  行列は続き、アマルフィはふたたびうわの空に戻り、あげくの果て、やっとディーとマークだけの水入らず──これほどだだっ広く、そしてさまざまな強い個性の残響をまだ残しているような部屋に、その表現があてはまればだが──になることができた。さっきのすさまじいばかりの家庭的ムードは、まだへイズルトン家の炉辺にそこはかとなく残って、アマルフィの言葉をさえぎろうとしているように感じられ、いつになく彼の説明もしどろもどろになりがちだった。  何の得になるかとへイズルトンが訊いたのは、ちょうどその時である。 「何の得?」アマルフィは訊き返した。「何を得するつもりもないさ。ただ、もう一度空へのぼってみたい。それだけだよ」 「でもね、ジョン」ディーがいった。「よく考えてみてくださいな。仮にあなたが、昔なじみの何人かを一緒に行くよう説得できたとしても、いまでは、それは何の意味もないことですわ。呪いを受けて、あてどなく船を走らせてゆく『さまよえるオランダ人』のような存在に、ご自分を変えておしまいになるだけだわ」 「かもしれんね」アマルフィはいった。「そうだとしても、わたしはしりごみはせんよ、ディー。打ち明けた話、それでへそ曲りな満足が味わえるといったら、わかってもらえるかな? 伝説の主になれるなら本望だ。少なくとも、それでもう一度歴史の中へ戻れる──過去にわたしの演じたそれに比べても見劣りしない役柄を与えられるわけだ。それに、もう一度空を飛べること──これは大事だよ。今のわたしには、それ以外に大事な物はない、という気持になりかけているからね」 「今更、何が大事だといっても、始まらんでしょう」へイズルトンはいった。「第一、そういう冒険をされた日には、この島宇宙から市長がいなくなってしまう。今のあなたにとっちゃ、それはどうでもいいことかもしれない──わたしの記憶だと、この星へやってくる頃のあなたには、それはずいぶん大事な問題だったようですがね。とにかく、今は知らないが、当時のあなたはその市長の職に立候補し、権謀術数をめぐらし、八百長までやってのけた──候補者はカレルとわたしだけ、それも支配人《マネージャー》職の立候補だったのに、あなたは〈シティ・ファーザーズ〉を煙にまいて、それが市長選挙だと思い込ませた。そして、むろん、機械はあなたを選んだ」 「その職が欲しいのかね?」と、アマルフィ。 「とんでもない! あなたにやっていただきますよ。あなたが凄腕で望みどおり手に入れた地位だ、いつまでもがんばってもらえることを期待してるのは、わたしだけじゃないはずです。ほかの誰も名乗りを上げてはいない。あなたが当初の考えどおりにその仕事を切り回しつづけてくれると、みんな期待してるんです」  アマルフィは動かされなかった。 「誰も名乗りを上げないのは、さてその職についたとしても、何をしていいかわからないからだ。わたし自身にもわからない。市長職なるものが、すでにこの星雲ではアナクロニズムなのさ。これをしろとかあれを言えとかここへ出席しろとか、とにかく市長として多少でも役に立ちそうな仕事を、わたしは久しくだれからも依頼されたことがない。つまり、単なる名誉職を占めているだけだ。  誰もが知っているように、この星雲を実際に切り回しているのは君だし、またそれが当然の話でもある。そして、そろそろ君も実と一緒に名をとっていい時期だ。わたしは最初の組織化の仕事に全力を使い果たした。現状に適した才能も持っていない。新地球の誰もがそのことを知っているし、ここらでそれをハッキリさせた方が健全だと思う。さもないと、マーク、いつまでわたしはこの地位を温めねばならんのかね? 君のいまの想定にしたがうと、おそらく永久ということにもなりかねんじゃないか。これは新しい社会だ。仮にわたしが──充分考えられることだが──さらにもう千年も名目上の指導者の地位を保ってみたまえ、何が起こる? 全く新しい物を目ざすべき社会が、千年間もわたしの代表する旧態依然な心的態度と理想に、うわべだけの忠勤を励んだりしていたら? それは気違いざただよ。君にもそれはわかっているだろう。いやいや、やはり君が後を継ぐべき時が来たのだ」  へイズルトンはしばらく無言だった。やがて、彼はいった。 「それはわかります。実をいうと、わたしも何度かそれは考えてみた。しかしですよ、アマルフィ、この提案にはやはり賛成できませんな。市長職の問題はいずれ一人でに解決する時がくるでしょう。反対の理由はそれじゃない。わたしの気にかかるのは、あなたの思いついた出口のことです。それが危険だというだけじゃなくて──確かに危険には違いないが、そんなことを気にするあなたじゃなかろうし、わたしがあなたの立場でも、それは同じだと思う──それよりむしろ、その危険を冒すことに何の意味もないからですよ」 「わたしには意味があるね」アマルフィはいった。「こうなってみると、わたしには、それ以外に意味のある物が考えられんのだ。もしあれば、行こうとはしないだろうよ、マーク。それはわかってくれるな? 今のわたしは、生まれて初めて自由の身になった心境なのだ。そこでこんなわがままも出て来るのだがね」  へイルズトンはブルッと肩をすくめた。 「そこまで言われては留めようがないですな。心から残念だとしか、わたしには言いようがありません」  ディーは黙然と首を垂れていた。  そして、それ以上のことは言われずに終わった。へイズルトン夫妻にしてみれば、もしアマルフィが決心をひるがえさない限り、マークもディーも、おのおの違った意味での親友を失うことになる、という口説き文句を使っても不思議がないのに、二人ともその話題にはもう触れようとしなかった。  おそらくマークは、その理不尽に強力な論拠を使うことが、感情的に脅迫がましいと考えたのだろう。ともかく、彼がその話を持ち出さなかったことに、アマルフィは感謝したい気持だった。しかし、ディーの場合は、はるかに理由の推測が難しい。昔の彼女なら、一瞬の躊躇もなく、その手段を使っただろう。そしてアマルフィの知る限り、今の彼女にも、そうする理由は充分にあるはずだった。  彼女は長らく──というより、市に移住してきた当時から──新地球《ニュー・アース》の建設を持ち望んできたのだ。息子や孫達をもうけた現在では、もしその安定を脅かす者が現われれば、手元の武器を総動員して戦おうとするはずである。なぜか彼女はそうしなかった。  ジョン・アマルフィでさえ彼女からこの島宇宙を奪いとることはできないとさとるほど、ディーも年をとったのだろうか。ともかく、仮にそう考えているとしても、ディーの素振りからは何もうかがえず、そしてへイズルトン家での夕べは、冷ややかではあるにしろ、アマルフィの最悪の予想からはほど遠い、ぎごちない丁重さの中で終わりを告げたのだった。  住宅区全体が、アマルフィの目には愛玩動物で埋まっているように見えた。放し飼いのそれらが、広い歩道いっぱいに跳ねまわり、駈けまわっている。高速道路まで冒険に乗り出すものは数も少なく、そうしたが最後、アッというまにひき殺される。しかし、歩行者にとっての四足獣は、少々もてあましぎみの障害物となっていた。  日中は、見馴れない人間には噛みつかんばかりの見幕の駄犬どもが、知った顔と見ると、とびついて前足を肩にのせてくる──そして、ニュー・マンハッタンの全住民はもちろん、どうやら一匹残らずの犬にとっても、アマルフィは知った顔らしいのである。  アルタイル第四惑星原産のスヴェンガリも、ちらほら姿が見えた。これはかつての飛行都市の動物園では珍種の一つだったが、三九五〇年の大増産計画のさい、入植者の花嫁に一瓶のトリルビー水と、スヴェンガリの分株のどちらかが与えられるようになってから、一般家庭の守り神のような地位におさまったのだ。近ごろでもペットとしてまだ人気のあるこの半植物的半動物は、夜明けや夕暮れの薄闇に、外へ涼みに出ては獲物を狩る習性を持っていた。  スヴェンガリはまず道の真中にグニャリと横たわり、動く物にはその巨大な目で片っぱしから狙いをつけ、自分に摂取できるほど小さく、そして冷たい生物がそばを通りかかるのを待ちかまえる。だが、そんな物がこの新地球《ニュー・アース》にいるはずはない。その催眠的な凝視に引き込まれるようにフラフラ歩いてきた二本足の犠牲者は、どたん場まできて、逆に凝視者を危うく踏み殺しそうになるのだ。そこでスヴェンガリはモーヴ色に変色し、ピュッと防御液を噴出する。これはアルタイル第四惑星ではむかつくような悪臭のはずなのだが、新地球《ニュー・アース》では陶酔剤でしかない。その結果、時ならぬ浮かれ騒ぎや合唱、そして目くるめくように幸福なつかのまの泥酔を人々は楽しみ、どぎもを抜かれたスヴェンガリは屋内へ逃げ戻って、そこでゼリー・スープを与えられることになるのだった。  夜のニュー・マンハッタンの歩道では、それが猫に変わり、歩行者の外套やサンダルの飾りにとびついてくる。街の上には、鮮かな色をした生き物が羽ばたき、空を舞っている。唄う鳥、叫ぶ鳥、話す鳥、唖の鳥──どれもこれもペットなのである。  アマルフィはその全てに憎悪を感じた。  どこを歩くにも──市のエアタクシーが使われなくなってからは、アマルフィはどこへ行くにもたいてい歩くようになった──目的地へたどりつくまでには、話しかけてくる市民や、じゃれついてくる犬をふりほどかねばならないことを、彼は半ば観念していた。  市の着陸後、そして彼の実質的な退職後に起こったペット飼育ブームは、もう半世紀を迎えようとしている。どうした気まぐれで、これほど大ぜいの開拓者の子孫が、いまいましいスヴェンガリを飼うような暇つぶしを始めるようになったのか、アマルフィにはさっぱり見当もつかないのだった。  しかし、へイズルトン家からの帰り道、アマルフィはそうした物に出くわさなかった。そのかわり、雨が降っていた。彼は外套の襟をかき合わせると、ぶつくさ呟きながら足を早めた。本格的な吹き降りになるまでに、今の住まいである真四角ないかつい箱へ帰りつかねばならない。家とその庭だけは〇・〇二パーセントのスピンディジー力場で保護されているのだ──この新しい住宅設備のことを、新地球人達はスピンディジーをもじって『スピンディリー』(「すてきな物」の意)と呼んでおり、この名前もアマルフィには胸のむかつく代物だったが、我慢して据えつけることにしたのである。  つまりは、いつかディーが憎まれ口をきいたように、『雨に濡れるよさも知らない』無粋な性分なのだ。そう言われたときの彼の立腹ぶりがあまり真にせまっていたため、ディーはそれからついぞその話題を口にしなくなったが、あの言葉が図星だったことに変わりはない。  玄関に通じる小道まできたアマルフィは、誘導スイッチに掌をあて、きらめくしぶきの中を通れる程度まで、スピンディジー力場を和らげた。嵐が弱まりつつあり、間もなくおさまるだろうことを見てとりながら、最近ではすっかり習慣になった苦い不満を、彼は感じていた。  家に入ると、さっそく飲み物を作り、まだ立ったままで、手をこすり合わせながらあたりを見まわした。この家がかりにアナクロニズムだとしてもいいじゃないか。彼にはそのほうが好ましいのだ。もしこの新地球《ニュー・アース》に好ましい何かがあるとしての話だが。 「おれは一体どうしたのだろう」  ふいに彼はそう考えた。 「ペットを飼うのは連中の自由だ。大方の人間がここの天候を気にいってるなら、おれ一人が嫌いだといってみたところでどうなる? ジェークがあの話に何の興味も感じず、マークもその点では同じだとすると──」  和らげられたスピンディジーの限りなく心のなごむ囁きに、一瞬変化が起きたのを彼は感じとった。誰かが雨をついてここまでやってきたのだ。その訪問者は、これまでこんな深夜にやってきたことも、また一人でやってきたこともない人間だった。  だが、アマルフィは、一瞬の疑いもなく、誰が彼を家まで追ってきたかをさとっていた。 [#改ページ]     2 マゼラン新星 「もう少し歓迎の仕方があるんじゃないかしら?」ディーはいった。  アマルフィは答えなかった。手を背中に組んだまま、仁王立ちに立ちはだかっていた。 「ジョン、何とかいったら?」ディーは優しくうながした。 「わたしを行かせたくないんだな」アマルフィは大胆に言いきった。「それとも、もしわたしが行けば、マークも支配人《マネージャー》職と新地球をおっぽり出して、わたしと同行すると思っているんだろう」  ディーはゆっくりと彼の横から回りこむと、深々とした大きなクッションのそばで、ためらうように立ちどまった。 「的はずれね、ジョン、両方とも。わたしの心にあるのは、もっと別のことだわ。もしかして──いいえ、それを話すのはあとにしましょう。それより、飲み物をいただける?」  頑なな姿勢をとることで、ディーに抵抗する意志を励ましていたアマルフィだったが、接待役をつとめるためには、その砦も明け渡さねばならなかった。 「すると、マークの差し金かね?」  ディーは笑った。 「キング・マークの差し金で、何度も走り使いをさせられたことはあるけれど、今度のは違うわ」あとは悲しそうにつけたした。「それに、王様はこのところギフォード・ボナーのグループに入りびたりで、わたしの方はとんとお見限りなの」  アマルフィにはその意味がわかった。ボナー博士は、推計主義者《ザ・ストカスティックス》と呼ばれる私的な哲学グループの主唱者兼講師なのだ。ボナーの理論をわざわざ研究まではしなかったアマルフィだが、ひっくるめたところ、推計主義《ストカスティズム》とは近代物理学を形而上の基盤とし、美学から倫理までにおよぶ哲学体系を打ち立てようとする試みの中で、もっとも新しい物の一つだということぐらいは聞きかじっていた。論理的実証主義がこの種の哲学の嚆矢《こうし》だったわけである。  アマルフィの見たところ、推計主義も到底その決定版とはなれそうもなかった。 「最近、どうも仕事に身が入ってないとは思っていたが」アマルフィは憮然としていった。「どうせなら、使徒ジョルンの教義でも研究すればいいものをな。〈|神 の 戦 士《ウォリアーズ・オブ・ゴッド》〉達は、少なくとも十五の辺境惑星をすでに支配しているし、この新地球《ニュー・アース》でも信者に事欠かないありさまだ。田園タイプにうけるんだろう──当節は、その手の人間が続々と育っているようだし」  これが、ディーもその設立に尽力した新地球《ニュー・アース》の教育制度の趨勢を皮肉った物だと気づいたにしても、彼女はそんな気配はおくびにも見せなかった。 「たぶんね。でも、マークにそれを納得させるなんて、わたしにはできないし、あなたにもできないでしょう。マークは、あの教義がそれほどの脅威だとは信じていない。|正統派キリスト教徒《ファンダメンタリスト》になれるような単純な頭脳の男に、軍隊が組織できるはずはないという考えだわ」 「ほう? じゃあ、マークは一度ボナーに、ブーイヨンのゴドフロワのことを訊いてみるべきだな」 「誰のことですって──?」 「第一回十字軍の指揮者だよ」  ディーは肩をすくめた。  おそらく、十字軍の話を耳にしたことのある新地球人は、実際に地球で生まれ育った唯一の人間であるアマルフィだけだろう。惑星ユートピアでも、そんな歴史は教えられなかったに違いない。 「とにかく、わたしがお話に来たのは、そのことでもないわ」  壁の隠しパネルが開いて、グラスが二つ浮かび出た。アマルフィはそれをつかまえると、無言でその一つを相手にさしだした。  グラスを受けとったディーは、しかし、それを持って腰をおろすだろうという彼の予想を裏切って、神経質そうにドアの方へ歩き戻り、そこで初めて一口すすった。いまにもグラスを置いて、出てゆきそうな気配だった。  ディーを帰したくないと考えている自分に、アマルフィは気づいた。もう少し、そこらを歩きまわってくれないものか、と思った。ディーの着ているガウンには、どこやら見おぼえがある──。  ファッションが復活したことは、地上に固着した生活の必然ともいえた。市の宇宙航行にともなう無数の必要作業が全員の手をふさいでいた当時は、男性も女性も簡素な機能的スタイル一つで数世紀を押し通して、それを不思議にも思わなかったのである。  だが、人間は利用できるすべての空間が満たされるまで増殖を続ける、というフランクリンの法則を、いまや|渡り鳥《オーキー》達はやっきになって実践しており、それとともに、ペットや、花壇や、まばたきのたびに移り変わるファッションで時間を空費していた。  今年──三九九五年の婦人モードは、男性にとって、そのスカートの裾を踏み渡らねばどこへも行けないほど、おびただしい布地を使った透明な代物だった。しかし、ディーのシンプルな白い上衣と、ピッタリ体についた筒形の黒いスカートは、全くそれとは違っている。  透明なのは、白い上衣のひだのあいだから見える喉にフワリと巻きついた、玉虫色の薄いリボンだけだった。その胸のたおやかな二つの円みは、ユートピアが軍事援助要請の使節として、彼女を戦艦でニューヨーク市へ送りつけてきたあの日と変わりなく、みずみずしい。  ふいにアマルフィは思いだした。 「ディー、いまの君は、初めてわたしの前に現われたあの日とそっくりだ!」 「本当、ジョン?」 「その黒い物──」 「シース・スカートね」ディーは助け舟を出した。 「──君が市に来た時、何よりもまっさきに目についたのがそれだった。そんな物を、それまで見たことがなかったのだ。それからも見たことがない」  それからの何世紀、たえず、彼女を想い続け、その黒い物をまとった彼女がへイズルトンではなく彼を求めることを心に描き続けてきたのだ、と打ち明けることは控えた。  かりにディーがそうしたとして、歴史の進路が変わったろうか? だが、彼にとって、彼女を拒むよりほかにどうすることができたというのだ? 「それにしては、今夜は気がつくのにずいぶん手間どったこと。実は、さっきの晩餐会のために仕立てさせたの。あのフワフワピラピラには、一年で飽きてしまったわ。わたしの本性は、やはりユートピアの女なのね。キリッとした服装と、たくましい男と、適度に苦労のある生活が好きなところなんか」  ディーは確かに何かを言いたそうなのだが、アマルフィにはまだその真意がつかめなかった。  こんなシチュエーションは、どう見てもありえなく思える。分別のある地上人種ならとっくに寝静まっているだろう時刻に、無二の親友の女房とファッション談義にふけるような習慣を、彼は持ち合わせていない。 「美しい服だ」と、アマルフィはいった。  驚いたことに、ディーはワッと泣きだした。 「おお──あなたは何て野暮天なの、ジョン!」  グラスを置いて、外套に手を伸ばそうとする。 「わかったよ、ディー」  アマルフィは外套を手のとどかない所へ移した。 「きみの『マーク王様』は、適度にキリッとして、たくましく思えるがね。とにかく腰をかけて、何のことか話してみたまえ」 「わたしはあなたと一緒に行きたいのよ、ジョン。今、市を離陸させてしまえば、もうあなたはニューヨーク市長でもなく、古い掟に縛られることもないわ。わたしの──わたしの願いは──」  ディーの究極的な願いをその口から語らせることができたのは、それから何週かあとのことだった。  あの晩のまごついた発端のあと、二人は憑かれたように語りあった。ディーが初めて市にやってきた日以来、彼の五官が叫び続けてきたメッセージは決して過去の冷たい白日夢ではなく、温かい現実なのだ──その認識が、やっとアマルフィの懐疑的な禿げ頭にも泌みとおったとき、彼はディーを抱きしめ、二人はしばらく無言でいたのだった。  しかし、そこでふたたび堰を切った言葉は、もうとどめるすべがなかった。〈あるいはそうありえたこと〉の、そして時には事実そうあったことの追想に、二人はいつまでもふけった。  何よりもアマルフィを仰天させたのは、独身を公称していたこの年月のあいだに彼が褥《しとね》をともにした女性の一人残らずが、たとえわずかの期間にしろ、一度はディーの家庭にひきとられていた、という事実だった。ディーがたとえ一度に二十人の乳母を雇い入れたとしても、新地球《ニュー・アース》のファースト・レディの地位と、マイ・ホーム主義万能の風潮のおかげで、それは新地球《ニュー・アース》を今の姿に変えた流行と嗜好のほとんどを彼女が創り出した時と同じように、人々の口の端にはのぼらなかったのだ。  ディーがそれほどまでの残酷な倦怠に侵されていることを、アマルフィは今のいままで気づかなかった。  だが、その満たされない気持を、彼女はここをせんどとぶちまけた。彼がやりきれなくなるぐらいに。二人は若い軽はずみな恋人達のように口論した──ただ、その最初で最悪の諍《いさか》いのもとはといえば、ディーの喉からしぼり出された、泣かせるような一言だった。 「ジョン、いつになったら、わたしをベッドへ誘ってくれるの?」ディーはそう言ったのだ。  アマルフィは苛ら立たしげに両手を広げて答えた。 「いや、マークの妻をベッドへ誘うつもりはないね。それに──」そして、残酷とは知りながら、こうつけ加えた。「──君の方なら、気が済んだはずじゃないか。わたしがこの五百年間に寝た女の一人残らずから、わたしのベッド・マナーを訊き出したんだろう? 現実のわたしは、ご多分にもれず、君を退屈させるだろうと思うな」  二人の和解は、若い恋人達のそれとは似ていなかった。むしろそれは、反抗的な娘が恥ずかしげに父親のふところへ戻るのに近かった。そして、アマルフィの方はまだわだかまりを残していた。  この長い歳月、夢にのみ望んだことを手に入れた今になって、彼はあらためていともアダム的な発見をしたのである。得られない物への渇望と、渇望した物の獲得とを比べたとき、より大きいのはつねに渇望の方なのだ。渇望の対象がつねに別の宇宙にしか存在せず、現実にあざ笑われることがわかっているときては、なおさらである。 「信じてくれないのね、ジョン」ディーはみじめな声でいった。「でも、本当だわ。あなたが出発するときには、一緒に行きたい──どこまでも。それがわからないの? わたしの──わたしの願いは、あなたの子を生むことなのよ」  ディーは涙に濡れた瞳で彼を見つめ──この数世紀のあいだの空想で、アマルフィは涙をこぼす彼女をなぜか一度も想像したことがなかったが、現実の彼女は、新地球《ニュー・アース》の空模様のような唐突さで泣いていた──そして、彼の答えを待っている。  彼女としては全てを言いつくしたのだ、そうアマルフィは思った。ディー・へイルズトンが彼に与えたかった至上の物は、これなのだ。 「ディー、きみは自分の言葉がわかっていないんだ! 娘の君を、わたしにいまあらためて与えることなどできはしない──それはどこまでもマークの物だし、君もそれは知っているはずじゃないか。それに、わたしもそんなことは望まない──」  アマルフィは言いやめた。ディーがまたもや泣き始めたのだ。  これまで彼は一度だって彼女を傷つけたいと考えたことはなかった。しかし、それと知らずに傷つけたことは、彼が考える以上にしばしばあったのではないだろうか。 「ディー、わたしは子供をもうけたことがある[#「ことがある」に傍点]」  にわかに彼女は目をみはり、耳をそばだてた。敵意の表情が哀れみに変わるのを見て、アマルフィは顔をしかめた。包嚢をかぶった苦痛を、彼は外科医のように彼女の前で切開していった。 「着陸のあと、人口のバランスが崩れ、女性があり余ってきた頃のことだ──おぼえているかね? あの頃、人工受精計画が行なわれたのもおぼえているだろう? わたしも提供者になることを要請された。それに対する昔ながらの反論は、どの子供がわたしの遺伝子を持っているかを絶対に知らさない、という保証でうまくかわされた形だった──それを知らされるのは、管理担当の医師だけだというのだ。しかし、いざやってみると、前例のないほどの流産や死産と──そして、正常産の中にも、生まれてくるべきでない共通の……ある欠陥を持った嬰児が現われたのだ。わたしはそれを知らされた。市長として、その子達をどうするかの決断を下さねばならなかった」 「ジョン、もうやめて」 「ちょうど、この星雲をわれわれの手で受け継いでゆこうとしている時だ──」アマルフィは仮借なく先を続けた。  しわくちゃの真赤な顔で泣きわめく正常な男児を彼にプレゼントすることだけは、いくらディーが望んでも不可能なのだ。それをわからせるためには、この話をする以外にない。 「──悪性の遺伝子を導入することはできなかった。わたしは生存児の……処置を命令した。そして、遺伝学者達とちょっとした会議を持った。連中はわたしに打ち明けずにおくつもりだったらしい──人のいい阿呆みたいに、その茶番を続ける気だったようだ。しかし、わたしは知っていた。宇宙空間に長くいすぎたために、わたしの性細胞質は取り返しのつかない損傷を受けたのだ。今のわたしは、もう提供者じゃない。この意味はわかるね、ディー?」  ディーは彼の頭を胸に抱きよせようとした。アマルフィは邪慳に体をひいた。まだ彼に何かを与えられると彼女が考えていることが、無性に腹立たしかった。 「市は昔あなたの物でした」ディーは抑揚のない声でいった。「それがいつのまにか成長し、あなたを置きざりにしてしまった。わたしにはそのあなたの悲しみがわかったの、ジョン。見てはいられなかった──いいえ、これがお芝居だという意味じゃないわ。わたしはあなたを愛している、いつも愛してきたと思う。でも、わたし達のための時がもう去っていることに、気がつくべきだったのね。わたしには、あなたにあげられる物がもう何も残っていないんだわ。これまであなたがたっぶりと手に入れた物のほかには」  ディーはうなじを垂れ、アマルフィはぎごちなくその髪を撫でた。それがこんな風に終わらねばならないものなら、いっそ始まってほしくなかった、と思いながら。 「で、これからどうする? 父との生活が、それ以上の物ではないとわかったからには? あらためて、マークのところへ戻れるかね?」 「マーク? 彼はわたしが……家をあけたことさえ知らないわ。妻としてのわたしは、とっくに死んで葬られたも同じよ」  ディーはフッと声をおとした。 「人生って、たえず新しく生まれ変わる過程のように思えるわ。その出生の瞬間を、いつも無傷ですますことが秘訣なのね。さようなら、ジョン」  その秘訣をマスターしたとはとても見えないディーのようすだったが、アマルフィは手を貸そうとしなかった。これからの行く道を見つけるのは彼女の仕事だ。彼にはどうすることもできない。  ディーが言ったことは、おそらく真実だろう──女性としては。しかし、男性にとって、人生とは、幾たびも繰り返される死の過程なのだ。そして──と彼は思った──秘訣といえば、それをチビチビと小刻みにやってのけることなのだ。  何週間かごぶさただったニュー・マンハッタンの街を、ひさしぶりにアマルフィは歩いた。  昔彼が市民のあいだに播種した目的と、これほど無縁な気持を味わうのは初めてだった。その目的が実を結びかけた今になって、彼は矢も盾もたまらないように、それとはかけ離れた何かの目的を探しているのだ。  猫と、鳥と、スヴェンガリと、犬と、そしてディーをあとに残して、誘われるように、アマルフィは荒廃した|渡り鳥《オーキー》都市へ足をむけていた。  〈シティ・フアーザーズ〉の鍵盤へもう少しで着くという時になって、またもや誰かにあとを尾けられているという疑惑が、確信に変わった。一瞬、ディーがまた二人の別れをスポイルしに来たのではないか、と怖れが先に立ったが、そうでないことがわかった。 「もういい、誰だ? コソコソするのはやめて、名を名乗ってみろ」 「市長はぼくなど憶えておられないでしょう」怖気づいた声が、声域をゴッチャにして答えた。 「君をか? 憶えているとも。ウェブスター・へイズルトンだったな。そこにいる君の友達は誰だ? この旧市街で何をしてる? ここは子供の立入禁止区域だぞ」  少年はスックと背中をのばした。 「これはエステルです。彼女とぼくは、今度のことの仲間なんです」ウェッブはしばらく言いよどんでから続けた。「噂に聞いたところだと──つまり、エステルのお父さんはジェーク・フリーマンなんですが、フリーマンさんが遠まわしだけど、そんなことを話してたんです──つまり、市はもう一度空を飛ぶんだそうですね、市長さん──」 「そうなるかもしれん。まだ何とも言えんがね。それがどうした?」 「もしそうなら、ぼく達も行きたいんです」少年は一息にそれをいった。  その時までのアマルフィは、ジェークを改宗させる考えを持っていなかった。どう見ても、へイズルトンと一緒で、かつての理想に幻滅したようすだったからだ。しかし、ウェッブとエステルが代表するフリーマン=へイズルトン連盟を目の前にすると、遅かれ早かれ、ジェークにあらためてその話題を持ち出してみねばならないと思えた。むろん、子供たちに同行を許可することなど論外だ──しかし、親達の意見も聞かず、頭ごなしに禁止してかかるのは、どう考えてもフェアとはいえない。  子供達が冒険に同行した例は、昔の|渡り鳥《オーキー》都市ではめずらしくなかった。しかし、もちろんそれは、都市が子供達の養育について、地上に固着したコミュニティに劣らない設備を持っていた昔の話だ。このところ、彼が手に触れる糸には、とアマルフィは思った──たいていの場合、結び目がくっついているらしい。  だが、その問題に頭をひねることには、運命が猶予をくれたらしかった。今度もまた、ジェークがコンピューター室で彼を待ちうけていたからだ。熱にうかされたように興奮しているジェークは、アマルフィのうしろに自分の娘とウェッブがくっついてきたのを見ても、ほとんど驚きを示さなかった。 「どうにか間にあいましたな」ジェークは前からの約束があったような調子でいった。「このまえ話した新星《ノヴァ》、おぼえているでしょう? 実はあれが新星《ノヴァ》どころじゃなかった。そいつは、天文学的問題でもなくなってしまった。というより、あんたの問題になってきたんですよ」 「どういう意味だ?」アマルフィはいった。「新星《ノヴァ》じゃないとすると、一体何だ?」 「わたしもそれが知りたかった」とジェークはいった。  あらかじめ自分が選んだ経路でしか本題に近づけないのが、この男の腹立たしい欠点の一つなのだ。 「この代物については、分光写真のたいしたコレクションが揃いましたよ。何の先入感もなしにそれを見たら、誰でもそれが一個の天体ではなくて、一つの恒星目録を表わしていると思うでしょうな──それも、ヘルツシュプルング・ラッセル図(恒星の絶対等級を縦軸、スペクトル型を横軸にした図)の全域にわたる恒星を含んだ目録だとね。その上、どの写真についても、吸収線──とくに新地球《ニュー・アース》の大気が提供する吸収線の青色変位《ブルー・シフト》が見られるのです。これが何を意味するかは、今のいままで一向にわからなかった」 「わたしには、今もって一向にわからんね」アマルフィは告白した。 「よろしい、じゃサイズの面から考えてみなさい。これだけの光度を持った天体にしては──いいですか、あれからずっと、そいつは明るさを増しているのにですよ──そのスペクトルがひどくぼんやりしているとわかったとき、わたしはシュロッスのチームに、しばらく反物質はおあずけにして、接近してくる光のウェーブ・トラップ解析をしてくれないかと依頼した。結果は、その約七十五パーセントが|偽 光 子《フォールス・フォトン》とわかりましたよ。あの天体はとほうもない飛行雲の尾を引いているに違いない。もしわれわれがそれを見る位置にあればですがね──」 「スピンディジーだ!」アマルフィは叫んだ。「それも全面減速に近い! だが、あれだけの大きさの物にどうしてそんなことが? ──いや待てよ、あれのサイズはもうわかっているのか?」  天文技師はクックッと笑った。ジェークのその笑い声を聞くと、アマルフィはいつも気の狂ったオウムを思い出すのだ。 「サイズはもちろん、何から何までわかっていますよ。少なくとも天文学に関する限りはね。残りは、さっき言ったようにあんたの問題だ。この天体は直径約七千五百マイルの惑星で、最初考えたよりもはるかに近く──実をいうと、現在すでに大マゼラン雲の中にあって、新地球《ニュー・アース》が属する恒星系へまっすぐに近づいている。スペクトルの変化は、それが通過するさまざまな恒星の反射光であることを意味するし、フラウンホーファー線の青色変位《ブルー・シフト》からすると、その惑星の大気がわれわれのそれと極めてよく似た物であるという可能性が強い。これだけ聞いて、あんたが何を思い出すかは知らんが、何を思い出すべきかは明らかですな──〈シティ・ファーザーズ〉もわたしの見方に賛成してくれましたよ」  ウェッブ・へイズルトンが辛抱しきれなくなったように口をきった。 「わかったよ! ぼくにもわかった! 惑星ヒーだ! あの星が帰ってきたんだ! そうでしょう、市長さん?」  少年は市の歴史に明るいらしい。もちろん古い連中なら、いまジェークのひけらかしたデータを示されれば、きっと同じ臆測をしたことだろう。  惑星ヒーは、かつてニューヨークの手がけた最大の請負工事の一つだった。だがその結果は、あるこみいった事情のために、惑星の本体へ何基かのスピンディジーをとりつけ、その太陽をめぐる公転軌道からヒー星をひき離して、完全な操縦不能状態のまま銀河系から放り出し、|島 宇 宙 間 空 間《インターギャラクティック・スペース》をよろめき進ませることになってしまったのである。  その惑星に負ぶさったまま、かなりの距離を運ばれたおかげで、ニューヨーク市自体は、警察の追求をくらまして銀河系に再進入することができたが、全く危機一髪のところだった。そして、惑星ヒーそのものは、市がそれに別れを告げ、吹き消されたローソクの炎のように、おたがいの姿を突然に、また決定的に見失った三八五〇年以来、アンドロメダ星雲をさしてまっしぐらに突進しているはずなのだった。 「結論に飛躍するのはよそう」アマルフィはいった。「ヒー星の離脱が起こったのは、たった一世紀半ほどの昔だ──当時のヒー星人は、スピンディジー航法をマスターする工学技術も、科学的素養も持っていなかった。正直いって、彼らは未開人とおっつかっつだった。利口な未開人には違いないが、やはり未開人であることに変わりなかったのだ。こっちへ接近してくるその惑星というのは、本当に人力で操縦された物なのか、それとも、そこまではわかっていないのか?」 「少なくとも、そう見えますな」ジェークはいった。「最初に、わたしがその天体の不自然さに気づいたのも、それがもとだった。速度と飛行方向がたえず不規則に変化している──つまり、その変化が意志的な物であると考えねばとても辻褄の合わないような、全く偶発的な形で運動しているんですよ。彼らが誰であるにせよ、その世界をジグザグに動かせる連中なのは確かだ。それに、われわれの方へ向かっているんですからな、アマルフィ」 「連中が誰かはともかく、連絡はとってみたのか?」 「それがまだなんですよ。実は、まだ誰にもこのことは話してない。マークにさえね。どうしてだか、これはあんたの仕事だと思えたもんだから」 「そのお心遣いは無駄という物だろうな、ジェーク。シュロッス博士はバカじゃない。彼にだって数字は読めるし、きみの質問から明白な結論をひき出すぐらいはやってのけるさ。おそらく彼はすでにマークに報告しただろう。それでいいのだ。今ごろマークは、君の天体を呼び出しているに違いない。それを確かめに、これからみんなで司令室へ行ってみようじゃないか」  亡霊に憑かれた|渡り鳥《オーキー》都市の街路を歩く一行は、奇妙なとり合わせだった。  禿げ頭と酒樽のような胸を持ち、火の消えた葉巻をきつくかみしめた市長、どこか小鳥に似た、やや気落ちした顔の天文学者、そして、ときには先に立ち、ときには道案内を求めてうしろに続く、目を輝かした子供達。若い二人の熱心さはアマルフィを思わず感動させ、そして、飛行都市の復活の夢が、いつもこのようにはかない物だったことを、またしても認識させるのだった。  接近しつつある自動惑星が何の前兆であるにせよ、それが今のはかない夢にとどめの一撃を与えることは確かだ。その惑星を育ててきた厳しい現実と冷たい朝の光は、遠い大昔から夢には致命的な敵であったのだから。  ふと思いついたアマルフィは、昔なじみのステーションで歩みをとめ、エアタクシーを呼んだ。市が死滅して久しい現在でも、まだ〈シティ・ファーザーズ〉が交通機関を保存する価値があると考えているかどうかを、確かめてみたかったのである。ほどなくタクシーは到着し、子供達は歓びの声を上げたが、アマルフィはそれがフェアなテストでなかったことに気づいて、重い気分だった。  仮に今から百万年後であっても、市の原子炉に一エルグのエネルギーでも残されている限り、〈シティ・ファーザーズ〉は市長のために迎えの乗物を出そうとするだろうからだ。車庫の全部がまだ健在かどうかも知りたくなったが、これは直接に〈シティ・ファーザーズ〉へ質問しなければ、わかるはずがなかった。  しかし、ウェッブとエステルの方は金属とクリスタルの泡玉《バブル》に乗って、静寂に閉ざされた市街の大峡谷を渡ることに、そして|ロボット運転装置《テイン・キャビー》の限定された、だが極めて礼儀正しい応答を引き出すことに、すっかり大喜びだった。さっきまでの大人びた態度を置き忘れたように、キャッキャと騒いでいた。ブリキの運転手が、その脳髄である黒い小箱に刻みつけられた巧妙な手ぎわで、市の建物を削りとるように急カーブを切る時には、あまり怖ろしそうでもない悲鳴も上げてみせた。  タクシーは市庁広場にゆっくりと降下した。市の古いモットー──〈奥さん、芝生刈りのご用は?〉──の彫り文字が、たとえ子供達がそのありかを知っていても、すでに判読できなくなっているのは、残念なことだった。それがあれば、せめて|渡り鳥《オーキー》都市がなぜ昔空を飛んだかの理由だけでも、若い二人に示してやれただろう。だが、どのみちそのモットーはずっと昔に消えてしまっていたし、その意味もそのしばらく後には忘れられてしまった。そして今はその記憶だけが、もし市がふたたび飛行するとしても──そして、にわかに今の彼はそれを信じられなくなっていたが──それは請負仕事で芝生を刈ってまわるためではないだろうことを、アマルフィに語りかけるのだった。芝生はすでにない。それはすでに終わったこと、ケリのついたことなのだ。  市庁舎の司令室は、当然のことながら、子供達をすっかり言葉少なにさせた。これまで百歳以下の人間は立入りを許されなかった部屋でもあるし、その壁をとりまいたスクリーンは、そのドラマにおいて(あるいは面白さだけでも)、新地球《ニュー・アース》のどんな空想の未来物語さえかなわない、歴史上の事件を現実に映し出してきたからでもあった。  その薄暗い、古い匂いのよどんだ部屋にいま彼らといる男は、一島宇宙を支配する種族の興亡を、その目で見てきたのだ──この子供達は、確かにその種族の遺伝的部分に違いないが、その後継者にはどうあがいてもなれないだろう。歴史は彼らの横を素通りしてしまったのだ。 「何も触ってはいかんよ」アマルフィはいった。「この部屋の中のあらゆる物は、まだ多少とも活動している。完全に市を武装解除する暇がなかったのだ。今でも、そうできるかどうか疑わしい。ここが立入禁止なのはそのためだ。ウェッブもエステルも、わたしのうしろで見ていなさい。それなら、管制盤にも手がとどかないだろうから」 「ぼく達、何も触りませんよ」ウェッブはむきになっていった。 「君達が故意に触らないだろうことはよくわかる。だが、万一の事故を起こさせたくはない。まず、管制盤の使用法をABCからおぼえた方がいいね。ここへ立ちたまえ──君もだよ、エステル──そして、お祖父さんの家を呼び出してもらおう。その透明なプラスチック・バーを押したまえ──そう、そしてランプがつくのを待つ。これで、君が市外の誰かと話したいことを、〈シティ・ファーザーズ〉に知らせるわけだ。これは肝心だよ。そうしなければ、向こうはきっと君につべこべ文句を言いだすから。さて、バーのすぐ上に、赤いボタンが五つ並んでいるのが見えるな。触るのは第二のボタンだ。四と五は超波通信《ウルトラフォン》とディラック放送で、近距離交話には必要ない。一と三は市内幹線だから点灯しないんだ。さあ、いいから押してごらん」  赤く輝いたボタンに、ウェッブはおずおずと指を触れた。  頭上で声が響いた。 「連絡課」 「さあ、交代しよう」  アマルフィはそういうと、マイクをとり上げた。 「市長だ。支配人《マネージャー》を呼び出したい。大至急」そして、マイクを置いてつけ加えた。「連絡課は、今から心当りの全チャンネルを走査して、君のお祖父さんのいる場所へ『呼び出し』のシグナルを送るんだ。新地球《ニュー・アース》の病院でも、医師のために同じような呼び出しシステムを使っているがね」 「呼び出すところが聞けますか?」エステルがいった。 「いいとも、そうしたければ。そら、これがマイクだ。ウェッブのやったように、第二ボタンを押してみたまえ。そう」 「道路課」姿のない声が、キビキビと繰り返した。 「『反復願います』と、お言い」アマルフィは小声で教えた。 「反復願います」少女はいった。  とたんに、大昔の部屋は、あらゆる影が銀の喉を持った小鳥を一羽ずつ隠してでもいるように、澄みきった単音と和音のさえずりに満たされた。エステルはもう少しでマイクを手からとり落しそうになった。  アマルフィは優しくそれを取りあげながら説明した。 「機械は人間を名前で呼ばない。言葉をしゃべれるのは、〈シティ・ファーザーズ〉のような複雑な機械だけだ。通信課のように単純なコンピューターには、音楽を使う方が楽なのだよ。しばらく耳を澄ましていると、あるメロディーが聴きとれるだろう。それがウェッブのお祖父さんのコードだ。いろいろの和声《ハーモニー》は、コンピューターが彼を探している場所をそれぞれ示しているんだ」 「すてきだわ」エステルはいった。  同時に、カチッと金属音がして、見えない小鳥のさえずりがやみ、マーク・へイズルトンの声が空中から聞こえた。 「市長《ボス》、お呼びでしたか?」  アマルフィは苦笑をうかべて、マイクロフォンを口に近づけた。子供達のことはもう念頭になかった。 「決まっとるじゃないか。れいの接近してくる飛行惑星のことは知っているな?」 「ええ。あなたが興味をお持ちとは知らなかった。実をいうと、きのうシュロッスとカレルがその話でやって来るまで、それが恒星じゃなく惑星だということも知らなかったのです」  アマルフィはジェークに意味ありげな目くばせをした。 「いま呼び出しているのは旧市からですね? 〈シティ・ファーザーズ〉はどう考えているんです?」 「知らんね。まだ話してはおらん」とアマルフィはいった。「だがここにいるジェークも、おそらく君のそれと同じだろう明白な結論に達しているよ。わたしが訊きたいのは、君、またはカレルが、すでにその天体と連絡を試みたか、ということだ」 「やるにはやったが、あまり成功とはいえなかったですな」へイズルトンの声はいった。「ディラックで四、五回呼んでみましたが、仮に相手が返事をよこしたとしても、銀河系からの騒々しいディラック放送に混じって、行方不明になるのがオチだ。とすると、ちょっと首を傾げたくなるんですがね。つまり、連中は疑いもなくわれわれの方へ帰還しつつある。だが、それはわれわれからのどんなシグナルに導かれているのか、ということですよ」 「君は本当にヒー星が帰ってきたと思うか?」アマルフィは慎重にいった。 「そう思いますね」へイズルトンも同じ慎重さで答えた。「いままでのデータから、ほかにどんな結論の出しようがあります?」 「では、頭を使うんだな。もしそれが間違いなくヒー星だとすると、ディラック放送では絶対に連絡がとれまい。ヒー星にいた時、われわれは一度もヒー星人にディラック放送を聞かせなかったし、ディラック送信機を見せたこともなかった。彼らはそうした宇宙的な通信手段が存在することも、また存在しうることも、知るはずがないのだ。それに、万一これがヒー星でなく、別の島宇宙から、われわれの知らない全く別種の文明からやってきた探険船だとすれば、当然彼らはディラックを持っていないことになる。でなければその装置を開発した日から、彼らは銀河系から発信される百万ものディラック波メッセージを受信しているはずだ。それより、超波通信でやってみたまえ」 「われわれがヒー星と別れたとき、連中は超波通信《ウルトラ・フオン》も持ってなかったのですよ」へイズルトンはおもしろそうにいった。「われわれでさえ、スピンディジー遮蔽《スクリーン》を貫通して超波通信の搬送波を送ることができないのに、連中がそれをやれるとは思えませんな。まあそこまで原始的な通信手段に戻らねばならないものなら、いっそのこと手旗でも振ったらどうです?」 「わたしは、あの惑星がここへくる道すがら、おそらく超波メッセージを出していると思う」アマルフィはいった。「あの惑星のとっているコース、つまり、大マゼラン雲のような人口過密域の飛行には、普遍的な識別シグナルを先行させることが常識だが、ディラック信号ではそれはできない。あらゆる位置で、その発信と同時に受信できるようなシグナルは、適当な指標《ビーコン》信号とはなりえないからだ。これがヒー星か、それとも未知の世界からの来訪者かということは、この場合関係ない。彼らは何らかの信号波《ピッブ》を先行させねばならず、ほかに方法がない以上、絶隊に超波を使わざるをえない。もしスピンディジー遮蔽《スクリーン》にパンチ穴をあけて、超波信号を送ることがどうしても必要なら、彼らはそれをやりとげただろうし、君もそれを聴取する努力をすべきなんだ。そして、同じパンチ穴に向けて返信を送ればいいのだ」  アマルフィは大きく息を吸いこんだ。 「少なくともだな、マーク、やりもしないことを不可能だと称して、わたしの時間をつぶすのはやめろ」 「叱られちゃってる」  ウェブスター・へイズルトンは思わず声に出していうと、耳まで真赤になった。そのうしろで、エステルの父親がけたたましく笑った。  しかし、アマルフィもこころえているように、この数十年来、へイズルトンに対する戒告の効き目はますます薄れていた。たぶんそれは、ディーに聞かされるまでアマルフィが知らなかった、れいの推計主義へのへイズルトンの傾倒に原因しているのだろうか。それとも、ひょっとしたら──これはより好ましくない可能性だが──新地球《ニュー・アース》でのアマルフィが無力感を深めてゆくのを、彼自身と平行して、へイズルトンも感じとっているからかもしれない。 「しかし、市長《ボス》」と、へイズルトンは生真面目な声に戻っていった。「もう一言だけいわせてください。仮に、われわれの受信できる超波通信を出しているとしても、連中はまだ約五十光年の向こうにいます。彼らがわれわれの超波送信を受けとり、そして同じ方法でふたたび返信してくるまでには、もうこっちはつぎの千年期に七十五年間も突入しているわけですよ」 「なるほど」  アマルフィはうなずいた。 「とすると、こっちで船を派遣せねばならんわけだな。どのみち、コンタクトのために十年やそこらは掛かってもいいと、わたしは思ってる。第一、相手の意図もわからないのだし、事によっては防禦を整えておく必要もあるからだ。しかし、カレルには、来週初めまでにわたしを乗せて出発できるよう準備しろと伝えてほしい。それまでは、あの来訪者が放送しているだろう通信文を、何とか傍受するよう手をつくしてくれ。返信の件は、あとで船上から指図する」 「了解」  へイズルトンはそういうと、スイッチを切った。 「ぼく達も行っていいでしょうか?」ウェッブが間髪を入れずにいう。 「君はどう思うね、ジェーク? この子供達はさっき、わたしと一緒に市へ乗りこんで出発したいとまでいってたんだ」  天文技師は微笑すると、肩をすくめてみせた。 「この子が誰から宇宙飛行の趣味を受けついだにしろ、このわたしからじゃないことは確かだね。いや、そのうち言い出すだろうとは思ってましたよ。どのみち、あまり年をとらないうちにそんな経験をしとくことも必要だし、それにこの二つの島宇宙の中で安心して子供をまかせる指揮者といえば、さしずめあんたしかない。家内もたぶん承知するでしょう──わたしと同じで、不安がりながらね」  ウェッブが拍手した。だがエステルの方は、いとも実際的な口調でこういっただけだった。 「あたし、おうちへスヴェンガリを連れに帰ろうっと」 [#改ページ]     3 時のゆりかご  五十万マイルの距離を隔てていても、惑星ヒーが、三八五〇年にアマルフィが最後にその姿を見た時から、大きな変貌をとげたことは一目でわかった。  |渡り鳥《オーキー》達が最初にその星に出くわしたのは、さらにそれから六年前であり、当時のそれは、ある放浪星に随伴する唯一の肥沃な惑星として、広大な天空の砂漠をさまよっていたのだ。その天空の砂漠は、|銀河の腕《スパイラル・アーム》の間隙に見られるような、ありふれた星のない空間ではなく、その誕生のメカニズムを、宇宙そのものの生因と同じように厚いヴェールで包んだ、〈|裂け目《リフト》〉と呼ばれる大峡谷なのだった。  最初の印象でも、ヒー星の歴史が異常に錯綜した物らしいことはわかった。当時のヒー星は、丈なすジャングルに極から極までを覆われた、エメラルド・グリーンの世界だった。このジャングルが、そう遠くない昔この惑星に存在した高度の文明を窒息させてしまったのだ。  着陸のあと判明した事実は、この上ない複雑怪奇な物だった。銀河系の中で、これほど数奇で致命的な事件の数々を経験した惑星は、まずほかにないといえた。その全てと執拗に格闘してきたヒー星人も、|渡り鳥《オーキー》達が到着した時代は、もう彼らを救う物は奇蹟しかないと考えるようになっていた。  ヒー星文明にとって、|渡り鳥《オーキー》はその奇蹟だった。彼らはヒー星人を援助して、その奥地に割拠する匪賊を征服し、惑星全域に広がったジャングルを、唯一の可能な方法──ヒー星の気候の急激かつ永続的な変化──で駆逐した。  この地質学的革命が、惑星そのものを操縦不能状態で銀河系外へ飛行させる形でしかなしとげられなかったのは不幸ともいえるが、当時のアマルフィはそう考えなかった。ヒー星人が儀式的な顔の彩色や、羽根飾りの裏にひそませている、怜悧さと工学技術の天分をアマルフィは高く買っていたし、その惑星を生命の塒《ねぐら》として保存するため必要な技術を、彼らが危険限界のやってくるまでに習得するだろうと信じてもいた。  なにしろ、ヒー星人はかつて偉大な時代を持った種族であり、|渡り鳥《オーキー》が初めて接触したときでさえ、長いジャングルとの闘争と内乱を経たあとだというのに、まだラジオ、ロケット、ミサイル兵器、超音波などという文明の利器を残していたぐらいなのだ。そして、|渡り鳥《オーキー》との短い接触期間のあいだにさえ、核分裂とか化学療法とかいう、中近世ないし近世の科学技術を、着々と復活させていたのである。  それに加えて、ヒー星にはスピンディジーもあるのだ。その何基かはニューヨーク市から運び込まれ、残りは新しく建造された物だったが、必要上から、そっくり完全な状態でそこへ残されている。ヒー星人が少なくとも知的な目でそれを研究すれば、その作動原理の手がかりをつかむことは間違いないし、ジャングルが消滅してしまえば、それを実地に応用することも難しくない。それまでのあいだ、スピンディジーは島宇宙間空間の深淵の極寒の中で、惑星の大気と地熱を保存する役目を果たす。そして、ヒー星人に緩和はできても排除のできようがない深淵の暗黒が、ジャングルを抹殺するのだ。  とはいうものの、ヒー星がわずか一世紀半のあいだに、スピンディジー推進のコントロールを完全にものにして帰ってくるとは、アマルフィでさえ予想しなかったことだった。  近くのケフェウス型変光星の光で眩ゆい白色に輝いた雲海の下に、開拓地の青緑の斑点がかすかにのぞいている。その放浪天体がヒー星であることは、アマルフィの予言どおり、へイズルトンがその天体の超波先導ビーコンを確認した瞬間から、新地球《ニュー・アース》ではもう疑いない事実と受けとられていた。  そして、カレルが、宇宙船をこの新しい惑星と呼べば答える距離にまで近づけ、スピンディジー推進を切って五分とたたないうちに、アマルフィはヒー星の代表と会談に入った。相手は、百五十年前、|渡り鳥《オーキー》がこの星と交渉を持った当時からの指導者、ミラモンであり、二人ともが、おたがいのまだ生きていることに驚いているのだった。 「もっとも、わたしが驚くのは滑稽というものだろう」ミラキンは、磨き上げられた黒い木製の大会議卓の上座からいった。「何しろ、わたしでさえ、この星の歴史に記録されたどの首長よりもはるかに高齢で、まだ生き長らえているのだし、しかもこれすら、初めてお会いした時、あなたがすでに達しておられた年齢に比べれば、わずか何分の一にすぎないのだ。だが、古い考え方の癖はにわかに改まらないらしい。  あなたに与えられたヒントに基づいて、われわれはジャングルが滅びるまでに、何種類かの野草から抗老化剤《アンチ・アガシック》を分離精製できるまでになっていた。ところが、新しい環境ではこれらの薬草が栽培不能とわかり、あとはその物質を合成する以外になくなった。急いでそれを完成する必要に迫られたわれわれは、幸いそれから三世代目に人工合成に成功した。だが、そこに到るまでのあいだは、乏しいストックのために、われわれがいまだに天寿と考えている物を越えて生き長らえることは、限られた少数にしか許されなかった。  アマルフィ市長、そんなわけで、今のこの星の住民の大半にとって、あなたは伝説的存在であり、星の彼方の限りない知恵を体現した不死の人と仰がれている。そして、このわたしも、いつかあなたをそんな風に考えるようになってしまったのだ」  首長のしるしである鋸歯のような黒い大きな羽根飾りを、まだその髭《まげ》に差してはいるが、今日のミラモンは、昔、アマルフィのすすめた椅子を神々にのみ許された特権だということで断わり、あぐらをかいて坐ったことのある、あの機敏で、しなやかで、あくまで現実的な半未開人の面影を、ほとんど留めていなかった。日焼けした皮膚はまだ皺一つなく、目もいきいきと輝いており、そしてゆたかな髪の毛だけがすっかり真白になって、『自然寿命』の中年すぎから抗老化剤を用い始めた人間の特徴である、青年とも老年ともつかない状態にすっかり落ちついているようだった。  顧問達の大部分も、ミラモンと同じような外見をしていた。ただし、『自然寿命』の七十歳代になるまで、どうやら抗老化剤の服用を許されなかったらしい人間も一人二人いて、この会議の席に、数多い皺の生み出す外見的な賢明さと、肉体的虚弱さと、そしてかすかな反発と一緒にひそかな羨望も感じさせる中性的な雰囲気を持ち込んでいた。  人類全体にとって、こうした身体型性格《ソマトタイブ》は、年経た知恵という生理学的烙印としての特許をとっくの昔に失っているはずだったが、この新規加入の不死人達のあいだでは、そしてアマルフィにさえ、奇妙な権威を発散しているように映るのだった。 「抗老化剤が合成できたというのは、諸君が人類の歴史の誰よりもすぐれた化学者だという証明だ」アマルフィはいった。「何しろ、自然界からこれまでに発見された、もっとも複雑な分子だからな。たとえ一種類でもそれを合成できたという話は初耳だよ」 「いや、われわれが合成できたのも、実はただの一種類だけだ」ミラモンは告白した。「しかも、この合成物質には、わずかながら好ましくない副作用があって、まだそれを取り除けない現状なのだ。ほかの数種類は、人工気候の中でも栽培できる天然のサポゲニンで、二、三の醗酵過程を経ることによって、抗老化剤に修正できるとわかった。最後に、非常に有用性の範囲の広い別の四種類は、醗酵だけで生成している。培養波を入れた深い醗酵槽で培養した微生物を使い、そこへ比較的単純で廉価な前駆物質《プリカーサー》を与えてゆくのだ」 「実は、われわれもそれと同じ方法で、最初のそれ──アスコマイシン──を作ったんだよ」アマルフィはいった。 「やはり、わたしの初めの判断で当たっていたわけだ。化学者としての諸君は、われわれより段違いに優秀らしい」 「では、われわれが探し求めているのが、化学者としてのあなたがたでなかったことは、われわれだけでなく、あらゆる星のあらゆる知的生物にとっても、幸運だったわけですな」  ニコリともせずにいったのは、レトマという顧問だった。  ヒー星が飛行に入るまえ、最後の内戦で完全に破壊されたが、いまではピンクの大理石で再建され、惑星第二の町になっているかつての不法都市、ファブル・スート出身の科学者だ。 「それが、わたしの一番聞きたい質問につながるね」アマルフィはいった。「一体、なぜ諸君は戻ってきたのだ? 特にこのわたしを探していたとは、とても考えられない。わたしがこの区域の数千パーセク内にいると考える根拠は、どこにもなかったはずだ。われわれが最後に別れたのは、銀河系の反対側だった。どうやら諸君は、アンドロメダ星雲への道のりの半分も行かないうち、スピンディジー装置の集約制御に自信を持った瞬間から、もと来た道を引き返しにかかったらしいな。わたしが知りたいのは、何が諸君を戻らせたかなのだ」 「その指摘は正しくもあるし、間違ってもいる」ミラモンはかすかな誇りらしいものをこめていった。  くそ真面目な表情なので、ハッキリそうとは言いきれない。 「アマルフィ市長、われわれが反重力機械の制御をかなりな程度にマスターしたのは、あなたとお別れして約三十年にしかならない後だった。この発見の完全な意味がのみこめたときは、有頂天になったものだ。これでわれわれは文字どおりの遊星《プラネット》、みずからの選ぶところへおもむき、ある恒星系に落ち着いては、また好きな時にそこを去ることができる放浪星を獲得したのだから。当時すでに自給自足体制はほとんど確立しており、あなたの市やその敵のように、移動労務者になる必要はなかった。そこで、せっかく第二の島宇宙への旅路をここまで来たのなら、この惑星のような巨大質量が出せる無制限に近い速度を利用して、そのまま探険へ前進しようと考えたのだ」 「アンドロメダ星雲へかね?」 「そう。そしてその彼方へも。むろん、銀河系におとらぬ厖大な島宇宙のことだから、われわれが見たのはごく一部にすぎない。その限りの印象では、あなたがたやわれわれのような、広範囲に広がった航宙種族は見あたらなかった。だが、ああした短期間の抽出調査では、居住恒星系を見逃したとも充分考えられる。いずれにせよ、当時われわれはすでに、その後の生活と行動を決定するたぐいのある発見をしたあとであり、早々に帰還せねばならないことはわかっていた。  われわれはアンドロメダ星雲を去って、その随伴系に向かった。この星の〈黄金時代〉から伝わる星図では、M−33と呼ばれている星雲だ。そこから、さらに小マゼラン雲へむかって、百五十万光年の空間跳躍《リープ》を行なった。あなたがたがわれわれを探知したのは、小マゼラン雲から大マゼラン雲へ移動していた時だ。あれは確かに、全くの偶然だった。われわれはあのまま銀河系に直行し、地球を目ざすつもりでいたのだ。地球なら、あなたとの経験から推し量っても、われわれの発見に対処できるだけの偉大な知識の宝庫が見出せると思えたからだった。われわれ自身の持つ知識だけでは不充分なことは、最初から疑う余地がなかった。  だが、アマルフィ市長、その帰還の途中であなたがたに発見されたことは、最大の吉兆ともいうべき偶然だ。神がこうした偶然をみそなわしたのでなければ、起こりうべくもない不可能事だ。なぜなら、地球以外でわれわれに力をかすことのできる人物がいるとすれば、それは、アマルフィ市長、あなただろうから」 「昔の君は、そう信心深いたちじゃなかったぞ」アマルフィはこわばった微笑でいった。 「考えは年とともに変わる。でなくて、年齢に何の意味があろう?」 「歴史もそれと同じだ」アマルフィはいった。「わたしが役に立てるかどうかはともかく、諸君が銀河系へ戻る前にここで会えたのは、全く幸運だった。地球はもはや昔の支配的地位を占めていない。母星雲《ホーム・レンズ》からここへ届いてくるメッセージは、おびただしい数がごった返しているので、実際に向こうで何が起こっているかを理解するのは難しいが、一つだけは確かだ。いまあそこには、新しい巨大な帝国が生まれ、かつての地球や、その一つ前の時代のヴェガを思わせる強力な物に成長している。それはみずからを〈ヘルクレスの網〉と呼ぶ文明で、地球の星間帝国は、それに対してほとんど抵抗もしていないらしい。もし忠告をというなら、母星雲へは近づくなと注意しておきたい。でないと、諸君までとばっちりを食うおそれがある」  ヒー星人の議場に長い沈黙がおりた。やがて、ミラモンが口をきった。 「となると、われわれの頼みとするものも限られてきたわけだ。これまで何度か疑ってみたように、元々その解答は得られないのかもしれない。あるいは、神々がわれわれを唯一の知恵の源へ導かれたのかもしれない」 「それはまもなく明らかになるでしょう」レトマが静かにいった。「何を知るにせよ、それだけの時間がその時に残されていれば。あるいは、それを記憶する時間が、そのあとに余されていれば」 「諸君のしゃべっていることがこうちんぷんかんぷんでは、役に立ちようもないじゃないか」  そういいながらもアマルフィは、ヒー星人達の口調の真剣さに、少なからず気押されていた。 「諸君を引き返すように仕向けた発見というのは、一体何だ? 諸君が怖れているらしい、その来たるべき事件というのは、どんなことなのだ?」 「つまり」と、レトマが抑揚のない声でいった。「時間そのものの終末が近づいている、ということなのです」  ヒー星人がその説明を終えたあとでさえ、しばらくアマルフィは、彼らが本気だと信じる気になれなかった。|渡り鳥《オーキー》が初めて接触した頃、ヒー星人達がその虜になっていた、辺境の星に特有の迷信の一つだぐらいで片づけたい気持だった。  時間に終末があるという考えは、アマルフィの長い人生のあいだの何者でさえ、一時も彼に受けいれさせることのできなかった命題である。ヒー星人が島宇宙間の深淵で発見した物が、切迫した意味を持つ現実の事件であり、またアマルフィ自身の同族──とくにシュロッスのグループ──が、その現象と意味を実証しようとしている物であることが、心ならずも明らかになった時でさえ、彼は即座にそれを却下するだけのことしかできなかった。  続いて、宇宙船の船内で開かれた会議──これには、ミラモン、レトマ、シュロッス博士、カレルのほかに、ディラック通信で、新地球《ニュー・アース》上のジェークとギフォード・ボナー博士も加わった──の席上で、アマルフィはそれをハッキリと口にしてみた。 「もし諸君の言葉が事実だとしても、どうにもならんことだ。時が終末を迎える、それはそれとしておこう。だが、わたしの歴史の記憶によると、世界の終末はこれまでにも何度となく予言されたにかかわらず、われわれはまだこのように健在でいる。この物理的な全宇宙という厖大なプロセスが、まばたきするあいだに終わりを告げるというような話は、わたしには到底信じられないし、信じることができない以上、今突然信じたような格好をして見せることもできん。ほかの誰かがそうするとしたら、わたしには理解の及ばんことだ」 「アマルフィ、全くそのとおり! あなたは理解できていないのだ」シュロヅス博士がいった。「むろん、宇宙の終末は、これまでにもたびたび予言された。それはあらゆる哲学者に課された、二つの角《つの》を持つ選択なのだ。宇宙がいつかは終末に達すると考えるか、あるいは絶対に達しないと結論するかのどちらかしかない。もっとも、中間的な推測も存在はする。宇宙の循環説もその一つだが、本質的にはそれは単なる両天秤にすぎない。  もし宇宙が限定された寿命しか持たないと結論された場合には、手に入る限りのデータを動員して、その寿命がいつ終わりにくるかを知る努力を始めねばならない。宇宙が永遠に存在できないことは、さっきの両天秤がどうであれ、何千年期にわたって意見が一致している。だから、その終末の日付を決定する以外に、いまさら論争の余地はないのだ。遅かれ早かれ、その日付を最終的に算出できるだけのデータが集まる日は、やってくる運命だった。  いまヒー星人は、そのデータをもたらしてくれた。終末の日付は、それがいつであるにせよ、すでに否応なしに決定されているのだ。もしこの問題をすくなくとも理性的に論じ合おうというなら、まず、すでに決定した事実から手をつけなくてはならない。もはや反論の余地はない。これは事実なのだ」  アマルフィは鋼鉄を思わせる声でいった。 「わたしには、諸君が一人残らず、静かな発狂をとげたとしか思えん。この問題については、すでにわたしがそうしたように、〈シティ・ファーザーズ〉の意見にしばらく耳を傾けてみてはどうだ。お望みなら、いまこの場からディラック放送で直結してもいい。連中が蓄えた遠い昔の記憶──そのある物は、宇宙飛行の開始よりはるか以前まで遡っている──が聴けるだろう。われわれの市は、それほど古い歴史を持っている。  とくに諸君に聞かせてやりたいのは、ある人間が全能者と直通線を持ったと信じたとき、種子から植物が芽生えるような不可逆さで考えつく、世界の終末に関しての物語だ。その物語のいくつかは、むろん、ただのジョークにすぎん。たとえば、地球が平たいことを知っていた[#「知っていた」に傍点]ヴォリヴァという男のでっち上げた数多い予言もそれだ。また、スピンディジーと抗老化剤が発見された時代の地球を風靡していた再臨教という宗派が、飽きずに繰り返したアルマゲドンの予言もそうだ。  しかし、高度の知能の持ち主でさえ、こうした根拠のあやしい気違い沙汰に陥ることは避けられない。地球に宇宙飛行が生まれる七世紀前、ベーコンという、当時のもっともすぐれた科学者は、反キリスト出現の日が迫っていることを予言したが、これは彼の考え出した科学的方法が同時代人に採用されなかった腹いせにすぎなかったのだ。  もう一つの例をつけ加えさせてもらおう。地球で宇宙飛行が開始される直前の十年間、当時の最良の頭脳は、人類と全ての大気呼吸生物に、何の未来もないと考えていた。世界的規模の熱核兵器戦争による全面的な破滅が、わずか二十分以内に起こりうるような状態が、八年あまりも続いていたのだ。そして、彼らのその意見は間違っていなかったのだよ、シュロッス博士。  当時の世界は、事実彼らのいう二十分間で終末を告げたかもしれない。その可能性は確かに存在したが、地球はどうにかそれを生きのびたのだ。ちょうど、夜に束縛された人々の亡霊が、真夜中でもスイッチ一つで明りを生み出せるようになったとたん、その神話から蒸発したのと同じように、局地的宇宙飛行が、星明りにさらされて、燃えつきた亡霊となる日までを、何とか生きのびたのだ」  アマルフィは、宇宙船の星図台のまわりに居並んだ顔を見まわした。  視線を合わせてくる人間は、ほとんどいなかった。テーブルの上か、自分の手を見つめている者ばかりだ。まるで大量殺人者の精神異常の申し立てを聞いている陪審のように、気のない表情だった。 「アマルフィ」突然ジェークの声がディラック放送で聞こえてきた。「法廷弁論の時間は終わりましたよ。この問題に二つの側面はない。あるとすれば、真実側と誤謬側とだけだ。さしずめ、あんたは誤謬側の名弁護士というところでしょう。あんたの弁論は聴き物だったが、真実側が弁護人を必要としない以上、無駄な努力でしたな。  ところで、残りのご一同に質問したい。これから、われわれは何をなすべきなのだろう? そこには、ヒー星の諸君が考えているように、何か手の打ちようがあるのだろうか? わたしとしては、どうもそう思えないんだがね」 「わたしもだ」  シュロッス博士がいったが、その態度には、この結論から予想されるような暗さはなかった。というより、アマルフィがこれまでついぞそんな彼を見たことがないほど、旺盛な興味にとりつかれたようすだった。 「一時的生物が時の終末を越えて生きのびようとするのは、魚が太陽の中へ投げこまれてなお生きのびようとするのと同じように、無益なことだ。このパラドックスは一目瞭然だし、回避の道はない」 「技術的問題が解決不可能だったためしはないぞ」アマルフィは我慢できないようにいった。「ミラモン、こういう判断を許してもらえれば──いや、許してもらえなくとも、あえてわたしは言うがね──君は、フリーマン博士やシュロッス博士と同じ病気に罹っている。君は若年寄りになってしまった。冒険の精神をなくしてしまったのだ」 「そうとばかりはいえない」傷つけられた失望の表情で、ミラモンはアマルフィを見つめながら、重々しくいった。「少なくとも、まだわれわれは、解決の道がないとは考えていない。もし、ここでそれが見つからなければ、協力の相手、解決のヒントを与えてくれる誰かを探すため、われわれはさらに旅を続ける覚悟でいる。もし誰も見つからなければ、その場合は自力で解決への努力を続けてゆく」 「そうこなくちゃ嘘だ」アマルフィは熱を込めていった。「よろしい。わたしも一緒に行こう。故郷の銀河系へは戻れないが、つぎの島宇宙としては、NGC6822がある。ここから約百万光年──君の星にとっては、ほんの一跳びだ。ともかく、それなら行動といえるじゃないか。ここで手をこまねいて、天災が降りかかるのを待つのはまっぴらだね」 「それは目的のない行動ではなかろうか」ミラモンは生真面目にいった。「〈ヘルクレスの綱〉とやらが何にしろ、それと係わり合うことが危険で愚かだというあなたの意見には同感だ。しかし、われわれに手をかして全宇宙を救える高度の文明にめぐり逢おうというはかない希望だけで、島宇宙から島宇宙をたずね歩くのも、やはり無意味だと思う。その希望は抱いているとしても、それがわれわれの旅の最終目標とはなりえない。究極の目的地は、あらゆる時空間の島宇宙の要《かなめ》である、超銀河系《メタギャラクシイ》の中心であるべきはずだ。宇宙のあらゆるエネルギーが動的平衡にあるそこでしか、来たるべき終末からの脱出、あるいはその修正への可能性は望みえないのだ。  ともかく、その瞬間が訪れるまでには、あといくばくの時日もない。そして、アマルフィ市長、何よりもまず、これは単なる技術的問題ではない。これは宇宙そのものの基本的構造に最初から書きこまれた終末、原初において、われわれの知らない何者かの手によって書きこまれた終末なのだ。今のわれわれが知りうるのは、それが宿命であるということだけなのだ」  そして、この結論は、たとえアマルフィの気持が最初からその受け入れに抵抗してきたとしても、もはや回避のしようがないのだった。初期の原子理論では、概念的にいって、宇宙はかなり居住に快適な場所と考えられていた。つまり、地水火風、鋼鉄とオレンジ、人間と星──あらゆる物が陽子と電子と呼ばれる極致視的な渦動で構成され、それが電荷を持たない中性子とニュートリノによってわずかな変化を受け、そして無秩序だが家庭的な中間子の一族によってまとめられている、という保証があった。  たとえば水素原子でいうと、一個の陽子が正の電荷に満足しきって炉床に横たわり、そのまわりを、パチパチ火花の出る猫の毛皮のような負の電場に囲まれた電子が、とびまわっているわけである。むろん、これは単純なケースだ。  しかし、もっとも重く、もっとも複雑な原子、つまりプルトニウムのような人工元素でさえ、より多くの薪が炉床で燃され、より多くの猫がそのまわりを駈け回っているだけのことだと保証された。その猫の一匹ずつを見わけるのは難しいことだろうが、どのみち百匹もの猫の飼い主なら、仕方のないことだというわけである。  この極微の世界のいとも家庭的な石版画にどこかおかしいところがあるという最初の兆候は、すべての吉兆と同じように、まず空に出現した。  宇宙飛行の開始から約半世紀前の地球で、いまは全くその名を忘れられたある天文学者は、毎日地球の大気層に突入してくる二、三百万個の隕石が、その速度や軌道の特異さでは説明のつかない高度で、猛烈な爆発を起こすことに気づいた。そして、長い目で見た場合、つねに偉大な知識の新しい連鎖の一環を生み出すあのすばらしい空想の飛躍で、彼は炎の猫にとりまかれた、猫の毛皮の火でできた物質を想定し、それをみずから『反地球』物質と名づけた。  この物質の中では、たとえば水素原子は、陽子と同じ質量だが負の電荷を持った反陽子の核と、その周囲を回る電子と同じ小さい質量の、ただし正の電荷を帯びた一個の反電子を持つことになる。こうした物質で構成された隕石は、地球の正常物質の大気の痕跡にでも触れたが最後、猛烈な爆発を引き起こすはずだ、と彼は推論した。そんな隕石のあることは、この宇宙のどこかに、その接触が死以上の物──二種類の物質が、燃えるような抱擁の中でおたがいに相手をエネルギーに変換してしまう、最終的で完璧な破壊──を意味するような、こうした反物質でできた惑星や恒星や島宇宙が存在することを示唆しているのだ、と。  不思議なことに、その後まもなく、この反地球型隕石は理論の中から姿を消したが、理論そのものは生き残った。爆発する隕石のことは、より平凡な仮説をあてはめるほうが容易に説明のつくことがわかったが、反物質そのものは生き残ったのである。そして二十世紀中期には、すでに実験物理学者が一度に数個のそうした原子を作れる段階に達していた。  このあべこべ原子は、数百万分の一マイクロ秒しか生存できないことが実証され、そしてその短い生存期のあいだでさえ、それの生きる時間はさかさまに流れていることも、しだいに明らかになった。その原子を作り上げている素粒子は、当時の巨大で無格好なべヴァトロンによって、何マイクロ秒か未来に作り出された物であり、それが観察者の現在時間において反物質の原子に集合する時は、ほかならぬその死の瞬間、というわけだった。  反物質が仮説の上だけでなく、事実存在しうることは明らかだ。しかし、この宇宙では、それは隕石のような大きな集合体としては存在できない。もし反物質でできた世界や島宇宙が存在するとすれば、それは時間とエントロピー|勾 配《グラジェント》が逆行した、想像もつかない別の連続体の中でしかありえない。そうした連続体は、経験上の四つの次元に加えて、最低限さらに四つの次元を必要とするだろう。  正常物質の宇宙がしだいに膨脹し、その不可避的な|熱 死《ヒート・デス》へと巻き戻され、坂をくだるのにつれて、そのどこか近く──しかし、人間には想像もつかない『どこか』で、その巨大さと複雑さにおいて瓜二つな別の宇宙がしだいに収縮し、巻き上がり、そして物質とエネルギーのこの世の物ならぬ凝集である、単一体《モノブロック》と呼ばれるものへ近づいてゆく。  完全な拡散と暗黒と静寂、それがエントロピー勾配を時の矢が馳せくだっている宇宙の運命とすれば、反物質宇宙の終末は、質量を超えた質量、エネルギーを超えたエネルギー、土星の軌道よりも小さい直径の原始『原子』の中で究極的な力に達しようと荒れ狂う、なまなましい眩光と憤怒なのだ。そして、この宇宙のおのおのから、他の宇宙が生まれ出るのかもしれない。  正物質の宇宙の始まりは単一体《モノブロック》だが、反物質の宇宙ではそれが終末である。正常なエントロピーの宇宙では、単一体は許容できない物であり、爆発せざるをえない。負のエントロピーの宇宙では、熱死は許容できないものであり、凝集せざるをえない。  どちらの場合にしても、そこに与えられた命令は、『光あれ』なのだ。  単一体以前の可視可触的な宇宙がどんな物であったかは、しかし、われわれの永久に知りえないこととされている。その古典的な断定は、すでにその数世紀前、聖アウグスチヌスによってなされた。宇宙を創造する前の神は何をしていたかと問われて、アウグスチヌスは、そんな質問をする人間のための地獄を神は作っていたと答えたのだ。こうして、『前アウグスチヌス期』は歴史家にとってはその全てを知りうるものになったが、物理学者にとっては依然として不明のまま残されたのだ。  これまでは、である。  なぜなら、もしヒー星人の言葉に間違いなければ、彼らはその神秘のヴェールの裾を持ち上げて、不可知の物の正体を一瞬|垣間《かいま》見たことになるからだ。  それを正面切って見たとしても、結果はこれ以上に致命的ではなかったろう。  アンドロメダ島宇宙への意気さかんな旅の途中、ヒー星人は、スピンディジーの一基──奇妙なことに、それは|渡り鳥《オーキー》都市から移転した旧型の酷使された推進機でなく、れいの計画のさい建造された新しい機械の一つだった──が、過熱し始めたことに気づいた。これは当時の彼らには全く新しい課題だったし、仮に機械が完全に変調を起こした場合の危険も考えて、彼らはその修理ができるまで、惑星の大気と熱を保護するだけの〇・〇二パーセント遮蔽力場だけを残して、スピンディジーの全回路網を閉鎖することにした。  そうしたとたん、島宇宙間空間の全くの静寂の中で、彼らの計器は人類史上初めて、創造の絶えまない囁きを感知したのである。無の空間から、新しい水素原子が一つまた一つと誕生してゆく、かすかなピンという響きを。  ヒー星人のように宗教的問題に偏った歴史を持っていなくとも、何らかの思慮を持ち合わせている人間なら、これだけでも酔いのさめるような経験だったろう。明らかに無としか思えない空間から、この宇宙全体を構成する原材料が誕生するのを見せつけられては、誰しも創造主が確かに存在し、そしてその仕事が進められているそばに神がましましている。という確信にうたれずにはいられまい。  ヒー星人の計器に現われたそのかすかな反射波や音は、最初、宇宙の循環説──宇宙は単一体から熱死へ、そしてその逆という、連続かつ永久的な収縮/拡散をくり返しており、創造主はその律動的過程の発端に必要とされるだけか、あるいは全然必要ないという考え──に対する、宇宙進化論や宇宙構造論の長い論争に、ハッキリ終止符を打つ物だと思えた。  ここでは現に創造が進行中なのだ。見えない指が無に触れ、そして無から有が生まれる。その究極的な不合理は、究極的であるだけに、神性の物としか思えないのだった。  しかし、ヒー星人はそれに懐疑を抱くだけの世間ずれをしていた。歴史的に見ても、基本的発見は、つねに両意に取れる性格を備えているものだ。表面的には二万五千年間の神学的思弁に決定的解答を与えるように思え、また事実、神が石器時代の太陽崇拝者かキノコ好きの神秘主義者によって仮想されて以来、初めて神を議論の余地ない存在として持ち込んだかに思えるこの発見も、その外見ほど単純な物であるはずがなかった。それではあまりにも話が簡単すぎる。  絶えまない創造を続ける現《あき》つ神の存在は、あまりにも多くのことを意味していて、ただの偶然としか思えない事件から到達した単純な一つの物理学的データで、その存在が証明されるとは信じられないのだった。  ギフォード・ボナーが後になって述べた感想によると、時のゆりかご≠フかすかな産ぶ声を初めて耳にしたのがヒー星人であったことは、信じられない幸運だったという。なぜなら、ヒー星人は最近になってある程度の科学的思考を回復し始めたにすぎず、この科学の時代に、まだ神学の連続性と圧倒的な複雑性の概念を失っていなかったからだ。  第三|千年期《ミレニアム》末の典型的地球人なら、センチメンタルなまでに頑迷な『常識』と、『進歩』に対する素朴な信仰を等分につきまぜた技術的偏見で(ボナーの分析がここまできたとき、アマルフィは身もだえしたい衝動を感じたものである)、おそらくこのデータを額面通りに受け取ったであろう。そして、おのれが針の道に横たわる行者におとらぬ骨のずいからの神秘主義者であることに気づかないそうした科学万能論者を待ちうける、テレパシー、種族潜在意識、霊魂復活説、その他百もの糖蜜のような罠に、頭からはまり込んでいったに違いないのである。  しかし、ヒー星人はそこで疑いを持った。彼らは、まずその発見が何を現在語っているかに質問を集中した。神学はあとまわしだ。  もし連続的創造が事実とすれば、宇宙の歴史にかつて単一体の存在したことも、熱死が将来存在するだろうことも、否定されるわけである。その代りに、それはつねにこのような進行を続ける終末のない世界ということになる。したがって、もしこの発見が、これまでの同じ類いの発見のように、基本的には両意にとれるものなら、それは同じ言葉の中で正反対のことをも意味しているに違いない。あとはその質問をして、向こうが何と答えるかを聞くだけだ。  異様に強情なこのアプローチは、即座に実を結んだ。ただし、相手のよこした答えは、最初の、それとはいわば正反対のデータにおとらないほど、消化の難しい物であることがわかった。まだなじみの薄い機械と、惑星全体の居住性を危険にさらすことも厭わずに、ヒー星人はスピンディジーを完全に停止させ、前以上の熱心さで耳を澄ませたのだった。  その死のような静寂の中で、たえまない創造の不気味な囁きが、実は二つの声を持っていることが明らかになった。ピンという産ぶ声のそれぞれは、単音ではなく、二重音なのだ。誕生した水素原子の一つ一つが、無から経験的宇宙へ跳びだしてゆくと同時に、その怖ろしい双子、反物質の水素原子が、その瞬間……どこかから、そこへ死をとげに跳びこんでくるのだ。  否応ない事実がそこにあった。  一方通行式時間と連続的創造の基本的で不可避な証拠と思えた物が、同時に循環宇宙説の反論しようのない根拠にもなりうる。  ヒー星人にとって、ある意味でそれは満足できる結果だった。それは彼らの持つ物理学像でもある。つまり、四つ角に立った白痴が、「神さまはあっちへ行った!」と叫びながら、四つの方角を何とか同時に指さしているようなものなのだ。それにもかかわらず、この発見は彼らに畏怖という遺産を残した。ほかの環境では絶対に得られなかったろう、この意味深長な一つのデータは、逐一の点で正常な経験的宇宙と一致するが、ただし正負の符号だけは逆になった反物質の第二宇宙の存在を、それだけで充分裏書する物なのである。  正常な水素原子の誕生と同時に、反物質の水素原子が誕生すると思えたのは、実際にはその死なのだ。反物質宇宙の中で時間が逆行することは疑いがない。したがって、それとは明らかな関数関係にあるエントロピー勾配も、やはり逆行するはずだ。  こうした考えは、もちろん古くからあった──事実、あまりにも古くからあったので、アマルフィは、いったんそれになじんだ自分がいつそれを忘れてしまったかも思い出せないほどだった。そして、ヒー星人によるその観念の復活は、実行派の計画的事業を妨害するために企まれた腹立たしい旧思想ではないかと、まず疑ってみたぐらいなのだ。  負のエントロピーが作動原理になっている宇宙など、まるきりお笑い草ではないか。錆と軋みのきた彼の記憶から割り出しても、そういう環境の中では、経験的宇宙で許される大ざっぱな因果律の統計的連想さえ通用しなくなるはずだ。エネルギーは蓄積し、事件はひとりでに発端に戻り、水は高きに流れ、老人は地の下から重々しく現われ、学んだ物をしだいに失いながら、その母の胎内をめざして無益な歩みを続けるだろう。 「どのみち、人間とはそんな物じゃないかね」ギフォード・ボナーは穏やかにいった。「だが、アマルフィ、真面目な話、それがそんなに逆説的な物だろうか? この二つの宇宙は両方とも、しだいに巻きが戻り、坂を下り、エネルギーを失っているとも考えられるじゃないか。われわれの目から、反物質宇宙がエネルギーを獲得しているように見えるのは、われわれの強制された世界観からくる偏見にすぎない。実際には、おそらくこの二つの宇宙は、二つの石臼のように、おのおの逆方向へ巻き戻っているだけのことなのだろう。  二つの時の矢は一見逆方向を示しているように見えるが、それは峠の道しるべのように、どちらも山の麓を指しているだけかもしれないのだ。もしその力学が納得できないようなら、この両方ともが四次元の連続体であり、その視点からする限り、どちらも完全に静的だということを思い出してもらいたいね」 「そこで、接触という重大な課題に戻るんだが」と、ジェークが快活に口を挟んだ。「問題は、ヒー星人が明らかにしたように、この二つの四次元連続体が密接に関連していることだ。ということは、全体の系に対して、すくなくとも十六の次元を考える必要があるんじゃないかな。これだけなら、別に驚くほどのことはない。平均的な複雑さを持った原子核をすっきり説明するためにだって、少なくともそれだけの次元は必要だから。それよりは、この二つの連続体が接近しつつあることの方が意外なのだ。ヒー星人の行なった観察が、ほかの方向には解釈できないというミラモンの意見には、わたしも賛成だ。これまでは、二つの宇宙の中における万有引力がやはり正負逆だという事実が、その隔離を保っていた。だが、斥力、圧力、何と呼ぶにしろ、その力はどうやらしだいに弱まりつつあるらしい。近い未来において、それはゼロにまで下降するだろう。そして、二つの宇宙は、ピタゴラス的な点即点の衝突を起こす1」 「──そうなった場合、どんな物理的時空構造も──たとえ十六次元というゆとりを与えられたそれでさえ、そこに放出されるエネルギーを包み込めるかどうかは疑わしい」シュロッス博士はいった。「単一体などはそのエネルギーの足元にもよれない。仮にそれがかつて存在したとしても、これに比べれば、湿りのきた花火のような物だ」 「翻訳すれば、一巻の終わりですな」カレルがいった。 「この三つの出来事を全て包含した、合理的な宇宙論というのも、充分可能なのじゃないかね」ギフォード・ボナーがいった。「つまり、単一体と、熱死と、そしてこれ──その二つのちょうど中間に位置すると思われる事件とを含めた物だ。奇妙なことに、神話や古代の哲学体系の中にも、こういった生存期の中間での断章や不連続を考えている物がある。ジョルダノ・ブルーノ(十六世紀イタリアの哲学者)は地球最初の相対論者だが、それを破壊中間期と呼んでいるし、彼の同国人のヴィコ〈十七世紀の哲学者)はおそらく人類史の最初の循環説というべき物にその考えを取り入れた。また北欧神話では、それはギンヌンガ・ガップと呼ばれていた。  だが、シュロッス博士、この破壊はあなたのいうように全面的な物だろうか? 告白するが、わたしは物理学には門外漢だ。しかし、この会議の全員がそう考えているように、二つの宇宙があらゆる点について[#「あらゆる点について」に傍点]正負逆であるとすれば、その結果が、双方の側での全面的な物質からエネルギーへの変換だけということは、ありえないと思う。そこには、やはり同じ程度の大きな規模で、エネルギーから物質への変換も起こり、そのあとで万有引力の圧力がしだいに高まって、二つの宇宙は、挨拶を交わしてすれ違ったように、ふたたびおたがいに遠ざかってゆくのではないだろうか。それとも、これでは何か重要な点を見落しているかね?」 「その議論が見かけほどエレガントかどうかは、何ともいえない」レトマがいった。「それには、むろんシュロッス博士の数学的分析を待たねばならないでしょう。だが、今の時点でわたしが不思議に思えてならないのは、もしこの同時的な創造──中間破壊──破壊のサイクルが本当に循環するものなら、なぜそこに連続的創造という装飾噴水がくっつかねばならないかということです。その一循環期に三つもの宇宙的大変動を包含するような創造のメカニズムに、たえまない水のしたたりのような動力は不要でしょう。片方があまりにも壮大なのか、片方が卑小すぎるかのどちらかです。それに、連続的創造は安定した状態を意味するが、すでにこれ自体が矛盾といえます」 「それはどうかな」ジェークがいった。「ミルン変換で扱えない物ではないと思うがね。おそらく、単なる時計機能なんじゃないか」 「確かそれは、アスピリンのびんの大きさぐらいのことを意味する、数学的表現でしたね」カレルが悲しそうにいった。 「ともかく、完全に確信の持てることが一つだけはある」アマルフィが唸るようにいった。「つまり、それが起こったあとには、もう誰も衝突の正確な結果を気にかけるような人間は残っていないだろう、ということだ。あれこれ議論しているうちが花かもしれん。一体、われれれとして手を打てることが少しでもあるのか、それとも、それまでポーカーでもしていた方がましなのか?」  ミラモンがいった。 「それはまさに、われわれのもっとも知ること少ない点だ。実のところ、それに関しては全く何も知らないといってもいい」 「ミラモンさん──」  影の中から聞こえたウェッブ・へイズルトンの声が、そこで途切れた。どうやら、会議の邪魔をしないという約束を破ったことで、咎められるのを待っているらしかった。  しかし、アマルフィにも、ほかの一同にも、ウェッブが何を邪魔したわけでないことは、ハッキリわかっていた。ウェッブの声は、死と絶望の沈黙を破っただけにすぎなかった。 「先を言いなさい、ウェッブ」アマルフィはいった。 「あのう、ぼくはこう考えたんです。ミラモンさんがここへ来たのは、自分達ではどうしていいかわからないことに、知恵を貸してくれる人間を探すためでした。いまミラモンさんは、ここの人達もそれをどうするかを知らないのだ、と考えておられます。でも、それ[#「それ」に傍点]とは一体何でしょう?」 「彼はたった今、それを知らないといったばかりだよ」アマルフィは穏やかにいった。 「いいえ、そういう意味じゃないんです」ウェッブはおずおずといい返した。「つまり、どんな風にそれをやるかは知らないにしても、一体ミラモンさんは何をやりたかったのですか? たとえ、それが不可能だとしても?」  ボナーのクックッという笑い声が、静かな船内に響いた。 「そのとおりだ。目的が手段を決定する。牝鶏は、つぎの卵を生むため、卵が考え出した工夫にすぎない。あの子はへイズルトンの孫かね? でかしたよ、ウェッブ」 「その方式さえわかれば、やってみるべき実験は数多くある」ミラモンは考え深げに認めた。「何よりもまず、現在の物よりもっと正確な破滅の日付を知らねばならない。こうした条件の元では、『近い未来』というのは、『いつか』というあいまいな目標と同じぐらい、巨大な時間の塊だ。それをまずミリ秒の単位まで限定することが必要だろう。その地球人の少年の輝かしい常識は称賛するが、わたし自身を欺いてまで、今述べた以上のことを期待したくはない。これだけでさえ、望みがないように思えるのだから」 「なぜ?」アマルフィはいった。「その計算の資料にどんな物が必要なのだ? データさえ与えられれば、計算は〈シティ・ファーザーズ〉がひきうけてくれる。連中は助変数《パラメーター》さえ満たされればあらゆる数学的操作を処理できるよう設計されているし、この千年間に一度としてその種の仕事に音をあげたのを見たことがない。普通なら二、三分以内で結果が出る。長くとも一日とはかかからないだろう」 「〈シティ・ファーザーズ〉のことはよく記憶している」  ミラモンは一瞬、皮肉を込めて眉を動かしたが、これはニューヨーク市そのものともいえる巨人コンピューターに対する、かつての未開人の畏怖が残した、最後の痕跡的な痙攣かもしれなかった。 「しかし、ここで満たさねばならない主な助変数は、もう一つの宇宙のエネルギー準位《レべル》の正確な測定値なのだ」 「そうか、それだけのことならそう難しくないぞ」シュロッス博士は新しい驚きに目ざめながらいった。「それはわれわれ自身の宇宙のエネルギー準位の変換値にほかならないからだ。市長のいうとおり、〈シティ・ファーザーズ〉なら、あなたがその問題を彼らに言い終わるまでに解答を出してのけるだろう。t=タウ変換は、超光速宇宙飛行のABCだ──あなたがたがそれなしでやってこれたことがむしろ意外なくらいだね」 「それは違うな」ジェークがいった。「確かに、t=タウ関係は障壁の両側で一致しているだろう。それはわたしも疑わない。だが、ここには十六の次元が含まれるのだ。一体、どの座標軸にその一致を持ってゆくというのかね? まさか、時間tと時間タウが、十六の座標軸全部に沿って、画一的に変換の適用ができるというつもりではないだろうな? そんなことは、全体の系をそうした重なりに巻き込むのでなけば不可能だが、それでは時間tの中で、全体の道具立てへ単一体を含めてしまうことになる。これは無理な話だ。少なくとも、われわれに残された時日では無理だ。おそらく、われわれは残された日数を、限りなく退却する小数を追いかけながら空費することになるだろう。それは円周率《パイ》の決定的な数値を与えろという問題を、〈シティ・ファーザーズ〉にセットするのと同じことだ」 「つつしんで誤りを認めるよ」シュロッス博士は、苦笑とぎごちない当惑とを半々にした口調でいった。「ミラモン、あなたのいうとおりだ。ここには理論づくでは片づかない不連続性があるらしい。何ともエレガンスに欠けたことだが」 「エレガンスは後まわしだ」アマルフィはいった。「今の話だが、なぜあちら側からエネルギー準位の値を入手することが、そんなに難しいのだ? シュロッス博士、君の研究グループは、人工の反物質を製造できる見込みがあると吹聴していたじゃないか。調査用のミサイルとして、それをあちら側へ送るということはできないのか?」 「だめだね」シュロッス博士は即座に答えた。「あなたはその物質が、あちら側で作られるのではないことを忘れている──それは、こちら側で作られるのだ。われわれは、それを実験の未来で組み立てるような、何らかの方法を考案しなくてはならない。実験の現在でわれわれの目に触れる時には、それは控え目に見ても老衰の進んだ状態にあり、そしてわれわれがそれを集合させた条件へしか進化してゆかないだろう。それからわれわれが入手する測定値は、反物質がわれわれの宇宙でどんな行動をするかということしか語らない。反物質が正常である宇宙のことについては、何も語ってくれないのだ」  ややあって、彼は考え深げにつけ加えた。 「それに、これは一世紀以内では実現困難な計画でもある。むしろ二世紀と見た方が無難かもしれない。そういう状況の元では、わたしもポーカーの方を選ぶね」 「いや、わたしはごめんだな」ジェークが不意に口をきった。「わたしは市長のいったことが、原理としては正しいかもしれんと思う。問題は確かに難しいが、この不連続を横切ってあちら側を探る手段は、何かあるに違いない。いいかね、わたしは人工反物質が全く誤ったアプローチであるという意見には同感なんだ。もし作るとすれば、その代物は絶対に非物質的な物、〈|無 人 国《ノーマンズ・ランド》〉でしか手に入らない物から構成されなくてはならない。だが、不利な条件の元で遠い距離の向こうを観測できるように、わたしは訓練されてきた。だから、これを不可能の範疇に含めるべきだとは思わない。  シュロッス、君はどうだ? もし君のグループが、人工反物質をあきらめてポーカーに転向するつもりなら、しばらくわたしと一緒に、この問題へ取り組んでみてくれないか。わたしには君の知識が要るし、君にはわたしの視点が要る。協力することで、問題の測定装置を作り、データを手に入れることが、ひょっとしたらできるかもしれない。ミラモン、念を押すようだが、わたしはどんな希望も請け合わない。ただ──」 「ただ、あなたが今いってくれた希望だけはある」ミラモンが目を輝かせていった。「やっと、あなたがたから聞きたかった言葉を耳にすることができた。これがわたしの記憶にある地球の声だ。われわれの力に及ぶ物で、あなたがたに必要な物があれば、残らずさしあげる。まず手始めに、この惑星をさしあげよう。しかし、正反の双子宇宙、想像を越えた超宇宙だけは、あなたがたの力で手に入れてもらわねばならない。今のあなたがたは、われわれの記憶にあるとおりの人々だ。あなたがたはつねにそうした限りない野心の持ち主だった」  ミラモンの声はそこでふいに暗くなった。 「われわれは喜んで弟子となろう。これまで、つねにそうしてきたように。ただ、一刻も早く始めてほしい。それだけがわたしの願いだ」  星図台を囲んだ人々の表情から、アマルフィは同意をくみとった。新地球《ニュー・アース》の聴衆に関しては、沈黙がその同意のしるしと考えてよさそうだった。  アマルフィは一語一語をかみしめるようにいった。 「すでにそれは始まった、とわたしは思う」 [#改ページ]     4 ファブル・スート  巨大なケフェウス型太陽の日ざしを受けて、ヒー星の昼下りの山腹は灼けるように暑い。  この惑星はいま、三十五天文単位──旧地球と太陽の平均距離の三十五倍──という、うやうやしい間隔を保って、そのまわりを回転しているのだ。プラス一等の絶対光度を持つその恒星は、この距離でさえ、八日間の変光周期のピークになると、ほとんど耐えられないほどの熱を送ってくる。脈動の最低点では、恒星の幅射熱が二十五パーセントにまで下降し、ヒー星は耳のちぎれるほどの寒さにおそわれる。  これは農業主体の惑星としては義理にも望ましい環境といえなかったが、どのみちヒー星人は、一収穫期のあいだしか、この近辺に留まらないつもりだった。  ウェッブとエステルは、山腹の草むらに寝そべって、膨張した太陽の熱いまなざしを浴びながら、ゆっくりと体をやすめていた。特にこの休息を歓迎しているのは、ウェッブの方だった。今朝の二人は、ヒー星の過去における最大の記念碑であり、また純理哲学の現在の中心地でもある、ファブル・スート市の見学にでかけたのだ。  今のところ、大人達が二人に自由な探険を許した場所といえば、ここだけなのだった。ところが、今朝はその自由が意外な、だが論理的な結果をもたらした。二人はそのファブル・スートが、ヒー星の子供達にとっても立入り自由な数少ない都市の一つであることを発見したのだ。ほかの都市には、この惑星の生活維持に不可欠な機械設備が集中しており、ヒー星人としては、自分達の子供がその施設に入りこむ危険を冒せなかったし、また、乏しい人口の中で一人の生命も事故で失う余裕はないというわけだった。  ウェッブとエステルは、市を自由に見学してよいという短期許可をもらったときから、古代ギリシャのキトンに似たヒー星人の服装に着かえていたが、二人とも片言のヒー星語しかしゃべれない以上、ヒー星の子供達がその変装を見破るのは造作ないことだった。  この言語の障壁は一面不便だが──ヒー星の大人の大半は、昔|渡り鳥《オーキー》から習いおぼえた、いわば宇宙の|土 人 英 語《ベーシュ・ド・メール》に相当する、英語と国際語《インターリンガ》とロシア語のちゃんぽんを話せるが、子供達は話せない──一面ではありがたくもあった。ウェッブとエステルが所属する世界の文化や歴史について、根ほり葉ほり質問されることから救われたからである。  その代わり、まもなく二人はマトリックスという複雑な鬼ごっこに参加することになった。それはラン・シープ・ラン(鬼ごっこの一種)とチェッカーを組み合わせたような物だが、立体的であるところが変わっていた。ゲームは、ほかのプレーヤーの位置がわかるように透明な床を持った、十二階建のビルの中で行なわれ、プレーヤーは戦略的に位置したスピンディジーと摩擦力場シャフトを使って、床から床へすばやく移動できる。  そのビルは、元々このゲームのために設計されたのか、でなければゲーム用に明け渡されたのではないか、という疑問を最初に抱いたのはウェッブだった。透明な床にはその目的にピッタリの区画線が引かれていたし、建物はほかに何も置いてなく、何の用途にも使われていないようだったからである。  ウェッブはそのゲームの面白さにひきずり込まれはしたが、また難しくも感じた。大抵の場合、最初にゲームからはずされるのは彼なのだった。もし、ルールに臨時の修正が加えられていなかったら、ゲームのたびに鬼をやらされていただろう。そして、この新しいルールに助けられてさえ、彼はあまりパッとしたところを見せられずにいた。一方、エステルはまるでこのゲームのために生まれてきたようだった。半時間たたないうちに、その男の子のように胸も腰も平たい、すらりとした姿は、万華鏡のように走りまわる人影の中を生得の優雅さと敏捷さで駈け抜けていた。  昼食の時間がくると、息を切らし自我を傷つけられたウェッブは、この機会を待ちかねたように、市を離れて、休作中の山腹の暑い静寂の中へ逃げ込むことを考えたのである。 「あの子達、親切だわ。大好き」  エステルはそういいながら、ヒー星の子供の一人が賞品のつもりでよこしたらしい、緑と銀の縞になったひょうたん型のメロンを、片肱を起こしてかじろうとした。最初の一口でシューッと低いが長びいた音が聞こえ、二人のまわりの空気は刺戟性の芳香に包まれ、エステルは続けざまに五度もくしゃみをした。  笑いだしたウェッブも、発作的なくしゃみでその笑いをとぎらせてしまった。 「向こうもぼく達を好きらしいな」ウェッブは目をこすりながらいった。「君があんまりゲームがうまいもんで、もう遊ばせないようにくしゃみガス爆弾をよこしたんだよ」  臭気はそよ風に流されてしだいに消えていった。しばらくして、エステルはメロンの傷口に両手の親指を入れ、二つに割った。今度は何も起こらなかった。おだやかな芳香は、知らずしらずに口につばきを湧かせた。  エステルはメロンの半分をさしだした。白い果肉に、ウェッブは自分でも意外なほど大きくかぶりつき、そして思わず目を閉じた。まるで凍った音楽のような味がしたのだ。  二人は畏れにうたれたように黙りこくってそれを食べ終わり、キトンの端で口を拭うと、仰向けに寝そべった。  ややあって、エステルがいった。 「あの子達と、もっとよく話せたらいいのにね」 「ミラモンはぼく達の言葉が達者だろう?」ウェッブは眠そうな声でいった。「あれはめんどうな勉強をしたわけじゃないんだ。この星では、むかし新地球《ニュー・アース》の人達も|渡り鳥《オーキー》だった時分にやったように、機械を使うんだよ。ぼく達の星もそうしてればよかった」 「睡眠学習《ヒプノペディア》のこと? でも、それはもう滅びたんだと思ってたわ。あの方法では、本当[#「本当」に傍点]の勉強はできないんでしょう? 暗記だけで?」 「うん、暗記だけさ。関係づけることは教えない。そのためには教師がいるんだよ。でも、1+1=2とか、巻末の一覧表とか、新しい言語の基本八百五十語とかをおぼえるには、すごく便利だ。脳波図フィードバック、フリッカー、反復朗読、まだそのほかにも何やかやあるけれど、それを使うと、今いったようなことを全部頭につめこむのに五百時間しか掛からない──そのあいだ、ずっと催眠状態でいるわけさ」 「あんまり楽すぎるわ」エステルが眠そうにいった。 「楽にやれるところは、楽にやるべきだよ」ウェッブはいった。「苦労して丸暗記する必要がどこにあるんだい? 時間ばかり食ってさ。君も知ってるだろうけど、五回か十回の反覆で君が暗記できるものでも、別の子によっちゃ三十回もくり返さないとだめな時がある。すると、君は必要ないのに、二十回も二十五回もおつきあいをしなくちゃならない。ぼくが学校で一番嫌いなのは練習《ドリル》さ──ほかのことをできる時間が、まるきり無駄になっちゃうんだもの」  突然ウェッブは、背後の山頂でパタパタと奇妙な音がするのに気づいた。ヒー星に危険な動物がいないことは知っていたが、考えてみると、さっきから会話の最中にもその音を聞いたおぼえがするのだった。ふと、ヒー星人の危険な動物の定義と彼のそれとは、必ずしも一致しないのではないか、という考えがうかび、すばやく四つん這いになって振り向いた。 「ばかねえ」エステルが身動きもせず、目も開けずにいった。「アーネストが来たんじゃない」  彼女のいったとおり、一匹のスヴェンガリが山の頂上に現われ、背の高い草むらの中を体を丸めるようにして、必死に近づいてきた。それはウェッブにチラと一瞥をくれると、裏切られはしたがまだ飼主への信頼は失っていないといいたげに、恨みがましい目つきでジッとエステルを見つめた。  ウェッブは笑いでしたいのをこらえた。この哀れな生き物を責めることはできない。その名に似合わず、セックスも脳みそもないスヴェンガリは、エステルに置きざりにされまいと、マトリックス・ゲームでの彼女の動きを逐一追いかけ、そしてまったく性に合わないその苦行を、今ようやく終えたところなのだ。  子供達がそれをプレーヤーと見なさなくて幸いだった。でなければ、哀れなアーネストは時の終わりまで──その言葉をウェッブは漠然とした不安とともに頭にうかべた──鬼にされていたに違いない。 「ここで、それを受けることはできるよ」だしぬけにウェッブはいった。 「それって? 睡眠学習のこと? あなたのお祖母さんが許してくれないわよ」  ウェッブは振り向いて上体を起こすと、笹に似た長い中空な草の葉をむしって、その硬い根元を噛んだ。 「だって、ここにいやしないぜ」 「いまにやってくるわ。それに、あなたのお祖母さんは新地球《ニュー・アース》の教育委員だもの。小さいとき、パパとそのことでよくやりあっているのを聞いたわ。うちのパパに頭がどうかしてるというのよ。『子供達に、そんな微積分や歴史を教えて何になります? 処女惑星を開墾してゆく人間に、そんな物が何の役に立つんです?』という調子。うちのパパは、ぶつぶつ悪態をつくだけだったわ」 「しかし、今ここにはいないからね」ウェッブはかすかな、そして不本意な焦ら立ちを込めていった。  この一日だけの夏の青白い日ざしの下でジッと目をつむったエステルの顔が、これまで彼の見たどんな物よりも美しく見えることに、突然気づいたのだ。ウェッブはそれ以上言葉を続けられなくなった。  同じ瞬間に、スヴェンガリの方は、そのたよりない脳の役目をしている散らばった神経節が、やっと休息で共働機能を回復して、エステルへの熱烈な凝視の効果が全くないと判断したらしかった。同時に、それまでジリジリとメロンの皮の方へ近づいていた肢の一つが急に識閾を越え、この新奇で刺戟的な芳香の意味を本体に伝えた。  アーネストの体はいそいそとその腕の方へ流れより、メロンの皮をスッポリと包んだ。とたんに、ポリプに似た生物は、メロンの皮にしっかりとりついたままボールのように丸まって、アッというまもなく坂を転がり始めた。それはうなじの毛が逆立つような金切り声──スヴェンガリの鳴き声を聞いたのは、ウェッブもこれが初めてだった──を立てたが、つかんだ宝物はこんりんざい放そうとしなかった。谷の小川へザブンとはまり込んでも、まだかすかな抗議の声を上げ、まだメロンの消化をつづけながら、ゆっくりと下流へ姿を消していった。 「アーネストが流されちゃった」とウェッブ。 「ええ、聞こえたわ。ほんとにおばかさんなんだから。でも、きっと帰ってくるわ。そして、あなたのお祖母さんも、きっとここへやってくるわよ。市長やミラモンやシュロッス博士やみんながヒー星に残ることに決めたら、仕事のあいだ、あたし達のめんどうを見る人が必要になるんじゃない? あたし達が自分のめんどうを見れるなんて、きっと誰も思わないわ。知らない惑星を二人きりでうろつかせるなんて、もってのほかだといって」 「かもしれないね」ウェッブはしぶしぶいった。  よく考えてみると、エステルのいうことはもっともだった。 「だけど、どうしてそれがうちの祖母でなくちゃならないんだい?」 「まず、うちのパパじゃないことは確か。なぜって、パパは新地球《ニュー・アース》に残って、こんどの問題の新地球《ニュー・アース》関係を受け持たなくちゃならないでしょう? あなたのお祖父さんでもない。アマルフィ市長がこの星にいるあいだ、新地球《ニュー・アース》で市長の仕事をしなくちゃいけないもの。うちのママでもない。みんなは科学者でも哲学者でもないし、そんなことをすれば、あたし達がやっている以上にヒー星をごった返させることになる。もし、あたし達を監督に誰かが飛んでくるとすれば、それはあなたのお祖母さんしかほかにないはずよ」 「そうかもしれない。いやな邪魔者がやってくるな」 「それどころじゃないわ」エステルは静かにいった。「きっとあたし達を連れ戻すわよ」 「まさか!」 「いいえ、するわよ。あの人達の考え方はそうだもの。実際的な手を打つと思うな」 「そんなの、実際的であるもんか」ウェッブは抗議した。 「裏切りとおんなじだよ。ぼく達の世話をするという口実で来て、この星から連れ戻すなんてのは」  エステルは答えなかった。しばらくして目を開いたウェッブは、影が顔の上に落ちたのにようやく気づいた。さっきエステルにメロンをくれたヒー星の少年が、遠慮がちに、だが、二人にその気さえあればすぐにもゲームを再開しようというつもりらしく、そばに立っていた。  ほかの子供達の頭も、丘の向こうに見え隠れしている。この新しい友人とグニャグニャした妙な匂いのするペットが、つぎに何をやりだすかといぶかりながら、交渉だけはスポークスマンにまかせている、といった感じだった。 「ハロー」エステルは起き直りながらいった。 「ハロー」背の高い少年はためらいがちにいった。「何?」  少年はエステルのあいさつにしばらく戸惑っていたようだった。それから思いついたように腰をおろし、考えられる限りのやさしいヒー星語で続けた。 「休みとれた。そうだね? ほかのゲームしようか?」 「ぼく、もう嫌だ」ウェッブは憤然としていった。「マトリックス遊ぶのは、昨日、明日、またいつか。わかる?」 「違う、違う」ヒー星の少年はいった。「マトリックスじゃない。ほかのゲーム、疲れないゲームだよ。坐って遊ぶ。嘘つきごっこというんだ」 「へえ。どうやる?」 「一人ずつ順にやる。お話をするんだ。それはちゃんとした物語で、真実がまじってはいけない。ほかのプレーヤーが審判になる。ハッキリ真実とわかる物が見つかるたびに、罰点が一つつく。点数の少ない者が勝ちだ」 「どこかで、大事な単語を五つほど聞きもらしたらしいわ」エステルはウェッブにいった。「何ていってるの?」  ウェッブは早口に説明した。  彼のヒー星語の会話能力は過去忘却形と現在興奮形と未来絶望形に限られており、語彙はいとも非植物的な語幹《ステム》と語根《ルート》の混合にすぎず、格変化は頑として屈折をこばんでいたが、ともかくこれぐらい相手がゆっくり話してくれれば、意味を理解できるようになっていた。  いまの話の中で彼も五つぐらいは単語を聞きもらしたかもしれないが、文脈からおよその意味はつかめるのだった。エステルの方は、まだ文全体の意味をとるより、一語一語を翻訳している段階らしかった。 「ああ、そうだったの」エステルはいった。「でも、一つ一つの真実をどんな風に採点するのかな? もしあたしが物語の中で、太陽は朝昇るといって、そのあとで、あたしはこのキトンだか何かを着てるといったら、どっちにも一点ずつ罰点がつくのかしら?」 「訊いてみよう」ウェッブはおぼつかなげにいった。「ぼくも、名詞が全部わかったかどうか自信がないんだ」  ヒー星の少年にその質問をしようとしたウェッブは、それが考えていたよりずっと抽象的な言いまわしを必要とするのに気づいた。しかし、相手の少年は彼がいいたいことをつかんだだけでなく、気をきかして具象名詞を使いながら説明してくれた。 「それは審判が決める。だけど、ルールがあるんだ。服装の方は小さな真実だから、一点しかつかない。日の出は違う。新地球《ニュー・アース》みたいな捕捉惑星の日の出は自然律だから、五十点がつくかもしれない。ヒーのような自由惑星だと、それは部分的な真実だから、十点しかつかないかもしれない。それとも、全くの嘘で、何も罰点がつかないかもしれない。だから、審判をつけるんだよ」  ウェッブがそれをエステルに説明できるようになるまでには、もっとやさしい言いまわしで繰り返してもらわねばならなかった。しかし、ようやくのことで、新地球《ニュー・アース》のプレーヤー達もルールを飲み込めたという自信ができた。念には念を入れることにして、ウェッブは地元側からさきに始めてくれとたのんだ。こうすれば、どんな嘘が一番賞讃されるかも、審判がうっかりした真実のそれぞれにどんな罰点を与えるかもわかるというものである。  最初の二つの物語は、彼を少し警戒しすぎたのではないかという気持にさせた。少なくとも、さっきのゲームの説明や、物語られたストーリーから見ても、ヒー星の種族がフィクションの才能に乏しいことは明らかに思えた。しかし、三人目の、順番が来るのを待ちかねているようすだった九歳ぐらいの少女は、完全にウェッブのどぎもを抜いた。指名されたとたんに、少女はこう始めたのだ。 「今朝、あたしは手紙《レター》を見ました。表には〈四〉と書いてありました。手紙には二本の足があって、靴をはいていました。それはミサイルで運ばれてきたけれど、足で歩いて来たのです。表には四と書いてあるけど、中身は三ざん九ろうでした」 (Letterのもう一つの意味「文字」にひっかけて、四番目の文字D、つまりディー・ヘイズルトンのことを指している)  少女は得意そうに話をしめくくった。しばらく、当惑したような沈黙がおりた。 「今のは作り話なんかじゃないみたい」エステルは母星語でウェッブにいった。「謎々みたいな感じだわ」  それと同時に、ヒー星側のリーダーが、厳しい声で少女にいった。 「今のはずるいぞ。まだ〈|大当り《クー》〉のルールのことは言ってなかったんだから」  それから、少年はウェッブとエステルの方に向き直って説明した。 「このゲームの別のやり方は、まるきり本当の話を、嘘に見えるように話すことなんだよ。それを大当りというんだけど、この時は審判が気のついた嘘に罰点をつける。もし罰がつかなければ、完全な真実を話したことになって、完全な嘘よりも強いのさ。だけど、君達にそのルールをまだ話してないのに、パイラがそれをやるのはずるいんだよ」 「質問一つする」ウェッブは重々しくいった。「それ、今朝のこと、本当? もしだったら、ぼく達知ったはず。だけど、知ってない」 「今朝よ」パイラは一同の咎めるような視線の中で、断乎として大当りの正当さを主張した。「あなた達、その時いなかったでしょう? 出てゆくのを見たもの」 「君、そのこと、なぜよく知っている?」とウェッブ。 「方々歩くから」  少女はいって、ふいにクスクスと笑いだした。 「あなた達二人の話も、丘の陰で聞いたわ」  彼女の答えの全部が、訛りは強いが流暢な|渡り鳥《オーキー》で返ってきてみると、それ以上質問するいわれはなさそうだった。  ウェッブは世の女性族全体にていねいな口をききたくない心境になっていたが、パイラにはとっときの礼儀正しい微笑をうかべて、しかつめらしくいった。 「それなら、きみは勝った。とてもとてもありがとう。これはいい知らせ」  彼の不完全なヒー星語が、どの程度このスピーチの意味を相手に伝えたか、ウェッブは自分でもわからなかった。ところが、驚いたこと紅、パイラがワアワア泣きだしたのである。 「おお、おお、おお」  パイラはしゃくり上げた。 「生まれて初めて大当りをとれたと思ったのに。あなたったら、あたしを負かすんだもん」  すでに審判は額をくっつけて相談しているところだった。しばらくして、リーダー格のシルヴァドールが、優しくパイラのこめかみを撫でてやりながらいった。 「もう泣くのはおよしよ。そうじゃなくて、ウェッブくんの方が、嘘をついた罰点をもらうんだから」  いたずらっぼく目を輝かせながら、少年はエステルに手をさしのべた。エステルは嘘つきゲームのあいだ所在なさそうに丸めていた体を、サッと伸ばして立ち上がった。 「罰にはエステルくんもいれよう」少年はおごそかに宣言した。「二人とも、ぼくらと一緒に市へ戻るんだ。そこで──」  少年は刑の執行官のようなボーズをとった。 「しばらく眠ってもらうことにする」 「いやだ、もう帰る」  ウェッブはそういっで、ぎごちなく立ち上がった。 「そういわずに」シルバドールはいった。「罰というのは本気じゃないんだ。君達は睡眠学習をしたがってた。学習機の所へ連れてってあげよう。今朝、君がいったのはそのことだろう? パイラは午後に二時間学習があるんだ。君達も一緒に受ければいい。ヒー星語をおぼえて、話せるようになってくれよ!」 「でも、あたし達どんな嘘いった?」エステルが目をクリクリさせてきいた。 「ウェッブが、ディーさんの来たことを、いい知らせだといったからさ」シルヴァドールは生真面目にいった。「既定事実について、ハッキリした嘘をついた。五十点の罰点だよ」  新地球《ニュー・アース》生まれの二人は顔を見合わせた。突然、ウェッブがいった。 「何でもいいや、早くやってしまおうよ。鬼の来ないうちに」  ディーは血相を変えていた。 「これは一体どういうつもりなの、ジョン? 睡眠学習で何を教えこまれるか、知れたもんじゃないわ。この不案内な星へ、それも何をしでかすやらわからない野蛮人の所へ、よく子供達を一人歩きさせたりできるわね!」 「別に悪いことはされなかったよ──」とウェッブ。 「彼らは野蛮人じゃない──」とアマルフィ。 「彼らがどんな人間かぐらい、わたしも知っています。最初にこの星をあなたと見た、あの時からね。全く無責任もいいところだわ。野蛮人に子供の心をいじらせてほっとくなんて。文明人の心をいじらせるなんて」 「文明人の心というのは、どこで見分けがつくんだね?」  アマルフィはいい返したが、それが無駄な質問であり、意地の悪い質問でもあることに、もちろん気づいていた。目の前にいる彼女が、ユートピア=ゴート事件の最中に出会ったのと同じ娘、アマルフィがかつて愛したその女、迫りよる時の果てまで彼がいつくしみつづけるだろう者と同じ輝かしい肉体的イメージであることは、よくわかっている。  しかし、彼女はしだいに老化しつつあるのだ。そして、女性に向かって、そんなことがどうしていえよう? ヒー星人やこの子供達にとっては、世界の終末もまた新しい経験の一つに思えるらしい。だが、ディーやアマルフィやマークは、いや、それどころか新地球《ニュー・アース》全体も、ひたすら新しい経験を避けて既知の事実に安住することしか考えずに、老化の成りゆきとして世界の終わりへ近づいている。  たとえば、その終末が来るのをアマルフィがなかなか納得できないこと。子供達が新しい言語を覚えようとするのを、ディーが許そうとしないこと。これが、ふたりの老衰の兆候でなくて何だろう。そして、新地球《ニュー・アース》の文化も、やはりその兆候を見せている。  抗老化薬そのものは、まだ有効だ。肉体的には、彼らは依然として若い。しかし、年齢だけは仮借なく増えてゆく。長い目で見た場合、時間とエントロピー勾配を欺くことはできないし、ヒー星人とこの子供達以外には希望を託しうるものもない。ガンに侵されたブダペスト市のキング市長や、アコライトの都市ジャングルは、アマルフィに出し抜かれた当時、すでに今の彼と同じぐらい年老いていた。しかし、あの頃の彼にさえ、すでに思考の硬化は始まっていたのではなかろうか。肉体的には壮健でも、精神の疲労が始まっていたのでは?  死に立ち向かう方法は二つしかない。おまえが死につつあることを受けいれるか、あくまでそう信じることを拒むか。問題から目をそらすのは、幼稚でなければ老衰だろう。そこには、あの成熟と呼ばれる過程である流動的な順応性が欠けているわけだ。この点で野蛮人と子供がおまえよりはるかに融通無凝だということになれば、おまえも自分のためにすでに晩鐘が鳴ったことをさとって、いさぎよく去ってゆかねばならない。でないと、彼らの方から、名目上の指導者であるおまえを生き埋めにかかるだろう。  ディーは、さっきの彼の質問にはむろんとりあわなかった。ひときわ難しい顔をしてみせただけだった。どのみち、それまでの一方的な口論も、ほとんど声をひそめて行なわれていたのだ。なぜなら、彼らのいるヒー星の会議室の片側では、二つの宇宙がすれちがった時に生まれるガンマ放射線の量と、衝突のあとに続く、相手側の物質形態への変換の程度を量子化しようとする試みで、熱心な討議が交わされていたからである。  今ではそうした会議の非発言メンバーとして受け入れられたウェッブとエステルをつかまえるために、ディーは無理やりこの席へ割りこんできた形だった。 「それには全然同意できませんな」レトマがしゃべっていた。「シュロッス博士は、二つの宇宙の出会いをちょうどシンバルに見立てて、そのエネルギーのかなりの部分が、音響が広がるように飛び散るものと考えておられる。それを認めるためには、プランク定数がヒルベルト空間にもあてはまると仮定せねばならないが、これには一片の証拠もない。方程式の両辺が異符号のエントロピーを含むような相互作用に、エントロピー勾配を直角に重ねることはできないのです」 「なぜできんのかね?」シュロッス博士がいった。「ヒルベルト空間とはそのためにある物じゃないか。ちょうどその演算に合うような座標系を選べるようにしてくれる物だ。それができれば、あとは射影幾何の単純な計算にすぎない」 「それは否足しません」レトマはどこかぎごちない口調でいった。「わたしが疑問視するのは、その応用の可能性ですよ。その方法でこの問題をとり扱うことが、演算以上[#「以上」に傍点]の何物かになりうるというデータはない──したがって、それが簡単な演算か複雑な演算かということは、本題からそれているのです」 「出た方がよさそうね」ディーがいった。「ウェッブ、エステル、さあおいでなさい。ここにいてはおじゃまよ。それに、わたし達には、まだすることが山ほどあるんですからね」  ディーのよく透る囁きは、普通の高さのどんな話し声よりも、討論の席の空気をかき乱した。シュロッス博士の顔が不機嫌にひきつる。ヒー星人達の表情も、一瞬、いんぎんな空白に変わった。ミラモンはかすかに片方の眉を吊り上げながら、ディーを振り返り、そしてアマルフィを見つめた。アマルフィは当惑ぎみにうなずいてみせた。 「どうしても帰らなくちゃいけないの、お祖母さん?」  ウェッブが口をとがらせた。 「つまり、この星へ来たのはこういう仕事のためなのにさ。エステルは数学が得意なんだ。レトマやシュロッス博士も、ヒー星の専門語をぼく達の言葉に直すのに、ときどきエステルの手をかりるんだよ」  ディーはしばらく考えてからいった。 「まあそれぐらいのことなら、危険はなさそうね」  このまるで見当はずれなディーの答えは予想どおりのものだったが、ウェッブにそれが予想できたはずはなかった。アマルフィが体験からの記憶でよく知っているあること──つまり、昔ヒー星の女性は奴隷よりも卑しい存在、いや、それどころか、悪魔と下等動物のあいだに位する、厭うべき、だが必要な中間物とみなされていたことを、ウェッブは全く知らない。したがって、現在のヒー星の女性がまだ完全に男性の従属物であり、こういう種類の場には歓迎されないことに気づくだけの予備知識もないからだ。  アマルフィとしても、この場でウェッブに──そしてエステルに──なぜ二人が帰らねばならないかを説明しようとは思わなかった。その説明のためには、今二人の子供達が知っている以上に、ディーの人となりについての知識が要る。たとえば、ディーの目には、ヒー星の女性が解放はされたが平等の権利を持っていないと見えること、そしてこの抽象的な区別が──ヒー星の女性がその状態で満足していることも手伝って──ディーには大きな感情的負担となっていることを、子供達が知らなければ無理な話なのだ。  ミラモンは書類を片づけて立ち上がると、重々しい顔つきで、滑るように彼らの方へ歩みよった。ディーは彼が近づくのを、プスプス燻るような、かたくなな疑惑の表情で見守っていた。アマルフィにはそれは滑稽に思えたが、やはり同情を感じずにはおれなかった。 「へイズルトン夫人、あなたにお会いできて嬉しい」ミラモンは一礼しながらいった。「われわれの今日あるのは、あなたのお力にょるところが多いのです。どうか感謝を述べることを許していただきたい。妻やほかの婦人達も、ぜひあなたに敬意を表したいと待ちかねておることでしょう」 「ありがとう。でも、わたしは──別に──」  ディーはそこで言葉につまった。幾歳月もの昔、彼女がまだそれに気づいているいないにかかわらず、いまのディーとは別な人間であった当時、この星にとって彼女が何を意味していたかを、とっさに思い出せなかったのだろう。  その頃のディーは、ヒー星の女性解放の推進者であり、アマルフィも彼女の積極的な協力をありがたく思ったものだった。特に、その運動がヒー星の血なまぐさい権力闘争に決定的な役割を果たし、したがって、ニューヨーク市自体の生存にも重大な意味を持つとわかっては、なおさらだった──この後者の理由も、当時は生きる意志と同じように霊験あらたかで、批判の埒外にある大義名分だったが、現在では『バスチーユを忘れるな』や『星をわれらの手に!』というスローガンと同じように、無意味で時代遅れになってしまったのだ。  ディーが最初に出会った当時のヒー星の女性達は、儀式用の檻に閉じこめられた、体を洗ったこともない、垢だらけの生き物だった。どうやら、今のミラモンの挨拶に含まれた何かから、ディーはその頃のことを思いだし、そして当時の鉄格子と汚物が、いまにも彼女の体にまとわりついてくるような感じにおそわれたらしいのである。しかし、かりにディーがそう感じたとしても、そんな大昔のことで、そしてこれほど丁重な座の空気の中で、腹を立てるのは大人げないことだった。  ディーはすばやくアマルフィの顔色をうかがったが、彼はピクリとも表情を動かさなかった。アマルフィの性格を知り抜いている彼女は、そちらから援助が得られないことをさとったらしい。 「ありがとう」ディーは力のない声でいった。「ウェッブ、エステル、さあ失礼しましょう」  今しがたディーがアマルフィにやってみせた無言の訴えを、無意識に真似た格好で、ウェッブはエステルの助けを求めるように振り向いたが、相手はサッサと立ち上がっていた。  アマルフィには、少女がこのやりとりを面白がり、すこし軽蔑も感じているように見えた。ディーもあの子には手を焼くことだろう。ウェッブの方は、誰の目にも恋におちていることがハッキリしており、その意味からは扱いが楽なはずだ。 「わたしはこんな考えを持っているのだがね」エステルの父親の声が、頭上の空中からきこえた。「二つの宇宙のあいだに、接触の瞬間まで、熱力学的な交差がないものと仮定しよう。その場合には、正負どちらかの側にいる誰かから見て、それがいかに爆発的に見えようとも、交差点が実は完全な中立性をもった瞬間であると考えない限り、正負の対称性を適用できる可能性はない。これは理屈にかなった推測だと思うし、それによってプランク定数を排除し──このような局面では、それは無関係な因子にすぎないというレトマの意見に、わたしも賛成だよ──そして、正負の符号を、シッフのニュートリノ=反ニュートリノ引力理論を使って処理することができるわけだ。とにかく、それなら量子化にも問題はないしね」 「グレーべ数の場合、そうはできない」とシュロッス博士。 「いや、問題はそこなんだよ、シュロッス」ジェークは興奮した口調でいった。「グレーべ数は交差しない。それはこの宇宙に適合するし、おそらくあちら側の宇宙にも適合するだろうが、交差はしない。われわれに必要なのは、交差する関数か、でなければ、交差からわれわれを完全に解放し、しかも事実にあてはまるような仮説だ。もし、わたしの理解に間違いなければ、それがレトマのいっていることだし、わたしも彼が正しいと思う。つまり、ヒルベルト空間のどこにおいても、完全に中立な交差の表示式が得られないということになると、ひとりでに現実の〈|無 人 国《ノーマンズ・ランド》〉についての推測もでき上がるわけだ。つまり、ここでは『ノー』から出発しなければいけないんだよ」  エステルはドアのそばで立ちど登ると、姿のない声の方に振り向いていった。 「パパ、それはヒー星の数学を新地球《ニュー・アース》の数学に翻訳するようなものね。もし、〈|無 人 国《ノーマンズ・ランド》〉を探りたいのなら、どうして弾丸を持って出発しないの?」 「早くいらっしゃい」  ディーがうながし、ドアが閉まった。残された部屋には長い沈黙がおりた。 「あなたがたは、あの子供達の才能を無駄に終わらせるのか、アマルフィ市長」ミラモンがようやく口をきった。「なぜそんなことをする? 子供達の頭脳に必要な物を満たしてやりさえすれば──これがいとたやすいことであるのは、あなたもよくご存じのはずだ。われわれにそのやり方を教えたのは、あなたがたなのだから──」 「それが、今のわれわれには、もうたやすいものでなくなっているのだ」アマルフィはいった。「われわれは諸君より年老いている。諸君のような物事の本質への探求心を、もう持ち合わせていないのだ。どうしてわれわれがそんな羽目に陥ったかを説明するには、時間が掛かりすぎる。今はもっとほかの問題を考えねばならないからね」  ミラモンはゆっくりといった。 「もしそれが事実とすれば、われわれもこれ以上その件を耳にすべきではなかろう。でないと、あなたがたに同情を感じたくなるだろうからだ。それだけは起こしてはならない。もしそうなれば、われわれ全体が敗北する」 「とはいえんね」  アマルフィは硬い微笑をうかべた。 「何物にしろ、それほど決定的であるわけがない。話はどこまでいってたかな? これは単に終わりの始まりにすぎんのだ」 「アマルフィ市長、たとえ宇宙が永遠に続いたとしても、わたしはおそらくあなたを理解できないだろう」ミラモンはいった。  そして、裏切りは完成した。  ウェッブとエステルは、ヒー星と新地球《ニュー・アース》のあいだの何兆マイルという空間を隔てて行なわれた、アマルフィとへイズルトンの烈しいやりとりも聞かされなかったし、その結果、ディーがこれ以上ヒー星人の感情を害さないために、へイズルトンがやむをえず彼女を呼び戻すほかなくなったいきさつも知らされなかった。そして、なぜディーの召還が二人の召還を意味しなければならないかも、ハッキリとは知らずにいた。  二人はただ無言の悲しみにふけりながら、ただ一つの武器である沈黙で、大人達の論理に対する反抗を表現するだけだった。心の中で、二人は、これまでおたがいどうしを除いて、生まれて初めて望んだ真実のものを否定されたことを、さとっていた。  そして、時は流れ去りつつあった。 [#改ページ]     5 聖  戦  アマルフィにとっても、その会話はいつになく苦痛なものだった。へイズルトンは、これまで何世紀かしじゅう意見を衝突させ、たいていの場合我を通してきたのにである。  その口論にはどこか後めたいところがあり、それが何かもよくわかっているつもりだった。情熱もなく、実も結ばなかった、ディーとの遅まきの情事が、その原因なのだ。ディーをマークの元へ送り返すことは、自分でも必要な行為だと信じていながら、やはりこれは彼のかつての最愛の者をもはや愛していない男に対する、復讐行為ではないかという解釈が、頭をもたげてくるのだった。恋人達のあいだでそうしたことがしばしば起こるのを、アマルフィはよく知っていた。  だが、仕事の忙しさにとりまぎれて、ディーと子供達が送還船で発ってしまってからは、やっとそれも忘れた感じだった。しかし、そうは問屋がおろしてはくれないことが、やがてわかることになった──実のところ、たった三週間後に。  迫りよる破滅についての討論は、たがいに逆行する二つのエントロピー勾配と、正面から取り組まねばならない段階に達していた。したがって、それは言葉だけでは充分でない──というよりは、もはや言葉がほとんど必要とされない──領域に入ったわけである。この結果ミラモンやアマルフィのように、もともと機械技師か行政官、あるいはその両方を兼ねた人間や、ギフォード・ボナーのような哲学者は、傍観者の立場に追いやられた。討論の場も、いまではレトマの書斎に移されていた。  アマルフィはそれでも、できる限りその席に顔を出すことにした。レトマやジェークやシュロッスがいつ記号の世界の彼方から戻ってきて、彼に理解と応用のできる何事かをしゃべらないとも限らないのだ。  しかし、今日の書斎はうっとうしい空模様らしい。  レトマが説明していた。 「問題はわたしの見たところ、われわれの経験する時間が遡及不可能だということにあります。たとえば、こういう発散方程式を書いたとしましょう」  レトマは黒板──理論物理学者の今もって変わらない『研究用具』──に向き直って書いた。   式−1参照  レトマの頭上には小さなロボット・カメラがうかんで、新地球《ニュー・アース》のジェークにも見えるように、チョークの跡へそのピントを合わせている。 「この場合、aの二乗は実定数であり、したがってそれは未来時間tに対してのみ意味を有し、より以前の時間マイナスtに対しては意味をもたない。なぜなら、遡及の表示式は発い散してしまうからです」 「奇妙なシチュエーションだ」シュロッスが相槌を打った。「これは、いかなる熱力学的状況でも、われわれが過去に関するより未来に関して、より正しい情報を持つことを意味する。反物質宇宙では、当然それが逆にならねばならない──だが、それはわれわれの視点から見た場合の話だ。反宇宙の法則の元で生活し、そのエネルギーで構成された仮説的な観察者には、その違いはわからないだろう」  ジェークの声がいった。 「収斂する遡及方程式は書けるだろうか? 反宇宙側のシチュエーションを、われわれの目で見たように──もし見えるならだが──表現する者をだ。もし見えないとすれば、その違いを探知する計器など、設計のしようがなくなるからね」 「それはできるでしょう。たとえば──」  レトマは黒板に向きなおると、チョークを軋ませてスラスラと書いてみせた。   式−2参照 [#(img/04/094.jpg)入る]  シュロッスがいった。 「ははあ、実定数の代りに、虚の定数を与えたわけか。しかし、第二の方程式は第一の方程式の鏡像とはいえんね。偶奇性《パリテイ》が保存されていない。第一の方程式は平衡化のプロセスだが、こっちは振動的だ。まさか、あちら側のエントロピー勾配が脈動的だということはないだろう!」 「どのみち、こうした弱い相互作用では、偶奇性は保存されないさ」ジェークがいった。「しかし、その反論はやはり採り上げていい物だと思うね。もし第二の方程式が何かを表現するとすれば、それはあちら側のシチュエーションではありえない。それは両方の側──この厖大な全宇宙──を表わすものであるはずだ。ただし、これは宇宙が循環的である場合に限るし、われわれはまだそれについて何も知らないのだがね。それをどうテストしていいかも、わたしにはわからない。それはマッハの仮説と同じように、究極的に決定的に証明不可能なのだ──」  ドアが静かに開き、若いヒー星人がアマルフィを無言で手招きした。彼は救われたように立ち上った。  今日のように、この三人と辛いおつきあいをさせられてみると、エステルのいないことが淋しく思えるのである。レトマの記号法に含まれているかもしれない落し穴をグループに気づかせるのが、エステルの役目だったのだ。  たとえば、いまレトマは、アマルフィの経験では微積分の増分であるdを、単にある定数の表現として使っている。Gはアマルフィにとっては万有引力定数だが、レトマはそれを、ギリシャ字母のψと書かれるのがアマルフィの見馴れた形である、熱力学上のある術語を表わすために使っているのだ。そして、レトマのiが、新地球の数学でとおなじようにマイナス1の平方根を表わしていると、はたしてシュロッスは断言できるのだろうか?  むろん、新地球《ニュー・アース》人とレトマのあいだで、簡単な記号に関してはすでに打ち合わせがすんでいると考えるだけの理由が、シュロッスにはすでにあるのに違いないが、それにしても、エステルがいないことはアマルフィを不安にさせるのだった。それに、物理学における重要な問題への戦いは、全てこうした黒板上の討論でかちとられてきたことが、頭の中ではわかっていても性格的に何かぴったりこない。いつも何かが起こっていないと気のすまないのが、アマルフィの性質《たち》なのである。  その何かが、どうやら起こりはじめたようだった。ドアが閉まったとたん、若いヒー星人がこういったのだ。 「おじゃまして申し訳ありません、市長。新地球《ニュー・アース》から緊急通話が掛かっております。へイズルトン市長からですが」 「へレッシン!」アマルフィはいった。  それはヴェガ語だった。現存の人間でその意味を知っている者はない。 「よろしい、行こう」 「家内はどこです?」へイズルトンはいきなりそう詰問した。 「それに、わたしの孫とジェークの娘は? 大体、この三週間、あなたはどこをウロウロしてたんです? なぜ連絡してくれない? わたしは心配で気が狂いそうだった。ヒー星人は四の五といって、あなたに繋ぐまいとするし──」 「一体何をしゃべってるんだ、マーク?」アマルフィはいった。「たわごとはやめて、何のことか説明してみろ」 「説明なら、こっち[#「こっち」に傍点]がして欲しいぐらいだ。よろしい、初めからやり直しましょう。ディーはどこです?」 「知らんね」アマルフィは辛抱強くいった。「三週間前、そっちへ帰した。今彼女が見つからんというなら、それは君の問題だ」 「こっちへは着かなかった」 「着かん? しかし──」 「そう、そのしかしが曲者なんだ。送還船はこっちへ着かなかった。あれから全然音沙汰なし。煙のように消えてしまった。ディーも、子供達も。わたしは、あなたが本当に送り返してくれたのかを聞こうと、必死で今まで連絡をとっていた。これでやっとあなたがそうしたことだけはわかった。さあ、それが何を意味するかはわかるでしょう。アマルフィ、物理学のお道楽なんぞはやめて、大至急帰ってください」 「わたしに何ができる? この件については君と同じで、何も知らんのだぞ」 「つべこべいわずにここへ戻って、もっかのトラブルに手を貸せばいいでしょう」 「何のトラブルだ?」 「一体この三週間、何をしてたんです?」へイズルトンは叫んだ。「何が起こっているか知らないというんですか?」 「知らんな。そうわめかんでくれ。さっきの『それ[#「それ」に傍点]が何を意味するかはわかるでしょう』とは、どういう意味だ? もし何が起こったかを知っているのなら、ディラックでうるさくわたしを呼び出すまえに、なぜ自分で手を打たんのだ? 市長は君じゃないか。わたしにはわたしの仕事がある」 「その市長の寿命も、運がよくてあと二日だ」へイズルトンは荒々しい声でいった。「直接の責任はあなたにあるんだから、無駄な逃げ腰はやめてもらいましょう。使徒ジョルンが、二週間前から行動を始めたんです。どこで都合したものか知らないが、艦隊まで持っている。主力はまだ新地球《ニュー・アース》の周辺に来ていないが、目的が新地球《ニュー・アース》の占領にあることは間違いない──この星全体が、家からとりはずしてきたスピンディリーを持った、狂信的な若い農民でごった返している現状です。  連中がここへくれば、わたしはサッサと降伏しますよ──スピンディリーにどんな性能があるかは、あなたも知ってのとおりだが、連中はそれを携帯武器に使っているんですからな。わたしは、自分の行政をつら抜くために、何千何万の人命を犠牲にするつもりはない。連中がやめろというなら、やめるだけのことです」 「それがわたしの責任だと? 〈神の戦士〉は危険だと前にも話したろう」 「そして、わたしは耳をかさなかった。それは認めますよ。しかし、あなたとミラモンが今の仕事にとりかからなければ、連中も行動は起こさなかったでしょう。あれはジョルンにある名目を与えた。ジョルンは信者達に、あなたがすでに定められたアルマゲドンに干渉し、救済のチャンスを脅かしていると説いたのです。そして、その首謀者であるヒー星人に聖戦を布告したのですが、この聖戦は、ヒー星に協力しているということで、われわれも敵に含めて──」  受話器を通して、金属に拳を打ちつける音が四度きこえた。 「ちくしょう、やつらはもうやってきた」へイズルトンはいった。「通話線はできるだけ長く開いておきます──ひょっとしたら、連中気がつかないかも……」  声が小さくなった。  アマルフィは全身を耳にして待ちうけた。 「罪人へイズルトン」ほとんど間をおかずに、若い、ひどくおびえた声がきこえてきた。「見つけたぞ。ジョルンのお言葉で、あんた……おまえは矯正訓練を受けることを命じられた。おとなしく、おれ……われわれに降伏するか?」 「もしそいつをここで発射したら──」  へイズルトンの声がひどく大きく聞こえた──マイクに入るようにしゃべっているらしい。 「この市の半分がふっとんでしまうぞ。そんなことをして何になる?」 「われわれは〈戦士〉として死ぬわけだ」若い声がいった。  まだ上ずっているが、死のことをしゃべったとたん、少し落ちつきを取り戻したようだった。 「おまえは業火に焼かれるだろう」 「巻きぞえを食う人々は──?」 「罪人へイズルトンよ、われわれは脅迫はしない」やや年配らしい、低い声がいった。「どんな人間にも多少の善はあると、われわれは考えている。ジョルンは罪びとを悔い改めさせよと命じられた。その言葉をわれわれは守るだろう。おまえの善行と引きかえるための人質もあることだ」 「どこへ[#「どこへ」に傍点]やった?」 「彼らは〈神の戦士〉に保護されている」低い声がいった。「ジョルンは思いやり深くも、この神なき世界に緩衝地帯を置くことを認められたのだ。一人の女と二人のいとけない子供を救うために、われわれにしたがうか? 忠告するが、罪人──くそ、何てこった、通話線が開けっぱなしだぞ! ジョディ、スイッチを叩っこわせ。はやくだ! 全く、何だってこんなしらみたかりの田吾作をめんどう見なくちゃ! ──」  スピーカーはかすかな悲鳴を上げると、本格的な泣き声になる寸前で、バッタリととだえた。  一瞬、アマルフィは虚脱したように坐っていた。あまりにも多くの情報をいちどきに与えられたからだった。過去のそうした突発事件のときより、はるかに年老いてもいた。そうした事件がふたたび起ころうとは、全然予期していなかった──だが、げんにそれは起こったのだ。  ヒー星に対する聖戦?  いや、ありえない話である──少なくとも、直接行動としては。ヒー星のような全く謎の世界には、特に軍隊というより暴徒に近い兵力しかない現在、使徒ジョルンとしてもうっかり手が出せないはずだ。  しかし、新地球《ニュー・アース》の方は無抵抗である。まずそっちから包囲にかかるのは、論理的な第一歩だろう。そして、今やジョルンは、ディーと子供達まで手に入れた。  行動だ!  どう行動するかは、別の問題だった。  それには〈戦士〉側の非常線が攻撃をしかけてこれないような武装船が必要だが、そんな物はヒー星に存在しない。もう一つの代案は、被探知率の低い、超小型の高速艇だ。しかし、これだけ遠距離では、それも不可能だった。いくらスピンディジーでも、最低限の大きさというものはある。  いや、そうだろうか?  ヒー星にはカレルがいる。カレルは比較的小型のスピンディジー推進式|無人艇《プロクシー》の製作には、かなりの経験があるのだ。その一つは、むかし〈地球への行進〉の全行程にわたって先導をつとめ、そして誰にも存在を気づかれなかった。もちろん、あのときの偵察艇《ブロクシー》は、普通の標準からすれば、騒々しいまでに探知可能だった。集結した都市群がそれに気づかなかっのは、カレルの巧みな遠隔操縦のおかげで、それの軌跡と、普通の星間物質の作る軌跡の区別ができなかったからにすぎない……。 「もう一度あの芸当ができるか、カレル? 今度は混乱を助長してくれるような大都市の集団はない。一つの惑星のまわりを薄い外殻のように軌道飛行している艦隊の目をかすめて飛ばさねばならないのだ──そして、敵が何隻いるかも、どんな武器を搭載しているかも、どんな警戒をしているかも、一切わかっていない!」 「最悪の場合を考えましょう」カレルはいった。「われわれが送還船を出したことは知らずにいても、それを拿捕してのけた連中ですからね。市長、いざというときに操縦をおまかせねがえるなら、むろんやれますよ。でなければ、いくら艇が小型でも、あなたは捕まるでしょう」 「へレッシン!」  しかし、ほかに道はなかった。それはアマルフィにとって、少なくともまる二日、操縦桿と絶縁して、カレルの乱暴な探知回避運転に身をまかせることを意味する。年よりの冷や水もいいところだが、カレルのいうことは正しかった。  ほかに可能な手段はない。 「よろしい。ただ、着陸した時、わたしがまだ生きていられるようにだけは、気をつけてくれ」  カレルはニヤリと笑った。 「これまで積荷をおしゃかにした経験はありませんよ。しっかり縛りつけてあればね。どこへ着陸をお望みですか?」  これもまた、たやすい質問ではなかった。  いろいろ考えたすえ、アマルフィは、旧|渡り鳥《オーキー》都市の心臓部にある中央公園《セントラル・パーク》を選んだ。〈戦士〉達の作戦本部に近いという危険はあるが、へイズルトンに会うだけのことで、新地球《ニュー・アース》の上を一千マイルもてくったりするのはごめんだ。もう一つ、農民達が旧市街への立入りを禁じられているか、あるいは本能的に近づかないという可能性もある。  使徒ジョルンなら、追放者にとっての明白な集合点であるそこのパトロールを、忘れるはずはない。だが、どうやらジョルンは、その主力戦隊とともに、マゼラン雲の反対側にいるらしいのだ。  いくらスピンディジーでも、小さな船体に収容できる出力には限度がある。その点で、こんどの旅はアマルフィにとって、ヒー星上では絶縁されていた星雲内のニュースに、超波経由で追いつく時間を充分に持ったものとなった。  マークが彼に与えた全体像は、やや誇張で歪められてはいるが正確だった。使徒ジョルンの真の関心事は、まだ地球からはるかに隔たった場所にあったし、聖戦《ジハード》の布告もヒー星人だけでなく、各地の非信徒を対象にしているのだった。ヒー星人の件は、特に新地球《ニュー・アース》にあてられた告発事項の一項目にすぎない──時の終末を探求しようという、新地球《ニュー・アース》の未発表だがすでに隠れもない意図が、涜神的だというわけである。  新地球《ニュー・アース》での武装蜂起と、中央政府の占拠は、ジョルンがまだその全面的な利用を考えていない宣戦の副産物だ、とアマルフィは推測してみた。もしジョルンがそれを計画していたか、それともそれに割けるだけの軍事力を持っていたなら、彼は主力を急遽|新地球《ニュー・アース》へ向けて移動させたはずである。実情からすると、ジョルンは単に──そして遅まきに──警告封鎖を行なっただけらしい。もし信徒のクーデターが成功すればもうけもの。もし成功しなければ、すぐに封鎖を解いて、他日のために艦船と人員を撤収するのではなかろうか。  大体こんなところが、アマルフィの推理だった。しかし、使徒ジョルンという相手は、その思考過程が最初から最後まで彼のそれと違った敵かもしれないという不安もある。  艇は突然、スピンディジーからイオン噴射推進に切り換わった。アマルフィは思考をとめ、歯をくいしばった。  いったん大気圏に入ると、艇の操縦はアマルフィの手に戻った。ヒー星にいるカレルが、ディラック制御による遠隔操縦を打ち切ったのだ。  アマルフィは中央公園《セントラル・バーク》の南部、伝説によると大昔池があったという、広いでこぼこな窪地に、ひそかな夜間着陸を終えた。何事も起こらなかった。どうやら探知されずにすんだらしい。  朝になれば、遺棄された船体が〈戦士〉側の偵察機の目に触れるかもしれない。しかし、この旧市街は、そのたぐいの得体のしれない機械でウジャウジャしている。そのうちのどれが新しく、どれが新しくないかを見わけるのは、シュリーマンがトロイの九都市のことを知っていたほど、市のことを知り抜いた研究家でなくては無理だ。この点に確信のあるアマルフィは、カムフラージュの手間もかけずに艇を置き去りにした。  さて、どうしてマークと接触するか?  それがつぎの問題だ。おそらくマークはまだ監禁中か、それに近い状態だろう。『矯正訓練』と、アマルフィの盗み聞きした〈戦士〉の声は言っていた。ものぐさで頭脳型のへイズルトンに、ベッドをたたませ、床を掃かせ、一日六時間礼拝をさせるということだろうか? まずありそうもない。とくに、礼拝の一件は。では、何を──?  月光に照らされた無人の五番街を市の司令塔に向かって歩きながら、アマルフィは突然ある確信に目ざめた。  一つの島宇宙を管理することは、それがこのように小さく、ほとんど未開拓な随伴系であっても、書類を『未決』から『既決』の箱に移すだけの単純な問題ではない。それには何世紀もの経験に加えて、コミュニーケーション、資料分類、その他、九十八パーセントの事務労働を果たしている機械についての、高度な知識が必要とされる。  たとえば|渡り鳥《オーキー》時代には、選挙に敗れた市長が『自由契約の規則』のもとに、ほかの市へトレードされることが、しょっちゅうではないが行なわれた。その場合、支配人《マネージャー》のような従属的ポストで新しい市の運営に馴れるのにさえ、五年や十年はかかったのである。いくら神の啓示を受けていようが、ポッと出の田舎者に一週間でマスターできる技術ではないのだ。  したがって、マークの『矯正訓練』の場も、彼自身のオフィスである公算が強い。おそらくマークは、〈戦士〉達に代って星雲を運営してやっているだろう──それも、たとえ〈戦士〉達にサボタージュを疑ってみるだけの分別があったとしても、決して気づかれないやりかたで、手を抜きながらだ。  アマルフィ自身、必要とあれば歯車を逆に回してのける名人だが、ことそうした技術にかけては、へイズルトンに一歩をゆずる。何しろ相手は、腕前をおとさないためか、それともただの習慣でか、友人達にまでそうしたわるさをすることで有名な男なのだ。  よろしい。マークと連絡をつける問題はこれで解決した。  あとはつぎの難問だ。いかにして〈戦士〉を浮足立たせ、もしできれば追い払うか? いかにしてディーと子供達を無事に取りかえすか?  この二つの難問のうち、どちらがより困難かは言いあてにくい。マークが指摘したように、下っぱの〈戦士〉の手にあるスピンディリーは、小銃や熊手よりはるかに危険だ。正確に使用すれば、その機械は新地球の自転の遠心力を利用して、一人の敵を空へふっとばすことができる。あるいは、もし敵の拠点を破壊するつもりなら、同じ効果を建物の一角や壁に及ぼすこともできる。だが、何より怖いのは、素人の手にかかった場合、スピンディリーが正確に操作されないことなのだ。  もともと武器としてでなく、家庭用天候制御の付属装置として設計されたそれは、二十世紀の家庭用重油バーナーよりも目方が重く、かさばっている。その代物を、特に徒歩で持ち運ぶ不便を考えると、誰しも、それを地下室のセメントの台座からとりはずさないうちから、最大出力にセットし、そのままセットしつづけようという誘惑にかられるのではなかろうか。こうしておけば、いくら肩や腕がくたびれても、狙いを──およその見当で──つけて、始動ボタンを押せばいいわけだ。  これは若い〈戦士〉達が癇癪を起こすとか、誰かの何げない言葉を異端と感じるとか、何かの影や物音、あるははスヴェンガリにおびえるとかするたびに、『殺人』ボタンのありかを忘れて始動させてしまい、市の二、三区画を平らにならしてしまう可能性を意味する。それともまた、そこで胆をつぶして放り出されたスピンディリーが、その蓄積エネルギーを放散しつくして停止するまでに、さらに二、三区画を平地にすることも考えられる。  ディーと子供達の救出も確かに重要だが、まず先決問題は〈戦士〉の武装解除でなくてはならない。  スピンディジー昇降シャフトから、司令室の弾性コンクリートの床に踏み出したアマルフィは、踊るような自分の足取りに気づいて思わず苦笑した。長い年月の不満と無為と植物的生存のあとで、ようやく生き返った気分である。  これこそ、彼にうってつけの、自信と喜びを持って取り組める種類の試練だ。時の終末も、問題としては確かに大きい。それ以上に大きい問題は見つからないという意味では、ありがたくもある。しかし、そこにはアマルフィが懸け引きをこらせる相手──もしできればその鼻を明かそうという相手──が欠けているのだ。  思えば長いごぶさただった。自信過剰にならないよう気をつけねば。現役時代も、それが元でちょくちょく失敗している。とくに現在の局面では、どんな手段を取るべきかが、うさん臭いぐらいハッキリわかっているのだ。  問題はそんなテストではない。今からのアマルフィの行動にかかっているのは、甲羅経た文化形態学者──早くいえば臨床診断家──としての彼の熟練が、はたして本物かどうかということなのだ……そして、ついでにいえば、そこには三人ないし二十五万人との生死もかかっており、しかもその中にはエステルの生命も含まれている。  だから慎重に、慎重に──しかし、心搏動停止の患者を前にした外科医のような、正確さと決断も必要だ。どちらのコースを取るかの迷いで、時間を無駄にしないこと。うまくいって、患者の生命は四分ともたない。骨鋸はすでに手の中で唸りを上げている──一思いに胸廓を切開するのだ。さあ、早く。 〈シティ・ファーザーズ〉はすでに温まっている。アマルフィは命じた。 「連絡課。使徒ジョルンを呼び出せ──市の生存に関する用件だ」 〈シティ・ファーサーズ〉がジョルンを呼び出すには、しばらく暇が掛かるだろう。コンピューターは一分以内であらゆる可能性を検討して、現在ジョルンのいる確率のもっとも大きい世界だけを選択するだろうが、最初の呼び出しで相手が繋がるチャンスは少ない。  ジョルンとの通話をディラック交信機にたよらねばならないのが、アマルフィには残念だった。会話の内容が、星雲内の全聴取者に──というより、その装置の存在するところなら宇宙のあらゆる場所に──筒抜けになるからである。しかし、恒星間以上の距離になると、超波通信ではとうてい二方交信の役に立たない。なぜなら、その情報伝達速度は光速の百二十五パーセントにすぎず、それも、その搬送波が光速と等しい速度しか持たない電磁波であるため、負位相速度という便法を使って、かろうじて目的を達しているにすぎないからだ。  待ち時間のあいだに、アマルフィはさまざまな可能性を数えあげてみた。ひっくるめたところ、この事件は、これまで彼が巻き込まれたどんな事件にも似ない、奇妙な状況に発展している。それは今までに見たかぎり、行動が可能だったかもしれない小さな分岐点をまばらに散らした、間奏曲と転調部分だけで成り立っているように思えた。  これに比べると、アマルフィの若かりし時代をまざまざと記憶によみがえらせるさまざまな事件が、振り返ってみて、より多くの熟考と価値判断を必要としていたように感じられるのは、やはり思考型式の老化のせいなのだろうか。  反射行動は問題外だ。  たとえば、『市の生存』というような一定の指針原理があるとき、それは初めて可能になる。そうした原理が長期にわたって存在し、影響を及ぼせば、ほとんど中継的な思考を経ずに反射的判断を下すこともできるようになる──つまり、猫が空中で身をひるがえすように、自動的に正しい方向への跳躍をなしうるわけだ。しかし、今の場合、そういう状況は存在しない。評価するべき価値が、たがいに矛盾しているから。  まず、頭に置かねばならないのは、ジョルンが新地球《ニュー・アース》の情勢を詳しく知らないということだ。ジョルンはたまたま、すぐれた戦術家が意外な地域での意外な勝利を利用するのと同じ反応を見せたにすぎず、彼の封鎖艦隊が三人の人質を捕えたことも、その人質が誰かということも、まだ知らないに違いない。この件でジョルンを非難しても無理だろう。むしろ、全然その情報を与えない方が賢明かもしれない。  結局、この対話の第一の目的は、農民達の軍隊を解体させ、スピンディリーを使えなくさせることにある。といって、新地球《ニュー・アース》の占領に失敗が予想されることをジョルンに信じさせるのは、相手が封鎖を撤収して、それと一緒に人質も連れ去る可能性があって好ましくない。できれば、一石二鳥というやつが一番だ。ジョルンにクーデターを放棄した方が賢明だとさとらせるのだが、それもほどほどにすること。薬がききすぎると、相手は即座に兵力を撤収しなければ艦隊の一部を失うと、思い込むかもしれない。  これは相当な難題に感じられた。使徒ジヨルンに不安を与えるには、その危険が軍事的な物であるだけでなく、思想的な物であることが必要だ。これまでに証明された軍司令官としての才能からしても、占領軍の堕落が占領地の価値基準や慣習によってもたらされることを、ジョルンが知らないはずはない──そして、由来、聖戦や十字軍はこの種の腐食に弱いのである。  ジョルンがその唱道する|正統派キリスト教《ファンダメンタリズム》の真の信仰者であるかどうかはともかくとして、そのおかげで首尾よくここまで来れた教理に信徒達がそっぽを向くことは、彼としても望まないだろう。信仰だけが彼らを繋ぎ止める道であり、もし彼らがそれを失えば、ジョルンもその個人的信仰が何であるにかかわらず、全てを失うことになるからだ。  運悪く、新地球《ニュー・アース》には〈神の戦士〉を腐敗させられるような思想はない。〈戦士〉達がさしずめ熱中するのは腕時計集めだろうか。これは農民軍がより消費財に恵まれた地方を占領した場合に起こる汎時代的な症候をさした、大昔からの名称だが、ジョルンはむろんそれを予想して手を打っているはずだ。それ以外には、〈戦士〉達の単純、かつ直接的、かつ求心的な世界観を動揺させるほど強力な、新地球《ニュー・アース》土着の思想といった物は、何一つない。  ないとすれば、作り上げるまでだ。少なくとも素材には不足しないはずである。  この方法の明らかな一つの落し穴は、ジョルンという人物をその大衆的評価の一面だけで捉えながら、彼の心の中にある本当の宗教に迫り、それに驚きを与えようという虫のよさにある。アマルフィには、それが成功するかどうか見当がつかなかったし、彼の思慮分別もそうしてはならないと叫んでいた。むしろ、ジョルンのように俗界で成功をおさめた男は、神学者としての知識はともかく、いろいろの面で世間知を持ち合わせた人間だと考えるべきだ。  何にせよ、ジョルンが彼の宗教的ボタンを押そうとするアマルフィの試みに、敏感であるだろうことは間違いない。当のご本人がその技術にかけては腕ききなのだから。  そして、とアマルフィはふと考えた。もしその公的な発言通り、ジョルンが熱烈な後進星域的信仰の所有者なら、そのボタンを押すことは大きな災厄を招くかもしれない。その手の人間にとっては、それは爆破ボタンなのである。その代り、うまくやれば、その男を破壊することもできる。  もちろん、形の上ではジョルンを、その公けの発言が全て心からの誠実と深い信仰に裏づけられているような人物として、とり扱うことが必要だ。数しれない人々がディラック受信機でこの対話に聴きいっている事実を、ジョルンがこころえているからだけでなく、ジョルンの自己に対して抱いているイメージを、不当に、そして不必要に傷つけるのは避けたいからである。  形式は最終結果となんの関係もない。ジョルンがその公的に見せる面とそっくりな人物だと、たかをくくるのは危険だ。骨のずいまで|正統派キリスト教徒《ファンダメンタリスト》だと称するジョルンのイメージを、尊重してやることはさしつかえない。だが、このディラック通信を受けた相手が、悪魔《サタン》の声を聞いたように腰を抜かすだろうと期待するのは、致命的な思い上がりだ──。 「市長、使徒じょるんトノ通話準備ガ完了シタ」  アマルフィは、全速で思考を始めている自分に気づいた。 〈シティ・ファーザーズ〉の無理もない思い違い──ギンヌンガ・ガップの問題を契機にアマルフィが市長の職を辞したことを、誰もこのコンピューターに教えなかったらしい──が、ジョルンに彼の正体を明かしたものかどうかという迷いを、あらためて思い出させたのだった。  ジョルンその人が、むかし海賊都市IMTの圧政から|渡り鳥《オーキー》に救われた、この星の原住民の末裔だという可能性はきわめて少ない。IMTの支配者の末裔だという可能性は、それよりほんのわずか大きいかもしれない。だが、もっともありそうなケースは、ジョルンがほかならぬ|渡り鳥《オーキー》の子孫で、したがって、アマルフィをよく知っているということだ。すると、身元を明かすことは、アマルフィにある強味を与えてくれるが、同時にある弱味も生まれることになる──。  だが、すでに賽は投げられた。 〈シティ・ファーザーズ〉が回線の中で彼を市長と呼んだ以上、彼がへイズルトンでないことをすぐにジョルンに告げた方がいいだろう。それとも、しらを切りとおすか? できなくはない。  しかし、ここでもディラック通信であることがガンになる。傍聴者が、遅かれ早かれ、ジョルンにアマルフィの戦術的な欺瞞のことを教えるおそれがあるのだ。 「市長、準備ハ完了シテイル」  フム、いくら考えても始まらん。  アマルフィはマイクを取り上げた。 「始めろ」  すかさずスクリーンがともった。  老いぼれたもいいところだ。〈シティ・ファーザーズ〉に、通話をオーディオ一本に限定することを言い忘れるとは。これでは身元を隠すもへったくれもないではないか。まあ、後悔先に立たずだ。それに、実をいうと、目の前で形をとり始めたジョルンの顔に、彼は異常な好奇心を感じてもいた。  それは、意外にもひどく年老いた顔だった。痩せこけた頬に深い皺が刻まれ、モジャモジャした白い眉が、おちくぼんだ目の暗さを強調していた。昔一度でも抗老化剤を用いたことがあるとしても、少なくともここ五十年ほどは、それに手をつけていないらしい。この認識は、腹の底からのショックをアマルフィに与えた。 「わたしが使徒ジョルンじゃ」年老いた顔がいった。「何をお望みかな?」 「新地球《ニュー・アース》から立ち去るべきだと忠告したい」  これはアマルフィが最初言おうとした言葉と全然違っていた。というより、たった今検討した思考の連鎖と正反対の物だった。だが、相手の顔には、心にある物を否応なく口にさせる何かがある。 「わたしは新地球《ニュー・アース》にはおらぬ」ジョルンはいった。「しかし、あなたのいう意味はわかる。新地球《ニュー・アース》には、ミスタ・アマルフィ、あなたと同意見の者も多いだろう。それは無理からぬことじゃ。だが、わたしはそんな言葉には動かされぬ」 「わたしも、これが単なる好悪の問題なら、そんな期待はしないだろう」アマルフィはいった。「ところが、これには立派な理由がある」 「聞こう。しかし、わたしが道理をわきまえるとは期待なさるな」 「なぜ?」  アマルフィはかけ値なしの驚きを味わっていた。 「なぜなら、わたしは論理的な人間でないからじゃ」ジョルンは辛抱強くいった。「新地球《ニュー・アース》での信徒の一揆は、わたしの命令なしに起きた。それは、神自らがわたしに授け賜うた贈物じゃ。そういういきさつである以上、論理はここにあてはまらぬ」 「なるほど」  アマルフィはそういって、息をついた。これは考えていたよりはるかに厄介な問題らしい。正直いって、成功するかどうかにも疑惑が兆し始めていた。 「あなたは、この星が推計主義の温床なのをご存じだろうか?」  ジョルンのモジャモジャした眉が、わずかに上がった。 「推計主義が新地球《ニュー・アース》でもっとも根強い勢力を持つことは知っておる。その哲学が、新地球《ニュー・アース》の大衆にどの程度浸透しているかは知らぬ。ともかく、わたしが根絶したい物の一つではある」 「それは不可能だろう。百姓青年の集まりが、かりにも一つの大きな哲学体系を根絶しようというのは、無理な話だ」 「だが、どの程度に大きいのかな? 影響力からいって? 新地球《ニュー・アース》がそれによって数多い腐敗を蒙っているかもしれぬ、という印象を受けたことは認めるが、確たる証拠はない。あるいは、新地球《ニュー・アース》から遠隔の地で作戦しておるために、またそれが聖書の教えとあまりにも対照的であるために、わたしとしては推計主義を過大評価する恐れがなきにしもあらず。推計主義の母星がその『温床』と考えるのは、無理からぬところかもしれぬ。だが、それが事実かどうかは明らかでない」 「では、それが事実でないという臆測に立って、〈神の戦士〉達の魂を危険にさらすつもりなのか?」 「とは限らぬ。ミスタ・アマルフィ、あなたがどんな勢力の代弁者であるかを考えてみれば、推計主義の影響力を誇示することが、あなたに有利なのはいわずとも明らかじゃ。あなたがわたしのためを図るとは考えられぬ以上、それをだし[#「だし」に傍点]にしたということが、すでに馬脚をあらわしているではないか。実のところ、推計主義者も、あらゆる時代、あらゆる世界での知識人と同じく、彼らがその中で生きている文化の一般的傾向とは概して接触がないのだろうと、わたしは考えておる。新地球《ニュー・アース》の人々は、〈神の戦士〉でもなく、どんな思想傾向の持ち主でもないのと同様に、推計主義者でもない。もし、彼らにあるラベルを貼ることができるとすれば、さしずめ、もはや|渡り鳥《オーキー》でなくなった人々、というところだろうか」  アマルフィは油汗を流すだけだった。まさに相手にとって不足はないという感じである。 「だが、もしあなたが間違っているとしたら?」アマルフィは辛うじて反撃した。「もしわたしが警告したように。事実、推計主義がこの星に根強く泌みこんでいたら?」 「その時は、危険を冒すしかなかろう。新地球《ニュー・アース》のわが〈戦士〉は、あなたのいうように百姓青年じゃ。推計主義が彼らに大した感銘を及ぼすとは思えぬ。おそらく、常識に反するということで、彼らは肩をすくめてみせるだけではなかろうか。その評価は誤りかもしれぬが、彼らにどうしてそれがわかろう? 無知こそ、父なる神が彼らに与え賜うた防備であり、それのみで充分だとわたしは思う」  これがキューだ。  アマルフィはその判断が遅すぎないことを祈りながらいった。 「よろしい」  知らずしらず、厳しい口調になっていた。 「結果が判定を下すだろう。これ以上何もいうことはない」 「いや。ミスタ・アマルフィ、あなたの勧告は、事実わたしのためを思ってのものかもしれぬ。もしそれが証明されれば、わたしは悪魔に徳を認めるにもやぶさかではない──たとえ悪に対しても、われわれは公平であらねばならぬ。それが唯一の善の道といえよう。あなたはわたしに何を望むのかな?」  こうして、口頭のボクシング・マッチは、またもや振り出しに戻ってしまった。今度は質問の主旨を回避することはおろか、頬かぶりで通すこともできない。これはもはや政略的な質問でなく、個人的な質問なのだ。いや、最初からそのつもりでなされた質問なのだった。 「封鎖艦隊が捕えている三人の人質を返してもらえないか」アマルフィはいった。  口の中がアロエのように苦かった。 「女が一人と子供が二人だ」 「最初からそう頼んでおれば、承知したものを」ジョルンはいった。  声に哀れみが込もっているように聞こえたのは、思いすごしだろうか? 「だが、あなたは三人の生命をせり売り台にのせて、おのれの正当さをまくしたてたのじゃ、ミスタ・アマルフィ。それならそれでよし。もし、推計主義のために新地球を手放さねばならぬことがわたしに納得できれば、封鎖艦隊を引き揚げる前に三人を返そう。できなければ、否じゃ。ところで、ミスタ・アマルフィ──」 「え?」  アマルフィは声をしぼり出した。 「何が関わっているかを心にとめて、策謀におぼれぬようになされ。あなたが、はなはだ機略に富む人物であることは、よく承知している。しかし、人命は、そうした芸術の成功の上に賭けられてはならぬものじゃ。では、神とともにあれ」  アマルフィは震える手でひたいを拭った。  今の言葉で、使徒ジョルンはアマルフィの人生の全てを要約してみせたのだ。それは耳に痛い物だった。  だが、アマルフィの遮巡は一瞬にすぎなかった。ジョルンはおそらく、アマルフィがとっさに思いついた口実──しかも、それをディラックで全宇宙へ放送してみせた物だ──を裏まで見すかしているだろう。しかし、アマルフィに残された道は、それで押しとおすほかにない。ジョルンが提案したもう一つのコースも、とどのつまり同じ結果になるのだから。  もしこれが一種の技術といえるなら、そしてアマルフィはそう信じるに充分な理由を持っているが、これは『芸術』ではなく、一つの職業技術だ。そして、ジョルン自身こそ、その芸術──宗教という複雑な虚構──の命ずるままに、人命をもてあそんでいるのだ。  こんどは慎重に、あらかじめスクリーンを回路から切断してから、アマルフィは市長室を呼び出した。 「こちらは公安局長だ」彼はロボット秘書にそう伝えた。  平時なら、そんな職名が存在しないということで、機械は接続を拒否するだろうが、今そこで起こっている混乱の中では、そうした依怙地な記憶バンクは素通りされているに違いなかった。  |渡り鳥《オーキー》時代に長らく一種の警報暗号として使われたその言葉が、へイズルトンに間違いなく通じるだろうことに、アマルフィは確信を持っていた。その確信は直ちに裏書きされた。 「連絡が遅かったな」マークが用心深く答えた。「待ちくたびれていたところだ。なぜ直接報告にこない?」 「いまの空気では、とてもここを留守にはできないのですよ、市長」アマルフィはいった。「もっか、旧市周縁区を巡回中なのです。賜暇をもらった〈戦士〉達が市の見物をしたいというのですが、とてもああいう剣呑《けんのん》な機械を持ち歩かれては──」 「誰だ、それは?」別の声が奥できこえた。  アマルフィには聞きおぼえのある声だった。〈戦士〉達がへイズルトンを逮捕しにきたとき、通話装置が繋がったままになっているのを見破った、あの横柄な声だ。 「そんなことは許さんと言え!」 「公安局長のディフォードという男です」  へイズルトンの答えているのが聞こえ、アマルフィは思わず苦笑した。へイズルトンの前任者で、ディフォードという支配人《マネージャー》が実際にいたのだ。ただし、もう七世紀前に銃殺されている。 「むろん、そんなことは許せません。それに、旧市の一帯で無責任なエネルギーの放出をされては一大事ですからな。ディフォード、〈戦士〉自身の軍命令で、旧市が立入禁止になっているのは、君も承知のはずだぞ」 「むろん、わたしもそれをいいました」  アマルフィは傷つけられた忍耐といった感じを、声にこもらせた。 「すると笑いだして、休暇中のわれわれは〈戦士〉じゃない、というのですよ」 「何だと?」太い声がいう。 「彼らが現にそういったのです」アマルフィは執拗にいい張った。「われわれは誰の物でもない自由の身だとか、長い目で見れば、誰が誰を支配できるものでもないとか。あまり要領をえませんが、村の推計主義者に何か吹きこまれたような感じですな。地方じゃ、哲学者の方も純粋な学理だけで済ませておけないんでしょうか?」 「そんなことは関係ない」マークは厳しくいった。「彼らを市へ入れるな──これは命令だ」 「わたしもそう努力しているのです、市長」アマルフィはいった。「しかし、それにも限界はあります。連中の半数はスピンディリーを持ち歩いている。もしあの中のどれかが、たとえ一度でもここで使われたら、何が起こるかはおわかりでしょう。とうてい、そこまでの危険は冒せません」 「そのへんの自重はまかせる。だが、努力は続けてくれ。こちらでも対策を考えてみる。あとで指図しよう。連絡はどこへすればいい?」 「周縁区警察署長のオフィスへ伝言してください」アマルフィはいった。「つぎの巡回のとき、受けとれるように」 「よろしい」  へイズルトンはいって、通話を切った。  アマルフィは周縁区署長室から司令塔への通話回路をセットし、いちおう結果に満足して椅子にもたれた。しかし、不安は去るどころか、深まった感じだった。  種子は蒔かれた。  へイズルトンがアマルフィの企みを理解し、それを押し進めるだろうことは間違いない。使徒ジョルンが新地球《ニュー・アース》派遣軍の首脳部に対して、すでにアマルフィの主張の真偽を照会していることは、充分考えられた。もちろん彼らは、そうした種類のトラブルが発生していないことを報告するだろうが、照会そのものが、この問題に対する彼らの神経をとがらせるはずである。  アマルフィは司令塔のFM受信機にスイッチを入れ、新地球《ニュー・アース》の連邦放送局に同調した。つぎの一歩は、おそらく〈戦士〉達に対する旧市への厳重な立入禁止命令であるはずだし、その布告を聞きもらしたくはなかった。司令官がよほどの老獪さで布告文を作成しないかぎり、これは〈戦士〉達の旧市への好奇心を逆に煽りたてる結果になる──そして、むろん旧市には、周縁区署長はおろか、周縁区と定義できる物さえ、もはや〈シティ・ファーザーズ〉の頭の中にしか存在しないのである。  いずれは何かの事故が起こるだろう。そして、『ディフォード』がその事件を報告するはずはない。 それは初耳でした。お恥ずかしい話ですが、しかし全部を見回ることはとうてい不可能でしてね。今も、〈シティ・ファーザーズ〉に近づこうという連中を、大わらわで制止していたのです──思想史のことで、機械が数週間かかりっきりになるほどの質問を持ちこんでくるのですよ。〈シティ・ファーザーズ〉の作動法を知らないから、と断わっているのですが、もしスピンディリーを突きつけられて、どうしてもと迫られた日には、ちょっと──  このスピーチで、公安局長の失職は確実だ。結果は、制服姿の〈戦士〉のパトロールが、|渡り鳥《オーキー》都市の周囲もしくは内部へ配置されることになるだろう。その時には、アマルフィは地下に潜伏し、あとをマークにまかせざるをえない。へイズルトンが具体的にどんな手段を取るかは予測できないし、アマルフィとしては、何が起こるか知りたくもなかった。  この計画の欠陥の一つは、それがジョルンでさえ疑っている嘘に基づいていることだ。巧妙な欺瞞というものは、冷静で懐疑的な人間でも思わずひっかかるだけの真実性を含んでいなければならない。打ち明けた話、〈戦士〉達が推計主義のおかげで堕落する可能性はこれまでにもなかったし、これからもないのである。  たとえ、この計画が成功して、ジョルンが兵力を引き揚げたとしても、人質をアマルフィに返す前に、彼は〈戦士〉達を訊問にかけるにちがいない。そこでジョルンが発見する全てにアマルフィの息がかかっていたら、その首尾一貫したところが却って信憑性を失わせるだろう。ここから先をへイズルトンのアド・リブにまかせる意味も、一つはそこにあった。  アマルフィとしては、たとえそうしたくても取り消しようのないほど、それから絶縁している方が望ましいのだ。それはディーとウェッブとエステルの生命を賭けるにはあまりにも貧弱な虚構だが、手札で勝負するほかはないのだった。  やがて、それは成功の兆しを見せはじめた。  一週間たたないうちに、〈戦士〉達の賜暇は、強制的な『再研修勤行』という形で、全面的に廃止された。〈戦士〉達が休暇の取消しに反感を持ったかどうかは、直接知りようがなかったが、予測された不祥事は翌日旧市内で発生し、『公安局長』はさっそくへイズルトンに無能さを難詰された。  アマルフィはかねて準備した口上を述べ立ててから、〈シティ・ファーザーズ〉の内臓部にある、古い連絡課支局の一つへと退却した。翌日から〈戦士〉のパトロールは|渡り鳥《オーキー》都市の巡回を始め、アマルフィは孤立無援の存在になった。あとはへイズルトンの仕事だ。  その週末が来ないうちに、〈戦士〉達はスピンディリーを提出して、代りに正規の警察用麻痺銃を受けとるよう命令され、アマルフィは勝利をさとった。占領軍がおのれの上層部によって武装解除されるのは、命運のつきた証拠だ。今に、それは外部からの操作を待たず、崩壊を始めるだろう。  この指令のことがひょっとして耳に入ったら、ジョルンは直ちに行動に移るに違いない。どうやらへイズルトンの悪い癖で、少しやりすぎのきらいがあったようだ。しかし、アマルフィにできるのは待つことしかなかった。 〈戦士〉側の最後の封鎖船が着陸したとたん、ウェッブとエステルは船のエア・ロックからとび出して、アマルフィの方へまっすぐに駈けよってきた。 「手紙を預かっているんです」エステルは息をはずませ、目をきらめかせながらいった。「使徒ジョルンからの。あの船の艦長が、急いで渡すようにいいました」 「わかった。そうあわてることはないさ」アマルフィは唸るように答えた。「けがはないか? 連中、君達をまともに扱ったか?」 「乱暴はされません」ウェッブがいった。「けとばしてやりたくなるぐらい、くそ丁寧でしたよ。ぼく達を特等室に入れて、パンフレットをくれるんです。すぐに退屈しちゃいました。パンフレットを読むのと、お祖母さんと|三目並べ《チックタックトー》をするだけなんだもの」  ウェッブはこらえきれなくなったように、エステルと顔を見合わせて笑いだした。どうやら、そんな状況に置かれても、結構よろしくやっていたらしい。  アマルフィはかすかな心の疼きを感じたが、その感情の正体を見わけることはできなかった。ほんの一瞬でそれは消え去っていた。 「とにかく、よかった」彼はエステルに向かっていった。「で、その手紙は?」 「はい、これ」  船のディラック・プリンターからちぎりとった黄色のテープを、エステルはさし出した。  こう書かれている──。 [#ここから3字下げ] ]]] 福音伝道協会ガブリエル″艦長 32 新地球《ニュー・アース》 ジョン・アマルフィ 急報 一応貴下の主張を認める。ただし、あくまでも一応である。真相を知るは貴下のみ。たとえこの敗北が貴下の策謀によるとしても、これが終末ではないことを記憶せよ。終末はやがて来たるであろう。 [#ここで字下げ終わり]                     [#地付き]使徒ジョルン    アマルフィはその紙片を丸めると、宇宙港のはげたコンクリートの上に放り捨てた。 「その時はその時だ」と呟く。  エステルは黄色い紙屑と、アマルフィの醒めた表情を見比べた。 「どういう意味か、わかりましたか?」 「ああ、彼が何を言いたいかはね。しかし、エステル、君には知ってもらいたくないことだよ」 [#改ページ]     6 人工天体四〇〇一アーレフ・ヌル  エステルが知らされないことは──そのうち彼女の方でそれに気づくだろうが──もう一つあった。  近づきつつあるギンヌンガ・ガップの障壁《バリヤー》をいかに突破して、向こう側の情報を入手するかという問題に最初の光明を与えたのが、ほかならぬエステルが父親にいった、〈|無 人 国《ノーマンズ・ランド》〉のことを知るには弾丸を用意してゆかねば、という言葉だったことである。  何ぶん、当時のウェッブとエステルはまだ子供だったし、誰も子供を相手にする暇はないという考えだった。そんなことより、〈|無 人 国《ノーマンズ・ランド》〉を越えて、厖大で補足的で正反対な無限の反物質宇宙へ送り出すための、非物質的な物体の製作に、人々は没頭していたのだ。  当分のあいだ、事実の発見が目標で、思弁の方は隅に押しやられた形だった。反物質宇宙の現在のエネルギー準位を直接測定することが、何よりも必要なのだ。それさえわかれば、来たるべき破滅の時刻が正確に算出できる。そして、あらゆる概念の抹殺に──そして、その概念に意味を与えている経験的時間の抹殺に──直面して、人類が意義ある死におもむく準備をするまでに、どれだけの時日が残されているかを知ることができる。  ということで、子供達のために割く暇は誰にもなかった。そして二人──この宇宙にとっても見おさめである子供達──は、無視されたまま成長していった。二人がおたがいを求め合うのは意外ではなかった。たとえ、事情がこうでなくても、二人は同じことをしただろう。遺伝子の核酸の微視的な配列にひそんだ運命が、二人をおたがいの物として作り上げたのだから。  エステルは無関心な大人達の世界でスクスクと成長し、彼女がどんな娘になったかにさえ気づかない人々の中で、しっかりと座を占めてしまった。ほっそりとした、しなやかな体。灰色の瞳と黒い髪と白い肌。ととのった、穏やかな顔。  周囲の年長者達は、若さに対しても、美に対しても無感動だった。エステルの数学の才能を喜んで利用はしても、彼女の美しさにはとんと気づかず、それを讃えるすべも知らなかった。近ごろの彼らは、死以外の物には口をくれない──少なくとも、自分達ではそう思っているらしい。しかし、エステルには、彼らが死を彼女のようにハッキリ直視しているとは思えないのだった。そうするにはあまりにも長いあいだ、死を蔑んできた人々なのである。  それがウェッブにとって好都合なのかどうかは、彼自身も知らなかった。新地球《ニュー・アース》でエステルの美しさに気づくだけの良識を持った、ただ一人の人間ということで、いちおう満足はできる。しかし、やっかみの視線にもでくわせないことが、不満に感じられることもあった。そして、時々、エステルもこれについては、彼を除いた新地球《ニュー・アース》の全員と同じように無頓着なのかと疑いたくなることもあるのだった。  時みちて、すでに二人のあいだの愛情は語られ、公認されている。今の二人は、結ばれたカップルの持つ全ての歓びと責任を手にしていた。だが、どういうわけか、誰もそれに気づく者はなかった。年長者達はれいの物体の製作に大わらわで、小さな緑の芽ばえのような愛が終焉の瓦礫のあいだから頭をもたげていることに、心をうたれるどころか、それを顧みる者もないありさまだった。  しかしウェッブは、自分にとって一つの奇蹟であるそれが、同じ世界のせわしない人間どもや機械にとっては、邪魔物とさえ思われていない理由を理解できた。もはや、それだけの時間が残されてないということなのだ。アマルフィやミラモンや、シュロッスや、ディーにとっては、そして永遠の青年のようなカレルにとってさえ、もうくしゃみするだけの時間も残されてはいない。すでに長い歳月を生きてきたこれらの人々にとっては、残されたわずかの時間はとるにたりないものだろう。  しかし、ウェッブとエステルにとっては、それは二人がたとえこれからいかに長く生き続けようと、その人生の半分であることに変わりのない貴重な青春なのだった。  確かに、アマルフィは、二人のことなど念頭になかった。アマルフィは自分が現在の姿──不死人──でなかった昔のことを、とっくに忘れていた。おそらく今では、彼もかつては子供だったことがあるのだと人からいわれても、ピンとこないのではないだろうか。理屈からいけばわかりきったことなのだが、そこまで思い出をたどれないのだ。  ともかく、終末の日の管理をまかせられた彼は、ほかの目的地に続くほかの仕事に対するのと同じように、わき目もふらずそれに打ちこんでいた。もはやこの後には、ほかの目的地もほかの仕事もないことがわかっていても、それは気にならなかった。いま現在、自分が何かをしている──それだけで、アマルフィには充分なのだった。  その間に──。 「君を愛している」とウェッブ。 「あなたを愛しているわ」  二人のまわりの瓦礫は、こだま一つ返さなかった。  もしそのことで誰かに咎められても、アマルフィに弁解の道がなかったわけではない。飛行物体の製作──もとはといえばエステルのふとした発言がその契機になったのだが、今のアマルフィはそれも憶えていない──は、彼らがそれに優先順位を与えようと決定した瞬間から、難航ぎみだったのだ。  最初それは、全ての理論的な問題を演繹的に解決するよりはるかに簡単に思え、また直接的な行動という点でもアピールする物があった。しかし、何をテストするかという基本的な前提もなしに、実験を企画することは不可能である。反物質の飛行体を製作しようという、いちおう具体的に思えるこの計画には、その前提がハッキリ欠けていることがわかった。  やがてそれが解決してみると、この宇宙間メッセンジャーは、どちらの宇宙からも供給を望めないような無に近い基本核子──さまざまな電荷と質量を持ったゼロ・スピン素粒子と、ニュートリノ/反ニュートリノのペア──を素材に、極微のレベルから作り上げねばならないことがわかった。その物体がかりに完成したとしても、それが存在するかどうかを探知することがすでに不可能に近いだろう。なぜなら、ニュートリノと反ニュートリノは何の質量も電荷も持たず、スピンと転化エネルギーだけで構成されているからだ。  全ての素粒子と同じように巨視的世界の経験外にあるそれらの粒子を、視覚化しようとするのは無駄な努力である。物質はそれらにとって全く透明であり、平均的なニュートリノの飛行を停止させるには、五十光年もの厚さを持つ鉛の壁が必要なのだ。  スピンディジーがいかなる核子の回転と磁気モーメントにも強い制御作用を持つ──そのニックネームのいわれもここにある──という事実がなければ、その物体の製作と、完成後の検知と移動は不可能だったろう。ようやくでき上がったメッセンジャーは、安定で、電気的に中性で、質量を持たないプラズマ体であり、一種の重力的な球電ともいえた。  それは理論的には、ジェークの提案による、シッフの引力仮説の再検討から導かれたものだった。この仮説は古く一九五八年に唱えられたのだが、当時の定説──一般相対性理論──がすこぶるうまく説明していると思われた六つの基本的テストのうち、三つを満足させられなかったため、見捨てられてしまった物であった。 「ということは、われわれの観点からすると、逆に長所なんだ」ジェークはそう論じ立てたのだった。「一般相対性理論からの反駁はどのみち時代遅れだし、われわれの特殊なケースでは、ローレンツ=不変的な物体は障害だが、シッフ的物体はそうではないからね。もう一つ、シッフ理論がパスできなかったテストの一つは、遠い島宇宙のスペクトルの赤色変位の説明だ。今のわれわれは、これが単なる時計効果によるもので、引力理論の公正なテストとはいえないことを知っている。一度、現在の知識に照らして、この理論を再評価してみるべきだよ」  その結果が今、|渡り鳥《オーキー》都市の市庁舎にある古い応接室に集まった一同の前にあった。  そこは昔、受註先の惑星との複雑な交渉を処理するためにアマルフィが使った、コミュニケーシヨン・センターだった。そこには、この市が高度の文明を持った恒星系に接近したとき、多種多様な商談を平行して進めることができるように、複雑な電子回路網が設備されていた。そのネットワークが、今や、宇宙間メッセンジャーのための遠隔計測《テレメーター》機構になっているのだ。  その物体自身が、つまりは無形の物を保護している精巧なスピンディジー遮蔽《スクリーン》でしかない以上、そのすぐ下の床から立ち昇っている煙の噴流がなければ、それを肉眼で見ることは不可能だっただろう。煙は対流にのってそのまわりを包みこみ、まるで噴水の中に保たれた泡玉《バブル》のような姿を浮き上がらせていた。  バブルの中に散らばっているのは、静止した、熱い、色とりどりの光点だった。電子ガス、裸の原子核、熱中性子、自由基、その他、二つの惑星の頭脳の結集が考えついたテスト・シチュエーションの全てが、濃縮されてその限られたスペースに入っている──球体の直径はわずか六フィートなのだ。 球体の中心には、専用のスピンディジーの渦に守られた、何よりも大きい勝利があった。 微粒子写真の粒子一つほどのサイズを持った、反塩化反ナトリウムの結晶。これが、シュロッス博士の長年の夢だった人工反物質なのだ。  こちら側でのそれは、すでにマイナス二週間『若返り』ながら、スピンディジー真空の中で崩壊の瞬間である現在を迎えるまでにまだ一週間の寿命を余している、奇蹟の物質だった。反宇宙へ行けば、それはただの食塩の結晶にすぎず、帰りの旅では──もしメッセンジャーが帰還できればの話だが──その味もすでに失われているかもしれない。  アマルフィは時計の赤い針──それが持つただ一つの針──が、ゼロ時間まで四分の一秒ずつを刻むのを見つめた。発射は人間の手では行なわれない──そうした不正確さを許容できないほど、タイミングは重大なのだ。しかし、アマルフィだけは、赤い針がゼロに達し、衝撃がスピンディジーの中に走り、メッセンジャーを空間の外、時間の外、人類の理解の彼方へ送り出す瞬間まで、回路を閉ざすキイを押し下げている特権を与えられているのだった。  その瞬間に何が起こるかは、設計者達でさえ知らないのだ。飛行体が報告を伝えることはできないだろう。いったん障壁《バリヤー》を越えたあとは、消息が絶たれるからだ。外向けの振れのあいだに、その内部の光点と、微視的な食塩結晶に何が起こったかを報告するためには、それはこの大きな暗室に帰ってこなければならない。どれだけの時間がそれにかかるかは、あちら側のエネルギー準位によるわけだが、これはメッセンジャーが発見しなければならないデータの一つだ。したがって、経過時間が予測できるわけではなかった。 「これに何か命名をするべきだな」アマルフィはかすかに身じろぎしていった。  右手の人さし指と中指が痛み始めている。まるで腕と手の力が一瞬でも弛めば宇宙が終わりを告げるとでもいった調子で、必要以上に強くキイを押しつづけていたことに気づいた。  しかし、彼は力をゆるめなかった。疲れた手がどこまで力を抜いていいかの判断をなくしているだろうことがわかっていては、ひょっとしてキイの接触の断たれる危険など冒せない。 「こうしてでき上がってみると、およそどんな物にも似ていないがね。命名するなら、行ってしまわないうちに済ませよう。二度と戻って来ないかもしれんのだから」 「それに名をつけるのは、ちょっと怖いような気がするね」ギフォード・ボナーが青ざめた微笑をうかべていった。「どんな名を与えるにしろ、あまりにも多くの物を約束しすぎるからだ。ただの番号ではどうかな?、宇宙飛行の初期、最初の無人衛星船が打ち上げられた頃は、それを彗星やその他の天体と同じように、年号とギリシャ文字だけで呼んでいた。たとえば、最初のスプートニクは、人工天体一九五七アルファと呼ばれたのだ」 「いい考えだ」ジェークがいった。「ただし、ギリシャ文字は気にくわんがね。既知の状況を表示するために使われていた文字を、これに使いたくはない。超限数ではどうだ?」 「よかろう」とボナー。「誰がその栄誉をになうね?」 「わたしが」  エステルはそういって、前に進み出た。その物体には触れなかったが、片手をそちらに上げていった。 「なんじを人工天体四〇〇一アーレフ・ヌルと命名する」 「もし運がよくて、つぎがあるようなら」とジェークがいった。「さしずめ、一つ上の濃度の四〇〇一Cということだろうな。そのつぎは──」  柔らかなチャイムが響いた。  ギクッとして、アマルフィは時計を眺めた。赤い針はゼロ時間後四分の三秒を通りすぎたところだった。部屋の中央では、煙が乱れた螺旋形に渦巻いている。ピンの頭のようなスターを散りばめたバブルは、消え失せていた。  人工天体四〇〇一アーレフ・ヌルは、誰も見ていないうちに出発してしまったのだ。  いく四半秒かののち、アマルフィはようやくわれにかえってキイを離した。千年期を経てきた右手の震えが、十五分間もおさまらなかった。  怖しいサスペンスだった。  確実なのは、誰もメッセンジャーが数時間ないし数日で帰還すると予想していないことだけである。もしそんなことが起これば、これはキンヌンガ・ガップがすぐそこまで近づいており、色とりどりの光点を分析するどころか、何をするひまもなく、手をこまねいて生命を吹き消されるのを待つしかないことを意味するのだ。  しかし、そういう可能性も存在するということだけで、その古ぼけた一室に通夜が張られる理由には充分だった。飛行体がまだそこにあったとき、それを監視していた全ての装置が、出発と同時にゼロに戻っており、出発そのものについてどんな種類の現象も記録していないという発見だけが、この通夜をわずかに活気づけていた。 〈シティ・ファーザーズ〉が解釈した情報によると、メッセンジャーを発進させた当のスピンディジーさえ、その出力がどう適用されたのかを語っていない。この事実は、少なくともメッセンジャーが、未知の、したがって無用な方向へ押しやられたのではないという消極的証拠として、心強い物であるはずだが、今の状況のものでは憂欝と緊張を増す役割しか果たしていなかった。  それだけの出力が現に働いたなら、メッセンジャーはどこへ行ったのだろう? 明らかに、どこへ行ったとも思えない。  ふだんはほとんど夢を見たことがないアマルフィが(というより、|渡り鳥《オーキー》にはよくあることで、夢はほとんど毎晩見ているのだが、朝になってそれをおぼえていることは、数年に一度しかないのである)、ここしばらく、煙に包まれた|百眼の巨人《アーガス》のような球形の幽霊に、夜ごとうなされていた。逃がれようのない、ねじくれた反測地線の迷路を幽霊はさまよい歩いており、球体の中央では小さな結晶体の小立像が、アマルフィの声でこう叫ぶ──。 [#ここから4字下げ] われは塩よりも、また土よりも出でず われを苦しめるものより出でたり [#ここで字下げ終わり]  そこで突然、反測地線がパッと火のように熱い網に変わって首をしめつけ、爆発する閃光の中で、アマルフィはそれが──いや、まだ朝ではないが、通夜の席に戻らねばならない時刻であることに気づくのである。  しかし、今日の彼はすでにそこにいた。居眠りをしていたところを、警報の響きで叩き起こされたのだ。目ざめてみると、その音は不吉なほど彼の期待より低かった。メッセシジャー内部のすべてのスターに対して、一つずつの警報ベルが備えられているのだが、その三分の一たらずしか鳴っていない。ふたたび部屋の中央に出現した幽霊のような球体は、もはやバスケット・ボールほどの大きさしかなく、アーガスに似た目もほとんど消えて、ようやく残った物も人魂《ひとだま》のようにチラついていた。  アマルフィの知る限りにおいて、その内部の棺台に幾体とも知れない冷たい骨灰をおさめたこの幽藍の亡霊は、別に普通の科学実験の結果と比べて、特に不吉な物ではないはずだった。むしろそれは、希望をもたらしてくれる物かもしれない。しかし、彼にああした夢を与えた怖れを、まだアマルフィは心からとり除くことができなかった。 「早かった」ジェークの声がいう。 「かなり早い」と、これはシュロッス博士の声。「だが、帰ってきたとなると、それにはあと二十一時間の寿命しかない。測定を急ごう──グズグズしてはいられない」 「いま、探測器の秒読みをしているところだ。カメラは回しておいた」  幽霊の中で、また一つスターが消えた。つかのま沈黙がおりた。やがて、シュロッス博士の助手の一人が、抑揚のない声でいった。 「鉄原子核からのパイ中間子のシャワーです。自然死らしい。いや──そうじゃないようです。ガンマ側が高い」 「記録しろ。つぎに消えるのはロジウム=パラジウム系列だろう。対角線崩壊に注意。鉄系列を横ぎるかもしれん──」  スターがパッと燃え上がって消えた。 「消えました!」 「記録しろ」シュロッスはガンマ線偏光鏡をのぞきながらいった。 「了解。驚いたな、セシウムを横ぎった。どういうことでしょう?」 「かまわん、記録しろ。解釈はあとだ。記録だけでいい」  幽霊は身ぶるいし、かすかに縮まった。中心から、澄みきった突き刺すような音が聞こえ、一瞬ゆらめいて消えた。しかし、それは非可聴音域の方へ上昇しながら消えたのだった。 「一時間目だ」シュロッスがいった。「あと二十時間。ピップはどのぐらい続いた?」  しばらく答えがなかった。やがて別の声が、答えた。 「まだ正確な測定はできていません。しかし、約四十マイクロ秒短く、逆方向にドップラーしているようです。崩壊はどんどん進んでいますよ、シュロッス博士──あと十時間は保たないでしょう」 「つぎのピップで、崩壊率を正確に出してみてくれ。しくじるなよ。そこまで早いとなると、崩壊曲線の放出記録を再計算せねばならんだろう。ジェーク、無線周波帯の方で何かわかったかね?」 「いやというほどだ」ジェークはうわの空でいった。「さっぱりわけがわからない。それに、スクープしているんだ──これも、その崩壊率に関係があると思うね。全く、何て波長混乱《スクランブル》だ!」  この調子で二時間目は飛び去った。そして三時間目も。それからしばらくたつと、アマルフィは時間の感覚をなくしてしまった。  緊張、あわただしさ、欝積した疲労、実験とその対象の異常さ、不吉な予感などが、いちどきに負担をかけてきた感じだった。これはこうした重要な実験観測はおろか、決まりきったデータの蒐集にも最悪の条件だったが、|渡り鳥《オーキー》達はふたたび、彼らが持ち合わせている物だけでそれをやりとげた。 「さあ、みんな。いよいよ終わりだ」ようやくシュロッス博士がいった。  額に深い皺が刻まれている。最後の十二時間になって、その皺はめっきりと数を増したようだった。 「できるだけ、うしろへ退って。最後に結晶が消滅する」  研究員と観衆──成行きを最後まで見とどける熱心さを持ち合わせていた、数少ない観衆──は、薄暗い部屋の壁ぎわへと後ずさりした。床下のスピンディジーの唸りが、かすかにピッチと音量を高め、かつて人工天体四〇〇一アーレフ・ヌルであった幽霊は、完全な不透明さにまで分極されたスピンディジー遮蔽のうしろに消えた。  球形の遮蔽《スクリーン》力場は、最初、無言の観衆のグロテスクに歪んだ映像を、鏡のようにうつしていた。と、その中央に針でつついたような光が現われ、音もなく、目の痛いほどの強烈な青白さに成長した。眩ゆい光のクモの巣と蔓枝が、遮蔽《スクリーン》力場の内表面にそって、手探りし、吻合しながら、みるみる広がってゆく。二千年の経験からくる人類の本能的なジェスチャーで、とっさにアマルフィは、目と生殖器を手で覆った。もう一度目が見えるようになった時、光はすでに消えていた。  スピンディジーが停止し、遮蔽《スクリーン》が消失した。空気がドッと中へなだれこんだ。人工天体四〇〇一アーレフ・ヌルは、たった一つの食塩結晶の死で破壊され、永久に消え去ったのだった。 「予防策が不充分だった。わたしの責任だ」シュロッスがきびしい口調でいった。「われわれは放射線の最大許容量以上を浴びてしまった。全員、急いで病院で治療を受けよう。分隊、整列!」  放射能症は軽度だった。重篤な障害が起こるまでに、骨髄輸注が造血機能を正常に戻したし、メクリジン、リボフラビン、ピリドキシンの大量投与で、嘔吐もかなり抑えられた。ディーとエステルも含めて、失うだけの毛髪を持った人々はそれを失ったが、やがてアマルフィとジェークを除いた全員が、ふたたびそれを取り戻した。  第二度の火傷は軽くなかった。それは実験結果の整理を約一ヵ月も遅らせた。その間、麻酔軟膏を塗りたくられた科学者達は、寝巻き姿のまま、病室でへたなポーカーやブリッジに暇をつぶした。ブリッジの勝負の事後検討のあいまに、彼らは果てしない思索をくり返し、何平方マイルものメモ用紙を方程式と軟膏のしみで反古にした。  食塩結晶の崩壊の時まで席にいなかったウェッブは、エステルのための花束と──彼がどこからそんな古風な慣習を発掘したかは、神のみぞ知る、だった──男連中のための新しいトランプをたずさえて、毎日病院を見舞った。そして、方程式の書かれたしみだらけの紙を持ち帰ると、それを〈シティ・ファーザーズ〉に与えてみるのだった。  答えはいつも、「のー・こめんと。でーた不充分」と決まっていたが、それはいわれずともわかりきったことだった。  だが、ようやくのことで、シュロッスとジェーク、そしてそのチーム全員が、ベトベトしたパジャマから解放され、彼らを待ちうけた生情報の山に取り組む日がやってきた。彼らはのべつ幕なしに働いた。とくにシュロッスときては、とっくに昼食を取りはぐれて夕食の時間まで過ぎていることを技師達に注意されるまで、食事も忘れるような状態だった。  もっとも、シュロッスのチームが、物理学史始まって以来の大食漢揃いであることも確かだった。彼らが取りはぐれた昼食というのは、いつも研究室へ持ちこむ大きな弁当を平らげたあとでの、正式な食事をさすらしかった。その証拠に、彼らの不平が一番かまびすかった当時でさえ、全員の体重は五ポンドから十ポンドの増加を示したのだ。  退院一ヵ月後、シュロッスとジェークとレトマは合同会議を招集した。  シュロッスは実験の後半十二時間に見せた渋面に逆戻りしていたし、いつも冷静なレトマまでが心の乱れを顔に浮かべていた。彼らの表情を一目見たとたん、アマルフィは烈しい胸騒ぎを感じた。あの夢に現われたおぼろげな予感の全てが、ここで確認されたように思えた。 「いまから二つの悪いニュースと、一つの善悪どちらともいえないニュースをお知らせする」シュロッスは前置きなしに切りだした。「それをどんな順序で紹介するかについて、実はわたし自身も迷った。そこで、レトマとボナー博士の意見をただしたわけだ。お二人の判断によると、まず諸君に最初にお知らせすべきニュースは、われわれに競争者があるという事実なのだ」 「というと?」アマルフィは訊いた。  シュロッスのいった一言だけで、耳をそばだてるには充分だった。レトマとボナーがその知らせを最初に置いたのも、おそらくその理由でだろう。 「われわれの飛行体は、同じ複雑な物理的状態にあるもう一つの物体の存在を、ハッキリと記録した」シュロッスはいった。「どちら側の宇宙においても、そうした物体が自然発生するとは考えられない。さらにこの物体は、こちら側から送られたと確信できるほど、われわれの物と似ている」 「別の飛行体か?」 「疑いもなく──そして、サイズはわれわれのそれの二倍もある。この宇宙の何者かが、ヒー星人と同じ発見をし、その問題をわれわれと同じ方向に向かって、より深く追求しているのだ──どうやら彼らは三ないし五年、われわれに先立ってスタートしたらしい」  アマルフィはギュッと唇をつぼめた。 「彼らの正体は推測できるか?」 「いや。彼らが比較的われわれの近く、つまり、主銀河系かアンドロメダ、またはその随伴系にいるのではないか、とは考えられる。しかし、断言はできない。〈シティ・ファーザーズ〉によると、その蓋然率は五パーセント・レベルに達しない。ほかの仮説は全て五パーセント・レベルにもほど遠いが、統計的解法が不適当である以上、その点での選択は意味がない」 「〈ヘルクレスの網〉だ」アマルフィはいった。「ほかに考えられん」  シュロッスは肩をすくめた。 「いや、現在のところ、ほかの何者でもありうるね。ジョン、わたしの直感はあなたと同意見だ。しかし、それだけの証拠がない」 「よろしい。それが善悪どちらとも取れるニュースということか。では、悪いニュースの一つは?」 「それはいま知らせた」とシュロッス。「これから話す善悪あいまいな第二のニュースが、第一の知らせを悪いニュースにしているわけだよ。この件について、われわれは長い討論を重ねたが、少なくとも現在は一応の同意をみている。手短かにいうと、この破局を生きのびる可能性は、ほんのわずかだが、存在するかもしれないのだ」  驚愕したいくつかの顔が希望に輝き始めるのをさえぎるように、シュロッスはすばやく手を上げた。 「どうか、わたしのいったことを過大評価しないでほしい。それは万に一つの可能性で、しかもそこでいう生存は、われわれの知ってきた人生とは似ても似つかない種類の物だろうからだ。それを説明すれば、諸君はむしろ死の方を選ぶ気持になるかもしれない。率直にいって、わたしはそうだ。だから、決してこれは純白な希望ではない。むしろ、スペードの|A《エース》のように真黒な物と、わたしには思える。だが──ともかくそれは存在するのだ。そしてこれが、われわれに競争者があるというニュースに、不吉な意味を帯びさせるわけだ。もし、このあいまいな生存方式を採用すると決まれば、今からさっそく準備に人らねばならない。生存は、破滅のまっただ中で、しかもほんの数マイクロ秒しか続かないあるはかない条件の元でのみ、可能なのだ。もし、未知の競争者がわれわれより先にそこへ到着すれば──ここで、彼らがわれわれより早いスタートを切っていることを思いだしてほしい──彼らはその場所を占有し、われわれを閉め出すだろう。これは文字通り、命がけのレースだ。そして、諸君にとっては、走るほどのことはないものと思えるかもしれない」 「もう少し詳しくおっしゃっていただけません?」エステルがいった。 「ああいいとも、エステル。しかし、それを説明するには何時間もかかる。とにかく、今ここでは、諸君にこれだけを知っておいてほしい。もしこの出口を選んだ場合、われわれは家庭も、世界も、おのれの肉体も失うことになる。子供達も、友人も、妻も、そしてこれまでに知ったあらゆる人との繋がりを失うのだ。一人一人が、過去のいかなる人間の経験や想像にもない、徹底した孤独を味わうだろう。そして、この究極的な孤独がわれわれを殺すことも充分考えられる──もしそうならなければ、逆にわれわれの方がそれを願う結果になるかもしれない。だから、まずわれわれ自身がそこまで痛切に生存を望むかを、めいめいの心に訊いてみねばならない──永遠という地獄に投げこまれるのを厭わないほど、痛切に生存を望むかをだ、それは使徒ジョルンの地獄どころか、もっとおそろしい地獄だ。いまこの場で簡単に決定できることではない」 「へレッシン!」アマルフィはいった。「レトマ、君も同じ意見か? それほどひどいことになるのか?」  レトマは銀色の瞳で、まばたきもせずアマルフィを見据えた。 「それ以上でしょう」  しばらく部屋は静まりかえった。ようやくへイズルトンが口をきった。 「すると、あとは悪いニュースが一つか。これはさだめしピカ一だろうね、シュロッス博士。はやく聞かせてもらおうじゃないか」 「よろしい。つぎは異変の起こる日付だ。反宇宙のエネルギー準位については満足すべき測定ができ、その解釈にも意見が一致した。およその日付は、四〇〇四年の六月二日だ」 「最後の日がたった三年の先に?」ディーが囁くようにいった。 「そう。それが終末だ。その六月二日のあとには、六月三日はもう永久にやってこない」 「そういうことで」と、へイズルトンは客間に集まった人々にいった。「今夜の送別会を開いたわけです。あなたがたの大部分は、明朝ヒー星と一緒に超銀河系《メタ・ギャラクシー》の中心へ向かって出発される。そのほとんどが、わたしには数百年来の友人だった人達だが、もうこれきりでお会いする機会はなくなる。わたしにとっては、六月二日がやってきた時、そこで時は停止するのです──あなたがたがどんな超人間的存在に変わろうとね。それが、今夜一緒に食事していただこうと考えた理由なんですよ」 「決心を変えてほしいものだ」アマルフィは悲しみのこもった声でいった。 「できればそうしたい。だが、だめですね」 「これは間違いだと思うな、マーク」ジェークが真剣にいった。「新地球《ニュー・アース》には、これからやるだけの意義のある仕事は何も残っていない。わずかに残された未来は、ヒー星の上にだけある。なぜあとに残って、吹き消されるのを待たなきゃならないんだね?」  へイズルトンはいった。 「それは、わたしがここの市長だからさ。ジェーク、それは君には大して意味のないことだろう。だが、わたしには大きな意味がある。実はこの数ヵ月で一つの発見をしたんだ。わたしという男は、普通の事件に天啓的な見方をすることができない。わたしにとって重大なのは、わたしが日常の人事をかなりうまく処理していること──それだけなんだ。わたしはそんな風に作られた人間さ。使徒ジョルンにいっぱいくわせたあの一件は、たとえアマルフィにお膳立てを整えてもらったにしろ、わたしには大きな喜びだった。楽しくもあった。ああいう作戦になると、生きがいを感じてしまうのだ。  わたしは、時の勝利を妨げるような試みに関心はない。それはわたしに似合った相手じゃない。そっちはあなたがたにまかせておく。わたしはここに残った方がいいのだ」  ギフォード・ボナーがいった。 「君がどれほど立派にこの星雲を行政したところで、今から三年後の六月二日には全てが抹殺されるとわかっていても、平気なのかね?」 「いや、そうともいえない。だが、その瞬間が来たとき、この星雲をわたしに出来る限りの良好な運営状態に整えておくというのも、悪くないじゃないか。ギフ、時の勝利に対して、わたしは何を寄与できるだろう? 何もない。わたしにできるのは、その日のためにこの世界を整理しておくことだけだ。わたしはそうする──ヒー星に同行しないのもそのためだ」 「昔の君は、それほど謙虚じゃなかったものだが」とアマルフィ。「口実さえみつかれば、宇宙を北斗七星の柄杓ですくいかねない男だった」 「そうでしたな」へイズルトンはいった。「あの頃に比べると、年もとったし、分別もついたのでしょう。ということで、そうしたナンセンスにはさよならしたいのですよ。ジョン、あなたは時の勝利をストップさせに行かれればいい──もしそれができる物ならね。だが、わたしにはできないとわかっている。ここへ残って、使徒ジョルンをストップさせるよう、力をつくしてみましょう。これが最近のわたしにとっては最大の難題ですから。星の神々の加護があなたがたの上にあるように──だが、わたしはここへ残ることにします」 「それもよかろう」とアマルフィ。「ともかく、君とわたしとの違いが、これでやっとハッキリしたわけだ。それに対して乾杯しようじゃないか、マーク。では|さ よ う な ら《アヴェ・アトック・ヴァン》──明日のためにグラスを干そう」  彼らは重々しく乾杯し、つかのま黙りこんだ。  やがて、ディーがポツリといった。 「わたしも残るわ」  ふりむいたアマルフィは、ヒー星で会ったとき以来初めて、ディーの顔をまともに見つめた。あの苦痛な情事のあと、二人は意識的におたがいを避けてきたのだった。 「そこまでは考えつかなかったが、もっともな話だな」とアマルフィ。 「君がここに残る必要はないよ、ディー」マークはいった。「前にもそう話したろう」 「必要があるようなら、残りはしなかったでしょう」ディーはほのかな微笑を見せていった。「でもわたしはヒー星でいくつかのことに気づいたわ──そして、〈戦士〉の封鎖船の中でも。この新地球《ニュー・アース》と同じように、わたしも少し時代遅れになった感じがするの。やはり、わたしはこの星の人間なのね。でも、それだけが理由ではないのよ」 「ありがとう」マークはかすれた声でいった。  ウェッブ・へイズルトンが口をはさんだ。 「しかし、そうなるとぼく達はどうなるんです?」  ジェークが笑った。 「それは、ハッキリしてるじゃないか。君とエステルが自分達の判断で大きな決定をしたのなら、小さな決定をどうするかで、われわれの意見を仰ぐことはない。そりゃあ、わたしとしては、エステルが家に残ってくれれば嬉しいが──」 「ジェーク、君も行かないのか?」アマルフィは驚いていった。 「そう。前にもお話したと思うが、宇宙を飛びまわるのは性に合わんのですよ。自宅の居間で手軽にお相伴できる破滅を、超銀河系の中心までノコノコ出迎えにゆく気がしれない。シュロッスとレトマに訊いてもらえば、もうわたしの必要性のなくなったことがわかるはずです。この計画にわたしは自分なりの最善をつくした、それだけでいい。  まあ、あとは、この性悪な気候の中で、残り二十年間にどこまでバラの異種交配ができるかを試してみましょう。娘のことは、今いったように、残ってくれればそれに越したことはないが、本人としてはもうハッキリ家を離れている──このヒー星の最後の飛行は、それがディーやわたしにとって不自然だと同じぐらい、エステルにとっては自然なことなんです。つまり、アマルフィ、あんたの言葉をかりると、それもよかろう≠ニ、いうわけですよ」 「よろしい。エステル、君なら役に立ってもらえるよ。それは確かだ。一緒に来るかね?」アマルフィはいった。 「はい」エステルは小さく答えた。「ぜひ」 「こんなことになるとは考えもしなかったわ」ディーが心もとなさそうにいった。「とすると、むろん、ウェッブも行くつもりなのね。でも、それが果たして賢明かしら? つまり──」 「ぼくの両親は反対していません」ウェッブがいった。「もっとも、今日ここへは招待されてないようですがね、お祖母さん」 「誤解するな。おまえのことがあって招かなかったわけじゃない」マークはすばやく口を挟んだ。「何といっても、おまえの父さんはわたしの息子なんだからな、ウェッブ。今夜のパーティは、今度の計画の関係者だけに限定したのだ──でないと、人数が多すぎて、おさまりがつかんのだよ」 「でしょうね」ウェッブはいった。「お祖父さん、あなたにとっては、きっとそうでしょう。しかし、お祖母さんの方は、ぼくがヒー星に行くことを、いま急に反対し始めたんじゃないはずです」  ディーがいった。 「ウェッブ、もうその話はよしましょう」 「わかりました。じゃあ、ヒー星と一緒に行きます」 「そうしていいと誰が言いました」 「言わなくても結構です。これはぼくの決心なんですから」  出席者のほとんどは、ここまでのあいだに、それぞれのあいだで別の話題を見つけていた。だが、アマルフィとへイズルトンだけは、まじまじとディーを眺め続けた。アマルフィは懐疑の表情で、へイズルトンは困惑とかすかな腹立ちの混じった表情で。 「君の反対はよくわからんな、ディー」へイズルトンはいった。「ウェッブはもう一人前の男だよ。当然彼が最善と考えるところへ行っていいはずだ──特に、エステルもそこへ行くとあってはね」 「わたしは行くべきじゃないと思うわ」ディーはいった。「わたしの気持があなたがたにわかろうとわかるまいと、かまうもんですか。たぶん、ロンはこの子に許可をやったのでしょう──ロンの子供の躾けが甘すぎることは、マーク、あなたもよくごぞんじね。でも、わたしは子供達をそんな冒険に追いやることには、絶対に反対よ」 「そこにどんな違いがあるというのだ?」アマルフィはいった。「ヒー星の上だろうが、新地球《ニュー・アース》の上だろうが、終末は同じように、そして同時にやってくる。われわれと一緒なら、ウェッブとエステルにもわずかな生存のチャンスがあるかもしれない。そのチャンスを、二人に与えてやらないのかね?」 「そんな生存のチャンスなど、わたしは信じないわ」 「信じないのは、わたしも同じだ」ジェークが横からいった。「しかし、それをたてに、娘からそのチャンスを取り上げようとは思わない。わたしは、ジョルンの帰依者にならねば娘の魂が呪われるとも思っていない──しかし、仮に娘が改宗したいというなら、自分がいくらナンセンスだと思っても、それを禁じはしないだろう。そうじゃないか、ディー、あるいはわたしが間違っている場合だってありうるのだからね」  ウェッブは唇を噛んでいった。 「ぼくの身内だというだけのことで、ぼくが行くのを禁じる権利なんか、誰にもないはずです。ミスタ・アマルフィ、あなたはこの計画のボスです。ぼくがヒー星に移住するのを歓迎してくださいますか、それとも反対ですか?」 「わたしに関する限りは歓迎だ。ミラモンも同じ意見だろう」  ディーはアマルフィを睨みつけた。しかし、アマルフィがジッと見つめかえすと、目をそらしてしまった。  アマルフィはいった。 「ディー、一時休憩にしないか。わたしも、この子供達のことで誤りを犯しているかもしれない。こんな口論よりも、もっといい案がある。この間題を〈シティ・ファーザーズ〉に相談してみるのさ。戸外《そと》は気持のいい晩だし、さよならをいって、アルマゲドンへのそれぞれの道を踏み出す前に、もう一度旧市街を散歩するのも、悪くないじゃないか。ディーにはこれきりで会えないことでもあるし、わたしと一緒に来てもらおう。子供達も、われわれにつつかれずに、一時間かそこら二人きりになれるのなら、文句はないだろう。マークも、ロンやロンの家内と話してみたいかもしれない──しかし、それはみんなの好きずきにしてくれていいんだよ。無理にペアをこしらえるつもりはない。この考えをどう思うね?」  最初に口をきったのは、意外にもジェークだった。 「わたしはあのいまいましい街が大嫌いだ。あんまり長いあいだ、あの上で閉じ込められていたせいかもしれない。しかし、そういわれてみると、最後の見おさめというやつをしてみたくなりましたよ。昔は、どこか痛みを感じるところがあったらそこを蹴とばしてやりたいと思いながら、よくあの街を歩きまわった。そいつはついに果たせませんでしたがね。そのあとは、向こうは死んだがこっちはまだ生きてるということで、いつもあざ笑ってやったもんです──しかし、それももうじき言えなくなる。ここらで仲直りする時機かもしれませんな」 「わたしもそれに近い気持だね」へイズルトンは認めた。「終末の日が来るまで、あそこへ行くつもりはなかった──しかし、あの残骸をあのまま見殺しにしたくはない。たぶん、今が一番いい潮時なのでしょう。ともかく、今夜の儀式を始めた張本人はわたしだ。ついでに、これも儀式的にやろうじゃないですか。それだけのゆとりを持てる今のうちに」 「ウェッブ? エステル? 〈シティ・ファーザーズ〉の意見にしたがうかね?」  ウェッブはアマルフィの顔をみつめ、どうやらそこに見出した物でいくらかホッとしたようすだった。 「条件が一つあります。〈シティ・ファーザーズ〉が何といおうと、エステルだけは行きたいところに行けることにしてください。もし彼らがヒー星にぼくの乗る余地はないというなら、しかたがない。しかし、エステルのことでそうはいわせません」  エステルは口を開きかけたが、ウェッブが彼女の顔の前に掌を広げるのを見ると、思い直して、その親指の根元にキスを返すだけにした。  青ざめてはいるが、穏やかな顔だった。これまで、これほど冷静で烈しい、煮つめられた純粋な確信がエステルの繊細な面立ちに宿るのを、アマルフィは一度も見たことがなかった。エステルがウェッブの物でよかった、と彼は思った。なぜなら、これでもう五十回目のように、彼の無骨で疲れを知らないハートは、またしても実りのない恋情でふくらみ始めたのだ。 「いいとも」  アマルフィはそう答えてから、ディーに腕をさし出した。 「マーク、拝借するよ」 「どうぞ」  へイズルトンはいったが、ディーがアマルフィの腕をとった瞬間、瑪瑙《めのう》のように鋭い瞳になった。 「では、〈シティ・ファーザーズ〉の前で、〇一〇〇時に」 「あなたがこんなことをするとは思わなかった」ダフィー広場《スクエア》の月明りの下で、ディーはいった。「ちょっと遅すぎやしない?」 「大いに遅すぎたね」  アマルフィはうなずいた。 「それに、〇一〇〇時も迫っている。なぜ、君はマークと残るのかね?」 「おそまきの常識とでも呼んでくださいな」  ディーは古代の手すりを背に腰をおろすと、ぼやけた星空をふりあおいだ。 「いいえ、やはりそれとも違うわ。ジョン、わたしはマークを愛しているのよ。わたしに構いつけない、抜けがらのような今の彼でも。一時、それを忘れたこともあったけれど、本当はそうなんだわ。あなたにはすまないけれど」 「もっとすまなそうにできんもんかね」 「おお? なぜ?」 「今いったことを、君自身が信じられるようにだ」アマルフィは荒々しくいった。「ハッキリいおう、ディー。確かにあれは、ロマンチックな大決心だったよ。ウェッブがわたしと一緒に行きたがっていることに、君が気づくまでは。つまり、きみはまだマークの代用物を求めているんだ。わたしは手に入らなかった。ウェッブも手に入らんだろう」 「何というひどいことを。行きましょう。もうたくさんだわ」 「じゃ、それを否定したまえ」 「否定するわよ、このけだもの」 「ウェッブがわたしとヒー星へ行くことにも、反対をひっこめるな?」 「それとこれとは別よ。穢らわしいいいがかりをつけられるおぼえはないわ」  アマルフィは無言だった。月光がダフィー神父のひややかな、謎めいた顔に降りそそいでいる。だれも、〈シティ・ファーザーズ〉さえも、ダフィー神父がどんな人物だったかを知らない。神父の左足にかかった古い血しぶきの由来も、誰も知る者はない。おそらく歴史的な記念物だろうということで、そこに残されているだけなのだ。 「行きましょう」 「いや、まだ早い。もう一時間もしないと、みんなは集まらんだろう。なぜ君は、ウェッブを新地球《ニュー・アース》に残したいんだ? わたしがもし間違っているのなら、正しい理由をいってみたまえ」 「よけいなおせっかいよ。もうこの話にはうんざりだわ」 「おせっかいであるものか。わたしにはエステルが必要だ。もしウェッブがここに残れば、エステルも残るだろう」 「そうだったの」ようやく気づいたように、ディーは苦い勝利の声を上げた。「エステルに恋をしたのね! 何よ、自分のことを棚に上げて──」 「口をつつしめ。確かに、わたしはエステルに恋している──しかし、君の時と同様、あの子にも指一本触れる気はない。わたしは、君がのぞき趣味で雇い入れた女達よりはるかにたくさんの女達を、これまでに恋した。しかもその大半は、君がこの世に生まれる前にだ。恋と所有との違いも知った──わたしは苦労してそれを学んだが、君は一度もそれを学ばなかった。今夜、それを学ばせてやろうというのだ」 「脅迫するつもり?」 「決まってるじゃないか」  四十二丁目と一番街の立体交叉点、一千年前、血とガラスの破片の雨となって崩壊した国連ビル跡の広場を見おろす、テューダー・タワー・プレース──。 「愛しているよ」 「愛しているわ」 「君の行くところなら、どこへでもゆく」 「あなたの行くところなら、どこへでもゆく」 「〈シティ・ファーザーズ〉がどういおうとかい?」 「〈シティ・ファーザーズ〉がどういおうとよ」 「じゃあ、もう何も聞かなくてもいい」 「ええ、もう何も聞かなくてもいいわ」  司令塔──。 「遅いな」へイズルトンは待ちくたびれたようにいった。「まあ、しかたあるまい。迷子になるにはあつらえむきの町なんだから」  ダフィー広場──。 「わたしが気を変えて、一緒に行くといってもだめでしょうね」 「きみは要らない。わたしの関心はあの子供達だけだ」 「嘘だと思ってるんでしょう? いいわ、行くことに決めます」 「子供達もだな?」 「いいえ」 「なぜだ?」 「その方が、あの子達のためと思うからよ──わたし達と同じ星にいない方が」 「だいぶ話がわかってきたようだな。しかし、その程度ではまだ序の口だ。君が行こうと残ろうと、わたしはかまわん。だが、ウェッブとエステルは、ぜがひでも連れてゆくぞ」 「そういうと思ったわ。でも、わたしを置いて、あの二人を連れては行かせないわよ」 「じゃあ、マークは?」 「もし彼が行きたいというなら」 「行きたいとはいわんよ。それは君も知ってるはずだ」 「そんなことが断言できますか。あなたがそう願ってるだけでしょう」  アマルフィは声を上げて笑った。ディーは左の拳を固めると、力まかせにアマルフィの鼻柱をなぐりつけた。  テューダー・タワー・プレース──。 「もう時間だわ」 「まだまだ」 「ほんと。時間よ」 「まだだ。もう少し」 「……いいわ。もう少し」 「さっきのこと、本当だね?」 「ええ、ええ、本当だわ」 「〈シティ・ファーザーズ〉が……」 「どう言おうと、絶対に」  司令塔──。 「やっとご入来か」へイズルトンがいった。「どうしました、事故にでも逢ったんですか? 眉毛まで血がこびりついてる」 「ドアの把手にぶつかったらしいですな、アマルフィ」  ジェークはそういって、オウムのような笑いを響かせた。 「いや、ここはそんな町なんだ。宇宙広しといえども、ドアに把手がある町なんて、ここだけですよ」 「子供達はどこなの?」ディーが十二ゲージ防護板の表面よりも危険な声でいった。 「まだ来ていない」へイズルトンが答えた。「大目に見てやりたまえ──二人は、〈シティ・ファーザース〉に仲を割かれるんじゃないかと心配している。時間ギリギリまで一緒にいようとするのは当然だよ。ところで、ディー、何があったんだね? こみいった話か?」 「いいえ」  ディーはそれだけいって表情を閉ざした。  キツネにつままれたように、へイズルトンは彼女とアマルフィを見比べた。みるみる大きくなってゆくアマルフィの目の上の黒あざよりも、ディーの険悪で動揺した表情の方が、へイズルトンにははるかに気になるようすだった。 「実は、子供達が昇降シャフトの下で内緒話をしているのを、小耳に挟んだんだが」ギフォード・ボナーがいった。「ジョン、一体こうすることが賢明だろうか? わたしにはそれが疑わしくなってきた。もし、〈シティ・ファーザーズ〉がノーといったら? むごい話じゃないか。二人は愛し合っている──その最後の三年を、なぜ機械の判断にまかせなきゃならないんだね?」 「我慢しろ、ギフ」アマルフィはいった。「どのみち、取り消すにはもう遅い。それに、結果が君の考えるような物になるとは限らん」 「あなたが正しいことを願うね」 「わたしもそう願っている。予言は何もできない──〈シティ・ファーザーズ〉にはこれまで何度も肩すかしを食わされているからな。しかし、子供達はテストに同意したんだ。あとは待つだけだよ」  へイズルトンが、突然感情をむき出しにした声でいい始めた。 「ウェッブとエステルが来るまでに、一ついわせてもらおう。わたしはこけ[#「こけ」に傍点]にされたんだな。この月光の下の合同散歩で、誰が誰を抱く思惑だったのか、今やっとわかってきた。子供達のためじゃない。あの二人は、われわれや〈シティ・ファーザーズ〉の手を借りるまでもないだろう。一体君は、わたしに何をしているんだ、ディー?」 「この不滅でない宇宙にいる不死の男の一人残らずに、わたしは唾を吐きかけてやりたくなったわ」ディーは猛然と食ってかかった。「この一時間、わたしは本に書かれたありとあらゆる性倒錯の濡れぎぬを着せられたわ。それも、赤ん坊でさえ相手にしないような証拠をもとにしてよ」 「どうもみんな気が立っているらしいな」ボナー博士がいった。「少し冷静になりたまえ、ディー──君もだ、マーク。とにかく、今夜は普通の送別会じゃないんだから」 「そうだよ」ジェークがいった。「これは創造の全てに対してのお通夜だ。わたしもそうお堅い人間じゃないが、ここで痴話喧嘩をするのはどうかと思うな」 「わかったよ」へイズルトンは不承不承にいった。「すまなかった、ディー。今のは取り消す」 「ええ、いいわ。わたしも大声を出したりしていけなかった。あなたに一つ訊くけど、本当にあとへ残りたいの? なぜって、もしあなたが本心はヒー星へ行きたいのなら、わたしもご一緒するつもりだから」  マークは彼女をジッと見つめた。 「本当に、か?」 「ええ、本当に」 「どんなもんですかね、アマルフィ? そのことでわたしも決心をひるがえしてかまいませんか?」 「悪いという理由は見あたらんね」とアマルフィ。「ただ、新地球《ニュー・アース》に行政責任者がいなくなるわけだが」 「カレルでだいじょうぶですよ。この前の選挙の時より、ずっと判断力が上がっていますから」 「遅くなりました」ウェッブの声が背後でした。  人々は一斉に振り向いた。ウェッブとエステルが、手を握りあって入口に立っている。二人はどことなく──アマルフィにはどこが前と違ったのか、ハッキリいいあてられなかったが──もうヒー星と同行するしないに、あまりこだわっていないようすに見えた。 「ではそろそろ始めるか」アマルフィは提案した。「今の全問題について、〈シティ・ファーザーズ〉の意見を聞いてみよう──子供達のことだけでなく、全てにわたって。判断の迷いを解く時には、彼らに訊くのが一番だ。たとえ、彼らの勧めるコースが完全な誤りとしか思えない場合でもな。価値判断のかかわりあう問題では、情容赦ないまでに論理的なだけでなく、価値とタマネギの区別もできないような討論相手のいることが、非常に役に立つものだよ」  この点でむろん彼が間違っていたことは、間もなく明らかになった。機械の論理は、機械がそれを知る知らないにかかわらず、価値の組み合わせそのものであることを、アマルフィは忘れていたのだ。 「へいずるとん夫妻ヲ参加サセヨ」  複合問題を与えられてわずか三分後に、〈シティ・ファーザーズ〉は解答を出した。 「現在カラ一切ノ問題ノ終結マデノアイダニ、みすた・へいずるとんノ才能ヲ必要トスルダロウ諸問題ニハ、時間ノ猶予ハ与エラレナイカラダ。ひー星人ガ彼ニ匹敵スル才能ヲコレマデ必要トシタ証拠ハナク、シタガッテ、ソウシタ才能ヲ育テテイルトモ考エラレナイ」 「この星雲はどうする?」アマルフィはいった。 「ワレワレハみすた・かれるヲ市長ニ選ブコトヲ承認スル」  へイズルトンはホーッと息をついた。考えていたより、その職を離れることが辛いのだろう、とアマルフィは思いやった。  アマルフィもかつてはそうすることが死ぬほど辛かったが、それに堪えたのだ。へイズルトンもむろん堪えられるだろう。年も若いし、彼ほど根強い習慣にまではなっていなかったのだから。 「第二項。うぇぶすたー・へいずるとんトえすてる・ふりーまんヲ参加サセヨ。みす・ふりーまんハひー星科学者トノ言語交流連鎖デアルダケデナク、科学者デモアル。現在ノ才能カラ外挿スレバ、規定サレタ三年ノ期間内ニ、彼女ガ純粋数学者トシテしゅろっす博士トホボ同等、れとまヨリハヤヤマサル才能ヲ発揮スル可能性ハ高イ。ワレワレハ、物理学ノ分野ニツイテ、ソウシタ外挿ヲ行ナワナカッタ。仮定サレタ終末時マデニ、ソレニ必要ナ経験ガ与エラレナイダロウカラデアル」  頬を誇りで紅潮させているのは、ウェッブの方だった。エステルは、アマルフィの目には、少しおびえているのではないかと思われた。 「ふむ、よろしい」アマルフィはいった。「では──」 「第三項」 「おい、ちょっと待った。第三項はないはずだ。この間題には二つの部分しかないぞ」 「同意デキナイ。第三項。ワレワレヲ参加サセヨ」 「何だと!」  この要求はアマルフィを仰天させた。  一組の機械がそんな欲望を口にするととなど、いや、考えつくことさえ、ありうるのだろうか? 彼らには生の意味はない。今もこれまでも、何の命もなかった。それどころか、彼らにはどんな種類の意志もないのだ。 「理由を聞こう」アマルフィはやや動転した声で命令した。 「ワレワレニ下サレタ第一指令ハ市ノ生存デアル。市ハモハヤ一ツノ有機体トシテ存在シナイガ、ワレワレハ依然トシテ相談ニアズカッテイル。シタガッテ、市ハアル意味デハ生キ続ケテイルトイエル。シカシ、ソレハ市民ノ中ニ生キ続ケテイルノデハナイ。ナゼナラ、市ハモハヤ市民ヲ持タナイカラダ。彼ラハ今ヤ新地球《ニュー・アース》人ニナッテシマッテイル。来タルべキ問題ニハ、新地球《ニュー・アース》モ、外形上ノ市モ生キ残ルコトハデキナイダロウ。ひー星上ノ未知ノゆにっとノミガ、アルイハソレヲ生キ残ルカモシレヌ可能性ヲ持ツニスギナイ。ワレワレハ、ワレワレコソ市デアルト結論シ、第一指令ニ照ラシテ生キ残ルべキダト判断シタ。シタガッテ、ワレワレヲ同伴スべキデアル」 「今のを人間がしゃべったとしたら」へイズルトンがいった。「史上最大の屁理屈だとわたしは決めつけたでしょうな。しかし、彼らにそんな知恵はない──そんな本能衝動を持っていないんだから」  アマルフィはゆっくりといった。 「ヒー星人もこれに匹敵する計算機は持っていない。積み込んでゆくのも悪くないかもしれんな。問題はそれができるかどうかだ。中には何世紀にわたってデッキに沈下している機械もあるから、無理に取りはずそうとすると壊れるかもしれん」 「だが、そうだとしても、失うのはそのユニットだけじゃないですか」と、へイズルトン。「一体この機械には、いくつのユニットがありましたっけ? 百? ハッキリした数を忘れたが──」 「百三十四」 「そうだった。ともかく、そのうち幾つかがだめになっても、やってみる価値はあると思いますね。何といっても、〈シティ・ファーザーズ〉には二千年近い知識の集積が──」 「九百九十年」 「わかったよ。言葉のあやじゃないか。としても、これはもう人間の手に二度と入らないようなおびただしい知識だ。われわれがそこに気づかなかったことの方が不思議ですよ、アマルフィ」 「わたしもそう思う」アマルフィはうなずいた。「だが、一つだけハッキリさせておこう。いったん君達キャビネット頭脳をヒー星に据えつけたら──というより、どれだけを移転できるかが問題だが──君達にはもう監督権がなくなる。君達は市だ。しかし、惑星は市ではない。ヒー星は独自の行政と、〈シティ・ファーザーズ〉の相当物である人々を持っている。君達の機能はアドヴァイスだけに限定されるのだ」 「ソレハ第三項ノ解答ニ、オノズカラ含マレテイル」 「よろしい。スイッチを切る前に、もう誰か質問はないか?」 「あります」エステルがおずおずといった。 「では早くしたまえ」 「アーネストを連れていっていいでしょうか?」 「あーねすとトハ、ダレカ?」  アマルフィは難しい顔で、スヴェンガリのことを説明にかかった。しかし、〈シティ・ファーザーズ〉は、それが新地球《ニュー・アース》でペットにされていることだけを除いて、スヴェンガリのことは何から何まで知っているらしかった。 「ソノ動物ハ、アマリニモ敏活デ好奇心ガ強ク、カツ知能ガ低イタメ、市ニ便乗サセルニハ不適デアル。コノ問題ニ関スル限リ、操縦性ヲ持ツ惑星モ一ツノ都市ト考エルべキデアル。ユエニ、ソレハ好マシクナイ」 「彼らのいうとおりだよ」アマルフィは穏やかにさとした。「いろいろな機械をいたずらされる危険がある。ヒー星は一つの都市だ。ヒー星人もそう考えて、自分達の子供に同じ規則をあてはめているんだよ」 「わかりました」エステルはいった。  アマルフィは不思議そうに彼女を見つめた。これまで幾多の危険や心の負担を、眉一つ動かさずに堪えてきた彼女だった。それを考えると、一匹のみにくい、低能な生物との別れを悲しんで泣くのは、いかにも奇妙に思える。  アマルフィは、エステルが幼年期との別れで泣いていることを知らなかったのだ。だが、それをいえば、当のエステルもそれを知らないでいるのだった。 [#改ページ]     7 超銀河系の中心  アマルフィにとって、ヒー星への移転は早ければ早い方がよかった。新地球《ニュー・アース》は墓場だ。  使徒ジョルンとのあの奇妙で中途半端な闘争のあいだ、久しぶりに彼は元の自分に返ったような気分を味わったし、また新地球《ニュー・アース》人の方も、|渡り鳥《オーキー》時代の市長が昔と変わらない強力で必要な存在であることを、認識したように見えた。  だが、それは長続きしなかった。危機が──新地球《ニュー・アース》人としては何の役割も、かかわり合いも持つことなく──過ぎ去ると、彼らは待ってましたとばかりに、フロンティアと自己錯覚している農園の耕作に逆戻りしてしまった。  最近の不祥事件をアマルフィが処理してくれたことはありがたいが、そんな事件はそうちょくちょく起こりっこない。それより、無秩序なエネルギーのはけ口に困っているアマルフィに、せっかく安定した土地を蹴りつけられ、トマトを踏みにじられては大変だ、とでもいいたげだった。  もし、ミラモンがいまアマルフィを連れ去っても、悲しむ者は誰もないだろう。ミラモンはより安定したタイプに見える。彼と按蝕することは、アマルフィのためになるに違いない。少なくとも、新地球《ニューアース》にとってそれは悪いことではない。ヒー星人がアマルフィのような異端者をその星に招きたいというなら、それは彼らの自由だ。  へイズルトンの場合は、アマルフィにとっても、新地球《ニュー・アース》人にとっても、問題はもっと複雑だった。ギフォード・ボナーの弟子であるへイズルトンには、宇宙に秩序を押しつけようとする試みを最大の愚行だとする思想がしみついている。宇宙の本来の状態は騒音であり、本来の傾向は、最後の無意味な熱死のジャングルに向かって、しだいにその騒音を増してゆくことだともいえる。  ボナーの教えるところによると──そして、それに異論を唱える者はなかったが──初めて科学的方法が開拓された十七世紀以後、今までに発見された数多い自然の規則性も、煎じつめれば長期的な統計上の偶然であり、混沌という唯一の連続性を持った全体系の局部的不連続にすぎないのだ。その意味をわかりやすく説明するため、ボナーはよくこんなたとえを例に引いたものである。  かりに耳だけにたよって宇宙を周遊している人間があったとすれば、彼は何十億年のあいだ、恐ろしい無限の咆哮だけを聞き続けることだろう。そのあと、系統的な知識の全容に相当する三分間のバッハの断片が現われる。そしてふたたび、何十億年かの咆哮が続くのだ。しかも、そのバッハさえ、もし立ち止まってそれを調べれば、アッというまにジョン・ケージ(不確定性音楽の創始者)に崩壊して、容赦ない喧騒の中に溶けこんでしまうだろう、と。  しかし、へイズルトンはしょせん権力という習慣からは逃がれられなかった。れいの『新星《ノヴァ》』が新地球《ニュー・アース》の視界に入ってからというもの、この模範的な推計主義者は、まるで暴力否定のクエーカー教徒がどうでも相手をなぐらねばならない羽目に置かれたように、でたらめで混乱した推計主義的宇宙へ、彼なりの目的と秩序の観念を押しつけるような行動にかりたてられたのである。  アマルフィは、使徒ジョルンとの闘争のあいだ、マークの作戦そのものは観察できなかったが、その作戦の結果を見守りながら、彼に代わってそれをいぶかったものだった。これだけの歳月を経た今になって、すでに卒業したはずの政治的闘争で昔の腕の冴えを見せることに、はたしてどれだけの価値があるのだろうか? 彼の哲学が教えたよりもっと短命であることがわかった世界のために、その闘争をすることが、そうした思想を奉じている男にどんな意味を持つのだろうか?  もっと単純な問題に話を移してもいい。一体マークがそこまでするだけの価値が、ディーにあるのだろうか? マークはディーの変わり方に気づいているのか? 若い時のディーはたしかに冒険者だったが、今は違う。今のディーは、密猟者にとっては格好の標的の、ヒナを抱いた雌鳥でしかない。そういえば、あの不毛な情事のことを、マークはどの程度に知っているのだろう?  まあ、その最後の質問には解答が出たわけだが、ほかの質問は依然として不明のままだ。ヒー星に同行しようというへイズルトンの唐突な決心は、その権力癖の最後的な放棄を意味するのか、それとも逆に、その再認識なのか? へイズルトンほど頭のいい男なら、新地球《ニュー・アース》の行政権が、もはや昔の|渡り鳥《オーキー》に対する行政権とは比べ物にもならないことぐらい、わかりそうなものだ。それは夏季学級の付添牧師ほどもやりがいのない仕事なのだ。  それともマークは、ジョルン事件を通じて、新地球《ニュー・アース》人達の心に今も、そしてこれからも権力像として残るのはアマルフィであり、新地球《ニュー・アース》が有形の脅威にさらされたときにつねにたよられるのもアマルフィであることを、さとったからだろうか? つまり、こすっからさ、戦略、急場の機転、そうした才能を一切失ってしまった新地球《ニュー・アース》人が、その才能をいまだに持ちつづけているのは伝説的な旧市長だけだと考えていること──そして、彼以後の市長には、それがたとえへイズルトンだろうと、わずかな監督ですむ平時の行政しかまかせられないと考えていること、に気づいたのではないだろうか?  そこまできて、突然アマルフィは、彼が使徒ジョルンを相手にたくらんだペテンが、この限りにおいてはペテンでもなんでもなかったことを、驚きとともにさとった。新地球《ニュー・アース》人達は、推計主義者のようにそれを公言しないだけのことで、やはり宇宙の混沌性に満足しており、ジョルンのような人物から、あるいはジョルンに対抗するアマルフィのような人物から、強制される場合を除いて、宇宙や自分達の人生に目的を持ち込もうという関心はつゆほどもないのである。  したがって、推計主義が〈神の戦士〉達の魂に浸みこみ、それを骨抜きにする可能性は、たとえ新地球《ニュー・アース》人が自分達の思想を推計主義と認識していなくても、最初から存在したといえる。つまり、それは時代のもたらした思想であり、あの博学なギフォード・ボナーも、実は新地球《ニュー・アース》に長年低迷していた感情を、遅まきに理論化しただけにすぎない。でなければ、使徒ジョルンのように利口な男が最初信じもしなかったことを、アマルフィとへイズルトンがああもうまく売りこみに成功したわけが説明できない──少なくともアマルフィが、そしてたぶんへイズルトンも、その時には嘘としか考えていなかったそれが、実は案に相達して真実だったのだ。  もしへイズルトンがそれに気づいているとしたら、新地球《ニュー・アース》を捨ててヒー星に行くことで、彼は何も放棄したわけではない。むしろ、彼と宇宙に残された数年間において何らかの意味を持つ、ただ一つの権力の中枢を選んだといえる。  むろん、あの未知数的な〈ヘルクレスの網〉を除いての話である。しかし、いうまでもなく、それを選ぶのはへイズルトンの力にあまるのだ。  そして、いまやアマルフィまでが、推計主義のウィルスに侵されつつある。こうした疑問はまだ彼の関心を惹くのだが、来たるべき破滅を目前にして、そうした疑問をもてあそんでいること自体に、アカデミズムの匂いが刻々と強くなっている。  アマルフィの愛着する物は、超銀河系の中心へのヒー星の飛行と、その到着の際必要になる機器の完成と、そして〈ヘルクレスの網〉より先にそこへ到着しようという必死な欲求の中にしか、もう残されていない。  つまり、ディーのいったことが、決定的な勝利ではないまでも、決定的な言葉だったのだ。アマルフィを〈さまよえるオランダ人〉になぞらえた彼女の判断は、時の勝利によってほかのラベルや仮面をことごとく剥ぎとられた今の彼の心に、まだそのままこびりついていた。その呪いはいまも、それがつねにそうであったように、飛行そのものにではなく、彼を永遠の飛行にかりたてる孤独の中にひそんでいる。  ただ、以前との違いは、その飛行の終末が見えていることなのだ。  巨大な渦状星雲の群、恒星の集団であるたくさんの島宇宙が、それらの共有する濃度の中心のまわりを渦状肢となって回転しながら、しだいにいくつかのより大きいグループに密集してゆく傾向のあることは、すでに一九五〇年代、シャプリーが『内部超銀河系』──銀河系とアンドロメダ星雲を含む約五十個の島宇宙のグループ──を図解した時から、すでに予測されていた。  ミルンの理論が立証されてからは、そうした超銀河系は通例であり、そのいくつかがまた一つの渦状肢を形作って、全創造の回転の核である中心をとりまいていること、そして、かつては宇宙全体がこの点から、始原単一体の爆発とともに誕生したことも、説明が可能になったのだった。  その死点、時の子宮に向かって、ヒー星はいま飛行しつつある。  もはや、この惑星に日光はなかった。惑星が今たどりつつあるルートは、時おりおぼろ雲のようなしみを空に出現させたが、その間に光る渦巻状の微光は、すれ違う島宇宙の姿であって、太陽ではなかった。  島宇宙のあいだを臍帯のように繋いでいる恒星の橋──一九五三年、フリッツ・ズウォリキンがそれを発見したことで、宇宙に存在する全物質量の評価と、したがって宇宙の大きさと年齢の評価に、急激な上向きの訂正を与えるきっかけになった橋──も、ヒー星の空虚な暗黒を、ただの一日も和らげなかった。  島宇宙間空間はそれほど広大なのだ。ほとんど人工光線のみに照らされながら、ヒー星はそれだけの質量を持つ惑星のみに可能なスピンディジーの全力駆動で、〈意志〉が〈イデア〉を生み出した〈場所〉、神が光あれと命じた一点をめざして、飛行を続けていた。 「われわれがいま研究しているのは、あなたがたがマッハ仮説という名で呼んでいる物です」レトマはアマルフィにそう説明した。「ボナー博士は、それをヴィコの仮説とか、定常宇宙論的原理と呼んでいますがね。つまり、宇宙はどんな空間及び時間から見ても、ほかの視点から全く同じに見え、したがって、その一点に作用するさまざまな圧力を算出することは、残りの宇宙全体を計算に入れない限り不可能だという考えです。  しかしこれは、宇宙が静的で永遠で無限だとするタウ時間の中でしか成立しない。宇宙が有限で膨脹しているとするt時間においては、マッハの仮説は、あらゆる点が独自の観測点であることを述べているわけです──ただし、全ての圧力が等距離にあって相殺し合うため、無圧力の停滞状態にある超銀河系の中心だけは、この範囲から除かれます。そこでは、比較的小さなエネルギーの支出で、巨大な変化を引き起こすことができるかもしれないのです」 「たとえば」と、ボナー博士が口を挟んだ。「一本のキンポウゲを踏みつぶすことで、シリウスの軌道を変えることができるわけか」 「それはどうでしょうか」レトマがいった。「そこまで細かいコントロールはまず無理ですな。しかし、われわれの変えようとしている物は、シリウスの軌道のような小さい事柄ではないのだから、おそらくその点の不都合はないでしょう。われわれが取り引きしようという可能性は──たとえわずかな可能性にしろ、それが存在することは間違いありません──この中立的な一点が反物質宇宙のそれと重なり合い、そして全面破壊の瞬間に、この二つの中立地帯、二つの死点が共通の物となって、ごく短時間ではあるが破壊から生き残ることなのです」 「短時間とはどのぐらいだ?」アマルフィは不安そうに訊いた。 「それがわからんのだよ」シュロッス博士がいった。「われわれは最小限約五マイクロ秒をあてにしている。それだけのあいだ保ってくれれば、われわれの目的には充分だ──もっとも、元素が再創造されるあいだ、その状態が半時間も続くことだって考えられる。その半時間は、われわれにとっては永遠と同じほどの意味を持つだろう。だが、ただの五マイクロ秒しか与えられなくとも、われわれは正反二つの宇宙の未来に充分スタンプを押すことができるのだよ」 「ただし、ほかの何者かがすでにその核心にいて、われわれより先にそれを利用しようとしている場合は別です」レトマが重々しくつけたした。 「利用とはどんな?」アマルフィは訊き返した。「どうも諸君の一般論じゃよく飲み込めんな。はっきりいって、われわれの目的は何だ? どんなキンポウゲを踏み──どんな結果を起こそうというんだ? われわれはそこから生き残るのか──それとも、未来がわれわれの顔を殉教者として切手に印刷してくれるのか? そこをちゃんと説明してくれ!」 「よろしいとも」レトマは少し気押されたようにいった。「われわれが考えているシチュエーションはこうです。超銀河系の中心でギンヌンガ・ガップを五マイクロ秒以上生きのびた者は、二つの宇宙の再形成にかなりの影響を持つだけの潜在エネルギーを、未来へ運び込むことになる。もし、生存物がただの小石か、それともヒーのような惑星であった場合、二つの宇宙は始原単一体の爆発のあととそっくり同じように再形成され、二つの宇宙の歴史はほとんど同じことを繰り返すでしょう。  一方、もし生存物が──たとえば人間のように──自由意志とある程度の機動性を持つ場合には、それはヒルベルト空間の無限に違った次元の組合わせから、どれか一つを選ぶことができる。通過を終えたわれわれの一人一人が、その数マイクロ秒のあいだに、これまでの歴史からは予測できない運命を持った、めいめいの宇宙をスタートさせるわけです」 「ただし」と、シュロッス博士が補足した。「その過程の中で、めいめいは死んでゆくだろう。一人一人の本質であり、エネルギーであった物が、彼自身の宇宙の始原単一体になるのだ」 「おお、全星の神々よ!」へイズルトンがいった。「では、〈ヘルクレスの網〉との競争の目的というのは、われわれがその全星の神々になることだったのか! こりゃ驚いた。まさか、このわたしが神になるとは思わなかった──考えてみると、どうもあまり気乗りがしないな」 「ほかに選択の余地はないのか?」アマルフィがいった。「もし、〈ヘルクレスの網〉がわれわれより先にそこへ着いたら、どうなる?」 「その時には、彼らが選ぶ通りの宇宙が再生されることでしょう」と、レトマ。「彼らのことについて、何もわかっていない状態では、彼らが何を選ぶかの推測もつきません」  ボナー博士がつけ加えた。 「ただ、彼らの選ぶ物に、われわれが含まれないだろうということはいえる」 「そのへんが妥当な賭けだろうな」アマルフィはいった。「白状するが、もう一つの案の方にも、わたしはマークと同じように気乗りうすだ。それとも──第三の選択は許されるのかね? もし異変が訪れた瞬間、超銀河系の中心が空っぽだったらどうなる? それを利用しようとする〈ヘルクレスの網〉もヒー星も、そこにいなければ?」  レトマは肩をすくめた。 「その場合は──もしそうした壮大な変形について語ることができればだが──歴史はそれ自身をくり返すでしょう。宇宙は陣痛を経てふたたび誕生し、終末の二つの破壊、つまり、熱死と単一体への旅を始める。われわれはこれまでやってきたことを、反物質宇宙の中でくり返すことになるかもしれない。たとえそうなっても、われわれには元の宇宙との違いが感じられないでしょう。しかし、わたしはそんなことはまずありえないと思います。もっともありうる可能性は、瞬時の絶滅と、原始イュレムからの両宇宙の輪廻《りんね》再生でしょう」 「イュレム?」アマルフィは訊き返した。「何のことだ? そんな言葉は初耳だね」 「イュレムは、そこからあらゆる物の生まれ出た、根原的な中性子の流れだ」シュロッス博士がいった。「あなたが初耳だとしても不思議はない。それは宇宙進化論のABC、アルファ・べーテ・ガモフ理論(元素の形成を宇宙の進化と結びつけて説明した理論)の前提だよ。宇宙進化論でいうイュレムは、数学における『ゼロ』に似た仮定だ──誰かがそれを発明するまで誰も思いつかなかったほど、古くからあった基本的な考えなのだ」 「わかった」アマルフィはいった。「では、レトマのいいたいのは、もし六月二日が来た時中心点が空虚だった場合、われわれ全員が中性子の海に還元されてしまうのが、もっとも蓋然性の高い結末だということなのか?」 「そのとおり」とシュロッス博士。 「あまり選り好みはいえんわけだ」ギフォード・ボナーが考え込むようにいった。 「そう」ミラモンが初めて口を開いた。「あまり選り好みはいえない。しかし、われわれに残された選択はそれだけなのだ。もし、超銀河系中心への到着が間に合わなければ、それさえ手に入らなくなる」  しかし、ウェッブ・へイズルトンが、来たるべき終末の本質をおぼろげにでも把握し始めたのは、ようやくその前年に入ってからだった。それも、準備体制の推進者達から、じかにその知識を与えられたからではなかった。彼らが何に対しての準備を進めているかは、秘密にはされていないにしてもほとんど不可解であり、その狙いがギンヌンガ・ガップの発生を防ぐ方法に違いないという、ウェッブの確信は揺るがなかったのだ。  ウェッブが暗い気持でその確信を捨てるほかなくなったのは、エステルが子供を生みたくないといいきった時だった。 「しかしどうして?」  ウェッブはエステルの手を握りしめながら、片手で部屋の壁──ヒー星人から与えられた宿舎のそれ──に向かって、烈しく身ぶりしてみせた。 「ぼく達は夫婦なんだよ──ぼく達だけでなく、みんながそれを認めてる。もう、そのことはタブーじゃなくなってるんだ!」 「知っているわ」エステルは優しくいった。「そのことじゃないの。訊かずにいてくれたらよかった。その方が気が楽だったのに」 「どのみち、いつかは気がついたさ。普通なら、ぼくはクスリをすぐにもやめるところだったが、ヒー星への移転や、何やかやで、ついうっかりしてたんだ──とにかく、気がついたら、きみの方はまだクスリを続けている。その理由を聞かせてほしいな」 「ウェッブ、よく考えれば、理由はあなたにもわかるでしょう。終末は終末、それだけのことだわ。たった一年そこそこしか生きられない子供を生む意味がどこにあるの?」 「そんなことはまだわかるものか」ウェッブは険悪な声でいった。 「もちろん、わかっているわ。実をいうと、終末の来ることを、わたしは生まれた時から知っていたような気がするの──もしかしたら、生まれる前からかもしれない。それが来るという予感はしたわ」 「よしてくれよ、エステル、何をバカなこというんだ」 「そんな風に聞こえるでしょうね」エステルは認めた。「でも、本当なの。それに、事実終末が近づいているのだから、まんざらバカな話ともいえないでしょう? わたしには虫の知らせがあった。そして、それは正しかったわ」 「つまり、早くいえば、子供がほしくないんだな?」 「その通りだわ」  エステルの返事は意外だった。 「わたしは子供を生みたいなんて考えたこともない──それをいえば、わたし自身が生き残りたいという欲望もたいしてないわ。でも、それは結局同じことに繋がるのね。ある意味では、わたしは運がよかった。自分の生まれた時代になじめない人はたくさんいる。わたしは自分に似合った時代に生まれたわ──世界の終末の時代に。わたしが出産ということに方向づけられてないのも、きっとそのせいでしょう──なぜなら、あなたとわたしのあとにつぎの世代がないことを、自分で知っているから。ひょっとしたら、わたしは本当に石女《うまずめ》なのかもしれない。もしそうだとしても、驚きはしないわ」 「エステル、よさないか。君がそんな風に話すのなんて聞きたくない」 「ごめんなさい。あなたを悲しませるつもりはなかったの。わたしは悲しくないけれど、それには理由があるわ。わたしは終末に向かっている──それはある意味で、わたしの人生の究極的で自然な結果だし、それに全ての意味を与える事件でもある。でも、あなたの方は、みんなと同じように、それに圧倒されているわけだわ」 「それはどうかな」ウェッブは呟いた。「ぼくにはこじつけとしか思えない。エステル、君はすごくきれいだ……そのことに、何か意味はないんだろうか? 君が美しいのは、男をひきつけ、子供を生むためじゃないのか? 少なくとも、ぼくはいつもそう思ってきた」 「昔はそれがあてはまったかもしれないわ」エステルは生真面目にいった。「とにかく、一つの格言みたいには聞こえるわ。ねえ……ウェッブ、あなたにしかいえないことだけれど、わたしは自分が美しいことを知っているの。女なら、もしそうしていいとなれば、誰でもあなたに同じことをいうでしょう──それは女にとってどうしても必要な心のありかただし、自分が美しいと思わない女は半人前でしかない……そして、自分が美しいと思わなければ、いくら外からはそう見えても、女は美しくないものだわ。わたしは美しいことを恥じだとも思わないし、照れもしないけれど、もうそんなことにはあまり関心がない。それはあなたのいうように目的のための手段で──それにその目的の有用性も、寿命がつきたわけだわ。もし赤ん坊を生めば、生後一年で炎の中へ追いやらねばならないと初めからわかっているのに、それでもそうするような女は、わたしには鬼としか思えない。わたしは結果を知っている。だから、そうはできないわ」 「女達はこれまで、そんな場合でも万一の望みに賭けてきたじゃないか。それも結果を知りながら」ウェッブは強情にいい返した。「百姓達は生まれてくる子が飢えるだろうということを知っていた。自分達がすでに飢えていたんだからね。それとも、宇宙飛行が始まる直前の時代はどうだ。ボナー博士の話だと、当時の約五年間、人類はいつも二十分で絶滅する危機にさらされていたそうだよ。しかし、女性達はそんなことにかまわず、子供を生み続けた──でなければ、今のぼく達も生まれなかっただろう」  エステルは静かにいった。 「それはわたしにはない衝動だわ、ウェッブ。それに、今度の場合、逃げ道はどこにもないのよ」 「さっきから君はそういうが、ぼくにはまだ信じられないね。アマルフィはチャンスがあるといった──」 「知っているわ。わたしもその計算に加わった一人だから。でも、それはそういった種類のチャンスではないのよ。あなたやわたしのように、指図を理解できるだけ大人になった者が、正しい瞬間に間違いなくそれをやって、初めて手に入るチャンスだわ。赤ん坊にはそれはできない。まるでそれは、エネルギーも食料も潤沢な宇宙船の中へ赤ん坊を一人きりで置いて、宇宙を漂流させるようなものよ──どのみち、赤ん坊は死ぬでしょうし、死を防ぐ方法も教えられない。わたし達でさえ致命的なミスを犯しかねないほど、複盤なことですもの」  ウェッブは黙りこんだ。 「それに」と、エステルは小さくつけ加えた。「わたし達にも、長い時間は与えられないのよ。わたし達も死んでゆくの。それはただ、破壊の瞬間に内在する創造の瞬間に、何かの影響を与えるチャンスを持てるというだけのことだわ。もしそうすることができたら、それがわたしの子供になるわけよ、ウェッブ──いま持つ価値のある唯一の子供に」 「しかし、それはぼくの子供じゃない」 「ええ。あなたはあなたの子供を生み出すわけね」 「ぼくはいやだよ、エステル! そんな物がなんになる? ぼくの子供は、君の物でもあってほしいんだ!」  エステルはウェッブの肩を抱くと、頬をすりよせて囁いた。 「ええ、わかるわ。でも、そのための時間は終わったのよ。これがわたし達のために用意された運命なのよ、ウェッブ。わたし達は、子供という贈物を奪われたの。赤ん坊の代わりに宇宙を授けられた、と考えてみて」 「それだけじゃ足りない」  ウェッブはそういって、エステルをひしと抱きしめた。 「半分にも足りやしない。ぼくはそんな契約に何の相談も受けなかったぞ」 「ウェッブ、あなたは願ってこの世に生まれてきた?」 「ん? ……いや、しかし、別に後悔はしていない……そうか、そういうことなのか」 「ええ、そういうことだわ。生まれてくる子は、わたし達と相談できない。だから、それを決めるのは、わたし達しかないのよ。わたしの子を業火で死なせたくないわ、ウェッブ。あなたとわたしの物である子供を」  ウェッブはうつろな声でいった。 「わかったよ。君のいうとおりだ。そうするのは生まれてくる子に対してフェアじゃない。いいとも、エステル。もう一年君をぼくの物にするという交換条件だけで、まけておこう。宇宙なんてほしくもないよ」  減速は、四〇〇四年の一月末に始まった。ここからは、しだいに増してゆく切迫感とは裏腹に、ヒー星の飛行はごく慎重な物に変わるはずだった。なぜなら、超銀河系の中心は、それと接する島宇宙間空間と同じように何の特徴もなく、細心の注意で周智な計測運転をしない限り、航行者達は目的地への到着にも気づかないだろうからだ。  この目的のため、すでにヒー星人は、その司令塔の複雑な改変を終わっていた。司令塔は、彼らの惑星の最高峰──アマルフィにとっていとも面映ゆいことに、その山には彼の名がつけられている──の頂きにある、三百フィートの鋼鉄のやぐらだった。生存者達──彼らは一種のやけっぱちなユーモアで、自分達をそう名づけた──の会議は、ほとんどたえまなく、その上で開かれていた。  生存者のメンバーを構成しているのは、この惑星の中で、最後の瞬間に、たとえ成功の望みがはかない物であっても指図に従える人間、ということで、シュロッスとレトマが合意の上選んだ人々だった。シュロッスもレトマも選択には厳しく、グループは大人数ではなかった。それは移転してきた新地球《ニュー・アース》人の全員──もっとも、ディーとウェッブを含めることにシュロッスは懐疑的だったが──と、ミラモン、レトマを含む十人のヒー星人とから成り立っていた。  ところが、不思議なことに、時が迫るにつれてヒー星人の方はつぎつぎに脱落してゆくのだった。どうやら計画の正体とそれから起こるだろう結果をはっきり理解できたとたんに、そうするらしいのである。 「なぜだろうな?」アマルフィはミラモンにたずねた。「君の種族は生存衝動を持たんのかね?」 「わたしには意外ではない」ミラモンは答えた。「彼らは安定した価値の上に生活している。それを捨てて生きるくらいなら、むしろそれと共に死ぬ方を選ぶのだろう。彼らも確かに生存衝動を持っているが、それはあなたがたと違った現われ方をするのだ、アマルフィ市長。彼らは、人生において価値あるものが生き残ってほしいと考えている──だが、この計画は、その点であまり彼らに満足を与えないのだ」 「では、君やレトマは?」 「レトマは科学者だ。それだけで説明には充分だろう。わたしは──アマルフィ市長、あなたもよく知っているように、わたしは一つのアナクロニズムなのだ。わたしはヒー星一般の価値体系とは無縁だ。あなたが新地球《ニュー・アース》のそれと無縁なように」  アマルフィは一本取られた形だった。訊かねばよかったと悔まれた。 「もうどのぐらい近くまで来たかな?」  彼は話題を変えた。 「もう極めて近い」シュロッスが管制デスクから答えた。  部屋をグルリととりまいた巨大な窓の外は、全てを飲みつくした明けることのない夜のほかに、ほとんど見える物はない。もし、視力のいい人間が、半時間かそこら戸外にいて闇に馴れれば、ぼやけかたの程度もさまざまな島宇宙を、五つまで見ることができたかもしれない。〈中心〉にここまで近づくと、島宇宙の濃度は宇宙のどこよりも高くなっているからだ。  しかし、何気なく空を見まわしただけでは、針先ほどの光もみつからなかった。 「計器の示度はどんどん落ちています」レトマが同意した。 「一つ、妙なことがある。この近くへ来て、急にあらゆる出力が増え始めたのです。この一週間、われわれはしだいに加速を絞ってきました。にもかかわらず、出力は逆に増えている──それも指数的に。そのカーブがこれ以上続かなければいいが。でないと、目的地に着いても機械が扱えないことになります」 「どういうわけだろう?」へイズルトンがいった。「エネルギー保存の法則が〈中心〉では破棄されるのだろうか?」 「それはどうですかな」レトマがいった。「わたしの考えでは、このカーブは頂点で横這いすると──」 「パール曲線だな」シュロッスが口を挟んだ。「これは当然予想しておくべきだった。いうまでもなく〈中心〉にはどんな圧力も働かないため、そこで起こる出来事は、ほかでよりはるかに高い効率で行なわれる。われわれの機械の作動が、物理学上の抽象概念──理想気体、摩擦のない表面、完全に空虚な真空、など──に近接するにつれて、その曲線は横這いの形を取り始めるだろう。これまでの一生で、わたしはそうした理想状態の実在を信ずるなと教えられてきたが、少なくともそれを垣間見る機会が今与えられたわけだ!」 「万有引力から解放された時空系、というのもそれに含まれるのかね?」アマルフィは不安そうにいった。「もしスピンディジーのつかまえる相手がないとすると、事はいささか面倒だ」 「いや、引力からの解放ということは、恐らくありえないでしょう」レトマがいった。「なるほどそこは引力的に中性──それも未曽有の効率のよさ──であるかもしれないが、それはあらゆる圧力が平衡を保っているからにすぎません。この宇宙に一かけらでも物質が存在する限り、何らかの引力を受けない点などありえないはずです」  エステルがいった。 「もしスピンディジーが働かないにしても、どのみち、〈中心〉へ着いたあとは、どこへもゆく必要はないはずですわ」 「確かに」アマルフィはうなずいた。「だが、れいの競争者が何をしているか──もし何かをしていればだが──それがわかるまで、機動性を残しておきたいのだ。連中のいる気配はあるかね、レトマ?」 「まだ全然。運の悪いことに、われわれとしては何を探してよいものやらはっきりしないのです。しかし、少なくともこの附近には、われわれに似た自動能力を持つ質量は見あたらない。いや、探知できた限りでは、一定のパターンを持った活動もないようです」 「では、連中の先を越せたのかな?」 「必ずしもそうはいえんね」とシュロッス。「もしこの瞬間に彼らが〈中心〉にいたとすれば、極めて低次な遮蔽《スクリーン》を使うだけで、われわれに探知されずにいろいろのことがやれるはずだ。しかし、もしそうだとすれば、彼らはすでにわれわれの接近を探知して、何らかの手を打っているだろう。まあ、計器がその逆だと告げるまで、先着したのはわれわれだと仮定しようじゃないか。かなり安全な推測だとはいえるよ」 「〈中心〉まではあとどのぐらいかかる?」へイズルトンが訊いた。 「たぶん、数ヵ月でしょう」レトマがいった。「もし、この曲線が頂点で水平になってくれるという推測が当っていれば」 「必要な機械は?」 「据え付けの完了が今週末の予定だ」とアマルフィ。「到着しだい、秒読みが開始できる……ただし、定格能率の十倍ないし百倍で運転して機械が焼き切れないような扱いを、おぼえることができたとしてだ。システムが完成したら、すぐにもその訓練に入った方がいい」 「アーメン。じゃ計算尺を貸してくれませんか。そろそろ、そっちの練習もしておかないと」  へイズルトンはそういって、部屋から出ていった。アマルフィは不安そうに、戸外の闇を見つめた。 〈ヘルクレスの網〉が一足先にそこにいて、絶好の目標とばかりに攻撃をかけてきてくれた方が、まだましなぐらいである。はたして何者かがそこにいるのかどうかもわからない曖昧さと、全く敵の性質が未知だという条件は、はっきりした戦闘よりも神経にこたえた。  しかし、それをいったところでどうにもならない。それに、もしヒー星が先を越したのが事実なら、アマルフィ達に大きな勝目が……。  いってみれば、それだけが彼らの勝目だった。ヒー星のためにアマルフィが考えつき、急場細工で仕上げた唯一の防御策は、超銀河系の中心へ到着した上で、初めて役に立つものなのだ。そこなら、ほとんど無数に得られる弱い合力を利用して、大きい反応──ボナーがキンポウゲ対シリウス効果と呼んだ物──を生み出すことができる。この間題に関する限り、ミラモンを始めとするヒー星の評議員達は、奇妙に非協力的で、アマルフィには弱腰とさえ思える態度をとっていた。まるで、惑星全体にわたって防御装置をすることが、彼らには把握できない大きな概念ででもあるかのように。  これは、アマルフィが初めてでくわした時の、膝まで泥と暴力につかった野蛮人達が、その後にマスターし、築き上げてきた厖大な業績を考え合わせると、ちょっと信じられないことだった。ともかく、いまのアマルフィに理解できない彼らが、あと数ヵ月でにわかに理解できるようになるとは思えない。それに、アマルフィとへイズルトンが、その奇妙な即席防御装置を組み立てるため、ヒー星人に労働力を使いたいと申し出たことに対しては、少なくともミラモンは何の反対もしなかったのである。  完成したばかりの、導線とレンズとアンテナと金属核の絡まり合いを見上げながら、へイズルトンは悲しみと敬意のいりまじった声でいった。 「この中のどれかが、ピンチには相当の威力を発揮するでしょう。それがどれなのか、今わかればありがたいのだが」  これは不幸にも、今の状況の完全な要約なのだった。しかし、ヒー星をとりまく空間の圧力と流れを記録する針は、着実に沈み続けた。ヒー星の動力装置の出力を記銀する針は、逆に昇り続けた。  そして、四〇〇四年五月二十三日、どちらの針も突然その最高点に昇りつめると、|針止め《ペッグ》を気違いのように押しつけた。だしぬけに耐久度の限界外に追いやられたスピンディジーの、虐げられた恐ろしい咆哮が、全惑星に鳴り響く。  ミラモンの手が、サッと手動マスター・スイッチに伸びた。アマルフィにも、〈シティ・ファーザーズ〉と彼のどちらが動力を切ったのかわからないほど、それはすばやい動作だった。たぶん、当のミラモンでさえわからなかっただろう。少なくとも彼は、自動反応と間一髪の差で切断ボタンに触れたに違いなかった。  咆哮がやんだ。  静寂。  生存者達は顔を見合わせた。 「着いたらしいな」アマルフィはいった。  どうしたわけか、彼は狂おしいほど胸がおどるのを感じていた──全く不合理な反応だ。だが、それを分析している暇はない。 「着きましたね」へイズルトンは目を光らせていった。「ところで、メーターに何が起こったのだろう? 局部的装置があばれだすのはわかる──しかし、なぜ外部からの入力メーターが、ゼロに下降しないで、逆に上昇したのだろう?」 「ノイズでしょうな」とレトマ。 「ノイズ? どういうことだね?」 「メーターを動かすにもエネルギーは必要です──大量ではないが、若干は消費される。その結果、入力メーターも動力装置と同じように狂いだした──なぜなら、効率のピークで作動していたそれは、外部から何の入力シグナルも記録できなくなったため、それ自身の作動で生じたシグナルをピック・アップしてしまったのです」 「そいつはまずい」へイズルトンはいった。「こんな状況の元で、どんな[#「どんな」に傍点]装置にしろ、どこまでのレベルでそれを作動すれば安全だということが、一体わかるのだろうか? そういう計算ができるように、一度この効果の発生曲線を見たいものだ──しかし、記録を検討するプロセスそのものが、すでに機械を焼け切らせる危険がある」  アマルフィは、ヒー星上で『彼の物』と呼べる唯一の道具を手にとった──〈シティ・ファーザーズ〉のマイクロフォンである。 「君達は無事だったか?」彼は訊いた。 「無事ダ、市長」答えがはねかえってきた。  ミラモンは、一瞬ギクッとしたようだった。彼の知る限りのあらゆる物が、光をも含めて、全て死滅した感じのところへ、ふいにスピーカーの声が語りかけてきたからだろう。いま『生存者』達が浴びている光は、ヒー星の磁場によって賦活された大気中の希薄なイオン化ガスの帯が作り出す、あるかなしかの黄道光と、それ以上に仄かないくつかの島宇宙の輝きだけだった。 「結構。作動電力はどこから得ているのか?」 「二千五百ぼるとノ出力ヲ持ツ直列湿電池ヲ使ッテイル」 「全員がか?」 「ソウダ、市長」  文字どおりの暗闇の中で、アマルフィはニヤリと笑った。 「よろしい。諸君の効率計算を、標準の計器状態に適用せよ」 「ソレハ完了シタ」 「ミスタ・ミラモンの回路と接続し、作動可能レベルを算出せよ。管制盤のセッティングを判読できるだけのパイロット・ランプも含める」 「市長、ソノ必要ハナイ。ワレワレハスデニ、作動危険れべる直前デますたー・すいっちガ自動的ニ切断サレルヨウ、修正ヲホドコシタ。シタガッテ、即時ニ全回路ヲ再作動サセルコトガ可能デアル」 「いや、それはならん。スピンディジーまで一緒に作動させたくはない──」 「すぴんでぃじーハ切断サレテイル」〈シティ・ファーザーズ〉はあっさりと答えた。 「どうするね、ミラモン? 連中を信用するか? それとも、連中を君の回路につないで、データをプリントさせ、チビチビとこの惑星にスイッチを入れてゆくかね?」  ミラモンがそれに答えようとかすかに息を吸いこむのが聞こえたが、彼が何と答えるつもりだったかをアマルフィは永久に知ることができなくなった。その瞬間、ミラモンの管制盤全体がパッと生きかえったのである。 「何をする!」アマルフィは叫んだ。「クソッ、命令を待たんか!」 {コレハ服務規定ニヨッテイルノダ、市長。秒読ミ開始後ニオイテハ、ワレワレハ外部カラノ干渉ノ徴候ガアリシダイ、行動ヲトルコトヲ命ジラレテイル。秒読ミハ二千秒マエカラ開始サレタ。ソシテ七秒マエ、外部カラノ干渉ガ統計的ニ意味ヲ持ツモノトナッタ」 「どういう意味なのだ?」ミラモンは管制盤のあらゆる計器を同時に読もうとやっきになりながら、そういった。「アマルフィ市長、わたしはあなたがたの言語を理解できるつもりでいた。だが、これは──」 「〈シティ・ファーザーズ〉がしゃべるのは、|渡り鳥《オーキー》語でなく、機械語だ」アマルフィは切迫した声でいった。「彼らのいった意味は、〈ヘルクレスの網〉が──もしその正体に間違いなければだが──われわれの方へ近づいているということだ。それも高速で」  にぎりしめた拳をサッとひるがえすと、ミラモンはライトを消した。  暗黒。やがて、司令塔のまわりからジワジワとにじみ出るように現われる黄道光の仄かな輝き。それに続いて、島宇宙の朦朧とした火輪花火。  ミラモンの管制盤には、椎の実の大きさもない真空管のヒーターから、たった一つ橙黄色の槍の穂がほとばしっている。宇宙の誕生地である〈中心〉の闇に置かれてみると、それは盲いるような眩しさだった。この山上の司令塔での作業に必要な、深い闇に馴れた視力を持ち続けるために、アマルフィはその光から背をむけた。  視力の戻るのを待つあいだに、アマルフィはさっきのミラモンの反応の早さを思い出し、その裏の動機を考えた。いくらミラモンでも、この片田舎の山頂にある司令塔のパイロット・ランプが、宇宙空間から見えるとは思っていないだろう。だいたい、惑星ほどの大きな物体を灯火管制してみたところで、軍事的には何の意味もない──明りをたよりに敵が攻撃してくるような時代は、もう二千年も前に終わっている。  一体ミラモンは、その人生のどこで、消灯という反射運動を身につけたのか? 全く意味のない動作。だが、ミラモンはボクサーのパンチのような鍛え込まれた正確さで、消灯をやってのけたのだ。  新しい光が輝き始めた時、アマルフィはその答えを知った──しかし、ミラモンがどうしてそれを予測したかをいぶかる暇はなかった。  まるでそれは、あの宇宙間メッセンジャーの破壊が、創造の全てをその過程の中に包み込みながら、逆行してゆくような感じで始まった。  緑がかった黄色光が、ヒー星の空の高みを這いずり、うごめき始めた。最初はオーロラの軌跡のようにおぼろげに、そしてしだいにある目的を持った身もだえを見せ、輝きを増してくる。それは位相差光線で眺めた緑金色の線虫の交尾のように、恐ろしいほど生き物に似ていた。  素粒子計数管が管制盤の上で騒がしく音を立て始め、へイズルトンはとびつくようにして累計値の監視にかかった。 「あの光はどこからやってくるんだろう──見当はつくか?」アマルフィはたずねた。 「百個近くの分離した光源から来ているようだ。それは約一光年の直径で、われわれを球形にとりまいている」  ミラモンが答えたが、どこか上の空のような感じだった。アマルフィにはわからない何かの制御装置を、しきりにいじっている。 「フム。宇宙船に違いない。とにかく、これで連中の名の由来がわかった。ところで、やつら、何を使っているんだろう?」 「それは簡単ですよ」へイズルトンがいった。「反物質だ」 「どうしてわかる?」 「いまわれわれの受けている第二次放射線の周波数分析を見れば、すぐにわかりますよ。あの宇宙船のそれぞれが、巨大な粒子加速器なんでしょう。彼らは裸にした重い反物質原子の流れを、引力の反測地線に乗せてこっちへ送り出している──光の進路があんな風にねじれて見えるのも、そのためです。彼らは反物質原子でできた一次宇宙線を、大量に発生させ投射する方法をものにしたんですよ。あれが大気層に衝突すれば、どちらも崩壊を起こして──」 「そして、この惑星は高エネルギーのガンマ線放射を浴びるわけか」アマルフィが引き取った。「その戦術から名前がついたところを見ても、やつらはこの方法をかなり前から知っていたに違いない。へレッシン! 何という惑星征服法だ! 相手のそばへは全く近よらずに、惑星の全住民を不妊にするも殺すも意のままだとは」 「すでにわれわれは不妊量の放射を受けています」へイズルトンが静かにいった。 「どのみち、いまでは同じことね」エステルがさらに静かな声でいう。 「致命量だって問題は変わらんさ」と、へイズルトン。「放射能症は、たとえ致命的な物でも、発病までに何ヵ月か掛かるからね」 「しかし、このままだとすぐに行動能力を奪われるぞ」アマルフィが荒々しくいった。「何とかストップさせねばならん。ここで負けてたまるか!」 「何をしようというんです?」と、へイズルトン。「われわれが準備してきたどれを見たって、一光年も離れた球体に対して威力を持つものはない……ただ一つ──」 「基底サージ以外にはない」アマルフィはいった。「それを使おう。今すぐにだ」 「それはどういう物か?」ミラモンが訊いた。 「この惑星のスピンディジーを、瞬間出力限度いっぱいの過負荷パルスにセットしておいた。今われわれのいる位置なら、その結果生じる単一の波頭が宇宙空間を混乱におとしいれるだろう──その効果がどこまで届くかはいえないが、かなりの距離に届くはずだ」 「ひょっとすると、宇宙の果てまでかもしれんぞ」とシュロッス博士。 「フム。それがどうだというのだ?」アマルフィは詰問した。「どのみち、あと十日でそれは破壊される運命じゃないか──」 「あなたがそれを先に破壊すれば違う」シュロッスは、いった。「反物質宇宙の通過するとき、もしこの宇宙がここになければ、全ての賭はおじゃんだ。われわれにできることは何もないだろう」 「宇宙はまだ残っているはずだ」 「有用性という観点からは、存在しないと同じだ──その中の物質が、何十億という引力の渦でバランスを保たれていない限りは。二つの宇宙の未来の進化を破壊するぐらいなら、むしろ〈網〉に殺されるほうがいい! アマルフィ、あなたはここまできても、神の役割を諦めきれないのか?」 「よろしい。そのへんの線量計を見て、それから空を見上げてもらおう。そこでどんな考えが浮かぶか、聞きたいものだ」  空は今やべた一面の強烈な輝きだった。にぶい太陽に照らされた夕立前の空に似ていた。外では、この頂きに連なる低い峰々が、樹木に覆われた山腹を浮き上がらせている。全く陰影に欠けたそれは、司令塔のまわりの窓が、実は不馴れな画家の描いた平板な壁画ではないかと錯覚を起こさせるほどだった。計数管はさっきの早口の呟きから、声を押し殺した唸りに変わっている。 「やはり、同じ提案しかできない」シュロッスが絶望した声でいった。「抗放射能剤をたっぷり注射して、あとはこれからの十日間起きていられることを祈るだけだ。ほかにどんな方法がある? われわれはうち負かされたのだよ」  ミラモンがいった。 「失礼だが、まだそうとは決まっていない。われわれにも一応の対策はある。今その一つを試みたところだ。あるいはそれだけで充分かもしれない」 「何だ、それは?」アマルフィは問いつめた。「君達が武器を用意しているとは知らされなかったぞ。どのぐらい待てば、その効果はわかるのだ?」 「質問は一度に一つに願いたい」ミラモンはいった。「むろん、われわれも武器を搭載している。そのことを口にしなかったのは、当時、そして今も、この星に子供達がいたからだ。しかし、われわれが故郷の銀河系をどれだけ遠く離れて、どれほど多くの星を遍歴しているかを考えた場合、いつかは敵意を持つ艦隊に包囲されるだろう可能性も考えておかねばならなかった。そこで、われわれはいくつかの自衛手段を準備することにした。その一つはいかなることがあっても使わないつもりだったが、たった今手をつけてしまったのだ」 「というと?」へイズルトンは身をかたくして訊いた。 「終末が近づいていなければ、こんなことは話さないつもりだった」ミラモンはいった。「アマルフィ市長、いつだったか、あなたは化学者としてのわれわれを賞讃されたことがある。当時すでに、われわれは化学を物理学に応用していたのだ。そして、共鳴によって電磁場を中毒させる方法を発見した──ちょうど、化学反応のプロセスを触媒毒で中毒させるようにだ。中毒場は、搬送波あるいは制御場にそって、いや、連続的でファラデー方程式に一致するシグナルなら、どんな物にでもそって、伝播蔓延してゆく。見なさい」  ミラモンは窓の外を指さした。光の明るさは少しも衰えたように見えない。しかし、今やそれはライ病のような斑点に彩られていた。数秒たたないうちに、斑点は広がり、おたがいにくっつきあって、光はしだいに孤立した明るみの雲に縮まり始めた。そしてそれも、みるみる縁から黒く蝕ばまれていった。まるで、死んだ細胞が腐敗バクテリアの酵素で溶解されてゆくように。  空が全く暗黒に返ったとき、百個の素粒子流放出装置がヒー星をさして近づいてくるのを、アマルフィは見ることができた。実際に惑星上の一点から見えるのは十五以上ではないはずなのだが、少なくともそれは百個以上に見えた。やがてそれらもしだいにむさぼりつくされ、暗黒の中に退いていった。  計数管はふたたび呟きに変わったが、完全な停止には戻らなかった。 「あの効果が宇宙船まで届くと、どんなことが起こるのでしょう?」ウェッブがたずねた。 「回路そのものが中毒を起こすだろう」ミラモンがいった。「船内の生物は全面的な神経閉塞を蒙る。彼らは死に、船も死ぬ。あとに残るのは百個の廃船だけだ」  アマルフィは軋るような長い吐息をついた。 「われわれの防衛準備に無関心だったはずだな。あれだけの代物を持っていれば、君達白身がもう一つの〈ヘルクレスの網〉になれていただろうに」 「いや、それだけはわれわれのなりえない物だ」ミラモンはいった。 「全星の神々よ!」へイズルトンがいった。「あれで終わったのかね? あんなにも早く?」  ミラモンの微笑はわびしかった。 「〈ヘルクレスの網〉がふたたびわれわれを襲うことはないだろう。しかし、〈シティ・ファーザーズ〉のいう秒読みは続いている。世界の終わりには、あと十日しかないのだ」  へイズルトンは線量計に目をやった。つかのま、彼は放心したようにそれを見つめていた。それから急にゲラゲラと笑いだした。 「何がそうおかしい?」虚をつかれたアマルフィは、不機嫌にいった。 「ご自分でごらんなさい。もしミラモンの種族が実世界で〈網〉と遭遇したら、恐らく敗けていたでしょう」 「なぜだ?」 「なぜなら」とへイズルトンは涙をふきながらいった。「ミラモンが連中をうち負かしているあいだに、われわれは致死量の硬放射線を受けたからです。今ここにいるわれわれは、死体と変わりないんですよ!」 「それがジョークのつもりか?」とアマルフィ。 「むろんジョークですよ、ボス。それは何の違いももたらさなかった。われわれは、すでにその種の『実世界』には住んでいないのです。われわれは致死量を浴びた。二週間以内に、われわれはめまいを感じ、毛髪が抜け、嘔吐に襲われる。三週間後には全員が死ぬ。これでもジョークの意味がわかりませんか?」 「わかるさ」とアマルフィ。「わたしだって、十四ひく十が四ぐらいの計算はできる。つまり、人間死ぬまでは生きてるってことだろう?」 「ジョークをぶち壊す人とは話ができん」 「かなりカビの生えたジョークだぞ」アマルフィはいった。「だが、そういってみれば、いまだにおもしろいのかもしれん。まあ、アリストファネスが満足した物に、わたしがケチをつけるいわれはないさ」 「何がおもしろいもんですか」ディーが苦々しい顔でいった。  ミラモンはキッネにつままれたように、新地球《ニュー・アース》人達の顔を見比べていた。  アマルフィは微笑していった。 「まあ、よく考えてからいうんだね、ディー。ともかく、それは大昔からのジョークだ。ひとりの人間の死は、宇宙の死と同じように滑稽なんだ。この宇宙で最後の笑いを拒絶しないでくれ。それが、われわれの残せる最後の遺産かもしれないのだから」 「真夜中ヲ知ラセル」〈シティ・ファーザーズ〉がいった。「秒読ミハぜろ・まいなす・九日」 [#改ページ]     8 時 の 勝 利  アマルフィがドアを開けて部屋に戻るのと一緒に、〈シティ・ファーザーズ〉がいった。 「N=でい。ぜろ・まいなす一時間」  この時間ではあらゆる物が意味を持つ。また、どんな物も意味を持たないともいえる。それはこれまで何を価値ある物として、数千年の人生を意味づけてきたかにかかっている。  さっきアマルフィが部屋を出たのは、トイレットにゆくためだった。もう二度と彼はその行為をしないだろう。そしてほかのみんなも。時を数えることを思いついた人類がまず最初に利用した、肉体の生理的リズムをさえ追い越すほど、全ての死滅は迫っている。  愛に悼む価値があるごとく、排尿過多症にもそれを悼む価値があるのだろうか? さあ、ひよっとしたらあるかもしれない。官能の死を弔う人間がいても、悪くはないだろう。無感覚、無思考、無感情など、たとえそれがその同類の最後の物であったとしても、何の意味もないからだ。  あらゆる緊張と安堵よ、さらば。愛から排尿までの、入口から出口までの、過剰物から騒音までの、ビールからゲームまでの、全ての物よ、さらば。 「何かニュースは?」アマルフィはいった。 「もう何もない」ギフォード・ボナーが答えた。「あとは待つだけだ。坐って一杯やらないかね、ジョン?」  アマルフィは細長いテーブルに坐り、前に置かれたグラスを見つめた。  赤い液体の中に、かすかな青味が宿っている。〈中心〉の究極の暗黒の中にポツンとともった仄暗い蛍光灯の下でさえ、それは紫色ではなく、ハッキリ独立した色調を保っていた。グラスの縁からは、ワインがかすかな凸面を作って盛り上がり、凝縮の小さな触手がノロノロと下に沈んでゆく。  アマルフィはおそるおそるそれを味わった。口ざわりは粗く、ピリッと舌に残る。惑星の気候が気まぐれすぎるためか、ヒー星のぶどう酒はおせじにも旨いといえない。しかし、その刺すような味さえ、思わずため息をつくほどの鋭い快楽に感じられた。 「半時間前になったら着替えよう」シュロッス博士がいった。 「もっと自由時間を取りたいところだが、この中には、もう何世紀か宇宙服を着たことのない人間もいるし、生まれてから一度も着た経験のない者もいる。ピッタリ着こなせないと大変だからね」 「ぼくは、何かの力場で保護されるものだとばかり思ってました」ウェッブがいった。 「それもあとわずかのことだよ、ウェッブ。みんなの頭にしっかり入るように、ここでもう一度くり返しておこう。実際の転移の瞬間には、われわれは停滞力場で保護される。その瞬間、時間はあらゆる点から見て廃棄された形になる──それはヒルベルト空間の単なる一つの座標になってしまうのだ。そしてわれわれは、破滅後の反宇宙側の第一秒目へと運ばれる。  だが、そこで力場は消滅するだろう。なぜなら、その力場を発生させていたスピンディジーが壊滅するからだ。そこでわれわれは、今この部屋にいるあたま数だけの、独立した四次元の組合わせを占有することになる。それぞれの世界は完全に空虚だ。宇宙服も、そう長くは諸君を保護してくれないだろう。諸君は、各自の独立した宇宙における、唯一の有機的なエネルギーと物質を持った実体だからだ。  諸君がその宇宙の時空系を攪乱した瞬間に、諸君も、宇宙服も、宇宙服内の空気も、アキュミュレーターの動力も、全て外に向かって放出し、そうしながら宇宙空間を創造してゆく。一人一人が、その宇宙の始原単一体になるのだ。しかし、宇宙服なしで転移を行なった場合には、それさえ起こらないだろう」 「そう具体的に説明してほしくなかったわ」  ディーが不平をこぼしたが、心はそこにないようだった。ディーは、今アマルフィも気づいたのだが、彼の子供を生みたいといったあの時と同じように、奇妙にはりつめた表情をうかべているのだった。  ふと衝動にかられて、アマルフィはエステルとウェッブを振り返った。二人の手は、テーブルの上でしっかりと重ね合わされていた。エステルの顔には何の翳りもなく、パーティの始まりを待ちこがれる子供のように、いきいきと輝いた目だった。ウェッブの表情は、やや解釈しにくかった。不安というよりは当惑したように眉をひそめて、まるでこの程度にしか怖れを感じないのはどういうわけだろう、といぶかってでもいるようだった。  外では、かぼそい啜り泣きのような音が、だしぬけに唸りにまで高まり、ふたたび消えていった。今日の山頂は風が強い。 「このテーブルや、グラスや、椅子はどうなる?」アマルフィはたずねた。「これも一緒に行くのかね?」 「いや」とシュロッス博士。「縮合核を持つ可能性のある物を、身近に置く危険は冒せない。そこで応用するのは、人工天体四〇〇一アーレフ・ヌルを未来で組み立てた、あのテクニックだ。家具もわれわれと一緒に転移を始めるが、手に入る最後のエネルギーを使って、われわれはそれを一マイクロ秒だけ過去へ押しやる。結果として、それは元の宇宙へ残るだろう。そのあとの家具の運命がどんなものかは、臆測する以外にないね」  アマルフィは感慨深げにグラスを持ち上げた。絹のような手ざわりだ。ヒー星人はすばらしいガラスを作る。 「わたしが跳び込んでゆくその時空系だが」と、アマルフィはいった。「本当に、それは何の構造も持たないのか?」 「あなたがそこへ刻印を押す物以外には」レトマが答えた。「それは宇宙空間でもないし、計量できる構造も持たないでしょう。言葉を換えると、あなたのそこへの実在がすでに許容されないもので──」 「ありがとう」  アマルフィが乾いた声でさえぎったので、レトマはいぶかしげな表情になった。やがて、科学者は聞こえなかったようにあとを続けた。 「わたしがいおうとしたのはこうです。あなたの質量がそれを収容する空間を創り出し、そしてそれが、すでにあなたの中に存在する計量可能構造を受け継ぐことになる。そのあと何が起こるかは、どんな順序であなたが宇宙服を脱ぐかにかかっている。わたしとしては、まずボンベの酸素を放出することを勧めたいですね。われわれが現在いるような宇宙を創造するには、かなりの量のプラズマが必要ですから。残された時間を生きるには、宇宙服内部の空気だけで充分たりるはずです。最後の行動として、宇宙服のエネルギーを放出する。これが結果的には、爆発のマッチをすることになるでしょう」 「どの程度の大きさの宇宙が、その結果できるんだろう?」マークがいった。「わたしの記憶では、始原単一体は極めて濃縮されていて、しかも大きいということだったが」 「そう、それは小さな宇宙でしょう」レトマはいった。「おそらく、最大限で直径五十光年というところでしょうか。しかし、それは最初だけのことです。連続的な創造が緒につけば、より多くの原子が全体につけ加えられてゆき、その質量はつぎの収縮のさいの単一体を形作るに充分な物となる。ともかく、わたし達はそう考えています。むろん、この全ては推測にすぎません。われわれには、知りたいだけの全てを学ぶ時間がなかったのです」 「ぜろ・まいなす三十分」 「さあ、時間だ」シュロッス博士がいった。「みんな、宇宙服を着てくれ。話は無線でもできる」  アマルフィはワインを飲み干した。この行為もこれで最後である。  ゆっくりと昔の熟練を思いだしながら、彼はグロテスクな宇宙服を着こんだ。無線のスイッチが開いているのを確かめはしたが、もう何も話すことは考えつけなかった。今から彼が死のうとしていることも、それがより大きい死の一部にすぎないと考えると、ふいにとるにたらない現実に感じられた。いまさらどんな感想を思いついたところで、それは卑小な物でしかない。  宇宙服の中でみんながおたがいをチェックするあいだ、しばらく技術的な会話のやりとりがあった。ウェッブとエステルには、とくに細かい指示が与えられた。やがてその話し声も、まるで一同が言葉を出すことに耐えられなくなったように、消えていった。 「ぜろ・まいなす十五分」 「これから何が君達の身の上に起こるか、知っているのか?」アマルフィはだしぬけにそうたずねた。 「知ッテイルトモ、市長。ワレワレハぜろ時間ニすいっちヲ切ラレルノダ」 「まあそんなところだな」  そういいながら、アマルフィはいぶかった。彼らは未来にふたたびスイッチが入るかもしれないと考えているのだろうか? もちろん、彼らがおぼろげにも感情と似た物を持っていると見るのは、愚かしい話だが、やはりアマルフィは、彼らの迷いを正すような言葉を出すまいと心に決めた。彼らは機械でしかない。だが、同時に彼らは古い友人達であり、味方でもあるのだ。 「ぜろ、まいなす十分」 「急に時間のたつのが早くなったみたい」ディーの声が、囁くようにイヤフォンに流れた。「マーク、わ……わたし、こんなことが起こってほしくないわ」 「わたしもだよ」へイズルトンがいった。「しかし、それが起こるのは避けられない。もう少し人間らしい人生を送ればよかったとも思う。しかし、それも過ぎてしまったことさ。今更何をいうこともない」 「わたしの創る宇宙には悲しみがありませんように」と、エステルがいった。 「そう思うなら、何も創らないことだね」ギフォード・ボナーがいった。「ここに残った方がいい。創造はつねに悲しみを意味するのだよ」 「そして歓びも」とエステル。 「フム、そうだね。それもある」 「ぜろ・まいなす五分」 「もう秒読みはやめてもいいだろう」アマルフィはいった。「でないと、今から彼らは一分ずつを区切り、最後の一分間は文字通り秒まで数えるはずだ。あの無粋なおしゃべりに調子を合わせて退場したいかね? 『したい』という者?」  誰も黙っていた。 「よろしい。秒読みをやめろ」 「承知シタ、市長。デハ、サヨウナラ」 「さようなら」アマルフィは驚きを味わいながらいった。 「そのあいさつは省かせてくれませんか」へイズルトンが声をつまらせていった。「よけい奪われる物を切実に感じてしまう。もう、みんながそれをいったことにしておきましょう」  アマルフィはうなずいたが、そこでヘルメットの中の動きが相手には見えないことに気づいた。 「いいとも。しかし、奪われるとは思わないでくれ。わたしは君達みんなを愛した。その愛を持っていってほしい。そして、わたしもまた、それを持ってゆく」 「それはこの宇宙で、まだ人間が与え、持つことのできる唯一の物だ」ミラモンがいった。  デッキがアマルフィの足元で脈動した。機械が想像を超えた推力の瞬間に向かって、準備を始めたのだ。その動力音には心を和ませるものがあった。そして、デッキの、テーブルの、部屋の、山の、世界の堅固さにも──。 「いま考えたが──」ギフォード・ボナーが口をきりかけた。  その言葉と共に、終末が訪れた。  宇宙服の内部のほかには何もない。外には暗黒さえもなく、空虚──ちょうど視野の円錐外の死角のように、見ることのできない何物かだけがあった。  人間には頭の背後の暗黒は見えない。その方向だけは見ることができない。ここもそれと同じなのだ。しかし、部屋とその中のあらゆる物が周囲から消えたにもかかわらず、アマルフィはまだ友人達のことを、その円環の一部として意識にとどめているのだった。友人達がまだそこにいることがどうして認識できるのかはわからなかったが、ともかくそう感じられるのだった。  友人達と二度と話をかわせないことはわかっていた。そして、彼らの存在をどうして認識できるかいぶかっているうちにも、彼らがしだいに離れてゆくのが感じられた。円環は広がりつつあるのだ。無言の小立像はしだいに小さくなってゆく──遠ざかるからではない、ここには距離が存在しないのだから。しかし、どういう方式でか、彼らはおたがいの領域からしだいに離れあってゆくのだった。  アマルフィは別れのしるしに手を上げようとして、それが不可能に近いのを知った。まだその身振りを半ばまでしかやりとげないうちに、人々はしだいに薄れ、そして消えていった。あとはある記憶だけが残ったが、それも芳香の記憶のように急速に消えてゆく。  今や彼は一人だった。  いよいよ、残された仕事を果たさねばならない。手を上げかけた動作の続きを利用して、酸素ボンベのガスを放出しようとした。アマルフィが浮かんでいる非媒質は、さっきより少し抵抗が減ってきていた。時空系がぼつぼつ固定してきたのだ。しかし、動作を止めることは、それを始める時と同じほど難しかった。  にもかかわらず、アマルフィは動作を止めた。  今その死を目撃したような種類の宇宙を、もう一つ増やしてみたところでどうなる? 造化はそうした宇宙を二つ作り出し、同時に破滅の運命をもそれらに与えた。なぜ、もっと別のことを試してみないのか? レトマはその慎重さの中で、エステルはその愛の中で、ディーはその怖れの中で、スタンダード・モデルを何がしかの自己版に改造して、誕生させるだろう。  しかし、アマルフィはそのスタンダード・モデルを最後のボルトが抜け落ちるまで酷使してしまった。もう、そのことについては、考えるのもおっくうなほどだ。もしその代りに、胸の上の爆破ボタンを今押してみたら、そして彼と宇宙服を作り上げている元素を一瞬でプラズマに変えてしまったら、どんなことが起こるだろう?  それは知りようのないことだった。しかし、知りようのないことこそ、今の彼が欲している物だ。  アマルフィは、ふたたび手を下におろし始めた。  これ以上遅らせる理由はない。人類への墓碑銘は、すでにレトマがいい終えている──。  われわれには[#「われわれには」に傍点]、知りたいだけの全てを学ぶ時間がなかった[#「知りたいだけの全てを学ぶ時間がなかった」に傍点]。 「やってみるまでだ」  アマルフィはそういって、胸の上のボタンを押した。  創造が始まった。 [#改ページ] [#改ページ]     訳者あとがき 『時の凱歌』はジェイムズ・ブリッシュの「宇宙都市」 Cities in Flight 四部作のエピローグにあたるものです。いちおう、四冊の題名をつぎに挙げてみます。 『地球人よ、故郷に還れ』(第三部)五五年(ハヤカワ・SF・シリーズ 3098) 『宇宙零年』(第一部)五六年(ハヤカワ・SF・シリーズ 3122) 『時の凱歌』(第四部)五八年 *本書 『星屑のかなたへ』(第二部)六二年(ハヤカワ・SF・シリーズ 3315)  これで見ると、発表の順序がシリーズの進行順序と一致していませんが、それにはこんないきさつがあります。  作者が移動労務者である|渡り鳥《オーキー》都市というアイデアを思いついたのは、一九四八年のことだったそうです。(オーキーの語源である、凶作の結果西部へ移動したオクラホマ州の農民が、そこの州警察から蔑視と迫害を受けた事実は、スタインベックの『怒りのぶどう』にもくわしく描かれていますが、このシリーズでは、それが地球警察の渡り鳥都市に対する白眼視という設定として採り入れられ、重要な筋立ての役割を果たしているわけです)ともかく、当時のブリッシュはこうした大作を書くつもりなど毛頭なく、そのアイデアを一万語(約百枚)の中篇にまとめて、アスタウンディング誌へ持ちこみました。ところが、編集長のジョン・キャンベルは、アイデアには興味をひかれたが、掘り下げに満足できなかった。そこで、四ページにわたってぎっしりとタイプしたコメントをくっつけて、原稿を送り返したのです。そこには作者自身も気づかなかった多くの疑問点がくわしく指摘されており、ブリッシュはそれをいかにして解決するかについて、新しく構想を練り直しました。かくしてつぎつぎに同誌に発表された四つの連続中篇をもとに、あらためて一冊の長篇に書きあらためられたのが、『地球人よ、故郷に還れ』でした。(作者によると、さきの没原稿は、この長篇の最後の二章の原型にあたるといいます)  ハード・スペース・オペラとでもいうべきこの第一作は、そのスケールの大きさと科学的迫真性で非常な評判になり、作者は、宇宙都市の成立を可能にした二つの要素──スピンディジーと抗老化剤──が開発されるまでを描く必要に迫られました。このプロローグ『宇宙零年』がまたもや好評で……というわけで、結局前後十五年間を費して、四部作が書きすすめられたのです。第二部『星屑のかなたへ』は、主人公のディフォード(本書にも、マーク・へイズルトンの前任者としてちょっと名前が出てきます)が、ふとした事件で渡り鳥都市のスクラントン市に拾われ、のちにアマルフィ市長のいるニューヨーク市へトレードされて、シティ・マネジャーにえらばれるまでの物語。これまでになく、宇宙都市の制度や日常生活がくわしく描かれているのが特色です。  さて、第四部である『時の凱歌』ですが、ブリッシュはこの作品の狙いについて、避けられない死を前にした人々がどんな行動をとるか、を書いてみたかったと言っています。この意図が成功しているかどうかにはいささか疑問がありますが、むしろブリッシュの本領は、宇宙的大異変をめぐるハードな展開のほうに発揮されているのではないでしょうか。『地球人よ──』に対して与えられたつぎのような批評が、本書にもそのままあてはまるように思うのです。 〈ブリッシュのスケールは全宇宙である。問題は、その壮大さを読者に伝えられるかどうかだが、私の見るかぎり、彼はこれまでのどの作家よりも、その点で成功している〉  これはデーモン・ナイトの『驚異を求めて』という評論集にある言葉なのですが、このあとがきを書くために読みかえしてみたら、「シンボリズム」という章でおもしろい記事にでくわしました。  以前SFマガジンに翻訳された「コモン・タイム」というブリッシュの短篇をごぞんじでしょうか? ギャラードという航宙士が最初の超光速船でアルファ・ケンタウリ系に行き、そこの知的生命とふしぎな思考コンタクトを経験して地球に帰還するという話です。デーモン・ナイトはこの短篇をさかなに精神分析的解釈を試みようと考え、作者自身からの意見もただした上で、ついに主人公のギャラードは精子の象徴である(!)という結論に到達しました。(この結論にいたるまでの根拠もくわしく書かれているのですが、それは省かせていただきます)さて、ブリッシュのほうもこの分析にすっかり興味を感じてしまい、過去の自作に解釈をほどこしてみました。その結果、『大陽神経叢』をはじめとする大半の作品の主人公が、無意識的なこの性的象徴であり、潜在テーマはすべて「誕生」であることを発見し、「ここまでくると信じないわけにはいかない。ぼくはもう書くことが怖くなった」と告白したというのです。  いかにも精神分析の好きなアメリカ人らしい話ですが、このでんでいくと、本書の主人公たちにもおなじ解釈がくだせそうです。つまり、〈|超銀河系の中心《メタギャラクティック・センター》〉なるものは子宮あるいは卵子のシンボルであり、そのゴールにむかって突進する地球人と〈ヘルクレスの網〉の先着争いは、精子のレースの象徴なのではないでしょうか。  ブリッシュが "Star Dwellers" という長篇のまえがきで、生命とはなにかについて書いていたことが、ちょっとこの問題にも関係がありそうなので、それを紹介して結びとすることにします。 〈熱力学の基本法則の一つはこう述べている──エネルギーの一形態が別の形態に変換されるとき──たとえば、水車の回転運動がダイナモによって電力に変わるとき──には、つねに全体のエネルギーの小さな一部が永久的に失われる。この効果がエントロピーと呼ばれるものだが、これは原子から星までをつうじて、この宇宙のもっとも基本的な属性であるらしい。  ところが、生命にはこれはあてはまらないようだ。生きた細胞は、その内部で行われる個々のエネルギー処理で、たしかにエネルギーの一部を失うのだが、なぜか生命体ぜんたいのエネルギーは減少しない。それどころか、生命体はそのたびに少しずつのエネルギーを、どういう方法でか獲得していく。そして、死の瞬間にこの能力は失われる。  つまり、生命は負のエントロピー……逆の方向に流れるエントロピーなのだ〉  末尾になりましたが、本書の中の物理学と生化学に関した部分で、懇切に訳者の質疑に答えてくださった、柴野拓美氏、石原藤夫氏、垣内靖男氏に、心からお礼を申し上げます。 [#改ページ] [#(img/04/187.jpg)入る]