星屑のかなたへ ジェイムズ・ブリッシュ 岡部 宏之訳 [#(img/02/000a.jpg)入る] [#(img/02/000b.jpg)入る] [#(img/02/003.jpg)入る] [#(img/02/004.jpg)入る] [#(img/02/005.jpg)入る] [#改ページ]     序  この物語の背景は未来の渡り鳥都市の社会ですが、同じテーマを扱った作品が他に三篇あります。それらはもともと年長の読者を対象に書かれたものでした。しかし、この『星屑のかなたへ』は、だれでも気軽に渡り鳥都市の世界に入っていける鍵になればよいと願っています。  これらの作品は四篇まとまって一続きの歴史を構成していますので、ここで年代順に並べて紹介しておきます。これは必ずしも、出版の順序と同じではありません。  第一部は『宇宙零年』(ハヤカワ・SF・シリーズ 3122)。これは、ごく近い未来の出来事で、渡り鳥都市の出現を可能にした各種の発明がなされた経緯を描いています。ですから、一種のプロローグであって、それにふさわしく、かなり短いものになっていせす。  他の作品はすべて、渡り鳥都市の活躍を描いたものです。シリーズの第二部は本書。  第三部は、『地球人よ、故郷に還れ』(ハヤカワ・SF・シリーズ 3098、世界SF全集第20巻)で、紀元三千六百年から三千九百五十年頃までの歴史を扱っています。ですから、この四部作の中ではとびぬけた長篇となっています。  最後は『時の凱歌』(ハヤカワ・SF・シリーズ 3181)で、これは『地球人よ、故郷に還れ』から紀元四千四年までの比較的短い期間を扱っています。  最初から最後まで大変に長い歳月が経っていますが、これからみなさんが本書で出会う人物が何人も、最後の二篇に登場します。そんなに長生きするとは、確かに驚くべきことです。しかし、これは単なる奇跡のおかげではなくて、努力して手に入れる特権なのです。その特権をどうして手に入れるか、それを描いたのが、この『星屑のかなたへ』なのです。 [#地付き]ジェイムズ・ブリッシュ   [#改ページ] [#(img/02/009.jpg)入る] [#(img/02/010.jpg)入る] [#(img/02/011.jpg)入る] [#改ページ]     1 強制収容隊《プレス・ギャング》  使われなくなってから久しいエリー−ラカワナーペン・セントラル鉄道の盛土の上に腰をおろしたクリスは、離陸の準備をしているペンシルバニア州スクラントン市を見つめて物思いにふけりながら、あたりに咲いている紅白のクローバーの花を吸っていた。  それぞれの町にとって、それは初めての経験だった。クリスは小さい時から──今は十六歳なのだが──あちこちの町が地球を去っていく話を聞いていた。しかし、飛行中の町を見たことはなかった。それを見た人はごく少ない。なぜなら、放浪都市《ノーマド・シティ》は、飛び立ったが最後、それっきり帰ってこないのだから。  それに、これは面白くはあっても、あまり楽しい出来事ではなかった。スクラントンはクリスがこれまでに見た唯一の町だった。ましてや、これ以外の町を訪れたことなど一度もなかった。そして、これから先も、この町だけを眺めて暮らすことになりそうだった。  かれの父と兄はこの谷間から、身を削る思いで、わずかばかりの収入を得ていた。そして、この町はその収入の象徴なのであった。そこは、金をもうけるところ、その金を使うところだった。だが、どういうわけか、金は常に入ってくる時よりも、出ていく時の方が速いのだった。  スクラントン市は金もうけの種が少くなるにつれて、次第にがめつく[#「がめつく」に傍点]なっていった。しかし、どうもがめつさ[#「がめつさ」に傍点]に徹し切れずにいた。  そして今、ほかの多くの都市がそうであったように、この町にも、ついに絶望の鐘が鳴り渡る時がきた。こうして、町は宇宙に旅立つことになり、星々の世界の渡り鳥労働者になることになったのである。  盆地は情容赦もなく照りつける六月の日射しに、ジリジリと焼かれ、工場の煙突から煙がまっすぐに立ち昇っていた。といっても、煙を吐いている大煙突は、ほんの二、三本しかなく、それも、間もなく煙を出すのをやめて、仕事のある他の惑星が見つかるまで、休みに入るはずであった。たとえ一つの都市という大きなものであっても、星間航行をする乗物の密閉された空気の中では──タバコ一本の煙も許されないのだった。  鉄道の盛土の根元には、タール紙ぶきの小屋が身を寄せあっていた。そして、シャツとデニムの作業ズボン姿の、首筋の日焼けした一人の男が、くわで菜園をかじっていた。  あの人はこれから何が起るか知っているのだろうか、とクリスは思った。確かにその男は、何の注意もはらっていなかった。おそらく、おれの知ったことではない、と思っているのであろう。  クリス自身の父親はずっと昔に、そのような憂欝な心境に到達していた。しかし、それにしても、クリス以外にだれ一人として見物人がいないのは奇妙な話だった。  切り開かれて乾いた赤土があらわになったベルト状の地面が、市の周囲をグルリと取りまいて、市を小屋の群から、打ち砕かれて粉々になったように見える郊外から、そして世界の他の部分から、隔離していた。その輪の内側では、|かなくそ《スラッグ》の山が燃える黄やだいだいの炎の色まで、町はもとのままだった。  スクラントンは家々の半数は残していくが、|かなくそ《スラッグ》の山は持っていくことにしていた。|かなくそ《スラッグ》は交易用の物資の中に入っていたのである。あの星の世界のどこかに、鉄鉱石の精錬をしている惑星があるだろうし、また、またその滓《かす》を、いや、その滓《かす》から抽出される何かを、利用している惑星もあることだろう──どんな利用法があるか、今のところ想像はつかない。しかし、近視眼的にそうした可能性を無視する手はなかった。  それに引きかえ、人間の方は大部分が無用の長物だった。同じ重量で比較すれば、|かなくそ《スラッグ》の方が価値があろかもしれないのだ。  少くとも、宇宙にはこうした希望があった。地球上にはもはや精錬にあたいする鉄鉱石が存在しないことは確実であった。貪欲な第二黄金期──書物では『浪費時代』と呼ばれている──に全部使い果されてしまったのである。そして、残っているのは、ボンコツ自動車の山という人工の鉱山か、その他の屑鉄と銹の鉱床だけであった。  もちろん、火星にはまだ天然の鉄が存在していた。だが、そんなものはスクラントンにとっては高嶺の花だった。火星にはすでに、溶鉱炉とともに銃を備えたピッツバーグ市が腰をすえていた。それに、火星という惑星は一つ以上の製鉄都市を養うには小さすぎた。この赤い世界は鉄が不足していたからではなく、酸素が不足していたからである。酸素は製鉄事業にとって不可欠だった。  どんな仕事にせよ、これからスクラントン市がやろうとすれば、どうしても太陽系の外を探すよりほかになかった。金星と水星には、製鉄都市が手を出して採算がとれるような鉄は存在しなかった──そして、他の六個の惑星、つまり、五個のガス巨星と、冥王星と呼ばれる遠方の氷の塊には鉄は全く存在しなかった。  菜園の男は腰を伸ばすと、くわ[#「くわ」に傍点]を小屋のうしろに立てかけて、中に入っていった。今や赤土の輪の外側の谷間は、本当に人気がなくなってしまったように見えた。この時突然、クリスの心に、これには見掛け以上に重要な意味があるのではなかろうか、という考えが浮んだ。  スピンディジーの作用下にある町に、あまり近寄りすぎるのは危険ではないか? 自分とあの孤独な園芸家は、向う見ずなのではあるまいか?  その瞬間、スクラントンの町そのものの遠い唸り以外は聞えなくなり、世界中が静まりかえった。うしろの鉄道の路盤からは、危険なものがやってくる恐れはなかった。なぜなら、線路はとうの昔にはずされて、溶鉱炉行きになっていたからである。  この谷間には、静かな夜に『フィービ・スノー号』の走る音がまだ聞えるという伝説があった。だが、クリスはそんな子供だましの話は馬鹿にしていた。(それに、父親から聞いたところでは、この列車は昼間のものだということだった)まくら木さえもなくなっていた。ペンシルバニアの厳しい冬をすごすために、小屋住いの人たちが何代にもわたって薪木がわりに燃してしまったのだ。  クリスはスピンディジーの作用について、なけなしの知識をしぼり出そうとした。だが、それは一種の機械であって、物を持ち上げる、ということしか思い出せなかった。  かれの受けた学校教育は貧弱で、不規則なものだった。だが、かれは乱読の達人で、適当な本がなければ、罐詰めのラベルさえもむさぼり読むのだった。しかし、宇宙飛行の物理学となると、上級学生でさえも一流の教師に助けてもらわなければ、とても歯の立つものではない。ところが、クリスが出会った人で、いくらかでも良い教師と呼べる人がいたとしたら、それはスクラントン公立図書館の司書であった。彼女も頭をしぼってくれたが、結局、この学問はだめだった。  こういう次第で、クリスはここにきているのだった。たとえ危険があるとはっきり知っていても、やはり、きたことだろう。なぜなら、この盆地では、何事であれ、新しい事は一つの変化であったからである──たとえその事が、スクラントンがかれの人生や世界から永久に飛び去って、べテルギウス星ほども遠い所へいこうとしている、というような破天荒なことであっても。  これまでのかれの生活は、りす[#「りす」に傍点]を罠で捕えるとか、自分の家と同じくらい暮らし向きのわるい隣家から卵を盗むとか、屑鉄をあさって工場へ売りにいくとか、度かさなる病気の発作(二十三世紀のアメリカにこれを診断する者がもしいたら、古代アフリカ人のいうクワシオルコルのたたり[#「たたり」に傍点]、つまり悪性の栄養失調だと認定したことであろう)で苦しむ父親を看護しているボブを手伝うとか、幼い妹たちがいちご[#「いちご」に傍点]畑に入らないように注意しているとか、小魚を取るとか、金持ちたちのロケットが轟音をあげて空の高みに消えていくのを見送るとかする以外に、ほとんどすることはなかった。  手に職はないし、かなりの馬鹿力があるといっても何の訓練も受けていないかれを、いくらかでも金を出して買ってくれる場所が世の中にあるとは思えなかった。それでも、かれは他処へいこうと度々考えた。  しかし、母親のいないその家庭には真心と愛情があった。そして、この事が、こね粉のあげたのと青いトマトしか食べる物がない時とか、クリスマスの雪の中で、ボロ切れ同然の服をありったけ積み上げて、その下に子供たちが身を寄せ合う以外に暖を取る方法がない時など、これまでしばしば一家を支えてきたのだった。そして結局は、ボブがいつもそうであったように、クリスも骨の髄までそういった心情のとりこになってしまうのだった。  人口の減った地球上で、これ以上に真心を捧げることのできる場所はなく、これ以上にそれに報いてくれる場所もなかった──クリスがいかに陽気で血の気の多い生れつきの少年だとしても、逃亡の夢をはぐくむには、これほど悪い土壌はなかった。  経済学博士が一人の弟子も見出せず、経済の作用についての知識を使って、その分野で他の適職を見つけることのできない世界──半端仕事の山に追われて、亡妻の墓参りさえできず、そのくせ収入だけは年々減っていく世界では──どうしてその息子たちがよりよい未来を夢見ることができようか? 残念ながら、その答は目に見えていた。そして、幼い娘たちの将来がさらに暗いものであることは、これまた明らかであった。  渡り鳥都市もけっしてよりよい逃亡の手だてを与えてくれはしなかった。クリスが読んだところでは、だいたい、|星 間 放 浪《スター・ローヴィング》というものは、青空も、雑木林も、かぶら畑さえも周囲にない、餓え死の一つの方法にすぎなかった。そうでなければ、地球を去った都市のほとんどすべてが、どうして故郷に帰ってこないのか?  なるほど、ピッツバーグは火星で一財産もうけた──だが、一生涯一つの町の中に閉じこめられ、町はずれから先は黄土色の砂漠、呼吸可能の空気のない砂漠、ちっぽけな太陽が沈んだが最後、ほんの数分で人間がカチンカチンに凍ってしまう砂漠以外に見る物とてないとしたら、その財産にも意味はない。クリスの父の話によれば、ピッツバーグも遅かれ早かれ、他のすべての渡り鳥都市と同様に、太陽系を去ることになるだろう、ということだった──それも今度は、鉄と酸素を使い果したからではなくて、地球上に鉄を買ってくれる人がもうほとんど残っていないという理由で。  三十年前に見捨てたかつての黄金のデルタ地帯には、ピッツバーグが戻ってくる理由となるだけの人口は、もう現実に残っていなかった。ピッツバーグは富を持っていた。だが、それを使う場所は、地球上にはますます見出しがたくなっていた。必需品の調達さえも思うにまかせなかった。  渡り鳥都市の運命は、他のあらゆるものと同様に、やはり、行き止まりになっているように思われた。  にもかかわらず、クリスは盛土の上に腰をおろして見物していた。ただ一つの単純な理由、つまり、何かがおこなわれている、というだけの理由で。  その町が谷間を去ることにきまって、うらやましかったのかもしれない。しかし、本人は自覚していなかった。かれはただ気分転換に、何かが起るのを見るために、そこにいたのだった。  うしろのやぶ[#「やぶ」に傍点]がカサコソ鳴った。振りかえって見ると、路盤のむこう側の山の根元から、犬の顔が覗いていた。そいつは不相応にもラッパ形のオニユリの花に取り巻かれていて、なんとなく大皿に盛って差し出された御馳走のように見えた。  クリスはニヤリとした。 「おや、ケリー。蜂に刺されるなよ」  犬はウーッと唸ると、馬鹿みたいに得意な顔をして、小走りに近寄ってきた──おそらく、本当に得意だったのだろう。なにしろケリーときたら、物を見つけるのがすごく下手で、自分の帰り道さえも見つけられないくらいだったから。  表向きにはケリーの主人ということになっているボブの話では、この犬はケリー・ブルー種とコリー種の合の子だということだった──名前の由来もそこにあった──しかし、クリスはその二つの種類の純粋なやつに、まだお目にかかったことはなかった。ケリーはそれらの写真にも似ていなかった。事実、この犬は毛むくじゃらの雑種に見えたし、御本人(?)にとって幸いなことに、雑種こそこの犬の本当の血筋だったのである。 「どう思うね、色男? あんなものが地面から持ち上ると思うかね?」  ケリーは犬がよくやる考えるような仕草をし、困ったような顔をし、尻尾を二度振り、通りかかった蝶々に唸って見せ、それから坐りこんで、息を弾ませた。  この犬は前々から、自分がクリスの飼い犬だと思いこんでいる様子だった。そしてボブの方も、その信念を打ち砕くようなやぼな真似はけっしてしなかった。ケリーにそんな難しいことを説明するのは(a)長く複雑な作業であったし、(b)どのみち全く見こみのない仕事であったからである。ケリーは自分で生計を立てていた──実は飼いうさぎを取って喰っていたのである。それで、かれは近所の厄介ものになっていた。実際、やまあらしを捕えてきた時など、始末におえなかった。そんなわけで、一家でクリス以外のものは、この犬がみずからだれの飼い犬と考えようと、だれも問題にしていなかった。  暑さにうだっている町の周辺に、ついに活動らしきものが始まった。あまり遠いので、かぶっている鉄鋼労働者用の明るい黄色のヘルメット以外はほとんど見えないくらいだったが、小人数の集団が市の周囲の赤土地帯をパトロールしながらやってくるのだった。  たぶん法律があるのだろう、とクリスは考えた。おそらく、この法律はスクラントン市が守らねばならない最後の地球の法律になるだろう──たとえ、〈シティ・ファーザーズ〉がその自由意志の余白に、いくら地球の法律をたくさん取り入れていたとしても。  このパトロールが、近寄りすぎて危険なやじ馬を探しているのは疑う余地がなかった。  クリスはかれらの姿をあまり生き生きと思い描いたので、一瞬、その声まで聞こえたような錯覚におそわれた。ところが、それが錯覚でないとわかって、ギョッとした。黄色いヘルメットをピカピカ光らせて、別の一隊が盛土の下の小屋の群の間をパトロールしながら、こちらに向かってくるのだった。  クリスは、年季の入った密猟者のような天性の警戒心から、路盤の反対側のやぶの中に飛びこんだ。そこは向う側から見えなかった。もちろん、こちらからパトロール隊を見ることもできなかった。  だが、声は聞えてきた。 「……こんな小屋の中にいるもんか。おれにいわせりゃ、時間の浪費だね」 「ボスが見ろっていうから、見るだけさ。おれとしちゃ、ニクソンビルへいった方がいいと思うがな」 「あの渡り職人どもかい? あいつら、十マイルも先から仕事の匂いを嗅ぎつけるぜ。町のこちら側の連中ときたら、よく仕事を探していたなあ。といっても、仕事があったわけじゃないがね」  クリスは用心深くやぶを掻き分けて、覗いて見た。まだかれらの姿は見えなかった。だが、別の方角から、昔の路盤の上を歩いてくる別の一隊があった。かれはあわてて手をはなして、やぶをパッと元に戻した。そして、山の根まで逃げておけばよかったと後悔した。だが今さら、どうにもならなかった。 新手のパトロール隊は葉ずれの音が聞えるほど近くまで迫っていた。そして、ちょっとでも動けば見つかってしまうだろうと思われた。  突然、谷間の奥から、ブーンというかすかな唸りが聞こえてきた。蜂の羽音に似ているが、もっともっと例えようもなく柔らかく、低い音調だった。クリスはこれまでにこれと同じ音は聞いたことがなかった>だが、その正体については、はっきりと思い当ることがあった。 スクラントン市のスピンディジーが調整を始めているのである。せっかくの離陸の瞬間に、こうして隠れていなければならないのだろうか。決定的チャンスを見逃してしまうのだろうか? いや、そんなことはない。パトロール隊が帰還するまで、市が離陸するわけがない!  人声が近づいてきた。すると、横にいたケリーが小さく唸った。クリスは犬の首をしっかりとつかんで、黙ったままそっと揺すった。ケリーは沈黙した。だが、体中の筋肉を緊張させていた。 「おい! これを見ろ!」  クリスはきつねの匂いを嗅いだうさぎのように凍りついた。だが、別の声がすぐ後を追うように聞えてきた。 「出ていけ。これはおれの家だ。お前たちに用はない」 「ない、だと? 今日の正午までに谷間を立ち退けという話を聞かなかったのかね? 入口のドアにもそのポスターが貼ってあるじゃないか。字が読めんのかね?」 「紙に書いてあることに、いちいちつき合っていられるかい。おれはこうやって、ここに住んでいるんだ。むさ苦しい所だが、おれの地所だ。おれはここにいるつもりだ。そうきめたんだ。さあ、出ていってくれ」 「おい、おい、きめたっていわれたって困る。法律でお前さんは立ち退くことになっているんだから。おれたちがお前さんの小屋をほしがっているわけじゃない。だが、法律なんだ。わかるだろ?」 「おれにはおれの財産を守る権利があるってのも、法律だぜ」  クリスとケリーがうずくまっているところから、十五フィートも離れていない盛土の上で、別の声がした。 「どうかしたか、バーニー?」 「無断借地人だ。自分の地所だから、動かんといっている」 「冗談でしょう。譲渡証書を見せろって、いってやれ」 「てまひま、かけるなよ。時間がないんだ。強制収容して、先へ進もう」 「おい、よせったら──」  ポカリと殴る音と、不意を打たれてうめく声がした。 「おや、やる気だぜ! さあ、こい──」  さらに殴り合う音が聞え、ガチャンと何か割れる音がした。ガラスか陶器だとクリスは思ったが、家具だったかもしれない。  つかまえている手に力を入れる暇もあらばこそ、ケリーはけたたましく吠えると、その手を振り切ってやぶから跳び出し、盛土の上を横切って、騒動の現場にむかって突進していった。 「気をつけろ! おい──この犬はどこからきた?」 「あそこのやぶからだ。まだ、だれかいるぞ。赤毛の頭が見える。おーい、赤毛、出てこい──早く!」  クリスは、いざとなったら、逃げることも闘うこともできるように両様のかまえをしながら、ゆっくりと立ち上った。ケリーは盛土のずっと向うの方で馬鹿みたいに吠えていたが、小屋の中の騒ぎと、新たにクリスを取り囲んだグループの両方に注意を引き裂かれて、吠えるのを一時中止した。 「おい、赤毛、なかなか強そうじゃないか。お前も立ち退き命令を聞かなかった口かい」 「ああ、聞かなかったよ」クリスは喧嘩腰でいった。「おれはレークブランチに住んでいる。ただ見物にきただけだ」 「レークブランチ?」指揮者は日焼けした顔の別のパトロール隊員を見ていった。 「小さな町で、ここからちょっと離れてる。昔は行楽地だったが、今じゃ、密猟者と贋金作りぐらいしか住んでいない」 「そいつは好都合だ」  片方は黄色いヘルメットをちょっと押し上げて、ニヤリとした。 「お前がいなくなっても、だれも気にしないってわけだ、赤毛。さあ、こい」 「こいって、どういうことだ?」クリスは拳をにぎりしめて、いった。「五時までに帰らなくちゃならないんだ」 「気をつけろ──この小僧、腕っぷしが強そうだぞ」  片方の、もう指揮者だとはっきりした男が、馬鹿にしたように笑った。 「なんだ恐がってるのか? ほら、子供じゃないか。さあいこう、赤毛。口喧嘩をしている暇はない。お前は正午過ぎにここにいた。だから、おれたちはお前を強制収容する法的権利があるのさ」 「帰らなくちゃならないんだってば」 「そいつは、来る前に考えておくんだったなあ。さあ、こい。お前がごねれば、おれたちもごねなくちゃならない。わかったな?」  下の方では、さっきの菜園の男を、三人の男がしっかりと捕えて、小屋から出てきた。みんなかなりグロッキーになっていたが、それでも、首筋の日焼けしたふくれ面の男を、何とか確保していた。 「捕まえたぞ──世話をやかせやがった。おとなしく来ると思ったのに、お陰で大助かりだ!」 「こっちにも一人いた、バーニー。さあ、いこう、赤毛」  強制収容隊の指揮者はクリスの肘をつかんだ。その動作は必要以上に乱暴でもなかったが、そうかといって優しくもなかった。  だから、ケリーの鈍い頭でも事態はのみこめた。ケリーはいくら犬でもひどいというほどの低能だった。だが今や、どちらの喧嘩の方が自分に関係が深いか、わかったのだった。かれは、クリスでさえも鳥肌が立つくらいの唸り声を上げると──犬が、ましてやケリーが、そんな声を上げるのは、クリスはこれまでに聞いたことはなかった──犬は盛土を矢のように横断して戻ってきて、その大男の足に跳びかかった。  次の混乱の三十秒間に、クリスは逃げようと思えば容易に逃げることができただろう──下生えの中には無数の道が通じていて、かれが逃げこめば町の住人ではとても跡を追うことは不可能だったからである──だが、ケリーを見捨てることはできなかった。そして、何万年も昔からの本能によって、パトロールの男たちは少しもためらわずにクリスの方に背を向けて、先ず動物の敵の方に立ち向かった。  クリスは決して修練を積んだインファイターではない。だが、かれにはかれなりの本能があった。ケリーの歯が体に喰いこんでいる男は、あきらかにそれで手一杯だった。それで、クリスはその隣の男に|投げ棒《ノブケリー》パンチを見舞った。相手は茫然とはしたが、倒れはしなかった。それを見たクリスは、もう一発お見舞いした。狙った場所に適中はしなかったが、とにかく相手はヨロヨロと後退し、一応の目的は達した。  それからクリスは乱闘のまん中に巻きこまれ、もはや効果のないパンチをわざわざ出したりしている余裕はなくなった。  しばらくすると、かれはスクラントンもケリーも自分自身も、もうどうでもいいという心境で、昔の路盤の花崗岩の割栗石の上にのびていた。頭がガンガン鳴っていた。その上から、相当な罵詈《ばり》|雑言《ぞうごん》が浴びせられていた。 「──子供だと思ってやりゃあ、いい気になりやがって。頭を蹴っ喰らわせて、引き揚げようぜ!」 「いかん、殺しちゃいかん。強制収容はいいが、殺してはならん。だれかハギンズの息を吹き返させてやれ」 「何だって──急におじけづいたのか?」  強制収容隊の指揮者は荒い息をしていた。そして、クリスの目が見えるようになると、その大男が地面に腰を降ろして、細長く裂いたシャツの布で血だらけの足をしばっているのが見えた。にもかかわらず、かれは落着いて喋っていた。 「むかってきたからといって、おまえら子供を殺す気か? そんなばかばかしい殺人の口実は聞いたことがないぞ。相手が子供なら、なおさらだ。文句があるなら、おれが相手になってやる」 「もういいよ」別の声が不愛想にいった。「とにかく、犬はやっつけたし──」 「この軽口やろう──おさえろ!」  パッと立ち上ろうとしたクリスを、二人の男が両側からつかんだ。かれは猛烈にもがいた。だが、残っていたファイトは、心の中ばかりで、筋肉の中にはなかった。 「顎のちょうつがいのゆるんだやつばかりだ。子供相手に口を慎むことさえできないんだから。ハギンズ、ヘルメットをかぶれ。赤毛、あん畜生の言葉なんか、気にするなよ。まともなことはいったためしがないんだ。お前の犬は逃げちまったよ、一目散にな」  ずいぶん不器用な嘘だったが、親切心から出たものだった。だが、それも無駄だった。遠くないところにケリーが倒れているのが、クリスに見えた。ケリーはできるだけのことをした。だが、もう二度とこのようなチャンスはないのだ。  強制収容隊に連れられて、ヨロヨロとスクラントンの町にむかっていく若者の心は、石のように堅くなっていた。 [#改ページ]     2 沸き立つ砂塵の線  生々しい赤土の線の内側の町は、揺らめいていて、この世のものではないように思われた。もう、低い唸りは聞えなかった。そして、六月の太陽が依然としてギラギラと照りつけているのに、ちょっと日陰になっているような、奇妙な感じがしていた。  クリスは悲しみと怒りで一杯になりながら、どうしてそんなになるのか考えていた。そして、ついに原因を突き止めたと思った。つまり、町の周囲から立ち昇る熱の波が、町にかぶさっているドームに沿って迂回していくらしいのだ。いや、ドームではなくて、泡だ。そして、その下部は地中に入っていて、泡と地面とが交わる線が、町を取り巻く赤土の線なのだ。  スピンディジーが強まった。それ自体は目に見えないが、もはや地球の空気の流通を絶っている。  スクラントン市の用意は完了した。  いざこざのお陰で、パトロール隊は予定の時間より大幅に遅れていた。指揮者は怪我をした足をかばいもせずに、みんなを追いたてるようにして、でこぼこした無人の郊外を進んでいった。  クリスは指揮者が一足おきに顔をしかめるのを、いい気味だと思いながら眺めていただが、その男は傷を口実に立ち止まりもせず、部下たちがもっと軽い打ち傷や黒ずんだ目を口実に、足を引きずるのを許しもしなかった。  正常な人間の感覚では、いつスピンディジー|遮 蔽《スクリーン》を通過したか感じ取ることはできない。幅がたっぷり五百フィートはある赤土の線のまん中までくると、指揮者はアボカドの実ぐらいの大きさの機械をベルトからはずし、手の中でそれを動かした。そして、機械がピーピーとけたたましく鳴り出すと、みんなを自分の前に一列に並ばせて、乾いた土の上を爪先立って歩くようにしながら、一直線に前進させていった。  クリスは両側についていた二人の護衛がいなくなったので、本能的に身がまえた。かれらは恐くなかった。そして、指揮者は明らかにしんがりをつとめるつもりらしかった。だが、その大男はクリスのかすかな動きをも見逃がさなかった。 「赤毛、おれだったら、そんなことはしないぞ」静かにいった。「おれがこの機械を切ってから、この道を逃げ戻ろうとしたら──いや、おれをかわそうとするだけで──一直線に昇天してしまうんだぜ。振り返って見ろ、砂が舞い上っている。おまえは砂よりずっと重いから、ずっと高くまで舞い上るんだ。落着けよ。悪い事はいわないから」  クリスはいま越えてきたうさん臭い境界線を、振り返って見た。なるほど、そこには髪の毛ほどの細い線があり、見渡すかぎり両側に弧を描いて延びていた。そして、その部分のもろい土くれが絶えず宙返りをしているように見えた。まるで、沸き立つ砂塵の巨大な輪の中に立っているような感じだった。 「そう、そういうことなんだ。さあ、見てろよ」  強制収容隊《プレス・ギャング》の指揮者は身をかがめると、拳大──それがまた並はずれて大きい拳なのだが──の石を拾い上げ、いまきた道の方に放り投げた。その石は沸き立つ砂塵の線上にさしかかると、まるで耳もとをかすめて飛ぶ銃弾のようなヒュッという音を立てて、空に舞い上り、一秒もたたないうちに見えなくなった。 「どうだ速いだろう? おまえなら、もっと速く舞い上るんだぞ、赤毛。あと数分で、こいつが町全体を持ち上げるんだから。だから、物事を見かけで判断してはならん。おまえが立っているこの場所だって、もう地球の上じゃないんだ」  クリスはしばらく遠くの山脈を見つめていたが、やがて、沸き立つ砂塵の線に目を戻し、クルリと向きを変えると、またスクラントンの町にむかって歩き出した。  とんでもないことになってしまったが、いま歩いているこの街路は、クリスが五十セント持って求人広告の載っている夕刊を買いにいったり、一杯とまではいかない銹びた鉄屑を入れた手押し一輪車を押して歩いたり、下等な馬肉のひき肉の平たい包みを持って帰りに通ったりした、前々からなじみのある街路だった。  今までと違う唯一の点は、見慣れた街角の向う側で町は終りになり、そこから先は新たに生じた砂漠のような境界線になっていることだった──そして、そのすべてがアーチのようにたわんだ影ならぬ影に、スッポリと覆われていた。  パトロールの指揮者が立ち止まって、振り返った。 「ここからでは、とても間に合わない」思い切ったようにいった。「退避しろ。バーニー、おまえはどん百姓を見張れ。おれはこの子を見る。こいつは聞き分けがよさそうだ」  バーニーは答え始めたが、その言葉は、家々の壁にこだまして鳴り始めた五十デシベルもありそうなサイレンの音に掻き消された。  恐ろしい音だった。クリスはたとえ一瞬間でも、こんなに大きい音を聞いたことはなかった。その音は永久に続くのではないかと思われた。  指揮者はかれを連れてある建物の玄関に入りこんだ。 「警報だ。みんな体をかがめろ。赤毛、じっとしていろよ。たぶん危険はないと思う──だれにもわからんがね。だが、何か落ちてきたり、倒れてきたりするかもしれん──だから、頭をかかえていろ」  サイレンは鳴り止んだ。だが、そのかわりに、今度はブーンという唸りが聞えてきた。それは体を刺し貫くような音で、クリスは歯が浮くように感じた。影が濃くなり、むこうの赤土地帯では、沸き立つ砂塵が、羊歯《しだ》を植えたようなかたちに吹き上がり始めた。  それから、玄関がグラリと傾いた。クリスがフレームにしがみついたと思った瞬間、ドアがバタンと開き、また閉った。大地の揺れは次第に周期的になり、間遠になっていき、ゆっくりと力が弱まっていった。  しかし、最初の一揺れの後、クリスの恐怖は驚きに変った。大地の動きなどは、目の前で起っていることに較べれば、取るに足りないことだったからである。  市全体が、ちょうど嵐の中の船のように、重々しく揺れていた。街路のつき当りは一瞬にして、何もない空に変わり、次の瞬間、目の前に沸き立つ砂の壁が立ちふさがった。それは、市の新らしい境界線の上に、高さ五十フィート以上もある崖のようにそびえていた。それから、何もない空がまた戻ってきた──。  これほど大規模な上下動があれば、市には石や鉄材が雨あられと降りそそぎそうなものだが、実際には、細かい震動と、はっきりしない横揺れが時々地面を通して感じられるだけで、それも次第に弱まっていくように思われた。今や市はふたたび水平になり、巨大な砂塵の雲に包まれていた。クリスはそれを通して、周囲の風景がゆっくりと動き始めるのを見ることができた。  市は横揺れをやめ、今度はゆっくりと回転を始めていた。もはや、動いているという感じは全くなくなっていた。回転しているのは周囲の谷間の方だという錯覚を、どうしても振り払うことができなかった。そして、目まいなどと生やさしいことをいっていられないほどの|目まい《ディジー》が襲ってきた。 なるほど、だから〈スピンディジー〉というんだな≠ニ、クリスは思った。宇宙を飛んでいる間じゅう、ずっとこうやって、コマ[#「コマ」に傍点]みたいに回っているんだろうか? とすると、飛んでいく方向は、どうやって知るんだろう?  だが、今や、谷間の上の縁が沈みかけていた。一呼吸の間に、遠くの鉄道の盛土の路盤が、街路のつき当りと同じレベルになり、それから、街路の唇が山の額に触れ、それから、木々の梢が……そうして、青空だけになり、それが急速に黒ずんでいった。  大男の強制収容隊長は、突風のような溜め息をついた。 「やれやれ、本当に市が持ち上ったぞ」  かれは少し目まいがしている様子だった。 「今まで、心の奥では信じていなかったんだが」 「おれはまだ半信半疑だよ」バーニーと呼ばれる男がいった。「だが、家の軒も落ちてこないようだ──こんなところで、グズグズしていることはない。この遅刻だけでも首が危いぜ」 「ああ、いこう。赤毛、頭を働かせて、これ以上面倒をかけるなよ、いいな? 見た通り、もう逃げ場はないんだ」  その点について疑う余地はなかった。街路のつきあたりも、頭の真上も、今や空は真暗になっていて、クリスが見上げている間にも星が光り出していた──最初は最も大きいものが二つか三つだったが、次第に数を増していって、しまいには何百という星が輝きだした。それらの見慣れた配置が静止していることから、クリスは市がもう回転していないことを知り、何となくホッとした。  ブーンという唸りさえも消えていた。もしかしたら、まだ消えてはいないのかもしれないが、今では、市の雑音に邪魔されて聞えなくなっていた。  奇妙なことに、日光はまだ依然として強かった。今後、この市では「昼」と「夜」という言葉は意味をなさなくなるのだ。スクラントン市は永遠の|夏  時  間《デイライト・セービング・タイム》の領域に飛びこんでしまったのだ。  一行が二ブロック歩いたところで、大男の隊長が|タクシー停留所《キャブ・ポスト》を見つけて通話器を引き出したので、みんな立ち止まった。  バーニーが早速文句をいった。 「おれたちみんなを市庁舎《ホール》に運ぶには、タクシーが一連隊も要りますぜ。それに、囚人があばれた場合、それを取り押えるだけの人数は一台に乗りこめないし」 「この子はあばれやせんよ。お前たちは、その男を引っ立てて歩いていくのさ。おれは、この足で、もう歩けんがね」  バーニーはためらった。だが、隊長のひどくびっこを引く足が、その文句を封じてしまった。結局、かれは肩をすくめると、残りの隊員をまとめて、角を曲がっていってしまった。隊長はニヤリと笑ってクリスを見た。だが、少年はそっぽを向いた。  エア・タクシーは交差点の空からしずしずと降りてきて、かれらのそばの縁石のところに、妙に正確な操作でピタリと止まった。もちろん、だれも乗ってはいなかった。知能指数《I・Q》の百五十もあれば用が足りる世界の、他のすべての物と同様に、これもコンピューターで制御されていた。  このような機械が世界中で大々的に利用されていることが、クリスの父親にいわせれば、現在の、そして明らかに恒久的な不況の主な原因の一つになっているのであった。ビジネスや技術の分野に、こうした半ば知能を具えた機械が進出したことによって、第二の産業革命が起こり、その結果、もっとも高度な創造力をもった人間と、管理能力抜群の人間だけが、世間が金を払って買ってくれる技能の売り手になったのだった。  クリスは目を皿のようにしてタクシーを眺めまわした。遠くから見たことはたびたびあったが、もちろん乗ったことはまだ一度もなかった。  だが、見るべきものはほとんどなかった。車体は軽金属とプラスチックでできた卵の殻のような構造で、赤と白の大きな市松模様に塗られており、周囲にグルリと窓が並んでいた。内部には、二人掛けの座席が二つと、スピーカーのグリルがあるだけで、操縦装置も計器もなかった。乗客が運賃を入れる場所さえも見当らなかった。  大男の隊長はクリスに身振りをして前の席に坐らせ、自分は後の席に乗りこんだ.ドアが天井と床の両方から同時に滑り出てきて、何となく口をしめるような感じで、しまった。それから、タクシーは静かに上昇して、地面からやく六フィートの高さに浮揚した。 「どちらまで?」  |ロボット運転装置《テイン・キャビー》が愛想よく尋ねたので、クリスは飛び上った。 「市庁舎」 「社会保障ナンバーは?」 「一五六一一−〇九七五−〇六九八二一七」 「どうもありがとう」 「うるさい」 「どういたしまして」  タクシーは垂直に上昇し、隊長は座席の背にゆったりともたれかかった。そして、飛行都市の低くずんぐりしたビルの群が窓の外を動いていくのを、クリスに当分の間、眺めさせておくつもりらしかった。かれは寛いだ様子で、ちよっと油断しているようでもあり、いくらか用心しているようにも見えた。  しばらくして、かれはいった。 「忠告しておくことがある、赤毛。足のためにタクシーを呼んだわけじゃない──もっとひどい足で歩いたこともある。話を聞く気分になったか?」  クリスは凍りついたように感じていた。束になって押し寄せてきたこの新しい経験と、自分の前に開けた広大な未知の世界のために、すっかり度を失ってしまっていたのだった。  だが、強制収容隊長の言葉を聞くと、すぐにケリーのことを思い出し、同時に、それを忘れていたことを恥しく思った。そして、湧き上った怒りの中で、自分は誘拐されたのだ、父や幼い妹たちの面倒をみるものはもうボブしか残っていないのだ、ということも思い出した。一家の面倒をみるのは二人でやっていた時でさえ、大変だった。  アニーやケイトやボブや父に、もう二度と会えないと思うと、実に辛かった。しかし、一家から自分の手と支えと愛を奪われたことを考えると、よけい辛かった。そして、特に辛いのは、家のものが事の真相を知ることは決してないということだった。  幼い妹たちはただ、かれとケリーが逃げたとだけ考えて、何故だろうかと思い、少しは悲しむだろうが、やがて忘れてしまうだろう。だが、ボブと父は、かれが一家を見捨てたと当然思うだろう……それも、かれの自由意志で、惨めな生活をしているみんなを置き去りにして、スクラントンに乗っていってしまった、とおそらく思うことだろう。  いくら報われるところがないからといって、自分の土地を捨てて、異星の街や渡り鳥都市の星の小路を歩いたりする人間は、地球の農民から見て、もっとも軽蔑すべき存在である。その気持をこめていう俗語がある。〈|渡り鳥になる《ゴーイング・オーキー》〉というのである。  クリスは渡り鳥になってしまったのだ。決して、自由意志でなったのではない。だが、父やボブや幼い妹たちは、そんなことは知らない。もとはといえば、みんなかれ自身のせいなのだ。無益な好奇心を起さなかったら、こんなことにはならなかったろうし、ケリーがかわいそうに死ぬこともなかったろう。今にして思えば、あれはボブの犬だったのだ。  ヘルメットの大男は、クリスの顔がこわばるのを見て、イライラした身振りをした。 「いいか、赤毛、お前の気持はわかる。しかし、おれが今、すまんといったって、どうにもなるまい。できてしまったことだ。お前は渡り鳥都市に乗っている。そして、このまま、ずっと乗っていくんだ。それから、おれたちはお前を誘拐したわけじゃない。お前が強制収容法を知らなかったなら、知らなかったのが悪いんだ」 「兄ちゃんの犬を殺したじゃないか」 「いや、おれじゃない。このぼろきれの下には、あの犬を殺す理由になる傷が一つ二つある。だが、殺したのは、おれじゃない。おれには、とてもそんなことはできない。とにかく、それもできちまったことだ。今さら、取り返しはつかん。とにかく、おれはお前を助けてやろうとしているんだ。時間はあと三分しかない。黙って聞いてないと、手遅れになるぞ。お前には助けが要るんだ、赤毛。それがわからんのか?」 「なぜ、そんな心配をする?」クリスは無愛想にいった。 「お前が好きだからさ。利口で、根性がある。だがなあ、それだけじゃ、渡り鳥都市に乗っていく資格にはならんのだよ。お前は今、まったく新しい状況に直面している。だが、この町で出世できる技能を、お前が持っているわけがない。そして、そのくらいの年頃になれば、スクラントンはもう教育をしてはくれないんだ。どうだ、おとなしく忠告を受け入れるか? それとも、いやか? いやだというなら、おれが心配しても姶まらん。考える時間は、あと一分だ」  大男の言葉は苦い薬のように飲みこみにくかった。だが、確かに筋が通っているように思われた。それからまた、この男の話が善意から出ていることも確実だと思われた──でなければ、どうしてこんな心配をしてくれるものか? にもかかわらず、クリスの感情は混乱の極に達していて、とても安心して口を開くどころではなかった。  それで、かれはただ黙ってうなずいた。 「そう、それがいい。最初にボスのところに連れていってやる──市長じゃない、市長はあまり問題にならんのだ。フランク・ルツさ。シティ・マネージャーだ。いろいろ質問されるが、特に、何ができるかとか、何を知っているかとか、かならず尋ねられる。今から向うへ着くまでの間に、その答えを考えておくがいい。何と答えてもかまわんが、何か実のある[#「実のある」に傍点]答えをしろ。それも、おまえが一番よく知っている事柄がいい。根掘り葉掘り尋ねられるからな」 「何にも知らないよ──園芸と猟のこと以外は」クリスは暗い声でいった。 「いや、そんなことをいっているんじゃない! 本から学んだことはないのか? 何か宇宙で役立つことをさ。さもないと、かなくそ拾いにまわされちまうぞ──そうすれば、渡り鳥として長生きはできなくなる」  タクシーがのろくなり、止まり始めた。 「たとえボスがお前の話に興味を示さなくても、相手の気に入ろうとして、決して話題を変えるんじゃないぞ。本当のスペシャリストというものは、一つの事柄しか知らないものだ。特に、お前のような年頃ではな。話すことにきめた主題に、あくまでもしがみつけ。そいつを、いかにも役に立ちそうに喋るんだ。わかったか?」 「うん。でも──」 「でも、なんていってる時間はない。それから、もう一つ。この市で暮らしているうちに、困ったことにぶつかって、相談相手がほしくなることもあるだろう。しかし、フランク・ルツはやめとけよ。おれの名前はフラッド・ハスキンズ──フレッドじゃなくて、フラッド。F−R−A−Dだ」  タクシーはしばらく宙に浮いていて、それから、玉石をきしませて接地し、ドアが開いた。  クリスはあまり多くのことを一所懸命考えていたので、強制収容隊長がどんなつもりで自己紹介したのか、しばらくわからなかった。だが、やがて合点がいって、あわてて礼をいい、同時に、自分の名も教えた。 「着きました、お客様」|ロボット運転装置《テイン・キャビー》が愛想よくいった。 「うるさい。きな、赤毛」  スクラントン飛行都市のマネージャー、フランク・ルツを見たとたん、クリスはスカンクを思い出した──といっても、この場合、都会の子供がスカンクというのとはわけがちがっていた。  ルツは小柄で、ハンサムで、ツヤツヤと肉付きがよく、机のむこうに坐っていてさえも、何となく不器用な感じがした。そして、ハスキンズから二人の収容者の話を聞いているその顔には、近眼のスカンクのような愛嬌のある表情が浮かんでいた。  ところが、ハスキンズの説明が終ると、シティ・マネージャーは突然目を上げた──この時、クリスにははっきりわかったのである。今まではいくらか疑っていたのだが、この動物が危険なものだと……特に、そいつが背中を見せている時には、この上もなく危険なものだと。 「あの強制収容法ってやつにも困ったものだ。だが、警察の目があまり届かない宇宙のどこかへいくまでは、収容者を養っているってところを、見せておかなければならんだろうなあ」 「この連中の薬がないことだけは確かです」ハスキンズはあいまいに同意した。 「それは 公《おおやけ》 にいうことではない」ルツはゾッとするほど冷たい調子でいった。  クリスはそれを聞いてすぐに、この失言がどんな意味であれ、ハスキンズが自分に聞かせるつもりでいったのだとわかった。この大男は、その体格や、ぶっきらぼうな態度からは想像もつかないほど、知恵のまわる人物なのであった。このことは、刻一刻はっきりしてきていた。 「これらのサンプルには、何の取柄もなさそうだな。ぜんぜんだめだ」  一見、優しく、悪気のなさそうな、うるんだ薄茶色の目が、サッと動いて例の労働者の方を向いた。 「名前は?」 「そういうお前は? そいつをまず教えてもらおうじゃないか。いったい何の権利があって──」 「つべこべいわない。浮浪者の相手をしている暇はない。じゃ、名は無いんだな。特技は?」 「浮浪者じゃねえ。錬鉄工《バドラー》だ」どん百姓はムッとしていった。「|鉄の錬鉄工《スチール・バドラー》だ」 「同じことだ。ほかには?」 「おれはもう二十年間も錬鉄工をやってる。正真正銘の錬鉄工の頭《かしら》なんだ。年季が入ってるんだよ、な? ほかのことをする必要はねえじゃねえか、な? 手に職があるんだよ。この道にかけちゃ、おれの右に出るものはねえんだ」 「今も働いているのかね?」シティ・マネージャーは静かにいった。 「いや。だが、年季が入ってるんだ。証明書もある。いいかい、浮浪者じゃなくて、職人なんだぜ」 「たとえ錬鉄工の天才だって、使うことはできないよ、おっさん……たとえ、万一、どこかで、また鉄にめぐりあったとしてもな。ここはべセマー製鋼法の町なんだ。お前さんが徒弟奉公をしていた頃からだ。気がつかなかったのかね? あきれたもんだ。バーニー、ハギンズ、こいつはかなくそ拾いに回せ」  この命令の執行には、相当な叫びやつかみ合いが改めて必要となった。この間、ルツは退いて、書類に目を落とし、まるで、小鳥の卵に偶然出会ったスカンクが、こいつは噛むだろうかと思案しているような、一見、無害そのものの顔つきをして、小さな手をためらいがちに動かしていた。  騒ぎが収まると、かれはいった。 「フラッド、そっちはもう少しうまくいくといいんだがなあ。どうだい、坊や? 特技は?」 「あります」クリスは間髪を入れずいった。「天文学です」 「なに? その歳で?」  シティ・マネージャーはハスキンズを見つめた。 「なんだこれは、フラッド──また慈善運動だな? きみの判断は日に日に悪くなっていくぞ」 「わたしも初耳です、ボス」ハスキンズは本気でいった。「ただのいなかの子だと思ってました。別に何もいってませんでしたが」  シティ・マネージャーは机の上を指でそっと叩いた。  クリスは息をつめた。自分の主張が馬鹿げていることは、よくわかっていた。だが、放浪都市《ノーマド・シティ》のボスの興味をひょっとしたら引くかもしれない答えは、ほかに思いつかなかったのである。  これまで、夕方暗くなってからあと眠らずにいられるかぎり、かれはあらゆる本をかじっていた。そして、読んだもののうちで、一番よく覚えているのは、歴史上の事実と学説だった。しかし、ハスキンズは何か|渡り鳥都市《オーキー・シティ》で役に立つことにしろと、注意してくれた。歴史ではあきらかに失格だった。父親から得た経済学の知識の断片がもう少したくさんあったら、おそらく役に立ったであろう。それも、最近[#「最近」に傍点]の歴史と一体になったものなら、もっとよかったであろう。しかし残念ながら、クリスが好奇心を持つ歳頃になって以来、父親はその方面ではかばかしい仕事をしていなかった。  だから、かれの頭の中には生かじりの天文学しかはいっていなかったのである。その知識は、書物(それもかれが生れる前に出版された書物が多かったのだが)と、野原に寝ころがって、クローバーの匂いを嗅ぎながら、流れ星を数えた多くの夜から得たものだった。  しかし、かれもこれが役立つという望みはもっていなかった。放浪都市《ノーマド・シティ》には航宙のための天文学が必要だった。しかし、この学問はまず第一に、かれの知らない事柄に属していた──これにたどりつくために必要な初等三角法さえ、かれは事実知らなかったのである。  本家本元の学問たる天文学について知っていることといったら、純粋に記述的な事柄だけだった。そして、そんなものは、スクラントン市が太陽系を遠く離れて、星座の形が識別できなくなったとたんに、全く無用の長物になるはずで──すでに、もうなってしまっているかもしれなかった。  にもかかわらず、フランク・ルツはちょっとばかり面喰らっている様子であった。そんな顔をみせたのは初めてだった。  かれはゆっくりといった。 「レークブランチの子供が天文学者だと! なるほど、めずらしい話だ。フラッド、趣味を話せと教えたな。この子が小学校を出ていたら、わたしはきみのヘルメットをペンキもろとも喰ってもいい」 「ボス、本当です。そんな話は今まで、これっぽっちも聞いてやしませんぜ」 「フーム。よし、坊や、太陽の惑星を外に向かっていってごらん」  ずいぶん易しい質問だが、きっと、だんだん難かしくなるのだろう。 「水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星、プロセルピナ」 「ちょっと、落したな?」 「五千個ばかり落しました」クリスはできるだけ落着いていった。「惑星っていわれたけど──小惑星や衛星とはいわれなかったから」 「よし。最大の衛星は? それから、最大の小惑星は?」 「タイタンとセレス」 「最も近い恒星は?」 「太陽」  シティ・マネージャーはニヤリとしたが、それほど面白がっている様子ではなかった。 「ほほう! じゃ、あまり長くないやつを。一光年は何ヵ月?」 「十二ヵ月、普通の年と同じです。光年は時間の尺度ではなくて、距離の尺度です──光が一年間に走る距離です。月は何の関係もありません。一インチは何週間、と尋ねるのと同じことです」 「五十二週間が一インチにあたる……わたしぐらいの歳になれば、そんな感じになるものだ」  ルツはまた机を指で叩いた。 「きみはこんなことをどこで覚えたのかね? レークブランチで学校へいったなんて、嘘をいうんじゃあるまいな?」 「父は大学が閉鎖されるまで、ほとんど一生涯、教師をしていたんです」クリスはいった。「あそこでは、いちばん良い教師でしたよ。ぼくは大てい父から教わったんです。そのほかは、本を読んだり、観察したり、紙と鉛筆で書いたりして、覚えました」  この話では、クリスはしっかりした土台に立っていた。ただし、経済学を天文学と言い替えるという嘘が、一つだけ許されるとすればである。  次の質問は少しも困らなかった。予想通りだったから。 「きみの名は?」 「クリスピン・ディフォード」かれはしぶしぶいった。  その場に居合わせた人々から、一斉に驚きのため息が洩れた。クリスは必死の思いで、それを無視した。  このおかしな名前はかれにとって一つの重荷になっていて、これが元で近所の子供たちと数知れない喧嘩を重ねていた。そして、今では何とか我慢して背負ってはいるものの、やはり、あまり有難い気持ではなかった。  だが、驚いたことに、ハスキンズは新たな関心をかき立てられた様子で、モジャモジャした白っぽい盾を上げて、クリスを見た。どういうわけか、クリスにはわからなかった。かれの頭の中の推測を受け持っている部分は、すでに、ほとんど磨り切れてしまったのだった。 「だれか、確認をとれ」シティ・マネージャーはいった。「スクラントン大の職員が二人ぐらいは残っていたはずだぞ。そうだ、ボイル・ワーナーはスクラントン大の教授だったじゃないか? ここへ呼べ。かれに決めさせよう」 「どうしたんです、ボス」ハスキンズはニンマリしていった。「クイズは種切れですか?」  シティ・マネージャーは笑顔を返したが、その微笑はまたしても、ちょっと冷たいどころではなかった。 「まあね」驚くほどあけすけにいった。「だが、この坊やがワーナーを言いくるめることができるかどうか」 「あの老いぼれも、何かの役に立ってもらわなくちゃ」クリスの後ろでだれかがつぶやいた。  低い声だったが、シティ・マネージャーは聞きつけた。かれは顎をグイとしゃくり上げると、拳を固めて恐ろしい勢いでテーブルを叩いた。 「われわれを連れていってくれるのは、あの人なんだぞ。忘れるなよ! 鉄と星とはわけがちがうんだ──ボイルがいなければ、もう二度と住み家にも鋳塊《インゴット》にも、お目にかかれないかもしれないんだ。あの人にくらべれば、おれたちはみんな、さっきの浮浪者とおなじ、錬鉄工みたいなものだ。もしかしたら、この坊やにもそれが当てはまるかもしれないんだ」 「まさか、ボス。こんな[#「こんな」に傍点]小僧に何がわかるっていうんです?」 「それをこれから調べるんだ」ルツは激怒していった。「おまえに何がわかる? おまえらの中に、ジオデシックを知っているやつがいるか?」  だれも答えなかった。 「赤毛、おまえは知っているか?」  クリスはつばを飲みこんだ。答えは知っていたが、シティ・マネージャーがなぜこんなことで大騒ぎするのかわからなかった。 「はい、二点間の最短距離のことです」 「それだけか?」だれかが疑わしそうにいった。 「餓死するかしないかは、それできまるんだ」ルツはいった。「フラッド、坊やを下に連れていって、ボイルが何というか聞いてみろ。考え直したんだが、ボイルを天文局から呼び出したくない。あの人にゃ、軌道修整にかかりきりでいてもらわにゃならん。ボイルの手があき次第、訪ねていって、スクラントン大にディフォード教授ってのがいたかどうか確認し、この子供にもっと難しい質問をしてもらえ。本格的[#「本格的」に傍点]な質問をだぞ。答えられたら、弟子にしよう。答えられなかったら、例によってかなくそ拾いだ。ああ、もう時間を喰いすぎた」 [#改ページ]     3 「一山の屑鉄みたいに」  宇宙に飛び立つために貧民窟を捨て去った都市にも、隠れ家になるような洞穴はあった。そして、クリスは自分の穴を見つけるのに時間はかからなかった。かれはそれを、地下に逃げ込もうとしている追われたけものの持つ単純な本能で見つけたのだった。  べつにだれかに追われているわけではなかった──今のところは。しかし、それも時間の問題だという、虫の知らせがあった。  市おかかえの天文学者、ボイル・ワーナー博士はこの上もなく優しくしてくれたが、質問の方は手心を加えてくれなかった。その結果、クリスの天文学の知識は、とり立てていうほどの正式の教育を受けていない若者としては並みはずれているが、ワーナー博士の助手をするとか、何か市の仕事をするには、貧弱でお話にならないということが、たちまちばれてしまった。  それでもワーナー博士は一応かれを弟子に取り立ててくれ、シティ・マネージャーの事務所にもそう報告してくれた。そして、落胆した様子をさりげなく隠しながら、はっきりと警告を与えてくれた。 「クリスピン、大変残念だが、きみが天文局関係の仕事をやれるとはとても思えない。そうかといって掃除係にでもすれば、遅かれ早かれフランク・ルツの子分に見つかってしまうだろうし、そうすれば当然フランクは、有能な人間にそんなつまらない仕事をさせるのはおかしい、といい出すことだろう。きみがここにいる間は、いつも勉強しているふりをしなければならないよ」 「勉強します」クリスはいった。「それが望みなんです」 「感心だ」ワーナー博士は悲し気にいった。「同情もするがね。しかし、クリスピン、いつまでもそうしているわけにはいくまいよ。私であろうと、スクラントン市のだれであろうと、きみが受けそこねた十年間の教育を、二年間で与えることはできない。まして、私が三十年かかって吸収した学問のほんの一部だって、教えきれはしない。できるだけのことはするつもりだが、結局は真似事にしかならないだろう──そして、遅かれ早かれ、ばれてしまうと思うよ」  その後に、かなくそ拾いが待っていることは、クリスもすでに知っていた──だから、隠れ家を見つけたのだ。  かれは、ワーナー博士もかなくそ拾いになるのだろうか、と考えたが、その心配はなさそうだった。なぜなら、この弱々しい、腹の出た、小柄の天体物理学者が、慣れないシャベルを握っても、とても長もちしそうもないし、それに、この市にいる唯一の航宙士だったから。  クリスはこのことを用心深くフラッド・ハスキンズにいってみた。 「まさかと思うだろうが」フラッドは暗い口調でいった。「この市には、実は、航宙士そのものがいないのだ。天文学者に航宙を期待するのは、ひよこに目玉焼を作れと要求するようなものさ。ワーナー博士は本来、航宙士の補助をすべき人で、主任航宙士ではない。このことはフランク・ルツも知っている。本物の航宙士をトレードに出せる別の都市と出会ったら、フランクはまばたきもせずにボイル・ワーナーをかなくそ拾いにまわすだろうよ。必ずとはいわないが、しかねないな」  ハスキンズがボスの性格を知っていることは議論の余地のないところだったし、クリスもたった一度ながら自分の目で見た以上、この点については全くその通りだと思われた。  公式には、クリスは、ワーナー博士の弟士として割り当てられた大学の寮の小さな個室に起居を続けていることになっていた。しかし、そこには、ワーナー博士が貸してくれた書物や、同じ出所の数学用の器具、かれが研究していることになっている論文や図表、それに、粗末な衣類と、正式な身分を与えられるとすぐに市当局が支給してくれるようになった、さらに粗末な食糧の四分の一、しか置いてなかった。  衣類と、食糧のあとの四分の三は隠れ家の洞穴の方に運んであった。クリスとしては、フランク・ルツの子分が役所の召喚状を持ってやってきても、捕まるつもりはなかったからである。  かれは洞穴の中でも、寮や天文台にいる時と全く同じに、懸命に勉強した。危険をかえりみずに親切にしてくれるワーナー博士に難儀がふりかからないように、どんなことでもしようと、堅く決心していたのだった。  フラッド・ハスキンズは──大学には用もないので、めったに尋ねてくることはなかったが──たちまち、クリスの秘密を見抜いてしまった。だが、一言しかいわなかった。 「お前はファイターだからな」  一年ばかりの間は、クリスは自分の進歩に自信をもっていた。例えば、市の経済は、父親のお陰もあって、比較的容易に理解できた──おそらく、大部分の市民よりもよく、そして、たしかにフラッド・ハスキンズやワーナー博士よりもよく、理解できたであろう。いったん舞い上るとスクラントン市は、草だけが唯一の富の形態であるような、高度に孤立した遊牧民族がみんな採用する、典型的な経済制度を採用していた。つまり、それは各自が必要なものを自由に使い、自分の仕事の共同体内での地位を定めたルールにのみ拘束される、という一つの共同体なのであった。  例えば、もしフラッド・ハスキンズがタクシーに乗る必要があれば、かれはそれに乗り、自分の社会保障番号を告げればよいのである──だが、もし会計年度の終りに、かれのタクシー使用料の合計が、その職務にとって妥当だと考えられる額を上回れば、罰せられるのである。そしてもし、かれ、または他のだれかが、形のある物資を──パンの塊りであろうと、座金《ワッシャー》であろうと──隠匿したりすれば、飛行中の|渡り鳥《オーキー》都市の上では、とりもなおさず物資の供給不足を招くことになり──生ぬるい処罰ぐらいでは事は済まなくなる。どんなものであれ、物資隠匿の罪はその場で極刑に処せられることになっていた。  飛行中の都市にも金はあった。だが、普通の市民は金を見ることもないし、その必要もなかった。金があるのは、もっぱら外部との取引に使われるためであった──つまり、放牧権その他の権利を買ったり、市がスピンディジー力場《フイールド》に限られたその小宇宙の中に乗せて持ってこなかったもの、または、持ってくることができなかった物資を買うためであった。  昔の遊牧民は同様の理由で黄金や宝石を蓄積していた。スクラントン市の場合、この役目を果す金属はゲルマニウムであった。だが、実際のところ、市の丸天井の内部にはごく少量のゲルマニウムしかなかった。宇宙旅行が実用化され、ゲルマニウムが銀河系のこの領域全体に共通の貨幣用の基本金属となって以来、当市の通貨の大部分は紙幣になっていた──コロニーとの貿易にみんなが使った〈オック・ダラー〉と同じものである。  このすべては、クリスが今や組み込まれてしまった特殊な状況の中で、新たに経験することであった。しかし、その原理はかれにとって、新しくもなんともなかったのである。しかし、スクラントン市内でのかれの地位は、今のところあまりにも低くて、理解したことを何かに役立てるところまではいかなかった。そして、地球にいた頃、父親が追いこまれたあの貧窮を思い出すと、とても、そんな知識が役に立つとは思われなかった。  年が過ぎ、星が過ぎていった。  ハスキンズの話によると、シティ・マネージャーは『地方星群《ローカル・グルーブ》』──つまり、太陽《ソル》を中心とする、直径五十光年の仮説的な球圏──の中では、どこにも立ち寄らないことに決めているということだった。 『地方星群《ローカル・グルーブ》』の諸惑星系には、紀元二千二百年から二千四百年までの植民者の『大脱出期《エクソダス》』に、びっしりと人間が入りこんでしまっていた。入植者の大部分は、当時の地球の世界官僚国家から逃れようとする、没落した西欧文化圏出身の人々だった。  ルツの推測によると──これはスクラントン放送局の受信したたくさんの誰何《すいか》によって、すぐさま確認されたのだが──先に入りこんでいる渡り鳥都市の密度が高すぎて、新参者は太刀打ちできないだろうということであった。  こうして通過していく間、クリスは関係のある星々を、スペクトルによって識別しようと懸命になっていた。目下の状況では、これがその唯一の方法であった。なぜなら、市が通過していくにつれて、星座の中での星々の位置が急速に変化していくからであった。もっとずっとゆっくりとではあるが、星座そのものも変化しつつあった。  これは困難な作業で、クリスは自分の識別に、とても自信が持てないと思うことがしばしばあった。それにしても、自分のまわりを取り巻いているあれらの移動する光の点が、大部分、植民時代の伝説的な星々だと知るのは感銘が深かった。そして、それらの物語のまつわる星々の一つを、小さな望遠鏡で捕えた時には、さらに感銘が深かった。その名前そのものに、過去の冒険がこだましているように思われた。  ケンタウルス座のアルファ星、狼座の三百五十九番星、BD40゚4048'、わし座の牽牛星《アルタイル》、白鳥座の六十一番星、大犬座のシリウス、クルーゲル座の六十番星、小犬座のプロキオン、エリダヌス座の四十番星。  もちろん、これらのうち、市の進路の近くにあるのはごく少数で──それらの多くは実は〈船尾〉(つまり、市の竜骨の下側)の、故郷の太陽の向う側の想像上の半球の中に散らばっていた。だが、それらの大部分は、ここから見ることだけはでき、その他のものも写真にとることはできた。市は、クリスが住み家としてどのように考えているかはともかくとして、天体観測所としては第一級のものだと認めざるをえなかった。  しかし、かれの目に星々がどのように[#「どのように」に傍点]映るかということは、別問題であり、これはかれにとって全くの謎であった。スクラントンが今や光速の何倍ものスピードで進んでいることは、かれも知っていた。それで、このような状況下では、市の航跡方向の星は全く見えないはずであり、横方向や、真正面のものはかなり歪んで見えるはずだと思われた。だが、実際には、空の様子には基本的な変化は認められなかった。  どうしてそうなるかを理解するには、少くともスピンディジーの働きをいくらか知っている必要があった。そして、この理論についてのワーナー博士の説明は、いつもよりもっとずっと曖昧であった……そんなわけで、クリスは、博士も自分以上によくわかっていないのではないかと睨んでいた。  学問的な理由はわからなかったが、飛行中のスクラントン市から見た星は、ペンシルバニアの奥地の野原でいつも見ていた星とそっくりだ、ということがクリスの唯一の手懸りになっていた。ペンシルバニアの奥地では、周囲を取り巻いているアパラチア山脈が、地上のスクラントン市の上空の輝きを、かれの目から遮っていた。このことから考えて、スピンディジーのスクリーンは、それ自体は目に見えないにしても、見かけ上の星の明るさを、光度にして三度ほど、つまり、クリスが住んでいた地方の地球の大気と同じくらい、引き下げている、とクリスは推測していた。  やはり理由はわからなかったが、この効果にはいくらかの利点があることが考えられた。例えば、このお陰でたくさんの小さな星が肉眼から閉め出される。その結果、さもなければ宇宙で見えるはずの、おびただしい星の数にわずらわされずにすむので、大いに助かるというわけである。  これは本当に、スピンディジー力場《フィールド》に不可避の効果なのか──それとも、航宙の補助手段として故意にやっていることなのか? 「わたし自身、それをルツに尋ねてみようと思っているんだよ」クリスがこの疑問を口にすると、ワーナー博士はそういった。「わたしには何の役にも立たない。おかげで、自由空間での天文学者の楽しみが台なしになってしまっている。クリスピン、ついてきなさい──きみに後をまかせるのは心もとないし、そうでないとすれば、わたしの弟子はわたしと一緒にいるのが、ルツから見て一番自然に見えるだろう」  スクラントンの連中は「ついてこい」という以外に、公式に話しかける言葉がないみたいだ、と思いながらも、クリスはついていった。  シティ・マネージャーにまた会うのはあまりよい気持ではなかった。しかし、他のどこにいるよりも、天文学者の翼の下にいるのが安全だというのは、おそらく本当だろう。実際のところ、かれはワーナー博士の大胆さに驚きもし、いくらか感心さえもした。  しかし、ボイル・ワーナー博士が実際にその質問をしたとしても、クリスはついにその答を聞かずにしまうことになるのだった。  フランク・ルツは、公用で会いにきた人々を控え室に待たしておくのを好まなかった。それは人々にとってもかれにとっても時間の無駄であり、少くとも、かれには無駄にする時間はないし──他の人々も無駄な時間は持たない方がよい、という考え方だった。それに、かれの行政には秘密にしておかねばならないややこしい点はあまりないし、もはや反対派がつけているすきもない、というわけだった。  市民たちにだれがボスであるかを思い知らせるために、謁見[#「謁見」に傍点]中は市長をつんぼ桟敷に待たせておいて、ほかのものはだれでも自由に出入りさせるということまで、かれはときどきやってのけるのだった。  ワーナー博士とクリスは一番遠いベンチに坐り──実は、ルツの〈謁見《コート》〉はもとの法廷《コート》でおこなわれていたのである──シティ・マネージャーのデスクの足もとまで順送りに進んでいくのを、辛抱強く待っていた。その途中で、天文学者は居眠りを始めた。フランク・ルツと他人との話はかれにとって無関係だったし、それに、耳も年齢相応に遠かったからである。  それに反して、クリスの方は好奇心も感覚も、かれの若さ相応に鋭かった。特に後者は、生れてからほとんどずっと、やぶの中の小動物の気配をうかがい、聞き耳を立ててきたために研ぎ澄まされていた。それに、フランク・ルツに始めて会った時に感じたあの危険の感覚がよみがえってきたので、聴覚も好気心もかみそりの刃のように研ぎ澄まされていたのだった。 「日和見をしている場合ではない」シティ・マネージャーは喋っていた。「この会社は大きいんだ──一番大きいやつなんだ──そいつがきれいな[#「きれいな」に傍点]取引きをしようといっているんだ。この次出会った時には、こんなにねんごろな口はきいてくれないかもしれないぞ。特に今、こちらが生意気なことをいっているとな。私が腹を割って話してみる」 「しかし、あちらさんの狙いは何だろう?」だれかがいった。  クリスは首を伸ばして見た。だが、喋っているのは知らない男だった。ルツの顧問たちは──ハスキンズのような土性骨のすわったやくざ[#「やくざ」に傍点]は別として──何事につけても、いてもいなくても変りがない存在だった。 「こちらの進路を変えたいのさ。連中は、こちらの進路を分析して、連中がとうの昔に縄張りにくり入れた領域に、こちらが向かっているというのさ。いいか、わたしにいわせれば、こいつは全くのもうけものなんだ。連中はこの領域の予備調査をすませているが、われわれはやっていない──この先、われわれはすべて同じような状況にぶつかるだろう、ある程度の経験をつかむまではな。それだけじゃない、連中は代償の一つとして、別の進路を教えようといっている。そちらへ行けば、鉄を含む星団があって、植民も始まったばかりだし、仕事もたくさんあるらしい」 「という話[#「話」に傍点]ですがねえ」 「その話をおれは信じるんだ」ルツは鋭くいった。「連中の話は全部だ。あいつらはディラック通話装置で、あけっぴろげにそういったんだぞ。警察だって一言残らず聞いている。それもこの近所だけじゃない。ディラック受信機さえあれば、宇宙のどこにいたって聞えるんだ。あれほどの大会社だ。公開の契約でインチキをやる気遣いはない。わたしが思案しているのはただ一つ、どの位の値をつけてやろうか、ということだけだ」  かれは机の上に目を落した。だれも提案はないようであった。結局、かれは目を上げ、冷たい微笑を洩らした。 「幾通りかの案を考えてみたが、一番気に入ったのはこれだ。食糧の補給を手伝わせるのさ。われわれには連中の指定した星団へ到達するだけの食糧はない──そんな遠くまでいかなくても、もっとずっと手前の惑星へ降りられるだろうと思っていたのでな──だが、こんなことは向うさんの知ったこっちゃない。もちろん、知らせるつもりもない」 「食糧を要求すればわかってしまいますぜ、フランクさん──」 「それほどの馬鹿じゃない。どんな値段であろうと、食糧を売る[#「売る」に傍点]|渡り鳥《オーキー》都市があるとでも思っているのかね? 酸素を売ってくれとか、金《かね》を売ってくれとか頼むほうが、気がきいているくらいだ。わたしは[#「わたしは」に傍点]ちょっとした機械類を二つ三つ放りこんでくれと頼むつもりだ。どんな機械だってかまやせん。それと、それらを動かしたり、手入れをしたりする技師を二、三人。それから、それほど貴重な技師を送ってくれたお礼として、こちらの人間を大量に送りこんでやる──ここにいても何の役にも立たない連中をな。あれほど[#「あれほど」に傍点]のサイズの町が飲みこめないほどの人数にはならんだろう──だが、われわれとしては、その人数と同じ位の月数を喰いのばしていかなければ、アマルフィが案内しようと申し出ている鉄のある星団へは、たどりつけないのだ。食糧のことはおくびにも出さない。ありふれた渡り鳥の『|任意選択の原則《ルール・オブ・ディスクリーション》』にのっとった、ごく普通の人員交換をやるだけなのさ」  みんな感に打たれた様子で、しばらく黙りこんでいた。クリスでさえも、理解できたかぎりでは、この計画の巧妙さに感嘆せずにはいられなかった。  フランク・ルツはまたニッコリ笑って、付け加えた。 「それに、こうすれば、強制収容法のためにやむなく乗せた、無用の浮浪者や労働者どもを一人残らず追っ払うことができる。警察にも絶対わからんし、アマルフィもわかるわけがない。あいつは食糧だって、それから、その、医薬品だって、しこたま持っている。なにしろ、百万をはるかに超す乗組員を養わにゃならんのだから。田吾作の三百人やそこら、新らしく乗り込んだって、アスピリンを飲むくらいの我慢で飲みこめるんだ。それに、あいつにとって無用の機械と二人の技師を、うまくトレードできたと思って喜ぶかもしれんぞ。この案の一番いいところは、本当に[#「本当に」に傍点]公平な取引きになるかもしれない、ということだ──さてそこで、次は──」  クリスは次の話を聞くまで残ってはいなかった。親切にしてくれた天文学者が居眠りをしている方に、名残り惜しそうな視線をチラリと投げると、密猟者のようにこっそりと法廷から抜け出して、地下にもぐった。  その隠れ家は、もともと事故のためにでき上ったものだった。場所は、町はずれの大学のそばの一棟の倉庫の中で、おびただしく積み上げた重い木枠の山の中にあった。木枠は、離陸の際の最初の数秒間に、山崩れを起したにちがいなかった。それで、市の地図には全然載っていない、巨大な三次元的迷路が出現したのであった。  クリスが木枠の一つの横腹に、ポケット・ナイフで穴を開けたところ、中味は鉱山用の機械であることがわかった(そして、他の枠にもすべて同じコード・ナンバーが刷りこんであることから、全部同じ物が入っているのは明らかであった)。してみると、スクラントン市が最初の|惑 星 着 陸《プラネット・フォール》をやるまでは、木枠の山が運び出される気遣いはない、とクリスは考えた。飛行中の市に、坑道を掘る場所があるはずはないのだから。  当分の間は、この穴に潜んでいられそうだ、とクリスは考えた。倉庫には、利用できる便所もあるし、めったに人がくることもない様子だった。そして、もちろん守衛はいなかった──だれがこんな重い機械を盗み、いったいどこへ持っていくというのか?  ろうそくから火事さえ起さなければ──実は、迷路全体の通風はかなりよかったが、穴の中は真っ暗だった──おそらく、食糧がなくなるまでは安全に隠れていられるだろう。そして、その後は、運を天に任せるよりほかにないだろうが……もともと密猟者だったのだから……。  とにかく、かれの計画には訪問者は勘定に入っていなかった。  遠くから人が近づいてくる足音が聞えた。かれはすぐさま、ろうそくを吹き消した。  たぶん、浮浪者が迷いこんできたのだろう。いや、ただの迷子かもしれない──おそらく、最悪の場合でも、ルツの人身売買計画から逃げてきたものがもう一人いて、そいつが隠れ家を探しているのだろう。積み上げられた木枠の間にはたくさんの洞穴があるし、この穴に通じる道はひどくこみ入っているから、この中で暮していても、お互いに何週間も顔を合わさずにいられるだろう。  だが、その足音がごく静かに近づいてくるのを知って、かれはガッカリした。新来者は、つまずいて大きな音を立てるどころか、曲り角へくるたびに思案しながら、ほとんど間違わずに進んでくるのだった。  だれか、クリスの所在を──いや、少くも隠れ家の位置を、知っているのだ。  足音は大きくなり、のろくなり、止まった。いまや、そいつの息遣いがはっきりと聞えた。それから、懐中電灯の光がクリスの顔にまともにあたった。 「ハロー、クリス。明りをつけてくれよ」  それはフラッド・ハスキンズの声だった。  怒りと、ホッとした気持が、クリスの心に同時に溢れた。その大男は何といっても最初の友達だったし、同名のよしみ、とでもいいたいような親密感があった──つまり、フラッドリー・φ・ハスキンズという名前が変ちくりんなことは、クリスピン・ディフォードと良い勝負だという気持──しかし、こうして顔にまともに光を当てられたのは、一種の裏切り行為だと感じられた。 「ろうそくがある。でも、そのライトを立てときゃ、同じことだろ──その方がいいよ」 「オーケー」  ハスキンズは床に坐り、クリスがテーブル代りに使っていた小箱の上にライトを置いた。すると、頭の上の板に光の輪ができた。 「さあ教えてくれ。いったいぜんたい、お前何をやっているんだ?」 「隠れてるのさ」クリスはムッとしていった。 「そんなことはわかってる。この場所は、お前が本を運びこむのを見た時から、察しがついていたんだ。強制収容隊《プレス・ギャング》の一員として、隠れんぼの腕は常に磨いておかにゃならんのだ。いずれ、よその惑星で必要になるんでな。しかし、お前がやって何になる? もっとでかい都市に移りたいとは思わんのか?」 「ああ、思わないよ。もちろん、スクラントンが居心地がいいなんていうつもりはない。大嫌いさ。できることなら、家へ帰りたいんだ、本当は。でも、フラッド、ぼくはすくなくもこの町を知りかけているんだ。地球にいた時から、一部は知っていたしさ。また誘拐されて、一から十までやり直すのは嫌なんだ──スクラントンよりもっとなじみのない、道さえも知らない町に乗り移ってさ──きっと、ここよりもっと嫌いになると思うよ。それに、交換《トレード》されるなんて気に喰わないよ、まるで──まるで一山の屑鉄みたいにさ」 「うん、その気持はわからんでもない──だが、これは|渡り鳥《オーキー》の普通のやり方で、別にルツの発明じゃないんだ。お前『|任意選択の原則《ルール・オブ・ディスクリーション》』の由来を知っているか?」 「いいや」 「プロ野球の選手のトレードからさ。そんなに古いものなんだ──一千年以上も昔からある。これを認可する契約法は、もっとずっと古いものだと考えられている」 「わかったよ」クリスはいった。「ローマ時代からあるって、いいたいんだろ。でも、フラッド、ぼくは屑鉄じゃないし、やっぱり交換されるのはいやだな」 「さあ、そこだ」大男は辛抱強くいった。「馬鹿をいっちゃいけない。スクラントンでは、お前の将来はお先まっ暗なんだ。もう、それがわかってもいい頃だ。本当の大都会なら、何か仕事が見つかるだろう──少くとも、学校教育が受けられる。この町の学校は永久に閑鎖されちまったんだ。もう一つ。この町は飛び上ってから、まだ一年しか経っていない。これから苦労が始まるんだ。古い町なら、もっとずっと安全だ──絶対に安全だとはいいきれないが。安全な|渡り鳥《オーキー》なんてありえないからな──とにかく、もっと安全なんだ」 「おじさんもいくのかい?」  ハスキンズは笑った。 「とんでもない。アマルフィのところには、おれみたいなのは五万といるんだ。それに、ルツにはおれが必要なんだ。やっこさんは気づいていないが、そうなんだ」 「それ……じゃあ……やっぱり、おじさんといたいよ」  ハスキンズは腹を立てて、一方の手の平に、一方の拳を叩きつけた。 「おい、赤毛……神よ、この小僧をどう思し召す? ありがとよ、クリス、その……その言葉は忘れないぜ。でもなあ、おれだって運がよけりゃ、いずれ自分の子を持つんだ。今はそんな暇はないがな。お前、いま、現実を直視しないと、二度とチャンスはつかめんぞ。いいかい、今のところ、お前の居場所を知っているのは、おれだけだ。しかし、いつまでこれが続くと思う? お前がこの穴から引きずり出されて、食糧をしこたま貯めこんでいたのがわかったら、フランクがどうするか知っているか? 胸に手を当てて、よーく考えてみろ」  クリスは窓から放り出されたような気持が、胃のあたりでした。 「その事は考えてもみなかった」 「甘い、甘い。まあ、無理もないがな。フランクのやり方を教えといてやろう──銃殺[#「銃殺」に傍点]だ。町のものはそれを見たって眉も上げんぜ。|渡り鳥《オーキー》の法律書では、食糧|隠匿《いんとく》は市の生存を脅かす罪の筆頭にあげられているんだ。こういう犯罪は極刑に処せられるんだ──これはスクラントンだけじゃない」  長い沈黙が続いた。ついに、クリスは静かにいった。 「わかった。その方がいいんだな。いくよ」 「それが頭の使い方ってもんだ」ハスキンズはホッとしていった。「さあ、きな。お前は病気だって、フランクにいうんだ。本当に[#「本当に」に傍点]病気みたいな顔だぞ、怪しまれっこない。だが、急がなくちゃ──あと二時間で|渡し舟《ギグ》が出る」 「本は持っていっていい?」 「お前のものじゃない。ボイル・ワーナーのものだ」フラッドはイライラといった。「あとから、おれが返しといてやる。ライトを持て。さあ、いこう──本なら向うにいくらでもある」  かれは突然立ち止まると、薄暗がりの中で、クリスの顔をしげしげと見つめた。 「行く先はどこでもいいのか! 町の名さえ尋ねないじゃないか」  その通りだった。クリスは尋ねていなかった。そういわれて初めて考えてみたが、どこでもかまわない気持だった。だが、好奇心は、こんな迷路の暗がりの中でさえ、そして、こんな絶望の中でさえも、ムクムクとかま首をもたげ始めるのだった。 「そう、尋ねなかったね。どこ?」 「ニューヨークだ」 [#改ページ]     4 宇宙の教室  |渡し舟《ギグ》からの眺めは想像を絶するすばらしさだった。  山ほどの高さの塔が林立する一つの島。それが表面も底もない星々の海に浮いているのだった。|渡し舟《ギグ》はロケット推進だったので、クリスは生れて始めて宇宙空間で、すべての星が宝石のように輝いている壮観に接することができた。  だが、スピンディジーの泡──外側に出ると、かすかに見えるのだが──に覆われたその人類の都市の方が、その静かな威容においてはるかにまさっていた。それにくらべると、船尾にみえるスクラントンは、まるで古ストーブのボルトを入れた石炭箱といったところだった。  移民たちはその都市の周辺区で、肩幅の広い、髪をクルー・カットにした、四十歳ぐらいの男に出迎えられた。クリスはその男の服を見たとたんに鳥肌が立った。ここであろうと、どこであろうと、警官は天敵みたいなものだったから。だが、そのアンダースンと名乗る周辺区署員は、インタビュー用の個室にみんなを案内していっただけだった。  クリスの個室にはほかにだれもいなかった。かれは食堂の壁ぎわのテーブルのような小さな棚のところに坐り、壁にはめこまれているスピーカーのグリルと向き合った。これから質問が発せられ、これに答を吹きこむのだった。  質問の大部分はごく単純な統計基礎資料──名前、年齢、出生地、スクラントン搭乗年月日など──だったが、かれとしてはむしろそれらの質問に答えるのが楽しかった。なぜなら、生れてからこのかた、そういうことを尋ねるほど自分に興味をもってくれる人がいなかったからである。なかには、本人のかれも知らない質問があった。  また、質問者の正体を想像するのも興味があった。それが機械であることは、ほぼ間違いないと思われた。人間の声であらかじめ吹きこんでおいた語彙から喋るのではなくて、貯えてある基本的な音声を次々に組み合わせながら喋る機械らしかった。  そうして出てくる言葉は完全に理解可能であって、機械臭さがなく、本物の人間の言葉の特長を数多く備えていた──例えば、文章は自然な会話のリズムで流れ、キーワードは充分な語形変化をし、句読点さえも識別できた──にもかかわらず、人間の声と聞き間違える気遣いはまったくなかった。どのような相違があるにせよ、クリスにはその機械が何となく大文字ばかりで喋っているように思えた。  コンピューターが人間を閉め出して、多くの分野に進出するようになってから、長い歳月が経っているこの時代でさえも、このように言葉を組み立てることができるほどの知能を備えた機械があるとは、知らなかった。まして、このインタビューのやり方から察しがつくように、広い自由選択の幅が与えられるほど知能の高い機械など、聞いたこともなかったし、自分のことを〈ワレワレ〉と呼ぶ機械に出会ったこともなかった。 「ミスター・ディフォード、強制収容サレル以前ニ、ドノクライ学校教育ヲ受ケタカ?」 「ほとんど何も」 「スクラントン搭乗中ニ、学校教育ヲ受ケタカ?」 「少しばかり。本当は、おそまつな個人教授なんですけど──父が気が向いた時にやってくれたのと同じような」 「コレカラ始メルノハ、スコシ遅イ。シカシ希望ナラバ、学校教育ヲ受ケラレルヨウニ取リ計ラッテモ──」 「ぜひ、お願いします!」 「サア、ドウカナ。加速中等教育ハ、肉体的ニトテモ辛イ。当市デハ、キミノ目的次第デ、ソレヲ受ケズニスマスコトモ可能ダ。旅客ニナリタイカ、ソレトモ、市民ニナリタイカ?」  表面的には、これは実に容易な質問だった。クリスが最も望んでいたことは、故郷に帰って、地球連邦西部共同市場ペンシルバニア州というごく単純な都市の市民に戻ることであった。  これまでに、自分がいなくなって、家のものはどうしているだろうか、また、自分の失踪をかれらはどう考えただろうか、ということが気になって、眠れない夜が幾晩もあった。そして、これから先もきっと、そのような辛い夜が幾晩もあることだろう、とかれは考えていた。  だが、それと同時に、今頃は家のものも、かれがいなくなったという事実に何とか適応しているにちがいないとも思われた。そして、もっとずっと厳しい現実は、かれが今や、太陽《ソル》からたっぷり二十光年はなれた宇宙空間に漂っている、人口百万をはるかに超える大都会に坐っており、そいつがかれの想像もつかない目的地に向かって進んでいる、ということであった。  この奇怪でもあり、すばらしくもある大建造物は、いくらかれが家へ帰りたいといおうと、その他どんな理由があろうと、かれの個人用タクシーになってくれるはずはなかった。  そこでクリスは、自分がこの都市に感心したのなら、いっそ市民になってもいいだろう、と結論した。  行く先もわからず、先方へ着いた時、運賃を払うだけの価値があるかどうかもわからない状態で、旅客になってもしかたがない。それに反して、市民になるということは、何か特権を与えられることを意味しているように思われた。それがどんなものか知るだけの価値はあるだろう。また、機械が使った二つの用語には、かれが用心しなければならない何か特殊な技術的な意味が含まれているかどうか、知ることも価値があるだろう、と思われた。 「あんたはだれ?」 「シティ・ファーザーズ」  この答を聞いて、かれは完全に面喰らった。そして、湧き上ってきた一ダース以上もの疑問を、強い意志の力でやっと抑えつけた。さしあたり大事なことは、話している相手が責任ある人物だ、ということだった──集合的人格を持つ機械を相手にしている時、〈人物〉という言葉がどんな意味を持つかはともかくとして。 「質問してもいいですか?」 「ヨロシイ。コノインタビューノ目的ニカナウ範囲デ、答エニ時間ノカカラナイモノナラ。サシアタリ、キミガ質問シタラ、答エルカ、答エナイカ、ドチラカニスル」  クリスは懸命に考えた。〈シティ・ファーザーズ〉は、時間を限るようなことをいったが、べつに急ぐ気配もなく待っていた。  やっと、かれはいった──。 「市民と旅客の最も重要な違いは何ですか?」 「市民ハ無限ノ生命ヲ持ツ」  これほど思いがけない答えが返ってこようとは、クリスも考えていなかった。今まで考えたり読んだりしたことと、あまりにも隔っていたので、かれにとってこの答えは無意味に近かった。  やがて、何とか立ち直って、用心深く尋ねた。 「無限て、どのくらい長く?」 「無限ニ長クダ。現市長ハ二九九八年ニ生マレタ。記録ノアル最年長ノ市民ハ五百十三歳デアル。シカシ、抗死薬物ガ最初ニ発見サレタノハ二〇二八年ダカラ、統計的ニミテ、コレヨリ年長ノ個体ガイクツモアルト推定デキル」  抗死薬物だって!  この丸薬はべらぼうに大きくて、とても飲みこむことはできなかった。さしあたり、かれにできたことは、その薬のいくらか意味がありそうに思える一マイクログラムほどのかけらに、しがみつくことだけであった。  つまり、長い間──うんと長い間──生きていれば、どんなに遠くまで放浪していっても、いずれは故郷へ帰ることができるのではあるまいか、ということだった。ほかの事は、あとからゆっくり考えればよいのだ。  かれはいった。 「市民になりたいです」 「次ノ事ヲ知ラセテオクコトニナッテイル。十八歳ノ誕生日マデハ、決心ヲ変エルコトガ許サレテイル。シカシ、ソレ以後ハ、旅客ニナル決定ハ市長ノ特命ガナケレバ変更デキナクナル」  今までクリスが気付かなかった細い隙間が、だしぬけに白い細長いカードを棚の上に吐き出した。 「コレガキミノ登録証ダ。食料、衣服、住居ナド必要品ノ入手ニ使ワレル。提示シテ排除サレタ場合ハ、キミノ要求スル物品マタハサービスガ不許可ニナッタモノト、承知シテモライタイ。コノカードハアル特殊技術ヲ使ワナケレバ、損壊デキナイ。シカシ、無クサナイ方ガヨイ。手元ニモドルノニ四時間カラ六時間カカルカラ。今、加速教育ノ手続キガ終ッタ。質問ガナケレバ、退ガッテヨロシイ」 〈シティ・ファーザーズ〉がクリスを送りこんだ加速教育なるものは、最初のうちは肉体的に少しも辛いとは感じなかった。事実、基本的には、一日中寝ているのと同程度の努力しか要らないように思われた。(寝て暮らすというのは、クリスにとって一つの理想だったが、一つの仕事として寝る、という経験はまだなかった。だから、それがどんなに辛く、疲れるものであるかわからなかったのである) 〈教室〉は何の特徴もない、灰色の大きな部屋で、黒板や机はおいてなかった。家具といえば、たくさんの寝椅子が床に散らばっているだけだった。それに、先生もいなかった。  そこにいるおとなは監督《モニター》と呼ばれ、その役目は、一部は案内人《アッシャー》、一部は看護人の仕事をすることであって、教えるということは、クリスがこれまでに出会ったその言葉のいかなる意味においても、関係しなかった。  かれらは生徒を、それぞれの寝椅子につれていき、頭にキラキラ光る金属のヘルメットをかぶせてくれる。そのヘルメットの内側には、何百本もの小さな、おそろしく鋭い棘のようなものが生えていて、そいつが、頭の皮膚を破らない程度で、しかも、ちょうどイライラした気持になるくらいの強さで頭皮に喰いこむのである。この装置はトポスコープというのだが、監督《モニター》たちはこれを心ゆくまで調整すると、引き下がっていき、部屋の中に灰色のガスが立ちこめ始める。  このガスは霧に似ているが、乾いていて、かすかな芳香があり、ボブがうさぎのシチューにちょっと入れるのが好きだったアメリカしゃくなげの干した葉に、どことなく似た匂いがする。だが、濃い霧と同様に、授業中は部屋の他の部分を見えなくしてしまい、終ると換気扇の低い唸りとともに、外へ吸い出されてしまうのである。  こうしたわけで、授業中、実際に眠っているのか目醒めているのか、クリスには決めかねた。なるほど、この教授法は催眠学習《ヒプノペディア》と呼ばれた。これは古語で、文字通り〈睡眠−教授〉と訳されるさらに古い古代ギリシャ語からきている。そしてまた、これは生徒の頭を、夢とそっくりの、不思議な人声や不思議な映像で満たすのである。  また、この灰色のガスは視覚だけでなく、他の感覚をも遮断するのではないかと、クリスは考えていた。さもなければ、他の生徒の咳ばらいとか、モニターの動きとか、換気扇の唸りとか、時たま通り過ぎる市の車の低い騒音とか、自分自身の心臓の鼓動とか、さまざまな物音が聞えてくるはずであった。ところが、これらの物音は全く聞えないか、あるいは、例え聞えても、後になって全く記憶に残っていないのだった。  とにかく、この綜合作用が本物の睡眠でないことは、まず確実だった。生徒が外界の刺激で気が散って、トポスコープのきらめくヘルメットから心の中に直接注ぎこまれる映像と声に、精神を完全に集中させることができなくなったりしないように、精神と肉体とを分離させるだけのことであった。  なぜ、このような注意の分散が許されないのか、その理由は容易に理解できた。〈シティ・ファーザーズ〉の記憶細胞から棘ヘルメットに流れこむ知識の急流は圧倒的であり、情容赦もなかったからである。  一度ならずクリスは、自分よりもすべて年上の元スクラントン市民が、授業の終った時、〈プチ・マル〉と呼ばれるてんかん[#「てんかん」に傍点]の発作にそっくりの状態で、教室から監督《モニター》たちによって運び出されていくのを見た。そして、その連中は二度と寝椅子に戻ることを許されなかった。  かれ自身も授業が終ると、疲れ切ってフラフラするような、ぼんやりした奇妙な状態になるのだった。そして、授業後には、灰色のガスの解毒剤として必ず一杯の気つけ薬を飲むことになっていたが、それにもかかわらず、この感じは日毎に顕著になっていき、脱力感はいくら眠っても癒されなかった。  その気つけ薬はおかしな味がするばかりでなく、同時に、くしゃみが出るのだった。ところが、かれが初めてその薬を断わった次の日、記憶銀行《メモリー・バンク》はいつもの倍もの分量のリーマン射影幾何学を注ぎこんだ。そして、目が醒めてみると、かれは古典的なジャクソニアン発作の最後の緊張状態にあって、四人のモニターによって寝椅子に押えつけられていた。  かれの教育はあやうくここで中止になるところだった。だが、幸いなことに、かれには前日にけいれん防止剤を飲むのをサボッたことを認めるだけの分別があった。それに、トポスコープが取っているかれの脳の電気的活動パターンの記録は、まだ続けても大丈夫だという証拠になった。それで教室へ戻ることを許された──だが、その後はさすがのかれも、学習は土方仕事よりも肉体的に辛いことがありうるということを、もはや疑わなくなった。  声と映像がふたたびかれの痛む頭の中に、上機嫌で流れこみ始めた。  振り返ってみるとクリスは、|渡 り 鳥 史《オーキー・ヒストリー》が、吸収するのにもっとも難しくない科目だとわかった。なぜなら、初期の|渡り鳥都市《オーキー・シティズ》を扱った部分、特に、都市の最初の群が地上を離れる前の地球上の出来事を扱った部分は、すでにおなじみになっていたからである。にもかかわらず、かれは今日はじめて、|渡り鳥《オーキー》の側から、それに耳をかたむけていた。  それによると、地球人ならば重要だと考えるであろう部分が大きく脱落し、そのかわりに、クリスが今まで全く知らずにいたことで、しかも、|渡り鳥都市《オーキー・シティズ》がどうして宇宙に飛び出し、そこで繁栄するようになったかを理解するのに、あきらかに不可欠の多くの出来事が、学習の前面に押し出されていた。これは要するに、望遠鏡の逆の端から、地球の過去の生活を覗くのに似ていた。  メモリー・バンクの物語るところによると、(音声、映像、その他の感覚はともなわず、文字で再生することはとても不可能なかたちではあったが、即座にクリス自分の体験の一部になってしまうほど鮮明な印象だった)それは次のような具合だった──。 「最初、太陽系の探険は、基本的に軍事の領域に含まれていた。ロケットの力による宇宙旅行に要する莫大な経費は、軍だけが要求しえたからである。このロケット推進法は原理的に、どれだけの力を放り出せるかに直接依存する荒っぽい方法である。  この分野での最高の成果は、太陽《ソル》から最も遠い惑星の第二衛星、プロセルピナ・Uの上に調査観測基地を築いたことであった。プロセルピナ基地は二〇一六年に開かれた。しかし、二十八年後に一時的に放棄された時には、まだ完全に出来上ってはいなかった。  プロセルピナ基地その他の、太陽系の全植民地がこの時期に放棄された原因は、同時代の地球の政治の中に見出されるであろう。ソ連および、その同盟国との競争から生ずる非常な圧力のもとで、地球の西欧文明は戦時経済体制を恒常的に維持することを余儀なくされた。そして、この重圧を受けて、伝統的な自由主義的政治制度は崩壊の一途をたどった。  二十一世紀の初頭までには、競争する両文明は、それらのうわべの政治形態は依然として別の名前で呼ばれていたが、実際には、それらの間にはもはや相違は見られなくなっていた。両方とも警察国家になっていて、市民個人の法的弁護権は失われ、また、両方とも完全な統制経済のもとに運営されていた。西側では、この政策を〈アンチ・コミュニズム〉と公称し、東側ではそれを〈アンチ・ファシズム〉と呼んだが、どちらの用語にも、それぞれの大衆感情が色濃くにじんでいた。しかし、実際のところは、どちらの国家も経済的にはファシストでもコミュニストでもなかったし、また、経済制度としては、ファシズムもコミュニズムも、記録されている地球史の中でいまだかつて試みられたことはないのである。  アラスカの上院議員ブリス・ワゴナーの指揮のもとに、西側の二つの研究団体が、宇宙飛行の第二段階の基礎となるべき基本的な諸発明をしたのは、この時代のことであった。  その最初のものは、現在、スピンディジーとして知られている、ディロン−ワゴナー|重 力 子 極 性 発 生 機《グラビトロン・ポラリティ・ジェネレーター》であって、これがすぐさま発展して星間ドライヴとなった。第二はアスコマイシンであって、これは抗老化剤、つまり死遅延薬の最初のものであった。最初の星間探険隊は二〇二一年に、ワゴナーの陣頭指揮のもとに、木星の衛星から射ち上げられた。しかし、ワゴナー自身はこの〈反逆〉事件に連座したかどで逮捕され、処刑された。  この探険隊の運命について記録は存在していないが、生きのびたことは確かである。なぜならば、三百五十余年後の第二次探険隊が、地方星群《ローカル・グループ》の恒星の惑星に、理解可能な地球語を話す人類が広く分布しているのを見出したからである。  この時期に、二大強国ブロック間の競争を、もう一つの競争、つまり、双方の指導者、西部共同市場のマッキナリー大統領とソ連のエルゼノブ首相との間の、個人的な競争によって決着をつけようという試みがなされた。これは二〇二二年に起り、その後生じた〈冷たい平和〉が宇宙飛行に小さな刺激を与えた。二〇二七年にマッキナリーは暗殺され、エルゼノブが自ら地球連邦の首相兼大統領に就任した。しかし、エルゼノブ自身も二〇三二年に暗殺された。  同じ年に、ハミルトン党と自称する西側の地下組織が、スピンディジー駆動の多数の小艇に分乗して、太陽系を脱出することに成功した。この宇宙艇の建造は、仮空の新アメリカ革命の資金として秘かに集められた基金によっておこなわれた。そのために、支持者の大多数は取り残されてしまった。これまでのところ、脱出したハミルトン党の生存者は発見されていない。しかしかれらは、初の地球連邦政府を現実に樹立するためにおこなわれた世界規模の大虐殺やテロから逃れることには、成功したのである。  現在、官僚主義国家と呼ばれているこの政府が最初に公布した法令の一つは、二〇三九年の宇宙飛行および全関連科学の禁止令であった。太陽系の惑星や衛星の上にできていた植民地は回収されず、そのまま切り離され、放棄された。  国家の強化は急速に進んだ。そして、西欧の没落の年代は二一〇二年より降ることはありえないという点で、歴史家たちの意見は一致している。こうして、ローマ帝国の最悪の時代でさえも及ばない、地球上ならぶもののない組織的な抑圧と搾取の時代が始まったのである。  一方、宇宙への亡命者たちは新しい諸惑星の強化を続け、恒星から恒星へとジャンプを続けた。二二八九年に、このような探険隊の一つが初めてヴェガ帝国の一惑星とコンタクトした。後にわかって、今ではもうみな知っていることだが、この星間文明は八千年から一万年の間、銀河系のこの四半分の大部分を支配していて、さらに膨脹を続けていたのであった。  ヴェガ人たちは、これらの未組織で装備の悪い植民者たちの潜在的な競争力を、すぐさま見抜き、一致協力して植民者の一掃をはかった。しかし、あまりにも広大な宇宙空間が舞台となっていたので、ヴェガ戦争の最初の衝突、〈アルタイルの戦闘〉が実際に起ったのは、二三一〇年になってからだった。植民軍は敗れ追い散らされたが、その前に、植民星の抹殺をはかるヴェガ人の時間表を──偶然ながら──永久に阻止するだけの損害を相手に与えていた。  二三七五年に、スピンディジーが地球で他と無関係に再発見され、トリウム・トラスト社の第八工場がそれを利用して、施設全体を地面から引き離し、工場そのものを一つの完成した宇宙船として、地球を去っていった。他の工場も後を追い、その後まもなく、都市そのものが飛び立つようになった。これらの多くが、駆り立てられるように地球を去ったのは、確立して久しい官僚国家の政治的抑圧もさることながら、恒久的な不況がその主な原因であった。  これらの逃亡都市はさっそく、近傍の星々で初期の地球の植民地を見つけ、かれらが喉から手が出るほどほしがっていた工業力を与えることとなり、一致協力してヴェガに対抗することとなった。そして、輝かしい勝利をおさめると同時に、恥ずべき結果をも生じた。  二三九四年に、逃亡都市の一つで、現在、『恒星間交易支配都市《インターステラー・マスタートレーダー》』を自称しているグラビトゴルスク・マース市がトール第五惑星の新地球植民地略奪の元凶となった。この蛮行のためにこの市は『|狂 犬《マッド・ドッグ》』の異名をとった。だが次第に、このやり方が、ヴェガの惑星を扱う標準的なやり方になっていった。  帝国の首都、ヴェガ第二惑星は二四一三年に、『恒星間交易支配都市《I・M・T》』を含む多数の武装都市に包囲された。それらの任務はこの惑星を取りまく多数の軌道要塞を撃破することにあった。また、包囲軍の中にはアロイス・フランタ提督麾下の第三植民艦隊も含まれていたが、この艦隊はヴェガ第二惑星が降服した場合、その占領軍となる手筈になっていた。ところが、フランタ提督はその惑星を完全な焦土と化し、第三艦隊を率いて銀河系の未踏の四半分へ去ってしまった。かれには自分の星間帝国を建設しようという野心があったのである。  二四五一年に、植民法廷はかれを欠席裁判にかけ、残虐行為と大量虐殺未遂で有罪を宣告した。そして、かれを法のもとに処断しようという試みは、ついに二四六四年の BD40゚4048' の戦闘に発展した。この戦闘は壊滅的なものであったが、完全に引き分けに終った。同じ年に、アロイス・フランタは自ら『宇宙皇帝』を名乗った。  工業力の地球脱出があまりにも盛んにおこなわれた結果、官僚国家はそれを支える産業基盤を失い、二五二二年に崩壊したものと一般に認められている。同じ年に、無警察状態が始まり、昔の国際連合におおむね準拠したゆるやかな連邦制がしかれ、それから権力を引き出して限定的な統治がおこなわれたが、経済をコントロールするのに充分な人的基盤も産業的支持もなかった。  しかしながら、地球の健全な経済を回復する唯一の望みは、植民者と自由都市にあると覚った連邦は、宇宙に出ているすべてのものに特赦を宣言し、同時に、植民星や仲間同士で略奪を始めていた放浪都市《ノーマド・シティ》を取り締まるための、限定的ではあるが組織的なプログラムを制定した。この連邦が、現在も銀河のこの渦状肢《アーム》で機能を果している唯一の政府である。  三〇八九年にアロイス・フランタが毒殺されると、その最盛期でも決して結合力の強くなかったフランタ帝国は、急速にバルカン化に向かった。そして、現在、自称宇宙皇帝アーパド・フランタがいることはいるが、その支配区域は決して重要とは認められない。  今日の銀河第二渦状肢《アーム・U》の法と秩序を守っているのは、事実上、地球警察であり、その経済を支えているのは移動都市である。どちらの組織も自然発生的なものであり、非能率的なものであって、互いに反対の目的を持って動くことも多い。  より良い方法がいつ出現するか、それがどのような形になるか、予想することは不可能である」 [#改ページ]     5 「うすのろ!」  記憶細胞《メモリー・セル》がペチャクチャお喋りを続け、夢を呼び出している間に、この超大型都市は、地方星群《ローカル・グループ》の内部を初めてためらいがちに探険しているスクラントン市にいたものの目からみると、まるで首を折りそうなスピードで、星間空間を外側に向けて飛翔していった。  街路という街路は、想像もつかない用事を帯びた何万という人々で四六時中ごったがえしていた。それにくわえて、絶え間なくロボット・タクシーが飛び交い、市の花崗岩の竜骨そのものに穿ったトンネルの中を疾走する地下鉄の、遠いけれども、イライラさせる轟音が、しょっちゅう響いていた。  こうした活動のすべてが重要な意味を持ち、明るく楽しげに見えさえしたのは事実だが、同時に、旧スクラントン市民をひどくうろたえさせたのも事実であった。  クリスは学校のおかげで、ほとんど見物に出歩く暇はなかった。かれの受けている教育のすべてが機械教授というわけではなかった。遅まきながらかれも覚ったのだが、催眠学習《ヒプノペディア》によって、何かを本当に学ぶ[#「学ぶ」に傍点]ことなどできはしないのである。機械教授はせいぜい、生徒に事実をつめこむことができるだけであって、それらの事実をどのように結びつけるかを教えることはできないし、まして、それを使って何かをすることなど教えてくれはしないのである。  知能を──たんなる記憶力ではなくて──鍛練するには、本物の人間の教師が必要なのであった。  クリスに割り当てられた教師はヘレナ・ブラジラー博士という、ガッチリした、厳しい、白髪の女性だった。この人は、クリスがこれまでに出会った先生の中では、とびきり立派な──そして、しぼり[#「しぼり」に傍点]屋としては最悪の、人物だった。かれをクタクタにさせるのに、〈シティ・ファーザーズ〉はかれの記憶力に税をかけるだけですんだが、ブラジラー博士はかれを働かせる[#「働かせる」に傍点]のであった。 「ブラケット−ディラック評註の基本方程式は次の通りです。     P=(BG1/2U)/2C  Pは磁性モメント、Uは角運動量、CとGは通常の価をもち、Bは約0・25の価の定数とします。この恒等式の第一次変形は──。     G=(2PC/BU)の2乗  これはロック導函数と呼ばれる、第一スピンディジー方程式の普通の近似式です。ブラケットも、ディラックも、ロックもみな、この公式はガス巨大惑星や太陽のような、大きな物体にも当てはまると推測していました。この仮定が正しくないことを、黒板に出て、次元解析によって説明しなさい」  クリスとしては、もっとずっと容易に答に到達することもできるのに、と思った。  このような重力と物体の回転との関係は、電子その他の超顕微鏡的物体にのみ通用されるのだと、ブラジラー博士が単刀直入に教えてくれて、それから何なりと用事をしに、大宇宙の世界へ消え失せてくれれば、事は済むのである。ところが、彼女はそんなやり方はしなかった。  もし、彼女が簡単に教えてしまえば、答は他のいろいろな事実──たとえば、〈シティ・ファーザーズ〉の記憶細胞《メモリー・セル》が絶えずかれの耳と目に注ぎこんでいる事実──と同様に、かれの心のなかに入りはするが、助けてもらったために、かえってそれを理解しないことになるだろう、と彼女はいうのであった。  彼女としては、かれがブラケット、ディラック、ロックらのもとの理論づけを繰り返すにとどまらず、ただ教えられたからというだけでなくて、自分自身の力で、かれら三人がどこで間違えたのか、そして、そのためになぜ、ほとんど前史時代ともいえる一八九一年というガス灯の時代にまず提起され、一九四〇年にランド因子《ファクター》として公式化さえされた一つの自然法則が、二〇一九年に到るまで、砂粒一つ地球から持ち上げることができなかったのか、理解してほしいと望んでいるのだった。 「でも、ブラジラー先生、その二人が間違えたと知るだけでは、なぜ充分じゃないんですか? 現在ではもうわかっていることです。なぜ、繰り返すんですか?」 「このような偉人がみんな、それに向かって身を削るような努力をしてきたからよ。だからこそ、後世のあなたが自分で正しくやれるんじゃないの。十三世紀までは、少数の専門の大学者以外には、世の中に、長い割り算をやれるものはいなかったのよ。ところが、フィボナッキが西欧にアラビア数字を紹介したの。それで、当時は大学者でなければやれなかったことが、現在ではどんな馬鹿でもやれるようになったの。  あなたは、フィボナッキが長い割り算をする、より良い方法を発見したために、それがなぜより良いのか学ぶように命じられるのが、けしからんとでもいうつもり? それとも、ロックのような偉大な発明家が次元解析を理解しなかったからといって、ずっと後世の自分が同様に無知であってもよい、とでもいうつもりかしら?  先人は、自分たちにとってものすごく難しいことを後世のものが楽にやれるように、生涯をかけて努力してくれたのよ。困難な問題を理解できるようにならなければ、単純化を理解できるわけがないわ。さあ、黒板に戻って、もう一度やってごらんなさい」  何はともあれ、本物[#「本物」に傍点]の教室にいれば、それなりの楽しみがあった。その一つが、ピギー・キングストン−スループだった。  |ぶうちゃん《ピギー》──本名はジョージだが、だれも、ブラジラー博士さえも、そうは呼ばなかった──は友人としても仲間としても、あまりパッとした存在ではなかったが、この小さなクラスでクリスとおない年のものは、かれしかいなかった。ほかのものは、みんなもっとずっと若かった。その点から、ピギーは生徒ではないと、クリスはにらんでいたが、やはりその通りだった。  ピギーは、理由はどうあろうと、自分と同じくらい遅れていて、しかも、自分にとって常識になっていることを、なんにも知っちゃいない仲間と出会って、大変喜んでいる様子だった。かれはまた、いろいろな点で愉快な男だった。  ブロンドで、ポチャポチャしていて、愛嬌があって、頓智があり、他人が顔色をかえるような場合でも、ちっとやそっとでは物に動じなかった。この最後の点で、かれはクリスの特に良い引き立て役となった。なにしろ、クリスの方は、ここの生活を知りもせず、環境に慣れてもいないので、後になれば何でもないと思うようなことに、すぐに青筋を立ててしまうのだから。  こうした価値判断の相違を、クリスはかならずしもピギーの都合のよいようにばかりは決めさせなかった。二人はほとんど出会ったとたんから、その事で喧嘩を始めた。  そうした口論の手始めは、間もなく二人のいさかいの一つの典型になるのだが、抗老化薬剤に関することだった。 「きみは市民になるんだろうね、ピギー?」 「そうさ、きまってるよ」 「うらやましいなあ。ぼくなんか、特技どころか──自分のやりたい事さえわからないんだから」  ピギーは首をまわして、しげしげとクリスを見つめた。  二人は学校帰りで、四十二番街の方に通じるチューダー・タワー広場の橋の上に立ち止まっていた。ずっと昔、ここからファースト・アベニュー越しにイースト・リバーの方を眺めると、国連ビルが立ちはだかっていたものだったが、それは恐怖政治の間に取り壊されてしまって、今では、それが立っていたことを示すものは、プラザ以外に何も残っていなかった。そして、そのずっと先には、星の輝く宇宙そのものが見えていた。 「やる[#「やる」に傍点]って何のことさ?」ピギーはいった。「まあ、いくらか困ることはあるだろうよ、ここの生れじゃないもんな。でも、手はいろいろあるさ。他人のいう事をうのみにしちゃだめだぜ」  ピギーの話はたいていそうだが、その八十パーセントはクリスにとって無意味だった。かれは自分を弁護するために、答えるよりしかたがなかった。 「こういうことは、きみの方がずっとよく知っている。でも、法律にちゃんときまっているんだぜ。市民になることが許されて、薬が与えられるようになるには、何か特技がなければならないって。エーと、三つの方法があったはずだぞ。まず、そいつをはっきりさせとかなくちゃ。なにしろ、ほんの二、三日前に頭の中に押しこまれたばかりだからな」  かれはちょっとの間、精神を集中させた。記憶細胞《メモリー・セル》から心に植えつけられた情報をすくい上げるこつ[#「こつ」に傍点]は、すでに会得していた。  目を半眼に閉じて、あの灰色のガスを思い浮かべると、たちまち、元の事実が伝えられたあの夢うつつの状態が感覚的によみがえるか、少くともそれを思い浮かべることができ、ほとんど同じ言葉でそれを繰り返すことができるのだった。この作用はこの時にもうまく働いた。  ほとんど即座に、かれは自分の声が、〈シティ・ファーザーズ〉の単調な口調をまねて喋っているのを聞いた。 「『市民になるには三つの一般条件がある。それは、(一)コンピューターのプログラミング、管理など、明らかに有用な才能、その他、保持するに足る何らかの能力を示すこと。これは各後続世代への当該能力者の供給を、出生という偶然の出来事に依存せずにすむようにするためである。(二)科学の研究、芸術、哲学を含む、何らかの知的分野に対して顕著な嗜好を有するもの。これらの分野では、一生涯かかっても、その特技を利用することはおろか、習熟することさえ困難な例が多いからである。(三)市民権テストに合格すること。これはアチーブメント・レコードに特色の現われていない晩成型の十八歳の青年の、潜在能力を発見するために作成されたものである』  これはどう見たって、生やさしいものじゃないぜ!」 「それは〈シティ・ファーザーズ〉の言葉に過ぎないよ」ピギーは馬鹿にしたようにいった。「やつらは何も知っちゃいないんだ。ただの機械のかたまりなんだぜ。人間のことなぞ、わかるもんか。そんな規則は意味ないよ」 「ぼくには意味があるように思えるがなあ」クリスは反論した。「抗老化剤はみんながもらえるわけじゃないってことは、はっきりしてるんだ──なんでも、ゲルマニウムより貴重なものらしいよ。スクラントン市では、この事を公にすることさえ、大ボスは禁止していたんだ。だから、何らかの[#「何らかの」に傍点]方法で薬を飲むものと、飲まないものを選り分けているにちがいないんだ」 「なぜ?」 「なぜだって? いいかい、まず第一に、市は島みたいなものだからさ──考えられる限りのものすごく大きい大洋のまん中に浮いている島さ。だから、だれも入ってこられないし、だれも出ていけない。時たま、一人二人は出入りがあるだろうけどさ。もしも、一人残らずこの薬を飲んで、みんな永久に生きるようになったら、ここはたちまち人間だらけになって、お互いに他人の足の上におっ立っていなければならなくなるぜ」 「よせやい。まわりをみろよ。おれたちみんな、他人の足の上に立っているかい?」 「いや。でも、それは薬が制限されているからさ。それに、みんなが子供を持つことを許されているわけでもないし。その点については、自分のことを考えてみろよ、ピギー──きみのお父さんとお母さんは両方とも、この町では重要な人間だ。でも、きみは一人っ子で、それも、百五十年ぶりに生むことを許された最初の一人なんだ」 「親の話はやめろ」ピギーは怒鳴った。「やり方を間違ったのさ。でも、お前の知ったこっちゃないぞ」 「わかった。じゃ、ぼくのことを考えてみよう。十八歳になる前に、何かの役に立つとわからなければ──どんな役に立てるのか、自分じゃ、かいもくわからないんだが──ぼくは市民にしてもらえず、薬ももらえないんだ。万一、テストに合格して、市民になったとしよう。それでも、自分が役に立つ血統だと証明してみせなければ、自分の子供一人持つことも許されないんだぜ。人口を一定に保つには、これしか方法はないんだ、簡単な経済学さ、ピギー。これについては、ちょっとばかり知っているつもりなんだ」  ピギーはしかつめらしい顔で手すり越しにつばを吐いた。だが、それが何かの意見の表明であるかどうか、はっきりしなかった。また、たとえ表明しているにしても、経済学だけについてなのか、この議論全体についてなのか、わからなかった。 「それじゃ」かれはいった。「かりに、おまえが薬をもらって、子供を持つことを許されたとしよう。それなら、子供にも薬をやったって、いいじゃないか?」 「どうして? 資格もないのにかい」 「うすのろ! だから、市民テストがあるんじゃないか。あれは抜け道──逃げ道、ごまかし、なのさ──それだけのものなんだよ。ほかに入り口がなければ、そこから入るのさ。コネさえあればね。どうでもいいやつなら、たぶん〈シティ・ファーザーズ〉がテストに手を加えて、受からないようにするんだろう──ありそうなことだぜ。しかし、これはというやつの場合は、あまり難かしくない問題を出すのさ。難かしすぎたら、その時はおやじが何とかしてくれるさ──おやじがプログラミングをやってるんだから。まあ、どっちにしても、あのテストに受験勉強は効かないんだ。だから、インチキにきまってるよ」  クリスは身震いしながらも、強情にいった。 「でも、そんな種類のテストじゃないはずだ。つまり、次元解析とか歴史とか、何かの学科ができるかどうか調べるのじゃないんだ。教育や訓練で身につけたものじゃなくて、生れつき持っている才能を調べるものなんだ」 「|ナ ン セ ン ス《スピンディジー・ホイッスル》。受験勉強の効果がないテストは、インチキしなければパスしないテストだ──それでなくちゃ、ぜんぜん意味ないや。いいか、赤毛、薬を許されているやつがみんな天才でなくちゃならないって、おまえがそんなに堅く思いこんでいるなら、おまえが引き渡されたあのポリ公はどうなんだ? あいつは自分の子がないし、ただのポリ公にすぎないじゃないか……ところが、市長に負けないくらいの歳なんだぜ!」  この時まで、クリスは自分なりに真相をつかみかけていると、漠然と感じていた。だが今度は、顔のまん中をぶん殴られたような衝撃だった。  クリスは社会保障《I・D》カードをみて、自分の下宿としてある家庭が割り当てられているのに驚き、さらに、その割り当て番号がアンダースン警部補のものだとわかって、震え上った。  アンダースン警部補のアパート──それは昔チェルシーと呼ばれていた一画にあるのだが──に入った最初の数週間は、社交経験のない身ながら、懸命に行儀よく振舞うことによって、下手にごまかしてはいたものの、疑惑のために針のむしろに坐ってーいる感じだった。  しかし、この周辺区警察の警部補を人喰い鬼だと、いつまでも信じ続けているわけにはいかなかった。それに、その奥さんのカーラは今までに会ったこともないほど暖かい、優雅な婦人だった。二人には子供がなかったので、実の子でもこれ以上はできないだろうと思われるほど、心からクリスを歓迎してくれた。  さらに、もちろん〈シティ・ファーザーズ〉が計算した上でのことだが、アンダースンは新入りの若い|旅 客《パッセンジャー》にとって、理想的な保護者だった。なにしろ、かれ以上に市のことを知っているものは、市長も含めて、あまりいなかったからである。  事実、かれは一警官というだけでなく、かなりの重要人物であった。なぜなら、この市の警察隊は同時に防衛隊でもあり──万一、急襲とか切り込み隊が必要になった場合には、海兵隊にもなるのだから。手続上は、周辺区警部補の上役はいくらでもいた。だが、アンダースンと、もう一人の同役である、色の黒い、無口な、デュラニーという男は、選抜した精鋭部隊を率い、警察の他の部署からほとんど独立した権限を与えられ、アマルフィ市長にじきじきに報告することが許されていた。  この事実が、クリスと保護者との親密な心の交流のきっかけとなった。クリスはまだ自分の目でアマルフィを見たことはなかった。市中のだれもが市長と個人的な知り合いででもあるかのような口をきいているが、少くとも、ここに、実際に知り合いであり、週に何回も会っている人がいるのだ。  クリスは好奇心を抑えることができなかった。 「ああ、みんなそんな言い方をするんだよ、クリス。本当は、アマルフィによく会う人なんて、そうはいないのさ。あの人はすごく忙しいからな。しかし、長いことこの市を預かっていて、仕事もよくやっているから、みんなかれを信頼して、友達みたいな気でいるのさ」 「でも市長って、どんな[#「どんな」に傍点]人?」 「複雑な人だ──そういえば、だれだって複雑だが。『一筋縄ではいかない』っていえばいいのかなあ。物事の関係を、だれも真似のできないような目で見るんだ。ちょうど、一着の服を見て、その糸を引き抜くと全体がバラバラになってしまう、そういう一本の糸を見つけ出す人のように、状況を判断するんだ。そうせざるをえないんだよ──一針、一針というやり方で物事を処理するには、仕事が重すぎるのさ。わたしの見るところ、今の状態では、かれは労働過重で自殺をしようとしているようなものだ」  我を忘れてピギーと議論した後、クリスが戻ったのは、この点にだった。 「警部補さん、この前、市長は労働過重で自殺をしようとしているっていったけど、〈シティ・ファーザーズ〉は、あの人は数百歳だって教えてくれたよ。薬のお陰で永久に生きるはずじゃないの?」 「絶対に、そんなことはない」アンダースンは力をこめていった。「だれも[#「だれも」に傍点]永久に生きることはできない。遅かれ早かれ、事故に遭うということもある。それに、厳密にいえば、薬は死を『治療』するものではない。お前、薬の作用を知っているかい?」 「いや」  クリスは認めた。 「学校でまだそこまで、やっていないもん」 「そうか。記憶銀行《メモリー・バンク》なら何でも教えてくれるだろうが──わたしはおそらく、大部分忘れちまってるだろうなあ。だが、一般的にいって、抗老化剤には何種類もあって、それぞれ作用が違うんだ。その中でも主なやつ、アスコマイシンは|網 状 内 覆 組 織《レティキュロ・エンドテリウム・システム》──白血球もその一部だが──と呼ばれる一種の体内組織を刺激して、いわゆる『非特定免疫』を与えるのだ。その意味は、次の七十年間いかなる伝染病にもかからないということだ。その期限の終りに、次の注射を受ける。そうやって続けていくのだ。その物質は名前と違って、抗生物質ではなくて、一種のエンドトキシン分留物──マンノーゼと呼ばれる複合有機糖──なのだが、抗生物質と同様に発酵作用で製造するので、抗生物質みたいな名前がついているのさ。  もう一つ、TATP──トリアセチルトリパラノールがある。これはコレステロールという脂肪物質が体内で合成されるのを防ぐ働きをする。そうしないと、そいつが動脈にたまって、脳溢血、卒中、高血圧などをひきおこすんだ。この薬は毎日やらねばならない。なぜなら、人体は毎日コレステロールを作ろうと努力を続けているからだ」 「何かの役に立つからじゃないのかなあ?」クリスはためらいがちに反論した。 「コレステロールがかい? 実はそうなんだ。胎児の発育には絶対に欠かせないものなんだ。だから女性は妊娠中はTATPをやめていなければならない。しかし、男性には何の役にも立たないんだ──それに、男性は女性より循環系の病気に弱いからな。  現在使われている抗老化剤はあと二つある。だが、それらはあまり重要ではない。例えば、その一つは眠りのホルモンの合成を阻止する。こいつも妊娠には不可欠だが、それ以外にはものすごく邪魔な存在なのだ。この薬はもともと、循環系にひどい欠陥があって、横になれば死んでしまうような、牛などの反芻動物の血液中から発見されたものなんだ」 「おじさんたちはぜんぜん眠らない[#「眠らない」に傍点]っていうの?」 「その時間がない、といったらいいか」アンダースンは重々しくいった。「おかげで、その必要がなくなった、といえばいいか。だが、これらの抗老化剤の中で、アスコマイシンとTATPは死の二大原因である心臓病と伝染病を防ぐのだ。この二つを防ぐだけで、平均寿命を少くも二世紀伸ばすことができる。  しかし、それでも死を避けることはできないんだ、クリス。たとえ、事故がなくても病になるかもしれない。癌を防ぐことはまだできない──いや、アスコマイシンは腫瘍にとてもよく効くから、もはや癌が命を奪うことはない。この薬が強い放射線をよく防ぐのも事実だ。しかし、癌は依然として、死が唯一の人道的な治療となるほどの苦痛を人間に与える力を持っている。ほかに、餓死することもありうるし、抗老化剤がもらえないこともありうるし、銃弾で死ぬこともありうるし──労働過重で死ぬことだってありうるのだ。市民は長生きをする。しかし不死なんてものはありえない[#「不死なんてものはありえない」に傍点]。一角獣みたいな神話さ。宇宙そのものでさえ、永遠に続くわけじゃないんだから」  これこそ、クリスが待ちに待ったチャンスだった。だが、どうやって掴んだらよいか、まだわからなかった。 「あの──市民になったあとで薬が止められることがある?」 「故意にかい? そんな例は聞いたことはないな」アンダースンは眉をしかめていった。「この町ではそんなことはない。〈シティ・ファーザーズ〉がもしある人間を死なせたいと思ったら、銃殺にするよ。なぜ、七十年の期限の残りの期間を生かして置くんだ? とんでもない残酷なやり方だぞ。そんな方法をとる理由があるかい?」 「だって、間違いのないテストなんてありえないでしょ。つまり、ある人間を市民にしてから、あとになって、その人間が実は──あの──思ったほど偉い天才でないとわかったら?」  周辺区警部補はクリスをしげしげと見つめて、かなり長い間、口をつぐんでいた。その間、クリスは自分のこめかみの脈搏をはっきりと聞きとることができた。  ついにアンダースンは、ゆっくりといった──。 「そうか。どうやらおまえの頭に、だれかが|ナ ン セ ン ス《スビンディジー・ホイッスル》を吹きこんだらしいな。クリス、もし天才だけが市民になれるとしたら、いったい市はどの位もつと思う? たちまち人口が減少してしまうぞ。そんなことをするわけがない。あの薬を使うのは、技能の節約のためなのさ──それも、どんな技能かということは全然問題にならない。問題は、四、五十年毎に新人を訓練するよりも、むしろ、ひとりの人間を保存しておくことが論理的であるか否か、ということなのだ。  わたしを例にとれば、クリス、わたしは決して天才じゃない。ただの警官だ。だが、仕事は上手だ。とても上手だから、〈シティ・ファーザーズ〉は次の世代から他のものを選んで、手間ひまかけて訓練する理由はないと考えている。だから、その人間を保存するんだ。それがつまり、わたしだ。警官であるということが、わたしの存在理由なのだ。いいじゃないか? この仕事が性に合っているんだ。好きなのさ。  そして、アマルフィが警官を必要とする時は、わたしかデュラニーを呼ぶ──警察のものならだれでもよいというわけではない。なぜなら、われわれがやっているこの仕事に関するかぎり、経験年数がわれわれより長いものはいないからだ。市長が周辺区警部補に話をしたいと思えば、わたしを呼ぶ。切り込み隊が必要なら、デュラニーを呼ぶ。そして、特定の天才が必要なら、天才を呼ぶ。  この市には、あらゆるものが一つずつそろっている──市が大きいからでもあるが──そして、組織がうまく働くかぎり、一つ以上は必要ない。いや、]以上は必要ない、というべきだ。]というのは、それぞれ必要な数だ」  クリスはニヤリとした。 「細かいことまで、ちゃんと覚えていたらしいね」 「全部、覚えていた」  アンダースンは認めた。 「いや、つまり、〈シティ・ファーザーズ〉が教えたことを全部。いったん、あいつに頭の中に押しこまれると、なかなか追い出せないものだ」  かれが喋っていると、アパートの部屋の中のどこかで、笛のような澄んだ音が短いメロディーのようなものを奏でた。周辺区警部補は重い頭をかしげた。  それから、かれもニヤリとした。 「さあ実物教育が始まるぞ」  明らかに喜んでいた。かれは椅子の腕木のボタンを押した。 「アンダースン?」重々しい声がいった。  そのとたん、クリスは、大昔のゴールディロックスの神話のお父さん熊は、きっとこんな声だったにちがいない、と思った。 「はい──そうです」 「いま契約を結ぼうとしている。なかなかよい話だと、わたしも、〈シティ・ファーザーズ〉も考えている。それで、調印しようと思うんだ。万一ということもあるから、きみもここへきて、条件に目を通しておいた方がよかろう。荒仕事になりそうだぞ、ジョール」 「ただいま」  アンダースンはボタンに触れた。そして、かれの笑顔はさらに広がり、さらに子供っぽい表情になった。 「市長さんだ!」クリスは叫んだ。 「そうさ」 「でも、何の話?」 「仕事を見つけてくれたのさ。うまくいけば、あとほんの二、三日で惑星着陸だ」 [#改ページ]     6 天国《ヘヴン》という名の惑星  空中から、〈天国《へヴン》〉の姿は全く見えなかった。市が注意深く降下していくと、スピンディジー・フィールドは沸き立つ黒雲の泡となって、完全にその輪郭を現わし、斜に走る稲妻のギラギラ輝く青緑色の膜に照らされ、みぞれと雨の激流に洗われた。高度が下がると、みぞれはなくなり、雨が増えた。  星の輝く空と、通り過ぎていく幾多の太陽を眺めながら、何ヵ月も過ごしてきた後では、雷鳴の轟く、びっしりとたちこめた暗闇は、圧迫的でもあり、ひどく不安でもあった。  クリスはピギーといっしょに、昔ハーマン・メルビル(アメリカの小説家)がタイピー、オムー、マーディなどの遠い南海の驚異に乗り出していった、ガンズヴォート通りの下の古い埠頭に腰を降ろしていた。そして、これまでに天気というものを見たことがないような不安な顔で、市を包んでいる雷の球を見つめていた。  ピギーも、今度ばかりは、似たり寄ったりの情けない様子だった。かれは本当に[#「本当に」に傍点]天気というものを見たことがなかった。ニューヨーク市の惑星着陸は、かれの誕生以来これが初めてだったのである。  どうしてアマルフィに行く先が見えるのか想像もつかなかったが、とにかく市は降下を続けた。市は〈天国《へヴン》〉と契約を結んだのだし、仕事は仕事だった。それに、この嵐が晴れるのを待っても意味はなかった。〈天国《へヴン》〉では、いつでも、どこへいってもこの調子で、天気が悪いことはあっても良くなることはない。というのが植民者たちの話だった。 「ウワゥ!」  クリスは二十回目か、三十回目の叫び声を上げた。 「ものすげえ嵐だ! あれ見ろよ! まだ、どの位の高度にいるのかなあ、ピギー?」 「知らねえよ」 「アマルフィは知っていると思うかい? いや、本当にさ?」 「知ってるとも」ピギーは惨めな声でいった。「あの人はいつも、難しい着陸をやる。絶対しくじらないんだ」  ピカーッ!  一瞬、スピンディジー・力場《フィールド》の球全体に、電光が走ったように思われた。ものすごい音が、二人の後の高いビルのコンクリートの壁に何度も何度もこだました。市全体を強い放射線や、硬い岩や、宇宙の強い真空から守っているこの力場《フィールド》が、外側にも空気がある時は音を通すことができるとは、クリスは夢にも思っていなかった──だが、現実に、音は聞えていた。これまでに、すでに永遠に降下を続けてきたように思われた。  しばらくすると、クリスは面白くなってきた。雷鳴の合間に、意地悪くかれは叫んだ。 「今度ばかりは、横に飛んでいるんだ。きっと迷子になったんだ」 「どうして、わかる? 黙れ」 「おれは雷雨を知ってる[#「知ってる」に傍点]んだぞ。あのなあ、おれたちは永久にここを飛び続けるんだ。さまよえる『恒星間交易支配都市《I・M・T》』みたいに呪われてな」  空が光った。  ピカーッ! 「おや、きれいだな!」 「黙らねえと」ピギーは必死の形相でいった。「その鼻面をへし折ってやるぞ」  残念ながら、この脅しにあまりすごみはなかった。ピギーはクリスよりも二十ポンドばかり体重はまさっていたが、その大部分は脂肪だったから。嵐の興奮のさなかに、クリスはピギーを嘲笑するという誤りを、あやうく犯すところだった。ところが、その瞬間、足の下の昔の桟橋の板が、金属のブーツに踏まれて震動するのを感じた。  クリスはギョッとして振り返り、それから跳び上った。  本格的な宇宙服に身をかためた二十人の人が、うしろにいたのだった。かれらは顔のない巨大なロボットが方陣を組んだように、仁王立ちになっていた。その中の一人が桟橋の厚板を体重できしませながら進み出てくると、だしぬけにかれに話しかけた。  その声は、ものすごい雷鳴に負けずに何エーカーもの土地に轟きわたらせるためにボリュームを一杯に上げてでもいるような、金属的な大音声だった。だが、クリスは何の苦もなく、その声の主を覚った。  宇宙服の中身は、かれの保護者だった。 「クリス[#「クリス」に傍点]!」  声のボリュームがちょっと下った。 「クリス、こんなところで何をしている? キングストン−スループの子供も! ピギー、きみはもっと分別がなくちゃだめだよ。あと二十分で着陸だぞ──そして、ここが出入口《サリー・ポート》になるんだ──行きなさい、二人とも」 「見てただけだ」ピギーは喧嘩腰でいった。「見たければ見てもいいはずだ」 「議論している暇はない。行くのか、行かないのか?」  クリスはピギーの肘を引っ張った。 「行こう、ピギー。邪魔したって仕方がないよ」 「行くよ。邪魔はしてないぜ。ちゃんと、ここを通れるじゃないか。あんなこと言いやがるから、行けなくなるんだ。おれの[#「おれの」に傍点]保護者でもないくせに──ただのポリ公じゃないか」  金属の腕が伸びてきて、その先端の金属のはさみが開いた。 「カードを出せ」アンダースンの声が荒々しくいった。「罪名はあとで知らせる。すぐ動かないと、警官二人がかりでお前を動かすことになるが──今そんな人手をさく余裕はない。このことがもしカードに載れば、お前はこの先一生涯後悔して暮らすことになるぞ」 「わかったよ。そんな図体で押すなよ。行くから」  球根のような形の金属の腕は、ピンと伸びたままで、はさみも脅すように開いていた。 「カードを出せ」 「行くって言ってるじゃん!」 「では行け」  ピギーはいきなり逃げ出した。クリスも、よろいに身をかためた保護者の姿に目を丸くしながら、その後を追って、桟橋のほとんど端から端まで無表情に立ち並んでいる、いかつい青光りする金属の像の間をぬって逃げ出した。  ピギーの姿はすでになかった。クリスがびっくり仰天して家の方に走っていく間に、市は雷のファンファーレの中に着陸した。  不幸なことに、クリスに関する限り、〈シティ・ファーザーズ〉は着陸に何の関心も払わなかった。それで、学校はおかまいなしに続いていたので、事態の推移についてひどく混乱した情報しか得られなかった。  市の情報《パイプ》ライン、WNYCはダイアルを回しさえすれば、毎時五分間の定時ニュースを流してくれた。だが、何十年もの平穏無事な星間航行の間に、WNYCニュース局は一種の痕跡器官的痴呆状態に退化してしまって──情報《パイプ》ラインに残っている唯一の真の機能は、市の無尽蔵の音楽とドラマのライブラリーを放送することだけになっていた。クリスは市民の大部分は自分と同様に、ニュース放送者のことを、低能で情報を教えてくれない[#「くれない」に傍点]ものだと考えているのではないかと思っていた。  かれが収集することができたわずかばかりの意味のある情報は、アンダースン警部補から得たものだったが、それとても、ほとんど手に入らなかった。今ではこの周辺区署員は、天国星への上陸拠点を固めるのに忙しくて、ほとんど家に寄りつかなかったからである。にもかかわらずクリスは、主として警部補とカーラとの会話から、いくらかの断片を拾い上げていた。 「連中の要求は、この星の工業化を手伝ってくれってことなのさ。ぞうさもない話みたいだが、困ったことに、社会制度が封建的なんだ──六万六千人の選民と称する連中がいるが、実はただの自由保有地主《フランクリン》でな、その[#「その」に傍点]下におびただしい人数の──わざわざ人数を勘定するような物好きはいないのだが──農奴がいる。大天使たちは重工業化を達成した後も、それはそのままにしておきたいというのさ」 「できそうもない[#「そうもない」に傍点]わね」カーラはいった。 「できない[#「ない」に傍点]のさ。こっちが仕事を終えた時、連中も覚ることだろうがね。だが、そこが問題なんだ。われわれはこの惑星の社会制度を変えることは許されていない。ところが、革命を起さなければ、この契約は達成できない──長く、ゆるやかなものではあるが、革命に変りはないんだ。だから、あとからここに警察がきて、それを見つけたら、われわれは法律違反を問われることになるだろう」  カーラは気持よさそうに笑った。 「警察ですって! あなた、まだ警察がこわいの? あなたの職業は何? あなたがそれに慣れるのに、あと何世紀かかるの?」 「わかってるくせに」アンダースンは眉をしかめていった。「そうさ、わたしは警察官さ。だが、地球警察じゃない。市[#「市」に傍点]警察なんだ。それとこれとは全然別物なんだ。まあ、いまにわかるさ。昼飯は何だい? あと三十分で出掛けるぞ」  嵐は予言通り、絶え間なく続いていた。  クリスは機会をみつけては、機械類が木枠から出され、用意されるのを見物し、それが市の周辺区の作業場にあるドックまで運ばれていくのについていった。そのドックの向う側にはいつも、天国星の植民者たちの灯火をつけた沼沢車がたくさんむらがって、右往左往していた。  それらは大きさは様々だったが、基本的にはすべて同一の設計だった。金属の肋材がついたずんぐりした円筒形で、何か透明な材質でできており、両側にキャタピラーがあって、その踏み面には、下がひどいぬかるみになっても水掻きとして役立つ、大きな滑り止めがついていた。ボデーが気密になっているのは、浮力をつけるためだろう。  たとえどこかにスクリューがついていたとしても、この乗り物が水に浮いて前に進むことは、ほとんど、いや、まったく、できないだろう、とクリスは確信していた。そのような場合には、無電で助けを呼ぶ間、現在位置を保っているのが精一杯のところだと思われた。そういえば、アンテナだけはやけにたくさん立っていた。どうやらこの車は、水の中を泳ぐというよりは、むしろ、水を流すことを目標にして設計されているようであった。  このような水浸しの環境に、いったいどんな種類の工業が可能だというのか? それどころか、このような永遠のどしゃ降りの中で、それも、この惑星のように水面上に現われた陸地がほとんどないところで、いったいどうして農業社会が生き長らえることができたのか、想像もつかなかった。  だが、そのうちに、金星植民史をいくらか思い出した。それにはある程度の類似点があった。金星では、農業は結局、海の底に持ちこまれたのだったが、それだけでも莫大なエネルギーが必要だった。ところが、天国星の人たちはそのレベルにも達していなかった──どうやら、魚と水草を主食にしている様子だった。  クリスはドックの植民者たちの会話に──|渡り鳥市民《オーキー・シチズン》の英語の会話でなく、植民者どうしの現地語のやりとりに──一心に耳を傾けた。かれらの言葉は粘りつくようなロシア語の一変種、つまり、現在では死語となっている深宇宙の宇宙語だった。  この言葉は、クリスが市の教育を受けるようになったほとんど最初から、記憶細胞《メモリー・セル》が無慈悲なペースでかれの頭の中に詰めこんできたもので、マスターするには猛獣を飼い馴らすほどの苦労が必要だった。この言葉がめったに使われない市で暮らす者にとっては、なおさらだった。そして、おそらくそのためだろう。仲間どうしの会話にさえもかなり用心している植民者たちも、まさか渡り鳥たちがそれを喋れるとは信じていないようだった。  かれらがこの言語を持っているということ自体が、かれらの歴史がはるか|前渡り鳥期《プレ・オーキー》までさかのぼるものであることを物語っていた。その言葉が、桟橋のわきに立って、かれらのモーターボートをぼんやり眺めている十代の少年に、いかに不完全とはいえ、理解されていようとは、植民者たちは夢にも思っていなかった。  クリスは、保護者の次第に間遠になる帰宅の間に、植民者の意図らしきものを、おぼろげながらつかみ始めていた。市民ならば、契約の条文を直接〈シティ・ファーザーズ〉に尋ねることも可能だったが、旅客にはそのようなことは教えてもらえなかった。しかし、かれは大体次のように推測した。  大天使たちはニューヨーク市がロボット・タクシーを空中に浮揚させているのと同じ放送動力の助けを得て、海中農業と牧畜を完成させ、金星と同様の経済を確立したいのだと。渡り鳥市民の役目は、不安定な水浸しの大地に穴を掘り、必要な動力放送局を建設することなのだと。また、かれらは市の設備を使って、必要な燃料金属、主としてトリウムを精錬する。この金属は天国の処理能力を超えるほど豊富に産出するのだった。  また、経済改造が終ったら、大天使たちは自前の精錬所を持って、他の惑星に精錬ずみのトリウムを売りたいという希望も持っていた。そして、おかしなことに、ここには精錬の困難なことではトリウム同様に悪名の高いゲルマニウムが豊富にあって、トリウム精錬の報酬としていくらでも喜んで払うというのであった。  これはニューヨーク市にとって幸運だった。目下、星間貿易を全くしていないので、オック・ダラーは喉から手が出るほどほしかったのである。  活動全体がゴロゴロ、バシャバシャ水をはねとばしながら現場の方に移っていき、永遠のどしゃ降りの中に飲みこまれてしまうと、アンダースン警部補の留守がさらに長くなり、ドックに姿を見せる植民者の数は急速に減っていった。今では、クリスが学校から解放される日暮れ時には、わずか数台の沼沢車──不可解にもスワン・ボートと呼ばれているのだが──しか姿を見せなかった。  それらはたいてい小型車で、持主が自分の婦人《レディ》たちに与える星外骨董品を求めて、渡り鳥市民と物々交換をするために出向いてきたものであった。この取り引きも、かなり急速に下火になっていった。なぜなら、個々の市民は金を持っていても役に立たないし、天国星の地主や豪族たちは交換すべき物資をほとんど持っていないからであった。  まもなく、クリスにとって入手可能な情報の流れがほとんど止まってしまい、かれはひどい欲求不満におちいった。それが極限に達した時、一つのインスピレーションが浮かんだ。  かれは、柄に小さな磁石を埋めこんだ小さな安物の折りたたみナイフを、まだ持っていた。これは父親が与えることのできたごく僅かな贈り物の最後のものであった。もしかしたら、これが星外骨董品として、ここでは値がでるかもしれないと思ったのである。  この考えが最初に浮んだ時、かれはそういう事を考えたというだけで気が滅入って、その思いつきをしりぞけてしまった──ところが、まずデュラニー警部補が、そして次には自分の保護者が、〈蒸発者〉のリストに公式に載ると、クリスはもはやためらわなかった。あとに残った唯一の気がかりは、ここで、つまり電気的活動があまりにも激しいこの星で、磁石がうまく働くかどうかということだけだった(だが、そんなことをいえば、地球にいた時だって、そいつはあまりうまくは働かなかったのだ)。  六人乗りのスワン・ボートの貴族が取り引きに失敗して、ガッカリした様子で戻ってくるのを見届けてから、クリスはナイフを手に載せて近寄っていった。 「|だんな様《ゴスボディーン》──」  この惑星の永遠の雷雲のような顔をしたその大男は、足を止めて見降ろした。 「小僧、何かいったか?」 「はい。お許しを得まして、地球ものの便利な道具を持参いたしました。なにとぞご検分を」 「そのほう、当地の言葉を喋るな」  男は眉をしかめたままそういい、上の空でナイフを取り上げた。関心を持ったのは明らかだったが、クリスのつっかえつっかえのロシア語の方に余計に興味をそそられたようであった。 「どうしたわけじゃ?」 「聞き覚えでございます。まことに難しい言葉ですが、なんとか喋っております。どうぞ品物をご覧ください。地球産で、ペンシルバニアのコルホーズでできたものです。正真正銘の古器で、昔、工場で人々の手に触れたものです」 「ほほう、使い方は?」  クリスは二枚の刃を引き出して見せた。だが磁石の説明をしようとすると、無愛想な手振りで押し留められてしまった。かれの言語能力が不充分で、はっきりと意志が伝わらなかったか、それとも、稲妻で縫い綴じされた天国星のエーテルの中では、こんなものは役に立たないと、もう貴族にわかってしまったか、どちらかであった。 「フーム。いかにも安っぽいが、奥が魔よけのネックレスにほしがるかもしれぬ。代価は?」 「だんな様、あなたのスワン・ボートを一度だけ、ほんの一走り、運転させていただきたいのです。それだけで結構です」  植民者はしげしげとクリスを見つめていたが、やがて、ゲラゲラ笑い出した。 「よし、よし」笑いの発作が少し収まると、大男はいった。「なかなかやるな、行商人め。だがそれにしても──こいつは後々まで語り草になるわい! よーし、決まった」  笑いの止まらない大男は、先に立ってドックの方へ歩き出した。ところが、そこにクリスを見知っている周辺区署員がいて、二人とも引き止められてしまった。少年と貴族はかわるがわる事情を説明した。すると|渡り鳥《オーキー》の警官はうさん臭そうな顔をしながらも、クリスがスワン・ボートに乗るのを許してくれた。  水面に揺れている円筒型の乗物の前部キャビンに入ったとたん、別の二人の植民者が不安と怒りの表情を同時に浮かべて、前に立ちはだかった。だが、船主は手を一振りして二人を黙らせた。  かれはまだ、ひどく面白がっているようだった。 「ただの小供だ。ボートの動かし方を知りたくて、首飾りを売りつけおったのだ。他意はない。船尾の方にいっておれ。わしもすぐいく」  顔の表情から判断すると、二人はまだ納得していない様子だったが、いわれた通りにした。大男は、前方を広々と見渡せるバケット・シートにクリスを坐らせ、半円形の舵輪の両側に一つずつついている二つのレバーを握らせた。それはエンジンのスロットルだった。 「舵輪を回すのはそう容易ではないぞ。どちらかの踏み面に、動力を与えるのを同時にやらなければならないから。こうするのだ。レバーを前か後に押す。そうすれば踏み面のスピードは速くなったり遅くなったりする。この赤いマークを越えると、踏み面は逆転する。ひっかかりがなくなってきたら、舵輪全体を前に傾けてやる。そうするとタンクの空気が抜けて、ボートは泥にしっかりと喰いこんでいく。地面が硬くなってくれば、ボートはもちろん自力で這い上り、ポンプが動き始める。タンク内の圧力が上がると、舵輪の軸の傾きは自動的にもとに戻る。ここまで、わかったか?」 「やらせてくださるのでしょ?」 「まあ、よかろう。そうだ、船尾で話があるんだった。わしが桟橋からボートをバックさせてやるから、周辺区のすぐ外側で、ゆっくり輪をかいて走ってみるがいい。あそこにあるこの市のビーコンから目を離すなよ」 「ぼくにバックさせてくれませんか、だんな様?」クリスはせきこんでいった。 「よし」  大男は面白そうに鷹揚《おうよう》なところを見せた。 「だが、ムチャをしてはならんぞ。両方のスロットルをゆっくり赤線のうしろにもってくる。そうだ。速すぎる。そっと! そら、左をニュートラルに。それでよし。ほら、グルッと回っていくだろう?」  船尾の方から叫び声が聞えた。それに対して、大男は機関銃のような速口で返事をした。クリスにはほんの二、三語しか聞き取れなかった。 「ちょっと、向うへいってくる」男はいった。「よいか、ムチャをしてはならんぞ。ビーコンを見失うなよ」 「はい、だんな様」  船主がキャビンを去ると、さらに何語かがクリスの耳に入ってきた。それは、つっかえつっかえながら言葉がわかり、いきなりパイロットを志願した、ドックの小僧の話を面白おかしく話し出したのだった。やがて、小声になって、はっきりわからなくなった。  クリスはその後数分間、ボートの操縦装置を不慣れな手つきながら、あちこちこまかく動かして、小手調べをした。実際にやってみると難しくはなかった。それから、いわれた通り、時計と逆まわりに一定の円を描いてゆっくり動くようにセットすると、バケット・シートをはなれ、隣室に通じるドアの方へにじり寄った。  どんな話が聞えてくるか、まったく見当もつかなかった──ただ、最近の心の飢えを満たすために、もっと情報を吸収したいと思っただけだった。話の内容については、まったく心の用意をしてなかった。  男たちは、記憶細胞《メモリー・セル》がクリスに教えた宇宙語とはひどくかけ離れた方言を速口に喋っていた。だが、はっきりわかる句もたくさんあった。 「……市をおさえなくては無理だ。すべてが、それにかかっている」 「……無力化する? ……地図どころか、機械類の青写真さえもないのに」 「それは後の話だ。占領してから……平民を何千人でも投入できる──やつらのHUACU、この市では何と呼んでいるか知らんが、あれを動けなくするのが先決問題だ。むこうの土俵では相撲にならんからな」 「では、問題はないではないか? 偉い将軍を二人も人質に取ってあるし。必要なら、この二人を永久に押えておくこともできる……ウルフフィップ城の在所どころか、名前さえも知らないのだから──」  ここで突然、話は跡切れた。スワン・ボートがドシンと、何かにぶつかり、その上にゴソゴソと這い登ろうとしはじめた。クリスはデッキに投げ出された。戸口の反対側から、あわてて駈けつけてくる音と、怒気を含んだ叫び声が聞えてきた。次の瞬間、それもかき消された。仕切りが慣性でバタンと閉まったのだ。  グラグラ傾くボートの上で、クリスは必死にバランスを取って起き上り、しっかりと閉まっている仕切りを鈎爪で止めた。  これをロックする方法はないものだろうか? そうだ、大きなボルトがある。これを引いておけば、鉤爪もはずれないだろう。反対側からボルトを動かすことができるなら別だが。まあ、これに運をかけるよりほかはあるまい。太った南京錠でもあれば安心なのだが。  それから、かれは傾いて揺れているデッキを這っていって操縦席によじ登った。ボートは円を描いて回るのに、それなりに最善を尽していた。だがクリスは、泥というものは機械を放ったらかしてグルグル回らせておくには、あまりに変化の多い不安定な媒介物だということに思い到らなかった。円がだんだんずれていって、ボートは一つのドックの中に頭から入り込んでいたのだった。渡り鳥市の警官がこちらに向かって走ってきた。  クリスは両方のエンジンを逆転させ、急いでバックして市から離れようとした。だが、スピードは気持の半分も出なかった。そこで、ボートを一回転させて逆向きにし、コントロール・ボードに誘導信号として示されている十字線上の点を目指して、牙を向いている嵐の中にまっしぐらに突込んでいった。  どこに着くか見当もつかなかった。クリスは祈った。そこがウルフフィップ城であって、そこでアンダースンとデュラニーが見つかりますように──そして、そこに着かないうちに、錠をかけた仕切りの向う側の怒り狂った六人の植民者が、突破口を開いて出てきませんように、と。 [#改ページ]     7 悪魔を飼ったらいかが  泥んこの中をスワン・ボートが外側に向かって五分も進まないうちに、市のドックわきのビーコンのナトリウム灯の黄色い輝きが弱まり、まるで吹き消されるように見えなくなった。  無視することにした閉じこめられた連中を別にすれば、クリスは卵の中のひよこのように、ボートの殻の中に一人ぼっちになった。見慣れない計器類、エンジンの唸り、稲妻、永遠に荒れ狂う嵐。それ以外にみちづれはなかった。  コントロール・ボードを細かく調べたが、すでに知っている事以外、ほとんどわからなかった。計器そのものや、そのあたりに書かれている文字はすべてシリル文字だった──そして、〈シティ・ファーザーズ〉は市民が宇宙語を話せるようになることを期待していたが、今までのところ、クリスにはその文字の読み方の第一課も教えてくれていなかった。  無線機のようにわかりきった機械でも、細かいことはよくわからなかった。ちょっと調べてみて、かれは市の主周波数を知り、援軍を呼びよせる希望を捨てた。FMのチューナーなのかPMのチューナーなのか、それさえも判断できず、ダイアルの目盛を読むことなど思いもよらなかったのである。  にもかかわらず、大至急シグナルを出す必要があった。とりわけ、断片的ながら、立ち聞きした陰謀の詳細を市に知らせなければならなかった。陰謀家どもと一緒に、かれらのスワン・ボートに乗って逃げ出したのは、衝動的な捨身の行為だったが、今になってみると次第に後悔の念がつのってくるのだった。もっとはやく、なんとかして岸に戻って、アマルフィの事務所のだれかにこの事を知らせさえしていたら!  だが、はたして、真面目に話を聞いてくれたろうか、いや、聞いたとしても信じてくれたろうか?  市に乗っている人で、まともな人は、市民になる前の若者など相手にする気はないように見受けられた。おとなたちは、どういうわけかみな歳を取りすぎていて、近寄ることさえはばかられるような感じだった──そういえば、市民は旅客に対して、それがどんな年齢のものであれ、ほとんど注意を払わないのだった。  もちろん、クリスは知ったことを〈シティ・ファーザーズ〉に話すこともできた。それは簡単だ──しかし、〈シティ・ファーザーズ〉にいわれたことは、すべて記憶細胞《メモリー・セル》に入るのだが、それは死蔵されるに等しかった。〈シティ・ファーザーズ〉は知ったことについて行為を起すことはけっしてしないし、指示されなければ、自発的に情報を提供することもなかった。尋ねられるまでは何世紀でも、じっと待っているのである。  どちらにしても、賽《さい》は投げられたのだ。今や、市のだれかがかれの行く先を知って、後をつけてきてくれることが必要であった。だが、かれの前に輝いている不可解な計器の中のどれをどうやれば、それが実現されるのか全くわからなかったし、また、かれの立場をかりに市が知ったとしても、いったいどうやって市が追跡してくれるか見当もつかなかった。  ロボット・タクシーも、それを動かしている放送動力は市の周辺区までしか届かないし、クリスの知るかぎりでは、このような絶えず状態の変化する、形も定かでない地表を乗り切ることのできる地上車は、市にはなかった。  なるほど、倉庫のどこかに、もっと大型の軍用飛行機が何機かあるのは事実だった。しかし、永遠の嵐が荒れ狂っている土地で、そんなものを飛ばすことができるだろうか? たとえできたとしても、いったい何を探せばよいのだろう? ここでは、最大の村や城でさえも、ほとんど動力の発生や消費をおこなわないので、探知機を使っても、都市と気まぐれな稲妻との区別もつかないというのに?  スワン・ボートは激しく揺れながら、ひたすら前進していった。しばらくして、クリスは、十字線に緑色の点を合わせておくために進路を修正してから、少くとも数分たっていると気付いた。ためしに、操縦装置から、手を離してみた。点はピタリと合ったままでいた。なんらかのシグナルで──おそらく、一定の時間、点を中央に合わせておくだけで──自動操縦に切り変わるのだろう。  それは、ある意味では救いであったと同時に、心配すること以外のあらゆる手間を省き、さらに新しい心配をリストに加えてくれる結果となった。  必要な場合、どうやって自動操縦を切るのだろう? そのためのスイッチは疑いもなく目の前にあり、はっきりとその表示がしてあるにちがいない。だが、またしても、その表示を読むことができないのだった。  閉じこめた連中はというと、かれらは妙に静かだった。クリスは心の奥で、連中が仕切りを焼き切ろうとするのではないかと予想していた──仕切りの向うの連中はたしかに、その目的に使えそうな武器を持っていた──ところが、かれらはドアを叩くぐらいのことしかしないのだった。  捕虜になったことを、天命として諦めてくれますように、とクリスは熱烈に願った。かれらの沈黙が、かれらが満足していることを示すとすれば、それは悪い知らせだった。知らせはすでに相当悪化していた。なぜなら、クリスは途方にくれていたのだから。  ウルフフィップ城に着いたら、捕虜を、ボートを、いったいどう始末すればよいのか──しかも、計略を練る時間はもうなかった。次の稲妻が光った時、城が見えたのだ。  まだ何マイルも先だった。しかし、この距離からでさえも、その巨大な姿は威圧的だった。もっと小さな塔なら、市にもたくさんあった。しかし、この付近には比較すべき建物はなかったが、その黒い窓のない大建築群はどうみても三十階建を下らない高さだと思われた。  最初、城は濠に囲まれているように見えた。しかし、それは遠距離のために奥行きが縮まって見えるためで、実は広大な湖のまん中に建っているのだった。そして、湖面には嵐が荒れ狂っていて、この無細工なスワン・ボートを乗り入れても、前へ進むどころか、浮いていることさえ難しいのではないかと思われた。  かれはスロットルを引き戻した。だが、案の定、ボートはもはや手動操作を受けつけず、頑固に水の中に入っていった。しばらくすると、圧縮空気タンクがボコボコと泡を吹き出し、湖は完全にボートを飲みこんだ。今や、ボートは湖底を進んでいた。  もはや行く手を照らしてくれる稲妻さえもなくなり──明りはボート内部の照明だけになったが、その光は暗い水の中にはまったく射しこまなかった。まるで、透明な船殻がだしぬけに曇ったような感じだった。  かなり時間が経ったと思われる頃──実際には十分ぐらいしか経っていなかったのだろうが──キャタピラーが石にでも当ったようにきしり、乗物がゆっくり止まりかけた。クリスはいやな予感がして、手動を試みたが、やはり手応えはなかった。  やがて、外部が明るくなった。  スワン・ボートはかなり広い洞窟の中の係留場所にぬくぬくと鎮坐していた。ボートの側面を滝のように流れ落ちる黄色い水の間から、クリスは歓迎団──ライフルを持った四人の男──が待ちかまえているのを見た。  かれらは船内のクリスを見おろして、ニヤリと嫌な笑い方をした。かれがどうしようもなくて睨み返しているうちにエンジンが止まり──出口のドアがパタンと開いた。  クリスはアンダースンやデュラニーと同じ房に入れられた。保護者のアンダースンはクリスを見てびっくり仰天した。 「なんたることだ、アイリッシュ、今度は子供をさらってきやがったぞ!」  そして、一部始終を聞くと、不愉快きわまる顔をした。デュラニーは、例によってほとんど口をきかなかったが、けっして良い顔はしなかった。 「たぶん、発信すべき一定の認識シグナルがあったのだろう。お前としては、知ろうにも知りようがなかったのだが」アンダースンはいった。「われわれが来る以前に、ここの百姓貴族どもは仲間どうしで、戦ばかりしていたのだ──たぶん、われわれを欺そうとするこの企みは、この泥んこ惑星に植民が始まって以来はじめての協同計画だろうよ」 「こけおどし」デュラニーはいった。 「ああ、これが封建社会のしきたりなのさ。クリス、ボートの連中は仲間たちから、ずいぶんひやかされることだろうよ。別に、かれらが危い目に会ったわけでもなく、お前に首釣り用のロープを与えるだけの分別があったとしてもな。だが、お前を尋問する時には、そのロープを持ち出しそうだぞ」 「もう、尋問されたよ」クリスは不機嫌にいった。「その通りだったよ」 「もう、か? 人殺しめ! アイリッシュ、よく覚えておけよ」 「喧嘩の種」デュラニーは同意した。  アンダースンは黙りこみ、所在のなくなったクリスは、この二人は今までどんな相談をしていたのだろう、と思った。二人のたてていた計画が、クリスのちん入でおじゃんになったのは明らかだった──もっとも、そのような計画の端緒すら想像できなかったのだが。  なぜなら、二人を捕えた連中は、この|渡り鳥《オーキー》たちに敬意を表して(それが当然至極であることは、クリスも認めるところだが)、下着一枚残して身ぐるみ剥いでしまっていたからである。  しばらくして、少年はためらいがちにいった。 「何かぼくにやれることがあったかなあ? また尋問に呼び出されるかもしれないけど」 「おれたちの宇宙服の在りかを探ってもらいたかったなあ」アンダースンは陰気にいった。「もちろん、お前が家探しするのを連中が見逃す道理はないが、ヒントの一つぐらい探り出すとか、かまをかけて聞き出すとか、そのくらいはできたかもしれん。油断のないやつでも、若いものにはつい気を許すものだから。さて、何か新手の計略を考えなければならないぞ」 「あの大きな謁見室の壁ぎわに、宇宙服が何十着も立ち並んでいたよ」クリスはいった。「あそこへいけさえしたら、おじさんの体に合うのがあるかもしれない」  デュラニーは薄笑いを浮かべただけだった。  アンダースンはいった。 「あれは宇宙服じゃない、クリス、鎧なのさ──金札《かねざね》|鎧《よろい》だ。使われてはいないが、なにか紋章学的意味があるらしい。わたしの考えでは、豪族どもは互いに敵のものを取って、集めっこしていたのだ。ちょうど首狩りのように」 「かもね」クリスは頑固にいった。「でも、少くも二着は本物の宇宙服があったよ。それだけはたしかだ」  二人の警官は顔を見合わせた。 「もしや──?」アンダースンはいった。「あれを陳列しても、おかしくはない」 「そうだな」 「シリウスにかけて、やってみる手だ! アイリッシュ、錠前にかかれ!」 「下着姿でか? やだよ」 「いいじゃないか──おう、わかったよ」  アンダースンはイライラと顔をしかめた。 「明りが消えるまで待つか。さいわい、もうすぐだ」 「どうやって、あの錠前をこわすの、デュラニーさん?」クリスは尋ねた。「ぼくの頭ほどもある大型のやつだよ!」 「あの手のやつは楽なんだ」  デュラニーはめずらしく多弁になった。  作業は暗闇の中でおこなわれたので、デュラニーが錠を実際にどうしたのか、クリスには皆目わからなかった。いわれるままに房の一番奥に立っていると、しばらく何の物音も聞こえなかったが、突然、巨大な重いドアが雷鳴のような大音響とともにサッと開いた。  その音が、外の衛兵がかろうじて上げた声を、うまい具合に掻き消してくれた。雷鳴が絶えず鳴り響いているこの砦の中では、そんな音はだれも気にかけないだろうと思われた。それから、鍵束のジャラジャラいう音がし、カチ、カチという二つの大きな音がした。不運な衛兵が自分の手錠を自分の手にはめられたのだ。  |渡り鳥《オーキー》市の警官はそいつを房に転がし入れた。 「気がついたら、どうしよう?」クリスはしわがれ声でいった。 「手間は、とらん」デュラニーの声がいった。「ドアを、閉めろ。すぐ、戻る」  切り込み隊長の口から、一息に六語も聞くのは、神託を聞くような安心感があった。クリスはニッコリしてドアを閉めた。  その後、雷鳴が高くなったことを除けば、何時間も、何事も起らないように思われた。たしかに、天《あめ》が下に新しきものなし、といった感じだった。しかし、いくら大きな雷鳴でも、ウルフフィップ城ほどの頑丈で巨大な石の堆積を、揺り動かすなんてことがありうるだろうか? もしそうなら、この城がこんなに長く存続しているはずがない──だが、この城は少くとも一世紀、またはそれ以上たっていることは明らかだった。  四つ目のそういう轟音が、かれの疑問に答えてくれた。それは爆発だった。それも建物の内部[#「内部」に傍点]の。それに答えるように、すべての灯りがついた。クリスが見るとドアが大きく開いていた。  それを閉めに出ていくと、すぐ足もとにちょっとした断崖絶壁ができていた。廊下の床が陥没したのだった。下の階にできた瓦礫の山の間に、大ぜいの人が茫然と坐りこんでいた。ちらばっている石材の大きさを思うと、かれらが死ななかったのは幸運だった。  また、爆発があった。今度は灯りが全部消えた。  クリスが謁見室で見た宇宙服が、アンダースンとデュラニーの戦闘服であることは明らかだった。さて、これで、ウルフフィップ城主の戦利品展示癖はなおるにちがいないし、また、|渡り鳥《オーキー》誘拐癖もなおるにちがいない。  クリスはふと思った。いくら下着姿とはいえ、そもそもアンダースンとデュラニーを人質にとっておこうという計画そのものが、とうもろこし倉に二匹の悪魔を閉じこめておこうとするのと同じ位に、安全な作戦なのだと。  やがて、二人が戻ってきた。ヘルメットのランプでさまざまな影の模様を作り出しながら、陥没した廊下の空中に浮揚している二人を見ると、クリスはもし自分が市に通報していたら、市はこのような姿の追跡隊をくり出しただろう、と想像がついた。 「大丈夫か?」アンダースンのPAスピーカーが尋ねた。「よし。まさか床が扶けるとは思わなかった」  二人は房の中に入ってきた。ちょうど息を吹きかえしたばかりの衛兵は、二つの鋼鉄の人の姿を見て、一番遠い隅に這いこんだ。 「さてこまった。城から安全に脱出する目鼻はついたが、あの嵐の中をお前を運んでいくことはできない。そうかといって、敵の宇宙服を着せるのも不安だし」 「ボート」デュラニーはクリスを指さしていった。 「そうだ。忘れてた。運転を知っているんだったな。よしきた、肘をしっかり張り出せ、床のあるところまで運んでやる。アイリッシュ、さあ、いこう」 「待った」  デュラニーは腰から鍵束をはずし、衛兵が震えている隅に放った。 「よし」  クリスといっしょにスワン・ボートに乗りこんだのはアンダースンだけだった。かれは鎧形の宇宙服を着たままでいた。デュラニーは、敵がオートパイロットでボートの向きを変え、引き戻す手に出ることを考慮して、アンダースンと無線で連絡を取りながら、空中をゆくことにした。  クリスはこの二人の警官がウルフフィップ城の大城壁にあけた穴を見て、二人もこんなことまでは、考えていなかったろうと思った。不必要な危険は冒さないのが分別というものだ。  ボートが湖底を這いはじめると、さっそく、アンダースンはヘルメットを脱いで、コントロール・ボードの点検にとりかかった。やがて、うなずいて、三つのスイッチに触れた。 「これでよし」 「何が?」 「リモート・コントロールでやられるのを防ぐのさ。今この瞬間から、敵はこの風呂桶[#「風呂桶」に傍点]の位置を知ることができなくなるぞ。さあ、アイリッシュに一走り先に帰ってもらって、市長に報告してもらおう」  かれはヘルメットをもとに戻して、手短かに話をすると、また、それを脱いだ。 「さあ、クリス」アンダースンは恐い顔でいった。「たっぷり説教してやる」 [#改ページ]     8 宇宙の幽霊たち 〈説教〉はクリスが覚悟していた通り、不愉快きわまるものだったが──自分がまいた種だと、かたく自分にいいきかせることによって──なんとか耐え抜いた。どんなに正当な理由があると思っても、市に仕事を与え、雇ってくれた人様の財産を損うようでは、とても本物の|渡り鳥《オーキー》にはなれない、ということであった。  そして、この最初の不運なできごとにおいても、かれは邪魔になっただけだった。アンダースンとデュラニーが捕われたことは、どのみちすぐに市にわかることだった。なぜなら、二人が捕われていることをアマルフィに知らせなければ、人質として有効に使えないからである。そして、クリスが世話をやかなくても、二人がウルフフィップ城から脱出できたであろうことは、クリスが考えても明らかなことであった。それも、もっとずっと早くに。  それどころか、アマルフィの手で〈穏やか〉に救い出されて、契約に傷がつかずにすんだかもしれない。クリスの第三の捕虜としての出現は双方[#「双方」に傍点]にとって全く迷惑なことであり、おかげで、単なる緊張状態が爆発にかわってしまったのである。  結局、かれらはかれの想像力と大胆さは満点だと認め、砲火のもとでも沈着冷静であったと認めてくれた。しかし、もう事情を充分のみこんでいるクリスは、市民になるチャンスなど一オック・ダラーほどもないと信じていた。  新契約は古いものよりだいぶ限定されたものとなり、二人の警官がウルフフィップ城に与えた損害に対する賠償を含んでいた。この契約のもとでは、市の利益は初めの見込みよりも、かなり減少しそうだった。  クリスは、こんな事態になっても新契約が結ばれると聞いてびっくりし、それをためらいがちに口にすると、アンダースンは次のように説明した。 「雇用者と被雇用者との間の暴力ざたはいつの時代にもあるものさ、クリス。だが、なにはともあれ仕事はしなくちゃならない。一つの自治体としての植民星の住民は、誘拐者との公式の関係を否認し、みずからの法律制度にのっとって犯人をさばく権利があると主張できるし、われわれはそれを尊重せざるをえない。それに反して、現物への破壊行為は弁償しなくてはならないのだ──また、市はアイリッシュとわたしを否認することはできない。なぜなら、わたしらは市の公務員であり、市の代理者であるからだ」 「でも、離陸できないようにして市を乗っ取ろうという陰謀はどうなの?」 「お前が盗み聞きしたこと以外に証拠がない。これだけでは植民法廷で相手にされないだろう──たとえ、おまえが市民だったとしても──いや、つまり、お前が法年齢に達していても」  そら、またこの話だ。 「あのう、ほかにもわからないことがあるんだけど」クリスはいった。「薬を始める時期をなぜ十八歳に定めてあるの? 何歳からでも効き目はあるんでしょ? もし、ある四十歳の人を市に乗せることになって、しかも、たまたま、その人がある必要な分野ですごいエキスパートだったとしたら、その年齢からでも始めることはできるんじゃないかなあ?」 「できるし、そのようにするだろうよ」アンダースンは請け合った。「十八歳というのは最適[#「最適」に傍点]年齢にすぎないのさ。その個体が確実に成熟したと認められる最下限なんだ。いいかい、薬は時計の針を逆戻りさせることはできない。ただ、投薬を始めた時から老化を引き止めておくだけのものなんだ。ほら、ティトノスの話を聞いたことがあるだろう?」 「いや、ないと思うけど」 「わたしもよくは知らないが。〈シティ・ファーザーズ〉に聞けばわかるが、まあ簡単にいうと、かれは暁の女神エオスに愛されていて、不死を願った。女神はそれをかなえてやったが、その時、かれはすでにかなり年を取っていた。それで、永久に老人のままでいなくてはならないと覚ったかれは、女神にもとに戻してくれるように頼んだ。そこで、女神はかれをキリギリスに変えてしまった。ほら、キリギリスの寿命がどのくらいか、おまえも知っているだろう」 「フーン。永久に七十五歳でいるなんてことになったら、あまり有難くはないだろうなあ。市にとってもね」 「そういうわけだ」  周辺区の警部補はうなずいた。 「だが、もちろん、われわれはそれぞれの時点で受け入れなくてはならない。アマルフィは五十歳で薬を始めた──それがたまたま、かれの絶頂期にあたっていたわけさ」  こうしてクリスの教育は、今までと大体同じ調子で進んでいった。  ただ、かれは細かく気をつかって、ドックにはけっして近づかないようにしていた。新契約は三ヵ月に限られていたので、もう見るものはあまりないだろうと思われた──いや、むしろ、この理屈にはいくらか穴があると思いながらも、かれは自分にそういい聞かせていたのだった。  それに加えて、全く思いもかけない方面、つまり、ピギー・キングストン−スループ、から同情と支持を与えられた。 「それみろ。これで、市民にするとかしないとかいう馬鹿話の実態がわかったろう」例によって放課後に出会った時、ピギーは激しくいった。「おまえがわざわざ市のために働いてやる。すると連中はどうする? 邪魔になったと説教するだけじゃないか。それどころか、隙あらば市を乗っ取ろうと狙っているやつらと、取り引きさえしようとしている」 「まあ、喰わなくちゃならないからな」 「ああ。だが、汚い金であることには変りがない。だが、考えてみろよ。おれだったら別のやり方をしたぜ」 「わかってる」クリスはいった。「そいつをさんざんいわれたよ。そもそもボートに乗りこむのが間違っていたんだ」 「プーッ、そいつはいいんだ」ピギーは馬鹿にしたようにいった。「ボートに乗らなかったち、市は乗っ取り計画を全く知らずにいたろうからな──いいか、これはお前の手柄なんだぞ、忘れるなよ。借りのあるのは市の方なんだ。いや、おれのいいたいのは、おまえが植民者どもを後部キャビンに閉じこめた後のことさ。おまえ、ボートがドックの中にとびこんで、よじ登っていこうとしたっていったっけな?」 「ああ」 「それで、ポリ公が大勢かけつけてきたって?」 「大勢かどうかわからない」クリスは用心していった。「三、四人だと思う」 「わかった。ところで、おれだったらボートをそこに止めて、外に出て、聞いた話をポリ公に教えてやるな。そして、やつらに[#「やつらに」に傍点]閉じこめた連中を引きずり出させるね。ほら、〈シティ・ファーザーズ〉は学校でおれたちの頭に、ガラクタをつめこみやがるだろ──あれは、同じように頭の中のものを取り出すこともできるんだ。とうちゃんの話じゃ、それをやられるとものすごく気持がわるいそうだが、連中にそいつをやってやればいいんだ」  クリスは肩をすくめるより仕方なかった。 「なるほど。それが分別のあるやり方だったろうな。きみのいう通りだ。でも、どういうわけか、あの時は思いつかなかったんだ」  かれはちょっと考えてから、いいそえた。 「でも、ある意味では、必ずしも後悔しているわけじゃないんだぜ、ピギー。きみのいうようにしていたら、そもそもウルフフィップ城にいくことは絶対にできなかったろうからね──もちろん、いかなければいかないに、こしたことはなかったろうが──しかし、城の中では実に面白かったなあ」 「そうだろうな! おれもいきたかったなあ!」  ピギーは不器用にシャドー・ボクシングを始めた。 「おれだったら、房に隠れていたりはしなかったぜ、ほんとに。目にもの見せてやったのになあ!」  クリスは吹き出すのを必死にこらえた。 「ぼくが聞いたところでは、もし警官たちといっしょにいっていたら──連れていってくれたらの話だが──味方に殺されていたろうよ。あの人たちが投げつけていたのは、腐った卵じゃないんだからな」 「なあに、それだって──おや、市が離陸するぞ」  市はまだ離陸してはいなかった。しかし、クリスはピギーのいうことがわかった。スピンディジーの低い唸りが、かれにも聞えたからである。 「そうだなあ。三ヵ月たちまち過ぎてしまったな」 「三ヵ月ばかり、宇宙じゃなんのこともないさ。うっかりしていると、たちまち十八歳だぞ」 「そいつだよ」クリスは暗い声でいった。「ぼくが心配なのは」 「ほう、おれは[#「おれは」に傍点]ちっとも気にしてないね。おまえの今度のボート事件で、市民権問題について、やつらの口と腹がまったく別だってことが、はっきりわかったじゃないか。おれがいってるように、この話全体が、子供をおとなしくさせておくための計略なのさ。そうしておけば、あまり世話を焼かずにすむからな。市の生存に役立つことを、実際にやろう[#「実際にやろう」に傍点]とすると、ドカン! とばかり天井が落ちてくるんだ。良いことをしようが、勇気のあるところを見せようが、そんなことにはおかまいなしに──おまえは市に迷惑をかけたことになるんだ。この制度は、そいつを防ぐためにあるんだよ」  ピギーのいい方がいかに大げさなものであっても、この話は一理ある、とクリスは思った。現在の意気阻喪した状態では、これはすぐにでもとびつきたくなるような意見だった。 「ねえ、ピギー、ぼくの知りたいのは、もしきみの意見が間違っていたら、きみはどうするか、ということさ。つまり、もしも〈シティ・ファーザーズ〉がきみを市民にしないと決定し、それが変更できないとわかったら? そうすると、この先、一生涯、きみは旅客でいることになる──それも、普通のわずかな寿命のある間だけだよ」 「旅客っていうのは、思ったほど絶望的なものでもないんだ」ピギーは暗い声でいった。「そのうちに、〈失われた市〉が帰ってくる。そうすれば、突然、旅客は勝ち犬になるんだ」 「〈失われた市〉だって? 聞いたことないな」 「もちろんさ。〈シティ・ファーザーズ〉もこの話はしてくれないし。だが、噂は広がっている」 「おいおい、もったいぶらないでくれよ」クリスはいった。「さあ教えてくれ」  ピギーは声をひくめて、ささやいた。 「旅客以外のだれにも話さないと誓うかい?」 「うん」  ピギーは入念に左右の肩越しに後ろを見てから、話し出した。例によって、かれらは道端の少年にすぎず、おとなたちは何の注意も払わなかった。 「では」かれは同じささやき声でいった。「こういうことなんだ。最初に地球を離れた都市の中に、でかいやつがあった。その名を知っているものはない。しかし、おれ[#「おれ」に傍点]はロスアンゼルスだと思っている。とにかく、そいつが迷子になった。そして薬が切れ、それから食糧がなくなった。まだ植民のおこなわれていない宇宙のどこかでだ。だから、仕事も見つからなかった。  だが、やがて、ある新世界の惑星に着陸した。今まで、だれも見たことがないところだ。地球と似ていて──もっと大きく、重力は同じ。空気中の酸素は少し多く、申し分ない気候──極地でさえも、一年中春みたい。植物の種をまくと、急いでとび退かなければ、その植物にアッパーカットを喰わされちまう。それほど成長が速いんだ。  だが、そんなのは序の口だ」 「いろいろあるんだな」 「あたりまえさ。だが、連中はもっとよいものを見つけた。一種の野生の穀物だ。それが食糧になるかどうか分析してた。そしたら、抗死薬が含まれている[#「抗死薬が含まれている」に傍点]ことがわかったんだ──そんじょそこらにあるやつじゃない。そのへんのを一つにまとめたより、もっと良いやつだ。しかも抽出の必要もなかった──その植物でバンを作るだけでよいんだ」 「ウワー、すごい。ピギー、おとぎ話じゃないのかい?」 「宣誓書を書くわけにはいかないよ」ピギーは気を悪くしていった。「あとの話を聞きたいのか、聞きたくないのか?」 「聞くよ」クリスはあわてていった。 「そこで、問題はだ。市をどうするか? ってことになった。もう、市はいらなくなったんだ。必要なものはすべて、地面にひっくり返って寝ている間に、地面から生えてくるんだからな。そこで、連中は市を保存し、他の都市を探すために、ふたたび宇宙に送り出すことにした。かれらは新しい|渡り鳥都市《オーキー・タウン》と接触するたびに、旅客を──ほかのやつはだめだ──救い出し、だれでも[#「だれでも」に傍点]薬を飲めるこの惑星に連れ戻った。なにしろ、そこでは薬の不足ということはないんだからな」 「もし、他の都市が旅客を手離さないっていったら?」 「そんなこというもんか。役に立つやつなら、市民になっているはずだろ?」 「ああ。でも、かりにそうだとしたら」 「どのみち手離すのさ。なにしろ、〈失われた市〉は大物[#「大物」に傍点]なんだからな」  まだクリスは五万と質問することがあった。だが、この時、残念なことに、市は待避サイレンを柔らかに吹き鳴らした。少年たちはあわてて別れた。しかし、クリスはちょっと考えてから、家には帰らずに、公衆情報ブースに入っていき、カードをスロットに差し入れて、〈司書〉を呼び出した。 〈失われた市〉のことは、旅客以外にはだれにも喋らないと約束した。だから、保護者にも、〈シティ・ファーザーズ〉にも質問することはできなくなっていた。だが、間接的な質問の仕方を思いついたのだった。 〈司書〉というのは、〈シティ・ファーザーズ〉を構成する百三十四の機械の一つで、記憶銀行《メモリー・バンク》の最高責任者であり、それに加えて、情報を教える責任も負っていた。情報の収集はせず、そのカタログを作り、分配するだけであって、解釈はその機能に含まれていなかった。 「カード受容。始メナサイ」 「質問。天然に抗老化剤は生えるか──いや、つまり、作物として栽培しうる植物に含まれていることがあるか?」  少し間があった。 「抗眠剤ノ先駆物質ハ地球ノ中南米ニ広ク分布スルヤマイモ類<j天然ニ生ズルステロイド物質<fアル。シカシ、コノサポゲニン℃ゥ体ハ抗老化剤デハナク、転化シナケレバナラナイ。同一ノ起点物質カラ、数百ノ異ナッタステロイド<K生産サレル。 アスコマイシン<n一種ノ微生物ノ深槽発酵ニヨッテ生産サレ、マタビール<Jラ収穫サレル。コノ生産ノ手順ハ広イ意味デ作物ノ栽培ト定義スルコトモ可能デアロウ。  ソノ他ノ既知ノ抗老化剤ハスべテ完全ナ合成薬物デアル」  クリスは椅子の背にもたれ、怒って頭をかきむしった。はっきりしたイエスかノーかの答えがほしかったのだ。ところが、出てきた答えは、ちょうどその中間だった。  実際の作物から収穫される抗老化剤はない。しかし、もしもある栽培植物が少くとも抗老化剤に近いもの、抗老化剤に転化しうるものを産み出すことができるとしたら、ピギーの驚くべき物語のその部分は、少くともありうるということになる。  だが、不幸にも、本心が露見しないほど間接的な質問は、もうこれ以上思いつけなかった。  それから、ブースがまだカードを返してくれないのに気付いた。これはごく普通のことだった。これは、思考のかわりに自由連想をして、その機械としての全生涯を送っている〈司書〉が、場合によっては話してもいい関連項目を持っている、ということを示していた。普通なら、それらをあさっても価値がない。なぜなら、〈司書〉は、やれといわれれば永遠にそれを続けることができるからである。  今やクリスは「返せ」といってカードを受け取り、立ち去りさえすればよいのだった。だが、待避警報はまだ解除されていなかった。そこで、かれはやめないで、「続けろ」といった。 「項目、農業副産物トシテノ抗老化剤。副項目、伝説上ノ牧歌的惑星」  クリスははじかれたように体を起した。 「農業副産物としての抗老化剤ハ普通、日常ノパン<mカタチデ利用サレルガ、コレハ放浪都市《ノーマド・シテイ》神話ノ伝説上ノ惑星ニ共通ノ、アルイハ、特徴的ナ要素デアル。ソノ他ノ特徴ハ次ノ通り。  地球ト似タ重力デ、陸地ガモット広イコト。地球ト似タ大気デ、モット酸素ガ多イコト。地球ト似タ気象デ、モット気候的変化ガ少イコト。ソシテ、現存スル交易ライン[#「ライン」に傍点]カラ完全ニ隔絶サレテイルコト。  コレラノ項目ノスべテニアテハマル惑星ハ、マダ発見サレテイナイ。コノヨウナ世界ニヨクツケラレル名前ハ次ノ通り。  アーカディ、ブラッドベリー、セレフェーズ……」  クリスがあきれて物もいえないでいる間に、〈司書〉はえんえんとこの調子で「ジミアンビア」まで名前を並べ、かれがカードを返してくれと頼むことを思いつかないうちに、すでに別のアルファベット順の系列に取りかかっていた。要するに、質問の仕方があまり上手でなかったのである。  かれがブースから出てきた時には、天国星の嵐はすでに消え失せ、市はふたたび星々のまっただ中に舞い上っていた。それだけでなく、かれは夕食にも遅れていた。  といったわけで、結局、守るべき秘密は存在しないのだった。クリスはアンダースンに、〈司書〉をだますのに失敗した話をした。これは帰宅が遅れたことに対する、もっともよい言い訳になった。なぜなら、事実だったから。  これを聞いてカーラは涙を流して笑いころげた。周辺区警部補も面白がったが、その面白がり方の底には、なにか真剣なものが流れていた。 「まだまだわかっていないな、クリス。〈シティ・ファーザーズ〉は死んだ物だから、間が抜けている、と考えるのはたやすいが、そうは問屋が卸さない。さもなければ、あのような権力を賦与されているわけがない──ある分野では、〈シティ・ファーザーズ〉の権力は絶対なんだ」 「市長よりも上?」 「そうであるともいえるし、ないともいえる。かれら[#「かれら」に傍点]は何事も市長に禁ずることはできない。だが、もしもセットされている許容度以上に、市長がかれら[#「かれら」に傍点]の判断に逆らうようなことをすれば、かれら[#「かれら」に傍点]は市長のオフィスを閉鎖することができる。まだそういう事態が起ったことはない。しかし、もし起ったら、われわれはそれに従わざるをえない。従わなければ、かれら[#「かれら」に傍点]は機械類をストップさせることになっているんだ」 「ウワゥ。機械にそれほどの権力を与えることは危険じゃないかなあ? もし、故障したら?」 「かれらが、小人数[#「小人数」に傍点]なら、本当に危険だろう。しかし、かれら[#「かれら」に傍点]は百以上もあって互いにモニターし、修理し合っている。だから、実際に故障が起ることはけっしてない。正義と論理がかれら[#「かれら」に傍点]の売り物なんだ──だからこそ、われわれのおこなうどんな選挙の結果をも、かれら[#「かれら」に傍点]は受け入れたり、しりぞけたりすることができるんだ。大衆の意志は時には低能になる。ところが、それを押えつける権力は、人間に与えることはできない。安全でないからだ。だが、機械にはそれができる。  もちろん、〈シティ・ファーザーズ〉が発狂した町の話はある。しかし、それらはピギーの〈失われた市〉の話のように、話にすぎない──実話でないとしても、重要なことではあるがね。宇宙に新しい生活様式が現われると、人々はさっそくそれを採用するが、それが完全でないことがたちまちわかってしまう。そして、人々は改良しようと努力するが、どうしても変えられないものが必ずあるのさ。そして、そのような点にまつわる希望や恐怖が、いろいろな物語りを生み出すんだ。  ピギーの神話も、その手のやつだ。われわれ渡り鳥都市の市民は長い生命を生きるが、その特権はだれにでも与えられるものではない。みんながその特権にあずかることは不可能だ──もし、みんなが生きたいだけ生きて、子供を産みたいだけ産んでいったら、いくら宇宙が広いからといって、その結果蓄積されるものすごい肉の量を受け入れきれるものではない。  ピギーの神話は、それが可能だといっているが、正しくない。この間題の真相は、このことが、われわれの生活様式の真の欠陥の一つを浮き彫りにしているということさ。本当のところ、これについては、解決法はまったくないんだから。  狂った〈シティ・ファーザーズ〉の物語はまた別だ。そんなことが起ったことは、わたしの知るかぎり、ないし、そんなことが起りうるとは思えない。しかし、生身《なまみ》の人間で、一群の機械から命令を受けたり機械の言葉によって命を失うことがありうると考えたりするのを、好むものはない[#「ない」に傍点]──だが、実際にはそれがありうる。なぜなら、〈シティ・ファーザーズ〉をたいていの市が陪審員として乗せているのだから。それで、生身《なまみ》の人間は一種の警戒信号として、狂える〈シティ・ファーザーズ〉の物語を案出したのさ。  だが、実は、機械のことをいっているんじゃない──あまりやりすぎると、人間[#「人間」に傍点]の方が狂ってしまうぞ、ということを警告しているわけだ。  渡り鳥都市の宇宙には、このような幽霊がみちみちている。そのうちに海賊都市《ビンドルスティッフ》なんてのを聞かされるぞ」 「もう聞いたよ」クリスは認めた。「何のことかわからなかったけど」 「古い地球語だ。|渡りもの《ホーボー》というのはまじめな移動労働者で、そういう生活が好きでやっているんだ。浮浪者《トランプ》も同じような種類の連中だが、働く気がない点が違う──定住者から盗んだり、乞食をしたりして生活する。|渡りもの《ホーボー》の社会では、どちらの種類も、まあまっとうな部類に属している。ところが、|追い剥ぎ《ビンドルスティッフ》は、他の放浪者から盗む放浪者なのだ──かれらはビンドルというバッグに少しばかりの所有物を入れて持ち運んでいる。それを盗むのさ。こいつは、両方の世界から村八分にされている。  喰うに困った都市が|海  賊《ビンドルスティッフ》になった──他の都市の略奪を始めた──というのは、よくある話だが、これまた、はっきりした例があるわけではない。『恒星間交易支配都市《I・M・T》』が最もよく話題にのぼる町だが、最近の噂では、海賊はやっていないということだ──ただ、ある植民星で恐ろしい犯罪をおかしたので、法の保護を奪われて、村八分にされはしたが、それとても、技術的にはただの浮浪者《トランプ》になった、というだけのことなのだ。たしかに下賎なものではあるが、それでも、ただの浮浪者《トランプ》にすぎないのさ」 「フーン」クリスはゆっくりといった。「狂った〈シティ・ファーザーズ〉の話と同じようなものか。なるほど、都市が本当に喰うに困ることがあるんだな。そして、海賊都市《ビンドルスティッフ》の話は『ピンチになったら、われわれはどんなことをするか?』を教えているわけだ」  アンダースンはうれしそうな顔をした。 「あれを見ろ」と、かれはカーラにいった。「このぶんじゃ、わたしは教師になっていた方がよかったかもしれないぞ!」 「あなたの手柄じゃないわ」カーラは落ち着き払っていった。「クリスが全部考えたじゃないの。それに、あなたが警官でいた方が、わたしは好きよ」  周辺区警部補は溜め息をつき、ちょっと残念そうな顔をした。 「いや、まあ、いいさ。では、もう一つだけ話をして聞かせよう。おまえはヴェガ屋系の軌道要塞のことを聞いているかい?」 「聞いたとも。歴史にでてきたよ、ずっと昔のことさ」 「よし。こいつだけは本当の話なんだ。ヴェガ星系の軌道要塞ってものがあって、そいつがどこかへいってしまって、未だに行方が知れない。〈シティ・ファーザーズ〉は、食糧や物資がなくなって死んだんだろう、といっている。しかし、かなり大きいものだから、普通の都市では生きていけないような環境のもとで、まだ生存していても、おかしくはない。その確率を〈シティ・ファーザーズ〉に尋ねても、その数字をあげることはできないという──この返事そのものが悪い兆候なのだが。  さて、ここまでは事実だ。だが、それに伝説がつけ加わる。伝説によれば、この要塞は交易航路を荒しまわり、都市をむさぼり喰っているという──ちょうど、とんぼが飛びながら蚊をつかまえるように。ヴェガの焼き打ち以来、この要塞を実際に見たものはない。だが、伝説がしつように流布している。都市が行方不明になるたびに、まず、海賊都市《ビンドルスティッフ》にやられたといわれ、次に、あの要塞にやられたといわれるのだ。  これはどういうことかね、クリス? いってごらん」  クリスは長いこと考えていたが、やがていった。 「ちょっと混乱しちゃった。それもほかの話と同類のはずだね──人々の恐れているものについての。つまり、ヴェガ星系にあったような、一つの惑星にいずれ出会うかもしれない。そこの住民はわれわれよりも強くて、ちょうどわれわれがヴェガ星系でやったように、われわれをむさぼり喰ってしまうかもしれない──」  アンダースンは大きな拳を食卓に打ちつけたので、皿が全部飛び上った。 「その通り!」  かれは歓声を上げた。 「みろ、カーラ──」  カーラは両手を伸ばして、警部補の拳を優しく包んだ。 「あなた、クリスの話は終っていませんよ。あなたが邪魔をするから」 「わたしが? まさか──いや、すまん、クリス。続けてごらん」 「話が終ったかどうか、自分でもわからないんだ」クリスはどぎまぎしていった。「この話は、わけがわかんなくなっちまう。ほかの話みたいに単純じゃない。自信がないよ」 「話してごらん」 「エーと、自分より強い者と出会うのは恐い、ということは筋が通っている。当然、ありうることだ。ヴェガ軌道要塞のようなものは現実にある。いや、少くとも、一つはあった。ほかの話には、これだけの現実性はない──人々が実際に恐れているもの、それらの物語が現実に語っているもの、は別として。この言い方でわかる?」 「ああ、それらの物語が象徴しているものという意味だな」 「そう、それそれ。要塞を恐れるということは、実在するものを恐れるということ。でも、この物語は何を象徴しているんだろう? 結局は同じ種類のものになってしまう──人々が自分自身に対して抱いている恐怖。この物語は次のようにいっているんだ。『もう、おれはまっぴらだ。市民になるために働き、地球警察に従い、市を護り、千年間も機械にこき使われて暮らし、植民者に威張り散らされ、もう種切れになっちゃったけど、とにかく、こんなことは、もうまっぴらだ。もしも、自分の思い通りになる大型都市が手に入ったら、次の千年間は、手当り次第ぶっ壊してあるいてやるぞ!』ってね」  長い長い沈黙があり、その間にクリスは、自分がまたもや失言をし、それもだいぶ度を超したものであることを、次第々々に確信しはじめていた。  カーラは平然としていたが、その夫はびっくり仰天し、激怒している様子だった。 「教育制度に確かに欠陥がある」  ついにかれは怒鳴った。そして、どちらに話しかけるともなく、いった。 「まず、あのキングストン−スループ小僧だ。それから──こんどは、これだ。カーラ! おまえはこの家の頭脳だ。あの要塞伝説が教育に関係があるなんて、おまえ思ったことがあるかい?」 「ええ、あるわ。ずっと昔にね」 「なぜ、そういわなかった?」 「子供ができたら、すぐにいうつもりだったのよ。それまではわたしの知ったこっちゃなかったもの。でも、今、クリスがかわりにいってくれたわ」  周辺区警部補はクリスの方に恐い顔を近づけていった。 「とんでもない子供だ。保護者の義務として、教育にとりかかったら、逆にこちらを教育しおる。アマルフィだって、要塞物語にこんな解釈があるとは知るまい、絶対に──あの人がこれを聞いたら、学校は上を下への大騒ぎになるぞ」 「すいません」クリスは情けない声でいった。  かれとしては、ほかにいいようがなかったのだ。 「すまながることはない!」  アンダースンは大声を上げて、スックと立ち上った。 「自説を押し通せ! 他人には幽霊を恐がらせておけばいい──お前は、幽霊の種類はともかく、幽霊について知る必要のあることを一つ知ったんだ。幽霊は死んだものとは関係ない。人々が恐れているのは常に自分自身なんだ」  それから、かれはうろたえたように周りを見まわした。 「お偉方に会ってくる。じっとしてはおれん──帽子はどこだ?」  大声を上げて、アンダースンは片手をドカンと打ちつけて、ドアを開けた。クリスはあっけにとられてそれを見送った。  それから、カーラはまたもや笑い転げ始めた。 [#改ページ]     9 浮 浪 都 市  しかし、アンダースン警部補が手負い獅子のような勢いで飛び出していった用事が、本当に教育に関係があったとしても、それがクリスの教育に実際に反映するかどうかわかるのは、まだずっと先のことだった。  かれの教育は、〈シティ・ファーザーズ〉が、かれの頭につめこんだものを、かれがもうすっかり理解してしまったものと、盲目的、非人間的に推測して、その知識の蓄積を、いよいよ市の生存に役立つ方向に築き上げ始めるにつれて、次第々々に難しくなっていった。  この過程が進むにつれて、クリスの持病の頭痛は一過性の刺すような痛みとなっていった。最近では、頭の中に押しこまれることが全く理解できず、無力感のあまり、肉体的に本物の病気になってしまったように感じることが、たびたびあった。そして、発作を起した時、かれは〈シティ・ファーザーズ〉にそのことを告げた。 「一過性ノモノダ。通常ノ人間ハ一時間ニ、平均二十回ノ軽イ苦痛ヲ感ジル。モシ、長ビクコトガアレバ、医師ニ申告シナサイ」  いや、そんなことはするものか、とかれは思った。できることなら、病弱者の刻印を押されて、市民権授与の対象からはずされたくなかった。しかし、かれを悩ましているこの苦痛が「軽イ苦痛」だとは、とても思えなかった。  医者の治療は、病気そのものよりつらいだろうと恐れているクリスとしては、どうすればよいのか?  アンダースン夫妻を心配させたくはない──かれらの親切に対するお返しに、もうたっぷり心配をかけてしまっている。となると、悩みをうちあける相手はブラジラー先生以外になかった。あの恐ろしい、対数と記号論理学以外にめったに人語を話さない、怪物ばあさんだ。  数週間、クリスはこの最悪から二番目の選択を避けていた。だが、しまいに、どうしようもなくなった。まだ、肉体的に本当に悪いところがでてきたわけではなかったが、〈シティ・ファーザーズ〉が自分を殺そうとしているという、悪い妄想にとりつかれたのだった。頭の中に、事実をあと一かけらでも放りこまれたら、首の骨が折れてしまうだろうと思われた。 「むりもないわねえ」ブラジラー博士は放課後、その個室で話してくれた。「クリス、〈シティ・ファーザーズ〉はあなたの幸せには関心を持っていないのよ。それは、あなたも知っていると思うけど。かれらの関心事はただ一つ。市の生存なのよ。それがかれらにとって至上命令なの。それ以外には人間には何の関心も持っていないわ。しょせん、ただの機械にすぎないんだから」 「わかりました」クリスは震える手で額の汗を拭いながらいった。「でも、ブラジラー先生、あいつらがぼくのヒューズを全部飛ばしてしまうことが、市にとって何の役に立つんです? ぼくは努力してきました。ほんとうに力一杯やったんです。でも、やつらにとっては、まだ不足なんです。依然として、ギュウギュウつめこんできますが、ぼくには何の意味もない[#「意味もない」に傍点]んです!」 「ええ、気づいていたわ。でも、かれらがやっている事の裏には理由があるのよ、クリス。あなたはもう十八歳に手がとどくでしょう。だから、かれらはあなたの才能を開く突破口を探っているの──どこか、スパークしたら発火しないかとか、あなたのある好みが将来、価値のある特技になりはしないかとか」 「そんなものがあるとは思えないなあ」クリスはぼんやりいった。 「ないかもしれないわ。もっと先にならなければわからないけど。でも、もしあれば、かれらが見つけてくれるわよ。〈シティ・ファーザーズ〉はこのような仕事だったら、決して間違いはしないわ。でもねえ、クリス、それが容易にわかるなんて考えてはだめよ。真の知識というものは、いつでも到達するのは大変なものなのよ──それに、もう、あの機械はあなたが実際に市の役に立つかもしれないと考えていることだし──」 「でも、やつらがそんなこと考えるわけがないや! 何も見つかっていないんだもの!」 「かれらの心を読むことはできないわ。そもそも、心がないんだからね」ブラジラー先生は落ち着き払っていった。「でも、こういう例は前にもあったのよ。かれらは、あなたが何らかの役に立つと考えなければ、こんな具合にあなたをしぼりはしないでしょうよ。今、それを見つけ出そうとしているところなの。もう諦めたっていうのでなければ、かれらが見ている間、じっと我慢していらっしゃい。あなたが病気になっても、わたしは驚かないわ。わたしも病気になったものよ。思い出すだけでも胸がわるくなるわ。八十年も昔のことなのにねえ」  彼女は不意に黙りこんだ。すると、その瞬間、いままでよりも、もっとずっとふけて見えた……年老いて、弱々しく、ひどく悲し気に、そして──こんなことがありうるだろうか? ──美しく、見えたのだった。 「ときどき、かれらは正しかったのだろうか、と思うことがあるわ」ブラジラー博士は、デスクの上に積んである答案の束に話しかけるようにいった。「わたしは作曲家になりたかったの。でも、〈シティ・ファーザーズ〉は女性作曲家で成功したためしはないっていったわ。それに、こういう種類の事で議論するのは難しいでしょ。だめなのよ、クリス、いったん機械がこうと決めたら、かれらのいいなりになるより仕方がないのよ。さもなければ、旅客になるよりほかに──つまり、何ものにもならないよりほかに──道はないのよ。あなたが病気になってもむりないと思うわ。でも、クリス──押し返すのよ、押し返すのよ! あんな引出し頭[#「引出し頭」に傍点]なんかに負けてなるものですか! 耐え抜くのよ。かれらはただ探っているだけなんだから。かれらが求めているものがわかれば、その瞬間に打ち勝つことができるのよ。いつでも力になってあげるわ──わたしもあんなもの大嫌いよ[#「あんなもの大嫌いよ」に傍点]。でも、まず、かれらの求めているものを知らなくてはね。その勇気がある? クリス」 「わからない。やってみるけど、わからない」 「だれにもわからないのよ、まだ。かれら自身だってわからないの──それがあなたの唯一の希望だわ。あなたは何がやれるのか、かれらは知りたがっているわ。それを見せてやらなくちゃ。それがわかれば、あなたはすぐ市民になれるわ──でも、それまでは辛いわよ。あなたを助けることは、だれにもできないの。あなただけが引き受けるのよ、たった一人でね」  ほかにも同類がいるというのは、心なごむことだった。しかし、クリスは冷酷な機械の奉仕のもとに──どんな才能であろうと──ほんのかすかな才能のきざしが現われるのを自覚できたら、ブラジラー博士の話を、もっと説得力あるものに感じたことだろう。  なるほど最近では、〈シティ・ファーザーズ〉はクリスの歴史に対する関心に、グイグイ喰いこんできていた──しかし、歴史なんてものが|渡り鳥《オーキー》都市の上で何の役に立つだろう? 市の図書館であり、計理課であり、学校であり、政府の大部分である〈シティ・ファーザーズ〉は、それ自身がまた市の歴史家でもあるのだから。この学科を教えたり、書いたりするのに生身《なまみ》の人間は必要ない。クリスの見るところでは、そんなものはせいぜい|渡り鳥市民《オーキー・シティズン》の道楽の一つぐらいにしかなりえないものであった。  いまだにクリスは、歴史を使って何かをせよ[#「せよ」に傍点]とは命じられていなかった。ただ、ほとんど信じられないくらい難しいテストにパスすることを要求されていたのである。このテストは〈シティ・ファーザーズ〉が断固としてかれの頭に押しこみ続けている膨大な事実の塊りのすべてを、かれが記憶しているかどうか調べることを主眼に構成されていた。そして、|渡り鳥《オーキー》の観点からすると、それらの事実はすでに歴史の範疇を超えていた。  世界史および宇宙史の全学説──マキアベリ、プルターク、ツキジデス、ギボン、マルクス、パレート、シュペングラー、サートン、トインビー、デュラン、その他何十人もの学者たち──そのすべてが相互に、重要な点において宿命的に矛盾し合っていることに一向に無頓着に、灰色のガスの中からかれの頭の中にゾロゾロと入りこんでいたのだった。  誤答に対する罰はなかった。なぜなら、〈シティ・ファーザーズ〉の教育法は記憶の誤りを不可能にしていたからである。それに、かれらが今ここで開発しようとしているのは、どうやら、かれの記憶力だけらしかった。いや、むしろ、罰がずっと続いているという方が当っていた。その辛さは、今日の分《ぶん》は酷かったが、明日の分《ぶん》はもっと酷いだろう、ということがはっきりしている点にあった。 「いや、それは違いますよ」ブラジラー博士はいった。「死んでいる物だとはいえ、あの機械は人間心理に無知ではありません──その反対です。学生の中には、罰よりも賞によく反応するものと、恐怖によって強制しなければならないものとがあるということを、かれらはよく知っています。一般に後者の方が知能は劣りますが、それもかれらは知っています。何世代も何世代も長い間経験を重ねてきたのだから、かれらが知っていないわけがない[#「ない」に傍点]ではありませんか? あなたは前者の仲間に入れてもらえて、有難いと思わなくちゃ」 「やつらはぼくに賞をくれている[#「賞をくれている」に傍点]というんですか?」クリスは憤慨してかん高い声でいった。 「そうですよ」 「どうして?」 「あなたの進歩に満足しないのに、勉強を続けさせているでしょう。これは大した譲歩ですよ、クリス」 「そうかなあ」クリスはムッツリしていった。「でも、飴ん棒でもくれりゃ、もっと進歩が速いと思うがなあ」  ブラジラー博士は生粋の|渡り鳥《オーキー》だったので、飴ん棒なるものを知らなかった。それで、ちょっとすまして答えた。 「かれらが処罰システムに変更すれば、さっそくもらえますよ。かれらは厳格に公正ですが、慈悲というものは知らないし、子供に対する思いやりなど全く薬にしたくてもないのです──だからこそ、わたしがこうしてついているんですよ」  市は低い唸りを上げて前進を続け、日は過ぎ──月は経っていった。  クリスだけは目に見えるどんな方向にも進歩していないように思われた。いや、必ずしもそれは正しくない。クリスの見るかぎりでは、ピギーだってどちらに向かっても進んではいなかった。  だが、ここまできて、状況はますます複雑怪奇になっていた。まず第一に、ピギーは、クリスと初めて会って以来、十八歳になった時に何が起ろうと全く気にしていない、と主張し続けてきた。だから、実は気にしていたということになれば──必ずしも驚くべきことではないとしても──おかしなことであった。  事実、かれの立場はいまや全く絶望的になっていると思われるのに、大いに自信ありげな口をきいていた。だが、その舌の乾かないうちに、とうに決着がついているはずの事に決着をつけるための、謎めいた計画を暗い口調でほのめかしたり、それがもしも、決着がつかないときまったら、どんな恐ろしいことになるかを、さらに暗い口調でほのめかしたりして、その自信が嘘であることを暴露するのであった。  このようなことはすべて、三十秒先の自分の未来さえ見透すことができないクリスにとっては、思いもよらないことであった。時には、ピギーの口ぐせの「うすのろ!」という罵りの言葉が、自分の額に火文字となって燃えているように、感じるのだった。  ピギーは何もいわなかったが、クリスの察するところでは、市民権テストがうまくいくように〈シティ・ファーザーズ〉に圧力をかける話をすでに父親にもちかけ、母親が仲に入ってなだめはしたものの、一喝のもとに撃退された様子だった。もちろん、このテストには受験準備のしようはなかった。なぜなら、これは達成度を調べるのではなくて、潜在能力を調べるものだからである。つまり、カンニングの入りこむ余地はないのである。  今やピギーが、天国星でのクリスの冒険を思い返しているのは明らかだった。質問の仕方から判断して、ピギーはクリスよりもっと上手にやれることを示すために、何か英雄的な行為を物色しているらしい、とクリスは推測していた。そして、ピギーがもっと上手にやれるかどうかは、大いに疑わしいところだったが、とにかく、市はまだ飛行中であり、それを立証するチャンスはまだやってきていなかった。  また、ピギーは時々、放課後に連続数日間にわたって、姿をくらますことがあった。帰ってきてからの話によると、かれは市のあちらこちらで、おとなの旅客たちの話を立ち聞きして歩いていたということであった。  かれらは何かを企んでいる──きっと、〈失われた市〉を呼び寄せるための、秘密のディラック送信機を作っているのだ、とピギーはいった。クリスは髪の毛ほども信じなかったし、ピギー自身だって信じてはいないだろうと思った。  厳然たる事実は、この二人から時間が刻々と逃げ去っていき、絶望の影が濃くなってきたことであった。ピギーは何も努力しなかったために、そして、クリスは努力したことが何一つ実を結びそうもないために。  二人の周囲では、幼いスクールメイトが、記憶細胞《メモリー・セル》の注ぎこむすべてを塩や香料に変え、どんなに熱せられても平気のへいざで、手あたり次第に元気よくはじけるポップコーンのように、それぞれの才能を発揮しはじめているようであった。それにくらべるとクリスは、ダイノザウルスのように進化から取り残され、それと同じくらい無器用で、図体ばかり大きいように感じるのだった。  こうして、もうだめだという気持が生まれて、それがだんだん強くなり始めていた頃、ある晩のこと、アンダースン警部補が静かにいった。 「クリス、市長がお前と話したいそうだ」  だれかほかの者からいわれたのなら、あまり馬鹿々々しくて驚く気にもなれない冗談として、クリスは受け取ったことだろう。だが、相手はアンダースン警部補だったので、クリスもどう受け取ってよいかわからなくて、ただ、まじまじと見つめるだけだった。 「落着きなさい──別に試練に会わせようってわけじゃない。それに、市長が会い[#「会い」に傍点]たがっているとは、わたしはいわなかったぞ。もう一度腰を降ろしなさい。説明してやるから」  クリスは麻痺したように、それに従った。 「つまり、こういう訳だ。市は新しい仕事に接近している。相手側と最初にコンタクトしたところでは、ごく簡単な仕事らしく思われた。もっとも、実際に簡単だったためしはないんだが。(アマルフィにいわせれば、英語で言える最大の嘘は、『それはあれと同じくらい簡単だった』ということだそうだが)われわれは簡単な局地的地質調査と採鉱をやるために雇われるのだと思った──ベつに、ある惑星全体の組織を変えるというようなややこしいことではなく、ごく普通の仕事らしく思われた。お前も市役所の銘文を見ているだろう?」  クリスは見ていた。それは『芝は自分で刈りましょう、奥さん』というものだった。あまり貫禄のある標語だとは思えなかったが、最近その意味がわかりかけていた。  かれはうなずいた。 「まあ、これはどこにでも当てはまることなんだ。われわれは入っていく、仕事をする、また出ていく。現地のいざこざには手を出さない。どちらの肩も持たない。というわけだ。  ところが、そこ──アーガス第三惑星というのだが──との契約が、いよいよ調印という運びになった時、われわれはどうやら二番目の来訪者らしい、ということがわかってきた。アーガスの上には、あきらかに一つの市がすでに乗りこんでいて、仕事を請負っていたんだが、それがうまくいかなかったのさ。  われわれとしては、当然、アーガス人たちが正直な話をしているかどうか、さらに探りを入れてみた。ひと様[#「ひと様」に傍点]の契約を侵害したくはないからな。だが、植民者たちの話はひどくあいまいなんだ。しかし結局、連中は口をすべらせてしまった。他の市がまだその惑星上に居坐っており、契約の期限が過ぎてしまっているのに、まだ仕事は継続中だと主張している、というんだな。  そこでお前に尋ねるのだが──もし、おまえがアマルフィだったら、こんな場合、どうするかね?」  クリスは眉をひそめた。 「本に書いてある答えしか知らないけど。もしその惑星に期限切れの市が居坐っているなら、警察を呼ぶべきだよ。他の渡り鳥都市はすべて近寄らないことだ。さもないと、射ち合いに巻き込まれるかもしれないからね。射ち合いがあればの話だけど」 「その通り。こいつはどうやら昔からあるケースらしい。植民者たちは自分らの送信していることが、一つ残らず傍受されることを知っているから、腹の底までさらけ出すことはしない。だが、アーガス第三惑星の送ってよこしたものを〈シティ・ファーザーズ〉が分析したところによると、問題の市がアーガス第三惑星にドッシリと腰を据えてしまったことは、十中八、九間違いないらしい……手短かにいえば、その惑星を乗取ろうとしているのさ。理由はわからないが、アーガス人は警察を呼ぶことを望まない。その代り、われわれを雇ってその浮浪都市《トランプ・シティ》を攻めさせ、追い出させようとしているらしい。われわれが手を出せば、射ち合いになることは確実だ──そして、それが終らないうちに、たぶん警察が駈けつけてくるだろう。  お前もいうように、なすべきことは、すぐにこの近くから立ち退くことだ。渡り鳥都市どうしが戦うものじゃない。まして、不法行為などに巻きこまれてはいけない。しかし、アーガス第三惑星は、警察がくる前に浮浪都市《トランプ・シティ》を追っ払ってくれたら、金属で六千三百万ドル出すといっており、市長はできると考えている。それに、市長は浮浪者《トランプ》が大嫌いでな──わたしの見るところでは、かれはただでも引き受けたんじゃないかと思う。とにかく、もう、実際に引き受けてしまっているんだ」  周辺区警部補は言葉を切り、意見を求めるようにクリスを見つめた。  クリスはいった。 「〈シティ・ファーザーズ〉は何ていったの?」 「大声でノー≠ニいったが、金額が示されると、大急ぎで財政を検討し、アマルフィの裁量にまかせるといい出した。そして、まだおまえには話してないが、検討すべき二、三の事項をつけ加えた。その大部分は、わが市はあまり被害を受けずにその浮浪都市《トランプ・シティ》を追い払うことができ、それも、警察が気づかないうちにやれそうだ、ということを示しているように思われる。  いずれにしても、〈シティ・ファーザーズ〉は市全体のことしか考えていない、ということを覚えておく必要がある。その過程で、たとえだれかが殺されても、市そのものが無事に脱出できるかぎり、かれらは気にしない。センチメンタルじゃないんだ」 「それはもう、わかっているよ」クリスは実感をこめていった。「でも──どうしてそんなことに、ぼくが? どうして市長はぼくと話したいなんていうの? 今聞いた話以外に、ぼくは何も知らないし──それに、市長はもう決心してしまったというし」 「市長は決心している」  アンダースンはうなずいた。 「しかし、おまえはあの人の知らないことを、たくさん知っている。この市がアーガス第三惑星に接近していく時に、アーガス人からの放送や、浮浪都市《トランプ》から傍受するものを聞いていて、何か手懸りがつかめたら、市長に伝えてもらいたいというんだ」 「でも、なぜ?」 「あの浮浪都市《トランプ》を直接知っているのは、当市にはおまえしかいないからさ」周辺区警部補はわざと力をこめてゆっくりといった。「あれはおまえの古なじみ、スクラントンなんだ」 「でも──それにしたって! スクラントンから乗り移ったのは何百人もいるんだよ──ぼく以外はみんなおとなで──」 「強制収容された屑ばかりだ」アンダースンは嫌な顔をして、冷たくいった。「いや、使い道のあるスペシャリストも二、三いた。だが、市政に関心のあるものは一人もない。その他はうどの大木[#「うどの大木」に傍点]みたいなできそこないばかりで、大部分が精神異常者だった。治療はしてやったが、IQを上げてやることはできなかった。大売り出しをやるとか、宇宙グランプリをやるとか、重労働をさせるとかしなければ、かれらの精神を、かれらの精神の中から外へ引っぱり出しておくことはできない。植物みたいな連中がそろっている。われわれ──アイリッシュとわたし──は入隊させる価値のあるやつを一人も見つけることができなかった。良いスペシャリストを三人市民にしたが、あとの連中は死ぬまで旅客でいることだろう。  だが、その中でおまえだけは、今のところ、掘り出しものということになっているんだ。〈シティ・ファーザーズ〉は、おまえのスクラントン市上での履歴は、おまえがあの市について何か知っている[#「知っている」に傍点]ことを示している、といっている。アマルフィはその知識を掘り出したがっているのさ。やってみるか?」 「や、やってみます」 「よし」  周辺区警部補は手元の小型テープレコーダーに向かった。 「これまでにアーガス第三惑星から聞いたことは、これにすべて入っている。聞いていて思いつくことがあったら何でもいいなさい。それがすんだら、アマルフィは船橋《ブリッジ》から生の通信をこちらへ送り始めることになっている。用意はいいか?」 「いや」クリスは、われながら意外に思うほど、捨てばちな気持でいった。「待って。もう頭が割れそうなんだよ。これをやっている間は学校を休ませてくれるんだろうね? さもないと、とても引き受けられないや」 「だめだ」とアンダースン。「それはできない。もし、授業中に生の通信が入ってきたら、呼び出されるんだ。そして、終ったらすぐに学校に逆戻りする。用がない時は、授業は平常通り。もし、この新しい重荷を負い切れなければ、そう、実に残念なことになる。ここが正念場だぞ、クリス。これは休暇でもないし、ご褒美でもない。仕事なんだ、市の生存のための[#「市の生存のための」に傍点]。引き受けるにしろ、断るにしろ、特別扱いは受けられない。さあ、どうする?」  クリスは、かなり長い時間だと思われる間、じっと坐って、ガンガン鳴る|渡り鳥《オーキー》頭痛に聞き入っていた。  しかし、ついに諦めたようにいった。 「やります」  アンダースンはスイッチを入れた。テープがスプールの上を流れ始めた。  初めの方の通信は、アンダースンがいった通り、あいまいで、短いものだった。後になるほど長くなり、しかも、いわくありげな匂いが濃くなっていった。クリスは、それらの通信から、アマルフィや〈シティ・ファーザーズ〉がすでに引き出している以上の情報を、ほとんど引き出すことはできなかった。  約束通り、かれはアマルフィと話ができた──しかし、それは、アンダースンのアパートからで、かれの言葉を市長と例の機械とに同時に伝える中継線を通じてだった。  機械は、その市の人口や、エネルギー源や、自動化の程度や、その他もろもろの重要基本事項について尋ねた、だが、そのうち何一つ、クリスは答えられなかった。市長はたいてい黙って聞いていた。たまに市長の重い声が割って入ってきても、クリスには質問の意図が読み取れなかった。 「クリス、今きみがいった鉄道のことだが、それが撤去されたのは、きみが生れるどれくらい前のことかね?」 「約一世紀前だと思います。ご承知のように、二千年代の中頃に、地球は鉄道に逆戻りしました。化石燃料を使い果して、漁業地帯へのハイウェイを諦めなければならなくなったのです」 「それは知らなかった。よし、続けなさい」  今度は〈シティ・ファーザーズ〉は武装状態について質問した。これまた、クリスは答えられなかった。  ところが、こうした定型が突然、そして、完全にひっくり返る日がやってきた。  その日、かれは実際に授業から呼び出され、急いで一つの小さな控室に連れていかれた。そこには一脚の椅子と、二台のテレビ・スクリーン以外にはほとんど何もなかった。スクリーンの一つにはアンダースン警部補の顔が映っており、もう一つにはテストパターンが映っているだけだった。 「やあ、クリス。腰掛けて、よく聞きなさい。重要なことなんだ。例の浮浪都市《トランプ・シティ》からシグナルが入っている。それがただのビーコンなのか、話をしようといっているのか判断がつかんのだ。アマルフィは、目下の状況で、かれらが法を無視して──法ならすでにいろいろと破っているが──ビーコンを発射するとは考えられない、といっている。それで、これから応答してみるから、お前に聞いていてもらいたいのだ」 「わかりました」  クリスにはこちら側の言葉は聞えなかった。だが、ほんの二、三分で──市はアーガス第三惑星のすぐ近くまできていたので──片方のテレビ・スクリーンのテストパターンが消え、憎々しい昔なじみ顔が現われた。 「ハロー。こちらはアーガス第三惑星」 「こちら[#「こちら」に傍点]はアーガス第三惑星ではない[#「ない」に傍点]」アマルフィの低い声が、さっそくいい返した。「こちら[#「こちら」に傍点]はペンシルバニア州スクラントン市だろう。隠しても無駄だ。市長《ボス》を出せ」 「ちょっと待て。いったいだれだと思って──」 「こちら[#「こちら」に傍点]はニューヨーク。ニューヨーク送信中。〈市長《ボス》を出せ〉といったぞ。その通りにしろ」  相手の顔には今や不機嫌と狼狽とが同居していた。一瞬ためらってから、その顔は消えた。スクリーンが瞬き、テストパターンがちょっと戻り、それから二つ目のなじみの顔が、まっすぐにクリスを見つめた。その顔がクリスの姿を見ることができないとは、とても信じられなかったし、また、そう考えただけで、ゾッとするほど恐ろしかった。 「ハロー、ニューヨーク」そいつは愛嬌たっぷりにいった。「知ってたのかい。こちらも、そちらの事を知ってるがね。この惑星はわれわれと契約を結んでいる。覚えておいてくれ」 「記録した」と、アマルフィ。「そちらが違反をしていることも記録してあるがね。アーガス第三惑星はわれわれと新契約を結んだ。そちらはスピンをかけて飛び去った方が、身のためだぞ」  男の目はゆらぎもしなかった。  クリスは突然、そいつが見つめているのは自分の顔ではなくて、アマルフィの顔なのだと気づいた。 「そちらがスピンして飛び去れ」男は落ち着いていった。「われわれがもめているのは植民者とであって、きみたちとではない。警察の立ち退き命令がなければ、われわれは立ち退かん。いったん手を出したら、容易に脱け出せないぞ。覚えておけよ」 「大した自信だが」と、アマルフィ。「間違っている。記録したぞ」  スクラントン市からの映像は一つの輝点に縮まり、消えた。  市長はすぐにいった。 「クリス、この二人を知っているか?」 「両方知っています。最初のやつはバーニーという三下です。ぼくが強制収容される時、兄さんの犬を殺した一人だったと思います。だれがやったか見たわけじゃありませんが」 「よくあるタイプだ。それから」 「もう一人はフランク・ルツです。ぼくがいた時、シティ・マネージャーをやっていました。今でもやっているみたいですね」 「シティ・マネージャーって何だ。いや、いい、機械に聞いてみる。わかった。危険な男と見たが、どうだ?」 「その通りです。頭が切れて、策師です──それに、蛇ほどの感情も持ち合わせていません」 「反社会的なやつだな」アマルフィはいった。「そうだと思った。もう一つ尋ねる。かれはきみを知っているか?」  クリスは答える前に一生懸命考えた。ルツは一度だけクリスを見ている。そして、それ以後二度と、クリスのことを個人として考えたことはないはずだ──それも、フラッド・ハスキンズが仲に入って救ってくれたからこそだが。 「あのう、知っているかもしれませんが、まあ、知っていないといっていいでしょう」 「わかった。詳しいことを〈シティ・ファーザーズ〉に話して、確率を計算させろ。その間、無理はしないでおこう。ご苦労、クリス。ジョール、上ってきてくれ」 「はい」  アンダースンは市長の回路の切れる音がするまで待っていた。それから、かれの像は直接クリスの方を見たように思われた。事実そうだった。 「クリス、市長が無理はしないでおこうといったが、その意味がわかったか?」 「あの──どうも、よくわからなくて」 「お前をルツの目から隠しておこう、ということさ。つまり、今回はディフォード遠征隊は派遣しない[#「今回はディフォード遠征隊は派遣しない」に傍点]、ということだ。わかったか?」  それは痛いほどわかっていた。 [#改ページ]     10 眠れるアーガス  アーガス星系とはうまく名付けたものである。  それは比較的若い恒星の密集した星団の内部に、あまり深く入らない場所にあり、神話に出てくるアーガスのように、その星系の惑星の夜には、百の目があった。この星団の若さが、スクラントン市がやってきたわけを説明している。つまり、|三 代 目 恒 星《サード・ジェネレーション・スターズ》がみなそうであるように、アーガスという太陽には金属が極めて豊富に存在し、その惑星も同様だったからである。  この星系の惑星の数は少く──正確にいえば七個で、そのうち生存可能な三個だけにナンバーがつけられており、実際に植民されているのはアーガス第三惑星だけだった。第二惑星はアラブ人しか住めず、第四惑星はエスキモー向きだった。あとの四個は学問的にはガス巨星クラスに属していたが、むしろ栄養不良の巨人で、最大のものでも、太陽《ソル》系の海王星ぐらいだった。星団内の星があまりに接近しているために、原初ガスは惑星形成が本格的にスタートしないうちに一掃されてしまったのだった。そして、この星団内では、事実、アーガス星系はこれまでに見つかった最大のものであった。  アーガス第三惑星は、市が降下していくと、心臓が止まるほどペンシルバニアに似ていた。そして、クリスはこれから始まるスクラントン市の追い立て──それについて、かれは少しも疑いを抱いていなかった──を少し気の毒に思った。なぜなら、あの市にとって、この惑星が抗し難い誘惑となったことは疑いなかったからである。  陸地の大部分は山岳地帯になっていたが、これは無視できない要素であった。水は数千の淡水湖と、二、三の極端に塩分の強い小さな海とに閉じこめられていた。また、地表は欝蒼たる密林に覆われていた──ほとんどすべてが針葉樹か、または、それにそっくりの植物だった。ここの進化はまだ顕花植物まで達していなかった。もみに似た大木が何百フィートもの高さにそびえ、肩がこぶのように盛り上った、いかめしい怪獣がいた。この金属のように重い惑星の二Gの重力のもとで体重を支えるには、そのような姿にならざるをえないのだった。  アーガス第三惑星上でクリスが最初に聞いた音は、近くで木の実がはじける音だった。それは雷鳴ほどもある大きな音だった。その種の一つがマグロー・ヒル・グリーンハウスの三十階の窓ガラスを破った。そして、びっくりしたそこの職員は、敷物の上でそれが発芽するのを止めるために、消火用の斧で粉々に叩きつぶさなければならなかった。  このような環境のもとでは、市がどこに腰を抱えようとほとんど問題にならなかった。鉄はどこにでもあったが、その代り、この惑星上のどこにいても話はスクラントンに筒抜けになり、そのミサイルの射程距離の中に入ってしまうのだった。これはどちらの側にも都合のわるいことだった。にもかかわらず、アマルフィは土地の選定に細心の注意を払った。  不首尾に終ったスクラントンの採鉱活動の結果、地面に残った大きな痕跡が、ちょうど地平線のむこう側に隠れる位置で、しかも、アレゲニー山脈に似た山岳地帯の最高峰が、ちょうど二つの市の中間にくる場所に市を降ろした。そうしてからはじめて、機械類を密林の中に繰り出したのであった。  クリスはアマルフィの考え方を真似する練習を始めていた──まだ本人に会ったことはないので、必ずしも自信はなかったが──けっこう楽しめた。そして、かりに次のように結論した。  この着陸地点は、第一に、スクラントン市から飛行機を繰り出さなければこちらの市の活動が見えないこと。また第二には、両市の間を徒歩で往来できないことを狙って、選定したものである。両市の間に戦闘が始まることはまずあるまい。なぜなら、警察を呼び寄せる原因として、これ以上のものはないからである。それに、ニューヨークの歴史からみて、アマルフィが、市を損うものなら爆弾であろうと、ただの銹びであろうと、毛嫌していることは、すでに明白であった。  過去において、アマルフィが最もよく使った戦術は、敵よりも長居をすることであった。それが駄目な場合には、機械力で勝負し、奥の手としては、敵に内紛を起させる戦法に出た。これらの戦術を純粋に単独で使った記録はない──あらゆる場合に、いろいろな手を混ぜ合わして複雑な戦法をとった──しかし、この三つの調味料が最も強力で、普通はその内の一つが他の二つよりも特にきわだっていた。つまり、アマルフィが料理に塩で味をつけると、胡椒と辛子の味はほとんどわからなくなるのである。  以後、その料理はだれの口にも合うというわけにはいかなくなる。クリスとしては、|渡り鳥《オーキー》の料理にはもっと巧妙な流儀があるのではないかと思ったが、とにかく、これがアマルフィのやり方であり、当市にはほかにコックはいないのであった。これまでのところ、市はアマルフィを長生きさせてきた。このことは、市民と〈シティ・ファーザーズ〉を満足させる唯一のテストに、かれがパスしてきたことを示すものであった。  アーガス第三惑星の場合は、どうやらアマルフィは、機械力で圧倒して、スクラントンを飢えさせることを狙っているようであった。この市が契約を取った。スクラントンは失った。この市はその仕事をやる能力がある。スクラントンはへまをやり、一世紀の間は癒えることのないと思われる黄色い巨大な痕跡を、その着陸地の周囲に残した。そして、ニューヨークが働いている間、スクラントンは飢えている──ここが、スープに長居競争という調味料を一つまみ入れる潮時なのだ──スクラントンはアーガス第三惑星を新しい母星として乗取ろうという、その無茶な望みを実現できなくなる。  アーガス人はこの乗取り計画の最初の兆候を──いや、最後の兆候でも──見ても大声で警察を呼ぶことはできない。しかし、ニューヨークはできるし、するつもりである。|渡り鳥《オーキー》の連帯感は強く、その中には根強い反警察感情も含まれている……だからといって、トール第五惑星事件のようなものがまた起きるとか、警察が『恒星間交易支配都市《I・M・T》』のような市の扱いに苦慮するとか、いうところまで発展することはない。いくら無法者でも病的犯罪者に対しては、わが身を守らなくてはならないし、警察がこちらの味方をしそうな場合は、なおさらである。  アマルフィがそう計画したのなら、それもいいだろう。どのみち、クリスとしては文句のつけようがない。アマルフィは市長であり、市民がついており、そのうしろには〈シティ・ファーザーズ〉が控えている。クリスの方はただの若者であり、ただの旅客にすぎないのだから。  だが、その計画について、アマルフィも他のニューヨーカーも知らない事を一つ、クリスは知っていた。  この計画はうまくいかないのである。  クリスはスクラントンを知っていた。だが、他のものは知らない。もし、アマルフィがこの手でフランク・ルツに向かおうとするなら、それは失敗に終るだろう。  だが、クリスはアマルフィの心中を正しく読んでいるだろうか? これが、たぶん第一の問題であろう。  何日も思い悩んだあげく──そのためにクリスの学業成績は猛烈に下落したのだが──自分の知っている人で、しかも、アマルフィに会っている人、つまり、自分の保護者に、その疑問を打ち明けた。 「お前には知る資格がないので、教えるわけにはいかないのだよ」周辺区警部補は優しくいった。「しかし、なかなか推察力があるじゃないか、クリス。いい線をいっている」  カーラは腹を立ててコーヒーカップを受け皿に叩きつけた。 「いい線ですって? ジョール、そんな男の事大主義はうんざりだわ。クリスの推測は正しいし、あなたもそれを知っているくせに。はっきりそうだと教えてやりなさいよ」 「わたしにはその資格はない」  アンダースンは逃げ口上をいったが、それは白状したも同然だった。 「それに、クリスは一つ間違っている。われわれは永久にここにいて、この浮浪都市《トランプ》がアーガス第三惑星を乗取るのを防いでやるわけにはいかない。遅かれ早かれ、自分のことを考えなくちゃならない。それに、契約の期限を超えてここにいることはできない──スクラントンが不法行為を気にするかどうかは別にして、われわれは自分の訴訟事件一覧表に、自分自身の不法行為を載せたいとは思わない。われわれは最終期限を守るつもりでいる──それだけに問題はいっそう[#「いっそう」に傍点]難かしいのだ」 「なるほど」クリスは遠慮がちにいった。「でも、ぼくは少くともその一部分を理解した。そして、その計画には穴が二つあるようは思うんだ──ぼくの思い違いならいいんだけど」 「穴だって?」と、アンダースン。「どこに? 何が?」 「まず第一に、おそらく、かれらはかなり絶望的になっているだろう。例え、今そうでないにしても、まもなくそうなる。そもそもあの市が、ぼくがこちらへ乗り移った時に市長が目指していた方向にいないで、今こんなところにいるという事実は、かれらが最初の仕事にもしくじったことを意味している」  アンダースンは椅子についているスイッチをパチリと入れ、あたりの空気に向かって、「確率は?」と尋ねた。 「七十五パーセント」空気が答えた。  クリスはびっくりしてとび上った。  かれは〈シティ・ファーザーズ〉が、いつ、いかなる場所でも、人のいうことを一言残らず聞いている、という事実にまだ慣れていなかった。なにはともあれ、市は〈シティ・ファーザーズ〉の人間心理の実験室であり、そうだからこそ、今アンダースンがしたような質問に、かれらが答えることができるのだった。 「フム、またお前の得点だ」警部補は困ったような声でいった。 「いや、まだ結論にきていない。つまり、こういうことなんだよ。かれらは今度のこの[#「この」に傍点]仕事にも失敗した。だから、ひどく物資が不足しているに違いない。いくらこちらの戦術が巧妙だからといって、相手が論理的に反応しなくては何の効果もないさ。だが、絶望した人間は決して論理的な行動はしないからね。第二次世界大戦の最後のドイツ軍の戦術が、よい例だよ」 「そいつは聞いてない」アンダースンは認めた。「だが、筋は通っているようだ。もう一つの穴というのは?」 「もう一つは、ほんの当てずっぽだけど」クリスはいった。「フランク・ルツについて知っていることから割り出したものさ。もっとも、かれに会ったのは二度で、補佐官の喋った人物評を聞いたのが一度、しかないんだけど。かれがおどしに来るとは思えない。常に先手を打ってくるんだ。どんな場合にも自分が一番強い男だと示さなくてはならない。さもないと、なめられてしまう、つまり、他人に主導権を奪われてしまうからね。やくざの世界ってのはいつもそうなんだ──ナポリ王国の歴史をみたって、マキアベリのフロレンスにしたって」 「でまかせに実例を創作しているんじゃないのかなあ」アンダースンはわけがわからないので眉をしかめていった。「しかし、今度のも、かなり筋が通っている──それに、たとえわずかでも、そのルツという男を知っているのは、おまえしかいない。おまえの意見が正しいとして、これからどんな手を打ったらいいだろう?」 「相手の絶望を利用するんだよ」クリスは熱っぽくいった。「ルツとその手下どもが絶望しているとすれば、普通の市民は一触即発の状態になっていると思うんだ。それに、この市でいっているような意味での〈市民〉は、あそこにはいないらしい。さっきいった補佐官が、薬が不足しているって口をすべらせたことがあったからね。それとなく教えてくれたんだろうが、その時には、ぼくは何のことやらわからなかった。庶民は平時でもギャングを嫌うものだ。それを利用すれば、ルツを失脚させられる」 「どうやって?」アンダースンは答えられない質問だと知っていながら尋ねている口調で、いった。 「よくはわからないけど。どうせ手探りでやることになるだろう。でも、ぼくはむこうに少くとも二人の友人がいた。その一人は絶えずルツと接触していた。かれがまだあのままでいて、ぼくが向うに潜入して、連絡がとれれば──」  アンダースンは片手をあげて、溜め息をついた。 「嫌な予感がしていたのさ。おまえが何かそんなことを言い出しはしないかとな。クリス、その物見遊山癖はいつになったら治るのかねえ? アマルフィがああいったじゃないか」 「状況が変れば方法も変りますよ」カーラが口を出した。 「だがなあ──まあ、いいや、とにかく、もう一歩踏み出すとしよう」  かれは再びスイッチを入れて、空中に尋ねた。 「意見は?」 「ソノヨウナ冒険ニハ反対スル、アンダースン警部補。ディフォード氏ガ見ツカル確率ガ高ク、危険極マリ無イ案ダ」 「それ見ろ」と、アンダースン。「アマルフィだって、同じ質問をするぞ。あの人はかれらの忠告を無視することもたびたびある。しかし、今度ばかりは、あの人自身の判断と一致しているんだ」 「わかったよ」クリスはあまり驚かずにいった。「ひどく不確実な案だってことは、ぼくも認める。でも、ぼくはこれしか思いつかないんだ」 「内容は豊富だよ。さっきの二点を市長に伝えて、寝ている猛獣を起すように何か手を打つことを進言しよう。市長は別のやり方を思いつくかもしれない。元気を出せよ、クリス。よい事を教えてくれて、実に助かった。だから、たとえおまえの案の一部が却下されても、気を悪くするなよ。世の中はすべて思い通りにいくとは限らないんだから」 「わかってる」クリスはいった。「でも、やってみてよ」  スクラントンの「猛獣を起す」別の妙案をアマルフィが思いついたかどうか、クリスの耳には伝わってこなかった。たとえ、それを聞き出そうとしても、無駄なことはわかっていた。  ニューヨーク市が働いている間、スクラントンはムッツリと居坐りを続け、ニューヨークの契約期限がジリジリと迫ってくる間、無気味な沈黙を守っていた。窮乏し、飢えているに違いないのに、スクラントンは、アーガス第三惑星という豊かな惑星を賭けたこの居坐り競争に、音を上げる気配を見せなかった。  アマルフィがスクラントンを本当に放り出したいのなら、実力行使にかかるか──警察を呼ぶか、どちらかせざるをえないと思われた。これまでのところ、フランク・ルツはほとんどクリスの予言通りに振舞っていた。  ところが、契約の最後の週に入って、事態は急転直下、動き始めた。  クリスはいつものように、保護者からニュースを聞いた。 「お前の友達のピギーだ」アンダースンは怒っていった。「あいつめ、夢でも見たか、寝返りの真似事ができると思いこんで、スクラントン政府に潜入し、ある程度成功しやがったらしい。もちろん、ルツは信用しなかったがね。おかげで、こちらはいま大弱りだ」  クリスは驚きと笑いの衝動に引き裂かれた。 「それにしても、どうして入りこめたんだろう?」 「そこが、いちばんけしからんところだ。どうやったか知らんが、やつは二人の女に恐ろしい女スパイ──色じかけのやつだ──になるという考えを吹きこんだ。やくざ者の政府は女ひでりで、飢饉になっているとでもいったのか! 一人は十六歳の娘で、家族はカンカンになっている。無理もないがね。もう一人は三十歳の旅客で、ある市民の妹だが、その市民はアイリッシュ・デュラニーの部下の戦闘機乗りの一人なんだ。  その〈シティ・ファーザーズ〉が今になっていうことには、妹は、精神異常者と紙一重で、それで市民権がもらえずにいるんだそうだ。だが、その兄貴が妹に飛行機の操縦を教えることを、かれらは認めた。彼女の頭に効き目があると考えたからなんだそうだ。彼女は特攻隊の飛行機を盗み出し、われわれが〈シティ・ファーザーズ〉から一部始終を聞き出した時には、もう後の祭りだった」 「〈シティ・ファーザーズ〉はピギーとその連中が相談するのを全部聞いていた、というの?」 「もちろんだ。かれらは何でも聞いている──おまえも知っているだろう」 「でも、なぜだれかに教えなかったの?」クリスは尋ねた。 「絶対に、進んで情報を洩らさないように命じられているのさ。そして、大ていはそれでいいんだ。そのように命じておかないと、一日中、あらゆるチャンネルで喋り散らすだろうからな──連中には判断力はないんだから。  今、ルツは身代金を要求している。妥当な額ならこちらも払うつもりでいる。だが、かれがほしがっているのはこの惑星なんだ──お前の予告はまた当ったよ、クリス。むこうじゃ、論理は窓から逃げ出しちまっているんだ──こちらは、自分の財産でないものをくれてやることはできないし、たとえ、できたとしても、くれてやるつもりはない。  ピギーのおかげで戦争に追いこまれちまった。その結果どうなるか、機械にさえもわからんのだ」  クリスは大きな溜息をもらした。 「これからどうするの?」 「教えるわけにはいかない」 「いや、戦術とかそういうことを尋ねているのじゃない。一般論さ。ピギーはぼくの友達なんだ──今さらおかしいけど、本当にあいつが好きなんだよ」 「困っている時に好きだと思わなければ、その相手はもともと、好きじゃなかったということだろうな」周辺区警部補はしんみりと同意した。「いずれにしても、あまり大したことは教えられないが、一般論としていえば、アマルフィは何とかごまかして、こちらが折れて出そうな印象をルツに与えながら、同時に、アーガス人にはそういう印象を与えないやり方を考えている。機械は大急ぎで、植民者にはあることが伝わり、スクラントンには別のことが伝わるような一連のキー・ワードを考案した。契約の期限は一週間後に迫っている。そして、その前日までルツをごまかしておくことができれば──おっと、具体的なことは教えるわけにはいかない。  だが、また一般論でいけば、われわれはむこうへ出かけていって、人質を奪い返すつもりだ。そうすれば一日で、警察がおっとり刀で駈けつけてくる前に、この星系から脱出できる。そして、警察がわれわれを捕えたところで、せいぜい、契約を果したということを発見するだけだ。ついでだが、その一日で給料を受け取ることもできるし──」 「喋リスギ」何も尋ねないのに、〈シティ・ファーザーズ〉が突然いった。 「ウーフ! すまん。すでに、一言多かったのか、それとも、これから言おうとしたのか。これ以上は喋れんよ、クリス」 「でも、かれらが自発的に情報を流すことは、けっしてないと思ったのに!」 「そうさ」アンダースンはいった。「これは自発的にいったんじゃない。アマルフィから命令を受けて、この間題についての話をモニターしているのさ。そして、やりすぎると黙らせるんだ。わたしがいえるのはこれだけだ──あまり変りばえのしないニュースだったが」  あとわずか一週間──クリスは契約期限の最終日が自分の誕生日のきっかり一日前であることに初めて気づいた。  自分自身にとっても、ピギーとその二人の犠牲者にとっても、スクラントンにとっても、アーガス第三惑星にとっても、市にとっても、うまくいくかだめになるか、ここ三日間が勝負どころだった。  そして、またしても、クリスはアマルフィの計画が成功しそうもないことが、掌を指すようにはっきりとわかった。そして、またしても、つまずきのもとはフランク・ルツだった。  クリスは、面と向っての勝負だったら、ルツよりアマルフィの方が上手であることを疑わなかった。しかし、この場合は事情が違っていた。かれが恐れていたのは、それも心の底から恐れていたのは、〈シティ・ファーザーズ〉がいくら暗号を用意したところで、アーガスの百の目を眠らせることはできても、ルツを長い間欺しておくことはできないだろう、ということであった。  このスクラントンのシティ・マネージャーは教養があり、抜け目なく、権謀術数にかけては海千山千であり──それより何より、今頃はほとんど病的なくらいに疑い深くなっているものと思われた。平時でさえも、あらゆる人間を疑うことが、かれにとって当り前だった。物事が順調にいっている時にさえ友人を疑うのだから、異常事態の最終段階で敵をよけいに信用することはありえない、と思われた。  まだクリスは、|渡り鳥《オーキー》都市の政治について、ほとんど知らなかった。しかし、歴史の知識ならあった。それに、スカンクの知識もあった。あのケリーはスカンクと出会うといつも捕えようとした。だが、そのしぶとさに手を焼いて、しばしば失敗したのをクリスは見ている。犬の方はたぶんスカンクが好きだったろう。スカンクは用心深い主人にとっては可愛らしいペットになる。しかし、いやしくも人類に籍をおくものは、あんな危険を冒すものではない。フランク・ルツを一目見た時、クリスはそう思ったのだった。  そして、例え、ニューヨークがかれを欺そうと努力を続けている間に、ルツがスクラントンの搭載しているミサイルその他の爆弾類をニューヨークに雨あられと降らせて、得意の尻からの攻撃をしないとしても、また、たとえ、ルツがアマルフィの戦術にまんまとはまって、ニューヨークが一発も射たず、一人の戦死者も出さずに、最後の瞬間にスクラントン市をルツの手から取り上げたとしても、たとえこれらのすべてが実現したとしても──そうそう都合のよいことばかり起るわけがないが──ピギーと二人の女性の捕虜の命があるとは思えなかった。  ルツが自分の市に乗っている無用の人間を、いかに冷酷に扱うか知っているのは、ニューヨーク中にクリスしかなかった。そして、旅客の存在を許している大都市からの、この三人の推定亡命者に対して、いかに短い懺悔の時間しか与えないか想像できるのは、やはり、クリスしかいなかった。  ピギーの憐れな遠征隊は今もなお、かなくそ[#「かなくそ」に傍点]を積み上げていることであろう。たとえルツが、来週いっぱいかれらを生かしておいたとしても、作戦を実行に移す段になったら、いくらアマルフィが素速くスクラントン市に突入したとしても、ルツは自分の縄張りが崩壊するのを見た瞬間に、必ずかれらを処刑させるだろう。作戦開始と同時に、アマルフィがいくらいそいでスクラントン市に乗りこんだとしても、無駄であろう──人質を血祭りにあげろと命ずるのに五分とはかからないからである。  中世の地球の多くの戦争が、関係者のすべてが開戦の原因を忘れてしまった後までも、あるいは、たとえ覚えていても、もうどうでもよくなってしまった後までも、長々と続いた原因はひとえにここにある。身代金の支払いという問題がいつまでも尾を引くからである。  しかし、クリスの保護者はこの種の実例にもうあきあきしていた。アマルフィと〈シティ・ファーザーズ〉の方はもう方針をはっきり打ち出していたので、今さら訴えてみても始まらないと思われた。たとえ、クリスがまたかれらのところへいっても、かれらはまたノーを繰り返すだけだろうし、そんなことをすれば、かれを四六時中監視下に置く必要があるという口実を与えるだろうと思われた。  しかし、今度ばかりはかれらが間違っていると、クリスは確信した。そして、これらの年功を経た人々と機械が間違いをするわけがない……そして、今にも止めにくるかもしれない、という考えを打ち払いながら、今度は用意周到な計画を立てた。市当局はかれの計画を知ってか知らずか、じっとして、手の内を明かさなかった。  クリスは次の夜、市を抜け出した。止めるものはだれもなく、気づいたものさえいない様子だった。  これこそ、かれの望むところだった。しかし、ひどく悪いことをしたような、一人ぼっちになってしまったような気がした。 [#改ページ]     11 隠 れ 家  ふだんだったら、クリスは夜、見知らぬ荒野に出かけるようなことはしなかっただろう。今のこの場合にも、日の出の一時間前ぐらいに、出発したことであろう。追手が出ても、それとの間に水をあけるだけの闇さえあればよかったからである。  しかし、アーガス第三惑星には、いくつかの利点があった。  その一つは誘導コンパスであった。|渡り鳥《オーキー》には珍しくもない道具で、その針は常にもよりの最も強力なスピンディジー力場《フィールド》を指すようになっている。たいていの惑星上で、都市は自分の空気と現地の空気とが入り混るのを防ぐために、わずかの力場《フィールド》を保っている──そして、戦時編成をとっている場合には、緊急の離脱にそなえて、発生機《ジェネレーター》を動かしておくことが常識になっている。クリスはニューヨークを後にしてから、行程の半分はこのコンパスの厄介になり、それからは普通の磁石で方角を知り、その後はまたコンパスが間違いなくスクラントンを指し示してくれるはずであった。  第二の利点は明るさであった。アーガスには月はない──しかし、星団の中にあるので、近くの青白い巨大な太陽の百の目が輝いており、一年の今の半分は、星団の奥の方からの散乱光がその背後にボーッと光っていた。そして、相対的にいって、夜空の明るさは、地球の月夜の倍ぐらいもあり──充分に文字を読むことができ、たくさんの影をはっきりと投げかけるが、人間の目の色彩感覚を働かせるほどではない、といったところだった。  とりわけ重要なことは、クリスが松の木の林と山を知っているということであった。かれはそういうところで育ったのだから。  かれは野戦食を二罐と、水筒と、着替えを入れた小さな包を一つ持っただけの軽装だった。あたらしい[#「あたらしい」に傍点]方の衣服は、ニューヨークに乗り移った時に着ていたものだった。〈シティ・ファーザーズ〉にそれがまだ残っているかどうか尋ねるのは、その機械が自分から情報を洩らすことはないということを知っていても、かなり勇気のいることだった。それは、手懸りを残すことを意味するが、問題ではなかった。アンダースン警部補はクリスがいなくなったと聞けば、どこにいったかすぐにわかるはずだからである。  夜明けまでには、かれは山の峰を越えるところまでいっており、昼までには、山の向う側で、凍るように冷たい水の流れ出している洞穴を見つけていた。その中へ、かれは用心深く四つん這いになって、入れるところまで入っていって、古い骨とか、獣のふんとか、寝床とか、野獣が住んでいる形跡を探した。だが、思った通り何もなかった。流れにじかに接する場所に進んで巣を作る野獣は少い──夜に湿気が多すぎるし、不必要に多くの敵が集まってくるからである。それから、最初の食事をし、眠った。  夕方、目を覚ますと、小川の水を水筒につめ、山の反対側の長い斜面を駈け降り始めた。そのコースの曲折はもちろん生やさしいものではなかった。しかし、二つのコンパスのおかげで、方位を疑うのは数分に一度ぐらいですんだ。真夜中になるずっと前に、初めてスクラントンの灯が見えた。くもの巣についた露が光るように、それは谷間に鈍く光っていた。  夜明けまでには、かれはニューヨークの服──もう汚れてボロボロになっていた──と、包を地中に埋めていた。そして、よろめきながら、しかし、元気よく、地面がむき出しになったスクラントンの境界線を越え、ずっと昔に、しぶしぶ市に入っていったあの道の方に歩いていった。  あの時と今度とは多くの違いがあった。なかでも、スピンディジー力場《フィールド》の縁を通過するのに必要な装置を持っている点が、大きな違いだった。  もちろん、かれはすぐにとがめられた。二人の警備員が赤い目をして、あくびをしながら小走りに駈け寄ってきた。あきらかに、勤務時間の終り頃だった。 「こんなところで、何をしている?」 「きのこを取りにきたのさ」クリスは、なるべく間抜けに見えるように、薄笑いを浮かべていった。「ぜんぜん見つからなかった。この辺は変な木ばかりだ」  眠そうな警備員の一人はじろじろクリスを見た。しかし、かれは官給品の服を着たごく若い男としか見えなかった。  警備員は月並みな罵りの言葉を浴びせてから、いった。 「どこで働いている?」 「ソーキング・ピット」  二人の守衛は顔を見合わせた。  ソーキング・ピットというのは電熱で暖めた穴倉で、鉄の鋳塊《インゴット》をゆっくりと冷やす場所である。時たま清掃しなければならないが、熱を切るのは不経済である。そこで働く人は、石綿の服を着て、一回に四分間、穴の中に降ろされる。それは断熱のための木靴が燃え出す時間である。四分たつと労働者は釣り上げられ、新しい木靴を与えられ、また降ろされる──これが勤務時間中ずっと続くのである。  こんな焦熱地獄へ割り当てられて平気でいるのは、頭の足りない者ぐらいである。 「よし、行け、低能。二度とこんなところまで出てくるんじゃないぞ、わかったか? 射たれなくて、ありがたいと思え」  クリスは首をすくめ、ニヤリと笑って、逃げ出した。一分後には、かれは見すぼらしい街の中を、あちこち曲りくねりながら進んでいた。自信はあったものの、あまりよく覚えているので、われながらちょっと驚いた。  木枠の中の隠れ家はまだ残っていた。それも、かれとフラッドが最後に出た時のままで、ろうそくの燃え残りさえそのままだった。クリスはもう一個の野戦食の罐を平らげると、暗闇にじっと坐って待機した。  限りなく長い時間に思われたが、そう長く待っている必要はなかった。終業時間のあと一時間ほどたった時、だれかが迷路をしっかりした足取りで歩いてくるのが聞えた。  やがて、懐中電灯の光が突きささるようにクリスの顔に当った。 「やあ、フラッド」クリスはいった。「会えてうれしいよ。いや、その光をぼくの目からはずしてくれれば、うれしくなるよ」  懐中電灯の光は天井を向いた。 「おまえ、クリスか?」フラッドの声がいった。「ああ、たしかにそうだ。その分じゃ、一フィートも背が伸びているにちがいない」 「たぶんね。もっと早くきたかったよ」  大男は唸り声を上げて、腰を降ろした。 「まさか、お前がくるとはなあ──対立の相手がわかった時、予感はしたんだが。お前、あの三人の馬鹿みたいに寝返ったりはしないだろうな」 「あの連中、まだ生きている?」クリスは急に恐くなっていった。 「ああ、一時間前まではな。しかし、今は生きているという方へ、びた一文賭ける気はしないぜ。フランクは日増しに狂暴になっている──今までは、おれはあいつがわかっていると思っていたんだが──もう、わからなくなった。おまえがやってきたのは──あの三人を盗み出すためか? そいつは無理だぜ」 「ああ」と、クリス。「かならずしも、そうだってわけじゃないけどね。それに、寝返るつもりでもないんだ。ぼくらにわからないのは、こんなゴタゴタを引き起したあのシティ・マネージャーを、おじさんたちが、なぜそのままにしておくのか、ってことさ。ぼくらの〈シティ・ファーザーズ〉は、かれは気が狂ったって、いってるよ。機械にわかることなら、おじさんたちにもわかるはずだ。現に今、おじさん、そういったろ」 「おまえたちの機械の噂は聞いている」フラッドはゆっくりいった。「それが本当に市を運営しているのかい、物語にあるように?」 「運営の大部分はやっている。でも、管理しているわけじゃない。管理するのは市長なんだ」 「アマルフィだな。フーム。実をいうと、クリス、フランクが狂っているのは、みんな知っているんだ。しかし、どうしようもないんだ。かれを追放したとしても──それだって、容易なことではないが──その後どうすればいい? 紛争はそのまま続いているんだ」 「ぼくの市と戦わなくてすむよ」クリスはほのめかした。 「うん、それは一つの利益だ。それに関するかぎりはな。しかし、ほかの点では困った事態は一向に変らない。いくつか首をすげかえたところで、銭箱が重くなるわけでもなし、口にパンが飛びこんでくるわけでもない」  しばらくかれは口をつぐんでいたが、それから苦々しげに付け加えた。 「おれたちが飢えているのは、おそらく知っているだろう。いや、おれが個人的に飢えているわけではない──フランクは自分の部下には食糧を──とにかく、街でみんなの顔をみていると、とても、いい気持で喰っちゃおれんよ。フランクがアマルフィに楯ついているのは、たしかに気違いざただ──だが、それを除いたら、おれたちには希望はない[#「ない」に傍点]んだ」  クリスは黙っていた。  思った通りだった。だからといって、解決が容易になったわけではない。 「おまえ、おれの質問に答えていないぞ」フラッドはいった。「何しにきた? ただの偵察か? おれは余計なこと喋っちまったかな」 「革命をすすめにきたのさ」クリスはいった。  ひどく大げさな言い方になってしまったが、ほかに何といったらよいかわからなかった。また、根も葉もない嘘はいわないように努めていた。  しかし、これから先は急速に難しくなるものと思われた。 「市長は、おじさんたちは判断すべき機械がないから、契約の履行に失敗したにちがいないって、いっている。コンピューター制御のない小都市にはよくあることさ。そして、〈シティ・ファーザーズ〉はこの仕事はやれたはず[#「はず」に傍点]だといっている」 「おい、ちょっと待て。いっぺんに一つずつ話してくれ。かりに、フランクを追放して、アマルフィとの関係を改善したとしよう。そうしたら、おまえのところの〈シティ・ファーザーズ〉はおれたちの事業の再建に手を貸してくれるというのか?」  さあ、ここから先は当てずっぽだ。  たちまち根も葉もない嘘をいわなければならなくなるだろう。 「もちろんだとも。でも、その前に、こちらの人間を返してもらわなくちゃならない──ピギー・キングストン−スループと二人の女性を」  フラッドは暗がりで、あわてて手を振った。 「それはおれがすぐやってやる。取引きの一部としてでなく。だがなあ、クリス、こいつはなかなかやっかいな問題なんだ。おまえたちの市は、おれたちが契約を履行しないでいる仕事をやるために、ここに着陸した。曲折はあっても、おれたちがそれをやれば、だれかさんは給料がもらえなくなる。アマルフィがそんな取引きをするとは思えないぜ」 「アマルフィ市長は、まだ取引きしようとはいっていない。でも、フラッド、ぼくらとアーガスとの契約はこうなっているんだ。その半分はもちろん、おじさんたちがしなかった仕事をすることさ。でも、あとの半分はスクラントンを追い出すことなんだよ。もし、そちらが海賊都市《ビンドルスティッフ》を廃業して、まともな市に変われば、その分の金は入るんだ──今ではそちらの方が主になってしまっているけどね。当然のことながら、市長は戦争よりも、うまいマネージメントでそれをやりたいと思っている──戦えば、両方とも被害をつぐなうために、金を全部注ぎこんでも足りないくらいになるだろうからね。この話、筋が通っていない?」 「フーム。通ってるだろうな。だが、お前、おれ[#「おれ」に傍点]をおとなしくさせておきたいんだったら、その〈|海  賊《ビンドルスティッフ》〉という言葉はやめた方がいいぜ。そうにはちがいないが、それをいわれると頭にくるんだ。対等に付き合うか、縁を切るか、どっちかだ」 「ごめんよ」クリスはいった。「そういうことはよく知らないんだよ。市長は、ほかに適当な人がいたら、その人をよこしたんだろうが、あいにく、ぼくしかいなかったのさ」 「いいよ。おれが、とげとげしているだけざ。問題はもう一つある。植民者だ。おれたちがフランクを追放したからって、連中はおれたちを信用しちゃくれないぜ。かれが問題だってことは、連中は[#「連中は」に傍点]知らないんだから、次のシティ・マネージャーの方が信用できると考える理由は少しもない。おれたちが契約の採鉱の部分を取り戻す場合には、アマルフィに保証をしてもらわなければならないだろう。してくれるだろうな?」  クリスはすでに良心が許す範囲を大はばに超えていた。不真実と未知の領域に、もうこれ以上踏みこんではならないと、突然覚った。 「わからないよ、フラッド。そのことは、ぼくも尋ねなかったし、かれもいわなかった。最初に〈シティ・ファーザーズ〉に意見を求めなくちゃならないんだと思うよ──そして、かれらが何というかだれにもわからない[#「ない」に傍点]のさ」  フラッドはしゃがみこんで、一方の拳を一方の手の平に叩きつけながら、思案していた。しばらくして、別の質問をしそうな様子を見せたが、口には出さなかった。 「まあ」結局かれはつぶやいた。「軟膏の中には必ずハエが一匹入っているもんだ。一か八かやってみるから、クリス、お前はここで待っていろ。バーニーとハギンズなら、首ねっこをつかまえて、ゴツンコしてやるぐらいは朝飯前だ。  しかし、フランクとなるとそうはいかない。本当に射ち合いになったら、おれよりもやつの方が手が速かったなんてことに、ならないともかぎらない──それに、あいつは流れ弾がどこへ飛ぼうと気にしないだろうからな。なんとか追放できたら、すぐここへ戻ってくる──だが、お前は最後まで隠れていた方がいいぞ」  クリスは別に何も期待していたわけではない。しかし、何もせずにじっと隠れている間に、面白いことが全部終ってしまいそうな雲ゆきなので、やはりガッカリした。  しかし、それで、ある事を思い出した。 「ここで待ってるよ。でも、フラッド、もしうまくいきそうもなかったら、無理押ししないで、ぼくに知らせてよ。援軍を呼ぶように努力してみるからさ」 「うん……わかった。しかし、成功するためには、余所者は表に立たん方がいい。ニューヨークが糸を引いているなんてことを、この町のだれかが知ったら、フランクを憎んでいた人まで、また向うへ付いてしまう。最近、この町のものはみんなちょっと狂っているんだ」  フラッドは暗い顔で立ち上り、懐中電灯を取り上げた。 「おまえの話が正直なものだといいが」かれはいった。「おれはもの好きでこんなことをするんじゃない。フランクはおれを信用している──あいつが信用しているのは、おれだけなんだ。それに、どういうわけか、昔からあいつが好きなんだ。はじめっから、あいつが町のダニ[#「ダニ」に傍点]だってことは知っていたのにな。そういうことがよくあるものさ。  いい気持じゃないぜ、あいつの背中を刺すのは。それもまあ、あいつの自業自得だ──とにかく、おまえをよほど信用していなくちゃ、こんなことはできないぜ」  フラッドはクルリと迷路の出口の方を向いた。クリスはグッとつばを飲みこんで、いった。 「ありがとう、フラッド、頑張って」 「じっとしてろ。じゃ、またな」  やむにやまれぬ必要があるから、クリスはかならずしも、一分一秒も外に出なかったというわけではない。にもかかわらず、時の経過の感覚は急速に失われていった。  必要と思われる頃に食事をし──食糧の大部分は隠れ家から運び出されてしまっていたが、フランクは小さな包みを見落していたのだった──そして、できるだけ眠ることにした。だが、そうも眠っていられなかった。なぜなら、こうして体を動かさないでいると、次第につのってくる不安と緊張にさいなまれ、外の状況が全くわからないだけに、それがいっそうひどくなっていったからである。  ついに限界はこれまでと思われる時がやってきた。それ以後は全く眠れなくなってしまった。そして、戦闘開始の音か、再び自分を運び去るスクラントンの低い唸りが、いま聞えるか、いま聞えるかと、耳をすましているようになった。穴倉に厳重に監禁されているのと似た状態なので、緊張はよけいに酷いものになった。  久しぶりに迷路の中にかすかな物音が聞えた時、かれは発作的に飛び上った。そして、驚いた鹿のように逃げ出しそうになった。  懐中電灯の頼りない光の中で、フラッドはものすごい顔をしていた。何日間も剃らない不精ひげが伸び、睡眠不足で消耗しており、おまけに、片方の目は見事に黒ずんでいた。 「出てこい」手短かにいった。「大体終った」  クリスはフラッドの後について、倉庫の薄暗がりの中に出ていったが、漆黒の闇の中にいた後では、ものすごく明るい場所に感じられた。それから、耐え難いほど明るい、遅い午後の日なたに出ていった。 「フランク・ルツはどうなった?」かれは息を切らしながらいった。  フラッドはまっすぐ前を見つめたままで、全く感情のこもらない声で答えた。 「やっつけた。その話はやめだ」  クリスはあわてて話題を変えた。 「今どうなってる?」 「後始末がいくらか残っている。もう手伝ってもらってもいい。お前の友達を呼んでくれれば、一緒に──アマルフィが切り込み隊の全員を送りこんだりしなければの話だが」 「いや、二人だけさ」  フラッドはうなずいた。 「装甲服で完全武装した腕っ節の強いのが二人もいれば、一日か二日で片がつく」  かれは通りがかりのロボット・タクシーに声をかけた。  それが従順にそばにきて止まった時、クリスはまぎれもない弾痕がいくつもついているのを見た。もちろん、それらの穴がいつごろあいたものかわからなかった。しかし、クリスの推測では、まだ一週間は経っていないように思われた。 「無線のところへ連れていってやるから、連絡を取れ。それから、いよいよ取り引きの相談だ」  それこそ、クリスが最も恐れていた瞬間だった──アンダースンとアマルフィに話さなければならない瞬間、自分のやったこと、引き起してしまったこと、かれらを巻きこんでしまったことを、白状しなければならない瞬間が、いよいよやってくるのだ。  その時、どんな気持がするか、痛いほどわかっていた。  死ぬほど恐かった。 「さあ、乗れ」フラッドはいった。「なにをグズグスしてる?」 [#改ページ]     12 アマルフィとの会見  ニューヨークの市政は当然のことながら伝統を考慮して、市庁舎からおこなわれていた。しかし、管制室は司令塔になっているエンパイア・ステート・ビルにあった。  アマルフィが一行──クリス、フラッドおよび二人の警部補、アンダースンとデュラニー──を迎えたのは、この管制室だった。緊急事態発令中は(公式には今もそうなのだが)アマルフィは四六時中ここにつめていた。  この奇妙な部屋には、いろいろのスクリーンや、ライトや、メーターや、自動図表や、クリスが名前さえも知らない何十という機械が、天井までギッシリとつまっていた。だが、かれが一番関心を持っていたのは市長だった。  市長はちょうどその時フラッドに話しかけていた。それで、クリスはゆっくりと観察することができた。  噂に聞いていたアマルフィの容姿は、全く予想外だった。クリスがどんな人物像を心の中に描いていたか、もはやいうわけにはいかない。しかし、それはおそらく、何かもっと長身で、スマートで強そうな英雄タイプであって──こんな、猪首の、ツルツルの禿げ頭の、岩をも砕きそうな大きな手をした、ビヤ樽型のズングリした男ではなかったはずだ。  そして、ひときわ異彩を放っているのは、その力強い指で、まるで女性のように優しくつまんでいかにも旨そうに吸っている、その葉巻きだった。この市でほかに──文字通り、ほかに──喫煙する者はなかった。タバコを栽培する場所がなかったからである。だから、葉巻きは、役職の記章以上のものであって、ローマの皇帝たちがアルプスから運ばせた雪と同様、市の富の象徴なのであった。  そして、アマルフィはそれを習慣としてでなく宝物のように扱った。考え事をする時には、それを奇妙な仕草で持ち上げて、まるで、頭の中で起っているすべてが、その赤く燃えている先端に凝縮されているかのように、じっと見つめるのだった。  かれはフラッドに話していた。 「機械類についての取り決めは厄介な問題だが、原則的に困難はない。こちらの増殖アセンブリーを貸し出すから、自己複製させるがよい。それから、できた|子供の機械《ドーター・マシン》を再セットして、適当なエサ[#「エサ」に傍点]をやっておけば、そちらの必要な数だけ〈シティ・ファーザーズ〉が生れてくる──まあ、こちらの三分の一もあればいいと思うが。それには約十年かかるだろう。その期間を利用して、データを入れてやるがいい。初めのうちは、かれらは計算能力以外はからっきし馬鹿だから。一方、そちらの事業問題は当市の機械で解決するとしよう。われわれは答を信用するし、クリスの話では、あんたは約束を守る男だということだ。だから、われわれは当然、あんたらとアーガス人との契約の保険を引き受けることにする」 「いろいろと有難う」フラッドはいった。 「礼にはおよばない」アマルフィはガラガラ声でいった。「損得の問題だったら、事実、われわれは支払ったものより、得たものの方が大きい──あんたらの事は参考になった。そこで話は、われらの猛烈男、ディフォード氏の事に移る」  市長はサッとクリスの方を向いた。クリスは必死に心を鎮めようとしたが、無駄だった。 「今日がきみのD・デイだってことは知ってるだろうな、クリス。十八歳の誕生日だ」 「はい、その通りです」 「そこで、きみがよかったら、仕事を与えようと思う。その仕事は、初めて話があった時からずっと考えていたんだが、どう見ても、きみにふさわしいと思う」  クリスはまたつばを飲みこんだ。  市長は思慮深い様子で、葉巻をしげしげと眺めた。 「その仕事には技能と特殊な性格のきわめて奇妙な組み合わせが必要だ。後者を先にいえば、主導性、大胆さ、想像力、近道を作り出し、利用するのが好きな性分、複雑な状況の全体を一目で見渡す能力が必要だ。だが、それと同時に、この仕事には、保守的な本能が要る。最も大胆な計画や行為も、それがあってこそ人や物や時や金を節約するものになるからだ。ここまでの話で、どんな仕事を思い浮かべるかね?」 「軍ノ将官」〈シティ・ファーザーズ〉が間髪を入れず答えた。 「おまえらと話してるんじゃない」アマルフィが怒鳴った。  かれは明らかにイライラしていた。しかし、クリスの目には、それは昔からのイライラであって、ほとんど習慣になってしまっているように映った。 「クリス?」 「はい、あのう、もちろん、今の答の通りです。それほど自信はありませんが、自分でも同じことを思いついたかもしれません。少くとも、偉い将軍はすべてそのパターンに当てはまっています」 「まあ、いい。技能については、いろいろと要求されるが、根本はただ一つ。その人物は一流の文化形態学者でなくてはならない」  クリスは強制的にシュペングラー(ドイツの哲学者、歴史家)をつめこまれたおかげで、この学術用語を知っていた。それは、どんな発展段階にある文化をも、同等の段階にある他のあらゆる文化と関連づけて眺め、与えられた提案または事件に対して、その人々がどのような反応を示すかを、的確に予言できる学者を指す言葉だった。これでは、たとえ暇があって身につけたとしても、将軍が仕事の上で利用できる技能とはいえそうもなかった。 「きみにこれらの性格的特徴があるのは、一目瞭然だ──この技能の素質があるという点も含めてな。たいていの|渡り鳥《オーキーズ》はそういった性格の持主だが、きみほどのものはまずいない。もちろん技能そのものは、時間をかけて訓練して、はじめて発揮されるようになるものだ……しかし、きみにはたっぷり時間がある。〈シティ・ファーザーズ〉は五年も実習すれば、といっている。  当市としては、従来そのような職はなかったが、スクラントン市や、他の多くのうまくいっている都市を研究した結果、その職が必要だと確信するに到った。きみは引き受けるかな?」  クリスの頭の中に、誇りと当惑の旋風が音を立てて吹き荒れた。 「でも、市長さん──その職って何ですか?」 「シティ・マネージャーだ」  クリスは保護者のアンダースン警部補を見つめたのだが、かれはクリスと同様にあっけにとられていた。しかし、しばらくして、重々しくウインクして見せた。  口がきけなくなったクリスは、やっとの思いで、うなずいた。それで精一杯だった。 「よし。〈シティ・ファーザーズ〉の予言通りだ。実は、今日の最初の食事から、薬の投与が始まっていたのだ。ようこそ市民になられた、ミスター・ディフォード」  しかし、この瞬間にも、クリスの心の一部は奇妙にしらけていた。かれは長寿を望んだ最初の理由を考えていた。それは、いつか、何とかして、故郷へ帰りたいと思ったからだった。しかし、それが実現するころには、自分のものだと呼べるようなものは何一つ残っていないだろう、という考えが浮んだことは一度もなかった。今でさえも、地球は想像を絶するほど遠い。それは宇宙だけでなく、かれの心の中でも同じことだった。  かれの〈故郷〉の定義はもはや変ってしまっていた。かれは長い生命を手に入れた。だが、それには、新しい絆《きずな》と新しい義務がともなっていた、それは地球上の永遠の幼年時代ではなくて、星々に捧げる命なのであった。  かれはむりやりに注意を管制室に戻した。 「ピギーはどうなりますか?」心配そうに、かれは尋ねた。「帰りに道々話してきたんですが、だいぶ懲りて分別がついたようです」 「手遅れだ」アマルフィは不動の厳しさを見せていった。「かれは自分の切符を書いた。それは旅客の切符だ。なるほどかれには大胆さと主導性がある──だがすべて間違ったものだ。判断力と想像力による抑制がまったくない。同じ種類の落し穴は、きみの前にも常に待ち受けているんだよ、クリス。それもまた仕事の一部だがね。忘れない方がいい」  クリスはまたうなずいた。  だが、この警告は、もはやかれの意気ごみを鎮めることはできなかった。というのは、今こそある意味で、かれは最高に張り切っていたからである──この時、スクラントンの新しいシティ・マネージャー、フラッド・ハスキンズが握手して、あのしわがれ声でいったのだった。 「同役、仕事にかかろうぜ」 [#改ページ] [#改ページ]     訳者あとがき 〈宇宙都市〉シリーズ ジェイムズ・ブリッシュ著(エイヴォン社刊) 1、宇宙零年 2、星屑のかなたへ 3、地球人よ、故郷に還れ 4、時の凱歌  未来──および過去──二千年の人類史を扱ったジェイムズ・ブリッシュの壮大な宇宙放浪都市シリーズが、いよいよ同一装幀で同時に発売される……(中略)……これが、もしもアシモフの〈ファウンデーション〉ストーリーズのように、一冊のオムニバス版にまとめられていたら、わが社の人気投票で間違いなく最終選考まで残ったことであろう。これは見逃せない。  以上は、アメリカのSF雑誌〈アナログ〉の六七年四月号の記事で、それまでバラバラに出ていた〈宇宙都市〉シリーズが、初めてまとまって出ることになったという知らせです。  わが国でも、本書、『星屑のかなたへ』が出て、〈宇宙都市〉シリーズ四部作が全部そろうことになりました。  本書を読んで下さる方は、すでに他の巻をお読みになったマニアの方が多いと思いますが、まだだったら是非、一部、三部、四部もあわせてお読みになって、「全宇宙的スケール」(デーモン・ナイトの評言)を持つ、ブリッシュのハードSFの醍醐味をあじわって下さい。|少年向き《ジュヴナイル》の衣をまとった本書のソフトなタッチと違って、歯ごたえは十二分にあるはずです。 『時の凱歌』の訳者、浅倉久志氏のあとがきによると、ブリッシュの作品に精神分析的解釈を加えると、主人公の大部分は精子の象徴となり、潜在テーマはすべて「誕生」になってしまうという説があるそうです。  そういわれてみれば、この作品なども、どんぴしゃり、それに当てはまっているように思われます。(どこが、どのように当てはまるかは、読んでからのお楽しみ)  この説が出たのは五七年頃らしいのですが、それを聞いたブリッシュが過去の自作を検討してみると、確かに大部分がそうなるので、びっくりして、「もう書くことが怖くなった」と告白したということです。ところが、それから数年後に書いた本書が、またしてもそのパターンに当てはまっているとは、何とも面白い話ではありませんか。  デーモン・ナイトによると、ブリッシュには二つの人格が同居しているそうで、その一つは、「何事にも敏感に興味を抱く、暖く外向的な人柄」、もう一つは、「小うるさく几帳面な学者風の人柄」だといいます。とすると、この『星屑のかなたへ』あたりは、さしずめ、前者の暖い人柄の発現ということになるかもしれません。また、この人は、純文学にも関心があり、ジェイムズ・ジョイスとエズラ・パウンドについては一かどの権威者だということです。そのせいかどうか、なかなか優れた描写力を持っています。訳文にうまく移せたかどうか、はなはだ心もとないのですが、スクラントンの町が、いよいよ地表を離れる場面のいきいきとした描写とか、主人公のクリス少年が小さなロケットに乗って、ニューヨーク市に乗り移る場面の詩的なイメージなど、相当なものだと思います。 〈宇宙都市〉シリーズの成立の経過については、『世界SF全集第20巻』の伊藤典夫氏の解説、および、ハヤカウ・SF・シリーズの『宇宙零年』と『時の凱歌』の浅倉久志氏のあとがきに詳しく述べられていますが、もう一度かんたんにまとめてみると、次のようなことになります。 〈|渡り鳥《オーキー》都市〉のアイデアを思いついたのが一九四八年。それをもとに四つの中篇を書き、さらに手を加えて一冊にまとめたものが、五五年の『地球人よ、故郷に還れ』です。この作品は、著者自身の解説によると、ドイツの有名な哲学者シュペングラーの名著『西洋の没落』の記述に対応するかたちで構成されているそうです。この作品はスケールの大きさと科学的迫真性で非常な評判を取りましたが、同時に、SF的設定──スピンディジー、抗老化剤など──について、もう一つ説得力がほしいという批判もありました。そこで、「もしSFが、単なる自己表現の手すさびでなく、文明批評あるいは人間性の探求としての価値を持とうとするなら、その重荷に堪えるだけの説得性を具備しなければならない」(浅倉氏訳)という信念を抱いているブリッシュは、その点を補強するために、シリーズのプロローグとなるべき『宇宙零年』(五六年)を書きました。次に、しめくくりとして『時の凱歌』(五八年)を書いて、一応このシリーズを完結させました。  ところが、六一年に|児童向き《ジュヴナイル》の『宇宙の天使たち』(ハヤカワ・SF・シリーズ 3233)を書いてから、『宇宙都市』の少年版を思い立ち、本書『星屑のかなたへ』(六二年)を書いた、という経緯になるようです。しかし、これも単なる引き伸しではなく、やはりシリーズの肉付けをはかったものと思われます。かたちは|児童向け《ジュヴナイル》ですが、狙いは──。 一、宇宙都市の人間生活に血を通わせること。 二、抗老化剤の社会的影響──限定された都市内での人口問題。 三、教育問題──若者の問題。  こう考えてくると、これらの問題はそっくりそのまま今日の日本の問題、世界の問題を先取りしていることがわかります。  だいぶ理屈っぽくなってしまいましたが、これはまぎれもないアドヴェンチャー・ストーリーなのだし、SFは(原則的には)高級な娯楽なのですから、あまり気にせずにお楽しみ下さい。  最後に、浅倉久志氏からいろいろと貴重な示唆をいただいたことを付記し、お礼を申し上げます。 [#改ページ] [#(img/02/167.jpg)入る]