宇宙零年 ジェイムズ・ブリッシュ 浅倉 久志訳 [#(img/01/000a.jpg)入る] [#(img/01/000b.jpg)入る] [#(img/01/003.jpg)入る] [#(img/01/004.jpg)入る] [#(img/01/005.jpg)入る] [#ここから4字下げ] 「……ヴェガ文明が、政治的、軍事的勢力の頂点にありながら、その影響力において、こうした奇妙な衰退を示していたとき、やがてそれに代るべき一つの文明が、すでにその開幕を告げていたのであった。  読者の念頭におかれたいのは、当時の地球が、その名さえ知られない存在であり、また、この惑星の太陽、ソルが、竜座星区《ドレイコ・セクター》の、さして目立たないG0スペクトル型恒屋の一つとして知られているにすぎなかったことである。いましがた、筆者の述べた諸事件に先立っての、地球人の宇宙進出を、ヴェガ人が察知していた可能性は──きわめて薄いとはいえ──ありえないことではない。地球人のそれは、しかし、局地的な、惑星間飛行にすぎなかった。この時期まで、地球は、銀河系の歴史に、なんらの役割も演じたことはなかったのである。しかしながら、地球が、それによって恒星の舞台への飛躍を遂げることを得た、二つの決定的な発見をするであろうことは、当然の帰結であった。  地球が、やがてヴェガの後継者となるであろうことを、かりにヴェガ人が知悉していたならば、それを防止するために、ヴェガ人は、必ずや、その強大な武力のすべてを動員したにちがいないのである。ヴェガが、そうしなかったこと自体が、この当時、地球になにが起こりつつあるかを、ヴェガ人が全く気づいていなかったことの、なによりの証拠ではなかろうか……」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──アクレフ=モナレス     [#地付き](銀河・五つの文明の肖像画)  [#改ページ] [#改ページ] [#(img/01/009.jpg)入る] [#(img/01/010.jpg)入る] [#(img/01/011.jpg)入る] [#改ページ]   第 一 部     序曲 ワシントン [#ここから2字下げ]  いかなる人間の集団にせよ、その行動に対して、監査や批判の目を必要とせぬほど、妥当もしくは賢明であり得るとは信じられない。誤りを避ける唯一の方法は、それを発見することであり、それを発見する唯一の方法は、調査の自由にあることを、われわれは承知している。秘密主義のもとでは、発見されざる誤謬がはびこり、破滅をもたらすであろうことをもまた、われわれは承知している。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──J・ロバート・オッペンハイマー    左右の壁の上、ちょうど彼の視野の両隅で、つぎつぎに隠し扉へ後じさってゆく物の怪のように、チラチラと影が揺いでいた。そのおかげで、体の芯まで疲れきっているはずが、妙に気分を焦立たされるのだった。コーシ博士が火を消してくれるのを、心待ちにするぐらいに。だが、彼はじっと姿勢を崩さずに、オレンジ色の炎が躍り跳ねるのを見据えながら、頬と目のまわりの皮膚が、その熱でピンと張りつめてきたのを、そして胸の中まで温かみがジワジワと浸みこんできたのを、感じとっていた。  傍らではコーシが、わずかに身じろぎを見せた。しかし、ワゴナー上院議員について言えば、このソファーに腰をおろしたとき以来、体の重さが、にわかにこたえはじめている。精根つき果てた気持だった。四十八歳という年からは考えられない、鉛のような疲労だった。果てしない不快な日々の連続のなかでも、とりわけ不快な一日だったのだ。ここワシントンでは、安眠さえできれば、よい日の部類に入るのである。  となりのコーシ博士、前標準局長官、前世界保健委員会々長、そして現在ではアメリカ科学振興会(ワシントンでの別名『左翼の|AAAS《トリプルエーエス》』)の領袖であるこの男は、彼より二十歳も年長なのに似合わず、まるでカメレオンなみの軽快さと、活溌さと、機敏さを備えていた。 「私に会いにくるのが、きみにとってどれほど危ない真似かは、心得ての上なのだろうね」  乾いた、囁くような、コーシの声だった。 「私だって、AAASの仕事さえ絡んでいなければ、ワシントンなどには住みたくもないのだ。マッキナリーの手先に、あれだけ痛めつけられたあとではね。政府の外部にいてさえ、まるで水槽の中に住んでいるようなものさ──しかも、『ピラニア』という名札までつけられて。だが、こんなことは、きみも先刻承知だったな」 「そのとおり」  上院議員はそういってうなずく。壁の影が前に跳躍しては、また後じさっていった。 「実はいまも、ここまで尾行がついている始末です。マッキナリーの刑事《でか》ども、このところずっと、私の尻尾を握ろうと、 やっきになっているらしい。だが、ぜひともあなたの知恵が借りたかったのですよ、セッピ。議長に推された日から、委員会のファイルで目に入る事項は、何によらず理解しようと、私はベストをつくした──だが、やはり科学者でない人間は、先天的な限界がありましてね。といって、部下の連中に下手に突っこんだ質問もできない。それこそ、秘密漏洩は確実──おそらく、マッキナリーの耳に筒ぬけでしょうから」 「そのへんが、昨今の官僚の相場じゃないか」  コーシの口調が、さらに乾いたものになった。 「うかうか、重要な質問などできない人間、というのが」 「それとも、こっちの喜びそうな答しか与えてくれない人間、ですかな」ワゴナーが、ものうげにいった。「そのほうの経験も、させてもらいました。いやはや、上院議員も楽じゃありません。アラスカへ戻ろうという気を、私が一度も起さなかったなんて、考えないで下さい。コディアクの私の小屋なら、暖炉の火も、安心して楽しめる[#「楽しめる」に傍点]のに。なにしろ、壁に映った炎の影にさえ、メモを持った尾行者じゃないかと疑ぐるような真似は、せずにすみますからな。いや、愚痴はこのぐらいでやめましょう。自分で買って出たポストである以上、いい仕事を、私はしたいのです。ともかく、私にできるかぎりでの、いい仕事を」 「そのかい[#「かい」に傍点]は、じゅうぶんにあったよ」  コーシは思いがけない言葉を口にすると、ワゴナーのだらんとした手からブランデーグラスをとりあげ、その底に琥珀の湖をつくった。掌に包まれたグラスから、ねっとりと香わしい蒸気がたちこめた。 「ブリス、両院合同の宇宙飛行管理委員会が、ポッと出の上院議員、それも選挙前までただの新聞係りだった男の手にまかされることになったと、はじめて聞かされたときには、私も──」 「お願いだ」  ワゴナーは冗談半分、やんわりと顔をしかめた。 「PRコンサルタントと、いっていただきましょう」 「好きにしたまえ。何にしろ、私はさんざんに毒づいたものだ。古参議員の中に一人でも委員会の引きうけてがあれば、起るはずのないことなのはわかっていたし、そういう人間が皆無だったという事実が、すでに当節の議会に対する最大の、そして絶好の、告発材料だと思えたのだよ。もちろん、私のそうした発言は、洩れなくメモされている。それが、きみに対する攻撃に利用されるのも、そう遠いことではないだろう。すでに私はそれをやられているんだ。あれ[#「あれ」に傍点]が終ったのだけは、ほんとにやれやれだった。  ところで、きみについての私の考えは、完全にまちがっていた。きみは、どえらく立派な仕事をやってのけた。まるで魔法なみの、のみこみの早さだった。そのきみが、政治的生命を断たれるのを承知で、私に忠告を求めるというのなら、むろん、喜んでお役に立とうじゃないか」  コーシが、ワゴナーの手にグラスを押しつけたようすでは、それは、口さきだけの慷慨とは思われなかった。 「それも、きみだからだよ。ほかの人間なら、まっぴらだ。たとえなんにしろ、政府の人間に、物を教えるのはいやだね──AAASの頼みでもないかぎり」 「そうでしょうとも、セッピ。それが、われわれの頭の痛いところでもあるのですよ。とにかく、ありがとう」  ブランデーをしずかに揺り動かしながら、彼は思案をめぐらした。 「よし、じゃ、これだけうかがいましょう。いったい、なにが宇宙飛行のガンなのか?」 「陸軍だな」すかさずコーシが答えた。 「たしかに。だがそれだけではない。それだけとは、決していいきれませんな。陸軍航宙本部が、賄賂で腐りきり、猜疑心に侵されて、頭の働きが停止していることはまちがいないでしょう。だが、むかしは、もっとひどいものだった。気象局、海軍、あなたご自身の役所、空軍、その他いろいろ──まず半ダーズもの政府機関が、いっせいに宇宙飛行を手がけていたのですからな。当時の記録を、私は調べました。地球人の人工衛星計画が、スチュアート・サイミントンによって発表されたのが、一九四四年。しかも、一九六二年に至るまで、すでに全管轄権が陸軍に与えられた後まで、われわれは有人衛星船の打ち上げができなかった。いや、そのしろものを、製図板から持ち上げることさえできなかった。なにしろ、あらゆる海軍少将が、その計画の中に、自家用|舟艇《ランチ》の発着場を含めろと、強硬だったのですからね。それに比べれば、現在のわれわれは、少くとも宇宙飛行を所有[#「所有」に傍点]してはいる。  だが、同時に、なにかがもっと根本的に狂っているのが現在なのです。もし、宇宙飛行がいまもって活溌な問題であれば、その一部は、とっくに陸軍の手を離れていたはずです。たとえば貿易航路というかたちでかもしれない。またひょっとしたら、金持あいての観光ルートであるかもしれない。それがおそろしく高価な道楽だという理由だけで、不愉快な道中をがまんして、人間の住めない土地へ行ってみようという連中のためのね」  彼は重苦しい笑いをひびかせた。 「それ、百年前の英国の狐狩りですよ。あれは、オスカー・ワイルドでしたか、『人間の屑による、食物の屑の追求』といったのは?」 「そいつは、ちょっと性急すぎはしないかな?」コーシがいった。 「この二〇一三年にですか? 私は、そうは思いませんね。しかし、かりにその点では早まりすぎたにしても、同じことは他についてもいえるのですよ。この十五年間に、ただの一度も大規模な探険調査隊が派遣されなかったのは、なぜか? 考えてみれば、あの第十惑星プロセルピナが発見されたとき、さっそくどこかの大学とか協会とかで、行ってみようという声がかからねば嘘だったのだ。基地建設には絶好の、大きな月をともなっていること──気象変化さえ存在しない低温──写真暗板をいたずらする太陽も、空にない──つまり、そこでは太陽も、○等星の一つにすぎないということ──民間の探険家にとって、こうしたたぐいのことが、たまらないごちそうだった時代もあったのですがねえ。かつてのへイルのように、科学に渇望を抱いた百万長者と、もうひとり、少々スタンドプレーの稚気も持ち合わせた、逞しい統率者──バード少将タイプですな──が現れておれば、プロセルピナ第二衛星基地は、とっくの昔にできていたでしょう。にもかかわらず、宇宙空間は、一九八一年のタイタン基地の設立このかた、あたかも死んだに等しい。なぜなのか?」  彼は、しばらく暖炉の火を見つめた。 「それに」と、言葉をつづける。「この分野の発明に関しての、大きな疑問があります。そっちも停滞ですよ、セッピ。完全なストップなのです」  コーシがいった。 「つい最近のことじゃなかったかな、タイタンの連中からの報告で──」 「異星微生物学に関するやつですな、なるほど。だが、それと宇宙飛行とは違いますよ、セッピ。宇宙飛行は、ただそれに、研究の場を与えただけだ。その結果が、宇宙飛行自身を近代化するわけでも、改善するわけでも、より魅力的なものにするわけでもない。連中はそんなことに、なんの興味ももってやしません。いや、連中にかぎらず、誰ひとり[#「誰ひとり」に傍点]、といっていいでしょう。それが停滞の原因でもある。  たとえばですよ。われわれは、原子炉による推進方式のイオン・ロケットを、いまだに使っている。そりゃあ、たしかに実用的だ。それに小さな意味での原理のバリエーションなら、千じゃきかないでしょう。だが、原理そのものは、カップリングが一九五四年に唱えたものじゃありませんか! 考えても下さい、セッピ──五十年間に、ただの一件も独創的な発想のエンジン設計が現われなかったということを!  では船体設計のほうはどうなのか? これは、いまだにフォン・ブラウンの仕事のひきうつしだ──カップリングより、さらに昔の産物だ。例の玉ネギをつなぎ合わせたような骨組みよりましなものが、何ひとつないなんてことがあり得るのだろうか? あるいは、そいつを空輸するための、例の動力つきのグライダーにしても? ところが、委員会のファイルを見たかぎりでは、それに優るものはついに見当らない」 「きみに、末梢的な改変と、根本的なそれとの区別がつくのかね?」 「じゃ、ご自身で判断してください」憮然として、ワゴナーはいった。「宇宙船デザインの、目下最大のトピックスが、座席の重力加速緩和用の、新型楕円巻きスプリングなんですよ。板バネのように重力を吸収し、つる巻きバネのように重力に反揆する。一方において費したエネルギーが、もう一方で貯えられるというしくみですな。最終報告によると、これをとりつけた椅子の坐り心地は、あたかも青いトマトを詰めた袋を思わせたらしい。ただし、近々のうちにその難点《バッグ》はとり除かれる見込み。トマトの虫《バッグ》のことなんでしょう、きっと。極秘情報ですがね」 「極秘情報といえば、もう一つ、私が知ってはまずいらしいのがあったな」と、コーシ。「幸い、忘れるにも面倒はないようなものだが」 「よろしい、じゃ、もう一つ。アルミ箔でできた、船内用の新型水筒はどうです。口にくわえて、歯ミガキのチューブ式に底からしぼり出すというやつ」 「しかし、気圧で押し潰す式のプラスチック薄膜のほうが、扱いよいし、それに重量も──」 「もちろん軽いでしょう。ところで、このチューブ、すでにペースト型|携帯食《レーション》では標準化されていましてね。それを飲料水にも及ぼそうという提案以外に、べつに目新しいことはない。提案の出先は、|加=米《キャナム》金属の陳情員で、それを太平洋岸北西部選出の上院議員が二人ばかり、強硬に尻押ししている。あとの結果は、ご想像にまかせましょう」 「きみの主張にも、うなずけるものがあるようだな」 「では、てっとり早く結諭してみますか」ワゴナーは、いった。「せんじつめたところ、現在の宇宙飛行の全機構は、ガタピシで、旧弊で、装飾過多で、腐朽に瀕している。この分野そのものが、停滞状態だ。いや、それどころか、退行しつつさえある。本来なら、とっくの昔に、われわれの宇宙船は、よりスマートで、スピーディで、積載能力のすぐれたものになっているべきだった。惑星に着地できる宇宙船と、惑星間を飛行できる宇宙船との二本立てという状態からも、当然脱却していいころでしょう。  さらに、惑星を何らかの用途に──つまり、単なる学術研究以上のなにものかに──役立てるという問題も、せめて解決の見通しぐらいは、ついているべきです。ところが逆に、それを論議しようという人間さえ、なくなっている。そして、われわれの手で、それを解決できる可能性は、年々薄れてゆくのですよ。まず、宇宙飛行にそれだけの価値があると、議会に信じこませるのが、しだいに骨になってきた。したがって、予算も減るいっぽうです。どのみち、長い目で見た、基礎的研究の報酬なんてものを、議会に売りこむのは、むりな話でしょう。下院議員には二年ごと、上院議員にしても六年ごとに、選挙というやつが、めぐってくる。やっこさんたちにできる見通しは、せいぜいそのへんが限度だ。また、かりに、連中に対して、われわれの行っている基礎的研究なるものの説明を、試みたとしますか? こいつは不可能だ。なにしろ、いっさいが機密なのだから!  そして、特にですよ、セッピ──これは、私の無学が言わせるのかもしれないが、かりにそうとしても、あえて私は主張したい──特に、恒星間[#「恒星間」に傍点]飛行に対する、多少なりともの手がかりは、すでに開発されていてしかるべきだ、と。いや、その模型ぐらいは、たとえいかにお粗末なものであろうとも、すでにでき上っていなくちゃいけない──それが、カップリング・エンジンと比べた、独立記念日の打上げ花火のように、お粗末なしろものでも、とにかく原理だけははっきりしているものが。ところが、それさえもない。実際のところ、恒星などは、諦められたかたちだ。われわれが、いつかはそこへ到達できるだろうと考える人は、私の話しあったかぎりでは、ひとりもいなかった」  立ち上ったコーシは、軽い足どりで窓ぎわへ近づいた。部屋に背を向けたまま、ぴったり閉ざされたブラインドから、人気《ひとけ》のない外の通りを見すかすように、じっと立ちつくしている。  炎に眩惑されたワゴナーの目には、その彼の姿も、ただの影法師としか映らなかった。コーシ自身は、注意人物と烙印を押されはしたものの、こうしたすべての圏外でいられることを、むしろ喜んでいるのではなかろうか。この六ヵ月間におそらく二十回は浮んだであろうそうした考えが、またしても上院議員の頭をかすめるのだった。そして、同時に、すくなくともこれで二十回目に近く、ワゴナーは思い出すのである。  またぞろ練りかえされる査問会、顔も名も持ち合わせない証人たちの、あいまいな証言とゴシップの洪水、カレッジ時代のコーシが、もとYPSLの一員だった疑いのかかっているある男と、同室仲間だったとわかったときの新聞の騒ぎよう、マッキナリー子飼いの陣笠の一人による、上院壇上での告発、新しい査問会、いつ果てるともない罵言讒謗の弾幕、「拝啓、不埒なるコルセット博士」で始まり、「真のアメリカ人敬白」でおわる投書。あとになって、同僚の科学者たちが、いくら強硬に彼の肩を持ってくれたにしても、ああしたやりくちでそれから解放されることは、それを堪える以上にみじめなことなのだ。 「こんなことをきみにいうのは、私が初めてではないだろうが」と、ようやく振りむいた物理学者がいった。「私にも、われわれが恒星へ到達できる日が来ようとは、思えないのだよ、ブリス。そこいらの科学者なみの保守派ではない私が、そういうのだ。星を馳せめぐる種族となるには、われわれの寿命は、あまりにも短かすぎる。光速度以下という速度の限定を受けた生身の人間に、恒星間飛行を望むのは、まるで蛾にむかって、大西洋を横断しろ、というようなものさ。むろん、私だって、そう信じるのは残念だ。しかし、信じざるをえないのだ」  ワゴナーはうなずきながら、その言葉を頭におさめた。その間題については、彼自身、コーシのいったほどのことさえ、期待していなかったのである。 「しかし」と、あらためてグラスをとり上げながら、コーシはつづけた。「惑星間[#「惑星間」に傍点]飛行のほうなら、改良は決して不可能じゃない。それが腐りかかっているという、きみの意見にも同感だね。そんな疑いは、いちおう持っていたが、今夜のきみの説明が、それを決定的にしてくれたわけだ」 「では、なぜそんなことが起るのです?」ワゴナーは、問いつめる。 「それは、科学的方法というやつが、もはや用をなさんからだよ」 「何ですと! いや、失礼しました、セッピ。だがこれは、大司教の口から、キリスト教がもはや用をなさない、と聞くに近い驚きですな。どういう意味です、それは?」  コーシは、苦笑をうかべた。 「言いかたが、大げさすぎたかな。だが、ほんとうなのだ。科学的方法が、現下の情勢では、行き詰りだというのは。それは、なによりも、知識の自由に依存している。ところが、われわれは故意にそいつを殺しているんだからね。これは標準局の、まだ私がやっていた時分の話だが、われわれは、だれが、いつ、どんな計画にだずさわっているのかを、ほとんど知らなかった。同じ役所の中で、それに類した研究をやっているものがあるかどうかも、ほとんどわからない。ほかの部課で、それのひき写しをやっているかどうかに至っては、なおさらだ。たしかにわかるのは、同じような分野で働いている大ぜいの人間が、そうするのが安易なみちであるという理由だけで、彼らの研究の成果に、『極秘』というスタンプを押しまくっていることだけだ──それも、その研究をロシアの手から守るというよりは、自国の政府から彼らに調査の手が伸びた場合、ほかの研究員たちを嫌疑から免れさせるためなんだからね。ある問題に、科学的方法を応用しろといわれても、それに対するデータの入手が禁じられていては、いったいどうすればいいのかね?  もう一つは、いま政府のために働いている、科学者の質だ。数少ない一流の人材は、機密保持の手数で、すっかり疲れ果てている──それと、彼らがその分野の最高頭脳であるところから、もし口でも辷らされたら一大事だというわけで、四六時ちゅう集中される疑惑──おかげで、従来だったら、ほんの簡単な問題だったものの解決に、何年もかかるしまつだ。残りの連中となると──さよう、標準局のわれわれのスタッフなど、そのほとんどが三流クラスで占められていた。なかには、実に根気のいい、辛抱づよい男もいるのだが、なにぶん勇気に欠ける上に、想像力ときては、さらに貧困だ。結局、時間いっぱいを、機械的に料理の手びき──つまり、科学的方法のルーチン──と、にらめっこで過ごす。しかも、材料は年々乏しくなってゆくのだ」 「あなたのいまおっしゃったことは、コンマ一つかえずに、そっくり現在の宇宙飛行の研究にあてはまりますよ」ワゴナーがいう。「だが、セッピ、科学的方法が、かつては有用であったのなら、いまだってそうでない理屈はないでしょう。誰が使っても、たとえそれが三流クラスとしても、効果は上るはずだ。それが、いまになって──何世紀もの間断ない成功のあとで──急におかしくなったのは、どういうわけなんです?」 「時代の流れだろうな」コーシは沈んだ口調でいった。「最大の原因は。ねえ、ブリス、科学的方法は、決して自然律じゃない[#「ない」に傍点]。それは、自然のなかには存在しなくて、ただわれわれの頭の中にだけあるのだ。つまり、それは、事物に対する思考方法の一つ──証拠を鑑別するやりかたの一つなんだよ。当然、いつかは時代おくれになる運命が、それを待っている。すでに、連鎖推理や三段論法が、そうなったようにね。科学的方法は、そこに何千という明確な事実──たとえば、どれだけの速度で石が落下するとか、虹の色の順序はこれこれだというような、はっきりした、計測の可能な事実──が、とりあげられるのを待っているように、ゴロゴロしている場合には、とても有効だ。だが、発見されるべき事実が、より微妙なものになるにしたがって──つまり、不可視、不可触、計量不能、願微鏡限外、抽象、こうした領域に、それらが身をひそめるにしたがって──それを科学的方法で調査することは、しだいに高価で、時間を食うものに変ってゆく。  そして、やるだけの価値のある研究といえば、少くとも実験一つについて[#「実験一つについて」に傍点]、数百万ドルが必要だという段階に達したとすれば? もはや、実験のスポンサーを、政府に求めるほかない。さて、政府が使いこなせるのは、三流クラスの人間だけだ。基本的な発見には不可欠の、洞察の閃めきで、料理書の指示に変化を加えてみるまねなど、できない連中だ。結果は、きみが見るとおりのもの、不毛と停滞と頽廃だよ」 「では、残されたみちは?」ワゴナーがいった。「これから、どうすればよいというのです。いや、私だって、あなたがすべてを諦めてしまうような人でないことぐらいは、知っているつもりですよ」 「たしかに」コーシは、いった。「私は諦めてはいない。だが、きみの嘆いている状態を変えるについては、まったくの無力なのだ。なんといっても、局外者だからね。また、そのほうが、私にとってはよかったのかもしれないが──」  そこで間をおいてから、だしぬけに彼はいった。 「政府が、機密保持のシステムを、完全に撤廃するという見こみは、ないものかねえ?」 「完全に、ですか?」 「でなければ、むだだね」 「だめでしょうな」ワゴナーはいった。「まず、部分的にさえも、むりでしょう。ここまできては」  腰をおろしたコーシは、骨ばった膝に肱をついて、グッと体を乗り出した。そして、燠火になった石炭をみつめながらいった。 「それじゃ、きみに二つの忠告を与えるとしようかね、ブリス。実のところ、この二つは、同じ貨幣の裏表みたいなものだが。まず第一に、例の億万ドル単位のマンハッタン計画的なものは、捨ててかかるんだね。われわれにとって、電子共鳴の、より正確で新しい測定法なんてものは、新しい突破口、新しい知識のカテゴリーに比較すると、十分の一の必要性もない。巨大な研究計画は、骨董屋行きだ。いまのわれわれに必要なのは、頭の体操だよ」 「私のスタッフを相手にですか?」 「ものになりそうな相手を探すのさ。それが、私の忠告の、あと半分というわけだ。私がきみの立場なら、まずキ印《じるし》を相手にするね」  ワゴナーは、黙っていた。コーシがそんな言いかたをするのは、効果を計算してのことなのだ。小出しのドラマが、お気に召すらしいのである。いまに、説明が始まるはずだ。 「もちろん、完全なキ印ということじゃない」コーシはいった。「そこに一線を引くのは、きみの役目だ。きみに必要なのは、限界的寄与者、つまり、概括的には高い評価を受けていながら、学会には受け入れられないような奇説を信奉する科学者だ。クレホーアの原子論とか、エーレンハフトの磁気流の理論とか、ミルンの宇宙論とか──その中から、きみ自身が、実り多いものをつきとめなければならない。まず、放棄されたアイデアを探し集めたまえ。その上で、そのアイデアが、完全に放棄するほかないものかどうかを、見きわめるのだ。そして──最初に手に入る『専門家』の意見を、うのみにしないようにな」 「いいかえれば、籾《もみ》がらの篩い分けですか?」 「ほかに、篩い分けるものがあるかね?」コーシはいった。「もちろん、あるかなしのチャンスだ。だが、一流の科学者に相談をかけることは、時すでに遅いのだよ。こうなればとにかく、変りだねや、まぐれ当りを相手にするしかないのだ」 「どのへんから手をつければ?」 「そうさな」と、コーシ。「重力なんぞは、どうだね? さまざまな珍説の横行すること、このテーマにまさるものはない。それでいて、重力とは何ぞやについての、納得のいく仮説は、われわれにとって、なんの実用的な用途もないのだ。宇宙船を持ち上げるのに利用できるわけでもない。われわれは、重力を、一つの場として扱えない。それに対して、納得できるような一連の方程式さえ、まだ持ってはいない。そして何十年の歳月と、巨額の研究費をつぎこんでも、そうした方程式は発見できないだろう。収穫漸減の法則が、その手のアプローチを、無効にしているのだ」  ワゴナーは立ち上った。 「お話では、残るものは、いくらもないようですな」沈んだ声で、彼はいった。 「ないな」  コーシがうなずく。 「出発のときに、きみが持ち合わせたものしか、残っていない。しかし、ちかごろの大ていの人間に比べれば、それでもいいほうだよ、ブリス」  ワゴナーは、ニヤリと硬ばった笑いをみせ、二人は手を握りあった。  ワゴナーがいとまを告げたとき、コーシはドアに背を向け、肩を丸めて、炎の手前に黒いシルエットになっていた。まだ彼がそこに立っているうちに、あまり遠くないところで銃声が聞え、通りの向いの大使館の正面から、こだまが反響してきた。ワシントンでは、ごくふつうな物音というわけではないが、べつに珍しくもない。おそらく、この都市に住む何千人の狙撃者のひとりが、スパイか、警官か、それとも影法師を狙ったのだろう。  コーシは、なんの反応も示さなかった。上院議員は、静かにドアを閉めた。  アパートに帰るまで、尾行はつづいたが、ワゴナーはほとんど気にもとめなかった。星から星へ、光速を超える速度で馳せめぐる、不死身の男のことを考えつづけていたのである。 [#改ページ]     1 ニューヨーク [#ここから2字下げ]  より新しいコミュニケーションの媒体においては……科学知識の普及は、その名をかりた大衆娯楽によって、完全にもてあそばれている。その月並な一例は、科学者を伝記の主人公にして、科学をドラマに仕立て上げたものだ──大団円では、つねに彼が、ガランとした実験室の中で、むき出しの電球に、えたいの知れない試験管をかざして、「ユーレカ!」と叫ぶのである。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──ジェラルド・ピール    ジョン・フィッツナー社の玄関を、ゾロゾロと通りぬけてゆく、名士、不名士、それにただの金ピカ肩章どもの行列は、けだし壮観だった。  まる一時間半の待ちぼうけのあいだに、ペイジ・ラッセル大佐は、ざっと次のような、マスコミの聖者たちを識別した。ブリス・ワゴナー上院議員(民主党、アラスカ州選出)両院合同宇宙飛行管理委員長。ジゥセッピ・コーシ博士、アメリカ科学振興会会長。そして、フランシス・サビア・マッキナリー連邦検察局の世襲長官。  これほどの大物ではないが、ほかにも何人かの有名人が、姿を見せていた。どんな風の吹き廻しで、彼らが生化学的薬剤の製造会社を訪れたのか、それを憶測するのが、すでに穏当でないほどの顔ぶれなのである。尻のこそばゆくなるのをペイジは感じた。  ちょうど受付の若い娘は、陸軍では最高位の、七つ星をつけた将軍の一人と、小声で話しているところだった。よほど気にかかることがあるらしく、さっきペイジの敬礼にも全然気づかなかった将軍である。そそくさと、将軍は奥へ招じ入れられた。覗き窓のついた自在ドアの片方が、受付デスクの後で、外へ向って開き、地味な背広の、ガッシリした、色の黒い、人好きのする顔の男の姿が、チラッとペイジの目に映った。 「ホースフィールド元帥、よくいらっしゃいました。どうぞ奥へ」  ドアが閉まり、とり残されたペイジは、もう一度、入口の上にくろぐろとドイツ文字で書かれたモットーと、にらめっこに戻った。   【 Wider den Tod ist kein Krautlein gewachsen 】  からきしドイツ語のだめな彼は、もし英語だったら式のやりかたで、それを翻訳してみたのだった。  結果は──。 『肥ったヒキガエルが、牝牛のキャベツサラダに、蝋を塗りたくる』  これは、彼の知るかぎりの、どちらの動物の食習慣にも、いささかそぐわないように思えた。まして、ここで働く人間のための標語に不似合なことは、たしかである。  もちろん、退屈すれば、受付嬢を眺める自由は残されている──だが、ここ一時間半のあいだに、彼はその快楽の奥の奥まで、いちおう探りつくした感じだった。見かたによっては、かわいい顔だちでなくもないが、彼のような、帰還したばかりの宇宙士の目からしても、印象的な美人とはとても言いかねた。たぶん、あの黒ぶちのメガネをはぎとり、ひっつめに束ねた髪をほどかせれば、まずまず通用するしろものになるかもしれない。少くとも、大吹雪の中のエスキモー小屋の、鯨油ランプの明りでなら。  考えてみると、そのことじたいも、妙な話なのである。フィッツナーほどの大会社なら、ことに今日このごろときては、グラマーなオフィス・ガールなど、お望みしだいのはずだ。ところで大会社といえば、フィッツナー商会のことごとくをもってしても、その親組織のA・O・ルフェーブル社に比べれば、ほんの微々たるものかもしれない。少くとも、全ルフェーブル軍需企業合同の規模が、フィッツナー一部門より大きいのは、まちがいないことだ。たぶん、ピーコック・カメラ&ケミカルも、規模という点では上かもしれない。このカルテルが、製薬部門としてのフィッツナー商会を手に入れたのは、まだ日の浅いできごとで、独占禁止法の多様化修正案を、かいくぐった離れわざのおかげだった。  なんにしても、これだけ待ちぼうけを食わされては、ペイジたるもの、心おだやかではない。もともと、彼がここに足を運んだのも、この社の人間からの特別な依頼で、ちょっとした仕事をひきうけてやったからである──そして、そのおかげで、貴重な賜暇をむだにしているわけだ。  思いついたように彼は立ち上ると、ツカツカとデスクに近づいていった。 「失礼だが、ひとこと言わせていただこう」と、彼はいった。「あなたがたのやりくちは、まったく失敬千万だな。実際、人をこけにするにもほどがある。いったい、これが要るのか、要らんのか?」  右の胸ポケットのボタンをはずして、彼は、プラスチックの荷札に蒸着した、透明フィルムの小さな包みを、三つとり出した。それぞれの包みに、小匙一杯ほどの土が入っている。荷札の宛名は、地球、WPO二四九九二〇、ブロンクス区十三、A・O・ルフェーブル社内、ジョン・フィッツナー商会となっており、その一つ一つに、フィッツナー商会の支払った、ロケット便の二十五ドル切手が、消印されずに残っていた。 「ラッセル大佐、私も同感ですわ」と、彼をまじめな顔で見上げながら、その娘はいった。  さっき遠目で見たときより、さらに魅惑がうすれた感じだが、小なまいきな、おもしろい鼻をしている。それに、流行の青むらさきの口紅も、このごろの|3−V《立体テレビ》に出てくるスターの卵よりは、よく似あっていた。 「たまたま、あなたが悪い日にいらしたのですわ。その標本でしたら、もちろん戴きとうございます。私どもにとっては大切なものですし、またそれでなければ、あなたに集めていただくお手数を、お願いするはずがありませんもの」 「では、なぜ誰かが受け取りにこないのかね?」 「私が受け取っても、よろしゅうございますわ」娘はおだやかに提案した。「まちがいなく、責任者の手に渡すことは、お約束しますけれど」  ペイジは、かぶりを振った。 「こうお預けを食ったあとじゃ、おことわりだね。私は、きみの会社に頼まれたとおりのことをやった。その結果を見せてもらおうと、ここへ来たのだ。私は、あらゆる寄港地で土壌を採集した。ときには、たいへんな手数もいとわずにだよ。私は、たくさんのそれを郵送した。今日のは、その最後の三つというわけだ。この土くれが、どこからやってきたものか、ご存じかね?」 「申しわけありませんが、ちょっと思い出せなくて。とても忙しい日だったものですから」 「そのうちの二つは、ガニメデからだ。あとの一つは、木星第五衛星、『 橋《ブリッジ》 』設営隊の宿舎の影からとった。両方の衛星とも、標準気温は華氏零下約二百度だ。その凍りついた地面に、ツルハシをふるうのが、どんなものかわかるか? ──宇宙服を着こんでだよ。だが、私は頼まれたことを果たした。いまの私は、なぜフィッツナー商会が、土くれを欲しがるのかを、知りたいのだ」  娘は肩をすくめた。 「そのわけは、地球を出発されるまえに、お聞きになったはずですけれど」 「聞いたとして、それがどうなんだね? きみたちが、土からいろいろの薬品を作り出すことは、知っているさ。しかし、標本を手に入れてやった人間なら、その精製の過程ぐらいは、見せてもらう権利があるのじゃないかな? かりに、私の送ったなかから、フィッツナー商会が、新しいなにかの特効薬をとり出したとしてみたまえ──私だって、自分の子供たちに言い伝えてやれるだけの説明を、聞いておきたくもなるじゃないか」  自在ドアがパタンと開いて、例のガッシリした男の、あいそのいい顔が覗いた。 「アボット博士は、まだ見えないかね、アン?」彼はいった。 「まだですわ、ミスター・ガン。お着きになりしだい、お知らせします」 「だが、私のほうは、あと九十分は待たしておくつもりらしいな」ペイジが、ピシャリといった。  ガンは、彼の襟についた鴛じるしの大佐章と、ポケットの上にピンで止められた翼の生えた新月形のバッジを、しげしげと見くらべた。 「これは失礼しました、大佐、だが、今日はちょっととりこんでおりましてね」ソロソロと微笑をうかべながら、彼はいった。「例の宇宙からの標本を、届けにきて下さったのですな。明日もう一度ご足労願えれば、喜んでお相手させていただくのですが。今日のところは──」  ガンは、ひとしきり詫びるように下げていた頭を、スイとひっこめてしまった。まるで、二十四時を告げおわったカッコー時計が、一時までさよならをいったようなぐあいだった。  彼のうしろで、ドアが落ちつこうという直前に、かすかな、しかしまぎれもないある物音が、ドアをすかして聞えてきた。ジョン・フィッツナー商会の研究室のどこかで、赤ん坊が泣いているのだ。  ペイジは、目をパチパチさせながら、泣き声が静まるまで、じっと耳を澄ませていた。もう一度デスクに目をやったとき、娘の表情が目に見えて疲れているのがわかった。 「きみ、大したことを頼んでいるんじゃないんだ。知ってならないことを、知りたいというのじゃない。私が知りたいのは、私の持ってきた土が、どんなふうに処理されてゆくかだけさ。ただの好奇心ってわけだよ──何億マイルかの旅の総決算としての。骨折りの駄賃に、それぐらいの権利はあるのじゃないか?」 「どちらともいえませんわね」  娘も負けていなかった。 「試料は欲しいですわ。それに、木星系からとなると、ひとかたならぬ興味が湧くことも事実です──なにしろ、手に入るのも、はじめてですから。でも、そうかといって、それから有用なものを発見できるとは限りません」 「そんなものかね?」 「ええ。ラッセル大佐、土の見本を持っていらっしゃったのは、あなた一人ではありませんのよ。たとえこれが、火星軌道の向うからきた最初の試料としても。実のところ、月より以遠からの試料を届けて下さったのは、あなたでまだ六人目なのです。でも、ふつうの場合、どんなにたくさんの試料がここに集まるものかは、ご存じないようですわね。私たちは事実上、あらゆる航宙士、再臨教《ビリーバー》の宣教師、商用出張者、探険家、海外特派員などに、その行くさきざきで土壌の見本を集めてもらうようにたのみました。アスコマイシンを発見するまでには、火星からの数百例、月からの約五千例を含めた、ざっと十万種類もの土を選別せねばならなかったのです。それでいて、アスコマイシンを生み出す生命体がみつかったのは、どこだと思います。私たちの派遣員が、ボルチモアの曳き売りの車から拾い上げてきた、熟れすぎの桃の皮からなんですわ!」 「なるほど」ペイジは、不承不承にいった。「ところで、アスコマイシンって?」  娘は、デスクに目を落すと、紙きれの置き場所を変えながら答えた。 「新しい抗生物質ですわ。近いうちに、市販されます。でも、ほかの薬でも、それと同じことがいえますのよ」 「わかった」  そういってはみたものの、ペイジには自信がなかった。フィッツナーの名が、およそ縁もゆかりもない人間の口からとび出すのを、彼はこの何ヵ月もの宇宙生活のあいだに、再々耳にしている。その音に聞きなじみができてからわかったのだが、どの惑星でも、まず三人に一人は、この会社にたのまれて試料を集めているか、またはそうした人間の知り合いなのだった。  宇宙士仲間では、口伝えの噂だけが、信頼のおける唯一のコミュニケーションの媒体だが、それによると、この会社は重要な政府の仕事をやっているということだった。もちろん、それじたいは、この国防時代にあっては、べつにふしぎではない。しかし、ことフィッツナー商会に関しては、それ以上の特別な何か──おそらく、あの歴史的なマンハッタン計画に劣らぬ規模と、少くともそれに倍する機密性をもった何か──があるらしいことが、ペイジの耳にした範囲でもうかがえたのである。  ドアが開いて、ガンが、揉み手をしながら現われた。 「まだかね?」と、娘にたずねてからいった。「どうやら、まにあいそうもないな。残念だが。ところで、ちょうど手がすいたのですがね、そちらの──」 「ラッセルです。ペイジ・ラッセル、陸軍航宙部隊所属」 「これはどうも。では、ラッセル大佐、さきほどのわれわれの失礼を許して頂けるようなら、喜んで社の内部をご案内したいと思いますが。おそまきながら、私はハロルド・ガン、フィッツナー部門の輸出担当の副社長です」 「これは、輸入のほうでしょうかな」  ペイジはいって、土の見本をさしだした。ガンは、うやうやしくそれを受けとると、上衣のポケットにしまいこんだ。 「だが、実験室はぜひ見せていただきたいですな」  ドアの閉まりぎわに、ペイジは、コックリと娘にうなずいてみせた。  内部は、少くとも彼の予想を裏切らなかった。ガンが最初に彼を案内した一続きの部屋では、入荷した試料が分類されて、本実験室へと送られていた。  まず最初に、試料の一定量を、一リットル入フラスコの無菌蒸溜水に溶かし、回転を与えて均質に撹拝してから、何段階かをかけて稀釈してゆく。こうしてできた最終的な懸濁液を、さまざまな種類の栄養源を入れた、試験管の斜面培養基やぺトリ皿に植えつけて、細菌培養器にかける。 「隣りのこの実験室では──ちょうどアキノ博士が留守なので、手を触れることは遠慮していただきますが、ガラス越しでもよく見えるはずです──ペトリ皿や試験管から、新しい一連の培養基への移し変えをやっているのです」ガンが説明した。「さきほどの試料から発見された種々の生命体を、それぞれに独立させて培養する。こうすれば、もしそれが、培養基になにかを分泌した場合にも、そのなにかが汚染されるおそれがないからです」 「分泌といっても、ごく僅かな量なんでしょう?」ペイジはいった。「どうやって、それを検出するのかね?」 「肉眼でですよ、その作用を通してね。あそこに、ペトリ皿が何列も並んでいるのが見えましょう? 中央に白い紙の円盤があって、まわりの寒天へ四本の溝が走っているのが? あの溝には、純粋培養から採取した細菌が一種類ずつ植えてあるのです。もし四本の線に四本とも、細菌のコロニーが鈴なりに繁殖した場合は、紙の円盤の上の培養基に、この四種類の細菌に対する抗生物質が含まれていないわけです。もし一つまたはそれ以上の線が、全く拡がらないか、あるいは他に比べて繁殖が遅れる場合、これは有望です」  つぎの実験室では、円盤法によって選別された抗生物質が、あらゆる種類の危険な細菌と、取り組まされていた。ガンの説明にょると、ここで全体の約九十パーセントが、抗生作用が不活溌であるか、または既存の薬剤と抗生範囲が重複しているかの理由で、ふるいから落されるのである。 「しかし、『不活溌』と一口にいっても、事情によって違うのですがね」と、彼はつけ加えた。「結核やハンセン氏病──ライですな──の病菌に対して、なんらかの作用を示すものは、なにによらず、私たちの関心をひくわけです──たとえ、それがほかの細菌には全然無力であってもね」  効力テストに合降した少数の抗生物質は、つぎに小型の試験工場に運ばれる。ここで、その抗生物質を作り出す生命体を、炭酸ガスを通した醗酵槽のなかで、増殖させるのだ。この泡立った液体の中から、比較的大量の生《き》のままの薬剤を採集し、精製したものを薬学研究室に送って、動物実験を行う。 「たくさんの有望な抗生物質が、またもやここで姿を消すことになります」ガンはいった。「ほとんどのものが、人体に内用──いや、外用さえできないほどの、強い毒性をもっているからです。試験管の中だけでなら、われわれはもう一千回も、ハンセン氏病の桿菌を征服していますよ。ただ、抗生物質が、ライそのものより、その宿っている肉体のほうを、さきに殺してしまうんです。しかし、いったん薬剤に毒性のない自信がもてるか、あるいは、その毒性に比べて抜群の治療効果がある場合には、それはわれわれの手を完全に離れて、病院や開業医の臨床実験に委ねられるのです。それから、私たちのウィルス学研究所がヴァーモントにありますが、ここではインフルエンザやカゼのような、ウィルス性疾患に対する新薬が、テストされています──なにぶんブロンクスのような人口密集地帯で、そういう実験をやるのはぶっそうですからね」 「私の想像していたより、はるかに手のこんだ作業ですな」ペイジはいった。「しかし、手数だけの値うちがあることは、わかります。こういった試料の選別法は、ここで考案されたので?」 「いや、どういたしまして」  ガンはそういって、ニッコリと微笑んでみせた。 「ストレプトマイシンの発見者ワックスマンが、もう何十年かまえに、基礎的な手順を示しているのですよ。その方式を最初に大規模に採用した栄誉さえ、当社のものではありません。それをやったのは、われわれと同業の一社で、始めてから一年たらずのうちに、クロラムフェニコールという、薬効の広い抗生物質を発見しました。これが、ほかの会社にも、その方式を採用しないかぎり、完全に市場から閉め出しを食うだろう、ということを認識させたのです。それがよかったのですよ。でなければ、これまで試験された中でもっとも万能的な抗生物質の、テトラサイクリンも、発見されなかったでしょうから」  廊下の奥で、ドアが開いた。赤ん坊の泣き声が、まえよりずっと大きく、そこから聞えてきた。一年やそこらも練習をつんだ幼児がやるような、切れ目のない泣き声ではなく、新生児の、息の短かい、「オギャア、オギャア、オギゃア」だった。  ペイジは、グッと盾を上げた。 「あれも、実験動物の一つですか?」 「ハ、ハ」  ガンは笑った。 「私たちがいかに商売熱心でも、そりゃあ、大佐、限度がありますよ。いや、じつは技術者の一人が、子供を預けるところがなくて頭を抱えていましてね、ほかにいい方法がみつかるまで、彼女に子供連れで働くことを許可したんです」  とっさにしては、うまい言いぬけを考えたものだと、ペイジも認めないわけにはいかなかった。これだけの話が、なんのつっかえもなしに、まるで相場の速報テープのように、とび出したものである。宇宙での人生を選ぶまえに、五年間の結婚経験をもっているペイジが、病院の育児室を卒業できるだけの日を経た赤ん坊の泣き声と、生れてまだ何日目かの赤ん坊のそれを、聴きわけることができたとしても、それはガンの落度ではなかった。 「しかし」と、ペイジはいった。「赤ん坊を置くには、いささか危険な場所じゃないんですか? ──これだけいろいろの病原菌や、有毒な殺菌剤がゴロゴロしていては?」 「ああ、それでしたら、必要な対策は講じてあります。事実、ここのスタッフの年間罹病率は、同じ規模の産業工場と比較しても低いのですよ。われわれが、その間題をよりよく認識している賜物ですな。ところで、ラッセル大佐、そのドアの向うが、いよいよ最終段階、つまり、これまでのところで効果を実証された薬剤を、大量生産する本工場なんですがね」 「ぜひ拝見したいものだ。現在、アスコマイシンは生産中なのですか?」  こんどはガンも、新しくかき立てられた興味を隠そうともせずに、鋭く彼を見かえした。 「いや、まだ臨床実験の段階です。ラッセル大佐、伺いたいが、どうしてそれを──」  こいつは弱った質問だぞと、遅まきにペイジが気づいたそれは、ついに問われずじまいだった。ハロルド・ガンの頭上で、スピーカーが、こう告げたのである。  「ミスター・ガン、アボット博士がお見えになりました」  ガンは、ちょっぴり儀礼的な悔みをうかべて、そのドアにクルリと背を向けた。 「約束の人がきたようです。残念ながら、ご案内を中途で打ち切らねばならないようですな、ラッセル大佐。あなたもご覧になったかもしれませんが、今日は私どもの施設にたいへんな数のお歴々が集まっておいででしてね。あと、アボット博士が見えしだい、重要会議が始まることになっていたのです。では、はなはだ勝手ですが──」  ペイジは、「おかまいなく」というほかなかった。数秒後には、ガンは、いともスムーズに、彼を出発点の応接室へと運び終っていた。 「ご希望どおりのものを、ご覧になりまして?」受付の娘がきいた。 「まずまずね」ペイジは、考え深げに答えた。「ただ、見たいものが、途中ですり変ったとはいえるが。ミス・アン、一つお願いがあるのですがね。今夜、いっしょに食事をしていただけないだろうか?」 「おことわりしますわ」娘はいった。「宇宙士のかたには、これまで何人もおつきあいしましたし、いまさら珍しくもありませんのよ、ラッセル大佐。それに、ミスター・ガンから聞きもらされたことを、私があなたに喋るわけもありませんから、私のためにお金と休暇をむだ使いなさることはありませんわ。じゃ、さよなら」 「おっと、あわてなさんな」ペイジはいった。「これは取引なんだ──それとも、なんなら、面倒ごとを起すつもりだ、とでもいおうか? 宇宙士連中につきあいがあるのなら、彼らが、なかなかのきかんぼうなことは、ご存じでしょう──この地上を離れたことのない、堅気の連中とはわけがちがうことを。といって、あなたのやさしい笑顔がほしいのでもない。情報を、私はほしいんだ」 「興味ありませんわ」娘が、いった。「いくらおっしゃっても、むだよ」 「マッキナリーが来ている」ペイジは静かにいった。「それに、ワゴナー上院議員、ほかにも何人か、権力者が来ていたようだ。かりに私が、そのうちの一人をつかまえて、フィッツナー商会が、人間の生体解剖を行っている、と訴えたとしたら?」  それだけいったペイジに、娘の指の関節が、ギュッと白くなるのが見えた。 「ご自分がなにをおっしゃってるのか、ご存じないのね」彼女はいった。 「そこだよ、私が文句をいいたいのは。これは真剣な話だ。ミスター・ガンが、ひたすら努力したにもかかわらず、私から隠しおおせなかったなにかが、ここにはある。そこで、私は関係筋に、私の感じた疑惑を打ち明けてみようと思うのさ──おそらく、フィッツナー商会は、捜索の憂きめに逢うな──それとも、ここはいっそ、ヒラメのパプリカ・バター焼きを、私とつきあいませんか?」  そのお返しに彼女がよこしたのは、ほとんどまじりけのない、憎悪の視線だった。どうやらそれが、せいいっぱいの返答らしい。  その表情は、彼女にはかいもく似合わなかった。実のところ、彼のおぼえている誰よりも、彼女はデートをするにふさわしくない娘に見えるのだった。なぜ、彼女のために、金と休職をむだ使いせねばならないのか、こっちが聞きたいぐらいである。とにかく、二〇一〇年度の国勢調査によれば、五百万人の女性余剰人口があるというではないか。少くとも、そのうちの、四百九十九万九千九百五十人は、目の前のこの娘ほど強情ではないだろうし、器量もわるくないはずだ。 「けっこうですわ」だしぬけに、娘は口をひらいた。「あなたの生れながらの魅力に、私は足もとをさらわれたわけね、大佐。念のためいっときますけど、私の承諾した理由は、ほかにはありませんのよ。あなたのおどし文句に挑戦して、生体解剖うんぬんがどこまで通用するものか、拝見するのも一興でしょうが、個人的な楽しみのために、会社を巻きぞえにしたくはありませんわ」 「それはありがたい」  そういいながら、ペイジは、彼のおどし文句が事実上挑戦を受けたに等しいことを、落ちつかない気もちで感じていた。 「じゃ、きみを迎えに──」  急に、二つのドアの向うでの話し声が高まったのに気づいて、彼は言葉を切った。ホースフィールド将軍が、ガンにつきそわれるようにして、応接室へとび出してきたのは、それから一瞬後だった。 「もう一度だけ、はっきりいわせてもらおう」と、ホースフィールドはがなりたてた。「新年度の予算の要求までに、いちおうの結果が出なければ、この全計画が軍の管轄下に置かれるものと、覚悟したまえ。それでなくとも、国防総省《ペンタゴン》の目に、瑣末な非能率性とインテリ好みの理論倒れと映るようなものが、まだまだここには払拭されておらんのだ。かりに、国防総省《ペンタゴン》がそんな報告をしてみろ、大蔵省がどんな動きをするか──それとも、議会が、どんな態度をとるか? 経費の削減だ。ガン、わかっとるか? 裸同然にまで、経費を削減されるのだぞ!」 「閣下、いまだって、経費は裸同然に切れつめられているのですよ」  ハロルド・ガンの口調は、穏やかなわりに、なかなかの決意がこもっていた。 「あの薬剤に関しては、あらゆる点で満足できた上でなければ、一グラムたりとも生産はできませんな。それ以外のコースは、自殺に等しいですよ」 「わしが、きみたちの味方だということは、わかるな」  ホースフィールドの声から、いくらか険悪さがとれた。 「その点では、アルゾス将軍も同じだ。しかし、大衆に理解できようと、できなかろうと、われわれのいまやっておるのは、戦争なのだからな。とくに、この薬物兵器のような、刺激的な問題となると、常識的な──」  さっき一言し終ったときに、おそまきながらペイジの存在に気づいたガンは、それ以来ホースフィールドに目くばせをしつづけていたのだが、ここへきて、突然それが相手に通じた。将軍は、クルリときびすを廻らすと、ペイジを睨めつけた。  いまさら敬礼をしてもはじまらない。氷のような沈黙をよそに、どうやらガンだけは、ペイジに対して職業的ないんぎんさの片鱗を、その態度にとどめている──しかし、ペイジには、とくに娘との会話があのような成行きをたどったいま、その扱いに値するだけの自信は、とうていなかった。  さて、ホースフィールドだが、彼はたったの一睨みで、ペイジを『許可なき者』の範疇に含めてしまっていた。ペイジは、その分類のなかに、この上一秒たりとも留まる気もちはなかった。さっさと逃げ出すにかぎる。下手をして、氏名を聞かれでもしたら、さいごである。 「──では八時に」  ボソボソと、そう娘に呟いておいて、ペイジは、いとも不面目にフィッツナー商会の応接室を退出すると、いちもくさんに足を早めた。  その夕方、ひげ剃りの鏡に向いながら、彼はこう考えていた。  どうやら、頼まれもしないことに首をつっこんだおかげで、おれは、こまごました屈辱の連続に、さらされる羽目になったらしいぞ、と。いや、もっと悪いかもしれなかった。これは明らかに、最高度の機密なのだ。ということは、下っぱの一のぞき屋はもちろん、それを知る資格を与えられた人間にとってさえ、致命的なものになり得る可能性を意味している。  この防衛の時代には、西欧でもソ連でも同様に、知ることが、すなわち疑われることだった。過去五十年のあいだに、こと『機密保全』の取扱いに関するかぎり、この二つの巨大な複合国家は、しだいに類似性を深めてきたのだ。  あの娘に、木星の『橋』のことを話したのも、まちがいだった──なぜなら、『橋』の存在は誰もが知っているものの、それのことを気軽な調子で話したりする人間は、たちまちのうちに、口の軽い危険分子というレッテルを貼られてもしかたがないからだ。とくにその話し手が、『橋』に関する情報に手づるがあったにしろ、なかったにしろ、ペイジのように、実際しばらくのあいだでも木星系に駐屯した男なら、なおさらのことである。  そして、とくにその話し手が、ペイジのように、実際に『橋』の設営隊と言葉をかわしたことがあり、辺境計画で彼らといっしょに働き、そのうえ『橋』の指揮者チャリティ・ディロンと話しあったことまで知られていては、なおのことだ。おまけに彼が、軍隊の位階をもっているとなると、ますますいけない。なぜなら、機密文書を議員に売りつけるというのが、正規の進級期間をとび越えて出世しようという輩の、伝統的な手段だからだ。  それに、なににもまして、この男が、なんら特命のないのにもかかわらず、べつの新しい機密計画をかぎ廻っていたことがわかった日には、これはひどい。  どうしてまた、こんな危険に彼は首をつっこんだのだろう? 事のあらましさえ、彼はのみこめていないのである。  彼は、およそ生物学者ではない。外部の目には、フィッツナー計画も、単に抗生物質の研究計画の一つ、それもわりに月並な計画の一つだと、見られているのだ。なぜ、ペイジのような宇宙士が、わざわざローソクの炎に近づいて、その翼を焦がしたがるのか?  紙タオルで、脱毛クリームを顔から拭きとった彼は、凹面鏡でフクロウのように拡大された自分の目をのぞきこんだ。しかし、歪められてはいるものの、それは彼自身の映像でしかない。  なんの解答も与えてくれるはずはなかった。 [#改ページ]     2 木星第五衛星 [#ここから2字下げ]  ……なによりも、禁断の領域に突入するという不敵さが、心を捕えるのだ。生命の歴史には、少数ながら、そうしたエピソードが綴られてきた。われわれには、孤独を思い知らせるのも、それだ。いわば、新しい通路、新しい文化の通路に踏み入ったのである。そこには、われわれの前を行くなにものの影もない。その中では、われわれはまったくのひとりぼっちだ。ぶきみなほど孤独だ。顔を見合わせて、われわれはこう呟く、「二度と、こうしたことは不可能だろう」と。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──ローレン・C・アイズリー    警報が響いたのは、悲鳴のような旋風《トルネード》が、『橋』を揺すぶっているときだった。全構築物が、身ぶるいし、よろめいている。それが普通なのだ。  木星第五衛星のロバート・ヘルマスは、ほとんどそれを気にもとめなかった。旋風が『橋』を揺るがすのは、まいどのことなのである。この惑星ぜんたいが、旋風や、それ以上に悪性のもので、すっぽりくるまれているのだ。  主任用制御盤の走査器は、事故の発生が一一四区であることを、示していた。『橋』の最北西端である。『橋』は、そこでとぎれ、結晶アンモニアとメタンの猛り狂う雲だけが、三十マイル下の、目に見えない地表とのあいだを隔てている。この地域の一括的な展望──もしそんなものが可能だとすればだが──を示してくれるような、超音波フォーンの『眼』は、まだこの末端部に据えられていない──なぜなら、『橋』の両端は、未完成のままだからだ。  ため息をついて、ヘルマスはビートル・カーをスタートさせた。ナンキン虫のように平べったい腹をした小型車は、ギッシリと並んだ十本の縁つきレールで、『橋』の表面につかまりながら、ボール・ベアリングの受溝の上を、ゆっくりと滑り出した。そうしていてさえ、車のへりと橋床のあいだへ、サイレンに似たおそろしい叫びを上げて、水素の突風が襲ってくる。  弯曲した屋根に降りかかるアンモニアの滴《しずく》の衝撃は、弾丸の雨のような重みと、耳を聾する響きをともなっていた。事実、ふつうの雨滴より、それほど大きくないその滴も、ここ木星の二倍半の重力のもとでは、ほとんど弾丸に近い重さを備えているのだ。鈍いオレンジ色の閃光を伴った爆風が、またしても起って、車と橋床と、それに『橋』そのものを、荒々しくこづき廻す。  ほんの小さな衝撃波でさえ、この惑星の信じられないほど濃密な大気の中では、破裂寸前の戦艦の装甲を通過するようなかっこうなのである。  こうした爆風は、だが、はるか下の地表で発生しているのだった。したがって、『橋』の構造を烈しく揺すぶりはするものの、その機能には、ほとんど障害を及ぼさない。そして、ヘルマスの身に危害の及ぶことは、その道理から考えてもありえなかった。  なぜなら、ヘルマスは、実際に木星にいるわけではないのだから──しかし、そう考えることが、ますますむずかしくなってゆく近ごろなのである。木星には、ひとりの人間もいない。かりに、重大な損傷が『橋』に生じたとしても、修理はおそらく絶望だろう。それを修理する人間が、木星にはいないのだから。あるのは、それ自身が『橋』の一部分である機械だけだった。 『橋』を作り上げているのは、『橋』自身の手なのである。木星の闇のわだつみの中に、巨大で孤独な、この無生物は、しだいに生長しつつあった。  それは、考えぬかれた計画だった。ヘルマスの視点──ビートル・カーの走査器──からは、ほとんど、なにひとつ見えないといっていい。軌道が橋床の中央を通っているのと、この暗黒と間断ない嵐のなかでは、超波長で補強された視力をもってしても、二、三百ヤードの見通しが、せいいっぱいだからである。  誰ひとりとして、その全貌を眺めることはないであろう、この『橋』の幅員は、十一マイル。『橋』の設営隊にとって、まるで蟻の目にうつる摩天楼のように不可解なその高さは、三十マイル。建設計画には、故意に明記を省かれたその長さは、現在五十四マイル、しかもなお、しだいに伸びつつある──魁偉きわまる構築物、そして、それを作り上げた、かつて前例のない工学原理と方法、材料と工具……。  前例がなかったのも道理、木星以外では、それは不可能だったにちがいないのだ。たとえば、『橋』の大部分を占めているのは、氷──華氏零下九十四度の気温と、百万気圧の圧力下で、すばらしい建築材料に変貌した氷なのである。そうした環境条件では、最良の建材用スチールも、脆いポロポロの、滑石に似た粉に、そしてアルミニウムも、ほんの一叩きで割れる、透明な物質に変化してしまう。ところが、水は逆に、稠密で白色不透明な物質、強い応力によって歪みはするが、地球の全都市を廃墟に代えるような衝撃でも加わらないかぎり、壊れることのない、氷Wに変化するのだ。  昼夜の別なしに、『橋』を維持し、拡張してゆくために、数百万メガワットの動力が必要だとしても、懸念するには及ばない。木星では、つねに時速二万五千マイルにも達する強風が吹きつのつており、これまでの四億年以上を吹き通したと同じように、これからも吹きやむことはあるまい。動力に関しては、じゅうぶんなのである。  故郷《くに》では、別の『橋』を土星に作ろうという話のあることを、ヘルマスは思いだした。そのあとは、たぶん海王星にも手をつけるだろう、というのである。しかしそれは政治家たちのいったことだ。 『橋』は、木星大気圏の可視表面から、ほとんど五千マイルも底にある──これは、ある意味では幸運といってもいい、なぜならその大気の最上層の気温は、『橋』のある下層より、まだ華氏にして七十六度も低いからだ。それだけの差でさえ、すでに『橋』の機構は、けっこう操作困難なのである。  土星の大気層の底は、かりにラジオゾンデによる観測数字が信頼できるものとすれば、望遠鏡で見える土星の雲海の頂上から、じつに一万六千八百七十八マイルの下にあり、そこでの気温は、華氏零下二百三十八度に達する。こうした条件下では、高圧相の氷でさえ、それ自身より軟い工具では作業のできない、固着したものに変るだろう。  それが、海王星ともなれば……。  ヘルマスに関するかぎり、木星だけで、いいかげん苦労の種なのであった。  ビートル・カーは、『橋』の末端が視界に入ると、自動的に停止した。ヘルマスは、車の『眼』を最大透視強度にしぼって、近くのI形ビームを点検にかかった。  巨大な棒材は、櫛の歯のように林立している。『橋』の構成分子の重量はいわずもがな、棒材自身の重量を支えるためにも、そうする必要があったのだ。ここでの重力は、地球のそれに比べて、二倍半も凄まじいのである。  その荷重の下でさえ、くもの巣のような橋桁は、ハープ弾きの指を思わせる疾風に操られて、小きざみに捩れ、震えていた。もともと、それを狙った設計なのだが、いつ見ても、ヘルマスは不安をそそられずにいられない。なにひとつ心配することはない、と彼にいい聞かせるのは、ひとえに習慣の力だけだった。  彼は、ビートル・カーを、オートマチックから手動操作に切りかえ、ジリジリと前進させた。ここは、まだ一一三区であり、『橋』自身のホイートストーン型走査システムが──木星上では、真空状態を保つことが不可能なため、『橋』のどこにも電子工学的装置は設けられていない──異常は一一四区にあることを教えているのだ。その区域との境界線は、まだたっぷり五十フィートは向うだった。  それは、不吉な知らせだった。  ヘルマスは、神経質な手つきで、赤い顎ひげをポリポリと掻いた。どうやら、胸騒ぎするだけの理由はあったらしい──『橋』での作業のとき、いつも彼にまとわりつく、あの根深い、心をすり減らすような抑圧ではない、現実の警報が。ビートル・カーを、異状発生部位から、一区間も手前で停止させるほどの損害が、なまはんかのものであるはずはないのである。  ひょっとしたらこれこそ、『橋』の責任者に任命されてからというもの、たえず彼の行く手にひそんでいるように思えた、れいの災厄ではないのだろうか──『橋』自身では修理が及ばず、木星から一人の敗残者を、故郷に送り返す羽目になるような、そんな災厄では?  二次回路が接続し、ビートル・カーは、ふたたび橋床に尻を落ちつけた。それを運んでいたボール・ベアリングが、レールからの磁力で凍りついたのだ。ヘルマスは、荒々しく、電磁コイルへの入力を断つと、その扁平な車輌を、危険ラインを越えて、一インチまた一インチと押し進めた。  ほとんどそれと同時に、車はそれとわかるほど左に傾き、車体と橋床の間を過ぎる風の唸りが、何オクターブか上った。無音の口笛の音域のまわりをサイレンのように気味悪く上下するそれで、ヘルマスは、歯の浮くような感じを受けた。ビートル・カーそのものも、橋床の表面と、レールの縁とのあいだを、目ざまし時計の槌のように、ガタガタと上下しているのだった。  行く手に見えるものは、水平に突進する雲と疾風のほか、やはりなにひとつとしてない。橋の長さいっぱいを駈けぬけたそれは、闇のなかからビートル・カーの扇形灯の中に立ち現われふたたび闇のなかへと立ち去ってゆく。『橋』と同様、いかなる人間の目にも映じることのないであろう地平線にむかって。  三十マイル下では、集中砲火のような水素爆発が、依然続いている。明らかに、地表では、ただならぬなにごとかが起っているのだ。ヘルマスとしても、ここ数年来、これほどの烈しい火山活動は耳にしたことがないのである。  ひときわ重々しい轟音がとどろき、オレンジ色の焔と煙霧が、長い尾を奔馬のたてがみのように水平に拡げて、煮えたぎる大気のなか、ちょうどヘルマスの真正面へと降り注いできた。本能的に目をつむった彼は、管制盤からのけぞった。その焔の流れが、それをとり巻くガスの渦と嵐よりは、幾分か冷たくないだけにすぎず、もちろん『橋』に損害を与えるはずがないほど低温であることは、わかっていながら。  その瞬間的な閃光で、だが、彼はなにものかを見たのだった。上を向いて捩れた幾つかの影、ある形態をととのえてはいるが、明らかに未完成のそれが、水素の奔流の不気味な照明のなかで、うごめくシルエットを。 『橋』の末端部なのだ。  破壊されている。  ヘルマスは、われしらず呻きをあげ、ビートル・カーを後退させた。閃光は褪せた。焔は空をよぎって、三十マイル下の、猛り狂う液体水素の海へと呑まれていった。ビートル・カーが、ふたたび危険ラインをまたいで一一三区に入ると同時に、走査器はカチッと満足そうな響きを上げた。  ヘルマスは、車体を車台の上で百八十度回転させて、消えてゆくオレンジ色の爆布に背を向かせた。いまのところ、これ以上、彼が『橋』のためにやれることはなさそうだった。管制盤の上で──その幽霊のような反射像が、スクリーンの『橋』上の光景に、重なって映っている──『格納』と書かれた青いボタンを探し当てると、荒々しい手つきでそれを押し、ヘルメットを脱ぎ捨てた。  従順に、『橋』は、彼の視野から消失した。 [#改ページ]     3 ニューヨーク [#ここから2字下げ]  苦痛の閾の片側に定住する人間には、その反対側に定住する人間とは別種の宗教が、必要とされるのではないだろうか? [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──ウィリアム・ジェームズ    その娘──彼女のフル・ネームが、アン・アボットであることを、ペイジは知った──のサマー・スーツ姿は、まずまず戴ける眺めだった。左の衿に、小さな人造宝石を原子に見立てた、テトラサイクリンの分子模型が光っている。  いまの彼女は、しかし、フィッツナー社の応接室でのときより、さらに殻を固く閉ざした態度だった。ペイジ自身、他愛のないお喋りは、とんと不器用なたちときている。あからさまで執拗な、アンの敵意のまえに立つと、それでなくとも乏しい彼の社交的才能は、涸れた泉のように、地下に埋没してしまうのだった。  どのみち、五分後には、話と名のつくものが、不可能にもなった。ペイジの選んだレストランへの道筋の、フォーリイ広場で、まの悪いことに、再臨教徒《ビリーバー》の伝道集会とぶっつかったからである。ペイジが、賜暇手当の四分の一近くをはたいて雇ったキャディラック──商業用の石油燃料を消費するタクシーは、いまでは、金持連中に許された、ときたまの贅沢でしかない──は、アッというまに、呻き、揺れ動く群衆のあいだに、はまりこんでしまった。  音響の大半を製造しているのは、プラスチック製の、大きな前舞台だった。その上で、ひとりの平伝道者が、聴きわけのつかないほど大きく増幅された声で、聴衆に説法を垂れている。ポータブル・テープレコーダー、パンフレットと雑誌の袋、蛍光塗料で書かれたプラカード、罪びとたちの署名を持つ告解書用紙、緑のべーズ織の浄財入れ、こうしたものを持った信者たちが、通行人とほどよく混ざり合い、ほとんど十五フィートおきに、黒い蛇のような、圧搾空気のホースが、道を横ぎっているのだった。  キャディラックが二度目のブレーキをかけたとき、後の窓に差しこまれたホースのノズルから、一つなぎの虹色の泡玉がとびだして、ペイジとアンの鼻さきへ、まともに流れてきた。気泡が、一つずつ破裂するにつれて、ほんのりとした香り──ことし、教徒たちが採用した、『天上の歓び』なる香水らしい──と、同時に甘い声が聴えた。   ──きょうだい──たち──よ──  ──み光り──に──触れ──ました──か?──  ペイジが、なんのかいもなく、風車のように腕をばたつかせるのを、シートの背にもたれたアン・アボットは、軽蔑したような微笑で、おもしろそうに眺めていた。最後の気泡には、言葉の代りに、むせかえるような香水だけが、詰められてあった。われしらず、アンの微笑が深まった。その香水には、強力な陶酔作用に加えて、なにがしかの催淫作用も含まれていたのである。どうやら、ことしの教徒たちは、以前にもまして、手段を選ばない方針に徹底したらしいのだった。  運転手が、ふいにキャディラックをスタートさせた。なにごとが持ち上ったのかを、まだペイジが掴めないうちに、ふたたび車は止った。ハンドルに隣りあったドアが、グイとこじ開けられ、クモの肢に似た四本の腕が、運転手を手ぎわよく座席からひき離して、外のアスファルトへ、四つん這いに安置した。 「恥じよ! みずからを!」ロボットは、わめき立てた。「罪びとよ、悔い改めよ! さらば赦されん!」  なにかの合成ガスを詰めたらしい、薄いガラス球が、車のそばで破裂した。  不運な運転手に加えて、そのまわりに群がってきた野次馬──もちろん、女性がほとんど──までが、発作的にポロポロと涙を流しはじめた。 「悔い改めよ!」  いつからともなく、温かい夕暮に忍び入っていた。 「あァあァあァあァあアアア」の合唱をバックに、ロボットの声が、くり返した。「悔い改めよ、審きの日は近し!」  いわれのない、涙っぽい自己憐憫で窒息しかかって、仰天したペイジは、へし折るべき鼻柱を求めて、キャディラックをとびだした。だが、生きた再臨教徒《ビリーバー》のすがたは、どこにも見あたらない。手段のいかんを問わず、福音を広めることに徹した伝道者たちは、改宗のすすめが反感を招きがちなことを、何十年かまえに悟っているのだった。そして、まにあうかぎり、個人的なセールスを、機械化戦術に置きかえていたのである。  彼らの機械も、また、学ぶことを強いられたのだった。襲いかかるペイジから、セールス促進ロボットは、ゆっくりと後退した。自己保存本能が、植えつけられているのだ。  救出されたキャディラックの運転手は、いまいましそうに鼻をかんでから、ふたたび車をスタートさせた。ディミトリ・ティオムキンの作品からそっくり拝借したような連結楽句を無限にくりかえす、言葉のない合唱も、しだいに遠ざかり、さっきの平伝道者の声だけが、消えかかった無個性的な音楽に重なって、ガンガンと響いてきた。 「わたしは告げたい」  拡声装置の芝居気たっぷりな呻きは、A・E・ハウスマンの詩を読み上げる牝の河馬そっくりだった。 「わたしは告げたいのです、この世界、この世界のすべてが、いまや終末に、しかも急速な終末に来ていることを。思い上った増上慢から、人間は、星をその軌道からねじ曲げようとさえ試みております。しかし、星はこれ、人のものならず、おのれの所業を悔いる日が、必ずや至るでしょう。ああ、空《くう》の空なるかな、すべて空なり(伝道の書 五・796)。かつて、バベルに、天に達する塔を築いたごとく、いままた人間は、木星に巨大な橋を築こうとする試みを、敢てなしております。しかし、ひっきょうは空《くう》、このよこしまな傲りと挑戦は、やがておのれの上に災厄をもたらすでありましょう。汝の虚栄を打ち毀《こぼ》て、(エズラ書 八十一・99)しかり、打ち毀《こぼ》つべきなのです。傲慢に終止符を打たしめよ、されば平和は訪れん。愛を蘇らしめよ、さらば理解は生れん。みなさん──」  ここで、広場の偽装爆弾化への、信者たちの度を越した熱心さが仇となって、伝道者のつぎの言葉は、キャディラックの三人に関するかぎり、完全に断ち切られることになった。車が、またも新しい引き金の上を通り越えたらしく、目の眩むような、バラ色の閃光が爆発したのである。  ペイジが視力をとりもどしたとき、車はまるで宙天に浮んだぐあいで、本ものの天使が、まわりを厳かに羽ばたいているのだった。ハモンド・オルガンの |人 声 音《ブオックス・ヒューマナ》 が、雲のそこかしこで啜り泣きしていた。  ペイジの想像したところ、教徒たちは、おそらく超音波的なパルスを使って、彼が泡玉の襲来を防ぐために上げた窓ガラスを一時的に結晶化させ、そして、この結晶ガラス面に、偏光紫外線で立体ヴィデオテープを映写したものらしい。『天使たち』が動くにつれて、奇妙なぐあいに色のかわるのも、普通の窓ガラスの中の、蛍光物質の不均一な分布ということで、説明がつくのだった。  映像の作動方法の見当がついたところで、この新しい遅延に対するペイジの怒りは、和らぐわけではない。しかし、幸いなことに、このトリックは、キャディラックのほうにも対策のできている、昨年の信仰集会《リバイバル》からのむしかえしだった。  運転手が、ダッシュボードのなにかをいじくったとたん、甘ったるいシーンは、讃美歌ごと消失した。車は、人波にできた割目を、すばやくかいくぐり、つぎの瞬間、広場は後方に去っていた。 「フウッ!」  ようやくペイジは、シートに背をもたせかけた。 「タクシーの溜りに、旅行保険の販売機が置いてあったわけが、いまにしてわかったな。以前、私が地球を離れたころには、再臨教徒《ビリーバー》などあまり目立たなかったのに」 「いまでは、十人寄れば、中の一人は必ず信者ですわ」アンがいった。「そして、あとの九人のうち、八人までが、宗数はこりごりだというでしょう。でも、ああした信仰集会《リバイバル》の中にまきこまれてみると、現代の人間は信仰を失ったなどと書き立てられる評言が、ちょっと信じにくくなりますわね」 「私は、そうは感じなかったな」ペイジは、考えこむようにいった。  どうひいき目に見ても、軽い世間話からは遠いが、彼にしてみれば、こうした内容のある話のほうが、はるかに楽しいのだから、この雪どけは願ってもないありがたさだった。 「私自身、無宗教な男だが、識者たちの言ってる『信仰』は、再臨教徒《ビリーバー》のような、絶叫型のそれとは違ったなにかだ、と思いたい。絶叫型の宗教ってやつには、根本的に、セールスマンの強化合宿みたいな印象しか受けられないんですよ。連中の儀式や態度が攻撃的なのは、連中自身が、ほんとうにその教えを信じていないからじゃないか、とね。本ものの信仰は、われわれがめったに気づくことのないほど、この世界の一部分になりきっているものなんだ。そして、形の上からは、必ずしも宗教的であるとはかぎっていない。たとえば、数学だって、それを知っているものにとっては、一つの信仰が基盤なのだから」 「わたしはまた、信仰のアンチ・テーゼが、それの基盤なのだとばかり思ってましたわ」  アンの口調が、ちょっと冷たくなる。 「その分野での経験が、おありでいらっしゃるの?」 「若干はね」  ペイジは、腹を立てたふうもなかった。 「私がテンソルを知らなければ、月の公転軌道の外での、宇宙船操縦も許されなかっただろうし、つぎの昇進を期待するためには、スピノル微積分まで心得ておく必要があるのですよ──それは、すませたが」 「まあ」と、アンはいった。  いささか、毒気を抜かれた声だった。 「さきを、うかがいたいわ。よけいな口をはさんで、ごめんなさい」 「いや、口をはさまれて当然でしょう。たとえが、よくなかった。私の言いたかったのは、数学と現実の世界とに、なにかの関連性があると考える、数学者の信念そのものが、一つの信仰だ──証明はできないが、数学者はそれを非常に強く感じるものなんだ、ということです。もっとも、その点に関してなら、まるきり無宗教な人間の抱いている、彼の五官の示すところに対応した現実の世界が存在する[#「存在する」に傍点]、という信念だって、やはり証明できるものじゃない。これだけは、ジョン・ドオ君も、ピカ一の物理学者も、信仰でゆくよりしかたのない問題なんだ」 「ただし、その信念を祭り上げるような儀式は、やらないってわけですわね」アンが、つけ加えた。「そして、七日目ごとに、それを再認識させてくれるような、専門家の養成も、してはいない、と」 「そのとおり。同じように、かつてのジョン・ドオ君は、西欧の基本的宗教が、現実の世界になにかの関連性をもっており、その証明はできないにせよ、効用はあると感じていたものだった。そして、これには共産主義も含まれていた。結局のところ、それは西欧で生れたものなのだから。ところが、いまのジョン・ドオ君は、そんな感じかたをしなくなっている──おそらく再臨教徒《ビリーバー》についても、これは同じで、でなければ、連中もあんなふうに喚き立てはしないだろう。そうした意味でいえば、私の見たかぎり、いくばくの信仰も当節には残されていない。少くとも、私のためにはね。苦しいやりかたでだったが、それだけは、私にも発見できたのです」 「着きましたぜ」運転手がいった。  タクシー・メーターの金額を、ことさら見ないようにつとめながら、ペイジは、アンに手をかして車を降りた。二人は、レストランの、とあるテーブルに案内された。  着席してしばらく、アンはふたたび無言にかえった。またぞろ、雪どけ前に逆戻りときたな、とペイジが思いこみ、話の糸口をつくるために、この席に再臨教徒《ビリーバー》のご乱入を願うくふうはないものか、と思案しかけたとき、やっと彼女は口を開いた。 「ずいぶん、信仰のことでは、お考えになったようすですのね。お話ですと、あなたにとっては、よほどだいじな問題のように聞えますわ。そのわけを、話して下さる?」 「願ってもないことですな」ゆっくりと、彼はいった。「月並な答をすれば、宇宙空間にいる男には、たっぷりと、ものを考える時間があるということでしょうか──だが、思考の時間なんて、人によって使いかたが違うものです。私の場合は、自分なりの、なんらかの指標体系を、四歳のとき、私の両親が離婚したとき以来、絶えず探しつづけてきた、ともいえる。私の母は、クリスチャン・サイエンスの信者で、父は、ダイアネティックス(心理療法の一種)の信奉者でした。口論の種には、不足しなかったわけです。私の後見の問題で、五年近くも法廷闘争がつづくしまつでした。  十七の年に、私は入隊したが、陸軍が、教会の代用はおろか、家族の代用にもならないことがわかるまでに、大したひまはかからなかった。そこで私は、航宙学校を志願しました。これも、教会とは、ほど遠かった。宇宙飛行が産《うぶ》声を上げたときから、陸軍はこの全分野の管轄権を握っていたし、土地払下げで私腹を肥やしてきた長い伝統をもっているだけに、地球以外の惑星上でも、そうした土地払下げにまつわるうまい汁を、海軍や空軍にかすめとらせておく気持は、もっていない。いわば、それが昔からの陸軍の特権だった。陸軍用地の中で発見されたものは──ダイヤモンド、ウラニウム、その他なんによらず──すべてこれ、拾いどくであり、議会が支出を渋った場合の、平時の食いつなぎにあてるべきものだという論法でね。  しぜん、私も、実際の宇宙勤務より、陸軍航宙局が、海空軍の宇宙関係部門を相手どって、独占権を闘いとるのに手を貸す時間のほうが、はるかに多い状態でした。命令とあれば、しかたがない──だが、私が宇宙を究極の大聖堂と考える上に、役立たなかったのは、たしかだった……。  そのあたりで、私は結婚し、ひとりの息子をもうけた。二年後、私たちは結婚を解消した。妙な話でしょう? 私にも、それはわかっている。だが、環境も異常だったのです。  フィッツナー社から、土壌見本の採集を依頼されたとき、私はやっと自分の帰属できる教会──人道的で、遠大で、非個人的な、なにものか──を、発見できたように思った。それが、今日の午後、この新しい教会も、歓声を上げて帰依者を迎えるつもりはない、と知らされたとき──そう、その結果が、いまこうして、あなたの肩に泣き伏すことになったわけだ」  ペイジは微笑した。 「まるで、お世辞にも、なんにもならない話だけれど。だが、あなたのおかげで、ここまで打ち明けてしまった以上、あらためて先日の許しを乞うのが順序でしょう。つつしんで、謝罪します。受けていただければ、ありがたいが」 「お受けしますわ」  彼女はいい、おずおずと、微笑みかえした。とたんに、気圧が一インチ平方当り五ポンドほど急降下したような、血の騒ぎを、それはペイジにひき起した。  アン・アボットは、あの極めて稀な一群、照明弾の爆発のように、一瞬に彼女たちを変身させる微笑を持った、不器量な娘の一人だったのである。ふだんの、むしろ不愛想な表情のアンに、目をひかれる男など、誰ひとりいないだろう──しかし、いったんその微笑を目にしたら、できるだけ数多く、彼女にその微笑みを浮べさせるため、死ぬほどの努力をいとわない男が現われたとしても、ふしぎはない。  のべつ美しい女では、とペイジは考えるのだ、アン・アボットが、そうした男を見出した場合、捧げられる献身を、おそらく絶対に、望みえないのではないか、と。 「ありがとう」ペイジは、ぎごちなく言葉をかえした。「じゃ、食事の注文をして、あなたのお話をうかがうとしますか。どうも、私のほうが、身の上話をぶちまけるのに、いささか早すぎたらしい」 「注文は、あなたがなさって」アンは、いった。「今日の午後、ヒラメのことを言ってらしたのは、あなたでしょう? ここのメニューには、お詳しいはずだわ──それに、キャディラックから降りるとき、あんまり優しく手を添えていただいたものだから、せめてそのイリュージョンを、とっときたいと思って」 「イリュージョン?」 「説明しろと、おっしゃるの?」うっすらと、顔をあからめて、アンはいった。「つまり……まだこの世界に、一人や二人の騎士が残っていないでもない、というイリュージョンですわ。暇をもてあました男性がウヨウヨしている世界での、余りものの女性、そういった体験のないあなたには、ちょっとしたエチケットがどれほどの価値をもつものか、きっとおわかりにはなれないでしょう。でも、私のお目にかかる男性ときたら、ほとんどが、私の苗字を覚えないうちに、体のホクロを見せてもらうつもりでいるのよ」  驚いたペイジの笑い声が、レストランじゅうの顔を、こちらにふりむかせた。  アンが迷惑しはしまいかと気がねした彼は、あわてて笑い声をこらえた。だが意外にも、アンはふたたび微笑をうかべていて、たてつづけにウィスキーを三杯もあおった気分に、彼をさせているのだった。 「いや、われながら、素早い変り身ですな」彼はいった。「今日の昼間の私は、脅迫者だった。かけ値なしに、そのつもりでいたのに。よろしい、じゃ、ヒラメといきましょう。とにかく、この店の自慢なのだから。ガニメデで、濃縮食を噛りながら、よくここの夢を見たものでした」 「フィッツナー社についてのあなたのお考え、たぶん正しいのですわ」給仕が去ったあとで、ゆっくりとアンはいった。「秘密をお話しするわけにはいきませんが、あなたのご存じないらしい、常識のきれはしをお知らせしても、べつに差しつかえはないでしょう。いま、うちの会社がたずさわっている計画は、あなたの言葉にピッタリの気がします。人道的で、非個人的で、そして、わたしに想像できるかぎりのどの計画にもまして、遠大で。あなたの言う、宗教的な感情さえ、抱きました。わたしは、それへの結びつきを信じたかったし、またそうすることで、再臨教徒《ビリーバー》や婦人部隊員である以上の満足を得たのでした。なぜ、わたしがそんな気持になったかは、あなたなら、きっとよく理解して下さいますわ──今日の昼間、ハル・ガンや、わたしの考えていたあなたとはちがって」  こんどは、ペイジの困惑する番だった。てれ隠しに、やたらにウースター・ソースを生牡蠣に注いだ。 「うかがいましょう」 「つまり、こうなんです」アンはいった。「一九四〇年から六〇年のあいだに、大きな変化が、西欧の医学界に訪れました。一九四〇年以前──今世紀の初期──には、伝染性疾患が、死因の大部分を占めていました。それが、一九六〇年までに、ほとんど駆逐されてしまったんです。変化の始まりは、サルファ剤からでした。それから、フレミングと、フローリーの発見、第二次世界大戦中からの、ペニシリンの大量生産。大戦後のわれわれは、これまで治療の成功したためしのない結核に対して、ズラリと特効薬のいろいろを発見しました──ストレプトマイシン、パス、イソニアジッド、ヴィオマイシン、さらに、ブロックによる結核毒素の分離から、代謝阻害物質の開発まで。  そこへ現われたのが、ウィルス病から原生虫病、さらに寄生虫病までに効果を示すテラマイシンのような、広スペクトルの抗生物質でした。これは、山積みした難問に、大きな手掛りを与えてくれました。最後に残った主要伝染病──ビルハルツ吸血虫病、別名ジストマ症──も、一九六六年までに、奇病と考えられるほど、減少してしまいました」 「だが、伝染病は、まだなくなっていないが」ペイジが、抗議した。 「もちろん、なくなりはしません」アンはいった。  体を乗り出した彼女の、ブローチにちりばめられた原子のパターンが、ローソクの光できらめいた。 「どんな薬を使っても、ある病気を、根こそぎ無くすることはできません。病菌に侵された患者を処置するだけでは、世界中に存在するあらゆる危険な微生物を、抹殺できないからです。でも、その危険を減少させることはできます。たとえば、一九五〇年代、マラリヤといえば、世界でも指折りの死病でした。いまでは、それが、ジフテリヤと同じぐらい稀なのです。もちろん、いまだに、この二つと縁が切れたわけではありません──でも、あなたが最後にこのどちらかの症例をお聞きになったのは、ずいぶん昔の、ことじゃありません?」 「質問する相手が悪いな──細菌性疾患は、宇宙船ではあまりご縁がないのでね。なにしろ、乗組員が、鼻カゼらしき徴候でも見せたがさいご、ただちにおっぽり出すのですから。だが、あなたの主張は、うなずけますよ。先をつづけて。それから、なにが起りました?」 「うす気味の悪いことが起ったんです。生命保険会社や統計学者たちが、成人病の台頭に、脅威を感じはじめたのです。つまり、動脈硬化とか、冠動脈疾患とか、血栓症とか、ほとんど大部分のガンとか──原因らしいものもなしに、肉体のメカニズムの一部が、突然変調を来す種類の病気のことですけれど」 「老齢が、原因では?」 「いいえ[#「いいえ」に傍点]」アンは、強硬に言い放った。「老齢なんて、ただの年勘定ですわ。それ自身になんの意味もあるわけではなくて、大部分の成人病が襲来する、人生の一時期を指すにすぎません。中には、子供を選んで襲う病気もあります。──白血病、つまり骨髄ガンも、その一例でしょう。成人病の増加の兆候に、保険統計士たちがはじめて気づいたとき、彼らはそれを、伝染病疾患の減少に伴う副次効果にすぎない、と考えていました。ガン患者が増えたのは、つまり、それに罹るまで長生きする人が増えたからだ、という考えだったのです。それと、成人病の診断技術そのものが改良されたために、増加率のうちのある一部は、単なる錯覚──以前に比べて、より多くの症例が発見されたにすぎない、ともいえるのでした。  でも、それだけがことのすべてではなかったのです。特に肺ガンと胃ガンについては、診断の改善や、平均寿命の延長だけでは、到底説明のつかないような、統計表面での着実な増加が認められました。やがて、同じ現象が、悪性高血圧、さらに、パーキンソン病や、その他の中枢神経系疾患、そして、筋萎縮症、などに波及してきました。それは、まるで、正体の知れた悪魔とひきかえに、えたいの知れない悪魔を、抱えこんだようなぐあいでした。  そこで、こうした成人病のおのおのについて、可能性のある伝染源が、根気よく追求されることになりました。ある種の動物腫瘍、たとえばニワトリ肉腫などが、ウィルスによってひき起されるということで、大ぜいの人びとが、あらゆる種類のガン・ウィルスを、血|眼《まなこ》で探し求めました。関節炎の原因が、PPLO(原発性異型性肺炎の病原体ウィルス)と呼ばれるグループのしわざではないかとする共同研究も試みられました。高血圧や血栓症のような循環器系疾患になると、食餌から患者の祖母の体質までが、そのせいにされたのです。  それでいて、成果は、ごくわずかでした。ええ、もちろん、ある[#「ある」に傍点]種類のガンや白血病がある[#「ある」に傍点]種のウィルスによって発生することは、明らかになりました。PPLOグループがたしかに関節炎の一種を起すこともわかりましたが、それはあくまでも、単純性尿道炎と呼ばれる性病の一種に付随したタイプのものに限られたのです。そのほかでは、肺ガンの最も普通な三種類が、タバコの煙に含まれている放射性カリウムで、ひき起されること、舌ガンと口腔ガンが、タールで発生することが発見されました。けれども、ほとんどの場合は、いままでに知られているとおり──つまり、成人病が、伝染性でないことが、わかっただけでした。またもや、はじめの袋小路へ、舞い戻ったわけです。  ちょうどその頃でした、フィッツナー社が、舞台に登場してきたのは。発病率の上昇に驚いた国民保健局が、成人病についておそらく始めての、大規模な国際会議を招集したのです。経費の一部を、合衆国負担で。というのは、軍のほうでも、兵役免除者の増加ぶりに、かなり神経をとがらせていたからでした」 「そのへんの噂なら、私も聞いたことがある」ペイジはいった。「もともと、それの出どころは、私たちの部隊だった。航宙士の活動生命は、たかだか、十年あるかなしです。あとは、どこかの後方勤務ということになる。──だから、できるだけ若い人間を、手に入れたいわけだ。ところが、その時代でさえ、われわれは、若い志願者たちの過半数を、『老人病』──初期的な循環器系疾患が、ほとんどだったが──という理由で、追い帰していたのですよ。これは、若者たちにもショックだった。大部分が、夢にもそんな疑いをもったことがなく、自分を牡牛みたいに健康だと考えている連中だったから。また、常識的には、たしかにそうだったでしょう──だが、宇宙飛行では、問題が別なんだ」 「では、ずいぶん早くから、重要因子の一つに、お気づきだったわけですわ」アンがいった。「だけど、もうそれは、宇宙部隊だけの特殊な問題ではなくなりました。それは、いまでは、あらゆる軍隊の医学部門にとって、耳なれた問題なのです。国民保険局が介入した当時、二十歳代前半の男性についての、『老人病』による兵役免除者の率は、ひっくるめて約十パーセントというところでした。ともかく、この会議の結果、合衆国の厚生・自治省は、成人病に対する本格的な集団攻勢のために、十億ドルの予算を獲得したのです。あなたがひょっとして、わたしと同様、ゼロの行列によわい場合のために、いいそえますと、これは、最初の原子爆弾を製造するのにかかった費用の、約半分なのですわ。それ以来、この予算は一度追加され、そして、いままた再更改の時機に来ています。  その計画の大口契約を請負ったのが、フィッツナー社なんです。そして、ほとんど下請企業を必要としないほど、わたしたちの社は、人員にも設備にも恵まれています。予算を分け合う相手としては、あと三社の、生化学薬品メーカーがあるにすぎないし、そのうちの二社は、生産オンリーで、研究にはタッチしない。残りの一社にしても、研究はわが社に劣らないほどしてはいますが、一つの袋小路に迷いこんだらしいことは──業者相互で情報を交換しあう、共同研究である立てまえで──わたしたちにも、わかっているのです。彼らにそうと教えてやることもできたのですが、いったん、わが社[#「わが社」に傍点]の発見したものを知ったとたんに、政府は、できるだけその知識を、少数の人間のあいだに留めておくほうが望ましいと、決定してしまったのでした。  会社としては、異議のあるはずはありません。なんといっても、金儲けのための企業なのですから。しかし、それが、今日の昼間、あんなにたくさんの政府のお歴々がわたしたちの首にとりついているのを、あなたがご覧になった、その理由の一つなんですわ」  アンは、急に口をつぐむと、ハンドバッグを探って、平べったいコンパクトをとり出し、蓋を開けて、熱心に検分をはじめた。彼女が、ほとんど化粧らしいものをしていない以上、この突然の点検の意味を推し測るのは、困難というものだった。しかし、つかのま、口の片隅に奇妙な微笑をつくっただけで、アンは、コンパクトをしまいこんだ。 「もう一つの理由は」と、アンはいった。「より以上に、簡単ですわ──こうした背景をお聞きになった、あなたには。わが社は、この問題すべてへの、重大な鍵[#「重大な鍵」に傍点]と考えられるものを、つい最近[#「つい最近」に傍点]、発見したのです[#「発見したのです」に傍点]」 「ウオゥ」  はなはだ優雅ならざる、しかし感情のこもった声を、ペイジは出した。 「それとも、『へへえ』か、『ギョギョギョ』ですわね」  アンは穏かにうなずいた。 「それとも、『神よ、助けたまえ』でしょうか? でも、これまでのところ、あらゆるテストを、それは通過しているのです。この調子がずっと続くようなら、フィッツナー社は、新しい予算をひとり占めにできるでしょう──また、もしだめだったら、フィッツナー社だけでなく、この計画に協力していたほかの会社にも、なにひとつ予算を与えられないことになるかもしれません。  わたしたちが、成人病を征服できるかどうかの、すべての鍵は、この二つの事がらにかかっています。うちの社の発見した薬剤の有効性と、そして資金と。片方がうまくゆけば、もう一方もついてくるのです。今月中に、わたしたちは、その発見のことを、ホースフィールドやマッキナリーに、知らせなくてはなりません。いままでの予算案が、そこで期限切れになるからです」  背を反らせたアンは、そこではじめて、食事を平げてしまったことに気づいたらしい。 「いまの話」と、名残りおしそうに、パセリをフォークでつつきながら彼女はいった。「まだ、公然の秘密でさえ、ありませんのよ! わたし、黙らなければ」 「ありがとう」ペイジは、きまじめにいった。「私の注文以上のことを、話してもらえて」 「でしたら」とアン。「わたし[#「わたし」に傍点]にも、教えて下さいません? 木星に建設中の、『橋』のことですの。あれだけの投資に見合うものが、それにあるのでしょうか? それが何の役に立つのか、説明のできる人は、ひとりもいないようなんです。そこへまた、これが完成した暁には、別の橋が土屋へ建設されるという噂まであるんですもの!」 「その心配は、無用ですな」ペイジはいった。「わかってほしいが、私は設営隊の連中と知りあいだというだけで『橋』とはなんの関係もない。だから、内幕の情報は、持ち合わせてやしません。だが、さっき、あなたのいった、公然の秘密──それが、目のつけどころを心得た者なら、誰でも自由に手に入る情報、という意味だったら、まんざら知らないでもない。私の理解したところでは、木星の『橋』は、ある問題の解答を得るために設計された、研究計画なのです。その問題が、なんであるか、それは誰ひとり、説明しようとしてくれなかったし、また私も、聞かないように気をくばった。なにしろ、目を凝らすと、星座の中に、フランシス・]・マッキナリーの顔が浮び上るのでね。しかし、一つだけ、私の知っていることがある。この研究が、太陽系での最大の惑星を、必要としていることです。それが、すなわち木星であり、だから、別の『橋』を、土星のような、より小さい惑星に建設するのは、まったく無意味なのです。設営隊は、知りたいことを見つけるまで、いまの構築物を建造しつづけるでしょう。そうなったあと、計画が停止されることは、まず確実だ──『橋』が完成したからではなく、その目的を果したから、という理由で」 「無智を広告するようですけど」と、アンがいった。「わたしには、なんだか、バカらしい気がしますわ。何百万、何千万ドルというお金──それさえあれば、もっとたくさんの人命が救えるのに!」 「その選択が、私にまかされるものなら」とペイジ。「その金は、チャリティ・ディロンとその部下にではなく、あなたに捧げたことでしょうがね。だが、そこへくると、私も、あなた同様、『橋』については、とんと無智なわけだ。小切手を送るのは、控えたほうがよいかもしれないな。さて、こんどは、私の質問する番だ。もう一つ、小さな質問があるのだが」 「反対訊問をどうぞ」  アンはいい、れいの、なんともかわいい微笑をうかべた。 「今日の午後、研究室にいたとき、二度にわたって、私は赤ん坊の泣き声を聞いた──それも、別々の赤ん坊の声に聞えたものだ。ミスター・ガンにたずねてみたところが、答はまるきりのおとぎ話だった」  ペイジは、間をおいた。早くもアンは、瞳を異常に光らせている。 「そこは危険地域ですわよ、ラッセル大佐」アンはいった。 「承知です。だが、とにかく、質問だけはしておきたい。あのバカバカしい生体解剖うんぬんの脅迫を持ち出したとき、それが効を奏したのには、こっちのほうがたまげたものだった。だが同時に、私は考えさせられもしたのだ。ここの説明を──もしできるなら、お願いしたいものだが」  アンは、またもやコンパクトをとり出して、ゆっくりと、それを眺めた。  やがて彼女はいった。 「あのことでは、あなたの謝罪を入れたのでしたね。とにかく、お答えします。じつに簡単なことよ。あの赤ん坊は、実験動物として使っていますの。近くの孤児院と、ルートがあるんです。厳密には合法的だけれど、もしあなたが、実際に生体解剖のかどでわたしたちを告発していたら、多分成功したかもしれなくってよ」  ペイジのコーヒー茶碗が、ガチャンと受皿に落ちた。 「なんてことをいうんだ、アン。当節、そんな冗談をとばすのは、ぶっそうじゃないのかね──それも、たかだか半日やそこらの知りあい相手に? それとも、この私のどぎもを抜いて、スパイだってことを白状させるつもりなのか?」 「わたしは、冗談もいってないし、あなたがスパイだとも思ってないわ」アンは、穏やかにいった。「わたしのいったことに、嘘はありません──ええ、多少の色づけは、あなたのみごとな脅迫を、わたしがすっかり[#「すっかり」に傍点]許していなかったせいでもあり、あなたのびっくりする顔が見たかったためかもしれない。そのほかにも、理由はあったかもしれない。でも、嘘はないわ」 「だが、アン──なぜ?」 「聞いて、ペイジ」彼女はいった。「いまから五十年まえに、ある抗生物質の微量──ほんの痕跡ていど──を、家畜の飼料に混ぜつづけてゆくと、普通の餌で育てたものより数ヵ月も早く、市場に出せることが発見されたの。それだけでなく、特別な条件下では、それは植物の生長促進をさえ、ひき起したわ。その効果は、家禽、仔豚、牝牛、ミンク、あらゆる種類の動物に、現われたんです。当然の論理で、人間の幼児にもこの方法が有効ではないか、と疑問が持たれたの」 「そこで、それを実験していたってわけか?」  ペイジは、背を反らすと、チリ産のワインのお代りをついだ。 「さっきの種明し、なるほど、ずいぶんな脚色ぶりだ」 「そう早呑みこみをしないで、わたしの話を聞いて。うちの社がやっているのは、それではないわ。それは、すでに何十年か以前、ポール・ゲオルギゥの門下生や、その他五十人もの栄養学研究家の手で、定期的に、そして公然と、実験されているんです。ただ、この人びとが使ったのは、知名度の高い、試験ずみの抗生物質、つまり、文字どおり何百万頭という家畜に使ってみた結果、体重何キロに対して、薬剤何ミリグラムという処方まで、出ているものでした。ところが、抗生物質の、この特殊な生長促進効果は、たまたま、ある与えられた薬剤に、わたしたちの必要とする生化学的活動力があるかどうかの、重要な決め手になるものなんです──そして、その活動力が、人間[#「人間」に傍点]の体内でも発揮されるかどうかを、ぜひとも知る必要があったのです。そこで、わたしたちは、一定のテストを通過した新薬を、どんどん子供たちを使って篩い分けてゆきました。やむを得ないことでしたわ」 「なるほど、なるほど」と、ペイジ。 「子供たちは、孤児院からの『自発的』な提供、ということで、法廷へ出ても、合法性は主張できる自信がありました」アンは、つづけた。「前例は、すでに一九五二年につくられているんです。パール・リバー研究所が、小児マヒの生ワクチンをテストするために、所員の子供たちを使ったときから──ついでですが、このテストは成功でした。でも、重要なのは、その合法性じゃありません。問題は、いかに早く、また徹底的に、わたしたちが成人病を制圧できるか、ということなんです」 「ばかに言い訳めいて聞えるな」ペイジは、ゆっくりといった。「まるで、私の思惑を気にしてるみたいだ。それじゃ言おう。私には、それがとんでもない冷血さとしか思えない。醜悪な神話の種になっても、しかたのない類いの仕業だ。いまから十年のちに、赤ん坊をとって食う、と信じこまれた生化学者たちが、みな殺しのうき目にあったとしても、ふしぎはないだろうな」 「バカなことを」アンがいった。「そうした神話ができ上るのには、何世紀もかかるわ。あなたのは、過敏反応よ」 「とんでもない。きみが私に対するのと同様に、正直なところを申し上げているんだ。きみの話してくれた事実に、驚きもし、少なからず反撥も感じた。それだけのことさ」  唇を噛みしめたアンは、つと指先を拭うと、手袋をはめにかかった。 「では、その話はやめにすることね」彼女はいった。「出ましょうか?」 「いいとも、いま勘定をすませるから。それで思い出したが……アン、きみはフィッツナー社の出資者かい? つまり、株主?」 「いいえ。なにをおっしゃりたいのかはわかるけど、おあいにくだったわ。残酷な質問をなさるのね」 「そうとられはしまいかと、思ったんだ。だが、受益者だということで、きみを責めるつもりなど、まったくなかった。ただ、きみが、今日の昼間、ガンやほかの連中の待ちわびていた、アボット博士の縁故なのかどうか、それを知りたかっただけさ」  アンは、またもや、コンパクトをとり出して、中をのぞいた。 「アボットなんて、ざらにある名前よ」 「ちがいない。だが、ぜんぶのアボットが、他人じゃあるまい。それに、そう考えると、うなずけるふしがあるんだ」 「じゃ、うなずかせていただこうかしら。楽しみだわ」 「よろしい」  ペイジのほうも、カッとなりかかっていた。 「フィッツナー社の応接係りたるものの理想は、社内の動きをつねにキャッチしつづけていて、あらゆる来客の意図を、正確に読みとる能力だろう──ちょうど、きみが私に対してやったような。だが同時に、彼女は、絶対に信頼のおける人物でなくてはならない。でなければ、そうした応接係りとして必要なだけの知識を、安心して与えられないからだ。保安的見地からの最良の方法は、この計画の関係者と血のつながりのある誰かを、雇うことだろう。こうすれば、保身の範囲が、二倍に増えるわけだからね。古典的な、ソビエト型脅迫法、というやつだよ。  そこまでは、仮説だ。ここからが事実さ。いましがた、きみの説明してくれたフィッツナー社の研究計画は、そんじょそこらの受付嬢からは夢にも予想できない、広い知識に支えられたものだった。それだけじゃない。本来なら、フィッツナー社の幹部にしか権限のないだろう政策的リスクまで、きみは侵してのけた。結論を言おう。きみは、ただの[#「ただの」に傍点]受付係りじゃない。それに、アボットという苗字と……これだけそろえば、私には充分だ」 「そうでしょうか?」  怒りで青ざめたアンが、にわかに立ち上った。 「まだ充分じゃないわ! 言いなさいな、きみは不器量だと。フィッツナーのような大会社の受付係りは、すごい美人のはずだが、と。少くとも、初対面の男が話を聞き出そうとしても、はねつけられるぐらいには美人だと。さあ、リストを読み上げればいいわ! 遠慮のないところを!」 「なにをいうんだ」  ペイジも同じく立ち上ると、ゆっくりと拳を握りながら、アンを真正面から見すえた。 「もし、私がきみの顔立ちをどう思ってるか、正直に言ったとしたら──えいくそ、それじゃ言ってやろう、世界一の美女だって。きみの微笑を真似るためなら、湯気の立った硝酸のシャワーでも、喜んで浴びるはずだ──こう言えば、きみはいよいよ私を憎むことだろうな。からかわれたと思って。じゃあ、さっきの残りを、聞かせてもらおう。アボット博士とのつながりを」 「つながりは、大ありだわ」アンはいった。  言葉の一つ一つが、煙の立ったドライ・アイスだった。 「アボット博士は、私の父です。さあ、いますぐ家へ帰らせていただけないかしら、ラッセル大佐。十秒後ではないのよ、いますぐに」 [#改ページ]     4 木星第五衛星 [#ここから2字下げ]  実験の結果に従うという、固い決心だけでは足りない。危険な仮説が、依然として存在するからだ。まず、とりわけて危険なのが、暗黙の、無意識的なそれである。知らず知らず作り上げてしまったそれを放棄するすべは、われわれにはない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──アンリ・ポアンカレ    接続が断たれたとたん、『橋』は消えた。しかし、木星の各衛星から絶えまなく発信される、『橋』のセルシン・モーターやサーボ機構への超音波パルスは、もちろん停止したわけではない。そして『橋』のほうも、同じ亜エーテル・チャンネルを通じて、間断ない報告を、木星や第五衛星上の設営隊の、油断のない目と耳と手に伝えてくるのである。だが、いまの瞬間、この巨大な構築物の指揮者である、設営隊作業主任は、それを閉ざしてしまったのだった。  ヘルマスは、重いヘルメットを注意深く棚にすえると、しばらくこめかみに手を当てて、血の脈うつのを指先で感じとっていた。それから、うしろをふりむく。  ディロンが、彼を見つめていた。 「どうした?」ディロンがきいた。「なにかあったのか、ボブ? なにか悪いことでも──?」  ヘルマスはすぐには答えなかった。嵐にさらされた『橋』のデッキから、ひっそりと落ちついた、ここ第五衛星の管制本部への急激な転移は、いつの場合にもショックだった。それは、いつも不意打ちのように彼を訪れるものであり、馴れることなどは、考えもできなかった。逆に、回を重ねるごとに、ひどくなっているのだ。  ヘルマスは、主任用管制盤からジャックを引き抜いて、生きもののようなコードが、デスクに跳ね戻るままにまかせた。やがて、折り畳み椅子から立ち上ると、震えがちな脚どりで、ソロソロと歩き出した。いま絶縁したばかりの、おそろしい重圧が、まだ体の中にとりついているように思えるのだった。主任用デッキの重力が、大部分の居住可能な小惑星なみの弱さしかないことで、かえって対照の差がひろがり、よけい歩きかたを用心ぶかくしてしまうのだ。  大きな舷窓に近づいたヘルマスは、外をのぞいた。大気を持たない第五衛星の、風雨に侵されない、単調な地表は、木星での絶えまない自然の暴威を見てきた目に、故郷に帰ったような錯覚さえ起させる。だが、その暴威をいやおうなしに思い出させるものが、存在するのだった──厚い石英製の舷窓の向うに、大惑星が、わずか十一万二千六百マイル、月と地球の距離の半分足らずの空間をへだてて、ヘルマスをまともに見すえているのである。  その球面は、ほとんど空のすべてを覆いつくしており、わずかに残された地平線との隙間に、いくつかの、一等星光度の星が見えていた。それ以外の天球は、極寒、猛毒の木星大気の永遠の嵐が綾なす、縞と斑模様に飾られた、うごめく色彩の渦だった。第五衛星より太陽に近い、いくつかの木星の月が、惑星大の真黒な影を、それに落していた。  あの底のどこか、ヘルマスの真向いで沸騰をつづけている雲から六千マイルの下に、『橋』はある。『橋』は、高さ三十マイル、幅十一マイル、そして、長さ五十四マイル──しかし、それは、この膨れ上り、駈けめぐる大旋風の下では、ほんの一筋の糸、か細い、精巧な、氷細工にしかすぎなかった。  地球上なら、たとえ西欧に持ってきてさえ、『橋』は、歴史を通じて最大の、工学技術の偉業だったにちがいない。もっとも、地球が、その重量を受け止め得たとしての話だが。しかし、木星上にあっては、『橋』は、一ひらの雲のように頼りなく、脆いものだった。 「ボブ?」ディロンの声が、たずねてくる。「どうしたんだ? ようすが、普通じゃないぜ。重大なことなのか?」  ヘルマスは、ふり返った。  年若い上司のやつれた顔、こめかみに白いもののまじった、こけた頬が、『橋』への愛情と、身をこがすような責任感とで、燃えるように、輝いている。いつものように、それはヘルマスに、ある感動を与え、非情な宇宙も、やはりその中に、人間たちが憩える陽だまりを残してくれていたことを、あらためて思い出させるのだった。 「重大と言えば重大だ」  木星に強いられていた、唇の凍えと戦うように、ヘルマスは一語一語を発音した。 「だが、ぼくの見るかぎり、致命的じゃない。大量の水素噴出活動が、とくに北西端の地表で起っている。絶壁部の下で、大爆発があったらしい模様だ。その花火の、最後の一連らしいものを見てきた」  ヘルマスが話してゆくにつれて、ディロンの顔に刻まれた皺が、一つずつほぐれていった。 「ははあ。じゃ、ただの飛片というわけだな」 「そんなところだと思う。逆風が、強くなってきているんだ。大赤斑と南熱帯撹乱《S・T・D》が、来月のいつだったかに、交叉するんじゃなかったかね? 確かめたわけじゃないが、嵐のようすが、ふだんとは違うのがわかった」 「そいつに煽られた飛片が、『橋』の末端を突き抜いたんだな。大きなやつか?」  ヘルマスは、肩をすくめた。 「末端部は、根こそぎ左へ捩じ曲がったし、橋床は、マッチ棒みたいに、ささら立っている。足場も、もちろん、ぜんぶ飛んじまった。たしかに、大きなやつにはちがいないさ、チャリティ──少くとも、直径二マイルがとこは、あったろう」  ディロンは、ため息をつき、ヘルマスにならって、窓から外を眺めた。彼がなにを眺めているかは、読心術者でないヘルマスにもわかる。空の向う、第五衛星の石の荒野プラス十一万二千六百マイルの空間のかなたに、南熱帯撹乱《S・T・D》は、大赤斑に向って流れ動き、やがて、それを呑みつくそうとしているのだ。南熱帯撹乱《S・T・D》の渦巻く漏斗が──それは、地球三個ぶんを、そっくり吸いこんで、冷凍できるほどの大きさなのだ──ナトリウムに汚染された、惑星的規模の島である、大赤斑を通過するとき、赤斑は、数千マイルにわたって、その後を追い、同時に大気層の表面にまで上昇してくるにちがいない。  そこで、赤斑はふたたび沈下し、それの保存者である、おそるべき圧力流体のガスの中へと、逆戻りしてゆくだろう──二万二千マイルに及ぶ、木星の高温な岩石性の地殻からの、なにものとも知れないエネルギーに動かされ、一万六千マイルの永久氷の下で圧縮された、ジェット流の中へと。この全過程のあいだ、木星全域の嵐は、いちだんと強烈になるはずだ。もちろん、『橋』の位置は、この惑星上での、最も静穏な地点を選ぶほかなかったわけである。それができたのは、いくつかある『恒久的』な陸塊の、むらのある分布状態のおかげだった。  しかし、果たして『恒久的』なのか?  ヘルマスの思考がいつもその言葉にかぶせる引用符には、きっとそれ相当の理由があるはずなのだ。しかし、その理由がなにかは、彼には思い出せない。あのいまいましい条件反射が、またもや顔をのぞかせているのだった。  そいつの作り出す、千個もの小さな矛盾が、ストレスに拍車をかけている。  ヘルマスは、淡い羨望の混った同情の目で、ディロンを見つめた。チャリティ・ディロンという、気ふさぎな名前(チャリティは博愛の意)は、時代遅れの父親からの授かりものだった。最近のような復活ぶりを見せる以前からの、再臨教信者《ビリーバー》、その一家の一人息子にディロンは生れついたのである。  彼は、『橋』の企画にくわわった数百人の徴用エキスパートの一人で、『橋』に対しては、ヘルマスと同じように、固定観念を抱いていた──だが、それは、別の理由でだった。『橋』の設営隊のあいだでは、彼らの中でディロンひとりだけが、心理改造《コンディショニング》を受けなかったと、もっぱら、信じられている。しかし、それを試す方法が、あるわけではない。  ヘルマスは、窓に戻ると、ディロンの肩にやさしく手をかけた。なまなましい麦わら色、煉瓦色、ピンク、オレンジ、茶、そして青と緑。木星が、その最内端の衛星の、石の荒原に投げてよこすそれを、二人は並んで見つめた。ここ第五衛星では、影でさえが、色彩を持っているのだった。  ディロンは、じっと動かなかった。やがて彼はいった。 「満足じゃないのか、ボブ?」 「満足?」驚いたように、ヘルマスがいった。「ばかな。この真青な顔を見てくれても、わかるだろう? 『橋』がまるごとやられなかったのは、うれしいが」 「ほんとうに、そう思うか?」ディロンは、静かにたずねた。  へルマスは、ディロンの肩から手をはなすと、中央デスクの自席に戻った。 「そこまでほじくり出す権利は、あんたにもないはずだぞ」ディロンより、さらに低い声で、彼はいった。「ぼくは、一日四時間を、木星で作業している──実地に、ではない。一瞬間も、人間の生存できる場所じゃないんだからな──しかし、ぼくの目、ぼくの耳、ぼくの心は、たしかに『橋』の上で、四時間を過ごすんだ。木星は、いやなところだ。ぼくは、好きじゃない、それを隠すつもりはないさ。  何年という期間、一日四時間ずつを、そうした環境で暮してみると──そう、人間の精神というやつは、思考を絶したものにさえも、本能的に適応を試みるものなんだ。時おり、もう一度シカゴへ戻されたとしたら、どんなことをやらかすだろうかと、ふしぎに思うことがある。また、時には、シカゴのことが、漠然とした輸廓しか思い出せないこともあるし、時には、地球なんて場所が存在することさえ、信じられなくなることもあるんだ──あとの宇宙が、木星なみか、それ以上のひどさだというのに、どうして、そんなものの存在できるわけがある?」 「わかってる」ディロンはいった。「そいつは、あまり分別のある精神状態じゃないと、口を酸っぱくしたものだが」 「分別のないのは、知ってるんだ。だが、それと感情とは別だ。考えてみると、そいつは、ぼく自身の精神ではないのかもしれん──もっとも、〈『橋』が崩れるものか〉と言いつづけている、ぼくの心の一部分は、どうやら心理改造《コンディショニング》を受けた部分らしいがね。そうさ、ぼくは、『橋』が無事に保《も》つとは思っていない。保《も》つわけがない。はなから、間違いなんだ。といって、『橋』が崩れるのは見たくない。ただ、近いうちに、木星がそれを吹き飛ばしてしまうのがわかるだけの、常識を持ち合わせている、ということだ」  ヘルマスは、開いた掌で管制盤をこすると、パチンコ玉の一つかみを板ガラスにぶちまけたような音を立てて、ひじスイッチを、一つ残らず『オフ』に倒した。 「ざっと、こんなぐあいにな、チャリティ! それなのに、こっちは、来る日も来る日も、四時間ずつを『橋』の上で暮すんだ。そして、いつか、木星は『橋』をぶっこわす。こなごなに、そいつを嵐の中へ吹き飛ばしてしまう。たまたま、なにかのちっぽけな作業にかかりきっているだろう、ぼくの魂まで道連れにして。遠隔操作《リモ・コン》の目と耳と手といっしょに、ぼくの魂も、けし飛んでゆく──それでもなお、この思考を絶したものに適応しようと努めながら。ぼくをとり巻くのは、風と炎と雨と闇と気圧と寒気と──」 「ボブ、きみは、わざと自分を興奮させてるんだ。やめろ、やめないか!」  ヘルマスは肩をすくめ、ふるえる手を管制盤のはしに当てて、体を支えた。 「わかったよ。だいじょうぶだ、チャリティ。ぼくのいるのは、ここだったな。なにひとつ危険のない第五衛星の上にいるんだったな。『橋』は、ここから十一万二千六百マイルの向うで、一インチと、ぼくはそれに近づくわけじゃなかった。しかし、『橋』の壊れる日が、もしやって来たとき──。  チャリティ、ぼくはときどき、あんたがぼくの骸《むくろ》を、ふるさとの陽だまりへ運んでくれるさまを、空想することがある。そのあいだ、ぼくの魂のほうは、何万立方マイルという毒ガスのまっただなかを、クルクルと墜落してゆくんだが……ああ、わかったとも、チャリティ。おとなしくしよう。声に出しては、それを考えないことにするよ。しかし、ぼくがそれを忘れると思ったら、まちがいだ。そいつは、ぼくの心にこびりついている。ぼくには、どうすることもできないんだ。それは、わかってほしい」 「わかっている」どこか熱っぽい口調で、ディロンはいった。「わかっているさ、ボブ。ぼくはただ、問題のあるがままを、きみに見せたいと努力しているだけなんだ。『橋』は、きみの言うような、おそろしいものじゃない。悪夢なんてほどの値うちは、とてもないぜ」 「いや、夢の中でぼくがうなされるのは、『橋』そのものじゃないんだ」ヘルマスは、苦い微笑をうかべていった。「まだ、そこまでとりつかれてやしない。橋がふっ飛ぶ不安は、目のあいているうちだけのことだ。夢に現われるのは、ぼく自身への恐怖さ」 「そいつは、正気な恐怖だ。きみは、みんなと同じように、正気なんだ」  おそろしいばかりの生真面目さで、ディロンは強調した。 「聞いてくれ、ボブ。『橋』は、決して怪物じゃない。それは、ある特殊な気圧、温度、重力の条件下での、物質の性質を研究するために、われわれが開発した、一手段にすぎん。そして、木星も、決して地獄ではない。ただの自然条件の組合せだ。『橋』は、その条件を知ろうと、われわれが作った実験室なのだ」 「むだなことだ。行き場所のない橋だ」 「木星には、そう幾つも行き場所[#「行き場所」に傍点]はないさ」  ディロンは、完全にヘルマスの言った意味をとりちがえた。 「『橋』を、地方海にうかんだ島の上に作ったのは、基礎を埋めこむだけの、固い氷が欲しかったからだ。でなければ、どこへそれを作ろうが、よかったのだ。海そのものへ、潜函を浮べていってもよかったのだよ。風速やその他の計測をするための、定点さえ必要でなければね」 「知っている」ヘルマスはいった。 「しかし、ボブ、ちっとも理解できてるようすじゃないぞ。たとえば、なぜ『橋』に、行き場所[#「行き場所」に傍点]がなくちゃならないなんて思う? 正直いって、あれは、橋でさえないんだ。われわれがそう呼ぶのは、その建造に、ある橋梁工学の原理が使われているから、というだけだ。実際には、走行起重機──おそろしく頑丈な高架レールのついたやつ──といったほうが近いだろう。それに行き場所がないのは、もともと、どこへも行くつもりがなかったからだ。できるだけ多くの地域をカバーするように、それを伸ばし、そして、安定性を増やしてゆくのは、場所から場所への橋渡しが目的じゃない。それが、ある間隙──たとえば、ドーバーとカレーのあいだのような──をつなぐものでないという非難は、的をはずれている。それは、知識へのかけ橋であり、そのほうが、ずっと重大なことなんだ。なぜ、きみにはそれがわからないのかな?」 「わかっているさ。さっきから言ってるのも、それじゃないか」苛だちを抑えながら、ヘルマスはいった。「少くとも、ふつうの子供ぐらいの常識を、ぼくは持ち合わせている。ぼくが言いたかったのは、巨大さをもって、巨大さに対抗するのは──ここの場合──阿呆のやるゲームだってことだ。そのゲームなら、いつだって、木星のほうが楽々と勝つにきまっている。かりに、ドーバー=カレー橋を作った技術者たちの建築材料が、藁しべだけに限られたとしてみたまえ。そりゃあ、なんとか、橋はこさえるかもしれない。天気のいい日に、軽いものが通れるぐらいのものは作ってみせるだろう。だが、最初の冬あらしが、北海から海峡めがけて吹きつけたら、あとに何が残るだろうか? 根本的に、そうしたやりかたは、バカげてるんだ!」 「よろしい」ディロンは、おだやかにいった。「きみの言うことも、一理だ。そこまで理性的になったきみに、たずねたい。ほかに、よりよいやりかたでもあるのか? それとも、われわれの手にはあまるということで、全面的に木星から退却すべきなのか?」 「いや」と、ヘルマス。「それともイエスかな。ぼくには、よくわからん。そう簡単に割りきれる問題ではなかろう。ただ、わかっているのは、いまのやりかたでは、絶対に解答にならんということだ──それは、もって廻った回避手段にすぎん」  ディロンは、微笑した。 「ふさぎの虫ってやつだな、むりもないが。ひと眠りして、きれいさっぱり忘れてみるさ、ボブ、ひょっとしたら──さっきの答が、みつかるかもしれん。それまでのために──そうさな、考えてみれば、木星表面だって、この第五衛星だって、程度の差こそあれ、根本的には、酷さのちがいはない。いま、もしすっ裸でこの建物から出てゆけば、とたんに死んでしまうのは、木星でと同じだ。そんなふうな見かたを、することだな」  新たな、夢深い夜に瞳をこらしながら、ヘルマスはいった。 「ぼくも、いま、そんな見かたをはじめたところだ」 [#改ページ] [#改ページ]   第 二 部     間奏曲 ワシントン [#ここから2字下げ]  ついには、語義学的失語症というべきもののために、単語と字句の全体的な意味が、失われてしまう。おのおのの単語、描かれた一つ一つの線が、バラバラには理解できるのだが、総括的な意味を、とり逃してしまうのである。命令によって、ある行動を遂行はするが、その目的が理解できているのではない……綜合的な概念を体系立てることはできないが、その細目だけは、数え上げることができるのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──アンリ・ピエロン   [#ここから2字下げ]  われわれは1についての研究を完成したとき、「2」とは「1|と《アンド》1」であるという理由から、2についても、すべてを知ったと思いこみがちである。まだ、「|と《アンド》」についての研究が残っているのを忘れて。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──A・S・エディントン    木星《ジュピター》計画についての、上院財政委員会調査小委員会の報告は、分厚な大冊だった。とくに、ワゴナーのデスクへ急送されたのは、ガリ版刷りの、修正なしのものだったから、なおさらである。  活字印刷のそれ──あと二週間たたないとできてこないが──なら、ずっとかさは低いだろう。だが、同時に、興味もそれだけ低いのである。その上、七人の著者の、用心深い再考慮というやつで、何ヵ所かに手ごころが加わるにきまっている。生の『非公開』版における彼らの意見を、ワゴナーは知りたいのであった。  といっても、活字になったそれが、グッと広い層に流布されるわけではない。ガリ版刷りの冊子でさえ、極秘とスタンプされているのだ。政府の機密保全システムを、多少なりとも面白がることなど、ワゴナーは何年もまえに卒業してしまっていたが、いまのこれは、たしかに苦笑ものだった。  もちろん、『橋』そのものは、最高機密である。だが、小委員会の報告書が、せめて一年あまり前に完成していたなら、この国のひとり残らずが、その機密を知らされたろうし、報告書の抜萃は、新聞にも掲載されたはずだ。  そらで勘定しても、少くとも十人の反対党議員、それにワゴナー自身の党内部でも二、三名は、彼の再選を阻むためなら、たとえそれが報告書だろうと──彼をおとしめる役に立てば──利用するのを辞さない、といった手合いがいるのだった。連中に気の毒だったのは、選挙の日が来たとき、報告書が、まだ三分の一しかできていなかったことだ。そして、アラスカは、心強い票差をつけて、ワゴナーを、ふたたびワシントンへ送り出したのだった。  ガサガサした大判のページをゆっくりとめくり、紙から立ちのぼる復写インキの、気持のいい匂いを嗅いでいるうちに、この報告書が、どのみち大したキャンペーンの材料にはならなかったろうことが、はっきりしてきた。  大部分が、調査に当った議員でなく、おそらく顧問スタッフによって書かれたらしい、高度に技術的な内容なのである。そうした学識の陳列に、大衆は圧倒されこそすれ、それを読むことはしないし、またできないだろう。おまけに、それは単なる陳列にとどまっている。『橋』の諸問題についての、技術的な論議のほとんどが、無意味な一般論に堕ちこんでいるのだった。  大ていの場合、ワゴナーは、そこに書き洩らされた事実、無智のせいにせよ、故意によるものにせよ、ともかく論理の鎖を、宙ぶらりんにさせたそれを、言いあてることができるのだった。  実際の『橋』の建設ぶりについては、上院議員たちはなにひとつ、反駁の材料らしいものを、つかんでいない。納税者たちが、かくも多寵の金を、木星での『橋』建設にかけることを、承知した事実──いいかえると、それはある人間(ワゴナー自身)が、この計画に注意をひくことで、納税者たちを混乱させることを避けて、彼らになり代って決定を下したためなのだが──をあらかじめ知らされていたせいか、反対党の議員でさえ、『橋』が、可能なかぎり経済的に、建設されてきたこと、またいまも、そうされつつあること、を認めざるをえなかったらしい。  もちろん、小さな汚職行為もないではなかった。調査官たちが、それを発見したことは、いうまでもない。補給船の船長の一人が、現地の販売店員の協力で、ガニメデ勤務の連中に、法外な値段で石鹸を売りつけていたのである。だが、『橋』ほどの規模をもった計画にしては、ほんのささやかな犯罪でしかない。ガニメデでひどく不足をつげており、同時に密輸の割に合うだけの、小型で軽量な品物、それを発見した補給船船長の頭のよさ──それとも、店員のアイデアか? ──に、ワゴナーはちょっと敬意を表したくなった。『橋』の人びとは、その給料のほとんどを、目にすることもなしに、地球の銀行へ自動的に預金している。木星のあまたの衛星には、買うだけの、また売るだけの値うちのあるものが、きわめて乏しいのだ。  しかし、大規模な汚職となると痕跡すら見当らなかった。鉄鋼会社が、標準以下の鋳鉄を、『橋』に売りこんだ事実もない。『橋』には、鉄はいっさい使われていないのである。木星人なら、不良品の氷を『橋』に売りこんで、ひと儲けできたかもしれない──だが、万人の見るところ、木星人は存在せず、かくて『橋』は、その切り出しの費用以外はただ同然で、氷Wを手に入れていたのである。  より小さい契約──衛星用のプレハブ宿舎、補給フェリー・ロケットの燃料、各種の備品──の取扱いについては、ワゴナーのオフィスが、厳格な態度でのぞんだのだった。そして、契約それじたいだけでなく、『橋』と関係する、陸軍航宙隊の下請契約にまで、監督の目を光らせたのだ。  チャリティ・ディロンと、その作業主任についていえば、彼らは固苦しいまでに能率的だった──そうした仕事ぶりをさせるものの一部は、彼らの天性であり、また一部は、木星系へ派遣されるまえに全員の受けた、徹底的な心理改造《コンディショニング》の結果なのである。彼らの管理下には、なにひとつ浪費は発見されなかったし、また、たとえそこに、技術的な判断の不備があったとしても、外来の技術者たちに、それが探知できるものでもなかった。『橋』を働かしている工学原理は、木星の上でしか通用しないのである。  木星《ジュピター》計画における、これまで最大の金銭的損失は、はなはだしい人命の犠牲と結びついていたため、議員たちの目には、それが戦争行為の範疇に属するように映ったのだった。兵士が戦闘で死んだとき、その装具のロスが、政府にいかほどの金銭的損害を及ぼしたかを、うんぬんする人間はいない。  報告書の、『橋』の基礎設置工事のくだりには、乗組員二百三十一名の英雄的な殉職行為が、敬意をこめて触れられてあった。木星大気の底深く沈んだ、九台の特殊設計の宇宙曳航船──一平方インチ当り六百万ポンドの気圧を受けて、ブリキ細工のようにひしゃげ、生者たちの目と隔たること、八千マイルの毒ガスの底に沈んでいるそれ──の損害額については、もちろん、なにも記されていない。  彼ら乗組員は、果たして英雄なのか?  彼らは命令を受けて行動中の、陸軍航宙部隊所属の将兵だった。命令を遂行中に、命を失ったのである。その作戦の生存者たちが、やはり英雄呼ばわりされたかどうか、ワゴナーには記憶がない。  まあ、勲章をもらったことは、たしかだろう──陸軍というやつは、自分のところの人間たちの胸を、ありったけの野菜サラダで飾りたがる。それが、格好の宣伝になるからだ──しかし、報告書は、ひとことも、それには触れていなかった。  これだけは、確かだ。  殉職者たちの死は、ワゴナーが招いたものである。  たくさんの人間が死ぬだろうことを、少くとも概括的には承知していながら、ワゴナーは、計画を押し進めたのだった。それ以上にひどい事態の起ることも、承知していた。しかし、あえて彼が続行に踏み切ったのは──長い目で見て──そうする価値があると考えたからだった。  目的が手段を正当化しないことは、充分にわきまえている。だが、もし、ほかに方法がないとしたら、そして、目的のものが、是が非でも必要だとしたら……。  しかしドストエフスキーと大審問官のことが、折りふし、彼の心の中で頭をもたげる。  かりに、|至福の千年期《ミレニアム》が、ひとりの子供を虐殺することによってのみ、われわれに与えられるとしたら、それでもそれを願うべきなのか? ワゴナーが予見し、計画したものは、とうてい至福千年期《ミレニアム》ではありえない。そして、ジョン・フィッツナー社に提供された幼児たちは、虐待はおろか、なんの危害も加えられていないけれど、少くともそれは、幼児としての尋常な体験ではない。さらに、木星の底なし地獄のどこかで、カチカチに凍りついている二百三十一人の男、命令のまえには、幼児よりも無力だった人びとのことは?  しょせん、ワゴナーは、将軍たるべく生れついてはいなかった。  報告書は、失われた人びとの、英雄的な行為をたたえている。ワゴナーは、気重にページをめくりながら、この人びとの死が果たした役割について、調査議員団の述べた言葉を探した。なにもない。あるのは、『国のために』とか、『平和のために』とか、『未来のために』とかいう、きまり文句だけだった。  高等な名目──実は、たわごとである。議員たちは、『橋』の目的がなんであるかも、知りはしない。探しはしたが、見つけることはできなかったのだ。まる四年間、その経験を考え直してみる暇を与えられながら、しかも見つけることができなかったのである。おそらく、『橋』の規模じたいからおして、新兵器の開発研究にちがいない、と思いこんだ彼らは──『平和のために』も、いいところだ──公式発表の回覧状が届くまで、その武器の性質を詮索しないほうがよいと、考えたのだろう。  その考えは当っていたのである。 『橋』は、たしかに、武器の一種にはちがいない。しかし、それが、どんな性質の武器であるかの詮索を怠った議員たちは、同時に、その武器が、誰に対して向けられたものであるかの詮索も、怠ったのだった。ワゴナーにとって、好都合なことに。『橋』というアイデアの誕生に先立つ、あの二年間の暗中模索、着工に値いする計画の探究についてさえ、報告書は触れていないのである。  その二年間、寸秒を惜しんで、認可されたが実用化されない特許、異端視された科学論文、成功しなかった奇蹟的発明についての通俗記事、本業の科学者たちの書いたSF、その他、手がかりになりそうなありとあらゆるものを、ワゴナーは、四人の献身的な特別スタッフに、チェックさせたのだった。四人は、その求めるものがなんであるかを、誰にも喋らないこと、そして、そのテーマについての、現代科学の主潮は無視すること、を命令されていた。だが、いかなる秘密も、永久に安全ではありえず、いかなる事実も、永久に秘密ではありえなかった。  たとえば、FBIのファイルのどこかに、ワゴナーが、その吉報の訪れた日、四人のチームの首席員《チーフ》とオフィスで交した会話の、録音テープが存在するはずなのだ。ワゴナーひとりの耳だけでなく、上院議員でさえ手をつけるのをはばかるFBIの盗聴マイクが、その男の言葉を聞いていたのである。 「こいつは、どうやら本ものですよ、ブリス。Gテーマの」 (重力関係での収穫です) 「要点だけ説明してくれ」 (注意:盗聴者にわからないよう、話を専門的にするんだ──これだけのマイクを仕込まれたなかで、話したいというのなら) 「いいですとも。これは、ブラケット方程式と呼ばれています。電子スピンと磁気モーメントの関連性を想定したものらしい。この研究は、たしかディラックも、手をつけたと思います。この方程式には、Gが含まれていますが、たった一回の簡単な代数的操作で、Gだけをイコール記号の片側へ、そして残りの要素を全部その反対側へ、移項させることができるんです」 (こんどばかりは、眉唾もののアイデアじゃありません。一流の科学者が、興味を示したぐらいだから。それに、数学的証明までついているし) 「知名度は?」 (なぜそれが、いままで放っておかれた?) 「もとの方程式は、七級程度でしょう。だが、実地テストへの持ちこみようがなかったらしいのです。移項した方程式のほうは、ロック誘導式と呼ばれていますが、部下の話では、ちょっとした次元解析で、誤りが証明されるだろう、ということです。百パーセントの確信はありませんがね。ただ、こっちのほうは、もとのブラケット方程式とちがって、出費を覚悟なら、実地テストに持ちこめます」 (それが、なにを意味するものか、いまもってわからないからですよ。なんの意味も、ないのかもしれない。そいつを確かめるには、とてつもない費用がかかるでしょう) 「実現能力は?」 (どれぐらいの費用だ?) 「初歩的段階ですな」 (ざっと、四十億ドルでしょうか) 「謙遜だな」 (なぜ、そんなに掛る?) 「ええ。れいの『場の力』というやつでしてね」  長い目で見て、重力を研究してゆく上に、大きな意味を持ちそうな、たった一つの問題、それが、この略語で表わされていた。ニュートンのように、それを力と考えるか、ファラデーのように、それを場と考えるか、アインシュタインのように、それを空間の状態と考えるか、いずれにしても、重力は信じがたいまでに弱いものなのである。事実、あまりにも弱いために、理論的には、宇宙の中のあらゆる物体──それが、いかに小さいものであろうと──の属性であるにもかかわらず、いまもって、研究室での実験には、持ちこめないでいるのだ。磁化された二本の針は、一インチという大きな距離を隔てられても、おたがいを求めて突進する。正負の電荷を持った、豆粒大の二つの鋼球についても、これは同じだ。ドーナツ大の二個のセラメット磁石を使えば、同じ極が反流しあうのを、手で押しつけることも不可能だし、また、たとえ大力の男でも、違った極が吸いつくのを引き離すことは、不可能になる。さらに、どんなサイズでもいい、二個の金属球に、強い正負の電荷を与えさえすれば、ほかにそれを中和する方法のないかぎり、絶縁体の空気を突き抜けて、烈しい火花が飛び交うだろう。  しかし、重力は──理論的には、電気や磁気と同じ種類であるにかかわらず──いかなる物体にも、それを詰めこむことができないのだ。それは、火花を出しもしない。それに対する絶縁体──反重力体──が、あるわけでもない。豆やドーナツ程度の、小さな物体のあいだでは、それは検出不可能な力として、存在するにすぎない。摩天楼ほどの大きさと、鉛ほどの密度をもった二つの物体でさえ、もしおたがいのあいだに働くものが、重力的な吸引力しかないとすれば、一フィートの距離を這い進んで相擁するまでに、数世紀を必要とするだろう。男女の恋だって、これに比べれば早いものだ。  八千マイルの直径をもつ岩石の球体──地球──でさえ、その重力の場は、一人の人間が、おのれの筋肉の伸縮力だけに頼って、身長の四倍余の高さを棒高跳びするのを妨げないほど、弱いものなのである。 「ふむ。じゃ、あとで報告を出してもらおうか。もし必要なら、拡張してもいい」 (それだけの価値が、あるのか?) 「報告書は、今週にも作ります」 (ありますとも!)  それが、『橋』の誕生だった。もちろん、当時は、誰ひとり、ワゴナーでさえ、そうとは知らなかったのだが。『橋』を調査した上院議員たちに至っては、いまもって、それを知らない。FBIの、マッキナリーのスタッフも、どうやら、あのちんぷんかんぷんな会話の録音を、『橋』と結びつけてみるだけの、才覚はなかったらしい。でなければ、マッキナリーは、おそらくあの会話の写しを、調査委員たちに提供しただろうからだ。マッキナリーは、お世辞にも、ワゴナーを好いてはいないのである。ただ、これまでのところは、このアラスカ出身の上院議員の、尻尾が握れないでいるのだった。  万事好調と、いうべきだろう。  とはいうものの、調査委員たちが、たった一度だけだが、危うく秘密に気づきかけたことがあるのだ。あれは、予備質問として、彼らが、ジゥセッピ・コーシを召喚したときだった。 委員長: [#ここから2字下げ]  さて、コーシ博士、記録によると、あなたが、ワゴナー議員と最後に会見されたのは、二〇一三年の冬でした。そのとき、木星《ジュピター》計画について、彼と話し合いましたか? [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  どうして、そんなことができます? 当時、それはまだ存在しませんでした。 [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  しかし、なにか、そうした話は出ませんでしたか? そういう計画をはじめるつもりだと、ワゴナー議員は洩らさなかったのですか? [#ここで字下げ終わり] コーシ:    いいえ。 委員長: [#ここから2字下げ]  あなたのほうから、ワゴナー議員に示唆を与えられたこともなかった? [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  もちろんです。のちになって、計画が発表されたときは、まったく驚いたものです。 [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  だが、それがなんであるかは、ご承知ですな? [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  一般大衆に知らされたことだけは。われわれは、木星に『橋』を建設中である。非常に経費のかさむ、野心的な事業だ。その目的は、秘密である。それだけです。 [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  その目的を、ご存じないと言われるのですか? [#ここで字下げ終わり] コーシ:    研究のためでしょう。 委員長: [#ここから2字下げ]  そう。だが、なんの研究です。あなたのことだ、なにかの手がかりは、お持ちにちがいない。 [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  私は、なんの手がかりも持ち合わせませんし、またワゴナー議員も、そうしたものを与えてはくれませんでした。私の知っている事実は、すべて新聞紙上で手に入れたものにすぎません。もちろん、私なりの臆測は立ててみました。しかし、知識[#「知識」に傍点]ということになると、公式発表で明記されたか、暗示されたもの以外には、持ち合わせません。これらからは、『橋』の目的が、戦争兵器の開発にあるような印象を受けました。 [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  だが、そうでないかもしれない、と言われるのですか? [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  私は──私には、自分のあずかり知らぬ政府事業について、論議を加える資格はありません。 [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  だが、意見なら、お聞かせ願えるでしょう。 [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  専門家としての意見をお求めなのでしたら、さっそく、協会にその件の調査を命じ、その上で、意見の具申にどの程度の費用が掛るものかを、お知らせしますが。 [#ここで字下げ終わり] ビリングス議員: [#ここから2字下げ]  コーシ博士、質問に答えることを、拒絶されるのですな? 忠告申し上げるが、あなたの過去の経歴にかんがみても──。 [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  私は返答を拒んでいるのではないのですよ、議員。コンサルタントという職業を、私は生活の一助にしております。もし政府が、そうした資格において、私を利用されるつもりならば、報酬を要求することは、私の当然の権利でしょう。たとえ一部なりと、私の生活の糧を奪う権利は、あなたにないはずです。 [#ここで字下げ終わり] クロフト議員: [#ここから2字下げ]  政府は、ここしばらく前に、あなたを雇用することを決定しているのです、コーシ博士。正しい決定だと、私も思うが。 [#ここで字下げ終わり] コーシ:    それは、政府のご勝手でしょう。 クロフト議員: [#ここから2字下げ]  ──だが、いまのあなたは、合衆国上院の名において、質問を受けているのですぞ。もし返答を拒めば、侮辱罪に問われることを、お忘れなく。 [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  意見を述べなかったというかどでですか? [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  クロフト議員、失礼ですが、証人には、意見の提出を拒む権利があるのです──それとも、報酬のないかぎり、意見を保留する権利、と申しましょうか。いずれにせよ、事実を彼の知るままに述べなかった場合にしか、証人を侮辱罪に問うことはできません。 [#ここで字下げ終わり] クロフト議員: [#ここから2字下げ]  よかろう。では、その事実をうかがおうじゃないですか、手加減はぬきで。 [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  コーシ博士、ワゴナー議員との最後の会見のさいに、木星《ジュビター》計画になにかの関連をもつ話題が出ましたか? [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  そう、出ました。だが、否定的な意味においてです。私は、その類いの計画に、否定的な意見を吐いたのです。かなり強硬に、それを言ったことを、思い出します。 [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  『橋』については、なんの話も出なかった、と言われたはずだが。 [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  そのとおりです。私たちは、研究方法一般について、討論したにすぎません。私は彼に、『橋』クラスの大規模な研究計画が成功する時代は、すでに去った、と教えました。 [#ここで字下げ終わり] ビリングス議員: [#ここから2字下げ]  あなたは、その意見の報酬を、ワゴナー議員に請求されたのですかな、コーシ博士? [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  いや。そうしないことも、時にはあるのです。 [#ここで字下げ終わり] ビリングス議員: [#ここから2字下げ]  請求すべきでしたな。ワゴナーは、あなたの無料の忠告に、従わなかったようだから。 [#ここで字下げ終わり] クロフト議員: [#ここから2字下げ]  その意見の出所を、ワゴナーは、考えてみたのだろう。 [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  私の忠告は、なんら強制されたものではありません。あれは、当時における、私としての最良の判断だった。それをどうしようが、彼の自由です。 [#ここで字下げ終わり] 委員長: [#ここから2字下げ]  お聞きするが、それは、現在においても、あなたの最良の判断といえますか? つまり、『橋』クラスの大規模な計画が──あなたの言葉を借りれば、成功する時代は、すでに去った、と? [#ここで字下げ終わり] コーシ:    その考えは、いまでも変りません。 ビリングス議員: [#ここから2字下げ]  無料で、その意見を提供願えるので……? [#ここで字下げ終わり] コーシ: [#ここから2字下げ]  それは、私の知っている、すべての科学者の意見です。なんなら、政府関係の科学者に、お聞きになってみればよろしい。常識を提供するだけで、お代を戴こうというほど、私はバカではないつもりです。 [#ここで字下げ終わり]  危機一髪、というところだった。おそらく、とワゴナーは考える、コーシは、あの会見のカンどころをすべて憶えていながら、しかも、小委員会には話さない決心をしてくれたのかもしれない。もっとも、より可能性のあるのは、彼のアパートの、ブラインドを落した窓のそばで、コーシの洩らした言葉が、ワゴナーの心にこびりついたほどには、コーシの記憶に残っていない、といったところだろう。  だが、たしかにコーシは、『橋』の目的を、少くとも部分的には、知っているはずなのだ。あのときの会話の一部、重力に関係したくだりを、思い出したはずなのだ。いまになれば、きっとあれだけの言葉から、『橋』までの長い道程を、推諭し終っているにちがいない──もともと、コーシのような理解力の持ちぬしには、『橋』は決して難解な対象ではないのだから。  しかし、コーシは、なにひとつ口外しなかった。それは、千金にまさる沈黙だった。  あの年老いた科学者に、感謝を述べることのできる日は、果たして来るだろうか、とワゴナーは考えてみた。いまは、だめだ。永久に、だめかもしれない。  コーシの心のなかの、苦痛と困惑は、そっけない公式議事録の行間からも、はっきりと読みとれる。せつないまでに、ワゴナーはそれを和らげてやりたい気持だった。だが、それは、できない相談だ。やがて時期が来たとき、コーシがそれを全体として掴み、全体として理解してくれるのを、ひたすら希望するしかない。  コーシについてのページは終った。  さて、もう一つ答えねばならない疑問が、残っている。この千六百ページのガリ版刷りの報告書のどこかに、ジョン・フィッツナー社で起りつつあることをぬきにして、『橋』を語れないことを暗示するものが、たった一つでもあったろうか……?  いや、ありはしない。われ知らず、安堵のため息をついたワゴナーは、報告書を机に落した。それは、それでよし。  彼は、報告書をファイルすると、書類カゴに手をのばして、陸軍航宙隊大佐、ペイジ・ラッセルに関する調書をとり出した。ほんの一週間ほどまえに、フィッツナー社から送られたものなのである。ワゴナーは、疲れてもいたし、ある人間の一生を左右する判断を下すことにも、気が進まなかった──しかし、これは、みずから求めて入った仕事なのだ。そして、いまは、それをやりとげねばならないのだ。  ブリス・ワゴナーは、将軍たるべく生れついてはいなかった。神となるには、さらに不向きだった。 [#改ページ]     5 ニューヨーク [#ここから2字下げ]  霊魂存在説が証明しようと企てた本来の現象は、いまだにそのまま残されている。ホモ・サピエンスが、他の動物といくつかの相違点を持つのは確かだ。しかし、生物学的特徴とその帰結が、はっきりと規定された場合、人間の『道徳』『魂』『永遠性』は、すべて、純粋に自然主義的な公式化と理解力によって、近づき得るものとなる……人間の『永遠性』は、(それが、いかなる他種属の動物の、性細胞質の永遠性とも異っているとすれば)その超時間的、相互個人的に共有された、価値観念、記号法、言語、および文化の集合であって、それ以外の何物によっても成立っていないのである。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──ウェストン・ラ・バール    翌日、〈航宙士ホーム〉の居室で、朝食をとっていたペイジが、フィッツナー社へ立ち戻って謝罪しようと、突然決心を固めるまでには、アンのいった十秒間もかからなかった。  あのデートが、なぜああも惨憺たる結末に陥ったかは、彼としても理解に苦しむところだったが、一つだけ、まちがいないと思われることがあった。つまり、あの大失敗は、すっかり宇宙の埃をかぶってしまった彼のマナーに、一半の責任があるらしいのだ。それをもし償うことができるとすれば、彼の側からの働きかけよりほかにはない。  いま、冷めた卵をつつきながら考え直してみると、万事が当然だったように思えてきた。とどめの尋問の鋒さきで、ペイジはあの夕《ゆうベ》を包んでいた繊弱《ひよわ》な殻を突き破り、中身を洗いざらい、テーブルにぶちまけてしまったのだ。  専門的知識の交換という、比較的安全な隠れ家をとび出して──まず幼児を実験材料にすることへの反感を表明し、つぎに、彼女と会社との異常な関係を摘発することで──アンの倫理観を、少くとも暗黙のうちに、非難するようないきさつに運んだのである。  地球と呼ばれる、この崩壊しつつある信条の世界にあっては、個人の道徳綱領に疑問を投げかけることが、ただで済まされようはずはない。そうした道徳律は、たとえ見出された場合でも、その信奉者に、それ以上新しい探索には堪えられないほどの苦痛を、すでに強制しているはずなのである。  かつて、信仰とは、自明のものであった。現在のそれは、自暴自棄のものになり果てている。いまだに、それを持ち合わせている人びと──というよりは、営々とその一片一片を積み重ねた人びと──の、ひたすらの望みは、とにかく、それに縋《すが》りついておれることなのだ。  アン・アボットとのいさかいを、解決したくなった気持の動きについては、もう一つはっきりしないものがあった。なけなしの賜暇が、いまや急速に過ぎ去ろうとしているのに、これまでペイジのやったことといえば──とくに、最近二度の休暇、結婚に破れて、ふたたび独身に帰ったあとに迎えた二度の休暇での、常軌を逸した業績と比較した場合──ほんの散歩のたぐいでしかない。  いまの賜暇が終りしだい、彼がプロセルピナ基地に転属を命じられることは、じゅうぶんに考えられるのである。こいつは、人里離れた前哨という点では、太陽系きっての折り紙がついたところだ。少くとも、誰かが、十一番目の惑星を発見するだろう日までは。  それにもこりず、彼はまたもやフィッツナー社へ、かの景勝の地ブロンクスへと、舞い戻ろうとしているのだった。研究所員たち、重役たち、将軍たち、そしてとりわけ、アイロン台のような胸に、氷のような声を持った娘と、時間を空費するためか。待合室のじゅうたんの上で、創立者たちの温容あふれる肖像画に踵を鳴らし、読めもしないディオニソスの格言とやらに、胸ときめかすためか。  結構、はなはだ結構。  手札の切りかたしだいでは、プロセルピナ基地に、楽しい思い出をたずさえて行くこともできるだろう。ひょっとしたら、れいの輸出担当の副社長が、ファースト・ネームか、あだ名[#「あだ名」に傍点]で呼ぶことを、許してくれないものでもない。  それとも、結局これは、宗教の問題なのだろうか。この世に住む人間の常として──と、ページは考えた──いまだに彼は、ある大きな何ものかを求めつづけている──彼自身より大きい何ものか、家族、軍隊、結婚、父権、いや、宇宙空間そのものよりも、また賜暇でのはしご酒[#「はしご酒」に傍点]と、荒々しくも無意味なセックスの暴発よりも大きい、何ものかを。  どうやら、フィッツナー社の事業は、その謎めいた、非商業的な雰囲気で、すっかり彼の泣きどころをつかんでしまった。アン・アボットの献身は、さしずめ、その導火線か、鍵というところか……いや、適当な表現が、まだ思いつかないのだが、彼女の態度には、彼自身の魂にポッカリ空いたギザギザな傷痕を、ピッタリとふさいでくれるものがあった。まるで──そう、まるで嵌め絵パズルの一片のように。  それに、あの陽光のほとばしりにも似た微笑を、彼はどうしてももう一度見たいのだった。  デスクの位置の関係で、フィッツナー社の応接室に入ったペイジが、最初に目にしたのは、アンの姿だった。彼の予想以上に奇妙な表情で、人目をぬすむようなゼスチュアをよこしている。まるで、デスクの上のごみを、揃えた五本の指さきで、彼のほうめがけて弾き捨てるような仕草なのだ。  ペイジの歩みは、しだいにのろくなり、ついには狐につままれたかっこうで、完全に止ってしまった。  入口のドアからは見えなかった人影が、椅子を離れて、斜め後から彼に近づいてきた。じゅうたんの足音と、横目で見えた奇妙に前かがみの姿勢が、不快なほどひそやかだった。  思わず拳を固めながら、ペイジはふりかえった。 「この将校、見おぼえのある顔じゃなかったかな、ミス・アボット? いったい、彼は何用で来たんだ──いや、そもそも、用などあるのだろうか?」  やけに背を屈めたその男は、フランシス・]・マッキナリーだった。  この失笑ものの告発者的ポーズで、体を丸めていないときのマッキナリーは、全身いずこをとっても、ボストン累代の名家の後継者たるにふさわしかった。背こそ高くないが、すこぶるスマートな上に、二十六のときからの白髪が、わし鼻と高い頬骨に助けられて、いかにも冷たい知性といった趣きを添えている。  連邦検察局《F・B・I》を、彼が祖父から受けつぐことになった由縁は、彼の祖父が、当時在職の大統領──ありあまる精気に比べて、格別の脳みそには乏しかったが、驚異的な人気を集めた軍閥のボス──に、これほど重要な指導的ポストは、後代の大統領の気まぐれな決定にまかせず、一つの法人として、父から子へ相続させるべきだと、むりやり承諾させてしまったからだった。  世襲制のポストは、時の経過につれて、名ばかりのものに陥りやすい。一株でも弱い若芽があれば、その役職の重要さが、滅ぼされてしまうからだ。しかし、マッキナリー一族には、いまだにそうした徴侯がなかった。当主は、先々代でさえ、一目も二目も置くだろうほどのやり手なのである。屈狸《くずり》(あなぐまに属する北米産の肉食獣)を思わせる狡猾さで、マッキナリーは、これまで幾度となく仕組まれた失脚の罠を、巧みに切り抜けてきたのだった。  もう一つ、これはペイジが、いま気づいたのだが、刺すような眼光≠ニいう形容句は、まったく彼のために作られたらしいのである。 「どうなんだね、ミス・アボット?」 「ラッセル大佐は、昨日ここに見えていました」と、アン。「そのとき、お会いになったのかもしれませんわね」  自在ドアが開いて、ホースフィールドとガンが、入ってきた。マッキナリーはそれには目もくれずにいった。 「そこの兵隊、名はなんという?」 「航宙士と、いってもらいましょう」ページは、憤然と答えた。「ペイジ・ラッセル大佐。陸軍航宙部隊所属」 「こんなところで、なにをしているのだ?」 「賜暇をとっています」 「質問に答えてくれんかね?」と、マッキナリーがいった。  ペイジの見たところ、相手は会話のほうは気にもとめていないようすで、彼の顔を素通りして、肩ごしの向うを眺めているのだった。 「このフィッツナー研究所に、なんの用がある?」 「あいにくと、わたしは、ミス・アボットに恋していましてね」  われながら驚き呆れるばかりの台詞が、鋭くペイジの口からとびだした。 「ここへ来たのは、彼女と逢うためなのです。昨夜の口争いの詫びをしたかった。それだけのことですよ」  デスクの向うのアンが、だしぬけに背骨をカーテンの金棒に変えられた格好で、シャンと坐り直すと、仮面のような表情に、目だけをギラギラと怒らせて、ペイジを見つめた。ガンまでが、ポカンと開きぎみの口になった。そして、にわかに見覚えをなくしたような視線で、アンとペイジを等分に見比べるのだった。  マッキナリーは、しかし、素早い一べつをアンにくれただけである。目が、まるでびんガラス[#「びんガラス」に傍点]を思わせる色に、変っていた。 「きみの私生活などに、興味はない」と、退屈をこらえた声で、彼はいった。「はぐらかしようのないように、別の質問をしてやろう。そもそも、どんな理由で、この研究所へやってきたのだ? フィッツナー社における、きみの仕事[#「仕事」に傍点]は、いったいなんだ?」  ペイジは、慎重に答を選んだ。実のところ、マッキナリーが、いったん本格的な関心を、彼に向ってそば立たせてしまえば、どんな返答をしても変りはない。FBIの告発には、ほとんど法律同様の威力があるのだ。  すべては、彼が、およそマッキナリーの関心に値いしない人物に、自分を見せられるかどうかにかかっている──あらゆる航宙士の例にもれず、ペイジが幸いにも、これまで無経験で来た、その芸当に。  彼はいった。 「木星系から、土の見本を持ち帰ったのです。フィッツナー社から、研究計画の一つとして、依頼されたので」 「そして、昨日、その見本をここへ届けた。そういう話だったな」 「いや、まだそこまでは話していません。だが、昨日それを届けたのは事実です」 「今日もまた、それを配達に及んだわけか、なるほど」  マッキナリーは、ペイジの肩ごしにホースフィールドに向って、グイとあご[#「あご」に傍点]をしゃくった。しゃくられたほうは、ことのいきさつが呑みこめたときから、麻痺したように顔を凍りつかせている。 「これは、どういうことかね、ホースフィールド? この男は、きみが私にも話さなかった、秘密部隊の一人なのか?」 「いいや」  ホースフィールドはそういったものの、あとで肯定させられる場合を予想してか、語尾に疑問符をくっつけたような、あやふやな口調だった。 「昨日、ここで会った覚えがするが、正直いって、それまで見たことのない顔だ」 「なるほど。では、将軍、この男は、陸軍の当計画に対する要員とは、まったく無関係だといわれるのですな?」 「そこまでは断言できんがね」  疑惑を口にしたとたんに、ホースフィールドの口調には、積極的なひびきが、こもったようだった。 「人事課とチェックしてみねば。たぶん、彼は、オルゾスのグループに入った新顔なのだろう。少くとも、わしの部下ではない──事実、そうはいっておらんだろう?」 「ガン、この男はどういうことなのだ? きみたちは、私に断わりもせず、人を雇うのかね? 彼の身元証明はあるのか?」 「いや、そうおっしゃられると困りますが、証明というほどの必要はないのですよ」と、ガンはいった。「彼は単なる現地採集者で、研究作業の実際にはタッチしませんし、公的な関係もありませんから。こうした野外採集員は、あなたもご承知でしょうが、ぜんぶ志願者ばかりなんです」  マッキナリーのひたいに、ますます険しいひだが刻まれていった。はるばる宇宙空間を経て届いた乏しい新聞から、ペイジの得たかぎりの知識でも、あとしばらくこうした質問が続けば、人ひとりの逮捕と、一つのセンセーションを作るに充分な材料を、マッキナリーが握ることは確実だった──フィッツナー社に汚名を着せ、そこに働くあらゆる民間人の生活を破壊し、軍部の関係者間に軍法会議の連鎖反応をまき起し、この計画を後援した政治家たちを失脚させ、そして、マッキナリーが、彼自身の新聞記事だけを集めたスクラップ・ブックを、さらに三インチがところ分厚なものにする、そんな種類のセンセーションである。  事実、この最後の一件だけにしか、マッキナリーの本当の関心はなかった。当の計画そのものが死滅するという副次効果は、たとえそれが不可避的なものにしろ、およそ彼には、関心のうすいものでしかない。 「失礼ですけど」と、アンが静かにいった。「ミスター・ガンは、わたしほど、ラッセル大佐の身分について、お詳しくないようですわ。大佐は、宇宙のはずれから戻られたばかりですし、その身上調査書は、ここ何年か、社の〈最高信頼度〉のファイルにおさまったままなのです。ただの野外採集員では、ありません」 「ああ」と、ガンがいった。「忘れていたが、たしかにその通りだ」  この、まちがってこそいないが、明らかに筋ちがいの話に、ガンがいそいそと合いづちを打つ理由が、ペイジには理解できなかった。アンが、時間かせぎをしているとでも考えたのだろうか? 「実をいいますと」わるびれずに、アンは、先をつづけた。「ラッセル大佐は、衛星を専攻にされている生態学者なのです。これまでにもずっと、社のために重要な仕事をしていただきました。宇宙では名の通ったかたですし、『橋』の設営隊など、ほうぼうに知人を持っておられます。そうでしたわね、ラッセル大佐?」 「『橋』の連中なら、ほとんど知っています」  そういってうなずいたものの、ペイジの声は、ようやく聞きとれるぐらいだった。  この娘がしゃべっているのは、どうやらとてつもない大嘘になる気配なのだ。そして、マッキナリーに嘘をつくことは、まちがいなく、破滅への近道なのである。嘘は、マッキナリーにだけ許された特権で、証人たちには与えられていない。 「ラッセル大佐が、昨日届けて下さった標本には、重要な物質が含まれていました」アンはいった。「もう一度、おいでを願ったのは、そのためです。わたしたちには、大佐の意見が必要でした。あの標本が、期待どおりのものなら、納税者たちのお金も、大幅に節約できるでしょう──予定の完成日よりも、ずっと早く研究が仕上るかもしれないからです。もしそうなった暁には、ラッセル大佐に、この仕事の最後の段階を、指導していただかねばなりません。木星の衛星群に存在する微小植物について、それだけの知識を持っている人は、大佐以外にありませんから」  マッキナリーは、疑わしげに、ペイジの肩ごしを眺めていた。彼が、いまの一言にでも耳をかしたかどうかは、すこぶる怪しいものだった。とはいうものの、アンの最後の講釈が、細心の注意の払われたものであったことは、疑いがない。なぜなら、マッキナリーにもし泣きどころがあるとすれば、それは彼の継続的にして広汎な調査活動が要求する莫大な経費だからである。最近の彼が、『政府部内の浪費』に対して光らせている目は、従来からの『転覆活動』に対するそれと、比すべきものがあるのだ。  ほどなく、彼はいった。 「何にしろ、規律にはずれた行為が横行していることは否めんな。いまの話が事実だとしたら、なぜこの男は、最初ああいうことをいったのだ?」 「おそらく、それも事実だからでしょう」ペイジは、鋭くやりかえした。  マッキナリーは、それを聞き流した。 「記録をチェックし、関係者を召喚すれば、わかることだ。ホースフィールド、行こう」  将軍は、グッと背筋を伸ばすと、いっこうに権威のない渋面で、ペイジを睨みつけ、アンにはおそろしく芝居がかったウィンクを残して、彼のあとを追った。  表のドアが、二人のうしろで閉まった瞬間、応接室は破裂したような騒ぎに変った。  ガンが、温和な顔つきに似つかない、虎のように素早い動きで、アンに向き直る。アンのほうは、不安と怒りに表情を歪ませて、すでにデスクのうしろから立ち上っている。その二人が、同時に、ありったけの声でどなりはじめた。 「見てちょうだい、なにもかも、あなたのいまいましい覗き屋趣味のおかげだわ──」 「いったい、マッキナリー相手に、あんな大ボラをでっち上げたのは、どんな了見なんだ──」 「──いくら航宙士だって、機密区域をうろつくべきでないぐらいは、こころえても──」 「──あのガニメデの標本が、屑同然なことは、きみだって知っているはずだ──」 「──あなたのおせっかいが、わたしたちに与えられた予算の全額についたかもしれないのよ──」 「──〈最高信頼度〉の人間など、この計画を始めて以来、使ったためしが──」 「──これで、さぞご満足でしょう──」 「──もう少し分別のある娘《こ》と思っていたが──」 「静粛に[#「静粛に」に傍点]!」    まごうことない、観兵式用のだみ声[#「だみ声」に傍点]で、ペイジはどなった。  宇宙のはずれでは、用のなかったそれだが、ここでの効果はてきめんだった。不似合いに、ポカンとあけた口、ミルクのように白っちゃけた顔で、二人は彼を眺めたのである。 「まったく、ヒステリーにかかった二ひきのひよっこ[#「ひよっこ」に傍点]だな、あんたたちは! この面倒の原因が、わたしにあるのだとしたら、申しわけない──だが、わたしは、アンに嘘をついてくれとは、頼まなかったつもりだ──それから、ガン、あなたにも、調子を合わせてくれとは頼まなかったはずだ! とにかく、悪口のわめきちらしはよして、冷静に考えないか。わたしも、応分のお手伝いはする──だが、おたがいや、わたしに向って、どなったり、泣き声を上げたりするようじゃ、ごめんだね」  アンが、彼にむかって、猛然と歯をむき出してきた。人間が、かくもすさまじい表情を、しかも本気でやるのにでくわしたのは、ペイジも臍の緒切って以来だった。だが、まもなく彼女は腰をおろし、クリネックスで、円く赤味のさした頬を拭きはじめた。  ガンは、視線をじゅうたんに落して、ホーッと大きな息をつき、両の掌を白いくちびるのまえで、おごそかに組み合わせた。 「おっしゃる通りだ」ややあって、ガンは、何ごともなかったような穏やかさで口をきった。「さっそく、早いとこ手を打たねばならん。アン、教えてくれたまえ。なぜ、ラッセル大佐がこの研究に不可欠だと、言う必要があったのだね。べつに、きみを咎めているのじゃない。ただ、事実を知る必要はあるのだ」 「ゆうべ、わたしは、ラッセル大佐と食事に出ました」と、アンはいった。「そして、この計画のことを、軽はずみにしゃべってしまったんです。別れぎわに、わたしたちのした口論は、あのレストランにいた少くとも二人の、マッキナリーの雇われ密告者に、立ち聞きされたはずです。ラッセル大佐のためもありますが、自分の身を護るためにも、わたしは嘘をつかねばならなかったのですわ」 「だが、スパイがいるというのに! 立ち聞きされるのを承知で、なぜまた──」 「承知はしていました。でも、ついカッとなることは、あります。あなただって、ご存じのはずよ」  まるで、テープの録音を聞くような、冷静なやりとりだった。こういう調子で語られると、あの出来事は、ペイジの逢ったこともない誰か、その名前さえうろ覚えな誰かに、起ったことのような気がしてくる。アンの瞳が、怒りの涙で赤く腫れている事実だけが、冷静な語り口と、生々しい記憶のあいだの、なにがしかのきずな[#「きずな」に傍点]だった。 「さよう。遺憾ながらね」反省するように、ガンがいった。「ラッセル大佐、あなたは、『橋』の設営隊を、実際にご存じ[#「ご存じ」に傍点]なので?」 「幾人かは、よく知っていますよ。特に、チャリティ・ディロンは。なにしろ、たとえしばらくでも、木星系に駐屯していたのですから。しかし、マッキナリーが調べれば、わたしが『橋』になんの公的な関係もないことが、はっきりしますがね」 「結構、結構」  ガンは、にわかに顔を輝かした。 「そうなると、マッキナリーの調査の範囲が『橋』を含めた範囲に広がり、フィッツナー社に手が廻りにくくなる──『橋』の人びとにはお気のどくだが、われわれとしては、時間が稼げます。『橋』と、フィッツナー社──そう、この二つが一度では、マッキナリーとしても、いささか手にあまるでしょう。数ヵ月はかかるにちがいない。それに、『橋』は、ワゴナー議員の虎の子ですからね。彼としても、慎重に運ぶ必要がある。ほかの議員たちを槍玉に上げたように簡単には、ワゴナーの評判に泥を塗れませんよ。フムム。とすると、問題は、いかにして、稼いだ時間を利用するかだ」 「落ちつくとなると、またとてつもなく落ちついてしまう人だな、あんたは」  ペイジはそういって、ニヤリと、苦笑をもらした。 「根が、セールスマンですからな」と、ガンがいう。「多少、創意には恵まれた部類でしょうが、中身は、やはりセールスマンです。この職業では、そのときどきのムードに、自分を合わせなくちゃいけない。ちょうど、俳優のようにね。さて、さっきの標本の件だが──」 「あそこまでつけ加えたのは、まちがいでした」と、アンがいった。「あまりにも、できすぎた話ですものね」 「それどころか、あれが、われわれのたった一つの逃げ道かもしれないんだよ。マッキナリーは現実派だ。結果だけを云々する男だ。だから、かりにわれわれが、大佐の持参した標本を、十把ひとからげのテストから引き抜いて、至急になにがしかの材料──有望らしく見えるものなら、何によらず──を、それからとり出すよう、研究スタッフに特に命令したとすれば!」 「でも、彼らが、ごまかしを承知するかしら?」眉をよせながら、アンはいった。 「おやおや、ごまかすなどと誰がいったかね、アン? どんな標本にだって、わが社の特選級の培養菌には及ばないにしろ、なにか興味ある生命体は含まれている。わかるかね? 具体的な結果を示してさえやれば、たとえそれが、非公認の人間の手をかりて、可能になったものだとしても、マッキナリーは納得するはずだ。でないと、彼としては、専門家を糾合して、証拠を査定せねばならず、これには金がかかるからね。もちろん、いっさいは、ラッセル大佐が非公認人物であることを、マッキナリーに発見されるまえに、われわれがなんらかの結果を示せるかどうかに、かかっているわけだが」 「それと、もう一つ」アンがいった。「わたしがマッキナリーに話したことを、嘘でなくすために、ラッセル大佐を惑星生態学者らしく仕立て上げる仕事が、残っていますわ──それと[#「それと」に傍点]、大佐に、フィッツナー計画とはなにかを知らせる仕事が」  ガンの表情が、一瞬、げんなりしたものに変った。 「アン、あのゴリガン男のおかげで、われわれがどれほど迷惑な立場に追いやられたかを、よく覚えておくんだね。こっちの正当な権利を、政府の手から護るためには、重大な機密の漏洩も、あえて犯さねばならない──マッキナリーが、横車を押さなければ、こんなことにはならなかったのに」 「ほんとうに、そうね」と、アンは合いづちを打った。  だが、その表情は、ペイジが思うのに、どうもポーカー・フェイスの匂いがした。ガンの当惑顔を、楽しんでいるらしいのである。 「ラッセル大佐、ひょっとして、あなたが事実、惑星生態学者だ、ということはないでしょうな? あなたぐらいの上級航宙士になると、なにかの科学者である場合が多いが」 「残念でした」と、ペイジはいった。「弾道学が、わたしの専門でしてね」 「それにしても、ある程度の惑星の知識がなくては、つとまりますまい。アン、あとは、きみにまかせることにしよう。こっちは、急いで、カムフラージュにかからなくちゃならない。ラッセル大佐の速成教育には、たぶん、きみの父上が最適任かもしれんね。ところで、大佐、あなたがこれから当社でお聞きになる情報は、もしマッキナリーに見つかりでもしようものなら、情報の提供者が、投獄か銃殺のうき目に会いかねないものであることを、覚えておいていただきましょうか」 「口は、つつしみます」と、ペイジはいった。「この騒ぎの罪ほろぼしに、できるだけの協力はするつもりですよ──それに、好奇心の満足もさせたいし。だが、ミスター・ガン、あなたに、一つだけ知っておいてほしいことがあります」 「と、おっしゃると──」 「つまり、あなたのあてにしておられるような、時間の余裕は、まるきり存在しない、ということですよ。わたしの賜暇は、あと十日で終ります。その期間内で、わたしを惑星生態学者に仕立て上げることができるとお思いなら、こっちもひき受けざるを得ませんがね」 「ウーム」  ガンは唸った。 「アン、さっそく始めなさい」  そう言い残して、彼は跳ねドアの向うに消えた。  二人は一瞬、気まずさの中で、目を見かわした。やがて、ニッコリとアンは微笑した。とたんにペイジは、生れ変ったような自分を感じるのだった。 「あなたの言ったこと──あれは、ほんとなの?」どこか恥かしそうに、アンはきいた。 「そう。口に出すまでは気がつかなかったが、ほんとうなんだ。それにしても、なんと間の悪いときを選んだのかと、全くすまなく思っている。ここへ来たのは、ゆうべのいさかいを、詫びるつもりだったのに。かえって、言いわけの種を、ふやしたようなものだ」 「あなたの好奇心って、じっさい大した才能じゃない?」あらためて微笑みながら、アンはいった。「知りたがったものを、見つけ出すまでに、たったの二日しか、かからなかったんですものね──それも、世界一といっていいほど、警戒の厳重な秘密を」 「いや、まだ聞かせてもらってはいないよ。ここで、教えてくれるのかね──それとも、ここは、盗聴マイクでも、置いてある?」  アンはわらった。 「盗聴マイクがあるのに、ハルやわたしが、あんな口論をするかしら? いいえ、ここは安全よ。毎日検査していますもの。まず、あらましだけ、わたしがお話しして、あと、細部の説明を、父にやってもらうことにしますわ。実をいうと、フィッツナー計画は、老人病の制圧だけが目的ではなくて、さらにこうした病気の究極の結果にまで狙いを据えています。つまり、わたしたちは、死そのものに対する解答[#「死そのものに対する解答」に傍点]を、見出そうとしているんです」  ペイジは、手近な椅子を探して、ゆっくりと腰をおちつけた。 「そんなことができるとは、とても思えない」やっと囁くような声で、彼はそういった。 「と、わたしたちも思っていたのよ、ペイジ。あそこにも、そう書いてあるわ」  アンは、ドイツ語で書かれた、自在ドアの上の社是を指さした。  "Wider den Tod ist kein Krautlein gewachsen" 「『死に打ち勝つ薬草なし』それが自然の法則だと、古代ドイツの植物学者は、考えたのです。でも、現代では、それは一つの挑戦でしかありません。この自然のどこかに、死に打ち勝つ草根木皮は、きっと存在する──それを、わたしたちは探し出すつもりなのです」  アンの父は、どこか上の空で、またペイジと話すことじたい、気がかりなようすだったが、それでも、ペイジにものみこめるよう、計画の基本原理を明快に説明し終るには、まる一日しかかからなかった。そして、もう一日、ちょうど彼の届けた試料土のテストにかかっている研究室で、簡単な助手の仕事──ビン洗いと希釈液作りが大半だったが──をつとめると、ペイジも、自己流の説明ができるまでに、その理論を身につけたのである。  さっそく彼は、夕食の席上で、アンを相手に、それを試みてみた。 「すべては、なぜ抗生物質が効力を示すかについての、われわれの考え方にかかっているんだ」まじめくさった表情で謹聴しているアンに向って、ペイジはいった。「抗生物質は、それを生み出した生命体にとって、いったいどんな役に立っているのか? われわれの推測では、生命体が抗生物質を分泌するのは、その競争相手の微生物を抹殺するか、抑制するためだ。もっとも、この目的にかなうだけの抗生物質が、これらの生命体の天然媒体である土中で、実際に作られているとは、まだ証明できていないけれどね。言いかえると、抗生物質の有効範囲が広いほど、その産出者は、生存競争に有利なわけだ」 「目的論に陥らないよう、気をつけて」アンが、警告した。「それでは、抗生物質が、なぜ[#「なぜ」に傍点]分泌されるか、にはならないわ。ただの結果にしかすぎない。機能であって、目的ではないわ」 「仰せの通りだ。だが、そこにまた、抗生現象に対するわれわれの考え方の、境界線があるんじゃないかな? 殺される[#「殺される」に傍点]ほうの微生物にとって、抗生物質とは、いったい何なのだろう? 明らかに、それは、有害物なんだ。毒素なんだ。しかし、細菌の中には、一定の抗生物質に対して、先天的に抵抗力を持っているものがあるし、また、分枝群変異──だったかな? ──と品種陶汰で、耐性をもった細胞が、培養基《コロニー》全体に波及することもある。さっきの逆で、こうした耐性細胞は、明らかに抗毒素を作り出しているわけだ。そのいい例は、ペニシリナーゼ、つまり、ペニシリンを破壊する酵素を分泌する、ある種の微生物だ。この種の細菌にとっては、ペニシリンは毒素であり、そして、ペニシリナーゼはその抗毒素である──これで、正しいかな?」 「好調だわ。先をどうぞ」 「では、そこにもう一つの事実を、つけ加えてみよう。ペニシリンとテトラサイクリンは、ともに抗生物質である──つまり、多くの細菌に、毒素として作用する──と同様に、抗毒素でもある、という事実だ。この両者とも、子癇の発生因である胎盤毒素を、中和する働きをもっている。さて、テトラサイクリンは、いわば、万能型の抗生物質だが、同じように、万能型の抗毒素といったものは、存在しないのだろうか? さまざまな種類の細菌がおのおので作り出す、テトラサイクリンへの耐性、それはすべて、ある単一の阻害物質から派生しているのではないか? その答は、われわれがすでに知るかぎり、イエスだ。さらに、われわれは、別な種類の万能型の抗毒素──さまざまな抗生物質から、細菌を保護する物質──をも発見している。聞くところによると、これは全く未開拓の研究分野で、やっと表面をひっかきはじめた段階にすぎないらしい。  ゆえに……生長の停止したあと、人体に蓄積する毒素に対して──ちょうど、ペニシリンやテトラサイクリンが、胎盤毒素に対して作用したように──中和作用をもつ抗毒素を発見しさえすれば、老人病制圧のための、魔法の機関銃は完成するのだ。フィッツナー社は、すでにその物質を発見した。アスコマイシンが、その名である……いかがですな?」  ひと息入れた彼は、心配そうにきいた。 「すばらしいわ。すこし圧縮されすぎてて、マッキナリーがついてゆけるか疑問だけれど、かえってそのほうが好都合かもしれない──一から十まで理解できると、ありがたみが薄れるでしょうから。それにしても、彼に話すときは、もうちょっと回りくどくやったほうが、いいのじゃないかしら」  アンは、またもやコンパクトをとり出して、熱心に中をのぞきとむのだった。 「ところで、いまのは老人病に対して触れただけで、ただの背景的なデータにすぎないわけでしょう? こんどは、死に対する直接攻撃について、話してみて」  ペイジは、コンパクトと彼女を、半々に見やったが、アンのとりすました表情からは、なにほどのものも、うかがえない。  やおら、彼は口をきった。 「お望みなら、やってみてもいい。だが、きみの父上の話だと、その問題は、政府にも秘密だということだ。レストランなんかで、しゃべっていいものかな?」  アンは、クルリと、コンパクトをペイジに向けてよこした。コンパクトだと思ったそれは、実はなにかの計器なのだった。指針が、フラフラと、だがゼロのあたりだけで動いている。 「声のききとれるほど近くには、マイクはないわ」  アンはそういって、コンパクトをパチンと閉め、ハンドバッグにおさめた。 「さあ、どうぞ」 「オーケイ。そんな盗聴メーターまで持っていながら、なぜこのまえ、ここであんな口げんかを始める気になったのか、いちど、とくとうかがいたいものだ。この偽ものの生態学者に、ゆっくり暇ができたときにでもね。  死を対象とした研究は、一九五二年、ランシングという解剖学者によって始められた。彼は、高等な動物──彼が実験に使ったのは、クルマムシ(輪形動物)だった──が、その生長の正常な一過程として、老化毒素を作り出すこと、そしてそれが、子孫に伝えられてゆくこと、を明らかにした最初の人間だった。彼が、若い母虫ばかりを選んで、つぎつぎに産ませた約五十世代のクルマムシは、世代を追うにしたがって、寿命の増加を示した。自然のままの、二十四日間の平均寿命から、百四日間のそれまで、順に並んだのだ。つぎに、彼はその操作を逆にし、つねに老いた母虫だけを選んで繁殖をつづけさせてみた。結果は、自然平均をはるかに下廻る[#「下廻る」に傍点]、寿命の短縮となって現われた」 「ということで」アンはいった。「研究所の赤ん坊について、わたしの話した以上のことも、おわかりになったわけね。あの子供たちを提供してくれた孤児院は、非行青年の私生児を専門に預っているの──幼ない子ほど、わたしたちの目的には、かなっているのだわ」 「わるいけど、そんなことでは、もう、驚かされないよ、アン。それが袋小路だってことを、すでに聞いているんだ。種族改良で、人間の寿命を延ばすなんて、しょせん実行できるものじゃない。あの赤ん坊たちが、この計画の役に立つとしたら、せいぜい、老化毒素の血中濃度に関する、比較的な数字ぐらいだろう。われわれが、いま手に入れようとしているのは、もっとはるかに直接的なもの、つまり、人体の老化毒素に対抗できる物質だ。老化毒素というものが、すべての高等動物に存在することはすでにわかっている。それが、老人病の原因となる有害物とは、はっきり異った、単一の、ある特殊な物質であることも、わかっている。そして、それを中和するのが可能なことも、わかっているのだ。きみの研究所の動物で、アスコマイシンを与えられていて、老人病に罹ったものは、一例もなかった──しかし、ある時期がくると、まるで誕生のときから時計じかけでもしてあったぐあいに、彼らは死んでいった。めいめいの母親から受けついだ、老化毒素の分量が、その時計じかけだったわけだ。  だから、われわれが、いま探し求めているのは、抗生物質──抗生命薬──とは逆の、老化防止剤、抗死薬なのだ。そして、余された時間は、わずかしかない。なぜなら、アスコマイシンそのものが、政府との契約の諸条件を、りっぱに満足させるものだからだ。いったん、アスコマイシンの量産が始まれば、政府からの助成金は、お涙ていどに削られてしまうだろう。だが、もし、いまのままの補助額が継続するように、アスコマイシンの発表を控えておくことができれば、抗死薬もいっしょに、われわれの手に入ることになる」 「ブラボー」アンはいった。「まるで、父そっくりだわ。その最後のところを、とくに強調しておきたいのよ、ペイジ。ほかのなによりも、それだけは頭に入れておいてほしいわ。もし、われわれが、計画的にアスコマイシンの実用化を遅らせている──政府が予想もしていないことをやるために、その政府から金をだましとっている──というような嫌疑をわずかでも持たれたら、とりかえしのつかないことになるでしょうから。  ここまで抗死薬を追いつめてきたわれわれにとって、いまさら途中でそれをあきらめるほど、悲しいことはないわ。われわれにとってだけでなく、人類すべてにとって、悲しむべきことだわ」 「目的が、手段を正当化するわけか」モグモグと、ペイジは呟いた。 「この場合は、たしかにそうね。秘密主義が、いまの社会のバカげた信仰だとは、わかっているけれど──ことこれに関しては、それが長い目で見て、すべての人びとのためになるのだから、ぜひ[#「ぜひ」に傍点]それで通しぬかなくては」 「わたしも、そうするつもりだ」ペイジはいった。  さっきの彼は、秘密主義のことでなく、政府の助成金を失敬することについて、触れたつもりだったのである。しかし、いまさらそれを持ち出しても、しかたがない。秘密主義については、およそ彼はなんの効能も認めてはいなかった──とくに、その限界がこれだけはっきりした、いまになっては。  なぜなら、フィッツナー社の内部で働いた、たった二日間のあいだに、すでに彼は、この計画の核心に巣食った、まぎれもない一人のスパイを発見していたからだった。 [#改ページ]     6 木星第五衛星 [#ここから2字下げ]  しかるに、競い合う慣習によって分割されていない野蛮人のほうが、かえって絶えまなく、食物や土地を奪い合うのである。同じ観念を愛するものどうしでしか、人間はおたがいを愛し合うことはできないのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──ジョージ・サンタヤナ    黄色の『危険』信号が三つ、長い管制盤の上に灯っているのが、当直に戻るため、作業デッキを横ぎってきたへルマスの目にとまった。警告ランプは、全部、いつものように、エヴァ・シャヴェスの働いている九号パネルに集中している。  エヴァは、そのラテン系の名前とはうらはらの──そうした、かつての正札は、人種混血のゆきわたった欧米では、もはや意味をなさないのだった──ブロンドぎみの髪をもった大柄な娘で、献身的愛情を『橋』に捧げていた。ただ、運の悪いことに、彼女は、時として、その宇宙的な壮大さに心を奪われがちなのである。それも、冷静な分析と一瞬の判断が、もっとも必要とされる瞬間にかぎってだ。  ヘルマスは、エヴァの肩ごしに手を伸ばすと、観測用のそれだけ残して、彼女の回路を切り、自分は助手用のヘルメットをかぶった。  未完成の、新しい潜函が、忽然と彼のまわりに浮び上った。たぎり立つ水素の怒濤が、斜めになった潜函の側面に沿って、七百フィートの高さにまで奔騰してゆく──こなごなの飛沫に砕けはするものの、一刻も静まることのない怒濤が。  潜函の北面、頂部近くにある鈍いオレンジ色の斑点が、ゆっくりと最寄りの橋桁のペジメントに向って、這い上っていた。  接触反応か──? あるいは、ガンか?  ヘルマスは、そう考えずにはいられない。この怪物じみた、酷烈な惑星の上では、炭化カルシウムの小片でさえが、致命的な役割を果たすのだ。  二世紀まえの地球で、おんぼろランプに火をともすアセチレン・ガスを発生させていた、あのカーバイドと同じものがである。この風速下では、その細片は、それがぶち当ったあらゆるものの奥深くへ埋ってしまう。そして、一千五百万ポンド/平方インチの気圧のもと、ナトリウムの触媒作用を受けて、圧力氷は、アンモニアと炭酸ガスを吸収し、蛋白質に似た合成物を作りながら、貪欲な連鎖反応で、崩壊への道を驀進しはじめるのだ。(図を参照)  一瞬、ヘルマスは、それの生長するさまを、まざまざと頭に描いた。結局のところ、この信じられないような可能性も、『橋』の研究目的の一つなのである。これが地球の上なら、そうした化合物が、もし誕生したとしても、それは多孔性で硬質な、犀の角のように頑丈なものになったかもしれない。だがここでは、地球の三倍近い重力を受けて、分子は厳密な鎖式並列を強いられてはいるものの、横断面では、なろうことなら芳香族化合物に変りたいとでもいうように、六角形の構造をとっているのだ。ここでさえ、横断面はいちおうの安定度を示している──しかし、長軸に沿ってのそれは、石墨のようにぼやけ、カルシウムと硫黄の原子が、どちらがこの一組の金属となるかについて、絶えまなく気を変え、気圧に強いられて結合した炭素原子を、ふいと手放しては、つぎのやつにちょっかいを出し、またあるいは、まったく合同をあきらめて、シスチンに似た自閉的な二重の硫黄結合に身をまかせる……。 [#(img/01/110.jpg)入る]  一種のガン組織とそれを呼んでも、さして真相から離れてはいないだろう。この合成物は、いわば木星の土着生命なのだ。それは生長し、食べ、繁殖し、そして、地球産のタバコ・モザイク・ウィルスに似た、特徴的な構造を示しはじめる。もちろん、その生長は、細胞に見られる内部からの栄養作用というよりも、むしろ非生命結晶体にふつうな、外部からの添加によるものにはちがいない。しかし、ウィルスだって、そんな生長ぶりを示すのである。少くとも、試験管の中では。  それが、人類最大の工学的精華の、橋脚を託するに足るしろものでないことだけは、たしかだった。木星産クラゲの肋骨の材料としてなら、おそらく、似合いかもしれない。だが、『橋』の潜函に発生した場合、それは、まさしくガンなのである。  病巣の周辺部では、すでに研削メカニズムの働きで、剥離したアミノが取り去られ、代りに、新しい氷が補填されていた。だが、そのあいだにも、潜函表面の腐敗は、しだいに深部に及んでゆく。病変の核心部──それは、いまこのあたりの大気に、救いようもなく充満している炭化カルシウムの細塵ではなく、この化学反応に全く無関係な、たった一片の金属ナトリウムなのだが──を、すばやく探り当てて、根絶してしまう芸当までは、研削装置に望めそうもない。おそらく表面の病変を食いとめるだけが、せいいっぱいだろう。  それに、こんなことはエヴァもわかっているはずだが、患部の表面に新しい氷をかぶせたところで、無意味なのだ。いまの調子では、『橋』の重量をまともに受けた潜函は、一時間ともたず、バターのように溶け崩れるにちがいない。  ヘルマスは、用をなさない研削装置を引き揚げた。  穿孔して、あの金属片をとり除くか? いや──それには、すでに相手が、あまりにも奥へ埋もれすぎているし、だい一、その所在さえ明らかでない。  真下の干潟では、絶えまない爆発が、潜函を、木星の模糊とした〈土中〉深く、沈めようとかかっている。ヘルマスは、急いでそこから、二台の噴射ドリルを上昇させた。噴炎の鼻づらを持った盲目の機械は、いっせいに現場へ急行していった。  患部の底は、すでにこの巨大な氷のブロックの内部、百フィートにまで達しているらしい。それには構わず、ヘルマスは赤いボタンを押した。  二台の噴射ドリルは、設計通り、重い爆音と透明な噴炎を吐き出しはじめた。潜函の表面に、みるみるポッカリと孔があいていった。  真近の橋桁が、風でグイと上にねじ曲がった。一瞬、バタバタと風に煽られながらも、それは、抵抗するけはいを見せた。そして、さらに曲がった。  最大の足がかりを奪われたそれは、突然パッとひきちぎれると、暗黒の中に舞い去っていった。折りからの稲妻に照らし出されたその姿が、ヘルマスの目には、突風に押し流されてゆく、翼の破れたコウモリのように思えた。  穴に這いこんだ研削装置が、新しい氷で底を盛り上げにかかった。ヘルマスは、新しい橋桁と、構架機の一隊を、送りこんだ。これだけの大規模な事故では、修理もひまがかかるのである。烈風が、穴の縁から、ギザギザの氷塊を劉ぎとってゆくのを見まもりながら、彼は、接触反応のガンが、完全に終息するのを待った。それから、にわかに、時ならぬ猛烈な疲労を感じつつ──ヘルメットを脱いだ。  エヴァの穏やかに整った顔だちを、ひき歪めている烈しい憤怒が、ヘルマスをたじろがせた。 「まだ、『橋』をふっ飛ばしたいのね、そうでしょう?」いきなり、エヴァはそう切り出した。「口実は、どうにでもつくわ!」  あっけにとられて、ヘルマスは、しょうことなく顔をそむけた。これは、よけい悪かった。充血してむくんだ木星の鼻づらが、主任管制盤のそれと、そっくり同じ姿で、はめこみ窓から、こちらを覗いているのである。  彼とエヴァとチャリティ、そして全設営班が、この第五衛星ごと、木星へ墜落しているような感じだ。平穏無事な、木星第五衛星での罐詰生活は、その変哲もない毎日の一部、激変をくりかえす木星表面で費される四時間に比べると、まったく嘘としか思えない。新しい一日一日が、彼らの心を、まるで舵を失った船のように、あの極彩色の地獄へと近づけてゆくのだ。  ここ第五衛星から、木星を眺めるとすれば、どんな男にしろ──また、女にしろ──それ以外の受けとりかたが、できようはずはない。彼らに共通した、単純な経験からおして、一つの惑星が全天空の五分の四を占めるような光景は、観察者自身がその惑星の上空から、まっさかさまに落下しでもしないかぎり、およそ考えられないのだから。 「思いもよらんことだ」疲れた口ぶりで彼はいった。「『橋』をふっ飛ばすなんて。これだけは、その頭に叩きこんどいてもらおう。『橋』が持ちこたえてくれることを、ぼくは望んでいる──誰かのように、無能と紙一重のところまで、この計画に有頂天とはゆかないがね。いったい、きみは、あの腐蝕個所が、上から氷を塗りたくっただけで、消えてくれるとでも思ったのか? あのままでおけば、どうなるかぐらい──」  そばにいた何人かのヘルメットとマスクが、声を聞きつけて、こっちをふりむいた。ヘルマスは、口をつぐんだ。管制官の気を散らすような会話や行動は、この作業室ではタブーになっている。彼は手まねで、エヴァを仕事に戻らせた。  従順に、エヴァはヘルメットをかぶりはしたが、ふだんのふっくらとした唇が、薄くひきしめられているところからしても、ヘルマスが、彼女に二の句を告げられないよう、口論を打ちきった、と考えているらしいのは明らかだった。  ヘルマスは、作業兵舎の中央を貫いた太い支柱に近づくと、螺旋形に打たれた|踏み桟《クリート》を、彼の専用管制室へとよじ登った。これから着けるヘルメットの重さが、もう頭にのしかかっている感じだった。  だが、そのヘルメットは、すでにチャリティ・ディロンの頭におさまっていた。ヘルマスの椅子に、坐っているのである。  チャリティは、彼らしく、入ってきたへルマスに目もくれなかった。『橋』の管制官は、非情な信号管以外、彼の肉体に起るすべてを無視し、黙殺することから、始めねばならない。何万マイル、何十万マイルの彼方の出来事を報じてくる機械の知覚だけに従うことを要求されるのだ。  ヘルマスも、話しかけるような野暮はせず、ディロンのナイフの刃に似た白い指先が、目を備えたもののように、管制盤の上を動き廻るのを、見守った。  ディロンは、どうやら『橋』の完全な巡回視察をやっているらしい──それも、端から端、だけでなく、上から下までの。計数盤からみると、すでに三分の二近い超音波アイが、活動に入っていた。ということは、ディロンが一晩中この仕事にかかっていたことを、そして、最後にヘルマスと交代してから、すぐにこの仕事をやりはじめたことを、意味する。  なぜか?  漠然とした胸騒ぎを感じて、ヘルマスは、主任用の通話ジャックに目を移した。必要のつど、班の連中と連絡を交したり、階下の管制盤で話されたこと、行われたことを、知るためのものである。  ジャックは、接続されていた。  ふいにため息をついたディロンが、ヘルメットを外して、ふりかえった。 「よう、ボブ」と、彼はいった。「この仕事は妙だよ。目も耳も使えないくせに、誰かに見られていると、首のうしろがむず痒くなる。超知覚《ESP》というやつかな。きみは、経験ないか?」 「よくあるね、特に最近は。チャリティ、なぜこんな大調査を?」 「ちかく、視察がある」ディロンはいった。  その目が、ヘルマスと合った。率直な、わだかまりのない、瞳のいろだった。 「上院小委員会の議長連が二、三人、虎の子の八十億ドルが、むだにされてないかを見にくるのさ。もちろん、ぼくとしては、万事異状なしということで、すませたいからね」 「なるほど」と、ヘルマスはいった。「この五年間で、これが初めて、というわけか」 「そうなるな。さっきの下の騒ぎ、あれは何だったんだ? 誰かが──ぼくは、きみだと見当をつけたが──相当手荒な手段を使って、エヴァを急場から救い出した。つぎに、エヴアの声で、きみが、橋をふっ飛ばしたがってるとか、なんとか。騒ぎを聞きつけてすぐ、問題の地区を調べてみたが、どうもエヴァの処置が生ぬるかったのは事実らしいな。だが──いったい、どういうことだったんだ?」  猫がねずみを翻弄するような策略は、元来、ディロンの柄ではなかったし、とりわけ、いまの彼の表情は、そうしたものと遠かった。  ヘルマスは、慎重に答えた。 「エヴァは、気が転倒していたのだろう、きっと。こと木星に関しては、われわれ全員が、なにかのかたちで、多少なりとも頭をやられている。あの接触反応に対するエヴァの処置は、ぼくの目には適切と思えなかった──この意見の相違、結果的には、ぼくが正しいことになったが、それは、そこまでやれる職権が、ぼくにあったからだ。エヴァには、それがなかった。それだけのことさ」 「高価な相違、というわけだな、ボブ。きみも知ってる通り、ぼくは心配性じゃない。しかし、あんな事故が、小委員会の連中の来ているときに起りでもしたら──」 「問題は」と、ヘルマスはいった。「|橋構え《トラス》の交換と潜函の補強に、あと一万ドルがところをかけるか、それとも、潜函全部──おまけに『橋』の三分の一までを、ふいにするか、じゃないのか?」 「そう、もちろん、きみのいう通りなんだ。議員さん相手だって、それはわからせてやれるだろう。ただ──たび重なると、それも怪しくなってくる、ということさ。じゃあ、ボブ、あとを頼む。もし時間があれば、ぼくのチェックの続きを、やってくれないか」  ディロンは、立ち上った。それから、突然、いいにくそうにつづけた。 「ボブ、これでもぼくは、きみの気持を理解しようと努力しているつもりだ。エヴァの言葉からしても、きみの考えは、大っぴらにみんなに伝っているらしい。きみ自身のペシミズムを、同僚に感染させるってことは、ぼくは……ちょっとまずいと思うんだ。作業能率に、当然それがひびく。きみが、自身の感情はどうであろうと、だらしのない仕事ぶりを奨励する人間でないことは、よくわかっているが、主任ひとりの力では片づかない問題だからな。それに、『橋』についての悲観論を公表することで、きみは、余分な仕事を──ぼくに強いるのじゃなくて──きみ自身で抱えこむことになるんだ。  そこで思うんだが、このへんで骨休めをしてはどうだ。ガニメデへ、一週間の旅行をしてみるとか、なにかそんなことを。ボブ、愚痴や縁起でもない予感は聞かされるにしても、仕事という点では、きみは『橋』いちばんの腕利きだ。それが、交代という目にあっては、悲しいからな」 「脅迫かね、チャリティ?」ヘルマスは、静かにいった。 「ばかな。きみが、ほんとうに気がふれでもしないかぎり、誰が交代などさせるものか。それに、その点についてのきみの不安は、事実無根だと、ぼくは信じている。正気な人間だけが、自分の正気を疑うというのが、常識じゃなかったかな?」 「まちがった常識だ。精神病の症侯のほとんどは、軽い不安からはじまるんだ──追い払うことのできない不安から」  ディロンは、その話題を払い捨てるようにいった。 「なんにしろ、これは脅迫じゃない。きみをひき止めるためには、闘う覚悟もしているんだ。だが、ぼくの発言力の範囲は、第五衛星と『橋』だけだ。ガニメデにもおえらがたがいるし、ワシントンには、そのもひとつ上がいるからな──もちろん、こんどの視察団にもだよ。  きみも、なぜ、たまには明るい面を見ようとしないのかな? いまさら、『橋』に夢を賭けるということは、できないだろう。だが、少くとも、ここで働く一時間ごとに、故郷の銀行口座に積み立てられてゆくドルの額は、考えてみてもいいだろう。それと、地球へ戻ってから、きみが手がけるだろう、橋や船や、もろもろのものの建造と、それに要求できる思いのままの報酬を考えてみたまえ。『木星の〈橋〉を建造した男のひとり!』という魔法の言葉で、それが実現するんだ」  チャリティは、気恥しさと熱狂で、顔を紅潮させていた。  ヘルマスは、微笑して答えた。 「せいぜい、肝に銘じておくよ、チャリティ。それと、休暇の件は、もうしばらくお預けにしてほしいね。その議員さんがたとやらは、いつごろお見えになるんだ?」 「よくわからんのさ。ワシントンからガニメデまで、寄り道なしに直行して、しばらく、そこで滞在するらしい。おそらく、ここへ来るまえに、カリストへも廻るだろう。噂だと、連中の船には新しい仕掛けがあって、ふつうの運送ロケットより、自由に飛びまわれるそうだ」  突然、氷のとかげ[#「とかげ」に傍点]が、ヘルマスのみぞおちに巣を作って、とめどもなく身をよじり出したようだった。れいの執念深い悪夢が、ジワジワと血液に溶け入りはじめた。それは、すでに、彼の全身を、ほとんど包みこんでしまっていた。 「新しい……仕掛け?」  必死に、さりげない口調を装いながら、彼はおうむ返しにくり返した。 「それが何かは、知っているのか?」 「まあね。しかし、それについては黙っていたほうが──」 「チャリティ、この淋しい岩の塊りのどこに、ソビエトのスパイがいるっていうんだ。『機密』なんて習慣は、ここではお笑い草だぜ。議員たちとひと揉めしなくてもすむよう、いまここで教えてくれないか。でなければ、少くとも、ぼくの推測どおりだと、いってくれ。彼らは、反重力をものにしたんだな[#「反重力をものにしたんだな」に傍点]! そうだろう?」  ディロンの一言で、悪夢は現実に変るのだ。 「そう」ディロンはいった。「どうしてわかったんだ? もちろん、完全な重力遮断装置といえるものじゃない。だが、それへの大幅な第一歩であることは、たしかだ。思えば、それは長いあいだの、われわれの夢だった──いや、この偉業に誇りを感じる気持から最も遠い、きみという人間を相手に、その感激を述べてみても、はじまらないな。到着の日どりがわかりしだい、知らせることにしよう。それまでは、まえにぼくがいったことを、考えてみてくれるかね?」 「ああ、そうしよう」  ヘルマスは、管制盤に着席した。 「よかった。きみ相手だと、小さな勝利でもありがたく思わなきゃあ。ご苦労さん、ボブ」 「ご苦労さん、チャリティ」 [#改ページ]     7 ニューヨーク [#ここから2字下げ] 『あらゆる価値の再評価』という言葉を、ニーチェが初めて書きとめたとき、この数世紀間の、われわれの精神的動向は、ようやくその公式を発見したのであった。あらゆる価値の再評価、それが、すべての文明の最も基本的な特質である。なぜなら、新しい文明が、先行文化のあらゆる形態を再鋳造し、それらを別の視点で理解し、異ったやりかたで用いてゆく際の、出発点になるものがそれなのだから。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──オスワルド・スペングラー    二と二を足して、二十二を手に入れるペイジの才能が、そのスパイの発見に、ある程度役立ったのは事実だったが、もっとおもな原因は、その男の、呆れるばかりの手際の悪さにあった。これまでに、誰もこの男を怪しまなかったことが、ペイジには信じられないくらいだった。  ペイジが見習いに入った研究室に、二ダーズあまりもいる技術者、そのたった一人にすぎないといえば、たしかにそうだ。しかし、実験着のエプロンの内側へメモを忍ばせる、見えすいた手口や、毎晩フィッツナー社の建物を出てゆくときの、ご念のいった警戒ぶりは、とっくに誰かが気がついていなければ嘘だった。  これが、かっこうの見本だな──と、ペイジは考えた──近ごろワシントンで流行の、とんまな捜査方式は、こうして、ほんとうの危険人物に、楽々と逃げおおせる機会を作ってやっているのだ。  科学者のグループによくあるやつで、ここフィッツナー社の技術者たちのあいだにも、ある無言の盟約──おたがいの密告は避けようという盟約──が結ばれている。いわば、罪人も無辜の者といっしょくたに保護されるわけだが、こんなことは、抗弁の許される公正な法組織のもとでは、絶対に起りうるはずがないのだ。  もし獲物が針にかかった場合、あとをどうするかについては、なんの計画も、ペイジは立てていなかった。ある夕方──すこぶる未練は残ったが──アンに逢うのをあきらめて、彼はその男のあとを尾けた。たまたま、研究の上に、二つの有望な前進が見られた日であり、さっそくスパイが、その情報を運ぶだろうと、目星をつけたのである。  このカンは、みごとに的中した。少くとも、出だしに関しては。  尾行も、べつにむずかしくはなかった。尾けられていないかと確かめるつもりなのだろう、しきりに左右をふりかえる相手の癖のおかげで、人ごみで相当の距離をおいても、簡単に見わけがつくのである。相手は、電車で市を離れて、ホボーケンまで行き、そこで貸スクーターを借りて、国道の交叉点シコーカスに向った。長い道のりという以外に、なんの面倒もなかった。  だが、シコーカスを出はずれたとき、ペイジは初めて、すんでのところで相手を見失いかけた。四〇六号国道とリンカーン・トンネルを結ぶ、何本かの道路が、すべて再臨教徒《ビリーバー》たちのトレーラーの根城にされて、町に早変りしているのだ──約三十万人、つまり、この二週間、伝道集会のために上京してきた七十万人の信者の半数近くが、ここに住んでいるのだった。ペイジの見た、トレーラーのナンバー・プレートの中には、エリトリア(アフリカ北東部、紅海に臨む地方)のような遠来のものまで混っていた。  このトレーラー部落は、パサイックを除いて、あらゆる近在の町をはるかに凌駕する大きさだった。二十あまりのスーパー・マーケットが真夜中まで、ひきもきらない盛況ぶりなのを手はじめに、ほとんど同数に近い、自動販売式のクリーニング店も、同じように客を呼びこんでいる。少くとも百軒の公衆浴場と、三百六十戸近くの有料トイレット。  カフェテリアは、ペイジが数えただけでも十軒。ハンバーガー・スタンドときては、その二倍の数はあり、しかも、そのどれもが、百フィート以上の長さを備えているのだった。ペイジは、その一軒で足をとめて、『テキサス・ウィーナー』なるものを買いもとめた。彼の腕の長さほどもあるそれは、辛子にミートソース、塩づけキャベツ、薬味、ピカリリが、ごってりとはさまれていた。  病院のテントも、おそろしく目立つやつが、十ばかり建っている──テキサス・ウィーナーを平げたペイジには、そのわけがのみこめた気がした──いちばん小さなテントでも、けっこうサーカスの舞台をつとめられそうなのである。  そして、もちろん、マンモス型からパッカードまで、おんぼろからピカピカまで、あらゆる段階のトレーラー、六万台とペイジがその数をふんだトレーラーの群が、これに加わってくるのだ。  幸い、町の中は照明がきいていたし、また住民が教徒に限られているため、いつかの仕掛花火の類いの折伏《しゃくぷく》手段は、なにひとつ使われてなかった。  ペイジの獲物は、すこぶる初歩的な急転回を二、三度くりかえして、偽の足跡を作ったあげく、とあるラトビア・ナンバーのトレーラーにとびこんだ。半時間後──午前二時きっかりに──トレーラーは、ペイジの手首ほどもある、ごつい超短波アンテナを空に伸ばした。  これで──と、スクーターにまたがりながら、ペイジはむずかしい顔で考えていた──あとは、FBIの出番だ。もっとも、おれが話せばだが。  だが、なんと話せばよいのだ?  できるかぎりFBIの目を避けねばならないれっきとした理由が、彼にはある。おまけに、いまこの男を告発することは、抗死薬の探求に即時の終幕が下りることを意味するのだ。それは、たとえ強いられたものにせよ、アンとガンが彼に寄せた信頼を、こっぴどく裏切ることにもなる。  だがいっぽう、彼が沈黙を守れば、ソビエトはフィッツナー社と同時に──つまり、『西』陣営の公式の所有物となるまえに──その発見を掌中におさめるだろう。とすれば、やがては避けられないマッキナリーとの対決にあたって、自分の忠誠を証明する無二のチャンスを、ペイジはみずから捨て去るわけである。  しかし、翌日までには、最初から自明であったはずの方針に、ペイジは思い当っていた。第二日の夜は、彼の獲物の実験机の中を、ひっかきまわすことで費やされた──呆れるばかりにのろまな相手は、罪証歴然としたマイクロフィルムのネガや、幼稚な置換暗号を書きとめた紙片を、引出しいっぱいに詰めこんでいるのだ──そして、第三日は、再臨教徒《ビリーバー》のトレーラー部落までの、逃走ルートの現場写真と、緩衝国ナンバーの、超短波発信装置つきトレーラーを撮影することで終った。  これらいっさいを、一冊のファイルにまとめ上げると、ペイジは副社長室のガンを訪ねて、一件をぶちまけた。 「これはこれは」と、目をパチパチさせながら、ガンはいった。「好奇心は、もはやあなたにとっては持病ですな、ラッセル大佐。たとえフィッツナー社でも、その特効薬を探すのはむりでしょう」 「この場合、好奇心は無関係ですよ。ファイルでご覧になるとわかるが、この男は素人です──雇われの専門家ではなく、おそらく、ローゼンバーグのような、党員からの志願者でしょう。まるで、わたしの手をとって、案内してくれたようなものでした」 「そう、たしかに不手ぎわといえますな」  ガンは、うなずいた。 「ところで、彼に関する報告は、これが初めてではないのですよ、ラッセル大佐。実のところ、何度かというもの、彼の不手ぎわの尻ぬぐいまで、させられたことがありましてね」 「しかし、なぜ?」と、ペイジは食い下った。「なぜ、彼を捕えなかったんです?」 「そうするだけの余裕が、ないからですよ」ガンは答えた。「スパイ事件が公けになれば、研究はそこでストップされてしまいますからね。まあ、彼のことは、そのうち報告しますし、その際には、あなたのやって下さった仕事が、きっと役立つことでしょう──あなた自身を含めて、われわれすべてにね。だが、あわてる必要はない」 「あわてる必要はない、だと!」 「そう。あの男が持ち出しているデータには、大した意味がないのです。抗死薬の開発が、成功した場合には──」 「しかし、それまでには、やつのほうも、その製造法を心得てしまうだろう。薬剤の鑑定など、一組みの化学者がいれば簡単な仕事だ──おたくのアグニュー博士が、そう教えてくれましたが」 「かもしれませんな」ガンはいった。「いや、それは考えてみましょう。心配はいりませんよ。その時機が来れば、われわれも、打つべき手は打ちますからね」  それが、ガンからひき出せた反応のすべてだった。ペイジのとり逃した睡眠、とり逃したデイト、まずフィッツナー社に報告しようとした心やり、さらに、フィッツナー社の利害を、彼の軍人としての誓約と、生命の安全よりも優先させることについての煩悶、それらは、ほとんど報いられるところがなかったのである。  その夕方、ペイジはアン・アボットに、以上の趣旨を語気荒く注進した。 「落ちつきなさいな、ペイジ」と、アンはいった。「この仕事の政治面に足を突っこんだりしたら、腋の下までやけどするわ。わたしたちが、求めるものを実際に発見したときには、史上最大の政治的爆発が起るはずよ。できるだけ、うしろに離れていたほうが、身のためだわ」 「やけどなら、とっくにしているさ」  ペイジは、むきになった。 「いまさら、うしろに退ってなんぞいられるか。それに、スパイを見逃して、政治でございもないもんだ。これは、りっぱな反逆だぞ。きみたちは、全国民の首を絞めるのを承知で、それをやるっていうのか?」 「じゅうぶん承知だわ。ペイジ、この計画は、すべての人間──地球上と宇宙空間内に住む、あらゆる男女と子供のためのものよ。その研究に、『西』側が出資している事実は、ただの偶然にすぎない。わたしたちが、ここでやっていることは、あらゆる点から見て、反ソビエト的であると同時に、反西欧的でもあるのだわ。わたしたちが、死を征服しようとかかっているのは、人類のためであって、決して、ある軍事連合の利益のためなんかじゃない。誰が最初にそれを手に入れようと、なんの違いがあるの? わたしたちは、みんなとそれを分ちあいたいのよ」 「ガンも、同じ意見なのかね?」 「それが、社の政策だわ。ひょっとしたら、その発案者は、ハル自身かもしれない。もっとも、彼にはべつの理由と、べつの判断があってのことでしょうけど。不老薬が、全体主義社会に持ちこまれたとき──それも、限られた量しか手に入らない場合に、どんなことが起るか、考えてみたことがおあり? もちろん、ソビエトが、そんなことでぐらつくわけはないわ。でも、あの国の後継者争いが、いまよりもさらに血なまぐさいものになるのは、たしかでしょう。おそらく、そのへんが、ハルの予想なのよ」 「きみの予想は、ちがうんだな?」ペイジは、重い口調でいった。 「そう、ペイジ、わたしの予想はちがうわ。この薬が世に出たとき、お膝もとのこの国でなにが起るかが、わたしにはよくわかるの。たとえば、宗教ひとつを取り上げて考えてみてもいいわ。もし、この世におさらばする必要がなくなったら、死後の世界は、いったいどうなるかしら? 再臨教徒《ビリーバー》をとり上げてみましょうか。彼らは、聖書に書かれたすべてを、文字どおりの真実だと信じているわ──だからこそ、一年ごとにそれを改訂したりするの。ところが、その聖年祭が終らないうちに、このニュースが発表になるのよ。『百万の民は、永遠に死なざるべし』という、彼らのモットーをご存じ? 彼らにしてみれば、それは自分たちのつもりなんだけど、もしそれが、誰かれなし[#「誰かれなし」に傍点]、ということになったとしたら?  それは、まだ序の口だわ。保険会社が、なんというかを、考えてごらんなさい。そして、複利式の金融構造自体に、どんなことが起るかを。とほうもなく長生きをしたために、その預金が、全世界の金融構造を支配するようになった男、そんな、ウェルズの小説がありましたわね──『睡眠者めざめる』だったかしら? ──それが、据え置くだけの資金と忍耐さえあれば、誰にとっても[#「誰にとっても」に傍点]理論的に可能になるのよ。それとも、相続法の全体系が、どうなるかを考えてみてもいいわ。それは、『西』側がこれまでに経験した、最大で最悪の社会変動に拡大するでしょう。モスクワの中央委員会になにが起るかを、気にかける余裕は、とてもないはずだわ」 「それにしても、中央委員会の利益を、いや少くとも、彼らの目からそう考えられるものを、、保護してやるのは、どういうものかね」おもむろに、ペイジはいった。「早い話が、秘密を守りぬく可能性だって、考えられると思うんだ。むざむざ、相手に渡してやるよりも」 「そんな可能性は、ありえないわ」アンがいった。「自然法が、秘密のままでおかれるはずはないのよ。科学者に、ある目標が到達できることを教えるのは、それに必要な知識の半分以上を教えたことと、同じなの。いったん彼が、死の征服が可能だというアイデアを、手に入れれば、もうどんな力をもってしても、彼がその方法を発見するのを、はばむことはできないわ──鳴物入りで騒ぎ立てられる『特殊製法』なんてものは、研究の中での、もっともとるに足らない部分だし、問題の本質には、まったく無関係であるとさえいえるわ」 「わからないな」 「では、もう一度、核爆弾をたとえに引いてみましょうか。あの当時、核爆弾の秘密を守るためには、実戦での使用はおろか、爆発実験さえやらずにおくしか、方法がなかったでしょう。いったん、そういう爆弾の存在が、秘密でなくなってしまえば──あなたもご存じのように、われわれは、ヒロシマの数十万にのぼる人たちのまえで、それを公開してしまいました──もう、この分野で、守りぬく値うちのある秘密は、ないと同じだったのです。スミス報告書の最大のキー・ポイントは、ウラニウムの塊粒を保護物質の衣《ころも》で 『包む』、その方法でした。それは、マンハッタン計画に課せられた最大の難問にはちがいなかったでしょうが、同時にまた、技術者ひとりに頼んでも、じゅうぶん一年以内に解決が予想できる、そんな種類の課題だったのです。  つまりね、ペイジ、科学的事実を人に隠しておくには、本人自身もそれを知らない立場で通さないかぎり、成功しないということなんです。だから、科学での秘密主義は、ほかの科学者に利益も与えないけれど、与えられもしない。逆にいうと、ある自然律の発見を自分の武器にしたときは、必ずほかの人間にも、その武器を与えているわけだわ。相手に情報を与えるか、でなければ、自分の首を自分で絞めるか。それ以外のコースなんて、ありえない。  それと、ペイジ、お聞きするんだけれど、いったい、ソ連に──たとえ一時的にもせよ──抗死薬を持たない[#「持たない」に傍点]有利さを、提供してやっていいものかしら? 抗死薬本来の性質からいっても、それから受ける実害は、『西』側のほうが、ソ連よりはるかに大きいはずだわ。なにしろ、ソ連では、個人が財産を相続することは認められないし、ただ長生きしたというだけで、国家財政への支配力を持つことも、許されないでしょうから。かりに、二大勢力圏が同時に、死に対する支配力を与えられたとしたら、『西』側が不利なのは当然です。といって、『西』側だけに、死をコントロールする力を引き渡せば、ソ連のハンディキャップを、まるきり免除してやるような、サボタージュ行為を侵すことになる。それが、果たして賢明でしょうかしら?」  この図式は、まさに衝撃的だった。ガンの、セールスマン上りの管理職という表むきとは、まったく違った一面を、ぺイジは見せつけられた思いだった。しかし、それを別にすれば、考えの筋は通っている。それだけで、彼としては、満足すべきなのだ。 「どう返事しろというんだ?」冷ややかにペイジはいった。「ぼくにわかるのは、きみにくっついていると、日一日、深みへはまってゆく、ということだけさ。まず最初は、FBI相手に、とんでもない人間のふりをせねばならなかった。つぎは、それを知っていることが、すでに違法であるような情報を、詰めこまれた。そして、こんどは、重大犯罪の証拠の陰匿に、加担させられるはめになっている。考えれば考えるほど、最初からぼくはカモにされる予定だったのだ、という気がしてくるね。前もって計画でも立てていなければ、こうとことんまで、ぼくを引きずりこむことが、できるわけはない」 「ご自分の希望もあったことを、お忘れなく」 「忘れはしないさ」ペイジはいった。「きみも、故意にぼくを巻きぞえにしたことを、否定はしなかったな」 「ええ。たしかに、故意といえるわ。もっと前から、気がついてると思ったけれど。ところで、もしそのわけを聞くつもりだったら、むだだから、およしなさいな。まだ話すことは、止められているんですから。そのうちに、わかることよ」 「きみたち二人は──」 「いいえ。あなたを巻きぞえにしたことについては、ハルは関係ないわ。それは、わたしのアイデアなの。彼は、それに同意しただけ──それも、上からの圧力を相当かけて、やっと承知させたのよ」 「きみたち二人は」とペイジは、凍りついたくちびるで、いってのけた。「傍観者を踏みつけにするぐらい、なんとも思っちゃいないんだな、え? これまではともかく、いまのぼくには、フィッツナー社が何人かの理想家に牛耳られてることが、はっきりわかった。理想家特有の残酷さを、きみたちはお持ちだよ」 「それは」と、アンが静かな声でいった。「必要に迫られた結果だわ」 [#改ページ]     6 木星第五衛星 [#ここから2字下げ]  ある個人の人生で、その行動の型に、新しい変化が現われなくなったとき、その行動は、もはや知的でなくなったといえる。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──C・E・コッグヒル    当直後の睡眠もとらずに、ヘルマスは、個室の読書椅子によりかかっていた──杞憂が現実になったことがいまはっきりわかったのだった。  正面の壁には、マイクロフィルムのページが、彼の読書速度にピッタリのタイミングで、つぎつぎに映写されている。それに、この数週間、悩みごとで縁遠かった、官給のアルコールとタバコも揃っていた。だが、ヘルマスは、それには手をつけず、さっき読みやめたページが、映し出されたままなのにも、無関心だった。その代り、彼は無電に耳を傾けているのだった。  木星系では、常に盛んなアマチュア無線活動が、続けられていた。条件も、それに適当している。電力は豊富だし、妨害大気層もほとんどなく、ヘビサイド層はあるかなしか、それに、ハム活動を制限するような、官営放送も数少ないし、商業チャンネルは皆無なのである。  そして、衛星のそれぞれには、人声のひびきを恋う、たくさんの人びとが、わかれわかれに住んでいるのだ。 「……議員団が、こっちへ来るかどうか、知ってる人はいないかね? 以前、バース博士が、ここで発見した化石植物の報告を送ったことがある。、いや、少くとも、博士の考えでは、植物にまちがいないそうなんだ。それを、見に来るんじゃないかと思ってね」 「彼らのお目当ては、『橋』の設営隊だ」  力強い声と、大気圏の干渉による、送信の揺れは、ガニメデのスイーニーらしい。 「諸君の期待に水をさすようで悪いが、われわれの住む岩のボールには、議員さんたち、あまり関心がおありでないらしい。ここの日程も、たった三日の滞在になっている」  ヘルマスは、陰気に考えをめぐらした。  では、カリストの滞在も、一日かそこら[#「一日かそこら」に傍点]だ。 「いまのはきみか、スイーニー? 今夜の『橋』は、どうした?」 「ディロンは、当直だ」遠い、かすかな送信が、しゃべっていた。「ヘルマスを起そうや、スイーニー」 「ヘルマス、ヘルマス、おーい、ビートル・カーの憂欝先生! 応答しろ、ヘルマス!」 「そうとも、ボブ、ちょっぴり、おしめりをよこしてくれ。今夜のおれたちは、えらく陽気でね」  ノロノロと、ヘルマスは手を伸ばして、椅子の腕にクリップ止めしたマイクを、取ろうとした。だが、彼がそうし終る前に、部屋のドアが開いた。  エヴァが入ってきた。 「ボブ、あなたに話したいことがあるの」 「やっこさん、声変りしたぜ!」カリストの無電士らしい声がいった。「スイーニー、やつに、なにを飲んだか聞いてみろよ!」  ヘルマスは、無線を切った。  エヴァは、小ざっぱりした服装──少くとも第五衛星の標準では──に着更えている。なぜ彼女が、睡眠時間と当直の中間のいまごろに、作業デッキをうろついているのかと、ヘルマスは不審だった。廊下の明りで、髪の毛を淡くかすませたエヴァは、いつもほど男臭くは見えなかった。まだ二人が恋人であった頃の、そして、『橋』が、まだ彼の褥に割りこまない、まえのエヴァの姿を、それはかすかに思い出させた。  ヘルマスは、その記憶をふり払った。 「いいとも」と、彼はいった。「きみには、ミックス一杯の借りがあるからな。クエン酸や、砂糖なんかは、そこのロッカーだ……ご存じだろうけど。酒罐も、いっしょに入っている」  エヴァは、ドアを閉めると、しなやかな身のこなしで、寝棚に腰を下ろした。優雅とも見える動きに、思いきったところのあるのは、彼女が、ことの是非は承知で、なにかバカげたことをやる決心をつけたからだということが、ヘルマスにはわかっていた。 「お酒はいらないわ」エヴァがいった。「実をいうと、わたしの分の嗜好レーションは、ぜんぶ共同積立てにまわしているの。こうなったのも、あなたのおかげよ──自分自身から隠れようとする心がどんなものかを、見せてくれたのはあなただから」 「エヴィータ、坊主めいた口のきき方は、よしたまえ。たとえきみが、一段上の、より木星的な生存レベルに昇格したとしても、やはり新陳代謝は必要なんだろう? それとも、ビタミンまで、これすべて心の産物、という境地に達したか?」 「お高いのは、あなたのほうよ。とにかく、アルコールは、ビタミンじゃないわ。それに、そんなことを話しに来やしない。ここへ来たのは、あなたに知っておいてほしいあることを、話すためだわ」 「というと?」  エヴァはいった。 「ボブ、わたし、ここで子供を産もうと思うの」  ヒステリーと焦燥の混った笑いを、けたたましくひびかせながら、ヘルマスは苦しそうに上体をかがめた。とたんに、向いの壁へ、パラグラフの読み終りを示す赤い矢印が、パッと蕾を開いた。  体をねじって、エヴァがふりむいたが、すでにページは、ボウッと薄れかかっていた。 「女ってやつは[#「女ってやつは」に傍点]!」と、ようやく息をついたヘルマスは、いった。「いやあ、エヴィータ、それで大いに自信がもてたよ。結局、どんな環境でも、人間をまるきり変えてしまうことは、できないらしいな」 「それが、いけないっていうの?」彼を見返しながら、エヴアはけげんそうにいった。「なにが、おかしいのよ。女が、子供をほしがって、どこが悪いの?」 「もちろん、悪くはないさ」ふたたび椅子の背によりかかりながら、ヘルマスはいった。「きわめて、あたりまえのことだ。女なら、誰だって、子供をほしい。女なら、誰だって、第五衛星のロックガーデンで子供を遊ばせ、化石拾いや、砂遊びで、こんがり宇宙焼けさせることを夢みるだろう。そして、夜になれば、その赤ん坊をベッドにたくしこんで、当直交代のブザーの鳴るたびに、酸素ボンベをくわえさせる、そのさわやかな幸福! いや、こいつは、木星の光のように自然だし、冷凍乾燥したアップル・パイのように西欧的だぜ」  いいながら、彼はフッと顔をそむけた。 「おめでとう、エヴァ。だが、ぼくにいわせれば、その怪しげな口実は、願い下げにしてもらいたいね」  激昂にかられたエヴァは、サッと立ち上ると、ヘルマスのあごひげをつかんで、向き直らせた。 「なにさ、ヒョロヒョロのえせ警句屋!」低い、軋るような声で、エヴァはいった。「わけ知り顔で、ちっぽけな解釈をするのは、よしてよ! 女ってやつ[#「女ってやつ」に傍点]、で悪かったわね。さっきの意見の違いを、ベッドの中で解決するために、わたしが這いつくばって許しを乞いにきたとでも思うの?」  彼は、エヴァの手首を、あごからもぎ離した。 「ほかに、なにがある?」『橋』勤めの自動人形のお相手を、五分間もまともにやらされたら、こっちが参ってしまうぞ、そう思いながら、彼は問いかえした。「ゲームや言いわけなど、ここで、こうして孤立しているわれわれには、必要ないんだ。われわれが選ばれたのは、なによりも、永続的な愛情の付帯物を形造る能力に欠けていながら、ある目的に向って結束できる能力──そして、その愛着物が消え、同盟が失敗に終っても、精神の平衡を失わない能力がある、と判断されたからだろう。ここの生活条件が、ボストンへ行って通用するかという心配や、むりして地球上なみの言いつくろいを考える必要は、さらさらないはずだ」  エヴァは、だまっていた。  やがて、フッと声を落して、彼はきいた。 「そう思わないか?」 「もちろん、そうじゃないわ」  エヴァはいい、眉をよせて彼を眺めた。一瞬、自分が彼女から憐れまれているような、愚かしい印象を、ヘルマスは味わった。 「もし、われわれに、永続的な愛情を育てる能力が、ほんとになかったなら、こうして選ばれはしなかったでしょう。そんな性格の構造は、精神のかたわ[#「かたわ」に傍点]だわ、ボブ。それは、のっけからの生存の否定に等しいわ。いまのわれわれが、こうなったのは、心理改造《コンディショニング》を受けたためなのよ。それを知らなかった?」  たしかに、ヘルマスはそれを知らなかった。いや、たとえ知っていたとしても、それを忘れるよう、心理改造《コンディショニング》をほどこされたのだ。彼は、椅子の腕を、さらにきつく握りしめた。 「とにかく」と、彼はいった。「それが、いまのわれわれの姿だ」 「ええ、そうよ。でも、それと、この間題とは無関係だわ」 「無関係? どこまで、ぼくをバカだと思ってるんだ? きみのいま言ったことが、もし本当なら、きみがここで子供を産む決心をしようとしまいと、ぼく[#「ぼく」に傍点]が気にするわけはないじゃないか」  体を震わせているのは、エヴァもだった。 「もともと、気にもしてないくせに。わたしの決心など、あなたにとっては、なんの意味もないんだわ」 「そうさな、もし、ぼくが子供を好きだったら、生れてくる子を気のどくに思うだろう。だが、運悪く、ぼくは子供にがまんのならないたちなんだ──もし、こいつも心理改造《コンディショニング》のおかげだとしたら、なんともできんね。エヴァ、ぼくに関するかぎり、きみが何人の子供を産もうとご自由だ。そうしたところで、ぼくから見れば、やはりきみは、『橋』いちばんのへボ管制官だろうよ」 「その言葉、おぼえておくわ」と、エヴァはいった。  圧力氷から切り出されたような、いまの彼女だった。 「その代り、これをおぼえておくのよ、ロバート・ヘルマス。ここで寝そべって、だいじな本を眺めながら……いったい、ボヴァリー夫人が、あなたにとってなんだというのよ、ひっこみ思案の亀さん? ……ゆっくりと、考えるといいわ。子供というものは、いつも温かい揺り籠の中に生れてくるべきだと信じている男──人間は、暖かい世界にうずくまっていなければ、生きてゆけないものだ、と考えている男のことを。耳もなく、目もなく、ろくに頭さえない男のことを。恐怖におののき、星の世界の夜昼をぶっ通しで、ママ! ママ! と、泣きわめいている男のことを」 「素人診断だ」 「お安くふまないで! さよなら、ボブ。あったかな毛布で、脳みそのまわりをよくくるんで寝るといいわ。冷たい意識のすきま風が忍びこんできて、あなたの──能率性とやらがカゼをひいては一大事だものね!」  出ていった彼女のうしろで、ドアがバタンと閉まった。  何万トンという疲労が、ドッと首すじにのしかかった感じで、思わずへルマスは吐息をつきながら、読書椅子に坐りこんだ。ひげのつけ根が、ヒリヒリと痛み、閉じたまぶたの中で、木星が華やかに揺れ動いた。  いちど抗《あらが》いをみせただけで、彼は眠りにおちこんでいった。  たちまち、悪夢が彼を捕えた。  それは、いつものように、見なれた光景から始まった。記録映画のきれはし、といっても通るようなリアリティ──ただ、ほんの一言、ほんのささいな動きにも、おそろしい重圧感と、歪められた感情が伴っていることだけが、ちがっていた。  それは、『橋』の、最初の潜函工事の場面だった。現実の出来事じたいが、すでに相当のひどさなのである。人間乗りの宇宙船を、木星の大気圏へ入らせることだけでも、この作業には、大変な正確さが要求されていた。これまでに建造された、もっとも強力な宇宙船二十台の編隊が、宇宙空間で削られ、形を整えられた、五百万トンの小惑星《アステロイド》を、巨大なあやとり[#「あやとり」に傍点]のように下に吊して、行動しようというのである。  四たび、その編隊は、荒れ狂う雲の中に姿を消していった。四たび、パイロットたちと技師たちの緊迫した囁きが、ヘルマスの耳を打ち、そして彼は、渦巻く貿易嵐をすかして、第五衛星から見えるものをたよりに、彼らを誘導しようと囁きをかえした。四たび、絶叫と、無益な命令と、曳行索の切断される音がひびき渡り、人びとの悲鳴が、木星の空の永遠の咆哮にまじって、長く尾を引いた。  しめて九隻の宇宙船と、二百三十一の人命、それが、厖大な労力で整形された五個のアステロイドのたった一つを、木星の表面である波打つぬかるみへ沈めるのにかかった犠牲であった。  それが成功するまで、『橋』はただの夢想の域を出なかったのだ。大赤斑が、木星の上でも、構築物の種類によっては、相当の長期間──少くとも、人類の何世代かにわたって観察されるだけの期間──存続できることを、天文学者たちに示していた反面、木星の上では、なにものも永遠でありえないことも、同じようによく知られていた。  この惑星は、通常の意味の〈表面〉といえるものをさえ、持っていないのである。大気層の底は、高圧の軟泥とスムーズに混りあい、その軟泥は、深みに行くにしたがい、稠密さをまして、固体の圧力氷に変っている。この間、一つの層と他の層の干渉は、どこにも認められない。ただ例外的に、稀な地域で、深部層の一部である〈固い〉媒質が、本来の地層から上に押し上げられて、二年から二百年の寿命をもった大陸塊を形成していた。  宇宙船が、アステロイドを据えようとしたものも、こうした巨大な氷塊の露頭の一つである──そして、四度の試みのあと、ついに彼らは成功したのだ。成功の分も含めて、五回の作戦のことごとくに、ヘルマスは、ここ第五衛星のデスクから参画したのである。  だが、夢の中の彼は、管制室にはいなかった。彼は、宇宙船にいるのだった。あの、二度と戻らなかった船の一つに──そして、なんの推移もなく、だが、なんの唐突さも感じずに、彼は『橋』そのものの上にいるのだった。それも、ビートル・カーの遠隔操作頭脳としての、あの臨場感ではなく、現実に、卵膜型の、タンクに似た防護衣を着て、そこに立っているのだ。防護衣の細かいところは、どうしてもはっきりしなかった。  反重力を発明した高級参謀たちが、『橋』への挺身隊を募ったのである。ヘルマスは、それに志願したのだ。夢の中で、いままでをふりかえってみても、自分の志願したわけを、ヘルマスは理解できなかった。彼がそうすることは、当然のように予想されていたし、それがどんなものかを承知の上で、しかもそうせずにはいられなかったらしい。たとえ嫌であろうと、彼は『橋』に属した人間なのだ──ここへ来ることは、最初からの宿命だった。  そして、なにか……なにかの欠陥が、その反重力にはあるらしかった。上層部は、まだ未完成のままの研究に、志願者を募ったのだ。いまの反重力場は、力の弱い上に、その理論にもなにか根本的な欠陥がある。力場発生機《ジェネレーター》も、わずかな使用期間で、こわれてしまうのだ。それも、まったく突然に、ときには工場テストを満点で通過した直後に、焼き切れてしまうのである。覚醒時の生活では、真空管に、こうした予想のつかない行動が見られる。だが木星のどこにも、真空管のあるはずはなかった。それにもかかわらず、木星に持ちこまれた機械は、ヘルマスを一瞬に凍りつかせる気温の中で、つぎつぎと焼け切れてゆくのだった。  ヘルマスの反重力装置にいま起っていることも、それであるらしい。保護衣の子宮の中で、彼はじっと身を固くした。煮えたぎる海の上、冠毛のような水素の炎に照らされた、保護衣の卵膜に、怒り狂う雲が、研ぎすました結晶の粒を打ちつけてくる──ヘルマスは、にわかに彼の体重が三倍にふくれ上るのを、彼の肉体への圧力が、一平方インチ当り十六ポンドから、いっきょに千五百万ポンドに上昇するのを、まわりの空気が、にわかに鼻を刺す有毒蒸気に変るのを、木星ぜんたいが、ガッと彼の肩にのしかかるのを、待ちかまえた。  何が彼の身に起ろうとしているかを、いまヘルマスはさとった。  それは起った。  いつもと同じ絶叫で、ヘルマスは、第五衛星の〈朝〉を迎えていた。 [#改ページ] [#改ページ]   第 三 部     幕間 ワシントン [#ここから2字下げ]  凡俗の人間、現実肌の人間、市井の人間、彼らは言う、「それが、われわれになんの関係がある?」と。その答は、肯定的で、かつ重大だ。われわれの生活は、倫理、社会学、政治経済学、政治、法律、医学などのすでに確立された教義に、全面的に依存している。あらゆる人間が、意識的にしろ、無意識的にしろ、それに影響されるが、誰よりもまっさきに、その洗礼を受けるのは、もっとも防禦力に乏しい、市井の人間なのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──アルフレッド・コルツイフスキー   [#地付き]二〇二〇年一月四日    親愛なるセッピ  この手紙を投函したり、使いの者に持たせたりするほど、私も無分別ではありません。それなら、むしろ、合同委員会のファイルに挟んでおいても──いや、これ見よがしに、その辺へ置きっ放しにしても、同じことでしょう。しかし、当節、この種の事柄に対して、ほんとうに思慮のある人間なら、紙になにかを書き残したりはしないものです。カーボン紙だって、焼き捨てるべきなのです。  そこで、まずい妥協案ながら、この手紙を私文書綴の中にまぎれこませて、私が他界した場合にのみ、発見者の手で、あなたのお手もとに届けることとします。  読みかえしてみると、縁起でもない文面ですが、当人それほどの深刻なつもりはありません。この手紙を、あなたが受けとられるときには、すでに私の所業の逐一が、いつもの新聞のヨタ記事だけでなく、口頭の証言でお耳に達していることでしょう。いや、あなたのことだ、それを待たずとも、再選以来の(正確には、それ以前からの)私の行動について、論理的な説明を、割り出しておられるかもしれない。少くとも、なぜあなたの至当な忠告にそむいてまで、私が『橋』という怪物を手塩にかけたかの理由は、おわかりいただけていると思うのです。  かえり見れば、すべてはダムを越えた水であり(それとも『橋』を越えたエーテルと申しましょうか、もし、最近のあなたがたが、ディラックのエーテル理論に再検討を加えているのであれば。  私がなぜ、そんなことを知っているか、ですか? それは、いまにおわかりになります)、私としては、それをくり返して述べるつもりはありません。私がこの手紙でやろうとするのは、あなたの示唆してくれた研究方法が、いかにうまく働いてくれたかについて、ある程度くわしいメモを、残しておくことなのです。  うわべは、あの忠告を無視するように見せかけながら、われわれはあなたの提案を、しごく綿密に実行しました。とくに、重力については、再検討の価値ある『キじるし』的アイデアが存在するかもしれない、というあなたの第六感に、私は興味をひかれたのです。  率直にいって、そんなものの発見できる望みは、全然なかった。しかし、それによって、事態が、あなたと話すまえより、べつに悪くなったわけでもない。そして、事実、それからいくらもたたないうちに、私の研究主任が、ロック誘導式なるものをたずさえて、やって来たのです。  この特別調査から生れた研究報告は、いまなお〈|墓 場《グレイヴヤード》〉ファイルの中で眠っていて、近い将来、民間の物理学者たちに公開される望みは、まったくありません。あなたには、私からその話を聞かないかぎり、ほかの誰の口からも、それを聞くことはできないでしょう。そして、国家機密法違反などというケチな罪名には、ビクともしないほど、いまの私の良心は、たくさんの荷物を抱えてしまっています。  それに、いつものことですが、この『秘密』、実は何十年にわたって、周知の事実だったのでした。一八九一年のむかし、すでにシャスターという男が──彼については、あなたのほうが、よくご存じでしょう──それについての疑問を堂々と表明したのです。当時は、科学的事実を秘密にすることなど、誰も考えつかない時代でした。  彼が知ろうとしたのは、あらゆる巨大質量の回転体──たとえば、太陽──が、天然の磁石ではないかということでした(太陽の磁力場が、まだ発見されない前のことです)。そして、一九四〇年代には、電子のような小さな[#「小さな」に傍点]回転体についても、それが言えることが、はっきりと証明されました──あなたがよくご承知の、いわゆるランデ因子です。私自身は、そのイロハのイの字だって、わかっちゃいません(このあたりの仕事に、だいぶディラックが、関係してくるようです)。  やがて、一九四〇年代に、ウイルソン天文台のW・H・バブコックという男が、地球、太陽、それに、乙女座七十八番星と呼ばれる恒星のランデ因子が、まったく同一か、きわめてそれに近いことを、指摘してみせたのです。  さて、以上のすべては、重力とは、なんの関係もないものと、私には思え、また事実、それに注意をうながしてくれた研究主任にも、そんな意味のことをいったのです。だが、それは私の誤りでした(あなたなら、もうここまでで、私の先を読んでおられるでしょう)。  もうひとりの男、私でさえその名を知っている、P・M・S・ブラケッ卜教授が、その関係を説明したのでした。ブラケットによれば、こうなります(ノートをひき写しているものと、ご想像下さい)。かりに、Pを磁気モーメント、つまり私にとっては磁石のてこ[#「てこ」に傍点]式効果──電荷の生む力と、両極間の距離の積とする。そして、Uを角運動量──私のような数痴にとっては回転であり、あなたにとっては、角速度と静止モーメントの積──とする。さらに、Cを光速度、Gを重力加速度(このふたつは、この種の方程式には、つきものだそうですな)とした場合、     P=(BG1/2U)/2C (Bは、ほぼ0・25に近い値の定数だそうです。そのわけを、私に聞かれても困りますが)明らかに、このすべては、|思 弁 的《スペキュラティブ》なものにすぎません。地球より強い磁場──できれば、その百倍も強い磁場──を持つ惑星の上にでも行かないかぎり、それを実地検証する方法はないのです。その条件に近いものといえば、赤道での自転速度が、時速二万五千マイルに達する木星だけ──しかも、これは完全に問題外なのです。  いや、果たしてそうだろうか?  告白しますが、それまでの私は、願望充足的な白昼夢の中を除いて、木星を利用しようなどとは、考えたこともなかったのです。このロック誘導式なるものの発掘までは。  つまり、ある簡単な代数的操作を加えることによって、Gを方程式の左辺に、残りぜんぶの項を右辺に定着させることができるらしい。  結果は──。     G=(2PC/BU)の2乗  この実証には、地球のそれの二倍あまり強い重力が必要です。こうなると、もちろん、木星に再登場願わねばならない。  私の技術顧問たちは、この考えを一笑に付しました──まず、ロックという男の素姓さえも明らかでないという、これは事実でした。つぎは、彼の代数的トリックが、ディメンション解析からするとナンセンスであるという、事実ではあるが、筋違いの論拠です(実験の結果が判明したあと、少々それをいじり廻さねばならなかったことは否みませんが)。問題は、この相互関係を実際に利用することなのですから。  いったんそれを試みた時、まずわれわれを驚かしたのは、その付随効果だったことを、言い添えましょう。その場の中での、ローレンツ=フィッツジェラルド短縮の廃棄、その影響外にある物体に対する場自身の不許容性、等々。しかも、そうした効果の発生以上に──それさえも、方程式は予言していなかったのですが──その巨大さの単位が、われわれを驚かしたのです。  この発見が公開されれば、補正を要するのは、ディメンション解析だけで済みそうもないらしい。それは、物理学者たちにとって、相対性理論以来の、最大の頭痛の種になることでしょう。あなたが、その痛みの前触れを、どう受けとられるかは知りませんが。  ともかく、『キじるし』的アイデアとしては、上出来ではありませんか。  ここまでくれば、『橋』は不可避でした。木星表面を除いて、必要なテストを行える場所のないことが判明したとき、『橋』の誕生は約束されたのです。それとともに、明らかになったのは、『橋』が、動的な構築物である必要でした。ある寸法に作って、そこで止めるというわけにはゆかない。建設がストップした瞬間、木星はそれをリボンのようにひき裂くでしょう。われわれは、それを生長しつづけるように──単に木星に抵抗するだけでなく、逆に押し戻すようなものに──作らねばならなかった。  現在、『橋』は、ロック誘導式をテストするに要するサイズの、すでに二倍に達しており、しかもまだ、いつまで生長を続けさせるべきものか、見当のつかない状態です。あと僅かだ、と私は思いたい。現在でさえ、それは、怪物的なしろものなのですから。  だが、セッピ、ひとつ訊かせてください。いったい、あなたの戒められた巨人的実験計画というやつに、果して『橋』はあてはまるだろうか?  たしかに巨人的ではある。しかし──それを木星に置いた場合[#「木星に置いた場合」に傍点]、巨人的といえるか? 私に言わせれば、ノーです。それは、ほんのけし粒[#「けし粒」に傍点]にすぎない。ただの、ちっぽけな細工物でしかない。そして、ここ以外の惑星では、どうしても必要な実験ができないのです。  ホーマズ(イラン南部の古都)とインドのすべての富、はたまた、過去いかなる時代のいかなる富をもってしても、木星的スケールに拡大されたマンハッタン計画を、賄うことはできなかったでしょう。  かてて加えて──これは偶発的産物ではありましたが──この計画のもつケタはずれな印象が、好都合な隠れみのとなってくれたのでした。こうした巨大研究計画は、すでに行き詰りなのかもしれない。しかし、政府の予算機関のほうは、そうしたものに馴らされて、別にふしぎがりもしません。ともかく、両院合同委員会を、その種の計画に巻きこむことは、昏睡状態の委員たちに活を入れるこの上もない刺激でした。ほかの方法ではとうてい望めなかったであろう支出案も、おかげで獲得できた。人びとは、つねにそうした計画を、戦争兵器の開発研究と結びつけるものだからです。  さらに──お許し願いたい、政治にも一種の科学が存在するのです。──それによって、私が、危険人物コーシ博士の危険な忠告に、耳をかさなかった[#「耳をかさなかった」に傍点]ことが、如実に示されるというわけでした。この点でも、私はあなたに借りがあるのです。  しかし、宝探しの政治学は、このへんでやめましょう。具体的な結果だけを、お伝えするはずでした。ただ、この方法にも、それ相応の落し穴があることを、言い添えるだけにします。  抗老化薬《アンチ・アガシック》の研究と、それからの収穫については、すでにあなたも耳にされていることでしょう。事前に、その可能性をわきまえていると思われる人びとと、話し合ってみた私は、われわれの進むべき方向について、一致した見解を得ました。この直線的な接近策は、私にも、最初から有望と思えたのです。  時をおかず、私はフィッツナー社に、その研究の着手を命じました。フィッツナー社は、すでに保健厚生省から、これと類似した研究への支出金を獲得しており、また、その目標が、ただの老化現象から、死そのものへと急転回したとしても、それに気づくほど敏感な厚生省ではないはずでした。  といって、われわれは、れいのキじるし的アイデアを見すごしはしなかった──そして、まもなく、とびきりのキじるしに、でくわしたのです。  ライアンズという、その男は、これまでの学界の定説である、老化毒素の存在を仮定したランシングの理論が、事実とまるで逆であることを主張しました (この間題について述べるのは、私としても楽しみなのです。ここでは、あなたも、私同様の門外漢にちがいない。そういうシチュエーションには、めったにめぐりあえませんからね)。  実際は、と彼はいいます、長命効果をもったある物質が、若い[#「若い」に傍点]母体からその子へとひきつがれるのであって、老化を促進する物質の存在は証明されないのだ。これが、ライアンズの説明でした。  さて、一種の迷路に追いこまれたのは、われわれです。『成長の終ったとき、老衰が始まる』──ランシングのこの法則は、何十年間にわたって、老人病学の鉄則と考えられてきたのですから。しかし、ライアンズの仮説にも、りっぱな根拠はある。  なかでも注目をひくのは、ランシングの実験で、長命グループに入ったクルマムシの全部が、倍数体に共通な性質を示しているという、彼の指摘でした。これらのクルマムシは、頑健で長命であることに加えて、体長も著しく大きく、普通のクルマムシほど多産でないのです。かりに、世代から世代へと、うけつがれてゆくこの物質が、コルヒチン(アルカロイドの一種)のような、染色体増殖剤とすれば?  その疑問を、われわれは、現存する唯一のランシングの弟子である、マクドゥガルという偏屈老人に呈してみました。ところが、てんで受けつけてくれない。それは、彼にとっては、まるで神のみ言葉を疑うのと同じなのです。それに、と彼はいいます、もしライアンズが正しいとしたところで、どうしてそれを実証できるのだ?  クルマムシは、顕微鏡的な小生物である。卵を別にすると、彼らの体細胞は、顕微鏡でさえ見わけられないぐらいだ。いや、事実、専門的に言えば、成虫としての彼らが、体細胞を備えているかさえ疑わしい──むしろ粘菌類の変形体(アメーバ状の単細胞が集まって作ったもの)のように、均質化した一種の原形質の連続体の中に核が散在している、といったほうが早い。クルマムシの染色体にお目にかかるには、このさき何十週という時日が必要だろう、と。  ライアンズは、これに対する解答を用意していました。クルマムシの卵を、一片だけでなく、数片に切断する、ミクロトーム技術の開発を提案したのです。うまくゆけば、その技術を、クルマムシの成虫にも及ぼせるかもしれない、というわけです。  ともかく試みるべきだ、とわれわれは考えました。フィッツナー社へは内密に、われわれはこの難問を、パール・リバー研究所に持ちこんだのです。担当者にはライアンズ自身を、そして、マクドゥガルを顧問ということにして(ところが、このご仁《じん》、一刻の休みもなく、嘲弄と冷笑に精励したおかげで、ライアンズのみならず、研究所全員の憎まれ者になるしまつです)。  結果は、惨澹たるものでした。クルマムシは、いまとなってわかったのですが、おそろしくデリケートな生物で、どんな成長段階を捕えても、いったん死んでしまうと、ぜったいに保存は不可能なしろものなのです。何回となく、ライアンズは、長命のクルマムシが少くとも三倍体──細胞核内の染色体が三倍数のもの──もしくは四倍体であることの証明だと称する、プレパラートを持って現われました。しかし、彼を除いたパール・リバー研究所の専門家全員にとって、それは、クルマムシの染色体とも、また濃霧の中で猫が毛皮の上を歩いているのを写した、新聞の網版写真ともとれるものでした。比較テスト──コルヒチンのような薬品で発生させた、クルマムシや他の生物の倍数体と、ランシングやマクドゥガルの古典的な選別交配法で発生させた、それとの比較──でも、やはり決定的なものは掴めません。  ついに、ライアンズは、彼の理論を証明するためには世界最大の]線顕微鏡が必要だといいだしました。ここに至って、われわれも、彼をシャットアウトせざるを得ませんでした。  マクドゥガルのいったことが正しかったのです。ライアンズは、一応もっともらしい理論と、尊敬をかち得るだけの顕微解剖の技術と、そして自分のアイデアを徹底的に追求するという、これだけは激賞されてしかるべき、本ものの情熱を備えた、気ちがいだったのです。マクドゥガルは、先達への過剰な敬意を持った、石頭の老人であり、学界の定説を、ただそれが定説ということで、正しいと決めてしまう俗物であり、学生時代から、実験と呼べるものをやったことのない男でした。それにもかかわらず、彼は正しかった──たとえ直感的にもせよ、ライアンズのランシング法則への挑戦が不成功に終ることを、正しく予言してみせたのです。  どうやら、科学における勝利も、他の分野と同様、もっとも、魅力的な人間の手に渡るとはかぎらないらしい。嬉しいことです。ペテン師や、セールス技術だけではどうにもならない、人間の努力の分野が、少しは残されていることを、私は、喜びたいのです。  フィッツナー社が、アスコマイシンを発見したとき、われわれは保健厚生省に、パール・リバー研究所の、全面的な閉鎖を命じました。  この種の否定的な結果は、科学者たちにとっても有益だ、と私は聞いています。この二つの経験に対して、あなたがご自分の提案された研究方法をどう評価されるか、私には知るすべもありません。ただ、私の[#「私の」に傍点]勉強になったと思うことだけを、お伝えしましょう。  私は、こう確信するのです。これからのわれわれは、境界線的アイデアや、異端の理論家を、あっさりと無視してはならないのだ、と。こうしたキじるしの取りえは、ひとつには──もしそれが取りえと呼べればですが──彼らのすがりつくそれが、実証のできるアイデアである点です。科学上のアイデアが、その創案者でさえ、実証の方法を思いつけないほど抽象的になってしまったこの世界では、たしかに、すがりつくだけの価値が、それにはあります。  ロックが何者にせよ、彼が重力について、ブラケットの千分の一もの思考をかけたかも、疑わしいものです。しかも、ブラケットが、ついにその方程式をテストする方法を思いつかなかったのに反して、ロック誘導式のテストは(木星上では)可能で、しかも結果は正しかった。ライアンズについていえば、彼のアイデアは、まちがいだった。しかし、それがわかったのは、彼がその理論の証明を図ったテスト自体に、それが失格したからだった。そのテストを行うまで、われわれは、この数十年、それに反対する仮説の証明が『不可能』であるという理由だけで、特権を享受していたランシングの法則に、ほんとうの評価をしていなかったのです。ライアンズは、われわれにそれを強制し、そして、知識を広めてくれたのでした。  さて、あとはご承知でしょう。できるだけ忠実に、と私は心がけたつもりです。この大陰謀にまつわる政治のからくりを、あなたと討論するつもりはありませんし、また、あなたには、そんなことにかかずらっていただきたくない。  政治は死です。なによりもお願いしたいのは──もし、この報告書が、多少ともお気に召したとして──あなたの手にこれが届くころ、私がおそらく置かれているだろう立場を、悲しまないでいただきたいことです。  私は、目的のためには、あなたの評判をさえ、非情に利用した男です。何人かの人間の経歴を、非情に、踏みにじった男です。そして、何人かの──いや、何百人かの人間を──私というものがなければ、避けられたにちがいない死へ、非情にかり立てた男です。それ以外にも、子供たちまで含めた大ぜいの人命を多大の危険にさらした男なのです。これだけの罪を犯して、なんの責めにも問われなければ、それこそ、不正もきわまるというものでしょう。  私にいえるのは、それだけです。あと数分で、人に会う約束があります。あなたの友情とご援助を、ここにあらためて感謝します。 [#地付き]ブリス・ワゴナー   [#改ページ]     9 ニューヨーク [#ここから2字下げ]  宗教上の不寛容は、確信の結実だという説をなすものもある。もし、自己の信仰の正しさと、すべての他者の誤りに、絶対の確信があるならば、隣人の明らかな誤謬と精神的破滅を看過することは、あるいは犯罪的とも考えられよう。しかし、多くの場合、宗教的狂信は確信の結果ではなく、むしろ、懐疑と不安の結果であるように、私には思われてならないのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──ジョージ・サートン    必要にかられての残酷さ、とアンはいう。しかし──と、ペイジは、あとになって考えたものである──はたして、そうなのだろうか?  信仰が、真向からのその信仰の違背へと、どこでどうつながってくるのだ?  人間、信じられる対象をもつのは、結構なことにちがいない。しかし、いわゆる人道性への信仰がもたらす自動的な結果が、個人に対するさりげない非人道性となって現われる場合、なにかが、まちがっているのではないか。いったい、教会の鐘は、ひびの入るほど、小止みもなく打ち鳴らされねばならないものか──最後の静寂が訪れるまで、その信者たちを怖れおののかせなければならないものなのか?  静寂、おきまりの解答だ。それとも、責任は、信仰そのものより、篤信者の側にあるのだろうか?  篤信者というやつは、複数の人間とした場合、なかなかに怖しいものだ。再臨教徒《ビリーバー》も人道主義者も、この点では同じである。  その間題を自問自答するだけの時間は、いまのペイジには、ほとんど残されていない──いや、彼自身を護る(それが可能としてだが)ひまさえもないのだ。  彼が届けた土壌標本からの収穫は、ゼロだった。どうやら、木星の衛星系での微生物相は、これまで一度として豊富であったためしはなく、また現在も、数少ない頑健な普通種──バチルス・スブチリスのような、すべての地球型の世界や隕石にまで共通な種属のみで、構成されているらしいのだった。標本は、申し合わせたように、貧弱なコロニーの発生を見せただけで、しかも、この十年来知りつくされたもののほかは、なに一つなかった──つまり、この種の研究の統計が、最初から予言している通りだったのである。  フィッツナー計画に対して、ある種の捜査が行われており、それが、もはや会社の首脳部の手では、どうにも阻止できない段階に来ていることは、すでにブロンクスの研究所内に知れ渡っていた。フィッツナー社のワシントン支店──事実上は、フィッツナー社の経営する広報機関、インター・プラネッ卜通信社のワシントン支局である──からの日報も、研究所のファイルにおさまっているが、とり立てるほどの情報には乏しいらしい。  ペイジの推察したところ、ガンもアンも明言を避けてはいるが、捜査の出所じたいに、なにか謎があるようすなのだ。  そして、なによりも、賜暇の終りが、あさってに迫っているのだ。つぎに来るものは、プロセルピナ基地転属──おそらく、それを追っかけるように捜査の生み出した命令が、彼の後半生を、そのままそこへ島流しにしようとするだろう。  それに値いしないもののために。  思えば、最初から、この自覚と彼は鼻つき合わせていたのだった。おそらく、アンやガンにとっては、それは高い代償を払い、策略を弄するに値いするものであり、目的のまえには、他人を偽り、欺き、その生命を危険にさらすことも、必要かつ当然と思えるのだろう。  だが、最後のカードを切り終ったとき、それだけの献身的な情熱は、彼自身にないことを、ペイジはさとったのだ。これまでに彼の志した、あらゆる献身への道程がそうであったように、こんどの道路を敷きつめているものも、やはりただの鉛でしかなかった──そして、自己保存という、おきまりの見すぼらしいそれ以外に、なんの善行章も、彼には与えられなかったのである。  ここで、冷たい自己嫌悪といっしょに、彼がさとったのは、いったん捜査の手が研究所に及びしだい、潔白を表明するために、自分が、あらゆる情報を洗いざらいぶちまけるつもりでいることだった。噂によると、捜査に乗りこむのは、ワゴナー上院議員で──これも妙な話だ、ワゴナーとマッキナリーは、年来の政敵の間柄なのだから。マッキナリーが、ついに彼の弱味を握ったのか? ──しかも、明日には、やって来ようという。  もし、ペイジが、慎重なタイミングで行動すれば、ハル・ガンにも、アン・アボットにも顔を合わすことなしに、事実を公開し、研究所に永久の別れを告げて、空間に飛び立つことができるだろう。そのあとで、フィッツナー計画がどうなろうと、彼がプロセルピナ基地に着くころには、それはすでにとう[#「とう」に傍点]の立ったニュースになっているはずだ──三ヵ月以上もむかしのニュースに。  そして、と彼は自分に言いきかせた、それまでには、こっちの気持の整理もついていることだろう。  とはいうものの、明けて翌日を迎えたペイジは、まるで銃殺隊のまえに進み出る男のような足どりで、ガンのオフィス──ワゴナー──の手に落ちたそれ──に、入っていったのだった。  つぎの瞬間、まだドアがまち[#「がまち」に傍点]を跨いでいる最中に、銃撃を食らったような感じを、彼は味わった。アンが、すでに部屋に来ていることをさとるまえに、ワゴナーの声が、耳にとびこんできたのである。 「掛けてくれたまえ、ラッセル大佐。よく来てくれた。きみの身元保証書と、新しい指令書が、ここにある。プロセルピナの件は、忘れていい。きみとミス・アボットと私は、木星へ出発するのだ。今夜な」  それからあとは、まるで夢だった。  宇宙港へ向うキャディラックの中でも、ワゴナーは、なにも喋らなかった。アンはといえば、これは、軽いショック状態に陥っているらしい。彼女についてのペイジの知識──まことに乏しいものではあるが──から推測しても、これはアンにとっても、やはり意外であったのにちがいなかった。  ペイジが、ガンのオフィスへ入ったときの彼女は、ワゴナーがなにを言い出すかをすっかり承知しているように、慎重で、熱心で、いささかとりすましたところもあるという、器用な表情を作っていた。ところが、ワゴナーが木星のことを口に出したとたんに、アンは、まるで彼が、フィッツナー社歴代の肖像の居並ぶ前で、ふいに上院議員から、拳闘グローブをつけたカンガルーに変身したかのように、まじまじと彼を眺めたものである。  なにかが狂っている。いいかげん気狂いじみた出来事がこれだけ続いたあとでは、ワゴナーの声明も、それほどの意味を持って来ない。  しかし、なにかが、明らかに狂っていた。  南の空に花火の揚っているのが、ペイジの坐った右側の席からも見えた。キャディラックが、東へ折れて、遊歩道《パークウェイ》に乗り入れたのである。大きく、華やかなその花火は、マンハッタンのど真中から、打ち揚げられているように見えた。とりとめのない夢の中から、ある事実をたぐり出しでもするように、しばらく首をひねってから、やっとペイジは、今夜が、ランドルス・アイランドで開かれている再臨教徒《ビリーバー》の伝道集会の、最終夜であったことを思い出した。教徒たちが、遠からぬその日の訪れを信じている、キリスト再来を祝っての花火なのだ。 [#ここから3字下げ] まこと、その日は近づけり 安逸のときは、もはやあらじ…… [#ここで字下げ終わり]  熱烈なワグネリアンだった父親が、よくそれを歌ったことを、思い出してもいいペイジだった。『トリスタン』の一節なのである。だが、その代りに彼が思い出したのは、イエスの再臨を描いた、さまざまな中世絵画の怖しい壁面だった。  そこでは、つねに、キリストは、キャンバスの隅で置き忘れられたように立っており、人びとは、こぞって反キリストの足もとにひれ伏しているのだ。ペイジの記憶にあるおぼろげな構図の中では、反キリストの顔は、フランシス・]・マッキナリーと、ブリス・ワゴナーの、ふしぎな混合だった。  曳光弾にとり巻かれた漆黒の空に、いくつかの文字が、パッと花ひらいた。   ──百万──の──民──は──死すこと──なからん──  そうだろうとも、とペイジは、舌打ちしたい思いだった。  教徒たちは、地球の平たいことだって、信じているのだ。あいにく、ペイジのこれから行くのは、木星である──厳密にまん円い惑星とはいえないが、再臨教徒《ビリーバー》の地球よりは、少くとも円いだろう。お望みなら、不死を求めて、といってもいい。  彼もまた、それに信仰を抱いた一人だったのだから。苦いものを口に感じながら、彼は思った、世はさまざま[#「世はさまざま」に傍点]だ。  最後の曳光弾が、この距離からでも眩しいほど、中の文字を明るく輝かせながら、市街の真上に、音もなく、青白い炎を炸裂させた。    ──明  日──  ペイジは、やにわにアンをふりかえった。薄れてゆく花火の明りに、ぼんやりと浮び上った顔が、魅せられたように窓を仰いでいた。彼女も、同じものを眺めていたのである。  ペイジは屈みこんで、小びらきになったそのくちびるにキスした。やさしく、ワゴナーのことなど、すべて忘れて。凍りついたような一瞬ののち、彼女の微笑みを、彼はくちびるに感じた。はじめてそれを見たとき、すっかり彼を驚かせたあの微笑が、さらにたおやかに変身した姿で、応えてくるのだった。  しばらく、世界はどこかに飛び去っていた。やがて、彼女はペイジの頬に指さきを触れると、クッションに沈みこんだ。  キャディラックは、パークウェイから北にカーブを切った。網膜にとどまった、最後の閃光の名残りが、まるで太陽を──それとも、至近距離で木星を──眺めたときの残像に似た、揺れ動く紫いろの斑点を作った。アンは、もちろん、彼が彼女から逃げ出して、プロセルピナ基地に行くつもりのところを、このキャディラックに押しこめられたのだという事情は、知るよしもないはずなのだ。  アン、アン、我信ず[#「我信ず」に傍点]。信仰なき我を助けよ[#「信仰なき我を助けよ」に傍点]。  運転手と衛兵の、手短かな、低声のやりとりがあって、キャディラックは、宇宙港の正門の通過を許された。車は、管制センターに直行する代りに、抜けめなく左に向きを変え、有刺鉄線の柵内を市街のほうにひき返して、闇に包まれた不時着陸用地へと乗りいれて入った。  といっても、まるきりの闇ではない。前方かなりの距離にあるエプロンの上を、一条のライトが照らしており、その中央に、ギラギラと光る一本の針が、まっすぐに天を指していた。  ペイジは体を乗り出すと、二重のガラス──彼と運転手のあいだの一枚と、運転手と外界のあいだの一枚──の障壁ごしに、前方をうかがった。光の針は、宇宙船としても、彼には見覚えのないものだった。単一段階のロケットらしいのである。  ということは、人工衛星ステーションで、正式の惑星間航行船と乗り換えるまでの、フェリー・ロケットなのか? しかし、フェリーにしても、それは小型すぎる。 「あれを、どう思うかね、大佐?」  不意に、ワゴナーの声が、隅の暗がりから聞えた。 「そうですな」と、ペイジはいった。「少々、小さくはないですか?」  ワゴナーは、クックッと笑った。 「めっぽう、小さいのさ」  それだけ言うと、またもや黙りこんでしまった。  毒気を抜かれたペイジは、上院議員が気分でも悪いのではないかと考えはじめた。アンをふりかえったが、もう彼女の顔も見えなくなっている。彼は闇のなかで、彼女の手を探った。熱っぽい手が、ギュッと握りかえしてきた。  キャディラックは、突然、柵を蹴立てるようにとび出すと、光の溜りへと近づいていった。エプロンの上、ロケットの船尾のあたりに、何人かの海兵隊員がいるのが、ペイジの目にとまった。おかしなことに、近づくにつれて、船はよけい小さく見えるのだった。 「よかろう」ワゴナーがいった。「おふたりとも、ここで降りるんだ。あと十分で、離陸する。乗組員たちが、きみたちの居室を案内してくれるはずだよ」 「乗組員たち?」ペイジはいった。 「上院議員《セネター》、あの船じゃ、四人以上はとても無理でしょう。そのうち一人は、噴射を受け持たなくちゃならない。とすると、操縦は、私よりほかにいないことになりますな」 「こんどに限っては、ちがうね」彼に続いて車を下りながら、ワゴナーはいった。「われわれは乗客にすぎんのだよ。きみも、私も、ミス・アボットも。もちろん、海兵隊員たちもそうだ。〈パ・アスペラ〉には、りっぱな五名の乗組員がいる。さあ、むだ話は止そう」  そんなことが、ありうるはずはない。|踏み桟《クリート》に足をかけたペイジは、まるで二二口径ライフル銃の薬莢の中に、潜りこんでゆくような気分だった。このちっぽけな殻の中に、十人もの人数を入れるためには、インスタント・コーヒーのような、人間の濃縮粉末でも作って詰めこまないかぎり、とうてい無理だろう。  それにもかかわらず、エア・ロックで待っていた海兵隊員の案内で、それから一分後には、これまでに乗ったどの標準型惑星船のそれにも劣らない──そして、およそフェリーの常識からは並はずれて大きい──船室の中で、彼は座席ベルトを締めているのだった。  ハンモックの頭上にあるインターカムからは、すでに出港準備のアナウンスが流れていた。 「発射準備急げ。あと一分で、エア・ロックを閉鎖する」  アンは、どうしたのだろう? 彼のあとに続いて、|踏み桟《クリート》を昇ってきた、それだけはたしかだが──。 「用意完了。発射まで、あと一分。乗客は、Gに注意」  ──それが、このばかばかしい船室へ、むやみと急き立てられたおかげで、うしろをふりかえる暇もなかったのだ。なにかが、おかしい。もしかすると、ワゴナーは──。 「三十秒。Gに注意」  ──なにか脱出をでも、企てているのか? だが、なにから逃げるというのだ? それに、なぜ、ペイジとアンを同行する必要が? 人質としてなら──。 「二十秒」  ──なんの役にも立たない。政府にとっても無価値だし、金もなく、ワゴナーの弱味を握っているわけでもない──。 「十五秒」  いや、待てよ。アンは、ワゴナーについて、なにかを知っている。いや、知っていると思っている。 「十秒。スタンバイ」  その声で、本能的に彼は緊張を解いた。それについては、あとでゆっくり考えればいい。発射の瞬間には──。 「五秒」  ──なにごとにも──。 「四秒」  ──気を──。 「三秒」  ──とられず──。 「二秒」  ──ただ──。 「一秒」  ──目前の──。 「ゼロ」  ──発射と同時に、フェリーの出発につきものの、骨を砕き、腸《はらわた》 をひきちぎるような衝撃が、彼を襲った。  腕と足と背中の筋肉を、セイル・GA反応の自動的な強直けいれんにまかせて、できるだけそれに堪え、頭と腹を加速度の推力と切り離すよりほかに、このショックを和らげる方法はない。それに使う筋肉は、地上では、重量挙げ選手でさえ用のないものだが、航宙士としては、それを使うことをおぼえないかぎり、傷病免役になるのが落ちなのだ。訓練された航宙士の腹筋は、重い岩塊でも跳ねとばすし、彼の首の筋肉が、いったん嫌だといい出せば、どんな強力の男がかかっても、それをねじ曲げることはできない。  また、ばかにできないのが、叫び声を上げる効果である。理論的にいうと、絶叫によって、肺がぺしゃんこになり──加速度気胸という専門語で、呼ばれている現象だ──そして、動力飛行のうねりが収まるまで、ぺしゃんこの状態を持続する。そうこうするうち、たとえ肝心な胸筋がひきちぎられていたとしても、呼吸反射が、大あくびを一つしないではいられないほど、血中の炭酸ガス濃度が高まってくる。  つまり、絶叫は、そのつぎの呼吸が、まちがいなくできることを保証するのだ。  しかし、ペイジにとって、そしてすべての航宙士にとって、もっと重要なのは、絶叫が、その九秒間の殺人的な加圧に対して彼らの表現できる、たった一つの抗議だということだった。気分的に、助けられるのである。  ペイジは、精魂こめて絶叫した。  その叫び声が終らないうちに、宇宙船は自由落下に移った。一瞬、信じられないように、絶叫をしぼませながら、ペイジは安全ベルトを掴もうともがいた。航宙士としての、あらゆる反射作用が、いちどきに消え去っていた。  噴射推進の時間が、あまりにも短かすぎる。発射の際の加速が、絶叫よりも短かい時間ですむとは、ありえない話だ。しかし、イオン・ロケットが沈黙したことは、まちがいない。この小型船の噴射装置に、故障が起きたのだ──地球に向って、墜落しているのだ──。 「お知らせします」インターカム・ボックスから、穏やかな声がひびいた。「本船は、順調に進行中。自由落下は、数秒間で終る予定。標準重力の復元に、スタンバイ」  そして……何たることか、ペイジが格闘をつづけていたハンモックは、船がまだ地球の上に静止してでもいるように、ふたたび下に[#「下に」に傍点]落ち着いたのである。  不可能だ。  大気圏をさえ、離脱できたはずがない。  かりにできたとしても、旅の残りのすべては、自由落下で占められるはずなのだ。惑星船──フェリーは、いわずもがな──では、その長軸にそって船体を自転させないかぎり、船内に重力を復元させることはできない。そこまで手間をかけて、燃料のかさむ作業をやろうという船長はめったになかった。惑星間を飛行するのは、ほとんどベテランたちにかぎられているからでもある。  それに、この船──〈パ・アスペラ〉──は、そんな操縦法をとってはいない。もしそうなら、ペイジにも気がつくはずなのだ。そのくせ、彼の体は、まちがいなく、一地球重力の加速度で、ハンモックに押しつけられているのだった。 「お知らせします。あと一・二秒で、月を通過。観測円窓《ブリスター》を、乗客に開放します。ワゴナー上院議員よりの希望。ミス・アボットとラッセル大佐、観測円窓《ブリスター》までお出向き下さい」  イオン・ロケットからは、あれきり物音がない。〈パ・アスペラ〉が、地表から二百五十マイルと上昇するはずのないうちに、不可解にも噴射を打ち切られたままなのだ。それにもかかわらず、船はいま、月を通過しているという。おそらく、加速を続けているにちがいないが、毛すじほどの動きさえ、感じさせない。  なにが、船を推進しているのだろう?  ペイジに聞えるのは、ロケットに使われる電気イオン・ブラズマの高温化という仕事から解放されて、地上なみの静けさにかえった、発電機の小さな唸りだけだった。  きびしい表情で、安全ベルトのグリッパーを外し終った彼は、この船の上では嬰児《あかご》同然らしい自分を意識しながら、立ち上った。  デッキが、異常なほどの堅固さで、足に感じられてきた。安定した一地球重力の加圧が、小癖にも、靴底にこたえてくるのである。半生の軍役で叩きこまれた慎重さだけが、階段から観測円窓《ブリスター》へと駈け上りたくなる彼を、辛うじて、押しとどめた。  アンと、ワゴナー上院議員が、薄れゆく月光を背中に浴び、前方の宇宙の深みに目を凝らしながら、そこに立っていた。発射のショックで、かなり気をのまれているらしいのはたしかだが、それもほとんど回復したらしい。ふつうのフェリーの発射ショックに比べれば、ほんのさざ波立った程度にすぎないのだから。それに、もちろん、不可能とも思える標準重力の急激な復元も、ペイジの永年の条件反射をかき乱したほどには、二人の訓練のない反射神経を痛めつけなかっただろう。こうして見ると、少くとも向う数年間は、むしろ航宙士よりも民間人のほうが、この手の宇宙飛行に、楽々と順応してゆくにちがいない。  打ちひしがれた卑少な自分を意識しながら、ペイジはソロソロと二人のほうに歩を運んだ。二人のあいだから、眩ゆい黄白色の輝点が、観測円窓《ブリスター》の厚い保護ガラスに、照りつけていた。ブリスターをとりまく、あらゆる星と同様、その輝点は、まばたきもせず、じっと固定している。船の重力が、長軸上の自転で発生したものではないという、確実な証拠だった。  ところで、その黄色の光点、ワゴナーの肱と、アンの肩のあいだで輝いているそれは──木星だった。  その惑星の左右には、それぞれ、二つの小さな光点があった。四個のガリレオ衛星なのだ。それが、地球からガリレオ望遠鏡で覗いたときのままに、ペイジの肉眼にも、はっきりと離れて見える。  ペイジが、観測室の入口でためらっているうちにも、木星最大の月である四個の光点は、しだいにその間隔を広げてゆき、やがてその一つは、アンの右肩と掩蔽現象を演じはじめた。 〈パ・アスペラ〉は、依然として、加速を続けているのだ。それは、ペイジの経験からは、とうてい想像もつかない速度で、木星に向って飛行している。あっけにとられた彼は、頭の中で、視差の増加をきわめて大ざっぱに概算し、それから船の接近速度を算出にかかった。  模型鉄道のトランスに毛の生えたぐらいのハムをひびかせた、このちっぽけなルナー・フェリー、二号衛星ステーションまで、十人はおろか、五人の人間をさえ運びかねるようなそいつが、驚くなかれ、光速の四分の一のスピードで、木星に突進しているのだ。  少くとも、毎秒四万マイルの速さで。  そして、木星の色の深まりぐあいが、〈パ・アスペラ〉のスピードの、さらに加わりつつあることを示している。 「入りたまえ、ラッセル大佐」  ワゴナーの声が、観測室の中で、わずかに反響した。 「いっしょに見物してみないかね。きみを待ちわびていたところだよ」 [#改ページ]     10 木星第五衛星 [#ここから2字下げ]  愕然と非常識の世界を認識させる、それぐらいが、常識の持つ価値ではないのか。前世紀に数学がなしとげた人類に対する最大の奉仕は、この『常識』をその本来の場所、『廃棄されたナンセンス』というレッテルのついた埃まみれの罐と、隣り合せの最上段に押しこめたことであった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──エリック・テンプル・ベル    これから当直につこうとするへルマスのまえに着陸した宇宙船は、決して彼の胸の重荷をとり除いてくれるようなしろものではなかった。  外形的には、一号ステーション=火星=小惑星帯《ベルト》=木星第十衛星コースの定期巡航船から、補給品──そして、時には数年遅れの郵便物──を内衛星群に中継する、木星系短距離フェリーのどれとも、大して異ってはいなかった。しかし、ふつうの木星系フェリーよりは、かなり大きいし、その大きな図体を、ほんのちょっとの間、ロケットを咳きこませただけで、すんなりと第五衛星に着地させたものである。  その着陸が、ヘルマスに、彼の夢の現実となる日が遠くないことを教えた。もし軍部の首脳陣が、本物の反重力を手に入れたのなら、イオン噴射の必要など、まったくないはずである。開発されたそれは、たとえ重力遮蔽スクリーンとしても、部分的なもので、通常のロケット推進よりは、はるかに少ない推力で船を作動させはするが、宇宙空間に固有のストレス、万有引力のきずなから、まだ完全にそれを解放できていないのだろう。  だが、木星では、完全な、そして完全に制御可能な重力遮蔽スクリーンでないかぎり、使いものにはならないのだ。そして、完全な重力遮蔽スクリーンなどというものは、理論的に不可能なのである。  いったん、それを設定してしまえば──いや、設定できたとしての話だが──そこへ入ることも、そこから出ることも、できなくなってしまう。一Gの場と、無Gの場の境界線をまたぐことは、走高跳びで、無限の高さに置かれたバーを越すのと同じぐらい、そして同じ理由で、むずかしいのだ。もし、一方の側から、それをまたぎ越えたとしたら、まるで月から墜落したほどのひどい勢いで、境界線の向う側の地面に体を打ちつけるはずだ。いや、実のところ、もう少しひどいかもしれない。  思案にふけりながら、ヘルマスは、機械的に、管制デッキでの作業を統けた。チャリティの姿は見えない。しかし、この当直で、主任管制盤を留守にして悪い理由は、別にないはずだ。作業は、ここからでも、じゅうぶん監督できるし、事実チャリティは、ヘルマスがそうするだろうことを予期していたのではないか。でなければ、メモでも残してゆくだろうからである。  おそらく、チャリティは、いまごろ上院議員たちと協議を交していて、彼にとっては吉報であるものを、受けとっているのだろう。  にわかに、ヘルマスは、もはや彼のやるべきことが何ひとつないことを、この当直が終りしだい、スイッチを切って逃げ出すほかないことを、さとった。  あの悪夢のすべてを、止めるすべもなく、まるで役割に縛りつけられた俳優のように、一つまた一つと繰りかえしてゆく、そんな義務は、どこにもないはずだ。いまや、彼は完全に目ざめ、自己の五官を完全に把握し、そして少くとも、部分的には、まだ正気を留めている。  夢の中の男は、挺身作業に志願したかもしれない──しかし、ロバート・ヘルマスは、ぜったいにあの男にはならない。もう、ごめんだ。上院議員たちが、第五衛星にいるうちに、彼は辞表を叩きつけてやる。直接に──チャリティの頭ごしに。  一般管制デッキにいたままで監督のできるよう、回路の再調整を終えたとたん、安堵の波が彼を洗った。全身の力が抜けきった感じで、頭まで持ち上げかけたヘルメットを、途中で棚の上におろすしまつだった。では、これが、いままで彼の待ちわびていたものだったのか。辞職、ただそれだけのことが。 『橋』の大巡察だけは、チャリティに対する義理としても、やらねばならない。そのあとは、自由の身だ。二度と『橋』を見る必要もなくなる。観測ヘルメットの内側からさえも。ひとまわり、お別れの巡視をすませて、シカゴへ帰るとしよう。そんな町が、まだあるとしての話だが。  彼は、息づかいが少し静まるのを待って、棚のヘルメットを、肩へと持ち上げた。 『橋』が……。  ……にわかに、降って湧いたような実在となって、彼をあらゆる方角から封じこめた。それは、孔の穿ちようもない、絶望的な地獄だった。  ビートル・カーの装甲に打ちつける雨の連打は、ヘルメットの音量調節ノブを、いっぱいまで絞っても、鼓膜が痛いぐらいだった。といって、聴覚回路を、完全に切断してしまうことはできない。『橋』が、ひずみ[#「ひずみ」に傍点]応力にどう反応しているかを査定するのは、音響だけが頼りなのだ。『橋』の上に関するかぎり、人間の視力は、カタツムリのそれほどにも無力だった。  いまも、『橋』は、いつものように、不協和音のメドレーで、その反応を奏でていた。  クラン……クラン……スパン……スクリーク……クラン……ング……オオーン……スクリーク……スクリーク……。  構造物のこうした音響だけが、重要なのだった。それは、いわば、『橋』の多声曲《ポリフォニー》なのだ。それ以外のすべては装飾音で、『橋』の管制官にとっては、無視すべきものなのである──風の唸りのフィオリチュラも、雨の連打も、雷鳴のオクターブ低音も、舞台係りの火山が、大陸塊をゴロゴロと前後に移動させている遠い響きもすべて。  しかし、今度という今度は、この大オーケストラのどの一部をも、無視することは不可能だった。その一丸となった叫喚は、木星のものとしてさえ、信じられないほどに巨大で、激烈であり、この季節のものとしても、圧倒的だった。  それを耳にした瞬間に、自分があまりにも長く待ちすぎたことを、ヘルマスは、さとった。 『桶』は、あとどれほどの時間も、保ちそうにない。第五衛星の全員が、この大赤斑と南赤道撹乱《S・T・D》の通過が終るまで、不眠不休でがんばらないかぎり──。  ──いや、それですら、効果があるかどうか、大旋風《トルネード》にひきちぎられた濃霧をすかして、潜函から立ち昇ってくる恐しい呻きは、着実に、その発作的な深刻さを増していた。すでにその接合部は、限界点に達しているのだ。そして、橋床そのものも、小さく上下動を始めている。まるで、その未完成な一端から一端へと、凍てついた波が、ゆるやかに渡ってでも行くようだった。  吐き気のするほどのろくさい、その波動に翻弄されたビートル・カーは、まず鼻づらを、つぎに尾部を、そしてまた鼻づらをと、風に向って突っこませていた。ヘルマスが、電磁コイルへ送りこむ電力のほとんどは、車を橋床のレールへつなぎ止めるだけに食われてしまう状態だった。  巡回などは、とてもできる相談ではなかった。もう、エンジンに、それだけのエネルギーが残っていない──じっとしているだけで、せいいっぱいなのである。  しかし、巡察コースは、まだ残されたままなのだ。そして、ヘルマスが、是が非でも見究めねばならない方角が、一つ──。  真下である。  真下の氷まで、あらゆるものが停止し、そして再び始まることのない、第九圏まで。  下降用のレールは、『橋』の巨大な扶壁《バトレス》の一つに設置されている。最寄りの第九十四区で、ビートル・カーを、そのレールに切り替えればよいのだ。頭を下にした車が、地表に向って這うような進行を始めるまでには、数秒の手間しか掛らなかった。  すでに、遠隔管制盤の計器は、この管区の二十一マイル点──つまり、橋床から十一マイル下で、風速が急速に衰えたことを、ヘルマスに告げていた。もともと、この管区は、近くまで伸びた〈氷河〉と呼ばれる長い山尾根の、風下に当っている。それにしても、この極端な凪ぎは、意外だった。もちろん、木星の、しかもこの季節のことで、多少の風はある。しかし、最もひどい突風でも、たかだか時速数百マイル、そして、ときには七十五マイルという数字まで、メーターの針が落ちるという状態なのだ。  白昼夢のような凪ぎ。  ビートル・カーは、まるで深海の魅惑に浸りきって、命綱の結び節をとっくに通り越してしまった潜水夫のように、その凪ぎの中を下降して行った。十五マイルで、なにか白いものが、扇形灯《ファンライト》の外をかすめて去った。つぎに、もう一つ、もう三つ。そして、突然、それが奔流に変った。  遅ればせに、ヘルマスはビートル・カーを停めて、前方をうかがった。だが、白いものは、もう消えている。いや、そうではない、さらに数を増したそれが、明りの中を、きわめてゆっくりと漂っているのだった。いっとき、風が止むと、それはフワリと浮び上り、ゆるやかな脈動をはじめたかに見えた──。  自分の上げた驚きの呻きが、ヘルマスの耳に伝わってきた。いつだったか、つれづれのままに、木星のクラゲなるものを、彼は空想したことがある。いま目の前にあるものが、ちょうどそれだった──クラゲ、ただ海のそれではなく、空のクラゲなのだ。  十本の触手をもった、半透明な彼らは、握りこぶしから、フットボール大までの、まちまちな大きさをしていた。彼らは美しく──そして、この荒々しい惑星のものとは、とても信じられないほどに繊弱だった。  ライトの光度を強めようと、ヘルマスは手をのばした。指がノブにかかった瞬間に、ガッと風が起り、生きものたちの姿は消えた。明るさの増したライトの中で、その代りにヘルマスの目に入ったものは、彼からそれほど遠くない扶壁《バトレス》から、軌道の片側にニュッと突き出している、大きなプラットホームだった。  囲いと屋根がついているが、建材は透明である。そして、中でなにかが動いている。  その構築物がなにかについては、まったく心当りがなかった。ともかく、最近のものにちがいない。この管区の橋床から下を見るのは、これが初めてだったが、彼の承知しているかぎり、設計図にも、こうした余計物の記載はなかったはずだ。  一瞬、木星にはすでに人間が住みついていたのかと、ヘルマスはいぶかった。しかし、プラットホームの屋根の真上まで近づくと、中で動いているものが──もちろん──ロボットであることが、彼にもわかった。人間の倍ほども大きく、たくさんの腕を持った、不格好なしろものだった。それが、周りをとりまいた仕事台と棚の中で、瓶とフラスコを手に忙しく立ち働いている。室内は、ヘルマスが化学機械と見当をつけたものが、雑然ととり散らかっていた。そして、一隅には、顕微鏡らしいものも、置かれてあった。  ロボットは、彼を見上げると、二、三本の触手で、なにやら合図をした。最初、ヘルマスには、その意味がのみこめなかった。ようやく、相手がこっちの扇形灯《ファンライト》を指さしていることに気づいて、従順に、明るさをいっぱいまで絞った。たちまち、あたりを包んだ木星の闇の中で、彼はその研究室──らしいもの──が、たっぷりと人工照明を備えていることを見とどけたのだった。  言うまでもなく、彼からロボットにも、またロボットから彼にも、語りかける方法はない。もしそうする気なら、ロボットを操作している人間と、話し合うほかはなかった。しかし、第五衛星の全員に振り当てられた任務を、ヘルマスはそらんじているが、こんなしろものを動かす仕事は、そのどこにもなかったはずだった。だいたい、管制盤に、すでにそうした設備がない──。  白色のランプが、遠隔管制盤に、またたきはじめた。エウロパからの、入信シグナルである。あの雪まろげの上で、この多腕の実験者を監督している誰かが、第五衛星の昇圧ステーションを使って、誘導信号波を増幅しているのだろうか?  好奇心にかられながら、彼はジャックをさしこんだ。 「もしもし、『橋』ですな! 当直は、どなた?」 「ハロー、エウロパ。こちらは、ボブ・ヘルマス。いま、九十四区でぼくが眺めているロボットは、あんたのか?」 「それが、私だよ」と、声がいった。  その声が、ロボット自身の口から語られているのだ、という考えを払いのけるのは不可能だった。 「こちらは、バース博士だ。いかがかね、私の実験室は?」 「なかなか、しゃれている」ヘルマスはいった。「ついぞ、こんなものがあるとは知らなかった。なにを研究しているのか?」 「今年、建物ができたばかりでね。木星生物の研究が目的だが。見たことは、おありかな?」 「木星クラゲのことか? あれは、ほんとうに生きものかね?」 「そう」ロボットはいった。「データが、もう少し集まるまで、秘密にしておくつもりだったが、いずれは、きみたちビートル・カー乗りに、見つかることさ。たしかに、彼らは生物なのだ。原形質そっくりな、コロイド質の連続=不連続体を備えている──ただ、ゾル基質が、水ではなく、液体アンモニアであることが違うだけだ」 「だが、なにを食って生きているんだろう?」ヘルマスはいった。 「ああ、それだねえ、問題は。一種の空中プランクトンであることは、たしかだ。彼らの体内から、消化された残骸は発見したんだが、まだ生きた見本を捕捉できないでいるのさ。消化の残り滓じゃあ、大して参考にもならなくてね。ところで、プランクトンは、なにを餌に生きているのだろう? それが、わかればな」  ヘルマスは、考えをめぐらした。  木星生命の存在。それが構造的に簡単なものだろうと、風に対して、ほとんど無力であろうと、問題ではない。たとえ、一人の人間も訪れたことのない、この氷地獄にあってさえ、生命は、やはり生命なのだ。そして、もしクラゲが木星の空を翔けるとすれば、いかなる|巨 鯨《レヴァイアサン》が木星の海に棲まないと、誰が言いきれるだろう? 「あまり驚いたようすもないようだな」ロボットがいった。「クラゲとプランクトンじゃ、俗受けはむりだろうからねえ。しかし、この意味するところは莫大だ。生物学界に、大センセーションをまき起すだろうことだけは、いっておきたいね」 「それは、ぼくにもわかる」ヘルマスはいった。「ただ、ちょっと気をのまれただけなんだ。つねづね、木星は生命のない世界だと思っていたものだから──」 「さよう。だが、いまは、おたがいに、そうでないことを知ったわけさ。じゃ、仕事に戻ろう。そのうち、また話し合おうじゃないか」  ロボットは、触手を派手に振り回したのち、仕事台に屈みこんだ。ぼんやりと、ヘルマスは、ビートル・カーをバックさせて、上昇に移った。  バースは、いま思い出したのだが、エウロパでなにかの化石を発見した男だった。以前、木星系に派遣されてきた将校が、勤務の余暇に、バクテリヤ探しの目的で、土の見本を掘りあさっていたことがある。おそらく、彼は、なにかを見つけただろう。  宇宙飛行以前の時代、すでに科学者たちは、隕石からも、それを発見していたのだ。この宇宙の中で、生命を抱いた世界は、地球と火星だけにかぎられたわけではなかったのである。たぶん──あらゆる場所に、それは存在するのだろう。もし、それが木星のような場所にでも存在できるものなら、太陽にだって存在できないという理屈はない──誰にも生命と認識できないような、高熱生命が……。  橋床まで戻った彼は、ビートル・カーを、操車場に送りこんだ。車を車庫に格納するためには、もう一度べつの軌道に切り換えねばならない。  さっきの幽霊じみた遠隔対話のあいだに、彼は、ふとあることに気がついたのだった。  このバース博士にも、そして、これまで幾度となく短波無線で話を交した大ぜいの男にも、ヘルマスは、まだ顔をつき合わせたことがないのだ。『橋』の管制官仲間を別にすれば、彼にとって、木星系は、肉体と切り離された声だけの集落にすぎない。そして、もはや、彼らと顔を合わせる機会は、永久になくなったのだ……。 「起きるのよ、ヘルマス」管制盤からの声が、噛みつくように彼を叱った。「わたしが来なければ、あなたは『橋』の突端まで行ってしまってるところだったわ。あのビートルの自動停止装置を、ぜんぶ切っていたのよ」  ヘルマスは、面目を失ったかたちで、遅ればせに、制御装置へ手を伸ばした。すでに、エヴァが、車を危険帯の外へ戻してくれていた。 「すまん」  呟きながら、彼はヘルメットを脱いだ。 「ありがとう、エヴァ」 「お礼なんか、よして。あなたが、実際にビートルに乗っているのなら、見殺しにしたかもしれない。読書をほどほどにして、睡眠をふやすこと、これがあなたへの処方だわ、ヘルマス」 「その処方は、自分のためにとっときたまえ」唸るように、ヘルマスはいった。  この出来事が、新しい、もっと気になる思考のつながりの、きっかけを作ったようだった。  もし、彼がいま辞職したとしても、シカゴに帰りつくまでには、一年近くかかる。反重力のあるなしにかかわらず、上院議員の乗船に、臨時乗客のための空席が、あるわけはなかった。一人の人間を故国へ運ぶためには、それなりの準備が必要なのだ。まず居住空間を用意せねばならず、それに、帰路で彼の占める重量と空間に匹敵する船荷は、いわば、第五衛星の負担になるのだった。  それまでの一年間は、なんの役割も持たない人間として、第五衛星基地に寝起きせねばならない──基地の補給品を消耗するだけの、資格に欠けた人間として。エヴァ・シャヴェスとチャリティ・ディロン、そして男女の管制官全員、彼の退職に遠慮のない批判を浴びせるだろう人びとの、視線にさらされて。  木星の、直接的な、個人的な探険という、熱病に似た興奮を、傍観者として眺め暮す一年。避けられない死を、日夜見聞きしながら、彼だけが、超然と無為の生活を許される一年。ロバート・ヘルマスが、全木星系最大の憎まれ者になり下るだろう一年。  そして、かりにシカゴへ戻って、職を探したとしても──『橋』設営隊からの辞職が、自動的に、彼を公的役職から弾き出すはずだ──なぜ『橋』での仕事がクライマックスに達する直前に、それを見捨てたかを、問いただされるのがおち[#「おち」に傍点]というものだろう。  いつかの夢の中の男が、なぜ挺身隊に志願したかが、ヘルマスには、やっとわかりかけた。  当直交代のベルが鳴ったとき、彼は辞職の意志こそ翻してはいなかったが、この世には、木星とはまた別な地獄もあることを、すでに苦い思いで、さとっていたのである。  チャリティが、|踏み桟《クリート》を昇ってきたのは、ちょうどヘルマスが、管制盤をニュートラルに戻しているときだった。空いちめんの彗星のように、チャリティの目は輝いていた。ヘルマスの、予想どおりに。 「ワゴナー議員が、きみと話したいといってる。あまり疲れてなければだがね、ボブ」と、彼はいった。「行きたまえ。あとはひきうける」 「彼がぼくを?」  ヘルマスは、眉根を寄せた。夢が、にわかに舞い戻ってくる。ばかな[#「ばかな」に傍点]。おれがここを去りたい気持以上に、追い出しを急ぎ立てることができるものか。 「どうしたわけだ、チャリティ? 反西欧的行動の嫌疑でも、かかってるのか? ぼくの気持のことは、もう彼らにも話したんだろう?」 「それは話した」  ディロンは、動じなかった。 「だがワゴナーと話せば、きみの気持も変るかもしれないということで、意見が一致したんだ。彼は、もちろん、宇宙船の中にいる。エア・ロックのそばに、きみの宇宙服を出しといたよ」  チャリティは、ヘルメットを頭にのせることで、それ以上の会話と、ヘルマスとの対座を、効果的にシャットアウトしてしまった。  ヘルマスは、チャリティの肩の上の、目も鼻もないバブルを、しばらく突っ立ったまま眺めていた。それから、けいれんしたように肩をすくめると、|踏み桟《クリート》を下りて行った。  三分後、宇宙服に身を包んだ彼は、その両肩を、母惑星のぶちまける絵具で彩どられながら、第五衛星の地表を、トボトボと歩いていた。  礼儀正しい海兵隊員が、宇宙船のエア・ロックから彼を通すと、手ぎわよく宇宙服をはぎとった。この新しい反重力なるものと、その結果的な産物については、いっさい関心を持つまいという固い決心にもかかわらず、船首に案内される彼の目は、キョロキョロとあたりを見廻していた。  しかし、内側から見たかぎり、それはシカゴから木星第五衛星へ彼を運んだものと、大差なかった──きわめて、当りまえなのである。目的の船室まで、えんえんと廊下の壁と、はしごが続くだけだ。  ワゴナー上院議員だけは、ちょっとした驚きだった。どう見ても、六十にはなるまいという若さで、風采はすこぶる上らないが、ヘルマスが、これまで見たこともないような、鋭い青色の瞳を持っていた。  ヘルマスを招じ入れた部屋は、おそらく彼自身の居室なのだろう。宇宙船の設備の限度内で、居心地よくできてはいるが、広くもぜいたくでもなかった。ヘルマスが噂に聞いている最近の上院──ローマ時代そこのけの、大スキャンダルが相ついでいるというそれ──と、この上院議員とは、どうにもつながらないのである。  彼のほかには、ふたりの人間がいるだけだった。議員の秘書と思われる、むしろ不器量に近い娘と、陸軍航宙部隊の制服に大佐記章をつけた、背の高い軍人である。ヘルマスの第二の驚きは、その軍人の顔に見おぼえがあることだった。しばらく前、木星系に駐屯していた、弾道学専門家のペイジ・ラッセルなのだ。土のコレクターなのだ。  眉をつり上げたヘルマスに、相手はニヤリと苦笑を返してきた。  ヘルマスは、議員に視線を戻した。 「てっきり、小委員会の顔ぶれが揃っているものと思ってきました」 「揃ってはいるさ。だが、連中とは、出会ったところで、そのまま別れてきたのだ。ガニメデで。私としては、きみにまで、大陪審の前に立つ気持を、味わわせたくはないのでな」笑いながら、ワゴナーはいった。「私自身、故国《くに》では、そのての長ったらしい忠誠度聴聞会に、またしても立ち合わされたものだが、ああいう宗教的儀式を、宇宙の中まで持ちこむ神経は、私には解せんのだよ。まあ、とにかく坐ってくれたまえ、ヘルマス君。そのうち、飲みものも届くはずだ。たっぷりと、話し合うことがあるのでね」  ぎごちなく、ヘルマスは腰をおろした。 「ラッセル大佐のことは、もちろんご存じだな」気持よさそうに、椅子に体をもたらせながら、ワゴナーはいった。「こちらの若いご婦人は、アン・アボット。彼女のことについては、あとで話す。さて、ディロンから聞いたところでは、『橋』に対するきみの有用性は、ほぼ終りにきた、ということだ。一面では、私はそれを聞いて残念だった。これまでの全惑星計画を通じても、きみほど優秀な男は、ざらになかったからな。だが、一面では、私は嬉しかったのだ。おかげでその人材を、もっと大きなことに使うことができる。きみという男を、もっと切実に要求している仕事に」 「どういう意味です?」 「ここはひとつ、私流に説明させてくれんかね? まず最初に、『橋』のことを、少し話してみたいんだ。ところで、くれぐれも、これが訊問だとは、思わないでくれたまえ。もし、ある質問に対して、答える必要がないと思ったら、遠慮なくそう言えばいい。それで腹を立てたり、意趣返しをしたりは、しないから。もうひとつ『私はここに、テープその他の盗聴装置による、この会話の再生のいっさいに関して、その信憑性を否認するものである』と、つけ加えよう。つまり、われわれの会話が、きわめて非公式である、ということだ」 「ありがたいですな」 「いや、じつは、こっちの都合さ。きみに腹蔵なく喋ってもらいたいのでね。もちろん、私の否認など、なんの役にも立ちはしない。ああした公式声明は、いつでもテープから削れるのだからな。だが、このあとで、きみの知るはずのない情報を、私は話すつもりにしている。それを聞けば、これからきみの私に喋ることが、他へ洩れるおそれのないのは、わかってもらえるだろう。ペイジとアンが、きみの証人だ。どうだね?」  給仕が、静かに飲みものを置いて、去っていった。ヘルマスは出されたものに口をつけた。味わってみたかぎりでは、彼が管制官宿舎で何度となくミックスした、標準宇宙レーションのそれに、そっくりだった。ただ、冷やしてある違いだけが、ヘルマスをとまどわをたが、馴れると悪いものではない。  気を楽にしようと、彼はつとめた。 「ベストを、つくしてみます」 「結構。では行こう。ディロンは、きみが『橋』を怪物と考えている、という。私は、きみの身上調書に、かなり詳しく目を通してみた──いや、実際、きみとペイジとに関しては、きみたちが想像する以上に、綿密な調査を進めたのだよ──そして思ったのだが、ディロンは、どうもきみの真意をつかめていないのじゃないかね。きみの口から、じかにそれが聞きたいのだ」 「ぼくは、『橋』を怪物とは考えていません」ヘルマスは、ゆっくりといった。「つまり、チャリティのは、守勢的観点とでもいいましょうか。彼は、『橋』を、どんな苛烈な自然条件も、人類を永久に拒むことはできないことを示す、決定的証拠の一つだと見ている。その点では、ぼくも同感です。だが、彼は、同時にそれを、『進歩』の擬人化だと考えているらしい。彼には──あなたは、腹蔵ないところを、とおっしゃいましたね、上院議員《セネター》──『西』陣営のそれが、頽廃した死期の近い文明だと認めることができないのです。ほかの、あらゆる証拠が、この説の正しいことを示している。チャリティは、『橋』を、それに対する反証として考えたがっているのですよ」 「たしかに、『西』側には、いくばくの寿命も余されてないな」  ワゴナーが、穏やかでない同意をした。ペイジ・ラッセルは、ひたいの汗を拭った。 「ここまで来ても」と、航宙士はいった。「あなたのそれを聞くと、敷物の下に隠れたくなりますよ。ともかく、マッキナリーの一党が、目と鼻のガニメデにいるのだし──」 「マッキナリーなら」と、ワゴナーは穏やかにいった。「ことの真相を聞かせてやれば、卒中でぶっ倒れかねんよ。べつに、お痛わしいと思わんがね。それはともかく、いまのはかけ値なしの事実だ。かなり以前から、ドミノの駒は続々と倒れているし、アンの会社が作り上げたこんどの大爆発が、とどめの一撃になるにちがいない。しかし、なんと言おうがだよ、ヘルマス君、『西』側は、いくつかの真に歴史的な大業積を、なしとげてきているのだ。おそらく、『橋』は、その最後にして最大のものと、考えていいかもしれん」 「ぼくは、反対です」ヘルマスはいった。「大建造物を、儀式的意図──行為のための行為──だけで作り上げるのは、すでに死滅した文明の、最後のあがきじゃないですか。たとえば、エジプトのピラミッドだ。それとも、もっと巨大で、もっと愚かしい実例、人類の手になった何物よりも大きいもの──火星の全表面を覆った、あの『力の図形』をご覧になるといい。もし火星人が、あれだけのエネルギーを生存活動に注ぎこんでいたら、おそらく生き残れたでしょうに」 「同感だね」ワゴナーは、いった。「ただし、条件つきでだよ。『行為のための行為』は、儀式の定義じゃない。それは、科学の定義なんだ」 「いいでしょう。それで、ぼくの論拠が大幅に変るとは思えませんね。ある文明の生命力の本質は、その自己防衛能力だ、という考えにも、あなたは同感して下さるかもしれない。『西』側は、ここ半世紀にわたって、ソビエトを圧倒しつづけてきました──しかし、ぼくの見るかぎり、『橋』は、いわば『西』側の『力の図形』であり、ピラミッドであるにすぎない。それは、われわれの強大さを示してはいるが、その強大さは、もっぱら非生存的な方向に発揮されてしまっている。『橋』に注ぎこまれた財力と知力は、つぎのソビエトの攻撃が始まったとき、どれほど必要とされるかもしれないが、もうとりかえしはつかない[#「とりかえしはつかない」に傍点]のです」 「ひとつ修正をしよう。攻撃は、すでに始まっている」ワゴナーはいった。「そして、われわれは、すでに敗れているのだ。ソ連は、フォン・ノイマンのゲームの法則を、われわれよりはるかに巧みに使いこなした。彼らは、われわれのように、両陣営がつねに最良の戦略を選ぶという推測をとりはしなかった。その上に、ゲームの指し手を、まず疲れさせる戦術に出たのだ。五十年間の間断ない重圧によって、彼らは『西』側を、直接的な軍事行動の必要がないぐらい、ソビエト的な組織に改造することに成功した。みずからやってのけたソビエト化のおかげで、われわれの動きは、ことごとく予想のつくものになってしまったのだ。  というわけで、私はきみの意見に、部分的には同感する。われわれに要求されていたのは、そのエネルギーと資力を、ゲームの中に投入することだった──つまり、社会学的研究にだ。脅威は、その方面にあったのだからね。だが、そうする代りに、われわれは、いかにもわれわれらしく、それを空前のスケールの物理学的研究計画に、ぶちこんだものだ。そして、もちろんそれは、ゲームの法則からも予期されたことであったわけだ。  ヘルマス、何年か地球から隔離されていたくせに、きみは、向うの大多数の人間より、そこでなにが起っているかを、よく心得ているらしいな」 「地球への関心をそば立たせるには、それから離れるのがいちばんですよ」ヘルマスはいった。「それに、ここでは、本を読む時間もたっぷりありますからね」  飲みものが、思いのほか強かったのか──しばらく酒から遠ざかっていたのだから、むりもないところだ──それとも、ヘルマスの全世界の崩壊を、こともなげに受け入れたワゴナーの言葉が、彼をまた一歩、奈落に押しやったのか。目のまえが、グルグルと回りはじめていた。  ワゴナーも、それに気づいたのだろう。ヘルマスの不意なつくように、グッと体を乗り出した。 「しかし[#「しかし」に傍点]、『橋』が儀式的役割を果たしている、いや、一時的にもせよ、果たしたという意見には、承服しにくいな。『橋』は、いくつかの、きわめて大きな実用的役割を、じゅうぶんに果たしたのだ。言うなれば、現在の『橋』は、すでに廃物といってもいい」 「廃物?」ヘルマスは、かすかな声できいた。 「そう。もちろん、もうしばらく作業をつづけはするがね。あれだけの規模の事業になると、そう簡単に切り上げはできない。それに、われわれが『橋』を建造した理由の一つは、ソ連がそれを期待していたからなのだ。ゲームの法則からすると、われわれはここで、第二のマンハッタン計画か、リンカーン計画に着手するはずだった。その期待をむげにするのは、われわれとしても忍びなかったのさ。だが、こんどばかりは、われわれも、この計画がなにを解決するためのものかを、相手に明かすことはしない[#「しない」に傍点]──それが、解決できる[#「解決できる」に傍点]ことや、すでに解決されていることについては、なおさらだ。  そこで、われわれは、実際上も、また世間的にも、『橋』の設営をつづけてゆく。それは同時に、ディロンのような、心理改造《コンディショニング》の枠を越えて、『橋』への感情的な執着を持った人びとにとっても、好都合なわけだ。『橋』が廃物であることを気がねなく話せるほど、それへの関心を失っているのは、この基地の責任者の中で、きみひとりなんだよ」 「だが、なぜ?」 「それは」と、ワゴナーは静かに先をつづけた。「『橋』が、われわれに、あるとほうもなく重要な理論の確証を与えてくれたからなのだ──その重要さに比べれば、やがて起る『西』側の崩壊などは、ものの数でもないといえる。ところで、その理論の確立のなかには、ソビエトの究極的な敗北の種子が含まれているのだ。たとえ、これからの百年間かそこら、彼らが勝利をかちとりつづけても」 「というのは」と、ヘルマスは、煙にまかれた顔で、たずねた。「反重力のことでしょうか?」  ここで、はじめて、ワゴナーが驚く番に廻った。 「おい、きみ」と、やっと声を出して、彼はいった。「きみは、私の話そうとすることを、片っぱしから[#「片っぱしから」に傍点]承知しているのか? そうあってもらいたくないな。でないと、そこから出る結論は、おたがいにとって、迷惑しごくなものになる。では、抗老化薬《アンチ・アガシック》とはなにかも、知っているのだろうな?」 「いや」と、ヘルマスはいった。「語源の見当さえつきせんね」 「フム、それでひと安心だ。しかし、チャリティは、ほんとうに反重力のことを、きみに話さなかったのだろうな。固く、そう言いつけておいたのだが」 「ええ。そのアイデアは、前からぼくの頭にあったのですよ」ヘルマスはいった。「しかし、なぜそれが、世界を震憾させる類いのものになり得るかということになると、『橋』がどうしてその完成に寄与できたか、という疑問と同様、ぼくにはさっぱりわからないのですがね。ぼくの考えでは、それは『橋』の将来の開発のために、独立して研究されるものだと思っていました。言いかえれば、木星に人間を送りこんで、この第五衛星からのリモ・コン作業を単純化する前提としてです。だから、それは『橋』の設営をスピード・アップこそすれ、よもや無効にするとは考えもしなかった」 「見当はずれだったな。気ちがいでないかぎり、木星に人間を送りこむようなことはせんよ。それに、あそこでの主な課題は、重力ではないのだ。人間は8Gの重力でさえ、短時間なら、じゅうぶん堪えることができる──それに、どのみち、気密服におさまった人間は、大気圏を五百マイルと降下しないうちに、魚のようにプカプカと浮き上ってしまうはずだ──気流に対しては、さらに無抵抗だろうしね」 「で、気圧を遮断することは、できないんですね?」 「できるよ」ワゴナーはいった。「ただ、とんでもない費用が掛るだけさ。それに、そうする意味もないのだ。『橋』は、その役割を果たした。何千という範疇にわたって、われわれに貴重な情報を与えてくれた。だが、そのほかに、どうしても橋でなければできない仕事が一つあった。ブラケット=ディラック方程式を証明するか、反古にするかの仕事が」 「と、いうと──?」 「磁気と、質量をもった物体の回転との、相互関係を表わす──ここまでが、ディラックのやった部分だ。ブラケット方程式は、その公式が、重力にも適用できることを表わしたものらしい。それによると、Gは(2CP/BU)の2乗に等しいことになる。この場合、Cは光速度、Pは磁気モーメント、Uは角運動量を示している。Bは不確定度の修正で、0・25の定数だ。  かりに、木星の磁力場で、われわれの蒐集した数字が、この方程式を反古同然にするようなものなら、『橋』から手に入れたそれ以外の情報で、使った金に見合うだけの価値のあるものは、なにひとつないことになる。いっぽう、太陽系で、われわれにこの方程式のテストを可能にしてくれる天体は、あらゆる点から考えて、木星よりほかにない。それには、無限位数的な、巨大質量が関係するのだ。  ところが、出た数字は、ディラックの正しいことを示していた。そして、ブラケットの正しいことも[#「ブラケットの正しいことも」に傍点]。磁気と重力は、どちらも回転の現象なのだった。  そのあとの段階については、私がいちいち説明するまでもなく、きみ自身で補足できるだろう。ただ、これだけは言っておこう。この船が備えているのは、きみたち『橋』の人間が味わった、あらゆる地獄の責苦を、完全に、そして究極的に正当化する種類の、推進力発生機だ。  それには、長ったらしい技術用語が──ディロン=ワゴナー|重 力 子 極 性 発 生 機《グラヴィトロン・ポラリティ・ジェネレーター》という、私が毛嫌いするのも無理からぬ名前だ──ついているのだが、担当の技術屋たちは、いつか前から〈スピンディジー〉という愛称で呼んでいる。それが、発生場の中のあらゆる原子の、磁気モーメントに及ぼす効果から出た名だ。  いったん作動に入ると、それは、それ自身の誘導場の外にある原子を、完全に無視する。その上、場の境界線外に存在する歪みや効果にも、まったく無関心なのだ。惑星に接近する場合は、ほとんどゼロにまで出力を落さないと、着地をしないような、高慢ちきな機械だよ。だが、宇宙空間では違う……まず、隕石などは、もちろん屁のかっぱだ。重力にも、とんと平気だ。そして──最高速度の限界なんぞという法則には、全然知らん顔なのだ。〈スピンディジー〉は、それ自身の系の中で運動するのであって、一般的な系の中ではないから」 「冗談でしょう」ヘルマスはいった。 「冗談と思えるかね? この船は、ガニメデまで、地球からノン・ストップで来た。離着陸の時間も含めて、二時間とかからなかった。つまり、平均秒速五万五千マイルという計算だ──六号乾電池三個から出る、五ワットにも足りない電力を使った〈スピンディジー〉がだよ」  ヘルマスは、ひと思いにグラスを空けた。 「で、そいつには、ほんとうに速度の限界がないんですか?」彼はいった。「どうして、そんなことがわかるんです?」 「いや、わかったわけじゃない」と、ワゴナーは認めた。「結局、一般的な数学公式というやつの悲しいところは、それが適用できなくなる限界点の予告を、含めてくれるような親切のないことだ。量子力学でさえ、多少とも、こうした批判は免れられない。しかし、〈スピンディジー〉が、どこまで速く、物体を推進できるかは、近いうちにわかると思っている。それを教えてくれるのは、きみだ」 「ぼくが?」 「そう、きみだ。そして、ラッセル大佐と、ミス・アボットにも、それを期待したい」  ヘルマスは、二人に目をやった。少くとも彼の感じたそれに劣らない驚愕が、二人の顔に現われていた。  ヘルマスには、その訳がわからなかった。 「来たるべき世界の大崩壊によって、われわれ──『西』側──は、太陽系への即時の進出を迫られたかたちなのだ。月のリチャードソン天文台は、すでに二つの有望な恒星系を探しあてた──狼座三百五十九番星と、白鳥座六十一番星に。そして、このほかにも、地球型の惑星が存在する可能性の高い星系は、何百とあるにちがいない。  いまからわれわれがやろうというのは、一口にいえば、西欧からの撤退だ──もちろん、有形的なそれじゃない。いわば、本質的な、観念上での撤退なんだ。冒険心のある人間、自由への愛を骨の芯まで叩きこまれた人間を、できることなら、この島宇宙の一円にばら撒こうというのだ。  いったん外に出た彼らは、地球からなんの干渉も受けずに、繁栄への道を歩むだろう。ソビエトは、まだスピンディジーを手に入れてないし、たとえ手に入れたあとでも、その使用を許すかどうかは疑問だ。不満を持った同志《コムラド》たちに、絶好の、最終的な逃亡ルートを提供してやるようなものだからな。  そこで、たのみたいのだ、ヘルマス……いわば、ここからが本題だがね……きみに、ラッセル大佐の協力で、この脱出隊《エクソダス》の指揮をとってもらいたい。その仕事に必要な頭脳と適性を、きみは備えている。そのなによりの証明は、きみがやってみせた、地球の現状の分析だ。それに──どのみち、地球には、もうきみの未来はないのだから」 「しばらく、余裕をくれませんか」ヘルマスは、強い口調でいった。「いまは、とても理性の働く状態じゃない。ほんのちょっとの間に、これだけのことを聞かせられたんじゃね。それに、その決定の全権は、ぼくにまかせられてもいません。ご返事は……そう……三時間後、ということで、どうでしょうか?」 「しごく結構」と、ワゴナーはいった。  ヘルマスのうしろでドアが閉まってから、船室には、いっときの沈黙が流れた。  やがてペイジが口をきった。 「では、あなたが求め続けていた不老薬というのは、航宙士のためのものだったのですね。なんてこった、私や、私の同類のためのものだったとは」  ワゴナーは、うなずいた。 「それだけが、ハル・ガンのオフィスでは、きみに話してやれなかったのだ。この船に乗り、航宙士の立場でその性能を認識するまでは、とても私の言葉を信用してもらえなかっただろうからね。わかるな、ヘルマスがそれを受け入れたのは、すでに予備知識があったからだ。逆に、不老薬の問題については、これから経験してもらわねばならないこととして、私はヘルマスに詳細を話さなかった。きみたち二人には、それを説明だけでものみこめるだけの予備知識が、できているがね。  これで私が、きみの見つけたスパイに、一顧も与えなかったわけがわかるだろう、ペイジ。地球は、ソビエトにくれてやればいい。いや、われわれがその気になろうがなるまいが、どのみち地球は、もうすぐ彼らのものになってしまう。しかし、われわれは、西欧を、星の世界いっぱいに、ばら撒くのだ。不死の思想をたずさえた、不死の人間によって。きみや、ミス・アポットのような人間によってだ」  ペイジは、アンをふりかえった。アンは、ガンのオフィスで、壁にかかったフィッツナー社の創設者の、頬ひげのある肖像画を眺めてでもいるように、超然とワゴナーの頭上の空間を見つめていた。その表情には、しかし、ペイジにも読みとれるあるものがあった。  彼は微笑を噛みころして、こうたずねた。 「なぜ私を?」 「きみが、その仕事に、まさにお誂えむきの人間だからさ。いまだから言うが、きみのフィッツナー計画への闖入は、私の観点からすれば、神のご配慮というところだった。最初アンが、きみの適格性について、私の注意をうながしてくれたときには、それが本物だと信用できかねたぐらいだったのだよ。ところできみには、この計画のフィッツナー側と『橋』側との、連絡将校になってほしいのだ。現在までのアスコマイシンと抗死薬の全生産量が、この船倉に積みこまれている。投薬のしかたは、すでにアンが、きみに教えた。あとは──きみとヘルマスが、ディテールを埋めしだい──星は、きみたちのものになるのだ」 「アン」と、ペイジは呼んだ。  彼女はゆっくりと、顔を彼に向けた。 「きみは、もう承知したのか?」 「ここに来ている以上はね」と、アンはいった。「それに、なにが起っているかについては、すこしは聞きかじっていたわ。参加を求められているのは、わたしでなく、あなたなのよ」  ペイジは、それについて、もうしばらく考えてみた。あること──ひどく新しいと同時に、ひどく古くもあること──が、彼の心に浮んだ。 「上院議員《セネター》」と、ペイジはいった。「あなたは、この計画を実現するのに、莫大な労力を払われた──だのに、われわれと行をともにしようとは、考えておられないのですね」 「いかにも、その通りだよ、ペイジ。一つには、この計画ぜんたいが、マッキナリーや、その一党の目には、国事犯的なものに映るだろうからだ。それをおして、敢て実行に踏みきるからには、誰かが残って、身代りの山羊をつとめねばならない──それに、どのみち、発案者は私なのだから、当然の候補者でもあるわけだがね」  しばらく、彼は言葉をきった。それから、黙想するようにつづけた。 「政府の人間がこうなったことを感謝するなら、その礼は彼自身に言うほかないだろうな。もし、西側が、人でなく、法で作られた政府を持っていたら、そして持ち続けていたら、この計画のいっさいは、可能になるはずもなかったのだ。いつからか、一部の人間が──マッキナリーの祖父も、そのひとりだった──ある法律に従うべきか否かについての、ひとり決めの裁判官になろう、という事業にとりかかりはじめた。そうした前例は、むかしにもあった。その結果、いまのわれわれは、これまで『西』側の経験した、最大の社会契約の背任に直面してしまった──そして、『西』側には、それを止める力がないのだ」  ワゴナーは、不意に微笑を見せた。 「あとの議論は、法廷用にとっておくことにしよう」  立ち上ったアンは、ひとみを潤ませ、下くちびるの震えを、わずかにこらえていた。ワゴナーと知りあい、またその計画を知るようになってからいままで、この初老の議員が、あとに残るつもりだなどとは、ただの一度も、彼女は考えなかったのにちがいない。 「いけませんわ、そんなこと!」アンは、低い声でいった。「彼らが聞き入れるはずのないこと、あなたもご承知じゃありまんか。向うは、あなたを縛り首にだってできるのです。もし反逆罪ときまれば、彼らはあなたを、原子炉の廃物溜めの中へ監禁する──それが、最新の処刑法でしたわね? ぜったいに、行ってはなりませんわ!」 「根のない恐怖だよ。原子炉の廃棄物は速効性の毒物だ。それが高熱でもあることに気づくだけの暇もあるまい」ワゴナーはいった。「それに、結局のところ、どんな違いがあるというのだね。何物にせよ、誰にせよ、もう私に害を加えることはできんのだ。仕事は終ったのだから」  アンは、両手で顔を覆った。 「それにねえ、アン」と、ワゴナーは、やさしく言葉をついだ。「星は、青年のためのものだ──永遠の青年の。永遠の老年というのは、時代錯誤じゃないかね」 「なぜ──じゃ、なぜそれを?」ペイジは、いった。  彼の声も、さだかとはいいかねた。 「なぜ?」ワゴナーは、問いかえした。「その答は、きみが知っているはずだ、ペイジ。生まれてこのかた、知っていたはずなんだ。私がヘルマスに、恒星圏への進出のことを話した瞬間のきみの顔に、それが現われていたよ。どうだ、きみの口から、それを説明してくれんか?」  アンは、涙で滲んだ目を、ペイジに向けた。アンが、彼の口からどんな言葉を期待しているかは、わかっているように思えた。これまで、しばしば話題に上せた事柄なのである。そして、いつもの彼なら、それを言っていたかも知れなかった。  だが、いまの彼には、別な力の作用のほうが、強く感じられるのだ。ある特別な力。一定の教理としての名前すらなく、そのくせ、彼がこれまでの人生を通じて、それへの信奉を守りぬいてきた力。いまのワゴナーの表情の中にも、彼はそれを認めることができたし、また、以前アンの瞳のなかに、それを見たこともあった。 「それは、猿を檻におびきよせるなにものかです」ゆっくりと、ペイジはいった。「そして、猫を開いた引出し中に、また電柱の上に、おびきよせるものでもあります。それは、人類に死を征服させ、われわれの手に、星の世界を押しつけてくれた。私はそれを、〈好奇心〉と呼びたいのですが」  ワゴナーは、意表をつかれたかたちだった。 「本気なのかねえ、その命名は?」と、彼はいった。「どうも、ピッタリ来ないな、こりゃあ、私が考えておくほうが、よかったかもしれん。おそらく、きみがそれを修正する日が、そのうちにやってくるだろう。アルデバランのそばのどこかで」  彼は立ち上ると、しばらく黙りこくったまま、二人を眺めた。それから、微笑した。 「さあ、それでは」と、彼は静かにいった。「ナンク・ディミティス……いまこそ、しもべを安らかにゆかしたまえ」(ルカ伝第二章シメオンの章、冒頭の句) [#改ページ]     11 木星第五衛星 [#ここから2字下げ]  ……そうした科学上の活動に対する、社会的な、また経済的な報酬は、大抵の場合、その科学者の手には戻らないものなのである。だが、おそらくそれが、彼のモラルの規定であり、正当な人道的行動の選択だったのだ。目的は、事物についての知識であり、事物そのものではない。彼が知識を愛し、それを手に入れるかぎり、万事はめでたくおさまる。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]──ウェストン・ラ・バール   「こしれが、その話のぜんぶなんだ」ヘルマスがいった。  よほどのあいだ、エヴァは椅子にかけたまま、おし黙っていた。 「ひとつ、わからないことがあるわ」やっと、彼女は口をひらいた。「なぜ、わたしにそれを話しにきたの? いつものあなたなら、その話のいっさいを、怖しいものに考えるはずなのに」 「ああ、怖しいにはちがいないさ」ヘルマスは、静かな歓喜を感じながら答えた。「しかし、いま気がついたのだが、怖しさと脅えとは別ものなんだ。ぼくたちは、ふたりとも、まちがっていたんだよ、エヴィータ。ぼくのまちがいは、『橋』が|行きどまり《デッド・エンド》だと考えたことにあった。きみのまちがいは、『橋』そのものが目的《エンド》だと考えたことにあった」 「わからないわ」 「ぼくにも、最初はわからなかった。『橋』の上での生身の作業に対するぼくの恐怖は、まったく非理性的なものだった。それは、夢から来ていたのだ。そのへんで、とうに気がついてもよかった。木星で、生身の人間が作業できる可能性など、ぜったいにありっこない。しかし、ぼくはそうしたいと願った[#「そうしたいと願った」に傍点]んだ。それは死の願望だったんだ。そして、そいつは、あのいまいましい心理改造《コンディショニング》のせいなんだよ。『橋』が永久に保つはずのないことは、ぼく、いや、われわれ全員が承知している。それにもかかわらず、心理改造《コンディショニング》によって、その逆をわれわれは信じこまされたのだ。でなければ、あのものすごい試練の日課を、一日でもがまんはできなかったろう。その結果、それは狂気に通じる古典的なジレンマだ。それは、きみにも作用を及ぼした。そして、きみの反応は、ぼくに劣らず気ちがいじみていた。ここで子供を生もうとしたのだ。  そのすべてが、いま、ガラリと変ったわけだ。『橋』がやっている仕事は、やはり価値あるものだった。それを、行き場のない橋といったりしたぼくは、まちがっていた。そして、エヴァ、その行き場については、きみもぼく同様めくらだったのだよ。でなければ、『橋』を自分の存在のすべて、目的のすべて、と思うわけがない。  行き場はできた。実をいうと、目的地は──それこそ何百とあるんだ。それは、きっと地球に似た世界だよ。いや、地球ぜんたいが、ソビエトの手に入りかけていることを考えると、これらの世界は、ほんものの地球よりもずっと地球らしくなるかもしれない。少くとも、つぎの一世紀やそこらのあいだは!」  エヴァはいった。 「なぜ、わたしに、そんなことを話すのよ? 仲直りでもするつもりなの」 「ぼくは、この仕事をひき受けるつもりなんだ、エヴィータ……もし、きみがいっしょに来てくれるなら」  サッと振りむいた彼女は、流れるような動きで、椅子から立ち上っていた。その瞬間、基地の警報ベルがいっせいに鳴り出し、金属製ドームの隅々を、まざりけのない恐怖の騒音で埋めつくした。 「各部署に告ぐ!」  エヴァのベッドの真上のスピーカーが、巨大に歪められた、チャリティ・ディロンの声のカリカチュアで叫んだ。 「暴風非常警報! 南熱帯撹乱《S・T・D》は、ただいま大赤斑を通過中。風速は、すでにこれまでのあらゆる記録を破り、大陸塊の一部が沈降を始めた。第一級非常警報を発令する」  チャリティの怒号のかげに、ふたりは彼が耳にしているひびき、断続する木星の嵐の、狂気のような絶叫のスペクトルを聞いた。もう一つの音が、別に聞えてくる。ほとんど音楽的にさえ聞える、鋭い、打楽器の不協和音。まるで恐竜が、巨大な鋼鉄の音叉で作られた森を、掻きわけているような物音。これまで耳にしたことのないその物音が、しかし、なにを意味するかを、ヘルマスは知っていた。『橋』のデッキが、まっぷたつに裂かれようとしているのだ。  一瞬後、叫喚はやや収まり、平静にかえったチャリティの声が、スピーカーからひびいた。 「エヴァ、たのむよ、きみもだ。部署についてくれないか。えらいことになった──全員が直ちに部署についてくれなければ、『橋』は、あと一時間以内に、崩壊してしまう」 「ほっときなさいな」エヴァは、静かに答えた。  つかのまの、息を呑んだような沈黙。そして、幽霊じみた人声が、それにつづいた。声は、ワゴナー上院議員のそれだった。いや、声と聞えたものは、忍び笑いだったかもしれない。  チャリティの回路が、カチッと音を立てて閉じた。壮大な『橋』の死は、小さな部屋にこだましつづけた。  ややあって、ふたりの男女は窓に近づくと、真近の地平線にある、見捨てられた木星の巨体の向うを眺めた。そこには常に、いくつかの星が輝いているのだった。 [#改ページ]     コーダ ブルックヘヴン国立研究所          (原子炉廃棄物処理場) [#ここから2字下げ]  されど我は汝《なんじ》らに告ぐ、汝らの仇《あだ》を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父はその日を悪《あ》しき者のうえにも、善《よ》き者のうえにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給うなり。なんじら己《おのれ》を愛する者を愛すとも何の報《むく》いをか得べき、取税人も然《しか》するにあらずや。兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることがある、異邦人も然するにあらずや。 [#ここで字下げ終わり] 「すべての終末は」と、ワゴナーは、最後の日、独房の壁に書きとめた。「新しい始まりである。おそらく、あと一千年のうちに、わが地球人たちは、ふたたび故郷に還ってくるだろう。それとも、二千年、四千年ののちか。そのときまで、彼らが故郷を憶えていればのことだが。そう、彼らは還ってくるだろう。しかし、私は、彼らがここに留まらないことを望む。彼らが留まらないことを祈る」  書き終った文句を眺めた彼は、それに署名することを思いついた。その可否を検討しながら、ワゴナーは、手製のカレンダーの最後の日付に、しるしを入れにかかった。ちびた鉛筆の先が、白色塗料《カルシミン》の下の石にぶつかってポキリと折れ、あとには、ささくれ、うす汚れた、白い軸木の宝冠だけが残った。窓がまちで擦れば、少くとも書けるだけの芯は出せる。だが、そうせずに、彼はそのちびた鉛筆を、屑かごに投げこんだ。  いまさらそうしなくても、星々の上いっぱいに書かれた文字が、彼には見えるのである。それを書いたのは、彼なのだから。そこには、ワゴナーと呼ばれる大星団が存在し、全天のすべての星が、それに属しているのだ。それだけは、たしかだった。  その日の遅く、マッキナリーという名の男がいった。「ブリス・ワゴナーは死んだ」と。  れいによって、マッキナリーは、まちがっていた。 [#改ページ] [#改ページ]     附録 宇宙都市年表 (この年表は、アクレフー=モナレス著『銀河・五つの文明の肖像画』の第三部を、たどったものである。ただし、年代は、すべて地球西暦に準じた。アクレア=モナレスの宇宙暦年代は、恒星史の慣例的記述法であるが、この年表のような、きわめて短期間の経過の場合には、著しい不便があるためである)  年代        事項 二〇一二年 [#ここから4字下げ] ブリス・ワゴナー、アラスカ州選出(民主党)上院議員となる。ジゥゼッペ・コーシ、危険人物として米国標準局を追放さる。 [#ここで字下げ終わり] 二〇一三年 [#ここから4字下げ] 両院合同宇宙航空委員会、木星計画に着手。保健厚生省老人病に関する国際会議を招集。 [#ここで字下げ終わり] 二〇一五年 [#ここから4字下げ] 上院財政委調査小委員会、橋の調査を可決。 [#ここで字下げ終わり] 二〇一六年     プロセルピナ基地建設開始。 二〇一八年 [#ここから4字下げ] ブリス・ワゴナー再選。アスコマイシンの発見。 [#ここで字下げ終わり] 二〇一九年 [#ここから4字下げ] 〈橋〉調査報告書公開さる。デイロン=ワゴナー重力子極性発生機完成。 [#ここで字下げ終わり] 二〇二〇年 [#ここから4字下げ] 〈橋〉の第二次調査。ワゴナーの木星行。再臨教徒《ビリーバー》の暴動。逃亡者引渡し条令。〈橋〉の崩壊。 [#ここで字下げ終わり] 二〇二一年 [#ここから4字下げ] 『植民地住民《コロニアル》』の木星系脱出。ワゴナーの裁判と処刑。訊間中のコーシの死。 [#ここで字下げ終わり] 二〇二二年 [#ここから4字下げ] マッキナリー=エルゼノフ協定。『|冷たい平和《コールド・ピース》』 [#ここで字下げ終わり] 二〇二七年 [#ここから4字下げ] マッキナリーの暗殺。エルゼノフの宣戦。 [#ここで字下げ終わり] 二〇三二年 [#ここから4字下げ] エルゼノフの暗殺。テロ横行。ハミトソン主義者の大脱出。 [#ここで字下げ終わり] 二〇三九年 [#ここから4字下げ] フルシチョフグラード布告による、宇宙飛行と関係科学の禁止命令。 [#ここで字下げ終わり] 二一〇五年 [#ここから4字下げ] 西欧の崩壊(大方の意見による推定年代)。 [#ここで字下げ終わり] 二二八九年 [#ここから4字下げ] ヴェガ専制と植民者の最初の接触。 [#ここで字下げ終わり] 二三一〇年 [#ここから4字下げ] ヴェガ戦争最初の交戦──アルタイルの戦闘。 [#ここで字下げ終わり] 二三七五年 [#ここから4字下げ] スピンディジーの再発見。トリウム・トラスト第8工場の地球脱出。 [#ここで字下げ終わり] 二三九四年 [#ここから4字下げ] 地球脱出の全盛期〈惑星間交易都市〉(もと火星グラヴィトゴルスク市)によるトール第五惑星の略奪。 [#ここで字下げ終わり] 二四一三年 [#ここから4字下げ] ヴェガ星系の包囲。フォートの戦闘。フランク提督麾下の第三植民艦隊による、ヴェガ星系の焦土化。 [#ここで字下げ終わり] 二四五一年 [#ここから4字下げ] 植民法廷(シュミッツ判事主宰)アロイス・フランタ提督を残虐行為と大量殺人の容疑で欠席裁判に付し、有罪を宣告。 [#ここで字下げ終わり] 二四六四年 [#ここから4字下げ] ボン恒星目録40O 4048号星の戦闘。アロイス・フランク、宇宙皇帝と自称。 [#ここで字下げ終わり] 二五二二年 [#ここから4字下げ] 官僚国家の崩壊。無警察時代。植民者大赦令。『空白時代』始まる。 [#ここで字下げ終わり] 二九九八年     ジョン・アマルフィ生まる。 三〇八九年 [#ここから4字下げ] アマルフィ、ニューヨーク市長となる。アロイス・フランク毒殺さる。フランク帝国の分裂。 [#ここで字下げ終わり] 三一一一年 [#ここから4字下げ] ニューヨーク市地球を去る。アーパド・ブランク、帝位に即く。 [#ここで字下げ終わり] 三二〇〇年 [#ここから4字下げ] マーク・へイズルトン生まる。メイラ星系での反地球虐殺事件。アコライト星団への植民。 [#ここで字下げ終わり] 三三〇一年 [#ここから4字下げ] ニューヨーク市、惑星エポックにおいて契約に違反。デイフォード射殺され、へイズルトン、都市支配人となる。 [#ここで字下げ終わり] 三五四八年 [#ここから4字下げ] フランク海軍第三十二戦隊、プロキオン(小犬座の一等星)の戦闘より脱走。ゴート公国の創立。 [#ここで字下げ終わり] 三五七一年     ゴート=ユートピア戦争始まる。 三六〇二年 [#ここから4字下げ] 地球警察介入によるゴート=ユートピア間の構和。ハミルトン主義者の第二次大脱出。アーパド・フランクの死──帝国の崩壊。ニューヨーク市の脱出。 [#ここで字下げ終わり] 三八四四年 [#ここから4字下げ] 〈|宇宙の裂け目《リフト》〉の横断。惑星ヒーとの最初の接触。 [#ここで字下げ終わり] 三八五〇年 [#ここから4字下げ] 惑星ヒーの地軸修正。宇宙間横断の開始。 [#ここで字下げ終わり] 三九〇〇年     ゼルマニウム本位制の崩壊。 三九〇五年 [#ここから4字下げ] アコライト星団内〈都市ジャングル〉の戦闘。ラーナー警部、アコライト統監となる。〈地球への進軍〉始まる。 [#ここで字下げ終わり] 三九一〇年 [#ここから4字下げ] アコライト統監ラーナー、宇宙皇帝を自称。 [#ここで字下げ終わり] 三九一一年 [#ここから4字下げ] ハーン第四惑星の飛行。地球警察によるアコライト船隊の殲滅。ラーナー皇帝〈|知恵の草《ウイズダム・ウイード》〉の服用量を誤り、惑星マーフィーの貧民街で変死。 [#ここで字下げ終わり] 三九一三年 [#ここから4字下げ] 地球の戦闘。ヴェガ専制最後の抵抗。 [#ここで字下げ終わり] 三九一七年     ハーン第四惑星、銀河系を去る。 三九一八年 [#ここから4字下げ] ニューヨーク市、銀河系を去る。アマルフィ市長再選。 [#ここで字下げ終わり] 三九二五年     〈渡り鳥〉排斥法批准。 三九四四年 [#ここから4字下げ] 〈惑星間交易都市《IMT》〉の発見。大マゼラン星雲への植民。 [#ここで字下げ終わり] 三九四八年 [#ここから4字下げ] ブラステッド・ヒースの戦闘。地球警察による〈惑星間交易都市《IMT》〉の破壊。 [#ここで字下げ終わり] 三九四九年     〈新地球《ニュー・アース》〉の建設。 四〇〇〇年 [#ここから4字下げ] へルクレス星系と地球文化の融合。銀河第四文明の出現。 [#ここで字下げ終わり] 四〇〇四年 [#ここから4字下げ] ジョン・アマルフィ、狩猟事故により急死。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]     訳 者 あ と が き  ハード・サイエンス・フィクションという言葉があります。いわゆるサイエンス・ファンタジイと対照されるかたいSF、科学に密着した(といっても、決して飛躍がないという意味ではなく)現在時点のテクノロジーを基盤に踏まえたSF、ということでしょうか。  さいわい、ジェイムズ・ブリッシュが、SFのそうした二つのジャンルについて、また、一貫してハードSFを書きつづけている彼自身の立場について述べている文章がありますので、それを紹介してみたいと思います。 「SFの黄金期といわれる一九四〇年前後の作品は、そのほとんどが、ハードSFの範疇に属するものだった。そこでは、科学の進歩が、つねに幸福の同義語であった。当時の作家たちは、始祖ウェルズの、希望にみちた予言者としての一面を、忠実に継承していたのである。  ところが、古きよき時代が去るとともに、彼らの多くは、読者の嗜好に応じて、恐怖小説、ファンタジイの方向に転身していった。だが、一つのファンタスティックな仮定を、どこまでも論理的に発展させてゆく、というファンタジイの本質を、これらの作家たちはしだいに放棄していったのだった。  この傾向は、現代の作家たちについてもいえる。レイ・ブラッドペリをその代表とする彼らは、始祖ウェルズの悲観的な予言者としての側面、科学の進歩が人間におよぼす影響についての絶望的な見かただけを受けついで、それを文明批評、社会へのプロテストと考えているらしい。彼らにとっては、テレビは洗脳の手段でしか[#「でしか」に傍点]なく、新薬の開発は人口過剰の原因でしか[#「でしか」に傍点]なく、新しい惑星は、敵意を抱いて人類を打ち負かすか、逆に人類によって略奪されるものでしか[#「でしか」に傍点]ない……。こういった命題が必ずしも誤りでないことは、経験がわれわれに教えるとおりである。しかし、私はその中の「…でしか[#「でしか」に傍点]…」という言葉にひっかかるのだ。ウェルズの場合は、そうした主張のかげに、こういう現象がいかにして起り得るかについて正確な考察を試みようとする努力があった。いまの作家たちは、逆に、ときには既知の科学的事実についてさえも、誤りを犯そうと努力しているように見える。  私は、こうした態度に同意できない。もしSFが、単なる自己表現の手すさびでなく、文明批評あるいは人間性の探求としての価値を持とうとするなら、その重荷に堪えるだけの説得性を具備しなければならない。たしかに、科学的事実をストーリー・ラインに合致させるのは、苦しい作業にちがいない。しかし、作家の義務は、易きについて事実を曲げることでなく、その現実性をさらに増大し、強調することではないのだろうか……」 「宇宙都市」シリーズの第一部である本書は、そうしたブリッシュの主張をみごとに実現してみせた、骨っぽいSFだといえるでしょう。  終りに、有益な助言と激励でこの翻訳を完成に導いて下さった伊藤典夫氏と編集部の皆さまにお礼申上げます。 [#改ページ] [#(img/01/195.jpg)入る]