暗黒星雲のかなたに アイザック・アシモフ/川口正吉訳 目 次  一 ベッドルームがささやいた  二 宇宙空間に張られたネット  三 好運と腕時計  四 釈放か?  五 不安が頭脳を狂わせる?  六 あんなのが王冠をつけている!  七 心の音楽家  八 貴婦人のスカート  九 そして大君主族のズボン  十 もしかすると?  十一 いや、多分そうじゃない!  十二 アウタルクきたる  十三 アウタルクとどまる  十四 アウタルク去る  十五 天空の穴  十六 猟犬!  十七 そしてウサギと  十八 敗北の桎梏《しっこく》からのがれて!  十九 またも敗北のまっただなかへ!  二十 どこに?  二十一 ここか?  二十二 そこだ!  訳者あとがき [#改ページ]  登場人物 バイロン・ファリル……ネフェロス星のウィデモス牧畜領主《ランチャー》の息子 ヒンリック……ローディア帝国の総督 アーテミジア……総督ヒンリックの娘 ギルブレット……総督ヒンリックの従弟《いとこ》 ジョンティ……バイロンの知人 リゼット……リンゲーン自治領主《アウタルク》の腹心 アラタップ……ティラン大|汗《かん》国の弁務コミッショナー アンドロス……アラタップの部下 [#改ページ]   一 ベッドルームがささやいた  ベッドルームがしずかにささやいた。ぶつぶつぶつと、ささやき声はほとんど聴覚の限界をこえている――不規則な、小さな音である。それでいて間違う余地はない。そして非常におそろしいものを秘めた音だ。  しかしバイロン・ファリルを重たい、さっぱりしない睡眠から引きずりだしたのはその音ではなく別の音であった。端テーブルの上で一定間隔に鳴るブーブーという耳ざわりな音をさえぎろうとして、彼はいらだたしげに頭のむきを変えた。だが依然として音が耳についた。  彼は眼《め》をとじたまま、ぎこちなく手をのばし、回路をとじた。 「ヘロー」と彼はつぶやいた。  たちまち受話器から音がこぼれ落ちてきた。すこし荒っぽい高声である。だがバイロンはボリュームを減らそうとする気持すら欠いていた。 「バイロン・ファリルはいないでしょうか?」  バイロンはもうろうとした意識のなかで答えた。「ぼくですが……。何の用ですか?」 「バイロン・ファリルを出して下さい」声がせきたてた。  濃い闇《やみ》へバイロンの眼が開いた。舌のかわいた不快感が意識にのぼった。部屋《へや》に残っているかすかな異臭に気がついた。 「ぼくですよ。そちらはどなたです?」  声はバイロンの返答を無視し、緊張の調子を高めた。夜のなかに声は異常に高くひびいた。 「誰かいないのですか? バイロン・ファリルと話がしたいのです」  バイロンは片肱《かたひじ》をつき、観視通話器《ヴィジフォーン》のでんとすわった端テーブルのその場所へ目をこらした。映像コントロールをぐいと押した。小さなスクリーンが明るくなり映像が動きだした。 「ぼくはここですよ」とバイロンは言った。サンダー・ジョンティのすべすべした、わずかにいびつな容貌《ようぼう》がすぐ認められたからである。 「明日《あした》にしてくれませんか、ジョンティ」  装置を消そうとすると、相手のジョンティは「ああもしもし。誰かそこにいませんか? そちら大学|寄宿舎《ホール》の五二六号室でしょう? もしもし……」  とつぜんバイロンは、送信回路のとじていることを示す小さなパイロット・ランプがついていないのに気がついた。低声《こごえ》で呪《のろ》いの言葉をつぶやき、スイッチを押した。スイッチはやはりはいらない。先方のジョンティがあきらめた表情になった。スクリーンはとたんに空白となり、映像を欠いた小さな四角の明かりだけとなった。  バイロンはそれも消した。肩をすくめ、枕《まくら》に頭を埋めようとした。何かしら気になるものがあった。まず、この真夜中に彼を呼び起こす権利など誰にもないはずだ。彼はすぐ頭板《ヘッドボールド》の上のやわらかい微光文字へ眼をやった。三時十五分。屋内照明はまだあと四時間近くはつかないはずである。  それに、完全に暗くした自分の部屋で眠りを破られるというのはまったく好かない。彼の四年間重ねた習慣もまだ、鉄筋コンクリートで背の低い、壁の厚い、窓のない建物をつくるという地球人の呪わしい習癖には慣れていない。原始的な核爆弾に対して勢力場《フォース・フィールド》防衛がまだ開発されなかった千年も昔からずっとつづいている伝統的な建築様式である。  しかしあの時代はもう過去のものなのだ。原爆戦争は地球に最悪の惨禍《さんか》をもたらした。地表の大部分は絶望的なまでに放射能で汚染《おせん》され、用をなさなくなった。何ひとつ残ったものはない、それほどの破壊であった。それにもかかわらず、いまだに建築だけは千年前の恐怖を温存し、踏襲《とうしゅう》しているのだ。こうしてバイロンが眼をさましたときも、ここは真の闇だったわけである。  バイロンはまたも片肱を立て上体を支えた。どうも変だ。彼は待った。さっきから気づいているベッドルームの恐ろしいものを秘めたささやきではない。もっと別のものだ。もっとずっと感覚にはとらえがたい何かだ。恐ろしさなどはほとんどない何かだ。  ふだんは当然のこととして誰も考えてもみないゆるやかな空気の動き――あの、空気がしょっちゅう入れ代わっているという兆候――が今まったくないことに彼は気がついた。そう気づく間も、空気はいちだんとうっとうしさを増してきたようである。通気システムが動かなくなっている。いま彼はほんとうに不満を覚えはじめていた。この故障を報告しようにも観視《ヴィジ》フォーンが使えないとは腹立たしいかぎりだ。  彼は念をいれて、もう一度映像コントロールへ手をのばした。乳白色の四角が闇のなかにぽっかりと浮かび、ベッドの上に淡い真珠色のかがやきを投げかけた。受信はしているのだが、送信がダメである。ちぇッ、かまうものか。どっちみち、夜が明けるまではどうにもならんことだ。  彼はあくびをひとつし、両方の手のひらの角《かど》で眼をこすりながら、スリッパをさがした。なに、通気システムがきいていないんだって? どうりで妙な匂《にお》いがしたわけだ。顔をしかめ、二度三度くんくん鼻を吸った。わからない。知っている匂いではある。だが、どこからそれが来るのか彼は言い当てることができなかった。  バスルームへ行き、なかば無意識に照明スイッチへ手をのばした。コップに水をそそごうとするのに照明はいらないわけなのだが、手が自然に動いたのだ。スイッチが閉じた、だがきかない。彼はいらだち、数度スイッチを開閉した。何かが作用しているのではないか? 妙だ。肩をすくめ、闇のなかで水を飲んだ。すこしは気分がよくなった。ベッドルームへもどりながらもうひとつあくびをした。ベッドルームでメーンスイッチを入れてみた。ダメである。照明がぜんぶ断ってあるのだ。  バイロンはベッドに腰かけ、もっくりと張った固い腿《もも》へ大きな手を置きながら考えこんだ。ふつう、こうした不手ぎわはサービス要員とはげしい議論をよぶ問題である。誰も大学寄宿舎でホテルなみのサービスを期待しているわけではないが、さりとてこれではあまりにひどい。くそッ! 宇宙空間に賭けて! すくなくとも最低限度の作業規準があってしかるべきだ。いますぐどうという致命問題というのではない。もうすぐ卒業式だし、彼は卒業できるに決まっている。もう三日したら彼はこの部屋にも地球大学にも最後のサヨナラを言うだろう。いや地球そのものへサヨナラと言っているだろう。  それにしてもこの故障を報告できないものか。文句をつけるというのではなく、ただ知らせるだけでいいのだ。部屋をでてホールの電話を使おうか? やっこさんたち、自己発電のライトを持ち込んでくるかもしれない。あるいは、精神身体的な窒息感覚なく睡眠できるようにと、ファンまで取りつけてくれるかもしれない。ダメだといったら、ちぇッ、サービス部など、宇宙空間へくたばりやがれ! もう二た晩こんな状態をつづけられるなんて、まっぴらだ。  きかない観視《ヴィジ》フォーンの光で彼は半ズボンをさがしだした。それからワンピースのジャンパーをひっかけた。いまのところ、この服装で足りる。スリッパはそのままはいていくことにした。このコンクリートの建物、そして厚い、ほとんど完全防音といっていいほどの仕切り壁からいって、鋲靴《びょうぐつ》でガタガタ廊下を踏み歩いたって、誰の迷惑にもなるわけはないのだが、せっかくはいたスリッパをはき変えるにも及ぶまい。  ドアまでいき、開閉レバーをひっぱった。レバーはなめらかに下がった。そしてカチッと鳴った。ドア・リリースが作動した音のはずである。だが、音だけでドアはあかない。二頭筋が瘤《こぶ》になるほど力をいれてみたが、ドアはうんともすんともいわない。  彼はわきへ退いた。おかしなことがあるものだ。全般停電になっていたのだろうか? そんなことは起こるはずがない。時計は動いているし、観視《ヴィジ》フォーンの受信は正常なのだから。  待てよ! 連中のしわざかもしれん、まったくいたずら好きな連中だからな。ときどきこんなことをする。もちろん子供っぽい、罪のないいたずらだが、彼自身こんなバカバカしい悪ふざけをちょくちょくやったのだから、とがめるわけにもいかない。かんたんなことだ――たとえば、彼の仲間の誰かひとり、昼間のうちにこっそり部屋へはいってきて、装置をいじくっておけばいいのだから。いや、違う! それとは違う! 就眠のときはたしかに通気システムも照明も働いていたのだ。  うん、じゃ、夜になってから忍びこんだのか。ホールはできてから古く旧式な構造だから、照明と通気の回路をいじくるなど、べつに天才的工学技術のいることではない。あるいは、ドアそのものにいたずらしてもいいのだ。そして今、連中は朝を待っているのかもしれない。バイロンのやつ部屋から出られないでどんな顔をしているか、見たがっているのかもしれない。たぶん、正午近くまでいじめておいて、あとで大笑いしたいというのだろう。 「はッはッは」バイロンは低く憂鬱《ゆううつ》な笑いをした。よろしい、そんならそれでいい。だが、彼としてもなんとかしなければならない。なんとか逆襲にでてやらなければならない。  彼はいきかけた。その拍子《ひょうし》に何かを蹴とばした。そのものは金属的な音をひびかせながら、フローアを転がっていった。観視《ヴィジ》フォーンの投げかける淡い光のなかを移動していく小さい影は、ほとんど彼の眼にもとまらないほどおぼろげであった。彼は屈みこみ、ベッドの下へ腕をのばし、大きな半円を描いてフロアをたたいた。手ごたえがあり、ベッドの下から、ひっぱりだして、光へ近づけてみた。(連中はあんまり利口じゃなかった。観視フォーン全体を使えないようにしておけばよかったのに。発信回路だけを引き抜くというんじゃなくて)  彼がつかんでいるものは小指の先ほどの筒状のものであった。先端の気泡状部《ブリスター》に小さな穴があいている。鼻に近づけ、かいでみた。さっきから気になっていた部屋の匂いはこれであった。麻酔剤《ヒプナイト》だ。回路をいじくっている間に彼が眼をさまさないよう、仲間の連中がこれを使ったに違いないのだ。  バイロンはいたずらの手順を再構成してみることができた。まずドアをこじあける。ごくかんたんな作業だ。ただし彼が眼をさますかもしれないから、全工程のなかで危険なのはここだけだ。もっとも、ドアの仕掛けは日中にやったのかもしれない。ドアがしまるように見えながら実際はしまっていないように仕掛けたのだ。ただ、彼がドアを閉じるとき確かめなかったから、わからなかった。いずれにしろ、ドアをあけ、ヒプナイトのカプセルを内側へそっと入れ、ドアをしめる。ヒプナイトはゆっくりと小さな気泡部の穴からもれ出て、部屋の空気はやがて一万分の一の混入率となり、彼は昏睡《こんすい》に陥《おちい》ってしまう。それから連中は忍びこんだ。もちろんマスクをかけてだ。こんちくしょう! ハンカチをぬらして口にあてるだけで、十五分間はヒプナイトをかがないですむ。十五分あれば十分なのだ。  通気システムが働かない事情もこれで説明がつく。ヒプナイトがあまりに早く消散してはいけないから、通気システムをとめなければならなかったのだ。観視《ヴィジ》フォーンをとめて、助けを呼ぼうにも呼べないようにする。ドアを故障にして、部屋から出られないようにする。照明を切り、パニックに襲われるようにする。うむ、かわいい餓鬼《がき》どもだ!  バイロンはくすりと失笑した。こういう悪ふざけにあまり神経質になることは社交上タブーである。気のおけない友達同士の冗談なのだから。冗談は冗談であってそれ以上のものではない。しかし今の彼としては、何としても早くドアを蹴破って、こんな子供だましの遊びはやめにしたい。鍛えに鍛えられた上半身の筋肉が、ドアへ体当たりする前の緊張をしめした。だがすぐそれはダメだと悟った。ドアは原爆の爆風を予想して堅固につくってあるのだ。クソッ! なんていまいましい千年の伝統だろう!  でもなんとか抜けだす方法を考えなくては! やつらに凱歌《がいか》をあげさせる手はない。第一に、彼は照明がいる。観視《ヴィジ》フォーンの、固定した、淡い明かりではなく、ほんものの照明がいる。うん、あれがある。衣裳クロゼットに自己発電懐中電灯がひとつあるはずだ。  クロゼットのドアのコントロールをまさぐりながら、ふと彼はこれもまたいたずらされているのではないかと心配した。だが幸い、クロゼットのドアはごく自然に開いて、壁のソケットのなかへスムーズにすべりこんでいった。バイロンはよしよしとひとりうなずいた。こうでなくちゃならない。クロゼットまでいたずらするなんて意味をなさん。いずれにしろ、連中はそこまでの時間はなかったのだ。  だが――懐中電灯をとり、クロゼットを離れたとき、いま立てていた仮説のすべてが一瞬のうちにくずれ去っていった。彼は凍りついたようにそこに突っ立った。腹部が緊張のためひきつった。呼吸をとめ、耳をすました。  今、眼をさまして以来はじめて、彼の耳にベッドルームのささやきがはっきり聞こえてきた。ぶつぶつぶつ――しずかに、不規則に、部屋がひとりごとをささやいていたのだ。それがはじめていま認知された。音の性質がなっとくされた。  なっとくしないではいられなかった。その音は、「地球の死の足音」なのだ。一千年前に発明された音響なのだ。  はっきり言おう――それは放射能|計数管《カウンター》の音なのだ。侵入してくる荷電粒子と強いガンマ波をひとつひとつ数えあげ、カチカチカチというやわらかい電子サージはぜんたいとして低いささやき声となって聞こえるのである。重ねて言う、これはカウンターの音だ。それが数える能力のあるただひとつのもの――死――を数えている音なのだ。  バイロンは爪先《つまさき》だってしずかに後ずさりした。六フィートの距離から、クロゼットのなかの奥まった棚《たな》へ白光をあてた。ずっと奥にカウンターがあった。だがそれが見えたからといって何の説明にもならない。  カウンターは大学一年生のころからずっとそこに置いてあるのだ。「外部世界」から入学してくる学生はたいてい、地球へ着いたら一週間以内に放射能カウンターを買う。一週間もすると地球放射能の異常さを知り、遮蔽《しゃへい》の必要を感じるからだ。卒業前にはたいてい次年度の学生に売ってしまうのだが、バイロンは処分しないでいた。今、彼は売らなかったことに感謝したい気持だった。  彼はデスクを見た。寝ている間、いつもそこに腕時計を置いている。腕時計はちゃんとあった。取りあげ、懐中電灯の光芒《こうぼう》にかざしてみた。手がすこしふるえた。腕時計のバンドは、ほとんど流体のようななめらかな白色を呈したプラスチックの編み帯なのである。いまそれは白色をしている! 彼はなおも光にかざし、いろいろに角度を変えて調べてみた。やっぱり白色である。  このバンドも一年のとき買ったものだ。強い放射線をうけると青く変色する性質がある。地球では、青は死の色なのだ。日中でも、道に迷ったり、あるいはうっかりするとすぐ、放射能のつよい土地へ踏みこむおそれがある。地球政府は多数の土地を身体に害ありとしてフェンスで囲っている。大学都市の郊外数マイルのあたりから始まる広大な死の地域へは、だから誰も近づくものはいない。しかし万一ということがある。腕時計のバンドは最悪の事態を避ける一種の保険料なのだ。  万一腕時計バンドがすこしでも青っぽくなったら、すぐ病院へいって治療を受ければいい。バンドの効果については議論の余地がない。バンドは、身体とまったく同一程度の、放射線に敏感な材料でつくられている。だから、適当な光電計器をもちいて青色強度を測定すれば、人体の放射線暴露の危険度がすぐ判定されるのである。  明るい藤紫色《ローヤル・ブルー》だったらおしまいである。この色は絶対に変わらない。同様にあなたも取返しがつかない。治療法はない。助かる見込みはゼロである。一日か一週間の余命である。病院としても、火葬のための最後の手続きをする以外に手のほどこしようがない。  だが彼の腕時計バンドはまだ白色だった。胸騒ぎもいくらかはおさまった。  とすれば放射能は大した程度ではないようだ。ひょっとすると、これもまたいたずらのひとつなのではあるまいか? バイロンはしばらく考えてみた。そしていたずらではありえないと断定した。こういういたずらは誰もしないだろう。すくなくとも地球では誰もしない。地球では放射能物質の不法取扱いは重罪である。地球では放射能というものをきわめて重大視している。そうせざるをえないのだ。だからして、誰も、よほどの理由がないかぎり、そんないたずらはしないはずである。  よほどの理由がないかぎり――彼はそうゆっくりと、あからさまに、口に出してみた。臆せずそれを正視しようとした。たとえば謀殺というような圧倒的な理由があれば、この禁《タブー》を犯さないとは限るまい。だが、何ゆえの謀殺か、それが問題である。動機が考えられない。生まれて二十三年間、彼はこれという敵をつくっていない。誰からも、殺されるような恨みはうけていない。  彼はこの芽ばえると同時に刈りとられた一本の思考の糸にとりついていた。どう見てもバカバカしい思考だが、それでいて、振りきることができないのだ。彼は用心しつつクロゼットのほうへもどっていった。放射線を出している何かがそこになければならない。四時間前になかったものが、今そこになければならない。彼はすぐさま計数管《カウンター》のそばに、それを見つけた。  それは縦横高さ六インチにもみたない小箱であった。それが何であるかを知ったバイロンは、下唇がわなわなとふるえた。これまで見たことはなかった。だが噂《うわさ》には聞いていた。彼はクロゼットのなかへ手をのばし、放射能カウンターを持ちあげ、ベッドルームへはいってみた。かすかなささやきは低くなり、ほとんどやんだ。だが、カウンターの、放射線が外部からはいってくるうすい雲母《マイカ》の仕切りを、クロゼットのなかの小箱のほうへ向けるやいなや、カチカチとかすかな音がしだした。もう疑問の余地はなかった。クロゼットのなかにある小箱は、放射能爆弾なのだ。  いま出している放射能自体は大したことはない。それはただヒューズなのである。箱のなかに小さな原子炉が内蔵してある。半減期の短い人工放射能物質から出る粒子が原子炉へ浸透し、じょじょにそれをあたためていく。熱と粒子密度とが臨界に達すると、原子炉が反応をおこす。ふつうは、反応熱で箱が溶解して一塊の金属と化してしまうが、爆発はしない。ただ恐るべき放射線をだすのである。爆弾の大きさにもよるが、半径六フィートないし六マイル以内の生物を殺すだけの強烈な放射線をだすのである。  いつ臨界に達するか予測する方法はない。数時間後かもしれないし、あるいはつぎの一刹那《いっせつな》かもしれない。バイロンは、汗でぬれた両手に懐中電灯をとり落しそうに支えながら、とほうにくれ、そこに立っていた。半時間前|観視《ヴィジ》フォーンで眠りから起こされたとき、彼はまだまったくの平和だった。彼はいま、自分が死にかかっていることを知らされている。  バイロンは死にたくない。だがどうにも抜けでることのできない絶望的な限界状況である。放射能から身を隠す場所もない。  このベッドルームの位置はわかっている。ここは廊下の端っこだから、隣の部屋はひとつだけ。それと上下にひとつずつある。上の部屋に対してはどうするすべもない。隣の部屋は彼の部屋のバスルームの側である。隣の部屋のバスルームもおそらくこっち側だろう。だから、どんなにわめいてもこっちの物音を聞こえさせることができようとは思われない。  とすれば下の部屋だけだ。  彼の部屋には、人がたずねてきたときの用意にスペアの折畳み椅子《いす》が二脚ある。その一つを振りあげ、力まかせにフロアへたたきつけた。鈍い音がした。持ちかえて角《かど》でたたきつけた。音は鋭く大きくなった。  たたきつけては反応を待った。下の部屋で眠っている男を起こし、困らせ、この騒ぎを訴えでるように仕向ければ成功なのである。  とつぜん、彼はかすかな物音を耳にした。こわれた椅子を頭上にふりあげたまま、彼は待った。また音がした。かすかな、叫び声のようだった。ドアの方向からだ。  椅子をすて、大声で叫びかえした。ドアと壁が接しているすきまへ耳をつけた。ぴったりとつけたが、聞こえてくる音はごくかすかでしかなかった。  それでも、自分の名が呼ばれていることがわかった。 「ファリル! ファリル!」数度呼んだ。それから別の言葉が聞こえた。たぶん、「きみ、そこにいるのか?」あるいは「きみ、大丈夫か?」と言っているのだろう。  バイロンは叫び返した。「ドアをあけてくれ! ドアを!」彼は三度か四度そう大声でどなった。全身に汗びっしょり、まるで熱病にかかったようだ。居ても立ってもいられないといったふうだ。いまにも爆弾が臨界に達するかもしれないのだ。  こちらの声が聞こえたらしい。すくなくとも、押しつつんだ叫び声が返ってきたからである。 「気をつけろ。なんとか、なんとか(この二つは判明しない)、熱線銃《ブラスター》だ!」バイロンは彼らの言う意味がわかり、急いでドアからのいた。  二度、バリバリバリッと、鋭い、ものの砕けるような音がし、部屋の空気にはっきりと震動が波打ったのをバイロンは感じた。つづいて、金属の裂ける音がし、ドアがさっと内側へ開いた。  廊下から光がそそぎこんだ。  バイロンは両腕をいっぱいにひろげて飛びだしていった。「はいるな!」彼は叫んだ。「地球の愛のために! はいっちゃいけない。あそこに放射能爆弾がしかけてあるんだ!」  そこに二人《ふたり》いた。一人《ひとり》はジョンティ、もう一人は舎監のエスバックである。エスバックはなかば裸だった。 「放射能爆弾だと?」のどにひっかかるような声でエスバックがきいた。  だが、ジョンティは、「どんなサイズのだった?」という妙なききかたをした。その手にまだ熱線銃《ブラスター》が握られている。こんな真夜中に、ジョンティはアンサンブルを着ていたが、熱線銃だけがそのいやにダンディな風体にそぐわなかった。  バイロンは手の格好で大きさをしめしただけだった。声が出ないのだ。 「よろしい」とジョンティ。ジョンティはきわめて冷静である。舎監のほうへ向きなおって、「この地区の部屋はぜんぶ撤退させたほうがいいですね。それから、大学構内のどこかに鉛板があったら、連中にここへ運ばせて廊下に張らせて下さい。ぼくは朝まで誰もここへ入れさせないようにしますから」  ジョンティはこんどはバイロンへ向いた。「たぶん十二ないし十八フィート半径有効範囲ものだろう。どうしてあんなところへはいったんだろう?」 「ぼくは知りませんよ」とバイロンは言った。手の甲で額《ひたい》をぬぐい、「かまわなかったら、ぼくにどこかへ腰かけさせてくれませんか」腕時計を見ようとした。するとすぐ、腕時計をまだ部屋に置いてあることに気がついた。取りに引返したい激しい衝動を覚えた。  もう臨機の非常措置がとられていた。学生たちは大急ぎで続々と部屋をあとにしていっている。 「ぼくについて来たまえ」とジョンティが言った。「そう、ぼくも君が腰かけたほうがいいと思う」 「どうしてぼくの部屋へ来れたんですか?」バイロンがきいた。「救いだしていただいて感謝はしているんですが、わかっていただけますね?」 「君を観視《ヴィジ》フォーンで呼んだのだよ。ところが返事がないものだから、上がって来てみなければならなかった」 「ぼくに会いにですか?」乱れる呼吸をととのえようと努めながら、慎重にきいた。「それはまたなぜです?」 「君の生命があぶない。それを君に警告しようと思って」  バイロンはぎこちない笑い声をたてた。「自分でわかりましたよ」 「第一回目にすぎん。彼ら、もう一度やるよ」 「彼らって誰のことです?」 「ここじゃ話せないよ、ファリル。話すには二人きりにならねばならないのだ。君はねらわれている。そういうぼく自身も、もうねらわれているかもしれないのだが……」 [#改ページ]   二 宇宙空間に張られたネット  学生ラウンジは人気《ひとけ》がなかった。その上まっ暗だった。朝の四時半といえば、そうでなければおかしい。だがジョンティは、ドアを開いて押えたまま、しばらく耳をすませて内部に人がいないかどうかを確かめる用心深さをみせた。 「誰もいない」ジョンティが静かに言った。「照明は消したままにしておいてくれ。話をするのに明かりはいらない」 「ひと晩で余るほど暗闇を味わわされましたよ」バイロンが不平げに言った。 「じゃドアをすこしあけておこうか」  バイロンには逆らう気力がなかった。いちばん近い椅子にぐったりと腰をおろし、あいたドアのつくった四辺形の明るさが、ドアがしまるにつれて、しだいに細長く縮まり、ついには糸の太さほどになっていくのを見守っていた。恐ろしい経験がすっかり終わってしまった今ごろになって、急にバイロンは身体《からだ》に震えがきた。  ジョンティは閉じかかるドアを停止させ、小さな散歩用ステッキの先をフロアにできた光の条《すじ》へ突きたてた。「ここを見ていなさい。外を通るものがあっても、ドアが動いても、すぐわかるから」 「ちょっと、すみませんが。ぼくは謀議に加わるような気分じゃないんですよ、とても。さしつかえなかったら、どんなことでも驚きませんから、さっきぼくに話したいとおっしゃっていたこと、話して下さいませんか。あんたは生命《いのち》の恩人です。それはわかっています。だから明日になったらちゃんとお礼を言います。でも、たったいまは、酒を飲むのは短くして、ただただ長いこと休息したいだけなんです」 「君の気持は察しられないこともないよ。しかし、あんまり長い休息は、しばらくの間はわざと与えないようにしてきたのだ。いや、しばらく以上、当分与えたくないのだ。それで話だが――君は、ぼくが君のお父《とう》さんを知っていることはわかっているのだろうね?」  だしぬけの質問だった。バイロンは眉《まゆ》を吊りあげたが、闇のなかではその表情は相手に伝わらなかった。「父は、あなたを知っているなんて言ったことはありませんでしたよ」 「あたりまえだよ。ぼくがここで使っている名前では知っていないのだもの。ついでに、最近お父さんから便りはないかい?」 「どうしてそんなこときくんです?」 「お父さんが非常に危険にさらされているからだよ」 「何ですって?」  暗がりでジョンティの手がのびバイロンの腕をつかんだ。強く握った。「きみ! さっきみたいに低い声でしゃべらないといけないよ!」バイロンは、二人でひそひそ声で話していたのだったと、いま初めて気がついた。  ジョンティはさらに、「もっとはっきり言おう。君のお父さんは逮捕されているのだ。それがどういう意味かわかっているだろうね?」 「いいえ。わかるわけがないじゃありませんか。父を逮捕しているって、誰がです? いったいあなたは何をおっしゃりたいんですか? なぜぼくの気をそそるんです?」バイロンのこめかみがずきんずきんと動悸《どうき》を打っている。ヒプナイトの効果と、もうすこしで死ぬところだった精神的ショックとがまだおさまっていない。こんなに間近にすわらせられて、気のきいた、冷静な小突きまわしにさらされて、まともな受け答えができるはずがなかった。バイロンのささやきが叫びに近くなったのはやむをえない。 「だけど君は」と相手はあくまでも冷静で低い声だ。「お父さんがどんな仕事をしているのか、多少のことは知っているのだろうね?」 「父をご存知でしたら、父がウィデモスの牧畜領主《ランチャー》だということは知ってるでしょう? それが父の仕事ですよ」 「うむ、君にぼくを信用してくれと言ってもムリかもしれないな。ぼくが君のために自分の生命まで危険にさらしていると告げるだけでは……。しかし、ぼくはもう君の知っているようなことは何もかも知っているのだ。たとえば、君のお父さんがティラン人に反抗して陰謀をくわだてていることだって知っているのだよ」 「そんなことはウソです!」バイロンはきびしい調子で否定した。「いくら今夜ぼくの生命を助けて下さったからって、ぼくの父のことをそんなに言う権利はあなたにはありませんよ」 「なんというあきれた石あたまだ、君は。君はぼくの時間まで無駄にしている。いまの情況がすでに議論の域をこえているってことがわからないのか、君は? 率直に言おう。君のお父さんはティラン人に監禁されているのだ。ひょっとすると、もう殺されているかもしれない……」 「あんたの言うことなんか信じるものですか!」バイロンは立ちあがりかけた。 「ぼくは知らさなければならないのだ」 「もうこんな話、よしましょうよ、ジョンティ。ぼくはいまミステリーをもてあそぶような気分じゃないんです。ぼくは腹が立っているんです、あんたがこんな――」 「ぼくが何だって?」ジョンティの冷静な洗練された語調がややくずれた。「君にこんなことを言って、ぼくがどんな得をするというんだ? ぼくのためじゃない、君のためなんだ。ぼくが知っているこの情報、それを君はあくまで否定しようとする。この一事をみても、君を殺そうとねらっているものがあることが、ぼくにははっきりしてくる。今日の事件からよく判断してみたまえ、ファリル」 「はじめっから言って下さい、率直にですよ。お聞きしましょう」とバイロンは折れた。 「ああいいとも。ファリル、君はぼくの正体は知っているのだろうね。ヴェガ人でとおっているが、ほんとうはネビュラ王国集団《キングダムズ》からの君の同国人だということは知っていると思うが……」 「あなたの訛りからして、そうじゃないかと思っていました。しかしそんなことは重大じゃないでしょう?」 「重大なのだよ、君。ぼくは、君のお父さんと同じように、ティラン人を好かないから、当地――地球――へやってきたのだ。彼らはわれわれの同胞を五十年もいじめつけてきた。五十年といえば相当の歳月だよ」 「ぼくは政治家じゃありませんよ」 「おい君、ぼくは君をトラブルに巻きこもうとやっきになっている彼らの工作員《スパイ》じゃないよ」ジョンティの声は再びいらだたしい響きを帯びた。「ぼくは真実《ほんと》のことをしゃべっているんだ。彼らは一年前ぼくを捕えた。ちょうど今、君のお父さんを捕えたようにだよ。だけどぼくはうまく脱走できた、そして故国《くに》へ逃げもどるまでの準備をととのえる間、ここなら安全だろうと思って地球へやってきたのだ。ぼく自身のことについては、これだけ言えば十分だろう」 「おききした以上に身分を明かされましたよ」とバイロンは言ったが、声の調子はまだ親密というには遠い。ジョンティは、あまりに落ち着きはらった正確すぎる挙措動作《きょそどうさ》でバイロンを堅くしてしまっていたのである。 「それはわかっている。しかし、すくなくともこの程度のことは話しておくことが必要なのだ。なぜなら、ぼくが君のお父さんに会ったときもこういったやりとりだったからだ。お父さんはぼくに協力してくれた、いや、ぼくがお父さんに協力したと言うべきだな。お父さんがぼくを知るようになったのは、ネフェロス惑星の最高貴族というお父さんの公式の立場からではなかったのだ。ぼくのいう意味はわかっているね?」  バイロンはうなずいて(暗闇のなかだから相手には見えない)、「はい」と言った。 「うむ、やはりさっきのようなことまで言う必要はなかったのだな。ところで、ぼくの情報源は、ここへ来ていてもちゃんと維持してあるのだ。だからぼくは君のお父さんが監禁されていることを知っているのだ。単にそう疑っているというのではないよ、確実に知っているのだ。もし単なる疑いにすぎないとしても、さっきのように彼らが君の生命をねらっているとわかった以上、それでりっぱに証拠だてられたじゃないか」 「りっぱにって、どんなふうにです?」 「ティラン人がお父さんをつかまえているとすれば、息子《むすこ》を野放しにしておくまい」 「ティラン人がぼくの部屋にあの放射能爆弾をしかけたとおっしゃるんですか? それは不可能ですよ」 「なぜ不可能だ? 君はいまだに彼らの立場がわかっていないのか? ティラン人は五十個の世界を支配しているにすぎない。数としては数百分の一という劣勢だ。そういう立場としたら、単なる力だけでは十分ではない。もってまわった方法をとらなければならなくなる。かくて陰謀と暗殺が彼らの常套《じょうとう》手段となる。彼らが宇宙空間に張りめぐらしている網は大きいのだ。そして目が細かいのだ。網は五百光年ものびて地球もカバーしているとぼくは信じて疑わない」  バイロンはまださっきのショックから立ち直っていない。遠くから、鉛の遮蔽板を動かしている音がかすかに響いてくる。彼のベッドルームでは、まだ計数管《カウンター》が小さな音をたてているに相違ない。  バイロンは言った。「おっしゃることは意味をなさんですよ。ぼくは今週ネフェロスへ帰ることになっているんです。彼らもそれは知っているはずです。だったら、どうしてここでぼくを殺そうなどとするんです。待っていれば自然にぼくの身柄は手に入ることじゃないですか」相手の論理に欠陥がみつかってほっとした気持だった。自分の論理を信じたかったからである。  ジョンティがぐっと身体《からだ》を前へ乗りだしてきた。よい匂いの吐息がバイロンのこめかみの毛を動かした。「君のお父さんはたいへんに国民から慕われている方だ。お父さんの死は――死といっても驚いてはいけない。お父さんがティラン人に監禁されている以上、処刑は時間の問題である。君はお父さんの死をありうることとして覚悟しなくてはならない。お父さんが死んだとしたら、ティラン人がこれからたくさん製造しようとしている、びくついた奴隷種族すら怒りを覚えるだろう。君は新しいウィデモスの牧畜領主《ランチャー》として民衆の怒りを結集することができる。その君を処刑したら、民衆の怒りは燃えあがり、ティラン人は倍の危険に直面することになる。そんなふうに殉教者《じゅんきょうしゃ》をつくることは彼らの目的にそわない。しかし、もしきみが地球というような、遠い異境の世界で事故で死んだということになれば、彼らにとってはきわめて都合がいい」 「わたしはあなたのおっしゃることは信用しません」とバイロンはなおもかたくなに言った。ただ信じないというだけがいま唯一の抵抗の根拠であった。  ジョンティは薄い手袋のひだをのばしながら立ちあがった。「君は度が過ぎるよ、ファリル。そんなに何もかも知らないふりをしないほうがかえっていいのだ。そう突っぱねてばかりいては、君の役どころが人の共感を呼ばなくなる。君のお父さんは、君を守るために、君に現実に直面させないように努めてきたのだと思う。しかしぼくは、君がぜんぜん父親の信念の影響を受けていないなどとは思わないね。君のそのティラン人への憎悪《ぞうお》は、どうしたってお父さんの影響だよ。君はどうしたって彼らと戦わないではいられない気持なのだ」  バイロンは肩をすくめた。  ジョンティはなおも続けた。「ティラン人は君が大人《おとな》になったことを認めて、君の影響力を利用しようとさえ考えているかもしれないのだ。君が地球に来ているのは彼らにとっては渡りに船だ。君のうける教育に、彼らははっきりした任務を結びつけているのかもしれない。君がその任務を達成できないようだと、彼らは君を殺すかもしれない」 「バカバカしいメロドラマですよ、そんなの」 「そうかな? 君がどうしてもそう思うならそういうことにしておくさ。いま、真実が君を説得しえないとしても、これからの事件で君の眼がひらくよ。これからも君の生命をねらう事件が必ず起こる。次の企ては成功する。ファリル、今からはもう、君は死んだも同然なのだよ」  バイロンは相手を見あげた。「待って下さい! いったいあなたはこの問題に何の個人的利害関係があるんですか?」 「ぼくは一人の憂国者にすぎない。ぼくはネビュラ王国集団《キングダムズ》がふたたび自由の国々になるのが見たいのだ、自らの選択する政府を持つ自治の国家にだ」 「そんなことをきいているんじゃありません。あなたの個人的利害は何かというんですよ。ぼくは純粋な理想主義など信用することができません、そんなものをあなたに期待する気持になれないからです。ぼくの言葉が癇《かん》にさわったらごめんなさい」バイロンの一言一句が不信にこり固まっていた。  ジョンティは腰をおろした。「ぼくの持っていた土地は没収されてしまっている。ぼくは、脱出以前でも、あの小人《こびと》どもから、いちいち命令をうけるのは不愉快でたまらなかった。しかし脱出以後は、ぼくにとっては、人間であることが従来以上の至上命令となった。ティラン人のやってくる以前の、ぼくの祖父の状態――|ぼくたち《ヽヽヽヽ》の人間にもどるということだよ。革命をのぞむのに、これ以外に実際的な理由をつけ加える必要があろうか? 君のお父さんは革命のリーダーになるところだったのだ。君はお父さんを理解していない、君は不肖《ふしょう》の子だ!」 「ぼくが? ぼくはまだ二十三歳です。こんなことはまるで知識がありません。あなたはもっと適当な人を捜すことができたはずです」 「それはできたろうさ。しかし残念ながら、誰も君のお父さんの息子ではない、そこが問題だ。もしも君のお父さんが殺されたら、君はウィデモスの牧場を継ぐ。ウィデモスの牧畜領主《ランチャー》としての君はぼくにはかけがえのない貴重な存在なのだ。たとえ君がわずか十二歳の少年で、その上|白痴《はくち》であってもだ。ぼくが君を必要とする理由は、ティラン人が君を殺そうとする理由とまったく同一だ。そのぼくが必要とする理由が理解できない君に、彼らが君を殺そうとしている理由を理解できないのは当然だ。君のベッドルームに放射能爆弾が|しかけて《ヽヽヽヽ》あった。君を殺す目的以外にはないのだ。君を殺すといったら、いったいティラン人以外の誰がそんなことを考える?」  ジョンティはそう言って辛抱づよく返答を待った。やがて闇のなかに、低いつぶやきが聞こえてきた。 「誰も考えやしませんよ。ぼくの知っている誰も、ぼくを殺そうなどと考えやしません。すると、父についておっしゃったことはほんとうのことなんですね!」 「ほんとうだとも。戦争犠牲者のひとりだと思ってあきらめるのだな」 「そう思ったほうが気が楽だとおっしゃるんですか? 彼らがたぶん、いつか父のために記念碑を建立《こんりゅう》してくれるとおっしゃるんですね? 宇宙空間で一万マイルも遠方から見えるような放射性の墓碑銘をつけた……?」バイロンの声がすこし荒々しくなった。「わたしを喜ばせるためにそうしてくれるというんですね?」  ジョンティはなおも待った。だがもうバイロンはそれ以上言わなかった。 「これからどうするつもりなのだ、君は?」とジョンティはきいた。 「ネフェロス――故郷《くに》へ帰ります」 「じゃ君はまだ自分の立場がわかっていない」 「故郷《くに》へ帰るというんですよ。ぼくに何をしろとおっしゃるんですか? 父が生きていれば、ぼくは父をそこから抜けださせてやります。もし死んでいれば、ぼくは――ぼくは――」 「静かにしたまえ!」年上の男の声は冷たく、困惑していた。「子供のようにわめくのはよしたまえ。ネフェロスへ行くことはできないよ。行けないという理屈がわからないのか、君は? いったいぼくは赤ん坊に話しているのか、それとも分別のある若者に話しかけているのか……」 「じゃ何かアイデアがあるのですか?」バイロンが不平げにきいた。 「君はローディアの総督《コミッショナー》を知っているかね?」 「ティラン人と友好のでしょう? ぼくは知っていますよ。誰だか知っています。ネビュラ王国集団《キングダムズ》で彼が何者か知らない人はありませんよ。ローディアの総督、ヒンリック五世ですよ」 「会ったことがあるのか?」 「いいえ」 「それをきいているのだ。会ったことがないというなら、知っているとは言えまい。彼は白痴なのだよ、ファリル。文字とおりの白痴なのだ。しかし、ウィデモスの牧場がティラン人に収容されるときは、ヒンリックに与えられるのだ。ぼくの土地もそうだったが、ウィデモスの牧場もヒンリックに褒賞《ほうしょう》として与えられることになる。ティラン人はそうしておいたほうが安全だと思っているのだ。君はだから、ヒンリックのところへ行かなければならない」 「なぜです?」 「それは、ヒンリックがティラン人に対してすくなくともある種の影響力をもっているからだ。白痴ではあるが、おべっか使いの傀儡《かいらい》は傀儡なりの影響力をもっているのだ。だから彼は君の領地を取りもどしてくれるようにティラン人に斡旋《あっせん》してくれるかもしれない」 「その理由がわかりません。彼はむしろ、わたしの身柄を彼らに引き渡そうとするのじゃないでしょうか?」 「それはそうだ。しかし君はそうされないように用心している。そこに、君の抵抗するチャンスがあり、彼らの術中に陥るのを避ける道がある。忘れてはいけないよ、君の称号は価値が高く重要ではあるが、それだけで十分というものではないということを。この陰謀と言うビジネスはだな、何よりもまず実際的でなければ成功はおぼつかないのだ。人民たちは君の名前への憧《あこが》れと尊敬とから君のまわりへはせ参じてくるだろう。しかし、彼らを引きとめておくには金がいるのだ」  バイロンは思案していた。「決心するのにすこし考える時間がいります」 「時間はないのだ、ファリル。放射能爆弾が君の部屋にしかけられたとき、君の持ち時間はなくなったのだ。行動に移ろう。ぼくはローディアのヒンリックへ君の紹介状を書いてあげられる」 「じゃ、あなたは彼とはそんなにまで親しい間柄なんですね?」 「君の猜疑心《さいぎしん》はきりがないな、え? ぼくはかつてリンゲーンの自治国家《アウクルク》を代表してヒンリックの宮廷へ使いしたことがあるのだ。彼の白痴的頭脳はおそらくはぼくを覚えてはいまい。しかしはっきり忘れたといいきれる勇気はないだろう。だから紹介の役にはたつのだ。そこから先は君がうまくくふうすればよい。明朝君に紹介状をつくっておく。正午にローディアへたつ船がある。君の切符もとっておいたよ。ぼくもここをたつが、違うルートだ。ぐずぐずするな。君はここはもう卒業したのだろう?」 「卒業証書授与式があります」 「紙切れ一枚じゃないか。そんなもの大事なのか?」 「もう大事じゃありません」 「金はもっているな?」 「十分にあります」 「結構。ありすぎては疑惑をまねく」  それから突然に鋭く呼んだ。「ファリル!」  バイロンはなかば放心状態からびっくりして呼びもどされた。「何です?」 「他の学友連中のところへもどりたまえ。誰にもここをたつとは言うな。行動で示すのだ」  バイロンは無言でうなずいた。心のずっと隅《すみ》のほうに、自分の任務《ミッション》が未完のまま残るという意識、ここを抜けだしてもやはり、死にかかっている父を救うことができないという意識があった。にがい徒労と挫折感《ざせつかん》にうちひしがれた。もっと父からいろいろのことを教えこまれていたらよかったのに! 自分も父と危険を分かつべきだったのに! 何も知らずに行動させられる――そんな父親らしい思いやりは不必要だったのに!  そして今、父が反ティラン陰謀にどの程度加わっていたかについて真相を教えられた。すくなくとも以前よりは詳しく教えられてみると、彼が地球の記録保管所から盗みだそうとしていた文書の重要性がいちだんと増してくる。それなのに時間がないのだ。文書を盗みだす時間がないのだ。盗みだせるかと考えてみる時間すらない。いや父を救う時間すらない。おそらく、自分の生命をたもつ時間すらないのではないか! 「あなたのおっしゃるとおりにします、ジョンティ」ようやく彼は言った。  サンダー・ジョンティは、寄宿舎から地面へおりる階段でちょっと足をやすめながら、大学校庭へちらと眼をやった。ジョンティの視線には、バイロンの決心をほめる色はなかった。  古代以来ずっとすべての都市大学の校庭が身に帯びている擬似的な牧歌風|雰囲気《ふんいき》のなかを、一本の煉瓦歩道がまがりくねっている。そのわざとらしい羊腸《ようちょう》の煉瓦道へさしかかると、サンダー・ジョンティのすぐ眼前に、この大学都市のただひとつの重要な街路の灯火がまたたきはじめていた。その先に、昼間こそもろもろの光にまぎれて見えないが、たそがれた今はっきりと、青い地平線が浮かびあがって見えた。歴史時代以前の幾多の戦争を、じっと無言で目撃してきた地平線――そしていまや永劫《えいごう》に放射能で汚染されている青い青い地平線が見えてきた。  ジョンティはしばらく空へ眼をこらした。ティラン人がやってきて、「星雲《ネビュラ》」をはるかに隔てた宇宙の深みに、たがいにせめぎあう微々たる二ダースばかりの政治単位へ突如たる死滅を与えて以来、五十年の歳月がたっていた。そしていま、突然に、そして時期尚早に、これらの人間の生活のうえに圧殺的な、窒息的な平和がのしかかっている。  人々はまだ、あのすさまじい雷霆《らいてい》にも似た政治ストームのショックから立ちなおってはいないのだ。政治ストームはあらゆるものを奪い、人間にはもうひきつった身震いみたいなものしか残っていなかった。それでも、その身震いが、ひきつりが、ときどき思い出したように世界のあちこちをむなしく揺すぶるのである。この身悶《みもだ》えに秩序を与え、それを組織してひとつの底力のある運動《うねり》へまで持っていくのはたいへんに困難な、かつまた長い時間を要する事業である。そうだ、おれはもうこの地球へ逃げ帰って田園に逼塞《ひっそく》するようになってからどれほどになろうか? そろそろ帰る時期になったようだ。  故郷《くに》では、たった今も、他の連中がおれの部屋でおれと連絡をとろうとあせっていることであろう。  サンダー・ジョンティはわずかに足幅を大きくした。  自分の部屋へはいったときビームをとらえた。それは個人用ビームである。その安全性は確立されており、いまのところ、いささかも漏洩《ろうえい》のおそれはない。そのプライバシーにいささかの割れ目もない。正式の受信機などは不要である。五百光年のかなたの惑星から超宇宙空間を飛んでくる、ささやく電子のインパルス――そのかすかな、さまよう電子の驀進《サージ》をとらえるのに、金属や銅線のような物質的道具立ては要しない。  彼の部屋のなかでは、空間そのものが極性を与えられており、受信のための下地《したじ》をととのえてくれている。ここの空間構造は乱積みを矯正され、円滑に均《な》らされている。空間の極性は、受信以外にはこれを発見する方法がない。そしてこの特殊な空間ボリュームのなかでは、ただ彼自身の心だけが受信機として機能するのである。メッセージを運ぶ搬送波ビームの震動に対して、彼に特有な神経細胞組織の電気的特性だけが共振することができるからである。  メッセージそのものも、彼自身の脳波にみられるユニークな諸特徴に劣らず個性的である。この大宇宙に千兆もの人間が住んでいるであろうが、他の人の脳波をキャッチできるほど脳波パターンの酷似した二人の人間が存在する確立は、ゼロを二十個も並べた膨大な数に対して一つもありえないのである。  無限の空虚に充填《じゅうてん》された不可知の超空間をその呼出し信号が震動して通りすぎたとき、すぐさまジョンティの脳がこれをとらえた。 「もしもし……もしもし……もしもし……もしもし……」  発信は受信ほど単純な作業ではない。「星雲《ネビュラ》」をこえたある秘域に存在する受信者へメッセージを運ぶ高度に特殊な搬送波を組立てるには、ある機械的な装置が必要である。装置はジョンティの右肩についている飾りボタンのなかに収蔵されている。ジョンティが彼の極性空間ボリューム――彼の個室――のなかへ一歩足を踏みいれるやいなや、その発信装置は自動的に作動するのである。あとはただ、彼ははっきりと(明瞭《めいりょう》な意図をもって)かつ精神集中的に思考すればよい。 「ぼくはここだ!」と彼は思考した。これ以上に自分を名のる必要はなかった。  呼出し信号の平板な繰返しはやみ、彼の心のなかで受信電波は言語の形態を成していった。 「われわれはあなたにご挨拶いたします。ウィデモスの牧畜領主《ランチャー》は処刑されました。もちろん、このニュースはまだ公表されておりません……」 「それを聞いてもぼくは驚かない。ほかに誰かの名をもらしているか?」 「いいえ。牧畜領主《ランチャー》はいつだって絶対にバラしはしません。勇気のある、きわめて節義のつよい同志です」 「そうだよ。だけど、たんに勇気があり、節義がかたいというだけではダメなのだ。そうでなかったら、つかまらないですんだのだ。すこし臆病なところがあったほうが実際の役にたつのだ。まあそんなことはどうでもいいが……。ぼくは彼の息子に会って話をした。新しい牧畜領主《ランチャー》だ。もうすでに死の頤《おとがい》にはまりかけていたよ。この若者を使ってみようと思う」 「どんな方法ででしょうか?」 「君の質問には、事件の流れで答えさせたほうがよさそうだ。まだ今の段階では早すぎる――ぼくも結果の予測はまったくつかないのだ。明日、彼はローディアのヒンリックに会いに出発する」 「ヒンリックですって! その若者にそんな恐ろしい危険をおかさせるのですか? いったい彼は知っているのですか、例の――」 「話してやれるだけは話しておいた」ジョンティは鋭い語気で答えた。「われわれは、彼がその力を自ら実証するまでは、あまり信用するわけにはいかない。現在の情勢では、われわれはただあの若者を危険にさらしていい人間と見なすだけだ、他の人間と同じにだよ。彼は消耗品だ、まったくの消耗品だ。もうここへ掛けるな、ぼくは地球を去るのだから」  そう思考して、交信終了のジェスチュアとともに、ジョンティは精神連絡を絶った。  静かにそして慎重に、彼は今日一日――昼間と夜と――の出来事を検討してみた。ひとつひとつの重さを測った。ゆっくりと彼の顔に微笑がのぼってきた。万事が完璧《かんぺき》に運んでいる。ここまでくればもう、このコメディーも、幕切れまで、自動的に進行していくだけだろう。  ひとつも偶然にまかせてはいない。すべてが計算されたとおり、予定どおり動いていっている。 [#改ページ]   三 好運と腕時計  宇宙船が惑星の繋縛《けいばく》をふりきって飛ぼうとするときの最初の一時間ほど、うんざりと退屈させられるものはない。出発時の混乱が起こっているのだが、程度の差はあれ、人類最初の丸木舟が原始の川へ押しだされたとき見られたであろう混乱と本質的には異なったものではない。  船室その他が割当てられる。手荷物を宇宙船側の管理に移す。はじめの数分間、もの珍しさ、無用のいそがしさで眼がまわりそうである。最後の別れが叫ばれる。突如として静寂がおとずれる。エアロックの閉じられる押し殺した金属音があちこちで響きだす。エアロックが、巨大なドリルのように船殻深く自動的にねじこまれるにつれ、空気がゆっくりと咳《せき》をしながら吐きだされ、宇宙船は気密にされていく。  やがて、何か不吉な予兆をしめすような重苦しい沈黙があたりを占め、各室に赤い標識灯がまたたき、アナウンスが響きわたる。「加速スーツを調整して下さい……加速スーツを調整して下さい……加速スーツを調整して下さい」  スチュアードたちが廊下を急いで通りすぎ、各ドアを形式的にノックし、ドアを遠慮なく開き、「失礼します、加速スーツをどうぞ」と促していく。  ひんやりするぴっしりと窮屈な、不快な加速スーツを急いで身につける。だが油圧システムのなかにすっぽりと安定された加速スーツのおかげで、離陸のさいの吐気をもよおすような重力の圧迫を吸収してもらえるのである。  どこか遠くで、原子力駆動エンジンのつぶやきが伝わってくる。まだ大気圏航行のための低速動力だから音は小さい。すぐそれに続いて、身体はスーツ安架《クレードル》のしずかにたわむ油層に押しつけられ、ほとんど無限とも感じられるほどの圧縮をうけ、やがて加速度が減るにつれて、きわめて徐々に前方へもどされていく。この期間のむかつくような船酔いに耐えさえすれば、おそらくあとは長い宇宙航行中あなたは宇宙酔いにはかからないだろう。  離陸後三時間は、展望ルームは一般乗客には解放されない。だが大気圏をはるかにあとにし、二重ドアが分離されるばかりになると、展望ルームの前には長い行列ができた。例によって例のごとく惑星人種《プラネタリーズ》(というのはつまり一度も宇宙旅行をしたことのない、ひとつの惑星にへばりついた人という意味だが)は百パーセントの繰出しである。だが宇宙旅行の経験のある人たちもかなり行列にまじっている。  どだい宇宙空間からながめる地球景観はツーリストたちの「必見物《マスト》」のひとつなのである。  展望ルームは宇宙船の「皮膚《スキン》」にできた水泡であった。厚さ二フィートの鋼鉄的硬度の透明プラスチックでできた水泡であった。大気の空気分子と空中|微塵《びじん》との仮借なき摩擦《まさつ》熱から水泡をまもるイリジウム鋼製の引っ込み式被覆はすでに後退されてあった。内部の照明は消してある。展望ルームは満員であった。鉄格子をとおして外をのぞいている人たちの顔は地球のかがやきで明るく闇のなかに浮きだしていた。  人々の眼下に、地球が宙に浮かんでいる。いや宙天にかかっている。きらきらと光りかがやくオレンジとブルーとホワイトの斑《まだら》になった巨大な風船玉《バルーン》――それが地球であった。いま見えている半球はほとんど全面が太陽の光に照らされている。雲のあいだにあれこれと大陸が見える。砂漠はオレンジ色、その周縁部が薄いきれぎれのグリーンの線で囲まれて見える。海洋は青く、地平線と合うあたりでは宇宙の黒と強烈なコントラストをなして浮きだしている。宇宙の黒のなかは、どこもかしこも、澄みきった空であり、全天に星がきらめいている。  地球に見入りながら、人々は待った。  だが人々の待っているのは日照半球ではなかった。やがてめくらめく輝耀《かがやき》の極冠が下方へ動き視界にはいってきた。宇宙船はごくわずか、気づかれぬほど側方加速を維持し、船は楕円軌道からかすかに持ちあがり、それたのである。夜の影がゆっくりと巨大な球へおしよせてきた。欧亜アフリカ大陸である惑星島が堂々たる英姿を、北を「ダウン」にして舞台へ現わしてきた。  夜がもたらした宝石の乱舞のうちに、惑星島の病める不毛の土壌がその恐怖を隠しおおせている。土壌の放射能で、欧亜アフリカは広大な真珠の光沢をもつブルーの海となり、ふしぎな花輪をばらまいたようにキラキラと輝いている。核爆発に対する力場帯《フォース・フィールド》防衛方式が開発され、他の惑星が二度とこのような自殺行為を行いえないようになるまでの間、一世代の長きにわたり原子爆弾の雨が惑星島に虹色の花輪をまきちらしたのであった。  数時間、飽くこともなく、大ぜいの眼が壮美の景観に見とれていた。やがて地球が、無限にひろがる黒一色のなかの、小さく光る半欠けの硬貨《コイン》となって遠のいていくまで。  地球に食いいるようにながめている人々のなかにバイロン・ファリルがいた。手すりに両腕をおき、前列にひとりですわっていた。物思いに沈む憂鬱《ゆううつ》な眼。こういう仕方で地球を去るとは考えていなかった。こんな情況で、予期すらしない別の宇宙船で、しかも目的地――ネフェロスではなくローディアへ!――までが彼の志とは違うのであった。  陽《ひ》焼けした前腕が顎のあたりの伸びた髯《ひげ》をこすった。今朝そらなかったことになにかしら罪悪感に似たものがあった。もうすこししたら自分の部屋へもどり、髯をそろう。だがいまは展望ルームを去るのがためらわれた。すくなくともここでは大ぜいの人間――乗客がいる。船室へもどればまったくの孤独である。  それとも孤独になれるからこそ、今ここを去るべきであろうか?  彼はいまの感情は好かなかった。狩りたてられている感じ、友達がいないという寂しさが堪えがたかった。  いま、あらゆる友が彼を去っていた。二十四時間足らず前、観視《ヴィジ》フォーン呼出しで眠りから起こされた瞬間から、彼はあらゆる友達を失ったのだ。  寄宿舎でさえ、あれ以来彼はとりつく島のない困惑のかたまりとなっていた。学生ラウンジでジョンティと話をしてから帰ってくると、舎監のエスバック老が彼を待ちかまえていた。エスバックは動顛《どうてん》そのもので、声さえが上ずってかん高かった。 「ファリル君、わしは君をさがしていたんだ。まったく不幸な事故だった。わしにはまるでわからん。いったい君にも説明があるのか?」 「ないんです」バイロンもなかば叫ぶようにして答えたのだった。「ぼくにも説明ができないんです。いつぼくの部屋へはいって、私物を持ちだしてこれるでしょうか?」 「朝になれば大丈夫だと思うよ。わしたちで、部屋のテストをしに、ようやく機械をここまで持ちあげてこれたのだ。もう正常のバックグラウンド・レベル以上に放射能はないようだよ。君が逃げられたのは、まったく幸運だった。ほんの数分のところで、取返しのつかないことになるところだった」 「まったくそのとおりでした。でも、あなたさえさしつかえなかったら、ぼくはすこし横になりたいんですが」 「いいとも、朝までわしの部屋を使いたまえ。あとで、残りの数日間の君の部屋を決めておくから。ええと、ついでにだが、ファリル君、かまわなかったら――ひとつ他の用件があるんだが?」  エスバック老は気持のわるいほど丁寧な言葉づかいになった。その気を使いすぎる態度は、まるで卵を踏みつぶすのを恐れるかのようにおっかなびっくりである。 「他の用件って?」バイロンがものうい声できいた。 「君は誰か心あたりが――君をいじめたがっている者はおらんのだろうね?」 「ぼくをいじめるって、|こんなひどい《ヽヽヽヽヽヽ》ことをしてですか? もちろん、心あたりなんかありませんよ」 「じゃ、君のこれからのプランはどうなんだね? もちろん学校当局は、この事故のことで評判が立つと、ひどく困るだろうと思うんだが……」  なんと、エスバック老はこれを「事故」として片づけたがっている! バイロンはつっけんどんに答えた。「お気持はよくわかりますよ。でも心配しないで下さい。ぼくは調査なんかしてもらいたくないし、警察を呼んでもらいたくもないんです。ぼくはもうすぐ地球を去ることになっています。そのぼく自身のプランを狂わせたくないんですよ。ぼくは告発なんかしませんよ。どのみち、生命《いのち》に別条はなかったんですから」  エスバックはこれを聞いて、あきれるほどの安堵《あんど》をみせた。結局、学校側はそれを望んでいたのだった。大ごとにならないように、ただの事故として葬ってしまいたい――それが彼らの偽らざる気持なのだ。  バイロン・ファリルは翌朝七時に自分の部屋へもどることができた。静かだった。もうクロゼットにささやきは聞こえなかった。爆弾もなく、計数管《カウンター》もなかった。おそらく彼らがこっそり取りだして大学校庭のそばの湖へ投げすててしまったのだろう。証拠|湮滅《いんめつ》といっていい。だがそれは学校側に心配させればいい。今の彼には焦眉《しょうび》の仕事があった。持物をスーツケースに押しこみ、デスク上の観視《ヴィジ》フォーンを呼んで別の部屋をくれと頼んだ。もう室内照明は完全であった。もちろん観視フォーンも故障なく働いている。昨夜の事件の名ごりといえば、ドアがねじ曲っていること、錠《じょう》のところが溶解して穴になっていることぐらいであった。  彼らは別の部屋をくれた。これで、誰か彼の話をきいてくれそうな知人を待って、しばらく地球にとどまる意図があったという証拠をつくることができた。彼はそれからホールの観視《ヴィジ》フォーンを使い、空中タクシーを呼んだ。誰にも見られていないと思った。学校当局が彼が表ざたにしないと言ったのを喜んだのもつかの間、こんどは謎《なぞ》の失踪《しっそう》に狼狽《ろうばい》するだろう。かまわん、放っておけと彼は思った。  宇宙空港でちらとジョンティの姿を見た。二人は目まぜですれ違った。ジョンティは何も言わなかった。バイロンを認めた気配すらしめさなかった。だが、すれ違った後、バイロンの手には、目だたない小さな黒い球状ガラス器――それは個人用カプセルだった――と、ローディアまでの乗船チケットが握られていた。  バイロンはちらと個人用カプセルへ注意をむけた。封はしてなかった。それにはいっていたメッセージはあとで船室で読んだ。ごくかんたんな紹介状であった。  展望ルームでながめている地球が刻々に縮小していった。しばらくの間、バイロンはサンダー・ジョンティの上に思いをはせていた。彼はジョンティという男のことはごく上面《うわっつら》のことしか知らなかった。ところがいま突如として、男は彼の人生局面へすさまじい勢いで立ち現れたのである。最初は彼の生命の救い主として、つぎには彼を未知のコースへ駆りたてる強制者としてであった。バイロンはサンダー・ジョンティという名前は知っていた。道で会えば会釈《えしゃく》し、フオーマルな言葉を交わす程度の知りあいであった。それ以上のつきあいはなかった。彼はジョンティという男を好かなかった。冷静な、とりすました物腰が気に食わなかった。それにしゃれのめした服装、気どった態度に嫌悪をおぼえた。だが今になってみると、個人的な好悪などは何の意味もなくなっていた。  バイロンはいらいらと|角刈り《クルー・カット》の頭を手でかきあげ、ため息をついた。ほんとうは今、彼はジョンティがそばにいてくれることを心から願っているのだった。すくなくとも、ジョンティがいま情況のヘゲモニーを握っていた。何をすべきかを知っているのはバイロンではなく、ジョンティであった。バイロンの行動を規定しているのはジョンティであった。だのにいまバイロンはひとりきりであった。あまりにおさない自分、たよりなく、友達もなく、ほとんど怖気《おじけ》づいてさえいる自分を彼は見つめていた。  だがこうした思念のあいだも、彼は意識的に父のことを考えまい考えまいとしていた。考えたとて、どうなるものでもなかった。 「ミスター・マレーン」  二度三度その名前が繰り返された。そして彼の肩をうやうやしくさわったものがあるので、はっとなって彼は眼をあげた。  ロボットのメッセンジャーがもう一度「ミスター・マレーン」と呼んだ。五秒ばかり、バイロンはぽかんとロボットを見つめていた。やっと、マレーンというのが彼の臨時の偽名であるのに気がついた。ジョンティがくれた乗船チケットに鉛筆で薄くその名が記入してあった。彼の特別室《ステート・ルーム》はマレーンという名で予約してあったのだった。 「はい、何でしょう? ぼくがマレーンだが……」  内臓に仕掛けられているスプールが回転して伝言を再生している間、ロボットの声はかすかに耳ざわりな歯擦《しさつ》音であった。「あなたの特別室《ステート・ルーム》が変更されたことをお知らせするように頼まれました。それから、あなたの手荷物ももう移されております。事務長にお会いになれば、新しいキーがもらえます。このためにご不便をお感じにならないものと信じます」 「いったい何のことだ?」バイロンは椅子のままくるりと向き直ってきいた。まだ展望ルームに残って地球をのぞきこんでいた数人の船客が、かん高い怒声にびくっとなって頭をあげた。 「いったい、どういう訳なんだ?」  だが、単に命令されたことを実行するだけの機械にむかっていきりたってみてもはじまらないことだった。ロボットは金属製の頭部をうやうやしく下げると、そのまま彼のもとを去っていった。人間の微笑を模したいんぎんな迎合の表情にはいささかの変化もなかった。  バイロンは大股《おおまた》で展望ルームを出ると、ドアのところで乗務員を呼んだ。意図していたよりも多少語気が荒くなるのをどうすることもできなかった。 「ちょっと、君。船長に会いたいんだが」  乗務員は驚いたふうも見せなかった。「重大なご用件でしょうか?」 「重大なことだとも。たったいま、ぼくの事前許可もなく特別室を変更された。いったいどういうことかききたいんだ」  このときもまだ、バイロンは自分の怒りがおおぎょう過ぎることに気づいていた。しかし怒りは鬱積《うっせき》した不満の爆発であった。彼はあやうく殺されかけた。まるで犯罪人か何かのように地球を強制退去させられた。どこへ行くのか、何をするのか、知らされていなかった。そこへもってきてまた、船上で小突かれている。爆発も当然であった。  だが、怒りながらも彼はジョンティのことが頭から離れないでいた。ジョンティならもっと違った行動パターンをとったろう。もっと賢明に行動しただろう。そう思うと不愉快だった。しょせん彼はジョンティではなかった。  船の士官が言った。「事務長を呼びましょう」 「いや、船長でなければダメだ」とバイロンは言い張った。 「たってとおっしゃれば……」それから襟に吊ってある小さな船内通信機でかんたんに会話《やりとり》をした後、「いま、向こうからお呼びだしをいたしますから。しばらくお待ち下さい」と士官は丁重に言い添えた。  ハーム・ゴーデル船長はどちらかといえば小柄の、がっしりした身体《からだ》つきの男であった。バイロンが船長室へはいっていくと、いんぎんな態度で椅子から立ちあがり、デスクから身体をのばしてバイロンの手を握った。 「ミスター・マレーン。ご迷惑をおかけしてすみません」  角張った顔、鉄灰色の髪、それよりはわずかに黒い、きれいに手入れした短い口髭《くちひげ》、そしてきびきびした笑顔《えがお》がそこにあった。 「そうですよ」とバイロンは言った。「ぼくの名前でちゃんと特別室の予約がしてあるのに、一言のことわりもなく変更するなんて、いくら船長でもそんな権利はないと思うのですが」 「お言葉のとおりです、ミスター・マレーン。ですが、なにしろ緊急事態でして、ご察し願いたいのです。出航まぎわに乗船なさった偉い方が、船の重心に近い特別室に移りたいと熱心にお望みなものですから。その方は心臓病でして、船の重力をできるだけその方のために低くしてあげることがぜひとも必要だとおっしゃるのです。どうもやむをえない仕儀でしてね」 「なるほど。だけどどうして特にぼくを選んだのですか?」 「どなたかに我慢していただかなくてはなりません。ちょうどあなたがおひとりのご旅行ですし、それに若くていらっしゃる。多少重力がきつくとも故障なくご辛抱していただけると思ったものですから……」船長の眼は自動的に、六フィート二インチの筋骨隆々たるバイロンの体躯を、頭のてっぺんから足もとまで見上げ見下ろした。「それにですね、ミスター・マレーン、新しいお部屋は前のよりずっとりっぱなんですよ。けっしてご損にはなりませんから――けっしてけっして」  船長はそう言って、デスクからわきへ一歩踏みだしてきた。「新しい船室へご案内いたしましょうか……」  バイロンはあくまでも不平を唱えることがむずかしくなった。考えてみれば、事情はやむをえないもののように見える。かといって、よく考えてみるとやはりどうも理屈に合わないように思えてくるのであった。  新しい部屋から二人で出ながら、船長が言った。「明晩のディナーには、わたしのテーブルでご一緒ねがえませんでしょうか? わたしどもの最初の『ジャンプ』がちょうどその時間の予定になっております」  バイロンは招待を承諾している自分の声を聞いた。「ありがとう。光栄です、喜んでお伴しましょう」  言ってしまってから、バイロンはこの招待を異《い》なものに感じた。船長が彼をなだめようとしているだけだとしても、その方法が変だ。必要以上に大げさではあるまいか?  船長のテーブルは食堂《サロン》の一方の壁ぜんぶにわたる長いテーブルであった。バイロンが腰かけさせられた席はテーブルのほぼ中央であった。他の客とははっきりと区別された異常といえる上座であった。しかし、彼の前にちゃんとカードが立ててある。スチュアードも何のためらいもなく彼にその席をすすめた。間違いようもなかった。  バイロンは特にへりくだって卑屈になりはしなかった。ウィデモス牧畜領主《ランチャー》の嗣子《あとつぎ》として、へりくだるというような性質が涵養《かんよう》される必要はまったくなかったからである。だがいまの彼はバイロン・マレーンであって、ふつうの市民にすぎなかった。ふつうの市民にこんな異常な礼遇が与えられる理由がなかった。  そういえばもうひとつふしぎなことは、彼の新しい特別室がりっぱだという船長の言葉がまったくそのとおりであったことである。最初の部屋は乗船チケットの指示どおりのもので、シングル・ルームの二等であった。新しい特別室は、まずダブル・ルームである。それにバスルームがついている。もちろん個人用のバスルームだ。そしてシャワーとエア・ドライヤーがついている。  そこは、いわゆる「|士官の国《オフィサーズ・カントリー》」つまり士官室の近くであり、制服の士官たちが多数見られる、圧倒されるような威風があふれていた。昼食は銀盆にのせて彼の部屋まで運ばれてきた。ディナーのすこし前、とつぜんに理髪師が現れた。豪華宇宙定期船で、一等船客として旅行したらこういうサービスであろうか。しかしいまのバイロン・マレーンにとっては行き過ぎたもてなしだといえる。  事実、行き過ぎたもてなしであった。というのは彼は、理髪師がやってくる前に、以前の部屋へ行ってみた。なおその異常さが気になっていたからである。彼はわざと遠回りをしていくつかの廊下を通り、午後の散歩に抜けだしてみたのだ。廊下の角をまわるごとに、乗組員が侍立《じりつ》していた。彼の姿を見ると、いんぎんそのものに身体を硬直させ、とりすがらんばかりに彼のところへ駆けよってきた。彼はどうやら乗組員をふりはらい、一度も寝なかった最初の部屋、一四〇D号へたどりついた。  ドアの前で立ちどまり、シガレットに火をつけた。彼がそうしている間、長い廊下に見えていたただひとりの船客の姿が角を曲がって消えた。バイロンはそっとドアの信号灯にさわった。答はなかった。  なるほどそうか――まだ以前のキーは取りあげられていなかった。うっかり忘れたのだな。彼は細長い薄手の金属片を鍵穴《オリフィス》にさしこんだ。アルミニウム被覆《シース》のなかに印刷してある、鉛色の不透明物質でできた独得の回路パターンが、小さな光電管を作動した。ドアが開き、彼は内側へ踏みいれた。  それだけで十分であった。彼がしきいを退くとドアは自動的に彼のうしろで閉じた。彼は即座にひとつのことを知った。彼がはじめに使用したこの特別室には誰もはいっていないのだ。心臓病の偉い人どころか、誰もいないのだ。ベッドも掛けものもきちんと畳んだままである。トランクもない。化粧道具の類いも見えない。人がはいっている気配さえないのだ。  だとすれば、彼らが豪華なサービスで彼を取り囲んだ意図は、ただ彼が最初の部屋を使うのを阻止しようとするためではなかったのか? 彼らはいわば賄賂《わいろ》をつかって、彼におとなしく古い部屋から遠去かってもらっているのではないのか? なぜだ? 彼らの目的は部屋なのか? それとも彼自身のことなのか?  その彼はいま、これらの疑惑に答えられぬまま、船長のテーブルにすわらされていた。そして船長がはいってきて、長いテーブルの据えられている壇《プラットホーム》のステップをのぼり、その席に就くまで、彼は他の客たちとともにうやうやしく起立して船長を迎えたのである。  |いったいなぜ《ヽヽヽヽヽヽ》、彼らはバイロンを移動させたのか?  船内には音楽が流れていた。食堂《サロン》と展望ルームを仕切っていた壁は後退させられていた。照明は低くたれ、オレンジ・レッドにいろどられていた。当初の加速の後に残る気分のわるさ、あるいは船体各部分でわずかに強度の異なる重力へはじめて人体がさらされたことからくる宇宙酔いは、たとえ多少はあったとしても、もう過ぎ去っていた。サロンは満員であった。  船長はかすかに前へのりだし、バイロンに問いかけた。「こんばんは、ミスター・マレーン。新しい部屋の居心地《いごこち》はいかがですか?」 「文句なしに快適といっていいです。ぼくのようなものにはすこし贅沢《ぜいたく》すぎます」平板な調子でバイロンは答えた。船長の顔に一瞬かすかな狼狽のいろが現われたようであった。  デザートを食べているあいだに、展望ルームをおおうカバーがなめらかにソケットへ後退し、ガラスの水泡ドームがあらわになった。照明はほとんど無きにひとしいまでに暗くされていた。そこに現われた広大な黒々とした透明な壁にはいま、太陽も、地球も、その他の遊星も見えていなかった。船客はいま銀河に向かいあっているのであった。レンズ状の銀河系が天を流れる大河のように長く見えていた。硬質の輝きを放つ星くずのあいだに、全天をよぎって白くひかる対角線上の道をそれはつくっていた。  船客たちのにぎやかな会話は、言いあわせたように退潮していった。椅子を動かす音がし、みんな星を見上げた。ディナーの賓客たちはひとつに融けあって聴衆となり、かすかな音楽のささやきに耳を傾けていた。  アンプリファイアから流れてくる音声は明晰《めいせき》で、集まった静かなディナーの雰囲気にぴったりとマッチしていた。 「紳士淑女のみなさま! わたしたちはいよいよ、最初の『ジャンプ』を行う用意がととのいました。ほとんどのみなさまはすでに、すくなくとも理論的には『ジャンプ』とは何かということはご存知だと思います。しかしながら、みなさまの多くは――おそらく過半数の方がそうであると思いますが、まだ実際には一度もその体験がおありではないでしょう。それでこれから特にご説明申し上げるのはそうした未経験の方々のためであるとご承知ねがいます。 『ジャンプ』といいますのは文字どおり跳躍の意味であります。時空という構造体そのものの内部におきましては光の早さよりも早く旅行することは不可能であります。これは古代人の一人、すでに伝説的な学者たるアインシュタインによって最初に発見された自然法則であります。アインシュタインといえば、あまりに多数の発見が彼の功績に帰せられておりますが、それ以外はすでに伝説的な古代学者であります。ところで、もちろん、この自然法則によりまして、たとえ光の速度で旅行いたしましても、恒星《こうせい》へ達するには、静止時間において数百年を要するのであります。  したがいまして、時間と距離とがもはや何らの意味をももたないところの超空間《ハイパースペース》というほとんどわれわれに知られていない世界へ入りこむためには、わたしたちはこの時空構造体を退去しなければならないのであります。これはたとえてみれば、海上を航行してひとつの大陸を遠くまわって別の海へ出るよりも、狭隘《きょうあい》な地峡を越えてひとつの大洋から別の大洋へ一足跳びに移動するようなものであります。  もちろん、この、人によっては『空間のなかにある空間』といわれております超空間へはいりますには、とほうもないエネルギーが必要であります。同時に、適当な時点におきまして、ふつうの時空構造体へ再突入いたしますには、実《じつ》にむずかしい数学計算を必要とするのであります。しかしながら、この膨大なエネルギー量と知能量とを消費して得られる成果は、広大な距離をゼロ時間でカバーしうるという一事であります。かくて恒星間旅行を可能ならしめる道はただひとつ、『ジャンプ』による方法のみであります。  わたしたちがこれから行おうとする『ジャンプ』は今から十分間ばかりのうちに起こります。これが警告であります。どうぞみなさんそのおつもりで。ただし、ごく短時間、ごくわずかな不快感があるばかりでありまして、それ以上のことはありません。ですから、みなさんどうぞあわてずに、冷静にしていて下さるようにおねがいします。それではこれで。ご清聴《すいちょう》を感謝します」  船内の照明はまったく消えてしまい、ただ星の光だけが残された。  かなりの時間がたち、やがてきびきびした調子のアナウンスが船内の空気を震わせた。「『ジャンプ』は今から正確に一分後に起こります」ついで同じアナウンスが、秒読みをはじめていった。「五十……四十……三十……二十……十……五……三……二……一……」  あたかも存在の内部に瞬間的な不連続が生じたかのようであった。ただ、人間の骨の内部の深いところにだけ、はげしい動揺が感じられたかのごとくであった。  その計測すべからざる極微の一瞬のうちに、百光年の大距離が突破されたのである。そしてさっきまで太陽系のすそにあった宇宙船はいま、恒星間空間の深部に漂っていた。  誰かバイロンのそばの船客が震え声でいった。「ほら、あの星を見てごらんなさい!」  たちまち、驚きのささやき声が広いサロンに息をふきかえし、テーブルからテーブルへとさざ波のように伝わっていった。「ほら、あの星を!」  その同じ計測すべからざる極微の一瞬に、星の眺望《ちょうぼう》はまったくその趣を変えていた。端から端まで三万光年の大距離をわたっている偉大なる銀河系の中心部がいま真近にあった。星の数が増し、厚みが増していった。星はきめのこまかい銀砂のように、黒いビロードの真空のなかにばらまかれていた。その間にぽつりぽつりと、ごく近い恒星が書割《かきわ》りのように輝いていた。  バイロンはわれにもあらず詩のはじめの一節を思いだした。十九歳というセンチメンタルな少年期に、はじめての宇宙旅行のとき彼がつくった詩だった。彼がいま去ってきた地球へ、彼が初めて旅行したおりの感懐なのであった。静かに彼の唇が動いた。  星は塵《ちり》のように  わたしをめぐっている  躍動する光のもやとなって  そしてわたしはあらゆる空間を  ひと眼のうちに  ながめているみたいだ  そのとき照明がつき、バイロンの想念は破られた。そこへ埋没していったのも突然なら、さめるのも突然だった。彼は宇宙定期船のサロンにもどっていた。ディナーは終わりにさしかかっていた。私語会話はふたたび散漫なデシベルへ高まっていった。  彼は腕時計を見た。最初すこし離して、それからゆっくりと眼を近づけてゆき、焦点へあわせた。彼は長いこと、一分間もじっと腕時計を凝視していた。彼があの晩ベッドルームへ置いてきた腕時計である。放射能爆弾の殺人的放射線に耐えた腕時計である。彼はその翌朝、他の持ち物といっしょに、これを取り返したのである。あれ以来、何度この時計を見たことか! 何度腕時計を見つめ、時間を心にとめながら、それが彼に叫びかけているもう一つの重大な情報に、どうして心をとめなかったか?  プラスチックの腕バンドは白色《ヽヽ》だ。ブルーではない。|腕バンドが白だ《ヽヽヽヽヽヽヽ》!  ゆっくりと、あの晩の出来事がつじつまがあってきた。その全部《ヽヽ》が秩序よく並べられてきた。たったひとつのちっぽけな事実が、もろもろの他の事実が織りなす大混乱を一刀両断してしまうとは、なんというふしぎなこともあるものだ。  彼は出し抜けに席を立ち、低い声で「ごめん!」とつぶやいた。船長より先に席を立つのはエチケットに反している。だが今の彼にとって、エチケットはちっぽけな問題にすぎなかった。  彼は非重力エレベーターを待たず、斜道《ランプ》を急いで駆けあがり、自分の船室へ行った。背後にドアの錠をおろし、あせる眼でバスルームそれから作りつけの戸棚のなかを捜した。賊をつかまえるとは、期待していなかった。彼らは、しなければならぬ措置はすでに数時間前にやっていたはずだから。  彼は鞄《かばん》のなかを慎重にさぐった。彼らは徹底的な仕事をしていた。彼らが部屋へはいり出ていったことをしめすどんな兆候も見られなかった。彼らは彼の身分を証拠だてる書類を巧みに盗んでいた。それは父からきた手紙の束である。それから、個人用カプセルにはいったローディアのヒンリックあての紹介状がなくなっていた。  だからこそ彼らはおれを移動させたのだ。彼らの関心は古い部屋でも新しい部屋でもなかった。それはただおれを移動させる口実にすぎなかったのだ。彼らはたっぷりと一時間、合法的に――|合法的にか《ヽヽヽヽヽ》、ちくしょう!――おれの荷物をしらべ、目的を達したに違いない。  バイロンはダブルベッドの上に頭をかかえてすわりこみ、猛然と思考の糸をたぐった。だが効きめはなかった。敵の罠《わな》は完璧であった。すみからすみまで綿密に計画されていたのだ。あの晩、寄宿舎のベッドルームに腕時計を置き忘れるという、予測すらもつかない偶然の幸運にめぐまれなかったら、いまもなお、ティラン人が宇宙にはりめぐらした網がどれほど目の細かい巧緻なものかに気づかなかったに相違ない。  やわらかい唸《うな》りが聞こえた。ドア・シグナルが鳴っているのである。 「おはいり」  はいってきたのはスチュアードだった。丁寧な口調《くちょう》で、「船長が、何かあなたさまのためにお役にたつことはないかと申しておりますが……。テーブルをお立ちになったとき、おかげんが悪いようにお見受けしましたそうで……」 「ぼくは大丈夫だよ」  やつら、なんとおれをしつこく監視していることだろう! そうひとり言をつぶやいた瞬間、バイロン・ファリルはのがれるすべがないことを悟った。宇宙船が蛇《へび》のなま殺しのように、じわじわと、丁重いんぎんに、だが確実に、彼を死へ追いつめていく……。 [#改ページ]   四 釈放か?  サンダー・ジョンティは冷然と相手の眼をみつめた。「なくなっている――そう言うんだな?」  リゼットは赤ら顔をさすった。「|何か《ヽヽ》がなくなっています。|何か《ヽヽ》がです。何であるかはわかりませんが。わたくしたちが捜していた文書だったかもしれません、もしかすると。わたくしたちにわかっていることは、あの文書というのは地球の原始的な暦で十五世紀から二十一世紀までの何年何月かの日付がついているということ、それからそれがとても危険なものだということ、の二つだけですから」 「なくなったのが|例の《ヽヽ》文書だというのは、はっきりした理由でもあるのか?」 「いいえ、ただ情況的な理由だけです。地球政府はとても厳重にあれを保管していましたから」 「そんなのは理由にならん。地球は、どんな文書でも、銀河系以前のものならひどく貴重に取りあつかうのだ。彼らの、笑うべき伝統崇拝病だよ」 「でも、この文書は盗まれているのに、彼らはまだそのことを発表しておりません。空《から》っぽの保管ケースをなぜ彼らは護衛したりするのでしょうか?」 「ぼくの想像だが、彼らは神聖な古代遺物が盗難にあったと白状するのがいやだから、頬冠《ほおかむ》りして護衛の格好をつけているのだ。しかし、あの若造のファリルがそれを手に入れたとはどうしても信じられない。君が彼を監視していたはずじゃなかったのか?」  相手はにやりと笑った。「ファリルはあれを手に入れておりません」 「どうしてそんなことがわかる?」  ジョンティの諜報員はしずかにとっておきの情報を披露《ひろう》した。「あの文書は二十年前からなくなっているのですから」 「何だと?」 「二十年間誰も見たものがないのです」 「だとすれば、われわれのさがしている例の文書ではない。牧畜領主《ランチャー》が例の文書の存在を知ったのはわずか六か月足らず前のことだ」 「では、誰かが十九年と六か月サバを読んで牧畜領主《ランチャー》に教えたのでしょう」  ジョンティはしばらく考えていたが、やがて、「大したことじゃない。うむ、問題になるはずもない」 「なぜです?」 「ぼくが数か月前からここ地球に来ているからだよ。ここへ来て観る前だったら、この惑星に価値のある情報が得られるかもしれないと考えることもできた。しかし今は違う、考えてみろ。地球が銀河系で唯一の可住惑星であったころは、地球は軍事的にはひどく原始的なところだった。彼らの発明した武器といえば、粗雑で非能率的な核反応爆弾ぐらいなものだ。しかも、これに対して理屈にあった防衛手段すら開発できていなかった」ジョンティはそう言って片方の腕を前へつきだし、漠然と外をしめした。部屋の厚いコンクリートの壁のむこうに、青い地平線があった。凶暴な放射能で地平線は陽炎《かげろう》のような妖《あや》しい光を放っていた。  ジョンティは語をついで、「地球に短期滞在者のぼくには、かえってこの点がひどく鮮明なのだ。あの程度の軍事テクノロジー段階でしかない社会から何かを学びとることができるなどと考えることが|どだい《ヽヽヽ》どうかしている。失われた古代美術とか失われた古代科学などが発掘できると想像するのは、いつの時代でも流行《はやり》の考え方だ。原始文化を崇拝し、地球に史前文明があったなどとやたらにバカバカしい議論をする人種はいつの時代にもあるものだよ」 「でも牧畜領主《ランチャー》は賢い人でしたよ。その彼がわたくしたちに特にこう言っていたではありませんか――あれこそ自分の知っている最も危険な文書だと。彼の言葉を覚えていらっしゃるでしょう? わたくしは一語一句暗誦していますよ。『この一件はティラン人には死を意味する。われわれにもまた死を意味する。だが銀河系にとっては最後の生を意味するであろう』と」 「牧畜領主《ランチャー》だって人間であるかぎりは間違ったことも言うよ」 「しかし、あなた、考えてごらんなさい。わたくしたちはまだあの文書がどんな性質のものか、見当すらついていないではありませんか。たとえばですよ、誰か古代学者の実験室ノートで、未発表のものかもしれないではありませんか。あるいはまた、地球人が絶対に武器とは認めていない武器――つまり表面上は武器とは言えないかもしれないあるものですね、そういうどえらい何かに関係したものかも――」 「ナンセンスだ。君は専門の軍人だろう? もうすこし知恵があると思ったが、もし人間が継続的にそして成功的に研究をつづけてきた科学というものがあるとすれば、それは軍事科学だ。一万年もかかって実現しない武器などあるものか。リゼット、ぼくたちリンゲーンへもどるべきだよ」  リゼットは肩をすくめた。承服しがたいのである。  だが承服しがたいのはむしろジョンティである。リゼットの千倍も承服できないのがジョンティの心情であろう。あれが盗まれた! じつに意味深長である。盗むだけの値打ちがあったということだ! 銀河系の誰かがそれをいま持っているのかもしれない。  認めたくはない――だがティラン人がそれを持っているかもしれない。そういえば、牧畜領主《ランチャー》は、この件については妙に言を左右にした。この文書という一件についてだけは、ジョンティ自身ですら、牧畜領主から十分に信用されていなかった! 牧畜領主は、あれは死の運搬者だと言った。こちらも滅ぼされる覚悟がなければ使用できないと言っていた! ジョンティの唇が今かたく閉ざされた。あの大バカ者の牧畜領主め! お人善しで、つまらぬことをうっかりと他人《ひと》にもらしやがって! そして、とどのつまりが、ティラン人にしてやられてしまった!  アラタップのような男か、あの文書にかくされているかもしれない秘密を握ったら、どういうことになるか! 牧畜領主《ランチャー》が処刑された今となっては、端倪《たんげい》すべからざるくせ者といえば、あの男ひとりだ。ティラン人全体のうちでも、もっとも凶暴な、もっとも危険なやつ!  シモック・アラタップは小男であった。ガニ股で、細眼の、小さな男である。一般ティラン人の、ずんぐりした、足のふとい外貌《がいぼう》を呈してはいた。だが、従属諸世界の異常に体格の大きい、筋肉の発達した人種たちに立ちむかいながらも、シモック・アラタップは完全に泰然自若《たいぜんじじゃく》、堂々とふるまっていた。その原住惑星であった強風の荒れくるう、不毛の諸世界をあとにして、宇宙の空漠を横断し、火花のように四方八方へ散り、ネビュラ空域にただよう豊饒《ほうじょう》で人口|稠密《ちゅうみつ》な諸惑星を捕え、これを鎖につないだ征服者たちの、アラタップは自信満々たる後継者(二代目)であった。  アラタップの父は艦隊の司令官であった。彼の指揮する小型の、高速の艦艇は疾風のごとく奇襲しては忽然《こつぜん》と姿を消し、消えたかと思うとまたも奇襲に出た。こうして、抵抗する巨大宇宙艦の艦隊をつぎつぎに滅ぼして宇宙を征服したのである。  ネビュラ空域の諸世界は旧式の防衛を行なったが、ティラン人は新方式を発明していた。反対諸国の宇宙海軍が誇る、ずう体の大きい、ぴかぴかに船殻をかがやかせた宇宙艦は個別戦闘をこころみた。だが彼らは敵なき空虚へ攻撃をしかけるだけで、エネルギー貯蔵を消耗してしまった。これに反して、ティラン人の宇宙海軍は火力のみにたよる戦術をすて、速度とチームワークとに力をそそいだ。このため、抵抗するネビュラ王国集団《キングダムズ》の諸惑星はつぎからつぎへと倒されていった。王国集団《キングダムズ》惑星国の各々は、鋼鉄宇宙艦の城壁をめぐらせ、その防衛力に誤って恃《たの》み、むしろ近接|王国集団《キングダムズ》惑星国の敗走をなかばよろこびながらながめていた。そしてつぎはわが運命であることを悟らず、相次いで屠《ほふ》られていったのである。  しかしそれは五十年前の戦争である。今はもう、ネビュラ空域は自分にとって、占領と課税の手数しかかからない従順な隷属惑星の群れでしかない。昔は戦いとるべき諸世界があった。今はもう、争う対象は単に人間だけだ。人間を扱う以外に自分にはすることがない。アラタップはそう思って、ものうげにため息をついた。  眼の前の若い男を見た。おどろくほど若い男である。ひどくたくましい両肩をもつ丈《たけ》の高い男である。おそらく大学生のあいだで粋《いき》なスタイルというのであろう、ばからしいほどひどく髪を短くしている。その下に、憑《つ》かれたような、熱心な顔がある。非公式には、アラタップは若者を気の毒だと思った。若者が恐怖にかられているらしいからである。  バイロンは自分の内部の感情を「恐怖」だとは認めなかった。この感情を何というかと問われたら、彼は「緊張」だと答えただろう。彼は生まれて以来ティラン人を大君主の階級と思ってきた。彼の父は、気性の強い、生気にあふれた人で、自分の王国では有無をいわさず君臨し、他の王国領地へいけば尊敬をうけていた。しかしその父もティラン人のいる前ではもの静かで、ほとんど卑屈といっていいほど小さくなっていた。  ティラン人たちはときどきウィデモス王国へ政治的な公式訪問を行ない、ティラン人が徴税と呼んでいる毎年の進貢について質問をした。ウィデモスの牧畜領主《ランチャー》は、ネフェロス惑星の分として、税金の徴収とティランへの送金の責任を負わされており、ティラン人は形式的に牧畜領主の帳簿類を検査しにくるのであった。  ティラン人が到着すると、牧畜領主《ランチャー》みずからまかりでて、ティラン人を小さな宇宙艇から助けだした。ティラン人たちは食事のときもテーブルの上座にすわり、まずかれらからサーブされるのであった。ティラン人たちが口を開けば、一座の私語はぴたりと止まり、ティラン人の言葉を拝聴するのであった。  バイロンは子供心に、どうしてあんな小さな醜い男たちがこれほどうやうやしくもてなされるのだろうかと不審に思った。しかし成長するにつれ、醜い小男たちが、父にとっては、父が牧童に対するような立場にあるのだということがわかってきた。彼はティラン人に対してやさしい声でものを言う習慣すら身につけ、ティラン人には「あなたさま」と呼びかけるようにさえなっていた。  こういう習慣がすっかり彼の心のなかに根をおろしていたので、いま大君主族すなわちティラン人の一人に正面から立ち向かっていると、バイロン・ファリルは思わず全身が緊張で震えてくるのをどうすることもできなかった。  バイロンが自分の牢獄だと思っていた宇宙船は、ローディアに着陸した日に正式に牢獄となった。彼のドアにシグナルがあり、二人の体格のよい乗務員が室内へはいってきて、彼の両脇に立った。乗務員のあとからはいってきた船長が、今までとはまるで違ったにべもない冷淡な調子になって宣言した。「バイロン・ファリル、わたしはこの船の船長として自分に与えられた権限にもとづいて、あなたを逮捕し、グレート・キングの弁務コミッショナーの尋問をうけるため、あなたを拘禁する……」  今彼の前に、一見放心したように、無関心の表情ですわっている小男のティラン人がその弁務コミッショナーであった。「グレート・キング」というのはティランの汗《かん》であり、ティランの本拠惑星にある伝説的な石造の大宮殿に今もなお住んでいるということであった。  バイロンはそっとあたりを見まわした。彼は肉体的に拘束されているわけではない。だが、ティラン外郭警察《アウター・ポリス》のネズミ色の制服をつけた四人の護衛兵が二人ずつ、彼の両わきに立っている。四人とも武装している。少佐の徽章《きしょう》をつけた五人目の男は、コミッショナーのデスクのそばに腰かけている。  コミッショナーがはじめてバイロンにむかって口を開いた。「君も知っていることと思うが」――コミッショナーの男はかん高いキーキー声であった。――「君の父であるウィデモスの老|牧畜領主《ランチャー》は反逆罪で処刑された」  コミッショナーの脱色したような冴えない眼がバイロンのそれに釘づけになっている。やさしい色という以外には何の表情もその脱色した瞳《ひとみ》にはなかった。  バイロンは身じろぎもしないでいた。どうすることもできないことが彼をいらだてた。ティラン人へむかってわめきちらし、つかみかかることができたら、かえって胸のなかがすっきりしただろう。だがそんなことをしても父が生き返るわけではなかった。バイロンには、のっけからのコミッショナーの声明がどういう意味でなされたかがわかっていた。彼の意思をくじくために、彼にうっかりと自分の正体を暴露させるために、いきなり加えられた平手打ちである。だが、そううまく問屋がおろすものか?  彼は平然と答えた。「わたしは地球のバイロン・マレーンです。わたしの身元を問題にしていらっしゃるのでしたら、わたしは地球領事と連絡をとらしていただきたいと思います」 「ああそれはよいよ。だがわれわれはまだごく非公式な調査段階に立っているにすぎない。君は地球のバイロン・マレーンだと自称しているが――」とアラタップは眼の前のデスクの上の書類を顎でしゃくり、「ここにウィデモスがその息子にあてて書いた手紙がある。それから、大学の登録料領収証と卒業式の招待チケットがある、どちらもバイロン・ファリルあてになっている。みんな、君の手荷物のなかから発見されたものだ」  バイロンは追いつめられた感じがした。だがそれは面《おもて》にあらわさなかった。「わたしの手荷物は非合法な捜査をうけました。ですから、そのなかにあった書類を証拠として受理されることはないと主張します」 「われわれは法廷にいるのではないよ、ファリル君、あるいはマレーン君。君はこの書類をどう説明するつもりだ?」 「わたしの手荷物のなかで見つかったのだとすれば、誰かがそこへ入れておいたのだと思います」  コミッショナーは書類の問題をそれ以上追及しなかった。バイロンは驚いた。バイロンの陳述はいかにもお座なりである、いかにも子供じみている。だがコミッショナーはそれにはどうこう言わなかった。そして親指で黒いカプセルをこつこつとたたいた。「それからこの、ローディアの総督にあてた紹介状だが、これも君のものではないというのだね?」 「いや、それはわたしのものです」バイロンはこの点については言いのがれを考えついていた。紹介状には彼の名前は出ていないのだ。「総督の暗殺計画があったものですから――」  言いかけ、ぎょっとして絶句した。総督暗殺計画などと――あまりにとほうもない話で、慎重に用意してきた弁明を彼が口にのぼせたとたん、言葉は救いがたいまでにうつろな響きをもって、彼自身の耳にはねかえってきたからであった。はたして――コミッショナーが皮肉な微笑をうかべている?  だがそうではなかった。アラタップはただかすかにため息をついて、すばやい物慣れた手つきでコンタクト・レンズを眼からはずし、デスクの上の、塩水のはいっているグラスのなかへそっと入れたのであった。裸になった眼球にすこし涙がでていた。 「それで、君はそれを知っているというのだね? ここから五百光年離れた地球でそれを知っていたというのだね。ここローディアのわれわれ自身の警察がそんなことを聞いたこともないというのに……」 「警察はここです。しかし陰謀は地球で推進されているのです」 「なるほど。それで君は彼らの工作員だというわけか? それとも君はヒンリックにそれを警告しようというわけか?」 「もちろん、後者です」 「へい? そうかね? ではなぜヒンリックに警告しようというのだ?」 「相当の報酬を得たいからです」  アラタップは微笑をもらした。 「そこのところだけは真実《ほんと》のようなひびきがある。それで君のさっきの話にいくぶん真実味の艶《つや》がでてくる。では、君のいう陰謀の詳細はどうなっているのかね?」 「陰謀は総督だけにむけられたものです」  アラタップは一瞬ためらった。それから肩をひとつすくめて、「よろしい。ティラン人は地方政治になど関心がない。われわれは君と総督との会見をとりはからってやろう。総督の身の安全に対するわれわれの考慮はそれで果たせる。わしの部下は、君の手荷物を宇宙船から取りもどすまでの間、君を拘置しておく。それからは君を釈放しよう。彼をつれていけ!」  最後の言葉は武装護衛兵への命令であった。四人の護衛兵は、バイロンを引きたてて部屋を出ていった。アラタップはコンタクト・レンズを眼にはめた。レンズを取り去った後、彼の眼にあらわれていたどことなく間の抜けた表情が、ただちに消されていった。  残っている少佐にアラタップが言いそえた。「このファリルから眼を放さないでいなければならないと思うんだが、どうだろうね?」  少佐はかんたんにうなずいた。「結構でしょう? 一時は、あなたがだまされているのではないかと心配しましたよ、わたしには、あの若者の話などまるでデタラメとしか思えませんでした」 「デタラメなんだよ。ただ、これで当分の間あの男の操縦が容易になったわけだ。ヴィデオのスパイものなどから恒星間陰謀のアイデアをとっているああした若いバカ者など、どれもみんな御しやすい手合いでね。彼はもちろん前|牧畜領主《ランチャー》の息子だよ」  こんどは少佐が一瞬ためらった。「ほんとにそうお考えですか? われわれの告発の理由はずいぶんあいまいで不満足なものですね」 「結局、あれは贋《にせ》の証拠かもしれないというのか? じゃどんな目的であんなものを持っていたというのだ?」 「あの若者は|おとり《ヽヽヽ》かもしれないという意味です。どこかに潜んでいるほんとうのバイロン・ファリルからわれわれの眼をそらすための犠牲者ですよ」 「違うな、それは。あまりに芝居じみている。それに、われわれには写真立方体《フォートキューブ》があるよ」 「何ですって? あの若者のですか?」 「牧畜領主《ランチャー》の息子のだよ。見たいかね?」 「ええ、ぜひとも」  アラタップはデスクの文鎮をもちあげた。文鎮は三インチの立方体、ガラス製であった。黒々として、不透明である。「わしは、いちばんよい機会に君にこれを見せようと思っていた。じつに気のきいたプロセスを使っているのだよ、少佐、これは。君はこんなもの見たことがないだろう? ごく最近|内郭世界《インナー・ワールズ》のどこかで開発されたものだ。外観ではごくありきたりの写真立方体だが、ひっくりかえすと、分子が自動的に配置替えされて、まったくの不透明体となる。まったく愉快な意匠品だ」  アラタップは立方体の右側を上へ向けて置いた。曇った表面が一瞬ゆれ動いたように見えた。とたちまち、黒い表面は徐々に澄みはじめた。まるで、風にふかれて黒い霧がよりかたまり、羽毛のようにゆらいで消えていくかのようであった。アラタップは両手を胸の上に組み、しずかに立方体を見つめている。  やがてガラスの文鎮は水のように澄んで、そこへぽっかりと明るい微笑をうかべた若い顔が現われた。輪郭ははっきりと、まるで生きているような映像である。生きながら、ある一瞬の姿を永遠にガラスのなかにはめこまれ固定化されたかのようである。 「前|牧畜領主《ランチャー》の持物のなかにあった」アラタップが言った。「どう思う、君?」 「あの若者ですね、間違いありません」 「そうだとも」ティランの官憲は考えぶかそうに写真立方体を見つめた。「なあ君、この同じプロセスを使えば、六枚の写真を同じ一つの立方体にはめこむのはわけもないと思うがどうだろう。六面体だから、かわるがわるその一面を上にして固定すれば、別々の新しい分子配列ができるかもしれないじゃないか。六枚の関連した写真が、立方体を動かすごとにひとつが他のなかへ流れこみ、静力学的な現象が動力学的な現象に変わる。いちいち新しい息吹《いぶき》と映像を得ていく。少佐、これはまたぜんぜん新しい芸術形式の誕生だとは思わないか?」アラタップの声はいつとはなしに熱気を帯びてきた。  だが黙って見ている少佐はかすかながらあざけるような表情である。アラタップは時ならぬ芸術|瞑想《めいそう》からさまさせられ、とつぜんに言った。「じゃやはり君はファリルを監視するというんだね?」 「ええ、そりゃもう」 「ヒンリックも監視してくれたまえ」 「|ヒンリック《ヽヽヽヽヽ》ですって?」 「もちろんだよ。若者を釈放するのはそのためだよ。わしは二、三の疑問を明らかにしたい。なぜファリルがヒンリックに会おうとするのか? 二人の関係は? 死んだ牧畜領主《ランチャー》はひとりで策をめぐらしていたわけではなかろう。彼の背後にはがっちりとした陰謀の組織があった――いや、あったに相違ないのだ。しかるにわれわれはまだその陰謀の機構をつきとめていない」 「でもヒンリックが陰謀に加わっているなんてことはありえませんよ。あの男は度胸はありますが、そんな知恵はまわりません」 「それはそうだ。しかし彼が半分バカだということが臭いじゃないか。それで、彼らの道具となって使われるということもありうる。だとすれば、ヒンリックの疑う余地のない忠誠ということそのものが、われわれのもろもろの計画の弱点となる。われわれとして、このおそれを放っておくわけにはいかんだろう?」  アラタップはそう言って、無表情に顎をしゃくった。少佐は敬礼をし、くるりと振りむき、部屋を出ていった。  アラタップはため息をつき、考えに沈みながら、手のなかの写真立方体を回し、インクが流れるように、黒い影が映像をかき消すのを見つめた。  彼の父親の時代には人生ははるかに単純であった。ひとつの惑星をつぶすのは残酷は残酷だが壮快な醍醐味《だいごみ》があった。それなのにこの、罪もない若者を慎重に小突きまわすのは、無意味な残酷さでしかない。  だが、やはり必要な残酷さとは言うべきであろう。 [#改ページ]   五 不安が頭脳を狂わせる?  ローディアの総督惑星《ディレクターシップ》は、地球と比較した場合、ホモサピエンスの棲息《せいそく》惑星としてはそう古いものではない。ケンタウリの諸世界やシリウスの諸世界と比べてもさして古いとはいえない。たとえば、最初の宇宙船が「|馬の首星雲《ホースヘッド・ネビュラ》」を回り、その背後に幾百とむらがる酸素と水をもった惑星をさがしたのは、アルクトゥルスの諸惑星に人類の植民地ができてからわずか二百年後のことに過ぎなかった。棲息可能の惑星がそこには多数むらがっていた。それはじつに偉大なる新発見であった。なぜなら、宇宙空間には惑星は無限といっていいほど存在するが、人体の生化学的必要を満足する惑星はきわめて少なかったからである。  銀河系はじつに千億から二千億の発光恒星がある。そこにみられる惑星の数は五千億にも達するであろう。このうちあるものは地球重力の百二十パーセント以上、ないし六十パーセント以下の重力をもっている。したがって長期にわたっては人体には耐えがたい。またある惑星は高温に過ぎ、他は低温である。さらにあるものは有毒大気におおわれている。主として、あるいは全く、ネオン、メタン、アンモニア、塩素から成る大気をもつ惑星が記録されている。シリコン四|弗化物《ふっかぶつ》の惑星大気さえある。惑星によってはまったく水分を欠き、またほとんど純粋な二酸化|硫黄《いおう》の大洋でおおわれた惑星も記述されている。またある惑星ではまったく炭素がない。  こういう欠陥がたとえひとつあっても、人類は住めない。だから、惑星が十万個あっても、ひとつも人間の住める惑星はないということになる。しかし、これらを除外してもなお、人類棲息可能の惑星は四百万個と推定される。  四百万のうち実際にいくつに人類が棲息しているか、その正確な数は議論のあるところである。だが、不完全な記録にもとづいて編纂《へんさん》されているといわれる「銀河系年鑑《ギャラクティック・アルマナック》」によれば、ローディアは人間が住んでいる千九十八番目の世界ということになっている。  皮肉なことに、最後にローディアを征服することになったティランは人類棲息千九十九番目の世界と記録されている。  トランス・ネビュラ空域(馬の首|星雲《ネビュラ》を超えた向こうにある空域)の歴史パターンは、「発展と拡大の期間」にみられた他の空域のそれに悲惨なまでに酷似していた。矢つぎ早に惑星共和国が建設されていき、当初それぞれの政府の力はその惑星だけに限られていた。だが経済の拡大とともに近隣の惑星に植民が行なわれ、本拠社会に合併されていった。こうしてあちこちに、小さな「帝国」が生まれてゆき、ついにこれらの帝国同士が不可避的に衝突する運命となった。  これらの帝国政府はつぎつぎに興亡を繰り返し、かなりの空域全般にヘゲモニーを確立した。どの帝国政府がヘゲモニーを握るかは、もっぱら戦争の帰趨《きすう》、リーダーシップの運命によることであった。  このうち長期にわたる安定帝国を維持できたのはローディアだけであったが、それは有能なヒンリアッド王朝の支配が堅固であったからである。ヒンリアッド家支配下のローディア帝国はかくて一世紀ないし二世紀安定した繁栄をつづけ、ついに全宇宙的なトランス・ネビュラ帝国建設への大道をまっしぐらに驀進《ばくしん》しつつあるかに見えた。そのとき突如としてティラン人が現われ、全宇宙的統一をわずか十年にして達成したのである。  征服者がティラン惑星の人類であったというのは歴史の皮肉であろう。なぜならば、ティラン惑星人はそこに住むようになってから七百年ばかりの間、一個の不安定な自治政権を維持していくだけが精いっぱいの小国であったからである。ティラン人が微々たる地方政権にとどまっていたのは、主としてこの惑星の物理的条件によることであった。そこでは水分が極度に不足し、地表の多くが砂漠地帯であって、きわめて不毛な土壌しかもたなかったからである。  しかしながら、ティラン人に征服された後も、ローディアの総督政権は依然として存続した。経済成長すらみられた。それはヒンリアッド家が人民のあいだに親まれたからである。ヒンリアッド家の存在そのものが惑星統治の手段として作用した。ティラン人は租税さえ徴収できれば実際統治がどの王家によって行なわれるかには頓着《とんじゃく》しなかったのである。  事実、総督職はもはや昔日のヒンリアッド世襲制ではなかった。総督職はヒンリアッド家のなかから選出され、つねに最有能な人物が総督となった。この目的のため、養子制度が盛んになった。  しかし現在は、ティラン人は他の理由からして総督選出に容喙《ようかい》するにいたっていた。ヒンリック(同名の総督がこれで五代目であった)が二十年前に総督に選ばれたのも、ティラン人の容喙によるものであった。ティラン人にとって、ヒンリックは都合のよい選出であると思われていた。  ヒンリックは選出の当時は、長身なハンサムな男であった。そして今もなお、ローディア評議会に現われて挨拶するときなど、堂々たる風采《ふうさい》を見せていた。頭髪はきれいな灰色髪に変わっていたが、濃い口髭《くちひげ》は彼の娘の瞳《ひとみ》のようにまだ黒々としていた。  今、彼は娘と相対していた。娘は怒りに狂いたっていた。総督は五フィート十一インチの長身であるが、娘はそれより二インチ低いだけの大柄な女性であった。頭髪と眼の黒々とした、はげしい気性の女性である。その娘はいま、険悪な表情に白い顔が黒ずんでさえ見えた。 「わたし、そんなことできません!」娘はまたも繰り返した。「そんなこと、絶対しませんわ!」 「しかし、アータ、それは理屈にあわないよ。わしにどうしろというのじゃ? わしに何ができるというのじゃ? わしの立場として、わしにどんな選択が許されているというのじゃ?」 「お母《かあ》さまが生きていらしたら、きっと何かよい解決策を思いつきなさるわ」彼女はそう言って足を踏み鳴らした。彼女の名前はほんとうはアーテミジアというのである。各世代にヒンリアッド家の女性のすくなくとも一人がこの高貴な名前の持ち主であった。 「そう、そう、あるいはな。しかし、おまえ――おまえのお母さまはなんという勝気なわがまま者だったことじゃろう! おまえはまるでお母さまそっくり、生き写しと思われるときがある。それなのに、すこしもわしに似ておらん、このわしに。だが娘や、おまえはまだ彼に機会ひとつ与えておらんではないか、そうじゃろう? おまえは彼の――彼のよいところを見ておらんのではないか?」 「よいところって、どんな?」 「たとえば彼は……」ヒンリックはあいまいに手をあげて何か言おうとしたが、考え直し、手をおろした。彼は一歩前へ踏み出し、娘の肩へいたわりの手をかけようとした。娘は驚いて彼から数歩退いた。緋色《ひいろ》のガウンが揺らぎ、キラキラと光った。 「わたし彼と一晩すごしました」彼女はにがにがしげに言った。「彼はキスしようとしました。おお、いやらしいったら!」 「でも、おまえ、キスなど誰でもする。いまはおまえ、おまえのおばあさまの時代――あの敬虔《けいけん》な記憶とともにある時代と同じだと思ってはいけないよ。キスなど何でもない、ぜんぜん問題にならぬ。ただ若い血のせいじゃ、アータ、若い血がそうさせるだけなのじゃ!」 「若い血ですって、まああきれた。ここ十五年の間に、あのいやらしい小さな男の身体のなかに若い血が流れていたのは、あの輸血直後のときだけですわ。彼はわたしより四インチも低いのよ、お父《とう》さま。どうしてあんあ小人族《ピグミー》といっしょにわたしが人前へ出られます?」 「でも彼は重要人物じゃ。とてもとても偉い人なのじゃ!」 「それで背丈が一インチでも増すっていうの、お父さま? 彼はガニ股じゃありませんか、あの人種みんなと同じに。それに彼の息の臭いこと」 「臭い息じゃと?」  アーテミジアは父の眼の前へ顔をつきだし、鼻に小皺《こじわ》をよせた。「そうですわ。臭い息ですわ。とても不快な悪臭ですのよ。わたし、とってもいやな気がしました。彼にそれを気づかせてやりました」  ヒンリックが一瞬言葉もなく顎《あご》を落とした。それからしわがれた力のない声でつぶやいた。「おまえが、それを気づかせてやっただと? ティラン王室の高官に、不快な身体的特徴があるとほのめかしただと?」 「だってそのとおりなんですもの! わたし鼻がありますもの、お父さま! ですから一度彼があまり接近してきたとき、わたしは両手でそれを制したのですわ。そして押しもどしたのですわ。そしたら、おお、なんというたよりない体格の持ち主なんでしょう、あの小人《こびと》は! こんなにして両足をぴんとあげて、ばったりと背中をついて倒れたのですわ」彼女はそう言って指でその不様な格好を示してみせた。だが指での例示はヒンリックの眼にはいらなかった。ヒンリックは呻《うめ》き声をあげて肩をおとし、両手で顔をおおったからであった。  情けない表情で、指のあいだから娘の姿をのぞいた。「ああ、今どんな恐ろしいことが起こりかかっていることか! おまえ、いったいなぜそんなむちゃなことを?」 「わたしにだってちっとも愉快なことにはなりませんでしたわ、お父様。彼が何といったと思います、|何と言ったと《ヽヽヽヽヽヽ》? おお、あれは最後の言葉ですわ、聞くに堪えない侮辱《ぶじょく》ですわ、絶対的な最低限度の言葉ですわ。わたしはそのときはっきりと心が決まったのですわ――たとえ彼が十フィートも身長があろうとも、もうわたしは絶対にあの男には我慢ができないと」 「だけど――だけど――いったい彼は何と言ったのじゃ、何と?」 「彼は申しました――まるでヴィデオで向かっているみたいにまっすぐにわたしをにらんで申しましたわ、お父さま。『ほう! 元気のいい娘っ子だわい! ますます気に入ったぞ!』って。そのうちに家僕が二人であの人を助け起こしました。でもそれからはもう二度とわたしの顔の前で息をしようとしませんでした」  ヒンリックは椅子にくずれ、力なく前屈みになって、アーテミジアの顔を穴のあくほど見つめた。「彼と結婚する手続きぐらいはやってゆけるのじゃないかい、おまえ? 本気になってやる必要はないのじゃ。ただ、政治上の便宜のために、至極あっさりと――」 「どういう意味ですの、本気になってやる必要はないって? 右手で誓約書に署名している間に左手の指は組んでおれとおっしゃるの、お父さま?」  ヒンリックは困乱した表情になった。「いや、もちろん、そんなことを言っておるのではない。そんなことをして何になる? 指を組んでいたからといって、結婚誓約が無効になるわけではなかろうが。ほんとのはなしがだな、アータ、わしはおまえの愚かさにあきれておるのじゃ」  アーテミジアはため息をついた。「じゃ、どういう意味でおっしゃったんです。お父さま?」 「どういう意味って、何がじゃ? おまえは何もかもメチャメチャにしてしまった、な、そうじゃろう? わしは、おまえと議論していると、無性にいらいらしてきて、何が何だかわからなくなる。わしは何を言っておったのかな?」 「わたしがただ結婚したふりをしていさえすればいいって、何かそんなことをおっしゃいましたわ。思いだしました?」 「ああ、そうそう。わたしの言った意味は、おまえは何も結婚というものを真剣に思いつめなくてもよい、ということじゃ、わかるじゃろう?」 「じゃ、恋人をもってもいいわけね?」  ヒンリックは顔をしかめ、身体をこわばらせた。「アータ、何ということを! わしはおまえを、つつましい、誇り高い女性にと育ててきたつもりじゃ、おまえのお母さまもそうであった。そのおまえが、どうしてそんなことができる。恥を知れ、恥を!」 「でも、お父さまのおっしゃったことは、そういうことじゃありませんでしたの?」 「|わし《ヽヽ》だったらそうも言える。わしは男性である。成熟した男性である。しかし、おまえのような若い娘が! おまえは二度とそんなことを口にしてはいけない」 「でもわたし、前にも口にしましたわ。もう世間でも知れています。わたし、恋人を何人もとうと平気でやっていけますわ。それどころか、国の犠牲になって強制的に結婚させられるんですもの、おそらく恋人をもたなければやっていけませんわ、わたし。でも恋人から得られる慰めもそれだけで十分とはいきません」はしたない口をきいて、さすがに彼女は両手で口を押えた。ガウンのケープのように寛濶《かんかつ》な袖《そで》びらが、彼女の陽《ひ》焼けした、凹紋《おうもん》のある肩から、するりと流れて離れた。「恋人と楽しむ以外の時間には何をしようかしら、わたし? 彼はあくまでもわたしの夫なんですもの、そのことひとつ考えただけでも、つらくて堪えられないだろうと思いますわ」 「でも彼は老人なんじゃよ、おまえ。彼と暮らす期間はごく短いよ」 「でも十分に短くないことよ、おあいにくさま。五分前は若い血をもっていたはずでしたわね、彼? 覚えています?」  ヒンリックは両腕を大きくひろげ、それからおろした。「アータや、あの人はティラン人なのだよ、しかもたいへんな有力者なのじゃ。汗《かん》の宮廷ではよい評判《オーダ》をとっていらっしゃる」 「汗《かん》ならよい体臭《オーダ》と思うかもしれませんわ。それはそうでしょうよ、汗《かん》自身がひどい悪臭の持ち主に違いありませんもの」  ヒンリックは口を大きくあけたままにした。恐怖の徴候であった。我しらず肩越しにうしろを振りかえった。それからしわがれた小声で、「これ娘や、そんなこと二度というでない、二度と!」 「でも言いたいときは言いますわ、わたし。それに、あの人はすでに三人も妻があったんですもの」抗議しかけるヒンリックを制して、「汗《かん》のことではありません、わたしに結婚しなさいとおっしゃるあの方です」 「しかし、その妻《ひと》たちはもう亡くなっている」ヒンリックは|むき《ヽヽ》になって弁解した。「アータや、その妻《ひと》たちは生存してはいないのじゃ。もうそんなことは考えるでない。どうして、わしが可愛い娘を重婚者にめあわそうとしているなどと考えるのじゃ、おまえは? われわれは彼に文書を提出していただく。彼はその妻たちと、連続して結婚はしたが、同時にではなかった。しかも、今となってはみんな死んでいるのじゃ。三人とも亡くなっているのじゃ」 「あたりまえですわ」 「おお、何としよう――わしはどうしたらよかろう?」ヒンリックは悲痛にわめき、総督の威厳もかなぐりすてそうに取り乱した。「アータや、だがな、これはヒンリアッドの一族、総督の娘たる栄誉をになうもののやむをえぬ代価なのじゃ」 「わたし何もヒンリアッド家の娘に生んで下さいと頼みはしませんでしたわ、総督の令嬢に生んで下さいと頼みはしませんでしたわ」 「それとこれとは何の関係もない。アータや、これはただ歴史のしからしめるところなのじゃ。全銀河系の歴史がはっきりとそれを示しておる――国家の利益のために、惑星の安全のために、人民の利益のために、ときにはこのような――」 「可哀そうな娘も、場合によっては淫売婦《いんばいふ》にもならなければならないとおっしゃるんでしょう?」 「おお、なげかわしいが、この卑俗な世間ではなア! いつかおまえにもわかるときが来よう――いつの日かおまえも公然と、この父のようなことを口にしなければならなくなるじゃろう」 「いいわ、そういう浮世《うきよ》だということはわかりますわ。でもわたしはいやです。そんなことをするくらいなら、わたしはむしろ死を選びます。わたしはそれ以外のことなら|どんなこと《ヽヽヽヽヽ》でもしたいと思います、ええ、しますとも」  総督は立ちあがり、娘へ両腕を差しだした。唇が震えていた。何も言えなかった。娘はとつぜんに懊悩《おうのう》の涙にむせび、父親の胸元へ走りより、ひしと抱きついてきた。「わたしにはできない。わたしにはできないわ、お父さま。わたしを行かせないで!」  父親はどうしてよいかわからぬ自信のない手つきで娘の肩をたたいた。「だけど娘や、おまえが行ってくれなければ、どんなことが起こると思う? ティラン人がおこったら、彼らはわしを退位させ、牢獄へいれてしまう、そしておそらくはわしを処――」言いかけて口をつぐんだ。「今は、今はまことに不幸な時代なのじゃ、アータ――まことにまことにつらい時代なのじゃ。ウィデモスの牧畜領主《ランチャー》が先週有罪を宣告された。おそらくもう処刑されたものと思う。おまえ、彼をしっとるじゃろう? 半年前、牧畜領主《ランチャー》はこの宮廷へ参っておった。ほら、円頭の、深い落ちくぼんだ眼をした、大きな男じゃったが……はじめて彼を見たとき、おまえはこわがって……」 「ええ、覚えています」 「うむ、その彼が、おそらくは今もう死んでおるのじゃ。そうでないと誰が言いきれるものか? わしが次の番じゃ、たぶんな。おまえの哀れな、虫も殺さぬおとなしい、年老いた父がつぎに殺されるのじゃ。悪い時節だよ、今は。牧畜領主《ランチャー》はわしの宮廷にいた。それが疑惑の種となったのじゃ」  彼女はとつぜん父親の抱擁《ほうよう》をふりきり、一歩退いて父を見た。「どうしてそれが疑惑の種になるのです? お父さまは彼の陰謀に加担などしてはいらっしゃらなかったではありませんか、そうでしょう、お父さま?」  ヒンリックは手をもんでいたが、内線電話のブザーが鳴り、とつぜんに手をやすめた。ぎょっとなった。 「電話はわしの個室で聞く。おまえはここで休んでいなさい。しばらく眠ったら気分も晴れよう。ああ、もうすぐに、わかるよ。もうすぐ。今はただ、ちょっと気が立っているだけなのじゃ、おまえは」  アーテミジアは父のあとを眼で追い、顔をゆがめた。深刻に考えこんだ表情である。数分のあいだ、彼女の胸《ブレスト》のしずかな息づきだけが、彼女が生きていることを示していた。  やがてドアの外で、たどたどしい足音がひびき、彼女は振り返った。 「誰?」問いかける調子は、彼女の意図したよりも鋭かった。  それはヒンリックだった。ドアをあけてはいってきた父の顔は恐怖で青ざめていた。「アンドロス少佐が電話をかけてきたのじゃ」 「外郭警察《アウター・ポリス》のですか?」  ヒンリックはただ、こっくりとうなずくことができただけだった。  アーテミジアが泣き声になって言った。「まさかアンドロスが――」恐ろしい考えを言葉にのせかかったが、ためらわれ、口をつぐみ、そうでないことを祈りながら待った。だが、恐ろしい真相はすぐ父から告げられた。 「若い男がわしに謁見したがっているというのじゃ。わしの知らない男じゃ。なぜここへ来たのだろう? 地球からだというが……」あえぎあえぎそう言葉をつづけながらも、今にも倒れそうによろめいた。まるで心が回転盤に乗っていて、その旋回方向についてまわらないと身体全体がくずれかかるかと危ぶんでいるかのようであった。  娘は父のそばへ駆けより、肱《ひじ》をつかんだ。「おすわりなさい、お父さま。何が起こったのか教えて下さい!」叱りつけるように鋭く叫び、父の両肩をゆすぶり、その顔からわずかでも恐怖の曇りを払ってやろうとした。 「わしにもよくはわからんのじゃ」父は弱々しい声で言った。「若い男が、わしの生命をねらう陰謀について警告しようとしてやってきたというのじゃ。わしの生命をねらっているなんて! それで|彼ら《ヽヽ》は言うのじゃ――わしが若者に会わなければならないと」  痴呆《ちほう》のように微笑した。「わしは人民に愛されておる。わしを殺そうとするものなどいるわけがない。そうじゃないのか? そうじゃないのか?」  ヒンリックは答を求めるかのように、娘の顔へ見入った。そして娘から、「もちろん誰もお父さまを殺そうなんて思いはしませんわ」と叫ばれると、かなり鎮静したように見えた。  だが、しばらくするとまた恐怖がもどってきたようである。「おまえ、これが|彼ら《ヽヽ》かもしれないと思うかい?」 「彼らって?」  娘によりかかり、ささやいた。「ティラン人じゃよ、おまえ。ウィデモスの牧畜領主《ランチャー》が昨日《きのう》ここに来ていた。かれらは牧畜領主を殺した……」ヒンリックの声が音階を上った。「ところが今度は、彼らはわしを殺すために、見知らぬ刺客を送ってきた!」  アーテミジアは力まかせに父親の両肩をつかみ、肉体的な痛みへ心を向けさせた。 「お父さま! しずかにすわっていらっしゃい! 何も言ってはいけません。わたしの言うことを聞くのよ、お父さま! 誰もお父さまを殺しはしないわ。聞いているの? 誰もお父さまを殺しはしないことよ。牧畜領主《ランチャー》がここに来ていたのは六か月前よ。思いだした? ね、六か月前だったでしょ? さあ、頭を冷やしなさい、お父さま!」 「そんなに前だったかい?」総督は低声《こごえ》できいた。「あ、そう、そう、六か月前だったらしい」 「さあ、ここにじっと腰かけて、落ち着きなさい。お父さまはお仕事で疲れていらっしゃるのよ。その若い人にはわたしが会います。危険がなかったら、お父さまのところへ連れてきますから」 「そうしてくれるかい、アータや? ほんとにそうしてくれるかい。その男も、女性を傷《いた》めつけたりはせんじゃろう。そうとも、女性を傷めることはあるまい……」  彼女は感情がこみあげ、いきなりかがんで父親の頬に接吻した。 「気をつけて行っておくれよ、おまえ」ヒンリックはつぶやき、疲れきった表情で眼をとじた。 [#改ページ]   六 あんなのが王冠をつけている!  バイロン・ファリルは、広大な王宮敷地《パレス・グラウンド》の外側ビルディングのひとつで、不安な気持で待っていた。彼は生まれてはじめていま、自分がいかに貧しい地方領主の子供であったかを知らされ、身のほそる劣等感をおぼえた。  彼がそこで育てられたウィデモス官邸《ホール》は、彼の幼い眼には美しく映っていた。だがいまとなっては、幼年期、少年期の記憶がよみがえらせるウィデモス官邸は野蛮人の厚化粧にすぎなかった。官邸の誇った曲線美、その繊細な線条細工、その一風こったつくりの小塔、その巧緻な「めくら窓」――彼は思いだして嫌悪《けんお》に顔をしかめた。  ところがここは違う――まったく違う。  ローディアのパレス・グラウンドは、家畜王国の主人という卑小な地方領主が建てた見かけ倒しの安普請《やすぶしん》ではない。色あせ、死にかかった世界のシンボルでしかない子供じみた意匠とはまるで異なる。ローディアの王宮アセンブリはヒンリアッド王朝歴代の勢威が凝集《ぎょうしゅう》された、堂々たる石造建築なのであった。  建物は雄渾《ゆうこん》でどっしりと落ち着いていた。稜線は直線的であり垂直であった。そして中心へむかってまっすぐに伸びながらも、尖塔効果のような女性的な装飾はみごとに避けていた。これらの建築物は全体としてどれもそっけないほどの荒削りな様子をしめしていた。それでいながら、不注意な一瞥《いちべつ》では見落とす微妙な建築方式によって、凝視する者に対してはたくましいクライマックス効果をもりあげていた。ひとくちで言えば、それらは抑制された落着きをもち、どっしりと自ら恃《たの》むものを身につけていた。  ひとつひとつの建物がそうであるとすれば、それらの群れである全体は巨大なパレス・セントラルとなって、クレシェンド的な迫力をその中心へ凝集させていた。一般のローディア建築方式という男性的なスタイルになお残存している小さな部分的装飾は、ここではひとつひとつもぎとられていた。装飾としては貴重とされながらも、近代的な人工照明と人工通風の建築では無用の長物にすぎない「めくら窓」は、ここではまったく姿をひそめていた。それでいて全体の雄健で男性的な美的効果はいささかもそこなわれていないのである。  端的にいえばパレス・セントラルはただ線と面とよりなる交響楽であった。そして眼をはるか宙天へいざなう幾何学的抽象芸術であった。  ティランの少佐は奥の間を出るとき、ちょっとの間バイロン・ファリルのそばで立ちどまった。 「これから謁見だ」少佐が言った。  バイロンはうなずいた。しばらくすると、緋《ひ》と淡褐色の制服をつけた大きな男が彼の前に現われ、靴のかかとを鳴らしてとまった。緋と淡褐色が暴力的な効果でバイロンの眼をうった。こうして謁見者の度肝をぬくなら、ほんとうの権力をもつ偉い人は、はでな外観を身につける必要はなく、鼡色《スレート・ブルー》の地味な服で事足りているのかもしれなかった。バイロンは、これとは逆のけばけばしい牧畜領主《ランチャー》の形式主義を思い起こし、その無意味さと無益さに唇をかんだ。 「バイロン・マレーンですね?」ローディアの護衛兵がきいた。バイロンは立ちあがり、護衛兵についていった。  眼の前に小さなモノレール車両があった。磨きたてられ、ぴかぴかに光っていた。一本の赤っぽい金属シャフトの上に反磁性力でデリケートに支えられていた。バイロンはこんな珍しいものをこれまで見たこともなかった。彼は乗りこむ前に、しばし立ちどまった。  小さなモノレール車両は、小さいといっても五フィートないし六フィートの容積はある優美な涙滴型の乗り物であった。風にしずかに揺れている。外板がローディアの強烈な太陽を反射して光っていた。一本レールはせいぜいケーブルの太さぐらいの細いものである。それが車両の下を縦にとおっている。だが車両に触れてはいない。バイロンはかがみこんで、レールと車両の間のわずかなすき間から青い空を見とおすことができた。そのとき上向きの風がひと吹きして、車両がレールの上一インチほど持ちあがった。まるで飛びたくていらだつかのよう、そして車両をひきつけている不可視の力場のちからを降りはらおうとするかのようであった。と見えたのもつかの間、車両はまたかすかに揺れながらレールに接近した。だがいくら近く寄っても、けっして触れようとはしない。 「乗りなさい!」うしろで、護衛兵がいらいらとうながす声がした。バイロンは踏み段を二つのぼり、車両のなかへ入った。  踏み段は護衛兵の乗るまでそのままであった。護衛兵が乗ると、踏み段は音もなく外板の内部へすべりこみ、車両の平滑な外面にはすき間も割れ目も見えなかった。  バイロンは車両表面の不透明が錯覚であることに気がついた。いったん内部へはいると、彼は透明な水泡のなかにすわっている自分を見いだした。小さなコントロールが動き、車両は上昇した。空気をヒューヒューと後方へ蹴りながら、モノレール車両はいくつかの丘をわけもなく飛び越えていった。バイロンは大きな弧の頂天から、一瞬ではあったが、王宮敷地《パレス・グラウンド》の壮大なパノラマをかいま見ることができた。  複雑な起伏と幾何学模様のビルディング群が、いま眼をあざむく絢爛《けんらん》たる一体となって眼下に繰りひろげられていた。(全体の布置は、はじめっから鳥瞰《ちょうかん》の美景としてデザインされたものではなかったのか!)建物のあいだを、きらめく銅線がレース糸のように織って流れていた。優美な涙滴型のモノレール車両の水泡が、その銅線の一本か二本に沿って、すいすいと軽やかに飛びまわっていた。  とつぜんバイロンは前方へ押しつけられる感覚をおぼえた。車両がおどりながら停止した。走行全体は二分間も続かなかった。  彼の前でドアが開いていた。彼がはいると、ドアはしぜんにしまった。部屋のなかには誰もいなかった。小さい部屋だ、家具はひとつもない。しばらくの間、誰も背後から押したりするものはいないのに、彼は快適な自由の感情を味わうことができなかった。幻覚ではなかった。あのいまいましい夜以来、彼はずっと誰かに押しまくられていた。その感じがまだぬぐいきれないでいるのであった。  ジョンティは彼を宇宙船に乗せた。ティランの弁務コミッショナーが彼をここへ連れてきた。こうして押しまくられるごとに、移動させられるごとに、彼の絶望感はやりきれないものになっていった。  ティランのコミッショナーがだまされていたのでないことはバイロンにとってあまりにも明瞭《めいりょう》であった。コミッショナーから逃げようと思えば逃げられた。だがそれはあまりに容易すぎ、かえって彼にはできなかった。監視はきわめて隠微のうちに行なわれていると思われたからだった。コミッショナーは地球領事を呼ぶこともできたろうが、わざとそれはしなかった。地球と超電磁波で連絡もとれたろうが、それもしなかった。バイロンの網膜パターンをとって調べることもできたはずなのに、それもしない。すべてこれらの手続きはルーティンのものだ。彼らがそれを省いたのはけっして偶然ではありえない!  バイロンはぎゅっと拳《こぶし》をにぎった。彼は背丈があり、膂力《りょりょく》はすぐれている。だが身に寸鉄も帯びていない。彼をつかまえにくる男たちは熱線銃《ブラスター》をもち、神経細胞鞭《ニューロニック・ホイップ》をもっているに相違ない。彼は我しらず一方の壁へむかってあとずさりしていった。  彼の左手の開いたドアのところで小さな音がし、彼は飛鳥のように身をひるがえした。はいってきた男は武器をもち、制服をつけていた。だが一人の若い女といっしょだった。バイロンはすこしほっとした。たかが女ひとりだと思った。こういう際でなかったら、彼はもっと仔細《しさい》に娘をながめたかもしれない。それほど娘は美しかったからである。だが今の場合、娘は単に娘でしかなかった。  護衛兵と娘とは彼に近づいてきて、六フィートばかり先でとまった。バイロンは護衛兵の熱線銃に眼をこらしていた。  娘が護衛兵に、「まずわたしが彼に話しますわ、中尉」と言った。  娘がバイロンへ向きなおった。彼女の眼と眼のあいだにかすかに縦皺がよっていた。「あなたが、この総督暗殺計画の情報をもっていらっしゃった方ですの?」  バイロンは答えた。「総督にお会いするように言われました」 「それはできません。何かおっしゃりたいことがあったら、わたしにおっしゃって下さい。あなたの情報が真実のものであり、有益なものであれば、あなたを丁重に扱います」 「あなたはどなたでしょうか? あなたが総督閣下の正当な代理人であると、どうしてわたしにわかりますか?」  娘は困ったような顔をした。「わたし、総督の娘なのです。どうぞわたしの問いに答えて下さい。あなたは王国集団《システム》の外縁からいらしたのですか?」 「わたしは地球から参りました……」とバイロンは答えて言葉を切り、しばらくしてつけ加えた。「ご令嬢さま」  この呼びかけに娘は気をよくしたらしかった。「地球って、どこですの?」 「シリウス空域にある小さな惑星です、ご令嬢さま」 「あなたのお名前は?」 「バイロン・マレーンです、ご令嬢さま」  娘はバイロンを考えぶかそうにながめていた。「地球からいらした? 宇宙船の操縦なさいますの?」  バイロンは微笑がこみあげたが自制した。娘は彼をテストしているのである。娘は、ティラン支配の諸世界では、宇宙航行が禁じられた科学のひとつだということを知りながら、この質問をしているのである。  彼は答えた。「はい、できます、ご令嬢さま」|もしも《ヽヽヽ》彼らが彼を生きのびさせ、実際操縦のテストをやらせてくれれば、彼は自分の腕を証明してみせられる。宇宙航行は地球では禁じられた科学ではない。四年もすれば誰でも宇宙航行はやれる。  娘が言った。「結構ですわ。それで、あなたのお話というのは?」  とっさに彼の心は決まった。護衛兵のひとりにだったら、とても彼にはその決心はつかなかったろう。しかし、これは女である。そしてもし女がいつわっていないとすれば――ほんとうに彼女が総督の令嬢であるならば、この娘、あるいはバイロンの話を信じさせるひとつの要因となるかもしれない。 「実は暗殺計画などはないのですよ、ご令嬢さま」  娘はびっくりした。急にそわそわし、護衛兵へ向きなおった。「あなたにあとをおねがいするわ、中尉。ほんとのお話を聞きだしてちょうだい」  バイロンは一歩前へ進んだ。すぐ熱線銃の冷たい筒先が彼の胸元へつきつけられた。バイロンはせっぱつまった声で叫んだ。「お待ちください、ご令嬢さま。わたしの話をお聞きください! わたしはただ総督にお会いしたいばかりに、そういう口実をつくったのです。わかっていただけませんか?」  バイロンは声を高くし、去っていく娘の後ろ姿へすがるように呼びかけた。「あのう、ご令嬢さま――せめて閣下にこれだけはおっしゃって下さいませんか、わたしがほんとうはバイロン・ファリルで、避難権をおねがいしているのだということを。おねがいいたしますご令嬢さま!」  かぼそい一本の藁《わら》だった。ティラン人が侵入してくる以前にも、時代とともに古い封建貴族たちの慣習はその力を失ってしまっており、避難権の要求は古代遺物にすぎなかった。だがほかにすがりつく道がないのだ。これ以外に一本の藁はないのだ。  彼女は振りかえった。眉《まゆ》をつりあげた。「こんどは貴族階級の一人だと主張していらっしゃるのね? さっきは、マレーンだとおっしゃっていたのに」  そのときだしぬけに、ぜんぜん別の声が部屋のすみから響いてきた。「そうなんだよ、だが正しいのは第二の名前だ。君はほんとうにバイロン・ファリルだ。もちろん、ほんとにそれに違いない。そっくりだ、間違いようがない」  ドアの入口に小さな年とった男が笑いながら立っていた。眼間のひらいた、きらきらする眼で、バイロンの顔のすみからすみまでを、鋭く、おもしろそうにじろじろとらえた。狭い顔を、バイロンを見上げるようにしてかしげていた。それから娘にむかって言った。「おまえにも、この人がわからないかい、アーテミジア?」  アーテミジアは小男のそばへ走りよった。声が震えていた。「ギルおじさま、こんなところでなにをしていらしたの?」 「わしの利益を守っておったのさ、アーテミジア。もし暗殺が起これば、わしがヒンリアッド家では最近親でまず間違いなく総督職継承となるわけだろう?」ギルブレット・オス・ヒンリアッドはじょうずにウィンクした。そしてつけ加えた。「ああそうだ、中尉をここから追い出してくれ。すこしも危険はないんだよ、この若いお人には」  彼女はギルブレットの忠告を無視して、「また通信器を盗聴していらしたんですの?」 「ああ、そうだよ。わしの楽しみを奪わんでくれ、たのむから。彼らの言うことを立聞きするのがおもしろくて……」 「つかまったら、おもしろいどころじゃありませんわよ」 「その危険なところが、この遊びのスリルだよ、おまえ。そこが楽しいところなのだ。どうせのこと、ティラン人は遠慮なく王宮の盗聴をやるのだ。われわれ、予防はできん。やれば彼らに嗅ぎつけられる。藪蛇《やぶへび》というやつだ、な? どれ、アーテミジア、わしを紹介せんのかい?」 「しませんわ。おじさまのお出になる番じゃないんですもの、これは」彼女はつっけんどんに言った。 「ほほ、じゃ、わしが君を紹介しよう。わしは、彼の名前を聞いたとき、盗聴をやめて、この部屋へはいってきたのだ」ギルブレットはアーテミジアのそばをすりぬけ、バイロンの前へ進みでて、一般的興味というふうな客観的な微笑で、若い男を観察してから言った。「うむ、まさしくバイロン・ファリルだ」 「自分でそう名乗りました」とバイロンは言った。彼の注意力の大半はまだ護衛隊中尉のほうに向けられていた。中尉はまだ熱線銃を発射位置に構えている。 「だが、君は、ウィデモスの牧畜領主《ランチャー》の息子《むすこ》だということはつけ加えなかったね」とギルブレットが言った。 「あなたが声をおかけにならなかったら、つけ加えるところだったのです。いずれにしろ、もう話はおわかりになりましたね。おわかりでしょうが、わたしはティラン人からのがれなければならなかったのです。それも、わたしのほんとうの名前を明かさずにのがれなければならなかったのです」バイロンはそう言って待った。ここが分かれ目だ、と彼は感じた。もし、つぎの出方が即時逮捕でなかったら、まだ一縷《いちる》の望みがあると言えた。  そのとき、アーテミジアが言った。「わかりましたわ。これは総督にかかわることなのです。それじゃ、あなたは、ほんとうに計画などは何もないとおっしゃるのですね?」 「ありません、ご令嬢さま」 「結構ですわ。ギルおじさま、ファリルさんとご一緒にここにいて下さいません? さあ、中尉、わたしといらっしゃい」  バイロンは、ひどい疲れを覚えた。椅子に腰かけさせてほしかった。だがギルブレットからそういったいたわりの言葉はかけられていない。ギルブレットはなおもためつすがめつ、バイロンを病的な興味で観察している。 「うむ、牧畜領主《ランチャー》の息子なア! こりゃおもしろい、じつにおもしろい!」  バイロンはのぞきあげている老人へ眼を落とした。用心深く、短い言葉と言い回しで答えることにはもうあきあきしていた。彼はだしぬけにギルブレットに言った。「そうです、牧畜領主《ランチャー》の息子なんですよ。そう生まれついたのですから、どうにもならんことなのです。何か他のことでお手伝いできませんでしょうか?」  ギルブレットが気分を害された様子はなかった。微笑がひろがるにつれ、小さな顔の皺が深まっただけである。「そうだね、君はわしの好奇心を満足させてくれるかもしれない。君はほんとうに避難所を求めてきたというのかね? ここへ?」 「そのことは総督とお話したいと思います、すみませんが」 「若い人、よしなさい、そんなこと。総督などと話しても何にもならんよ。それより、どうして、たったいま総督の娘と取引きしなければならんと考えたのだね、君は? ほんとにそのつもりなら、こりゃなかなかおもしろいアイデアだと思うが」 「あなたは何でもみんなおもしろい、おもしろいとおっしゃるんですね?」 「だってそうじゃないか? わしは人生への態度として、人生をおもしろいものと観じているのだ。おもしろいという形容詞――人生にぴたりとはまる形容詞はこれだけしかないよ。大宇宙をよく凝視してごらん、若い人。そこからおもしろみを引きだすことができないくらいなら、自分ののどをかき切ったほうがましだ。だって、それ以外にはちっともいいことはないんだから、宇宙なんかには。ところで、わしはまだ自己紹介しなかったね。わしは総督の従弟《いとこ》なんだよ」  バイロンはそっけなく、「それはおめでとうございます!」と言った。  ギルブレットは肩をすくめて、「君の言うとおりだよ、おめでとうだ! パッとしないんだよ。結局、暗殺なんていうことはぜんぜん期待できんから、わしは永久に総督の従弟ということで満足しなきゃならんらしい」 「あなたご自身でそれを計画なさらん限りはですね」 「おや、君、ユーモアのセンスがあること! 君はまず、誰もわしの言うことなどまじめにとらんということを頭に入れておかんといかんよ、若い人。わしの発言はすべてこれシニシズムの表現にすぎんのだよ。君も総督が近ごろはすこしも値打ちのない存在になっているとお考えだろう? ところが、ヒンリックときたら、以前だっていつもああだったのだよ。偉い頭脳じゃなかったが、年々ダメになっていく。おっと忘れていた! 君はまだ総督に会っとらんのだったね。だが今に会えるよ。あッ、来た来た、足音がする。彼に話しかけるときはね、トランス・ネビュラ諸王国中の最大王国の統治者だということを忘れちゃいかんよ。すごくおもしろい考え方だよ、これは」  ヒンリックは長い経験によって容易に威厳をたもつことができた。バイロンがぎこちなく、鞠躬如《きっきゅうじょ》として頭をさげると、ヒンリックは適度の鷹揚《おうよう》さをしめしてこれを嘉《よみ》した。そして、かなり唐突な調子で、「それで、あなたのわしに対する用件というのは?」と切りだした。  アーテミジアは父君のそばに侍立《じりつ》していた。バイロンはアーテミジアが眼をみはらせるような美人であるのに、やや度肝をぬかれた。「閣下、わたしは父の名誉を回復したいと思ってこちらへ参りました。閣下もご存知でしょうが、父の処刑はまったく不当であります」  ヒンリックは眼をそらした。「わしはそなたの父君のことはごく浅くしか知っておらんのだよ。父君はローディアへ一度か二度おいでになったが……」言葉をとぎらせた。声がすこし震えていた。「そなたは父君にそっくりじゃ。とてもよく似ていられる。……しかし、父君は裁判にかけられたのじゃ、知っとるね? すくなくとも裁判にはかけられたものと、わしは想像しておる。しかも法にのっとって裁かれたのじゃ……。しかし、打ち明けたはなしだが、わしは詳しいことは知らんのじゃ」 「そうでしょうとも、閣下。でも、わたしとしましては、その詳しい模様をぜひとも知りたいと思うのです。わたしの父は絶対に反逆者ではありませんでした、絶対に!」  ヒンリックはややあわて気味に相手を制した。「もちろん、そなたは父君の息子だから、父君を弁護したいという気持はわしにもよくわかる。しかし、現在こうした国家的な重大事をここであげつろうのはむずかしいのじゃ。いや、きわめて異常なことじゃ。そなた、なぜアラタップに会わんのじゃ?」 「アラタップという人を知らないからです、閣下」 「アラタップを知っとらんと? コミッショナーじゃ! ティランの弁務コミッショナーじゃ!」 「その人なら会うことは会いました。わたしをこちらへ送ってよこしたのはそのアラタップです。閣下も、まさかわたしがティラン人などに、大事な――」  しかしそのときもうヒンリックは身体をこわばらせていた。片方の手がおぼつかなく動いて、あたかも震えを止めようとするかのように上下の唇を押えた。で、彼の声は布で包んだようにくぐもった。「アラタップがそなたをここへよこしたと?」 「わたしは彼にはこれだけは言う必要があると思い――」 「言わんでくれ、彼に言ったことを、わしの前で繰り返さんでくれ。わしにはわかっておる。わしの力ではそなたに何もしてやれんのじゃ、牧畜領主《ランチャー》――おっと、そう、ファリル君。わしの管轄だけではないのじゃ。行政評議員会と――おや、アータ、わしを引っぱらんでくれ、おまえがわしの注意をそらしたら、わしは精神を集中できんじゃないか――行政評議員会と相談しなければならぬのじゃ。ギルブレット! おまえ、ファリル君のことを見てやってくれぬか? わしも、われわれにできることがあるか、考えてみよう。そうじゃ、わしは行政評議員会に相談してみよう。正規の法律手続きというものがあるからな。とても重要なことじゃ、とても重要なことじゃ……」  ぶつぶつとつぶやきながら踵《きびす》を返した。  アーテミジアはなおしばらく、そこにとどまっていた。そしてそっとバイロンの袖口にさわり、「ちょっと。あなたが、宇宙船を操縦できるとおっしゃったこと、あれほんとうのことですの?」 「ほんとうですとも」バイロンは答えて、彼女にほほえみかけた。彼女も一瞬ためらったのち、微笑を返した。頬にえくぼができた。 「ギルブレット」と彼女は小さな老人に言った。「あとでおじさまとお話したいことがあるわ」  そう言って彼女は急いで去っていった。バイロンは眼であとを追ったが、ギルブレットに袖をとられ、引きもどされた。 「君はお腹《なか》がすいているだろう、たぶん、のどもかわいているだろう。手を洗うかね、え?」ギルブレットがきいた。「人生のありきたりの快楽は続く! そうだね?」 「ありがとう、お受けいたします」とバイロンは答えた。息苦しい緊張感はほとんど消えていた。しばらくの間、彼はくつろぐことができた。そしてすばらしいとさえ思った。彼女が美しかったからである。ほんとに美しい。すごい美人だった!  だがヒンリックはくつろがなかった。自室へ引きこもったヒンリックの心のなかを、もろもろの想念が、熱病のような速度で駆けめぐっていた。どんなに頭をしぼって考えても、不可避の結論から抜けだすことはできなかった。あれは罠《わな》だ! アラタップがあの男をよこした。罠だ!  彼はズキズキと動悸をうつ頭の痛みをしずめようとして、両手で頭をおさえた。頭を埋めた。そのとき、何をすべきかに思い当たった。 [#改ページ]   七 心の音楽家  すべての可住惑星の上に、やがては夜がまわってくる。だが必ず一定間隔をおいて、というわけではなかろう。記録された自転時間は十五時間から五十時間と、惑星によってそれぞれに異なっているからだ。この事実は、惑星から惑星へと旅行するものにとって、由々しい心理的調整の努力をしいるのである。  多くの惑星上では、そうした心理的調整がなされており、覚醒と睡眠との交代時間は惑星にあうように修正されている。だがそれよりももっと多数の惑星では、どこでも人工調節の大気と人工照明とが使われており、昼と夜との交代問題は、農業関係以外は第二義的な意味しかもたなくなっている。だがこれよりはるかに少数の惑星(すべて恒星システムの最外縁惑星の場合がそれだ)上では光と闇《やみ》というような些細《ささい》な区別は無視して、恣意《しい》的な覚醒・睡眠時間の区分が行なわれている。  このように、社会的習慣はいろいろとあるが、どこでも変わらないのは夜というものの効果である。夜がくること――それは深刻で恒常的な心理的な意味をもっている。それは人類がまだ人類となる以前、樹上に棲息した動物であった悠遠《ゆうえん》の昔からつちかわれたところの習慣である。夜はつねに恐怖と不安定との時間であった。太陽が沈むとともに、人類の心もまた深く沈潜するのである。  パレス・セントラルの内部では、夜の到来を告げてくれるような、感覚に訴える機械装置はなかった。しかしバイロンは、その頭脳の奥深いところにしまわれている未知の回廊にかくされた本能によって――何かの不可知の本能によって――夜の来たことを感じとる事ができた。バイロンは知っている――戸外では、星くずのはかないまたたきなどではとうてい濃い夜の闇は薄められないということを。だが、一年のある時期ではそうではない。「|馬の首《ホース・ヘッド》ネビュラ」として知られている(トランス・ネビュラ諸王国では誰でも知っていることだが)不整形の「宇宙空間の穴」が、それがなければ眼に見える多くの星の半分がたを、インクをかけたように隠してしまうのである。  だが夜がきて、バイロン・ファリルの心はまたも沈んだ。  総督と短い時間話して以来、彼はアーテミジアの姿は見ていなかった。それがひどく物足りなかった。彼はディナーを待っていたのだ、彼女に話しかける機会も得られようかと期待して。ところが期待ははずれ、彼はひとりで食卓にむかわなければならなかった。ドアのすぐ外に二人の護衛兵がつまらなさそうに行ったり来たりして見張っていた。ギルブレットすら、バイロンのそばへは来なかった。おそらく、ヒンリアッド家の王宮にいる気に入った仲間の一人か二人と食事を楽しんでいるのであろう。  だから、そのギルブレットが彼のところへもどってきて、「アーテミジアといま君のことを話していたのだが」と言ったとき、バイロンは即座に、藁をもつかむような反応をしめしたのであった。  自分のことを話していたと聞いて彼はやや興味をそそられ、そう答えた。だが、ギルブレットはすぐ、「ところで、まず君にわしの実験室を見せてあげたい」と言った。そして二人の護衛兵を立ちのかせた。 「どんな種類の実験室ですか?」バイロンは、がっかりしてきいた。 「珍奇発明品をつくっているのだよ」とあいまいな返事しか返ってこなかった。  だが、見せられたものは実験室のようなものではなかった。むしろ書斎に近い部屋である。片隅《かたすみ》に凝《こ》った装飾のデスクがある。  バイロンはゆっくりとデスクの上をながめた。「それでここで発明品をつくっていらっしゃるんですって? どんな種類の発明品ですか?」 「うむ、特殊の音響装置でね、まったく新奇な仕方で、ティラン人のスパイ光線をさぐりだす機械なんだよ。|彼ら《ヽヽ》のほうからは、ぜんぜんこちらのことは探知できないのさ。わしが君のことを知ったのもこの装置を使ったからだよ。アラタップから最初の言葉がはいったとき、すぐにわかった。その他、いろいろおもしろい機械もつくっている。たとえば、わしのつくった観視《ヴィジ》ソナーなどもそうだ。君は音楽は好きかね?」 「ええ、ものによっては好きです」 「結構。わしはある楽器を考案した。ただそれを音楽と呼んでもらえるかどうかわからんのだが……」ギルブレットが指でさわると、ブック・フィルムをいれた書棚《しょだな》がひとつ音もなくすべって動き、わきへ退いた。「こんなところ、大してうまい隠し場所とはいえんが、誰もわしのしていることはまじめにとらんものだから、結構これで誰の眼にもふれん。おもしろいじゃないかね、え? おっと忘れておった、君はあんまりおもしろがらん人だったね?」  書棚のなくなった跡に出てきたものは、楽器というにはほど遠い不細工な箱のようなものであった。手製だからだろうが、磨きもかかっておらず、仕上がりはお粗末であった。箱の片側によく磨きあげられた小さなノブがいくつかついている。ギルブレットは、ノブのついた側を上向きにして箱をデスクに据えた。 「みかけは美しくはない」とギルブレットが言った。「しかし、『時間』のなかでは誰が美しいとかお粗末だとか考えるものかね、え? 照明を消してごらん。ちがう、ちがう! スイッチや接点などはないんだ。ただ照明に消えてくれと望みさえすればよいのだ。つよく望んでごらん! 照明を消そうと心につよく決めてごらん」  するうちに照明が薄くなっていった。天井のかすかな玉虫色のかがやきだけが残った。薄暗がりのなかで、ギルブレットとバイロンの顔二つだけが、幽鬼《ゆうき》のそれのように浮きだした。バイロンが驚いて叫ぶと、ギルブレットが軽く失笑した。 「なあに、こんなの、わしの観視《ヴィジ》ソナーがしでかすトリックのひとつにすぎんよ。これは、個人用カプセルのように、心に同調されているのだ。わしの言う意味がわかるかね?」 「いいえ、わかりません。まともな答をお求めになっていらっしゃるんでしたら、わたしには返答ができません」 「なるほど。じゃ、こんなふうに考えてごらん。君の脳細胞にある電場が、この機械のなかに誘導電場をつくりだすのだ。こんなことは数学的にはいとも簡単なことだが、まだ誰も、こんな小さな箱のなかに、必要な回路ぜんぶを詰めこんだものは一人もおらん。ふつうは、こういうことをやらせるには、五階建てぐらいの大きな発電所が必要なんだよ。この機械は逆の仕事もできるのだ。わしがここの回路を閉じて、回路を直接に君の頭脳に連結させることもできる。そうすると、君は眼や耳は使わんで見たり聞いたりすることができるのだ。見ててごらん、ほら!」  そう言われても、はじめは見る対象がなかった。するうち、何かもやもやとしたものが、バイロンの眼のすみにかすかに影をさした。それは淡い青紫色の玉となり、空中に浮遊した。彼が逃げようとすると、淡い火の玉は彼を追ってきた。眼を閉じても、それは変わりなく宙に舞っていた。しかも、すんだ音楽のような音色《ねいろ》がそれに伴っていた。伴っていたというより、火の玉の一部分であった。いや、火の玉が音楽の音色と同じものであった。  火の玉は大きくなり、膨張した。バイロンは火の玉が彼の頭蓋《ずがい》の内側にあることに気づき、妙な気持になった。火の玉は色彩ではなかった。むしろ色のついた音響ともいうべきものであった。しかも可聴音を伴わない音響であった。触知することはできる。だが触れた感じはしない。  それはくるくると旋回し、美しい虹色となった。一方、音楽のほうはピッチを増し、まるで落ちかかる絹かなにかのように、ふわりふわりと彼の頭上に漂った。そのうち、はっと息をついたとき、それは破裂した。色彩の滴《しずく》が飛び散り、彼に当たった。当たったところは一瞬|火傷《やけど》をした感じがした。だが痛みはなかった。  雨にぬれたような感じの緑色の泡が、しずかに、やわらかい呻きを伴いつつ昇っていった。バイロンはこんぐらかった気持のまま、泡沫《ほうまつ》につかみかかろうとした。ところが彼は自分の両手が見えないのに気づいた。また手の動いている感じもしないのであった。ただ泡沫だけぶくぶくと彼の心を満たしているようであった。いっさいの他のものを排除して、小さな泡だけが彼の心を満たしていた。  彼は叫び声をあげた。声のない叫び声だった。すると幻想は消えた。照明のついた部屋に、彼の眼前にギルブレットが声をたてて笑いながら立っていた。バイロンははげしいめまいをおぼえ、ぶるぶると身震いしながら、冷たくなった、汗のしとんでいる額をぬぐった。彼はとつぜんそこへへたりこんだ。 「いったい何が起こったんでしょう?」彼はできるだけ無表情なかたい調子できいた。 「さあ、わしにはわからんね。わしは外にいたんだもの。へえ――君にわからないんだって? それは君の頭脳が経験したことのないものだったからだろう。君の頭脳が直接に感覚したのだが、そうした現象については解釈の方法をもたなかったからだよ。君がその感覚に注意力をむけていたときは、君の頭脳はただその効果を、古くからの扱い慣れた通路へ押しこめようと、ムダな努力をしていただけなのさ。君の頭脳は、それを映像と触覚というふうに、別々に、しかも同時に三つとして解釈しようと試みていたのさ。ところで、君は匂《にお》いには気がつかなかったかね? わしにはときどき、それの匂いを嗅ぐような気がするんだがね。わしの想像では、犬は感覚がほとんどすべて匂いとなって知覚にはいってくるんじゃないのかな。いつかこの原理を動物に試験してみたいと思っているんだがね。  こんどは精神を集中しないでいるとどうなるかというと、つまりそれを無視し、攻撃《アタック》をかけないでいると、それは自然と消えていってしまうのだ。わしはよくこの手を使うんだよ。他の人にこの楽器がどんな効果をあらわすかを観察したいときは、そうするんだ。ちっともむずかしいことじゃないよ」  老人は静脈のすいて見える小さな手を楽器の上にのせ、あてもなくノブをいじくりまわした。「わしはときどき思うんだが、もし誰かが本気でこの楽器を研究したら、まったく新しい媒体《メディア》による交響楽を作曲できると思うんだがね。単なる音とか視覚像とかいうものではまねのできない奇跡が創《つく》りだせると思うんだよ。残念ながら、わしにはその能力がないようなんでね」  バイロンがとつぜん口をはさんだ。「ひとつ質問があるのですが」 「ああ、何なりと」 「あなたはなぜそれだけの科学的な才能をもっと有意義なものにお使いにならないんですか、こんな――」 「つまらん玩具《がんぐ》になど浪費しないで、というのかね? さあ、そう言われてもね。これがまるっきり役にたたん玩具ではないかもしれんよ。これは違法なんだ、君も知っているとおり」 「何が違法ですって?」 「観視《ヴィジ》ソナーがだよ。それから、わしのスパイ装置もだ。もしティラン人がこれを嗅ぎつけたら、あっさりと死刑宣告だよ」 「まさか。ご冗談を」 「冗談なんかじゃないよ。君は牧場かなんかで育てられたから、そうなんだ。若い連中が昔のことはまるで知らんのもムリはない」とつぜんギルブレットは頭をいっぽうにかしげ、眼を細くした。「君はティラン人の支配に反対かね? 率直に言いたまえ。わしは反対しているんだよ、率直に言う。これも言ってやろう、君のお父さんもそうだったんだ」  バイロンは冷静にうなずいた。「わたしも反対しています」 「よし。ではなぜ?」 「彼らが異星人だからです、よそ者だからです。彼らにネフェロスやローディアで支配をふるう何の権利があるんです?」 「それは前から君がそう考えていたことかね?」  バイロンはこれには答えなかった。  ギルブレットは鼻をくすんと言わせた。「つまり、君の場合は、彼らが君のお父さんを殺したから――結局処刑なんてことは彼らの権利だよ、彼らはなんとも思っていないよ――殺したから、それ以後彼らを異星人でありよそ者であると決めつけたわけだ。ああ、これこれ、そういきりたってはいかんよ、君。この問題を冷静に、理性をもって考えてみたまえ。いいかね、わしが君の味方だということを忘れちゃいかんよ。しかし、考えてみるんだ、理性をもって! 君のお父さんは牧畜領主《ランチャー》だった。彼の牧童はどんな権利をもっていた? もし牧童が牛を一頭盗んで自分の用にたてたり、あるいは他人へ売ったりしたら、どんな罰をうけたかね? 盗人として牢屋へいれられたろう? もし牧童の一人が君のお父さんを殺そうと企てたら――そりゃ理由は何でもいい、とにかくその牧童の考えでは正当な理由があったに違いない。とにかく主人殺しを企てたら、結果はどうなる? 処刑だ、間違いなくね。ところで君のお父さんは、何の権利があって法律をつくったり、同胞の人間たちに罰をくわえることができるんだ? お父さんは要するに牧童たちのティラン人じゃないか、え?  なるほど君のお父さんは、お父さん自身の眼から見ても、りっぱな愛国者ではあった。だがそれがどうだというんだ? ティラン人たちにとっては、お父さんは反逆者にすぎんじゃないか、だから彼らはお父さんを取り除いたんだ。君は自衛というものの必要性を無視できるかね? できまいが。歴史を読んでごらん、若い人。政府はみんな人殺しをする、それは物事の道理なんだ。  だから、ティラン人を憎むなら、もっとりっぱな理由をみつけなさい、りっぱな理由を。ひとかたまりの支配者を滅ぼして別のひとかたまりを据えるだけで十分と考えてはいけないのだ。ただ支配者を変えるだけで自由が来ると思ってはいけないんだよ、君」  バイロンは握りこぶしを、一方の手の平へ強く打ちおろした。「その客観的な哲学は、じつにじつにおみごとです。ひとりでのんびり暮らしている人にとってはまことに胸のすくご説です。ですが、殺されたのがあなたのお父さんだったら、どうなります?」 「どうにもならんよ。わしの父はヒンリックの前の総督だった、そして殺された。ああ、ひと思いに殺したのではない、じわじわと、気づかれぬようにして殺したのだ。彼らは父の気力をくじいたのだ、ちょうどいまヒンリックの気力をくじきかかっているのと同じやり方だよ。父が死んだとき、彼らはわしを総督にしたくなかった。わしはちょっとばかり性格が強かったからだ。そこへいくと、ヒンリックは背が高くてハンサムだ、だが何よりも柔軟な性格だったからだ。しかし不幸なことにその柔軟も強靭《きょうじん》とまではいかなかったんだな。彼らは絶えずヒンリックを狩りたて、意志を磨りへらし、哀れむべき傀儡《くぐつ》にしてしまった。背中をかくにも許可なしにはようやれないというほどの臆病者にしてしまったのだ。君は彼を見たろう? 今はもう、一と月ごとに状態が悪くなっていく。絶えず恐怖におののき、今ではもういたましい精神病者のようになっている。しかしだね、それだからわしがティラン人の支配を打ち破ろうとしているのではないよ」 「じゃないんですって? じゃ、あなたはぜんぜん別の理由をみつけたんですね?」 「いや、むしろ、まったく古い理由といったほうがいいよ。ティラン人は、人類二百億人から、種族の発展に参加する権利を奪っている。君は学校へ行っていたんだね? だったら、経済循環というものを勉強しただろう。こういうことだ。ひとつの惑星に新しく人類が住みつく」――そう言って五本の指を並べ、まず親指を折って数えた――「それでまず最初はそこの人間たちの食糧問題だ。惑星は農業世界、牧畜世界となる。粗鉱石を輸出するために地中を掘りはじめる。余剰農産物を外惑星へ輸出して贅沢品や機械類を買う。これが第二段階だ。それから、人口が増え外惑星投資が増えてくると、そこに工業文明が芽ばえてくる、これが第三段階である。ついには、その惑星はまったく機械化されてしまい、食糧を輸入して機械を輸出し、低発達諸世界の開発に投資する、等々を行なうようになる。これが第四段階だ。  機械化諸世界がつねにもっとも人口が多く、軍事的に強力である。それは戦争は、機械というものに本質的なひとつの働きだからだよ。そして機械化諸世界は、ふつうこれに依存する農業諸世界にとりまかれて繁栄をつづけている。  しかし、最近われわれの惑星にどういうことが起こったか? われわれは、成長期の工業をもった第三段階にあった。そして今はどうなっている? 工業の成長はとまり、凍結し、退潮すら見えている。それは、われわれの必要工業力を統制しているティラン人の要求に干渉するからだ。彼らの側からみれば、われわれへの短期投資だ。なぜというと、やがてわれわれは貧困となり、彼らの投資も十分な利潤を生まなくなるからだ。だが、そうなるまでは、とにかく彼らはわれわれの努力のいいところだけをすくいあげ、うまい汁を吸っていく。  それに、もしわれわれが工業化を完成すると、自然と武器を開発するおそれがある。だから工業化は禁止されるのだ。科学研究は禁止されるのだ。そして、しまいには人民もこの禁圧に慣れてしまい、彼らの文明になにかが欠けているという認識さえなくなる。ここまで言えば、わしが観視《ヴィジ》ソナーを発明したということが見つかれば、わしが処刑されると言っても驚きはしないだろう。  もちろん、いつかはわれわれはティラン人を打ち負かす。それは不可避だよ。彼らといえども永久に支配をつづけていくわけにはいかない。彼らは軟弱となり怠惰になる。彼らは血族結婚を行ない、彼らのいくつかの個別な伝統のよさを失ってしまう。彼らは腐敗してくる。しかし、そうなるには時間がかかる。歴史はけっして急がないんだ。おそらく数世紀はかかるだろうね。ところが、その数世紀がすぎても、われわれは依然として農業惑星であり、言うに足るほどの工業的・科学的遺産もないみじめさだ。しかるにティラン支配下にない惑星は強力で、都会化している――そういう不公平なことになるんだ。諸王国は永久に半植民地域にとどまるだろう。|永久に《ヽヽヽ》相手惑星の進歩には追いつけない。われわれはただ、偉大な人類発展ドラマを指をくわえて見ている観客ということになるんだ」  バイロンは言った。「今おっしゃったことは、わたしにとっても初耳ではありません」 「それはそうだろう、君が地球で教育をうけているんだったら。地球は社会発展史の上でもきわめて特異な地位をしめておる」 「ほんとですか?」 「考えてごらん! 全銀河系は、恒星間宇宙旅行の方法がはじめて発見されて以来、絶えざる発展状態にある。ということは、われわれ人類のつくった社会は、大きさは増していったが、いつまでも未熟な状態から脱出できない社会だということである。そもそも人類社会が、ただひとつの惑星上で、しかもただ一回、成熟に達しただけだった。それが破局直前までの地球だったのだよ。当時、われわれ人類が地球につくっていた社会というのは、一時的ではあるが地理的拡大の可能性はまったくなく、行き詰まってしまい、かわりに、人口過剰、地下資源の涸渇《こかつ》等々の難題に直面しておった。銀河系の他の部分ではけっして経験されたことのない、これはたいへんな難問題だった。  彼ら――当時の人類――は社会諸科学を猛烈に研究することを|しいられた《ヽヽヽヽヽ》。ところが、われわれは社会諸科学の研究成果の多くを、いやすべてを失ってしまった。これはなんともはや残念なことをしたものだ。おもしろい挿話《エピソード》があるんだよ、若い人。ヒンリックは、若いころたいへんな古代社会崇拝者でね。ヒンリックは銀河系でも類のないほどの地球文明関係の蔵書をもっていた。ところが彼が総督に就任して以来、この蔵書は他のあらゆるものと同様、いわば舷外へ打ち捨てられてしまった。だが、ある意味では、わしがそれを受け継いでおると言っていいんだよ。地球文明の文献というものは、破壊をまぬがれた断片だけだが、そりゃじつにおもしろい。われわれの外向性の銀河系文明にはみられない一風変わった内省的な興趣にあふれているのだ。およそ世の中にこれほどおもしろい、魅力的なものはないよ、君」 「お話を聞いていて気持が楽になりました。あんたはさっきからあんまり長いことまじめな話ばかりしていらっしゃるから、もしかしたらもうユーモアのセンスを失ってしまわれたのではないかと心配になっていたんです」  ギルブレットは肩をすくめた。「わしも気が楽になってきた。うむ、こりゃ、すばらしい! じつにすばらしい。ここ数か月なかったことだと思うよ。演技をするってどんな気持のものか、経験があるかね、君? 一日じゅう、つまり二十四時間、君のパーソナリティを故意に分裂させるということだよ。友達とのつきあいでも、自分の人格を分裂させたままでいるのだ。ひとりっきりのときもだよ、うっかりして演技していることを忘れないためにだよ。つまり、ディレッタントになることさ。永久におもしろがることだ。目的なしに生活することだ。君を知っている人たち全部に、この男は意欲をすっかりなくして、すこし頭が変になっている、まるで値打ちのない人間になってしまった、そう思いこませる。こうなると、君の人生は安全なものになるんだよ、じつに安全だ。たとえそのために、君の人生が生きがいのないようなものになってもだ。ただしね、たとえそんなになっても、たまにはわしは彼らに反抗して戦うことができるんだよ」  ギルブレットは顔をあげた。声は真率さにあふれ、ほとんど懇願の調子すら帯びていた。「君は宇宙船を操縦できる。わしにはできない。おかしなこととは思わんかね、君。君はわしの科学才能をほめてくれたが、そのわしがかんたんな一人乗りの宇宙ボートすら操縦できないなんて。ところが君にはできる。ということは、結論は決まっているよ、君。君はローディアを去らなければならんということだ」  懇願であることはまぎれようがなかった。だがバイロンは冷然と顔を不快にゆがめ、「なぜまた?」と問うた。  ギルブレットは続けた。こんどは口調が早くなった。「さっきも言ったように、わしはアーテミジアと君のことを話し、こういう手配をしたのだ。ここを出たら、まっすぐに彼女の部屋へいきなさい。彼女はそこで君を待っておる。わしは図面をかいておいた。だから、人に道をきかんでも廊下を渡っていける」ギルブレットはメタリーン金属製の小さなシートを一枚バイロンに押しつけた。「もし誰かに呼びとめられたら、いま総督に呼ばれて行くところだと言って、どんどん進んでいきなさい。君が不確かな表情さえ見せなければ、文句なしに通れる――」 「よして下さい!」  バイロンは叫んだ。彼は二度と他人の指図をうけない決意なのであった。ジョンティが彼をだましてローディアへ来させた。こうして最後に彼をティラン人の前へ引きだすことに成功した。そのティランの弁務コミッショナーがこんどはあとを引受け、またも彼をだましてパレス・セントラルへおびきだした。ここへ着いたときはじめて自分の脱出の秘策を考えついたのだが、時すでに遅しだった。こうしてついに、身に寸鉄もおびず、精神不安定な傀儡《かいらい》人物の気まぐれに身をまかすはめにおちいってしまった。だが、だまされたのはここまでだった! それ以後の彼の動きは、極度に制限をこうむっている。それにもかかわらず、時間と空間に賭《か》けて、それらは彼自身の行動であった。彼はいま、あくまでも自分のペースを守ろうとかたくなに決意しているのであった。 「わたしは、自分にとって重要な仕事をはたすためにここへ来ているのです。わたしはローディアを去りません」と彼はきっぱりと宣言した。 「何だと! 君、バカな若いもんになるのはよしなさい」一瞬ではあったが、老ギルブレットは中身が透いてみえた。「こんなところで何が達成できると思っているのだ、君? たとえ朝日を昇らせることはできても、生きてパレスを脱けだせることはことはできんのだよ、君。ヒンリックがティラン人を呼び、君は二十四時間以内に牢屋へぶちこまれるに決まっている。彼はただ、今もずっとその機会を待っているにすぎんのだ、何かひとつのことをするのに、ヒンリックはそれほど決心に長く時間がかかるからだよ。彼はわしの従兄だ。わしは彼のことはよくわかっている」 「たとえそうでも、それがあなたに何の関係があるんです? なぜあなたはそんなにわたしのことを心配するんです?」バイロンは二度とだまされてはいけない。もうふたたび、他人にあやつられる、追いたてられるマリオネットとなってはいけない。  だがギルブレットは立っていた。そしてじっとバイロンを見つめていた。「君にわしをいっしょに連れていってもらいたいのだよ。わしは自分自身をいたわっているのだ。わしはもうティラン人に支配される生活には堪えられんのだ。ただアーテミジアにもわしにも宇宙船の操縦ができないためなんだ。それができたら、わしたちはとっくにローディアを去っている。それはまたわれわれの生か死かの問題でもある」  バイロンは自分の決意が鈍っていくのを感じた。「総督の娘とですって? 彼女がこれと何の関係があるんです?」 「わしは彼女がわしたち三人のうちいちばんせっぱつまった気持だと思う。女性には特別の、死にひとしい運命が用意されているのだ。若くて個性的で未婚の総督令嬢の前途に何があると思う? 若くて個性的な人妻になること以外にはないんだよ。しかも近ごろ、その好運の花婿は誰だと思う。三人の妻を地中に埋め、若い娘の腕のなかで若さの火をよみがえらそうとねがっている色好みの老人なんだよ、ティラン宮廷のお役人なんだよ」 「でもまさか総督がそんなことをお許しにならないでしょう」 「総督は何でも許すんだ。誰も総督の許可など待ってはいないんだ」  バイロンはさっき見たアーテミジアのことを考えていた。髪を額には垂れさせず、全部をうしろへまっすぐに流れるようにくしけずり、その端が肩のレベルで単純に一度内側へウェーブしている。澄きとおるような白い膚、黒い瞳、紅い唇! だが銀河系全体をつうじて、このような美女もおそらくは千万人はいよう。そんなもので今のバイロンの心をたぶらかそうなどと、見えすいた策略だ。  だが彼の口をついて言葉はおのずから出た。「宇宙船は用意ができているんですか?」  ギルブレットの顔がとつぜんの微笑で皺をきざんだ。だがギルブレットが一語を発する以前に、ドアをはげしくたたく音がした。しずかな光電管ビームのシグナルではなかった。プラスチックのパネルをやさしく関節でたたく小さな音ではなかった。それは金属の響きであった。官憲の携行する武器をかざした、耳を聾《ろう》するような打撃であった。  叩音《こうおん》がもう一度鳴った。ギルブレットがバイロンに言った。「君、ドアをあけたほうがいいよ」  バイロンがドアをあけると、二人の制服男がはいってきた。先方の男はギルブレットの姿に気づき、ぎょっとしてすばやく敬礼し、それからバイロンへ向きなおった。「バイロン・ファリル、ティランの弁務コミッショナーならびにローディア総督の名において、あなたを逮捕する」 「どういう罪名でだ?」バイロンがなじった。 「大反逆罪によって逮捕される」  一瞬、ギルブレットの顔がゆがんだ。はげしい失望の表情が見えた。そしてすぐ眼をそらした。「こんどはまたヒンリックときたらバカに早くやりおったな。わしが思うよりずっと早かった。おもしろい現象だ、ふふふ!」  そこにはしょっちゅう微笑で顔をゆがめた、世事一切に無関心をよそおう老ギルブレットの姿があった。眉がわずかに吊りあがっていたが、それはいやな逮捕に立会うはめになったかすかな後悔を現わすだけのものでしかなかった。 「自分についてきて下さい」護衛兵が言った。バイロンはもうひとりの護衛兵の手に無造作に握られている神経細胞鞭にちらと気づいた。 [#改ページ]   八 貴婦人のスカート  バイロンののどはカラカラになってきた。二人の護衛兵のどちらとも、正当に戦えばわけもなく相手をたおすことができる。彼にはそれはわかっていた。そのチャンスが欲しかった。二人を束にしても、かなり戦える自信があった。だが二人は神経細胞鞭をたずさえている。彼が手を上げればすぐ、護衛兵は鞭《むち》をつかうにきまっている。心のなかで彼は降伏を感じた。のがれるすべはなかった。  だがそのときギルブレットが言った。「外套《がいとう》を取らしてあげなさい、君たち」  バイロンははっとなり、小男の老人を振り返った。そして降伏をすぐに撤回した。自分は外套など持っていないからである。  神経細胞鞭を手にしているほうの護衛兵が、踵《かかと》をかちっとあわせて敬意を表した。そしてバイロンへ鞭で合図をした。「お言葉を聞いたろう? 外套をとってきたらいい。早くしろ!」  バイロンは図太く、できるだけゆっくりとあとずさりした。書棚のところまで後退し、そこで前かがみになった。そして椅子の背後へ手をのばし、ありもしない外套を手探りした。椅子の背後の空間へ指をはわせながら、後は身体をこわばらせてギルブレットのつぎの動きを待った。  護衛兵たちにとっては、観視《ヴィジ》ソナーはただ物珍しいノブのついた一個の物体としか映らなかった。ギルブレットがしずかにノブをいじりまわしているが、護衛兵にとってはそれは何の意味もなさない動作にすぎなかった。バイロンは鞭の銃口をじっとはげしく見つめた。銃口が彼の心を満たすままにした。銃口以外の、彼がその眼で見、耳で聞く一切のもの(彼は現にいろいろのものを見、聞いている)が、彼の心のなかへはいってきてはいけないのだ。  だがいつまでこんな凝視をつづけていればよいのだ?  武装護衛兵の一人が言った。「外套は椅子のうしろなのか? 立ちたまえ!」護衛兵はいらだってつかつかと前へ進んできた。だが途中でとまった。眼が深い驚きの表情で細まっている。そして左側へ鋭く視線をむけた。  これだ! バイロンはかがんだ姿勢をのばし、男へ体当たりしていった。護衛兵の両膝をつかみ、ぐいと引いた。護衛兵ははげしい音をたてて転倒した。バイロンの大きな手がのび、護衛兵の握っていた神経細胞鞭をつかんだ。  もうひとりが鞭をとりだした。が、とっさには使えない。鞭をもたない手で、眼前の空間をめくらめっぽうに払っているだけである。  ギルブレットのかん高い笑い声があがった。「どうした、ファリル? 何か気になるのかね?」 「何も見えないんですよ」バイロンはうなるように言った。「ぼくがいま握っているこの鞭以外に何も見えないんですよ」 「それでいいんだよ、さあここを出たまえ。彼らは君を止めようとしても、何もできないんだ。彼らの心は、存在しない視覚像と音響でいっぱいなんだ」ギルブレットは言った。  バイロンは両腕を高々と上げた。一方の腕を力まかせに一人の護衛兵の肋《あばら》のすぐ下、みぞおちのあたりへ打ちおろした。男の顔は苦痛にゆがみ、痙攣《けいれん》しながら二つ折れになった。バイロンは起きあがった。手に鞭を握っている。 「気をつけて!」ギルブレットが叫んだ。  バイロンは振り向いたが遅すぎた。第二の護衛兵が襲いかかり、バイロンをつかんで引き倒した。めくら攻撃であった。その後衛兵が自分で何をつかんでいると思っているのか、バイロンにもギルブレットにも判断のしようがなかった。その男がめくら攻撃の瞬間、バイロンのことなど思ってもいないことだけは確かであった。男の息がバイロンの耳に聞こえた。男ののどに、わけのわからぬガーガーというあえぎが鳴りつづけていた。  バイロンははげしく身体をねじり、奪った鞭を役立たせようともがいた。そして男の空虚な視線に出会い、ぎょっとなった。男の両眼に、誰にも見えない何か恐ろしい影を見ているような驚きがあったからである。  バイロンは両足をふんばり、金縛《かなしば》りをふりほどこうとして体重を右、左へと移したが、まるできかなかった。臀部《でんぶ》に三度、護衛兵の鞭が振りおろされるのを感じた。おどろいて身体をよじらせ、打撃を避けようとした。  そのとき、男ののどのガーガー声が言葉を成した。男は叫んでいるのだ。「みんなつかまえてやる、みんな!」――と同時に、鞭の発出するエネルギー・ビームの通路に、眼にとらえられないほどの淡い、イオン化した空気の陽炎《かげろう》が燃えた。陽炎の矢が空中を横ざまに流れ、ビームの通路がバイロンの片足を横ぎった。  まるで、沸騰《ふっとう》する鉛の溶解槽へ足をふみいれたような、あるいは花崗岩《かこうがん》の大きな一塊で足がつぶされたような、もしくは鮫《さめ》に足が食いちぎられたと形容できそうな、すさまじい痛みがあった。ところが実際には、肉体的な何の損傷も起こりはしなかったのである。痛覚をつかさどっている神経抹消が全般的に、かつ極大的に刺激されたにすぎなかった。沸騰する鉛でさえできない芸当を、ビームが行なったのである。  バイロンはのどを裂くような絶叫をあげ、くずれた。戦いが終わったことにすら気がつかなかった。まだ燃えあがる、ふくれあがる痛みだけが彼の意識にあった。  だがそのときもう、バイロンは気づかなかったが、うしろからつかみかかった護衛兵の握力はゆるんでいたのだ。数分後、バイロンが眼をあけ、またたきして涙を払ったとき、彼は護衛兵がたじたじと壁のほうへあとずさりしていくことに気づいた。あとずさりしながら、虚空《こくう》でものを押すように力なく手をばたつかせ、ひとりでクスクス笑い声を立てているのであった。第一の護衛兵はまだ床に背をつけて倒れたままで、両手両足を投げだしていた。男は意識はありながら、ものも言わなかった。視線があらぬ方向へさまよっている。身体がかすかに震えている。口から泡が吹きでている。  バイロンはよろけながら起きあがった。ひどくびっこをひきながら、壁のほうへ移動していった。鞭の銃把《じゅうは》で護衛兵をなぐりつけた。護衛兵はぐったりとなってくずおれた。それから第一の護衛兵のほうへもどった。相手は抵抗もできないでいた。眼球が動き、失神寸前の様相をみせていた。  バイロンは床にすわりこみ、自分の足をさすった。靴をぬぎ、靴下をとった。かすり傷もおびていない皮膚をびっくりした眼で見た。彼は腹を立て、火傷《やけど》のような疼痛《とうつう》に呻《うめ》き声をあげた。ギルブレットを見上げた。ギルブレットはいま観視《ヴィジ》ソナーから手をはなし、こけた一方の頬を手の甲でこすっていた。 「ありがとう」バイロンがあえぎながら言った。「あなたの楽器のおかげで助かりました」  老人は肩をすくめて、「すぐまた誰かやってくるよ。アーテミジアの部屋へいきなさい。さあ! 早くして!」  バイロンはとっさにギルブレットのせきたての重大さを悟った。足の痛みは薄らいでいた。ふくれた感じだけは残った。彼は靴下をはき、靴を小脇にはさんだ。鞭一本はもう手にいれていた。もう一本を第二の護衛兵の手からもぎとり、そそくさとベルトへさしこんだ。  ドアのほうへ向きなおり、そのとき忍びよってきた疑惑と嫌悪に立ちすくみながらきいた。「彼らに何を見させたんですか、あんたは?」 「わしにもわからんよ。わしにはこの楽器のコントロールはできんのだ。わしはただ、わしで加えられるかぎりの全力をノブに与えただけだ。あとは複雑な機械そのものの機能によることだよ。後生だから、そこに突っ立って、くだらんことをしゃべっていないで! アーテミジアの部屋へ行く図面もっているかね?」  バイロンはこっくりとうなずき、廊下へ出た。人影もなく、ひっそりしていた。早く歩こうとするとびっこを引くことになり、たどたどしく歩いた。  彼は腕時計を見た。そのとき、時計をローディアの地方時間へ調整するひまがなく、まったく忘れてしまっていたことに気がついた。腕時計はまだ、宇宙船上で使われている標準恒星間時間で動いていた。これは百分が一時間、千分が一日になる測定法であった。だから腕時計の冷たい金属の文字盤にピンクにかがやいている八七六という数字は、今は何の意味ももたないのであった。  それでも、大ざっぱに言って、今はもうかなり遅い夜か、すくなくともこの惑星の睡眠時間(夜と睡眠時間が一致しないものとして)にはいっていると思われた。でなければ、各ホールがこんなに人気《ひとけ》がないわけはないはずだし、壁の薄肉彫りのような画面が、誰も見ていないのに青光りを発しているはずがないからであった。彼は廊下を歩きながら、何気なくひとつの画面――戴冠式光景――にさわった。壁面がつるつるで浮彫りでないことがわかった。それでいて、画面ははっきりと浮き立ってみえる。完璧な幻覚装置であった。  こんなものの効果を調べるために、たとえわずかでも立ちどまったなどとは、まったく彼らしくない異常な出来事であった。それから彼ははっと気づき、先へ急いだ。  廊下に誰もいないということが、ローディアの堕落をしめす一徴候として彼の眼には映った。彼はティラン人体制への反逆児となって以来、この体制の腐敗と堕落の徴候にひどく敏感になっていた。独立国家の中枢として、パレスにはつねに歩哨《ほしょう》が立ち、夜の監視員が無言で警戒しているべきではないのか。  彼はギルブレットの描いてくれた荒っぽい図面をひろげ、右へ曲がり、幅広い、ゆるいカーブをなしている堂々たる斜道をのぼっていった。かつては、ここを絢爛たる王家の行列がしずしずと通っていったことに相違ない。だが今はもう、そういったもののすべてはすたれてしまったのだろう。  彼はこれに違いないと思われるドアにもたれ、光電管シグナルにふれた。ドアがわずかに開いてとまり、それから大きく開いた。 「おはいりなさい、若いお方!」  アーテミジアの声だった。彼はひょいと中へはいっていった。ドアがすみやかに、音もなくしまった。彼は娘に真向かったが、一言も発しなかった。シャツが肩のところで裂け、一方の袖がぴらぴらとはずれていることを彼は意識していた。憂鬱《ゆううつ》であった。着ているものが汚れきっており、顔に鞭の跡があることを彼は知っていた。まだ靴を小脇にしていることに気づき、それを下へ落とし、足をねじって入れた。  それからようやく彼は口をきいた。「ぼく、腰かけてもかまいませんか?」  彼女は、椅子へ足をひきずっていく彼のあとからついてきた。腰をおろした彼の前に立った。やや心痛の表情であった。「何があったんですの? あなたの足、どうしたんですの?」 「けがをしたんです」それだけ言った。「ここを去るご用意はできているんですか?」  彼女はわずかに面《おもて》を輝かせ、「それじゃ、わたしたちを連れていって下さいますのね?」  だがまだバイロンはやさしい口をきく気分にはなっていなかった。まだ足がずきんずきんと痛み、それをいたわっているのであった。「いいですか、ぼくを宇宙船へつれだして下さい。ぼくはこののろわれた惑星を去ります。もしあなたが一緒にいらっしゃりたいなら、お連れします」  彼女は顔をしかめた。「そんなにこわいお顔なさることありませんわ。格闘していらしたの?」 「そうです。父君の護衛兵とやり合いました。ぼくを大反逆罪のかどで逮捕しようとしたからです。ぼくの避難権要求に対して、ひどい仕打ちです」 「まあ! お気の毒なことをしましたわ」 「そうですとも。ティラン人がひと握りの官憲だけで、五十の惑星をぎゅうじっていられるのも当然です。われわれが彼らを助けているといっても言い過ぎじゃありませんよ。父君のような人たちが、彼らに支配をつづけさせるため、あらゆる手を貸しているのです。そのために彼らは、一介の紳士にすらある基本的な義務を忘れて――ああ、こう言ったからって、気にしないで下さい」 「お気の毒なことをしたとお詫びを言いましたでしょう。牧畜場主閣下《ロード・ランチャー》」彼女は冷たい自尊心をひらめかしながら、バイロンの公式称号をつかった。「どうかご自分でわたしの父の裁判官にならないで下さい。あなたは事実全部は知っていらっしゃらないのです」 「その話をする気はありません。ぼくたち、大急ぎでここを出なければならんのです、父君の護衛兵がこの上やって来ないうちに。もちろん、あなたの気持を傷つけるつもりなどありません。大丈夫ですよ」バイロンの不機嫌な調子が、弁解を意味をなさないものにしていた。しかしそれも当然である。彼は神経細胞鞭で打たれたのだ。そのつらさが身にこたえている。それに、宇宙空間に賭《か》けて、ここの宮廷はバイロンに避難所を与えることを拒んだ。それだけでもバイロンの心が煮えくりかえっているのは当然だろう。  アーテミジアは柳眉《りゅうび》を逆立てた。もちろん、父親に対してではない。この愚かな若者に対してである。あきれるほど若い男である。まだほんの少年じゃないの、ほとんどわたしぐらいの年齢じゃないの、なんという生意気な、と彼女は思った。  通信器が鳴った。アーテミジアが鋭い声で通信器へ言った。「もうすこし待って下さい、そうしたらわたしたち出かけます」  それはギルブレットの声であった。通信器からかすかな声がもれている。「アータだね? そこで、大丈夫かい?」 「彼はここにいます」アーテミジアが低い声で応じた。 「よしきた。それでいい、何も言うな。おまえの部屋をでてはいかん。彼をそこに置いときなさい。パレスでいま捜査がはじまっている。これを阻止する方法はないんだ。わしが何か手を考えるから、しばらくの間そこを動くな」そう言ってギルブレットは待ったが返事がない。接触が切れたのである。 「やっぱりそうだったか」バイロンは言った。彼も通信器のギルブレットの声は聞いたのである。「ぼくがここに隠れていて、あなたをトラブルに巻きこむか、それとも出ていって逮捕されるか――それが問題だな。ローディアなどで、どこかに避難所を与えられると考えたことが甘かった……」  彼女がむっとしてまともにバイロンを見据えた。「おお、やめて! あなたったら、大きな、醜い、おバカさん!」と声をつまらせて叫んだ。  二人は眼をむいてにらみあっていた。バイロンの感情は傷つけられた。彼は、気持の上だけでも、アーテミジアを助けようとしているのだ。その彼女から侮辱される筋合いはない。 「ごめんなさい……」やがてアーテミジアはそうつぶやいて、眼をそらした。 「なに、かまわんですよ」冷たい調子で言った。心とは裏腹のせりふだった。「あんたにはあんたの意見があるんだから」 「でも、わたしの父におっしゃったようなことおっしゃることはないでしょう? あなたは総督ってどんなものか知らないんだわ。彼は人民のために働いているのよ、あなたがどう思おうと」 「ああ、そりゃそうでしょうとも。総督は人民のために、ぼくをティラン人に売らなければならないんだ。ちゃんと筋はとおっている」 「ある意味ではね。総督は彼らに、自分が忠誠だということを示さなければいけないの。でないと、彼らは総督を廃して、ローディアを直接統治するかもしれないでしょ? そのほうがいいの?」 「たったひとりの貴族が避難所を与えられないようなら――」 「まあ、あなたはご自分のことばかり考えているんだわ。そこがあなたのいけないところだわ」 「死にたくないと思うことが利己的だなんて、ぼくは考えませんよ。すくなくとも、理由なく死にたくはない――当然のことじゃないですか。ぼくは殺される前に、すこしは抵抗しなければならない。ぼくの父も彼らと戦ったんですよ」彼は自分の調子がメロドラマじみてきたことに気づいた。だがアーテミジアはそんな彼に親愛をよせているらしかった。 「それで、戦ったことが、お父さんに何かよい結果を招きました?」 「よい結果は招かなかったと思う。父は殺されました……」  アーテミジアは不幸を感じた。「わたし、もう一度お気の毒って言いますわ。こんどのわたしの言葉はほんとうの気持なのよ。わたし、どうしていいかわからないほど気がめいっているわ」それから、自然と警戒の調子になって、「わたしだってトラブルに巻きこまれているのよ。わかってるでしょ?」  バイロンはそのことを思い出した。「わかっています。よろしい、では二人ではじめっからやり直しましょう」彼は笑おうとした。足もかなり楽になってきていた。  アーテミジアは気分を引き立てようとして、「あなたって、それほどいやらしい人じゃないわね」  バイロンはからかわれている気がした。「ああ、あんたにそれが――」  絶句した。アーテミジアも自分の口へ手をやった。二人はドアのほうへ頭を向けた。  廊下に敷いてある半弾力性のプラスチックのモザイクをやわらかに踏む、節奏のあるたくさんの足音がしたからである。その多くはドアの外を通りすぎた。だが、かすかにひとつ、訓練のきいたかちッと踵《かかと》を合わせる音が、すぐドアのところで響いた。と、たちまち夜間シグナルが鳴った。  ギルブレットは大車輪で行動しなければならなかった。またも彼は観視《ヴィジ》ソナーを隠さなければならなかった。今になって初めて、もっといい隠し場をつくっておけばよかったと思った。罰《ばち》当たりのヒンリックが、こんどに限って、朝まで待たず、すばやく決心をした。ギルブレットは逃げなければならない! こんどというこんどは逃げられないかもしれない。  それから彼は護衛長を呼んだのである。二人の失神している護衛兵、それから囚人が逃げたこと――彼のような高貴な立場からすれば些細なことと言えたが、彼はこれを放っておく気にはなれなかった。  護衛長は報告をうけて不機嫌そのものであった。失神している二人の部下の処置をし、それからギルブレットに向き直った。 「公爵、通信器でおっしゃったことだけでは、いったいどうしたのか、さっぱりわからないんですが……」 「ああ、君の見たとおりのことだよ」とギルブレットは答えた。「二人は逮捕しにやってきたのだが、若い男は言うことをきかなかった。逃げちまった。どこへ逃げたか、宇宙空間《スペース》のみぞ知るだよ」 「そんなことでしたら大したことはありません。今晩のパレスは、偉い方がいらっしゃっているので、夜間も厳重な警戒が布かれております。その男、とても脱出できるはずはありません。われわれはすぐパレス内へ警戒網を張ります。でも、彼はどんなにして逃げたんでしょう? 部下は武装しており、彼は武装していないのに」 「ああ、あの男はまるで猛虎のように抵抗しておったよ。あの椅子のところから飛びだしてな。わしがその椅子のうしろに隠しておいた――」 「閣下が、そのれっきとした反逆者を取り押さえようとするわたくしの部下に、すこしも手を貸しておあげにならなかったのは遺憾《いかん》です」  ギルブレットはせせら笑った。「なんとおもしろい論理だな、隊長。君のその、人数でも武器でも二倍も三倍もの力をもった部下が、わしの援助がいったというのかい? だったら君、そろそろもっと優秀な部下を採用しなければならん時機だな、え?」 「けっこうです! わたくしたち、極力パレス内を捜査し、必ず彼をつかまえます。二度と妙なまねはさせません」 「わしもいっしょについていくよ、隊長」  眉をつりあげたのは、こんどは護衛長のほうだった。「それはおすすめできません、公爵。すくなからぬ危険が伴いますから」  ヒンリアッド家の偉い人には目下のものからこうした失礼な言葉を述べないのが常識であった。ギルブレットはそれを心得ている。しかし今の場合、彼はただ笑ってすませ、やせた顔にいっぱいに小皺をよらせた。「わかっているよ。しかし、わしには危険もまた興味の対象なんだ。ときどきはな」  護衛兵小隊が集合するのにたっぷり五分はかかった。その間ずっとギルブレットは自分の部屋に引きこもっていた。そしてアーテミジアを呼びだした。  小さなシグナルの音がし、バイロンとアーテミジアは凍りついたように立ちすくんだ。もう一度シグナルが鳴った。と同時に、用心ぶかいドアをコツコツとたたく合図がし、ドアの外でギルブレットの声が聞こえた。 「どれ、わしにやらせてごらん、隊長」とギルブレットの声。それから、大きな声になって、「アーテミジア、アーテミジア!」  バイロンはほっとして笑顔《えがお》になり、ドアのほうへ行きかけた。だが娘がとつぜんバイロンの口を手でふさいだ。そして大きな声で、「もうすこし待って! ギルおじさま」それから、険しい眼をして奥の壁のほうをさし、バイロンをせきたてた。  バイロンはただぽかんとしてそのほうを見つめただけである。壁には何もないのだ。アーテミジアはとがめる顔で、きッとバイロンをにらみ、彼のわきをすり抜けた。壁に手がかかった。すると、壁の一部が切り抜かれたように、音もなくわきへすべっていき、その向こうに化粧室が現われた。彼女の唇が動いた。「はいりなさい!」と促している。そしてすぐ、彼女は手で、自分のドレスの右肩にある飾りピンをまさぐった。ピンを抜くと、ドレスの下まで走っている眼には見えない合わせ目が開いた。それを閉じている小さな力場が破れたのである。彼女はドレスを脱いだ。  バイロンは壁のくりぬきをまたいでから振り返った。くりぬき窓がもとへもどるわずかの時間に、彼はアーテミジアがドレスを着替えるのを見ることができた。銀白の毛皮のドレッシング・ガウンが彼女の両肩へふわりとかけられた。緋のドレスは、椅子の上に落ちている。  バイロンはあたりを見まわした。彼らがアーテミジアの部屋を捜査しないだろうかと心配になった。もし捜査が行なわれたら、バイロンは袋のネズミであろう。この化粧室からは抜けだす方法がない。今はいってきたくりぬき窓が唯一の脱出口である。化粧室のなかには、たとえクロゼットのようなものでも、あるいは長持ちのようなものでも、隠れ場所はひとつもないのだった。  一方の壁に数枚のガウンがかかっていた。その前の空気がかすかに陽炎《かげろう》で揺らいでいる。陽炎へは容易に手をつっこむことができる。手首のあたりで、かすかに感触がわかる。この空気の振動は、背後の空間がつねに無菌に近い清潔状態に保たれるように、埃《ほこり》をさえぎるためにくふうされているものであった。  このスカート類の陰へかくれることができるかもしれない。思うが早いか、彼はそうしていた。彼はギルブレットの助けをかりて、二人の護衛兵をたたきのめし、ここまでのがれてきた。ところが、ここへ来たかと思うと、今度は場所もあろうに女のスカートの陰にかくれている。事実、文字通り、これはレディーのスカートの陰にだ。  壁が背後で閉じないうちに、もうすこし早くうしろを振り向けばよかった! 彼はそんな不逞《ふてい》な後悔をしている自分自身を見いだしていた。ほんとに彼女は眼のさめるような美しい肉体をしていた。ついさっきまで、あんなに子供っぽくいきりたったなんて、まったくすこしどうかしていた。彼女には何の罪もないことなのに。彼女の父親がどんな悪党でも、彼女の責任ではないのに!  だが今はただ、ただ何もない一枚壁のうしろから、隣の部屋をうかがって、ここで待っている以外にはない。部屋の足音に耳をすませ、もう一度壁が開くのを、そうしておそらくは銃口がふたたび彼につきつけられるのを。そして、こんどこそ観視《ヴィジ》ソナーなどという天から降った救助の手は差しのべられないだろう。  彼は待った。両手にひとつずつ、神経細胞鞭をしっかりと握りながら。 [#改ページ]   九 そして大君主族のズボン 「どうしたんですの?」アーテミジアはきいた。わざと不安のふりをする――そんな演技の必要はなかった。近親のギルブレットに話しかけているのだから。ギルブレットはドア口に、護衛兵隊長といっしょに立っている。すぐ向こうに、すこし離れて、六人ばかりの私服の護衛兵が、目ざとくあたりに気を配りながらたむろしていた。彼女はすぐ続けて、「父上に何かありましたの?」 「いや、いや、そんなことではないよ」ギルブレットが安堵させる調子で言った。「おまえの心配するようなことは何も起こっておらん。眠っていたかい、おまえ?」 「眠ろうとしていたのよ。それにわたしの侍女たちはみんな、何時間も自分たちのことで追われていて、出てきてくれないんですもの。結局、いくら呼んでも誰も来てくれないの。おじさまの呼びだしで、びっくりして、わたしもう、死ぬほどこわかった……」  彼女はとつぜん隊長へ向きなおった。身体をそらし、いどむように、「わたしに何のご用なの、隊長? 早く言ってちょうだい。父上に謁見するには、適当な時間じゃないことよ」  隊長がどぎまぎして口すらひらけないでいる。ギルブレットが割ってはいった。「いや、じつにおもしろい現象なんだよ、アータ。あの若者――何といったか、わかっているな、おまえは――あれが逃げたんだよ、二人の護衛兵の頭をたたき割ってな。それでわしたちは人数を増やして、やつを狩り出しているわけだ。一小隊の兵隊で一人の逃亡者をとっちめようという勇ましいはなしだ。それでわしも、わしたちの偉い隊長をわしの熱意と勇気で喜ばせながら、狩りだしに加わってここまで来たというわけだ」  アーテミジアは、当惑自失というそぶりを装うことができた。  護衛隊長は低い声で何やら単音節の呪《のろ》いの言葉をつぶやいた。唇がほとんどはっきりした動きをしめしていない。ようやく、のどをとおしてから、「失礼ですが、公爵はあまり素直に行動していらっしゃいません。わたくしどもは我慢ならないほど、万事が遅れています。公女さま、ウィデモス(牧畜領主《ランチャー》の息子と自称する男が反逆罪で逮捕されておったのですが、すきをみて逃亡し、いまだにつかまっておりません。わたくしどもは、パレス内を、一部屋一部屋ぜんぶ捜査しなければなりません」  アーテミジアは顔をしかめ、一歩退いた。「わたしの部屋も捜査するの?」 「公女さまのお許しを得ますならば」 「でも、わたしそんなこと許さないわよ。だって、見知らぬ人がわたしの部屋にはいっていれば、わたし知っているはずですもの。そうかといって、わたしがこんな夜間に、そんな人と、あるいはどんな見知らぬ人とでも、何かの事を構えているなどと疑うんだったら、それほどひどい言いがかりはないわ。どうかわたしの地位に対する正統な尊敬の心を失わないでほしいわ、隊長!」  アーテミジアの叱責《しっせき》は実にうまく効《き》いた。隊長はただ平身低頭するばかりで、「いえ、とんでもございません、そんなことを申し上げるつもりはもうとうございません。公女さま。こんな時間にお騒がせしてほんとにすみません、お許し下さい。逃亡者を見かけないという今のお言葉で十分でございます。いかなる場合にも、あなたさまのご安全を確かめるというのが、わたくしどもの義務でございますから。彼はじつに危険な人物でして……」 「でも、あんたとあんたの部下で扱いきれないなんて、そんなに危険な人でもないようじゃないの?」  そこへギルブレットのかん高い声がまた割りこんできた。「これこれ、隊長。君がわしの姪《めい》とうやうやしいご挨拶を交わしている間に、その男は武器庫へ忍びこんで、武器を盗んでいるかもしれないよ。だからわしがいい案を授けよう。アーテミジア姫のドアに護衛を一人立たせておいて、これ以上姫の睡眠を妨げないようにしなさい。もっとも、なあ、アータ」とアーテミジアへ指をひらめかせながら、「おまえがわしといっしょに捜査隊に加わりたいというなら話は別だが」 「わたし、ドアに錠をおろして寝《やす》みます、それで満足しますわ、では誰か護衛兵を一人……」 「それでは、せいぜい大きな者を選ぶんだな」ギルブレットが大声で言った。「あの男はどうじゃ。われわれの護衛隊はほんとうにりっぱな制服をつけているなア、アーテミジア。制服さえみれば、すぐうちの護衛兵だとわかる」 「閣下!」隊長がしびれをきらして言った。「そんな時間はございません。公爵は仕事を遅らせておいでになる」  隊長が顎でしゃくると、分隊のなかから、一人の護衛兵が列を離れ、閉じかかるドアのすき間からアーテミジアに敬礼をし、それから隊長へ敬礼した。やがて整然とした多数の足音が廊下を左右に分かれて消えていった。  アーテミジアは待った。それからそっとドアを一インチか二インチあけて外を見た。その護衛兵がひとりでこちらへ背を向けて立っていた。足をひらき、背筋をのばし、右手は武器を握り、左手を自分の警報ボタンから離さないで立っていた。ギルブレットがヒントを与え、隊長が選びだした背の高い男であった。ウィデモスのバイロンと同じくらいの背丈であったが、肩幅はそれほどではない。  その瞬間、彼女は思った――バイロンは若く、それだけに考え方などにすこし無茶なところはあるが、すくなくとも背が高く、隆々たる筋骨をしている。それが好都合だった。バイロンにあんなにムキになって食ってかかるなんて、実際自分としたことがあまりにはしたなかった。それにあんなにおとなしい容貌《ようぼう》の、よい男性《おとこ》なのに。  彼女はそう思いながら、ドアをしめ、化粧室へ通じるくりぬきドアのある壁のほうへと歩いていった。  壁のくりぬきドアがすべって開いたので、バイロンは全身を緊張させた。息を詰めた。指が拳《こぶし》に握られた。  アーテミジアは彼の鞭を見て、はッとなった。「気をつけてね!」  バイロンはほっと安堵の息をつき、二つの鞭をポケットにおさめた。ポケットにさした感じがぎこちなく、不快だった。だが、適当なホルスターがないのだから仕方がない。彼はアーテミジアに言った。「誰かぼくを捜しにやってきたときの用意ですよ」 「さあ、でていらっしゃい。小さい声で話してね」  彼女はまだドレッシング・ガウンを着ていた。バイロンも知らないすべすべした新繊維で織ったもので、銀白の毛皮の小房がいくつか飾りについていた。しかもその材質に特有な、何かしらないがかすかな静電気的吸引力によるものらしく、身体の線にぴったりと密着している。したがって、ボタン、留め金、ループ、合わせ目の力場《フォース・フィールド》などはまったく不要なのである。その結果はまためざましいことになる。アーテミジアの優美な肉体の曲線を、単におぼろげにぼかす以上の奇蹟をこの新繊維は演じているのであった。  バイロンは、耳が赤く火照るのを感じた。そしてその感覚に異常な快感をおぼえた。  アーテミジアは若者の興奮がおさまるのを待った。それから人差指をあげながら、くるりと振り向くようなしぐさをして、「かまいません?」と言った。  バイロンは娘の顔を見上げ、「何をです? ああ、ああ、ごめん!」  バイロンは彼女に背を向け、ドレスの着替えをするかすかな衣《きぬ》ずれの音へ、身体を硬わばらせながら耳を澄ませた。彼には、娘がどうして着替えに化粧室を使わないのか、あるいは、そんなことならなぜドアをあける前に着替えをしなかったのか、などという疑問は起こらなかった。女性の心理には、それにぶつかった経験がなければわからない深層があるのである。  バイロンが振り向いたときには、彼女は黒のツーピースを着ていた。スカートは膝《ひざ》までしかなかった。ボール・ルーム用というよりは戸外の活動に適した、厚ぼったい布地とカットのドレスだった。  バイロンが着替えが終わったことに気づいて、「ぼくたち、じゃここを出るんですか?」ときいた。  彼女は首を振って、「その前にまず、あなたはご自分の用意をしなくてはならないわ。あなたもその服装じゃだめでしょ? ドアの片側に寄ってちょうだい、護衛兵を入れるから」 「どの護衛兵をです?」  彼女はちょっと意味ありげに笑って、「ギルおじさまの示唆《しさ》で、わたしのドアのところに立たせてある護衛兵のことよ」  廊下に面しているドアが、一インチか二インチ、転子《ランナー》の上をしずかにすべった。護衛兵はまだそこに、凍りついたように直立している。 「護衛兵!」彼女が低声《こごえ》に言った。「こっちへ、早く!」  ふつうの兵士にとって、総督令嬢の命令をうけて躊躇《ちゅうちょ》する理由はぜんぜんなかった。護衛兵はうやうやしく、「ご用でございますか、公――」と言いながら開きかかったドアをまたいで部屋のなかへはいってきたが、言葉全部を発声しきれないうちに、咽喉部《いんこうぶ》へ打ちおろされた一本の腕のはげしい打撃と、両肩へくわえられた圧倒的な重量とで、呻き声ひとつたてずに、膝をがっくりとその場へくずれていった。  アーテミジアは大急ぎでドアを閉じたが、この光景にほとんど嘔吐をもよおすショックをうけた。ヒンリアッド家王宮での生活は、積年の無事泰平でいまや退廃のムードに爛熟《らんじゅく》し、彼女は生まれて以来、人間の窒息死というものを目撃したことがなかった。哀れな護衛兵はいま、顔面を充血させ、むなしく呼吸をもとめて口をパクパクさせている。彼女は思わず眼をそむけた。  バイロンは、相手ののどへまわした骨と筋肉との輪をせばめながら、歯をむきだして力を入れた。護衛兵の手が弱まり、バイロンの腕をむなしく引っかいた。足がやたらに虚空を蹴った。バイロンは両手にぐっと力をいれ、男をしめあげた。男の身体ぜんたいが床から持ちあげられた。  やがて男の両手はだらりとわきへ垂れ、両足もまた張力を失って宙にかかった。胸部の痙攣《けいれん》するようなはげしい波打ちがゆるみはじめた。バイロンは男の身体をしずかに床へおろした。ぐったりとなって、中身をあけられた袋か何かのように、男の身体が床の上にのびて横たわった。 「死んだの?」アーテミジアが恐怖につかれてささやいた。 「まだでしょう」バイロンが言った。「人間を殺すには四分か五分はかかります。この男はただ一時気を失っているだけです。しばりあげる紐《ひも》か何か、ありませんか?」  彼女は首を振った。しばらくの間、彼女はどうすることもできないショック状態にあった。 「セライトのストッキングか何かあるでしょう? あれでいいんですよ」バイロンは男の武器を奪い、制服を脱がせた。「ぼくは自分の身体を洗いたいんですが。いや、洗わなきゃならないんですよ」  アーテミジアの浴室で浄化力のある噴霧のなかへ踏みいるのは爽快《そうかい》であった。おそらく香水の匂いがつきすぎるだろうが、戸外へ出れば、匂いはとれるだろう。すくなくとも、身体がきれいになる。身体の汚れをすっかり落とすには、暖かい気流のなかを猛烈ないきおいで噴きかかってくるこまかい水滴のなかを一瞬通過するだけでは足りなかった。彼はなおも身体をくねらせ、回転し、暖かい噴霧が彼の身体を清めてくれるのにまかせた。特別な乾燥室はいらなかった。噴霧から踏みだせば、自然と急速に身体はかわくのである。ウィデモスにも、あるいは地球にさえ、こんな装置はなかった。  護衛兵の制服はすこしばかり窮屈だった。それにバイロンは自分の短頭型の頭に、不格好で円錐型の軍帽がのっかるぐあいが気に入らなかった。彼は鏡を見ながら、すこし不満足だった。「どうでしょう、ぼくの格好?」 「兵隊そっくりだわ」彼女がコメントした。 「あんた、この鞭を一本持ってくれなくっちゃ。いくらぼくでも、三本は扱えない」  彼女は鞭を指でつまみ、バッグのなかへ入れた。そのバッグはバッグで、別のマイクロ力場で彼女の腰の幅広いベルトに吊りさげられた。だから彼女はぜんぜん手は使わないですむのである。 「さあ、わたしたち出たほうがいいわ。途中で誰かに出会っても、あなたは口をきいてはいけないことよ。わたしが話をしますから。あなたの発音は正確でない。それに、わたしのいるところであなたが口をきくのは礼儀に反しているのよ、あなた自身が話しかけられたのでない限り。忘れちゃダメよ――あなたはふつうの兵隊なんだから」  床に転がった護衛兵がすこし身体を動かしはじめた。眼玉をくるりくるりと回しはじめた。だが男の両手首と足首とは背中へしっかりと結わいつけられている。セライトの張力は鋼鉄よりも強いから、どんなにあばれてもゆるみはしない。猿ぐつわをはめられ、男の舌はむなしく動くのみである。  男の身体はわきへ寄せられていた。だから二人がドアへ行くのに、男の身体をまたぐ必要はなかった。 「こっちよ」アーテミジアがささやいた。  最初の曲がり角へさしかかったとき、二人の背後で足音が聞こえた。バイロンの肩を力の弱い手がつかんだ。  バイロンはすばやく一歩わきへ寄り、振りむいた。一方の手が相手の腕をつかみ、他方の手が鞭を握っている。  だが、「あわてなさんな、おまえさん!」といったのはギルブレットだった。  バイロンは腕から手をはなした。  ギルブレットは腕をさすりながら、「わしはここで君を待っていたのだ。だからといって、わしの腕の骨をくじくことはないだろう。どれどれ、君のその勇姿をちょっとながめさせてくれんか、ファリル。それを着た格好は、服が縮まったみたいだが、悪くはない。うむ、なかなかだよ。その姿だったら、誰もおやと怪しむものはおらんだろう。そこが制服のありがたみさ。兵隊の制服の中身は兵隊で、それ以外じゃないからね」 「ギルおじさま」アーテミジアがつきつめた調子でささやいた。「あまりおしゃべりにならないで! ほかの護衛兵たちはどこにいるんでしょう?」 「みんなわしのしゃべるのをいやがるね」ギルブレットはふくれっ面をした。「ほかの護衛兵は管制タワーをのぼっていっている。わしたちの友達が低いところにはいないと決めこんだらしいのだ。だから、主要出入口と斜道に少人数を残して、あとは出かけたよ。一般警報システムは動いておる。わしたちは、警報システムを巻いていけるよ」 「でも、彼ら、あんたがどこへいったかと、捜さないでしょうか?」とバイロンがきいた。 「わしを? ふん、そんな。隊長はね、あんなにうやうやしく畏《かしこ》まっていても、わしがいなくなれば、喜ぶんだよ。彼ら、わしなど捜しはせん、大丈夫だよ、君」  三人は低い声でしゃべっていたが、それすらやめ、黙って進んだ。斜道のふもとに一人の護衛兵が立っていた。その短い斜道を登ると戸外へ出る。そこの大きな、彫刻をほどこした二重とびらの両わきに、一人ずつ護衛兵が立っていた。  ギルブレットが大声で呼びかけた。「逃げた囚人の消息はないかね、君たち?」 「はい、今のところありません、閣下!」斜道のふもとにいる護衛兵が答え、踵をかちっと合わせて敬礼した。 「よろしい、なおよく監視するように」  三人は護衛兵のわきを通り戸外へ出た。二重とびらに立っていた一人の護衛兵が、三人が通るとき、一時的に警報システムのその部分を中性化《ニュートライズ》した。  外は夜だった。空は澄み、満天の星々がかがやいていた。地平線に近いところでは、不整形の「暗黒星雲《ダーク・ネビュラ》」の巨塊が星くずの光を、えぐったように消していた。やがて、彼らの背後に、パレス・セントラルが黒々としたシルエットをなしてそびえて見えた。パレス空港はなお彼らの前方にあった。そこまでの距離は一マイル半足らずと思われた。  しかし、静かな小径《こみち》を五分ばかりも歩くと、ギルブレットの様子がおかしくなった。そわそわと落ち着かない。 「どこか変だよ」とギルブレットが言った。 「ギルおじさま、宇宙船を用意しておくように言いつけるの、お忘れになったんじゃない?」 「そんなこと忘れるか!」まるで鞭で打つように、ぴしゃりと答えた。「だけど、どうしてパレス空港の管制タワーに灯《あか》りがついているんだろう? 暗くしてなければならんはずだが……」  木々のすき間から、ギルブレットが指さして示した。パレス空港タワーは、まるで蜂《はち》の巣のように無数の照明が明々とともっている。ふつう、照明がついていることは空港で業務が行なわれていることを示している。宇宙船の発着があるということだ。 「今夜は何もスケジュールがないはずだが……」ギルブレットがつぶやいた。「それはずいぶんとはっきりしているのだ」  だがしばらく行くと、彼らの疑問は答えられた。いや、ギルブレットの疑問が答えられたというべきである。彼はとつぜん立ちどまり、両手をひろげて、二人を制した。 「万事休すだ!」ギルブレットが言った。それから、ヒステリックに低い声で笑った。「こんどというこんどは、ヒンリックのやつ、じつに|適切に《ヽヽヽ》間違いおった、愚かものめが! 彼らが来ているんだ! ティラン人がだよ。わからんのか、君たち? あれはアラタップ専用の武装|宇宙艇《クルーザー》だよ」  バイロンはたしかにそれを見た。快速宇宙艇は、ほかの黒々とめだたない多数の宇宙船にまじって、タワーの照明をうけて、はっきりと輝いてみえた。ローディアの宇宙船と比べて、それははるかに細くすんなりと、まるで猫《ねこ》のように精悍《せいかん》に見えた。 「護衛隊長が、今日は『偉い人』のもてなしがあるとはっきり言っていた。わしはうっかり気にもとめないでいた。もうどうすることもできん。ティラン人と戦うことはできん!」  突如、バイロンは身体のなかのバネがはじけたような全身感覚をおぼえた。「なぜ戦えないんです?」すさまじい語気で言った。「なぜ彼らと戦えないとおっしゃるんですか? 彼らはいま何の疑いもはさんでいません。ぼくたちには武器があります。コミッショナーの専用船を奪取しましょう。やつを、パンツを下げおろしたままにしてやりましょう」  バイロンは木の間から前へ踏みだし、広々とした原っぱへ出た。二人があとにしたがった。隠れる必要はなかった。総督宮廷の貴人二人と、それを護衛する兵隊一人には相違なかった。  だがめざす相手はてごわいティラン人である。  ティランのシモック・アラタップは、ずっと以前はじめてパレス・グラウンドを見たとき、眼をみはらせられた。だがあれはもう何年も前のことである。だが今は、パレス・グラウンドは一個の貝殻のように死んで見えた。内部は黴《かび》臭い廃砦《はいさい》以外の何ものでもなかった。二世代前には、ローディアの各立法院は全部この王宮敷地《パレス・グラウンド》に参集したのだった。行政官のほとんどがここに住居を構えたのだった。パレス・セントラルは十二の惑星に血液を送っていた心臓であった。ぴくぴくと脈動していたのだ。  だが現在では、立法院(汗《かん》は地方政府の法律主義にはいっさい干渉しないから、立法院はいまなお存続している)は一年に一度、過去十二か月の行政命令を批准するために参会するだけである。それはまったくの形式に堕してしまっていた。行政評議員会は名目上はいまなお開会している。だがそれはわずか十二名の評議員から成り、十のうち九週間は自分の領地にとどまって出ては来ない。統治者が総督であろうと汗《かん》であろうと、行政官庁がなければ実際の政務は行なえないから、各種行政機関はいまなお活動を行なっている。だがそれらはすべて惑星の各地方に散在しており、総督に依存することすくなく、彼らの新しい主人であるティラン人をより強く意識しているのである。  これらの結果は、パレスは依然として石と金属のかたちのまま堂々として存在してはいるが、それはただそれだけである。パレスは総督一家、適切な大きさとは義理にもいえない侍従官女の一団、そしてまったく不能率な地方護衛兵の一隊が住んでいるだけである。  アラタップは、かさかさした貝殻のなかへはいってみて居心地の悪さを覚え、不快であった。もう夜も遅かった。彼はつかれていた。眼が焼けており、コンタクト・レンズをはずしたくて仕方がなかった。そばで少佐がにこりともせずに、総督の挨拶に耳をかたむけている。アラタップはまるで聞いていなかった。 「ウィデモスの息子ですって? ほんとですか?」アラタップはなかば放心のうちに答えた。そして、ちょっと間をおいてから、「それで、捕えたとおっしゃるのですね? 結構でした!」  だが、彼の口から出た「結構でした」はほとんど無意味なおせじだった。アラタップは明晰緻密《めいせきちみつ》な頭脳の持主である。雑多な事実をくどくどと脈絡もなく、並べたてるような陳述にはうんざりした。個々の事実は心にとめていないのである。彼の眼からみたら、パターン全体が腹立たしいまでにデザインを欠いている。  ウィデモスは以前から反逆者であった。ウィデモス牧畜領主《ランチャー》の息子がローディアの総督との面接をくわだてた。最初、こっそりと会おうとしたが、それが失敗すると暗殺計画を知っているというような荒唐無稽《こうとうむけい》な話でおどして、公然と拝謁しようとした。それだけ、面接の必要にせまられていたと見なければならない。これがデザインの第一歩でなければならない。  しかるに、そこからデザインは支離滅裂となる。ヒンリックはその若者を逮捕して身柄をアラタップへ引渡そうとしているという。あきれたスピードで逮捕したとある。自分の来る夜まで、決定を待つことさえできなかったと見える。しかも、なぜ引渡そうというのか、さっぱりわからない。あるいは、アラタップがまだ、すべての事実を聞かされていないのかもしれない。  彼はふたたび総督へ注意をむけた。ヒンリックが同じ話をまた繰り返しはじめた。アラタップは一片の哀れみを感じないではいられたかった。総督は、ティラン人たちでさえ話をきいていていらだつほどの臆病者にされてしまっている。しかも、こうなるよりほかなかったとは、なんと悲しいことであろうか。ただ恐怖心のみが、絶対的忠誠を確保しうる。恐怖、そして恐怖だけが必要なのだ。  ウィデモスは恐怖におじけづきはしなかった。そして自分の利益があらゆる点でティラン人の支配維持につながっているという事実を知りながらも、反旗をひるがえした。だがヒンリックはおじけづいている。そこがウィデモスとはまったく違う。  そしてヒンリックは今もおじけづき、多少なりとコミッショナーから承認のうなずきでももらいたいと、いっしょうけんめいに訳のわからぬことを述べたてている。もちろん少佐が承認など与えないことを、アラタップは知っている。少佐は想像力を欠いた男である。アラタップはため息をついた。そして自分も少佐のように単純になれたらどんなに仕合せかと思った。まことに政治とは醜悪なビジネスではある。  で、アラタップは、ことさらに自分の気持をひきたてながら言った。「まったくそのとおりです。総督閣下の即断、そして汗《かん》のお役にたちたいというご熱意には感服いたします。汗《かん》には必ずやわたしからお心のうちをお伝えいたしましょう」  ヒンリックは眼にみえて明るくなった。愁眉《しゅうび》をひらいたことは明瞭だった。  アラタップは語をつづけた。「それでは、その若者をここへつれてきて下さい。若い雄鶏が何を訴えたいのか、聞いてみましょう」アラタップはあくびの発作《ほっさ》をこらえた。「若い雄鶏」などが何を訴えたがろうと、彼にはまったく興味はないのである。  この言葉を待っていたのはヒンリックであった。この時点で護衛隊長に合図をしようとヒンリックは予定していたのである。だが合図の必要はなかった。護衛隊長がドア口に、呼びもしないのに姿を現わしたからである。 「総督閣下!」護衛隊長は大声で呼び、許しも待たず前へ進みでてきた。  ヒンリックはおどろいて自分の手をながめた。手はまだ合図のシグナル・ボタンから数インチ離れている。彼の意思が何かの力をむき出して、ボタンを押すという行動の代役をしてくれたのであろうか? 「何か用か、隊長?」ヒンリックが不安の面持でたずねた。 「閣下、囚人が脱走いたしました」  アラタップは、自分の泥のような倦怠が一部消えていくのを覚えた。ええと、何の話だっけ? 「隊長、もうすこし詳しく」命令して、椅子の上にすわりなおした。  護衛隊長は三人のお偉方へ、あつかましいほど言葉を節約して語り、最後に、「総督閣下、一般警戒を宣言するお許しを得たいのですが。彼らはまだ、逃げだしてから数分間しかたっておりません」 「ああいいとも? ぜ、ぜひともそうしてくれ!」ヒンリックはどもりながら叫んだ。「ぜ、ぜひとも! 一般警戒令をな、うん、それじゃ。まさにそれじゃ。早く! 早くしろ! コミッショナー、どうしてこんなことになったか、まるで合点がいきませぬ。隊長、全員を動員せい、全員を! 調査をはじめますです、コミッショナー、はい、調査を。必要なら、護衛隊員ぜんぶを解任します。解任じゃ! 解任じゃ!」  ヒンリックは「解任」という言葉を、ヒステリカルに繰り返した。だが、隊長はまだ突っ立ったままである。まだ何か言いたいらしい。  アラタップが口を開いた。「君はなぜ待っている?」 「はい、コミッショナー閣下に、内密にお話したいことがございますが……」護衛隊長がだしぬけに言った。  ヒンリックは、温和な、泰然たるコミッショナーのほうへ、すばやく視線をむけた。恐怖の視線だった。それでも、わずかに色をなして、「汗《かん》の軍人には秘、秘密などはないのじゃ、わしたちの友達であるコミッショナーの、わしたちの――」 「言いたまえ、隊長」アラタップがやさしく促した。  護衛隊長は両足の踵をかちっと鋭い音をたてて合わせてから、「コミッショナー閣下、お許しがありましたゆえ申し上げます。実はまことに遺憾のきわみですが、わたくしどものアーテミジア公女とギルブレット公爵が、逃亡の囚人と行をともにされました」 「そやつが、姫とギルブレットを誘、誘拐《ゆうかい》しただと?」ヒンリックが驚愕《きょうがく》のあまり席を蹴って立ちあがった。「わ、わしの護衛兵どもが、そ、それを許したというのか?」 「お二人は誘拐されたのではございません。総督閣下。自発的に彼についていったのです」 「どうしてそれがわかる?」アラタップが喜色をあらわしてきいた。興味がわき、覚醒が百パーセントにきた。ようやく、デザインがパターンを成した。予想したよりは、よいパターンだ! 「彼らにねじふせられた護衛兵の証言によってです。それから、うっかりと彼らをビルディングの外へ出してやった護衛兵数人の証言があります」それからすこしためらったが、苦しそうにつけ加えた。「わたくしがアーテミジア公女さまと、公女さまの私室のドアのところでお会いしましたとき、公女さまは、これからお寝《やす》みになるところだとおっしゃっていました。そのとき、今から考えますと、公女さまはごく念入りのお化粧をなさっていらっしゃったのですが、その当座はわたくし気がつきませんでした。気がついてもどっていきましたときには、すでに遅うございました。この不手ぎわに対してはまったく申し訳がございません、責任をとります。今晩のご用がすみましたら、コミッショナー閣下にわたくしの辞職をおねがいいたす所存であります。しかし、その前にまず一般警戒令のご発令をおねがいいたします。コミッショナー閣下からのご発令という権威なくしては、当家一族の方々をお調べすることができないからであります」  そうまで言われてもヒンリックは立ったまま、身体を左右に揺すぶるばかり。むなしく護衛隊長の顔をにらんでいるだけであった。  アラタップが言った。「護衛隊長、君はそんなことより、総督閣下のご健康を心配してあげなさい。侍医を呼んだらどうかね?」 「一般警戒令をおねがいいたします!」護衛隊長が繰り返し叫んだ。 「一般警戒令などは出さん! わしの言う意味がわかるかね? 一般警戒などはないのだ! その囚人をふたたび逮捕することもならん。事件はこれでケリにする! 君の部下を宿舎へ帰すなり、通常勤務にもどしなさい。そして君は総督閣下のめんとうをみてあげなさい。さあ、少佐、こちらへ」  二人でパレス・セントラルの黒々とした建物のかたまりをあとにするやいなや、ティランの少佐がきびしい口調でなじるように言った。 「アラタップ、ご自分で何をなさったかおわかりなんですね? おわかりのはずだと思って、あの場は口をつぐんでいたのですが」 「ありがとう、少佐……」アラタップは緑の植物がいっぱいに茂っている惑星の、夜の空気をしみじみと嗅いでいた。ティラン惑星には、それはまたそれで独得の美しさがあった。だが、それは岩石と山ばかりの美しさ、きびしい美しさでしかなかった。そしてあまりにかわきすぎていた、あまりに! 「君にはヒンリックは扱えんよ、アンドロス少佐。君の手にかかると、ヒンリックはしぼんで、枯れてしまう。彼は有用な人物なんだよ。だが、そうしておくためには、もそっとやさしく取扱わなければならんのだよ……」  非難には肩すかしをくわせ、少佐は、「そんなことを言っているんじゃありませんよ。なぜ一般警戒令を出さなかったんですか? あなたは、彼らが要《い》るんじゃなかったんですか?」 「君は要《い》るのかい?」アラタップは歩みをとめた。「しばらくここに休んでいこうよ、アンドロス。芝生にそった径《みち》にベンチがある。ああ、こんなに美しいところがあろうか、君? スパイ光線の監視から、こんなに安全なところがあろうか? なぜ君はあの若者を手にいれたいと思うのかね、少佐?」 「なぜわたしが反逆者や陰謀者を手にいれたいと思うか、とおっしゃるんですね?」 「そうだよ、毒の源《みなもと》を放っておいて、二人や三人の、道具みたいな小者をつかまえたって始まるまいが? どの人間をつかまえたいのだ? 若造をかい? あのバカ娘をか? それとも老いぼれの白痴をかい?」  すぐ近くに人工瀑布のかすかな飛沫《しぶき》の音がした。小さな滝、だが美しい滝である。この滝すらが、今のアラタップには驚異であった。滾々《こんこん》と地中よりわきで、原野へ無償に流れ、岩をかんでくだり、土壌の上を走って無限にそそぐ水――それを想像するだけでも心がおどった。それが欠けていることへのかすかな憤りから、彼はけっして脱したことがなかった。 「このままでは、わたしたちは何も獲物《えもの》がないのですよ」少佐が憮然《ぶぜん》と言った。 「しかし、パターンがあるよ。歴然たるパターンがつかめた。あの若い男が最初にローディアへ着いたとき、われわれは若造をすぐヒンリックと結びつけて考えた。しかし一向にさっぱりしなかった。なにしろ、ヒンリックはあのとおり、まことに頼りない木偶《でく》のような人物だから。しかし、われわれとしては、あの時点では、ベストを尽くしたんだから仕方がなかろう。いまにしてようやく、わしたちは、ヒンリックは問題じゃないことがわかった。ヒンリックをめざしたのは見当違いだったということがだよ。彼がねらっていたのは、ヒンリックの娘と従弟《いとこ》だったのだ。そうわかれば、前よりずっと理屈にかなう」 「それにしても、なぜヒンリックは、わたしたちをもっと早く呼ばなかったのでしょうね? こんな真夜中になるまで待つなんて」 「それがそれ、ヒンリックが完全な道具だからだよ。ヒンリックに最初に近づいた男――それが誰だかは言わぬが花だろうが、ヒンリックはその男の完全な道具で、きわめて巧妙に事を運んでいるのだよ。真夜中におれたちと会見したわけは、ギルブレットの指し金だとわしは確信している。総督がティランへの協力に非常に熱心だということをわしたちに示すために、その証拠としてわざわざ夜の会見を示唆したのだ、ギルブレットがだよ」 「わたしたち、わざとここへ呼ばれたんだとおっしゃるんですね? 彼らの逃亡の目撃者、あるいは証人にするために?」 「違う、そういう理由からじゃない。自分で考えてごらん。あの三人がどこへ行くつもりなんだと思う?」  少佐は肩をすくめて、 「ローディア惑星は大きいですからなア……」 「ファリルだけのことだったら、ローディアでいいんだ。しかし、王家の家族二人が、人にみつからんでローディアのどこへいける? ことに娘はだ」 「だとすると、彼らはこの惑星を去らなければならないというわけですね? そう、わたしもその見方には賛成です」 「じゃ、どこから飛ぶかだ? 彼らは、十五分も歩けばパレス空港へつける。わしたちが何の目的でここにきているのか、その理由《わけ》がわかったかい、君?」  少佐が叫んだ。「わたしたちの宇宙船?」 「もちろんそうだよ。ティランの宇宙船は、彼らに打ってつけだ。そうでないとすれば、貨物船のなかから選ばねばなるまい。ファリルは地球で教育をうけている、だから、宇宙艇《クルーザー》を操縦できるのは間違いのないところだと思う」 「そこでひとつ問題があるんです。なぜわたしたちは、貴族がその子弟をやたらに方々へ送りだすのを黙って見ているんですか? 被支配民族の子弟が旅行についての知識を獲得するといっても、地方貿易に役立つ以外に何の利益があるんです? わたしたちにむかって反抗する兵隊を養成するようなものじゃありませんか、放っておくのは?」 「それはそうだとしても……」アラタップは丁寧にいまの言葉は無視した。「いまの問題だが、ファリルは外国教育をうけている。このことを客観的に考えてみなくてはいけないよ、おこってばかりいないでね。彼ら三人がわれわれの宇宙艇を奪っているに違いない――この事実は消えんのだ」 「とても信じられませんね」 「君は腕時計型通信器《リスト・コーラー》をもっているじゃないか。宇宙艇と連絡してごらん」  少佐は連絡をこころみた。通じなかった。 「じゃ、空港タワーを呼んでごらん」  少佐が空港タワーを呼んだ。小型レシーバーから小さな声が響いてきた。わずかに興奮している。「でも閣下、わたくし、まったく解《げ》せません――何かの間違いではないでしょうか。閣下の操縦士は十分前に離陸しました」  アラタップが笑っている。「ほら、ね。それでパターンが完成した。小さな出来事のひとつひとつが、抜きさしならずはまるだろう? それで、この結果はどうなると思う、わかるだろうね?」  少佐にもぴんときた。膝をぽんと打ち、ごくわずか笑った。「もちろんわかりますよ!」 「よろしい。彼らは、もちろん、知るよしもないが、あれで自分たちの運が尽きたのだ。もし空港にあったいちばんできのわるいローディアの貨物船で我慢していたら、たしかに無事脱出できたはずなんだよ。そして、このわしは――何ていったらいいかな?――今晩、ズボンを脱ぎかかる途中でつかまるという、間のわるい格好になったはずだ。ところが彼ら、ムリをしたから、おかげでこのわしのズボンはしっかりとベルトで緊められている。一方、彼らのほうは破滅なんだ。そして、わしが、わし自身の最適の時機に――いいかい最適の時機にだよ――」(アラタップはこの言葉を満足そうに力を入れて発音した)「彼らを引きずりもどしてこれれば、わしは陰謀団の残り全部も、この両手でとらえることができるというわけだ」  アラタップはため息をついた。そしてまたも眠たい倦怠の気分に襲われはじめた。「まあ、わしたちは運がよかった。もうあわてることはないよ。セントラル基地を呼んでくれ、別の宇宙艇をすぐ送らせるようにナ」 [#改ページ]   十 もしかすると?  地球でバイロン・ファリルが習った宇宙航行術はおおむね学究的であった。大学の教育課程のなかには、宇宙工学の各種段階があった。超原子力|発動機《モーター》理論は一学期の半分も勉強させられたが、いざ実際の操縦となると、大学の授業などはすこししか教えなかった。最優秀、最高技能のパイロットはすべて宇宙空間で技術を習得したのであり、学校の教室でできあがったのではなかった。  彼は、技能というよりは好運のおかげで、事故もなく離陸することができた。「リモースレス」号(情け無用号)はバイロンが予想したよりもはるかに迅速にコントロールに反応した。彼は地球にいたころ、宇宙船を自分で操縦し、宇宙空間へ飛びだして地球へもどったことが数度あった。しかしあのときの宇宙船は、学生用に温存してある旧式の型の、安全第一というモデルであった。それらは性能がおとなしく、ひじょうな老朽であり、もたもたとしか上昇せず、大気圏そして宇宙空間へとゆっくりとしか旋回上昇しなかった。  ところが「リモースレス」号は、バネではじかれたように離陸し、大気圏をまたたく間に抜けでるという、ほとんど無造作な上昇の仕方をした。だからバイロンは操縦席をとびだしてうしろにのけぞり、もうすこしで肩関節を脱臼《だっきゅう》するところだった。未経験らしく極度に用心ぶかいアーテミジアとギルブレットは、安全ベルトをしめていたから、厚い詰め物で補強した網に身体をこすりつけて擦過傷《さっかしょう》を負っただけであった。ティラン人のコミッショナー専属パイロットは、バイロンの捕虜になっていたが、壁につよく押しつけられて横たわり、身体じゅうをしばりあげられた縄目《なわめ》をほどこうと身をもがき、単音節の呪詛《じゅそ》を爆発させつづけた。  バイロンはあぶなげに足をついて立ちあがり、ティラン人の操縦士を力まかせに蹴った。ティラン人はそのまま黙り、くやしそうな顔をして物思いに沈んでいた。バイロンはそれから壁の手すりにつかまり、加速に抗して交互に手を先へくりだしながら、ようやく操縦席へもどることができた。前部噴射が船体をふるわせ、増大する加速率を人体の耐えうる程度まで下げてくれた。  そのころにはもう、彼らはローディア惑星大気圏の最外層にはいっていた。空は濃い紫色だった。船体は空気の摩擦で高熱となり、船内にすらその温度が感じられた。  それから宇宙艇をローディアを回る軌道にのせたのだが、それには数時間の操縦が必要だった。バイロンには、ローディア惑星の重力を克服するだけの速度を手早く計算する方法がわからなかった。いわば試行錯誤方式で速度を加減しなければならなかった。噴射を前部でふかしたり、後部でふかしたりしながら、速度をいろいろに変え、質量計《マッソメーター》をにらんだ。質量計は、重力場のつよさを測定して宇宙艇が惑星地表からどれくらいの距離であるかを標示してくれる。さいわい、質量計はローディア惑星の質量と半径にあわせて目盛りがしてあったので、読むことは容易であった。もし目盛りがローディアのそれに合わせてなかったとしたら、バイロンはその翻訳と調整にかなりの試行錯誤的実験を要しただろうと思われた。  ようやくにして、質量計《マッソメーター》は落ち着き、二時間ばかりの間、指針はさしたる動揺をしめさなかった。バイロンはひと息いれることができた。他の二人も安全ベルトをはずした。 「あなたって、ずいぶん乱暴な操縦なさるのね、牧畜領主《ランチャー》閣下」とアーテミジアが言った。 「ちゃんと飛ばせていますよ、公女さま」バイロンはつっけんどんに答えた。「あなたがもっとうまく飛ばせるというなら、どうぞ代わって下さい。ただし、ぼくが下船してからにお願いします」 「静かに、静かに」とギルブレット。「この宇宙船はただでさえ狭苦しいんだから、君たちそんなに不機嫌になっていたんではどうにもならんよ。それに、わしたちは素っ飛び牢獄のなかで、窮屈にごたまぜにされた仲だから、『公女さま』とか『閣下』とかいうややこしい呼び方はやめにしようよ。でないと、わしたちの会話《やりとり》は重たくなって息がつまってしまう。わしはギルブレットでいい。君はバイロン、おまえはアーテミジアだ。みんなこの呼びかけを忘れんようにナ、めんどうくさかったら、もっと短く略してもいいが。それから船の操縦だが、ここにいるティラン人の友達の手も借りたらいいんじゃないかね?」  ティラン人が憎悪の眼をぎらつかせた。バイロンは、「それはダメです。この男を信用することはできません。ぼくの操縦も、この船のくせに慣れるにつれて、よくなっていきますよ。まだあんたの頭蓋骨を割ってはいないでしょう?」  最初の加速反動で打ちつけた肩がまだずきずきと痛む。いつものように、疼痛《とうつう》で彼は気むずかしくなっている。 「うむ、まあナ」とギルブレット。「だが、この男をどうするんだい?」 「ただ冷酷に殺してしまうというのはいやです。また殺したからって何にもならない。ティラン人たちを倍も三倍もいきりたたせるだけです。支配人種の一員を殺すというのは、絶対に許せない罪悪になっているんですからね」 「しかし、じゃどうするんだ?」 「下船させます」 「よかろう。どこへだ?」 「ローディアへです」 「何だと!」 「ローディアだったら、彼らがぼくたちを捜査しないからです。それに、どうせぼくたち、もうすぐ着陸しなければなりません」 「なぜだ?」 「いいですか、これはコミッショナーの宇宙艇ですよ。コミッショナーはローディア惑星の地表をあちこちへ飛ぶためにこれを使用しているんです。宇宙旅行用の燃料と食糧は積んでいないんです。ぼくたち、惑星外へ出るためには、船内の補給物資をすっかり調べあげなくちゃなりません。すくなくとも、食糧と水を十分もたなければなりませんよ」  アーテミジアがさかんにうなずいた。「そのとおりだわ。すごい! わたし、とてもそこまでは気がつかなかった。ずいぶんよく気がつくのね、バイロン」  バイロンはおこって非難の表情をみせた。だが表情とは裏腹に、心暖まる感じがあった。アーテミジアが彼をファースト・ネームで呼んでくれたのはこれが初めてだからである。親しく呼びかける彼女には意外な魅力が感じられた。  ギルブレットが言った。「だが、この男はすぐ船の位置を無線でたしかめてくれるだろうに」 「ぼくはそうは思いません」とバイロン。「第一、ローディアはとほうもなく大きいから、まだ人跡未踏の原野があちこちにたくさんあると思うんです。そこへ降ろしてやりたいんです。どこかの都市のビジネス地区へなど降ろしてやることはありません。また、どこかティラン人の駐屯軍のどまん中へ降ろしてやる必要もありません。それに、この男はあんたのお考えになるほど、自分の上官に連絡したいと思っていないかもしれんですよ。……おい君、汗《かん》のコミッショナーの専用|宇宙艇《クルーザー》を管理していて盗まれたら、預っていた兵隊はどんな罰をうけるんだい?」  ティラン人の捕虜は答えない。唇の色が変わるまで歯を食いしばっている。  バイロンはこの兵のような立場には立ちたくないと思った。まったく、この兵になんの咎《とが》があろう。ローディア家の一族に礼儀を尽くしたからといって、そこからトラブルになると疑う理由はまったくなかったのだ。いちおう、ティラン軍紀に文字どおり従って、指揮官の許可なくして彼らを乗船させることは拒んだのである。たとえ総督その人が乗船を要求してきたとしても、彼は同じように拒否したであろう。だが、言い争っているうちに、彼らはしゃにむに乗船を強行してきたのである。軍服務規程にもっと厳密にのっとって、武器を構えておけばよかったと悟ったときは、もう手遅れだった。神経細胞鞭がすでに彼の脳部に触れるばかりになっていたからである。  それでもまだ、彼はおとなしく降伏したのではなかった。実際に鞭で胸を打たれて、はじめて行動を停止させられたのである。それでも結果は同じことだった。彼は軍事法廷にまわされ、処罰は免れない。誰も情状酌量などは期待しまい。ましてこの兵にはそれはわかりきったことなのである。  二日の後、彼らはローディア惑星サウスワーク市の郊外地に降下した。ここを選んだのは、ここがローディア人口の大半が密集している首都圏からずっと離れていたからである。ティランの兵士は、斥力《せきりょく》カプセルのなかに入れられてストラップでしばりつけられ、サウスワーク郊外のいちばん近いかなりの大きさの町から五十マイルばかり離れたところの上空で、羽ばたき降下をさせられた。  ひらけた海岸の砂丘へ宇宙艇は着陸した。着地の衝撃はわずかだった。バイロンが三人のうちでいちばん目立たなかったので、彼が必要なものを買いに出かけた。ギルブレットが気をきかして持参してきた金も、ごく必要な基本物資を買うにも足りなかった。というのは金の大半は小さな二輪の押し車に費やされたからである。これを使って、物資をちびちびと運ばなければならなかった。 「もっとお金を有効に使えたはずだわ」とアーテミジアが文句を言った。「そんなに、ティランのマッシばかりたくさん買いこむんですもの」 「でも、ほかにどうすることもできなかったと思うんですよ」バイロンがむっとして答えた。「あんたにはただティランのマッシかもしれんが、これは栄養のある食物ですよ。ほかの飲物よりずっと、ぼくたち、これを食べていればやっていけると思うんです」  バイロンは心配になった。彼のやっていることは、まるで沖仲士《ステベ》の労役である。その都市から買いだしてそれを郊外の宇宙船に積む、何から何まで自分でやらなければならない。しかも、市のティラン人の経営している物資補給所のひとつから買うのだから、かなりの危険をおかさなければならない。彼はまた、値段をつりあげられるのではないかとおそれた。  しかしこれ以外に方法はなかった。ティラン軍は、彼らのつかっている小型宇宙船にぴったりと適した補給システムを確立していた。ティランの小型宇宙船には、丸ごと食用家畜の死体をきれいに並べて吊っておくといったふうの他の惑星軍の宇宙船隊のような大きな貯蔵スペースはなかった。したがってティラン軍は、必要なカロリー量と栄養素をふくむ標準規格の濃縮食糧をつくっていて、有無をいわさずこれを使わせているのである。同じ栄養価の天然の動物食品だったら、貯蔵にこの二十倍のスペースはとるであろう。しかも、この標準食糧は、低温貯蔵室に煉瓦のように積み重ねておくことができる便利さがあった。 「でも、これひどい味だわ」 「でも、ぼくたち慣れなくちゃならんですよ」バイロンは彼女の不機嫌なとんがり口調をまねていった。彼女は赤くなり、ぷっとおこって横をむいた。  彼女が心配しているのは、宇宙艇のスペースがなくなることと、それに伴う不便さだということは、バイロンにもわかっていた。味もそっけもない単一食糧を貯蔵すれば、一インチ立方あたり多量のカロリーが積めるというような実利の面ではなかった。彼女が問題にしているのは、たとえば、三人別々の寝室が使えなくなくというような居住性のことである。この宇宙艇は、機関室と管制室だけでスペースの大半をしめる。(所詮、これは軍艦であって娯楽用ヨットではないのだから、とバイロンは思う)。それから貯蔵室、小さな船室《ケビン》がひとつ、これには両側に三段ベッドがついている。便所などは船室のすぐ外の小さなスペースに押しこめられている。  要するに混雑ということだ。まったくプライバシーが許されない。ということは、アーテミジアにとって、船内では婦人服は着られない、鏡はない、お化粧用の設備がないという惨憺《さんたん》たる事実に自己の生活を調節しなおさなければならないという意味になる。  だが結局、彼女としてもこれに慣れるよりほかはあるまい。バイロンは、すでに彼女のためにできるだけのことはしてやっている。自分の居場所は極度に縮めている。いくら公女だからといって、すこしはこちらの厚意を察し、笑顔のひとつも見せても悪くはないはずだ。彼女は笑うとじつに可愛らしい。バイロンは彼女がそうわるい器量でないことは認めなければならなかった。ただし、あのかんしゃくだけはごめんだ。あれはひどい!  だが、なぜ彼女のことばかり考えて時間を空費するのか? こんなことではいけない、いけない!  水の問題がいちばん困った。もともとティランというのは砂漠惑星だから水は貴重品であって、宇宙艇には洗面、水浴、洗濯用などの水は貯えるスペースがない。兵隊はみんな、どこかの惑星に着陸すると、大急ぎで身体を洗い、下着類の洗濯をする。航行中は、すこしぐらい汚れても、汗臭くなっても平気である。飲料水も長期航行に十分には積んでいない。結局、水は濃縮もできないし、脱水もできない。水は水の嵩《かさ》で貯蔵するよりほかはない。問題は、濃縮食糧には水分が少ないということで、いちだんと深刻であった。  身体から出る水分を蒸留して再利用する装置はあった。しかしバイロンはこの装置の働きを思うと気分がわるくなり、排泄物《はいせつぶつ》は水分の回収などはせずに船外へ捨てるようにシステムを変えた。化学的には理屈にかなうが、そういうものとしてしつけられていないと、おいそれとはできない事柄である。  二度目の離陸は、完璧とはいえないが、きわめてスムーズであった。バイロンは惑星を遠くはなれると、計器類をいじくりはじめた。ここの制御盤は、彼が地球で扱いなれた宇宙船のそれとは似ても似つかないものであった。恐ろしいまでに圧縮され、コンパクト化されていた。ある接点の機能、あるダイヤルの目的など、彼は苦心のすえに判じだすと、紙にこまかい指令を書いて、制御盤の適当なところにはりつけ、それを参照した。  ギルブレットが操縦室へはいってきた。  バイロンは肩越しに振り返り、「アーテミジアは船室《ケビン》でしょうね?」ときいた。 「ほかに彼女のいる場所もあるまいが」 「彼女に会ったら、ぼくが操縦室に寝棚をつくったからと言って下さい。あんたも自分の寝棚をつくったらいいですよ。そして彼女に船室《ケビン》を使わしてやって下さい」それから、口ごもるようにしてつけ加えた。「まったく、子供みたいな女の子だ……」 「君だって、むずかることがあるじゃないか、バイロン。彼女の育ちを察してやらんといかんよ」 「いいですとも。ご忠告は覚えておきましょう。でも、だからどうだというんです? ぼくがどんな育ち方をしたと思っているんです? ぼくはどこかの小惑星帯《アステロイド・ベルト》にある機雷原で生まれたのと違いますよ、あんた。ぼくの生まれたのは、最大の牧場であるネフェロス惑星の牧場《ランチ》ですよ。しかし、不運なシチュエーションにはまったら、できるだけそれに順応していくよりしようがないんじゃないですか? 冗談じゃない、この船をひっぱって大きくするわけにはいかんですよ。必要ぎりぎりの食糧と水を積んでいるだけなんです。シャワーや浴室がないからって、ぼくにどうできるというんです。彼女は、まるでぼくがこんな船をつくったみたいに、プリプリ当たってくるんです。あんまりですよ」ギルブレットにわめきちらすと気が楽になった。誰が相手だろうと、鬱屈《うっくつ》したものを吐きだすと、せいせいする。  だがそのときドアがあき、アーテミジアが立っていた。冷たい調子で言った。「ミスター・ファリル、もしわたしがあなただったら、どなるのはよすわ。船中にガンガン響くじゃないの」 「そんなことかまうものか。船が気に入らんのだったら、こういうことを思い出すといい――あのときあんたのお父さんが、ぼくを殺してあんたをあの男と結婚させようなどとさえしなかったら、ぼくだってあんただって、こんな窮屈なところにいることはなかったんだ!」 「父上のことなど口にしないでちょうだい」 「誰のことだろうと、ぼくは言うだけのことは言いますよ」  ギルブレットが両手を耳にあてた。「後生だから、よしてくれ!」  それで口争いはしばらくやんだ。ギルブレットが言った。「今のわしたちの目的地の問題を話そうじゃないか。ここまで来たら、はっきりした――わしたち、どこかへ着陸して、船から出るのが早ければ早いだけ、この不快からのがれられるということだ」 「そこんところは賛成です、ギル」とバイロン。「どこでもいいから着陸しましょう、彼女のガミガミを聞かんですむところなら、どこだっていい。宇宙船で女の悪口をいうなんて、下の下ですよ」  アーテミジアは彼の言葉を無視し、ギルブレットだけに話しかけた。「わたしたちなぜネビュラ空域から脱けでてしまわないの?」 「あんたがどういうつもりかぼくは知らんが」とバイロンがすぐ食ってかかった。「ぼくはぼくの牧場をとりもどさなけりゃ気がすまんですよ。そして、父の非業の死に対して、多少のことはしなければ。ぼくはあくまで王国集団《キングダムズ》にとどまります」 「わたし、なにも永久にネビュラ空域を去ると言ってるんじゃないわよ。ただ、捜査のほとぼりが冷めるまでの意味よ。あなたが牧場をとりもどすって、どんな手段を用いるのか知らないけれど、結局ティラン帝国がバラバラにくずれないかぎり、絶対にとりもどせないわ。だから、あんたのいうこと、まるでわからないのよ」 「ぼくが何をもくろんでいようとあんたが心配することはないじゃないか。ぼく自身のことだもの」 「どれ、そこでひとつヒントを与えようかな」とギルブレットがやさしい声で言った。  返事がないので賛成と受けとり、ギルブレットが続けた。「わしは君に、三人がどこへ行くかを教えよう。そして、アータの言ったようにティラン帝国をバラバラにする方策をこと細かに授けよう――これだったらどうかね?」 「へえ? そんなことを、どうやってできるというんです?」バイロンが言った。  ギルブレットは笑って、「おや、坊や、ずいぶんとおもしろい態度をとるね、君は。わしを信用しとらんのだな? 君はまるで、わしの興味をもつことはすべてバカバカしい仕事だみたいに、わしを見とるようだが。パレスから君を逃してやったのはわしだということを忘れたかね?」 「忘れるもんですか。ぼくは喜んで、拝聴しますよ」 「じゃ聞きたまえ。わしは二十年の余も、彼らからのがれるチャンスを待っていたのだ。もしわしがふつうの市民だったら、とっくの昔にそうできていただろう。ところが、呪《のろ》われた出生によって、わしには公衆の眼がそそがれておる。しかしながらだ、もしわしが万一ヒンリアッド家の一族として生まれなんだら、わしは現在のティラン汗《かん》の戴冠式に参列する機会にめぐまれなかったろう。そうしたら、やがてはティラン汗《かん》を滅ぼすことになるあの秘密にひょっこりであうこともなかっただろう」 「その先をどうぞ」バイロンが促した。 「ローディアからティランへはもちろんティランの小宇宙戦艦で行った、帰りもそうだったが。ちょうどこんな宇宙艇《クルーザー》だよ、だがもうちょっと大きかった。往きの旅行は何の故障もなかった。ティラン惑星滞在中も、それ相当のおもしろい目はみた。だが、今の話としては、これもまたまったく無事故の滞在であった。ところが、帰りの道で、流星がぶつかったのだ」 「何ですって?」  ギルブレットが手をあげて制した。「ありそうもない出来事だとはわしにもよくわかっとるよ。宇宙空間――ことに恒星間宇宙空間における流星というものはきわめて少ないから、それが宇宙船に衝突するなどということは、まったく絶無に近い。しかし絶無ではない。わかっているね? そして、そのまれなことが、この場合起こったのだ。もちろん、流星が衝突してきたら、どんなに小さな流星でも、極端なはなしがピンの先ぐらいの小さなものでもだ――しかもそれが流星の大部分だ――極度に厚い装甲をほどこした宇宙船でないかぎり、船体を貫通するのだ」 「わかっています。それは流星の運動量によるんですね。運動量は質量と速度との積です。速度がものすごいから、質量の不足を補ってあまりある」バイロンは学校の勉強かなにかのように、むずかしい顔をして復誦しながら、こっそりアーテミジアの横顔をぬすみみている自分にはッとなった。  彼女はギルブレットの話に耳をかたむけながら坐っていたのだった。しかもバイロンにあまりに近くすわっており、ほとんど触れんばかりであった。髪がすこし寝みだれているとはいえ、横顔は美しい、とバイロンは思った。彼女の着ているのは、いつもの小さなジャケットではない。今のブラウスのまっ白い綿毛のような柔らかさ――それは四十八時間後もなお一点のしみなく、一本の皺もなくなめらかである。どうしてこんなにブラウスをきれいにしていられるのだろうか、とバイロンはいぶかった。  もし彼女がもうすこし素直だったら、この宇宙旅行もどんなに楽しかろう、と彼は思った。困るのは、誰も彼女にこれまで適当なしつけを与えなかったことである。それだけだ。父親ですら、彼女を野放しにした。彼女はわがままをとおすことに慣れ、習い性となってしまった。ふつうの市民に生まれていたら、この娘はそれは愛くるしい女となったに相違ない。  彼は小さな白日夢ふけりはじめていた。彼がアーテミジアを完全に手なずけている。彼女は彼を正当に尊敬するしとやかな女になっている。白日夢がここまできたとき、アーテミジアが顔をこちらへ向け、彼の視線と出会った。バイロンは眼をそらし、ギルブレットへ注意力を向けた。彼はギルブレットの言ったセンテンスを二つか三つ聞きのがしていた。 「わしは、どうしてその宇宙船の保護スクリーンが役だたなかったか、さっぱりわからん。おそらく誰にも正しい解答のでない現象のひとつと思うが、とにかく保護スクリーンが流星を防ぎ得なかったのだ。いずれにしろ、流星は船体の中ほどへ衝突した。流星は小石ほどの大きさで、船殻を貫通して速度が減り、反対側から抜けなかった。もし抜けていたら、大した損害ではなかったのだ。穴はすぐふさげばよいからだ。  ところが、流星は管制室へ入り、遠い壁にぶつかってはねかえり、あっちこっちとぶつかってようやく止まった。止まるまでに一分間の何分の一とはかからなかったはずだ。ところが、はじめの速度が一分間に百マイルという高速度だったから、流星は管制室の中を、おそらくは百回ぐらいも往復したに相違ないのだ。乗組員の身体はみんな、ずたずたに切り裂かれた。わしはただそのとき船室《ケビン》にいたために、無事だった。  わしはごくかすかな衝突音を耳にした。流星が最初に船殻を貫通したときだ。それからパチパチパチといういわゆる跳弾の音、と同時に二人の乗組員のおそろしい悲鳴――短い悲鳴を聞いた。管制室へとびこんでみると、いたるところ血だ。肉片が四散しとる。つぎの瞬間に起こったことは、今はもうかなり記憶がぼけたが、あの当時は数年というもの、しょっちゅうわしの夢につぎつぎと順序正しく再現してわしを苦しめたものだ。  冷酷な、空気の逃げる音がして、わしは流星のあけた穴のほうへ飛んだ。わしは円盤型の金属をそこへ当てた。気圧で、それでりっぱな気密栓となった。わしは床の上に、その押しつぶされたような形の小石大の流星――隕石《いんせき》をみつけた。さわってみるとまだすこし暖かかった。わしはスパナでたたいて二つに割った。空気に露出された内部の表面はすぐに霜がかかっていった。あれだけあばれても内部はまだ宇宙空間の温度なんだよ。  わしは死んだ男たちの手首に紐をつけ、その紐をそれぞれ、一個の曳航用《えいこうよう》磁石にむすびつけた。わしは死体を気閘《エアロック》から船外へ投げすてた。磁石が船倉に吸いついてぶつかる音が聞こえたよ、カタッカタッとな。わしは、ああこれで、船がどこへ行こうと、こちこちに凍った死体はどこまでも船についてくるだろうと思ったよ。わかるだろう?――ローディアへ帰還したら、この死体を証拠として提出しなくっちゃいけない。流星にやられたんで、わしが殺したんじゃないという証拠にだよ。  だが、どうしてわしはローディアへ帰ったらいい? わしはまったくとほうにくれた。わしには操縦はまるでわからない。しかも恒星間宇宙のまっただ中だ、わしにできそうなことはなにひとつない。わしは、サブ・エーテル通信システムの使用法すら知らんのだから、SOSを発することもできん。わしはただ船がかってにその針路を進むのにまかせるだけだった」 「しかし、それだってうまくはやれなかったでしょう?」バイロンは言った。彼は、これはギルブレットの作り話ではないかと思った。この老人の悪意のないロマンチックな想像力からか、あるいは何かこの人個人のきわめて実利的な理由があるのかもしれない。「超宇宙空間の『ジャンプ』はどうだったんです。どうしたって何とか『ジャンプ』を凌《しの》がなければならなかったはずです。でなかったら、生きていられるはずがない」 「ティランの宇宙船はね、いったん制御装置をセットすれば、『ジャンプ』などいくつあっても、まったく自動的にやってのけるのだよ」  バイロンは信じがたい面持で老人を見つめた。ギルブレットはからかっているのじゃないか? 「作ったお話じゃないんですか?」と彼はきいた。 「作り話じゃないよ。彼らが戦争に勝ったのは、そういったあきれるほど優れた軍事技術があったからだ。これもそのひとつに過ぎん。五十の惑星を負かしたのは、人口と資源が何百倍も多かったからじゃないよ。彼らはただ『ジャックナイフ投げ』がやれたからだ、この比喩はわかるね? 彼らの戦略は一時に惑星ひとつをやっつけるという巧妙なものだった。こちらの売国奴をじつにうまく利用した。しかしそれと同時に、はっきりと軍事力が段違いだったからだよ。彼らの作戦技術がわれわれより優れていたことは誰でも知っている。しかし、その一部は自動ジャンプ技術なんだ。ということは、彼らの宇宙船の操縦性が極度に進んでいて、われわれの打ち立てるどんな戦闘作戦よりも、ずっとずっと巧妙緻密な作戦計画をたてることができたということだ。  あれは彼らの極秘技術のひとつなんだよ、自動ジャンプというのは。わしはたったひとりその『ブラッド・サッカー』号(吸血鬼号)――ティラン人はじつに不快な名前を宇宙船につける習慣がある、もっともわしはあれはうまい心理作戦だとは思うがね。とにかく、その『ブラッド・サッカー』号にひとりきりになって、はじめて自動ジャンプというものを見るまでは、そんなものがあるとはまったく知らなかったのだ。わしは、宇宙船が、制御盤に誰も手をふれんでも、『ジャンプ』をするのを、ちゃんとこの眼で見たんだよ、この眼で!」 「だからこの宇宙艇もそれができるはずだとおっしゃるんですね?」 「さあ、それはわからん。しかし、できてもわしは驚かんネ」  バイロンは制御盤を不審そうに見やった。まだ彼がどんなために使うのかまるで見当のつかない接点《コンタクト》が何十個とある。よし、あとで研究してみる!  彼はギルブレットへもう一度振り返った。「それで、その宇宙船が無事あんたをローディアへ着けてくれたんですね?」 「いや、そうじゃなかったのだ。いまの流星が管制室をあばれまわったときにだ、この宇宙の石ころは制御盤もいじくりまわしたのだ。いじくらんなどできるはずがない。ひどくあばれたんだからナ。とにかく、ダイヤル類はみんなたたきこわされる。ケーシングはたたきつぶされ、あるいは穴があいた。制御装置がどうセットされていたのか、まるでわからんようにメチャメチャにされたのだ。しかし、とにかく制御装置のセットが変わったことは間違いがない。だって、宇宙船はわしをローディアへつれもどしてくれなかったからだよ。  とうとう、宇宙船は加速度を減らしはじめた。もちろんだよ。わしは、ああこれでこの宇宙旅行は理屈の上では終わりだと思った。いまどの位置にいるのかさっぱりわからん。それでもわしは、なんとかして観視《ヴィジ》プレートを操作してのぞいてみると、驚くじゃないか、惑星がひとつ宇宙船にごく近いところにいるのだ。宇宙船の望遠鏡にはっきりと円盤状になって見えている。円盤がしだいに大きさを増していく。まるで、まぐれ当たりの好運だな、わしにとっては。宇宙船はその惑星へ向かって、まっしぐらに飛んでいっているのだ。  もちろん、まっすぐに惑星へ向かっているのではない。そんなことを望むことは不可能だ。もしわしがただ宇宙空間を漂流しているだけだったら、とうてい惑星へなど着きっこない。すくなくとも、百万マイルはそれただろう。しかしそこんところが幸運だったのだ。わしはその程度の距離なら、ふつうのエーテル無線は使えたからだ。エーテル無線の操作は知っておったのだ。わしが電子工学を独学で勉強するようになったのは、この事件のあとだよ。もう二度と、あんな手も足もでないみじめさに陥りたくないと決心をしたからだ。手も足も出んというのは、およそおもしろいことじゃないからね、え?」 「で、無線を使ったんですね?」バイロンがせきたてた。 「そのとおり。すると彼らが出たよ、わしの通信をキャッチしたよ」 「彼ら?」 「その惑星の人たちだよ。人が住んでいたのだ」 「ほう、運がつきだせば、続くもんですね。何という惑星でした?」 「わしは知らんよ」 「彼らが教えなかったんですか?」 「おもしろいじゃないか、え、君? 彼らは教えてくれないんだ。しかし、ネビュラ王国集団《キングダムズ》のなかのどこかはどこかなんだ!」 「なぜそれがわかったんですか?」 「彼らが、わしの乗っていた宇宙船がティラン船だということを知っていたからだよ。彼らは見ただけでそれを知っていたんだ。それで、もうすこしで爆破しようとしたよ。わしはやっとのことで、生存者がわしひとりだけだと信じこませたから助かったが」  バイロンは膝に手を置き、いっしょうけんめいにその大きな手をもんでいた。「さあ、そこんとこをはずさんで、ぐっと引っぱっていてくださいよ。ぼくにはどうしても解《げ》せんのですが、もし彼らがそれがティラン船だと知っていて、爆破さえしようとしたんだったら、それが何よりの証拠じゃないですか、その惑星がネビュラ王国集団《キングダムズ》のそれじゃないという? どこの惑星かは知らんが、ぜったいにネビュラじゃない……」 「それは違うね、銀河系《ギャラクシー》に賭けて!」ギルブレットの眼がかがやいた。声が急に熱意で上ずってきた。「王国集団《キングダムズ》なんだよ。彼らはわしを惑星地表へつれていった。何というすごい惑星だったことか、わしはびっくりしたよ。王国集団のいたるところから人が集まっていたのだよ。アクセントでわかった。しかも彼らはティラン人などちっとも恐れておらんのだ。そこは全体が武器庫だったんだ。空中からはわかりようがなかった。荒廃した農耕惑星かもしれんと思われた。ところが、惑星のほんとの社会生活は地下にあったんだ、地下に! おい君、なア――どこかにある、王国集団のどこかにあるはずだ、まだあの惑星が! あの惑星はティラン人をすこしも恐れていない。わしの乗っていた宇宙船を破壊しかかったように、彼らはティラン帝国を破壊しようとしているんだ!」  バイロンは自分の心臓がもんどり打つのを感じた。しばし、彼はこの話を信じたいと思った。信じたい!  うむ、もしかすると?  もしかすると! [#改ページ]   十一 いや、多分そうじゃない!  だが、あるいはまた、そうでないかもしれない! 「そこが武器庫だなんて、どうしてわかったんですか?」とバイロンはきいた。「どのくらいの期間、そこにいたんですか? どんなものを見たんですか?」  ギルブレットはいらだってきた。「わしが見たわけじゃないんだ。彼らはわしをどこへも連れてはいかなかった。見せるというようなことは何もしなかった」ギルブレットはしいて興奮をおさえようとつとめるかのようである。「よろしい、いいかね、こういう訳なんだよ。彼らがわしを宇宙船から助けだしてくれたころには、わしはひどい状態だった。わしは恐怖に憑《つ》かれて食欲もなかった。いや、まったく、宇宙空間でひとりぼっちで置き捨てになるというのは、おそろしい経験だよ、君。わしは実際よりはずっとひどい状態に見えたに違いない。  わしは自分の身分を明らかにした、まあある程度にネ、すると彼らはわしを地下へつれていった。船ごとだよ、もちろん。彼らは、わしによりも、宇宙船に関心があるふうだった。それでティラン人の宇宙航行工学《スペーシオ・エンジニアリング》の研究ができる機会が得られるからだろう。わしのつれていかれたところは、病院だったんだな、たぶん」 「でも、そこで何を見たんですの、おじさま?」アーテミジアがきいた。  バイロンがさえぎった。「それはもう彼があんたに言っているんでしょう?」 「言わないわ」  ギルブレットがアーテミジアの返事につけ加えた――「今日まで誰にも言っとらんのだよ。わしは病院へつれていかれた、さっき言ったようにね。ローディアの病院など比べものにならぬりっぱな病院だったが、わしはそこでいくつもの実験室を通っていった。また病院へいく途中で、工場をいくつも通ったよ。そこでは何かの金属加工が行なわれていた。わしを船ごと捕虜にしたむこうの宇宙船はみんな、わしが聞いたこともないようなしろものだった。  それはもうはっきりしたことで、あれ以来何年にもなるが、わしは一度も疑ったことがない。わしはあの惑星国をわしの『反抗世界』として、しっかりと胸に秘めておる。いつの日か、あの宇宙船が大挙して惑星を飛びたち、ティラン人を攻撃するだろうとわしは絶対に期待しておるのだ。今の隷従惑星国がみんな招集され、反抗リーダーたちを囲んで蜂起《ほうき》すると確信しておるのだ。わしは来年か来年かと、そのことの起こるのを待ってきた。毎年新しい年のはじめに、わしは自分に言いきかせてきた――今年かもしれないと。そのたびに、わしは、でも今年でないようにと内心祈った。というのは、まずわしがローディアを脱出することが先決問題だったからだ。来たるべきこの大攻撃にわし自身参加したいと思ったからだ。彼らに、わしを参加させないで攻撃を開始させたくなかったからだ」  ギルブレットは興奮で身を震わせながら笑った。「わしの心のなかに――わしの心にだよ、こういうことが企まれていると知ったら、そりゃもうたいていの人々がひどくおもしろがったろうと思うよ。誰もわしのことなど大して問題にもしておらなかったからね、君も知っているように」 「今のことは二十年前でしたね」とバイロンがきいた。「それでも、彼らはまだ攻撃をしていない、そうなんですね? 彼らの存在そのものすら、何の兆候もない、そうなんですね? 見知らぬ宇宙船が見えたという報告もないし、宇宙空間の大事故もない、そうでしょう? それなのに、あんたはまだ――」  ギルブレットはつかみかかるようにバイロンを見据えた。「それを考えている、そうだとも。二十年といっても、五十の惑星を支配している惑星国に対して反抗軍を組織するのは長すぎる時間ではない。わしは反抗運動が始まったばかりのときにあそこへ行ったのだ。始まったばかりだということも、わしは知っとるのだ。あれ以来、着実に彼らはあの惑星の地下で準備をすすめているに違いないのだ。惑星はおそらく蜂の巣のように穴があけられ、開発されているだろう。そして、より新しい宇宙船、より新式の武器をと開発の歩をすすめ、より大ぜいの若者たちを訓練し、攻撃軍を組織していると思う。  人間が、合図があるとその瞬間に武器にとりつくというのはヴィデオのスリラーものだけだよ。今日新武器が必要になると、明日それがもう発明され、三日後には大量生産され、四日目に使われる――そんなのはお伽噺《とぎばなし》だよ。こうした準備は時間を食うものなんだ、バイロン。それに反抗世界の人たちは、立ちあがる前に完全な準備ができていなければならんと心得ているのだ。二度の攻撃は不可能なのだから。  それから、君のいう『事故』だが、いったい何を事故と呼ぶかだ。ティラン船が行方不明となり、発見されない、それが事故でなくていったい何だ? 宇宙は大きい、それはそうだ。だから、単純に消えてなくなった宇宙船もあるかもしれない。しかし、もしティランの宇宙船が反抗軍の惑星国に拿捕《だほ》されたのだとしたらどうなる? 二年前の『タイアレス』号(無疲労号)事件がそれだ。『タイアレス』号は、見かけない飛翔《ひしょう》物体が質量計《マッソメーター》に感じるくらい近づいてきているという報告を送ったきり、消息を絶ったのだ。流星だったかもしれない、あるいはね。だがはたしてそうだろうか?  捜索は数か月にわたって行なわれた。彼らはどうしても発見できなかった。反抗軍がそれを拿捕したんだよ、|わし《ヽヽ》はそう思う。『タイアレス』号は新型宇宙船だ、実験モデルだ。ぴたり、反抗軍が欲しがっていたものだった」 「その惑星へ着陸したとき、どうして今のようなことを彼らに言わなかったんですか?」バイロンがきいた。 「言いたいのはやまやまだったと君は思わんのか? だが、わしには言いだす機会がなかったのだ。彼らはわしが失神していると思い、いろいろのことをしゃべっていた。わしは聞いておった。それでもうすこしわしにこのことの知識が増えたのだ。当時、彼らは攻撃準備に着手したばかりだったのだ。準備を人に知られてはならない、極秘の状態だったのだ。彼らは、わしがギルブレット・オス・ヒンリアッドだということは知っておった。わし自身がしゃべらんでも――わしはしゃべったのだが――宇宙船にはわしの身分を明らかにする証拠がいくらもあった。彼らはだから心得ていた――もしわしがローディアへ帰還しないとなると、ローディアでは膨大な捜査隊を組織してわしを捜す、何か月も、何年間も捜しつづけるだろう。  彼らとしては捜査されれば困るのだ。だから彼らは、わしがローディアへもどれるようにしてくれた。それでわしをローディアへつれてきてくれたのだ」 「何ですって!」バイロンが叫んだ。「そんなことをしたら、かえって危険が大きいじゃないですか? 彼らは、どんなやりかたで、あんたをローディアへつれてきたんです?」 「わしにもわからん」華奢《きゃしゃ》な指を灰色になりかかった頭髪へはわせた。眼は遠い記憶のすみをむなしく探るように宙を見つめている。「わしは麻酔をかけられていたのだと思う。とにかくそのあたりの記憶がブランクなんだ。ある一点を過ぎると、記憶に大穴があいているのだ。今でも覚えているのは、眼をあけたときだ。そのときはもうわしは『ブラッド・サッカー』号に乗せられていた。わしは宇宙空間にいた。ローディアからちょっと離れた空域にだ」 「乗組員二人の死体がまだ曳行磁石でひっぱられていましたか? 彼らは死体を反抗惑星で取り去らなかったんですか?」 「まだついていたよ」 「あんたがその反抗惑星にいたことをしめす何かの証拠がありましたか?」 「何もなかった。わしの記憶以外にはね」 「どうして、ローディアにすぐ近い空域だとわかったんですか?」 「わかったんじゃない。わしはある惑星に近いとは知っていた。質量計《マッソメーター》でそれはわかった。それで、わしはまた無電器を使った。すると、こんど救助にきてくれたのはローディアの宇宙船だった。わしは一部始終を、当時のティランの弁務コミッショナーにはなした。適度に内容は変えてだよ。もちろん、反抗世界の話はしなかった。わしは、流星が衝突したのは最後のジャンプ直後だったふうに話した。ティランの宇宙船が自動的にジャンプができることをわしが知っていることを、わしは彼らに悟らせたくなかったからだ」 「反抗世界が、自動ジャンプの件を見つけだしたと思いますか? あんたは彼らに話したんですか?」 「わしは話さなかった。話す機会がなかったのだ。わしは長くは滞在していなかった――意識がはっきりしている期間がだよ。だけど、どのくらい長く無意識状態だったかはわからん。また彼らが自分で自動ジャンプのことその他どんなことを発見したかも、わしにはわからん」  バイロンは観視《ヴィジ》プレートを凝視していた。映像の動かない固さから判断して、彼らの乗船が宇宙空間へ、今はすでに抜けでたように思われた。「リモースレス」号は時速一万マイルで飛んでいる。だが宇宙空間の果てなき広さに比べたとき、時速一万マイルが何であろう。星くずはかたく、明るくかがやき、そしてじっと動かなかった。それを見ていると、吸いこまれるような催眠的な性質が、遠い星々にはあった。  バイロンは言った。「じゃ、ぼくたちはどこへ行くんです? あんたはいまだに、反抗世界がどこにあるかもわからないんでしょう?」 「わからんのだよ。しかしそれを知っている人が別にいるとは思うのだ。わしは、これについては確信に近いものをもっている」ギルブレットは熱心にそう言った。 「誰です? それは?」 「リンゲーンの自治領主《アウタルク》だよ」 「リンゲーンですって?」バイロンは顔をしかめた。いつだったか、そんな惑星名を聞いたことがあるような気がする。だが、どういう関係の惑星だったか思い出せない。「なぜその人が?」 「リンゲーンはティラン人につかまった最後の惑星王国《キングダムズ》だよ。ほかの惑星王国ほど、隷従化されてはいない、いってみればだな。それで理屈にあうかい?」 「ええ、話としてはですね。ですが、どの程度の不服従なんです?」 「理由がもうひとつ欲しいなら、君のお父さんの例がある」 「父?」一瞬、バイロンは父が死んでいることを忘れた。彼の心の眼には、いま父がそこに立っているのが見えた。たくましい大きな父、そして元気いっぱいな父。だがつぎの瞬間、彼は冷酷な事実へもどらされた。彼の胸のなかに、いつもの冷たい、ねじられる心の痛みがあった。「でもどうして父がこの問題にはいってくるんです?」 「君のお父さんは六か月前、ローディアの宮廷にいたのだ。わしにも、お父さんが何を考えていたか、多少のことはわかる。お父さんがわしの従兄《いとこ》のヒンリックと密談しているのを、わしはすこし立聞きしたことがあるのだ」 「まあ、おじさま!」アーテミジアが気短かな声で叫んだ。 「あいよ、おまえ?」 「父上のプライベートな会話を立聞きするなんて権利はないわ、おじさまに」  ギルブレットは肩をすくめ、「ああ、もちろんないさ。しかし立聞きはおもしろいよ、それに有益だ」  バイロンがさえぎった。「ちょっと待って。あんたは、父がローディアにいたのは六か月前だと言いましたね?」バイロンは感情のたかぶってくるのを覚えた。 「そう」 「教えて下さい。宮廷にいた間、父は総督の原始文明蔵書を見る機会がありましたか? いつかあんたはぼくに、総督が地球関係の大きな蔵書をもっていると言いましたね」 「見る機会はあったと思う。あの蔵書は非常に有名で、国賓などには、もし関心があれば見せる習慣になっていたからだ。しかし、偉い客人となると、たいていはあんなものに興味をもたない。ところが君のお父さんだけは非常な興味を抱いていた。そう、わしはよく覚えている。あの図書室で一日近くも過ごしていた」  それは符合する。半年ばかり前だった。父がこれまでになく、はじめて彼にある協力を求めたことがあるのだ。「それで、あんたご自身その蔵書はよくご存知なんでしょう?」 「ああ、もちろんだよ」 「その蔵書の中には、地球関係の、軍事的に非常に価値のある文書がありそうな気配がありましたか?」  ギルブレットはぽかんとした表情をした。まるで思い当たるふしがないらしいのである。  バイロンは重ねて、「有史以前の地球歴史で、最後の数世紀間にですね、そのはっきりした年代はわかりませんが、そんな文書が書かれたに相違ないんですよ。ぼくもよく知らんのですが、父が言っていました。その文書は銀河系でたった一か所、総督の蔵書中にしかないもので、非常に価値の高い、しかもきわめて恐ろしい文書だと言っていました。ぼくは父に頼まれて、ローディアへその文書を盗みに行ったのです、でもぼくは地球を去るのが早すぎたんです。いずれにしろ」――声がのどにひっかかった――「父は早く死にすぎました」  そこまで話してもまだギルブレットは思い当たらないらしい。「何の話か、てんでわからんが……」 「わかっていただけませんか。父がぼくにそれを言いだしたのがいまから六か月前なんですよ。父はそのことを、ローディアの蔵書を見て知ったに違いないんです。もしあんたが蔵書をぜんぶ調べていらっしゃるんだったら、父が知った|あること《ヽヽヽヽ》というのはいったい何か、ご存知ないものか?」  だがギルブレットはけげんに頭をふるだけである。 「ああ、じゃ、さっきの続きを話して下さい」 「うむ、君のお父さんとわしの従兄とは、リンゲーンの自治領主《アウタルク》のことを話しあっていたんだよ。ね、バイロン、君のお父さんは慎重に用語を選んでしゃべっていたが、その話しぶりからして、自治領主《アウタルク》が陰謀の源流である首魁《しゅかい》であることは間違いないんだ。わしは――わしだョ――自治領主《アウタルク》に『反抗世界』のことを打ち明けたのだよ」 「あんたはさっき、誰にも話したことはないと言いましたよ」 「自治領主《アウタルク》を除いての意味だ。わしは真実をしらねばならなかったのだ」 「そうしたら、彼は何と言いました?」 「実際問題として、彼はひと言もそれには触れなんだ。だが、そのときは、自治領主《アウタルク》もまた極度に用心深くしていなければならないからだろう。わしを信用していいかどうか、それが心配だったんだな。わしがティラン人の間諜ではないとは言いきれん。彼としては、それを知る手段《てだて》はないからね。しかし彼は扉を全部閉じてしまうことはしなかった。今のところ、わしたちの手がかりはこれだけだ」 「ほんとですか。じゃ、ぼくたちリンゲーンへ行きましょう。どこへ行ったって、同じことなんですから」  父の話が出て、すっかり気がめいってしまった。ここしばらく、どんなことになっても、かまわない。リンゲーンがいいなら、リンゲーンにしよう。  リンゲーンにしよう! それを言うのはやさしい。だが三十五光年のかなたにある宇宙空漠のなかの眇《びょう》たる惑星《しみ》へ、どうやって宇宙船を向けようとするのか? 距離に直せば二百兆マイルだ。二のつぎにゼロが十四個つづくのだ。時速一万マイル(それが今の「リモースレス」号の巡航速度だ)で飛んでも、そこへ着くのに二百万年以上かかる!  バイロンは絶望に似た感情で、『標準銀河系恒星位置推算暦』を繰《く》っていった。数万の星が、その位置を三つの数字に圧縮されて、詳細に、ぎっしりとリストされていた。ギリシア文字のρ《ロー》、θ《シータ》、φ《ファイ》などの記号がつけられたこれらの数字だけでも、数百ページを埋めていた。  ローは銀河系中心点からの距離で、パーセク〔一パーセクは約三・二六二光年。恒星間の平均距離はほぼ一パーセクである〕で表現されている。シータは、星が銀河系レンズ面と標準銀河系基線(この基線とはつまり、銀河系中心点と惑星地球の太陽とをむすぶ線のことである)でなす角度であり、ファイは、銀河系レンズ平面に垂直な星の平面が基線となす角度であり、ともにラジアンであらわされる。これら三つの数字がわかれば広大な宇宙空間における星の位置を言いあてることができるのである。  以上述べた星の位置も、ある日における星の位置ということにすぎない。標準日(推算暦でのデータはすべてこの標準日にもとづいて計算されている)におけるその恒星の位置のほかに、われわれはその恒星の固有運動(速度と方向)とを知らなければならない。このほうは比較的小さな修正にすぎないが、必要は必要である。百万マイルという遠大な距離も恒星の距離に比べたら、まったく問題にならない極微の数値である。しかし宇宙船でいくとなったら、たいへんな遠距離なのだから、おろそかにはできない。  もちろん、宇宙船の位置の問題も大切である。質量計《マッソメーター》を読んで宇宙船のローディアからの距離を計算することができる。いまローディアからの距離といったが、より正確には、ローディアの太陽からの距離である。というのは、宇宙空間においてもこれだけの遠距離になると、太陽の重力場が、その随伴惑星それぞれの重力場を消してしまい、事実上、太陽の重力場のつよさしか測定できないからである。彼らがいま銀河系基線を基準として航行している方法は、以上の測定法よりずっとむずかしかった。バイロンは、ローディアの太陽とは別の二つの恒星の位置をまず決定しなければならなかった。この二つの星の見かけ上の位置と、ローディア太陽からの宇宙船の既知の距離とから、ようやくバイロンは彼らの宇宙船の実際位置を計算することができたのであった。  大ざっぱな計算ではあった。しかしバイロンはこれで十分に正確に測れたと確信がもてた。宇宙船の位置とリンゲーンの太陽の位置とを知っていま、彼はただ超原子力推力の正しい方向と強さを保つためだけに制御装置を調整すればよかった。  バイロンは孤独を感じた。そして身のひきしまる思いがした。だがけっして恐怖感ではなかった! 彼は言葉を拒否した。だが緊張は決定的であった。彼は六時間後にせまった『ジャンプ』の各数値を慎重に計算した。算出した数字をチェックする十分のゆとりが欲しかった。それができれば、たぶんわずかに仮睡の機会があろう。彼は前に船室《ケビン》から寝具類をひきずってきていた。すでにそれらは寝るばかりに用意されてあった。  他の二人は今おそらく船室《ケビン》で眠っていると思われた。バイロンは、そのほうがありがたいと思った。誰かがわきにいてそれにわずらわされるのはいやだった。ひとりきりでいたかった。それでいて、管制室の外で、素足で歩くかすかな物音がしたとき、彼はそれを望んでいたかのような期待の心で顔をあげた。 「ヘロー、なぜ眠らないんです」と彼は言った。  アーテミジアが戸口でもじもじしながら立っている。彼女は低い声で言った。「はいってもかまいません? おじゃまじゃないかしら?」 「あんたが何をするかによりますよ」 「わたし、正しいことをするように努めるわ」  彼女はあまりにつつましく、しおらしく見える――そうバイロンは思った。疑わないではいられなかった。だがすぐに彼女の変化の原因がわかった。 「わたし、とてもこわいのよ。あなたは?」  彼はこわくないと言いたいと思った。ぜんぜん恐怖はないと言いたかった。だがふしぎにその言葉は出なかった。彼は恥ずかしそうに笑い、「すこしね」と言った。  おかしなことに、それが彼女に快よかったようである。彼女は彼のわきに膝を折ってすわり、彼の前にひらかれている分厚い書冊の類や計算用紙の上へ眼をはわせた。 「彼ら、この本みんな船に積んでいたんですの?」 「そう。彼らもこれがなければ宇宙船の操縦ができないんですよ」 「それで、あなたみんなわかります?」 「そんなじゃないが……。みんなわかればいいとは思います。ある程度までわかるだけでもいいんです。ぼくたち、リンゲーンへ『ジャンプ』しなければなりませんからね、わかるでしょ?」 「それ、むずかしい作業《しごと》ですの?」 「ううん。数字をみんな知っていて、制御装置があって、経験があればね。数字は全部ここにある。制御装置もそろっている。ただ経験だけがないんです。たとえば、ほんとうはジャンプはいくつものジャンプに分けてしなければならんのですが、ぼくは一度でやってみようと思うんです。そのほうがトラブルが少ないと思うから。エネルギーをムダにつかうことにはなるけれどネ」  彼女にこんなこと言うべきではないのだ。彼女になど教えたって始まらんのだ。彼女をこわがらせるのは卑怯《ひきょう》というものだ。彼女がほんとうにこわがり、恐慌状態となったら手に負えなくなるだろう。彼はそう自分の心に言いきかせていた。その努力が今は効《き》かなかった。彼は誰かと未知の恐怖を分けもちたかった。そのわずか一部分でも、心のなかから払いおとしたかった。  彼は言った。「ぼくが知らなければならんことで、知らない事柄があります。たとえば、この宇宙船とリンゲーン惑星との間にある質量密度《マス・デンシティ》というようなものが、『ジャンプ』過程に影響をおよぼします。大宇宙のこのあたりの彎曲《わんきょく》を支配しているのが、その質量密度だからです。『位置推算暦《エフェメリス》』――このでっかい本のことですが、これにある種の標準ジャンプのさいに行なうべき彎曲度修正のことが書いてあります。その指示を読んで、ぼくたちがいま行なわなければならない特定の彎曲度修正値を計算できる、ということになっているんです。ところがですよ、もし偶然に、ここから十光年以内に超巨星があるとすると、すべての計算はダメになってしまうんです。ぼくは、自分で計算機《コンピューター》を正しく使用したかどうかさえ自信がないんですよ」 「でも、使用が間違っていたら、どうなりますの?」 「リンゲーンの太陽に近づきすぎた空間へ再突入するおそれがある……」  彼女はバイロンの今の言葉をしばらく考えていた。やがて、「わたしがどんなに気分がすぐれたか、おわかりにならないでしょ?」 「ぼくがいま言った言葉を聞いたあとでですか?」 「もちよ。わたし、自分の寝棚で、とてもやるせなくて寂しかったの。四方八方が空虚で、そのなかで自分自身が消え入りそうで……。今のお話を聞いて、ようやっと、わたしたちどこかへ行けるということがわかった、すくなくとも、あの空虚、あの無限の無をわたしたちの統制に服させることができると……」  バイロンは嬉しさがこみあげてきた。彼女のなんとすばらしい変わりよう!「ぼくたちの統制に服させるなんて、ぼくそんなことわかりませんよ」  彼女は手で彼を制した。「統制に服すのよ。わたし|知っています《ヽヽヽヽヽヽ》もの、あなたが宇宙船を扱えるということ」  彼女の言葉に励まされ、バイロンはあるいは彼にそれができるのかもしれないと思った。  アーテミジアは、むきだしの長い両脚を、きちんと折って腰の下へ押しやり、バイロンの正面へすわりなおした。着ているものといっては、紗《しゃ》のような薄い下着だけであった。そしてバイロンにはそれが眼について仕方がないのに、彼女はまるで自分の服装に頓着しないかに見えた。  彼女が言った。「ねえ、あなた、わたし寝棚で、ひじょうに妙な感覚をおぼえたのよ、まるでフワフワ浮いて漂っている感じ。ひとつはそれで、こわくなったのだわ。寝返りを打つたびに、自分で妙な小ジャンプをしているような感覚なの、空中へよ――そしてしずかに徐々に元のところへ落ちてくるの、まるで空気のなかにバネがあって、それで弾き返されたみたい」 「いちばん上の寝棚で眠っていたんじゃないでしょうね?」 「ええ、いちばん上よ。だって下だと、上のマットレスが頭の上六インチぐらいのところに迫っているから、閉所恐怖症になるんですもの」  バイロンは笑った。「それでわかった! 宇宙船の重力は船底のほうへ向いているんです。船底から遠去かるにつれて、重力は減っていきます。いちばん上の寝棚だと、おそらくフロアに寝る場合より二十ポンドか三十ポンド体重が軽くなっていたはずです。旅客宇宙船に乗ったことある? ほんとうに大きな旅客船に?」 「ええ、一度だけ。父といっしょに去年ティランへいったわ」 「そう? 大きな旅客船では、船の各区画に、外殻へ向かう重力がつけてあるんです。ですから、どこに乗っていても、船の長軸がいつでも『上方《アップ》』になる。そういう訳で、ああいった大きな豪華船では、いつでも機関部は船の長軸にそって走っているシリンダーのなかに並べられているんです。そのあたりには重力がないんです」 「人工重力をつけておくにはずいぶんと動力を食うんでしょうね?」 「そう、小さな町の全動力をまかなえるほどのネ」 「わたしたち、燃料の不足におちいるおそれはありませんの?」 「そんなこと心配しないで下さい。宇宙船はみんな、質量を完全にぜんぶエネルギーに変える変換器で燃料が補給されている。燃料がいちばん困らんのです。いちばん早く消耗でやられるのは外殻です」  アーテミジアは彼に真向かっていた。彼女が化粧をすべておとした清潔な顔の感じなのにバイロンは眼を見張った。どんな方法で? と思った。おそらく、ハンカチに飲料水をわずかにつけて拭きとったのだろう。白粉《おしろい》っけを落としても美しさをそこないはしない。透きとおった白い膚は、頭髪と眼の黒に対して、かえってきわだった玲瓏《れいろう》さだ。瞳がとてもあたたかい感じだ、とバイロンは思った。  沈黙がやや長すぎるほど続いた。バイロンは急いで口を開いた。「あんたはあまり旅行はしないんですね? いや、旅客船に乗ったのは一度だけと言ったから」  彼女はうなずいた。「一度でたくさんだわ。ティランまでなど行かなかったら、あの汚らしい侍従もわたしの不機嫌にあわないですんだのだわ――そのことお話したくありませんわ」  バイロンは彼女の言うままにした。「いつもそうなんですか? 旅行しないっていうのは?」 「そうらしいの。父はしょっちゅう農業博覧会の開会式だのビルディングの開所式だのといって、公式訪問に方々の惑星王国へ飛びまわっています。父はいつもアラタップが作文したスピーチをただしゃべるだけです。でもそれ以外は、父もわたしもパレスにじっとしていたほうが、それだけティラン人は喜ぶんです。可哀そうなギルブレット! あの人がローディアを出たのは、父の名代として汗《かん》の戴冠式に出席したときだけですわ。彼らは二度とギルブレットを宇宙船に乗せなかったのよ……」  視線を落とした。そして無心にバイロンの袖口《そでぐち》をいじくり、手首のあたりで終わるように折り返している。「バイロン!」と彼女はつぶやいた。 「なに、アータ?」すこしのどの出口へひっかかった感じ。それでも言葉がでた。 「あなた、ギルおじさまのお話ほんとだと思います?」 「さあ、わかりません」 「彼の空想かもしれないと思うでしょ? 彼は何年間もティラン人を恨んできたのです。でも、もちろんどうすることもできないんです、スパイ光線の装置をつくるぐらいのことしか。スパイ光線なんか、ずいぶん子供っぽいことですわ。彼にもそのことはわかっているんです。彼は自分で白日夢をつくりあげたのかもしれません。それが何年にもわたって続いているうちに、真実《ほんと》のことと信じるようになったのじゃないかしら。わたしには彼の性格はよくわかっているんです」 「そうかもしれない。でもすこし彼の言うとおりにしてみたほうがいいと思う。ぼくたち、リンゲーンへは行けるんですよ」  二人はずっと近づいてすわりあっていた。手をのばせば彼女の身体に触れることもできた。両腕に抱き、接吻することもできた。  ほんとに彼はそうした。  それは唐突に起こった。安全な出来事《ノン・セキタ》であった。何もそこへ導いたものはないようだった。すくなくともバイロンにはそう思えた。ずっと彼らは「ジャンプ」のこと、重力のこと、ギルブレットのことを語りあっていた。と、つぎの瞬間、彼女は彼の胸のなかに、やわらかく、やるせなく、シルクのようにたわんでいた。彼の唇へ、やわらかく絹のようにまとわりついていた。  彼の最初の反応は、すまないということ、あらゆるバカバカしい言い訳と謝罪をのべることであった。だが、彼が身をひいても、ごめんなさい、つい、とあやまりかけても、彼女は逃げようとしないのだった。彼の左腕の彎曲部《まがり》へその小さな頭をのせたままだった。両の眼はとじたままだった。  だから彼は何も言わなかった。そしてもう一度キスした。しずかに、深く深く唇をあわせた。これまでにない、彼にとってはもっとも甘美な接吻であった。そのとき、はっきりとそう思った。  時間がたった。ようやく、アーテミジアが口をひらいた。夢みるような声だった。「お腹《なか》すきません? すこし宇宙食をもってきて、温めてあげましょうか? それを召し上がったあと、もし眠るのだったらどうぞ。わたしあなたに代わってここのもの見てあげます。それから――そうだわ、わたしもうすこし衣類をつけてこなければ……」  ドアの外へ出るとき振り向いた。「濃縮食料も慣れてみるととてもおいしいわ。あれ、たくさん買いこんで下さったこと、ありがとうね」  接吻よりも、この問題の方が、二人の間の平和協定らしかった。  数時間後、ギルブレットが管制室へはいってきた。バイロンとアーテミジアがバカらしい、他愛もない会話にふけっているのを見ても、老人は驚かなかった。バイロンの腕が姪《めい》の腰にまわされているのを見ても、何も言わなかった。 「いつ『ジャンプ』するんだね、バイロン?」とギルブレットがきいた。 「半時間後です」バイロンが答えた。  その半時間がすぎた。制御装置がセットされた。会話は間遠《まどお》となり、やがて沈黙となった。  ゼロ時間に、バイロンはひとつ深く息を吸い、レバーを左から右へ、いっぱいに引いた。  大型旅客船の場合のようではなかった。「リモースレス」号は小型であり、それだけ「ジャンプ」は円滑さを欠いていた。バイロンはよろめいた。秒間の数分の一、数十分の一、あらゆるものが震動し、揺らいだ。  それから、またしずかに、スムーズに、安定へともどった。  観視《ヴィジ》プレートにうつる星くずの配置が変わっていた。バイロンは船を一回転させた。星の場が上昇し、ひとつひとつの星がなだらかな弧線を描きつつ移動していった。一番最後に、きらきらと白く輝く星が現われた。小さな光点以上の大きさに見えた。はっきり小球の姿をしていた。まるで燃えている砂粒かなにかのように、それは陰影をつけていた。バイロンはこの星をとらえ、星が逃げないうちに船体をそのほうへ安定させ、望遠鏡を向け、分光器アタッチメントを取りつけた。  もう一度、「位置推算暦」をひらき、「スペクトル特性」と頭書のある欄の下の数字をチェックした。それから彼は、操縦席から抜けだしながら、「まだ遠すぎますね。もう一と押ししなければならんです。でも、いずれにしろ、すぐあそこにあるのがリンゲーンですよ」  それは、バイロンの行なった初めての「ジャンプ」だった。ジャンプは成功であった。 [#改ページ]   十二 アウタルクきたる  リンゲーンの自治領主《アウタルク》は今の問題を沈思していた。だがその冷静な、風雪をしのいだ容貌には、はげしい思考のもとにあっても、皺《しわ》ひとつ刻まれはしなかった。 「それで君は、ぼくにそれを言うのに四十八時間待ったというのだな?」  リゼットは大胆にうなずいた。「それ以前にお耳にいれる理由がなかったからです。こういうことを全部お耳にいれたら、あなたには非常な負担になって毎日が堪えられないものになりましょう。いま申し上げたのは、わたくしどもがいまだにいっこうにその解釈ができないでいるからです。まったく妙なことです。しかるに、われわれの立場としては、奇妙なことをそのまま放っておくわけにはいきません」 「今の話、もう一度繰り返してくれ。ぼくの耳にいれなおしてくれ」  自治領主《アウタルク》は、外のほうへ朝顔のように張りひらいている窓枠へ片足を持ちあげてかけ、考えぶかい面持で窓外をながめた。この窓ひとつが、リンゲーン独得の驚くべき奇妙な形の造作と家具類とのシンボルといってよいであろう。窓枠としてはふつうの大きさである。だが五フィートの奥行きはある壁の切込みは、ちょうど漏斗《じょうご》のように先が張りひらいている。窓枠は漏斗の脚端にはめられているのである。窓ガラスは完全な透明さである。そして極度に厚く、幾何学的正確さの丸味をおびさせてある。窓ガラスというよりは一種のレンズといったほうが当たっている。戸外の光線はあらゆる方向から、この窓をとおして室内へあふれてくる。だから窓に立って外をみると、小さなパノラマのように外景が全望されるのであった。  自治領主《アウタルク》荘園では、どの窓からでも、天頂から天低までにいたる全半球《ホライズン》の半分が一望のうちにながめられる。窓の縁に近いところでは、視像の鋭さと同時に歪曲《わいきょく》が増すが、これがかえって景観にある種のおもしろ味を与える。レンズの縁のところでは、都市は平べったくつぶされて、ちょろちょろと動いているように見える。空港からとびたつ三日月型をした成層圏飛行機の軌道が、はうように曲がってみえる。しょっちゅうこれに慣れてくると、窓を明けはなして、平板でおもしろ味のない生《なま》の現実を視界にとりいれることは、むしろ不自然にさえ思われてくる。太陽位置によりレンズ状の窓に焦点があい、熱気と光線が耐えがたくなると、窓は自動的に曇らされる。窓を明けて太陽のつよさを避けるのではなく、ガラスの偏向特性が変化して、窓は自然と不透明になるのである。  惑星の建築は銀河系におけるその惑星の位置の反映であるという理論は、すくなくともリンゲーンとその窓様式にはぴたりと当てはまるようである。  その窓様式のように、リンゲーンは惑星としては小型だが、一個の壮大なパノラマ景観を誇っている。リンゲーンは銀河系にめずらしいいわゆる「惑星国家」であり、この物語の当時にあってはすでに、経済的・政治的発達段階の上位に達していた。たいていの政治単位が、雑多な星の寄り合い世帯であるのに対して、リンゲーンは単一政治単位の人類棲息惑星としてすでに数世紀の存在を誇っていた。単一であることは経済的繁栄を妨げはしなかった。事実、リンゲーンがこれ以外のものになりうることはちょっと想像が困難なのである。  ひとつの惑星が、その位置が格好であるからといって、多くの「ジャンプ」航路が、これを要衝的な中間地点として利用するかどうかは、予断がむずかしい。宇宙航行の最適経済性の観点からでさえ、その判定は困難である。利用するかいなかは、むしろその空域の発達パターンによるのである。発達パターンといえば、まず自然発生的な可住惑星の、その空域における分布の問題がある。その植民状態、発達段階が問題である。また、その惑星がどういうタイプの経済体制をとっているかも考慮にいれなければならない。  リンゲーンがそれ自らの価値を発見したのはかなりに古く、それがこの惑星史での大きなターニング・ポイントであった。惑星国にとっては、物理的にそれが戦略位置を占めることが大切であるのは言うまでもないが、つぎに大事なのはその位置を正当に評価し、これを活用していく棲息人類の能力である。リンゲーンが、地下資源もなく、独立人口を支える面積もない多くの小惑星を占領したのは、ただリンゲーン貿易の独占性を維持したいからにすぎなかった。彼らは、これらの岩石のかたまりにサービス・ステーションを建設した。超原子力エンジンのスペアはもとより、新しいフィルム書籍にいたるまで、およそ宇宙船の必要とするあらゆる補給品がここに貯えられた。ステーションは大きな交易所へと育った。ネビュラ王国集団《キングダムズ》のいたるところから、毛皮、鉱物、穀類、食肉、木材などがそそぎこまれた。内郭王国集団からは機械類、器具装置、医薬品、その他あらゆる種類の最終製品が洪水のように流れだしていった。  かくて、その窓様式のように、リンゲーンの緻密な頭脳は外へ、全銀河系へと向けられていった。それは孤独の惑星ではあったが、隆々として富裕であった。  自治領主《アウタルク》は、窓から眼もはなさずにきいた。「郵便船からはじめるのだな、リゼット。まず、その郵便船は今の宇宙船《クルーザー》にどこで出あったのだって?」 「リンゲーンから一万マイル足らずの地点です。正確な位置座標は今のところ問題ではありません。郵便船が終始監視をつづけておりますから。問題は、当初発見のときすでに、ティラン宇宙艇がわが惑星をまわる軌道にはいっていたという点です」 「着陸の意図はなく、何かを待つような態勢で、というのだな?」 「はい」 「どのくらいの時間、そこに待っていたのかわからないのか?」 「残念ながら、その推定は不可能です。誰も見たものはないのですから。わたくしどもは、徹底的に調べました」 「よろしい。しばらくその件はすてよう。彼らは郵便船を停船させた。これはもちろん郵便輸送への妨害であり、ティランと結んでいるわれわれの『僚友国条約』の侵犯といってさしつかえない」 「でも、わたくしはあれはティラン人ではないのではないかと思います。その自信のなさそうな行動から推して、むしろ海賊、あるいは逃亡中の囚人か何かではないかと思われます」 「ティランの宇宙艇に乗っている人間のことか? もちろん、こちらにそう思わせるためにやったのかもしれない。いずれにしろ、彼らの行動で明白なのはただひとつなのだな? ぼくへ直接にメッセージを届けるように頼んだという?」 「自治領主《アウタルク》へ直接に、そのとおりです」 「ほかには?」 「ほかには何もありません」 「彼らは始めから終わりまで、郵便船のなかにははいらなかったというのだな?」 「通信はぜんぶ観視《ヴィジ》プレートで行ないました。メッセージを入れた郵便物カプセルは二マイルばかり、何もない空間へ発射され、こちらの船のネットでキャッチしました」 「通信は映像通信だったか、それとも音声だけか?」 「完全映像通信です。そこが大切なところです。観視《ヴィジ》プレートを見ました数人が、先方の通信者は『貴族らしい態度をした』――それがどういう意味かは別としまして――若者であったと述べております」  自治領主《アウタルク》の手が徐々に拳《こぶし》ににぎられていった。「へえ――そんな? それで顔の写真印画は一枚もとらなかったというのだな? それは大きなミスだ」 「不幸にして、郵便船長としましては、写真印画が重要であると予想する理由がありませんでしたので……。もしその必要があるのでしたら、そりゃもうもちろん……。しかし、閣下には、この事件が何か重大な意味をもつのでしょうか?」  自治領主《アウタルク》はこの質問には答えなかった。「それで、これがメッセージだと?」 「はい、さようです。わたくしどもから、直接あなたへ差し上げるにしては、あまりに異常な、ひどいメッセージです。ただの一語というメッセージですから。ですから、もちろん、こちらへは紙片は持参いたしませんでした。もしかすると、たとえばの話ですが、核分裂カプセルだったかもしれませんからな。以前も、同じような方法で兵員が殺傷されたことがあります」 「そうだった、あのとき他の自治領主《アウタルク》たちも殺された」と自治領主が平然と言った。「たった一語『ギルブレット』? うむ、『ギルブレット』?」  自治領主《アウタルク》は変わらぬ無関心と平静の表面はたもっていた。だが、心のなかに不確信の感情がむらがってきた。彼は不確定、不確信を経験することは好かない性《たち》であった。彼は自分に能力限界と力量不足を意識させるようなことは何ごとによらず好かなかった。自治領主に能力限界があっていいはずはない。リンゲーンでは、自然法則による以外に彼に能力限界はないはずなのだ。  昔から自治領主《アウタルク》という権威が存在していたわけではない。昔はリンゲーンは相次ぐ商人大君の王朝によって統治されていた。小惑星サービス・ステーションを最初に建設したのはこの惑星のいくつかの貴族家系であった。彼らは土地が豊饒《ほうじょう》ではなかったので近隣惑星の牧畜領主《ランチャー》たちや農耕領主《グレンジャー》たちとは社会的地位で拮抗《きっこう》できなかった。しかし国際決済通貨を豊富ににぎっていたから、社会的地位では高い牧畜領主や農耕領主と自由にかつ有利に交易できた。ときには彼らに複雑な操作による巨額貸付さえもした。  こうした環境のもとでも、リンゲーンは被統治惑星のたどるふつうの運命をたどった。支配家系から支配家系へとバランス・オブ・パワーは不安定に動いた。いろいろのグループがつぎつぎに王座を放逐され、陰謀、宮廷革命が慢性となった。だから、ローディアの独裁制が、この空域《セクター》での政情安定と秩序ある発展との適例であるとすれば、リンゲーンは不安定と無秩序の好例であるといえた。「リンゲーンのように変わりやすい」とは当時の人々の比喩であった。  振りかえって考えると、こうなることは理の当然であった。近隣惑星国がいくつかのグループに寄りあつまって集団国家をつくり、強力になっていくのに、リンゲーン惑星では内乱内紛が相次ぎ、それがしだいに高い犠牲をしい、危険なものになっていったからである。一般国民は最後にはもう、あらゆる代償を払っても政情安定をあがなおうという気持になった。こうして国民は富豪政治を見限って貴族政治をしいたが、その代わりに自由を失った。数家の富豪がひとつの政権をつくった。この政権はとうてい妥協のできない他の富豪階級に対抗するため、民衆を味方にした。いや、しばしば民衆の力を|てこ《ヽヽ》にして政権の基礎を固めた。これが貴族政治であった。  貴族政治による自給自足経済《アウタルキー》のもとで、リンゲーンは富国かつ強兵となった。ティランがリンゲーンを攻撃したのは今から三十年前、ティランの最盛時であったが、そのティラン人ですら、リンゲーンを滅ぼすことができず、両者の抗争は膠着《こうちゃく》状態となった。ティラン人が撃破されたのではない。その攻撃の戈先《ほこさき》が停止させられたのである。しかもこの停止はティラン人にとって永久のショックであった。なぜなら、このとき以来ティラン人はどの一惑星をも征服できないまでに勢いをくじかれたからであった。  征服されたネビュラ王国集団《キングダムズ》の惑星国家はすべてティランの隷属者となった。ただリンゲーンだけが僚友国家でありえた。すくなくとも理論的にはティランの対等な「盟邦」であり、「僚友国条約」によって自国の諸権利が保証されていたのである。  だが、自治領主《アウタルク》はこの情況に安閑とはしていなかった。リンゲーンの対外強硬派は今の状態をティランの桎梏《しっこく》をはなれた自由の境涯として謳歌したかもしれない。だが自治領主は炯眼《けいがん》にも見抜いていた――ティラン人の危険はただ過去一世代、こちらの腕いっぱい程度に押し返しているにすぎないのである。危険がそれ以上に遠のいたのではけっしてなかった。  そしていま、ティラン人が、長いあいだ待ちに待った機会到来とばかりに、いよいよ最後の|熊抱き《ベア・ハッグ》をもって一挙にリンゲーンを滅ぼそうとしている――その危険が急速にせまりつつあるのかもしれないと、彼は考えていた。たしかに彼は、ティラン人にその待ち望む格好の機会を与えた。彼が建設した国家組織は、不能率ではあったが、ティラン人があえて試みることを辞さない懲罰措置に十分の口実を与えるものであった。リンゲーンは、すくなくとも法律違反をおかしているのかもしれなかった。  この宇宙艇――はたして最後の|熊抱き《ベア・ハッグ》の前触れとして、リンゲーン偵察にやってきたものではなかろうか? 「それで、その宇宙艇には哨戒《しょうかい》を一隻つけておいているのだな?」自治領主《アウタルク》がきいた。 「先方を監視していると、さっき申し上げました」リゼットが片頬だけをゆがめ、にやりと笑った。「われわれの貨物船二隻が、質量計《マッソメーター》距離内に監視しております」 「うむ、それでメッセージはどう解釈した?」 「解釈できません。ギルブレットという一語だけでわたしの知っている名前といえば、ただローディアのギルブレット・オス・ヒンリアッドだけです。あなたはこの男と交渉がおありになったことがありますか?」 「この前ローディアを訪問したときに会った」 「もちろん、何もおっしゃいませんでしたでしょうね?」 「もちろんだ」  リゼットが疑いぶかそうに眼を細くした。「あなたのほうで、なにか不注意がおありになったのではないかと思っておりました。ティラン人のほうでも、このギルブレットという男のちょっとした不用意な言葉の端《はし》――そういえば近ごろヒンリアッド家はティラン人にはじつにぺこぺこと機嫌をとっていますからな――から何かをかぎつけて、それでこんなものを送ってよこして、あなたにうっかり本心を吐かせようと、罠《わな》をしかけてきたものではないかと……」 「ぼくはそんなことはないと思う。考えてみると、その宇宙艇は妙な時期に来た。ぼくは一年以上もリンゲーンを出ていた。先週帰ったばかりで、また数日中にたたねばならない。こんなメッセージが、直接ぼくに届けられるような時機に到着したというのは、どうも変だ」 「偶然とお考えじゃないでしょうね?」 「ぼくはいつも偶然ということは信じないのだ。しかも、これがすべて偶然ではないと考えるひとつのよりどころがぼくにはある。だからぼくはその宇宙艇を訪問する。ひとりでだ」 「それはいけません、閣下!」リゼットは仰天して即座に諫止《かんし》しようとした。リゼットは右のこめかみに、小さな不規則のかたちの傷跡がある。そこがとつぜんに紅潮した。 「ぼくに禁じる気かい!」自治領主《アウタルク》が冷然と言った。  自治領主《アウタルク》はしょせん自治領主《アウタルク》であった。リゼットの顔がうつ向いたからである。そして低声《こごえ》で、「では御意のままに……」と言った。 「リモースレス」号では、待つことがしだいに堪えがたい、不快なものになっていった。すでに二日間、三人はその待命軌道から一歩も離れることを許されていないのであった。  ギルブレットがまたたきすらしないで、熱心に制御装置をにらんでいる。老人の声はとげとげしかった。「彼ら、動いていただって?」  バイロンがちょっと眼をあげた。いま顔そり最中である。ティランのぴりぴり浸みるスプレーをおっかなびっくりで扱っている。 「いいえ、彼らは動いていません。動くわけがないじゃありませんか。ぼくたちを監視しているんですよ。いつまでも監視するつもりなんですよ」  上唇のむずかしいところへ、注意を集中していた。スプレーが舌にあたり、かすかに酸っぱい味がし、彼は顔をしかめた。ティラン人なら、詩的なまでの優雅さでスプレーを扱うことができる。慣れたものの手にかかれば、こんな便利なものはない。おそらく現存するもっとも迅速、もっとも深くそれる、非永久性のシェーバーであろう。元来きわめて微細な、エアスプレー式の研磨剤であって、皮膚をいためずに毛をもぎとってしまう方式である。皮膚にあたる感じは、エアストリームが吹きかけられるような、やわらかい圧力だけである。  しかしバイロンはすこし恐ろしかった。ティラン人のなかでは、他の文明諸人種以上に顔面の皮膚ガンが多いという伝説、噂《うわさ》、いや事実(何でもいいが)がある。学者によっては、これをティラン人のシェービング・スプレーのせいにするものがあった。バイロンは生まれて初めて、顔を完全に脱毛してしまうほうがよいかもしれないと、ふと思った。  銀河系のある空域では、ふつうのこととして脱毛が行なわれているのである。しかしバイロンは脱毛の考えを打ち払った。脱毛は永久的である。しかるにいつ、また鼻髭《はなひげ》や頬髯《ほおひげ》カールがはやりださないともかぎらないからである。  バイロンは鏡のなかの顔をしらべ、頬髯をのばして顎のアングルまで下げたら、どんな容貌になるだろうかと、ふと思った。そのときアーテミジアがドアのところで話しかけた。「お寝みになるのだとばかり思っていたわ」 「眠ったんですよ。それから起きたんだ」彼女を見上げてにっと笑った。  彼女は手でバイロンの頬をたたき、指でしずかになでた。「まあ、すべすべしているわ。まるで十八歳みたい」  彼は彼女の指をつかみ、しずかに自分の唇へ持っていった。「それでだまされんようにね」 「彼ら、まだ監視をつづけているの?」 「そう、まだ。まったくいらいらしてくるね、こんな退屈な幕あいは。いつまでもすわっていて、気をもんでばかりいて」 「わたしこの幕あい、ちっとも退屈じゃないわ」 「じゃ、きみはこれを別の角度から見ようというんだろう、アータ?」 「わたしたち、なぜ彼らを巻いてリンゲーンへ着陸してしまわないの?」 「それも考えてみたんだよ。しかし、ぼくたちそういうリスクをおかす力はないと思う。もうすこし飲料水がなくなるまで待っていられると思う」  ギルブレットが大声で言った。「彼ら、動きだしているよ!」  バイロンは制御盤へ大肢でゆき、質量計《マッソメーター》の目盛を調べた。それからギルブレットを見て、「おっしゃるとおりらしいですね」  しばらく計算機のキーを押し、そのダイヤルをにらんでいた。 「違いますね。二船とも、ぼくたちと相対的には動いていませんよ、ギルブレット。質量計《マッソメーター》の読みが変わったのは、第三の宇宙船があの二隻へくわわったからです。できるだけ近い数値で言えば、約五千マイル先ということです。宇宙船・惑星の基線からの離れかたは、ローで四十六度、ファイで百九十二度というところです、時計方向および逆時計方向に数える習慣どおりにすればそうなります。今のままの読みならば、ローとファイはそれぞれ三百十四、百六十八ですよ」  口をやすめ、もう一度目盛りを読んだ。「彼らはいま近づいていると思いますよ。小さな船です。交信できると思いますか、ギルブレット?」 「やってみよう」 「じゃ。映像をいれないで、音だけにしておいて下さい、向こうの様子がもうすこしわかるまで」  エーテル無線器のコントロールをいじくっているギルブレットは見ものだった。老人に生まれつきの才能があることは一見して明らかだった。凝縮された無線ビーム一本で、宇宙空間の小さな一点をとらえることは至難の業であり、宇宙船制御盤の提供するインフォーメーションなどはごくわずかしか寄与しないのである。まず制御盤の数字から、船の距離をだいたい百マイル前後の誤差でつかむ。それからローとファイの角度をつかむのだが、これだってどの方向へでも、五度ないし六度のずれは容易にできる。  これだけでも、目標船の位置は千万立方マイルという膨大な空間のなかに埋没されてしまう。あとは人間のカンと、無線ビームの力である。無線ビームはいわば手探りする一本の指みたいなもので、受信可能範囲がいちばん広いところでも、指の先の直径は半マイルしかない。熟達した無線士になると、制御盤を操作する指先のカンで、ビームが目標をどの程度それているかを言いあてることができるといわれている。もちろん、それは俗説で、科学的にはナンセンスだが、それでもそうとしか解釈できない場合がけっして少なくはない。  十分もたたないうちに、無線器の動作ゲージがとびあがった。「リモースレス」号は発信と受信とをともに行なっていた。  さらに十分もすると、バイロンは座席からうしろへ身体をそらせて、「こちらへ一人よこすそうですよ」と言うことができた。 「乗船させるべきかしら?」とアーテミジアが心配そうに言う。 「かまわんだろう? たったひとりだもの。こっちは武器があるし」 「でも、彼らの船があんまり近くまで来たら?」 「こちらはティランの宇宙艇だよ、アータ。たとえ彼らの船がリンゲーン最強の宇宙戦艦だとしてもこちらにはその三倍、五倍の火力があるんだ。彼らは『僚友国条約』にしばられていて、あまり大きな火力は積めないんだ。ところがぼくたちには高性能|熱線砲《ブラスター》が五門もある」 「まあ! ティランの熱線砲《ブラスター》、使い方知っているの? わたし、知らないのだとばかり思っていたわ」  バイロンは彼女から眼を丸くしてほめられ、否定するのがためらわれた。だが仕方がなかった。「残念ながら使い方知らないんだよ。すくなくとも、まだなんだ。でも、リンゲーン船だって知らないんだから、五分五分じゃないか、ね?」  半時間後、観視《ヴィジ》プレートに宇宙船が映った。片側に四枚翼、それを両側につけた、ずんぐりした小さな宇宙船であった。大急ぎで大気圏飛行をするとき使用する小型船らしく見えた。  望遠鏡で初めてそれが見えたとき、ギルブレットがうれしそうに叫んだ。「あっ、自治領主《アウタルク》のヨットだよ!」顔が皺だらけの微笑になった。「専用ヨットだ。絶対間違いない。どうだ、わしの名前ひとつ送ってやるのが、彼の注意をひくいちばん確実な方法だと言ったろう?」  リンゲーンの宇宙船は、しばし減速と速度調節に時間をかけた。やがてヨットは観視《ヴィジ》プレートのなかに、じっと動かずに浮かんで映った。  レシーバーにかすかな声があった。「乗船よろしいか?」 「よろし!」バイロンが一語に切りつめて叫んだ。「ただし一名にかぎる」 「一名だ」と返事がもどってきた。  まるで蛇がトグロを解くような光景であった。リンゲーンの宇宙船から外へ、あたかも銛《もり》か何かが打ちこまれるように金属網のロープがきれいな弧を描いて投げつけられた。観視《ヴィジ》プレートの面で、その太い束が広がった。ロープの先端の磁性のある円筒物が観視《ヴィジ》プレートに近づいて大きくなった。近づき、拡大されるにつれ、円錐型の立体映像《スクリーン》の底部の縁へ傾いていき、はっと思う間もあらず、まったく見えなくなった。  円筒物の接触の音がした。うつろな、こだまする音響がした。磁石の重錘《おもり》が船殻に固定したのである。重錘についた長いロープはクモ糸のように細く、ふつうの重量のあるロープがしなやかにたわむようにはしなわず、接触のときにもっていたよじれと輪とをそのまま維持しつつ、全体がひとつとなって、高速度撮影かなにかのように、ゆっくりと船殻に近づいてきた。すべては慣性のなせる業であった。  そしてリンゲーン船がいとも軽々と、そしてしずかにわきへそれると、ロープはまっすぐになり、中空にかかったままぴんと張り、細く長くのびて、その先はほとんど眼にもはいらない繊細さに消えいり、リンゲーン太陽に照らされて、この世のものとも思えぬ妙《たえ》なるひかりに息づいた。  バイロンはとっさに望遠鏡アタッチメントを取りつけた。視界にリンゲーン船が怪物のようにまざまざと大きく映りだした。半マイルはある連結ロープの元を見ることができた。それを両手で手繰りはじめている小さな人影が見えた。  ふつうの移乗方法ではなかった。たいていは二船が接触せんばかりに近づき、突きだした気閘《エアロック》同士が交わり、強い磁場のもとに密着する。二つの気閘《エアロック》を通じて、宇宙空間にトンネルができて二船を結ぶ。そして人間が宇宙船内で着けている以上の身体保護はつけずにトンネルのなかを漂いながら通ってくる。ふつうはこれがこの種の手続きであって、極度に相互の信頼を必要とするのである。  ところが今のように宇宙ロープによる場合は、移乗者は宇宙服を着ていなければならない。いま、近づいてくるリンゲーン人は宇宙服を着て、ふくれだしていた。内部から空気でふくらまされた金属網のかたまりともいうべきものがその姿であった。宇宙服の関節はわずかの筋力でたわむ。かなりの距離からであったが、バイロンは、そのリンゲーン人の腕が、金属網の関節が折れ、新しい溝《グルーヴ》にはまるとともに、正しくその望む位置へ彎曲するのを見てとることができた。  一方、二船の相互速度はきわめて慎重に調整されなければならなかった。どちらか一方がうっかりして加速しようものなら、まっすぐに張ったロープは切れたようにゆるみ、それを伝わって移動してくる人は遠い太陽の重力につかまれ、あるいは当初投げつけられたロープの慣性に影響されて、空間へ放りだされる。摩擦も障壁もない、永遠の空獏へ、遺棄されてしまうのである。  近づいてくるリンゲーン人は着実にすみやかに移動した。バイロンの船へぐっと近づくと、単に空気中のように手繰りながらロープを伝わってくるのでないことがわかった。一本の手が前方へのびてロープを握ると、その力でスルスルと身体を前へすすめて、すぐゆるめる。身体は五、六フィートも漂いながら進んでとまる。すると別の手がのびてロープを握る、というやり方であった。  マレー産手長猿の枝のわたり方を交互射肢《ブラキエーション》というが、これは宇宙空間の交互射肢《ブラキエーション》であった。宇宙人はきらきらと輝く金属の膚《はだ》の手長猿であった。  アーテミジアが言った。「手をはずしたらどうなるかしら?」 「手繰《たぐ》り方はエキスパートだ、はずしそうもないよ」バイロンが言った。「でも、はずしたとしても、やっぱり太陽のなかできらきら輝くさ。ぼくたちで拾いあげるよ」  リンゲーン人はずっと間近になった。観視《ヴィジ》プレートの有効面からはみ出して見えなくなった。五秒後、船殻に、足がぶつかる音がした。  バイロンがぐっとレバーを引いた。これでティラン船|気閘《エアロック》のまわりについていてその輪郭を示すシグナル灯がつくのである。一瞬ののち、一連のおごそかな叩音《ラップ》にこたえ、エアロックの外側ドアが開かれた。つづいて、操縦室の、何もかけられていないひと区切りの壁のすぐ向こう側で、どさッという音がした。外側ドアが閉じ、壁のその部分がすべって開いた。一人の男がはいってきた。  宇宙服はすぐ霜をつけ、ヘルメットの厚いガラスが曇った。男の姿は雪ダルマに変わった。男からは寒波が放射している。バイロンはヒーターの出力をあげた。操縦室へはいってくる空気の噴流はあたたかく乾燥していた。しばらく宇宙服の霜はとりでを守っていたが、やがてゆるみ、水滴となって融けていった。  雪の板で眼隠しされているのが我慢ができないというふうに、リンゲーン人の丸っこい金属指がヘルメットの留め金をまさぐっていた。ヘルメットはひとつとなって持ちあがった。柔らかく厚い内張りが頭にこすりつき、髪がくしゃくしゃになった。 「やあ、閣下!」ギルブレットが叫んだ。勝ちほこったような歓喜の叫びであった。「こちらバイロンです。こちらが自治領主《アウタルク》ご自身だ」  だがバイロンは声が出ない。窒息にむなしく抵抗して、ようやく一語だけが口からほとばしった。 「ジョンティ!」 [#改ページ]   十三 アウタルクとどまる  自治領主《アウタルク》は足のさきで宇宙服をしずかにわきへ押し、詰物|椅子《いす》のうちいちばん大きなのへどっかと腰をおろした。 「しばらくあんな運動はしなかったのでねエ。でも、一度習ったことは一生忘れないなどというが、ぼくの場合には当てはまらんようだ。ヘロー、ファリル! ギルブレット公爵、アーテミジア公女ではないか!」  長いシガレットをゆっくりと唇の間にはさみ、ひと口吸って先端をいきいきと赤くひからせた。匂《にお》いのついたタバコがこころよい芳烈で空気を満たした。「こんなに早く君に会えるとは思わなかったな、ファリル」と自治領主《アウタルク》が言った。 「ひょっとすると、ぜんぜん会えなかった、というんでしょう?」バイロンが皮肉っぽい調子で言った。 「人間の将来のことはわからないよ」自治領主《アウタルク》は落ち着いてうなずいた。「もちろん、こんどのことはすぐ気がついた。メッセージがあったが、それにはただ『ギルブレット』としか書いてなかったということ。ギルブレットには宇宙船の操縦ができないということ。それに、ぼくがローディアへ、宇宙船の操縦ができる若者――逃げるときせっぱつまればティランの快速艇《クルーザー》でもやすやすと盗める若者を送っておいたということを思い出した。最後に、快速艇にいる三人のうちの一人が、貴族的な物腰をした若い男だという報告があった。これだけの情報があれば、結論はもう決まっている。ファリル、君をここに見つけても、ぼくは驚かない……」 「そうじゃあるまい」とバイロンは相手をにらみつけた。「ぼくを見て、あんたはぶったまげたはずだ。殺し屋のあんたが、まさか平静でいられるはずがない。それほどぼくがバカだと思っているのか?」  自治領主《アウタルク》は泰然として顔色ひとつ変わらない。バイロンは興奮している自分のひとり相撲《ずもう》を感じ、ぎこちなく、なぶられている気持だった。やり場のない憤りをギルブレットとアーテミジアへたたきつけた。「この男がサンダー・ジョンティなんですよ。あんたがたに話した、あのサンダー・ジョンティなんですよ。あるいはリンゲーンの自治領主《アウタルク》かもしれん、五十人の自治領主《アウタルク》だってかまうものか。そんなことはどうだっていいんだ。ぼくにとっては、この男は始めっから終わりまで、サンダー・ジョンティなんだ!」  アーテミジアが言いかけた。「この方があの――」  ギルブレットがか細い手をふるわせながら、額へもっていって当てた。「落ち着くんだ、落ち着くんだ、バイロン! 気でも狂ったか?」 「この男がそれですよ! ぼくは狂ってなんかいない!」バイロンは叫んだ。自分のたかぶりをしずめようとした。「ああ、いいですとも。わめいたってしようがない。……よし、ジョンティ、ぼくの宇宙船から出ていってくれ。さあ、これは冷静に言っているんだ。この宇宙船から立ち去って下さい」 「こ、これ、ファリル! なぜ出ていけなどと……?」  ギルブレットがのどにひっかかったような声を出した。だが、バイロンは乱暴に老人をわきへのけ、泰然とすわっている自治領主《アウタルク》をまともに見据えた。「あんたはひとつだけ間違いをおかしたよ、ジョンティ。ぼくが、地球であの寄宿舎のぼくの部屋から脱出したとき、ぼくが腕時計を部屋のなかへ残しておくだろうとは、あんたは見抜けなかった、そうでしょう! わかりますか、あのぼくの腕時計のバンドは、放射能インディケーターだったんだ」  自治領主《アウタルク》は紫煙の輪をぱっと吹きあげ、うれしそうに笑っている。  バイロンは続けた。「あのバンドはけっして青くはならなかったんだ、ジョンティ。あの晩ぼくの部屋に爆弾なんか仕掛けてなかったんだ。うまく仕掛けたインチキ爆弾だったんだ! ちぇっ! あんたがそうじゃないというなら、あんたは大ウソつきだ、え、ジョンティ、いや自治領主《アウタルク》!――いや、自称タイトルなんてどうだっていい。  それだけじゃない、あのインチキ爆弾をしかけたのは|あんた《ヽヽヽ》なんだ! |あんた《ヽヽヽ》が、ヒプナイトでぼくを眠らせたんだ。あの晩のコメディはぜんぶあんたの演出なんだ。なぜあんなバカなまねをしたか、理由ははっきりしている。もしぼくが放っておかれたら、ぼくはあの晩は朝までぐっすり寝込んで何も知らないでいたはずだ。だから誰かが観視《ヴィジ》フォーンでぼくを呼んだ、はっきりと眼をさましたことがわかるまで、観視《ヴィジ》フォーンのブザーを鳴らさせた。あれは誰だった? あんたじゃないですか! ふん、あの晩はさぞかし愉快だったでしょうね、え、ジョンティ?」  バイロンははげしい面罵《めんば》の効果を待った。だが自治領主《アウタルク》は、おもしろい話をきかせていただけるものだと言わぬばかりに、ただいんぎんにうなずいただけである。バイロンは胸のなかが煮えくりかえるのを感じた。まるで枕へパンチをあてるみたい、水をたたくみたい、空気を蹴るみたいに、手ごたえがない。  彼は声を荒らげた。「ぼくの父は殺されかかっていた。ぼくだって自分で、十分に早くそのことは気づくところだったんだ。ぼくはネフェロスへ行こうか、行くまいかと考えていたんだ。ぼくは自分の判断で行動できたはずだった。ティラン人に真正面から立ち向かうか、立ち向かわないか、自分で決められたのだ。土壇場の用意は自分でできたはずなんだ。  ところがあんたは、ぼくに、ヒンリックに会いにローディアへ行かせたいと考えていた。しかし尋常のことでは、ぼくをあんたの望むように動かすことができないと知っていた。ぼくがあんたの助言など求めに行かないだろうと思っていた。だから、うまい情況をでっちあげたのだ、あんたの謀略だ!  ぼくは放射能爆弾を仕掛けられたと思った。ぼくにはなぜそんなことをされたか見当がつかなかった。あんたはちゃんと知っていたのだ。そして、あたかもぼくの生命《いのち》を救ったかのように見せかけた。あんたは何もかも心得ていたんだ。ぼくがつぎにどんな行動に出るかさえ知っていたんだ。ぼくはすっかり動顛《どうてん》してしまった。混乱してしまった。ぼくは迷って、あんたの助言に従ってしまった。それがあんたの術《て》だったのだ」  バイロンは一気にまくしたて、息が切れ、返事を待った。相手は答えない。バイロンはどなった。「あんたは、ぼくが地球を出るとき乗った船がローディアの宇宙船だと断らなかったじゃないですか。船長にぼくのほんとの身分が教えこまれるように手配したとは、言わなかったじゃないですか。あんたは、ぼくがローディアへ着陸するやいなや、ティラン人の手に捕らえられるようにするつもりなんだと、ぼくに説明しなかったじゃないですか? そうじゃないと言うんですか?」  長い沈黙があった。ジョンティはシガレットをもみ消した。  ギルブレットがしきりに手と手をこすりあわせている。「バイロン、君はまったくあきれたタワゴトをしゃべっている。自治領主《アウタルク》がまさかそんな――」  そのときジョンティが顔をあげ、しずかな口調で口をひらいた。「いや、自治領主《アウタルク》がそれをしたのです。ぼくはいまバイロンの言ったことは全部認めます。バイロン、君は正しい。君がそこまで見抜いてくれたことに、ぼくはおめでとうを言う。放射能爆弾は、まさしくこのぼくが仕掛けた不発弾だったのだ。ぼくは君を、わざとティラン人に逮捕させようとしてローディアへ、ローディアの船で送ったのだ」  バイロンの顔からは雲が晴れた。空気をつかむような徒労感がいくらかは消え去った。「ジョンティ、いつかこのお返しはしますよ。今はあんたは、外で三隻の宇宙船が待機しているリンゲーンの自治領主《アウタルク》その人のようだ。気に食わないが、すこしばかりぼくの行動を鈍らせる。しかし、この『リモースレス』号はぼくの船だ。ぼくがその操縦士だ。さあ、宇宙服をつけて、ここから出て行ってください。宇宙網はまだつないでありますよ」 「君の船ではないよ。君は操縦士というよりは海賊だ」 「ここでは占有が法律です! あと五分のうちに宇宙服を着なさい!」 「よしたまえ。お芝居はやめようじゃないか、おたがい。ぼくたちは相互に相手を必要としている。ぼくはここを去る意思はない」 「ぼくにはあんたなんかいらんですよ。たったいま、ティランの母国宇宙艦隊が近づいていて、あんたがやつらを宇宙空間からたたきだして、ぼくを救ってくれると言っても、ぼくにはあんたなんかいらない、見たくもない!」 「ファリル!」ジョンティがしずかに言った。「君はまるでほんとの子供らしく、しゃべりもしたし動作もした。ぼくは君に言いたいだけのことは言わせた。こんどはぼくがしゃべっていいかい?」 「ダメだ! あんたの話など聞く耳はもたん!」 「さあ、これが見えるかい?」  アーテミジアが金切り声をあげた。バイロンは動きかけたが、足がフロアに吸いついた。激怒で満面を赤くしているが、どうすることもできない。ただ身体をこわばらせて突っ立っているばかりである。  ジョンティがしずかに言った。「ぼくはいつもある程度の用心をする男だ。武器を強制の手段として使う粗暴はゆるしてくれたまえ。しかし、これで君にぼくの言うことに耳をかたむけさせることができよう」  ジョンティの握っている武器はポケット(熱線銃《ブラスター》ではなかった。苦痛を与えるためや、しびれさせるための用具ではなかった。殺す道具であった。  ジョンティは切りだした。 「数年のあいだ、ぼくはティラン人に対抗してリンゲーンを組織してきた。それがどういう意味をもつか、君にわかるかね、バイロン? 仕事は容易なことではなかった。ほとんど不可能といってよいほどの難事業であった。内郭|王国集団《キングダムズ》はすこしも手を貸そうとはしないのだ。われわれは長い経験からそれはわかっていた。そもそもネビュラ王国集団には、自分たちだけの力で国を守っていく以外に救われる道はないのだ。しかし、このことをわれわれの指導者にわからせるのは、なまやさしい仕事ではない。君のお父さんはそれを強力に押しすすめているうちに殺された。なまやさしい仕事ではないのだよ。このことを忘れてはいけない。  しかし、君のお父さんが逮捕されたことは、われわれにはたいへんな危機となった。われわれには、生《せい》か、しからずんば名誉ある死かという問題であった。君のお父さんはわれわれの秘密グループにはいっていた。だからティラン人の逮捕の手が、われわれのすぐ背後に迫っていたことはわかりきった道理だろう。それで彼らの足もとをすくわなければならないことになった。そうするためには、ぼくとしてはいかなる手段も選ばないということでなければならなかった。名誉や誠実では事は成就しないのだ。  ぼくは君のところへ行って、『おい、ファリル、ティラン人に間違った嗅跡を追わさせろ』と言うわけにはいかなかったのだ。君は牧畜領主《ランチャー》の息子《むすこ》として、ティラン人の疑いがかかっている。だから、君をそういう状態からおびきだし、ローディアのヒンリックと仲良くさせる。そうしてうまくいけば、ティラン人が間違った方向へ眼をむけてくれるかもしれない。とにかく彼らの眼をリンゲーンからそらさせろ、これがぼくの考えだったのだ。それは危険な方法かもしれない。そのために君が生命をおとすかもしれない。しかし、君のお父さんがそのために生命を捧げた大理想の達成を何ものにも優先したのだ。  たぶん君なら自分でもそれをやったかもしれない。しかし、ぼくとしては実験してみるゆとりはないのだ。だからぼくは、君に気づかれずに、君にそれをやらせるように仕向けた。君にもつらい仕事だった。それはわかるよ。だが、ぼくとしてはほかに方法はなかったのだ。ぼくは君が生きのびるとは思わなかった。これは正直な話だ。君は消耗品だったのだ。いいかい、これもまったく正直な話だ。ところが運よく君は生きのびてくれた。ぼくは非常に喜んでいる。  それから、例の、文書の問題がある――」 「文書って、何の文書です?」 「君はすぐ早のみこみする。君のお父さんがぼくに協力していたと言ったろう? だから、ぼくには、君のお父さんが知っていたことは、みんなわかっているのだ。君はその文書を盗むよう頼まれていた。たしかに初めは、君を選んだことは正しかった。君は合法的に地球へいっている。君は若い、だから疑われるおそれがない。ただし、|初めのうち《ヽヽヽヽヽ》は、だ!  ところがだ、君のお父さんが逮捕されてみると、君は非常に危ない使者となった。ティラン人の疑いはひとえに君に向けられる。だから、われわれとしては、どうしても君が文書を入手するのを放っておくわけにはいかなかった。君の手にはいれば、君がつかまって、文書がティラン人の手にはいることはわかりきったことだからだ。だから、君がその任務を達成する以前に、君を地球からおびきださなければならなかった。どうだい、わかるかい、すべてがつじつまにあってくるだろう?」 「それであんたはいま文書を手に入れたんですね?」バイロンがきいた。 「まだなのだよ。ほんものの文書らしいものが、すでに数十年前、地球からなくなっているのだ。それがほんものの文書だとして、ぼくには誰がいまそれを握っているか、ぜんぜんわからないのだ。熱線銃《ブラスター》はもう置いていいね? 重くなってきた」 「捨てなさい、そんなもの」  自治領主《アウタルク》が熱線銃をホルスターへさした。「君のお父さんは、文書のことを君にどう言っていたのだ?」 「あんたの知らんことなど、ひとつもありませんよ、父はあんたと協力していたんですから」  自治領主《アウタルク》が笑った。「そうだったな!」だがその微笑にはまるで楽しさがなかった。 「それで説明はぜんぶ終わったんですか?」バイロンがきいた。 「ああ、ぜんぶ終わった」 「だったら、船から出ていきなさい」 「まあ待て、バイロン」とギルブレットがさえぎった。「個人感情以上の大事なことがあるんだ、ここには。第一、ここにはアーテミジアもいるし、わしもいる。わしたちも、ひと言いわせてもらわねばならん。わしの考えでは、自治領主《アウタルク》の言われたことは筋がとおると思う。いいかい、バイロン、ローディアでわしが君の生命《いのち》を救ったことを思いだしてくれ、そしてわしの意見も聞いてくれ」 「よろしい。あんたは生命を助けてくれた!」バイロンが大声で言った。そして気閘《エアロック》を指さし、「じゃ、彼といっしょにいらっしゃい。さあどうぞ。あんたもここから出ていって下さい。あんたは自治領主《アウタルク》をみつけたいと思っていた。それがここにいるんだ! あんたを彼のところへ操縦してつれていってあげますよ。ぼくの責任はそれで終わりだ。ぼくにどうしろこうしろとさしずなどしないで下さい!」  バイロンはアーテミジアのほうへ向いた。まだ憤りがおさまっていない。「君はどうするんだ? 君もぼくの生命《いのち》を救ってくれた。みんなで代わりばんこにぼくの生命を救ってくれた。君も彼といっしょに行きたいのかい?」  アーテミジアは冷静にはねかえした。「わたしの代わりになどしゃべらないでちょうだい。わたしは彼と行きたいなら、自分でそう言うわ!」 「なにも遠慮することはないんだよ。いつでも出ていきたまえ」  彼女はむっとなった。バイロンはもとのほうへ振りもどった。いつものように、彼の半面である冷静な心が、何という今の子供っぽいふるまい! となじっていた。彼はジョンティに玩具《おもちゃ》にされた。憤激を感じたが、さりとてどうする術《すべ》もなかった。それに――どうしてこの三人はみんな、おれを、まるで犬どもに投げ与える骨片のように無造作に、ティラン人の手中へ投げすてていいなどと考えているのだろう? ティラン人の手がジョンティの首にまわらないように、おれを見殺しにするなどと! ちくしょう! いったい、このおれを何と思っているんだ!  バイロンはインチキ爆弾のことを思いだした。ローディアの定期旅客船のこと、ティラン人のこと、ローディアでの恐ろしかった夜のことなどを思いだした。心のなかに、自己に対する哀れみが、痛いほどたかまってきた。  自治領主《アウタルク》が促した。「え、どっちなのだ、ファリル?」  ギルブレットがすぐ続けて、「バイロン、わしの話を聞くかい?」  バイロンがアーテミジアへ振りむいた。「君はどうなんだ?」  アーテミジアは落ち着いた様子で、「わたしは思うわ――彼はまだあそこに三隻の宇宙船をもっているわ、それにリンゲーンの自治領主《アウタルク》だし。あなたとしても、どうするわけにもいかないと思うわ」  自治領主《アウタルク》がアーテミジアをじっと見、感心したようにうなずいた。「うむ、あんたはじつに知性の高い女性だ、お嬢さん。こうした精神の持ち主が、あんな愉快な世界にいるとは驚いた」しばしの間、自治領主の眼がアーテミジアの姿から去らなかった。  バイロンがついに屈した。「あんたに従いましょう、条件は?」 「ぼくに君の名前と才能を利用させてくれ。ぼくは君を、ギルブレット公のいう『反抗世界』へつれていく」  バイロンは皮肉に、「そんな世界が|ある《ヽヽ》と思うんですかネ?」  間髪をいれずギルブレットが言った。「あるって、それはあなたの世界でしょう、自治領主《アウタルク》閣下?」  自治領主《アウタルク》は笑って、「公爵の言われるような世界はあると思う。しかし、それはぼくの国ではないですよ」 「あなたの国じゃないですって?」ギルブレットががっかりしてきいた。 「それでもかまわないではないですか、ほかにぼくが見つけることができれば?」 「どんな方法で見つけます?」とバイロン。 「君の考えるほどむずかしいことじゃない。もしわれわれの聞いた風説が真実とすれば、たしかにティラン人に反旗をひるがえしている世界があると信じなければならないのだ。それは暗黒星雲《ネビュラ》空域のどこかにあり、しかも過去二十年間、ティラン人にもまだ発見されないでいる、そう信じなければならないのだ。いまどきまだそんなことがありうるとすれば、『反抗世界』の存在しうるところはその空域だけだ」 「その空域はどこにあるんです?」 「その質問に対する解答は明らかじゃないか。暗黒星雲《ネビュラ》そのものの中だけにしか、その世界が存在しえないのは当然だと思えないかい?」 「ネビュラの内部《ヽヽ》ですって?」  ギルブレットがつけ加えた。「もちろん、大銀河系の一部だよ」  ギルブレットがそう言った瞬間、バイロンには、解答は自明であり不可避であるように見えた。  アーテミジアがおそるおそるきいた。「ネビュラ内部で人間が住めますの?」 「どうして住めないことがあるものか」自治領主《アウタルク》が言った。「ネビュラを誤解してはいけないよ。ネビュラは宇宙空間にある暗黒の雲霧だが、有毒ガスではないのだ。それは信じがたいほどの希薄な、ナトリウム、カリウム、カルシウム原子のかたまりにすぎない。それが、内部へはいってくる星の光を吸収し、暗くするのだ。もちろん、それは観測者に向かった側だけのことだ。それ以外には、ネビュラはまったく無害である。また恒星の直接近傍にはネビュラはまったくないといっていい。  すこし学究的な説明になりすぎてすまなかった。しかしぼくは過去数か月地球大学へ通って、ネビュラに関する天文学的データを集めてきたのだ」 「どうして地球へなど?」バイロンが驚いてきいた。「地球だからって、大したことはないんですが、でもぼくがあなたにお会いしたのが地球だから。ぼくは不思議に思っているんです」 「不思議でもなんでもないよ。ぼくは最初は自分の仕事上のことでリンゲーンをたったのだ。どんな仕事だったかということはいま重要ではない。六か月ばかり前、とにかく、ぼくはローディアを訪れた。ぼくの代理人のウィデモス――君のお父さんのことだよ、バイロン――が、ローディアの総督と折衝していたが、うまくいかなかった。ぼくたちはローディアの総督を、こちら側へ獲得したいと希望していたのだ。それでぼくが事態を改善しようとしてローディアへ乗りこんだのだが、失敗した。なにしろ、ヒンリックという方は――このお嬢さんには悪いが――ぼくたちの目ざしているような仕事には向かない人だから」 「静聴《ヒヤ》、静聴《ヒヤ》!」バイロンがつぶやいた。  自治領主《アウタルク》がつづける。「しかしもうこの人から聞いたと思うが、ぼくはギルブレットに会った。それでぼくは地球へ行ったのだ、というのは地球が人類発祥の地だからだ。最初の銀河探検隊はほとんどが地球から出発したのだ。また当時の記録の大部分が残っているのもその地球である。さて『|馬の首星雲《ホース・ヘッド・ネビュラ》』は相当徹底的に探検された。すくなくとも、何度も人類はそこを通過した。もっともなにしろ、天体観測のできない空間ボリュームを旅行するというのはむずかしすぎるから、そこへは植民は行なわれなかった。しかし、ぼくに必要だったのは、探検そのものだ。馬の首ネビュラが探検されたという事実そのものなのだ。  さあ、ここからのところを、よく聞いてほしい。ギルブレット公爵が宇宙漂流をしたというそのティランの宇宙艇は、最初のジャンプで流星が衝突した。ティランからローディアまでの旅程が通常の貿易航路を飛行したものとすれば――それ以外のルートを考える理由はまったくないからだが――ティラン船がこの航路をそれた空間の一点はきわめてはっきりしているわけだ。最初のジャンプと二度目のジャンプのあいだには、ティラン船は五十万マイル以上は飛行しなかった。われわれは、これくらいの長さは、空間の一点と見なしていいのだ。  しかし別の推理もなり立つ。制御盤に損害があったとすると、流星が各ジャンプの方向を変えていたかもしれないということだ。なぜなら、ジャンプの方向は、宇宙船のジャイロスコープにわずかな干渉があったとしても、変化してくるのだ。この推定は困難ではあるがけっして不可能ではない。推進装置が狂って方向が変わったとは考えられない。超原子力推進の馬力《ヽヽ》を変えるためには、機関部そのものを完全にぶちこわさなければできないことだ。ところが、隕石は機関部へは当たっていないのだ。  推力に変化がないとすれば、残りの四回のジャンプも、ジャンプの長さは変わらない。変わらないといえば、ジャンプ同士の相対的な方向も変わらないだろう。これを比喩でいえば、長いねじれたワイヤーを、ある一点で(この一点の場所は決まっている)、ある不定の角度で、ある不定の方向へ曲げたようなものだ。だから、宇宙艇の最終位置は、ひとつの想像上の球表面のどこかにある、ということになる。その想像上の球の中心は、宇宙艇に流星が衝突した空間の一点だ。そして半径は、残りのジャンプ四回の動径《ヴェクトル》の和ということになる。  ぼくはこの想像上の球を計算してみた。すると球表面が、馬の首ネビュラのひとつの厚い延長部をきることがわかった。球表面のうち、六千平方度ぐらいの面積――ざっと球全表面の四分の一だが――が、ネビュラの内部にはいる。したがって問題はこういうことになる。われわれは、ネビュラの内部にあって、しかも今の想像上の球表面の内側百万マイルぐらいの範囲にある恒星をひとつ捜しだせばいい。記憶しているかい――ギルブレットの宇宙船が停止したとき、ある恒星のそばにきていたということを?  ところで、その球表面に近いところに、しかもネビュラ内部に、いったい恒星が幾つあると思う? いいかい、銀河では輝いている星が千億もあるのだよ」  バイロンは我にもあらず、この話に魅せられていた。「何百というところじゃないんですか?」 「五つなんだ!」自治領主《アウタルク》が答えた。「たった五つなんだ。千億という数字にまどわされてはいけないよ。銀河のボリュームは七兆立方光年ほどだ。だから恒星の数が千億としても、星一個に対して七十立方光年の空間があるのだから。ところで、いまの五つのうち、どれが人類可住惑星を随伴しているのか、ぼくにもわからないのが残念なのだ。まあ、五つのうち、ひとつだけが可住惑星をもっているとあっさり決めてしまってもよかろう。だが不幸にして、往古《むかし》の探検家たちは、くわしい観察をおこなう時間がなかった。彼らはただ五つの星の位置を計算し、その正しい運動、スペクトル型を測定しただけなのだ」 「すると、その五つの恒星系のひとつに、いまの『反抗世界』があるというんですね?」バイロンが息をはずませてきいた。 「われわれの知っている諸事実に照らせば、その結論だけしか出てこない」 「ギルの話が承認できると仮定すればですね?」 「ぼくはあの話はほんとうだと思っている」 「わしの話はほんとうだよ」ギルブレットが力をこめて言った。「誓ってもいい」 「ぼくはこれから」と自治領主《アウタルク》が言った。「その五つの恒星系のひとつひとつを調査しにいくつもりなのだ。ぼくの動機は明瞭だろう? リンゲーンの自治領主《アウタルク》として、ぼくは彼らの打倒ティラン運動に互格で参加できるはずだ」 「それに加えて、二人のヒンリアッド家系の貴族と一人のウィデモス人があんたにつけば、来たるべき新しい自由諸世界に互格で参加し、あわよくばより強力な、安定した位置を占めたいというあんたの野望は、ますます強力なバックをもつわけだ、そうなんでしょう?」バイロンが皮肉たっぷりに言った。 「君のシニシズムもぼくを脅かしはしないよ、ファリル。答は明らかにイエスだ。もし反抗が成功するとすれば、これもまた明らかなことだが、君の力を勝利者の側に持つことは大いに望ましいことだ」 「ぼくが参加しないとすれば、どこかの勝った側の海賊か反乱軍の大将にリンゲーンの自治領国が与えられるかもしれない?」 「あるいは、ウィデモスの牧場領国が与えられよう。君の言うとおりだ」 「それでもし反抗が成功しなかったらどうなります?」 「それは、われわれの捜す『反抗世界』がどんなものかがわかったときに判断できよう」  バイロンはようやく、ゆっくりとした口調で言った。 「ぼくはあなたと同行しますよ」 「よく言った! それでは、君をこの船から移乗させる手はずをきめよう」 「なぜそんな?」 「君のためになることだよ。この宇宙船はオモチャにすぎない」 「これでもティランの宇宙戦艦ですよ。これを捨てたら損ですよ」 「ティランの宇宙戦艦だから、目立って危険なのだ」 「でも、ネビュラでは目立たんでしょう。ごめんなさい、ジョンティ。ぼくは苦い経験をまさぐりながらあんたに同行するにすぎんのです。だから、ぼくもはっきり言います。ぼくもその『反抗世界』を見つけだしたいのです。しかし、あんたとぼくとの間には友情はない。ぼくはぼくの自由になる宇宙船でいきますよ」 「バイロン!」アーテミジアがしずかに言った。「この船では、わたしたち三人では小さすぎるわ」 「今のままではそうだよ、アータ、でも、トレーラーを付けることができるんだ。そのことはジョンティだって知っている。あれをつければ、ぼくたちのいるだけのスペースが得られ、しかもぼくたち自身の制御装置が使える。しかもその点で、この宇宙船の性質をうまくカモフラージできる」  自治領主《アウタルク》が思案した。「ファリル、たとえ友情や信頼がなくとも、ぼくは自分の身は守らねばならない。君はこの艇をつかっていい。それにトレーラーをつけ、その他好きなように装備してかまわない。しかし、ぼくとしては君がまともにふるまうという多少の保証をもらわなければ困る。すくなくとも、アーテミジア公女は、ぼくといっしょに来てもらわねばならない」 「ダメです!」バイロンが叫んだ。  自治領主《アウタルク》の眉がつりあがった。「ダメだと? 公女自身から意志を聞こう」  そう言って自治領主《アウタルク》はアーテミジアのほうへ振りむいた。わずかに鼻腔がふくれあがった。 「あんたは、いまの話の進めぐあいは非常に気に入っていると思うのだが、公女」 「いいえ、すくなくともあなたには気に入らないと思いますわ、閣下。そうお覚悟あそばせ。わたしは、不便などは我慢して、こちらに残ります」 「しかし考え直したほうがいいと思うのだが、もし――」自治領主《アウタルク》が言いかけた。玲瓏《れいろう》な表情を、鼻梁《びりょう》にできた小さな皺が曇らせた。 「考え直す余地はありません」バイロンがさえぎった。「アーテミジア公女は自分で決めたんです」 「それで、君は彼女の決定を支持すると言うんだね、ファリル?」自治領主《アウタルク》はふたたび微笑になった。 「ええ、百パーセント支持します。ぼくたち三人は『リモースレス』号に残ります。この点は妥協がありません」 「また妙な道連れを選んだものだ……」 「ぼくがですか?」 「そう思うね」自治領主《アウタルク》は無心に自分の指の爪へ見いっている。「君は、ぼくが君をだまし、君の生命を危険にさらしたからというので、ひどくぼくを毛ぎらいしているらしい。だったら、反ティラン陰謀のうえで、はっきりとぼくの主人格であるヒンリックのような男の娘と、そんなに仲良くするというのはおかしいじゃないかね?」 「ぼくはヒンリックを知っています。あんたが彼のことをどう批評しようと、ぼくの計画は変わりません」 「きみはヒンリックのことは何から何まで知っているというのか?」 「十分に知っていますよ」 「じゃ、彼が君のお父さんを殺したことも知っているのか?」自治領主《アウタルク》はアーテミジアのほうをきっと指さした。「君がそれほど自分の保護下におきたいと思っているこの娘が、君の父の殺害者の娘だということを、君は知っているのか?」 [#改ページ]   十四 アウタルク去る  固定された群像の額縁《タブロー》はしばらくの間動かなかった。自治領主《アウタルク》はもう一本シガレットをつけた。心憎いまでにゆったりとした手の動作、顔にいささかの動揺もなかった。ギルブレットは操縦席で背をまるくしていた。いまにも泣きだしそうに、その顔はゆがみ、ひきつっていた。操縦士用のストレス吸収装置のバンドが、老人のわきにだらりと垂れさがり、絵全体のけだるそうな効果《エフェクト》をいっそう強調していた。  バイロンは顔面|蒼白《そうはく》となり、両手を拳《こぶし》ににぎってふるわせながら、自治領主《アウタルク》の顔をにらみつけていた。アーテミジアは薄い肉の鼻腔をふくらまし、その眼をバイロンへのみ、そそいでいる。自治領主《アウタルク》のほうは見向きすらもしない。  無線器がシグナルを送った。やわらかいカチカチカチという微音が、小さな操縦室のなかへ打楽器《シンバル》のような響きを流した。  いきなりギルブレットが身を起こし、席のままでくるりと回転した。  自治領主《アウタルク》がものうい調子で口を開いた。「ぼくは、はじめ予定してきたよりも、すこし長話しをしすぎたようだ。ぼくはリゼットに、一時間以内にぼくがもどらなかったら、呼びに来いと言ってやったのだ」  映像スクリーンがつき、リゼットの半白の頭部が映りだした。  ギルブレットが自治領主《アウタルク》に話しかけた。「あなたに話したいらしい」そう言って席を明けた。  自治領主《アウタルク》は椅子から立ち、頭が映像送信の有効地帯へくるまで、操縦席のほうへ進んだ。 「ぼくは完全に安全だよ、リゼット」  相手の声ははっきりと響いた。「宇宙艇《クルーザー》の乗組員は誰ですか、閣下?」  そのときとつぜんバイロンが自治領主《アウタルク》のとなりへ出て立った。「ぼくはウィデモスの牧畜領主《ランチャー》です」と誇らしげに言った。  リゼットはうれしそうに顔をほころばせた。スクリーンに見えている手が、几帳面に敬礼をした。「ご挨拶をおくります、閣下」  自治領主《アウタルク》がそれを差しとどめ、「ぼくはこれからすぐ貴婦人をひとりつれてもどる。連絡エアロックを操作できるよう用意してくれ」そう言いつけて、二船間の映像連絡を切った。  それからバイロンに向かい、「ぼくは部下たちに、こちらの宇宙船にいるのは君だと言って安心させた。君がいない場合ぼくが一人で移乗することには若干の反対があったのだ。それほど君のお父さんは一般人民のあいだに非常に好かれている」 「だからぼくの名前を使おうというんですね?」  自治領主《アウタルク》が肩をすくめた。 「ですが、使えるのはぼくの名前だけですよ、いいですか? あなたのいま部下に言われたことは不正確です」 「どこが?」 「アーテミジア・オス・ヒンリアッドはぼくといっしょにこの宇宙艇にとどまります」 「まだそんなことを言っているのか? ぼくが君にあれだけ重大なことを教えた後も?」 「結局あんたは何も言っていませんよ」バイロンがきっぱりとはねつけた。「あんたはただ、言葉をしゃべっただけです。たとえどんなことであろうと、あんたの口から出た根拠のない言葉なんてものは、ぼくは信用しません。いいですか、駆引きでそう言ってるのじゃありませんよ。わかっていただけますね?」 「君がヒンリックを知っているといってもその程度のものなのか? ぼくの言ったことがまるで不条理に聞こえるほど?」  バイロンは一瞬よろめきかかった。はっきりと、自治領主《アウタルク》のいまの一語が彼の急所を刺したようであった。バイロンには答がなかった。 「それは違いますわ」アーテミジアが言った。「証拠をお持ちですの?」 「もちろん、直接の証拠はない。あんたの父君とティラン人との会談にぼくが立会っていたことは一度もないのだから。しかし、若干の既知の事実は提供できる。あんたはそれで自分で思案してみたらいい。第一には、ウィデモスの老|牧畜領主《ランチャー》がヒンリックを訪問したのは六か月前だ。そのことは前にも言った。いまつけ加えたいのは、老|牧畜領主《ランチャー》はヒンリックの説得にすこし熱心すぎたといえることだ。あるいは、ヒンリックの思慮分別を過大評価したフシがあったと言い直してもいい。とにかく、牧畜領主《ランチャー》はヒンリックにもらすべきではなかったことをもらしたのだ。この点については、ギルブレット公爵、あなたは証言できますね?」  ギルブレットが悲しげに眼を伏せ、うなずいた。そしてアーテミジアのほうを向いた。アーテミジアもまた老人へ振りむいた。両眼に、きらりと光る水滴があった。憤怒の眼だった。「すまない、アータ、でもそれはほんとうのことなのだ。前にもこのことはおまえに言ったね、わしが自治領主《アウタルク》のことを聞き知ったのはウィデモスからなんだよ」  自治領主《アウタルク》が言い添えた。「と同時に、ギルブレット公が、総督の重大会談のことに非常な好奇心をもやし、好奇心をなんとか満足させようと、ああいった優秀な盗聴装置を開発していたというのは、ぼくにとってもきわめて幸運だったのだ。ギルブレット公が最初にぼくに近づいたとき、ぼくが危険の警告をうけたからだ。まったく寝耳に水だった。ぼくは大急ぎでローディアを去ったが、もちろんそのときはすでに大きな犠牲が払われたあとだった……  それで、われわれの知っているかぎり、ヒンリックに重大事を打ち明けたというのがウィデモスの一世一代の失敗であった。ヒンリックはとうてい独立|不羈《ふき》の意志と勇気とをもった大人物とは言えない人だったからだ。ファリル、君のお父さんはそれから半年後に逮捕されたのだ。この女性の父親であるヒンリックからもれないかぎり、どうして君の父君がつかまることがある?」 「あんたは父に警告してくれなかったのですか?」 「われわれのこの重大な事業では、すべてが生命《いのち》がけだ。しかし、ぼくはちゃんと君のお父さんには警告したのだ。警告をうけた後は、父君はわれわれとの連絡をいっさい絶った。いかに間接的な連絡でも、父君はしなかったのだ。そして、われわれとの関係を裏づけるような証拠は何であれ、ぜんぶ破壊された。われわれのなかには、父君は王国集団《キングダムズ》空域から亡命すべきだ、すくなくとも地下に潜入すべきだと主張するものもあった。ところが父君はそれを峻拒《しゅんきょ》されたのだ。  ぼくは父君の心情がわかるような気がする。生活の模様を変えたら、ティラン人がかぎつけたことの真実を証明することになってしまう。そうしたら、反抗運動全体を危険にさらすこととなる。父君は結局、自分ひとりの生命を犠牲にしようと考えられたのだ。父君はついにどこへも逃げ隠れなさらなかった。  それから六か月、ティラン人たちはじっと、陰謀の端緒が、どこかで自然と発覚するのを待った。辛抱づよいのだよ、あのティラン人という種族は。ところが、何の兆候もでてこない。ティラン人はそれ以上待つわけにはいかない。彼らの広げた網のなかには、父君以外には誰もとらえられなかったのだ」 「ウソです!」アーテミジアが叫んだ。「まったくのウソです、そんなこと! ずいぶん気のきいた、まことしやかなウソいつわりです。これっぽっちの真理もありませんわ! あなたのおっしゃったことが真実なら、彼らはあなたも監視しているはずです。あなたご自身が生命の危険にさらされているはずです。こんなところに、にこにこして、時間をつぶしていることはできないはずです!」 「お嬢さん、ぼくはここで時間を空費しているのではないよ。ぼくはすでに、あんたの父君がティラン人にとって信頼できる情報源ではないということを示すために、こうしてできるだけの努力を払ってきた。その点、ぼくは多少の成功をみたと思っているのだ。これからはもう、ティラン人も、その娘と従弟《いとこ》が歴然たる裏切り者となったような男を、依然として総監に据えておき、その言にこれ以上耳をかたむけてよいかどうか疑うだろうとぼくは思う。ところが、それでもなおかつ、彼らが父君を信じたがっているとすれば、ぼくとしては生命の危険を避けるために逃げるよりほかはない。リンゲーンをのがれて、馬の首ネビュラへ去ろうとしているのはそのためだ。  ぼくは、このぼくの行動が、ぼくの話の真実を証明してくれると思う。ぼくの行動が何よりの証拠ではないか!」  バイロンが大きく息を吸った。「この会見はこれで終わりにしましょう、ジョンティ。われわれは次のことで意見が一致した。ぼくたちがあんたの宇宙船についていくということ、あんたがぼくたちに必要な補給品を支給するということ。この二つで十分じゃないですか。よしんばあんたのおっしゃったことが全部ほんとうだとしても、それとこれとは無関係です。ローディア総督の罪はその娘にまで受け継がれることはないはずだ。アーテミジア・オス・ヒンリアッドはぼくと行をともにします。そう彼女自身が証言している限りは……」 「わたし、バイロンといっしょに行きます」アーテミジアがはっきりと言い切った。 「結構。これで全部ケリだと思います。ついでですが、ぼくはあんたに警告しますよ。あんたは武器をもっているが、その点はぼくも同じだということです。あんたの宇宙船は戦闘艦だ、たぶんそうでしょう。だったら、ぼくのこの船もティランの宇宙艇《クルーザー》であることをお忘れなく」 「バカなこと言っちゃいかんよ、ファリル。ぼくの意図はまったく友好的なものだ。君がこの女性をとめておきたいというのなら、そうしたらいい。では、ぼくは連結エアロックから出ていいね?」  バイロンはうなずいた。「そこまでは、あんたを信用しますよ」  二つの宇宙船はしだいに接近し、たわみ接続式のエアロック延長部が一方から他方へ、たがいに突きだしていった。ゆっくりと、慎重に、両延長部が唇を接しかけては離れ、なおも完全|縫合《ほうごう》をめざして、揺りうごいていった。ギルブレットが無線器の上へ身をかがめた。 「二分以内にもう一度接続を試みる」とギルブレットが通話した。  すでに三たび、磁場のスイッチが閉じられた。そのたびごとに、各延長チューブが、たがいに相手方をまさぐって伸び、中心をはずれて出会い、接触部に三日月型のすき間を残した。 「はい、二分間」バイロンが復誦し、緊張して待った。  秒針が動いた。磁場が四たび、カチカチカチと強化されていった。モーターが調整されていき、それとともに標示灯が暗くなっていき、とつぜん動力が衰減した。またも両者のエアロック延長部が不安定に揺り動きながら、相手をもとめて身をのばした。やがて、無音の衝撃が操縦室まで振動をつたえたかと思うと、ぴしッ! 両|吻合《ふんごう》部がぴったりと正確にはまった。両クランプが自動的にロックされた。これで気密封じ切りが完成したのである。  バイロンは手の甲でしずかに前額部をぬぐった。緊張がいくらかゆるんでいった。 「用意できました」  自治領主《アウタルク》が宇宙服を持ちあげた。宇宙服の下になっていたフロアには、なお薄く水気の跡が残っていた。 「ありがとう」明るい声で言った。「ぼくのところの士官がすぐもどってくる。君は必要な補給をその男と打ち合わせてくれたまえ」  自治領主《アウタルク》が操縦室を出ていった。  バイロンがギルブレットに言った。「ジョンティの士官がはいってくるから、エアロック操作をみてくれませんか、ギル? 士官がはいってきたら、エアロック連結を切って下さい。ただ磁場を消去すればいいんですから。これが光電子《フォトニック》スイッチ、これを点滅すればいいんですよ」  言い残し、操縦室から出ていった。いまは、ひとりになりたかった。考える時間が欲しかった。  だがすぐうしろに、やわらかい足音がした。やさしい声――彼は立ちどまった。 「バイロン、ちょっとお話したいことがあるの」アーテミジアだった。  振り向いて彼女を見た。「さしつかえなかったら、あとにしてくれ、アータ」  じっと彼の顔を見上げた。「ダメよ、いま話したいの」  バイロンへ抱きつきたいかのように、彼女の両腕が前へのびかけている。だが、受けいれてもらえるかどうかが、まだ不安のようで……。「彼がわたしの父のことを言ったの、信じていらっしゃらないわね?」 「そんなこと、関係ないよ」 「ね、バイロン」彼女は言いかけ、口ごもった。言いだしにくいことらしかった。それからもう一度、思いきって、「ね、バイロン。わたしたち二人の間にできたあのこと――あれは二人きりだったからなのよ、いつもいっしょにいて、危険にさらされていたから……でもほんとうは――」また口をつぐんだ。 「君が、自分がヒンリアッド家のものだから、というようなことを言うつもりだったなら、そんな必要はないんだよ、アータ。ぼくはわかっているんだ。あとで君にとやかく言うぼくじゃないよ」 「違うの、そんなことじゃないのよ」彼女はバイロンの腕をつかみ、頬を彼のかたい肩へおしつけた。そして口早に言った。「ヒンリアッドとウィデモスなどということ、ぜんぜん問題じゃないわ。わたし――わたしあなたを愛しているのよ、バイロン」  瞳をあげた。彼の眼と合った。「あなたもわたしを愛していると思うわ。わたしがヒンリアッド家の娘だということをお忘れになれば、ご自分のその愛もみとめてくれるわね? たぶん、もうそうだわね、あなた? わたしから先にそれを言ったんですもの。あなたは自治領主《アウタルク》に宣言したわ、父の行為でわたしを憎まないって。それと同様、父の地位でわたしを考えてはいやよ」  彼女の腕はいまバイロンの首にまつわりついていた。彼女の胸部《ブレスト》の柔軟なおしつけ、そして彼の唇にふきかかる彼女の息のあたたかさを感じることができた。だが、彼の手はゆっくりと上がっていき、彼女の前腕を握った。彼はやさしくアーテミジアの腕をほどき、しずかに彼女から離れていった。 「ぼくはまだヒンリアッド家に恨みを晴らしていないんだよ、お嬢さん」  彼女はぎょっとなった。「でもあなたは自治領主《アウタルク》におっしゃったじゃないの――」  バイロンは顔をそむけた。「すまない、アータ。ぼくが自治領主《アウタルク》に言ったことを楯《たて》にとらないでくれ」  彼女は大声をあげて泣きだしたかった。あれは真実ではない、父がそんなひどいことをしたはずがない! それに、たとえどんなことがあろうとも――  だがバイロンは船室《ケビン》へはいってしまい、彼女は廊下に立ったまま残された。眼にいっぱい、傷心と屈辱の涙がたまっていた。 [#改ページ]   十五 天空の穴  バイロンがふたたび操縦室へはいってくると、テドゥア・リゼットが振りむいた。髪は灰色であったが、身体《からだ》にはまだ精気があふれ、陽焼けした大きな顔がにっこりと笑った。  大股でバイロンのところへ近づいてきて、若者の手をなつかしそうにとった。 「星くずに賭けて!」とリゼットが叫んだ。「あなたがご令息だと、ご自分でおっしゃる必要はありません。老|牧畜領主《ランチャー》がよみがえってあらわれたような気がします」 「――だといいんですがね」バイロンが神妙にうなずいた。  リゼットの微笑がかすかに曇った。「ほんとですね。わたしたち、みんなそう思っています。ところで、わたくし、テドゥア・リゼットと言います。リンゲーン正規軍の中佐ですが、わたしたちの小さな|遊び《ゲーム》では、階級名などは使えません。自治領主《アウタルク》に対してさえ、ただ、『あなたさま』と呼びます。ああ、それで思いついたのですが」とまじめな顔になって、「わたくしたち、リンゲーンでは公爵も伯爵も令夫人もありません。牧畜領主《ランチャー》すらないのです。ときどき度忘れして正しい敬称を省くことがありますが、おこらんで下さい」  バイロンは肩をすくめた。「あんたの言うとおり、ぼくたちの小さな|遊び《ゲーム》に敬称などはいりませんよ。だけどトレーラーはどうしました? あんたとその打ち合わせをしろということだったんですが」  ちらと操縦室の反対側をみた。ギルブレットがすわったまま、黙って聞き耳をたてている。アーテミジアは彼に背をむけている。すきとおるように白く細い指で、計算機の光電接点《フォート・コンタクト》をいじり、抽象模様をつくっている。リゼットの声がして、バイロンは注意をもとへもどした。  リンゲーン人が鋭い眼で操縦室内を一瞥したところであった。「ティラン船を内部から見たのはこれが初めてです。あまり気にしないで下さい、ただ珍しかっただけなんですから。非常用エアロックは船尾末端にあるんでしょう? 推進機は中央部に輪状に据えつけてあるように見うけますが」 「そのとおりです」 「結構。でしたら何も心配いりません。旧式の宇宙船ですと、推進機が船尾末端にあるものだから、トレーラーを斜めに取りつけなくてはならない。それだと重力調整が難しくなり、大気圏での操縦性がほとんどゼロになります」 「トレーラーつけるのに、どのくらいかかりますか?」 「大した時間はとりません。どれくらい大きいのが欲しいんですか?」 「どのくらいまでつけられますか?」 「スーパー・デラックスはどうです? ええ、つけられますとも。自治領主《アウタルク》がお許しだったのなら、最高級がつけられます。事実上宇宙船といってもさしつかえないようなトレーラーもありますよ。補助モーターさえついてるんです」 「じゃ、居住区画もありますね?」 「ヒンリアッド嬢のですか? ええ、ここにあるのよりはるかに上等です――」とつぜん口をつぐんだ。  アーテミジアが、自分の名が言われたのを聞きつけ、冷然と、しずかに操縦室を出ていったからである。バイロンの眼が彼女の後ろ姿を追った。 「ヒンリアッド嬢などと言わなければよかったですね?」リゼットが言った。 「いや、それは何でもないんです、気にしないで下さい。ところでどこまでいきましたかね?」 「ああ、部屋の話でしたね。相当大きな部屋がすくなくとも二つはいりますでしょうね、通信シャワー〔離れた二つの部屋の間で、電子シャワーによって自由に通話できる装置〕のついた。大きな定期船なみの、ふつうのクロゼット・ルームと衛生設備がついています。彼女も快適に暮らせますよ」 「そりゃよかった。それから食糧と飲料水がいるんです」 「かしこまりました。水タンクには二か月分の水をいれます。船上で水泳プールをお作りになるにはちょっと少ないかもしれませんが。それから、食糧は冷凍の肉をまるごと補給します。いま、ティランの濃縮食品を摂《と》っていらっしゃるんでしょう?」  バイロンがうなずくと、リゼットがちょっと顔をしかめた。 「彼女に、衣料はもらえますか?」  リゼットは額に小皺をよせて、「ええ、もちろんです。ああ、それは彼女にきかないといけませんね」 「いや、そうじゃないんです。寸法はぜんぶこちらで教えますから、頼んだものをまわして下さい、流行のスタイルだったら、どんなものでもよいです」  リゼットは軽く笑って、首をふり、「牧畜領主《ランチャー》、彼女はそれは好みませんよ。自分で見立てたものでなくては満足しないだろうと思うんです。たとえ、かりにチャンスを与えられて自分が選んだものと同じだったとしても、気に入らんでしょうね。いや、これは想像じゃないんです。わたくし自身さんざん女に手を焼いた経験があることでして」 「そう、あんたの言うとおりだと思います、リゼット。だけど、ぼくが言ったようにしてもらわんといかんのです」 「ええ、よろしいですとも。ただちょっとご注意したまでです。あなたのおっしゃるとおりにいたします。そのほかには?」 「こまかい物がいります。ごく小さいものです。洗浄剤の類。あっ、そうだ、化粧品に香水――女の必需品です。あとで細かい注文を出しますから。それじゃ、トレーラー取りつけを始めて下さい」  そのときギルブレットが断りもしないで、操縦席を立ち去りかけていた。バイロンの眼が追っている。顎の筋肉がひきつるのを覚えた。ヒンリアッド家のやつら! あの二人はヒンリアッド家だ! 彼としてどうする術《すべ》もなかった。彼らはヒンリアッド家だ! ギルブレットもヒンリアッド、彼女《ヽヽ》さえ、もう一人のヒンリアッドだ。 「ああ、それから、もちろんヒンリアッド氏とぼくの衣料も下さい。このほうは何でもよい」 「かしこまりました。ちょっとこちらの無線器お借りしてかまいませんか? 取りつけの調整が終わるまで、わたくしこちらにいたほうがよろしいと思いますので」  最初の注文が無電でなされるのをバイロンは待っていた。やがて注文は終わり、リゼットが椅子のままバイロンのほうへ振りむいた。「ここで、あなたがぴんぴんして、動いたり、お話したりしていらっしゃるのを見ていて、まだ眼が慣れません。あなたはほんとうに牧畜領主《ランチャー》に生き写しでいらっしゃる。牧畜領主《ランチャー》は、しょっちゅうあなたの自慢をしていられましたよ。あなた、地球の学校へいらっしゃったんですって?」 「そうです。妙な故障が起こらなければ、一週間ちょっと以前に卒業するところだったんです」  リゼットがちょっといやな顔をした。「あなたがローディアへ送られた方法についてですが――わたくしたちを恨んだりなさってはいけませんよ。わたくしたちも、いやいやながら、ああせざるをえなかったのです。これはあなたとわたくしの間だけの打明け話にしていただきますが、わたくしどものなかにも、あの方法に賛成しないものがあったのです。もちろん、自治領主《アウタルク》は、わたくしどもに何も相談しませんでした。ああいう方ですから、当然のことですが。率直に言って、自治領主《アウタルク》みずからがリスクをとられたのです。わたくしたちのあるものは――名前はさしひかえますが――あなたの乗られたローディアの宇宙船を停止させて、連れもどすべきではないかとさえ考えたのです。もちろん、それこそ最も拙劣な措置だったでしょうがネ。それでも、やろうと思えばやれたのです、ただ最後の状況分析で、わたくしたちは、自治領主《アウタルク》が何もかも承知でやられたものと判断しましたので、やめたのです」 「部下からそれほどの信頼をかちえられたらすばらしいでしょうね」 「わたくしたちは、自治領主《アウタルク》の気性を知っています。わたくしたちが、とことんまで彼に信頼をよせていることは否定できません。彼にはここがあります」と、人差指で、自分の額をこつこつとたたいた。「あの方がなぜある行動路線をとるのか、わたくしたちには、よくわからない場合があります。しかしわたくしたちには常にその路線こそ正しいと思われてくるのです。すくなくとも、自治領主《アウタルク》は、これまでティラン人を知恵で負かしてきました。ほかにはそういう方はおりません」 「たとえば、他の人はぼくの父のようだというんですか?」 「父君のことは考えてもみませんでした、正直言って。しかし、ある意味では、おっしゃることは正しいですね。まったく、牧畜領主《ランチャー》ですらつかまってしまったのですからなア! しかし、性格といえば父君は自治領主《アウタルク》とはまたちょっと変わったお方です。考えがいつもまっすぐでした。けっして曲がったことは許しませんでした。あの方に比べたら、次席の人など、まったく身分が低いのですが、父君はけっして人を見下だしたりはなさいませんでした。しかし、わたくしたちが、あの方のお人柄として、いちばん好きだったのはその点なのです。誰に対しても、いつも同じ態度をとっておられました。  わたくしは中佐ですが、まったくの平民なのです。父は金属工でした。そういう身分でも、あの方にはまったく取扱いに差異がありません。また、わたくしが中佐だから、特別に扱っているということでもないのです。もし見習機関士と廊下で出会ったら、あの方は一歩わきへそれてとまり、一語か二語やさしい言葉をかけてやります。それで見習機関士はその日一日、まるで機関士班長になったような誇らしげな気持でいるでしょう。牧畜領主《ランチャー》という方はそういう人なのです。  それでいて、甘いというのではありません。もし処罰をうけるような悪いことをしたら、必ずちゃんと罰をうけます。ですが、けっして度を越した罰しかたはなさいません。処罰をうけたら、それだけの罪を犯したので、受けたほうでも覚悟しています。いったん処罰がすめば、あの方はきっぱりと忘れてしまいます。あとで、何かのはずみに、一週間か二週間たって、それを持ちだして小突くというようなことはなさらないのです。それが牧畜領主《ランチャー》のご流儀でした。  こんどは自治領主《アウタルク》ですが、この方はまったく違います。彼は頭脳そのものです。たとえあなたが誰であっても、とうていあの人と打ちとけはしません。早い話が、あの人にはほんとうに、ユーモアのセンスが欠けているのです。わたくしでさえ、あの人には、今こうしてあなたに話しかけているようには、お話ができません。いま、わたくしはただ気ままにしゃべりまくっています。くつろげるのです。なんの分け隔てもない自由なおつきあいができるのです。ところが、あの人の前では、自分の心のなかにあることを、余計な言葉はつかわずに、正確に申し上げなければなりません。それから、公式ばった言葉づかいをしなければなりません。でないと、あの人は、だらしがないと叱言《こごと》をおっしゃります。でも、それでもやはり、自治領主《アウタルク》は自治領主《アウタルク》で、それ以外のだれでもないのです」  バイロンは言った。「自治領主《アウタルク》の頭脳が切れるという点では、あんたの説に賛成です。ここへ移乗する以前に、ぼくがこの船にいることをあの人は推論したのですが、それは知っているでしょう?」 「あの人がですか? いや、それは存じませんでした。そこですよ、さっきわたくしが申し上げたのは。あの人は、ひとりでティランの宇宙艇《クルーザー》へ移乗すると言ったのです。わたくしたちにしてみれば、そんなことは自殺行為です。まったく気にいりませんでした。ですが、われわれは、あの人は自分で自分のすることは知っているんだろう、そうあきらめていたのです。はたしてそのとおりでした。あの人としては、わたくしたちに、あなたがおそらくはこの宇宙船に乗っているに違いないと言ってもいいところです。もし牧畜領主《ランチャー》の息子が逃げているのだったらたいへんなニュースですから、ちゃんと知っていたに違いないのです。それなのに、おくびにもそれを申しません。いかにもあの人らしい。彼はけっしてそういうことはわたくしどもに言わないのです」  アーテミジアは船室《ケビン》の下の寝棚のひとつに腰かけていた。中段寝棚の枠が彼女の首根っこのすぐ下の第一胸椎へ食いこむのを避けるためには、彼女は窮屈なかたちに前かがみになっていなければならなかった。だが今の彼女の気持からすれば、そんな不自由は、些細《ささい》なことでしかなかった。  彼女はほとんど無意識に手の平でドレスの両脇をなでおろしつづけた。身体がすりきれ、よごれた感じがした。そしてひどく疲労をおぼえた。  ぬらしたナフキンで手や顔をぬぐってばかりいるのに飽きてしまった。一週間も同じ衣裳をつけていなければならないのをひどくみじめに感じた。髪がいやにじめじめし、いまとなるともう粘りついてよれよれになった感じがし、堪えられなかった。  そしていま彼女はまたも、もうすこしで腰を浮かそうとした。鋭い角度で振り返ろうとした。だが彼に会いにいく気がしなかった。二度と彼を見たくなかった。  しかしそれはギルブレットにすぎなかった。彼女は上げかけた腰をおろした。 「おや、ギルおじさまなの?」  ギルは彼女の前の寝棚へ腰かけた。しばらくの間、老人のほっそりした顔が不安そうにきょとんとしていた。それから皺がより、笑顔になっていった。「わしにも、一週間のこの船の生活、ちっともおもしろくない。おまえがわしを慰めてくれるかと思っていたのだが……」  だが彼女からは不機嫌な答しか返ってこなかった。「あら、ギルおじさま、わたしに心理作戦なんか使おうとしないでちょうだい。わたしをなだめすかして、おじさまの憂鬱なのはわたしの責任だと思いこませようとなすったら、それは見当違いよ。わたしはいま、むしろおじさまをぶちたいくらいなんだから」 「それでおまえの気が晴れるなら――」 「もう一度警告するわ。あなたが腕をのばして、ぶてとおっしゃったら、わたしぶってあげてよ。そして、『それで気分が晴れたかい?』とおっしゃったら、もう一度ぶつわ」 「いずれにしろ、おまえがバイロンと言い争いをしてきたことは明らかだ。何のことで言い争いをした?」 「そんなこと議論する必要はないわ。ほっといてちょうだい」だが、しばらく口をつぐんでいてから言った。「彼は、父上がなさったと思っているの――自治領主《アウタルク》の言ったことを真《ま》にうけているのよ。わたし、彼なんか、大きらい」 「おまえの父親がきらいだと?」 「違う! あの低脳の、子供っぽい、聖人ぶった大バカ者のことだわ!」 「じゃ、バイロンのことらしいな。よろしい。うんと彼をきらいなさい。そこにしょんぼりすわっていなければならんような、きらいきらいという気持と、わしのひとり者の心にはバカバカしい愛情の出しすぎみたいにしか見えんモヤモヤしたものとは、おまえにははっきり区別がつきかねるんだろう……」 「ギルおじさま――彼がほんとにそんなことをしたと思います?」 「バイロンがかい? 何をしたんだって?」 「じゃないのよ! 父上のことよ。父上がそれをなさったなんて、そんなこと? 父上が、牧畜領主《ランチャー》のことを告げ口したなんて!」  ギルブレットは考えこむような表情をした。そしてしゅんとした顔になって、「わしにはわからんよ」横眼でアーテミジアの様子をうかがった。「でも、彼はバイロンをティラン人に渡したからな」 「それは父上が、あれを罠《わな》だとお考えになっていたからだわ」彼女は熱心に弁解した。「ほんとに罠だったのよ、あれは。あの恐ろしい自治領主《アウタルク》が罠をしかけたのよ。自分でそう言っていたじゃないの。ティラン人は、バイロンの身元を知っていて、わざわざ彼を父上のところへ送ってきたのよ。父上としては、ああなさるよりほかにできなかったのだわ。そんなこと、誰にだってはっきりしているわ」 「たとえ、わしたちがそれを認めたとしても」――また横眼でアーテミジアの様子を見た――「彼はおまえを言いくるめて、おもしろくない結婚に踏みきらせようとしたじゃないか。もしヒンリックが、そんなことをするまで、気が弱くなっていたのだとすると――」  彼女がさえぎった。「あれだって、父上としてどうしようもなかったからだわ」 「ね、おまえ――ティラン人にぺこぺこしてやったことを、あれもこれもみんな、仕方がなかったからやったのだと言い訳してやるんだったら、彼が牧畜領主《ランチャー》のことを何か、ティラン人ににおわせなかったと、どうして言えるんだ?」 「そんなことをなさったはずがないからよ。あなたは父上というお人をよく知らないのだわ。父上はティラン人を憎んでおいでなのよ。ええ、それはたいへんな憎みよう。わたしちゃんと知っています。自分の気持をまげてまでティラン人を助けようなどと、絶対になさらないわ。ええ、そりゃ父上がティラン人のことを恐れ、あからさまに楯突くようなことはなさらない点は認めるわ、でもなんとかして避けることができるなら、けっしてティラン人のためになるようなことはなさらないのよ」 「彼が避けることができるって、どうしておまえにそんなことがわかる?」  だが彼女には答えられず、代わりに激しく頭を振った髪が乱れてばらりと垂れ、彼女の両眼を隠した。それで、眼の縁の光るものがわずかに隠された。  ギルブレットはしばらく彼女の様子をながめていたが、やがてどうにもならないとあきらめて両手をひろげ、そこを出ていった。  トレーラーが「リモースレス」号に取りつけられた。連結は、船尾の非常用エアロックに装着された、ジガバチのように腰の細い廊下である蛇腹《じゃばら》チューブでなされた。トレーラーの容積はティラン宇宙船《クルーザー》の数十倍というとほうもない大きさで、滑稽《こっけい》なまでにアンバランスであった。  最後の点検には、自治領主《アウタルク》がバイロンと立会った。「他に欠けているものはないかね?」と自治領主《アウタルク》がきいた。 「ありません。これでぼくたちとても快適に住めると思います」 「結構。それからついでだが、リゼットの話だと、アーテミジア令嬢の身体のぐあいがよくないという。すくなくとも、よくないようだと。医療を要するようだったら、彼女をぼくの船へ移したほうが賢明だと思うが」 「彼女は元気ですよ」バイロンはそっけなく答えた。 「君がそう言うならかまわんが。では、十二時間以内に出発の用意をしてくれ」 「なんなら、二時間以内でもいいですよ」  バイロンは連結廊下を通って《すこしかがまなければならなかった》「リモースレス」号本体へ移った。  彼はできるだけ平板な口調で言った。「アーテミジア、あっちに君用の衣料があるよ。ぼくは君のじゃまをしたくない。ぼくはたいていはこっちのほうにいるから」  アーテミジアは冷たい調子で答えた。「ちっともじゃまなんかになりませんわ、牧畜領主《ランチャー》。あなたがどこにいらっしゃろうと、わたしには関係ありませんもの……」  やがて両船は発進した。一度ジャンプを終わると、彼らは馬の首ネビュラの外縁にきていた。  ジョンティの宇宙船で必要な最後の計算が行われている間、彼らは数時間待たなければならなかった。ネビュラの内部では、盲目飛行に近いものとなるからであった。  バイロンは沈鬱な表情で観視《ヴィジ》プレートを見つめた。そこには何も見えていない! 天球の半分が、すみずみまで暗黒に閉ざされている。それをやわらげるひとつの星の灯《ひ》すらないのであった。バイロンは生まれて初めて、星くずがどんなに暖かく、親わしいものであったかを知った。星がどんなにたのもしく空間を満たしていたかということを! 「まるで宇宙空間の穴へ落ちこむみたいですね」バイロンがギルブレットのほうへつぶやいた。やがて彼らは、もう一度ジャンプを敢行し、ネビュラへはいっていった。  それとほとんど同時だった。十隻の武装|宇宙艇《クルーザー》の先頭に立った大汗《だいかん》の弁務コミッショナー、シモック・アラタップは、宙航士の報告を聞き終わり、「かまわん、とにかくやつらを尾《つ》けろ!」と命令した。  こうして、「リモースレス」号がネビュラへはいった空間の一点からわずか一光年の間隔をおいて十隻のティラン戦艦もまたネビュラへと突入していった。 [#改ページ]   十六 猟犬!  シモック・アラタップは制服を着てすこし窮屈な感じがした。ティランの制服はやや粗質の材料でつくってあり、身体の特徴にかまわず裁断してあった。制服の仕立てなどをこぼすのは軍人らしくなかった。事実、軍人は多少の不便や不快を忍ぶのが当然であり、それがむしろ鍛錬になるのだというのが、ティラン軍の伝統でさえあったのである。  それでもなお、アラタップはこの名誉ある伝統に反旗をひるがえして、恨めしそうにぼやいた。「どうもこの堅いカラー、首にチクチクささりおって、たまらんわい」  自分でも堅いカラーをしているアンドロス少佐、およそ記憶にあるかぎり制服以外の人間を見たことのないアンドロス少佐が言った。「ひとりでいるときは、カラーをはずしてもかまいません。軍紀で許されていますから。しかし他の士官とか兵とかの前では、軍紀どおりの服装からすこしでも逸脱すると厄介な悪影響を与えます」  アラタップは鼻じろんだ。このうるさい少佐もまた、こんどの準軍事的性格の遠征に伴う、やむをえない災疫である。制服をむりに着せられた上に、しだいに生意気《なまいき》な口をきくようになってくるこの軍人の副官に耳をかたむけなければならぬとは! この不快はローディアをたつ前から始まっていたことだった。  今もアンドロス少佐は露骨にずけずけと言う。 「コミッショナー、われわれは十隻の宇宙船がいります」  アラタップは顔をあげた。はっきりと困惑の表情である。彼は今も、単独船でこの若いウィデモス人を追跡しようと心準備していたところなのだ。彼はがっかりしてカプセルをわきへのけた。カプセルのなかには、万一こんどの遠征から不幸にしてもどれなくなった場合の用意に、汗《かん》の植民局へだすためにしたためた報告書がいれてあるのである。 「十隻だと、少佐?」 「はい、十隻以下ではダメです」 「なぜだ?」 「わたし、なっとくのいく程度の安全な方法をとりたいからです。あの若者はどこへか飛ぼうとしています。一方、あなたは、かなり進んだ陰謀組織があるとおっしゃる。おそらく、この二つはぴったりとつじつまが合います」 「だからどうだと?」 「ですから、われわれは、かなり進んでいる陰謀計画に対処するところがなくてはなりません。宇宙船一隻ぐらい手軽にあしらえる実力のある敵と対処しなければなりません」 「それとも十隻か。あるいは百隻か? どこまでいったら、安全だというんだ?」 「決定を下さなければなりません。軍事問題では、それはわたしの責任です。わたしは十隻を提案します」  アラタップが眉《まゆ》をつりあげたとき、壁の光でコンタクト・レンズが不自然に輝いた。軍がつよい。理論上は、平和時には文官が決定を行なう。だが、この点でもまた、軍事的伝統はおいそれとは変えられない。  アラタップは用心しながら言った。「その問題は考慮しよう」 「ありがたいことで。あなたがわたしの勧告をお受けになりたくないなら、そしてわたしの示唆《しさ》が単に勧告の意味でなされたような場合には」――少佐の両踵《りょうかかと》がかちっと鋭い音をたてた。しかし、敬礼は単に儀礼的であって、内容はまるでからっぽなのだ。アラタップにはそれがよくわかる――「お受けにならなくとも結構です。それはあなたの特権ですから。しかし、その場合は、わたしとして辞表を出さなければならぬ立場に追いこまれます」  まずくなった空気をやわらげるのはアラタップの責任といえた。「純軍事問題で君の決定しようとするのを妨げる気はもうとうないよ、少佐。わしはただ、純政治問題についてわしが決定する場合、君が同じように快く賛成してくれないものかと思っているんだ」 「どんな問題ですか、それは?」 「たとえば、ヒンリックの問題がある。君は昨日、ヒンリックがわしたちに同行すべきだというわしの示唆に反対したじゃないか?」  少佐はつっけんどんに答えた。「それは不必要だと考えます。わが軍が行動する場合、外国人がそばにいたのでは、兵の士気が低下します」  アラタップは、相手に気づかれないように、しずかにため息をついた。しかし、アンドロスは彼は彼なりに有能な男である。いらだったところを見せるのはよくない。 「そこでも、わしは君の意見に賛成なんだ。わしはただ、この情況の政治面を考えてくれと頼んでいるだけなんだよ。君も知っているように、ウィデモスの老|牧畜領主《ランチャー》の処刑は、政治的にはきわめて不快な事件であった。これで不必要に王国集団《キングダムズ》を刺激してしまった。父親の処刑がいかに必要であったにしろ、息子《むすこ》の処刑までわれわれに課するというのはちょっと行きすぎじゃないかと思う。ローディアの人民はみんな聞いて知っているが、若いウィデモス人は総督の娘を誘拐《ゆうかい》したのだ。この娘は人民に愛されており、非常に有名なヒンリアッド家の一員だ。だからむしろ、総督をこの処罰遠征隊の総司令官にするのがよかったのだ。そのほうがずっとぴったりと理屈に合うし、万人になっとくがいくというものだ。  そうすればずっと劇的な遠征になるし、ローディア人の愛国心に訴える力がある。もちろん、ヒンリックはティラン人の援助をもとめ、それは与えられるだろうが、援助のほうは適当に目立たぬようにすることができる。この遠征を人民の眼に、あくまでもローディアのものとして印象づけるのは、容易でもあるし、必要でもあるんだ。もし陰謀の内部組織があばかれたら、それはローディアが発見したことになる。そして若いウィデモス人が処刑されれば、それはローディアが行なったことになる。すくなくとも他の王国集団《キングダムズ》の人たちの眼にはそう映るんだ」  少佐が反撥した。「ローディア艦隊をティランの軍事遠征に参加させるというのは、悪い前例になります。ああいうものがいっしょでは、戦闘のじゃまになりますよ。その点、問題は一転して軍事問題となります」 「わしは、なにもヒンリックに船を指揮させようといったのじゃないよ、少佐。君だって、ヒンリックが船の指揮ができるような、いや船を指揮したがっているような男でないことは、百も承知じゃないか。ヒンリックはわれわれといっしょにいるのさ。船にはほかにローディア人は一人も乗せんのだよ」 「それでしたら、わたしは反対を撤回します、コミッショナー」と少佐が言った。  ティランの艦隊は、一週間のなかば以上、リンゲーン惑星から二光年の、彼らの所定位置をたもっていた。状況はしだいに不安の度を増していった。  アンドロス少佐は、すぐさまリンゲーンへ着陸することをしきりにすすめていた。「リンゲーンの自治領主《アウタルク》は、相当苦労して、われわれに、彼が汗《かん》の味方だと信じこませようとしていますね。しかしわたしは、ああいった外国旅行をした男たちを信用しません。彼らは不穏な思想を仕入れてくるんですよ。ちょうど自治領主《アウタルク》が帰ったのと時を同じくして、若いウィデモス人が彼に会いにやってきたというのがじつに臭いんです」 「しかし自治領主《アウタルク》は旅行も帰国も隠そうとしなかったじゃないかね、少佐。それに、あのウィデモス人が自治領主《アウタルク》に会いに行くのかどうかなど、われわれにはわからんよ。あの若者、リンゲーンをまわる軌道をずっと維持しているが、どうして着陸せんのだろう?」 「なぜあの若者が軌道を維持しているかとおっしゃるんですか? それより、やつが何をするか、また何をしないかを問題にしたほうがいいんじゃないですか?」 「今の状況にぴたりとはまる推理があるんだがね」 「何です、拝聴しましょう」  アラタップは指を一本カラーの内側へいれ、ゆるめようとムダ骨を折った。「若者があそこで待っているところを見ると、何かを、あるいは誰かを待っていると考えられる。彼が直行の快速ルートで――というと事実上ジャンプ一回でだが――リンゲーンへやってきた経過から考えると、あそこでただためらっているのだと考えるのはバカげている。だから、わしは、彼はあそこで友達か、あるいは数人の友達を待っていると思うんだ。その連れの仲間が参加した後、どこかへ飛ぶんだと思う。すぐにリンゲーンに着陸しないのは、それが安全な行動ではないと考えている証拠だ。ということは、二人や三人のリンゲーン人が個人として陰謀に加わっているかもしれないが、リンゲーン全体としては――まして自治領主《アウタルク》自身は、陰謀に加わってはいない、ということになるんじゃないかね」 「明白な解答がいつも正しいか――さあどうですかね」 「これ少佐、わしのは明白な解答というだけじゃないよ。論理的な解答でもある。今の状況にぴたりだ」 「あるいはですね。しかし、ぴたりかどうかは別として、あと二十四時間何の状況変化もなかったら、わたしとしてはリンゲーンへ進発を命令しなければならなくなりますね」  アラタップは、少佐が去ったドアのほうへ眼をむけて顔をしかめた。まことに、落ち着かない被征服者と、近視眼な征服者の両方を同時にコントロールするのは厄介な仕事だ。二十四時間か。何か起こるかもしれない。起こらなければ、何とかしてアンドロスの暴走を止める方法を考えなければならんかもしれない。  ドア・シグナルが鳴った。アラタップはいらだった眼をあげた。まさかアンドロスではあるまい。はたしてそうではなかった。猫背《ねこぜ》の、背の高い、ローディアのヒンリックの姿がドアウェイに見えた。そのうしろに、船内どこへもついていく護衛兵の姿がちらと眼についた。理論的にはヒンリックは完全な行動の自由をもっている。おそらく、ヒンリックは自分でもそう思っていることであろう。すくなくとも彼は、しょっちゅうわきについている護衛兵にはまるで注意を払わない。  ヒンリックはつかみどころのない微笑をうかべた。「おじゃまじゃないでしょうか、コミッショナー?」 「いや、いや、ちっとも。さあお掛け下さい、総督」アラタップは立ったままでいる。ヒンリックはそれすら気にとめないようである。 「ちょっと、お話し申したい重大なことがあるのですがな……」言いかけて口をとじた。その眼にあったいわくありげな色がわずかに薄らいだ。そして、まるで別の調子になって、「これはまあ、なんという大きな、りっぱな船でしょうナ、ほんとに!」 「恐縮です、おほめいただいて、総督」アラタップが固苦しく微笑に口をゆがめた。  随伴している九隻の宇宙船は、ティラン独得の小型宇宙艇であった。それに反して、彼らがいま、たっているこの旗艦は、廃止されたローディアの宇宙海軍のデザインをとった超大型の宇宙艦であった。このような型の宇宙艦がしだいに海軍にとりいれられて増えていくことは、ティランの軍人精神が徐々に軟化していっている兆候と思われた。戦闘単位はいまだに二人乗り、三人乗りの宇宙艇である。だが、高級軍人はしだいに、その司令部として大型艦をつかう理由を何かと見いだしていた。  艦が大きいからといって、アラタップには何の悲痛な感慨もわかなかった。古い型の軍人などには、こうした軟化現象は堕落と見えたかもしれない。アラタップにはむしろ文明進歩の兆候に思われた。しまいには――おそらく数世紀のうちには――ティラン人も単一種族としては消滅していくのではあるまいか。ネビュラ王国集団《キングダムズ》の今の被征服社会と混りあってしまうだろう。たぶん、それすら、アラタップにとっては、望ましいことのように思われた。  もちろん、彼はそんな意見をけっして口に出して言ったことはなかった。 「ちょっとお話があってきたのですが……」ヒンリックがまた繰り返した。言いだして、しばらく自分の言葉を怪しむようなけげんな表情をしてから、「わしは今日、わしの人民にあてて、故国《くに》へメッセージを送りました。わしが元気でいること、犯人は間もなく逮捕されるだろうということ、姫が無事帰国するだろうということ、それを言ってやりましたのじゃ」 「それは結構でした」アラタップが答えた。それはなにもいま彼が聞いたことではない。彼自身それを執筆したのだから。もっとも、今となると、ヒンリックは、あたかも自分がそれを執筆したかのように、また自分が実際にこの探検隊の総司令官であるかのように思いこんでいるのかもしれなかった。アラタップは一抹《いちまつ》の哀れみを覚えた。この老人、眼にみえて精神崩壊の過程をたどっているようである。 「わしの人民は」とヒンリックが続けた。「りっぱな組織をもった盗賊どもが、大胆不敵にもパレスを襲ったという事件に非常に驚いていると思いますのじゃ。しかしわしがこれに対抗してこんなに急速に討伐隊を組織して出発した。人民は彼らの総督を誇りに思っているじゃろうと思う、なあ、そうじゃな、コミッショナー? これで人民も、ヒンリアッド家にはまだ強い底力が残っていることを知ってくれるじゃろう」ヒンリックの顔に弱々しい勝利者のような満足感があふれていた。 「それはそうだろうと思います」 「まだ、われわれは接敵しとらんのかの?」 「まだです、総督。敵は今までのところにとどまっています、リンゲーンからごく近い……」 「まだだと? ああそうじゃ、あなたとお話しにきた用件を思いだした」そして言葉がぼつぼつと飛びだしてくるうちに、しだいにヒンリックは興奮していった。「非常に重要なことじゃ、コミッショナー。あなたにお知らせしたいことがある。艦内に裏切り者がおる。わしが見つけた。早く措置せんといかん。裏切り者は――」と、調子をささやき声にさげた。  アラタップはいらだってきた。もちろん哀れむべき痴愚者の機嫌をとることは必要である。だが、すでに時間のムダになりつつある。この調子でいくと、やがてこの老人は明らかに狂人となってしまい、傀儡《かいらい》としてさえ役にたたなくなる。それが哀れだ。 「裏切り者はおりません、総督。わが将兵はすべて志操堅固、忠誠であります。誰かが、あなたの誤解をまねいたのでしょう。総督は疲れていらっしゃる」 「そんなことはいらん、そんなことは」ヒンリックは、ちょっとの間肩にのせられていたアラタップの腕をつよく払いのけた。「おや、わしたちは――ここはどこじゃ?」 「どこって、ここですよ」 「船じゃ、船のことじゃ。わしは観視《ヴィジ》プレートを見ておったのじゃ。われわれはどの星の近くにもおらん。われわれは深い空間のなかにはまっている。あなた、それに気がつかなかったのか?」 「そうですよ、深い空間にはいっているのです」 「リンゲーンはどこにも見えん。それに気がついていたのか?」 「リンゲーンは二光年さきです」 「ああ! ああ! ああ! コミッショナー、誰も立聞きしておらんじゃろうな? 大丈夫かな? ヒンリックが身体をすり寄せてきた。アラタップは耳を近づけてやった。「それなら、どうして、敵がリンゲーンに近いとわかるのじゃ? それじゃ犯人はあまり遠すぎて、とうてい発見はできん。わしたちは誤った情報をつかまされたのじゃ。裏切り者がいる証拠じゃ!」  すでに老人は狂っているのかもしれない。それはそれとして、言うことには一理ある。アラタップは、「それは技術畑のものの考える問題ですよ、総督。あなたのような高位の方が心配する問題ではありません。わたし自身、ほとんどわからんのですから」 「しかし、討伐隊の総司令官として、わしが知らないですまされる問題か? わしは総司令官じゃ、そうじゃろう?」あたりを用心ぶかく見まわした。「実は、わしはアンドロス少佐がわしの命令をあまり忠実に実行していない感じをうけておる。あの男は信用できますか? もちろん、わしはめったにあの男に命令など出さないのじゃが。ティランの将校に命令しては奇妙じゃからな。ところで、わしは娘を捜さねばならぬ。わしの娘じゃ、アーテミジアという名じゃ。娘がわしの手もとからつれ去られたのじゃ。わしはこの艦隊ぜんぶを動員しても娘をとりもどさねばならん。だからわかったろう、わしは知らねばならぬ。敵がリンゲーンにいるとどうしてわかったのか、それを知らねばならんというのじゃ。わしの娘もそこにいるはずじゃ。あなたはわしの娘をご存知かな? 娘の名はアーテミジアというのじゃ」  ヒンリックの眼が訴えるようにティランの弁務コミッショナーを見上げた。それから手で眼をおおい、何やらぶつぶつとつぶやいた。「取り乱してごめんなさい」というふうにそれは聞こえた。  アラタップは胸がしめつけられ、顎筋肉がぎゅうと緊張するのを覚えた。眼の前の老人が娘を奪われた父親であること、また痴愚のローディア総督にすら父親の感情があるらしいことに気づくことが今の彼には困難であった。それほど老人は精神がくずれかかっていた。彼は老人の苦しむのをこれ以上見ていることができなかった。 「ご説明してみましょう。宇宙空間の船舶を探知する質量計《マッソメーター》という器械があるのをご存知でしょう」 「ああ、知っとる、知っとる」 「その器械は重力作用に敏感なのです。わかりますね?」 「ああわかるとも。何にでも重力がある」ヒンリックはアラタップに寄りかかってきた。両手を神経質にしっかりと組みあわせている。 「それだけの知識があれば十分です。ところで、もちろん質量計《マッソメーター》は、船が近くなったときだけ使用できます。ご存知ですね? 百万マイルぐらいから以下の距離でです。また、惑星からかなりの距離でないといけません。そうでないと、惑星のほうがずっと大きいものですから、機械は惑星だけした探知しないからです」 「惑星は大きいだけでなく、重力も大きいからじゃね?」 「そのとおりです」アラタップが言った。  ヒンリックがうれしそうな顔をした。  アラタップはなおも続けた。「わたしたちティラン人にはこれとは別の装置があります。これはあらゆる方向へ超空間を貫通して放射する一種の発信機であります。放射されるものは、空間構造《スペース・ファブリック》の一種のひずみ、特殊タイプのひずみで、電磁気的性質のものではありません。言いかえれば、放射されるものは、光ともラジオ波とも、あるいはサブ・エーテル無線波とも似つかぬあるものです。おわかりになりましたか?」  ヒンリックは答えなかった。混乱した表情であった。  アラタップは急いで続けた。「そう、まったく違ったものです。どうしてそんなことができるかということは問うところじゃない。で、われわれは、その放射されるあるものを探知することができます。それで、ティラン船がどこにいても、つねにその位置を知ることができる。銀河直径の半分ほども離れてもわかります。また恒星の向こう側にいてもわかります」  ヒンリックがしかつめらしくうなずいた。 「それでですね、もしその若いウィデモス人がふつうの船で逃げているとすると、その位置を探知することはむずかしくなります。そうではなく、ティランの宇宙艇《クルーザー》を奪って逃げているのですから、向こうでは気がつかなくとも、こちらとしては、しょっちゅうその位置がわかるんです。わたしたちに彼がリンゲーンに近いところにいることがわかると申したのは、こういうわけです、おわかりになりましたね。それに、彼は逃げることができませんから、したがって、ご令嬢は間違いなく救いだすことができるのです」  ヒンリックが微笑になった。「それはなかなかみごとじゃ。おめでとう、コミッショナー。じつに巧みな計略じゃ」  アラタップはいい気になることはできなかった。ヒンリックにはいま彼が説明したことなどほとんど理解できまい。それは問題ではない。娘が救いだされるという安堵《あんど》だけがあとに残った。それでいいのである。それに、老人の昏《くら》くなった理解のどこかに、娘の救出がティランの科学によって可能にされたのだという認識が残るかもしれない。それならなおさら結構だ。  アラタップは自分の心に言い訳をしていた。わざわざ説明してやったのは、このローディア人の悲惨な姿が彼の同情心を刺激したからではない。むしろ、明白な政治的理由により、この老人がまったくの廃人となっては困るからである。おそらく、娘がもどってくれば、よほど老人の状態もよくなるだろう。アラタップはそうであってくれればいいがと望んだ。  またドア・シグナルが鳴った。はいってきたのはこんどはアンドロス少佐であった。椅子の肘掛《ひじかけ》にのせられていたヒンリックの腕がこわばった。顔に追われているような卑屈と嫌悪の表情がでた。よたよたと立ちあがり、言いかけた。「アンドロス少佐――」  だがもう、アンドロスはローディアの老人を無視して急いでしゃべりだしていた。 「コミッショナー、『リモースレス』号が位置を変えましたぞ」 「何、やっぱりリンゲーンへ着陸しなかったか!」アラタップが鋭くきいた。 「しませんでした。ジャンプしてリンゲーンからずっと離れました」 「うむ、結構だ。じゃ、たぶん、ほかの宇宙船といっしょになったのだな?」 「多数船かもしれませんよ、たぶん。われわれは彼の船しか探知できないんですから、よくご存知のように」 「いずれにしろ、また追尾しよう」 「もう命令は出してあります。わたしはただこれを申し上げたかったのです――彼がジャンプした結果、彼は馬の首ネビュラの縁《へり》へ飛んだということです」 「何だと?」 「その推知される方向には大きな惑星系はありません。ということは、結論はひとつです」  アラタップは唇をぬらし、あたふたと部屋を出て、操縦室のほうへ急いだ。少佐があとに従った。  ヒンリックはとつぜん無人になった部屋のまん中に、ひとりで取り残され、立っていた。ドアのほうを一分かそこら見ていた。やがて肩をすくめ、またすわりなおした。表情は空白だった。そしてかなりの時間、彼はただすわっていただけであった。  宙航士が報告した。「『リモースレス』号の空間座標、チェックしました。彼ら、はっきりとネビュラの内部におります」 「かまわん。とにかくやつらを尾《つ》けろ」アラタップが言った。  それからアンドロス少佐へ振りむいて、「どうだ、待つご利益《りやく》がわかったかい。これで、たくさんのことが明らかになった。陰謀者どもの本部が――ほかのどこでもない、ネビュラそのものの中だということがわかった。彼らを捜すのに、それ以外のどこを目ざすことがあろう! きわめて美しい推理パターンだ」  かくて、艦隊はネビュラへと突入していった。  アラタップが観視《ヴィジ》プレートを無意識に見た。観視プレートを見るのはもうこれで二十度目である。観視プレートはいつまでもまったく暗い。だから、ながめても意味がなかった。星ひとつ見えないのである。  アンドロス少佐が言った。「彼ら、着陸しないで停船すること、これで三度目です。まるで解《げ》せません。目的は何でしょう? 何を求めているのでしょう? 彼らの停船はどれも数日間にわたります。それでいて、着陸しない……」 「つぎのジャンプを計算するのに、それくらいの時間がかかるのかもしれない。見えるものといっては何もないのだから」とアラタップ。 「ほんとに、そう思うんですか?」 「違った。彼らのジャンプはじょうずすぎる。ジャンプのたびに、星の近くにとまる。質量計《マッソメーター》データだけではそんなにじょうずにいくはずがない、実際に星の位置を知っていないかぎりは、な」 「じゃ、彼ら、なぜ着陸しないんでしょう?」 「わしの思うには、彼らは可住惑星を捜しているのではないだろうか。たぶん、彼ら自身は陰謀組織のセンターの位置は知らないのだろう。すくなくとも、おぼろげにしか知らんのだろう」アラタップは笑った。「とにかく、追うだけだ」  宙航士が踵をかちッと鳴らした。「閣下!」 「どうした?」アラタップが眼をあげた。 「敵は惑星に着陸しました」  アラタップがシグナルを押し、アンドロス少佐を呼んだ。 「アンドロス少佐」少佐がはいってくると、アラタップが言った。「聞いたかね?」 「聞きました。下降と追跡を命令しました」 「待ちたまえ。君はまたも早駆けしすぎる、リンゲーンへ突っ込もうと主張したときと同じだ。わしは、本艦だけで進むべきだと思う」 「その理由は?」 「万一、補強が必要になったら、君がすぐ十隻の宇宙艇《クルーザー》を指揮してかけつける。もし、あれがほんとうに強力な反乱軍センターならば、宇宙船が一隻迷いこんできたぐらいに思うかもしれないじゃないか。ぼくが君にしかるべき命令を与えてやろう、君が任務を解かれてティランへ帰れるような」 「任務を解かれてですって?」 「全艦隊を率いて帰還していい」  アンドロスはしばらく思案していた。「結構でしょう。どうせ、この宇宙艦はわれわれの艦隊中でいちばん役にたたんしろものです。図体が大きすぎるのです」  旋回下降するにつれ、観視《ヴィジ》プレートに惑星がいっぱいに映ってきた。 「惑星表面はまったくの不毛と思われます」宙航士が報告した。 「『リモースレス』号の正確な位置を決定したか?」 「はい、決定しました」 「それなら、発見されないかぎり、できるだけ敵船に近いところに着陸してくれ」  艦はすでに大気圏へはいっていた。惑星の日照半面をかすめて飛んでいくと、空はしだいに明るくなり紫にいろどられていった。アラタップは近づいてくる惑星地表をじっと見つめた。長い追跡もいよいよ終わりに近づいている! [#改ページ]   十七 そしてウサギと  実際に宇宙空間に出たことのない人にとっては、ひとつの恒星系の調査、そしてまた可住惑星の探索といえばむしろエキサイティングな仕事であり、すくなくとも興味のある仕事であるかのごとく思われるであろう。しかし、宇宙飛行士にとっては、およそこれくらい退屈な仕事はないのである。  水素が融合してヘリウムに化しつつある巨大な輝く質量物体であるところの星――その位置を決めることは、やさしすぎるといっても言いすぎではない。星は自分でありかをしめしている。馬の首ネビュラのような暗黒世界においてさえ、星の発見はただ距離だけの問題である。五十億マイル以内に近づけば、ネビュラのなかでも、星はやはり自分の存在を誇示しているのである。  しかしながら、比較的小さな岩石塊にすぎず、反射光のみで輝いている惑星となると、この発見はまったく異常な困難をともなう。ひとつの恒星系をあらゆる方向から十万回通過したとしても、よほどの偶然にめぐまれれば別として、ひとつの惑星にそれが何であるかが見きわめられるくらいに接近するということは、まあありえないのである。  そこで宇宙飛行者はひとつの方法をとる。まず、調査中の恒星から、その直径の一万倍ほどの距離の空間の一点に位置をしめる。銀河系の統計によれば、惑星が主星〔惑星の太陽〕からこれより遠い距離にある可能性は五万分の一以下である。さらに、実際問題として、可住《ヽヽ》惑星がその主星から、主星の直径の千倍以上離れていることは絶対にないのである。  このことはつぎのように解釈される。調査宇宙船のしめる空間の一点からみて、もし可住惑星があるとすれば、それは主星から六度以内の空域になければならない。これは全天面積の三千六百分の一にすぎない。これだけの空域なら比較的少ない観測によって詳細に調べることができよう。  テレカメラの操作にあたっては、宇宙船の軌道運動の影響を消すために、テレカメラの動きを調整しなければならない。こうしておいて一定時間フィルムを露光すれば、その恒星付近の諸星はぴたりとフィルム上に撮《と》ることができる。この場合、太陽の光輝を消さなければならないが、これは容易である。しかし、惑星はかすかな固有運動をしており、フィルムの上には微小な飛跡となって写しだされる。  飛跡が感光されていない場合は、惑星がその主星の背後に隠れている可能性がある。したがって同じテレカメラ操作を、宇宙空間の一点から、ただしふつうその恒星へより近づいた一点から、繰り返し行なう必要がある。  ただしこの操作はきわめて退屈な仕事で、別々の恒星三つについてそれぞれ三度ずつこれを繰り返し、しかもつねに完全な否定結果だけしか得られなかったとすれば、ある程度の志気低下が起こることはやむをえない。  いまもギルブレットの志気は、もうかなり前から沈降の一路をたどっていた。彼が何か「おもしろいもの」を見つけだしてわずかに興奮する瞬間と、同じつぎの瞬間との時間間隔はしだいに長くなっていった。  彼らはいま、自治領主《アウタルク》の星リストにのっている四番目の恒星へむかって、「ジャンプ」の準備をしていた。バイロンが言った。「それでもぼくたち、ジャンプするたびに星にぶつかるじゃないですか。すくなくともジョンティの数字は正しいですよ」  ギルブレットがおもしろくなさそうにつぶやく。「統計では、恒星三つのうちひとつは惑星システムを随伴していることになっている」  バイロンがうなずいた。薹《とう》の立った統計だ。どんな子供でも、銀河系位置天文学《ギャラクトグラフィ》の初歩でそれくらいのことは学んでいる。  ギルブレットがなおもぶつくさとつぶやく。「ということは、手あたりしだいに三つの星をしらべて、ひとつも惑星が発見されない可能性は、三分の二の三乗、すなわち二十七分の八、つまり三分の一以下だね」 「だから?」 「ところが、わしたち、まだひとつも惑星を見つけておらん。どこかに間違いがある……」 「あんたは自分で観視《ヴィジ》プレートを見ているじゃないですか。それに、統計なんて何の値打ちがあります? ネビュラの内部では条件がまったく違うんですよ。たぶん微粒子の霧が惑星の形成を妨げているのかもしれない。あるいは、霧があるのは、惑星が凝集しなかった結果かもしれないじゃないですか」 「まさか本気でそんなことを言ってるんじゃないだろうな?」ギルブレットが、意気消沈したように言った。 「本気なんかじゃありません。ぼくはただ、自分の声が聞きたくてしゃべっただけです。ぼくは宇宙発生学についてはからきし素人《しろうと》なんです。そもそも、惑星なんていうくだらんもの、なぜできてくるんです? 悩みや騒動がいっぱいでない惑星なんて、聞いたこともない」バイロンもまた憔悴《しょうすい》しきっていた。  彼はまだ小さな標示スティッカーを印刷《タイプ》したり制御盤の上へはりつけたりしているのであった。 「いずれにしろ、ぼくたちもう、噴射機はすっかり計算したし、その他距離測定計、動力コントロール、みんな整備した」  観視《ヴィジ》プレートを見ないでいることはむずかしかった。彼らはもうすぐ再び、このインクのような暗黒のなかへ「ジャンプ」しようとしているのであった。  バイロンが何気なく言った。「なぜこれが『馬の首ネビュラ』と呼ばれているか知っていますか、ギル?」 「はじめてこのネビュラへはいった人がホラス・ヘッドだったからだ。それが間違っているというのかい?」 「おっしゃるとおりかもしれません。でも、地球では違った説明をしているんですよ」 「ほう?」 「地球では、馬の首に似ているからそう呼ぶんだと言っているんです」 「ウマって何かね?」 「地球にいる動物です」 「なかなかおもしろい説だね。しかし、わしにはいっこうに、あのネビュラは動物なんかには見えんよ、バイロン」 「それは見る角度によるんです。たとえばネフェロスから見ると、あれは三本指をつけた人間の腕っぷしに見えるんです。ぼくは一度地球大学の天文台からそれを見たことがありますが、ほんとに、ちょっと馬の首みたいに見えましたよ。たぶん名前はそこから出たんでしょうね。ですから、ホラス・ヘッドなんていう人は絶対にいなかったんでしょうな。だって、誰にわかるもんですか」バイロンはすでに、すっかり倦怠を感じていた。彼はただ自分の声を聞くために下らないおしゃべりをしているのにすぎなかった。  沈黙がきた。長すぎる沈黙だった。それはギルブレットに、バイロンが議論したくない、それでいて考えないではいられない、ひとつの話題を持ちだすチャンスを与えた。 「アータはどこだろう?」ギルブレットが言った。  バイロンはすぐギルブレットの顔を見た。「トレーラーのどこかにいるでしょう。ぼく、彼女について回らないんですよ」 「自治領主《アウタルク》がついていっている。彼、ここに住んだらいいのにな」 「だったら、彼女はずいぶん幸運だ」とバイロンが言った。  ギルブレットの顔の皺《しわ》が深くなった。小さな顔がゆがんで縮んだように見えた。「おお、バカなこと言うもんじゃないよ、バイロン。アーテミジアはヒンリアッド家の一族だ。君が彼女に仕向けているようなよそよそしい態度に、あれが耐えられると思うのか?」 「よしましょう、そんな話」 「わしはよさん。わしはそのことが言いたくてウズウズしていたんだ。なぜ君は彼女にそんなそっけない態度をとっているのだ? 君のお父さんの死が、ヒンリックのせいかもしれんからかい? ヒンリックはわしの従兄だよ! それなのに君はわしに対してはぜんぜん態度を変えとらんじゃないか」 「ああいいですよ。あなたに対してはぼくは態度を変えていません。いつものとおりの話し方をしています。彼女にも話しましょう」 「今までどおり、やさしくかい?」  バイロンは黙った。 「君が彼女を自治領主《アウタルク》へ追いやっているんだ」 「それが彼女の意志だから、しようがないでしょう」 「そうじゃないよ。君の意志だよ。聞きなさい、バイロン」――ギルブレットは内緒話をするかのように声を低めた。バイロンの膝《ひざ》に手を置いて、「いいかね、わしは何も干渉したいから言うんじゃないよ、わかってくれるね。わしがこれを言うのは、いまのところ、ヒンリアッド一族で、無傷なのはあの娘《こ》だけだから言うのだ。もし、わしが彼女を愛しているといったら、君はどう思う? おもしろいかい? わしは自分の子供をもっておらんのだよ」 「あなたの愛は疑いませんよ」 「それなら、わしは君に忠告しよう、彼女のためにな。自治領主《アウタルク》をさしとめなさい、バイロン」 「あんたは彼を信用していらっしゃると思ったが」 「自治領主《アウタルク》としては信用しているよ。一人の友ティラン指導者としてはな。しかし、女に対する男としては――アーテミジアに対する男としては、信用せんのだ」 「じゃ彼女にそう言ったらいいじゃないですか」 「わしが彼女に言って、彼女が聞くと思うかい?」 「うまく話したら聞くでしょう」  しばらく、バイロンはためらっているように見えた。かわいた唇を、舌がわずかになめずった。それから顔をそむけ、粗暴な調子で、「こんな問題、話したくないです」  ギルブレットが悲しそうに言った。「君は後悔するよ……」  バイロンは何も言わない。なぜギルブレットはおれを放っておかないのであろうか? バイロンの心に、あるいは彼女と争ったことをあとで後悔するかもしれないという心配が、何度となく頭をもたげた。しかしもどることは容易ではないのだ。いったんここまで来たものを、彼としてどうすることができよう。傷つかずに、破れたところをつくろう方法はないのだ。  彼はなんとかして、この胸のなかの息苦しい感覚をぬぐいさろうとして、口で呼吸を繰り返していた。  だが、つぎにきた「ジャンプ」のあとでは様子はかなり変わった。バイロンは、「ジャンプ」に対しては、自治領主《アウタルク》の操縦士のくれた指示のとおりに制御装置をセットし、手動式の制御装置のほうはギルブレットにまかせておいて、ベッドにはいったのだった。彼はこの「ジャンプ」を眠りながら過ごすつもりでいた。ところが、もうすこしというとき、ギルブレットが彼の肩をゆすぶったのである。 「バイロン! バイロン!」  バイロンは寝棚のなかで寝返りをうち、その拍子に転げ落ち、拳《こぶし》を握ったまま身体をまるめた。「何です、いったい?」  ギルブレットが大急ぎで二、三歩あとずさって、「さあ、びっくりするなよ。わしたち、いよいよこんどはF2をつかまえたよ」  ジーンとこの情報がバイロンの頭脳へ沈んでいったようである。ギルブレットがひとつ深いため息をつき、身体をくつろがせた。 「こんな起こしかた、しないで下さいよ、ギルブレット。F2を見つけたんですって? 新しい星のことですね?」 「そうだとも。じつにおもしろいよ、いや、おもしろい!」  ある意味ではおもしろいと言えた。銀河系にある可住惑星のほぼ九十五パーセントはスペクトルFあるいはG型の恒星――直径は七十五万マイルから百五十万マイル、表面温度は摂氏五千ないし一万度――に随伴している。たとえば地球の太陽はG―|0《ゼロ》であり、ローディアの太陽はF―8、リンゲーンの太陽とネフェロスの太陽はともにG―2である。F―2となればすこし熱い、だがそんなに熱いということはない。  彼らが最初に停止した三つの恒星はスペクトルK型のもので、どちらかというと小さな赤い星であった。そういう恒星では、たとえ惑星をもっているとしても、あまりいい条件のものではなかったであろう。  よい星はどこまでもよい星だ! 惑星写真を撮《と》りだした第一日目には五つの惑星が見つかった。いちばん近い惑星は主星から一億五千万マイル離れていた。  このニュースを自分でもってきたのはテドゥア・リゼットだった。リゼットは、自治領主《アウタルク》に劣らず、しばしば「リモースレス」号のほうへやってきて、一同を持ち前の心あたたまる親切さで明るくしてくれていた。彼は今、金属|索《づな》につかまり手繰りながらふうふういって、やってきた。 「自治領主《アウタルク》がどんな方法で計算したのかわからんのですよ。あの方はまるで頓着していませんからね。若さからくるんですかナ?」そしていきなりつけ加えた。「惑星が五つですよ!」 「この星に? ほんとかね?」とギルブレットが奇声をあげた。 「たしかですとも。もっとも、うち四つはJタイプでした」 「それで五つ目は?」 「五つ目は大丈夫らしいんです。とにかく大気中に酸素がありますよ」  ギルブレットが勝ち鬨《どき》らしいものをあげた。だがバイロンは落ち着いて、「四つがJタイプか。まあいいや、要《い》るのは一つだけだから」  まあ妥当な分布である、とバイロンは思った。銀河系では、相当の大きさの惑星の大多数は、水素をふくんだ大気をもっている。所詮、星というものは大部分が水素から成るかたまりであり、惑星をつくるブロック材料は星から取られるのだから。Jタイプの惑星は大気がメタンあるいはアンモニアで、これにときに水素分子がまじる。またかなりの量のヘリウムもふくまれる。ふつう、こうした大気は厚みが大きく、しかも極度に濃密である。惑星の直径はほとんど例外がないといってよいほど、いつも直径三十万マイル〔地球の直径は四千万マイル弱〕あるいはそれ以上である。そして気温といえば、氷点下摂氏五十度以上という例はめったにないくらい、ひどく寒冷である。とうてい人間の住めるところではない。  バイロンが地球で学んだ知識では、Jタイプというのはジュピター(木星)のJをとったものであるという。地球の属す太陽系にあるジュピターという惑星がJタイプ惑星の典型であるからだ。たぶん地球の人々の説でよいのだろう。それからほかの種類ではEタイプというのがある。Eはアース(地球)の意味だ。Eタイプ惑星は比較的サイズが小さく、したがって重力が小さいから水素あるいは水素をふくむガスを大気中に保持しておくことができない。ことにEタイプ惑星はたいてい太陽に近く、熱いからである。Eタイプ惑星の大気は薄く、ふつう酸素と窒素をふくみ、まま塩素が混じるが、これがあると人間は住めない。 「塩素は?」とバイロンがきいた。「大気はどの程度くわしく調べたんですか?」  リゼットは肩をすくめ、「空間の外から調べるんですから、大気圏のいちばん上っ面《つら》を判断できるだけです。塩素があるとすれば、地表に集中しているでしょうね。あとでわかるでしょう」  リゼットはいきなりバイロンの大きな肩に手をかけた。「どうです、あんたの部屋で、ささやかなドリンクに招《よ》んでくれませんか、にいさん?」  ギルブレットは落ち着かない眼つきで二人の後ろ姿を追った。自治領主《アウタルク》はアーテミジアに言い寄っている、その右腕というべき男はバイロンの飲み友達になりかかっている。「リモースレス」号はむしろリンゲーンの宇宙船のようになりつつある。こういう状況のなかで、いったいバイロンは自分が何をしているのか、冷静に身を処していることができるだろうか、とギルブレットは心配になった。だがわずらってもしかたがない。老人はそれから新しい惑星のほうへ思考を切りかえ、あとのことはなるようになれ! と思った。  宇宙船が惑星大気に突入したころ、アーテミジアは操縦室にいた。彼女の顔にはかすかな微笑すら浮かんでいる。彼女はごく満足らしいように見えた。バイロンはときどき彼女のほうへ視線をやった。彼女が操縦室へはいってきたとき(ほとんどここへはいってきたことはないので、バイロンはびっくりしたのだ)、彼は「こんにちは、アーテミジア」と呼びかけたのだが、彼女は返事すらしなかったのだ。  彼女の言ったのは別のことだった。「ギルおじさま!」といやにはればれした声で呼びかけた。「わたしたち着陸するって、ほんとですの?」  するとギルブレットが手をもみながら言ったものだ。「らしいぞ、おまえ。もう二、三時間で、船を出て堅い大地が踏めるかもしれない。なんとおもしろい、愉快なことじゃないかね、え?」 「めざす惑星だといいけど。そうでなかったら、ちっともおもしろくないわ」 「もうひとつ別の恒星もあるんだよ」ギルは自分自身をなだめるように言ったが、言いながら、額に縦皺がより、ぴくぴくと険しく痙攣《けいれん》した。  そのときアーテミジアがバイロンに振り向いたのだった。そして冷淡に、「話しかけました? ミスター・ファリル?」  バイロンはこのときも不意をつかれて、「いいや! べつに」と言ってしまったのだ。 「じゃ、ごめんなさい。何かおっしゃったかと思ったものですから」  彼女は彼のそばを通りすぎた。あまりに近く、ドレスの裾《すそ》のプラスチックのフレアが彼の膝にこすりつき、香水のにおいが一瞬彼を押し包んだ。彼は顎《あご》の筋肉が痙攣するのを感じた。  まだリゼットがいっしょだった。トレーラーの利点のひとつは、訪問者を泊めることができることである。そのリゼットが言うのだ。「あちらで今、大気の詳細をしらべています。酸素が多いですね、ほとんど三十パーセントです。それから、窒素とその他の不活性ガスです。ずいぶん正常な大気です。塩素はありませんでしたよ」それからちょっと口をつぐみ、やがて「うむ」とうなった。 「どうしました?」とギルブレット。 「炭酸ガスがありません。これはあまりいいことじゃありません」 「どうしていけないんですの?」アーテミジアが観視《ヴィジ》プレートのそばといういい位置からきいた。彼女は時速二千マイルのわりで、遠い惑星表面がぼーッと流れながら映っていくのをながめていたのである。 「炭酸ガスがなければ――植物が生えていない」バイロンが無愛想に言った。 「そう?」彼女がバイロンを見た。そしてあたたかい表情で微笑した。  バイロンは、その意志とは逆に、笑い返してしまった。すると、どういう不思議な現象か、彼女は、その容貌にほとんど気づくような変化は起こさないのに、彼の肉体を素通りして笑い、その微笑は彼をつきぬけ、まるで彼の存在を意識せずに通りすぎたかのようであった。彼は白痴のような微笑を顔に固定したまま、取り残された感じだった。彼は自分の微笑が消えるままに委せた。  結局彼女を避けたほうがよいらしい。彼女といっしょにいるときは、いっしょにいることについていけない。実際に彼女の姿を見ることができるときは、意志の力で|もうろう《ヽヽヽヽ》としたものを抑えようとするのだが、意志の麻酔力はうまくきかない。結局、彼女の存在そのものが、彼をいためつけ始めた。  ギルブレットは憂鬱に物思いにふけってばかりいた。宇宙船はいま惑星表面を巡航しつつあった。濃い下層大気のなかでは、トレーラーという空気力学上の厄介な添加物をつけた「リモースレス」号は操縦が困難であった。バイロンは執拗《しつよう》に、動揺《バッキング》コントロール装置と格闘した。  バイロンが叫んだ。「元気だしなさい、ギル!」  といって彼自身、はればれしい気持だったわけではなかった。無線シグナルは、いくら打っても返事はまだもどってこなかった。もしこれが「反抗世界」でないとすれば、こうしていつまでも待っていることは意味がない。彼の行動計画はすでに決定しているのだ!  ギルが言った。「反抗世界じゃないみたいだな。岩ばかりで、死んだ地表だ。水もあまりないようだ」それからリゼットのほうを向いて、「あっちで、もう一度炭酸ガスを調べたのかね?」  リゼットの赤ら顔が長くのびた。「そうです。ほんのわずか検出されました。一パーセントの千分の一かそこらです。絶望的ですね」 「いや、わからんですよ」とバイロン。「こんなに絶望的な惑星に見えれば、かえって彼らはこうしたところを選ぶかもしれませんよ」 「でも、わしはあのとき農場を見たんだよ」ギルブレットが言った。 「いいですか、ギル。こんなちっぽけな惑星、二回や三回巡航してみたって、何が見えると思うんですか? あんたは百も承知なんじゃないですか、ギル――彼らが何ものであろうとも、ひとつの惑星を埋めるほどの大人口を持っているわけがない。彼らは、どこか谷間を選んで生活しているのかもしれんですよ。谷間だったら空気中の炭酸ガスがたくさんたまった、たとえば火山活動かなんかの作用でね、そういう場所があるかもしれない。それに近くに水のたくさんあるところ。地表から二十マイル以内を飛んでも、ほとんど何もわからんですよ。それにもちろん、彼らは用心して無線呼出しに応答しないのかもしれない、よほど調査して大丈夫だと見きわめをつけないうちはネ」 「でも、君の言うようにかんたんには炭酸ガスの集中地域はつくれんよ」ギルブレットがぶつぶつと言った。だがそう言いながらも、老人は熱心に観視《ヴィジ》プレートに見入っている。  とつぜん――バイロンはこの惑星が『違う世界』であってくれればよいと願った。彼はもう、これ以上待てないと心に決めた。あれの片《ヽ》をつけなければならない。|今だ《ヽヽ》!  妙な感じだった。  人工照明はスイッチが切られ、舷窓には太陽光線が誰はばかることもなく侵入してきていた。ほんとうは、船内照明として、太陽光線を入れることは、むしろ不能率な方法であった。それにもかかわらず、これは望ましい趣向の転換と思われた。舷窓はすべて、事実上開放された。なまの惑星大気が呼吸できた。  リゼットは、炭酸ガスの欠乏で身体の呼吸系統が狂うという理由で、舷窓をあけることに反対した。しかしバイロンは、短時間ならば人体にも耐えられるだろうと、押して開放したのである。  ギルブレットも二人といっしょだった。三人は額をよせあって窓から外を見ていた。そしていっせいに顔をあげ、互いに相手から離れた。  ギルブレットが笑った。それから、そこのあけ放された窓から外を見、ため息とともに、「岩ころだけだ!」とうなった。  バイロンがおだやかに、「ぼくたち、これから高い丘の頂上に無線送信器を据えつけるんですよ。そうすればもっと有効範囲がひろくなります。いずれにしろ、この半球全部と接触ができなければダメです。もしそれでも応答がなければ、反対側をやってみます」 「君とリゼットが相談していたのはそのことかい?」 「そうですよ。自治領主《アウタルク》とぼくでその仕事はします。これは彼の口から出たことでしたが、そのほうが幸運だったんです。だって、彼から話がでなければ、結局ぼくが同じ示唆をしなければならなくなったでしょうから」彼はしゃべりながら、ちらとリゼットのほうをうかがった。リゼットは無表情である。  バイロンは立ちあがった。「結局、ぼくの服装は、宇宙服の内側コートを取りはずして、それを着るのがいちばんよさそうだ」  リゼットがそれに賛成した。  惑星地表には陽《ひ》がさんさんと降りそそいでいた。だが空中に水蒸気はごく少なく、空にはまったく雲がなかった。そして思わず足が早くなるほど寒冷であった。  自治領主《アウタルク》は「リモースレス」号の主気閘《メイン・ロック》のなかにいた。彼の着ている、宇宙服の内側からはずしたオーバーコートは、ごく薄いフォーマイトからできており、目方はわずか一オンスの何分の一しかないが、それでいてほとんど完全に近い絶縁能力があった。胸のところに小さな円筒を結びつけている。炭酸ガス・シリンダーである。調整によって絶えずゆっくりと炭酸ガスが噴出し彼の肉体のごく近傍に微量の炭酸ガス蒸気の雰囲気をたもたせておく。 「ぼくの身体検査をするかい、ファリル?」自治領主《アウタルク》が両手をあげ、待った。やつれた顔がしずかに微笑して相手の反応を待っている。 「いいえ」バイロンが言った。「ぼくをチェックしますか? 武器携行を?」 「そんなことは考えていないよ」  挨拶《やりとり》はここの天候のように冷たかった。  バイロンが硬質の陽光のもとへ踏みだした。無線装置をいれてあるスーツケースの一方のハンドルを握っていた。自治領主《アウタルク》が他方のハンドルを引っぱった。 「大して重くない」バイロンが言った。  振りむくと、アーテミジアが無言で宇宙船の内側すぐのところに立って見送っていた。  すべすべした無地の、まっ白のドレスを着ていた。腰から下がきれいに襞《ひだ》がついて優美に垂れ、風になびいている。半透明のスリーヴが風にはためいてまくれ、白い腕が銀色に光って見えた。  一瞬、バイロンは危険なまでに心身が融けかかるのを感じた。急いでもどり、宇宙船へとびこみ、彼女をつかみ、あのやわらかい肩へ痣《あざ》ができるほどに指をかけ、そして唇が彼女のそれに会う甘美な――そんな衝動をおぼえた。  だが彼はぐっと自分をひきしめ、かすかにうなずいただけであった。アーテミジアが微笑を返した。だが、かるく指をふったそのしぐさは自治領主《アウタルク》に対してだった。  五分間して、彼はもう一度振り返った。開いたドアに、まだ陽《ひ》にきらめく白いドレスの姿があった。やがて地面の高みが視界をせばめていき、宇宙船はまったく見えなくなった。見渡すかぎり地平線上には何もなかった。ただ砕けた露岩だけの地面が果てしなく、今は続いていた。  バイロンは前途に待ちもうけている運命を思い描いてみた。ふたたびアーテミジアを見ることがあるだろうか? いや、たとえ彼が二度と立ちもどらないとしても、彼女にはなお乙女心を痛ますやさしさが残っているだろうか? [#改ページ]   十八 敗北の桎梏《しっこく》からのがれて!  アーテミジアは、小さな二つの姿が、花崗岩《グラニット》の露岩をとぼとぼとすすみ、やがて小丘のむこうへ吸いこまれるようにして見えなくなるまで、その後ろを見つめていた。ちょっとの間、二人の姿が見えなくなる直前、一人が振り返ってこっちを見た。彼女には、バイロンだか自治領主《アウタルク》だかわからなかった。だが、一瞬、彼女は心臓のしめつけられるのを感じた。  |あのひと《ヽヽヽヽ》は別れぎわにひと言も言わなかった。ほんとうにひと言も。彼女は陽射《ひざ》しと岩石の風景から離れ、宇宙船の閉ざされた金属製の内部へともどった。ひとりきりになった気がした。ひどく、死ぬほど孤独を感じた。生まれて以来、これほどの孤独感におそわれたことはなかった。  彼女が身震いしたのはたぶんそのためだったろう。だがそれよりも、それが単に寒さのためではないことを告白した心の弱さ――のろわしいまでの弱さをむきだしにした自分への腹立たしさであったかもしれない。  彼女はいらだった声で呼びかけた。「ギルおじさま! どうして窓をみんなしめないのよ? 凍ごえ死んでしまうじゃないの!」船内ヒーターが最高度に放熱していたから、寒暖計ダイヤルは摂氏五度を示していたのだったが。 「アータかい?」ギルブレットがやさしく言った。「身体のあちこちへ小霧《さぎり》をふりかけているだけみたいな薄着だからだよ。そんなにバカバカしい悪習慣をやめなかったら、寒いのはあたりまえさ」そう言いながらも、二、三の接触《コンタクト》は閉じた。かすかな音がして、エアロックのドアはしまり、舷窓は内側へすべって枠にはまり、内壁とぴったりと一致してスムーズなきらきらする均一表面を呈した。それと同時に舷窓をなしている厚ガラスが偏光して不透明となった。照明《ライト》がつき、影が消えた。  アーテミジアはふかぶかと詰物をした操縦士の座席《シート》に腰をおろし、所在なさに腕木をさすった。彼がよく両手をここに掛けて休ませていたわ。そう思うと(彼女はひとり言をいったのだった)、何か身体のなかまで温《ぬく》みが伝わってくるような気がした。だが事実は、外気が絶たれたので、ヒーターの熱がじっくりと身体の芯《しん》をあたためてきたのにすぎなかった。  長い時間がたっていった。ただじっとすわっているのに耐えられなくなってきた。彼といっしょに行くべきじゃなかったかしら? だが、それが心をかすめた瞬間、彼女はただちにそんな反抗的な考えをすて、「彼」を「彼ら」と複数に訂正した。 「どうしてあの人たち、無線送信器など据えつけに行かなくてはならなかったの、ギルおじさま?」  ギルは、その制御装置をこまかく調整していた観視《ヴィジ》プレートから眼をあげ、「え?」と言った。 「わたしたち、宇宙空間から彼らとの連絡をやってみていたんでしょ? ところが誰とも交信できなかったというんでしょ? それなのに、惑星表面に送信器を据えつけるなんて、いったいどんな利益があるの?」  ギルブレットが困った顔をした。「だっておまえ、どこまでも彼らとの連絡をつづけてみなくちゃならんじゃないか。わしたちは反抗世界を見つけださなくてはならんのだ」それから、歯を食いしばるようにして、「ぜひとも捜しださねばならん!」とひとり言のようにつけ加えた。  しばらくたって、「彼らが見つからん」 「彼らって?」 「バイロンと自治領主《アウタルク》だよ。いくら外側対物鏡を調節しても、丘がさえぎって、ダメだ。ほら、な?」  彼女にも観視《ヴィジ》プレートに何も見えない。ただ、照りかがやいた岩肌《いわはだ》がさッさッと走っていくだけである。  ギルブレットは小さな器械をあちこちへ向けていたが、やがて固定させた。「うん、見えた。でも、どうせ、あれは自治領主《アウタルク》の宇宙船なんだから」  アーテミジアは、観視《ヴィジ》プレートに映りでている宇宙船へちらと眼をくれただけであった。宇宙船は、一マイルばかり先の谷間のそこに横たわっている。太陽の反射で、見ていられないほどまぶしい。一瞬、彼女にとって、これこそほんとうの敵であるように見えた。そんなはずではないのだ、ティラン人の宇宙船ではないのだから。とつぜん彼女は、みんなが――三人が――リンゲーンなどへ行かなければよかったのだ、と思った。宇宙空間にいつまでもいたらよかったのだ、と思った。それが強烈に鋭く、彼女の意識につき刺さった。耐えがたいまでに不快な、だがそれでいて心に暖かい、何という妙な日々が続いたものであろうか。そしていま、彼女はどうしてもあのひとの心を傷つけるようにばかりふるまってしまう。何かが、いやおうなしに、わたしを駆りたて、あのひとにつらく当たらせてしまう、わたしがこれほどあのひとを……。 「あの男、いったい何をするつもりなんだろう?」とつぜんギルブレットが言った。  アーテミジアは老人へ眼をあげた。涙で視線がかすみ、老人の顔が見えなかった。彼女はあわてて瞬《まばた》きし、眼の焦点をあわせなければならなかった。「あの男って?」 「リゼットだよ。あの宇宙船から出てきたが、あれはリゼットじゃないかと思う。でも、まさかこっちへ来るんじゃないだろうナ」  アーテミジアは観視《ヴィジ》プレートのそばである。「もっと大きくしてちょうだい」命令するように言った。 「こんな近距離でかい?」ギルブレットが文句を言った。「大きくなんかしたら何も見えやしないよ。まん中にとらえておくことができないんだ」 「大きく、ギルおじさま!」  老人はぶつぶつこぼしなから、望遠アタッチメントを取りつけ、焦点をこれぞと思うところへ合わせようとした。ごちゃごちゃした小さな岩の砕片が、ふくれあがって見えただけである。コントロールへちょっと手をふれただけでも、岩塊《いわころ》は眼にもとまらぬ早さでプレートのなかを飛んだ。そのとき瞬間的にリゼットが映った。大きな、影のような姿がちらと画面をかすめた。それだけであったが、リゼットであることはまぎれようがなかった。ギルブレットはあわてて走査をもとへもどし、ふたたびリゼットをつかまえた。映像はごく短時間スクリーンにとどまっていた。アーテミジアが言った。「あの人、武器を持っているわ。見えた?」 「見えなかったよ」 「長距離用の熱線ライフルだったわ。ほんとよ!」  彼女は立ちあがり、急いでロッカーへ行きかけた。 「アータ! 何をするつもりだ!」  彼女は、ロッカーにかかっていた別の宇宙服をひっぱりおろし、あちこちとジッパーをはずしている。宇宙服から内側コートを取りはずすのである。「わたし、あそこへ行くわ。リゼットは二人を尾《つ》けていったのよ。まだわからないの、あなた? 自治領主《アウタルク》が無線器を据えつけに出たんでしょ? あれはバイロンをおとしいれるための罠だわ」宇宙服へ袖をとおしながら、彼女ははあはあ息をついた。 「よさんか! おまえは、とんでもないことを想像している!」  だが彼女は蒼白となり、眉をつりあげ、ギルブレットを、見るというのではなく、うつろに凝視した。もっと早く気づくべきだった、リゼットがあのおバカさんを手なずけているのを! なんという、感情にもろい、おバカさんだろう、あのひとは! リゼットがあのひとの父親を賞めちぎった、ウィデモスの牧畜領主《ランチャー》はなんという偉い人だったろうと持ちあげた。それであのひとはころりと参ったのだわ。あのひとの行動はすべて、父親に対する感情に支配されているのだわ。まあ、大の男が、そんなひとつことばっかりに憑《つ》かれて眼がくらむなんて! 「わたし、エアロックのコントロールがわからないわ。あけて!」 「アータ、船を出るなんてことはいけないよ。彼らがどこにいるかさえわからないじゃないか」 「捜すわ。エアロック、あけてちょうだい!」  ギルブレットは首をふった。  だが、彼女がいま、その内張りをはずしたばかりの宇宙服には、ホルスターがついていた。「ギルおじさま、わたしこれを使うわ。誓ってもいいわ、使うということ!」  あっと思う間もあらず、ギルブレットは差しだされた神経鞭の凶暴な筒先を見つめている自分を、どうすることもできなかった。老人はかたい微笑をつくった。「よさんか、今そんなことをするの!」 「エアロックをあけなさい!」娘はあえぐように言った。  ギルブレットがエアロックをあけると、彼女は走って風の吹きすさぶ戸外へ出た。すべりながら荒涼とした岩原を横断し、小丘へ登った。両耳にかっかと血の鼓動がした。わたしとしたことが、あのひとと同じじゃないか! ただ自分の愚かな自尊心だけのために、あの人の前へ自治領主《アウタルク》をひらめかせて、なぶり、いどんだ! いまにして、それがあまりに幼稚な反抗であることが思い知らされた。と同時に、彼女の心のなかに、自治領主《アウタルク》の性格が鮮明に浮きだされてきた。冷血無残なまでに、没趣味なまでにひややかな男! 彼女はぞっと嫌悪《けんお》に身震いがきた。  寒々とした小丘の上に立ってながめた。眼前には何もなかった。彼女はゆっくりと降りて進んだ。神経鞭を前方にかざしながら……。  バイロンと自治領主《アウタルク》とは、歩いている間もひと言も交わさなかった。丘をくだり、地面が平坦になった。彼らはそこで立ちどまった。岩が幾千年もの太陽と風の作用をうけて大きくひび割れていたのだ。二人の眼前にあるのは太古の断層であった。数ヤード先の唇状部《しんじょうぶ》がくずれて下へ落ち、百フィートからの切り立った断崖になっていた。  バイロンはこわごわと縁へ近づき、下をのぞいてみた。絶壁の裾はやや斜面をなして広がっていた。谷底は、ぎざぎざの石ころが、すきまもなく地面を埋め、それが眼のとどくかぎり続いていた。石ころは、長い年月をかけ、またたまにしか降らない雨によって、こんなに遠くまでまきちらされたものらしい。 「絶望の世界みたいですね、ジョンティ」バイロンが言った。  自治領主《アウタルク》は、バイロンのように地形や環境の好奇心はまるでしめさなかった。また崖の縁へも近づかなかった。「ここは、着陸前にみつけておいたところだ。ぼくらの目的には理想的な場所だよ」  きさまの目的には理想的だろうな、すくなくとも――とバイロンは思った。崖っぷちから遠のき、腰をおろした。自分の炭酸ガス・シリンダーの、しゅッしゅッというかすかな音に耳をすまし、しばらく待った。  それから、できるだけしずかな調子できいた。「あんたの宇宙船へもどったら、みんなに何と言うつもりなんですか、ジョンティ? それとも、ぼくが当てましょうか?」  自治領主《アウタルク》は、二人で運んできたスーツケースをあけかかっていたが、ちょっと手をとめ、背すじをのばしてから言った。「いったい、何の話をしているのかね?」  バイロンは寒風で顔面が凍えしびれるのを覚え、手袋のまま鼻をこすった。それでいて、身体を包んでいるフォーマイト製オーバーコートのボタンをはずした。前が突風をうけてぱたぱたとはためいた。 「ここへ来た目的のことですよ」 「そんな議論をしているより、早く無線器を据えつけたいね。時間のムダだよ、ファリル」 「あんたは無線器を据えつけるつもりじゃないんだ。そんな必要がどこにあるんです。ぼくたちは、上空から彼らに接触しようと努めたんだ。ところが応答がなかった。とすれば、地表で無線器一台据えつけたって、応答を期待するほうがどうかしている。応答のないのは、上層大気の、ラジオ波不透過のイオン層のためでもないんだ。だってぼくたちは、サブ・エーテル通信もやってみて、それでもぜんぜん反応がないんだから。それに、あんたもぼくも、特に無線にくわしいというわけでもない。だったら、ジョンティ、いったいあんたは何をしにここへ来たんです?」  自治領主《アウタルク》はバイロンの真向いに腰をおろした。そして、ものうそうにスーツケースをたたきながら、「そんな妙なことを疑うのだったら、君はなぜここへ来たのだ?」 「真実を発見するためです。あんたの部下のリゼットがぼくに、あんたが無線器を据えつけにここへ出てくることを考えていると言った。そして、ぼくに、いっしょに行きなさいと助言した。ところがぼくは、そこにカラクリがあると思う。あんたは、ぼくに、ぼくの知らないような応答メッセージは何も受けなかったと信じこませるために、ぼくにいっしょに来るようにリゼットに言い含めたんだ。だがぼくはわざとその話に乗ったふりをして、あんたといっしょにここへ来たんです」 「真実を発見するために、かい?」ジョンティがあざ笑うようにきいた。 「そのとおり。ぼくにはもう真実《ヽヽ》が見抜けた」 「じゃ、言ってみたまえ。ぼくにも真実を発見させてくれないか?」 「あんたはぼくを殺しにきたんだ。ぼくはあんたと来た、たったひとりでだ。この断崖から突き落とせば、絶対に死ぬ。暴行の証拠は残らない。熱線銃で吹きとばされた足なんてものはない。武器を使ったなどと誰も思わない。あんたの宇宙船へ、まことにみごとな、悲しい物語を持っていける。ぼくが足をすべらして転落したんだと……。死体収容の一隊をつれてきて、バラバラになったぼくの死体をかきあつめ、丁重に埋葬すればことがすむ。ずいぶん悲しい、心を揺すぶるような弔辞をつけてですよ、それでじゃま者のぼくはオーライだ」 「そんな話を信じていて、しかも来たのか?」 「そうですよ。だからあんたから不意討ちを食うことはないんだ。あんたもぼくも武器は持っていない。あんたひとりで、腕ずくだけでぼくを突き落とせるか? それはできんと思う!」一瞬、バイロンの鼻腔がふくれた。右肘をゆっくりと、腕が鳴ってたまらないというふうに、なかばまで曲げてみせた。  だがジョンティはからからと笑っただけである。「よし、もう君を殺すことが不可能になったのだから、無線送信器の据えつけに専心しようよ」 「まだです。まだ終わっていない。ぼくはあんたに、ぼくを殺そうとしていたと白状させなければ気がすまないんだ!」 「ほう? 君が書いたこの即興劇で、ぼくがはまり役をうけもっているとまだ言い張るのだな? どういう方法でぼくにはまり役をやらせようというのだ? ぼくをなぐって白状させようというのか? いいか、ファリル、よく聞きたまえ――君は若い。若いからというのでぼくは遠慮していた。君の名前、階級を利用しようと思ったから遠慮していた。だが今はっきりとこれだけは言わねばならない、君はこれまで、ぼくにとって助けであったよりは厄介者であったと」 「そう、あんたには厄介者だったろう。あんたの意図に反して生きのびることによって!」 「君がローディアでうけた危険のことを言っているのだったら、ぼくはもうそれは説明した。ぼくは二度と繰り返さないよ」  バイロンは立ちあがった。「あんたの説明は正確じゃなかった。はじめっから見えすいた欠陥があった」 「ほんとにかい?」 「ほんとだ! 起《た》て、ジョンティ。そしてよく聞け! 起たないと引きずって起たせるぞ?」  自治領主《アウタルク》が立ちあがった。眼がスリットのように細くなった。「暴力を使えとはすすめないよ、若僧」 「よく聞くんだ!」バイロンは大声をはりあげた。風でオーバーコートがふくらんだ。だがかまってはいなかった。「あんたは言ったな、総督を反ティラン陰謀にまきこむだけのために、ぼくを殺されるかもしれないと承知でローディアへ送りこんだのだと」 「それは今でも真実だ」 「あれはウソッぱちだったんだ。あんたの目的はぼくを殺させることだった。あんたはローディア宇宙船の船長に、はじめっからぼくの身元を打ち明けておいた。ぼくがヒンリックに謁見がかなえられるなどと、あんたにはそんなことが信じられる根拠はまったくなかたのだ」 「ファリル、もしぼくが君を殺したいのだったら、あの晩君の部屋に、ほんものの放射能爆弾をしかけておいただろうよ」 「それよりも、ティラン人にぼくを殺させるほうが、あんたにはずっと好都合だったんだ」 「宇宙空間で君を殺せば殺せたろうさ。ぼくが最初に『リモースレス』号に乗り移ったときに」 「そうだった。だからあんたは熱線銃を身につけていた。そして一度はぼくにそれを突きつけた。あんたはぼくが『リモースレス』号にいると思っていた。しかし、それをあんたの乗組員には教えておかなかった。リゼットがあんたを呼びだし、映像スクリーンでぼくを見たとき、もうあんたは熱線銃でぼくを殺す機会を失ったのだ。あんたはあのときミステークを犯した。あんたはぼくに、あんたが部下にたぶんぼくが乗っているだろうと教えてある、と言った。ところがそれからしばらくあとでリゼットがぼくに、あんたがそんなことは言わなかったと教えた。あんたは部下のものに、ウソを言ったらどんなウソを言ったか、ちゃんと教えこんでいないのか、ジョンティ?」  ジョンティの顔は寒気で白くなっていた。だが、いまの一言で、その顔はさらに蒼白になったように見えた。「うむ、ぼくをウソつきだとなじったいま、できればすぐ君を殺すべきだろう。しかし、リゼットが観視《ヴィジ》プレートへ顔をだし、君を見る以前、ぼくが引金を引くのを差しとめたものがあるのだ、それが何だと思う?」 「政治だ、ジョンティ。アーテミジア・オス・ヒンリアッドがいっしょに乗船している。しかもしばらくは彼女の方がぼくよりも大切な人質だった。あのときあんたは計画を変えた。その頭の切り換えのすばやさはぼくも感心する。彼女の眼前でぼくを殺したら、より大きなゲームがくずれてしまうからだ」 「というと、ぼくが急にあの娘《こ》にほれたから、とでもいうのかね?」 「ほれたんだ! その娘がヒンリアッドの一族だと聞けば、ほれるに不足があろうか? あんたはすかさず機会をとらえた。まず彼女をあんたの船へ移そうとした。それが失敗とわかると、ヒンリックがぼくの父を裏切ったんだと、わざわざぼくに教えた」ちょっと口をつぐみ、また続けた。「それでぼくは彼女を失った。そしてあんたに彼女を譲った。無条件に譲ったのだ。さあ、それでもう彼女は問題でなくなった、そうぼくは思う。彼女はもう危なげなくあんたの側についている。だからあんたは、安心してぼくを殺す計画をすすめることができる。ぼくを殺したために、ヒンリアッド家の継承権をうけつぐチャンスを失う心配はなく、計画をすすめることができる……」  ジョンティはため息をついた。「ファリル、ここは寒い。ますます寒くなってくる。太陽が傾きはじめたのだと思う。君はお話にならないほど愚かで、ぼくをうんざりさせる。ぼくたちがこのナンセンスのごたまぜを終わる前にひとつ頼みがある。なぜぼくが君を殺そうなどと多少でも思わなければならないか、それを教えてくれないかね? それも、君のその、もう疑う余地のない偏執病が、理由などを必要とするならばだが……」 「理由は、あんたがぼくの父を殺そうとした理由と同じだ」 「何だと?」 「あんたがヒンリックが父を裏切ったなどと言ったって、ぼくがすこしでも信じると思うのか? もしもヒンリックがあれほど弱虫でなかったら、あるいはぼくもあんたの言うことを信じたかもしれない。ヒンリックの、救い難いほどの弱虫であるという評判があれほど高く、あれほど確実なものでないならば、あるいはぼくも、もしかするとヒンリックが父を裏切ったかもしれないと思ったかもしれない。ところがそうじゃない。ヒンリックはまったくの|ろくでなし《ヽヽヽヽヽ》だ。あんたは、ぼくの父を明きめくらだとでも思っているのか? 父がヒンリックを、みじめな弱虫などではないと錯覚するほど頭が狂っていたとでも思うのか? たとえ父がヒンリックの評判など聞いていなくとも、五分間もヒンリックに会っていれば、相手が救い難い傀儡《かいらい》だということが見抜けないと、あんたは思っているのか? ぼくの父が、自分に対する反逆罪告発の証拠となるようなことを、愚かにもヒンリックにもらすなどということがありえようか? ダメだよ、ジョンティ、隠しても! ぼくの父を裏切った男は、父が信用したある男であるに違いないのだ」  ジョンティは一歩さがり、スーツケースをわきへ蹴った。はげしい告発に耐えるかのように背筋をのばして立ち、ようやく口を開いた。「君のあきれはてた下司《げす》のかんぐりはわかった。ぼくに言えることはただひとつだ――君が言語道断の狂人だということだ」  バイロンは胴震いをしていた。だが寒さのためではなかった。「父は人民に好かれていたのだ。それも尋常の好かれかたではなかったのだ、ジョンティ。あんたは――自治領主《アウタルク》であるあんたは――統治という仕事では競争者の存在をゆるすことができないのだ。だからあんたは、彼が競争者とならないようにしなければならなかった。そしてつぎの仕事は、ぼくが父のあとを継ぐことができないように、あるいは父の復讐をくわだてることができないようにすることだった」バイロンの声は叫びになった。寒風に声が割れ、飛び散った。「これが真実ではないというのか?」 「ないね」  ジョンティはスーツケースへかがみこみ、「ぼくは君が間違っていることを証明できる!」と叫びながら、スーツケースをあけた。「無線器だ。しらべてごらん。よく見たまえ」いろいろの部品をバイロンの足もとへ投げた。  バイロンはそれらを見つめた。「こんなもの、いったい何を証明するというんだ?」  ジョンティは立ちあがった。「証明はせん。だがもう一度、よく見てみろ!」  ジョンティは熱線銃を握っていた。つよく握りしめ、指関節が血をひいて白くなっている。もうその声からはいつもの冷静さは去っていた。「もう君にはうんざりした。これ以上はごめんこうむる!」 「器械といっしょに、スーツケースに熱線銃をかくしていたんだな?」抑揚《よくよう》のない声が流れでた。 「隠していないと思ったというのか? 君は正直に、崖から投げ落とされることを期待して、ぼくについてきた。ぼくが、荷役人夫のように、もしくは石炭掘りのように、この手でするとでも思ったのか? ぼくはリンゲーンの自治領主《アウタルク》なんだよ」――頭をかしげ、顎でしゃくった。左手を前へ出し石炭を掘るようなしぐさをした。――「そのぼくは、ウィデモスの牧畜領主《ランチャー》父子《おやこ》の御題目と空疎な理想主義は聞き飽きたのだ」それから低声《こごえ》で促した。「動きたまえ。崖のほうへだ」そして自分も一歩踏みだした。  バイロンは眼を熱線銃へ釘づけにして、両手をあげ、退いていった。「じゃやっぱり、きさまが父を殺したんだな?」 「君の父親を殺したのはおれだ!」自治領主《アウタルク》が叫んだ。「いいか、教えてやる――君の生命《いのち》の、絶たれようとする最後のきわに、教えてやろう。君の父親が分解密室〔物体そのものを原子に分解してしまう処刑室〕で木っ端|微塵《みじん》に粉砕されるよう命令したその同じ男が、息子にいま父親のあとを追わせるようにしてやるということを。そしてその男が、ヒンリアッドの娘を自分のものにし、娘の受け継ぐあらゆる財産と権利を自分のものにしようとしていることを。考えてみろ、そのことを! あと一分間おマケをやる、とくとそれを考えてみるんだ! だがその手はじっと上へあげていろよ、でないとこの熱線銃の引金をしぼる。おれの部下が君の死因について何をとがめようと、そんなことを気にするおれと思うか?」まるで冷酷な仮面が割れてはがれ落ち、あとにはもう煮えたぎる激情しか残していないかのようなすさまじさであった。 「きさまは前にもぼくを殺そうとした」 「そうだ。君の推測はすみからすみまで当たっていた。当たっていたとて、それがこの期《ご》に及んで何の助けになる? さあ、さがれ!」 「さがらん!」バイロンはつぶやいて手をおろした。「射つなら射ってみろ!」 「射てないと見くびったな?」 「射てといってるんだ!」 「よし、射ってやるとも」自治領主《アウタルク》はバイロンの頭部にねらいをさだめ、四フィートの射程から熱線銃の接触《コンタクト》を閉じた。 [#改ページ]   十九 またも敗北のまっただなかへ!  テドゥア・リゼットは小さな卓状台地の裾《すそ》を用心しながら回った。まだ進んで姿を暴露しようとはしていない。だがこの裸の岩ばかりの世界では、いつまでも隠れていることは不可能であった。ごちゃごちゃと、大きな水晶に似た岩石が天を向いてころがっている一角へたどりついた。ここなら安全だと思われた。岩石の間を慎重に縫って進む。ときどき立ちどまってはスポンジ手袋の、やわらかい甲で顔をなでた。乾燥しきった寒さは気を狂わすほど苛烈である。  V字をなして開いている二つの山のような花崗岩のあいだから、やっと彼らの姿が見えた。V字型の底へ、熱線銃をそっと横たえた。太陽はいま彼の背を照らしている。その弱い温《ぬく》みが身体じゅうに浸みてきた。彼は満足そうにうなずいた。たとえ彼らがこちらをむいても、太陽がまぶしくて、彼の姿は見えないだろう。  二人の声が鋭く彼のところまで聞こえてくる。無線通信は効いているのだ。彼は成功にほくそえんだ。ここまでは計画どおりだ。もちろん、彼がここへ来ていることは計画どおりではない。だがこのほうが計画を上回る上首尾なのだ。計画は成功疑いなしと大きな太鼓判を押されすぎた。しかし犠牲者はどうしてひと筋縄ではいかないのだ。まだまだ彼のこの熱線銃が、いざというときにはものを言う。  彼は待った。そしてじっと、自治領主《アウタルク》が熱線銃を持ちあげるのをにらんでいた。バイロンはそこに突ったったままだ。臆せず、威丈高《いたけだか》に立ちはだかっている。  アーテミジアは熱線銃が構えられるのを見なかった。それどころか、平たい岩場の上に立つ二人の姿すら見ていなかった。ついいましがた――五分ばかり前、彼女はリゼットの姿が一瞬間太陽をバックに影絵となって浮きだしたのをとらえたのだ。それ以来彼女はリゼットを尾《つ》けてきたのである。  だが彼女には、どうしてもリゼットの足が早すぎた。眼の前がぼけ、ぐらぐらと揺れうごき、彼女がはっと気づいたときは地上に倒れていた。いつ倒れたか記憶がなかった。二度そんなことがあった。二度目には、よろめきながら起きあがると、手首から血が流れだしていた。鋭い岩角にすりむいたのだった。  リゼットはまたも彼女を引きはなした。彼女はよろめきながらあとを追わなければならなかった。きらきらと稜線を光らせている水晶の林のなかへリゼットの姿が消えると、彼女は絶望にひしがれ嗚咽《おえつ》していた。疲れきり、とある岩へ身をもたれさせた。美しい膚色の岩だった。ガラスのようにすべすべしたピンクの表面は太古の火山時代の遺物と思われたが、彼女にはそんなことを考えるゆとりはなかった。  彼女はただ全身に浸透している窒息するような息苦しさとたたかって意識をたもっているのが精いっぱいだった。  だがそのときリゼットの姿が見えたのである。V字型に割れた大きな岩のあいだにはさまったリゼットは、背をこちらに向けて、豆粒のように小さく見えた。堅い地面をあちらへ飛びこちらへ駆けながら、彼女は神経細胞鞭を前へかざしながら走った。リゼットは熱線ライフルの銃身へ頬をつけ、熱心にねらいをつけている。もう発射しそうである。  彼女は間に合いそうもない。  リゼットの注意をそらそうとした。「リゼット!」彼女は大声で呼んだ。「リゼット! 射たないで!」  ふたたび、まろびながら駆けた。強烈な太陽円盤すらがもうろうとかすんだ。だが意識だけはかろうじて持ちこたえていた。大地が彼女をのみそうに迫ってきた。その意識もまだあった。神経細胞鞭の接点《コンタクト》を指が押した。それもまだ意識がとらえた。たとえねらいが正確でも、射程がとどかない。だがねらいすらも定まりはしない――それもまた覚えていた……。  身体に腕を感じた。身体が持ちあげられる感覚があった。彼女は見ようとした。だが瞼《まぶた》が開こうとしない。 「バイロンなの?」かすかな、弱い声で言った。  答は粗暴な、数語のぼけた影としか彼女の耳にとらえられなかった。だがそれはバイロンの声ではなく、リゼットのそれであった。彼女はしゃべろうとした。そして突然その努力をすてた。くずれたのである!  いっさいが彼女にかき消されてしまったのである!  自治領主《アウタルク》は、ゆっくりと十数えるほどの長い時間、そこに身じろぎもせずに立っていた。バイロンもまた不動のまま彼に対峙《たいじ》していた。たったいま至近距離で発射された熱線銃の銃身を凝視していた。凝視しているうちに、銃身はゆっくりと垂れていった。 「きさまの熱線銃、撃発になっていなかったらしい、調べてみろ!」バイロンが言った。  自治領主《アウタルク》の血の気のひいた顔が、バイロンと自分の武器とへ、かわるがわるに向いた。すべてにけりがついていたはずなのに! 彼の五体を凝結させた驚愕《きょうがく》がとつぜんに破れた。彼は一挙に熱線銃をバラした。  エネルギー・カプセルがなくなっている。カプセルのあるべきところが、空洞になっている。自治領主《アウタルク》は怒りくるったように、うめきとも泣き声ともつかぬ叫びをもらし、無用の金属塊をわきへ投げすてた。熱線銃は太陽をバックに黒い斑点のようにくるくると舞い、岩にぶつかって、かすかな響きをあげた。 「男対男でいこう!」  バイロンがしずかに叫んだ。その声は奮いたつ筋肉のうなりのようにふるえていた。  自治領主《アウタルク》が一歩さがった。何も言わない。  バイロンはゆっくりと一歩踏みだした。 「きさまを殺す仕方はいろいろとある。だが、みんな用いてもまだ飽きたりない。もし熱線銃でやっつけるとしたら、きさまの生と死をわかつのはわずか百万分の一秒でしかない。死んでいくという意識すら覚えずに死んでしまうだろう。そんなのはおもしろくない。人間の筋肉をつかって、もっとゆっくりとやったほうが、ずっと満足感が多いと思う……」  股の筋肉がぴくぴくと痙攣した。だが五体をバネにした跳躍は永久に完了しなかった。かすかな声――かん高い、恐怖に充電された女の叫び声が彼を引きとめたからであった。 「リゼット! リゼット! 射たないで!」  あわやというところで、バイロンは身をひるがえして振りむき、百ヤードばかり先の大きな岩のかげにその動きをみた。金属に陽光がきらりと当たった。そのとき、なげうたれた人間の体重が彼の背後へ衝突し、バイロンは重圧に屈し、膝をついた。  自治領主《アウタルク》はまともにバイロンの背にのった。両膝で相手の腰をしめつけた。拳がさっとバイロンの首すじへ打ちおろされた。バイロンの息がもれた。ふォーッ! 口笛のようなうめきであった。  殺到する暗黒を払いのける意識の格闘があった。バイロンはっと一方へ身を投げた。自治領主《アウタルク》は馬乗りから、地面に降りたった。バイロンはあお向けに地面へ倒れていた。  自治領主《アウタルク》が再び飛びかかってきたとき、間髪の差で、バイロンは膝を折りまげ、足先で相手の衝突をうけることができた。自治領主《アウタルク》の身体がゴムまりのようにうしろへ飛んだ。そのときはもう二人は向かい合って立っていた。それぞれの頬を流汗が冷たく伝わっていた。  二人はゆっくりと対峙しながら一点を中心に旋回した。バイロンは炭酸ガス・シリンダーをわきへ投げすてた。自治領主《アウタルク》もシリンダーの負い帯をはずしながら、しばらく金網入りのホースでそれをぶら下げており、すきをみ、すばやく一歩踏みだし、シリンダーをバイロンへ向かって振った。バイロンは身体を落とした。二人は頭上に風を切るシリンダーのうなり声を聞いた。  バイロンは起きあがり、自治領主《アウタルク》がバランスをとるひまもあらばこそ、飛びかかっていった。一方の大きな手が自治領主の手首をむずと握り、他方が拳にかためられて相手の顔面に振りおろされた。バイロンは相手がくずれるのをながめながら、退いた。 「起きろ! 待ってやる、もう一度くらわしてやる。急ぐことはない!」  自治領主《アウタルク》は手袋をした手で顔をさわった。そして手袋についた鮮血をぎょっとなって見つめた。口がゆがんだ。手が蛇のように伸びた。取りおとした金属シリンダーをつかもうとした。伸びた手の上へ、バイロンの足がかかった。ぎゅーッと踏みつけた。痛さで自治領主は悲鳴をあげた。 「もうすぐ崖っぷちだぞ、ジョンティ。そっちのほうへ動いてはいかん。さあ、起《た》て! こんどは別の方向へきさまを投げとばしてくれる」だがそのときリゼットの叫びが鋭く鳴りひびいた。「待てッ!」  自治領主《アウタルク》が、膝をついたまま、金切り声でわめいた。「こいつを撃《う》て、リゼット! いますぐ撃て! まず腕をだ、それから足を。そしたら生きるも死ぬも放っておこう!」 「きさまの熱線銃から誰が装填を抜いたと思う、ジョンティ?」バイロンがしずかに言った。 「なに?」自治領主《アウタルク》がうつろな眼を見開いた。 「きさまの熱線銃へ近づいたのはぼくじゃないんだ、ジョンティ。誰が近づいたと思う? いまきさまに誰が熱線銃をむけていると思う、ジョンティ? ぼくにではないよ、|おまえ《ヽヽヽ》にだ、ジョンティ!」  自治領主《アウタルク》がリゼットへ振り向き、「裏切り者!」と歯ぎしりして叫んだ。 「わたくしじゃありませんよ」リゼットが低声《こごえ》で落ちついていった。「ウィデモスの誠実な牧畜領主《ランチャー》をだまして死に追いやった人こそ、裏切り者です」 「あれはおれじゃない」自治領主《アウタルク》が叫んだ。「こいつが言ったことなら、ウソっぱちだ」 「わたくしどもにそうおっしゃったのはあなたじゃありませんか。わたくしはあなたの武器のカプセルをはずし、通信器のスイッチを短くしました。ですから、あなたが今日しゃべった一言一句が、ぜんぶ聞こえました。わたくしはもちろん、乗組員のひとりひとりに手にとるように聞きとれました。わたくしたちはみんな、あなたの正体がわかりましたよ」 「おれはおまえの自治領主《アウタルク》だぞッ」 「と同時に、現存する最凶悪の裏切り者ですね」  しばらく、自治領主《アウタルク》はそれきり何も言わなかった。血走った眼で、リゼットとバイロンをかわるがわるにらんでいた。二人は二人で、憤怒を沈ませた陰鬱な顔で自治領主《アウタルク》をにらみ返していた。やがて自治領主《アウタルク》が苦しそうに顔をゆがめながら立ちあがった。そしてバラバラにくずれた自制をつくろい、神経質な、だが驚くべき意志力だけで、必死に対面をたもとうと努めた。  やがて口を開いたとき、彼の声にはいつもの冷静さが、ほとんどまでもどっていた。「たとえそれがぜんぶ真実《ほんと》だとしても、だからどうだというんだ。結局、すべてを現状のままに滞らせる以外に君にはどうにもできないだろうが。まだもうひとつ行ってみない惑星がある。最後の馬の首ネビュラ内惑星だ。それこそ、ほんとうの『反抗惑星』なのだ。しかも、その位置座標を知っているのは、このぼくだけだ」  堂々たる威風、そのぜんぶをどうやら失っているわけではなかった。一方の手がだらりと垂れている。手首の骨がくじかれたのである。上唇が滑稽なほどはれあがり、頬にはべったりと血糊がこびりついている。それでいてこの男は、生まれついての支配者ともいうべき倣岸《ごうがん》さを全身から放射しているのであった。 「ぼくに教えろ!」バイロンが促した。 「たとえどんなことがあっても、ぼくがそれを教えるなどと、甘くみてはいけないよ、バイロン。もう君にも注意してやったはずだ。空間ボリュームは恒星ひとつについて平均七十立方光年の広さがあるのだ。ぼくの助けをかりずに、君たちだけで試行錯誤式にそれを捜したとしたら、どこかの恒星ひとつの十億マイル以内に近づける可能性は、二十五万兆に対して一つしかない。|どの星《ヽヽヽ》であろうとだよ!」  バイロンの心のなかに、何かがかちッと響いた。 「こいつを『リモースレス』号へつれていって下さい!」彼はリゼットに言った。  リゼットが低い声で、「アーテミジア公女が――」 「じゃ、あの叫びは彼女だったのですか!」バイロンが思わず言った。「どこです、彼女は?」 「大丈夫ですよ。彼女は大丈夫です。炭酸ガス・シリンダーを持たないで、やってきたものですから、血液のなかから炭酸ガスが洗い流されてしまって、身体の自律呼吸メカニズムが緩慢になってしまったのです。あの公女は走ろうとして、しかも意識的に深呼吸しなければならぬということを知らないものですから、失神してしまいました」  バイロンは顔をしかめた。「だけど彼女、なぜあんたをとめようとしたんですか? 彼女の恋人にけがさせないために?」 「そうです、あの公女《かた》はわたくしをとめようとしたんです。ただ、彼女は、わたくしが自治領主《アウタルク》の腹心で、あなたを射とうとしていると思いこんだのです。とにかく、わたくし、この野郎をつれてもどります。それから、バイロン――」 「はい?」 「できるだけ早く帰りましょう。彼はまだ自治領主《アウタルク》は自治領主《アウタルク》です。乗組員には多少の説明が必要だろうと思うんです。絶対服従という根の生えた習慣を打破するのはたいへんむずかしい……。ああ、彼女はあの岩陰にいます。凍え死なないうちに、行って介抱してくれますか? どこへも逃げないでじっとしていますよ、彼女は」  彼女は、冠《かぶ》っているフードのなかにすっぽりと埋まりそうになっていた。身体を何重にもおし包む、厚い宇宙服内側コートにくるまった彼女の姿は、バストもウエストも区別がつかず、男か女かすらもわからなかった。それでも彼女に近づくと、バイロンの足どりは自然と急速になった。 「どう、君?」 「よほどいいわ、ありがと。トラブル起こしてすみませんでした……」  二人はたがいに顔を見合わせたまま立っていた。言葉こそないが、二人の間には二重ラインになって、火花の散るような万感の会話が交わされていた。 「ぼくたち、時間を逆にもどすことはできない。してしまったことをやらなかったようにはできない、言ってしまったことを言わなかったようにはできない、そうだね? だけど、君にはほんとに、ぼくのこと理解して欲しいんだ」 「どうしてそんなに理解ということに力をいれるの?」チカチカとまばたいた。「わたし、いままで何週間もずっと、理解だけを心がけてきましたのよ。わたしの父上のこと、もう一度話して下さらない?」 「いや、よす。ぼくは君のお父さんが無実だったことは知っていたんだ。ぼくは、ほとんど初めっから自治領主《アウタルク》を疑っていたのだが、決定的に真相を発見しなければならないと思っていた。それには、彼を強制してでも白状させる以外には、手はなかったのだよ、アータ。ぼくは、彼をうまいこと罠《わな》にひっかけて、実際にぼくを殺そうとする行動にまで踏みきらせないかぎりは、彼に白状はさせられないと思った。彼に真実を吐かせる手段はそれ以外にないと思った」  みじめな、消え入りたいような恥ずかしい気持がした。が、思いきって続けた。「そのために、ずいぶん卑劣な手段を用いた。彼がぼくの父にしたそれに劣らない、卑劣なやり方だったことは認める。ぼくがそんな卑劣な、遠まわしな方法を用いたことを、君が許してくれようとは、さらさら思わない……」 「おっしゃること、よくわからないわ」 「ぼくは、彼が君を望んでいることはわかっていたのだよ、アータ。政治的に見て、君は結婚の相手としては完璧なんだ。彼の野望のためには、ウィデモスという家名よりも、ヒンリアッド家という名称がはるかに有用だ。だから、いったん彼が君を獲得してしまえば、彼はもうぼくなんか必要でなくなるのだ。ぼくはわざと君を彼になびくように仕向けたのだよ、アータ。ぼくのした不可解な行動は、すべて君の気持を彼のほうへ向けさせようと思ってしたことなのだ。君が彼になびくと、彼としてはもうぼくを処分してもいいと思った。そこで、リゼットとぼくは、こちらから彼に罠をしかけたのだ」 「それで、あなたはその間ずっとわたしを愛していらしたのね?」 「そこまで信じてくれというのはムリかな、アータ?」 「で、あなたは当然、わたしに対する愛を、あなたの父君の記憶と一家の名誉とを守るための犠牲《いけにえ》にするつもりだったのね? まあ、昔のヘボ狂詩が何と真理をうがっているんでしょ? われ、かくも名誉を愛せざりせば、御身をそのなかばまでも愛することあたわざりしならん!」  バイロンは自分が情けなかった。「後生だから、アータ! ぼくはしたことを自慢などしているんじゃないよ、でもぼくとしてはこれ以外にやりようがなかったのだ」 「あなたはご自分の計画をわたしに打ち明けて下さればよかったのよ。わたしを道具に使うんじゃなく、同志にしてくれたらよかったんだわ」 「だけどこれは君の戦いじゃなかった。万一ぼくが敗れた場合も――その可能性は大いにあった――君は争いの外にいることができたはずだった。もし自治領主《アウタルク》がぼくを殺していたら、そしてそのとき君がもうぼくの側から離れていたら、君は傷つかずにすんだはずだ。君は彼と結婚もしただろうし、幸福にさえなれただろう」 「ところがあなたが勝ったから、わたしは彼の敗北で苦しんでいるかもしれないわね」 「だけど君はちっとも苦しんでなんかいない」 「どうしてそんなことがわかって?」  バイロンは絶望のなかに活路を見いだそうとして、「でもすくなくとも、ぼくの動機を察しようと努めてくれないか、君。ぼくが愚かだったことは認めるとして――ぼくが犯罪的といってよいほどバカだったことは認めるとしても、ぼくの動機を理解してくれないか? ぼくをきらわないようにしてくれるわけにはいかないのか?」  彼女はやさしく言った。「あなたを愛さないようにと努めたのよ、でも、ご覧のとおり、それはできなかったわ」 「じゃ、ぼくを許してくれるね?」 「なぜ? わたしがあなたの動機を理解するから? 違うわ! もしそれが、単にあなたの動機がわかるという程度の理解ということであれば、わたし絶対にあなたの行動を許さないわ。もし理解ということが、それだけのもの、それ以上の何ものでもないのだったら! だけど、バイロン、わたしはあなたを許すのです! わたし許さないということに堪えられないからです。あなたを許していなかったら、どうして、あなたにわたしのそばへもどってきて下さいとお願いできて?」  そう言って彼女は彼の腕に抱かれた。外気で冷たくなった唇がバイロンのそれへ向けられた。二人の身体は二重の厚いオーバーコートでさえぎられていた。彼の手袋をした手は抱いている肉体を感じることができなかった。だが唇は、アーテミジアの白い、つややかな頬を、額を、うなじを、なめまわしていた。  しばらくの後、ようやく彼は気がかりな声で、「太陽が低くなってきた。ますます寒くなっていく」  だがアーテミジアはやさしい声で、 「だったらずいぶんふしぎね、わたしだんだん暖かくなっていくみたいですもの……」  二人はつれだって、宇宙船へ歩いてもどった。  バイロンはいま、自分では気づいていないが、くつろいだ、自信のある態度で一同に対していた。リンゲーンの宇宙船は大きく、乗組員は五十人もいた。彼らはいまバイロンを見上げながら腰かけていた。五十の顔、顔、顔! 生まれたときから彼らの自治領主《アウタルク》への絶対服従へしつけられた五十人のリンゲーン人がバイロンを見上げているのであった。  数人はリゼットの説得で理解がとどいていた。また数人は、この日の午後、通信装置の工夫で、自治領主《アウタルク》がバイロンにしゃべったことを盗聴していたので、自分たちの運命の大きな転換を信じるようになっていた。だがそれ以外の圧倒的多数はまだ不安であった。いや、はっきりとバイロンへ敵意の眼《まな》ざしすら見せていた。  バイロンはしゃべったが、これまでのところ、彼の力説も、まだほとんど効果をあらわしてはいなかった。彼は前へ身体をのりだした。その声にいちだんと自信の調子があふれてきていた。 「では君たちは何のために戦っているのだ? 何のために、その貴重な生命を賭《か》けるのだ? 『自由銀河系』のために、だろうとぼくは思う。おのおのの世界が、自分たちの好きなやりかたで、最善と思うことを決定できるような銀河系、自分たちの幸福のために自分たちの富を生産することのできる銀河系、誰の奴隷にもならず、誰の主人にもならない、そういう銀河系のためだろうとぼくは思う。どうだ、ぼくのこの考えは正しいかい?」  賛成と見られる低いつぶやき声があがった。だが、そこには熱意が欠けていた。  バイロンは続けた。「それでは自治領主《アウタルク》は何のために戦っている? 彼自身の利益のために戦っているのではないのか? 彼はリンゲーンの自治領主《アウタルク》である。もし彼が勝てば、彼はネビュラ王国集団《キングダムズ》の自治領主《アウタルク》になるだろう。そうすれば、きみたちは、汗《かん》を廃してひとりの自治領主《アウタルク》を据えることができる。だが、それが何を益するというのだ? そんなことが、貴重な生命を賭けるに価いすることだろうか?」  乗組員の一人が大声で叫んだ。「自治領主《アウタルク》はわれわれの同胞です、うすぎたないティラン人ではありません!」  もう一人が叫んだ。「自治領主《アウタルク》は、『反抗世界』をさがしだして、それに力を貸そうとしていただけなんです。それだけのことを野望だなどといえるでしょうか?」 「野望というからには、もっときびしい、もっと恐ろしいものでなくてはならん、というのかね?」バイロンは皮肉な調子でやり返した。「しかしこれはやっぱり野望なんだよ。彼は『反抗世界』をもとめているだけだというが、それにはひとつの組織をバックにして加わろうとしているのだ。彼は全リンゲーンの力を貸そうと言っている。その上、ヒンリアッド家との連合という威信すらこれに捧げようと思っている。こうして最後には、反抗世界は彼の言いなりしだいになる、彼の手中に陥る、と彼はかたく信じているのだ。どうだ、これが野望でなくて何が野望だ?  そしてこの反抗運動が彼自身の計画と食い違うようになった場合、彼は自分の野望のために、君たちの生命を犠牲にすることをためらうだろうか? ためらいはしないのだ、彼は。いいかい、ぼくの父は彼にとって危険な存在であった。父は正直な人であり、自由の友であった。だが同時に、父はあまりに人望がありすぎた。だから父は裏切られたのだ。自治領主《アウタルク》は、ティラン人と結び、父を裏切ることによって、彼の野望をいろどっている正義の御旗《みはた》を敝履《へいり》のごとく捨てることにもなりかねなかったのだ。いや、それすらも辞さなかった。そしてそのために、君たちすべてを死地に追いやることすらためらわなかったのだ。君たち誰ひとりとして、自分の目的にさえかなえば、ティラン人とすら結ぶような男の下で、どうして安全でありえよう? 卑怯な裏切り者につかえて、誰がいったい安全であり得よう?」 「そこのところを押したほうがいいです」わきでリゼットがささやいた。「うんとたたきこんでやりなさい」  またさっきの同じ声の主が言った。うしろの列からだ。「自治領主《アウタルク》は反抗世界がどこにあるかを知っています。あなたは知っているんですか?」 「その点はあとで討論しよう。ただいまのところは、自治領主《アウタルク》に従っていたのでは、われわれはみんな滅亡してしまうということをよく考えてみよう。彼の指導から離れて、もっとすぐれた、もっと高貴な道をもとめれば、いまならまだわれわれに自分たちを救う時間がある。まだ自滅の頤《おとがい》からのがれて、われわれの手に――」 「――敗残を握るだけだよ、そこの若いひと!」やわらかい声が背後でさえぎった。バイロンはぎょっとなって声のほうへ振り返った。  五十人の乗組員がざわめきながら棒立ちになった。一瞬、雪崩《なだれ》のようにバイロンめざして殺到してきそうな殺気が立ちこめた。だが幸い、誰も武器をもたずにこの会議に参加していた。それはリゼットの深慮によるものであった。だがいま、ティラン人の護衛兵一隊が、あちこちのドアから武器を構えつつ浸入してきていた。  そしてシモック・アラタップ自身も、両手に一挺ずつ熱線銃を握って、バイロンとリゼットの背後に立っていた。 [#改ページ]   二十 どこに?  シモック・アラタップは、眼前の四人のパーソナリティのひとつひとつを仔細《しさい》に推しはかってみた。そして心のなかにかなりの興奮がわきたってくるのを覚えた。これは大したギャンブルになりそうだ。パターンの核心をたどる何本かの糸が、いよいよより合わさってひとつの決定的な大団円へ閉じようとしている。もうアンドロス少佐が身辺にいないことに、彼は感謝したい気持だった。ティラン宇宙艇十隻が去《い》ってしまって、ほんとうによかった!  彼には旗艦とその乗組員だけが残された。これで十分である。扱いにくい大部隊は、彼は好かない。  アラタップがおだやかな調子で言った。 「淑女ならびに紳士諸君、現状をかいつまんでお教えしておこう。自治領主《アウタルク》の宇宙船にはわが方の精鋭が乗りこみ、アンドロス少佐が指揮してティランへ輸送中である。自治領主《アウタルク》の部下は法に従って裁かれる、もし有罪と決まれば反逆罪をもって処罰されよう。彼らはふつうの陰謀人であり、ふつうの手続きによって取扱われるであろう。しかし問題はあなたがただ、あなたがたをどう取扱うかだ」  アラタップのそばにはローディアのヒンリックが腰かけていた。見るかげもなく打ちひしがれ、顔を醜くゆがめてすわっている。「わしの娘がまだ年端のいかぬ小娘だということを考慮してくださらんか? 娘は何も知らずにこの事件にまきこまれたのじゃ。これ、アーテミジア、こちらへ申し上げなさい、おまえが――」 「ご令嬢は」とアラタップがさえぎった。「おそらく釈放されましょう。わたしの信じるところでは、ご令嬢は、さる高貴なティラン高官へ輿入《こしい》れされることになっている。この点をつねに忘れてはいけない、これは当然のことです」 「他の人たちを許してくだされば、わたしは彼に嫁します」アーテミジアが言った。  バイロンが立ちあがりかけた。アラタップが手をふって制した。ティランの弁務コミッショナーは微笑を浮かべて、「ご令嬢、どうぞ、どうぞ! わたしが取引を決めることができることは認めます。しかし、わたしは汗《かん》ではない。汗の下僕《しもべ》のひとりにすぎない。だから、わたしのする取引はどれも、故国《くに》にもどってから徹底的に調べられなければならない。それをご承知の上で、あなたの条件は何ですかね?」 「結婚の承諾ということですわ」 「それはあなたの条件というわけにはいくまい。すでに父君が承認を与えていられる。それで十分だ。他にはないんですか?」  アラタップは、四人の抵抗意欲が徐々になえていくのを待った。自分の役割をよろこんで行なっているわけではないが、さりとてそれを手ぎわよく果たす努力は怠っていなかった。たとえば今、この娘はいまにもわっと泣きだすかもしれない。そうすれば、この若者へきわめて望ましい影響を与え、若者は抵抗の意志をなくすだろう。二人はずっと恋人同士だったらしいからだ。そういう状態でも、老ポハンはこの娘を欲しがるだろうか、と彼は小首をかしげてみた。うむ、やはり老ポハンは娘を獲得したがるだろうな。そして取引き条件はやっぱりまだ、老ポハンに有利だろう……。だがそのときアラタップは、娘がきわめて魅力的だわいと、ふと心の底で思った。  娘は泣きだしはしない。くずれない。たいへんによろしい、とアラタップは思った。よほど意志の強固な娘らしい。結局老ポハンめは、この取引には勝てなかろう。  アラタップがヒンリックに言った。「あなたは従弟《いとこ》の方にも助命をおもとめですか?」  ヒンリックの唇は動いたが、音をなさない。  ギルブレットがいきりたって叫んだ。「誰もわしの助命などせんでよい。ティラン人などから何をしてもらわんでよい。さあ、射殺を命じなさい!」 「ヒステリーですな、あんた」アラタップが言った。「裁判を経ないで射殺を命令できないのは知っているでしょう」 「これはわしの従弟じゃ……」ヒンリックがささやいた。 「それも当然考慮されます。あなたがた貴族の方も、われわれにとってそう有益な存在だと自負すべきではないということ――将来この点を学ばんといけませんな。あなたの従弟の方はまだこの教訓をご存知ないようです」  アラタップはギルブレットの反応に満足していた。すくなくともこの老人は心底から死を望んでいるようだ。この老人には人生の挫折が、堪えられぬほど大きかったのだろう。だからこの老人を生かしておいてやろう、これひとつだけでもこの男を手なずけるに十分だろう。  アラタップはリゼットの前では考えぶかげに立ちどまった。この男、自治領主《アウタルク》側近のひとりである。そう思うと、彼はかすかな当惑を覚えた。追跡の初期に、彼は自治領主《アウタルク》というものを、事件の要因としてはまるで無視していた。それは鉄壁の論理に立脚しているように思われた。うむ、ときどきミスを犯すことは健康なことだ。それで自信が適当に薄められ、傲岸不遜《ごうがんふそん》の一寸手前というところで安全に身が守られる。 「裏切り者につかえた大バカ者というのは君だな? わしたちといっしょにやっていたら、うまくいけただろうものを」  リゼットはまっ赤《か》になった。  アラタップが続けた。「君が軍人として評判の高い男であっても、この事件ですべてが台なしにされる。君は貴族ではないから、君の場合は高等政治の立場からの考慮はなされない。君の裁判は公開だ。それで君は、道具の道具という生き恥をさらすこととなる。気の毒だな、ほんとに」 「ですが、あなたは取引きをにおわされたと思いますが……」リゼットが言った。 「取引き?」 「ええ、たとえば汗《かん》に提出する証拠ですね。あなたの持っていらっしゃるのは、この宇宙船ひとつです。反抗運動の機構は膨大です、その残りのことを知りたいとはお思いにならないのですか?」  アラタップはかすかに首をふった。「思わんね。われわれには自治領主《アウタルク》がある。彼が情報源としてりっぱに役立った。たとえそんなものがなくとも、われわれとしてはただリンゲーンと戦争をするだけだ。戦争の後では、反抗運動などいうものはほとんど残らなくなる、これは確かだ。君のいうような取引きなんかないんだよ」  それからアラタップは若者の前に立った。若者をいちばん最後にしたのは、四人のうちいちばん頭が切れそうだったからである。だが、何としてもこの男、ひどく若い。若いものはそう危険ではない。辛抱ということを知らんからだ。  だがバイロンがまず口をきいた。「どんな方法で、ぼくらを尾《つ》けたのですか? 彼があんたと協力していたんですか?」 「自治領主《アウタルク》のことかね? この場合は協力はなかった。可哀そうに、あの男はゲームを両方の側から操ろうとした。そんなことをしたら、たいていは素人のほうが勝つ。こんどもそれだったよ」  ヒンリックがそのとき、姿に似合わぬ子供っぽい熱心さで口を挟んだ。「ティラン人は超空間を飛んで宇宙船を追跡する新発明をもっとるんじゃよ」  アラタップがすかさず、「閣下は口出しを差し控えて下さればありがたいと思いますが」――鋭くとがめたので、ヒンリックは畏縮して口をつぐんだ。  まあそんなこと大したことじゃない。いずれにしろ、ただいまからはもう、この四人、どれも危険人物ではない、とアラタップは思った。だが彼は、いまこの若者の心に渦《うず》まいているもろもろの不安を、たとえそのひとつでも取除いてやる気はしなかった。 「ちょっと、あんた」とバイロンが迫った。「ぼくたちに事実を教えてください。でなかったら、何も言わんで下さい。あなたは、ぼくたちが好きだから、ここに留めておいているのではない。なぜぼくたちを皆といっしょにティランへ送還しないのか? その訳は、ぼくたちを殺すにしても、どうして殺したらよいかわからんからでしょう? この二人はヒンリアッドの一族だ。ぼくはウィデモスの貴族だ。リゼットはリンゲーン宇宙海軍の有名な将校です。そしてあんたのつかまえた五番目の男、あんたのペットの卑怯者、裏切り者は、それでもまだリンゲーンの自治領主《アウタルク》です。あんたはこの五人のうち一人として、ティラン惑星からネビュラ周縁部まで王国集団《キングダムズ》じゅうにごうごうたる非難を巻きおこさずには処刑できるはずがない。好むと好まざるとにかかわらず、われわれと何らかの取引きをしないでやっていけるわけがない。そうじゃありませんか?」 「君のいうことがぜんぶ間違っているとは言わない。君のために、ひとつパターンを織ってあげようか? われわれは君たちを追跡した。方法は問うところではない。総督のたくましすぎる想像は無視してよいと思う。君たちは、三つの恒星の付近に滞留した。どの惑星ひとつにも着陸せずにだ。つぎに君たちは第四の星へやってきて、着陸惑星を見つけた。そこでわれわれも君たちを尾《つ》けて着陸し、監視しながら待ったのだ。われわれは何かの起こるのを待ったほうがよいと考えたのだ。カンは当たった。君は自治領主《アウタルク》と喧嘩となり、どちらも無制限に放送した。放送は君たちがそれぞれ自分の目的でやったものだが、われわれの役にもたったのだ。われわれは盗聴したのだ。  自治領主《アウタルク》は、あとただひとつ、ネビュラ内部惑星を捜査するだけでいい、それが反抗世界のはずだ、と言った。これはおもしろい話だ、ね? 反抗世界などというものがあるとは初耳だ。それで、わしの好奇心がぐっと高まった。その五番目の、最後の惑星というのは、どこにあるんだね?」  アラタップはそう言って間《ま》をもたせた。自ら椅子をもってきてそこに腰かけ、ひとりからひとりへと、無表情にながめていった。 「反抗世界など、ありませんよ」バイロンが言った。 「それじゃ、なにも捜していなかったというのかね?」 「ぼくたち何も捜してなどいなかったんです」 「どうも君、おかしな話になってきたじゃないかネ?」  バイロンが退屈したように肩をすくめた。「あんた自身おかしくなってくるんじゃないですか、ぼくたちからこれ以上の返答を期待したら」 「わしは、その反抗世界というのがタコ(反抗運動組織)の中心ではないかと見ている。君たちを生かしておくのは、この反抗世界を見つけるため、そのためだけだ。君たちには、もし協力してくれれば、それぞれ恩典を与えよう。ご令嬢、あなたには気のすすまぬ結婚を免れさせてやれるかもしれない。ギルブレット公、あんたには実験室をつくってあげられるかもしれませんよ、誰からもじゃまされずに研究ができるようなネ。そう、われわれはあんたを高く評価している、あんた自身が自分を評価する以上にネ」(アラタップはあわてて眼をそらした。老人がいまにも泣きだしそうに顔をクシャクシャさせたからである。泣き出すかもしれない。泣き顔を見たら気がふさぐ)。「リゼット中佐、君は軍法会議にかけられ有罪判決をうける屈辱と、それに伴う世間の嘲笑と信用の失墜をまぬがれるかもしれない。バイロン・ファリル――君はウィデモスの牧畜領主《ランチャー》へ復位されるかもしれない。君の場合は、もしかすると君のお父さんの断罪を取消すことになるかもしれないナ」 「そして父をよみがえらすというのですか?」 「いや、名誉を回復するというのだ」 「父の名誉は、父の断罪と処刑をもたらした、その行動そのものにあるんですよ。父の名誉につけ加えることも削減することも、あんたなどにできることではないんです」  アラタップはそれを無視して、「君たち四人のうち誰か、君たちの捜しているその世界がどこにあるのか教えてくれないかネ。どなたか、話のわかる人はおらんか? 誰でもいい、わしに教えてくれたら、わしが約束した恩典を与えよう。その他のものは気のすすまない結婚をしいられ、牢獄へぶちこまれ、処刑される――とにかく君たちにいちばんいやがることをする。警告しておくが、わしは必要となれば、サディスティックになれるのだよ」  アラタップはそう言ってしばらく待った。 「さあ、誰だな、協力を申しでるのは? うむ、君がしゃべらないなら、となりの君だ、君はどうだ。うむ、君はいっさいを失うことになる、いいね? 君が協力しなくとも、わしは望む情報は必ず得る男なんだよ」  バイロンが言った。「ムダですよ。あんたはじつに慎重に口を割らせようとお膳立てをしたが、それでもやっぱりダメなんだ。反抗世界なんてものはないんです」 「しかし、自治領主《アウタルク》が、あると言っている」 「だったら、当人に質問したらいいんじゃないですか?」  アラタップは不快に顔をゆがめた。この若者はその虚勢《はったり》を、理不尽なまでに押しすすめている。「わし自身の気持ちとしては、君たち四人のひとりと取引きがしたいのだ」 「しかしあんたは前にも自治領主《アウタルク》と取引きをしたんじゃないですか。もう一度したらどうです。ぼくたち四人には、あんたが何を売ろうとしても、素直に買えるものはひとつもありませんよ」バイロンはあたりを見まわした。「そうだろう、あんたたち?」  アーテミジアがそっと彼のそばへ忍びより、ゆっくりと肱に自分の手をまわした。リゼットがかんたんにうなずいた。ギルブレットが「そうだとも!」と息をつかずにつぶやいた。 「よし、それが君たちの決定だな」アラタップは言って、しかるべきノッブへ指をつけた。  自治領主《アウタルク》がつれてこられた。彼の右手首は軽い金属製のシースにはめこまれていて、動かそうとしても動かせない。金属性シースは彼の胴にまわしてある金属バンドにしっかりと磁気力で固着されている。顔の左半分は、力場療法で治癒した傷跡がギザギザの醜悪な赤いくぼみを見せている以外は、全体が紫色にはれあがっている。右の負傷していないほうの腕を、わきに立った武装護衛兵から、いきなりぐいとひねりはなして以来、彼は身動きすらせずに彼らの前に立っていた。 「いったい何が欲しいのだ?」 「いまお話しますよ」アラタップが言った。「まず、ここにいるあなたのお話を聞く人たちが誰かということを考えて欲しい。ここにいるのは、たとえば、この男です、あなたが殺そうと計画した若者だ。殺されるどころか、逆にあなたを不具者《かたわ》にし、あなたの計画をメチャメチャにした。あなたが自治領主《アウタルク》で彼が逃亡者だったにもかかわらずですよ」  自治領主《アウタルク》のはれあがった顔面が紅潮したかどうかはわからなかった。顔面筋肉のひとつすら動かなかったことだけは確かであった。  アラタップは顔の動きを捜す手間ははぶいた。しずかな口調で、ほとんど関心もないかのように淡々と言葉をつづけた。 「これがギルブレット・オス・ヒンリアッド――若者の生命《いのち》を救い、あなたのところにつれてきた男です。これがアーテミジア公女。聞くところによると、あなたは魅力あふれるいんぎんな態度で求愛されたらしいが、彼女は若者への愛情があるため、あなたを裏切ったそうですね。それからこちらがリゼット中佐、あなたのいちばん信頼していた副官であったが、この男もまた最後にはあなたを裏切った。自治領主《アウタルク》、あなたはこの人たちに借りがあるでしょう――」 「いったい何が欲しいのだ?」自治領主が繰り返した。 「情報が欲しいんです。それを教えて下さればあなたはまた自治領主《アウタルク》になります。あなたが早いところわれわれと取引きしてくれれば汗《かん》の法廷で有利な証拠になります。そうではなく――」 「そうでなければ?」 「そうでなければ、わたしはこの人たちから情報を得ます、わかりますね? この人たちの生命は助け、あなたは処刑されます。それだからあなたに、この人たちに借りがあるのではないか、借りがあるからこそ、そうまで無意味に頑固につっぱねて、この人たちに生命を救う機会を与えなければならないと考えているのではないか? それをきいたわけです」  自治領主《アウタルク》の顔が痛々しくゆがみ、微笑になった。「この人たちは、ぼくの犠牲で自分たちの生命を救うわけにはいかんよ。この人たちは、あんたの捜している世界の位置を知らないのだ。ぼくがそれを知っている」 「わたしは、どんな情報が欲しいのかまだ申しておりませんよ、自治領主《アウタルク》」 「あんたの欲しい情報はただひとつ、それしかないはずだ」声がしわがれ、ほとんど聞きとれないほどであった。「もしぼくが教えたら、ぼくの自治領主《アウタルク》の職位は従来のままだ、そう言うんだね?」 「ただし、もっと監督が厳重になります」アラタップが丁寧な口調で修正した。  そのときリゼットがわめいた。「このティラン人を信用したら、ドえらいことになります! 反逆の上に反逆を重ね、とどのつまりが処刑ですぞ!」  護衛兵が前へ飛びだしたが、バイロンはすばやく察し、リゼットに飛びかかり、抵抗するリゼットを元へ引きずりもどした。 「バカなことをするもんじゃありません」低声《こごえ》でしかった。「あんたにできることなんて、何もないんですよ!」 「ぼくは自治領主《アウタルク》の地位にも、ぼく自身の生命にも未練はないのだよ、リゼット」自治領主《アウタルク》が言った。それからアラタップへ向き直り、「この人たちを殺してもらえるかね? あんたは、すくなくとも、それを約束してくれなければ困る」血の気の失せた形相を残酷なまでにゆがめた。「とくに、この男をだ」指でバイロンを突き刺すようにしめした。 「それがあなたの要求する代価ならば、お支払いしましょう」 「もしぼくがこの男の死刑執行人にしてもらえれば、ぼくに対するあんたの負債はぜんぶ支払いずみとなる、よいか。その上、このぼくの指に熱線銃発射のコントロールを扱わせてもらえるとしたら、若干の追加支払いとありがたくおうけしよう。だがそこまでしてもらわなくとも、少なくとも、この男があんたに知らせまいとする情報は教えてあげよう。いいかね? ローとシータとファイをパーセクと角度単位で言うよ――七三五二・四三、一・七八三六、五・二一一二。この三点で銀河系におけるその世界の位置は決まる。さあ、情報は教えたよ」 「ちょうだいしました」アラタップは言って、数字を書きとめた。  そのときリゼットがいきなり必死の力でバイロンの手をふりほどいた。「裏切り者! 裏切り者!」絶叫した。  バイロンは不意をつかれ、リゼットを押えている手をはなし、わきへ突きとばされ、片膝をついた。「リゼット!」叫んだが遅かった。  顔面を決死の形相にゆがめたリゼットが、一瞬護衛兵に体当たりし、しばらくもみあった。他の護衛兵が数名おどりだしてリゼットの上へ折りかさなった。だがそのときはもう、リゼットの手に護衛兵から奪った熱線銃が握られていた。そして、倒れながらも、熱線銃をつかんだ両手と両膝で、群がるティランの兵士たちに抵抗した。バイロンは組みあう人体の垣《かき》を破って突っこみ、格闘に加わった。リゼットののどをつかみ、しめつけながら、ひっぱりだした。 「裏切り者め!」  リゼットがしめられながらわめいた。ねらいをつけようと、バイロンともみあった。自治領主《アウタルク》が仰天してわきへ飛びのいた。リゼットは発射した! 彼らがリゼットの武器をとりあげ、仰向けに倒したのはその直後でしかなかった。  自治領主《アウタルク》の右肩と胸部半分が一瞬のうちに飛び散っていた。右の前腕だけが宙に浮いて、磁場化シースからぶらりと垂れさがったグロテスクなすごさ! 指、手首、肱は黒こげとなり、つぶされている。かなりの時間(と思われた)、自治領主《アウタルク》の身体が狂ったバランスをたもって立っている間、両眼がまばたいたように見えた。やがて眼は艶を失っていき、身体は炭化した残骸《ざんがい》となって床へ落ちた。  アーテミジアは呼吸がつまり、バイロンの胸へ顔を押しあてた。バイロンは一度だけ、たじろがず父を殺した男の死体へ、あえて、しっかりとした視線を釘づけにした。それから眼をそらせた。遠い部屋のすみからは、狂ったヒンリックの、ぶつぶつとあらぬことをつぶやき、笑いだす声が聞こえた。  悲劇全体のなかで、アラタップだけが冷静であった。「死体を片づけろ!」  護衛兵たちは命令に従った。床から血をぬぐうのに、彼らは数秒間やわらかい熱線ビームをひとつ床上へひらめかせた。あとにはただ二、三の黒褐色のシミがそこここにできただけであった。  彼らはリゼットを助け起こした。リゼットは両手で顔や身体をこすり、それからすごい勢いでバイロンへ振り向き毒づいた。「あんたは何をしていたんです? わたくし、もうすこしで下司野郎を射ちそこねるところだった」 「あんたはアラタップの罠《わな》にひっかかったんだよ、リゼット」バイロンが疲れきった声でつぶやいた。 「罠ですって? わたくしが下司野郎を殺したんですよ、そうでしょう?」 「それが罠なんですよ。あんたは彼の望むことをしてやったんだ」  リゼットは答ができないでいる。アラタップは二人の会話《やりとり》を放っておいた。むしろおもしろそうに聞きいっているようである。若者の頭脳がなめらかに働くのに一驚しているのである。  バイロンがリゼットに説明した。「アラタップが盗聴したというのがほんとうなら、彼の欲しがっている情報をもっているのはジョンティだけだとわかっていたはずですね。ジョンティ自身、格闘のあとでぼくたちに向かい合ったとき力をこめてそう言ったんですから。だから、もうわかったでしょう? アラタップはただぼくたちをじらしていただけなんです。適当な時機にぼくたちが暴発するように仕向けたんです。ぼくは彼が当てにしていた暴発を警戒して、自制していた。あんたは警戒していなかった」 「わしはね」とアラタップがやわらかい声で割りこんだ。「君がこの汚《よご》れ仕事をやってくれると思ったんだよ」 「ぼくだったら、あんたをねらったでしょうよ」バイロンは答えた。それから再びリゼットへ振りむいて、「あんたわからないんですか、アラタップが自治領主《アウタルク》を生かしておきたくないと思っていたことが? 彼はただ自治領主《アウタルク》の情報が欲しかっただけなんだ。それを手に入れても、代価を支払う意志はなかったんだ。そうかといって、自治領主《アウタルク》を殺すリスクはとりたくない。それをあんたがやってくれたんだ、彼のためにね」 「そのとおり」とアラタップ。「そしてわしは情報を手に入れたしね」  どこかで突然、警報ベルがけたたましく鳴った。  リゼットはがっかりして、「まあいいですよ。彼にいいことをしてやったかもしれないが、それとともに、自分にもいいことをしたんだから……」 「そうとばかりは言えんね」と弁務コミッショナーが言った。「われわれの若い友達が十分深く推理を働かせていないから、わしが言ってやろう。ねえ、君、ここにまったく別の犯罪が犯されたんだよ。これまでは君の犯罪はただティランに対する反逆罪であったから、君の処分は政治的にはデリケートな問題だったんだ。ところがいま、君はリンゲーンの自治領主《アウタルク》を殺害した。君はリンゲーンの法律で裁判にかけられ、断罪され、処刑されるかもしれない。ティラン人はぜんぜんこれにタッチする必要はないんだ。これはきわめて都合のよい――」  そこまできて、アラタップは顔をしかめ、口を閉じた。ベルの音を聞いたからである。つかつかとドアのほうへ歩き、ドア・リリースを蹴った。 「何かあったのか?」  一人の兵士が敬礼した。「一般警報です、閣下! 貯蔵室と思われます」 「火災か?」 「まだわかりません」  こりゃ、たいへん! アラタップは、心のなかで狼狽《ろうばい》の舌打ちをした。そして部屋へもどった。「ギルブレットはどこだ?」  それまで誰もギルブレットのいないのに気がついていなかったのだ。 「捜さねばならんぞ!」アラタップが叫んだ。  彼らは機関室に老人を見つけた。巨大な機械装置のかげに身体をちいさくして隠れていた。なかば引きずられ、なかば運ばれるようにして弁務コミッショナーの部屋へひきたてられてきた。  コミッショナーが容赦のない口調で言った。「船上では逃げられないんですよ、公爵。一般警報ベルを鳴らしたとて、ひとつもあんたにいいことはありません。警報があっても一時混乱するだけですぐおさまるんです」  アラタップはなおも続けた。「もうこのあたりで十分と思う。ファリル、わしは君が盗んだ宇宙艇《クルーザー》を船内に積んである。反抗惑星を探検するにはこれを使用する。われわれは、『ジャンプ』の計算がすみしだい、死んだ自治領主《アウタルク》が教えてくれた関連数値の空域へ向かって出発する。これは、われわれの無事平穏な世代でつねづねあこがれられていた一大冒険旅行となるはずだ」  そのときアラタップの心のなかにとつぜん、宇宙艦隊を指揮して多くの世界を征服した父のことが思いだされてきた。アンドロスが去って、彼はすがすがしい気持であった。この大冒険を自分ひとりで自由に敢行することができるからであった。  間もなく捕虜たちは二つに分けられた。アーテミジアは父君といっしょ、リゼットとバイロンはそれぞれ別々の方向へひきたてられていった。ギルブレットは護衛兵に抵抗し、金切り声をあげた。 「わしはひとりっきりにされたくない。独房に入れられるのはいやだ!」  アラタップが軽いため息をついた。この老人の祖父は偉大な支配者であった。歴史の書物にちゃんとそう書いてある。こういう不様《ぶざま》な光景を見るのは鼻もちがならない。彼はにがりきって命令した。「公爵を他の一人といっしょに入れておけ!」  ギルブレットはこうしてバイロンと同室させられた。  宇宙船の「夜」時間になって、照明が暗い紫色におとされるまで、ギルブレットとバイロンのあいだには言葉が交わされなかった。紫光線は、護衛兵が交代で遠隔観視《テレ・ヴュウ》システムで監視する程度には明るく、囚人に睡眠をゆるす程度には暗い。  だがギルブレットは眠らなかった。 「バイロン。バイロン」小声で叫んだ。  バイロンはものうい半睡から眼をさまして、「何か用ですか?」 「バイロン、わしはとうとうやってやったよ。もう大丈夫だよ、バイロン」 「眠らなければいけませんよ、ギル」  だが、ギルブレットはなおも言いつづける。「でも、わしはついにやったよ、バイロン。アラタップのやつスマートかもしれぬが、わしのほうが一枚上手だった。おもしろいことじゃないかね、え? なあに、君はなにもしんぱいすることはないんだよ。バイロン、心配はいらん。わしがやっつけたから……」ギルブレットはまたもバイロンをむちゃくちゃに揺すぶっている。  バイロンは起きなおった。「いったいどうしたんです?」 「何でもない、何でもない。大丈夫だよ。わしがちゃんとしておいた……」ギルブレットは笑っている。ずるがしこい微笑、何かすばらしい悪戯《わるさ》をした幼児のような微笑だ。 「何をちゃんとしておいたんですって?」バイロンは立ちあがった。老人の肩をつかみ、まっすぐに引き立てた。 「彼らは機関室でわしを見つけた」言葉がほとばしりでた。「彼らはわしが隠れとると思ったのだ。どっこい違うんだよ。わしはほんの数分間――そうだ、ちょっとの間だけだ、わしはひとりになる必要があったので、貯蔵室へ通じる一般警報ベルを鳴らしたのだ。わしは超原子力エンジンを短絡《ショート》させたのだ」 「何ですって?」 「かんたんなことさ。一分間もかからなかったよ。だから彼らはぜんぜん知らんのだ。わしはきわめて巧妙にやったからね。彼らには、『ジャンプ』のときまで、絶対にわかりっこないんだ。ジャンプのときがくると、燃料はぜんぶ連鎖反応でいっぺんにエネルギーに変わる。宇宙船も、わしたちも、アラタップも、反抗世界の知識もなにもかも、鉄蒸気のうすい煙霧になってしまうのだ」  バイロンは眼を大きく見ひらいて数歩あとずさった。 「あんたがそんなことを?」 「そうなんだよ」ギルブレットは両手のなかへ頭を埋め、前後に身体をゆすった。「われわれみんな死んでしまうよ、バイロン。わしは死ぬことなんかちっともこわくない。だが、ひとりでいるのは、ひどくこわいんだ。ひとりでいたくない。誰かといっしょにいたい。君といっしょでわしはうれしい。わしは死ぬときは誰かといっしょに死にたいんだ。痛くなんかないよ、死ぬのはほんの一瞬のうちだから。痛くない、痛くないんだ!」 「バカッ! この気違い! ぼくたちまだ勝てる見込みがあるんだ。それなのに、そんな……」  ギルブレットはバイロンの言葉など聞こえない。老人の耳は彼自身のうめき声でがんがんと鳴っているだけだ。バイロンはただドアへ素っ飛んでいくよりほかはなかった。 「護衛兵! 護衛兵!」  残された時間は時間単位なのか、それとも分《ふん》の問題なのか? [#改ページ]   二十一 ここか?  護衛兵が廊下を走ってきた。「うしろへ引っ込んでいろ!」護衛兵の声は不機嫌で荒々しい。  護衛兵とバイロンは向かいあって立った。船底の各室は監房を兼ねており、通常のドアはない。だが船首から船尾まで、そして天井から床まで勢力場《フォース・フィールド》が張ってある。バイロンは勢力場を手でさわることができた。かすかにたわむ抵抗力が感じられる。ちょうど極限まで伸張したゴム板のようである。だが、押したとたん、最初の圧力でゴムは鋼鉄の剛性に変わるのである。  バイロンの手がはねかえされた。彼は、勢力場が物質の通過を完全にストップはするが、神経細胞鞭のエネルギー光束《ビーム》に対してはまるで真空のように透明であることを知っている。しかも護衛兵の手にはその神経細胞鞭が握られているのである。 「アラタップ弁務コミッショナーに会わなければならんのだ」バイロンが要求した。 「それでうるさい音をたてたというのか?」護衛兵は上乗の気分というわけにはいかなかった。当直は誰でもいやがる仕事だ。この男は不幸にしてカードで負けて夜番に当ったのだった。「点灯時間になったら申し上げてやる」 「待てんのだ!」バイロンはせっぱつまり、絶望感が頭へぐっときた。「重大なことなんだよ、何とか……」 「待たなけりゃならんよ。そっちへもどっていたまえ、それともちょっぴり鞭の痛さが欲しいのかい?」 「ここを見ろ。ぼくといっしょにいるのは、ヒンリアッド家のギルブレット公爵だ。病気なんだ。死にかかっている。ヒンリアッドの一族がティラン船のなかで死に、しかも君がぼくに責任者と話すのを許さんとしたら、君はえらい目にあうぞ!」 「そのじいさん、どうしたんだい?」 「わからん。さあ早くしてくれ、それとも君は世のなかがいやになって、何もする気がなくなったのか?」  護衛兵はぶつぶつとこぼしながら去っていった。  バイロンは薄暗い紫色の照明のなかを、眼が痛くなるまで護衛兵の後ろ姿を見送っていた。耳に全神経を集中して、エンジンの鼓動が高まってくるのを聞きとろうとした。エネルギー集中はジャンプに近づくにつれて高まっていき、ジャンプ直前にピークに達する。耳をすませたが、何も聞こえてはこなかった。  ギルブレットのところへ駆けつけた。髪をつかみ、老人の頭をしずかに起こした。ゆがんだ顔に、二つのまなこがバイロンの眼をじっと凝視している。眼に、認知のひらめきがまるでない。恐怖で、うつろな異様な光をおびている。 「誰だ?」 「誰でもありません、ぼくです。バイロンですよ。気分はどうですか?」  言葉がのどからあがって口外へもれてくるまでに時間がかかった。茫然《ぼうぜん》とした調子できく。「バイロンかね?」それから、やや生命のひらめきが走った。「バイロン! 彼ら、ジャンプしているのか? 死ぬのは痛くないんだよ、バイロン……」  バイロンは老人の頭をそっと置いた。ギルブレットにおこってみても意味がない。彼がいま老人から聞いたこと、いや聞いたと思った重大情報の前では、怒りなどは大げさなお芝居でしかなかった。バイロン自身の精神そのものがくずれるかくずれないかのいま、怒りはなおさら無意味な消耗でしかなかった。  それでもバイロンは絶望と挫折に身もだえしないではいられなかった。なぜ彼らはアラタップに話させてくれないのか? なぜここから出してくれないのか? 彼は壁をにらんで立った。拳をあげて鋼鉄の壁面を打った。もしドアがあれば蹴破ってくれる。もし鉄格子があれば引き曲げてソケットからはずしてくれようものを、銀河に賭《か》けて、ちくしょう!  だがこれは勢力場《フォース・フィールド》である。いかなる手段もこれを破ることができない。彼はまたも大声でわめきちらした。  もう一度、カタカタカタと足音がした。彼は開いてはいるが開いていないドアへ走っていった。首を出し、誰が廊下をまわるのかを見るわけにはいかなかった。ただ待つだけしかない。  さっきの護衛兵だった。「勢力場からさがっていろ!」護衛兵がほえた。「両手を前に差しだし、もうすこしうしろへさがれ!」  護衛兵といっしょに、一人の将校が立っている。  バイロンは後退した。将校のもつ神経細胞鞭が眼の前にじっとつきつけられている。「君のつれてきたのはアラタップじゃない。ぼくはコミッショナーと話したいのだ」バイロンがなじった。 「ギルブレット・オス・ヒンリアッドが病気というなら、あんた、コミッショナーに会うことはないでしょう。医師に会いたいんじゃないんですか?」将校が言った。  勢力場がカットされた。淡い青火花が散って接触《コンタクト》がはずされたことをしめした。将校が独房へはいってきた。制服の上に、医学グループの徽章がついている。  バイロンは医士官の前へ踏みだした。「いいでしょう。じゃ聞いて下さい。この宇宙船は『ジャンプ』しなければなりません。それをコントロールできる人はただひとり、コミッショナーだけです。ですからぼくはコミッショナーに会わなければならんのです。その理屈がわかりましたか? あなたは将校です。コミッショナーを起こすことはできるんでしょう?」  医士官が腕をのばしてバイロンを払いのけようとした。バイロンの拳がはっしと降りて相手の腕をたたいた。医士官は悲鳴をあげた。「護衛兵、この男を外へ出してくれ!」  護衛兵が一歩踏みだした。そのときもうバイロンの巨体がダイブしていた。二人はどっと床に倒れた。バイロンは護衛兵の身体へ爪を立てていった。ものをよじのぼるように、はじめ肩をつかみ、それから利《き》き腕の手首をつかんだ。相手は神経細胞鞭をバイロンの身体へ振りおろそうと必死なのである。  二人が凍りついたように相手をにらみあう息づまる数瞬があった。そのときバイロンの眼のすみにひとつの動きが映った。医士官が二人のそばを通って、警報ベルのボタンのほうへ走っていく!  バイロンの腕が伸びた(護衛兵の利き腕を握っていないほうの腕だ)。医士官の足首をつかんだ。護衛兵が身をよじらせ、もうすこしでバイロンの把握をのがれそうになった。医士官が狂気のようにバイロンを蹴った。だがバイロンは渾身の力をこめて(頸部とこめかみに静脈がもっくりと浮きたっている)両手をぐいぐいと引っぱった。  医士官が倒れた。しわがれた叫び声をあげた。護衛兵の鞭が手首から離れ、金属音をたてて床へ落ちた。  バイロンは鞭の上へ横ざまに飛びつき、鞭といっしょに床の上を転がった。両膝と片手で立った。一方の手に鞭が握られていた。 「声を出しちゃいかん!」バイロンはあえぎながら命令した。「ちょっとでも物音をたててはいかんゾ! 持っているものをみんな捨てろ!」  護衛兵がよろめきながら、やっとのことで立ちあがった。上衣が裂けている。憎悪のまなこをぎらッと光らせ、金属の錘《おもり》のついたプラスチック製の短い棍棒を床へ落とした。医士官は武器はもっていなかった。  バイロンは棒を拾いあげた。「気の毒だが、しばる紐も、猿ぐつわをはめる布地もない。どうせ時間もないのだ」  鞭がかすかな火花とともにひらめいた。一度、二度。はじめに護衛兵、つぎに医士官――二人とも、苦悶《くもん》の形相《ぎょうそう》のまま全身硬直し、それぞれ一個の棒のように倒れた。神経細胞鞭が当たる直前にしていた動作のまま、両腕、両脚が木の枝さながらグロテスクにつきだしていた。  黙って、空洞のような眼でこの有様を見ていたギルブレットへバイロンは近づいていった。 「気の毒ですが、あんたもです、ギルブレット」鞭が三たびかすかな閃光《せんこう》を発した。  ギルブレットがわきに倒れた。痴呆のようなどんよりした表情も、そのまま凍りついたように動かなかった。  勢力場はまだ降りたままだ。バイロンは廊下へ出た。人影はなかった。宇宙船の「夜」時間であり、監視兵と夜勤班しか起きていないのである。  アラタップの寝所をさがす時間はないだろう。機関室へまっすぐに駆けつけなければなるまい。彼は走りだした。もちろん船首のほうだろう。  エンジニアの作業服を着た男が急いでバイロンのそばを通りすぎた。 「君、つぎのジャンプはいつだね?」 「約半時間後です」エンジニアは振り向きもせずに答えた。 「機関室はこの先まっすぐだね?」 「まっすぐ行って、斜道《ランプ》をのぼるんです」エンジニアが急に振りむいた。「君は誰だ?」  バイロンは答えない。鞭が四たび光った。硬直した肉体をまたぎ、さきを急いだ。三十分しか残されていない!  斜道を急いでいくとき、人声が聞こえた。前方の照明は昼光色だ、紫の微光ではない。彼は一瞬ためらった。そして鞭をポケットにしまった。彼らは忙しく立ち働いているのに相違ない。彼の姿をとくに怪しむことはあるまい。  彼はすばやく踏みこんでいった。大ぜいの作業員が数基の巨大な物質エネルギー変換器のまわりをあちこち動きまわっている。まるでピクミー族のように、いや蟻《あり》のように小さく見えた。部屋の壁には無数のダイヤル類がきらきらと光っている。これを見る人にインフォーメーションをにらんでしめす、いわば十万個の巨眼であるといえる。大きな定期旅客船クラスにもはいりそうなこれだけのサイズの宇宙船となると、小型のティラン宇宙艇《クルーザー》とはずいぶんかってが違っていた。宇宙艇ではエンジンはほとんど自動化されている。しかし、ここでは、都市ひとつの動力をまかなうほども大きなエンジンであり、当然かなりの管理が必要なのである。  機関室の四壁上方に内側へ張りだしている手すりつきのバルコニー、そのひとつにいまバイロンは立っていた。一方の隅《すみ》に小部屋があり、そこに二人の作業員が蜂鳥のように指をこまめに動かしてコンピューターを操作していた。  バイロンはそのほうへ急いだ。その間も幾人かの作業員が彼のわきを通りすぎたが、彼を見向きすらしなかった。彼はドアを押して踏みこんだ。  コンピューターについている二人が振り返った。 「何だ?」一人が言った。「ここへ何しに来たんだ? 自分の持ち場へ帰れ!」男は中尉の山形記章をつけていた。 「聞いてくれ」バイロンが言った。「超原子力エンジンがショートしているんだ。すぐ修理しなければならん」 「待て!」二人目の男が叫んだ。「ぼくはこの男を見たことがあります。そうだ、捕虜の一人です。つかまえて下さい、ランシー」  中尉は飛びあがり、もうひとつのドアから外へ出かかった。バイロンはデスクとコンピューターを飛び越し、その中尉(制御士官)の上衣のベルトをつかんで引きもどした。 「そのとおりだ。ぼくは捕虜の一人、ウィデモスのバイロンだ。しかし、ぼくがいま言ったことはほんとなんだ。超原子力エンジンがショートしている。疑うんだったら、自分で調べてみろ!」  中尉は眼を丸くして、つきつけられた神経細胞鞭を凝視している。中尉はおそるおそる、「それはできません。当直将校かコミッショナーからの命令がないかぎり、できないことになっているんです。『ジャンプ』の計算を変更しなければなりませんし、そうすると数時間遅れるからです」 「じゃ、責任者を呼べ。コミッショナーを呼んでくれ」 「通信器を使ってよろしいでしょうか?」 「そう、大急ぎで!」  中尉の腕が、通信器につながっているラッパ型の通話口のほうへのびた。だが、途中で、急に下へ降り、デスクの一端にならんでいるいくつかのノブのひとつをはっしとたたいた。船内いたるところの隅で、けたたましくベルが鳴った。  バイロンの棍棒が遅すぎた。中尉の手首をしたたかに打つには打ったが。中尉はっと手をひっこめ、さすりながら呻き声をあげた。警報ベルはいんいんと鳴りひびいている。  あちこちの出入口から、護衛兵がバルコニーへと殺到している。バイロンは制御室を飛びだし、左を見、右を見、手すりを飛び越えた。  巨体が飛鳥のように舞いおり、膝を屈してフロアへ着くと、すぐさま彼は横転した。標的になることを避け、できるだけ急速に床の上をころがっていった。耳のすぐ間近に、シューッという短針銃《ニードル・ガン》の針が床をうつやわらかい音がした。だがそのときはもう彼は巨人エンジンのひとつの陰に身をひそめていた。  エンジンの彎曲部の下にかくれ、かがみながら立ってみた。右足に匕首《あいくち》で刺されるような激痛がある。船の外殻にごく近いところだったので人口重力が強く、また飛びおりた距離も大きすぎた。右膝をひどくくじいたのだ。ということは、もうこれ以上逃げられないということだ。勝つのだとすれば、ここからでなければならない。  彼は大声でどなった。「発射待て! おれは武器をもっておらん!」最初に棍棒、つづいて神経細胞鞭を機関室のまん中へ投げとばした。恐ろしい兵器――だがいまは無害のまま、まざまざと、それらはフロアに横たわった。誰からも見えた。 「ぼくは君たちに警告しにきたのだ!」バイロンがどなった。「超原子力エンジンがショートしているのだ。『ジャンプ』したら、みんな死んでしまうぞ! おれはただ、モーターをチェックしてみてくれと頼んでいるだけなんだ。ぼくが間違っていても、数時間の遅れだけだ。もしぼくが正しければ、君たちの生命《いのち》が助かる!」  誰かが叫んだ。「下へ行って、やつを捕えろ!」  バイロンがやっきに叫ぶ――「生命《いのち》を売りとばしたいか? でなかったら聞け!」  たくさんの足音がバイロンの耳にひびいた。慎重な動きの足音だ。足音はしだいに退いていく。そのとき、頭上で物音がした。兵士がひとり、エンジンを伝わって下へ降りてくるのだ。エンジンのかすかに温まった鋼鉄の膚を、まるで花嫁をいたわるように、さすりながら降りてくる。バイロンは待った。まだ両の拳をつかうことができる。  するとそのとき高いところから声が響いた。機械装置をとおした不自然に大きな声だ。広大な機関室のすみずみまで声は通った。「君たちそれぞれの部署へもどれ。『ジャンプ』準備をいったん停止し、超原子力エンジンを点検せよ!」  拡声器から呼びかけているのはアラタップの声であった。やがて、拡声器から命令が流れた。「その若者をわしのところへ連れてこい!」  バイロンは逮捕されるにまかせた。左右から一人ずつ護衛兵が彼を押えた。まるでいまにも炸裂《さくれつ》する爆弾をとりあつかうような慎重さである。ふつうに歩こうとしたが、膝の痛みがひどく、びっこをひいていった。  アラタップは半裸であった。瞳の様子がいつもと違っている。光がなく、のぞき見をするような妙な眼つきで、焦点が合っていない。バイロンは、アラタップがコンタクト・レンズの常用者だったと気がついた。 「君はたいへんな騒動を起こしたね、ファリル」 「宇宙船を救うことが必要だったのです。この護衛兵をさがらせて下さい。エンジンを調べているあいだ、ぼくは何もしようとは思っていません」 「もうしばらくそこにいてもらおう。すくなくとも、機関部員から報告があるまで」  二人は黙ったまま待った。一分二分と時間がじりじりする二人の間を経過していった。やがて、「機関室《エンジン・ルーム》」と読める蛍光レタリングの上にある霜ふりガラスの円に、赤灯がともった。  アラタップが接触《コンタクト》を開いた。「報告したまえ!」  きびきびした、早口の声がひびいてきた。「C列《バンク》にある超原子力エンジンが完全にショートしておりました。ただいま修理中であります」  アラタップが命令した。「『ジャンプ』をプラス六時間として計算し直させよ」  それからバイロンに向かい、冷静に、「君の言うとおりだった」と言った。  アラタップが眼くばせすると、二人の護衛兵は敬礼をし、靴の踵をかちッといわせ、一人ずつものなれた機械的正確さで部屋を出ていった。 「くわしい話をしてくれたまえ、どうぞ」 「ギルブレット・オス・ヒンリアッドは、機関室にいる間に、短絡《ショート》というのはうまい思いつきだと考えたのです。あの人は、自分の行為に責任を負うことができません。したがって、処罰してはならぬと思います」  アラタップがうなずいた。「責任のもてる人でないとは、数年前からそう考えられていた。だから、短絡の点は君とわしの間だけのことにしよう。しかしながら、君が船を救おうとした真意はどこにあるんだろうと、わしはひどく好奇心をそそられた。たしかに君は、大儀のために死を恐れない覚悟なのだろう?」 「大儀? そんなものはありませんよ。反抗世界なんて、そもそもないんですから。前にも言いましたが、ここでも繰り返します。リンゲーンが反抗運動の中心なのです。その点はチェックずみです。ぼくはただ、父を殺した男を捜しだすことに執念をもっていたんです。アーテミジア公女は、気のすすまない結婚から逃げることだけが目的でした。ギルブレットですか? あれはただの気違いです」 「しかし自治領主《アウタルク》はこの雲をつかむような惑星の存在を信じていたよ。わしに座標数値を教えたのだものな! 何ものかの座標と思われるが……」 「自治領主《アウタルク》の説明は狂人の白日夢に根拠があるんです。ギルブレットは二十年前に、その白日夢を見た。それを基にして、自治領主《アウタルク》が、この夢の世界の所在位置として、五つの可能惑星の位置を計算しました。すべてはナンセンスなのです」 「それでもやはり、わしは腑《ふ》に落ちないものがある」 「何です、それは?」 「君はわしをなっとくさせようと、いろいろとたいへんな骨折りをしているね。いったいこれはどうしたことか、わしはいったん『ジャンプ』を敢行すれば、そうしたもろもろの疑問はいっぺんに自分でなっとくがいくと思うのだ。いいかね、こういうことを考えてごらん――わしがこれ以上反抗世界をさがすには及ばないと説得しようとして、君たちがせっぱつまった妙な知恵をしぼりだしたのではないかという疑問だ。一人が宇宙船を破壊しようとする。するとこんどはもう一人が出てきて、宇宙船を救おうとする。もしもほんとうにそんな世界があるものなら、若いバイロン・ファリルだもの、宇宙船を蒸発させるぐらいのことはしかねないだろう。なぜといって、彼は若いし、ロマンチックだ。英雄として死ぬのなら、従容《しょうよう》として死に就くだろうと思うんだ。ところがそうじゃなく、生命《いのち》を賭《と》してまで宇宙船の破壊を食いとめようとした。そして、そのあとがいけない。ギルブレットが狂人だという。反抗世界などないという。そしてわしに、もうこれ以上の惑星捜査はよして、ティランへ帰れという。どうだね、そんなふうに邪推しては、わしという人間は複雑すぎるというのかね?」 「そんなことはありません。あなたの気持は理解できます」 「ところで、君はわれわれの生命を救ってくれたから、汗《かん》の法廷でその点とくに考慮されよう。君は、自分の生命《いのち》も助け、それに君の目的を達する可能性も救ったらしい。いやいや、わしという男は、わかりきったことでもそうかんたんには信じない性分《たち》だ。どれ、われわれはやはり『ジャンプ』はするよ」 「どうぞ、それに異論はありませんよ」とバイロンは答えた。内心の動揺はみせなかった。 「君は冷静だな。君がわれわれのなかに生まれてこなかったのは気の毒だ」  賞賛の意味でこう言ったのだった。アラタップはなおも続けた。「これから君を独房へつれもどすが、いいだろうね? それから勢力場もつける。ふつうの警戒だよ」  バイロンはうなずいた。  バイロンがアラタップといっしょに独房へもどってみると、彼が鞭で麻痺させた護衛兵はもういなかった。しかし医士官はいた。まだ意識不明のまま横臥したギルブレットの姿の上へ、かがみこんで診察していた。 「まだ失神しているのか?」アラタップがきいた。  コミッショナーの声を聞いて、医士官はびっくりして起きあがった。「鞭の影響はすでに薄らいでおります、コミッショナー。しかしこの人は若くはありませんので、まだショックから脱しきれておりません。意識回復するかどうか、ちょっと見当がつきません」  バイロンは恐怖に駆られた。ねじ切られるような痛みも我慢して膝を折り、ギルブレットの肩へやさしく手を差しのべた。 「ギル……」ささやいた。湿った蒼白い顔へ気づかわしそうに見入った。 「どいてくれ、君」医士官がバイロンをにらみつけた。内ポケットから、黒い医師用紙入れとりだした。 「幸い、皮下注射器は折れていないようだ」つぶやいて、ギルブレットの上へ身体をかがめた。無色の液体をみたした注射針をかざした。針が深く刺された。ピストンのプランジャーが自動的に内側へ液体を押していく。医士官が注射器をわきへ置いた。三人は待った。  ギルブレットの眼がちかちかと震え、やがてぽっかりと開いた。しばらくの間、瞳はものを見ず、じっと見開いたままだ。やがて口をついて出た声は弱々しいささやき声であった。「わしは見えないぞ、バイロン。わしは見えないぞ……」  バイロンがまた近よってかがんだ。「大丈夫ですよ、ギル。いいから、楽にしていなさい」 「楽にしているなんかいやだよ」起きあがろうともがいた。「バイロン、彼らはいつ『ジャンプ』するんじゃ?」 「もうすぐ、すぐです!」 「そのときはわしといっしょにいれくれ。わしはひとりで死にとうない……」指を力なく握りしめた。それから弛緩した。頭がくるりとうしろへ垂れた。  医士官が一度かがみこみ、それから背筋をのばした。「遅すぎました。亡くなられました」  バイロンの瞼《まぶた》に涙がにじんだ。「ぼくが悪かった、ギル。だけどあんたは知らなかった。あんたは理解してはくれなかった……」医士官とアラタップにはバイロンの言葉は聞きとれなかった。  バイロンにとっては辛い数時間だった。アラタップは、宇宙空間における遺体埋葬の儀式にバイロンの出席を許してくれなかった。だが彼は知っていた。船内のどこかで、ギルブレットの遺体は原子炉のなかで焼かれ、宇宙空間へ排気ガスとなって放出されたろうことを。そして、そこでは、ギルブレットの肉体を構成していた原子が、恒星間空間の薄い薄い物質のもやと永久に混じあっていくだろうことを。  アーテミジアもヒンリックも儀式に出ているだろう。この二人は理解してくれているだろうか? 彼女は、彼がただ、しなければならなかったことをしたにすぎないということが、わかってくれるだろうか?  医士官が軟骨性抽出液を注射してくれていた。それがバイロンの裂けた靱帯《じんたい》の治癒を促進してくれたのであろう。もう膝の痛みはほとんど感じられないくらいになっていた。だが、治癒したからといっても、それはたかだか肉体的な痛みでしかない。あってもなくとも、無視することのできるものだ。  彼はさっきから、心の底ふかく胸さわぎを覚えていた。  この宇宙船がすでにジャンプを敢行し、こうしている間もやがて、最悪の事態が到来するのではないかしら? いや、すでに到来したのでは?  さっきまで彼は、自分の推理を正しいと信じていた。第四惑星の上でジョンティと対決したとき、心のなかに|かちッ《ヽヽヽ》と響いたあれ、あの推理は正しくなければならないはずだった。だが、はたして、それは正しいのだろうか? 万一、彼の推理が間違っていたら? もしすでに彼らが、反抗運動の心臓そのものに手をのばしていたら? だとしたら、やがて情報は遠くティランに伝えられ、一大宇宙艦隊が集められるだろう。そして彼バイロンは、反抗運動を救うことができたかもしれないときに、愚かにも死を避けることによって、反抗運動を壊滅《かいめつ》させてしまった――この無限の悔恨をいだきつつ処刑されていくのかもしれない……。  バイロンがふたたび文書のこと――あの彼がいつか盗みそこねた文書のこと――を考えはじめたのは、こうした暗澹《あんたん》たる懊悩《おうのう》のさなかであった。  文書ということが、かつて彼の心を占領し、やがてまた忘れられ、消えていった過程はふしぎなものであった。反抗世界という不確かなものをみんなが狂気のように精力的に捜査している。それなのに、神秘につつまれて紛失したあの文書についてはひとつも捜査は行なわれていない。いったいこれはどうしたことであろうか?  力のそそぎ方が狂っていやしないか?  そのときふとバイロンの心に、アラタップがただ一隻で反抗世界へ突入しようとしていることが思いだされた。アラタップのあの自信は何であろうか? ほんとに彼は宇宙船一隻だけで惑星探検を敢行することができるのであろうか?  自治領主《アウタルク》は、文書はすでに何年も前になくなったのだと言った。では、誰がいまそれを所有しているのだろうか?  おそらくティラン人であろう。彼らがその文書をもっており、そこに書かれている秘密の知識によって、宇宙船一隻をもって惑星を破壊すると豪語しているのではあるまいか?  もしそうだとしたら、あれだけの恐ろしい秘密知識――それが何であろうとも――をティラン人がもっているとしたら、反抗惑星がどこにあるというようなことは問題にならない。いや、一つや二つの反抗惑星が存在しているか否かすら、問題にならなくなってしまう!  悩みは深く、時間の経過はすみやかだった。やがて、アラタップがはいってきた。バイロンは立ちあがった。 「問題の恒星に到達できたよ」アラタップが言った。「やっぱりあそこに星があったよ。自治領主《アウタルク》の教えた位置座標は正確だった」 「それで?」 「しかし、惑星捜査のため星を調べる必要はないのだ。われわれの星間航行専門家《アストロゲーター》たちがわしに報告してきたのだが、あの星は今から百万年前足らず以前は新星《ノヴァ》だったのだ。そのとき惑星を伴っていたとしても、すでに破壊されているはずだ。星はいま白色|矮星《わいせい》となっている。惑星をもっているはずがない」  バイロンはアラタップをじっと見つめた。「だとすると――」 「そう、君の意見が正しい。反抗世界というものはないのだ」 [#改ページ]   二十二 そこだ!  アラタップの実際的な人生達観をもってしても、心のなかの痛恨のすべてを払拭《ふっしょく》することはできなかった。しばらくの間、彼は彼自身ではなく、彼の父親へもどっていた。いま、彼もまた、ここ数週間、ひたすらに汗《かん》の敵をもとめて、艦隊をひきいて宇宙空間をさまよってきたのであった。  だが、いまは、卑小で堕落退廃の時代だ。反抗世界という勇ましいものがあってよさそうなのに、それがないという。もう汗《かん》の敵はどこにもないのだ。征服すべき世界は残っていないのだ。彼は一介のコミッショナーにとどまるほかはないであろう。毎日、つまらぬトラブルを処理することに明け暮れ、それ以外に何もすることのない、みじめな卑官にとどまるだろう。  だが恨みは無益の情緒である。恨んだとて何ひとつ達成されはしない。 「そう、君の意見が正しい。反抗世界というものはないのだ」  アラタップはすわりこみ、バイロンにも掛けるように手で所作《しぐさ》をした。「君に話したいことがある」  若者は厳粛な表情でコミッショナーを凝視している。アラタップは、一か月足らず前、この若者に初めて会ったことがあるのを思いだし、ちょっとびっくりした気持であった。若者はいま老成している。一か月という時間のもたらす自然の成長をはるかにこえた成長ぶりである。恐怖心はまったく無くなっている。アラタップは自分を顧みた。ああ、このおれも、いまはもう、完全にかつての強い心がふやけ、堕落しつつあるわい。まったくなんと、われわれティラン人の多くが、陛下の隷属人種のなかの個人個人が好きになっていくことであろうか! ああ、われわれのどんなに多くが、被支配民族個人個人の幸福をねがうように変わっていくことであろうか! 「わしは総督とその娘を釈放するつもりでいる。当然、このほうが政治的にみて理性にかなった措置と思われる。いや、政治的に不可避の措置といってよい。しかし、釈放はいますぐだ、二人を『リモースレス』号へ移乗させたいと思う。君は『リモースレス』号を操縦してくれるかね?」 「ぼくを釈放するというんですか?」 「そうだよ」 「なぜです?」 「君がわしの船を救ってくれ、わしの生命も救ってくれたからだ」 「個人的な感謝の情で、国事における行動を左右されるあんたとも思われませんが」  アラタップはもうすこしで笑いだすところであった。どうやら彼はこの若者が好きになってきたようである。「それなら、もうひとつの理由をあげよう。わしが汗《かん》に刃向かう巨大な陰謀組織の摘発をつづけているかぎりは、君は危険人物であった。しかし、その巨大な陰謀組織のまとまる気づかいがなくなり、わしのかかえているのが、その指導者が死亡したリンゲーンの小徒党でしかないとわかった以上、君はもはや危険人物ではないのだ。むしろ、君の裁判、リンゲーン人捕虜の裁判のほうが危険といえば危険といえるのだ。  裁判はリンゲーンの法廷で行なわれ、したがって、われわれはこれに対して十全の管理を行なうすじではない。裁判ではいやおうなしに、いわゆる『反抗世界』の問題が審議されよう。たとえいわゆる反抗世界なるものは存在しなくとも、ティランの隷属人民の半分がたは、そういった世界がどこかにあるのかもしれないと信じるだろう。火のないところに煙は立たないはずだと思うだろう。われわれは、ティランの隷属人民にそれを中心にして凝結する観念の核を与えることとなる。反抗の理由を与えることになる。将来への希望を与えることになる。これが危険でなくて何であろう。所詮今世紀が明けるまでは、ティラン帝国はまだ完全に帝国内に反抗の芽ばえなしとは言いきれんのだ」 「するとあんたは、ぼくたち全部を釈放するつもりなんですか?」 「完全な釈放というのではない、君たちのうち誰ひとりとして、完全にティラン人に対して忠誠を誓っているものはおらんのだから。われわれは、リンゲーン人とは、われわれのやり方で交渉する。次代の自治領主《アウタルク》は当然|汗《かん》帝国により緊密な紐帯《ちゅうたい》で結びつけられることとなろう。もはや『僚友国家』ではなくなるだろう。したがってまた、リンゲーン人を裁く法廷も、その後は必ずしもリンゲーン法廷でなくともよいようになる。陰謀に加担しておったものは――わしの捕虜もふくめて――ティラン近くの惑星へ追放され、そこでまったく無害な生活を許されるだろう。君は――君はネフェロスへはもどれんだろうな。おそらくもとの牧畜領主《ランチャー》の職位へ復帰することは期待せんがよろしい。一応、リゼット中佐といっしょに、ローディアに置かれることになろう」 「十分に公平です。しかし、アーテミジア公女の結婚はどうなりますか?」 「やめさせて欲しいというんだな?」 「ぼくたち二人は結婚したいと思っているんです。あんたはいつか、ティラン人の結婚問題なども、阻止する方法があるとおっしゃっていましたね?」 「ああ、あれを言ったときは、わしは別にふくむところがあったからだ。何かそんなふるい俚諺《りげん》があったな?『恋人と外交官のウソは許される』とかなんとか……」 「しかし、ひとつ方法があるんです、コミッショナー。汗《かん》にこう申し上げさえすればすむことだと思います――有力な廷臣が汗《かん》の有力な臣従家系と結婚するときは、その廷臣にとくべつの野心があるのかもしれない。反抗運動はなにも野心あるリンゲーン人に限ったことではなく、野心あるティラン人が指導者になることもありうることだと」  アラタップはこんどこそ笑った。「君はまるでわれわれみたいな物の考え方をするね。しかしそれは効《き》かんよ。どうだ、わしの助言が欲しいか?」 「どんな助言でしょうか?」 「無理に自分で結婚してしまうんだ、早くだよ。既成事実はいかなる事情のもとでも元へもどすのがむずかしい。われわれはポハンには別の女をみつけることにするよ」  バイロンはためらっていたが、ようやく手を差しだして、「ありがとうございます」と礼を述べた。  アラタップはその手を握り、「わしはポハンは好かないんだ。だが、もうひとつ君に忘れないでいてもらいたいことがある。けっして野心で一生を誤ってはいけないよ。たとえ総督の娘と結婚しても、君自身けっして総督にはなれんのだから。君はわれわれの望むタイプの人間ではないのだ」  アラタップは、観視《ヴィジ》プレートに映る「リモースレス」号が急速に小さくなっていくのをながめていた。決断を下したことに満足感があった。若者は釈放された。メッセージはすでにサブ・エーテルをとおってティラン惑星へ向かい飛びつつある。アンドロス少佐のやつ、おそらくは卒中を起こすだろう。アラタップをコミッショナーとして馘首《かくしゅ》しようといきりたつ人間は、宮廷にうじゃうじゃいよう。  必要なら、ティランへ行ってもいい。汗《かん》に拝謁して、申し上げることだけは申し上げるチャンスはあろう。事実をすべて説明申し上げれば、キングのなかのキングも、おれのとった措置が万やむをえないことだったとわかっていただけるだろう。陛下のご承認さえあれば、あとは政敵が束になってかかっても、びくともすることではない。 「リモースレス」号は今はもう輝く小点でしかなかった。すでにネビュラから去りかかっている今、アラタップの宇宙船の周囲に見えはじめてきた星くずと区別のつかぬまでに、それは小さくなっていた。  リゼットは、ティランの旗艦がだんだん縮小していくのを、じっと観視《ヴィジ》プレートのなかにながめていた。「あの男、ついにわたくしたちを釈放しましたね! ティラン人もみんな彼のような人間ばかりだったら、わたくしだって彼らの艦隊へ加わりたいですよ。いや、まったくびっくりしましたナ。あの男はまるで、そのイメージにはまりません。彼、わたくしたちの言っていること、聞こえると思いますか?」  バイロンは自動制御装置をセットし、操縦席をくるりと回転させた。「聞こえないですね。もちろんダメですよ。前のように、超空間をとおってわれわれを追跡はできるだろうが、こちらへスパイ光線をあてておくことはできないと思う。ほら、覚えていますか? 彼が最初にぼくらを捕らえたとき、彼らのぼくらについての知識といえば第四惑星で立聞きしたことだけだったでしょう?」  アーテミジアが操縦室へ、唇に指をあてながらはいってきた。「大きな声で話さないで! 父上はいま眠っているらしいのよ。わたしたち、もうすぐ、ローディアへ着くんでしょ、バイロン?」 「一回ジャンプするだけで着けるんだよ、アータ。アラタップが計算しておいてくれたんだ」 「どれ、手を洗ってくるかな」リゼットが気をきかせた。  二人はリゼットが部屋を去るのをながめた。彼女はバイロンの両腕に抱かれた。彼はアーテミジアの額、それから眼へとかるく接吻した。それから彼女の身体へまわした腕へしだいに力がはいっていくにつれ、彼女の唇をもとめ、さがしあてた。キッスはあきらめきれぬ、息をもつかせぬ終わりをもった。「わたしあなたをとっても愛しているわ」彼女が言った。「ぼくは君を、言葉には尽くせないほど愛している」それから二人の間に交わされた睦言《むつごと》は、接吻とおなじくオリジナルなものではなかった。だが同時に、接吻におとらず満ちたりたものではあった。  しばらくの後、バイロンが言った。「君のお父さん、着陸する前に結婚させてくれないかしら?」  アーテミジアがちょっと顔をしかめて、「わたし、父上に、父上が総督だし、この船の船長だということ、それに船にはティラン人はひとりも乗っていないことを説明しようとしたのよ。でもほんとにわからないわ。父上はとても動顛しているの。まるで気がふれたみたいよ、バイロン。すこし眠ったあとで、もう一度頼んでみるわ」  バイロンはふふと笑って、「心配するな。どうせ承知するに決まっているよ」  リゼットがもどってきたらしく、足音が高くなった。「わたくしたち、トレーラーをまだつけておればよかったですね。ここでは深呼吸するスペースもない」リゼットがこぼした。 「なあに、もう二、三時間でローディアへ着くんですよ。もうすぐジャンプになる」 「わかっていますよ」リゼットがいやな顔をした。「そして死ぬまでローディアにいるんでしょう? 不平を言っているわけじゃないんですよ。生きのびたことを喜んでいるんですから。でも、あれだけやって、バカバカしい終わり方ですね」 「終わりなどいつだってなかったんですよ」バイロンがやさしくなじった。  リゼットは顔をあげてバイロンを見、「わたくしたち、初めっから出直すというんですか? ダメですよ、そんなことできっこありませんよ。あなたはできるでしょう、たぶんね。でも、わたくしはダメです。もう年だし、気力がありません。リンゲーンはティランへの隷属へ引きいれられるでしょう。わたくしは二度とリンゲーンを見ることができません。それがいちばんの心残りです。わたくしはリンゲーンに生まれ、あそこで一生暮してきたんですよ。よそへいったなら、半人前でしかありません。しかしあなたは若い。ネフェロスを忘れることができますよ」 「人生には故郷の惑星などというより、ずっと豊かなものがあるんですよ、テドゥア。この事実を認識できなかったことが、過去数世紀のわれわれの一大欠点だったんです。すべての惑星はみんなわれわれの故郷ですよ」 「たぶん、たぶんですね。もし反抗世界があったんでしたら、そう、それでしたら、すべての惑星が故郷ということも言えましょうけれどね」 「反抗世界はあるんですよ、テドゥア」  リゼットが激しく食ってかかった。「冗談を聞く気分じゃないんですよ、バイロン」 「ウソを言っているんじゃない。反抗世界というのはあるんです。ぼくはその位置を知っている。ほんとうは、数週間前にも知っていてもよかったんだ。ぼくたちの誰かが気づいてよかったんだ。ちゃんと事実はそろっていたんだから。事実はみんな、ぼくの心にひびきかかっていて、それでいて思いつかなかった。あの第四惑星で、あんたとぼくとでジョンティをやっつけた瞬間に、それがわかったんです。ほら、あんた覚えていますか? 自治領主《アウタルク》があそこに突っ立ってさ、言ったじゃないですか――自分の援助なしでは、君たち絶対に第五惑星を発見できないって。彼の言葉思いだしましたか?」 「そのとおりにですか? 覚えていません」 「ぼくは覚えている。彼はこう言ったんです。『空間ボリュームは恒星ひとつについて平均七十立方光年の広さがあるのだ。ぼくの助けをかりずに、君たちだけで試行錯誤式にそれを捜したとしたら、どこかの恒星ひとつの十億マイル以内に近づける可能性は、二十五万兆に対して一つとなる。|どの星《ヽヽヽ》であろうとだよ!』そのときですよ、すべての事実がぴんとぼくの心のなかへはまってきたのは。ぼくは何かがかちッと響くものを感じたのです」 「わたくしの心には何も響きません。すこし説明してください」 「どういう意味でそんなことおっしゃるのか、ちっともわからないわ、バイロン」とアーテミジア。  バイロンは言った。「あんたたちにはわからないんですか? ギルブレットがこの二十五万兆分の一という確率の障壁を破ったと考えられるのです。ギルブレットの話というのを覚えているでしょう。流星が衝突し、宇宙船の針路を変えた。数回のジャンプの末に、宇宙船はたしかにある恒星系の以内《いない》にきていた。もしそれがほんとだとすれば、まったくの偶然でしか起こらないことだったんですよ。信じる値打ちもないくらい、とほうもない偶然でしか起こらないことなんですよ」 「といっても、それは狂人の寝言で、反抗世界はやっぱり無いんでしょう?」 「いや、ひとつの条件のもとでは、あるのです。その条件のもとでは、ある恒星系以内に着点する確率は、それほどとほうもないものではなくなってくるのです。しかも、そうした条件は|現存する《ヽヽヽヽ》。条件は、ほんとうは一組の事情の重なりあいなんです。しかもただ一組の事情の重なりあいしかないんです。それがあったればこそ、ギルブレットは恒星系へ到着できたに違いないんです。いや、好むと好まざるとにかかわらず、恒星系へ到着しないではいられないんです」 「それで?」 「あんたは自治領主《アウタルク》の推論を覚えていますか? ギルブレットの宇宙船のエンジンは流星の衝突によっても干渉されなかった。したがって、超原子力の推力も減らなかった。これをいいかえれば、各『ジャンプ』の跳躍距離は変わらなかったのです。ただ各ジャンプの方向だけが変わり、信じられないほどの広さのネビュラ空域の中で、五つの恒星のひとつに宇宙船が到着した――自治領主《アウタルク》はそう言ったのです。しかし、よくこれを考えてみると、これはいただきかねる推論だった」 「でも、他に解釈があるんですか?」 「あるんですよ。推力も、方向も、変わらなかったと解釈するんですよ。推力の方向が干渉されたと考える理由は、よく考えてみると無いんですよ。自治領主《アウタルク》が、推力の方向が変わったかもしれないと言っているのは、ただの憶測なんです。それで、もし宇宙船がはじめの針路のまま進んでいったとしたらどうなるでしょう? 宇宙船ははじめっから、ある恒星系をめざして発射された、だからしてその恒星系へ着いた! だとすれば、確率問題なんかの入りこむ余地ははじめっからなかったのです」 「でも、宇宙船がめざしたその恒星系というのは――」 「ローディアの恒星系だよ。だからギルブレットはローディアへ行った。あんまり簡単なんで、のみこむのがむずかしいでしょう?」  アーテミジアが言った。「でも、それじゃ反抗世界は故郷《くに》の惑星じゃないの! そんなこと不可能だわ」 「どうして不可能なことがあるものか? ローディア惑星のどこかにあるんだ。物を隠すには二つの方法がある。誰もどうしても見つけられないようなところ、たとえば馬の首ネビュラの内部へ隠すこともできる。また、誰も見ようとさえ考えつかないところ、たとえば、はっきり見える眼の前のどこかに置くということもできる。  ギルブレットが反抗世界に着陸してから、彼にどんなことが起こったか、それを考えてみたまえ。ギルブレットは生きたままローディアへ帰還させられた。彼の説明はこうだったね――反抗世界の人たちは、自分たちの世界へあまりに接近しすぎたその宇宙船が、ティラン人に見つかって捜査でもされてはたいへんだというので、船ごとギルブレットをローディアへ返してよこしたんだ、と。しかし、なぜ、ギルブレットは生かしておかれたのだろう? 死んだギルブレットをのせて宇宙船を返しても、同じ目的は達せられたわけじゃないのか? しかも、そのほうが、ギルブレットがしゃべる(結局ギルブレットはもらしてしまったね?)おそれもなく、かえって都合がよかったのではないか?  ここでも、やはりいまの点は、反抗世界がローディア惑星内の内部にあると考えなくては説明がつかない。ギルブレットはヒンリアッド一族だ。宇宙のどこに、ヒンリアッド家の一員の生命をそんなに大切に取りあつかってくれるところがあろう、ローディア以外に?」  アーテミジアの両手が痙攣《けいれん》したように握りしめられている。「でも、あんたのおっしゃることがほんとうだとすれば、父上はずいぶん危険な状態におかれているじゃありません?」 「二十年来危険な状態におかれてきた、と言うべきだね。しかし、たぶん、君の考えるような危険はなかったろうよ。いつかギルブレットがぼくに告白したことがあったが、ディレッタントで、役立たずのお人善しを装うことがいかにむずかしいか! 友達とつきあっているときでも、あるいは自分ひとりだけのときでさえ、そういう演技をつづけなければならないというのは、至難の業だとこぼしていた。もちろん、彼の場合は――可哀そうに! 演技は主として自己を劇化するためだったんだ。彼はほんとうに、仮面の生活そのものを生きてきたわけではなかった。だから彼の本心はすぐ、君といっしょのときはもれた、そうだね、アータ。自治領主《アウタルク》にだって本心をのぞかせた。ぼくとだって、まだつきあってからたいして日数もたっていないのに、ぼくに本心を見せることが必要とさえ考えていたよ。  しかし、もし秘匿の動機が十分に重大なものであれば、完全に仮面の生活を送ることも不可能ではないとぼくは思う。たとえば人は、自分の娘にさえウソをつき、自分の一生の大事の成否が、ティラン人の完全な信頼をえることにかかっているとすれば、その悲願成就を危険にさらすよりは、愛娘《まなむすめ》を政略結婚の犠牲に供することさえ辞さず、なかば狂人のように装って――」  アーテミジアがとつぜんにさえぎった。カサカサにかわいた声だった。「そんな意味にとるなんて、あんまりだわ、バイロン!」 「ほかに意味のつけようはないよ、アータ。彼は二十年の余も総督だった。その間に、ローディアは絶えずティラン人から領地を与えられて強大になっている。それは、ティラン人がローディアは総督にまかせておけば安全だと考えているからだよ。それで父君が二十年間反抗運動を企てて、すこしもティラン人から干渉されなかったというのは、どう見ても父君がまったく害意がないように思われていたからなんだ」 「あなたは憶測をたくましくしているんですよ、バイロン」リゼットが言った。「こういった憶測は、わたくしたちが前にも犯したように、非常に危険です」 「これは憶測ではありませんよ。ぼくは、あんたと二人でジョンティと最後に激論したときに彼に言った――ぼくの父を殺したのは総督ではなくて自治領主《アウタルク》、きさまだと。その理由《わけ》は、ぼくの父は、まかり間違えば処刑されるほどの重大事を総督を信用してうかうかしゃべるほどの愚かものではなかったからだと。だが、ほんとうは、それこそぼくの父の犯した過ちなのです。ぼくもそのときそれは知っていたのです。ギルブレットは、ジョンティが反抗陰謀に加わっていることを、ぼくの父と総督との会談を盗聴して、知ったのです。それ以外は、ギルブレットがそんなことをかぎつけるわけがないのです。  だがしかし、棒は右と左をさす。これにも二つの見方ができる。ぼくたちは、ぼくの父がジョンティと共謀しており、総督の支援をもとめようと骨折っていたとばかり思っていた。だが、そう考えると同じ程度に、いやもっとそれらしい考え方として、父は総督と反抗計画をともに企てていたと考えることもできる。そして父がジョンティの組織のなかでになっていた役割りは、反抗世界の秘密工作員としてジョンティに近づいていたと考えられるのです。彼らが二十年の歳月をついやして慎重にきずきあげた計画が、リンゲーンで時機尚早に対ティラン反乱が蜂起して、めちゃめちゃになるのを防止するために父は骨折っていた、そう考えられるのです。  じゃあんたたちは、ギルブレットが超原子力モーターを短絡《ショート》させたとき、なぜぼくが船を救うのがそんなに重要と思ったか、ききたいんだろう? それはぼくが生命《いのち》が助かりたかったからではない。あのときぼくは、アラタップがぼくを釈放してくれるなどとは夢にも思っていなかった。また、君のためを思ったからでもないよ、アータ。ぼくは総督を救おうとしたのだ。総督はわれわれのなかの重要な人だ。あわれなギルブレットにはそこのところが理解できなかった」  リゼットが首をふった。「すみません。わたくし、おっしゃったことはぜんぶ、とても信じられません」 「信じてよいのじゃ、それは真実《まこと》なのじゃから」まったく別の声がした。すぐドアの外に長身の総督が立っていた。厳粛な眼《まな》ざしをこちらへ向けていた。はっきりと総督の声ではあったが、ふだんの声の調子とはどこか違っていた。きびきびした、確信のある調子だった。  アーテミジアが父のところへ走った。「お父さま! バイロンが言いました――」 「わしも聞いておった」髪をゆっくりと、手を大きく振ってかきあげながら、「しかもバイロンの話はすべて真実《まこと》じゃ。わしはおまえの結婚を強行する気でさえいたのじゃ」  彼女は困惑したように、父親からあとずさりした。「お父さま、お声が別のよう! 父上のそのお声はまるで――」 「わしがおまえの父親ではないかのようだというんじゃろう!」悲しげにつぶやいた。「そう長くはまごつかせないよ、アータ。ローディアへ帰ったら、わしはまたおまえの知っているとおりのわしにもどる。おまえはそうしたわしを受けいれてくれなければならぬ」  リゼットが総督を見つめている。いつもの赤ら顔が髪の毛のように灰色である。バイロンは息をつめてローディアの総督を凝視した。 「こちらへ、バイロン!」ヒンリックが言った。  そしてバイロンの肩に手をおき、「若いお人、わしが君の生命《いのち》を犠牲にしようとしたときがあったのう。将来二度とそういう時機がないとは言えぬ。時が来るまでは、わしは君もアータも保護してやるわけにゆかぬ……。わしは今までどおりのわし以上にはなれんのじゃから。わかってくれるのう?」  互いにうなずきあった。 「不幸にして大きな犠牲が払われた。二十年前、わしは今日のわしのようには、自分の役割りについて非情ではなかった。わしはギルブレットを殺させるべきじゃったが、それができなかった。それをしなかったばっかりに、いま反抗世界の存在があばかれ、わしがその指導者であることが知られてしもうた」 「ですが、知っているのは、ぼくたちだけです」バイロンがなだめた。  ヒンリックは苦渋《くじゅう》の笑《え》みをもらし、「君は若いからそう思うのじゃ。君は、アラタップが君ほどの知恵がないと思っとるのか? 君が反抗世界の所在とその指導者をつきとめた推理のもととなった諸事実は、アラタップも知っておるのじゃ。しかも彼は君におとらぬ推理の能力がある。違いはただ、彼が年をとっておること、それだけ用心深いということ、そして彼が重大な責任を背負っているということだけじゃ。彼は、絶対に確実な証拠を握らなければならぬのじゃ。  君は、彼が同情の心から君を釈放したと思うのか? わしは、彼が君を釈放したのは、前にも一度君を釈放したな――あれと同じ理由からだと信じる。それはただ、わしが今日ここまで導かれてきた同じ道を君もたどり、君が彼をずっと高く、そして遠くまで導いてくれるかもしれないと賭けているからなのじゃ」  バイロンは顔いろを変えた。「じゃ、ぼくはローディアを去らなければなりません」 「いけない。そんなことをしたら致命的じゃ。君がローディアを去らねばならぬ理由はまったくないようじゃ。わしといっしょに滞在しなさい。彼らは確証を得ぬまま、特別の行動には出まい。わしの諸種の計画はほとんど完成しておる。もう一年ちょっと、いや、一年足らずの辛抱じゃ」 「しかし、総督。あなたのお気づきにならない要素がいくつかあります。たとえば文書の件ですが――」 「君のお父さんが捜していた文書のことか?」 「はい」 「君のお父さんは、何もかも知っていられたわけではないのじゃ、坊や。一人の人にあらゆる事実を把握させておくのは安全でない。老|牧畜領主《ランチャー》は、わしの図書室でそれに言及してあることから、たまたま彼ひとりで、そういった文書のあることを発見したのじゃ。わしは彼の炯眼《けいがん》は認める。彼は文書の重大性を見抜いた。しかし、もし彼がわしにそのことを話してくれたら、わしは告げてやったのじゃが――その文書はもう地球には無いのだと……」 「そのとおりです、閣下。わたしは、ティラン人がそれをもっていると確信します」 「しかし、そうではないのじゃ。|わし《ヽヽ》が持っているのじゃ。わしは二十年間もそれを持っている。その文書がきっかけで、反抗世界を始めることになったのじゃ。それは、その文書を見てはじめて、わしはこのことを知ったからじゃ――いったんわれわれが勝ったら、あくまでも勝利を確保していく道があるということを」 「じゃ、それは武器なんですね?」 「大宇宙に比類なき強力武器じゃ。この武器はティラン人のみならず、われわれをも滅ぼす。しかしネビュラの王国集団《キングダムズ》は救ってくれる。そんな武器がなくとも、われわれはおそらく、ティラン人を破ることはできよう。しかし、それでは単に一つの封建独裁制を滅ぼして、別の封建独裁制をもってくることにすぎぬ。しかも、ティラン人に反抗陰謀があったように、われわれにもまた反抗陰謀が生まれよう。われわれも彼らも、ともに旧式な政治システムとして、灰皿のなかへ投げ捨てられねばならぬ。かつて地球にその時機が来たように、成熟の時機が来ているのじゃ。まったく新しい型の政府が生まれでる。銀河系の歴史にかつて試みられたことのない政治体制じゃ。汗《かん》もなく、自治領主《アウタルク》もなく、総督もなく、牧畜領主《ランチャー》もない」 「ではいったい、宇宙空間《スペース》に賭けて、どんなものがあるんですか?」リゼットがとつぜんほえるように言った。 「人民じゃ」 「人民ですって? 人民がどんなにして統治するのですか? 決定をするのに、誰か一人の人間がいなければならないでしょう」 「ちゃんとその方法があるのじゃ。わしは、ひとつの惑星の小さな地域に施行する青写真をもっておるが、これは全銀河系に適用することができる」  総督は笑った。「さあ、子供たち、わしがおまえたちを結婚させてやろうか。もう、どこから苦情のくるわけもあるまい」  バイロンがしっかりとアーテミジアの手を握った。彼女はバイロンへほほえみかけている。 「リモースレス」号が、ただ一回のあらかじめ計算された「ジャンプ」を敢行したとき、バイロンもアーテミジアも、胸のあたりに奇妙な痛みを覚えた。 「結婚の式をお始めになる前に」とバイロンが言った。「いまおっしゃった青写真のことをすこし教えてくれませんか? そうすればぼくの好奇心が満足させられ、はっきりとアータへ心を集中することができるでしょうから」  アーテミジアが声をだして笑った。「お父さん、教えておやりになったほうがいいわ。わたし、気の散っている花婿なんて我慢できないわ」  ヒンリックが笑った。「わしは文書を暗誦しておる。聞きなさい」  観視《ヴィジ》プレートにローディアの太陽が輝いて映っている。ヒンリックはつぎのような言葉で文書を復唱していった。これらの言葉は、ただひとつの惑星を除いて、銀河系におけるどの惑星よりも古いものであった。――いや、ずっとずっと古いものであった。 「『われら合衆国の人民は、いっそう完全な連邦を形成し、法の正義を樹立し、国内の静謐《せいひつ》を保障し、国防に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のうえに自由の祝福の続くことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定する……』」 (完) [#改ページ]  訳者あとがき  本篇はアイザック・アシモフ Isaac Asimov の代表的|宇宙活劇《スペース・オペラ》 The Star Like Dust(一九五一年)の全訳である。著者アシモフについてはご存知の方も多いと思われるが、現代アメリカの代表的なSF作家である。名前が示すようにロシアに生まれ、三歳の時、一家とともにアメリカに移住し、帰化した。ブルックリンのハイスクールを卒業してコロンビア大学に入り、生物学を専攻し、後に博士号もとっている。本来の生化学に加えて、天文学に至るまで自然科学にひろく通じ、これを基盤としてロボットテーマ、未来史テーマを駆使し、SFの新分野をきりひらいた。  本篇の原題は暗黒星雲の意味ではなく、広大な宇宙空間にうかぶ塵のような星々の意味で、SF作家アシモフの哲学をシンプライズする。出典は本篇の主人公バイロン・ファリルが少年時代につくったという詩、「星は塵のように/わたしをめぐっている……」から来ている。だが出版者側の意向にしたがって、「暗黒星雲のかなた」としておいた。  いまごろ(一月二十一日)郊外の空気のすんだ夜空をあおぐと、南天を斜めに天の川が流れている(もっとも東京の空は濁っていて見えないのは残念だが)。天の川の右下あたりにオリオン座が見える。だが、オリオン座は全貌をあらわしているのではない。「天空の穴」ともいうべきオリオン大星雲、ことに|馬の首星雲《ホースヘッド・ネビュラ》が、意地悪く、スカートのようにその奥のものを隠している。SF作家は星雲の彼方をのぞいてみた。あのうしろには、驚くなかれ、無数の格好のよい惑星がむらがっており(恒星は星雲の深部に誕生し、また恒星はほとんどかならず惑星をともなう、といわれる)、われわれと同じ人類が住んでいた――というのが、まずこの壮大な物語の基本的設定である。  さて人類は地球で発生したが、今世紀末(らしい)に原爆戦がおこり、地球は絶滅にひんする。それから千年ばかりたったころ、人類は続々と銀河系に散らばっており、いくつかの王国をつくり、あいもかわらず権力闘争(ただしこのころになると惑星単位である)に明け暮れている。原爆戦後も戦争は際限なくくりかえされる。まことに闘争は人間という生物の未来永劫に変わらない業《ごう》なのであろうか?  秒速十一・十七キロという地球脱出速度でいっても何億年もかかり、光速でとんでも何百年もかかる遠い距離を、どんな宇宙航法でいったのであろうか? だがその心配は無用である。SF作家はいろいろの発明工夫をして、人類を宇宙の果てに送りこんでいる。超原子力エンジンもジャンプも、アシモフの新発見ではないであろうが、とにかくこの物語ではこの二方法がつかわれている。SF作家の想像の産物がつぎつぎに現実のものとなっていく技術の加速度的進歩から考えれば、いまから千年後に、超原子力エンジンやジャンプが現実のものとならないとは、おそらくどんな人だって言いきれまい。  超原子力エンジンについては説明はないが、ジャンプについては巧みな説明があり、わたしにかぎらず、おそらく大多数の素直なSF読者は、体よくだまされて、これを真実と思いこんでしまうだろう。それでよいのだと思う。また一流のSF作家となると、筆力のせいもあろうが、それくらいの疑似科学的説得力があり、読者のほうも騙されること覚悟で、興奮し、溜飲をさげる。これは他の文学の世界には見られないSFもの独得の作家対読者の暗黙のコントラクトであり、奇異な現象ではあるが、あえて言えばSF読者の特権である。  ジャンプにかぎらず、この小説には多くのSF的道具立てが華やかに登場してくるが、すべて驚異的でありながら、なるほどと思わせるだけの説明がさりげなく施されており、空想をあまり飛躍させず、ファンタスティックなものをつとめて排除しているので、この小説はきわめて自然にわれわれの理解の腑に落ちる。この点、卑近な日常生活を題材にしたある種の小説などよりも、ずっと分りやすく、それが本篇の評価を、オーソドックスであり、すっきりしたスペース・オペラとして定位づけている所以《ゆえん》でもあろう。  この小説のもうひとつの特徴は、登場人物がすべてわれわれ地球人と同じ体格、観念、感情をもっていることである。つまり非SF小説におけるヒューマン・ドラマがそのまま宇宙空間へ移された感じである。ここでは珍奇な生物や畸形的な人間類似の知性生物は登場しない。この点が多くのファンタスティックなスペース・オペラものと大いに異なる。千年二千年後のわれわれ人類の姿、環境は、ひかえめに考えればおそらくこのようなものであろうかと、素直に読者の想像力にうったえて成功している所以であろう。と同時に、われわれの度肝をぬくような、いわゆるSF的神秘性や謎はない。もともとSF小説といえども広く一般読者をめざすものであるから、われわれの想像力の限界を超えたような作者の独走的飛躍は、小説として成りたたない。この辺は並々ならぬSF作家の苦心が存するところである。アシモフのこの作品は、地球を出発点とせず、のっけからわれわれを馬の首星雲へつれていきながら、われわれのごく一般的生活感情のうえに、SF的珍奇性を適度にないまぜて作品を盛りあげている。これが本篇の成功した主要因であろう。  最後に、なんといってもこの小説の魅力は、アシモフらしいプロットの緻密さとスリル、意外性、スカッとした最終団円の見事さである。もともとスペース・オペラは、ミステリ、西部劇などと同じく、このスカッとして後味のよさをたのしむ心理的清涼剤として発達していったものである。われわれの眼が宇宙へ開かれるにつれ、小説の舞台が一躍地球外へとんだわけであるが、複雑でしんどい日常生活のなかで、何かすっきりした心理的解放剤をもとめるのは現代人の自然の欲求であり、それを小説のなかで選ぶとすれば、さしずめスペース・オペラはそのもっとも新鮮な一形式というべきであろうか。あえてこの一篇を読者の嗜好へ提供する所以である。  アシモフの作品はこのほかに「宇宙気流」「ファンデーション」、またロボットを扱った短編集「われはロボット」、長編「鋼鉄都市」「裸の太陽」など多数あり、また、自然科学の啓蒙書として「原子の内幕」「空想天文学入門」「空想自然科学入門」があることをつけ加える。