1Q84 〈ichi-key-hachi-yon〉 a novel BOOK 3 〈10月-12月〉 目次 第1章 牛河 意識の遠い縁を蹴るもの 11 第2章 青豆 ひとりぼっちではあるけれど孤独ではない 34 第3章 天吾 みんな獣が洋服を着て 52 第4章 牛河 オッカムの剃刀 72 第5章 青豆 どれだけ息をひそめていても 89 第6章 天吾 親指の疼きでそれとわかる 102 第7章 牛河 そちらに向かって歩いていく途中だ 128 第8章 青豆 このドアはなかなか悪くない 149 第9章 天吾 出口が塞がれないうちに 168 第10章 牛河 ソリッドな証拠を集める 190 第11章 青豆 理屈が通っていないし、親切心も不足している 212 第12章 天吾 世界のルールが緩み始めている 230 第13章 牛河 これが振り出しに戻るということなのか? 249 第14章 青豆 私のこの小さなもの 268 第15章 天吾 それを語ることは許されていない 282 第16章 牛河 有能で我慢強く無感覚な機械 306 第17章 青豆 一対の目しか持ち合わせていない 328 第18章 天吾 針で刺したら赤い血が出てくるところ 343 第19章 牛河 彼にできて普通の人間にできないこと 373 第20章 青豆 私の変貌の一環として 399 第21章 天吾 頭の中にあるどこかの場所で 423 第22章 牛河 その目はむしろ憐れんでいるように見える 454 第23章 青豆 光は間違いなくそこにある 471 第24章 天吾 猫の町を離れる 480 第25章 牛川 冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる 491 第26章 青豆 とてもロマンチックだ 516 第27章 天吾 この世界だけでは足りないかもしれない 535 第28章 牛河 そして彼の魂の一部は 553 第29章 青豆 二度とこの手を放すことはない 569 第30章 天吾 もし私が間違っていなければ 574 第31章 天吾と青豆 サヤの中に収まる豆のように 582 1Q84 〈ichi-kew-hachi-yon〉 a novel BOOK 3 〈10月-12月〉 装頼 新潮社装幀室 装画 (C) NASA / Roger Ressmeyer / CORBIS 第1章 牛河 意識の遠い縁を蹴るもの 「煙草は吸わないでいただけますか、牛河さん」と背の低い方の男が言った。  牛河はデスクをはさんで向かい合っている相手の顔をしばし眺め、それから自分の指に挟まれたセブンスターに目をやった。煙草には火はついていない。 「申し訳ありませんが」と男はあくまで儀礼的に言い添えた。  そんなものをどうして自分が手にしているんだろうという戸惑った表情を、牛河は浮かべた。 「ああ、これはどうも。いけませんね。もちろん火なんかつけません。自分でも知らないうちに手が勝手に動いてしまうんです」  男は顎を一センチほど上下させたが、視線はみじんも揺らがなかった。その焦点は牛河の目に固定されたままだ。牛河は煙草を箱に戻し、抽斗《ひきだし》にしまった。  髪をポニーテイルにした背の高い男は戸口に立ち、ドアの枠に触れるか触れない程度に軽くもたれて、壁についたしみを見るような目で牛河を見ていた。気味の悪い連中だと牛河は思った。その二人組と会って話をするのは三度目だが、何度会っても同じように落ち着かない。  それほど広くはない牛河のオフィスにはデスクがひとつあり、背の低い坊主頭の男は牛河の向かい側に座っていた。口をきくのはこの男の役目だ。ポニーテイルは終始沈黙を守っている。神社の入り口に据えられた狛犬《こまいぬ》のように身動きひとつせず、ただ牛河の顔を見ている。 「三週間になります」と坊主頭は言った。  牛河は卓上カレンダーを手に取り、そこにある書き込みを確かめてから肯いた。「そのとおりです。前にお目にかかってから、今日でちょうど三週間になります」 「その間あなたから一度も報告を受けていません。前にも申し上げたと思いますが、一刻を争う事態です。時間の余裕はないんですよ、牛河さん」 「よくわかっておりますよ」と牛河は煙草のかわりに金色のライターを指でいじりまわしながら言った。「ぐずぐずしている暇はない。それは重々承知しております」  坊主頭は牛河の話の続きを待っていた。  牛河は言った。「ただですね、私としては話をあんまり小出しにしたくないんです。あっちをちょっと、こっちをちょっとというのは好きじゃない。全体像があるところまで見えて、いろんなものごとが繋がって、その裏がとれるところまでいきたいんです。話が生焼けだと無用の面倒を招きかねません。勝手なことを言うみたいですが、それが私流のやり方なんですよ、穏田《おんだ》さん」  オンダと呼ばれた坊主頭の男は冷ややかな目で牛河を見ていた。その男が自分に対して好い印象を持っていないことを牛河は知っていた。しかしそのことはとくに気にならなかった。記憶している限り、生まれてこの方誰かに好印象を持たれたことは一度もない。彼にとってはいわばそれが通常の状態だった。親にも兄弟にも好かれなかったし、教師にも同級生にも好かれなかった。妻にも子供にも好かれなかった。もし仮に誰かに好感を持たれたら、それはいささか気になるかもしれない。しかし逆は平気だ。 「牛河さん、こちらとしてもできることなら、あなたの流儀を尊重したいところだ。また実際に尊重してきたはずです。これまではね。しかし今回に限っては話が別です。すべての事実が出そろうまで待っているような余裕は、残念ながら我々にはありません」 「そうおっしゃいますがね、穏田さん、あなた方だって今まで私の連絡をのんびりと何もせずに待っていたわけではないでしょう」と牛河は言った。「私が動くのと並行して、あなた方はあなた方であちこち手を打っておられたはずだ。そうじゃありませんか?」  穏田はそれには返事をしなかった。彼の唇は水平に結ばれたままだった。表情も揺らがなかった。しかし自分の指摘が的を外していなかったことが、牛河には手応えでわかった。彼らは組織をあげてこの三週間、おそらく牛河とは違うルートで一人の女の行方を追っていた。しかしこれという成果を上げられなかった。だからこそこの気味の悪い二人組が、再びここまで出向いてきたのだ。 「蛇の道はヘビっていいます」と牛河は両手の手のひらを広げ、楽しい秘密を打ち明けるように言った。「何を隠そう、私がそのヘビです。このとおり見かけはよくありませんが、鼻だけはききます。微かな匂いをどんどん奥の方までたどっていくことができます。しかし何しろもともとがヘビですから、自分のやり方で、自分のペースでしか仕事ができません。時間が大事なことはよくわかっておりますが、もう少しだけ待って下さい。我慢していただかないと元も子もなくしかねない」  牛河の手の中でライターが動き回るのを、穏田は辛抱強く見ていた。それから顔を上げた。 「これまでにわかっていることを部分的にでも教えていただけますか。そちらの事情もわかりますが、少しでも具体的な成果を持って帰らないと、上が納得しません。我々としても立場がない。それに牛河さん、あなたの置かれた立場だって決して心穏やかなものではないはずですよ」  この連中も追い詰められているのだと牛河は思った。彼ら二人は格闘技に優れていることを評価され、抜擢されてリーダーのボディーガードをつとめていた。にもかかわらず二人の目の前でリーダーは殺害されてしまった。いや、殺されたという直接の証拠はない。教団内にいる何人かの医師が遺体を検分したが、外傷らしきものはどこにも見いだせなかった。ただ教団内の医療施設には簡単な機器しかない。また時間の余裕もなかった。司法解剖で専門医が徹底的に調べれば、あるいは何か発見はあったかもしれない。しかし今となってはもう遅い。遺体は既に教団内で秘密裏に処理されてしまった。  いずれにせよリーダーを護れなかったことで、この二人の立場は微妙なものになった。彼らは今のところ、消えた女の行方を追う役目を与えられている。草の根をわけても女を見つけ出せという命令を受けている。しかしまだ実のある手がかりがつかめないでいる。彼らはセキュリティーやボディーガードの仕事に関してはそれなりの技能を身につけているが、行方をくらませた人間を追跡するためのノウハウは持ち合わせていない。 「わかりました」と牛河は言った。「これまでに判明したことを、いくつかお話ししましょう。そっくりとはいきませんが、部分的になら話せます」  穏田はしばらく目を細めていた。それから肯いた。「それでけっこうです。我々にわかっていることも少しはあります。あなたはそれを既に知っているかもしれないし、まだ知らないかもしれない。お互いの知識をわけあいましょう」  牛河はライターを下に置き、デスクの上で両手の指を組み合わせた。「青豆《あおまめ》という若い女性がホテル?オークラのスイートルームに呼ばれ、リーダーの筋肉ストレッチングをおこなった。九月の初め、都心に激しい雷雨のあった夜のことです。彼女は別室で一時間ほど施術をしてから引き上げ、あとにはリーダーが眠っていた。二時間ばかりそのままの姿勢で寝かせておいてください、と女は言った。あなた方は言われた通りにした。ところがリーダーは眠っていたのではなかった。そのときにはもう亡くなっていた。外傷は見当たらない。心臓発作のようにも見える。しかしその直後に女は消えた。アパートも前もって引き払っている。部屋はもぬけの殻、すっからかんになっています。ジムにも翌日には辞表が届いている。すべては計画的に進められていたわけだ。となると、それは単なる事故ではなくなってくる。その青豆さんがリーダーを意図して殺害したと考えざるを得なくなる」  穏田は肯いた。そこまでに異論はない。 「あなた方の目的はことの真相をつきとめることにある。そのためにはなんとしても女を捕まえなくてはならない」 「青豆という女性は本当にあの方を死に至らしめたのか、もしそうだとしたら、そこにはどんな理由なり経緯があったのか、それを知る必要があります」  牛河は机の上で組まれた自分の十本の指に目をやった。見慣れないものを観察するみたいに。それから目を上げて相手の男を見た。 「あなた方は既に青豆さんの家族関係をチェックされた。そうですね? 家族揃って『証人会』の熱心なメンバーだ。両親はまだ元気に勧誘活動を続けている。三十四歳になる兄は小田原にある本部に勤務し、結婚して子供が二人いる。奥さんもやはり熱心な『証人会』の信者です。家族の中ではこの青豆さんだけが『証人会』を離れ、彼らに言わせれば『背教』し、従って家族からは絶縁されています。もう二十年近く、この家族が青豆さんと接触した形跡は見当たりません。彼らが青豆さんをかくまうという可能性はまず考えられません。この女性は十一歳のときに自ら家族との絆を断ち切って、それ以来おおむね独力で生きてきました。叔父さんの家に一時的にやっかいになったが、高校に入る頃には事実上自立しています。たいしたものです。強い心を持った女性だ」  坊主頭は何も言わなかった。それは彼も既に摑んでいる情報なのだろう。 「この一件に『証人会』がからんでいるとはまず考えられません。『証人会』は徹底した平和主義、無抵抗主義で知られています。彼らが教団ぐるみでリーダーの命を狙うなんてことはあり得ない話です。それには同意していただけるでしょうね」  穏田は肯いた。「今回の出来事には『証人会』は絡んでいない。それはわかっています。念のために彼女の兄に話を聞きました。<傍点>念には念を入れて、ということです。しかし彼は何も知りませんでした」 「念には念を入れて、爪を剥いだんですか?」と牛河は尋ねた。  穏田はその質問を無視した。 「もちろん冗談です。詰まらない冗談です。そう怖い顔をしないで下さいな。とにかくその方は青豆さんの行動についても、行方についても何ひとつ知らなかった」と牛河は言った。「私は根っからの平和主義者ですから、手荒い真似はいっさいしませんが、それくらいはわかります。青豆さんは家族とも『証人会』ともまったく関わりがありません。とはいえ、これはどう考えても青豆さんの単独行動ではない。一人でこんなややこしいことはできっこありません。巧妙にセッティングが行われ、彼女は定められた手順に従って冷静に行動しています。姿のくらまし方も神わざのようだ。人手と金がふんだんにかけられています。青豆さんの背後にいる誰かが、あるいは組織が、何らかの理由でリーダーの死を強く求めていた。そのために準備万端を整えた。その点についても我々は意見を共にできるのでしょうね?」  穏田は肯いた。「おおむねのところは」 「ところがそれがどのような組織なのか、とんと見当がつかない」と牛河は言った。「彼女の交友関係みたいなものも、もちろん調査なさいましたよね?」  穏田は黙って肯いた。 「ところがどっこい、彼女には取るに足る交友関係なんてものはありません」と牛河は言った。 「友だちもいないし、どうやら恋人だっていないようだ。職場でのつきあいはいちおうありますが、いったん職場を離れたら誰とも個人的にはつきあっていません。少なくとも私には、青豆さんが誰かと親しく交際していたという形跡を探り当てられなかった。若くて健康的で、見た目も悪くない女性なのに、なんででしょうね?」  牛河はそう言って、戸口に立ったポニーテイルの男を見た。彼はさっきから姿勢も表情もまったく変えていなかった。もともと表情がないのだ。変えようもない。この男には名前があるのだろうか、と牛河は思った。もしなかったとしてもとくに驚きはしない。 「あなた方二人はその青豆さんの顔を実際に目にした唯一の人間です」と牛河は言った。「どう思いますか? 彼女には何か特別な点は見受けられましたか?」  穏田は小さく首を振った。「おっしゃるように<傍点>それなりに魅力的な若い女性です。しかし人目を惹く美人というほどでもない。物静かで落ち着いています。自分の技術には確かな自信を持っているように見受けられました。しかしそれ以外にとくに注意をひかれる点はありませんでした。外見の印象がどうにも希薄なのです。顔の造作の細部を思い出すことが、うまくできません。不思議なくらい」  牛河はもう一度戸口のポニーテイルに目をやった。ひょっとして何か言いたいことがあるかもしれない。しかし彼には口をきく気配はなかった。  牛河は坊主頭を見た。「あなた方はもちろん、ここのところ数ヶ月の青豆さんの電話の通話記録も調べられたんでしょうね?」  穏田は首を振った。「そこまではまだやっていません」 「お勧めします。こいつは是非やってみるべきです」と牛河は笑みを浮かべて言った。「人はいろんなところに電話をしますし、いろんなところから電話がかかってきます。電話の通話記録を調べるだけで、人の生活パターンはおのずと見えてきます。青豆さんの場合も例外ではありません。個人の通話記録を手に入れるのは簡単じゃありませんが、やってやれないことではない。ほら、なんといっても蛇の道はヘビですから」  穏田は黙って話の続きを待った。 「それで青豆さんの通話記録を読み込んでみると、いくつかの事実が判明しました。女性としちゃきわめて珍しいケースですが、青豆さんは電話での会話がそれほど好きではないらしい。通話回数は少ないし、通話の時間もあまり長くありません。たまに長いものも混じってますが、あくまで例外的です。ほとんどは勤務先との通話ですが、彼女は半ばフリーランスのような立場にいたので、パーソナルの仕事もしています。つまりスポーツ?クラブのカウンターを通さずに、個人のクライアントと直接交渉して予定を組むわけです。そういう電話もよくあります。見たところどれも疑わしいものではありません」  牛河はそこで間を取り、指に付いた煙草の脂《やに》の色をいろんな角度から眺め、煙草のことを考えた。頭の中で煙草に火を点け、煙を吸い込む。そして吐き出す。 「ただし、ふたつだけ例外があります。ひとつは警察に二度ばかり電話をかけていることです。とはいっても110番じゃない。警視庁新宿署の交通課です。向こうからも何度か電話がかかってきています。彼女は車を運転しませんし、警官は高級スポーツ?クラブの個人レッスンなんてまず受けません。だからたぶんその部署に個人的な知り合いがいたのでしょう。誰だかはわかりません。もうひとつ気になるのは、それとは別に、ある正体不明の番号と何度か長話をしていることです。先方から電話がかかってきます。こちらからは一度もかけていません。この番号はどうやってもたどれませんでした。もちろん名前を公にしないように細工をした電話番号はあります。しかしそういうのも、手を尽くせばたどれます。しかしこの番号に関しては、どれだけ調べても名前が出てきません。<傍点>がちがちに鍵をかけられているんです。普通ではこんなことはできません」 「つまりその相手は普通ではないことができる」 「そのとおりです。まず間違いなくプロが絡んでます」 「べつのヘビ」と穏田は言った。  牛河は手のひらで禿げたいびつな頭をさすり、にやりと笑った。「そのとおりです。べつのヘビだ。それも相当に手強いやつです」 「しかし少なくとも彼女の背後にプロが噛んでいるらしいということは、だんだんわかってきた」と穏田は言った。 「そういうことです。青豆さんには何かの組織がついている。そしてその組織は素人が片手間にやっているようなものではありません」  穏田は瞼《まぶた》を半ば閉じ、その下からしばらく牛河を眺めていた。それから後ろを振り向き、戸口に立っているポニーテイルと視線を合わせた。ポニーテイルは話が理解できていることを示すために小さく一度肯いた。穏田は再び牛河の方に目をやった。 「それで?」と穏田は言った。 「それで」と牛河は言った。「今度はこちらがうかがう番です。あなたがたには何か心当たりみたいなものはないんですか? あなたがたのリーダーを抹殺しようとする可能性を持つ、団体なり組織なりのようなものが?」  穏田は長い眉をひとつに寄せた。鼻の上に三本のしわが寄った。「いいですか、牛河さん、よく考えてみてください。我々はあくまで宗教団体です。心の平穏と、精神の価値を追求しています。自然と共に生き、農作業と修行に日々励んでいます。いったいどこの誰が我々を敵と見なしたりするのですか? そんなことをしていったいどんな利益があるのですか?」  牛河は曖昧な笑みを口の脇に浮かべた。「どこの世界にも狂信的な人間というのはいます。狂信的な人間がどんなことを考えつくかなんて、誰にもわかりゃしません。そうじゃありませんか?」 「心当たりというようなものは、我々の側にはまったくありません」、穏田はそこに込められた皮肉を無視して無表情に答えた。 「『あけぼの』はいかがです? あそこの残党がまだそのへんをうろうろしているということは?」  穏田はもう一度、今度はきっぱりと首を振った。あり得ないということだ。彼らは「あけぼの」関係者を後顧の憂いのないように叩き潰したのだろう。おそらくあとかたもなく。 「いいでしょう。あなた方にも心当たりはない。しかし現実問題としてどこかの組織があなたがたのリーダーの命を狙い、それを奪った。とても巧妙に手際よく。そして煙のごとく空中にぽっと消えてしまった。こいつは隠しようのない事実です」 「そして我々はその背景を解き明かさなくてはならない」 「警察とは無関係に」  穏田は肯いた。「それは我々の問題であって司法の問題ではない」 「けっこうです。それはあなたがたの問題であって司法の問題ではない。話ははっきりしている。わかりやすい」と牛河は言った。「それからもうひとつうかがっておきたいことがあります」 「どうぞ」と穏田は言った。 「教団内で何人くらいの人間がリーダーが亡くなったことを知っているのでしょう?」 「我々二人が知っています」と穏田は言った。「遺体の搬送を手伝った人間がほかに二人います。私の部下です。教団の最高幹部五人ばかりが知っています。それだけで九人になります。三人の巫女にはまだ教えていませんが、早晩わかるはずです。そばに仕えていた女性たちですから、長くは隠しきれません。それから牛河さん、もちろんあなたが知っている」 「全部で十三人」  穏田は何も言わなかった。  牛河は深いため息をついた。「正直な意見を申し上げてよろしいですか?」 「どうぞ」と穏田は言った。  牛河は言った。「今更こんなことを言っても始まらないでしょうが、リーダーが亡くなっていることがわかった時点で、あなた方は即刻警察に連絡するべきだったんです。何はともあれその死を公にするべきだった。そんな大きな事実はいつまでも隠しおおせられるものではない。十人以上の人間が既に知っている秘密なんて、もはや秘密ですらありません。あなた方はそのうちにのっぴきならない立場に追い込まれかねませんよ」  坊主頭は表情を変えなかった。「それを判断するのは私の仕事ではありません。与えられた命令に従うだけです」 「それではいったい誰が判断を下すのですか?」  返事はない。 「リーダーに代わる人物ですか?」  穏田はやはり沈黙を守った。 「いいでしょう」と牛河は言った。「あなた方はとにかく上にいる誰かから指示を与えられて、リーダーの死体を秘密裏に処理した。あなた方の組織の中では上からの命令は絶対だ。しかし司法の側に立って見れば、それは明らかに死体損壊罪にあたります。けっこうな重罪です。それはもちろんご存じですね」  穏田は肯いた。  牛河はもう一度深いため息をついた。「前にも申し上げたことですが、もし万が一警察と交錯するような事態になっても、リーダーが亡くなったことについては、私はなんにも知らされてなかったことにしておいてくださいな。刑事罰に問われるような目にはあいたくないもので」  穏田は言った。「牛河さんはリーダーの死については何も知らされていません。外部の調査員として我々の依頼を受け、青豆という女性の行方を捜索しているだけです。法律に反したことは何もしていない」 「それでけっこうです。私は何も聞いていない」と牛河は言った。 「できることなら我々としても、リーダーが殺害されたことを外部の人間であるあなたに教えたくはなかった。しかし青豆の身辺調査を行ってゴー?サインを出したのは牛河さん、あなただし、あなたは<傍点>既にこの一件にかかわってしまっている。彼女を捜索するにあたってあなたの助力が必要です。そしてあなたは口が堅いということになっている」 「秘密を守ることは私の仕事の基本中の基本です。心配することはないです。話が私の口から外に漏れるようなことは絶対ありません」 「もしその秘密が漏れて、情報の出所があなたであることがわかったら、何かと不幸なことになります」  牛河はデスクの上に目をやり、そこに置かれたむっくりとした十本の手の指をもう一度眺めた。それが自分の手の指であることをたまたま発見して驚いているというような表情で。 「何かと不幸なこと」と牛河は顔を上げて相手の言葉を繰り返した。  穏田は僅かに目を細めた。「リーダーが亡くなられたことは、何があろうと隠しおおさなくてはなりません。そのためには手段を選べない場合もあります」 「秘密は守ります。そいつについてはきっちり安心していてください」と牛河は言った。「我々はこれまで協力してうまくやってきました。私はあなたがたが表立ってやりにくいことをいくつか、裏に回って引き受けてきました。時としてきつい仕事ではありましたが、その報酬は十分ちょうだいしました。口にはしっかりと二重にファスナーがかかっております。信仰心みたいなものはさっぱりありませんが、亡くなったリーダーには個人的にお世話になった身です。だから持てる力を傾注して青豆さんの行方を捜索しています。その背景を探り当てようと、これ努めております。そして<傍点>いいとこまでいきかけているんです。ですからもうちっとこらえて待ってくださいな。遠からず良いニュースをお届けできるはずです」  穏田は椅子の中でほんの少し姿勢を変えた。戸口のポニーテイルもそれに呼応するように脚の重心を移し替えた。 「あなたが明らかにできる情報は、今のところそれくらいのものですか?」と穏田は言った。  牛河は少し考えた。それから言った。「さっきも言ったように、青豆さんは警視庁新宿署交通課に二度ばかり電話をかけています。先方からも何度か電話がかかってきています。相手の人物の名前まではわかりません。なにしろ警察署ですから、まともに尋ねたところで教えてくれやしません。しかしそのとき私のこの不細工な頭にきらっとひらめくものがあったんです。警視庁新宿署交通課には何か覚えがあるぞってね。いや、ずいぶん考えましたよ。いったい警視庁新宿署交通課にどんな覚えがあるんだろう。何が私の惨めな記憶の縁にひっかかっているんだろうってね。思い出すのにけっこう時間がかかりました。歳をとるのはいやですね。歳をとると記憶の抽斗の滑りが悪くなるんです。昔は何だってすぐにすらっと出てきたものですが。でも一週間ばかり前のことですが、それがなんだったかやっとこさ思い出せました」  牛河はそこで口をつぐみ、芝居がかった笑みを浮かべ、坊主頭の顔をしばらく見ていた。坊主頭は我慢強く話の続きを待った。 「今年の八月のことですが、警視庁新宿署交通課の若い婦人警官が、渋谷の円山町あたりのラブホテルで誰かに絞殺されたんです。真っ裸で官給品の手錠をはめられてね。もちろんこいつはちょっとしたスキャンダルになりました。で、青豆さんが新宿署の誰かさんと何度か電話で話をしたのは、その事件が起こる前の数ヶ月に集中しています。当然ながらその事件のあと通話は一度もありません。どうです、偶然の一致にしちゃできすぎていませんか?」  穏田はしばらく黙っていた。それから言った。「つまり、青豆が連絡をとっていたのは、その殺された婦人警官ではないかと」 「中野あゆみっていうのが、その警官の名前です。年は二十六歳。なかなか愛嬌のある顔をしています。父親も兄も警官という警察一家です。成績もけっこう優秀だったようだ。警察はもちろん必死で捜査にあたっていますが、犯人はまだ不明のままです。こんなことをうかがうのは失礼かもしれないが、その件についてひょっとして何かご存じのことはありませんかね?」  穏田はついさっき氷河から切り出してきたような硬く冷えきった目で牛河を睨んだ。「おっしゃる意味がよくわかりませんね」と彼は言った。「我々がその事件に関与しているかもしれないと考えておられるわけですか、牛河さん? うちの誰かがその婦人警官をいかがわしいホテルに連れ込んで、手錠をはめて絞め殺したんじゃないかと」  牛河は口をすぼめて首を振った。「いえいえ滅相もない。まさか。そんなことは露ほども思っちゃいませんよ。私がうかがっているのはですね、何かその一件に関して心当たりのようなものはないでしょうかっていうことです。それだけです。ええ、なんでもいいんです。どんな些細な手がかりだって私にとっては貴重ですからね。ない知恵をどれだけぎゅうぎゅうと絞っても、渋谷のラブホの婦警殺しと、リーダー殺害とのあいだに関連性をみつけることが私にはできないんですよ」  穏田はしばらくのあいだ何かの寸法を計測するような目で牛河を眺めていた。それから溜めていた息をゆっくり吐いた。「わかりました。その情報は上に伝えましょう」と彼は言った。そして手帳を取りだし、メモを取った。「中野あゆみ。二十六歳。新宿署交通課。青豆と繋がりがあったかもしれない」 「そのとおりです」 「ほかには?」 「もうひとつ、是非ともうかがいたいことがあります。教団内部の誰かが青豆さんの名前を最初に持ち出してきたはずです。東京に筋肉ストレッチングのとてもうまいスポーツ?インストラクターがいるんですがってね。で、さきほどあなたも指摘されたとおり、私がその女性の身辺調査を引き受けることになりました。言い訳するんじゃありませんが、そりゃもういつもどおり誠心誠意徹底的にやりましたよ。しかしおかしな点、不審なところはひとつとして見当たらなかった。隅々までクリーンだった。そしてあなたがたは彼女をホテル?オークラのスイートルームに呼んだ。あとはご存じのとおりだ。そもそもいったいどこの誰が彼女を推薦したんですか?」 「わかりません」 「わからない?」と牛河は言った。そしてよく理解できない言葉を耳にした子供のような顔をした。「つまり、おたくの教団内部で誰かが青豆さんの名前を持ちだしてきたはずなのに、それが誰だったか誰にも思い出せない。そういうことですか?」  穏田は表情を変えずに言った。「そのとおりです」 「不思議な話だ」と牛河はいかにも不思議そうに言った。  穏田は口を閉ざしていた。 「解せない話ですね。どこからともなく、いつからともなく彼女の名前が出てきて、誰が進めるともなく話が勝手に進んでいった。そういうことですか?」 「実際のことを言えば、もっとも熱心にその話を進められたのはリーダーご自身でした」と穏田は慎重に言葉を選んで言った。「幹部の中には、よく素性の知れない人間に身体を預けるのは危険ではないかという意見もありました。もちろん我々護衛の立場としても同じ意見です。しかしご本人は気になさらなかった。むしろその話を進めるように自ら強く主張されました」  牛河はもう一度ライターを手に取り、蓋を開け、具合を試すように火を点けた。そしてすぐに蓋を閉めた。 「リーダーはずいぶん用心深い方だったと私は理解していましたが」と彼は言った。 「そのとおりです。きわめて注意深く、用心深い方だった」。そのあとに深い沈黙が続いた。 「もうひとつうかがいたいことがあります」と牛河は言った。「川奈天吾《かわなてんご》さんのことです。彼は安田恭子《きょうこ》という年上の既婚女性と交際していました。週に一度、彼女は彼のアパートにやってきた。そして親密な時間を過ごしました。ま、若いですからね、そういうこともあります。ところがある日、彼女のご主人から突然電話がかかってきまして、彼女はもうそちらにはうかがえないと申し渡されました。そしてそれっきり連絡が途絶えてしまった」  穏田は眉を寄せた。「話の流れがよくわかりませんね。川奈天吾が今回の事件にかかわっているというのですか?」 「いや、そこまでは私にもわかりません。ただこの一件は前々からどうも気になっていました。いくらなんでも、どんな事情があるにせよ、女の方から電話の一本くらい入れられるはずです。そこまで深い仲だったんですからね。ところがひとこともなく、女はただぽっと消えてしまった。あとかたもなく。私としてはひっかかることがあるのがいやなので、いちおう念のためにうかがっているだけです。何かそちらに心あたりのようなものはありませんでしょうか?」 「少なくとも私自身は、その女性については何ひとつ知識を持ちません」と穏田は平板な声で言った。「安田恭子。川奈天吾と関係を持っていた」 「十歳年上で人妻だった」  穏田はその名前も手帳にメモした。「それもいちおう上の方に伝えておきましょう」 「けっこうです」と牛河は言った。「ところで深田絵里子さんの行方はどうなりました?」  穏田は顔を上げ、曲がった額縁を見るような目で牛河を見た。「我々がなぜ深田絵里子の居どころを知らなくてはならないのですか?」 「彼女の行方には興味がない?」  穏田は首を振った。「彼女がどこに行こうが、どこにいようが我々には関係のないことです。本人の自由です」 「川奈天吾にももう興味はない?」 「我々にとっては縁のない人間です」 「一時期はこの二人に深い関心を持っておられたようだが」と牛河は言った。  穏田はしばらく目を細めていた。それから口を開いた。「<傍点>我々の関心は今のところ青豆という一点に集中しています」 「関心は日々移動する?」  穏田はほんの少しだけ唇の角度を変えた。返事はない。 「穏田さん、あなたは深田絵里子の書いた小説『空気さなぎ』を読まれましたか?」 「いいえ。教団内では教義に関する書物以外のものを読むことは禁止されています。手にとることもできません」 「リトル?ピープルって名前を耳にされたことはありますか」 「ありませんね」と穏田は間を置かずに答えた。 「けっこうです」と牛河は言った。  それで会話は終了した。穏田はゆっくりと椅子から立ち上がり、上着の襟をなおした。ポニーテイルも壁を離れて一歩前に出た。 「牛河さん、さきほども申し上げたように、今回の件については時間がきわめて重要な要素になっています」、穏田は椅子に座ったままの牛河を正面から見下ろしながらそう言った。「一刻も早く青豆の行方を突き止めなくてはなりません。我々ももちろん全力を尽くしていますが、あなたにも違う側面から働いてもらわないとならない。青豆が見つからないと、お互い困ったことになりかねません。なんといってもあなたは重い秘密を知る人間の一人になっていますから」 「重い知識には重い責任が伴う」 「そのとおりです」と穏田は感情を欠いた声で言った。それから振り向いて、あとも見ずにそこを立ち去った。坊主頭のあとからポニーテイルが部屋を出て、音もなくドアを閉めた。  二人が引き上げてしまうと、牛河は机の抽斗を開けてテープレコーダーのスイッチを切った。機械の蓋を開けてカセットテープを取りだし、そのラベルにボールペンで日付と時間を書き込んだ。彼は見かけに似合わず端正な字を書いた。それからセブンスターの箱を抽斗から取り出し、手に取り、一本出して口にくわえ、ライターで火を点けた。煙を大きく吸い込み、天井に向けて大きく吐き出した。そして顔を天井に向けたまましばらく目を閉じていた。やがて目を開いて壁の時計に目をやった。時計の針は二時半を指していた。まったくうす気味の悪い連中だ、と牛河はあらためて思った。  <傍点>青豆が見つからないと、お互い困ったことになりかねません、と坊主頭は言った。  牛河は山梨の山奥に「さきがけ」本部を訪れたことが二度あり、そのときに裏手の雑木林の中に設置された特大の焼却炉も目にしていた。ゴミや廃棄物を焼くためのものだが、かなりの高温で処理するため、人間の死体を放り込んでもあとには骨ひとつ残らない。何人かの死体が実際にそこに放り込まれたことを彼は知っていた。リーダーの死体もおそらくそのうちのひとつだ。当然ながら牛河としては、そんな目にはあいたくなかった。いずれどこかで死を迎えねばならないにせよ、できればもう少し穏やかな死に方が望ましい。  もちろん牛河が彼らに教えていない事実はいくつかあった。手の内のカードを全部さらすのは牛河のやり方ではない。小さな数の札はちらりと見せてもいい。しかし大きな数のカードはしっかり伏せておく。そして何ごとにも保険というものが必要になる。たとえばテープに吹き込まれた秘密の会話のような。牛河はそのようなゲームの手順に精通していた。そのへんの若いボディーガードとは踏んできた場数が違う。  青豆が個人インストラクターをしていた人々の名前を牛河は手に入れていた。手間さえ惜しまなければ、そして多少のノウハウを心得ていれば、たいていの情報は入手できる。青豆が担当しているその十二人の個人クライアントの身辺を、牛河はひととおり洗ってみた。女性が八人に男性が四人、社会的な地位もあり経済的にも恵まれている。人殺しに手を貸しそうな人間は一人も見当たらない。ただその中に一人、七十代の裕福な女性がいて、彼女は家庭内暴力にあって家を出なくてはならなかった女性たちのためにセーフハウスを提供していた。自宅の広い敷地に隣接して建てられた二階建てのアパートに、不幸な境遇の女性たちを引き取って住まわせている。  それ自体は立派なことだ。あやしい節はない。しかし何かが牛河の意識の遠い縁を蹴っていた。そして何かが自分の意識の遠い縁を蹴っているとき、牛河は常にその何かが何であるかを探り当てることにしていた。彼には動物的な嗅覚が具わっていたし、何よりも直感を信頼することにしていた。おかげでこれまでに何度も命拾いをしてきた。「暴力」というものが、あるいは今回のキーワードになるかもしれない。この老婦人は<傍点>暴力的なるものに対して意識的であり、だからこそその被害にあっている人々を進んで保護している。  牛河は実際に足を運び、セーフハウスなるものを見に行った。麻布の高台の一等地にその木造アパートは建っていた。古くはあるが、それなりの趣のある建物だ。門の格子の間から見ると、玄関の前には美しい花壇があり、芝生の庭が広がっている。大きな樫の木がそこに影を落としている。玄関のドアには小さな型板ガラスがはめ込まれていた。最近ではこういう建物はすっかり減ってしまった。  ただし建物ののどかさとは裏腹に警戒はやけに厳しい。壁は高く、有刺鉄線がはられている。頑丈な鉄の門は堅く閉ざされ、内側にはドイツ?シェパードがいて、人が近づくと激しく吠える。防犯用のテレビカメラがいくつか作動している。アパートの前の道路はほとんど通行人がいないので、長くそこに立ち止まっているわけにはいかなかった。閑静な住宅街で、あたりには大使館もいくつかある。牛河のようないかにも怪しい風体の男がそんなところをうろついていたら、すぐに誰かに見とがめられてしまう。  しかしあまりにも警戒が念入りすぎる。いくら暴力からの避難所といっても、ここまでガードを堅くすることはあるまい。このセーフハウスについて知り得る限りのことを知らなくてはならない。牛河はそう思った。どれだけガードが堅くても、なんとかそれをこじ開けなくてはならない。いや、堅ければ堅いほどそれはこじあけられなくてはならない。そのためのうまい方策を考えつかなくてはならない。ない知恵を絞って。  それから彼はリトル?ピープルについての穏田とのやりとりを思い出した。 「リトル?ピープルって名前を耳にされたことはありますか」 「ありませんね」  <傍点>返事が返ってくるのがいささか早すぎる。その名前を耳にしたことがこれまでに一度もなければ、少なくとも一拍の間を置いて答えるはずだ。リトル?ピープル? とその響きを頭の中でいったん検証してみる。それから返事をする。それが普通の人間の反応だ。  あの男はリトル?ピープルという言葉を前に耳にしたことがある。その意味や実体を知っているかどうかまではわからない。しかしとにかく初めて聞く言葉ではない。  牛河は短くなった煙草を消し、しばらく考えに耽り、それが一段落したところで新しい煙草に火を点けた。ずいぶん前から肺癌になる可能性について思い煩わないことに決めていた。考えを集中するにはニコチンの助けが必要だった。二三日さきの運命だって知れたものではない。十五年先の健康について思い煩う必要があるだろうか。  三本目のセブンスターを吸っているときに、牛河はちょっとしたことを思いついた。これならうまく行くかもしれないな、と彼は思った。 第2章 青豆 ひとりぼっちではあるけれど孤独ではない  あたりが暗くなると、彼女はベランダの椅子に座り、通りの向うにある小さな児童公園を眺める。それが最も重要な日課になり、生活の中心になる。空が晴れていても曇っていても、あるいは雨が降っても、監視は休みなく続けられる。十月に入り、あたりの空気は冷ややかさを増していく。寒い夜には重ね着をし、膝掛けを用意し、温かいココアを飲む。十時半頃まで滑り台を眺め、それから風呂でゆっくり身体をあたため、ベッドに入って眠る。  もちろん昼間、明るいうちに天吾がそこにやってくる可能性もなくはない。しかしおそらくそれはあるまい。彼がこの公園に姿を見せるとしたら、暗くなって水銀灯がともり、月がくっきりと空に浮かぶ時刻になってからだ。青豆は夕食を手短かに済ませ、そのまま外に走り出られるかっこうをし、髪も整え、ガーデンチェアに腰を下ろして夜の公園の滑り台に視線を定める。手元には常に自動拳銃とニコンの小型双眼鏡がある。洗面所に行っているあいだに天吾が姿を見せることを恐れ、ココア以外の飲み物はまず口にしない。  一日の休みもなく青豆は監視を続けた。本も読まず音楽も聴かず、戸外の物音に耳を澄ませながら、ただ公園を見ていた。姿勢を変化させることさえほとんどなかった。ただときどき顔を上げ——もしそれが雲のない夜であればだが——空に目をやり、まだ二つの月が並んで浮かんでいることを確認した。そしてまたすぐに公園に視線を戻した。青豆は公園を監視し、月たちは青豆を監視していた。  しかし天吾は姿を見せなかった。  夜の公園を訪れる人の数は多くはない。若い恋人たちがときどき現れる。彼らはベンチに座って手を握りあったり、つがいの小鳥たちのように神経質に短くキスをしたりする。しかし公園は小さすぎたし、照明は明るすぎた。彼らはそこでしばし落ち着かない時間を過ごしてから、あきらめてどこかよそに移っていく。公衆便所を使おうと思ってやってきて、入り口が施錠されているのを知って、がっかりして(あるいは腹を立てて)帰って行くものもいる。おそらく酔いを覚ますためだろう、一人でベンチに座り、うつむいてじっとしている会社帰りのサラリーマンがいる。あるいはまっすぐ家に帰りたくないだけかもしれない。夜中に犬の散歩をさせる孤独な老人もいる。犬も老人と同じくらい寡黙で、希望を失っているように見える。  しかしほとんどの時間、夜の公園には人の姿はない。一匹の猫さえ通りかからない。水銀灯の無個性な光が、ぶらんこや滑り台や砂場や、鍵のかかった公衆便所を照らし出しているだけだ。そんな風景を長いあいだ見つめていると、ときどき自分が無人の惑星に取り残されたような気になる。まるで核戦争のあとの世界を描いたあの映画みたいだ。なんていうタイトルだっけ? 『渚にて』だ。  それでも青豆は意識を集中し、公園の監視を続ける。高いマストに一人で上り、広大な海原に魚群やら潜望鏡の不吉な影やらを求める見張りの船員のように。彼女の注意深い一対の瞳が求めているのはただひとつ、川奈天吾の姿だ。  天吾はどこか別の町に住んでいて、あの夜たまたまこの近くを通りかかっただけかもしれない。もしそうであれば、彼がこの公園を再訪する見込みはゼロに近くなる。しかしおそらくそうではあるまいと青豆は考える。滑り台の上に座っていた天吾の服装や素振りには、ちょっと近所に夜の散歩に出たという何気ない雰囲気がうかがえた。その途中で公園に寄って、滑り台に上ったのだ。おそらくは月を眺めるために。とすれば、彼の住まいはここから歩いていける距離にあるはずだ。  高円寺の町中で、月を見上げられる場所をみつけるのは簡単ではない。おおむね平らな土地だし、上るべき高い建物もほとんどない。そして夜の公園の滑り台は、月を眺めるにはなかなか悪くない場所だ。静かで、誰にも邪魔されない。月を見上げたくなったら、彼はきっとまたここにやってくるに違いない。青豆はそう推測する。しかし次の瞬間こうも思う。いや、そんなにうまくことは運ばないかもしれない。彼はどこかのビルの屋上に、もっときれいに月を見ることのできる場所を既にみつけたかもしれない。  青豆は短くきつばりと首を振る。いや、考えすぎてはいけない。天吾がいつか公園に戻ってくると信じ、ここでじっと待ち続けるしか私には選択肢がない。私にはここを離れることはできないし、この公園が今のところ、私と彼を結びつけるただひとつの接点なのだから。  青豆は拳銃の引き金を引かなかった。  九月の初めのことだ。彼女は渋滞中の首都高速道路三号線の退避スペースに立ち、まぶしい朝の太陽を浴び、口にヘックラー&《ウント》コッホの黒い銃口をつっこんでいた。ジュンコ?シマダのスーツを着て、シャルル?ジョルダンのハイヒールを履いて。  まわりの人々は何が持ち上がっているのか見当もつかぬまま、車の中から彼女の姿を見つめていた。メルセデスの銀色のクーペに乗った中年の女性。輸送トラックの高い運転席から彼女を見下ろしている日焼けした男たち。彼らの目の前で、青豆は自分の脳味噌を九ミリ弾で吹き飛ばすつもりだった。自らの命を絶つ以外に1Q84年から姿を消す方法はない。そうすることによって引き替えに天吾の命を救うことができる。少なくとも「リーダー」は彼女にそう約束した。彼はそのことを誓言し、自らの死を求めたのだ。  自分が死ななくてはならないことを、青豆はさして残念だとも思わなかった。すべては私が1Q84年の世界に引き込まれたときから、既に決定されていたことなのだろう。私はただその筋書きをたどっているだけだ。大小二つの月が空に浮かび、リトル?ピープルなるものが人々の運命を支配する条理のわからない世界で、一人ぼっちで生き続けることにいったいどれほどの意味があるだろう?  しかし結局、彼女が拳銃の引き金を引くことはなかった。最後の瞬間に彼女は右手の人差し指に込めた力を緩《ゆる》め、銃口を口から出した。そして深い海底からようやく浮かび上がってきた人のように、大きく息を吸い込み、それを吐き出した。身体中の空気を丸ごと入れ換えるみたいに。  青豆が死ぬことを中断したのは、遠い声を耳にしたからだった。そのとき彼女は無音の中にいた。引き金にかけた指に力を入れたときから、まわりの騒音はそっくり消えていた。彼女はプールの底を思わせる深い静寂の中にいた。そこでは死は暗いものでも怯えるべきものでもなかった。胎児にとっての羊水のように自然なものであり、自明なものであった。悪くない、と青豆は思った。ほとんど微笑みさえした。そして青豆は声を聴いた。  その声はどこか遠い場所から、どこか遠い時間からやってきたようだった。声に聞き覚えはない。いくつもの曲がり角を曲がってきたせいで、それは本来の音色や特性を失っていた。残されているのは意味を剥ぎ取られた虚ろな反響に過ぎない。それでもその響きの中に、青豆は懐かしい温かみを聴き取ることができた。声はどうやら彼女の名前を呼んでいるようだった。  青豆は引き金にかけた指の力を抜き、目を細め、耳を澄ませた。その声の発する言葉を聞き取ろうと努めた。しかし辛うじて聞き取れたのは、あるいは聞き取れたと思ったのは、自分の名前だけだ。あとは空洞を抜けてくる風のうなりでしかなかった。やがて声は遠くなり、更に意味を失い、無音の中に吸い込まれていった。彼女を包んでいた空白が消滅し、栓がとれたみたいにまわりの騒音が一挙に戻ってきた。気がついたとき、死ぬ決心は既に青豆の中から失われていた。  私はあの小さな公園でもう一度天吾に会えるかもしれない。青豆はそう思った。死ぬのはそのあとでもいい。もう一度だけ、私はそのチャンスに賭けてみよう。生きるということは——死なないということは——天吾に会えるかもしれないという可能性でもある。<傍点>生きたいと彼女ははっきり思った。奇妙な気持ちだった。そんな気持ちを抱いたことがこれまで一度だってあっただろうか?  彼女は自動拳銃の撃鉄を戻して安全装置をかけ、ショルダーバッグにしまった。そして姿勢を正し、サングラスをかけ、道路を逆方向に歩いて自分が乗ってきたタクシーに戻った。ハイヒールを履いて大股で高速道路を歩いていく彼女の姿を、人々は黙って眺めていた。長く歩く必要はなかった。彼女を乗せてきたタクシーは激しい渋滞の中でものろのろと前に進み、ちょうどすぐ近くまで来ていた。  青豆が運転席の窓をノックすると、運転手は窓を下ろした。 「また乗せてくれる?」  運転手は躊躇《ちゅうちょ》した。「あの、お客さんがそこで口に入れてたのは、拳銃みたいでしたけど」 「そう」 「本物ですか?」 「まさか」と青豆は唇を歪めて言った。  運転手はドアを開け、青豆は座席に乗り込んだ。ショルダーバッグを肩から外してシートに置き、ハンカチで口元をぬぐった。金属と機械油の匂いが口に残っていた。 「それで、非常用階段はありました?」と運転手は尋ねた。  青豆は首を横に振った。 「そうでしょう。こんなところに非常用階段があるなんて聞いたことありませんから」と運転手は言った。「それで、最初の予定通り池尻出口で降りていいんですか?」 「ええ、それでいい」と青豆は言った。  運転手は窓を開けて手をあげ、大型バスの前で右車線に移った。料金メーターは彼女が降りたときのままになっていた。  青豆はシートに身をもたせかけ、静かに呼吸をしながら、すっかり見慣れたエッソの広告看板に目をやった。虎が横顔をこちらに向け、微笑みながら給油ホースを手にしている。「タイガーをあなたの車に」とそこにはあった。 「タイガーをあなたの車に」と青豆は小さくつぶやいた。 「なんでしょう?」と運転手がミラーの中の彼女に向かって尋ねた。 「なんでもない。独り言」  あと少しここで生きて、何が起こるのか見届けよう。死ぬのはそれからでも遅くはない。おそらく。  自殺を思いとどまった翌日、タマルから電話がかかってきたとき、青豆は彼に告げる。予定は変更された。私はここから動かないことに決めた。名前も変えないし、整形手術もしない。  タマルは電話の向こうで沈黙する。彼の頭の中でいくつかのセオリーが無音のうちに並べ替えられている。 「つまり、ほかの場所に移動したくはないということか?」 「そう」と青豆は簡潔に答える。「ここにしばらく留まっていたい」 「そこは長期間にわたって人が身を隠すようには設定されていない」 「閉じこもって外にさえ出なければ、まず見つからないはずよ」  タマルは言う、「連中を甘く見ない方がいい。徹底的にあんたの身辺を洗い、足取りを追うだろう。危険はあんた一人には留まらず、まわりに及ぶかもしれない。そうなれば俺の立場は微妙なものになる」 「それについては申し訳なく思う。でもあとしばらく時間がほしい」 「<傍点>あとしばらくというのはいささか曖昧な表現だ」とタマルは言う。 「悪いけれど、そうとしか言えない」  タマルはひとしきり黙考する。彼は青豆の決意の固さをその声の響きから感じ取ったようだ。  彼は言う、「俺は立場というものを何よりも優先させる人間だ。<傍点>ほとんど何よりも。そのことはわかっているね?」 「わかっていると思う」  タマルは再び沈黙する。それから言う。 「いいだろう。俺としてはいちおう誤解がないようにしておきたかっただけだ。そこまで言うからには、それなりの理由があるんだろう」 「理由はある」と青豆は言う。  タマルは受話器の向こうで簡潔な咳払いをする。「前にも言ったように、こちらとしては計画を練り、準備も整えた。あんたを安全な遠い場所に移動させ、足取りを消し、顔も名前も変える。完全にとは言わないが、完全に近いところまで別の人間にしてしまう。そのことについて我々は合意していたはずだ」 「もちろんそれはわかっている。計画そのものに異議を唱えているわけじゃない。ただ予想もしなかったことが私の身に起こったの。そして私はもう少し長くここに留まる必要がある」 「俺の一存ではイエスともノーとも言えない」とタマルは言う。そして喉の奥の方で小さな音を立てる。「返事をするのに多少時間がかかる」 「私はいつでもここにいる」と青豆は言う。 「それがいい」とタマルは言う。そして電話が切れる。  翌朝の九時前に電話のベルが三度鳴って切れ、また鳴り出す。相手はタマルのほかにはいない。  タマルは挨拶もなく切り出す。「あんたがそこに長く留まることについては、マダムも懸念を抱いている。そこには十分なセキュリティーが施されていない。あくまで中間地点でしかない。一刻も早くより安全な遠いところに移ってほしいというのが、我々の共通した見解だ。そこまではわかるな?」 「よくわかる」 「しかしあんたは冷静で用心深い人間だ。つまらない間違いはしないし、腹も据わっている。我々は基本的にあんたのことを深く信頼している」 「ありがとう」 「あんたがどうしてもその部屋に<傍点>あとしばらく留まりたいと主張するのなら、それだけの理由はあるのだろう。どんな理由だかはわからんが、ただの気まぐれじゃあるまい。だからできるだけ要望に添えるようにしたいと、彼女は考えている」  青豆は何も言わず耳を澄ませる。  タマルは続ける。「あんたはそこに今年いっぱい留まっていい。しかしそれが限度だ」 「つまり年が明けたらよそに移れということね」 「これでも我々としては、あんたの意思を尊重するべく精一杯つとめている」 「わかった」と青豆は言う。「今年いっぱいここにいて、そのあとはよそに移る」  それは彼女の本心ではない。天吾と巡り合えるまでこの部屋から一歩も動くつもりはない。しかし今ここでそんなことを言い出せば、話が面倒になる。年末までにはまだしばらく猶予がある。そのあとのことは、あとで考えるしかない。 「けっこうだ」とタマルは言う。「これからは週に一度、そこに食料品や日用品の補給をする。毎週火曜日の午後一時に、補給係がそこを訪れる。キーは持っているから勝手に中に入る。しかしキッチンよりほかの部分には行かない。そのあいだあんたは奥の寝室に入って、ドアをロックしてくれ。顔は出すな。声も出すな。帰り際、廊下に出て一度ドアベルを鳴らす。そうしたら寝室から出てきていい。何か特別に必要なもの、ほしいものがあったら今ここで教えてくれ。次の補給品の中に入れておく」 「筋肉を鍛えるための室内用器具があるとありがたいんだけど」と青豆は言う。「道具を使わない体操とストレッチングだけではどうしても限界があるから」 「ジムに置いてあるような本格的なものは無理だが、場所を取らない家庭用のものでよければ、用意することはできる」 「簡単なものでいい」と青豆は言う。 「サイクリング?マシンと筋肉増強用のいくつかの補助器具。そんなところでいいか?」 「それでいい。もしできれば、ソフトボール用の金属バットも」  タマルは数秒沈黙する。 「バットはいろんなことに使える」と青豆は言う。「ただ手元にあるだけで気持ちが落ち着くの。一緒に育ってきたようなものだから」 「わかった。用意しよう」とタマルは言う。「ほかに何か必要なものを思いついたら、紙に書いてキッチン?カウンターの上に置いておいてくれ。次の補給のときまでに用意しておく」 「ありがとう。でも今のところ足りないものはとくにないと思う」 「本やビデオやそういうものは?」 「とくに欲しいものは思いつかない」 「プルーストの『失われた時を求めて』はどうだ?」とタマルは言う。「もしまだ読んでいなければ、読み通す良い機会かもしれない」 「あなたは読んだ?」 「いや。俺は刑務所にも入っていないし、どこかに長く身を隠すようなこともなかった。そんな機会でもないと『失われた時を求めて』を読み通すことはむずかしいと人は言う」 「まわりに誰か読み通した人はいる?」 「刑務施設で長い時間過ごすことになった人間はまわりにいなくはないが、プルーストに興味を持ちそうなタイプじゃなかった」  青豆は言う。「試してみる。本が手に入ったら、次の補給のときに一緒に持ってきて」 「実を言えばもう用意してある」とタマルは言う。  火曜日の午後一時きっかりに「補給係」がやってくる。青豆は指示されたとおり奥の寝室にこもり、ドアを内側からロックし、息を潜めている。入り口の鍵が開けられる音が聞こえ、複数の人間がドアを開けて入ってくる。タマルの言う「補給係」がどのような人々なのか、青豆にはわからない。人数が二人であることは物音や気配でおおよそ見当がつくが、声はまったく聞こえない。彼らはいくつかの荷物を中に運び込み、無言のうちにそれを整理する。持ってきた食料品を水道の水で洗い、冷蔵庫にしまう音も聞こえる。どちらがどんな作業を引き受けるのか、おそらく前もって打ち合わせができているのだろう。何かの荷物の包装を解き、包装してあった箱や紙をまとめる音も聞こえる。台所のゴミも集めているようだ。青豆は階下のゴミ置き場までゴミ袋を運んでいくことができない。だから誰かに持って行ってもらうしかない。  彼らの働きぶりはてきぱきとして無駄がない。必要以上に物音を立てないし、足音も静かだ。作業は二十分ほどで終了し、入り口のドアを開けて出て行く。外から鍵がかけられる音が聞こえる。ドアベルが合図として一度押される。青豆は念のために十五分間を置く。それから寝室を出て、誰もいないことを確かめ、入り口のドアに内側からボルト錠をかける。  大型冷蔵庫は一週間ぶんの食品で埋まっている。今回は電子レンジにかけて簡単に食べられるレトルト食品ではなく、通常の生鮮食料品が中心になっている。様々な野菜と果物。魚と肉。豆腐やわかめや納豆。牛乳とチーズとオレンジジュース。卵が一ダース。余分なゴミが出ないようにすべてパックから出され、手際よくラップで包装しなおしてある。青豆が日常的にどのような食材を必要としているかを、彼らはかなり正確に把握している。どうしてそんなことがわかるのだろう?  窓際にはサイクリング?マシンがセットされていた。小型ながら高品質のものだ。ディスプレイに時速や走行距離や消費エネルギーが表示される。一分間の車輪回転数と心拍数をモニターすることもできる。腹筋や背筋や三角筋を鍛えるためのベンチ式の器具もあった。付属の工具を使って簡単に組み立て、分解できる。青豆はその器具の使い方をよく知っていた。最新式のもので、単純な仕組みだが得られる効果は十分だ。その二つがあれば、必要な運動量は確保できる。  ソフトケースに入った金属バットも置いてあった。青豆はそれをケースから出し、何度か素振りをする。銀色に輝く新品のバットが音を立てて鋭く空を切る。その懐かしい重みは、青豆の気持ちを落ち着かせてくれる。その手触りはまた彼女に、大塚環《たまき》と共に過ごした十代の日々を思い出させる。  食卓の上にプルーストの『失われた時を求めて』が積み上げられている。新品ではないが、読まれた形跡もない。全部で五冊、彼女は一冊を手にとってぱらぱらとページをめくる。そのほかに何冊かの雑誌が置いてある。週刊誌と月刊誌だ。封が切られていない新品のビデオテープが五本ある。誰が選んだのかは知らないが、どれも彼女が見たことのない新しい映画だ。青豆は映画館に行く習慣を持たなかったから、まだ見ていない映画には不自由しない。  デパートの大きな紙袋の中に新品のセーターが三枚入っている。厚いものから薄手のものまで。フランネルの厚手のシャツが二枚、長袖のTシャツが四枚。どれも無地で、シンプルなデザインのものだ。サイズも合っている。厚手のソックスとタイツも用意されている。十二月までここにいるとなれば、そういうものも必要になる。とても手回しがいい。  彼女はそれらの衣服を寝室に運び、抽斗にしまい、クローゼットのハンガーにかける。台所に戻ってコーヒーを飲んでいるときに電話がかかってくる。三度ベルが鳴り、いったん切れて、またベルが鳴る。 「荷物は届いたか?」とタマルは尋ねる。 「ありがとう。必要なものはすべて揃っていると思う。運動器具もこれで十分。あとはプルーストをひもとくだけ」 「もし何か我々が見落としているものがあったら、遠慮なく言ってくれ」 「そうする」と青豆は言う。「あなた方が見落としているものを見つけるのは簡単ではなさそうだけど」  タマルは咳払いをする、「余計なことかもしれないが、ひとつ忠告をしてかまわないかな」。 「どんなことでも」 「誰にも会わず誰とも口をきかず、狭い場所に一人で長く閉じこもっているのは、実際にやってみると生やさしいことじゃない。どんなタフな人間だってそのうちに音を上げる。とりわけ誰かにあとを追われているような場合には」 「私はこれまでだって、それほど広い場所で生きてきたわけじゃないけれど」 「それはひとつの強みになるかもしれない」とタマルは言う。「しかしそれでもじゅうぶん気をつけた方がいい。緊張が途切れなく続くと、本人にもわからないうちに、神経が伸びきったゴムのようになる。いったん伸びきってしまうと、元に戻すのがむずかしくなる」 「気をつけるようにする」と青豆は言う。 「前にも言ったと思うが、あんたは注意深い性格だ。実際的で我慢強くもある。自分を過信してはいない。でもいったん集中力が切れると、どれほど注意深い人間でも必ずひとつかふたつミスを犯す。孤独は酸となって人をむしばむ」 「私は孤独じゃないと思う」と青豆は告げる。半ばタマルに向かって、半ば自分自身に向かって。 「ひとりぼっちではあるけれど、孤独ではない」  電話の向こうでしばらく沈黙がある。ひとりぼっちと孤独の差違についての考察のようなものが行われているのだろう。 「いずれにせよ今以上に用心深くなる。忠告してくれてありがとう」と青豆は言う。 「ひとつわかってもらいたいのだが」とタマルは言う。「俺たちはできる限りの支援をする。しかし何かそちらで緊急の事態が持ち上がった場合、それがどのような事態かはわからないが、あんたが一人で対処しなくてはならない場合があるかもしれない。俺がどれだけ急いで駆けつけても時間的に間に合わないかもしれない。あるいはまた事情によっては、駆けつけること自体ができないかもしれない。たとえば、我々がそこにいるあんたと関わりを持つことが好ましくないと判断されるような場合には」 「よくわかっている。私は自分の勝手でここにいるのだから、自分の身は自分で守るように心がける。金属バットと、それから<傍点>あなたがくれたもので」 「ここはタフな世界だ」 「希望のあるところには必ず試練があるものだから」と青豆は言う。  タマルはまた少し沈黙する。それから言う。「スターリン時代の秘密警察の尋問官が受ける最終テストの話を聞いたことがあるか?」 「ないと思う」 「彼は四角い部屋に入れられる。その部屋には何の変哲もない小さな木の椅子がひとつ置かれているだけだ。そして上官からこう命令される。『その椅子から自白を引き出して、調書をつくれ。それまではこの部屋から一歩も出るな』と」 「ずいぶんシュールレアリスティックな話ね」 「いや違うね、こいつはシュールレアリスティックな話なんかじゃない。尻尾の先までリアルな話だよ。スターリンはそういう偏執狂的なシステムを現実に造り上げて、在任中におおよそ一千万の人間を死に追いやった。そのほとんどは彼の同胞だった。俺たちは<傍点>現実にそういう世界に住んでいる。そのことをよくよく頭に刻んでおいた方がいい」 「あなたは心温まる話をたくさん知っている」 「それほどでもない。必要に応じてストックしてあるだけだ。俺は系統的な教育を受けてないから、実際に役に立ちそうなものだけを、ひとつひとつその度に身につけていくしかないんだ。<傍点>希望のあるところには必ず試練がある。あんたの言うとおりだよ。そいつは確かだ。ただし希望は数が少なく、おおかた抽象的だが、試練はいやというほどあって、おおかた具象的だ。それも俺が身銭をきって学んだことのひとつだ」 「それで尋問官志望者たちは結局、木の椅子からどんな自白を引き出したのかしら?」 「そいつは考えてみる価値のある疑問だ」とタマルは言う。「禅の公案のようだな」 「スターリン禅」と青豆は言う。  タマルは少し間を置いてから電話を切る。  その日の午後はサイクリング?マシンと、ベンチ型の器具を使って運動をする。それらの与えてくれる適度な負荷を、青豆は久かたぶりに楽しむ。そのあとでシャワーを浴びて汗を流す。FM放送を聴きながら簡単な料理をつくる。夕方のテレビのニュースをチェックする(彼女の関心を引くニュースはひとつもない)。そして日が落ちるとベランダに出て公園を監視する。薄い膝掛けと双眼鏡と拳銃。美しく光る新品の金属バット。  もし天吾がそれまでに公園に姿を見せなければということだが、この謎に満ちた1Q84年が終わりを迎えるまで、私はこのような単調な生活を高円寺の一画で送り続けることになる。料理をつくり、運動をし、ニュースをチェックし、プルーストのページを繰りながら天吾が公園に現れるのを待ち受ける。彼を待つことが私の生活の中心課題となる。今のところそのか細い一本の線が私を辛うじて生かし続けている。首都高速道路の非常階段を降りるときに見かけたあの蜘蛛と同じだ。薄汚い鉄骨の隅にみすぼらしい巣を張り、そこで息を潜めているちっぽけな黒い蜘蛛。橋脚のあいだを吹き抜ける風に揺さぶられ、その巣はごみだらけでぼろぼろにほつれていた。それを目にしたとき哀れに思ったものだった。でも今では私自身がその蜘蛛とほとんど同じ境遇に置かれている。  ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の入ったカセットテープを手に入れなくてはと青豆は思う。運動をするときに必要だ。あの音楽は私をどこかに——特定はできない<傍点>どこかの場所に——結びつけている。何かへの導入の役目を果たしている。今度タマルに渡す補給品のリストに、それを加えておかなくては。  今は十月、猶予期間は既に三ヶ月を切っている。時計は休みなく時を刻み続けている。彼女はガーデンチェアに身を沈め、プラスチックの目隠し板のあいだから公園と滑り台を観察し続ける。水銀灯の光が小さな児童公園の風景を青白く照らし出している。その風景は青豆に夜の水族館の無人の通路を連想させる。目に見えない架空の魚たちが樹木のあいだを音もなく泳いでいる。彼らがその無音の遊泳を中断することはない。空には二つの月が並んで浮かび、青豆の認証を求めている。  天吾くん、と青豆は囁く。あなたは今どこにいるの? 第3章 天吾 みんな獣が洋服を着て  午後になると天吾は父親の病室を訪れ、ベッドの隣に座って持参した本を開き、朗読した。五ページばかり朗読すると一休みし、また五ページばかり朗読した。自分がそのときに読んでいる本をただ声に出して読んだ。それは小説であったり、伝記であったり、自然科学についての本であったりした。大事なのは文章を声にすることであって、内容ではない。  父親にその声が聞こえているのかいないのか、天吾にはわからない。顔を見ている限り、反応はまったく見受けられなかった。痩せた貧相な老人は目を閉じ、ただ眠っていた。身体の動きはなく、息づかいさえ聞こえない。もちろん息はしているが、耳をすぐそばに寄せるか、あるいは鏡の曇りで点検するかしないと、その確認はできない。点滴液が身体の中に入り、カテーテルが僅かな排泄物を外に運び出す。彼がまだ生きていることを示すのは、それらの緩慢で静かな出入りだけだ。ときどき看護婦が電気シェーバーで髭を剃り、先の丸くなっている小さなはさみを使って、耳と鼻から出ている白い毛を切る。眉毛も切り揃える。意識はなくともそれらは伸び続ける。その男を見ていると、人間の生と死のあいだにどれほどの違いがあるのか、天吾にはだんだんわからなくなってくる。そもそも違いというほどのものがあるのだろうか。違いがあると我々はただ便宜的に思いこんでいるだけではないのか。  三時頃に医師がやってきて、天吾に病状の説明をした。説明は常に短く、内容はおおむね同一だった。病状には進展はない。老人はただ眠り込んでいる。生命力は徐々に減衰《げんすい》している。言い換えればそろそろとしかし確実に死に近づいている。医学的に打つべき手は今のところ何もない。ただ静かにここに寝かせているしかない。医師に言えるのはその程度のことでしかなかった。  夕方近くに二人の男性の看護人がやってきて、父親は検査室に運ばれ、検査を受けた。やってくる看護人はその日によって顔ぶれは違ったが、全員が無口だった。大きなマスクをしているせいもあるのだろうが、ひとことも口をきかなかった。一人は外国人のように見えた。小柄で浅黒く、マスク越しにいつも天吾に微笑みかけた。目を見れば、彼が微笑みかけていることがわかった。天吾も微笑みを浮かべて肯いた。  半時間から一時間の後に父親は病室に戻された。どんな検査がおこなわれているのか、天吾にはわからない。父親が運ばれていくと、彼は食堂に降りて温かい緑茶を飲み、十五分ばかり時間をつぶしてから病室に戻った。そのからっぽのベッドに再び空気さなぎが出現しているのではないか、その中に少女としての青豆が横たわっているのではないかという期待を抱きながら。しかしそんなことは起こらなかった。薄暗い病室には病人の匂いと、くぼみのついた無人のベッドが残されているだけだった。  天吾は窓際に立って外の風景を眺めた。芝生の庭の向こうには松の防風林が黒々と横たわり、その奥から波の音が聞こえた。太平洋の荒い波だ。多くの魂が集まって、銘々の物語を囁きあっているような、太く暗い響きがそこにはあった。その集まりは更に多くの魂の参加を求めているようだった。彼らは更に多くの語られるべき物語を求めているのだ。  天吾はその前、十月に二度ばかり、休みの日に日帰りで千倉の療養所を訪れていた。早朝の特急に乗ってそこに行き、父親のベッドのそばに座り、時々話しかけた。しかし応答らしきものはなかった。父親は仰向けになり、ただ深く眠り込んでいた。ほとんどの時間を、天吾は窓の外の風景を眺めて過ごした。そして夕方が近づくと、そこで<傍点>何かが起こるのを待ち受けた。しかし何ごとも起こらなかった。ただ静かに日が暮れ、部屋が淡い闇に包まれていくだけだった。彼はやがてあきらめて立ち上がり、最終の特急に乗って東京に戻った。  おれはもっとしっかり腰を据えて、父親に対面しなくてはならないのかもしれない、と天吾はあるとき思った。日帰りの見舞い程度では足りないのかもしれない。より深いコミットメントのようなものがそこには求められているのかもしれない。とくに具体的な根拠はないのだが、そんな気がした。  十一月の半ば過ぎに、彼はまとめて休暇を取ることにした。父親が重体なので面倒をみなくてはならないと予備校には説明した。それ自体は嘘ではない。大学時代の同級生に代講を頼んだ。彼は天吾が細い交際の糸をなんとか維持している数少ない相手の一人だった。大学を出てからも、年に一度か二度ではあるが、連絡を取り合っている。変わり者の多い数学科でもとりわけ変わり者として通っていた男で、頭は抜群に切れる。しかし大学を出ても就職せず、研究室にも進まず、気が向いたら知り合いが経営している中学生相手の塾で数学を教えるくらいで、あとは雑多な本を読んだり、渓流釣りをしたりして、気ままに日々を送っていた。彼が教師としても有能であることを天吾はたまたま知っていた。彼はただ自分が有能であることに飽きているだけなのだ。それに実家が裕福だから、無理をして職に就く必要もない。以前にも一度、代講をしてもらったことがあり、そのときの生徒の評判も良かった。天吾が電話をかけて事情を説明すると、簡単に引き受けてくれた。  それから同居しているふかえりをどうするかという問題もあった。その浮き世離れした少女を長いあいだ自分のアパートに残していくのが妥当なことなのかどうか、天吾には判断がつかなかった。おまけに彼女はいちおう人目を避けてそこに「潜伏」しているのだ。だから彼はふかえり本人に尋ねてみた。一人でここで留守番をするのがいいか、それとも一時的にでもどこかほかの場所に移りたいか? 「あなたはどこにいく」とふかえりは真剣な目をして尋ねた。 「猫の町に行く」と天吾は言った。「父親の意識が戻らない。しばらく前から深く眠り込んでいる。長くはもたないかもしれないと言われた」  空気さなぎがある日の夕暮れ、病室のベッドに現れたことは黙っていた。その中に少女としての青豆が眠っていたことも。その空気さなぎが細部に至るまで、ふかえりが小説の中で描写したとおりのものであったことも。そしてそれが今一度目の前に現れることを、自分がひそかに期待していることも。  ふかえりは目を細め、口をまっすぐに結び、長いあいだ天吾の顔を正面から見つめていた。細かい字でそこに書かれたメッセージを読み取ろうとするみたいに。彼はほとんど無意識に自分の顔に手をやったが、何かがそこに書かれているという感触はなかった。 「それがいい」、ふかえりは少しあとでそう言って何度か肯いた。「わたしのことはしんぱいしなくていい。ここでるすばんをしている」。それから少し考えて付け加えた。「いまのところきけんはない」 「今のところ危険はない」と天吾は反復した。 「わたしのことはしんぱいしなくていい」と彼女は繰り返した。 「毎日電話をかけるよ」 「ねこのまちにおきざりにされないように」 「気をつける」と天吾は言った。  天吾はスーパーマーケットに行って、当分ふかえりが買い物に出なくても済むように、食料品をまとめて買い込んできた。どれも簡単に調理ができるものだ。彼女が料理を作る能力も意欲もほとんど持ち合わせていないことを天吾はよく知っていた。二週間後に家に帰ってきたら、生鮮食料品が冷蔵庫の中でどろどろになっていたというような事態は避けたかった。  着替えと洗面用具をビニールの袋に詰めた。あとは何冊かの本と、筆記用具と原稿用紙。いつものように東京駅から特急に乗り、館山で普通電車に乗り換え、二駅めの千倉で降りた。駅前の観光案内所に行って、比較的安い料金で泊まれる旅館を探した。シーズンオフだったから空き部屋は簡単に見つかった。主に釣りに来た人が泊まるための簡易旅館だ。狭いけれど清潔な部屋で、新しい畳の匂いがした。二階の窓からは漁港が見えた。朝食つきの部屋代は彼が予想していたよりも安かった。  どれくらい滞在することになるかはまだわからないが、とりあえず三日分の宿賃を前払いしておくと天吾は言った。旅館の女主人には異存はなかった。門限はいちおう十一時で、女性を連れ込むのは困ると彼女は(婉曲に)天吾に説明した。天吾にも異存はなかった。部屋に落ち着いてから療養所に電話をかけた。電話に出た看護婦に(いつもの中年の看護婦だ)、午後の三時頃に父親に面会に行きたいのだが、かまわないだろうかと尋ねた。かまわないと相手は言った。 「川奈さんはずっと眠っておられます」と彼女は言った。  そのようにして海辺の「猫の町」での天吾の日々が始まった。朝早く起きて海岸を散歩し、漁港で漁船の出入りを眺め、それから旅館に戻って朝食をとった。出てくるものは毎日判で押したように同じ、鯵の干物と卵焼きと、四つ切りにしたトマト、味付けのり、シジミの味噌汁とご飯だったが、なぜかいつもうまかった。朝食のあとで小さな机に向かって原稿を書いた。久しぶりに万年筆を使って文章を書くのは楽しかった。知らない土地で普段の生活から離れて仕事をするのも、気分が変わって悪くなかった。漁港からは帰港する漁船の単調なエンジンの響きが聞こえてきた。天吾はその音が好きだった。  月が二つ浮かんだ世界で展開される物語を彼は書いた。リトル?ピープルと空気さなぎの存在する世界だ。その世界はふかえりの『空気さなぎ』から借り受けたものだが、今ではすっかり彼自身のものになっていた。原稿用紙に向かっているあいだ、彼の意識はその世界で暮らしていた。万年筆を置いて机を離れても、意識はまだそちらに留まっていることがあった。そういうときには、肉体と意識が分離しかけているような特別な感覚があり、どこまでが現実の世界でどこからが架空の世界なのか、うまく判別できなくなった。きっと「猫の町」に入り込んだ主人公もそれに似た気分を味わったのだろう。世界の重心がわからないうちによそに移動してしまう。そのようにして主人公は(おそらく)永遠に、町を出る列車に乗ることができなくなる。  十一時になると掃除のために部屋を出なくてはならなかった。彼は時間が来ると書くのをやめ、外に出てゆっくり駅前まで歩き、喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。軽くサンドイッチを食べることもあったが、だいたいは何も食べなかった。そしてそこに置いてある朝刊を手に取り、自分に関係のある記事が何か出ていないか念入りにチェックした。しかしそれらしい記事は目につかなかった。『空気さなぎ』はとっくの昔にベストセラー?リストから姿を消していた。一位になっているのは『食べたいものを食べたいだけ食べて痩せる』というダイエット本だった。素晴らしいタイトルだ。中身がまったくの白紙でも売れるかもしれない。  コーヒーを飲み終え、新聞をひととおり読んでしまうと、天吾はバスで療養所に行った。そこに着くのはだいたい一時半から二時のあいだだった。受付でいつも看護婦と少し世間話をした。天吾が町に滞在し、毎日父親の部屋を訪れるようになると、看護婦たちは前より心もち優しく、親しみを持って彼に接するようになった。まるで放蕩息子の帰還を穏やかに受け入れる家族のように。  一人の若い看護婦は天吾の顔を見ると、いつも恥ずかしそうに微笑んだ。彼に少なからず興味を持っているようにも見えた。小柄で髪をポニーテイルにして、瞳が大きく頬が赤い。たぶん二十代の始めだろう。しかし空気さなぎの中で眠っていた少女の姿を目にして以来、天吾は青豆のことしか考えられなくなっていた。ほかの女たちはみんな彼にとって、そばをたまたま行き過ぎていく淡い影に過ぎなかった。彼の頭の片隅には常に青豆の姿があった。この世界のどこかに青豆が生きている——そういう手応えがあった。そして青豆もおそらく天吾を探し求めているのだろう。だからこそ彼女はあの夕方、特別な通路をとおって、自分に会いに来てくれたのだ。彼女も天吾のことを忘れてはいない。  <傍点>自分が目にしたものが、もし幻覚でなかったとすれば。  ときどき何かの折に、年上のガールフレンドのことを思い出した。今はいったいどうしているのだろう。彼女は<傍点>失なわれてしまったと夫は電話で言った。だからもう二度と天吾に会うことはできないのだと。失なわれてしまった。その表現は今でも天吾を落ち着かない不安な気持ちにする。そこには疑いの余地なく不吉な響きがある。  それでも結局のところ、彼女の存在も少しずつ遠いものになっていった。彼女と過ごした午後は、既にその意味合いをまっとうした過去の出来事としてしか思い起こせなかった。天吾はそのことを後ろめたく思った。しかしいつの間にか重力は変化し、ポイントは移動を終えていた。ものごとが元に戻ることはもうない。  父親の居室に入ると、天吾はベッドのそばの椅子に座り、短い挨拶をした。そして前日の夕方から今までに自分が何をしたのか、ひととおり順を追って説明をした。もちろん大したことはしていない。バスで町に戻り、食堂に入って簡単な夕食をとり、ビールを一本飲み、旅館に帰って本を読む。十時には眠る。朝起きると町を散歩し、食事をして、二時間ばかり小説を書く。毎日が同じことの繰り返しだ。それでも天吾は意識のない男に向かって、自分の行動をかなり細かいところまで日々報告した。相手からはむろん何の反応も戻ってこない。壁に向かって語りかけているのと同じだ。すべては習慣的な儀式に過ぎない。しかし時には単なる反復が少なからぬ意味を持つこともある。  それから天吾は持参した本を朗読する。決まった本があるわけではない。そのときに自分が読んでいる本の、そのときに読んでいる箇所を声に出して読むだけだ。電動芝刈り機の取扱説明書がたまたま手元にあれば、それを読み上げたことだろう。天吾はできるだけ明瞭な声で、相手が聞き取りやすいように、ゆっくりと文章を読んだ。それが唯一彼の留意する点だった。  表の稲妻は次第に強くなって、暫くの間は、青い光で往来を照らしっぱなしに明るくすることもあったが、雷の音は聞こえなかった。鳴っているのかもしれないけれど、自分の気持ちに締まりがなくなった為に、聞き取れないのだと云う風にも思われた。往来の雨水が皺になって流れている。その上を踏んで、まだ後から後からとお客が店に入ってくるらしい。  一緒に来た友達が人の顔ばかり見ているので、どうしたのかと思ったが、さっきから口も利かない。まわりがざわざわして、隣の席からも向こうの席からも、相客がこちらに押してくる様で息が苦しくなった。  誰かが咳払いをしたか、或いは食べ物が喉につかえてむせたのか、変な声をしたと思ったが、くんくんと云った調子は、犬の様であった。  不意にひどい稲光りがして、家の中まで青い光が射し込み、店の土間にいる人々を照らした。そのとたんに屋根の裂ける様な雷が鳴ったので、驚いて立ち上がったら、土間にいっぱい詰まっているお客の顔が、一どきにこちらを向いた様であったが、その顔は犬だか狐だか解らないけれど、みんな獣が洋服を着て、中には長い舌で口のまわりを舐め廻しているのもあった。  そこまで読んで、天吾は父親の顔を見た。「おしまい」と彼は言った。作品はそこで終了していた。  反応はない。 「何か感想は?」  父親はやはり返事をしなかった。  ときにはその朝に書いた小説原稿を読んで聞かせることもあった。読み上げたあとで気になった部分にボールペンで手を入れ、書き直した部分をもう一度読み上げた。その響きにまだ納得できなければ、更に手を入れた。そしてまたそれを読み上げた。 「書き直した方が良くなった」と彼は父親に向かって同意を求めるように言った。しかしもちろん父親は意見を表明しなかった。たしかに良くなったとも、いや前の方がまだ良かったとも、どっちにしても大して変わりはないとも言わなかった。落ちくぼんだ目をまぶたで閉ざしているだけだ。鎧戸《よろいど》を重く下ろした不幸な家のように。  天吾はときどき椅子から立ち上がって身体を大きく伸ばし、窓際に行って外の風景を眺めた。曇りの日が何日か続き、雨の降る日があった。途切れなく降り続く午後の雨は、松の防風林を暗く重く濡らした。その日は波の音はまったく聞こえなかった。風もなく、ただ雨が空からまっすぐ落下しているだけだ。その中を黒い鳥たちが群れをなして飛んでいった。そういう鳥たちの心もやはり暗く湿っていた。病室の中も湿っていた。枕や本や机や、そこにあるすべてが湿り気を含んでいた。しかし天候や湿気や、風や波の音とは関係なく、父親は途切れることのない昏睡の中にいた。麻痺が慈悲深い衣のように、彼の全身を包んでいる。天吾は一休みしてから、また朗読の続きにかかった。その狭い湿った部屋の中で、彼にできることはほかに何もなかった。  本を朗読するのに飽きると、天吾はただ黙ってそこに座り、眠り続ける父親の姿を眺めた。そしてその脳の中でいったいどのような物事が進行しているのだろうと推測した。そこには——その古い鉄床《かなとこ》のように頑なな頭蓋骨の内側には——いったいどんな姿かたちをした意識が身を潜めているのだろう。それともそこにはもう何ひとつ残されていないのだろうか。見捨てられた家屋のように、家財や器具は残らず運び去られ、かつて住んでいた人々は気配も残さず消え失せてしまったのだろうか。しかしもしそうだとしても、その壁や天井には、時々の記憶や光景が焼き付けられているはずだ。長い時間によって培《つちか》われたものは、それほどあっけなく無の中に吸い込まれたりはしない。父親はこの海辺の療養所の簡素なベッドに横たわりながら、同時に内奥にある空き屋のひっそりとした暗闇の中で、余人の目には映らない光景や記憶に囲まれているのかもしれない。  やがて頬の赤い若い看護婦がやってきて、天吾に微笑みかけ、それから父親の体温を測り、点滴液の残りをチェックし、たまった尿の量を確認した。ボールペンでボードの用紙に数字をいくつか書き込んだ。すべてはマニュアルとして定められているのだろう、仕草は自動的でてきぱきしていた。そんな一連の動作を目で追いながら、海辺の小さな町の療養所で、治癒の見込みのない認知症の老人たちの世話をしながら生活するというのは、どんな気持ちのするものなのだろうと天吾は思った。彼女は若く健康そうに見えた。糊のきいた白い制服の下でその乳房と腰は、コンパクトではあるが必要なだけの質量を具えていた。滑らかそうな首筋にはうぶ毛が金色に光っていた。胸のプラスチックの名札には「安達」と名前が書かれていた。  いったい何が、このような忘却と緩慢な死の支配する辺鄙《へんぴ》な場所に彼女を運んできたのだろう。彼女が看護婦として有能で勤勉であることを天吾は知っていた。まだ若いし、手際も良い。もし望めば違う種類の医療の現場にだって行けたはずだ。もっと活発で、もっと興味深いところに。なぜわざわざこんな寂しいところを職場として選んだのだろう? 天吾はその理由や経緯を知りたいと思った。もし尋ねれば、彼女は率直に答えてくれたはずだ。そういう気配はうかがえた。しかしできるだけそういうことにかかわらない方がいいだろうと天吾は思った。なんといってもここは猫の町だ。彼はいつか列車に乗って、もとの世界に戻らなくてはならない。  定められた作業を完了すると、看護婦はボードを戻し、天吾に向かってぎこちなく微笑んだ。 「とくに変化はありません。いつもと同じです」 「安定している」と天吾はできるだけ明るい声で言った。「よく言えば」  彼女は半ば申し訳なさそうな微笑みを顔に浮かべ、首をわずかに傾げた。そして彼の膝の閉じられた本に目をやった。「それを読んであげているの?」  天吾は肯いた。「聞こえているかどうか怪しいものだけど」 「それでも、いいことだと思う」と看護婦は言った。 「いいも悪いも、ほかにできることを思いつけないから」 「でも誰もがみんな、できることをするわけじゃない」 「たいていの人は僕と違って生活をするのに忙しいから」と天吾は言った。  看護婦は何かを言いかけて迷った。しかし結局、何も言わなかった。彼女は眠っている父親の姿を見て、それから天吾を見た。 「お大事に」と彼女は言った。 「ありがとう」と天吾は言った。  安達看護婦が出ていくと、天吾はしばらく間を置いてから、朗読の続きにかかった。  夕方になって父親が車のついた寝台で検査室に運ばれていくと、天吾は食堂に行ってお茶を飲み、そこの公衆電話からふかえりに電話をかけた。 「何か変わりはない?」と天吾はふかえりに尋ねた。 「とくになにもない」とふかえりは言った。「いつもとおなじ」 「僕の方も変わりはない。毎日同じことをしている」 「でもじかんはまえにすすんでいる」 「そのとおり」と天吾は言った。「時間は毎日一日分前に進んでいる」  そして進んでしまったものを元に戻すことはできない。 「さっきまたカラスがやってきた」とふかえりは言った。「おおきなカラス」 「あのカラスは夕方になるといつもうちの窓際にやってくるんだ」 「まいにちおなじことをしている」 「そのとおりだ」と天吾は言った。「僕らと同じように」 「でもじかんのことはかんがえない」 「カラスは時間のことは考えないはずだ。時間の観念はおそらく人間にしかないものだから」 「どうして」 「人間は時間を直線として捉える。長いまっすぐな棒に刻み目をつけるみたいにね。こっちが前の未来で、こっちが後ろの過去で、今はこのポイントにいる、みたいに。それはわかる?」 「たぶん」 「でも実際には時間は直線じゃない。どんなかっこうもしていない。それはあらゆる意味においてかたちを持たないものだ。でも僕らはかたちのないものを頭に思い浮かべられないから、便宜的にそれを直線として認識する。そういう観念の置き換えができるのは、今のところ人間だけだ」 「でもわたしたちのほうがまちがっているのかもしれない」  天吾はそれについて考えた。「時間を直線として捉えることが間違っているかもしれないということ?」  返事はない。 「もちろんその可能性はある。僕らが間違っていて、カラスが正しいのかもしれない。時間はぜんぜん直線みたいなものじゃないのかもしれない。それはねじりドーナツみたいなかたちをしているのかもしれない」と天吾は言った。「しかし人間はおそらく何万年も前からそうやって生きてきたんだ。つまり時間を永遠に続く一直線として捉え、そのような基本的認識のもとに行動をしてきた。そしてこれまでのところ、そうすることにとくに不都合や矛盾は見いだせなかった。だから経験則としてそれは正しいはずだ」 「ケイケンソク」とふかえりは言った。 「多くのサンプルを通過させることによって、ひとつの推論を事実的に正しいと見なすことだよ」  ふかえりはしばらく黙っていた。彼女がそれを理解したのかしなかったのか、天吾にはわからなかった。 「もしもし」と天吾は相手の存在を確認した。 「いつまでそこにいる」とふかえりは疑問符なしで質問した。 「いつまで僕が千倉にいるかということ?」 「そう」 「わからない」と天吾は正直に言った。「納得がいくまでここにいるとしか、今のところは言えないんだ。納得のいかないことがいくつかある。もうしばらく成り行きを見てみたい」  ふかえりはまた電話口で黙り込んだ。彼女がいったん黙ると気配そのものが消滅してしまう。 「もしもし」と天吾はまた声をかけた。 「でんしゃにのりおくれないように」とふかえりは言った。 「気をつけるよ」と天吾は言った。「電車に乗り遅れないようにする。そちらの方は大丈夫?」 「すこしまえにひとりひとがやってきた」 「どんな人?」 「エネーチケーのひと」 「NHKの集金人?」 「シュウキンニン」と彼女は疑問符抜きで質問した。 「その人と話をした?」と天吾は尋ねた。 「なにをいっているのかわからなかった」  NHKがどういうものなのか、そもそもわかっていないのだ。いくつかの基本的な社会知識が彼女には具わっていない。  天吾は言った。「話が長くなるから、電話では細かく説明できないけど、簡単に言えばそれは大きな組織で、たくさんの人がそこで働いている。日本中の家をまわって毎月のお金を集めている。でも僕や君がお金を払う必要はない。僕らは何も受けとっていないから。とにかく鍵は開けなかったね?」 「かぎはあけなかった。いわれたように」 「それでいい」 「でもドロボーといわれた」 「それは気にしなくていい」と天吾は言った。 「わたしたちはなにもぬすんでいない」 「もちろん。君も僕も何も悪いことをしていない」  ふかえりはまた電話口で黙り込んだ。 「もしもし」と天吾は言った。  ふかえりは返事をしなかった。彼女は既に電話を切ってしまったのかもしれない。しかしそれらしい音も聞こえなかった。 「もしもし」と天吾はもう一度、今度はいくらか大きな声で言った。  ふかえりは小さく咳払いをした。「そのひとはあなたのことをよくしっていた」 「その集金人が?」 「そう。エネーチケーのひと」 「そして君のことを泥棒だと言った」 「わたしのことをいっていたのではない」 「僕のことを言っていた?」  ふかえりは返事をしなかった。  天吾は言った。「いずれにせようちにはテレビはないし、僕はNHKから何かを盗んでいるわけじゃない」 「でもかぎをあけないことではらをたてていた」 「それはかまわない。腹を立てさせておけばいい。でも何を言われても、ドアの鍵は絶対に開けちゃだめだよ」 「かぎはあけない」  そう言い終えるとふかえりは唐突に電話を切った。あるいは唐突ではないのかもしれない。彼女にとってはそこで受話器を置くことが自然で論理的なおこないだったのかもしれない。しかし天吾の耳には、それはどちらかといえば唐突な電話の切り方として響いた。何にせよふかえりが何をどう考え、どう感じるかについて推測しても無駄なことは天吾にもよくわかっていた。経験則として。  天吾は受話器を置き、父親の部屋に戻った。  父親はまだ部屋には戻されていなかった。ベッドのシーツには彼のくぼみがまだ残っていた。しかしそこにはやはり空気さなぎの姿はなかった。淡く冷ややかな夕闇に染められていく部屋の中には、ついさっきまでそこに存在した人のささやかな痕跡が残されているだけだった。  天吾はため息をついて椅子に腰を下ろした。そして膝の上に両手を置き、そのシーツのくぼみを長いあいだ見つめていた。それから立って窓際に行き、外に目をやった。防風林の上には晩秋の雲がまっすぐにたなびいていた。久しぶりに美しい夕焼けの気配があった。  NHKの集金人がどうして自分のことを「よく知っている」のか、天吾にはわからなかった。この前NHKの集金人がやってきたのは、一年ほど前のことだ。そのときに彼は戸口で、部屋の中にテレビがないことを集金人に丁寧に説明した。自分はテレビというものをまったく見ないのだと。集金人はその説明に納得はしなかったが、ぶつぶつと嫌みを口にしただけで、それ以上はとくに何も言わずに帰って行った。  今日やってきたのはそのときの集金人なのだろうか? たしかその集金人も彼のことを「泥棒」と呼んだような記憶がある。しかし同じ集金人が一年ぶりにやってきて、天吾のことを「よく知っている」と言うのはいささか奇妙だった。二人はただ戸口で五分ばかり立ち話をしたに過ぎない。  まあいい、と天吾は思った。とにかくふかえりは鍵を開けなかった。集金人が再訪問することはあるまい。彼らはノルマに追われ、支払いを拒否する人々との不快な言い合いに疲れている。だから無駄な労力を省くために面倒なところは迂回して、徴収しやすいところから受信料をとる。  天吾は再び父親の残していったベッドのくぼみに目をやった。そして父親が履き潰してきた多くの靴のことを思った。日々集金ルートを踏破することによって、父親は長い歳月のあいだに数え切れないほどの靴を葬ってきた。どれも同じような見かけの靴だ。黒くて底の厚い、きわめて実務的な安物の革靴だった。それらはぼろぼろにほつれ、擦り切れ、踵がいびつになるまで酷使された。そのような激しく変形した靴を目にするたびに、少年時代の天吾の胸は痛んだものだった。彼が気の毒に思ったのは父親に対してではなく、むしろ靴に対してだった。それらの靴は、利用されるだけ利用されて今は死に瀕した哀れな使役動物を連想させた。  しかし考えてみれば、今の父親そのものが、死にかけている使役動物のようなものではないか。擦り切れた革靴と同じようなものではないか。  天吾はもう一度窓の外に目をやり、西の空に夕焼けが色を濃くしていく様子を眺めた。そして仄かな青白い光を放つ空気さなぎのことを思い、その中に横たわって眠っている少女時代の青豆のことを思った。  あの空気さなぎはまたここに現れるのだろうか?  時間は本当に直線のかたちをしているのだろうか? 「どうやら手詰まりみたいだ」と天吾は壁に向かって言った。「変数が多すぎる。いくら元神童でも答えを出すのは無理だ」  もちろん壁は返事を返さない。意見も口にしない。彼らは無言のうちに夕焼けの色を反映させているだけだ。 第4章 牛河 オッカムの剃刀  麻布の屋敷に住むその老婦人が、何らかのかたちで「さきがけ」のリーダーの暗殺に関係しているかもしれないという考えに、牛河はどうしても馴染めなかった。牛河は彼女の身辺をひととおり洗ってみた。名の知れた、社会的地位のある人間だったから、調査に手間はかからない。夫は戦後実業界の大物の一人で、政界にも影響力を持っていた。事業の中心は投資と不動産だが、大型小売店舗や輸送関連事業といった、その周辺に展開する分野にも関わりを深めていた。一九五〇年代半ばに夫が亡くなったあとは彼女が事業を継いだ。彼女には経営の才能があり、とりわけ危機を察知する能力に恵まれていた。六〇年代後半、彼女は会社が経営の手を広げすぎていると感じ、いくつかの部門の株式を高値のうちに計画的に売却し、組織を徐々にダウンサイズした。そして残された部門の体力強化に力を注いだ。おかげで間もなくやってきたオイルショックの時代を、傷口を最小限に抑えて乗り切り、潤沢な資金をストックすることができた。彼女は他人にとっての危機を自分にとっての好機に変える術を心得ていた。  今では事業の経営からは身を引き、七十代の半ばを迎えている。豊かな資産もあるし、誰に煩わされることもなく広い屋敷で悠々自適の生活を送っていた。裕福な家に生まれ、資産家と結婚し、夫と死別したあとは更に裕福になった。そんな女性がどうして計画的殺人を企図しなくてはならないのだろう。  しかし牛河はその老婦人について、より深く調査を続けてみることにした。ひとつにはほかに手がかりらしきものが見当たらなかったからであり、ひとつには彼女が運営している「セーフハウス」の様子にいささか気になるところがあったからだ。家庭内暴力に悩む女性たちのために無償で隠れ家を提供するという行為自体には、とりたてて不自然なところはない。健全で有益な社会奉仕だ。彼女には経済的な余力があるし、そのような身の上の女性たちは、受けた厚意に深く感謝することだろう。しかしそのアパートはあまりにも警戒が念入りだった。頑丈な門扉と錠前、ドイツ?シェパード、何台ものカメラ。牛河はそこに何かしら過剰なものを感じとらないわけにはいかなかった。  牛河は最初に老婦人の居住している土地と家屋の名義を確認した。それは公開されている情報であり、役所に足を運べばすぐにわかる。土地も家屋もすべて彼女単独の個人の名義になっていた。担保にも入っていない。単純明快だ。個人資産ということで、年間の固定資産税は相当な金額になるが、毎年その程度の金額を支払うくらい、おそらく何でもないことなのだろう。きたるべき相続税もずいぶん高額になるはずだが、それもとくに気にかけていないらしい。金持ちにしては珍しい。牛河の知る限りでは、金持ちくらい税金を払うことを憎み嫌う人種はいない。  夫が亡くなってからは、一人でその広い屋敷に住んでいるということだった。もちろん一人暮らしとはいっても、使用人が何人か住み込んでいるはずだ。子供は二人いて、長男が事業を継いでいる。長男には子供が三人いる。結婚した長女は十五年前に病死している。そちらには子供はいない。  その程度の知識は簡単に得られた。しかしそこから一歩突っ込んで、彼女の個人的な背景をより深く知ろうとすると、突然堅い壁に突き当たる。先に進むための道筋はすべて閉ざされている。壁は高く、扉には幾重にも鍵がかけられている。牛河にわかったのは、この女性には私的な部分を世間の目に晒すつもりはみじんもないということだった。そしてその方針を貫くために、相当な手間と金が注ぎ込まれているようだ。彼女はどのような質問にも応じず、どのような発言もしない。どれだけ資料を漁っても彼女の写真を目にすることはなかった。  港区の電話帳に彼女の名前は掲載されていた。牛河はその番号に電話をかけてみた。どんなことでも実際に正面から試してみるのが牛河の流儀だ。ベルが二度も鳴らないうちに男が電話に出た。牛河は偽名を使い、適当な証券会社の名前を名乗り、「お手持ちの投資ファンドのことで、奥様におうかがいしたいことがあるのですが」と切り出した。相手は「奥様は電話には出られません。用件はすべて私がうかがいます」と言った。機械で合成して作ったような事務的な声だった。会社の規則で本人以外に内容を教えることはできないので、そういうことであれば、数日を要するが郵便で書類を送らせていただくことになると牛河は言った。そうしてもらいたいと相手は言った。そして電話を切った。  老婦人と話せなくても牛河はとくにがっかりしなかった。もともとそこまでは期待していない。彼が知りたかったのは、プライバシーを護るために彼女がどの程度神経を使っているかということだった。神経は十分に使われていた。彼女はその屋敷の中で、何人かの人々によって厚く護られているようだった。そういう雰囲気が電話に出た男の——おそらくは秘書だろう——口調からも伝わってきた。電話帳には彼女の名前が印刷されている。しかし彼女と直接話ができる相手は限られており、それ以外の相手は砂糖壷に潜り込もうとする蟻のようにあっさりとつまみ出される。  牛河は賃貸物件を探しているふりをして近隣の不動産業者をまわり、セーフハウスとして使われているアパートについてそれとなく事情を尋ねてみた。ほとんどの業者はその住所にそんなアパートが存在していることすら知らなかった。このあたりは東京でも有数の高級住宅街だ。基本的に高額物件しか扱わないし、木造二階建て賃貸アパートになんて毛ほども関心を持っていない。彼らは牛河の顔と服装を一見しただけで、ろくすっぽ相手にもしてくれなかった。雨に濡れた疥癬病みの、尻尾のちぎれた犬がドアの隙間から入り込んできても、もう少し温かく扱われるのではないかという気がしたくらいだ。  ほとんどあきらめかけたとき、かなり昔からやっているらしい地元の小さな不動産屋が牛河の目を引いた。そこで店番をしていた黄ばんだ顔をした老人が「ああ、あれはね」という感じで、進んで事情を教えてくれた。二級品のミイラのようなひからびた相貌の男だったが、そのあたりのことなら隅から隅まで知っていたし、誰でもいいから話し相手を求めていた。 「あの建物は緒方さんの奥さんがもっておってね、ああ、昔は賃貸アパートになっていたようだ。なんで緒方さんがそんなものを持っていたのか、事情は知らない。アパート経営をしなくちゃならないという境遇の人じゃないからね。おおかた使用人の宿舎みたいなかたちで使っていたんだろう。今はなんか知らないが、ああ、家庭内暴力に悩む女の人のための駆け込み寺みたいになっておるらしい。どっちみち不動産屋の飯のタネにはならんよ」  老人はそう言うと、口を開けずにコゲラのような声で笑った。 「ほう、駆け込み寺ですか」と牛河は言って、老人にセブンスターを一本勧めた。老人は煙草を受け取り、牛河のライターで火をつけてもらい、いかにもうまそうに吸った。セブンスターもそれくらいうまそうに吸われると本望だろうと牛河は思った。 「亭主にぶん殴られて、顔を腫らして逃げ出してきた女を、ああ、あそこに匿うんだ。もちろん家賃なんて取らないやね」 「社会奉仕みたいなことですかね」と牛河は言った。 「ああ、そんなところだ。アパートが一棟余っているから、それを使って困った人を助けようってわけだ。何せとてつもない大金持ちだからね、損得なんぞ気にせんで好きなことができる。私ら庶民とは違うさ」 「しかし緒方さんの奥さんはなんでまたそういうことを始めたんでしょうね。なんかきっかけみたいなものがあったんでしょうか」 「さあねえ、なにせお金持ちだからね、道楽みたいなもんじゃないか」 「でもたとえ道楽だとしても、困っている人のために進んで何かをするっていうのはいいことじゃありませんか」と牛河はにこやかに言った。「お金の余っている人がみんな進んでそういうことをするわけじゃありません」 「そりゃま、いいことっていや、たしかにいいことだ。おれも昔は女房をしょっちゅうぶん殴ったから、偉そうなことは言えねえけどさ」と老人は言って、歯の欠けた口を大きく開けて笑った。妻をたびたび殴ったことが、人生における特筆すべき喜びであるみたいに。 「それで、今は何人くらいの人がそこに住んでいるんでしょうね」と牛河は尋ねてみた。 「毎朝散歩して前を通りかかるが、外からじゃなんにも見えん。しかしいつも何人かの人は住まっておるようだ。世間には女房を殴る男はたんといるみたいだ」 「世のためになることをする人間よりは、ためにならないことをする人間の方がずっと多いですから」  老人はまた口を大きく開けて笑った。「あんたの言うとおりだ。この世の中、良いことをする人間よりは、ろくでもないことをする人間の方が数としちゃずっと多い」  その老人はどうやら牛河のことが気に入ったみたいだった。牛河はなんとなく落ち着かない気持ちになった。 「ところでその緒方さんの奥さんというのは、どのような方なんでしょうね?」と牛河はさりげなく尋ねた。 「緒方さんの奥さんのことはね、ああ、よくわからんのだよ」、枯れ木の精のように厳しく眉をひそめて老人は言った。「ずいぶんひっそり暮らしておられる方だからな。長い間ここでこの商売をしておるけど、たまにちらっと遠くから見かける程度だ。出かけるときは運転手つきの車だし、買い物は全部女中さんがやる。秘書みたいなのが一人いてね、その男がだいたいのことを仕切っている。何しろ育ちの良い上に大金持ちときてるから、私ら下賎《げせん》のものとじかに言葉を交わしたりはしないんだよ」、彼は顔をぐいとしかめ、その皺の中から牛河に目配せをした。 「私ら下賎のもの」という集団は、どうやらその黄ばんだ顔をした老人自身と牛河が中心になってできているらしかった。  牛河は尋ねた。「緒方さんの奥さんはどれくらい前からその『家庭内暴力に悩む女性たちのためのセーフハウス』の活動をしておられるのでしょうね?」 「うーん、たしかなことはよくわからん。駆け込み寺云々の話だって、人から聞いた話だからさ。いつ頃からそういうことをしておられたのかなあ。ただあのアパートにかなり頻繁に人が出入りするようになったのは、四年ほど前だ。四年か五年か、そんなものだ」、老人は湯飲みを手に取り、冷めた茶を飲んだ。「そのあたりから門が新しくなり、警備が急にものものしくなった。なにしろセーフハウスっていうくらいだ。誰でも簡単に入れるようじゃ、中にいる人間だっておちおち暮らせないわな」  それから老人はふと現実に戻ったように、探るような目で牛河を見た。「それで、あんたは手頃な家賃のアパートを探しておるんだね?」 「そういうことです」 「じゃあよそに行くことだ。ここらはとびっきりのお屋敷町だし、賃貸物件があったとしても、大使館勤務の外国人向けの高額物件ばかりだ。昔はね、金持ちじゃない普通の人だってけっこうこのへんに住んでいた。私らもそういう物件を扱って商売ができてた。でも今じゃそんなものどこにもありゃしない。だからそろそろ店仕舞いしようかと思うているところだ。東京都心の地価は狂ったように上がっていくし、私ら零細業者にはとてもじゃないが扱いきれんようになっている。あんたも金が余っているんじゃないなら、ほかの場所を探した方がいい」 「そうしますよ」と牛河は言った。「自慢じゃないですが、金はぜんぜん余っちゃいません。よそを探してみましょう」  老人は煙草の煙をため息混じりにふうっと吐いた。「しかしもし緒方さんの奥さんが亡くなったら、あの屋敷も早晩消えちまうよ。息子さんはなにせやり手だからね、こんな一等地の広い地所を無駄に遊ばせちゃおかない。間を置かずにぶっつぶして超高級マンションを建てるさ。ひょっとしたら今頃もう手回し良く図面くらい引いているかもな」 「そうなると、このあたりのおっとりした雰囲気も変わってくるでしょうね」 「ああ、そりゃがらっと違ってくるさ」 「息子さんってのは、どんなご商売ですか?」 「基本的には不動産業だよ。ああ、要するに私らと同業だ。とはいっても、やってることは月とすっぽん、ロールスロイスと<傍点>ちゃりんこくらい違う。あちらは資本を動かして、でかい物件を自分でどんどんこしらえていく。よくできた仕組みになっていて、うまい汁は一滴残らず自分で吸う。こっちには<傍点>おこぼれひとつまわっちゃこない。ひでえ世の中になったもんさ」 「さっきまわりを歩いて、ぐるっと拝見してきたんですが、いや、感心しましたね。まことに立派なお屋敷です」 「ああ、このへんでもいちばんのお屋敷だ。あの見事な柳の木がそっくり切り倒されてしまうかと思うと、想像するだけで胸が痛むさ」、老人はそう言って、いかにもつらそうに首を振った。 「緒方さんの奥さんにももうちっと長生きしてもらわんとね」 「まったくですね」と牛河は同意した。  牛河は「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」に連絡をしてみた。驚いたことに、電話帳にはそのとおりの名前で番号が掲載されていた。何人かの弁護士たちが中心になりボランティアで運営している非営利団体だ。老婦人のセーフハウスはその団体と連携して、家から逃げ出してきた行き場のない女性たちを引き受けている。牛河は彼の事務所の名前で面会を申し込んだ。例の「新日本学術芸術振興会」だ。資金援助の可能性があることを彼は匂わせた。そして面会の日時が設定された。  牛河は彼らに名刺を差し出し(天吾に渡したのと同じ名刺だ)、社会に貢献している優れた非営利団体を年にひとつ選び、助成金を支給することがこの法人の目的のひとつであると説明した。その候補のひとつに「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」が入っている。スポンサーが誰であるかは明らかにすることができないが、助成金の使い途はまったく自由であり、年度末に一度簡単な報告書を出す以外に義務は伴わない。  相手の若い弁護士は牛河の風体をひととおり観察し、あまり好ましい印象は抱かなかったようだった。牛河の姿かたちは初対面の相手に好感や信頼感を与えるようにはできていない。しかし彼らは運営資金に慢性的に不足していたし、どのような援助であれ歓迎しないわけにはいかなかった。だからいくぶん疑念の余地を残しながらも、牛河の話をとりあえず受け入れた。  活動の内容をもう少し詳しくうかがいたいと牛河は言った。弁護士は「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」の成立の経緯を説明した。どのようにして彼らがこの団体を立ち上げるにいたったかについて。牛河にはそんな話は退屈なだけだったが、いかにも興味深そうな顔をして相手の説明に耳を傾けた。的確な相づちを打ち、大きく肯き、神妙な顔をした。そうしているうちに相手もだんだん牛河に馴染んできた。見かけほど胡散臭《うさんくさ》い人物ではないのかもしれないと思い始めたようだった。牛河は訓練された聞き手だったし、彼のいかにも誠実な耳の澄ませ方は、たいていの場合相手の心を和ませた。  彼は機会を捉え、「セーフハウス」の方向にさりげなく話題を移した。家庭内暴力から逃げ出してきた気の毒な女性たちは、行き場が見つけられない場合、どこに身を寄せることになるのだろうと尋ねた。理不尽な強風に翻弄《ほんろう》される木の葉のごとき彼女たちの運命を、心から気遣っているような表情を顔に浮かべて。 「そのような場合に備えて、いくつかのセーフハウスを我々は用意しています」と若い弁護士は言った。 「セーフハウスと申しますと?」 「一時的な避難先です。数多くはありませんが、そのような場所が篤志家《とくしか》によっていくつか提供されています。中にはアパートを丸ごと一棟提供してくださった方もおられます」 「アパートを丸ごと一棟」と牛河は感心したように言った。「そういう方が世の中にはおられるのですね」 「ええ。我々の活動が新聞や雑誌に取り上げられますと、何らかのかたちで協力したいという方から連絡があります。そういう人々の申し出なしには、この組織を運営していくことはできません。ほとんど持ち出しで活動している状態ですから」 「とても意義ある活動をなさっておられる」と牛河は言った。  弁護士は無防備な微笑みを顔に浮かべた。自分が正しいことをしていると確信している人間くらい騙《だま》しやすい相手はいないと牛河はあらためて思った。 「今は何人くらいの女性がそのアパートに暮らしておられるのでしょう?」 「そのときどきによって数は違いますが、そうですね、だいたい四人から五人というところでしょう」と弁護士は言った。 「そのアパートを提供されたという篤志家ですが」と牛河は言った。「どのような経緯でこの運動に関わってこられたのでしょうね。そこには何かきっかけのようなものがあると思うのですが」  弁護士は首をかしげた。「そこまでは私にもわかりかねます。ただそれ以前にも、個人的な範囲で同じような活動はしておられたようです。いずれにしましても、こちらといたしましては、ただありがたくご厚意を受け取るだけです。向こうから説明がなければ、理由まではいちいちうかがいません」 「もちろんです」と牛河は肯いて言った。「ところで、そのセーフハウスの場所なんかについては、内密にしておられるのでしょうね」 「ええ、女性たちは安全に保護されなくてはなりませんし、また多くの篤志家も匿名に留まることを望まれています。なんといっても暴力行為の絡んでいることですから」  そのあともしばらく話を続けたが、相手の弁護士からそれ以上の具体的な情報を聞き出すことはできなかった。牛河にわかったのは次のような事実だった。「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」が本格的に活動を開始したのは四年前だが、ほどなくある「篤志家」から連絡があり、今は使っていないアパート一棟をセーフハウスとして提供したいという申し出がなされた。彼らの活動が新聞に紹介され、それを読んだその「篤志家」が連絡してきたのだ。絶対に名前を明らかにしないことが協力の条件だった。しかし話の流れからいって、その「篤志家」が麻布の老婦人であり、「セーフハウス」が彼女の所有する木造アパートであることに疑問の余地はなかった。 「どうもお時間をとらせました」と牛河はその理想家肌の若い弁護士に篤く礼を言った。「充実した有益な活動をなさっておられるようです。今回のお話を持ち帰り、来たる理事会に諮《はか》らせていただきます。近いうちにご連絡を差し上げられると思います。活動のいっそうのご発展をお祈りしております」  牛河が次にやったのは、老婦人の娘の亡くなった経緯を調べることだった。彼女は運輸省のエリート官僚と結婚し、死亡時はまだ三十六歳だった。死因まではわからない。夫は妻の死後まもなく運輸省を去った。探り当てられた事実はそこまでだった。夫が運輸省を急に退官した理由もわからないし、その後彼がどのような道を歩んだかも不明だ。彼の退官は妻の死と関連しているのかもしれないし、関連していないのかもしれない。運輸省は一般市民に対して親切に積極的に省内の情報を公開してくれる役所ではない。しかし牛河には鋭い嗅覚が具わっていた。そこには<傍点>何か不自然なものがある。その男が妻を失った悲しみのあまりキャリアを捨て、職場を去り、世間から身を隠したとは、牛河にはどうしても思えなかった。  牛河の理解するところでは、三十六歳で病死する女性の数はそれほど多くない。もちろんまったくないわけではない。人はどんな年齢であれ、どれほど恵まれた環境にあれ、突然病を得て命を落とすことがある。癌があり、脳腫瘍があり、腹膜炎があり、急性肺炎がある。人の身体は脆く不確かなものだ。しかし裕福な環境にある女性が三十六歳で鬼籍に入るとき、それは確率的に言って、自然死であるよりは事故死か自殺であることの方が多い。  <傍点>仮定してみよう、と牛河は思った。ここはひとつ高名な「オッカムの剃刀《かみそり》」の法則に従って、なるったけシンプルに仮説を積み上げてみよう。無用な要因はとりあえず排除し、論理のラインを一本にしぼって物事を眺めてみよう。  老婦人の娘は病死したのではなく、自殺したのだと仮定してみようではないか。牛河は両手をこすり合わせながらそう考えた。自殺を表向き病死と世間に向けて偽ることは、さしてむずかしいことではない。とりわけ資力と影響力を持つ人間にとっては。もうひとつ先に進んで、娘は家庭内暴力にさらされて人生に絶望し、自らの命を絶ったのだと仮定してみようではないか。それもあり得ないことではない。世間でエリートと呼ばれる人々の決して少なくはない部分が——あたかも社会的割りあてを進んで余分に引き受けるかのごとく——鼻持ちならない性格や、陰湿な歪んだ性向を有していることは、一般によく知られる事実である。  さて、もしそうなった場合、母である老婦人はどうするだろう? これも運命だ、仕方ないと思い、そのままあきらめるだろうか? いや、そんなことはあるまい。娘を死に追いやる原因となったものに対して相応の報復を加えようとするはずだ。老婦人がどのような人間であるかが、牛河には今ではおおよそわかっていた。胆力のある聡明な女性であり、明瞭なビジョンを持ち、心に決めたことはすかさず実行に移す。そのためには自分が持っている資力と影響力を行使することを惜しまない。愛するものを傷つけ、損ない、結果的に命まで奪った人間を、彼女がそのまま放置しておくわけがない。  実際にどのような種類の報復がその夫に対してなされたのか、牛河には知りようがなかった。その人物の足取りは文字通り宙に消えている。老婦人がその男の命を奪ったとまでは思えない。用心深く冷静な女性だ。広い視野も持っている。そこまであからさまなことはしないだろう。とはいえ何らかの痛烈な措置がとられたことに間違いはあるまい。そして何がなされたにせよ、彼女が不都合な痕跡をあとに残しておくとは考えがたい。  しかし娘を奪われた母親の怒りと絶望は、ただ個人的な復讐を遂げるというだけには留まらない。彼女はある日新聞で「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」の活動を知り、協力を申し出る。自分は現在ほとんど使われていない賃貸アパートを都内に一棟所有しており、行き場のない女性たちのためにそれを無償で提供できる。これまでにも何度か、同じような目的のためにそこを使ったことがあるので、おおよその勝手はわかっている。ただし名前は表に出さないでもらいたい。団体を主宰している弁護士たちはもちろんその申し出に感謝する。公的な団体と連繋することによって、彼女の復讐心はより広汎で有用で、より前向きなものへと昇華される。そこには契機があり動機がある。  そこまでの推測はいちおう筋の通ったものに思えた。具体的な根拠はない。すべては仮説の積み重ねに過ぎない。しかしそういうセオリーを当てはめれば、多くの疑問はとりあえず解消される。牛河は唇を舐めながら、両手をごしごしとこすり合わせた。しかしそこから先がいささかあやふやになる。  老婦人は通っているスポーツ?クラブで、青豆という若い女性インストラクターと知り合い、どのようなきっかけがあったのかは知らないが、心の密約を結ぶことになる。そして周到な準備を整え、青豆をホテル?オークラの一室に送り込み、「さきがけ」のリーダーを死に至らせる。殺害方法は不明だ。あるいは青豆は特殊な殺人技術に長《た》けていたのかもしれない。その結果リーダーは、忠実で有能なボディーガードたちに厳重に警護されていたにもかかわらず、命を落とすことになった。  その辺りまでは危なっかしいなりにも仮説の糸をつないでいける。しかし「さきがけ」のリーダーと「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」とのあいだにどんなつながりがあるのかということになると、牛河は途方に暮れる。彼の思考はそこで行く手を阻まれ、つながれてきた仮説の糸は鋭い剃刀によってあっけなく断ち切られる。  教団が牛河に今求めているのは、二つの疑問に対する答えだった。ひとつは「リーダーの殺害を企図したのは誰か」であり、もうひとつは「青豆は今どこにいるのか」だ。  青豆について事前調査をおこなったのは牛河だった。彼はその前にも同種の調査を何度かやってきた。言うなれば手慣れた業務だ。そして彼女はクリーンだという結論を牛河は出した。どのような角度から見ても不審な点は見当たらない。教団にもそのように報告した。そして青豆はホテル?オークラのスイート?ルームに呼ばれ、筋肉ストレッチングを施した。彼女が帰ったあとリーダーは絶命していた。青豆はそのままどこかに姿を消した。まるで風に吹かれた煙のように。彼らはそのことで牛河に対して、ごく控え目に言ってかなり強い不快感を抱いているはずだ。牛河の調査が十分ではなかったと考えている。  しかし実際には、彼はいつもどおり隙のない調査をおこなった。坊主頭に対しても述べたように、牛河は仕事については手抜きを一切しない。電話の通話記録を事前にチェックしなかったのはたしかに手落ちだが、よほど疑わしいケースでもなければ、通常そこまではやらない。そして彼の調べた限りにおいては、青豆に怪しい点はひとつとして見当たらなかった。  いずれにせよ牛河としては、彼らにいつまでも不快感を抱かせておくわけにはいかない。金払いは申し分ないが、剣呑な連中だ。リーダーの遺体が秘密裏に処理されたことを知っているだけでも、牛河は既に彼らにとって危険人物になっている。自分が有用な人材であり、生かしておく価値のあることを、手に取れるかたちにして示さなくてはならない。  リーダー殺害に麻布の老婦人が関与しているという具体的な証拠はない。今のところすべては仮説推測の域を出ない。しかし立派な柳の木が繁るその広い邸宅の中には、何かしら重い秘密が潜んでいる。牛河の嗅覚はそのように告げていた。その真相を彼はこれから暴かなくてはならない。簡単な作業ではあるまい。相手のガードは堅く、そこには間違いなくプロの手が入っている。  やくざだろうか?  あるいはそうかもしれない。実業界、とくに不動産業界は世間の目の届かないところでやくざと取り引きをしていることが多い。荒っぽい仕事はそういう連中に任せる。老婦人が彼らの力を利用するというのもないことではない。しかし牛河はそれに対しては否定的だった。老婦人はそういう人種と関わり合うには育ちが良すぎる。とくに「家庭内暴力に悩む女性たち」を保護するために、やくざの力を利用するとは考えにくかった。おそらく彼女は自前の警護体制を整えているのだろう。洗練された個人的なシステムを。金はかかるだろうが、彼女は金には不自由していない。そしてそのシステムは必要に応じて暴力的な傾向を帯びるかもしれない。  もし牛河の仮説が正しければ、青豆は老婦人の助力を得て、今頃どこか遠方にある隠れ家に身を潜めているはずだ。丁寧に足跡を消され、新しいアイデンティティーを与えられ、名前も変えているだろう。ひょっとしたら外見も違っているかもしれない。そうなると、牛河が今やっているような細々とした個人の調査では、その足取りを辿るのはまず不可能になる。  とりあえずこの麻布の老婦人の線にしがみついているしかなさそうだった。なんらかのほころびをそこにみつけ、そのほころびから青豆の足取りを推し測っていくしかない。うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。しかし鋭い嗅覚と、しがみついたら放さない粘り強さが牛河の身上だ。そしてそれ以外にいったいどんな語るに足る資質が俺にあるだろう、と牛河は自らに問いかけた。人に向かって誇れるような能力が、何かそのほかにあるだろうか?  <傍点>何ひとつない、と牛河は確信を持って自らに答えた。 第5章 青豆 どれだけ息をひそめていても  ひとつの場所に閉じこめられ、単調で孤独な生活を送ることは、青豆にとってさほど苦痛ではない。朝の六時半に起き、簡単な朝食をとる。一時間ほどかけて洗濯やアイロン掛けや床掃除をする。昼前の一時間半、タマルが用意してくれた器具を用いて、効率よく濃密に身体を動かす。プロのインストラクターとして、どの部分の筋肉に日々どれほどの刺激を与えればいいかを彼女は知悉《ちしつ》している。どこまでの負荷が有益で、どこからがやり過ぎになるかもわかっている。  昼食は野菜サラダと果物を中心にとる。午後はおおむねソファに座って本を読み、短い午睡をとる。夕方に一時間ほどかけて料理を作り、六時前には夕食を食べ終える。日が暮れると、ベランダに出てガーデンチェアに座り、児童公園を監視する。そして十時半にはベッドに入る。その繰り返しだ。しかしそんな生活をとりたてて退屈と感じることはない。  もともと社交的な性格ではない。長期間にわたって誰と会わなくても、誰と話さなくても、不便は感じない。小学生のときには級友とほとんど口をきくことさえなかった。正確に言えば、必要のない限り誰も彼女とは口をきいてくれなかった。青豆はその教室にあっては「わけのわからない」異分子であり、排除され黙殺されるべきものだった。青豆にはそれは公正ではないことに思えた。もし彼女自身に落ち度や問題があるのなら、排除されても仕方ないかもしれない。しかしそうではない。小さな子供が生き延びていくには、両親の命令に黙って従うしかないのだ。だから給食の前には必ず大きな声でお祈りを捧げ、日曜日には母親と共に町を歩いて信者の勧誘をし、宗教上の理由から寺社への遠足をボイコットし、クリスマス?パーティーを拒否し、他人のお下がりの古着を着せられることにも文句ひとつ言わなかった。しかしまわりの子供たちは誰もそんな事情を知らないし、またわかろうともしない。ただ気味悪がるだけだ。教師たちだって明らかに彼女の存在を迷惑に思っていた。  もちろん青豆は両親に嘘をつくことができた。毎日給食の前にお祈りの文句を唱えていると言って、唱えないでいることもできた。しかしそれをしたくなかった。ひとつには神さまに対し——実際にいるにせよいないにせよ——嘘をつきたくなかったからだし、もうひとつは同級生に対して、彼女なりに腹を立てていたからだ。そんなに私を気味悪がりたいのなら、好きなだけ気味悪がればいい。青豆はそう思った。お祈りを続けることはむしろ彼らに対する挑戦になった。公正さは私の側にある。  朝目を覚まし、学校に行くために服を着替えるのが苦痛だった。緊張のためによく下痢をしたし、ときどき吐いた。熱を出すこともあったし、頭痛や手足の痺れを感じることもあった。それでも一日も学校を休まなかった。もし一日休めば、そのまま何日も休みたくなるはずだ。そんなことが続けば、二度と学校には行かなくなるだろう。それは同級生や教師に自分が負けることを意味する。彼女が教室からいなくなったら、みんなはほっとするに違いない。青豆は彼らにほっとなんてしてもらいたくなかった。だからどんなにつらくても、這うようにして学校に出かけた。そして歯を食いしばって沈黙に耐えた。  その当時置かれていた過酷な状況に比べれば、小綺麗なマンションの一室に閉じこもって誰とも口をきかないくらい、青豆には何でもないことだ。まわりのみんなが楽しそうに語り合う中で、沈黙し続ける<傍点>きつさに比べれば、自分一人しかいない場所で沈黙をまもるのは遥かに容易《たやす》く、そして自然なことだ。読むべき本もある。タマルの届けてくれたプルーストを彼女は読み始めた。しかし一日に二十ページ以上は読まないように気をつけた。時間をかけて文字どおり一語一語をたどり、丁寧に二十ページを読む。それだけを読み終えると、ほかの本を手に取る。そして寝る前には『空気さなぎ』を必ず数ページ読む。それは天吾が書いた文章であり、またある意味では彼女が1Q84年を生きていくためのマニュアルでもあったからだ。  音楽も聴いた。老婦人はクラシック音楽のカセットテープを段ボール箱に詰めて届けてくれた。マーラーの交響曲、ハイドンの室内楽、バッハの鍵盤音楽、様々な種類と形式の音楽が入っていた。彼女が頼んだヤナーチェックの『シンフォニエッタ』もあった。一日に一度『シンフォニエッタ』を聴き、それに合わせて激しい無音の運動をした。  秋は静かに深まっていった。日々の移ろいの中で自分の身体が少しずつ透明になっていく感触がある。できるだけものを考えないように青豆は努める。しかしもちろん何も考えないわけにはいかない。真空があれば何かがそれを満たす。しかし少なくとも今の彼女は、何かを憎む必要を感じない。同級生や教師を憎む必要もない。彼女はもう無力な子供ではないし、信仰を強制的に押しつけられることもない。女を殴り傷つける男たちを憎悪する必要もない。それまで時として高潮のように身のうちに湧き起こった怒りは——目の前の壁をわけもなく殴りつけたくなるような感情の激しい高ぶりは——知らないうちにどこかに消え去っていた。どうしてかはわからないが、それが戻ってくることはもうなかった。青豆にとってはありがたいことだった。彼女としてはできることならもうこれ以上誰をも傷つけたくなかった。自分を傷つけたくないのと同じように。  寝つけない夜には大塚環や中野あゆみのことを考える。瞼を閉じると、彼女たちの身体を抱いた記憶が鮮やかに蘇る。二人はそれぞれに柔らかく艶やかで、温かい身体をもっていた。優しい奥行きのある肉体だ。そこには新鮮な血が巡り、心臓が規則正しく恵み深い音を立てていた。小さなため息が聞こえ、くすくす笑いが聞こえた。繊細な指先、硬くなった乳首、滑らかな太腿……。でも彼女たちはもうこの世界にはいない。  暗い柔らかな水のように音もなく気配もなく、悲しみが青豆の心を満たす。そういうときには記憶の回路を切り替え、精いっぱい天吾のことを考える。意識を集中し、放課後の教室でほんの僅かなあいだ握りしめた、十歳の彼の手の感触を思い起こす。そしてついこのあいだ、滑り台の上にいた三十歳の天吾の姿を脳裏に呼び戻す。その二本の太い大人の腕が自分を抱きしめるところを想像する。  <傍点>彼はもう少しで手が届くところにいたのだ。  そしてこの次には、私の伸ばした手は実際に彼に届くかもしれない。青豆は暗闇の中で目をつむり、その可能性に身を沈める。憧憬に心を任せる。  しかしもしもう二度と彼に会えないとしたら、私は<傍点>いったいどうすればいいのだろう。青豆の心は震える。天吾との現実の接点が存在しないときには、話はずっと単純だった。大人になった天吾に出会うことは、青豆にとってただの夢であり、抽象的な仮定でしかなかった。しかし彼の<傍点>実際の姿を目にした今、天吾の存在は前とは比べものにならないほど切実で力強いものになっている。青豆は何があっても彼と再会したい。そして彼に抱かれ、隅々まで愛撫されたい。それがかなわないかもしれないと考えるだけで、心と身体が真ん中から二つに裂けてしまいそうになる。  私はエッソの虎の看板の前で、あのまま九ミリ弾を頭の中に撃ち込むべきだったのかもしれない。そうすれば生き延びてこんな切ない思いをすることもなかったはずだ。しかしどうしても引き金を引くことができなかった。彼女は声を耳にした。誰かが遠くから彼女の名前を呼んでいた。<傍点>天吾にもう一度会えるかもしれない、そういう想いがいったん頭に浮かぶと、彼女は生き続けないわけにはいかなかった。たとえ、リーダーが言ったように、それによって天吾の身に危害が及ぶとしても、彼女にはもう他の道は選べなかった。論理の及ばない強い生命力のほとばしりがそこにあった。その結果、私はこうして天吾に対する激しい欲望に身を焦がしている。絶え間のない渇きと絶望の予感がある。  これが生き続けることの意味なのだ、青豆はそれを悟る。人は希望を与えられ、それを燃料とし、目的として人生を生きる。希望なしに人が生き続けることはできない。しかしそれはコイン投げと同じだ。表側が出るか裏側が出るか、コインが落ちてくるまではわからない。そう考えると心が締めあげられる。身体中の骨という骨が軋《きし》んで悲鳴をあげるくらい強く。  彼女は食卓に座り自動拳銃を手に取る。スライドを引いてチェンバーに弾丸を送り、親指で撃鉄を上げ、銃口を口に入れる。右手の人差し指にあと少し力を加えれば、この切なさはすぐに消滅する。あと少しだ。あと一センチ、いやあと五ミリこの指を内側に引くだけで、私は憂いのない沈黙の世界に移行する。痛みはほんの一瞬だ。そのあとには慈悲深い無がやってくる。彼女は目を閉じる。エッソの看板から、給油ホースを手にした虎がにこやかに微笑みかける。<傍点>タイガーをあなたの車に。  彼女は硬い銃身を口から抜き、ゆっくりと首を振る。  死ぬことはできない。ベランダの前に公園があり、公園に滑り台があり、天吾がそこに戻ってくるかもしれないという希望がある限り、私にはこの引き金を引くことはできない。可能性がぎりぎりの地点で彼女を押しとどめる。彼女の心の中でひとつのドアが閉じ、別のドアが開いたような感覚がある。静かに、音もなく。青豆は拳銃のスライドを引いて弾丸をチェンバーから出し、安全装置をかけてテーブルに戻す。目を閉じると、その暗闇の中で仄かな明かりを放つ微小な何かが刻一刻と消えて行くのがわかる。ごく細かい、光の塵のようなものだ。でもそれがいったい何なのか、彼女にはわからない。  ソファに座り『スワン家の方に』のページに意識を集中する。物語の情景を頭に描き、ほかの考えを忍び込ませないように努める。外では冷たい雨が降り始めている。ラジオの天気予報は、静かな雨が翌日の朝まで降り続くことを告げている。秋雨の前線が太平洋の沖合に腰を据えたまま動きを見せない。時を忘れて孤独な考えに耽る人のように。  天吾はやって来ないだろう。空は隅々まで厚い雲に覆われて、月を見ることはできない。それでも青豆はベランダに出て、温かいココアを飲みながら公園を監視するだろう。双眼鏡と自動拳銃を手近に置き、すぐに外に走り出せるかっこうをして、雨に打たれる滑り台を眺め続けるだろう。それが彼女にとってのただひとつの意味ある行為なのだから。  午後の三時にマンション入り口のベルが鳴る。誰かが建物の中に入ることを求めている。青豆はもちろんそれを無視する。誰かが彼女を訪ねてくる可能性はない。お茶を飲むために湯を沸かしかけていたが、用心のためにガスの火を消して様子をうかがう。ベルは三度か四度鳴ってから沈黙する。  五分ばかりあとで再びベルが鳴る。今度は部屋の戸口についたドアベルだ。その<傍点>誰かは今では建物の中にいる。彼女の部屋の扉の前にいる。誰かのあとについて玄関から入ってきたのかもしれない。あるいはどこかほかの部屋のベルを押し、適当なことを言って玄関ドアを開けてもらったのかもしれない。青豆はもちろん沈黙を守る。たとえ誰が来ても返事はするな、内側からボルト錠をかけて息を殺していろ——それがタマルに指示されたことだ。  ドアベルは十回は鳴っただろう。セールスの人間にしては執拗《しつよう》すぎる。彼らはせいぜい三度しかベルを鳴らさない。青豆が沈黙を守っていると、相手は拳でドアを叩き始める。それほど大きな音ではない。しかしそこには硬い苛立ちと怒りが込められている。「高井さん」、中年の男の太い声だ。僅かにしゃがれている。「高井さん、こんにちは。出ていただけませんか」  高井というのは、部屋の郵便受けに出してある偽名だ。 「高井さん、お邪魔でしょうが、出ていただきたいんです。お願いしますよ」  男は少し間を置いて反応をうかがう。返事がないとわかると、再びドアを叩き始める。前よりも少し強く。 「高井さん、中におられることはわかっております。だからややこしいことは抜きでドアを開けて下さいな。あなたはそこにいるし、この声が聞こえている」  青豆は食卓の上にあった自動拳銃を取り上げ、安全装置を外す。それをハンドタオルでくるみ、銃把《じゅうは》を握りしめる。  相手がいったい誰なのか、何を求めているのか、見当がつかない。しかしその人物は何らかの理由で彼女に対して敵意を抱いており、このドアを開けさせようと決意を固めている。言うまでもないことだが、現在の彼女にとって歓迎すべき事態ではない。  ようやくノックが止み、男の声が再び廊下に響く。 「高井さん、わたくしNHKの受信料をいただきに参りました。そうです。みなさまのエネーチケーです。あなたが中にいらっしゃることはわかっております。どれだけ息をひそめていても、それはわかるのです。長年この仕事をしておりますから、本当にお留守なのか、居留守をきめこんでいるのか、見分けられるようになります。どれほど音を立てないように努めても、人間には気配というものがあります。人は呼吸をしますし、心臓は動いていますし、胃は消化を続けています。高井さん、あなたは今現在部屋の中におられる。そしてわたくしがあきらめてひきあげるのを待っておられる。ドアを開けるつもりも、返事をするつもりもない。なぜならば受信料を払いたくないからです」  男は必要以上に大きな声を出している。その声はマンションの廊下に響き渡る。それが男の意図していることなのだ。大声で相手の名前を呼び、嘲り、恥ずかしい思いをさせる。そしてそれを近隣の人々への見せしめにする。もちろん青豆は沈黙を守り続ける。相手にすることはない。彼女は拳銃をテーブルの上に戻す。しかし念のために安全装置は外したままにしておく。誰かがNHKの集金人を装っている可能性もなくはない。彼女は食堂の椅子に座ったまま、玄関のドアを睨み続ける。  足音を忍ばせてドアのところに行き、覗き穴から外を見てみたいという気持ちもある。そこにいるのがどんな男なのか確かめておきたい。しかし彼女は椅子から動かない。余計なことはしない方がいい。そのうちにあきらめて立ち去るはずだ。  しかし男は青豆の部屋の前で演説を一席ぶつことに決めたようだ。 「高井さん、かくれんぼはもうよしましょう。こちらも好きでこんなことをやってるんじゃありません。わたくしだってこれでけっこう忙しいのです。高井さん、あなたはテレビを見ておられるでしょう。そしてテレビを見ている人は誰しも、エネーチケーの受信料を払わねばなりません。お気に召さないかもしれませんが、法律でそのようにきまっております。受信料を払わないのは、泥棒窃盗をしているのと同じなのです。高井さん、あなただってこれしきのことでドロボー扱いされたくないでしょう。こんな立派な新築マンションにお住まいなのだから、テレビの受信料くらい払えなくないはずです。そうですよね? このようなことをみんなの前で大声で言い立てられて、あなただって面白くありませんでしょう」  NHKの集金人に大声で何を言い立てられようと、普通であれば青豆の知ったことではない。しかしなんといっても今の彼女は人目を避け、潜伏している身だ。どのようなかたちであれ、この部屋がまわりの関心を引くのは好ましいことではない。しかし彼女にはどうすることもできない。ただ息を殺してその男が立ち去るのを待つしかない。 「高井さん、しつこく繰り返すようですが、わたくしにはわかっておるんです。あなたが部屋の中にいて、じっと耳を澄ませておられることが。そしてこう思っておられる。なぜよりによって自分の部屋の前でいつまでも騒ぎ立てるのだろうと。どうしてでしょうね、高井さん。たぶんわたくしが居留守というものをあまり好きではないからです。居留守というのはいかにも姑息ではありませんか。ドアを開け、エネーチケーの受信料なんか払いたくないと、面と向かって言えばいいではありませんか。すっきりしますよ。わたくしだってむしろその方がすっきりします。そこには少なくとも話し合いの余地があります。ところが居留守というのはいけません。けちなネズミみたいに奥の暗いところに隠れている。人がいなくなったらこそこそ出てくる。つまらない生き方だ」  この男は嘘をついている、と青豆は思う。中に人がいる気配がわかるなんてでまかせに決まつている。私は物音ひとつ立てていないし、静かに呼吸をしている。どこでもいい、どこかの部屋の前で派手に騒ぎ立てて、まわりの住民を威嚇することがこの男の本当の目的なのだ。自分の部屋の前でそんなことをされるくらいなら、受信料を払ってしまった方がましだと、人々に思わせようとしている。この男はおそらく方々で同じようなことをして、それなりの成果を収めてきたのだろう。 「高井さん、わたくしのことを不快に思っておられるでしょう。考えておられることはそれこそ手に取るようにわかります。はい、わたくしはたしかに不快な人間です。それは本人もわかっております。しかしです、高井さん、感じのいい人間には集金なんぞできません。どうしてかと言いますと、世間にはエネーチケーの受信料を払うまいと心を決めた方々がたくさんおられるからです。そういうところからお金をいただこうとすると、なかなかそういつもいつも感じ良くはしていられません。わたくしにしても、『そうですか、エネーチケーの受信料なんか払いたくないと。よくわかりました。どうもお邪魔しました』と言って、気持ちよく立ち去ってしまえればと思います。しかしそうはいかんのです。受信料を集めるのがわたくしの職務でありますし、またわたくしは個人的に、居留守というものがどうしても好きになれんのです」  男はそこで口をつぐみ、間を置く。それからノックの音が十回続けて響きわたる。 「高井さん、そろそろ不快な気持ちになってきたのではありませんか。自分が本物の泥棒のように思えてきたのではありませんか。よくよく考えてみてください。我々が問題にしているのは、そんな大した額のお金ではありません。そのへんのファミリー?レストランで食べるつつましい夕食一回分程度のものです。それだけ払ってしまえば、泥棒扱いされることもありません。大声で偉そうなことを言われ、しつこくドアを叩かれることもありません。高井さん、あなたがこのドアの奥に身を潜めておられることはわかっております。あなたはいつまでもそこに隠れて、逃げおおせられると考えておられる。いいですよ、隠れていらっしゃい。しかしどれほどこっそり息を潜めていても、そのうちに誰かが必ずあなたを見つけ出します。ずるいことはいつまでも続けられません。考えてもごらんなさい。あなたより遥かに貧しい暮らしをしている人たちが、日本国中で毎月誠実に受信料を払っておられます。それは公正なことではありません」  ドアが十五回ノックされる。青豆はその回数を数えている。 「わかりました、高井さん。あなたもかなり頑固な方のようだ。けっこうです。今日のところは引き上げましょう。わたくしもあなただけにいつまでもかかわっているわけにもいかない。でもまたうかがいますよ、高井さん。わたくしは一度こうと決めたら、簡単にはあきらめん性格です。居留守も好きではありません。またうかがいます。そしてまたこのドアをノックします。世界中がこの音を聞きつけるまで叩き続けます。約束します。あなたとわたくしとのあいだの約束です。よろしいですね? それではまた近々お会いしましょう」  足音は聞こえなかった。たぶんゴム底の靴を履いているのだろう。青豆はそのまま五分待つ。息を殺し、ドアを見つめる。廊下は静まりかえり、何の音も聞こえない。彼女は足音を忍ばせてドアの前に行き、思い切って覗き穴から外を見る。そこには誰の姿も見えない。  拳銃の安全装置をかける。何度か深呼吸をして心臓の鼓動を落ちつかせる。ガスの火をつけて湯を沸かし、緑茶をいれて飲む。ただのNHKの集金人だ、自分にそう言い聞かせる。しかしその男の声には何かしら邪悪なもの、病的なものが込められている。それが彼女個人に向けられたものなのか、あるいはたまたま高井という名前を与えられた架空の人物に向けられたものなのか判断はできない。しかしそのしゃがれた声と執拗なノックは、不快な感触をあとに残していく。露出した肌の部分にねっとりしたものがまとわりついている感覚がある。  青豆は服を脱いでシャワーに入る。熱い湯を浴び、石鹸で丁寧に身体を洗う。シャワーから出て新しい服に着替えると、気持ちがいくらか楽になる。肌の嫌な感触も消えている。彼女はソファに腰を下ろし、お茶の残りを飲む。本の続きを読もうとしたが、ページに意識を集中することができない。男の声が耳に断片的に蘇ってくる。 「あなたはいつまでもそこに隠れて、逃げおおせられると考えておられる。いいですよ、隠れていらっしゃい。しかしどれほどこっそり息を潜めていても、そのうちに誰かが必ずあなたを見つけ出します」  青豆は首を振る。いや、あの男はただでまかせを口にしているだけだ。わかったようなことを大声でわめいて、人を不快な気持ちにさせようとしているだけだ。あの男は私のことなんか何も知らない。私が何をしたか、私がなぜここにいるか。しかしそれでも青豆の心臓の鼓動はなかなか収まらない。  <傍点>どれほどこっそり息を潜めていても、そのうちに誰かが必ずあなたを見つけ出します。  その集金人の言葉は言外の意味を重く含んでいるように響く。ただの偶然かもしれない。しかしあの男はまるで、どんな言葉が私の気持ちを乱すかを熟知しているみたいだ。青豆は本を読むのをあきらめ、ソファの上で目を閉じる。  天吾くん、あなたはどこにいるの? 彼女はそう思う。口にも出してみる。<傍点>天吾くん、あなたはどこにいるの? 早く私を見つけ出して。誰かが私を見つけ出す前に。 第6章 天吾 親指の疼きでそれとわかる  天吾はその海辺の小さな町で規則正しい日々を送った。いったん生活のパターンを定めると、できるだけ乱れなくそれを維持するように努めた。自分でも理由はよくわからないが、そうすることが何より重要であるように思えた。朝に散歩をし、小説を書き、療養所に行って昏睡した父親のために適当な本を朗読する、そして宿に帰って眠る。そういう日々が単調な田植えの囃子《はやし》歌のように繰り返された。  温かい夜が数日続き、それから驚くほど冷ややかな夜がやってきた。そのような季節の変化とは無関係に、天吾は昨日の自分の振る舞いをそのままなぞるように生きていた。可能な限り無色透明な観察者になろうと試みた。息を潜め気配を殺し、<傍点>そのときを静かに待ち受けた。一日と次の一日との間の相違が日毎に希薄になっていった。一週間が過ぎ、十日が過ぎていった。しかし空気さなぎは姿を見せなかった。午後遅く父親が検査室に運ばれていったあとのベッドには、哀れなほど小さな人型がくぼみとして残されているだけだった。  <傍点>あれはあのとき一度きりのことだったのだろうか? 天吾は暮れなずむ狭い病室の中で唇を噛みながら思った。二度と再現することのない特別な顕示だったのだろうか? それともおれはただ幻影を見ただけなのだろうか? その問いかけに答えるものはなかった。遠い海鳴りと、ときおり防風林を吹き抜ける風の音が彼の耳にするすべてだった。  正しい行動を取っているという確信が、天吾には持てなかった。東京から遠く離れたこの海辺の町で、現実から置き去りにされたような療養所の一室で、ただ無駄に時間をつぶしているだけなのかもしれない。しかしもしそうだとしても、ここをあとにすることは天吾にはできそうにない。彼はかつてその部屋で空気さなぎを目にし、仄かな明かりの中で眠る小さな青豆の姿を目にしたのだ。その手にまで触れたのだ。たとえそれが一回限りのことであっても、いや、たとえ儚《はかな》い幻影であったとしても、許される限り長くそこに留まり、そのとき目にした情景を心の指でいつまでもなぞっていたかった。  天吾が東京に戻らず、その海辺の町にしばらく留まっていることがわかると、看護婦たちは彼に親しみを抱き始めた。彼女たちは作業の合間にちょっと手を休め、天吾と世間話をしていった。暇ができると、話をするためにわざわざ部屋を訪れることもあった。お茶や菓子を持ってきてくれたりもした。アップにして束ねた髪にボールペンを差した三十代半ばの大村看護婦と、頬の赤いポニーテイルの安達看護婦が、交代で天吾の父親の世話をした。金属縁の眼鏡をかけた中年の田村看護婦は玄関で受付をしていることが多かったが、人手が足りないときには代わりにやってきて、父親の面倒を見た。その三人がどうやら天吾に個人的な興味を持っているらしかった。  天吾も、夕方の特別なひとときを別にすれば時間をもて余していたから、彼女たちを相手にいろんな話をした。というか、質問されたことにはできるだけ正直に返事をした。予備校の講師として数学を教え、副業に注文を受けて細々とした文章を書いていること。父親が長年にわたってNHKの集金人を勤めてきたこと。小さい頃から柔道をやってきて、高校のとき県大会で決勝にまで進んだこと。しかし父親との長年の確執についてはいっさい口にしなかった。母親は死んだことになっているが、ひょっとしたら夫と幼い息子を捨ててどこかの男と駆け落ちをしたのかもしれない、といった話もしなかった。そんなことを持ち出すと話がややこしくなる。ベストセラー『空気さなぎ』の代筆をしたことももちろん言うわけにはいかない。空に月が二個見えることも口にしなかった。  彼女たちもそれぞれの身の上話をした。三人とも地元の出身で、高校を出て専門学校に入り、看護婦になった。療養所の仕事はおおむね単調で退屈で、勤務時間は長く不規則だが、生まれ育った土地で働けることはありがたいし、一般の総合病院に勤務して、日々生死の境目に直面して働くよりはストレスが少なかった。老人たちはゆっくりと時間をかけて記憶を失い、事態を理解しないまま静かに息を引き取っていった。血が流されることは少なく、苦痛も最小限に抑えられている。真夜中に救急車で運び込まれる患者もまずいないし、まわりで泣き叫ぶ家族もまずいない。生活費も安いから、それほど多くない給料でも不足なく暮らしていける。眼鏡をかけた田村看護婦は五年前に夫を事故で亡くし、近くの町で母親と二人で暮らしていた。ボールペンを髪に差した大柄な大村看護婦には小さな男の子が二人いて、夫はタクシーの運転手をしていた。若い安達看護婦は美容師をしている三歳年上の姉と二人で、町外れにアパートを借りて住んでいた。 「天吾くんは優しいのね」と大村看護婦が点滴のパックを取り替えながら言った。「毎日やってきて、意識のない人に本を読んであげるような家族はまずいないもの」  そう言われると天吾は居心地が悪くなった。「たまたま休暇がとれたから。でもそれほど長くはいられないと思う」 「いくら暇ができたって、好んでここに来る人はいないわよ」と彼女は言った。「こんなことを言うのはなんだけど、よくなる見込みがまずない病気だものね。時間が経つにつれ、みんなだんだん気が滅入ってくるの」 「なんでもいいから本を読んでくれと父親に頼まれたんです。もっと前、まだ意識がいくらか残っているときに。それにここにいても、ほかにやることもないから」 「何を読んであげているの?」 「いろんなもの。僕がたまたま読んでいる本の、たまたま読んでいる箇所を声に出して読むだけです」 「今は何を読んでいるの?」 「アイザック?ディネーセンの『アフリカの日々』」  看護婦は首を振った。「聞いたことがない」 「この本が書かれたのは一九三七年で、ディネーセンはデンマークの女性です。スエーデン人の貴族と結婚して第一次大戦の始まる前にアフリカに渡り、そこで農園を経営するようになりました。のちに離婚して、一人でその経営を引き継ぎました。そのときの体験を本にしたものです」  彼女は父親の体温を測り、記録表に数値を書き込んでから、そのボールペンをまた髪に差した。そして前髪を払った。「私も少しここで朗読を聴いていていいかしら」 「気に入るかどうかはわからないけれど」と天吾は言った。  彼女はスツールに腰を下ろし、脚を組んだ。骨格のしっかりとした、かたちのきれいな脚だった。いくぶん肉がつき始めている。「とにかく読んでみて」  天吾は続きをゆっくりと読み始めた。それはゆっくりと読まれなくてはならない種類の文章だった。アフリカの大地を流れる時間のように。  暑く乾燥した四ヶ月のあと、長い雨期の始まるアフリカの三月、あたり一面はゆたかな成長と新緑と、かぐわしさとに満ちわたる。  しかし農園経営者は心をひきしめ、この自然の恵みに有頂天になるまいとする。降り注ぐ雨の音が弱まりはしないかと心配しながら、じっと耳をこらす。いま大地が吸い込んでいる水分は、農園で生きるあらゆる植物、動物、人間を、次におとずれる雨なしの四ヶ月間支えなければならないのだ。  農園内の道という道が、水のあふれ流れる小川にかわるのは、美しい眺めである。農園主は歌うようにはずんだ気持ちで、雫《しずく》をしたたらす花ざかりのコーヒー畠へと、泥の中を歩いてゆく。ところが、雨期のさなかに、ある夜突然雲が切れ、星々が輝くのが見える。すると農園主は家の外に出て空を見上げる。もっと雨を降らせてもらおうと、空にしがみついてしぼりあげようという風情である。農園主は空に向かって嘆願の叫びを投げる。「もっと雨を、どうぞ十分以上の雨を降らせて下さい。私の心はいま、あなたに向かって裸でさらされております。私に祝福を与えて下さらないならば、放してあげるわけには参りません。お望みなら、私を打ち倒して下さい。しかし、なぶり殺しはごめんです。性交中断は困ります。天にましますかたよ!」 「性交中断?」と眉をひそめて看護婦は言った。 「なんていうか、歯に衣《きぬ》を着せない言葉遣いをする人だから」 「それにしても、神さまに向かって口にするにはずいぶんリアルな言葉じゃない」 「たしかに」と天吾は同意した。  雨期が終わったあと、変に涼しい曇り日がある。そんな日にはマルカ?ムバヤ、すなわち悪い年、旱魃《かんばつ》のときを思い出す。あのときキクユ族たちは乳牛を連れてきて、私の家のまわりで草を食べさせた。牛飼いの少年の誰かが笛を持っていて、ときどき何か短い調べを吹いた。その後も同じ曲を耳にするたびに、あの過ぎ去った日々のわれわれの苦しみと絶望のすべてを、私はありありと思い出すのだった。その調べには涙のにがさがこもっていた。しかし同時に、そのおなじ調べのなかに、私は意外にも、活力と不可解な優しさ、ひとつの歌を聞きとるのだった。あのつらい時期は、ほんとうにそんなにもつらいものだったのだろうか? あのころ、私たちには若さがあり、激しい希望に満ちていた。あの長く続いた苦難の日々こそ、私たちに固い団結をもたらしてくれたのだ。たとえ別の星に移されても、私たちはすぐにお互いを仲間として認めあえるに違いないほどに。そしてカッコウ時計、私の蔵書、芝生にいる痩せおとろえた牝牛たち、悲しげなキクユ族の老人たちは、互いにこう呼びあっていたのだった。「あんたもそこにいるのだね。あんたもやはり、このンゴング農園の一部分なのだね」と。こうしてあの苦難の時期は私たちを祝福し、そして去っていった。 「生き生きした文章ね」と看護婦は言った。「情景が目の前に浮かんでくる。アイザック?ディネーセンの『アフリカの日々』」 「そう」 「声もよかった。深みがあって、情感がこもっている。朗読に向いてるみたい」 「ありがとう」  看護婦はスツールに座ったまま、しばらく目を閉じ、やさしく呼吸をしていた。まるで文章の余韻に身を浸しているみたいに。彼女の胸の膨らみが白い制服の下で呼吸にあわせて上下するのが見えた。それを見ているうちに天吾は、年上のガールフレンドを思い出した。金曜日の午後、彼女の服を脱がせ、硬くなった乳首に指を触れているところを思い出した。彼女の吐く深い吐息と、その湿った性器。カーテンを引いた窓の外では密やかに雨が降っている。彼女の手のひらが天吾の睾丸の重さを量る。しかしそんなことを思い出しても、とくに性欲が高まるわけでもない。すべての情景と感触は薄い膜がかかったように漠然として、離れたところにある。  看護婦は少し後で目を開け、天吾を見た。天吾の考えていることなどすべて見とおしているというような視線だった。しかし彼女は天吾を責めているわけではなかった。彼女は淡い微笑みを浮かべたまま立ち上がり、天吾を見下ろした。 「もう行かなくちゃ」、看護婦は髪に手をやり、ボールペンがそこにあることを確かめてから、くるりと振り向いて部屋を出て行った。  だいたい夕方にふかえりに電話をかけた。いちにちとくに何ごとも起こらなかった、と彼女はそのたびに言った。電話のベルが何度か鳴ったが、言われたとおり受話器をとらなかった。それでいい、と天吾は言った。ベルは鳴らしっぱなしにしておけばいい。  天吾が彼女に電話をかけるときは、三度ベルを鳴らしてからいったん切り、またすぐにかけなおすという方法をとっていたが、その取り決めはなかなか守られなかった。最初のベルでふかえりが受話器を取ることの方が多かった。 「決められたとおりにしないとだめだよ」と天吾はそのたびに注意した。 「わかるからだいじょうぶ」とふかえりは言った。 「かけているのが僕だとわかるということ?」 「ほかのでんわにはでない」  まあそういうこともあるのだろうと天吾は思った。彼自身、小松からかかってきた電話はなんとなくそれとわかる。ベルがせわしなく神経質な鳴り方をするのだ。まるで指先で机の表面をとんとんと執拗に叩き続けているみたいに。でもそれはあくまで<傍点>なんとなくに過ぎない。確信を持って受話器を取るわけではない。  ふかえりの送っている日々は、天吾のそれに劣らず単調なものだった。アパートの部屋から一歩も外に出ず、一人でただじっとしている。テレビはないし、本も読まない。食事もろくにとらなかった。だから今のところ買い物に出る必要もない。 「うごかないからあまりたべるヒツヨウもない」とふかえりは言った。 「毎日一人で何をしているの?」 「かんがえごと」 「どんなことを考えているの?」  彼女はその質問には答えなかった。「カラスがやってくる」 「カラスは毎日一回来るんだ」 「いちどじゃなくなんどかやってくる」と少女は言った。 「同じカラスが?」 「そう」 「ほかには誰も来ない?」 「エネーチケーのひとがまたやってきた」 「この前来たのと同じエネーチケーのひと?」 「おおきなこえでカワナさんはドロボーだといっていた」 「うちのドアの前でそう叫んでいたわけ?」 「ほかのみんなにきこえるように」  天吾はそれについて少し考えた。「そのことは気にしなくていい。君には関係のないことだし、とくに害はないから」 「ここにかくれていることはわかっているといった」 「気にすることはない」と天吾は言った。「そんなこと向こうにはわからない。でまかせを言って脅しているだけだ。エネーチケーのひとはときどきそういう手を使う」  父親が同じ手を使うのを、天吾は何度か目にしていた。日曜日の午後、集合住宅の廊下に響き渡る悪意に満ちた声。脅迫とからかい。彼は指先でこめかみを軽く押さえた。記憶は様々な重い付属物を従えて蘇ってくる。  沈黙から何かを感じとったようにふかえりは尋ねた。「だいじょうぶ」 「大丈夫だよ。エネーチケーのひとのことは放っておけばいい」 「カラスもそういっていた」 「それはよかった」と天吾は言った。  空に月がふたつ浮かび、空気さなぎが父親の病室に出現するのを目にして以来、天吾は大抵のことには驚かないようになっていた。ふかえりがカラスと日々窓際で意見を交換して何の不都合があるだろう。 「僕はもう少しここにいようと思う。東京にはまだ帰れない。かまわないかな?」 「いたいだけそこにいたほうがいい」  そう言うと、間を置かずにふかえりは電話を切った。会話は一瞬にして消滅した。誰かが研ぎ澄まされた鉈《なた》を振り下ろして、電話線を断ち切ったみたいに。  それから天吾は小松の出版社の電話番号を回した。しかし小松は不在だった。午後一時頃に会社にちらりと姿を見せたが、やがていなくなって、今どこにいるかもわからないし、会社に戻ってくるかどうかもわからないということだった。とくに珍しいことではない。天吾は療養所の電話番号を残し、昼間ならだいたいそこにいるから、できれば連絡をほしいと言った。旅館の電話番号を教えて、真夜中に電話をかけられでもしたら困る。  この前小松と話をしたのは、九月も終わりに近い頃だった。短い電話での会話だった。それ以来彼からまったく連絡はないし、天吾の方からも連絡はしていない。八月の終わりから三週間ばかり、彼はどこかに姿を消していた。「身体の具合が良くないので、しばらく休みを取りたい」という要領を得ない電話が会社に一本入っただけで、それっきり連絡がないということだった。ほとんど行方不明の状態だった。もちろん気にはなったが、とくに真剣に心配したというほどではない。小松には生来気まぐれなところがあるし、基本的に自分の都合でしか動かない人間だ。そのうちに何ごともなかったような顔をして、ふらりと職場に復帰することだろう。  もちろん会社という組織の中で、そんな身勝手な行動は許されるものではない。しかし彼の場合、同僚の誰かがなんとかつじつまを合わせて、面倒な事態が到来するのを防いでくれた。人望があるというのでは決してないが、彼のために尻ぬぐいをしてくれる奇特な人間がなぜかいつもどこかにいた。会社の方も多少のことなら見て見ないふりをした。自己本位で協調性がなく、傍若無人な性格だが、こと仕事に関しては有能な人間だったし、今のところ『空気さなぎ』というベストセラーを一人で仕切った男だ。そう簡単にクビにはできない。  小松は天吾の予想通り、ある日予告もなく会社に姿を現し、とくに事情を説明するでもなく、誰に詫びるでもなく、そのまま仕事に復帰した。知り合いの編集者が、用事があって電話をかけてきたついでに彼にそのことを教えてくれた。 「で、小松さんの身体の具合はもう良くなったんですか?」と天吾はその編集者に尋ねた。 「ああ、べつに元気みたいだよ」と彼は言った。「前よりいくぶん無口になったような気がするけどね」 「無口になった?」と天吾は少し驚いて言った。 「まあなんというか、<傍点>より社交的でなくなった、ということだよ」 「本当に身体の具合が悪かったんですか?」 「そんなこと俺にはわからん」と編集者は投げやりな声で言った。「本人はそう言っている。信じるしかあるまいよ。でもまあ、無事に戻ってきてくれたおかげで、たまっていた案件は着実に片づいている。あの人がいないあいだは、なにしろ『空気さなぎ』がらみであれこれあって、こっちも大変だったんだよ」 「ところで『空気さなぎ』といえば、ふかえりの失踪事件はどうなりました?」 「どうもならない。同じままだよ。事態の進展は見られず、少女作家の行方は杳《よう》としてわからない。関係者一同、途方に暮れている」 「新聞を読んでいるけど、最近はその関係の記事をさっぱり見かけませんね」 「メディアはこの件からおおむね手を引くか、あるいは慎重に距離をとっている。警察も目立った動きは見せていない。詳しいことは小松さんに訊いてくれ。ただね、さっきも言ったように彼はここのところいささか口数が減った。というか、全体的になんとなくあの人らしくないんだ。自信たっぷりなところが影をひそめて、内省的になったというか、一人で考え込んでいることが多くなった。気むずかしくもなった。ときどきまわりに人がいることを忘れてしまっているみたいに見えることがある。まるで一人で穴ぼこに入っているみたいに」 「内省的」と天吾は言った。 「実際に話してみるとわかると思うよ」  天吾は礼を言って電話を切った。  数日後の夕方に天吾は小松に電話をかけてみた。小松は会社にいた。知り合いの編集者が言ったように、小松のしゃべり方はいつもとは違っていた。普段は淀みなくすらすらと切れ目なく話が続くのだが、そのときはどことなく歯切れが悪く、天吾と話をしながら、一方でほかの何かについて休みなく思いを巡らせているような印象があった。何か悩み事があるのかもしれないと天吾は思った。いずれにせよ、それはいつものクールな小松らしくなかった。悩み事があろうが、ややこしい案件を抱えていようが、そんなことは顔にも出さず、とにかく自分のスタイルとペースを一貫して崩さないのが小松の流儀なのだ。 「身体の具合はもういいんですか?」と天吾は尋ねてみた。 「身体の具合?」 「だって具合が悪くてけっこう長く会社を休んでいたんでしょう?」 「ああ、そうだな」と小松は思い出したように言った。短い沈黙があった。「それはもういいんだ。そのことについてはいつか遠からず、あらためて話をしよう。今のところはまだ要領良く話せない」  <傍点>いつか遠からず、と天吾は思った。小松の口ぶりには何かしら奇妙な響きが聞き取れた。そこには適切な距離感のようなものが欠けていた。口にされる言葉はどことなく平板で、奥行きがない。  天吾はそのとき、適当に話を切り上げて、自分から電話を切った。『空気さなぎ』やふかえりの話題もあえて持ち出さなかった。その話題に及ぶことを避けているような雰囲気が、小松の口調にうかがえたからだ。だいたい小松が何かを<傍点>要領良く話せないなんていうことが、これまでに一度でもあっただろうか?  とにかくそれが小松と話をした最後だった。九月の末だ。それからもう二ヶ月以上が経過した。小松は電話をかけて長話をするのが好きな男だ。もちろん相手を選ぶのだろうが、頭に浮かんだことを片端から口に出しながら考えをまとめていく傾向がある。そして天吾はそんな彼のために、言うなればテニスの壁打ちボードのような役割を果たしてきた。気が向けば、用事がなくてもしょっちゅう天吾に電話をかけてきた。それもおおむねとんでもない時刻に。気が向かなければずっと長く電話をしてこないこともある。しかし二ヶ月以上もまったく音信がないというのは珍しいことだった。  たぶん誰ともあまり話をしたくない時期なのだろうと天吾は思った。誰だってそういう時期はある。たとえ小松にだって。そして天吾としても、彼と急いで語り合わなくてはならないような用件はなかった。『空気さなぎ』の売れ行きも止まり、もうほとんど世間の話題に上らなくなったし、行方不明のふかえりが実はどこにいるかもわかっている。もし小松の方に用事があれば、電話をかけてくるだろう。電話がかかってこなければ、それは用事がないということだ。  しかしそろそろ電話をかけた方がよさそうだと天吾は思った。「そのことについてはいつか遠からず、あらためて話をしよう」という小松の言葉が、頭の隅に不思議に引っかかったままになっていたからだ。  天吾は予備校の講義を代行してくれている友人に電話をかけ、様子を訊いた。とくに問題もなくやっている、と相手は言った。それでお父さんの具合は? 「ずっと変わりなく昏睡している」と天吾は言った。「呼吸はしているし、体温も血圧も低い数値だけど、いちおう安定している。でも意識はない。苦痛もたぶんない。夢の世界に行ったきりみたいだ」 「悪くない死に方かもな」とその男はとくに感情を込めずに言った。彼が言いたいのは「こういう言い方はあるいは無神経かもしれないけれど、しかし考えようによってはある意味悪くない死に方かもしれないな」ということだ。前置きの部分が抜け落ちている。大学の数学科に何年か籍を置くと、そういう省略的な会話に慣れてしまう。とくに不自然だとも思わなくなる。 「最近月を見たことはある?」と天吾はふと思いついて尋ねてみた。最近の月の様子について出し抜けに質問されて、とくに不審に思わない相手はおそらくその友人くらいだろう。  相手は少し考えた。「そういえば最近月を見た記憶はないな。月がどうかしたのか?」 「暇があったら一度見ておいてくれないかな。感想が聞きたいんだ」 「感想。感想って、どんな見地から?」 「どんな見地でもかまわない。月を見て思ったことを聞きたいんだ」  やや間があった。「何を思うかというのは、表現としてまとめにくいかもしれない」 「いや、表現は気にしなくていい。大事なのはその端的な特質みたいなことだ」 「月を見てその<傍点>端的な特質についてどう思うか?」 「そう」と天吾は言った。「何も思わなければ、それでかまわないから」 「今日は曇りだから月は出ないと思うけど、今度晴れたときに見ておくようにする。つまり、もし覚えていたらだけど」  天吾は礼を言って電話を切った。もし覚えていたら。それが数学科出身者の問題点のひとつだ。自分に直接関心のない事象に関しては、記憶の寿命はびっくりするほど短い。  面会の時間が終わって療養所をあとにするとき、受付のデスクに座っている田村看護婦に天吾は挨拶した。「ご苦労様。おやすみなさい」と彼は言った。 「天吾くんはあと何日くらいここにいられるの?」と彼女は眼鏡のブリッジを押さえながら尋ねた。勤務はもう終わったらしく、看護婦の制服ではなく、プリーツのついた葡萄色のスカートと、白いブラウスと、グレーのカーディガンという格好になっていた。  天吾は立ち止まって考えた。「まだ決めていません。成り行き次第です」 「お仕事はまだしばらく休んでいられるの?」 「代講を頼んでおいたから、まだ少しは大丈夫です」 「あなた、いつもどこでご飯を食べているの?」と看護婦は尋ねた。 「そのへんの町の食堂です」と天吾は言った。「旅館では朝ご飯しか出ないから、近くの適当な店に入って、定食を食べたり、丼ものを食べたり、そんなところです」 「おいしい?」 「とくにうまいというものではないです。あまり気にしなかったけど」 「そんなんじゃだめよ」と看護婦はむずかしい顔をして言った。「もっとしっかりと滋養のあるものを食べないと。だってあなた、ここのところ立ったまま寝ている馬みたいな顔をしているわよ」 「立ったまま寝ている馬?」と天吾は驚いて言った。 「馬は立ったまま眠るんだけど、見たことある?」  天吾は首を振った。「ありません」 「ちょうど今のあなたみたいな顔をしてるの」とその中年の看護婦は言った。「洗面所に行って鏡で自分の顔を見てくるといいわ。ちょっと見には眠っているとはわからないんだけど、よく見ると眠っているの。目は開いていても、なんにも見てない」 「馬は目を開けたまま眠るんですか?」  看護婦は深く肯いた。「あなたと同じように」  天吾は一瞬、洗面所に行って鏡を見てみようとしたが、思い直してやめた。「わかりました。もっと滋養のあるものを食べるようにします」 「ねえ、よかったら焼き肉を食べに行かない?」 「焼き肉ですか」。天吾はあまり肉を食べない。嫌いなわけではないが、肉を食べたいと思うことが日常的にほとんどない。でも彼女にそう言われると、久しぶりに肉を食べてもいいような気持ちになった。たしかに身体が滋養を求めているのかもしれない。 「今晩これからみんなで焼き肉を食べに行こうって話になってるの。あなたもいらっしゃい」 「みんな?」 「六時半で上がりになる人たちと待ち合わせて、三人で行くの。どう?」  あとの二人はボールペンを髪に差した子持ちの大村看護婦と、小柄な若い安達看護婦だった。その三人はどうやら職場を離れても仲が良いらしい。天吾は彼女たちと一緒に焼き肉を食べることについて考えてみた。生活の簡素なペースをできるだけ乱したくはないが、断る口実も思いつけなかった。この町で天吾が暇をもてあましていることは周知の事実である。 「もしお邪魔じゃなければ」と天吾は言った。 「もちろん邪魔なんかじゃないわよ」と看護婦は言った。「邪魔になるような人を義理で誘ったりしないもの。だから遠慮しないで一緒にいらっしゃい。たまには健康な若い男性が加わるのも悪くない」 「まあ、健康なことは確かだけど」と天吾は心許ない声で言った。 「そう、それがいちばん」と看護婦は職業的見地から断言した。  同じ職場に勤務する三人の看護婦が、一緒に<傍点>上がりになることは簡単ではない。しかし彼女たちは月に一度、無理をしてなんとかその機会をこしらえた。そして三人で町に出て「滋養のあるもの」を食べ、酒を飲んでカラオケを歌い、それなりに羽目を外し、余剰エネルギー(とでも言うべきもの)を発散した。彼女たちにはそういう気晴らしがたしかに必要だった。田舎町の生活は単調だし、職場で目にするのは医師と同僚の看護婦を別にすれば、あとは活気と記憶を失った老人ばかりだ。  三人の看護婦はとにかくよく食べ、よく飲んだ。天吾はとてもそのペースについていけなかった。だから彼女たちが楽しく盛り上がっているそばで、おとなしく調子をあわせ、焼き肉を適当に食べ、酔い過ぎないように注意しながら生ビールを飲んだ。焼き肉屋を出ると近所のスナックに移って、ウィスキーのボトルをとり、カラオケを歌うことになった。三人の看護婦は順番に自分の持ち歌を歌い、それから一緒になってキャンディーズの歌を振り付けつきで歌った。たぶん普段から練習しているのだろう。なかなか堂に入っていた。天吾はカラオケが苦手だったが、うろ覚えに覚えている井上陽水の曲を一曲だけ歌った。  普段はあまりしゃべらない若い安達看護婦も、アルコールが入ると快活で大胆になった。赤らんだ頬も酔いが回ると、ほどよく日焼けしたような健康的な色になった。他愛のない冗談にくすくす笑い、隣にいる天吾の肩に自然にしなだれかかった。髪にいつもボールペンを差している長身の大村看護婦は、淡い紺色のワンピースに着替え、髪を下ろしていた。髪を下ろすと三歳か四歳くらい見かけが若くなり、声のトーンが一段低くなった。てきぱきとした職業的な身のこなしが影をひそめ、動作がいくぶん気怠《けだる》くなり、別の人格を身につけたみたいに見えた。金属縁の眼鏡をかけた田村看護婦だけは、見かけも人格もとくに変化しなかった。 「子供たちは今夜は、近所の人に面倒をみてもらってるの」と大村看護婦は天吾に言った。「主人は夜勤で家にいない。そういうときくらい、ばあっと心おきなく楽しまないとね。気晴らしって大事よ。そう思うでしょう、ねえ、天吾くん」  彼女たちは天吾のことを今では、川奈さんでもなく、天吾さんでもなく、天吾くんと呼んでいた。まわりの大抵の人間は彼のことをなぜか自然に「天吾くん」と呼ぶようになる。予備校の生徒たちでさえ、陰ではそう呼んでいた。 「そうですね。たしかに」と天吾は同意した。 「私たちにはね、こういうことが必要なの」と田村看護婦はサントリー?オールドの水割りを飲みながら言った。「私たちだって当たり前のナマミの人間なんだもの」 「制服を脱いだら、ただの女のヒト」と安達看護婦が言った。そして何か意味深いことを口にしたみたいに一人でくすくす笑った。 「ねえ、天吾くん」と大村看護婦が言った。「こんなこと訊いちゃっていいかな?」 「どんなことでしょう?」 「天吾くんにはつきあってる女の人っているのかな?」 「うん、そういう話を聞きたい」と安達看護婦がジャイアント?コーンを、大きな白い歯でぽりぽりと噛《かじ》りながら言った。 「簡単には言いにくい話だけど」と天吾は言った。 「簡単には言いにくい話、けっこうじゃない」と世慣れた田村看護婦が言った。「私たちたっぷり時間があるんだもの、そういうの大歓迎よ。天吾くんの簡単じゃない話って、いったいどんなものでしょうね」 「始まり、始まり」と安達看護婦が言って小さく手を叩き、くすくす笑った。 「とくに面白い話でもないです」と天吾は言った。「月並みだし、取り留めもないし」 「じゃあ、結論だけでいいから聞かせてよ」と大村看護婦は言った。「つきあってる人はいるの、いないの?」  天吾はあきらめて言った。「結論からいえば、今のところつきあっている人はいないみたいです」 「ふうん」と田村看護婦が言った。そして指でグラスの氷をからからとかきまわし、その指を舐めた。「よくないな、それは。よくありませんねえ。天吾くんみたいな若くて健やかな男性が、親しくおつきあいする相手もいないなんて、もったいないじゃないの」 「身体にもよくない」と大柄な大村看護婦が言った。「長いあいだ一人でため込んでいると、頭もだんだんぼけてくるよ」  若い安達看護婦がまたくすくす笑った。「頭がぼけちゃう」と彼女は言った。そして指の先で自分のこめかみをつついた。 「ちょっと前までは、そういう相手が一人いたんだけど」と天吾は言い訳するように言った。 「でも<傍点>ちょっと前にいなくなっちゃったのね?」と田村看護婦が眼鏡のブリッジを指で押さえて言った。  天吾は肯いた。 「つまり、ふられたのかな?」と大村看護婦が言った。 「どうだろう」と天吾は首をひねった。「でもそういうことかもしれない。きっとふられたんでしょうね」 「ねえ、ひょっとしてその人って、天吾くんよりけっこう年上だったんじゃない?」と田村看護婦が目を細めて訊いた。 「ええ、そうですけど」と天吾は言った。どうしてそんなことがわかるんだろう。 「ほらね、言ったとおりでしょう」と田村看護婦が得意そうにほかの二人に向かって言った。ほかの二人は肯いた。 「私はこの子たちに言ってたんだ」と田村看護婦は天吾に言った。「天吾くんはきっと年上の女の人とつきあってるって。そういうのってね、女には匂いでわかるの」 「くんくん」と安達看護婦が言った。 「おまけに人妻だったりして」と大村看護婦が気怠い声で指摘した。「違う?」  天吾は少し迷ってから肯いた。今更嘘をついても仕方ない。 「悪いやつ」、若い安達看護婦が指先で天吾の太腿をとんとんとつついた。 「いくつ年上だったの?」 「十歳」と天吾は言った。 「ほほう」と田村看護婦が言った。 「そうか、天吾くんは練れた年上の人妻にたっぷりとかわいがってもらったんだ」と子持ちの大村看護婦が言った。「いいなあ。私もがんばっちゃおうかな。孤独で心優しい天吾くんを慰めてあげちゃおうか。こう見えてまだまだ、悪くない身体してるんだよ」  彼女は天吾の手をとって自分の胸に押しつけようとした。ほかの二人がそれをなんとか押しとどめた。酔っぱらって多少の羽目は外しても、看護婦と患者の付き添い家族との一線は保たれなくてはならない、彼女たちはそう考えているようだった。あるいはそんな現場を誰かに目撃されることを恐れているのかもしれない。なにしろ狭い町だし、その手の噂はあっという間に広がる。大村看護婦の夫が異常に嫉妬深い性格だという可能性も考えられる。天吾としてもこれ以上の面倒に巻き込まれることは避けたかった。 「でも天吾くんは偉いわよ」、田村看護婦が話題を変えるべく言った。「こんな遠くまでやってきて、毎日何時間もお父さんの枕もとで本を朗読してあげて……なかなかできることじゃない」  若い安達看護婦が首を軽く傾げて言った。「うん、とても偉いと思うな。そういうところ尊敬しちゃう」 「私たちはね、いつも天吾くんのことをほめてるんだよ」と田村看護婦は言った。  天吾は思わず顔を赤らめた。彼がこの町にいるのは父親の看護をするためではない。仄かに発光する空気さなぎと、そこに眠っている青豆の姿をもう一度目にしたいからだ。それが天吾がこの町に留まっているほとんど唯一の理由だ。昏睡している父親の看護はあくまで名目に過ぎない。でもそんなことをありのまま打ち明けるわけにはいかない。そうなるとまず「空気さなぎとは何か」という話から始めなくてはならない。 「これまで何もしてあげられなかったから」、天吾は狭い木の椅子の上で、大きな身体をぎこちなく縮めながら、言いにくそうに言った。しかしそんな彼の態度も看護婦たちには謙虚な仕草に映っただけだ。  天吾はもう眠いからと言って席を立ち、一人で先に宿に引き上げたかったが、うまくその潮時がつかめなかった。もともと強引に何かをするという性格ではない。 「でもさ」と大村看護婦が言った。そしてひとつ咳払いした。「話はまた元に戻るんだけど、どうしてその十歳上の人妻と別れちゃったのかな。けっこううまくやってたんでしょ? ご亭主にばれちゃったとか、そういうのかしら?」 「どうしてかは僕にもわからない」と天吾は言った。「あるときからぱったり連絡がこなくなって、それっきりだから」 「ふうん」と若い安達看護婦が言った。「その人、天吾くんに飽きちゃったのかしら」  長身の子持ちの大村看護婦が首を横に振った。そして人差し指を一本きりっと宙に立てて、若い看護婦に向かって言った。「あんたはね、まだ世の中がわかってないよ。ぜんぜんわかってない。四十歳の亭主持ちの女が、こんな若くて健康でおいしそうな男の子をつかまえて、しっぽりよろしくやっておいて、『どうもありがとう。ご馳走様。はい、さようなら』なんてことはね、まずあり得ないの。逆はあったとしてもね」 「そういうものかしら」と安達看護婦は首を軽く傾げながら言った。「そのへんはよくわからないなあ」 「そういうものなの」と子持ちの大村看護婦が断言した。石碑に鑿《のみ》で刻まれた文字を何歩か退いて確かめるような目つきで、天吾をひとしきり眺め、それから一人で肯いた。「あんただってそのうち年を取ればわかる」 「あーあ、私なんてもうずいぶんご無沙汰だよ」と田村看護婦が椅子に深くもたれ込んで言った。  それからひとしきり、三人の看護婦は天吾の知らない誰かの(おそらく同僚の看護婦の一人だろう)性的遍歴についてのうわさ話に耽っていた。天吾は水割りウィスキーのグラスを手に、そんな三人の姿を見ながら『マクベス』に出てくる三人の魔女を思い浮かべた。「きれいはきたない。きたないはきれい」という例の呪文を唱えながら、マクベスに邪悪な野心を吹き込む魔女たちだ。もちろん天吾は三人の看護婦を邪悪な存在だと見なしたわけではない。親切で率直な女性たちだ。熱心に仕事をし、父親の面倒もよく見てくれる。彼女たちは職場で過重労働を押しつけられ、漁業を基幹産業とする小さな町で刺激的とは言いがたい生活を送り、一月に一度そのストレスを発散しているだけだ。しかしそれぞれに世代の異なる、三人の女性のエネルギーがひとつにまとまる様子を目の前にしていると、スコットランドの荒野の風景が自然に頭に浮かんだ。空はどんよりと曇り、雨混じりの冷ややかな風がヒースのあいだを吹き抜けていく。  大学時代に英語の授業で『マクベス』を読んだが、妙に心に残る一節があった。  By the pricking of my thumbs,  Something wicked this way comes,  Open, locks,  Whoever knocks.  親指の疼《うず》きが教えるところ  よこしまなものがこちらにやってくる  ノックがあれば誰であれ、錠前よ開け  どうしてその一節だけを今でも明確に暗記しているのだろう。戯曲の中で誰がその台詞を口にしたのか、それすら覚えていないというのに。しかしその一節は天吾に、高円寺のアパートのドアを執拗にノックするNHKの集金人のことを思い出させた。天吾は自分の親指を見つめた。疼きはない。それでもシェイクスピアの踏む巧妙な音韻にはいかにも不吉な響きがあった。  Something wicked this way comes,  ふかえりが錠前を開かなければいいのだが、と天吾は思った。 第7章 牛河 そちらに向かって歩いていく途中だ  麻布の老婦人についての情報の収集を、牛河はいったんあきらめなくてはならなかった。彼女のまわりに巡らされたガードがあまりにも強固で、どの方向から手を伸ばしても必ずどこかで高い壁にぶつかることがわかったからだ。「セーフハウス」の様子をもう少しうかがってみたかったが、近辺をこれ以上うろつくのは危険だった。監視カメラが設置されているし、牛河はただでさえ人目を引く外見だ。一度相手を警戒させてしまうとあとがやりにくくなる。ひとまず柳屋敷から離れ、ほかのルートを探ってみることにしよう。  思いつける「ほかのルート」といえば、青豆の身辺をもう一度洗い直すことくらいだ。この前はつきあいのある調査会社に資料の収集を依頼し、自分でも足を使って聞き込みをした。青豆についての詳細なファイルを作成し、様々な角度から検証をおこなった末に、危険性はないと判断した。スポーツ?クラブのトレーナーとして腕は確かだし、評価も高い。少女時代に「証人会」に属していたが、十代になって脱会し教団とはきっぱり縁を切っている。トップに近い成績で体育大学を卒業し、スポーツ?ドリンクを売り物にする中堅の食品会社に就職し、ソフトボール部の中心選手として活躍した。部活動でも仕事でもとても優秀な人材だったと同僚は語っていた。意欲的だし頭の回転も速い。まわりの評判も良い。しかし口数は少なく、交際が広い方ではなかった。  数年前に突然ソフトボール部を辞め、会社を退職し、広尾の高級スポーツ?クラブにインストラクターとして就職した。それによって収入は三割ほど増加した。独身、一人暮らし。どうやら今のところ恋人はいないらしい。いずれにせよ不審な背景や不透明な要素はまったく見当たらなかった。牛河は顔をしかめ、深くため息をつき、読み返していたファイルを机の上に放り出した。俺は何かを見落としたのだ。見落としてはならない、きわめて重要なポイントを。  牛河は机の抽斗から住所録を出して、ある電話番号を回した。何かの情報を非合法的に取得する必要が生じたときには、いつもそこに電話をかける。相手は牛河より更に薄暗い世界を生息場所にしている人種だ。金さえ払えば大抵の情報は手に入れてくれる。当然ながら相手のガードが固ければ固いほど料金は高くなる。  牛河が求めている情報は二つあった。ひとつは今も「証人会」の熱心なメンバーである青豆の両親についての個人情報だった。「証人会」は全国の信者の情報を中央で管理していると牛河は確信していた。日本国中に「証人会」信者の数は多いし、本部と各地支部とのあいだの行き来や物流は盛んだ。中央に蓄積情報がなければ、システムは円滑に動かない。「証人会」の本部は小田原市郊外にあった。広い敷地に立派なビルが建ち、パンフレットを印刷する自前の工場があり、全国からやってくる信者のための集会場や宿泊所がある。すべての情報はそこに集められ、厳重に管理されているに違いない。  もうひとつは青豆が勤務するスポーツ?クラブの営業記録だった。彼女がそこでどのような勤務をしていたか、いつ誰を相手に個人レッスンをやっていたか。こちらの情報は「証人会」ほど厳重には管理されていないだろう。しかし「すみませんが、青豆さんの勤務に関する記録を見せていただけませんか」と申し出て、快く見せてもらえるものではない。  牛河は名前と電話番号を留守番電話のテープに残した。三十分後に電話がかかってきた。 「牛河さん」とかすれた声が言った。  牛河は求めている情報の詳細を相手に伝えた。その男と顔を合わせたことはない。常に電話でやりとりをする。集められた資料は速達便で送られてくる。声はかすれ気味で、ときどき軽い咳払いが混じる。喉に問題があるのかもしれない。電話の向こうにはいつも完全な沈黙がある。まるで完壁な防音装置を施した部屋から電話をかけているみたいだ。聞こえるのは相手の声と、耳障りな息づかいだけだ。ほかには何も聞こえない。そして聞こえる音はすべて少しずつ誇張されている。気味の悪いやつだと牛河はいつも思った。世の中は気味の悪いやつらで満ちているみたいだ(はたから見れば俺もそのうちの一人かもしれないが)。彼はその相手をひそかにコウモリと名付けていた。 「どちらの場合も、青豆という名前のからんだ情報をとればいいんですね」とコウモリはかすれた声で言った。咳払いがあった。 「そう。あまりない名前だ」 「情報は根こそぎ必要なんですね」 「青豆という名前が絡んでいれば、どんなものでもかまわない。できることなら顔を判別できる写真も手に入れたい」 「ジムの方は簡単でしょう。誰かに情報を盗まれるなんて考えてもいないはずです。でも『証人会』はちと厳しいですよ。でかい組織だし、資金もたっぷりあるし、ガードをしっかり固めてるでしょう。宗教団体は接近するのがもっともむずかしい相手のひとつです。個人の機密保護の問題もあるし、税金の問題もからんでますから」 「できそうかな?」 「やってできなくはないでしょう。扉を開くそれなりの手はあります。それより難しいのは扉を開いたあと、また閉めておくことです。そうしないとミサイルに追尾されかねません」 「戦争みたいだ」 「戦争そのものです。おっかないものが出てくるかもしれません」と相手はかすれた声で言った。彼がその戦いを楽しんでいるらしいことが、声の調子からわかった。 「それで、やってもらえるのかな?」  軽い咳払いがあった。「やってみましょう。でもそれなりに高くつきそうですよ」 「おおまかに言って、どれくらいになるんだろう?」  相手は目安になる金額を言った。牛河は小さく息を呑んでからそれを受け入れた。とりあえず個人的に用意できる金額だし、結果さえ出せばそれくらいは後日請求できる。 「時間はかかるのかな?」 「どうせ急ぐんでしょう?」 「急いでいる」 「正確な予測はできませんが、一週間から十日は必要になると思います」 「それでけっこう」と牛河は言った。ここは相手のペースに合わせるしかない。 「資料が揃ったらこちらから電話をかけます。十日のうちには必ず連絡を入れます」 「もしミサイルに追尾されなければ」と牛河は言った。 「ということです」とコウモリは何でもなさそうに言った。  牛河は電話を切ると、椅子の上で背中を反らせ、しばらく考え込んだ。コウモリがどのようにして情報を「裏口」から収集するのか、牛河にはわからない。尋ねたところで答えが返ってこないことはわかっている。いずれにせよ、不正な手段が用いられることだけは確かだ。まず内部の人間の買収が考えられる。いざとなれば不法侵入のようなこともあるかもしれない。コンピュータが絡んでいれば話は更にややこしくなる。  情報をコンピュータで管理する官庁や会社の数はまだ限られている。費用も手間もかかりすぎる。しかし全国規模の宗教団体ならそれくらいの余裕はあるはずだ。牛河自身はコンピュータについてはほとんど何も知らない。しかしそれでも情報収集にコンピュータが欠かせないツールになりつつあることは理解していた。国会図書館に通い、新聞の縮刷版やら年鑑やらを机に積み上げ、一日がかりで情報を探る時代はやがて過去のものになっていくだろう。そして世界はコンピュータ管理者と侵入者たちの血なまぐさい戦場になりはてるかもしれない。いや、<傍点>血なまぐさいというのとは違う。戦いであるからには、いくらかの血は流されるだろう。でも匂いはしない。妙ちくりんな世界だ。牛河は匂いや痛みがきちんと存在する世界が好きだった。たとえその匂いや痛みが、時として耐え難いものになるとしてもだ。しかしいずれにせよ牛河のようなタイプは確実に、そして急速に時代遅れの遺物と化していくだろう。  それでもとくに悲観的な気持ちにはならなかった。彼は自分に本能的な勘が具わっていることを知っていた。特殊な嗅覚器官によってまわりの様々な匂いを嗅ぎ分けることができた。肌に感じる痛みから、風向きの変化を摑むことができた。それはコンピュータにはできない作業だ。それらの能力は数値化したり、システム化したりできない種類のものだからだ。厳重にガードされたコンピュータに巧妙にアクセスし、情報を引き出すのは侵入者の仕事だ。しかしどんな情報を引き出せばいいかを判断し、引き出された膨大な情報から役に立つものだけを選び出す作業は、生身の人間にしかできない。  俺はたしかに時代遅れのみっともない中年男かもしれない、と牛河は思った。いや、<傍点>かもしれないなんてものじゃない。疑いの余地なく、時代遅れのみっともない中年男だ。しかし俺には、ほかの人間があまり持ちあわせていないいくつかの資質がある。天性の嗅覚と、いったん何かにしがみついたら放さないしつこさだ。これまでそいつを頼りに飯を食ってきた。そしてそんな能力がある限り、たとえどんな妙ちくりんな世の中になっても、俺は必ずどこかで飯を食っていける。  俺はあんたに追いつくよ、青豆さん。あんたはなかなか頭が切れる。腕もいいし、用心深い。しかしね、俺はしっかり追いつく。待っていてくれ。今あんたの方に向かって歩いていく途中だ。足音は聞こえるかね? いや、聞こえないはずだ。俺は亀のように足音を忍ばせて歩くからね。でも一歩また一歩と俺はあんたに近づいている。  しかし逆に牛河の背後に迫っているものもあった。時間だ。牛河にとって青豆を追跡することは、同時に時間の追跡を振り切ることでもあった。早急に青豆の行方を見つけ出し、背後関係を明らかにし、それを盆に載せて「はいどうぞ」と教団の連中に差し出さなくてはならない。与えられた時間は限られている。三ヶ月後にすべてがわかりましたというのではたぶん遅すぎる。これまでのところ牛河は、彼らにとって有用な人間だった。有能で融通が利き、法律の知識を持ち、口が固い。システムから離れて自由に行動することができる。しかし所詮は金で雇われた何でも屋に過ぎない。彼らの身内でも仲間でもないし、信仰心などかけらもない。教団にとって危険な存在となれば、あっさり排除されてしまうかもしれない。  コウモリからの電話を待つあいだ、牛河は図書館に行って「証人会」の歴史や現在の活動状況について詳しく調べた。メモを取り、必要な部分はコピーした。図書館に行って調べものをするのが彼には苦にならない。頭脳に知識が蓄積されていく実感を得るのが好きだった。それは子供の頃に身に付いた習慣だった。  図書館での調べものが終わると、青豆の住んでいた自由が丘の賃貸アパートに足を運び、そこが空き部屋になっていることをもう一度確認した。郵便受けにはまだ青豆の名札が出ていたが、部屋には人が住んでいる気配はなかった。その部屋の賃貸を扱っている不動産屋にも足を運んでみた。そのアパートに空き部屋があるという話を聞いたんだけど、契約することはできるだろうか、と牛河は尋ねた。 「空いてることは空いてますが、来年二月アタマまでは入居できませんよ」と不動産業者は言った。現在の居住者とのあいだに交わされた賃貸契約が切れるのは来年の一月末で、それまでの家賃は従来どおり毎月支払われることになっている。 「荷物はすべて運び出され、電気もガスも水道も移転手続きがすんでいます。それでも賃貸契約は続いています」 「一月の末まで空家賃を払っているわけだ」 「そういうことです」と不動産屋は言った。「契約中の賃料は全額払うから、部屋はそのままにしておいてほしいということでした。もちろん家賃を払ってもらえれば、こちらが文句を言う筋合いはありません」 「妙な話ですね。誰も住んじゃいないのに、無駄なお金を払うなんて」 「私もちと心配になって、家主さん立ち会いのもとに中をいちおう見させてもらいました。ミイラ化した死体が押入の中に転がっていたなんてことになったら困りますからね。でもなんにもありゃしません。とてもきれいに掃除してありました。ただ空っぽのままおいてあるだけです。どういう事情があるかはわかりませんが」  青豆はもちろんその部屋にはもう住んでいない。しかし彼らは何らかの理由で、青豆がまだ名義上はそこに部屋を借りていることにしておきたいのだ。そのために四ヶ月ぶんの空家賃を払っている。この連中は用心深く、また資金に不自由もしていない。  きっちり十日後の昼過ぎにコウモリから麹町《こうじまち》の牛河の事務所に電話がかかってきた。 「牛河さん」とかすれた声が言った。背景は例によって無音だ。 「牛河です」 「今お話ししてもかまいませんか?」  かまわないと牛河は言った。 「『証人会』のガードはがちがちでした。でもそれは予想していたことです。青豆関係の情報を無事入手することはできました」 「追尾ミサイルは?」 「今のところ姿は見えません」 「それはよかった」 「牛河さん」と相手は言った。そして何度か咳き込んだ。「申し訳ないんですが、煙草を消していただけませんか?」 「煙草?」、牛河は自分の指にはさまれたセブンスターを見た。その煙は静かに天井に向けて立ち上っていた。「ああ、たしかに煙草は吸っているけれど、でもこれは電話だよ。どうしてそんなことがわかるのかな」 「もちろん匂いはここまではきません。でもそういう息づかいを電話口で耳にしてるだけで、呼吸が苦しくなるのです。極端なアレルギー体質なものですから」 「なるほど。そこまでは気がつかなかった。申し訳なかった」  相手は幾度か咳払いをした。「いや、牛河さんのせいじゃありません。気がつかないのは当然です」  牛河は煙草を灰皿に押しつけて消し、その上から飲みかけていたお茶をかけた。席を立って、窓を大きく開けまでした。 「煙草はしっかり消したし、窓を開けて部屋の空気も入れ換えたよ。まあ、外の空気も大して清浄とは言えないけどね」 「申し訳ありません」  沈黙が十秒ばかり続いた。完全な静寂がそこにあった。 「それで『証人会』の情報は得られたんだね?」と牛河は尋ねた。 「ええ。ただしかなりの分量です。なにしろ青豆一家は長年にわたる熱心な信者ですから、関係資料もわんさとあります。必要なものと必要じゃないものはそっちで判別していただけますか」  牛河は同意した。むしろ望むところだ。 「スポーツ?クラブについてはとくに問題はありませんでした。ドアを開けて中に入り、用を済ませて、外に出てドアを閉めただけです。しかし時間が制限されていたので、根こそぎということになり、こちらも分量が多くなりました。とにかくそのふたつの資料をまとめてどさりとお渡しします。いつものように料金と引き替えになりますが」  コウモリが口にした金額を牛河はメモした。見積もりより二割ばかり高くなっている。しかし受け入れる以外の選択肢はない。 「今回は郵便を使いたくないので、使いのものが明日のこの時刻に、直接そちらにうかがいます。現金を用意しておいて下さい。そしていつもと同じく領収書は出せません」  わかっていると牛河は言った。 「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」  承知していると牛河は言った。 「それから青豆さんの写真はどうしても手に入りませんでした」とコウモリは言った。「すべての資料からとても丹念に写真が取り去られています」 「わかった。それはいい」と牛河は言った。 「それにもう顔は変えられているかもしれませんしね」とコウモリは言った。 「あるいは」と牛河は言った。  コウモリは何度か咳払いをした。「それでは」と彼は言って電話を切った。  牛河は受話器を戻し、ため息をつき、新しい煙草を口にくわえた。煙草にライターで火をつけ、電話機に向かってゆっくり煙を吐きかけた。  翌日の午後、若い女が牛河の事務所を訪れた。まだ二十歳にもなっていないかもしれない。身体の線がきれいに出た丈の短い白いワンピースを着て、やはり白い艶のあるハイヒールを履き、パールのイヤリングをつけていた。小柄な割に耳たぶが大きかった。身長は一五〇センチを少し超えたくらいだろう。髪はまっすぐで長く、澄んだ大きな目をしていた。見習いの妖精みたいに見えなくもない。彼女は牛河の顔を正面から見て、忘れがたいとても貴重なものを目にしたみたいに、明るく親しげに微笑んだ。小さな唇のあいだからきれいに揃った白い歯が愉しそうにのぞいていた。もちろん営業用の微笑みかもしれない。しかしそれにしても、初対面で牛河の顔を見てたじろがない人間は珍しい。 「ご請求のあった資料をお持ちしました」と女は言って、肩に提げた布バッグの中から分厚い大型の書類封筒をふたつ取りだした。そしてまるで古代の石版を運ぶ巫女のように両手で掲げ持って、牛河の机の上に置いた。  牛河は机の抽斗から用意しておいた封筒を出し、女に渡した。彼女は封を切って一万円札の束を取りだし、そこに立ったまま金額を数えた。手慣れた数え方だった。細い美しい指が素速く動く。数え終わると札束を封筒に戻し、封筒を布バッグに入れた。それから牛河に向かって前よりも更に大きく親しく微笑みかけた。お目にかかれてこんな嬉しいことはない、というように。  この女性はコウモリといったいどういう関係にあるのだろうと牛河は想像を巡らせた。しかしもちろんそれは牛河には何の関係もないことだ。この娘はただの連絡係に過ぎない。「資料」を手渡し、報酬を受け取る。それが彼女に与えられたおそらく唯一の役割だ。  その小柄な女が部屋から出て行ったあと、長いあいだ牛河は割り切れない気持ちでドアをじっと見つめていた。彼女が背後に閉じていったドアだ。部屋の中にはまだ彼女の気配が強く残っていた。ひょっとしたらその女は、気配を残していくのと引き替えに、牛河の魂の一部を持ち去ったのかもしれない。彼は新しく生じたその空白を胸の奥に感じることができた。どうしてそんなことが起こるのだろう、と牛河は不思議に思った。そしてそれはいったい何を意味するのか?  十分ばかり経って、牛河はようやく気を取り直して書類封筒を開けた。封筒は粘着テープで幾重にも封をされていた。中にはプリントアウトやら、コピーされた資料やら、オリジナルの書類やらがまぜこぜに詰まっている。どうやったのかは知らないが、短期間のあいだによくこれだけの資料を手に入れられたものだ。いつもながら感心しないわけにはいかなかった。しかしそれと同時に牛河は、その書類の束を前にして深い無力感に襲われることになった。こんなものをいくら漁ったところで結局どこにもたどり着けないのではないのか? 俺は大金を支払って無用な紙くずの束を手に入れただけではないのか? それはどれだけ目をこらして覗き込んでも底が見えないほどの無力感だった。そして辛うじて目に映るものはすべて、死の先触れのような薄暗い黄昏に包まれている。これもあの女が残していった<傍点>何かのせいかもしれないと彼は思った。あるいは持ち去っていった<傍点>何かのせいかもしれない。  しかし牛河はなんとか気力を回復した。夕方までかけて辛抱強くその資料に目を通し、必要と思える情報を項目別にひとつひとつノートに書き写していった。意識をその作業に集中することで、得体の知れない無力感をようやくどこかに追いやることができた。そして部屋が暗くなり、卓上の明かりをつけるころには、高い料金を払っただけの価値はあったと牛河は考えていた。  まずスポーツ?クラブの方から「資料」を読み始めた。青豆は四年前にこのクラブに就職し、主に筋力トレーニングとマーシャル?アーツのプログラムを担当した。いくつかのクラスを立ち上げ、その指導をおこなった。彼女がトレーナーとして高い能力を持ち、会員のあいだでも人気のあることは資料からじゅうぶんに読みとれた。一般クラスを主催すると同時に個人指導も引き受けていた。料金はもちろん高くなるが、決められた時間どおりにクラスに通えない人々や、あるいはより私的な環境を望む人々には好都合なシステムだ。青豆にはそのような「個人顧客」もかなり多くついていた。  青豆がいつ、どこで、どのように「個人顧客」を指導したかは、コピーされた日程表で辿ることができた。青豆はクラブで個別に彼らを指導することもあれば、自宅まで出かけていって指導することもあった。顧客の中には名の知れた芸能人もいれば、政治家もいた。柳屋敷の女主人である緒方静恵は顧客の中では最高齢だった。  緒方静恵との繋がりは青豆がクラブに勤めるようになって間もなく始まり、青豆が姿を消す直前まで続いていた。ちょうど柳屋敷の二階建てアパートが「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」のためのセーフハウスとして本格的に用いられるようになった時期からだ。偶然の一致かもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにせよ記録によれば、二人の関係は時を追ってより密接なものになっていったようだ。  青豆と老婦人の間には個人的な絆が生まれたのかもしれない。牛河の勘はその気配を感じとっていた。もともとはスポーツ?クラブのインストラクターと「顧客」として始まった関係だ。それがどこかの時点で性質を変えた。事務的な記述を日付順に目で追いながら、牛河はその「時点」を特定しようと努めた。そこで何かが起こり、あるいは何かが明らかになり、それを境に二人はただのインストラクターと顧客との関係ではなくなった。年齢や立場の差を超え、近しい個人と個人の関係になった。そこでは精神の密約のようなものさえ結ばれたかもしれない。そしてやがてその密約がしかるべき経路を辿り、ホテル?オークラにおけるリーダーの殺害に至ったのだ。牛河の嗅覚はそう告げていた。  どんな経路だろう? そしてどんな密約だろう?  牛河の推測はそこまでは及ばない。  しかしおそらくそこには「家庭内暴力」という因子が絡んでいる。見たところそれは老婦人にとって重要な個人的テーマになっているようだ。記録によれば、緒方静恵が最初に青豆と接触を持ったのは、青豆の主催した「護身術」のクラスだった。七十歳を過ぎた女性が護身術のクラスに参加するのはあまり一般的なこととは言えないだろう。<傍点>暴力的なるものを巡る何らかの因子が、老婦人と青豆をそこで結びつけたのかもしれない。  あるいは青豆自身も家庭内暴力の被害者だったのかもしれない。そしてリーダーは家庭内暴力の加害者であったのかもしれない。彼らはそのことを知って、リーダーに制裁を加えようとしたのかもしれない。しかしそれらはどれもあくまで「かもしれない」というレベルの仮説でしかない。そしてその仮説は牛河の知っているリーダーの人間像にはそぐわないものだった。もちろん人間は、たとえそれがどんな人間であれ、心の底まではうかがい知れないものだし、リーダーはただでさえ奥の深い人物だ。なにしろひとつの宗教団体を主宰する人間だ。聡明で知的ではあるが、得体の知れないところもある。しかし仮に彼が実際に激しい家庭内暴力をふるうような人間であったとしても、その事実は彼らがあれほど周到な殺人計画を練り、アイデンティティーを捨て、社会的地位を危険にさらしまでして、なおかつ実行に移さなくてはならないほど重大な意味を持つことだったのだろうか?  いずれにせよ、リーダーの殺害は思いつきで感情的に行われたことではない。そこには揺らぎのない意志と、曇りなく明確な動機と、綿密なシステムが介在している。そのシステムは長い時間と多額の資金をかけて、注意深く拵《こしら》えあげられたものだ。  しかしそれらの推測を裏付ける具体的な証拠はひとつとしてない。牛河が手にしているのはどこまでも仮説に基づいた状況証拠に過ぎない。オッカムの剃刀で簡単に切り落とされてしまいそうな代物だ。「さきがけ」にもこの段階ではまだ報告できない。ただ牛河には<傍点>わかる。そこには匂いがあり、手応えがある。すべての要素がひとつの方向を示している。老婦人は家庭内暴力を要因とするなんらかの理由で、青豆に指示を与えてリーダーを死に至らしめ、そのあと彼女をどこか安全な場所に逃亡させたのだ。コウモリの集めた資料は彼のそのような「仮説」をすべて<傍点>間接的に裏付けていた。 「証人会」の資料の整理には時間がかかった。分量がおそろしく多い上に、ほとんどの資料は牛河にとって役に立たないものだったからだ。青豆の一家がどれくらい「証人会」の活動に貢献してきたかという数字的な報告がその大半を占めていた。それらの資料を読む限り、確かに青豆一家は熱心で献身的な信者たちだった。彼らはその人生の大半を「証人会」の布教に捧げてきた。青豆の両親の現住所は千葉県市川市になっていた。三十五年間に二度引っ越しをしたが、どれも市川市内の住所になっている。父親青豆隆行(五十八歳)はエンジニアリングの会社に勤務し、母親青豆慶子(五十六歳)は無職となっている。長男である青豆敬一(三十四歳)は市川市内の県立高校を卒業したあと、東京都内にある小さな印刷会社に就職したが、三年後にそこを退職し、小田原にある「証人会」本部に勤務するようになった。そこでも教団パンフレットを印刷する仕事に携わり、今では管理職に就いている。五年前に信者の女性と結婚し、子供を二人もうけ、小田原市内にアパートを借りて暮らしている。  長女である青豆雅美の経歴は十一歳の時点で終わっている。彼女はそこで信仰を捨てたのだ。そして信仰を捨てた人間に対して「証人会」は一切の興味を失ってしまったようだった。「証人会」にとっては青豆雅美は十一歳で死んだも同じだった。そのあと青豆雅美がどんな人生を辿ったのか、生きているのかいないのか、一行の記述もない。  こうなったら両親か兄のところに行って話を聞いてみるしかなさそうだな、と牛河は思った。そこで何かヒントが得られるかもしれない。しかし資料に目を通した限り、彼らが牛河の質問に対して快く答えてくれるとは思えなかった。青豆家の人々は——もちろん牛河の目から見ればということだが——偏狭な考え方を持ち、偏狭な生活を送る人々であり、偏狭であればあるほど天国に近づけると頭から信じて疑わない人々だった。彼らにとって信仰を捨てた人間は、たとえ身内とはいえ、間違った穢れた道を歩む人間なのだ。いや、もう身内とも思っていないかもしれない。  青豆は少女時代に家庭内暴力を受けただろうか?  受けたかもしれないし、受けなかったかもしれない。しかしもし受けたとしても、両親はそれを家庭内暴力としてはとらえていないはずだ。「証人会」が子供たちを厳しく指導することを牛河は知っていた。そこには多くの場合体罰が伴なった。  しかしだからといって、そのような幼児期の体験が心の傷となって深く残り、成長して誰かを殺害するまでに至るものだろうか? もちろんあり得ないことではないが、牛河にはそれはかなり極端な仮説のように思えた。人を一人計画的に殺すというのは大変な作業だ。危険も伴うし、精神的負担も大きい。捕まれば重い刑罰が待っている。そこにはもっと強い動機が必要とされるはずだ。  牛河はもう一度書類を手に取り、青豆雅美の十一歳までの経歴を念入りに読み直した。彼女は歩けるようになるとすぐに、母親について布教活動をおこなっている。戸口をまわって教団のパンフレットを手渡し、世界が避けがたく終末に向かっていることを人々に訴え、集会への参加を呼びかけるのだ。教団に入ればその終末を生き延びることができる。そのあとには至福の王国が訪れる。牛河もそのような勧誘を何度か受けたことがあった。相手はたいてい中年の女性で、帽子か日傘を手にしている。多くは眼鏡をかけ、賢い魚のような目で相手をじっと見る。子供を連れている場合も多い。牛河は小さな青豆が母親のあとをついて家々を回っている情景を想像した。  彼女は幼稚園には入らず、近所の市立小学校に入学した。そして五年生のときに「証人会」を脱会している。棄教の理由は不明だ。「証人会」は棄教の理由をいちいち記録したりしない。悪魔の手に落ちた人間は、悪魔の手にまかせておけばいいのだ。彼らは楽園について語り、楽園に通じる道について語ることで十分に忙しかった。善人には善人の仕事があり、悪魔には悪魔の仕事がある。一種の分業がなされているわけだ。  牛河の頭の中で、ベニヤ板でできた安普請の仕切りを誰かが叩いていた。「牛河さん、牛河さん」と呼びかけていた。牛河は目を閉じ、その呼びかけに耳を澄ませた。声は小さいが執拗だった。俺は何かを見逃しているようだ、と彼は思った。何か大事な事実がこの書類のどこかに記述されている。しかし俺はそれを読みとれないでいる。ノックの音はそれを知らせているのだ。  牛河は再度その分厚い書類に目を通した。目で文章を追うだけではなく、いろんな情景を具体的に頭に思い浮かべた。三歳の青豆が母親に付き従って布教にまわる。おおかたの場合、戸口ですげなく追いかえされる。彼女は小学校に上がる。布教活動は続く。週末の時間はすべて布教にあてられる。友だちと遊ぶ時間もなかったはずだ。いや、友だちなんてできなかったかもしれない。「証人会」の子供たちは学校でいじめや排斥にあうことが多い。牛河は「証人会」について書かれた書物を読んで、そのこともよく知っていた。そして彼女は十一歳で棄教する。棄教には相当な決心が必要であったはずだ。青豆は生まれたときから信仰を叩き込まれている。その信仰と共に育ってきた。身体の芯にまでそれは浸み込んでいる。洋服を着替えるように簡単に捨て去れるものではない。それはまた家庭における孤立をも意味している。きわめて信仰深い家族だ。棄教した娘を彼らがすんなり受け入れることはあるまい。信仰を捨てるのは家族を捨てるのと同じことなのだ。  十一歳の時に、青豆の身にいったい何が起こったのだろう? 何が彼女にそのような決断をさせたのだろう?  千葉県市川市立※※小学校、と牛河は思った。その名前を実際に声に出してもみた。そこで何かが起こったのだ。そこで間違いなく何かが……それから牛河は小さく息を呑んだ。この小学校の名前を俺は以前にどこかで耳にしたことがある。  いったいどこで耳にしたのだろう? 牛河は千葉県にはまったく縁がない。生まれは埼玉県浦和市で、大学に入って東京に出てきて以来、中央林間にいた時期を別にすれば、ずっと二十三区内に住んでいる。千葉県にはほとんど足を踏み入れたこともない。一度富津《ふっつ》に海水浴に行っただけだ。それなのにどうして市川の小学校の名前に聞き覚えがあるのだろう?  思い出すまでに時間がかかった。彼はいびつな頭を手のひらでごしごしとこすりながら意識を集中した。深い泥の中に手をつっこむようにして、記憶の底をさぐった。その名前を耳にしたのはそれほど昔のことではない。つい最近のことだ。千葉県……市川市……小学校。それから彼の手はようやく細いロープの端をつかむことができた。  川奈天吾だ、と牛河は思った。そう、あの川奈天吾が市川の出身だった。彼もたしか市内の公立小学校に通っていたはずだ。  牛河は事務所の書類戸棚から川奈天吾に関するファイルを取り出した。数ヶ月前、「さきがけ」に依頼されて集めた資料だ。そのページを繰って天吾の学歴を確認してみた。彼のむっくりとした指がその名前を探し当てた。思ったとおりだ。青豆雅美は川奈天吾と同じ市立小学校に通っていた。生年月日からすると、学年もたぶん同じだ。クラスが同じだったかどうかは、調べてみなくてはわからない。しかし二人が知り合いだった可能性は大いにある。  牛河はセブンスターを口にくわえ、ライターで火をつけた。ものごとがひとつに結びつき始めているという手応えがあった。点と点のあいだに線が一本ずつ引かれていく。これからどのような図形がそこにかたちつくられていくのか、牛河にもまだわからない。しかしそのうちに少しずつ構図が見えてくるはずだ。  青豆さん、俺の足音は聞こえるかい? たぶん聞こえないだろう。なるたけ音を立てないように歩いているからね。しかし俺は一歩また一歩とそちらに近づいている。とろい亀さんだが、それでも確実に前に進んでいる。そのうちにウサギさんの後ろ姿が見えてくるはずだ。楽しみに待っていてくれ。牛河は椅子の上で背中を反らせ、天井を見上げ、煙草の煙をそこに向けてゆっくりと吐いた。 第8章 青豆 このドアはなかなか悪くない  それから二週間ばかり、火曜日の午後にやってくる無言の補給係を除けば、青豆の部屋を訪れるものはいなかった。NHKの集金人と称する人物は「必ずまた来る」と言い残していった。声にも堅い意志がうかがえた。少なくとも青豆の耳にはそう響いた。しかしあれ以来ノックはない。ここのところほかのルートをまわるのに忙しいのかもしれない。  表面的には静かで平穏な日々だ。何も起こらない、誰もやってこない、電話のベルも鳴らない。タマルは安全保持のために、電話での連絡回数をできるだけ少なくしていた。青豆は常に部屋のカーテンを引き、気配を殺し、人々の注意を引かないようにひっそりと暮らした。日が暮れても最小限の明かりしかつけない。  音を立てないように心がけながら負荷の高い運動をし、毎日雑巾で床を磨き、時間をかけて日々の食事を作る。スペイン語の語学テープを使い(タマルに頼んで補給品の中に入れてもらった)、声を出して会話の練習をする。長いあいだしゃべらないでいると、口のまわりの筋肉が退化していく。意識して口を大きく動かさなくてはならない。そのためには外国語会話の練習が役に立つ。そしてまた青豆は昔から、南米に対していくぶんロマンチックな幻想を抱いていた。もし行き先が自由に選べるなら、南米のどこか平和で小さな国で暮らしたい。たとえばコスタリカ。海岸に小さなヴィラを借りて、泳いだり本を読んだりして生活する。彼女のバッグに詰まっている現金で、贅沢さえしなければ十年くらいは暮らせるだろう。おそらく彼らもコスタリカまでは追ってくるまい。  スペイン語の日常会話を練習しながら、コスタリカの海岸での静かで安らかな生活を青豆は想像する。その生活に天吾は含まれているだろうか? 目を閉じ、カリブ海のビーチで天吾と二人で日光浴をする光景を思い浮かべる。彼女は黒い小さなビキニを着てサングラスをかけ、隣りにいる天吾の手を握っている。しかしそこには心をふるわせる現実感が欠如していた。ありきたりの観光宣伝写真にしか見えない。  やるべきことが思いつけないときには、拳銃の掃除をする。マニュアルブックの指示に従ってヘックラー&コッホをいくつかの部品に分解し、布とブラシを使って清掃し、油を差し、組み立て直す。すべてのアクションが円滑に作動することを確認する。彼女はその作業に習熟する。拳銃は今では自分の身体の一部のようにさえ感じられる。  だいたい十時にはベッドに入って本を数ページ読み、そして眠る。青豆は生まれてこの方、眠りに就くのに苦労したことがない。活字を目で追っているうちに自然に眠気がやってくる。枕もとの明かりを消し、枕に顔をつけて瞼を閉じる。よほどのことがない限り、次に瞼を開くのは翌日の朝だ。  彼女はもともと夢をあまり見ない。たとえ見たとしても、目覚めたときにはほとんど何も覚えていない。夢の微かな切れ端のようなものがいくつか、意識の壁に引っかかっていることはある。しかし夢のストーリーラインは辿れない。残っているのは脈絡のない短い断片だけだ。彼女はとても深く眠ったし、見る夢も深い場所にある夢だった。そんな夢は深海に住む魚と同じで、水面近くまでは浮かび上がってこられないのだろう。もし浮かび上がってきたとしても、水圧の違いのためにもとの形を失ってしまう。  しかしこの隠れ家に暮らすようになってからは毎晩のように夢を見た。それもはっきりとしたリアルな夢だ。夢を見て、その夢を見ながら目を覚ます。自分が身を置いているのが現実の世界なのかそれとも夢の世界なのか、しばらく判別ができない。それは青豆にとって覚えのない体験だった。枕もとのデジタル式の時計に目をやる。その数字は1時15分であったり、2時37分であったり、4時07分であったりする。目を閉じてもう一度眠ろうとする。しかし眠りは簡単には訪れない。二つの異なった世界が、彼女の意識を無音のうちに奪い合っている。まるで大きな河口で、寄せる海水と流れ込む淡水がせめぎ合うように。  仕方ない、と青豆は思う。月が二つ空に浮かんだ世界に住んでいること自体、<傍点>本当の現実であるかどうか疑わしいのだ。そんな世界で眠りに就いて夢を見て、それが夢であるのか現実であるのか見定められなかったとして、何の不思議があるだろう? おまけに私はこの手で何人かの男たちを殺し、狂信的な人々による厳しい追跡を受け、隠れ家に身をひそめている。当然ながらそこには緊張があり、怯えもある。この手にはまだ人を殺した感触が残っている。ひょっとして私が安らかな夜の眠りに就くことはもう二度とないのかもしれない。それは私が負うべき責任であり、支払わなくてはならない代償なのかもしれない。  大まかに言って三種類の夢を彼女は見る。少なくとも彼女が思い出せる夢はすべて、その三つのパターンに収まった。  ひとつは雷が鳴っている夢だ。闇に包まれた部屋、雷鳴はいつまでも鳴りやまない。しかし雷光はない。リーダーを殺害したあの夜と同じだ。部屋の中に何かがいる。青豆は裸でベッドに横になっていて、そのまわりを何かが俳徊している。ゆっくりとした慎重な動きだ。カーペットの毛足は長く、空気は重く淀んでいる。窓ガラスが激しい雷鳴に細かく震える。彼女は怯える。そこにいるのが何かはわからない。人かもしれない。動物かもしれない。人でも動物でもないのかもしれない。しかしやがてその何かは部屋を出て行く。ドアから出て行くのではない。窓からでもない。それでもその気配は徐々に遠ざかり、やがてすっかり消えてしまう。部屋にはもう彼女のほかには誰もいない。  手探りで枕元の明かりをつける。裸のままベッドを出て、部屋の中を調べてみる。ベッドの向かい側の壁に穴がひとつ開いている。人が一人ようやく抜けられるくらいの穴だ。しかし固定された穴ではない。かたちを変えて動き回る穴だ。震え、移動し、大きくなったり縮んだりしている。生きているように見える。<傍点>何かはその穴から外に出て行ったのだ。彼女は穴をのぞき込む。それはどこかに続いているようだ。しかし奥に見えるのは暗闇だけだ。切り取ってそのまま手にとれそうなほど濃密な暗闇だ。彼女には好奇心がある。しかし同時に怯えてもいる。心臓が乾いたよそよそしい音を立てている。夢はそこで終わる。  もうひとつは高速道路の路肩に立っている夢だ。そこでも彼女はやはり全裸だ。渋滞中の車から人々はその裸体を無遠慮に眺めている。ほとんどは男たちだ。でも女性も何人かいる。人々は彼女の不十分な乳房と、奇妙な生え方をした陰毛を眺め、それを詳細に批評しているようだ。眉をひそめたり、苦笑したり、あるいはあくびをしたりしている。あるいは表情を欠いた目でただ熟視している。彼女は何かで身体を覆いたかった。乳房と陰部だけでも隠したかった。布きれでもいい、新聞紙でもいい。しかしまわりには手に取れるようなものは何ひとつ見あたらない。そしてまたなんらかの事情があって(どんな事情かはわからない)、彼女は両手を自由に動かすことができなかった。ときどき思い出したように風が吹き渡り、その乳首を刺激し、陰毛を揺らせた。  おまけに——具合の悪いことに——月経が今にも始まろうとしていた。腰が気怠く重く、下腹に熱い気配があった。こんなに多くの人が見ている前で出血が始まったら、いったいどうすればいいのだろう。  そのとき銀色のメルセデス?クーペの運転席のドアが開き、品の良い中年の女性が降りてくる。明るい色のハイヒールを履き、サングラスをかけ、銀のイヤリングをつけている。やせていて、背格好はだいたい青豆と同じくらいだ。渋滞中の車の隙間を抜けてやって来ると、彼女は着ていたコートを脱ぎ、青豆の身体にかけてくれる。膝までの長さの卵色のスプリング?コートだ。まるで羽のように軽い。シンプルなデザインだが、いかにも高価そうなコートだ。サイズはまるであつらえたように青豆にぴったりだ。その女性はコートのボタンをいちばん上までとめてくれる。 「いつお返しできるかわかりませんし、それに生理の血でコートを汚してしまいそうです」と青豆は言う。  女性は何も言わずただ首を小さく振り、それから混み合った車のあいだを抜けて、銀色のメルセデス?クーペに戻っていく。運転席から彼女は青豆に向けて小さく手を上げたように見える。でもそれは目の錯覚かもしれない。青豆は軽く柔らかなスプリング?コートに包まれ、自分は護られているのだと思う。彼女の肉体はもう誰の目にも晒されていない。そしてそのときまるで待ちかねていたように、太腿を一筋の血がつたって落ちていく。温かな、とろりとした重い血だ。しかしよく見るとそれは血ではない。色がついていない。  三つ目の夢は言葉ではうまく表現できない。とりとめがなく、筋もなく、情景もない夢だ。そこにあるのはただ移動する感覚だ。彼女は絶え間なく時間を行き来し、場所を行き来する。それがいつで、どこであるかは重要な問題ではない。それらのあいだを行き来することそのものが重要なのだ。すべては流動的であり、流動的であるところに意味が生まれる。しかしその流動の中に身を置いているうちに、身体は次第に透明になっていく。手のひらが透けて、向こう側が見えるようになる。身体の中の骨や内臓や子宮も視認できるようになる。このままでは自分というものがなくなってしまうかもしれない。自分がすっかり見えなくなってしまったあとに、いったい何がやってくるのだろうと青豆は考える。答えはない。  午後二時に電話のベルが鳴り、ソファでうたた寝をしていた青豆を飛び上がらせる。 「変わりはないか?」とタマルは尋ねる。 「とくに変わりはない」と青豆は言う。 「NHKの集金人は?」 「あれっきり来ない。また来ると言ったのは、ただの脅しだったのかもしれない」 「あるいは」とタマルは言う。「NHKの受信料は銀行口座の自動引き落としにしてあるし、戸口にそのステッカーも貼ってある。集金人なら必ず目に留めるはずだ。NHKに問い合わせてみたが、向こうもそう言っていた。たぶん何かの手違いだろうと」 「こちらが相手にしなければいいだけだけど」 「いや、どんなかたちにせよ近所の注意は引きたくない。それに何かの手違いというのが気になる性格でね」 「世の中はちょっとした手違いで満ちている」 「世の中は世の中で、俺は俺だ」とタマルは言う。「どんな些細なことでもいい、何か気にかかることがあればいちおう知らせてもらいたい」 「『さきがけ』には何か動きはないの?」 「とても静かだ。まるで何もなかったように。水面下では何かが進行しているのだろうが、どんな動きなのか、外からはうかがい知れない」 「教団内部に情報源があると聞いたけれど」 「情報は入ってくるが、どれも細かい周辺情報でしかない。どうやら内部の締めつけがことのほか厳しくなっているようだ。蛇口がきっちりと堅く閉められている」 「でも彼らが私の行方を追っていることは間違いない」 「リーダー亡きあとの教団には間違いなく大きな空白が生じている。誰を後継者にして、どのような方針のもとに教団を動かしていくか、それもまだ決定されていないようだ。しかしそれでも、あんたを追跡するという点では、彼らの見解は揺らぎなく一致している。摑めている事実はその程度だ」 「あまり心温まる事実じゃない」 「事実にとって大事な要素はその重さと精度だ。温度はその次のことになる」 「とにかく」と青豆は言う。「私が捕らえられ、真相が解明されれば、そちらにも迷惑が及ぶことになる」 「だから一刻も早く、連中の手の届かないところにあんたを送り届けたいと考えている」 「それはよくわかっている。でももう少しだけ待って」 「今年いっぱいは待つと<傍点>彼女は言う。だからもちろん俺も待つ」 「ありがとう」 「俺に礼を言われても困る」 「いずれにせよ」と青豆は言う。「それから、次の補給品リストに入れておいてもらいたいものがひとつあるの。男の人にはちょっと言いにくいものだけど」 「俺は石の壁みたいなものだ」とタマルは言う。「おまけにメジャー?リーグ級のゲイだ」 「妊娠テストのキットがほしいの」  沈黙がある。それからタマルは言う。「そういうテストをする必要性があるとあんたは考えている」  それは質問ではない。だから青豆は返事をしない。 「妊娠する心当たりがあるということかな?」とタマルは質問する。 「そういうわけでもない」  タマルの頭の中で何かが速く回転している。耳を澄ませばその音が聞きとれる。 「妊娠する心当たりはないが、テストの必要性はある」 「そう」 「俺には謎かけのように聞こえるが」 「悪いけれど今のところそれ以上のことは言えない。普通の薬局で売ってる簡単なものでいいの。それから女性の身体や生理機能について書かれたハンドブックがあるとありがたい」  タマルはもう一度沈黙する。硬く圧縮された沈黙だ。 「どうやら電話をかけなおした方がよさそうだ」と彼は言う。「かまわないか?」 「もちろん」  彼は喉の奥で小さな音を立てる。それから電話が切れる。  電話は十五分後にかかってくる。麻布の老婦人の声を聞くのは久しぶりだ。まるであの温室に戻ったような気持ちになる。珍しい蝶が飛び、時間がゆっくりと流れる、あの生温かい空間に。 「どう、元気にしていますか?」  ペースを守って暮らしていると青豆は言う。老婦人が知りたがったので、彼女は日々の日課について、運動や食事についておおまかに話をする。  老婦人は言う。「屋外に出られないのはつらいでしょうが、あなたは意志の強い人だから、とりたてて心配はしていません。あなたならうまく乗り切れるでしょう。なるべく早くそこを出て、より安全な場所に移ってもらいたいとは思います。でもそこにどうしても留まりたいということであれば、その理由はわかりませんが、こちらとしてもできる限りあなたの意思を尊重したいと考えています」 「感謝しています」 「いいえ、感謝しなくてはならないのは私の方です。なんといってもあなたは素晴らしい仕事をしてくれた」。短い沈黙があり、それから老婦人が言う。「ところで妊娠テストのキットが必要だという話ですね」 「生理がもう三週近く遅れています」 「生理は規則正しく来る方なのかしら?」 「十歳のときに始まって、二十九日に一度、ほとんど一日の狂いもなく続いています。月の満ち欠けみたいに几帳面に。飛んだことは一度もありません」 「あなたが今置かれている状況は、通常のものではありません。そういうときには精神のバランスも、身体のリズムも変調をきたします。生理が止まったり、大きく狂ったりするのはあり得ないことではないでしょう」 「そんなことはまだ一度もありませんが、そういう可能性があることはわかります」 「そしてタマルの話によれば、妊娠する心当たりがまったくないとあなたは言う」 「私が最後に男性と性的な交渉を持ったのは六月半ばです。そのあとそれに類したことはいっさいしていません」 「それでもあなたは妊娠しているかもしれないと考えている。そこには根拠のようなものがあるのでしょうね。生理が飛んでいるという以外に」 「私はただ<傍点>感じるのです」 「ただ感じる?」 「そういう感触が自分の中にあるんです」 「受胎している感触がある、ということかしら?」  青豆は言う。「一度、卵子の話をなさったことがあります。つばさちゃんのところに行った夕方に。女性は生まれながらに決まった数の卵子を持っているという話を」 「覚えています。約四百個の卵子を一人の女性は与えられ、それを毎月ひとつずつ外に出していく。たしかそういう話でした」 「そのうちのひとつが受胎したという確かな<傍点>手応えが私にはあります。手応えという表現が正しいのかどうか、自信はありませんが」  老婦人はそれについてしばらく考える。「私は二人の子供を産みました。ですからあなたの言う<傍点>手応えについてはそれなりに理解ができます。しかしあなたは時期的に、男性と性的な関係を持つことなく受胎し妊娠したと言う。にわかには受け入れがたい話です」 「私にとってもそれは同じです」 「失礼なことを尋ねますが、意識のないときに誰かと性交渉を持ったという可能性は?」 「それもありません。意識は常にクリアでした」  老婦人は慎重に言葉を選ぶ。「私は前々から、あなたを冷静で、論理的な考え方をする人だと思ってきました」 「少なくともそうありたいと私も考えています」と青豆は言う。 「にもかかわらず、性交渉抜きで受胎したとあなたは考えている」 「<傍点>そういう可能性があると考えています。正確に言えば」と青豆は言う。「もちろんそんな可能性を思いめぐらすこと自体、筋の通らないことかもしれませんが」 「わかりました」と老婦人は言う。「とにかく結果を待ちましょう。妊娠テストのキットは明日届けさせます。いつもの補給の要領で、いつもの時刻に受け取って下さい。念のためにいくつか種類を用意させましょう」 「ありがとうございます」と青豆は言う。 「それで、もし受胎が行われたと仮定して、それはいつ頃のことだと思いますか?」 「たぶんあの夜です。私がホテル?オークラに出向いた、嵐のような夜」  老婦人は短くため息をつく。「あなたにはそこまで特定できるのね?」 「そうです。計算をしてみると、その日はあくまでたまたまですが、私のもっとも受胎しやすい日にあたっていました」 「とすると、だいたい妊娠二ヶ月ということになりますね」 「そうなります」と青豆は言う。 「つわりのようなものは? 普通ならいちばんきつい時期だと思うんだけど」 「それはまったくありません。どうしてかはわかりませんが」  老婦人は時間をかけて慎重に言葉を選ぶ。「テストをして、もし本当に妊娠しているとわかったら、あなたはまずどのように感じるのでしょう?」 「子供の生物学的な父親は誰なのだろうとまず考えるでしょう。当然ながら私にとって大きな意味を持つ問題になります」 「でもそれが誰だか、あなたには思い当たる節がない」 「今のところはまだ」 「わかりました」と老婦人は穏やかな声で言う。「いずれにせよ、どんなことがあろうと私はいつもあなたの側についています。あなたを護るために全力を尽くします。それはよく覚えておいて下さい」 「こんなときに面倒な話を持ち出して申し訳なく思っています」と青豆は言った。 「いいえ、面倒な話なんかではありません。それは女性にとって何より大事な問題です。テストの結果を見て、それからどうすればいいか、一緒に考えましょう」と老婦人は言う。  そして静かに電話が切れる。  誰かがドアをノックする。青豆は寝室の床でヨーガをしていたが、動きを止めて耳を澄ませる。ノックの音は硬くそして執拗だ。その音には聞き覚えがある。  青豆はタンスの抽斗から自動拳銃を取り出し、安全装置を外す。スライドを引いてチェンバーに素早く弾丸を送り込む。拳銃をスエットパンツの後ろに突っ込み、足音を忍ばせて食堂に行く。両手でソフトボール用の金属バットを握りしめ、正面からドアを睨む。 「高井さん」と太いしゃがれた声が言う。「高井さん、いらっしゃいますか。こちらはみなさまのエネーチケーです。受信料をいただきにうかがいました」  バットの握りの部分には滑り止めのビニール?テープが巻かれている。 「あのですね、高井さん、繰り返すようですが、あなたが中におられることはわかっておるのです。ですから、そういうつまらないかくれんぼみたいなことはもうよしにしましょう。高井さん、あなたはそこにいて、このわたくしの声を聞いておられる」  この男は前のときとほとんど同じ言葉を繰り返している。まるでテープを再生するみたいに。 「わたくしがまたやってくると言い残していったのを、ただの脅しだと思っておられたでしょう。いえいえ、わたくしはいったん口にしたことはまもります。そして集めるべき料金があれば、必ず集めます。高井さん、あなたはそこにいて、耳を澄ませておられる。そしてこう考えておられる。このままじっとしていよう。そうすればこの集金人はやがてあきらめてどこかに行ってしまうってね」  またひとしきりドアが強く叩かれる。二十回か二十五回。この男はいったいどんな手をしているのだろうと青豆は思う。そしてどうしてドアベルを鳴らさないのだろう。 「またあなたはこう考えておられる」と集金人は彼女の心を読むように言う。「ずいぶん頑丈な手をした男だ。こんなに強く何度もドアを叩いて、手が痛くならないんだろうかってね。そしてまたこうも考えておられる。だいたいなぜノックなんかするんだろう。呼び鈴がついているんだから、それを鳴らせばいいじゃないかって」  青豆は思わず大きく顔をしかめる。  集金人は続ける。「いえいえ、わたくしとしては呼び鈴なんぞ鳴らしたくはありません。そんなもの押しても、ただカンコーンという音が響き渡るだけです。誰が押したっておんなじ一律、人畜無害な音です。その点ノックには個性があります。人が肉体を使って実際にものを叩くわけですから、ナマミの感情がこもっています。もちろん手はある程度痛みますよ。わたくしは鉄人28号じゃありませんからね。でも仕方ありません。それがわたくしの職業なのです。そして職業というのは、どのようなものであれ貴賎の別なく尊重されるべきです。そうではありませんか、高井さん?」  再びノックの音が響く。全部で二十七回、均等な間を置いてドアが強くノックされる。金属バットを握った手のひらに汗が滲む。 「高井さん。電波を受け取った人がエネーチケーの料金を払わなくちゃならないというのは、法律で決まっておることです。仕方のないことなんです。それがこの世界のルールです。ひとつ気持ちよく払っていただけませんでしょうか? わたくしだって何も好んでドアを叩いているわけじゃありませんし、高井さんだって、いつまでもこんな不愉快な目にあいたくないでしょう。なんで自分だけがこんな目に、と思いたくもなるはずだ。ですからここはひとつ、気持ちよく受信料を払ってしまいましょうよ。そうすればまたもとの静かな生活が戻ってきます」  男の声は廊下に大きく反響する。この男は自分の饒舌《じょうぜつ》を楽しんでいるのだと青豆は思う。受信料を払わない人間を嘲り、からかい、罵倒することを楽しんでいる。そこには歪んだ喜びの響きが感じられる。 「高井さん、しかしあなたも強情なお方ですね。感心してしまいます。深い海の底の貝みたいに、どこまでも頑なに沈黙を守っておられる。でもあなたがそこにおられることがわたくしにはわかっております。あなたは今そこにいて、ドア越しにこちらをじっと睨んでおられる。緊張してわきの下に汗もかいておられる。どうです、そうではありませんか?」  ノックが十三回続く。そして止む。自分がわきの下に汗をかいていることに青豆は気づく。 「よろしい。今日はこのあたりで引き上げましょう。しかしまた近々うかがいます。わたくしもどうやらだんだんこのドアが気に入ってきたようだ。ドアにもいろいろありましてね。このドアはなかなか悪くありません。叩き心地がよろしい。このぶんじゃ定期的にここに来てノックしないと落ち着かなくなりそうです。それでは高井さん、そのうちにまた」  そのあとに沈黙が訪れる。集金人は行ってしまったようだ。しかし足音は聞こえない。立ち去ったふりをしてドアの前に立っているのかもしれない。青豆はバットを両手でいっそう強く握りしめる。そのまま二分ばかり待つ。 「まだいますよ」と集金人が口を開く。「ははは、もう行ってしまったと思われたでしょう。でもまだおります。嘘をつきました。申し訳ありませんね、高井さん。わたくしはそういう人間なのです」  咳払いの音が聞こえる。わざとらしい耳障りな咳払いだ。 「わたくしは長くこの仕事をしております。そうするとだんだんドアの向こうにいる人の姿が見えるようになってきます。嘘ではありませんよ。少なからぬ人がドアの奥に隠れて、NHKの受信料を払わずにすませようとします。わたくしは何十年もそんな人たちの相手をしてまいりました。あのですね、高井さん」  彼は三度、これまでにないほど強い勢いでノックをする。 「あのですね、高井さん、あなたは砂をかぶった海底のひらめみたいに、とても上手に隠れておられる。そういうのを擬態って言います。でもそんなことをしても、最後まで逃げおおせることはできません。必ず誰かがやってきてこのドアを開けます。本当ですよ。みなさまのエネーチケーのベテラン集金人であるこのわたくしが保証いたします。どんなに巧妙に隠れていても、擬態なんぞ所詮ごまかしに過ぎません。なにひとつ解決しやしません。ほんとですよ、高井さん。そろそろわたくしは行きます。大丈夫、今度は嘘ではありません。本当にいなくなります。しかしまた近々やってまいります。ノックの音がしたら、それはわたくしです。それでは高井さん、ごきげんよう」  やはり足音は聞こえない。五分間彼女は待つ。それからドアの前に行って、耳を澄ませる。そして覗き穴から外を見る。廊下には人の姿はない。集金人は本当に引き上げたようだ。  青豆は金属バットを台所のカウンターにたてかける。拳銃のチェンバーから弾丸を抜き、安全装置をかけ、厚いタイツにくるんで抽斗に戻す。そしてソファに横になって目を閉じる。男の声がまだ耳元で響いている。  でもそんなことをしても、最後まで逃げおおせることはできません。必ず誰かがやってきてこのドアを開けます。本当ですよ。  この男は少なくとも「さきがけ」の人間ではない。彼らはもっと静かに最短距離をとって行動する。マンションの廊下で大声を出し、思わせぶりなことを言って、相手を警戒させるような真似はしない。それは彼らのやり方ではない。青豆は坊主頭とポニーテイルの姿を思い浮かべる。彼らは音も立てずに忍び寄ってくるはずだ。気づいたときにはすぐ背後に立っている。  青豆は首を振る。静かに呼吸をする。  本物のNHKの集金人かもしれない。しかし受信料が自動引き落とし支払いになっていることを示すステッカーに気づかないのはおかしい。それがドアの脇に貼られていることを青豆は確認していた。精神を病んだ人物かもしれない。でもそれにしても、男の口にする言葉には不思議なリアリティーがあった。この男は確かに、ドア越しに私の気配を感じ取っているように思える。私の抱えた秘密を、あるいはその一部を敏感に嗅ぎ取っているみたいだ。しかし自力でドアを開けて、部屋に入ってくることはできない。ドアは内側から開けられなくてはならない。そして何があろうと私にはこのドアを開けるつもりはない。  いや、そこまで断言はできない。私はいつかこのドアを内側から開けることになるかもしれない。もし天吾が児童公園にもう一度姿を見せたら、私は迷うことなくこのドアを開き、公園に向けて駆け出すだろう。たとえ何がそこに待ち受けていようと。  青豆はベランダのガーデンチェアに身を沈め、いつものように目隠し板の隙間から児童公園を眺める。ケヤキの下のベンチには制服を着た高校生のカップルが座り、生真面目な顔つきで何ごとかを語り合っている。二人の若い母親がまだ幼稚園に上がっていない子供たちを砂場で遊ばせている。二人は子供たちからおおむね目を離すことなく、それでも熱心に立ち話をしている。どこにでもある午後の公園の光景だ。無人の滑り台のてっぺんに、青豆は長いあいだ視線を注いでいる。  それから青豆は手のひらを下腹部にあてる。瞼を閉じ耳を澄ませ、声を聞きとろうとする。そこには間違いなく何かが存在している。生きている小さな何かだ。彼女にはそれがわかる。  ドウタ、と彼女は小さく口に出してみる。  マザ、と何かがこたえる。 第9章 天吾 出口が塞がれないうちに  四人で焼き肉を食べ、場所を変えてカラオケを歌い、ウィスキーのボトルを一本空けた。そのこぢんまりとした、しかしそれなりに賑やかな饗宴が終わりを迎えたのは十時前だった。スナックを出て、天吾は若い安達看護婦を彼女の住んでいるアパートまで送った。駅までのバスの停留所がその近くにあったということもあるし、ほかの二人がさりげなくそう仕向けたということもある。人通りのない道路を十五分ばかり、二人は並んで歩いた。 「天吾くん、天吾くん、天吾くん」と彼女は歌でも歌うように言った。「いい名前よねえ、テンゴくんって。なんだかとっても呼びやすい」  安達看護婦はかなり酒を飲んでいたはずだが、もともと頬が赤いせいもあり、どの程度酔っているのか、顔を見ただけでは判断できなかった。語尾は明瞭だし、足取りも確かだ。酔っているようには見えない。もっとも人はいろんな酔っぱらい方をする。 「自分では変な名前だとずっと思っていたけど」と天吾は言った。 「ぜんぜん変じゃない。テンゴくん。響きもよくて覚えやすい。とっても素敵な名前だよ」 「そういえば君の名前をまだ知らない。みんなはクウって呼んでいたけど」 「クウは愛称なの。本名は安達クミ。なかなかぱっとしない名前でしょう」 「アダチ?クミ」と天吾は声に出してみた。「悪くないよ。コンパクトで余計な飾りがない」 「ありがとう」と安達クミは言った。「そんな風に言われると、なんかホンダ?シビックになったような気がするね」 「褒めて言ったんだ」 「知ってるよ。燃費もいいし」と彼女は言った。そして天吾の手を取った。「手を握ってていいかな。この方が一緒に歩いていてそれとなく楽しいし、落ち着くから」 「もちろん」と天吾は言った。安達クミに手を握られると、彼は小学校の教室と青豆のことを思い出した。感触は違う。しかしそこにはどことなく共通したものがあった。 「なんだか酔っぱらったみたい」と安達クミが言った。 「本当に?」 「本当に」  天吾はもう一度看護婦の横顔を見た。「酔っているようには見えないけど」 「表に出ないの。そういう体質なんだ。でもなかなか酔ってると思う」 「まあ、ずいぶん飲んだから」 「うん、たしかにずいぶん飲んだ。こんなに飲んだの久しぶりだな」 「たまにはそういうのも必要なんだ」と天吾は田村看護婦が口にした言葉をそのまま繰り返した。 「もちろん」と言って安達クミは強く肯いた。「たまにはそういうのも人間には必要なの。おいしいものをたらふく食べて、お酒を飲んで、大きな声で歌を歌って、他愛のないおしゃべりをして。でもさ、天吾くんにもそういうことってあるのかな。アタマを思いっきり発散するようなことって。天吾くんは常に冷静に沈着に生きているみたいに見えちゃうんだけど」  天吾はそう言われて考えてみた。ここ最近、何か気晴らしみたいなことをしただろうか? 思い出せない。思い出せないところを見ると、たぶんしていないのだろう。<傍点>アタマを思い切り発散するという観念そのものが自分には欠如しているのかもしれない。 「あまりないかもしれない」と天吾は認めた。 「人さまざまだよね」 「いろんな考え方や感じ方がある」 「いろんな酔っぱらい方があるようにさ」と看護婦は言ってくすくす笑った。「でもそういうの必要だよ、天吾くんにも」 「そうかもしれない」と天吾は言った。  二人はしばらく何も言わずに手をつないで夜道を歩いた。彼女の言葉遣いの変化が天吾には少し気になった。看護婦の制服を着ているときには言葉遣いはむしろ丁寧だ。ところが私服になると、アルコールが入ったせいもあるのだろうが、急にざっくばらんな口調になる。そのくだけた口調は天吾に誰かを思い出させた。誰かが同じようなしゃべり方をした。比較的最近会った誰かだ。 「ねえ、天吾くん、ハシッシってやったことある?」 「ハシッシ?」 「大麻樹脂」  天吾は夜の空気を肺に吸い込み、吐き出した。「いや、やったことはないな」 「じゃあ、ちょっと試してみない?」と安達クミは言った。「一緒にやろうよ。部屋に置いてあるんだ」 「君がハシッシを持っている?」 「うん。ちょっと見かけによらないでしょう」 「たしかに」と天吾はとりとめのない声で言った。房総の海辺の小さな町に住む、頬の赤いいかにも健康そうな若い看護婦が、アパートの自室にハシッシを隠し持っている。そして天吾にそれを一緒に吸わないかと誘っている。 「どこでそんなものを手に入れたの?」と天吾は尋ねた。 「高校時代の友だちが先月、私の誕生日のプレゼントにくれたんだ。インドに行ってきて、そのお土産だって」と安達クミは言って、天吾の手を握った手をぶらんこのように勢いよく振った。 「大麻の密輸は見つかったら重罪になるよ。日本の警察はとてもそういうことにうるさいんだ。大麻専門の麻薬犬が空港でせっせと嗅ぎ回っている」 「細かいことをいちいち考えないやつなんだ」と安達クミは言った。「でもなんとか無事に通関した。ねえ、一緒に試してみようよ。純度が高くて効きもいいんだ。ちっと調べてみたけど、医学的に見ても危険性はほとんどない。常習性がないとは言い切れないけど、煙草やお酒やコカインに比べれば遥かに弱いものだよ。依存症になるから危険だと司法当局は主張しているけど、ほとんどこじつけだね。そんなこと言ったらパチンコの方がよほど危険だ。二日酔いみたいなのもないし、天吾くんのアタマもよく発散すると思うな」 「君は試したことがあるんだ」 「もちろん。なかなか愉快なものだよ」 「愉快なもの」と天吾は言った。 「やってみればわかるよ」、安達クミはそう言ってくすくす笑った。「ねえ、知ってる? イギリスのヴィクトリア女王は、生理痛がきついときには鎮痛剤がわりにいつもマリファナを吸っていたんだよ。専属のお医者が正式に処方したの」 「本当に?」 「嘘じゃないよ。本にそう書いてあった」  どんな本に、と言いかけたが、途中で面倒になってやめた。ヴィクトリア女王が生理痛に苦しんでいる情景にそれ以上関わり合いたくもなかった。 「先月の誕生日で君はいくつになったの?」と天吾は話題を変えて尋ねた。 「二十三.もう大人だよ」 「もちろん」と天吾は言った。彼は三十歳になっていたが、自分が大人だと認識したことはとくにない。ただこの世界に三十年余り生きているというだけだ。 「お姉さんは今日はボーイフレンドのところにお泊まりに行って、留守なの。だから遠慮することない。うちにおいでよ。私も明日は非番だし、のんびりできる」  天吾はうまく返事ができなかった。天吾はその若い看護婦に自然な好意を抱いていた。彼女も見たところ彼に好意を抱いている。そして彼女は天吾を部屋に誘っている。天吾は空を見上げた。しかし空は一面、厚い灰色の雲に覆われ、月の姿は見えなかった。 「この前その友だちの女の子とハシッシをやったときはね」と安達クミは言った。「それは私にとって初めての体験だったんだけど、身体が空中にぴっと浮いているみたいな気がしたよ。そんなに高くじゃなくて、五センチか六センチくらいかな。それでね、その高さで浮いているのって、なかなか良いものなんだ。ちょうどいいかなって感じ」 「それなら落ちても痛くないし」 「うん、ちょうどいい頃合で、安心できるわけ。自分が護られている気がするの。まるで空気さなぎにくるまれているみたいな気分だったな。私がドウタで、空気さなぎにすっぽりとくるまれて、その外側にマザの姿が仄かに見えるの」 「ドウタ?」と天吾は言った。その声は驚くほど硬く小さかった。「マザ?」  若い看護婦は何かの歌を口ずさみながら、彼の手を握った手を勢いよく振り、人気のない歩道を歩いた。二人の背丈はかなり違ったが、安達クミはそんなことはまったく気にしていないようだった。ときどき車が横を通り過ぎていった。 「マザとドウタ。『空気さなぎ』っていう本に出てくるやつ。知らない?」と彼女は言った。 「知っている」 「本は読んだ?」  天吾は黙って肯いた。 「よかった。じゃあ話が早いね。私はね、あの本が<傍点>すごおく好きなの。夏に買って三回も読んだよ。私が三回読みなおす本なんてまったく珍しいんだよ。それでね、生まれて初めてハシッシをやりながら思ったのは、なんか空気さなぎの中に入ったみたいだなってこと。自分が何かに包まれて誕生を待っている。それをマザが見守っている」 「君にはマザが見える」と天吾は尋ねた。 「うん。私にはマザが見える。空気さなぎは中から外側をある程度見ることができるの。外側から中は見えないんだけどね。そういう仕組みになっているらしいんだ。でもマザの顔つきまではわからない。輪郭がぼんやりと見えるだけ。でもそれが私のマザだってことはわかる。はっきりと感じるんだ。この人が私のマザなんだって」 「空気さなぎは要するに子宮のようなものなのかな」 「そう言えるかもしれない。もちろん私だって子宮にいたときのことは覚えていないから、なかなか正確な比較はできないけど」と安達クミは言って、またくすくす笑った。  それは地方都市の近郊によく見かける、二階建ての安普請のアパートだった。比較的最近に建てられたものらしいが、既にあちこちで経年劣化が始まっていた。外付けの階段は音を立てて軋み、ドアの建て付けは悪かった。重いトラックが前の道路を通ると、窓ガラスがかたかたと震えた。壁も見るからに薄く、どこかの部屋でベース?ギターの練習でもしたら、建物全体がサウンドボックスになってしまいそうだ。  天吾はハシッシにはそれほど興味は惹かれなかった。彼は正気の頭を抱えて、月が二つある世界を生きている。これ以上世界を歪ませる必要がどこにあるだろう。また安達クミに対して性欲を感じているというのでもなかった。その二十三歳の看護婦に好意を抱いていることは確かだ。しかし好意と性欲とはべつの問題だ。少なくとも天吾にとってはそうだった。だからもしマザとドウタという言葉が彼女の口から出てこなかったら、その誘いを彼はおそらく適当な理由をつけて断り、彼女の部屋には行かなかっただろう。途中でバスに乗るか、あるいはもうバスがなければタクシーを呼んでもらって、そのまま旅館に戻ったはずだ。なんといってもここは「猫の町」なのだ。危険な場所にはできるだけ近寄らない方がいい。しかしマザとドウタという言葉を耳にした時から、天吾には彼女の誘いを断ることができなくなった。少女の姿をした青豆が、空気さなぎに入ってあの病室に現れた理由を、安達クミが何らかのかたちで示唆してくれるかもしれない。  いかにも二十代の姉妹が二人で暮らしているアパートの部屋だった。小さな寝室が二つあり、食堂と台所が一緒になって小さな居間に繋がっていた。家具はあちこちからかき集めてきたものらしく、統一された趣味や個性といったものはない。食堂のデコラ張りのテーブルの上には、場違いに派手なティファニー?ランプのイミテーションが置かれている。細かい花柄のカーテンを左右に開くと、窓からは何かの畑と、その向こうの黒々とした雑木林らしきものが見えた。見晴らしは良く、視野を遮るものもない。しかしそこから見えるのは、とくに心温まる風景ではない。  安達クミは居間の二人がけの椅子に天吾を座らせた。派手なかたちをした赤いラブチェアで、その正面にはテレビが置かれている。それから冷蔵庫からサッポロ?ビールの缶を出し、グラスと一緒に彼の前に置いた。 「もっと楽な服に着替えてくるから、ちっと待っててね。すぐに終わるから」  しかし彼女はなかなか戻ってこなかった。狭い廊下を隔てたドアの向こうからときどき物音が聞こえた。滑りの悪いタンスの抽斗を開けたり閉めたりする音だ。何かが倒れたようなどすんという音も聞こえた。そのたびに天吾はそちらを振り向かないわけにはいかなかった。たしかに見かけよりは酔っているのかもしれない。薄い壁をとおして隣室からテレビ番組の音声が聞こえてきた。細かい台詞までは聞き取れないが、お笑い番組らしく、十秒か十五秒置きに聴衆の笑い声が聞こえた。天吾は彼女の誘いをきっぱりと断らなかったことを後悔した。でもそれと同時に心の隅では、自分が避けがたくここに運ばれてきたのだと感じてもいた。  座らされた椅子はいかにも安物で、布地が肌に触れるとちくちくした。形状にも問題があるらしく、どれだけ身体をよじっても落ち着けるポジションがみつけられず、それは彼の感じている居心地の悪さを更に増幅した。天吾はビールを一口飲み、テーブルの上にあったテレビのリモコンを手にとった。それを珍奇なものでも見るようにしばらく眺めていたが、やがてスイッチを押してテレビをつけた。そして何度もチャンネルを替えた末に、オーストラリアの鉄道を紹介するNHKの紀行番組を見ることにした。彼がその番組を選んだのは、ただほかの番組に比べて音声が静かだったからだ。オーボエの音楽をバックに、女性アナウンサーが穏やかな声で大陸横断鉄道の優雅な寝台車の紹介をしていた。  天吾は座り心地の悪い椅子の上で、その画像を熱意もなく目で追いながら、『空気さなぎ』のことを考えた。その文章を実際に書いたのが自分であることを、安達クミは知らない。しかしそれはどうでもいい。問題は空気さなぎについて具体的に細密に描写しながら、天吾自身はその実体についてほとんど何も知らないということだ。空気さなぎとは何か、マザとドウタとは何を意味するのか、『空気さなぎ』を書いていたときにもそれはわからなかったし、今でもわからない。にもかかわらず、安達クミはその本を気に入って、三度も読み返している。どうしてそんなことが起こり得るのだろう?  食堂車の朝食メニューが紹介されているところで、安達クミが戻ってきた。そしてラブチェアの天吾の隣りに座った。狭い椅子だったから、二人は肩を寄せてくっつきあうようなかっこうになった。彼女は大振りな長袖のシャツと、淡い色合いのコットンパンツに着替えていた。シャツには大きなスマイル?マークがプリントしてあった。天吾がスマイル?マークを最後に目にしたのは、一九七〇年代の初めだった。グランド?ファンク?レイルロードのとんでもなく騒々しい曲がジュークボックスを震わせていた頃のことだ。しかしシャツはそれほど古いものには見えない。人々はまだどこかでスマイル?マーク入りのシャツを作り続けているのだろうか。  安達クミは冷蔵庫から新しい缶ビールを出して、大きな音を立てて蓋を開け、自分のグラスに注ぎ、三分の一ほどを一口で飲んだ。そして満足した猫のように目を細めた。それからテレビの画面を指さした。赤い大きな岩山のあいだにどこまでもまっすぐ敷かれたレールを、列車は進んでいた。 「これはどこなの?」 「オーストラリア」と天吾は言った。 「オーストラリア」と安達クミは記憶の底を探るような声で言った。「南半球にあるオーストラリア?」 「そう。カンガルーのいるオーストラリア」 「オーストラリアに行った友だちがいるんだけど」と安達クミは目の脇を指で掻きながら言った。 「行ったのがちょうどカンガルーの交尾期にあたっていて、ある街に行ったら、そこいら中でとにかくカンガルーが<傍点>やりまくっていたんだって。公園でも、通りでも、ところかまわず」  それについて何か感想を言わなくてはと天吾は思ったが、感想はうまく出てこなかった。それでリモコンを使ってとにかくテレビを消した。テレビが消えると部屋の中は急に静かになった。いつの間にか隣室のテレビの音も聞こえなくなっていた。ときおり思い出したように前の道路を車が通りかかったが、それ以外は静かな夜だ。ただ耳を澄ませると、くぐもった小さな音が遠くに聞こえてきた。何の音かはわからないが、それは規則的にリズムを刻んでいた。ときどき止み、少し間を置いてまた始まる。 「あれはフクロウくん。近くの林に住んでいて、夜になると鳴く」と看護婦は言った。 「フクロウ」と天吾は漠然とした声で繰り返した。  安達クミは首を傾けて天吾の肩に載せ、何も言わず手をとって握った。彼女の髪が天吾の首を刺激した。ラブチェアは相変わらず座り心地が悪かった。フクロウは林の中で意味ありげに鳴き続けていた。その声は天吾の耳には励ましのようにも聞こえたし、警告のようにも聞こえた。励ましを含んだ警告のようにも聞こえた。とても多義的だ。 「ねえ、私って積極的すぎるかな?」と安達クミは尋ねた。  天吾はそれには答えなかった。「ボーイフレンドはいないの?」 「それはむずかしい問題なんだ」と安達クミはむずかしい顔をして言った。「気の利いた男の子はね、たいてい高校を出たら東京に出て行く。このへんには良い学校もないし、気の利いた仕事もそんなにないからね。しょうがないよ」 「でも君はここにいる」 「うん。給料はたいしたことないし、そのわりに労働もきついんだけど、でもここの暮らしがわりに気に入っている。ただボーイフレンドを見つけにくいのが問題点でね、機会をみつけてはつきあうんだけど、なかなかこれというのに巡り合えない」  壁の時計の針は十一時前を指していた。十一時の門限を過ぎると旅館には戻れない。しかし天吾はその座り心地の悪いラブチェアから、うまく立ち上がれなくなっていた。思うように身体に力が入らない。椅子の形状のせいかもしれない。あるいは思ったより酔っているのかもしれない。彼はあてもなくフクロウの声を聞き、安達クミの髪を首筋にちくちくと感じながら、紛い物のティファニー?ランプの光を眺めていた。  安達クミが何か陽気な歌を口ずさみながら、ハシッシの用意をした。大麻樹脂の黒い塊を安全剃刀で鰹節のように薄く削り、それを平らな専用の小型パイプに詰めて、真剣な目つきでマッチを擦った。独特の甘みを含んだ煙が静かに部屋に漂った。まず安達クミがそのパイプを吸った。煙を大きく吸い込み、それを長いあいだ肺に留め、ゆっくり吐き出した。そして同じことをするようにと手真似で天吾に指示した。天吾はパイプを受け取って同じことをした。肺の中に煙をできるだけ長く保持する。それからゆっくり吐き出す。  時間をかけてパイプをやりとりした。そのあいだ二人とも口をきかなかった。隣室の住人がまたテレビのスイッチを入れ、お笑い番組の音声が壁越しに聞こえてきた。前よりも音は少し大きくなっていた。スタジオにいる観客の楽しそうな笑い声がわき起こり、コマーシャルのあいだだけ笑い声がとまった。  五分ばかり交互に吸引を続けたが、なにごとも起こらなかった。まわりの世界はまったく変化を見せなかった。色も形状も匂いももとのままだ。フクロウは雑木林の中でほうほうと鳴き続け、安達クミの髪は相変わらず首筋に痛かった。二人がけの椅子の座り心地も変わらなかった。時計の秒針は同じ速度で進み続け、テレビの中の人々は誰かの冗談に大声で笑い続けていた。どれだけ笑っても幸福にはなれないような種類の笑いだ。 「何も起こらない」と天吾は言った。「僕には効かないのかもしれない」  安達クミは天吾の膝を軽く二度叩いた。「大丈夫、ちっと時間がかかるだけ」  安達クミの言う通りだった。やがてそれは起こった。秘密のスイッチをオンにするような<傍点>かちんという音が耳元で聞こえ、それから天吾の頭の中で何かが<傍点>とろりと揺れた。まるで粥を入れたお椀を斜めに傾けたときのような感じだ。脳味噌が揺れているんだ、と天吾は思った。それは天吾にとって初めての体験だった——脳味嗜をひとつの物質として感じること。その粘度を体感すること。フクロウの深い声が耳から入って、その粥の中に混じり、隙間なく溶け込んでいった。 「僕の中にフクロウがいる」と天吾は言った。フクロウは今では天吾の意識の一部になっていた。分かちがたい重要な一部だ。 「フクロウくんは森の守護神で、物知りだから、夜の智慧を私たちに与えてくれる」と安達クミは言った。  しかしどこにどうやって智慧を求めればいいのだろう。フクロウはあらゆるところにいたし、どこにもいなかった。「質問が思いつけない」と天吾は言った。  安達クミは天吾の手を握った。「質問はいらない。自分から森の中に入っていけばいいんだよ。その方がずっと簡単だから」  壁の向こうからまたテレビ番組の笑い声が聞こえた。拍手も湧いていた。テレビ局のアシスタントがカメラに写らないところで、「笑い」とか「拍手」という指示を書いたカードを客席に向けて出しているのかもしれない。天吾は目を閉じて森のことを思った。自分から森の中に入っていく。暗い森の奥はリトル?ピープルの領域だ。しかしそこにはまたフクロウもいる。フクロウは物知りで、夜の智慧を我々に与えてくれる。  そこで出し抜けにすべての音声が途絶えた。誰かが背後にまわって、天吾の両耳にこっそりと栓を詰めたようだ。誰かがどこかで蓋をひとつ閉じ、もう一人が別のどこかで蓋をひとつ開けた。出口と入り口が入れ替わった。  気がついたとき、天吾は小学校の教室にいた。  窓は大きく開かれ、校庭から子供たちの声が飛び込んでくる。思い出したように風が吹き、白いカーテンがそれにあわせて揺れる。隣には青豆がいて、彼の手をしっかり握っている。いつもと同じ風景——しかしいつもとは何かが違っている。目に映るものすべてが見違えるほど鮮明で、生々しいばかりに粒立っている。ものの姿やかたちを、細かいところまでありありと見てとることができる。ちょっと手を伸ばせば、実際に触ることもできる。そして初冬の午後の匂いが大胆に鼻孔を刺す。それまでかかっていた覆いが勢いよく取り払われたみたいに。本物の匂いだ。心を定めた、ひとつの季節の匂いだ。黒板消しの匂いや、掃除に使った洗剤の匂いや、校庭の隅の焼却炉で落ち葉を燃やす匂いが、そこに分かちがたく混じっている。その匂いを肺の奥まで吸い込むと、心が広く深く押し広げられていく感触がある。身体の組成が無言のうちに組み替えられていく。鼓動がただの鼓動ではなくなっていく。  ほんの一瞬、時間の扉が内側に向けて押し開かれる。古い光が新しい光とひとつに混じり合う。古い空気が新しい空気とひとつに混じり合う。<傍点>この光と<傍点>この空気だ、と天吾は思う。それですべてが納得できる。<傍点>ほとんどすべてのことが。この匂いをどうして今まで思い出せなかったのだろう。こんなに簡単なことなのに。こんなにあるがままの世界なのに。 「君に会いたかった」と天吾は青豆に言う。その声は遠くたどたどしい。でも間違いなく天吾の声だ。 「私もあなたに会いたかった」と少女が言う。それは安達クミの声にも似ている。現実と想像との境目が見えなくなっている。境目を見極めようとすると、椀が斜めに傾き、脳味噌がとろりと揺れる。  天吾は言う。「僕はもっと前に君を捜し始めるべきだった。でもそれができなかった」 「今からでも遅くはない。あなたは私を見つけることができる」とその少女は言う。 「どうすれば見つけられるだろう?」  返事はない。答えが言葉にされることはない。 「でも僕には君を見つけることができる」と天吾は言う。  少女は言う。「だって私にあなたを見つけられたのだから」 「君は僕を見つけた?」 「私を見つけて」と少女は言う。「まだ時間のあるうちに」  白いカーテンが逃げ遅れた亡霊のように、音もなく大きくふわりと揺れる。それが天吾が目にした最後のものだった。  気がついたとき、天吾は狭いベッドの中にいた。明かりは消され、カーテンの隙間から入ってくる街灯の光が、部屋を仄かに照らしていた。彼はTシャツとボクサーショーツというかっこうだった。安達クミはスマイル?マークのシャツだけになっていた。丈の長いそのシャツの下に彼女は下着をつけていなかった。柔らかい乳房が彼の腕にあたっていた。天吾の頭の中ではまだフクロウが鳴き続けていた。今では雑木林までが彼の中にあった。彼は夜の雑木林を丸ごと自分の中に抱え込んでいた。  その若い看護婦と二人でベッドの中に入っていても、天吾は性欲を感じなかった。安達クミの方もとくに性欲を感じているようには見えなかった。彼女は天吾の身体に手を回し、ただくすくす笑っていた。何がそんなにおかしいのか天吾にはわからなかった。誰かがどこかで「笑い」という札を出しているのかもしれない。  今はいったい何時なのだろう? 顔を上げて時計を見ようとしたが、時計はどこにもなかった。安達クミは笑うのを急にやめて、両腕を天吾の首にまわした。 「私は再生したんだよ」、安達クミの温かな息が耳にかかった。 「君は再生した」と天吾は言った。 「だって一度死んでしまったから」 「君は一度死んでしまった」と天吾は繰り返した。 「冷たい雨が降る夜に」と彼女は言った。 「なぜ君は死んだの?」 「こうして再生するために」 「君は再生する」と天吾は言った。 「多かれ少なかれ」と彼女はとても静かに囁いた。「いろんなかたちで」  天吾はその発言について考えた。<傍点>多かれ少なかれいろんなかたちで再生するというのはいったいどういうことなのだろう。彼の脳味噌はとろりと重く、原始の海のように生命の萌芽を湛えていた。しかしそれは彼をどのような地点にも導かなかった。 「空気さなぎはどこからやってくるんだろう?」 「間違った質問」と安達クミは言った。「ほうほう」  彼女は天吾の身体の上で身をよじった。天吾は太腿の上に彼女の陰毛を感じることができた。豊かな濃い陰毛だ。彼女の陰毛は、彼女の思考の一部みたいだった。 「再生するためには何が必要なんだろう?」と天吾は尋ねた。 「再生についてのいちばんの問題はね」と小柄な看護婦は秘密を打ち明けるように言った。「人は自分のためには再生できないということなの。他の誰かのためにしかできない」 「それが、<傍点>多かれ少なかれいろんなかたちで、ということの意味なんだ」 「夜が明けたら天吾くんはここを出て行くんだよ。出口がまだ塞がれないうちに」 「夜が明けたら、僕はここを出て行く」と天吾は看護婦の言葉を復唱した。  彼女はもう一度その豊かな陰毛を天吾の太腿にこすりつけた。まるで何かの<傍点>しるしをそこに残そうとするかのように。「空気さなぎはどこかからやってくるものじゃない。いくら待ってもそれはやってこない」 「それが君にはわかる」 「私は一度死んだから」と彼女は言った。「死ぬのは苦しい。天吾くんが予想しているよりずっと苦しいんだよ。そしてどこまでも孤独なんだ。こんなに人は孤独になれるのかと感心してしまうくらいに孤独なんだ。それは覚えておいた方がいい。でもね天吾くん、結局のところ、いったん死なないことには再生もない」 「死のないところに再生はない」と天吾は確認した。 「しかし人は生きながら死に迫ることがある」 「生きながら死に迫る」、天吾はその意味を理解できないまま繰り返した。  白いカーテンが風に揺れ続けている。教室の空気には黒板消しと洗剤の匂いが混じっている。落ち葉を焼く煙の匂い。リコーダーを誰かが練習している。少女が彼の手を強く握っている。下半身に甘い疼きを感じる。しかし勃起はない。それがやってくるのはもっとあとのことだ。<傍点>もっとあとという言葉は、彼に永遠を約束していた。永遠はどこまでも伸びる一本の長い棒だ。椀がまた斜めに傾き、脳味噌が<傍点>とろりと揺れた。  目が覚めたとき、自分が今どこにいるのか、天吾にはしばらく思い出せなかった。頭の中で昨夜の経緯を辿るのに時間がかかった。花柄のカーテンの隙間から朝の陽光が眩しく差し込み、朝の鳥たちが賑やかに鳴いていた。小さなベッドの中で彼は、ひどく窮屈なかっこうをして寝ていた。こんなかっこうでよく一晩眠れたものだ。隣りには女がいた。彼女は枕に横顔をつけて、ぐっすりと眠っていた。髪が朝露に濡れた元気な夏草のように頬にかかっていた。安達クミ、と天吾は思った。二十三歳の誕生日を迎えたばかりの若い看護婦。彼の腕時計はベッドの脇の床に落ちていた。その針は七時二十分を指している。朝の七時二十分。  天吾は看護婦を起こさないように静かにベッドを出て、カーテンの隙間から窓の外を眺めた。外にはキャベツ畑が見えた。黒い土の上にキャベツが列を組んで、それぞれに堅く身を蹲《うずくま》らせている。その向こうには雑木林があった。天吾はフクロウの声を思い出した。昨夜そこでフクロウが鳴いていた。夜の智慧。天吾と看護婦はその声を聞きながらハシッシを吸った。太腿には彼女の陰毛のごわごわとした感触がまだ残っている。  天吾は台所に行って水道の水を手で掬《すく》って飲んだ。どれだけ飲んでも飲み足りないほど喉が渇いていた。しかしそれ以外にとくに変わったところはない。頭が痛むわけでもないし、身体がだるいわけでもない。意識はクリアだ。ただ何か風通しがよすぎるような感覚が体の中にあった。専門家の手で手際よく清掃された配管装置になったみたいだ。Tシャツとボクサーショーツというかっこうで洗面所に行って、長い小便をした。見知らぬ鏡に映った顔は自分の顔のようには見えなかった。ところどころで髪が立ってはねている。髭を剃る必要もある。  寝室に戻り服を集めた。彼の脱いだ服は、安達クミの脱いだ服と入り混じって、床にでたらめにちらばっていた。いつどうやって服を脱いだかも思い出せない。左右の靴下を見つけ、ブルージーンズを穿き、シャツを着た。途中で大きな安物の指輪を踏みつけた。彼はそれを拾い上げてベッドの枕元のテーブルに置いた。丸首のセーターをかぶり、ウィンドブレーカーを手に取った。財布や鍵がポケットに入っていることを確かめた。看護婦は耳のすぐ下まで布団をかぶって熟睡していた。寝息すら聞こえない。起こすべきなのだろうか? 何はともあれ、たぶん何もしていないと思うけれど、一晩ベッドを共にしたのだ。挨拶もせずに立ち去ることは礼儀に反しているように思えた。しかし彼女はあまりにも深く眠っていたし、今日は非番だと言っていた。だいたい彼女を起こして、それから二人で何をすればいいのだろう?  彼は電話器の前にメモ用紙とボールペンを見つけた。「昨夜はありがとう。楽しかった。宿に帰ります。天吾」と書いた。時刻も書き添えた。そのメモ用紙を枕元のテーブルに置き、さっき拾い上げた指輪をペーパーウェイトがわりに上に載せた。それからくたびれたスニーカーを履き、外に出た。  道路をしばらく歩くとバス停があり、五分ばかり待つと駅まで行くバスがやってきた。彼は賑やかな男女の高校生たちとともにそのバスに乗って終点まで行った。天吾が朝の八時過ぎに、頬を髭で黒くして戻ってきても、旅館の人々は何も言わなかった。彼らにとってそれはとりたてて珍しいことでもないようだった。何も言わず、てきぱきと朝食を用意してくれた。  天吾は温かい朝食を食べ、お茶を飲みながら、昨夜起こったことを思い出した。三人の看護婦たちに誘われて焼き肉屋に行った。近くのスナックに入ってカラオケを歌った。安達クミのアパートに行って、フクロウの声を聞きながらインド産のハシッシを吸った。脳味噌を温かいとろりとした粥として感じた。気がつくと小学校の冬の教室にいて、その空気の匂いを嗅ぎ、青豆と会話を交わした。そのあと安達クミがベッドの中で死と再生について語った。間違った質問があり、多義的な回答があった。雑木林の中でフクロウが鳴き続け、人々がテレビの番組に笑い声をあげていた。  記憶はところどころで飛んでいた。<傍点>つなぎの部分がいくつか欠落している。しかし欠落していない部分については、驚くほど鮮明に思い出せた。口にされた言葉を一語一語辿ることができた。安達クミが最後の方で言ったことを天吾は覚えていた。それは忠告であり、警告だった。 「夜が明けたら天吾くんはここを出て行くんだよ。出口がまだ塞がれないうちに」  たしかに引き上げる潮時かもしれない。空気さなぎに入った十歳の青豆にもう一度出会うために、仕事の休みを取り、この町にやってきた。そして二週間近く毎日療養所に通い、父親に本を朗読した。しかし空気さなぎは現れなかった。そのかわりほとんどあきらめかけていた頃に、安達クミが彼のために違うかたちの幻影を用意してくれた。天吾はそこでもう一度少女としての青豆に出会い、言葉を交わすことができた。私を見つけて、まだ時間のあるうちに、と青豆は言った。いや、実際に言ったのは安達クミかもしれない。見分けはつかない。でもどちらでもいい。安達クミは一度死んで再生した。自分のためにではなく、他の誰かのために。天吾はそこで耳にしたものごとをとりあえずそのまま信じることにした。それが大事なことなのだ。おそらく。  ここは猫の町だ。ここでしか手にすることのできないものがある。彼はそのために電車を乗り継いでこの場所にやってきた。しかしここで手にするすべてのものにはリスクが含まれている。安達クミの示唆を信じるなら、それは致死的な種類のものだ。何か不吉なものがこちらにやってくるのが、親指の疼きでわかる。  そろそろ東京に帰らなくてはならない。出口が塞がれないうちに、まだ列車が駅に停まるあいだに。しかしその前に療養所に寄らなくてはならない。父親に会って別れを告げる必要がある。確かめなくてはならないことも残っている。 第10章 牛河 ソリッドな証拠を集める  牛河は市川まで足を運んだ。ずいぶん遠出をするような気持ちだったが、実際には市川市は川を渡って千葉県に入ってすぐのところにあり、都心からそれほど時間はかからない。駅前からタクシーに乗り、小学校の名前を告げた。その小学校についたのは一時過ぎだった。昼休みが終わり、午後の授業は既に始まっていた。音楽室からは合唱する声が聞こえ、校庭では体育の時間のサッカー競技がおこなわれていた。子供たちが声を上げながらボールを追っていた。  牛河は小学校に良い思い出を持っていない。彼は体育が不得意で、とくに球技が苦手だった。ちびで足が遅く、目には乱視が入っている。それにもともと運動神経というものが具わっていないのだ。体育の時間はまさに悪夢だった。学科の成績は優秀だった。頭の出来はもともと悪くないし、よく勉強もする(だからこそ二十五歳で司法試験に合格できたのだ)。しかし彼はまわりの誰にも好かれなかったし、敬意も払われなかった。運動が得意ではないこともおそらくその原因のひとつだった。もちろん顔の造作にも問題があった。子供時代から顔が大きくて、目つきが悪く、頭のかたちがいびつだった。分厚い唇は両端が下がって、そこから今にもよだれがこぼれ落ちそうに見えた(そう見えるだけで実際にこぼれ落ちたことはないのだが)。髪は縮れてとりとめがなかった。人々に好意を抱かれる外観ではない。  小学校時代、彼はろくに口をきかなかった。いざとなれば弁が立つことは自分でもわかっていた。しかし親しく話ができる相手もいなかったし、人前で弁舌を振るう機会も与えられなかった。だから常に口を閉ざしていた。そして他人が語ることに——それがたとえどんなことであれ——注意深く耳を澄ませるのを習慣とした。そこから何かを得ようと心がけた。その習慣はやがて彼にとって有益な道具になった。彼はその道具を使って多くの貴重な事実を発見した。世の中の人間の大半は、自分の頭でものを考えることなんてできない——それが彼の発見した「貴重な事実」のひとつだった。そしてものを考えない人間に限って他人の話を聞かない。  いずれにせよ牛河にとって、小学校での日々は好んで思い出す人生のひとこまではない。これから自分が小学校を訪れるのだと考えただけで気が滅入った。埼玉県と千葉県の違いこそあれ、小学校なんて全国どこでも似たようなものだ。同じかっこうをして、同じ原理で動いている。それでも牛河はこの市川市の小学校にわざわざ足を運んだ。それは重要なことであり、ほかの人間には任せられない。彼は小学校の事務室に電話を入れ、一時半にそこで担当者と話をする予約を入れた。  副校長は小柄な女性で、四十代半ばに見えた。ほっそりとして顔立ちも良く、身なりも小綺麗だった。副校長? 牛河は首をひねった。そんな言葉を彼は耳にしたことがなかった。しかし彼が小学校を出たのは大昔の話だ。きっとその間にいろんなことが変化したのだろう。彼女はこれまで多くの、様々な種類の人と応対をしてきたらしく、牛河の尋常とは言いがたい容姿を目にしても、とくに驚いた素振りは見せなかった。あるいは単に礼儀正しいだけなのかもしれない。彼女は清潔な応接室に牛河を通し、椅子を勧めた。自分もその向かいの椅子に腰を下ろし、にっこりと微笑んだ。これから二人でどんな愉しいお話ができるのでしょうか、とでも問いかけるように。  彼女は牛河に小学校のクラスで一緒だった一人の女の子を思い出させた。きれいで、成績がよくて、親切で、責任感がある。育ちも良く、ピアノも上手だった。先生にも可愛がられていた。牛河はその女の子を授業中によく眺めたものだ。主にその背中を。でも口をきいたことは一度もない。 「当校の卒業生について何か調査をなさっておられるとか」と副校長は尋ねた。 「申し遅れました」と牛河は言って名刺を差し出した。天吾に渡したのと同じ名刺だ。「財団法人 新日本学術芸術振興会専任理事」という肩書きが印刷してある。牛河はその女性に対して、かつて天吾に話したのとほぼ同じ作り話をした。この小学校の卒業生である川奈天吾が作家として、当財団の助成金を受ける有力候補になっていること。彼についてごく一般的な調査をおこなっていること。 「それは素晴らしいお話ですね」と副校長はにこやかに言った。「当校にとっても名誉なことです。わたくしどもにできることがあれば、喜んで協力させていただきます」 「川奈天吾さんを受け持っておられた先生に、川奈さんについて直接お話をうかがうことができればと考えております」と牛河は言った。 「調べてみましょう。二十年も前のことですから、もう退職しておられるかもしれませんが」 「ありがとうございます」と牛河は言った。「それからもしよろしければ、もうひとつ調べていただきたいことがあるのです」 「どんなことでしょう?」 「川奈さんとおそらく同じ学年に、青豆雅美さんという女性が在学していたはずです。川奈さんと青豆さんが同じクラスになったことがあるかどうか、それも調べて頂けませんでしょうか?」  副校長はいくらか怪認な顔をした。「その青豆さんが、今回の川奈さんの助成金の問題に何か関係しているのですか?」 「いや、そういうわけではありません。ただ川奈さんが書かれた作品の中に、青豆さんらしき人がモデルとして描かれておりまして、それについて私どもといたしましても、いくつかの間題をクリアしておく必要を感じているというだけです。そんなにややこしいことではありません。あくまで形式的な問題です」 「なるほど」、副校長は端整な唇の両端をわずかに持ち上げた。「ただ、おわかりだとは思いますが、個人のプライバシーに関する情報をお渡しすることは、場合によってはできかねます。たとえば学業成績であるとか、家庭環境であるとか」 「それはよく承知しております。我々といたしましてはただ、彼女が川奈さんと実際に同じクラスになったことがあるかどうかを知りたいのです。そしてもしそうであれば、当時の担任の先生の名前と連絡先もお教えいただければありがたいのですが」 「わかりました。その程度のことであれば問題はないでしょう。青豆さんとおっしゃいましたっけ?」 「そうです。青い豆と書きます。あまりない名前です」  牛河は手帳のメモにボールペンで「青豆雅美」という名前を書いて、それを副校長に渡した。彼女はその紙片を受け取って数秒間眺めてから、机の上に置かれたフォルダーのポケットに入れた。 「ここでしばらくお待ちいただけますか。事務記録を調べて参ります。公開できる情報につきましては、担当のものにコピーさせましょう」 「お忙しいところ、お手間をとらせて恐れ入ります」と牛河は礼を言った。  副校長はフレア?スカートの裾を美しくひるがえして部屋を出て行った。姿勢も良く、歩き方もきれいだ。髪型も品が良い。感じの良い年齢の重ね方をしている。牛河は椅子に座り直し、持参した文庫本を読みながら時間を潰した。  十五分後に副校長は戻ってきた。彼女は茶色い事務封筒を胸に抱えていた。 「川奈さんはずいぶん優秀な児童だったようです。成績は常にトップクラスで、また運動選手としても見事な成果をあげています。とくに算数といいますか、数学方面が得意で、小学校時代から高校生向けの問題を解いていました。コンクールにも優勝し、神童として新聞に取り上げられたこともあるくらいです」 「大したものだ」と牛河は言った。  副校長は言った。「しかし不思議なものですね。当時は数学の神童として名を馳せていたのに、成人して文学の世界で頭角を現すというのは」 「豊かな才能は、豊かな水脈と同じように、様々な場所に出口を見いだすものなのでしょう。現在は数学の先生をしながら、小説を書いておられます」 「なるほど」と副校長は眉を美しい角度に曲げて言った。「それに比べると、青豆雅美さんについてはあまり多くはわかりませんでした。彼女は五年生のときに転校しています。東京都足立区にある親戚のおうちに引き取られたということで、そちらの小学校に転入しています。川奈天吾さんとは、三年生と四年生のときに同じ学級でした」  思ったとおりだと牛河は思った。二人のあいだにはやはり繋がりがあった。 「太田という女性の教師がそのときの担任です。太田俊江さん。現在は習志野市の市立小学校に勤務しておられます」 「その小学校に連絡すれば、お目にかかれるかもしれませんね」 「既に連絡をとりました」と副校長は軽く微笑んで言った。「そういう事情であれば牛河さまに喜んでお目にかかりたいと言っておられました」 「それは恐れ入ります」と牛河は礼を言った。美しいだけではなく、仕事も手早い。  副校長は自分の名刺の裏に、その教師の名前と、彼女の勤務する津田沼の小学校の電話番号を書き、それを牛河に渡した。牛河はその名刺を大事に札入れにしまった。 「青豆さんは宗教的な背景をもっておられたとうかがっています」と牛河は言った。「我々にとりましては、それがいささか気にかかるところでもあるのですが」  副校長が眉を曇らせると、目の両端に小さな皺がよった。注意深い自己訓練を重ねた中年の女性だけが、このような微妙な意味合いをもった知的でチャーミングな皺を獲得できる。 「申し訳ありませんが、それは私たちがここで討議できかねる問題のひとつです」と彼女は言った。 「プライバシーが関わってくる問題なのですね」と牛河は尋ねた。 「そのとおりです。とりわけ宗教の問題につきましては」 「でもその太田先生にお会いすれば、そのあたりの事情が伺えるかもしれませんね」  副校長はその繊細な顎をほんの少し左に傾げ、含みのある笑みを口元に浮かべた。「太田先生が<傍点>個人の立場でお話しになることに対して、わたくしどもが関与する必要はありません」  牛河は立ち上がり、副校長に丁寧に礼を言った。副校長は書類の入った事務封筒を牛河に差し出した。「お渡しできる資料はここにコピーいたしました。川奈さんについての資料です。青豆さんについても少し入っています。お役に立てればよろしいのですが」 「助かりました。ご親切にしていただいて本当に感謝します」 「その助成金の件で何か結果がわかりましたら知らせて下さい。当校にとっても名誉になることですから」 「良い結果が出るものと私も確信しています」と牛河は言った。「何度かお会いしましたが、確かな才能を持った前途有為な青年です」  市川の駅前で牛河は食堂に入って簡単な昼食を取り、そのあいだに封筒に入っていた資料に目を通した。天吾と青豆の簡単な在校記録があった。天吾が勉学や運動で表彰された記録も同封されていた。たしかに並み外れて優秀な生徒であったようだ。彼にとって学校が悪夢であったことはおそらく一度もなかっただろう。どこかの算数コンクールで優勝したときの新聞記事のコピーもあった。古いものなので鮮明ではないが、少年時代の天吾の顔も写っていた。  食事を済ませたあと、津田沼の小学校に電話を入れた。そして太田俊江という教師と話をし、四時にその小学校で会う約束をした。その時間ならゆっくりお話ができると思います、と彼女は言った。  いくら仕事とはいえ、一日のうちに小学校を二校も訪れるなんてな、と牛河はため息をついた。考えるだけで気が重い。しかし今までのところ、わざわざ足を運んだだけの収穫はあった。天吾と青豆が小学校時代、二年間同じクラスにいたことが判明した。これは大きな前進だ。  天吾は深田絵里子を助けて『空気さなぎ』を文芸作品のかたちにし、それをベストセラーにした。青豆は深田絵里子の父親である深田保を、ホテル?オークラの一室で人知れず殺害した。二人はそれぞれ教団「さきがけ」を攻撃するという共通の目的をもって行動しているようだ。そこには連携があったかもしれない。あったと考えるのが普通だろう。  しかしあの「さきがけ」の二人組にはまだそのことを教えない方がいい。牛河は情報を小出しに渡すのが好きではない。貪欲に情報を収集し、綿密に事実の周辺を固め、ソリッドな証拠を揃えたところで、「実はですね」と切り出すのが好きだ。現役の弁護士時代からその芝居がかった癖は続いていた。へり下って相手を油断させておき、物事が大詰めに近づいたところで<傍点>がちがちの事実を持ち出して、流れをひっくり返す。  電車で津田沼に向かうあいだ、牛河はいくつかの仮説を頭の中で組み立ててみた。  天吾と青豆は男女関係にあるのかもしれない。まさか十歳のときから恋人同士だったということはあるまいが、小学校を出てからどこかで巡り合い、親しくつきあうようになった可能性は考えられる。そして二人は何らかの事情で——それがどのような事情であるかは不明だが——教団「さきがけ」を潰すべく力を合わせることになった。それはひとつの仮説だった。  しかし牛河が見る限り、天吾が青豆と交際している形跡はなかった。彼は十歳年上の人妻と定期的に肉体関係を持っていた。天吾の性格からして、もし彼がそれほど深く青豆と結ばれているのであれば、ほかの女性と習慣的に性的関係を持ったりはしないはずだ。それほど器用なことができる人間ではない。牛河は以前、二週間ばかり天吾の行動パターンを調査したことがある。週に三日予備校で数学を教え、それ以外の日にはだいたい一人で部屋にこもっている。たぶん小説を書いているのだろう。時折の買い物と散歩以外にはほとんど外出もしない。単純にして質素な生活だ。わかりやすく、不可解なところも見当たらない。事情がどうあれ、殺人行為を伴うような陰謀に天吾が関与したとは、牛河にはどうしても考えられなかった。  牛河はどちらかといえば、天吾に個人的好感を抱いていた。天吾は飾り気のない、率直な性格の青年だった。自立心が強く、人に頼らない。体格の大きな人間によくあるように、いくぶん気の利かない傾向はあったが、こそこそしたところや、小狡《こずる》い性格は持ち合わせていない。いったんこうと決めたら、そのまままっすぐ前を向いて歩いていくタイプだ。弁護士や証券取引業者としてはとても大成しそうにない。すぐに誰かに足を引っかけられて、肝心なところで転んでしまうだろう。しかし数学の教師や小説家としてなら、まずまずうまくやっていけるはずだ。社交性もなく能弁でもないが、ある種の女性には好かれる。早い話、牛河とは対照的な成り立ちの人物なのだ。  それに比べると、青豆という人間について牛河は何も知らないようなものだ。わかっているのは、彼女が「証人会」の熱心な信者の家に生まれ、物心ついたときから布教に回らされていたということくらいだ。小学校五年生のときに信仰を捨て、足立区にある親戚の家に引き取られる。たぶんそれ以上我慢しきれなくなったのだろう。幸運なことに身体能力に恵まれており、中学から高校にかけてソフトボール?チームの有力選手になる。そして人々の注目を集める。おかげで奨学金をもらって体育大学に進むことができた。そのような事実を牛河は摑んでいる。しかし彼女がどのような性格で、どのような考え方をするのか、どのような長所と欠点を持ち合わせ、どのような私生活を送ってきたのか、そのへんは皆目わからない。彼が手にしているのは一連の履歴書的な事実に過ぎない。  しかし青豆と天吾の履歴を頭の中で重ねているうちに、そこにいくつかの共通点が存在することがわかってきた。まずだいいちに、彼らの子供時代はそれほど幸福なものではなかったはずだ。青豆は布教のために母親と一緒に街を歩き回らされていた。家から家へとベルを押してまわる。 「証人会」の子供たちはみんなそれをやらされる。そして天吾の父親はNHKの集金人だった。これもまた戸口から戸口へと歩き回る仕事だ。彼は「証人会」の母親と同じように、息子を連れて歩いただろうか? 歩いたかもしれない。もし自分が天吾の父親であったなら、きっとそうするだろう。子連れの方が集金の成績も上がるし、ベビーシッターの費用もかからない。一挙両得だ。しかし天吾にとってそれは楽しい経験ではなかったはずだ。あるいは二人の子供たちが市川市の路上ですれ違うことだってあったかもしれない。  そして天吾も青豆も、物心がつくと努力してそれぞれにスポーツの奨学金を手に入れ、親からできるだけ遠く離れようと試みている。二人とも実際にスポーツ選手として優秀だった。もともと素質に恵まれていたということもあるだろう。しかし彼らには<傍点>優秀でなくてはならないという事情もあったのだ。彼らにとってスポーツ選手として人々に認められ、良い成績を残すことは、自立するためのほとんど唯一の手段だった。自己保存のための貴重な切符だった。普通の十代の少年や少女とは考え方も違うし、世界と向きあう姿勢も違う。  考えてみれば、牛河にとっても状況は似たようなものだった。彼の場合、家庭は裕福だったから奨学金を手に入れる必要はなかったし、小遣い銭に不自由することもなかった。しかし一流大学に入るために、そして司法試験に合格するために、死にものぐるいで勉強をしなくてはならなかった。天吾や青豆の場合と同じだ。ほかの級友のようにちゃらちゃらと遊んでいる暇はなかった。あらゆる現世的な楽しみを棄てて——それはたとえ求めても簡単には得られそうにないものだったが——とにかく勉学に専念した。劣等感と優越感の狭間で彼の精神は激しく揺れ動いた。俺は言うなればソーニャに出会えなかったラスコーリニコフのようなものだ、とよく思ったものだ。  いや、俺のことはいい。今更そんなことを考えてどうなるわけでもない。天吾と青豆の問題に戻ろう。  もし天吾と青豆が、二十歳を過ぎた時点でどこかでばったり会って話をしたら、自分たちが多くの共通点を持つことを知ってびっくりしたはずだ。そこで語られるべきことは数多くあっただろう。そして二人はその場で、男女として強く惹かれあったかもしれない。そういう情景を牛河は鮮やかに想像することができた。宿命的な邂逅《かいこう》。究極のロマンス。  そんな邂逅は実際になされたのか? ロマンスは生まれたのか? もちろん牛河にはそこまでわからない。しかし出会ったと考えた方が筋が通る。だからこそ二人は連携して「さきがけ」の攻撃にかかったのだ。天吾はペンを使い、青豆はおそらくは特殊な技術を使い、それぞれに違う方面から。しかしその仮説に牛河はどうしても馴染めなかった。話の筋はいちおう通るのだが、もうひとつ説得力がない。  もし天吾と青豆との間にそのような深い関係が結ばれていたなら、それが表面に出てこないはずがない。宿命的な邂逅はそれなりに宿命的な結果を生み出すものだし、それが牛河の注意深い一対の目にとまらないわけがない。青豆はあるいはそれを隠しおおせるかもしれない。しかしあの天吾くんには無理だ。  牛河は基本的に論理を組み立てて生きる男だ。実証なしには前に進まない。しかしそれと同時に、自分の天性の勘を信じてもいる。そしてその勘は、天吾と青豆が共謀して動いているというシナリオに対して首を振っていた。小さく、しかし執拗に。ひょっとして二人の目にはまだお互いの存在が映っていないのではないだろうか。二人が同時に「さきがけ」に関与したのは、<傍点>たまたまの成り行きだったのではあるまいか。  考えがたいほどの偶然であるにしても、その仮説の方が共謀説よりは牛河の勘に馴染んだ。二人はそれぞれ異なった動機と異なった目的のために、それぞれ異なった側面から<傍点>たまたま同時に「さきがけ」の存在を揺さぶることになったのだ。そこには成り立ちの違う二つのストーリーラインが並行してある。  しかしそんな都合の良い仮説を「さきがけ」の連中が素直に受け入れてくれるだろうか? まず無理だ、と牛河は思う。彼らは一も二もなく共謀説に飛びつくだろう。なにしろ陰謀じみたことが根っから好きな連中だ。生の情報を差し出す前に、もっとソリッドな証拠をみっちり揃えなくてはならない。そうしないと彼らを逆にミスリードすることになるし、それはひいては牛河自身に害を及ぼしかねない。  牛河は市川から津田沼に向かう電車の中で、ずっとそんなことを考えていた。たぶん知らないうちに顔をしかめたり、ため息をついたり、宙を睨んだりしていたのだろう。向かいの席に座った小学生の女の子が不思議そうな顔で牛河を見ていた。彼は照れ隠しに表情を崩し、いびつなかたちをした禿頭を手のひらでさすった。しかしその動作は逆に女の子を怯えさせたようだった。彼女は西船橋の駅の手前で急に席を立ち、早足でどこかに行ってしまった。  太田俊江という女性教師とは放課後の教室で話をした。おそらく五十代半ばだろう。その見かけは、市川の小学校の洗練された副校長とはみごとなまでに対照的だった。短身でずんぐりとして、後ろから見ると甲殻類のような不思議な歩き方をした。金属縁の小さな眼鏡をかけていたが、眉と眉とのあいだが広く平らで、細かい産毛がそこに生えているのが見えた。いつ作られたのかは見当もつかないが、いずれにせよそれが作られたときから既に流行遅れだったのではないかとおぼしきウールのスーツには、防虫剤の匂いが微かに漂っていた。色はピンクだが、どこかで間違った色を混ぜ込まれたような、不思議なピンクだった。おそらくは品の良い落ち着いた色調が求められていたのだろうが、意図が果たせぬまま、そのピンクは気後れと韜晦《とうかい》とあきらめの中に重く沈み込んでいた。おかげで、襟元からのぞいている真新しい白いブラウスは、まるで通夜に紛れ込んだ不謹慎な客のように見えた。白いものの混じった乾いた髪は、いかにも間に合わせという感じでプラスチックのピンでとめられていた。手足は肉付きがよく、短い指には指輪はひとつもはめられてない。首筋には三本の細い皺が、人生の刻み目のようにくっきりとついている。あるいは三つの願いが叶えられたしるしかもしれない。しかしたぶんそうではないだろうと牛河は推測した。  彼女は小学校三年生から卒業まで川奈天吾を担任した。二年ごとにクラス替えがあるのだが、たまたま天吾とは四年間一緒だった。青豆を担任したのは三年生と四年生の二年間だけだ。 「川奈さんのことはよく覚えています」と彼女は言った。  そのおとなしそうな見かけに比べると、彼女の声は驚くほどクリアで若々しかった。騒がしい教室の隅までしっかりと通る声だ。職業が人を作るのだと、牛河は感心した。きっと有能な教師なのだろう。 「川奈さんはすべての面において優秀な生徒でした。二十五年以上にわたって、いくつかの小学校で数え切れないほどの生徒を教えてきましたが、あれほど優れた資質を持った生徒に出会ったことはありません。何をさせても抜きんでていました。人柄も良く、指導力も具わっていました。どのような分野に進んでも一家をなす人物のように見えました。小学生の時はなんといっても算数、数学の能力が際だっていましたが、文学の道に進んだとしても決して驚きはしません」 「お父さんはたしかNHKの集金の仕事をしておられたのですね」 「そうです」と教師は言った。 「なかなか厳しいお父さんであったとご本人からうかがいました」と牛河は言った。それはまったくの当てずっぽうだった。 「そのとおりです」と彼女は迷いなく言った。「とても厳しいところのあるお父様でした。自分のお仕事を誇りにしておられて、それはもちろん素晴らしいことなのですが、ときとして天吾くんにはそのことが負担になっていたようです」  牛河は巧みに話題をつないで、彼女から詳しい話を引き出した。それは牛河の最も得手とする作業だった。相手にできるだけ気持ちよくしゃべらせること。週末に父親の集金に同行させられることを嫌って、天吾が五年生の時に家出したことを彼女は話した。「家出というよりは、実際には家を追い出されたようなものですが」と教師は言った。やはり天吾は父親と一緒に集金にまわらされていたのだ、と牛河は思った。そしてそれは少年時代の天吾にとって少なからぬ精神的負担になっていた。予想した通りだ。  女教師は行く先のない天吾を一晩自宅に泊めた。彼女はその少年のために毛布を用意し、朝食も作ってやった。翌日の夕刻父親のところに行き、弁を尽くして彼を説得した。彼女はそのときのことを、自らの人生のもっとも輝かしいひとこまを語るように語った。天吾が高校生のときにたまたま音楽会で再会したことも、彼女は語った。彼がそこでどれくらい上手にティンパニの演奏をしたかを。 「ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。簡単な曲ではありません。天吾くんはその数週間前までその楽器に手を触れたこともなかったんです。しかし即席のティンパニ奏者として舞台に立ち、見事に役を果たしました。奇跡としか思えません」  この女性は天吾のことが心から好きなのだ、と牛河は感心した。ほとんど無条件に好意を抱いている。それくらい深く他人から好かれるというのは、いったいどういう気持ちのするものなのだろう? 「青豆雅美さんのことは覚えておられますか?」と牛河は尋ねた。 「青豆さんのこともよく覚えています」と女教師は言った。しかしその声には、天吾の時とは違って、喜びは感じられなかった。彼女の声のトーンは目盛りふたつぶんくらい落ちた。 「珍しいお名前ですしね」と牛河は言った。 「ええ、かなり珍しい名前です。しかし彼女のことをよく覚えているのは、名前のせいだけではありません」  短い沈黙があった。 「ご家族は『証人会』の熱心な信者だったそうですね」と牛河は探りを入れた。 「これはここだけの話にしていただけますか」と女教師は言った。 「わかりました。もちろん外にはもらしません」  彼女は肯いた。「市川市には『証人会』の大きな支部があります。ですから何人かの『証人会』の子供たちを私は担任してきました。教師という立場から見れば、そこにはそれぞれ微妙な問題があり、そのたびに注意を払わなくてはなりません。しかし青豆さんのご両親くらい熱心な信者さんはほかにはおられませんでした」 「つまり妥協ということをしない人々だった」  女教師は思い出すように軽く唇を噛んだ。「そうです。原則に対してきわめて厳密な人々でしたし、子供たちにも同じ厳密さを要求しました。そのために青豆さんはクラスの中で孤立せざるを得なかったのです」 「青豆さんはある意味では特殊な存在だったわけですね」 「特殊な存在でした」と教師は認めた。「もちろん子供に責任はありません。もし何かに責任を求めるとすれば、それは人の心を支配する不寛容さです」  女教師は青豆について語った。ほかの子供たちは青豆の存在をおおむね無視していた。可能な限り、彼女を<傍点>いないものとして扱っていた。彼女は異分子であり、奇妙な原則を振りかざしてほかのみんなに迷惑をかけるものだった。それがクラスの統一見解だった。それに対し青豆は、自らの存在を可能な限り希薄にすることで身を護っていた。 「私としてもできる限りの努力はしました。しかし子供たちの結束は予想を超えて固く、青豆さんは青豆さんで、自分をほとんど幽霊のような存在に変えていました。今であれば専門カウンセラーの手に委ねることもできます。しかし当時そんな制度は存在しません。私はまだ若く、クラスをひとつにまとめていくだけで手一杯でした。おそらく言い訳にしか聞こえないでしょうが」  彼女の言っていることは牛河にも理解できた。小学校教師という仕事は重労働だ。子供たちのあいだのことは、ある程度子供たちに任せてやっていくしかない。 「信仰の深さと不寛容さは、常に裏表の関係にあります。それはなかなか我々の手には負えないことです」と牛河は言った。 「おっしゃる通りです」と彼女は言った。「でもそれとは別のレベルで、何か私にできることはあったはずです。私は何度か青豆さんと話し合おうとしました。しかし彼女はほとんど口をきいてくれませんでした。意志が強く、一度こうと決めたら考えを変えません。頭脳も優秀です。優れた理解力を持ち、学習意欲もあります。しかしそれを表に出さないように、厳しく自分を管理し抑制しています。<傍点>目立たないことがおそらく身を護るただひとつの手段だったのです。もし通常の環境に身を置いていたなら、彼女もやはり素晴らしい生徒になっていたでしょう。それは今思いかえしても残念なことです」 「彼女のご両親とお話しになったことはありますか」  女教師は肯いた。「何度もあります。信仰の迫害があるということで、ご両親は度々学校に抗議にみえました。そのときに私は、もう少し青豆さんがクラスにとけ込めるように協力していただけまいかとお願いしました。僅かでも原則を曲げてもらえないだろうかと。でも無駄でした。ご両親にとっては信仰のルールを厳密に守ることが何よりも大事でした。彼らにとっての幸福とは楽園に行くことであって、現世における生活はかりそめのものに過ぎません。でもそれは大人の世界の理屈です。育ち盛りの子供の心にとって、クラスでみんなに無視されたりつまはじきされたりするのがどれほどつらいことか、それがどれほど致命的な傷をあとに残すことになるか、残念ながらわかってはいただけませんでした」  青豆が大学と会社でソフトボール部の中心選手として活躍し、現在は高級スポーツ?クラブの有能なインストラクターになっていることを、牛河は彼女に教えた。正確に言えば少し前まで活躍<傍点>していたということになるが、そこまで厳密になることはない。 「それは良かった」と教師は言った。彼女の頬に淡く赤みがさした。「無事に成長し、自立して元気に生きておられる。それを聞いて安心しました」 「ところでひとつつかぬことをお伺いしたいのですが」と牛河は邪気のない笑みを浮かべて尋ねた。「小学生時代、川奈天吾さんと青豆さんが個人的に親しい関係にあった、というようなことはあり得るでしょうか?」  女教師は両手の指を組み、しばらく考えていた。「あるいはそんなこともあったかもしれません。でも私はそういう現場を目にしていませんし、話にも聞いておりません。ただひとつ言えるのは、それが誰であれ、あのクラスで青豆さんと個人的に親しい関係になるような子供がいたとは、ちょっと考えにくいということです。天吾くんはあるいは青豆さんに手を差し伸べたかもしれません。心の優しい責任感のある子供でしたから。しかし仮にそんなことがあったとしても、青豆さんの方はそうすんなりとは心を開かなかったでしょう。岩に張りついた牡蠣が簡単には殻を開かないのと同じように」  女教師はいったん口をつぐみ、それから付け加えた。「こういう言い方しかできないのはまことに残念です。でも当時の私には何も手が打てませんでした。先刻も申し上げたとおり、経験も乏しく力不足だったのです」 「もし仮に、川奈さんと青豆さんが親しい関係になるようなことがあれば、それはクラスの中で大きな反響を呼んだだろうし、その話が先生の耳に届かなかったわけはない、そういうことでしょうか?」  女教師は肯いた。「不寛容さはどちらの側にもあったのです」  牛河は礼を言った。「先生のお話をうかがえて、大変役に立ちました」 「青豆さんの話が、その今回の助成金の話の妨げにならなければいいのですが」と彼女は心配そうに言った。「クラスにそのような問題が生じたのはあくまで担任教師である私の責任です。天吾くんのせいでも、青豆さんのせいでもありません」  牛河は首を振った。「ご心配は無用です。私はただ作品の背後関係の事実チェックをしているだけです。ご存じのように宗教の関わる問題はなにせ複雑ですから。川奈さんは優れた大振りな才能を持っておられますし、遠からず名を成されるはずです」  それを聞いて女教師は満足そうに微笑んだ。小さな瞳の中で何かが陽光を受け、遠くの山肌に見える氷河のようにきらりと光った。少年時代の天吾を思い出しているのだ、と牛河は思う。二十年も前のことなのに、彼女にはきっとつい昨日の出来事のように感じられるのだろう。  津田沼駅に向かうバスを校門の近くで待ちながら、牛河は自分の小学校の教師たちのことを考えた。彼らは牛河を記憶しているだろうか? もし記憶していたとしても、彼のことを思い出す教師たちの瞳に親切な光が浮かんだりすることはまずあり得ない。  明らかになった状況は、牛河が仮説として予測していたものに近かった。天吾はクラスでいちばん優秀な生徒だった。人望もあった。青豆は孤立し、クラスの全員に無視されていた。天吾と青豆がそこで親しくなる可能性はほとんどない。立場が違いすぎる。そして青豆は五年生のときに市川から転出し、別の小学校に移った。二人の繋がりはそこで途切れている。  もし小学校時代の二人のあいだに何か共通項を求めるなら、それは心ならずも親の言いつけに従わざるを得なかったという一点でしかない。勧誘と集金という目的の違いはあるにせよ、彼らは強制的に親に連れられて街を歩き回っていた。クラスの中で置かれていた立場はまったく違う。しかし二人はおそらく同じように孤独で、同じように強く何かを求めていたはずだ。無条件で自分を受け入れ、抱きしめてくれるような<傍点>何かを。牛河には彼らの心情を想像することができた。それはある意味では、牛河自身の抱いていた心情でもあったからだ。  さて、と牛河は思う。彼は津田沼から東京に向かう快速電車のシートに座り、腕組みをしていた。さて、俺はこれからいったいどうすればいいのだろう。天吾と青豆のあいだにいくつかの繋がりを発見することができた。興味深い繋がりだ。しかし残念ながら今のところ、それが何かを具体的に証明しているわけではない。  俺の前には高い石壁がそびえている。そこには三つのドアがついている。どれかひとつを選ばなくてはならない。それぞれのドアには表札がついている。ひとつは「天吾」、ひとつは「青豆」、もうひとつは「麻布の老婦人」だ。青豆は文字通り煙のように消えてしまった。足跡ひとつ残っていない。麻布の「柳屋敷」は銀行の金庫室なみに警護を固められている。こちらも手のつけようがない。となると、残されたドアはひとつしかない。  これから当分は天吾くんにへばりついていることになりそうだな、と牛河は思った。ほかに選択肢はない。消去法の見事なサンプルだ。きれいなパンフレットにして道行く人々に配りたいくらいだ。よろしいですか、みなさん、これが消去法というものです。  生まれながらの好青年、天吾くん。数学者にして小説家。柔道のチャンピオンにして、小学校女教師のお気に入り。とりあえずはこの人物を突破口にして事態の<傍点>もつれを解きほぐしていくしかない。ひどくややこしいもつれだ。考えれば考えるほどわけがわからなくなる。自分の脳味噌が消費期限切れの豆腐でできているみたいに思えてくる。  天吾くん自身はどうなのだろう。彼の目にはものごとの全体像が見えているのだろうか? いや、おそらく見えてはいるまい。牛河の見る限り、天吾は試行錯誤を繰り返し、あちこち回り道をしているようだ。彼もまたいろんなことに当惑し、頭の中で様々な仮説を組み立てているのではあるまいか。とはいえ天吾くんは生まれながらの数学者だ。ピースを集めてパズルを組み立てる作業に習熟している。また彼は当事者として、たぶん俺が手にしているよりは数多くのピースを手にしているはずだ。  当分のあいだ川奈天吾の動きを見張ろう。彼がおそらく俺を<傍点>どこかに導いてくれるに違いない。うまくいけば青豆の潜んでいる場所に。コバンザメのように何かにぴったりへばりついて離れないこと、それも牛河が最も得手とする行為のひとつだった。いったんそう心を決めれば、彼をふるい落とすことは誰にもできない。  それだけを決めると、牛河は目を閉じて思考のスイッチを切った。少し眠ろう。今日はろくでもない千葉県の小学校をふたつもまわり、二人の中年の女教師に会って話を聞いた。美しい副校長と、カニのような歩き方をする女教師。神経を休める必要がある。しばらくして彼の大きないびつな頭が、電車の振動にあわせてゆっくりと上下に揺れ始めた。見せ物で、口から不吉なおみくじを吐き出す等身大の人形のように。  電車は空《す》いてはいなかったが、牛河の隣の席に座ろうとする乗客は一人もいなかった。 第11章 青豆 理屈が通っていないし、親切心も不足している  火曜日の朝、青豆はタマルにあててメモを書く。NHKの集金人と名乗る男が再びやってきたこと。その集金人はドアをしつこくノックし、青豆を(あるいは高井という名前でそこに住んでいる人間を)声高に非難し、嘲り続けている。そこには明らかに過剰で不自然なものがうかがえる。真剣に警戒する必要があるかもしれない。  青豆はその紙片を封筒に入れて封をし、台所のテーブルの上に置く。封筒にTというイニシャルを書く。補給品を運んでくる人々によって、それはタマルのもとに届けられる。  午後一時前に青豆は寝室に入り、ドアをロックし、ベッドに入ってプルーストの続きを読む。一時ちょうどにドアベルが一度だけ鳴る。少し間をおいてドアの鍵が開けられ、補給チームが中に入ってくる。彼らは例によっててきぱきと冷蔵庫を補充し、ゴミをまとめ、戸棚の雑貨のチェックをする。十五分ほどで所定の作業を終えると、部屋を出てドアを閉め、外から鍵をかける。そしてまた一度合図のベルを鳴らす。いつもと同じ手順だ。  念のために時計の針が一時半を指すまで待ってから、青豆は寝室を出てキッチンに行く。タマルあての封筒はなくなって、テーブルの上には薬局の名前の入った紙袋が残されている。それからタマルが用意してくれた『女性のための身体百科』という分厚い本が一冊。袋には妊娠テストの市販キットが三種類入っている。彼女は箱を開け、説明書をひとつひとつ読み比べる。内容はどれも同じだ。予定日を一週間過ぎて生理がない場合、テストをすることができる。精度は九十五パーセントだが、陽性、つまり妊娠しているという結果が出た場合は、できるだけ早急に専門の医師の診断を受けてほしいと書かれている。このテストだけで簡単に結論に飛びつかないでほしい。それが示唆しているのは「妊娠している可能性がある」ということだけだ。  やり方は簡単だ。尿を清潔な容器にとり、そこに紙片を浸す。あるいはスティックに尿を直接かける。そして数分待つ。色が青く変われば妊娠している。変わらなければ妊娠していない。あるいは丸い窓の部分に縦線が二本出れば妊娠している。一本なら妊娠していない。細部の段取りは違っても、原理はどれも同じだ。尿中にヒト絨毛《じゅうもう》性性腺刺激ホルモンが含まれているかで、妊娠しているかいないかを判定する。  ヒト絨毛性性腺刺激ホルモン? 青豆は大きく顔をしかめる。女性として三十年あまり生きてきて、そんな名前をこれまで一度も耳にしたことがなかった。私はそんなわけのわからないものに性腺を刺激されながら生きてきたのだろうか。  青豆は『女性のための身体百科』のページを繰ってみる。 「ヒト絨毛性性腺刺激ホルモンは妊娠初期に分泌され、黄体が維持されるのを助ける」とそこには書かれていた。「黄体はプロゲステロンとエストロゲンを分泌し、子宮内膜を保持させ、月経を防ぐ。そのようにして子宮内に徐々に胎盤が作られていく。七週間から九週間かけて、いったん胎盤ができあがってしまえば、黄体の役目は終わり、したがってヒト絨毛性性腺刺激ホルモンの役目も終る」  つまり着床から七週間から九週間にわたってそれは分泌されるということだ。時期的には微妙なところだが、なんとか間に合うだろう。ひとつ言えるのは、もし陽性の結果が出れば、まず間違いなく妊娠しているということだ。陰性の場合はそう簡単に結論が出せない。分泌時期がもう終わってしまったという可能性もある。  尿意は感じない。冷蔵庫からミネラル?ウォーターの瓶を出して、グラスに二杯飲む。しかし尿意はやってこない。まあ急ぐことはない。彼女は妊娠テストのキットのことは忘れて、ソファの上でプルーストを読むことに集中する。  尿意を感じたのは三時を過ぎてからだ。適当な容器に尿をとり、そこに紙片を浸す。紙片は見ている前で徐々に色を変え、最後には鮮やかなブルーになる。車の色に使えそうな上品な色合いだ。ブルーの小さなコンバーティブル、タン色の幌が似合う。そんな車に乗って初夏の風を受けながら海岸沿いの道を走ったら、きっと気持ちいいだろう。しかし都心のマンションの洗面所で、深まりゆく秋の午後にその青が告げているのは、彼女が妊娠しているという事実だ——あるいは九十五パーセントの精度の示唆だ。青豆は洗面所の鏡の前に立ち、青くなった細長い紙片をじっと見つめる。しかしどれだけ眺めたところで、色が変わるわけではない。  念のために別のメーカーのキットを試してみる。こちらは「スティックの先端に直接尿をかけて下さい」と説明書にある。しかしあとしばらく尿は出そうになかったから、容器に入れた尿に浸すことにする。とれたての新鮮な尿だ。かけても浸しても、たいした違いはあるまい。結果は同じだ。プラスチックの丸い窓にはくっきりと二本の縦線が現れる。それもまた「妊娠している可能性がある」ことを青豆に告げている。  青豆は容器の尿を便器に捨て、レバーを押して流す。色の変わった検査用の紙片をティッシュ?ペーパーにくるんでごみ箱に棄て、容器を風呂場で洗う。それから台所に行って、もう一度水をグラスに二杯飲んだ。明日、日を改めて三つ目のキットを試してみよう。三つというのはキリの良い数字だ。ワン?ストライク、ツー?ストライク。息を詰めて最後の一球を待つ。  青豆は湯を沸かして熱い紅茶を淹《い》れ、ソファに腰を下ろし、プルーストの続きを読む。チーズクッキーを五枚皿に取り、紅茶を飲みながらそれを囓る。静かな午後だ。読書をするには最適だ。しかし目は字を追っていても、そこに書かれている内容は頭に入ってこない。同じ箇所を何度も読み返さなくてはならない。あきらめて目をつむると、彼女は幌を下ろした青いコンバーティブルを運転し、海岸沿いの道路を走っている。潮の匂いのする微風が髪を震わせる。沿道の道路標識には二本の縦線が描かれている。それが告げるのは「注意?妊娠している可能性があります」ということだ。  青豆はため息をつき、本をソファの上に放り出す。  三つ目のキットを試す必要がないことは、青豆にもよくわかっていた。たとえ百回試したところで同じ結果が出るだけだ。時間の無駄だ。私のヒト絨毛性性腺刺激ホルモンは、私の子宮に対して終始同じ態度をとり続けるだろう。彼らは黄体を支え、月経の到来を阻止し、胎盤を形成しつつある。私は妊娠している。ヒト絨毛性性腺刺激ホルモンにはそれがわかる。私にもそれがわかる。私はその存在を下腹部にピンポイントで感じ取ることができる。今はまだ小さい。何かのしるしのようなものにすぎない。でもそれはやがて胎盤を得て、大きく育っていくことだろう。それは私から養分を受け取り、暗く重い水の中で徐々に、しかし休みなく着実に成長していくだろう。  妊娠したのはこれが初めてだ。彼女は厳密な性格だったし、自分の目に映るものしか信用しない。セックスをするときには、相手がコンドームをつけていることを必ず確認する。たとえ酔っていても、その確認だけは欠かさない。麻布の老婦人にも言ったように、十歳のときに初潮を迎えて以来、生理が途絶えたことは一度もない。始まる日にちが二日と狂ったこともない。生理痛は軽い方だった。数日のあいだ出血が続くだけだ。運動をするのに支障を感じたこともない。  生理が始まったのは、小学校の教室で天吾の手を握った数ヶ月後だ。その二つの出来事のあいだには確かな関連性があるように思える。天吾の手の感触が、青豆の肉体を揺さぶったのかもしれない。初潮の到来を告げると、母親は嫌な顔をした。余分な面倒をひとつ背負い込んでしまったみたいに。少し早すぎるね、と母親は言った。でも青豆はそんなことを言われても気にしなかった。それは彼女自身の問題であり、母親の問題でもほかの誰の問題でもない。彼女は一人で新しい世界に足を踏み入れたのだ。  そして今、青豆は妊娠している。  彼女は卵子のことを思う。私のために準備された四百個の卵子のひとつが(ちょうど真ん中くらいの番号のついたやつだ)、しっかりと受精したのだ。おそらくはあの九月、激しい雷雨のあった夜に。そのとき私は暗い部屋で一人の男を殺害した。首筋から脳の下部に向けて鋭い針を突き立てた。しかしその男は、彼女が以前に殺害した何人かの男たちとはまるで違っていた。自分がこれから殺されようとしていることを彼は承知し、またそれを求めてもいた。私は結局、彼の求めているものを与えた。懲罰としてではなく、むしろ慈悲として。それと引き替えに、青豆が求めているものを彼は与えた。深い暗い場所でのやりとりだった。その夜に受胎はひそやかにおこなわれたのだ。<傍点>私にはそれがわかる。  私はこの手で一人の男の命を奪い、ほぼ時を同じくしてひとつの命を身ごもった。それも取り引きの一部だったのだろうか?  青豆は目を閉じて思考を停止する。頭の中が空になると、音もなく何かがそこに流れ込んでくる。そして知らないうちにお祈りの文句を唱えている。  天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。  どうしてこんなときにお祈りの文句が口に出てくるのだろう。王国も楽園もお方さまも、そんなものちっとも信じていないというのに。それでも文句は頭に刻み込まれている。三歳か四歳、言葉の意味もろくにわからないうちから、その文句を丸ごと暗唱させられた。一言でも言い間違えると、物差しで手の甲を強く打たれた。普段は目に見えなくても、何かがあるとそれは表面に浮かび上がってくる。秘密の入れ墨と同じように。  私が性行為抜きで妊娠したと告げたら、母親はいったいなんと言うだろう? それを信仰に対する重大な冒瀆だと考えるかもしれない。なにしろ一種の処女懐胎なのだ——もちろん青豆はもう処女ではないが、それにしても。あるいはそんなことにはまったくとりあわないかもしれない。耳を傾けさえしないかもしれない。私は遥か昔、彼女の世界からこぼれ落ちてしまった出来損ないの人間なのだから。  別の考え方をしてみようと青豆は思う。説明のつかないものに無理に説明をつけるのはやめ、謎は謎として違う側面からこの現象を眺めてみよう。  私はこの妊娠を善きもの、歓迎すべきものとして捉えているのだろうか。それとも好ましくないもの、不適切なものとして捉えているのだろうか。  いくら考えても結論は出ない。私は今のところまだ驚きの段階にいる。戸惑っているし、混乱してもいる。ある部分では分裂さえしている。そして当然ながら、自分が直面している新しい事実をすんなりと呑み込めずにいる。しかし同時に彼女は、自分が前向きな興味を抱いてその小さな熱源を見守っていることに気づかないわけにはいかない。それが何であれ、そこに生じつつあるものごとの行方を見届けたいという気持ちが青豆にはある。もちろん不安もあり怯えもある。<傍点>それは彼女の想像を超えたものかもしれない。彼女を内側からむさぼり食ってしまうような敵対的な異物かもしれない。否定的な可能性がいくつか頭に浮かぶ。にもかかわらず基本的には健康な好奇心が彼女を捉えている。それから出し抜けにひとつの考えが青豆の頭に浮かぶ。暗闇の中に突然一条《ひとすじ》の光が射し込むように。  胎内にいるのはあるいは天吾の子供かもしれない。  青豆は顔を軽くしかめ、その可能性についてひとしきり考えを巡らせる。どうして私が天吾の子供を受胎しなくてはならないのか?  こう考えてみたらどうだろう。何もかもが立て続けに起こったあの混乱の夜、この世界に何らかの作用が働き、天吾は私の子宮の中に彼の精液を送り込むことができた。雷や大雨や、暗闇や殺人の隙間を縫うようにして、理屈はわからないが、特別な通路がそこに生じた。おそらくは一時的に。そして私たちはその通路を有効に利用した。私の身体はその機会を捉えて、貪るように天吾を受け入れ、そして受胎した。私のナンバー201だかナンバー202だかの卵子が、彼の数百万匹の精虫のうちの一匹を確保したのだ。持ち主と同じくらい健康で聡明で率直な精虫の一匹を。  おそろしく突飛な考えだ。まったく理屈が通っていない。どれだけ言葉を尽くして説明しても、たぶん世界中の誰ひとり納得させられないだろう。<傍点>しかし私が妊娠すること自体、理屈の通らない話なのだ。そしてなんといってもここは1Q84年だ。何が起こってもおかしくない世界だ。  もしこれが本当に天吾の子供だったら。青豆はそう考える。  首都高速道路三号線の待避スペースであの朝、私は拳銃の引き金を引かなかった。私は本気で死ぬつもりでそこに行き、銃口を口にくわえた。死ぬことはちっとも怖くなかった。天吾を救うために死んでいくのだから。しかし何かの力が私に作用し、私は死ぬことをやめた。ずっと遠くの方でひとつの声が私の名前を呼んでいた。それはひょっとして私が妊娠していたためではないのか? 何かが私にその生命の誕生を教えようとしていたのではないだろうか?  そして夢の中で、裸の自分にコートを着せかけてくれた上品な中年の女性のことを、青豆は思い出す。彼女は銀色のメルセデス?クーペから降り、軽くて柔らかい卵色のコートを私に与えた。彼女は知っていたのだ。私が妊娠していることを。そして人々の無遠慮な視線や、冷たい風や、そのほかいろんな悪しきものから私を優しく護ってくれた。  それは善きしるしだった。  青豆は顔の筋肉を緩め、表情をもとに戻す。誰かが私を見守り、保護してくれているのだ。青豆はそう思う。この1Q84年の世界にあっても、私はまったくの孤独ではない。たぶん。  青豆は冷たくなった紅茶を持って窓際に行く。ベランダに出て、外から目につかないようにガーデンチェアに身を沈め、目隠し板の隙間から児童公園を眺める。そして天吾のことを考えようとする。しかし何故か今日に限って、天吾のことがうまく考えられない。彼女の頭に浮かぶのは中野あゆみの顔だ。あゆみは明るく微笑んでいる。とても自然な、裏のない微笑だ。二人はレストランのテーブルをはさんで、ワインのグラスを傾けている。二人はほどよく酔っている。上等なブルゴーニュは彼女たちの血に混じって柔らかく身体を循環し、まわりの世界を仄かな葡萄の色に染めている。 「私に言わせればね、青豆さん」とあゆみはワイングラスを指でこすりながら言う。「この世界って、理屈なんかぜんぜん通ってないし、親切心もかなり不足している」 「そうかもしれない。でも気にすることはない。こんな世界なんてあっという間に終わってしまうんだから」と青豆は言う。「そして王国がやってくるの」 「待ちきれない」とあゆみは言う。  私はなぜあのとき、王国の話なんてしたのだろう、と青豆は不思議に思う。なぜ自分が信じてもいない王国の話なんて急に持ち出したのだろう? それからほどなくしてあゆみは死んだ。  それを口にしたとき、私はおそらく「証人会」の人々が信じているのとは違うかたちの「王国」を頭に思い描いていたはずだ。たぶんもっと個人的な王国を。だからこそその言葉は自然に口から出てきた。でも私はどんな王国を信じているのだろう? 世界が消滅したあとにどんな「王国」が到来すると私は考えているのだろう?  彼女は腹の上にそっと手をあてる。そして耳を澄ませる。もちろんどれだけ真剣に耳を澄ませたところで、何も聞こえない。  いずれにせよ、中野あゆみはこの世界から振り落とされてしまった。渋谷のホテルで両手首に硬く冷たい手錠をはめられ、紐で首を絞められて殺された(青豆の知る限り、まだ犯人は見つかっていない)。司法解剖され、再び縫い合わされ、火葬場に運ばれて焼かれた。この世界にはもう中野あゆみという人間は存在しない。その肉も血も失われてしまった。彼女は書類と記憶の世界にしかいない。  いや、そうじゃないのかもしれない。彼女はあるいは1984年の世界ではまだ元気に生きているかもしれない。拳銃を携行させてもらえないことにぶつぶつ文句を言いながら、相変わらず違法駐車の車のワイパーに切符をはさみ続けているかもしれない。都内の高校の女子生徒に避妊の方法を教えて回っているかもしれない。みなさん、コンドームのないところに挿入はありません、と。  青豆はあゆみに会いたいと思う。首都高速道路の非常階段を逆に上って、もとあった1984年の世界に戻れば、もう一度彼女に巡り合えるかもしれない。そこではまだあゆみが元気に生きていて、私は「さきがけ」の連中に追跡されてはいない。私たちはあの乃木坂の小さなレストランに行って、ブルゴーニュのグラスを傾けられるかもしれない。あるいは——  首都高速道路の非常階段を逆に上る?  青豆はカセットテープを巻き戻すように、思考を遡る。どうしてこれまでそのことを考えつかなかったんだろう? 私は高速道路の非常階段をもう一度上から降りようとして、その入り口を見つけられなかった。エッソの看板の向かいにあるはずのその階段は消えていた。でもひょっとして逆の方向ならうまく行ったかもしれない。階段を降りるのではなく昇っていくのだ。あの高速道路の下の資材置き場にもう一度潜り込み、そこから逆に三号線まで上がっていく。通路を逆戻りすること。それが私のなすべきことだったかもしれない。  そう思うと、青豆は今すぐここから駆けだして三軒茶屋まで行き、その可能性を試したくなる。うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。でもやってみるだけの価値はある。同じスーツを着て、同じハイヒールを履いて、あの蜘蛛の巣だらけの階段を昇るのだ。  しかし彼女はその衝動を押しとどめる。  いや、だめだ、そんなことはできない。私はこの1Q84年にやって来たからこそ天吾に巡り合えたのではないか。そしておそらくは彼の子供を身ごもっている。何があろうと私はこの新しい世界でもう一度天吾に会わなくてはならない。彼と対面しなくてはならない。少なくともそれまではこの世界を立ち去るわけにはいかない。たとえ何があろうと。  翌日の午後、タマルから電話がかかってくる。 「まずNHKの集金人のことだ」とタマルは言う。「NHKの営業所に電話をかけて確かめた。高円寺のその地区を担当している集金人は、三〇三号室のドアをノックした覚えはないと言っている。受信料が口座振替で自動的に支払われていることを示すステッカーが入り口に貼ってあることを、彼は前に確認している。そもそも呼び鈴がついているのに、ドアをわざわざノックしたりなんかしないと言っている。そんなことをしたら手が痛むだけだ。そしておたくに集金人が現れた日には、彼は別の地区をまわっていた。話を聞く限り、その人物が嘘をついているとは思えない。勤続十五年のベテランで、我慢強く温厚なことで知られている」 「とすると」と青豆は言った。 「とすると、おたくにやってきたのは本物の集金人ではないという可能性が強くなる。誰かがNHKの集金人を騙《かた》って、そのドアをノックしているようだ。電話の相手もそれを案じていた。受信料集金人の偽物が現れたとなると、NHKにとっては厄介な事態だ。できればお目にかかって、もっと細かい事情を直接うかがいたいと担当者は言った。もちろんそれは断った。実際に被害があったわけではないし、あまり大げさなことにしたくないと」 「その男は精神異常者か、あるいは私を追っている人間ということになるのかしら」 「あんたを追跡する人間が、そんなことをするとは思えない。何の役にも立たないし、逆にあんたを警戒させるだけだ」 「でも精神異常者だとして、どうしてこの部屋のドアをわざわざ選ぶのかしら。ほかにたくさんドアはあるというのに。明かりも外にこぼれないように注意しているし、大きな音も立てない。常にカーテンを引き、外に洗濯物も干していない。なのにその男は、わざわざこの部屋を選んでドアをノックする。私がここに身を潜めていることを、その男は知っている。あるいは知っていると主張している。そしてなんとかドアを開けさせようとしている」 「その男はまた来ると思うか?」 「わからない。でももし本気で私にドアを開けさせようとしているのだとしたら、ドアが開くまでは来続けるんじゃないかしら」 「そしてそのことはあんたを動揺させている」 「動揺はしていない」と青豆は言う。「ただ気に入らないだけ」 「もちろん俺も気に入らない。まったく気に入らない。しかしその偽集金人がまたやってきても、NHKや警察を呼ぶわけにはいかない。俺が連絡を受けてすぐに出向いても、そちらに到着する頃にはその男はおそらく消えているだろう」 「私一人でなんとか対処できると思う」と青豆は言う。「どんなに挑発されても、ドアを開けなければいいだけだから」 「相手はおそらくあらゆる手を尽くして挑発してくるだろう」 「おそらく」と青豆は言う。  タマルは短く咳払いをし、話題を変える。「検査薬は届いたね?」 「陽性だった」と青豆は簡潔に言う。 「つまりアタリだったということだ」 「そのとおり。二種類試してみたけれど、結果は同じ」  沈黙がある。まだ文字が彫られていない石版のような沈黙だ。 「疑いの余地はない?」とタマルは言う。 「そのことは最初からわかっていた。テストはただの裏付けに過ぎない」  タマルは指の腹でその沈黙の石版をしばらく撫でている。 「ここで率直な質問をしなくてはならないんだが」と彼は言う。「そのまま産むつもりなのか。それとも処置するのか」 「<傍点>処置はしない」 「出産するということだ」 「順調にいけば、出産予定日は来年の六月から七月になる」  タマルは頭の中で純粋な数字の計算をする。「となると、我々としてはいくつかの予定を変更しなくてはならない」 「申し訳ないと思う」 「謝ることはない」とタマルは言う。「どのような環境にあれ、すべての女性には子供を出産する権利があるし、その権利は厚く護られなくてはならない」 「人権宣言みたい」と青豆は言う。 「もう一度念押しに訊くが、その父親が誰なのか、あんたには見当もつかない」 「六月からあと、誰とも性的な関係を持っていない」 「すると処女懐胎みたいなものか?」 「そんなことを言うと、宗教関係者は腹を立てるかもしれないけれど」 「何によらず、普通ではないことをすれば必ず誰かは腹を立てる」とタマルは言う。「しかし妊娠しているとなると、できるだけ早い段階で専門医の診察を受ける必要がある。その部屋にこもりっきりで妊娠期間を送るわけにはいかない」  青豆はため息をつく。「今年の終わりまではここにいさせて。迷惑はかけない」  タマルはいっとき沈黙する。それから口を開く。「今年いっぱいはそこにいていい。前に約束したとおりだ。しかし年が明けたらすぐ、より危険が少なく、医療が受けやすい場所に移ってもらわなくてはならない。そいつは了解しているね?」 「わかっている」と青豆は言う。しかし彼女には確信が持てない。もし天吾に会えなかったら、それでも私はここを離れられるだろうか? 「俺は一度女を妊娠させたことがある」とタマルは言う。  青豆はしばらく口がきけない。「あなたが? でもあなたって——」 「そのとおり。ゲイだ。妥協の余地のないゲイだ。昔からそうだったし、今でもそうだ。これからもずっとそうだろう」 「でも女性を妊娠させた」 「誰にでも間違いはある」とタマルは言う。しかしそこにはユーモアの気配はない。「細部は省略させてほしいが、若い頃のことだ。とにかく一度だけで、ずどん、みごと命中したわけだ」 「彼女はそれからどうしたの?」 「知らない」とタマルは言う。 「知らない?」 「妊娠六ヶ月までは知っている。あとのことは知らん」 「六ヶ月までいけば堕胎は無理ね」 「俺もそう理解している」 「子供は生まれた可能性が高い」と青豆は言う。 「おそらく」 「もし子供が生まれていたとしたら、あなたはその子に会いたい?」 「とくに興味はない」とタマルは躊躇なく言う。「俺はそういう生き方をしてこなかった。あんたはどうなんだ? 自分の子供に会いたいか?」  青豆はそれについて考える。「私も小さい時に両親に捨てられた人間だから、自分の子供を持つのがどういうことなのか予測できない。正しいモデルを持たないから」 「にもかかわらず、あんたはその子供をこれから世界に送りだそうとしている。この矛盾に満ちた暴力的な世界に」 「私は愛を求めているから」と青豆は言う。「でもそれは自分の子供とのあいだの愛じゃない。私はまだその段階までは達していない」 「しかしその愛には子供が関与している」 「おそらく。何らかのかたちで」 「しかしもしそれが見込み違いだったら、もし子供があんたの求めている愛に、どのようなかたちにおいても関与していなかったとしたら、子供は傷つくことになるだろう。我々と同じように」 「その可能性はある。でもそうではないと私は感じる。直感として」 「直感に対して俺は敬意を払う」とタマルは言う。「しかしいったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない。よく覚えておいた方がいい」 「誰がそんなことを言ったの?」 「ヴィトゲンシュタイン」 「覚えておく」と青豆は言う。「もしあなたの子供が生まれていたら、今いくつになっているの?」  タマルは頭の中で勘定をする。「十七歳だ」 「十七歳」、青豆は倫理の担い手としての十七歳の少年なり少女を想像する。 「このことは上に話してみる」とタマルは言う。「彼女はあんたと直接話をしたがっている。しかし何度も言うように、保安上の理由で俺はそいつをあまり歓迎しない。できるだけの技術的対策は講じているが、それでも電話というのはかなり危険な通信手段だ」 「わかっている」 「しかし彼女はこの成り行きに深い関心を持ち、あんたのことを案じている」 「それもわかっている。ありがたいと思う」 「彼女を信頼し、その忠告に従うのが賢明だろう。深い知恵を持った人だ」 「もちろん」と青豆は答える。  しかしそれとは別に私は意識を研ぎ澄まし、自らの身を護らなくてはならない。麻布の老婦人はたしかに深い知恵を持った人だ。大きな現実の力も持っている。しかし彼女にも知りようのないことがある。1Q84年がどのような原理のもとに動いているのか、彼女はたぶん知らない。空に二つの月があることにだって気づいていないはずだ。  電話を切ったあと、青豆はソファに横になり、三十分ほどうたた寝をする。短く深い眠りだ。夢を見るが、それは何もない空間のような夢だ。その空間の中で彼女はものを考える。彼女はその真っ白なノートに、目に見えないインクで文章を書いていく。目を覚ましたとき、彼女は漠然とではあるけれど、不思議に明確なイメージを得ている。私はこの子供を産むことになるだろう。小さなものは無事にこの世界に生をうけるだろう。タマルの定義によれば、倫理の避けがたき担い手として。  彼女は下腹部に手のひらをあて、耳を澄ませる。まだ何も聞こえない。今のところ。 第12章 天吾 世界のルールが緩み始めている  朝食を済ませたあと、天吾は風呂場でシャワーを浴びた。髪を洗い、洗面所で髭を剃った。洗濯して乾かしておいた服に着替えた。それから外に出て駅の売店で朝刊を買い、近所の喫茶店に入って熱いブラック?コーヒーを飲んだ。  新聞にはとくに興味を惹かれる出来事は見当たらなかった。少なくともその日の新聞を通して見る限り、世界はかなり退屈で味気ない場所だった。今日の新聞なのに、まるで一週間前の新聞を読み返しているような気がした。天吾は新聞を畳み、腕時計を見た。時刻は九時半、療養所の面会時間は十時に始まる。  帰り支度は簡単だった。荷物はもともと多くない。着替えの衣類と、洗面用具と、何冊かの本と、原稿用紙の束、そんなところだ。ズックのショルダーバッグひとつに収まってしまう。彼はそれを肩にかけると、旅館の支払いを済ませ、駅前からバスに乗って療養所まで行った。今はもう冬の初めだ。朝から海岸に出かける人間はほとんどいない。療養所前の停留所で降りたのも彼一人だけだった。  療養所の玄関で、いつもどおり面会客用のノートに時刻と名前を書き込んだ。受付にはたまに見かける若い看護婦が座っていた。いやに手脚が細長く、口もとに笑みを浮かべ、森の道案内をしてくれる善良な蜘蛛のように見える。だいたいいつもそこには眼鏡をかけた中年の田村看護婦が座っているのだが、今朝はその姿がない。それで天吾は少しほっとした。昨夜、安達クミをアパートまで送っていったことで、何か思わせぶりなことを言われるのではないかと怯えていたのだ。髪を上にまとめてボールペンを差した大村看護婦の姿も見えなかった。彼女たちはあとかたもなく、地面に吸い込まれて消えたのかもしれない。『マクベス』に出てくる三人の魔女みたいに。  しかしもちろんそんなことはあり得ない。安達クミは今日は非番だが、ほかの二人は普通通り仕事があると言っていた。たまたま今、どこか別のところで仕事をしているだけだろう。  天吾は階段を上がり、二階の父親の部屋に行った。軽く二度ノックをしてドアを開けた。父親はベッドに横になり、いつもと同じ格好で眠っていた。腕には点滴のチューブが、尿道にはカテーテルが繋がれている。昨日から変化はない。窓は閉まって、カーテンが引かれている。部屋の中の空気はもったりと重く淀んでいた。薬品や、花瓶の花や、病人の吐く息や、排泄物や、そのほか生命の営みが発する様々な匂いが、分かちがたく入り混じっている。たとえ力の衰えた生命とはいえ、そして意識が長期間にわたって失われているとはいえ、代謝の原理に変更が生じるわけではない。父親はまだ大いなる分水嶺のこちら側にいるし、生きているというのは言い換えれば、様々な匂いを発することなのだ。  天吾が病室に入って最初にやったのは、まっすぐ奥に行ってカーテンをあけ、窓を大きく開くことだった。気持ちの良い朝だ。空気を入れ換えなくてはならない。外気はいくぶんひやりとしているものの、まだ冷え込むというほどでもない。陽光が部屋に差し込み、海風がカーテンを揺らせた。一羽のかもめが風に乗り、両脚を端正に折り畳み、松の防風林の上を滑空していった。雀の群れが不揃いに電線にとまり、音符を書き換えるみたいにその位置を絶えず変化させていた。くちばしの大きなカラスが一羽、水銀灯の上にとまって、あたりを用心深く見回しながら、さてこれから何をしようかと思案していた。幾筋かの雲がとても高いところに浮かんでいた。それはあまりにも遠く、あまりにも高く、人間の営みとは関わりを持たないきわめて抽象的な考察のようにも見えた。  天吾は病人に背中を向けて、しばらくそんな風景を眺めていた。生命を持つもの、生命を持たないもの。動くもの、動かないもの。窓の外に見えるのは、いつもと変わりのない光景だ。目新しいものは何もない。世界は前に進まなくてはならないから、いちおう前に進んでいる。安物の目覚まし時計みたいに、与えられた役割を無難にこなしているだけだ。そして天吾は、父親と正面から向き合うのを少しでも先に延ばすために、そんな風景をあてもなく眺めているだけだ。しかしもちろんそんなことを永遠に続けているわけにはいかない。  天吾はようやく気持ちを決めて、ベッドの脇にあるパイプ椅子に腰を下ろした。父親は仰向けになり、顔を天井に向け、目を閉じていた。首のところまでかかった掛け布団もまったく乱れていない。目は深く落ちくぼんでいる。何かの部品が外れて、眼窩《がんか》が眼球を支えきれなくなり、ごっそり陥没してしまったように見える。仮に目を開けても、そこに見えるのはきっと穴の底から世界を見上げるような光景に違いない。 「お父さん」と天吾は話しかけた。  父親は答えなかった。部屋に吹き込んでいた風が急にやみ、カーテンが下に垂れた。作業の途中で何か大事な案件をふと思い出した人のように。それから少しあって、気を取り直したように再びゆっくりと風が吹き始めた。 「これから東京に戻る」と天吾は言った。「いつまでもここにいるわけにはいかないから。仕事もこれ以上休みはとれない。たいした生活じゃないにせよ、いちおう僕なりの生活もある」  父親の頬には髭がうっすらと生えていた。二日か三日ぶんの髭だ。看護婦が電気剃刀で髭をあたる。しかし毎日ではない。白い髭と黒い髭が半分ずつ混じっている。彼はまだ六十四歳だったが、それよりはずっと年老いて見えた。誰かがうっかり間違えて、その男の人生のフィルムを先の方まで回してしまったみたいに。 「僕がここにいる間、あなたは結局目を覚まさなかった。でもお医者さんの話によれば、あなたの体力はまだそんなに落ちていない。不思議なくらいもとの健康状態に近いものを保っている」  天吾は間をおいて、言ったことが相手に浸透するのを待った。 「この声が耳に届いているのかどうか、僕にはわからない。もし声が鼓膜を震わせているとしても、そこから先の回線が切れているのかもしれない。あるいは僕の口にする言葉は意識に届いているけど、それに反応ができないのかもしれない。そのへんは僕にはわからない。でもこれまで自分の声が届いているものと仮定して話しかけてきたし、本も読んできた。とりあえずそう決めておかないと話しかける意味はないし、もし何も話しかけられないのなら、僕がここにいる意味だってないわけだから。それからうまく説明できないんだけど、ちょっとした手応えみたいなのがあるんだ。僕の言っていることが、すべてではないにせよ、少なくとも要点だけは届いているんじゃないかっていう」  反応はない。 「これから僕が口にすることは馬鹿げているかもしれない。でも僕はこれから東京に戻るし、今度はいつ来られるかわからない。だからとにかく頭の中にあることをそのまま言ってしまう。下らないと思ったら遠慮せずに笑ってくれてかまわない。もちろんもし笑えるならということだけど」  天吾は一息ついて父親の顔を観察した。やはり反応はない。 「あなたの肉体はここで昏睡している。意識も感覚も失われ、生命維持装置によってただ機械的に生かされている。生きる屍、というようなことを医者は言った。もちろんもっと娩曲な表現でだけどね。たぶん医学的にはそういうことになるんだろう。でもそれはひとつの<傍点>見せかけに過ぎないんじゃないか。ひょっとしてあなたの意識は<傍点>本当に失われてはいないんじゃないか。あなたはここで肉体を昏睡させたまま、意識だけをどこかよそに移して生きているんじゃないか。僕はずっとそういう気配を感じ続けてきた。あくまで<傍点>なんとなくではあるけれど」  沈黙。 「突飛な想像だということはよくわかっている。こんなことを誰かに言っても、妄想と思われるのがおちだ。でも僕はそう想像しないわけにはいかない。あなたはおそらくこの世界に興味を失ってしまった。失望し落胆し、すべての関心を失った。だから現実の肉体を放棄し、こことは違う場所に移って違う生活を送ることにしたんじゃないか。おそらくは自分の内側にある世界で」  更なる沈黙。 「仕事を休んでこの町にやってきて、旅館に部屋をとり、毎日ここに面会に来てあなたに話しかけた。そろそろ二週間になる。でも僕がそうしたのは、あなたの見舞いや看病をすることだけが目的じゃなかった。自分がどんなところから生まれてきたのか、どんなところに自分の血が繋がっているのか、それを知っておきたいと思ったということもある。でも今となってはそんなことはもうどうでもいい。どこに繋がっていようが、どこに繋がっているまいが、僕は僕だ。そしてあなたは僕の<傍点>父親なるものだ。それでいいじゃないかと思った。それが和解と呼べるのかどうか僕にはわからない。あるいは僕は自らと和解した。そういうことかもしれない」  天吾は深呼吸をした。声のトーンを落とした。 「夏にはまだあなたには意識があった。かなり混濁してはいたけれど、意識はまだ意識として機能していた。そのときこの部屋で僕は一人の女の子と再会した。あなたが検査室に運ばれていったあと、彼女は<傍点>ここにやってきた。それはたぶん彼女の分身のようなものだったのだろう。僕が今回この町にやって来て長く滞在したのは、もう一度彼女に出会えるかもしれないと思ったからだ。それが僕がここにいる本当の理由だ」  天吾はため息をつき、膝の上で手のひらを合わせた。 「でも彼女は姿を現さなかった。彼女をここまで運んできたのは、空気さなぎと呼ばれるもので、それが彼女を収めるカプセルになっている。事情を説明すると長い話になるけど、空気さなぎは想像の産物であり架空のものなんだ。でも今ではもう架空のものではなくなっている。どこまでが現実の世界でどこからが想像の産物なのか、境界線が不明確になってきている。空には月が二つ浮かんでいる。それもまたフィクションの世界から持ち込まれたものだ」  天吾は父親の顔を見た。話の筋についてこられるだろうか? 「そういう文脈で話を進めていけば、あなたが意識を肉体から分離しどこか別の世界に移して、そこで自由に動き回っているとしても、とくに不思議はない。言うなれば僕らのまわりで世界のルールが緩み始めているんだ。そしてさっきも言ったように、僕には奇妙なちょっとした手応えがある。あなたがそれを<傍点>実際におこなっているんじゃないかという手応えが。たとえば高円寺の僕のアパートに行ってドアをノックしている。わかるよね? NHKの集金人だと言ってドアをしつこく叩き、脅し文句を大声で廊下で叫ぶんだ。僕らがその昔、市川の集金ルートでよくやっていたのと同じように」  部屋の気圧がわずかに変化したような気配があった。窓は開け放たれていたが、音と言えるほどのものは入ってこない。時折雀たちが思い出したようにさえずるだけだ。 「東京の僕の部屋には今、女の子が一人いる。恋人とかそういうんじゃない。ちょっとした事情があってうちに一時的に避難しているだけだ。何日か前にやってきたNHKの集金人のことを、その子が電話で説明してくれた。その男がドアをノックしながら廊下でどんなことを言って、どんなことをしたか。それはお父さんのかつてのやり口に不思議なほどそっくりだった。彼女が聞いたのは、僕が記憶しているのとまったく同じ台詞だ。できることならそんなものはそっくり忘れてしまいたいと思っている言い回しだ。そしてその集金人は実はあなたじゃないかと僕は考えている。僕は間違っているだろうか?」  天吾は三十秒ばかり沈黙した。しかし父親はまつげ一本動かさなかった。 「僕が求めるのはただひとつ、もうドアをノックしないでほしいということだ。うちにはテレビがない。そして僕らが一緒に受信料の集金にまわった日々は遠い昔に終わったんだ。それについては既に了解し合ったはずだ。先生の立ちあいのもとにね。名前は思い出せないけど、僕のクラスを担任していた、眼鏡をかけた小さな女の先生だ。そのことは覚えているよね? だからうちのドアを二度とノックしてほしくない。うちだけじゃない。ほかのどんなドアもノックしてほしくない。あなたはもうNHKの集金人じゃないし、そんなことをして人々を怯えさせる権利はない」  天吾は椅子から立ち、窓際に行って外の風景を眺めた。分厚いセーターを着て杖を持った老人が、防風林の前を歩いていた。たぶん散歩をしているのだろう。白髪で背が高く、姿勢が良い。しかし足取りはぎこちなかった。まるで歩き方を忘れてしまい、なんとか思い出しながら一歩一歩前に進んでいるといった風だった。天吾はその様子をしばらく眺めていた。老人は時間をかけて庭を横切り、建物の角を曲がって消えていった。最後まで歩き方はうまく思い出せないようだった。天吾は父親を振り返った。 「何も責めているわけじゃない。あなたには意識を好きなところにやる権利がある。それはあなたの人生だし、あなたの意識だ。あなたには自分が正しいと考えることがあり、それを実行に移しているんだろう。いちいちそれに口を出す権利は僕にはないかもしれない。でもあなたはもう<傍点>NHKの集金人じゃないんだ。だからこれ以上NHKの集金人のふりをしちゃいけない。そんなことをしても救いはない」  天吾は窓の敷居に腰を下ろし、狭い病室の空中に言葉を探した。 「あなたの人生がどんなものだったのか、そこにどんな喜びがありどんな悲しみがあったのか、よくは知らない。しかしもしそこに満たされないものがあったとしても、あなたは他人の家の戸口にそれを求めるべきじゃない。たとえそこがあなたにとってもっとも見慣れた場所であり、それがあなたのもっとも得意とする行為であったとしてもだよ」  天吾は黙って父親の顔を見つめた。 「もう誰のドアもノックしないでほしい。僕がお父さんに求めるのはそれだけだ。もう行かなくちゃならない。僕は毎日ここにやってきて、昏睡しているあなたに向かって話しかけ、本を読んだ。そして僕らは少なくともある部分で和解した。それがこの現実の世界で実際に起こったことだ。気に入らないかもしれないけど、もう一度<傍点>ここに戻ってきた方がいい。ここがあなたの属するべき場所なんだから」  天吾はショルダーバッグを取り上げ、それを肩にかけた。「僕はもう行くよ」  父親は何も言わず、身じろぎひとつせず、じっと目を閉じていた。いつもと同じように。しかしそこには何かを考慮しているような気配があった。天吾は息を殺し、その気配を注意深くうかがっていた。父親が出し抜けに目を開け、身体を起こすのではないかという気がした。しかしそんなことは起こらなかった。  蜘蛛のように手脚の長い看護婦がまだ受付に座っていた。「玉木」というプラスチックの名札が胸についていた。 「今から東京に帰ります」と天吾は玉木看護婦に言った。 「いらっしゃるあいだにお父さんの意識が戻らなくて残念でした」と彼女は慰めるように言った。 「でも長くいられたから、きっと喜んでいらっしゃるでしょう」  それに対するうまい返答を天吾は思いつけなかった。「ほかの看護婦さんによろしくお伝えください。いろいろお世話になりました」  彼は結局、眼鏡をかけた田村看護婦にも会わなかった。ボールペンを髪にはさんだ乳房の大きな大村看護婦にも会わなかった。少し寂しくもあった。彼女たちは優秀な看護婦であり、天吾にも親切にしてくれた。しかし顔を合わせない方がむしろよかったのかもしれない。なんといっても彼は一人で猫の町を脱け出そうとしているのだから。  列車が千倉駅を出るとき、安達クミの部屋で過ごした一夜を思い出した。考えてみればつい昨夜のことだ。派手なティファニー?ランプと座りにくいラブチェア、隣室から聞こえるテレビのお笑い番組。雑木林のフクロウの声、ハシッシの煙、スマイル?マークのシャツと、足に押しつけられる濃い陰毛。それが起こってからまだ丸一日経っていないのに、ずいぶん遠い出来事のように思えた。意識の遠近感がうまくつかめない。不安定な秤のように、その出来事の核は最後までひとところに落ち着かなかった。  天吾はふと不安になり、あたりを見まわした。これは<傍点>本物の現実だろうか? おれはひょっとしてまた間違った現実に乗り込んでしまったのではあるまいか? 彼は近くにいた乗客に聞いて、それが館山行きの列車であることを確認した。大丈夫、間違いない。館山で東京行きの特急に乗り換えることができる。彼は海辺の猫の町をあとにしつつあるのだ。  列車を乗り換え、席に着くと、待ちかねたように眠りがやってきた。足を踏み外して、真っ暗な底なしの穴に落下していくような深い眠りだった。瞼が自然にかぶさり、次の瞬間に意識が消滅した。目を覚ましたとき、列車は既に幕張を通過していた。車内はとくに暑くはなかったのだが、脇の下と背中に汗をかいていた。口の中にいやな匂いがした。父親の病室で吸った濁った空気のような匂いだ。彼はポケットからチューインガムを出して口の中に入れた。  もう二度とあの町に行くことはあるまい、天吾はそう思う。少なくとも父親が生きているあいだは。もちろん百パーセントの確信を持って断言できることなど、この世界にひとつとしてない。しかしあの海辺の町で自分にできることはもうこれ以上ないはずだ。  アパートの部屋に戻ったとき、ふかえりはいなかった。彼はドアを三回ノックし、間を置いて二回ノックした。それから鍵を開けた。部屋の中は<傍点>しんとして、びっくりするほどきれいになっていた。食器はすべて食器棚にしまわれ、テーブルや机の上は美しく整頓され、ゴミ箱は空になっていた。掃除機をかけた形跡もあった。ベッドはメイクされ、出しっぱなしになっている本やレコードもなかった。乾いた洗濯物がベッドの上にきれいに畳んであった。  ふかえりの持ち物である大振りのショルダーバッグもなくなっていた。見たところ彼女はふと思いついて、あるいは何かが突然持ち上がって、この部屋を急いで出て行ったのではなさそうだ。あるいはまた一時的に外出しているのでもない。ここを立ち去ろうと決心し、時間をかけて部屋を掃除し、そのあと出て行ったのだ。天吾はふかえりが一人で掃除機をかけ、雑巾であちこちを拭いている姿を想像した。それは彼女のイメージにまったくそぐわなかった。  玄関の郵便受けを開けると、部屋の合い鍵がそこに入っていた。溜まっていた郵便の量からすると、彼女が出て行ったのは昨日か一昨日のようだ。最後に電話をかけたのは一昨日の朝で、そのとき彼女はまだ部屋にいた。昨夜彼は看護婦たちと食事をし、誘われて安達クミの部屋に行った。そんなこんなで電話をしそびれてしまった。  こういう場合だいたいいつも、彼女は独特の楔形文字のような書体で何かしらのメッセージを書き残していく。でもそれらしきものはどこにも見あたらなかった。彼女はただ黙って立ち去ったのだ。しかし天吾はそのことでとくに驚いたりがっかりしたりしたわけではない。ふかえりが何を考えどんな行動をとるか、そんなことは誰にも予測できない。彼女は来たいときにどこかからやってきて、帰りたいときにどこかに帰って行く。気まぐれで自立心の強い猫と同じだ。これほど長くひとつの場所に滞在したこと自体がむしろ不思議なくらいだ。  冷蔵庫の中には思ったよりたくさん食品が入っていた。どうやらふかえりは数日前、一度外に出て自分で買い物をしたらしい。カリフラワーもたくさん茄でてあった。見たところ、茄でられてからそれほど時間は経っていない。彼女は天吾が一日か二日のうちに東京に戻ってくることを知っていたのだろうか? 天吾は空腹を感じたので、目玉焼きをつくり、カリフラワーと一緒に食べた。トーストを焼き、コーヒーをつくってマグカップに二杯飲んだ。  それから留守中の代講を頼んだ友人に電話をかけ、週明けから仕事に戻れそうだと言った。友人はテキストブックのどのあたりまで進んだかを教えてくれた。 「君のおかげで助かったよ。恩に着る」と天吾は礼を言った。 「教えるのはきらいじゃない。場合によっては面白くさえある。でも長いあいだ人にものを教えていると、自分がだんだんあかの他人みたいに思えてくる」  それは天吾自身が日頃うすうす感じていることでもあった。 「僕のいないあいだ、何か変わったことはなかった?」 「とくに何もない。ああ、ただ手紙を一通預かっている。机の抽斗に入れてある」 「手紙?」と天吾は言った。「誰から?」 「ほっそりした女の子で、髪がまっすぐで肩まである。僕のところに来て、手紙を君に渡してほしいと言った。話し方がどことなく変だった。外国人かもしれない」 「大きなショルダーバッグを持っていなかった?」 「持っていた。緑色のショルダーバッグ。ずいぶん膨らんでいた」  ふかえりは手紙をこの部屋に残していくのが心配だったのだろう。誰かが読むかもしれない。持ち去られるかもしれない。だから予備校まで行って、直接友人に託した。  天吾はもう一度礼を言って電話を切った。もう夕方になっていたし、これから手紙を取りに電車に乗って代々木まで行く気にはなれなかった。明日にしよう。  そのあとで月について友人に尋ねるのを忘れたことに思い当たった。電話をかけなおそうとしかけたが、思い直してやめた。きっとそんなこと覚えてもいないだろう。結局のところ、それは彼が一人で始末しなくてはならない問題なのだ。  天吾は外に出て夕暮れの街をあてもなく散歩した。ふかえりがいないと、部屋は妙にひっそりとして落ち着かなかった。彼女が一緒に暮らしていたとき、気配というほどのものを天吾はとくに感じなかった。天吾は天吾でいつものパターンで生活し、ふかえりも同じように自分の生活を送っていた。しかしいったん彼女がいなくなってしまうと、人型をした空白のようなものがそこに生じていることに天吾は気づいた。  ふかえりに心を惹かれているとか、そういうことではない。美しい魅力的な少女ではあるけれど、天吾は最初に会って以来、彼女に対して性欲らしきものを覚えなかった。これほど長いあいだ二人で同じ部屋で日々を過ごしながらとくに心が騒いだこともない。どうしてだろう? おれがふかえりに対して性的な欲望を抱いてはいけないような理由が何かあるのだろうか? たしかにあの激しい雷雨の夜に、ふかえりは天吾と一度だけ性交をした。しかしそれは彼が求めたものではない。彼女が求めたことだった。  それはまさに「性交」という表現が相応しい行為だった。身体が痺れて自由を失った天吾の上に彼女は乗り、その硬くなったペニスを自分の中に挿入した。ふかえりはそのとき没我の状態にあるようだった。まるで淫夢に支配された妖精のように見えた。  そしてそのあとは何ごともなかったように、二人はこの狭いアパートの部屋で生活した。雷雨が止み、夜が明けると、ふかえりはそんな出来事をもうすっかり忘れているみたいに見えた。天吾もその話をとくに持ち出さなかった。もし彼女がそのことを忘れているのなら、そのまま忘れさせておいた方がいいような気がしたからだ。天吾自身も忘れてしまった方がいいのかもしれない。しかしもちろん疑問は天吾の中に残った。ふかえりはなぜ突然そんなことをしたのだろう。そこには目的があったのだろうか。あるいはただ一時的な憑き物のようなものだったのだろうか?  天吾にわかるのはただひとつ、<傍点>それは愛の行為ではなかったということだ。ふかえりは天吾に自然な好意を抱いている——おそらくそのことに間違いはないだろう。しかし彼女が天吾に対して愛情や性欲を、あるいはそれに類似した感情を抱いているとはとても考えられない。<傍点>彼女は誰に対しても性欲なんか抱きはしない。天吾は自分の人間観察能力に対してそれほど自信を持っているわけではない。しかしそれでも、ふかえりが熱い吐息をはきながら、どこかの男と情熱的な性行為をおこなっているところを想像することができなかった。いや、<傍点>まずまずの性行為をおこなっているところだって思い浮かべられない。彼女にはもともとそういう気配がないのだ。  天吾はそんなことをあれこれ考えながら、高円寺の街を歩いた。日が暮れて冷たい風が吹き始めていたが、とくに気にしなかった。彼は歩きながらものを考える。そして机に向かってそれをかたちにする。それが習慣になっている。だから彼はよく歩いた。雨が降っても風が吹いても、そんなことには関係なく。歩いているうちに「麦頭《むぎあたま》」の前に出た。ほかにやるべきことも思いつかなかったから、天吾はその店に入ってカールスバーグの生を注文した。まだ開店したばかりで、客は一人もいなかった。彼はいったん考えることをやめ、頭を空白にし、時間をかけてビールを飲んだ。  しかし長いあいだ頭を空白にしておくような贅沢は、天吾には与えられていない。自然界に真空が存在しないのと同じように。彼はふかえりのことを考えないわけにはいかない。ふかえりは短い細切れの夢のように、彼の意識に入り込んできた。  そのひとはすぐちかくにいるかもしれない。ここからあるいていけるところに。  それがふかえりの言ったことだ。だからおれは彼女を捜しに町に出たのだ。そしてこの店に入った。ほかにふかえりはどんなことを言っただろう?  しんぱいしなくていい。あなたがみつけられなくてもそのひとがあなたをみつける。  天吾が青豆を捜しているように、青豆もまた天吾を捜している。天吾にはそのことがうまく呑み込めなかった。彼は<傍点>自分が青豆を捜すことに夢中になっていた。だから青豆の方も同じように自分を探しているかもしれないなんて、思いつきもしなかった。  わたしがチカクしあなたがうけいれる。  それもそのときにふかえりが口にしたことだ。彼女が知覚し、天吾が受け入れる。ただしふかえりは自分がそうしたいと思うときにしか、自分の知覚したことを表に出さない。彼女が一定の原則や定理に従ってそうしているのか、あるいはただの気まぐれなのか、天吾には判断できない。  天吾はもう一度、ふかえりと性交したときのことを思い出した。十七歳の美しい少女が彼の上に乗って、彼のペニスを奥まで受け入れている。大きな乳房が熟れた一対の果実のように、空中でしなやかに揺れていた。彼女はうっとりと目を閉じ、鼻孔は興奮に膨らんでいる。唇が言葉にならない言葉を形づくる。白い歯が見え、ときどきピンク色の舌先があいだからのぞいた。その情景を天吾は鮮明に記憶していた。身体は痺れていたが、意識ははっきり覚めていた。そして勃起は完壁だった。  しかしそのときの情景をどれだけ鮮明に頭に再現しても、天吾がそこから性的な興奮を感じることはない。もう一度ふかえりと交わりたいと思ったりもしない。あれからあと彼は三ヶ月近くセックスをしていない。そればかりか一度の射精もしていない。それは天吾にとってはきわめて珍しいことだ。彼は健康な三十歳の独身男性として、きわめて正常で前向きな性欲を抱えていたし、それはしかるべく処理されなくてはならない種類の欲望だった。  しかし安達クミのアパートで、彼女と一緒にベッドに入ったときも、脚に陰毛を押しつけられたときにも、天吾は性欲をまるで感じなかった。彼のペニスはずっと柔らかいままだった。ハシッシのせいかもしれない。しかしそうではあるまいという気がした。ふかえりはあの雷雨の夜に天吾と交わることによって、彼の心の中から大事な何かを持ち去ったのだ。部屋から家具を運び出すみたいに。そんな気がした。  たとえば何を?  天吾は首を振った。  ビールを飲んでしまうと、フォア?ローゼズのオンザロックと、ミックスナッツを注文した。前の時と同じように。  おそらくあの雷雨の夜の勃起が完全すぎたのだろう。それはいつもよりずっと硬く、ずっと大きな勃起だった。見慣れた自分の性器ではないように思えた。つるつるとして輝かしく、現実のペニスというよりは何かの観念の象徴のようにさえ見えた。そしてそのあとにやってきた射精は力強く、雄々しく、精液はどこまでも濃密だった。きっとそれは子宮の奥まで到達したはずだ。あるいは更にその奥まで。それは実に非の打ち所のない射精だった。  しかしものごとがあまりにも完全だと、そのあとに決まって反動がやってくる。それが世のならいだ。あれからあと俺はいったいどんな勃起を体験しただろう? 思い出せない。勃起は一度もなかったのかもしれない。思い出せないところを見ると、もしあったとしてもきっと二級品だったのだろう。映画でいえば員数合わせのプログラム?ピクチャーのようなものだ。そんな勃起に語るべき意味などない。たぶん。  ひょっとしておれはこんな風に二級品の勃起を抱えたまま、あるいは二級品の勃起すら持てないまま、残りの人生をずるずると送ることになるのだろうか、天吾は自らにそう問いかけた。それはきっと長引いた黄昏のような物寂しい人生に違いない。しかし考えようによってはまたやむを得ないことかもしれない。少なくとも一度は完壁な勃起を持ち、完壁な射精をしたのだ。『風と共に去りぬ』を書いた作家と同じだ。一度偉大な何かを達成しただけでも<傍点>よしとしなくてはならないのだろう。  オンザロックを飲み終えると店の勘定を払い、再びあてもなく通りを歩いた。風は強く、空気は更に冷え込んでいた。世界のルールが緩みきって、多くの理性が失われてしまう前に、おれはとにかく青豆を見つけなくてはならない。今では青豆に巡り合うことだけが、天吾にとってほとんど唯一の望みだった。もし彼女を見つけられなかったら、おれの人生にいったいどれだけの値打ちがあるだろう? この高円寺の町のどこかにかつて彼女はいた。九月のことだ。うまくすれば今も同じところにいるかもしれない。もちろん確証はない。でも天吾としては今はその可能性を追求するしかない。青豆はこのあたりの<傍点>どこかにいる。そして彼女もまた同じように彼を探している。二つに割れたコインがそれぞれあとの半分を求めるみたいに。  空を見上げた。しかし月は見えなかった。どこか月の見えるところに行かなくてはと天吾は思った。 第13章 牛河 これが振り出しに戻るということなのか?  牛河の外見はかなり人目を惹く。見張りや尾行をするには不向きだ。人混みの中に姿を紛れ込まそうとしても、ヨーグルトの中の<傍点>大むかでみたいに目立ってしまう。  彼の家族はそうではない。牛河には両親と二人の兄弟と一人の妹がいる。父親は医院を経営し、母親はその経理を担当している。兄と弟はどちらも優秀な成績で医大に進み、医者になった。兄は東京の病院に勤務し、弟は大学の研究医になっている。父親が引退するときには兄が浦和市内にある父の医院を引き継ぐことになっている。二人とも結婚して、それぞれに子供が一人いる。妹はアメリカの大学に留学し、今は日本に戻って同時通訳の仕事をしている。三十代半ばだがまだ独身だ。みんな痩せて背が高く、卵型の整った顔立ちをしている。  その一家の中では、ほとんどあらゆる面において、とりわけ外見において、牛河は例外的な存在だった。背が低く、頭が大きくていびつで、髪がもしゃもしゃと縮れていた。脚は短く、キュウリのように曲がっていた。眼球が何かにびっくりしたみたいに外に飛び出し、首のまわりには異様にむっくりと肉がついていた。眉毛は濃くて大きく、もう少しでひとつにくっつきそうになっていた。それはお互いを求め合っている二匹の大きな毛虫のように見えた。学校の成績はおおむね優秀だったが、科目によって<傍点>むらがあり、運動はとにかく苦手だった。  その裕福で自己充足的なエリートの一家にあって、彼は常に「異物」だった。調和を乱し、不協和音を作り出す間違った音符だった。一家で撮った写真を見ると、彼一人だけが明らかに場違いな存在だった。間違えてそこに入り込んで、たまたま写真に写ってしまった無神経な部外者のように見えた。  家族のみんなも、どうしてそんな自分たちとは似ても似つかない外見の人間が家内に出現したのか、どうにも納得できなかった。しかし彼は間違いなく、母親が腹を痛めて産んだ子供だった(陣痛がことのほかきつかったことを母親は記憶している)。誰かがバスケットに入れて戸口に置いていったわけではない。そのうちに誰かが、父親の側にやはりいびつな福助頭をした親戚が一人いたことを思い出した。牛河の祖父の従兄《いとこ》にあたる人だ。その人は戦争中、江東区にある金属会社の工場に勤務していたのだが、一九四五年春の東京大空襲にあって死んだ。父親はその人物に会ったことはないが、古いアルバムに写真が残っていた。その写真を目にして家族一同は「なるほど」と納得した。その父の叔父の外見は、驚くほど牛河に似ていたからだ。生まれ変わりではないかと思えるくらい瓜二つだった。たぶんその叔父を生み出したのと同じ要因が、何かの加減でひょっこり顔を出したのだろう。  彼の存在さえなければ、見栄えにおいても学歴経歴においても、埼玉県浦和市の牛河家はけちのつけようのない一家だった。誰もが羨む優秀な、写真映りの良い一家だ。しかしそこに牛河が加わると、人々はいくぶん眉をひそめ、首をひねることになった。ひょっとしてこの一家には、美の女神の足もとをすくうようなトリックスター的な風味がどこかで混入しているのではあるまいかと人々は考えた。あるいは<傍点>考えるに違いないと両親は考えた。だから彼らは極力牛河を人前に出さないように心がけた。やむを得ず出すことがあっても、なるべく目立たないように扱った(もちろんそれは無駄な試みだったが)。  しかし牛河は、自分がそういう位置に置かれていることを、とくに不満には思わなかったし、悲しいとも寂しいとも感じなかった。彼自身好んで人前に出たいとは思わなかったし、目立たないように扱われるのはむしろ望むところでさえあった。兄弟や妹は彼のことをほとんどいないものとして扱ったが、それも気にはならなかった。彼の方も、兄弟や妹のことを格別好きにはなれなかったからだ。彼らは見かけは美しく、学業成績も優秀で、おまけにスポーツ万能、友だちも数多かった。しかし牛河の目から見れば、その人間性は救いがたく浅薄だった。考え方は平板で、視野が狭く想像力を欠き、世間の目ばかり気にしていた。何よりも、豊かな智恵を育むのに必要とされる健全な疑念というものを持ち合わせていなかった。  父親は地方の開業内科医としてはまずまず優秀な部類だったが、胸が痛くなるくらい退屈な人間だった。手にするものすべてが黄金に変わってしまう伝説の王のように、彼の口にする言葉はすべて味気ない砂粒になった。しかし口数を少なくすることによって、おそらく意図的にではないのだろうが、彼はその退屈さと愚昧さを世間の目から巧妙に隠していた。母親は逆に口数が多く、手のつけようがない俗物だった。金銭にうるさく、わがままで自尊心が強く、派手なことが好きで、ことあるごとに甲高い声で他人の悪口を言い立てた。兄が父親の性向を継承し、弟が母親のそれを継承していた。妹は自立心が強かったが、無責任で思いやりの心というものを持ち合わせず、自分の損得しか頭になかった。両親は末っ子の彼女を徹底的に甘やかし、スポイルした。  だから牛河は少年時代をおおむね一人で過ごした。学校から帰ると自分の部屋に閉じこもり、ひたすら読書に耽った。飼っている犬のほかには友だちもいなかったから、自分が得た知識について誰かと語り合ったり、議論するような機会はなかったが、それでも自分が論理的で明晰な思考能力を持ち、雄弁な人間であることを彼はよく承知していた。そして一人で我慢強くその能力を磨いた。たとえばひとつの命題を設定し、それをめぐって一人二役の討論をおこなった。一方の彼はその命題を支持し熱弁をふるった。もう一方の彼はその命題を批判し、同じように熱弁をふるった。彼は相反するどちらの立場にも同じくらい強く——ある意味では誠実に——自己を同化し、のめり込むことができた。そのようにして彼は知らず知らず、自己を懐疑する能力を身につけていった。そして一般的に真理と考えられているものが多くの場合、相対的なものごとに過ぎないと認識していった。また彼は学んだ。主観と客観は、多くの人々が考えているほど明瞭に区別できるものではないし、もしその境界線がもともと不明瞭であるなら、意図的にそれを移動するのはさほど困難な作業ではないのだと。  論理とレトリックをより明晰により効果的にするために、彼はまた手当たり次第に知識を頭に詰め込んでいった。役に立つものも、それほど役に立つとは思えないものも。同意できるものも、その時点ではあまり同意できそうにないものも。彼が求めたのは一般的な意味での教養ではなく、直接手に取って形や重さをたしかめることのできる具体的な情報だった。  そのいびつな形をした福助頭は何より貴重な情報の容れ物になった。見栄えは悪いが使い勝手は良い。おかげで彼は同年代の誰よりも博識になった。その気になればまわりの誰をも簡単に言い負かすことができた。兄弟や同級生だけではなく、教師や両親さえも。しかし牛河はそんな能力をできるだけ人前に出さないように心がけた。どのような形であれ人目を惹くのは、彼の好むところではなかった。知識や能力はあくまで道具であり、それ自体を見せびらかすためのものではない。  牛河は自分のことを、森の暗闇に潜んで獲物が通りかかるのを待つ、夜行性の動物のようなものだと考えていた。辛抱強く好機を待ち、その一瞬が来たら断固として飛びかかる。その前に自分の存在を相手に知らせてはならない。気配を殺し、相手を油断させることが大事なのだ。まだ小学生の頃から、彼はそういう考え方をしていた。誰かに甘えかかることもなかったし、感情を安易に表に出すこともなかった。  もし自分がもう少しまともな外見に生まれついていたら、と想像することはあった。とくにハンサムじゃなくてもいい。感心してもらえるような見かけである必要はない。ごく普通でいい。すれ違った人が思わず振り向かない程度の見苦しくない外見であればいい。もしそんな風に生まれていたら、俺はいったいどんな人生を歩んでいただろう? しかしそれは牛河の想像を超えた<傍点>もしだった。牛河は<傍点>あまりにも牛河であり、そこにほかの仮定が入り込んでくる余地はなかった。いびつな大きな頭と飛び出した眼球、短く湾曲した両脚を持っていればこそ、ここに牛河という人間がいるのだ。懐疑的にして知識欲に溢れ、無口にして雄弁な一人の少年がいるのだ。  醜い少年は歳月の経過とともに成長して醜い青年になり、いつしか醜い中年男になった。人生のどの段階にあっても、道ですれ違う人々はよく振り返って彼を見た。子供たちは遠慮なくじろじろと正面から彼の顔を眺めた。醜い老人になってしまえばもうそれほど人目を惹くことはないのではないかと、牛河はときどき考える。老人というのはたいてい醜いものだから、もともとの個別の醜さは若いときほど目立たなくなるのではないか。しかしそれは実際に老人になってみなければわからない。あるいは他に例を見ないほど見苦しい老人になるのかもしれない。  とにかく背景に自分をとけ込ませてしまうというような器用な真似は、彼にはできない。おまけに天吾は牛河の顔を知っている。彼のアパートのまわりをうろついているところを見つけられたら、すべては水泡に帰してしまう。  そのような場合にはだいたい専門の調査エージェントを雇うことにしている。弁護士時代から、牛河は必要に応じてそういう組織と関わりを持っていた。彼らの多くは元警察官であり、聞き込みや尾行や監視のテクニックに習熟している。しかし今回に限ってはできるだけ部外者を引き入れたくなかった。問題が微妙すぎるし、殺人という重大な犯罪が絡んでいる。更にいえば天吾を監視する目的がどこにあるのか、牛河自身にだって正確には把握できていないのだ。  もちろん牛河が求めているのは、天吾と青豆とのあいだの「繋がり」を明らかにすることだが、青豆がどんな顔をしているのか、それすらはっきりとはわからない。ずいぶん手を尽くしたのだが、彼女のまともな写真はどうしても手に入らなかった。あのコウモリでさえ手に入れることができなかった。高校の卒業アルバムを見ることはできたが、クラス写真にうつっている彼女の顔は小さく、どことなく不自然で、仮面のようにしか見えなかった。会社のソフトボール部の写真では、つばの広い帽子をかぶって顔に影がかかっていた。だからもし青豆が牛河の前を通り過ぎても、それが青豆であると確認する術《すべ》は今のところない。身長が一七〇センチに近い、姿勢の良い女性だということはわかっている。目と頬骨に特徴があり、髪は肩に届く程度の長さ。ひきしまった身体をしている。しかしそんな女性は世の中にいくらでもいる。  いずれにせよ、牛河自身がその監視の役を引き受けるしかなさそうだった。そこで我慢強く目を凝らし、何かが起こるのを待ち受け、何かが起こったら、それにあわせてどう行動するかを瞬時に判断する。そんな微妙な作業を他人に要求することは不可能だ。  天吾は鉄筋三階建ての古いアパートの三階に住んでいた。入り口に全戸の郵便受けが設置され、そのひとつには「川奈」という名札がついている。郵便受けはあちこちで錆びて、塗料が剥がれかけている。郵便受けの扉にはいちおう鍵がついているが、ほとんどの住民は鍵をかけていない。玄関のドアには鍵はないので、誰でも自由にその建物に出入りできる。  暗い廊下には、建築されてから長い歳月を経たアパート特有の匂いがする。直らない雨漏りや、安物の洗剤で洗われた古いシーツや、濁った天ぷら油や、枯れたポインセチアや、雑草の茂った前庭から漂ってくる猫の小便の匂いや、そのほか様々な正体不明の匂いが入り混じって、固有の空気を形成している。長くそこに住んでいれば、人はそういう匂いにも慣れるのかもしれない。しかしいくら慣れたところで、それが心温まる匂いではないという事実は変わらない。  天吾の住む部屋は道路に面していた。賑やかというほどではないが、まずまず人通りのある道路だ。小学校が近くにあり、時間によっては子供の行き来も多い。アパートの向かいには小さな住宅がいくつか肩を寄せ合うように並んでいる。どれも庭のない二階建ての家だ。道路の先には酒屋があり、小学生を相手にする文房具店があった。ブロック二つ先には小さな交番があった。あたりには身を隠す場所もないし、道路脇に立って天吾の部屋をじっと見上げていたりしたら、たとえ運良く天吾に見つからなかったとしても、近所の人々に不審な目で見られるはずだ。ましてやそれが牛河のような「普通ではない」外見の人物であれば、住民の警戒度は二段階ばかり引き上げられるに違いない。下校時の子供を狙う変質者と思われて、交番の警官が呼ばれるかもしれない。  誰かを監視するには、まずそれに適した場所を見つけなくてはならない。人目につかず相手の行動を観察できて、水や食料の補給経路を確保できる立地が求められる。もっとも理想的なのは、天吾の部屋を視野に収められる個室を確保することだった。そこに望遠レンズつきのカメラを三脚で据え、部屋の中の動きや人の出入りを見張る。単独でやるから二十四時間の監視は不可能だが、一日十時間程度ならカバーできる。しかし言うまでもなく、そんなおあつらえ向きの場所は簡単には見つからない。  それでも牛河はあたりを歩きまわって、そういう場所を探し求めた。牛河はあきらめの悪い人間だ。足を使って歩けるだけ歩き、最後の最後まで僅かな可能性を追求する。そのしつこさが彼の持ち味だ。しかし半日かけて近所を隅々まで歩き回ってから、牛河はあきらめた。高円寺は密集した住宅地であり、地面は平坦で高いビルもない。天吾の部屋を視野に収められる場所は極めて限定されている。そしてその一画には牛河が身を収めることができそうな場所はひとつもなかった。  良い考えが頭に浮かばないとき、牛河はいつもぬるめの長風呂に入ることにしていた。だから自宅に帰ると、まず風呂をわかした。そしてプラスチックの浴槽につかって、ラジオでシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いた。とくにシベリウスを聴きたかったわけではない。またシベリウスの協奏曲は、一日の終わりに風呂に入りながら聴くのに相応しい音楽とも思えなかった。あるいはフィンランド人は、長い夜にサウナに入りながらシベリウスを聴くのが好きなのかもしれない。しかし文京区小日向にある二寝室のマンションの、ユニットバスの狭い浴室では、シベリウスの音楽はいささか情念的に過ぎたし、その響きは緊迫感を含みすぎていた。しかし牛河はとくに気にかけなかった。背景に何か音楽が流れていれば、彼としてはよかったのだ。ラモーのコンセールが流れていればそれを文句も言わずに聴いただろうし、シューマンの『謝肉祭』が流れていればそれを文句も言わずに聴いただろう。そのときたまたまFM放送局はシベリウスのヴァイオリン協奏曲を流していた。それだけのことだ。  牛河はいつものように意識の半分を空っぽにして休ませ、残りの半分で考え事をした。そしてダヴィッド?オイストラフの演奏するシベリウスの音楽は、主にその空っぽの領域を通り過ぎていった。そよ風のように広く開け放たれた入り口から入り、広く開け放たれた出口から出ていった。音楽の聴き方としてはあまりほめられたものではないかもしれない。自分の音楽がそのように聴かれていると知ったら、シベリウスは大きな眉をひそめ、太い首筋にしわを何本か寄せたかもしれない。しかしシベリウスは遥か昔に死んでいたし、オイストラフも既に鬼籍に入っていた。だから牛河は誰に遠慮することもなく音楽を右から左に聴き流しながら、意識の空っぽではない方の半分でとりとめもなく思考を巡らせた。  そういうとき、彼は対象を限定することなくものを考えるのが好きだった。犬たちを広大な野原に放つように、意識を自由に駆けめぐらせるのだ。どこでも好きなところに行って、なんでも好きなことをしてくればいいと彼らに言って、あとは放っておく。彼自身は首まで湯につかり、目を細め、音楽を聴くともなく聴きながらぼんやりとしている。犬たちがあてもなくはねまわり、坂道を転げまわり、飽きることなく互いを追いかけ合い、リスをみつけて無益な追跡をし、泥だらけになり草だらけになり、遊び疲れて戻ってくると、牛河はその頭を撫で、また首輪をつける。その頃には音楽も終わっている。シベリウスの協奏曲はおおよそ三十分で終了した。ちょうど良い長さだ。次の曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』ですとアナウンサーは告げた。ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』という曲名にはどこかで聞き覚えがあった。しかしどこでだったかは思い出せない。思い出そうとするとなぜか視野がぼんやりと曇ってきた。眼球に卵色のもやのようなものがかかった。きっと風呂に長く入り過ぎたのだろう。牛河はあきらめてラジオのスイッチを切り、風呂を出ると、タオルを腰にまいただけのかっこうで冷蔵庫からビールを出した。  牛河は一人でそこに住んでいる。以前は妻がいて、二人の小さな娘がいた。神奈川県大和市中央林間に一軒家を買って、そこで暮らしていた。小さいながらも芝生の庭があり、犬を一匹飼っていた。妻はごく当たり前の顔立ちだったし、子供たちはそれぞれ美しいといってもいい顔をしていた。二人の娘はどちらも牛河の外見をまったく引き継がなかった。牛河はもちろんそのことでとてもほっとしていた。  ところが突然の暗転とでも言うべきものがあり、今は一人だ。自分がかつて家族を持ち、郊外の一軒家で暮らしていたということ自体が不思議に思える。それは思い違いで、自分は都合にあわせて無意識に過去の記憶を捏造しているのではないかと考えることすらある。しかしもちろんそれは現実にあったことだ。ベッドを共にする妻と、血を分けた二人の子供が彼にはいた。机の抽斗には四人一緒の家族写真が入っている。そこでは全員が幸福そうに笑っている。犬さえ微笑んでいるように見える。  家族が再びひとつになる可能性はない。妻と娘たちは名古屋に住んでいる。娘たちには新しい父親がいる。小学校の父親参観日に顔を出しても、娘たちが恥ずかしがらずにすむような当たり前の外見の父親が。娘たちはもう四年近く牛河に会っていないが、とくにそのことを残念に思っている様子はない。手紙さえ寄越さない。牛河自身、娘たちに会えないことをそれほど残念に思っていないみたいに見える。しかしもちろんそれは、彼が娘たちを大事に思っていないということではない。ただ牛河は何よりもまず自分という存在を確保しなくてはならなかったし、そのためにはさしあたって必要のない心の回路を閉ざしておく必要があったのだ。  そしてまた彼にはわかっていた。たとえどれだけ遠く離れていようと、彼女たちの中には自分の血が流れていることを。娘たちがたとえ牛河を忘れ去ったとしても、その血が自らの道筋を見失うことはない。彼らはおそろしく長い記憶を持っている。そして福助頭の<傍点>しるしは将来いつか、どこかに再び姿をあらわすだろう。思いがけないときに思いがけないところで。そのとき人々は牛河の存在をため息と共に思い出すはずだ。  そのような噴出の現場を牛河は生きて目にするかもしれない。しないかもしれない。どちらでもかまわない。そういうことが起こり得ると考えるだけで、牛河は満足感を得ることができた。それは復讐心ではない。この世界の成り立ちに自分が避けがたく含まれているのだという認識がもたらす一種の充足感だ。  牛河はソファに座り、短い足を伸ばしてテーブルに載せ、缶ビールを飲みながらふとあることを思いついた。そううまくはいかないかもしれない。しかし試してみる価値はある。どうしてこんな簡単なことを思いつかなかったんだろう、と牛河は不思議に思った。たぶん簡単なことほど思いつかないものなのだ。灯台もと暗しというではないか。  牛河は翌朝もう一度高円寺に行き、目についた不動産屋に入り、天吾の住んでいる賃貸アパートに空き部屋があるかどうかを尋ねた。彼らはその物件を扱っていなかった。駅前のある不動産業者がそのアパートを一括して管理しているということだった。 「ただね、あそこは空き部屋は出ないと思いますよ。家賃が手頃で場所が便利だから、住んでいる人が出ていかないんです」 「でもまあ念のためにあたるだけあたってみます」と牛河は言った。  彼は駅前にあるその不動産屋を訪れた。彼の相手をしたのは二十代前半の若い男だった。髪が真っ黒で太く、それを特殊な鳥の巣みたいにジェルでしっかりと固めている。真っ白なシャツに、真新しいネクタイ。たぶんこの仕事に就いてまだ間がないのだろう。頬にまだ<傍点>にきびのあとが残っている。彼は入ってきた牛河の外見を見て少しひるんだが、すぐに気を取り直して職業的な笑みを浮かべた。 「お客さん、ラッキーですよ」とその青年は言った。「一階に住んでいたご夫婦が、家庭の事情があって急に引っ越すことになり、一週間前に部屋がひとつ空いたばかりです。昨日掃除が済んだところで、まだ広告も出していません。一階ですから外の音が少し気になるかもしれないし、日当たりはあまり期待できませんが、なにしろ便利なロケーションです。ただし家主さんは五年か六年のうちに建て替えすることを考えておられて、そのときには半年前の通告ですんなり出ていただくというのが契約の条件になります。それから駐車場はありません」  問題はない、と牛河は言った。それほど長く住むつもりはないし、車は使わない。 「けっこうです。その条件さえ了承していただければ、もう明日からでもお住まいになれます。もちろんその前に部屋はいちおうご覧になりたいでしょうね?」  是非見てみたいと牛河は言った。青年は机の抽斗から鍵を出し、牛河に渡した。 「私はちょっと用件がありまして、申し訳ないんですが、お一人で行って見てきていただけませんか。部屋は空っぽだし、帰りに鍵を返していただければいいです」 「いいですよ」と牛河は言った。「でももし私が悪人で、鍵をそのまま返さなかったり、コピーをとっておいてあとで空巣狙いでもしたらどうするんですか?」  青年はそう言われて、びっくりしたように牛河の顔をしばらく見ていた。「ああ、そうですね。なるほど。じゃあ念のために名刺か何かを置いていっていただけますか」  牛河は財布から例の「新日本学術芸術振興会」の名刺を出して渡した。 「牛河さん」と青年はむずかしい顔でそこにある名前を読み上げた。それから表情を崩した。 「悪いことをする人のようには見えなかったものですから」 「そいつはどうも」と牛河は言った。そしてその名刺の肩書きと同じくらい中身のない笑みを口元に浮かべた。  誰かにそんなことを言われたのは初めてだった。たぶん何か悪いことをするには外見が目立ちすぎるということなのだろうと彼は解釈した。特徴をいとも簡単に描写することができる。似顔絵だってすらすらと描けてしまう。もし指名手配でもされたら、三日以内に捕まってしまうに違いない。  部屋は予想したより悪くなかった。三階の天吾の部屋はちょうど真上にあるから、その内部を直接監視するのはもちろん不可能だ。しかし窓から玄関を視野に収めることができた。天吾の出入りをチェックできるし、天吾を訪ねてきた人間の目星をつけることもできる。カメラをカモフラージュすれば、望遠レンズで顔写真も撮れるだろう。  その部屋を確保するためには、二ヶ月分の敷金と、一ヶ月分の前家賃と、二ヶ月分の礼金を払わなくてはならない。家賃がそれほど高くないとはいえ、そして敷金が解約時に戻ってくるとはいえ、ちょっとした金額になる。コウモリに支払いをしたせいで、預金残額も少なくなっていた。しかし自分が置かれた状況を考えれば、無理をしてでもその部屋を借りないわけにはいかなかった。選択の余地はない。牛河は不動産屋に戻り、そのためにあらかじめ用意しておいた現金を封筒から出して賃貸契約を結んだ。「新日本学術芸術振興会」との契約にしておいた。会社の登記簿謄本はあとで郵送すると言った。担当の青年はそんなことはとくに気にもとめなかった。契約が済むと、青年は牛河にあらためて部屋の鍵を渡した。 「牛河さん、これで今日からもうあの部屋にお住まいになることができます。電気と水道は通じていますが、ガスに関しては開通時にご本人の立ち会いが必要ですので、そちらから東京ガスに連絡をしていただくことになります。電話はどうなさいますか?」 「電話はこちらで手配します」と牛河は言った。電話会社と契約するのは手間もかかるし、工事人が部屋に入ることになる。近所にある公衆電話を利用した方がむしろ便利だろう。  牛河はもう一度部屋に戻り、そこで必要とされるものをリストにした。ありがたいことに、前の住人は窓のカーテンをそのまま残していってくれた。花柄の古ぼけたカーテンだったが、どんなカーテンだってついているだけでもうけものだし、それは監視には不可欠なものだった。  リストはそれほど長いものにはならなかった。食料品と飲料水があればとりあえず用は足りる。望遠レンズつきのカメラと三脚。あとはトイレット?ペーパーと登山用寝袋、携帯燃料、キャンプ用のコッフェル、果物ナイフ、缶切り、ゴミ袋、簡単な洗面用具と電気カミソリ、タオルを何枚か、懐中電灯、トランジスタ?ラジオ。最低限の着替え、煙草を一力ートン。そんなところだ。冷蔵庫も食卓も布団もいらない。雨風をしのげる場所がみつかっただけでも幸運なのだ。牛河は自宅に帰り、カメラバッグに一眼レフと望遠レンズを入れ、大量のフィルムを用意した。それからリストに書いた品物を旅行バッグに詰めた。足りないものは、高円寺駅前の商店街で買い揃えた。  六畳間の窓際に三脚を設置し、ミノルタの最新式のオートマチック?カメラを載せ、そこに望遠レンズをとりつけ、玄関を出入りする人間の顔の位置にあわせてマニュアル?モードで焦点を調整した。リモートコントロールでシャッターが切れるようにした。モータードライブもセットした。レンズの先端に厚紙で囲いを作り、光を受けてレンズがきらめかないようにした。カーテンの隅が少し持ち上がり、紙筒のようなものが僅かにのぞいているのが外から見える。しかし誰もそんなものは気にするまい。ぱっとしない賃貸アパートの入り口を誰かが盗撮しているなんてまず思いつかない。  そのカメラで牛河は、玄関を出入りする人々を何人かためしに撮影してみた。モータードライブのおかげで一人につき三度はシャッターを押すことができた。タオルでカメラをくるみ、シャッター音を小さくした。フィルム一本分を撮り終えると、駅近くのDPEに持っていった。フィルムを店員に渡せば、あとは機械が自動的に現像するシステムだ。大量の写真を高速処理するので、そこに何が映っているかなんて誰も気にとめない。  写真の出来に不足はなかった。芸術性は求めがたいが、とりあえず用は足りる。玄関を出入りする人々は顔を見分けられる程度には鮮明に映し出されていた。牛河はDPEの帰りにミネラル?ウォーターと缶詰を買い込んだ。煙草屋でセブンスターのカートンを買った。荷物を胸に抱え、それで顔を隠すようにしてアパートに戻り、またカメラの前に座った。そして玄関を監視しながら水を飲み、缶詰の桃を食べ、煙草を何本か吸った。電気は通じていたが、何故か水が出てこなかった。ごろごろと奥の方で音がするだけで、蛇口からは何も出てこない。たぶん何かの加減で少し時間がかかるのだろう。不動産屋に連絡しようかとも思ったが、あまり頻繁にアパートを出入りしたくないので、もう少し様子を見ることにした。水洗便所が使えなかったので、清掃業者が置き忘れていったらしい小型の古いバケツの中に放尿した。  冬の初めのせっかちな夕暮れが訪れて、部屋の中がすっかり暗くなっても、部屋の明かりはつけなかった。暗闇の到来はむしろ牛河の歓迎するところだ。玄関の照明が灯り、その黄色い明かりの下を通過していく人々を牛河は監視し続けた。  夕方になって、玄関の人の出入りはいくぶん頻繁になったが、その数は決して多くはなかった。もともとが小さなアパートだ。そしてその中には天吾の姿はなかった。青豆らしき女性の姿も見えなかった。その日は天吾が予備校で教える日にあたっていた。夕方になれば彼はここに帰ってくる。天吾が仕事の後どこかに寄り道をするのはあまりないことだ。彼は外で食事をするよりは、自分で料理を作り、一人で本を読みながらそれを食べるのが好きだ。牛河はそのことを知っていた。しかし天吾はその日なかなか帰宅しなかった。仕事のあと誰かと会っているのかもしれない。  そのアパートにはいろんな人間が住んでいた。若い独身の勤め人から、大学生から、小さな子供のいる夫婦から、独居の老人にいたるまで、住人の層はばらばらだ。人々は無防備に望遠レンズの視野の中を横切っていった。年代や境遇によって多少の差こそあれ、彼らはそれぞれに生活に疲れ、人生に飽いているように見えた。希望は色褪《あ》せ、野心は置き忘れられ、感性は磨り減り、あとの空白に諦めと無感覚がそれぞれ腰を据えていた。まるで二時間前に抜歯手術を受けた人のように、彼らの顔色は暗く足取りは重かった。  もちろんそれは牛河の誤った思い込みかもしれない。あるものは実は人生を心ゆくまで愉しんでいるのかもしれない。ドアを開けると、その内側には息を呑むような個人的楽園が拵えられているのかもしれない。あるものは税務署の調査を逃れるために質素な暮らしをしていると見せかけているのかもしれない。もちろんそれもあり得なくはない。しかしカメラの望遠レンズを通す限り、彼らは取り壊し寸前の安アパートにしがみつくように暮らす、うだつのあがらない都市生活者としか見えなかった。  結局天吾は姿を見せずじまいだったし、天吾に繋がりがありそうな人間も見当たらなかった。時計が十時半をまわったところで牛河はあきらめた。今日は初日だし、態勢も十分整っていない。まだ先は長い。これくらいにしよう。身体をいろんな角度にゆっくりと伸ばし、こわばった部分をほぐした。あんパンをひとつ食べ、魔法瓶に入れて持ってきたコーヒーを蓋に注いで飲んだ。洗面台の蛇口をひねると、いつの間にか水道は出るようになっていた。彼は石けんで顔を洗い、歯を磨き、長い小便をした。壁にもたれて煙草を吸った。ウィスキーが一口飲みたかったが、ここにいるあいだはアルコールは一切口にしないと決めていた。  それから下着だけになって寝袋に潜り込んだ。寒さでしばらくのあいだ身体が細かく震えた。夜になるとがらんどうの部屋は思いのほか冷えた。小さな電気ストーブがひとつ必要になるかもしれない。  一人ぼっちで震えながら寝袋に入っていると、家族に囲まれて暮らしていた日々が思い出された。とくに懐かしく思い出したのではない。今自分が置かれている状況とあまりにも対照的なものとして、あくまで例証的に頭に浮かんだだけだ。家族と暮らしているときだって牛河はもちろん孤独だった。誰にも心を許さなかったし、そんな人並みの生活はどうせかりそめのものだと考えていた。いつかこんなものはあっけなく壊れてなくなってしまうに違いないと心の底で考えていた。弁護士としての忙しい生活、高い収入、中央林間の一軒家、見栄えの悪くない妻、私立小学校に通う二人のかわいい娘、血統書付きの犬。だからいろんなことが立て続けに起こって生活があっけなく崩壊し、一人であとに残されたときには、どちらかといえばほっとしたくらいだ。やれやれ、これでもう何も心配する必要はない。また振り出しに戻れたんだと。  <傍点>これが振り出しなのか  牛河は寝袋の中で蝉の幼虫のように身体を丸く縮め、暗い天井を見上げた。同じ姿勢を長い時間とっていたせいで、身体の節々が痛んだ。寒さに震え、夕食代わりに冷えたあんパンをかじり、取り壊し寸前の安アパートの玄関を監視し、見映えのしない人々の姿を盗撮し、清掃用のバケツに放尿する。それが「振り出しに戻る」ことの意味なのか? それでやり忘れていたことを思い出した。彼は寝袋からもそもそと這い出して、バケツの中の小便を便器に捨て、ぐらつくレバーを押して水を流した。せっかく暖まった寝袋から出るのは気が進まなかったし、よほどそのままにしておこうかとも思ったのだが、暗い中でうっかりつまずいたりしたら大変なことになる。そのあと寝袋に戻り、またひとしきり寒さに震えた。  <傍点>これが振り出しに戻るということなのか?  たぶんそういうことなのだろう。これ以上失うべきものは何もない。自分の命のほかには。とてもわかりやすい。暗闇の中で牛河は薄い刃物のような笑みを浮かべた。 第14章 青豆 私のこの小さなもの  青豆はおおむね混迷と模索の中に生きている。この1Q84年という、既成の論理や知識がほとんど通用しない世界にあって、これから自分の身に何が起ころうとしているのか予測がつかない。それでも自分は少なくともあと何ヶ月かは生き延びて、子供を出産することになるだろうと彼女は考える。あくまで予感に過ぎない。しかしほとんど確信に近い予感だ。なぜなら彼女が子供を出産するという前提のもとに、すべてのものごとが進行しているように思えるからだ。そういう気配を彼女は感じとる。  そして青豆は「さきがけ」のリーダーが最後に口にした言葉を覚えている。彼は言った。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ」  彼は<傍点>何かを知っていた。とても大事なことを。そしてそれを曖昧な言葉で多義的に私に伝えようとしていたのだ。その試練とは私が実際に死の瀬戸際にまで自らを運ぶことだったのかもしれない。私は命を絶つつもりで、拳銃を手にエッソの看板の前まで行った。でも死ぬことなくここに戻ってきた。そして自分が妊娠していることを知った。それもまたあらかじめ決められていたことなのかもしれない。  十二月に入ると何日か強い風の吹く夜が続いた。ケヤキの落ち葉がベランダの目隠しのプラスチック板に打ちつけられ、辛辣な乾いた音を立てた。冷たい風が警告を発しながら裸の枝のあいだを吹き抜けていった。カラスたちの掛け合う声も、より厳しく研ぎ澄まされたものになっていった。冬が到来したのだ。  自分の子宮の中で育っているのが天吾の子供かもしれないという思いは、日を追ってますます強いものになり、やがてはひとつの事実として機能するようになる。第三者を説得できるだけの論理性はそこにはまだない。でも自分自身に向かってなら明瞭に説明できる。それはわかりきった話なのだ。  もし私が性行為抜きで妊娠したのなら、その相手が天吾以外のいったい誰であり得るだろう?  十一月になってから体重が増えた。外にこそ出なかったが、彼女は毎日十分な量の運動を続けていたし、食事も厳しく制限していた。二十歳を過ぎてから体重が五十二キロを超えることはなかった。しかしある日体重計の針は五十四キロを差し、以来それを下回ることはなくなった。顔がいくらか丸くなったような気がする。きっと<傍点>この小さなものは太り始めることを母体に要求しているのだ。  彼女はその<傍点>小さなものと共に夜の児童公園の監視を続ける。一人で滑り台にのぼる若い男の大柄なシルエットを求め続ける。青豆は空に二つ並んだ初冬の月を見つめながら、毛布の上から下腹部をそっと撫でる。ときどきわけもなく涙が溢れこぼれた。気がつくと涙は頬をつたい、腰に掛けた毛布の上に落ちていた。孤独のせいかもしれないし、不安のせいかもしれない。妊娠しているせいで心が感じやすくなっているのかもしれない。あるいはただ冷たい風が涙腺を刺激し、涙を流させるのかもしれない。いずれにせよ青豆は涙を拭うことなく、流れるままにしておく。  あるところまで泣いてしまうと涙は尽きる。そして彼女は孤独な見張りをそのまま続ける。いや、<傍点>もうそれほど孤独じゃない、と彼女は思う。私には<傍点>この小さなものがいる。私たちは二人なのだ。私たちは二人でふたつの月を見上げ、天吾がここに姿を見せるのを待っている。彼女はときどき双眼鏡を手に取り、無人の滑り台に焦点をあわせる。ときどき自動拳銃を手に取り、その重さと感触を確かめる。自分を護り、天吾を探し求め、<傍点>この小さなものに養分を送る。それが今の私に与えられた責務だ。  あるとき冷たい風に吹かれて公園を監視しながら、青豆は自分が神を信じていることに気づく。唐突にその事実を<傍点>発見する。まるで足の裏が柔らかな泥の底に固い地盤を見出すように。それは不可解な感覚であり、予想もしなかった認識だ。彼女は物心ついて以来、神なるものを憎み続けてきた。より正確に表現すれば、神と自分とのあいだに介在する人々やシステムを拒絶してきた。長い歳月、そのような人々やシステムは彼女にとって神とおおむね同義だった。<傍点>彼らを憎むことはそのまま神を憎むことでもあった。  生まれ落ちたときから、<傍点>彼らは青豆のまわりにいた。神の名の下に彼女を支配し、彼女に命令し、彼女を追い詰めた。神の名の下にすべての時間と自由を彼女から奪い、その心に重い枷をはめた。彼らは神の優しさを説いたが、それに倍して神の怒りと非寛容を説いた。青豆は十一歳のときに意を決して、ようやくそんな世界から抜け出すことができた。しかしそのために多くのものごとを犠牲にしなくてはならなかった。  もし神なんてものがこの世界に存在しなければ、私の人生はもっと明るい光に満ちて、もっと自然で豊かなものであったに違いない。青豆はよくそう思った。絶え間のない怒りや怯えに心を苛まれることなく、ごく当たり前の子供として数多くの美しい思い出をつくることができたはずだ。そして今ある私の人生は、今あるよりずっと前向きで心安らかで、充実したものになっていただろう。  それでも青豆は下腹に手のひらをあて、プラスチック板の隙間から無人の公園を眺めながら、心のいちばん底の部分で自分が神を信じていることに思い当たらないわけにはいかない。機械的にお祈りの文句を口にするとき、両手の指をひとつに組み合わせるとき、彼女は意識の枠の外で神を信じていた。それは骨の髄に染み込んだ感覚であり、論理や感情では追い払えないものだ。憎しみや怒りによっても消し去れないものだ。  でもそれは<傍点>彼らの神様ではない。<傍点>私の神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥かれ、血を吸われ爪をはがされ、時間と希望と思い出を簒奪《さんだつ》され、その結果身につけたものだ。姿かたちを持った神ではない。白い服も着ていないし、長い髭もはやしていない。その神は教義も持たず、教典も持たず、規範も持たない。報償もなければ処罰もない。何も与えず何も奪わない。昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる。 「さきがけ」のリーダーがその死の直前に口にした言葉を、青豆は折に触れて思い出す。その太いバリトンの声を彼女は忘れることができない。彼の首の後ろに刺し込んだ針の感触が忘れられないのと同じように。  光があるところには影がなくてはならず、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。リトル?ピープルが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。  神とリトル?ピープルは対立する存在なのか。それともひとつのものごとの違った側面なのか?  青豆にはわからない。彼女にわかるのは、自分の中にいる<傍点>小さなものがなんとしても護られなくてはならないということであり、そのためにはどこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認める必要があるということだ。  青豆は神について思いを巡らせる。神はかたちを持たず、同時にどんなかたちをもとることができる。彼女が抱くイメージは流線型のメルセデス?ベンツ?クーペだ。ディーラーから運ばれてきたばかりの新車。そこから降りてくる中年の上品な婦人。首都高速道路の上で、彼女は着ていた美しいスプリング?コートを裸の青豆に差し出す。冷ややかな風や人々の無遠慮な視線から彼女を護ってくれる。そして何も言わずその銀色のクーペに戻っていく。彼女は知っている。青豆が胎児を宿していることを。彼女が護られなくてはならないことを。  彼女は新しい夢を見るようになる。夢の中で彼女は白い部屋に監禁されている。立方体のかたちをした小さな部屋だ。窓はなく、ドアがひとつついているだけだ。飾りのない簡素なベッドがあり、そこに仰向けに寝かされている。ベッドの上に吊された照明が、山のように膨らんだ彼女の腹を照らしている。自分の身体のようには見えない。でもそれは間違いなく青豆の肉体の一部だ。出産の時期が近づいている。  部屋は坊主頭とポニーテイルによって警護されている。その二人組はもう二度と失敗は犯すまいと心を決めている。彼らは一度失敗した。その失地を挽回しなくてはならない。二人に与えられた役目は青豆をその部屋から出さず、誰ひとりその部屋に入れないことだ。彼らは<傍点>その小さなものが誕生するのを待ち受けている。生まれたらすぐにそれを青豆から取り上げるつもりらしい。  青豆は叫び声を上げようとする。必死に助けを呼ぼうとする。しかしそれは特殊な素材で作られた部屋だ。壁や床や天井がすべての音を瞬時に吸い取ってしまう。彼女自身の耳にさえその叫びは届かない。青豆はあのメルセデス?クーペに乗った婦人がやってきて、自分を助けてくれることを求める。自分と<傍点>その小さなものを。しかし彼女の声は白い部屋の壁に空しく吸い込まれてしまう。  <傍点>その小さなものはへその緒から滋養を吸い、刻一刻大きさを増していく。生ぬるい暗闇からの脱却を求め、彼女の子宮の壁を蹴っている。それは光と自由を欲している。  ドアの脇には長身のポニーテイルが座っている。両手を膝の上に置き、空間の一点を見つめている。そこには小さな堅い雲が浮かんでいるのかもしれない。ベッドの脇には坊主頭が立っている。二人は前と同じダークスーツを着ている。坊主頭はときどき腕を上げて時計に目をやる。大事な列車が到着するのを駅で待っている人のように。  青豆は手足を動かすことができない。紐で縛りつけられているというのでもなさそうだが、それでもどうしても手足が動かせない。指先に感覚がない。陣痛の予感がある。それは宿命的な列車のように予定の時刻を違えることなく駅に近づいてくる。彼女はレールの微かな震えを聴き取る。  そこで目が覚める。  彼女はシャワーを浴びていやな汗を流し、新しい服に着替える。汗で湿った服を洗濯機に放り込む。彼女はもちろんそんな夢を見たくはない。しかし夢は否応なく彼女を訪れる。進行の細部は少しずつ異なっている。しかし場所と結末は常に同じだ。立方体のような白い部屋。迫り来る陣痛。無個性なダークスーツを着た二人組。  青豆が<傍点>小さなものを宿していることを彼らは知っている。あるいはやがて知ることになる。青豆には覚悟ができている。もしそうする必要があるなら、ポニーテイルと坊主頭に迷うことなくありったけの九ミリ弾を撃ち込む。彼女を護る神は、あるときには血濡れた神なのだ。  ドアにノックの音がする。青豆は台所のスツールに腰掛け、右手には安全装置を外した自動拳銃が握られている。外では朝から冷たい雨が降っている。冬の雨の匂いが世界を包んでいる。 「高井さん、こんにちは」、ドアの外にいる男はノックをやめて言う。「毎度お馴染みのNHKのものです。ご迷惑でしょうが、またまたこうして集金にうかがいました。高井さん、あなたはそこにおられますね」  青豆は声には出さずドアに向かって語りかける。私たちはNHKに電話で問い合わせたのよ。あなたはNHKの集金人を騙っている<傍点>誰かに過ぎない。あなたはいったい誰なの。そして何をここに求めているの? 「人は受け取ったものの代価を払わなくちゃなりません。それが社会の決まり事です。あなたは電波を受け取りました。ですからその料金を支払う。もらうだけもらって何も差し出さないというのは公正ではない。泥棒と同じです」  彼の声は廊下に大きく響いている。しゃがれてはいてもよく通る声だ。 「わたくしは何も個人的な感情で動いているのではありません。あなたのことを憎んでいるとか、懲らしめてやろうとか、そういうことでは毛頭ありません。ただ公正ではないことに生来我慢がならんのです。人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。高井さん、あなたがドアを開けない限り、わたくしは何度でもやってきてノックします。そんなことはあなただって望まぬはずですよ。わたくしだってなにも話のわからん<傍点>じじいじゃありません。話し合えばきっと妥協点が見いだせるはずです。高井さん、ひとつ気持ちよくこのドアを開けてくれませんか」  ノックの音がまたひとしきり続く。  青豆は両手で自動拳銃を握り締める。この男は私が受胎していることをおそらく知っている。彼女は脇の下と鼻の頭にうっすらと汗をかいている。何があってもドアは開けない。もし相手が合い鍵を使って、あるいはほかの道具や手段を使ってそのドアを無理に開けようとすれば、NHKの集金人であろうとなかろうと、弾倉にある弾丸のすべてを腹に撃ち込んでやる。  いや、そんなことは起こらないだろう。彼女にはそれがわかる。彼らにはこのドアを開けることはできない。彼女が内側から開けない限り、ドアは開かない仕組みになっている。だからこそ相手は苛立ち、饒舌になっているのだ。言葉を尽くして私の神経を参らせようとしている。  十分後に男は去っていく。廊下に響く大声で彼女を脅し嘲けり、狡猾に懐柔し、また激しく罵倒し、再びその戸口を訪れることを予告してから。 「逃げおおすことはできませんよ、高井さん。あなたが電波を受け取っている限り、わたくしは必ずやここに戻ってきます。そうそう簡単にはあきらめない男です。それがわたくしの性格です。それではまた近々お会いしましょう」  男の足音は聞こえない。しかし彼はもうドアの前にはいない。青豆はドアののぞき穴からそれを確認する。拳銃の安全装置をセットし、洗面所に行って顔を洗う。シャツの脇の下が汗でぐっしょり濡れている。シャツを新しいものに取り替えるとき、裸になって鏡の前に立ってみる。おなかの膨らみはまだ人目につくほどではない。しかしその奥には大事な秘密が隠されている。  老婦人と電話で話をする。その日、タマルはいくつかの案件について青豆と語り合ったあと、何も言わず受話器を老婦人に手渡す。会話は可能な限り直接的な言及を迂回し、漠然とした言葉を用いておこなわれる。少なくとも最初のうちは。 「あなたのための新しい場所は既に確保してあります」と老婦人は言う。「あなたはそこで<傍点>予定されている作業をおこなうことになります。安全なところですし、定期的に専門家のチェックも受けられます。あなたさえよければ、すぐにでもそちらに移ることができます」  彼女の<傍点>小さいものを狙っている人々のことを、老婦人に打ち明けるべきだろうか? 「さきがけ」の連中が夢の中で彼女の子供を手に入れようとしていることを。偽のNHK集金人が手を尽くしてこの部屋のドアを開けさせようとしているのも、おそらくは同じ目的のためだということを。しかし青豆は思いとどまる。青豆は老婦人を信頼している。敬愛もしている。しかし問題はそういうことではない。<傍点>どちら側の世界に住んでいるか、それが目下の要点になる。 「ここのところ体調はいかがですか?」と老婦人は尋ねる。  今のところすべては問題なく進行していると青豆は答える。 「それは何よりです」と老婦人は言う。「ただ、あなたの声はいつもと少し違っているようです。気のせいかもしれませんが、いくらか堅く警戒的に聞こえます。もし何か気にかかることがあれば、どんな些細なことでも遠慮なく言ってください。私たちにできることがあるかもしれません」  青豆は声のトーンに留意しながら答える。「ひとつの場所に長くいるせいで、たぶん知らないうちに神経が張り詰めているのでしょう。体調の管理には気を配っています。なんといってもそれが私の専門ですから」 「もちろんです」と老婦人は言う。そしてまた少し間をおく。「少し前ですが、うちのまわりを不審な人物が数日にわたって行き来していました。主にセーフハウスの様子をうかがっていたようです。そこにいる三人の女性たちに監視カメラの映像を見てもらいましたが、誰もその男には見覚えはないということです。あなたの行方を追っている人間かもしれません」  青豆は小さく顔をしかめる。「私たちの繋がりが明らかになったということですか?」 「そこまではわかりません。そういう可能性も<傍点>考えられなくはないというあたりです。この男はかなり奇妙な外見です。頭はとても大きく、いびつなかたちをしています。てっぺんが扁平でほとんど禿げて、背が低く手脚が短く、ずんぐりしています。そういう人物に覚えはありますか?」  いびつな禿頭? 「私はこの部屋のベランダから、前の道路を行き来する人をよく観察しています。でもそういう人物を目にしたことはありません。人目を惹く外見なのですね」 「ずいぶん。まるでサーカスに出てくる派手な道化師みたいに。もしその人物が<傍点>彼らに選ばれて送り込まれ、うちの様子をうかがっているのだとしたら、それは不思議な人選と言わなくてはなりません」  青豆はそれに同意する。「さきがけ」はわざわざそんな目立つ外見の人間を選んで偵察に向けたりはしないだろう。そこまで人材に不足してはいないはずだ。裏返せばその男はおそらく教団とは無関係で、青豆と老婦人との関係はまだ彼らに知られてはいないということになる。しかしそれではその男はいったい何もので、どのような目的でセーフハウスの様子を探っているのだろう? ひょっとしてNHKの集金人を騙って戸口を執拗に訪れる男と同一人物ではあるまいか。もちろん両者を結びつける根拠はない。その偽集金人のエキセントリックな言動が、描写された男の異様な外見に結びつくだけだ。 「そういう男を見かけたら連絡を下さい。手を打つ必要があるかもしれません」  もちろんすぐに連絡すると青豆は答える。  老婦人は再び沈黙する。それはどちらかというと珍しいことだ。電話で話すときの彼女は常に実務的で、厳しいまでに時間を無駄にしない。 「お元気にしておられますか?」と青豆はさりげなく尋ねる。 「いつもと同じ、格別悪いところはありません」と老婦人は言う。しかしその声にはためらいの響きが微かに聞き取れる。それもまた珍しいことだ。  青豆は相手が話を続けるのを待つ。  老婦人はやがてあきらめたように言う。「ただここのところ、自分が年老いたと感じることが多いのです。とくにあなたがいなくなってからは」  青豆は明るい声を出す。「私はいなくなっていません。ここにいます」 「もちろんそのとおりです。あなたはそこにいるし、こうしてたまに話をすることもできる。しかしあなたと定期的に顔を合わせ、二人で一緒に身体を動かすことによって、私はあなたから活力をもらっていたのかもしれません」 「あなたはもともと自然な活力をお持ちです。私はその力を順序よく引き出し、アシストしていただけです。私がいなくても、ご自分の力でじゅうぶんにやっていけるはずです」 「実を言えば、私も少し前までそう考えていました」、小さく笑って老婦人はそう言う。どちらかといえば潤いを欠いた笑いだ。「私は特別な人間なのだと自負してもいました。しかし歳月はすべての人間から少しずつ命を奪っていきます。人は時期が来て死ぬのではありません。内側から徐々に死んでいき、やがて最終的な決済の期日を迎えるのです。誰もそこから逃れることはできません。人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。私は今になってその真実を学んでいるだけです」  <傍点>人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。青豆は顔をしかめる。あのNHKの集金人が口にしたのと同じ台詞だ。 「あの九月の大雨の夜、大きな雷が次々に鳴った夜、私はそのことにはっと思い当たりました」と老婦人は言う。「私はこの家の居間に一人でいて、あなたのことを案じながら、雷光が走るのを眺めていました。そしてそのときに雷光にありありと照らし出された真実を私は目の前にしたのです。その夜に私はあなたという存在を失い、それと同時に私の中にあったものごとを失ってしまったのです。あるいはいくつかのものごとの積みかさねを。それまで私の存在の中心にあり、私という人間を強く支えていた何かそういうものを」  青豆は思い切って質問する。「ひょっとしてそこには怒りも含まれているのでしょうか?」  干上がった湖の底のような沈黙がある。それから老婦人は口を開く。「そのとき私の失ったいくつかのものごとの中に、私の怒りも含まれているのか。あなたの尋ねているのはそういうことかしら」 「そうです」  老婦人はゆっくりと息をつく。「質問に対する答えはイエスです。そのとおり。私の中にあった激しい怒りもなぜか、あのおびただしい落雷のさなかに失われてしまったようです。少なくとも遥か遠くに後退しました。私の中に今残っているのは、かつての燃えさかる怒りではありません。それは淡い色合いの悲哀のようなものに姿を変えています。あれほどの怒りが熱を失うことなんて永遠にあるまいと思えたのに……。でもあなたにどうしてそれがわかるのかしら?」  青豆は言う、「ちょうど同じことが私の身にも起こったからです。あのたくさんの雷が落ちた夜に」 「あなたはあなた自身の怒りについて語っているのですね?」 「そうです。私の中にあった純粋な激しい怒りは今はもう見当たりません。すっかり消え去ったというわけではありませんが、おっしゃるようにずっと遠くまで後退したようです。その怒りは長い歳月、私の心の中の大きな場所を占め、私を強く駆り立てていたものだったのですが」 「休むことを知らない無慈悲な御者のように」と老婦人は言う。「でもそれは今では力を失い、あなたは妊娠している。<傍点>そのかわりにと言うべきなのかしら」  青豆は呼吸を整える。「そうです。そのかわりに私の中には<傍点>小さなものがいます。それは怒りとは関わりを持たないものです」。そしてそれは私の中で日々大きさを増している。 「あえて言うまでもないことですが、あなたはそれを大事に護らなくてはなりません」と老婦人は言う。「そのためにも一刻も早く不安のない場所に移動することが必要です」 「おっしゃるとおりです。でもその前に私にはどうしてもやり終えなくてはならないことがあります」  電話を切ったあと青豆はベランダに出て、プラスチック板のあいだから午後の通りを眺め、児童公園を眺める。夕暮れが迫っている。1Q84年が終わる前に、彼らが私を見つける前に、私は何があっても天吾を見つけ出さなくてはならない。 第15章 天吾 それを語ることは許されていない  天吾は「麦頭」を出ると、考えを巡らせながらしばらくあてもなく街を歩いた。それから心を決め、小さな児童公園に足を向けた。月が二つ並んで浮かんでいることを最初に発見した場所だ。そのときと同じように滑り台に上り、もう一度空を見上げてみよう。そこからまた月が見えるかもしれない。それらは彼に何かを語りかけてくれるかもしれない。  この前あの公園に行ったのはいつのことだったろう、と天吾は歩きながら考える。思い出せない。時間の流れが不均一になっていて、距離感が安定しない。でもたぶん秋の初めだ。長袖のTシャツを着ていたことを記憶している。そして今は十二月だ。  冷たい風が雲の群れを東京湾の方向に吹き流していった。雲はパテでこしらえられたもののように、それぞれ不定型に堅くこわばっていた。そんな雲の背後にときどき隠されながら、二つの月が見えた。見慣れた黄色の月と、新たに加わった小さな緑色の月だ。どちらも満月を過ぎて三分の二ほどの大きさになっている。小振りな月は、母親のスカートの裾に隠れようとする子供のように見える。月は前に見たときとおおよそ同じ位置にあった。まるで天吾が戻るのをそこでじっと待ち受けていたみたいに。  夜の児童公園に人の姿はなかった。水銀灯の明かりは前よりも白みを帯び、いっそう冷え冷えとしていた。葉を落としたケヤキの枝は風雨にさらされた古い白骨を思わせた。フクロウが鳴きそうな夜だ。しかしもちろん都会の公園にはフクロウはいない。天吾はヨットパーカのフードを頭にかぶり、両手を革ジャンパーのポケットに入れた。そして滑り台の上にあがって手すりにもたれ、雲の群れのあいだに見え隠れする二つの月を見上げた。その背後には星が音もなくまたたいていた。都会の上空に溜まっていた曖昧な汚れは風に吹き飛ばされ、空気は混じり気なく澄みわたっていた。  今このとき、いったいどれだけの人間が、自分と同じようにこの二個の月に目をとめているのだろう? 天吾はそれについて考える。ふかえりはもちろんそのことを知っている。これはもともと彼女が始めたものごとなのだ。おそらく。しかし彼女をべつにすれば、天吾のまわりにいる人間は、誰ひとりとして月の数が増えたことに触れない。人々はそのことにまだ気がついていないのだろうか、あるいはそれはあえて話題にするまでもない、世間周知の事実なのだろうか? いずれにせよ天吾は、予備校の代講を頼む友人を別にすれば、月のあり方について誰かに尋ねたことはない。むしろ用心して人前でその問題を持ち出さないようにつとめていた。それが道義的に不適切な話題であるかのように。  何故だろう?  あるいは月がそれを望んでいないのかもしれない、と天吾は思う。この二個の月はあくまで天吾個人にあてられたメッセージであって、彼はその情報をほかの誰かと共有することを<傍点>許されていないのかもしれない。  しかしそれは不思議な考え方だった。どうして月の数が個人的メッセージになりうるのか? それは何を伝えようとしているのか? 天吾にはそれはメッセージというよりはむしろ複雑な謎かけのように思える。だとすれば謎をかけているのは誰なのだ? <傍点>許さないのはいったい誰なのだ?  風がケヤキの枝のあいだを、鋭い音を立てて抜けていった。絶望を知った人の歯の隙間から出て行く酷薄な息のように。天吾は月を見上げ、風の音を聞くともなく聞きながら、身体がすっかり冷えてしまうまでそこに座り込んでいた。時間にすれば十五分か、それくらいだろう。いや、もう少し長かったかもしれない。時間の感覚はどこかでなくなってしまった。ウィスキーでほどよく暖まった身体は、今では海の底の孤独な丸石のように堅く凍えていた。  雲は次々に南に向けて空を吹き流されていた。どれだけたくさん流されても、あとからあとから雲は現れてきた。遥か北方の地にそれらの雲を無尽蔵に供給する源があるに違いない。頑なに心を決めた人々が、灰色の厚い制服に身を包んで、そこで朝から晩までただ黙々と雲を作り続けているのだ。蜂が蜜を作り、蜘蛛が巣を作り、戦争が寡婦を作るように。  天吾は腕時計に目をやった。あと少しで八時になる。公園にはやはり人影はない。ときどき前の道路を人々が足早に歩いていく。仕事を終えて帰路につく人々はみんな同じような歩き方をする。道路を挟んだ六階建ての新築マンションでは、半分ばかりの住戸の窓に明かりがついていた。風の強い冬の夜には、明かりのついた窓は特別な優しい温もりを獲得する。天吾は光の灯った窓をひとつひとつ順番に目で追っていった。小さな漁船から夜の海に浮かんだ豪華な客船を見上げるように。どの窓にも申し合わせたようにカーテンが引かれている。夜の公園の冷え切った滑り台から見上げると、そこは別世界に見える。別の原理の上に成立し、別のルールで運営されている世界だ。そのカーテンの奥では人々がごく当たり前の生活を、おそらくは心穏やかに幸福に営んでいる。  ごく当たり前の生活?  天吾の思いつける「当たり前の生活」のイメージは、奥行きと色合いを欠いた類型的なものでしかない。夫婦と、子供がたぶん二人。母親はエプロンをつけている。湯気の立つ鍋、食卓での会話——天吾の想像力はそこで固い壁に突き当たる。<傍点>当たり前の家族は夕食の席でいったい何を語り合うのだろう? 彼自身について言えば、食卓で父親と会話をした記憶はない。二人はそれぞれの都合に合わせた時間に、沈黙のうちにただ食べ物を詰め込んだ。内容からしてもそれは食事とは言い難い代物だった。  マンションの明るい窓を一通り観察し終えると、もう一度大小の月に目を向けた。しかしどれだけ待っても、どちらの月も彼に向かって何ひとつ語りかけてはくれなかった。彼らは表情のない顔をこちらに向け、手入れを求める不安定な対句のような格好で、二つ並んで空に浮かんでいた。本日のメッセージはなし。それが彼らから天吾に送られてきた唯一のメッセージだった。  雲の群れは倦むことなく空を南に向けて横切っていった。様々なかたちとサイズの雲がやってきて、そして去っていった。中にはずいぶん興味深いかたちをした雲もあった。彼らには彼らなりの考えがあるように見えた。小さく堅く、輪郭のはっきりとした考えが。しかし天吾が知りたかったのは雲ではなく、月の考えていることだった。  天吾はやがてあきらめて立ち上がり、手脚を大きく伸ばし、それから滑り台を降りた。仕方ない。月の数に変りのないことがわかっただけでもよしとしよう。革ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま公園を出て、大きな歩幅でゆっくり歩いてアパートに帰った。歩きながら、ふと小松のことを思い出した。そろそろ小松と話をしなくてはならない。彼との間に起こったものごとを少しでも整理しておかなくてはならない。そして小松の方にも、いつか遠からず天吾に話さなくてはならないことがある。千倉の療養所の電話番号を残しておいた。しかし電話はかかってこなかった。明日こちらから小松に電話をかけてみよう。でもその前に予備校に行って、友人がふかえりからことづかった手紙を読まなくてはならない。  ふかえりの手紙は封がされたまま机の抽斗の中にあった。封が厳重な割りには短い手紙だった。レポート用紙一枚の半分に、青いボールペンを使って、おなじみの楔形文字のようなものが記されていた。レポート用紙よりは粘土板の方が似合いそうな書体だ。そういう字を書くのにずいぶん時間がかかることを天吾は知っていた。  天吾は何度かその手紙を読み返した。そこに書かれているのは、彼女は天吾の部屋を<傍点>出ていかなくてはならないということだった。<傍点>いますぐに、と彼女は書いていた。わたしたちは<傍点>見られているから、というのがその理由だった。その三ヵ所に太くやわらかい鉛筆で下線がぐいぐいと引かれていた。おそろしく雄弁なアンダーラインだ。 「わたしたち」を見ているのが誰なのか、彼女がどのようにしてそのことを知ったのか説明はない。ふかえりの住む世界にあってはどうやら、事実はありのままに語られてはならないもののようだ。海賊の埋めた財宝のありかを示す地図のように、ものごとは暗示と謎かけによって、あるいは欠落と変型によって語られなくてはならない。『空気さなぎ』のオリジナルの原稿と同じように。  しかしふかえりにしてみれば暗示や謎かけをしているつもりはないのだろう。彼女にとってはそれがたぶんいちばん自然な語法なのだ。彼女はそのような語彙《ごい》と文法によってしか、自分のイメージや考えを人に伝えることができない。ふかえりと意思を交換し合うには、その語法に慣れる必要がある。彼女からメッセージを受け取ったものは、各自の能力や資質を動員して、順序をしかるべく入れ替えたり、足りないところを補ったりしなくてはならない。  しかしそのぶん天吾は、ふかえりからときおり直載な形で与えられる声明を、何はともあれとりあえずそのまま受容するようになっていた。彼女が「私たちは<傍点>見られている」と言うとき、おそらく我々は実際に見られている。彼女が「<傍点>出ていかなくてはならない」と感じたとき、それは彼女がここを立ち去るべき時期だったのだ。まずそれをひとつの包括的事実として受け入れる。その背景やディテールや根拠はこちらがあとで自分で発見するか、推測するしかない。あるいはそんなものは最初からあきらめるしかない。  私たちは<傍点>見られている。  それは「さきがけ」の人間がふかえりを見つけたということなのだろうか? 彼らは天吾とふかえりの関係を知っている。彼が小松に依頼されて『空気さなぎ』の書き直しをしたことを事実として摑んでいる。だからこそ牛河は天吾に接近をはかってきた。彼らはそんな手の込んだことをしても(いまだになぜかはわからないが)天吾を自分たちの影響下に置こうとしたのだ。そう考えれば彼らが天吾のアパートを監視下に置いているという可能性はある。  しかしもしそうだとしたら、彼らはあまりにも時間をかけすぎている。ふかえりは天吾の部屋に三ヶ月近くも腰を据えていた。彼らは組織化された人々だ。実際的な力も持っている。ふかえりを手に入れようと思えば、いつだってそうできたはずだ。天吾のアパートを手間暇をかけて監視下に置いたりする必要はない。また彼らが本当にふかえりを監視していたのなら、彼女を好きに出ていかせることもなかったはずだ。それなのにふかえりは荷物をまとめて天吾のアパートを出てから、代々木の予備校に行って彼の友人に手紙を託し、そのままどこか別の場所に移動している。  論理をたどればたどるほど、天吾の頭は混乱した。彼らは<傍点>ふかえりを手に入れようとしているのではないとしか思えない。もしかしたら彼らはある時点からふかえりではなく、別の対象に行動目標を置き換えたのかもしれない。ふかえりに関連してはいるが、ふかえりではない誰かに。何らかの理由によって、ふかえり本人は「さきがけ」にとってもう脅威ではなくなったのかもしれない。しかしもしそうだとすれば、彼らはなぜ今更わざわざ天吾のアパートを監視しなくてはならないのだろう?  天吾は予備校の公衆電話から小松の出版社に電話をかけてみた。日曜日だったが、小松が休日に出社して仕事をするのが好きなことを天吾は知っていた。ほかに人がいなきゃ会社もいいところなんだがなというのが彼の口癖だった。しかし電話には誰も出なかった。天吾は腕時計を見た。まだ午前十一時だ。小松がそんなに早く出社するわけはない。彼が一日の行動を起こすのは、それが何曜日であれ、太陽が天頂を通過したあとだ。天吾はカフェテリアの椅子に座り、薄いコーヒーを飲みながら、ふかえりの手紙をもう一度読み返してみた。例のごとく漢字が極端に少なく、句読点と改行を欠いた文章だ。 てんごさん てんごさんはねこのまちからかえってきてこのてがみをよんでいる それはよいことだった でもわたしたちは見られている だからわたしはこのへやを出ていかなくてはならない それもいますぐに わたしのことはしんぱいしなくていい でももうここにいることはできない もえにもいったよいにてんごさんのさがしている人はここからあるいていけるところにいる ただしだれかに見られていることによく気をつけるように  天吾はその電報文のような手紙を三度読み返してから、畳んでポケットに入れた。いつものことだが、繰り返して読めば読むほどふかえりの文章は信憑性を強くしていった。彼は誰かに監視されている。天吾は今ではそれを確定した事実として受け入れていた。彼は顔を上げ、予備校のカフェテリアの中を見渡した。講義のある時間だったから、カフェテリアにはほとんど人はいない。数人の学生がテキストを読んだり、ノートに何かを書き付けたりしているだけだ。陰からこっそり天吾を監視しているような人間も見当たらない。  基本的な問題がある。もし彼らがふかえりを監視していないのだとしたら、彼らがここで監視しているのはいったい何なのだ? 天吾自身か、それとも天吾のアパートか? 天吾はそれについて考えてみる。もちろんすべては推測の域を出ない。しかし彼らが関心を持っているのはおそらく自分ではあるまいという気がした。天吾は依頼を受けて『空気さなぎ』を書き直した文章の修理工に過ぎない。本は既に出版され、世間の話題になり、やがて話題から消え、天吾の役目はとっくに終了している。今更関心を持たれる理由がない。  ふかえりはアパートの部屋からほとんど外に出なかったはずだ。その彼女が<傍点>視線を感じるというのは、彼の部屋が見張られていることを意味している。しかしいったいどこから監視なんてできるだろう。都会の混み合った地域だが、天吾の住んでいる三階の部屋は不思議なくらいよそからの視線を受けずに済む位置にある。それも天吾がその部屋を気に入って長く住んでいる理由のひとつだった。彼の年上のガールフレンドもそのことを高く評価していた。「見映えはともかく」と彼女はよく言った。「この部屋は不思議に落ち着ける。住んでいる人と同じように」  日暮れ前になると、大きなカラスが窓辺にやってくる。ふかえりもそのカラスのことを電話で話していた。カラスは窓の外につけられた植木鉢を置くための狭い空間にとまって、大きな漆黒の翼をガラス戸にごしごしとこすりつける。帰巣する前のひとときを天吾の部屋の外で過ごすのが、そのカラスの日課になっていた。そしてカラスは天吾の部屋の内部に少なからず関心を抱いているようだった。顔の横についた大きな黒い目を素早く動かして、カーテンの隙間から情報を収集する。カラスは頭の良い動物だ。好奇心も強い。ふかえりはそのカラスと話し合えると言った。しかしいくらなんでも、カラスが誰かの手先になって天吾の部屋の様子を偵察しているとは思えない。  だとしたら、彼らはいったいどこから部屋の様子を偵察しているのだろう?  天吾は駅からアパートに帰る途中、スーパーマーケットに寄って買い物をした。野菜と卵と牛乳と魚を買った。そして紙袋を抱えたままアパートの玄関前で立ち止まり、念のためにあたりをぐるりと見回してみた。不審なところはない。いつもの変わりばえしない風景だ。暗い臓物のように宙に垂れ下がった電線、狭い前庭の冬枯れした芝生、錆の浮いた郵便受け。耳を澄ませてもみた。でも都会特有の微かな羽音のような、途切れることのない騒音のほかには何も聞こえない。  部屋に戻り食料品を整理してから、窓辺に行ってカーテンを開け、外の風景を点検した。道路を隔てた向かいには三軒の古い家屋がある。どれも狭い敷地に建てられた二階建て住宅だ。持ち主はみんな年寄りで、典型的な古参の住人だ。気むずかしい顔つきをした人々で、あらゆる種類の変化を忌み嫌っている。何があろうと自宅の二階に見ず知らずの新参者を快く迎え入れたりはしない。またそこからどれだけがんばって身を乗り出しても、天吾の部屋の天井の一部しか目に入らないはずだ。  天吾は窓を閉め、湯を沸かしてコーヒーを作った。食卓に座ってそれを飲みながら、考えられるいろんな可能性について思いを巡らせた。誰かがこの近くでおれを監視している。そしてここから歩いていけるところに青豆がいる(あるいは<傍点>いた)。そのふたつは関連性のあるものごとなのだろうか。それともたまたまの巡り合わせなのか。しかしどれだけ考えたところでどのような結論にもたどり着けない。彼の思考は、迷路のすべての出口をふさがれてチーズの匂いだけを与えられた気の毒なネズミのように、同じ道筋をぐるぐる行き来しているだけだ。  彼は考えるのをあきらめて駅の売店で買ってきた新聞に一通り目を通した。その秋に大統領に再選されたロナルド?レーガンは中曽根康弘首相を「ヤス」と呼び、中曽根首相は大統領を「ロン」と呼んでいた。もちろん写真映りのせいもあるのだろうが、彼らは建材を安価で粗悪なものにすり替える相談をしている二人の建築業者のように見えた。インディラ?ガンジー首相の暗殺によって引き起こされたインド国内の騒乱はまだ続いており、多くのシーク教徒が各地で惨殺されていた。日本ではりんごが例年にない豊作だった。しかし天吾の個人的な興味を惹く記事はひとつもなかった。  時計の針が二時を指すのを待って、小松の会社にもう一度電話をかけた。  小松が電話に出るまでに十二回のコールが必要だった。いつものことだ。どうしてかはわからないけれど、簡単には受話器を手に取らない。 「天吾くん、ずいぶん久しぶりだな」と小松が言った。彼の口調はすっかり以前のものに戻っていた。滑らかで、いささか演技的で、つかみどころがない。 「この二週間ほど仕事を休んで千葉にいました。昨日の夕方に戻ってきたばかりです」 「お父さんの具合が悪かったんだってな。いろいろ大変だったろう」 「それほど大変じゃありません。父親は深く昏睡したままだし、僕はただそこにいて、寝顔を見て時間を潰していたようなものです。あとは旅館で小説を書いてました」 「でもまあ人が一人生きるか死ぬかだ。大変なことに変わりはない」  天吾は話題を変えた。「いつか僕に話さなくちゃならないことがある、みたいなことを言ってましたよね。この前話をしたとき。ずいぶん前ですが」 「その話だ」と小松は言った。「天吾くんと一度ゆっくり時間をとって会いたいんだが、暇はあるか?」 「大事な話なら、早いほうがいいんでしょう?」 「ああ、早いほうがいいかもしれない」 「今日の夜ならあけられますが」 「今日の夜でいい。俺も時間が空いている。七時でどうだい?」 「七時でけっこうです」と天吾は言った。  小松は会社の近くにあるバーを指定した。天吾も何度かそこに行ったことがあった。「ここなら日曜日も開いてるし、日曜日にはほとんど客はいない。静かに話ができる」 「長い話なんですか?」  小松はそれについて考えた。「どうだろう。実際に話してみるまでは、長いのか短いのか俺にも見当がつかない」 「いいですよ。小松さんの好きなように話せばいい。つきあいます。僕らはなにしろ同じボートに乗り合わせているわけだから。そうでしょう? それとももう小松さんは違うボートに乗り換えたんですか?」 「そんなことはない」と小松はいつになく神妙な口調で言った。「俺たちは今でも同じボートに乗り合わせているよ。とにかく七時に会おう。詳しい話はそのときにする」  天吾は電話を切ると机に向かい、ワードプロセッサーのスイッチを入れた。そして千倉の旅館で万年筆を使って原稿用紙に書いた小説を、ワードプロセッサーの画面に打ち込んでいった。その文章を読み返していると、千倉の町の光景が思い出された。療養所の風景や、三人の看護婦たちの顔。松の防風林を揺らせる海からの風、そこに舞う真っ白なカモメたち。天吾は立ち上がって窓のカーテンを引き、ガラス戸を開け、外の冷ややかな空気を胸に吸い込んだ。  てんごさんはねこのまちからかえってきてこのてがみをよんでいる それはよいことだった  ふかえりは手紙にそう書いていた。しかし戻ってきたこの部屋は誰かに見張られている。誰がどこから見ているのかはわからない。あるいは部屋の中に隠しカメラが設置されているのかもしれない。天吾はそのことが気になって、隅から隅までひととおり調べてみた。しかしもちろん隠しカメラも盗聴器も見つからなかった。なにしろ古くて狭いアパートの一室だ。そんなものがあればいやでも目につく。  あたりが薄暗くなるまで、天吾は机に向かって小説の打ち込み作業を続けた。書いた文章をそのまま右から左に写すのではなく、あちこち書き換えながらの作業だったので、思ったより長い時間がかかった。仕事の手を休めて机上の明かりをつけながら、そういえば今日はカラスはやってこなかったなと天吾は思った。カラスが来るとその物音でわかる。大きな翼を窓にこすりつけるからだ。おかげでガラスのあちこちにうっすらと脂のあとがついている。解読を求める暗号のように。  五時半に簡単な食事をつくって食べた。食欲は感じなかったが、昼だってほとんど食べていない。何かを腹に入れておいた方がいいだろう。トマトとわかめのサラダを作り、トーストを一枚食べた。六時十五分になると、黒いハイネックのセーターの上にオリーブグリーンのコーデュロイの上着を着て部屋を出た。アパートの玄関を出るとき、立ち止まってあたりをもう一度見回した。しかし注意を惹くものはやはり見当たらなかった。電柱の陰に隠れている男もいない。駐車している不審な車もない。カラスさえやってこなかった。しかし逆に天吾は不安になった。まわりにあるすべての<傍点>それらしくないものたちが、実はこっそりと彼を監視しているようにも見えたからだ。買い物かごを提げて通りかかる主婦や、犬を散歩させている無口な老人や、肩にテニス?ラケットをかけ、自転車に乗ってこちらも見ずに通り過ぎていく高校生たちだって、ひょっとしたら巧妙に偽装した「さきがけ」の監視者かもしれない。  疑心暗鬼というやつだ、と天吾は思う。注意深くならなくてはいけないが、神経質になりすぎるのもよくない。天吾は急ぎ足で駅に向かった。ときどき素速く後ろを振り返って、つけてくる人間がいないか確かめた。もし尾行者がいれば、天吾はその姿を見逃さないだろう。彼は生まれつき人より広い視野をもっていた。視力も良い。三度ばかり背後を振り返ってから、自分は尾行されていないと確信した。  小松と待ち合わせをしている店についたのは七時五分前だった。小松はまだ来ておらず、天吾が開店して最初の客らしかった。カウンターの大きな花瓶には鮮やかな花がたっぷりと盛られ、茎の新しい切り口の匂いがあたりに漂っていた。天吾は奥のボックス席に座り、生ビールのグラスを注文した。そして上着のポケットから文庫本を出して読んだ。  七時十五分に小松はやってきた。ツイードの上着にカシミアの薄手のセーター、やはりカシミアのマフラー、ウールのズボンにスエードの靴。いつもと同じ<傍点>なりだ。どれも上質で趣味が良く、ほどよくくたびれている。彼が身にまとうとそれらの衣服は身体のもともとの一部のように見えた。見るからに新品という服を小松が着ているのを、天吾は目にしたことがない。新しく買った服を着たまま睡眠をとったり、床を転げ回ったりするのかもしれない。何度も手洗いをして陰干ししておくのかもしれない。そのようにしてほどよくくたびれ色褪せしたところで、身にまとって人前に姿を見せるのだ。衣服のことなど生まれてこのかた気にしたこともないという顔をして。いずれにせよそういうなりをすると、彼は年期を積んだベテラン編集者のように見えた。というか、年期を積んだベテラン編集者以外の何ものにも見えなかった。彼は天吾の前に座り、やはり生ビールを注文した。 「見たところ変わりはなさそうだね」と小松は言った。「新しい小説は順調に進んでいるかい?」 「少しずつだけど進んでいます」 「それはなによりだ。作家は着実に書き続けることによってしか成長しない。毛虫が葉っぱを食べるのを休まないのと同じだ。俺が言ったように『空気さなぎ』のリライトを引き受けたことは、君自身の仕事に良い影響を及ぼしただろう。違うか?」  天吾は肯いた。「そうですね。あの仕事をやったおかげで、小説についていくつかの大事なことを学べた気がします。これまで見えなかったものが見えるようにもなってきた」 「自慢するわけじゃないが、俺にはその手のことがよくわかる。天吾くんはそういう<傍点>きっかけを必要としていたんだ」 「でもそのおかげでいろいろと大変な目にもあっています。ご存じのように」  小松は口を冬の三日月のようにきれいに曲げて笑った。奥行きを読み取りにくい笑みだった。 「大事なものを手に入れるには、それなりの代価を人は支払わなくちゃならない。それが世界のルールだよ」 「そうかもしれません。しかし何が大事なもので何が代価なのか、区別がうまくつかないんです。あれやこれや、あまりに入り組んでいるから」 「たしかにものごとはえらく入り組んでいる。混線した電話回線を通して話をしているみたいに。君の言うとおりだ」と小松は言った。そして眉をひそめた。「ところで今ふかえりがどこにいるか、天吾くんは知っているか?」 「今のところは知りません」と天吾は言葉を選んで言った。 「<傍点>今のところは」と小松は意味ありげに言った。  天吾は黙っていた。 「しかし少し前まで、彼女は君のアパートで暮らしていた」と小松は言った。「という話を俺は耳にしている」  天吾は肯いた。「そのとおりです。三ヶ月ほど僕のところにいました」 「三ヶ月は長い時間だ」と小松は言った。「でも誰にもそのことは言わなかった」 「誰にも言うなと本人に言われたから、誰にも言っていません。小松さんも含めて」 「しかし今はもうそちらにはいない」 「そのとおりです。僕が千倉にいっているあいだに、手紙を残して部屋を出ていった。そのあとのことは知りません」  小松は煙草を取り出し、口にくわえてマッチを擦った。目を細めて天吾の顔を見た。 「そのあとふかえりは戎野《えびすの》先生のところに帰ったんだよ。あの二俣尾《ふたまたお》の山の上に」と彼は言った。 「戎野先生は警察に連絡を入れて、彼女の捜索願を取り下げた。彼女はふらりとどこかに行っていただけで、誘拐されてはいなかったということでね。警察はいちおう彼女から前後の事情を聴いているはずだ。何故姿を消したか? どこで何をしていたか? なにしろ未成年者だからね。近いうちに新聞記事が出るかもしれない。長いあいだ行方がわからなくなっていた新人作家の女の子が、無事に姿を現したってね。まあ、出たとしてもそれほど大きな記事にはなるまい。犯罪が絡んでいるわけでもなさそうだから」 「僕のところに身を寄せていたことも明らかになるんでしょうか?」  小松は首を振った。「いや、ふかえりは君の名前を出さないはずだ。あのとおりのキャラクターだからね、相手が警察だろうが陸軍憲兵隊だろうが革命評議会だろうがマザー?テレサだろうが、いったん言わないと決めたらとことん口を割らない。だからそいつは心配しなくていい」 「心配してるわけじゃありません。ただ僕としては、物事がどう展開していくのかをいちおう知っておきたいだけです」 「いずれにせよ、君の名前が表に出てくることはない。大丈夫だ」と小松は言った。それからあらたまった表情を顔に浮かべた。「それはそれとして、俺としては君にひとつ尋ねなくちゃならんことがあるんだ。いささか言いにくいことだが」 「言いにくいこと?」 「なんというか、私的なことだよ」  天吾はビールを一口飲んだ。そしてグラスをテーブルの上に戻した。「いいですよ。答えられることなら答えます」 「君とふかえりとのあいだには性的な関係があったのかな? 彼女が君のところに身を寄せている時に、ということだが。イエスかノーかで答えてくれればいい」  天吾はいったん間を置いてからゆっくり首を振った。「答えはノーです。彼女とのあいだにそういう関係はありません」  あの雷雨の夜に自分とふかえりとのあいだに起こったことは、何があっても口にしてはならない、天吾は直感的にそう判断した。それは明かしてはならない秘密なのだ。語ることは許されていない。それにだいたいあれは性行為と呼べるようなものではない。そこには一般的な意味での性欲というものは存在しなかった。どちらの側にも。 「性的な関係は持っていないということだね」 「持っていません」と天吾は潤いを欠いた声で言った。  小松は鼻の脇に微かに皺を寄せた。「でもな天吾くん、疑うわけじゃないが、ノーという返事をする前に君は一拍か二拍、間を置いた。そこに躊躇があったように俺には見えた。ひょっとしてそれに近いことはあったんじゃないのか? 何も君を責めようとか、そういうんじゃない。こちらとしてはつまり、事実を事実として把握しておきたいだけだ」  天吾はまっすぐ小松の目を見た。「躊躇したわけじゃありません。ただ少し不思議な気がしただけです。ふかえりと僕とのあいだに性的関係があったかなかったかなんてことが、どうしてそんなに気になるんだろうって。小松さんはもともと他人の私生活に首を突っ込む性格じゃない。むしろそういうことから遠ざかっていたい方だ」 「まあな」と小松は言った。 「じゃあ、どうしてそんなことが今ここで問題になるんですか?」 「もちろん天吾くんが誰と寝ようが、ふかえりちゃんが誰と何をしようが、基本的には俺の知ったことではない」、小松は鼻の脇を指で掻いた。「君が指摘するとおりだ。しかしふかえりは知ってのように普通のそのへんの女の子とは成り立ちが違う。なんと言えばいいのか、つまり彼女のとる行動のひとつひとつに意味が生じることになる」 「意味が生じる」と天吾は言った。 「もちろん論理的に言えば、すべての人間のすべての行動には結果的にそれなりの意味が生じる」と小松は言った。「しかしふかえりの場合には、<傍点>より深い意味が生じるんだ。彼女にはそういう普通ではない要素が具わっている。だからこちらとしては彼女に関する事実を少しでも確実に押さえておく必要がある」 「<傍点>こちらって具体的に誰のことですか?」と天吾は尋ねた。  小松は珍しく困った顔をした。「実を言えば、君と彼女とのあいだに性的な関係があったかどうか知りたがってるのは、俺ではなく戎野先生だ」 「戎野先生も、ふかえりが僕のところに滞在していたことは知っているのですね」 「もちろん。彼女が君の部屋に転がり込んだ日から、先生はそのことを知らされている。ふかえりは先生に自分がどこにいるかを逐一報告していた」 「それは知りませんでした」と天吾は驚いて言った。ふかえりはたしか誰にも居場所を教えていないと言っていた。でもまあ今となってはどちらでもいいことだ。「しかし僕には解せませんね。戎野先生は彼女の事実上の後見人であり保護者だから、普通であればある程度そういうことに注意は払うかもしれない。でも何しろこんなわけのわからない状況だ。ふかえりが無事に保護され、安全な環境にいるかどうか、それがいちばん重要な問題になるはずです。彼女の性的純潔性が先生の心配ごとリストの上の方に来るとは、ちょっと考えづらいですね」  小松は唇を片方に曲げた。「さあね、そのへんの事情はよくわからん。俺はただ先生に頼まれただけだよ。君とふかえりとのあいだに肉体関係があったのかどうか、直接会って確かめてみてくれまいかって。だから俺はこうして君に質問し、そして返ってきた答えはノーだった」 「そういうことです。僕とふかえりとのあいだには肉体的な関係はありません」、天吾は相手の目を見ながらきっぱりとそう言った。自分が嘘をついているという意識は天吾の中にはなかった。 「ならいいんだ」、小松はマルボロを口にくわえ、目を細めマッチで火をつけた。「それがわかればいい」 「ふかえりはたしかに人目を惹くきれいな女の子です。でも小松さんも知っての通り、ただでさえ面倒な話に僕は巻き込まれています。それも心ならずも。僕としては話をこれ以上面倒にしたくはない。それに加えて僕には交際している女性がいました」 「よくわかった」と小松は言った。「天吾くんはそのへんは賢い男だ。考えもしっかりしている。先生にはそのまま伝えておくよ。妙なことを尋ねて悪かったな。気にしないでくれ」 「べつに気にはしません。ただ不思議に思っただけです。どうして今になってそんな話が出てくるんだろうと」、天吾はそう言って少し間を置いた。「それで、小松さんが僕にしなくちゃならない話というのはどんなことですか?」  小松はビールを飲んでしまうと、バーテンダーにスコッチのハイボールを注文した。 「天吾くんは何にする?」と彼は天吾に尋ねた。 「同じものでいいです」と天吾は言った。  ハイボールの丈の高いグラスが二つテーブルに運ばれた。 「まずだいいちに」と小松は長い沈黙のあとで言った。「状況のもつれあった部分を、このへんでできるだけ解きほぐしておく必要がある。何しろ我々は同じボートに乗り合わせているわけだからな。我々というのはつまり、天吾くんと俺とふかえりと戎野先生の四人だ」 「なかなか味わい深い組み合わせですね」と天吾は言った。しかしそこに込められた皮肉の響きを、小松が感じ取ったようには見えなかった。小松は自分の語るべき話に神経を集中しているらしかった。  小松は言った。「この四人は各々の心づもりを持ってこの計画に臨んでおり、必ずしも同じレベルで同じ方向を目指しているわけではなかった。言い換えるなら、みんなが同じリズムで同じ角度でオールを動かしてはいなかったということだ」 「そしてもとより共同作業には不向きな組み合わせだった」 「そう言えるかもしれない」 「そしてボートは急流を滝に向けて流されていった」 「ボートは急流を滝に向けて流されていった」と小松は認めた。「しかしね、言い訳するんじゃないが、しょっぱなは単純素朴な計画だったんだ。ふかえりが書いた『空気さなぎ』を君がさらさらと書き直して文芸誌の新人賞を取る。本にしてそこそこ売る。俺たちは世間にいっぱい食わせる。金も多少手に入れる。いたずら半分、実益半分。それが狙いだった。ところがふかえりの保護者として戎野先生が一枚かんできたあたりから、プロットがぐっと複雑になっていった。水面下でいくつかの筋書きが錯綜し、流れもどんどん速くなった。天吾くんの書き直しも、俺が予想していたより遥かに優れたものだった。おかげで本は評判になり、とんでもなく売れた。その結果、我々の乗ったボートは思いも寄らない場所に流されてしまった。それもいささか剣呑《けんのん》なところに」  天吾は小さく首を振った。「いささか剣呑なところなんかじゃありません。<傍点>危険きわまりないところです」 「そう言っていいかもしれない」 「人ごとみたいに言わないで下さい。小松さんが立案して始めたことじゃないですか」 「お説のとおりだ。俺が思いついて発進ボタンを押した。最初のうちはうまく行った。ところが残念ながら、途中からだんだんコントロールがきかなくなった。もちろん責任は感じているよ。とくに天吾くんを巻き込んだことについてはね。俺が無理に君を説得したようなものだからな。しかしとにかく、ここらへんで我々はいったん立ち止まって態勢をたて直さなくちゃならない。余計な荷物を始末し、筋書きをなるたけシンプルなものにするんだ。我々が今どこにいるのか、これからどう動けばいいのか、そいつを見さだめる必要がある」  それだけ言ってしまうと、小松は息をついてハイボールを飲んだ。そしてガラスの灰皿を手に取り、盲人が事物のかたちを詳しく確かめるときのように、長い指で注意深く表面を撫でた。 「実を言うと、俺はあるところに十七、八日のあいだ監禁されていたんだ」と小松は切り出した。 「八月の終りから九月の半ばにかけてのことだ。ある日、会社に行こうと思って、昼過ぎにうちの近所の道を歩いていた。豪徳寺の駅に行く道だよ。すると道ばたに停まっていた黒塗りの大型車の窓がするすると降りて、誰かが俺の名前を呼んだ。『小松さんじゃありませんか』って。誰だろうと思って寄ってみると、中から二人の男が出てきて、そのまま車の中に引きずり込まれた。二人ともやたら力のある連中だった。後ろから羽交い締めにされ、もう一人にクロロフォルムだかなんだかを嗅がされた。なあ、まるで映画じゃないか。でもそいつが効くんだよ、実際に。目が覚めたとき、俺は窓のない狭い部屋の中に監禁されていた。壁が白くて、立方体みたいなかたちをしていた。小さなベッドがあり、木製の小さな机がひとつあったが、椅子はなかった。俺はそのベッドに寝かされていた」 「誘拐された?」と天吾は言った。  小松はかたちを調べ終えた灰皿をテーブルに戻し、顔を上げて天吾を見た。「そう、みごとに誘拐されたんだよ。昔『コレクター』っていう映画があったが、あれと同じだ。俺は思うんだが、世の中のおおかたの人間はいつか自分が誘拐されるかもしれないなんて考えもしない。そんなことちらりとも頭をよぎらない。そうだろう? しかし誘拐されるときはちゃんと誘拐されるんだよ。それはなんと言えばいいか、超現実的な感覚を伴うものだ。自分が<傍点>本当に誰かに誘拐されるなんてね。まったく信じられるかい?」  小松は答えを求めるように天吾の顔を見た。しかしそれはあくまで修辞的な疑問だった。天吾は黙って話の続きを待った。手をつけていないハイボールのグラスが汗をかいて、敷かれたコースターを湿らせていた。 第16章 牛河 有能で我慢強く無感覚な機械  翌日の朝、牛河は前日と同じように窓際の床に腰を据え、カーテンの隙間から監視を続けた。昨日の夕方に帰宅したのとだいたい同じ顔ぶれが、あるいはそっくり同じに見える顔ぶれがアパートを出ていった。彼らはやはり暗い顔をして、背中を丸めていた。新たな一日に対して、それがまだほとんど始まってもいないうちから、うんざりし疲れ果てているように見えた。それらの人々の中に天吾の姿はなかった。しかし牛河はカメラのシャッターを押して、前を通り過ぎていく一人一人の顔を記録していった。フィルムなら十分にあるし、手際よく撮影するためには実践練習が必要だ。  朝の出勤の時間帯が終わり、出ていくべき人々が出ていってしまうのを見届けてから、牛河は部屋を出て近所の公衆電話ボックスに入った。そして代々木の進学予備校の番号をまわし、天吾を呼び出してもらった。電話に出た女性は「川奈先生は十日ほど前からお休みをとっておられます」と言った。 「ご病気か何かなのでしょうか?」 「いいえ。ご家族の具合が悪く、千葉県の方に行っておられるということです」 「いつ頃お帰りになるかわかりませんか?」 「こちらではそこまでうかがっておりません」と女性は言った。  牛河は礼を言って電話を切った。  天吾の家族といえばとりあえず父親しかいない。NHKの集金人をしていた父親だ。母親について天吾はまだ何も知らない。そして牛河の知る限り、父親との仲は一貫して良くはなかったはずだ。それなのに病気の父親の面倒を見るために、天吾はもう十日以上仕事を休んでいる。そこのところが今ひとつ脇に落ちなかった。いったいどうして、天吾の父親に対する反感がかくも急速に軟化したのだろう。父親はどんな病気で、千葉県のどこの病院に入院しているのだろう? 調べようがなくはないが、そのためには半日を潰さなくてはならない。そのあいだ監視は中断することになる。  牛河は迷った。天吾が東京を離れているとなれば、このアパートの玄関を見張っている意味もなくなる。監視をいったん打ち切って、別の方向を模索した方が賢明かもしれない。天吾の父親の入院先を調べてもいい。あるいは青豆についてもう少し調査を進めてもいい。大学時代や会社勤めをしていた頃の彼女の同級生や同僚に会って、個人的な話を聞くこともできるだろう。何か新しい手がかりが見つかるかもしれない。  しかしひとしきり思案した末に、このままアパートの監視を続けようと牛河は心を決めた。まず第一に監視を中断すれば、せっかく生まれかけている生活のリズムが損なわれてしまう。すべてを最初からもう一度やり直さなくてはならない。第二に今ここで天吾の父親の行方や青豆の交友関係を探っても、苦労の多い割に得るところは少ないのではないだろうか。足を使った調査は、あるポイントまでは効果を上げるものの、そこを越えると不思議に煮詰まってしまう。牛河はそのことを経験的に知っていた。第三に牛河の直感が、<傍点>そこから動かないことを彼に強く求めていた。動じず腰を据え、通り過ぎるものをひたすら観察し、何ひとつ見逃してはならない。牛河のいびつな頭の中に収まった、昔ながらの飾り気のない直感はそう彼に告げていた。  天吾がいてもいなくても、とにかくこのアパートの監視は継続しよう。ここに留まり、天吾が戻ってくる前に、玄関を日常的に出入りする住人たちの顔を一人残らず覚えてしまおう。誰が住人であるかがわかれば、当然のことながら、誰が住人ではないかが一目でわかるようになる。俺は肉食獣なのだ、と牛河は思う。肉食獣はどこまでも我慢強くなくてはならない。その場と一体化し、獲物についてのあらゆる情報を確保しなくてはならない。  十二時前、人の出入りが最も少ない頃に牛河は外に出た。顔を少しでも隠すためにニットの帽子をかぶり、マフラーを鼻の下まで巻いていたが、それでもやはり彼の風体は人目を惹いた。べージュのニットの帽子は彼の大きな頭の上で、キノコの傘のように広がっていた。緑色のマフラーはその下にとぐろを巻いている大蛇のように見えた。変装としての効果はない。おまけに帽子もマフラーもまったく似合っていなかった。  牛河は駅前のDPEに行き、フィルムを二本現像に出した。それから蕎麦屋に入って天ぷらそばを注文した。温かい食事を口にするのは久しぶりだった。牛河は天ぷらそばを大事に味わいながら食べ、つゆを最後の一滴まできれいに飲んだ。食べ終わったときには汗をかくほど身体が温まっていた。彼はまたニット帽をかぶり、マフラーを首に巻き、歩いてアパートに戻った。そして煙草を吸いながら、プリントされた写真を床に並べて整理した。帰宅する人物と朝出ていく人物とを照合し、重なっている顔があればひとつにまとめた。覚えやすいように一人ひとりに適当な名前をつけた。フェルトペンで写真にその名前を書いた。  朝の通勤時間が終わると、アパートの玄関を出入りする住人はほとんどいなくなった。ショルダーバッグを肩にかけた大学生風の男が、午前十時頃に急ぎ足で出ていった。七十前後の老人と三十代半ばと思える女が出ていったが、それぞれスーパーマーケットの買い物袋を抱えて戻ってきた。牛河は彼らの写真も撮った。昼前に郵便配達がやってきて、玄関の郵便受けに郵便を仕分けして入れていった。段ボール箱を抱えた宅急便の配達人がやってきてアパートに入り、五分後に手ぶらで出ていった。  一時間ごとに牛河はカメラの前を離れ、五分ばかりストレッチングをした。そのあいだ監視は中断されるが、一人きりですべての出入りをカバーすることはもとより不可能だ。それよりは身体を痺れさせないようにしておくことが大事だ。同じ姿勢を長く続けていると筋肉が退化し、いざというときに素早く反応できなくなる。牛河は虫になったザムザのように、その丸くいびつな身体を床の上で器用に動かし、筋肉をできるだけほぐした。  退屈しのぎにAMラジオをイヤフォンで聴いた。昼間のラジオ番組は主婦と高齢者を主なリスナーと設定して作られている。出演している人々は気の抜けた冗談を口にし、意味のない馬鹿笑いをし、月並みで愚かしい意見を述べ、耳を覆いたくなる音楽をかけた。そして誰も欲しがらないような商品を声高に宣伝した。少なくとも牛河にはそう感じられた。それでも牛河はなんでもいいから人のしゃべり声を聴いていたかった。だから我慢してそんな番組を聴いていた。人はどうしてこのような愚かしい番組を制作し、わざわざ電波をつかってそれを広範な地域に散布しなくてはならないのだろう。  しかしそう言う牛河にしても、とくに高尚で生産的な作業に携わっているわけではない。安アパートの一室にこもってカーテンの陰に隠れ、人々を隠し撮りしているだけだ。他人の行いを高いところから偉そうに批判できる立場にはない。  何も今に限ったことではない。弁護士をしているときだって似たようなものだった。何か世の中の役に立つことをやったという記憶はない。いちばんの顧客は暴力団と結びついている中小の金融業者だった。牛河は彼らのもうけた金をどうすれば最も有効に分散できるかを考え、その段取りをつけた。要するに体の良いマネー?ロンダリングだ。地上げの仕事の一端も担った。古くからそこに住んでいる住民を追い出して広い更地にし、マンション業者に転売する。巨額の金が転がり込んでくる。これにもやはりその筋が絡んでいた。脱税容疑で起訴された人々の弁護も得意とした。依頼主の多くは一般の弁護士が二の足を踏むような胡散臭い種類の人々だった。牛河は依頼があれば(そしてそれがある程度の金になれば)相手が誰であれ躊躇しなかったし、腕も良かった。そこそこの結果も出した。だから仕事に不自由したことはない。教団「さきがけ」との関係もそのときにつくられたものだ。リーダーがなぜか個人的に彼を気に入ってくれた。  世間の弁護士がやることを普通にやっていたら、牛河はとても生計を立てることができなかっただろう。大学を出てほどなく司法試験に合格し、弁護士資格をとったものの、頼れるコネクションもなければ、後ろ盾もなかった。その外見のせいで有力な弁護士事務所には採用してもらえなかった。個人で事務所を開いても、当たり前にやっていればほとんど依頼もこなかったはずだ。牛河のような尋常とは言えない容貌を持つ弁護士を、高い報酬を払ってわざわざ雇いたいと思う人間は、世の中に多くはいない。おそらくはテレビの法廷ドラマのせいだろう、優秀な弁護士は知的で整った顔だちをしているものと世間一般の人々は考えている。  だから自然の成り行きとして、彼は裏社会と結びついていった。裏社会の人々は牛河の容貌をまったく気にとめなかった。むしろその特異性は、牛河が彼らに信用され受け入れられる要因のひとつになった。正常な世界に受け入れてもらえないという点においては、彼らと牛河は似た境遇にあったからだ。彼らは牛河の頭の回転の速さと、優秀な実務能力と口の堅さを認め、大きな金の動く(しかしおおっぴらにはできない)仕事を任せ、気前よく成功報酬を払ってくれた。牛河も素早く要領を呑み込み、違法ぎりぎりのところで司直から身をかわすコツを体得していった。彼は勘が良かったし、注意深くもあった。しかしあるとき、魔が差したというべきだろう、欲を出して見込み発進をし、ある微妙な一線を踏み越えてしまった。なんとか危いところで刑事罰こそ免れたものの、その結果東京弁護士会を除名されることになった。  牛河はラジオを消し、セブンスターを一本吸った。煙を肺の奥まで吸い込み、ゆっくりと吐き出した。桃の缶詰の空き缶を灰皿代わりに使った。こんな生き方を続けていれば、死に方もたぶんろくなものではないはずだ。遠からず足を踏み外し、どこか暗いところに一人ぼっちで落ちていくのだろう。俺が今この世界からいなくなっても、それに気がつく人間はまずいないはずだ。暗闇の中で悲鳴を上げても、その声は誰の耳にも届くまい。しかしそれにしても、死ぬまではとにかく生きていくしかないわけだし、生きていくには俺なりのやり方で生きていくしかない。あまり褒められた類のものではないにせよ、それ以外に俺が生きていく方法はないのだから。そしてその<傍点>あまり褒められたものではないものごとに関して言えば、牛河は世の中のほとんど誰よりも有能だった。  二時半に野球帽をかぶった少女がアパートの玄関から出てきた。彼女は荷物を持たず、足早に牛河の視野を横切っていった。彼はあわてて手の中のモータードライブのスイッチを押し、シャッターを三度切った。彼女の姿を目にするのはそれが初めてだった。痩せて手脚の長い、顔立ちの美しい少女だ。姿勢が良く、バレリーナのようにも見える。年齢は十六か十七、色提せたブルージーンズに白いスニーカーを履き、男物の革ジャンパーを着ていた。髪はジャンパーの襟の中にたくしこまれていた。彼女は玄関を出て数歩進んだところで立ち止まり、目を細めて正面にある電柱の上をひとしきり見上げた。それから視線を地面に戻し、また歩き出した。道路を左に折れて牛河の視野から消えていった。  その少女は誰かに似ていた。牛河の知っている誰かだ。最近目にしたことのある誰かだ。見かけからするとテレビ?タレントかもしれない。とはいっても牛河はニュース番組を別にすればテレビをまず見ないし、美少女タレントに興味を持った覚えもない。  牛河は記憶のアクセルを床まで踏み込み、頭脳をフルに回転させた。目を細め、雑巾を絞るように脳細胞を締め上げた。神経がきりきりと痛んだ。それから突然、その誰かが深田絵里子であることを知った。彼は深田絵里子の実物を目にしたことはない。新聞の文芸欄に載った写真でしか見ていない。それでもその少女が身にまとっている超然とした透明さは、その小さな白黒の顔写真から受けた印象とそっくり同じだった。彼女と天吾はもちろん『空気さなぎ』の書き直しを通じて顔を合わせているはずだ。彼女が天吾と個人的に親しくなり、彼の部屋に身を潜めているのもあり得ないことではない。  牛河はそれだけ考えると、ほとんど反射的にニット帽をかぶり、紺のピーコートを着て、マフラーを首にぐるぐると巻き付けた。そしてアパートの玄関を出ると、少女が歩き去った方に走った。  あの子はずいぶん足早に歩いていた。追いつくのは無理かもしれない。でも少女はまったくの手ぶらだった。それは彼女が遠くに行くつもりのないことを示している。尾行して相手の注意を引く危険を犯すよりは、おとなしくここで帰りを待っていた方が得策だろう。そう思いつつも牛河は、彼女のあとを追わないわけにはいかなかった。その少女には牛河を理屈抜きに揺り動かす何かがあった。夕暮れのある瞬間、神秘的な色合いを持つ光が、人の心中に特殊な記憶を呼び起こすのと同じように。  しばらく進んだところで、牛河は少女の姿を再び目にした。ふかえりは道ばたに立ち止まって、小さな文具店の店先を熱心にのぞき込んでいた。たぶん彼女の興味を惹くものがそこに置かれていたのだろう。牛河はさりげなく少女に背中を向け、自動販売機の前に立った。小銭をポケットから出し、温かい缶コーヒーを買った。  やがて少女はまた歩き出した。牛河は半分飲んだ缶コーヒーを足もとに置き、距離を十分にとってあとをつけた。見たところ少女は歩くという行為にひたすら神経を集中していた。さざ波ひとつない広い湖面を歩いて横断しているみたいな歩き方だ。このような特別な歩き方をすれば、沈むこともなく靴を濡らすこともなく水面を歩くことができる。そういう秘法を会得しているかのようだ。  この少女はたしかに何かを持っている。通常の人間が持ち合わせていない特殊な何かを。牛河はそう感じた。深田絵里子について彼は多くを知らない。今までに得た知識といえば、彼女がリーダーの一人娘であり、十歳の頃に「さきがけ」から単身逃亡し、戎野という高名な学者の家に身を寄せてそこで成長し、やがて『空気さなぎ』という小説を書き、川奈天吾の手を借りてそれをベストセラーにしたということくらいだ。今は行方不明になって、警察に捜索願が出されており、そのせいで「さきがけ」の本部が少し前に警察の捜索を受けた。 『空気さなぎ』の内容は教団「さきがけ」にとっていささか不都合なものであったらしい。牛河もその本を買って注意深くひととおり読んだが、小説の中のどの部分がどのように不都合だったのか、そこまではわからなかった。小説自体は面白くはあるし、ずいぶんうまく書かれている。文章は読みやすく端正であり、部分的には心を惹かれもする。しかし結局のところ罪のないただの幻想小説ではないか、彼はそう思った。またそれは世間の一般的な感想でもあるはずだった。死んだ山羊の口からリトル?ピープルが出てきて空気さなぎを作り、主人公はマザとドウタに分離し、月が二個になる。そんな幻想的なお話のいったいどこに、世間に知られては困る情報が隠されているというのだ? しかし教団の連中はその本に関して何か手を打たなくてはならないと心を決めているようだった。少なくとも一時期はそのように考えていた。  とはいえ深田絵里子が世間の注目を浴びているときに、どのようなかたちにせよ彼女に手出しすることはあまりにも危険だった。だからそのかわりに(と牛河は推測する)、教団の外部エージェントとして天吾と接触することを彼は求められた。その大柄な予備校講師とのあいだに何らかのコネクションをつくれと命じられた。  牛河から見れば天吾は、全体の流れの中では一介の脇役でしかない。編集者に頼まれて小説『空気さなぎ』の応募原稿を読みやすい筋の通ったものに書き換えた。仕事ぶりはなかなかみごとだったが、役割自体はあくまで補助的なものだ。なぜ天吾に彼らがそれほど関心を持たなくてはならないのか、牛河には今ひとつ納得がいかなかった。とはいえ牛河は下働きの兵隊に過ぎない。命じられたことを「はい、わかりました」と実行に移すだけだ。  しかし牛河が知恵を絞ってこしらえた比較的気前の良い提案は、天吾にあっさりと一蹴され、天吾とのあいだにコネクションをつくるという計画はそこで頓挫した。さて、次にどう出ようかと思案しているところで、深田絵里子の父親であるリーダーが死んでしまった。だから話はそのままになった。  現在の「さきがけ」がどのような方向を向き、何を求めているのか、牛河のあずかり知るところではない。リーダーを失った今、誰が教団の主導権を握っているのか、それもわからない。しかしとにかく彼らは青豆を見つけ出し、リーダー殺害の意図を解明し、背後関係を明らかにしようとしている。おそらくは厳しく処罰し復讐するためだろう。そして彼らはそこに司法を介入させまいと心を決めている。  深田絵里子についてはどうなのだろう。教団は小説『空気さなぎ』について、現在はどのように考えているのだろう。その本は彼らにとってまだ脅威であり続けているのだろうか?  深田絵里子は歩調を緩めることなく、後ろも振り向かず、まるで帰巣する鳩のようにどこかに向かって一直線に歩いていた。そのどこかが「マルショウ」という中規模のスーパーマーケットであることがほどなく判明した。ふかえりはそこでバスケットを手に列から列へと巡り、缶詰や生鮮食料品を選んだ。レタスひとつを買うにも、手にとっていろんな角度から細かく吟味をした。これは時間がかかりそうだと牛河は思った。だからいったんその店を出て、通りの向かい側にあるバス停留所に行き、バスを待つふりをしながら入り口を見張ることにした。  でもどれだけ待っても少女は出てこなかった。牛河はだんだん心配になってきた。ひょっとして別の出入り口から出ていったのかもしれない。しかし牛河が見る限り、そのスーパーマーケットの出入り口は表通りに面してひとつあるきりだった。たぶん買い物に時間がかかっているだけだ。レタスを手に考え込んでいる少女の妙に奥行きのない真剣な目つきを牛河は思い起こした。だから辛抱強く待つことにした。バスが三台やってきて行ってしまった。そのたびに牛河だけが取り残された。新聞を持ってこなかったことを牛河は悔やんだ。新聞を広げていれば顔を隠せる。誰かのあとをつけるときには新聞や雑誌が必需品になる。でも仕方ない。なにしろとるものもとりあえず慌てて部屋を飛び出してきたのだから。  ふかえりがようやく店から出てきたとき、腕時計は三時三十五分を指していた。少女は牛河のいるバス停の方には目もくれず、来た道を足早に戻った。牛河は間を置いてそのあとを追った。ふたつの買い物袋はかなり重そうだったが、少女は軽々と両腕にそれを抱え、水たまりを移動するアメンボウみたいにすいすいと道路を歩いていった。  不思議な娘だ、その後ろ姿を見守りながら牛河はあらためて思った。まるで珍しい異国の蝶々を眺めているみたいだ。ただ見ているぶんにはいい。しかし手を出してはならない。手を触れたとたんにそれは自然な生命を失い、本来の鮮やかさをなくしてしまう。それは異国の夢を見ることをやめてしまう。  ふかえりの居場所を発見したことを「さきがけ」の連中に教えるべきかどうか、牛河は頭の中で素早く計算をした。その判断はむずかしい。今ここでふかえりを差し出せば、それなりに点数は稼げるかもしれない。少なくともそれがマイナス材料になることはないはずだ。彼が着々と活動を続け、まずまずの成果をあげていることを教団に示すことはできる。しかしふかえりの処遇に巻き込まれているうちに、本来の目的である青豆を見つけるチャンスを逃がしてしまうかもしれない。それでは元も子もない。どうしたものだろう? 彼はピーコートのポケットに両手を突っ込み、鼻先までマフラーに埋め、行きよりも長い距離をとってふかえりのあとを歩いた。  俺がこの少女のあとをつけたのは、<傍点>ただその姿を眺めていたかったからかもしれない。牛河はふとそう思った。買い物袋を抱えて道路を歩いていく彼女を見ているだけで、彼の胸は重く厳しく締めつけられた。ふたつの壁のあいだに挟まれて身動きがとれなくなった人のように、そのまま進むことも退くこともできない。肺の動きが不規則でぎこちなくなり、生ぬるい突風の中に置かれたみたいにひどく息苦しくなった。これまでに味わったことのない奇妙な心持ちだった。  少なくとも今しばらく、この少女は放っておこうと牛河は心を定めた。最初のプランどおり青豆だけに焦点を絞ろう。青豆は殺人者だ。たとえどのような理由があったにせよ、罰せられるだけのことをした。彼女を「さきがけ」に引き渡すことに牛河は心の痛みを感じなかった。しかしこの少女は森の奥に生きる、柔らかな無言の生き物だ。魂の影のような淡い色合いの羽を持っている。遠くから眺めているだけにしよう。  ふかえりが紙袋を抱えてアパートの玄関に姿を消してから、しばらく間をおいて牛河も中に入った。部屋に戻ってマフラーと帽子を取り、再びカメラの前に座った。風に吹かれた頬がすっかり冷たくなっていた。煙草を一本吸い、ミネラル?ウォーターを飲んだ。何か辛いものをたくさん食べたあとのように喉がひどく渇いた。  夕暮れがやってきた。街灯に明かりがともり、人々が帰宅する時間が近くなった。牛河はピーコートを着たままリモコンのシャッター?スイッチを握り、アパートの玄関に視線を注いでいた。午後の陽光の記憶が薄れていくにつれて、空っぽの部屋は急速に冷え込んでいった。昨日よりも更に寒い夜になりそうだ。駅前にある電気器具量販店に行って電気ストーブか電気毛布を買ってこようと牛河は思った。  深田絵里子が再びアパートの玄関に出てきたとき、腕時計の針は四時四十五分を指していた。黒いタートルネックのセーターにブルージーンズという、さっきと同じかっこうだ。しかし革ジャンパーは着ていない。ぴったりとしたセーターは、彼女の胸のかたちを鮮やかに浮かび上がらせていた。細い体つきなのに乳房は大きい。ファインダーを通してその美しい膨らみに目をやっているうちに、牛河は再び締めつけられるような息苦しさを感じた。  上着を着ていないところを見ると、やはり遠くに出かけるつもりはなさそうだった。少女は前回と同じように玄関先で立ち止まり、目を細めて電柱の上を見上げた。あたりは暗くなりかけていたが、目をこらせばまだ事物の輪郭を見分けることはできる。彼女はしばらくそこに何かを探し求めていた。しかし目当てのものは見つからないようだった。それから彼女は電柱を見上げるのをやめ、鳥のように首だけを曲げて周辺を見回した。牛河はリモコンのスイッチを押して、少女の写真を撮った。  まるでその音を聞きつけたかのように、ふかえりはさっとカメラの方を向いた。そしてファインダーを通して牛河とふかえりは向かい合うかっこうになった。牛河の方からはもちろんふかえりの顔がはっきり見える。彼は望遠レンズを覗いている。しかし同時にふかえりも、レンズの反対側から牛河の顔をじっと覗き込んでいた。彼女の目はレンズの奥にいる牛河の姿を捕らえている。滑らかな漆黒の瞳には牛河の顔がくっきりと映っている。そんな妙に直接的な接触感があった。彼は唾を飲み込んだ。いや、そんなはずはない。彼女の位置からは何も見えないはずだ。望遠レンズはカモフラージュされているし、タオルでくるんで消音したシャッター音はそこまでは届かない。それでも少女は玄関先に立ち、牛河の潜んだ方向を見ていた。その感情を欠いた視線をただ揺るぎなく牛河に注いでいた。星明かりが名もなき岩塊を照らすように。  長いあいだ——どれほどの時間なのか牛河にはわからない——二人は互いを見つめていた。それから突然彼女は体をねじるように後ろを向き、足早に玄関の中に入っていった。見るべきものはすべて見たとでもいうように。少女の姿が見えなくなると、牛河は肺をいったん空っぽにし、少し時間をおいて新しい空気で満たした。冷ややかな空気が無数の棘となって、胸を内側から刺した。  人々が帰宅し、昨夜と同じように玄関の明かりの下を次々に横切っていったが、牛河はもうカメラのファインダーを覗いてはいなかった。彼の手はシャッターのリモコンを握ってはいなかった。その少女の留保のない率直な視線は、彼の身体からあらゆる力をもぎ取り、持っていってしまったようだった。なんという視線だろう。それは研ぎ澄まされた鋼の長い針のように、彼の胸を一直線に刺し貫いていた。背中まで突き抜けそうなくらい深々と。  あの少女は知っている。自分が牛河に密かに見つめられていることを。カメラで隠し撮りされていることも知っている。何故かはしらないがふかえりにはそれが<傍点>わかるのだ。おそらくは一対の特別な触覚を通して、彼女はその気配を感じ取ることができる。  ひどく酒が飲みたかった。できることならウィスキーをグラスになみなみと注いで、そのまま一口で飲み干したかった。外に買いに出ようかとさえ考えた。すぐ近くに酒屋がある。しかし結局はあきらめた。酒を飲んだところで、何かが変わるわけではない。彼女はファインダーの向こう側から俺を見た。ここに潜んで人々を盗撮している俺のいびつな頭と薄汚れた魂を、あの美しい少女は視てとったのだ。その事実はどこまでいっても変わりはしない。  牛河はカメラの前を離れ、壁にもたれ、しみの浮いた暗い天井を見上げた。そのうちに何もかもが空しく思えてきた。自分がひとりぼっちであることをこれほど痛感したことはなかった。暗闇をこれほど暗いと感じたこともなかった。彼は中央林間の一軒家のことを思い出し、芝生の庭と犬のことを思い出し、妻と二人の娘を思い出した。そこに照っていた太陽の光を思い出した。そして二人の娘の中に送り込まれたはずの自分の遺伝子のことを考えた。いびつな醜い頭とねじくれた魂を持った遺伝子のことを。  何をしたところで無駄だという気がした。彼は配られたカードを使い切ったのだ。もともとたいした手ではない。しかし努力を重ね、その不十分な手札を最大限に利用してきた。頭をフルに回転させ、賭け金を巧妙にやりとりした。一時期はそれでけっこううまくいくようにも見えた。しかしもう手元には一枚のカードもない。テーブルの明かりは消され、集まっていた人々はみんなどこかに引き上げてしまった。  結局その夕方は一枚の写真も撮らなかった。壁にもたれて目を閉じ、何本かセブンスターを吸い、また桃の缶詰を開けて食べた。時計が九時を指すと、洗面所に行って歯を磨き、服を脱いで寝袋の中に潜り込み、震えながら眠ろうとした。冷え込む夜だった。しかし彼の震えは夜の寒さだけによってもたらされたのではなかった。冷気は彼の身体の内部からやってくるように思えた。俺はいったいどこに行こうとしているのだろう、と牛河は暗闇の中で自らに問いかけた。だいたい俺はどこからやってきたのだろう。  少女の視線に刺し貫かれた痛みは、まだ胸に残っていた。ひょっとしたら永遠に消えることはないのかもしれない。あるいはそれはずっと以前からそこにあったもので、俺は今までその存在に気づかなかっただけなのだろうか。  翌朝、牛河はチーズとクラッカーにインスタント?コーヒーという朝食を食べ終えると、気を取り直して再びカメラの前に座った。前日と同じようにそのアパートを出て行く人々を観察し、写真を何枚か撮った。しかしそこには天吾の姿も、深田絵里子の姿もなかった。背を丸めた人々が、新しい一日の中に惰性的に足を踏み出していく光景が見えるだけだ。快晴の風の強い朝だった。人々は白い息を口から吐き、それを風が散らした。  余計なことは考えないようにしようと牛河は思った。皮膚を厚くし、心の殻を固くし、日々をひとつまたひとつと規則正しく重ねていくのだ。俺はただの機械に過ぎない。有能で我慢強く無感覚な機械だ。一方の口から新しい時間を吸い込み、それを古い時間に換えてもう一方の口から吐き出す。存在すること、それ自体がその機械の存在事由なのだ。もう一度そのような混じりけのない純粋なサイクル——いつか終わりを迎えるであろう永久運動——に復帰しなくてはならない。彼は意志を堅くし、心の蓋を閉ざすことで、ふかえりのイメージを脳裏から追い払おうとした。少女の鋭い視線が残していった胸の痛みはずいぶん薄れ、今では時折の鈍い疼きに変わっていた。それでいい、と牛河は思う。それでいい。なによりだ。俺は複雑なディテールを持った単純なシステムなのだ。  昼前に牛河は駅前の量販店に行って小さな電気ストーブを買った。それから前と同じ蕎麦屋に入って新聞を広げ、温かい天ぷらそばを食べた。部屋に戻る前にアパートの入り口に立って、ふかえりが昨日熱心に見上げていた電柱の上あたりに目をやった。しかし彼の注意を引くようなものは何も見当たらなかった。黒々とした太い電線が空中で蛇のように絡み合い、変圧器が据えられているだけだ。あの少女はそこにある何を見つめていたのだろう。あるいは何をそこに求めていたのだろう。  部屋に戻って電気ストーブをつけてみた。スイッチを入れるとすぐにオレンジ色の光がともり、肌に親密な温もりを感じることができた。十分な暖房とはとてもいえないが、あるとないとではずいぶん違う。牛河は壁にもたれて軽く腕組みをし、小さな日だまりの中で短く眠った。夢も何もない、純粋な空白を思わせる眠りだった。  それなりに幸福な深い眠りを終わらせたのはノックの音だった。誰かが部屋のドアをノックしている。目を覚ましてあたりを見回したとき、自分が今どこにいるのか一瞬わからなくなった。それから傍らにある三脚つきのミノルタの一眼レフを目にして、そこが高円寺のアパートの一室であることを思い出した。誰かがその部屋のドアを拳で叩いている。どうしてノックなんかするのだろう、牛河は意識を急いでかき集めながら不思議に思った。戸口にはドアベルがついている。それを指で押せばいいだけだ。簡単なことだ。なのにその誰かはわざわざノックをしていた。それもずいぶん強いノックだ。彼は顔をしかめ、腕時計に目をやった。一時四十五分。もちろん午後の一時四十五分だ。外は明るい。  牛河はもちろんそのノックに応えなかった。彼がここにいることは誰も知らない。誰かが尋ねてくる予定もない。おそらくセールスマンか新聞の勧誘か、そんなところだ。向こうはあるいは牛河を必要としているかもしれないが、牛河の方は彼らを必要とはしていない。彼は壁にもたれたままドアを睨み、沈黙をまもった。そのうちにあきらめてどこかに行ってしまうだろう。  しかしその誰かはあきらめなかった。間を置いて何度もノックを繰り返した。一連のノックがあり、十秒か十五秒ばかり休止があり、それから再びノックが続いた。躊躇や迷いのない断固としたノックで、音は不自然なくらい均質だった。そしてそれは一貫して牛河の応答を要求していた。牛河は次第に不安になってきた。ひょっとしたらドアの外にいるのは深田絵里子かもしれない。卑劣な隠し撮りをしている牛河を非難し詰問するために、ここにやってきたのかもしれない。そう思うと心臓の鼓動が早くなった。彼は太い舌で素早く唇を舐めた。しかし彼が耳にしているのはどう考えても、成人男性の大きな硬い拳がスチールのドアを叩いている音だ。少女の手ではない。  あるいは深田絵里子が誰かに牛河の行為を通報し、その誰かが出向いてきたのかもしれない。たとえば不動産会社の担当者とか、それとも警官とか。もしそうだとしたら、話は面倒になる。しかし不動産会社の人間なら合い鍵を持っているし、警官なら自分たちが警察官であることをまず名乗るだろう。それに彼らはわざわざノックなんかしない。ドアベルを鳴らせばいいだけだ。 「神津《こうづ》さん」と男の声が言った。「神津さん」  神津というのがこの部屋の以前の住人の名前であることを牛河は思い出した。郵便受けの名札もそのままにしてある。その方が牛河にとって都合良かったからだ。この男は神津という人物がまだこの部屋に住んでいると思っている。 「神津さん」とその声は言った。「あなたがそこにいることはわかっております。そんな風に部屋に閉じこもって息を詰めておると、身体によくありませんよ」  中年の男の声だ。それほど大きくはない。いくぶんしゃがれてもいる。しかしその中心には堅い芯のようなものがあった。しっかりと焼いて丁寧に乾燥させられた煉瓦の持つ堅さだ。そのせいだろう、声はアパート全体に響き渡るくらいよく通った。 「神津さん、わたくしはNHKのものです。月々の受信料をいただきにあがりました。ですからドアを開けていただけませんか」  牛河にはもちろんNHKの受信料を払うつもりはなかった。実際に部屋を見せて説明すれば話は早い。ほら、テレビなんてどこにもないでしょうと。しかし牛河のような特異な相貌の中年男が、家具ひとつない部屋に昼間から一人で閉じこもっているとなると、怪しまれないわけがない。 「神津さん。テレビを持っている人は受信料を払わなくちゃならないと、法律で決まっております。よく『俺はNHKなんか見ない。だから受信料は払わない』というようなことをおっしゃる方がおられます。しかしそんな理屈は通りません。NHKを見ていようがいるまいが、テレビがあれば受信料はいただくんです」  ただのNHKの集金人だ、と牛河は思う。好きなことを言わせておけばいい。相手にしなければそのうちに行ってしまうだろう。しかしこの部屋の中に人がいることを、どうしてそこまで確信できるのだろう。一時間ほど前に部屋に戻ってきてから、牛河は外に出ていない。音もほとんど立てず、カーテンも閉めっぱなしにしている。 「神津さん、あなたが部屋の中におられることは、ちゃんとわかっております」と男は牛河の心を読んだように言った。「どうしてそんなことがわかるのかって、不思議に思われるでしょう。でもわかるのです。あなたはそこにいて、NHKの受信料を払うのがいやさにじっと息を殺している。わたくしにはそれが手に取るようにわかります」  ノックの音がひとしきり均質に続いた。管楽器のブレスのような束の間の休止があり、それから再び同じリズムでドアがノックされた。 「わかりました、神津さん。あなたはあくまで<傍点>しらを切ろうと心を決めておられるようだ。いいでしょう、今日のところは引き上げます。わたくしにもほかにやらなくちゃならんことがあります。しかしまたうかがいます。嘘じゃありませんよ。来ると言ったら、必ずまた参ります。わたくしはそのへんのありきたりの集金人とは違います。いただくべきものをいただくまで、決してあきらめません。それはしっかり決まっておることなんです。月の満ち欠けや、人の生き死にと同じように。あなたはそれを逃れることはできません」  長い沈黙があった。もういなくなったのかと思った頃、集金人は言葉を続けた。 「近いうちにお目にかかりましょう、神津さん。楽しみにしててください。あなたが予期もしていないとき、ドアがノックされます。<傍点>どんどんと。それはわたくしです」  それ以上のノックはなかった。牛河は耳を澄ませた。廊下を去っていく靴音が聞こえたような気がした。すぐにカメラの前に移動し、カーテンの隙間からアパートの玄関を注視した。集金人はアパート内での集金作業を終えて、ほどなくそこから出てくるはずだ。どんな様子の男なのか確認しておく必要がある。NHKの集金人なら制服を着ているからすぐわかる。あるいは本物のNHKの集金人ではないのかもしれない。誰かが集金人を騙って、牛河にドアを開けさせようとしたのかもしれない。いずれにせよ、相手はこれまでに目にしたことのない男であるはずだ。彼はシャッターのリモコン?スイッチを右手に握り、それらしき人物が玄関に現れるのを待ち受けた。  しかしそれから三十分間、アパートの玄関を出入りする人間は誰一人いなかった。やがてこれまでに何度か見たことのある中年の女が玄関に姿を見せ、自転車に乗って出ていった。牛河は彼女を「あご女」と呼んでいた。顎の肉が垂れていたからだ。半時間ばかりが経過し、あご女が買い物袋をかごに入れて戻ってきた。女は自転車を自転車置き場に戻し、袋を抱えてアパートに入っていった。そのあとに小学生の男の子が帰宅した。牛河はその子供に「きつね」という名前をつけていた。狐のようなつり上がった目をしていたからだ。しかし集金人らしき人物はついに姿を見せなかった。牛河にはわけがわからなかった。アパートの出入り口はそこひとつしかない。そして牛河は一秒たりともその戸口から目を離していない。集金人が出てこなかったというのは、彼が<傍点>まだ中にいるということだ。  牛河はそのあとも休みなく玄関を監視していた。洗面所にもいかなかった。日が落ちてあたりが暗くなり、玄関の明かりが灯った。しかしそれでも集金人は出てこなかった。時刻が六時を過ぎたところで牛河はあきらめた。そして洗面所に行って我慢していた小便をした。あの男は間違いなくまだこのアパートの中にいる。どうしてかはわからない。理屈も通らない。しかしその奇妙な集金人はこの建物の中に留まることにしたのだ。  冷ややかさを増した風が、凍えた電線のあいだを鋭い音を立てて吹き抜けていた。牛河は電気ストーブをつけ、煙草を一本吸った。そして謎の集金人について推理を巡らせた。彼はなぜあのような挑発的なしゃべり方をしなくてはならないのか。部屋の中に人がいることを、なぜあれほどまで確信していたのか。そしてなぜアパートから出ていかなかったのか。ここから出ていかなかったのなら、今どこにいるのか?  牛河はカメラの前を離れ、壁にもたれて電気ストーブのオレンジ色の熱線を長いあいだじっと睨んでいた。 第17章 青豆 一対の目しか持ち合わせていない  電話のベルが鳴ったのは風の強い土曜日だった。時刻は午後八時に近かった。青豆はダウン?ジャケットを着込み、毛布を膝にかけてベランダの椅子に座り、目隠し板のあいだから水銀灯に照らされた滑り台を見守る。両手はかじかむことがないように、毛布の中に入れられている。無人の滑り台は氷河期に死滅した大型動物の骨格のように見える。  冷え込む夜に長く屋外に座っているのは、胎児のためには好ましいことではないのかもしれない。でもこの程度の寒さならとくに問題はないだろうと青豆は思う。どれだけ身体の表面が冷えても、羊水は血液とほぼ同じ温かさに保たれている。世界にはこれとは比較にならないくらい寒く厳しい場所が数多くある。そこでも女たちは怠りなく子供を産んでいる。そしてなんといってもこの寒さは、天吾と巡り合うために私がくぐり抜けなくてはならない寒さなのだ。  大きな黄色の月と小さな緑色の月がいつものように、冬の空に並んで浮かんでいる。様々なかたちと大きさの雲が空を素速く吹き流されていく。雲は白く緊密で、輪郭がくっきりとして、雪解けの川を海に向けて運ばれていく堅い氷塊のようにも見える。いずこからともなく現れて、いずこへともなく消えていくそんな夜の雲を見ていると、自分が世界の果てに近い場所に運ばれてきたような感覚があった。ここが理性の極北なのだ、青豆はそう思う。ここより北にはもう何も存在しない。その先にはただ虚無の混沌が広がっているだけだ。  ガラス戸はごく僅かな隙間を残して閉じられていたから、電話のベルは小さくしか聞こえない。そして青豆は物思いに耽っていた。しかし彼女の耳はその音を聞き逃さない。ベルは三度鳴って止み、その二十秒後にもう一度鳴りだす。タマルからの電話だ。膝から毛布をどかし、白く曇ったガラス戸を開けて部屋の中に入る。部屋の中は暗く、適度に暖房がきいている。彼女は寒さを残した指で受話器をとる。 「プルーストは読んでいるか?」 「なかなか前に進まない」と青豆は答える。まるで合い言葉のやりとりのように。 「好みにあわなかったか?」 「そうじゃない。でもなんて言えばいいのかしら、それはこことは違うまったく別の世界について書かれた話のように思える」  タマルは黙って話の続きを待つ。彼は急いでいない。 「別の世界というか——私の生きている<傍点>この世界から何光年も離れたある小惑星についての、詳細な報告書を読んでいるような感じがするのよ。そこに描かれた情景のひとつひとつを受け入れ、理解することはできる。それもずいぶん鮮やかに克明に。しかしここにある情景とその情景とがうまく結びつけられない。物理的にあまりにも遠く離れているから。だからしばらく読み進むと、前に戻ってまた同じところを読み返すことになる」  青豆はそれに続く言葉を探す。タマルはなおも待っている。 「でも退屈するわけじゃない。緻密に美しく書かれているし、その孤独な小惑星の成り立ちのようなものを私なりに呑み込めもする。ただなかなか前には進まないということ。ボートを川の上流に向けて漕いでいるみたいにね。しばらくオールをつかって漕いで、それから手を休めて何かについて考えているうちに、気がついたらボートはまたもとの場所に戻っている」と青豆は言う。 「でも今の私には、そういう読み方があってるのかもしれない。筋を追って前に前にと進んでいく読み方よりはむしろ。なんて言えばいいのかしら、時間が不規則に揺らぐ感覚がそこにはある。前が後ろであっても、後ろが前であっても、どちらでもかまわないような」  青豆はより正確な表現を探し求める。 「なんだか他人の夢を見ているみたいな気がする。感覚の同時的な共有はある。でも同時であるというのがどういうことなのかが把握できないの。感覚はとても近くにあるのに、実際の距離はひどく離れている」 「そういう感覚はプルーストが意図したものなのだろうか?」  青豆にはもちろんそんなことはわからない。 「いずれにせよ、その一方で」とタマルは言う。「この現実世界では時間は着実に前に進んでいる。滞りもしないし、逆戻りもしない」 「もちろん。現実の世界では時間は前に進んでいる」  青豆はそう言いながら、ガラス戸に目をやる。本当にそうだろうか? 時間は確実に前に向かって進んでいるのだろうか? 「季節は移り、1984年もそろそろ終わりに近づいている」とタマルは言う。 「今年中に『失われた時を求めて』を読み終えることはたぶんできないと思う」 「かまわない」とタマルは言う。「好きなだけ時間をかければいい。五十年以上前に書かれた小説だ。一刻を争う情報が詰まっているわけでもない」  そうかもしれない、と青豆は思う。でもそうじゃないかもしれない。彼女には時間というものがもうそれほど信用できない。  タマルは尋ねる。「それで、<傍点>あんたの中にあるものは元気にしているか?」 「今のところ問題なく」 「それはなによりだ」とタマルは言う。「ところでうちの屋敷のまわりをうろうろしていた、正体不明の禿のちんちくりん男の話は聞いたね?」 「聞いた。その男はまだ出没しているの?」 「いや、このあたりではもう姿を見かけない。二日ばかりあたりをうろうろして、それっきり消えてしまった。しかしその男は近隣の不動産屋をまわって、賃貸物件を探すふりをして、セーフハウスについての情報を集めている。なにしろ目立つ外見だ。おまけにずいぶん派手な服を着ている。話をした人間はみんなそいつのことをよく覚えている。足跡をたどるのは簡単だった」 「調査や偵察には向かない」 「そのとおりだ。そういう仕事には不向きな風貌だ。福助みたいなでかい頭を持っている。しかしなかなか腕の立つ男らしい。足を使って要領よく情報を集めている。どこに行って何を訊けばいいか、段取りを心得ている。それなりに頭の回転も速そうだ。必要なことは外していないし、必要でないことはやっていない」 「そしてセーフハウスについてある程度の情報を集めることができた」 「それが家庭内暴力に悩む女性たちのための避難所であり、マダムによって無償で提供されたことを彼は摑んでいる。マダムがあんたの勤めていたスポーツ?クラブの会員であることも、あんたが彼女の個人指導のためにこの屋敷をよく訪れていたことも、おそらくはもう摑んでいるだろう。もし俺がその男なら、それくらいは調べ上げるだろうから」 「その男はあなたと同じくらい優秀だと?」 「現実的な手間を惜しまず、情報を集めるコツを心得て、論理的にものを考える訓練を積んでいれば、それくらい誰にだってわかる」 「そういう人が世の中に数多くいるとは思えないけれど」 「少しはいる。一般的にプロと呼ばれている」  青豆は椅子に腰を下ろし、鼻の頭に指をやる。そこには外の冷たさがまだ残っている。 「そしてその男はもう屋敷の周辺には姿を見せなくなった」と彼女は尋ねる。 「自分の姿が目につきすぎることを承知している。監視カメラが作動していることも知っている。だから短い間に集められるだけの情報を集めて、別の猟場に移った」 「つまりその男は今では、私とマダムとのあいだの繋がりに気づいている。それがスポーツ?クラブのトレーナーと、裕福なクライアントという以上の意味を持つことも、そこにセーフハウスが関わっていることも。私たちが何らかのプロジェクトを進行させていたことも」 「おそらく」とタマルは言う。「俺が見るところ、そいつはものごとの核心へと近づいている。じりじりと」 「でも話を聞いていると、その男は大きな組織の一員というよりは、むしろ単独行動をしているような印象を受ける」 「ああ、俺もだいたい同じ考えを持っている。何か特別の目論見《もくろみ》でもない限り、大きな組織がそんな目立つ外見の男を、内密な調査の仕事に用いることはあり得ない」 「じゃあその男は何のために、誰のためにそんな調査をしているのかしら?」 「さあね」とタマルは言う。「わかっているのは、そいつが有能であり、危険だということだけだ。それ以上のことは、今のところただ推測するしかない。なんらかのかたちで『さきがけ』がそこに絡んでいるというのが、俺の控えめな推測だが」  青豆はその控えめな推測について考える。「そしてその男は猟場を変えた」 「そうだ。どこに移ったかそいつはわからん。しかし論理的に推察して、彼がそのあと向かいそうなところは、あるいは目指すところは、今あんたの隠れている場所だ」 「しかしこの場所を見つけ出すのは不可能に近いとあなたは私に言った」 「そのとおりだ。マダムとそのマンションの関連性はいくら調べても浮かび上がってこない。繋がりは徹底的に消去されている。しかしそれは短期間に限っての話だ。籠城が長びけば、綻《ほころ》びはやがてどこかに出てくるものだ。思いも寄らぬところに。たとえばあんたがふらふらと外に出ていって、たまたま目撃されたりすることがあるかもしれない。ひとつの可能性として」 「私は外には出ていない」と青豆はきっぱりと言う。それはもちろん真実ではない。彼女は二度この部屋を離れた。一度は天吾を求めて向かいの児童公園まで走ったとき。もう一度は出口を求めて首都高速道路三号線三軒茶屋近くの待避スペースまでタクシーに乗ったとき。しかしそれをタマルに打ち明けるわけにはいかない。 「だとしたら、その男はどうやってこの場所を探り当てようとするかしら?」 「もし俺がそいつだったら、俺はあんたの個人情報を今一度洗い直すだろう。あんたがどんな人間で、どんなところからやってきて、これまで何をしてきたか、今どんなことを考えているか、何を求めているか、何を求めていないか、少しでも多くの情報を集め、机の上にずらりと並べて、徹底的に検証し解析する」 「丸裸にされるということね?」 「そうだよ。明るく冷たい光の下であんたを丸裸にするんだ。ピンセットや虫眼鏡を使って隅から隅まで調べあげ、あんたの考え方や行動のパターンを見つけ出す」 「よくわからないけれど、そういう個人的なパターンの解析が、結果的に今私のいる場所を指し示すことになるのかしら?」 「それはわからん」とタマルは言った。「指し示すかもしれないし、示さないかもしれない。ケース?バイ?ケースだ。ただ<傍点>俺ならそうすると言っているだけだよ。ほかにやるべきことは思いつかないからな。どんな人間にも思考や行動の定型は必ずあるし、定型があればそこに弱点が生まれる」 「なんだか学術調査みたい」 「定型がなければ人は生きていけない。音楽にとってのテーマと同じだ。しかしそれは同時に人の思考や行動にたがをはめ、自由を制約する。優先順位を組み替え、ある場合には論理性を歪める。今回の状況に即して言えば、あんたは今いる場所から動きたくないと言う。少なくとも今年の末までは、より安全な場所に移ることを拒否している。何故ならあんたはそこで何かを探しているからだ。その何かが見つかるまでは、そこを離れられない。あるいは離れたくない」  青豆は黙っている。 「それが何なのか、どれほど強くあんたがそれを求めているのか、詳しい事情は俺にもわからんし、あえて訊くつもりもない。しかし俺の目から見れば、その<傍点>何かが今のところあんたの抱えている個人的弱点ということになる」 「そうかもしれない」と青豆は認める。 「福助頭はおそらくその部分をついてくるだろう。あんたを束縛しているその個人的要因を、容赦なく。それが突破口になるとやつは考える。もしそいつが俺の想像するくらい優秀で、情報の断片を辿ってそこまで行き着けたらということだが」 「辿り着けないと思う」と青豆は言う。「私とその<傍点>何かを結びつける道筋を見つけることはまずできない。それは私の心の中にとどまっているものだから」 「百パーセントの確信を持ってそう言えるか?」  青豆は考える。「百パーセントの確信はない。九十八パーセントというところね」 「それじゃ、その二パーセントについて真剣に心配した方がよさそうだな。さっきも言ったが、俺の見たところその男はプロだ。優秀で我慢強い」  青豆は黙っている。  タマルは言う。「プロというのは猟犬と同じだ。普通の人間には嗅ぎ取れない匂いを嗅ぎとり、普通の人間には聞こえない音を聞きとる。普通の人間と同じことを同じようにしていたらプロにはなれない。たとえなれたとしてもあまり長生きはできない。だから注意した方がいい。あんたは注意深い人間だ。そのことは俺もよく知っている。しかしこれまで以上によくよく注意をした方がいい。いちばん大事なものごとはパーセンテージでは決まらない」 「ひとつ質問したいことがあるんだけど」と青豆は言う。 「どんなことだろう」 「もし福助頭がもう一度そちらに現れたら、あなたはどうするつもり?」  タマルはしばし沈黙する。それは彼が予期しない質問であったようだ。「たぶん何もしない。放っておく。このあたりでそいつにできることはほとんど何もない」 「しかしもしその男が何か気に障ることをやり始めたら?」 「たとえばどんなことを?」 「わからない。とにかくあなたがうるさく感じるようなことを」  タマルは喉の奥で短く音を立てる。「そのときは何らかのメッセージを送るだろう」 「プロ同士のメッセージね?」 「まあな」とタマルは言う。「しかし具体的な行動を起こす前に、その男が誰かと組んで動いているのかどうか確認する必要がある。もしバックアップがついていたら、逆にこちらが危うい立場に置かれるからな。そのあたりを見定めてからしか動けない」 「プールに飛び込む前に、水深を確認する」 「言うなれば」 「でも彼は単独行動しているとあなたは踏んでいる。バックアップはないだろうと」 「ああ、俺はそう踏んでいる。しかし経験的に言って、俺の勘はたまに外れることがある。そして俺の頭の裏側には残念ながら目がついていない」とタマルは言う。「いずれにせよ注意深くまわりに目を配ってくれ。不審な人間がいないか、風景が変化していないか、いつもとは違うことが起こっていないか。どんな小さな変化でもいい、気づいたことがあれば知らせてくれ」 「わかった。注意する」と青豆は言う。言われるまでもない。私は天吾の姿を求めて、どんな些細なことも見落とすまいと努めている。とはいえ私だって、もちろん一対の目しか持ち合わせていない。タマルの言うとおりだ。 「俺からの話はそれくらいだ」 「マダムは元気かしら?」と青豆は尋ねる。 「元気だ」とタマルは言う。それから付け加える。「ただいくらか無口になったかもしれない」 「もともと多くを語る人ではなかったけれど」  タマルは喉の奥で小さくうなる。彼の喉の奥には特殊な感情を表すための器官が備わっているようだ。「<傍点>更に、ということだよ」  温室のキャンバスチェアに一人腰を下ろし、静かに飛び交う蝶を飽きることなく眺めている老婦人の姿を青豆は想像する。足もとには大きなじょうろが置かれている。老婦人がどれくらいひっそりと呼吸をするか、青豆はよく知っている。 「次回の荷物にマドレーヌを一箱入れておこう」とタマルは最後に言う。「それがあるいは時間の流れに良い影響を及ぼすかもしれない」 「ありがとう」と青豆は言う。  青豆は台所に立ってココアをつくる。再びベランダに出て監視につく前に、身体を温めておく必要がある。手鍋に牛乳を沸かし、ココアの粉を溶く。それを大ぶりのカップに空け、作り置きのホイップクリームを浮かべる。食卓の前に座り、タマルとのやりとりをひとつひとつ思い出しながらゆっくりそれを飲む。明るく冷たい光の下で、いびつな福助頭の手によって私は丸裸にされようとしている。彼は腕の立つプロで、そして危険だ。  ダウン?ジャケットを着てマフラーを首に巻き、半分飲んだココアのカップを手に青豆はベランダに戻る。ガーデンチェアに腰を下ろし、毛布を膝にかける。滑り台は相変わらず無人だ。ただそのときちょうど公園を出ていく子供の姿が目につく。こんな時間に一人で公園を訪れる子供がいるというのは奇妙だ。ニットの帽子をかぶった、ずんぐりとした体躯の子供だ。しかしベランダの目隠し板の隙間から急な角度で見下ろすかっこうになるし、子供は青豆の視野を素早く横切っただけで、すぐに建物の陰に姿を消してしまう。子供にしては頭が大きすぎるように見えたが、それは気のせいかもしれない。  でもとにかくそれは天吾ではない。だから青豆はそれ以上気にかけることもなく、再び滑り台に目をやり、空を次々に流されていく雲の群れに目をやる。ココアを飲み、そのカップで手のひらを温める。  青豆がそのとき一瞬目にしたのは、もちろん子供なんかではなく、牛河その人だった。もう少し明るいところであれば、あるいはもう少し長くその姿を見ることができていれば、頭の大きさが少年のものではないことに彼女は当然気づいたはずだ。そしてその福助頭のちびが、タマルの指摘した男と同一人物であることに思い至ったはずだ。しかし青豆が彼の姿を目にしたのはわずか数秒のことだし、見る角度も万全なものではなかった。また幸いなことにそれと同じ理由で、牛河もベランダに出てきた青豆の姿を目にすることはなかった。  ここでいくつかの「もし」が我々の頭に浮かぶ。<傍点>もしタマルが話をもう少し短く切り上げていたなら、もし青豆がそのあと考え事をしながらココアをつくっていなかったら、彼女は滑り台の上から空を見上げる天吾の姿を目にしたはずだ。そしてすぐさま部屋を走り出て、二十年ぶりの再会を果たしていたはずだ。  しかし同時に、もしそうなっていたら、天吾を監視している牛河には、それが青豆であることがすぐにわかっただろうし、彼は青豆がどこに住んでいるかをつきとめ、「さきがけ」の二人組に即刻通報したことだろう。  だからそこで青豆が天吾の姿を目にしなかったことが、不運な成り行きであったのか、あるいは幸運な成り行きであったのか、それは誰にも判断できない。いずれにせよ天吾は前と同じように滑り台の上にのぼり、空に浮かんでいる大小ふたつの月と、その前を横切っていく雲をひとしきり眺めた。牛河は離れた物陰からそんな天吾を監視していた。そのあいだ青豆はベランダを離れ、電話でタマルと会話をし、そのあとココアをつくって飲んだ。そのようにして二十五分ばかりの時間が流れた。ある意味では決定的な二十五分間だ。青豆がダウン?ジャケットを着て、ココアのカップを手にベランダに戻った時、天吾は既に公園をあとにしていた。牛河はすぐには天吾のあとを追わなかった。一人で公園に残って確かめなくてはならないことがあったからだ。それを済ませると牛河は足早に公園を立ち去った。その最後の数秒間を青豆はベランダから目撃したのだ。  雲は前と同じように速いスピードで空を横切っていった。それは南に流され、東京湾の上に出て、更に広大な太平洋に出ていくはずだ。そのあと雲がどのような運命をたどるのかはわからない。死後の魂のあり方を誰も知らないのと同じように。  いずれにせよ輪は縮まっていた。しかし青豆も天吾も、自分たちのまわりで輪が急速に縮まりつつあることを知らなかった。牛河はいくらかその動きを感じていた。彼自身がその輪を縮めるべく活発に動いていたのだから。しかしその彼にもまだ全体像は見えていない。肝心なことを彼は知らない。自分と青豆とのあいだの距離が、僅か数十メートルにせまっていたことを。そして牛河にしては珍しいことだが、公園を立ち去るとき、彼の頭はとりとめなく混乱し、順序立ててものを考えることができなくなっていた。  十時になると冷え込みはいっそう厳しくなった。青豆はあきらめて立ち上がり、暖房のきいた部屋に入る。服を脱ぎ、温かい風呂に入る。湯につかって身体に染みこんだ冷気を取り除きながら、手のひらを下腹にあてる。わずかに膨らみが感じられる。目を閉じて、そこにいる<傍点>小さなものの気配を感じ取ろうとする。時間はあまり残されてはいない。青豆はなんとしてでも天吾に教えなくてはならない。彼の子供を身ごもっていることを。死力を尽くしてそれを護ろうとしていることを。  服を着替えてベッドに入り、暗闇の中で横向きになって眠る。深い眠りに入る前のひととき、老婦人の夢を見る。青豆は「柳屋敷」の温室にいて、老婦人と共に蝶々を眺めている。温室は子宮のように薄暗く温かい。彼女が部屋に残してきたゴムの木もそこに置かれている。よく手入れされ、見違えるように元気になって、鮮やかな緑を取り戻している。見たこともない南国の蝶がその肉厚の葉にとまっている。蝶はカラフルな大きな羽を折り畳み、安心して眠り込んでいるようだ。青豆はそのことを嬉しく思う。  夢の中では青豆のお腹はずいぶん大きく膨らんでいる。出産は間近に迫っているようだ。彼女は<傍点>小さなものの鼓動を聴き取ることができる。彼女自身の心臓の鼓動と<傍点>小さなものの心臓の鼓動とが混じり合い、心地よい複合リズムをつくりだしている。  老婦人は青豆の隣に座り、いつものように背筋を伸ばし、唇をまっすぐ閉じ、密かに呼吸をしている。二人は口をきかない。眠っている蝶を起こさないためだ。老婦人は超然として、隣に青豆がいることにさえ気づいていないように見える。もちろん青豆は自分が老婦人によって厚く護られていることを知っている。それでも不安は青豆の心を去らない。膝の上に置かれた老婦人の両手はあまりにもか細く脆く見える。青豆の手は無意識に拳銃をさぐる。しかしどこにもそれは見当たらない。  彼女は夢に深く呑み込まれながら、一方ではそれが夢であることを知っている。青豆はときどきそういう夢を見る。ありありとした鮮やかな現実の中にいながら、それが現実ではないことがわかる。それは詳細に描かれた別の小惑星の情景なのだ。  そのとき誰かが温室のドアを開ける。不吉な冷気を含んだ風が吹き込んでくる。大きな蝶が目を覚まして羽を広げ、ゴムの木からふわりと飛び立つ。誰だろう。首を曲げそちらを見ようとする。しかし彼女がその人影を目にする前に夢は終わる。  目覚めたとき青豆は汗をかいている。冷たい嫌な汗だ。湿ったパジャマを脱いでタオルで身体を拭き、新しいTシャツを身にまとう。しばらくベッドの上に身を起こしている。何か良くないことが起ころうとしているのかもしれない。誰かが<傍点>この小さなものを狙っているのかもしれない。その誰かはすぐそこまで近づいているのかもしれない。一刻も早く天吾を見つけなくてはならない。しかし毎晩こうして児童公園を監視する以外に、今の彼女にできることは何ひとつない。注意深く我慢強く、怠りなく世界に目を注ぐ。狭く区切られた世界の一画に。その滑り台の上の一点に。しかしそれでもなお人は何かを見落とすものだ。ただ一対の目しか持ち合わせていないのだから。  青豆は泣きたかった。でも涙は出てこない。彼女はもう一度ベッドに横になり、手のひらを下腹にあて、眠りが訪れるのを静かに待つ。 第18章 天吾 針で刺したら赤い血が出てくるところ 「それから三日間、何ごとも起こらなかった」と小松は言った。「俺は出された食事を食べ、夜が来たら狭いベッドで眠り、朝が来たら目覚め、部屋の奥についている小さな便所で用を足した。便所にはいちおう目隠しの扉がついていたが、鍵はかからなかった。まだ残暑の厳しい頃だったが、送風口が空調につながっているらしく、暑いと感じたことはなかった」  天吾は何も言わず、小松の話を聞いていた。 「食事は一日に三度運ばれてきた。何時かはわからない。腕時計は取り上げられていたし、部屋には窓がなかったから、昼と夜との違いもわからない。耳を澄ませても物音ひとつ聞こえない。こちらの物音もたぶんどこにも届かないんだろう。どういうところに連れてこられたのか見当もつかない。ただ人里離れたところにいるんじゃないかという漠然とした感覚があった。とにかく俺はそこに三日いて、そのあいだ何ごとも起こらなかった。三日というのももうひとつ確かじゃない。食事が九食分運ばれてきて、それを順番に食べたということだよ。三回部屋の明かりが消され、三回眠った。俺はもともと眠りが浅くて不規則な方なんだが、そのときはなぜか苦もなく熟睡できた。考えてみれば変な話だけど、まあそこまではわかるな?」  天吾は黙って肯いた。 「その三日間、俺はただのひとことも口をきかなかった。食事を運んでくるのは若い男だった。痩せていて、野球帽をかぶり、白いマスクをかけていた。体操用のジャージの上下みたいなものを着て、汚いスニーカーをはいていた。その男がトレイに載せた食事を持ってきて、食べ終えた頃にそれを下げに来た。紙の使い捨ての食器に、へなへなしたプラスチックのナイフとフォークとスプーンだった。出てきたのはありきたりのレトルト食品で、うまいというものじゃないが、食べられないほどまずくはない。量は多くない。腹が減っていたから、全部残さずに食べたよ。これも不思議なことだ。普段はあまり食欲がなくて、下手をすると食事を取るのを忘れるくらいだからね。飲み物は牛乳とミネラル?ウォーターだった。コーヒーも紅茶も出してもらえなかった。シングル?モルトも生ビールもなかった。煙草も駄目だった。まあしょうがない。リゾートホテルに静養に来たわけじゃないからな」  小松はそこで思い出したようにマルボロの赤い箱を取りだし、一本を口にくわえ、紙マッチで火をつけた。煙をゆっくり肺の奥まで吸い込み、吐き出し、それから顔をしかめた。 「食事を運んできたその男は終始無言をとおした。おそらく口をきくことを上から禁止されていたのだろう。その男が雑用係にあてられた下っ端であることは間違いない。しかしおそらく何か武術に通じていたのだろう。身のこなしにそういう怠りのない気配があった」 「小松さんの方からもとくに質問はしなかった?」 「ああ、どうせ話しかけても返事がかえってこないだろうことはわかっていたからな。黙ってなされるがままにしていた。運ばれてきた食事を食べ、牛乳を飲み、消灯されるとベッドで眠り、部屋の明かりがつくと目覚めた。朝になるとその若い男がやってきて、電気カミソリと歯ブラシを置いていった。それで髭を剃り歯を磨いた。使い終わると取り上げられた。トイレット?ペーパー以外に部屋の備品と呼べるものは何ひとつなかった。シャワーには入れてもらえなかったし、着替えもできなかったが、シャワーに入りたいとも、着替えをしたいとも思わなかった。部屋には鏡はなかったが、これもとくに不便はなかった。なによりつらかったのは退屈さだ。なにしろ目が覚めてから眠りに就くまで、サイコロみたいに真四角な真っ白けの部屋の中で、一人きりで口もきかずに過ごすわけだから、そりゃ退屈でしかたない。俺はルームサービスのメニューでも何でもいいから、とにかく活字がそばにないと落ち着けないという、活字中毒の人間だからな。ところが本もなければ、新聞もない、雑誌もない。テレビもラジオもなければ、ゲームもない。話し相手もいない。椅子に座って床やら壁やら天井やらをじっと睨んでいるしかやることがないんだ。それはずいぶん変てこな気分だったよ。だってそうだろう、道を歩いていたら、わけのわからない奴らにとっつかまってクロロフォルムみたいなものをかがされ、そのままどこかに連れてこられて、窓のないけったいな部屋に監禁されているんだ。どう考えても異様な状況じゃないか。なのに頭がおかしくなりそうなくらい退屈なんだもんな」  小松は指の間で煙をあげる煙草をしばらく感慨深げに見つめ、それから灰皿に灰を落とした。 「たぶん俺の神経をおかしくするために、三日間何もせずに、その狭い部屋の中に放ったらかしにしておいたんじゃないかな。そのへんはよく練られている。どうすれば人の神経がやわになるか、気持ちが参ってしまうか、ノウハウを心得ている。四日目に——つまり四回目の朝食のあとにということだが——二人組の男がやってきた。こいつらが俺を誘拐した二人組だろうと俺は思った。襲われたときは急なことだし、俺も何がなんだかわからなかったから、相手の顔まではよく見なかった。でもその二人を見ていると、そのときのことが少しずつ思い出されてきた。車の中に引きずり込まれて、ちぎれるんじゃないかと思うくらい強く腕をねじり上げられて、薬品を浸ませた布を鼻と口にあてられた。そのあいだ二人は終始無言だった。あっという間の出来事だった」  小松はそのときのことを思い出して顔を軽くしかめた。 「一人は背があまり高くなく、がっしりとした体格で頭を丸刈りにしていた。よく日焼けして頬骨が張っていた。もう一人は背が高く、手脚が長く、頬がそげて、髪を後ろで束ねていた。並べて見るとまるで漫才のコンビみたいだったね。ひょろっと細長いのと、ずんぐりして顎鬚《あごひげ》をのばしているのと。でも一見して、かなり危ないやつらだと想像がついた。必要とあらば躊躇なく何だってやるタイプだ。しかしこれ見よがしなところはない。物腰そのものは穏やかだ。だから余計におっかないんだ。目がひどく冷たい印象を与えた。どちらも黒い綿のズボンに白い半袖のシャツというかっこうだった。二人ともたぶん二十代半ばから後半、坊主頭の方が少し年上に見えた。どちらも腕時計をつけていなかった」  天吾は黙って話の続きを待った。 「話をしたのは坊主頭だった。痩せたポニーテイルの方はひとこともしゃべらず、身動きひとつせず、背筋をまっすぐのばしてドアの前に立っていた。坊主頭と俺との間で交わされる会話に耳を澄ませているようだったが、あるいは何も聴いていなかったのかもしれない。坊主頭は持参したパイプ椅子に座り、俺と向き合って話をした。椅子はほかになかったから、俺はベッドに腰掛けていた。とにかく表情のない男だった。もちろん口を動かしてしゃべるんだが、顔の残りの部分はみごとに動かない。まるで腹話術で使う人形みたいに」  坊主頭が最初に小松に向かって口にしたのは、「なぜここに連れてこられたか、我々が誰か、ここがどこか、おおよその推測はつくか」という質問だった。推測はつかないと小松は答えた。坊主頭は奥行きを欠いた目でしばらく小松の顔を見ていた。それから「しかしどうしても推測しろと言われたら、あなたはどんな推測をするでしょう」と尋ねた。言葉遣いこそ丁寧だが、そこには有無を言わせぬ響きがあった。その声は冷蔵庫に長いあいだ入れっ放しにしておいた金属製のものさしのようにどこまでも硬く冷ややかだった。  小松は少し迷ってから、どうしても推測しろと言われるなら、それは『空気さなぎ』の一件についてではないかと思うと正直に言った。ほかに思い当たることは何もないから。となると、あなたがたは「さきがけ」の関係者で、ここは教団の敷地内だということになるのかもしれない。もとより仮説の域を出ないけれど。  坊主頭は小松の言ったことを肯定もしなければ、否定もしなかった。何も言わず小松の顔を見つめていた。小松も黙っていた。 「それではその仮説に基づいて話をしましょう」、坊主頭は静かにそう切り出した。「我々がこれからお話しすることは、あくまであなたのその仮説の延長線上にあるものです。もし仮にそういうことであれば——という条件つきです。よろしいですね」 「けっこうです」と小松は言った。彼らはできるだけ遠まわしに話を進めようとしている。悪くない徴候だ。生きて返さないつもりなら、そんな面倒な手順を踏む必要はない。 「あなたは出版社に勤務する編集者として、深田絵里子の小説『空気さなぎ』を担当し出版した。そのとおりですね」  そのとおりだと小松は認めた。それは周知の事実だ。 「我々の理解するところによれば、『空気さなぎ』が文芸誌の新人賞を受賞するにあたってある種の不正行為がなされた。その応募原稿は選考会に回される前に、あなたの指示のもとに、第三者の手を借りて大幅に改稿された。ひそかに書き直されたその作品は新人賞を受賞し、世間の話題になり、単行本として出版されてベストセラーになった。間違いありませんね」 「それは考え方によります」と小松は言った。「応募原稿が編集者のアドバイスを受けて書き直されることはないことではないし——」  坊主頭は手のひらを前に上げ、小松の発言を遮った。「編集者の忠告に従って筆者が原稿に手を加えるのは不正とは言えない。そのとおりです。しかし賞を取るために第三者が間に入って文章を書き直すのは、どう考えても信義にもとる行為です。おまけにペーパー?カンパニーを使って本の印税の分配まで行われている。法律的にどのように解釈されるかはわからないが、少なくとも社会的、道義的にはあなた方は厳しく糾弾されるでしょう。弁解の余地はない。新聞や雑誌は騒ぎ立てるし、あなたの会社は信用を大きく失墜するでしょう。小松さん、それくらいはよくおわかりのはずです。我々は事実を細かいところまで摑んでいるし、具体的な証拠を添えて世間に明らかにすることもできます。だからつまらない言い逃れはやめた方がいい。そんなことは我々には通用しない。お互いに時間の無駄です」  小松は黙って肯いた。 「もしそうなったら、あなたはもちろん会社を辞めなくてはならないし、それだけではなく、この業界から放逐されます。あなたが潜り込める余地はどこにもなくなります。少なくとも表向きには」 「おそらく」と小松は認めた。 「しかし今のところ、この事実を知っている人間の数は限られています」と坊主頭は言った。 「あなたと深田絵里子と戎野さんと、改稿を担当した川奈天吾さん。そのほかには数人だけです」  小松は言葉を選んで言った。「仮説に沿って言えば、あなたの言う『数人』とは教団『さきがけ』の人々ということになりますね」  坊主頭はほんの少し肯いた。「仮説に沿えばそうなるでしょう。事実がどうであれ」  坊主頭は間をとって、その前提が小松の頭に浸み込むのを待った。それから再び話を続けた。 「そしてもしその仮説が正しければ、彼らはあなたをここでどのようにも取り扱えるはずです。あなたを賓客《ひんきゃく》として好きなだけいつまでもこの部屋に留め置くこともできます。大した手間ではありません。あるいは時間をもっと切り詰めたければ、それ以外の選択肢もいくつか考えられるでしょう。その中には、お互いにとってあまり愉快とは言いがたい選択肢も含まれていることでしょう。いずれにせよ彼らはそれだけの力と手段を持っています。そこまではおおむね理解していただけますね」 「理解できていると思います」と小松は答えた。 「けっこうです」と坊主頭は言った。  坊主頭が黙って指を一本上げると、ポニーテイルが部屋を出ていった。しばらくあとで電話機を持って戻ってきた。そのコードを床の差し込み口に接続し、受話器を小松に差し出した。坊主頭は小松に、会社に電話をするようにと言った。 「ひどい風邪をひいたらしく、高熱がつづいてこの数日寝込んでいた。もうしばらくは出勤できそうにない。それだけ伝えたら電話を切ってください」  小松は同僚を呼び出し、伝えるべきことを簡単に伝え、相手の質問には答えずに電話を切った。坊主頭が肯くと、ポニーテイルが床のコードを抜き、電話機を持って部屋を出て行った。坊主頭は自分の両手の甲を点検するようにひとしきり眺めていた。それから小松に向かって言った。彼の声には今では、微かではあるが親切心のようなものさえうかがえた。 「今日はここまでです」と坊主頭は言った。「続きはまた日を改めてお話しします。それまでのあいだ、今日お話ししたことについてよく考えておいて下さい」  そして二人は出ていった。それから十日間を、小松はその狭い部屋の中で無言のうちに過ごした。一日に三度、いつものマスクをした若い男が、例によってうまくもない食事を運んできた。四日目からは、パジャマの上下のような木綿の服が着替えとして与えられたが、シャワーは最後まで浴びさせてはもらえなかった。便所についた小さな洗面台で顔を洗うくらいのことしかできなかった。そして日にちの感覚はますます不確かになっていった。  たぶん山梨にある教団の本部に連れてこられたのだろうと小松は想像した。彼はテレビのニュースでそれを目にしたことがあった。深い山の中にある、高い塀で囲われた治外法権のような場所だ。逃げ出すことも、助けを求めることもまず不可能だ。たとえ殺されても(それがおそらくは「お互いにとってあまり愉快とは言いがたい選択肢」という発言の意味なのだろう)、死体は発見されないままに終わるはずだ。小松にとって、そこまで死が現実性を持って近接してきたのは、生まれて初めてのことだった。  会社に電話を入れさせられてから十日目に(おそらく十日、しかし確信はない)、ようやく例の二人組が姿を見せた。坊主頭はこの前会ったときよりいくぶん痩せたらしく、そのせいで頬骨が余計に目立った。どこまでも冷ややかだった目は、今では血走って見えた。彼は前と同じように持参したパイプ椅子に腰を下ろし、テーブルをはさんで小松と向かいあった。長いあいだ坊主頭は口をきかなかった。その赤い目でただまっすぐ小松を眺めていた。  ポニーテイルの外見には変わりはなかった。彼は前と同じように背筋を伸ばしてドアの前に立ち、表情を欠いた目で空中の架空の一点をじっと見つめていた。二人ともやはり黒いズボンに白いシャツを着ていた。おそらくそれが制服のようなものなのだろう。 「この前の話の続きをしましょう」とようやく坊主頭が口を開いた。「我々はあなたをここでどのようにも取り扱えるはずだという話でしたね」  小松は肯いた。「その中には、お互いにとってあまり愉快とは言いがたい選択肢も含まれている」 「さすがに記憶力がいい」と坊主頭は言った。「そのとおりです。愉快ではない結末もいちおう視野に入ってくる」  小松は黙っていた。坊主頭は続けた。 「しかしそれはあくまで<傍点>論理的にはという話です。現実的には<傍点>彼らとしても、できることならあまり極端な選択肢は選びたくない。もし小松さんが今ここで忽然と姿を消してしまったりしたら、また面倒な事態が生じかねません。深田絵里子が消えてしまったときと同じようにね。あなたがいなくなって淋しがる人はさほど多くないかもしれないが、編集者としての腕は評価されているし、業界内ではなかなか目立つ人のようだ。そしてまた別れた奥さんだって、月々の手当が滞れば文句のひとつも言いたくなるでしょう。それは<傍点>彼らにとってあまり好ましい展開とは言えません」  小松は乾いた咳払いをし、唾を飲み込んだ。 「そして彼らとしてもあなた個人を非難しているわけではなく、また処罰しようとしているわけでもない。小説『空気さなぎ』を出版するにあたって、特定の宗教団体を攻撃する意図がそちらになかったことはわかっています。最初のうちは『空気さなぎ』とその教団の関係さえ知らなかった。あなたはもともと遊び心と功名心からこの詐欺計画を立てた。途中から少なからぬ額の金もからんできた。一介のサラリーマンにとって離婚の慰謝料と子供の養育費を払い続けるのは大変ですからね。そしてあなたは川奈天吾という、これもまた何も事情を知らない小説家志望の予備校講師を計画に引き込んだ。計画自体はひねりのきいた楽しげなものだったが、選んだ作品と相手が悪かった。そして当初予定していたより話が大きくなり過ぎた。あなた方は最前線に迷い込んで、地雷原に足を踏み入れてしまった民間人のようなものです。前にも進めないし後ろにも下がれない。そうじゃありませんか、小松さん?」 「そういうところでしょうか」と小松は曖昧に答えた。 「あなたにはまだいろんなことがよくわかっていないようだ」、坊主頭は小松を見る目を微妙に細めた。「もしわかっていれば、そんな他人事のような言い方はできないはずです。状況を明確にしましょう。あなたは<傍点>実際に地雷原の真ん中にいるんです」  小松は黙って肯いた。  坊主頭は一度目を閉じ、十秒ばかり間を置いてから目を開けた。「こういう状況に追い込まれて、あなた方も困っているだろうが、彼らの側としてもまた困った問題を抱え込むことになったのです」  小松は思いきって日を開いた。「ひとつ質問をしてもかまいませんか?」 「私に答えられることなら」 「『空気さなぎ』を出版することによって、結果的に我々はその宗教団体にいささか迷惑をかけることになった。そういうことですね?」 「<傍点>いささかの迷惑ではない」と坊主頭は言った。彼の顔が僅かに歪んだ。「声はもう彼らに向かって語りかけることをやめたのです。それが何を意味するか、あなたにはわかりますか?」 「わかりません」と小松は乾いた声で言った。 「けっこうです。私としてもそれ以上の具体的な説明はしかねるし、またあなたもそれを知らない方がいい。<傍点>声はもう彼らに向かって語りかけることをやめてしまった。今ここで私に言えるのはそれだけです」、坊主頭は少し間を置いた。「そしてその不幸な事態は、小説『空気さなぎ』が活字のかたちで発表されたことによって生じたものなのです」  小松は質問した。「深田絵里子と戎野先生は、『空気さなぎ』を世に出すことでそのような『不幸な事態』が生じることを予期していたのでしょうか?」  坊主頭は首を振った。「いや、戎野さんはそこまでは知らないはずだ。深田絵里子が何を意図したのかは不明です。しかしそれは意図的な行為ではなかっただろう、というのが推測です。もしそこに仮に意図があったとしても、それは彼女の意図ではなかったはずです」 「世間の人々は『空気さなぎ』を単なるファンタジー小説だと見なしています」と小松は言った。 「女子高校生が書いた罪のない幻想的な物語だと。実際のところ、物語が非現実的に過ぎるという批判も少なからず寄せられました。何かしらの大事な秘密が、あるいは具体的な情報がその中で暴露されているかもしれないなんて、誰も考えちゃいません」 「おっしゃるとおりでしょう」と坊主頭は言った。「世間のほとんどの人はそんなことにまったく気がつかない。しかしそういうことが問題になっているのではない。その秘密は<傍点>どんな形であれ公にされてはならないものだったのです」  ポニーテイルは相変わらずドアの前に立って正面の壁を睨み、その向こう側の、ほかの誰にも見ることのできない風景を眺望していた。 「<傍点>彼らが求めているのは、声を取り戻すことです」と坊主頭は言葉を選んで言った。「水脈は枯渇したわけではありません。ただ目に見えないところに深く潜ってしまったのです。それをもう一度復活させるのはきわめて困難だが、できないことではない」  坊主頭は小松の目を深くのぞき込んだ。彼はそこにある何かの奥行きを測っているみたいに見えた。部屋のある空間に特定の家具が収まるかどうか目測している人のように。 「先刻も申し上げたように、あなた方は地雷原の真ん中に紛れ込んでしまった。前にも進めないし後ろにもさがれない。そこで<傍点>彼らにできるのは、どうしたらその場所から無事に脱出できるか、その道筋をあなた方に教えることです。そうすればあなた方は命拾いできるし、彼らとしても厄介な闖入《ちんにゅう》者を穏やかなかたちで取り除ける」  坊主頭は脚を組んだ。 「どうか静かにお引き取り願いたいのです。あなた方が五体バラバラになろうが、どうなろうが、彼らの知ったことではない。しかし今ここで大きな音を立てられたら、厄介なことになります。ですから小松さん、あなた方に退路を教えます。後方の安全な場所まで導きます。その代価としてあなたに求めるのは、『空気さなぎ』の出版を打ち切ることです。これ以上の増刷はせず文庫化もしない。もちろん新たな宣伝はしない。深田絵里子とは今後いっさい関わり合いを持たない。どうです、それくらいはあなたの力でできるでしょう」 「簡単ではないが、たぶんやってできなくはないと思います」と小松は言った。 「小松さん、<傍点>たぶんというレベルの話をするために、あなたにここまでご足労願ったわけではありません」、坊主頭の目がいっそう赤く鋭くなった。「なにも出回っている本をすべて回収しろと言ってるわけじゃない。そんなことをしたらマスコミが騒ぎ出すでしょう。またあなたにそこまでの力がないこともわかっています。そうではなく、できるだけこっそりとことを収めていただきたい。既に起こってしまったことは仕方ない。いったん損なわれてしまったものは元通りにはならない。しばらくのあいだ可能な限り世間の耳目を惹かないでいること、それが<傍点>彼らの望んでいることです。わかりますか?」  小松はわかったしるしに肯いた。 「小松さん、前にも申し上げたように、そちらにも世間に公表されては困るいくつかの事実がある。それが知れたら、当事者全員が社会的制裁を受けるでしょう。だからお互いの利益のために、休戦協定を結びたいのです。彼らはあなた方の責任をこれ以上追及しない。安全を保障する。そしてあなた方も小説『空気さなぎ』とはもう一切関わり合いにならない。悪い取り引きではないはずですよ」  小松はそれについて考えた。「いいでしょう。『空気さなぎ』の出版は、私が責任をもって実質的に打ち切る方向に持っていきます。少し時間はかかるかもしれませんが、それなりの方法はなんとか見つけられるでしょう。そして私個人について言えば、今回の一件をさっぱりと忘れることはできます。川奈天吾くんも同じでしょう。彼は最初からこの話には乗り気じゃなかった。私が無理に引きずり込んだようなものです。だいいち彼の仕事はもう既に終了している。深田絵里子さんについても問題ないはずだ。これ以上小説を書くつもりはないと彼女は言っている。ただし戎野先生がどう出るかは私にも予測がつきません。彼が最終的に求めているのは、友人である深田保《たもつ》さんが無事で生きているのかどうか、今どこにいて何をしているのか、それを確認することです。私が何を言おうと、深田さんの消息を知るまでは追求をあきらめないかもしれません」 「深田保さんは亡くなりました」と坊主頭は言った。抑揚のない、静かな声だったが、そこにはひどく重いものが含まれていた。 「亡くなった?」と小松は言った。 「最近のことです」と坊主頭は言った。そして大きく息を吸い込み、それをゆっくりと吐いた。 「死因は心臓発作、一瞬のことで苦しみはなかったはずです。事情により死亡届は出されず、教団内部で内密に葬儀を執り行いました。宗教的な理由により遺体は教団の中で焼却され、骨は細かく砕かれて山に撒かれました。法的に言えば死体損壊にあたりますが、正式に立件するのはむずかしいでしょう。しかしこれは真実です。我々は人の生き死にに関することで嘘はつきません。戎野さんにはどうかそのようにお伝え下さい」 「自然死だった」  坊主頭は深く肯いた。「深田さんは我々にとってはまことに貴重な人物でした。いや、貴重というようなありきたりの言葉ではとても表現できない、巨大な存在でした。彼の死はまだ限られた数の人にしか伝えられていませんが、深く悼まれています。夫人は、つまり深田絵里子の母親にあたる方は、数年前に胃癌で死去されています。化学療法を拒否したまま、教団の中にある治療院で亡くなられました。ご主人である保氏が看取りました」 「しかしやはり死亡届は出されていない」と小松は尋ねた。  否定の言葉はなかった。 「そして深田保さんは最近なくなった」 「そのとおりです」と坊主頭は言った。 「それは小説『空気さなぎ』が刊行されたあとのことですか?」  坊主頭はいったんテーブルの上に視線を落とし、それから顔を上げてもう一度小松を見た。 「そうです。『空気さなぎ』が刊行されたあとに深田さんは亡くなりました」 「その二つの出来事のあいだに因果関係はあるのでしょうか?」、小松は思いきってそう質問した。  坊主頭はしばらく沈黙した。どう答えればいいのか考えをまとめているのだ。それから心を決めたように口を開いた。「いいでしょう。戎野氏を納得させるためにも、事実を明確にしておいた方がいいかもしれない。実を言えば、深田保さんこそが教団のリーダーであり〈声を聴くもの〉でした。娘の深田絵里子が『空気さなぎ』を発表し、声は彼に語りかけるのをやめ、そのとき深田さんは自らの存在を終息させたのです。それは自然死でした。より正確に言えば、彼は自らの存在を自然に終息させたのです」 「深田絵里子はリーダーの娘だった」と小松はつぶやくように言った。  坊主頭は短く簡潔に肯いた。 「そして深田絵里子が結果的に父親を死に追い込んだ」と小松は続けた。  坊主頭はもう一度肯いた。「そのとおりです」 「しかし教団は今でも存続している」 「教団は存続しています」と坊主頭は答え、氷河の奥に閉じこめられた古代の小石のような目でじっと小松を見つめた。「小松さん、『空気さなぎ』の出版は教団に少なからざる災害をもたらしました。しかし<傍点>彼らはそのことであなた方を罰しようとは考えていません。今さら罰したところで得るところはないからです。<傍点>彼らには達成すべき使命があり、そのためには静かな孤立が必要とされます」 「だからそれぞれにあとずさりして、今回の一件は忘れてしまおうと」 「簡単に言えば」 「それを伝えるために、あなた方はわざわざ私を誘拐しなくてはならなかった?」  坊主頭の顔に初めて表情に近いものが浮かんだ。おかしみと同情の中間あたりに位置する、ごく淡い感情がうかがえた。「このような手間をかけてあなたにお越しいただいたのは、<傍点>彼らが真剣であることを伝えたかったからです。極端なことはしたくないが、その必要があるとなれば躊躇はしない。そのことを肌で感じていただきたかったのです。もしあなた方が約束を破れば、愉快とは言えない結果がもたらされるでしょう。そのことは理解していただけていますね?」 「理解しています」と小松は言った。 「小松さん、正直に申し上げて、あなた方は運が良かったのです。深い霧がかかっていたせいで、よく見えなかったかもしれませんが、実際には崖っぷちの、あとほんの数センチのところまで、あなた方は歩を進めていた。そのことはよくよく覚えておかれた方がいい。目下のところ<傍点>彼らにはあなた方にかかわっているほどの余裕がないのです。彼らはもっと重要な問題を抱えている。そういう意味でもあなた方は幸運だった。だからまだその幸運が続いているうちに——」  彼はそう言って両手をくるりと裏返し、手のひらを上に向けた。雨が降っているのかどうか確かめる人のように。小松はそれに続く言葉を待った。しかし言葉はなかった。話し終えると、坊主頭の顔に急に疲弊の色が浮かんだ。彼はゆっくりとパイプ椅子から立ち上がり、椅子を畳んで小脇に抱え、後ろを振り返ることもなくその立方体の部屋から出ていった。重いドアが閉められ、鍵がかけられる乾いた音が響いた。あとには小松一人が残された。 「そのあとまた四日ばかり、俺はその真四角な部屋に閉じこめられていた。肝心の話はもう終わっていた。用件は伝えられ合意が成立した。なのにどうしてまだ監禁され続けなくてはならなかったのか、その理由はわからなかった。その二人組は二度と姿を見せなかったし、雑用係の若い男はやはりひとことも口をきかなかった。俺はまたまた変わり映えのしない食事を食べ、電気剃刀で髭を剃り、天井と壁を眺めて時間を過ごした。明かりが消されたら眠り、明かりがついたら目覚めた。そして坊主頭が口にしたことを頭の中で反芻した。そのとき実感したのは、<傍点>俺たちは幸運だったということだった。坊主頭の言うとおりだ。こいつらには、やろうと思えばそれこそなんだってできるんだ。そうなろうと決意すればいくらでも冷酷になれる。そこに閉じこめられていると、ひしひしとそれが実感できたよ。おそらくそいつが目的で、話が終わったあとも四日間そこに留め置かれたんだろうな。芸が細かい」  小松はハイボールのグラスを手にとって飲んだ。 「もう一度クロロフォルムみたいなものをかがされ、目が覚めたのは夜明けだった。俺は神宮外苑のベンチに寝かされていた。九月も後半となれば明け方は冷え込む。おかげで実際に風邪を引いちまったよ。意図してやったことじゃなかろうが、そのあと三日ほど熱を出して本気で寝込んだ。しかしその程度で済んで幸運だったと考えるべきだろう」  そこで小松の話は終わったようだった。天吾は尋ねた。「このことを戎野先生には話したのですか?」 「ああ、解放され、熱が引いた数日後に戎野先生の山の上の家まで行ってきた。そしてだいたい今と同じ話をした」 「先生はなんと言っていました?」  小松はハイボールの最後の一口を飲み干すと、お代わりを注文した。天吾にも二杯目を勧めた。天吾は首を振った。 「戎野先生は俺に何度もその話を繰り返させ、あれこれ細かい質問をした。答えられることはもちろん答えた。求められれば何度でも同じ話を繰り返すことができた。なにしろ坊主頭と話をしたあと四日間、俺は一人きりで部屋に閉じこめられていた。口をきく相手もなく、時間だけはたっぷりあった。だから坊主頭の口にしたことを頭の中で反芻し、細部まで正確に覚え込むことができたわけだ。それこそ人間録音機みたいに」 「しかしふかえりの両親が亡くなったというのは、あくまで先方の言い分に過ぎない。そうですね?」と天吾は尋ねた。 「そのとおりだ。それは彼らの主張していることであって、どこまでが事実か確かめようはない。死亡届も出ていない。しかし坊主頭のしゃべり方からして、でたらめではあるまいという気が俺にはした。彼が自分でも言ったように、連中にとって人の生き死には神聖なものだ。俺の話が終わると、戎野先生は一人で黙って考え込んでいた。あの人はとても長く深く考えるんだ。それから何も言わずに席を立ち、部屋に戻ってくるまでに時間がかかった。先生はある程度やむを得ないこととして、二人の死を受け入れているようにも見えた。彼らが既にこの世にないことを、心中密かに予測し覚悟していたのかもしれない。とはいえ、親しい人々の死を現実に知らされたとき、それが心に大きな傷をもたらすことに変わりはない」  天吾はそのがらんとした飾り気のない居間と、深い冷ややかな沈黙と、時折窓の外で聞こえる鋭い鳥の声を思い出した。「それで結局のところ、我々は後ずさりして地雷原から撤退することになったのでしょうか?」と彼は言った。  新しいハイボールのグラスが運ばれてきた。小松はそれで口を湿らせた。 「その場で結論が出されたわけではない。考えるための時間が必要だと戎野先生は言った。しかし連中に言われたとおりにする以外に、いったいどんな選択肢がある? 俺はもちろんすぐに動いたよ。『空気さなぎ』は俺が社内で手を尽くして増刷中止、事実上の絶版というかたちに持っていった。文庫化もしない。これまでにかなりの部数も売ったし、会社はじゅうぶん儲けた。損はないはずだ。もちろん会社のことだから、会議だの社長決裁だの、そうすんなりと簡単にはいかなかったが、ゴーストライターがらみのスキャンダルの可能性をちらつかせたら、上の方はすっかり震え上がって、最終的には俺の言いなりになった。これから当分は会社で冷や飯を食わされそうだが、そんなもの俺としては慣れっこだ」 「ふかえりの両親が死んだという彼らの言い分を、戎野先生はそのまま受け入れたのですね?」 「おそらく」と小松は言った。「ただそれを現実として受け入れ、身体にしみ込ませるまでに、いま少し時間が必要だったということだろう。そして少なくとも俺の見る限り、連中は真剣だった。ある程度の譲歩をしても、これ以上のトラブルを回避したいと本気で望んでいるように見えた。だからこそ誘拐のような荒っぽい真似に及んだんだ。よほどしっかりこちらにメッセージを送りたかったんだ。また彼らが教団内で深田夫妻の遺体を秘密裏に焼却したことだって、そうしようと思えば、言わずに済ませられたはずだ。今から立証するのはむずかしいにせよ、死体損壊はなんといっても重大な犯罪だからな。しかしそれをあえて口にした。つまりそこまで自ら手の内をさらしたわけだ。そういう意味でも、坊主頭の言ったことはかなりの部分まで真実だろう。細部はともかく、大筋のところではな」  天吾は小松の言ったことを整理した。「ふかえりの父親は〈声を聴くもの〉だった。つまり預言者としての役目を果たしていた。しかし娘のふかえりが『空気さなぎ』を書き、それがベストセラーになったことによって、声は彼に向かって語りかけることをやめ、父親はその結果自然死を遂げた」 「あるいは<傍点>自然に自らの命を絶った」と小松は言った。 「そして教団にとって、新しい預言者を獲得することが何より重要な使命になった。声が語りかけることをやめれば、その共同体は存在基盤を失ってしまう。だからもう我々なんかにかまっている余裕はない。要約すればそういうことですね」 「おそらく」 「『空気さなぎ』という物語には、彼らにとって重要な意味を持つ情報が盛り込まれていた。それが活字になって世間に流布されたことによって声は沈黙し、水脈は地中深く潜ってしまった。その重要な情報とは具体的に何を指すのでしょう?」 「俺は監禁された最後の四日間、それについて一人でじっくりと考えてみた」と小松は言った。 「『空気さなぎ』はそれほど長い小説じゃない。そこに描かれているのは、リトル?ピープルが出没する世界だ。主人公の十歳の少女は孤立したコミュニティーに生きている。リトル?ピープルは夜中に密かにやってきて空気さなぎをつくる。空気さなぎの中には少女の分身が入っていて、そこにマザとドウタの関係が生まれる。その世界には月が二個浮かんでいる。大きな月と小さな月、おそらくマザとドウタの象徴だ。小説の中で主人公は——モデルはたぶんふかえり自身なのだろうが——マザであることを拒んでコミュニティーから逃げ出す。ドウタがあとに残される。ドウタがその後どうなったか、小説には描かれていない」  天吾はグラスの中で溶けていく氷をしばらく眺めていた。 「〈声を聴くもの〉はドウタの仲介を必要としているのでしょう」と天吾は言った。「ドウタを介して彼は初めて声を聴くことができる。あるいはその声を地上の言葉に翻訳できる。声の発するメッセージに正しい形を与えるには、その両方が揃っていなくてはならない。ふかえりの言葉を借りれば、レシヴァとパシヴァです。そのためにはまず空気さなぎをこしらえる作業が必要になります。空気さなぎという装置を通してはじめてドウタを産み出せるからです。そしてドウタを作り出すには<傍点>正しいマザが必要とされる」 「それが天吾くんの見解だ」  天吾は首を振った。「見解というほどのものでもありません。小松さんが小説の筋を要約するのを聞いて、そういうことじゃないかと思っただけです」  天吾は小説を書き直しているときもその後も、マザとドウタの意味について考え続けてきたが、その全体像がどうしてもつかみきれなかった。しかし小松と話しているうちに、細かい断片が次第に結びついていった。それでも疑問は残る。なぜ病院の父親のベッドの上に空気さなぎが現れ、少女としての青豆がその中に収められていたのだろう? 「なかなか興味深いシステムだ」と小松は言った。「しかしマザの方はドウタと離ればなれになってもとくに問題はないのか?」 「ドウタなしでは、マザはおそらく一個の完結した存在とは言えないでしょう。僕らが目にしているふかえりがそうであるように、具体的に指摘はできないけれど、そこには何らかの要素が欠落しています。それは影を失った人に似ているかもしれない。マザのいないドウタがどうなるのか、僕にはわかりません。おそらく彼女たちもやはり完全な存在ではないはずです。彼女たちはなんといっても分身に過ぎないわけだから。しかしふかえりの場合、マザがそばにいなくてもドウタは巫女としての役割を果たすことができたのかもしれない」  小松はしばらく唇をまっすぐ結んで、軽く斜めに曲げていた。それから口を開いた。「なあ天吾くん、ひょっとして君は『空気さなぎ』に書かれていたことは全部実際にあったことだと考えているのか?」 「そういうわけじゃありません。とりあえずそう想定しているだけです。すべて事実であったと仮定して、そこから話を進めて行こうと」 「よかろう」と小松は言った。「つまりふかえりの分身は、本体から遠く離れていても巫女として機能することができた」 「だからこそ教団は、逃亡したふかえりの居所がわかっていても、彼女をあえて力尽くで取り戻そうとはしなかったんです。なぜなら彼女の場合、マザが近くにいなくてもドウタはその職責を果たすことができたから。遠く離れていても、彼女たちの結びつきは強かったのかもしれません」 「なるほど」  天吾は続けた。「僕の想像では、彼らはおそらく複数のドウタを有しています。リトル?ピープルは機会を捉えて複数の空気さなぎを作っているはずです。一人のパシヴァだけでは不安だから。それとも正しく機能するドウタの数は限られているのかもしれません。そこには力の強い中心的なドウタと、力がそれほど強くはない補助的なドウタがいて、集団として機能しているのかもしれない」 「ふかえりの残してきたドウタが、その<傍点>正しく機能する中心的なドウタだったということか?」 「その可能性は高いかもしれない。ふかえりは今回の件について言えば、常にものごとの中心にいます。台風の目のように」  小松は目を細め、テーブルの上で両手の指を組んだ。その気になれば、彼は短い時間で有効に思索することができる。 「なあ、天吾くん。ちょっと思ったんだが、俺たちが目にしているふかえりが実はドウタで、教団の中に残っているのがマザだという仮説は成り立たないだろうか?」  小松の言ったことは天吾をたじろがせた。そんなことは今まで考えもしなかったからだ。天吾にとってふかえりはどこまでもひとつの実体だった。でもそう言われれば、たしかにその可能性も考えられる。わたしにはセイリはない。だからニンシンするしんぱいはない。ふかえりはあの夜、一方的な奇妙な性交のあとでそう宣言した。もし彼女が分身に過ぎないのなら、それはたぶん自然なことだ。分身は自らを再生産することはできない。それができるのはマザだけだ。しかし天吾にはどうしてもその仮説を、自分がふかえりとではなくその分身と性交したという可能性を、採ることができなかった。  天吾は言った。「ふかえりにははっきりとしたパーソナリティーがあります。独自の行動規範もある。それは分身にはおそらく持てないものです」 「たしかにな」と小松も同意した。「君の言うとおりだ。何はなくとも、ふかえりにはパーソナリティーと行動規範がある。俺としてもそれには同意せざるを得ない」  しかしそれでもふかえりにはまだ何か秘密が隠されている。その美しい少女の中には、彼が解き明かさなくてはならない大事な暗号が刻まれている。天吾はそう感じた。誰が実体で、誰が分身なのか。それとも実体と分身という区分け自体が間違っているのか。あるいはふかえりは場合によって、実体と分身とを使い分けることができるのか。 「ほかにもまだわからんことがいくつかある」、小松はそう言うと、両手を広げてテーブルの上に載せ、それを眺めた。中年の男にしては、長く繊細な指だった。「声が語りかけるのをやめ、井戸の水脈が涸れ、預言者は死んだ。そのあとドウタはどうなるのだろう? まさか昔のインドの未亡人みたいに殉死するわけでもあるまい」 「レシヴァがいなくなれば、パシヴァの役目は終わる」 「あくまで天吾くんの仮説を推し進めればということだが」と小松は言った。「ふかえりはそのような結果がもたらされることを承知の上で『空気さなぎ』を書いたのだろうか? それは意図的なものではなかったはずだと男は俺に言った。少なくとも彼女の意図ではなかったはずだと。しかしどうしてそんなことがわかるんだろう?」 「もちろん真相まではわかりません」と天吾は言った。「でもふかえりが、たとえどんな理由があるにせよ意図的に父親を死に追い込んでいったとは、僕にも思えません。おそらく父親は彼女とは関係なく、何らかの理由によって死に向かっていたのではないでしょうか。彼女の行ったことは、むしろ逆に、それに対するひとつの対抗策であったかもしれない。あるいは父親は声から解放されることを望んでいたのかもしれません。あくまで根拠のない推測に過ぎませんが」  小松は鼻の脇に皺を寄せたまま長く考え込んでいた。それから溜息をついて、あたりを見回した。「まったく奇妙な世界だ。どこまでが仮説なのか、どこからが現実なのか、その境界が日を追って見えなくなってくる。なあ天吾くん、一人の小説家として、君なら現実というものをどう定義する?」 「針で刺したら赤い血が出てくるところが現実の世界です」と天吾は答えた。 「じゃあ、間違いなくここが現実の世界だ」と小松は言った。そして前腕の内側を手のひらでごしごしとこすった。そこには静脈が青く浮かび上がっていた。あまり健康そうには見えない血管だ。酒と煙草と不規則な生活と文芸サロン的陰謀に、長年にわたって痛めつけられてきた血管だ。小松はハイボールの残りを一息で飲み、残った氷を宙でからからと振った。 「話のついでだ。君の仮説をもっと先の方まで聞かせてくれないか。だんだん面白くなってきた」  天吾は言った。「彼らは〈声を聴くもの〉のあとがまを探しています。でもそれだけじゃなく、同時に新しい<傍点>正しく機能するドウタもみつけなくてはならないはずです。新しいレシヴァには、おそらく新しいパシヴァが必要になるから」 「つまり、正しいマザも新たに見つけなくてはならない。となると、空気さなぎだってもう一度つくらなくてはならない。ずいぶん大がかりな作業になりそうだな」 「だからこそ彼らも真剣になっている」 「たしかに」 「しかしまったくあてがないというわけではないでしょう」と天吾は言った。「彼らにしてもそれなりの目星をつけているはずです」  小松は肯いた。「そういう印象を俺は受けた。だから彼らとしては一刻も早く俺たちを近辺から追い払いたかった。とにかく作業の邪魔をするなと。俺たちはよほど目障りだったみたいだ」 「我々のどこがそれほど目障りだったのでしょう?」  小松は首を振った。彼にもそれはわからないということだ。  天吾は言った。「声はこれまでどんなメッセージを彼らに送ってきたのでしょう? そして声とリトル?ピープルはどのような関係にあるのでしょう?」  小松はまた力なく首を振った。それも二人の想像を超えたことだった。 「映画『2001年宇宙の旅』を見たことあるよな?」 「あります」と天吾は言った。 「俺たちはまるであそこに出てくる猿みたいだ」と小松は言った。「黒い長い毛をはやして、意味のないことをわめきながら、モノリスのまわりをぐるぐる回っているやつらだよ」  二人連れの新しい客が店に入ってきて、常連らしくカウンターの椅子に座り、カクテルを注文した。 「とにかくひとつはっきりしていることがある」と小松は話を締めくくるように言った。「君の仮説には説得力があり、それなりに筋がとおっている。天吾くんと膝を交えて話をするのは常に楽しい。しかしそれはそれとして、俺たちはこのおっかない地雷原からあとずさりし撤退する。俺たちがこの先ふかえりや戎野先生に会うことも、おそらくはない。『空気さなぎ』は罪のないファンタジー小説で、そこには具体的な情報なんて何ひとつ盛り込まれていない。その声がどんな代物だろうが、それが伝えるメッセージがなんだろうが、俺たちにはもう関係ない。そういうことにしておこうじゃないか」 「ボートから降りて、地上の生活に戻る」  小松は肯いた。「そのとおり。俺は毎日会社に出勤し、あってもなくてもどっちでもいいような原稿を文芸誌のためにとってまわる。君は予備校で前途有為な若者たちに数学を教えながら、その合間に長編小説を書く。お互いそういう平和な日常に復帰するんだ。急流もなければ滝もない。日々は移り、俺たちは穏やかに年を重ねていく。何か異議はあるかい?」 「だってそれ以外に選択肢はないんでしょう」  小松は指先で鼻の脇のしわを伸ばした。「そのとおりだ。それ以外に選択肢はない。俺はもう二度と誘拐なんかされたくない。あんな真四角な部屋に閉じこめられるのは一度でたくさんだ。そして次のときは、再び日の目を見せてはもらえないかもしれない。それでなくてもあの二人組ともう一度顔を合わせることを考えただけで心臓の弁が震える。目つきだけで人を自然死させられそうなやつらだよ」  小松はカウンターに向かってグラスを上げ、三杯目のハイボールを注文した。新しい煙草を口にくわえた。 「ねえ小松さん、それはともかく、どうしてこれまで僕にその話をしなかったんですか? その誘拐事件からもうずいぶん日にちが経っています。二ヶ月以上です。もっと前に話してくれてもよかったでしょう」 「どうしてだろうな」と小松は軽く首をひねりながら言った。「たしかにそのとおりだ。君にこの話をしなくてはと思いつつ、俺はそれを何となく延ばし延ばしにしてきた。どうしてだろう? 罪悪感からかもしれないな」 「罪悪感?」と天吾は驚いて言った。そんな言葉を小松の口から聞くことになるなんて考えたこともなかった。 「俺だって罪悪感くらいあるさ」と小松は言った。 「何に対する罪悪感ですか?」  小松はそれには答えなかった。目を細め、火のついていない煙草を唇の間でしばらく転がしていた。 「それで、ふかえりは両親が亡くなったことを知っているのですか?」と天吾は質問した。 「たぶん知っていると思う。いつかはわからんが、戎野先生がどこかの時点で伝えているはずだ」  天吾は肯いた。きっとふかえりはすいぶん前からそのことを知っていたのだろう。そういう気がした。知らされていないのは自分だけだったのだ。 「そして僕らはボートから降りて、地上の生活に戻る」と天吾は言った。 「そのとおりだ、地雷原からあとずさりする」 「でも小松さん、そうしようと思って、そんなにすんなりと元あった生活に復帰できると思いますか?」 「努力するしかあるまいよ」と小松は言った。そしてマッチを擦って煙草に火をつけた。「天吾くんには何か気にかかるところが具体的にあるのか?」 「いろんなものごとがまわりで既にシンクロを始めている。それが僕の感じていることです。そのいくつかはもう形を変えてしまっています。そう簡単に元には戻れないかもしれない」 「もしそこに俺たちのかけがえのない命がかかっているとしてもかい?」  天吾は曖昧に首を振った。自分がいつからか強い一貫した流れに巻き込まれていることを天吾は感じていた。その流れは彼をどこか見知らぬ場所に運ぼうとしていた。しかしそれを具体的に小松に説明することはできない。  天吾は彼が現在書いている長編小説が、『空気さなぎ』に書かれている世界をそのまま引き継いだものであることを、小松には打ち明けなかった。小松はきっとそれを歓迎しないだろう。まず間違いなく「さきがけ」の関係者も歓迎しないだろう。下手をすれば別の地雷原に彼は足を踏み入れることになる。あるいはまわりの人々を巻き添えにすることになるかもしれない。しかし物語はそれ自体の生命と目的を帯びて、ほとんど自動的に前に進み続けていたし、天吾は既にその世界に否応なく含まれてしまっている。天吾にとってそこは架空の世界ではなくなっていた。それは、ナイフで皮膚を切れば本物の赤い血が流れ出す現実の世界になっていた。その空には、大小二つの月が並んで浮かんでいた。 第19章 牛河 彼にできて普通の人間にできないこと  風のない静かな木曜日の朝だった。牛河はいつものように六時前に目を覚まし、冷たい水で顔を洗った。NHKラジオのニュースを聞きながら歯を磨き、電気剃刀で髭を剃った。鍋に湯を沸かしてカップ麺を作り、それを食べ終えるとインスタント?コーヒーを飲んだ。寝袋を丸めて押し入れに突っ込み、窓際のカメラの前に腰を据えた。東の空が明るくなり始めていた。温かい一日になりそうだ。  朝に出勤していく人々の顔は、今ではすっかり頭に刻み込まれている。いちいち写真を撮るまでもない。七時から八時半のあいだに彼らは急ぎ足でアパートを出て、駅に向かう。お馴染みの顔ぶれだ。アパートの前の道を、グループを組んで登校する小学生たちの賑やかな声が牛河の耳に届いた。子供たちの声は彼に、娘たちがまだ幼かった頃のことを思い出させた。牛河の娘たちは小学校での生活を心ゆくまで楽しんでいた。ピアノやバレエを習い、友達も多かった。自分にそういう当たり前の子供たちがいるという事実が、牛河には最後までうまく受け入れられなかった。どうしてこの自分がそんな子供たちの父親であり得るのだろう?  出勤の時間が終わると、アパートを出入りする人間はほとんどいなくなった。子供たちのにぎやかな声も消えた。牛河はリモコンのシャッターを手から放し、壁にもたれてセブンスターを吸い、カーテンの隙間から玄関を眺めた。いつものように十時過ぎに郵便配達人が赤い小型バイクに乗ってやってきて、玄関の郵便ボックスに郵便を手際よく仕分けして入れていった。牛河の見るところ、その半分くらいはジャンク?メイルだ。多くは封も切らずに捨てられてしまうのだろう。太陽が中空に近づくにつれて温度が急速に上昇し、通りを歩く人々の多くはコートを脱いでいた。  ふかえりがアパートの玄関に現れたのは十一時過ぎだった。彼女は先日と同じ黒いタートルネックのセーターの上に、グレーのショート?コートを着て、ジーンズとスニーカーを履き、濃いサングラスをかけていた。そして大振りな緑色のショルダーバッグをたすきがけにかけていた。バッグには雑多なものが入っているらしく、いびつに膨らんでいる。牛河はもたれていた壁から離れ、三脚にセットされたカメラの前に移動し、ファインダーを覗いた。  この少女はここを出て行くつもりだ、牛河にはそれがわかった。持ちものをバッグに詰め、別の場所に移動しようとしている。二度とここに戻るつもりはない。そういう気配があった。彼女が出て行こうと決めたのは、俺がここに潜んでいることに気づいたからかもしれない。そう思うと心臓の鼓動が速くなった。  少女は玄関を出たところで立ち止まり、前と同じように空を見上げた。絡み合った電線と変圧器のあいだに何かの姿を探し求めた。サングラスのレンズが陽光を受けてきらりと輝いた。彼女がその<傍点>何かを見つけたのか、それとも見つけられなかったのか、サングラスのせいで表情が読み取れない。およそ三十秒ばかり少女は身じろぎもせず空を見上げていた。それから思い出したように首を曲げ、牛河の潜んでいる窓に視線を向けた。彼女はサングラスを取ってコートのポケットに突っ込んだ。そして眉を寄せ、窓の隅に偽装された望遠レンズに目の焦点をあわせた。彼女は知っている、と牛河はあらためて思った。俺がここに隠れていることが、自分が密かに観察されていることが、あの少女にはわかっているのだ。そして逆に、レンズからファインダーを遡って牛河を観察している。水が屈曲した配水管を逆流していくように。両腕の皮膚が粟立つ感覚があった。  ふかえりは時おり瞬きをした。その二つの瞼は、自立した静かな生き物のようにゆっくりと思慮深く上下した。しかしそれ以外の部分に動きはない。彼女はそこに立ち、長身の孤高な鳥のように首を曲げ、ただまっすぐ牛河を見つめていた。牛河はその少女から目をそらせることができなくなっていた。世界全体がそこでいったん動きを止められたみたいだ。風もなく、音は空気を震わせることをやめていた。  やがてふかえりは牛河を見つめるのをやめた。また顔を上げ、空のさっきと同じあたりに目をやった。しかし今度は数秒間でその観察を終えた。やはり表情は変わらない。コートのポケットから色の濃いサングラスを出して再び顔にかけると、そのまま通りに向かった。彼女の歩調は滑らかで迷いがなかった。  すぐに出て行って、彼女のあとをつけるべきなのだろう。天吾はまだ戻っていないし、この少女の行く先を確かめるための時間的な余裕はある。どこに移ったか、知っておいて損はないはずだ。しかし牛河はなぜか床から腰を上げられなかった。身体が痺れたようになっている。ファインダー越しに送り込まれた彼女の鋭い視線が、行動を起こすのに必要とされる力を、牛河の身体からそっくり奪っていったようだ。  まあいい、と牛河は床に座り込んだまま自分に言い聞かせた。俺が見つけなくてはならないのはあくまで青豆だ。深田絵里子は興味深くはあるが、本筋からは離れた存在だ。たまたま現れた脇役に過ぎない。ここを出ていくのなら、そのままどこにでも行かせればいいじゃないか。  ふかえりは通りに出ると、足早に駅の方に向かった。一度も後ろを振り返らなかった。牛河は日焼けしたカーテンの隙間からその後ろ姿を見送った。彼女の背中で左右に揺れる緑色のショルダーバッグが見えなくなると、床を這うようにカメラの前を離れ、壁にもたれた。そして身体に正常な力が戻るのを待った。セブンスターを口にくわえ、ライターで火をつけた。煙を深々と吸い込んだ。しかし煙草には味がなかった。  力はなかなか回復しなかった。いつまでも手脚に痺れが残っていた。そして気がつくと、彼の中には奇妙なスペースが生じていた。それは純粋な空洞だった。その空間が意味するのはただ欠落であり、おそらくは無だった。牛河は自分自身の内部に生まれたその見覚えのない空洞に腰を下ろしたまま、そこから立ち上がることができなかった。胸に鈍い痛みが感じられたが、正確に表現すればそれは痛みではない。欠落と非欠落との接点に生じる圧力差のようなものだ。  彼はその空洞の底に長いあいだ座り込んでいた。壁にもたれ、味のない煙草を吸っていた。そのスペースはさっき出て行った少女があとに残していったものだった。いや、そうじゃないのかもしれない、と牛河は考える。これはもともと俺の中にあったもので、彼女はそれが存在することをただ俺に教え示したに過ぎないのかもしれない。  牛河は自分が深田絵里子という少女に、全身を文字通り揺さぶられていることに気づいた。彼女のみじろぎひとつしない深く鋭い視線によって、身体のみならず牛河という存在そのものが根本から揺さぶられているのだ。まるで激しい恋に落ちた人のように。牛河がそんな感覚を持ったのは生まれて初めてのことだ。  いや、そんなわけはない、と彼は思う。何故俺があの少女に恋をしなくてはならないのだ? だいたい俺と深田絵里子ほど釣り合わない組み合わせは、この世界にほかに存在するまい。わざわざ洗面所に行って鏡を見るまでもない。いや、外見的なことだけではない。何から何まであらゆる面において、俺くらい彼女から遠い地点にいる人間はまたといるまい。性的な側面でその少女に惹かれているわけでもなかった。性的な欲求についていえば、牛河は月に一度か二度、馴染みの娼婦を相手にするだけで十分だった。電話をかけてホテルの部屋に呼び出し、交わる。床屋に行くのと同じだ。  これはおそらく魂の問題なのだ。考え抜いた末に牛河はそのような結論に達した。ふかえりと彼とのあいだに生まれたのは、言うなれば魂の交流だった。ほとんど信じがたいことだが、その美しい少女と牛河は、カモフラージュされた望遠レンズの両側からそれぞれを凝視し合うことによって、互いの存在を深く暗いところで理解しあった。ほんの僅かな時間だが、彼とその少女とのあいだに魂の相互開示ともいうべきことがおこなわれたのだ。そして少女はどこかに立ち去り、牛河はそのがらんとした洞窟に一人残された。  あの少女は俺がカーテンの隙間から、望遠レンズを使って彼女を密かに観察していたのを知っていた。駅前のスーパーマーケットまであとをつけたことも知っていたはずだ。あのとき一度も背後を振り向かなかったけれど、俺の存在が見えていたに違いない。それでも彼女の目には牛河の行いを責める気配はなかった。彼女は遥かに深いところで俺を理解したのだ、牛河はそう感じた。  少女は現れて、去っていった。我々は異なった方向からやってきて、たまたま進路を交差させ、束の間視線を合わせ、そして異なった方向に離れていった。俺が深田絵里子と巡り合うことはもう二度とあるまい。これはたった一度しか起こり得ないことなのだ。仮に彼女と再会することがあったとして、今ここで起こったこと以上の何を彼女に求めればいいのか? 我々は今では再び遠く離れた世界の両端に立っている。そのあいだを結ぶ言葉などどこにもありはしない。  牛河は壁にもたれたまま、カーテンの隙間から人々の出入りをチェックした。ひょっとしたらふかえりは思い直して戻ってくるかもしれない。部屋に大事な忘れ物をしたことを思い出すかもしれない。しかしもちろん少女は戻ってこなかった。彼女は心を決めてよそに移ったのだ。何があろうと再びここに戻ることはない。  牛河はその午後を、深い無力感に包まれて過ごした。その無力感にはかたちもなく重みもなかった。血液の動きが遅く鈍くなった。視野に淡い霞がかかり、手脚の関節が気怠く軋んだ。目を閉じるとふかえりの視線が残していった疼きを、肋骨の内側に感じた。疼きは海岸に次々に寄せる穏やかな波のように、やってきては去っていった。またやってきては去っていった。ときどきその痛みは顔をしかめなくてはならないほど深いものになった。しかし同時にそれは、今までに経験したことのない温もりを彼にもたらした。牛河はそのことに気づいた。  妻も二人の娘も、芝生の庭のある中央林間の一軒家も、これほどの温かみを牛河に与えてくれることはなかった。彼の心には常に溶け残った凍土の塊のようなものがあった。彼はその堅く冷ややかな芯とともに人生を送ってきた。それを冷たいと感じることさえなかった。それが彼にとっての「常温」だったからだ。しかしどうやらふかえりの視線がその氷の芯を、一時的であるにせよ融かしてしまったらしい。それと同時に牛河は胸の奥に鈍い痛みを感じ始めた。その芯の冷たさがこれまで、そこにある痛みの感覚を鈍麻させていたのだろう。いわば精神の防衛作用のようなものだ。しかし彼は今その痛みを受け入れていた。ある意味ではそれを歓迎してもいた。彼が感じている温かみは、痛みと対になって訪れるものなのだ。痛みを受け入れない限り、温かみもやってこない。それは交換取引のようなものなのだ。  午後の小さな日だまりの中で、牛河はその痛みとぬくもりを同時に味わった。心静かに、身動きひとつせず。風のない穏やかな冬の日だった。道を行く人々はたおやかな光の中を通り抜けていった。しかし日は徐々に西に傾き、建物の陰に隠れ、日だまりも消えてしまった。午後の温かみは失われ、やがて冷ややかな夜が訪れようとしていた。  牛河は深い溜息をついて、それまでもたれていた壁から自分の身体をなんとか引きはがした。まだいくらか痺れは残っているが、部屋の中を移動するのに支障はない。彼はそろそろと立ち上がって手脚を伸ばし、太く短い首を様々な方向に曲げた。両手を何度も握ったり開いたりした。それから畳の上でいつものストレッチングをした。身体中の関節が鈍く音を立て、筋肉が少しずつもとあった柔軟性を取り戻していった。  人々が仕事や学校から戻ってくる時刻だ。監視の仕事を続行しなくてはならない、牛河は自分にそう言い聞かせる。これは好き嫌いの問題ではない。正しい正しくないの問題でもない。いったんやり始めたことは最後までやり遂げなくちゃならない。そこには俺自身の命運がかかってもいるのだ。いつまでもこの空洞の底で、当てのない物思いに耽っているわけにはいかない。  牛河はもう一度カメラの前に自らを据えた。あたりはすっかり暗くなり、玄関の照明は点灯されていた。たぶん時間がくると明かりがともるようにタイマーでセットされているのだろう。人々はうらぶれた巣に戻っていく無名の鳥たちのように、アパートの玄関に足を踏み入れていった。その中には川奈天吾の顔はない。しかし彼は遠からずここに戻ってくるだろう。いくらなんでもそんなに長く父親の看病にあたっているわけにはいかない。おそらく週があけるまでに彼は東京に戻り、職場に復帰するに違いない。あと数日のうちに。いや、今日明日にも。牛河の勘はそう告げていた。  俺は石の湿った裏側に蠢《うごめ》いている虫けらみたいな、じめじめした薄汚い存在かもしれない。いいとも、そいつは進んで認めよう。しかし同時に俺はどこまでも有能でどこまでも我慢強い、執拗な虫けらだ。簡単にはあきらめない。手がかりひとつあれば、それをとことん追求する。垂直な高い壁をどこまでもよじ登っていく。もう一度胸の中に冷たい芯を取り戻さなくてはならない。今の俺にはそいつが必要なのだ。  牛河はカメラの前で両手をごしごしとこすり合わせた。そして両手の十本の指が不自由なく動くことを今一度確かめた。  世間の普通の人間にできて俺にできないことはたくさんある。そいつは確かだ。テニスをすることも、スキーをすることもそのひとつだ。会社に就職することも、幸福な家庭を営むことも。しかしその一方で、俺にできて世間の普通の人間にできないことも少しはある。そして俺はその<傍点>少しのことがとても上手にできるのだ。観客の拍手や投げ銭までは期待しない。しかしとにかく世間にこの手並みをお見せしようではないか。  九時半になって牛河はその日の監視の仕事を終えた。缶詰のチキン?スープを小鍋にあけて携行燃料の火で温め、スプーンですくって大事に飲んだ。それと一緒に冷たいロールパンを二つ食べた。リンゴをひとつ皮ごと囓った。小便をし、歯を磨き、寝袋を床に広げ、上下の下着だけになってその中に潜り込んだ。ジッパーを首のところまで上げ、虫のように丸まった。  そのように牛河の一日は終わった。収穫と呼べるほどのものもなかった。あえて言えば、ふかえりが荷物をまとめてここを出て行くのを確認したくらいだ。彼女がどこに行ったのかはわからない。<傍点>どこかだ。牛河は寝袋の中で首を振る。俺には関係のないどこかだ。ほどなく寝袋の中で凍えた身体が温もり、それと同時に意識が薄れ、深い眠りが訪れた。やがて小さな凍えた核が、彼の魂に再び堅くその位置を占めた。  翌日、特筆すべきことは何ひとつ起こらなかった。翌々日は土曜日だった。その日も温かく穏やかな一日だった。多くの人々は昼前まで眠っていた。牛河は窓際に座り、ラジオを小さくつけてニュースを聞き、交通情報を聞き、天気予報を聞いた。  十時前に大きなカラスが一羽やってきて、人気のない玄関のステップにしばらく立っていた。カラスはあたりを注意深く見回し、何度か肯くような素振りを見せた。太い大きなくちばしが空中を上下し、艶やかな黒い羽が太陽の光を受けて輝いた。それからいつもの郵便配達人が赤い小型バイクに乗ってやってきて、カラスは不承不承、翼を大きく広げて飛び立っていった。飛び立つときに短く一度だけ鳴いた。郵便配達人が郵便物をそれぞれのボックスに区分けして引き上げると、今度は雀の群れがやってきた。彼らは慌ただしく玄関前のあちこちを探しまわり、あたりにめぼしいものが何もないことを見て取ると、すぐに別の場所に移っていった。そのあとには一匹の縞柄の猫がやってきた。どこか近所の家で飼われているらしく、首にノミ取りの首輪をつけていた。見かけたことのない猫だ。猫は枯れた花壇の中に入って小便をし、小便を終えるとその匂いを嗅いだ。何かが気に入らないらしく、いかにも面白くなさそうに髭をぴくぴくと震わせた。そして尻尾をぐいと立てたまま建物の裏手に姿を消した。  昼までに何人かの住人が玄関から出て行った。身なりからするとこれからどこかに遊びに行くか、あるいはただ近所に買い物に出かけるか、どちらかのようだった。牛河は今では彼らの顔を一人ひとり、だいたい全部記憶していた。しかし牛河はそのような人々の人柄や生活についてはこれっぽっちも興味を抱かなかった。どのようなものだろうと想像を巡らせることすらなかった。  あんたがたの人生は、あんたがた本人にとってはきっと大事な意味を持つものなのだろう。またかけがえのないものなのだろう。それはわかる。しかしこちらにとってはあってもなくてもどちらでもいいものだ。俺にとっちゃあんたがたはみんな、書き割りの風景の前を通り過ぎていくぺらぺらの切り抜き人間に過ぎない。俺があんたがたに求めるのはただひとつ「どうか俺の仕事の邪魔をしないでいてくれ。そのまま切り抜きの人間でいてくれ」ということだ。 「そうなんですよ、大梨さん」と牛河は、目の前を横切っていく、西洋梨のような形に尻の膨らんだ中年の女に、勝手につけた名前を使って呼びかけた。「あなたはただの切り抜きなんです。実体なんかありゃしない。そのことを知ってました? まあ、切り抜きにしちゃいささか肉厚ですがね」  しかしそんなことを考えているうちに次第に、その風景に含まれる事物のすべてが「意味のないもの」であり「あってもなくてもいいもの」であるように思えてきた。それともそこにある風景そのものが、もともと実在しないものなのかもしれない。実体のない切り抜き人間に欺かれているのは、実は自分の方なのかもしれない。そう思うと牛河はだんだん落ち着かない気持ちになってきた。家具のないがらんとした部屋に閉じこもり、来る日も来る日も秘密の監視を続けているせいだ。神経だっておかしくもなる。彼はできるだけ声を出してものを考えることを心がけた。 「おはようございます、長耳さん」と彼はファインダーの中に見える長身の痩せた老人に向けて語りかけた。両耳の先端がまるで角のように白髪から突き出している。「これからお散歩ですか。歩くのは健康によろしい。お天気もいいですし、せいぜい楽しんでいらっしゃい。私だって手脚を伸ばしてのんびり散歩したいのは山々なんですが、残念ながらここに座り込んで、このろくでもないアパートの入り口を日がな見張ってなくちゃならんのです」  老人はカーディガンを着てウールのズボンを穿き、背筋をしゃんと伸ばしていた。律義な白い犬を連れていると似合いそうだが、アパートで犬を飼うことは許されていない。老人がいなくなると、牛河はわけもなく深い無力感に襲われた。この監視は結局無駄骨に終わるかもしれない。俺の直感なんてそれこそ一文の値打ちもなく、俺はどこにもたどり着けないまま、この空虚な部屋の中で神経を摩耗させていくだけかもしれない。通りがかりの子どもたちに撫でられて、お地蔵さんの頭がすり減っていくみたいに。  牛河は昼過ぎにリンゴをひとつ食べ、チーズをクラッカーに載せて食べた。梅干し入りのおにぎりもひとつ食べた。それから壁にもたれたまま少し眠った。夢のない短い眠りだったが、目が覚めたとき、自分がどこにいるのか思い出せなかった。彼の記憶はきっちりとした四隅を持った純粋な空き箱だった。その箱の中に入っているのは空白だけだ。牛河はその空白をぐるりと見渡した。しかしよく見るとそれは空白ではなかった。それは薄暗い一室で、がらんとして冷ややかで、家具ひとつなかった。見慣れない場所だ。傍らの新聞紙の上にはリンゴの芯がひとつある。牛河の頭は混乱した。俺はどうしてこんな奇妙なところにいるのだろう?  それからやがて、自分が天吾の住んでいるアパートの玄関を監視していることを思い出した。そうだ、ここに望遠レンズをつけたミノルタの一眼レフがある。一人で散歩に出かけていった白髪の長耳老人のことも思い出した。鳥たちが日が暮れて林に戻るように、空っぽの箱の中に徐々に記憶が復帰してきた。二つのソリッドな事実がそこに浮かび上がっていった。  (1) 深田絵里子はここから去っていった。  (2) 川奈天吾はまだここに戻っていない。  三階の川奈天吾の部屋には今は誰もいない。窓にはカーテンが引かれ、静寂がその無人の空間を覆っている。ときおり作動する冷蔵庫のサーモスタットのほかにその静寂を破るものはない。牛河はそんな光景をあてもなく想像した。無人の部屋を想像することは、死後の世界を想像するのにいくらか似ている。それからふと、偏執的なノックをするNHKの集金人のことが頭に浮かんだ。ずっと見張っていたが、その謎の集金人がアパートから出ていった形跡はなかった。集金人はひょっとしてたまたまこのアパートの住人だったのだろうか。それともこのアパートに住んでいる誰かが、NHKの集金人を騙ってほかの住人にいやがらせをしているのか。もしそうだとして、いったい何のためにそんなことをしなくてはならないのだ? それはおそろしく病的な仮説だった。しかしほかにどのように、この奇妙な事態に説明をつければいいのだろう。牛河には見当がつかない。  川奈天吾がアパートの玄関に姿を見せたのは、その日の午後四時前だった。土曜日の夕暮れ前だ。彼は着古したウィンドブレーカーの襟を立て、紺色の野球帽をかぶり、旅行用バッグを肩にかけていた。彼は玄関先で立ち止まることもなく、あたりを見回すこともなく、まっすぐ建物の中に入っていった。牛河の意識はまだいくぶんぼんやりとしていたが、視野を通り過ぎていくその大柄な体躯を見逃すことはなかった。 「ああ、お帰りなさい、川奈さん」、牛河はそう眩きながら、モータードライブでカメラのシャッターを三度切った。「お父さんの具合はいかがでした? きっとお疲れになったことでしょう。ゆっくり休んでください。自宅に帰るっていうのはいいものです。たとえこんな<傍点>しがないアパートであってもね。そうそう、深田絵里子さんは、あなたのいないうちに、荷物をまとめてどこかに行ってしまわれましたよ」  しかしもちろん彼の声は天吾には届かない。ただの独りごとに過ぎない。牛河は腕時計に目をやり、手元のノートにメモした。川奈天吾旅行より帰宅、午後三時五十六分。  川奈天吾がアパートの入り口に姿を見せるのと同時に、どこかで扉が大きく開かれ、現実感が牛河の意識に戻った。大気が真空を満たすように、一瞬のうちに神経は研ぎ澄まされ、新鮮な活力が身体に行き渡った。彼はそこにある具象的な世界に、ひとつの有能な部品として組み込まれた。<傍点>かちんという心地よいセッティングの音が耳に届いた。血行の速度が上がり、適量のアドレナリンが全身に配られた。これでいい、こうこなくては、と牛河は思った。これが俺の本来の姿であり、世界の本来の姿なのだ。  天吾が再び玄関に現れたのは七時過ぎだった。日が暮れると風が吹き始め、あたりは急激に冷え込んだ。彼はヨットパーカの上に革ジャンパーを着て、色の褪せたブルージーンズを穿いていた。玄関を出ると、立ち止まってあたりを見回した。しかし彼には何も見つけることはできなかった。牛河の潜んでいるあたりにも目をやったが、監視者の姿を捉えることはできなかった。深田絵里子とは違う、と牛河は思った。彼女は特別なものだ。人には見えないものが見える。しかし天吾くん、君は良くも悪くも当たり前の人間だ。君にはこの俺の姿は見えない。  あたりの風景に普段と変わりがないことを確認すると、天吾は革ジャンパーのジッパーを首のところまで上げ、ポケットに両手を突っ込んで通りに出て行った。牛河はすぐにニット帽をかぶり、首にマフラーを巻き、靴を履いて天吾のあとを追った。  天吾が外出したら、すぐにあとをつけるつもりでいたから、準備に時間はかからなかった。尾行はもちろん危険な選択だった。特徴のある牛河の体型と相貌は、天吾に見られたらすぐにそれとわかってしまう。しかしあたりはもうすっかり暗くなっているし、距離を置くようにすれば、簡単には見つけられないはずだ。  天吾はゆっくりと通りを歩き、何度か背後を振り向いたが、牛河はじゅうぶん用心していたから、姿を見られることはなかった。その大きな背中は何か考えごとをしているように見えた。ふかえりがいなくなったことについて考えを巡らせていたのかもしれない。方向からすると駅に向かっているようだ。これから電車に乗ってどこかに出かけるのだろうか。となると尾行はむずかしくなる。駅は明るいし、土曜日の夜だから乗降客は多くはない。そこでは牛河の姿は致命的なまでに目立つだろう。その場合は尾行はあきらめた方が賢明だ。  しかし天吾は駅に向かっていたのではなかった。しばらく歩いたところで、駅から遠去かる方向に角を曲がり、人通りのない道路を少し歩いてから、「麦頭」という名前の店の前に立った。若者を相手にするスナックバーのような店だ。天吾は腕時計で時刻を確かめ、数秒思案してからその店の中に入っていった。「むぎあたま」と牛河は思った。そして首を振った。まったく、なんというわけのわからない名前を店につけるんだろう。  牛河は電柱の陰に立ってあたりを見回した。天吾はたぶんここで軽く酒を飲み、食事をするつもりなのだろう。となれば少なくとも三十分はかかるはずだ。下手をすれば一時間くらい腰を据えるかもしれない。「麦頭」の人の出入りをうかがいながら時間をつぶせる適当な場所を彼は目で探し求めた。しかしまわりには牛乳の販売店と、天理教の小さな集会場と、米屋があるだけだ。どれも既にシャッターを下ろしている。やれやれまったく、と牛河は思った。北西の強い風が、空の雲を勢いよく吹き流していた。昼間の穏やかな温かさが嘘のようだ。こんな寒風の中、三十分も一時間も何もせずに道ばたに立っているのは、当然ながら牛河の歓迎するところではなかった。  このまま引き上げてしまおうかと牛河は思った。天吾はどうせここで食事をするだけだ。苦労して尾行する必要もない。牛河自身どこかの店に入って温かいものを食べ、そのまま部屋に戻ればいい。ほどなく天吾は帰宅するだろう。それは牛河にとっては魅力的な選択肢だった。自分が暖房の効いた店に入り、親子丼を食べているところを想像した。ここ数日、実のあるものを腹に入れていない。久しぶりに温かい日本酒を頼んでもいい。こんな寒さだ。一歩外に出れば酔いも醒めてしまう。  しかし別のシナリオも考えられた。天吾は「麦頭」で誰かと待ち合わせているのかもしれない。その可能性は無視できなかった。天吾はアパートを出て、迷うことなくまっすぐその店に向かった。店に入る前に腕時計で時刻を確かめた。誰かがそこで彼を待っていたのかもしれない。あるいはその誰かはこれから「麦頭」にやってくるのかもしれない。もしそうだとしたら、牛河はその<傍点>誰かを見逃すわけにはいかなかった。たとえ両耳が凍り付いたとしても、道ばたに立って「麦頭」の出入りを監視しているしかない。牛河はあきらめて、親子丼と温かい酒のことを頭から追いやった。  待ち合わせている相手はふかえりかもしれない。青豆かもしれない。牛河はそう思って心を引き締めた。なんといっても我慢強さが俺の身上だ。少しでも見込みがあれば、ここを先途としがみつく。雨に打たれても、風に吹かれても、太陽に焼かれても、棒で打たれても手を放さない。いったん放してしまえば、次にいつそれを握り直せるか、そんなことは誰にもわからない。彼が目の前のきつい苦痛に耐えられるのは、それよりも更にきつい苦痛が世の中に存在することを身をもって学んできたからだ。  牛河は壁にもたれ、電柱と日本共産党の立て看板の陰に隠れて、「麦頭」の入り口を見張った。緑色のマフラーを鼻の下まで巻き付け、ピーコートのポケットに両手を突っ込んでいた。時々ポケットからティッシュ?ペーパーを出して鼻をかむほかは、身動きひとつしなかった。高円寺駅のアナウンスが時折風に乗って聞こえてきた。通り過ぎていく人々の中には物陰に潜んでいる牛河の姿を目にして、緊張のために歩を早めるものもいた。しかし暗がりの中に立っていたので、顔だちまでは見えない。そのずんぐりとした体躯が不吉な置物のようにそこに暗く浮かび上がり、人々を怯えさせるだけだ。  天吾はそこでいったい何を飲んで、何を食べているのだろう。そんなことを考えれば考えるほど腹が減ったし、身体は冷えた。しかし想像しないわけにはいかなかった。なんでもいい、熱燗でなくてもいい、親子丼じゃなくてもいい。どこか温かいところに入って、人並みの食事をしたかった。吹きさらしの暗がりに立って、通りがかりの市民に疑わしげな視線を向けられることに比べたら、たいていのことは我慢できる。  しかし牛河には選択の余地はなかった。天吾が食事を終えて出てくるのを寒風の中で凍えて待つよりほかに、彼のとるべき道はなかった。中央林間の一軒家と、そこにあった食卓のことを牛河は考えた。その食卓には毎晩温かい食事が出ていたはずだ。しかしそれがどんなものだったか、うまく思い出せなかった。俺はあの頃いったい何を食べていたのだろう? まるで前世の話みたいだ。昔々、小田急線中央林間駅徒歩十五分のところに、新築の一軒家と温かい食卓がありました。二人の小さな女の子がピアノを弾き、小さな芝生の庭があり、血統書付きの子犬がそこを駆け回っておりました。  天吾は三十五分後に一人で店を出てきた。悪くない。少なくとももっとひどいことになる可能性だってあったのだ。牛河は自分にそう言い聞かせた。惨めな長い三十五分間だったが、惨めな長い一時間半よりは遥かにましだ。身体は冷えきっているが、まだ耳が凍りつくところまではいっていない。天吾が店内にいるあいだ、「麦頭」には牛河の注意を引くような客の出入りはなかった。若いカップルがひと組入っていっただけだ。出ていった客はいない。天吾は一人で酒を飲み、軽い食事をしただけなのだろう。牛河は来たときと同じように距離を十分にとって天吾のあとをつけた。天吾はもと来た道を辿っていた。おそらくこのままアパートの自室に戻るつもりなのだろう。  しかし天吾は途中で道を逸れ、牛河には見覚えのない通りに足を踏み入れていった。どうやらまっすぐ帰宅するのではなさそうだ。後ろから見える彼の広い背中は、相変わらず何かの考えに耽っているようだった。おそらくは前よりも更に深く。もう背後を振り向くこともなかった。牛河はあたりの風景を観察し、番地を読み取り、道順を記憶しようと努めた。後日自分ひとりでもう一度同じ道を辿れるように。牛河にはこのあたりの土地勘はなかったが、川の流れのような車の途切れない騒音がいくぶん大きくなったことから、環状七号線に近づいていると推測できた。そのうちに天吾の足取りは心もち速くなった。目的地に近づいているらしい。  悪くない、と牛河は思った。この男は<傍点>どこかに向かっている。こうこなくては。これで、わざわざ尾行してきた甲斐があったというものだ。  天吾は住宅地の街路を足早に抜けていった。冷たい風が吹く土曜日の夜だ。人々は温かい部屋に閉じこもり、テレビの前に座って温かい飲み物を手にしている。通りを歩く人間はほとんどいない。牛河は十分な距離をとってそのあとをついていった。天吾はどちらかといえば尾行しやすい相手だ。背が高くて大柄で、人混みの中でも見逃すことがない。歩くときには歩く以外の余計なことをしない。軽く顔を伏せ、いつも頭の中で何かしらの考えを追っている。基本的に率直で正直な男だ。隠しごとができるタイプではない。たとえば俺とはぜんぜん違う。  牛河が結婚した相手も、隠しごとが好きな女だった。いや、好きというのではないな。隠しごとを<傍点>せずにはいられないタイプなのだ。今何時だと尋ねても、まず正確な時刻は教えてもらえないだろう。それも牛河とは違う。牛河は必要なときにしか隠しごとはしない。仕事の一部として、必要に迫られてそうするだけだ。誰かに時刻を尋ねられれば、そしてもし不正直になるべき理由がなければ、むろん正確な時刻を教える。それも親切に教える。しかし妻は何しろあらゆる局面で、あらゆる物事についてまんべんなく嘘をついた。隠す必要のないことまで熱心に隠した。年齢だって四歳ごまかしていた。婚姻届を出す時に書類を見てわかったが、気がつかないふりをして黙っていた。どうしてそんな、いつか露見するのがわかりきっている嘘をつかなくてはならないのか、牛河には理解できない。それに牛河は年齢差を気にするような人間ではない。彼にはもっとほかに気にしなくてはならない物事がたくさんある。妻が自分より本当は七歳年上だったとして、それのいったいどこが問題なのだ?  駅から遠ざかるにつれて、人影はいっそうまばらになっていった。やがて天吾は小さな公園に入っていった。住宅地の一角にあるぱっとしない児童公園だ。公園は無人だった。当然だ、と牛河は思う。十二月の夜の児童公園で、寒風に吹かれてひとときを過ごそうと思う人間は、世間にそう多くはいない。天吾は冷ややかな水銀灯の光の下を横切り、まっすぐ滑り台に向かった。そのステップに足をかけ、上にあがった。  牛河は公衆電話ボックスの陰に身を潜めて天吾の行動を見守っていた。滑り台? 牛河は顔をしかめた。どうしてこんな寒い夜に、大のおとなが児童公園の滑り台に上らなくてはならないのか? ここは天吾の住んでいるアパートのすぐ近くというわけではない。彼は何らかの目的を持って<傍点>わざわざここまでやってきたのだ。とくに魅力的な公園とも言えない。狭苦しくうらぶれている。滑り台に、ぶらんこがふたつ、小さなジャングルジム、砂場。世界の終わりを何度となく照らしてきたような水銀灯がひとつ、葉をむしり取られた無骨なケヤキの木が一本。施錠された公衆便所は落書きのためのかっこうのキャンバスになっている。ここには人の心を和ませてくれるものもなければ、想像力を刺激するものもない。あるいは爽やかな五月の午後には、そういうものもいくらかあるのかもしれない。しかし風の強い十二月の夜には断じてない。  天吾はこの公園で誰かと待ち合わせているのだろうか。誰かがここにやってくるのを待っているのだろうか。そうではあるまいと牛河は判断した。天吾の素振りにはそういう気配は見当たらなかった。公園に入ってもほかの遊具には注意を払わず、一直線に滑り台に向かった。念頭には滑り台しかないみたいだった。<傍点>天吾は滑り台に上るためにここにやってきたのだ。牛河の目にはそうとしか映らなかった。  滑り台に上って考えごとをするのが、この男は昔から好きなのかもしれない。小説の筋を考えたり、数学の公式について思案したりする場所として、夜の公園の滑り台の上がいちばん適しているのかもしれない。あたりが暗ければ暗いほど、吹く風が冷たければ冷たいほど、公園が二級品であればあるほど、頭脳が活発に働くのかもしれない。世間の小説家が(あるいは数学者が)何をどう考えるのか、牛河の想像が及ぶところではない。彼の実用的な頭が告げているのは、何はともあれここで辛抱強く天吾の様子を窺っているしかないということだけだ。腕時計の針はちょうど八時を指している。  天吾は滑り台の上で、大きな身体を折り畳むように腰を下ろした。そして空を見上げた。しばらくのあいだ頭をあちこちに動かしていたが、やがてひとつの方向に視線を据えると、そのままそちらを眺めた。頭はもうぴくりとも動かなかった。  牛河はずっと昔に流行った坂本九の感傷的な歌を思い出した。「見上げてごらん夜の星を、小さな星を」というのが出だしの一節だ。あとの歌詞は知らない。とくに知りたいとも思わない。感傷と正義感は牛河がもっとも不得意とする領域だった。天吾も滑り台の上から、何かしらの感傷をもって夜の星を見上げているのだろうか?  牛河も同じように空を見上げてみた。しかし星は見えない。ごく控えめに言って、東京都杉並区高円寺は星空を観察するのに適した土地とは言えない。ネオンサインや道路の照明灯が、空全体を奇妙な色合いに染めている。人によっては目をこらせば、いくつか星をそこに認めることができるかもしれない。しかしそれには並み外れた視力と集中力が必要とされるはずだ。おまけに今夜は雲の往来がことのほか激しい。それでも天吾は滑り台の上で身じろぎもせず、空の特定の一角を見上げていた。  まったくはた迷惑な男だ、と牛河は思う。何もこんな風の強い冬の夜に、滑り台の上で空を見上げて考えごとをする必要もあるまいに。とはいえ彼には天吾を非難できる筋合いはない。牛河はあくまで自分の都合で勝手に天吾を見張り、尾行しているのだ。その結果どんな酷い目にあわされようと、それは天吾の責任ではない。天吾は一人の自由な市民として、春夏秋冬好きな場所から好きなだけ空を眺める権利を有している。  それにしても冷えると牛河は思った。少し前から小便がしたかった。しかしここは我慢するしかない。公衆便所には頑丈そうな鍵がかかっていたし、いくら人通りがないとはいえ、電話ボックスのわきで立ち小便はできない。何でもいいから早くここを引き払ってくれないものか、牛河は足を踏みしめながらそう思った。考えごとをしているにせよ、感傷に耽っているにせよ、天体観測をしているにせよ、天吾くん、君だってかなり寒いはずだぜ。早く部屋に戻って暖まろうじゃないか。戻ったところで、お互い誰が待っているわけでもないが、こんなところにいるよりは遥かにましだろう。  しかし天吾には腰をあげそうな気配はなかった。彼はようやく夜空を見上げるのをやめたが、今度は通りを挟んだマンションに目をやった。六階建ての新しい建物で、半分ばかりの窓に明かりがついている。天吾はその建物を熱心に眺めていた。牛河もその建物を同じように眺めてみたが、そこにはとくに彼の注意を引くものは見当たらなかった。よくある普通のマンションだ。とくに高級というほどではないが、グレードはそこそこ高そうだ。上品なデザインで、外装のタイルにも金がかかっている。玄関も立派で明るい。天吾の住んでいる解体寸前の安アパートとはものが違う。  天吾はそのマンションを見上げながら、できたら自分もそんなところに住みたいと考えているのだろうか? いや、そんなはずはない。牛河の知る限り、天吾は住む場所にこだわるタイプではなかった。着る洋服にこだわらないのと同様。きっと今住んでいる安物のアパートにもとくに不満は感じていないはずだ。屋根があって、寒さがしのげればそれでいい。そういう男なのだ。彼が滑り台の上で考えを巡らしているのはもっと違う種類のものごとであるはずだ。  マンションの窓をひととおり眺めてしまうと、天吾はもう一度空に視線を戻した。牛河も同じように空を見上げた。牛河の潜んでいる場所からはケヤキの枝や電線や建物が邪魔になって、空の半分ほどしか見渡せなかった。天吾が空のどの一角を見ているのか定かにはわからない。数え切れないほどの雲があとからあとから、かさにかかった軍団のように押し寄せてくる。  やがて天吾は立ち上がり、厳しい夜間の単独飛行を終えた飛行士のように、いかにも寡黙に滑り台を降りた。そして水銀灯の照明の下を横切り、公園から出ていった。牛河は迷ったが、これ以上あとはつけないことにした。天吾はたぶんこのまま自室に戻るはずだ。それに牛河としてはどうしても小便がしたかった。彼は天吾の姿が見えなくなるのを見定めてから公園の中に入り、公衆便所の裏手の人目につかない暗がりで、植え込みに向かって立ち小便をした。彼の膀胱の容量は既に限界を越えかけていた。  長い貨物列車が鉄橋を渡り切ることができるくらいの時間をかけてようやく小便を終えると、牛河はズボンのジッパーを上げ、目をつぶって深い安堵の溜息をついた。腕時計の針は八時十七分を指している。天吾が滑り台の上にいたのは十五分くらいのものだ。天吾の姿が見えないことを再確認してから、牛河は滑り台に向かった。そして短い湾曲した脚でそのステップを上った。冷え切った滑り台のてっぺんに腰を下ろし、天吾が見つめていたのとおおよそ同じ方向に目をやった。彼がいったい何をあんなに熱心に眺めていたのか、牛河はそれが知りたかった。  牛河は視力は悪い方ではない。乱視が入っていて、そのせいで目つきがいくぶん左右不均衡になっているものの、眼鏡をかけなくても日常生活には支障はない。しかしいくら目を凝らしても、星はひとつも見当たらなかった。それよりは中空近くに浮かんだ、三分の二ばかりの大きさの月が牛河の注意を惹いた。月はそのアザのような暗い模様を、通り過ぎていく雲の合間にくっきりと晒していた。いつもながらの冬の月だ。冷ややかで青白く、太古から引き継がれた謎と暗示に満ちている。それは死者の目のようにまばたきひとつせず、黙して空に浮かんでいる。  やがて牛河は息を呑んだ。そのまましばらく呼吸することさえ忘れてしまった。雲が切れたとき、そのいつもの月から少し離れたところに、もうひとつの月が浮かんでいることに気づいたからだ。それは昔ながらの月よりはずっと小さく、苔が生えたような緑色で、かたちはいびつだった。でも間違いなく月だ。そんな大きな星はどこにも存在しない。人工衛星でもない。それはひとつの場所にじっと留まっている。  牛河はいったん目を閉じ、数秒間を置いて再び目を開けた。何かの錯覚に違いない。<傍点>そんなものがそこにあるわけがないのだ。しかし何度目を閉じてまた目を開いても、新しい小振りな月はやはりそこに浮かんでいた。雲がやってくるとその背後に隠されたが、通り過ぎるとまた同じ場所に現れた。  <傍点>これが天吾の眺めていたものなのだ、と牛河は思った。川奈天吾はこの光景を見るために、あるいはそれがまだ存在しているのを確認するために、この児童公園にやってきたのだ。空に二つの月が浮かんでいることを彼は前から知っていた。疑いの余地はない。それを目にしても驚いた様子を見せなかった。牛河は滑り台の上で深く吐息をついた。ここはいったいどういう世界なんだ、と牛河は自らに問いかけた。<傍点>俺はどのような仕組みの世界に入り込んでしまったのだ? 答えはどこからもやってこない。無数の雲が風に吹き流され、大小二つの月が謎かけのように空に浮かんでいるだけだ。  ひとつだけ間違いなく言えることがある。<傍点>これはもともと俺のいた世界ではない。俺の知っている地球はひとつしか衛星を持たない。疑いの余地のない事実だ。それが今では二つに増えている。  しかしやがて牛河は、自分がこの光景に既視感のようなものを感じていることに気づいた。俺は以前どこかでこれと同じ光景を目にしている。牛河は意識を集中して、その既視感がどこからもたらされたのか、必死に記憶を探った。顔をゆがめ、歯をむき出し、両手で意識の暗い水底をさらった。そしてようやく思い当たった。『空気さなぎ』だ。その小説にもやはり二つの月が登場した。物語の最後に近いところだ。大きな月と小さな月。マザがドウタを生み出したとき、空に浮かんだ月はふたつになる。ふかえりがその物語をつくり、天吾が詳細な描写を加えた。  牛河は思わずあたりを見回した。しかし彼の目に映るのはいつもと同じ世界だった。通りを隔てた六階建てのマンションの窓にはレースの白いカーテンが引かれ、その背後には穏やかな明かりが灯っていた。おかしなところは何ひとつない。<傍点>ただ月の数が違っているだけだ。  彼は足もとを確かめながら注意深く滑り台を降りた。そして月の目を逃れるように足早に公園を出た。俺の頭がおかしくなりかけているのか? いや、そんなはずはない。俺の頭はおかしくなってなんかいない。俺の思考は新しい鉄釘のように硬く、冷徹でまっすぐだ。それは現実の芯に向けて正しい角度で的確に打ち込まれている。俺自身には何の問題もない。俺はちゃんと正気を保っている。まわりの世界が狂いを見せているだけだ。  そしてその<傍点>狂いの原因を俺は見出さなくてはならない。なんとしても。 第20章 青豆 私の変貌の一環として  日曜日には風がやみ、前夜とは打って変わって暖かく穏やかな一日になった。人々は重いコートを脱ぎ、太陽の光を楽しむことができた。青豆は外の天候とは無縁に、カーテンを閉めた部屋の中でいつもと変わりのない一日を過ごした。  小さな音でヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を聴きながらストレッチングをし、機械を使って筋肉を厳しく動かす。日ごとに増えて充実していくメニューをこなすのに二時間近くを要する。料理を作り、部屋の掃除をし、ソファに座って『失われた時を求めて』を読む。ようやく『ゲルマントの方』の巻にかかったところだ。できるだけ暇な時間をつくらないように彼女は心がける。テレビを見るのはNHKの正午と午後七時の定時ニュースだけだ。相変わらず大きなニュースはない。いや、大きなニュースはある。世界中で数多くの人々が命を落としていた。その多くは痛ましい死に方だった。列車が衝突し、フェリーが沈み、飛行機が落ちた。収拾の見込みのない内乱が続き、暗殺があり、民族間のいたましい虐殺があった。気候変動による旱魃があり、洪水があり、飢饅があった。青豆はそのような悲劇や災害に巻き込まれている人々に心から同情した。しかしそれはそれとして、今の青豆に直接の影響を及ぼしそうな出来事はひとつも起こっていない。  通りを隔てた児童公園では近所の小さな子供たちが遊んでいる。子供たちは口々に何かを叫んでいる。屋根にとまったカラスたちが連絡をとり合う鋭い声も聞こえる。空気には初冬の都会の匂いがする。  それから彼女はふと、このマンションの一室に住むようになってから、自分が一度も性欲を感じていないことに気がつく。誰かとセックスをしたいと思ったこともないし、自慰も一度もしていない。妊娠したせいかもしれない。それによってホルモンの分泌が変化したのかもしれない。いずれにせよ、青豆にとってそれはありがたいことだった。こんな環境で誰かとセックスをしたくなっても、どこにもはけ口は見つけられないのだから。毎月の生理がないことも、彼女にとっては喜ばしいことのひとつだ。もともと重い方ではないが、それでも長いあいだ背負ってきた荷物をひとつ下ろせたような気がする。少なくとも考えるべきことがひとつ減るだけでもありがたい。  三ヶ月のあいだにずいぶん髪が伸びた。九月には肩まで届くか届かないくらいの長さだったのだが、今では肩胛《けんこう》骨にかかるほどになっている。子供の頃はいつも母親の手で短くおかっぱに刈られていたし、中学生になってからずっとスポーツ中心の生活を送ってきたせいで、そんなに髪を長く伸ばしたことは一度もなかった。いささか長すぎるようにも感じたが、自分でカットするのは無理だから、伸ばしっぱなしにしておくしかない。前髪だけははさみを使って揃える。昼間は髪をまとめて上げておいて、日が暮れると下ろす。そして音楽を聴きながら百回のブラッシングをする。時間に余裕がなければとてもできないことだ。  青豆はもともと化粧というほどのものをしないし、こうして部屋にこもっていればなおさらそんな必要もない。それでも生活を少しでも規則正しいものにするために、丹念に肌の手入れをした。クリームや洗顔液を使って肌をマッサージし、寝る前に必ずパックをする。もともと健康な身体だから、少し手入れをするとすぐに肌が美しく艶やかになる。いや、あるいはそれも妊娠しているせいかもしれない。妊娠すると肌がきれいになるという話を耳にしたことがある。いずれにせよ鏡の前に座り、髪を下ろした顔を眺めていると、自分が以前より美しくなったように感じる。少なくともそこには成熟した女性としての落ち着きが生まれている。たぶん。  青豆は生まれてこの方、自分を美しいと思ったことがなかった。小さな頃から誰かに美しいと言われたことも一度もない。母親は彼女をむしろ醜い子供として扱った。「もっとお前の器量がよければ」というのが母親の口癖だった。もっと青豆の器量がよかったら、もっと愛らしい見かけの子供であったなら、より多くの信者を勧誘できるはずなのにという意味だ。だから青豆は小さい頃からできるだけ鏡を見ないようにしていた。必要に応じて短く鏡の前に立ち、いくつかの細部を手早く事務的に点検する。それが彼女の習慣になった。  大塚環は青豆の顔だちが好きだと言った。ぜんぜん悪くないよ、とても素敵だよ、と言ってくれた。大丈夫、もっと自信を持っていい。青豆はそれを聞いてとても嬉しかった。友人の温かい言葉は思春期を迎えた青豆を少なからず落ち着かせ、安心させてくれた。自分は母親から言われ続けていたほど醜くないのかもしれないと思えるようにもなった。でもその大塚環も、<傍点>美しいとは一度も言ってくれなかった。  しかし生まれて初めて、自分の顔にも美しいところがあるかもしれないと青豆は思う。これまでになく長く鏡の前に座るようになったし、自分の顔をより念入りに眺めるようになった。しかしそこにナルシスティックな要素はない。彼女はあたかも独立した別の人格を観察するように、鏡に映る自分の顔を様々な角度から実際的に検証する。自分の顔立ちが実際に美しくなったのか、それとも顔だちそのものは変わっていないが、それを見る自分の感じ方が変化したのか。青豆自身にも判別できない。  青豆はときどき鏡の前で思い切り顔をしかめる。しかめられた顔は昔と同じだ。顔中の筋肉が思い思いの方向に伸び、そこにある造作は見事なまでにほどけてばらばらになってしまう。世界中のあらゆる感情がそこに奔出する。美しいも醜いもない。それはある角度からは夜叉のように見え、ある角度からは道化のように見える。ある角度からはただの混沌にしか見えない。顔をしかめるのをやめると、水面の波紋が収まっていくように筋肉は徐々に緩み、もとの造作に戻る。青豆は以前とはいくぶん異なった新しい自分自身をそこに見出すことになる。  本当はもっと自然ににっこりできるといいんだけどね、と大塚環はよく青豆に言った。にっこりすると顔だちがそんなにやわらかくなるのに、もったいないよ。でも青豆は人々の前で自然にさりげなく微笑むことができない。無理に微笑もうとすると、ひきつった冷笑のようになってしまう。そして相手をかえって緊張させ、居心地悪くさせることになる。大塚環はとても自然に、明るい笑みを浮かべることができた。誰もが初対面で彼女に親しみを持ち、好感を抱いた。でも結局のところ、彼女は失意と絶望のうちに自らの命を絶たなくてはならなかった。うまく微笑むことのできない青豆をあとに残して。  静かな日曜日だ。温かな日差しに誘われて多くの人々が向かいの児童公園にやってきた。両親は子どもたちを砂場で遊ばせ、ぶらんこに乗せた。滑り台を滑る子どもたちもいた。老人たちはベンチに腰掛け、子どもたちが遊ぶ姿を飽きもせずに眺めていた。青豆はベランダに出てガーデンチェアに座り、目隠しのプラスチック板の隙間からそんな光景を見るともなく見ている。平和な風景だ。世界は滞りなく前に進んでいる。そこには命を狙われるものもおらず、殺人者を追跡するものもいない。人々は九ミリ弾をフルに装填した自動拳銃を、タイツにくるんでタンスの抽斗に隠していたりはしない。  私もいつかそこにあるような、物静かで順当な世界の一部になることができるのだろうか。青豆は自分に向かってそう問いかける。<傍点>この小さなものの手を引いて公園に行き、ぶらんこに乗せたり、滑り台を滑らせたりすることが、いつの日か私にもできるのだろうか。誰かを殺したり、誰かに殺されたりすることを考えずに、日々の生活を送れるようになるのだろうか。そういう可能性はこの「1Q84年」に存在しているのだろうか。あるいはそれは、どこか別の世界にしか存在しないのだろうか。そして何よりも大事なこと——そのとき私の隣に天吾はいるのだろうか?  青豆は公園を眺めるのをやめ、部屋に戻る。ガラス戸を閉め、カーテンを引く。子供たちの声が聞こえなくなる。哀しみが淡く彼女の心を染める。彼女はどこからも孤立し、内側から鍵をかけた場所に閉じこめられている。昼間の公園を眺めるのはもうよそう。青豆はそう思う。昼間の公園に天吾がやってくるわけはない。彼が求めているのは鮮明な二つの月の姿なのだ。  簡単な夕食を済ませ、食器を洗ってから、青豆は暖かい格好をしてベランダに出る。毛布を膝にかけ、身体を椅子に沈める。風のない夜だ。水彩画家が好みそうな雲が空に淡くたなびいている。ブラシの繊細なタッチが試されるところだ。その雲に遮られることなく、三分の二ほどの大きさの月が明瞭な光をきっぱりと地上に送っている。その時刻、青豆の位置からは二つめの小さな月の姿を目にすることができない。その部分がちょうど建物の陰になっている。しかし<傍点>それがそこにいることは、青豆にはわかっている。彼女にはその存在を感じ取ることができる。角度としてたまたま見えないだけだ。まもなくそれは彼女の前に姿を見せることだろう。  青豆はこのマンションの一室に身を隠してから、意識を頭から意図して閉め出せるようになっていた。とりわけこうしてベランダに出て公園を眺めているとき、彼女は自在に頭の中をからっぽにできる。目は公園を怠りなく監視している。とくに滑り台の上を。しかし何も考えていない。いや、おそらく意識は何かを思っているのだろう。しかしそれはおおむねいつも水面下に収められている。その水面下で自分の意識が何をしているのか、彼女にはわからない。しかし意識は定期的に浮かび上がってくる。ウミガメやイルカが、時が来れば水面に顔を出して呼吸をしなくてはならないのと同じだ。そういうときに彼女は、自分がそれまで<傍点>何かを考えていたことを知る。やがて意識は肺を新鮮な酸素で満たし、再び水面下に沈み込んでいく。その姿は見えなくなる。そして青豆はもう何も考えてはいない。彼女は柔らかな繭に包まれた監視装置となり、滑り台に無心の視線を送っている。  彼女は公園を見ている。しかし同時に何も見ていない。何か新しいものごとが視野に入れば、彼女の意識は即座にそれに対応するはずだ。しかし今のところ何も起こっていない。風はない。探り針のように空中に巡らされたケヤキの暗い枝は微動だにしない。世界は見事に静止している。彼女は腕時計に目をやる。八時をまわったところだ。今日もこのまま何ごとも起こらないまま終ってしまうのかもしれない。どこまでもひっそりとした日曜日の夜だ。  世界が静止していることをやめたのは、八時二十三分のことだった。  気がついたとき、一人の男が滑り台の上にいる。そこに腰を下ろし、空の一角を見上げている。青豆の心臓がきりきりと縮まり、小さな子供の握り拳ほどの大きさになる。もう二度と動き出さないのではないかと思えるほど長く、心臓はその大きさに留まっている。それから唐突に膨らんでもとのサイズに戻り、活動を再開する。乾いた音を立て、狂おしいばかりの速度で全身に新しい血液を配布する。青豆の意識も急いで水面に浮かび上がり、ひとつ身を震わせてから行動の態勢に入る。  天吾だ、と青豆は反射的に思う。  でも揺らいだ視野が定まると、それが天吾でないことがわかる。その男は子供のように背が低く、角張った大きな頭部を持ち、ニット帽をかぶっている。頭に合わせて、ニット帽は奇妙なかたちに変形させられている。緑色のマフラーを首に巻き、紺色のコートを着ている。マフラーは長すぎるし、コートは腹部が膨らんでボタンがはじけそうだ。それが昨夜ちらりと目にした、公園を出ていく「子供」であることに青豆は思い当たる。しかし実際は子供ではない。おそらく中年に近い大人だ。背が低くずんぐりして、手脚が短いだけだ。そして異様に大きな、いびつなかたちの頭を持っている。  青豆はタマルが電話で話していた「福助頭」のことをはっと思い出す。麻布の柳屋敷のまわりを俳徊し、セーフハウスの様子を探っていたという人物だ。滑り台の上にいる男の外見はまさに、タマルが昨夜の電話で描写したとおりだ。この不気味な男はその後も執拗に捜索を重ね、すぐ目の前まで忍び寄ってきたのだ。拳銃をとってこなくてはならない。どうしてだろう、今夜に限って拳銃は寝室に置きっぱなしになっている。しかし彼女は深呼吸をしてひとまず心臓の混乱を鎮め、神経を落ち着かせる。いや、あわてることはない。銃を手に取る必要はまだない。  だいいちにその男は青豆のマンションを観察しているわけではない。彼は滑り台のてっぺんに座り、天吾がとっていたのとまったく同じ姿勢で空の一角を見上げている。そして自分が目にしているものについて思索に耽っているように見える。長いあいだ身動きひとつしない。まるで身体の動かし方を忘れてしまったみたいに。青豆の部屋のある方にはまるで注意を払っていない。青豆はそのことで混惑する。これはいったいどういうことなのだろう。この男は私を追い求めてここまでやってきた。おそらくは教団の人間だろう。そして疑いの余地なく辣腕の追跡者だ。なにしろ麻布の屋敷からここまで私の足取りを辿ることができたのだから。それなのに今こうして私の前に無防備に姿を晒し、放心したように夜空を見上げている。  青豆はそっと席を立って小さくガラス戸を開け、部屋に入って電話の前に座る。そして細かく震える指でタマルの電話番号を押し始める。ともあれタマルにこのことを報告しなくてはならない。福助頭が今、彼女の部屋から見えるところにいる。通りを隔てた児童公園の滑り台の上に。あとのことは彼が判断し、手際よく処理してくれるはずだ。しかし最初の四つの数字を押したところで彼女は指の動きを止め、受話器を握りしめたまま唇を噛みしめる。  <傍点>まだ早すぎる、と青豆は思う。この男については、わけのわからない点が多すぎる。もしタマルがこの男を危険因子としてあっさり「処置」してしまったら、その<傍点>わけのわからないことはきっとわけのわからないままに終わってしまうだろう。考えてみれば、この男は先日の天吾とまったく同じ行動をとっている。同じ滑り台、同じ姿勢、同じ空の一角。天吾の行動をそのままなぞっているかのようだ。彼の視線もやはりそこに二つの月の姿を捉えているのだろう。青豆にはそれがわかる。とすれば、この男と天吾とはどこかで繋がっているのかもしれない。そしてこの男は私がこの建物のこの部屋に身を潜めていることにはまだ気づいていないのかもしれない。だからこうして無防備にこちらに背中を向けていられるのではないか。考えれば考えるほど、その仮定は説得力を持っていく。もしそうなら、この男のあとを辿っていくことによって、私は天吾のいる場所に行き着けるかもしれない。この男が逆に私のために案内役をつとめてくれるわけだ。そう思うと心臓の動悸がますます硬く、速くなる。彼女は受話器を置く。  タマルに知らせるのはあとにしよう、彼女はそう心を決める。その前にやらなくてはならないことがある。そこにはもちろん危険が伴う。なにしろ追跡されるものが追跡者のあとをつけるのだから。そして相手はおそらく手馴れたプロだ。しかしだからといってこんな大事な手がかりを見過ごすわけにはいかない。これがあるいは私にとって最後のチャンスになるかもしれない。そしてこの男は見たところどうやら一時的な放心状態に陥っている。  彼女は急ぎ足で寝室に行き、タンスの抽斗を開けてヘックラー&コッホを手に取る。安全装置を外し、乾いた音を立ててチェンバーの中に弾丸を送り込み、もう一度安全装置をかける。それをジーンズの背後に突っ込み、ベランダに戻る。福助頭はまだ同じ姿勢で空を見上げている。そのいびつな頭はぴくりとも動かない。彼は空のその一角に見えるものに、すっかり心を奪われてしまっているように見える。その気持ちは青豆にもよくわかる。<傍点>それはたしかに心を奪う光景なのだ。  青豆は部屋に戻り、ダウン?ジャケットを着て野球帽をかぶる。度の入っていない黒いシンプルなフレームの眼鏡をかける。それだけで顔の印象はかなり違ってくる。グレーのスカーフを首に巻き、ポケットに財布と部屋の鍵を突っ込む。階段を走り降りて、マンションの玄関を出る。スニーカーの底が音もなくアスファルトの地面を踏みしめる。久方ぶりに味わうその固く着実な感触が彼女を励ます。  道路を歩きながら青豆は、福助頭がまだ同じ場所にいることを確かめる。日が落ちてから温度は確実に下がっていたが、相変わらず風はない。むしろ心地良い寒さだ。青豆は白い息を吐きながら足音を殺し、公園の前をそのまま何気なく通り過ぎる。福助頭は彼女の方にはまったく注意を向けない。彼の視線は滑り台の上からまっすぐ空に向けられている。青豆の位置からは見えないが、その男の視線の先には大小二つの月の姿があるはずだ。それらは雲のない凍えた空に、寄り添って並んでいるに違いない。  公園を通り過ぎ、ひとつ先の角まで行ってから、回れ右をして後戻りする。そして暗い物陰に身を隠し、滑り台の様子をうかがう。腰の背後に小型拳銃の感触がある。死そのもののように硬く冷ややかな感触だ。それは神経の高ぶりを鎮めてくれる。  待ったのは五分ばかりだろう。福助頭はゆっくり立ち上がり、コートについたほこりを払い、もう一度空を見上げてから思い定めたように滑り台のステップを降りる。そして公園を出て駅の方に向けて歩き出す。その男のあとをつけるのはさしてむずかしくない。日曜日の夜の住宅街は人影がまばらで、ある程度距離を置いても見失う心配はない。また相手は自分が誰かに監視されているかもしれないという疑いを微塵も抱いていないようだ。後ろを振り返ることなく、一定の速度で歩を運んでいく。人が考え事をしながら道を歩く速度だ。皮肉なものだと青豆は思う。追跡者の死角は追跡されることなのだ。  福助頭が高円寺駅に向かっているのではないことがやがて判明する。青豆は部屋にあった東京二十三区道路地図を使って、マンション近辺の地理を細かく頭に叩き込んでいた。緊急事態が起こったときのために、どちらに向かえば何があるのか熟知しておく必要があったからだ。だから福助頭が最初駅に向かう道を歩いていたが、途中で違う方向に折れたことがわかる。そしてまた福助頭が近辺の地理に通じていないことにも気づく。その男は二度ばかり角で立ち止まり、自信なさそうにあたりを見回し、電柱の住所表示を確認する。彼はここではよそ者なのだ。  やがて福助頭の歩調がいくぶん速くなる。きっと見覚えのある地域に戻ってきたのだろうと青豆は推測する。そのとおりだった。彼は区立小学校の前を通り過ぎ、広くない道路をしばらく進むと、そこにある三階建ての古いアパートに入っていく。  男が玄関の中に消えるのを見届けてから、青豆は五分待つ。その男と入り口で鉢合わせするのはごめんだ。玄関にはコンクリートのひさしがついて、丸い電灯が戸口のあたりを黄色く照らしている。アパートの看板や表札らしきものは、彼女の見る限りどこにもない。それは名を持たないアパートなのかもしれない。いずれにせよ建てられてからかなり長い歳月がたっているようだ。彼女は電柱に表示されていた住所を記憶する。  五分が経過し、青豆はアパートの玄関に向かう。黄色い光の下を足早に通り抜け、入り口のドアを開ける。小さなホールには人気はない。がらんとして温かみを欠いた空間だ。切れかけた蛍光灯がちりちりという微かな音を立てている。どこかからテレビの音が聞こえる。小さな子供が甲高い声で母親に何かを要求している声も聞こえる。  青豆はダウン?ジャケットのポケットから自分の部屋の鍵を出し、誰かに見られても、そこに住んでいる人間だと思ってもらえるように、それを手に持って軽く振りながら、郵便ボックスの名札を読んでいく。そのうちのひとつはあの福助頭のものであるかもしれない。あまり期待はできないが、いちおう試してみる価値はある。小さなアパートだし、それほど多くの人間が住んでいるわけでもない。やがてひとつのボックスに「川奈」という名前を見つけた瞬閲、青豆のまわりからあらゆる音が消えてしまう。  青豆はその郵便ボックスの前に立ちすくんでいる。あたりの空気はひどく希薄になって、呼吸がうまくできない。彼女の唇は軽く開かれ、細かく震えている。そのまま時間が経過する。それが愚かしく危険な振る舞いであることは自分でもよくわかっている。福助頭はこのあたりのどこかにいる。今にも玄関に姿を見せるかもしれない。しかし彼女はその郵便ボックスから自分の身体をひきはがすことができない。「川奈」という一枚の小さな名札が彼女の理性を麻痺させ、身体を凍りつかせてしまう。  その川奈という住人が、川奈天吾である確証はもちろんない。川奈はどこにでもある一般的な姓ではないが、かといってたとえば「青豆」のように格別珍しいものでもない。しかしもし福助頭が、彼女がそう推測するように、天吾と何らかの繋がりを持っているとしたら、この「川奈」が川奈天吾である可能性は高いものになるはずだ。部屋番号は三〇三となっている。彼女の暮らしている部屋とたまたま同じ番号だ。  どうすればいいのだろう。青豆は唇を強く噛みしめる。彼女の頭はひとつのサーキットの中をぐるぐると回り続ける。どこにも出口がみつからない。どうすればいいのだろう? しかしいつまでも郵便ボックスの前に立ちすくんでいるわけにはいかない。青豆は心を決め、不愛想なコンクリートの階段を三階まで上る。薄暗い床のところどころには、歳月の経過を示す細かなひびが入っている。スニーカーの底が耳障りな音を立てる。  そして青豆は三〇三号室の前に立つ。特徴のないスチール製のドア、名札受けには「川奈」と印刷されたカードが入っている。やはり苗字だけ。その二つきりの文字はひどく素っ気なく、どこまでも無機質に感じられる。しかし同時にそこには深い謎が集約されている。青豆はそこに立ち、じっと耳を澄ませる。すべての感覚を研ぎ澄ませる。しかし扉の奥からはどのような音も聞こえてこない。中に明かりがついているのかどうかもわからない。ドアの脇には呼び鈴がある。  青豆は迷う。唇を噛み考えを巡らせる。私はこのベルを押すべきなのか?  あるいはこれは巧妙に仕掛けられた罠かもしれない。ドアの奥には福助頭が身を潜め、暗い森の邪悪なこびとのように、忌まわしい笑みを浮かべながら私が来るのを待ち受けているのかもしれない。彼はわざと滑り台の上に姿を晒し、私をここまでおびき寄せ、捕獲しようとしているのだ。私が天吾を探し求めていることを知った上で、それを餌にしている。卑劣で狡猾な男だ。そして私の弱点をしっかりと押さえている。私にあの部屋のドアを内側から開けさせるには、たしかにそれ以外のやり方はない。  青豆はあたりに誰もいないことを確かめ、ジーンズの後ろから拳銃を取り出す。安全装置を外し、すぐに取り出せるようにダウン?ジャケットのポケットに入れる。右手でグリップを握りしめ、人差し指を引き金にかける。そして左手の親指で呼び鈴を押す。  部屋の中でドアベルが響く音が聞こえる。ゆっくりとしたチャイム音だ。彼女の心臓が立てている素速いリズムとはそぐわない。彼女は拳銃を握りしめ、ドアが開くのを待つ。しかしドアは開かない。誰かがのぞき穴から外をうかがっている気配もない。彼女は少し間をおいて再び呼び鈴を押す。チャイム音がまた響き渡る。杉並区中の人々が顔を上げ、耳をそばだてそうなほど大きな音だ。青豆の右手は銃把の上でうっすらと汗をかいている。しかしやはり反応はない。  ここはいったん引き上げた方がいい。三〇三号室の川奈という住人は、それが誰であれ不在だ。そして今この建物の中のどこかにあの不吉な福助頭が潜んでいる。これ以上長居をするのは危険だ。彼女は急いで階段を降り、郵便ボックスにもう一度ちらりと目をやってから建物の外に出る。顔を伏せて素速く黄色い照明の下を横切り、通りに向かう。背後を振り返り、あとをつける人間がいないことを確認する。  考えなくてはならないことがたくさんある。判断しなくてはならないことも同じくらいたくさんある。彼女は手探りで拳銃の安全装置をかける。人目につかないところでそれをもう一度ジーンズの背中の部分に挟む。期待しすぎてはいけないと青豆は自分に言い聞かせる。多くを望みすぎてはいけない。あの川奈という名前の住人は、あるいは天吾その人かもしれない。しかし天吾ではないかもしれない。いったん期待が生じると、心はそれをきっかけに独自の動きをとり始める。そしてその期待が裏切られたとき人は失望するし、失望は無力感を呼ぶ。心の隙が生まれ、警戒が手薄になる。今の私にとってそれは何よりも危険なことだ。  あの福助頭がどこまで事実を把握しているのか、それはわからない。しかし現実問題としてあの男は私に接近している。手を伸ばせば届きそうなところまで。心を引き締め、注意を怠ってはならない。相手は抜かりのない危険な男だ。些細な間違いが命取りになりかねない。まずだいいちに、あの古いアパートのまわりに安易に近づくことはできない。あの建物の中のどこかに彼は潜み、私を捕えるための策略を巡らせているに違いない。暗がりに巣を張り巡らせた毒々しい血吸い蜘蛛のように。  自室に戻るまでに青豆の決意はかたまっていた。彼女がとるべき道はひとつしかない。  青豆は今度は最後までタマルの番号を押す。十二回コールしてから電話を切る。帽子とコートを脱ぎ、拳銃をタンスの抽斗に戻し、水をグラスに二杯飲む。やかんに水を入れ、紅茶を飲むための湯をわかす。カーテンの隙間から通りの向かいにある公園を窺い、そこが無人であることを確認する。洗面所の鏡の前に立って髪をブラシで整える。それでもまだ両手の指は滑らかに動かない。緊張が続いているのだ。紅茶のポットに湯を注いだところで電話のベルが鳴る。相手はもちろんタマルだ。 「さっき福助頭を見かけた」と青豆は言う。  沈黙がある。「<傍点>さっき見かけたというと、今はもうそこにはいないということかな?」 「そう」と青豆は言った。「少し前このマンションの向かいの公園にいた。でも今はもういない」 「少し前というのはどれくらい前のことだろう?」 「四十分くらい前」 「どうして四十分前に電話をかけなかった?」 「すぐにあとをつけなくてはならなかったし、時間の余裕がなかった」  タマルは絞り出すようにゆっくりと息を吐く。「あとをつけた?」 「そいつを見失いたくなかったから」 「何があっても外に出るなと言ったはずだ」  青豆は注意して言葉を選ぶ。「でも自分の身に危険が迫ってくるのを、ただ座って眺めてはいられない。あなたに連絡をしても、すぐにここに来ることはできない。そうでしょう?」  タマルは喉の奥で小さな音を立てた。「そしてあんたは福助頭のあとをつけた」 「そいつは、自分があとをつけられているなんて思いも寄らないみたいだった」 「プロにはそういう<傍点>ふりができる」とタマルは言う。  タマルの言うとおりだ。あるいは巧妙に仕掛けられた罠だったのかもしれない。しかしタマルの前でそれを認めるわけにはいかない。「もちろんあなたにはそういうことができるでしょう。しかし私の見たところでは、福助頭はそのレベルには達していない。腕はいいかもしれない。でもあなたとは違う」 「バックアップがついていたかもしれない」 「いいえ。その男は間違いなく一人だった」  タマルは短く間を置く。「いいだろう。それでやつの行く先を見届けたのか?」  青豆はアパートの住所をタマルに教え、外観を説明する。部屋まではわからない。タマルはそれをメモに書き取る。彼はいくつかの質問をし、青豆はできるだけ正確に答える。 「あんたが見つけたとき、その男はマンションの向かいにある公園にいたんだな」とタマルは尋ねる。 「そう」 「公園で何をしていたんだ?」  青豆は説明する。その男は滑り台の上に座り込んで、長いあいだ夜空を見上げていた。しかし二つの月のことはもちろん口にしない。 「空を見ていた?」とタマルは言う。彼の思考が回転数を一段上げる音が受話器から聞こえる。 「空だか、月だか、星だか、そんな何かを」 「そして滑り台の上に無防備に自分の姿を晒していた」 「そういうこと」 「不思議だと思わないか」とタマルは言う。堅く乾いた声だ。それは一年に一日しか降らない雨だけで残りの季節を生き延びていく砂漠の植物を思わせる。「その男はあんたを追い詰めた。あと一歩のところまで。大したものだ。なのに滑り台の上から気楽に冬の夜空を見上げている。あんたの住んでいる部屋には目もくれない。俺に言わせれば、そんな筋の通らない話はない」 「そうかもしれない。不思議な話だし、筋も通っていない。私もそう思った。でもそれはそれとして、何はともあれそいつをそのまま見過ごすわけにはいかなかった」  タマルは溜息をつく。「それでも、俺にはやはりそれはとても危険なことに思える」  青豆は口をつぐんでいる。 「あとをつけてみて、その謎は少しでも解明されたか?」とタマルは尋ねる。 「されない」と青豆は言った。「でも少し気になることがあった」 「たとえば?」 「玄関の郵便ボックスを調べたら、三階に川奈という人が住んでいた」 「それで?」 「この夏にベストセラーになった『空気さなぎ』という小説は知っているわよね?」 「俺だって新聞くらい読んでいる。著者の深田絵里子はたしか『さきがけ』の信者の子供だ。行方不明になって、教団に拉致されたんじゃないかという疑いがあった。警察が調査をした。本はまだ読んでいない」 「深田絵里子はただの信者の子供じゃない。その父親は『さきがけ』のリーダーだった。つまり彼女は私がこの手で<傍点>あちら側に送り込んだ男の娘ということになる。そして川奈天吾はゴーストライターとして編集者に雇われ、『空気さなぎ』を大幅に書き直した人物なの。その本は事実上は二人の共作というわけ」  長い沈黙が降りる。細長い部屋の向こう端まで歩いて行って、辞書を手にとって何かを調べ、また戻ってくるくらいの時間がある。それからタマルは口を開く。 「その川奈というアパートの住人が川奈天吾だという確証はない」 「今のところまだない」と青豆は認める。「でももし同じ人物であれば、話の筋はいくらか通ってくるかもしれない」 「断片が噛み合ってくる」とタマルは言った。「しかしその川奈天吾が『空気さなぎ』のゴーストライターであることを、あんたはどうやって知ったんだ? そんなことは公表されていないはずだ。世間に知れたら大きなスキャンダルになる」 「リーダーの口から聞いた。死ぬ直前に、彼が私にそれを教えてくれた」  タマルの声が一段階冷ややかになる。「あんたはもっと前に俺にその話をするべきだった。そう思わないか?」 「そのときは、それが大事な意味を持つことだとは思わなかった」  沈黙がまたひとしきりあった。その沈黙の中でタマルが何を考えているのか、青豆にはわからない。しかし彼女はタマルが言い訳を好まないことを知っている。 「よかろう」とやがてタマルは言う。「それはまあいい。とりあえず話を短くしよう。つまりあんたが言いたいのは、福助頭はそのことを踏まえた上で、川奈天吾なる人物をマークしているかもしれないということだ。それを糸口にしてあんたの居場所に迫ろうとしている」 「そうじゃないかと思う」 「俺にはよくわからんな」とタマルは言う。「どうしてその川奈天吾が、あんたを探す糸口になるんだ? あんたと川奈天吾とのあいだに何か結びつきがあるわけではないだろう。あんたが深田絵里子の父親を処理し、彼が深田絵里子の小説のゴーストライターをつとめたという以外には」 「結びつきはある」と青豆は抑揚を欠いた声で言う。 「あんたと川奈天吾とのあいだには直接的な関係がある。そういうことか?」 「私と川奈天吾は以前、小学校の同じクラスにいた。そして私が産もうとしている子供の父親はおそらく彼だと思う。でもそれ以上の説明はここではできない。なんていうか、とても個人的なことだし」  ボールペンの先がとんとんと机を叩く音が受話器から聞こえる。それ以外にはどんな音も聞こえない。 「個人的なこと」とタマルは言う。平らな庭石の上に何か珍しい動物を見つけたみたいな声で。 「悪いけれど」と青豆は言う。 「わかった。それはとても個人的なことだ。俺もそれ以上は尋ねない」とタマルは言う。「それで、あんたは具体的に何を俺に求めているのだろう?」 「私が知りたいのはまず、その川奈という住人が、本当に川奈天吾であるかどうかということ。できることなら自分でそれを確かめたい。でも私がそのアパートに近づくのは危険すぎる」 「言うまでもない」とタマルは言う。 「そして福助頭はおそらくそのアパートのどこかに潜んで、何かを企んでいる。もしその男が私の居場所を探り当てかけているのなら、手を打つ必要があると思う」 「やつはあんたとマダムとのあいだに繋がりがあることも、ある程度つかんでいる。そんないくつかの手がかりを、この男は丹念にたぐり寄せ、ひとつに結び合わせようとしている。もちろん放置してはおけない」 「もうひとつあなたにお願いしたいことがある」と青豆は言う。 「言ってみてくれ」 「もしそこにいるのが本当に川奈天吾だとしたら、彼にどんな危害も及ばないようにしてもらいたいの。もしどうしても誰かに危害が及ばなくてはならないのだとしたら、私が進んで彼の代わりになる」  タマルはまたひとしきり沈黙する。今度はボールペンの先で机を叩く音は聞こえない。何の音も聞こえない。彼は無音の世界で考えを巡らせている。 「最初のふたつの案件は、なんとか俺の手に負えるだろう」とタマルは言う。「それは俺の仕事の一環だから。しかし三つ目に関しては何とも言えない。そこには個人的な事情が絡みすぎているし、俺には理解できない要素も多すぎる。また経験的に言って、一度に三つの案件をうまく処理するのは簡単なことではない。好むと好まざるとにかかわらず、そこには優先順位というものが生じる」 「それでかまわない。あなたはあなたの優先順位に従えばいい。ただ頭に留めておいてもらいたいの。私は生きているうちに、何があっても天吾くんに会わなくてはならないのだということを。彼に伝えなくてはならないことがあるから」 「頭に留めておくよ」とタマルは言う。「そこにまだ余分なスペースが残っているうちはということだが」 「ありがとう」と青豆は言う。 「あんたが今俺に話したことを、そのまま上に報告しなくてはならない。微妙な問題だ。俺一人の裁量では動けない。とりあえずここで電話を切る。もう外には出るな。鍵をかけて中に閉じこもっていろ。あんたが外に出ると面倒なことになる。あるいは既に面倒なことになっているかもしれない」 「そのかわり、こちらも相手についていくつかの事実を摑むことができた」 「いいだろう」とタマルはあきらめたように言う。「話を聞く限りいちおう抜かりなくやっているようだ。そいつは認める。でも油断はするなよ。相手が何を企んでいるのか、我々にはまだ正確には摑めていないんだ。そして状況を考えれば、背後にはおそらく何らかのかたちで組織がついている。俺が前に渡したものはまだ持っているな」 「もちろん」 「当分のあいだそいつを手元から離さないようにした方がいい」 「そうする」  短い間があり、電話が切れる。  青豆は湯をはった白い浴槽に身を深く沈め、時間をかけて身体を温めながら天吾のことを思う。あの古い三階建てのアパートの一室で暮らしているかもしれない天吾のことを。彼女はその無愛想なスチールのドアと、スリットに入った名札を思い浮かべる。「川奈」という名前がそこに印刷されている。そのドアの奥には、いったいどのような部屋があり、どのような生活がそこで営まれているのだろう。  彼女は湯の中で両方の乳房に手をあてて、ゆっくりと何度かさすってみる。乳首がいつになく大きく硬くなっている。敏感にもなっている。この手のひらが天吾のものであればいいのにと青豆は思う。広く厚い天吾の手のひらを彼女は想像する。それは力強く優しいものであるに違いない。彼女の一対の乳房は彼の両手の中に包み込まれ、深い愉楽と平穏をそこに見出すことだろう。それから青豆は、自分の乳房が前よりいくぶん大きくなっていることに気づく。錯覚ではない。間違いなく膨らみが増し、そのカーブはより柔らかくなっている。妊娠しているせいかもしれない。いや、それとも私の乳房は、妊娠とは関係なく<傍点>ただ大きくなったのかもしれない。私の変貌の一環として。  彼女は腹に手をあてる。その膨らみはまだ十分なものではない。そしてなぜかまだつわりもやってこない。でもその奥には小さなものが潜んでいる。彼女にはそれがわかる。ひょっとして、と青豆は思う、<傍点>彼らが必死に求めているのは私の命ではなく、<傍点>この小さなものではあるまいか? 彼らは私がリーダーを殺害した代償として、それを私ごと手に入れようとしているのではあるまいか? その考えは青豆を身震いさせる。どうしても天吾に会わなくてはならない。青豆はあらためて心を固める。彼と力を合わせ、<傍点>この小さなものを大事に護らなくてはならない。私はこれまでの人生において、多くの大切なものを既に奪いとられてきた。でもこれだけは誰にも渡さない。  ベッドに入ってしばらく本を読む。しかし眠りは訪れない。彼女は本を閉じ、腹部を護るようにそっと身体を折る。枕に頬をつけ、公園の空に浮かんだ冬の月を思う。そしてその隣に浮かぶ緑色の小さな月のことを。マザとドウタ。二つの月の光は混じり合って、葉を落としたケヤキの枝を洗っている。そしてタマルは今頃、事態を解決するための策を練っているはずだ。彼の思考は高速で回転している。眉をひそめ、ボールペンの頭で机をこつこつと叩いている彼の姿を青豆は思い浮かべる。やがてその単調な途切れないリズムに導かれるかのように、眠りの柔らかい布が彼女を包んでいく。 第21章 天吾 頭の中にあるどこかの場所で  電話のベルが鳴った。目覚まし時計の数字は時刻が二時四分であることを告げていた。月曜日の未明、午前二時四分だ。あたりはもちろん真っ暗で、天吾は深い眠りの中にいた。夢ひとつない穏やかな眠りだった。  彼がまず思い浮かべたのはふかえりだった。こんなとんでもない時刻に電話をかけてくる人間といえば、とりあえず彼女しかいない。それからややあって小松の顔が頭に浮かんだ。小松も時刻に関してはそれほど常識的とは言えない。しかしそのベルの鳴り方は小松らしくなかった。どちらかといえば切迫した、事務的な響きのする鳴り方だ。それに小松とは顔をつき合わせてたっぷり話をして、数時間前に別れたばかりだ。  その電話を無視して寝てしまうことも、ひとつの選択肢としてあった。どちらかといえば天吾はそうしたかった。しかし電話のベルはそこにあるあらゆる選択肢を叩き潰すかのように、いつまでも鳴り止まなかった。このまま夜が明けるまで鳴り続けているかもしれない。彼はベッドから起き上がり、何かに足をぶっつけながら受話器を取った。 「もしもし」と天吾はよく回らない舌で言った。頭には脳味噌のかわりに、冷凍されたレタスが収まっているみたいだ。レタスを冷凍してはいけないということを知らない人間がどこかにいるのだ。一度冷凍されて解凍されたレタスは、ぱりぱりとした食感を失ってしまう。それこそがおそらくはレタスにとっての最良の資質であるというのに。  受話器を耳に当てると風の吹く音が聞こえた。流れに身を屈めて透明な水を飲む、美しい鹿たちの毛を軽く逆立てながら、狭い谷間を吹き抜けていく気まぐれな一陣の風だ。しかしそれは風の音ではなかった。機械を通して誇張された誰かの息づかいだ。 「もしもし」と天吾は繰り返した。いたずら電話かもしれない。回線の具合が悪いのかもしれない。 「もしもし」とその誰かは言った。聞き覚えのない女の声だった。ふかえりではない。年上のガールフレンドでもない。 「もしもし」と天吾は言った。「川奈ですが」 「天吾くん」と相手は言った。ようやく話がかみ合ったようだ。しかし相手が誰なのかまだわからなかった。 「どなたですか?」 「アダチクミ」と相手は言った。 「ああ、君か」と天吾は言った。フクロウの鳴き声が聞こえるアパートに住んでいる、若い看護婦の安達クミだ。「どうしたの?」 「寝てた?」 「うん」と天吾は言った。「君は?」  無意味な質問だ。寝ている人間にはもちろん電話をかけることはできない。どうしてこんな馬鹿げたことを口にするのだろう。きっと頭の中にある凍えたレタスのせいだ。 「私は勤務中」と彼女は言った。そしてひとつ咳払いをした。「ねえ、川奈さんがさきほど亡くなったの」 「川奈さんが亡くなった」と天吾はよくわからないまま反復した。ひょっとして自分が死んでいることを誰かに告げられているのだろうか。 「天吾くんのお父さんが息を引き取ったの」と安達クミは言い直した。  天吾はとくに意味もなく受話器を右手から左手に移し替えた。「息を引き取った」と彼はまた反復した。 「仮眠室でうとうとしていたら、一時過ぎに呼び出しのベルが鳴った。お父さんの病室のベルだった。お父さんはずっと意識がなかったから、自分でベルを押せるわけないし、変だなと思ったんだけど、とにかくすぐ行ってみた。でも行ったときにはもう呼吸が止まっていた。心拍も停止していた。当直の先生を起こして、応急処置をしたけどだめだった」 「つまり父親がベルを押したということ?」 「たぶん。ほかには誰も押した人はいないから」 「死因は?」と天吾は尋ねた。 「そういうのは私からはなんとも言えない。でも苦しみのようなものはなかったみたい。顔はすごく安らかだった。なんていうかな、秋の終わりごろに風もないのに木の葉が一枚落ちるみたいな、そんな感じ。こういう言い方はまずいのかもしれないけど」 「何もまずくない」と天吾は言った。「それでよかったんだと思う」 「天吾くんは今日、こちらに来れるかな?」 「行けると思う」。月曜日から予備校の講義を再開することになっているが、父親が亡くなったとなれば、それはなんとでもなるはずだ。 「いちばん早い特急に乗るよ。十時前には着けるだろう」 「そうしてもらえるとありがたい。いろいろとジツムみたいなことがあるから」 「実務」と天吾は言った。「何か具体的に準備していった方がいいものはあるかな?」 「川奈さんの身内っていうと、天吾くん一人だけ?」 「たぶんそういうことになる」 「じゃあ、とりあえずジツインを持ってきて。必要なことがあるかもしれない。それから印鑑証明は持っている?」 「たしか予備があったと思う」 「それも念のために持ってきて。ほかに要るものはとくにないと思う。お父さんは全部ご自分で準備してられたみたいだから」 「全部準備していた?」 「うん。まだ意識のあるうちに葬儀の費用から、お棺に入るときの服から、納骨する場所まで、自分でそっくり細かく指定してらした。とても手回しの良い人だった。実際的というか」 「そういうタイプの人だったんだ」と天吾は指でこめかみをさすりながら言った。 「私は朝の七時に当直があけて、うちに帰って眠る。でも田村さんと大村さんは朝から勤務しているから、そこで天吾くんに細かい説明をしてくれると思う」  田村さんは眼鏡をかけた中年看護婦、大村さんは髪にボールペンを挿した看護婦だ。 「いろいろとお世話になったみたいだ」と天吾は言った。 「どういたしまして」と安達クミは言った。それからふと思い出したように、口調をあらためて付け加えた。「このたびはどうもご愁傷様でした」 「ありがとう」と天吾は言った。  眠れそうになかったから、天吾は湯を沸かし、コーヒーをつくって飲んだ。それで頭が少しまともになった。腹が減ったような気がしたので、冷蔵庫にあったトマトとチーズでサンドイッチを作って食べた。暗闇の中でものを食べているときのように、食感こそあるもののほとんど味はなかった。それから時刻表を取りだし、館山行きの特急の出発時刻を調べた。二日前、土曜日の昼に「猫の町」から帰ってきたばかりなのに、またそこに戻らなくてはならない。でも今回はおそらく一泊か二泊で済むはずだ。  時計が四時を指すと、天吾は洗面所で顔を洗い、髭を剃った。ヘアブラシを使って、まっすぐに立っているひとかたまりの髪をなんとか寝かせつけようとしたが、例によってうまくいかなかった。まあいい。昼前にはたぶん落ち着いているだろう。  父親が息を引き取ったことは、とくに天吾の心を揺さぶらなかった。彼は意識のない父親と二週間ばかりをともに過ごした。父親はそのとき自分が死に向かっていることを既成事実として受け入れているように見えた。妙な言い方だが、彼はそれを決めた上で、自らスイッチを切って昏睡状態に入ったみたいだった。何が彼にそのような昏睡をもたらしたのか、医師たちは原因を特定できなかった。しかし天吾にはわかっていた。父親は死ぬことに決めたのだ。あるいはこれ以上生きようという意思を放棄した。安達クミの表現を借りるなら「一枚の木の葉」として、意識の明かりを消し、すべての感覚の扉を閉ざして、季節の刻み目の到来を待ったのだ。  千倉駅からタクシーに乗り、海辺の療養所についたのは十時半だった。前日の日曜日と同じような穏やかな初冬の一日だった。温もりのある日差しが、枯れかけた庭の芝生をねぎらうように照らし、見たことのない三毛猫が一匹そこで日向ぼっこをしながら、時間をかけて尻尾を丹念に舐めていた。田村看護婦と大村看護婦が玄関で彼を出迎えてくれた。二人はそれぞれに静かな声で天吾を慰めてくれた。天吾は礼を言った。  父親の遺体は、療養所の目立たない一画にある、目立たない小部屋に安置されていた。田村看護婦が先に立って天吾をそこに案内した。父親は移動式のベッドの上に仰向けに寝かされ、白い布をかけられていた。窓のない真四角な部屋で、白い壁を天井の蛍光灯がいっそう白く照らしていた。腰までの高さのキャビネットがあり、その上に置かれたガラスの花瓶には、白い菊の花が三本さしてあった。花はおそらくその日の朝に活けられたのだろう。壁には丸形の時計がかかっていた。埃をかぶった古い時計だが、指している時刻は正確だった。それは何かを証言する役目を担っているのかも知れない。そのほかには家具もなく装飾もない。たくさんの老いた死者たちが同じようにこの簡素な部屋を通過していったのだろう。無言のままここに入ってきて、無言のままここを出て行く。その部屋には実務的ではあるが、それなりに厳粛な空気が大事な申し送り事項のように漂っていた。  父親の顔は生きているときとさして変わりはなかった。間近に対面しても、死んでいるという実感はほとんどなかった。顔色も悪くないし、たぶん誰かが気を利かせて髭を剃ってくれたのだろう、顎と鼻の下は妙につるりとしていた。意識を失って深く眠っていることと、命を失っていることのあいだには、今のところそれほどの違いはない。栄養補給と、排泄の処理が不要になっただけだ。ただこのまま放っておけば数日のうちに腐敗が始まる。そしてそれが生と死を分ける大きな違いになってくる。しかしもちろんそうなる前に遺体は火葬に付される。  以前に何度か話したことのある医師がやってきて、まず悔やみの言葉を述べ、それから父親の死の経緯を説明してくれた。親切に時間をかけて説明してくれたが、ひとことで言ってしまえば「死因はよくわからない」ということだった。どれだけ検査をしても、具体的に悪いところは見つからなかった。検査の結果はむしろ父親が健康体であることを示していた。ただ認知症にかかっているだけだ。ところがなぜかあるとき昏睡に陥り(その原因は不明のままだ)、意識の戻らないまま身体全体の機能が少しずつ、しかし休むことなく低下を続けた。そしてその低下曲線がある定められたラインをまたいだところで、それ以上生命を維持することが困難になり、父親は避けがたく死の領域に入っていった。わかりやすいと言えばわかりやすい話だが、医師という専門的な立場からすれば少なからず問題がある。死因をひとつに特定できないからだ。老衰という定義がもっとも近いが、父親はまだ六十代半ばだったし、老衰を病名にするには若すぎた。 「私が担当医としてお父様の死亡診断書を書くことになります」とその医師は遠慮がちに言った。 「死因につきましては『長期にわたる昏睡によって引き起こされた心不全』というかたちにさせていただければと思うのですが、よろしいでしょうか?」 「でも実際には父の死因は『長期にわたる昏睡によって引き起こされた心不全』ではない。そういうことですか?」と天吾は尋ねた。  医師はいくらか困った顔をした。「ええ、心臓には最後まで、これといって障害は見当たりませんでした」 「しかしほかの臓器にも障害らしきものは見当たらなかったわけですね」 「そういうことです」と医師は言いにくそうに言った。 「しかし書類には明確な死因が必要とされる?」 「そのとおりです」 「専門的なことはよくわかりませんが、とにかく今は心臓は停止しているわけですね?」 「もちろんです。心臓は停止しています」 「それは一種の不全状態ですね」  医師はそれについて考えを巡らせた。「心臓が活動していることを正常とするなら、それはたしかに不全状態にあります。おっしゃるとおりです」 「じゃあ、そのように記入しておいて下さい。『長期にわたる昏睡によって引き起こされた心不全』でしたっけ。それでかまいません。異議はありません」  医師はほっとしたようだった。三十分あれば死亡診断書は用意できると彼は言った。天吾は礼を言った。医師は去り、あとには眼鏡をかけた田村看護婦が残った。 「しばらくお父様とお二人だけにしましょうか?」と田村看護婦は天吾に尋ねた。そう尋ねるのが決まりなので、いちおう尋ねているという事務的な響きが聞き取れた。 「いや、その必要はありません。ありがとう」と天吾は言った。ここで死んだ父親と二人だけにされても、とりたてて語り合うべきこともない。生きているときだってろくになかったのだ。死んでから急に話題が生まれるというものでもない。 「それでは場所を変えて、今後の段取りについてお話をしたいのですが、かまいませんか?」と田村看護婦は言った。  かまわないと天吾は言った。  田村看護婦は出ていく前に、遺体に向かって軽く手を合わせた。天吾も同じことをした。人は死者に自然な敬意を払う。相手はついさっき、死ぬという個人的な偉業を成し遂げたばかりなのだ。それから二人はその窓のない小部屋を出て、食堂に移った。食堂には誰もいなかった。庭に面した大きな窓から明るい陽光が差し込んでいた。天吾はその光の中に足を踏み入れ、ほっと一息つくことができた。そこにはもう死者の気配はなかった。それは生きている人々のための世界だった。たとえそれがどれほど不確実で不完全な代物であれ。  田村看護婦は温かいほうじ茶を湯飲みに入れて出してくれた。二人はテーブルをはさんで座り、しばらく無言でそのほうじ茶を飲んだ。 「今夜はどこかに泊まるの?」と看護婦は尋ねた。 「泊まるつもりでいます。宿はまだ予約してないけど」 「よかったら、お父さんがこれまでいらした部屋に泊まっていけば? 今は誰も使ってないし、それなら宿泊費もかからないでしょう。もしいやじゃなければだけど」 「べつにいやじゃないけど」と天吾は少し驚いて言った。「でもそんなことをしてもいいんですか?」 「かまわないわよ。あなたさえよければ、うちの方は誰も気にしないから。あとでベッドの用意をさせます」 「それで」と天吾は切り出した。「僕はこれから何をすればいいのでしょう?」 「担当医から死亡診断書をもらったら、役場に行って火葬許可証をもらい、それから除籍手続きをして下さい。それがとりあえずはいちばん大事なこと。ほかに年金の手続きだとか、預金口座の名義変更だとか、あれこれあると思うけど、それについては弁護士さんと話し合って」 「弁護士?」と天吾は驚いて言った。 「川奈さんは、つまりあなたのお父さんは、自分が死んだあとの手続きに関して、弁護士さんとお話をされていました。弁護士といっても、そんなにたいそうなものじゃありません。うちの療養所はお年寄りが多いし、判断能力に問題がある場合も多いので、財産分与などに関する法律的なトラブルを回避するために、地元の法律事務所と提携して法律相談をおこなっています。公証人を立てて遺言状の作成とか、そういうこともやっています。費用もたいしてかかりません」 「父は遺言状を残したのですか?」 「それは弁護士さんと話し合って下さい。私の口からは言えないことだから」 「わかりました。その人には近く会えますか?」 「今日の三時にここに来ていただくように、既に連絡をしてあります。それでいいかしら。急がせるみたいだけど、あなたも忙しいだろうし、勝手に手配しました」 「ありがたいです」、天吾は彼女の手際の良さに感謝した。彼のまわりにいる年上の女性はなぜかみんなそれぞれ手際がよかった。 「その前にとにかく町の役場に行って、除籍をして火葬許可証をもらってきてね。それがないと話が進まないから」と田村看護婦は言った。 「じゃあ、これから市川まで行かなくちゃなりませんね。父の本籍地は市川市になっているはずだから。でもそうなると三時までにはここに戻れそうにないな」  看護婦は首を振った。「お父様はここに入られてすぐ、住民票と本籍地を市川市から千倉町に移されたの。いざというときに手間が省けるだろうと」 「手回しがいい」と天吾は感心して言った。まるで最初からここで死ぬことになるとわかっていたみたいだ。 「本当に」と看護婦は言った。「そこまでなさる方はあまりいません。みんな、こんなところにいるのはほんの一時的なものだと考えるんです。でもね……」と言いかけて途中でやめ、あとの言葉を示唆するように、両手を体の前で静かに合わせた。「とにかくあなたは市川まで行く必要はありません」  天吾は父親の病室に案内された。父親が最後の数ヶ月を過ごした個室だ。シーツは剥がされ、上掛けと枕は持ち去られ、ベッドは縞模様の入ったマットレスだけになっていた。机の上には簡素なライト?スタンドが置かれ、狭いクローゼットには空のハンガーが五本かかっていた。本棚には一冊の本もなく、それ以外の私物もすべてどこかに運び去られていた。といっても、どんな私物がそこにあったのか天吾にはまるで思い出せなかった。彼は床にバッグを置き、部屋の中をひととおり見渡した。  部屋にはまだ薬品の匂いが微かに残っていた。病人が残していった息づかいをかぎ取ることさえできた。天吾は窓を開け、部屋の空気を入れ換えた。日焼けしたカーテンが風に吹かれて、遊戯をしている少女のスカートのように揺れた。それを見ているうちに、ここに青豆がいて、何も言わず自分の手をただしっかり握ってくれていたらどんなに素晴らしいだろうと天吾はふと思った。  彼はバスに乗って千倉町の役場に行き、窓口で死亡診断書を見せ、火葬許可証を受け取った。死亡時刻から二十四時間が経過すれば火葬に付すことができる。死亡による除籍届けも出した。その証明書ももらった。手続きに時間はいくらかかかったが、ものごとの原理はあっけないほど簡単だった。省察というほどのものは求められない。自動車の廃車届けを出すのと同じだ。役所でもらった書類を田村看護婦がオフィスのコピー機で三部ずつコピーしてくれた。 「二時半に、弁護士さんがお見えになる前に、善光社という葬儀社の人がここに来ます」と田村看護婦が言った。「その人に火葬許可証のコピーを一通わたして下さい。あとのことはすべて善光社さんがはからってくれます。お父さんが生前に担当者と話し合って段取りを決めておられました。必要な費用も積み立ててあります。だからとくに何もしなくていいんです。もちろん天吾さんの方にそれで異存がなければだけど」  異存はないと天吾は言った。  父親が残した身の回りのものはほとんどなかった。古い衣服、何冊かの本、それくらいだ。 「何か形見のようなものはほしい? といっても、目覚まし付きラジオか、古い自動巻の腕時計か、老眼鏡か、その程度のものだけど」と田村看護婦は尋ねた。  何もほしくはない、適当に処分してくれてかまわない、と天吾は言った。  ぴったり二時半に黒い背広を着た葬儀社の担当者が、密やかな足取りでやってきた。五十代前半の痩せた男だった。両手の指が長く、瞳が大きく、鼻の脇に黒い乾燥したいぼがひとつあった。日差しの下で長い時間を過ごしたみたいに、耳の先までまんべんなく日焼けしていた。何故かはわからないが、太った葬儀屋を天吾はこれまで目にしたことがない。その男は天吾に葬儀のおおよその手順を説明した。言葉遣いは丁寧で、しゃべり方はとてもゆっくりしていた。今回の件に関しては急ぐことは何ひとつありません、と彼は示唆しているようだった。 「お父様はご生前、できるだけ飾り気のないご葬儀を望んでおられました。用の足りる簡素な棺に入れて、ただそのまま火葬に付してもらいたい。祭壇やらセレモニーやらお経やら戒名やらお花やらあいさつやら、そんなものは一切省いてくれとおっしゃっておられました。墓も要らない。遺骨はこのあたりの適当な共同の施設に納めてもらいたいと。ですから、もしご子息様にご異存がなければ……」  彼はそこで言葉を切って、大きな黒い目で訴えかけるように天吾の顔を見た。 「父がもしそれを望んでいたのであれば、こちらとしては異存はありません」と天吾はその目をまっすぐ見ながら言った。  担当者は肯き、軽く目を伏せた。「それでは、今日がいわゆる通夜ということになりまして、当社で一晩ご遺体を安置いたします。ですので、これから当社にご遺体を運ばせていただきます。そして明日の午後一時に、近くの火葬場においてご火葬という次第になりますが、それでよろしいでしょうか?」 「異存はありません」 「ご子息様は火葬にお立ち会いになられますか?」 「立ち会います」と天吾は言った。 「火葬には立ち会いたくないという方もおられますし、それはご自由ですが」 「立ち会います」と天吾は言った。 「けっこうです」と相手は少しほっとしたように言った。「それでは、こういうところでなんですが、これは生前にお父様にお見せいたしましたのと、同じ内容のものになります。ご承認いただければと思います」  担当者はそう言うと、長い指を昆虫の脚のように動かして、書類ばさみのなかから計算書を取りだし、天吾に手渡した。葬儀についてほとんど知識のない天吾が見ても、それがかなり安上がりな葬儀であることは理解できた。天吾にはもちろん異存はなかった。彼はボールペンを借りてその書類にサインをした。  弁護士が三時少し前にやってくると、葬儀担当者と弁護士は天吾の前でしばらく世間話をした。専門家と専門家とのあいだで交わされるセンテンスの短い会話だ。何が話されているのか、天吾にはよくわからなかった。二人は前からの知り合いであるようだった。小さな町だ。きっとみんながみんなを知っているのだろう。  遺体安置室のすぐ近くに目立たない裏口があり、葬儀社のライトバンはそのすぐ外に停めてあった。運転席以外のドアのガラスはすべて黒く塗りつぶされ、真っ黒な車体には文字もマークもない。痩せた葬儀屋は助手を兼ねた白髪の運転手と二人で、天吾の父親を車輪付き寝台に載せ替え、車のところまで押していった。ライトバンは特別仕様で天井を一段高くしてあり、レールを使って寝台部分だけをそのまま載せられるようになっていた。後部の両開きドアが業務的な音を立てて閉まり、担当者が天吾に向かって丁寧に一礼し、それからライトバンは去っていった。天吾と弁護士と田村看護婦と大村看護婦の四人が、その真っ黒なトヨタ車の後部ドアに向けて手を合わせた。  弁護士と天吾は食堂の隅で向かい合って話をした。弁護士はおそらくは四十代の半ばで、葬儀屋とは対照的に丸々と太っていた。顎がほとんどなくなりかけている。冬なのに額にうっすらと汗をかいていた。夏にはきっとひどいことになるのだろう。グレーのウールの背広からは防虫剤のつんとする匂いが漂ってきた。額が狭く、その上にある髪は真っ黒で、必要以上にふさふさしている。肥満した体躯とふさふさしすぎた髪の組み合わせは、いかにもそぐわなかった。瞼が重く膨らんで、目は細かったが、よく見るとその奥には親切そうな光が浮かんでいた。 「お父様から遺言状を託されております。遺言状と言いましても、そんな大層なものではありません。推理小説に出てくる遺言状とは違います」、弁護士はそう言ってひとつ咳払いをした。「どちらかといいますと、簡便なメモに近いものです。ええ、私の口からまずその内容をざっと簡単に説明させていただきます。遺言状にはまず、ご自身の葬儀の手はずが指示されております。その内容については、さきほどここにおられた善光社さんからご説明があったと思いますが?」 「説明は受けました。簡素な葬儀です」 「けっこうです」と弁護士は言った。「それがお父様の望んでおられたことでした。すべてをでき得る限り簡素に収めること。葬儀の費用は積立金で充当されますし、医療費用等についても、お父様がこの施設に入られるときに一括して預けられた保証金でまかなわれます。天吾さんには金銭的に何のご負担もかからないようになっています」 「誰にも借りはないということですね?」 「そのとおりです。すべては前もって支払い済みです。それから千倉町郵便局のお父様の口座にお金が残されておりまして、それは息子さんである天吾さんが相続されます。その名義変更の手続きが必要になります。名義変更にはお父様の除籍届けと、天吾さんの戸籍抄本及び印鑑証明が必要です。それを持って直接千倉町郵便局に行き、必要書類に自筆で書き込みをしていただくことになります。その手続きにけっこう時間がかかるはずです。ご存じのように日本の銀行とか郵便局はなにしろ書式にうるさいところですから」  弁護士は上着のポケットから大きな白いハンカチを出して、額の汗を拭いた。 「財産の相続に関してお伝えしなくてはならないのはそれくらいです。財産と申しましても、その郵便貯金のほかには、生命保険も株券も不動産も宝石も書画骨董の類も、何ひとつありません。とてもわかりやすいと申しますか、ええ、手間がかかりません」  天吾は黙って肯いた。いかにも父親らしい。しかし父親の貯金通帳を引き継ぐのは、天吾には気の滅入ることだった。重く湿った毛布を何枚か重ねて引き渡されるような気分だ。できればそんなものは受け取りたくなかった。しかしこの太った、髪のふさふさした人の好さそうな弁護士に向かって、そんなことを言い出すわけにもいかない。 「そのほかにお父様から封筒をひとつお預かりしております。今ここに持っておりますので、お渡ししたいと思うのですが」  その膨らんだ大型の茶封筒はガムテープで厳重に封をされていた。太った弁護士はそれを黒い書類鞄の中から取りだして、テーブルの上に置いた。 「川奈さんがここに入られた直後、お目にかかってお話をしたときに、お預かりしていたものです。その時点では川奈さんは、ええ、まだ意識がしっかりしておられました。時折もちろん混乱なさることもありましたが、だいたいのところ支障なく生活しておられたようでした。自分が死んだら、そのときはこの封筒を法定相続人に渡してもらいたいということでした」 「<傍点>法定相続人」と天吾はちょっと驚いて言った。 「そう、法定相続人です。誰それという具体的な名前をお父様は口にされませんでした。しかし法定相続人と言えば、具体的には天吾さんしかおられません」 「僕の知る限りでもそういうことになっています」 「だとしたら、これは」と言って弁護士はそのテーブルの上の封筒を指さした。「天吾さんにお渡しすることになります。受領証にサインをいただけますか?」  天吾は書類にサインをした。テーブルの上に置かれた茶色の事務封筒は、必要以上に無個性で事務的に見えた。表にも裏にも文字は書かれていない。 「ひとつうかがいたいのですが」と天吾は弁護士に言った。「父はそのとき僕の名前を、つまり川奈天吾という名前を、一度でも口にしましたか。あるいは息子という言葉を?」  弁護士はそれについて考えるあいだ、ポケットからまたハンカチを取りだして額の汗を拭いた。それから短く首を振った。「いいえ。川奈さんは常に<傍点>法定相続人という言葉を使っておられました。それ以外の表現は一度も口になさらなかった。ちょっと不思議な気がしたので、そのことは記憶しています」  天吾は黙っていた。弁護士はいくぶん取りなすように言った。 「でも法定相続人といえば天吾さん一人しかいないということは、ええ、川奈さんご自身もきちんとわかっておられました。ただ話し合いの中で、天吾さんのお名前を口にされなかったというだけです。何か気になる点でも?」 「べつに気になる点はありません」と天吾は言った。「父はもともと少し変わったところのある人だったんです」  弁護士は安心したように微笑んで軽く肯いた。そして天吾に新しくとった戸籍謄本を差し出した。「このようなご病気ですので、法的手続きに間違いのないように、失礼ながらいちおう戸籍を確認させていただきました。記録によれば、天吾さんは川奈さんがもうけられたただ一人のお子さんです。お母様は天吾さんを出産され、その一年半後に亡くなられています。その後お父様は再婚なさらず、お一人で天吾さんを育てられた。お父様の御両親、御兄弟も既に皆さまお亡くなりになっています。天吾さんは確かに川奈さんの唯一の法定相続人です」  弁護士が立ち上がり、悔やみの言葉を述べて帰ってしまうと、天吾は一人でそこに座り込んだまま、テーブルの上の事務封筒を眺めた。父親は血を分けた実の父親であり、母親は<傍点>本当に死んでいる。弁護士はそう言った。おそらくそれが事実なのだろう。少なくとも法的な意味合いでの事実なのだろう。しかし事実が明らかになればなるほど、真実はますます遠ざかっていくみたいに感じられる。どうしてだろう?  天吾は父親の部屋に戻り、机の前に座って茶封筒の厳重な封をはがそうと努めた。その封筒の中に秘密を解く鍵が入っているかもしれない。しかしそれは簡単な作業ではなかった。鋏もカッターも、その代わりになるような何かも、部屋の中には見当たらなかった。爪でガムテープをひとつひとつ剥がしていかなくてはならない。苦労の末に封筒を開くと、その中はまたいくつかの封筒に別れ、どれもやはり厳重に封がされていた。いかにも父親らしい。  ひとつの封筒には現金が五十万円入っていた。まっさらな一万円札が正確に五十枚、幾重にも薄紙に包まれていた。「緊急用現金」と書かれた紙も入っていた。紛れもない父親の字だ。小さくて、一画一画おろそかにされていない。想定外の諸費用の支払いが必要になったときにはその現金を使えということなのだろう。父親は「法定相続人」に十分な現金の持ち合わせがないことを予想していたのだ。  いちばん分厚い封筒には、新聞の古い切り抜きや賞状の類がぎっしりと詰まっていた。そのすべてが天吾に関するものだった。小学校時代に彼が算数コンクールで優勝したときの賞状、地方版に載った新聞記事。トロフィーを並べて撮った写真。芸術品のように優秀な成績表。すべての科目が最高点だ。そのほか彼の神童ぶりを証明する様々な素晴らしい記録。柔道着を着た天吾の中学生のときの写真。にっこり笑って準優勝旗を持っている。それを目にして天吾は深く驚かされた。父親はNHKを退職し、それまで住んでいた社宅を出て、そのあと同じ市川市内の賃貸アパートに移り、最後にこの千倉の療養所にやってきた。独り身で何度か引っ越しをしたせいで、所持品はほとんど残っていなかった。そして彼ら父子の関係は長年にわたって冷え切ったものだった。にもかかわらず父親は天吾の「神童時代」の輝かしい遺物を後生大事に持ち歩いていたのだ。  もうひとつの封筒には、父親のNHK集金人時代の各種記録が入っていた。彼が年間成績優秀者として表彰された記録。何枚かの簡素な表彰状。社員旅行のときに同僚と一緒に撮ったらしい写真。古い身分証。年金や健康保険の支払い記録。どうしてとってあるのか理由がわからない給与の明細が何枚か。退職金の支払いに関する書類……。三十年以上NHKのために身を粉にして働き続けたわりには、その分量は驚くほど少なかった。小学校時代の天吾の目覚ましい達成に比べると、ほとんど無きに等しいと言っていいくらいだ。社会的に見れば実際に無きに等しい人生だったのかもしれない。しかし天吾にすれば、それは「無きに等しい」ものなんかではなかった。父親は天吾の精神に重く濃密な影を残していった。一冊の郵便貯金通帳と一緒に。  NHKに入る以前の父親の人生を示す記録は、その封筒にはひとつとしてなかった。まるでNHKの集金人になったところから、父親の人生は開始したみたいだった。  最後に開けた小さな薄い封筒には、一枚の白黒写真が入っていた。それだけ。ほかには何もない。古い写真で、変色こそしていないものの、まるで水がにじんだみたいに全体に淡い膜が一枚かかっている。そこには親子連れが映っていた。父親と母親、そして小さな赤ん坊。大きさからして、おそらく一歳を超えてはいないだろう。和服を着た母親が赤ん坊を大事そうに抱いている。後ろには神社の鳥居が見える。服装からすると季節は冬だ。神社に詣でているところを見ると、正月かもしれない。母親は眩しそうに目を細め、微笑んでいる。暗い色合いの少し大きすぎるオーバーコートを着た父親は、目と目のあいだに二本の深い縦皺を寄せている。そんなに簡単に額面通りものごとを真に受けないぞという顔をしている。抱かれた赤ん坊は、世界の広さと冷ややかさに戸惑っているように見える。  その若い父親はどう見ても天吾の父親だった。顔立ちはさすがにまだ若々しいが、その頃から妙に老成したところがあり、痩せて、目が奥に引っ込んでいる。寒村の貧しい農夫の顔だ。いかにも強情で疑り深そうだ。髪は短く揃えられ、いくぶん猫背だ。それが父親でないわけはない。とすれば、その赤ん坊はおそらく天吾だろうし、その赤ん坊を抱いている母親は天吾の母親ということになる。母親は父親よりいくらか背が高く、姿勢もよかった。父親は三十代後半、母親は二十代半ばに見える。  そんな写真を目にするのはもちろん初めてだった。家族写真と呼べるものを天吾は未だかつて目にしたことがなかった。幼いときの自分の写真を見たこともない。生活が苦しくカメラを持つ余裕なんかなかったし、わざわざ家族の写真を撮るような機会もなかったと父親は説明した。そういうものなのだろうと天吾も思っていた。でもそれは嘘だった。写真は撮られ残されていたのだ。そして彼らの身なりは華美でこそないが、人前に出してもとくに恥ずかしくないものだった。カメラが買えないほど困窮した生活を送っているとも見えない。撮影されたのは天吾が生まれて間もなく、つまり一九五四年から五五年にかけてだろう。写真を裏返してみたが、日付や場所の書き込みはなかった。  天吾は母親らしき女性の顔を子細に観察した。写真に写った顔は小さく、おまけにぼやけていた。拡大鏡があればもっと細かいことがわかるのかもしれないが、そんなものはもちろん手元にない。それでもおおよその顔立ちを見きわめることはできた。卵形の顔で、鼻が小さく唇はふっくらしていた。とくに美人というのではないが、可愛いげがあり、好感の持てる顔つきだった。少なくとも父親の粗野な顔立ちに比べれば、遥かに上品で知性的だ。天吾はそのことを嬉しく思った。髪はきれいに上にまとめられ、まぶしそうな表情を顔に浮かべている。カメラのレンズを前にして緊張しているだけかもしれない。和服を着ているせいで、身体のかたちまではわからない。  少なくとも写真に写った外見から判断する限り、二人を似合いの夫婦と呼ぶのはむずかしそうだった。年齢も離れているようだ。この二人がどこかで巡り合い、男女として心を通い合わせ、夫婦となって一人の男の子をもうけるまでの経緯を、頭の中で想像しようと試みたが、うまくできなかった。その写真からは、そういう気配がまったく感じられないのだ。だとすると、心の交流のようなものを抜きにして、この二人が夫婦として結びつけられる何かしらの事情があったのかもしれない。いや、そこには事情というほどのものもなかったのかもしれない。人生とは単に一連の理不尽な、ある場合には粗雑きわまりない成り行きの帰結に過ぎないのかもしれない。  それから天吾は、自分の白日夢——あるいは幼時の記憶の奔流——に出てくる謎の女性がこの写真の母親と同一人物であるかどうかを見きわめようとした。しかしその女性の顔だちを自分がまったく記憶していないことにそのとき思い当たった。その女はブラウスを脱ぎ、スリップの肩紐をはずし、見知らぬ男に乳首を吸わせている。そしてあえぎに似た深い吐息をつく。彼が覚えているのはそれだけだ。どこかの別の男が自分の母親の乳首を吸っている。自分が独占すべきその乳首が誰かに奪われている。赤ん坊にとってはおそらくそれが切迫した脅威だったのだろう。顔だちにまで目がいかない。  天吾は写真をいったん封筒に戻し、その意味について考えた。父親はその一枚の写真を死ぬまで大事に持っていた。とすれば彼は母親のことを大事に思っていたのだろう。天吾が物心ついたとき母親は既に病死していた。弁護士の調べによれば、天吾はその亡くなった母親と、NHKの集金人である父親との間に生まれた唯一の子供だった。それが戸籍に残された事実だ。しかし役所の書類はその男が天吾の生物学的な父親であることまでを保証してはいない。 「私には息子はおらない」、父親は深い昏睡に落ちる前に天吾にそう告げた。 「じゃあ、僕はいったい何なのですか?」と天吾は尋ねた。 「あなたは何ものでもない」、それが父親の簡潔にして有無を言わせぬ返答だった。  天吾はそれを聞いて、その声の響きから、自分とその男との間に血の繋がりがないことを確信した。そして重い枷からやっと解放されたと思った。しかし時間が経つにつれ、父親の口にしたことが真実であったのかどうか、今ひとつ確信が持てなくなった。  <傍点>おれは何ものでもない、と天吾はあらためて口に出してみた。  それからふと、古い写真に写っている若い母親の面影が、どことなく年上のガールフレンドに似ていることに思い当たった。安田恭子、それが彼女の名前だ。天吾は意識を落ち着かせるために、指先で額の真ん中をひとしきり強く押さえた。そしてもう一度封筒から写真を出して眺めた。小さな鼻と、ふっくらとした唇。いくぶん顎が張っている。髪型が違うから気づかなかったけれど、顔立ちは確かに安田恭子に似ていなくもない。でもそれはいったい何を意味するのだろう? そして父親はなぜ死んだ後にこの写真を天吾に引き渡そうと考えたのだろう? 生きているあいだ彼は、母親についての情報を何ひとつ天吾に与えなかった。こんな家族写真があることさえひた隠しにしていた。しかし最後の最後にひとことの説明もなく、この一枚のぼやけた古い写真を天吾の手に遺していった。何のために? 息子に救済を与えるためなのか、あるいはより深く混乱させるためなのか。  天吾にただひとつわかるのは、そこにある何かしらの事情を天吾に説明するつもりは、父親にはまったくなかったということだ。生きているうちもなかったし、死んだ今でもない。ほら、ここに写真が一枚ある。これだけをお前に渡してやる。<傍点>あとは自分で好きに推理しろ、父親はおそらくそう告げている。  天吾は裸のマットレスに仰向けになり、天井を見上げた。白いペンキを塗られた合板の天井だ。のっぺりとして木目も節目もなく、まっすぐな継ぎ目が何本か走っているだけだ。それは父親が人生の最後の数ヶ月、その窪んだ眼窩の底から眺めていたのと同じ光景であるはずだった。あるいはその目は何も見ていなかったのかもしれない。しかしいずれにせよ彼の視線はそこに注がれていた。見えたにせよ、見えなかったにせよ。  天吾は目を閉じ、自分がそこで横たわったまま緩慢に死に向かっていくところを想像した。しかし健康に問題のない三十歳の男にとって、死は想像の届かぬ遥か外縁にあった。彼はそっと呼吸をしながら、夕暮れの光がつくり出す影が壁の上を移ろっていくのを観察していた。何も考えるまいと思った。何も考えないことは、天吾にとってそれほどむずかしいことではない。何かをつきつめて考えるには疲れすぎていた。できることなら少し眠りたかったが、おそらく疲れすぎているせいだろう、眠ることはできなかった。  六時前に大村看護婦がやってきて、食堂に食事の用意ができていると言った。天吾はまったく食欲を感じなかった。しかし天吾がそう言っても、その胸の大きな長身の看護婦は引き下がらなかった。少しでもいいから、とにかく何かをおなかに入れておきなさいと彼女は言った。それは命令に近いものだった。言うまでもないことだが、身体の維持管理に関して、筋道立てて人に何かを命じることについては彼女はプロだった。そして天吾は、筋道立てて命じられたことには——とくに相手が年上の女性である場合には——うまく逆らえない性格だった。  階段を降りて食堂に行くと、そこには安達クミがいた。田村看護婦の姿はなかった。天吾は安達クミと大村看護婦と同じテーブルで食事をした。天吾はサラダと野菜の煮物を少し食べ、アサリとねぎの味噌汁を飲んだ。それから熱いほうじ茶を飲んだ。 「火葬はいつになるの?」と安達クミは天吾に尋ねた。 「明日の午後一時」と天吾は言った。「それが済んだら、たぶんそのまま東京に戻る。仕事があるから」 「天吾くんのほかに誰か火葬に立ち会う人はいるの?」 「いや、誰もいないと思う。僕一人のはずだ」 「ねえ、私もそこに立ち会ってかまわないかな?」と安達クミが尋ねた。 「うちの父親の火葬に?」と天吾はびっくりして言った。 「そう。実を言うと私、あなたのお父さんのことがけっこう気に入ってたんだ」  天吾は思わず箸を下に置き、安達クミの顔を見た。彼女は本当に自分のあの父親のことを話しているのだろうか。「たとえばどんなところが?」と天吾は質問した。 「律儀で、余計なことは言わなかった」と彼女は言った。「うちの死んだお父さんにそういうところが似ていた」 「ふうん」と天吾は言った。 「うちのお父さんは漁師だったの。五十歳になる前に死んじゃったけど」 「海で亡くなったの?」 「違う。肺癌で死んだ。煙草の吸いすぎ。なぜかは知らないけど、漁師ってみんなすごいヘビー?スモーカーなんだよ。身体中から煙をもくもく出しているみたいな」  天吾はそれについて考えた。「うちの父親も漁師だったらよかったのかもしれない」 「どうしてそう思うの?」 「どうしてだろう」と天吾は言った。「ただふとそんな気がしたんだ。NHKの集金人をしているよりはその方がよかったんじゃないかと」 「天吾くんとしてはお父さんが漁師だった方が受け入れやすかったのかな?」 「少なくともその方が、いろんなものごとがもっと単純だったんじゃないかと思う」  天吾は子供の自分が、休みの日の朝早くから、父親と一緒に漁船に乗っている光景を想像した。太平洋のきつい海風と頬にあたる波しぶき。ディーゼル?エンジンの単調な響き。むっとする漁網の匂い。危険を伴う厳しい労働だ。ちょっとした間違いが命取りになる。しかしNHK受信料の集金のために市川市内を連れ回されるのに比べれば、それはより自然でより充実した日々であったはずだ。 「でも、NHKの集金ってきっと大変なお仕事だったんでしょうね」と大村看護婦が魚の煮付けを食べながら言った。 「たぶん」と天吾は言った。少なくとも天吾の手に負える仕事ではない。 「でもお父さんは優秀だったのね?」と安達クミが言った。 「かなり優秀だったと思う」と天吾は言った。 「表彰状も見せてもらった」と安達クミが言った。 「そうだ、いけない」と大村看護婦が突然箸を置いて言った。「すっかり忘れていた。参ったな。どうしてこんな大事なことを今まで忘れてたんだろう。ねえ、ちょっとこのまま待っててくれる。今日のうちにどうしても天吾くんに渡しておかなくちゃならないものがあるんだ」  大村看護婦はハンカチで口元を拭いて椅子から立ち上がり、食事を食べかけにしたまま、食堂を急ぎ足で出ていった。 「大事なことっていったいなんだろうね?」と安達クミは首をひねって言った。  天吾にはもちろん見当がつかなかった。  天吾は大村看護婦が戻ってくるのを待ちながら、野菜サラダを義務的に口に運んだ。食堂で夕食をとっている人の数はまだあまり多くなかった。ひとつのテーブルを三人の老人が囲んでいたが、誰も口をきかなかった。別のテープルでは白衣を着た白髪混じりの男が、一人で食事をとりながら、広げた夕刊を重々しい顔つきで読んでいた。  やがて大村看護婦が急ぎ足で戻ってきた。デパートの紙袋を手にしていた。彼女はそこからきれいに折りたたまれた衣服を取り出した。 「一年くらい前だったか、まだ意識がしっかりしている頃に川奈さんから預かっていたの」とその大柄な看護婦は言った。「お棺に入るときにはこれを着せてもらいたいって。だからクリーニングに出して、防虫剤を入れてしまっておいた」  それは見違えようもないNHKの集金人の制服だった。揃いのズボンにはきれいなアイロンの筋がついている。防虫剤の匂いが鼻をついた。天吾はしばし言葉を失った。 「この制服に身を包んで焼いてほしいって川奈さんは私に言っていた」と大村看護婦は言った。そしてその制服をまたきれいに折り畳んで紙袋にしまった。「だから今のうちに天吾さんに渡しておくわね。明日、葬儀屋さんのところにこれを持っていって、着替えさせてもらって」 「でも、それを着せるのはちょっとまずいんじゃないかな。制服は貸与品だし、退職するときにNHKに返還しなくちゃならない」と天吾は弱々しい声で言った。 「気にすることないよ」と安達クミが言った。「私たちさえ黙ってれば誰にもわからないもの。古い制服の一着くらいなくなったって、NHKは困りゃしないでしょう」  大村看護婦も同意した。「川奈さんは三十年以上、NHKのために朝から晩まで歩き回ってきたのよ。ずいぶんいやな目にもあっただろうし、ノルマだとか何だとか、きっと大変だったと思う。制服一着くらいかまうもんですか。それを使って何か悪いことをするってわけじゃないんだもの」 「そうだよ。私だって高校のときのセーラー服を持ってるもの」と安達クミが言った。 「NHKの集金人の制服と、高校のセーラー服とでは話が違う」と天吾は口をはさんだが、誰にも相手にされなかった。 「うん、私もセーラー服、押し入れにしまってある」と大村看護婦が言った。 「で、ときどきご主人の前で着て見せたりするわけ? 白いソックスなんかはいて」と安達クミがからかって言った。 「それ、いいかもね」、大村看護婦はテーブルに頬杖をついてまじめな顔で言った。「けっこう刺激されるかもしれない」 「何はともあれ」と安達クミはそこでセーラー服の話題を切り上げ、天吾の方を向いて言った。 「川奈さんが、そのNHKの制服を着て火葬されることをはっきりと望まれていたんですもの。私たち、それくらいはかなえてあげなくちゃ。そうでしょう?」  天吾はNHKのマークがついた制服を入れた紙袋を持って部屋に戻った。安達クミが一緒に来て、ベッドのセットをしてくれた。まだ糊の匂いがのこっている新しいシーツと、新しい毛布と、新しい布団カバーと、新しい枕。そんなひと揃いを与えられると、父親がそれまで寝ていたベッドとはまったく別のもののようになった。天吾は脈絡もなく安達クミの豊かな濃い陰毛のことを思い出した。 「最後の頃、お父さんはずっと昏睡していたでしょう」と安達クミはシーツの皺を手で伸ばしながら言った。「でもさ、まったく意識がなかったわけじゃないと思うんだ」 「どうしてそう思うの?」と天吾は尋ねた。 「だってさ、お父さんは時々誰かにメッセージを送っているみたいだったから」  天吾は窓際に立って外を眺めていたが、振り返って安達クミを見た。「メッセージ?」 「うん、お父さんはね、よくベッドの枠を叩いていた。手をベッドの脇からだらんと落として、モールス信号みたいな感じでとんとん、とんとんと。こんな風に」  安達クミは真似をして、ベッドの木枠をこぶしで軽く叩いた。 「これって、まるで信号を送っているみたいじゃない?」 「それは信号じゃないと思う」 「じゃあ何なの?」 「ドアを叩いていたんだよ」、天吾は潤いを欠いた声でそう言った。「どこかの家の玄関の扉を」 「うん、そうだな、そう言われればそうかもしれない。たしかにドアをノックしているみたいにも聞こえた」、それから安達クミは厳しく目を細めた。「ねえ、それってつまり、意識がなくなったあとでも川奈さんはまだ受信料を集金してまわっていたってこと?」 「たぶん」と天吾は言った。「頭の中にあるどこかの場所で」 「死んでもラッパをはなさなかった昔の兵隊さんみたい」と安達クミは感心したように言った。  なんとも答えようがなかったので、天吾は黙っていた。 「お父さんはよほどそのお仕事が好きだったのね。NHKの受信料を集金して回ることが」 「好きとか嫌いとか、そんな類のものじゃなかったと思う」と天吾は言った。 「じゃあいったいどういうタグイのものだったの?」 「それが父にとって、いちばん上手にできることだったんだ」 「ふうん。そうか」と安達クミは言った。そしてそれについて考えた。「でもさ、そういう生き方もある意味では正解なのかもしれないね」 「そうかもしれない」と天吾は防風林に目をやりながら言った。たしかにそうかもしれない。 「ねえ、じゃあたとえばさ」と彼女は言った。「天吾くんにとっていちばん上手にできることって、どんなことなのかな?」 「わからない」、天吾は安達クミの顔をまっすぐ見てそう言った。「本当にわからないんだ」 第22章 牛河 その目はむしろ憐れんでいるように見える  日曜日の夕方、六時十五分に天吾はアパートの玄関に姿を現した。外に出たところでいったん足を止め、何かを求めるようにあたりを見回した。右から左に、そして左から右に視線を移動した。空を見上げ、足もとを見た。しかし普段と違ったものごとは彼の目に映らなかったようだ。そのまま足早に通りに出ていった。牛河はその様子をカーテンの隙間から見守っていた。  牛河はそのとき天吾のあとをつけなかった。荷物は持っていない。彼の大きな両手は折り目のついていないチノパンツのポケットに突っ込まれていた。ハイネックのセーターに、くたびれたオリーブグリーンのコーデュロイの上着、収まりの悪い髪。上着のポケットには厚い文庫本が入っている。たぶん近所の店で食事でもするつもりなのだろう。どこにでも行かせておけばいい。  月曜日には天吾はいくつかの講義を受け持つことになっている。牛河は前もって予備校に電話を入れて、そのことを確認していた。はい、川奈先生の講義は週明けからカリキュラム通り行われます、と事務の女性が教えてくれた。けっこう。天吾は明日からようやく平常の日課に復帰する。その性格からして、おそらく今夜遠出をすることはあるまい(もしそのとき天吾を尾行していれば、彼が小松に会うために四谷のバーに向かったことを牛河は知るわけだが)。  八時前に牛河はピーコートを着てマフラーを首に巻き、ニット帽を深くかぶり、あたりをうかがいながら急ぎ足でアパートを出た。その時点では天吾はまだ帰宅していなかった。近所で食事をするだけにしては、いささか時間がかかりすぎている。アパートを出るときに下手をすれば、戻ってきた天吾と鉢合わせすることになるかもしれない。しかしたとえそんな危険を冒しても、牛河には今夜この時刻にどうしても外に出て、済ませなくてはならない用件があった。  彼は記憶を辿っていくつかの角を曲がり、いくつかの目標物の前を通り過ぎ、ときおり迷いはしたものの、なんとか児童公園にたどり着くことができた。前日の強い北風もすっかり止み、十二月にしては暖かい夜になっていたが、それでもやはり夜の公園に人の姿はなかった。牛河はもう一度あたりを見回し、誰にも見られていないことを確認してから、滑り台のステップを上った。滑り台の上に腰を下ろし、手すりに背中をもたせかけ、空を見上げた。昨夜とだいたい同じ位置に月が浮かんでいた。三分の二の大きさの明るい月だ。まわりには一片の雲も見えない。そしてその月のそばに、いびつなかたちをした小さな緑色の月が寄り添うように並んでいた。  思い違いじゃなかったんだ、と牛河は思った。彼は吐息をつき、小さく首を振った。夢を見ていたのでもないし、目の錯覚でもなかった。大小二つの月が、葉を落としたケヤキの上にまぎれもなく浮かんでいる。その二つの月は牛河が滑り台の上に戻ってくるのを、昨夜からじっと動かずにそこで待ち受けていたみたいに見える。彼らにはわかっていたのだ。牛河がここに戻ってくることが。彼らが申し合わせたようにそのまわりに漂わせている沈黙は、暗示を潤沢に含んだ沈黙だった。そして月たちは、その沈黙を共有することを、牛河に求めていた。このことはほかの誰にも言ってはならないと、彼らは牛河に告げていた。淡い灰をかぶった人差し指を唇にそっとあてて。  牛河はそこに腰を下ろしたまま、顔の筋肉をあらゆる角度に動かしてみた。そしてそこにある感覚に何か不自然な、普段とは違うところがないか念のためにひととおり確認した。不自然なところは見当たらなかった。良くも悪くもいつもどおりの自分の顔だ。  牛河は自分をリアリスティックな人間だと見なしていた、そして<傍点>実際に彼はリアリスティックな人間だった。形而上的な思弁は彼の求めるところではない。もしそこに実際に何かが存在しているのなら、理屈がとおっていてもいなくても、論理が通用してもしなくても、それをひとまず現実として受け入れていくしかない。それが彼の基本的な考え方だ。原則や論理があって現実が生まれるのではなく、まず現実があり、あとからそれに合わせて原則や論理が生まれるのだ。だから空に二つの月が並んで浮かんでいることを、とりあえず事実としてそのまま受け入れるしかあるまいと牛河は心を決めた。  あとのことはあとになってゆっくり考えればいい。余計な思いは抱かないように努めながら、牛河はただ無心にその二つの月を眺め、観察した。大きな黄色い月と、小さな緑のいびつな月。彼はその光景に自分を馴染ませようとした。<傍点>こいつをそのまま受け入れるんだ、と彼は自分に言い聞かせた。なぜこんなことが起こり得るのか、説明はつかない。しかし今のところそれは深く追求するべき問題じゃない。<傍点>この状況にどうやって対応していくか、あくまでそいつが問題なのだ。それにはまずこの光景を丸ごと理屈抜きで受け入れるしかない。話はそこから始まる。  牛河は十五分ばかりそこにいただろう。彼は滑り台の手すりにもたれ、ほとんど身動きひとつせず、そこにある光景に自分を適応させていった。時間をかけて身体を水圧の変化に順応させていく潜水夫のように、それらの月の送る光を身体に浴び、肌に染みこませた。そうすることが大事なのだと牛河の本能は告げていた。  それからそのいびつな頭を持った小男は立ち上がって滑り台を降り、名状しがたい物思いに意識を奪われながら、歩いてアパートに戻った。まわりのいろんな風景が来たときとは少しずつ違って見えるような気がした。月の光のせいだ、と彼は思った。あの月の光が事物の様相を少しずつずらしてしまったのだ。おかげで何度か道を曲がり損ねそうになった。玄関に入る前に顔を上げて三階を眺め、天吾の部屋の窓に明かりがついていないことを確認した。大柄の予備校講師はまだ帰宅していない。食事をとりに近所の店に行っただけではなさそうだ。どこかで誰かに会っているのだろうか。もしかしたら相手は青豆かもしれない。それともふかえりかもしれない。俺はひょっとして大事な機会を逃したのだろうか。しかし今更そんなことを考えても仕方ない。天吾が外に出ていくたびに尾行するのは危険すぎる。一度でも自分の姿を天吾に見られたら、元も子もなくしてしまうことになる。  牛河は部屋に戻り、コートとマフラーと帽子をとった。台所でコーンビーフの缶詰を開け、それをロールパンにはさみ、立ったまま食べた。温かくも冷たくもない缶コーヒーを飲んだ。しかしどれにも味がほとんど感じられなかった。食感はあるのだが、味覚がない。その原因が食べ物の側にあるのか、自分の味覚の側にあるのか、牛河には判断できなかった。あるいはそれもまた目の奥に焼きついている二つの月のせいかもしれない。どこかのドアベルが鳴らされ、そのチャイム音が微かに聞こえた。ドアベルは間を置いて二度鳴らされた。しかし彼はそれをとくに気にはしなかった。ここではない。どこか遠くの、おそらくは別の階のドアだ。  サンドイッチを食べ終え、コーヒーを飲み終えると、牛河は頭を現実の位相に戻すために、煙草をゆっくり一本吸った。自分がここで何をやらなくてはならないのかを、頭の中で再確認した。それからやっと窓際に行ってカメラの前に腰を下ろした。電気ストーブのスイッチを入れ、そのオレンジ色の光の前に両手をかざして温めた。日曜日の夜の九時前だ。アパートの玄関を出入りする人間はほとんどいない。しかし牛河としては、天吾が帰宅する時刻を確認しておきたかった。  時を置かず黒いダウン?ジャケットを着た女が玄関から出てきた。一度も見かけたことのない女だ。彼女はグレーのスカーフで口元を覆っていた。黒縁の眼鏡をかけ、野球帽をかぶっている。それはいかにも人目を避け、顔を隠そうとする格好だ。まったくの手ぶらで足取りは速い。歩幅も大きい。牛河は反射的にスイッチを押し、モータードライブでカメラのシャッターを三度切った。この女の行き先をつきとめなくてはと彼は思った。しかし立ち上がりかけたときには、女は既に道路に出て、夜の中に姿を消していた。牛河は顔をしかめ、あきらめた。あの歩き方なら、今から靴を履いて追いかけても追いつけない。  牛河は今しがた目にしたものを脳裏に再現した。身長は一七〇センチあたり。細いブルージーンズに、白いスニーカー。着衣はどれも奇妙に真新しい。年齢はおそらく二十代半ばから三十歳。髪は襟の中に突っ込まれて、長さまではわからない。膨らんだダウン?ジャケットのせいで体つきも不明だが、脚の格好から見ておそらく痩せているはずだ。姿勢の良さと軽快な脚の運びは、彼女が若々しく健康であることを示している。たぶん日常的に何かスポーツをしているのだろう。それらの特徴はどれも彼の知っている青豆に合致するものだった。その女が青豆だと決めつけることはもちろんできない。ただ彼女は誰かに目撃されるのをひどく警戒しているようだった。緊張が全身にみなぎっていた。写真週刊誌の追跡を恐れる女優のように。しかしマスコミが追い回すような有名女優が、高円寺のこのうらぶれたアパートに出入りするとは常識的に考えられない。  それが青豆であるとひとまず仮定してみよう。  彼女は天吾に会いにここにやってきた。ところが天吾は今どこかに出かけている。部屋の明かりは消えたままだ。青豆は彼を訪ねてきたものの、返事がなかったのであきらめて引き返した。あの遠い二度のチャイムがそうだったのかもしれない。しかし牛河にしてみれば、それはもうひとつ筋の通らない話だ。青豆は追跡を受けている身であり、危険を避けるためにできる限り人目につかないように暮らしているはずだ。天吾に会おうと思えば、まず電話をかけて在不在を確認するのが通常のやり方だ。そうすれば無駄な危険を冒さずに済む。  牛河はカメラの前に座ったまま考えを巡らせたが、筋の通った推論はひとつとして思いつけなかった。その女の行動は——変装にもならない変装をして、隠れ家を出てこのアパートまで足を運ぶ——牛河が知っている青豆の性格には当てはまらなかった。彼女はもっと慎重で注意深いはずだ。それが牛河の頭を混乱させた。自分が彼女をここまで導いたのかも知れないという可能性は、牛河の頭にはまったく浮かばなかった。  いずれにせよ、明日になったら駅前のDPEに行って、溜まったフィルムをまとめて現像してこよう。そこにはこの謎の女の姿も写っているはずだ。  十時過ぎまでカメラの前で見張りを続けたが、その女が出ていったあと、アパートを出入りする人間は一人もいなかった。公演が不入りのうちに終わり、誰からも見捨てられ忘れられた舞台のように、玄関は無人のまま静まりかえっていた。天吾はどうしたのだろう、と牛河は首をひねった。彼の知る限り、天吾がそれほど遅い時間まで外出しているのは珍しいことだ。明日からは予備校の講義がまた始まるというのに。あるいは牛河が出ている間に既に帰宅して、早々と眠ってしまったのだろうか?  時計が十時をまわった頃、自分がひどく疲弊していることに牛河は気づいた。ほとんど目を開けていられないほど強い眠気を彼は感じた。宵っ張りの牛河にしては珍しいことだ。普段の彼は必要とあればいつまででも起きていることができた。しかし今夜に限って、睡魔はまるで古代の棺の石蓋のように容赦なく彼の頭上にのしかかっていた。  俺はあの二つの月を長く見つめすぎたのかもしれない、牛河はそう思った。その光を肌に染みこませすぎたのかもしれない。大小二つの月はぼんやりした残像となって彼の網膜に残っていた。その暗いシルエットが彼の脳の柔らかい場所を麻痺させていた。ある種の蜂が大きな芋虫を刺して麻痺させ、その体表に産卵するのと同じだ。孵化した蜂の幼虫は身動きできないその芋虫を手近な栄養源として、生きたままむさぼり食う。牛河は顔をしかめ、不吉な想像を頭から振り払った。  まあいい、と牛河は自分に言い聞かせた。天吾が帰宅するのをいつまでも律儀に待っていることもあるまい。何時に帰ってこようが、あの男のことだ、どうせ帰ってすぐに眠るだけだ。そしてこのアパート以外、ほかに帰るべき場所があるわけでもない。たぶん。  牛河はズボンとセーターを力なく脱ぎ、長袖のシャツと股引だけという格好になって、寝袋の中に潜り込んだ。そして身体を丸めてすぐに眠ってしまった。眠りはきわめて深く、ほとんど昏睡に近いものだった。眠りかけたときに、部屋のドアがノックされる音が聞こえたような気がした。しかし意識は既にその重心を別の世界に移しかけていた。事物の区別がうまくつかない。無理に区別をつけようとすると体全体が軋んだ。だから彼は瞼を開くこともなく、その音の意味をそれ以上追求することもなく、再び深い眠りの泥の中に沈み込んでいった。  天吾が小松と別れて帰宅したのは、牛河がそんな深い眠りについた三十分ほどあとのことだ。天吾は歯を磨き、煙草の匂いがついた上着をハンガーにかけ、パジャマに着替えてそのまま眠ってしまった。午前二時に電話が鳴って、父親の死を知らされるまで。  牛河が目を覚ましたのは月曜日の朝の八時過ぎで、そのときには天吾は既に館山に向かう特急列車のシートで、睡眠不足を補うべく深く眠り込んでいた。牛河は天吾が予備校に行くためにアパートを出るのを、カメラの前に座って待ち受けた。しかし当然ながら天吾は姿を見せなかった。時計が午後一時を指したところで牛河はあきらめた。近所の公衆電話から予備校に電話を掛け、川奈先生の講義は今日予定どおり行われるのかどうか尋ねてみた。 「川奈先生の今日の講義は休講になっています。昨夜、お身内に急な不幸があったということです」と電話に出た女性が言った。牛河は礼を言って電話を切った。  身内の不幸? 天吾の身内といえばNHKの集金人をしていた父親しかいない。その父親はどこか遠くにある療養所に入っていた。天吾はその看病のために東京をしばらく離れていて、二日前に戻ってきたばかりだ。その父親が死んだ。とすれば、天吾は再び東京を離れることになる。おそらく俺がまだ眠っているあいだにここを出ていったのだろう。まったくなんだって俺はこんなに長く深く眠り込んでしまったのだろう?  いずれにせよこれで天吾は天涯孤独の身の上になったわけだ、と牛河は思う。もともと孤独な男だが、これで更に孤独になった。まったくの一人だ。母親は彼が二歳になる前に長野県の温泉で絞殺された。殺した男はとうとう捕まらなかった。彼女は夫を捨て、赤ん坊の天吾をつれてその若い男と逐電していた。「逐電」というのはいかにも古い言葉だ。今ではもう誰もそんな言葉は使わない。でもある種の行為にはよく似合った言葉だ。どうして男が彼女を殺したのかは不明だ。いや、その男が本当に殺したのかどうかもわかってはいない。旅館の一室で、女が夜の間に寝間着の紐で絞め殺され、一緒にいた男がいなくなっていた。どう考えてもその男が怪しい。それだけのことだ。父親が連絡を受けて市川からやってきて、残された幼い息子を引きとった。  そのことを俺は川奈天吾に教えるべきだったのかもしれない。彼にはもちろんその事実を知る権利がある。しかし彼は俺みたいな人間の口から母親の話を聞きたくないと言った。だから教えなかった。仕方ない。それは俺の問題ではない。彼の問題だ。  いずれにせよ天吾がいてもいなくても、このままアパートの見張りを続けるほかない。牛河はそう自分に言い聞かせる。青豆を彷彿させる謎の女を俺は昨夜目にした。青豆本人だという確証はないが、その可能性はきわめて大きい。このいびつな頭が俺にそう告げている。見栄えこそ良くないが、そこには最新鋭レーダー並みの鋭い勘が具わっている。そしてもしあの女が青豆であるなら、彼女は遠からず再び天吾を訪ねてくるはずだ。天吾の父親が亡くなったことを、まだ彼女は知らない。それが牛河の推測だ。天吾はたぶん夜のうちにその知らせを受け、早朝に出て行った。そして二人にはどうやら電話連絡が取り合えない事情があるらしい。とすれば彼女は必ずまたここにやってくる。たとえ危険を冒しても、ここに足を運ばなくてはならない何か大事な用件がその女にはあるのだ。そして今度こそ、何があろうと彼女の行く先を突き止めなくてはならない。そのための準備を綿密に整えておく必要がある。  そうすることによって、なぜこの世界に月が二つ存在するのか、その秘密もある程度解き明かされるかもしれない。牛河はその興味深い仕組みを知りたいと思う。いや、しかしそれはあくまで副次的な案件に過ぎない。俺の仕事は何よりもまず、青豆の潜伏先を突き止めることにある。そして立派な<傍点>のしをつけて、彼女をあの気味の悪い二人組に引き渡すことにある。それまでは月が二つあろうが、ひとつしかなかろうが、俺はどこまでも実際的でなくてはならない。それがなんといっても、俺が俺であることの強みなのだから。  牛河は駅前のDPEに行って、五本の三十六枚撮りフィルムを店員に渡した。そして仕上がった写真を持って近くのファミリー?レストランに入り、チキン?カレーを食べながら日付順に眺めていった。ほとんどが普段見慣れた住人の顔だった。彼がいささかなりとも興味を持って眺めたのは、三人の人物の写真だけだった。ふかえりと天吾と、そして昨夜アパートから出てきた謎の女の三人だ。  ふかえりの目は牛河を緊張させた。写真の中でも、その少女は正面から牛河の顔をじっと見つめていた。間違いない、と牛河は思う。牛河がそこにいて、自分を監視していることを、彼女は知っていた。おそらくは隠 しカメラを使って写真を撮っていることも。彼女の澄んだ一対の目がそれを告げていた。その瞳はすべてを見通していたし、牛河の行いを決して容認してはいなかった。そのまっすぐな視線は牛河の心を裏側まで容赦なく刺し貫いた。彼がそこでやっている行為にはまったく弁明の余地がなかった。しかしそれと同時に彼女は、牛河を断罪してはいなかったし、とくに蔑《さげす》んでもいなかった。ある意味ではその美しい目は牛河を赦していた。いや、赦しているというのではないな、と牛河は思い直す。その目はむしろ牛河を<傍点>憐れんでいるように見える。牛河の行いが不浄なものであると知った上で、彼に憐憫を与えているのだ。  それはほんの僅かなあいだの出来事だった。その朝ふかえりはまず電信柱の上をひとしきり見つめ、それから素速く首を回して牛河の潜んだ窓に目をやり、隠蔽《いんぺい》されたカメラのレンズをまっすぐのぞき込み、ファインダー越しに牛河の目を凝視した。そして歩き去った。時間が凍りつき、再び時間が動き出した。せいぜい三分くらいのものだ。そんな短い時間に、彼女は牛河という人間の魂の隅々までを見渡し、その汚れと卑しさを正確に見抜き、無言の憐れみを与え、そのまま姿を消したのだ。  彼女の目を見ていると、肋骨のあいだに畳針を刺しこまれたような鋭い痛みを感じた。自分という人間がひどく歪んだ醜いものに思えた。でもそれも仕方あるまい、と牛河は思う。なぜなら俺は実際に<傍点>ひどく歪んだ醜いものなのだから。しかしそれにも増して、ふかえりの瞳に浮かんだ自然な、そして透明な憐れみの色は、牛河の心を深く沈み込ませた。告発され、蔑まれ、罵倒され、断罪された方がまだましだ。野球のバットで思い切り殴られたっていい。それならまだ耐えられる。しかし<傍点>これはだめだ。  それに比べれば天吾は遥かに楽な相手だった。写真の中の彼は玄関に立ち、やはりこちらに視線を向けている。ふかえりがやったのと同じようにあたりを注意深く観察している。しかしその目には何も映っていない。彼の無垢で無知な目は、カーテンの陰に隠されたカメラも、その前にいる牛河の姿も探し当てることはできない。  それから牛河は「謎の女」の写真に目をやった。写真は三枚ある。野球帽、黒縁の眼鏡、鼻まで巻かれたグレーのスカーフ。顔立ちまではわからない。どの写真も照明が貧弱な上に、野球帽のひさしが暗い影を落としている。しかしその女は、それまでに牛河が頭の中に作り上げてきた青豆という女の像にぴたりと合っていた。牛河はその三枚の写真を手に持ち、トランプの手札を確かめるように順番に繰り返し眺めた。見れば見るほどその女は青豆以外の何ものでもないと思えてきた。  彼はウェイトレスを呼びとめ、今日のデザートは何かと尋ねた。桃のパイだとウェイトレスは答えた。牛河はそれと、コーヒーのおかわりを頼んだ。  <傍点>もしこれが青豆でなかったとしたら、牛河はパイが運ばれてくるのを待ちながら自らに言い聞かせた、<傍点>俺が青豆という女に会う機会はおそらく永遠に巡ってこないだろう。  桃のパイは予想していたよりずっと上出来だった。かりかりのパイ皮の中に、ジューシーな桃が入っていた。もちろん缶詰の桃なのだろうが、ファミリー?レストランのデザートとしては悪くない。牛河はパイをきれいに食べ終え、コーヒーを飲み干し、ほどよく満ち足りた気持ちでレストランを出た。スーパーマーケットに寄って三日分ほどの食料品を買い込み、部屋に戻ると再びカメラの前に腰を据えた。  カーテンの隙間からアパートの玄関を見張りながら、壁にもたれて日だまりの中で何度かうたた寝をした。しかし牛河はそのことをとくに気にかけなかった。眠っているあいだに大事なものを見落としたりはしなかったはずだ。天吾は父親の葬儀のために東京を離れているし、ふかえりはもうここには戻ってこないだろう。牛河が監視を続けていることを彼女は知っている。あの「謎の女」が明るいうちにここを訪れる可能性も低い。彼女は用心深く行動する。活動を始めるのはあたりが暗くなってからだ。  しかし日が暮れてもその「謎の女」は姿を見せなかった。いつもの顔ぶれがいつものように午後の買い物に出かけ、夕方の散歩に出かけ、勤めに出ていった人々が、出たときよりくたびれた顔で帰宅してきただけだ。牛河は彼らの行き来をただ目で追っていた。カメラのシャッターを押すこともなかった。これ以上彼らの写真を撮る必要はない。今では牛河の関心は三人の人物に絞られていた。それ以外はみんな名もなき通行人に過ぎない。手持ちぶさたを紛らわせるために、牛河は勝手につけた名前で彼らに呼びかけた。 「毛さん(その男の髪型は毛沢東によく似ていた)、お勤めご苦労様です」 「長耳さん、今日は温かくて散歩には最適でしたね」 「顎なしさん、またお買い物ですか。今日の夕飯のおかずはなんですか?」  十一時まで牛河は玄関の監視を続けた。それからひとつ大きくあくびをして、一日の仕事を終えることにした。ペットボトルの緑茶を飲み、クラッカーを何枚か食べ、煙草を一本吸った。洗面所で歯を磨くついでに、大きく舌を出して鏡に映してみた。自分の舌を眺めるのは久しぶりだった。そこには苔のようなものが厚く生えていた。本物の苔と同じようにそれは淡い緑色を帯びていた。彼は明かりの下でその苔を詳しく点検した。気味の悪い代物だ。そしてそれは舌全面にしっかりと固着し、もうどうやっても落とせそうになかった。このままいけば俺はそのうち苔人間になってしまうかもしれない、と牛河は思った。舌から始まって身体中のあちこちの皮膚に緑色の苔が生えてくるのだ。沼地でこそこそ暮らす亀の甲羅みたいに。そんなことを想像しただけで気持ちが暗くなる。  牛河は溜息と一緒に声にならない声を出し、舌について考えるのをやめ、洗面所の明かりを消した。暗闇の中で服をもそもそと脱いで、寝袋の中に潜り込んだ。ジッパーを上げ、虫のように背中を丸めた。  目を覚ましたときあたりは真っ暗だった。時刻を見ようと首を回したが、時計はあるはずの場所になかった。牛河は一瞬混乱した。暗い中でもすぐに時刻を確かめられるように、眠る前に必ず時計の位置を確かめる。それが長年の習慣だった。なぜ時計がないのだ? 窓のカーテンの隙間から明かりが僅かに洩れていたが、それが照らし出しているのは部屋の隅の一角に過ぎなかった。まわりは真夜中の闇に包まれている。  心臓の鼓動が高まっていることに牛河は気づいた。分泌されたアドレナリンを全身に送り届けるために、心臓が懸命に活動している。鼻孔が開き息が荒くなっている。興奮させられる生々しい夢を見ていて、その途中で目覚めたときのように。  しかし夢を見ているのではなかった。何かが現実に起こっているのだ。枕元に誰かがいる。牛河はその気配を感じた。暗闇の中により黒い影が浮かび上がり、それが牛河の顔を見下ろしていた。まず背筋が硬直した。一秒の数分の一のあいだに意識が再編成され、彼は反射的に寝袋のジッパーを外そうとした。  その誰かは間髪を置かず牛河の首に腕を回した。短い叫び声をあげる暇さえ与えられなかった。訓練を積んだ強靭な男の筋肉を牛河は首筋に感じた。その腕は彼の首をコンパクトに、しかし万力のように容赦なく締め上げた。男は一言も口をきかなかった。息づかいさえ聞こえない。牛河は寝袋の中で身体をくねらせ、もがいた。ナイロンの内側の壁を両手でかきむしり、両足で蹴った。叫び声をあげようとした。しかしそんなことをしても役に立たない。相手はいったん畳の上で姿勢を固めると、あとは身じろぎもせず、ただ腕の筋肉に段階的に力を込めていった。効果的で無駄のない動きだ。それに合わせて牛河の気管はより圧追され、呼吸はますますか細いものになっていった。  その絶望的状況の中で牛河の脳裏をよぎったのは、この男はどうやって部屋に入ってきたのだろうという疑問だった。ドアのシリンダー錠はロックした。内側からチェーンもかけた。窓の戸締まりも万全だった。なのにどうやってこの部屋の中に入ってこられたのだ? 鍵をいじれば音は必ず出るし、そんな音が聞こえたら、俺は間違いなく目を覚ましていたはずだ。  こいつはプロだ、と牛河は思った。必要とあれば、まったくためらいなく人の命を奪うことができる。そのための訓練も積んでいる。「さきがけ」の差し向けた人間だろうか? あいつらはとうとう俺を処分することに決めたのか? 俺はもう役に立たない邪魔な存在だと判断したのか? だとすればそれは間違った判断だ。俺はあと一歩のところまで青豆を追い詰めているのだから。牛河は声を出してその男に訴えようとした。まずこちらの話を聞いてくれ、と。しかし声は出てこなかった。声帯を震わせるだけの空気がそこにはもうなかったし、舌も喉の奥で石のように固まったままだ。  気管は今では隙間なく塞がれていた。空気は一切入ってこない。肺は新鮮な酸素を死にものぐるいで求めていたが、そんなものはどこにも見当たらない。身体と意識が分割されていく感覚があった。身体が寝袋の中でのたうち続けている一方、彼の意識はどろりとした重い空気の層に引きずり込まれていった。両手と両足が急速に感覚を失っていった。なぜだと彼は薄れていく意識の中で問いかけた。なぜ俺がこんなみっともないところで、こんなみっともない格好で死んでいかなくてはならないんだ。もちろん答えはない。やがて辺縁を持たぬ暗闇が天井から降りて、すべてを包んだ。  意識が戻ったとき、牛河は寝袋の外に出されていた。両手と両脚には感覚がない。彼にわかるのは目隠しをされていることと、頬に畳の感触があることくらいだった。もう喉は締め上げられていない。肺が<傍点>ふいごのように音を立てて収縮しながら新鮮な空気を吸い込んでいた。冷えた冬の空気だ。酸素を得て新しい血液が作られ、心臓がその赤く温かな液体を神経の末端に全速力で送り届けていた。彼はときどき激しく咳き込みながら、ただ呼吸をすることに神経を集中した。そのうちに徐々にではあるが、両手と両足に感覚が戻ってきた。心臓の硬い鼓動音が耳の奥で聞こえる。俺はまだ生きている、牛河は暗闇の中でそう思った。  牛河は畳の床に俯《うつぶせ》せにされていた。両手は背中の後ろに回され、柔らかい布のようなもので縛られている。足首も縛られている。それほど固くはないが手慣れた効果的な縛り方だ。転がる以外に身動きはできない。自分がこうしてまだ生きて呼吸をしていることを、牛河は不思議に思った。あれは死ではなかったのだ。ぎりぎりのところまで死に近接してはいたが、死そのものではなかった。喉の両脇に鋭い痛みが瘤のように残っていた。漏らした尿が下着に滲みて冷たくなり始めていた。しかしそれは決して不快な感触ではない。むしろ歓迎すべき感覚だ。痛みや冷たさは、自分がまだ生きていることのしるしなのだから。 「それほど簡単には死なない」と男の声が言った。まるで牛河の気持ちを読みとったように。 第23章 青豆 光は間違いなくそこにある  真夜中を過ぎ、日付は日曜日から月曜日へと移ったが、眠りはまだ訪れなかった。  青豆は風呂を出るとパジャマに着替え、ベッドに入って明かりを消した。遅くまで起きていたところで彼女にできることは何もない。問題はとりあえずタマルの手に委ねられた。何を考えるにせよ、ここはいったん眠りに就き、明日の朝になってから新鮮な頭であらためて考えた方が良い。それでも彼女の意識は隅々まで覚醒し、身体はあてもなく活動を求めていた。眠ることはできそうにない。  青豆はあきらめてベッドを出て、パジャマの上にガウンを羽織る。湯を沸かしてハーブティーをつくり、食堂のテーブルの前に座って、それを少しずつすするように飲む。頭の中に何かの考えが浮かんでいるのだが、どんな考えなのか見きわめることができない。遠くに見える雨雲のように、それは厚く密なかたちをとっている。かたちはわかるのに輪郭がつかめない。かたちと輪郭とのあいだにどうやら<傍点>ずれがあるらしい。青豆はマグカップを手に窓際に行って、カーテンの隙間から児童公園を眺める。  もちろんそこに人影はない。真夜中の一時過ぎ、砂場もぶらんこも滑り台も、すべては見捨てられたままだ。ことのほかひっそりとした夜だ。風は止み、雲ひとつない。そして二つの大小の月が、凍てついた樹木の上に並んで浮かんでいる。月は最後に見たときから、地球の自転にあわせて位置を相応に変えているものの、まだ視界の中に留まっている。  青豆はそこに立ったまま、福助頭が入っていった古ぼけたアパートと、その三〇三号室のドアのスリットに入っていた名札を頭に思い浮かべる。白いカードには「川奈」という二つの文字がタイプされている。カードは新しいものではない。角がよれて折れ曲がり、ところどころに湿気による<傍点>しみがうっすらとついている。そのカードがスリットに入れられてから短くはない歳月が経過している。  その部屋の住人が川奈天吾なのか、あるいは川奈という姓を持つ別の人物なのか、タマルが真相を明らかにしてくれるはずだ。遠からず、たぶん明日にはその報告があるだろう。何をするにも無駄な時間をかけない男だ。そのときに事実が判明する。ことによれば私はほどなく天吾に対面できるかもしれない。その可能性は青豆を息苦しくさせる。あたりの空気が急速に薄くなっていくみたいだ。  しかしものごとはそれほど順調に運ばないかもしれない。もし三〇三号室の住人が川奈天吾であったとしても、あのアパートのどこかには不吉な福助頭がおそらく潜んでいる。そして何かを、どんなことかは知れないがとにかく悪しきことを、ひそかに企んでいる。そいつは巧妙に策を巡らせ、私と天吾に執拗にまとわりつき、私たちが再会することを阻もうとするに違いない。  いや、心配することはない、と青豆は自分に言い聞かせる。タマルは信頼するに足る男だ。そして私が知っている誰よりも周到で有能で経験を積んでいる。任せておけば、彼は怠りなく福助頭をかわしてくれるはずだ。私にとってだけではなく、タマルにとってもまた福助頭は厄介な存在であり、排除しなくてはならない危険因子になっている。  しかしもしタマルが何らかの理由で(どんな理由だかはわからないが)、私と天吾が出会うことが好ましくない事態をもたらすと判断したら、そのときはいったいどうなるだろう? もしそうなったら、彼はきっと私と天吾が対面する可能性をきっぱり排除してしまうはずだ。私とタマルはお互いに個人的好意に近いものを抱いている。それは確かだ。とはいえ彼はいかなる場合においても、老婦人の利益と安全を最優先する。それが彼の本来の仕事なのだ。何も青豆のためだけを思って行動しているわけではない。  そう考えると青豆は不安になる。天吾と彼女が巡り合い結びつけられることが、タマルの優先順位表のどのあたりに収まるか、そこまで青豆には知りようもない。タマルに川奈天吾のことを打ち明けてしまったのは、ひょっとして致命的な間違いだったのではないか。天吾と私とのあいだの問題は、最初から最後まで私一人の力で処理しなくてはならないことだったのではないか。  でも今さらものごとを元に戻すことはできない。何はともあれ私は既に、タマルに事情を打ち明けてしまったのだ。その時点ではそうしないわけにはいかなかった。福助頭はたぶんそこで、私がやってくるのを待ち受けているだろうし、そんなところに私が一人で乗り込んでいくのは自殺行為に近い。そして時間は刻々と経過していく。態度を保留し様子を見ているような余裕はなかった。タマルに事情を明かし彼の手に問題を委ねることが、そのときの私にできる最良の選択だった。  青豆はそれ以上天吾について考えるのをやめる。考えれば考えるだけ、思考の糸は身動きがとれないほど複雑に絡み合っていく。もう何も考えないようにしよう。月を見るのもやめよう。月の光は音もなく彼女の心を乱す。それは入り江の潮位を変え、森の生命を揺さぶる。青豆はハーブティーの最後の一口を飲んでしまうと窓際を離れ、マグカップを流し台で洗う。ブランデーをほんの少し飲みたいところだが、妊娠中にアルコールを摂るわけにはいかない。  青豆はソファに腰を下ろし、傍らの小さな読書灯をつけ、『空気さなぎ』をもう一度読み返すことにする。彼女は今までに少なくとも十回はその小説を通読していた。それほど長い話ではないし、文章の細部まで暗記しているくらいだ。しかしもう一度、より注意深く読み返してみようと思う。どうせこのまま眠れそうにはない。そしてそこにはまだ何か自分が見逃していることがあるかもしれない。 『空気さなぎ』はいわば暗号帳のようなものだ。深田絵里子はおそらく何らかのメッセージを流布することを目的としてその物語を語った。天吾がその文章を技巧的に洗練されたものに換え、効果的に物語を再構成した。二人はチームを組み、多くの読者にアピールする小説をつくり上げた。「さきがけ」のリーダーの言によれば「二人はそれぞれを補う資質を持ち合わせていた。彼らは補いあい、力を合わせてひとつの作業を成し遂げた」わけだ。またリーダーの言ったことを信じるなら、『空気さなぎ』がベストセラーになり、そこでなんらかの秘密が明文化されたことによって、リトル?ピープルは非活性化され、「声」は語りかけることをやめてしまった。その結果井戸は涸れて流れは途絶えた。その本はそれほど重大な影響力を行使することになったのだ。  彼女はその小説の一行一行に意識を集中する。  壁の時計の針が二時半を指すころ、青豆は既に小説の三分の二ほどを読み終えていた。彼女はそこでいったん本のぺージを閉じ、自分が心に強く感じていることを言葉のかたちに移し替えようと努める。彼女はその時点で啓示とまではいかずとも、確信に近いイメージを得ている。  私はたまたまここに運び込まれたのではない。  それがそのイメージの訴えかけることだ。  私はいるべくしてここにいるのだ。  私はこれまで、自分がこの「1Q84年」にやってきたのは他動的な意思に巻き込まれたせいだと考えていた。何らかの意図によって線路のポイントが切り替えられ、その結果私の乗った列車は本線から逸れて、この新しい奇妙な世界に入り込んでしまったのだ。そして気がついたときには私は<傍点>ここにいた。二つの月が空に浮かび、リトル?ピープルが出没する世界に。そこには入り口はあっても出口はない。  リーダーは死ぬ前にそのように私に説明してくれた。「列車」とはつまり天吾の書いている物語そのものであり、私は抜き差しならないほどその物語に含まれていた。だからこそ私は今ここにいるのだと。あくまで受け身の存在として。言うなれば、深い霧の中をさまよう混乱した無知な脇役として。  でもそれだけじゃないんだと青豆は思う。それだけじゃない。  私は誰かの意思に巻き込まれ、心ならずもここに運び込まれたただの受動的な存在ではない。たしかにそういう部分もあるだろう。でも同時に、私はここにいることを自ら選び取ってもいる。  ここにいることは私臼身の主体的な意思でもあるのだ。  彼女はそう確信する。  そして私がここにいる理由ははっきりしている。理由はたったひとつしかない。天吾と巡り合い、結びつくこと。それが私がこの世界に存在する理由だ。いや、逆の見方をすれば、それがこの世界が私の中に存在している唯一の理由だ。あるいはそれは合わせ鏡のようにどこまでも反復されていくパラドックスなのかもしれない。この世界の中に私が含まれ、私自身の中にこの世界が含まれている。  天吾が現在書いている物語が、どのような筋書きを持った物語なのか、青豆にはもちろん知りようがない。おそらくその世界には月が二つ浮かんでいるのだろう。そこにはリトル?ピープルが出没するのだろう。彼女に推測できるのはせいぜいそこまでだ。にもかかわらず、それは天吾の物語であると同時に、<傍点>私の物語でもあるのだ。それが青豆にはわかる。  青豆がそれを知ったのは、主人公の少女がリトル?ピープルたちとともに、夜ごと納屋の中で空気さなぎをつくり続ける場面を読み返していたときだ。その詳細で鮮明な描写を目で追いながら、彼女は下腹の奥にじわりと温かいものを感じた。とろけるような不思議な深みを持つ温かみだ。そこには小さいながら、重い核心を持った熱源があった。その熱源が何なのか、発熱が何を意味するのか、考えるまでもなくわかる。<傍点>小さなものだ。主人公とリトル?ピープルが一緒に空気さなぎを拵えていく情景に<傍点>それが感応し、熱を発しているのだ。  青豆は本を傍らのテーブルの上に置き、パジャマの上衣のボタンをはずし、腹の上に手のひらをあてる。手のひらはそこにある発熱を感じ取る。オレンジ色の淡い光さえそこには浮かんでいるみたいだ。彼女は読書灯のスイッチを切り、寝室の暗闇の中で目をこらしてその箇所を見つめる。見えるか見えないかという仄かな発光だ。しかし光は間違いなくそこにある。私は孤独ではない、と青豆は思う。私たちはひとつに結びつけられているのだ。おそらくは同じ物語に共時的に含まれることによって。  そしてもしそれが天吾の物語であると同時に、私の物語でもあるのなら、私にもその筋を書くことはできるはずだ。青豆はそう考える。何かをそこに書き添えることだって、あるいはまたそこにある何かを書き換えることだって、きっとできるはずだ。そして何よりも、結末を自分の意思で決定することができるはずだ。そうじゃないか?  彼女はその可能性について考える。  でもどうすればそんなことができるのだろう?  青豆にはまだその方法はわからない。彼女にわかるのは、<傍点>そういう可能性がきっとあるはずだということだけだ。それは今のところ、まだ具体性を欠いたひとつのセオリーに過ぎない。彼女は密やかな暗闇の中で唇を堅く結び、思考を巡らせる。とても大事なことだ。深く考えなくてはならない。  私たちは二人でチームを組んでいる。天吾と深田絵里子が『空気さなぎ』で有能なチームを組んだように、この新しい物語において私と天吾はチームを組んでいる。私たち二人の意思が——あるいは意思の底流としてあるものが——ひとつになり、この入り組んだ物語を立ち上げ、進行させている。それはおそらくどこか深い見えないところで行われている作業なのだろう。だから顔を合わすことがなくても、私たちはひとつに結びついていられる。私たちが物語をつくり、その一方で物語が私たちを動かしていく。そういうことではないのだろうか?  ひとつ疑問がある。とても大事な疑問だ。  <傍点>私たちの書いているその物語の中で、<傍点>この小さなものはいったい何を意味しているのだろう? それはどのような役割を担うことになるのだろう?  <傍点>この小さなものは、リトル?ピープルと主人公の少女が納屋の中で空気さなぎをつくるシーンに、このように強く感応している。私の子宮の中でほんのりと、しかし触知できる熱を持ち、淡いオレンジ色の光を発している。まるで空気さなぎそのもののように。私の子宮が「空気さなぎ」の役割を果たしていることを、それは意味しているのだろうか。私はマザであり、<傍点>この小さなものは私にとってのドウタということになるのだろうか。私が性交することなく天吾の子供を宿したことには、リトル?ピープルの意思がなんらかのかたちで関与しているのだろうか。彼らは私の子宮を巧妙に乗っ取って、「空気さなぎ」として利用しているのだろうか。彼らは私という装置から、自分たちのための新しいドウタを取り出そうとしているのだろうか。  いや、そんなことはない。強く明瞭に彼女はそう思う。<傍点>それはあり得ない。  リトル?ピープルは今のところ活動力を失っている。リーダーはそう言っていた。小説『空気さなぎ』が世間に広く流布したことによって、彼らは本来の動きを妨げられている。この妊娠は彼らの目の届かないところで、彼らの力を巧妙にくぐり抜けて行われたことであるに違いない。それではいったい誰が——あるいはどのような力が——この妊娠を可能にしたのだろう? そして何のために?  青豆にはわからない。  彼女にわかっているのは、<傍点>この小さなものが天吾と自分とのあいだにもうけられた、かけがえのない生命であるということだけだ。彼女はもう一度下腹に手をやる。それを縁どるように淡く浮かんだオレンジ色の光をそっと優しく押さえる。そして手のひらに感じた温かみを、時間をかけて全身に行き渡らせる。私は何があろうとこの小さなものを護り抜かなくてはならない。誰にもこれを奪わせはしない。誰にも損なわせはしない。<傍点>私たちはこれを護り育てるのだ。彼女は夜の暗闇の中で心を定める。  寝室に行ってガウンを脱ぎ、ベッドに入る。仰向けになって下腹に手をあて、その温かみを今一度手のひらに感じる。不安はもう消えている。迷いもない。私はより強くならなくてはいけない。私の心と身体はひとつにならなくてはならない。やがて眠りが漂う煙のように音もなく訪れ、彼女の全身を包む。空にはまだ二つの月が並んで浮かんでいる。 第24章 天吾 猫の町を離れる  父親の遺体は、きれいにアイロンのかかったNHKの集金人の制服に晴れがましく包まれ、簡素な棺におさめられた。おそらくいちばん安価な棺なのだろう。カステラの木箱をいくらか丈夫にした程度の、いかにも愛想のない代物だった。故人は小柄な体躯だったが、それでも長さにほとんど余裕はなかった。合板でできていて、装飾もろくに施されていない。この棺でかまいませんね、と葬儀屋は天吾に遠慮がちに念を押した。かまわないと天吾は答えた。父親がカタログの中から自分で選び、自分で代金を支払った棺だ。死者がそれに異議を持たないのなら、天吾にも異議はない。  NHKの集金人の制服を身にまとって、その質素な棺の中に横たわった父親は、死んでいるようには見えなかった。仕事の合間にちょっと仮眠を取っているみたいに見えた。今にも目を覚まして起き上がり、帽子をかぶって残りの集金に出かけて行きそうだ。NHKのマークが縫い込まれたその制服は、彼の皮膚の一部のように見えた。この男はそのユニフォームに包まれてこの世界に生まれ落ち、それに包まれて焼かれていくのだ。実際に目の前にしてみると、彼が最後に身につける衣服として、それ以外のものは天吾にも思いつけなかった。ヴァーグナーの楽劇に出てくる戦士たちが鎧に包まれたまま火葬に付されるのと同じことだ。  火曜日の朝、天吾と安達クミの前で棺の蓋が閉められ、釘を打たれた。そして霊枢車に乗せられた。霊枢車といっても、病院から葬儀社まで遺体を搬送したのと同じ、きわめて実務的なトヨタのライトバンだった。車輪つきのベッドが棺桶にかわっただけだ。たぶんそれがいちばん安あがりな霊枢車だったのだろう。そこには<傍点>おごそかな要素はまったくなかった。『神々の黄昏』の音楽も聞こえてこなかった。とはいえ霊枢車の形状に関しても、天吾が異議を唱えるべき理由は見あたらなかった。安達クミもまたそんなことは気にもしていないようだった。それは単なる移動手段に過ぎない。大事なのは人が一人この世界から消滅したことであり、残された人々はその事実を肝に銘じなくてはならないということだ。二人はタクシーに乗って、黒いライトバンのあとをついていった。  海岸沿いの道路を離れて、少し山の中に入ったところに火葬場はあった。比較的新しいが、きわめて個性に乏しい建物で、火葬場というよりは何かの工場か、役所の庁舎のように見えた。ただ庭が美しく丁寧に整えられ、高い煙突が空に向けて堂々とそびえていることで、それが特殊な目的を持った施設であることが知れる。その日、火葬場はそれほど忙しくなかったのだろう、待ち時間もなく棺はそのまま高熱炉に運ばれた。棺が炉の中にしずしずと送り込まれ、潜水艦のハッチのような重い蓋が閉められた。手袋をはめた年配の係員が、天吾に向かって一礼してから、点火スイッチを押した。安達クミがその閉じられた蓋に向かって両手をあわせ、天吾もそれにならった。  火葬が終了するまでの一時間ばかりを、天吾と安達クミは建物の中にある休憩所で過ごした。安達クミが自動販売機で温かい缶コーヒーをふたつ買ってきて、二人はそれを黙って飲んだ。二人は大きなガラス窓に面して置かれたベンチに、並んで腰を下ろしていた。窓の外には冬枯れをした芝生の庭が広がり、葉を落とした木立があった。黒い鳥が二羽、枝にとまっているのが見えた。名前を知らない鳥だ。尾が長く、体躯の小さなわりに声が鋭く大きい。鳴くときにまっすぐ尾を立てる。木立の上には雲ひとつない青い冬の空が広がっていた。安達クミはクリーム色のダッフルコートの下に、丈の短い黒のワンピースを着ていた。天吾は丸首の黒いセーターの上に、濃いグレーのヘリンボーンの上着を着ていた。靴は焦げ茶色のローファー。それが彼の所有する中では最もフォーマルな衣服だった。 「うちのお父さんもここで焼かれたんだよ」と安達クミは言った。「一緒に来た人たちはみんな、ひっきりなしに煙草を吸っていた。おかげで天井のあたりにぽっかり雲が浮かんでいるみたいだった。なにしろそこにいるほとんどが漁師仲間だったからね」  天吾はその光景を想像した。日焼けした一群の人々が、着慣れぬダークスーツに身を包み、みんなでせっせとタバコを吹かしている。そして肺癌で死んだ男を悼んでいる。しかし今、休憩所には天吾と安達クミの二人しかいない。あたりには静けさが満ちていた。時おり鳥の鋭い囀《さえず》りが木立から聞こえるほかには、その静けさを破るものはない。音楽もなく、人の声も聞こえない。太陽が穏やかな光を地上に注いでいた。その光は窓ガラス越しに部屋に射し込んで、二人の足もとに寡黙な日だまりを作り出していた。時間は河口に近づいた河のようにゆるやかに流れていた。 「一緒に来てくれてありがとう」、天吾は長く続いた沈黙のあとでそう言った。  安達クミは手を伸ばして、天吾の手に重ねた。「一人だとやっぱりきついからね。誰かがそばにいた方がいい。そういうものだよ」 「そういうものかもしれない」と天吾も認めた。 「人が一人死ぬというのは、どんな事情があるにせよ大変なことなんだよ。この世界に穴がひとつぽっかり開いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」  天吾は肯いた。 「穴を開けっ放しにしてはおけない」と安達クミは言った。「その穴から誰かが落ちてしまうかもしれないから」 「でもある場合には、死んだ人はいくつかの秘密を抱えていってしまう」と天吾は言った。「そして穴が塞がれたとき、その秘密は秘密のままで終わってしまう」 「私は思うんだけど、それもまた必要なことなんだよ」 「どうして?」 「もし死んだ人がそれを持って行ったとしたら、その秘密はきっとあとには置いていくことのできない種類のものだったんだよ」 「どうしてあとに置いていけなかったんだろう?」  安達クミは天吾の手を放し、彼の顔をまっすぐに見た。「たぶんそこには死んだ人にしか正確には理解できない<傍点>ものごとがあったんだよ。どれほど時間をかけて言葉を並べても説明しきれないことが。それは死んだ人が自分で抱えて持っていくしかないものごとだったんだ。大事な手荷物みたいにさ」  天吾は口を閉ざしたまま、足もとの日だまりを眺めていた。リノリウムの床が鈍く光っていた。その手前には天吾のくたびれたローファーと、安達クミのシンプルな黒いパンプスがあった。それはすぐそこにありながら、何キロも遠くに見える光景のように感じられた。 「天吾くんにだって、人にはなかなか説明しきれないものがあるでしょう。違う?」 「あるかもしれない」と天吾は言った。  安達クミは何も言わず、黒いストッキングに包まれた細い脚を組んだ。 「君は前に死んだと言ったね」、天吾は安達クミにそう尋ねた。 「うん。私は前に一度死んだ。冷たい雨の降る寂しい夜に」 「君はそのときのことを覚えているんだ?」 「そうだね、覚えているんだと思う。昔からそのときのことをよく夢で見るから。すごくリアルな夢で、いつもそっくり同じなんだ。本当にあったこととしか思えない」 「それはリインカーネーションみたいなことなのかな」 「リインカーネーション?」 「生まれ変わり。輪廻」  安達クミはそれについて考えた。「どうだろう。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」 「君も死んだあとこんな風に焼かれたのかな?」  安達クミは首を振った。「そこまでは覚えていない。それは死んだあとのことだから。私が覚えているのは<傍点>死んだときのことだけ。誰かが私の首を絞めていた。私の知らない見たこともない男」 「君はその顔を覚えている?」 「もちろんだよ。何度も夢の中で見ているもの。道で会ったら一目でわかる」 「もし本当に道で会ったらどうする?」  安達クミは指の腹で鼻をこすった。そこにまだ鼻があることを確かめるみたいに。「それは私自身、何度となく考えたよ。本当に道で会ったらどうしようかってさ。そのまま走って逃げちゃうかもしれない。こっそりあとをついていくかもしれない。その場になってみないときっとわからないね」 「ついていってどうするの?」 「わからないよ。でもひょっとしたらその男は、私についての何か大事な秘密を握っているかもしれない。うまくいけばそれを暴けるかもしれない」 「どんな秘密を?」 「たとえば私が<傍点>ここにいる意味のようなことを」 「しかしその男はもう一度君を殺すかもしれない」 「かもしれない」、安達クミは口を小さくすぼめた。「そこには危険がある。それはもちろんよくわかるよ。そのまま走ってどこかに逃げてしまうのがいちばんかもしれない。それでもそこにあるはずの秘密は、私をどうしようもなく惹きつける。暗い入り口があれば、猫がどうしても中をのぞき込まずにはいられないのと同じ」  火葬が終わり、安達クミと二人で残された父親の骨を拾い、小さな骨壷に収めた。骨壷は天吾に渡された。そんなものを渡されても、どう扱えばいいのか天吾にはよくわからなかった。かといってどこかに置き去りにしていくわけにもいかない。天吾はその骨壺を所在なく抱えたまま、安達クミと一緒にタクシーで駅に向かった。 「あとの細かい事務的な処理は私の方で適当に済ませておく」と安達クミはタクシーの中で言った。それから少し考えて付け加えた。「よかったら納骨もしておいてあげようか?」  天吾はそう言われて驚いた。「そんなことができるの?」 「できなくはない」と安達クミは言った。「家族が一人も来ないお葬式だって、まったくないわけじゃないからね」 「もしそうしてくれたらとても助かる」と天吾は言った。そしていくぶんうしろめたくはあったが、正直なところほっとして、骨壺を安達クミに手渡した。おれがこの骨を目の前にすることはもう二度とないだろうと彼はそのとき思った。あとに残されるのは記憶だけだ。そしてその記憶だっていつかは<傍点>ちりのように消えてしまう。 「私は地元民だから、大抵のことは融通がつけられる。だから天吾くんは早く東京に帰った方がいい。<傍点>私たちはもちろんあなたのことが好きだけど、ここは天吾くんがいつまでもいる場所じゃない」  <傍点>猫の町を離れる、と天吾は思った。 「いろいろとありがとう」と天吾はもう一度礼を言った。 「ねえ、天吾くん、ひとつ私から忠告していいかな。忠告なんて<傍点>がらじゃないけどさ」 「もちろんいいよ」 「あなたのお父さんは、何か秘密を抱えてあっち側に行っちゃったのかもしれない。そのことであなたは少し混乱しているみたいに見える。その気持ちはわからないでもない。でもね、天吾くんは暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。それよりも先のことを考えた方がいい」 「穴は閉じられなくてはならない」と天吾は言った。 「そういうこと」と安達クミは言った。「フクロウくんもそう言っている。フクロウくんのことを覚えている?」 「もちろん」  フクロウくんは森の守護神で、物知りだから、夜の智慧を私たちに与えてくれる。 「フクロウはまだあの林の中で鳴いているのかな?」 「フクロウはどこにもいかない」と看護婦は言った。「ずっとあそこにいる」  天吾が館山行きの電車に乗るのを安達クミは見送ってくれた。実際に彼が電車に乗ってこの町から立ち去るのを自分の目で確認しておく必要があるというみたいに。彼女は見えなくなるまでプラットフォームで手を大きく振っていた。  高円寺の部屋に戻ったのは火曜日の午後七時だった。天吾は明かりをつけ、食卓の椅子に腰を下ろし、部屋の中を見渡した。部屋は昨日の朝早く出ていったときのままだ。窓のカーテンは隙間なくぴたりと閉められ、机の上には原稿のプリントアウトが重ねられていた。きれいに削られた鉛筆が六本、鉛筆立てにあった。洗った食器が台所の流し台に積み上げられたままになっていた。時計は黙々と時を刻み、壁のカレンダーは一年が最後の月にさしかかっていることを示していた。部屋はいつもよりずっと<傍点>しんとしているみたいだった。いささか<傍点>しんとしすぎている。その静寂には何かしら過度なものが含まれているように感じられた。でも気のせいかも知れない。ついさっき一人の人間の消滅を目の前にしてきたせいかもしれない。世界の穴がまだ十分に塞がっていないからかもしれない。  水をグラスに一杯飲んでから、熱いシャワーに入った。丁寧に髪を洗い、耳の掃除をし爪を切った。抽斗から新しい下着と新しいシャツを出して身につけた。いろんな匂いを身体から落とさなくてはならない。猫の町の匂いを。<傍点>私たちはもちろんあなたのことが好きだけど、ここは天吾くんがいつまでもいる場所じゃない、と安達クミは言った。  食欲はなかった。仕事をする気も起きなかったし、本を開く気にもなれなかった。音楽を聴きたいとも思わない。身体はくたびれていたが、神経は妙に高ぶっている。だから横になって眠ることもできそうにない。あたりをおおっている沈黙にもどこかしら技巧的な趣きがあった。  ここにふかえりがいてくれればいいのに、と天吾は思った。どんなつまらないことでもいい。意味をなさないことでもいい。抑揚や疑問形が宿命的に欠落していてもいい。彼女が語る言葉を久しぶりに耳にしたかった。しかしふかえりがもう二度とこの部屋に戻ってこないだろうことは、天吾にはわかっていた。どうしてそれがわかるのか、理由はうまく説明できない。しかし彼女はこの場所にはもう帰らない。たぶん。  誰でもいい、誰かと話をしたかった。できることなら年上のガールフレンドと話をしたかった。しかし彼女に連絡をとることはできない。連絡先はわからないし、それに彼の告げられたところによれば、彼女はもう<傍点>失なわれてしまったのだ。  小松の会社の電話番号を回してみた。彼のデスクに繋がる直通の番号だ。しかし電話には誰も出なかった。十五回ベルを鳴らしてから、天吾はあきらめて受話器を置いた。  ほかに誰に電話をかけられるだろう、と天吾は考えてみた。でも一人として適当な相手は思い浮かばなかった。安達クミに電話してみようかとも思ったが、考えてみれば電話番号を知らなかった。  それから彼は世界のどこかにまだ開いたままになっている、暗い穴のことを思った。それほど大きな穴ではない。しかし深い穴だ。その穴をのぞきこんで大きな声を出せば、まだ父親と会話を交わせるのだろうか? 死者は真実を告げてくれるのだろうか? 「そんなことをしてもあなたはどこにも行けない」と安達クミは言った。「それよりも先のことを考えた方がいい」  でもそうじゃないんだと天吾は思う。それだけじゃないんだ。秘密を知ったところで、それはおれをどこにも連れて行かないかもしれない。それでもやはり、なぜそれが自分をどこにも連れて行かないのか、その理由を知らなくてはならない。その理由を正しく知ることによって、おれはひょっとしたら<傍点>どこかに行くことができるかもしれない。  あなたが僕の実の父親であったにせよ、なかったにせよ、それはもうどちらでもいいことだ、天吾はそこにある暗い穴に向かってそう言った。どちらでもかまわない。どちらにしても、あなたは僕の一部を持ったまま死んでいったし、僕はあなたの一部を持ったままこうして生き残っている。実際の血の繋がりがあろうがなかろうが、その事実が今さら変わることはない。時間は既にそのぶん経過し、世界は前に進んでしまったのだ。  窓の外にフクロウの鳴き声が聞こえたような気がした。でももちろん耳の錯覚に決まっている。 第25章 牛河 冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる 「それほど簡単には死なない」と男の声が背後で言った。まるで牛河の気持ちを読み取ったみたいに。「意識をいったん<傍点>落としただけだ。あとほんの少しというところまでは行ったが」  聞き覚えのない声だった。表情を欠いた中立的な声だ。高くもなく低くもない。硬すぎもせず柔らかすぎもしない。飛行機の発着時刻や株式市況を告げる声だ。  今日は何曜日だったっけと、脈絡なく牛河は考えた。たしか月曜日の夜だ。いや、正確に言えば日付はもう火曜日に変わっているかもしれない。 「牛河さん」と男は言った。「牛河さんでいいんだね?」  牛河は黙っていた。二十秒ばかり沈黙の時間があった。それから男は予告もなく、振幅の短い一撃を、牛河の左側の腎臓に送り込んだ。音のない、しかしおそろしく強烈な背後からの一撃だった。激痛が全身を貫いた。すべての臓器が縮み上がり、痛みが一段落するまでまともに息ができなかった。やがて牛河の口から乾いたあえぎが漏れた。 「いちおう丁寧にものを尋ねたんだ。返事をしてもらいたい。口がまだうまくきけないのなら、肯くか、首を振るか、それだけでもいい。それが礼儀というものだ」と男は言った。「牛河さんでいいんだね?」  牛河は何度か肯いた。 「牛河さん。覚えやすい名前だ。ズボンにあった財布を調べさせてもらった。運転免許証と名刺が入っていた。『新日本学術芸術振興会専任理事』。ずいぶん立派な肩書きじゃないか、牛河さん。しかし『新日本学術芸術振興会』の理事さんが、こんなところで隠しカメラを使って、いったい何をやっているんだろう?」  牛河は黙っていた。言葉がまだうまく出てこなかった。 「返事をした方がいい」と男は言った。「これは忠告だよ。腎臓を潰されると一生痛みを引きずることになる」 「ここに住む人物を監視していた」と牛河はようやく言った。声の高さが安定せず、ところどころでひび割れた。目隠しされていると、それは自分の声には聞こえなかった。 「それは川奈天吾のことだね」  牛河は肯いた。 「小説『空気さなぎ』のゴーストライターを務めた川奈天吾だ」  牛河はもう一度肯き、それから少し咳き込んだ。この男はそのことを知っている。 「誰に頼まれた?」と男は尋ねた。 「『さきがけ』だ」 「それくらいの予想はこちらにもつくよ、牛河さん」と男は言った。「しかしなぜ教団が今さら川奈天吾の動向を監視しなくてはならないのだろう? 彼らにとって、川奈天吾はそれほどの重要人物でもないはずなのに」  この男がどういう立場にいるのか、どこまで状況を把握しているのか、牛河は素速く頭を働かせた。誰だかはわからないが、少なくとも教団の送り込んだ人間ではない。しかしそれが歓迎すべき事実なのか、あるいはその逆なのか、そこまでは牛河にもわからない。 「質問しているんだ」と男は言った。そして指先で左側の腎臓を押した。強い力だ。 「彼はひとりの女に繋がっている」と牛河はうめくように言った。 「その女に名前はあるのか?」 「青豆」 「なぜ青豆を追っている?」と男は尋ねた。 「彼女が教団のリーダーに害をなしたからだ」 「害をなした」と男は検証するように言った。「殺したということだな? もっとシンプルに言えば」 「そうだ」と牛河は言った。この男を相手にものごとを隠しきることはできないと彼は思った。遅かれ早かれしゃべらされることになる。 「しかしそのことは世間には知られていない」 「内部の秘密になっている」 「教団内でどれくらいの数の人間がその秘密を知っているのだろう?」 「一握りだ」 「そしてあんたもその中に含まれている」  牛河は肯いた。  男は言った。「つまりあんたは教団内でかなり重要な位置にいるということになる」 「いや」と言って牛河は首を振った。首を横に振ると殴られた腎臓が痛んだ。「私はただの使い走りだ。たまたまそれを知る状況にいただけだ」 「まずいときに、まずい場所にいた。そういうことだろうか?」 「そうなると思う」 「ところで牛河さん、あんたは今回、単独で行動しているのか?」  牛河は肯いた。 「しかし妙な話だな。こういう監視や尾行の作業はチームを組んであたるのが常道だ。念入りにやるには補給係も入れて、少なくとも三人が必要だ。そしてあんたたちは常に組織の結束で動いているはずだ。単独行動はいかにも不自然だ。というわけで、あんたの答えは俺にはもうひとつ気に入らない」 「私は教団の信者じゃない」と牛河は言った。呼吸が落ち着いて、やっとなんとかまともに口がきけるようになった。「教団に個人的に雇われているだけだ。外部の人間を使った方が便利なときに呼ばれる」 「『新日本学術芸術振興会』専任理事として?」 「それはダミーだ。その団体に実体はない。主に教団の税金対策のためにつくられたものだ。私は教団と繋がりのない個人業者として、教団のために用をこなしている」 「傭兵のようなものだな」 「いや、傭兵とは違う。ただ依頼を受けて情報収集みたいなことをするだけだ。もしその必要があれば、荒っぽいことは教団内の別の人間が担当する」 「ここで川奈天吾を監視して、青豆との繋がりを探れと教団から指示されたのか、牛河さん?」 「そうだ」 「違うね」と男は言った。「そいつは正しくない答えだ。もし教団がその事実を摑んでいれば、つまりもし青豆と川奈天吾との繋がりを摑んでいればということだが、連中はあんた一人に監視を任せたりはしないよ。自分たちのところの人間を使って、チームを組んでやらせている。その方がミスも少ないし、武力も効果的に使える」 「でも本当にそうなんだ。こちらは上の指示に従っているだけだ。どうして私一人にやらせているのか、それは私にもわからん」、牛河の声はまたピッチが不安定になり、ところどころでひび割れた。  もし「さきがけ」が青豆と天吾の繋がりをまだ把握していないとわかったら、俺はこのまま消されるかもしれないと牛河は思った。俺がいなくなれば、それは誰に知られることもなく終わるわけだから。 「正しくない答えが、俺は好きになれない」と男は冷ややかな声で言った。「牛河さん、あんたはそのことを<傍点>身にしみて知るべきだ。もう一度同じ腎臓を殴ってもいい。しかし思い切り殴れば、俺の手だってけっこう痛むし、それにあんたの腎臓に深刻なダメージを与えることが俺の目的でもない。あんた個人に恨みがあるわけではないからな。俺の目的はただひとつ、正しい答えを得ることだ。だから今回は新しい趣向でやってみよう。海の底に行ってもらうことにする」  海の底? と牛河は思った。この男はいったい何を言おうとしているのだろう。  男はポケットから何かを取り出しているようだった。かさかさというビニールの擦れる音が耳に届いた。そして牛河の頭の上から何かがすっぽりかぶせられた。ビニール袋だ。食品冷凍用の厚手のビニール袋のようだ。それから大きな太い輪ゴムが首のまわりに巻きつけられた。この男は俺を窒息させるつもりなのだ、と牛河は悟った。空気を吸い込もうとすると口の中がビニールでいっぱいになった。鼻の穴も塞がれた。両方の肺が必死に新鮮な空気を求めていた。しかしそんなものはどこにもない。ビニールが顔全体にぴたりと張りついて、文字どおり死の仮面となった。ほどなく身体中の筋肉が激しく痙攣を始めた。牛河は手を伸ばしてその袋をむしり取ろうとしたが、手はもちろん動かなかった。背中でしっかり縛られているのだ。頭の中で脳が風船のように膨張し、そのままはちきれそうになった。牛河は叫ぼうと思った。新鮮な空気がどうしても必要なのだ。何があっても。しかしもちろん声は出てこなかった。舌が口いっぱいに広がった。意識が頭からこぼれ落ちていった。  やがて首の輪ゴムが外され、ビニール袋が頭からむしり取られた。牛河は目の前にある空気を必死に肺の中に送り込んだ。それから何分ものあいだ牛河は、まるで届かないところにある何かに噛みつこうとする動物のように、身体を反らせながら激しい呼吸を繰り返していた。 「海の底はどうだった?」と男は牛河の呼吸が落ち着くのを待って尋ねた。その声にはやはり表情はなかった。「ずいぶん深くまで行った。これまでに見たこともないものをいろいろ目にしただろう。貴重な体験だ」  牛河は何も言えなかった。声は出てこなかった。 「牛河さん、何度も繰り返すことになるが、俺は正しい答えを求めている。だからもう一度だけ質問する。ここで川奈天吾の動向を見張って、青豆との繋がりを探るように教団から指示されたのか? とても大事なことなんだ。人の命がかかっていることだ。よくよく考えて、正しく答えてくれ。あんたが嘘をつけば、それはわかるんだよ」 「教団はこのことを知らない」、牛河はようやくそれだけを口にした。 「そう、そいつが正しい答えだ。教団は青豆と川奈天吾のあいだに繋がりがあることをまだ摑んでいない。あんたはまだその事実を連中に伝えていない。そういうことだね?」  牛河は肯いた。 「最初から正直に答えていれば、海の底なんか見ないで済んだんだ。苦しかっただろう?」  牛河は肯いた。 「わかるよ。俺も以前、同じ目にあわされたことがある」と男は他愛ない世間話でもするように言った。「どれくらい苦しいものか、こればかりは経験したことのない人間にはわからない。苦痛というのは簡単に一般化できるものじゃないんだ。個々の苦痛には個々の特性がある。トルストイの有名な一節を少し言い換えさせてもらえば、快楽というのはだいたいどれも似たようなものだが、苦痛にはひとつひとつ微妙な差違がある。<傍点>味わいとまでは言えないだろうがね。そう思わないか?」  牛河は肯いた。彼はまだいくらかあえいでいた。  男は続けた。「だからここはお互い腹を割って、包み隠すところなく、正直に話をしようじゃないか。いいな、牛河さん?」  牛河は肯いた。 「もし正しくない答えがまた返ってきたら、また海の底を歩いてもらうことになる。今度はさっきよりもう少し長く、もう少しゆっくり歩いてもらう。もっとぎりぎりのところまで。下手をしたらもう戻って来れないかもしれない。そんな目にあいたくないだろう。どうだ、牛河さん?」  牛河は首を振った。 「どうやら俺たちには共通点があるようだ」と男は言った。「見たところお互いに一匹狼だ。あるいははぐれ犬だ。はっきり言えば、社会のはみ出しものだ。生まれつき組織には馴染まない。というか、そもそも組織みたいなところには受け入れてもらえない。すべて自分一人でやる。一人で決め一人で行動し、一人で責任を取る。上から命令は受けるが、同僚も部下もいない。自分に与えられた頭と腕だけが頼りだ。そんなところだね?」  牛河は肯いた。  男は言った。「それが俺たちの強みであり、また時には弱点でもある。たとえば今回について言えば、あんたはいささか功を焦りすぎた。途中経過を教団に報告することなく、自分一人でかたをつけようとした。できるだけきれいなかたちで、個人的に手柄をあげたかった。そのぶんガードが甘くなった。違うか?」  牛河はもう一度肯いた。 「そこまでしなくてはならない理由が何かあったのか?」 「リーダーの死に関して私に落ち度があった」 「どんな具合に?」 「私が青豆の身辺調査をした。リーダーに会わせる前に厳しいチェックを入れる。まずい点は何も見つけられなかった」 「しかし彼女は殺害する意志をもってリーダーに接近し、実際にとどめを刺した。あんたは与えられた仕事をしくじったし、いずれその責任を取らされることになるだろう。所詮は外部の使い捨ての人間だ。また今となっては内情を知りすぎた男になっている。生き延びるためには、連中に青豆の首を差し出さなくてはならない。そういうことかな?」  牛河は肯いた。 「気の毒なことをしたな」と男は言った。  気の毒なことをした? 牛河はその言葉の意味について、いびつな頭の中で考えを巡らせた。それから思い当たった。 「リーダー殺害の一件はおたくが仕組んだのか?」と牛河は言った。  男はそれには答えなかった。しかしその無言の回答が決して否定的なものではないことを、牛河は理解した。 「私をどうするつもりだ?」と牛河は言った。 「どうしたものかな。実を言うとまだ決めてないんだ。これからゆっくり考える。すべてはあんたの出方次第だ」とタマルは言った。「ほかにいくつかあんたに尋ねたいことがある」  牛河は肯いた。 「『さきがけ』の連絡係の電話番号を教えてもらいたい。あんたの直属の担当みたいなのがいるはずだ」  牛河は少し躊躇したが、結局その番号を教えた。今さら命をかけて隠しとおすほどのことでもない。タマルはそれを書き留めた。 「名前は?」 「名前は知らない」と牛河は嘘をついた。しかし相手はとくに気にしなかった。 「<傍点>きついやつらか?」 「かなりきつい」 「でもプロとは言えない」 「腕は立つ。上から命令されたことは迷わずなんでもやる。でもプロじゃない」 「青豆のことをどこまで突き止めた?」とタマルは言った。「身を隠している場所はわかったのか?」  牛河は首を振った。「そこまではわからない。だからまだここにへばりついて川奈天吾の監視を続けている。青豆の行方がわかったら、とっくにそちらに移動している」 「筋は通っている」とタマルは言った。「ところであんたはどうやって、青豆と川奈天吾のあいだに繋がりがあることを探り当てたのだろう?」 「足を使った」 「どんな具合に?」 「青豆の経歴を片端から洗ってみた。子供時代にまで遡って。彼女は市川市の公立小学校に通っていた。川奈天吾も市川の出身だ。それでひょっとしてと思った。小学校まで行って調べてみると案の定、二人は二年間同じクラスだった」  タマルは喉の奥で猫のように小さくうなった。「なるほどね。実に粘り強い調査をするんだな、牛河さん。ずいぶん時間と手間がかかっただろう。感服するよ」  牛河は黙っていた。今のところ何も質問されていない。 「繰り返して尋ねるが」とタマルは言った。「今のところ、青豆と川奈天吾の繋がりを知っている人間はあんた一人しかいない」 「おたくが知っている」 「俺は別にして、あんたのまわりで、ということだよ」  牛河は肯いた。「こちらの関係者でそのことを知っているのは私しかいない」 「嘘じゃないよな?」 「嘘じゃない」 「ところであんたは青豆が妊娠していることを知っているか?」 「妊娠?」と牛河は言った。その声には驚愕の響きが聞き取れた。「誰の子供を?」  タマルはその質問には答えなかった。「本当にそのことを知らなかったのか?」 「知らなかった。嘘じゃない」  タマルは牛河の反応が本物かどうかを、しばらく無言のうちに探っていた。それから言った。 「わかった。知らなかったというのは本当のようだな。信じよう。ところで麻布の柳屋敷のことをあんたはしばらく嗅ぎ回っていた。それに間違いないな?」  牛河は肯いた。 「なぜだ?」 「その屋敷の女主人は近所の高級スポーツ?クラブに通っていて、その個人インストラクターを青豆がつとめていた。二人は個人的に親しい関係を結んでいるように見えた。そしてその女性は、家庭内暴力をふるわれた女たちのためのセーフハウスを、敷地の隣地に設けていた。警備はとても厳重だった。私の目から見ればいささか厳重すぎた。当然ながらそのセーフハウスに青豆が匿われているんじゃないかと推測した」 「それで?」 「しかし考えた末に、そうではないと思った。その女性には金と力がたっぷりある。そういう人間は、もし仮に青豆を匿うとしても自分の膝元に置いたりしない。できるだけ遠くにやろうとするはずだ。だから麻布の屋敷をそれ以上探るのはやめて、川奈天吾の線を押すことにした」  タマルは再び小さくうなった。「あんたはなかなか勘が良いし、論理的に頭を働かせることもできる。辛抱強くもある。ただの使い走りにしておくのは惜しいな。ずっとこの仕事をしているのか?」 「以前は弁護士を開業していた」と牛河は言った。 「なるほど。さぞかし腕はよかったんだろうな。しかしいささか調子に乗ってやりすぎて、途中で滑ってすてんと転んだ。今では落ちぶれて、小遣い銭目当てに新興宗教教団の使い走りをしている。そんなところだろう」  牛河は肯いた。「そんなところだ」 「仕方ないさ」とタマルは言った。「俺たちみたいなはぐれものが腕一本で、世間の表側に出て生きていくのは生やさしいことじゃない。うまく行きかけたように見えても必ずどこかで転ぶ。世の中はそういう風にできているんだ」、彼は拳を固めて関節の音を立てた。鋭い不吉な音だった。「それで、柳屋敷のことは教団に話したのか?」 「誰にも言っていない」と牛河は正直に言った。「柳屋敷が匂うというのはあくまで個人的推測に過ぎない。警備が厳しすぎたし確証までは得られなかった」 「それはよかった」とタマルは言った。 「きっとおたくが仕切っていたんだろう?」  タマルは答えなかった。彼は質問をする側の人間であり、相手の質問に答える必要はない。 「あんたは今までのところ、こちらの質問に対して嘘をついていない」とタマルは言った。「少なくとも大筋ではな。一度海の底を潜らされると、嘘をつく気力が失われてしまう。無理に嘘をついてもすぐに声に出るからな。恐怖がそうさせるんだ」 「嘘はついてない」と牛河は言った。 「そいつはよかった」とタマルは言った。「好んで余計な苦痛を味わうことはない。ところでカール?ユングのことは知っているか?」  牛河は目隠しの下で思わず眉をひそめた。カール?ユング? この男はいったい何の話をしようとしているのだ。「心理学者のユング?」 「そのとおり」 「いちおうのことは」と牛河は用心深く言った。「十九世紀末、スイス生まれ。フロイトの弟子だったがあとになって袂を分かった。集合的無意識。知っているのはそれくらいだ」 「けっこう」とタマルは言った。  牛河は話の続きを待った。  タマルは言った。「カール?ユングはスイスのチューリッヒ湖畔の静かな高級住宅地に瀟洒な家を持って、家族とともにそこで裕福な生活を送っていた。しかし彼は深い思索に耽るための、一人きりになれる場所を必要としていた。それで湖の端っこの方にあるボーリンゲンという辺鄙な場所に、湖に面したささやかな土地を見つけ、そこに小さな家屋を建てた。別荘というほど立派なものじゃない。自分で石をひとつひとつ積んで、丸くて天井が高い住居を築いた。すぐ近くにある石切場から切り出された石だ。当時スイスでは石を積むためには石切工の資格が必要だったので、ユングはわざわざその資格を取った。組合《ギルド》にも入った。その家屋を建てることは、それも自分の手で築くことは、彼にとってそれくらい重要な意味を持っていたんだ。母親が亡くなったことも、彼がその家屋を造るひとつの大きな要因になった」  タマルは少し間をおいた。 「その建物は『塔』と呼ばれた。彼はアフリカを旅行したときに目にした部落の小屋に似せて、それをデザインしたんだ。ひとつも仕切りのない空間に生活のすべてが収まるようにした。とても簡素な住居だ。それだけで生きていくには十分だと彼は考えた。電気もガスも水道もなし。水は近くの山から引いた。しかしあとになって判明したことだが、それはあくまでひとつの元型に過ぎなかった。やがて『塔』は必要に応じて仕切られ、分割され、二階がつくられ、その後いくつかの棟が付け足された。壁に彼は自らの手で絵を描いた。それはそのまま個人の意識の分割と、展開を示唆していた。その家屋はいわば立体的な曼荼羅《まんだら》として機能したわけだ。その家屋がいちおうの完成を見るまでに約十二年を要した。ユング研究者にとってはきわめて興味深い建物だ。その話は聞いたことがあるか?」  牛河は首を振った。 「その家はまだ今でもチューリッヒ湖畔に建っている。ユングの子孫によって管理されているが、残念ながら一般には公開されていないから、内部を目にすることはできない。話によればそのオリジナルの『塔』の入り口には、ユング自身の手によって文字を刻まれた石が、今でもはめ込まれているということだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』、それがその石にユングが自ら刻んだ言葉だ」  タマルはもう一度間をおいた。 「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と彼はもう一度静かな声で繰り返した。 「意味はわかるか?」  牛河は首を振った。「いや、わからない」 「そうだよな。どういう意味だか俺にもよくわからん。あまりにも深い暗示がそこにはある。解釈がむずかしすぎる。でもカール?ユングは自分がデザインして、自分の手で石をひとつひとつ積んで建てた家の入り口に、何はともあれその文句を、自分の手で鑿を振るって刻まないではいられなかったんだ。そして俺はなぜかしら昔から、その言葉に強く惹かれるんだ。意味はよく理解できないが、理解できないなりに、その言葉はずいぶん深く俺の心に響く。神のことを俺はよく知らん。というか、カトリックの経営する孤児院でずいぶんひどい目にあわされたから、神についてあまり良い印象は持っちゃいない。そしてそこは常に寒いところだった。夏のさなかでさえもだ。かなり寒いか、とんでもなく寒いか、そのどちらかだった。神様はもしいたとしても、俺に対して親切だったとはとても言えない。しかし、にもかかわらず、その言葉は俺の魂の細かい襞《ひだ》のあいだに静かに浸みこんでいくんだよ。俺はときどき目を閉じて、その言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。すると気持ちが不思議に落ち着くんだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』。悪いけど、ちょっと声に出して言ってみてくれないか?」 「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と牛河はよくわからないまま小さな声で言った。 「よく聞こえなかったな」 「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と牛河は今度はできるだけはっきりとした声で言った。  タマルは目を閉じ、しばらくその言葉の余韻を味わっていた。それからようやく何かを決断したように大きく深く息を吸い込み、そして吐いた。目を開け、自分の両手を眺めた。指紋を残さないために、両手は手術用の薄い使い捨て手袋に包まれていた。 「悪いな」とタマルは静かに言った。そこには厳粛な響きが聞き取れた。彼はビニール袋をもう一度手に取り、それを牛河の頭からすっぽりとかぶせた。そして太い輪ゴムで首のまわりを締めた。有無を言わせぬ迅速な動きだった。牛河は抗議の言葉を口にしようとしたが、その言葉は結局口にされなかったし、当然ながら誰の耳にも届かなかった。何故だ、と牛河はそのビニール袋の中で思った。知っているすべてを正直に語った。どうして今さら俺を殺さなくてはならないのだ。  彼は張り裂けそうな頭で中央林間の小さな一軒家のことと、二人の小さな娘のことを考えた。そこで飼っていた犬のことも思った。彼はその胴の長い小型犬をただの一度も好きになったことがなかったし、犬の方もただの一度も牛河を好きになったことがなかった。頭の悪い、よく鳴く犬だった。しょっちゅう絨毯を噛み、新しい廊下で小便をした。彼が子供の頃に飼っていた賢い雑種犬とはまるで違う。にもかかわらず、牛河が人生の最後に思い浮かべたのは、芝生の庭を駆け回っているそのろくでもない小型犬の姿だった。  牛河の縛りあげられた丸い体躯《たいく》が、地上に放り出された巨大な魚のように畳の上で激しくのたうつのを、タマルは目の隅で見ていた。身体が後ろに反る形に縛っていたから、どれだけ暴れても音が隣室に届く心配はない。その死に方がどれほど苦痛に満ちたものか、彼にはよくわかっていた。しかし人を殺すには、それがいちばん手際よくクリーンな方法なのだ。悲鳴も聞こえないし、血も流れない。彼の目はタグ?ホイヤーのダイバーズ?ウォッチの秒針を追っていた。三分が経過し、牛河の手脚の激しいばたつきが止んだ。それは何かに共振するようにぶるぶると細かく痙攣し、やがてぴたりと静止した。そのあと更に三分間、タマルは秒針を見つめた。それから首筋に手をやって脈を取り、牛河が生命のすべての徴候を失っていることを確認した。微かな小便の匂いがした。牛河がもう一度失禁したのだ。膀胱が今度は完全に開いてしまった。責めることはできない。それだけ苦しかったのだ。  彼は輪ゴムを首からはずし、ビニール袋を顔からむしりとった。ビニール袋は口の中にしっかりと食い込んでいた。牛河は両目を大きく見開き、口を斜めに曲げて開けて死んでいた。汚れた乱杭歯がむきだしになり、緑色の苔のはえた舌も見えた。ムンクが絵に描きそうな表情だった。もともといびつな大きな頭がその異形性を更に強調していた。よほど苦しかったのだろう。 「悪かったな」とタマルは言った。「こっちも好きでやっているわけじゃないんだ」  タマルは両手の指で押して牛河の顔の筋肉をほぐし、顎の関節を調整し、その顔を少しでも見やすいものに変えてやった。台所にあったタオルで口のまわりからよだれを拭いた。時間はかかったが、それでいくらかはましな見かけになった。少なくとも思わず目を背けたくなるものではなくなった。しかし瞼だけはどうしても閉じることができなかった。 「シェイクスピアが書いているように」とタマルはそのいびつな重い頭に向かって静かな声で語りかけた。「今日死んでしまえば、明日は死なずにすむ。お互い、なるたけ良い面を見るようにしようじゃないか」 『ヘンリー四世』だったか『リチャード三世』だったか、その台詞の出典が思い出せなかった。しかしそれはタマルにとってさして重要な問題ではなかったし、牛河が正確な引用源を今更知りたがるとも思えなかった。タマルは牛河の手足を縛った紐を解いた。肌にあとがつかないように柔らかいタオルの紐を使って、特殊な縛り方をしていた。彼はその紐と、頭にかぶせたビニール袋と、首に巻いた輪ゴムを集め、用意してきたビニールのバッグに入れた。牛河の持ち物をざっと調べ、彼が撮影した写真を一枚残らず回収した。カメラも三脚もバッグに入れて持ち帰ることにした。彼がここで誰かを監視していたことがわかると何かと面倒だ。いったい誰を監視していたのかということになる。その結果、川奈天吾の名前が浮上してくる可能性は大きい。ぎっしりと細かい書き込みのある手帳も回収した。あとには大事なものは何ひとつ残っていない。寝袋と食品と着替え、財布と鍵、そして牛河の気の毒な死体が残っているだけだ。最後にタマルは牛河の財布の中に何枚か入っていた「新日本学術芸術振興会専任理事」の肩書きのある名刺を一枚取り、自分のコートのポケットに入れた。 「悪かったな」、タマルは帰り際にもう一度牛河に声をかけた。  タマルは駅の近くで公衆電話のボックスに入り、テレフォン?カードをスリットに入れ、牛河から教えられた電話番号を押した。都内の番号だった。おそらくは渋谷区だろう。六回目のコールで相手が出た。  タマルは前置き抜きで、高円寺のアパートの住所と部屋番号を告げた。 「書き留めたか?」と彼は言った。 「もう一度繰り返していただけますか」  タマルは繰り返した。相手はそれを書き取り、復唱した。 「そこに牛河さんがいる」とタマルは言った。「牛河さんのことは知っているね?」 「牛河さん?」と相手は言った。  タマルは相手の発言を無視して続けた。「牛河さんはここにいて、残念ながらもう呼吸はしていない。見たところ自然死じゃない。財布に『新日本学術芸術振興会専任理事』という肩書きの名刺が何枚か入っている。警察がそいつを発見すれば、おたくとの繋がりが遅かれ早かれわかるだろう。そうなると時節柄いささか面倒なことになるかもしれない。なるべく早く処理した方がいいんじゃないかな。そういうのはお得意なんだろう」 「あなたは?」と相手は言った。 「親切な通報者だよ」とタマルは言った。「こちらもあまり警察が好きじゃないんだ。おたくらと同じくらい」 「自然死じゃない?」 「少なくとも老衰ではないし、安らかな死でもなかった」  相手はしばらく沈黙した。「それで、その牛河さんはそんなところでいったい何をしていたんでしょう?」 「それはわからないな。詳しいことは牛河さんに訊いてみるしかないが、さっきも言ったように、彼は返事をかえせる状態にはない」  相手は少し間を置いた。「あなたはおそらくホテル?オークラにやって来た若い女性と関わりのある人なのでしょうね?」 「それは答えの返ってくるあてのない質問だ」 「私はその女性に会ったことのある人間です。そう言えばわかります。彼女に伝えていただきたいことがあります」 「聞こえているよ」 「我々は彼女に害をなすつもりはありません」と相手は言った。 「あんた方は彼女の行方を必死に追っていると理解しているが」 「そのとおりです。我々はずっと彼女の行方を探しています」 「しかし彼女に害をなすつもりはないと言う」とタマルは言った。「その根拠は?」  返事がかえってくる前に短い沈黙があった。 「簡単に言えばある時点で状況が変化したのです。もちろんリーダーの死はまわりの人々によって深く悼まれています。とはいえそれはもう終了し、完結した案件です。リーダーは身体を病み、ある意味では自らに終止符を打つことを求めていました。ですから我々としてはそのことに関して、青豆さんをこれ以上追及するつもりはありません。我々が今求めているのは彼女と語り合うことです」 「何について?」 「共通の利害についてです」 「しかしそれはあくまでそちらの都合に過ぎない。そちらにとって彼女と語り合うことが必要だとしても、彼女の方はそんなことを求めていないかもしれない」 「話し合いの余地はあるはずです。我々のほうからあなた方に差し出せるものはあります。たとえば自由と安全です。そして知識と情報です。どこか中立的な場所で話し合いを持つことはできませんか。どこでもいい、そちらが指定する場所に出向きます。安全は百パーセント保障します。彼女だけではなく、今回の件に関わった全員の安全を保障します。誰ももうこれ以上逃げまわる必要はありません。お互いにとって悪い話ではないはずです」 「とあんたは言う」とタマルは言った。「しかしその提案が信用できるという根拠はない」 「とにかく青豆さんに伝言をお伝えねがえませんか」と相手は辛抱強く言った。「事態は急を要していますし、我々にもまだいくらか譲れる余地はあります。信頼性についてのより具体的な根拠が必要であれば、それについても考えましょう。ここに電話をかけてもらえれば、いつでも連絡はつきます」 「もう少しわかりやすく事情を話してもらえないかな。なぜあんた方がそこまで彼女を必要とするのか。いったい何が持ち上がって状況がかくも変化したのか」  相手は小さく一度呼吸をした。そして言った。「我々は声を聞き続けなくてはなりません。我々にとっては豊かな井戸のようなものです。それを失うわけにはいきません。ここで申し上げられるのはそれくらいです」 「そしてその井戸を維持するために、あんた方は青豆を必要としている」 「一口で説明できることではありません。それにかかわったことだ、と申し上げるしかありません」 「深田絵里子はどうなんだ、あんた方は彼女をもう必要とはしていないのか?」 「我々は深田絵里子を今の時点でとくに必要とはしていません。彼女がどこにいて何をしようとかまわない。彼女はその使命を終えました」 「どんな使命を?」 「微妙な経緯があります」と相手は少し間を置いて言った。「申し訳ないが、ここでこれ以上詳しい事情を明かすことはできません」 「置かれた立場をよく考えた方がいい」とタマルは言った。「今のところゲームのサーブ権はこちらにある。こちらからは自由に連絡が取れるが、そちらからは取れない。我々が誰かということすらあんた方にはわかっていない。そうじゃないか?」 「そのとおりです。主導権は今のところそちらにあります。あなたが誰かも知りません。しかしそれでもなお、これは電話で語り合えるような事柄ではないのです。これまでにお話ししただけでも、私は既に話し過ぎています。おそらく与えられた権限以上に」  タマルはひとしきり沈黙した。「いいだろう。提案について考えてみよう。こちらとしても相談をする必要がある。後日連絡することになるかもしれない」 「連絡を待っています」と相手は言った。「繰り返すようですが、これはどちらにとっても悪い話ではありません」 「もし我々がその提案を無視するか拒否すれば?」 「そうなれば、我々のやり方でやるしかありません。我々はいささかの力を持っています。ものごとは心ならずもいくぶん荒っぽくなるかもしれないし、まわりの人々にも迷惑が及ぶかもしれません。あなた方が誰であれ、無傷では切り抜けられないはずです。それはおそらくお互いにとって愉快とは言えない展開になるでしょう」 「そうかもしれない。しかし話がそこまで行くには時間がかかりそうだ。そしてあんたの言葉を借りれば、事態は急を要している」  相手の男は軽く咳払いをした。「時間はかかるかもしれません。あるいはまた、それほどかからないかもしれません」 「実際にやってみなくてはわからない」 「そのとおりです」と相手は言った。「それから、もうひとつ指摘しておかなくてはならない大事なポイントがあります。あなたの比喩をそのままお借りするなら、たしかにあなた方はゲームのサーブ権を持っておられる。しかしこのゲームの基本的なルールをまだよくご存じないようだ」 「それも実際にやってみなくてはわからないことだ」 「実際にやってみて、うまくいかなければ面白くないことになります」 「お互いに」とタマルは言う。  いくつかの暗示を含んだ短い沈黙があった。 「それで、牛河さんのことはどうする?」とタマルは尋ねた。 「早い機会にこちらで引きとりましょう。今夜中にでも」 「部屋の鍵はかかっていないよ」 「それはありがたい」と相手は言った。 「ところでそちらでは、牛河さんの死は深く悼まれることになるのだろうか?」 「誰であれ、人の死はここでは常に深く悼まれます」 「悼んでやった方がいい。それなりに有能な男だった」 「でも<傍点>十分にではなかった。そういうことですね?」 「永遠に生きられるほど有能な人間はどこにもいない」 「あなたはそう考える」と相手は言った。 「もちろん」とタマルは言った。「俺はそう考える。あんたはそう考えないのか?」 「連絡をお待ちしています」、相手はその質問には答えずに冷ややかな声で言った。  タマルは黙って電話を切った。それ以上の会話は不要だった。必要があればまたこちらから電話をかければいい。電話ボックスを出ると、彼は車を停めておいた場所まで歩いた。くすんだ紺色の旧型トヨタ?カローラのバン、目立ちようのない車だ。十五分ばかり車を走らせ、人気のない公園の前で停まり、人目がないことを確認してから、ゴミ入れにビニール袋と紐と輪ゴムを捨てた。手術用の手袋も捨てた。 「人の死はそこでは常に深く悼まれる」とタマルはエンジンをかけ、シートベルトを締めながら小さくつぶやいた。そいつはなによりなことだ、と彼は思う。人の死はすべからく悼まれるべきなのだ。たとえほんの短い時間であったとしても。 第26章 青豆 とてもロマンチックだ  火曜日の正午過ぎに電話のベルが鳴る。青豆はヨーガマットに座って脚を大きく開き、腸腰筋《ちょうようきん》のストレッチングをしていた。見かけの割りに過酷な運動だ。着ているシャツに汗がうっすらと滲んでいる。青豆は運動を中止し、顔をタオルで拭きながら受話器を取る。 「福助頭はもうあのアパートにはいない」、タマルはいつものように前置き抜きでそう切り出す。<傍点>もしもしも何もない。 「もういない?」 「いなくなった。説得されて」 「説得された」と青豆は反復する。福助頭はタマルによって、何らかのかたちで強制的に排除されたということなのだろう。 「そしてあのアパートに住む川奈という人物は、あんたの探している川奈天吾だ」  青豆のまわりで世界が膨らんだり縮まったりする。彼女の心臓そのもののように。 「聞いているか?」とタマルが尋ねる。 「聞いている」 「ただし川奈天吾は今、あのアパートにはいない。何日か留守をしている」 「彼は無事なの?」 「今東京にはいないが、無事であることは間違いなかろう。福助頭は川奈天吾の住んでいるアパートの一階の部屋を借りて、あんたが彼に会いにそこにやってくるのを待ち受けていた。隠しカメラを設置して玄関を見張っていた」 「私の写真を撮ったの?」 「三枚撮っていた。夜だったし、帽子を深くかぶって、眼鏡をかけて、スカーフで顔を隠していたから細かい顔立ちまではわからん。しかし間違いなくあんただ。もう一度あそこに行っていたら、おそらく面倒なことになっていただろう」 「あなたにまかせて正解だったのね?」 「もしそこに正解というものがあるなら」  青豆は言う。「でもとにかく、彼はもう心配ない存在になった」 「もうあの男があんたに害を及ぼすことはない」 「あなたに<傍点>説得されたから」 「調整の必要な局面はあったが、最終的には」とタマルは言う。「写真もすべて取り上げた。福助頭の目的はあんたが姿を見せるのを待つことで、川奈天吾はそのための生き餌に過ぎなかった。だから彼らが川奈天吾に危害を加える理由は今のところ見当たらない。無事であるはずだ」 「よかった」と青豆は言う。 「川奈天吾は代々木の進学予備校で数学を教えている。教師としては有能なようだが、週に数日しか働かないから、多くの収入を得ているわけではなさそうだ。まだ独身で、あの謙虚な見かけのアパートで、一人つつましい生活を送っている」  目を閉じると耳の中で心臓の鼓動が聞こえる。世界と自分とのあいだの境目がうまく見えない。 「予備校の数学講師をつとめるかたわら、自分の小説を書いている。長い小説だ。『空気さなぎ』のゴーストライターはただのアルバイトで、自前の文学的野心がある。良いことだ。適度な野心は人を成長させる」 「それをどうやって調べたの?」 「留守だったので、勝手に部屋に入らせてもらった。鍵はかかっていたが、鍵のうちには入らないようなものだった。プライバシーを侵害して悪いとは思ったが、いちおう基礎的な調査をしておく必要があった。男の一人暮らしにしては、部屋はきれいに片付いていた。ガスレンジも磨いてあった。冷蔵庫の中も清潔に整理され、奥の方でキャベツが腐っていたりはしなかった。アイロンをかけている形跡もある。伴侶として悪くない相手だ。もしゲイじゃなければということだが」 「ほかにどんなことがわかったの?」 「予備校に電話をかけて、彼の講義の予定を尋ねた。電話に出た女性によれば、川奈天吾の父親が日曜日の深夜に、千葉県のどこかの病院で亡くなった。それで彼は葬儀のために東京を離れなくてはならなかった。だから月曜日の講義はキャンセルになっている。どこでいつ葬儀が行われるのか、彼女は知らなかった。とにかく次の講義は木曜日で、どうやらそれまでには東京に戻るらしい」  天吾の父親がNHKの集金人をしていたことをもちろん青豆は記憶している。日曜日に天吾は父親と一緒に集金ルートを回っていた。市川市内の路上で何度か顔を合わせたことがある。父親の顔はよく思い出せない。痩せた小柄な男で、集金人の制服を着ていた。そして天吾にはまったく似ていなかった。 「もう福助頭がいないのなら、私は天吾くんに会いに行っていいのかしら?」 「それはよした方がいい」とタマルは即座に言う。「福助頭はうまく<傍点>説得された。しかし実を言うと、俺は用件をひとつ片付けてもらうために教団に連絡を入れなくてはならなかった。できることなら法務関係者の手には渡したくない品物がひとつあった。もしそれが見つかれば、アパートの住人はしらみつぶしに調べ上げられるだろう。君の友人も巻き添えをくうことになるかもしれない。そして俺一人でそいつを始末するのはかなり骨だった。真夜中に一人でえっちらおっちら品物を運んでいるところを法務関係者に職務質問でもされたら、いくらなんでも言い抜けられない。教団には人手も機動力もあるし、その手の作業には手慣れている。ホテル?オークラから別の品物を運び出したときのようにな。言いたいことはわかるな?」  青豆はタマルの使った用語を、頭の中で現実的な言葉に翻訳する。「<傍点>説得はずいぶん荒っぽいかたちをとったみたいね」  タマルは小さくうなる。「気の毒だが、その男はあまりに多くを知りすぎていた」  青豆は言う。「福助頭があのアパートで何をしていたか、教団は承知しているの?」 「福助頭は教団のために働いてはいたが、これまでのところ単独行動をとっていた。自分が今どんなことをしているか上にはまだ報告していなかった。こちらにとっては好都合なことに」 「しかし彼がそこで<傍点>何かをしていたことは、今では彼らにもわかっている」 「そのとおりだ。あんたはしばらくあそこに近寄らない方がいい。川奈天吾の名前と住所は『空気さなぎ』の執筆者として彼らのチェックリストに載っているはずだ。連中はおそらくまだ、川奈天吾とあんたとの個人的な繋がりを摑んではいない。しかしあのアパートの一室に福助頭がいた理由を追求していけば、やがては川奈天吾の存在が浮かび上がってくる。時間の問題だ」 「しかしうまくいけば、それが判明するまでに時間はけっこうかかるかもしれない。福助頭の死と天吾くんの存在はすぐには結びあわされないかもしれない」 「うまくいけば」とタマルは言う。「もし連中が、俺の予想しているほど注意深くなければな。しかし俺は<傍点>うまくいけばという仮定をあてにしないことにしている。だからこそ今までいちおう大過なく生き延びてきた」 「だから私はあのアパートには近づかない方がいい」 「もちろん」とタマルは言う。「俺たちは紙一重のところで生きているんだ。注意深くなりすぎるということはない」 「福助頭は、私がこのマンションに隠れていることを摑んでいたのかしら」 「もし摑んでいたら、あんたは今ごろどこか俺の手の届かないところにいる」 「でも彼はすぐ私の足もとまで近寄っていた」 「そのとおりだ。しかし俺が思うに、おそらく何かの偶然がやつをそこに導いたのだろう。それ以上のものではないはずだ」 「だから無防備に自分の姿を滑り台の上に晒していた」 「そうだ。そこにいる自分があんたに目撃されていることをやつはまったく知らなかった。予測もしなかった。それが結局は命取りになった」とタマルは言う。「言っただろう。人の生き死になんて、すべて紙一重なんだよ」  数秒の沈黙が降りる。人の死が——たとえ誰の死であれ——もたらす重い沈黙だ。 「福助頭はいなくなったけれど、教団はまだ私を追い続けている」 「そこが俺にも、もうひとつわかりづらいところだ」とタマルは言う。「やつらは最初のうちはあんたを捕まえ、リーダーの殺害計画の裏にどんな組織がついているのか突き止めようとしていた。あんた一人だけではあそこまでのお膳立てはできない。なんらかのバックがついていることは誰の目にも明らかだ。捕らえられたらきっときつい尋問が待っていただろう」 「そのために私は拳銃を必要としていた」と青豆は言う。 「福助頭もまた当然そのように理解していた」とタマルは続ける。「教団があんたを追っているのは尋問し処罰するためだと思いこんでいた。しかしどうやら途中から事情が大きく変わったようだ。福助頭が舞台から消えたあと、俺は連中の一人と電話で話をした。もうあんたに危害を加えるつもりはないとその相手は言った。そのことをあんたに伝えてほしいと。もちろん罠かもしれない。しかし俺の耳にはそれは本音のように聞こえた。リーダーの死はある意味では本人が進んで求めていたものだと、その男は俺に説明した。それはいわば自死のようなものであり、だからそのことで今さらあんたを罰する必要はないんだと」 「そのとおりよ」と青豆は乾いた声で言う。「リーダーは私が自分を殺しに来ることを最初から承知していた。そして私に殺されることを求めてもいた。あの夜、ホテル?オークラのスイートルームで」 「警備の連中はあんたの正体を見抜けなかった。でもリーダーは知っていた」 「そう、どうしてかはわからないけれど、彼はすべてを前もって知っていた」と青豆は言う。 「彼はそこで<傍点>私を待っていたのよ」  タマルは少し間をおき、それから言う。「そこで何があったんだ?」 「私たちは取り引きをした」 「その話を俺は聞いていない」とタマルはこわばった声で言う。 「話す機会がなかった」 「どんな取り引きだったか今、説明してくれ」 「私は彼に一時間ばかり筋肉ストレッチングをして、そのあいだ彼は話をした。彼は天吾くんのことを知っていた。私と天吾くんの繋がりのこともなぜか知っていた。そして彼は私に自分を殺してほしいと言った。限りなく続く激しい肉体の苦痛から一刻も早く解放してもらいたいと。自分に死を与えてくれれば、かわりに天吾くんの命を助けてあげられるとも言った。だから私は心を決めて彼の命を奪った。あえて私が手を下さなくても、彼は確実に死に向かっていたし、その男がそれまでやってきた行いを思えば、そのまま苦しみの中に置き去りにしたかったのだけれど」 「そしてその取り引きのことを、あんたはマダムに報告しなかった」 「私はリーダーを殺害するためにあそこに出向き、その使命を果たした」と青豆は言う。「そして天吾くんのことは、どちらかといえば私個人の問題だった」 「よかろう」とタマルは半ばあきらめたように言う。「たしかにあんたは使命を十分果たした。それは認めよう。そして川奈天吾の問題はあんたの個人的な範疇《はんちゅう》にあることだ。ただしその前後にあんたはなぜか妊娠している。そいつは簡単には見過ごせない問題になる」 「<傍点>前後じゃない。激しい落雷があって、都心に大雨が降ったあの夜に、私は受胎したの。私がリーダーを<傍点>処理したまさにその夜に。前にも言ったように、性的な交渉はいっさい抜きで」  タマルはため息をつく。「問題の性格からして、俺としてはあんたの言い分をすべて信用するか、まったく信用しないか、どちらかしかない。俺はこれまであんたを信用するに足る人間だと考えてきたし、今もあんたの言い分を信用したいと思っている。しかしこの件に関しては、どうしても話の筋道が見えてこない。俺はどちらかと言えば、演繹的な考え方しかできない人間だからな」  青豆は沈黙を続ける。  タマルは尋ねる。「リーダーの殺害とその謎の受胎とのあいだに、何か因果関係はあるのだろうか?」 「私には何とも言えない」 「ひょっとして、あんたのお腹の中にいる胎児がリーダーの子供だという可能性は考えられないか? どんな方法だかはわからんが、なんらかの方法をとって、リーダーがそのときにあんたを妊娠させたと。もしそうであれば、連中があんたの身柄をなんとか手に入れようとしているわけはわかる。彼らはリーダーの後継を必要としている」  青豆は受話器を握りしめ、首を振る。「そんなことはあり得ない。これは天吾くんの子供なの。私にはそれがわかる」 「それについても、俺としてはあんたを信じるか信じないか、どちらかしかない」 「私にもそれ以上の説明はできない」  タマルはもう一度ため息をつく。「よかろう。ここはあんたの言うことをひとまず受け入れよう。それはあんたと川奈天吾との間の子供だ。あんたにはそれがわかる。しかしそれにしてもものごとの筋道がまだ見えてこない。彼らは最初のうちはあんたを捕まえて厳しく罰しようとしていた。しかしある時点で何かが起こった。あるいは何かが判明した。そして彼らは今ではあんたを<傍点>必要としている。あんたの安全を保障するし、彼らの側にもあんたに対して与えられるものがあると言う。そしてそのことについてじかに話し合いたいと望んでいる。いったい何があったのだろう?」 「彼らは私を必要としているんじゃない」と青豆は言う。「必要としているのは、私のお腹の中にいるものだと思う。彼らはどこかの時点でそれを知ったのよ」 「ほうほう」とはやし役のリトル?ピープルがどこかで声を上げる。 「話の展開が俺にはいささか速すぎる」、タマルはそう言う。そしてもう一度喉の奥で小さくうなる。「脈絡がまだ見えてこない」  脈絡が通らないのは月が二個あるからよ、と青豆は思う。それがすべてのものごとから脈絡を奪っているのよ。しかし口には出さない。 「ほうほう」と残りの六人のリトル?ピープルがどこかで声を合わせる。  タマルは言う。「彼らは<傍点>声を聴くものを必要としている。俺が電話で話をした相手はそう言った。その声を失ってしまえば、教団はこのまま消滅するかもしれないと言う。声を聴くというのが具体的に何を意味するのか、俺にはわからん。しかしとにかくそれが、その男の口にしたことだ。つまりあんたのお腹の中にいる子供が、その〈声を聴くもの〉ということになるのか?」  彼女は自分の下腹部にそっと手をやる。マザとドウタ、と青豆は思う。声には出さない。月たちに<傍点>それを聞かせてはならない。 「私にはわからない」と青豆は用心深く言葉を選んで言う。「でもそのほかに彼らが私を必要とする理由が思いつけない」 「しかしいったいどのような理由で、川奈天吾とあんたとのあいだにできる子供が、そんな特別な能力を身につけることになるのだろう?」 「わからない」と青豆は言う。  あるいはリーダーは自分の生命と引き替えに、自分を後継するものを私に託そうとしたのかもしれない。そんな考えが青豆の頭に浮かぶ。リーダーはそのためにあの雷雨の夜、異なった世界を交差させる回路を一時的に開いて、私と天吾くんとをひとつに結び合わせたのかもしれない。  タマルは言う。「それが誰との間の子供であるにせよ、その子供がどんな能力を持って生まれてくるにせよ、教団と取り引きをするつもりはあんたにはない。そういうことだな? たとえ引き替えに何を得られるとしても。たとえそこにあるいろんな謎を彼らが進んで解き明かしてくれるとしても」 「どんなことがあろうと」と青豆は言う。 「しかしあんたの思惑には関係なく、彼らは力ずくでも<傍点>それを手に入れようとするだろう。あらゆる手を尽くして」とタマルは言う。「そしてあんたには川奈天吾という弱点がある。ほとんど唯一の弱点と言ってもいいかもしれない。しかし大きな弱点だ。そのことを知ったら、連中は間違いなくそこを集中して突いてくるに違いない」  タマルの言うことは正しい。川奈天吾は青豆にとって生きるための意味であると同時に、致命的な弱点でもある。  タマルは言う。「その場所にこれ以上留まるのは危険すぎる。やつらが川奈天吾とあんたとの繋がりを知る前に、もっと安全なところに移るべきだ」 「今となっては、<傍点>この世界のどこにも安全な場所なんてない」と青豆は言う。  タマルは彼女の意見を玩味《がんみ》する。そして静かに口を開く。「そちらの考えを聞かせてもらおう」 「私はまず天吾くんに会わなくてはならない。それまではここを離れるわけにはいかない。たとえそれがどれほどの危険を意味するとしても」 「彼に会って何をする?」 「何をすればいいのか私にはわかっている」  タマルは短く沈黙する。「一点の曇りもなく?」 「それがうまく行くかどうかはわからない。でもやるべきことはわかっている。一点の曇りもなく」 「でもその内容を俺に教えるつもりはない」 「悪いけれど今はまだ教えることはできない。あなただけではなくほかの誰にも。もし私がそれを口にしたら、きっとそのとたんに世界中に露見してしまうだろうから」  月たちが耳を澄ましている。リトル?ピープルが耳を澄ましている。部屋が耳を澄ましている。それは彼女の心から一歩たりとも外に出してはならない。厚い壁でしっかりと心を囲まなくてはならない。  タマルは電話の向こうでボールペンの頭を机に打ち付けている。こつこつという規則的な乾いた音が青豆の耳に届く。響きを欠いた孤独な音だ。 「よかろう。川奈天吾に連絡をつけるようにしよう。ただしその前にマダムの同意を得る必要がある。俺が与えられた命令は、一刻も早くあんたをそこからよその場所に移すことだった。しかしあんたは川奈天吾に会うまではどうしてもそこを離れられないと言う。その理由を彼女に説明するのは簡単じゃなさそうだ。それはわかるな?」 「論理の通らないことを論理的に説明するのはとてもむずかしい」 「そういうことだ。六本木のオイスター?バーで本物の真珠に巡り合うくらいむずかしいかもしれない。でもなんとか努力してみよう」 「ありがとう」と青豆は言う。 「あんたの主張することは、どれをとってもまったく脈絡がとおってないように俺には思える。原因と結果のあいだに論理的な繋がりが見当たらない。それでもこうして話しているうちにだんだん、あんたの言い分をとりあえずそのまま受け入れてもいいような気がしてくる。それはどうしてだろう」  青豆は沈黙を守る。 「そして彼女はあんたを個人的に信頼し、信用している」とタマルは言う。「だからあんたがそれだけ強く主張するとなれば、あんたと川奈天吾を引き会わせないための理由は、マダムにもおそらく思いつけないのではないかと思う。どうやらあんたと川奈天吾とは、揺るぎがたく結びついているらしい」 「世界中の何よりも」と青豆は言う。  <傍点>どの世界にある何よりも、と青豆は心の中で言い直す。 「そしてもし」タマルは言う、「そいつは危険すぎると俺が言って、川奈天吾に連絡をつけることを拒んだとしても、あんたはきっと彼に会うためにあのアパートに出向くのだろうな」。 「間違いなくそうすると思う」 「それを阻止することは誰にもできない」 「無理だと思う」  タマルは少し間を置く。「それで俺は、どのような伝言を川奈天吾に伝えればいいのだろう?」 「暗くなってから、滑り台の上に来てほしい。暗くなってからであればいつでもいい。私は待っている。青豆がそう言っていると伝えてくれればわかる」 「わかった。そのように彼に伝える。<傍点>暗くなってから滑り台の上に来るように」 「それから、もしあとに残していきたくない大事なものがあったら、持ってきてほしい。そう伝えてほしい。ただし両手を自由に使えるようにしておいてほしい」 「どこまでその荷物を運んでいくんだろう?」 「遠くまで」と青豆は言う。 「どれくらい遠くだ?」 「わからない」と青豆は言う。 「いいだろう。マダムの許可が下りればということだが、川奈天吾にそのメッセージを伝えよう。そしてあんたのためにできる限りの安全を確保するように努める。俺なりに。しかしそれでもなお、危険はつきまとうだろう。連中も必死になっているようだ。自分の身はつまるところ自分で護るしかない」 「わかっている」と青豆は静かな声で言う。彼女の手のひらはまだ下腹部にそっと当てられている。<傍点>自分の身だけじゃない、と彼女は思う。  電話を切ったあと、青豆は倒れ込むようにソファに座る。そして目を閉じ、天吾のことを思う。それ以外にはもう何を考えることもできない。胸はしめつけられるように苦しくなる。でもそれは心地の良い苦しさだ。いくらでも耐えられる苦しさだ。彼はやはり<傍点>すぐそこに暮らしていたのだ。歩いて十分とかからないところに。そう思っただけで、身体が芯から温かくなった。彼は独身で、予備校で数学を教えている。整頓されたつつましい部屋に住み、調理をし、アイロンをかけ、長い小説を書いている。青豆はタマルをうらやましく思う。できることなら同じように天吾の部屋に入り込んでみたい。天吾のいない天吾の部屋に。その無人の静けさの中で、そこにあるものひとつひとつに手を触れてみたい。彼の使っている鉛筆の尖り具合を確かめ、彼の飲んでいるコーヒーカップを手に取り、衣服に残っている匂いを嗅いでみたい。実際に彼と顔を合わせる前に、そういう段階をひととおり踏んでおきたい。  そういう前置き抜きで急に彼と二人きりになって、何をどう切り出せばいいのか、青豆には見当がつかない。そのことを想像すると呼吸が荒く速くなり、頭がぼんやりしてくる。あまりにも多くの語るべきことがある。それと同時にいざとなってみれば、語る必要のあることなんて何ひとつないようにも思える。彼女の語りたい事柄は、いったん言葉にしてしまうと大事な意味あいが失われてしまうものばかりなのだ。  いずれにせよ、今の青豆にできるのは待つことだけだ。落ち着いて注意深く待つこと。彼女は天吾の姿を見かけたらすぐに走って外に出られるように、荷物の準備をする。そのままこの部屋に戻らなくても済むように、大ぶりな黒い革のショルダーバッグに必要なものを残らず詰め込む。それほど多くではない。現金の束と、当座の着替えと、フルに弾丸を装填したヘックラー&コッホ。それくらいだ。そのバッグをすぐに手の届くところに置く。ハンガーにかかったままのジュンコ?シマダのスーツをクローゼットから出し、しわがないことを確かめてから、居間の壁にかける。それにあった白いブラウスとストッキングとシャルル?ジョルダンのハイヒールも揃えておく。ベージュのスプリング?コートも。最初に首都高速道路の非常階段を降りたときと同じ服装だ。コートは十二月の夜にはいささか薄すぎる。しかし選択の余地はない。  それだけの用意を調えると、ベランダのガーデンチェアに座り、目隠し板の隙間から公園の滑り台を見つめる。日曜日の深夜に天吾の父親は亡くなった。人の死亡が確認されてから火葬に付されるまでに、たしか二十四時間の経過が必要とされる。そういう法律があったはずだ。それで計算すると、火葬が行われるのは火曜日以降になる。今日が火曜日だ。天吾が葬儀を終え、その<傍点>どこかから東京に戻ってくるのは、早くても今日の夕方になるだろう。タマルが彼に私からの伝言を伝えるのは、更にそのあとになる。それより前に天吾が公園に来ることはあるまい。そしてまだあたりは明るい。  リーダーは死に際して、私の胎内に<傍点>この小さなものをセットしていった。それが私の推測だ。あるいは直感だ。とすれば結局のところ、私はあの死んだ男の遺していった意思に操られ、彼の設定した目的地に向けて導かれているということになるのか。  青豆は顔を歪める。なんとも判断がつかない。私はリーダーの企みの結果〈声を聴くもの〉を受胎しているのではないかとタマルは推測する。おそらくは「空気さなぎ」として。でもなぜそれが<傍点>この私でなくてはならないのだ? そしてなぜその相手が川奈天吾でなくてはならないのだ? それも説明のつかないことのひとつだ。  とにかくこれまで、前後のつながりがわからないまま、私のまわりでいろんな物事は進行してきた。その原理も方向もろくに見定められなかった。私は結果的にそこに巻き込まれたような形になっていた。しかし<傍点>そこまでだ、と青豆は心を決める。  彼女は唇を曲げ、更に大きく顔を歪める。  <傍点>これからは<傍点>これまでとは違う。私はもうこれ以上誰の勝手な意思にも操られはしない。これから私は自分にとってのただひとつの原則、つまり私の意思に従って行動する。私は何があろうと<傍点>この小さなものを護る。そのために私は死力を尽くして闘う。これは私の人生であり、ここにいるのは私の子供なのだ。誰がどのような目的のためにプログラムしたものであれ、疑いの余地なくこれは私と天吾くんとの間にもうけられた子供だ。誰の手にも渡しはしない。何が善なるものであれ、何が悪なるものであれ、これからは私が原理であり、私が方向なのだ。誰であろうとそれだけは覚えておいた方がいい。  翌日、水曜日の午後二時に電話のベルが鳴る。 「メッセージは伝えた」とタマルはやはり前置き抜きで言う。「彼は今、アパートの自分の部屋にいる。今朝、電話で話をした。彼は今夜七時きっかりに滑り台に行く」 「彼は私のことを覚えていた?」 「もちろんよく覚えていた。彼もあんたの行方をずいぶん探していたようだ」  リーダーの言ったとおりだ。天吾もまた私を捜し求めていたのだ。それさえわかればもう十分だ。彼女の心は幸福に充たされる。この世界にあるほかのどんな言葉も、もはや青豆には意味を持たない。 「彼はそのときに大事なものを身につけて持っていくことになる。あんたに言われたように。俺の推測ではその中に書きかけの小説の原稿も含まれているはずだ」 「きっと」と青豆は言った。 「あのつつましいアパートのまわりをチェックしてみた。見たところクリーンだった。近辺に張りついている不審な人間は見あたらなかった。福助頭の部屋も無人だった。あたりは静かだったが、かといって静かすぎるというほどでもない。連中は夜中にこっそり品物を片づけて、そのまま立ち去ったようだ。長居をするとまずいと思ったのだろう。俺なりに綿密に見届けたから、おそらく見落としはないと思う」 「よかった」 「でもそれはあくまで<傍点>おそらくということであり、<傍点>今のところということだ。事態は刻々変化する。俺だってもちろん完全じゃない。何か大事なポイントを見落としているかもしれない。ただ単に連中の方が俺より一枚上手だったという展開もあり得る」 「だからつまるところ自分の身は自分で護るしかない」 「前にも言ったように」とタマルは言う。 「いろいろありがとう。感謝している」 「あんたがこれからどこで何をしようとしているのかは知らない」とタマルは言う。「しかしあんたがこのままどこか遠くに行ってしまうとしたら、そしてこの先もう顔を合わすこともないのだとしたら、俺もいささか寂しく感じるだろう。あんたはごく控えめに表現して、なかなか得難いキャラクターだった。あんたのような人物にはそうお目にかかれない」  青豆は電話口で微笑む。「私もそれとほぼ同じ感想をあなたに残したいと思う」 「マダムはあんたの存在を必要としていた。仕事抜きのいわば個人的な同伴者としてね。だからこういうかたちで離れなくてはならなかったことに深い悲しみを覚えている。今ここで彼女が電話に出ることはできない。理解してほしい」 「わかっている」と青豆は言う。「私もうまく話ができないかもしれない」 「遠くまで行くとあんたは言った」とタマルは言う。「どれほど遠くなのだろう?」 「それは数字では測ることのできない距離なの」 「人の心と人の心を隔てる距離のように」  青豆は目を閉じ、深く息を吸う。もう少しで涙がこぼれそうになる。でもなんとかそれを押しとどめる。  タマルは静かな声で言う。「ものごとがうまく運ぶことを祈っている」 「悪いけど、ヘックラー&コッホは返せないかもしれない」と青豆は言う。 「かまわない。個人的に進呈したものだ。持っているのが厄介になったら東京湾に捨てればいい。そのぶん世界はささやかだが非武装に一歩近づく」 「結局、最後まで拳銃は火を吹かないかもしれない。チェーホフの原則には背くようだけれど」 「それもかまわない。火を吹かないに越したことはない。今はもう二十世紀も終わりに近いんだ。チェーホフの生きていた時代とは何かと事情が違う。馬車も走っていないし、コルセットをつけたご婦人もいない。世界はナチズムと原爆と現代音楽を通過しつつも、なんとか生き延びてきた。そのあいだに小説作法だってずいぶん変化した。気にすることはない」とタマルは言う。「ひとつ質問がある。今夜の七時にあんたと川奈天吾は滑り台の上で会うことになっている」 「うまくいけば」と青豆は言う。 「もし彼に会えたとして、滑り台の上でいったい何をするんだ?」 「二人で月を見るの」 「とてもロマンチックだ」とタマルは感心したように言う。 第27章 天吾 この世界だけでは足りないかもしれない  水曜日の朝、電話のベルが鳴ったとき、天吾は眠りの中にいた。結局明け方近くまで眠れなかったし、そのときに口にしたウィスキーが身体にまだ残っていた。彼はベッドから起き上がり、あたりがすっかり明るくなっていることを知って驚いた。 「川奈天吾さん」と男が言った。聞き覚えのない声だ。 「そうです」と天吾は言った。父親の死に関する事務手続きの話だろうと彼は思った。相手の声に静粛で実務的な響きが聞き取れたからだ。しかし目覚まし時計は午前八時少し前を指していた。役所や葬儀社が電話をかけてくる時刻ではない。 「朝早くから申し訳ありませんが、急がなくてはならなかったのです」  急ぎの用事。「どんなことでしょう」、頭はまだぼんやりしている。 「青豆さんという名前はご記憶にありますか?」と相手は言った。  青豆? それで酔いと眠気はどこかに消えた。芝居の暗転のように意識が急速に切り替わった。天吾は受話器を手の中で握り直した。 「覚えています」と天吾は答えた。 「なかなか珍しい名前です」 「小学校のクラスで一緒だった」と天吾はなんとか声を整えて言った。  男は少し間を置いた。「川奈さん、今ここで青豆さんについて話をすることに、ご興味はおありでしょうか?」  この男はとても奇妙な話し方をすると天吾は思った。語法が独特だ。まるで翻訳された前衛劇の台詞を聞いているみたいだ。 「もしご興味がなければお互い時間が無駄になります。この電話はすぐにでも切ります」 「興味はあります」と天吾はあわてて言った。「でも失礼ですが、あなたはどういう立場の方なのでしょう?」 「青豆さんからの伝言があります」と男は天吾の質問には取り合わずに言った。「あなたにお目にかかることを、青豆さんは望んでおられます。川奈さんの方はいかがでしょう? 彼女にお会いになるつもりはありますか?」 「あります」と天吾は言った。咳払いをして喉のつかえをとった。「僕も長いあいだ彼女に会いたいと思っていた」 「けっこうです。彼女はあなたに会いたがっている。あなたも青豆さんに会うことを望んでおられる」  天吾は部屋の空気が冷え切っていることに突然気がついた。近くにあったカーディガンを取って、パジャマの上から羽織った。 「それで、どうすればいいのでしょう?」と天吾は質問した。 「暗くなってから滑り台の上に来ていただけますか」と男は言った。 「滑り台の上?」と天吾は言った。この男はいったい何の話をしているのだ? 「あなたにそう言えばわかるということでした。滑り台の上に来てもらいたいと。私は青豆さんに言われたままをお伝えしているだけです」  天吾は無意識に手を髪にやった。髪は寝癖がついて硬くこわばった塊になっていた。滑り台。おれはそこから二つの月を見上げていた。もちろん<傍点>あの滑り台のことだ。 「わかると思います」と彼は乾いた声でいった。 「けっこうです。それから、持っていきたい大事なものがあれば、身につけてきてもらいたいということでした。そのまま遠くに移動できるように」 「<傍点>持っていきたい大事なもの?」と天吾は驚いて聞き返した。 「あとに残していきたくないもののことです」  天吾は考えを巡らせた。「よくわからないのですが、<傍点>遠くに移動するというのは、ここにもう戻ってこないということを意味するのですか?」 「そこまではわかりかねます」と相手は言った。「先ほども言ったように、私は彼女のメッセージをそのまま伝えているだけです」  天吾はもつれた髪に指を通しながら考えた。<傍点>移動する? それから言った。「少しまとまった量の書類を持っていくかもしれません」 「問題はないはずです」と男は言った。「何を選ぶかはあなたの自由です。ただし持ち運ぶ鞄については、両手を自由に使えるようなものにしてもらいたいということでした」 「両手を自由に使えるようなもの」と天吾は言った。「つまりスーツケースのようなものでは駄目だということですね?」 「そういうことになると思います」  男の声から年齢や風貌や体格を推し量るのはむずかしかった。具体的な手がかりを欠いた声なのだ。電話を切ったとたんにどんな声だったか思い出せなくなってしまいそうだ。個性や感情は——もしそういうものがあればだが——奥にしまい込まれている。 「お伝えしなくてはならないのはそれくらいです」と男は言った。 「青豆さんは元気にしているのですか?」と天吾は尋ねた。 「身体的には問題ありません」と相手は注意深く答えた。「しかし彼女は現在、いくぶん緊迫した状況に置かれています。一挙一動に気を配らなくてはなりません。下手をすると損なわれてしまうかもしれない」 「<傍点>損なわれてしまう」と天吾は機械的に反復した。 「あまり遅くならない方がいいでしょう」と男は言った。「そこでは時間が重要な要素になっています」  <傍点>時間が重要な要素になっている、と天吾は頭の中で反復した。この男の言葉の選び方に何か問題があるのだろうか? それともこちらが神経質になりすぎているのか? 「今夜七時に滑り台の上に行けると思います」と天吾は言った。「もし何かの理由で今夜会うことができなければ、明日の同じ時刻にそこに行きます」 「いいでしょう。それがどの滑り台のことか、あなたにはおわかりになっている」 「わかっていると思います」  天吾は時計に目をやった。あと十一時間の余裕がある。 「ところで、お父上がこの日曜日にお亡くなりになったとお聞きしました。お悔やみ申し上げます」と男は言った。  天吾はほとんど反射的に礼を言った。それから「なぜこの男はそれを知っているのだろう」と思った。 「青豆さんのことをもう少し話してもらえませんか?」と天吾は言った。「どこにいてどんなことをしているのか、とか」 「彼女は独身で、広尾にあるスポーツ?クラブのインストラクターをしています。優秀なインストラクターですが、事情があって今はその仕事を休んでいます。そしてしばらく前から、これはまったくの偶然ですが、川奈さんのお住まいの近くに住んでいます。それ以上のことは、本人の口から直接お聞きになった方がよろしいでしょう」 「彼女が現在どんな種類の<傍点>緊迫した状況に置かれているかについても?」  男はそれには返事をしなかった。自分が答えたくない——あるいは答える必要がないとみなす——質問にはごく自然に答えない。天吾の近辺にはどうやらそういう人々が参集しているらしかった。 「それでは今日の午後七時、滑り台の上で」と男は言った。 「ちょっと待って下さい」と天吾は急いで言った。「ひとつ質問があります。ある人から、僕が誰かに監視されているという忠告を受けました。だから用心した方がいいと。失礼ですが、ひょっとしてそれはあなたのことなのでしょうか?」 「いや、それは私のことではない」と男は即座に答えた。「監視をしていたというのは、おそらく別の人物のことでしょう。しかしいずれにせよ用心するに越したことはない。その方の指摘するとおりです」 「僕が誰かに監視されているかもしれないというのは、彼女がかなり特殊な状況に置かれていることと、どこかで関係しているのでしょうか?」 「<傍点>いくぶん緊迫した状況」と男は訂正した。「ええ、おそらく関係していると思います。どこかで」 「それは危険を伴うことなのですか?」  男は混じり合った種類の異る豆を選りわけるみたいに、間を取って用心深く言葉を選んだ。 「もしあなたが青豆さんに会えなくなることを、あなたにとっての危険と呼べるのなら、そこには確かに危険が伴っているでしょう」  天吾はその婉曲な語法を、頭の中で自分なりにわかりやすく並べ替えてみた。事情や背景までは読み取れないものの、切迫した空気がそこに感じ取れた。 「下手をすれば、我々はもう二度と巡り合えないかもしれない」 「そのとおりです」 「わかりました。用心します」と天吾は言った。 「朝早くから申し訳ありませんでした。起こしてしまったようだ」  男はそう言うと間を置かず電話を切った。天吾は手の中にある黒い受話器をしばらく眺めていた。一度電話が切れてしまうと、前もって予想したとおり、その声はもううまく思い起こせないものになっていた。天吾はもう一度時計に目をやった。八時十分。これから午後七時までの時間をどうやって潰せばいいのだろう?  彼は手始めにシャワーに入り、頭を洗い、もつれた髪をなんとか少しでもまともなかたちに整えた。それから鏡の前で髭を剃った。歯を隅々まで磨き、デンタル?フロスまでした。冷蔵庫からトマトジュースを出して飲み、やかんに湯を沸かし、豆を挽いてコーヒーを作り、トーストを一枚焼いた。タイマーをセットし、半熟のゆで卵もつくった。ひとつひとつの動作に意識を集中し、いつもより余計に時間をかけた。それでもまだやっと九時半だ。  滑り台の上で青豆と今夜会う。  それについて考えだすと、身体の機能がばらばらにほどけて、四方に散乱していくような感覚に襲われた。手と足と顔とが、それぞれに異なった方向を向こうとしている。感情を長くひとところに束ねておくことができない。何かをやろうとしても、意識が集中できない。本も読めないし、もちろん文章も書けなかった。ひとつの場所にじっと座っていられないのだ。なんとかできることといえば、台所で食器を洗ったり、洗濯をしたり、洋服ダンスの抽斗を整理したり、ベッドメイクをするくらいだ。しかし何をするにせよ五分ごとに手を休め、壁の時計に目をやった。時間のことを考えるたびに、それはますます歩みを遅くしていくようだった。  青豆は知っているのだ。  天吾は流し台の上で、とくに研ぐ必要もない包丁を研ぎながらそう思った。おれがあの児童公園の滑り台を何度か訪れたことを彼女は知っている。滑り台の上に一人で座って空を見上げているおれの姿を、きっと目に留めたのだろう。それ以外に考えられない。彼は滑り台の上で水銀灯の明かりに照らされている自分の姿を想像した。自分が誰かに見られているという感覚を、天吾はそのときまったく持たなかった。いったいどこから彼女は見ていたのだろう?  どこからだってかまわない、と天吾は思う。それは大した問題ではない。どこから見ていたにせよ、彼女は今のおれの顔を一目で見分けることができたのだ。そう考えると深い喜びが彼の全身を満たした。あれ以来、おれが彼女のことをずっと思い続けていたのと同じように、彼女もおれのことを考えていた。それは天吾には信じがたいことに思えた。この動きの激しい迷宮にも似た世界にあって、二十年のあいだ一度も顔を合わせることもなく、人と人の心が——少年と少女の心が——変わることなくひとつに結びあわされてきたということが。  でもどうして青豆はそのとき、その場で声をかけてくれなかったのだろう? そうすれば話はもっと簡単だった。だいたいどうしておれがここに住んでいることがわかったのだろう? 彼女は、あるいはあの男は、どうやってこの電話番号を知ったのだろう? 電話がかかってくるのがいやで、電話番号は電話帳に掲載していない。番号案内でもわからないようにしてある。  不可解な要素がいくつかある。そして話のラインが錯綜している。どのラインとどのラインが繋がっているのか、それらの間にどのような因果関係があるのか、見きわめることができない。でも考えてみれば、ふかえりが登場して以来、ずっとそういう場所で生きてきたような気がする。疑問が多すぎて、手がかりが少なすぎることが常態になっている場所で。しかしその混沌も僅かずつとはいえ終息に向かっている——そんな漠然とした感覚があった。  いずれにせよ今日の夜の七時になれば、少なくともいくつかの疑問は解消するはずだ。我々は滑り台の上で会う。十歳の非力な少年少女としてではなく、二人の独立した自由な成人男女として。予備校の数学講師とスポーツ?クラブのインストラクターとして。我々はそこでいったいどんな話をするのだろう? わからない。でもとにかく話をする。我々は空白を埋め、互いについての知識を共有しなくてはならない。そして電話をかけてきた男の奇妙な表現をそのまま使うなら、我々はそこから<傍点>どこかに移動することになるかもしれない。だからあとに残してはいけない大事なものを、ひとつにまとめなくてはならない。それを<傍点>両手が自由になる鞄の中に詰めなくてはならない。  ここを去ることにとくに心残りはない。七年のあいだこの部屋で暮らし、週に三日予備校で教えてきたが、ここが自分の生活の場だという感覚を持ったことは一度もなかった。流れの中に浮かぶ浮島のような、一時しのぎの居場所に過ぎなかった。週に一度ここで密会を続けていた年上のガールフレンドもいなくなった。しばらく住み着いていたふかえりも出ていった。彼女たちが今どこにいて何をしているのか、天吾にはわからない。しかしとにかく彼女たちは天吾の生活から静かに消えていった。予備校の仕事にしても、彼がいなくなったところで誰かがそのあとを埋めるだろう。天吾なしでもこの世界は支障なく動いていくだろう。青豆が一緒にどこかに<傍点>移動したいというのであれば、迷いなく行動を共にすることができる。  自分にとって<傍点>持って行きたい大事なものとはいったいなんだろう? 五万円ばかりの現金とプラスチックの銀行力ード一枚。財産と呼べそうなものはそれくらいだ。普通預金口座には百万円近くが入っている。いや、それだけじゃない。『空気さなぎ』の印税の取り分として振り込まれた金も入っている。小松に返すつもりでまだ返していない。ほかには書きかけの小説のプリントアウト。これはあとに置いていけない。世間的な価値はないが、天吾にとっては大事なものだ。原稿を紙袋に入れ、それを予備校の通勤に使っている小豆色の硬質ナイロンのショルダーバッグに入れた。それでバッグはずしりと重くなった。フロッピー?ディスクはそれとは別に革ジャンパーのポケットに入れる。ワードプロセッサーを持っていくわけにはいかないから、ノートと万年筆を荷物に加えた。さて、ほかに何があるだろう?  千倉で弁護士から手渡された事務封筒のことを思い出した。そこには父親の遺していった貯金通帳と実印、戸籍謄本、そして謎の家族写真(らしきもの)が入っている。たぶんそれは携えていった方がいいだろう。小学校の通知表や、NHKの表彰状はもちろん置いていく。着替えや洗面道具はもっていかないことにした。通勤用のショルダーバッグにそこまでは入りきらないし、そんなものは必要に応じて買えるはずだ。  それだけをバッグに詰めると、やらなくてはならないことはとりあえずなくなった。洗うべき食器もなければ、アイロンをかけるべきシャツもない。もう一度壁の時計に目をやった。十時半。予備校の講義の代理を頼む友人に連絡しなくてはと思ったが、昼前に電話をかけると相手がいつも不機嫌になることを思い出した。  天吾は服を着たままベッドに横になり、様々な可能性について考えた。最後に青豆に会ったのは十歳のときだ。今ではどちらも三十歳になっている。そのあいだに二人は多くの経験をした。好ましいことも、それほど好ましいとは言えないことも(おそらく後者の方がいくぶん多いだろう)。見かけも人格も生活環境も相応の変化を遂げているはずだ。我々はもう少年でもないし少女でもない。そこにいる青豆は本当に自分が探し求めてきた青豆なのだろうか? そしてここにいる自分は本当に青豆が探し求めてきた川奈天吾なのだろうか? 二人が今夜滑り台の上で出会い、間近に顔を見合わせてそれぞれに失望する光景を天吾は思い浮かべた。語るべき話題すらみつからないかもしれない。それは十分に起こり得ることだった。いや、むしろ起こらない方が不自然なくらいだ。  本当は会ったりするべきじゃないのかもしれない。天吾は天井にそう問いかける。巡り合いたいという想いをそれぞれ大事に胸に抱えたまま、最後まで離ればなれになっていた方がよかったのではないか。そうすればいつまでも希望を抱いたまま生きていくことができたはずだ。その希望は身体の芯を温めてくれるささやかな、でも大事な発熱だ。手のひらで大事に囲まれ、風から護られてきた小さな炎だ。現実の荒々しい風を受ければ、簡単に吹き消されてしまうかもしれない。  天吾は一時間ばかり天井を睨みながら、相反する二つの感情のあいだを行き来した。彼は何よりも青豆に会いたかった。それと同時に、青豆と顔を合わせるのがたまらなく怖かった。そこに生まれるかもしれない冷ややかな失望と、ぎこちない沈黙が彼の心をすくませた。身体が真ん中からきれいに二つにちぎれてしまいそうだった。普通の人より柄が大きくて頑丈だが、自分がある方向から加えられる力には思いのほか脆いことを天吾は知っていた。しかし青豆に会いに行かないわけにはいかない。それは彼の心がこの二十年間、強く一貫して求め続けてきたことだった。たとえその結果どのような失望がもたらされようと、このまま背中を向けて逃げ出すわけにはいかない。  天井を睨むのにも疲れ、ベッドに仰向けになったまましばらく眠った。四十分か四十五分か、夢のない静かな眠りだった。集中して頭を働かせ、考え疲れたあとの、深く心地良い眠りだ。思えばこの数日、こまぎれで不規則な睡眠しかとっていない。日が暮れるまでに、蓄積された疲弊を肉体から取り除いておかなくてはならない。そして健康でまっさらな気持ちでここを出て、児童公園に向かわなくてはならない。彼の身体は無心の休息が必要とされていることを本能的に知っていた。  眠りに引き込まれていくときに、天吾は安達クミの声を聴いた。あるいは聴いたような気がした。<傍点>夜が明けたら天吾くんはここを出て行くんだよ。<傍点>出口がまだふさがれないうちに。  それは安達クミの声であり、同時に夜のフクロウの声でもあった。彼の記憶の中でそのふたつは分かちがたく入り混じっていた。天吾はそのとき何よりも智慧を必要としていた。大地に太い根を深く下ろした夜の智慧を。それはおそらく濃密な眠りの中にしか見出すことのできないものだった。  六時半になると、天吾はショルダーバッグをたすきがけに肩にかけて部屋を出た。この前に滑り台に行ったときとまったく同じ服装だ。グレーのヨットパーカに古い革ジャンパー、ブルージーンズに茶色のワークブーツ。どれもくたびれてはいるが、身体によく馴染んでいる。彼自身の身体の一部みたいにさえなっている。もうここに戻ってくることはないかもしれない。ドアと郵便受けに入っている、名前をタイプしたカードを念のために回収した。あとのことがどうなるか、それはまたあとになって考えるしかない。  アパートの玄関に立って、あたりを注意深く見回した。ふかえりの言うことを信じれば、彼はどこかから誰かに監視されているはずだった。しかし前の時と同じように、あたりにはそれらしい気配は感じられなかった。いつもと同じ風景がいつもと同じように見えるだけだ。日の落ちたあとの通りには人影はなかった。彼はまず駅に向けてゆっくりと歩いた。そしてときどき後ろを振り返り、あとをついてくるものがいないことを確かめた。何度か曲がる必要のない狭い道を曲がり、そこで立ち止まって尾行の有無を確かめた。用心しなくてはならない、とあの電話の男は言っていた。自分のためにも、そして緊迫した状況にいる青豆のためにも。  しかし電話をかけてきた男は本当に青豆の知り合いなのだろうか、とふと天吾は思った。ひょっとしてこれは巧妙に仕組まれた罠ではあるまいか? その可能性について考え始めると、天吾は次第に不安になってきた。もしこれが罠だとしたら、それは「さきがけ」の仕掛けたものに違いない。天吾は『空気さなぎ』のゴーストライターとして、おそらく(いや、疑いの余地なく)彼らのブラックリストに載っているはずだ。だからこそあの牛河という奇妙な男が教団の手先として、得体の知れない助成金の話を持って接近してきたのだ。おまけに天吾は——自ら望んでやったことではないとはいえ——ふかえりを三ヶ月ものあいだアパートの部屋に匿い、生活を共にしていた。教団が彼に対して不快感を抱く理由は十分すぎるほどあった。  しかしそれにしても、と天吾は首をひねる、どうして彼らがわざわざ青豆を餌にして罠をかけ、おれを誘い出さなくてはならないのだろう? 彼らは天吾の居場所を既に知っている。逃げ隠れしているわけでもない。もし天吾に用があるなら、直接やって来ればいいだけだ。手間暇かけてあの児童公園の滑り台までおびき出すような必要はない。もちろん話が逆で、彼らが天吾を餌にして青豆をおびき出そうとしているのなら話は違ってくるわけだが。  でもなぜ彼らが青豆をおびき出さなくてはならないのだ?  そんな理由はどこにも見当たらない。ひょっとして「さきがけ」と青豆とのあいだには何か繋がりがあるのだろうか? しかし天吾にはそれ以上推論を先に進めることはできなかった。青豆本人に直接尋ねてみるしかない。もし会えれば、ということだが。  いずれにせよあの男が電話で言ったように、用心するに越したことはない。天吾は念入りに回り道をし、あとをつけるものがいないことを確認した。それから足早に児童公園へと向かった。  児童公園に着いたのは七時七分前だった。あたりは既に暗く、水銀灯がむらのない人工の光を狭い公園の隅々に注いでいた。好天に恵まれた暖かな午後だったが、日が落ちると気温は急速に下がり、冷たい風も吹き始めていた。数日続いた穏やかな小春日和は立ち去り、厳しい本物の冬が再び腰を据えようとしていた。ケヤキの枝先が、警告を与える古老の指のようにひからびた音を立てて震えた。  まわりの建物のいくつかの窓には明かりがともっている。しかし公園に人の姿は見当たらない。革ジャンパーの下で心臓がゆっくりと太いリズムを刻んでいた。彼は両手を何度かこすり合わせ、そこに正常な感覚があることをたしかめた。大丈夫、用意はできている。恐れることは何もない。天吾は心を決めて滑り台のステップを上り始めた。  滑り台の上にあがると、前と同じ姿勢で腰を下ろした。滑り台の床は冷え切って微かな湿り気を含んでいた。ジャンパーのポケットに両手を入れたまま、手すりに背をもたせかけ、空を見上げた。空には雲が混み合って浮かんでいた。サイズはまちまちだ。いくつかの大きな雲があり、いくつかの小さな雲があった。天吾は目を細め、月の姿を探した。しかし今のところ月はどこかの雲の背後に隠されているようだ。厚く密な雲ではない。どちらかといえばさらりとした白い雲だ。それでも月の姿を人の目から覆い隠すだけの厚みと質量を持っている。雲は北から南に向けて緩い速度で移動していた。上空を吹いている風は強いものではないらしい。あるいは雲はよほど高いところにあるのかもしれない。いずれにせよ彼らは決して先を急いではいない。  天吾は腕時計に目をやった。針は七時三分を指していた。そして秒針はなおも的確に時を刻み続けていた。青豆はまだ姿を見せない。彼は数分のあいだ、何か珍しいものでも見るように秒針の進行を見守っていた。それから目を閉じた。彼もまた風に運ばれていく雲たちと同じように、とくに先を急いではいない。時間がかかるのならそれでかまわない。天吾は考えることをやめ、流れていく時間の内に身の置き場を定めた。こうやって時間を自然に均等に進ませていくこと、それが今は何より大事なのだ。  天吾は目を閉じたまま、ラジオのチューニングをするときのように、まわりの世界が立てる物音に丁寧に耳を澄ませた。環状七号線を行く途切れることのない車両の響きがまず耳に届いた。それは千倉の療養所で聞いた太平洋の潮騒の音に似ていなくもなかった。そこにはカモメたちの尖った声が僅かに混じっているようでもあった。大型トラックが路上をバックするときに発する短い断続的な警告音がひとしきり聞こえた。大型犬が警告を与えるように短かく鋭く吠えた。どこか遠くで誰かが大きな声で誰かを呼んでいた。それぞれの音がどこから聞こえてくるのかはわからない。長いあいだ目を閉じていると、耳に届くひとつひとつの音から方角や距離感が失われていく。凍てついた風がときおり舞ったが、寒さは感じなかった。現実の寒さについて——あるいはそこにあるすべての刺激や感覚について——感じたり反応したりすることを天吾は一時的に忘れてしまっていた。  気がついたとき、誰かが隣にいて彼の右手を握っていた。その手はぬくもりを求める小さな生き物のように、革ジャンパーのポケットに潜り込み、中にある天吾の大きな手を握りしめていた。時間がどこかで跳躍したみたいに、意識が覚醒したときには何もかもが既に起こってしまっていた。前置きもなく、状況はそっくり次の段階に移っていた。<傍点>不思議だと天吾は目を閉じたまま思う。どうしてこんなことが起こるのだろう。あるときには時間は耐えがたいほどゆっくりと思わせぶりに流れ、そしてあるときにはいくつもの過程が一気に跳び越えられてしまう。  その誰かは、そこにあるものが<傍点>本当にあることを確認するために、彼の幅広い手をいっそう強く握りしめた。長く滑らかな指、そして強い芯を持っている。  <傍点>青豆、と天吾は思った。しかし声には出さなかった。目も開けなかった。ただ相手の手を握り返しただけだ。彼はその手を記憶していた。二十年間一度としてその感触を忘れたことはなかった。それはもちろんもう十歳の少女の小さな手ではない。この二十年のあいだにその手は様々なものに触れ、様々なものを取り上げ、握りしめてきたに違いない。ありとあらゆる形をとったものを。そして込められた力も強くなっている。しかしそれが同じひとつの手であることが、天吾にはすぐにわかる。握り方も同じだし、伝えようとする気持ちも同じだ。  二十年間という歳月が天吾の中で一瞬のうちに溶解し、ひとつに混じり合って渦を巻いた。そのあいだに集積されたすべての風景、すべての言葉、すべての価値が集まって、彼の心で一本の太い柱となり、その中心をぐるぐると<傍点>ろくろのように回転した。天吾は言葉もなくその光景を見守った。ひとつの惑星の崩壊と再生を目撃している人のように。  青豆も沈黙を守った。二人は凍てついた滑り台の上で無言のまま手を握り合った。彼らは十歳の少年と十歳の少女に戻っていた。孤独な一人の少年と孤独な一人の少女だ。初冬の放課後の教室。何を相手に差し出せばいいのか、相手に何を求めればいいのか、二人は力を持たず知識を持たなかった。生まれてから誰かに本当に愛されたこともなく、誰かを本当に愛したこともなかった。誰かを抱きしめたこともなく、誰かに抱きしめられたこともなかった。その出来事が二人をこれからどこに連れて行こうとしているのか、それもわからなかった。彼らがそのとき足を踏み入れたのは扉のない部屋だった。そこから出て行くことはできない。またそれ故にほかの誰もそこに入ってくることはできない。そのときの二人は知らなかったのだが、そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、それでいて孤独に染まることのない場所だ。  どれほどの時間が経過したのだろう。五分かも知れないし一時間かもしれない。丸一日が経過したのかもしれない。それとも時間はそのまま止まっていたのかもしれない。時間について天吾に何がわかるだろう? 彼にわかるのは、この児童公園の滑り台の上で二人でこうして手を握り合いながら、沈黙のうちにいつまでも時を過ごすことができるということだけだった。十歳のときだってそうだったし、二十年後の今も同じだ。  そしてまた彼は、この新しく訪れた世界に自分を同化させるための時間を必要としていた。心のあり方を、風景の眺め方を、言葉の選び方を、呼吸のしかたを、身体の動かし方を、これからひとつひとつ調整し、学びなおさなくてはならない。そのためにはこの世界にあるすべての時間をかき集めなくてはならなかった。いや、ひょっとしたらこの世界だけでは足りないかもしれない。 「天吾くん」と青豆が耳元で囁いた。低くもなく高くもない声、彼に何かを約束する声だ。「目を開けて」  天吾は目を開ける。世界にもう一度時間が流れ始める。 「月が見える」と青豆は言った。 第28章 牛河 そして彼の魂の一部は  牛河の身体は天井の蛍光灯に照らされていた。暖房は切られ、窓のひとつが開けられていた。おかげで部屋は氷室のように冷え切っていた。部屋の中央部に会議用のテーブルがいくつかつなぎ合わされ、牛河はその上に仰向けに寝かされていた。上下の冬用下着というかっこうで、その上から古い毛布がかけられている。毛布の腹の部分が野原の蟻塚みたいにこんもりと膨らんでいる。何かを問いかけるように開かれた両目の上には——その目を閉じることは誰にもできなかった——小さな布がかぶせられている。唇は微かに開かれているが、そこから息や言葉が洩れ出ることはもはやない。頭頂部は生きて動いているときよりも更に扁平に、更に謎めいて見えた。陰毛を思わせる黒く太い縮れ毛が、そのまわりをみすぼらしく取り囲んでいる。  坊主頭は紺色のダウン?ジャケットを、ポニーテイルは襟のところに毛皮がついている茶色のスエードのランチコートを着ていた。どちらも微妙にサイズがあっていない。まるで限られた在庫品の中から、急いで間に合わせに選ばれたみたいに。部屋の中にいても彼らの吐く息は白かった。部屋の中にいるのは彼ら三人だけだった。坊主頭とポニーテイル、そして牛河。壁の天井に近いところにアルミサッシの窓が三つ並び、そのうちのひとつが、室温を低く保つために開け放しになっている。死体を載せたテーブルのほかには家具はひとつとしてない。どこまでも無個性で実務的な部屋だ。そこに置かれると、死体でさえ——それがたとえ牛河の死体であっても——無個性で実務的に見えた。  口をきくものはいなかった。部屋は完全な無音の状態にあった。坊主頭には考えなくてはならないことが数多くあったし、ポニーテイルはもともと口をきかない。牛河はどちらかといえば能弁な男だが、二日前の夜に心ならずも絶命していた。坊主頭は牛河の遺体を横たえたテーブルの前を、考えに耽りながらゆっくりと行き来していた。壁の近くで向きを変えるときをのぞけば、その歩調が乱れることはない。淡い黄緑色の安物のカーペットの床を踏む彼の革靴は音を一切立てなかった。ポニーテイルは例によってドアの近くに位置を定めたまま、身動きひとつしなかった。脚は軽く開かれ、背骨は伸び、視線は空間の一点に据えられている。疲れも寒さもまったく感じていないようだ。彼が生命体として機能していることは、ときおり見せる素速い瞬きと、口から規則正しく吐かれる白い息とでかろうじて判じられる。  その日の昼間、その冷ややかな部屋には何人かの人々が集まり、話し合いが持たれた。幹部のあるものは地方に出向いており、全員が揃うのを待って一日が費された。会合は内密なものであり、外に漏れないように抑制された小さな声で会話はなされた。牛河の死体はそのあいだずっと、工作機械見本市の展示品のようにテーブルの上に横たえられていた。死体は今のところ死後硬直の状態にあった。それが解けて身体がまた柔らかくなるまでに少なくとも三日はかかる。人々は牛河の死体にときおり短く目を向けながら、いくつかの実際的な問題について討議した。  討議が行われているあいだ、死者その人について語られているときでさえ、遺体に対する敬意や哀悼の念が、その部屋に漂うことはなかった。そのこわばったずんぐりとした死体が人々の胸に喚起するのはある種の教訓、あらためて確認されたいくつかの省察、その程度のものでしかなかった。何があろうといったん過ぎた時間が後戻りすることはないし、死によってもたらされる解決があるとしても、それはただ死者自身に向けられた解決でしかない。そのような教訓、あるいは省察だ。  牛河の死体をどう処理するか? 結論は最初から出ているようなものだ。変死した牛河が発見されれば、警察は詳細な捜査を行うだろうし、教団との繋がりが浮かび上がってくるのは必定だ。そんな危険を冒すわけにはいかない。死体は死後硬直が解け次第、人目につかないように敷地の中にある大型焼却炉に運び、速やかに処理をする。暗い煙と白い灰に変えてしまう。煙は空に吸い込まれ、灰は畑に撒かれて野菜の肥料になる。それはこれまでにも坊主頭の指導のもとに幾度か行われてきた作業だった。リーダーの身体は大きすぎたので、チェーンソーでいくつかの部分に「捌《さば》く」必要があった。しかしこの小柄な男の場合にはその必要はあるまい。それは坊主頭にとっては救いだった。彼はもともと血なまぐさい作業が好きではない。生きている人間が相手であれ、死んだ人間が相手であれ、できることなら血は見たくない。  上司にあたる人物から坊主頭に質問が向けられた。牛河を殺害したのはいったい誰なのか? なぜ牛河は殺されなくてはならなかったのか? そもそも牛河は何を目的としてその高円寺の賃貸アパートの一室にこもっていたのか? 坊主頭はセキュリティー班の長として、それらの質問に答えなくてはならなかった。しかし実際のところ、彼にも答えの持ち合わせはなかった。  彼は火曜日の未明に謎の男(タマルだ)からの電話を受け、牛河の死体がそのアパートの一室に残されていることを知らされた。そこで交わされた会話は実際的であると同時に、遠回しなものだった。電話を切ると、坊主頭は都内にいる配下の信者を即刻召集し、四人で揃いの作業着に身を包み、引越し業者を装い、トヨタのハイエースに乗ってその現場に向かった。それが仕掛けられた罠でないことを確かめるために、しばらくの時間を要した。車を少し離れたところに停め、まず一人がアパートのまわりをそれとなく偵察した。用心深くなる必要があった。警察が待ちかまえていて、部屋に足を踏み入れたとたんに逮捕されるというような状況は、なんとしても避けなくてはならない。  持参した引っ越し用のコンテナ?ボックスに、既に硬直を始めた牛河の死体をなんとか押し込み、アパートの玄関から担ぎ出し、ハイエースの荷台に載せた。寒い深夜だったから、ありがたいことにあたりにはまったく人通りがなかった。部屋の中に何か手がかりになりそうなものが残されていないか確かめるのにも時間がかかった。懐中電灯の明かりで隈なく室内を捜索した。しかし注意を引くようなものは何ひとつ見つからなかった。食料品のストックと、小さな電気ストーブと、登山用の寝袋のほかには、最低限の生活用具がひととおりあるだけだ。ゴミ袋の中にあるのはほとんどが缶詰の空き缶とペットボトルだった。牛河はおそらくその部屋に潜んで誰かの監視にあたっていたのだろう。坊主頭の注意深い目は窓際の畳の上に微かに残ったカメラ用三脚のあとを見逃さなかった。しかしカメラはなく、写真も残されてはいない。たぶん牛河の生命を奪った人物が回収していったのだろう。もちろんフィルムも一緒に。下着の上下だけで死んでいるところを見ると、寝袋の中で眠っているところを襲われたらしい。その誰かはおそらく音もなく部屋に侵入してきたのだ。そしてどうやらその死は多大の苦しみを伴うものであったようだ。下着には大量の尿をもらしたあとがあった。  その車で山梨に向かったのは坊主頭とポニーテイルの二人だけだった。あとの二人は事後処理のために東京に残った。最初から最後までポニーテイルがハンドルを握った。ハイエースは首都高速道路から中央高速道路に乗り、西に向かった。未明の道路はがらがらだったが、制限速度を厳密にまもった。もし警官に車を停められでもしたらすべては終わってしまう。車のナンバープレートは前後とも盗品に付け替えられているし、荷台には死体を詰めたコンテナ?ボックスがある。申し開きの余地はまったくない。道中二人は終始無言だった。  明け方に教団に到着すると、待ち受けていた教団内の医師が牛河の死体を調べ、窒息死であることを確認した。しかし首のまわりには絞められた痕跡はない。あとを残さないために、袋のようなものを頭からかぶせられたのではないかと推測された。両手足が調べられたが、紐で縛られたあとは見当らなかった。殴られたり、拷問を受けたような様子もなかった。表情にも苦悶の色は見受けられない。その顔に浮かんでいるのは、あえて表現するなら、答えの返ってくるあてのない純粋な疑問のようなものだった。どう考えても殺されているはずなのに、実にきれいな死体だ。医師はそのことを不思議がった。死んだあと、誰かが顔をマッサージして穏やかなものにしたのかもしれない。 「抜かりのないプロの仕事です」と坊主頭は上司にあたる人物に説明した。「跡をまったく残していない。おそらく声も上げさせていない。真夜中に起こったことですから、苦痛の悲鳴を上げていればアパート中に聞こえたはずです。素人にはとてもできないことです」  なぜ牛河がプロの手で消されなくてはならなかったのだろう?  坊主頭は用心深く言葉を選んだ。「たぶん、牛河さんは誰かの尻尾を踏んでしまったのでしょう。踏むべきではない尻尾を、自分でもその意味がよくわからないうちに」  それはリーダーを処理したのと同じ相手だろうか? 「確証はありませんが、その可能性は高いでしょう」と坊主頭は言った。「それから、おそらく牛河さんは拷問に近いことを受けています。どんなことをされたのかはわかりませんが、間違いなく厳しく尋問されています」  牛河はどこまでしゃべったのだろう? 「知っていることは根こそぎしゃべらされたはずです」と坊主頭は言った。「まず疑いの余地なく。とはいえ牛河さんはこの件に関しては、もともと限られた情報しか与えられていません。だから何をしゃべったところでこちらにそれほどの実害はないはずです」  坊主頭にしたところで、やはり限られた情報しか与えられていない。しかしもちろん、部外者である牛河よりはずっと多くのことを知っている。  プロというのは、つまり暴力団が関与しているということなのか、と上司は質問した。 「これはやくざや暴力団のやり口ではありません」と坊主頭は首を振って言った。「そういう連中のやることはもっと血なまぐさくて乱雑です。ここまで手の込んだことはしません。牛河さんを殺した人物は、我々に向けてメッセージを残しているのです。自分たちのシステムは高度に洗練されたものだし、手出しをするものがあれば的確に反撃がおこなわれる。これ以上この問題には首を突っ込むなという」  この問題?  坊主頭は首を振った。「それが具体的にどのような問題なのかは、私にもわかりません。牛河さんはここのところずっと単独で行動していました。途中経過を報告してくれと何度か要求はしたのですが、まだ整ったかたちで報告できるだけの材料が揃っていないというのが彼の言い分でした。おそらく自分一人の手で、きっちり真相を明らかにしたかったのでしょう。ですから彼は事情を自分だけの胸に収めたまま殺されたことになります。牛河さんはもともとリーダーが、どこかから個人的に連れてこられた人物ですし、これまでも別働隊のようなかたちで仕事をしていました。組織には馴染まない。命令系統からしても、私は彼を統御できる立場にはありませんでした」  坊主頭は責任の範囲を明確にしておかなくてはならなかった。教団は既に組織として確立されている。すべての組織にはルールがあり、ルールには罰則が伴う。不始末の責任をそっくり自分に押しつけられてはたまらない。  牛河はそのアパートの一室でいったい誰を監視していたのだろう? 「それはまだわかっていません。順当に考えれば、あのアパートか、あるいはその近辺に住んでいる誰かでしょう。東京に残してきたものがそれについて現在調査をおこなっているはずですが、まだ連絡はきていません。調べるのに時間がかかっているようです。おそらく私が東京に出向いて、自分で確かめた方がいいと思うのですが」  坊主頭は東京に残してきた部下の実務能力をそれほど評価していなかった。忠実ではあるが、要領は決して良くない。状況についてもまだ詳しいことは教えていない。何をするにしても、自分でやった方がずっと効率が良いはずだ。牛河の事務所も徹底的に調べ上げた方がいいだろう。あるいはあの電話の男が先にもうそれをやってしまっているかもしれない。しかし上司は彼の東京行きを認めなかった。事情がもっと明らかになるまで、彼とポニーテイルは本部に残らなくてはならない。それは命令だった。  牛河が監視していたのは青豆ではないのか、と上司は尋ねた。 「いいえ、それは青豆ではないはずです」と坊主頭は言った。「もしそこにいたのが青豆であれば、彼女の所在が判明した時点で即座に我々に報告しているはずです。そこで彼の責任は果たされ、与えられた仕事は終わるわけですから。おそらく牛河さんがそこで監視していたのは、青豆の居場所に繋がる、あるいは繋がる<傍点>かもしれない誰かであったはずです。そう考えないことにはつじつまが合いません」  そしてその誰かを監視している途中で、逆に相手に気づかれて手を打たれた? 「おそらくそういうことでしょう」と坊主頭は言った。「単独で危険な場所に近づきすぎたのです。有力な手がかりを得て、功を焦ったのかもしれません。複数で監視にあたっていればお互いに身を護りあえるし、そんな結果にはならなかったはずです」  君は<傍点>その男と電話で直接話をした。我々と青豆が話し合いの場を持てる見込みはあると思うか? 「私にも予測はつきません。ただ青豆本人に我々と交渉するつもりがなければ、話し合いの場が設けられる見込みはないでしょう。電話をかけてきた男の言い方にも、そういうニュアンスがうかがえました。すべてはあくまで彼女の気持ち次第だという」  リーダーの一件を不問とし、彼女の身の安全を保障するという条件は、先方にとってもありがたいものであるはずだが。 「それでもなお彼らはより詳しい情報を求めています。我々がなぜ青豆に会いたがっているのか。なぜ彼らとのあいだに和平を求めているのか。具体的に何を交渉しようとしているのか」  情報を求めているというのはとりもなおさず、相手は正確な情報を持っていないということになる。 「そのとおりです。しかし同時に我々もまた相手についての正確な情報を持っていません。なぜ彼らがあれほど周到な計画を練り、手間をかけてリーダーを殺害しなくてはならなかったか、その理由すら未だにわかっていません」  いずれにせよ、相手の返答を待ちつつも、我々としてはこのまま青豆の捜索を続行しなくてはならない。たとえその過程で誰かの尻尾を踏みつけることになろうと。  坊主頭は少し間を置いて言った。「我々は緊密な組織を持っています。人員を集め、有効に迅速に行動することもできます。目的意識もあり、士気も高く、必要とあらば自分を捨てることもできます。しかし純粋に技術的なレベルのことを言えば、寄せ集めのアマチュア集団に過ぎません。専門の訓練も受けていません。それに比べると相手はプロです。ノウハウを心得ているし、冷静に行動し、何をするにせよ躊躇することがありません。場数も踏んでいるようです。またご存じのように、牛河さんも決して不注意な人間ではありませんでした」  具体的にこれからどのように捜索にあたるつもりなのだ? 「今のところ、牛河さんが手にしたらしい<傍点>有力な手がかりを引き継いで追及していくのがいちばん有効のようです。それが何であれ」  つまり我々はそれ以外には、自前の有力な手がかりを持っていない? 「そういうことです」と坊主頭は素直に認めた。  どのような危険に遭遇しても、どのような犠牲を払っても、我々は青豆という女を見つけて<傍点>確保しなくてはならない。一刻も早く。 「それが我々に与えられた声の指示なのですね?」と坊主頭は聞き返す。「どのような犠牲を払っても、一刻も早く青豆を<傍点>確保することが」  上司は返事をしなかった。そこから先の情報は坊主頭のレベルにまでは明かされない。彼は幹部ではない。ただの実行部隊の長に過ぎない。しかし坊主頭は知っていた。それが<傍点>彼らから与えられた最後通告であり、巫女たちが耳にしたおそらくは最後の「声」であることを。  冷え切った部屋の中、牛河の遺体の前を歩いて往復しているとき、坊主頭の意識の片隅を何かがよぎった。彼はそこで立ち止まり、顔をしかめ、眉を寄せ、その通り過ぎていった<傍点>何かのかたちを見定めようとした。彼の歩行が中断されたとき、ポニーテイルはドアの脇で僅かに姿勢を変えた。息を長く吐き、脚の重心を移し替えた。  高円寺、と坊主頭は思う。彼は顔を軽くしかめる。そして記憶の暗い底を探る。細い一本の糸を注意深く、ゆっくりとたぐり寄せる。この件に関係している誰かがやはり高円寺に住んでいた。いったい誰だろう?  彼はポケットからくしゃくしゃになった分厚い手帳を出して、急いでぺージを繰った。そして記憶に間違いがなかったことを確認した。川奈天吾だ。彼の住所がやはり杉並区高円寺になっている。牛河が死んでいたアパートの住所と番地がまったく同じだ。同じアパートで部屋番号が違っているだけだ。三階と一階。牛河はそこで川奈天吾の動向を監視していたのだろうか? 疑いの余地はない。たまたま住所が同じだったというような偶然はまずあり得ない。  しかしなぜ牛河が、こんな切迫した状況の中で今さら川奈天吾の動向を探らなくてはならないのだ? 坊主頭が今まで川奈天吾の住所を思い出さなかったのは、彼に対する関心がすっかり失われてしまっていたからだ。川奈天吾は深田絵里子の書いた『空気さなぎ』をリライトした。その本が雑誌の新人賞を取り、出版され、ベストセラーになっているあいだ、彼もやはり要注意人物の一人だった。彼は何かの重要な役割を担っているのではないか、何か大事な秘密を握っているのではないかという推測もあった。しかし今ではもう彼の役目は終わっている。ただの代筆者に過ぎなかったことが判明している。小松に依頼されて小説を書き直し、ささやかな収入を得た。それだけの人物だ。何の背景もない。今では教団の関心は、青豆の行方ひとつに絞られていた。それなのに牛河はその予備校講師に焦点を合わせて活動していた。本格的な体制をとって張り込みをおこなっていた。そしてその結果命まで落とすことになった。何故だ?  坊主頭には見当がつかなかった。牛河は間違いなく何かしらの手がかりを得ていたのだ。そして川奈天吾にぴったりくっついていれば、青豆の行方がつきとめられると考えたようだ。だからこそ彼はわざわざあの部屋を確保し、窓際に三脚つきのカメラをセットし、おそらくはかなり前から川奈天吾の監視を続けていた。川奈天吾と青豆のあいだには何かの繋がりがあったのだろうか? もしあるとしたら、それはいったいどのような繋がりなのだろう?  坊主頭は何も言わずに部屋を出て、暖房の入った隣室に行き、東京に電話をかけた。渋谷の桜丘にあるマンションの一室だ。そこにいる部下を呼び出し、今からすぐ高円寺の牛河のいた部屋に戻り、そこから川奈天吾の出入りを監視するようにと命令した。相手は髪の短い大柄な男だ。たぶん見逃すことはない。もしその男がアパートを出てどこかに向かったら、気づかれないように二人であとをつけるんだ。決して見逃すんじゃない。行き先を見届けろ。何があろうとその男に張りついていろ。俺たちもできるだけ早くそちらに行くから。  坊主頭は牛河の遺体が置かれた部屋に戻り、これからすぐ東京に行くとポニーテイルに告げた。ポニーテイルはただ短く肯いた。彼が何かの説明を求めることはない。求められていることを理解し、すみやかに行動に移すだけだ。坊主頭は部屋を出ると、部外者が中に入れないように鍵を閉めた。そして建物の外に出て、駐車場に並んだ十台ほどの車の中から、黒塗りの日産グロリアを選んだ。二人はそれに乗り込み、ささったままになっているキーを回してエンジンをかけた。ガソリンは規則によって常に満タンになっている。運転は今回もポニーテイルが担当した。日産グロリアのナンバープレートは合法的なものだし、車の出所もクリーンだ。ある程度のスピードを出しても問題はない。  東京に戻る許可を上司から受けていなかったことに気づいたのは、高速道路に乗ってしばらくしてからだった。それは後日問題になるかもしれない。やむを得ない。一刻を争う緊急の問題なのだ。東京に着いてからあらためて事情を説明するしかない。彼は軽く顔をしかめた。組織という制約は時として彼をうんざりさせた。規則の数は増えることはあっても減ることはない。しかし自分が組織から離れては生きられないことを彼は知っていた。彼は一匹狼ではない。上から指示を与えられ、その通りに動くたくさんある歯車のうちのひとつに過ぎない。  ラジオをつけて八時の定時ニュースを聞いた。ニュースが終わると坊主頭はラジオを切り、助手席のシートを倒して少し眠った。目覚めたとき空腹を感じたが(この前まともな食事をとったのはいつのことだろう?)、サービスエリアで車を停めるような時間の余裕はなかった。先を急がなくてはならない。  しかしそのときには既に、天吾は公園の滑り台で青豆との再会を遂げていた。彼らが天吾の行く先を知ることはなかった。天吾と青豆の頭上には二つの月が浮かんでいた。  牛河の遺体は冷え切った闇の中に静かに横たわっていた。部屋には彼のほかには誰もいない。明かりは消され、ドアの鍵は外からかけられていた。天井に近い窓から月の光が青白く差し込んでいた。しかし角度のせいで牛河には月の姿は見えない。だからその数がひとつなのか二つなのか、彼には知るべくもない。  部屋に時計はないから正確な時刻はわからない。おそらく坊主頭とポニーテイルが退出してから一時間ばかり経過した頃だろう。もし仮にそこに誰かが居合わせていたなら、牛河の口が突然もぞもぞと動き出したのを目にして、肝を潰したに違いない。それは常識では考えられない恐ろしい出来事だった。牛河は言うまでもなく既に絶命していたし、おまけにその身体は完全な死後硬直の状態にあったからだ。しかし彼の口はなおも細かく震えるように動き続け、やがて乾いた音を立ててぱくりと開いた。  そこに居合わせた人は、牛河がこれから何かを語り始めるのではないかと思ったことだろう。おそらくは死者にしか知り得ない何か大事な情報を。その人はきっと怯えながらも、固唾《かたづ》を呑んで待ち受けたことだろう。さあ、これからいったいどんな秘密が明らかにされるのだろう?  しかし牛河の大きく開かれた口から声は出てこなかった。そこから出てきたのは言葉ではなく、吐息でもなく、六人の小さな人々だった。背の高さはせいぜい五センチほどだ。彼らは小さな身体に小さな服を着て、緑色の苔のはえた舌を踏みしめ、汚れた乱杭歯をまたぎ、順番に外に出てきた。夕方に仕事を終え、地上に戻ってくる炭坑夫たちのように。しかし彼らの衣服や顔はきわめて清潔で、汚れひとつなかった。彼らは汚れや摩耗とは無縁の人々だった。  六人のリトル?ピープルは牛河の口から出ると、遺体が横たえられた会議用テーブルの上に降り、そこでそれぞれに身を揺すって、図体をだんだん大きくしていった。彼らは自分の身体を必要に応じて適切なサイズに変えることができた。しかしその身長が一メートルを超えることはないし、三センチより小さくなることもない。やがて六十センチから七十センチほどの背丈に達すると、彼らは身を揺するのをやめ、順番にテーブルから部屋の床に降りた。リトル?ピープルの顔には表情がない。といっても、仮面のような顔をしているわけではない。彼らはごく当たり前の顔をしている。サイズを別にすれば、あなたや私とだいたい同じ顔をしている。ただ今のところあえてそこに表情を浮かべる必要がないというだけだ。  彼らは見たところとくに急いでもいないし、とくにのんびりしてもいない。彼らはなすべき仕事に必要な時間を、ちょうど必要とするだけ与えられている。その時間は長すぎもしないし、短かすぎもしない。六人は誰が合図するともなく、床の上に静かに腰を下ろし、輪になった。破綻のないきれいな輪で、直径は二メートルばかりだ。  やがて一人が無言のうちに手を伸ばして、空中からすっと一本の細い糸をつまみ上げた。糸の長さは十五センチばかり、白に近いクリーム色で半透明だ。彼はそれを床の上に置いた。次の一人もまったく同じことをした。同じ色の同じ長さの糸だ。あとの三人も同じ動作を繰り返した。しかし最後の一人だけが違う行動を取った。彼は立ち上がって輪を離れ、もう一度会議用テーブルの上に昇り、牛河のいびつなかたちをした頭に手を伸ばし、そこに生えている縮れた毛髪を一本ちぎった。ぶちんという小さな音が聞こえた。彼にとってはそれが糸の代わりだった。その五本の空中の糸と、一本の牛河の頭髪を、最初のリトル?ピープルが慣れた手でひとつに紡いだ。  そのようにして六人のリトル?ピープルは新しい空気さなぎを作っていった。今回は誰も口をきかなかった。はやし声も上げなかった。無言のうちに空中から糸を取りだし、牛河の頭から髪をむしり、安定した滑らかなリズムを維持しながら、てきぱきと空気さなぎを紡ぎ上げていった。冷え切った部屋の中にあっても、彼らの吐く息は白くならなかった。もしそこに人が居合わせたら、そのことをも不思議に思ったかもしれない。あるいは驚くべきことが多すぎて、そんなところまで気がまわらなかったかもしれない。  リトル?ピープルがいくら熱心に休みなく働いたところで(彼らは実際に休まなかった)、もちろん一晩で空気さなぎを作り上げることはできない。最低でも三日はかかるだろう。しかし六人のリトル?ピープルには急いでいる様子はなかった。牛河の死後硬直が解け、焼却炉に入れられるまでにあと二日はかかる。彼らはそれを承知していた。二晩のうちにおおよそのかたちを仕上げればいい。必要なだけの時間は彼らの手の中にある。そして彼らは疲れというものを知らない。  青白い月の光を浴びて、牛河はテーブルの上に横たわっていた。口は大きく開き、閉じることのない目には厚い布がかぶせられていた。その瞳が生きている最後の瞬間に見ていたのは、中央林間の建て売りの一軒家であり、その小さな芝生の庭を元気にかけまわる小型犬の姿だった。  そして彼の魂の一部はこれから空気さなぎに変わろうとしていた。 第29章 青豆 二度とこの手を放すことはない  天吾くん、目を開けて、と青豆は囁くように言う。天吾は目を開ける。世界にもう一度時間が流れ始める。  月が見える、と青豆は言う。  天吾は顔を上げて空を見上げる。ちょうど雲が切れて、ケヤキの枯れた枝の上に月が浮かんでいるのが見える。大小二つの月だ。大きな黄色い月と、小さくいびつな緑色の月。マザとドウタ。通り過ぎたばかりの雲の縁が、その二つが混じり合った色あいに淡く染められている。長いスカートの裾をうっかり染料に浸けてしまったみたいに。  それから天吾は傍らにいる青豆を見る。彼女はもう、サイズの合わない古着を着て、髪を母親にぞんざいにカットされた、いかにも栄養の足りないやせっぽちの十歳の女の子ではない。かつての面影はほとんどない。にもかかわらず、彼女が青豆であることは一目でわかる。天吾の目にはそれは青豆以外の誰にも見えない。彼女の一対の瞳が湛《たた》える表情は、二十年の歳月を経ても変わっていない。それは力強く、濁りなく、どこまでも透き通っている。自分が何を希求しているかを確信している目だ。誰に阻まれることもなく、何を見るべきかを熟知している目だ。その目はまっすぐ彼を見ている。彼の心をのぞき込んでいる。  青豆は彼の知らないどこかの場所でその二十年という歳月を送り、一人の美しい大人の女性に成長した。しかし天吾はそれらの場所と時間を、何の留保もなく瞬時に自分の内に吸収し、自らの生きた血肉とすることができた。それらは今ではもう彼自身の場所でもあり、彼自身の歳月でもあった。  何かを言わなくてはと天吾は思う。しかし言葉は出てこない。彼の唇は微かに動いて、相応しい言葉を空中に探し求める。でもどこにもそんなものは見つからない。さすらう孤島を思わせる白い吐息のほかに、唇のあいだから出てくるものはない。青豆は彼の目を見ながら一度だけ短く首を振る。天吾はその意味を理解する。<傍点>何も言わなくていいということだ。彼女はポケットの中の天吾の手を握り続けている。彼女の手は一瞬たりともそこから引くことはない。  私たちは同じものを見ている、青豆は天吾の目をのぞき込んだまま静かな声で言う。それは質問であると同時に質問ではない。彼女はそのことを既に知っている。それでも彼女はかたちをとった承認を必要としている。  月は二つ浮かんでいる、と青豆は言う。  天吾は肯く。月は二つ浮かんでいる。天吾はそれを声には出さない。声はなぜかうまく出てこない。ただそう心に思うだけだ。  青豆は目を閉じ、丸くなって身をかがめ、天吾の胸に頬を寄せる。心臓の上に耳をつける。彼の思いに耳を澄ませる。そのことを知りたかった、と青豆は言う。私たちが同じ世界にいて、同じものを見ていることを。  気がつくと、天吾の心の中にあった大きな渦の柱は既に消え去っている。ただ静かな冬の夜が彼のまわりを囲んでいる。道路を隔てたマンションの——それは青豆が逃亡者としての日々を送っていた場所だ——いくつかの窓にともった明かりは、彼ら以外の人々もまたこの世界に生きていることを示唆している。それは二人にとってはずいぶん不思議なことに思える。いや、論理的に正しくないことにさえ思える。自分たち以外の人々がまだこの世界に存在し、それぞれの暮らしを送っているということが。  天吾は少しだけ身をかがめ、青豆の髪の匂いを嗅ぐ。まっすぐな美しい髪だ。小さなピンク色の耳が内気な生き物のように、そのあいだからわずかに顔をのぞかせている。  とても長かった、と青豆は言う。  とても長かった、と天吾も思う。しかしそれと同時に二十年という歳月が、もはや実質を持たないものになっていることに彼は気づく。それはむしろ一瞬のうちに過ぎ去った歳月であり、だからこそ一瞬のうちに埋めることのできる歳月なのだ。  天吾はポケットから手を出して、彼女の肩を抱く。彼女の肉体の密度を手のひらに感じる。そして顔を上げてもう一度月を見上げる。一対の月はまだ雲の切れ目から、混じり合った不思議な色合いの光を地上に投げかけている。雲はとてもゆっくりと流れている。心という作用が、時間をどれほど相対的なものに変えてしまえるかを、その光の下で天吾はあらためて痛感する。二十年は長い歳月だ。そのあいだにはいろんなことが起こり得る。たくさんのものが生まれ、同じくらいたくさんのものが消えていく。残ったものごとも形を変え、変質していく。長い歳月だ。でも定められた心にとっては、それが<傍点>長すぎるということはない。たとえ仮に二人が巡り合うのが今から二十年後であったとしても、彼は青豆を前にして、やはり今と同じ気持ちを抱いていただろう。天吾にはそれがわかる。もし二人が共に五十歳に達していたとしても、彼は青豆を前にして、やはり今と同じように胸を激しくときめかせ、同じように深く混乱していたに違いない。同じ悦びと同じ確信を心に強く抱いていたに違いない。  天吾は心の中でそう考えるだけで声には出さない。でもその声にならない言葉を、青豆がひとつひとつ注意深く聞き取っていることが天吾にはわかる。彼女は天吾の胸に小さなピンク色の耳をつけて、その心の動きに耳を澄ませている。地図を指先で辿りながら、そこに鮮やかな生きた風景を読み取ることのできる人のように。  ずっとここにいて、このまま時間のことなんか忘れていたい、と青豆は小さな声で言う。でも私たちにはやらなくてはならないことがあるの。  <傍点>我々は移動する、と天吾は思う。  そう、私たちは移動する、と青豆は言う。それも早ければ早いほどいい。もうあまり時間は残されていないから。これからどんなところに行くか、まだ言葉にはできないけれど。  言葉にする必要はない、と天吾は思う。  どこに行くか知りたくはないの、と青豆は尋ねる。  天吾は首を振る。現実の風に心の炎が吹き消されることはなかった。それより大きな意味を持つことなどどこにもありはしない。  私たちが離れることはない、と青豆は言う。それは何よりはっきりしている。私たちが二度とこの手を放すことはない。  新しい雲がやってきて、時間をかけて二つの月を呑み込んでいく。舞台のカーテンが音もなく降りるように、世界を包んだ影が一段深みを増す。  急がなくては、と青豆は小声で囁く。そして二人は滑り台の上に立ち上がる。二人の影はそこであらためてひとつになる。闇に包まれた深い森を手探りで抜けていく幼い子供たちのように、彼らの手は堅くひとつに握りあわされている。 「僕らはこれから猫の町を離れる」と天吾は初めて言葉を口にする。青豆はその生まれたばかりの新しい声を大事に受け入れる。 「猫の町?」 「深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町のことだよ。美しい河が流れ、古い石の橋がかかっている。でもそこは僕らの留まるべき場所じゃない」  私たちは<傍点>この世界をそれぞれに違う言葉で呼んでいたのだ、と青豆は思う。私はそれを「1Q84年」という名で呼び、彼はそれを「猫の町」という名で呼んだ。でも示されているのは同じひとつのものだ。青豆は彼の手をいっそう強く握る。 「そう、私たちはこれから猫の町を出ていく。二人で一緒に」と彼女は言う。「この町を出てしまえば、もう昼であれ夜であれ、私たちが離ればなれになることはない」  二人が急ぎ足で公園をあとにするときもまだ、大小の一対の月は緩慢な速度で流れる雲の背後に隠されている。月たちの目は覆われている。少年と少女は手を取りあって森を抜けていく。 第30章 天吾 もし私が間違っていなければ  公園を出ると、二人は大きな通りに出てタクシーを拾った。青豆は運転手に、国道二四六号線沿いに三軒茶屋まで行ってほしいと言った。  そのときになって天吾はようやく青豆の服装に目を留めた。彼女は淡い色合いのスプリング?コートを着ていた。この季節にはいささか薄すぎるコートだ。紐で前をとめるようになっている。その下にはシャープなカットのグリーンのスーツを着ていた。スカートは短くタイトだ。ストッキングに艶やかなハイヒールを履いて、肩には黒い革のショルダーバッグをかけていた。ショルダーバッグは膨らんで重そうに見える。手袋もはめていないし、マフラーも巻いていない。指輪もネックレスもイヤリングもつけていない。香水の匂いもない。彼女が身につけているものも、つけていないものも、天吾の目にはすべてがきわめて自然に見えた。そこから引かなくてはならないものも、そこに付け加えなくてはならないものも、ひとつとして思いつけなかった。  タクシーは環状七号線を二四六号線に向けて走った。交通の流れはいつになく円滑だった。車が走り出してから長いあいだ、二人は口をきかなかった。タクシーのラジオは消されていたし、若い運転手は無口だった。二人の耳に届くのは途切れのない単調なタイヤ音だけだ。彼女はシートの上で天吾に身を寄せ、その大きな手を握り続けていた。いったん放してしまったら、もう二度と探り当てられないかもしれない。二人のまわりを夜の街が、夜光虫に彩られた海流のように流れ過ぎていった。 「話さなくてはならないことがいくつもあるんだけど」と青豆はずいぶんたってから言う。「<傍点>そこに着くまでにすべてを説明することはできないと思う。それほどの時間はないから。でももしどんなに時間があってもすべてを説明することなんてできないかもしれない」  天吾は短く首を振る。無理に説明をする必要はない。これから先、時間をかけて二人でひとつひとつ空白を埋めていけばいい——もしそこに埋めなくてはならない空白があるのなら。しかし今の天吾には、それが二人によって共有されるものであるなら、置き去りにされた空白や解かれることのない謎にさえ、慈しみに近い悦びを見出せそうな気がする。 「君についてとりあえず何を知っておかなくちゃならないんだろう?」と彼は尋ねる。 「あなたは今の私について、どんなことを知っているの?」と青豆は逆に天吾に尋ねる。 「ほとんど何も知らない」と天吾は答える。「君がスポーツ?クラブのインストラクターをしていて独身で、今は高円寺に暮らしているという以外には」  青豆は言う。「私も今のあなたについてほとんど何も知らない。でもいくつかのことは知っている。代々木の予備校で数学を教えていて、一人暮らしをしている。そして小説『空気さなぎ』の実際の文章を書いた」  天吾は青豆の顔を見る。彼の唇は驚きのためにうっすらと開いている。そのことを知っている人間の数はきわめて限られている。彼女はあの教団と繋がりがあるのだろうか? 「心配しないで。私たちは同じ側にいる」と彼女は言う。「なぜ私がそれを知っているか、いきさつを説明すると長くなる。でも『空気さなぎ』があなたと深田絵里子との共同作業によって生み出されたことを、私は知っている。そしてあなたと私は二人ともいつからか、月が二つ空に浮かんでいる世界に入り込んでいる。そしてもうひとつ、私は子供を身ごもっている。おそらくあなたの子供を。それがとりあえず、あなたが知らなくてはならない大事なことになると思う」 「僕の子供を<傍点>身ごもっている?」、運転手が耳を澄ませているかもしれない。しかしそんなことを考えている余裕は天吾にはない。 「私たちはこの二十年のあいだ一度も顔を合わせていない」と青豆は言う。「なのに私はあなたの子供を身ごもっている。私はあなたの子供を産もうとしている。それはもちろん理屈に合わない」  天吾は黙って彼女の話の続きを待つ。 「九月の初めに激しい雷雨があったことを覚えている?」 「よく覚えているよ」と天吾は言う。「昼間はとてもよい天気だったのに、日が暮れてから突然雷が鳴り出して、嵐のようになった。赤坂見附の駅に水が流れ込んで、地下鉄がしばらく停まった」。<傍点>リトル?ピープルがさわいでいる、とふかえりは言った。 「あの雷雨の夜に私は受胎したの」と青豆は言う。「でもその日も、その前後の数ヶ月も、私は誰とも<傍点>そういう関係は持たなかった」  彼女はその事実が天吾の認識に浸透するのを見届ける。そして話を続ける。 「でも<傍点>それがその夜であったことに間違いはない。そして私が身ごもっているのはあなたの子供だと私は確信している。説明することはできない。でも私にはただ<傍点>それがわかるの」  その夜、ふかえりとの間にただ一度もたれた奇妙な性行為の記憶が、天吾の脳裏によみがえる。外では激しく雷が鳴り、大粒の雨が窓を叩いていた。ふかえりの表現を借りるならリトル?ピープルが騒いでいた。全身が麻痺した状態でベッドに仰向けに寝ているときに、ふかえりが彼の身体の上にまたがって、硬直したペニスを自分の中に挿入し、精液を搾り取った。彼女は完全なトランス状態にあるように見えた。その目は瞑想に耽るように終始閉じられていた。乳房は大きく丸く、陰毛は生えていなかった。現実の風景のようには見えなかった。でもそれは間違いなく実際に起こったことだった。  翌朝になると、ふかえりは前夜の出来事をまったく記憶していないように見えた。あるいは記憶しているような素振りを見せなかった。そして天吾には、それは性行為というよりは、むしろ実務処理作業に近いものに感じられた。ふかえりはその激しい雷雨の夜に、天吾の身体が麻痺していることを利用して精液を有効に採集したのだ。文字通り最後の一滴まで。天吾は今でもそのときの奇妙な感触を覚えている。ふかえりはそこでは別の人格を帯びているように見えた。 「思い当たることはある」と天吾は乾いた声で言う。「やはり論理では説明できない出来事が、その夜に僕の身に起こった」  青豆は彼の目を見つめる。  天吾は言う。「それが何を意味するのか、そのときはわからなかった。今だってその意味が正確に理解できているわけじゃない。でももし君がその夜に受胎したのだとしたら、そしてほかに思い当たる可能性がないのだとしたら、君の中にいるのは間違いなく僕の子供だ」  そこにいたふかえりはおそらく<傍点>通過するものだった。それがあの少女にそのとき与えられた役割だったのだ。自分自身を通路にして天吾と青豆を結びつけること。限られた時間、物理的に二人を連結させること。天吾はそれを知る。 「そのときに何が起こったのか、いつか詳しく事情を話せると思う」と天吾は言う。「でも今ここでは、今僕が持っている言葉では間に合わない」 「でも<傍点>本当に信じてくれるのね? 私の中にいる小さなものがあなたの子供だと」 「心から信じる」と天吾は言う。 「よかった」と青豆は言う。「私が知りたかったのはそのことだけ。あなたさえ<傍点>それを信じてくれるなら、あとのことはもうどうでもいいの。説明なんかいらない」 「君は妊娠している」と天吾はあらためて尋ねる。 「四ヶ月になる」、青豆は天吾の手を導いて、コートの上から下腹にあてる。  天吾は息を殺し、そこに生命のしるしを求める。それはまだほんの小さなものに過ぎない。しかし彼の手のひらはその温もりを感じとることができる。 「僕らはこれからどこに移動することになるんだろう? 君と僕とその<傍点>小さなものは」 「ここではないところに」と青豆は言う。「月がひとつしか空に浮かんでいない世界に。本来私たちがいるはずの場所に。リトル?ピープルが力を持たないところに」 「リトル?ピープル?」、天吾は顔を僅かにしかめる。 「あなたは『空気さなぎ』の中でリトル?ピープルを細かく描写した。彼らがどんな格好をして、何をするか」  天吾は肯く。  青豆は言う。「彼らはこの世界に実在している。あなたが描写したとおりに」 『空気さなぎ』を改稿していたとき、リトル?ピープルとは想像力の旺盛な十七歳の少女が生み出した架空の生き物に過ぎなかった。あるいはせいぜい何かの比喩か象徴に過ぎなかった。しかしこの世界にはリトル?ピープルが本当に存在し、現実の力をふるっている。天吾は今ではそれを信じることができる。 「リトル?ピープルだけじゃない。空気さなぎも、マザとドウタも、二つの月も、この世界には実在している」と青豆は言う。 「君は<傍点>この世界から出て行くための通路を知っているの?」 「私がここに入ってきた通路から、私たちは<傍点>ここを出ていくことになる。それ以外に私に思いつける出口はない」、そして青豆は付け加える。「書きかけの小説の原稿を持ってきた?」 「ここに持っているよ」、天吾は肩からかけた小豆色のショルダーバッグを手のひらで軽く叩く。それから不思議に思う。どうして彼女は知っているのだろう?  青豆はためらいがちに微笑む。「でもとにかく私はそれを知っている」 「君はいろんなことを知っているみたいだ」と天吾は言う。青豆が微笑むのを天吾は初めて目にする。ほんのささやかな笑みなのだが、それでも彼のまわりで世界の潮位が変化し始めている。それが天吾にはわかる。 「それを放さないで」と青豆は言う。「私たちにとって大事な意味を持つものだから」 「大丈夫。放さない」 「私たちはお互いに出会うために<傍点>この世界にやってきた。私たち自身にもわからなかったのだけれど、それが私たちがここに入り込んだ目的だった。私たちはいろんなややこしいものごとを通過しなくてはならなかった。理屈のとおらないものごとや、説明のつかないものごと。奇妙なものごと、血なまぐさいものごと、悲しいものごと。あるときには美しいものごと。私たちは誓約を求められ、それを与えた。私たちは試練を与えられ、それをくぐり抜けた。そして私たちがここにやってきた目的はこうして達成された。でも今は危険が迫っている。彼らは私の中にいるドウタを求めている。ドウタが何を意味するか、天吾くんにはわかるでしょう」  天吾は深く息を吸い込む。そして言う。「君は僕とのあいだにドウタをもうけようとしている」 「そう。細かい原理はわからないけれど、空気さなぎを通じて、それとも私自身が空気さなぎとしての役割を果たして、私はドウタを生もうとしている。そして<傍点>彼らは私たち三人をそっくり手に入れようとしている。新たな〈声を聴く〉システムとして」 「そこで僕はどんな役割を果たすことになるのだろう? もし僕にドウタの父親という以上の役割が与えられているとすればだけど」 「あなたは——」と青豆は言いかけて口を閉ざす。それに続く言葉は出てこない。二人のまわりにはいくつかの空白が残されている。これから二人で力を合わせ、時間をかけて埋めていかなくてはならない空白が。 「僕は君を見つけようと心を決めていた」と天吾は言う。「でも僕には君を見つけることができなかった。<傍点>君が僕を見つけた。僕は実際にはほとんど何もしなかったようなものだ。なんて言えばいいんだろう、それはフェアじゃないことに思える」 「フェアじゃない?」 「僕は君に多くのものを負っている。僕は結局、何の役にも立たなかった」 「あなたは何も私に負っていない」と青豆はきっぱりと言う。「あなたはここまで私を導いてくれたのよ。目には見えないかたちで。私たちは二人でひとつなの」 「僕はそのドウタを目にしたことがあると思う」と天吾は言う。「あるいはそのドウタが<傍点>意味するものを。それは十歳のときの君そのままの姿で、空気さなぎの淡い光の中に眠っていた。僕はその手の指に触れることができた。ただ一度だけの出来事だったけれど」  青豆は天吾の肩に頭を寄せる。「天吾くん、私たちはお互いに対して何も負ってはいない。何ひとつとして。私たちが今考えなくてはならないのは、<傍点>この小さなものを護ることよ。彼らは私たちの背後に迫っている。すぐそこに。私にはその足音が聞こえる」 「何があろうと君たち二人は誰の手にも渡さない。君もその小さなものも。僕らがこうして出会うことによって、この世界に入ってきた目的は果たされた。ここは危険な場所だ。そして君は出口のありかを知っている」 「知っていると思う」と青豆は言う。「もし私が間違っていなければ」 第31章 天吾と青豆 サヤの中に収まる豆のように  見覚えのある場所でタクシーを降りると、青豆は交差点に立ってあたりを見回し、金属パネルの塀に囲まれた薄暗い資材置き場を高速道路の下に見つけた。そして天吾の手を引いて横断歩道を渡り、そちらに向かった。  ボルトの外れている金属板がどのあたりにあったか、なかなか思い出せなかったが、一枚一枚辛抱強く試しているうちに、人が一人なんとかくぐり抜けられる隙間を作り出すことができた。青豆は身をかがめ、服をひっかけないように気をつけながら、中に潜り込んだ。天吾も大きな体を縮めるようにして、そのあとに続いた。塀の中は青豆が四月に見たときのままだ。放置され色褪せたセメントの袋、さびた鉄骨、くたびれた雑草、散らばった古い紙くず、あちこちに白くこびりついた鳩の糞。八ヶ月前から何ひとつ変化していない。あれから今まで、ここに足を踏み入れる人間は一人もいなかったのかもしれない。都会の真ん中、それも幹線道路の中洲のような位置にありながら、そこは見捨てられ忘却された場所だった。 「ここがその場所なの?」、天吾はあたりを見回してそう尋ねる。  青豆は肯く。「もしここに出口がないのなら、私たちはどこにも行けない」  青豆は暗がりの中で、かつて自分が降りてきた非常階段を探す。首都高速道路と地上を結ぶ狭い階段だ。階段は<傍点>ここにあるはずなのだ、彼女は自分にそう言い聞かせる。私はそれを信じなくてはならない。  非常階段は見つかる。実際には階段というより、ほとんど梯子に近い代物だ。青豆が記憶していたよりも更に貧相で、更に危なっかしい。こんなものをつたって私は上からここまで降りてきたのだ、と青豆はあらためて感心する。しかしとにかく階段はそこにある。あとは前とは逆に、一段一段それを登っていくだけだ。彼女はシャルル?ジョルダンのハイヒールを脱いで、ショルダーバッグの中につっこみ、それをたすきがけにする。梯子の最初の段にストッキングに包まれた素足をかける。 「あとをついてきて」と青豆は振り向いて天吾に言う。 「僕が先に行った方がいいんじゃないか?」と天吾は心配そうに言う。 「いいえ。私が先に行く」、それは彼女が降りてきた道だ。彼女がまず登らなくてはならない。  階段はそこを降りたときより、ずっと冷たく凍てついていた。握っている手がかじかんで、感覚を失ってしまいそうだ。高速道路の支柱のあいだを抜ける風も、遥かに鋭く厳しい。その階段はいかにもよそよそしく挑戦的であり、彼女に何ひとつ約束してはいなかった。  九月の初めに高速道路の上から探し求めたとき、非常階段は消滅していた。そのルートは塞がれていた。しかし地上の資材置き場から上に向かうルートは、今もこうして存在している。青豆が予測したとおりだ。その方向からであれば階段はまだ残されているという予感が彼女にはあった。私の中には<傍点>小さなものがいる。もしそれが何らかの特別な力を有しているなら、きっと私を護り、正しい方向を示唆してくれるはずだ。  階段はあった。しかしその階段が果たして<傍点>本当に高速道路に繋がっているのか、そこまではわからない。あるいはそれは途中で塞がれ、行き止まりになっているのかもしれない。そう、この世界ではどんなことだって起こりうるのだ。実際に手と足を使って上まで登り、そこに何があるのか——あるいは何がないのか——自分の目で確かめるしかない。  彼女は一段一段、用心深く階段を登っていく。下を見ると、天吾がすぐあとをついてくるのが見える。ときおり風が激しく吹き抜け、鋭い音を立てて彼女のスプリング?コートをはためかせる。切り裂くような風だ。スカートの短い裾は太腿のあたりまでずりあがっている。髪が風に吹かれてもつれ、顔にへばりついて視野を遮る。息もうまくできないほどだ。髪を後ろにまとめてくればよかったと青豆は悔やむ。手袋だって用意するべきだった。どうしてそんなことも思いつかなかったのだろう? しかし悔やんでも仕方ない。とにかく降りてきたときと同じ格好をすることしか頭になかった。何はともあれ梯子段を握りしめ、このまま上に登っていくしかない。  青豆は寒さに震え、辛抱強く上方に歩を進めながら、道路を隔てて建っているマンションのベランダに目をやる。五階建ての茶色い煉瓦タイルでできた建物だ。この前降りてくるときにも同じ建物を目にした。半分ほどの窓に明かりがついている。目と鼻の先と言ってもいいくらいの近さだ。夜中に高速道路の非常階段を登っているところを住人に目撃されたりすると面倒なことになるかもしれない。二人の姿は今では二四六号線の照明灯に、かなり明るく照らし出されていた。  しかしありがたいことに、どの窓にも人影は見えない。カーテンはどれもぴったり閉じられている。まあ当然といえば当然のことだ。こんな寒い冬の夜にわざわざベランダに出て、首都高速道路の非常階段を見物する人間はまずいない。  ベランダのひとつには鉢植えのゴムの木が置かれている。薄汚れたガーデンチェアの隣に、それは身をすくませてうずくまっている。四月にこの階段を降りたときにも、やはりそこにゴムの木が見えた。彼女が自由が丘のアパートに残してきたものより更にうらぶれた代物だ。この八ヶ月ほどのあいだ、そのゴムの木はおそらくずっと同じ場所に、同じ姿勢でうずくまっていたのだ。それは傷つき色褪せ、世界のいちばん目立たない隅っこに押し込まれ、きっと誰からも忘れ去られていた。水だってろくにもらっていないかもしれない。それでもそのゴムの木は、不安と迷いを抱え、手足を凍えさせながら不確かな階段を登っていく青豆に、ささやかながらも勇気と承認を与えてくれる。大丈夫、間違いない。少なくとも私は来たときと同じ道を逆向きに辿っている。このゴムの木は、私のために目印の役を果たしてくれている。とてもひっそりと。  そのとき非常階段を降りながら、私はいくつかの貧相な蜘蛛の巣を目にした。それから私は大塚環のことを考えた。高校時代の夏、そのいちばんの親友と一緒に旅行をして、夜ベッドの中でお互いの裸の身体を触り合ったときのことを。どうしてそんなことを、よりによって首都高速道路の非常階段を降りている途中で、急に思い出したりしたのだろう? 青豆は同じ階段を逆に登りながら、大塚環のことをもう一度考える。彼女のつるりとした、美しいかたちの乳房のことを思い出す。環の豊かな乳房を、青豆はいつもうらやましく思ったものだ。かわいそうな発育不良の私の乳房とはぜんぜん違う。でもその乳房も今では失われてしまった。  それから青豆は中野あゆみのことを考える。八月の夜に、渋谷のホテルの一室で両腕に手錠をかけられ、バスローブの紐で絞殺された孤独な婦人警官のことを。心にいくつかの間題を抱え、破滅の淵に向かって歩いていった一人の若い女性のことを。彼女もまた豊かな胸を持っていた。  青豆はその二人の友人たちの死を心から悼む。彼女たちがもうこの世界に存在しないことを寂しく思う。二組の見事な乳房が跡形もなく消えてしまったことを惜しむ。  <傍点>どうか私を護って、と青豆は心の中で訴える。<傍点>お願い、私にはあなたたちの助けが必要なの。その二人の不幸な友人たちの耳にはきっと、彼女の無音の声が聞こえているはずだ。彼女たちはきっと私を護ってくれるはずだ。  まっすぐな梯子をようやく登り終えると、道路の外側に向かう平らな通路《キャットウォーク》がある。低い手すりがついているが、身を屈めなくては前に進めない。その通路の先にジグザグになった階段が見える。まともな階段とまでは言えないが、少なくとも梯子段よりは遥かにましな代物だ。青豆の記憶によれば、その階段を登っていけば高速道路の待避スペースに出られるはずだ。道路を行き来する大型トラックの振動のせいで、その通路は横波を受ける小さなボートのように不安定に揺れている。車の騒音も今ではかなり大きなものになっている。  彼女は梯子を登り切った天吾がすぐ背後にいることを確かめ、手を伸ばして彼の手を握る。天吾の手は温かい。こんな寒い夜に、こんな冷え切った階段を素手でつかんで登ってきて、どうしてこれほど温かい手を持ち続けられるのだろう。青豆は不思議に思う。 「あともう少しよ」と青豆は天吾の耳に口を寄せて言う。車の騒音と風音に対抗するためには大声を出さなくてはならない。「その階段を上れば道路に出る」  もし階段が塞がれていなければ。でもそれは口には出さない。 「最初からこの階段を上るつもりでいたんだね」と天吾は尋ねる。 「そう。もし階段を見つけられたら、ということだけど」 「なのに君はわざわざそんな格好をしてきた。つまりタイトなスカートに、ハイヒールを履いて。こんな急な階段を登るのに向いた服装には見えないんだけど」  青豆はまた微笑む。「この服装をすることが私には必要だったの。いつかそのわけを説明してあげる」 「君はすごくきれいな脚をしている」と天吾は言う。 「気に入った?」 「とても」 「ありがとう」と青豆は言う。狭い通路の上で身を乗り出し、天吾の耳にそっと唇をつける。カリフラワーのようにくしゃくしゃした耳に。その耳は冷たく冷え切っている。  青豆はまた先に立って通路を進み、その突き当たりにある急な狭い階段を登り始める。足の裏が凍え、指先の感覚が鈍くなっている。足を踏み外さないように注意しなくてはならない。風にもつれる髪を指で払いながら、彼女は階段を登り続ける。凍てつく風が彼女の目に涙をにじませる。彼女は風にあおられてバランスを失わないように手すりをしっかり摑み、一歩ずつ慎重に歩を運びながら、背後にいる天吾のことを考える。その大きな手と、冷え切ったカリフラワーのような耳のことを考える。彼女の中に眠る<傍点>小さなもののことを考える。ショルダーバッグに収められた黒い自動拳銃のことを考える。そこに装愼された七発の九ミリ弾のことを考える。  何があってもこの世界から抜け出さなくてはならない。そのためにはこの階段が必ず高速道路に通じていると、心から信じなくてはならない。<傍点>信じるんだ、と彼女は自分に言い聞かせる。あの雷雨の夜、リーダーが死ぬ前に口にしたことを青豆は思い出す。歌の歌詞だ。彼女は今でもそれを正確に記憶している。  ここは見世物の世界  何から何までつくりもの  でも私を信じてくれたなら  すべてが本物になる  何があっても、どんなことをしても、私の力でそれを本物にしなくてはならない。いや、私と天吾くんとの二人の力で、それを本物にしなくてはならない。私たちは集められるだけの力を集めて、ひとつに合わせなくてはならない。私たち二人のためにも、そして<傍点>この小さなもののためにも。  青豆は階段が平らな踊り場になったところで止まり、後ろを振り向く。天吾がそこにいる。彼女は手を伸ばす。天吾はその手を握る。彼女はそこにさっきと同じ温もりを感じる。それは彼女に確かな力を与えてくれる。青豆はもう一度身を乗り出し、彼のくしゃくしゃとした耳に口を近づける。 「ねえ、私は一度あなたのために命を捨てようとしたの」と青豆は打ち明ける。「あと少しで本当に死ぬところだった。あと数ミリのところで。それを信じてくれる?」 「もちろん」と天吾は言う。 「心から信じるって言ってくれる?」 「心から信じる」と天吾は心から言う。  青豆は肯き、握っていた手を放す。そして前を向いて再び階段を登り始める。  数分の後に青豆は階段を登り終え、首都高速道路三号線に出る。非常階段は塞がれてはいなかった。彼女の予感は正しく、努力は報われたのだ。彼女は鉄柵を越える前に、手の甲で目に滲んだ冷たい涙を拭う。 「首都高三号線」と天吾はしばらく無言であたりを見まわし、それから感心したように言う。 「ここが世界の出口なんだね」 「そう」と青豆は答える。「ここが世界の入り口であり出口なの」  青豆がタイト?スカートの裾を腰まであげて鉄柵を乗り越えるのを、天吾が後ろから抱きかかえるようにして手伝う。柵の向こうは、車が二台ほど停められる待避スペースになっている。ここに来るのはこれでもう三度目だ。目の前にはいつものエッソの大きな看板がある。<傍点>タイガーをあなたの車に。同じコピー、同じ虎。彼女は裸足のまま、言葉もなくそこにただ立ちすくむ。そして排気ガスの充満する夜の空気を胸に大きく吸い込む。それは彼女にはどんな空気よりすがすがしく感じられる。<傍点>戻ってきたのだ、と青豆は思う。<傍点>私たちはここに戻ってきた。  高速道路は前と同じようにひどく渋滞している。渋谷方向に向かう車の列はほとんど前に進んでいない。彼女はそれを目にして驚く。どうしてだろう。私がここに来るとき、道路は決まって渋滞している。平日のこんな時刻に三号線の上りが渋滞しているのは珍しいことだ。どこか先の方で事故があったのかもしれない。対向車線は順調に流れている。しかし上り車線は壊滅的だ。  彼女のあとから天吾が同じように鉄の柵を乗り越える。足を大きく上げて、それを軽く飛び越える。そして青豆の隣りに並んで立つ。生まれて初めて大洋を目の前にした人が波打ち際に立って、次から次へと砕ける波を呆然と見つめるように、二人は目の前にひしめきあった車の列を、言葉もなくただ眺めている。  車の中にいる人々もまたじっと二人の姿を見ている。人々は自分たちが目にしている光景に戸惑い、態度を決めかねている。彼らの目には好奇というよりは、むしろ不審の色が浮かんでいる。この若いカップルはこんなところでいったい何をしているのだ? 二人は暗がりの中から出し抜けに出現し、首都高速道路の待避スペースにぼんやり立ちすくんでいる。女はシャープなスーツを着ているが、コートは薄い春物で、ストッキングだけで靴も履いていない。男は大柄で、くたびれた革のジャンパーを着ている。二人ともショルダーバッグをたすきがけにしている。乗っていた車が近くで故障するか、事故を起こすかしたのだろうか? しかしそれらしい車は見当たらない。そして彼らはとくに助けを求めているようにも見えない。  青豆はようやく気を取り直し、バッグからハイヒールを取りだして履く。スカートの裾を引っ張って直し、ショルダーバッグを普通にかけ直す。コートの前の紐を結ぶ。舌で乾いた唇を湿し、指で前髪を整える。ハンカチを出してにじんだ涙を拭く。それから再び天吾に寄り添う。  二十年前のやはり十二月、放課後の小学校の教室でそうしたのと同じように、二人はそこに並んで立ち、無言のまま互いの手を握り合っている。その世界には二人のほかには誰もいない。二人は目の前にある車の緩やかな流れを眺めている。でもどちらも、本当には何も見ていない。自分たちが何を見ているか、何を聞いているか、それは二人にとってはどうでもいいことなのだ。彼らのまわりで、風景や音や匂いは本来の意味をそっくり失ってしまっている。 「それで、僕らは別の世界に出られたんだろうか?」と天吾がようやく口を開く。 「たぶん」と青豆は言う。 「確かめた方がいいかもしれない」  確かめる方法はひとつしかないし、どちらもあえて口に出してそれを確認する必要はない。青豆は黙って顔を上げ、空を見る。天吾もほぼ同時に同じことをする。二人は天空に月を探し求める。角度からすると、その位置はおそらくエッソの広告看板の上のあたりになるはずだ。しかし彼らはそこに月の姿を見出すことはできない。それは今のところ雲の背後に隠されているらしい。雲たちは南に向けて上空を吹く風に緩慢な速度でのんびりと流されていく。二人は待つ。急ぐ必要はない。時間ならたっぷりある。そこにあるのは失われた時間を回復するための時間だ。二人で共有する時間だ。慌てる必要はない。エッソの看板の虎が給油ポンプを片手に持ち、心得た笑みを顔に浮かべ、手を握り合う二人を横目で見守っている。  そこで青豆ははっと気づく。何かが前とは違っていることに。何がどう違っているのか、しばらくわからない。彼女は目を細め、意識をひとつに集中する。それから思い当たる。看板の虎は左側の横顔をこちらに向けている。しかし彼女が記憶している虎は、たしか右側の横顔を世界に向けていた。<傍点>虎の姿は反転している。彼女の顔が自動的に歪む。心臓が動悸を乱す。彼女の体内で何かが逆流していくような感触がある。でも本当にそう断言できるだろうか? 私の記憶はそこまで確かだろうか? 青豆には確信が持てない。ただ<傍点>そんな気がするというだけだ。記憶はときとして人を裏切る。  青豆はその疑念を自分の心の中だけに留める。まだそれを口に出してはならない。彼女はいったん目を閉じて呼吸を整え、心臓の鼓動を元に戻し、雲が通り過ぎるのを待つ。  人々は車中からガラス越しにそんな二人の姿を見ている。この二人はいったい何を熱心に見上げているのだろう? どうしてそんなにしっかり手を握りあっているのだろう? 何人かは首をまわして、二人が見つめているのと同じ方向に目をやる。しかしそこには白い雲と、エッソの広告看板が見えるだけだ。<傍点>タイガーをあなたの車に、その虎は通り過ぎていく人々に左側の横顔を向け、ガソリンの更なる消費をにこやかに訴えている。オレンジ色の縞模様の尻尾は得意げに空中に持ち上げられている。  やがて雲が切れ、月が空に姿を見せる。  月はひとつしかない。いつも見慣れたあの黄色い孤高な月だ。ススキの野原の上に黙して浮かび、穏やかな湖面に白い丸皿となって漂い、寝静まった家屋の屋根を密やかに照らすあの月だ。満ち潮をひたむきに砂浜に寄せ、獣たちの毛を柔らかく光らせ、夜の旅人を包み護るあの月だ。ときには鋭利な三日月となって魂の皮膚を削ぎ、新月となって暗い孤絶のしずくを地表に音もなく滴らせる、あのいつもの月だ。その月はエッソの看板の真上に位置を定めている。その傍らにいびつなかたちをした、緑色の小さな月の姿はない。月は誰をも従えず寡黙にそこに浮かんでいる。確かめ合うまでもなく二人は同じひとつの光景を目にしている。青豆は無言のまま天吾の大きな手を握りしめる。逆流する感覚はもう消えている。  <傍点>私たちは1984年に戻ってきたのだ、青豆は自分にそう言い聞かせる。ここはもうあの1Q84年ではない。もとあった1984年の世界なのだ。  でも本当にそうだろうか。それほど簡単に世界は元に復するものだろうか? 旧来の世界に戻る通路はもうどこにもない、リーダーは死ぬ前にそう断言したではないか。  ひょっとしてここは<傍点>もうひとつの違う場所ではあるまいか。私たちはひとつの異なった世界からもうひとつ更に異なった、第三の世界に移動しただけではないのか。タイガーが右側ではなく左側の横顔をにこやかにこちらに向けている世界に。そしてそこでは新しい謎と新しいルールが、私たちを待ち受けているのではないのか?  あるいはそうかもしれない、と青豆は思う。少なくともそうではないと言い切ることは、今の私にはできない。しかしそれでも、ひとつだけ確信を持って言えることがある。何はともあれここは、月が二つ空に浮かんだ<傍点>あの世界ではないということだ。そして私は天吾くんの手を握りしめている。私たちは論理が力を持たない危険な場所に足を踏み入れ、厳しい試練をくぐり抜けて互いを見つけ出し、そこを抜け出したのだ。辿り着いたところが旧来の世界であれ、更なる新しい世界であれ、何を怯えることがあるだろう。新たな試練がそこにあるのなら、もう一度乗り越えればいい。それだけのことだ。少なくとも私たちはもう孤独ではない。  彼女は身体の力を抜き、信じるべきものを信じるために、天吾の大きな胸にもたれかかる。そこに耳をつけ、心臓の鼓動に耳を澄ませる。そして彼の腕の中に身を預ける。サヤの中に収まる豆のように。 「これから僕らはどこに行けばいいんだろう」、どれほどの時間が経過したあとだろう、天吾が青豆に尋ねる。  いつまでもここにはいられない。それは確かだ。しかし首都高速道路には路肩がない。池尻の出口は比較的近くだが、いくら交通渋滞中とはいえ、狭い高速道路を歩行者が車の間を縫って移動するのは危険すぎる。また首都高の路上で、ヒッチハイクの合図に気軽に応じてくれるドライバーが見つかるとも思えない。非常電話で道路公団事務所を呼び出して助けを求めることもできたが、そうなると二人がここに迷い込んだ理由を、相手が納得できるように説明しなくてはならない。たとえ池尻出口まで無事に歩いてたどり着けたとしても、料金所の係員が二人を見咎めるだろう。さっき登ってきた階段を降りるのはもちろん論外だ。 「私にはわからない」と青豆は言う。  これからどうすればいいのか、どこに向かえばいいのか、彼女には本当にわからなかった。非常階段を登り切ったところで青豆の役目は終了していた。考えを巡らせたり、ことの正否を判断するためのエネルギーは使い果たされていた。彼女の中にはもはや一滴の燃料も残ってはいない。あとのことはほかの何かの力に任せるしかない。  天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。  祈りの文句は、口からそのまま自然に出てくる。条件反射に近いものだ。考える必要もない。その言葉のひとつひとつは何の意味も持たない。それらの文言《もんごん》は、今となってはただ音の響きであり、記号の羅列に過ぎない。しかしその祈りを機械的に唱えながら、彼女は何かしら不可思議な気持ちになる。敬虔な気持ちとさえ言っていいかもしれない。奥の方で何かがそっと彼女の心を打つ。たとえどんなことがあったにせよ、自分というものを損なわずに済んでよかった。彼女はそう思う。私が私自身としてここに——<傍点>ここがたとえどこであれ——いることができてよかったと思う。  あなたの王国が私たちにもたらされますように、と青豆はもう一度声に出して繰り返す。小学校の給食の前にそうしたように。それが何を意味するのであれ、彼女は心からそう望む。あなたの王国が私たちにもたらされますように。  天吾は青豆の髪を指で梳《す》くように撫でる。  十分ばかり後に天吾は通りかかったタクシーを停める。二人はしばらくのあいだ自分たちの目を信じることができない。渋滞中の首都高速道路を客を乗せていない一台のタクシーがのろのろと通りかかったのだ。天吾が半信半疑で手を挙げるとすぐ後部席のドアが開き、二人はそこに乗り込む。幻が消えてしまうのを恐れるように、急いで、あわただしく。眼鏡をかけた若い運転手が首を曲げて後ろを向く。 「この渋滞だから、すぐ先の池尻出口で降りさせてもらいますが、それでもかまいませんか?」と運転手は言う。男にしてはどちらかといえば甲高い声だ。しかし耳障りなところはない。 「それでいい」と青豆は言う。 「本当は首都高の路上でお客を拾ったりするのは法律に違反するんですが」 「たとえばどんな法律に?」と青豆は尋ねる。運転席のミラーに映った彼女の顔は僅かにしかめられている。  高速道路の路上でタクシーが客を拾うことを禁じる法律の名前を、運転手は急には思いつけない。そしてミラーの中の青豆の顔が彼をじんわりと威嚇する。 「まあいいです」と運転手はその話題を放棄する。「で、どちらまで行けばいいのでしょう?」 「渋谷駅の近くで下ろしてくれればいい」と青豆は言う。 「メーターは倒しません」と運転手は言う。「料金は下に降りてからのぶんだけ頂きます」 「でもどうしてこんなところを、タクシーが客を乗せないで走っているんだろう?」と天吾が運転手に尋ねる。 「けっこうややこしい話なんですが」と運転手は疲弊をにじませた声で言う。「聞きたいですか?」 「聞きたい」と青豆が言う。どんなに長くて退屈な話でもかまわない。この新しい世界で人々が語る物語を彼女は聞きたい。そこには新しい秘密があり、新しい暗示があるかもしれない。 「砧《きぬた》公園の近くで中年の男性客を拾いまして、青山学院大学の近くまで高速を通っていってくれと言われました。下を通ると渋谷あたりで混んじゃいますからね。そのときはまだ首都高渋滞の情報は入っていませんでした。すいすい流れているということでした。だから言われたとおり用賀で首都高に乗ったんです。ところが谷町あたりで衝突事故があったらしく、ごらんの有様です。いったん上に乗っちまうと、池尻出口までは下りるにも下りられません。そうこうするうちに、そのお客が知り合いに出会ったんです。駒沢のあたりでべったり停まっているときに、隣の車線に銀色のベンツのクーペが並んでいまして、それを運転している女性がたまたま知り合いだったんですね。で、窓を開けて二人で話をしていたんですが、こっちに来ればということになりました。そんなわけで、悪いけどここで精算して、あっちに移っていいかなと、その人が私に言いました。首都高速でお客を下ろすなんて前代未聞ですが、まあ実質動いていないようなものですし、いやとも言えませんよね。それでお客はそのベンツに乗り移りました。悪いねということで、料金に少し色はつけてもらいましたが、それでもこっちはたまったもんじゃありません。何しろそのまま身動きがとれないわけですから。それでじりじりとなんとかここまでやってきました。もうちょっとで池尻出口というところまで。するとお客さんたちがあそこで手を挙げているのが見えました。とても信じられない話です。そう思いませんか?」 「信じられる」と青豆は簡潔に言う。  二人はその夜、赤坂にある高層ホテルに部屋をとる。彼らは部屋を暗くしてそれぞれの服を脱ぎ、ベッドに入って抱き合う。語り合わなくてはならないことは数多くあったが、それは夜が明けてからでいい。まず済ませなくてはならないことがほかにある。二人は口をきくこともなく、暗闇の中で時間をかけてお互いの身体を調べ合う。十本の指と手のひらを使って、何がどこにあって、どんなかたちをしているかをひとつずつ確かめる。秘密の部屋で宝探しをしている小さな子供たちのように、胸をときめかせながら。そしてひとつの存在を確かめると、そこに唇をつけて認証の封印を与える。  時間をかけてそれだけの作業を終えると、青豆は天吾の硬くなったペニスを長いあいだ手に握っている。かつて放課後の教室で彼の手を握ったのと同じように。それは彼女の知っているどんなものより硬く感じられる。ほとんど奇跡に近いまでに。それから青豆は脚を開き、身体を寄せ、それを自分の中にゆっくりと導き入れる。まっすぐ奥の方まで。彼女は闇の中で目を閉じ、深く暗く息を呑む。それからその息を時間をかけて吐き出す。天吾はその温かい吐息を胸に感じる。 「こんな風にあなたに抱かれることをずっと想像していたの」と青豆は身体の動きを止め、天吾の耳元に口を寄せて囁く。 「僕とセックスをすることを?」 「そうよ」 「十歳のときからずっと<傍点>このことを想像していたの?」と天吾は尋ねる。  青豆は笑う。「まさか。もう少し大きくなってからよ」 「僕も同じことを想像していた」 「私の中に入ることを?」 「そうだよ」と天吾は言う。 「どう、想像どおりだった?」 「まだ本当のことのようには思えない」と天吾は正直に言う。「まだ想像の続きの中にいるような気がする」 「でもこれは本当のことよ」 「本当のことにしては素晴らしすぎるような気がする」  青豆は暗闇の中で微笑む。それから天吾の唇に唇を重ねる。二人はしばらくのあいだ舌をからめあっている。 「ねえ、私の胸ってあまり大きくないでしょう」、青豆はそう言う。 「これでちょうどいい」と天吾は彼女の胸に手を置いて言う。 「本当にそう思う?」 「もちろん」と彼は言う。「これ以上大きいと君じゃなくなってしまう」 「ありがとう」と青豆は言う。そして付け加える。「でもそれだけじゃなくて、右と左の大きさもけっこう違っている」 「今のままでいい」と天吾は言う。「右は右で、左は左だ。何も変えなくていい」  青豆は天吾の胸に耳をつける。「ねえ、長いあいだ私は一人ぼっちだった。そしていろんなことに深く傷ついていた。もっと前にあなたと再会できればよかったのに。そうすればこんなに回り道をしないですんだ」  天吾は首を振る。「いや、そうは思わないな。これでいいんだ。今がちょうどその時期だったんだよ。どちらにとっても」  青豆は泣く。ずっとこらえていた涙が両方の目からこぼれる。彼女はそれを止めることができない。大粒の涙が、雨降りのような音を立ててシーツの上に落ちる。天吾を深く中に収めたまま、彼女は身体を細かく震わせて泣き続ける。天吾は両手を彼女の背中に回して、その身体をしっかりと支える。それはこれから彼がずっと支え続けていくはずのものだ。そして天吾はそのことを何よりも嬉しく思う。  彼は言う、「僕らがどれくらい孤独だったかを知るには、それぞれこれくらいの時間が必要だったんだ」 「動かして」と青豆は彼の耳元で言う。「ゆっくりと時間をかけて」  天吾は言われたとおりにする。とてもゆっくり彼は身体を動かす。静かに呼吸をし、自らの鼓動に耳を澄ませながら。青豆はそのあいだ、まるで溺れかけている人のように天吾の大きな身体にしがみついている。彼女は泣くことをやめ、考えることをやめ、過去からも未来からも自らを隔て、天吾の身体の動きに心を同化させる。  明け方近く、二人はホテルのバスローブに身を包み、大きなガラス窓の前に並んで立って、ルームサービスでとった赤ワインのグラスを傾けている。青豆はそれにほんのしるしだけ口をつける。彼らはまだ眠りを必要としてはいない。十七階の部屋の窓からは、月を心ゆくまで眺めることができる。雲の群れも既にどこかに去り、彼らの視界を遮るものは何ひとつない。明け方の月はずいぶん距離を移動したものの、都市のスカイラインぎりぎりのところにまだ浮かんでいる。それは灰に似た白みを増しながら、あと少しでその役目を終えて地平に没しようとしている。  青豆はフロントで、料金は高くなってもかまわないから、月を眺められる高い階の部屋を選んでほしいと頼んだ。「それが何よりも大事な条件なの。月がきれいに見えることが」と青豆は言った。  担当の女性は飛び込みで訪れた若いカップルに対して親切だった。ホテルがその夜たまたま暇だったということもある。また彼女が二人に対して一目で自然な好意を持てたということもある。彼女はボーイに実際に部屋を見に行かせ、窓から月がきれいに見えることを確認してから、ジュニア?スイートルームの鍵を青豆に渡した。特別割引料金も適用した。 「今日は満月か何かなのですか?」とフロントの女性は興味深そうに青豆に尋ねた。彼女はこれまで無数の客から、ありとあらゆる要求や希望や懇願を聞かされてきた。しかし窓から月がきれいに見える部屋を真剣に求める客にはまだ会ったことがなかった。 「いいえ」と青豆は言った。「満月はもう過ぎている。今は三分の二くらいの大きさ。でもそれでいいの。月さえ見えれば」 「月をごらんになるのがお好きなのですか?」 「それは大事なことなの」と青豆は微笑んで言った。「とても」  夜明けに近くなっても、月の数は増えていなかった。ひとつきり、あの見慣れたいつもの月だ。誰にも思い出せないくらい昔から、地球のまわりを同じ速度で忠実に回り続けている唯一無二の衛星だ。青豆は月を眺めがら下腹部にそっと手をやり、そこに<傍点>小さなものが宿っていることをもう一度確かめる。膨らみはさっきよりも更に少し大きくなっているように感じられる。  ここがどんな世界か、まだ判明してはいない。しかしそれがどのような成り立ちを持った世界であれ、私はここに留まるだろう。青豆はそう思う。<傍点>私たちはここに留まるだろう。この世界にはおそらくこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう。そしてこの世界なりの多くの謎と矛盾に満ちているのだろう。行く先のわからない多くの暗い道を、私たちはこの先いくつも辿らなくてはならないかもしれない。しかしそれでもいい。かまわない。進んでそれを受け入れよう。私はここからもうどこにも行かない。どんなことがあろうと私たちは、このひとつきりの月を持った世界に踏み留まるのだ。天吾と私とこの小さなものの三人で。  タイガーをあなたの車に、とエッソの虎は言う。彼は左側の横顔をこちらに向けている。でもどちら側でもいい。その大きな微笑みは自然で温かく、そしてまっすぐ青豆に向けられている。今はその微笑みを信じよう。それが大事なことだ。彼女は同じように微笑む。とても自然に、優しく。  彼女は空中にそっと手を差し出す。天吾がその手をとる。二人は並んでそこに立ち、お互いをひとつに結び合わせながら、ビルのすぐ上に浮かんだ月を言葉もなく見つめている。それが昇ったばかりの新しい太陽に照らされて、夜の深い輝きを急速に失い、空にかかったただの灰色の切り抜きに変わってしまうまで。 〈BOOK3 終り〉 六〇頁の引用は、「東京日記」(『百聞随筆I』講談社文芸文庫所収)、『アフリカの日々』の引用は、横山貞子訳(ディネーセン?コレクション1、晶文社)を参考にしました。 本作品は書下ろし作品です。 1Q84 〈イチ?キュウ?ハチ?ヨン〉 BOOK 3 発行/2010年4月16日 2刷/2010年4月25日 著者/村上春樹 (むらかみはるき) 発行者/佐藤隆信 発行所/株式会社新潮社 郵便番号162-8711 東京都新宿区矢来町71 電話 編集部 03(3266)5411?読者係 03(3266)5111 http://www.shinchosha.co.jp 印刷所/二光印刷株式会社 製本所/大口製本印刷株式会社 (C) Haruki Murakami 2010, Printed in Japan ISBN978-440-353425-9 C0093 乱丁?落丁本は、ご面倒ですが小社読者係宛お送り下さい。 送料小社負担にてお取替えいたします。 価格はカバーに表示してあります。