ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
It’s a Barnum and Bailey world,
Just as phony as it can be,
But it wouldn’t be make-believe
If you believed in me.
“It’s Only a Paper Moon”
(E.Y.Harbung & Harold Arlen)
1Q84
a novel
BOOK 1
〈4月-6月〉
目次
第1章 青豆 見かけにだまされないように 11
第2章 天吾 ちょっとした別のアイデア 30
第3章 青豆 変更されたいくつかの事実 56
第4章 天吾 あなたがそれを望むのであれば 77
第5章 青豆 専門的な技能と訓練が必要とされる職業 102
第6章 天吾 我々はかなり遠くまで行くのだろうか? 122
第7章 青豆 蝶を起こさないようにとても静かに 143
第8章 天吾 知らないところに行って知らない誰かに会う 165
第9章 青豆 風景が変わり、ルールが変わった 188
第10章 天吾 本物の血が流れる実物の革命 205
第11章 青豆 肉体こそが人間にとっての神殿である 232
第12章 天吾 あなたの王国が私たちにもたらされますように 256
第13章 青豆 生まれながらの被害者 278
第14章 天吾 ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごと 303
第15章 青豆 気球に碇をつけるみたいにしっかりと 325
第16章 天吾 気に入ってもらえてとても嬉しい 354
第17章 青豆 私たちが幸福になろうが不幸になろうが 378
第18章 天吾 もうビッグ?ブラザーの出てくる幕はない 405
第19章 青豆 秘密を分かち合う女たち 428
第20章 天吾 気の毒なギリヤーク人 448
第21章 青豆 どれほど遠いところに行こうと試みても 473
第22章 天吾 時間がいびつなかたちをとって進み得ること 490
第23章 青豆 これは何かの始まりに過ぎない 511
第24章 天吾 ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう 532
1Q84
〈ichi-kew-hachi-yon〉
a novel
BOOK 1
〈4月-6月〉
装頼 新潮社装幀室
装画 (C) NASA / Roger Ressmeyer / CORBIS
第1章 青豆
見かけにだまされないように
タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ませているようには見えなかった。中年の運転手は、まるで舳先{へさき}に立って不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。青豆{あおまめ}は後部席のシートに深くもたれ、軽く目をつむって音楽を聴いていた。
ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の冒頭部分を耳にして、これはヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だと言い当てられる人が、世間にいったいどれくらいいるだろう。おそらく「とても少ない」と「ほとんどいない」の中間くらいではあるまいか。しかし青豆にはなぜかそれができた。
ヤナーチェックは一九二六年にその小振りなシンフォニーを作曲した。冒頭のテーマはそもそも、あるスポーツ大会のためのファンファーレとして作られたものだ。青豆は一九二六年のチェコ?スロバキアを想像した。第一次大戦が終結し、長く続いたハプスブルク家の支配からようやく解放され、人々はカフェでピルゼン?ビールを飲み、クールでリアルな機関銃を製造し、中部ヨーロッパに訪れた束の間の平和を味わっていた。フランツ?カフカは二年前に不遇のうちに世を去っていた。ほどなくヒットラーがいずこからともなく出現し、その小ぢんまりした美しい国をあっという間にむさぼり食ってしまうのだが、そんなひどいことになるとは、当時まだ誰ひとりとして知らない。歴史が人に示してくれる最も重要な命題は「当時、先のことは誰にもわかりませんでした」ということかもしれない。青豆は音楽を聴きながら、ボヘミアの平原を渡るのびやかな風を想像し、歴史のあり方について思いをめぐらせた。
一九二六年には大正天皇が崩御し、年号が昭和に変わった。日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシズムが幅をきかせるようになる。
歴史はスポーツとならんで、青豆が愛好するもののひとつだった。小説を読むことはあまりないが、歴史に関連した書物ならいくらでも読めた。歴史について彼女が気に入っているのは、すべての事実が基本的に特定の年号と場所に結びついているところだった。歴史の年号を記憶するのは、彼女にとってそれほどむずかしいことではない。数字を丸暗記しなくても、いろんな出来事の前後左右の関係性をつかんでしまえば、年号は自動的に浮かび上がってくる。中学と高校では、青豆は歴史の試験では常にクラスで最高点をとった。歴史の年号を覚えるのが苦手だという人を目にするたびに、青豆は不思議に思った。どうしてそんな簡単なことができないのだろう?
青豆というのは彼女の本名である。父方の祖父は福島県の出身で、その山の中の小さな町だか村だかには、青豆という姓をもった人々が実際に何人かいるということだった。しかし彼女自身はまだそこに行ったことがない。青豆が生まれる前から、父親は実家と絶縁していた。母方も同じだ。だから青豆は祖父母に一度も会ったことがない。彼女はほとんど旅行をしないが、それでもたまにそういう機会があれば、ホテルに備え付けられた電話帳を開いて、青豆という姓を持った人がいないか調べることを習慣にしていた。しかし青豆という名前を持つ人物は、これまでに彼女が訪れたどこの都市にも、どこの町にも、一人として見あたらなかった。そのたびに彼女は、大海原に単身投げ出された孤独な漂流者のような気持ちになった。
名前を名乗るのがいつもおっくうだった。自分の名前を口にするたびに、相手は不思議そうな目で、あるいは戸惑った目で彼女の顔を見た。青豆さん? そうです。青い豆と書いて、アオマメです。会社に勤めているときには名刺を持たなくてはならなかったので、そのぶん煩わしいことが多かった。名刺を渡すと相手はそれをしばし凝視した。まるで出し抜けに不幸の手紙でも渡されたみたいに。電話口で名前を告げると、くすくす笑われることもあった。役所や病院の待合室で名前を呼ばれると、人々は頭を上げて彼女を見た。「青豆」なんていう名前のついた人間はいったいどんな顔をしているんだろうと。
ときどき間違えて「枝豆さん」と呼ぶ人もいた。「空豆さん」といわれることもある。そのたびに「いいえ、枝豆(空豆)ではなく、青豆です。まあ似たようなものですが」と訂正した。すると相手は苦笑しながら謝る。「いや、それにしても珍しいお名前ですね」と言う。三十年間の人生でいったい何度、同じ台詞を聞かされただろう。どれだけこの名前のことで、みんなにつまらない冗談を言われただろう。こんな姓に生まれていなかったら、私の人生は今とは違うかたちをとっていたかもしれない。たとえば佐藤だとか、田中だとか、鈴木だとか、そんなありふれた名前だったら、私はもう少しリラックスした人生を送り、もう少し寛容な目で世間を眺めていたかもしれない。あるいは。
青豆は目を閉じて、音楽に耳を澄ませていた。管楽器のユニゾンの作り出す美しい響きを頭の中にしみ込ませた。それからあることにふと思い当たった。タクシーのラジオにしては音質が良すぎる。どちらかといえば小さな音量でかかっているのに、音が深く、倍音がきれいに聞き取れる。彼女は目を開けて身を前に乗り出し、ダッシュボードに埋め込まれたカーステレオを見た。機械は真っ黒で、つややかに誇らしそうに光っていた。メーカーの名前までは読みとれなかったが、見かけからして高級品であることはわかった。たくさんのつまみがつき、緑色の数字がパネルに上品に浮かび上がっている。おそらくはハイエンドの機器だ。普通の法人タクシーがこんな立派な音響機器を車に装備するはずがない。
青豆はあらためて車内を見まわした。タクシーに乗ってからずっと考え事をしていたので気づかなかったのだが、それはどう見ても通常のタクシーではなかった。内装の品質が良く、シートの座り心地も優れている。そしてなにより車内が静かだ。遮音が行き届いているらしく、外の騒音がほとんど入ってこない。まるで防音装置の施されたスタジオにいるみたいだ。たぶん個人タクシーなのだろう。個人タクシーの運転手の中には、車にかける費用を惜しまない人がいる。彼女は目だけを動かしてタクシーの登録票を探したが、見あたらなかった。しかし無免許の違法タクシーには見えない。正規のタクシー?メーターがついて、正確に料金を刻んでいる。2150円という料金が表示されている。なのに運転手の名前を記した登録票はどこにもない。
「良い車ですね。とても静かだし」と青豆は運転手の背中に声をかけた。「なんていう車なんですか?」
「トヨタのクラウン?ロイヤルサルーン」と運転手は簡潔に答えた。
「音楽がきれいに聞こえる」
「静かな車です。それもあってこの車を選んだんです。こと遮音にかけてはトヨタは世界でも有数の技術を持っていますから」
青豆は肯いて、もう一度シートに身をもたせかけた。運転手の話し方には何かしらひっかかるものがあった。常に大事なものごとをひとつ言い残したようなしゃべり方をする。たとえば(あくまでたとえばだが)トヨタの車は遮音に関しては文句のつけようがないが、ほかの<傍点>何か傍点>に関しては問題がある、というような。そして話し終えたあとに、含みのある小さな沈黙の塊が残った。車内の狭い空間に、それがミニチュアの架空の雲みたいにぽっかり浮かんでいた。おかげで青豆はどことなく落ち着かない気持ちになった。
「たしかに静か」と彼女はその小さな雲を追いやるように発言した。「それにステレオの装置もずいぶん高級なものみたい」
「買うときには、決断が必要でした」、退役した参謀が過去の作戦について語るような口調で運転手は言った。「でもこのように長い時間を車内で過ごしますから、できるだけ良い音を聴いていたいですし、また——」
青豆は話の続きを待った。しかし続きはなかった。彼女はもう一度目を閉じて、音楽に耳を澄ませた。ヤナーチェックが個人的にどのような人物だったのか、青豆は知らない。いずれにせよおそらく彼は、自分の作曲した音楽が一九八四年の東京の、ひどく渋滞した首都高速道路上の、トヨタ?クラウン?ロイヤルサルーンのひっそりとした車内で、誰かに聴かれることになろうとは想像もしなかったに違いない。
しかしなぜ、その音楽がヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だとすぐにわかったのだろう、と青豆は不思議に思った。そしてなぜ、私はそれが一九二六年に作曲されたと知っているのだろう。彼女はとくにクラシック音楽のファンではない。ヤナーチェックについての個人的な思い出があるわけでもない。なのにその音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。そしてまた、その音楽は青豆に、<傍点>ねじれ傍点>に似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞り上げられているような感じがあるだけだ。青豆にはわけがわからなかった。『シンフォニエッタ』という音楽が私にこの不可解な感覚をもたらしているのだろうか。
「ヤナーチェック」と青豆は半ば無意識に口にした。言ってしまってから、そんなことは言わなければよかったと思った。
「なんですか?」
「ヤナーチェック。この音楽を作曲した人」
「知りませんね」
「チェコの作曲家」と青豆は言った。
「ほう」と運転手は感心したように言った。
「これは個人タクシーですか?」と青豆は話題を変えるために質問した。
「そうです」と運転手は言った。そしてひとつ間を置いた。「個人でやってます。この車は二台目になります」
「シートの座り心地がとてもいい」
「ありがとうございます。ところでお客さん」と運転手は少しだけ首をこちらに曲げて言った。
「ひょっとしてお急ぎですか?」
「渋谷で人と待ち合わせがあります。だから首都高に乗ってもらったんだけど」
「何時に待ち合わせてます?」
「四時半」と青豆は言った。
「今が三時四十五分ですね。これじゃ間に合わないな」
「そんなに渋滞はひどいの?」
「前の方でどうやらでかい事故があったようです。普通の渋滞じゃありません。さっきからほとんど前に進んでいませんから」
どうしてこの運転手はラジオで交通情報を聞かないのだろう、と青豆は不思議に思った。高速道路が壊滅的な渋滞状態に陥って、足止めを食らっている。タクシーの運転手なら普通、専用の周波数に合わせて情報を求めるはずだ。
「交通情報を聞かなくても、そういうことはわかるの?」と青豆は尋ねた。
「交通情報なんてあてになりゃしません」と運転手はどことなく空虚な声で言った。「あんなもの、半分くらいは嘘です。道路公団が自分に都合のいい情報を流しているだけです。今ここで本当に何が起こっているかは、自分の目で見て、自分の頭で判断するしかありません」
「それであなたの判断によれば、この渋滞は簡単には解決しない?」
「当分は無理ですね」と運転手は静かに肯きながら言った。「そいつは保証できます。いったんこうがちがちになっちまうと、首都高は地獄です。待ち合わせは大事な用件ですか?」
青豆は考えた。「ええ、とても。クライアントとの待ち合わせだから」
「そいつは困りましたね。お気の毒ですが、たぶん間に合いません」
運転手はそう言って、<傍点>こり傍点>をほぐすように軽く何度か首を振った。首の後ろのしわが太古の生き物のように動いた。その動きを見るともなく見ているうちに、ショルダーバッグの底に入っている鋭く尖った物体のことを青豆はふと思い出した。手のひらが微かに汗ばんだ。
「じゃあ、どうすればいいのかしら?」
「どうしようもありません。ここは首都高速道路ですから、次の出口にたどり着くまでは手の打ちようがないです。一般道路のようにちょっとここで降りて、最寄りの駅から電車に乗るというわけにはいきません」
「次の出口は?」
「池尻ですが、そこに着くには日暮れまでかかるかもしれませんよ」
日暮れまで? 青豆は自分が日暮れまで、このタクシーの中に閉じこめられるところを想像した。ヤナーチェックの音楽はまだ続いている。弱音器つきの弦楽器が気持ちの高まりを癒すように、前面に出てくる。さっきのねじれの感覚は今ではもうずいぶん収まっていた。あれはいったいなんだったのだろう?
青豆は砧{きぬた}の近くでタクシーを拾い、用賀から首都高速道路三号線に乗った。最初のうち車の流れはスムーズだった。しかし三軒茶屋の手前から急に渋滞が始まり、やがてほとんどぴくりとも動かなくなった。下り線は順調に流れている。上り線だけが悲劇的に渋滞している。午後の三時過ぎは通常であれば、三号線の上りが渋滞する時間帯ではない。だからこそ青豆は運転手に、首都高速に乗ってくれと指示したのだ。
「高速道路では時間料金は加算されません」と運転手はミラーに向かって言った。「だから料金のことは心配しなくていいです。でもお客さん、待ち合わせに遅れると困るでしょう?」
「もちろん困るけど、でも手の打ちようもないんでしょう?」
運転手はミラーの中の青豆の顔をちらりと見た。彼は淡い色合いのサングラスをかけていた。光の加減で、青豆の方からは表情がうかがえない。
「あのですね、方法がまったくないってわけじゃないんです。いささか強引な非常手段になりますが、ここから電車で渋谷まで行くことはできます」
「非常手段?」
「あまりおおっぴらには言えない方法ですが」
青豆は何も言わず、目を細めたまま話の続きを待った。
「ほら、あの先に車を寄せるスペースがあるでしょう」と運転手は前方を指さして言った。「エッソの大きな看板が立っているあたりです」
青豆が目をこらすと、二車線の道路の左側に、故障車を停めるためのスペースが設置されているのが見えた。首都高速道路には路肩がないから、ところどころにそういう緊急避難場所が設けられている。非常用電話の入った黄色いボックスがあり、高速道路事務所に連絡することができる。そのスペースには今のところ、車は一台も停まっていなかった。対向車線を隔てたビルの屋上に大きなエッソ石油の広告看板があった。にっこり笑った虎が給油ホースを手にしている。
「実はですね、地上に降りるための階段があそこにあります。火災とか大地震が起きたときに、ドライバーが車を捨ててそこから地上に降りられるようになっているわけです。普段は道路補修の作業員なんかが使っています。その階段を使って下に降りれば、近くに東急線の駅があります。そいつに乗れば、あっという間に渋谷です」
「首都高に非常階段があるなんて知らなかった」と青豆は言った。
「一般にはほとんど知られてはいません」
「しかし緊急事態でもないのに、その階段を勝手に使ったりすると、問題になるんじゃないかしら?」
運転手は少しだけ間を置いた。「どうでしょうね。道路公団の細かい規則がどうなっているのか、私にもよくわかりません。しかし誰に迷惑をかけることでもなし、大目に見てもらえるのではないでしょうか。だいたいそんなところ、誰もいちいち見張っちゃいません。道路公団ってのはどこでも職員の数こそ多いけど、実際に働いている人間が少ないことで有名なんです」
「どんな階段?」
「そうですね、火災用の非常階段に似ています。ほら、古いビルの裏側によくついているようなやつ。とくに危険はありません。高さはビルの三階ぶんくらいありますが、普通に降りられます。いちおう入り口のところに柵がついていますが、高いものじゃないし、その気になればわけなく乗り越えられます」
「運転手さんはその階段を使ったことがあるの?」
返事はなかった。運転手はルームミラーの中で淡く微笑んだだけだ。いろんな意味に取れそうな笑みだった。
「あくまでお客さん次第です」、運転手は音楽に合わせて指先でハンドルをとんとんと軽く叩きながらそう言った。「ここに座って良い音で音楽を聴きながら、のんびりしてらしても、私としちゃちっともかまいません。いくらがんばってもどこにも行けないんですから、こうなったらお互い腹をくくるしかありません。しかしもし緊急の用件がおありなら、そういう非常手段も<傍点>なくはない傍点>ってことです」
青豆は軽く顔をしかめ、腕時計に目をやり、それから顔を上げてまわりの車を眺めた。右側には、うっすらと白くほこりをかぶった黒い三菱パジェロがいた。助手席に座った若い男は窓を開けて、退屈そうに煙草を吸っていた。髪が長く、日焼けして、えんじ色のウィンドブレーカーを着ている。荷物室には使い込まれた汚ないサーフボードが何枚か積んであった。その前にはグレーのサーブ900が停まっていた。ティントしたガラス窓はぴたりと閉められ、どんな人間が乗っているのかは外からはうかがえない。実にきれいにワックスがかけられている。そばに寄ったら車体に顔が映りそうなくらいだ。
青豆の乗ったタクシーの前には、リアバンパーにへこみのある練馬ナンバーの赤いスズキ?アルトがいた。若い母親がハンドルを握っている。小さな子供は退屈して、シートの上に立って動き回っていた。母親はうんざりしたような顔で注意を与えている。母親の口の動きがガラス越しに読みとれた。十分前とまったく同じ光景だ。この十分のあいだに、車は十メートルも進んではいないだろう。
青豆はひとしきり考えをめぐらせた。いろんな要素を、優先順位に従って頭の中で整理した。結論が出るまでに時間はかからなかった。ヤナーチェックの音楽も、それにあわせるように最終楽章に入ろうとしていた。
青豆はショルダーバッグから小振りなレイバンのサングラスを出してかけた。そして財布から千円札を三枚取り出して運転手に渡した。
「ここで降ります。遅れるわけにはいかないから」と彼女は言った。
運転手は肯いて、金を受け取った。「領収書は?」
「けっこうです。お釣りもいらない」
「それはどうも」と運転手は言った。「風が強そうですから、気をつけて下さい。足を滑らせたりしないように」
「気をつけます」と青豆は言った。
「それから」と運転手はルームミラーに向かって言った。「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」
ものごとは見かけと違う、と青豆は頭の中でその言葉を繰り返した。そして軽く眉をひそめた。
「それはどういうことかしら?」
運転手は言葉を選びながら言った。「つまりですね、言うなればこれから<傍点>普通ではない傍点>ことをなさるわけです。そうですよね? 真っ昼間に首都高速道路の非常用階段を降りるなんて、普通の人はまずやりません。とくに女性はそんなことしません」
「そうでしょうね」と青豆は言った。
「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」
青豆は運転手の言ったことについて考えた。考えているうちにヤナーチェックの音楽が終わり、聴衆が間髪を入れずに拍手を始めた。どこかのコンサートの録音を放送していたのだろう。長い熱心な拍手だった。ブラヴォーというかけ声も時折聞こえた。指揮者が微笑みを浮かべ、立ち上がった聴衆に向かって何度も頭を下げている光景が目に浮かんだ。彼は顔を上げ、手を上げ、コンサートマスターと握手をし、後ろを向き、両手を上げてオーケストラのメンバーを賞賛し、前を向いてもう一度深く頭を下げる。録音された拍手を長く聞いていると、そのうちに拍手に聞こえなくなる。終わりのない火星の砂嵐に耳を澄ませているみたいな気持ちになる。
「現実はいつだってひとつしかありません」、書物の大事な一節にアンダーラインを引くように、運転手はゆっくりと繰り返した。
「もちろん」と青豆は言った。そのとおりだ。ひとつの物体は、ひとつの時間に、ひとつの場所にしかいられない。アインシュタインが証明した。現実とはどこまでも冷徹であり、どこまでも孤独なものだ。
青豆はカーステレオを指さした。「とても良い音だった」
運転手は肯いた。「作曲家の名前はなんて言いましたっけ?」
「ヤナーチェック」
「ヤナーチェック」と運転手は反復した。大事な合い言葉を暗記するみたいに。それからレバーを引いて後部の自動ドアを開けた。「お気をつけて。約束の時間に間に合うといいんですが」
青豆は革の大振りなショルダーバッグを手に車を降りた。車を降りるときにもまだ、ラジオの拍手は鳴りやまず続いていた。彼女は十メートルばかり前方にある緊急避難用スペースに向けて、高速道路の端を注意深く歩いた。反対行きの車線を大型トラックが通り過ぎるたびに、高いヒールの下で路面がゆらゆらと揺れた。それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ航空母艦の甲板を歩いているようだ。
赤いスズキ?アルトに乗った小さな女の子が、助手席の窓から顔を突き出し、ぽかんと口を開けて青豆を眺めていた。それから振り向いて母親に「ねえねえ、あの女の人、何しているの?どこにいくの?」と尋ねた。「私も外に出て歩きたい。ねえ、お母さん、私も外に出たい。ねえ、お母さん」と大きな声で執拗に要求した。母親はただ黙って首を振った。それから責めるような視線を青豆にちらりと送った。しかしそれがあたりで発せられた唯一の声であり、目についた唯一の反応だった。ほかのドライバーたちはただ煙草をふかせ、眉を軽くひそめ、彼女が側壁と車のあいだを迷いのない足取りで歩いていく姿を、眩しいものを見るような目で追っていた。彼らは一時的に判断を保留しているようだった。たとえ車が動いていないにせよ、首都高速道路の路上を人が歩くのは日常的な出来事とは言えない。それを現実の光景として知覚し受け入れるまでにいくらか時間がかかる。歩いているのがミニスカートにハイヒールというかっこうの若い女性であれば、それはなおさらだ。
青豆は顎を引いてまっすぐ前方を見据え、背筋を伸ばし、人々の視線を肌に感じながら、確かな足取りで歩いていった。シャルル?ジョルダンの栗色のヒールが路上に乾いた音を立て、風がコートの裾を揺らせた。既に四月に入っていたが、風はまだ冷たく、荒々しさの予感を含んでいた。彼女はジュンコ?シマダのグリーンの薄いウールのスーツの上に、ベージュのスプリング?コートを着て、黒い革のショルダーバッグをかけていた。肩までの髪はきれいにカットされ、よく手入れされている。装身具に類するものは一切つけていない。身長は一六八センチ、贅肉はほとんどひとかけらもなく、すべての筋肉は念入りに鍛え上げられているが、それはコートの上からはわからない。
正面から仔細に顔を観察すれば、左右で耳のかたちと大きさがかなり異なっていることがわかるはずだ。左の耳の方が右の耳よりずっと大きくて、かたちがいびつなのだ。しかしそんなことにはまず誰も気がつかない。耳はだいたいいつも髪の下に隠されていたからだ。唇はまっすぐ一文字に閉じられ、何によらず簡単には馴染まない性格を示唆している。細い小さな鼻と、いくぶん突き出した頬骨と、広い額と、長い直線的な眉も、その傾向にそれぞれ一票を投じている。しかしおおむね整った卵形の顔立ちである。好みはあるにせよ、いちおう美人といってかまわないだろう。問題は、顔の表情が極端に乏しいところにあった。堅く閉じられた唇は、よほどの必要がなければ微笑みひとつ浮かべなかった。その両目は優秀な甲板監視員のように、怠りなく冷ややかだった。おかげで、彼女の顔が人々に鮮やかな印象を与えることはまずなかった。多くの場合人々の注意や関心を惹きつけるのは、静止した顔立ちの善し悪しよりは、むしろ表情の動き方の自然さや優雅さなのだ。
おおかたの人は青豆の顔立ちをうまく把握できなかった。いったん目を離すともう、彼女がどんな顔をしていたのか描写することができない。どちらかといえば個性的な顔であるはずなのに、細部の特徴がどうしてか頭に残らない。そういう意味では彼女は、巧妙に擬態する昆虫に似ていた。色やかたちを変えて背景の中に潜り込んでしまうこと、できるだけ目立たないこと、簡単に記憶されないこと、それこそがまさに青豆の求めていることだった。小さな子供の頃から彼女はそのようにして自分の身を護ってきたのだ。
ところが何かがあって顔をしかめると、青豆のそんなクールな顔立ちは、劇的なまでに一変した。顔の筋肉が思い思いの方向に力強くひきつり、造作の左右のいびつさが極端なまでに強調され、あちこちに深いしわが寄り、目が素早く奥にひっこみ、鼻と口が暴力的に歪み、顎がよじれ、唇がまくれあがって白い大きな歯がむき出しになった。そしてまるでとめていた紐が切れて仮面がはがれ落ちたみたいに、彼女はあっという間にまったくの別人になった。それを目にした相手は、そのすさまじい変容ぶりに肝を潰した。それは大いなる無名性から息を呑む深淵への、驚くべき跳躍だった。だから彼女は知らない人の前では、決して顔をしかめないように心がけていた。彼女が顔を歪めるのは、自分ひとりのときか、あるいは気に入らない男を脅すときに限られていた。
緊急用駐車スペースに着くと、青豆は立ち止まってあたりを見まわし、非常階段を探した。それはすぐに見つかった。運転手が言ったように、階段の入り口には腰より少し上くらいの高さの鉄柵があり、扉には鍵がかかっていた。タイトなミニスカートをはいてその鉄柵を乗り越えるのはいささか面倒だが、人目さえ気にしなければとくに難しいことでもない。彼女は迷わずハイヒールを脱ぎ、ショルダーバッグの中に突っ込んだ。素足で歩けばストッキングはたぶんだめになるだろう。でもそんなものはどこかの店で買えばいい。
人々は彼女がハイヒールを脱ぎ、それからコートを脱ぐ様子を無言のまま見守っていた。すぐ前に止まっている黒いトヨタ?セリカの開いた窓から、マイケル?ジャクソンの甲高い声が背景音楽として流れてきた。『ビリー?ジーン』。ストリップ?ショーのステージにでも立っているみたい、と彼女は思った。いいわよ。見たいだけ見ればいい。渋滞に巻き込まれてきっと退屈しているんでしょう。でもね、みなさん、これ以上は脱がないわよ。今日のところはハイヒールとコートだけ。お気の毒さま。
青豆はショルダーバッグが落ちないようにたすきがけにした。さっきまで乗っていた真新しい黒のトヨタ?クラウン?ロイヤルサルーンが、ずっと向こうに見えた。午後の太陽の光を受けて、フロントグラスがミラーグラスのようにまぶしく光っていた。運転手の顔までは見えない。しかし彼はこちらを見ているはずだ。
見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。
青豆は大きく息を吸い込み、大きく息をはいた。そして『ビリー?ジーン』のメロディーを耳で追いながら鉄柵を乗り越えた。ミニスカートが腰のあたりまでまくれあがった。かまうものか、と彼女は思った。見たければ勝手に見ればいい。スカートの中の何を見たところで、私という人間が見通せるわけではないのだ。そしてほっそりとした美しい両脚は、青豆が自分の身体の中でいちばん誇らしく思っている部分だった。
鉄柵の向こう側に降りると、青豆はスカートの裾をなおし、手のほこりを払い、再びコートを着て、ショルダーバッグを肩にかけた。サングラスのブリッジを奥に押した。非常階段は目の前にある。灰色に塗装された鉄の階段だ。簡素で、事務的で、機能性だけが追求された階段。ストッキングだけの素足に、タイトなミニスカートをはいた女性が昇り降りするように作られてはいない。ジュンコ?シマダも、首都高速道路三号線の緊急避難用階段を昇り降りすることを念頭に置いてスーツをデザインしてはいない。大型トラックが反対車線を通り過ぎ、階段をぶるぶると揺らせた。風が鉄骨の隙間を音を立てて吹き抜けた。しかしとにかく階段はそこにあった。あとは地上に降りていくだけだ。
青豆は最後に後ろを振り返り、講演を終えて演壇に立ったまま、聴衆からの質問を待ち受ける人のような姿勢で、路上に隙間なく並んだ自動車を左から右に、そして右から左に見渡した。自動車の列はさっきからまったく前進していない。人々はそこに足止めされ、ほかにすることもないまま、彼女の一挙一動を見守っていた。この女はいったい何をしようとしているのだろう、と彼らはいぶかっていた。関心と無関心が、うらやましさと軽侮が入り交じった視線が、鉄柵の向こう側に降りた青豆の上に注がれていた。彼らの感情はひとつの側に転ぶことができぬまま、不安定な秤{はかり}のようにふらふらと揺れていた。重い沈黙があたりに垂れ込めていた。手を上げて質問するものもいなかった(質問されてももちろん青豆には答えるつもりはなかったが)。人々は永遠に訪れることのないきっかけを、ただ無言のうちに待ち受けていた。青豆は軽く顎を引き、下唇を噛み、濃い緑色のサングラスの奥から彼らをひととおり品定めした。
私が誰なのか、これからどこに行って何をしようとしているのか、きっと想像もつかないでしょうね。青豆は唇を動かさずにそう語りかけた。あなたたちはそこに縛りつけられたっきり、どこにも行けない。ろくに前にも進めないし、かといって後ろにも下がれない。でも私はそうじゃない。私には済ませなくてはならない仕事がある。果たすべき使命がある。だから私は先に進ませてもらう。
青豆は最後に、そこにいるみんなに向かって思い切り顔をしかめたかった。しかしなんとかそれを思いとどまった。そんな余計なことをしている余裕はない。一度顔をしかめると、もとの表情を回復するのに手間がかかるのだ。
青豆は無言の観衆に背を向け、足の裏に鉄の無骨な冷たさを感じながら、緊急避難用の階段を慎重な足取りで降り始めた。四月を迎えたばかりの冷ややかな風が彼女の髪を揺らし、いびつなかたちの左側の耳をときおりむきだしにした。
第2章 天吾
ちょっとした別のアイデア
天吾{てんご}の最初の記憶は一歳半のときのものだ。彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせていた。ベビーベッドには一人の赤ん坊がいて、それはおそらく天吾だった。彼は自分を第三者として眺めている。あるいはそれは彼の双子の兄弟なのだろうか? いや、そうじゃない。そこにいるのはたぶん一歳半の天吾自身だ。彼には直感的にそれがわかる。赤ん坊は目を閉じ、小さな寝息をたてて眠っていた。それが天吾にとっての人生の最初の記憶だ。その十秒間ほどの情景が、鮮明に意識の壁に焼き付けられている。前もなく後ろもない。大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している。
機会があるごとに天吾はまわりの人に尋ねてみた。思い出せる人生の最初の情景は何歳のころのものですかと。多くの人にとって、それは四歳か五歳のときのものだった。早くても三歳だった。それより前という例はひとつもない。子供が自分のまわりにある情景を、ある程度論理性を有したものとして目撃し、認識できるようになるのは、少なくとも三歳になってかららしい。それより前の段階では、すべての情景は理解不能なカオスとして目に映る。世界はゆるい粥{かゆ}のようにどろどろとして骨格を持たず、捉えどころがない。それは脳内に記憶を形成することなく、窓の外を過ぎ去っていく。
父親でない男が母親の乳首を吸っているという状況の意味あいが、もちろん一歳半の幼児に判断できるはずはない。それは明らかだ。だからもし天吾のその記憶が真正なものであるとすれば、おそらく彼は何も判断せず、目にした情景をあるがまま網膜に焼き付けたのだろう。カメラが物体をただの光と影の混合物として、機械的にフィルムに記録するのと同じように。そして意識が成長するにつれて、その保留され固定された映像が少しずつ解析され、そこに意味性が付与されていったのだろう。でもそんなことが果たして現実に起こり得るのだろうか? 乳幼児の脳にそんな映像を保存しておくことが可能なのだろうか?
あるいはそれはただのフェイクの記憶なのだろうか。すべては彼の意識が後日、なんらかの目的なり企みを持って、勝手に拵{こしら}え上げたものなのだろうか? 記憶の捏造{ねつぞう}——その可能性についても天吾は十分に考慮した。そしておそらくそうではあるまいという結論に達した。拒えものであるにしては記憶はあまりにも鮮明であり、深い説得力をもっている。そこにある光や、匂いや、鼓動。それらの実在感は圧倒的で、まがいものとは思えない。そしてまた、その情景が実際に存在したと仮定する方が、いろんなものごとの説明がうまくついた。論理的にも、そして感情的にも。
時間にして十秒ほどのその鮮明な映像は、前触れもなしにやってくる。予兆もなければ、猶予もない。ノックの音もない。電車に乗っているとき、黒板に数式を書いているとき、食事をしているとき、誰かと向かい合って話をしているとき(たとえば今回のように)、それは唐突に天吾を訪れる。無音の津波のように圧倒的に押し寄せてくる。気がついたとき、それはもう彼の目の前に立ちはだかり、手足はすっかり痺れている。時間の流れがいったん止まる。まわりの空気が希薄になり、うまく呼吸ができなくなる。まわりの人々や事物が、すべて自分とは無縁のものと化してしまう。その液体の壁は彼の全身を呑み込んでいく。世界が暗く閉ざされていく感覚があるものの、意識が薄れるわけではない。レールのポイントが切り替えられるだけだ。意識は部分的にはむしろ鋭敏になる。恐怖はない。しかし目を開けていることはできない。まぶたは固く閉じられる。まわりの物音も遠のいていく。そしてそのお馴染みの映像が何度も意識のスクリーンに映し出される。身体のいたるところから汗がふきだしてくる。シャツの脇の下が湿っていくのがわかる。全身が細かく震え始める。鼓動が速く、大きくなる。
誰かと同席している場合であれば、天吾は立ちくらみのふりをする。それは事実、立ちくらみに似ている。時間さえ経過すれば、すべては平常に復する。彼はポケットからハンカチを取り出し、口に当ててじっとしている。手をあげて、何でもない、心配することはないと相手にシグナルを送る。三十秒ほどで終わることもあれば、一分以上続くこともある。そのあいだ同じ映像が、ビデオテープにたとえればリピート状態で自動反復される。母親がスリップの肩紐を外し、その硬くなった乳首をどこかの男が吸う。彼女は目を閉じ、大きく吐息をつく。母乳の懐かしい匂いが微かに漂う。赤ん坊にとって嗅覚はもっとも先鋭的な器官だ。嗅覚が多くを教えてくれる。あるときにはすべてを教えてくれる。音は聞こえない。空気はどろりとした液状になっている。聴き取れるのは、自らのソフトな心音だけだ。
これを見ろ、と彼らは言う。これ<傍点>だけ傍点>を見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかには行けないのだ、と彼らは言う。そのメッセージが何度も何度も繰り返される。
今回の「発作」は長く続いた。天吾は目を閉じ、いつものようにハンカチを口にあて、しっかり噛みしめていた。どれくらいそれが続いたのかわからない。すべてが終わってしまってから、身体のくたびれ方で見当をつけるしかない。身体はひどく消耗していた。こんなに疲れたのは初めてだ。まぶたを開くことができるようになるまでに時間がかかった。意識は一刻も早い覚醒を求めていたが、筋肉や内臓のシステムがそれに抵抗していた。季節を間違えて、予定より早く目を覚ましてしまった冬眠動物のように。
「よう、天吾くん」と誰かがさっきから呼びかけていた。その声は横穴のずっと奥の方から、ぼんやりと聞こえてきた。それが自分の名前であることに天吾は思い当たった。「どうした。また例のやつか? 大丈夫か?」とその声は言った。今度はもう少し近くに聞こえる。
天吾はようやく目を開け、焦点をあわせ、テーブルの縁を握っている自分の右手を眺めた。世界が分解されることなく存在し、自分がまだ自分としてそこにあることを確認した。しびれは少し残っているが、そこにあるのはたしかに自分の右手だった。汗の匂いもした。動物園の何かの動物の艦の前で嗅ぐような、奇妙に荒々しい匂いだ。しかしそれは疑いの余地なく、彼自身の発する匂いだった。
喉が渇いている。天吾は手を伸ばしてテーブルの上のグラスをとり、こぼさないように注意しながら半分水を飲んだ。いったん休んで呼吸を整え、それから残りの半分を飲んだ。意識がだんだんあるべき場所に戻り、身体の感覚が通常に復してきた。空っぽになったグラスを下に置き、口元をハンカチで拭った。
「すみません。もう大丈夫です」と彼は言った。そして今向かい合っている相手が小松であることを確認した。二人は新宿駅近くの喫茶店で打ち合わせをしている。まわりの話し声も普通の話し声として聞こえるようになった。隣りのテーブルに座った二人連れが、何ごとが起こったのだろうといぶかってこちらを見ていた。ウェイトレスが不安そうな表情を顔に浮かべて近くに立っている。座席で吐かれるのを心配しているのかもしれない。天吾は顔を上げ、彼女に向かって微笑み、肯いた。問題はない、心配しなくていい、というように。
「それって、何かの発作じゃないよな?」と小松は尋ねた。
「たいしたことじゃありません。ただの立ちくらみのようなものです。ただきついだけで」と天吾は言った。声はまだ自分の声のようには聞こえない。しかしなんとかそれに近いものにはなっている。
「車を運転してるときなんかにそういうのがおこると、なかなか大変そうだ」、小松は天吾の目を見ながら言った。
「車の運転はしません」
「それはなによりだ。知り合いにスギ花粉症の男がいてね、運転中にくしゃみが始まって、そのまま電柱にぶつかっちまった。ところが天吾くんのは、くしゃみどころじゃすまないものな。最初のときはびつくりしたよ。二回目ともなれば、まあ少しは慣れてくるけど」
「すみません」
天吾はコーヒーカップを手に取り、その中にあるものを一口飲んだ。何の味もしない。ただなま温かい液体が喉を通りすぎていくだけだ。
「新しい水をもらおうか?」と小松が尋ねた。
天吾は首を振った。「いえ、大丈夫です。もう落ち着きました」
小松は上着のポケットからマルボロの箱を取り出し、口に煙草をくわえ、店のマッチで火をつけた。それから腕時計にちらりと目をやった。
「それで、何の話をしていたんでしたっけ?」と天吾は尋ねた。早く平常に戻らなくてはならない。
「ええと、俺たち何を話してたんだっけな」と小松は言って目を宙に向け、少し考えた。あるいは考えるふりをした。どちらかは天吾にもわからない。小松の動作やしゃべり方には少なからず演技的な部分がある。「うん、そうだ、<傍点>ふかえり傍点>って女の子の話をしかけてたんだ。それと『空気さなぎ』について」
天吾は肯いた。ふかえりと『空気さなぎ』の話だ。それについて小松に説明しかけたところで「発作」がやってきて、話が中断した。天吾は鞄の中から原稿のコピーの束を取り出し、テーブルの上に置いた。原稿の上に手を載せ、その感触を今一度たしかめた。
「電話でも簡単に話しましたけど、この『空気さなぎ』のいちばんの美点は誰の真似もしていない、というところです。新人の作品にしては珍しく、<傍点>何かみたいになりたい傍点>という部分がありません」、天吾は慎重に言葉を選んで言った。「たしかに文章は荒削りだし、言葉の選び方も稚拙です。だいたい題名からして、<傍点>さなぎ傍点>と<傍点>まゆ傍点>を混同しています。その気になれば、欠陥はほかにもいくらでも並べ立てられるでしょう。でもこの物語には少なくとも人を引き込むものがあります。筋全体としては幻想的なのに、細部の描写がいやにリアルなんです。そのバランスがとてもいい。オリジナリティーとか必然性とかいった言葉が適切なのかどうか、僕にはわかりません。そんな水準まで達していないと言われれば、そのとおりかもしれない。でもつっかえつっかえ読み終えたとき、あとに<傍点>しん傍点>とした手応えが残ります。それがたとえ居心地の悪い、うまく説明のつかない奇妙な感触であるにしてもです」
小松は何も言わず天吾の顔を見ていた。更に多くの言葉を彼は求めていた。
天吾は続けた。「文章に稚拙なところがあるからというだけで、この作品を簡単に選考から落としてほしくなかったんです。この何年か仕事として、山ほど応募原稿を読んできました。まあ読んだというよりは、読み飛ばしたという方が近いですが。比較的良く書けた作品もあれば、箸にも棒にもかからないものも——もちろんあとの方が圧倒的に多いんだけど——ありました。でもとにかくそれだけの数の作品に目を通してきて、仮にも手応えらしきものを感じたのはこの『空気さなぎ』が初めてです。読み終えて、もう一度あたまから読み返したいという気持ちになったのもこれが初めてです」
「ふうん」と小松は言った。そしていかにも興味なさそうに煙草の煙を吹き、口をすぼめた。しかし天吾は小松との決して短くはないつきあいから、その見かけの表情には簡単にだまされないようになっていた。この男は往々にして、本心とは関係のない、あるいはまったく逆の表情を顔に浮かべることがある。だから天吾は相手が口を開くのを辛抱強く待った。
「俺も読んだよ」と小松はしばらく時間を置いてから言った。哨天吾くんから電話をもらって、そのあとすぐに原稿を読んだ。いや、でも、おそろしく下手だね。<傍点>てにをは傍点>もなってないし、何が言いたいのか意味がよくわからない文章だってある。小説なんか書く前に、文章の書き方を基礎から勉強し直した方がいいよな」
「でも最後まで読んでしまった。そうでしょう?」
小松は微笑んだ。普段は開けることのない抽斗{ひきだし}の奥からひっぱり出してきたような微笑みだった。「そうだな。たしかにおっしゃるとおりだ。最後まで読んだよ。自分でも驚いたことに。新人賞の応募作を俺が最後まで読み通すなんて、まずないことだ。おまけに部分的に読み返しまでした。こうなるともう惑星直列みたいなもんだ。そいつは認めよう」
「それは<傍点>何か傍点>があるってことなんです。違いますか?」
小松は灰皿に煙草を置き、右手の中指で鼻のわきをこすった。しかし天吾の問いかけに対しては返事をしなかった。
天吾は言った。「この子はまだ十七歳、高校生です。小説を読んだり、書いたりする訓練ができてないだけです。今回の作品が新人賞をとるっていうのは、そりゃたしかにむずかしいかもしれません。でも最終選考に残す価値はありますよ。小松さんの一存でそれくらいはできるでしょう。そうすればきっと次につながります」
「ふうん」と小松はもう一度うなって、退屈そうにあくびをした。そしてグラスの水を一口飲んだ。「なあ、天吾くん、よく考えろよ。こんな荒っぽいものを最終選考に残してみろ。選考委員の先生方はひっくり返っちゃうぜ。怒り出すかもしれない。だいいち最後まで読みもしないよ。選考委員は四人とも現役の作家だ。みんな仕事が忙しい。最初の二ページをぱらぱら読んだだけであっさり放り出しちまうさ。こんなもの小学生の作文並みじゃないかってさ。磨けば光るものがここにはあります、なんて俺が揉み手をしながら熱弁を振るったところで、誰が耳を傾ける?俺の一存なんてものがたとえ力を持つにしても、そいつはもっと見込みのあるもののためにとっておきたいね」
「ということは、あっさりと落としてしまうということですか?」
「とは言ってない」、小松は鼻のわきをこすりながら言った。「俺はこの作品については、ちょっとした別のアイデアを持っているんだ」
「ちょっとした別のアイデア」と天吾は言った。そこには不吉な響きが微かに聞き取れた。
「次の作品に期待しろと天吾くんは言う」と小松は言った。「俺だってもちろん期待はしたいさ。時間をかけて若い作家を大事に育てるのは、編集者としての大きな喜びだ。澄んだ夜空を見渡して、誰よりも先に新しい星を見つけるのは胸躍るものだ。ただ正直に言ってね、この子に次があるとは考えにくい。俺もふつつかながら、この世界で二十年飯を食ってきた。そのあいだにいろんな作家が出たり引っ込んだりするのを目にしてきた。だから次がある人間と、次があるとは思えない人間の区別くらいはつくようになった。それでね、俺に言わせてもらえれば、この子には次はないよ。気の毒だけど、次の次もない。次の次の次もない。だいいちこの文章は、時間をかけ研鑽{けんさん}を積んで上達するような代物じゃないよ。いくら待ったってどうにもなりゃしない。待ちぼうけのまんまだ。どうしてかっていうとね、良い文章を書こう、うまい文章を書けるようになりたいという<傍点>つもり傍点>が、本人に露ほどもないからさ。文章ってのは、生まれつき文才が具{そな}わっているか、あるいは死にものぐるいの努力をしてうまくなるか、どっちかしかないんだ。そしてこのふかえりっていう子は、そのどっちでもない。見ての通り天性の才能もないし、かといって努力するつもりもなさそうだ。どうしてかはわからん。でも文章というものに対する興味がそもそもないんだ。物語を語りたいという意志はたしかにある。それもかなり強い意志であるらしい。そいつは認める。それがナマのかたちで、こうして天吾くんを惹きつけ、俺に最後まで原稿を読ませる。考えようによっちゃたいしたもんだ。にもかかわらず小説家としての将来はない。南京虫のクソほどもない。君をがっかりさせるみたいだけど、ありていに意見を言わせてもらえれば、そういうことだ」
天吾はそれについて考えてみた。小松の言い分にも一理あるように思えた。小松には何はともあれ編集者としての勘が具わっている。
「でもチャンスを与えてやるのは悪いことじゃないでしょう」と天吾は言った。
「水に放り込んで、浮かぶか沈むか見てみろ。そういうことか?」
「簡単にいえば」
「俺はこれまでにずいぶん無益な殺生をしてきた。人が溺れるのをこれ以上見たくはない」
「じゃあ、僕の場合はどうなんですか?」
「天吾くんは少なくとも努力をしている」と小松は言葉を選んで言った。「俺の見るかぎりでは手抜きがない。文章を書くという作業に対してきわめて謙虚でもある。どうしてか? それは文章を書くことが好きだからだ。俺はそこも評価している。書くのが好きだというのは、作家を目指す人間にとっては何より大事な資質だよ」
「でも、それだけでは足りない」
「もちろん。それだけでは足りない。そこには『特別な何か』がなくてはならない。少なくとも、何かしら俺には読み切れないものが含まれていなくてはならない。俺はね、こと小説に関して言えば、自分に読み切れないものを何より評価するんだ。俺に読み切れるようなものには、とんと興味が持てない。当たり前だよな。きわめて単純なことだ」
天吾はしばらく黙っていた。それから口を開いた。「ふかえりの書いたものには、小松さんに読み切れないものは含まれていますか?」
「ああ。あるよ、もちろん。この子は何か大事なものを持っている。どんなものだか知らんが、ちゃんと持ち合わせている。そいつはよくわかるんだ。君にもわかるし、俺にもわかる。それは風のない午後の焚き火の煙みたいに、誰の目にも明らかに見て取れる。しかしね天吾くん、この子の抱えているものは、この子の手にはおそらく負いきれないだろう」
「水に放り込んでも浮かぶ見込みはない」
「そのとおり」と小松は言った。
「だから最終選考には残さない?」
「そこだよ」と小松は言った。そして唇をゆがめ、テーブルの上で両手を合わせた。「そこで俺としては、言葉を慎重に選ばなくちゃならないことになる」
天吾はコーヒーカップを手に取り、中に残っているものを眺めた。そしてカップを元に戻した。小松はまだ何も言わない。天吾は口を開いた。「小松さんの言う<傍点>ちょっとした別のアイデア傍点>がそこに浮上してくるわけですね?」
小松は出来の良い生徒を前にした教師のように目を細めた。そしてゆっくりと肯いた。「そういうことだ」
小松という男にはどこかはかり知れないところがあった。何を考えているのか、何を感じているのか、表情や声音から簡単に読みとることができない。そして本人も、そうやって相手を煙に巻くことを少なからず楽しんでいるらしかった。頭の回転はたしかに速い。他人の思惑など関係なく、自分の論理に従ってものを考え、判断を下すタイプだ。また不必要にひけらかすことはしないが、大量の本を読んでおり、多岐にわたって綿密な知識を有していた。知識ばかりではなく、直感的に人を見抜き、作品を見抜く目も持っていた。そこには偏見が多分に含まれていたが、彼にとっては偏見も真実の重要な要素のひとつだった。
もともと多くを語る男ではなく、何につけ説明を加えることを嫌ったが、必要とあれば怜倒に論理的に自説を述べることができた。そうなろうと思えばとことん辛辣になることもできた。相手の一番弱い部分を狙い澄まし、一瞬のうちに短い言葉で刺し貫くことができた。人についても作品についても個人的な好みが強く、許容できる相手よりは許容できない人間や作品の方がはるかに多かった。そして当然のことながら相手の方も、彼に対して好意を抱くよりは、抱かないことの方がはるかに多かった。しかしそれは彼自身の求めるところでもあった。天吾の見るところ、彼はむしろ孤立することを好んだし、他人に敬遠されることを——あるいははっきりと嫌われることを——けっこう楽しんでもいた。精神の鋭利さが心地よい環境から生まれることはない、というのが彼の信条だった。
小松は天吾より十六歳年上で、四十五歳になる。文芸誌の編集一筋でやってきて、業界ではやり手としてそれなりに名を知られているが、その私生活について知る人はいない。仕事上のつきあいはあっても、誰とも個人的な話をしないからだ。彼がどこで生まれてどこで育ち、今どこに住んでいるのか、天吾は何ひとつ知らなかった。長く話をしても、そんな話題は一切出てこない。そこまでとっつきが悪く、つきあいらしきこともせず、文壇を軽侮するような言動を取り、それでよく原稿がとれるものだと人は首をひねるのだが、本人はさして苦労もなさそうに、必要に応じて有名作家の原稿を集めてきた。彼のおかげで雑誌の体裁がなんとか整うということも何度かあった。だから人に好かれはせずとも、一目は置かれる。
噂では、小松が東京大学文学部にいたときに六〇年安保闘争があり、彼は学生運動組織の幹部クラスだったということだ。樺{かんば}美智子がデモに参加し、警官隊に暴行を受けて死んだときにすぐ近くにいて、彼自身も浅からぬ傷を負ったという。真偽のほどはわからない。ただそう言われれば、と納得できるところはあった。長身でひょろりと痩せて、口がいやに大きく、鼻がいやに小さい。手脚が長く、指の先にニコチンのしみがついている。十九世紀のロシア文学に出てくる革命家崩れのインテリゲンチアを思わせるところがある。笑うことはあまりないが、いったん笑うと顔中が笑みになる。しかしそうなっても、とくに楽しそうには見えない。不吉な予言を準備しながらほくそ笑んでいる、年期を経た魔法使いとしか見えない。清潔で身だしなみは良いが、おそらく服装なんぞに興味がないことを世界に示すためだろう、常に似たような服しか着ない。ツイードのジャケットに、白のオックスフォード綿のシャツか淡いグレーのポロシャツ、ネクタイはなし、グレーのズボン、スエードの靴、それがユニフォームのようなものだ。色と生地と柄の大きさがそれぞれわずかに異なるツイードの三つボタンジャケットが半ダースばかり、丁寧にブラシをかけられ、自宅のクローゼットに吊されている光景が目に浮かぶ。見分けをつけるために番号だって振られているかもしれない。
細い針金のような硬い髪は、前髪のあたりがわずかに白くなりかけている。髪はもつれ、耳が隠れるくらいだ。不思議なことにその長さは、一週間前に床屋に行くべきだったという程度に常に保たれている。どうしてそんなことが可能なのか、天吾にはわからない。ときどき冬の夜空で星が瞬くように、眼光が鋭くなる。何かあっていったん黙り込むと、月の裏側にある岩みたいにいつまでも黙っている。表情もほとんどなくなり、体温さえ失われてしまったみたいに見える。
天吾が小松と知り合ったのは五年ばかり前だ。彼は小松が編集者をしている文芸誌の新人賞に応募し、最終選考に残った。小松から電話がかかってきて、会って話をしたいと言われた。二人は新宿の喫茶店(今いるのと同じ店だ)で会った。今回の作品で君が新人賞をとるのは無理だろう、と小松は言った(事実とれなかった)。しかし自分は個人的にこの作品が気に入っている。
「恩を売るわけじゃないが、俺が誰かに向かってこんなことを言うのは、とても珍しいことなんだよ」と彼は言った(そのときは知らなかったが、実際にそのとおりだった)。だから次の作品を書いたら読ませてもらいたい、誰よりも先に、と小松は言った。そうしますと天吾は言った。
小松はまた、天吾がどのような人間なのかを知りたがった。どういう育ち方をして、今はどんなことをしているのか。天吾は説明できるところは、できるだけ正直に説明した。千葉県市川市で生まれて育った。母親は天吾が生まれてほどなく、病を得て死んだ。少なくとも父親はそのように言っている。兄弟はいない。父親はそのあと再婚することもなく、男手ひとつで天吾を育てた。父親はNHKの集金人をしていたが、今はアルツハイマー病になって、房総半島の南端にある療養所に入っている。天吾は筑波大学の「第一学群自然学類数学主専攻」という奇妙な名前のついた学科を卒業し、代々木にある予備校の数学講師をしながら小説を書いている。卒業したとき地元の県立高校に教師として就職する道もあったのだが、勤務時間が比較的自由な塾の講師になることを選んだ。高円寺の小さなアパートに一人で暮らしている。
職業的小説家になることを自分が本当に求めているのかどうか、それは本人にもわからない。小説を書く才能があるのかどうか、それもよくわからない。わかっているのは、自分は日々小説を書かずにはいられないという事実だけだった。文章を書くことは、彼にとって呼吸をするのと同じようなものだった。小松はとくに感想を言うでもなく、天吾の話をじっと聞いていた。
なぜかはわからないが小松は、天吾を個人的に気に入ったようだった。天吾は身体が大きく(中学校から大学までずっと柔道部の中心選手だった)、早起きの農夫のような目をしていた。髪を短く刈り、いつも日焼けしたような肌色で、耳はカリフラワーみたいに丸くくしゃくしゃで、文学青年にも数学の教師にも見えなかった。そんなところも小松の好みにあったらしい。天吾は新しい小説を書き上げると、小松のところに持っていった。小松は読んで感想を述べた。天吾はその忠告に従って改稿した。書き直したものを持っていくと、小松はそれに対してまた新しい指示を与えた。コーチが少しずつバーの高さを上げていくように。「君の場合は時間がかかるかもしれない」と小松は言った、「でも急ぐことはない。腹を据えて毎日休みなく書き続けるんだな。書いたものはなるたけ捨てずにとっておくといい。あとで役に立つかもしれないから」。そうします、と天吾は言った。
小松はまた、天吾に細かい文筆の仕事をまわしてくれた。小松の出版社が出している女性誌のための無署名の原稿書きだった。投書のリライトから、映画や新刊書の簡単な紹介記事から、果ては星占いまで、依頼があればなんでもこなした。天吾が思いつきで書く星占いはよくあたるので評判になった。彼が「早朝の地震に気をつけて下さい」と書くと、実際にある日の早朝に大きな地震が起こった。そのような賃仕事は、臨時収入としてありがたかったし、また文章を書く練習にもなった。自分の書いた文章が、たとえどのようなかたちであれ、活字になって書店に並ぶのは嬉しいものだ。
天吾はやがて文芸誌の新人賞の下読みの仕事も与えられた。本人が新人賞に応募する身でありながら、一方でほかの候補作の下読みをするというのも不思議な話だが、天吾自身は自分の立場の微妙さをとくに気にするでもなく、公正にそれらの作品に目を通した。そして出来の悪いつまらない小説を山ほど読むことによって、出来の悪いつまらない小説とはどういうものであるか、身に滲みて学んだ。彼は毎回百前後の数の作品を読み、なんとか意味らしきものを見いだせそうな作品を十編ほど選び、小松のところに持っていった。それぞれの作品に感想を書いたメモを添えた。最終選考に五編が残され、四人の選考委員がその中から新人賞を選んだ。
天吾のほかにも下読みのアルバイトがいたし、小松のほかにも複数の編集者が下選考にあたった。公正を期していたわけだが、わざわざそんな手間をかける必要もなかった。少しでも見所のある作品は、どれだけ全体の数が多くてもせいぜい二つか三つというところだし、誰が読んでも見逃しようはなかったから。天吾の作品が最終選考に残ったことは三度あった。さすがに天吾自身が自分の作品を選ぶことはなかったが、ほかの二人の下読み係が、そして編集部デスクである小松が残してくれた。それらの作品は新人賞をとれなかったが、天吾はがっかりもしなかった。ひとつには「時間をかければいい」という小松の言葉が頭に焼き付いていたからだし、それに天吾自身、とくに今すぐ小説家になりたいわけでもなかったからだ。
授業のカリキュラムをうまく調整すれば、週に四日は自宅で好きなことをしていられた。七年間同じ予備校で講師をしているが、生徒たちのあいだではかなり評判が良い。教え方が要を得て、まわりくどくなく、どんな質問にも即座に答えることができたからだ。天吾自身が驚いたことに、彼には話術の才が具わっていた。説明も上手だったし、声もよくとおったし、冗談を言って教室をわかせることもできた。教師の仕事に就くまで、自分ではずっと話し下手だと思っていた。今でも誰かと面と向かって話をしていると、緊張して言葉がうまく出てこないことがある。少人数のグループに入ると、もっぱら聞き役にまわった。しかし教壇に立ち、不特定多数の人々を前にすると、頭がすっと晴れ渡った状態になり、いくらでも気軽に話し続けられた。人間というのはよくわからないものだ、と天吾はあらためて思った。
給料に不満はなかった。多額の収入とは言えないにせよ、予備校は能力に見合っただけの報酬を払う。生徒による講師の査定が定期的におこなわれ、評価が高ければそのぶん待遇は上がっていく。優秀な講師をほかの学校に引き抜かれることを恐れるからだ(実際にヘッドハンティングの話は何度かあった)。普通の学校ではそうはいかない。給料は年功序列で決まるし、私生活は上司によって管理され、能力や人気など何の意味も持たない。彼は予備校での仕事を楽しんでもいた。大半の生徒は大学受験という明確な目的意識を持って教室にやってきて、熱心に講義を聴いた。講師は教室で教える以外には何もしなくていい。これは天吾にとってはありがたいことだ。生徒の非行や校則違反といった面倒な問題に頭を悩ませる必要はない。ただ教壇に立ち、数学の問題の解き方を教えればよかった。そして数字という道具を使った純粋な観念の行使は、天吾が生来得意とするところだった。
家にいるときは、朝早く起きてだいたい夕方近くまで小説を書いた。モンブランの万年筆とブルーのインクと、四百字詰め原稿用紙。それさえあれば天吾は満ち足りた気持ちになれた。週に一度、人妻のガールフレンドが彼のアパートの部屋にやってきて、午後を一緒に過ごした。十歳年上の人妻とのセックスは、どこにも行きようがないぶん気楽であり、その内容は充実していた。夕方に長い散歩をし、日が暮れると音楽を聴きながら一人で本を読んだ。テレビは見ない。NHKの集金人が来ると、申し訳ないがテレビはありませんと丁寧に断った。本当にないんです。中に入って調べてもらってもかまいません。しかし彼らは部屋には入ってこなかった。NHKの集金人には家に上がり込むことが許されていないのだ。
「俺が考えているのはね、もう少しでかいことなんだ」と小松は言った。
「でかいこと?」
「そう。新人賞なんて小さなことは言わず、どうせならもっとでかいのを狙う」
天吾は黙っていた。小松の意図するところは不明だが、そこに何かしら不穏なものを感じ取ることはできた。
「芥川賞だよ」と小松はしばらく間を置いてから言った。
「芥川賞」と天吾は相手の言葉を、濡れた砂の上に棒きれで大きく漢字を書くみたいに繰り返した。
「芥川賞。それくらい世間知らずの天吾くんだって知ってるだろう。新聞にでかでかと出て、テレビのニュースにもなる」
「ねえ小松さん、よくわからないんだけど、今ひょっとして僕らは、ふかえりの話をしているんですか?」
「そうだよ。我々はふかえりと『空気さなぎ』の話をしている。それ以外に話題にのぼった案件はないはずだ」
天吾は唇を噛んで、その裏にあるはずの筋を読みとろうとした。「でも、この作品は新人賞をとるのも無理だって、ずっとそういう話だったじゃないですか。このままじゃなんともならないって」
「そうだよ、このままじゃなんともならない。そいつは明白な事実だ」
天吾には考える時間が必要だった。「ということはつまり、応募してきた作品に手を入れるってことですか?」
「それ以外に方法はないさ。有望な応募作に編集者がアドバイスして書き直させる例はよくある。珍しいことじゃない。ただし今回は著者自身ではなく、ほかの誰かが書き直すことになる」
「ほかの誰か?」、そう言ったものの、その答えは質問を口にする前から天吾にはわかっていた。ただ念のために尋ねただけだ。
「君が書き直すんだよ」と小松は言った。
天吾は適当な言葉を探した。しかし適当な言葉は見あたらなかった。彼はため息をつき、言った。「でもね、小松さん、この作品は多少手直しするくらいじゃ間に合いません。頭から尻尾まで根本的に書き直さないことにはまとまりがつかないでしょう」
「もちろん頭から尻尾まで作り替える。物語の骨格はそのまま使う。文体の雰囲気もできるだけ残す。でも文章はほとんどそっくり入れ替える。いわゆる換骨奪胎{かんこつだったい}だ。実際の書き直しは天吾くんが担当する。俺が全体をプロデュースする」
「そんなにうまく行くものだろうか」と天吾は独りごとのように言った。
「いいかい」、小松はコーヒースプーンを手に取り、指揮者がタクトで独奏者を指定するようにそれを天吾に向けた。「このふかえりという子は何か特別なものを持っている。それは『空気さなぎ』を読めばわかる。この想像力はただものじゃない。しかし残念ながら文章の方はなんともならん。お粗末きわまりない。その一方で君には文章が書ける。筋がいいし、センスもある。図体はでかいが、文章は知的で繊細だ。勢いみたいなものもちゃんとある。ところがふかえりちゃんとは逆に、何を書けばいいのかが、まだつかみきれていない。だから往々にして物語の芯が見あたらない。君が本来書くべきものは、君の中にしっかりあるはずなんだ。ところがそいつが、深い穴に逃げ込んだ臆病な小動物みたいに、なかなか外に出てこない。穴の奥に潜んでいることはわかっているんだ。しかし外に出てこないことには捕まえようがない。時間をかければいいと俺が言うのは、そういう意味だよ」
天吾はビニールの椅子の中で不器用に姿勢を変えた。何も言わなかった。
「話は簡単だ」と小松はコーヒースプーンを細かく振りながら続けた。「その二人を合体して、一人の新しい作家をでっちあげればいいんだ。ふかえりが持っている荒削りな物語に、天吾くんがまっとうな文章を与える。組み合わせとしては理想的だ。君にはそれだけの力がある。だからこそ俺だってこれまで、個人的に肩入れしてきたんじゃないか。そうだろ? あとのことは俺にまかせておけばいい。力を合わせれば新人賞なんて軽いもんだよ。芥川賞もじゅうぶん狙える。俺だってこの業界で無駄飯を食ってきたわけじゃない。そのへんのやり方は裏の裏まで心得ている」
天吾は口を軽く開けたまま、しばらく小松の顔を見ていた。小松はコーヒースプーンをソーサーに戻した。不自然に大きな音がした。
「もし芥川賞をとれたとして、それからどうなるんですか?」と天吾は気を取り直して尋ねた。
「芥川賞をとれば評判になる。世の中の大半の人間は、小説の値打ちなんてほとんどわからん。しかし世の中の流れから取り残されたくないと思っている。だから賞を取って話題になった本があれば、買って読む。著者が現役の女子高校生ともなればなおさらだ。本が売れればけっこうな金になる。儲けは三人で適当に分けよう。そのへんは俺がうまく按配{あんばい}する」
「金の分配みたいなことは、今のところどうでもいいです」と天吾は潤いを欠いた声で言った。
「でもそんなことして、編集者としての職業倫理に抵触しないんですか。もしそんな仕掛けをしたことが世間にばれちゃったら、ずいぶんな問題になりますよ。会社にもいられないでしょう」
「そんなに簡単にばれやしないよ。俺はその気になればとても用心深くことを運ぶことができる。それにもしばれたところで、会社なんて喜んでやめてやる。どうせ上の方には受けが悪くて、ずっと冷や飯を食わされてきたんだ。仕事くらいすぐに見つけられる。俺はね、何も金がほしくてこんなことをやろうとしてるんじゃない。俺が望んでいるのは、文壇をコケにすることだよ。うす暗い穴ぐらにうじゃうじゃ集まって、お世辞を言い合ったり、傷口を舐めあったり、お互いの足を引っ張り合ったりしながら、その一方で文学の使命がどうこうなんて偉そうなことをほざいているしょうもない連中を、思い切り笑い飛ばしてやりたい。システムの裏をかいて、とことんおちょくってやるんだ。愉快だと思わないか?」
天吾にはそれがとくに愉快だとも思えなかった。だいたい彼は文壇なんてものをまだ目にしたこともない。そして小松ほどの有能な男が、そんな子供っぽい動機から危険な橋を渡ろうとしていることを知って、言葉を一瞬失ってしまった。
「小松さんの言ってることは、僕には一種の詐欺みたいに聞こえるんですが」
「合作は珍しいことじゃない」と小松は顔をしかめて言った。「雑誌の連載マンガなんて半分くらいはそれだ。スタッフがアイデアを出しあってストーリーをこしらえ、それを絵描きが簡単な線画にし、アシスタントが細かい部分を描き足して彩色をする。そのへんの工場で目覚まし時計を作るのと同じだ。小説の世界にだって似たような例はある。たとえばロマンス小説がそうだ。あれの多くは、出版社サイドが設定したノウハウに従って、雇われ作家がそれらしく話をこしらえているだけだ。要するに分業システムさ。そうしないことには量産がきかないからね。ただしお堅い純文学の世界では、そんな方式は表向き通用しないから、実際的な戦略として我々は、ふかえりという女の子一人を表面に立てておく。もしばれたら、そりゃちっとはスキャンダルになるかもしれない。しかし法律に反しているわけじゃない。そういうのはもはや時代の趨勢なんだよ。それに我々はバルザックやら紫式部やらの話をしているわけじゃない。そのへんの女子高校生が書いた穴ぼこだらけの作品に手を加えて、よりまともな作品を作り上げようとしているだけだ。それのどこがいけない? 出来上がった作品が良質で、多くの読者がそれを楽しめたとしたら、それでいいじゃないか」
天吾は小松の言ったことについて考えた。そして言葉を慎重に選んだ。「問題がふたつあります。もっとたくさん問題があるはずだけど、とりあえずふたつだけにしておきます。ひとつは著者であるふかえりという女の子が、他人の手による書き直しを了承するかどうかです。彼女がノーと言えば、話はもちろん一歩も前に進まない。もうひとつ、彼女がそれを了承したとして、僕があの物語を実際にうまく書き直せるかどうかという問題があります。共同作業というのはすごく微妙なものだし、小松さんが考えているように簡単にはものごとは運ばないんじゃないですか」
「天吾くんにならできる」、小松はその意見を前もって予期していたように、間を置かずに言った。「間違いなくできる。最初に『空気さなぎ』を読んだときに、それがまず俺の頭にぽっと浮かんだことだった。<傍点>こいつは天吾くんが書き直すべき話なんだ傍点>って。更に言えば、これは天吾くんが書き直すに相応{ふさわ}しい話なんだ。天吾くんに書き直されることを待っている話なんだ。そうは思わないか?」
天吾はただ首を振った。言葉が出てこない。
「何も急ぐことはない」と小松は静かな声で言った。「大事なことだ。二三日じっくり考えればいい。『空気さなぎ』をもう一度読み返してくれ。そして俺が提案したことについてよく考えてみてほしい。そうだ、こいつも君に渡しておこう」
小松は上着のポケットから茶色の封筒を出し、それを天吾に渡した。封筒の中には定型のカラー写真が二枚入っていた。女の子の写真だった。一枚は胸から上のポートレイト、もう一枚は全身が映ったスナップ写真。同じときに撮られたものらしい。彼女はどこかの階段の前に立っている。広い石の階段だ。古典的な美しい顔立ち、長いまっすぐな髪。白いブラウス。小柄で、やせている。唇は笑おうと努力しているが、目はそれに抵抗している。生真面目な目だ。何かを求める目だ。天吾はその二枚の写真をしばらく交互に眺めた。なぜかはわからないが、その写真を見ているうちに、その年代の頃の自分のことを思い出した。そして胸がわずかに痛んだ。それは長いあいだ味わったことのない特別な種類の痛みだった。彼女の姿にはそういう痛みを喚起するものがあるようだった。
小松が言った。「それがふかえりだ。なかなかの美人だろう。それも清楚なタイプだ。十七歳。申しぶんない。本名は深田絵里子。しかし本名は出さない。あくまで『ふかえり』で通す。芥川賞でもとったら、ちょっとした話題になると思わないか。マスコミは夕暮れどきのコウモリの群れみたいに頭上を飛び回るだろう。本は作る端から売れる」
小松はどこでその写真を手に入れたのだろう、天吾は不思議に思った。応募原稿に写真が添えられてくるわけはない。しかし天吾はそれについては質問しないことにした。回答を——どんな回答か予測もつかないが——知りたくなかったということもある。
「そいつは君が持っていればいい。何かの役に立つだろう」と小松は言った。天吾は写真を封筒に戻し、『空気さなぎ』の原稿コピーの上に置いた。
「小松さん、僕は業界の事情みたいなものはほとんど何も知りません。でも一般常識に照らし合わせて考えれば、これはすごく危なっかしい計画です。いったん世間に向けて嘘をついたら、永遠に嘘をつき通さなくちゃなりません。つじつまを合わせ続けなくちゃならない。心理的にも技術的にも、それは簡単なことじゃないはずです。誰かがどこかでひとつでもしくじれば、全員の命取りになりかねない。そう思いませんか?」
小松は新しい煙草を取り出して火をつけた。「そのとおりだ。君の言い分は健全で正しい。たしかにリスキーな計画だ。今の時点ではいささか不確定要素が多すぎる。何が起こるか予測がつかない。失敗して、それぞれに面白くない思いをすることになるかもしれない。そいつはよくわかっている。しかしな、天吾くん、すべてを考慮した上で、俺の本能は『前に進め』と告げている。なぜならこんなチャンスはまずお目にかかることのできないものだからだ。これまでだって一度もなかった。この先だってたぶんないだろう。賭け事にたとえるのは不適当かもしれんが、札も揃っている。チップもたっぷりある。いろんな条件がぴったりと合っている。この機会を逃したら、あとあと後悔することになる」
天吾は黙って、相手の顔に浮かんだいかにも不吉な微笑みを眺めていた。
「そしてなによりも大事なのは、俺たちが『空気さなぎ』を、より優れた作品に作り直そうとしているという点にある。あれはもっとうまく書かれて<傍点>いいはず傍点>の話なんだ。あそこには何かとても大事なものがある。誰かがうまく取り出してやらなくちゃならん<傍点>何か傍点>だ。天吾くんだって内心ではそう思っているはずだ。違うか? そのために我々は力を合わせる。プロジェクトを立ち上げ、それぞれの能力を持ち寄る。動機としてはどこに出しても恥ずかしくないものだよ」
「しかし小松さん、どんな理屈を持ち出そうと、大義名分を掲げようと、これはどうみても詐欺行為ですよ。動機はどこに出しても恥ずかしくないものかもしれないけれど、実際にはどこに出すこともできない。裏でこそこそ動き回らなくちゃなりません。詐欺という言葉が不適当なら、背信行為です。法律には反していなくても、そこにはモラルという問題があります。だって編集者が自社の文芸誌の新人賞作品をでっちあげるなんて、株式で言えばインサイダー取引きみたいなものじゃないですか」
「文学と株式を比較することはできない。その二つはまったく違うものだ」
「たとえばどんなところが違うんですか?」
「たとえば、そうだな、君はひとつ重大な事実を見落としている」と小松は言った。彼の口はこれまで見たことがないくらい大きく、楽しげに広がっていた。「というか、その事実から故意に目を背けている。それはね、君自身がすでにこいつを<傍点>やりたがっている傍点>ってことだ。君の気持ちはもう『空気さなぎ』の書き直しに向かっている。俺にはそれがよくわかる。リスクもモラルもへったくれもない。天吾くん、君は今では『空気さなぎ』を自分の手で書き直したくてたまらないはずだ。ふかえりの代わりに自分がその何かを取り出したくてたまらないはずだ。なあ、それがまさに文学と株式の違いなんだよ。そこでは良くも悪くも、金以上の動機がものごとを動かしていく。うちに帰って自分の本心をじっくり確かめてみるといい。鏡の前に立って自分の顔をよく眺めてみるといい。顔にしっかりとそう書いてあるぜ」
あたりの空気が突然薄くなったような気がした。天吾は短くまわりを見渡した。またあの映像がやってくるのだろうか? しかしそんな気配はなかった。その空気の希薄さはどこか別の領域からやってきたものだ。彼はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。小松の言うことはいつも正しいのだ。なぜか。
第3章 青豆
変更されたいくつかの事実
青豆はストッキングだけの素足で、狭い非常階段を降りた。むき出しの階段を風が音を立てて吹き抜けていった。タイトなミニスカートだったが、それでも時折下から吹き込む強い風にあおられてヨットの帆のようにふくらみ、身体が持ち上げられて不安定になった。彼女は手すりがわりのパイプを素手でしっかりと握り、後ろ向きになって一段一段下に向かった。ときどき立ち止まって顔にかかった前髪を払い、たすきがけにしたショルダーバッグの位置を調整した。
眼下には国道二四六号線が走っていた。エンジン音やクラクション、車の防犯アラームの悲鳴、右翼の街宣車が流す古い軍歌、スレッジハンマーがどこかでコンクリートを砕いている音、その他ありとあらゆる都会の騒音が、彼女を取り囲んでいた。騒音はまわり三六〇度、上から下から、すべての方向から押し寄せてきて、風に乗って舞った。それを聞いていると(とくに聞きたくもないが、耳をふさいでいる余裕もない)、だんだん船酔いに似た気分の悪さを感じるようになった。
階段をしばらく降りたところで、高速道路の中央に向けて戻っていく平らな通路{キャットウォーク}があった。それからまたまっすぐ下に向かって降りていく。
むき出しの非常階段から道路をひとつ隔てて、五階建ての小さなマンションが建っていた。茶色の煉瓦タイルのけっこう新しい建物だ。こちらに向かってベランダがついていたが、どの窓もぴたりと閉ざされ、カーテンかブラインドがかかっている。いったいどんな種類の建築家が、首都高速道路と鼻をつき合わせるような位置にわざわざベランダをつけたりするのだろう? そんなところにシーツを干す人間もいないだろうし、そんなところで夕方の交通渋滞を眺めながらジン?トニックのグラスを傾ける人間もいないはずだ。それでもいくつかのベランダには、決まり事のようにナイロンの物干しロープが張ってあった。ひとつにはガーデンチェアと鉢植えのゴムの木まで置かれていた。うらぶれて色槌せたゴムの木だった。葉はぼろぼろになり、あちこちで茶色く枯れている。青豆はそのゴムの木に同情しないわけにはいかなかった。もし生まれ変われるとしてもそんなものにだけはなりたくない。
非常階段はふだんほとんど使われていないらしく、ところどころに蜘蛛の巣が張っていた。小さな黒い蜘蛛がそこにへばりついて、小さな獲物がやってくるのを我慢強く待っていた。しかし蜘蛛にしてみれば、とくに我慢強いという意識もないのだろう。蜘蛛としては巣を張る以外にとくべつな技能もないし、そこでじっとしている以外にライフスタイルの選択肢もない。ひとところに留まって獲物を待ち続け、そのうちに寿命が尽きて死んでひからびてしまう。すべては遺伝子の中に前もって設定されていることだ。そこには迷いもなく、絶望もなく、後悔もない。形而上的な疑問も、モラルの葛藤もない。おそらく。でも私はそうじゃない。私は目的に沿って移動しなくてはならないし、だからこそこうしてストッキングをだめにしながら、ろくでもない三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線のわけのわからない非常階段を一人で降りている。しみったれた蜘蛛の巣をはらい、馬鹿げたベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。
私は移動する。ゆえに私はある。
青豆は階段を降りながら、大塚環{たまき}のことを考えた。考えるつもりはなかったのだが、一度頭に浮かんでしまうと、考えることを止められなかった。環は彼女の高校時代のいちばんの親友であり、同じソフトボール部に属していた。二人はチームメイトとしていろんなところに一緒に行ったし、いろんなことを一緒にした。一度レズビアンのような真似をしたこともある。夏休みに二人で旅行をしていたとき、ひとつのベッドに寝ることになった。セミダブル?ベッドの部屋しかとれなかったのだ。そのベッドの中で二人はお互いの身体の様々な場所を触り合った。レズビアンだったわけではない。ただ少女特有の好奇心に駆られて、それらしきことを大胆に試してみただけだ。そのとき二人にはまだボーイフレンドがいなかったし、性的な経験もまったくなかった。その夜の出来事は今となっては、人生における「例外的ではあるが興味深い」エピソードとして記憶に残っているだけだ。しかしむきだしの鉄の階段を降りながら、環と身体を触り合ったときのことを思い出していると、青豆の身体が奥の方で少し熱を持ち始めたようだった。環の楕円形の乳首や、薄い陰毛や、お尻のきれいな膨らみや、クリトリスのかたちを、青豆は今でも不思議なくらい鮮明に覚えていた。
そんな生々しい記憶をたどっているうちに、青豆の頭の中にまるでその背景音楽のように、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の管楽器の祝祭的なユニゾンが朗々と鳴り響いた。彼女の手のひらは大塚環の身体のくびれた部分をそっと撫でていった。相手は初めはくすぐったがっていたが、そのうちにくすくす笑いが止まった。息づかいが変わった。その音楽はもともと、ある体育大会のためのファンファーレとして作曲されたものだ。その音楽にあわせて、ボヘミアの緑の草原を風がやさしくわたっていった。相手の乳首が突然硬くなっていくのがわかった。彼女自身の乳首も同じように硬くなった。そしてティンパニが複雑な音型を描いた。
青豆は歩を止めて何度か小さく頭を振った。こんなところでこんなことを考えていてはいけない。階段を降りることに意識を集中しなくては、と彼女は思った。でも考えることはやめられなかった。そのときの情景が彼女の脳裏に次々に浮かんできた。とても鮮明に。夏の夜、狭いベッド、微かな汗の匂い。口にされた言葉。言葉にならない気持ち。忘れられてしまった約束。実現しなかった希望。行き場を失った憧憬。一陣の風が彼女の髪を持ち上げ、それをまた頬に打ちつけた。その痛みは彼女の目に涙をうっすらと浮かべさせた。そして次にやってきた風がその涙を乾かしていった。
あれはいつのことだっけ、と青豆は思った。しかし時間は記憶の中でからまりあい、もつれた糸のようになっている。まっすぐな軸が失われ、前後左右が乱れている。抽斗の位置が入れ替わっている。思い出せるはずのことがなぜか思い出せない。今は一九八四年四月だ。私が生まれたのは、そう一九五四年だ。そこまでは思い出せる。しかしそのような刻印された時間は、彼女の意識の中で急速にその実体を失っていく。年号をプリントされた白いカードが、強風の中で四方八方にばらばら散っていく光景が目に浮かぶ。彼女は走っていって、それを一枚でも多く拾い集めようとする。しかし風が強すぎる。失われていくカードの数も多すぎる。1954, 1984, 1645, 1881, 2006, 771, 2041……そんな年号が次々に吹き飛ばされていく。系統が失われ、知識が消滅し、思考の階段が足元で崩れ落ちていく。
青豆と環は同じベッドの中にいる。二人は十七歳で、与えられた自由を満喫している。それは彼女たちにとって最初の、友だち同士ででかける旅行だ。そのことが二人を興奮させる。彼女たちは温泉に入り、冷蔵庫の缶ビールを半分ずつ分けて飲み、それから明かりを消してベッドに潜り込む。最初のうち二人はただふざけている。面白半分にお互いの身体をつつきあっている。でも環がある時点で手を伸ばして、寝間着がわりの薄いTシャツの上から、青豆の乳首をそっとつまむ。青豆の身体の中に電流のようなものが走る。二人はやがてシャツを脱ぎ、下着をとって裸になる。夏の夜だ。どこを旅行したんだっけ? 思い出せない。どこでもいい。彼女たちはどちらから言い出すともなく、お互いの身体を細かく点検してみる。眺め、さわり、撫で、キスし、舌でなめる。半ば冗談で、そして半ば真剣に。環は小柄で、どちらかといえばぽっちゃりとしている。乳房も大きい。青豆はどちらかといえば背が高く痩せている。筋肉質で乳房はあまり大きくない。環はいつもダイエットをしなくちゃと言っている。でもこのままでじゅうぶん素敵なのにと青豆は思う。
環の肌はやわらかく、きめが細かい。乳首は美しい楕円形に膨らんでいる。それはオリーブの実を思わせる。陰毛は薄く細く、繊細な柳のようだ。青豆のそれはごわごわとして硬い。二人はその違いに笑い合う。二人はそれぞれの身体の細かいところをさわりあい、どこの部分がいちばん感じるか、情報を交換し合う。一致するところもあるし、しないところもある。それから二人は指をのばして、お互いのクリトリスをさわり合う。どちらも自慰の経験はある。たくさんある。自分のとはずいぶんさわり心地が違うものだ、とお互いが思う。風がボヘミアの緑の草原をわたっていく。
青豆はまた立ち止まり、また首を振る。深いため息をつき、握った階段のパイプをもう一度しっかり握り直す。こんなことを考えるのはやめなくてはいけない。階段を降りることに意識を集中しなくては。もう半分以上は降りたはずだ、と青豆は思う。それにしてもどうしてこんなに騒音がひどいのだろう。どうしてこんなに風が強いのだろう。それらは私を答め、罰しているみたいにも感じられる。
それはともかく、この階段を地上まで降りたとき、もしそこに誰かがいて、声をかけられ事情をきかれたり、素性を尋ねられたりしたら、いったいなんと答えればいいのだろう。「高速道路が渋滞していたので、非常階段を使って降りてきたんです。急ぎの用事があったものですから」と言って、それで済むものだろうか? ひょっとしたら面倒なことになるかも知れない。青豆はいかなる種類の面倒にも巻き込まれたくなかった。少なくとも今日は。
ありがたいことに地上には、降りてくる彼女を見とがめるものはいなかった。地上に降りると青豆はまずバッグから靴を出して履いた。階段の下は二四六号線の上り線と下り線にはさまれた高架下の空き地で、資材置き場になっていた。まわりを金属の板塀で取り囲まれ、むき出しの地面に鉄柱が何本か転がっている。何かの工事のあとに余ったものなのだろう、錆びるままにうち捨てられていた。プラスチックの屋根が設置された一角があり、その下に布袋が三つ積み上げられていた。何が入っているのかはわからないが、雨に濡れないようにビニールのカバーがかけられている。それも何かの工事の最後に余ったものらしい。いちいち運び出すのが面倒なので、そのまま放ってあるようだ。屋根の下には、潰れた大きな段ボール箱もいくつかあった。数本のペットボトルと、漫画雑誌が何冊か地面に捨てられている。そのほかには何もない。ビニールの買い物袋があてもなく風に舞っているだけだ。
金網の扉のついた入口があったが、チェーンが幾重にも巻き付けられ、大きな南京錠がかかっていた。高い扉で、てっぺんには有刺鉄線までめぐらされている。とても乗り越えられそうにはない。もし乗り越えられたとしても、服はずたずたになってしまう。ためしに扉を押したり引いたりしてみたが、ぴくりとも動かなかった。猫が出入りするほどの隙間もない。やれやれ、どうしてここまで戸締まりを厳しくしなくちゃならないんだ。盗まれて困るものなんて何もないっていうのに。彼女は顔をしかめ、毒づき、地面に唾まで吐いた。まったく、せっかく苦労して高速道路から降りてきたというのに、資材置き場に閉じこめられるなんて。腕時計に目をやった。時間にはまだ余裕がある。しかしいつまでもこんなところでうろうろしているわけにはいかない。そしてもちろん、今さら高速道路にとってかえすわけにもいかない。
ストッキングはかかとのところが両方とも破れていた。誰にも見られていないことを確かめてから、ハイヒールを脱ぎ、スカートをめくり上げてストッキングを下ろし、両脚からむしり取り、また靴を履いた。穴のあいたストッキングはバッグにしまった。それで気持ちが少し落ち着いた。青豆は注意深く視線を配りながら、その資材置き場を歩いてまわった。小学校の教室くらいの広さだ。すぐに一周できる。出入り口はやはりひとつしかない。鍵のかかったフェンスの扉だけだ。まわりを囲んでいる金属の板塀の材質は薄かったが、どれもしっかりボルトで固定されている。工具がなければボルトははずせそうにない。お手上げだ。
彼女はプラスチックの屋根の下に置いてある段ボール箱を調べてみた。そしてそれが寝床のようなかたちになっていることに気づいた。すり切れた毛布も何枚か丸めてあった。それほど古いものではない。たぶん浮浪者がここに寝泊まりしているのだろう。だから雑誌や、飲み物のペットボトルがあたりに散らばっているのだ。間違いない。青豆は頭を働かせた。彼らがここで寝泊まりしているからには、どこかに出入りできる抜け穴があるはずだ。彼らは人目につかず雨風のしのげる場所を見つけだす技術に長{た}けている。そして彼らは自分たちだけの秘密の通路を、獣道{けものみち}のようにこっそりと確保している。
青豆は金属板の塀をひとつひとつ念入りに点検していった。手で押して、揺らぎがないか確かめてみた。案の定、何かの加減でボルトがはずれたらしく、金属板がぐらぐらしている箇所がひとつ見つかった。彼女はそれをいろんな方向に動かしてみた。ちょっと角度を変えて軽く内側にひっぱると、人がひとりくぐり抜けられる程度のスペースができた。その浮浪者はおそらく、暗くなるとそこから中に入ってきて、屋根の下で心おきなく眠るのだろう。この中にいるところをみつかったりすると面倒なことになるから、明るいうちは外で食糧を確保したり、空き瓶を集めて小銭を稼いだりしているのに違いない。青豆はその夜間の無名の住人に感謝した。大都会の裏側を、無名のままひっそり移動しなくてはならないという点では、青豆も彼らの仲間である。
青豆は身を屈めて、その狭い隙間を抜けた。高価なスーツを尖ったところにひっかけて破いたりしないように、細心の注意を払った。それはお気に入りのスーツであるというだけではなく、彼女の所有する唯一のスーツだったからだ。普段はスーツなんか着ない。ハイヒールを履くこともない。しかし<傍点>この仕事傍点>のためには、ときとしてあらたまった身なりをしなくてはならなかった。大事なスーツを駄目にするわけにはいかない。
幸いなことに、塀の外にも人影はなかった。青豆は服装を今一度点検し、表情を平静に戻してから、信号のあるところまで歩き、二四六号線をわたり、目についたドラッグストアに入って新しいストッキングを買った。女店員に頼んで奥のスペースを使わせてもらい、ストッキングをはいた。それで気分はかなりよくなった。胃のあたりにわずかに残っていた船酔いに似た不快感も、今ではすっかり消え失せていた。彼女は店員に礼を言って店を出た。
たぶん首都高速が事故で渋滞しているという情報が広まったせいだろう、それと並行して走る国道二四六号線の交通は、いつも以上に混み合っていた。だから青豆はタクシーに乗るのをあきらめて、近くの駅から東急新玉川線に乗ることにした。その方が間違いない。もうタクシーで渋滞に巻き込まれるのはごめんだ。
三軒茶屋の駅に向かう途中で一人の警官とすれ違った。若い長身の警官で、足早にどこかに向かって歩いていくところだった。彼女は一瞬緊張したが、警官は急いでいるらしく、まっすぐ前を向いて、青豆に視線を向けることすらしなかった。すれ違う直前に、彼女はその警官の服装がいつもと違うことに気づいた。見慣れた警官の制服ではない。同じ濃紺の上着だが、かたちが微妙に違う。もっとカジュアルな作りになっている。前ほどぴたりとしていない。材質もより柔らかいものにかわっている。襟が小さく、紺色もいくぶん淡くなっている。それから拳銃の型が違う。彼が腰につけているのは大型オートマチックだった。日本の警官がふつう支給されているのは回転式の拳銃だ。銃器犯罪がきわめて少ない日本で、警官が銃撃戦に巻き込まれるような機会はほとんどないから、旧式の六連発リボルバーでとくに不足はない。リボルバーの方が構…造が単純で、安価で故障も少ないし、手入れも簡単だ。しかしこの警官はなぜか、セミオートマチックで発射できる最新型の拳銃を携行していた。九ミリの弾丸が十六発くらい装填できるやつだ。たぶんグロックかベレッタ。いったい何が起こったのだろう。制服と拳銃の規格が、彼女の知らないうちに変更されてしまったのか? いや、そんなはずはない。青豆は新聞記事はこまめにチェックしている。そんな変更があったら、大きく報道されるはずだ。そしてまた彼女は警官たちの姿には常に注意を払っていた。今朝まで、ほんの数時間前まで、警官たちはいつものごわごわした制服を着て、いつもの無骨な回転拳銃を身につけていたのだ。彼女はそれをはっきり記憶していた。奇妙だ。
しかし青豆にはそれについて深く考えている余裕はなかった。済ませなくてはならない仕事がある。
青豆は渋谷駅のコインロッカーにコートを預け、スーツだけの姿になって、そのホテルに向かって急ぎ足で坂道を上った。中級のシティー?ホテルだ。とくに豪華なホテルではないが、一応の設備は揃っているし、清潔で、いかがわしい客も来ない。一階にはレストランがあり、コンビニエンス?ストアも入っている。駅に近く、ロケーションがいい。
彼女はホテルに入ると、まっすぐ洗面所に行った。ありがたいことに洗面所には誰もいなかった。まず便座に座って放尿をした。とても長い放尿だった。青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。それから洗面台に向かい、石鹸を使って丁寧に手を洗い、ブラシで髪をとかし、鼻をかんだ。歯ブラシを出して、歯磨き粉をつけずに手早く歯を磨いた。時間があまりないからフロスは省いた。そこまでする必要はあるまい。デートに出かけるわけではない。鏡に向かってうっすらと口紅をひいた。眉も整えた。スーツの上着を脱いで、ブラジャーのワイヤの位置を調整し、白いブラウスのしわをのばし、脇の下の汗の匂いをかいだ。匂いはない。そのあとで目を閉じて、いつものようにお祈りの文句を唱えた。その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということが大事なのだ。
お祈りが終わると、目を開けて鏡の中の自分の姿を見た。大丈夫。どこから見ても隙のない、いかにも有能そうなビジネス?ウーマンだ。背筋はまっすぐ伸び、口元も引き締まっている。大きなずんぐりとしたショルダーバッグだけがいささか場違いだ。たぶん薄手のアタッシェケースでも持つべきなのだろう。しかしそのぶんかえって実務的に見える。念には念を入れて、ショルダーバッグの中の品物をもう一度点検した。問題はない。すべてあるべき場所に収まっている。なんでも手探りで取り出せるようになっている。
あとはただ決められたことを実行するだけだ。揺らぎのない信念と無慈悲さを持ち、まっすぐことにあたらなくてはならない。青豆はそれから、ブラウスのいちばん上のボタンをはずし、身をかがめたときに胸の谷間が見えやすいようにする。もう少し胸が大きいと効果的なのにな、と彼女は残念に思う。
誰に見とがめられることもなくエレベーターで四階に上がり、廊下を歩いてすぐに四二六号室のドアを見つける。ショルダーバッグの中から用意しておいた紙ばさみをとりだし、それを胸に抱え、部屋のドアをノックする。軽く簡潔にノックする。しばらく待つ。それからもう一度ノックする。ほんの少しだけより強く、より硬く。中からもぞもぞと声が聞こえ、ドアが小さく開く。男が顔をのぞかせる。年齢は四十歳前後。マリン?ブルーのワイシャツに、グレーのフラノのスラックスというかっこうだ。ビジネスマンがとりあえずスーツの上着を脱ぎ、ネクタイをはずしたという雰囲気が漂っている。いかにも不機嫌そうな赤い目をしている。おそらく寝不足なのだろう。ビジネス?スーツを着た青豆の姿を見て、いくらか意外な顔をした。たぶん室内の冷蔵庫の補充をするメイドでも予想していたのだろう。
「おくつろぎのところを失礼いたします。ホテルのマネージメントの伊藤と申しますが、空調設備に問題が生じまして、点検に参りました。五分ばかりお部屋にお邪魔してよろしいでしょうか」と青豆はにこやかに微笑みながら、てきぱきとした口調で言った。
男は目を不快そうにすぼめた。「大事な急ぎの仕事をしているところなんだ。一時間くらいで部屋を出るから、そのときまで待ってもらえないかな? 今のところこの部屋の空調にはとくに問題もないみたいだし」
「申し訳ございませんが、漏電に関係する緊急の安全確認なので、できれば早急に終えてしまいたいのです。このようにお部屋をひとつひとつ回っております。ご協力いただければ、五分もかからずに終わります」
「しょうがないな」と男は言って舌打ちをした。「邪魔されずに仕事をするために、わざわざ部屋を借りたのに」
彼は机の上の書類を指さした。コンピュータからプリントアウトされた細かい図表が積み上げられている。今夜の会議のために必要な資料を準備しているのだろう。計算器があり、メモ用紙にはたくさんの数字が並べられている。
この男が石油関連の企業に勤めていることを青豆は知っている。中東諸国での設備投資に関するスペシャリストなのだ。与えられた情報によれば、その領域では有能だということだった。物腰でそれはわかる。育ちが良く、高い収入を得て、ジャガーの新車に乗っている。甘やかされた少年時代を送り、外国に留学し、英語とフランス語をよく話し、何ごとによらず自信たっぷりだ。そしてどのようなことであれ、他人から何かを要求されることに我慢ならないタイプだ。批判にも我慢ならない。とくにそれが女性から向けられた場合には。その一方で、自分が他人に何かを要求することはちっとも気にならない。妻をゴルフクラブで殴って肋骨を数本折ることにもさして痛痒を感じない。この世界は自分が中心になって動いていると思っている。自分がいなければ地球はうまく動かないだろうと考えている。誰かに自分の行動を邪魔されたり否定されたりすると腹を立てる。それも激しく腹を立てる。サーモスタットが飛んでしまうくらい。
「ご迷惑をおかけします」と青豆は営業用の明るい微笑みを浮かべたまま言った。そして既成事実を作るように、身体を半分部屋の中に押し込み、ドアを背中で押さえながら紙ばさみを広げ、ボールペンでそこに何かを書き込んだ。「お客様は、えー、深山{みやま}さまでいらっしゃいますね」、彼女は尋ねた。写真で何度も見て顔は覚えているが、人違いでないことを確認しておいて損はない。間違えたら取り返しがつかない。
「そうだよ、深山だ」とぞんざいな口調で男は言った。それからあきらめたようにため息をついた。わかったよ、なんでも勝手にすればいい、というように。そしてボールペン片手に机に向かい、読みかけていた書類をもう一度手に取った。メイクされたままのダブルベッドの上にはスーツの上着と、ストライプのネクタイが乱暴に放り出されている。どちらもいかにも高価そうなものだ。青豆はショルダーバッグを肩にかけたまま、まっすぐクローゼットに向かった。空調のスイッチパネルがそこにあることは前もって聞かされている。クローゼットの中にはソフトな素材で作られたトレンチコートと、濃いグレーのカシミアのマフラーがかけてあった。荷物は革製の書類かばんひとつきりだ。着替えも化粧バッグもない。たぶんここに逗留するつもりはないのだろう。机の上にはルームサービスでとったコーヒーポットがある。三十秒ばかりパネルを点検するふりをしてから、彼女は深山に声をかけた。
「どうもご協力をありがとうございました、深山さま。この部屋の設備には何も問題はありません」
「だからこの部屋の空調には問題ないって、はじめから言ってるじゃないか」、深山はこちらを振り向きもせず、横柄な声で言った。
「あの、深山さま」、青豆はおずおずと言った。「失礼ですが、首筋に何かがついているようです」
「首筋に?」、深山はそう言って、手を自分の首の後ろにあてた。そして少しこすってから、その手のひらを不審そうに眺めた。「何もついてないみたいだけれど」
「ちょっと失礼させていただきます」と青豆は言って机に近寄った。「近くで拝見してよろしいですか」
「ああ、いいけど」と深山はわけがわからないという顔をして言った。「何かって、どんなもの?」
「塗料のようなものです。明るい緑色をしています」
「塗料?」
「よくわかりません。色合いはどう見ても塗料のようですね。失礼ですが、手を触れてもかまいませんか。とれるかもしれませんから」
「ああ」と言って、深山は前にかがみこんで、首筋を青豆に向けた。ヘアカットをしたばかりらしく、首筋に髪はかかっていない。青豆は息を吸い込み、呼吸を止め、意識を集中して<傍点>その部分傍点>を素早く探り当てた。そしてしるしをつけるように指先でそこを軽く押さえた。目を閉じて、その感触に間違いがないことを確かめた。そう、ここでいい。本来であればもっとゆっくり時間をかけて念押ししたいところだが、そこまでの余裕はない。与えられた条件の中でベストを尽くす。
「申し訳ありませんが、少しそのままの姿勢でじっとしていていただけますか。バッグからペンライトを出します。この部屋の照明ではよく見えないもので」
「なんだって塗料なんかが、そんなところにつくんだ」と深山は言った。
「わかりません。今すぐに調べます」
青豆は男の首筋の一点に指をそっとあてたまま、ショルダーバッグからプラスチックのハードケースを取り、蓋を開けて薄い布にくるまれたものを出した。片手で器用にその布をほどくと、中から出てきたのは小振りなアイスピックに似たものだった。全長は十センチほど。柄{つか}の部分は小さく引き締まった木製になっている。でもそれはアイスピックではない。ただアイスピックに似たかたちをとっているだけだ。氷を砕くためのものではない。彼女は自分でそれを考案し、製作した。先端はまるで縫い針のように鋭く尖っている。その鋭い先端は折れることがないように、小さなコルク片に突き刺してある。特別に加工して綿のように柔らかくしたコルクだ。彼女は爪先で注意深くそのコルクを取り、ポケットに入れる。そして剥き出しになった針先を深山の首筋の<傍点>その部分傍点>にあてる。さあ落ち着いて、ここが肝心なんだから、と青豆は自分に言い聞かせる。十分の一ミリの誤差も許されない。もしほんの少しでもずれたら、すべての努力が水泡に帰してしまうことになる。何よりも集中力が要求される。
「まだ時間がかかるのか? いつまでこんなことをやってるんだ」と男はじれたように言った。
「すみません。すぐに終わります」と青豆は言った。
大丈夫よ、あっという間に終わるから、と彼女は心の中でその男に話しかけた。あとちょっとだけ待ってね。そうしたらあとはもう何も考えなくていいんだから。石油精製システムについても、重油市場の動向についても、投資グループへの四半期報告についても、バーレーンまでのフライトの予約についても、役人への袖の下やら、愛人へのプレゼントやらについても、もう何ひとつ考えなくていいのよ。そういうことをあれこれ考え続けるのもけっこう大変だったんでしょう? だから悪いけど、ちょっとだけ待ってちょうだい。私はこうして意識を集中して真剣にお仕事をしているんだから、邪魔をしないでね。お願い。
いったん位置を定め、心を決めると、彼女は右手のたなごころを空中に浮かべ、息を止め、わずかに間を置いてから、それを<傍点>すとん傍点>と下に落とした。木製の柄の部分に向けて。それほど強くではない。力を入れすぎると針が皮膚の下で折れてしまう。針先をあとに残していくわけにはいかない。軽く、慈しむように、適正な角度で、適正な強さで、たなごころを下に落とす。重力に逆らわずに、<傍点>すとん傍点>と。そして細い針の先が<傍点>その部分傍点>に、あくまで自然に吸い込まれるようにする。深く、滑らかに、そして致死的に。大切なのは角度と力の入れ方なのだ——いや、むしろ力の抜き方だ。それにさえ留意すれば、あとは豆腐に針を刺すみたいに単純なことだ。針の先端が肉を貫き、脳の下部にある特定の部位を突き、蠟燭{ろうそく}を吹き消すように心臓の動きを止める。すべてはほんの一瞬のうちに終わってしまう。あっけないくらい。それは青豆にしかできないことだった。そんな微妙なポイントを手さぐりで探しあてることは他の誰にもできない。でも彼女にはできる。彼女の指先にはそういう特別な直感が具わっている。
男がはっと息を呑む音が聞こえた。全身の筋肉がぴくりと収縮した。その感触を確かめてから、彼女はすばやく針を抜いた。そしてすかさず、ポケットに用意しておいた小さなガーゼで傷口を押さえた。出血をふせぐためだ。とても細い先端だし、それが刺さっていたのはほんの数秒のことだ。出血があったとしてもごくわずかなものだ。それでも念には念を入れなくてはならない。血の痕跡を残してはならない。一滴の血が命取りになる。用心深さが青豆の身上だった。
いったんこわばった深山の身体から、時間をかけて徐々に力が抜けていった。バスケットボールから空気が抜けるときのように。彼女は男の首筋の一点を人さし指で押さえたまま、彼の身体を机にうつぶせにした。その顔は書類を枕にして、横向きに机に伏せられた。目は驚いたような表情を浮かべたまま開いている。何かとんでもなく不思議なものを最後に目撃でもしたみたいに。そこには怯えはない。苦痛もない。ただの純粋な驚きがあるだけだ。自分の身に何か普通ではないことが起こった。しかし何が起こったのか、理解できていない。それが痛みなのか、痒みなのか、快感なのか、あるいは何かの啓示なのか、それさえわかっていない。世界にはいろんな死に方があるが、おそらくこれほど楽な死に方はあるまい。
あなたにはたぶん楽すぎる死に方よね、青豆はそう思って顔をしかめた。あまりにも簡単すぎる。私はたぶん五番アイアンを使ってあなたの肋骨を二三本折って、痛みをじゅうぶんに与え、そのあとで慈悲の死を与えてやるべきだったのでしょうね。そういう惨めな死に方がふさわしいネズミ野郎なんだから。それが実際にあなたが奥さんに対してやったことなんだから。でも残念ながら、私にはそこまでの選択の自由はない。この男を迅速に人知れず、しかし確実にあちらの世界に送り込むことが、与えられた使命だ。そして私は今その使命を果たした。この男はさっきまではちゃんと生きていた。でも今は死んでいる。本人も気がつかないまま、生と死を隔てる敷居をまたいでしまったのだ。
青豆はきっちり五分間、ガーゼを傷口にあてていた。指のあとが残らない程度の強さで、しんぼう強く。そのあいだ彼女は腕時計の秒針から目を離さなかった。長い五分間だ。永遠に続くように感じられる五分間。たった今誰かがドアを開けて部屋に入ってきたら、そして彼女が細身の凶器を片手に、男の首筋を指で押さえているところを目にしたら、それで一巻の終わりだ。言い逃れるすべはない。ボーイがコーヒーポットを下げに来るかもしれない。今にもドアがノックされるかもしれない。しかしそれは省くことのできない大事な五分間だった。彼女は神経を落ち着けるために静かに深く呼吸をする。あわててはいけない。冷静さを失ってはならない。いつものクールな青豆さんでいなくてはならない。
心臓の鼓動が聞こえる。その鼓動にあわせて、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』、冒頭のファンファーレが彼女の頭の中で鳴り響く。柔らかい風がボヘミアの緑の草原を音もなく吹き渡っていく。彼女は自分が二つに分裂していることを知る。彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女のあと半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。私は同時に二つの場所にいる。アインシュタインの定理には反しているが、しかたない。それが殺人者の禅なのだ。
五分がようやく経過する。しかし青豆は用心のために更に一分を加えた。あと一分待とう。急ぎの仕事ほど、念には念を入れた方がいい。いつ果てるともないその重い一分間を、彼女はじっと耐えた。それからおもむろに指をはなし、ペンライトで傷口を調べた。蚊にさされたほどのあとも残っていない。
その脳下部の特別なポイントをきわめて細い針で突くことでもたらされるのは、自然死に酷似した死だ。普通の医師の目にはどうみてもただの心臓発作としか映らないはずだ。机に向かって仕事をしているうちに、出し抜けに心臓発作に襲われ、そのまま息を引き取ってしまった。過労とストレス。不自然なところは見あたらない。解剖する必要も見あたらない。
この人物はやり手だったが、いささか働きすぎたのだ。高い収入を得ていたが、死んでしまってはそれを使うこともできない。アルマー二のスーツを着てジャガーを運転していても、結局は蟻と同じだ。働いて、働いて、意味もなく死んでいく。彼がこの世界に存在していたこともやがて忘れられていく。まだ若いのに気の毒に、と人は言うかもしれない。言わないかもしれない。
青豆はポケットからコルクを取り出し、針の先端に刺した。その繊細な道具をもう一度薄い布にくるみ、ハードケースに入れ、ショルダーバッグの底にしまった。浴室からハンドタオルを持ってきて、部屋に残した指紋をすべてきれいに拭き取った。彼女の指紋が残っているのは、空調パネルとドアノブだけだ。それ以外の場所には手を触れていない。そしてタオルをもとに戻す。コーヒーポットとカップをルームサービス用のトレイに載せて、廊下に出した。そうすればポットを下げにきたボーイがドアをノックすることはないし、死体の発見はそのぶん遅くなる。掃除のメイドがこの部屋で死体を発見するのは、うまくいけば翌日のチェックアウト時刻よりあとのことになる。
彼が今夜の会議に出てこなければ、人々はおそらくこの部屋に電話をかけるだろう。しかし受話器をとるものはいない。人々は不審に思ってマネージャーにドアを開けさせるかもしれない。あるいはべつに開けさせないかもしれない。それは成り行き次第だ。
青豆は洗面所の鏡の前に立ち、服装に乱れのないことを確かめた。ブラウスのいちばん上のボタンをとめた。胸の谷間をちらりと見せる必要はなかった。なにしろあのろくでもないネズミ野郎は、私のことをろくすっぽ見もしなかったのだから。人のことをいったいなんだと思っているんだ。彼女は顔を適度にしかめる。それから髪を整え、指で軽くマッサージして顔の筋肉を緩め、鏡に向かって愛想良く微笑みを浮かべた。歯医者に研磨してもらったばかりの白い歯も見せてみた。さあ、私はこれから死者のいる部屋を出て、いつもの現実の世界に戻って行くのだ。気圧を調整しなくてはならない。私はもうクールな殺人者ではない。シャープなスーツに身を包んだ、にこやかで有能なビジネス?ウーマンなのだ。
青豆はドアを少しだけ開け、あたりをうかがい、廊下に誰もいないことを確かめてからするりと部屋を出た。エレベーターは使わず、階段を歩いて降りた。ロビーを抜けるときも誰も彼女には注意を払わなかった。背筋を伸ばし、前方を見つめ、足早に歩いた。しかし誰かの注意をひくほど速くは歩かない。彼女はプロだった。それもほとんど完壁に近いプロだ。もしもう少し胸が大きければ、文句なく完壁なプロになれたかもしれない、と青豆は残念に思う。顔をもう一度軽くしかめる。でもしかたない。与えられたものでやっていくしかない。
第4章 天吾
あなたがそれを望むのであれば
天吾は電話のベルで起こされた。時計の夜光針は一時を少しまわっている。言うまでもなくあたりは真っ暗だ。それが小松からの電話であることは最初からわかっていた。午前一時過ぎに電話をかけてくるような知り合いは、小松のほかにはいない。そしてそこまでしつこく、相手が受話器をとるまであきらめずにベルを鳴らし続ける人間も、彼のほかにはいない。小松には時間の観念というものがない。自分が何かを思いついたら、そのときにすぐに電話をかける。時刻のことなんて考えもしない。それが真夜中であろうが、早朝であろうが、新婚初夜であろうが、死の床であろうが、相手が電話をかけられて迷惑するかもしれないというような散文的な考えは、どうやら彼の卵形の頭には浮かんでこないらしい。
いや、誰にでもそんなことをするわけではないのだろう。小松だっていちおう組織の中で働いて給料をもらっている人間だ。誰彼の見境なくそんな非常識な真似をしてまわるわけにはいかない。天吾が相手だからそれができるのだ。天吾は小松にとって多かれ少なかれ、自分の延長線上にあるような存在である。手足と同じだ。そこには自他の区別がない。だから自分が起きていれば、相手も起きているはずだという思いこみがある。天吾は何事もなければ夜の十時に寝て、朝の六時に起きる。おおむね規則正しい生活を送っている。眠りは深い。しかし何かでいったん起こされると、あとがうまく眠れなくなる。そういうところは神経質だ。そのことは小松に向かって、何度となく告げてきた。真夜中に電話をかけてくるのはお願いだからやめてほしいと、はっきり頼んだ。収穫前にイナゴの群れを畑に送りつけないでくれと、神さまにお願いする農夫のように。「わかった。もう夜中には電話をかけない」と小松は言う。しかしそんな約束は彼の意識に十分な根を下ろしていないから、一回雨が降ったらあっさりとどこかに洗い流されてしまう。
天吾はベッドを出て、何かにぶつかりながら台所の電話までなんとかたどり着いた。そのあいだもベルは容赦なく鳴り響いていた。
「ふかえりと話したよ」と小松は言った。例によって挨拶らしきものはない。前置きもない。
「寝てたか」もなければ「夜遅く悪いな」もない。たいしたものだ。いつもつい感心してしまう。
天吾は暗闇の中で顔をしかめたまま黙っていた。夜中に叩き起こされると、しばらく頭がうまく働かない。
「おい、聞いてるか?」
「聞いてますよ」
「電話でだけどいちおう話したよ。まあほとんどこちらが一方的に話をして、向こうはそれを聞いていただけだから、一般的な常識からすれば、とても会話とは呼べそうにない代物だったけどね。なにしろ無口な子なんだ。話し方も一風変わっている。実際に聞けばわかると思うけど。で、とにかく、俺の計画みたいなものをざらっと説明した。第三者の手を借りて『空気さなぎ』を書き直し、より完成されたかたちにして、新人賞を狙うというのはどうだろう、みたいなことだよ。まあ電話だからこちらとしても、おおまかなことしか言えない。具体的な部分は会って話すとして、そういうことに興味がありやなしやと尋ねてみた。いくぶん遠回しに。あまり率直に話すと、内容が内容だけに、俺も立場的にまずくなるかもしれないからね」
「それで?」
「返事はなし」
「返事がない?」
小松はそこで効果的に間を置いた。煙草をくわえ、マッチで火をつける。電話を通して音を聞いているだけで、その光景がありありと目の前に浮かんだ。彼はライターを使わない。
「ふかえりはね、まず君に会ってみたいって言うんだ」と小松は煙を吐きながら言った。「話に興味があるともないとも言わない。やってもいいとも、そんなことやりたくないとも言わない。とりあえず君と会って、面と向かって話をするのが、いちばん重要なことらしい。会ってから、どうするか返事をするそうだ。責任重大だと思わないか?」
「それで?」
「明日の夕方は空いてるか?」
予備校の講義は朝早く始まって、午後の四時に終わる。幸か不幸か、そのあとは何も予定は入っていない。「空いてますよ」と天吾は言った。
「夕方の六時に、新宿の中村屋に行ってくれ。俺の名前で奥の方のわりに静かなテーブルを予約しておく。うちの会社のつけがきくから、なんでも好きなものを飲み食いしていい。そして二人でじつくりと話し合ってくれ」
「というと、小松さんは来ないんですか?」
「天吾くんと二人だけで話をしたいというのが、ふかえりちゃんの持ち出した条件だ。今のところ俺には会う必要もないそうだ」
天吾は黙っていた。
「というわけだ」と小松は明るい声で言った。「うまくやってくれ、天吾くん。君は図体はでかいが、けっこう人に好感を与える。それになにしろ予備校の先生をしているんだから、早熟な女子高校生とも話し慣れているだろう。俺よりは適役だ。にこやかに説得して、信頼感を与えればいいんだ。朗報を待っているよ」
「ちょっと待って下さい。だってこれはそもそも小松さんの持ってきた話じゃないですか。僕だってそれにまだ返事をしていません。このあいだも言ったように、ずいぶん危なっかしい計画だし、そんなに簡単にものごとが運ぶわけはないだろうと僕は踏んでいます。社会的な問題にもなりかねません。引き受けるか引き受けないか、僕自身がまだ態度を決めてないのに、見ず知らずの女の子を説得できるわけがないでしょう」
小松はしばらく電話口で沈黙していた。それから言った。「なあ天吾くん、この話はもうしつかりと動き出しているんだ。今さら電車を止めて降りるわけにはいかない。俺の腹は決まっている。君の腹だって半分以上決まっているはずだ。俺と天吾くんとはいわば一蓮托生{いちれんたくしょう}なんだ」
天吾は首を振った。一蓮托生? やれやれ、いったいいつからそんな大層なことになってしまったんだ。
「でもこのあいだ小松さんは、ゆっくり時間をかけて考えればいいって言ったじゃないですか」
「あれから五日たった。それでゆっくり考えてどうだった?」
天吾は言葉に窮した。「結論はまだ出ません」と彼は正直に言った。
「じゃあ、とにかくふかえりって子と会って話してみればいいじゃないか。判断はそのあとですればいい」
天吾は指先でこめかみを強く押さえた。頭がまだうまく働かない。「わかりました。とにかくふかえりって子には会ってみましょう。明日の六時に新宿の中村屋で。だいたいの事情も僕の口から説明しましょう。でもそれ以上のことは何も約束できませんよ。説明はできても、説得みたいなことはとてもできませんからね」
「それでいい、もちろん」
「それで、彼女は僕のことをどの程度知っているんですか?」
「おおよその説明はしておいた。年齢は二十九だか三十だかそんなところで独身、代々木の予備校で数学の講師をしている。図体はでかいが、悪い人間じゃない。若い女の子を取って食ったりはしない。生活はつつましく、心優しい目をしている。そして君の作品のことをとても気に入っている。だいたいそれくらいのことだけどね」
天吾はため息をついた。何かを考えようとすると、現実がそばに寄ったり遠のいたりした。
「ねえ、小松さん、もうベッドに戻っていいですか? そろそろ一時半になるし、僕としても夜が明ける前に、少しでも眠っておきたい。明日は講義が朝から三コマあるんです」
「いいよ。おやすみ」と小松は言った。「良い夢を見てくれ」。そしてそのままあっさり電話を切った。
天吾は手に持った受話器をしばらく眺めてから、もとに戻した。眠れるものならすぐにでも眠りたかった。良い夢が見られるものなら見たかった。でもこんな時刻に無理に起こされて、面倒な話を持ち込まれて、簡単に眠れないことはわかっていた。酒を飲んで眠ってしまうという手もあった。しかし酒を飲みたいという気分でもなかった。結局水をグラスに一杯飲み、ベッドに戻って明かりをつけ、本を読み始めた。眠くなるまで本を読むつもりだったが、眠りについたのは夜明け前だった。
予備校で講義を三コマ終え、電車で新宿に向かった。紀伊国屋書店で本を何冊か買い、それから中村屋に行った。入り口で小松の名前を告げると、奥の静かなテーブルに通された。ふかえりはまだ来ていない。連れが来るまで待っている、と天吾はウェイターに言った。待たれているあいだ何かお飲みになりますかとウェイターが尋ね、何も要らないと天吾は言った。ウェイターは水とメニューを置いて去っていった。天吾は買ったばかりの本を広げ、読み始めた。呪術についての本だ。日本社会の中で呪いがどのような機能を果たしてきたかを論じている。呪いは古代のコミュニティーの中で重要な役割を演じてきた。社会システムの不備や矛盾を埋め、補完することが呪いの役目だった。なかなか楽しそうな時代だ。
六時十五分になってもふかえりは現れなかった。天吾はとくに気にかけず、そのまま本を読んでいた。相手が遅刻をすることにとくに驚きもしなかった。だいたいがわけのわからない話なのだ。わけのわからない展開になったところで、誰にも文句はいえない。彼女が気持ちを変えてまったく姿を見せなかったとしても、さして不思議はない。というか、姿を見せないでくれた方がむしろありがたいくらいだ。その方が話が簡単でいい。一時間ほど待っていましたが、ふかえりって子は来ませんでしたよ、と小松に報告すればいいのだから。あとがどうなろうが、天吾の知ったことではない。一人で食事をして、そのままうちに帰ればいい。それで小松に対する義理は果たしたことになる。
ふかえりは六時二十二分に姿を見せた。彼女はウェイターに案内されてテーブルにやってきて、向かいの席に座った。小振りな両手をテーブルの上に置き、コートも脱がず、じっと天吾の顔を見た。「遅れてすみません」もなければ、「お待ちになりましたか」もなかった。「初めまして」
「こんにちは」さえない。唇をまっすぐに結び、天吾の顔を正面から見ているだけだ。見たことのない風景を遠くから眺めるみたいに。たいしたものだ、と天吾は思った。
ふかえりは小柄で全体的に造りが小さく、写真で見るより更に美しい顔立ちをしていた。彼女の顔の中で何より人目を惹くのは、その目だった。印象的な、奥行きのある目だ。その潤いのある漆黒の一対の瞳で見つめられると、天吾は落ち着かない気持ちになった。彼女はほとんどまばたきもしなかった。呼吸さえしていないみたいに見えた。髪は誰かが定規で一本一本線を引いたようにまっすぐで、眉毛のかたちが髪型とよくあっていた。そして美しい十代の少女の多くがそうであるように、表情には生活のにおいが欠けていた。またそこには何かしらバランスの悪さも感じられた。瞳の奥行きが、左右でいくぶん違っているからかもしれない。それが見るものに居心地の悪さを感じさせることになる。何を考えているのか、測り知れないところがある。そういう意味では彼女は雑誌のモデルになったり、アイドル歌手になったりする種類の美しい少女ではなかった。しかしそのぶん、彼女には人を挑発し、引き寄せるものがあった。
天吾は本を閉じてテーブルのわきに置き、背筋を伸ばして姿勢を正し、水を飲んだ。たしかに小松の言うとおりだ。こんな少女が文学賞をとったら、マスコミが放っておかないだろう。ちょっとした騒ぎになるに違いない。そんなことをして、ただで済むものだろうか。
ウェイターがやってきて、彼女の前に水のグラスとメニューを置いた。それでもふかえりはまだ動かなかった。メニューに手を触れようともせず、ただ天吾の顔を見ていた。天吾は仕方なく「こんにちは」と言った。彼女を前にしていると、自分の図体がますます大きく感じられた。
ふかえりは挨拶を返すでもなく、そのまま天吾の顔を見つめていた。「あなたのこと知っている」、やがてふかえりは小さな声でそう言った。
「僕を知ってる?」と天吾は言った。
「スウガクをおしえている」
天吾は肯いた。「たしかに」
「二カイきいたことがある」
「僕の講義を?」
「そう」
彼女の話し方にはいくつかの特徴があった。修飾をそぎ落としたセンテンス、アクセントの慢性的な不足、限定された(少なくとも限定されているような印象を相手に与える)ボキャブラリー。小松が言うように、たしかに一風変わっている。
「つまり、うちの予備校の生徒だということ?」と天吾は質問した。
ふかえりは首を振った。「ききにいっただけ」
「学生証がないと教室に入れないはずだけど」
ふかえりはただ小さく肩をすぼめた。大人のくせに、何を馬鹿なことを言いだすのかしら、という風に。
「講義はどうだった?」と天吾は尋ねた。再び意味のない質問だ。
ふかえりは視線をそらさずに水を一口飲んだ。返事はなかった。まあ二回来たのだから、最初のときの印象はそれほど悪くなかったのだろうと天吾は推測した。興味を惹かれなければ一度でやめているはずだ。
「高校三年生なんだね?」と天吾は尋ねた。
「いちおう」
「大学受験は?」
彼女は首を振った。
それが「受験の話なんかしたくない」ということなのか、「受験なんかしない」ということなのか、天吾には判断できなかった。おそろしく無口な子だよと小松が電話で言っていたのを思い出した。
ウェイターがやってきて、注文をとった。ふかえりはまだコートを着たままだった。彼女はサラダとパンをとった。「それだけでいい」と彼女は言って、メニューをウェイターに返した。それからふと思いついたように「白ワインを」と付け加えた。
若いウェイターは彼女の年齢について何かを言いかけたようだったが、ふかえりにじっと見つめられて顔を赤らめ、そのまま言葉を呑み込んだ。たいしたものだ、と天吾はあらためて思った。天吾はシーフードのリングイーネを注文した。それから相手にあわせて、白ワインのグラスをとった。
「センセイでショウセツを書いている」とふかえりは言った。どうやら天吾に向かって質問しているようだった。疑問符をつけずに質問をするのが、彼女の語法の特徴のひとつであるらしい。
「今のところは」と天吾は言った。
「どちらにもみえない」
「そうかもしれない」と天吾は言った。微笑もうと思ったがうまくできなかった。「教師の資格は持っているし、予備校の講師もやってるけど、正式には先生とは言えないし、小説は書いているけど、活字になったわけじゃないから、まだ小説家でもない」
「なんでもない」
天吾は肯いた。「そのとおり。今のところ、僕は何ものでもない」
「スウガクがすき」
天吾は彼女の発言の末尾に疑問符をつけ加えてから、あらためてその質問に返事をした。「好きだよ。昔から好きだったし、今でも好きだ」
「どんなところ」
「数学のどんなところが好きなのか?」と天吾は言葉を補った。「そうだな、数字を前にしていると、とても落ち着いた気持ちになれるんだよ。ものごとが収まるべきところに収まっていくような」
「セキブンのはなしはおもしろかった」
「予備校の僕の講義のこと?」
ふかえりは肯いた。
「君は数学は好き?」
ふかえりは短く首を振った。数学は好きではない。
「でも積分の話は面白かったんだ?」と天吾は尋ねた。
ふかえりはまた小さく肩をすぼめた。「だいじそうにセキブンのことをはなしていた」
「そうかな」と天吾は言った。そんなことを誰かに言われたのは初めてだ。
「だいじなひとのはなしをするみたいだった」と少女は言った。
「数列の講義をするときには、もっと情熱的になれるかもしれない」と天吾は言った。「高校の数学教科の中では、数列が個人的に好きだ」
「スウレツがすき」とふかえりはまた疑問符抜きで尋ねた。
「僕にとってのバッハの平均律みたいなものなんだ。飽きるということがない。常に新しい発見がある」
「ヘイキンリツはしっている」
「バッハは好き?」
ふかえりは肯いた。「センセイがいつもきいている」
「先生?」と天吾は言った。「それは君の学校の先生?」
ふかえりは答えなかった。それについて話をするのはまだ早すぎる、という表情を顔に浮かべて天吾を見ていた。
それから彼女は思い出したようにコートを脱いだ。虫が脱皮するときのようにもぞもぞと体を動かしてそこから抜け出し、畳みもせず隣の椅子の上に置いた。コートの下は淡いグリーンの薄手の丸首セーターに、白いジーンズというかっこうだった。装身具はつけていない。化粧もしていない。それでも彼女は目立った。ほっそりとした体つきだったが、そのバランスからすれば胸の大きさはいやでも人目を惹いた。かたちもとても美しい。天吾はそちらに目を向けないように注意しなくてはならなかった。しかしそう思いながら、つい胸に視線がいってしまう。大きな渦巻きの中心につい目がいってしまうのと同じように。
白ワインのグラスが運ばれてきた。ふかえりはそれを一口飲んだ。そして考え込むようにグラスを眺めてから、テーブルに置いた。天吾はしるしだけ口をつけた。これから大事な話をしなくてはならない。
ふかえりはまっすぐな黒い髪に手をやり、少しのあいだ指ではさんで硫{す}いていた。素敵な仕草だった。素敵な指だった。細い指の一本一本がそれぞれの意思と方針を持っているみたいに見えた。そこには何かしら呪術的なものさえ感じられた。
「数学のどんなところが好きか?」、天吾は彼女の指と胸から注意をそらせるために、もう一度声に出して自分に問いかけた。
「数学というのは水の流れのようなものなんだ」と天吾は言った。「こむずかしい理論はもちろんいっぱいあるけど、基本の理屈はとてもシンプルなものだ。水が高いところから低いところに向かって最短距離で流れるのと同じで、数字の流れもひとつしかない。じっと見ていると、その道筋は自ずから見えてくる。君はただじっと見ているだけでいいんだ。何もしなくていい。意識を集中して目をこらしていれば、向こうから全部明らかにしてくれる。そんなに親切に僕を扱ってくれるのは、この広い世の中に数学のほかにはない」
ふかえりはそれについて、しばらく考えていた。
「どうしてショウセツをかく」と彼女はアクセントを欠いた声で尋ねた。
天吾は彼女のその質問をより長いセンテンスに転換した。「数学がそんなに楽しければ、なにも苦労して小説を書く必要なんてないじゃないか。ずっと数学だけやっていればいいじゃないか。言いたいのはそういうこと?」
ふかえりは肯いた。
「そうだな。実際の人生は数学とは違う。そこではものごとは最短距離をとって流れるとは限らない。数学は僕にとって、なんて言えばいいのかな、あまりにも自然すぎるんだ。それは僕にとっては美しい風景みたいなものだ。ただ<傍点>そこにある傍点>ものなんだ。何かに置き換える必要すらない。だから数学の中にいると、自分がどんどん透明になっていくような気がすることがある。ときどきそれが怖くなる」
ふかえりは視線をそらすことなく、天吾の目をまっすぐに見ていた。窓ガラスに顔をつけて空き家の中をのぞくみたいに。
天吾は言った。「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世界に間違いなく存在していることを確かめる。それは数学の世界にいるときとはずいぶん違う作業だ」
「ソンザイしていることをたしかめる」とふかえりは言った。
「まだそれがうまくできているとは言えないけど」と天吾は言った。
ふかえりは天吾の説明に納得したようには見えなかったが、それ以上何も言わなかった。ワイングラスを口元に運んだだけだ。そしてまるでストローで吸うようにワインを小さく音もなくすすった。
「僕に言わせれば、君だって結果的にはそれと同じことをしている。君が目にした風景を、君の言葉に置き換えて再構成している。そして自分という人間の存在位置をたしかめている」と天吾は言った。
ふかえりはワイングラスを持った手を止めて、それについてしばらく考えた。しかしやはり意見は言わなかった。
「そしてそのプロセスをかたちにして残した。作品として」と天吾は言った。「もしその作品が多くの人々の同意と共感を喚起すれば、それは客観的価値を持つ文学作品になる」
ふかえりはきっぱりと首を振った。「かたちにはキョウミはない」
「かたちには興味がない」と天吾は反復した。
「かたちにイミはない」
「じゃあどうしてあの話を書いて、新人賞に応募したの?」
ふかえりはワイングラスをテーブルに置いた。「わたしはしていない」
天吾は気持ちを落ち着けるために、グラスを手にとって水を一口飲んだ。「つまり、君は新人賞に応募しなかったということ?」
ふかえりは肯いた。「わたしはおくっていない」
「じゃあいったい誰が、君の書いたものを、新人賞の応募原稿として出版社に送ったんだろう?」
ふかえりは小さく肩をすくめた。そして十五秒ばかり沈黙した。それから言った、「だれでも」
「誰でも」と天吾は繰り返した。そしてすぼめた口から息をゆっくり吐いた。やれやれ、ものごとはそんなにすんなりとは進まない。思った通りだ。
天吾はこれまでに何度か、予備校で教えた女生徒と個人的につきあったことがあった。といっても、それは彼女たちが予備校を出て、大学に入ったあとのことだ。彼女たちの方から連絡をしてきて、会いたいと言われて、会って話をしたり、どこかに一緒に出かけたりした。彼女たちが天吾のいったいどこに惹かれたのか、天吾自身にはわからない。でもいずれにせよ彼は独身だったし、相手はもう彼の生徒ではない。デートに誘われて断る理由もなかった。
デートの延長として、肉体的な関係を持ったことも二度ばかりあった。しかし彼女たちとのつきあいは、それほど長くは続かず、いつの間にか自然に立ち消えになってしまった。大学に入ったばかりの元気な女の子たちと一緒にいると、天吾は今ひとつ落ち着けなかった。居心地がよくないのだ。遊び盛りの子猫を相手にしているのと同じで、最初のうちは新鮮で面白いのだが、そのうちにだんだんくたびれてくる。そして相手の女の子たちも、この数学講師が教壇に立って数学について熱心に語っているときと、そうでないときとでは、別の人格になるのだという事実を発見し、いくぶん失望したみたいだった。その気持ちは天吾にも理解できた。
彼が落ち着けるのは、年上の女性を相手にしているときだった。何をするにせよ自分がリードする必要はないのだと思うと、肩の荷が下りた気持ちになれた。そして多くの年上の女たちは彼に好感を持ってくれた。だから一年ばかり前に十歳年上の人妻と関係を持つようになってからは、若い女の子たちとデートをすることをすっかりやめてしまった。週に→度、アパートの自室でその年上のガールフレンドと会うことで、彼の生身の女性に対する欲望(あるいは必要性)のようなものはおおかた解消された。あとはひとりで部屋にこもって小説を書いたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、時々近所の室内プールに泳ぎに行ったりした。予備校で同僚たちとわずかな会話を交わすほかは、ほとんど誰とも話をしなかった。そしてそんな生活にとくに不満を抱くこともなかった。いや、むしろそれは彼にとっては理想的な生活に近かった。
しかしふかえりという十七歳の少女を目の前にしていると、天吾はそれなりに激しい心の震えのようなものを感じた。それは最初に彼女の写真を目にしたときに感じたのと同じものだったが、実物を目の前にすると、その震えはいっそう強いものになった。恋心とか、性的な欲望とか、そういうものではない。おそらく<傍点>何か傍点>が小さな隙間から入ってきて、彼の中にある空白を満たそうとしているのだ。そんな気がした。それはふかえりが作り出した空白ではない。天吾の中にもともとあったものだ。彼女がそこに特殊な光をあてて、あらためて照らし出したのだ。
「君は小説を書くことに興味がないし、作品を新人賞に応募もしなかった」と天吾は確認するように言った。
ふかえりは天吾の顔から目をそらすことなく肯いた。それから木枯らしから身を守るときのように小さく肩をすぼめた。
「小説家になりたいとも思わない」、天吾は自分も疑問符抜きで質問していることに気づいて驚いた。きっとその手の語法は伝染力を持っているのだろう。
「おもわない」とふかえりは言った。
そこで食事が運ばれてきた。ふかえりには大きなボウルに入ったサラダと、ロールパン。天吾にはシーフード?リングイーネ。ふかえりは新聞の見出しを点検するときのような目つきで、レタスの葉をフォークで何度か裏返した。
「しかしとにかく、誰かが君の書いた『空気さなぎ』を新人賞の応募原稿として出版社に送った。そして僕が応募原稿を下読みしていて、その作品に目を留めた」
「くうきさなぎ」とふかえりは言った。そして目を細めた。
「『空気さなぎ』君の書いた小説のタイトルだよ」と天吾は言った。
ふかえりは何も言わずにただそのまま目を細めていた。
「それは君がつけたタイトルじゃないの?」と天吾は不安になって尋ねた。
ふかえりは小さく首を振った。
天吾の頭はまた少し混乱したが、タイトルの問題についてはとりあえずそれ以上追求しないことにした。とりあえず先に進まなくてはならない。
「それはどちらでもいい。とにかく悪くないタイトルだよ。雰囲気があるし、人目を惹く。<傍点>これはなんだろう傍点>と思わせる。誰がつけたにせよ、タイトルについては不満はない。<傍点>さなぎ傍点>と<傍点>まゆ傍点>の区別が僕にはよくわからないけど、まあたいした問題じゃない。僕が言いたいのは、その作品を読んで僕は心を強く惹かれたということなんだ。それで僕は小松さんのところに持っていった。彼も『空気さなぎ』を気に入った。ただし新人賞を真剣に狙うなら、文章に手を入れなくてはならないというのが彼の意見だった。物語の強さに比べて、文章がいささか弱いから。そして彼はその文章の書き直しを、君にではなく、僕にやらせたいと思っている。僕はそれについて、まだ心を決めていない。やるかやらないか、返事もしていない。それが正しいことかどうか、よくわからないからだ」
天吾はそこで言葉を切って、ふかえりの反応を見た。反応はなかった。
「僕が今ここで知りたいのは、僕が君にかわって『空気さなぎ』を書き直すということを、君がどう考えるかってことなんだ。僕がいくら決心したって、君の同意と協力がなくては、そんなことできっこないわけだから」
ふかえりはプチトマトをひとつ指でつまんで食べた。天吾はムール貝をフォークでとって食べた。
「やるといい」とふかえりは簡単に言った。そしてもうひとつトマトをとった。「すきになおしていい」
「もう少し時間をかけて、じっくり考えた方がいいんじゃないかな。けっこう大事なことだから」と天吾は言った。
ふかえりは首を振った。そんな必要はない。
「僕が君の作品を書き直すとする」と天吾は説明した。「物語を変えないように注意して文章を補強する。たぶん大きく変更することになるだろう。でも作者はあくまで君だ。この作品はあくまでふかえりっていう十七歳の女の子が書いた小説なんだ。それは動かせない。もしその作品が新人賞をとれば君が受賞する。君ひとりが受賞する。本になれば君ひとりがその著者になる。僕らはチームを組むことになる。君と僕と、その小松さんっていう編集者の三人で。でも表に名前が出るのは君ひとりだけだ。あとの二人は奥に引っ込んで黙っている。芝居の道具係みたいに。言ってることはわかる?」
ふかえりはセロリをフォークで口に運んだ。小さく肯いた。「わかる」
「『空気さなぎ』という物語はどこまでも君自身のものだ。君の中から出てきたものだ。それを僕が自分のものにするわけにはいかない。僕はあくまで技術的な側面から君の手伝いをするだけだ。そして僕が手を貸したという事実を、君はどこまでも秘密にしなくちゃならない。つまり僕らは共謀して世界中に嘘をつくことになる。それはどう考えても簡単なことじゃない。ずっと心に秘密を抱えていくということは」
「そういうなら」とふかえりは言った。
天吾はムール貝の殻を皿の隅に寄せ、リングイーネをすくいかけてから、思い直してやめた。ふかえりはキュウリをとりあげ、見たことのないものを味わうみたいに、注意深く囓{かじ}った。
天吾はフォークを手にしたまま言った。「もう一度尋ねるけど、君の書いた物語を僕が書き直すことについて異論はない?」
「すきにしていい」とふかえりはキュウリを食べ終えてから言った。
「どんな風に書き直しても、君はかまわない?」
「かまわない」
「どうしてそう思えるんだろう? 僕のことを何も知らないのに」
ふかえりは何も言わず、小さく肩をすぼめた。
二人はそれからしばらく何も言わず料理を食べた。ふかえりはサラダを食べることに意識を集中していた。ときどきパンにバターを塗って食べ、ワイングラスに手を伸ばした。天吾は機械的にリングイーネを口に運び、様々な可能性に思いを巡らせた。
彼はフォークを下に置いて言った、「最初に小松さんから話を持ち込まれたときには、冗談じゃない、とんでもない話だと思った。そんなことできっこない。なんとか断るつもりだった。でもうちに帰ってその提案について考えているうちに、やってみたいという気持ちがだんだん強くなってきた。それが道義的に正しいかどうかはともかく、『空気さなぎ』という君のつくり出した物語に、僕なりの新しいかたちを与えてみたいと思うようになった。なんて言えばいいんだろう、それはとても自然な、自発的な欲求のようなものなんだ」
いや、欲求というよりは渇望という方に近いかもしれない、と天吾は頭の中で付け加えた。小松の予言したとおりだ。その渇きを抑えることがだんだん難しくなっている。
ふかえりは何も言わず、中立的な美しい目で、奥まったところから天吾を眺めていた。彼女は天吾の口にする言葉をなんとか理解しようと努めているように見えた。
「あなたはかきなおしをしたい」とふかえりは尋ねた。
天吾は彼女の目を正面から見た。「そう思っている」
ふかえりの真っ黒な瞳が何かを映し出すように微{かす}かにきらめいた。少なくとも天吾にはそのように見えた。
天吾は両手で、空中にある架空の箱を支えるようなかっこうをした。とくに意味のない動作だったが、何かそういった架空のものが、感情を伝えるための仲立ちとして必要だった。
「うまく言えないんだけど、『空気さなぎ』を何度も読みかえしているうちに、君の見ているものが僕にも見えるような気がしてきた。とくにリトル?ピープルが出てくるところ。君の想像力にはたしかに特別なものがある。それはなんていうか、オリジナルで伝染的なものだ」
ふかえりはスプーンを静かに皿に置き、ナプキンで口元を拭いた。
「リトル?ピープルはほんとうにいる」と彼女は静かな声で言った。
「本当にいる?」
ふかえりはしばらく間を置いた。それから言った。
「あなたやわたしとおなじ」
「僕や君と同じように」と天吾は反復した。
「みようとおもえばあなたにもみえる」
ふかえりの簡潔な語法には、不思議な説得力があった。口にするひとつひとつの言葉に、サイズの合った楔{くさび}のような的確な食い込みが感じられた。しかしふかえりという娘がどこまで<傍点>まとも傍点>なのか、天吾にはまだ判断がつかなかった。この少女には何かしら、たがの外れたところ、普通ではないところがある。それは天賦の資質かもしれない。彼は生のかたちの真正な才能を今、目の前にしているのかもしれない。あるいはただの見せかけに過ぎないのかもしれない。頭のいい十代の少女は時として本能的に演技をする。表面的にエキセントリックな<傍点>ふり傍点>をすることがある。いかにも暗示的な言葉を口にして相手を戸惑わせる。そういった例を彼は何度も目にしてきた。本物と演技とを見分けることは時としてむずかしい。天吾は話を現実に戻すことにした。あるいはより現実に近いところに。
「君さえよければ、明日からでも『空気さなぎ』書き直しの作業に入りたいんだ」
「それをのぞむのであれば」
「望んでいる」、天吾は簡潔に返事をした。
「あってもらうひとがいる」とふかえりは言った。
「僕がその人に会う」と天吾は言った。
ふかえりは肯いた。
「どんな人?」と天吾は質問した。
質問は無視された。「そのひととはなしをする」と少女は言った。
「もしそうすることが必要なら、会うのはかまわない」と天吾は言った。
「ニチヨウのあさはあいている」と疑問符のない質問を彼女はした。
「あいている」と天吾は答えた。まるで手旗信号で話をしているみたいだ、と天吾は思った。
食事が終わって、天吾とふかえりは別れた。天吾はレストランのピンク電話に十円硬貨を何枚か入れ、小松の会社に電話をかけた。小松はまだ会社にいたが、電話口に出るまでに時間がかかった。天吾はそのあいだ受話器を耳にあてて待っていた。
「どうだった。うまくいったか?」、電話口に出た小松はまずそう質問した。
「僕が『空気さなぎ』を書き直すことについて、ふかえりは基本的に承知しました。たぶんそういうことだと思います」
「すごいじゃないか」と小松は言った。声が上機嫌になった。「素晴らしい。実のところ、ちょいと心配してたんだよ。なんていうか、天吾くんはこういう交渉ごとにはあまり性格的に向かないんじゃないかと」
「べつに交渉したわけじゃありません」と天吾は言った。「説得の必要もなかった。おおよそのところを説明し、あとは彼女が一人で勝手に決めたみたいなものです」
「なんでもかまわない。結果が出りゃ何の文句もない。これで計画を進められる」
「ただその前に僕はある人に会わなくてはなりません」
「ある人?」
「誰かはわかりません。とにかくその人物に会って、話をしてほしいということです」
小松は数秒間沈黙した。「それでいつその相手に会うんだ?」
「今度の日曜日です。彼女が僕をその人のところに案内します」
「秘密については、大事な原則がひとつある」と小松は真剣な声で言った。「秘密を知る人間は少なければ少ないほどいいということだ。今のところ世界で三人しかこの計画を知らない。君と俺とふかえりだ。できることならその数をあまり増やしたくない。わかるよな?」
「理論的には」と天吾は言った。
それから小松の声はまた柔らかくなった。「しかしいずれにせよ、ふかえりは君が原稿に手を加えることを了承した。なんと言ってもそれがいちばんの重大事だ。あとのことはなんとでもなる」
天吾は受話器を左手に持ち替えた。そして右手の人差し指でこめかみをゆっくりと押した。
「ねえ、小松さん、僕はどうも不安なんです。はっきりした根拠があって言うんじゃないけど、自分が今、何かしら<傍点>普通じゃないこと傍点>に巻き込まれつつあるような気がしてならないんです。ふかえりって女の子と向かい合っているときには、とくに感じなかったんだけど、彼女と別れて一人になってから、そういう気持ちがだんだん強くなってきました。予感と言えばいいのか、虫の知らせなのか、でもとにかくここには何かしら奇妙なものがあります。普通ではないものです。頭でじゃなくて、身体でそう感じるんです」
「ふかえりに会って、それでそんな風に感じたのか?」
「かもしれない。ふかえりはたぶん本物だと思います。もちろん僕の直感に過ぎませんが」
「本物の才能があるってことか?」
「才能のことまではわかりません。会ったばかりだから」と天吾は言った。「ただ彼女は僕らの見ていないものを、実際に見ているのかもしれない。何かしら特殊なものを持っているのかもしれない。そのあたりがどうもひっかかるんです」
「頭がおかしいということか?」
「エキセントリックなところはあるけれど、頭はべつにおかしくないと思いますよ。話の筋はいちおう通っています」と天吾は言った。そして少し間を置いた。「ただ何かがひっかかるだけです」
「いずれにせよ彼女は、君という人間に興味を持った」と小松は言った。
天吾は適切な言葉を探したが、そんなものはどこにも見つからなかった。「そこまではわかりません」と彼は答えた。
「彼女は君に会い、少なくとも君には『空気さなぎ』を書き直す資格があると思った。つまり君のことを気に入ったということだ。実に上出来だよ、天吾くん。先のことは俺にもわからん。もちろんリスクはある。しかしリスクは人生のスパイスだ。今からすぐにでも『空気さなぎ』の改稿にとりかかってくれ。時間はない。書き直した原稿をなるたけ早く、応募原稿の山の中に戻さなくちゃならない。オリジナルと取り替えるんだよ。十日あれば書き上げられるか?」
天吾はため息をついた。「厳しいですね」
「なにも最終稿である必要はないんだよ。先の段階でまた少しは手を入れることができる。とりあえずのかっこうをつけてくれればいい」
天吾は頭の中で作業のおおまかな見積もりをした。「それなら十日あればなんとかなるかもしれません。大変なことには変わりありませんが」
「やってくれ」と小松は明るい声で言った。「彼女の目で世界を眺めるんだ。君が仲介になり、ふかえりの世界とこの現実の世界を結ぶ。君にはそれができる、天吾くん。俺には——」
そこで十円玉が切れた。
第5章 青豆
専門的な技能と訓練が必要とされる職業
仕事を済ませたあと、青豆はしばらく歩いてからタクシーを拾い、赤坂のホテルに行った。帰宅し眠りにつく前に、アルコールで神経の高ぶりをほぐしておく必要がある。なにしろついさっき一人の男を<傍点>あちら側傍点>に送り込んできたのだ。殺されても文句の言えないネズミ野郎とはいえ、やはり人は人だ。彼女の手には生命が消滅していくときの感触がまだ残っている。最後の息が吐かれ、魂が身体を離れていく。青豆は何度かそのホテルのバーに行ったことがあった。高層ビルの最上階、見晴らしが良く、カウンターの居心地がいい。
バーに入ったのは七時少し過ぎだった。ピアノとギターの若いデュオが『スイート?ロレイン』を演奏していた。ナット?キング?コールの古いレコードのコピーだが、悪くない。彼女はいつものようにカウンターに座り、ジン?トニックとピスタチオの皿を注文した。バーはまだ混み合ってはいない。夜景を見ながらカクテルを飲んでいる若いカップル、商談をしているらしいスーツ姿の四人組、マティー二のグラスを手にした外国人の中年の夫婦。彼女は時間をかけてジン?トニックを飲んだ。あまり早く酔ってしまいたくない。夜はまだ長い。
ショルダーバッグから本を出して読んだ。一九三〇年代の満州鉄道についての本だ。満州鉄道(南満州鉄道株式会社)は日露戦争が終結した翌年、ロシアから鉄道線路とその権益を譲渡されるかたちで誕生し、急速にその規模を拡大していった。大日本帝国の中国侵略の尖兵となり、一九四五年にソビエト軍によって解体された。一九四一年に独ソ戦が開始されるまで、この鉄道とシベリア鉄道を乗り継いで、下関からパリまで十三日間で行くことができた。
ビジネス?スーツを着て、大きなショルダーバッグを隣りに置き、満州鉄道についての本(ハードカバー)を熱心に読んでいれば、ホテルのバーで若い女が一人で酒を飲んでいても、客選びをしている高級娼婦と間違えられることはあるまい、と青豆は思う。しかし本物の高級娼婦が一般的にどんなかっこうをしているのか、青豆にもよくわからない。もし彼女が仮に裕福なビジネスマンを相手にする娼婦であったなら、相手を緊張させないためにも、バーから追い出されないためにも、たぶん娼婦には見えないように努めるだろう。たとえばジュンコ?シマダのビジネス?スーツを着て、白いブラウスを着て、化粧は控えめにして、実務的な大振りのショルダーバッグを持って、満州鉄道についての本を開いているとか。それに考えてみれば彼女が今やっているのは、客待ちの娼婦と実質的にさして変わりないことなのだ。
時間が経過し、客が徐々に増えてきた。気がつくとあたりはざわざわという話し声で満ちていた。しかし彼女の求めるタイプの客はなかなか姿を見せなかった。青豆はジン?トニックのお代わりをし、スティック野菜を注文し(彼女はまだ夕食をとっていなかった)、本を読み続けた。やがて一人の男がやってきてカウンター席に座った。連れはいない。ほどよく日焼けして、上品な仕立てのブルーグレーのスーツを着ている。ネクタイの好みも悪くない。派手すぎず、地味すぎない。年齢はおそらく五十前後だろう。髪がかなり薄くなっていた。眼鏡はかけていない。東京に出張してきて、仕事の案件を片づけ、ベッドに入る前に一杯やりたくなったのだろう。青豆と同じだ。適度のアルコールを体内に入れて、緊張した神経をほぐす。
出張で東京にやってくるおおかたの会社員は、こんな高級ホテルには泊まらない。もっと宿泊代の安いビジネス?ホテルに泊まる。駅に近く、ベッドが部屋のほとんどのスペースを占め、窓からは隣りのビルの壁しか見えず、肘を二十回くらい壁にぶっつけないことにはシャワーも浴びられないようなところだ。各階の廊下に、飲み物や洗面用具の自動販売機が置いてある。もともとその程度の出張費しか出してもらえなかったのか、あるいは安いホテルに泊まることで浮いた出張費を自分の懐に入れるつもりなのか、そのどちらかだ。彼らは近所の居酒屋でビールを飲んで寝てしまう。となりにある牛丼屋で朝食をかきこむ。
しかしこのホテルに宿泊するのは、それとは違う種類の人々だ。彼らは仕事で東京に出てくるときには、新幹線のグリーン車しか使わないし、決まった高級ホテルにしか泊まらない。一仕事終えると、ホテルのバーでくつろいで高価な酒を飲む。その多くは一流企業に勤め、管理職に就いている人々だ。あるいは自営業者、または医者か弁護士といった専門職だ。中年の域に達し、金には不自由していない。そして多かれ少なかれ遊び慣れている。青豆が念頭に置いているのはそういうタイプだった。
青豆はまだ二十歳前の頃から、自分でも何故かはわからないが、髪が薄くなりかけている中年男に心を惹かれた。すっかり禿げているよりは、少し髪が残っているくらいが好みだ。しかし髪が薄ければいいというのではない。頭のかたちが良くなければ駄目だ。彼女の理想はショーン?コネリーの禿げ方だった。頭のかたちがとてもきれいで、セクシーだ。眺めているだけで胸がどきどきしてくる。カウンターの、彼女から席二つ離れたところに座ったその男も、なかなか悪くない頭のかたちをしていた。もちろんショーン?コネリーほど端整ではないが、それなりの雰囲気は持っている。髪の生え際が額のずっと後ろの方に後退し、わずかに残った髪は、霜の降りた秋の終わりの草地を思わせる。青豆は本のページから少しだけ目を上げて、その男の頭のかたちをしばし観賞した。顔立ちはとくに印象的ではない。太ってはいないが、顎の肉がいくぶんたるみ始めている。目の下に袋のようなものもできている。どこにでもいる中年男だ。しかしなんといっても頭のかたちが気に入った。
バーテンダーがメニューとおしぼりを持ってやってくると、男はメニューも見ず、スコッチのハイボールを注文した。「何かお好みの銘柄はありますか?」とバーテンダーが尋ねた。「とくに好みはない。なんでもかまわないよ」と男は言った。静かな落ち着きのある声だった。関西説りが聞き取れる。それから男はふと思いついたように、カティサークはあるだろうかと尋ねた。ある、とバーテンダーは言った。悪くない、と青豆は思う。選ぶのがシーバス?リーガルや凝ったシングル?モルトでないところに好感が持てる。バーで必要以上に酒の種類にこだわる人間は、だいたいにおいて性的に淡泊だというのが青豆の個人的見解だった。その理由はよくわからない。
関西説りは青豆の好みだった。とりわけ関西で生まれ育った人間が東京に出てきて、無理に東京の言葉を使おうとしているときの、いかにもそぐわない落差が好きだった。ボキャブラリーとイントネーションが合致していないところが、なんともいえずいい。その独特な響きは妙に彼女の心を落ち着かせた。この男で行こう、と心を決めた。その禿げ残った髪を、好きなだけ指でいじくりまわしてみたい。バーテンダーが男にカティサークのハイボールを運んできたとき、彼女はバーテンダーをつかまえて、男の耳に入ることを意識した声で「カティサークのオンザロックを」と言った。「かしこまりました」とバーテンダーは無表情に返事をした。
男はシャツのいちばん上のボタンを外し、細かい模様の入った紺色のネクタイを少しゆるめた。スーツも紺色だ。シャツは淡いブルーのレギュラー?カラー。彼女は本を読みながら、カティサークが運ばれてくるのを待った。そのあいだにブラウスのボタンをひとつさりげなく外した。バンドは『イッツ?オンリー?ア?ペーパームーン』を演奏していた。ピアニストがワンコーラスだけ歌った。オンザロックが運ばれてくると、彼女はそれを口元に運び、一口すすった。男がこちらをちらちら見ているのがわかった。青豆は本のページから顔を上げ、男の方に目をやった。さりげなく、たまたまという感じで。男と視線が合うと、彼女は見えるか見えない程度に微笑んだ。そしてすぐに正面に目を戻し、窓の外の夜景を眺めるふりをした。
男が女に声をかける絶好のタイミングだった。彼女の方からそういう状況をわざわざこしらえてやったのだ。しかし男は声をかけてこなかった。まったくもう、いったい何やってんのよ、と青豆は思った。そのへんの駆け出しのガキじゃあるまいし、そういう微妙な気配くらい、わかるでしょうが。たぶんそれだけの度胸がないのだ、と青豆は推測する。自分が五十歳で、私が二十代で、声をかけたのに黙殺されたり、ハゲの年寄りのくせにと馬鹿にされたりするんじゃないかと、それが心配なのだ。やれやれ。まったくなんにもわかってないんだから。
彼女は本を閉じて、バッグにしまった。そして自分の方から男に話しかけた。
「カティサークがお好きなの?」と青豆は尋ねた。
男はびつくりしたように彼女を見た。何を聞かれているのか、よくわけがわからないという表情を顔に浮かべた。それから表情を崩した。「ああ、ええ、カティサーク」と彼は思い出したように言った。「昔からラベルが気に入っていて、よく飲みました。帆船の絵が描いてあるから」
「船が好きなのね」
「そうです。帆船が好きなんです」
青豆はグラスを持ち上げた。男もハイボールのグラスをちょっとだけ持ち上げた。乾杯をするみたいに。
それから青豆は隣に置いていたショルダーバッグを肩にかけ、オンザロックのグラスを手に、席を二つぶんするりと移動し、男の隣の席に移った。男は少し驚いたようだったが、驚きを顔に出さないように努めた。
「高校時代の同級生の女の子とここで会う約束をしていたんだけど、どうやらすっぽかされちゃったみたい」と青豆は腕時計を見ながら言った。「姿を見せないし、連絡もないし」
「相手の人、約束の日にちを間違えたんじゃありませんか」
「そんなところかもね。昔からそそっかしいところのある子だったから」と青豆は言った。「もうちょっとだけ待ってようと思うんだけど、そのあいだちょっとお話ししていいかしら? それとも一人でゆっくりしていたい?」
「いや、そんなことはありません。ぜんぜん」、男はいくぶんとりとめのない声でそう言った。眉を寄せ、担保の査定でもするような目で青豆を見た。客を物色している娼婦ではないかと疑っているようだった。しかし青豆にはそういう雰囲気はない。どう見ても娼婦ではない。それで男は緊張の度合いを少し緩めた。
「あなたはこのホテルに泊まっているんですか?」と彼は尋ねた。
青豆は首を振った。「いいえ、私は東京に住んでるの。ただここで友だちと待ち合わせているだけ。あなたは?」
「出張です」と彼は言った。「大阪から来ました。会議に出るために。つまらん会議なんだけど、本社が大阪にあるものだから、こっちから誰かが参加しないとかたちにならんということで」
青豆は儀礼的に微笑んだ。あのねえ、あんたの仕事がどうかなんて、こっちには鳩のクソほどの興味もないの、と青豆は心の中で思った。こっちはあんたの頭のかたちが気に入っただけなんだからさ。でもそんなことはもちろん口には出さなかった。
「仕事がひとつ終わって、一杯やりたくなったわけです。明日は午前中にもうひとつ仕事を終えて、それから大阪に戻ります」
「私も大きな仕事をひとつ、ついさっき終えたばかりなの」と青豆は言った。
「ほう。どんなお仕事ですか?」
「仕事のことはあまりしゃべりたくないんだけど、まあ、専門職のようなこと」
「専門職」と男はくり返した。「一般の人にはあまりできない、専門的な技能と訓練が必要とされる職業」
あんたは歩く広辞苑か、と青豆は思った。でもそれも口には出さず、ただ微笑みを浮かべていた。「まあ、そんなところかしら」
男はハイボールをまた一口飲み、ボウルのナッツをひとつまみ食べた。「どんな仕事だか興味があるけど、あなたはそれについてはあまりしゃべりたくない」
彼女は肯いた。「今のところは」
「ひょっとして、言葉を使うお仕事じゃないかな? たとえば、そうだな、編集者とか、大学の研究者とか」
「どうしてそう思うの?」
男はネクタイの結び目に手をやって、もう一度きちんと締め直した。シャツのボタンもとめた。
「なんとなく。ずいぶん熱心に分厚い本を読んでいたみたいだかち」
青豆はグラスの縁を爪で軽くはじいた。「本は好きで読んでいただけ。仕事とは関係なくね」
「じゃあお手上げだな。想像がつかない」
「つかないと思う」と青豆は言った。たぶん永遠にね、と彼女は心の中で付け加えた。
男はさりげなく青豆の身体を観察していた。彼女は何かを落としたふりをしてかがみ込み、胸の谷間を心ゆくまで相手にのぞきこませた。乳房のかたちが少しは見えるはずだ。レースの飾りがついた白い下着も。それから彼女は顔を上げ、カティサークのオンザロックを飲んだ。グラスの中で丸いかたちの大ぶりな氷がからんと音を立てた。
「おかわりを頼みますか? 私も頼むけど」と男は言った。
「お願い」と青豆は言った。
「酒が強いんですね」
青豆は曖昧に微笑んだ。それから急に真顔になった。「そうだ、思い出した。ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「どんなこと?」
「最近警官の制服が変わったかしら? それから携行する拳銃の種類も」
「最近って、いつくらいのこと」
「この一週間くらい」
男はちょっと妙な顔をした。「警官の制服と拳銃はたしかに変わったけど、それはもう何年も前のことです。かっちりしたかたちの制服が、ジャンパーみたいなカジュアルなものになって、拳銃は新型の自動式に変わりました。それからあとはとくに大きな変化はないと思うけど」
「日本の警官はみんな旧式の回転拳銃を持っていたでしょう。つい先週まで」
男は首を振った。「そんなことはない。けっこう前から警官はみんな自動拳銃を携行していますよ」
「自信を持ってそう言えるわけ?」
彼女の口調に男は少したじろいだ。眉のあいだにしわを寄せ、真剣に記憶をたどった。「いや、そうあらたまって訊かれると混乱するな。ただ新聞にはすべての警官の拳銃を新型に交換したと書いてあったはずだ。当時ちょっと問題になったんです。拳銃が高性能すぎるって、例によって市民団体が政府に抗議をして」
「何年も前?」と青豆は言った。
男は年配のバーテンダーを呼んで、警官の制服と拳銃が新しくなったのはいつのことだったかね、と質問した。
「二年前の春です」とバーテンダーは間を置かず答えた。
「ほらね、一流ホテルのバーテンダーは何だって知っているんだ」と男は笑いながら言った。
バーテンダーも笑った。「いえ、そんなことありません。ただ、私の弟がたまたま警官をしておりますので、そのことはよく覚えているんです。弟は新しい制服のかたちが好きになれず、よくこぼしていました。拳銃も重すぎると。今でもまだこぼしています。新しい拳銃はべレッタの九ミリ自動式で、スイッチひとつでセミオートマチックに切り替えることができます。今はたしか三菱が国内でライセンス生産しています。日本では銃撃戦みたいなものはほとんどありませんし、そこまで高性能の拳銃は必要ないんです。むしろ盗まれるのが心配なくらいです。しかし警察機能を強化向上するという政府の方針がありました」
「古い回転拳銃はどうなったの?」と青豆は声の調子をできるだけ抑えて尋ねた。
「全部回収されて、解体処分されたはずです」とバーテンダーは言った。「解体作業をやっているところを、テレビのニュースで見ました。それだけの数の拳銃を解体処分し、弾丸を廃棄するのはすごく手間がかかるんです」
「外国に売ればいいのに」と髪の薄い会社員が言った。
「武器の輸出は憲法で禁止されています」とバーテンダーが謙虚に指摘した。
「ほらね、一流ホテルのバーテンダーは——」
「つまり二年前から、回転式の拳銃は日本の警察でまったく使われていない。そういうこと?」と青豆は男の発言を遮ってバーテンダーに尋ねた。
「知るかぎりでは」
青豆はわずかに顔をしかめた。私の頭がおかしくなったのだろうか? 私は今朝、以前の制服を着て、旧式の回転拳銃を携行している警官を目にしたばかりだ。旧式の拳銃がひとつ残らず処分されたなんて話は耳にしたこともない。しかしこの中年男とバーテンダーの二人が揃って思い違いをしたり、嘘をついているとはまず考えられない。とすれば私が間違っていることになる。
「ありがとう。そのことはいいわ、もう」と青豆はバーテンダーに言った。バーテンダーは職業的な笑みを適切な句読点のように浮かべ、仕事に戻っていった。
「警官に興味があるんですか?」と中年男が尋ねた。
「そういうわけじゃなくて」と青豆は言った。そして言葉を濁した。「ただちょっと記憶が曖昧になったものだから」
新しく運ばれてきたカティサークのハイボールとオンザロックを二人は飲んだ。男はヨットの話をした。彼は西宮のヨットハーバーに自分の小さなヨットを係留していた。休日になるとそのヨットで海に出る。海の上で一人で身体に風を感じるのがどれくらい素敵なことか、男は熱心に話した。青豆はろくでもないヨットの話なんて聞きたくもなかった。ボールベアリングの歴史とか、ウクライナの鉱物資源の分布状況とか、そんな話をしていた方がまだましだ。彼女は腕時計に目をやった。
「もう夜も遅いし、ひとつ率直に質問していいかしら?」
「いいですよ」
「なんていうか、わりに個人的なことなんだけど」
「答えられることなら」
「あなたのおちんちんは大きい方?」
男は口を軽く開け、目を細め、青豆の顔をひとしきり眺めた。耳にしたことがうまく信じられないみたいだった。しかし青豆はどこまでも真剣な顔をしていた。冗談を言っているわけではない。目を見ればそれはわかった。
「そうだな」と彼は生真面目に答えた。「よくわからないけど、だいたい普通じゃないかな。急にそんなことを言われても、何と言えばいいのか……」
「歳はいくつなの?」と青豆は尋ねた。
「先月五十一になったばかりだけど」と男はおぼつかない声で言った。
「普通の脳味噌を持って五十年以上生きてきて、人並みに仕事をして、ヨットまで持っていて、それで自分のおちんちんが世間一般の標準より大きいか小さいかも判断できないわけ?」
「そうだな、普通より少し大きいくらいかもしれない」と彼は少し考えてから、言いにくそうに言った。
「ほんとね?」
「どうしてそんなことが気になるんだろう?」
「気になる? 気になるって、誰が言った?」
「いや、誰も言ってないけど……」と男はスツールの上でわずかに尻込みしながら言った。「でも今そのことが問題になっているみたいだから」
「問題になんかなってないわよ、ぜんぜん」と青豆はきっぱりと言った。「私はね、ただ大きなおちんちんが個人的に好みなの。視覚的にね。大きくなきゃ感じないとか、そういうんじゃないの。それにただ大ききゃいいってものでもない。気分的に、<傍点>大きめ傍点>のがわりに好きだっていうだけ。いけない? 誰にだって好みってものがあるでしょう。でも馬鹿でかいのはだめ。痛いだけだから。わかる?」
「じゃあ、うまくいけば気に入ってもらえるかもしれない。普通よりはいくらか大きめだと思うけど、馬鹿でかいとかそういうのではぜんぜんないから。つまり、適度というか……」
「嘘じゃないわよね」
「そんなことで嘘をついても仕方ない」
「ふうん。じゃあ、ひとつ見せてもらいましょうか」
「ここで?」
青豆は抑制しながら顔をしかめた。「ここで? あなた、どうかしてるんじゃないの。いい年をして、いったい何を考えて生きてるわけ? 上等なスーツを着て、ネクタイまで締めて、社会常識ってものがないの? こんなところでおちんちんを出して、いったいどうすんのよ。まわりの人がなんて思うか考えてごらんなさいよ。これからあなたの部屋に行って、そこでパンツを脱いで見せてもらうのよ。二人きりで。そんなこと決まってるでしょうが」
「見せて、それからどうするんだろう?」と男は心配そうに言った。
「見せてそれからどうするか?」と言って青豆は呼吸を止め、かなり大胆に顔をしかめた。「セックスするに決まってるでしょう。ほかにいったい何をするの。わざわざあなたの部屋まで行って、おちんちんだけ見せてもらって、それで『どうもありがとう。ご苦労様。いいものを見せてもらったわ。じゃあ、おやすみなさい』って、うちに帰っていくわけ? あなたね、頭のどっかの回線が外れてるんじゃないの」
男は青豆の顔の劇的な変化を目の前にして息を呑んだ。彼女が顔をしかめると、大抵の男は縮み上がってしまう。小さな子供なら小便をもらすかもしれない。彼女のしかめ面にはそれくらい衝撃的なものがあった。ちょっとやりすぎたかしら、と青豆は思った。相手をそれほど怯えさせてはいけない。その前に済まさなくてはならないことがあるのだから。彼女は急いで顔をもとに戻し、無理に笑みを浮かべた。そしてあらためて言い聞かせるように相手に言った。
「要するにあなたの部屋に行って、ベッドに入ってセックスをするの。あなたって、ゲイとか、インポテンツとか、そういうんじゃないでしょうね」
「いや、違うと思う。子供もちゃんと二人いるし……」
「あのねえ、あなたに子供が何人いるかなんて、誰も聞いてないでしょうが。国勢調査してるわけじゃないんだから、いちいち余計なことを言わないでちょうだい。私が尋ねてるのは、女と一緒にベッドに入って、おちんちんがちゃんと立つかってことなの。それだけのこと」
「これまで大事なときに役に立たなかったということは、一度もなかったと思うけど」と男は言った。「でも、君はプロというか……、つまり、仕事でこれをやっている人なのかな」
「違うわよ。よしてよね。私はプロなんかじゃない。変態でもない。ただの一般市民よ。ただの一般市民がただ単純に素直に、異性と性行為を持ちたいと望んでいるだけ。特殊なものじゃない、ごく普通のやつ。それのどこがいけないの。むずかしい仕事をひとつ終えて、日が暮れて、軽くお酒を飲んで、知らない人とセックスをして発散したいの。神経を休めたいの。そうすることが必要なの。あなただって男なら、そういう感じはわかるでしょう」
「そういうのはもちろんわかるけど……」
「あなたのお金なんか一銭もいらない。もししっかり私を満足させてくれたら、こっちからお金をあげてもいいくらいよ。コンドームなら用意してあるから、病気の心配はしなくていい。わかった?」
「それはわかったけど……」
「なんだか気が進まないみたいね。私じゃ不足かしら?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、よくわからないんだ。君は若くてきれいだし、私はたぶん君の父親に近いような歳だし……」
「もう、下らないことを言わないで。お願いだから。年齢がどれだけ離れていたって、私はあなたのろくでもない娘じゃないし、あなたは私のろくでもない父親じゃない。そんなこと、わかりきってるでしょう。そういう意味のない一般化をされると、神経がささくれちゃうの。私はね、ただあなたのその禿げ頭が好きなの。その形が好きなの。わかった?」
「しかしそう言われても、まだ禿げているってほどじゃない。たしかに生え際あたりは少し……」
「うるさいわね、もう」と青豆は思い切り顔をしかめたくなるのを我慢しながら言った。それから声をいくぶん柔らかくした。相手を必要以上に怯えさせてはならない。「そんなことどうだっていいでしょう。お願いだからもう、とんちんかんなことを言わないで」
本人がなんと思おうと、それは間違いなくハゲなの、と青豆は思った。もし国勢調査にハゲっていう項目があったら、あなたはしっかりそこにしるしを入れるのよ。天国に行くとしたら、あなたはハゲの天国にいく。地獄に行くとしたら、あなたはハゲの地獄に行く。わかった? わかったら、事実から目を背けるのはよしなさい。さあ、行きましょう。あなたはハゲの天国に直行するのよ、これから。
男がバーの勘定を払い、二人は彼の部屋に移った。
彼のペニスはたしかに標準よりはいくぶん大きめだったが、とくに大きすぎるというのではなかった。自己申告に間違いはなかった。青豆はそれを要領よくいじって、大きく硬くした。ブラウスを脱ぎ、スカートを脱いだ。
「私のおっぱいが小さいと思っているんでしょう」と青豆は男を見下ろしながら冷たい声で言った。「自分のおちんちんがけっこう大きいのに、私のおっぱいが小さいから、馬鹿にしてるんでしょう。損をしたような気持ちになっているんでしょう」
「いや、そんなことは思ってないよ。君の胸は別に小さくない。とてもきれいなかたちをしている」
「どうだか」と青豆は言った。「あのね、言っときますけど、いつもはこんなちゃらちゃらとレースの飾りがついたようなブラはつけてないのよ。お仕事だからしょうがなくてつけてんの。ちらっと胸元を見せるために」
「それは、いったいどんなタイプの仕事なんだろう」
「あのね、さっきもしっかり言ったでしょう。こんなところで仕事の話はしたくないの。でもね、たとえどんな仕事であれ、女であるってのはいろいろと大変なの」
「男だって、生きていくのはいろいろと大変だけど」
「でもつけたくもないのに、レースのついたブラをつけるような必要はないでしょうが」
「そりゃそうだけど……」
「じゃあ、わかったようなことは言わないでちょうだい。女ってのはね、男以上にきついことが多いの。あなた、ハイヒール履いて急な階段を降りたことある? タイトなミニスカートをはいて柵を乗り越えたことある?」
「悪かった」と男は素直に謝った。
彼女は手を背中にまわしてブラジャーを取り、それを床に放り投げた。ストッキングをくるくると丸めて脱ぎ、それも床に放り投げた。それからベッドに横になって、男のペニスをもう一度いじり始めた。「ねえ、なかなか立派なものじゃない。感心したわ。かたちもいいし、大きさもまずまず理想的だし、木の根っこみたいに硬くなってるし」
「そう言ってもらえるとありがたいけど」、男はひと安心したようにそう言った。
「ほら、お姉さんが今からしっかりかわいがってあげる。ぴくぴく喜ばせてあげるからね」
「その前にシャワーを浴びた方がいいんじゃないかな。汗もかいてるし」
「うるさいわねえ」と青豆は言った。そして警告を与えるように、右側の睾丸を指で軽くはじいた。「あのね、私はここにセックスをしに来たの。シャワーを浴びに来たんじゃない。わかった? まずやるの。<傍点>思い切り傍点>やるわけ。汗なんかどうでもいいのよ。恥ずかしがり屋の女学生じゃあるまいし」
「わかった」と男は言った。
セックスを終えたあと、疲れ果てたようにうつぶせになっている男の剥き出しの首筋を指で撫でながら、そこの特定のポイントに尖った針先を突き立てたいという欲望を、青豆は強く感じた。本当にそうしようかとも考えたくらいだ。バッグの中には布にくるまれたアイスピックが入っている。時間をかけて尖らせたその先端には特別に柔らかく加工したコルクが刺さっている。もしそうしようと思えば簡単にできる。右手のたなごころを木製の柄の部分に<傍点>すとん傍点>と振り下ろす。相手はわけのわからないうちに、もう死んでいる。苦痛はまったくない。自然死として処理されるだろう。しかしもちろん思いとどまった。この男を社会から抹殺しなくてはならない理由はどこにもない。青豆にとってもう何の存在理由も持たない、という以外には。青豆は首を振り、その危険な考えを頭から追い払った。
この男はべつに悪い人間ではない、と青豆は自分に言い聞かせた。セックスもそれなりにうまかった。彼女を行かせるまで射精しないだけの節度も持ち合わせていた。頭のかたちも、禿げ具合もなかなか好ましい。ペニスの大きさもちょうどいい。礼儀正しく、服の好みも良く、押しつけがましいところはない。育ちも悪くないのだろう。たしかに話はおそろしく退屈だし、とてもいらいらさせられる。しかしそれは死に値するほどの罪悪ではないはずだ。おそらく。
「テレビをつけていいかな」と青豆は尋ねた。
「いいよ」と男はうつぶせになったまま言った。
裸でベッドに入ったまま、十一時のニュースを最後まで見た。中東ではイランとイラクが相変わらず血なまぐさい戦争を続けていた。戦争は泥沼化し、解決の糸口はどこにも見えない。イラクでは徴兵忌避の若者たちが見せしめのために電柱に吊されていた。サダム?フセインは神経ガスと細菌兵器を使用していると、イラン政府は非難していた。アメリカではウォルター?モンデールとゲイリー?ハートが大統領選挙で、民主党の候補の座を争っていた。どちらも世界でいちばん聡明そうには見えなかった。聡明な大統領はたいてい暗殺の標的になるから、人並み以上に頭の切れる人間はできるだけ大統領にならないように努めているのかもしれない。
月では恒久的な観測基地の建設が進行していた。そこではアメリカとソビエトが珍しく協力し合っていた。南極の観測基地のケースと同じように。月面基地? と青豆は首をひねった。そんな話は聞いたことがない。いったいどうなっているのだろう? しかしそれについてはあまり深く考えないことにした。もっと大事な当面の問題がほかにあったからだ。九州の炭鉱火災事故で多数の死者が出て、政府はその原因を追求していた。月面基地ができる時代に人々がまだ石炭を掘り続けていること自体が、青豆にはむしろ驚きだった。アメリカが日本に金融市場開放の要求をつきつけていた。モルガン?スタンレーやメリル?リンチが政府をたきつけて、新たな金儲け口を探している。島根県にいる賢い猫が紹介された。猫は自分で窓を開けて外に出ていくのだが、出たあと自分で窓を閉めた。飼い主がそうするように教え込んだのだ。青豆はやせた黒猫が後ろを振り向き、片手をのばし、意味ありげな目つきでそろりと窓を閉めるシーンを感心して見ていた。
ありとあらゆるニュースがあった。しかし渋谷のホテルで死体が発見されたというニュースは報じられなかった。ニュース番組が終わると、彼女はリモコンのスイッチを押してテレビを消した。あたりがしんとした。隣で横になっている中年男の微かな寝息が聞こえるだけだ。
あの男はまだ同じ姿勢のまま、デスクにうつぶせになっているはずだ。彼は深く眠っているように見えるはずだ。私の隣にいるこの男と同じように。しかし寝息は聞こえない。あのネズミ野郎が目を覚まして起きあがる可能性は、まったくない。青豆は天井を見つめたまま、死体の様子を思い浮かべた。小さく首を振り、一人で顔をしかめた。それからベッドを出て、床に脱ぎ捨てた衣服をひとつひとつかき集めた。
第6章 天吾
我々はかなり遠くまで行くのだろうか?
小松から電話がかかってきたのは、金曜日の早朝、五時過ぎだった。そのときは長い石造りの橋を歩いて渡っている夢を見ていた。向こう岸に忘れてきた何か大事な書類を取りに行くところだった。橋を歩いているのは天吾一人だけだ。ところどころに砂州のある、大きな美しい川だ。ゆっくりと水が流れ、砂州には柳の木も生えている。鱒たちの優雅な姿も見える。鮮やかな緑の葉がやさしく水面に垂れ下がっている。中国の絵皿にあるような風景だった。彼はそこで目を覚まし、真っ暗な中で枕元の時計に目をやった。そんな時間に誰が電話をかけてきたのか、もちろん受話器を取る前から見当はついた。
「天吾くん、ワープロ持ってるか?」と小松は尋ねた。「おはよう」もなく、「もう起きてたか?」もない。この時刻に彼が起きているということは、きっと徹夜明けなのだろう。日の出が見たくて早起きをしたわけではない。どこかで眠りに就く前に、天吾に言っておくべきことを思い出したのだ。
「もちろん持ってませんよ」と天吾は言った。あたりはまだ暗い。そして彼はまだ長い橋の真ん中あたりにいた。天吾がそれほどくつきりとした夢を見るのは珍しいことだった。「自慢じゃないけど、そんなものを買う余裕はありません」
「使えるか?」
「使えますよ。コンピュータでもワードプロセッサーでも、あればいちおう使えます。予備校に行けばありますし、仕事ではしょっちゅう使っています」
「じゃあ、今日どこかでワープロをひとつ、見つくろって買ってきてくれ。俺は機械<傍点>もの傍点>のことはからっきしわからんから、メーカーだとか…機種だとかは任せるよ。代金はあとで請求してくれ。それを使って、なるたけ早く『空気さなぎ』の書き直しを始めてもらいたい」
「そう言われても、安くても二十五万円くらいはしますよ」
「かまわんよ、それくらい」
天吾は電話口で首をひねった。「つまり、小松さんが僕にワードプロセッサーを買ってくれるんですか?」
「ああ、俺のささやかなポケットマネーをはたいてね。この仕事にはそれくらいの資本投下は必要だ。けちけちしてちゃたいしたことはできない。君も知ってのとおり『空気さなぎ』はワープロ原稿のかたちで送られてきたし、となると書き直すのもやっぱりワープロを使わないと具合が悪い。できるだけ元の原稿と似た体裁にしてくれ。今日から書き直しは始められるか?」
天吾はそれについて考えた。「いいですよ。始めようと思えばすぐにでも始められます。でもふかえりは僕が日曜日に、彼女の指定する誰かと会うことを書き直し許可の条件にしていますし、その人物にはまだ会っていません。会ってみたら交渉決裂、お金も労力もみんな無駄に終わってしまった、という可能性もなくはありません」
「かまわない。そいつはなんとかなる。細かいことは気にせずに、今すぐにでもとりかかってくれ。こいつは時間との競争なんだよ」
「面接がうまくいくという自信があるんですか?」
「勘だよ」と小松は言った。「俺にはそういう勘が働くんだ。何によらず才能みたいなものは授かっていないみたいだが、勘だけはたっぷり持ち合わせている。はばかりながらそれひとつで今まで生き残ってきた。なあ天吾くん、才能と勘とのいちばん大きな違いは何だと思う?」
「わかりませんね」
「どんなに才能に恵まれていても腹一杯飯を食えるとは限らないが、優れた勘が具わっていれば食いっぱぐれる心配はないってことだよ」
「覚えておきましょう」と天吾は言った。
「だから案ずることはない。今日からさっそく作業を始めてかまわない」
「小松さんがそう言うのなら、僕はかまいません。見込み発車でものごとを始めて、あとで『あれは無駄骨だったね』みたいなことになりたくなかっただけです」
「そのへんは俺がすべての責任をとるよ」
「わかりました。午後に人に会う約束があるけれど、あとは暇です。朝のうちに街に出てワードプロセッサーをみつくろってきます」
「そうしてくれ、天吾くん。あてにしている。二人で力をあわせて世間をひっくり返そう」
九時過ぎに人妻のガールフレンドから電話があった。夫と子供たちを車で駅まで送り届けたあとの時間だ。その日の午後に彼女は天吾のアパートを訪れることになっていた。金曜日は二人がいつも会う日だ。
「身体の具合が<傍点>思わしくないの傍点>」と彼女は言った。「残念だけど今日は行けそうにない。また来週にね」
身体の具合が<傍点>思わしくない傍点>というのは、生理期間に入ったということの娩曲な表現だった。彼女はそういう上品で娩曲な表現をする育ち方をしたのだ。ベッドの中の彼女は、とくに上品でも娩曲でもなかったけれど、それはまたべつの問題だ。会えなくて僕もとても残念だ、と天吾は言った。でもまあ、そういうことなら仕方ない。
しかし今週に限って言えば、彼女と会えないことがそれほど残念というわけでもなかった。彼女とのセックスは楽しかったが、天吾の気持ちは既に『空気さなぎ』の書き直しの方に向かっていた。いろんな書き直しのアイデアが、太古の海における生命萌芽のざわめきのように、彼の頭の中に浮かんだり消えたりしていた。これじゃ小松さんと変わりないな、と天吾は思った。正式にものごとが決定する前に、既に気持ちがそちらに向かって勝手に動き出している。
十時に新宿に出て、クレジット?カードを使って富士通のワードプロセッサーを買った。最新式のもので、同じラインの以前の製品に比べるとずいぶん軽量化されていた。予備のインクリボンと、用紙も買った。それを提げてアパートに戻り、机の上に置いてコードを接続した。仕事場でも富士通の大型ワードプロセッサーを使っていたし、小型機とはいえ基本的な…機能にはそれほど変わりはない。機械の操作性を確かめながら、天吾は『空気さなぎ』の書き直しにかかった。
その小説をどのように書き直していくか、明確なプランと呼べるようなものはなかった。個々の細部についてのアイデアがいくつかあるだけだ。書き直しのための一貫した方法や原則が用意されているわけではない。そもそも『空気さなぎ』のような幻想的で感覚的な小説を、論理的に書き直すことが可能なのか、天吾には確信がない。小松が言うように、文章に大幅に手を入れざるを得ないことは明らかだが、そうやってなおかつ、作品本来の雰囲気や資質を損なわずにおけるものだろうか。それは蝶に骨格を与えるのに等しいのではないのか。そんなことを考え出すと迷いが生じ、不安が高まった。しかしものごとは既に動き始めている。そして時間は限られている。腕組みをして考え込んでいる余裕はない。とにかく細かいところからひとつひとつ具体的に片づけていくしかあるまい。手作業で細部を処理しているうちに、全体像が自ずと浮かび上がってくるかもしれない。
天吾くん、君にならできる。俺にはそれがわかるんだ、と小松は自信を持って断言した。そしてどうしてかはわからないが、天吾にはそんな小松の言葉をとりあえず丸ごと受け入れることができた。言動にかなり問題のある人物だし、基本的には自分のことしか考えていない。もしそうする必要が生じれば、天吾のことなどあっさり見捨てるに違いない。そして振り返りもしないだろう。しかし本人も言うように、彼の編集者としての勘には何か特別なものがあった。小松には常に迷いというものがない。何ごとであれ即座に判断し決定し、実行に移す。まわりの人間がなんと言おうと気にもかけない。優れた前線指揮官に必要とされる資質だ。そしてそれはどう見ても天吾には具わっていない資質だった。
天吾が実際に書き直し作業を始めたのは、昼の十二時半だった。『空気さなぎ』の原稿の最初の数ページを切りの良いところまで、原文のままワードプロセッサーの画面にタイプした。ひとまずこのブロックを納得いくまで書き直してみょう。内容そのものには手を加えず、文章だけを徹底的に整えていく。マンションの部屋の改装と同じだ。基本的なストラクチャーはそのままにする。構造自体に問題はないのだから。水まわりの位置も変更しない。それ以外の交換可能なもの——床板や天井や壁や仕切り——を引きはがし、新しいものに置き替えていく。俺はすべてを一任された腕のいい大工なのだ、と天吾は自分に言い聞かせた。決まった設計図みたいなものはない。その場その場で、直感と経験を駆使して工夫していくしかない。
一読して理解しにくい部分に説明を加え、文章の流れを見えやすくした。余計な部分や重複した表現は削り、言い足りないところを補った。ところどころで文章や文節の順番を入れ替える。形容詞や副詞はもともと極端に少ないから、少ないという特徴を尊重するとしても、それにしても何らかの形容的表現が必要だと感じれば、適切な言葉を選んで書き足す。ふかえりの文章は全体的には稚拙であったものの、良いところと悪いところがはっきりしていたから、取捨選択に思ったほど手間はかからなかった。稚拙だからわかりにくく、読みにくい部分があり、その一方で稚拙ではあるけれど、それ故にはっとさせられる新鮮な表現があった。前者は思い切りよく取り払って別のものに替え、後者はそのまま残せばいい。
書き直し作業を進めながら天吾があらためて思ったのは、ふかえりは何も文学作品を残そうという気持ちでこの作品を書いたのではない、ということだった。彼女はただ自分の中にある物語を——彼女の言葉を借りれば彼女が実際に目にしたものを——<傍点>とりあえず傍点>言葉を使って記録しているだけだ。べつに言葉でなくてもよかったのだが、言葉以外に、それを表すための適切な表現手段が見つからなかった。それだけのことだ。だから文学的野心みたいなものは最初からない。できあがったものを商品にするつもりもないから、文章表現に細かく気を配る必要がない。部屋にたとえれば、壁があって屋根がついていて、雨風さえしのげればそれで十分という考え方だ。だから天吾が彼女の文章にどれだけ手を入れようが、ふかえりとしては気にならない。彼女の目的は既に達せられているわけだから。「すきになおしていい」と言ったのは、おそらくまったくの本心なのだ。
にもかかわらず『空気さなぎ』を構成している文章は決して、自分一人がわかればいいというタイプの文章ではなかった。もし自分が目にしたものや、頭に浮かんだものを情報として記録するだけがふかえりの目的であれば、箇条書きのようなメモで用は足りたはずだ。面倒な手順を踏んでわざわざ読み物に仕立てる必要はない。それはどう見ても、<傍点>ほかの誰か傍点>が手にとって読むことを前提として書かれた文章だった。だからこそ『空気さなぎ』は文学作品とすることを目的として書かれていないにもかかわらず、そして文章が稚拙であるにもかかわらず、人の心に訴える力を身につけることができた。しかしその<傍点>ほかの誰か傍点>とはどうやら、近代文学が原則として念頭に置いている「不特定多数の読者」とは異なったものであるらしい。読んでいて、天吾にはそういう気がしてならなかった。
じゃあ、いったいどのような種類の読者が想定されているのだろう?
天吾にはもちろんわからない。
天吾にわかるのは、『空気さなぎ』が大きな美質と大きな欠陥を背中合わせに具えた、きわめてユニークなフィクションであり、そこにはまた何かしら特殊な目的があるらしいということくらいだった。
書き直しの結果、原稿量はおおよそ二倍半に膨らんだ。書きすぎているところよりは、書き足りないところの方が遥かに多いから、筋道立てて書き直せば、全体量はどうしても増える。なにしろ最初が<傍点>すかすか傍点>なのだ。文章が筋の通ったまともなものになり、視点が安定し、そのぶん読みやすくはなった。しかし全体の流れがどことなくもったりとしている。論理が表に出すぎて、最初の原稿の持っていた鋭い切れ味が弱められている。
次におこなうのは、その膨らんだ原稿から「なくてもいいところ」を省く作業だ。余分な贅肉を片端からふるい落としていく。削る作業は付け加える作業よりはずっと簡単だ。その作業で文章量はおおよそ七割まで減った。一種の頭脳ゲームだ。増やせるだけ増やすための時間帯が設定され、その次に削れるだけ削るための時間帯が設定される。そのような作業を交互に執拗に続けているうちに、振幅はだんだん小さくなり、文章量は自然に落ち着くべきところに落ち着く。これ以上は増やせないし、これ以上は削れないという地点に到達する。エゴが削り取られ、余分な修飾が振い落とされ、見え透いた論理が奥の部屋に引き下がる。天吾はそういう作業が生来得意だった。生まれながらの技術者なのだ。餌を求めて空を舞う鳥の鋭い集中力を持ち、水を運搬するロバのごとく忍耐強く、どこまでもゲームのルールに忠実だった。
息を詰めて、そのような作業を夢中になって続け、一息ついて壁の時計を見ると、もう三時前になっていた。そういえばまだ昼食をとっていない。天吾は台所に行って、やかんに湯を沸かし、そのあいだにコーヒー豆を挽いた。チーズを載せたビスケットを何枚か食べ、リンゴを噛り、湯が沸くとコーヒーを作った。それを大きなマグカップで飲みながら、気分転換のために、年上のガールフレンドとのセックスのことをひとしきり考えた。本来であれば、今頃は彼女と<傍点>それ傍点>をしているはずだった。そこで彼が何をするか、彼女が何をするか。彼は目を閉じ、天井に向かって、暗示と可能性を重く含んだ深いため息をついた。
それから天吾は机の前に戻り、もう一度頭の回路を切り替え、ワードプロセッサーの画面の上で、書き直された『空気さなぎ』の冒頭のブロックを読み返した。スタンリー?キューブリックの映画『突撃』の冒頭のシーンで、将軍が塹壕{ざんごう}陣地を視察して回るように。彼は自分が目にしたものに肯く。悪くない。文章は改良されている。ものごとは前進している。しかし十分とはいえない。やらなくてはならないことはまだ数多くある。あちこちで土嚢{どのう}が崩れている。機関銃の弾丸が不足している。鉄条網が手薄になっている箇所も見受けられる。
彼はその文章を紙にいったんプリントアウトした。それから文書を保存し、ワードプロセッサーの電源を切り、機械を机の脇にどかせた。そしてプリントアウトを前に置き、鉛筆を片手にもう一度念入りに読み返した。余計だと思える部分を更に削り、言い足りないと感じるところを更に書き足し、まわりに馴染まない部分を納得がいくまで書き直した。浴室の細かい隙間に合ったタイルを選ぶように、その場所に必要な言葉を慎重に選択し、いろんな角度からはまり具合を検証する。はまり具合が悪ければ、かたちを調整する。ほんのわずかなニュアンスの相違が、文章を生かしもし、損ないもする。
ワードプロセッサーの画面と、用紙に印刷されたものとでは、まったく同じ文章でも見た目の印象が微妙に違ってくる。鉛筆で紙に書くのと、ワードプロセッサーのキーボードに打ち込むのとでは、取り上げる言葉の感触が変化する。両方の角度からチェックしてみることが必要だ。機械の電源を入れ、プリントアウトに鉛筆で書き込んだ訂正箇所を、ひとつひとつ画面にフィードバックしていく。そして新しくなった原稿を今度は画面で読み直す。悪くない、と天吾は思う。それぞれの文章がしかるべき重さを持ち、そこに自然なリズムが生まれている。
天吾は椅子に座ったまま背筋を伸ばし、天井を仰ぎ、大きく息を吐いた。もちろんこれですっかり完成したわけではない。何日か置いて読み返してみれば、また手を入れるべきところが見えてくるはずだ。しかし今のところはこれでいい。このあたりが集中力の限度だ。冷却期間も必要だ。時計の針は五時に近づき、あたりはうす暗くなり始めている。明日は次のブロックを書き直そう。冒頭の数枚を書き直すだけで、ほとんど丸一日かかってしまった。思ったより手間取った。しかしいったんレールが敷かれ、リズムが生まれれば、作業はもっと迅速に運ぶはずだ。それに何によらず、いちばんむずかしくて手間がかかるのは、冒頭の部分なのだ。それさえ乗り越えてしまえば、あとは——。
それから天吾はふかえりの顔を思い浮かべ、彼女がこの書き直された原稿を読んで、いったいどのように感じるだろうと考えた。しかし彼女が何をどのように感じるか、天吾には見当もつかない。ふかえりという人間について、彼はまったく知らないも同然なのだ。彼女が十七歳で、高校三年生だが大学受験にはまったく興味を持たず、一風変わったしゃべり方をして、白ワインを好み、人の心をかき乱すような種類の美しい顔立ちをしている、という以外には何ひとつ。
しかしふかえりがこの『空気さなぎ』の中で描こうとしている(あるいは記録しようとしている)世界のあり方を、自分がおおむね正確に把握しつつあるという手応えが、あるいは手応えに近いものが、天吾の中に生まれた。ふかえりがその独特の限定された言語を用いて描こうとした光景は、天吾が丁寧に、注意深く手を入れて書き直したことによって、以前にも増して鮮やかに、明確にそこに浮かび上がっていた。そこにはひとつの流れが生まれていた。天吾にはそれがわかった。彼はあくまで技術的な側面から手を加え補強しただけなのだが、まるでもともと自分が書いたもののように、その仕上がりは自然でしつくりとしていた。そして『空気さなぎ』というひとつの物語が、そこから力強く立ち上がろうとしていた。
天吾にはそれが何より嬉しかった。書き直しの作業に長い時間意識を集中させていたせいで、体は疲弊していたが、それと裏腹に気持ちは昂揚していた。ワードプロセッサーの電源を切り、机の前を離れたあとも、このままもっと書き直しを続けていたいという思いがしばらく収まらなかった。彼はこの物語の書き直し作業を心から楽しんでいた。このぶんで行けば、ふかえりをがっかりさせないで済むかもしれない。とはいえ、ふかえりが喜んだりがっかりしたりする姿が、天吾にはうまく想像できない。それどころか、口元をほころばせたり、微かに顔を曇らせたりするところだって思い描けなかった。彼女の顔には表情というものがない。もともと感情がないから表情がないのか、それとも感情はあるがそれが表情と結びついていないのか、天吾にはわからない。とにかく不思議な少女だ、と天吾はあらためて思った。
『空気さなぎ』の主人公はおそらくは過去のふかえり自身だった。
彼女は十歳の少女で、山中にある特殊なコミューンで(あるいはコミューンに類する場所で)一匹の盲目の山羊の世話をしている。それが彼女に与えられた仕事だ。すべての子供たちはそれぞれの仕事を与えられている。その山羊は年老いてはいるがそのコミュニティーにとってとくべつな意味を持つ山羊であり、何かに損なわれないように見張っている必要がある。いっときも目を離してはならない。彼女はそう言いつけられる。しかしついうっかりして目を離し、そのあいだに山羊は死んでしまう。彼女はそのことで懲罰を受ける。古い土蔵に死んだ山羊と一緒に入れられる。その十日間、少女は完全に隔離され、外に出ることは許されない。誰かと口をきくことも許されていない。
山羊はリトル?ピープルとこの世界の通路の役をつとめている。リトル?ピープルが良き人々なのか悪しき人々なのか、彼女にはわからない(天吾にももちろんわからない)。夜になるとリトル?ピープルはこの山羊の死体を通ってこちら側の世界にやってくる。そして夜が明けるとまた向こう側に帰って行く。少女はリトル?ピープルと話をすることができる。彼らは少女に、空気さなぎの作り方を教える。
天吾が感心したのは、目の見えない山羊の習性やその行動が、細かいところまで具体的に描かれているところだった。そのようなディテールが、この作品全体をとても生き生きとしたものにしている。彼女は実際に目の見えない山羊を飼ったことがあるのだろうか? そして彼女はそこに描かれているような、山中のコミューンで実際に生活していたことがあるのだろうか? たぶんあるのだろうと天吾は推測した。もしそんな経験がまったくないのだとしたら、ふかえりは物語の語り手として、それこそ希有な天性の才能を持っていることになる。
この次ふかえりに会ったとき(それは日曜日になるはずだ)、山羊とコミューンのことを尋ねてみようと天吾は思った。もちろんふかえりがそんな質問に答えてくれるかどうかはわからない。前回交わした会話を思い出すと、彼女は答えてもいいと思う質問にしか答えないように見える。答えたくない質問は、あるいは答えるつもりのない質問は、あっさり無視してしまう。まるで聞こえなかったみたいに。小松と同じだ。彼らはそういう面では似たもの同士なのだ。天吾はそうではない。何か質問されれば、それがたとえどんな質問であれ、律儀に何かしらの答えは返す。そういうのはきっと生まれつきのものなのだろう。
五時半に年上のガールフレンドから電話がかかってきた。
「今日は何をしていたの?」と彼女は尋ねた。
「一日中、ずっと小説を書いていたよ」と天吾は言った。半分は真実で、半分は嘘だ。自分の小説を書いていたわけではないのだから。でもそこまで詳しい説明をするわけにはいかない。
「仕事は捗{はかど}った?」
「まずまず」
「今日は急にごめんなさいね。来週は会えると思う」
「楽しみにしてる」と天吾は言った。
「私も」と彼女は言った。
それから彼女は子供の話をした。彼女はよく天吾を相手に子供の話をした。二人の小さな娘。天吾には兄弟もいないし、もちろん子供もいない。だから小さな子供というのがどんなものなのかよくわからない。しかし彼女はそんなことにはおかまいなく自分の子供たちの話をした。天吾は自分から多くをしゃべる方ではない。何によらずひとの話を聞くのが好きだ。だから彼女の話に興味を持って耳を傾けた。小学校二年生の長女が、学校でいじめにあっているらしいと彼女は言った。子供自身は何も言わないのだが、同級生の母親がそういうことがあるみたいだと教えてくれた。天吾はもちろんその女の子に会ったことはない。一度写真を見せてもらったことがある。母親にはあまり似ていない。
「どんなことが原因でいじめられるの?」と天吾は尋ねた。
「喘息{ぜんそく}の発作がときどき起きるから、みんなと一緒にいろんな行動ができないの。そのせいかもしれない。素直な性格の子だし、勉強の成績も悪くないんだけど」
「よくわからないな」と天吾は言った。「喘息の発作がある子供はかばわれるべきで、いじめられるべきじゃない」
「子供の世界では、そう簡単にはいかないの」と彼女は言ってため息をついた。「みんなと違うというだけでつまはじきにあうこともある。大人の世界でも似たようなものだけど、子供の世界ではそれがもっと直接的なかたちで出てくるわけ」
「具体的にどんなかたちで?」
彼女は具体的な例を並べた。ひとつひとつをとればたいしたことではないけれど、それが日常になれば子供には<傍点>こたえる傍点>ことだった。何かを隠す。口をきかない。意地の悪い物まねをする。
「あなたは子供のころ、いじめにあったことはある?」
天吾は子供の頃を思い出した。「ないと思う。ひょっとしたらあったのかもしれないけど、気がつかなかった」
「もし気がつかなかったのなら、それは一度もいじめにあっていないということよ。だっていじめというのは、相手に自分がいじめられていると気づかせるのがそもそもの目的なんだもの。いじめられている本人が気がつかないいじめなんて、そんなものありえない」
天吾は子供の頃から大柄だったし、力も強かった。みんなが彼に一目置いていた。いじめられなかったのはたぶんそのせいだろう。しかし当時の天吾は、いじめなんか以上に深刻な問題を抱えていた。
「君はいじめられたことはある?」と天吾は尋ねた。
「ない」と彼女ははっきり言った。そのあとに躊躇のようなものがあった。「いじめたことならあるけど」
「みんなと一緒に?」
「そう。小学校の五年生のときに。示し合わせて、男の子の一人にみんなで口をきかないようにした。なんでそんなことをしたのか、どうしても思い出せないの。何か直接の原因があったはずなんだけど、思い出せないくらいだから、そんなにたいしたことじゃなかったんじゃないかな。でもいずれにしても、そんなことをして悪かったと今では思っている。恥ずかしいことだったと思っている。どうしてそんなことしちゃったのかしら。自分でもよくわからない」
天吾はそれに関連して、ある出来事をふと思い出した。ずっと以前に起こったことだが、今でも折に触れて記憶がよみがえる。忘れることはできない。しかしその話は持ち出さなかった。話し出すと長くなる。またそれは、いったん言葉にしてしまうと、いちばん重要なニュアンスが失われてしまうという種類の出来事だった。彼はこれまでそのことを誰にも話したことがなかったし、これから先もおそらく話すことはないだろう。
「結局のところ」と年上のガールフレンドは言った、「自分が排斥されている少数の側じゃなくて、排斥している多数の側に属していることで、みんな安心できるわけ。ああ、あっちにいるのが自分じゃなくてよかったって。どんな時代でもどんな社会でも、基本的に同じことだけど、たくさんの人の側についていると、面倒なことをあまり考えずにすむ」
「少数の人の側に入ってしまうと、面倒なことばかり考えなくちゃならなくなる」
「そういうことね」と憂諺そうな声で彼女は言った。「でもそういう環境にいれば少なくとも、自分の頭が使えるようになるかもしれない」
「自分の頭を使って面倒なことばかり考えるようになるかもしれない」
「それはひとつの問題よね」
「あまり深刻に考えない方がいい」と天吾は言った。「最終的にはそれほどひどいことにはならないよ。クラスにもきっと数人は、自分の頭がまっとうに使える子供がいるはずだから」
「そうね」と彼女は言った。それからしばらく一人で何かを考えていた。天吾は受話器を耳にあてたまま、彼女の考えがまとまるのを辛抱強く待っていた。
「ありがとう。あなたと話せてちょっと楽になった」と彼女は少しあとで言った。何か思い当たるところがあったようだった。
「僕も少し楽になった」と天吾は言った。
「どうして?」
「君と話せたから」
「来週の金曜日に」と彼女は言った。
電話を切ったあとで、天吾は外に出て近所のスーパーマーケットに行き、食料品の買い物をした。紙袋を抱えて部屋に戻り、野菜と魚をひとつひとつラップにくるんで冷蔵庫にしまった。そのあとFM放送の音楽番組を聞きながら夕食の用意をしているときに、電話のベルが鳴った。一日に四度も電話がかかってくるのは、天吾にとってはずいぶん珍しいことだった。そんなことは年に数えるほどしかない。かけてきたのは今度はふかえりだった。
「こんどのニチヨウのこと」と彼女は前置きもなしに言った。
電話の向こうで車のクラクションが続けざまに鳴るのが聞こえた。運転手は何かに対してかなり腹を立てているようだった。おそらく大きな通りに面した公衆電話から電話をかけているのだろう。
「今度の日曜日、つまりあさってに僕は君と会って、それからほかの誰かに会うことになっている」と天吾は彼女の発言に肉付けをした。
「あさの九じ?シンジュクえき?タチカワいきのいちばんまえ」と彼女は言った。三つの事実がそこには並べられている。
「つまり中央線下りホーム、いちばん前の車両で待ち合わせる、ということだね?」
「そう」
「切符はどこまで買えばいい?」
「どこでも」
「適当に切符を買っておいて、着いたところで料金を精算する」と天吾は推測し、補足した。『空気さなぎ』の書き直し作業に似ている。「それで、我々はかなり遠くまで行くのだろうか?」
「いまなにをしてた」とふかえりは天吾の質問を無視して尋ねた。
「夕ご飯を作ってた」
「どんなもの」
「一人だから、たいしたものは作らない。かますの干物を焼いて、大根おろしをする。ねぎとアサリの味噌汁を作って、豆腐と一緒に食べる。きゅうりとわかめの酢の物も作る。あとはご飯と白菜の漬け物。それだけだよ」
「おいしそう」
「そうかな。とりたてておいしいというほどのものじゃない。いつもだいたい似たようなものばかり食べている」と天吾は言った。
ふかえりは無言だった。彼女の場合、長いあいだ無言のままでいることがとくに気にならないようだった。しかし天吾はそうではない。
「そうだ、今日から君の『空気さなぎ』の書き直しを始めたんだ」と天吾は言った。「君からまだ最終的な許可はもらっていないけど、日にちがあまりなくて、もう始めないと間に合わないということだから」
「コマツさんがそうするようにいった」
「そうだよ。小松さんが書き直しを始めるようにと僕に言ったんだ」
「コマツさんとなかがいい」
「そうだね。仲がいいのかもしれない」、小松と仲良くなれる人間なんてたぶんこの世界のどこにもいない。しかしそんなことを言い出すと話が長くなる。
「かきなおしはうまくすすんでいる」
「今のところは。おおむね」
「よかった」とふかえりは言った。どうやらそれは口先だけの表現でもないようだった。書き直し作業が順調に進んでいることを、彼女なりに喜んでいるみたいに聞こえた。ただ限定された感情表現は、その程度まで示唆してはくれなかった。
「気に入ってもらえるといいんだけど」と天吾は言った。
「しんぱいない」とふかえりは間を置かず言った。
「どうしてそう思うの?」と天吾は訊ねた。
ふかえりはそれに対しては返事をしなかった。電話口でただ黙っていた。意図的な種類の沈黙だった。おそらく天吾に何かを考えさせるための沈黙だ。しかしどれだけ知恵を振り絞っても、どうして彼女がそんな強い確信を持てるのか天吾にはさっぱりわからなかった。
天吾は沈黙を破るために言った。「ねえ、ひとつ聞きたいことがあるんだ。君は本当にコミューンみたいなところに住んで、山羊を飼ったことがあるの? そういうものごとの描写がとても真に迫っていた。だからそれが実際に起こったことかどうか、ちょっと知りたかった」
ふかえりは小さく咳払いをした。「ヤギのはなしはしない」
「いいよ」と天吾は言った。「話したくなければ、話さなくてかまわない。ただちょっと訊いてみただけだ。気にしなくていい。作家にとっては作品がすべてだ。余計な説明を加える必要はない。日曜日に会おう。それで、その人に会うにあたって、何か気をつけた方がいいことはあるのかな?」
「よくわからない」
「つまり……、わりにきちんとした格好をしていった方がいいとか、何か手みやげみたいなものを持っていった方がいいとか、そういうこと。相手がいったいどういう人なのか、何もヒントがないから」
ふかえりはまた沈黙した。しかし今度のは意図を持った沈黙ではなかった。天吾の質問の目的が、またそんな発想そのものが、彼女にはただ単純に呑み込めないのだ。その質問は彼女の意識の領域のどこにも着地しなかった。それは意味性の縁を越えて、虚無の中に永遠に吸い込まれてしまったようだった。冥王星のわきをそのまま素通りしていった孤独な惑星探査ロケットみたいに。
「いいよ、べつにたいしたことじゃないから」と天吾はあきらめて言った。ふかえりにそんな質問をすること自体が見当違いだった。まあ、どこかで果物でも買っていけばいい。
「じゃあ、日曜日の九時に」と天吾は言った。
ふかえりは数秒の間を置いてから、何も言わずに電話を切った。「さよなら」もなく「じゃあ、日曜日に」もなかった。ただ電話がぷつんと切れただけだ。
あるいは彼女は天吾に向かってこっくりと肯いてから受話器を置いたのかもしれない。しかし残念ながら大方の場合、ボディーランゲージは電話では本来の効果を発揮しない。天吾は受話器をもとに戻し、二度深呼吸をして頭の回路をより現実的なものに切り替え、それからつつましい夕食の支度を続けた。
第7章 青豆
蝶を起こさないようにとても静かに
土曜日の午後一時過ぎ、青豆は「柳屋敷」を訪れた。その家には年を経た柳の巨木が何本も繁り、それが石塀の上から頭を出し、風が吹くと行き場を失った魂の群れのように音もなく揺れた。だから近所の人々は昔から当然のように、その古い洋風の屋敷を「柳屋敷」と呼んでいた。麻布の急な坂を登り切ったところにそれはある。柳の枝のてっぺんに身の軽い鳥たちがとまっているのが見える。屋根の日だまりで、大きな猫が目を細めてひなたぼっこをしている。あたりの通りは狭く、曲がりくねっており、車もほとんど通らない。高い樹木が多く、昼間でも薄暗い印象があった。この一角に足を踏み入れると、時間の歩みが少しばかり遅くなったような気さえする。近所には大使館がいくつかあるが、人の出入りは多くない。普段は<傍点>しん傍点>としているが、夏になると事情は一変し、蝉の声で耳が痛くなる。
青豆は門の呼び鈴を押し、インターフォンに向かって名前を名乗った。そして頭上のカメラに、ほんのわずかな微笑を浮かべた顔を向けた。鉄の門扉が機械操作でゆっくりと開き、青豆が中に入ると、背後で門扉が閉じられた。彼女はいつものように庭を歩いて横切り、屋敷の玄関に向かった。監視カメラが彼女の姿をとらえていることを知っていたから、青豆はファッションモデルのように背筋を伸ばし、顎を引いてまっすぐ小径を歩いた。今日の青豆は濃紺のウィンドブレーカーにグレーのヨットパーカ、ブルージーンズというカジュアルなかっこうだった。白いバスケットボール?シューズ、そして肩にはショルダーバッグをかけている。今日はアイスピックは入っていない。必要がないときには、それは洋服ダンスの抽斗の中で静かに休んでいる。
玄関の前にチーク材のガーデンチェアがいくつか置かれ、その一つに大柄な男が窮屈そうに座っていた。背はそれほど高くないが、上半身が驚くほど発達していることが見て取れる。おそらくは四十前後、頭はスキンヘッドにして、鼻の下に手入れされた髭をたくわえている。肩幅の広いグレーのスーツに、真っ白なシャツ、濃いグレーのシルク?タイ。しみひとつない真っ黒なコードバンの靴。両耳に銀のピアス。区役所の出納課の職員には見えないし、自動車保険のセールスマンにも見えない。一見してプロの用心棒のように見えるし、実際のところそれが彼の専門とする職域だった。時には運転手の役目も果たす。空手の高位有段者であり、必要があれば武器を効果的に使うこともできる。鋭い牙をむき、誰よりも凶暴になることもできる。しかし普段の彼は穏やかで冷静で、知的でもあった。じっと目をのぞき込めば——もし彼がそうすることを許してくれればということだが——そこに温かい光を認めることもできる。
私生活においては、様々な機械をいじることと、六〇年代から七〇年代にかけてのプログレッシブ?ロックのレコードを集めることが趣味であり、美容師をしているハンサムな若いボーイフレンドと二人で、やはり麻布の一角で暮らしていた。名前はタマルと言った。それが名字なのか、名前なのか、どちらかはわからない。どんな漢字をあてるのかも知らない。しかし人々は彼をタマルさんと呼んでいた。
タマルは椅子に腰を下ろしたまま、青豆を見て肯いた。
「こんにちは」と青豆は言った。そして男の向かいの席に腰を下ろした。
「渋谷のホテルで男が一人死んだらしい」と男はコードバンの靴の輝き具合を点検しながら言った。
「知らなかった」と青豆は言った。
「新聞に載るほどの事件でもないからな。どうやら心臓発作らしい。まだ四十過ぎなのに気の毒なことだ」
「心臓には気をつけないと」
タマルは肯いた。「生活習慣が大事だ。不規則な生活、ストレス、睡眠不足。そういうものが人を殺す」
「遅かれ早かれ何かが人を殺すわけだけど」
「理屈からいけばそうなる」
「検死解剖はあるのかしら」と青豆は尋ねた。
タマルは身を屈めて、目に見えるか見えないかという程度のほこりを靴の甲から払った。「警察も何かと忙しい。予算も限られている。外傷も見あたらないきれいな死体をいちいち解剖している余裕はないよ。遺族にしたって、静かに亡くなった人間を、無意味に切り刻まれたくはないだろう」
「とくに残された奥さんの立場からすれば」
タマルはしばらくのあいだ沈黙し、それからそのグローブのような分厚い右手を彼女の方に差し出した。青豆はそれを握った。しっかりとした握手だ。
「疲れたろう。少し休むといい」と彼は言った。
青豆は普通の人が微笑みを浮かべるときのように口の両端を少し横に広げたが、実際には微笑みは浮かばなかった。その暗示のようなものがあっただけだ。
「プンは元気?」と彼女は尋ねた。
「ああ、元気にしてるよ」とタマルは答えた。プンはこの屋敷で飼われている雌のドイツ?シェパードだ。性格がよくて、賢い。ただしいささか風変わりないくつかの習性をもっている。
「あの犬はまだほうれん草を食べているの?」と青豆は尋ねた。
「たくさん。ここのところほうれん草の高値が続いているんで、こちらは少し弱っている。なにしろ大量に食べるからな」
「ほうれん草の好きなドイツ?シェパードなんて見たことない」
「あいつは自分のことを犬だと思ってないんだ」
「何だと思っているの?」
「自分はそういう分類を超越した特別な存在だと思っているみたいだ」
「スーパードッグ?」
「あるいは」
「だからほうれん草が好きなの?」
「それとは関係なく、ほうれん草はただ好きなんだよ。子犬の頃からそうだった」
「でもそのせいで危険な思想を抱くようになったのかもしれない」
「それはあるかもしれない」とタマルは言った。それから腕時計に目をやった。「ところで、今日の約束はたしか一時半だったな?」
青豆は肯いた。「そうまだ少し時間がある」
タマルはゆっくりと立ち上がった。「ちょっとここで待っていてくれ。少し時間を早められるかもしれない」、そして玄関の中に消えた。
青豆は立派な柳の樹を眺めながらそこで待っていた。風はなく、その枝は地面に向けてひっそりと垂れ下がっていた。とりとめのない思索に耽る人のように。
少しあとでタマルは戻ってきた。「裏手にまわってもらうよ。今日は温室に来てもらいたいということだ」
二人は庭を回り込んで、柳の木の脇を通り過ぎ、温室に向かった。温室は母屋の裏手にあった。まわりに樹木はなく、たっぷりと日があたるようになっている。タマルは中にいる蝶が外に出ないように、用心深くガラスの扉を細く開け、青豆を先に入れた。それから自分もするりと中に滑り込み、間を置かず扉を閉めた。大柄な人間が得意とする動作ではない。しかし彼の動作は要を得て、簡潔だった。ただ<傍点>得意にはしていない傍点>というだけだ。
ガラス張りの大きな温室には留保のない完壁な春が訪れていた。様々な種類の花が美しく咲き乱れている。置かれている植物の大半はありきたりのものだった。グラジオラスやアネモネやマーガレットといった、どこでも普通に見かける草花の鉢植えが棚に並んでいる。青豆の目から見れば雑草としか思えないものも中に混じっている。高価な蘭や、珍種のバラや、ポリネシアの原色の花、そんな<傍点>いかにも傍点>というものはひとつも見あたらない。青豆はとくに植物に興味を持っているわけではないが、それでもこの温室のそういう気取りのないところがわりに気に入っていた。
そのかわり温室には数多くの蝶が生息していた。女主人はこの広いガラス張りの部屋の中で、珍しい植物を育てることよりは、むしろ珍しい蝶を育てることにより深い関心を持っているようだった。そこにある花も、蝶が好む花蜜の豊富なものが中心になっていた。温室で蝶を飼い育てるには、尋常ではない量の配慮と知識と労力が必要とされるということだが、どこにそんな配慮がなされているのか、青豆にはさっぱりわからない。
真夏を別にして、女主人は時おり青豆を温室に招き、そこで二人きりで話をした。ガラス張りの温室の中なら、話を誰かに立ち聞きされるおそれはない。彼女たちのあいだで交わされる会話は、どこでも大声で話せるというたぐいのものではない。また花や蝶に囲まれている方が、何かと神経が休まるということもあった。彼女の表情を見ればそれはわかった。温室の中は青豆にはいくぶん温かすぎたが、我慢できないほどではない。
女主人は七十代半ばの小柄な女性だった。美しい白髪を短くカットしている。長袖のダンガリーのワークシャツに、クリーム色のコットンパンツをはき、汚れたテニスシューズをはいていた。白い軍手をはめて、大きな金属製のじょうろで鉢植えのひとつひとつに水をやっていた。彼女が身につけている衣服は、サイズがひとつずつ大きいものに見えたが、それでも体に心地よく馴染んでいた。青豆は彼女の姿を目にするたびに、その気取りのない自然な気品に対して、敬意のようなものを感じないわけにはいかなかった。
戦前に華族のもとに嫁いだ、有名な財閥の娘なのだが、飾ったところやひ弱な印象はまったくなかった。戦後間もなく夫を亡くしたあと、親族の持っていた小さな投資会社の経営に参画し、株式の運用に抜きんでた才能を見せた。それは誰もが認めるように、天性の資質とも言うべきものだった。投資会社は彼女の力で急速に発展し、残された個人資産も大きく膨らんだ。彼女はそれを元手に、ほかの元華族や元皇族の所有していた都内の一等地をいくつも購入した。十年ばかり前に引退し、タイミングを見計らって持ち株を高値で売却し、さらに財産を増やした。人前に出ることを極力避けてきたせいで、世間一般にはほとんど名を知られていないが、経済界では知らないものはいない。政治の世界にも太い人脈を持っているという話だ。しかし個人的に見れば、気さくで聡明な女性だ。そして恐れというものを知らない。自分の勘を信じて、いったん心を決めるとそれを貫く。
彼女は青豆を目にすると、じょうろを下に置き、入り口の近くにある小さな鉄製のガーデンチェアを示して、そこに座るように合図をした。青豆が指示されたところに座ると、向かいの椅子に腰を下ろした。彼女は何をするにしても、ほとんど音というものを立てなかった。森を横切っていく賢い雌狐のように。
「何か飲み物をお持ちしますか?」とタマルが尋ねた。
「温かいハーブティーを」と彼女は言った。そして青豆を見た。「あなたは?」
「同じものを」と青豆は言った。
タマルは小さく肯いて温室を出て行った。まわりをうかがって蝶が近くにいないことを確かめてから細く扉を開け、素早く外に出て、また扉を閉めた。社交ダンスのステップを踏んでいるように。
女主人は木綿の軍手を取り、それを夜会用の絹の手袋でも扱うように、テーブルの上に丁寧に重ねて置いた。そしてつややかな色をたたえた黒い目でまっすぐ青豆を見た。それはこれまでいろんなものを目撃してきた目だった。青豆は失礼にならない程度にその目を見返した。
「惜しい人をなくしたようね」と彼女は言った。「石油関連の世界ではなかなか名の知れた人だったらしい。まだ若いけれど、かなりの実力者だったとか」
女主人はいつも小さな声で話をした。風がちょっと強く吹いたらかき消されてしまう程度の音量だ。だから相手はいつもしっかり耳を澄ましていなければならなかった。青豆は時々、手を伸ばしてボリュームのスイッチを右に回したいという欲求に駆られた。しかしもちろんボリューム?スイッチなんてどこにもない。だから緊張して耳を澄ましているしかなかった。
青豆は言った。「でもその人が急にいなくなっても、見たところとくに不便もないみたいです。世界はちゃんと動いています」
女主人は微笑んだ。「この世の中には、代わりの見つからない人というのはまずいません。どれほどの知識や能力があったとしても、そのあとがまはだいたいどこかにいるものです。もし世界が代わりの見つからない人で満ちていたとしたら、私たちはとても困ったことになってしまうでしょう。もちろん——」と彼女は付け加えた。そして強調するように右手の人差し指をまっすぐ宙に上げた。「あなたみたいな人の代わりはちょっとみつからないだろうけど」
「私の代わりはなかなかみつからないにしても、かわりの手段を見つけるのはそれほどむずかしくないでしょう」と青豆は指摘した。
女主人は静かに青豆を見ていた。口もとに満足そうな笑みが浮かんだ。「あるいは」と彼女は言った。「でも仮にそうだとしても、私たち二人が今ここでこうして共有しているものは、そこにはおそらく見いだせないことでしょう。あなたはあなたであって、あなたでしかない。とても感謝しています。言葉では表せないほど」
女主人は前屈みになって手を伸ばし、青豆の手の甲に重ねた。十秒ばかり彼女は手をそのままにしていた。それから手を放し、満ち足りた表情を顔に浮かべたまま、背中を後ろにそらせた。蝶がふらふらと宙をさまよってきて、彼女の青いワークシャツの肩にとまった。小さな白い蝶だった。紅色の紋がいくつも入っている。蝶は恐れることを知らないように、そこで眠り込んだ。
「あなたはおそらく、これまでこの蝶を目にしたことはないはずです」と女主人は自分の肩口をちらりと見ながら言った。その声には自負の念が微かに聞き取れた。「沖縄でも簡単には見つかりません。この蝶は一種類の花からしか栄養をとらないの。沖縄の山の中にしか咲かない特別な花からしか。この蝶を飼うには、まずその花をここに運んできて育てなくてはならない。けっこうな手間がかかります。もちろん費用もかかります」
「その蝶はずいぶんあなたになついているみたいですね」
女主人は微笑んだ。「この<傍点>ひと傍点>は私のことを友だちだと思っているの」
「蝶と友だちになれるんですか?」
「蝶と友だちになるには、まずあなたは自然の一部にならなくてはいけません。人としての気配を消し、ここにじっとして、自分を樹木や草や花だと思いこむようにするのです。時間はかかるけれど、いったん相手が気を許してくれれば、あとは自然に仲良くなれます」
「蝶に名前はつけるんですか?」と青豆は好奇心から尋ねた。「つまり、犬や猫みたいに一匹ずつ」
女主人は小さく首を振った。「蝶に名前はつけません。名前がなくても、柄やかたちを見れば一人ひとり見分けられる。それに蝶に名前をつけたところで、どうせほどなく死んでしまうのよ。このひとたちは、名前を持たないただの束の間のお友だちなのです。私は毎日ここにやって来て、蝶たちと会ってあいさつをして、いろんな話をします。でも蝶は時が来れば黙ってどこかに消えていく。きっと死んだのだと思うけど、探しても死骸が見つかることはありません。空中に吸い込まれるみたいに、何の痕跡も残さずにいなくなってしまう。蝶というのは何よりはかない優美な生き物なのです。どこからともなく生まれ、限定されたわずかなものだけを静かに求め、やがてどこへともなくこっそり消えていきます。おそらくこことは違う世界に」
温室の中の空気は温かく湿り気を持ち、植物の匂いがもったりと満ちていた。そして多くの蝶が、初めも終わりもない意識の流れを区切る束の間の句読点のように、あちこちに見え隠れしていた。青豆はこの温室に入るたびに、時間の感覚を見失ったような気持ちになった。
美しい青磁のティーポットと揃いのカップを二つ載せた金属のトレイを持って、タマルがやってきた。布のナプキンと、クッキーを盛った小さな皿もついていた。ハーブティーの香りが、まわりの花の匂いと入り交じった。
「ありがとう、タマル。あとはこちらでやります」と女主人は言った。
タマルはトレイをガーデンテーブルの上に置き、一礼し、足音を立てずに歩き去った。そして前と同じ軽い一連のステップを踏んで扉を開け、扉を閉め、温室から出て行った。女主人はティーポットの蓋をとり、香りを嗅ぎ、葉の開き具合をたしかめてから、それを二つのティーカップにそろそろと注いだ。両方の濃さが均等になるように注意深く。
「余計なことかもしれませんが、どうして入り口に網戸をつけないのですか」と青豆は尋ねた。
女主人は顔を上げて青豆を見た。「網戸?」
「ええ、内側に網戸をつけて扉を二重にすれば、出入りするたびに、蝶が逃げないように注意する必要もなくなるでしょう」
女主人はソーサーを左手で持ち、右手でカップを持って、それを口もとに運び、静かにハーブティーを一口飲んだ。香りを味わい、小さく肯いた。カップをソーサーに戻し、そのソーサーをトレイの上に戻した。ナプキンで口もとを軽く押さえてから、膝の上に置いた。それだけの動作に彼女は、ごく控え目に言って、普通の人のおおよそ三倍の時間をかけた。森の奥で滋養のある朝露を吸っている妖精みたいだ、と青豆は思った。
それから女主人は小さく咳払いをした。「網というものが好きではないのです」と言った。
青豆は黙って話の続きを待ったが、続きはなかった。網を好まないというのが、自由を束縛する事物に対する総合的な姿勢なのか、審美的な見地から出たものなのか、あるいは特に理由のないただの生理的な好き嫌いなのか、不明なままに話は終わった。しかし今のところ、それはとりたてて重要な問題ではない。ただふと思いついて質問しただけだ。
青豆も女主人と同じようにハーブティーのカップをソーサーごと手に取り、音を立てずに一口飲んだ。彼女はハーブティーがそれほど好きではない。真夜中の悪魔のように熱くて濃いコーヒーが彼女の好みだ。しかしそれはおそらく昼下がりの温室には馴染まない飲み物だった。だから温室ではいつも、女主人の飲むのと同じものを頼むことにしていた。女主人はクッキーを勧め、青豆はひとつとって食べた。ジンジャーのクッキーだ。焼きたてで、新鮮なショウガの味がした。女主人は戦前の一時期を英国で過ごした。そのことを青豆は思い出した。女主人もクッキーをひとつ手に取り、ほんの少しずつ腐った。肩口で眠っているその珍しい蝶を起こさないようにそっと静かに。
「帰り際にタマルがいつものように、あなたに鍵を渡します」と彼女は言った。「用が済んだら、郵便で送り返して下さい。いつものように」
「わかりました」
しばらくおだやかな沈黙が続いた。閉めきった温室の中にはどのような外界の音も届かない。蝶は安心したように眠り続けていた。
「私たちは間違ったことは何もしていません」と女主人は青豆の顔をまっすぐ見ながら言った。
青豆は軽く唇を噛んだ。そして肯いた。「わかっています」
「そこにある封筒の中身を見て下さい」と女主人は言った。
青豆はテーブルの上に置かれていた封筒を手に取り、そこに収められていた七枚のポラロイド写真を、上品な青磁のティーポットの隣りに並べた。タロット占いの不吉なカードを並べるみたいに。若い女の裸の身体が部分ごとに近くから写されていた。背中、乳房、轡部、太腿。足の裏まである。顔の写真だけはない。暴力のあとが各所に、あざやみみず腫れになって残っていた。どうやらベルトが使われたようだ。陰毛がそられ、その付近には煙草の火を押しつけられたらしいあとが残っていた。青豆は思わず顔をしかめた。同じような写真はこれまでも目にしたが、ここまでひどくはない。
「それを見たのは初めてでしょう?」と女主人は言った。
青豆は言葉もなく肯いた。「だいたいのところはうかがいましたが、写真を目にするのは初めてです」
「<傍点>その男傍点>がやったことです」と老婦人は言った。「三カ所の骨折は処置しましたが、片耳が難聴の症状を示しています、もとどおりにはならないかもしれない」と女主人は言った。音量は変わらなかったが、前よりも声は冷たく硬くなっていた。その声の変化に驚いたように、女主人の肩口にとまっていた蝶が目を覚まし、羽を広げてふらふらと宙に飛び立った。
彼女は続けた。「こんな仕打ちをする人間を、そのまま放置してはおけません。何があっても」
青豆は写真をまとめて封筒に戻した。
「そう思いませんか?」
「思います」と青豆は同意した。
「私たちは正しいことをしたのです」と女主人は言った。
彼女は椅子から立ち上がり、おそらく気持ちを落ち着けるためだろう、かたわらにあったじょうろを持ち上げた。まるで精巧な武器でも手に取るように。顔がいくぶん青ざめていた。目は温室の一角をじっと鋭く見据えていた。青豆はその視線の先に目をやったが、変わったものは何も見あたらなかった。アザミの鉢植えがあるだけだ。
「わざわざ来てくれてありがとう。ご苦労様でした」、彼女はからっぽのじょうろを手にしたまま言った。これで会見は終わったようだった。
青豆も立ち上がり、バッグを手に取った。「お茶をご馳走になりました」
「もう一度お礼を言います」と女主人は言った。
青豆は少しだけ微笑んだ。
「何ひとつ心配しなくていいのよ」と女主人は言った。口調はいつの間にかもとの穏やかさを取り戻していた。目には温かい光が浮かんでいた。彼女は青豆の腕に軽く手を添えた。「私たちは正しいことをしたのだから」
青豆は肯いた。いつも同じ台詞で話は終わる。おそらくこの人は自分に向かってそう繰り返し言い聞かせているのだ、と青豆は思った。マントラかお祈りみたいに。「何ひとつ心配しなくていいのよ。私たちは正しいことをしたのだから」と。
青豆はまわりに蝶の姿がないことを確かめてから、温室の扉を小さく開け、外に出て、扉を閉めた。女主人はじょうろを手にあとに残った。温室から出ると、外の空気はひやりとして新鮮だった。樹木と芝生の香りがした。そこは現実の世界だった。時間はいつもどおりに流れている。青豆はその現実の空気をたっぷりと肺に送り込んだ。
玄関にはタマルが同じチーク材の椅子に腰を下ろして待っていた。彼女に私書箱の鍵を渡すためだ。
「用件は済んだ?」と彼は尋ねた。
「済んだと思う」と青豆は言った。そして彼の隣りに腰を下ろし、鍵を受け取ってショルダーバッグの仕切の中にしまった。
二人はしばらく何も言わずに、庭にやってくる鳥たちを眺めていた。風はまだぴたりと止んだままで、柳は静かに垂れ下がっていた。いくつかの枝の先は、あと少しで地面につこうとしていた。
「その女の人は元気にしている?」と青豆は尋ねた。
「どの女?」
「渋谷のホテルで心臓発作を起こした男の奥さんのこと」
「今のところ、それほど元気とは言えないな」とタマルは顔をしかめながら言った。「受けたショックがまだ続いている。あまり話ができない。時間が必要だ」
「どんな人なの?」
「三十代前半。子供はいない。美人で感じもいい。スタイルもなかなかのものだ。しかし残念ながら、今年の夏は水着姿にはなれないだろう。たぶん来年の夏も。ポラロイドは見た?」
「さっき見た」
「ひどいものだろう?」
「かなり」と青豆は言った。
タマルは言った。「よくあるパターンだよ。男は世間的に見れば有能な人間だ。まわりの評価も高い、育ちも良いし、学歴も高い。社会的地位もある」
「ところがうちに帰ると人ががらりと変わる」と青豆があとを引き取って続けた。「とくに酒が入ると暴力的になる。といっても、女にしか腕力をふるえないタイプ。女房しか殴れない。でも外面{そとづら}だけはいい。まわりからは、おとなしい感じの良いご主人だと思われている。自分がどんなひどい目にあわされているか、奥さんが説明して訴えても、まず信用してもらえない。男もそれがわかっているから、暴力をふるうときも、人には見せにくい場所を選ぶ。あるいは跡が残らないようにやる。そういうところ?」
タマルは肯いた。「おおむね。ただし酒は一滴も飲まない。こいつは素面{しらふ}で白昼堂々とやる。余計にたちが悪い。彼女は離婚を望んでいた。しかし夫はがんとして離婚を拒んだ。彼女のことが好きだったのかもしれない。あるいは手近な犠牲者を手放したくなかったのかも知れない。あるいは奥さんを力ずくでレイプするのが好きだったのかもしれない」
タマルは足を軽く上げて、革靴の光り具合をまた確認した。それから話を続けた。
「家庭内暴力の証拠を示せば、もちろん離婚は成立するだろうが、それには時間もかかるし、金もかかる。相手が腕のいい弁護士を用意すれば、かなり不愉快な目にもあわされる。家庭裁判所は混みあっているし、裁判官の数は不足している。それにもし離婚が成立し、慰謝料なり生活扶助金の額が確定したところで、そんなものまともに払う男は少ない。なんとでも言い抜けられるからね。日本では慰謝料を払わなかったという理由で、元亭主が刑務所に入れられることはほとんどない。支払いの意思はあるという姿勢を示し、名目上いくらかでも支払えば、裁判所は大目に見てくれる。日本の社会はまだまだ男に対して甘くできているんだ」
青豆は言った。「ところが数日前、その暴力的な夫が渋谷のホテルの一室で、うまい具合に心臓発作を起こしてくれた」
「<傍点>うまい具合に傍点>という表現はいささか直接的すぎる」とタマルは軽く舌打ちをして言った。「<傍点>天の配剤によって傍点>というのが俺の好みだ。いずれにせよ死因に不審な点はないし、人目を引くほど高額の保険金でもないから、生保会社が疑問を抱くことはない。たぶんすんなり支払われるはずだ。とはいえ、それでもまずまずの額だ。その保険金で彼女は新しい人生の第一歩を踏み出すことができる。おまけに離婚訴訟にかかる時間と金がそっくり節約できる。煩雑で意味のない法律上の手続きや、その後のトラブルがもたらす精神的苦痛も回避できた」
「それに、そんなカスみたいな危ないやつがこのまま世間に野放しになって、どこかで新たな犠牲者を見つけることもない」
「天の配剤」とタマルは言った。「心臓発作のおかげで、何もかもがすんなりと収まった。最後がよければすべてはいい」
「もしどこかに最後というものがあれば」と青豆は言った。
タマルは微笑みを連想させる短いしわのようなものを、口もとにこしらえた。「どこかに必ず最後はあるものだよ。『ここが最後です』っていちいち書かれてないだけだ。ハシゴのいちばん上の段に『ここが最後の段です。これより上には足を載っけないでください』って書いてあるか?」
青豆は首を振った。
「それと同じだ」とタマルは言った。
青豆は言った。「常識を働かせ、しっかり目を開けていれば、どこが最後かは自ずと明らかになる」
タマルは肯いた。「もしわからなくても——」、彼は指で落下する仕草をした。「いずれにせよ、そこが最後だ」
二人はしばらく口を閉ざして鳥の声を聞いていた。穏やかな四月の午後だった。どこにも悪意や暴力の気配は見当たらない。
「今ここには何人の女の人が<傍点>滞在傍点>しているの?」と青豆は尋ねた。
「四人」とタマルは即座に答えた。
「同じような立場に置かれている人たち?」
「だいたい似たようなところだ」とタマルは言った。そして口をすぼめた。「しかしあとの三人のケースは、それほど深刻なものではない。相手の男たちは例によって、みんなろくでもない卑劣なやつらばかりだが、我々が今まで話題にしてきた人物ほど悪質ではない。空威張りしている小物ばかりだ。あんたの手を煩わせるほどのものでもない。こちらで処理できるだろう」
「合法的に」
「<傍点>おおむね傍点>合法的に。少し脅しをかける程度のことはあるにしても。もちろん心臓発作だって合法的な死因ではあるけれど」
「もちろん」と青豆は相づちをうった。
タマルはしばらく何も言わず、膝の上に両手を置いたまま、静かに垂れた柳の枝を眺めていた。
青豆はちょっと迷ってから切り出した。「ねえ、タマルさん、ひとつ教えてほしいことがあるんだけど」
「なんだろう?」
「警官の制服と拳銃が新しくなったのは何年前のことだっけ?」
タマルはかすかに眉をひそめた。彼女の口調に彼の警戒心を発動させる響きがわずかに混じっていたらしい。「どうして急にそんなことを尋ねる?」
「とくに理由はない。さっきふと思いついただけ」
タマルは青豆の目を見た。彼の目はあくまで中立的だったが、そこには表情というものがない。どちらにでも転べるように、余地が空けてあるのだ。
「本栖{もとす}湖の近くで山梨県警と過激派とのあいだにでかい銃撃戦があったのが八一年の十月半ば、その明くる年に警察の大きな改革があった。二年前のことだ」
青豆は表情を変えずに肯いた。そんな事件にはまったく覚えがなかったが、相手に話を合わせるしかない。
「血なまぐさい事件だった。五挺のカラシニコフAK47に対するに、旧式の六連発リボルバーだ。そんなもの勝負にもならん。気の毒な警官が三人、ミシンをかけられたみたいにずたずたにされた。自衛隊の特殊空挺部隊が即刻ヘリコプターで乗り込んだ。警察の面子は立たない。そのあとすぐ、中曽根首相が本腰を入れて警察力を強化することにした。機構の大幅な改変があり、特殊銃器部隊が設置され、一般の警官も高性能のオートマチック拳銃を携行するようになった。ベレッタのモデル92。撃ったことはあるか?」
青豆は首を振った。まさか。彼女は空気銃さえ撃ったことがない。
「俺はある」とタマルは言った。「十五連発のオートマチック。九ミリのパラベラムっていう弾丸を使う。定評のある銃器で、アメリカ陸軍も採用している。安くはないが、シグやグロックほどには高価じゃないのが売りだ。ただし素人が簡単に扱える拳銃じゃない。以前のリボルバーは重量四九〇グラムしかなかったのに、こっちは八五〇グラムもある。そんなものを訓練不足の日本の警官に持たせたって、いっこうに役に立たん。こんなに混み合ったところで高性能の拳銃をぶっ放されたら、一般市民が巻き添えを食うのがおちだ」
「どこで撃ったの、そんなものを?」
「ああ、よくある話だよ。あるとき泉のほとりでハープを弾いていたら、どこからともなく妖精が現れて、ベレッタのモデル92を俺に渡して、ためしにあそこにいる白いウサギさんを撃ってみたらって言ったんだ」
「真面目な話」
タマルは口元のしわを少しだけ深くした。「俺は真面目な話しかしない」と彼は言った。「とにかく制式拳銃と制服が新しくなったのは二年前の春。ちょうど今頃だ。それで質問に対する答えになっているかな?」
「二年前」と彼女は言った。
タマルはもう一度、鋭い視線を青豆に向けた。「なあ、心にかかっていることがあるのなら、俺に言った方がいい。警官が何かに関わっているのか」
「そういうわけじゃない」と青豆は言った。そして両手の指を空中でひらひらと小さく振った。
「ただちょっと制服のことが気になっただけ。いつ変わったんだっけなと」
ひとしきり沈黙が続き、二人の会話はそこで自然に終了した。タマルはもう一度右手を差し出した。「無事に終わってよかった」と彼は言った。青豆はその手を握った。この男にはわかっているのだ。人の命の関わる厳しい仕事のあとでは、肉体の接触を伴う温かく静かな励ましが必要とされていることが。
「休暇をとれ」とタマルは言った。「立ち止まって深呼吸をし、頭を空っぽにすることも時には必要だ。ボーイフレンドとグアムにでも行ってくるといい」
青豆は立ち上がってショルダーバッグを肩にかけ、ヨットパーカのフードの位置をなおした。タマルも立ち上がった。背は決して高くないのだが、彼が立ち上がると、まるでそこに石壁が生じたみたいに見える。いつもその緊密な質感には驚かされる。
彼女が歩き去るのを、タマルは背後からじっと見まもっていた。青豆は歩を運びながら、その視線を背中に感じ続けていた。だから顎を引き、背筋を伸ばして、まっすぐな一本の線をたどるようにしっかりとした足どりで歩いた。しかし目に見えないところでは、彼女は混乱していた。自分のあずかり知らないところで、自分のあずかり知らないことが次々に起こっている。少し前まで、世界は彼女の手の中に収められていた。これという破綻も矛盾もなく。しかしそれが今ではばらばらにほどけかけている。
本栖湖の銃撃戦? ベレッタ?モデル92 ?
いったい何が持ち上がっているのだ。そんな重要なニュースを青豆が見逃すはずはない。この世界のシステムがどこかで狂い始めている。歩きながら、彼女の頭は素早く回転し続けていた。何が起こったにせよ、なんとかしてもう一度この世界をひとつに束ねなくてはならない。そこに理屈を通さなくてはならない。それも早急に。そうしないことにはとんでもないことになりかねない。
青豆が内面で混乱をきたしていることを、タマルはおそらく見抜いているはずだ。用心深く、直感に優れた男だ。そして危険な男でもある。タマルは女主人に深い敬意を抱き、忠誠を尽くしている。彼女の身の安全を保つためなら大抵のことはする。青豆とタマルはお互いを認め合っているし、お互いに好意を抱いている。少なくとも好意に似たものを。しかし青豆の存在が何らかの理由で女主人のためにならないと判断すれば、彼は迷うことなく青豆を切り捨て、処分するだろう。とても実務的に。しかしそのことでタマルを非難はできない。結局はそれが彼の職分なのだから。
青豆が庭を横切ったところで、門扉が開けられた。彼女は監視カメラに向かってできるだけ愛想良く微笑み、軽く手を振った。何ごともなかったように。塀の外に出ると、背後でゆっくりと扉が閉まった。麻布の急な坂を下りながら、青豆はこれから自分がやらなくてはならないことを頭の中で整理し、リストをこしらえた。綿密に、そして要領よく。
第8章 天吾
知らないところに行って知らない誰かに会う
多くの人々は日曜日の朝を休息の象徴として考える。しかし少年時代をとおして、天吾が日曜日の朝を喜ばしいものと考えたことは一度もなかった。日曜日は常に彼の気持ちを沈み込ませた。週末になると身体がどんよりと重くなり、食欲が失われ、身体のあちこちが痛くなった。天吾にとって日曜日は、暗黒の裏側だけを向け続ける歪んだ月のような存在だった。日曜日がめぐってこなければどんなにいいだろうと、少年時代の天吾はよく思った。毎日学校があって、休みなんかなければどんなに楽しいだろう。日曜日が来ないようにと祈りもした——もちろんそんな祈りが聞き届けられることはなかったが。大人になり、日曜日が現実の脅威ではなくなった今でも、日曜日の朝に目を覚まし、わけもなく暗い気持ちになることがある。身体の節々に軋{きし}みを感じ、吐き気を覚えることもある。そういう反応が心に染みついてしまっているのだ。おそらくは深い無意識の領域まで。
NHKの集金人をしていた父親は、日曜日になるとまだ小さな天吾を集金につれてまわった。それは幼稚園に入る前から始まり、彼が小学校の五年生になるまで、日曜日に特別な学校行事があるときを別にして、一度の例外もなく続いた。朝の七時に起きると、父親は天吾に顔を石鹸できれいに洗わせ、耳や爪を細かく点検し、できるだけ清潔な(しかし派手ではない)服を着せ、あとでおいしいものを食べさせてやるからな、と約束した。
ほかのNHKの集金人たちが休日にも働いていたのかどうか、天吾にはわからない。しかし彼が記憶する限り、父親は日曜日には必ず仕事をした。むしろ普段よりも熱心に働いた。平日は留守にしている人々を、日曜日ならつかまえることができたからだ。
彼が小さな天吾を集金に連れてまわったのには、いくつかの理由があった。小さな天吾を一人でうちに置いてはおけない、というのがひとつの理由だ。平日と土曜日は保育園や幼稚園や小学校に預けていけるが、日曜日はそれらの場所が休みになる。それから父親がどんな仕事をしているか、息子に見せておく必要がある、というのがもうひとつの理由になっていた。自分たちの生活がどのような営みの上に成り立っているか、労働というのがどういうものなのか、小さいうちから知っておかなくてはならない。父親自身、物心ついた頃から日曜日も何もなく畑仕事に駆り出されて育った。農作業が忙しい時期には学校も休まされた。そのような生活は、父親にとっては当たり前のことだった。
三つ目の、そして最後の理由はより打算的なものであり、だからこそ天吾の心をもっとも深く傷つけることになった。子供を連れて歩いた方が、集金がしやすくなることを父親はよく知っていた。小さな子供の手を引いている集金人に向かって「そんなものは払いたくないから帰ってくれ」とは言いにくいものだ。子供にじっと見上げられると、多くの人は払うつもりのないものも払ってしまうことになる。だから父親は、日曜日にはとくに集金の困難な家の多いルートをまわった。天吾は自分にそのような役割が期待されていることを最初から感じ取っていたし、それがいやでたまらなかった。しかしその一方で、父親を喜ばせるためには、彼なりに知恵を働かせて、期待されている演技をこなさなくてはならなかった。まるで猿回しの猿のように。父親を喜ばせれば、天吾はその一日優しく扱われることになった。
天吾にとっての唯一の救いは、父親の受け持ち区域が、住まいからいくらか離れたところにあることだった。天吾の家は市川市の郊外住宅地にあったが、父親の集金区域は市内の中心地だった。学区も違っていた。だから幼稚園や小学校の同級生の家を集金にまわることだけはなんとか避けられた。それでも市内の繁華街を歩いていて、たまに同級生とすれ違うことはあった。そういうときには彼は素早く父親の陰に隠れて、相手に気づかれないようにした。
天吾の級友たちの父親は、ほとんどが東京の都心に通勤するサラリーマンだった。彼らは市川市を、何かの都合でたまたま千葉県に編入されている東京都の一部のように考えていた。月曜日の朝になると級友たちは、日曜日に自分たちがどこに行って何をしたかを熱心に語り合った。遊園地や動物園や野球場に彼らは行った。夏には南房総に泳ぎに行き、冬にはスキーに行った。父親がハンドルを握る車でドライブし、あるいは山登りもした。彼らはそのような経験を熱心に語り合い、いろんな場所についての情報を交換した。しかし天吾には何も話すべきことがなかった。彼は観光地にも遊園地にも行ったことがなかった。日曜日は朝から夕方まで、父親とともに知らない家々のベルを押し、出てきた人に頭を下げて金を受け取った。払いたくないという相手がいれば、脅したりすかしたりした。理屈を言うものがいれば、論争になった。野良犬のように罵られることもあった。そんな体験談を級友の前で披露するわけにもいかない。
小学校の三年生のときに、彼の父親がNHKの集金人をしていることは、クラスでも周知の事実となった。たぶん父親と集金に歩いているところを、誰かに見られたのだろう。なにしろ毎週日曜日、朝から夕方まで父親の後ろについて市内をくまなく歩き回っているのだ。誰かに目撃されるのは当然の成り行きである(父親の陰に隠れるには、彼はもう大きくなりすぎていた)。それまで露見しなかったことの方がむしろ驚きだった。
そして彼は「NHK」というあだ名で呼ばれることになった。ホワイトカラーの中産階級の子供が集まっている社会では、彼は一種の「異人種」にならざるを得なかった。ほかの子供たちにとって当然であるものごとの多くが、天吾にとっては当然ではなかったからだ。天吾は彼らとは異なった世界に住み、違う種類の生活を送っていた。天吾は学校の成績は飛び抜けてよかったし、運動も得意だった。身体も大きく、力もあった。教師にも目をかけられていた。だから「異人種」であっても、クラスでのけ者になることはなかった。むしろ何ごとによらず一目置かれる存在だった。しかし今度の日曜日にどこかに行こう、うちに遊びに来いよ、と誰かに誘われても、それにこたえることができなかった。「今度の日曜日に友だちの家で集まりがあるんだけど」と父親に言ったところで、相手にされないことは最初からわかっている。悪いけど日曜日は都合が悪いんだと断るしかなかった。何度も断っているうちに、当然ながら誰にも誘われなくなった。気がつけば、彼はどこのグループにも属さず、いつもひとりぼっちだった。
日曜日には何があろうと、彼は父親とともに朝から夕方まで集金のルートをまわらなくてはならない。それは絶対的なルールで、そこには例外も変更の余地もなかった。風邪をひいて咳が止まらなくても、多少の熱があっても、お腹をこわしていても、父親はまず容赦してくれない。そんなとき、父親のあとをふらふらと歩きながら、このまま倒れて死んでしまえたらどんなにいいだろうとよく思った。そうすれば父親もおそらく少しは自分の行いを反省するだろう。子供にあまりにも厳しくしすぎたかもしれないと。しかし天吾は幸か不幸か、頑健な身体に生まれついていた。熱があっても、胃が痛んでも、吐き気がしても、倒れることも意識を失うこともなく、父親とともに長い集金ルートを歩き通した。泣きごとひとつ言わずに。
天吾の父親は終戦の年に、満州から無一文で引き揚げてきた。東北の農家の三男に生まれ、同郷の仲間たちとともに満蒙開拓団に入り満州に渡った。満州は王道楽土で、土地は広く肥沃で、そこに行けば豊かな暮らしを送れるという政府の宣伝を鵜呑みにしたわけではない。王道楽土なんてものがどこにもないことくらい、最初からわかっていた。ただ彼らは貧しく、飢えていた。田舎に留まっていても餓死寸前の暮らししかできなかったし、世の中はひどい不景気で失業者が溢れていた。都会に出たところでまともな仕事が見つかるあてもない。となれば満州に渡るくらいしか生き延びる道はなかった。有事の際は銃をとれる開拓農民として基礎訓練を受け、満州の農業事情についてのまにあわせの知識を与えられ、万歳三唱に送られて故郷をあとにし、大連から汽車で満蒙国境近くに連れていかれた。そこで耕地と農具と小銃を与えられ、仲間たちとともに農業を営んだ。石ころだらけのやせた土地で、冬には何もかもが凍り付いた。食べるものがないので野犬まで食べた。それでも最初の数年は政府からの援助もあり、なんとかそこで生き延びることはできた。
一九四五年八月、ようやく生活が落ちつきを見せ始めた頃、ソビエト軍が中立条約を破棄し、満州国に全面的に侵攻した。欧州戦線を終結させたソビエト軍は、大量の兵力をシベリア鉄道で極東に移動し、国境線を越えるための配備を着々と整えていた。父親はちょっとした縁で親しくなったある役人からそのような切迫した情勢をこっそり知らされ、ソビエト軍の侵攻を予期していた。弱体化した関東軍はとても持ちこたえられそうにないから、そうなったら身ひとつで逃げ出せるように準備をしておけと、その役人は彼に耳打ちしてくれた。逃げ足は速ければ速いほどいい、と。だからソ連軍が国境を破ったらしいというニュースを耳にするや否や、用意しておいた馬で駅に駆けつけ、大連に向かう最後から二番目の汽車に乗り込んだ。仲間のうちでその年のうちに無事に日本に帰り着けたのは彼一人だけだった。
戦後、父親は東京に出て闇商売をしたり、大工の見習いをしたりしたが、どれももうひとつうまくはいかなかった。一人で食いつないでいくのがやっとだった。一九四七年の秋、浅草で酒屋の配達の仕事をしているときに、満州時代の知り合いとたまたま道で出会った。日ソ開戦が近いという情報を耳打ちしてくれた例の役人だ。彼は出向して、満州国の郵政にかかわっていたのだが、今では日本に戻って古巣の逓信省に勤務していた。同郷ということもあったのだろう、またタフな働き者であることを知っていたのだろう、彼は天吾の父親に対して好感を抱いていたらしく、食事に誘った。
天吾の父親がまともな職を見つけられずに苦労していることを知って、NHKの集金の仕事をしてみる気はないかと、その役人は持ちかけた。その部署に親しい人間がいるから、口を利いてあげることはできる。そうしてもらえるとありがたいです、と父親は言った。NHKがどんなところかよく知らなかったが、定収入のある仕事ならなんでもよかった。役人が紹介状を書き、保証人にまでなってくれた。おかげで父親は簡単にNHKの集金人になることができた。講習を受け、制服を与えられ、ノルマを与えられた。人々はようやく敗戦のショックから立ち直り、困窮生活の中で娯楽を求めていた。ラジオが与えてくれる音楽や笑いやスポーツがもっとも身近で安価な娯楽となり、ラジオは戦前とは比べものにならないほど広く普及していった。NHKは聴取料を集めて回る現場の人間を大量に必要としていた。
天吾の父親は職務をきわめて熱心に果たした。彼の強みは身体が丈夫なこと、我慢強いことだった。なにしろ生まれてこの方、腹一杯食事をしたことがろくにないのだ。そんな人間にとって、NHKの集金業務はさして辛い仕事ではなかった。どれほど激しく罵声を浴びせかけられても、そんなものは知れたことだ。そしてたとえ末端であるとはいえ、巨大な組織に自分が属していることに彼は大きな満足を感じた。出来高払いの、身分保障のない委託集金人として一年ばかり働いたが、成績と勤務態度が優秀だったので、そのままNHKの正規集金職員として採用された。それはNHKの慣例からすれば異例の抜擢だった。とりわけ集金難度の高い地域で優れた成績をあげたということもあるが、そこにはもちろん保証人である逓信省の役人の威光が働いていた。基本賃金が定められ、そこに諸手当がついた。社宅に入り、健康保険に加入することもできた。ほとんど使い捨てに近い一般の委託集金人の待遇とは雲泥の差がある。それは彼がその人生において巡り合った最大の幸運だった。何はともあれ、ようやくトーテムポールの最下段に位置を定めることができたわけだ。
それが父親からいやというほど聞かされた話だった。父親は子守歌も歌わなかったし、枕元で童話を読んでもくれなかった。そのかわり自分がこれまで実際に体験してきたことを、繰り返し話して聞かせた。東北の貧しい小作農の家に生まれ、労働と殴打によって犬のように育てられ、開拓団の一員として満州に渡り、小便が途中で凍りつくような土地で、銃を取って馬賊や狼の群れを追い払いながら荒れ野を耕作し、ソビエトの戦車軍団から命からがら逃げ出し、シベリアの収容所に送られることもなく無事に帰国し、空きっ腹を抱えながら戦後のどさくさを生き延び、偶然の導きによって幸運にもNHKの正規集金人になるまでの話だ。NHKの集金人になるというのが、彼の物語における究極のハッピーエンドだった。そこで話はめでたしめでたしと終わった。
父親はそういう話をするのがなかなか上手だった。どこまでが事実なのか確かめようもないが、一応話の筋は通っていた。そして含蓄があるとまでは言えないが、細部が生き生きして、語り口は色彩に富んでいた。愉快な話があり、しんみりした話があり、乱暴な話があった。唖然とするような途方もない話があり、何度聞いてもよく呑み込めない話があった。もし人生がエピソードの多彩さによって計れるものなら、彼の人生はそれなりに豊かなものだったと言えるかもしれない。
ところがNHKの正規職員に採用されたあとのことになると、父親の話はなぜか急激に色彩とリアリティーを失なっていった。彼の語る話は細部を欠き、まとまりを欠いてきた。それは彼にとって語るに足りない後日談であるかのようだった。彼はある女性と知り合って結婚し、子供を一人もうける——それがつまりは天吾だ。そして母親は天吾を生んで数ヶ月後に、病を得てあっさり亡くなってしまう。それ以来彼は再婚することもなく、NHKの集金人として勤勉に働きながら、男手ひとつで天吾を育ててきた。そして今に至る。終わり。
彼がどのような経緯で天吾の母親と巡り合い、結婚することになったのか、それがどのような女性であったのか、死因がなんだったのか(彼女の死は天吾の出産に関連しているのだろうか)、彼女の死が比較的安らかなものであったのか、あるいは苦痛に満ちたものであったのか、そういうことになると父親はほとんど何ひとつ語らなかった。天吾が質問をしても、話をはぐらかして答えなかった。多くの場合、不機嫌になって黙り込んだ。母親の写真は一枚も残されていなかった。結婚式の写真もなかった。結婚式を挙げるような余裕はなかったし、写真機も持っていなかった、と父親は説明した。
しかし天吾は父親の話を基本的に信じなかった。父親は事実を隠し、話を作り替えている。母親は、天吾を産んで数ヶ月後に死んだわけではない。彼に残された記憶の中では、母親は彼が一歳半になるまで生きていた。そして天吾の眠っているそばで、父親以外の男と抱き合い、むつみ合っていたのだ。
彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせている。天吾はその隣で寝息をたてて眠っている。しかし同時に天吾は眠っていない。彼は母親の姿を見ている。
それが天吾にとっての母親の記念写真だった。その十秒ばかりの情景は彼の脳裏にはっきりと焼きついている。それは彼が手にしている、母親についてのたったひとつの具体的な情報だった。天吾の意識はそのイメージを通して辛うじて母親に通じている。仮説的なへその緒で結びつけられている。彼の意識は記憶の羊水に浮かび、過去からのこだまを聞きとっている。しかし父親は、天吾がそんな光景を鮮明に頭に焼きつけていることを知らない。彼がその情景の断片を野原の牛のようにきりなく反芻{はんすう}し、そこから大事な滋養を得ていることを知らない。父子はそれぞれに深く暗く秘密を抱き合っている。
気持ちよく晴れた日曜日の朝だった。しかし吹く風は冷ややかさを含み、四月の半ばとはいえ、季節が簡単に逆戻りしてしまうことを教えている。天吾は黒い薄手の丸首セーターの上に、学生時代からずっと着ているヘリンボーンのジャケットを着て、ベージュのチノパンツに、茶色のハッシュパピーを履いていた。靴は比較的新しいものだ。それが彼にできるいちばんござつばりした格好だった。
天吾が中央線新宿駅の立川方面行きプラットフォームのいちばん前に着いたとき、ふかえりは既にそこにいた。彼女は一人でベンチに座り、身動きひとつせず、目を細めて宙を見つめていた。どう見ても夏物としか思えないプリント地のコットンのワンピースの上に、分厚い冬物の草色のカーディガンを着て、素足に色あせたグレーのスニーカーを履いていた。この季節としてはいささか不思議な組み合わせだった。ワンピースは薄すぎるし、カーディガンは厚すぎる。しかし彼女がそういうかっこうをしていると、違和感はとくに感じられなかった。そのような<傍点>そぐわなさ傍点>によって、彼女は自分なりの世界観を表現しているのかもしれない。そう見えなくもなかった。しかしたぶん何も考えずに、ただでたらめに服を選んでいるだけだろう。
彼女は新聞も読まず、本も読まず、ウォークマンも聴かず、ただ静かにそこに座って、大きな黒い目でじっと前方を眺めていた。何かを見つめているようでもあり、まったく何も見ていないようでもあった。何かを考えているようでもあり、まったく何も考えていないようでもあった。遠くから見ると、特別な素材を使ってリアリスティックにつくられた彫刻のように見えた。
「待った?」と天吾は尋ねた。
ふかえりは天吾の顔を見て、それからほんの数センチ首を横に振った。その黒い目には絹のような鮮やかなつやがあったが、前に会ったときと同じように表情はまるで見受けられなかった。今のところ、彼女は誰ともあまり口をききたくないように見えた。だから天吾も会話を続けようという努力は放棄し、何も言わずベンチの彼女のとなりに腰をおろした。
電車がやってくると、ふかえりは黙って立ち上がった。そして二人はその電車に乗り込んだ。休日の高尾行きの快速には乗客の姿は少なかった。天吾とふかえりは並んで座席に座り、向かい側の窓の外を過ぎていく都会の情景を無言のまま眺めた。ふかえりは相変わらず口をきかなかったので、天吾も沈黙をまもっていた。彼女はこれからやってくるであろう厳しい寒さに備えるように、カーディガンの襟をしっかりとあわせ、正面を向いて唇をまっすぐに結んでいた。
天吾は持ってきた文庫本を取り出して読みかけたが、少し迷ってやめた。彼は文庫本をポケットに戻し、ふかえりにつきあうようなかっこうで、両手を膝の上に置き、ただぼんやり前方に目をやった。考えごとをしようかと思ったが、考えるべきことをひとつとして思いつけなかった。しばらく『空気さなぎ』の書き直しに集中していたせいで、頭がまとまった何かを考えることを拒否しているらしい。頭の芯にもつれた糸のようなかたまりがある。
天吾は風景が窓の外を流れていくのを眺め、レールの立てる単調な音に耳を澄ませていた。中央線はまるで地図に定規で一本の線を引いたように、どこまでもまっすぐ延びている。いや、<傍点>まるで傍点>とか<傍点>ように傍点>とか断るまでもなく、当時の人々はきっと実際にそうやってこの路線をこしらえたのだろう。関東平野のこのあたりには語るに足る地勢的障害物がひとつもない。だから人が感知できるようなカーブも高低もなく、橋もなければトンネルもないという路線ができあがった。定規が一本あれば事足りる。電車は目的地に向けて一直線にひた走っていくだけだ。
どのあたりからだろう、知らないうちに天吾は眠っていた。振動を感じて目を覚ましたとき、電車はスピードを徐々に緩めて荻窪の駅に停まりかけているところだった。短い眠りだ。ふかえりは前と同じ姿勢のまま正面をじっと見ていた。でも彼女が実際にどんなものを見ているのか、天吾にはわからない。ただその何かに集中しているような雰囲気からすると、まだしばらくは電車を降りるつもりはないらしい。
「君はいつもどんな本を読んでいるの?」、天吾は退屈さに耐えかねて、電車が三鷹を過ぎたあたりでそう尋ねてみた。それはいつかふかえりに尋ねてみたいと思っていたことだった。
ふかえりは天吾をちらりと見て、それからまた顔を正面に向けた。「ホンはよまない」と彼女は簡潔に答えた。
「ぜんぜん?」
ふかえりは短く肯いた。
「本を読むことに興味がないの?」と天吾は尋ねた。
「よむのにじかんがかかる」とふかえりは言った。
「読むのに時間がかかるから本を読まない?」と天吾はよくわからず聞き返した。
ふかえりは正面を向いたままとくに返事は返さなかった。それはどうやら<傍点>あえて否定はしない傍点>という意思表明であるらしかった。
もちろん一般的に言って、一冊の本を読むにはそれなりの時間がかかる。テレビを見るのや、漫画を読むのとは違う。読書というのは比較的長い時間性の中で行われる継続的な営為だ。しかしふかえりの「時間がかかる」という表現には、そのような一般論とはいくぶん違うニュアンスが込められているようだった。
「時間がかかるというのは、つまり……、<傍点>すごく傍点>時間がかかるってこと?」と天吾は尋ねた。
「<傍点>すごく傍点>」とふかえりは断言した。
「普通の人より遥かに長く?」
ふかえりはこっくりと肯いた。
「じゃあ、学校でも困るんじゃないの? 授業でいろんな本を読まなくちゃならないだろうし。もしそんなに時間がかかるとしたら」
「よんでいるふりをする」と彼女はこともなげに言った。
天吾の頭のどこかで不吉なノックの音が聞こえた。そんな音はできることなら聞こえなかったことにしてやり過ごしてしまいたかったが、そういうわけにもいかない。彼は事実を知らなくてはならない。
天吾は質問した。「君が言ってるのはつまり、いわゆるディスレクシアみたいなことなのかな?」
「ディスレクシア」とふかえりは反復した。
「読字障害」
「そういわれたことはある。ディス——」
「誰に言われたの?」
その少女は小さく肩をすぼめた。
「つまり——」と天吾は手探りをするように言葉を求めた、「小さいときからずっとそうだったの?」
ふかえりは肯いた。
「ということは、これまで小説みたいなものもほとんど読んでこなかったわけだ」
「じぶんでは」とふかえりは言った。
それで彼女の書くものが、どんな作家の影響も受けていないことの説明はつく。筋の通った立派な説明だ。
「自分では読まなかった」と天吾は言った。
「だれかがよんでくれた」とふかえりは言った。
「お父さんとかお母さんが声に出して本を読んでくれた?」
ふかえりはそれには答えなかった。
「でも読めなくても、書く方は大丈夫なんだね」、天吾は恐る恐る尋ねた。
ふかえりは首を振った。「かくこともじかんがかかる」
「<傍点>すごく傍点>時間がかかる?」
ふかえりはまた小さく肩をすぼめた。イエスということだ。
天吾はシートの上で座り直し、身体の位置を変えた。「ということはひょっとして、『空気さなぎ』は君が自分で文章を書いたわけじゃないんだ」
「わたしはかいていない」
天吾は数秒の間を置いた。重みのある数秒間だった。「じゃあ誰が書いたの?」
「アザミ」とふかえりは言った。
「アザミって誰?」
「ふたつ<傍点>としした傍点>」
もう一度短い空白があった。「その子が君のかわりに『空気さなぎ』を書いた」
ふかえりはごく当り前に肯いた。
天吾は懸命に頭を働かせた。「つまり、君が物語を語って、それをアザミが文章にした。そういうこと?」
「タイプしてインサツした」とふかえりは言った。
天吾は唇を噛み、提示されたいくつかの事実を頭の中に並べ、前後左右を整えた。それから言った、「つまりアザミが、そのインサツしたものを雑誌の新人賞に応募したんだね。おそらく君には内緒で、『空気さなぎ』というタイトルをつけて」
ふかえりはイエスともノーともつかない首の傾げ方をした。しかし反論はなかった。おおむねそれで合っているということなのだろう。
「アザミというのは君の友だち?」
「いっしょにすんでいる」
「君の妹なの?」
ふかえりは首を振った。「センセイのこども」
「先生」と天吾は言った。「その<傍点>先生傍点>も、君と一緒に暮らしているということ?」
ふかえりは肯いた。今更どうしてそんなことを訊くのか、という風に。
「僕が今から会いに行こうとしているのが、きっとその先生なんだろうね」
ふかえりは天吾の方を向き、遠くの雲の流れを観察するような目でひとしきり彼の顔を見た。あるいは覚えの悪い犬の使いみちを考えているような目で。それから肯いた。
「わたしたちはセンセイにあいにいく」と彼女は表情を欠いた声で言った。
会話はそこでとりあえず終了した。天吾とふかえりはまたしばらく口を閉ざし、二人並んで車窓の外を眺めていた。のっぺりとした平板な土地に、これという特徴のない建物が、どこまでも際限なく立ち並んでいる。無数のテレビ?アンテナが、虫の触角のように空に向けて突き出している。そこに暮らす人々はNHKの受信料をちゃんと払っているのだろうか。日曜日には天吾は何かにつけて受信料のことを考えてしまう。そんなこと考えたくなんかないのだが、考えないわけにはいかない。
今日、このよく晴れた四月半ばの日曜日の朝に、いくつかのあまり愉快とは言い難い事実が明らかになった。まず第一にふかえりは自分で『空気さなぎ』を書いたのではない。彼女が言うことをそのまま信じるなら(信じてはいけない理由は今のところ思いつけない)、ふかえりはただ物語を語り、別の女の子がそれを文章にした。成立過程としては『古事記』とか『平家物語』といった口承文学と同じだ。その事実は天吾が『空気さなぎ』の文章に手を入れることの罪悪感をいくらか軽減してはくれたものの、全体として見れば事態をさらに——はっきり言えば抜き差しならないほど——複雑化させていた。
そして彼女は読字障害を抱えており、本をまともに読むことができない。天吾はディスレクシアについて持っている知識を整理してみた。大学で教職課程をとったときに、その障害についてレクチャーを受けた。ディスレクシアは原理的には読み書きはできる。知能は問題ないとされる。しかし読むのに時間がかかる。短い文章を読むぶんには支障はないが、それが積み重なって長いものになると、情報処理能力が追いつかなくなる。文字とその表意性が頭の中でうまく結びつかないのだ。それが一般的なディスレクシアの症状だ。原因はまだ完全には解明されていない。しかし学校のクラスの中にディスレクシアの子供が一人か二人いたとしても、決して驚くべきことではない。アインシュタインもそうだったし、エジソンもチャーリー?ミンガスもそうだった。
読字障害を持った人が文章を書くことにおいても、文章を読むときと同じような困難さを一般的に感じるのかどうか、天吾は知らない。しかしふかえりのケースについて言えば、どうやらそういうことらしい。彼女は書くことについても、読むのと同じ程度の困難さを覚えている。
このことを知ったら、小松はいったいなんと言うだろう。天吾は思わずため息をついた。この十七歳の少女には生まれつきの読字障害があり、本を読むことも、長い文章を書くこともおぼつかない。会話をするときにも(意図的にそうしているのでないとしたら)だいたい一度にひとつのセンテンスしかしゃべれない。たとえかっこうだけにせよ、それをプロの小説家に仕立て上げるなんて、どだい無理な相談だ。たとえ天吾が『空気さなぎ』をうまく書き直し、作品が新人賞をとり、出版されて評価されたとしても、世間の目を欺き続けることはできない。最初はうまくいっても、そのうちに「何かおかしい」と人々は考え始めるに決まっている。もしそこで事実が露見したら、関係者全員がきれいに首を揃えて破滅することになるだろう。天吾の小説家としてのキャリアもまたそこで——まだろくすっぽ始まってもいないうちから——あっさり命脈を断たれてしまう。
だいたいこんな欠陥だらけの計画がうまく運ぶわけがないのだ。最初から薄氷を踏むようなものだと思っていたが、今となってはそんな表現だって生やさし過ぎる。足を乗せる前から既に氷はみしみしと音を立てている。うちに帰ったら小松に電話をかけて、「すみません、小松さん、この件から僕は手を引きます。あまりにも危険すぎる」と言うしかない。それがまっとうな神経を持ち合わせた人間のやることだ。
しかし『空気さなぎ』という作品について考え出すと、天吾の心は激しく混乱し、分裂した。小松の立てた計画がどれほど危なっかしいものであれ、『空気さなぎ』の改稿をここでやめてしまうことは、天吾にはできそうになかった。書き直しに入る前であれば、あるいはできたかもしれない。しかしもう無理だ。彼は今ではその作品に首まではまり込んでいた。その世界の空気を呼吸し、その世界の重力に同化していた。その物語のエキスは彼の内臓の壁にまで染み込んでいた。その物語は天吾の手による改変を切実に求めていたし、彼はその求めをひしひしと感じ取ることができた。それは天吾にしかできないことであり、やるだけの価値のあることであり、<傍点>やらなくてはならないこと傍点>だった。
天吾は座席の上で目を閉じ、このような状況に自分がどう対処すればいいのかとりあえずの結論を出そうと試みた。しかし結論は出なかった。混乱し分裂した人間に筋の通った結論なんて出せるわけがない。
「アザミは、君が話すことをそのまま文章にするの?」と天吾は尋ねた。
「はなすとおりに」とふかえりは答えた。
「君は話し、彼女がそれを書く」と天吾は尋ねた。[でもちいさなコエではなさなくてはならない」
「どうして小さな声で話さなくてはならないんだろう?」
ふかえりは車内を見まわした。ほとんど乗客はいなかった。母親と小さな二人の子供が、向かいの座席の少し離れたところに座っているだけだ。三人はどこか楽しいところに出かける途中のように見えた。世の中にはそういう幸福な人々も存在するのだ。
「<傍点>あのひとたち傍点>にきかれないように」とふかえりは小さな声で言った。
「あの人たち?」と天吾は言った。彼女の焦点が定まらない目を見れば、それがその母子の三人連れを指しているのでないことは明らかだった。ここにはいない、彼女のよく知っている——そして天吾の知らない——具体的な誰かのことをふかえりは話しているのだ。
「あの人たちって誰のこと?」と天吾は尋ねた。彼の声もいくらか小さくなっていた。
ふかえりは何も言わず、眉のあいだに小さなしわを寄せた。唇は堅く結ばれていた。
「リトル?ピープルのこと?」と天吾は質問した。
やはり返事はない。
「君の言う<傍点>あの人たち傍点>は、もし物語が活字になって世間に公表され、話題になったりしたら、そのことで腹を立てるのかな?」
ふかえりはその質問にも答えなかった。目の焦点はやはりどこにも結ばれていない。しばらく待って返事がないことを確認してから、天吾は別の質問をした。
「君の言うセンセイについて教えてくれないかな。どんな人なんだろう」
ふかえりは不思議そうな顔で天吾を見た。この人は何を言っているのだろうという風に。それから言った。「これからセンセイにあう」
「たしかに」と天吾は言った。「たしかにそのとおりだ。どうせこれから会うんだ。直接会って自分で確かめればいい」
国分寺駅で登山のかっこうをした老人のグループが乗り込んできた。全部で十人ばかりで、男女が半分ずつ、年齢は六十代後半から七十代前半のあいだに見えた。それぞれにリュックを背負い帽子をかぶり、遠足に出かける小学生のように賑やかで楽しそうだった。彼らは水筒を腰に付けたり、リュックのポケットに入れたりしていた。年をとったら自分もあんな風に楽しそうになれるのだろうか、と天吾は考えた。それから小さく首を振った。いや、たぶん無理だろう。天吾は老人たちがどこかの山頂で得意そうに水筒から水を飲んでいる光景を想像した。
リトル?ピープルは小さな体のくせにとてもたくさんの水を飲む。そして彼らが好むのは水道の水ではなく、雨水であり、近くの小川を流れている水だった。だから少女は昼間のうちに小川からバケツに水を汲んできて、それをリトル?ピープルに飲ませた。雨が降れば、雨樋の下にバケツを置いて溜めておいた。リトル?ピープルは同じ自然の水でも、小川の水よりは雨水を好んだからだ。彼らはそのような少女の親切なおこないに感謝した。
天吾は、意識をひとつに保っているのがむずかしくなっていることに気づいた。よくない徴候だ。たぶん今日が日曜日であるせいだ。彼の中である種の混乱が始まっていた。感情の平原のどこかで不吉な砂嵐が発生しようとしていた。日曜日には時々そういうことが起こる。
「どうかした」とふかえりが疑問符抜きで尋ねた。彼女には天吾の感じている緊張が察知できるようだ。
「うまくできるだろうか」と天吾は言った。
「なにが」
「僕はうまく話すことができるだろうか?」
「うまくはなすことができる」とふかえりは尋ねた。彼が何を言おうとしているのか、よく理解できないようだった。
「センセイと」と天吾は言った。
「センセイとうまくはなせるか」とふかえりが反復した。
天吾は少し迷ってから、気持ちを打ち明けた。「結局、いろんなことがうまくかみあわず、何もかも駄目になってしまうような気がする」
ふかえりは身体の向きを変え、天吾の顔を正面からまっすぐ見た。「なにがこわい」と彼女は尋ねた。
「僕は何を恐れているか?」と天吾は彼女の質問を言い換えた。
ふかえりは黙って肯いた。
「新しい人に会うことが怖いのかもしれない。とりわけ日曜日の朝に」と天吾は言った。
「どうしてニチヨウ」とふかえりは尋ねた。
天吾はわきの下に汗をかき始めていた。胸がきつくしめつけられる感覚があった。新しい誰かに会うこと、そして新しい何かがもたらされること。それによって自分の今ある存在が脅かされること。
「どうしてニチヨウ」とふかえりはもう一度尋ねた。
天吾は少年時代の日曜日のことを思い出した。予定していた集金のルートを一日かけて回り終えると、父親は彼を駅前の食堂に連れて行き、なんでも好きなものを注文していいと言った。それはご褒美{ほうび}のようなものだった。つつましい生活を送っていた二人にとってはほとんど唯一の外食の機会である。父親はそこでは珍しくビールを頼んだ(父親はいつもはほとんど酒を口にしなかった)。しかしそう言われても、天吾は食欲をまったく感じなかった。普段はいつも腹を空かせていたのだが、日曜日に限っては何を食べてもなぜかうまいとは思わなかった。注文したものを残さずに食べるのは——食べ残すことは絶対に許されなかった——苦痛でしかなかった。思わず吐きそうになることもあった。それが少年時代の天吾にとっての日曜日だった。
ふかえりは天吾の顔を見た。彼の目の中にあるものを探った。それから片手を伸ばし、天吾の手をとった。天吾は驚いたが、驚きを顔に出さないように努めた。
電車が国立駅に到着するまで、ふかえりはそのまま彼の手を軽く握り続けていた。彼女の手は思ったより硬く、さらりとしていた。熱くもなく、冷たくもない。その手は天吾の手のおおよそ半分の大きさしかなかった。
「こわがることはない。いつものニチヨウじゃないから」と少女は誰もが知っている事実を告げるように言った。
彼女が二つ以上のセンテンスを同時に口にしたのはこれが初めてかもしれない、と天吾は思った。
第9章 青豆
風景が変わり、ルールが変わった
青豆は自宅からいちばん近いところにある区立図書館に行った。そしてカウンターで新聞の縮刷版の閲覧を請求した。一九八一年の九月から十一月までの三ヶ月ぶんだ。朝日と読売と毎日と日経がありますが、どの新聞がご希望ですか、と図書館員が尋ねた。眼鏡をかけた中年の女性で、図書館の正式な職員というよりは、主婦のパートタイムのように見えた。それほど太っているというのでもないのに、手首がハムのようにむくんでいた。
どれでもかまわないと青豆は言った。どれだって同じようなものだ。
「そうかもしれませんが、どれかひとつに決めていただかないと困るんです」、女はそれ以上の議論をはねつけるような抑揚のない声でそう言った。青豆も議論をするつもりはなかったから、とくに理由もなく毎日新聞を選んだ。そして仕切のついたテーブルに座ってノートを広げ、ボールペンを片手に、新聞に掲載されている記事を目で追っていった。
一九八一年の初秋には、それほど大きな事件は起こっていなかった。その年の七月にチャールズ王子とダイアナが結婚式をあげており、その余波がいまだに続いていた。二人がどこに行ってどんなことをして、ダイアナがどんな服を着て、どんな装身具をつけていたか。チャールズとダイアナが結婚式をあげたことを青豆はもちろん知っていた。しかしそれについてとりたてて興味は持たなかった。世間の人々が英国の皇太子や皇太子妃の運命に対して、どうしてそんなに深い関心を持たなくてはならないのか、青豆にはまったく理解できなかった。チャールズは外見からいえば、皇太子というよりは、胃腸に問題を抱えた物理の教師みたいに見えた。
ポーランドではワレサ議長の率いる「連帯」が政府との対立を深め、ソビエト政府はそのことに「憂慮の意」を示していた。より明瞭な言葉を使えば、ポーランド政府が事態を収拾できなければ、六八年の「プラハの春」のときのように戦車の軍団を送り込んでやるぞということだ。そのあたりのことも青豆はおおよそ覚えていた。結局はいろいろあった末にソ連がとりあえず介入をあきらめたことも知っている。だから記事を詳しく読む必要はなかった。ただひとつ、アメリカのレーガン大統領が、おそらくはソビエトの内政干渉を牽制する目的で、「ポーランドでの緊張が、米ソ共同の月面基地建設計画に支障を及ぼさないことを期待する」という声明を出していた。月面基地建設? そんな話は耳にしたこともない。でもそういえば、このあいだのテレビのニュースで何かそういうことを言っていたような気がする。関西から来た髪の薄い中年男と赤坂のホテルでセックスをした夜だ。
九月二十日にはジャカルタで世界最大規模の凧{たこ}揚げ大会が開催され、一万人以上の人が集まって凧をあげた。そんなニュースを青豆は知らなかったが、知らなくてもとくに不思議はない。三年前にジャカルタで行われた凧揚げ大会のニュースをいったい誰が覚えているだろう。
十月六日にはエジプトでサダト大統領が、イスラム過激派のテロリストに暗殺された。青豆はその事件を記憶しており、サダト大統領のことをあらためて気の毒に思った。彼女はサダト大統領の頭の禿げ方がけっこう気に入っていたし、宗教がらみの原理主義者たちに対しては、一貫して強い嫌悪感を抱いていたからだ。そういった連中の偏狭な世界観や、思い上がった優越感や、他人に対する無神経な押しつけのことを考えただけで、怒りがこみ上げてくる。彼女にはその怒りをうまくコントロールすることができなかった。しかしそれは現在彼女が直面している問題とは関係のないことだ。青豆は何度か深呼吸をして神経を鎮めてから、次のページに移った。
十月十二日には東京板橋区の住宅地で、NHKの集金人(56歳)が受信料の支払いを拒否した大学生と口論になり、鞄に入れて持ち歩いていた出刃包丁で相手の腹を刺して重傷を負わせた。集金人は駆けつけた警官にその場で逮捕された。集金人は血だらけの包丁を手にほとんど放心状態でそこに立ちつくしており、逮捕に際してはまったく抵抗をしなかった。集金人は六年前から職員として働いており、勤務態度はきわめてまじめで成績も優秀だったと、同僚の一人は語っていた。
青豆はそんな事件が起こったことを知らなかった。青豆は読売新聞をとっており、毎日隅から隅まで目を通している。社会面の記事は——とくに犯罪がからんだものは——詳しく読むようにしている。そしてその記事は、夕刊の社会面の半分近くを占めていた。これほど大きな記事を見逃すというようなことはまずあり得ない。しかしもちろん、何かの加減で読み損なったという可能性はなくはない。きわめてありそうにないことだが、まったくないとは断言できない。
彼女は額にしわを寄せて、その可能性についてしばらく考え込んでいた。それからノートに日付と、事件の概要をメモした。
集金人の名前は芥川真之介といった。立派な名前だ。文豪みたいだ。写真は載っていなかった。刺された田川明さん(21歳)の写真が載っているだけだ。田川さんは日本大学法学部の三年生で剣道二段だった。竹刀を持っていれば簡単には刺されなかったのだろうが、普通の人間は竹刀を片手にNHKの集金人と話をしたりはしない。また普通のNHKの集金人は、鞄に出刃包丁を入れて持ち歩いたりはしない。青豆はその後数日ぶんの報道を注意して追ってみたが、その刺された学生が死んだという記事は見あたらなかった。たぶん一命をとりとめたのだろう。
十月十六日には北海道夕張の炭坑で大きな事故が起こった。地下千メートルの採掘現場で火災が発生し、作業をしていた五十人以上の人々が窒息死した。火災は地上近くに燃え広がり、更に十人がそこで命を落とした。会社は延焼を防ぐため、残りの作業員の生死を確認しないまま、ポンプを使って坑道を水没させた。死者の合計は九十三人に達した。胸の痛む事件だった。石炭は「汚い」エネルギー源であり、それを採掘するのは危険な作業だ。採掘会社は設備投資を渋り、労働条件は劣悪だった。事故は多く、肺が確実にやられた。しかしそれが安価である故に、石炭を必要とする人々や企業が存在する。青豆はその事故のことをよく記憶していた。
青豆の探していた事件は、夕張炭坑の事故の余波がまだ続いている十月十九日に起こっていた。そんな事件があったことを——数時間前にタマルから聞かされるまではということだが——青豆はまったく知らなかった。いくらなんでも、それはあり得ないことだ。その事件の見出しは朝刊の一面に、見逃しようもない大きな活字で印刷されていたからだ。
山梨山中で過激派と銃撃戦 警官三人死亡
大きな写真も載っていた。事件の起こった現場の航空写真。本栖湖の近辺だ。簡単な地図もある。別荘地として開発された地域からもっと奥に入った山の中だ。死んだ三人の山梨県警の警官の顔写真。ヘリコプターで出動する自衛隊の特殊空挺部隊。迷彩の戦闘服、スコープつきの狙撃銃と銃身の短い自動小銃。
青豆はしばらくのあいだ大きく顔を歪めていた。感情を正当に表現するために、顔の各部の筋肉を伸ばせるところまで伸ばした。しかし机の両側には仕切があったから、誰も青豆の顔のそのような強烈な変化を目にすることはなかった。それから青豆は大きく呼吸をした。あたりの空気を思い切り吸い込み、思い切り吐き出した。鯨が水面に浮上し、巨大な肺の空気をそっくり入れ換えるときのように。背中合わせの席で勉強をしていた高校生が、その音にびつくりして青豆の方を振り向いたが、もちろん何も言わなかった。ただ怯えただけだ。
彼女はひとしきり顔を歪めてから、努力して各部の筋肉を緩め、もとあった普通の顔に戻した。それからボールペンの尻で、長いあいだ前歯をこつこつとつついていた。そして考えをまとめようとした。そこにはなにかしら理由があるはずだ。というか、理由は<傍点>なくてはならない傍点>。どうしてそんな重大な、日本全体を揺るがせるような事件を私は見逃したのだろう。
いや、何もこの事件だけじゃない。NHKの集金人が大学生を刺した事件だって、私は知らなかった。とても不思議だ。立て続けにそんな大きな見落としをするわけがない。私はなんといっても几帳面で注意深い人間だ。ほんの一ミリの誤差だって目につく。記憶力にも自信はある。だからこそ何人かの人を<傍点>あちら側傍点>に送っておきながら、一度としてミスを犯すことなく、こうして生き延びてこられたのだ。私は日々丁寧に新聞を読んできたし、「丁寧に新聞を読む」と私が言うとき、それはいささかなりとも意味のある情報は何ひとつ見逃さない、ということだ。
もちろんその本栖湖事件は何日にもわたって新聞紙面で大きく扱われていた。自衛隊と県警は逃走した十人の過激派メンバーを追って大がかりな山狩りをおこない、三人を射殺し、二人に重傷を負わせ、四人(そのうちの一人は女性)を逮捕した。一人は行方不明のままだった。新聞全体がその事件の報道で埋めつくされていた。おかげでNHKの集金人が板橋区で大学生を刺した事件の続報なんて、どこかに吹き飛んでしまった。
NHKは——もちろん顔には出さないが——胸をなで下ろしたに違いない。もしそんな大事件がなかったら、マスコミはNHKの集金システムについて、あるいはNHKという組織のあり方そのものに対して、ここを先途{せんど}と大きな声で疑義を呈していたに違いないから。その年の初めに、ロッキード汚職事件を特集したNHKの番組に自民党が文句をつけ、内容を改変させるという事件があった。NHKは何人かの与党政治家にその放送前の番組内容をこと細かに説明し、「こういうものを放送していいでしょうか」と恭{うやうや}しくお伺いを立てていたのだ。それは驚くべきことに、日常的に行われているプロセスだった。NHKの予算は国会の承認を受ける必要があり、与党や政府の機嫌を損ねたらどんな報復を受けるかしれないという怯えがNHKの上層部にはある。また与党内には、NHKは自分たちの広報機関にすぎないという考えがある。そのような内幕が暴露されたことで、国民の多くは当然のことながらNHK番組の自立性と政治的公正さに対して不信感を抱き始めていた。そして受信料の不払い運動も勢いをつけていた。
その本栖湖の事件と、NHKの集金人の事件を別にすれば、青豆はその時期に起こったほかの出来事や事件や事故を、どれもはっきり記憶していた。その二件以外のニュースについては、記憶に洩れはなかった。どの記事も当時しっかり読んだ覚えがあった。それなのに、本栖湖の銃撃事件とNHKの集金人の事件だけが、彼女の記憶にはまったく残っていない。どうしてだろう。もし私の頭脳に何か不具合が生じているとしても、その二件についての記事だけを読み飛ばしたり、あるいはそれについての記憶だけを器用に消し去ったりできるものだろうか。
青豆は目を閉じ、こめかみを指先で強く押した。いや、そういうこともひょっとしてあり得るかもしれない。私の脳の中に、現実を作り替えようとする機能みたいなものが生じていて、それがある特定のニュースだけを選択し、そこにすっぽりと黒い布をかけ、私の目に触れないように、記憶に残らないようにしてしまっているのかもしれない。警官の制式拳銃や制服が新しくなったことや、米ソ共同の月面基地が建設されていることや、NHKの集金人が出刃包丁で大学生を刺したことや、本栖湖で過激派と自衛隊特殊部隊とのあいだに激しい銃撃戦があったことなんかを。
しかしそれらの出来事のあいだに、いったいどのような共通性があるというのだ?
どれだけ考えても共通性なんてない。
青豆はボールペンの尻で前歯をこつこつと叩き続けた。そして頭脳を回転させた。
長い時間が経過したあとで、青豆はふとこう思った。
たとえばこんな風に考えてみることはできないだろうか——問題があるのは私自身ではなく、私をとりまく外部の世界なのだと。私の意識や精神に異常が生じているのではなく、わけのわからないなんらかの力が作用して、私のまわりの世界そのものが変更を受けてしまったのだと。
考えれば考えるほど、そちらの仮説のほうが青豆には自然なものとして感じられた。自分の意識に何か欠損や歪みがあるという実感が、どうしても持てなかったからだ。
だから彼女はその仮説をもっと先まで推し進めた。
<傍点>狂いを生じているのは私ではなく傍点>、<傍点>世界なのだ傍点>。
そう、それでいい。
どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わったのだ。レールのポイントが切り替わるみたいに。つまり、今ここにある私の意識はもとあった世界に属しているが、世界そのものは既に別のものにかわってしまっている。そこでおこなわれた事実の変更は、今のところまだ限定されたものでしかない。新しい世界の大部分は、私の知っているもともとの世界からそのまま流用されている。だから生活していくぶんには、とくに現実的な支障は(今のところほとんど)ない。しかしそれらの「変更された部分」はおそらく先に行くにしたがって、更に大きな違いを私のまわりに作り出していくだろう。誤差は少しずつ膨らんでいく。そして場合によってはそれらの誤差は、私の取る行動の論理性を損ない、私に致命的な過ちを犯させるかもしれない。もしそんなことになったら、それは文字通り命取りになる。
パラレル?ワールド。
ひどく酸っぱいものを口の中に含んでしまったときのように、青豆は顔をしかめた。しかし先刻ほど激しいしかめ方ではなかった。それからまたボールペンの尻で前歯をこつこつと強く叩き、喉の奥で重いうなり声を立てた。背後の高校生はそれを耳にしたが、今度は聞こえないふりをしていた。
これじゃサイエンス?フィクションになってしまう、と青豆は思った。
ひょっとして私は自己防御のために、身勝手な仮説を作り上げているのだろうか。実際には、ただ単に<傍点>私の頭がおかしくなっている傍点>というだけかもしれない。私は自分の精神を完壁に正常だと見なしている。自分の意識には歪みがないと思っている。しかし自分は完全にまともで、まわりの世界が狂っているのだというのが、大方の精神病患者の主張するところではないか。私はパラレル?ワールドというような突拍子もない仮説を持ち出して、自分の狂気を強引に正当化しようとしているだけではないのか。
冷静な第三者の意見が必要とされている。
しかし精神分析医のところに行って診察を受けるわけにもいかない。事情が込み入りすぎているし、話せない事実があまりに多すぎる。たとえば私がここのところおこなってきた「仕事」にしても、疑問の余地なく法律に反している。なにしろ手製のアイスピックを使って秘密裏に男たちを殺してきたのだ。そんなことを医師に打ち明けるわけにはいかない。たとえ相手が、殺されても文句の言えないような卑劣きわまりない歪んだ連中であったにせよだ。
もし仮にその違法の部分だけをうまく伏せることができたにしても、私が生まれてこのかた辿ってきた人生の合法的な部分だって、お世辞にもまともとは言えない。汚れた洗濯物を押し込めるだけぎゅうぎゅう押し込んだトランクみたいなものだ。その中には、一人の人間を精神異常に追い込むに足る材料がじゅうぶんに詰め込まれている。いや、二三人分は詰まっているかもしれない。セックス?ライフひとつを取り上げてもそうだ。人前で口に出せるような代物ではない。
医者のところには行けない、と青豆は思う。自分ひとりで解決するしかない。
私なりに仮説をもう少し先まで追求してみよう。
もし実際にそんなことが起こったのだとしたら、つまり、もし私の立っているこの世界が<傍点>本当に傍点>入れ替わってしまったのだとしたら、その具体的なポイントの切り替えは、いつ、どこで、どのようにおこなわれたのだろう?
青豆はもう一度意識を集中し、記憶を辿ってみる。
世界の変更された部分に最初に思い当たったのは、数日前、渋谷のホテルの一室で油田開発の専門家を処理した日だ。首都高速道路三号線でタクシーを乗り捨て、非常階段を使って二四六号線に降り、ストッキングをはき替え、東急線の三軒茶屋の駅に向かった。その途中で青豆は若い警官とすれ違い、その見かけがいつもと違うことに初めて気づいた。それが始まりだった。とすれば、おそらくその少し前に、世界のポイントの切り替えがおこなわれたということになる。その朝自宅の近くで見かけた警官は見慣れた制服を着て、旧式のリボルバーを携行していたのだから。
青豆は渋滞に巻き込まれたタクシーの中で、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の冒頭を耳にしたときに経験した、あの不思議な感覚を思い出した。それは身体の<傍点>ねじれ傍点>のような感覚だった。身体の組成が、雑巾みたいに絞り上げられていく感触がそこにはあった。そしてあの運転手が私に、首都高速道路に非常階段が存在していることを教えてくれ、私はハイヒールを脱いでその危なっかしい階段を降りた。その階段を裸足で、強い風に吹かれながら降りていくあいだもずっと、『シンフォニエッタ』の冒頭のファンファーレは私の耳の中で断続的に鳴り響いていた。ひょっとしたらあれが始まりだったのかもしれない、と青豆は思った。
タクシーの運転手にも何かしら奇妙な印象があった。彼が別れ際に口にした言葉を、青豆はまだよく覚えていた。彼女はその言葉をできる限り正確に頭の中に再現した。
そういうことをしますと、そのあとの日常の風景がいつもとは少し違って見えてくるかもしれません。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。
変わったことを言う運転手だと、青豆はそのとき思った。でも彼が何を言いたいのかよくわからなかったし、とくに深く気にはしなかった。彼女は先を急いでいたし、ややこしいことをあれこれ考えている余裕もなかった。しかし今こうして思い返してみると、その発言はいかにも唐突であり奇妙だった。忠告のようでもあり、暗示的なメッセージのようにもとれる。運転手はいったい何を私に伝えたかったのだろう?
そしてヤナーチェックの音楽。
どうしてその音楽がヤナーチェックの『シンフォニエッタ』であると、即座にわかったのだろう。それが一九二六年に作曲されたことを、私はどうして知っていたのだろう。ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』は、冒頭のテーマを耳にすれば誰でもわかる、というようなポピュラーな音楽ではない。そして私はこれまで、とくにクラシック音楽を熱心に聴いてきたわけでもない。ハイドンとベートーヴェンの音楽の違いだってよくわからない。なのになぜ、タクシーのラジオから流れてくるその音楽を耳にして、すぐに「これはヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だ」とわかったのだろう。そしてどうしてその音楽が、私の身体に激しい個人的な揺さぶりのようなものを与えたのだろう。
そう、それはとても<傍点>個人的な傍点>種類の揺さぶりだった。まるで長いあいだ眠っていた潜在記憶が、何かのきっかけで思いも寄らぬ時に呼び覚まされたような、そんな感じだった。肩を掴まれて揺すられているような感触がそこにはあった。とすれば、私はこれまでの人生のどこかの地点で、その音楽と深く関わりを持ったのかもしれない。その音楽が流れてきて、スイッチが自動的にオンになって、私の中にある何かの記憶がむくむくと覚醒したのかもしれない。ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。しかしどれだけ記憶の底を探っても、青豆には心当たりはなかった。
青豆はあたりを見まわし、自分の手のひらを眺め、爪のかたちを点検し、念のためにシャツの上から両手で乳房をつかんでかたちを確かめてみた。とくに変わりはない。同じ大きさとかたちだ。私はいつもの私であり、世界はいつもの世界だ。しかし何かが違い始めている。青豆にはそれが感じられた。絵の間違い探しと同じだ。ここに二つの絵がある。左右並べて壁に掛けて見比べてみても、そっくり同じ絵のように見える。しかし注意深く細部を検証していくと、いくつかの些細なものごとが異なっていることがわかる。
彼女は気持ちを切り替えて新聞の縮刷版のページを繰り、本栖湖の銃撃戦についての詳細をメモした。五挺の中国製AK47カラシニコフ自動小銃は、朝鮮半島から密輸されたものではないかと推測されていた。おそらくは軍払い下げの中古品で、程度は悪くない。弾薬もたっぷりあった。日本海の海岸線は長い。漁船に偽装された工作船を使い、夜陰にまぎれて武器弾薬を持ち込むのは、それほどむずかしいことではない。彼らはそのようにして覚醒剤と武器を日本に持ち込み、大量の日本円を持ち帰る。
山梨県警の警官たちは、過激派グループがそこまで高度に武装化されていることを知らなかった。彼らは傷害罪——あくまで名目的なものだ——で捜査令状をとり、二台のパトカーとミニバスに分乗し、通常の装備でその「あけぼの」と呼ばれるグループの本拠地である「農場」に向かった。グループのメンバーは表向きはそこで有機農法による農業を営んでいた。彼らは警察による農場の立ち入り捜査を拒否した。当然のことながら押し合いのようなかっこうになり、そして何かのきっかけで銃撃戦が始まった。
実際に使われはしなかったものの、彼らは中国製の高性能手榴弾まで用意していた。手榴弾による攻撃がなかったのは、まだ入手してから間もなく、それを使いこなす訓練が十分におこなわれていなかったからだ。それはまことに幸運なことだった。手榴弾が用いられていたら、警察や自衛隊の被害はずっと大きなものになっていたはずだから。警官たちは当初防弾チョッキの用意さえしていなかった。警察当局の情報分析の甘さと、装備の旧さが指摘された。しかし世間の人々がいちばん驚愕したのは、過激派がまだそのような実戦部隊として存続し、水面下で活発に活動していたという事実だった。六〇年代後半の派手な「革命」騒ぎは既に過去のものとなり、過激派の残党も浅間山荘事件で既に壊滅したと思われていたのだ。
青豆はすべてのメモを取り終えてから、新聞の縮刷版をカウンターに返し、音楽関係の棚から『世界の作曲家』という分厚い本を選んで、机に戻った。そしてヤナーチェックのページを開いた。
レオシュ?ヤナーチェックは一八五四年にモラヴィアの村に生まれ、一九二八年に死んだ。本には晩年の顔写真が載っていた。禿げてはおらず、頭は元気のいい野草のような白髪に覆われている。頭のかたちまではわからない。『シンフォニエッタ』は一九二六年に作曲されている。ヤナーチェックは愛のない不幸な結婚生活を送っていたが、一九一七年、六十三歳のときに人妻のカミラと出会って恋に落ちた。既婚者同士の熟年愛である。一時期スランプに悩んでいたヤナーチェックは、このカミラとの出会いを契機として、旺盛な創作欲を取り戻す。そして晩年の傑作が次々に世に問われることになる。
ある日、彼女と二人で公園を散歩しているときに、野外音楽堂で演奏会が開かれているのを見かけ、立ち止まってその演奏を聴いていた。そのときにヤナーチェックは唐突な幸福感を全身に感じて、この『シンフォニエッタ』の曲想を得た。そのとき自分の頭の中で何かがはじけたような感覚があり、鮮やかな悦惚感に包まれたと彼は述懐している。ヤナーチェックは当時たまたま大きな体育大会のためのファンファーレの作曲を依頼されており、そのファンファーレのモチーフと、公園で得た「曲想」がひとつになって『シンフォニエッタ』という作品が生まれた。「小交響曲」という名前がついているが、構成はあくまで非伝統的なものであり、金管楽器による輝かしい祝祭的なファンファーレと、中欧的なしっとりとした弦楽合奏が組み合わされ、独自の雰囲気を作りあげている——と解説にはあった。
青豆は念のために、そのような伝記的事実と楽曲説明をノートにひととおりメモした。しかし『シンフォニエッタ』という音楽と、青豆とのあいだにどのような接点があるのか、あるいはどのような接点が<傍点>あり得る傍点>のか、本の記述は何ひとつヒントを与えてくれなかった。図書館を出ると彼女は夕暮れの近くなった街をあてもなく歩いた。ときどき独り言を言い、ときどき首を振った。
もちろんすべては仮説に過ぎない、と青豆は歩きながら考えた。しかしそれは今のところ、私にとってはもっとも強い説得力を持つ仮説だ。少なくとも、より強い説得力を持つ仮説が登場するまでは、この仮説に沿って行動する必要がありそうだ。さもないとどこかに振り落とされてしまいかねない。そのためにも私が置かれているこの新しい状況に、適当な呼び名を与えた方が良さそうだ。警官たちが旧式のリボルバーを持ち歩いていた<傍点>かつての世界傍点>と区別をつけるためにも、そこには独自の呼称が必要とされている。猫や犬にだって名前は必要だ。この変更を受けた新しい世界がそれを必要としていないわけはない。
1Q84年——私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた。
Qはquestion markのQだ。疑問を背負ったもの。
彼女は歩きながら一人で肯いた。
好もうが好むまいが、私は今この「1Q84年」に身を置いている。私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。今は1Q84年だ。空気が変わり、風景が変わった。私はその疑問符つきの世界のあり方に、できるだけ迅速に適応しなくてはならない。新しい森に放たれた動物と同じだ。自分の身を護り、生き延びていくためには、その場所のルールを一刻も早く理解し、それに合わせなくてはならない。
青豆は自由が丘駅近くにあるレコード店に行って、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を探した。ヤナーチェックはそれほど人気のある作曲家ではない。ヤナーチェックのレコードを集めたコーナーはとても小さく、『シンフォニエッタ』の収められたレコードは一枚しか見つからなかった。ジョージ?セルの指揮するクリーブランド管弦楽団によるものだった。バルトークの『管弦楽のための協奏曲』がA面に入っている。どんな演奏かはわからなかったが、ほかに選びようもなかったので、彼女はそのLPを買った。うちに帰り、冷蔵庫からシャブリを出して栓を開け、レコードをターンテーブルに載せて針を落とした。そしてほどよく冷えたワインを飲みながら、音楽に耳を澄ませた。例の冒頭のファンファーレが輝かしく鳴り響いた。タクシーの中で聴いたのと同じ音楽だ。間違いない。彼女は目を閉じて、その音楽に意識を集中した。演奏は悪くなかった。しかし何ごとも起こらなかった。ただそこに音楽が鳴っているだけだ。身体のねじれもなければ、感覚の変容もない。
音楽を最後まで聴いてから、彼女はレコードをジャケットに戻し、床に座り、壁にもたれてワインを飲んだ。ひとりで考え事をしながら飲むワインには、ほとんど味がなかった。洗面所に行って石鹸で顔を洗い、小さなはさみで眉毛を切り揃え、綿棒で耳の掃除をした。
私がおかしくなっているのか、それとも世界がおかしくなっているのか、そのどちらかだ。どちらかはわからない。瓶と蓋の大きさがあわない。それは瓶のせいかもしれないし、蓋のせいかもしれない。しかしいずれにせよ、サイズがあっていないという事実は動かしようがない。
青豆は冷蔵庫を開けて、中にあるものを点検した。この何日か買い物をしていなかったので、それほど多くのものが入っているわけではない。熟れたパパイヤを出して包丁で二つに割り、スプーンですくって食べた。それからキュウリを三本出して水で洗い、マヨネーズをつけて食べた。ゆっくりと時間をかけて咀噛した。豆乳をグラスに一杯飲んだ。それが夕食のすべてだった。簡単ではあるが、便秘を防ぐにはまず理想的な食事だ。便秘は青豆がこの世界でもっとも嫌悪するものごとのひとつだった。家庭内暴力をふるう卑劣な男たちや、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者たちと同じくらい。
食事を終えると青豆は服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。シャワーから出て、タオルで身体を拭き、ドアについた鏡に裸の全身を映してみた。ほっそりとしたお腹と、引き締まった筋肉。ばっとしない左右でいびつな乳房と、手入れの悪いサッカー場を思わせる陰毛。自分の裸を眺めているうちに、あと一週間ばかりで自分が三十歳になることをふと思い出した。ろくでもない誕生日がまためぐってくる。まったく、三十回目の誕生日をよりによってこんなわけのわからない世界で迎えることになるなんてね、と青豆は思った。そして眉をひそめた。
1Q84年。
それが彼女のいる場所だった。
第10章 天吾
本物の血が流れる実物の革命
「のりかえる」とふかえりは言った。そして再び天吾の手をとった。電車が立川駅に到着する直前のことだ。
電車を降り、階段を上下して違うプラットフォームに移るあいだも、ふかえりは天吾の手をいっときも放さなかった。まわりの人々の目には、二人は仲の良い恋人たちとして映っているに違いない。年齢はけっこう離れているが、天吾はどちらかというと実際の年齢よりは若く見えた。身体の大きさの違いも、傍目にはきっと微笑ましく映っていることだろう。春の日曜日の朝の幸福なデート。
しかし彼の手を握るふかえりの手には、異性に対する情愛らしきものは感じられなかった。彼女は一定の強さで彼の手を握り続けていた。その指には、患者の脈を測っている医師の、職業的な緻密さに似たものがあった。この少女は指や手のひらの接触を通して、言葉では伝えることのできない情報の交流をはかっているのかもしれない。天吾はふとそう思った。しかし仮にそんなやりとりが実際にあったところで、それは交流というよりは一方通行に近いものだった。天吾の心にある何かを、ふかえりはその手のひらから吸い取り感じ取っているかもしれないが、天吾にふかえりの心が読めるわけではない。しかし天吾はとくに気にしなかった。何を読み取られるにせよ、ふかえりに知られて困るような情報や感情の持ち合わせはこちらにはないのだから。
いずれにせよこの少女は、異性としての意識はないにせよ、自分に対してある程度の好意を抱いているのだろう。天吾はそう推測した。少なくとも悪い印象は持っていないはずだ。そうでなければ、たとえどんな<傍点>つもり傍点>があるにせよ、これほど長いあいだ手を握り続けていることはないはずだ。
二人は青梅線のプラットフォームに移り、そこに待っていた始発電車に乗り込んだ。日曜日とあって、登山のかっこうをした老人たちや家族連れで、車内は予想したより混みあっていた。ふたりは座席には座らず、ドアの近くに並んで立った。
「遠足に来たみたいだ」と天吾は車内を見まわして言った。
「てをにぎっていていい」とふかえりは天吾に尋ねた。電車に乗ってからも、ふかえりはまだ天吾の手を放してはいなかった。
「いいよ、もちろん」と天吾は言った。
ふかえりは安心したように、そのまま天吾の手を握り続けた。彼女の指と手のひらは相変わらずさらりとして、汗ひとつかいていなかった。それはまだ彼の中にある何かを探ったり確かめたりし続けているようだった。
「もうこわくない」と彼女は疑問符抜きで尋ねた。
「もう怖くはないと思う」と天吾は答えた。それは嘘ではなかった。彼を襲っていた日曜日の朝のパニックは、おそらくはふかえりに手を握られたことによって、確実に勢いを失っていた。もう汗もかいていないし、硬い動悸も聞こえない。幻覚も訪れなかった。呼吸もいつもの穏やかな呼吸に戻っている。
「よかった」とふかえりは抑揚のない声で言った。
よかったと天吾も思った。
電車が間もなく発車するという早口の簡単なアナウンスがあり、やがて旧弊な大型動物が目覚めて身震いするみたいに、ぶるぶるという大げさな音を立てて車両のドアが閉まった。電車はようやく心を決めたみたいにゆっくりプラットフォームを離れた。
天吾はふかえりと手を握りあいながら、窓の外の風景を眺めていた。最初はごく当たり前の住宅地の風景だった。しかし進むにつれて武蔵野の平坦な風景が、山の目立つ風景へと変化していった。東青梅駅から先は線路が単線になった。そこで四両連結の電車に乗り換えると、まわりの山はまた少しずつ存在感を増していった。もうこのあたりからは都心への通勤圏ではない。山肌はまだ冬の枯れた色を残していたが、それでも常緑樹の緑が鮮やかに目につくようになっていた。駅についてドアが開くと、空気の匂いが変わったことがわかった。もの音の響き方も心なしか違ってきたようだった。沿線に畑が目立つようになり、農家風の建物が増えていった。乗用車よりは軽トラックの数が多くなっていった。ずいぶん遠くまで来たみたいだな、と天吾は思った。いったいどこまで行くのだろう。
「しんぱいしなくていい」とふかえりは天吾の心を読んだように言った。
天吾は黙って肯いた。なんだかこれから結婚の申し込みに、相手の両親に会いに行くみたいな気分だな、と彼は思った。
二人が降りたのは「二俣尾{ふたまたお}」という駅だった。駅の名前には聞き覚えがなかった。ずいぶん奇妙な名前だ。小さな古い木造の駅で、二人のほかに五人ほどの客がそこで降りた。乗り込む人はいなかった。人々は空気のきれいな山道を歩くために二俣尾までやってくる。『ラ?マンチャの男』の公演や、ワイルドさが評判のディスコテックや、アストン?マーチンのショールームや、オマール海老のグラタンで有名なフレンチ?レストランを目当てに二俣尾に来る人はまずいない。そこで降りる人々の格好を見ればその程度の見当はつく。
駅前には店と呼べるほどのものはなく、人気{ひとけ}もなかったが、それでもタクシーが一台だけ停まっていた。おそらく電車の到着時間にあわせてやってくるのだろう。ふかえりはその窓を小さくノックした。ドアが開き、彼女は中に入った。そして天吾にも乗るように手招きした。ドアが閉まり、ふかえりは運転手に短く行き先の指示を与え、運転手は肯いた。
タクシーに乗っていたのはそれほど長い時間ではなかったが、道筋はひどく複雑だった。険しい丘を登り、険しい坂を下り、すれ違うのに苦労する農道のような狭い道路を通った。カーブや曲がり角がやたら多かった。しかしそういうところでも運転手はあまりスピードを落とさなかったので、天吾ははらはらしながら、ドアのグリップにずっとしがみついていなくてはならなかった。それからスキー場みたいな驚くほど急勾配の斜面を登り、小さな山の頂上らしきところでタクシーはようやく停まった。タクシーというよりは遊園地の乗り物に乗っているみたいだった。天吾は財布から千円札を二枚出し、釣り銭と領収書をもらった。
その古い日本家屋の前には、ショートタイプの黒い三菱パジェロと、大きな緑色のジャガーが置かれていた。パジェロはぴかぴかに磨かれていたが、ジャガーは旧式のもので、そもそもの色がわからなくなるくらいたっぷりと白いほこりをかぶっていた。フロントグラスも汚れっぱなしで、しばらく運転されていないように見える。空気ははっとするほど新鮮で、あたりには静寂が満ちていた。それにあわせて聴覚を調整しなおさなくてはならないほど深い静寂だった。空は突き抜けるように高く、太陽の光の温かみが、露出した肌にじかに優しく感じられた。ときおり聞き慣れない甲高い鳥の声が聞こえた。しかしその鳥の姿を目にすることはできない。
風格のある大きな屋敷だった。建てられたのはかなり昔のようだが、よく手入れされていた。庭木も美しく刈り込まれている。あまりにも丁寧に刈り揃えられているせいで、いくつかの樹木はプラスチックの造り物みたいにさえ見えた。大きな松の木が地面に広い樹影を落としていた。眺望は開けているが、見渡す限りあたりには人家はひとつも見えない。こんな不便なところにわざわざ住居をかまえるのは、よほど他人との接触を嫌う人物に違いないと天吾は推測した。
ふかえりは鍵のかかっていない玄関の戸をがらがらと開けて中に入り、天吾についてくるように合図した。二人を出迎えるものは誰もなかった。いやに広々とした静かな玄関で靴を脱ぎ、磨き上げられたひやりとした廊下を歩いて応接室に入った。応接室の窓からは山の連なりがパノラマとなって見えた。陽光を反射しながら蛇行する川も目にできた。素晴らしい眺めだったが、その眺めを楽しむ気持ちのゆとりは天吾にはなかった。ふかえりは天吾を大きなソファに座らせてから、何も言わず部屋を出ていった。ソファには古い時代の匂いがした。どれくらい古い時代なのか、天吾には見当がつかない。
おそろしく飾り気のない応接室だった。分厚い一枚板でつくられた低いテーブルの上には、まったく何も置かれていない。灰皿もなく、テーブル?クロスもない。壁には絵も掛けられていない。時計やカレンダーもない。花瓶のひとつもない。サイドボードのようなものもない。雑誌も本も置いてない。色槌せて、柄も見分けられなくなったような時代物の絨毯{じゅうたん}が敷かれ、同じくらい古いソファ?セットが置いてあるだけだ。天吾の座っているいかだみたいに大きなソファがひとつと、一人がけの椅子が三つ。大きな開放型の暖炉があるが、最近そこに火が入れられた形跡はない。四月も半ばだというのに、部屋は冷え冷えしていた。冬のあいだに浸み込んだ冷たさがまだ居座っているようだ。その部屋がそこを訪れる誰をも歓待するまいと堅く心を決めてから、ずいぶん長い歳月が経過したように見えた。ふかえりが戻ってきて、やはり何も言わず天吾の隣りに腰を下ろした。
長いあいだ二人はどちらも口をきかなかった。ふかえりは自分ひとりの謎めいた世界にこもり、天吾は静かに深呼吸をしながら気持ちを落ち着けていた。時折遠くに聞こえる鳥の声を別にすれば、部屋の中はどこまでも<傍点>しん傍点>としていた。耳を澄ませると、その静寂にはいくつかの意味あいが含まれているように天吾には感じられた。ただ物音ひとつしないというだけではない。沈黙自体が自らについて何かを語っているようだった。天吾は意味もなく腕時計に目をやった。顔を上げて窓の外の風景に目をやり、それからまた腕時計を眺めた。時間はほとんど経過していなかった。日曜日の朝は時間がゆっくりとしか進まないのだ。
十分ばかりしてから、予告もなく唐突にドアが開き、一人の痩せた男がせわしない足取りで応接室に入ってきた。年齢はおそらく六十代半ばだろう。身長は一六〇センチほどだが、姿勢が良いせいで、貧相な感じはない。鉄の柱でも入れたみたいに背筋がまっすぐ伸びて、顎がぐいと後ろに引かれている。眉毛が豊かで、人を脅すためにつくられたような、太い真っ黒な縁の眼鏡をかけている。その人物の動きには、すべての部分が圧縮されてコンパクトに作られた精妙な機械を思わせるものがあった。余分なところが一切なく、あらゆる部位が有効にかみ合っている。天吾は立ち上がってあいさつしようとしたが、相手はそのまま座っているようにと手で素速く合図した。天吾がその指示に従って浮かせかけた腰を下ろすと、相手もそれと競争するように向かいの一人がけのソファにそそくさと座った。それからしばらくのあいだ、男は何も言わず天吾の顔をただ見つめた。鋭い眼光というのではないが、隅々まで怠りなく見通す目だった。目はときどき細くなり、また大きくなった。写真家がレンズの絞りを調整するときのように。
男は白いシャツの上に深緑色のセーターを着て、濃いグレーのウールのズボンをはいていた。どれも十年くらいは日常的に身につけられてきた衣服のように見えた。身体によく馴染んではいるが、いささかくたびれている。おそらく着るものにあまり気を配らない人なのだろう。またおそらく、かわりに気を配ってくれる人もまわりにはいないのだろう。髪は薄くなって、おかげで前後に長い頭のかたちがより強調されていた。頬は削げ、顎の骨が角形にはっている。ふっくらとした子供のように小さな唇だけが、全体の印象に今ひとつ馴染んでいない。ところどころで髭が剃り残されていた。しかし光の加減でただそう見えるだけかもしれない。窓から入ってくる山地の陽光は、天吾が普段見慣れている陽光とは成り立ちがいくぶん違っているみたいだ。
「こんな遠方まで足を運ばせてしまって申し訳ありませんでした」、その男のしゃべり方には独特のめりはりがあった。不特定多数の前で話をすることを長く習慣としてきた人のしゃべり方だ。それもおそらくは論理だった話を。「事情があってここを離れることがなかなかかなわないので、わざわざお越しいただくしかなかった」
そんなことはちっともかまわないと天吾は言った。そして名前を名乗った。名刺を持ち合わせていないことを詫びた。
「私はエビスノというものです」と相手は言った。「私も名刺を持ってない」
「エビスノさん」と天吾は聞き返した。
「みんなは先生と呼んでいる。実の娘でさえなぜか私のことを先生と呼ぶ」
「どんな字を書くのでしょう?」
「珍しい名前だ。たまにしか見かけない。エリ、字を書いてさしあげなさい」
ふかえりは肯いて、手帳のようなものを取り出し、ボールペンを使って白紙のページにゆっくり時間をかけて「戎野」と書いた。釘を使ってレンガに刻んだような字だった。それなりの味わいがあると言えなくもない。
「英語でいえば甑①包Ohω鋤く90qΦωだ。私は昔は文化人類学をやっていたが、その学問にはいかにもふさわしい名前だった」と先生は言った。そしていくらか笑みに似たものを口もとに浮かべた。それでも目の怠りなさは少しも変わらない。「しかしずいぶん前に研究生活とは縁を切った。今ではそれとは関係ないことをやっている。違う種類のfield of savagesに移って生きている」
たしかに珍しい名前だったが、天吾はその名前に聞き覚えがあった。一九六〇年代の後半に、たしかエビスノという名前の有名な学者がいた。何冊か本を出し、それは当時かなり評判にもなった。それがどんな内容の本だったか詳しいことは知らないが、名前だけは記憶の隅に残っている。しかしいつの間にか名前を聞かないようになってしまった。
「お名前をお聞きしたことはあると思います」と天吾は探りを入れるように言った。
「そうかもしれない」、先生はここにはいない他人のことを話すときのように、遠くを眺めながら言った。「いずれにせよ、大昔のことだ」
天吾は隣りに座っているふかえりの静かな息づかいを感じることができた。ゆっくりとした深い呼吸だった。
「川奈{かわな}天吾くん」と先生は名札を読み上げるみたいに言った。
「そうです」と天吾は言った。
「君は大学で数学を専攻し、今は代々木の予備校で数学の講師をしている」と先生は言った。
「しかしその一方で小説を書いている。そういう話をとりあえずエリから聞いているが、それでよろしいかな?」
「そのとおりです」と天吾は言った。
「数学の教師にも見えないし、小説家にも見えないね」
天吾は苦笑して言った。「ついこのあいだも、誰かに同じことを言われたばかりです。きっと図体のせいでしょう」
「悪い意味で言ったんじゃない」と先生は言った。そして黒い眼鏡のブリッジに指をやった。
「何かに見えないというのは決して悪いことじゃない。つまりまだ枠にはまっていないということだからね」
「そう言っていただくのは光栄ですが、僕はまだ小説家にはなっていません。小説を書こうと試みているだけです」
「試みている」
「つまりいろいろ試行錯誤をしているということです」
「なるほど」と先生は言った。そして部屋の冷ややかさに初めて気づいたように両手を軽くこすりあわせた。「そして私が聞き知ったところによれば、エリが書いた小説に君が手を入れて、より完成された作品にし、文芸誌の新人賞をとらせようとしている。この子を作家として世間に売り出そうとしている。そういう解釈でよろしいかな?」
天吾は慎重に言葉を選んだ。「基本的にはおっしゃるとおりです。小松という編集者が立案しました。そんな計画が実際にうまく運ぶものかどうか、僕にはわかりません。それが道義的に正しいことなのかどうかも。この話の中で僕が関わっているのは、『空気さなぎ』という作品の文章を実際に書き直すという部分だけです。いわばただの技術者です。あとの部分についてはその小松という人物が責任を持っています」
先生はしばらく集中して何かを考えていた。静まりかえった部屋の中では、彼の頭が回転している音が聞こえそうだった。それから先生は言った。「その小松という編集者がこの計画を考えつき、君が技術的な側面からそれに協力している」
「そのとおりです」
「私はもともとが学者であって、正直なところ小説の類はあまり熱心には読まない。だから小説の世界のしきたりはよくわからないんだが、君たちのやろうとしていることは、私には一種の詐欺行為のように聞こえてならない。私が間違っているのだろうか?」
「いいえ、間違ってはいません。僕にもそのように聞こえます」と天吾は言った。
先生は軽く顔をしかめた。「しかし君はその計画に倫理上の疑義を呈しながら、なおかつそれに進んで関わろうとしている」
「進んでというのではありませんが、関わろうとしていることは確かです」
「それはなぜだろう?」
「それは僕がこの一週間ばかり、繰り返し自分に問いかけてきた疑問です」と天吾は正直に言った。
先生とふかえりは黙って天吾の話の続きを待っていた。
天吾は言った。「僕の持ち合わせている理性も常識も本能も、こんなことからは一刻も早く手を引いた方がいいと訴えています。僕はもともと慎重で常識的な人間です。賭け事や冒険を好みません。どちらかといえば臆病なくらいでしょう。でも今回に限っていえば、小松さんが持ち込んできたこの危なっかしい話に、どうしてもノーと言うことができないんです。その理由はただひとつ、『空気さなぎ』という作品に強く心を惹かれているからです。ほかの作品だったら、一も二もなくそんな話は断っています」
先生はしばらく天吾の顔を珍しそうに見ていた。「つまり君は計画の詐欺的な部分には興味は持たないが、作品を書き直すことには深い興味を持っている。そういうことかな?」
「そのとおりです。<傍点>深い興味傍点>という以上のものです。『空気さなぎ』がもし書き直されなくてはならないのだとしたら、僕としてはその作業をほかの人間の手に委ねたくはありません」
「なるほど」と先生は言った。そして何か酸っぱいものを間違えて口に含んだような顔をした。
「なるほど。君の気持ちはおおむね理解できたような気がする。それでは小松という人物の目的はなんだろう? 金か、それとも名声か?」
「小松さんの気持ちは正直言って、僕にもよくわかりません」と天吾は言った。「でも金銭や名声よりは、もっと大きいものが彼の動機になっているんじゃないかという気がします」
「たとえば?」
「本人はおそらくそんなことは認めないでしょうが、小松さんも文学に懸かれた人間の一人です。そういう人たちの求めていることは、ただひとつです。一生のうちにたったひとつでもいいから間違いのない本物を見つけることです。それを盆に乗せて世間に差し出すことです」
先生はしばらく天吾の顔を眺めていた。それから言った。「つまり君たちにはそれぞれに違う動機がある。金銭でも名声でもない動機が」
「そういうことになると思います」
「しかし動機の性質がどうであれ、君自身が言うように、ずいぶん危なっかしい計画だ。もしどこかの段階で事実が露見したら、これは間違いなくスキャンダルになるし、世間の非難を受けるのは君たち二人だけに留まらないだろう。エリの人生は十七歳にして致命的な傷を負うことになるかもしれない。それがこの件に関して私がもっとも憂慮していることだ」
「心配なさるのは当然です」と天吾は肯いて言った。「おっしゃるとおりです」
黒々として豊かな一対の眉毛の間隔が一センチばかり縮まった。「にもかかわらず、たとえ結果的にエリを危険にさらすことになっても、君は『空気さなぎ』を自分の手で改筆したいと望んでいる」
「さっきも申し上げたように、その気持ちは理性にも常識にも手の及ばないところから出てきたものだからです。僕としてはもちろん、できるかぎりエリさんを護りたいと思います。しかし彼女に危害が及ぶようなことは決してありません、と請け合うことはできません。それは嘘になります」
「なるほど」と先生は言った。そして論旨を区切るように咳払いをひとつした。「何はともあれ、君は正直な人間らしい」
「少なくともできる限り率直になろうとしています」
先生はズボンの膝の上にある自分の両手を、見慣れないものを見るようにしばし眺めた。手の甲を眺め、ひっくり返して手のひらを眺めた。それから顔を上げて言った。「それで、小松という編集者はその計画が本当にうまく行くと考えているのかな?」
「『ものごとには必ず二つの側面がある』というのが彼の意見です」と天吾は言った。「良い面と、それほど悪くない面の二つです」
先生は笑った。「なかなかユニークな見解だ。小松という人物は楽天家なのか、自信家なのか、どちらなんだろう?」
「どちらでもありません。ただシニカルなだけです」
先生は軽く首を振った。「その人物はシニカルになると、楽天的になる。あるいは自信家になる。そういうことかな?」
「そういう傾向はあるかもしれません」
「ややこしい人間みたいだ」
「かなりややこしい人間です」と天吾は言った。「でも愚かではありません」
先生は息をゆっくりと吐いた。それからふかえりの方を向いた。「エリ、どうだ、君はこの計画についてどのように思う?」
ふかえりは空間の匿名的な一点をしばらく見つめていた。それから言った。「それでいい」
先生はふかえりの簡潔な発言に、必要な言葉を補った。「それはつまり、この人に『空気さなぎ』を書き直してもらってもかまわないということなんだね?」
「かまわない」とふかえりは言った。
「そのせいで、君は面倒な目にあうかもしれないよ」
ふかえりはそれには答えなかった。カーディガンの襟を首のところで、今まで以上に堅くぎゅっとあわせただけだった。しかしその動作は彼女の決意の揺らぎなさを端的に示していた。
「おそらくこの子が正しいのだろう」、先生はあきらめたように言った。
天吾は拳になったふかえりの小さな両手を眺めていた。
「しかしもうひとつ問題がある」と先生は天吾に言った。「君とその小松という人物は、『空気さなぎ』を世に出して、エリを小説家に仕立てようとしている。しかしこの子には読字障害の傾向がある。ディスレクシアだ。そのことは知っていたかね?」
「さっき電車の中で、だいたいのところは理解しました」
「おそらく先天的なものなんだろう。そのせいで、学校ではずっと一種の知恵遅れだと思われてきたが、実際には頭の良い子だ。深い知恵がそなわっている。しかしそれでも、彼女がディスレクシアであることは、ごく控え目に言って、君たちの考えている計画にあまり良い影響を与えないはずだ」
「その事実を知っている人間は、全部で何人くらいいるのでしょう?」
「本人を別にして、三人だ」と先生は言った。「私と娘のアザミと、それから君。ほかには誰も知らない」
「エリさんが通っていた学校の先生はそのことを知らないのですか?」
「知らない。田舎の小さな学校だ。ディスレクシアなんて言葉は聞いたこともないはずだ。それに学校に通っていたのはほんの短い期間でしかない」
「それならなんとかうまく隠すことができるかもしれません」
先生はしばらく天吾の顔を値踏みするように見ていた。
「エリはどうやら君のことを信用しているらしい」と彼は少しあとで天吾に言った。「何故かはわからないが。しかし——」
天吾は黙ってそれに続く言葉を待った。
「しかし、私はエリを信用している。だから彼女が君に作品を任せていいというのであれば、私としては認めるほかはない。ただしもし君が本当にこの計画を進めていくつもりなら、彼女に関して知っておかなくてはならない事実がいくつかある」、先生は細かい糸くずでも見つけたように、手でズボンの右膝のあたりを何度か軽く払った。「この子がどこでどのような子供時代を送ってきたか、どういう経緯によって私がエリを引き取って育てることになったか。話し始めると長くなりそうだが」
「うかがいます」と天吾は言った。
天吾の隣でふかえりが座り直した。彼女はまだカーディガンの襟を両手で持って、首のところで合わせていた。
「よかろう」と先生は言った。「話は六〇年代に戻る。エリの父親と私とは、長いあいだの親密な友だちだった。私の方が十歳ばかり年上だが、同じ大学で、同じ学部で教えていた。性格や世界観はずいぶん違っていたが、なぜか気があった。我々は二人とも晩婚で、結婚してほどなくどちらにも娘が生まれた。同じ官舎に住んでいたので、家族ぐるみで行き来もしていた。仕事もうまく捗っていた。我々は当時いわゆる『気鋭の学者』として売り出しているところだった。マスコミにもちょくちょく顔を出していた。いろんなことが面白くて仕方ない時代だった。
ところが六〇年代も終わりに近づくにつれて、世の中がだんだんきな臭くなってきた。七〇年安保に向けて学生運動の高まりがあり、大学封鎖があり、機動隊とのぶつかり合いがあり、血なまぐさい内部抗争があり、人も死んだ。そういうあれこれが面倒になって、私は大学を退職することにした。もともとアカデミズムとはそりが合わなかったが、その頃になってつくづく嫌気がさしたんだ。体制だろうが反体制だろうが、そんなことはどうでもいい。所詮は組織と組織のぶつかりあいに過ぎない。そして私は、大きいものであれ小さいものであれ、組織というものを<傍点>てん傍点>から信用しない。君は見かけからすると、そのころはまだ大学生じゃなかっただろうな」
「僕が大学に入った頃には、騒ぎはもうすっかり収まっていました」
「祭りのあとというわけだ」
「そういうところです」
先生は両手をしばらく宙に上げ、それから膝の上に下ろした。「私が大学をやめ、エリの父親もその二年後には大学を離れた。彼は当時毛沢東の革命思想を信奉しており、中国の文化大革命を支持していた。文化大革命がどれほど酷い、非人間的な側面をもっていたか、そんな情報は当時ほとんど我々の耳には入ってこなかったからね。毛沢東語録を掲げることは一部のインテリにとって、一種の知的ファッションにさえなっていた。彼は一部の学生を組織し、紅衛兵もどきの先鋭的な部隊を学内に作り上げ、大学ストライキに参加した。彼を信奉し、よその大学から彼の組織に加わるものもいた。そして彼の率いるセクトは一時けっこうな規模になった。大学側からの要請で機動隊が大学に突入し、立てこもっていた彼は学生たちと一緒に逮捕され、刑事罰に問われた。そして大学からは事実上解雇された。エリはまだ幼かったから、そのへんはたぶん何も覚えてはいないはずだ」
ふかえりは黙っていた。
「深田保{たもつ}というのが父親の名前だが、彼は大学を離れたあと、紅衛兵部隊の中核をなしていた十人ばかりの学生をひきつれて『タカシマ塾』に入った。学生たちの大半は大学から除籍されていた。とりあえずどこか行き場所が必要だった。タカシマは悪くない受け皿だった。当時これはマスコミでもちょっとした話題になった。知ってるかね?」
天吾は首を振った。「その話は知りません」
「深田の家族も行動をともにした。つまり奥さんとこのエリのことだが。一家ごとタカシマに入ったわけだ。タカシマ塾のことは知っているね?」
「おおよそのところは」と天吾は言った。[コミューンのような組織で、完全な共同生活を営み、農業で生計を立てている。酪農にも力を入れ、規模は全国的です。私有財産は一切認められず、持ち物はすべて共有になる」
「そのとおりだ。深田はそういうタカシマのシステムにユートピアを求めたということになっている」と先生はむずかしい顔をして言った。「しかし言うまでもないことだが、ユートピアなんていうものは、どこの世界にも存在しない。錬金術や永久運動がどこにもないのと同じだよ。タカシマのやっていることは、私に言わせればだが、何も考えないロボットを作り出すことだ。人の頭から、自分でものを考える回線を取り外してしまう。ジョージ?オーウェルが小説に書いたのと同じような世界だよ。しかし君もおそらく知ってのとおり、そういう脳死的な状況を進んで求める連中も、世間には少なからずいる。その方がなんといっても楽だからね。ややこしいことは何も考えなくていいし、黙って上から言われたとおりにやっていればいい。食いっぱぐれはない。その手の環境を求める人々にとっては、たしかにタカシマ塾はユートピアかもしれん。
しかし深田はそういう人間ではない。徹底して自分の頭でものを考えようとする人間だ。それを専門的職業として生きてきた男だ。だから彼がタカシマみたいなところで満足できるわけはなかった。もちろん深田だってそれくらいは最初から承知していた。大学を追われ、頭でっかちの学生たちを引き連れて、ほかに行き場所もなく、とりあえずの退避場所としてそこを選んだということだ。更にいえば彼が求めていたのは、タカシマというシステムのノウハウだった。何よりもまず、彼らは農業技術を覚えなくてはならなかった。深田も学生たちもみんな都会育ちで、農業のやり方については何ひとつ知らなかった。私がロケット工学について何ひとつ知らないというのと同じくらいにね。だからまったくの初歩から、知識や技術を実践的に身につける必要があった。流通の仕組みや、自給自足の可能性と限界、共同生活の具体的な規則なんかについても、学ぶべきところは数多くあった。二年ばかりタカシマの中で生活し、身につけられることは身につけた。その気になれば学習の早い連中だ。タカシマの長所と弱点も正確に分析した。それから深田は自分の一派を引き連れてタカシマを離れ、独立した」
「タカシマはたのしかった」とふかえりは言った。
先生は微笑んだ。「小さな子供にとってはきっと楽しいところなんだろう。でも成長してある年齢になり、自我が生まれてくると、多くの子供たちにとってタカシマでの生活は生き地獄に近いものになってくる。自分の頭でものを考えようとする自然な欲求が、上からの力で押しつぶされていくわけだからな。それは言うなれば、脳味噌の纏足のようなものだ」
「テンソク」とふかえりは尋ねた。
「昔の中国で、幼い女の子の足を小さな靴に無理矢理はめて、大きくならないようにした」と天吾は説明した。
ふかえりは何も言わず、その光景を想像していた。
先生は続けた。「深田の率いた分離派の中核はもちろん、彼と行動を共にしてきた紅衛兵もどきの元学生たちだったが、それ以外にも彼らのグループに加わりたいという人々が出てきて、分離派は雪だるま式に膨らみ、思ったより大人数になった。理想を抱いてタカシマに入ってはみたが、そのあり方に飽き足らず、失望を感じていた連中も、まわりに少なからずいたんだ。その中にはヒッピー的なコミューン生活を目指す連中もいれば、大学紛争で挫折した左翼もいれば、ありきたりの現実生活には飽き足らず、新しい精神世界を求めてタカシマに入ったというものもいた。独身者もいれば、深田のような家族連れもいた。寄り合い所帯というか、雑多な顔ぶれだ。深田が彼らのリーダーをつとめた。彼は生まれつきのリーダーだった。イスラエル人を率いるモーゼのように。頭が切れて、弁も立ち、判断力に優れている。カリスマ的な要素も具わっていた。身体も大きい。そうだな、ちょうど君くらいの体格だ。人々は当然のことのように彼をグループの中心に据え、彼の判断に従った」
先生は両手を広げて、その男の身体の大きさを示した。ふかえりはその両手の幅を眺め、それから天吾の身体を眺めた。でも何も言わなかった。
「深田と私とでは性格も見かけもまったく違っている。彼は生来の指導者で、私は生来の一匹狼だ。彼は政治的な人間で、私はどこまでも非政治的な人間だ。彼は大男で、私はちびだ。彼はハンサムで押し出しがよく、私は妙なかっこうの頭を持ったしがない学者だ。しかしそれでもなおかつ、我々は仲の良い友人同士だった。お互いを認め合い、信用していた。誇張ではなく、一生に一人の友だちだった」
深田保の率いるグループは山梨県の山中に、目的にあった過疎の村をひとつ見つけた。農業の後継者が見つからず、あとに残された老人たちだけでは畑仕事ができなくて、ほとんど廃村になりかけている村だ。そこにある耕地や家をただ同然の価格で手に入れることができた。ビニールハウスもついていた。役場も、既存の農地をそのまま引き継いで農業を続けるという条件で補助金を出した。少なくとも最初の何年かは、税金の優遇措置も受けられることになった。それに加えて、深田には個人的な資金源のようなものがあった。それがどこからやってくるどういう種類の金なのか、戎野先生にもそれはわからない。
「その資金源については深田は口が堅く、誰にも秘密を明かさなかった。でもとにかく<傍点>どこか傍点>から、深田はコミューンの立ち上げに必要とされる少なからぬ額の金を集めてきた。彼らはその資金で農機具を揃え、建築資材を購入し、準備金を蓄えた。自分たちで既存の家屋の改修をし、三十人のメンバーが生活を送れる施設を作り上げた。それが一九七四年のことだ。新生のコミューンは『さきがけ』という名前で呼ばれることになった」
さきがけ? と天吾は思った。名前には聞き覚えがある。しかしどこでそれを耳にしたのか思い出せない。記憶をたどることができない。それが彼の神経をいつになく苛立たせた。先生は話を続けた。
「新しい土地に慣れるまでの何年かは、コミューンの運営は厳しいものになるだろうと深田は覚悟していたのだが、ものごとは予想していたより順調に進んだ。天候に恵まれたということもあるし、近隣の住民が援助の手をさしのべてくれたということもある。人々はリーダーである深田の誠実な人柄に好意を持ったし、『さきがけ』の若いメンバーたちが汗を流して熱心に農業に打ち込んでいる姿を見て、すっかり感心してしまった。地元の人々がよく顔を見せて、あれこれ有益な助言を与えてくれた。そのようにして彼らは農業についての実地の知識を身につけ、土地と共に生きる方法を覚えていった。
基本的にはそれまでタカシマで学んできたノゥハウを、『さきがけ』はそのまま踏襲したわけだが、いくつかの部分で独自の工夫をした。たとえば完全な有機農法に切り替えた。防虫のための化学薬品を使わず、有機肥料だけで野菜を栽培するようにした。そして都会の富裕層を対象にして食材の通信販売を始めた。その方が単価が高くとれるからだ。いわゆるエコロジー農業の走りだった。目のつけ所がよかった。メンバーの多くは都会育ちだったから、都会の人間がどんなものを求めているかをよく知っていた。汚染のない、新鮮でうまい野菜のためなら、都会人は進んで高い金を払う。彼らは配送業者と契約を結び、流通を簡略化し、都会に迅速に食品を送る独自のシステムを作り上げた。『土のついた不揃いな野菜』を逆に売り物にしたのも彼らが走りだった」
「私は何度か深田の農場を訪れて、彼と話をした」と先生は言った。「彼は新しい環境を得て、そこで新しい可能性を試みることで、とても生き生きとして見えた。そのあたりが深田にとってはいちばん平穏で希望に満ちた時代だったかもしれない。家族も新しい生活に馴染んだように見えた。『さきがけ』農場の評判を耳にし、そこに加わりたいと希望してやってくる人々も増えてきた。通販を通じて、その名前は徐々に世間に知られていったし、コミューンの成功例としてメディアに取り上げられもした。金銭や情報に追いまくられる現実の世界を逃れ、自然の中で額に汗して働きたいという人間が世間には少なからずいたし、『さきがけ』はそういう層を引き寄せていった。希望者がやってくれば面接をして審査をし、役に立ちそうであればメンバーに加えた。来るものは誰でも受け入れたわけじゃない。メンバーの質とモラルは高く保たれなくてはならなかった。農業技術を身につけた人や、厳しい肉体労働に耐えられる健康な人々が求められた。男女の比率を半々に近づけたいということもあり、女性も歓迎された。人が増えれば、農場の規模は大きくなっていくわけだが、余っている耕地や家屋は近辺にまだいくつもあったから、施設を拡大していくのはさしてむずかしいことではなかった。農場の構成員も最初のうちは若い独身者が中心だったが、家族連れで加わる人々も徐々に増えていった。新しく参画した中には、高等教育を受けて専門職についていた人たちもいた。たとえば医師やエンジニアや教師や会計士といったような。そういう人々は共同体に歓迎された。専門技術が役に立つからね」
「そのコミューンではタカシマのような原始共産制的なシステムはとられたのですか?」と天吾は質問した。
先生は首を振った。「いや、深田は財産の共有制を退けた。彼は政治的には過激だったが、冷静な現実主義者でもあった。彼が指向したのはもっとゆるやかな共同体だった。アリの巣もどきの社会をこしらえることは、彼の目指すところではなかった。全体をいくつかのユニットに分割し、そのユニットの中でゆるやかな共同生活を送るという方式をとった。私有財産を認め、報酬もある程度配分された。自分の属しているユニットに不満があれば、ほかのユニットに移ることも可能だったし、『さきがけ』そのものから立ち去ることも自由だった。外部との交流も自由だったし、思想教育や洗脳のようなこともほとんど行われなかった。そういう風通しのいい自然な体制をとった方が、労働効率がより高くなることを、彼はタカシマにいるときに学んでいた」
深田の指導のもとに「さきがけ」農場の運営は順調に軌道に乗っていた。しかしやがてコミューンは二つの派にはっきり分かれるようになった。このような分裂は、深田が設定したゆるやかなユニット制がとられている限り、不可避だった。ひとつは武闘派で、深田がかつて組織した紅衛兵ユニットを核とする革命指向グループだ。彼らは農業コミューン生活を、あくまで革命の予備段階として捉えていた。農業をしながら潜伏し、時がくれば武器をとって立ち上がる——それが彼らの揺らぎのない姿勢だった。
もうひとつは穏健派で、反資本主義体制という点では武闘派と共通しているものの、政治とは距離を置き、自然の中で自給自足の共同生活を送ることを理想としていた。数としては穏健派が農場内で多数を占めていた。武闘派と穏健派は水と油のようなものだ。ふだん農作業をしているぶんには、目的はひとつだからとくに問題は起きないのだが、コミューン全体の運営方針について何かしらの決定が求められるときには、意見はいつも二つに割れた。歩み寄りの余地が見つけられないこともしばしばあった。そんなときには激しい論争が持ち上がった。こうなればコミューンの分裂は時間の問題だ。
時が経過するにつれ、中間的な存在が受け入れられる余地はどんどん狭くなっていった。やがて深田も、どちらかの立場を選ばなくてはならないところに最終的に追い込まれた。その頃には彼も、一九七〇年代の日本には革命を起こす余地も気運もないことをおおむね悟っていた。そして彼がもともと念頭に置いていたのは、可能性としての革命であり、更にいえば比喩としての、仮説としての革命だった。そのような反体制的、破壊的意思の発動が健全な社会にとって不可欠だと信じていた。いわば健全なスパイスとして。ところが彼の率いてきた学生たちが求めたのは、本物の血が流れる、実物の革命だった。むろん深田にも責任はある。時代の流れに乗って血湧き肉躍る話をして、そんなあてもない神話を学生たちの頭に植え付けたのだ。これはカッコつきの革命ですよ、とは決して言わなかった。誠実な男だったし、頭も切れた。学者としても優秀だった。しかし残念ながら、能弁すぎて自分の言葉に酔ってしまう傾向があり、深いレベルでの内省と実証に欠けるところも見受けられた。
そのようにして、「さきがけ」コミューンは二つに決別した。穏健派は「さきがけ」として最初の村落にそのまま残り、武闘派は五キロばかり離れたべつの廃村に移り、そこを革命運動の拠点とした。深田の一家はほかのすべての家族連れと同じく、「さきがけ」に留まることになった。それはおおむね友好的な分離だった。分派コミューンを立ち上げるのに必要な資金は、深田がまたどこからか都合してきたようだ。分離のあとも二つの農場は表面的な協力関係を維持した。必要な物資のやりとりもあったし、経済的な理由から生産物の流通も同じルートを利用した。小さな二つの共同体が生き延びていくには、お互いに助け合う必要があった。
しかし旧来の「さきがけ」と新しい分派コミューンとのあいだの人々の行き来は、時を経ずして事実上途絶えた。彼らの目指すところはあまりにも異なっていたからだ。ただし深田と、彼がかつて率いていた先鋭的な学生たちのあいだには、分離後も交流が続いた。深田は彼らに対して強い責任を感じていた。もともとは彼が組織化し、山梨の山中まで率いてきたメンバーなのだ。自分の都合で簡単に放り出すことはできない。それに加えて分派コミューンは、深田が握っている秘密の資金源を必要としていた。
「深田は一種の分裂状態にあったと言えるだろう」と先生は言った。「彼はもう革命の可能性やロマンスを本心から信じてはいなかった。しかし、かといってそれを全否定することもできなかった。革命を全否定することは、彼がこれまでに送ってきた歳月を全否定することであり、みんなの前で自らの誤りを認めることだった。それは彼にはできない。そうするにはプライドが高すぎたし、また自分が身を引くことによって学生たちのあいだに生じるであろう混乱を案じた。その段階では深田はまだある程度学生たちをコントロールする力を持っていたからだ。
そんなわけで彼は『さきがけ』と分派コミューンとのあいだを行き来する生活を送ることになった。深田は『さきがけ』のリーダーを務め、その一方で武闘派分派コミューンの顧問役を引き受けた。革命をもはや心から信じていない人間が、人々に革命理論を説き続けたわけだ。分派コミューンのメンバーたちは農作業の傍ら、武闘訓練と思想教育を厳しく行った。そして政治的には、深田の意思とは逆にますます先鋭化していった。そのコミューンは徹底した秘密主義をとり、部外者をまったく中に入れなくなった。公安警察は武装革命を唱える彼らを要注意団体として緩やかな監視下においた」
先生はもう一度ズボンの膝を眺めた。それから顔を上げた。
「『さきがけ』が分裂したのは一九七六年のことだ。エリが『さきがけ』から脱出し、うちにやってきたのはその翌年だった。そしてその頃から、分派コミューンは『あけぼの』という新しい名前を持つようになった」
天吾は顔を上げ、目を細めた。「ちょっと待って下さい」と彼は言った。あけぼの。その名前にもはっきり聞き覚えがある。しかし記憶はなぜかひどく漠然としてとりとめがなかった。彼が手で探りとれるのは、事実<傍点>らしきもの傍点>のいくつかのあやふやな断片だけだった。「ひょっとしてその『あけぼの』というのは、少し前に大きな事件を起こしませんでしたか?」
「そのとおりだ」と戎野先生は言った。そしてこれまでになく真剣な目を天吾に向けた。「本栖湖近くの山中で警官隊と銃撃戦を起こした、あの有名な『あけぼの』のことだよ。もちろん」
銃撃戦、と天吾は思った。そんな話を耳にした覚えがある。大きな事件だ。しかしなぜかその詳細を思い出すことができない。ものごとの前後が入り乱れている。無理に思い出そうとすると、身体全体を強くねじられるような感覚があった。まるで上半身と下半身がそれぞれ逆の方向に曲げられているみたいだ。頭の芯が鈍く疼{うず}き、まわりの空気が急速に希薄になっていった。水の中にいる時のように音がくぐもった。今にもあの「発作」が襲ってきそうだ。
「どうかしたのかね?」と先生が心配そうに尋ねた。その声はひどく遠くの方から聞こえてきた。
天吾は首を振った。そして声を絞り出した。「大丈夫です。すぐにおさまります」
第11章 青豆
肉体こそが人間にとっての神殿である
青豆ほど睾丸の蹴り方に習熟している人間は、おそらく数えるほどしかいないはずだ。蹴り方のパターンについても日々研鐙を積み、実地練習を欠かさなかった。睾丸に蹴りを入れるにあたって何よりも大事なのは、ためらいの気持ちを排除することだ。相手のいちばん手薄な部分を無慈悲に、熾烈に電撃的に攻撃する。ヒットラーがオランダとベルギーの中立国宣言を無視し躁躍することによって、防衛線{マジノ?ライン}の弱点を衝き、簡単にフランスを陥落させたのと同じことだ。躊躇してはならない。一瞬のためらいが命取りになる。
一般的に言って、それ以外に女性がより大柄で力の強い男性を、一対一で倒す方法はほとんどないと言ってもいい。それが青豆の揺らぎない信念だった。その肉体部分が、男という生き物が抱えている——あるいはぶら下げている——最大の弱点なのだ。そして多くの場合、それは有効に防御されていない。そのメリットを利用しない手はない。
睾丸を思い切り蹴り上げられる痛さがどのようなものか、女である青豆にはもちろん具体的には理解できない。推測のしようもない。しかしそれが相当な痛みであるらしいことは、蹴られた相手の反応や顔つきからおおよその想像はついた。どれほど力の強い男も、タフな男も、その苦痛には耐えられないようだった。そしてそこには自尊心の大幅な喪失が伴われているようでもあった。
「あれは、じきに世界が終わるんじゃないかというような痛みだ。ほかにうまくたとえようがない。ただの痛みとは違う」、ある男は青豆に説明を求められたとき、熟考したあとでそう言った。
青豆はその類比についてひとしきり考えを巡らせた。世界の終わり?
「じゃあ逆の言い方をすれば、じきに世界が終わるというのは、睾丸を思い切り蹴られたときのようなものなのかしら」と青豆は尋ねた。
「世界の終わりを体験したことはまだないから、正確なことは言えないけど、あるいはそうかもしれない」と相手の男は言って、漠然とした目つきで宙を睨んだ。「そこにはただ深い無力感しかないんだ。暗くて切なくて、救いがない」
青豆はそのあとたまたま『渚にて』という映画をテレビの深夜放送で見た。一九六〇年前後につくられたアメリカ映画だ。アメリカとソビエトとのあいだで全面戦争が勃発し、大量の核、、、サイルがトビウオの群れのように大陸間を盛大に飛び交い、地球があっけなく壊滅し、世界のほとんどの部分で人類が死に絶えてしまう。しかし風向きか何かのせいで、南半球のオーストラリアだけにはまだ死の灰が到達していない。とはいえそれがやってくるのは時間の問題である。人類の消滅は何をもってしても避けられない。生き残った人々はその地で、来るべき終末をなすすべもなく待っている。それぞれのやり方で人生の最後の日々を生きている。そんな筋だった。救いのない暗い映画だった(しかし、それにもかかわらず、誰もが心の奥底では世の終末の到来を待ち受けてもいるのだと、青豆はその映画を見ながらあらためて確信した)。
いずれにせよ、真夜中に一人でその映画を見ながら、青豆は「なるほど、睾丸を思い切り蹴られるというのは、こういう感じの心持ちなのか」と推測し、それなりに納得した。
青豆は体育大学を出てから四年ばかり、スポーツ?ドリンクと健康食品を製造する会社に勤め、その会社の女子ソフトボール部の中心選手(エース投手にして四番打者)として活躍した。チームはまずまずの成績をおさめ、全国大会のベスト?エイトにも何度か入った。しかし大塚環が死んだ翌月に、青豆は会社に退職願を出し、ソフトボール選手としてのキャリアに終止符を打った。それ以上ソフトボールという競技を続ける気持ちにはどうしてもなれなかったからだ。生活も思い切って一新したかった。そして大学時代の先輩の口利きがあって、広尾にあるスポーツ?クラブにインストラクターとして就職した。
スポーツ?クラブでは主に筋肉トレーニングと、マーシャル?アーツ関係のクラスを担当した。高い入会金と会費をとる、有名な高級クラブで、有名人の会員も多い。彼女は女性のための護身術のクラスをいくつか立ち上げた。それは青豆がもっとも得意とする分野だった。大柄な男性を模したキャンバス地の人形をつくり、股の部分に黒い軍手を縫いつけて睾丸のかわりにし、女性メンバーに徹底してそこを蹴る練習をさせた。リアリティーを出すために、軍手にスカッシュのボールを二個詰めることもあった。それを迅速に、無慈悲に、繰り返し蹴りあげる。多くの女性会員はその訓練をことのほか楽しんだし、技術も目に見えて向上したのだが、中にはその光景を見て眉をひそめる人々もいて(その多くはもちろん男性会員だった)、「あれはいくらなんでもやりすぎじゃないか」という苦情がクラブの上の方に持ち込まれた。その結果、青豆はマネージャーに呼ばれ、睾丸を蹴る練習は控えるようにという指示を受けた。
「しかし睾丸を蹴ることなく、女性が男たちの攻撃から身を護ることは、現実的に不可能です」と青豆はクラブのマネージャーに向かって力説した。「たいてい男の方が身体も大きいし、力が強いんです。素早い睾丸攻撃が女性にとっての唯一の勝機です。毛沢東も言っています。相手の弱点を探し出し、機先を制してそこを集中撃破する。それしかゲリラが正規軍に勝つチャンスはありません」
「君も知ってのとおり、うちは都内でも有数の高級なスポーツ?クラブだ」とマネージャーは困った顔をして言った。「メンバーの多くはセレブリティーだ。すべての局面において、我々は品位を保たなくてはならない。イメージが大事なんだ。妙齢の女性が集まって、奇声を発しながら人形の股ぐらを蹴り上げる練習をするのは、理由がどうであれいささか品位に欠ける。入会希望者が見学に来て、たまたま君のクラスの様子を目にして、それで入会をやめた例もある。毛沢東がなんと言おうが、ジンギス?カンがなんと言おうが、そういう光景は多くの男性に不安や苛立ちや不快感を与えるんだ」
男性会員に不安や苛立ちや不快感を与えることについては、青豆は毛ほども後ろめたさを感じなかった。力ずくでレイプされる側の痛みに比べたら、そんな不快感などとるに足らないものではないか。しかし上司の指示に逆らうわけにはいかない。青豆の主催する護身術のクラスは、攻撃度のレベルを大幅に落とさなくてはならなかった。人形を使うことも禁止された。おかげで練習内容はかなり生ぬるい、形式的なものに変わってしまった。青豆としてはもちろん面白くなかったし、メンバーからも不満の声があがったが、雇用されている身としてはいかんともしがたい。
青豆に言わせれば、もし男が力ずくで迫ってきたときに、その睾丸を効果的に蹴り上げることができなかったら、ほかになすべきことはほとんどないのだ。かかってきた相手の腕を逆にとって、それを背中でねじり上げるというような高等な技が、実戦できれいに決まるわけがない。現実と映画は違う。そんなことを試みるくらいなら、何もしないでただ走って逃げた方がまだましだ。
いずれにせよ青豆は睾丸の攻撃方法を十種類くらいは心得ていた。後輩の男の子に防具をつけさせて実際に試してもみた。「青豆さんのタマ蹴りは、防具をつけててもかなり痛いっす。もう勘弁してください」と彼らは悲鳴をあげた。もし必要があれば、その洗練された技能を実践に移すことにまったく躊躇はない。私を襲ってくるような無謀なやつらがいたら、そのときは世界の終わりをまざまざと見せてやる、と彼女は決意していた。王国の到来をしっかりと直視させてやる。まっすぐ南半球に送り込んで、カンガルーやらワラビーと一緒に、死の灰をたっぷりとあびせかけてやる。
王国の到来について思いを巡らせながら、青豆はバーのカウンターでトム?コリンズを小さく一口ずつ飲んでいた。待ち合わせをしているふりをし、ときどき腕時計に目をやったが、実際に誰かがやってくるあてはない。彼女はそこにやってくる客の中から適当な男を物色しているだけだ。時計は八時半をまわっている。彼女はカルヴァン?クラインの鳶色のジャケットの下に、淡いブルーのブラウスを着て、紺のミニスカートをはいていた。今日も特製アイスピックは持っていない。それは洋服ダンスの抽斗で、タオルにくるまれて平和に休んでいる。
そのバーは六本木にあり、シングルズ?バーとして知られていた。多くの独り者の男が、独り者の女を求めてやってくることで——あるいはその逆のことで——有名だった。外国人も多い。ヘミングウェイがバハマあたりでたむろしていた酒場をイメージした内装がほどこされている。カジキが壁に飾られ、天井には漁網が吊り下げられている。人々が巨大な魚を釣り上げている記念写真がいくつもかかっていた。ヘミングウェイの肖像画もある。陽気なパパ?ヘミングウェイ。その作家が晩年アルコール中毒に苦しみ猟銃自殺したことは、ここにやってくる人々にはとくに気にならないようだった。
その夜も何人かの男が声をかけてきたが、どれも青豆の気には入らなかった。いかにも遊び人という感じの大学生の二人組が誘いをかけてきたが、面倒なので返事もしなかった。目つきの悪い三十前後のサラリーマンは「人と待ち合わせをしているから」と言ってすげなく断った。若い男たちはだいたいにおいて青豆の好みではない。彼らは鼻息が荒く、自信だけはたっぷりだが、話題が乏しく、話がつまらない。そしてベッドの中ではがつがつとして、セックスの本当の楽しみ方を知らない。ちょっとくたびれかけて、できれば少し髪が薄くなっているくらいの中年男が彼女の好みだ。それでいて下品なところがなく、清潔なのがいい。それに頭のかたちだって良くなくては。しかしそういう男は簡単には見つからない。だからどうしても妥協というスペースが必要になる。
青豆は店内を見まわしながら、無音のため息をついた。どうして世の中には「適当な男」というのがろくすっぽ見当たらないのだろう。彼女はショーン?コネリーのことを考えた。彼の頭のかたちを思い浮かべただけで、身体の奥が鈍く痙いた。もしここにショーン?コネリーがひょっこり現れたら、私はどんなことをしてでも自分のものにしちゃうんだけどな。しかし言うまでもないことだが、ショーン?コネリーが六本木のバハマもどきのシングルズ?バーに顔を見せるわけはない。
店内の壁に設置された大型テレビには、クイーンの映像が流されていた。青豆はクイーンの音楽があまり好きではない。だからなるべくそちらに目を向けないようにしていた。スピーカーから流れてくる音楽もできるだけ聴かないように努めていた。ようやくクイーンが終わると、今度はアバの映像になった。やれやれ、と青豆は思った。ひどい夜になりそうな予感がした。
青豆は勤務しているスポーツ?クラブで「柳屋敷」の老婦人と知り合った。彼女は青豆の主催する護身術クラスに入っていた。例の短命に終わってしまった、人形攻撃を中心とするラディカルなクラスだ。小柄で、クラスの中では最も高齢だったが、彼女の身の動きは軽く、蹴りも鋭かった。この人はいざとなれば躊躇なく相手の睾丸を蹴り上げることができるだろうと青豆は思った。余計なことは口にせず、回り道もしない。青豆はその女性のそういうところが気に入った。「私くらいの歳になれば、とくに護身をする必要もないわけですが」、彼女はクラスの終わったあとで青豆にそう言って、上品に微笑んだ。
「歳の問題ではありません」、青豆はきっぱりと言った。「これは生き方そのものの問題です。常に真剣に自分の身を護る姿勢が大事なのです。攻撃を受けることにただ甘んじていては、どこにもいけません。慢性的な無力感は人を蝕{むしば}み損ないます」
老婦人はしばらく何も言わず、青豆の目を見ていた。青豆が口にしたことの何かが、あるいはその口調が、どうやら彼女に強い印象を与えたようだった。それから静かに肯いた。「あなたの言うことは正しい。実にそのとおりです。あなたはしっかりした考え方をしている」
数日後に青豆は、一通の封筒を受け取った。その封筒はクラブの受付に言付けられていた。中に短い手紙が入っており、美しい筆跡で老婦人の名前と電話番号が書かれていた。お忙しいだろうが、手のあいたときに連絡をいただければありがたいとあった。
電話には秘書らしい男が出た。青豆が名前を告げると、何も言わずに内線に切り替えた。老婦人が電話口に出て、わざわざ電話をかけてきてくれてありがとう。もし迷惑でなかったら、どこかで食事をご一緒できればと思っています。個人的にゆっくりお話をしたいことがあるので、と言った。喜んでご一緒します、と青豆は言った。それでは明日の夜はいかがでしょう、と老婦人は尋ねた。青豆には異論はなかった。ただ自分なんかを相手にどんな話があるのだろう、と不思議に思っただけだ。
二人は麻布の閑静な地域にあるフランス料理店で夕食をともにした。老婦人はその店の古くからの客らしく、奥の上席に通され、顔見知りらしい初老のウェイターに丁寧な給仕を受けた。彼女はカットの美しい薄緑色の無地のワンピースを着て(六〇年代のジヴァンシーのように見える)、弱翠のネックレスをつけていた。途中で支配人が出てきて恭しく挨拶をした。メニューには野菜料理が多く、味も上品で淡泊だった。その日の特製スープは、偶然にも青豆のスープだった。老婦人はグラスに一杯だけシャブリを飲み、青豆もそれにつきあった。料理と同じくらい上品で淡麗な味のワインだった。青豆はメインに白身の魚のグリルをとった。老婦人は野菜だけの料理をとった。彼女の野菜の食べ方は芸術品のように美しかった。私くらいの年になると、ほんの少し食べるだけで生きていけるの、と彼女は言った。それから「できることなら上等なものだけをね」と半分冗談のように付け加えた。
老婦人は青豆に個人的なトレーニングを求めていた。週に二日か三日、自宅でマーシャル?アーツを教授してもらえないだろうか。できれば筋肉のストレッチングもしてもらいたい。
「もちろんそれは可能です」と青豆は言った。「個人出張トレーニングとして、ジムのフロントをいちおう通していただくことになりますが」
「けっこうです」と老婦人は言った。「ただし、スケジュールの調整はあなたとじかに話しあって決めるようにしましょう。あいだに人が入ってやりとりが面倒になるのは避けたいのです。それでかまわないかしら?」
「かまいません」
「それでは来週から始めましょう」と老婦人は言った。
それだけで用件は終わった。
老婦人は言った。「このあいだジムでお話ししたとき、あなたが口にしたことに感心させられました。無力感についての話です。無力感がどれほど人を損なうかということ。覚えていますか?」
青豆は肯いた。「覚えています」
「ひとつ質問をしてよろしいかしら?」と老婦人は言った。「時間を節約するために率直な質問になると思うけど」
「何でも訊いて下さい」と青豆は言った。
「あなたはフェミニストかレズビアンですか?」
青豆は顔を少し赤くして、それから首を振った。「違うと思います。私の考え方はあくまで個人的なものです。フェミニストでもレズビアンでもありません」
「けっこうです」と老婦人は言った。そして彼女は安心したようにとても上品にブロッコリを口に運び、とても上品に咀噌し、ワインをほんの一口飲んだ。それから言った。
「あなたが仮にフェミニストやレズビアンであったとしても、私としてはちっともかまいません。そのことは何の影響も及ぼしません。しかしあえて言うなら、そうではない方がむしろ、話の筋がすっきりします。私の言いたいことはわかりますか」
「わかると思います」と青豆は言った。
週に二回、青豆は老婦人の屋敷に行って、そこでマーシャル?アーツを彼女に指導した。老婦人の娘がまだ小さい頃に、バレエのレッスンのために作った鏡張りの広い練習場があり、二人はそこで身体を綿密に順序よく動かした。彼女はその年齢にしては身体も柔らかく、上達も早かった。小柄ではあるが、長年にわたって念入りに気を配られ、手入れをされた身体だ。そのほかに青豆はストレッチングの基本を教え、筋肉をほぐすためのマッサージをおこなった。
青豆は筋肉マッサージが得意だった。体育大学では誰よりもその分野での成績がよかった。彼女は人間の身体のあらゆる骨と、あらゆる筋肉の名前を頭に刻み込んでいた。ひとつひとつの筋肉の役割や性質、その鍛え方や維持法を心得ていた。肉体こそが人間にとっての神殿であり、たとえそこに何を祀{まつ}るにせよ、それは少しでも強靭であり、美しく清潔であるべきだというのが青豆の揺らぎなき信念だった。
一般的なスポーツ医学だけではあきたらず、個人的な興味から鍼の技術も身につけた。何年か中国人の先生について本格的に学習した。先生は彼女の急速な上達ぶりに感心した。これならプロとして十分やっていけると言われた。青豆は覚えが良かったし、人体の機能の細部について飽くなき探究心を持っていた。そして何よりも、彼女にはおそろしく勘の良い指先が具わっていた。ある種の人々が絶対音感を持っていたり、あるいは地下の水脈を見つける能力を持っているのと同じように、青豆の指先は身体機能を左右する微妙なポイントを瞬時に見きわめることができた。それは誰かに教わったわけではない。彼女にはただそれが自然にわかるのだ。
青豆と老婦人はトレーニングやマッサージが終わったあと、二人でお茶を飲みながら時を過ごし、いろんな話をするようになった。いつもタマルが銀のトレイに茶器のセットを載せて運んできた。タマルは最初の一ヶ月ほど、青豆の前でひとことも口をきかなかったので、青豆は老婦人に向かって、あの人はひょっとして口がきけないのでしょうかと質問しなくてはならなかった。
あるとき老婦人は青豆に、これまで自分の身を護るために、その睾丸を蹴り上げる技術を実地に試したことはあるのかと尋ねた。
一度だけある、と青豆は答えた。
「うまくいった?」と老婦人は尋ねた。
「効果はありました」と青豆は用心深く、言葉少なに答えた。
「うちのタマルにはその睾丸蹴りは通用すると思う?」
青豆は首を振った。「おそらく駄目でしょう。タマルさんはそのへんのことは承知しています。心得のある人に動きを読まれたら、なすすべはありません。睾丸蹴りが通用するのは、実戦慣れしていない素人に対してだけです」
「つまりあなたにはタマルが『素人』ではないとわかるのですね?」
青豆は言葉を選んだ。「そうですね。普通の人とは気配が違います」
老婦人は紅茶にクリームを入れて、スプーンでゆっくりかきまわした。
「あなたがそのとき相手にしたのは素人の男だったわけね。大きな男だった?」
青豆は肯いたが、何も言わなかった。相手は体格がよかったし、力も強そうだった。しかし傲慢で、相手が女ということで油断をしていた。女に睾丸を蹴られた経験はこれまでに一度もなく、そんなことが自分の身に起こるとは考えてもいなかった。
「その人は傷を受けたのでしょうか?」と老婦人は尋ねた。
「いいえ、傷は受けていません。しばらくのあいだ激しい苦痛を感じただけです」
老婦人はしばらく黙っていた。それから質問した。「あなたはこれまでどこかの男を攻撃したことはありますか? ただ苦痛を与えるというだけではなく、意図的に傷を負わせたことは」
「あります」と青豆は答えた。嘘をつくのは彼女の得意分野ではない。
「そのことについては話せますか?」
青豆は首を小さく振った。「申しわけありませんが、簡単に話せることではないんです」
「けっこうです。もちろん簡単に話せるようなことではないでしょう。無理に話す必要はありません」と老婦人は言った。
二人は黙ってお茶を飲んだ。それぞれに違う何ごとかを考えながら。
やがて老婦人が口を開いた。「でもいつか、話してもいいという気持ちになったら、そのときに起こったことを私に話してもらえるかしら?」
青豆は言った。「いつかお話しできるかもしれません。できないままに終わるかもしれません。正直なところ、自分でもわからないのです」
老婦人はしばらく青豆の顔を見ていた。そして言った。「興味本位で尋ねているわけではありません」
青豆は黙っていた。
「あなたは何かを内側に抱え込んで、生きているように私には見えます。何かずいぶん重いものを。最初に会ったときからそれを感じていました。あなたは決意をした強い目をしています。実のところ、私にも<傍点>そういうもの傍点>はあります。抱えている重いものごとがあります。だからわかるんです。急ぐことはありません。しかしいつかはそれを自分の外に出してしまった方がいい。私はなにより口の堅い人間ですし、いくつかの現実的な手だてももっています。うまくすればあなたのお役に立てるかもしれません」
青豆があとになってその話を老婦人に思い切って打ち明けたとき、彼女は人生の別のドアを開くことになった。
「ねえ、何を飲んでるの?」と青豆の耳元で誰かが言った。女の声だった。
青豆は我に返り、顔を上げて相手を見た。髪を五〇年代風のポニーテイルにした若い女が、隣のスツールに腰を下ろしていた。細かい花柄のワンピースを着て、小振りなグッチのショルダーバッグを肩から提げている。爪には淡いピンクのマニキュアがきれいに塗られている。太っているというのではないが、丸顔でどちらかというとぽっちゃりしていた。いかにも愛想の良さそうな顔だ。胸は大きい。
青豆はいくぶん戸惑った。女に声をかけられることは予期していなかったからだ。ここは男が女に声をかける場所なのだ。
「トム?コリンズ」と青豆は言った。
「おいしい?」
「とくに。でもそんなに強くないし、ちびちび飲める」
「どうしてトム?コリンズっていうんだろう?」
「さあ、わからないな」と青豆は言った。「最初に作った人の名前じゃないかしら。びっくりするほどの発明だとも思えないけど」
その女は手を振ってバーテンダーを呼び、私にもトム?コリンズをと言った。ほどなくトム?コリンズが運ばれてきた。
「隣りに座っていいかな?」と女は尋ねた。
「いいわよ。空いてるから」、もうとっくに座っているじゃない、と青豆は思ったが、口には出さなかった。
「誰かとここで待ち合わせをしているわけじゃないんでしょ?」とその女は尋ねた。
青豆はとくに返事はせず、黙って相手の顔を観察していた。たぶん青豆よりは三つか四つ年下だろう。
「ねえ、私は<傍点>そっち傍点>の方にはほとんど興味ないから、心配しなくていいよ」と女は小さな声で打ち明けるように言った。「もしそういうのを警戒しているのならだけど。私も男を相手にしている方がいい。あなたと同じで」
「私と同じ?」
「だって一人でここに来たのは、良さそうな男を探すためでしょ?」
「そう見える?」
相手は軽く目を細めた。「それくらいわかるよ。ここはそういうことをするための場所だもの。それにお互いプロじゃないみたいだし」
「もちろん」と青豆は言った。
「ねえ、よかったら二人でチームを組まない? 男の人って、一人でいる女より、二人連れの方が声をかけやすいみたい。私たちだって、一人よりは二人でいた方が楽だし、なんとなく安心できるでしょ。私はどっちかというと見かけは女っぽい方だし、あなたはきりっとしてボーイッシュな感じだし、組み合わせとしちゃ悪くないと思うんだ」
ボーイッシュ、と青豆は思った。誰かにそんなことを言われたのは初めてだ。
「でもチームを組むといっても、それぞれに男の好みが違うかもしれないじゃない。うまくいくかしら」
相手は軽く唇を曲げた。「そう言われれば、たしかにそうだな。好みか……。ええとそれで、あなたはどんなタイプの男が好みなの?」
「できれば中年」と青豆は言った。「若い子はそれほど好きじゃない。ちょっと禿げかけているあたりが好み」
「ふうん」と女は感心したように言った。「なるほどね、中年か。私としてはどっちかっていうと若くて元気の良い美形の子が好きで、中年男にはそれほど興味ないんだけど、まああなたがそういうのがいいって言うのなら、つきあいでちっと試してみてもいいよ。何ごともほら、経験だから。中年っていい? だからつまり、私が言ってるのはセックスのことだけど」
「人によると思う」と青豆は言った。
「もちろん」と女は言った。そして何かの学説を検証するみたいに目を細めた。「セックスを一般化することはもちろんできない。でもあえてひっくくれば?」
「悪くない。回数は無理だけど、時間はかけてくれる。急がない。うまくいけば何度もいかせてくれる」
相手はそれについて少し考えていた。「そう言われると、いくらか興味が出てきたかもしれない。一度試してみようかな」
「お好きに」と青豆は言った。
「ねえ、四人でやるセックスって試したことある? 途中で相手を換えるやつ」
「ない」
「私もないんだけど、興味ある?」
「たぶんないと思う」と青豆は言った。「うん、チームを組んでもいいんだけど、たとえ一時的にでも一緒に行動するからには、もう少しあなたのことを知っておきたいの。でないと、途中で話が合わなくなるかもしれない」
「いいよ。それはたしかに正しい意見だ。で、たとえば私のどんなことを知っておきたいの?」
「たとえば、そうだな……どんな仕事をしてるの?」
女はトム?コリンズを一口飲み、それをコースターの上に置いた。そして紙ナプキンで口を叩くように拭った。紙ナプキンについた口紅の色を点検した。
「これ、なかなかおいしいじゃない」と女は言った。「ベースはジンよね?」
「ジンとレモンジュースとソーダ」
「たしかにそんなに大した発明とは言えないけど、でも味は悪くない」
「それはよかった」
「ええとそれで、私がどんな仕事をしているのか? そいつはちっとむずかしい問題ね。正直に言っても、信じてもらえないかもしれないし」
「じゃあ私の方から言うわ」と青豆は言った。「私はスポーツ?クラブでインストラクターをしているの。主にマーシャル?アーツ。あとは筋肉ストレッチング」
「マーシャル?アーツ」と感心したように相手の女は言った。「ブルース?リーみたいなやつ?」
「<傍点>みたい傍点>なやつ」
「強い?」
「まずまず」
女はにっこり笑って、乾杯するようにグラスを持ち上げた。「じゃあ、いざとなれば無敵の二人組になれるかもね。私はこう見えて、けっこう長く合気道をやってるから。実を言うとね、私は警察官なの」
「警察官」と青豆は言った。口が軽く開かれたまま、それ以上言葉は出てこなかった。
「警視庁勤務。そうは見えないでしょ?」と相手は言った。
「たしかに」と青豆は言った。
「でもほんとにそうなの。マジに。名前はあゆみ」
「私は青豆」
「青豆。それって本名?」
青豆は重々しく肯いた。「警官っていうと、制服を着て、ピストルを持って、パトカーに乗ったり、通りをパトロールしたりするわけ?」
「私としてはそういうのがやりたくて警官になったんだけど、なかなかさせてはもらえない」とあゆみは言った。そしてボウルに盛られた塩つきプレッツェルをぽりぽりと音を立てて腐った。
「お笑いみたいな制服を着て、ミニパトに乗って、駐車違反なんかを取り締まるのが、私の今のところの主なお仕事。もちろんピストルなんか持たせちゃもらえない。トヨタ?カローラを消火栓の前に停めた一般市民に向けて、威嚇射撃をする必要もないからね。私は射撃訓練でもかなり良い成績を出しているんだけど、そんなことは誰も目にも留めない。ただ女だからというだけで、来る日も来る日も棒の先につけたチョークで、アスファルトの上に時刻とナンバーを書いて回らされてるわけ」
「ピストルというと、ベレッタのセミオートマチックを撃つわけ?」
「そう。今はみんなあれになったからね。ベレッタは私にはいささか重すぎる。たしかフルに弾丸を装填したら、一キロ近く重量があるはずだから」
「本体重量は八五〇グラム」と青豆は言った。
あゆみは腕時計の品定めをする質屋のような目で青豆を見た。「ねえ青豆さん、どうしてそんな細かいことまで知ってるわけ?」
「昔から銃器全般に興味があるの」と青豆は言った。「もちろんそんなもの実際に撃ったことはないけど」
「そうか」とあゆみは納得したように言った。「私も実はピストルを撃つのが好きだよ。ベレッタはたしかに重量はあるけど、撃った反動は旧式のものほど大きくないから、練習を積めば小柄な女性にだって無理なく扱える。でも上のやつらはそんな考え方はしない。女に拳銃なんて扱えるかって思っている。警察上層部なんて、みんな男権主義のファシストみたいなやつらなんだから。私は警棒術だってすごく成績がよかったんだよ。たいていの男には負けなかった。でも全然評価されない。言われるのはエッチなあてこすりばっかり。警棒の握り方がなかなか堂に入ってるじゃないか、もっと実地練習したかったら遠慮なく俺に言ってくれよ、とかさ。まったくあいつらの発想ときたら、一世紀半くらい遅れてるんだから」
あゆみはそう言って、バッグからヴァージニア?スリムを取り出し、慣れた手つきで一本取り出して口にくわえ、細い金のライターで火をつけた。そして煙を天井に向けてゆっくりと吐いた。
「そもそも、どうして警官になろうと思ったわけ?」と青豆は尋ねた。
「もともと警官になるつもりなんてなかったんだよ。でも普通の事務みたいな仕事はやりたくなかった。かといって専門的な技能もない。となると、選べる職種は限られてくる。それで大学四年のときに警視庁の採用試験を受けたわけ。それにうちの親戚って、なぜか警官が多いんだ。実を言うと、父親も兄貴も警察官なんだよ。叔父も一人警官をしている。警察って基本的に仲間内の社会だから、身内に警察官がいると優先して採用してくれるの」
「警察官一家」
「そういうこと。でもさ、実際に入ってみるまで警察ってのがこんなに男女差別のきつい職場だとは思わなかったな。婦人警官っていうのはね、警察の世界ではいわば二級市民みたいなものなの。交通違反の取り締まりをするとか、机の前に座って書類管理をするとか、小学校をまわって子供の安全教育をするとか、女の容疑者の身体検査をするとか、そういう面白くもなーんともない仕事しかまわってこないわけ。私よりも明らかに能力の落ちる男たちが、次々に面白そうな現場にまわされていくっていうのにさ。上の方は男女の機会均等なんて明るい建前を言ってるけど、実際にはそんなに簡単なものじゃない。せっかくの勤労意欲も失せてきちゃう。わかるでしょ?」
青豆は同意した。
「そういうのって頭にくるよ、ほんとに」
「ボーイフレンドとかはいないの?」
あゆみは顔をしかめた。そして指のあいだにはさんだ細身の煙草を、しばし睨んでいた。「女で警官になるとね、恋人を作るのが現実的にとってもむずかしくなるわけ。勤務時間が不規則だから、普通の勤め人とは時間が合わないし、それにちょっとうまく行きかけても、私が警察官をしているってわかったとたんに、普通の男ってみんなするする引いちゃうんだ。蟹が波打ち際を逃げていくみたいに。ひどい話だと思わない?」
青豆は同意の相づちを打った。
「そんなわけで、あと残された道は職場内恋愛くらいなんだけど、これがまた、見事にまともな男がいないんだ。エロい冗談しか言えないような不毛なやつらばっかし。生まれつきアタマが悪いか、出世することしか考えてないか、そのどっちか。そんなやつらが社会の安全を担っているんだ。日本の将来は明るくないよ」
「あなたは見かけも可愛いし、男の人にもてそうに見えるけど」と青豆は言った。
「まあね、もてなくはないよ。職業を打ち明けないかぎりはね。だからこういうところでは、保険会社に勤めているってことにしておくの」
「ここにはよく来るの?」
「<傍点>よく傍点>というほどじゃない。ときどき」とあゆみは言った。そして少し考えてから打ちあけるように言った。「たまにセックスしたいなあって思うんだ。率直に言えば男がほしくなる。ほら、なんとなく周期的にさ。そうするとお洒落して、ゴージャスな下着をつけて、ここに来るわけ。そして適当な相手をみつけて一晩やりまくる。それでしばらくは気持ちが落ち着く。健康な性欲が具わっているだけで、べつに色情狂とかセックス?マニアとかそういうんじゃないから、いったんぼあっと発散しちゃえばそれでいい。尾を引いたりすることはない。明くる日からまたせっせと駐車違反の路上取り締まりに励む。あなたは?」
青豆はトム?コリンズのグラスをとって静かにすすった。「まあ、だいたい同じようなところかな」
「恋人はいない?」
「そういうのはつくらないことにしているの。面倒なのは嫌だから」
「決まった男は面倒なんだ」
「まあね」
「でもときどき我慢できないくらい<傍点>やりたく傍点>なる」とあゆみは言った。
「<傍点>発散したく傍点>なる、という表現の方が好みに合っているけど」
「<傍点>豊かな一夜を持ちたく傍点>なる、というのは?」
「それも悪くない」
「いずれにせよ、一晩かぎりの、尾を引かないやつ」
青豆は肯いた。
あゆみはテーブルに頬杖をついて、それについて少し考え込んでいた。「私たちけっこう共通したところがあるかもね」
「あるかもしれない」と青豆は認めた。ただしあなたは婦人警官で、私は人を殺している。私たちは法律の内側と外側にいる。それはきっと大きな違いになることでしょうね。
「こういうことにしようよ」とあゆみは言った。「私たちは同じ損保会社に勤めている。会社の名前はヒミツ。青豆さんが先輩で、私が後輩。今日は職場でちっとばかり面白くないことがあったので、二人でうさばらしにお酒を飲みに来た。そしてわりといい気分になっている。そういうシチュエーションでいいかな?」
「それはいいけど、損害保険のことなんてほとんど何も知らないよ」
「そのへんはまかせといてちょうだい。如才なく話を作るのは、私のもっとも得意とするところだから」
「まかせる」と青豆は言った。
「ところで、私たちの真後ろのテーブルに中年っぽい二人連れがいて、さっきから物欲しそうな目であちこちを見ているんだけど」とあゆみが言った。「さりげなく振り向いて、チェックしてみてくれる」
青豆は言われたとおりさりげなく後ろを振り向いた。ひとつあいだを置いたテーブル席に、中年の男が二人座っていた。どちらもいかにも仕事を終えて一息ついているサラリーマンというふうで、スーツにネクタイを結んでいる。スーツはくたびれていないし、ネクタイの好みも悪くなかった。少なくとも不潔な感じはしない。一人はおそらく四十代後半、一人は四十前に見えた。年上の方は痩せて面長で、額の生え際が後退している。若い方には、昔は大学のラグビー部で活躍したが、最近は運動不足で肉がつき始めたという雰囲気があった。青年の顔立ちを残しつつも、顎のまわりがそろそろ分厚くなりかけている。二人はウィスキーの水割りを飲みながら談笑していたが、視線はたしかに店内をそれとなく物色していた。
あゆみがその二人組を分析した。「見たところ、こういう場所にはあまり慣れてないみたい。遊びに来たんだけど、女の子にうまく声がかけられない。それに二人ともたぶん妻帯者だね。いくぶん後ろめたそうな雰囲気もある」
青豆は相手の的確な観察眼に感心した。話をしながらいつの間にそれだけのことを読み取ったのだろう。警察官一家というだけのことはあるのかもしれない。
「青豆さん、あなたは髪が薄い方が好みなんでしょ? だったら私はがっしりした方をとる。それでかまわない?」
青豆はもう一度後ろを向いた。髪が薄い方の頭のかたちはまずまずというところだった。ショーン?コネリーからは何光年か距離があるけれど、とりあえず及第点は与えられる。なにしろクイーンとアバの音楽を続けざまに聴かされた夜だ。贅沢は言えない。
「いいよ、それで。でもどうやってあの人たちに私たちを誘わせるの?」
「悠長に夜明けまで待っているわけにはいかない。こっちから押しかけるのよ。にこやかに友好的に、かつ積極的に」とあゆみは言った。
「本気で?」
「もちろん。私が行って軽く話をつけてくるから、まかせておいて。青豆さんはここで待っててくれればいい」とあゆみは言った。トム?コリンズをひとくち勢いよく飲み、両手の手のひらをごしごしとこすった。それからグッチのショルダーバッグをいきおいよく肩にかけ、にっこりと微笑んだ。「さあ、警棒術のお時間」
第12章 天吾
あなたの王国が私たちにもたらされますように
先生はふかえりの方を向いて、「エリ、悪いけれどお茶をいれて持ってきてくれないか」と言った。
少女は立ち上がって応接室を出て行った。静かにドアが閉められた。天吾がソファの上で呼吸を整え、意識を立て直すのを、先生は何も言わずに待っていた。先生は黒縁の眼鏡を外し、それほど清潔とも見えないハンカチでレンズを拭き、かけなおした。窓の外の空を何か小さな黒いものが素速く横切っていった。鳥かもしれない。あるいは誰かの魂が世界の果てまで吹き飛ばされていったのかもしれない。
「申し訳ありません」と天吾は言った。「もう大丈夫です。なんともありません。お話を続けて下さい」
先生は肯いて話し始めた。「激しい銃撃戦の末に分派コミューン『あけぼの』が壊滅したのは一九八一年のことだ。今から三年前だ。エリがここにやってきた四年後にその事件は起こった。しかし『あけぼの』の問題はとりあえず今回のことには関係しない。
エリが私たちと一緒に暮らすようになったのは十歳のときだ。うちの玄関先に何の予告もなく現れたエリは、私がそれまでに見知っていたエリとは一変していた。もともと無口で、知らない人にはうちとけない子供ではあった。それでも小さい頃から私にはなついていて、よく話をしてくれた。しかしそのときの彼女は、誰に対しても口をきけない状態になっていた。言葉そのものを失ってしまったようだった。話しかけても、それに対して肯くか首を振るか、その程度のことしかできなかった」
先生の話し方はいくらか早口になり、声の響きもより明瞭になっていた。ふかえりが席を外しているあいだにある程度話を進めようという気配がうかがえた。
「この山の上まで辿り着くにはずいぶん苦労があったようだ。いくらかの現金と、うちの住所を書いた紙は持っていたが、なにしろずっと孤立した環境の中で育ってきたし、その上まともに口がきけないわけだからね。それでもメモを片手に交通機関を乗り継いで、ようやくうちの玄関先までやって来た。
彼女の身に何か良くないことが起こったと一目でわかった。手伝いをしてくれている女性と、アザミが二人でエリの面倒を見てくれた。数日後エリがいちおう落ち着きをみせると、私は『さきがけ』に電話をかけ、深田と話をしたいと言った。しかし深田は今電話には出られない状態にあると言われた。どんな状態なのかと尋ねても、教えてもらえなかった。それでは奥さんと話したいと言った。奥さんも電話には出られない、と言われた。結局どちらとも話はできなかった」
「エリさんをお宅に引き取っていることを、そのとき先方に言ったのですか?」
先生は首を振った。「いや、じかに深田に言うのでない限り、エリがここにいることは黙っていた方がいいような気がした。もちろんそれからも何度となく、深田に連絡を取ろうと試みた。あらゆる手段を尽くした。しかし何をしても駄目だった」
天吾は眉をひそめた。「つまりこの七年、一度も彼女の両親と連絡が取れなかったということですか?」
先生は肯いた。「七年間、まったくの音信不通だ」
「エリさんの両親は七年間、娘の行方を捜そうともしなかったのですか?」
「ああ、それはどう考えても不可解な話だ。というのは深田夫妻はエリのことを何よりも慈しみ、大事にしていたからだ。そしてエリが誰かを頼っていくとしたら、行き先は私のところしかない。彼ら夫婦はどちらも実家との縁を切っており、エリは祖父や祖母の顔も知らずに育った。エリが頼れるところといえばうちしかないんだ。そしてエリは何かあったらうちに来るように彼らに教えられていた。なのに二人からは一言の連絡もない。考えられないことだ」
天吾は尋ねた。「『さきがけ』は開放的なコミューンだとさっきおっしゃいました」
「そのとおり。『さきがけ』は開設以来、一貫して開放的なコミューンとして機能してきた。しかしエリが脱出してくる少し前から、『さきがけ』は外部との交流を閉ざす方向に徐々に向かっていた。最初にその徴候に気がついたのは、深田との連絡が滞り始めたときだ。深田は昔から筆まめな男で、私に長い手紙を寄越し、コミューン内部の出来事や、自分の心境などについてあれこれ書いてきた。それがあるときから途絶えた。手紙を出しても返事がこない。電話をかけてもなかなか取りついでもらえない。取り次いでもらえても、会話は短く制限されるようになっていた。そして深田も、まるで誰かに立ち聞きされているのを知っているような素っ気ない話し方をした」
先生は膝の上で両手を合わせた。
「私は『さきがけ』に何度か足を運んだ。エリのことで深田と話し合う必要があったし、電話も手紙も駄目となれば、あとは直接行ってみるしかない。しかし敷地の中には入れてもらえなかった。入り口で文字通りけんもほろろに追い払われた。どれだけかけあっても相手にされなかった。『さきがけ』の敷地はいつの間にか高いフェンスでまわりを囲まれており、部外者はみんな門前払いされた。
コミューンの内部でいったい何が持ち上がっているのか、外からは見当がつかなかった。武闘派の『あけぼの』が秘密主義をとるのはわかる。彼らは武力革命を目指していたし、隠さなくてはならないこともあった。しかし『さきがけ』は平和に有機農法の農業を営んでいただけだし、最初から一貫して、外部の世界に対して友好的な姿勢をとっていた。だから地元でも好感を持たれていたのだ。ところが今では、そのコミューンはまるで要塞だった。中にいる人々の態度や顔つきも一変したようだった。近隣の人々も私と同じように『さきがけ』の変化に困惑していた。そんな中で深田夫妻の身によからぬことが起こったのではないかと思うと、心配でしかたなかった。しかしその時点ではエリを引き取って大事に育てることのほか、私にできることはなかった。そのようにして七年が経過した。何ひとつ事情が明らかにならないまま」
「深田さんが生きているかどうか、それすらわからない?」と天吾は尋ねた。
先生は肯いた。「そのとおりだ。手がかりはまったくない。できるだけ悪いことは考えたくない。しかし深田から七年間にわたってひと言の連絡も届かないというのは、普通では考えられないことだ。彼らの身に何かが起こったとしか思えない」、彼はそこで声を落とした。「内部に強制的に拘束されているのかもしれない。あるいはもっとひどいことになっているのかもしれない」
「もっとひどいこと?」
「最悪の可能性も決して排除はできない、ということだよ。『さきがけ』はもう以前のような平和な農業共同体ではないんだ」
「『さきがけ』という団体が、危険な方向に進み始めたということですか?」
「私にはそのように思える。地元の人たちによれば、『さきがけ』に出入りする人の数は以前よりも遥かに増えたらしい。車が頻繁に出たり入ったりしている。東京ナンバーの車が多い。田舎には珍しい大型の高級車もしばしば見られる。コミューンの構成人員の数も急激に増えたらしい。建物や施設の数も増え、その内容も充実している。近隣の土地を安い値段で積極的に買い増し、トラクターや掘削機やコンクリート?ミキサーなんかも導入している。農業は前と同じように続けているし、それは貴重な収入源になっているはずだ。『さきがけ』ブランドの野菜はますます名を知られるようになり、自然素材を売り物にするレストランなどにも直接出荷するようになった。高級スーパーマーケットとも契約を結んだ。利益もそれなりにあがっていたはずだ。しかしそれと並行して、農業以外の<傍点>何か傍点>がそこで進行しているようだった。いくらなんでも農作物の販売だけで、そのような規模拡大のための資金がまかなえるわけはない。そして『さきがけ』の内部で何が進行しているにせよ、その徹底した秘密主義からして、世間に公にしづらいものじゃないかというのが地元の人々の抱いている印象だった」
「彼らがまた政治的な活動を始めたということですか?」と天吾は尋ねた。
「政治的な運動ではないはずだ」と先生は即座に言った。「『さきがけ』は政治とは別の軸で動いていた。だからこそ彼らはある時点で『あけぼの』を切り離さざるを得なかったんだ」
「しかしその後『さきがけ』の中で何かが起こり、エリさんはそこから脱出せざるを得なくなった」
「何かが起こったんだ」と先生は言った。「重要な意味を持つ出来事が。両親を捨てて、身ひとつで逃げ出さなくてはならなかったようなことが。しかしエリはそれについて何ひとつ語ろうとはしない」
「ショックを受けたか、心に傷を負ったかして、うまく言葉にできないということでしょうか?」
「いや、ショックを受けているとか、何かに怯えているとか、両親と離され一人ぼっちになって不安だとか、そんな雰囲気はなかった。ただ無感覚なだけだ。それでもエリはうちでの生活に支障なく馴染んでいった。むしろ拍子抜けするくらいすんなりと」
先生は応接室のドアに目をやった。それから天吾の顔に視線を戻した。
「エリの身に何があったにせよ、心を無理にこじ開けるようなことはしたくなかった。この子に必要なのはおそらく時間の経過なのだと思った。だからあえて何も質問しなかったし、無言のままでいても、気にしない風を装っていた。エリはいつもアザミと一緒だった。アザミが学校から帰ってくると、食事もそこそこに二人きりで部屋に閉じこもった。そこで二人で何をしていたのか、私は知らない。あるいは二人のあいだだけには会話のようなものが成立していたのかもしれない。しかし私はとくに詮索はしなかったし、好きにさせておいた。それに口をきかないことをべつにすれば、生活を共にする上で問題はまったくなかった。頭のいい子だし、言うこともよく聞いてくれた。アザミとは無二の親友になった。ただしその時期、エリは学校には通えなかった。ひと言もしゃべれない子供を学校にやることはできないからね」
「先生とアザミさんはそれまで二人暮らしだったのですか?」
「妻は十年ばかり前に死んだ」と先生は言った。そして少し間を置いた。「車の追突事故で、即死だった。私たち二人があとに残された。遠縁にあたる女性がこの近所に住んでいて、家事全般はこの人がやってくれている。娘たちの面倒も見てくれる。妻を亡くしたことは、私にとってもアザミにとっても厳しくつらいことだった。あまりにも突然な死に方だったし、心の準備をする余裕もなかったからね。だからエリがうちに来て一緒に暮らすようになったのは、そこに至る経緯がどうであれ嬉しいことだった。たとえ会話はなくても、彼女がいてくれるだけで私たちは不思議に安らかな気持ちになれた。そしてこの七年のあいだに、エリも少しずつではあるけれど言葉を取り戻していった。うちに来た頃に比べれば会話能力は目に見えて向上した。他の人には普通じゃない奇妙なしゃべり方に聞こえるだろう。しかし私たちからすれば格段の進歩だ」
「エリさんは今、学校に通っているのですか?」
「いや、学校には通っていない。いちおうかたちとして籍を置いているだけだ。学校生活を続けるのは現実的に無理だった。だから私や、うちに来る学生たちが暇を見つけては、個人的に勉強を教えた。とはいっても所詮は細切れなもので、系統的な教育と呼べるものではまったくない。自分では本を読むことがむずかしかったので、機会があれば声に出して読んでやるようにした。市販の朗読テープも与えた。それが彼女の与えられた教育のほぼすべてだ。しかし驚くほど聡明な子だ。自分が吸収しようと決めたものは素速く、深く有効に吸収できる。そういう力は圧倒的に優れている。しかし興味のないことにはとんと見向きもしない。その差はとても大きい」
応接室のドアはまだ開かなかった。湯を沸かし、お茶をいれるのに時間がかかっているのだろう。
「そしてエリさんはアザミさんを相手に『空気さなぎ』を物語ったわけですね?」と天吾は尋ねた。
「さっきも言ったように、エリとアザミは夜になると部屋に二人で閉じこもっていた。何をやっていたのかはわからない。それは二人だけの秘密だった。しかしどうやらあるときから、エリが物語を語ることが、二人のコミュニケーションの主要なテーマになっていたらしい。エリが語ることをアザミがメモかテープにとり、それを私の書斎にあるワードプロセッサーを使って文章にしていった。その頃からエリは徐々に感情を取り戻していったようだ。全体を膜のように被っていた無関心さが消え、顔にもわずかに表情が戻り、以前のエリに近くなってきた」
「そこから回復が始まったのですね?」
「全面的にではない。あくまで部分的にだ。しかしそのとおり。おそらくは物語を語ることによって、エリの回復が始まったのだろう」
天吾はそのことについて考えた。それから話題を変えた。
「深田夫妻の消息が途絶えていることについて、警察には相談されたのですか?」
「ああ、地元の警察に行ったよ。エリの話はせず、中にいる友人と長期間にわたって連絡が取れない、ひょっとして拘束されているのではないかという話をした。しかしその時点では彼らにも手の出しようがなかった。『さきがけ』の敷地は私有地であり、そこで犯罪行為があったという確証がない限り、警察は中に足を踏み入れることはできない。いくらかけあっても相手にしてもらえなかった。そして一九七九年を境に、内部に捜査の手を入れるのは事実上不可能になった」
先生はそのときのことを思い出すように、何度か首を振った。
「一九七九年に何かがあったのですか?」と天吾は質問した。
「その年に『さきがけ』は宗教法人の認可を受けた」
天吾はしばらくのあいだ言葉を失った。「宗教法人?」
「実に驚くべきことだ」と先生は言った。「『さきがけ』はいつの間にか宗教法人『さきがけ』になっていたんだ。山梨県知事が正式にその認可を与えた。いったん宗教法人という名前がつくと、その敷地内に警察が捜査に入るのは大変むずかしくなる。憲法で保障された信仰の自由を脅かすことになるからね。そしてどうやら『さきがけ』は法務担当者を置いて、かなり確固とした防御態勢を整えているらしかった。地方の警察では太刀打ちができない。
私も警察で宗教法人の話を聞かされて、ひどく驚いた。寝耳に水というか、最初のうちとても信じられなかったし、関係書類を見せてもらい、事実を自分の目で確認したあとでも、簡単には呑み込めなかった。深田とは古いつきあいだ。性格や人柄は承知している。私は文化人類学をやっていた関係で、宗教とのかかわりは浅くない。しかし彼は私とは違って根っから政治的人間で、理詰めで話を進める男だ。どちらかといえば宗教全般を生理的に嫌悪していた。たとえ戦略上の理由があったとしても、宗教法人の認可など受けるはずがない」
「それに宗教法人の認可を受けるのは、たやすいことではないはずです」
「必ずしもそうではない」と先生は言った。「数多くの資格審査があり、役所の煩雑な手続きをひとつひとつ通過しなくてはならないことは確かだが、裏の方から政治的な働きかけをすれば、そのような関門をクリアすることはある程度簡便になる。何がまともな宗教で、何がカルトかという線引きはもともと微妙なものだ。確たる定義はなく、解釈ひとつだ。そして解釈の余地があるところには、常に政治力や利権が介入する余地が生まれる。いったん宗教法人の認証を受ければ、税金の優遇措置も受けられるし、法的にもあつく保護される」
「ともあれ『さきがけ』はただの農業コミューンであることをやめて、宗教団体になった。それも恐ろしく閉鎖的な宗教団体になった」
「新宗教。もっと率直な言葉で言えば、カルト団体になったわけだ」
「よくわかりませんね。それだけの転換がなされるには、何か大きなきっかけがあったはずです」
先生は自分の手の甲を眺めた。手の甲にはねじくれた灰色の毛がたくさん生えていた。「そのとおり。そこには転換のための大きな契機があったに違いない。私もそれについて長いあいだ考え続けてきた。様々な可能性を考えてみた。しかしさっぱりわからない。その契機とはいったいどんなものだったのだろう? 彼らは徹底した秘密主義をとっていて、内部の事情はうかがい知れないようになっている。そして『さきがけ』の指導者であった深田の名前も、以来まったく表面に出てこなくなった」
「そして三年前に銃撃事件が起こり、『あけぼの』は壊滅した」と天吾は言った。
先生は肯いた。「『あけぼの』を事実上切り捨てた『さきがけ』は生き残り、宗教団体として確実に発展を遂げている」
「つまり、銃撃事件は『さきがけ』にさほど打撃を与えなかったということですね」
「そうだよ」と先生は言った。「それどころか、逆に宣伝になったくらいだ。頭の働く連中だ。すべてを自分たちの都合の良い方向に変えてしまう。しかしいずれにせよ、それはエリが『さきがけ』を出たあとで起こったことだ。さっきも言ったとおり、エリとは直接の関わりを持たない事件であるはずだ」
話題を換えることが要求されているようだった。
「『空気さなぎ』はお読みになりました?」と天吾は質問した。
「もちろんだ」
「どう思われました?」
「興味深い物語だ」と先生は言った。「すぐれて暗示的でもある。しかしそれが何を暗示しているのか、正直なところ私にはわからない。盲目の山羊が何を意味しているのか、リトル?ピープルとは、空気さなぎとは何を意味しているのか」
「その物語はエリさんが『さきがけ』の中で経験した、あるいは目撃した具体的な何かを示唆しているのだと思われますか?」
「あるいはそうかもしれない。しかしどこまでが現実でどこからが幻想なのか、見定めることがむずかしい。ある種の神話のようでもあるし、巧妙なアレゴリーのようにも読みとれる」
「リトル?ピープルは<傍点>本当にいる傍点>とエリさんは僕に言いました」
先生はそれを聞いて、しばらくむずかしい顔をしていた。そして言った。「つまり君は『空気さなぎ』に描かれた物語は<傍点>実際に傍点>起こったことだと考えているのか」
天吾は首を振った。「僕が言いたいのは、その物語は細部まできわめてリアルに克明に描かれているし、それが小説にとってひとつの大きな強みになっているということです」
「そして君は、君の文章なり文脈を使ってその物語をリライトすることによって、それが示唆する<傍点>何か傍点>をより明確なかたちに置き換えようとしている。そういうことかな?」
「うまくいけばということですが」
「私の専門は文化人類学だ」と先生は言った。「学者であることは既にやめたが、精神は今でも身体に染み着いている。その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない。言っていることはわかるかな?」
「わかると思います」
「おそらくそれと同じ作業を君は要求されている」
天吾は両手を膝の上で広げた。「むずかしそうです」
「しかしやってみるだけの価値はありそうだ」
「僕にその資格があるかどうかさえわかりません」
先生は天吾の顔を見た。彼の目には今では特別な光があった。
「私が知りたいのは『さきがけ』の中でエリの身に何が起こったのかということだ。そしてまた深田夫婦がどのような運命を辿ったのかということだ。この七年間、私はそれを解明しようと自分なりに努めてきたが、結局手がかりひとつ掴めなかった。そこに立ちはだかった壁は私の歯が立たぬほどぶ厚く堅固なものだった。あるいは『空気さなぎ』という物語の中に、謎を解明するための鍵が隠されているかもしれない。たとえわずかな可能性であっても、その可能性があるのなら、進んでそれに賭けたい。君にその資格があるかどうかまでは私にはわからん。しかし君は『空気さなぎ』を高く評価しているし、深くのめりこんでいる。それはひとつの資格になるかもしれない」
「イエスかノーではっきり確認しておきたいことがひとつあります」と天吾は言った。「今日ここにうかがったのはそのためです。『空気さなぎ』を書き直す許可を、僕は先生から与えられたのでしょうか?」
先生は肯いた。そして言った。「君が書き直した『空気さなぎ』を私も読んでみたい。エリも君のことをずいぶん信用しているようだ。そんな相手は君のほかにはいない。もちろんアザミと私を別にすればということだが。だからやってみるといい。作品は君に一任しよう。つまり答えはイエスだ」
いったん言葉が途切れると、沈黙はまるで決められた運命のように、その部屋に重く腰を据えた。そのときにちょうどふかえりがお茶を運んできた。二人の話が終わるのを見計らっていたみたいに。
帰り道は一人だった。ふかえりは犬を散歩させるために外に出て行った。天吾は電車のやってくる時刻にあわせてタクシーを呼んでもらい、二俣尾駅まで行った。そして立川で中央線に乗り換えた。
三鷹駅で、天吾の向かいに親子連れが座った。ござつばりとした身なりの母と娘だった。どちらの着ているものも決して高価な衣服ではないし、新しくもない。しかし清潔で、手入れが行き届いている。白いところはあくまで白く、アイロンもきれいにかけてある。娘は小学校の二年生か三年生か、そんなところだ。目の大きな、顔立ちの良い女の子だ。母親は痩せて、髪をうしろでまとめ、黒縁の眼鏡をかけ、色槌せたぶ厚い布製バッグを持っていた。バッグの中には何かがたっぷり詰まっているようだ。彼女もなかなか整った顔をしているのだが、両目の外側の脇に神経的な疲れがにじみ出ていて、それが彼女をおそらくは実際以上に老けて見せていた。まだ四月の半ばだというのに、日傘を持っていた。傘はまるで干からびた棍棒のようにぎゅっと堅く巻かれていた。
二人はシートに腰掛けたまま、終始黙り込んでいた。母親は頭の中で何かの段取りを組み立てているみたいに見えた。隣りに座った娘は手持ちぶさたで、自分の靴を見たり、床を見たり、天井の吊り広告を見たり、向かいに座っている天吾の顔をちらちら見たりしていた。どうやら彼の身体の大きさとくしゃくしゃした耳に興味を持っているらしかった。小さな子供たちはよくそういう目で天吾を見た。害のない珍しい動物でも見るみたいに。その少女は身体も頭もほとんどまったく動かさず、目だけを活発に動かして、まわりのいろんなものを観察していた。
母子は荻窪駅で電車を降りた。電車がスピードを緩めると、母親は日傘を手に、何も言わずにさっと席を立った。左手に日傘、右手に布バッグ。娘もすぐにそれに従った。素早く席を立ち、母親の後ろから電車を降りた。席を立つときに、もう一度ちらりと天吾の顔を見た。そこには何かを求めるような、何かを訴えるような、不思議な光が宿っていた。ほんの微かな光なのだが、それを見てとることが天吾にはできた。この女の子は何かの信号を発しているのだ——天吾はそう感じた。しかし言うまでもないことだが、たとえ信号を送られたとしても、天吾には何をすることもできない。事情もわからないし、関わりあう資格もない。少女は荻窪駅で母親とともに電車を降り、ドアが閉まり、天吾はそこに腰を下ろしたまま次の駅に向かった。少女が座っていた座席には、模擬試験を受けた帰りらしい中学生の三人組が座った。そして大声で賑やかに話を始めた。しかしそれでも少女の静かな残像はまだしばらくのあいだそこに残っていた。
その少女の目は、天吾に一人の少女のことを思い出させた。彼が小学校の三年生と四年生の二年間、同じクラスにいた女の子だ。彼女もさっきの少女と同じような目をしていた。その目で天吾をじっと見つめていた。そして……
その女の子の両親は「証人会」という宗教団体の信者だった。キリスト教の分派で、終末論を説き、布教活動を熱心におこない、聖書に書いてあることを字義通りに実行する。たとえば輸血は一切認めない。だからもし交通事故で重傷を負ったりしたら、生き延びる可能性はぐっと狭まる。大きな手術を受けるのもまず無理だ。そのかわり世に終末が訪れたときには、神の選民として生き残ることができる。そして至福の世界を千年間にわたって生きることができる。
その女の子もさっきの少女と同じような、大きな綺麗な目をしていた。印象的な目だ。顔立ちも良い。しかし彼女の顔にはいつも不透明な薄皮のようなものがかぶせられていた。存在の気配を消すためだ。必要がない限り、人前では口をきかなかった。感情を顔に出すこともない。薄い唇は常にまっすぐ堅く結ばれていた。
天吾が最初にその少女に関心を持ったのは、彼女が週末になると母親と一緒に布教活動をしていたからだった。「証人会」の家では、子供も歩けるようになれば、両親とともに布教活動に携わることを求められる。三歳くらいから主に母親と一緒に歩いて、家を一軒一軒まわり、「洪水の前」という小冊子を配り、「証人会」の教義を説明する。現在の世界にどれほど多くの滅びのしるしが現れているかという事実を、人々にわかりやすく説明する。彼らは神のことを「お方さま」と呼んだ。もちろん大抵の家では門前払いを食わされる。鼻先でドアをばたんと閉められる。彼らの教義はあまりにも偏狭で、一方的で、現実離れしているからだ——少なくとも世間の大部分の人の考える現実からはかけ離れている。しかしほんのたまに、まともに話を聞いてくれる人もいる。それがたとえどんな話であれ、話し相手を求めている人々が世間には存在する。そしてその中には、それもまたほんのたまにではあるけれど、集会に出席してくれる人もいる。そのような千にひとつの可能性を求めて、彼らは家から家へと玄関のベルを押してまわる。そんな努力を続け、ほんのわずかでも世界を覚醒に向かわせることが、彼らに与えられた神聖な責務なのだ。そしてその責務が厳しければ厳しいほど、敷居が高ければ高いほど、彼らに与えられる至福もより輝かしいものになる。
その少女は母親とともに布教にまわっていた。母親は「洪水の前」を詰めた布の袋を片方の手に持ち、だいたいは日傘をもう片方の手に持っていた。その数歩あとに少女が従っていた。彼女はいつものようにまっすぐ唇を結び、無表情だった。天吾は、父親に連れられてNHK受信料の集金ルートをまわりながら、何度かその少女と通りですれ違った。天吾は彼女の姿を認め、相手も天吾の姿を認めた。そのたびに少女の目の中で何かがこっそりと光ったように見えた。しかしもちろん口をきいたりすることはなかった。挨拶ひとつしなかった。天吾の父親は集金の成績を上げることに忙しかったし、少女の母親は来るべき世の終末を説いてまわることに忙しかった。少年と少女はただ日曜日の通りで、親たちに引っ張られるようにして足早にすれ違い、一瞬視線を交わすだけだった。
彼女が「証人会」信者であることはクラスの全員が知っていた。彼女は「教義上の理由」からクリスマスの行事にも参加しなかったし、神社や仏教の寺院を訪れるような遠足や修学旅行にも参加しなかった。運動会にも参加しなかったし、校歌も国歌も歌わなかった。そのような極端としか思えない行動は、クラスの中で彼女をますます孤立させていった。また彼女はお昼の給食を食べる前に、必ず特別なお祈りを唱えなくてはならなかった。それも大きな声で、誰にも聞こえるようにはっきりと唱える必要があった。当然のことながら、まわりの子供たちはそのお祈りを気味悪がった。彼女だってきっとそんなことは人前でやりたくなかったはずだ。しかし食事の前にはお祈りは唱えるものとたたき込まれていたし、ほかの信者が見ていないからといって、それを怠ることはできなかった。「お方さま」は高いところから、すべてを細かくごらんになっていたからだ。
天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。
記憶は不思議なものだ。二十年も前のことなのに、その文句をひと通り思い出せる。あなたの王国が私たちにもたらされますように。そのお祈りを耳にするたびに「それはいったいどんな王国なのだろう」と小学生の天吾は考えたものだ。そこにはNHKはあるのだろうか? きっとあるまい。NHKがなければもちろん集金もない。とすれば、その王国が一刻も早く来てくれた方がいいのかもしれない。
天吾は彼女と一度も口をきいたことはなかった。同じクラスにいても、天吾が彼女に直接話しかける機会はまったくなかったからだ。少女はいつもみんなから離れたところにぽつんと一人でいたし、必要のないかぎり誰とも口をきかなかった。わざわざ彼女のところに行って話しかけられるような雰囲気はなかった。しかし天吾は心の中では彼女に同情していた。休みの日も親に連れられて家から家へと玄関のベルを押してまわらなくてはならないという、特異な共通点もあった。布教活動と集金業務の違いこそあれ、そんな役割を押しつけられることがどれほど深く子供の心を傷つけるものか、天吾にはよくわかっていた。日曜日には子供は、子供たち同士で心ゆくまで遊ぶべきなのだ。人々を脅して集金をしたり、恐ろしい世界の終わりを宣伝してまわったりするべきではないのだ。そんなことは——もしそうする必要があるならということだが——大人たちがやればいい。
天吾は一度だけ、ちょっとした成り行きで、その少女に助けの手を差し伸べたことがあった。四年生の秋のことだ。理科の実験のときに、彼女は同じ実験テーブルにいた同級生からきつい言葉を投げかけられていた。実験の手順を間違えたからだ。どんな間違いだったかよく覚えてはいない。そのときに一人の男子が「証人会」の布教活動をしていることで彼女を揶揄{やゆ}した。家から家をまわり、馬鹿げたパンフレットを渡して回っていることで。そして彼女のことを「お方さま」と呼んだ。それはどちらかといえば珍しい出来事だった。というのは、みんなは彼女をいじめたり、からかったりするよりは、むしろ<傍点>存在しないもの傍点>として扱い、頭から無視していたからだ。しかし理科の実験のような共同作業となれば、彼女だけを除外するわけにはいかない。そのときに彼女に投げかけられた言葉は、かなり毒のあるものだった。天吾はとなりのテーブルの班にいたのだが、どうしてもそれを聞き捨てにしておけなかった。なぜかはわからない。しかしただそのままにしておくことができなかったのだ。
天吾はそちらに行って、彼女に自分の班に移って来るように言った。深く考えることなく、ためらうこともなく、ほとんど反射的にそうした。そして彼女に実験の要領をていねいに説明してやった。少女は天吾の言うことを注意深く聞き、それを理解し、もう同じ失敗はしなかった。同じクラスに二年いて、天吾が彼女と口をきいたのはそれが初めてだった(そして最後だった)。天吾は成績もよかったし、身体も大きく力も強かった。みんなに一目置かれていた。だから彼女をかばったことで天吾をからかったりするものは——少なくともその場ではということだが——ひとりもいなかった。しかし「お方さま」の肩を持ったせいで、彼のクラスの中での評価は無言のうちに目盛りひとつぶん落ちたようだった。その少女と関わることによって、汚れがいくらか伝染したと思われたのだろう。
しかし天吾はそんなことは気にもとめなかった。彼女がごく普通の女の子であることが、天吾にはよくわかっていたからだ。もし両親が「証人会」の信者でなかったとしたら、彼女はごく当たり前の女の子として育ち、みんなに受けいれられていたことだろう。きっと仲の良い友だちもできていたはずだ。でも両親が「証人会」の信者であるというだけで、学校ではまるで透明人間のような扱いを受けている。誰も彼女に話しかけようとしない。彼女を見ようとさえしない。天吾にはそれはずいぶん不公平なことに思えた。
天吾と少女はそのあととくに口をきかなかった。口をきく必要もなかったし、そんな機会もなかったからだ。しかし何かの拍子に目が合うと、彼女の顔には微かな緊張の色が浮かんだ。天吾にはそれがわかった。あるいは彼女は、天吾が理科の実験のときに自分に対して行ったことを、迷惑に感じているのかもしれない。そのまま何もせず放っておいてくれればよかったのに、と腹を立てているのかもしれない。天吾にはそのあたりはうまく判断できなかった。まだ子供だったし、相手の表情から細かい心理の動きを読みとることまではできない。
そしてあるときその少女は天吾の手を握った。よく晴れた十二月初めの午後だった。窓の外には高い空と、白いまっすぐな雲が見えた。放課後の掃除が終わったあとの教室で、天吾と彼女はたまたま二人きりになっていた。ほかには誰もいなかった。彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣りに立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた(天吾の方が十センチばかり身長が高かった)。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。その少女は長いあいだ無言のまま彼の手を握りしめていた。とても強く、一瞬も力を緩めることなく。それから彼女はさっと手を放し、スカートの裾を翻し、小走りに教室から出ていった。
天吾はわけのわからないまま、言葉を失ってしばらくそこに立ちすくんでいた。彼が最初に思ったのは、そんなところを誰かに見られなくてよかったということだった。もし誰かに見られたら、どんな騒ぎが持ち上がるか見当もつかない。彼はあたりを見まわし、まずほっとした。それから深く困惑した。
三鷹駅から荻窪駅まで向かいの席に座っていた母子も、あるいは「証人会」の信者だったのかもしれない。これからいつもの日曜日の布教活動に向かうところだったのかもしれない。膨らんだ布バッグの中には「洪水の前」のパンフレットが詰まっているようにも見えた。母親の持っていた日傘と、少女の目に浮かんだきらりとした光が、天吾に同級生の無口な少女のことを思い出させた。
いや、あの電車の中の二人は「証人会」信者なんかじゃなく、何かの習い事に行く途中のごく当たり前の母子に過ぎなかったのかもしれない。布バッグの中身はピアノの楽譜だか、お習字のセットだか、そんなものだったのかもしれない。おれはきっと、いろんなことに敏感になりすぎているんだ、と天吾は思った。そして目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。日曜日には時間が奇妙な流れ方をし、光景が不思議な歪み方をする。
家に帰り、簡単な夕食を作って食べた。考えてみれば昼食も食べていなかった。夕食のあと小松に電話しようと思った。きっと会見の結果を聞きたがっているに違いない。しかしその日は日曜日で、彼は会社には出ていない。そして天吾は小松の自宅の電話番号を知らなかった。まあいいさ、どうなったか知りたければ、向こうから電話をかけてくるだろう。
時計の針が十時をまわり、そろそろベッドに入ろうかと思っていたときに、電話のベルが鳴った。小松からだろうと推測したが、受話器をとると年上の人妻のガールフレンドの声が聞こえた。
「ねえ、あまり時間がとれないんだけど、あさっての午後にちょっとだけでもお宅に行っていいかしら」と彼女は言った。
背後でピアノ音楽が小さく聞こえた。どうやら夫はまだ帰宅していないらしい。いいよ、と天吾は言った。彼女が来れば『空気さなぎ』の改稿作業は一時中断されることになる。しかし声を聞いているうちに、自分が彼女の身体を強く求めていることに、天吾は気づいた。電話を切って台所に行き、ワイルド?ターキーをグラスに注ぎ、流し台の前に立ったままストレートで飲んだ。それからベッドに入り、本を数ページ読み、そして眠った。
天吾の長い奇妙な日曜日は、そのように終わりを告げた。
第13章 青豆
生まれながらの被害者
目が覚めたとき、かなり深刻な二日酔いの状態にあることがわかった。青豆が二日酔いになることはまずない。どれだけ飲んでも翌朝は頭がすっきりして、すぐに次の行動に移ることができる。それが自慢だった。しかし今日に限ってはなぜかこめかみが鈍く痙き、意識にうっすらと霞がかかっている。頭のまわりに、鉄の輪でじわじわと締めつけられるような感覚があった。時計の針はもう十時をまわっている。昼に近い朝の光が、針で刺すように目の奥を痛めた。前の通りを走り過ぎていくバイクのエンジン音が、拷問機械のうなりを部屋に響かせた。
何も身につけない裸で自分のベッドに寝ていたが、どうやってうちまで戻ってきたのか、まったく覚えていない。床の上には昨夜着ていた服がひととおり、乱暴に脱ぎ捨ててあった。どうやら自分でむしり取るように脱いだものらしかった。ショルダーバッグは机の上に載っている。彼女は床に散らばった着衣をまたぐようにして台所まで行き、水道の水をグラスに何杯か続けざまに飲んだ。それから浴室に行って冷たい水で顔を洗い、裸の身体を大きな鏡に映してみた。隅々までじっくりと点検したが、身体には何のあとも残っていない。彼女は安堵の息をついた。よかった。それでも激しいセックスをした翌朝のいつもの感触が、下半身にかすかに残っていた。身体の奥までひっかきまわされたような甘いだるさ。それから肛門にも微かな違和感があることに気がついた。まったくもう、と青豆は思った。そして指先でこめかみを押さえた。あいつら、そっちの方までやったのか。でも悔しいことに何も覚えていない。
どんよりと白濁した意識を抱えたまま、壁に手をついて熱いシャワーを浴びた。全身を石鹸でごしごしと洗い、昨夜の記憶を——記憶に近い名前のない何かを——身体から消し去った。性器と肛門はとりわけ丹念に洗った。髪も洗った。歯磨きペーストのミント臭に辟易しながら歯を磨き、口の中のもったりとした匂いを消した。それから寝室の床から下着やストッキングをひと揃い拾いあげ、目を背けるようにして洗濯もののかごに放り込んだ。
テーブルの上のショルダーバッグの中身を点検してみた。財布はちゃんとそこにあった。クレジット?カードも銀行のカードも揃っている。財布の中の金はほとんど減っていない。彼女が昨夜支払った現金は、どうやら帰りのタクシー代だけらしい。バッグの中からなくなっているのは用意しておいたコンドームだけだ。数えてみると四個少なくなっている。四個? 財布の中には折りたたまれたメモ用紙が入っていて、そこには都内の電話番号が書いてあった。しかし誰の電話番号なのか、皆目覚えがない。
もう一度ベッドに転がるように横になり、昨夜の成り行きについて、思い出せる限りのことを思い出した。あゆみが男たちのテーブルに行って、にこやかに話をつけ、四人で酒を飲み、みんな良い気持ちになった。あとはお決まりのコースだ。近くのシティー?ホテルに部屋を二つ予約する。青豆は取り決めどおり髪の薄い方とセックスをした。あゆみは若い大柄な方をとった。セックスはなかなか悪くなかった。二人で一緒に風呂に入って、それから長い念入りなオーラル?セックス。挿入の前にはコンドームも怠りなくつけた。
一時間ばかりあとで部屋に電話がかかってきて、これからそちらに行ってもいいかなとあゆみが言った。ちょっとまたみんなで飲もうよ。いいよ、と青豆は言った。少し後であゆみと、彼女の相手の男がやってきた。そしてルームサービスでウィスキーのボトルと氷をとり、四人でそれを飲んだ。
そのあとのことがうまく思い出せない。もう一度四人になってから、急に酔いがまわったみたいだった。ウィスキーのせいだろうか(青豆は普段はあまりウィスキーを飲まない)、あるいはいつもとは違って男と二人きりではなく、隣りに相棒がいたので、どこか油断する気持ちがあったのだろうか。そのあと相手を交換して、もう一度セックスしたような漠然とした記憶がある。私がベッドで若い方に抱かれて、あゆみは髪の薄い方とソファでやった。たしかそうだった。それから……そのあとは深い霧の中にある。何も思い出せない。まあ、それはいい。思い出せないまま忘れてしまおう。私は羽目をはずして思いきりセックスをしたのだ。それだけのことだ。この先あいつらとまた顔を合わせることもないだろうし。
でも二度目のとき、コンドームはちゃんとつけたんだろうか? それが青豆の心にかかることだった。こんなつまらないことで妊娠したり、性病をもらったりするわけにはいかない。でもたぶん大丈夫だ。私はどんなにひどく酔っぱらっていても、意識があやふやになっても、そういうところはきちんとしているから。
今日は何か仕事の予定が入っていたっけ? 仕事はない。今日は土曜日で、仕事は入れていない日だ。いや、違う。そうじゃない。午後三時に麻布の「柳屋敷」に行って、老婦人の筋肉ストレッチングをすることになっている。病院に何かの検査に行かなくてはならないから、金曜日の予定を土曜日に変更してもらえまいか、という連絡が数日前にタマルからあった。そのことをすっかり忘れていた。でも午後の三時までにはあと四時間半余裕がある。そのころまでには頭痛も消えて、意識ももっとはっきりしているはずだ。
熱いコーヒーを作って、むりやりに何杯も胃の奥に流し込んだ。それから裸にバスローブを羽織っただけのかっこうでベッドに仰向けになり、天井を眺めて午前中を過ごした。何をする気にもなれない。ただ天井を眺めているしかない。天井には面白いところはひとつもなかったが、文句は言えない。天井は人を面白がらせるためにそこについているわけではない。時計が正午を指したが、食欲はまったく起きなかった。バイクや車のエンジン音がまだ頭に響く。これほど本格的な二日酔いは初めてだ。
しかしそれでも、セックスは彼女の身体に良い影響を与えたようだった。男に抱かれ、裸の身体を見つめられ、撫で回され、舐められ、噛まれ、ペニスを挿入され、オーガズムを何度か体験したことで、身体の中にあった<傍点>わだかまり傍点>のようなものがうまくほどけていた。二日酔いはもちろんつらいが、それを補ってあまりある解放感がそこにはあった。
しかしいつまで私はこんなことを続けていくのだろう、と青豆は思った。いったいいつまでこんなことを<傍点>続けられる傍点>のだろう? 私はもうすぐ三十だ。そのうちに四十が視野に入ってくるだろう。
でもその問題についてそれ以上考えるのはやめた。またいつかべつのときにゆっくり考えよう。今のところ差し迫った期限に迫られているわけでもない。そんなことを真剣に考えるには、私は——
そこで電話のベルが鳴った。それは青豆の耳には轟音に聞こえた。トンネルを抜けていく特急列車に乗っているみたいだ。彼女はよろよろとベッドを出て、受話器をとった。壁の大きな時計は十二時半を指している。
「青豆さん?」と相手は言った。少しハスキーな女の声。あゆみだった。
「そう」と青豆は言った。
「大丈夫? ついさっきバスにひかれたみたいな声だけど」
「それに近いかもしれない」
「二日酔い?」
「うん、かなりひどいやつ」と青豆は言った。「どうしてうちの電話番号がわかったの?」
「覚えてないの? 電話番号を書いて私にくれたじゃない。また近いうちに会おうって言って。私の電話番号もそっちのお財布に入っているはずだけど」
「そうだっけ。なんにも覚えてない」
「うん。ひょっとしてそうじゃないかって気がしたんだ。だから心配で電話してみた」とあゆみは言った。「無事におうちに帰れたかなと思って。いちおう六本木の交差点からタクシーに乗っけて行き先は言ったんだけど」
青豆はため息をついた。「記憶はないけど、たどり着けたみたいね。目が覚めたらうちのベッドの中にいたから」
「よかった」
「あなたは今何をしているの?」
「仕事をしているよ、ちゃんと」とあゆみは言った。「十時からミニパトに乗って駐車違反の取り締まりをしていた。今は一休みしてるところ」
「大したものね」と青豆は感心して言った。
「さすがにちょっと寝不足だけどね。でもさ、ゆうべは楽しかったよ。あんなに盛り上がったの初めてだったな。青豆さんのおかげよね」
青豆は指でこめかみを押さえた。「実を言うと、後半部分のことをあまりよく覚えてないんだ。つまり、あなたたちがこっちの部屋に来てからのことは」
「ふうん。それはもったいないな」とあゆみは真面目な声で言った。「あれからけっこうすごかったんだよ。四人でいろんなことやってさ。嘘みたいなこと。ポルノ映画みたいなやつ。私と青豆さんも、裸でレズの真似ごともやったしさ。あとはね……」
青豆はあわてて話を遮った。「それはいいけど、コンドームはちゃんとつけてたかしら? よく覚えてないんで、それが心配だったんだ」
「もちろん。そういうところは、私がいちいち厳しく点検しておいたから大丈夫。なにしろ私は交通違反を取り締まる傍ら、区内の高校をまわって、女子生徒を講堂に集めてコンドームの正しいつけ方みたいなことを、けっこうこと細かに指導しているくらいだから」
「コンドームの付け方?」と青豆は驚いて言った。「どうしてまた警察がそんなことを高校生に教えるの?」
「もともとはデート?レイプの危険性とか、痴漢への対処とか、性犯罪の防止方法とか、学校をまわってそういう広報をするのが目的なんだけど、そのついでにというか、私個人のメッセージとして、そのへんを付け加えちゃうわけ。セックスをしちゃうのはある程度しょうがないから、妊娠と性病にだけはしっかり気をつけましょうね、みたいなこと。まあ、先生たちの手前そこまではっきりとは言わないけどね。だから、そのへんはもう職業的本能みたいになっているわけ。どれだけお酒が入っていても、決して怠りはないよ。ぜんぜん心配しなくていい。青豆さんはぴかぴかにクリーンだよ。コンドームのないところに挿入はない。それが私のモットー」
「ありがとう。それを聞いてほっとした」
「ねえ、私たちがゆうべどんなことしたか、詳しく聞きたくない?」
「また今度ね」と青豆は言った。そして肺の中にたまっていたもったりした空気を外に吐き出した。「いつかまた詳しく聞かせて。でも今はだめ。そんな話をされただけで、頭がぱっくりと二つに割れちゃいそう」
「わかった。また今度ね」とあゆみは明るい声で言った。「でもさ、青豆さん、今朝目が覚めてからずっと考えてたんだけどさ、私たちっていいチームが組めそうじゃない。また電話してかまわないかな? つまり、昨日みたいなことをしたくなったらってことだけど」
「いいよ」と青豆は言った。
「よかった」
「電話をしてくれてありがとう」
「お大事にね」とあゆみは言って電話を切った。
午後の二時には、ブラック?コーヒーとうたた寝のおかげで、意識はずっとましになっていた。ありがたいことに頭痛も消えている。微かなだるさが身体に残っているだけだ。青豆はジムバッグを持って家を出た。もちろん特製のアイスピックは入っていない。着替えとタオルが入っているだけだ。いつものようにタマルが玄関で彼女を迎えた。
青豆は細長いかたちのサンルームに通された。大きなガラス窓が庭に向かって開いているが、レースのカーテンが引かれ、外からは見えないようになっている。窓際には観葉植物が並んでいた。天井の小さなスピーカーからは穏やかなバロック音楽が流れていた。ハープシコードの伴奏のついたリコーダー?ソナタだ。部屋の中央にはマッサージ用のベッドが置かれ、その上に老婦人が既にうつぶせになっていた。彼女は白いローブを着ていた。
タマルが部屋を出て行くと、青豆は身体を動かすときのかっこうに着替えた。青豆が服を脱いでいく様子を、老婦人は台の上から首を曲げて眺めていた。青豆は裸の身体を同性に見られていてもとくに気にしない。スポーツ選手をしていればそんなことは日常茶飯事だし、老婦人だってマッサージを受けるときはほとんど裸に近いかっこうになる。そのほうが筋肉の具合を確かめやすいからだ。青豆はコットンパンツとブラウスを脱ぎ、ジャージの上下を着込んだ。それから脱いだ服を畳み、部屋の隅に重ねて置いた。
「あなたはとてもひきしまった身体をしています」と老婦人は言った。そして身体を起こしてローブをとり、薄い絹の上下だけになった。
「ありがとうございます」と青豆は言った。
「私も昔はそういう身体をしていました」
「わかります」と青豆は言った。本当にそうだろうと青豆は思った。七十代を迎えた今でも、彼女の身体には若い当時の面影がしっかりと残っていた。体型は崩れていないし、乳房にもそこそこの張りがあった。節制した食事と、日常の運動が彼女の中の自然な美しさを保っていた。そこにはまた適度な美容整形手術も加わっているはずだ、と青豆は推測する。定期的なしわ取りと、目元と口元のリフトアップ。
「今でも素敵な身体をされています」と青豆は言った。
老婦人は軽く唇を曲げた。「ありがとう。でも昔とは比べものにならない」
青豆はそれには返事をしなかった。
「その身体を私はずいぶん楽しんだし、相手もずいぶん楽しませました。私の言いたいことはわかるでしょう?」
「わかります」
「どう、あなたは楽しんでいますか?」
「ときどき」と青豆は言った。
「ときどきでは足りないかもしれない」と老婦人はうつぶせになったまま言った。「そういうことは若いあいだにしっかり楽しんでおかないといけない。心ゆくまでね。年取ってそういうことができなくなってからは、昔の記憶で身体を温めることになりますから」
青豆は昨夜のことを思い出した。彼女の肛門にはまだかすかに挿入感が残っている。そんな記憶が果たして老後の身体を温めてくれるものだろうか?
青豆は老婦人の身体に手を置き、筋肉ストレッチングを念入りに始めた。さっきまで少し残っていた身体のだるさも今では消えていた。ジャージの上下に着替え、老婦人の身体に指を触れたときから、彼女の神経は明瞭に研ぎすまされた。
青豆は地図の道筋を辿るように、老婦人の筋肉をひとつひとつ指先で確かめていった。それぞれの筋肉の張り具合や、硬さや、反発の度合いを、青豆は細かく記憶していた。ピアニストが長い曲を暗譜してしまうのと同じだ。こと身体に関しては、そういう綿密な記憶力が青豆には具わっている。仮に彼女が忘れたとしても、指先が記憶している。どこかの筋肉に少しでもいつもと違う感触があれば、彼女はそこに様々な角度から、様々な強さの刺激を与えた。そしてどんな反応が返ってくるかを確かめた。そこに生じるのが痛みなのか、快感なのか、あるいは無感覚なのか。こわばって詰まっている部分は、単にほぐすだけではなく、老婦人が自分の力でその筋肉を動かせるように指導した。もちろん自らの力だけでは解消しづらい部分もある。そういうところは念入りにストレッチする。しかし筋肉が何よりも評価し歓迎するのは、日常的な自助努力なのだ。
「ここは痛みますか?」と青豆は尋ねた。腿の付け根部分の筋肉がいつもよりずっとこわばっている。意地悪いほど硬直している。彼女は骨盤の隙間に手を入れて、太腿を特別な角度に少しだけ曲げた。
「とても」と老婦人は顔を歪めながら言った。
「けっこうです。痛みを感じるのは良いことです。痛みを感じなくなったら、まずいことになります。もう少し痛みますが、我慢できますか?」
「もちろん」と老婦人は言った。いちいち尋ねるまでもない。老婦人は我慢強い性格だった。大抵のことは黙して耐える。顔は歪めても悲鳴は上げない。彼女のマッサージを受けて、大きな強い男たちが思わず悲鳴を上げるのを、青豆はこれまで何度も見てきた。だから老婦人の意志の強さにはいつも感服しないわけにはいかなかった。
青豆は右手の肘を挺子{てこ}の支点のように固定し、老婦人の太腿を更に曲げた。ごきっという鈍い音が聞こえ、関節が移動した。老婦人が息を呑んだ。しかし声は出ない。
「これであとは大丈夫です」と青豆は言った。「楽になります」
老婦人は大きく息を吐いた。額に汗が光っていた。「ありがとう」と彼女は小さな声で言った。
たっぷり一時間かけて、青豆は老婦人の身体を徹底的にほぐし、筋肉を刺激し、引きのばし、関節を緩めた。それはかなりの痛みを伴うものだった。しかし痛みのないところに解決はない。青豆はそれを知っていたし、老婦人もそれを知っていた。だから二人はほとんど無言のまま、その一時間を過ごした。リコーダー?ソナタはいつの間にか終わり、コンパクトディスク?プレーヤーは沈黙していた。庭にやってくる鳥の声のほかには何も聞こえなかった。
「ずいぶん身体が軽くなったような気がします」としばらく経ってから老婦人が言った。彼女はぐったりとうつぶせになっていた。マッサージ用のベッドの上に敷かれた大きなバスタオルが汗で暗く染まっていた。
「よかった」と青豆は言った。
「あなたがそばにいてくれて、とても助かります。いなくなるときっとつらいでしょうね」
「大丈夫ですよ。いなくなるつもりは今のところありません」
老婦人は迷ったように、少し沈黙を挟んでから質問した。「立ち入ったことを訊くようだけど、あなたには好きな人はいるのかしら?」
「好きな人はいます」と青豆は言った。
「それはよかった」
「しかし残念ながら、その人は私のことが好きではありません」
「いささか妙な質問かもしれませんが」と老婦人は言った。「どうしてその相手はあなたのことを好きにならないのかしら? 客観的に見て、あなたはとても魅力的な若い女性だと思うのだけれど」
「その人は私が存在していることさえ知らないからです」
老婦人は青豆が言ったことについてしばらく考えをめぐらせていた。
「あなたが存在している事実を相手に伝えようという気持ちは、あなたの側にはないのですか?」
「今のところありません」と青豆は言った。
「何か事情があるのかしら? あなたが自分の方からは接近できないという」
「事情もいくらかあります。でもほとんどは私自身の気持ちの問題です」
老婦人は感心したように青豆の顔を見た。「私はこれまでいろんな風変わりな人に会ってきたけれど、あなたもそのうちの一人かもしれない」
青豆は口元をわずかに緩めた。「私にはとくに変わったところなんてありません。自分の気持ちに率直なだけです」
「一度自分で決めたルールはしっかり守る」
「そうです」
「そしていくぶん頑固で、怒りっぽい」
「そういうところもあるかもしれません」
「でも昨夜はちょっと羽目をはずしたのね?」
青豆は顔を赤らめた。「それがわかるんですか?」
「肌を見ればわかる。匂いでわかる。男のあとがまだ身体に残っている。歳をとればいろんなことがわかるようになるのよ」
青豆はほんの少し顔を歪めた。「そういうのが必要なんです。ときどき。あまりほめられたことじゃないとはわかっていますが」
老婦人は手を伸ばして、青豆の手の上にそっとかさねた。「もちろん。そういうこともたまには必要です。気にすることはありません。責めているわけではないのだから。でもあなたはもっと<傍点>普通に傍点>幸福になってもいいような気がするのです。好きな人と結ばれてハッピーエンドになるというようなことがね」
「そうなればいいと、私も思っています。しかしそれはむずかしいでしょう」
「どうして?」
青豆はそれには答えなかった。説明するのは簡単ではない。
「もし個人的なことで、誰かに相談したくなったら、私に相談して下さい」と老婦人は言って、重ねていた手を引き、フェイスタオルで顔の汗を拭いた。「どんなことでも。私にしてあげられることが何かあるかもしれませんから」
「ありがとうございます」と青豆は言った。
「ときどき羽目を外すだけでは解消しないこともあります」
「おっしゃるとおりです」
「あなたは自分を損なうようなことは何もしていない」と老婦人は言った。「何ひとつ。それはわかっていますね?」
「わかっています」と青豆は言った。そのとおりだと青豆は思う。自分を損なうようなことは何もしていない。それでも何かは静かにあとに残るのだ。ワインの瓶の底の澱{おり}のように。
大塚環{たまき}が死んだ前後のことを、青豆は今でもよく思い出す。そしてもう彼女と会って話をすることができないのだと思うと、身体を引き裂かれたような気持ちになる。環は青豆が生まれて初めてつくった親友だった。どんなことでも隠さずに打ち明けあうことができた。環の前にはそんな友だちは青豆には一人もいなかったし、彼女のあとにも一人も出てこなかった。ほかに代わりはない。もし彼女と出会わなかったら、青豆の人生は今よりも更に惨めな、更に薄暗いものになっていたはずだ。
二人は同い年で、都立高校のソフトボール部のチームメイトだった。青豆は中学校から高校にかけて、とにかくソフトボールという競技に熱意を捧げた。最初は気が進まないまま、メンバーが足りないからということで、誘われて適当にやっていたのだが、やがてそれは彼女の生き甲斐になった。彼女は強風に吹き飛ばされそうになっている人が柱にしがみつくみたいに、その競技にしがみついて生きた。彼女にはそういう何かが必要だったのだ。そして本人も気がつかなかったのだが、青豆はもともと運動選手として抜きんでた資質を持っていた。中学校でも高校でもチームの中心選手になり、彼女のおかげでチームはトーナメントを面白いように勝ち進んだ。それは青豆に自信のようなもの(正確には自信とは言えないが、それに近いもの)を与えてくれた。チームの中で自分が決して小さくない存在意義を持ち、たとえ狭い世界の中とはいえ、そこで明確なポジションが与えられたことが、青豆には何より嬉しかった。<傍点>私は誰かに求められているのだ傍点>。
青豆は投手で四番打者で、文字通り投打の中心だった。大塚環は二塁手でチームの要で、キャプテンもっとめていた。環は小柄ではあったが、優れた反射神経を持っていたし、脳味嗜の使い方を知っていた。状況を素早く、複合的に読みとることもできた。投球のたびにどちらに身体の重心を傾ければいいかを心得ていたし、打者がボールを打つと、ボールが飛んだ方向を即座に見定め、的確な位置にカバーに走った。そんなことができる内野手はなかなかいない。彼女の判断力のおかげでどれくらいピンチを救われたかわからない。青豆のような長距離打者ではないが、バッティングは鋭く確実で、足も速かった。また環はリーダーとしても優秀だった。チームを統合し、作戦を立て、有益な助言をみんなに与え、励ました。指導は厳しかったが、まわりの選手たちの信望を得ていた。おかげでチームは日を追って強くなり、東京都の大会では決勝戦まで残った。インターハイにも出た。青豆と環は関東選抜チームのメンバーにも選ばれた。
青豆と環はお互いの優れた部分を認め合い、どちらからともなく自然に親しくなり、やがては無二の親友になった。チームの遠征のときには、二人で一緒に長い時間を過ごした。二人はそれそれの生い立ちを包み隠さずに語り合った。青豆は小学校五年生のときに心を決めて両親と袂{たもと}を分かち、母方の叔父の家にやっかいになった。叔父の一家は事情を理解し、家族の一員として暖かく迎えてくれたが、それでもやはりそこは他人の家だった。彼女はひとりぼっちで、情愛に飢えていた。生きていく目的や意味をどこに求めればいいのかわからないまま、つかみどころのない日々を送っていた。環の家庭は裕福で社会的地位もあったが、両親の仲がきわめて悪かったせいで、家の中は荒廃していた。父親はほとんど帰宅せず、母親はしばしば錯乱状態に陥った。頭痛がひどく何日もベッドから起きあがれないこともあった。環と弟はほとんど捨て置かれた状態だった。二人の子供は食事の多くを近所の食堂やファーストフード店や出来合いの弁当で済ませていた。彼女たちはそれぞれに、ソフトボールに熱中しなくてはならない事情があったのだ。
問題を抱えた孤独な少女たちには、語り合うべきことが山ほどあった。夏休みには二人だけで旅行をした。そして話すべきことが一時的になくなったとき、彼女たちはホテルのベッドの中で、お互いの裸の身体を触り合った。あくまで突発的な一度きりの出来事であり、二度と繰り返されなかったし、それについて口にされることもなかった。しかしそのことがあって二人の関係はより深く、より共謀的なものになった。
高校を出て体育大学に進んでからも、青豆はソフトボールを続けた。女子ソフトボールの選手として全国的に高い評価を得ていたので、私立の体育大学から勧誘され、特別な奨学金を受けることができた。そして大学のチームでもやはり中心選手として活躍した。ソフトボールをやりながら、一方で彼女はスポーツ医学に興味を持ち、その勉強を真剣に始めた。マーシャル?アーツにも興味を持った。大学に在籍しているあいだにできるだけ多くの知識と専門技術を身につけておきたかった。のんびり遊んでいるような暇はない。
環は一流の私立大学の法学部に進んだ。高校を卒業すると、彼女はソフトボール競技とは縁を切った。成績の優秀な環にとっては、ソフトボールはただの通過点に過ぎなかった。彼女は司法試験を受けて、法律家になるつもりだった。しかし進んだ道はちがっても、二人は無二の親友であり続けた。青豆は家賃を免除された大学の学生寮に住み、環はあいかわらず荒廃した——しかし経済的な余裕を与えてくれる——自宅から通学していた。二人は週に一度は一緒に食事をし、そこでつもる話をした。どれだけ話しても話題が尽きることはなかった。
環は大学一年生の秋に処女を失った。相手はテニス同好会の一年上の先輩だった。集まりのあとで彼の部屋に誘われ、そこでほとんど無理やりに犯された。彼女は相手の男に好意を持っていないわけではなかった。だからこそ誘われるまま一人で彼の部屋に行ったわけだが、暴力的に性行為を強要されたことに、またそのときに相手が見せた身勝手で粗暴な態度に、大きなショックを受けた。それで同好会もやめてしまったし、しばらく欝状態に陥ってしまった。その出来事は環の心に深い無力感を残していったようだった。食欲もなくし、一ヶ月で六キロも痩せた。環が相手の男に求めていたのは、理解と思いやりのようなものだった。それさえ示してくれたなら、また時間をかけて準備段階を作ってくれたなら、身体を与えること自体はそれほどの問題ではなかったはずなのに。環にはどうしても理解できなかった。なのになぜあんな風に暴力的にならなくてはならなかったのか? そんな必要なんてどこにもないのに。
青豆は彼女を慰め、その男に何らかの方法で制裁を加えるべきだと忠告した。しかし環はそれには同意しなかった。私自身が不注意なところもあったし、今さらどこかに訴え出たところでどうにもならないだろうと彼女は言った。誘われるまま一人で彼の部屋に行った私にも責任がある。たぶん忘れてしまうしかないのよ、と環は言った。しかしその出来事によって親友がどれほど深く心に傷を負ったか、青豆には痛いほどよくわかった。それは処女性の喪失とか、そういう表面的な問題ではない。人の魂の神聖さの問題なのだ。そこに土足で踏み込んでくるような権利は誰にもない。そして無力感というのは、どこまでも人を蝕んでいくものなのだ。
だから青豆がかわりに個人的な制裁を加えることにした。彼女は男の住んでいるアパートの住所を環から聞き出し、製図図面を入れるプラスチックの大型筒にソフトボール用のバットを入れて、そこに行った。その日、環は親戚の法事か何かがあって金沢に行っていた。それは彼女のアリバイになるはずだ。男が部屋にいないことは前もって確かめておいた。ドライバーとハンマーを使って鍵を壊し、部屋に入った。それからバットにタオルを幾重にも巻き、なるべく音を立てないように気をつけながら、部屋の中にあるものを片端から叩き壊していった。テレビから、ライトスタンドから、時計から、レコードから、トースターから、花瓶から、壊せるものはひとつ残らず壊した。電話のコードは鋏で切断した。本は背表紙を裂いてばらばらにし、歯磨きチューブやシェービング?クリームは中身をそっくりカーペットの上にばらまいた。ベッドにはソースをかけた。抽斗の中のノートは引き裂いた。ペンと鉛筆は折った。電球はすべて叩き割った。カーテンとクッションには包丁で裂け目を入れた。タンスの中のシャツもすべて鋏で切った。下着と靴下の抽斗にはトマト?ケチャップをたっぷりかけておいた。冷蔵庫のヒューズを抜いて窓の外に捨てた。水洗便器の水槽のストッパーを外して壊した。シャワーヘッドも潰した。破壊は念入りで、隅々まで徹底していた。部屋はしばらく前に新聞の写真で見た、砲撃後のベイルートの市街地の光景に近いものになった。
環は頭の良い娘だったし(学校の成績に関しては青豆には及びもつかない)、ソフトボールの試合では隙のない、注意深いプレイヤーだった。青豆がピンチに陥ると、すぐにマウンドにやってきて、有益な助言を手短に与え、にっこり笑い、グラブで彼女のお尻をぽんと叩いて、守備位置に戻っていった。視野が広く、心が温かく、ユーモアの感覚もそなわっていた。学業においても努力家だったし、弁も立った。そのまま勉強を続けていれば優秀な法律家になれたはずだ。
ところが男たちを前にすると、彼女の判断力は見事なまでにばらばらにほどけてしまった。環はハンサムな男が好きだった。いわゆる面食いだ。そしてその傾向は、青豆の目から見れば、ほとんど病の域にまで達していた。どんなに素晴らしい人柄の男がいても、優秀な能力を持った男がいても、そして彼らが誘いをかけてきても、外見が好みに合わなければ、環はまったく心を惹かれなかった。彼女が関心を抱くのはなぜかいつも、甘い顔立ちの内容空疎な男たちだった。そして男のことになると、環はひどく頑なになり、青豆が何を言っても耳を貸さなかった。普段は青豆の意見に素直に耳を傾け、尊重するのだが、ボーイフレンドに対する批判だけは一切受け付けなかった。青豆もそのうちにあきらめて、忠告するのをやめてしまった。そんなことで言い合いをして、環との友情を損ないたくはなかった。結局のところそれは環の人生なのだ。好きなようにさせるしかない。いずれにせよ大学にいるあいだ、環は多くの男たちとつきあい、いつも何かしらのトラブルに巻き込まれ、裏切られ傷つけられ、最後には捨てられた。そのたびに半狂乱に近い状態になった。二度中絶手術をした。男女関係について言えば、環はまさに生まれながらの被害者だった。
青豆は決まったボーイフレンドを作らなかった。誘われてときどきデートはしたし、中にはなかなか悪くない相手もいたのだが、深い関係になることはなかった。
「恋人もつくらないで、ずっと処女のままでいるつもり?」と環は青豆に尋ねた。
「忙しいからね」と青豆は言った。「私には日々の生活を送っていくのがやっとなの。ボーイフレンドと遊んでいるような余裕はない」
環は学部を卒業すると、大学院に残って司法試験の準備をした。青豆はスポーツ?ドリンクと健康食品の会社に就職して、そこでソフトボールを続けた。環はやはり自宅から通学し、青豆は代々木八幡にある会社の寮に住んだ。学生時代と同じように、週末に二人は会って食事をし、飽きることなくいろんな話をした。
環は二十四歳のときに二歳上の男と結婚した。婚約すると同時に大学院に通うのをやめ、法律の勉強を続けることもあきらめた。夫がそれを許さなかったからだ。青豆は相手の男に一度だけ会ったことがある。資産家の息子で、予想通り端整ではあるがいかにも深みのない顔立ちをしていた。趣味はヨット。口先はうまく、知恵はそれなりに働きそうだが、人柄に厚みがなく、言葉には重みがない。いつもどおりの環好みの男だ。そしてそこには何かしら不吉なものさえ感じられた。最初から青豆はその男が気に入らなかった。向こうも彼女のことはあまり気に入らなかったかもしれない。
「この結婚はうまくいくわけはないよ」と青豆は環に言った。余計な口出しはしたくなかったが、これはなんといっても結婚なのだ。ただの恋愛ごっこではない。昔からの大事な親友として、黙って見過ごすわけにはいかない。二人はそのときに初めて激しい口論をした。環は結婚に反対されたことでヒステリックになり、青豆にきつい言葉をいくつか投げかけた。そこには青豆がもっとも聞きたくない言葉も含まれていた。青豆は結婚式にも行かなかった。
しかし青豆と環はほどなく仲直りをした。新婚旅行から戻ってきたすぐあと、環は青豆のところに予告もなくやってきて、自分の非礼を詫びた。あのときに口にしたことはみんな忘れてほしいと言った。私はどうかしていた。新婚旅行のあいだじゅう、ずっとあなたのことを考えていた。そんなこと気にしなくていいよ、もう何も覚えていないから、と青豆は言った。そして二人はしっかり抱き合った。冗談を言って笑い合った。
それでも結婚後、二人が顔を合わせる機会は急速に減った。手紙のやりとりは頻繁におこなわれたし、電話で話もした。しかし環には、二人で会うための時間を都合することがかなわないようだった。うちのことがいろいろと忙しいから、と環は言い訳をした。専業主婦というのもこれでなかなか大変なものなのよ、と。しかしその口ぶりには、彼女が外で誰かと会うことを夫は望んでいないらしいという感触があった。また環は夫の両親と同じ敷地に同居しており、自由に外出することもむずかしそうだった。青豆が環の新居に招待されることもなかった。
結婚生活はうまくいっている、と環はことあるごとに青豆に言った。夫は優しいし、夫の両親も親切な人たちだ。生活にも不自由はない。ときどき週末に江の島までヨットに乗りに行く。法律の勉強をやめたことも別に惜しくない。司法試験のプレッシャーはけっこう大きかったから。こういう平凡な生活が、私には結局いちばん向いていたのかもしれない。そのうちに子供も作るだろうし、そうなったらただのそのへんの退屈なお母さんよ。あなたにももう相手にしてもらえないかもね。環の声はいつも明るかったし、彼女の口にすることを疑わなくてはならない理由もなかった。それはよかったね、と青豆は言った。本当によかったと彼女は思った。不吉な予感が的中するよりは、はずれた方が良いに決まっている。環の中でたぶん何かが落ち着き場所を見つけたのだろう、と青豆は推測した。あるいは、そう考えようと努めた。
ほかには友だちと呼べるような相手もいなかったから、環との接点が希薄になると、青豆の日々の生活はなんとなく手持ちぶさたなものになってしまった。ソフトボールにも前ほど意識を集中することができなくなってきた。環が自分の生活から遠のいていくことで、その競技に対する興味そのものが薄らいでしまったようだった。青豆は二十五歳になっていたが、まだ処女のままだった。気持ちが落ち着かなくなると、ときどき自慰行為をした。そういう生活をとくに淋しいとも思わなかった。誰かと個人的な深い関わりを持つことが、青豆には苦痛だった。それならむしろ孤独なままでいる方がいい。
環が自殺したのは、二十六歳の誕生日を三日後に控えた、風の強い晩秋の日だった。彼女は自宅で首を吊って死んだ。翌日の夕方、出張から帰宅した夫がそれを発見した。
「家庭内には問題はなかったし、不満を耳にしたこともありません。自殺の原因はまったく思い当たりません」と夫は警察に言った。夫の両親も同様のことを言った。
でもそれは嘘だった。夫の絶え間ないサディスティックな暴力によって、環は身体的にも精神的にも傷だらけになっていた。夫のとる行為は偏執的な領域にまで近づいていた。夫の両親もそれをおおむね承知していた。警察も検死のときに、彼女の身体の状態を見て事情を察していたが、それは表沙汰にはならなかった。夫を呼んで事情聴取がおこなわれたものの、彼女の死因は明らかに自殺だったし、彼女が死んだとき夫は北海道に出張していた。彼が刑事罰に問われることはなかった。環の弟がそんな事情を後日、青豆にこっそり打ち明けてくれた。
暴力は最初からあったし、時を追うにしたがってますます執拗で陰惨なものになっていったということだ。しかし環は、その悪夢のような場所から逃げ出すことができなかった。青豆に対してそんなことは一言も言わなかった。相談したところで、返ってくる答えは初めからわかっていたからだ。今すぐその家を出なさい、そう言われるに決まっている。<傍点>しかしそれができないのだ傍点>。
自殺の直前に、最後の最後になって、環は青豆に長い手紙を書き送った。自分が最初から間違っていて、青豆が最初から正しかったのだと、手紙の冒頭にあった。彼女は最後をこう結んでいた。
日々の生活は地獄です。しかし私にはこの地獄から抜け出すことがどうしてもできません。ここを抜け出したあと、どこに行けばいいのかもわからないから。私は無力感というおぞましい牢獄に入っています。私は進んでそこに入り、自分で鍵を閉めて、その鍵を遠くに投げ捨ててしまったのです。この結婚はもちろん間違いでした。あなたの言ったとおりです。でもいちばん深い問題は夫にでもなく、結婚生活にでもなく、私自身の中にあります。私の感じるあらゆる痛みは、私が受けるに相応しいものです。誰を非難することもできません。あなたは私にとってのただ一人の友だちであり、この世の中で私が信頼することのできるただ一人の人です。でも私にはもう救いはありません。できれば私のことをいつまでも覚えていて下さい。いつまでも二人でソフトボールをやっていられればよかったのだけれど。
青豆はその手紙を読んでいるうちに、ひどく気分が悪くなってきた。身体が震えて止まらなくなった。環の家に何度電話をかけても、誰も受話器を取らなかった。録音メッセージに繋がるだけだ。彼女は電車に乗って、世田谷の奥沢にある彼女の家まで足を運んだ。高い塀のある大きな屋敷だった。門のインターフォンを鳴らしたが、やはり返事はなかった。中で犬が吠えているだけだ。あきらめて引き上げるしかなかった。もちろん青豆には知りようもないことだが、そのときには環はもう息を引き取っていたのだ。彼女は階段の手すりに紐をかけて、ひとりぼっちでそこにぶらさがっていた。静まりかえった家の中に、電話のベルや、チャイムが空しく鳴り響いていただけだ。
環の死を知らされたとき、青豆はほとんど驚かなかった。きっと頭のどこかでそれを予期していたのだろう。悲しみも湧いてこなかった。どちらかと言えば事務的な返事をし、電話を切って椅子に腰を下ろし、それからかなり時間が経ってから、身体の中のあらゆる体液が外にこぼれ出ていくような感覚があった。長いあいだ椅子から立ち上がれなかった。会社に電話を入れて、体の具合が悪いということで何日か休みをとり、家の中にただじっと閉じこもっていた。食事もせず、眠りもせず、水さえほとんど飲まなかった。葬儀にも出なかった。彼女の中で何かが、かちりと音を立てて入れ替わってしまったような感覚があった。これを境にして私はもう以前の私ではなくなる、青豆はそう強く感じた。
あの男には制裁を加えなくてはならない、青豆はそのときにそう心を決めた。何があろうと世の終わりを確実に与えなくてはならない。そうしなければ、あいつは別の誰かを相手にまた同じことを繰り返すに違いない。
青豆はたっぷり時間をかけて周到に計画を練った。首の後ろのどのポイントをどの角度で、鋭い針で刺せば相手を瞬時に死に至らしめることができるか、彼女はその知識を持っていた。もちろん誰にでもできることではない。でも彼女にはできる。必要なのは、その微妙きわまりないポイントを短い時間のうちに探り当てる感覚を磨くことと、その行為に適した道具を手に入れることだ。彼女は工具を揃え、時間をかけて、小さな細身のアイスピックのように見える特殊な器具を作り上げた。その針先は容赦のない観念のように鋭く冷たく尖っていた。そして彼女は様々な方法で念入りに練習を積んだ。そしてこれでいいと納得した上で、それを実行に移した。躊躇なく、冷静に的確に、王国をその男の頭上に到来させた。彼女はそのあとでお祈りさえ唱えた。祈りの文句は彼女の口からほとんど反射的に出てきた。
天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。
青豆が周期的に、そして激しく男の身体を求めるようになったのは、そのあとのことだった。
第14章 天吾
ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごと
小松と天吾はいつもの場所で待ち合わせた。新宿駅の近くにある喫茶店だ。コーヒー一杯の値段は安くないが、席と席とのあいだに距離がとられているので、他人の耳を気にせずに話をすることができる。空気が比較的きれいで、害のない音楽が小さな音で流されている。例によって小松は二十分遅れてやってきた。小松が時間どおりにやってくることはまずないし、天吾が時間に遅れることはまずない。これはもう決定事項のようなものだ。小松は書類を入れる革の鞄を提げ、見慣れたツイードの上着に、紺色のポロシャツを着ていた。
「待たせて悪かったね」と小松は言ったが、とくに申し訳なく思っている風もなかった。いつもより機嫌がよさそうで、口元には明け方の三日月のような笑みが浮かんでいた。
天吾は肯いただけで、何も言わなかった。
「急がせて悪かった。いろいろと大変だっただろう」、小松は向かいの席に腰を下ろして、そう言った。
「大げさなことは言いたくないけど、自分が生きているのか死んでいるのか、それもよくわからないような十日間でした」と天吾は言った。
「しかしよくやってくれた。ふかえりの保護者の承諾も無事に得られたし、小説もしっかりと書き直された。たいしたもんだよ。浮世離れのした天吾くんにしちゃ実に上出来だ。見直したね」
天吾はその賞賛を聞き流した。「ふかえりの背景について書いた報告みたいなものは読んでくれました? 長いやつ」
「ああ読んだよ。もちろん。じっくりと読ませてもらった。なんというか、かなり複雑な成り行きだ。まるで大河小説の一部みたいな話だ。しかしそれはそれとして、あの戎野先生がふかえりの保護者になっているとは思ってもみなかったな。世間はおそろしく狭い。それで先生は俺のことについて何か言っていたかい?」
「小松さんのことを?」
「ああ、俺のことを」
「とくに何も言っていませんでした」
「そいつは妙だな」と小松はいかにも不思議そうに言った。「俺と戎野先生は昔一緒に仕事をしたことがあるんだ。大学の研究室まで原稿をもらいにいったことがあるよ。ずいぶん昔、俺がまだ若き編集者のころだがね」
「昔のことだから、忘れたんじゃありませんか。僕に小松さんというのはどんな人間かと質問してきたくらいですから」
「いいや」、小松はそう言って、むずかしい顔をして首を振った。「そんなことはない。絶対にあり得ない。あの先生は何ひとつ忘れない人だよ。おそろしいまでに記憶力の良い人だし、俺たちはそのときずいぶんいろんな話をしたからね……。しかしまあそれはいい。あれはなかなか一筋縄ではいかんおっさんだ。それで、君の報告によれば、ふかえりちゃんを取り巻く事情はかなりややこしそうだな」
「かなりややこしいどころじゃありません。僕らは文字通り爆弾を抱え込んでいるみたいなものですよ。ふかえりはあらゆる意味合いにおいて普通じゃない。ただのきれいな十七歳の女の子というだけじゃありません。ディスレクシアで、本をまともに読むこともできません。文章もろくに書けない。何らかのトラウマみたいなものを抱え込んで、それに関連して記憶の一部を失ってもいるようです。コミューンみたいなところで育ち、学校にもほとんど行っていない。父親は左翼の革命組織のリーダーで、『あけぼの』がらみの例の銃撃戦にも間接的ながらつながっているようです。引き取られた先はかつて高名だった文化人類学者のうちです。もし小説が話題になったら、マスコミが集まってきて、いろんな<傍点>おいしい傍点>事実を暴き立てるでしょう。大変なことになりますよ」
「うん、たしかに地獄の釜の蓋を開けたような騒ぎになるかもしれないな」と小松は言った。それでもまだ口元の微笑みは消えていない。
「じゃあ、計画は中止するんですか?」
「計画を中止する?」
「話が大きくなりすぎます。危険すぎる。原稿を元のものに差し替えましょう」
「ところがそう簡単にはいかない。君が書き直した『空気さなぎ』は既に印刷所にまわされて、ゲラ刷りになっているところだ。印刷があがったら、それはすぐさま編集長と出版部長と四人の選考委員のもとに届けられる。今さら『すみません。あれは間違いでした。見なかったことにして返して下さい』とは言えないんだよ」
天吾はため息をついた。
「しかたない。時間をあと戻しすることはできない」と小松は言った。そしてマルボロを口にくわえ、目を細め、店のマッチで火をつけた。「あとのことは俺がよく考える。天吾くんは何も考えなくていい。もし『空気さなぎ』が賞を取っても、ふかえりはなるべく表に出さないようにしよう。人前に出たくない謎の少女作家、みたいなラインでうまくまとめていけばいい。俺が担当編集者として、スポークスマンみたいなかっこうになる。そのあたりの按配は心得ているから大丈夫だ」
「小松さんの能力を疑うわけじゃありませんが、ふかえりはそのへんの普通の女の子とは違います。人の言うとおりに黙って動いてくれるタイプじゃありません。自分がこうすると決めたら、誰がなんと言おうとそのとおりに実行します。意に染まないことは耳に入らないようにできているんです。そう簡単にはいきません」
小松は何も言わず、手の中でマッチ箱を何度も裏返していた。
「でもな、天吾くん、何はともあれ、ここまで来たらお互いもう腹を据えてやるしかないんだよ。まず第一に、君の書き直した『空気さなぎ』は見事な出来だ。予想を遥かに超えて素晴らしい。ほとんど完壁に近い。これなら間違いなく新人賞を取るし、話題になる。今更こいつを埋もれさせるようなことはできない。俺に言わせればそれは一種の犯罪だ。そしてさっきも言ったように、話はどんどん前に進んでいるんだ」
「一種の犯罪?」と天吾は小松の顔を見ながら言った。
「こういう言葉もある」と小松は言った。「『あらゆる芸術、あらゆる希求、そしてまたあらゆる行動と探索は、何らかの善を目指していると考えられる。それ故に、ものごとが目指しているものから、善なるものを正しく規定することができる』」
「何ですかそれは?」
「アリストテレスだよ。『ニーコマコス倫理学』だ。アリストテレスを読んだことはあるか?」
「ほとんどありません」
「読むといい。君ならきっと好きになれる。俺は読む本がなくなったときにはギリシャ哲学を読むことにしているんだ。飽きることがない。いつも何かそこから学べることがある」
「その引用のポイントはどこにあるんですか?」
「ものごとの帰結は即ち善だ。善は即ちあらゆる帰結だ。疑うのは明日にしよう」と小松は言った。「それがポイントだ」
「アリストテレスはホロコーストについてどう言っているんですか?」
小松は三日月のような笑みを更に深めた。「アリストテレスはここでは主に芸術や学問や工芸について語っているんだ」
小松とは決して短くはないつきあいだ。そのあいだに天吾は、この男の表の顔も見てきたし、裏の顔も見てきた。小松は業界の一匹狼的な存在で、好き勝手なことをやって生きているように見える。多くの人はその見かけにごまかされる。しかし前後の事情をよく頭に入れて、細かく観察すれば、彼の動きがなかなか綿密に計算されたものであることがわかる。将棋でいえば数手先まで読んでいる。奇策を好むのは確かだが、しかるべきところに一線を引いて、そこから足を踏み出さないように気をつけている。どちらかと言えば神経質な性格と言ってもいいくらいだ。彼の無頼的な言動の大半は表面的な演技に過ぎない。
小松は自分自身に、用心深くいくつかの保険をかけていた。たとえば彼はある新聞の夕刊に週に一度文芸関係のコラムを書いていた。そこでいろんな作家を褒めたり貶{けな}したりした。財すときの文章はかなり苛烈なものだった。そういう文章を書くのが彼は得意だった。匿名のコラムだが、業界の人間はみんな誰がそれを書いているのかを知っていた。当然の話だが、新聞に悪口を書かれることを好む人間はまずいない。だから作家たちは小松とはできるだけ事を構えないように注意していた。雑誌に執筆を依頼されれば、できるだけ断らないようにした。少なくとも何度かに一度は引き受けた。そうしないとコラムで何を書かれるかわかったものではない。
天吾は小松のそういう計算高い面があまり好きにはなれなかった。文壇を小馬鹿にしておきながら、一方でそのシステムを都合よく利用している。小松には編集者としての優れた勘が具わっていたし、天吾にはずいぶんよくしてくれた。小説を書くことについての彼の忠告はおおむね貴重なものだった。しかし天吾は一定の距離を置いて小松とつきあうように心がけていた。あまり近づきすぎて、下手に深入りしたところで足元の梯子を外されたりしたら、たまったものではない。そういう意味では天吾もまた用心深い人間だった。
「今も言ったように、君の『空気さなぎ』の書き直しは完壁に近い。たいしたものだ」と小松は話を続けた。「ただし一カ所だけ、ただの一カ所だけ、できることなら書き直してもらいたいところがある。今じゃなくてもいい。新人賞のレベルではあれで十分だ。賞をとって、雑誌掲載になる段階であらためて手を入れてくれればいい」
「どんなところですか?」
「リトル?ピープルが空気さなぎを作り上げたとき、月が二つになる。少女が空を見上げると、月が二つ浮かんでいる。その部分は覚えているよな?」
「もちろん覚えています」
「俺の意見を言わせてもらえれば、その二つの月についての言及が十分ではない。書き足りない。もっと細かく具体的に描写してもらいたい。注文といえばその部分だけだ」
「たしかに描写がいくぶん素っ気ないかもしれません。ただ僕としては、あまり説明的になって、ふかえりの原文が持っている流れを崩したくなかったんです」
小松は煙草をはさんだ手を上にあげた。「天吾くん、こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな? しかし空に月が二つ並んで浮かんでいるところを目にしたことはないはずだ。ほとんどの読者がこれまで目にしたことの<傍点>ない傍点>ものごとを、小説の中に持ち込むときには、なるたけ細かい的確な描写が必要になる。省いてかまわないのは、あるいは省かなくてはならないのは、ほとんどの読者が既に目にしたことの<傍点>ある傍点>ものごとについての描写だ」
「わかりました」と天吾は言った。小松の言い分はたしかに筋が通っている。「そのふたつの月が出てくる部分の描写は、もっと綿密なものにします」
「けっこう。それで完壁になる」と小松は言った。そして煙草をもみ消した。「あとは言うことない」
「僕が書いたものを小松さんに褒められるのは嬉しいですが、今回に限ってはどうも素直には喜べません」と天吾は言った。
「君は、急速に成長している」、小松は言葉を句切るようにゆっくりと言った。「書き手として、作家として、成長している。そいつは素直に喜んだ方がいい。『空気さなぎ』を書き直したことによって、君は小説について多くのことを学んだはずだ。次に君が自分自身の作品を書くときには、それがずいぶん役に立つはずだよ」
「次があればいいんですが」
小松はにやりと笑った。「心配することない。君はやるべきことはやった。今度は俺の出番だ。ベンチに下がってのんびりゲームの成り行きを見ていればいい」
ウェイトレスがやってきて、グラスに冷たい水を注いだ。天吾はそれを半分飲んだ。飲んでしまってから水なんて飲みたくなかったことに気がついた。
「人間の霊魂は理性と意志と情欲によって成立している、と言ったのはアリストテレスでしたっけ?」と天吾は尋ねた。
「それはプラトンだ。アリストテレスとプラトンは、たとえて言うならメル?トーメとビング?クロスビーくらい違う。いずれにせよ昔はものごとがシンプルにできていたんだな」と小松は言った。「理性と意志と情欲が会議を開き、テーブルを囲んで熱心に討論しているところを想像すると楽しくないか?」
「誰が勝てそうにないか、だいたい予測はつきますが」
「俺が天吾くんに関して気に入っているのはね」と小松は人差し指を宙に上げて言った。「そのユーモアのセンスだ」
これはユーモアなんかじゃない、と天吾は思った。しかし口には出さなかった。
天吾は小松と別れたあと、紀伊国屋書店に入って本を何冊か買い、近くのバーでビールを飲みながら、買った本を読んだ。あらゆる時間の中で、彼がもっともくつろげるはずの時間だった。書店で新刊書を買い、そのへんの店に入って、飲みものを手にそのページを開く。
しかしその夜はなぜか読書に神経を集中することができなかった。いつもは幻影の中で見る母親の姿が彼の目の前にぼんやりと浮かび、いつまでも消えなかった。彼女は白いスリップの肩紐をはずし、かたちの良い乳房をむき出しにし、男に乳首を吸わせている。その男は父親ではない。もっと大柄で若々しく、顔立ちも整っている。ベビーベッドには幼児である天吾が目を閉じ、寝息をたてて眠っている。母親は男に乳首を吸われながら、忘我の表情を顔に浮かべている。その表情は、彼の年上のガールフレンドがオーガズムを迎えるときの表情にどことなく似ていた。
天吾は以前、好奇心から彼女に頼んだことがあった。ねえ、一度白いスリップを着てきてくれないかな、と。「いいわよ」と彼女は笑って言った。「今度着てきてあげる。そういうのが好きなのなら。ほかにもっと注文はある? なんでも聞いてあげるから、恥ずかしがらずに言ってみて」
「できたら白いブラウスを着てきてくれないかな。なるべくシンプルなやつ」
彼女は先週、白いブラウスに白いスリップというかっこうでやってきた。彼はブラウスを脱がせ、スリップの肩紐をずらせ、その下にある乳首を吸った。彼の幻影に出てくる男がやっているのと同じかっこうで、同じ角度で。そのときに軽い立ちくらみのような感覚があった。頭にぼんやり霞がかかったようになり、前後の事情が不明になった。どんよりとした感覚が下半身に生まれ、それが急速に膨らんでいった。気がついたときには、彼は身を震わせて激しく射精していた。
「ねえ、どうしたの? もう出しちゃったの?」と彼女はびつくりして訊いた。
何が起こったのか、天吾にはよくわからなかった。しかし彼は彼女のスリップの腰のあたりに射精していた。
「悪かった」と天吾は謝った。「そんなつもりはなかったんだけど」
「別に謝らなくていいわよ」とガールフレンドは天吾を励ますように言った。「こんなのちょこちょこっと水道で洗えばいいだけのことなんだから。ただの<傍点>いつものやつ傍点>でしょ。お醤油とか赤ワインとかを出されたりすると、落とすのにちょっと困るかもしれないけど」
彼女はスリップを脱ぎ、洗面所に行って精液のついた部分をもみ洗いした。そしてシャワーカーテンのロッドにそれを干した。
「刺激が強すぎたのかしら」と彼女は言って優しく微笑んだ。そして手のひらで天吾の腹部をゆつくりと撫でた。「白いスリップが好きなのね、天吾くんは」
「そういうんじゃないんだよ」と天吾は言った。しかし自分がそんな頼み事をした本当の理由を説明することはできなかった。
「何かそういう妄想みたいなものがあるのなら、なんでもお姉さんに打ち明けてね。しっかり協力してあげるから。私も妄想って大好き。多かれ少なかれ、妄想がなくっちゃ人は生きていけないのよ。そう思わない? それで、この次も白いスリップをつけてきてほしい?」
天吾は首を振った。「もういいよ。一度でいい。ありがとう」
その幻影に出てくる、母親の乳首を吸っている若い男が、自分の生物学的な父親ではないのか、天吾はよくそう考えた。なぜなら自分の父親ということになっている人物——NHKの優秀な集金人——は、あらゆる点で天吾には似ていなかったからだ。天吾は背が高く、がっしりした体格で、額が広く、鼻が細く、耳のかたちは丸まってくしゃくしゃしている。父親はずんぐりとして背が低く、風采もあがらなかった。額が狭く、鼻は扁平で、耳は馬のように尖っている。天吾とは顔のつくりが、ほとんど対照的と言ってもいいくらいに違う。天吾がどちらかというとのんびりした鷹揚な顔立ちであるのに比べて、父親は神経質で、いかにも吝嗇{りんしょく}そうな顔をしていた。多くの人が二人を見比べて、親子には見えないというようなことを口にした。
しかし天吾が父親に対して違和感を感じたのは、顔立ちよりはむしろ精神的な資質や傾向についてだった。父親には知的好奇心と呼べそうなものがまるで見受けられなかったのだ。たしかに父親は満足な教育を受けていなかった。貧しい家に生まれ、系統立った知的システムを自分の中に確立する余裕もなかった。そのような境遇については天吾もある程度気の毒だとは思う。しかしそれにしても、普遍的なレベルでの知識を得たいという基本的な願望——それは人にとって多かれ少なかれ自然な欲求ではないかと天吾は考える——が、その男にはあまりにも希薄だった。生きていく上での実際的な知恵はそれなりに働いたが、努力して自らを高め、深化させ、より広くより大きな世界を眺めたいという姿勢は、まったく見いだせなかった。
彼は窮屈な世界で、狭量なルールに従って、汲々と生きていながら、その狭さや空気の悪さをとくに苦痛として感じることもないようだった。家の中で本を手に取るところを目にしたこともない。新聞さえとらなかった(NHKの定時ニュースを見ればそれで十分だと彼は言った)。音楽にも映画にもまったく興味はなかった。旅行に出たことさえない。いささかなりとも興味があるのは、自分の受け持っている集金ルートだけらしい。彼はその地域の地図をつくり、そこにいろんな色のペンでしるしをつけ、暇さえあればそれを点検していた。まるで生物学者が染色体を区分けするみたいに。
それに比べれば、天吾は小さい時から数学の神童と見なされていた。算数の成績は抜群だった。小学校三年生のときに高校の数学の問題を解くこともできた。ほかの学科についても、とくに努力らしい努力をしなくても成績は飛び抜けてよかった。そして暇があればむさぼるように本を読んだ。好奇心が強く、パワーショベルで土をすくうみたいに、多岐にわたる知識を片端から効率よく吸収していった。だから父親の姿を見るたびに、そんな狭量で無教養な男の遺伝子が、自分という存在の少なくとも半分を生物学的に占めているという事実が、どうしても呑み込めなかった。
自分の本当の父親はどこかべつのところにいるはずだ、というのが少年時代の天吾の導き出した結論だった。天吾は何らかの成り行きによって、この父親と称する、しかし実はまったく血の繋がっていない男の手によって育てられてきたのだ。ディッケンズの小説に出てくる不運な子供たちと同じように。
その可能性は少年時代の天吾にとって、悪夢であるのと同時に、大いなる希望でもあった。彼はむさぼるようにデイッケンズを読んだ。最初に読んだのは『オリバー?ツイスト』で、それ以来ディッケンズに夢中になってしまった。図書館にある彼の作品のほとんどを読破した。そのような物語の世界を周遊しながら、自分の身の上について、あれこれとなく想像に耽った。その想像は(あるいは妄想は)彼の頭の中でどんどん長いものになり、複雑なものになっていった。パターンはひとつだったが、バリエーションは無数に生まれた。いずれにせよ自分の本来の居場所はここではない、と天吾は自分に言い聞かせた。僕は間違った橿の中に、間違って閉じこめられているのだ。本当の両親はきっと偶然の正しい導きによって、いつの日か僕を見つけ出すことだろう。そして僕はこの狭苦しく醜い橿の中から救い出され、本来あるべき場所に戻される。そして美しく平和で自由な日曜日を獲得することになる。
天吾の学校での成績が図抜けて優秀であることを、父親は喜んだ。そのことで得意にもなった。近所の人々に自慢したりもした。しかしそれと同時に、心のどこかで息子の聡明さや能力の高さを面白くなく思っている節も見受けられた。天吾が机に向かって勉強をしているとしばしば、おそらくは意図的にその邪魔をした。家事をいいつけたり、どうでもいいような不都合な点を見つけて、しつこく小言を言ったりした。小言の内容は常に同じだった。自分が集金人として、時には罵声を浴びせかけられながら、毎日どれほど長い距離を歩き回り、身を粉にして仕事をしているか。それに比べてお前はどんなに気楽な、恵まれた生活を送っているか。自分が天吾くらいの年の時には、どれくらい家でこきつかわれ、ことあるごとに父親や兄に鉄拳の制裁を受けてきたか。食べ物も十分に与えられず、家畜同然に扱われてきたか。学校の成績がちょっといいからといって、いい気になられては困る。父親はそんなことをいつまでもくどくどとしゃべり続けた。
この男は僕にうらやみを感じているのかもしれない、と天吾はあるときから思うようになった。僕という人間のあり方が、あるいは僕の置かれている立場が、この男には妬ましくてしょうがないのだろう。しかし父親が実の息子を妬むというようなことが、実際にあるものだろうか? もちろん子供である天吾にはそんなむずかしい判断はできない。しかし父親の言動からにじみ出てくるある種の<傍点>いじましさ傍点>のようなものを、天吾は感じ取らないわけにはいかなかったし、それが生理的に我慢できなかった。いや、ただうらやむというだけではない。この男は息子の中にある何かを憎んでもいる、天吾はしばしばそう感じた。天吾という人間そのものを憎んでいるのではない。彼の中に含まれている<傍点>何か傍点>を父親は憎んでいる。それを許せないと感じている。
数学は天吾に有効な逃避の手段を与えてくれた。数式の世界に逃げ込むことによって、現実というやっかいな艦を抜け出すことができた。頭の中のスイッチをオンにさえすれば、自分がそちらの世界に苦もなく移行できるという事実に、小さい頃から気づいていた。そしてその限りのない整合性の領域を探索し、歩きまわっているかぎり、彼はどこまでも自由だった。彼は巨大な建物の曲がりくねった廊下を進み、番号のふられたドアを次々に開けていった。新しい光景が眼前に開けるたびに、現実の世界に残してきた醜い痕跡は薄れ、あっさりと消え去っていった。数式の司る世界は、彼にとっての合法的な、そしてどこまでも安全な隠れ場所だった。天吾はその世界の地理を誰よりも正確に理解していたし、的確に正しいルートを選ぶことができた。誰もあとを追いかけてくることはできなかった。そちらの世界にいるあいだは、現実の世界が押しつけてくる規則や重荷をきれいに忘れ、無視することができた。
数学が壮麗な架空の建物であったのに対して、ディッケンズに代表される物語の世界は、天吾にとっては深い魔法の森のようなものだった。数学が絶え間なく天上に伸びていくのと対照的に、森は彼の眼下に無言のうちに広がっていた。その暗い頑丈な根は、地中深く張り巡らされていた。そこには地図はなく、番号のふられたドアもなかった。
小学校から中学校にかけて、彼は数学の世界に夢中でのめりこんでいた。その明快さと絶対的な自由が何よりも魅力的であり、また生きていく上で必要だったからだ。しかし思春期に足を踏み入れたあたりから、それだけでは足りないのではないかという気持ちが着々と膨らんでいった。数学の世界を訪れているあいだは何の問題もない。すべては思うままに進んでいる。行く手を阻むものはない。しかしそこを離れて現実の世界に戻ってくると(戻ってこないわけにはいかない)、彼がいるのは前と変わらぬ惨めな橿の中だった。状況は何ひとつ改善されてはいない。むしろ逆に枷が重くなっているようにさえ思える。だとすれば、数学がいったい何の役に立つのだろう。それはただの一時的な逃避の手段に過ぎないではないか。むしろ現実の状況を悪化させていくだけではないのか?
そういう疑問が膨らんでいくに連れて、天吾は自分と数学の世界とのあいだに、意識して距離を置くようになった。それとともに、物語の森が彼の心をより強く惹きつけるようになっていった。もちろん小説を読むことだってひとつの逃避ではあった。本のページを閉じれば、また現実の世界に戻ってこなくてはならない。しかし小説の世界から現実に戻ってきたときは、数学の世界から戻ってきたときほどの厳しい挫折感を味わわずにすむことに、天吾はあるとき気がついた。なぜだろう? 彼はそれについて深く考え、やがてひとつの結論に達した。物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。
年齢を重ねるにつれて、そのような物語的な示唆のあり方が、天吾の関心をますます惹きつけるようになっていった。数学は大人になった今でも、彼にとっての大きな喜びのひとつだ。予備校で学生たちに数学を教えていると、子供のころに感じたのと同じ喜びが自然にわき上がってくる。その観念的な自由の喜びを誰かと分かち合いたいと思う。それは素晴らしいことだ。しかし天吾は今では、数式の司る世界に自分を留保なくのめり込ませることができなくなっていた。どんなに遠くまでその世界を探索したところで、自分が本当に求めている解答は手に入らないということがわかっていたからだ。
天吾は小学校五年生のとき、ずいぶん考え抜いた末に、父親に向かって宣言した。
日曜日に、これまでのようにお父さんと一緒にNHK受信料の集金にまわるのは、もうやめたい。その時間を使って自分の勉強もしたいし、本も読みたいし、どこかに遊びにも行きたい。お父さんにはお父さんの仕事があるように、僕には僕のやるべきことがある。僕はほかのみんなと同じような当たり前の生活を送りたいんだ。
天吾はそれだけのことを言った。短く、しかし筋道を立てて。
父親はもちろんひどく腹を立てた。ほかの家庭がどうであれ、そんなものはうちとは関係ない。うちにはうちのやり方がある、と父親は言った。何が当たり前の生活だ。偉そうなことを言うんじゃない。当たり前の生活について、お前に何がわかるというのだ。天吾は反論しなかった。じつと黙っていただけだ。何を言っても話が通じないだろうことは最初からわかっていた。それならそれでいい、と父親は言った。親の言うことをきけないやつに、これ以上食事を与えることはできない。とっとと家を出て行け。
天吾は言われたとおり、荷物をまとめて家を出て行った。もともと腹は決まっていたし、父親がどれだけ腹を立てても、怒鳴り散らしても、たとえ手を上げたとしても(実際には上げなかったけれど)、ちっとも怖いとは思わなかった。艦から出て行っていいと許可されたことで、むしろほっとしたくらいだった。
とはいえ十歳の子供には、一人で自活していく手だてはない。しかたなく放課後、クラスの担任の教師に、自分の置かれている状況を正直に打ち明けた。今夜泊まるところもないのだと。そして日曜日に父親と一緒にN且K受信料の集金ルートをまわることが、自分にとってどれくらい心の負担になっているかを説明した。担任の先生は三十代半ばの独身女性だった。あまり美しいとは言えなかったし、ひどい格好の分厚い眼鏡をかけていたが、公正で心の温かい人柄だった。小柄な体格で、普段は無口で温厚なのだが、見かけによらず短気なところがあり、いったん怒り出すと人ががらりと変わり、誰にも止められなくなった。人々はみんなその落差に唖然とした。しかし天吾はその先生のことがけっこう気に入っていた。彼女が怒り出しても、天吾はとくに怖いとも思わなかった。
彼女は天吾の話を聞き、彼の気持ちを理解し、同情してくれた。天吾をその晩、自分の家に泊めてくれた。居間のソファに毛布を敷いて寝かせてくれた。朝ご飯も作ってくれた。そして翌日の夕刻、天吾を伴って父親のところに行き、長く話をした。
天吾は席を外しているようにと言われたので、二人のあいだでどんな話し合いがもたれたのか、それはわからない。しかし結局のところ、父親としても矛を収めないわけにはいかなかった。いくら腹を立てたからといって、十歳の子供を一人で路頭に迷わせるわけにはいかない。親には子供の扶養義務があると法律で定められている。
話し合いの結果、天吾は日曜日を好きなように過ごしてかまわないということになった。午前中を家事にあてなくてはならないが、そのあとは何をしてもいい。それは天吾が生まれて初めて父親から勝ち取った、かたちのある権利だった。父親は腹を立てて、しばらくのあいだ口をきかなかったが、天吾にとってはとるに足らないことだ。彼は遥かに重要なものを手にしていた。それは自由と自立への第一歩だった。
小学校を出てから、その担任の教師には長いあいだ会わなかった。たまに案内の来る同窓会に出れば会うことはできたのだろうが、天吾はそんなものに顔を出すつもりはなかった。その小学校に関して楽しく思い出せることなんてほとんど何ひとつない。それでもときどきその女教師のことは思いだした。なにしろ一晩うちに泊めてもらった上に、頑迷このうえない父親を説得してもらったのだ。簡単には忘れられない。
彼女と再会したのは高校二年生のときだった。天吾はそのとき柔道部に属していたが、ふくらはぎを痛めて、二ヶ月ばかり柔道の試合に出ることができなかった。そのかわりに彼は、ブラスバンドの臨時の打楽器奏者として駆り出された。コンクールが目前に近づいているというのに、二人いた打楽器奏者の一人が突然転校することになり、もう一人が悪性のインフルエンザにかかり、二本のスティックが持てる人間なら誰でもいいから手助けにほしいという窮境に、吹奏楽部は追い込まれていた。たまたま脚の怪我をして手持ちぶさたにしている天吾が音楽教師の目にとまり、たっぷり食事をつけて、期末のレポートを大目に見るからという条件で、演奏練習に駆り出された。
天吾はそれまで打楽器を演奏した経験は一度もなかったし、興味を持ったこともなかったのだが、実際にやってみると、それは彼の頭脳の資質に驚くほどしつくりと馴染んだ。時間をいったん分割して細かいフラグメントにし、それを組み立てなおし、有効な音列に変えていくことに、彼は自然な喜びを感じた。すべての音が図式となって、頭の中に視覚的に浮かんだ。そして海綿が水を吸うように、彼は様々な打楽器のシステムを理解していった。音楽教師に紹介されて、ある交響楽団で打楽器奏者をつとめている人のところに行き、ティンパニの演奏について手ほどきを受けた。数時間のレッスンで、彼はその楽器のおおよその構造と演奏法を習得した。譜面は数式に似ていたから、読み方を覚えるのはそれほどむずかしくなかった。
音楽教師は彼の優れた音楽的才能を発見して驚喜した。君には複合リズムの感覚が生まれつき具わっているみたいだ。音感も素晴らしい。このまま専門的に勉強すればプロになれるかもしれない、と教師は言った。
ティンパニはむずかしい楽器だが、独特の深みと説得力があり、音の組み合わせに無限の可能性が秘められている。彼らがそのときに練習していたのは、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』のいくつかの楽章を抜粋し、吹奏楽器用に編曲したものだった。それを高校の吹奏楽部のコンクールで「自由選択曲」として演奏するのだ。ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』は高校生が演奏するには難曲だった。そして冒頭のファンファーレの部分では、ティンパニが縦横無尽に活躍する。バンドの指導者である音楽教師は、自分が優秀な打楽器奏者を抱えていることを計算に入れてその曲を選んだのだ。ところが先に述べたような理由で、急にその打楽器奏者がいなくなったものだから、頭を抱え込んでしまった。当然のことながら、代役の天吾の果たす役割が重要なものになった。しかし天吾はプレッシャーを感じることもなく、その演奏を心から楽しんだ。
コンクールの演奏が無事に終わったあと(優勝はできなかったが上位入賞することができた)、その女教師が彼のところにやってきた。そして素晴らしい演奏だったと褒めてくれた。
「一目で天吾くんだとわかったわ」とその小柄な教師は言った(天吾には彼女の名前が思い出せなかった)。「とても上手なティンパニだと思ってよくよく顔を見たら、なんと天吾くんだった。昔よりもっと大きくなっていたけど、顔を見ればすぐにわかった。いつから音楽を始めたの?」
天吾はそのいきさつを簡単に説明した。彼女はそれを聞いて感心した。「あなたにはいろんな才能があるのね」
「柔道の方がずっと楽ですが」と天吾は笑って言った。
「ところで、お父さんは元気?」と彼女は尋ねた。
「元気にしています」と天吾は言った。しかしそれはでまかせだった。父親が元気にしているかどうかなんて彼のあずかり知るところではないし、とくに考えたくもない問題だった。その頃には天吾はもう家を出て寮生活を送っていたし、父親とは長いあいだ口をきいてもいない。
「どうして先生はこんなところに来たんですか?」と天吾は尋ねた。
「私の姪が、べつの高校のブラスバンド部でクラリネットを吹いていて、ソロをとるから聴きに来てくれって言われたの」と彼女は言った。「あなたはこれからも音楽を続けるの?」
「脚が治ったらまた柔道に戻ります。なんといっても柔道をやっていれば、食いっぱぐれがないんです。うちの学校は柔道に力を入れていますからね。寮にも入れるし、食堂の食券も一日三食支給されます。吹奏楽部じゃそうはいきません」
「できるだけお父さんの世話にはなりたくないのね?」
「あのとおりの人ですから」と天吾は言った。
女教師は微笑んだ。「でも惜しいわ。こんなに豊かな才能を持ち合わせているのに」
天吾はその小さな女教師をあらためて見下ろした。そして彼女のアパートに泊めてもらったときのことを思い出した。彼女の住んでいる、とても実務的でござつばりした部屋を頭に思い浮かべた。レースのカーテンと、いくつかの鉢植え。アイロン台と読みかけの本。壁にかかっていた小さなピンク色のワンピース。寝かせてもらったソファの匂い。そして今、彼女が自分の前に立って、まるで若い娘のようにもじもじしていることに天吾は気がついた。自分がもう十歳の無力な少年ではなく、十七歳の大柄な青年になっていることにもあらためて気づいた。胸が厚くなり、髭もはえて、もてあますほど立派な性欲もある。そして彼は年上の女性と一緒にいると、不思議に落ち着くことができた。
「会えてよかった」とその教師は言った。
「僕もお会いできて嬉しいです」と天吾は言った。それは彼の本当の気持ちだった。しかしどうしても彼女の名前を思い出すことができなかった。
第15章 青豆
気球に碇をつけるみたいにしっかりと
青豆は日々の食事に神経を遣った。野菜料理が彼女のつくる日常的な食事の中心で、それに魚介類、主に白身の魚が加わる。肉はたまに鶏肉を食べる程度だ。食材は新鮮なものだけをえらび、使用する調味料は最低限の量にとどめた。脂肪の多い食品は排除し、炭水化物は適量に抑えた。サラダにはドレッシングをかけず、オリーブオイルと塩とレモンだけをかけて食べた。ただ野菜を多く食べるというだけではなく、栄養素を細かく研究し、バランス良く様々な種類の野菜を組み合わせて食べるようにした。彼女は独自の食事メニューをつくり、スポーツクラブでも求めに応じて指導した。カロリーの計算なんか忘れなさい、というのが彼女の口癖だった。正しいものを選んで適量を食べるという感覚さえつかめば、数字なんか気にしなくてもいい。
しかしただそのような禁欲的なメニューばかりにしがみついて生きているわけではなく、どうしても食べたいと思えば、どこかの店に飛び込んで分厚いステーキやラムチョップを注文することもある。たまに何かが我慢できないくらい食べたくなったら、身体がなんらかの理由でそのような食品を求め、信号を送っているのだと彼女は考える。そしてその自然の呼び声に従う。
ワインや日本酒を飲むのは好きだったが、肝臓を護るためにも、また糖分をコントロールする意味からも過度の飲酒は控え、週に三日はアルコールを飲まない日をつくっていた。肉体こそが青豆にとっての聖なる神殿だったし、常にきれいに保っておかなくてはならない。塵ひとつなく、<傍点>しみ傍点>ひとつなく。そこに何を祀るかは別の問題だ。それについてはまたあとで考えればいい。
彼女の肉体には今のところ贅肉はついていない。ついているのは筋肉だけだ。彼女は毎日鏡の前でまったくの裸になり、その事実を細かく確認した。自分の身体に見とれていたわけではない。むしろ逆だった。乳房は大きさが足りないし、おまけに左右非対称だ。陰毛は行進する歩兵部隊に踏みつけられた草むらみたいな生え方をしている。彼女は自分の身体を目にするたびに顔をしかめないわけにはいかなかった。しかしそれでも贅肉はついていない。余分な肉を指でつまむことはできない。
青豆はつつましい生活を送っていた。彼女がいちばん意識してお金をかけるのは食事だった。食材には出費を惜しまなかったし、ワインも上質なものしか口にしなかった。たまに外食をするときには注意深くていねいに調理をする店を選んだ。しかしそれ以外のものごとにはほとんど関心を持たなかった。
衣服や化粧品やアクセサリーにもあまり関心はない。スポーツ?クラブへの出勤は、ジーンズとセーターといったカジュアルな身なりでじゅうぶんだった。いったんクラブの中に入ってしまえば、どうせジャージの上下で一日を過ごすことになる。アクセサリーだってもちろん身につけない。またことさら着飾って外出するような機会も、彼女にはほとんどない。恋人もいないし、誰かとデートをする機会もない。大塚環が結婚してからは、一緒に食事をするような女友だちもいなくなってしまった。行きずりのセックスの相手を探すには化粧もし、それなりにきりつと決めた格好をしたが、それもせいぜい月に一度のことだ。多くの服を必要とはしない。
必要があれば青山のブティックをまわって「キラー?ドレス」を一着新調し、その服に合ったアクセサリーをひとつか二つ買い、ハイヒールを一足買えば、それで事足りた。普段の彼女は扁平な底の靴を履き、髪をうしろでひとつにまとめていた。石鹸で丁寧に顔を洗い、基礎クリームさえつけておけば、顔はいつも艶やかだった。清潔で健康な身体ひとつがあれば、それで不足はない。
彼女は子供のころから、装飾のない簡素な生活に慣れていた。禁欲と節制、物心ついたときにそれがまず彼女の頭に叩き込まれたことだった。家庭には余分なものはいっさいなかった。「もったいない」というのが、彼女の家庭でもっとも頻繁に口にされた言葉だった。テレビもなく、新聞もとらなかった。彼女の家庭では、情報ですら<傍点>不必要なもの傍点>だった。肉や魚が食卓に並ぶことは少なく、青豆は主に学校給食で成長に必要な栄養素を補給していた。みんなは「まずい」と言って給食を残したが、彼女としては他人のぶんまでもらいたいくらいだった。
着ている衣服はいつも誰かのおさがりだった。信者の組織の中でそういう不要な衣服の交換会があった。だから学校で指定される体操着のようなものを別にすれば、新しい服を買ってもらったことは一度もないし、ぴたりとサイズの合った服や靴を身につけた記憶もない。色や柄の取り合わせもひどいものだった。家が貧乏でそういう生活を送ることを余儀なくされているのなら、それはまあ仕方ない。しかし青豆の家は決して貧乏なわけではなかった。父親はエンジニアの職に就いていたし、世間並みの収入も蓄えもあった。彼らはあくまで主義として、そのようなきわめて質素な生活を送ることを選んでいたのだ。
いずれにせよ、彼女が送っている生活は、まわりの普通の子供たちのそれとあまりに違いすぎたし、おかげで長いあいだ友だちを一人もつくることができなかった。友だちと一緒にどこかに出かけられるような服も持っていなかったし、だいたいどこかに出かける余裕もなかった。小遣い銭を与えられたことはなかったし、たとえ誰かの誕生日のパーティーに招待されたとしても(幸か不幸かそんなことは一度もなかったが)、小さなプレゼントひとつ買うこともできない。
だから彼女は両親を憎み、両親が属している世界とその思想を深く憎んだ。彼女が求めているのはほかのみんなと同じ<傍点>普通の生活傍点>だった。贅沢は望まない。ごく普通のささやかな生活があればいい。それさえあればほかには何もいらない、と彼女は思った。一刻も早く大人になって両親から離れ、一人で自分の好きなように暮らしたかった。食べたいものを食べたいだけ食べ、財布の中にあるお金を自由に使いたかった。好みにあった新しい服を着て、サイズのあった靴を履いて、行きたいところに行きたかった。友だちをたくさんつくり、美しく包装されたプレゼントを交換しあいたかった。
しかし大人になった青豆が発見したのは、自分がもっとも落ち着けるのは、禁欲的な節制した生活を送っているときだという事実だった。彼女が何より求めているのは、お洒落をして誰かとどこかに出かけることではなく、ジャージの上下を着て、自分の部屋で一人だけの時間を送ることだった。
環が死んだあと、青豆はスポーツ?ドリンクの会社を退職し、それまで住んでいた寮を出て、自由が丘の1LDKの賃貸マンションに移った。広いとはいえない住まいだが、それでも見た目はがらんとしている。調理用具こそ充実しているものの、家具は必要最低限のものしかない。所有物も少ない。本を読むのは好きだが、いったん読んでしまえば古本屋に売った。音楽を聴くのも好きだが、レコードを集めるわけでもない。何であれ、目の前に自分が所有するものが溜まっていくことが彼女には苦痛だった。どこかの店で何かを買うたびに罪悪感を感じた。<傍点>こんなものは本当は必要ないんだ傍点>と思う。クローゼットの中の小綺麗な衣服や靴を見ると胸が痛み、息苦しくなった。そのような自由で豊かな光景は、逆説的にではあるけれど、何も与えられなかった不自由で貧しい子供時代を、青豆に思い出させた。
人が自由になるというのはいったいどういうことなのだろう、と彼女はよく自問した。たとえひとつの橿からうまく抜け出すことができたとしても、そこもまた別の、もっと大きな橿の中でしかないということなのだろうか?
彼女が指定された男を別の世界に送り込むと、麻布の老婦人は彼女に報酬を渡した。紙で固く包装され、宛先も差出人の名前住所も書かれていない現金の束が、郵便局の私書箱に入れられていた。青豆はタマルから私書箱の鍵をもらい、中身を取り出し、そのあとで鍵を返す。封がされたままの包みは、中身もあらためず銀行の貸金庫に放り込んでおいた。それが二つ、硬い煉瓦のように貸金庫の中に入っている。
青豆は毎月の給料でさえ使い切れずにいる。それなりの蓄えもある。だからそんな金をまったく必要とはしなかった。彼女は最初に報酬をもらったとき、老婦人にそう言った。
「これはただのかたちです」、老婦人は小さな穏やかな声で諭すように言った。「決まり事のようなものだと考えて下さい。ですからあなたはそれをいったん受け取らなくてはなりません。お金が必要なければ、使わないでおけばいいことです。あるいはそれも嫌だというのなら、どこかの団体に匿名で寄付してもかまいません。どうしようとあなたの自由です。しかしもし私の忠告を聞くつもりがあるのなら、そのお金はしばらくのあいだ手をつけずに、どこかに保管した方がいいと思います」
「でも私としてはこういうことで、お金のやりとりをしたくはないんです」と青豆は言った。
「その気持ちはわかります。しかしそれらのろくでもない男たちが<傍点>うまく移動してくれた傍点>おかげで、面倒な離婚訴訟も起こらないし、親権をめぐる争いも起きません。夫がいつか自分のところにやってきて、顔のかたちが変わるほど殴られるんじゃないかと怯えて暮らす必要もありません。生命保険も入り、遺族年金も支払われます。あなたに手渡されるこのお金は、その人たちからの感謝の<傍点>かたち傍点>だと考えて下さい。あなたは間違いなく正しいことをしました。しかしそれは無償の行為であってはなりません。何故かわかりますか?」
「よくわかりません」と青豆は正直に言った。
「何故ならあなたは天使でもなく、神様でもないからです。あなたの行動が純粋な気持ちから出たことはよくわかっています。だからお金なんてもらいたくないという心情も理解できます。しかし混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎ止めておく必要があります。そのためのものです。正しいことであれば、その気持ちが純粋であれば何をしてもいいということにはなりません。わかりますか?」
しばらくそれについて考えてから、青豆は肯いた。「私にはよくわかりません。でもとりあえずおっしゃるとおりにしましょう」
老婦人は微笑んだ。そしてハーブティーを一口飲んだ。「銀行の口座に入れたりはしないように。もし税務署がみつけたら、これは何だろうと首をひねることになります。現金のまま銀行の貸金庫に放り込んでおきなさい。いつか役に立ちます」
そうします、と青豆は言った。
クラブから戻ってきて、食事の用意をしているときに、電話のベルが鳴った。
「青豆さん」と女の声が言った。かすかにしゃがれた声。あゆみだった。
青豆は受話器を耳に当て、手を伸ばしてガスの火を細めながら言った。「どう、警察の仕事はうまく行っている?」
「駐車違反の切符を片端から書いて、世間の人にいやがられている。男っけもなく、せっせと元気に働いているよ」
「それは何より」
「ねえ、青豆さん、今何をしているの?」
「夕ご飯をつくっている」
「あさっては空いている? 夕方からあとってことだけど」
「空いているけど、この前みたいなことをするつもりはないわよ。あっちの方はしばらくはお休みするから」
「うん。私ももうしばらくはいいよ、ああいうのは。ただここのところ青豆さんと会ってないから、できたらちょっと会って話をしたいなと思っただけ」
青豆はそれについて少し考えた。でも急には気持ちが決められなかった。
「ねえ、今ちょっと妙め物をしているんだ」と青豆は言った。「手がはなせないの。あと三十分くらいしてから、もう一度電話をかけなおしてもらえるかな」
「いいよ、あと三十分してからまた電話するね」
青豆は電話を切り、妙め物を作り終えた。それからもやしの味噌汁をつくり、玄米と一緒に食べた。缶ビールを半分だけ飲み、残りは流しに捨てた。食器を洗い、ソファに座って一息ついたところで、またあゆみから電話がかかってきた。
「できたら一緒に食事でもしたいと思ったんだ」とあゆみは言った。「いつも一人でご飯を食べるのはつまらないから」
「いつも一人でご飯を食べているの?」
「私はまかないつきの寮で暮らしているから、いつもはみんなでわいわい言い合いながらご飯を食べている。でもたまにはゆっくりと静かにおいしいものを食べたい。できればちょこっとお洒落なところで。でも一人じゃ行きたくない。そういう気持ちってわかるでしょ?」
「もちろん」
「でもそういうときに一緒に食事できる相手が、まわりにいないんだ。男にせよ、女にせよ。どっちかっていうと居酒屋タイプのみなさんなわけ。で、青呈さんだったら一緒にそういうところに行けるんじゃないかなって思ったの。迷惑かもしれないけど」
「迷惑なんかじゃないよ」と青豆は言った。「いいよ、どこかにお洒落な食事をしにいきましょう。私もしばらくそういうことをしてないから」
「ほんとに?」とあゆみは言った。「それはすごく嬉しい」
「あさってならいいのね?」
「うん、明くる日は非番なの。どこか良いお店を知ってる?」
青豆は乃木坂にあるフランス料理店の名前をあげた。
あゆみはその名前を聞いて息を呑んだ。「青豆さん、それってものすごく有名なお店じゃないの。値段もやたら高いし、予約をとるのに二ヶ月はかかるっていう話をどっかの雑誌で読んだ。私のお給料じゃとても行けそうにない」
「大丈夫、そこのオーナー?シェフがうちのジムの会員で、個人的なトレーニング?コーチを私がしているの。メニューの栄養価についてのアドバイスみたいなこともしている。だから私が頼めば優先してテーブルをとってくれるし、値段もぐつと安くしてくれる。そのかわりあんまりいいテーブルじゃないかもしれないけど」
「私なら、押入の中だってべつにかまわないよ」
「しっかりお洒落をしていらっしゃい」と青豆は言った。
電話を切ってから、青豆は自分がその若い婦人警官に自然な好意を感じていることを知って、少し驚いた。誰かにそんな気持ちを抱くことができたのは、大塚環が死んで以来のことだ。もちろんそれは、環に対してかつて抱いていた気持ちとはまったく違うものだ。しかしそれにしても、誰かと二人きりで食事をすること自体、あるいは食事をしてもいいと思うこと自体、ずいぶん久方ぶりだった。おまけに相手はよりによって現職の警察官だ。青豆はため息をついた。世の中は不思議だ。
青豆はブルーグレーの半袖のワンピースに、白い小さなカーディガンを羽織り、フェラガモのヒールを履いた。イヤリングと細い金のブレスレットをつけた。いつものショルダーバッグは家に置いて(もちろんアイスピックも)、小さなバガジェリのパースを持った。あゆみはコムデギャルソンのシンプルな黒いジャケットに、襟ぐりの大きな茶色のTシャツ、花柄のフレアスカート、前と同じグッチのバッグ、小さな真珠のピアス、茶色のローヒールというかっこうだった。彼女はこの前見たときよりずっとかわいらしく、上品に見えた。まず警官には見えない。
二人はバーで待ち合わせ、軽くミモザ?カクテルを飲み、それからテーブルに案内された。悪くないテーブルだった。シェフが顔を出し、青豆と話をした。そしてワインは店からのサービスだと言った。
「悪いけど既に栓が開いていて、テイスティングぶん量が減っている。昨日、味にクレームがついてね、替わりのを出したんだけど、実際のところ、味には悪いところなんてひとつもない。相手はさる高名な政治家で、その世界ではワイン通ということで通っている。でもほんとはワインのことなんてろくにわかっちゃいないんだ。ただ人の手前、かっこうをつけるためにいちおうクレームをつけるんだよ。このブルゴーニュはちょっとえぐみが出てきているんじゃないかとかね。相手が相手だから、こっちも『そうですね。えぐみがいくぶん出ているかもしれません。輸入業者の倉庫での管理がよくなかったのでしょう。すぐに替わりをおもちします。しかしさすがなんとか先生ですね。よくおわかりになります』とか適当なことを言って、別のボトルを出してくる。そうしておけば角が立たないだろう。ま、大きな声じゃ言えないけど、会計も適当にそのぶん心持ち膨らませておけばいいわけだしね。あっちだってどうせ交際費で落とすんだから。しかし何はともあれ、うちの店としては、いったんクレームがついて戻ってきたものを、そのままお客様に出すわけにはいかない。当然のことだ」
「でも私たちならべつにかまわないだろうと」
シェフは片目をつぶった。「きっとかまわないよね?」
「もちろんかまわない」と青豆は言った。
「ぜんぜん」とあゆみは言った。
「こちらの美しいお嬢さんは君の妹さんかな?」とシェフは青豆に尋ねた。
「そう見える?」と青豆は尋ねた。
「顔は似てないけど、雰囲気がそういう感じだ」とシェフは言った。
「お友だち」と青豆は言った。「警察官をしているの」
「本当に?」、信じられないという顔でシェフはあゆみをあらためて見た。「ピストルを持ってパトロールするやつ?」
「まだ誰も撃ったことありませんけど」とあゆみは言った。
「俺、何かまずいことは言わなかったよね」とシェフは言った。
あゆみは首を振った。「ぜんぜん、何も」
シェフは微笑んで、胸の前で両手を合わせた。「相手が誰であれ、とにかく自信を持って勧められるきわめつけのブルゴーニュだよ。由緒ある醸造所{ドメーヌ}の産で、年も良いし、普通に頼めばン万円はする」
ウェイターがやってきて、ワインを二人のグラスに注いでくれた。青豆とあゆみはそのワインで乾杯をした。グラスを軽く合わせると、遠くで天国の鐘が鳴ったような音がした。
「ああ、こんなおいしいワインを飲んだのは生まれて初めてだよ」とあゆみは一口飲んだあとで、目を細めて言った。「いったいどこのどいつがこんなワインに文句をつけるんだろうね」
「どんなものにでも文句をつける人はいるものよ」と青豆は言った。
それから二人はメニューを仔細に眺めた。あゆみは腕きき弁護士が重要な契約書を読むときのような鋭い目つきで、メニューに書かれている内容を隅々まで二回ずつ読んだ。何か大事なことを見落としていないか、どこかに隠された巧妙な抜け穴があるのではないか。そこに書かれている様々な条件や条項を頭の中で検討し、それのもたらす結果について熟考した。利益と損失を細かく<傍点>はかり傍点>にかけた。青豆はそんな彼女の様子を向かいの席から興味深く見守っていた。
「決まった?」と青豆は尋ねた。
「おおむね」とあゆみは言った。
「それで、何にするの?」
「ムール貝のスープに、三種類のネギのサラダ、それから岩手産仔牛の脳味噌のボルドーワイン煮込み。青豆さんは?」
「レンズ豆のスープ、春の温野菜の盛り合わせ、それからアンコウの紙包み焼き、ポレンタ添え。赤ワインにはちょっと合わないみたいだけど、まあサービスだから文句は言えない」
「少しずつ交換していい?」
「もちろん」と青豆は言った。「それからもしよかったら、オードブルにさいまき海老のブリットをとって二人でわけましょう」
「素敵」とあゆみは言った。
「注文が決まったらメニューは閉じた方がいい」と青豆は言った。「そうしないとウェイターは永遠にやってこないから」
「たしかに」と言ってあゆみは名残惜しそうにメニューを閉じて、テーブルの上に戻した。すぐにウェイターがやってきて、二人の注文をとった。
「レストランで注文をし終わるたびに、自分が間違った注文をしたような気がするんだ」、ウェイターがいなくなったあとであゆみは言った。「青豆さんはどう?」
「間違えたとしても、ただの食べ物よ。人生の過ちに比べたら、そんなの大したことじゃない」
「もちろんそのとおりだけど」とあゆみは言った。「でも私にとってはずいぶん大事なことなの。子供のころからずっとそうだった。いつもいつも注文したあとで『ああ。ハンバーグじゃなくて海老コロッケにしとけばよかった』とか後悔するの。青豆さんは昔からそんなにクールだったわけ?」
「私の育った家にはね、いろいろ事情があって、外食するという習慣がなかったの。ぜんぜん。物心ついてから、レストランみたいなところに足を踏み入れたことは一度もなかったし、メニューを見て、その中から何か好きな料理を選んで注文するなんて、ずいぶん大きくなるまで経験したこともなかった。来る日も来る日も、出されたものを黙ってそのまま食べていただけ。まずくても、量が少なくても、嫌いなものでも、文句を言う余地もなかった。今でも本当のことを言えばとくになんだってかまわないの」
「ふうん。そうなんだ。事情はよくわからないけど、そんな風には見えないな。青豆さんは子供の頃からこういう場所に慣れっこになっている、みたいに見えるよ」
そういうことはすべて、大塚環が手ほどきしてくれたのだ。上品なレストランに入ったらどのように振る舞えばいいか、どんな料理の選び方をすれば見くびられないですむか、ワインの注文の仕方、デザートの頼み方、ウェイターへの接し方、カトラリの正式な使い方、そういうすべてを環は心得ていて、青豆にいちいち細かいところまで教えてくれた。服の選び方や、アクセサリーのつけ方や、化粧の方法も、青豆は環から教わった。青豆にとってはそんなすべてが新しい発見だった。環は山の手の裕福な家の育ちだったし、母親は社交家で、マナーや服装にはことのほかうるさかった。だから環はその手の世間的な知識を、まだ高校生のうちからしっかり身につけていた。大人の出入りする場所にも、臆せずに入っていくことができた。青豆はそのようなノウハウを貧欲に吸収していった。もし環という良き教師に巡り合えなかったら、青豆は今とは違ったかたちの人間になっていただろう。ときどき環がまだ生きていて、自分の内側にこっそりと潜んでいるような気がするくらいだ。
あゆみは最初のうちいくぶん緊張していたが、ワインを飲むにつれて少しずつ気持ちが和んできたようだった。
「ねえ、青豆さんに質問があるんだけど」とあゆみは言った。「もし答えたくなかったら答えなくていい。でもちょっと聞いてみたかったんだ。怒ったりしないよね?」
「怒らないよ」
「変なことを質問したとしても、私には悪意はないの。それはわかってね。ただ好奇心が強いだけ。でもそういうことでときどきすごく腹を立てる人がいるから」
「大丈夫よ。私は腹を立てない」
「ほんとに? みんなそう言いながらちゃんと腹を立てるんだけど」
「私はとくべつ。だから大丈夫」
「ねえ、小さな子供の頃に男の人に変なことされた経験ってある?」
青豆は首を振った。「ないと思う。どうして?」
「ただちょっと訊いただけ。なければいいんだ」とあゆみは言った。それから話を換えた。「ねえ、これまで恋人を作ったことはある? つまり真剣につき合った人ってことだけど」
「ない」
「一人も?」
「ただの一人も」と青豆は言った。そしてちょっと迷ってから言った。「実を言えば、私は二十六になるまで処女だったの」
あゆみは少しのあいだ言葉を失っていた。ナイフとフォークを下に置き、ナプキンで口元を拭い、それから目を細めて青豆の顔をしばらくじつと見た。
「青豆さんみたいな素敵な人が? 信じられないな」
「そういうことに興味がまったく持てなかったのよ」
「男に興味がなかったってこと?」
「好きになった人は一人だけいる」と青豆は言った。「十歳のときにその人が好きになって、手を握った」
「十歳のときに男の子を好きになった。ただそれだけ?」
「それだけ」
あゆみはナイフとフォークを手に取り、考え深げにさいまき海老を小さくカットした。「それで、その男の子は今どこで何をしているの?」
青豆は首を振った。「わからない。千葉の市川で小学校三年生と四年生のときに同じクラスだったんだけど、私は五年生のときに都内の小学校に転校して、それ以来一度も会っていない。話も聞かない。彼についてわかっているのは、生きていれば今では二十九歳になっているだろうということだけ。たぶん秋に三十歳になるはず」
「ということはつまり、その子が今どこにいて何をしているのか、青豆さんは調べようとも思わなかったわけ? 調べるのはそんなにむずかしくないと思うんだけど」
青豆はまたきっぱりと首を振った。「自分から調べる気にはなれなかった」
「変なの。私ならきつとあらゆる手を使って居所をつきとめるけどな。そんなに好きなら探し出して、あなたのことが好きだって面と向かって告白すればいいのに」
「そういうことはしたくないの」と青豆は言った。「私が求めているのは、ある日どこかで偶然彼と出会うこと。たとえば道ですれ違うとか、同じバスに乗り合わせるとか」
「運命の邂逅」
「まあ、そんなところ」と青豆は言って、ワインを一口飲んだ。「そのとき、彼にはっきり打ち明けるの。私がこの人生で愛した相手はあなた一人しかいないって」
「それって、すごくロマンチックだとは思うけどさ」とあゆみはあきれたように言った。「出会いの実際の確率は、けっこう低いような気がするな。それにもう二十年会ってないんだから、相手の顔だって変わっているかもしれないよ。通りですれ違ってもわかるものかしら」
青豆は首を振った。「いくら顔かたちが変わっていても、一目見れば私にはわかるの。間違えようがない」
「そんなものなんだ」
「そんなものなの」
「そして青豆さんは、その偶然の邂逅があることを信じて、ただひたすら待ち続けている」
「だからいつも注意怠りなく街を歩いている」
「ふうん」とあゆみは言った。「でもそこまで彼のことが好きでも、ほかの男たちとセックスをするのはべつにかまわないんだね。つまり二十六歳になってからあとは、ということだけど」
青豆は少し考えた。それから言った。「そんなのはただ通り過ぎていくだけのものだから。あとには何も残らない」
しばらく沈黙があり、そのあいだ二人は料理を食べることに集中した。それからあゆみが言った。「立ち入ったことをきくみたいだけど、二十六歳のときに青豆さんの身に何かがあったの?」
青豆は肯いた。「そのときにある出来事が私の身に起こって、私をすっかり変えてしまった。でも今ここでその話をするわけにはいかない。ごめんなさい」
「そんなこといいよ」とあゆみは言った。「なんかしつこく詮索するみたいで、気を悪くしてない?」
「ちっとも」と青豆は言った。
スープが運ばれてきて、二人はそれを静かに飲んだ。会話はそのあいだ中断した。二人がスプーンを置き、ウェイターがそれを下げたあとで会話が再開した。
「でもさ、青豆さんは怖くないのかな?」
「たとえばどんなことが?」
「だってさ、その人にひょっとして永遠に巡り合えないかもしれないじゃない。もちろん偶然の再会みたいなのはあるかもしれない。そうなればいいと私も思う。ほんとにそう願うよ。でも現実問題として、再会できないまま終るという可能性だって、大いにあるわけでしょ。それにもし再会できたとしても、彼はもうほかの人と結婚してるかもしれない。子供も二人くらいいるかもしれない。そうよね? もしそうなったら、青豆さんはおそらく、一人ぼっちでそのあとの人生を生きていくわけじゃない。この世の中でただ一人好きな人と結ばれることもなく。そう考えると怖くならない?」
青豆はグラスの中の赤いワインを眺めた。「怖いかもしれない。でも少なくとも私には好きな人がいる」
「向こうがたとえ青豆さんのことを好きじゃなかったとしても?」
「一人でもいいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人と一緒になることができなくても」
あゆみはそれについてしばらく考え込んでいた。ウェイターがやってきて、二人のグラスにワインを注ぎ足した。それを一口飲み、あゆみの言うとおりだ、と青豆はあらためて思った。どこの誰がこんな立派なワインにクレームをつけるんだろう。
「青豆さんはすごいね。そんな風にタッカンできちゃうんだ」
「達観しているわけじゃない。ただ正直にそう思っているだけ」
「私にも好きな人がいたんだ」とあゆみは打ち明けるように言った。「高校を出てすぐ、私が初めてセックスした相手。三つ年上だった。でも相手はすぐ、ほかの女の子と一緒になっちゃった。それからいくぶん荒れたの、私。これはかなりきつかった。その人のことはもうあきらめがついたけど、そのとき荒れた部分はまだちゃんと回復してはいない。二股かけているろくでもないやつだったんだ。調子が良くってさ。でもそれはそれとして、そいつのことが好きになったんだよ」
青豆は肯いた。あゆみもワイングラスを手にとって飲んだ。
「今でもときどきそいつから電話がかかってくる。ちょっと会わないかって。もちろん身体だけが目当てなんだよ。それはわかっているんだ。だから会わない。会ったりしたらどうせまたひどいことになるから。でもね、頭ではわかっていても、身体の方はそれなりに反応しちゃうわけ。彼に抱かれたいってびりびり思う。そういうことが重なると、たまにばあっと羽目を外したくなるわけ。そういうのって、青豆さんわかるかな」
「わかるよ」と青豆は言った。
「ほんとにろくでもないやつなんだ。根性はせこいし、セックスだってそんなにうまいわけじゃないしさ。でもそいつは少なくとも私のことを怖がったりしないし、とにかく会っているあいだはすごく大事にしてくれるんだ」
「そういう気持ちっていうのは選びようがないことなのよ」と青豆は言った。「向こうから勝手に押しかけてくるものだから。メニューから料理を選ぶのとは違う」
「間違えてあとで後悔することについては、似たようなものだけど」
二人は笑った。
青豆は言った。「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいる<傍点>ふり傍点>をしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」
「もしそうだとしたら、人生はけっこう薄暗い」
「かもね」
「しかし誰かを心から愛することができれば、それがどんなひどい相手であっても、あっちが自分を好きになってくれなかったとしても、少なくとも人生は地獄ではない。たとえいくぶん薄暗かったとしても」
「そういうこと」
「でもさ、青豆さん」とあゆみは言った。「私は思うんだけど、この世界ってさ、理屈も通ってないし、親切心もかなり不足している」
「そうかもしれない」と青豆は言った。「でも今更取り替えもきかない」
「返品有効期間はとっくに過ぎている」とあゆみは言った。
「レシートも捨ててしまった」
「言えてる」
「でも、いいじゃない。こんな世界なんてあっという間に終わっちゃうよ」と青豆は言った。
「そういうの、とても楽しそう」
「そして王国がやってくるの」
「待ちきれない」とあゆみは言った。
二人はデザートを食べ、エスプレッソを飲んで、割り勘で勘定を済ませた(驚くほど安かった)。それから近所のバーに寄ってカクテルを一杯ずつ飲んだ。
「ねえ、あそこにいる男、ひょっとして青豆さん好みじゃない?」
青豆はそちらに目をやった。背の高い中年の男が、カウンターの端で一人でマティー二を飲んでいた。成績が良くてスポーツの得意な高校生が、そのまま歳を取って中年になったようなタイプだった。髪は薄くなりかけているが、顔立ちは若々しい。
「そうかもしれないけど、今日は男っけはなし」と青豆はきっぱりと言った。「それにここは上品なバーなんだからね」
「わかってるよ。ただちょっと言ってみただけ」
「またこんどね」
あゆみは青豆の顔を見た。「それは、またこんどつきあってくれるってこと? つまり、男をみつけに行くときにということだけど」
「いいよ」と青豆は言った。=緒にやろう」
「よかった。青豆さんと二人だと、なんだってできちゃいそうな気がするんだ」
青豆はダイキリを飲んでいた。あゆみはトム?コリンズを飲んでいた。
「ところでこのあいだ電話で、私を相手にレズビアンの真似みたいなことをしたって言ってたよね」と青豆は言った。「それで、いったいどんなことしたの?」
「ああ、あれね」とあゆみは言った。「たいしたことはしてないよ。ただ場を盛り上げるためにちょっとレズの真似ごとをしただけ。ひょっとしてなんにも覚えてない? 青豆さんだってそのときはけっこう盛り上がってたのに」
「なんにも覚えてない。きれいさっぱり」と青豆は言った。
「だから二人で裸でさ、おっぱいをちょっとさわったり、あそこにキスしたり……」
「<傍点>あそこにキスした傍点>?」、青豆はそう言ってしまってから、あわててあたりを見まわした。静かなバーの中で彼女の声は必要以上に大きく響いたからだ。ありがたいことに彼女が口にしたことは、誰の耳にも届かなかったようだった。
「だからかたちだけだって。舌まで使ってない」
「やれやれ」、青豆はこめかみを指で押さえ、ため息をついた。「まったくもう、なんてことをしたんだろう」
「ごめんね」とあゆみは言った。
「いいよ。あなたは気にしなくていい。そこまで酔っぱらった私が悪いんだから」
「でも青豆さんの<傍点>あそこ傍点>ってかわいくってきれいだったよ。新品同様って感じだった」
「そう言われても、実際に新品同様なんだから」と青豆は言った。-
「ときどきしか使ってない?」
青豆は肯いた。「そういうこと。ねえ、ひょっとしてあなたにはレズビアンの傾向みたいなのがあるの?」
あゆみは首を振った。「そんなことしたの、生まれて初めてだよ。ほんとに。でも私もけっこう酔っぱらっていたし、それに青豆さんとだったら、ちょっとくらいそういうのもいいかなとか思ったわけ。真似ごとくらいなら、遊びつぼくていいかなって。青豆さんはどうなの、そっちの方は?」
「私もその気はない。でも一度だけ高校生のとき、仲の良い女友だちとそういう風になったことはある。そんなつもりはなかったのに、成り行きで何となくね」
「そういうことってあるかもしれない。それで、そのときは感じた?」
「うん。感じたと思う」と青豆は正直に言った。「でもそのとき一回きり。こういうのはいけないと思って、もう二度とはしなかった」
「レズビアンがいけないってこと?」
「そうじゃない。レズビアンがいけないとか、不潔だとか、そんなことじゃないの。<傍点>その人と傍点>そういう関係になるべきじゃないと思ったっていうこと。大事な友情をそういうナマのかたちには変えたくはなかった」
「そうか」とあゆみは言った。「青豆さん、今晩よかったら青豆さんのところに泊めてもらえないかな? このまま寮に帰りたくないんだ。いったんあそこに帰っちゃうと、せっかくこうして醸し出された優雅な雰囲気が一瞬にしてぶちこわしになっちゃうから」
青豆はダイキリの最後の一口を飲み、グラスをカウンターに置いた。「泊めるのはいいけど、変なことは<傍点>なし傍点>だよ」
「うん、いいよ、そういうんじゃないんだ。ただ青豆さんともう少し一緒にいたいだけ。どこでもいいから寝かせて。私は床の上でもどこでも寝ちゃえるたちだから。それに明日は非番だから朝もゆっくりできる」
地下鉄を乗り継いで自由が丘のアパートまで戻った。時計は十一時前を指していた。二人とも気持ちよく酔いがまわっていたし、眠かった。ソファに寝支度を整え、あゆみにパジャマを貸した。
「ちょっとだけベッドで一緒に寝ていい? 少しだけくっついていたいんだ。変なことはしない。約束するから」とあゆみは言った。
「いいよ」と青豆は言った。これまでに三人の男を殺している女と、現役の婦人警官が一緒のベッドで寝るなんてね、と彼女は感心した。世の中は不思議なものだ。
あゆみはベッドに潜り込み、両腕を青豆の身体にまわした。彼女のしっかりとした乳房が青豆の腕に押しつけられた。アルコールと歯磨きの匂いが息に混じっていた。
「青豆さん。私のおっぱいって大きすぎると思わない?」
「そんなことないよ。とてもいいかたちに見えるけど」
「でもさ、大きなおっぱいってなんだか頭が悪そうじゃない。走るとゆさゆさ揺れるし、サラダボウルをふたつ並べたみたいなブラを物干しに干すのも恥ずかしいし」
「男の人はそういうのが好きみたいだよ」
「それに乳首だって大きすぎるんだ」
あゆみはパジャマのボタンを外して片方の乳房を出し、乳首を青豆に見せた。「ほら、こんなに大きいんだよ。変だと思わない?」
青豆はその乳首を見た。たしかに小さくはないが、気にするほどのサイズだとも思えなかった。環の乳首より少し大きなくらいだ。「かわいいじゃない。大きすぎるって誰かに言われたの?」
「ある男に。こんなでかい乳首を見たことないって」
「その男は見た数が少なかったのよ。それくらい普通だよ。私のが小さすぎるだけ」
「でも私、青豆さんのおっぱいって好きだな。かたちが上品で、知性的な印象があったよ」
「まさか。小さすぎるし、右左でかたちが違うし。だからブラを選ぶときに困るのよ。右と左でサイズが違うから」
「そうか、それぞれにみんないろんなことを気にして生きているんだ」
「そういうこと」と青豆は言った。「だからもう寝なさい」
あゆみは手を下に伸ばして、青豆のパジャマの中に指を入れようとした。青豆はその手をつかんで押さえた。
「だめ。さっき約束したでしょう? 変なことはしないって」
「ごめん」とあゆみは言って手を引っ込めた。「そう、さっきたしかに約束した。きつと酔っているんだね。でもさ、私って青豆さんに憧れているんだ。さえない女子高校生みたいに」
青豆は黙っていた。
「あのさ、青豆さんは自分にとっていちばん大事なものを、その男の子のために大事にとっているんだね、きつと?」とあゆみは小さな声で囁くように言った。「そういうのってうらやましいよ。とっとける相手がいるのって」
そうかもしれない、と青豆は思った。しかし私にとっていちばん大事なもの、それは何だろう?
「もう寝なさい」と青豆は言った。「寝付くまで抱いててあげるから」
「ありがとう」とあゆみは言った。「ごめんね。迷惑をかけて」
「謝ることはないよ」と青豆は言った。「迷惑なんてかけてない」
青豆はあゆみの温かい息づかいを脇の下に感じ続けていた。遠くの方で犬が吠え、誰かが窓をばたんと閉めた。そのあいだずっと、彼女はあゆみの髪を撫でていた。
眠り込んでしまったあゆみをそこに残して、青豆はベッドを出た。どうやら今夜は彼女がソファで眠ることになりそうだ。冷蔵庫からミネラル?ウォーターを出して、グラスに二杯飲んだ。そして狭いベランダに出て、アルミニウムの椅子に座り、街を眺めた。穏やかな春の夜だった。遠くの道路から人工的な海鳴りのような音が、微風に乗って聞こえてきた。真夜中を過ぎて、ネオンの輝きもいくぶん少なくなっていた。
私はあゆみという女の子に対して、たしかに好意のようなものを抱いている。できるだけ大事にしてやりたいと思っている。環が死んでから、私は長いあいだ、もう誰とも深い関わりを持つまいと心を決めて生きてきた。新しい友だちがほしいと思ったことはなかった。しかしあゆみに対しては、なぜか自然に心を開くことができる。あるところまで気持ちを正直に打ち明けることもできる。でももちろん、彼女はあなたとはぜんぜん違う、と青豆は自分の中にいる環に向かって語りかけた。あなたは特別な存在だ。私はあなたと共に成長してきたのだもの。ほかの誰とも比較にならない。
青豆は首を後ろにそらせるような格好で、空を見上げていた。目は空を眺めながらも、彼女の意識は遠い記憶の中を彷徨{さまよ}っていた。環と過ごした時間、二人で語り合ったこと。そしてお互いの身体を触り合ったこと……。でもそのうちに、彼女が今目にしている夜空が、普段見ている夜空とはどこかしら異なっていることに気づいた。何かがいつもとは違っている。微かな、しかし打ち消しがたい違和感がそこにはある。
どこにその違いがあるのか、思い当たるまでに時間がかかった。そしてそれに思い当たったあとでも、事実を受け入れるのにかなり苦労しなくてはならなかった。視野が捉えているものを、意識がうまく認証できないのだ。
空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と、大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣りにもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。それが彼女の視野の捉えたものだった。
青豆は目を細め、その二つの月をじつと眺めた。それから一度目を閉じ、ひとしきり時間を置き、深呼吸をし、もう一度目を開けてみた。すべてが正常に復し、月がひとつだけになっていることを期待して。しかし状況はまったく同じだった。光線の悪戯{いたずら}でもないし、視力がおかしくなったわけでもない。空には間違いなく、見違えようもなく、月が二つきれいに並んで浮かんでいる。黄色の月と、緑色の月。
青豆はあゆみを起こそうかと思った。本当に月が二つそこにあるのかどうか、尋ねてみるために。しかし思い直してやめた。「そんなの当たり前じゃない。月は去年から二つに増えたんだよ」とあゆみは言うかもしれない。あるいは「何を言ってるの、青豆さん。月はひとつしか見えないよ。目がどうかしたんじゃないの」と言うかもしれない。どちらにしても私が抱えている問題は解決しない。より深まるだけだ。
青豆は両手で顔の下半分を覆った。そしてその二つの月をじつと眺め続けた。間違いなく何かが起こりつつある、と彼女は思った。心臓の鼓動が速くなった。世界がどうかしてしまったか、あるいは私がどうかしてしまったか、そのどちらかだ。瓶に問題があるのか、それとも蓋に問題があるのか?
彼女は部屋に戻り、ガラス戸に鍵をかけ、カーテンを引いた。戸棚からブランデーの瓶を出し、グラスに注いだ。あゆみはベッドの上で気持ちよさそうに寝息を立てていた。青豆はその姿を眺めながら、ブランデーをすするように飲んだ。キッチン?テーブルに両肘をつき、カーテンの背後にあるもののことを考えないように努力しながら。
ひょっとしたら、と彼女は思う、世界は本当に終わりかけているのかもしれない。
「そして王国がやってくる」と青豆は小さく口に出して言った。
「待ちきれない」とどこかで誰かが言った。
第16章 天吾
気に入ってもらえてとても嬉しい
十日かけて『空気さなぎ』に手を入れ、新しい作品としてなんとか完成させ、小松に渡してしまったあと、凪{なぎ}のように平穏な日々が天吾に訪れた。週に三日予備校に行って講義をし、人妻のガールフレンドと会った。それ以外の時間を家事をしたり、散歩をしたり、自分の小説を書くことに費やした。そのようにして四月が過ぎ去った。桜が散り、新芽が顔を出し、木蓮が満開になり、季節が段階を踏んで移っていった。日々は規則正しく、滑らかに、こともなく流れていった。それこそがまさに天吾の求めている生活だった——ひとつの週が切れ目なく自動的に次の週へと結びついていくこと。
しかしそこにはひとつの変化が見受けられた。<傍点>良き変化傍点>だ。天吾は小説を書きながら、自分の中に新しい源泉のようなものが生まれていることに気がついた。それほどたくさんの水がこんこんとわき出てくるわけではない。どちらかといえば岩間のささやかな泉だ。しかしたとえ少量ではあっても、水は途切れなくしたたり出てくるようだ。急ぐことはない。焦ることもない。それが岩のくぼみに溜まるのをじつと待っていればいい。水が溜まれば、それを手で掬{すく}うことができる。あとは机に向かって、掬い取ったものを文章のかたちにしていくだけだ。そのようにして物語は自然に前に進んでいった。
集中して脇目もふらず『空気さなぎ』の改稿をしたことによって、その源泉をこれまで塞いでいた岩が取り除かれたのかもしれない。どうしてそんなことになったのか、その理屈{わけ}は天吾にもよくわからないのだが、しかしそういう「重い蓋がやっとはずれた」という手応えが確かにあった。身が軽くなり、狭いところから出て自由に手脚を伸ばせるようになった気がする。たぶん『空気さなぎ』という作品が、彼の中にもともとあった何かをうまく刺激したのだろう。
天吾はまた自分の中に意欲のようなものが生じていることに思い当たった。それは天吾が生まれてこの方、あまり手にした覚えのないものだった。高校から大学にかけて、柔道のコーチや先輩によく言われたものだった。「お前には素質もあるし、力もある、練習もよくする。なのに意欲というものがない」と。確かにそのとおりかもしれない。天吾には「何がなんでも勝ちたい」という思いが何故か希薄だった。だから準決勝か決勝あたりまではいくのだが、肝心の大勝負になるとあっさりと負けてしまうことが多かった。柔道だけでなく、何ごとによらず天吾にはそういう傾向があった。おっとりしているというか、<傍点>石にしがみついても傍点>という姿勢がない。小説についても同じだ。悪くない文章を書くし、それなりに面白い物語を作ることもできる。しかし読む人の心に捨て身で訴えかける強さがない。読み終えて「何かが足りない」という不満が残る。だからいつも最終選考まで行きながら、新人賞を取ることができない。小松の指摘するとおりだ。
しかし天吾は『空気さなぎ』を書き直したあと、生まれて初めて悔しさのようなものを感じた。書き直しをしているときは、とにかくその作業に夢中になっていた。ただ何も考えずに手を動かしていた。しかしそれを完成させて小松に渡してしまうと、深い無力感が彼を襲った。その無力感が一段落すると、今度は怒りに似たものが腹の底からこみ上げてきた。それは自らに対する怒りだった。俺は他人の物語を借用して、詐欺同然のような書き直しをしたのだ。それも自分の作品を書くときよりもずっと熱中して。そう考えると、天吾は自分が恥ずかしかった。自分自身の中に潜んでいる物語を見つけ出し、それを正しい言葉で表現するのが作家ではないか。情けないと思わないのか。これくらいのものは、その気にさえなればお前にだって書けるはずだ。そうじゃないのか?
しかし彼はそれを証明しなくてはならない。
天吾はそれまで書きかけていた原稿を、思い切って捨て去ることにした。そしてまったく新しい物語を白紙から書き起こしていった。彼は目を閉じて、自分の中にある小さな泉のしたたりに長いあいだ耳を澄ませた。やがて言葉が自然に浮かんできた。天吾はそれを少しずつ、時間をかけて文章にまとめあげていった。
五月になって、小松から久しぶりに電話がかかってきた。夜の九時前だった。
「決まったぜ」と小松は言った。その声には興奮した響きがわずかにうかがえた。小松にしては珍しいことだ。
最初のうち小松が何を言っているのか、天吾にはうまく理解できなかった。「何のことですか?」
「何のことですかはないだろう。『空気さなぎ』の新人賞受賞がついさっき決まったんだよ。選考委員の全員一致だった。論争みたいなものはなかった。ま、当然のことだ。それだけの力のある作品だからね。しかし何はともあれ、ものごとは前に進み出したわけだ。こうなればあとは一蓮托生ってやつだな。お互いしっかりやろうぜ」
壁のカレンダーに目をやった。そういえば今日は新人賞の選考会の日だった。天吾は自分の小説を書くことに夢中になって、日にちの感覚をなくしていた。
「それで、これからどうなるんですか? つまり日程的に」と天吾は尋ねた。
「明日、新聞発表になる。全国紙に一斉に記事が出る。ひょっとしたら写真も出るかもしれない。十七歳の美少女、それだけでもかなりの話題にはなるだろう。こう言っちゃなんだが、たとえば冬眠明けの熊みたいな見かけの、三十歳の予備校数学講師が新人賞をとるのとでは、ニュース?バリューが違う」
「天と地ほど」と天吾は言った。
「五月十六日に新橋のホテルで授賞式がある。ここで記者会見が行われることになっている」
「ふかえりはそれに出席するんですか?」
「出ることになるだろう。この一回だけはね。新人文学賞の授賞式に受賞者が出席しないというわけにはいかないよ。それさえ大過なくこなせば、あとは徹底的に秘密主義をとる。申し訳ありませんが、作者は人前に出ることを好みません。その線でうまく押し切る。そうすれば<傍点>ぼろ傍点>は出てこない」
天吾はふかえりがホテルの広間で記者会見をするところを想像してみた。並んだマイク、たかれるフラッシュ。そんな光景はうまく想像できなかった。
「小松さん、記者会見を本当にやる気なんですか?」
「一度はやらなくちゃ格好がつかないからね」
「とんでもないことになりますよ、きっと」
「だから、とんでもないことにならないようにするのが、天吾くんの役目になる」
天吾は電話口で沈黙した。不吉な予感が暗い雲のように地平線に姿を見せていた。
「おい、そこにいるのか?」と小松が尋ねた。
「いますよ」と天吾は言った。「それはいったいどういう意味ですか? 僕の役目っていうのは?」
「だからさ、記者会見の傾向と対策みたいなことをふかえりにみっちり教え込むんだよ。そんなところで出てくる質問なんて、おおよそ似たようなものだ。だから予想される一連の質問に対する答えをあらかじめ用意しておいて、そいつを丸ごと覚えさせるんだ。君も予備校で教えているんだ。そのへんの要領はわかるだろう」
「それを僕がやるんですか?」
「ああ、そうだよ。ふかえりは君のことをなぜか信用している。君の言うことなら聞く。俺がやるのは無理だ。まだ会ってもくれないような状態だからな」
天吾はため息をついた。彼はできることなら『空気さなぎ』の問題とはきっぱり縁を切ってしまいたかった。言われたことはやったのだし、あとは自分の仕事に集中したかった。しかしそうすんなりとはいかないだろうという予感はあった。そして悪い予感というのは、良い予感よりずっと高い確率で的中する。
「あさっての夕方は時間があいているか?」と小松が尋ねた。
「空いてますよ」
「六時にいつもの新宿の喫茶店。ふかえりはそこにいる」
「ねえ小松さん、僕にはそんなことできませんよ。記者会見がどんなものかもよく知らないんです。そんなもの見たこともないんだから」
「君は小説家になりたいんだろう。だったら想像しろ。見たこともないものを想像するのが作家の仕事じゃないか」
「でも『空気さなぎ』の書き直しさえやれば、もう何もしなくていい。あとのことは俺にまかせて、ベンチに座ってのんびりゲームの続きを見てろ、と言ったのは小松さんじゃありませんか」
「天吾くん。俺にできることであれば、喜んで自分でやっているよ。俺だって人にものを頼むのは好きじゃない。しかしできないからこうして頭を下げているんじゃないか。急流を下るボートに喩{たと}えるなら、俺は今舵をとるのに忙しくて、両手がはなせないんだ。だから君にオールを渡している。もし君ができないというのであれば、ボートは転覆し、俺たちはみんなきれいに破滅するかもしれない。ふかえりをも含めて。そんなことになりたくないだろう」
天吾はもう一度ため息をついた。どうしていつもこう、断り切れない状況に追い込まれるのだろう。「わかりました。できるだけのことはやってみましょう。うまくいくかどうか保証はできませんが」
「そうしてくれ。恩に着るよ。なにしろふかえりって子は天吾くんとしか話をしないって決めているみたいだ」と小松は言った。「それからもうひとつ。俺たちは新しく会社を設立する」
「会社?」
「事務所、オフィス、プロダクション……名称はなんだっていい。とにかくふかえりの文筆活動を処理するための会社だ。もちろんペーパー?カンパニーだ。表向きには会社からふかえりに報酬が支払われることになる。代表は戎野先生になってもらう。天吾くんもその会社の社員になる。肩書きはまあなんだっていいだろう、とにかくそこから報酬を得る。俺も名前が表に出ないかたちでそこに加わる。俺が一枚噛んでいることがわかったら、それこそ問題になるからな。そのようにして利益を分配する。君は書類に何カ所か印鑑を押すだけでいい。あとは全部こちらでさらさらと処理する。知り合いに腕利きの弁護士がいるから」
天吾はそれについて考えた。「ねえ、小松さん、僕はそこから外してもらえませんか。報酬はいりません。『空気さなぎ』を書き直すのは楽しかった。そこからいろんなことを学べました。ふかえりが新人賞を取れて何よりだった。彼女が記者会見でうまくやれるように、できるだけ手筈を整えます。そこまでのことはなんとかやります。でもそんなややこしい会社には関わりたくないんです。それじゃ完全な組織的な詐欺ですよ」
「天吾くん、もう後戻りはできないんだ」と小松は言った。「組織的な詐欺? そういわれればたしかにそうかもしれない。そういう言い方もできるだろう。でもそんなことは君にも最初からわかっていたはずだ。ふかえりという半分架空の作家を俺たちでこしらえ上げて、世間をだまくらかすってのがそもそもの目論見だったんじゃないか。そうだろ? 当然そこには金が絡んでくるし、それを処理するための練れたシステムも必要になってくる。子供の遊びじゃないんだ。今さら『おっかないから、そんなことに関わりたくはありません。お金はいりません』なんて言いぶんは通用しないよ。ボートから降りるのなら、もっと前に、流れがまだ静かなうちに降りるべきだった。今となってはもう遅い。会社を設立するには、名義上の頭数が必要だし、ここで事情を知らない人間を引き入れるわけにはいかない。君にはどうしても会社に加わってもらわなくちゃならない。君をしっかり含めたかたちで、ものごとは進行しているんだ」
天吾は頭を巡らせた。しかし良い考えはひとつも湧いてこなかった。
「ひとつ質問があります」と天吾は言った。「小松さんの口ぶりからすると、戎野先生は今回の計画に全面的に加わるつもりでいるみたいに聞こえます。ペーパー?カンパニーを作ってそこの代表になることについても、既に了承しているみたいだ」
「先生はふかえりの保護者としてすべての事情を了承し、納得し、ゴーサインを出している。この前の君の話を聞いて、すぐさま戎野先生に電話をかけた。先生はもちろん俺のことを覚えていたよ。ただ天吾くんの口から、俺の人物評をあらためて聞いておきたかったようだ。君はなかなか人間観察が鋭いって感心していた。俺についていったいどんなことを先生に言ったんだ?」
「戎野先生はこの計画に加わることで、いったい何を得るのですか? お金のためにやっているとも思えませんが」
「そのとおり。この程度のはした金のために動く人物ではない」
「じゃあ、なぜこんなあぶなっかしい計画にかかわるんでしょう? 何か得るところがあるんですか?」
「それは俺にもわからん。腹の底が読み切れない人だからな」
「小松さんにも腹の底が読めないとなれば、それは相当底が深そうですね」
「まあな」と小松は言った。「見かけはそのへんの罪のないじいさんだが、実はまったく得体の知れない人だ」
「ふかえりはどこまでそのへんの事情を承知しているんですか?」
「裏側のことは何ひとつ知らないし、知る必要もない。ふかえりは戎野先生を信頼しているし、天吾くんには好意を持っている。だから君に、こうしてもう一肌脱いでいただくことになったわけだよ」
天吾は受話器を持ち替えた。なんとか事態の進行に追いついていく必要がある。「ところで戎野先生はもう学者じゃありませんね。大学も辞めたし、本を書いたりもしていない」
「ああ、学問的なものとはきっぱり縁を切っている。優秀な学者だったが、アカデミズムの世界にはとくに未練もないみたいだ。もともと権威や組織とはそりが合わず、どちらかと言えば異端の人だった」
「今は何を職業にしているんですか?」
「株屋をやっているようだ」と小松は言った。「株屋という表現が古くさければ、投資コンサルタントだ。よそから潤沢に資金を集めて、それを動かしながら利ざやを稼ぐ。山の上にこもって、売ったり買ったりの指示を出している。おそろしく勘がいい。情報の分析にも長けていて、独自のシステムを作り上げている。最初は趣味でやっていたんだが、やがてそっちが本職になった。そういう話だ。その世界ではなかなか有名らしい。ひとつ言えるのは、金には不自由していないということだ」
「文化人類学と株とのあいだにどんな関連性があるのか、よくわかりませんね」
「一般的にはない。彼にとってはある」
「そして腹の底は読めない」
「そのとおりだ」
天吾は指先でしばらくこめかみを押さえた。それからあきらめて言った。「僕はあさっての夕方の六時に、新宿のいつもの喫茶店でふかえりに会い、二人で来たるべき記者会見についての打ち合わせをする。それでいいわけですね」
「そういう手筈になっている」と小松は言った。「なあ天吾くん、このいっときむずかしいことは考えるな。ただ流れのままに身を任せよう。こんなのって、一生のあいだにそう何度もあることじゃないぜ。華麗なピカレスク?ロマンの世界だ。ひとつ腹をくくって、こってりとした悪の匂いを楽しもう。急流下りを楽しもう。そして滝の上から落ちるときは、一緒に派手に落ちよう」
天吾は二日後の夕方に、新宿の喫茶店でふかえりと会った。彼女は胸のかたちがくっきりと出る薄い夏物のセーターに、細身のブルージーンズをはいていた。髪はまっすぐ長く、肌は艶やかだった。まわりの男たちがちらちらと彼女の方に目をやった。天吾はその視線を感じた。しかしふかえり自身はそんなことには気がつきもしないようだった。たしかにこんな少女が文芸誌の新人賞をとったら、ちょっとした騒ぎになるかもしれない。
ふかえりは『空気さなぎ』が新人賞をとったことを、すでに連絡を受けて知っていた。しかしそのことでとくに喜んでいる風もなく、興奮している風もなかった。新人賞を取ろうが取るまいが、どちらでもいいことなのだ。夏を思わせるような日だったが、彼女はホット?ココアを注文した。そして両手でカップを持ち、大事そうにそれを飲んだ。記者会見があるということは知らされていなかったが、それを聞いても何の反応も示さなかった。
「記者会見というのがどんなものだかは知っているね?」
「キシャカイケン」とふかえりは反復した。
「新聞や雑誌社の記者が集まって、壇上に座った君にいろんな質問をする。写真もとられる。ひょっとしたらテレビも来るかもしれない。その受け答えは全国に報道される。十七歳の女の子が文芸誌の新人賞を取ることは珍しいし、世間的にニュースになる。選考委員が全員一致で強く推したというのも話題になっている。あまりないことだから」
「シツモンをする」とふかえりは尋ねた。
「彼らが質問をし、君がそれに返事をする」
「どんなシツモン」
「あらゆることだよ。作品について、君自身について、私生活、趣味、これからの計画。そういう質問に対する答えを、今から用意しておいた方がいいかもしれない」
「どうして」
「その方が安全だからだよ。答えにつまったり、誤解を招きそうなことを言ったりせずにすむ。ある程度準備しておいて損はない。予行演習みたいなものだ」
ふかえりは何も言わずにココアを飲んだ。そして〈そんなものにとくに関心はないけれど、もしあなたが必要だと考えるのなら〉という目で天吾を見た。彼女の言葉よりは、彼女の目の方が時として能弁になる。少なくともより多くのセンテンスを語る。しかし目つきだけで記者会見をおこなうわけにはいかない。
天吾は鞄から紙を取り出して広げた。そこには記者会見で想定される質問が書かれていた。天吾は前夜、長い時間をかけて知恵を絞り、それを作成したのだ。
「僕が質問するから、僕を新聞記者だと思ってそれに答えてくれる?」
ふかえりは肯いた。
「小説はこれまでたくさん書いてきたんですか?」
「たくさん」とふかえりは答えた。
「いつごろから書き始めたんですか?」
「むかしから」
「それでいい」と天吾は言った。「短く答えればいい。余計なことは言う必要はない。それでいい。つまりアザミに代わりに書いてもらっていたということだね?」
ふかえりは肯いた。
「それは言わなくていい。僕と君とのあいだの秘密だ」
「それはいわない」とふかえりは言った。
「新人賞に応募したとき、賞をとれると思っていましたか?」
彼女は微笑んだが、口は開かなかった。沈黙が続いた。
「答えたくないんだね?」と天吾は尋ねた。
「そう」
「それでいい。答えたくないときには黙ってにこにこしていればいい。どうせ下らない質問だ」
ふかえりはまた肯いた。
「『空気さなぎ』の物語の筋はどこから思いついたんですか?」
「めくらのヤギからでてきた」
「めくらはまずいな」と天吾は言った。「目の見えない山羊と言った方がいい」
「どうして」
「めくらっていうのは差別用語なんだ。そんな言葉を耳にしたら、新聞記者の中には軽い心臓発作を起こす人もいるかもしれない」
「サベツヨウゴ」
「説明すると長くなる。とにかくめくらの山羊じゃなくて、<傍点>目の見えない傍点>山羊に言い換えてくれないかな」
ふかえりは少し間を置いてから言った。「めのみえないヤギからでてきた」
「それでいい」と天吾は言った。
「<傍点>めくら傍点>はだめ」とふかえりは確認した。
「そういうこと。でもその答えはなかなかいい」
天吾は質問を続けた。「学校の友だちは、今回の受賞についてなんて言っていますか?」
「ガッコウにはいかない」
「どうして学校に行かないのですか?」答えはなし。
「これからも小説は書き続けますか?」
やはり沈黙。
天吾はコーヒーを飲み干し、カップをソーサーに戻した。店の天井に埋め込まれたスピーカーからは弦楽器の演奏する『サウンド?オブ?ミュージック』の挿入歌が小さな音で流れていた。雨粒と、バラと、子猫のひげと……。
「わたしのこたえはまずい」とふかえりは尋ねた。
「まずくない」と天吾は言った。「ぜんぜんまずくない。それでいい」
「よかった」とふかえりは言った。
天吾の言ったことは本心だった。一度にひとつのセンテンスしか口にしないにせよ、句読点が不足しているにせよ、彼女の答え方はある意味では完壁だった。何よりも好ましいのは間髪を入れず返答がかえってくるところだった。そして彼女は相手の目をまっすぐ見ながら、まばたきひとつせず返事をした。正直な返答をしている証拠だ。人を小馬鹿にして短い答えを返しているのではない。おまけに、彼女が何を言っているのか、正確なところは誰にも理解できそうにはない。それこそが天吾の望んでいることだった。誠実な印象を与えながら、相手をうまく煙にまいてしまうこと。
「好きな小説は?」
「ヘイケモノガタリ」
素晴らしい返答だと天吾は思った。「『平家物語』のどんなところが好きですか?」
「すべて」
「そのほかには?」
「コンジャクモノガタリ」
「新しい文学は読まないのですか?」
ふかえりはしばらく考えた。「サンショウダユウ」
素晴らしい。森鴎外が『山椒大夫』を書いたのはたしか大正時代の初めだ。それが彼女の考える新しい文学なのだ。
「趣味はなんですか?」
「オンガクをきくこと」
「どんな音楽?」
「バッハがいい」
「とくにお気に入りのものは?」
「BWV846からBWV893」
天吾はしばらく考えてから言った。「『平均律クラヴィーア曲集』。第一巻と第二巻」
「そう」
「どうして番号で答えるの?」
「そのほうがおぼえやすい」
『平均律クラヴィーア曲集』は数学者にとって、まさに天上の音楽である。十二音階すべてを均等に使って、長調と短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で二十四曲。第一巻と第二巻をあわせて四十八曲。完全なサイクルがそこに形成される。
「ほかには?」
「BWV244」
BWV244が何だったか、天吾にはすぐに思い出せなかった。番号に覚えはあるのだが、曲名が浮かんでこない。
ふかえりは歌い始めた。
Bu?’ und Reu’
Bu?’ und Reu’
Knirscht das Sündenherz entzwei
Bu?’ und Reu’
Bu?’ und Reu’
Knirscht das Sündenherz entzwei
Knirscht das Sündenherz entzwei
Bu?’ und Reu’
Bu?’ und Reu’
Knirscht das Sündenherz entzwei
Bu?’ und Reu’
Knirscht das Sündenherz entzwei
Da? die Tropfen meiner Z?hren
Angenehme Spezerei
Treuer Jesu, dir geb?ren.
天吾はしばらく言葉を失っていた。音程はそれほど確かではないが、彼女のドイツ語の発音は明瞭で驚くばかりに正確だった。
「『マタイ受難曲』」と天吾は言った。「歌詞を覚えているんだ」
「おぼえていない」とその少女は言った。
天吾は何かを言おうとしたが、言葉が浮かんでこなかった。仕方なく手元のメモに目をやり、次の質問に移った。
「ボーイフレンドはいますか?」
ふかえりは首を振った。
「どうしていないの?」
「ニンシンしたくないから」
「ボーイフレンドがいても、妊娠する必要はないと思うけど」
ふかえりは何も言わなかった。何度か静かにまばたきをしただけだ。
「どうして妊娠したくないの?」
ふかえりはやはりただじつと口を閉ざしていた。天吾は自分がとても愚かしい質問をしたような気がした。
「もうやめよう」と天吾は質問のリストを鞄にしまいながら言った。「実際にどんな質問がくるかはわからないし、そんなものどうでも好きなように答えればいい。君にはそれができる」
「よかった」とふかえりは安心したように言った。
「インタビューの答えなんて、いくら準備したって無駄だと君は考えている」
ふかえりは小さく肩をすぼめた。
「僕も君の意見に賛成だ。僕だって好きでこんなことをやってるんじゃない。小松さんにやってくれと頼まれただけだよ」
ふかえりは肯いた。
「ただし」と天吾は言った。「僕が『空気さなぎ』の書き直しをしたことは、誰にも言わないでもらいたい。それはわかっているね?」
ふかえりは二度肯いた。「わたしがひとりでかいた」
「いずれにせよ、『空気さなぎ』は君ひとりの作品であって、ほかの誰の作品でもない。それは最初からはっきりしていることだ」
「わたしがひとりでかいた」とふかえりは繰り返した。
「僕が手を入れた『空気さなぎ』は読んだ?」
「アザミがよんでくれた」
「どうだった?」
「あなたはとてもうまくかく」
「それはつまり、気に入ったということなのかな?」
「わたしがかいたみたいだ」とふかえりは言った。
天吾はふかえりの顔を見た。彼女はココアのカップを持ち上げて飲んだ。彼女の美しい胸のふくらみに目をやらないようにするのに努力が必要だった。
「それを聞いて嬉しいよ」と天吾は言った。[『空気さなぎ』を書き直すのはすごく楽しいことだった。でももちろん苦労もした。『空気さなぎ』が<傍点>君ひとりの作品である傍点>という事実を損なわないようにするためにね。だからできあがった作品が君に気に入ってもらえるかどうかは、僕には大事なことだった」
ふかえりは黙って肯いた。そして何かを確かめるように、小さなかたちの良い耳たぶに手をやった。
ウェイトレスがやってきて、二人のグラスに冷たい水を注いだ。天吾はそれを一口飲んで、喉を潤した。そして勇気を出して、少し前から抱いていた考えを口にした。
「ひとつ個人的なお願いがあるんだ。もちろん君さえよければということだけど」
「どんなこと」
「できれば今日と同じかっこうで記者会見に出てもらえないかな」
ふかえりはよくわからないという顔をして天吾を見た。それから自分の着ている服をひとつひとつ確認した。まるで自分が何を着ているか今まで気がつかなかったみたいに。
「このフクをそこに着ていく」と彼女は質問した。
「そう。君が今着ている服をそのまま記者会見に着ていくんだ」
「どうして」
「よく似合っているから。つまり、胸のかたちがとてもきれいに出ているし、これはあくまで僕の予感に過ぎないけど、新聞記者はそっちの方につい目がいって、厳しい質問はあまりされないですむんじゃないかな。もしいやならかまわない。むりにそうしてくれと頼んでいるわけじゃないから」
ふかえりは言った。「フクはぜんぶアザミがえらぶ」
「君は選ばない?」
「わたしはなにをきてもかまわない」
「その今日の格好もアザミが選んだのかな?」
「アザミがえらんだ」
「でもそれはよく似合っているよ」
「このフクだとムネのかたちがいい」と彼女は疑問符抜きで質問した。
「そういうことだよ。なんというか、目立つ」
「このセーターとこのブラジャーのくみあわせがいい」
ふかえりにじつと目をのぞき込まれて、天吾は頬が赤くなるのを感じた。
「組み合わせまではよくわからないけど、とにかくそれがなんというか、良い結果をもたらすみたいだ」と彼は言った。
ふかえりはまだまじまじと天吾の目をのぞき込んでいた。そして真剣に尋ねた。「ついめがいってしまう」
「そう認めざるを得ない」と天吾は慎重に言葉を選んで答えた。
ふかえりはセーターの首のところをひっぱり、鼻を突っ込むようにして中をのぞいた。おそらく自分が今日どんな下着をつけているかを確認するために。それから天吾の紅潮した顔を、珍しいものでも見るみたいにしばらく眺めた。「いうとおりにする」としばらくあとで言った。
「ありがとう」と天吾は礼を言った。そして打ち合わせは終了した。
天吾はふかえりを新宿駅まで送った。多くの人は上着を脱いで通りを歩いていた。ノースリーブ姿の女性さえ見受けられた。人々のざわめきや、車の音がひとつに入り混じって、都会特有の開放的な音を作り上げていた。爽やかな初夏の微風が通りを吹き抜けていた。いったいどこから、こんな素敵な匂いのする風が新宿の街に吹いてくるのだろう。天吾は不思議に思った。
「これからあのうちまで戻るの?」と天吾はふかえりに尋ねた。電車は混んでいるし、家に戻りつくまでに途方もなく長い時間がかかる。
ふかえりは首を振った。「シナノマチにへやがある」
「遅くなるときはそこに泊まるんだね?」
「フタマタオはとおすぎるから」
駅まで歩くあいだ、ふかえりは前と同じように天吾の左手を握っていた。まるで小さな女の子が大人の手を握っているみたいに。しかしそれでも、彼女のような美しい少女に手を握られていると、天吾の胸は自然にときめいた。
ふかえりは駅に着くと、天吾の手を握るのをやめた。そして信濃町までの切符を自動販売機で買った。
「キシャカイケンはしんぽいすることない」とふかえりは言った。
「心配はしてないよ」
「しんぱいしなくてもうまくできる」
「わかってる」と天吾は言った。「何も心配してない。きっとうまくいくよ」
ふかえりは何も言わず、そのまま改札口の人混みの中に消えていった。
ふかえりと別れたあと、天吾は紀伊国屋書店の近くにある小さなバーに入ってジン?トニックを注文した。ときどき行くバーだった。古風な作りで、音楽がかかっていないところが気に入っていた。カウンターに一人で座り、何を思うともなく自分の左手をひとしきり眺めていた。ふかえりがさっきまで握っていた手だ。その手にはまだ少女の指の感触が残っていた。それから彼女の胸のかたちを思い浮かべた。きれいなかたちの胸だった。あまりにも端整で美しいので、そこからは性的な意味すらほとんど失われてしまっている。
そんなことを考えているうちに、天吾は年上のガールフレンドと電話で話をしたくなった。話題なんてなんでもいい。育児の愚痴だって、中曽根政権の支持率についてだって、なんだってかまわない。ただとりあえず彼女の声が無性に聞きたかった。できることなら、すぐにでもどこかで会ってセックスをしたかった。しかし彼女の家に電話をかけるわけにはいかない。夫が電話に出るかもしれない。子供が電話に出るかもしれない。彼の方からは電話をかけない。それが二人のあいだのきまりごとだった。
天吾はジン?トニックをもう一杯注文し、それを待っているあいだ、自分が小さなボートに乗って急流を下っているところを想像した。「滝の上から落ちるときは、一緒に派手に落ちよう」と小松は電話で言った。しかし彼の言いぶんをそのまま信用していいものだろうか? 滝の直前まで来たら、小松はひとりで手近にある岩場にすっと飛び移ってしまうのではないだろうか。
「天吾くん、悪いな。ちょっと済ませなくちゃならない用事を思い出した。あとはなんとか頼むぜ」みたいなことを言い残して。そして逃げ切れずに滝から派手に落ちるのは自分ひとりだけ、ということになるかもしれない。あり得ないことではない。いや、十分に起こり得ることだ。
家に帰って眠りにつき、夢を見た。久しぶりに見たくっきりとした夢だった。自分が巨大なパズルの中のひとつのちっぽけなピースになった夢だ。でも彼は固定されたピースではなく、刻々とかたちを変え続けるピースだった。だからどこの場所にもうまく収まらない。当然の話だ。おまけに自分の場所を見つける作業と並行して、与えられた時間の中でティンパニのためのパート譜を拾い集めなくてはならなかった。その楽譜は強い風に吹かれて、あちこちにまき散らされていた。彼はそれを一枚一枚集めていった。そしてページ番号を確認し、順番どおりにまとめなくてはならなかった。そうするあいだも彼自身はアメーバのようにかたちを変え続けていた。事態は収拾がつかなくなっていた。やがてふかえりがどこかからやってきて彼の左手を握った。そうすると天吾はかたちを変えることをやめた。風も急にやんで、楽譜はもう散らばらなくなった。よかった、と天吾は思った。しかしそれと同時に与えられた時間も終わりを迎えようとしていた。
「これでおしまい」とふかえりは小さな声で告げた。やはりセンテンスはひとつ。時間がぴたりと止まり、世界はそこで終結した。地球はゆっくりと回転を止め、すべての音と光が消滅した。
翌日目が覚めたとき、世界はまだ無事に続いていた。そしてものごとは前に向かって既に動き出していた。前にいるすべての生き物を片端から礫き殺していく、インド神話の巨大な車のように。
第17章 青豆
私たちが幸福になろうが不幸になろうが
翌日の夜、月はやはり二つのままだった。大きい方の月はいつもの月だった。まるでついさっき灰の山をくぐり抜けてきたみたいに全体が不思議な白みを帯びていたが、それをべつにすれば、見慣れた旧来の月だった。一九六九年のあの暑い夏にニール?アームストロングがささやかにして巨大な最初の一歩をしるした月だ。そしてその隣にいびつなかたちをした、緑色の小振りな月があった。それはまるで出来の悪い子供のように、大きな月の近くに遠慮がちに寄り添って浮かんでいた。
私の頭がどうかしているに違いない、と青豆は思った。月は昔からひとつしかないし、今だってひとつしかないはずだ。もし急に月が二個に増えたりしたら、地球での生活にも様々な現実的変化が生じているはずだ。たとえば満ち潮や引き潮の関係だって一変してしまうことだろうし、それは世間の重要な話題になっているはずだ。いくらなんでも私が気づかないわけがない。何かの加減で新聞記事をうっかり見逃すのとはわけが違う。
しかし<傍点>本当に傍点>そうだろうか? 百パーセントの確信を持って、私にそう断言できるだろうか? 青豆はしばらく顔をしかめていた。ここのところ、奇妙なことが私のまわりで起こり続けている。私の知らないところで、世界は勝手な進み方をしている。私が目を閉じているときにだけ、みんなが動くことのできるゲームをやっているみたいに。だとしたら、空に月が二つ並んで浮かんでいても、さして奇妙なことではないのかもしれない。いつか私の意識が眠り込んでいるあいだに、それは宇宙のどこかからひょっこりとやってきて、月の遠縁のいとこみたいな顔をして、そのまま地球の引力圏に留まることにしたのかもしれない。
警官の制服と制式拳銃が一新されていた。警官隊と過激派が山梨の山中で激しい銃撃戦を繰り広げていた。それらはすべて私の知らないうちに起こっていた。アメリカとソビエトが共同で月面基地を建設したというニュースもあった。それと月の数が増えたこととのあいだには、何か関連性があるのだろうか? 図書館で読んだ新聞の縮刷版に、新しい月に関連した記事があったかどうか記憶を探ってみたが、思い当たることはひとつとしてなかった。
誰かに質問できればいいのだろうが、誰に向かってどのような尋ね方をすればいいのか、青豆には見当もつかなかった。「ねえ、空に月がふたつ浮かんでいると思うんだけど、ちょっと見てみてくれないかな」とでも言えばいいのだろうか? しかしそれはどう考えても馬鹿げた質問だ。もし月が二個に増えたのが事実であれば、そんなことも知らないというのは妙な話だし、もし月が従来どおり一個しかないとしたら、こちらの頭がおかしくなったと思われるのがおちだ。
青豆はパイプ椅子に身を沈め、手すりに両足を載せ、質問のかたちを十通りほど考えてみた。実際に口に出してもみた。しかしどれもこれも同じ程度に愚かしく響いた。しかたない。事態そのものが常軌を逸しているのだ。それについて筋のとおった質問ができるわけがない。わかりきったことだ。
二個目の月の問題はとりあえず棚上げしておくことにした。あとしばらく様子を見よう。さしあたってそれで何か実際に迷惑を被っているわけではないのだから。それに、気がついたらいつの間にか消えてなくなっていたというようなことになるかもしれない。
翌日の昼過ぎに広尾のスポーツ?クラブに行って、マーシャル?アーツのクラスをふたつ担当し、個人レッスンをひとつ行った。クラブのフロントに立ち寄ると、珍しく麻布の老婦人からのメッセージが届いていた。手の空いたときに連絡をいただきたい、と書かれていた。
いつものように電話にはタマルが出た。
よかったら明日、こちらにお越し願えまいか。いつものプログラムをお願いしたい。そのあと軽い夕食を御一緒できればということだ、とタマルは言った。
四時過ぎにはそちらにうかがえる、夕食は喜んで御一緒する、と青豆は言った。
「けっこう」と相手は言った。「それでは明日の四時過ぎに」
「ねえ、タマルさん、最近月を見たことはある?」と青豆は尋ねた。
「月?」とタマルは言った。「空に浮かんでいる月のことかな」
「そう」
「とくに意識して見たという記憶はここのところない。月がどうかしたのか?」
「どうもしないけど」と青豆は言った。「じゃあ、明日の四時過ぎに」
タマルは少し間を置いて電話を切った。
その夜も月は二つだった。どちらも満月から二日ぶん欠けている。青豆はブランデーのグラスを手に、どうしても解けないパズルを眺めるみたいに、その大小一対の月を長いあいだ眺めていた。見れば見るほど、その取り合わせはますます謎に満ちたものに思えた。もしできることなら、彼女は月に向かって問いただしてみたかった。どういう経緯があって、突然あなたにその緑色の小さなお供がつくことになったのかと。でももちろん月は返事をしてはくれない。
月は誰よりも長く、地球の姿を間近に眺めてきた。おそらくはこの地上で起こった現象や、おこなわれた行為のすべてを目にしてきたはずだ。しかし月は黙して語らない。あくまで冷ややかに、的確に、重い過去を抱え込んでいるだけだ。そこには空気もなく、風もない。真空は記憶を無傷で保存するのに適している。誰にもそんな月の心をほぐすことはできない。青豆は月に向かってグラスをかかげた。
「最近誰かと抱き合って寝たことはある?」と青豆は月に向かって尋ねた。
月は返事をしなかった。
「友だちはいる?」と青豆は尋ねた。
月は返事をしなかった。
「そうやってクールに生きていくことにときどき疲れない?」
月は返事をしなかった。
いつものようにタマルが玄関で青豆を迎えた。
「月を見たよ、ゆうべ」とタマルは最初に言った。
「そう?」と青豆は言った。
「あんたに言われたから気になってね。しかし久しぶりに見ると、月はいいものだ。穏やかな気持ちになれる」
「恋人と一緒に見たの?」
「そういうことだ」とタマルは言った。そして鼻の脇に指をやった。「それで月がどうかしたのか?」
「どうもしない」と青豆は言った。そして言葉を選んだ。「ただ最近、どうしてか月のことが気にかかるの」
「理由もなく?」
「とくに理由もなく」と青豆は答えた。
タマルは黙って肯いた。彼は何かを推し測っているようだった。この男は理由を欠いたものごとを信用しないのだ。しかしそれ以上は追及せず、いつものように前に立って青豆をサンルームに案内した。老婦人はトレーニング用のジャージの上下に身を包み、読書用の椅子に座り、ジョン?ダウランドの器楽合奏曲『ラクリメ』を聴きながら本を読んでいた。彼女の愛好する曲だった。青豆も何度も聴かされて、そのメロディーを覚えていた。
「昨日の今日でごめんなさいね」と老婦人は言った。「もっと早くアポイントメントを入れられるとよかったんだけど、ちょうどこの時間がぽっかり空いたものだから」
「私のことなら気になさらないでください」と青豆は言った。
タマルがハーブティーを入れたポットを、トレイに載せて持ってきた。そして二つの優雅なカップにお茶を注いだ。タマルは部屋を出て、ドアを閉め、老婦人と青豆はダウランドの音楽を聴き、燃え立つように咲いた庭のツツジの花を眺めながら、静かにそのお茶を飲んだ。いつ来ても、ここは別の世界のようだと青豆は思った。空気に重みがある。そして時間が特別な流れ方をしている。
「この音楽を聴いているとときどき、時間というものについて、不思議な感慨に打たれることがあります」と老婦人は青豆の心理を読んだように言った。「四百年前の人々が、今私たちが聴いているのと同じ音楽を聴いていたということにです。そういう風に考えると、なんだか妙な気がしませんか?」
「そうですね」と青豆は言った。「でもそれを言えば、四百年前の人たちも、私たちと同じ月を見ていました」
老婦人は少し驚いたように青豆を見た。それから肯いた。「たしかにそうね。あなたの言うとおりだわ。そう考えれば、四世紀という時を隔てて同じ音楽を聴いていることに、とくに不思議はないのかもしれない」
「<傍点>ほとんど傍点>同じ月と言うべきかもしれませんが」
青豆はそう言って老婦人の顔を見た。しかし彼女の発言は老婦人に何の感興ももたらさなかったようだった。
「このコンパクト?ディスクの演奏も古楽器演奏です」と老婦人は言った。「当時と同じ楽器を使って、当時の楽譜通りに演奏されています。つまり音楽の響きは当時のものとおおむね同じだということです。月と同じように」
青豆は言った。「ただ<傍点>もの傍点>が同じでも、人々の受け取り方は今とはずいぶん違っていたかもしれません。当時の夜の闇はもっと深く、暗かったでしょうし、月はそのぶんもっと明るく大きく輝いていたことでしょう。そして人々は言うまでもなく、レコードやテープやコンパクト?ディスクをもっていませんでした。日常的にいつでも好きなときに、音楽がこのようなまともなかたちで聴けるという状況にはありませんでした。それはあくまでとくべつなものでした」
「そのとおりね」と老婦人は認めた。「私たちはこのように便利な世の中に住んでいるから、そのぶん感受性は鈍くなっているでしょうね。空に浮かんだ月は同じでも、私たちはあるいは別のものを見ているのかもしれない。四世紀前には、私たちはもっと自然に近い豊かな魂を持っていたのかもしれない」
「しかしそこは残酷な世界でした。子供たちの半分以上は、慢性的な疫病や栄養不足で成長する前に命を落としました。ポリオや結核や天然痘や麻疹{はしか}で人はあっけなく死んでいきました。一般庶民のあいだでは、四十歳を超えた人はそんなに多くはいなかったはずです。女はたくさんの子供を産み、三十代になれば歯も抜け落ちて、おばあさんのようになっていました。人々は生き延びるために、しばしば暴力に頼らなくてはならなかった。子供たちは小さいときから、骨が変形してしまうくらいの重い労働をさせられ、少女売春は日常的なことでした。あるいは少年売春も。多くの人々は感受性や魂の豊かさとは無縁の世界で最低限の暮らしを送っていました。都市の通りは身体の不自由な人々と乞食と犯罪者とで満ちていました。感慨をもって月を眺めたり、シェイクスピアの芝居に感心したり、ダウランドの美しい音楽に耳を澄ますことのできるのは、おそらくほんの一部の人だけだったでしょう」
老婦人は微笑んだ。「あなたはずいぶん興味深い人ね」
青豆は言った。「私はごく普通の人間です。ただ本を読むのが好きなだけです。主に歴史についての本ですが」
「私も歴史の本を読むのが好きです。歴史の本が教えてくれるのは、私たちは昔も今も基本的に同じだという事実です。服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることややっていることにそれほどの変わりはありません。人間というものは結局のところ、遺伝子にとってのただの乗り物{キャリア}であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が<傍点>自分たちにとって傍点>いちばん効率的かということだけです」
「それにもかかわらず、私たちは何が善であり何が悪であるかということについて考えないわけにはいかない。そういうことですか?」
老婦人は肯いた。「そのとおりです。人間はそれについて考えないわけにはいかない。しかし私たちの生き方の根本を支配しているのは遺伝子です。当然のことながら、そこに矛盾が生じることになります」、彼女はそう言って微笑んだ。
歴史についての会話はそこで終わった。二人は残っていたハーブティーを飲み、マーシャル?アーツの実習に移った。
その日は屋敷の中で簡単な食事をした。
「簡単なものしか作れないけれど、それでいいかしら?」と老婦人は言った。
「もちろんかまいません」と青豆は言った。
食事はタマルがワゴンに載せて運んできた。料理を作るのはおそらく専門の料理人なのだろうが、運んで給仕するのは彼の役目だった。彼はアイスバケツに入れた白ワインを抜き、慣れた手つきでグラスに注いだ。老婦人と青豆はそれを飲んだ。香りがよく、冷え加減もちょうどいい。料理は茄でた白色のアスパラガスと、ニソワーズ?サラダと、蟹肉を入れたオムレツだけだった。それにロールパンとバター。どれも食材が新鮮でおいしかった。量も適度に十分だった。いずれにせよ、老婦人はいつもほんの少ししか食事をとらない。彼女はフォークとナイフを優雅に使って、まるで小鳥のように少しずつの量を口に運んだ。そのあいだタマルはずっと、部屋のいちばん遠いところに控えていた。彼のような濃密な体つきの男が、長い時間にわたって気配をすっかり消してしまえるのは驚くべきことで、青豆はいつもそのことに感心させられた。
料理を食べているあいだ、二人は切れ切れにしか話をしなかった。二人は食べることに意識を集中した。小さな音で音楽が流れていた。ハイドンのチェロ?コンチェルト、それも老婦人の好きな音楽のひとつだ。
料理が下げられ、コーヒーポットが運ばれてきた。タマルがそれを注いで下がるときに、老婦人は彼に向かって指を上げた。
「もうこれで用事はありません。ありがとう」と彼女は言った。
タマルは小さく頭を下げた。そしていつものように足音もなく部屋を出て行った。ドアが静かに閉まった。二人が食後のコーヒーを飲んでいるあいだにディスクが終わり、新たな沈黙が部屋に訪れた。
「あなたと私とは信頼し合っている。そうですね?」と老婦人は青豆の顔をまっすぐ見て言った。
青豆は簡潔に、しかし留保なく同意した。
「私たちは大事な秘密を共有しています」と老婦人は言った。「言うなれば身を預け合っているわけです」
青豆は黙って肯いた。
彼女が老婦人に向かって、最初に秘密を打ち明けたのもこの同じ部屋だった。そのときのことを青豆はよく覚えている。彼女はその心の重荷をいつか誰かに告白しないわけにはいかなかった。それを自分一人の胸に収めたまま生き続けることの負担は、そろそろ限界に達しかけていた。だから老婦人に水を向けられたとき、青豆は長いあいだ閉ざしてきた秘密の扉を思い切って開けた。
自分の無二の親友が長年にわたって夫に暴力を振るわれ、精神のバランスを崩し、そこから逃げ出すこともできず、苦しみ抜いたすえに自殺を遂げたこと。青豆は一年近く経ってから用件を作ってその男の家を訪れた。そして巧妙に状況を設定して、鋭い針で首の後ろを刺して殺害した。ただの一刺し、傷跡も残らず出血もなかった。単純な病死として処理された。誰も疑いを抱かなかった。青豆は自分が間違ったことをしたとは思わなかったし、今でも思っていない。良心の痛みを感じるのでもない。しかしだからといって、一人の人間の生命を意図して奪ったことの重みが減じられるわけではない。
老婦人は青豆の長い告白に耳を澄ませていた。青豆がつっかえながら、ことの経緯を話し終えるまで、ただ黙って聞き入っていた。青豆が話し終えたあと、不明な細部についていくつか質問をした。それから手を伸ばし、青豆の手を長いあいだ強く握った。
「あなたは正しいことをしたのです」と老婦人はゆっくり噛んで含めるように言った。「その男は生きていれば、ゆくゆくほかの女性をも似たような目にあわせたでしょう。彼らはいつも被害者をどこからか見つけ出します。同じことを繰り返すようにできているのです。あなたはその禍根を断ち切った。ただの個人的な復讐とはわけが違います。安心なさい」
青豆は顔を両手に埋めてひとしきり泣いた。彼女が泣いたのは環のためだった。老婦人がハンカチを出して涙を拭いてくれた。
「不思議な偶然ですが」と老婦人は迷いのない静かな声で言った。「私もまったくと言っていいほど同じ理由で人を<傍点>消えさせた傍点>ことがあります」
青豆は顔を上げて老婦人を見た。言葉はうまく出てこなかった。この人はいったい何の話をしているのだろう?
老婦人は話を続けた。「もちろん私が直接手を下してそうしたのではありません。私にはそれほどの体力はないし、またあなたのような特殊な技術を身につけているわけでもありません。私にとれるしかるべき手段をとって<傍点>消えさせた傍点>のです。しかし具体的な証拠は何ひとつ残ってません。私が仮に今名乗り出て告白したところで、それを事件として立証することは不可能です。あなたの場合と同じように。もし死後に審判というものがあるなら、私は神に裁かれることでしょう。でもそんなことは少しも怖くはありません。私は間違ったことはしておりません。誰の前でも堂々と言い分を述べさせてもらいます」
老婦人は安堵に似たため息をついた。そして続けた。
「さあ、これであなたと私は、お互いの重要な秘密を握りあっていることになります。そうですね?」
青豆にはそれでもまだ、相手が何の話をしているのか、十分には呑み込めなかった。消えさせた? 青豆の顔は深い疑問と激しい衝撃とのあいだで、正常なかたちを失いかけていた。老婦人は青豆を落ち着かせるために、さらに穏やかな声で説明を加えた。
彼女の実の娘もやはり、大塚環と似たような経緯で自らの命を絶った。娘は間違った相手と結婚したのだ。その結婚生活がうまく行かないだろうことは、老婦人には最初からわかっていた。彼女の目から見ると、相手の男は明らかに歪んだ魂を抱えていた。これまでにも問題を起こしていたし、その原因はおそらく根深いものだった。しかしその結婚を阻止することは誰にもできなかった。案の定、激しい家庭内暴力が繰り返されることになった。娘は徐々に自尊心と自信を失い、追いつめられ、諺状態に入り込んでいった。自立する力を奪い取られ、アリ地獄に落ちたアリのように、そこから抜け出すことができなくなった。そしてあるとき、大量の睡眠薬をウィスキーと一緒に胃に流し込んだ。
検死のとき、その身体に暴行のあとが発見された。打撲や激しい打擲{ちょうちゃく}のあとがあり、骨折のあとがあり、煙草の火を押しつけられたような数多くのやけどがあった。両方の手首にはきつく縛られたあとが残っていた。縄を使うことがこの男の好みであったようだ。乳首が変形していた。夫が警察に呼ばれ、事情を聴取された。夫は暴力を振るっていたことをある程度認めたが、それはあくまで性行為の一部として合意の上で行われたことであり、むしろ妻がそれを好んでいたと主張した。
結局、環のときと同じように、警察は夫に対して法的な責任を問うことはできなかった。妻から警察に訴えが起こされたわけではないし、彼女は既に死んでいた。夫には社会的な地位があり、有能な刑事弁護士がついていた。また死因が自殺であることに疑いの余地はなかった。
「あなたはその男を殺したのですか?」と青豆は思い切って尋ねた。
「いいえ、<傍点>その男を傍点>殺したわけではありません」と老婦人は言った。
青豆は話の筋が見えないまま、黙して老婦人を見つめていた。
老婦人は言った。「娘のかつての夫は、その卑劣な男は、まだこの世界に生きています。毎朝ベッドの上で目を覚まし、自分の両足で通りを歩いています。私にはその男を殺したりするつもりはありません」
老婦人は少し間を置いた。自分の言ったことが青豆の頭に収まるのを待った。
「そのかつての娘婿に対して私がやったのは、世間的に破滅させることでした。それも完膚無きまでに破滅させることです。私はたまたま<傍点>そういう力傍点>を持っています。その男は弱い人間でした。頭はそれなりに働くし、弁も立つし、世間的にはある程度認められてもいるのですが、根本は弱くて下劣な男です。家庭内で妻や子供たちに激しい暴力を振るうのは、決まって弱い人格を持った男たちなのです。弱いからこそ、自分より弱い人間をみつけて餌食にせずにいられないのです。破滅させるのはたやすいことでしたし、そのような男は一度破滅したら、二度と浮かび上がることはできません。私の娘が死んだのはかなり前のことですが、私は今に至るまで、休みなくその男を監視しています。浮かび上がろうとしたところで、<傍点>私が傍点>そんなことは許しません。まだ生きていますが、屍も同じです。自殺をすることはありません。自殺するほどの勇気は持ち合わせていないから。それが私のやり方です。やすやすと殺したりはしません。死なない程度に間断なく、慈悲なく苦しめ続けます。生皮を剥ぐようにです。私が<傍点>消えさせた傍点>のはほかの人間です。べつのところに移ってもらわなくてはならない現実的な理由がそこにはありました」
老婦人は更に青豆に向かって説明した。娘が自殺した翌年、彼女は同じような家庭内暴力に苦しんでいる女性たちのために、私設のセーフハウスを用意した。麻布の屋敷に近接した土地に、小さな二階建てのアパートを所有しており、近いうちに取り壊すつもりで、人を入れていなかった。その建物に簡単に手を入れて、行き場を失った女性たちのセーフハウスとして活用することにしたのだ。都内の弁護士が中心になって「暴力に悩む女性たちのための相談室」を開設しており、ボランティアが交代で面談や電話の相談を受けている。そこから老婦人のところに連絡がある。緊急の避難場所を必要とする女性たちが、セーフハウスに送り込まれてくる。小さな子供を連れている場合も少なくない。中には父親から性的暴行を受けている十代の娘たちもいる。彼女たちは落ち着き先が見つかるまで、そこに滞在する。当面の生活に必要なものは常備されている。食料品や着替えが支給され、彼女たちはお互いに助け合いながら一種の共同生活を送った。そのための費用は老婦人が個人的に負担した。
弁護士とカウンセラーがセーフハウスを定期的に訪れ、彼女たちのケアをし、今後の対策を話し合った。老婦人も暇があれば顔を出して、そこにいる女性たち一人ひとりの話を聞き、適切なアドバイスを与えた。働き先や落ち着き先を探してやることもあった。もし物理的な介入が必要とされるトラブルが生じれば、タマルが出向いて適切に処理した。たとえば夫が行き先を知って、力ずくで妻を取り戻しにくるようなケースもないではない。そしてタマルより効果的に迅速にその手のトラブルを処理できる人間はいない。
「しかし私やタマルだけでは処理しきれないし、どのような法律をもってしても現実的な救済策を見いだせないというケースが中にはあります」と老婦人は言った。
話すに連れて、老婦人の顔が特殊な赤銅色の輝きを帯びていくのを青豆は目にした。それに連れていつもの温厚で上品な印象は薄れ、どこかに消えていった。そこには単なる怒りや嫌悪感を超えた<傍点>何か傍点>がうかがえた。それはおそらく精神のいちばん深いところにある、硬く小さく、そして名前を持たない核のようなものだ。それでも声の冷静さだけは終始変わらない。
「もちろん、いなくなってしまえば離婚訴訟の手間が省けて、保険金がすぐに入るからというような実際的な理由だけで、人の存在を左右するわけにはいきません。すべての要素を拾い上げて公正に厳密に検討し、この男には慈悲をかけるだけの余地がないという結論に達したときにだけ、やむを得ず行動を起こします。弱者の生き血を吸ってしか生きていくことのできない寄生虫のような男たち。歪みきった精神を持ち、治癒の可能性もなく、更生の意志もなく、この世界でこれ以上生きていく価値をまったく見いだせない連中」
老婦人は口を閉じ、岩壁を貫くような目でしばらく青豆を見ていた。そしてやはり穏やかな声で言った。
「そのような人々には<傍点>何らかのかたち傍点>で消えてもらうしかありません。あくまで世間の関心をひかないようなやり方で」
「そんなことが可能なのですか?」
「人が消えるにはいろんな消え方があります」と老婦人は言葉を選んで言った。そのあとしばらく時間を置いた。「私には<傍点>ある種の傍点>消え方を設定することができます。私にはそういう力があります」
青豆はそれについて考えを巡らせた。しかし老婦人の表現はあまりに漠然としていた。
老婦人は言った。「私たちはそれぞれに大切な人を理不尽なかたちで失い、深く傷ついています。その心の傷が癒えることはおそらくないでしょう。しかしいつまでも座して傷口を眺めているわけにはいきません。立ち上がって次の行動に移る必要があります。それも個別の復讐のためではなく、より広汎な正義のためにです。どうでしょう、よかったら私の仕事を手伝ってくれませんか。私は信頼の置ける有能な協力者を必要としています。秘密を分かち合い、使命を共にすることができる人を」
話をひととおり整理し、彼女の言ったことを呑み込むのに時間がかかった。それは信じがたい告白であり提案だった。そしてその提案に対して気持ちを定めるには更に時間が必要だった。そのあいだ老婦人は椅子の上で姿勢を変えることなく、青豆を見つめながらただ沈黙をまもっていた。彼女は急いでいなかった。いつまでも待つつもりでいるようだった。
この人は間違いなくある種の狂気の中にいる、と青豆は思った。しかし頭が狂っているのではない。精神を病んでいるのでもない。いや、その精神はむしろ冷徹なばかりに揺らぎなく安定している。実証に裏づけられてもいる。それは狂気というよりは狂気に<傍点>似た何か傍点>だ。正しい偏見と言った方が近いのかもしれない。今彼女が求めているのは、私がその狂気なり偏見なりを彼女と共有することなのだ。同じ冷徹さをもって。そうする資格が私にはあると彼女は信じている。
どれほど長く考えていたのだろう。深く考えに耽っているうちに、時間の感覚がどこかで失われてしまったようだ。心臓だけが硬く一定のリズムを刻んでいた。青豆は自分の中にあるいくつかの小部屋を訪れ、魚が川を遡るように時間を遡った。そこには見慣れた光景があり、長く忘れていた匂いがあった。優しい懐かしさがあり、厳しい痛みがあった。どこかから入ってきた一筋の細い光が、青豆の身体を唐突に刺し貫いた。まるで自分が透明になってしまったような不思議な感覚があった。手をその光にかざしてみると、向こう側が透けて見えた。身体が急に軽くなったようだった。そのときに青豆は思った。今ここで狂気なり偏見なりに身を任せ、それで自分の身が破滅したところで、この世界がすっかり消えてなくなったところで、失うべきいったい何が私にあるだろう。
「わかりました」と青豆は言った。しばらく唇を噛んでから、また口を開いた。「私にできることがあれば、お手伝いしたいと思います」
老婦人は両手を伸ばし、青豆の手を握りしめた。それ以来、青豆は老婦人と秘密を分かち合い、使命を、そして狂気に似た<傍点>何か傍点>を共にすることにな,った。いや、それはまったくの狂気そのものなのかもしれない。しかしその境界線がどこにあるのか、青豆には見きわめることができない。それに彼女が老婦人と共に遠い世界に送り込んだのは、どのような見地から見ても慈悲を与える余地を見いだせない男たちだった。
「この前あなたが渋谷のシティー?ホテルで、例の男を<傍点>別の世界傍点>に移してから、まだあまり時間は経っていません」と老婦人は静かに言った。「別の世界に移す」と彼女が言うと、まるで家具の移動の話でもしているみたいに聞こえた。
「あと四日でちょうど二ヶ月になります」と青豆は言った。
「まだ二ヶ月足らずです」と老婦人は続けた。「ですから、あなたにここで次の作業をお願いするというのは、どうみても好ましいことではありません。少なくとも半年は間隔を置きたいところです。間隔が詰まりすぎると、あなたの精神的な負担が大きくなります。なんと言えばいいのかしら——普通のことではないから。それに加えて、私の運営するセーフハウスに関わりのある男たちが心臓発作で亡くなる確率が、いささか高すぎるのではないかと首をひねる人がそのうちに出てくるかもしれません」
青豆は小さく微笑んだ。そして言った。「世間には疑り深い人が多いから」
老婦人も微笑んだ。「ご存じのように、私はきわめて慎重な人間です。偶然や見込みや幸運といったものをあてにしません。最後の最後までより穏やかな可能性を模索し、可能性がどうしてもないと判明したときにだけそれを選択します。そしてやむを得ず<傍点>それ傍点>を行うときには、考え得るあらゆるリスクを排除します。すべての要素を丹念に綿密に検討し、準備万端を整え、これで大丈夫と確信してからあなたにお願いします。ですからこれまでのところ、問題らしきものはひとつも起きていません。そうですね?」
「そのとおりです」と青豆は認めた。まさにそのとおりだった。道具を用意して指定された場所に足を運ぶ。状況は前もって念入りに設定されている。彼女は相手の首の後ろの決まったポイントに、鋭利な針を一度だけ打ち込む。そして相手が「別の場所に移動した」ことを確認してからそこを立ち去る。これまでのところすべては円滑にシステマチックに運ばれてきた。
「しかし今回の相手について言えば、心苦しいことですが、あなたにいくらか無理をお願いしないわけにはいかないようです。日程も十分に熟していませんし、不確定要素が多く、これまでのような整った状況を提供できない可能性があります。いつもとは少しばかり事情が違うのです」
「どんな風に違うのでしょう?」
「相手は普通の立場の男ではありません」と老婦人は慎重に言葉を選んで言った。「具体的に言えば、まず警護が厳しいのです」
「政治家か何かですか?」
老婦人は首を振った。「いいえ、政治家ではありません。それについてはまたあとで話をしましょう。あなたを送り込まずに済む方法についても、ずいぶん考慮してみました。しかしどれをとってもうまく行きそうにありません。普通のやり方ではどうにも歯が立たないのです。申し訳ないけれど、あなたにお願いする以外に方法を思いつけませんでした」
「急を要する作業なのですか?」と青豆は尋ねた。
「いいえ、急を要するというのではありません。いついつまでにという期限があるわけでもありません。しかし遅くなれば、それだけ傷つく人が増えるかもしれません。そして私たちに与えられたチャンスは限定されたものです。次にいつそれが巡ってくるかも予測がつきません」
窓の外はすっかり暗くなり、サンルームは沈黙に包まれていた。月は出ているのだろうか、と青豆は思った。しかし彼女の座った場所からは外が見えなかった。
老婦人は言った。「事情はできる限り詳しく説明するつもりです。でもその前にあなたに会ってもらいたい人がいます。これから二人で彼女に会いに行きましょう」
「その人はこのハウスで生活しているのですか?」と青豆は尋ねた。
老婦人はゆっくりと息を吸い込み、喉の奥で小さな音を立てた。その目にはいつもは見受けられない特別な光が浮かんでいた。
「六週間前に相談所からここに送られてきました。四週間はひとことも口をきかず、放心状態というか、とにかくすべての言葉を失っていました。わかったのは名前と年齢だけ、ひどい格好で駅に寝泊まりしているところを保護され、あちこちたらい回しにされた末に、うちに送られてきたのです。私が時間をかけて少しずつ話をしました。ここは安全なところで、怯える必要はないのだとわからせるまでに時間がかかりました。今では、いくらか口をきくようになりました。混乱した細切れな話し方ですが、断片を組み合わせると、何が起こったのかおおよそ理解できました。とても口に出せないようなひどいことです。いたましいことです」
「やはり夫からの暴力なのですか?」
「いいえ」と老婦人は乾いた声で言った。「彼女はまだ十歳です」
老婦人と青豆は二人で庭を抜け、鍵を開けて小さな木戸をくぐり、隣地にあるセーフハウスに向かった。こぢんまりとした木造アパートで、昔、屋敷で働く使用人がもっと沢山いた頃、主にそのような人々の住居として使われていた。二階建てで、建物自体には趣があるのだが、住居として一般に貸すにはいくぶん老朽化している。しかし行き場所のない女性たちのとりあえずの避難場所としては不足はなかった。古い樫の木が建物を護るように枝を大きく広げ、玄関のドアには美しい図柄の型板ガラスが入っていた。部屋は全部で十あった。混んでいる時期もあり、すいている時期もあったが、だいたいは五人か六人の女たちがそこでひっそりと暮らしていた。今は半分ほどの部屋の窓に明かりがついている。ときおり小さな子供たちの声が聞こえるほかは、いつも奇妙なほど静まりかえっている。まるで建物自体が息を潜めているみたいにも見える。生活につきものの雑多な物音がそこにはない。門の近くに雌のドイツ?シェパードが一匹繋がれていて、人が近寄ると低くうなり、それから何度か吠えた。誰がどのような方法で訓練したのかはわからないが、犬は男が近寄ると激しく吠えるようにしつけられていた。それでも犬がもっともなついているのはタマルだった。
老婦人が近づいていくと、犬はすぐに吠えるのをやめ、しつぼを大きく振り、嬉しそうに鼻を鳴らした。老婦人は身をかがめて、その頭を何度か軽く叩いた。青豆も耳の後ろを掻いてやった。犬は青豆の顔を覚えていた。頭の良い犬なのだ。そしてなぜか生のほうれん草を好んで食べる。それから老婦人は鍵を使って玄関のドアを開けた。
「ここにいる女性の一人が、その子の面倒を見てくれています」と老婦人は青豆に言った。=緒の部屋に住んで、できるだけ目を離さないようにしてもらっています。その子ひとりきりにしておくのはまだちょっと心配だったから」
セーフハウスでは女たちは日常的にお互いの面倒をみて、自分たちがくぐり抜けてきた体験を語り合い、受けた痛みを分かち合うことが暗黙のうちに奨励されていた。そうすることによって彼女たちは少しずつ、自然に治癒されていくことが多かった。前から滞在しているものが、あとから来たものに生活の要領を教え、必需品の受け渡しをした。掃除や料理はいちおう当番制になっていた。もちろん中には一人きりになりたい、何ひとつ体験を語りたくないというものもいた。そのような女性たちは孤独と沈黙を尊重された。しかし大半の女性は、同じような目にあってきたほかの女性と率直に体験を語り合い、関わり合うことを望んだ。ハウス内での飲酒と喫煙、そして許可のない人の出入りは禁止されているが、他にはこれといって制約はない。
アパートには電話がひとつ、テレビがひとつあり、それらは玄関のわきにある共同のホールに置かれていた。ホールにはまた古いソファ?セットとダイニングテーブルがあった。女たちの多くは、一日の大半の時間をその部屋で過ごしているようだった。しかしテレビがつけられることはほとんどなかった。テレビがついていても、音量は聞こえるか聞こえないかという程度だ。女性たちはむしろ一人で本を読んだり、新聞を広げたり、編み物をしたり、額を寄せて誰かとひそひそ声で語り合うことの方を好んだ。中には一日絵を描いているものもいた。そこは不思議な空間だった。現実の世界と、死後の世界の中間にあるかりそめの場所みたいに、光がくすんで淀んでいた。晴れた日にも曇った日にも、昼間でも夜でも、同じ種類の光がそこにはあった。その部屋を訪れるたびに、青豆は自分が場違いな存在であり、無神経な闖入{ちんにゅう}者であるように感じた。それは特別な資格が必要とされるクラブのようなものだった。彼女たちが感じている孤独は、青豆が感じている孤独とは違った成り立ちのものだった。
老婦人が顔を見せると、居間にいた三人の女たちが立ち上がった。彼女たちが老婦人に深い敬意を抱いていることは一目で見て取れた。老婦人は女たちを座らせた。
「そのままでかまいません。つばさちゃんと話をしたいだけだから」
「つばさちゃんはお部屋にいます」、おそらく青豆と同年代と思える女性が言った。髪はまっすぐで長い。
「佐恵子さんと一緒です。まだ下には降りてこられないみたいです」ともう少し年上の女性が言った。
「まだ少し時間がかかるでしょう」と老婦人はにこやかに言った。
三人の女性たちは黙ってそれぞれに肯いた。時間がかかるというのが何を意味しているのか、彼女たちにはよくわかっていた。
二階にあがって部屋に入ると、老婦人はそこにいたどことなく影の薄い小柄な女性に、しばらく席を外してくれませんかと言った。佐恵子さんと呼ばれる女性は淡く微笑み、部屋を出てドアを閉め、階段を降りていった。あとにはつばさという十歳の女の子が残った。部屋には食事用の小さなテーブルが置かれていた。女の子と老婦人と青豆は三人でそのテーブルについた。窓には厚いカーテンが引かれていた。
「このお姉さんはアオマメさんっていうの」と老婦人は少女に向かって言った。「私といっしょにお仕事をしている人。だから心配しなくていい」
少女は青豆の顔をちらりと見て、それからかすかに肯いた。見逃してしまいそうなくらいの小さな動きだ。
「この子はつばさちゃん」と老婦人は紹介した。そして少女に尋ねた。「つばさちゃんはここに来てどれくらいになるのかな?」
わからない、という風に少女は首をやはりほんの少し横に振った。一センチもないくらいだろう。
「六週間と三日」と老婦人は言った。「あなたは数えていないかもしれないけど、私はちゃんと数えているのよ。どうしてだかわかる?」
少女はまたかすかに首を横に振った。
「ある場合には、時間というのはとても大事なものになるからよ」と老婦人は言った。「ただそれを数えるということが、大きな意味を持つことになるの」
青豆の目には、つばさという女の子はどこにでもいる十歳の女の子として映った。その年齢にしては背は高い方だろうが、やせて胸の膨らみはまだなかった。慢性的に栄養が不足しているみたいに見える。顔立ちは悪くないのだが、印象がひどく薄い。瞳は曇ったガラス窓を思わせた。のぞき込んでも内側がよく見えない。乾いた薄い唇はときおり落ち着きなく動いて、何かの言葉を形づくろうとしているようにも見えたが、それが実際に音になることはなかった。
老婦人は持参した紙袋からチョコレートの箱を出した。スイスの山あいの風景が箱に描かれていた。ひとつひとつかたちの違う美しいチョコレートが一ダースばかりそこに入っていた。老婦人はそのひとつをつばさに差し出し、ひとつを青豆に差し出し、ひとつを自分の口に入れた。青豆もそれを口に入れた。二人がそうするのを見届けてから、つばさも同じようにそれを食べた。三人はしばらく黙ってチョコレートを食べていた。
「あなたは自分が十歳だったときのことを覚えていますか?」と老婦人は青豆に尋ねた。
「よく覚えています」と青豆は言った。その年に彼女は一人の男の子の手を握り、一生彼を愛し続けることを誓った。その数ヶ月後に初潮を迎えた。青豆の中でそのときに多くのものごとが変化を遂げた。彼女は信仰を離れ、両親と縁を切ることを決断した。
「私もよく覚えています」と老婦人は言った。「十歳の年に、父親に連れられてパリに行き、そこに一年ばかり滞在しました。父親は当時外交官の仕事をしていました。私たちはリュクサンブール公園の近くにある古いアパルトマンに住んでいました。第一次世界大戦の末期で、駅は負傷した兵隊さんであふれていました。まだ子供のような兵隊さんもいれば、年老いた人もいました。パリはすべての季節をとおして息を呑むほど美しい街ですが、私には血まみれの印象しか残っていません。前線では激しい錘壕戦が繰り広げられており、腕や脚や目を失った人々が、見捨てられた亡霊のように通りをさすらっていました。彼らの巻いた包帯の白さと、女たちの腕につけられた喪章の黒さばかりが目につきました。多くの新しい棺が墓地に向けて、馬車で運ばれていきました。棺が通り過ぎていくとき、道を行く人々は目をそらし、口をつぐみました」
老婦人はテーブル越しに手を伸ばした。少女は少し考えてから、膝の上に置いていた手をあげ、老婦人の手の上に重ねた。老婦人は少女の手を握った。老婦人もおそらくは少女時代、パリの街角で棺を積み重ねた馬車とすれ違うとき、父親か母親に同じようにしっかりと手を握られたのだろう。そして何も心配することはないと励まされたのだろう。大丈夫、お前は安全な場所にいる、何もおそれなくていいのだ、と。
「男たちは毎日数百万匹の精子をつくります」と老婦人は青豆に言った。「そのことは知っていましたか?」
「細かい数は知りませんが」と青豆は言った。
「端数まではもちろん私も知りません。とにかく無数です。彼らはそれを一度に送り出します。しかし女性が送り出す成熟した卵子の数は限られています。いくつか知っていますか?」
「正確には知りません」
「生涯を通しても約四百個に過ぎません」と老婦人は言った。「卵子は月々新しくつくられるわけではなく、それは生まれたときから女性の体内にそっくり蓄えられています。女性は初潮を迎えたあと、それを月にひとつずつ成熟させ外に出していくのです。この子の中にもそんな卵子が蓄えられています。まだ生理は始まっていませんから、ほとんど手つかずであるはずです。引き出しの中にしっかりと納められているはずです。それらの卵子の役目は言うまでもなく、精子を迎え入れて受胎することです」
青豆は肯いた。
「男性と女性のメンタリティーの違いの多くは、このような生殖システムの差違から生まれているようです。私たち女性は、純粋に生理学的見地から言えば、限定された数の卵子を護ることを主題として生きているのです。あなたも、私も、この子も」、そして彼女は淡い微笑みを口元に浮かべた。「私の場合はもちろん、<傍点>生きてきた傍点>と過去形になりますが」
私はこれまで既にざっと二百個の卵子を排出したことになる、と青豆は頭の中で素早く計算した。だいたいあと半分が私の中に残っている。おそらくは「予約済み」という札を貼られて。
「しかし彼女の卵子が受胎をすることはありません」と老婦人は言った。「先週、知り合いの医師に検査をしてもらいました。彼女の子宮は破壊されています」
青豆は顔をゆがめ、老婦人を見た。それから小さく首を曲げて少女に目をやった。言葉はなかなか出てこなかった。「破壊された?」
「そうです。破壊されたのです」と老婦人は言った。「手術をしても、もとに戻ることはありません」
「いったい誰がそんなことを?」と青豆は言った。
「はっきりしたことはまだわかりません」と老婦人が言った。
「リトル?ピープル」と少女が言った。
第18章 天吾
もうビッグ?ブラザーの出てくる幕はない
記者会見のあと小松が電話をかけてきて、すべては支障なく円滑に運んだと言った。
「見事な出来だよ」と小松は珍しく興奮した口調で言った。「いや、あれほどそつなくこなすとは思わなかったね。スマートな受け答えだったし、居合わせた全員に好印象を与えた」
小松の話を聞いても、天吾は決して驚かなかった。とくにこれという根拠もないのだが、天吾は記者会見についてはそれほど心配していなかった。彼女はそれくらい自分一人でうまくこなすだろうと予想していた。しかし「好印象」という表現には、何かしらふかえりにそぐわない響きがあった。
「ぼろは出なかったんですね?」と天吾は念のために尋ねた。
「ああ、時間をなるたけ短くして、具合の悪そうな質問は手際よくはぐらかした。それに実際のところ、<傍点>きつい傍点>質問はほとんどなかったよ。相手はなにしろいかにも可憐な十七歳の女の子だからね、新聞記者だって好んで悪役にはまわりたくないさ。もちろん『少なくとも今のうちは』という注釈付きだけどな。先がどうなるかはわからん。この世界では風向きなんてあっという間に変わっちまう」
小松が真剣な顔をして高い崖の上に立ち、指を舐めて風向きを測っている光景を天吾は思い浮かべた。
「いずれにせよこれというのも、天吾くんがあらかじめ予行演習をしてうまく仕込んでくれたおかげだ。感謝するよ。受賞の報道と記者会見の模様は、明日の夕刊に出るはずだ」
「ふかえりはどんな服を着ていました?」
「服? 普通の服だよ。ぴったりした薄手のセーターにジーンズだ」
「胸が目立つやつ?」
「ああ、そういえばそうだった。胸の形がきれいに出ていた。まるで<傍点>できたて傍点>のほかほかみたいに見えた」と小松は言った。「なあ、天吾くん、あの子は天才少女作家としてずいぶん評判になるぞ。ルックスもいいし、しゃべり方はいささかへんてこだが、なかなかどうして頭も切れる。何より人並みじゃない空気を持っている。俺はこれまでたくさんの作家のデビューに立ち会ってきた。しかしあの子はとくべつだ。俺がとくべつだというとき、それはほんとにとくべつなんだよ。一週間後に『空気さなぎ』を掲載した雑誌が店頭に並ぶことになるわけだが、何を賭けてもいい。左手と右脚を賭けてもいい。三日のうちに雑誌は売り切れるよ」
天吾はわざわざ知らせてくれた礼を言って、電話を切った。そしていくらかほっとした。何はともあれ、これで少なくとも第一の関門はクリアできたわけだ。いったいいくつの関門がそのあとに待ち受けているのか、見当もつかないけれど。
記者会見のもようは翌日の夕刊に掲載された。天吾は予備校の仕事の帰りに、駅の売店で四紙の夕刊を買い、うちに帰って読み比べてみた。どの新聞もだいたい似たような内容だった。それほど長い記事ではなかったが、文芸誌の新人賞の報道としては破格の扱いだった(ほとんどの場合、それらは五行以内で処理される)。小松の予想どおり、十七歳の少女が受賞したということで、メディアが飛びついてきたのだ。記事には、四人の選考委員は全員一致で彼女の『空気さなぎ』を受賞作に選んだと書かれていた。論議のようなものは一切なく、選考会は十五分で終了した。それはきわめて珍しいことだった。我の強い現役作家が四人集まって、全員の意見がぴたりと一致するなど、まずあり得ないことだ。その作品は既に業界でちょっとした評判になっていた。授賞式のあったホテルの一室で小規模の記者会見が開かれ、彼女が記者たちの質問に対して「にこやかに明瞭に」答えた。
「これからも小説を書き続けたいですか?」という質問に対して彼女は「小説は考えをあらわすためのひとつのかたちにすぎません。今回それはたまたま小説というかたちをとったけれど、次にどんなかたちをとるのか、それはわからない」と答えていた。ふかえりが本当にそんなに長いセンテンスを一度にまとめてしゃべったとは考えがたい。おそらく記者が彼女の細切れのセンテンスをうまくつなぎ合わせ、抜けた部分を適当に埋め、ひとつにまとめたのだろう。しかし実際にこんな風に長くまとめてしゃべったのかもしれない。ふかえりについて確実に言えることなんて何ひとつないということだ。
「好きな作品は?」という質問に対しては、彼女はもちろん『平家物語』と答えた。『平家物語』のどの部分がいちばん好きかと質問した記者がいた。彼女は好きな部分を暗唱した。長い暗唱が終わるまでにおおよそ五分かかった。そこに居合わせた全員が深く感心して、暗唱がおわったあとしばらく沈黙があった。ありがたいことに(というべきだろう)好きな音楽について質問した記者はいなかった。
「新人賞を受賞して、誰がいちばん喜んでくれましたか?」という質問に対しては、彼女は長い間をおいてから(その光景は天吾にも想像がついた)「それは秘密です」と答えた。
新聞で読む限り、ふかえりはその質疑応答において、ひとつも嘘はついていなかった。彼女が口にしたことはすべて真実だった。新聞には彼女の写真が載っていた。写真で見るふかえりは、天吾が記憶しているより更に美しかった。実際に顔を合わせて話をしていると、顔以外の身体の動きや、表情の変化や、口にする言葉のほうについ注意が向かってしまうのだが、静止した写真で見ると、彼女がどれだけ整った顔立ちをした少女であるかということが、あらためて理解できた。記者会見の場で撮られたらしい小さな写真だったが(たしかにこの前と同じ夏物のセーターを着ている)、そこにはある種の輝きがうかがえた。たぶんそれは小松が「人並みじゃない空気」と呼んだのと同じものなのだろう。
天吾は夕刊をたたんで片付け、台所に立って缶ビールを飲みながら、簡単な夕食を作った。自分の書き直した作品が満場一致で文芸誌の新人賞をとり、世間で評判になり、そしてこれからおそらくはベストセラーになろうとしている。そう思うと妙な気がした。素直によかったと喜びたい気持ちもあったし、同時に不安で、落ち着かなくもあった。予定していたこととはいえ、こんな風にものごとが簡単にすらすらと運んでしまっていいのだろうか?
食事の用意をしているうちに、食欲がすっかり消えてしまっていることに気がついた。さっきまでは空腹だったはずなのに、今ではもう何も食べたくない。彼は作りかけた料理にラップをかけて冷蔵庫にしまい、台所の椅子に座り、壁のカレンダーを眺めながら、ただ黙ってビールを飲んだ。カレンダーは銀行でもらったもので、富士山の四季の写真をあしらっていた。天吾はまだ一度も富士山に登ったことはなかった。東京タワーに上ったこともない。どこかの高層ビルの屋上にあがったこともない。昔から高いところに興味が持てないのだ。どうしてだろうと天吾は思った。ずっと足元ばかり見て暮らしてきたせいかもしれない。
小松の予言は的中した。ふかえりの『空気さなぎ』が掲載された文芸誌はほとんどその日のうちに売り切れ、書店から姿を消した。文芸誌が売り切れることはまずない。出版社は毎月、赤字を抱えながら文芸誌を出し続けている。そこに掲載された作品をまとめて単行本を作ることと、新人賞を受け皿にして若い新しい作家を拾い上げていくことが、その手の雑誌を出す目的なのだ。雑誌自体の売れ行きや収益はほとんど期待されていない。だから文芸誌がその日のうちに売り切れることは、沖縄に粉雪が舞うのと同じ程度に耳目を引くニュースになる。売り切れたところで赤字であることに変わりはないのだが。
小松が電話をかけてきて、それを教えてくれた。
「けっこうなことだ」と彼は言った。「雑誌が売り切れれば、世間の人は余計にその作品に興味を持ち、どんなものだか読みたがる。そして印刷所は今しゃかりきで『空気さなぎ』の単行本を刷っているところだ。最優先、緊急出版だよ。こうなれば芥川賞なんか取っても取らなくても関係ない。それよりはホットなうちに本を売りまくるんだ。間違いなくこいつはベストセラーになる。俺が保証するよ。だから天吾くんも、今のうちに金の使い道を考えておいた方がいいぜ」
土曜日の夕刊の文芸欄に『空気さなぎ』についての記事が載った。作品の掲載された雑誌があっという間に売り切れてしまったことが見出しになっていた。何人かの文芸評論家がその作品についての感想を述べていた。おしなべて好意的な意見だった。十七歳の少女が書いたとは思えない確かな筆力、鋭い感性、そして潤沢な想像力。その作品は新しい文学のスタイルの可能性を示唆している<傍点>かもしれない傍点>。一人の評論家は「あまりにも想像力が飛翔しすぎて、現実との接点を欠くきらいがなきにしもあらず」と論評していた。それが天吾の目にした唯一のネガティブな意見だった。しかしその評論家も「この少女がこれから先どのような作品を書いていくのか、まことに興味深い」と穏やかに結んでいた。どうやら風向きは今のところ悪くないようだ。
ふかえりが電話をかけてきたのは、単行本の出版予定日の四日前だった。朝の九時だ。
「おきてた」と彼女は尋ねた。あいかわらず抑揚のないしゃべり方だ。疑問符もついていない。
「もちろん起きているよ」と天吾は言った。
「きょうのゴゴはあいている」
「四時からあとなら時間はあいている」
「あうことはできる」
「会うことはできる」と天吾は言った。
「まえのところでいい」とふかえりは尋ねた。
「いいよ」と天吾は言った。「四時にこの前と同じ新宿の喫茶店に行く。それから、新聞の写真はとてもよく写っていたよ。記者会見のときのやつ」
「おなじセーターをきた」と彼女は言った。
「よく似合っていた」と天吾は言った。
「ムネのかたちがすきだから」
「そうかもしれない。でもこの場合もっと大事なのは、それが人に好印象を与えるということなんだ」
ふかえりは電話口でしばらく黙っていた。何かを手近の棚に載せてじつと眺めているような沈黙だった。好印象と胸のかたちの関係について、考えを巡らせているのかもしれない。それについて考えると、好印象と胸のかたちにどんな関係性があるのか、天吾にもだんだんわからなくなってきた。
「<傍点>よじ傍点>に」とふかえりは言った。そして電話を切った。
四時少し前にいつもの喫茶店に入ったとき、ふかえりは既にそこで待っていた。ふかえりの隣には戎野先生が座っていた。淡いグレーの長袖シャツに、濃いグレーのズボンというかっこうだった。相変わらず彫像みたいに背筋がまっすぐ伸びている。天吾は先生の姿を見て少し驚いた。小松の話によれば、彼が「山を下りる」のはきわめて希だということだった。
天吾は二人と向かい合った席に座り、コーヒーを注文した。まだ梅雨の前なのに、夏の盛りを思わせるような暑い日だった。それでもふかえりは前と同じように温かいココアをちびちびと飲んでいた。戎野先生はアイスコーヒーをとっていたが、口はつけていなかった。氷が溶けて、上の方に水の透明な層を作っていた。
「よく来てくれた」と戎野先生は言った。
コーヒーが運ばれてきて、天吾はそれに口をつけた。
「いろんなものごとが、今のところ順調に運んでいるようだ」と戎野先生は声の調子をテストしているみたいに、ゆっくりとした口調で言った。「君の功績は大きい。まことに大きい。まずそのお礼を言わなくてはならない」
「そう言っていただけるのはありがたいですが、今回の件に関しては、ご存じのように、僕は公式には存在しない人間です」と天吾は言った。「公式に存在しない人間に功績なんてものはありません」
戎野先生は暖でも取るように、テーブルの上で両手をこすり合わせた。
「いや、そこまで謙遜することはないだろう。建前はともかく、現実には君はしっかり存在している。君がいなかったら、ものごとはここまですらすらと運ばなかったはずだ。君のおかげで『空気さなぎ』は遥かに優れた作品になった。私の予想を超えて深い豊かな内容を持つものになった。さすがに小松君には人を見る目がある」
ふかえりはその隣りでミルクをなめる子猫のように、黙ってココアを飲み続けていた。シンプルな白い半袖のブラウスに、短めの紺のスカートをはいていた。いつものように装身具は一切つけていない。前屈みになるとまっすぐな長い髪の中に顔が隠された。
「是非そのことを直接に伝えたかった。だからわざわざここまでご足労を願った」と戎野先生は言った。
「そんなことは気にしていただかなくてかまいません。僕にとっても『空気さなぎ』を書き直すのは意味のある作業でした」
「君にはあらためてお礼をしなくてはならないと思っている」
「お礼のことはどうでもいいです」と天吾は言った。「ただエリさんに関して、個人的なことを少しうかがってもかまわないでしょうか?」
「もちろん。私に答えられることなら」
「戎野先生はエリさんの正式な後見人になっておられるのですか?」
先生は首を振った。「いや、正式な後見人というのではない。できることならそうなりたいとは思っている。しかし前にも言ったとおり、彼女の両親とまったく連絡がつかない状態になっている。法的なことを言えば、私は彼女に関して何の権利も有していない。七年前にうちにやってきたエリを引き取って、そのまま育てているというだけのことだ」
「だとしたら、先生としてはエリさんの存在をそっとしておきたいと思われるのが普通ではないのですか? 彼女がこんな風に派手な脚光を浴びると、トラブルが起きかねません。まだ未成年ですし」
「たとえば彼女の両親が訴えを起こし、エリの身柄を引き取りたいと言い出せば、面倒な事態になるのではないか。せっかく逃げ出してきたところに、強制的にまた連れ戻されるのではないか。そういうことだね?」
「そうです。そこのところが僕にはもうひとつ解せないんです」
「当然な疑問だ。しかし向こうの方にも、それほど表だって動きをとれない事情がある。エリが世間の脚光を浴びれば浴びるほど、彼らがエリに関して何か行動を起こすと、世間の耳目を引くことになる。それは彼らが最も望んでいないことなのだ」
「<傍点>彼ら傍点>」と天吾は言った。「おっしゃっているのは、『さきがけ』のことですね?」
「そのとおり」と先生は言った。「宗教法人『さきがけ』のことだ。私にもエリをこうして七年間育ててきた実績がある。エリ自身もこのままうちに留まることをはっきり望んでいる。そしてエリの両親はたとえどんな事情があるにせよ、なにしろこの七年間、彼女を放ったらかしにしてきたんだ。簡単に<傍点>はいそうですか傍点>と引き渡すことはできないよ」
天吾は頭の中を整理した。それから言った。
「『空気さなぎ』は予定通りベストセラーになる。エリさんは世間の関心を集める。そうなると逆に『さきがけ』も簡単には動けなくなる。そこまではわかりました。それで戎野先生の<傍点>つもり傍点>では、これから先どのように話が進んでいくのですか?」
「それは私にもわからん」と戎野先生は淡々と言った。「ここから先は誰にとっても未知の領域だ。地図はない。次の角を曲がったところに何が待ち受けているか、曲がってみなくてはわからん。見当もつかない」
「見当もつかない?」と天吾は言った。
「そう、無責任に聞こえるかもしれないが、<傍点>見当もつかない傍点>というところが、まさにこの話の骨子なんだ。深い池に石を放り込む。どぼん。大きな音があたりに響き渡る。このあと池から何が出てくるのか、私たちは固唾を呑んで見守っている」
しばらく全員が黙っていた。三人はそれぞれに、水面に広がっていく波紋を思い浮かべていた。天吾はその架空の波紋が落ち着くのを見計らって、おもむろに口を開いた。
「最初にも申し上げたことですが、今回我々がやっているのは、一種の詐欺行為です。反社会的な行為と言ってしまっていいかもしれません。この先、おそらく少なくない額の金銭もかかわってくるでしょうし、嘘は雪だるま式に膨らんでいきます。嘘が嘘を呼んで、嘘と嘘との間の関係性がますますややこしいものになり、たぶん最終的には誰の手にも負えないものになってしまうことでしょう。そして内情が露見したときには、これに関わった全員が、このエリさんをも含めて、何らかの被害を被るし、悪くすれば破滅します。社会的に葬り去られるかもしれない。それには同意していただけますね?」
戎野先生は眼鏡の縁に手をやった。「同意せざるを得ないだろうね」
「それなのに先生は、小松さんの話によれば、彼が『空気さなぎ』がらみででっちあげる会社の代表になろうとしています。つまり小松さんの計画に正面から関与しようとしている。言い換えれば、進んで泥をかぶるつもりでおられるようです」
「結果的にはそういうことになるかもしれない」
「僕が理解するかぎり、戎野先生は優れた知性を具え、広い常識と独自の世界観を身につけた方です。なのに、この計画の行く先がわからないでいる。次の角を曲がったら何が出てくるか予測できないと言う。先生のような人が、どうしてそんな不確かな、わけのわからない場所に身を置くことができるのか、僕にはそこがよく理解できないんです」
「過分の評価を頂いてまことに恐縮だが、それはそれとして——」、戎野先生はそう言って一息置いた。「君の言わんとすることはよくわかる」
沈黙があった。
「なにがおこるのかだれにもわからない」とふかえりがそこで突然口を挟んだ。そしてまたもとの沈黙の中に戻っていった。ココアのカップはもう空になっていた。
「そのとおり」と先生は言った。「何が起こるのかは誰にもわからない。エリの言うとおりだ」
「でもある程度の目論見のようなものはあるはずです」と天吾は言った。
「ある程度の目論見はある」と戎野先生が言った。
「その目論見を推測してかまいませんか?」
「もちろん」
「『空気さなぎ』という作品を世に出すことで、エリさんの両親の身に何が起こったのか、真相が暴かれるかもしれない。それが池に石を放り込むことの意味ですか?」
「君の推測はおおむね正しい」と戎野先生は言った。「『空気さなぎ』がベストセラーになれば、メディアが池の鯉のように一斉に集まってくる。実を言えば、今だってすでにけっこうな騒ぎになっているんだ。記者会見以来、雑誌やテレビから取材の申し込みが殺到している。もちろん全部断っているが、これから本の出版に向けて事態はさらに過熱していくはずだ。こちらが取材に応じないとなると、彼らはあらゆる手を使ってエリの生い立ちを調べ上げるだろう。そしてエリの素性は早晩暴かれる。両親が誰か、どこでどんな育ち方をしたか。そして今、誰が彼女の面倒を見ているか。それは興味深いニュースになるはずだ。
私だって好きこのんでこんなことをしているわけじゃない。今の私は山の中で気楽な生活を送っている。今さら世間の耳目を引くようなことに関わり合いたくはない。そんなことをしても一文の得にもならん。しかし私としては、うまく餌をまいて、メディアの関心をエリの両親の方に誘導できればと考えている。<傍点>彼らはどこで何をしているのか傍点>、というところにね。つまり警察にできないことを、あるいはやる気のないことを、メディアに肩代わりしてもらうわけだ。うまくいけばその流れを利用して二人を救出できるかもしれないとも考えている。とにかく深田夫婦は私にとっても、それからもちろんエリにとってもきわめて大事な存在だ。消息不明のまま放置しておくわけにはいかない」
「しかしもし深田夫妻がそこにいるとして、いったいどのような理由で七年間も拘束されなくてはならないのでしょう? それはあまりにも長い歳月です」
「私にもそれはわからん。あくまで推測するしかない」と戎野先生は言った。「このあいだも言ったように、革命的な農業コミューンとして始まった『さきがけ』は、ある時点で武闘派集団『あけぼの』と快を分かち、コミューン路線を大幅に変更し、宗教団体に姿を変えた。『あけぼの』事件に関連して教団の中に警察の捜査が入ったが、事件とはまったく無関係だということがわかっただけだ。それ以来教団は着々と地歩を固めてきた。いや、着々というよりむしろ急速にというべきだろうな。とはいえ、彼らの活動の実体は世間にはほとんど知られていない。君だって知るまい」
「まったく何も知りません」と天吾は言った。「僕はテレビも見ないし、新聞もろくに読まないので、あまり世間の基準にはならないと思いますが」
「いや、知らないのは何も君だけじゃない。彼らはできるだけ世間に知られないようにひっそりと行動しているんだ。ほかの新興の宗教団体は目立つことをして、少しでも信者を増やそうとしているが、『さきがけ』はそんなことはしない。彼らの目的は信者を増やすことにはないからだ。一般の宗教団体が信者の数を増やそうとするのは、収入を安定させるためだが、『さきがけ』にはどうやらそんな必要もないらしい。彼らが求めているのは金銭よりはむしろ人材だ。目的意識が高く、様々な種類の専門的な能力を持つ、健康で年若い信者だ。だから無理に信者を勧誘したりはしない。誰でも受け入れるというのでもない。入れてくれとやってきた人々の中から、面接して選抜する。あるいは能力のあるものをリクルートする。その結果、士気の高い、良質で戦闘的な宗教団体ができあがった。彼らは表向きには農業を営みつつ、厳しい修行に励んでいる」
「いったいどのような教義に基づいた宗教団体なのですか?」
「決まった教典はおそらくない。あっても折衷的なものだろう。大まかに言えば密教系の団体で、細かい教義よりはむしろ、労働と修行が彼らの生活の中心になっている。それもかなり厳しいものだ。生半可なものではない。そのような精神生活を求める若い連中が、評判を聞きつけて全国から集まってくる。結束は固く、外部に対しては秘密主義を貫いている」
「教祖はいるのですか?」
「表向きには教祖は存在しない。個人崇拝を排し、集団指導で教団の運営にあたっていることになっている。しかし内情は明らかにされていない。私もできるだけ情報を集めているんだが、塀の外に漏れ出てくる情報の量はきわめて少ない。ただひとつ言えることは、教団は着実に発展しているし、資金は潤沢らしいということだ。『さきがけ』の所有する土地はより広くなり、施設はますます充実している。その土地を囲む塀もより強固なものになった」
「そして『さきがけ』のもともとのリーダーであった深田さんの名前は、いつの間にか表面から消えてしまった」
「そのとおり。すべてが不自然だ。納得もいかない」と戎野先生は言った。ふかえりの顔に少し目をやり、それからまた天吾を見た。「『さきがけ』には何か大きな秘密が隠されている。ある時点で『さきがけ』の中で地殻変動のようなことが起こったに違いない。どんなことだかはわからん。しかしそれによって『さきがけ』は農業コミューンから宗教団体へと大きく方向転換した。そしてそれを境に、世間に対して開かれた穏健な団体から、きわめて秘密主義的な態度を取る厳格な団体に豹変した。
その時点で『さきがけ』内部で、クーデターのようなことが持ち上がったのではないかと私は想像しているんだ。そして深田がそれに巻き込まれたのではないかと。前にも言ったように、深田は宗教的な傾向など露ほども持ちあわせない人物だ。徹底した唯物論者だ。自分のこしらえた共同体が宗教団体に路線変更しようとするのを前にして、手をこまねいているような男じゃない。全力を用いてそんな流れを阻止しようとするはずだ。彼はおそらくそのとき『さきがけ』内部の主導権{ヘゲモニー}争いに敗れたのではあるまいか」
天吾はそれについて考えてみた。「おっしゃることはわかりますが、もし仮にそうだったとしても、深田さんを『さきがけ』から追放すれば済むことではありませんか。『あけぼの』を平和裏に分離したときと同じように。わざわざ監禁したりする必要はないでしょう」
「君の言うとおりだ。普通の場合であれば、監禁なんていう面倒な手間をかける必要はない。しかし深田は『さきがけ』の秘密のようなものをつかんでいたのではないだろうか。世間に明らかにされると具合の悪い種類のことをね。だからただ深田を外に放り出すだけでは済まなかった。
深田はもともとの共同体の設立者として、長い歳月にわたって実質的な指導者の役を果たしていた。そこでこれまでどんなことが行われてきたか、残らず目にしてきたはずだ。あるいは知りすぎた人間になっていたのかもしれない。そして深田は世間的にかなり名を知られてもいる。深田保という名前はあの時代に現象的に結びついていたし、今でも一部の場所ではカリスマ性をもって機能している。深田が『さきがけ』の外に出て行けば、その発言や行動はいやでも人々の耳目を引くことになるだろう。となれば、深田夫妻が仮に離脱を望んだとしても、『さきがけ』としては簡単に二人を手放すわけにはいかない」
「だから深田保の娘であるエリさんを作家としてセンセーショナルにデビューさせ、『空気さなぎ』をベストセラーにすることによって世間の関心をかきたて、その膠着{こうちゃく}状態に側面から揺さぶりをかけようとしている」
「七年はずいぶん長い歳月だ。そしてそのあいだ何をしてもうまくいかなかった。今ここで思い切った手段を講じなければ、謎は解けないまま終わってしまうかもしれない」
「エリさんを餌がわりに、大きな虎を藪の中からおびき出そうとしている」
「何が出てくるかは誰にもわからない。なにも虎と決まったわけではないだろう」
「しかし話の成り行きからして、先生は何かしら暴力的なものを念頭に置かれているように見えます」
「その可能性はあるだろう」と先生は考え深げに言った。「君もおそらく知っているはずだ。密閉された同質的な集団の中では、あらゆることが起こり得る」
重い沈黙があった。その沈黙の中でふかえりが口を開いた。
「リトル?ピープルがやってきたから」と彼女は小さな声で言った。
天吾は先生の隣りに座っているふかえりの顔を見た。彼女の顔にはいつものように、表情というものが欠落していた。
「リトル?ピープルがやってきて、それで『さきがけ』の中の何かが変わったということ?」と天吾はふかえりに尋ねた。
ふかえりはその質問には答えなかった。ブラウスの首のボタンを指でいじっていた。
戎野先生がエリの沈黙を引き取るようなかたちで口を開いた。「エリの描くところのリトル?ピープルが何を意味しているのか、私にはわからない。彼女にもリトル?ピープルが何であるかを言葉で説明することはできない。あるいはまた説明するつもりもないみたいだ。しかしいずれにせよ、農業コミューン『さきがけ』が宗教団体に急激に方向転換するにあたって、リトル?ピープルが何らかの役割を果たしたことは、どうやら確からしい」
「あるいは<傍点>リトル?ピープル的なるもの傍点>が」と天吾は言った。
「そのとおりだ」と先生は言った。「それがリトル?ピープルなのか、あるいはリトル?ピープル的なるものなのか、どちらかは私にもわからない。しかし少なくともエリは小説『空気さなぎ』にリトル?ピープルを登場させることによって、何か大事な事実を語ろうとしているように見える」
先生はしばらく自分の両手を眺めていたが、やがて顔を上げて言った。
「ジョージ?オーウェルは『1984年』の中に、君もご存じのとおり、ビッグ?ブラザーという独裁者を登場させた。もちろんスターリニズムを寓話化したものだ。そしてビッグ?ブラザーという言葉{ターム}は、以来ひとつの社会的アイコンとして機能するようになった。それはオーウェルの功績だ。しかしこの現実の1984年にあっては、ビッグ?ブラザーはあまりにも有名になり、あまりにも見え透いた存在になってしまった。もしここにビッグ?ブラザーが現れたなら、我々はその人物を指さしてこう言うだろう、『気をつけろ。あいつはビッグ?ブラザーだ1』と。言い換えるなら、この現実の世界にもうビッグ?ブラザーの出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル?ピープルなるものが登場してきた。なかなか興味深い言葉の対比だと思わないか?」
先生は天吾の顔をじっと見たまま、笑みのようなものを浮かべた。
「リトル?ピープルは目に見えない存在だ。それが善きものか悪しきものか、実体があるのかないのか、それすら我々にはわからない。しかしそいつは着実に我々の足元を掘り崩していくようだ」、先生はそこで少し間を取った。「深田夫妻の身に、あるいはまたエリの身に何が起こったかを知るためには、我々はリトル?ピープルとは何であるかをまず知らなくてはならないのかもしれない」
「あなたはつまり、リトル?ピープルをおびき出そうとしているのですか?」と天吾は尋ねた。
「実体があるかないかわからないものをおびき出すなんてことが、果たして我々にできるものだろうか?」と先生は言った。笑みはまだ口の端に浮かんでいた。「君の言うところの『大きな虎』の方がまだしも現実的じゃないかね」
「いずれにせよ、エリさんが餌になっていることに変わりはありません」
「いや、餌という言葉は適切とは言えない。渦をこしらえるというイメージの方が近い。やがてまわりのものが、その渦にあわせて回転を始めるだろう。私はそれを待ち受けている」
先生は指の先をゆっくり宙で回転させた。そして話を続けた。
「その渦の中心にいるのはエリだ。渦の中心にいるものは動く必要はない。動くのはそのまわりにあるものだ」
天吾は黙って話を聞いていた。
「もし君の物騒なたとえをそのまま使わせてもらうなら、エリだけじゃなく、我々全員が餌になっているということになるかもしれない」、そして先生は目を細めて天吾の顔を見た。「君をも含めて」
「僕はただ『空気さなぎ』を書き直せばいいということでした。いわば下働きの技術者です。それが小松さんから最初にまわってきた話です」
「なるほど」
「でも、話が途中から少しずつ変わってきたようです」と天吾は言った。「それはつまり、小松さんの立てたもともとの計画に、先生が修正を加えたということなのでしょうか?」
「いや、修正を加えたつもりはないよ。小松君には小松君のつもりがあり、私には私のつもりがある。今のところその二つの<傍点>つもり傍点>は方向性が一致している」
「二人の<傍点>つもり傍点>が相乗りしたような格好になって、計画が進んでいるわけですね」
「そう言えるかもしれない」
「行く先の違う二人が同じ馬に乗って道を進んでいる。あるポイントまでは道はひとつだが、その先のことはわからない」
「君は物書きだけあって、なかなか表現がうまい」
天吾はため息をついた。「あまり明るい見通しがあるようには僕には思えません。しかしいずれにせよ、もう後戻りはできないようですね」
「もし後戻りができたとしても、もとの場所には戻ることはむずかしかろうね」と先生は言った。
会話はそこで終わった。天吾にもそれ以上言うべきことは思いつけなかった。
戎野先生は先に席を立った。近くで人に会う用事があるということだった。ふかえりはあとに残った。天吾とふかえりはしばらく二人きりで向かい合って、黙っていた。
「おなかは減らない?」と天吾は尋ねた。
「とくにへらない」とふかえりは言った。
喫茶店が混んできたので、ふたりはどちらから言い出すともなく店を出た。そしてあてもなく、しばらく新宿の通りを歩いた。時刻はもう六時に近く、多くの人々が駅に向けて足早に歩いていたが、空はまだ明るかった。初夏の日差しが都市を包んでいた。地下の喫茶店から出てくると、その明るさは奇妙に人工的なものに感じられた。
「これからどこかに行くの?」と天吾は尋ねた。
「とくにいくところはない」とふかえりは言った。
「家まで送ろうか?」と天吾は言った。「つまり信濃町のマンションまでということだけど。今日はそこに泊まるんだろう?」
「あそこにはいかない」とふかえりは言った。
「どうして?」
彼女はそれには返事をしなかった。
「そこには行かない方がいいような気がするということ?」と天吾は尋ねてみた。
ふかえりは黙って肯いた。
どうしてそこに行かない方がいいと思うのか、尋ねてみたくもあったが、どうせまともな返事はかえってこないだろうという気がした。
「じゃあ、先生のうちに帰る?」
「フタマタオはとおすぎる」
「ほかにどこか行くあてはあるの?」
「あなたのところにとめてもらう」とふかえりは言った。
「それはちょっとまずいかもしれない」と天吾は慎重に言葉を選んで返事をした。「狭いアパートだし、僕は一人暮らしだし、戎野先生だってそんなことはきっと許さないだろう」
「センセイはきにしない」とふかえりは言った。そして肩をすぼめるような動作をした。「わたしもきにしない」
「僕は気にするかもしれない」と天吾は言った。
「どうして」
「つまり……」と言いかけたが、その続きの言葉が出てこなかった。自分が何を言いかけていたのか、天吾には思い出せなかった。ふかえりと話しているとときどきそうなる。自分がどんな文脈で話をしようとしていたかを、一瞬見失ってしまうのだ。強い風が突然吹いて、演奏中の譜面を吹き飛ばしてしまうみたいに。
ふかえりは右手を出して、慰めるように天吾の左手をそっと握った。
「あなたにはよくわかっていない」と彼女は言った。
「たとえばどんなことが?」
「わたしたちはひとつになっている」
「ひとつになっている?」と天吾は驚いて言った。
「ホンをいっしょにかいた」
天吾は手のひらにふかえりの指の力を感じた。強くはないが、均一で確かな力だ。
「そのとおりだ。僕らは一緒に『空気さなぎ』を書いた。虎に食べられるときも一緒だろう」
「トラはでてこない」とふかえりは珍しく真剣な声で言った。
「それはよかった」と天吾は言った。しかしそのことでとくに幸福な気持ちにもなれなかった。虎は出てこないかもしれないが、そのかわりに何が出てくるかわかったものではない。
二人は新宿駅の切符売り場の前に立った。ふかえりは天吾の手を握ったまま、彼の顔を見ていた。人々が二人のまわりを川の流れのように足早に通り過ぎていった。
「いいよ。うちに泊まりたいのなら、泊まっていけばいい」と天吾はあきらめて言った。「僕はソファで寝られるから」
「ありがとう」とふかえりは言った。
彼女の口からお礼の言葉らしきものを聞いたのはこれが初めてだ、と天吾は思った。いや、あるいは初めてではなかったかもしれない。しかし前にそれを耳にしたのがいつだったか、どうしても思い出せなかった。
第19章 青豆
秘密を分かち合う女たち
「リトル?ピープル?」と青豆は少女の顔をのぞき込みながら優しい声で尋ねた。「ねえ、リトル?ピープルって誰のことなの?」
しかしそれだけを言ってしまうと、つばさの口は再びぴたりと閉ざされ、瞳は前と同じように奥行きを失っていた。その言葉を口にしただけでエネルギーの大半を使い切ってしまったみたいに。
「あなたの知っている人?」と青豆は言った。
やはり返事はない。
「この子はその言葉をこれまでにも何度か口にしました」と老婦人は言った。「リトル?ピープル。意味はわかりません」
リトル?ピープルという言葉には不吉な響きが含まれていた。青豆の耳はその微かな響きを、遠くの雷鳴を聞くときのように感知することができた。
青豆は老婦人に尋ねた。「そのリトル?ピープルが彼女の身体に害を与えたのでしょうか?」
老婦人は首を振った。「わかりません。しかしそれが何であれ、リトル?ピープル<傍点>なるもの傍点>がこの子にとって大事な意味を持っていることに間違いはなさそうですね」
少女はテーブルの上に小さな両手を揃えて載せ、姿勢を変えることもなく、その不透明な目で空中の一点をじっと見つめていた。
青豆は老婦人に質問した、「いったい何が起こったのです?」。
老婦人はどちらかというと淡々とした口調で語った。「レイプの痕跡が認められます。それも何度も繰り返されています。外陰部と膣にいくつかのひどい裂傷があり、子宮内部にも傷があります。まだ成熟しきっていない小さな子宮に、成人男子の硬くなった性器が挿入されたからです。そのために卵子の着床部が大きく破壊されています。これから成長しても、妊娠することは不可能だろうと医師は判断しています」
老婦人は半ば意図的に、少女の前でそのような生々しい話を持ち出しているように見えた。つばさはそれを何も言わずに聞いていた。その表情には変化らしきものは見受けられなかった。ときどき口が小さな動きを見せたが、そこから音声が発せられることはなかった。彼女はどこか遠いところにいる知らない人についての話に、半ば儀礼的に耳を傾けているみたいに見えた。
「それだけではありません」と老婦人は静かに続けた。「もし万が一、何らかの処置によって子宮の機能が回復したとしても、この子がこの先、誰かと性行為をおこないたいと望むことはおそらくないでしょう。これだけの激しい損傷を受けるからには、挿入は相当な痛みを伴ったはずですし、それが何度も繰り返されたのです。その痛みの記憶が簡単に消えることはありません。私の言うことはわかりますね」
青豆は肯いた。彼女の両手の指は、膝の上でしっかりと組み合わされていた。
「つまりこの子の中に準備されている卵子には、行き場所がなくなってしまったわけです。それらは——」、老婦人はつばさの方にちらりと目をやって、それから続けた。「すでに不毛なものになってしまったのです」
つばさが話の内容をどこまで理解しているのか、それも青豆にはわからなかった。しかし何を理解しているにせよ、彼女の生きた感情はどこかよそにあるらしかった。少なくともこの場所にはない。別の<傍点>どこか傍点>にある鍵のかかった小さな暗い部屋に、その心は仕舞い込まれてしまったようだった。
老婦人は続けた。「妊娠して子供をもうけることが、女性にとっての唯一の生き甲斐だと言っているわけではありません。どのような人生を選ぶか、それは一人ひとりの自由です。しかし一人の女性が、女性として当然持つべき生来の権利を、誰かに力ずくで前もって奪われてしまうというのは、どう考えても許し難いことです」
青豆は黙って肯いた。
「もちろん許し難いことです」と老婦人は繰り返した。彼女の声が微かに震えていることに青豆は気づいた。感情がだんだん抑えられなくなってきたようだった。「この子は<傍点>あるところ傍点>から一人で逃げ出してきました。どのように逃げ出せたのかはわかりません。しかしここのほかに行くべき場所もありません。ここ以外の場所はどこも、彼女にとって安全とは言えないからです」
「この子の両親はどこにいるのですか?」
老婦人はむずかしい顔をして、机の表面を指の爪で軽く叩いた。「両親のいるところはわかっています。しかしそのような酷い行為を容認したのが、彼女の両親なのです。つまりこの子は両親のもとから逃げ出してきたわけです」
「つまり、自分の娘が誰かにレイプされることを両親が認めた。そうおっしゃりたいのですか?」
「認めただけではありません。奨励したのです」
「どうしてそんなことを……」と青豆は言った。そのあとの言葉はうまく出てこなかった。
老婦人は首を振った。「ひどい話です。何があろうと許せないことです。しかしそこには一筋縄ではいかない事情があります。単純な家庭内暴力みたいなものとはわけが違います。警察に通報する必要があるとその医師に言われました。しかし私は通報しないでくれるように頼みました。懇意にしている相手だったので、なんとか説得することはできました」
「どうして」と青豆は尋ねた。「なぜ警察に通報しなかったのですか?」
「この子が受けたのは、明らかに人倫にもとる行為であり、社会的にも看過されるべきことではありません。重い刑事罰を受けて当然の卑劣な犯罪です」、老婦人は言葉を慎重に選びながら言った。「しかしだからといって、今ここで警察に通報したところで、彼らにいったいどんな措置がとれるでしょう? 見ての通り、この子はほとんど口がきけないのです。何があったか、自分の身に何が起こったか、まともに説明をすることもできないでしょう。たとえ説明できたとしても、それが事実だと証明する手だてがありません。もし警察に引き取られたら、この子はそのまま両親のもとに送り返されるかもしれません。ほかに行き場所もありませんし、なんといっても両親は親権を持っています。そして両親のもとに戻れば、おそらくそこでまた同じことが繰り返されるはずです。そんなことをさせるわけにはいきません」
青豆は肯いた。
「この子は私が自分で育てます」と老婦人はきっぱりと言った。「どこにもやりません。両親がやってきても誰がやってきても、渡すつもりはありません。どこかよそに隠し、私が引き取って養育します」
青豆はしばらくのあいだ、老婦人と少女を交互に見ていた。
「それで、この子に性的な暴行を加えた男性は特定できるのですか?それは一人なのですか?」と青豆は尋ねた。
「特定できます。一人です」
「しかしその男を訴えることはできないのですね」
「その男は強い影響力を持っています」と老婦人は言った。「<傍点>とても傍点>強い直接的な影響力です。この子の両親はその影響力の下にありました。そして今でもその影響力の下にあります。彼らはその男に命ぜられるままに動く人々です。人格や判断能力を持ち合わせていない人々です。彼らにとってその男の言うことは絶対的に正しいのです。だから娘を彼に差し出すことが必要だと言われたら、逆らうことはできません。相手の言いぶんを鵜呑みにして、嬉々として娘を差し出します。そこで何が行われるかがわかっていてもです」
老婦人の口にしたことを理解するまでに時間がかかった。青豆はひとしきり頭を働かせ状況を整理した。
「それは何か、特殊な団体なのですか?」
「そうです。狭い病んだ精神を共有する特殊な団体です」
「カルトのようなもの?」と青豆は尋ねた。
老婦人は肯いた。「そうです。それもきわめて悪質で危険なカルトです」
もちろんだ。それはカルトでしかあり得ない。命ぜられるままに動く人々。人格や判断能力を持ち合わせていない人。<傍点>同じことが私の身に起こっていたとしてもおかしくはなかったんだ傍点>、と青豆は唇を噛みしめながら思った。
もちろん「証人会」の内部で実際にレイプに巻き込まれるようなことはなかった。少なくとも彼女の身には、性的な種類の脅威は及ばなかった。まわりにいた「兄弟?姉妹」は、みんな穏やかで誠実な人々だった。信仰について真剣に考え、その教義を——ある場合には生命をかけて——尊重して生きている人々だった。しかし正しい動機がいつも正しい結果をもたらすとは限らない。そしてレイプというのは、何も肉体だけがその標的になるわけではない。暴力がいつも目に見える形をとるとは限らないし、傷口が常に血を流すとは限らないのだ。
つばさは青豆に、同じ年頃であったときの自分の姿を思い出させた。私は自分の意志でなんとかそこから抜け出すことができた。しかしこの子の場合、ここまで深刻に痛めつけられてしまうと、もう後戻りはできないかもしれない。もう二度と自然な心を取り戻すことはないかもしれない。そう思うと、青豆の胸は激しく痛んだ。青豆がつばさの中に見いだしたのは、自分自身の<傍点>そうであったかもしれない傍点>姿だった。
「青豆さん」と老婦人は打ち明けるように言った。「今だから言いますが、失礼だとは承知の上で、あなたの身元調査のようなことをさせていただきました」
そう言われて青豆は我に返り、相手の顔を見た。
老婦人は言った。「最初にここであなたに会って話をしたすぐあとにです。不快に思わないでくれると嬉しいのですが」
「いいえ、不快には思いません」と青豆は言った。「私の身元を調査なさるのは、立場として当たり前のことです。私たちがやっているのは、普通のことではありませんから」
「そのとおりです。私たちはとても微妙な、細い一本の線の上を歩んでいます。だからこそ私たちは、お互いを信頼しなくてはなりません。しかし相手が誰であれ、知るべきことを知らずして、人を信頼することなどできません。だからあなたに関するすべてを調査させました。現在からずつと過去まで遡って。もちろん<傍点>ほとんどすべて傍点>ということですが。人についてのまったくのすべてを知ることなんて、誰にもできません。おそらくは神様にも」
「悪魔にも」と青豆は言った。
「悪魔にも」と老婦人は繰り返した。そして仄{ほの}かな微笑みを浮かべた。「あなた自身が少女時代に、カルトがらみの心の傷を負っていることは承知しています。あなたのご両親は熱心な『証人会』の信者だったし、今でもそうです。そしてあなたが信仰を捨てたことを決して赦そうとはしない。そのことが今でもあなたを苦しめている」
青豆は黙って肯いた。
老婦人は続けた。「私の正直な意見を述べれば、『証人会』はまともな宗教とは言えません。もしあなたが小さな子供の頃に大きな怪我をしたり、手術を要する病気にかかったりしていたら、そのまま命を落としていたかもしれません。聖書に字義的に反しているからといって、生命維持に必要な手術まで否定するような宗教は、カルト以外の何ものでもありません。それは一線を越えたドグマの濫用です」
青豆は肯いた。輸血拒否の論理は、「証人会」の子供たちがまず最初に頭にたたき込まれることだ。神の教えに背いた輸血をして地獄に堕ちるよりは、清浄な身体と魂のまま死んで、楽園に行った方が遥かに幸福なのだ、子供たちはそう教えられる。そこには妥協の余地はない。地獄に堕ちるか楽園に行くか、辿るべき道はそのどちらかだ。子供たちにはまだ批判能力が具わっていない。そのような論理が社会通念的にあるいは科学的に正しいことかどうか、知りようもない。子供たちは親から教わったことを、そのまま信じ込むしかない。もし私が小さな子供のときに、輸血が必要とされる立場に追い込まれていたら、私は親に命じられたとおり、輸血を拒否してそのまま死ぬことを選んだはずだ。そして楽園だかどこだか、わけのわからないところに運ばれていったはずだ。
「そのカルト教団は有名なものなのですか?」と青豆は尋ねた。
「『さきがけ』と呼ばれています。もちろんあなたも、その名前くらいは耳にしたことはあるでしょう。一時は毎日のように新聞にその名前が載りましたから」
青豆にはその名前を耳にした覚えはなかった。しかし何も言わず曖昧に肯いた。そうしておいた方がいいような気がしたからだ。彼女は自分が今、本来の1984年ではなく、いくつかの変更を加えられた1Q84年という世界を生きているらしいことを自覚していた。まだ仮説に過ぎないが、それは日ごとに着々とリアリティーを増している。そして知らされていない情報が、その新しい世界にはまだたくさんありそうだった。彼女はどこまでも注意深くならなくてはならない。
老婦人は話を続けた。「『さきがけ』はもともとは小さな農業コミューンとして始まり、都市から逃れた新左翼グループが中核となって運営されていたのですが、ある時点から急に方向転換をして、宗教団体に様変わりしました。その転向の理由も経緯もよくわかっていません。奇妙といえば奇妙な話です。しかしいずれにせよ大部分のメンバーはそこにそのままとどまったようです。今では宗教法人として認証を受けていますが、その教団の実体はほとんど世間には知られていません。基本的には仏教の密教系に属しているということですが、おそらく教義の中身ははりぼてみたいなものでしょう。しかしこの教団は急速に信者を獲得し、強大化しつつあります。<傍点>あんな重大な事件傍点>に何らかの関与があったにもかかわらず、教団のイメージはまったくダメージを受けませんでした。彼らは驚くほどにスマートにそれに対処しましたからね。むしろ宣伝になったくらいです」
老婦人は一息ついてからまた話を続けた。
「世間にはほとんど知られていないことですが、この教団には『リーダー』という名前で呼ばれる教祖がいます。彼は特殊能力を持っていると見なされています。その能力を用いて時として難病を治したり、未来を予言したり、様々な超常現象を起こしたりするということです。もちろんみんな手の込んだインチキに違いありませんが、それもあって、多くの人々が彼のもとに引き寄せられていくようです」
「超常現象?」
老婦人はきれいなかたちをした眉を寄せた。「それが何を意味するのか、具体的なことまではわかりません。はっきり言って私は、その手のオカルト的なものごとに興味がまったく持てません。大昔から同じような詐欺行為が、世界の至る所で繰り返されてきました。手口はいつだって同じです。それでも、そのようなあさましいインチキは衰えることを知りません。世間の大多数の人々は真実を信じるのではなく、真実であってもらいたいと望んでいることを進んで信じるからです。そういう人々は、両目をいくらしっかり大きく開けていたところで、実はなにひとつ見てはいません。そのような人々を相手に詐欺を働くのは、赤子の手をひねるようなものです」
「さきがけ」と青豆は口に出してみた。なんだか特急列車の名前みたいだ、と彼女は思った。宗教団体の名前には思えない。
「さきがけ」という名前を耳にして、そこに秘められたとくべつな響きに反応したように、つばさが一瞬目を伏せた。しかしすぐに目を上げ、前と同じ表情のない顔に戻った。彼女の中で小さな渦のようなものが突然巻き起こり、そしてすぐに静まったように見えた。
「その『さきがけ』という教団の教祖が、つばさちゃんをレイプしたのです」と老婦人は言った。
「霊的な覚醒を賦与するという口実をつけ、それを強要しました。初潮を迎える前に、その儀式を終えなくてはならないというのが、両親に告げられたことです。そのようなまだ汚れのない少女にしか、純粋な霊的覚醒を与えることはできない。そこに生じる激しい痛みは、ひとつ上の段階に上がるための、避けて通れない関門なのだと。両親はそれをそのまま信じました。人間がどこまで愚かしくなれるか、実に驚くばかりです。つばさちゃんのケースだけではありません。我々が得た情報によれば、教団内のほかの少女たちに対しても同様のことが行われてきました。教祖は歪んだ性的嗜好をもった変質者です。疑いの余地なく。教団や教義は、そんな個人的欲望を隠すための便宜的な衣装に過ぎません」
「その教祖には名前があるのですか?」
「残念ながらまだ名前まではわかっていません。ただ『リーダー』と呼ばれているだけです。どんな人物で、どんな経歴で、どんな顔をしているかも不明です。どれだけ探っても情報が出てこないのです。完全にブロックされています。山梨県の山中にある教団本部に閉じこもって、人前に出ることはほとんどありません。教団の中でも彼に会える人間はごく少数です。常に暗い場所にいて、そこで瞑想をしているということです」
「そして私たちはその人物を野放しにしておくことはできない」
老婦人はつばさに目をやり、それからゆっくりと肯いた。「これ以上犠牲者を出すことはできません。そう思いませんか?」
「つまり、私たちは何らかの手を打たなくてはならない」
老婦人は手を伸ばして、つばさの手の上に重ねた。しばらくのあいだ沈黙の中に身を浸していた。それから口を開いた。「そのとおりです」
「彼がそういう変質的な行為を繰り返しているというのは、確かなのですね?」と青豆は老婦人に尋ねた。
老婦人は肯いた。「少女たちのレイプが組織ぐるみで行われていることについては、確かな裏をとってあります」
「もし本当にそうだとしたら、たしかに許しがたいことです」と青豆は静かな声で言った。「おっしゃるように、これ以上の犠牲者を出すわけにはいきません」
老婦人の心の中でいくつかの想念が絡み合い、せめぎ合っているようだった。それから彼女は言った。
「このリーダーという人物について、私たちはより詳しく、より深く知る必要があります。曖昧なところを残してはおけません。なんといっても人の命がかかっていることですから」
「その人物はほとんど表に出てこないのですね?」
「そうです。そしておそらく警護も厳しいはずです」
青豆は目を細め、洋服ダンスの抽斗の奥にしまわれている、特製のアイスピックを思い浮かべた。その鋭く尖った針先のことを。「どうやら難しい仕事になりそうですね」と彼女は言った。
「<傍点>とりわけ傍点>難しい仕事に」と老婦人は言った。そしてつばさの手に重ねていた手を放し、その中指を軽く眉にあてた。それは老婦人が——それほどしばしばあることではないが——何かを考えあぐねているしるしだった。
青豆は言った。「私が一人で山梨県の山の中まで出かけていって、警備の厳しい教団の中に忍び込んで、そのリーダーを<傍点>処理傍点>して、そこから穏やかに出てくるというのは、現実的にかなりむずかしそうですね。忍者映画であればともかく」
「あなたにそこまでしてもらおうとは考えていません。もちろん」と老婦人は真剣な声で言った。それからそれが冗談であることに思い当たったように、淡い笑みを口元に付け加えた。「そんなことは話のほかです」
「それからもうひとつ、気にかかることがあります」と青豆は老婦人の目を見つめながら言った。
「リトル?ピープルのことです。リトル?ピープルというのはいったい何ものなのか? 彼らはつばさちゃんにいったい何をしたか? そのリトル?ピープルについての情報も、あるいは必要になるかもしれません」
老婦人は眉に指をあてたまま言った。「私にもそのことは気にかかります。この子はほとんど口をききませんが、さっきも言ったように、リトル?ピープルという言葉を何度か口にしています。おそらく何か大事な意味をもったことなのでしょう。でもリトル?ピープルがどういうものなのか、教えてはくれません。その話になると堅く口を閉ざしてしまいます。もう少し時間を下さい。そのことについても調べてみましょう」
「『さきがけ』について、もっと詳しい情報を得るための心当たりのようなものはあるのですか?」
老婦人は穏やかな笑みを浮かべた。「かたちのあるもので、お金を積んで買えないものはまず何ひとつありません。そして私にはお金を積み上げる用意があります。とくに今回の件に関しては。時間は少しかかるかもしれませんが、必要な情報は必ず手に入れます」
どれだけお金を積んでも買えないものはある、と青豆は思った。<傍点>たとえば月傍点>。
青豆は話題を変えた。「本当につばさちゃんを引き取って、育てられるつもりなのですか?」
「もちろん本気です。正式な養女にしようと思っています」
「ご承知だとは思いますが、法律的な手続きは簡単にはいかないと思います。なにしろ事情が事情ですから」
「もちろん覚悟しています」と老婦人は言った。「あらゆる手を尽くします。私にできることは何でもするつもりでいます。この子は誰の手にも渡しません」
老婦人の声には痛切な響きが混じっていた。彼女が青豆の前でこれほど感情をむき出しにしたことは一度もなかった。それが青豆には少しばかり気になった。老婦人はそのような危惧を、青豆の表情に読みとったようだった。
彼女は打ち明けるように、声を落として言った。「これは誰にも話したことがありません。今まで私の胸にだけしまってきました。口に出すのがつらかったからです。実を言いますと、自殺をしたとき娘は妊娠していました。妊娠六ヶ月でした。たぶん娘は、その男の子供を産みたくなかったのでしょう。だから胎児を道連れにして命を絶ってしまったのです。もし無事に生まれていたら、この子と同じくらいの年になっているはずです。そのとき私は二つの大事な命を同時に失ったのです」
「お気の毒です」と青豆は言った。
「しかし安心して下さい。そのような個人的な事情が、私の判断を曇らせることはありません。あなたを無用な危険に晒したりはしません。あなたも私にとっての大事な娘です。私たちはすでにひとつの家族なのです」
青豆は黙って肯いた。
「血のつながりよりも大事な絆があります」と老婦人は静かな声で言った。
青豆はもう一度肯いた。
「その男は何があろうと抹殺しなくてはなりません」と老婦人は自分に言い聞かせるように言った。それから青豆の顔を見た。「できるだけ早い機会に、よその世界に移ってもらう必要があります。その男がまたほかの誰かを傷つける前に」
青豆はテーブルの向かいに座っているつばさの顔を眺めた。その瞳の焦点はどこにも結ばれていなかった。彼女が眺めているのは、架空の一点に過ぎなかった。青豆の目にはその少女は何かの抜け殻のようにさえ見えた。
「でもそれと同時に、ことを急いではなりません」と老婦人は言った。「私たちは注意深く、我慢強くならなくてはなりません」
青豆は老婦人とつばさという名前の少女を部屋に残して、一人でアパートを出た。つばさが寝付くまでそばについている、と老婦人は言った。一階のホールでは四人の女たちが丸いテーブルを囲み、額を寄せ合うようにして、小声でひそひそと話し合っていた。青豆の目には、それは現実の風景には見えなかった。彼女たちは架空の絵画の構図をとっているみたいに見えた。タイトルは「秘密を分かち合う女たち」といったものになるかもしれない。青豆が前を通り過ぎても、彼女たちの作り上げるその構図は変化を見せなかった。
青豆は玄関の外でしゃがみこんで、ドイツ?シェパードをしばらく撫でていた。犬は嬉しそうに尻尾を激しく振っていた。彼女は犬に会うたびに、犬というのはなぜこんなに無条件に幸福な気持ちになれるのだろうと不思議に思う。青豆は生まれてこの方、犬も猫も鳥も、まったく飼ったことがない。鉢植えひとつ買い求めたこともない。それから彼女はふと思い出して、空を見上げた。しかし空は梅雨の到来をにおわせるような、のっぺりとした灰色の雲に覆われて、月の姿を目にすることはできなかった。風のない静かな夜だった。雲の奥に月光の気配がわずかにうかがえるものの、月がいくつあるかまではわからない。
地下鉄の駅まで歩きながら、青豆は世界の奇妙さについて思いを巡らせた。老婦人が言ったように、もし我々が単なる遺伝子の乗り物{キャリア}に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとった人生を歩まなくてはならないのだろう。我々がシンプルな人生をシンプルに生きて、余計なことは考えず、生命維持と生殖だけに励んでいれば、DNAを伝達するという彼らの目的はじゅうぶん達成されるのではないか。ややこしく屈折した、ときには異様としか思えない種類の人生を人々が歩むことが、遺伝子にとって何らかのメリットを生むのだろうか。
初潮前の少女を犯すことに喜びを見いだす男、筋骨たくましいゲイの用心棒、輸血を拒否して進んで死んでいく信仰深い人々、妊娠六ヶ月で睡眠薬自殺をする女性、問題ある男たちの首筋に鋭い針を刺して殺害する女、女を憎む男たち、男を憎む女たち。そんな人々がこの世界に存在することが、どのような利益を遺伝子にもたらすというのだろう。遺伝子たちはそのような屈曲したエピソードを、カラフルな刺激として楽しみ、あるいは何らかの目的のために利用しているのだろうか。
青豆にはわからない。彼女にわかっているのは、今となってはもう他に人生の選びようがないということくらいだ。何はともあれ、私はこの人生を生きていくしかない。返品して新しいものに取り替えるわけにもいかない。それがどんなに奇妙なものであれ、いびつなものであれ、それが私という乗り物{キャリア}のあり方なのだ。
老婦人とつばさが幸福になってくれればいいのだが、と青豆は歩きながら考えた。もし二人が本当に幸福になれるのなら、自分がその犠牲になってもかまわないとさえ思った。私自身には語るに足る未来なんてないのだから。しかし正直なところ、彼女たちがこの先、平穏で満ち足りた人生を——あるいは少なくとも普通の人生を——歩めるとは、青豆には思えなかった。私たちは多かれ少なかれ同類なのだ、と青豆は思った。私たちは人生の過程で、それぞれにあまりにも重いものを背負いすぎてしまった。老婦人が言ったように、我々はひとつの家族のようなものだ。深い心の傷という共通項を持ち、何らかの欠落を抱え、終わりのない戦いを続ける拡大家族なのだ。
そんなことを考えているうちに、自分が男の肉体を強く求めていることに青豆は気づいた。まったくよりによって、どうしてこんなときに男が欲しくなったりするんだろう、と彼女は歩きながら首を振った。その性欲の昂揚が精神的な緊張によってもたらされたものなのか、それとも彼女の中に蓄えられた卵子たちの発する自然な呼び声なのか、遺伝子の屈折した企みなのか、青豆には判断がつかなかった。しかしその欲望はかなり根の深いものらしかった。あゆみならきっと「ばあっといっちょう派手にやらかしたい」とでも表現するところだろう。どうしようかと青豆は思案した。いつものバーに行って適当な男を捜してもいい。六本木までは地下鉄で一駅だ。しかし青豆は疲れすぎていた。それに男を情事に誘うような格好もしていない。化粧もせず、スニーカーにビニールのジムバッグといういでたちだ。うちに帰って赤ワインのボトルを開け、自慰をして寝てしまおうと彼女は思った。それがいちばんいい。そして月のことについて考えるのはもうやめよう。
広尾から自由が丘まで、電車の向かいの座席に座った男は、見るからに青豆の好みだった。おそらく四十代半ばで、卵形の顔をしており、額の生え際がいくらか後退しかけていた。頭のかたちも悪くない。頬の血色がよく、洒落た黒縁の細い眼鏡をかけていた。服装も気が利いている。夏物の薄い綿のジャケットに、白いポロシャツを着て、革の書類鞄を膝の上に載せている。靴は茶色のローファーだった。見たところ勤め人だが、勤め先は堅い会社ではなさそうだ。出版社の編集者か、小さな建築事務所に勤める建築士か、アパレル関係か、たぶんそんなところだろう。彼はカバーをかけた文庫本をとても熱心に読んでいた。
もしできることなら、青豆はその男とどこかに行って、激しいセックスをしたかった。その男の硬くなったペニスを自分がしっかり握っているところを想像した。血流がとまってしまうくらいきつく、それを握りしめたかった。そしてもう一方の手で、ふたつの睾丸を優しくマッサージするのだ。彼女の両手は膝の上でむずむずしていた。知らず知らず指が閉じたり開いたりした。呼吸するたびに肩が上下した。舌の先で自分の唇をゆっくりと舐めた。
しかし彼女は自由が丘で降りなくてはならなかった。相手の男は自分がエロティックな妄想の対象になっていたことなど知らないまま、どこまで行くのかはわからないがそのまま座席に座り、文庫本を読み続けていた。向かいの席にどんな女が座っていようが、そんなことは気にもならないみたいだった。電車を降りるときに青豆は、そのろくでもない文庫本をむしり取ってやりたいという衝動に駆られたが、もちろん思いとどまった。
午前一時には、青豆はベッドの中で深い眠りについていた。彼女は性的な夢を見ていた。夢の中では彼女はグレープフルーツのような大きさとかたちの、美しい一対の乳房を持っていた。乳首は硬く、大きかった。彼女はその乳房を男の下半身に押しつけていた。衣服は足元に脱ぎ捨てられ、彼女は裸で脚を広げて眠っていた。眠っている青豆には知りようがないことだが、空にはそのときもふたつの月が並んで浮かんでいた。ひとつは昔ながらの大きな月で、もうひとつは新しい小振りな月だ。
つばさも老婦人も同じ部屋で眠りについていた。つばさは格子柄の新しいパジャマを着て、ベッドの上で身体を小さく折り曲げて眠っていた。老婦人は服を着たまま、読書用の椅子に身を横たえて眠っていた。彼女の膝には毛布がかけられていた。つばさが眠りについたら引き上げるつもりでいたのだが、そのまま眠り込んでしまったのだ。高台の奥まったところにあるアパートのまわりは、ひっそりと静まりかえっていた。遠くの街路をスピードを上げて通過していくオートバイの甲高い排気音や、救急車のサイレンがときおり聞こえるだけだ。ドイツ?シェパードも玄関の戸の前にうずくまるように眠っている。窓にはカーテンが引かれていたが、水銀灯の明かりがそれを白く染めていた。雲が切れ始め、二つ並んだ月がときどき雲間から顔を見せるようになった。世界中の海がその潮の流れを調整していた。
つばさは頬を枕にぴたりとつけ、口を軽く開けて眠っていた。息づかいはこの上なくひそやかで、身体はほとんど動きを見せなかった。ときおり肩先が小さくひきつるように震えるだけだ。前髪が目の上に垂れかかっている。
やがて彼女の口がゆっくり開き、そこから、リトル?ピープルが次々に出てくる。彼らはあたりの様子をうかがいながら、用心深く一人、また一人と姿を現す。老婦人が目を覚ませば、彼らの姿を見ることはできたはずだが、彼女は深く眠り込んでいた。当分のあいだ目を覚ますことはない。リトル?ピープルはそのことを知っていた。リトル?ピープルの数は全部で五人だった。彼らはつばさの口から出てきたときは、つばさの小指くらいの大きさだったが、すっかり外に出てしまうと、折りたたみ式の道具を広げるときのように身をもぞもぞとひねり、三十センチほどの大きさになった。みんな特徴のない同じような衣服を身にまとっていた。顔立ちにも特徴はなく、一人ひとりを見分けることはできない。
彼らはベッドからそっと床に降り、ベッドの下から肉まんじゅうほどの大きさの物体を引っぱり出した。そしてそのまわりに輪になり、みんなでそれを熱心にいじり始めた。白く、弾力に富んだものだ。彼らは空中に手を伸ばし、そこから慣れた手つきで白い半透明な糸を取り出し、それを用いて、そのふわふわした物体を少しずつ大きくしていった。その糸には適度な粘りけがあるように見える。彼らの背丈はいつの間にか六十センチ近くになっている。リトル?ピープルは自分の背丈を、必要に応じて自由に変えることができるのだ。
作業は数時間続き、五人のリトル?ピープルはひと言も声を発することなく、作業に熱中していた。彼らのチームワークは緊密で、隙がなかった。つばさと老婦人はそのあいだずっと、身動きひとつせずこんこんと眠り続けていた。セーフハウスのほかの女たちもみんな、それぞれの寝床でいつになく深い眠りについていた。ドイツ?シェパードは何かの夢を見ているらしく、芝生の上に身を伏せたまま、無意識の奥から微かな声を絞り出した。
頭上では二つの月が申し合わせたように、世界を奇妙な光で照らしていた。
第20章 天吾
気の毒なギリヤーク人
天吾は眠れなかった。ふかえりは彼のベッドに入って、彼のパジャマを着て、深く眠っていた。天吾は小さなソファの上に簡単に寝支度を調えたが(彼はよくそのソファで昼寝をしていたから、とくに不便はない)、横になってもまったく眠気を感じなかったので、台所のテーブルに向かって長い小説の続きを書いた。ワードプロセッサーは寝室にあったから、レポート用紙にボールペンで書いていた。それについても彼はとくに不便を感じなかった。書くスピードや記録の保存に関しては、ワードプロセッサーはたしかに便利だが、手を使って紙に字を書くという古典的な行為を彼は愛していた。
天吾が夜中に小説を書くのは、どちらかといえば珍しいことだ。外が明るいとき、人々が普通に外を歩き回っている時間に仕事をするのが、彼は好きだった。まわりが闇に包まれ、深く静まりかえっている時間に書くと、文章はときとして濃密になりすぎる。夜に書いた部分を、昼の光の中で頭から書き直さなくてはならないことが多かった。そんな手間をかけるのなら、最初から明るい時間に文章を書いた方がいい。
しかし久しぶりに夜中に、ボールペンを使って字を書いていると、頭がなめらかに回転した。想像力が手脚を伸ばし、物語は自由に流れていった。ひとつのアイデアが別のアイデアに自然に結びついていった。その流れが途切れることはほとんどない。ボールペンの先端は休むことなく、白い紙の上に頑なな音を立て続けた。手が疲れるとボールペンを置き、ピアニストが架空の音階練習をするみたいに、右手の指を宙で動かした。時計の針は一時半に近くなっていた。不思議なくらい外の物音が聞こえない。都市の上空を覆った厚い綿のような雲が、余計な音を吸収してしまっているらしい。
それから彼はもう一度ボールペンを手に取り、レポート用紙に言葉を並べていった。文章を書いている途中で、ふと思い出した。明日は年上のガールフレンドがここにやってくる日だ。彼女はいつも金曜日の午前十一時前後にやってくる。その前にふかえりをどこかに送り届けなくてはならない。ふかえりが香水やコロンをつけないのは何よりだった。もし誰かの匂いがベッドに残っていたりしたら、彼女はすぐにそれに気づくだろう。天吾は彼女が注意深く、嫉妬深い性格であることをよく知っていた。自分が失とときどきセックスをすることはかまわない。しかし天吾がほかの女性と出歩いたりすると、真剣に腹を立てる。
「夫婦のあいだのセックスというのは、またちょっと違うことなの」と彼女は説明した。「それは別会計みたいなもの」
「別会計?」
「項目が違うんだってこと」
「気持ちの違う部分を使うっていうことかな?」
「そういうこと。使う肉体の場所は同じでも、気持ちは使い分けているわけ。だからそれはいいのよ。成熟した女性として、私にはそれができる。でもあなたがほかの女の子と寝たりするのは許せない」
「そんなことしてないよ」と天吾は言った。
「たとえあなたがほかの女の子とセックスしていないとしても」とそのガールフレンドは言った。
「そういう可能性があると考えただけで、侮辱されたように感じる」
「ただ可能性があるというだけで?」と天吾は驚いて尋ねた。
「あなたには女の人の気持ちがよくわかってないみたい。小説を書いてるくせに」
「そういうのは、ずいぶん不公平なことのように僕には思えるけど」
「そうかもしれない。でもその埋め合わせはちゃんとしてあげる」と彼女は言った。それは嘘ではなかった。
天吾はその年上のガールフレンドとの関係に満足していた。彼女は一般的な意味で美人とは言えない。どちらかといえばユニークな種類の顔立ちだ。醜いと感じる人だって中にはいるかもしれない。しかし天吾は彼女の顔だちが何故か最初から気に入っていた。彼女はまた性的なパートナーとして文句のつけようがなかった。そして天吾に対して多くを要求しなかった。週に一度三時間か四時間をともに過ごし、念入りなセックスをすること。できれば二度すること。ほかの女性には近づかないこと。天吾に求められているのは基本的にはそれだけだ。彼女は家庭を大事にしていたし、天吾のためにそれを破壊するつもりはなかった。ただ夫とのセックスからじゅうぶんな満足を得ることができないだけだ。二人の利害はおおむね一致していた。
天吾はほかの女性に対してとくに欲望を感じなかった。彼が何よりも求めているのは自由で平穏な時間だった。定期的なセックスの機会が確保できれば、それ以上女性に対して求めるべきものはなかった。同年齢の女性と知り合い、恋に落ち、性的な関係を持ち、それが必然的にもたらす責任を抱え込むことは、彼のあまり歓迎するところではなかった。踏むべきいくつかの心理的段階、可能性についての灰めかし、思惑の避けがたい衝突……、そんな一連の面倒はできることなら背負い込まずに済ませたかった。
責務という観念は、常に天吾を怯えさせ、尻込みさせた。責務を伴う立場に立たされることを巧妙に避けながら、彼はこれまでの人生を送ってきた。人間関係の複雑さに絡め取られることなく、規則に縛られることをできるだけ避け、貸し借りのようなものを作らず、一人で自由にもの静かに生きていくこと。それが彼の一貫して求め続けてきたことだ。そのためには大抵の不自由を忍ぶ用意はあった。
責務から逃れるために、人生の早い段階から天吾は自分を目立たなくする方法を身につけた。人前では能力を小出しにし、個人的な意見を口にせず、前面に出ることを避け、自分の存在感をできるだけ薄めるように努めた。誰かに頼らず自分一人の力で生き延びていかなくてはならない状況に、彼は子供の頃から置かれていた。しかし子供は現実的に力を持たない。だからいったん強い風が吹き始めると、物陰に身を潜めて何かにつかまり、吹き飛ばされないようにしなくてはならなかった。そういう算段をいつも頭に入れておく必要がある。ディッケンズの小説に出てくる孤児たちと同じように。
これまでのところ、天吾にとってものごとはおおむね順調に運んできたと言える。彼はあらゆる責務から身をかわし続けてきた。大学にも残らず、正式の就職もせず、結婚もせず、比較的自由のきく職業に就き、満足のできる(そして要求の少ない)性的パートナーを見つけ、潤沢な余暇を利用して小説を書いた。小松という文学上のメンターに巡り合い、彼のおかげで文筆の仕事も定期的に回ってくるようになった。書いた小説はまだ日の目を見ないけれど、今のところ生活に不自由があるわけではない。親しい友人もいないし、約束を待っている恋人もいない。これまでに十人ばかりの女性たちとつきあって、性的な関係を持ったが、誰とも長続きはしなかった。しかし少なくとも彼は自由だった。
ところがふかえりの『空気さなぎ』の原稿を手にしたとき以来、彼のそのような平穏な生活にもいくつかのほころびが見えてきた。まず彼は小松の立てた危険な計画に、ほとんど無理やりにひきずり込まれた。その美しい少女は個人的に、彼の心を不思議な角度から揺さぶった。そして『空気さなぎ』を書き直したことによって、天吾の中で何らかの内的な変化が生じたようだ。おかげで彼は、<傍点>自分の傍点>小説を書きたいという強い意欲に駆られるようになった。それはもちろん良き変化だった。しかしそれと同時に、彼がこれまで維持してきたほとんど完壁なまでの、自己充足的な生活サイクルが、何かしらの変更を迫られていることも事実だった。
いずれにせよ、明日は金曜日だ。ガールフレンドがやってくる。それまでにふかえりをどこかにやらなくてはならない。
ふかえりが起きてきたのは午前二時過ぎだった。彼女はパジャマ姿のままドアを開けて台所にやってきた。そして大きなグラスで水道の水を飲んだ。それから目をこすりながらテーブルの天吾の向かいに座った。
「わたしはじゃまをしている」とふかえりは例によって疑問符なしの疑問形で尋ねた。
「べつにかまわないよ。とくに邪魔はしていない」
「なにを書いている」
天吾はレポート用紙を閉じ、ボールペンを下に置いた。
「たいしたものじゃない」と天吾は言った。「それにもうそろそろやめようと思っていたところだから」
「しばらくいっしょにいていい」と彼女は尋ねた。
「かまわないよ。僕はワインを少し飲むけど、君は何か飲みたい?」
少女は首を振った。何もいらないということだ。「ここでしばらくおきていたい」
「いいよ。僕もまだ眠くはないから」
天吾のパジャマはふかえりには大きすぎたので、彼女は袖と裾を大きく折ってそれを着ていた。身をかがめると、襟元から乳房のふくらみが部分的に見えた。自分のパジャマを着たふかえりの姿を見ていると、天吾は妙に息苦しくなった。彼は冷蔵庫を開け、瓶の底に残っていたワインをグラスに注いだ。
「おなかはすかない?」と天吾は尋ねた。アパートに帰る途中、二人は高円寺駅の近くの小さなレストランに入ってスパゲティーを食べた。たいした量ではないし、それからけっこう時間が経つ。「サンドイッチとか、そういう簡単なものなら作ってあげられるけど」
「おなかはすかない。それより、あなたがかいたものをよんでほしい」
「僕が今書いていたものを?」
「そう」
天吾はボールペンを手にとり、指にはさんで回した。それは彼の大きな手の中でひどくちっぽけに見えた。「最後まで書き上げて、しっかり書き直してからじゃないと、原稿を人に見せないことにしているんだ。それがジンクスになっている」
「ジンクス」
「個人的な取り決めみたいなもの」
ふかえりはしばらく天吾の顔を見ていた。それからパジャマの襟を合わせた。「じゃあ、なにかホンをよんで」
「本を読んでもらうと寝付ける?」
「そう」
「それで戎野先生によく本を読んでもらったんだね」
「センセイはいつもよあけまでおきているから」
「『平家物語』も先生に読んでもらったの?」
ふかえりは首を振った。「それはテープできいた」
「それで記憶したんだ。でもずいぶん長いテープだっただろうな」
ふかえりは両手でカセットテープを積み上げた嵩を示した。「とてもながい」
「記者会見ではどの部分を暗唱したんだろう?」
「ホウガンみやこおち」
「平氏を滅亡させたあと、源義経が頼朝に追われて京都を去るところだ。勝利を収めた一族の中で骨肉の争いが始まる」
「そう」
「ほかにはどんな部分を暗唱できるの?」
「ききたいところをいってみて」
天吾は『平家物語』にどんなエピソードがあったか思い出してみた。なにしろ長い物語だし、エピソードは無数にある。「壇ノ浦の合戦」と天吾は適当に言った。
ふかえりは二十秒ばかり黙って神経を集中していた。それから暗唱を始めた。
源氏のつはものども、すでに平家の舟に乗り移りければ
水手{すいしゅ}?梶取{かんどり}ども、射殺され、切り殺されて
舟をなほすに及ばず、舟底に倒{たは}れ臥しにけり。
新中納言知盛卿、小舟に乗ッて、御所の御舟に参り
「世の中は今はかうと見えてさうらふ。見苦しからんものども
みな海へ入れさせ給へ」とて、ともへに走りまはり、掃いたり、のこうたり
塵ひろひ、手つから掃除せられけり。
女房たち、「中納言どの、戦はいかにや、いかに」と口々に問ひ給へば
「めづらしき東男をこそ、ごらんぜられさうらはんずらめ」とて
からからと笑ひ給へば、「なんでうのただいまのたはぶれそや」とて
こゑごゑにをめき叫び給ひけり。
二位殿は、このありさまをご覧じて、日頃思しめしまうけたることなれば
鈍{にぶ}色のふたつぎぬうちかづき、ねりばかまのそば高くはさみ
神璽{しんし}をわきにはさみ、宝剣を腰にさし、主上{しゅしょう}をいだきたてまッて、
「我が身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ。
君の御ともに参るなり。おんこころざし思ひまゐらせ給はん人々は
急ぎ続き給へ」とて、舟ばたへ歩みいでられけり。
主上、今年は八歳にならせ給へども
御としのほどより、はるかにねびさせ給ひて
御かたちうつくしく、あたりも照り輝くばかりなり。
御{おん}ぐし黒うゆらゆらとして、御背中すぎさせ給へり。
あきれたる御さまにて、
「尼ぜ、われをばいつちへ具してゆかむとするぞ」とおほせければ
いとけなき君にむかひたてまつり、涙をおさへて申されけるは
「君はいまだしろしめされさぶらはずや。
先世{ぜんぜじ}の十善戒行{ゆうぜんかいぎょう}の御{おん}ちからによッて、
いま万乗{ばんじょう}のあるじと生{む}まれさせ給へども、悪縁にひかれて
御運すでに尽きさせ給ひぬ。
まづ東{ひんがし}にむかはせ給ひて
伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ
そののち西方浄土の来迎{らいこう}にあつからむとおぼしめし、
西にむかはせ給ひて御念仏さぶらふべし。
この国は粟散辺地{そくさむへんじ}とて、こころうきさかひにてさぶらへば
極楽浄土とてめでたきところへ具しまゐらせさぶらふぞ」
となくなく申させ給ひければ、
山鳩色の御衣に、びんづらゆはせ給ひて
御涙におぼれ、ちいさく美しき御手をあはせ
まづ東をふしをがみ
伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ
その後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば
二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」と
なぐさめたてまッて、ちいろの底へぞ入給ふ。
目を閉じて彼女の語る物語を聞いていると、まさに盲目の琵琶法師の語りに耳を傾けているような趣があった。『平家物語』がもともとは口承の叙事詩であったことに、天吾はあらためて気
つかされた。ふかえりの普段のしゃべり方は平板そのもので、アクセントやイントネーションがほとんど聞き取れないのだが、物語を語り始めると、その声は驚くほど力強く、また豊かにカラフルになった。まるで何かが彼女に乗り移ったようにさえ思えた。一一八五年に関門海峡で行われた壮絶な海上の合戦の有様が、そこに鮮やかに蘇った。平氏の敗北はもはや決定的になり、清盛の妻時子は幼い安徳天皇を抱いて入水する。女官たちも東国武士の手に落ちることをきらってそれに続く。知盛は悲痛な思いを押し隠し、冗談めかして女官たちに自害を促しているのだ。このままではあなた方は生き地獄を味わうことになる。ここで自ら命を絶った方がいい。
「もっとつづける」とふかえりが訊いた。
「いや、そのへんでいい。ありがとう」と天吾は呆然としたまま言った。
新聞記者たちが言葉を失った気持ちは、天吾にもよくわかった。「しかし、どうやってそんなに長い文章が記憶できるんだろう」
「テープでなんどもきいた」
「テープで何度も聞いても、普通の人間にはとても覚えられない」と天吾は言った。
それから彼はふと思った。この少女は本が読めないぶん、耳で聞き取ったことをそのまま記憶する能力が、人並み外れて発達しているのではないだろうか。サヴァン症候群の子供たちが、膨大な視覚情報を瞬時にそのまま記憶に取り込むことができるのと同じように。
「ホンをよんでほしい」とふかえりは言った。
「どんな本がいいのかな?」
「センセイとさっきはなしていたホンはある」とふかえりは尋ねた。「ビッグ?プラザのでてくるホン」
「『一九八四年』か。いや、ここにはない」
「どんなはなし」
天吾は小説の筋を思い出した。「ずいぶん昔、学校の図書館で読んだだけだから、細かい部分はよく覚えていないけど、とにかくその本が出版されたのは一九四九年で、その時点では一九八四年は遠い未来だった」
「ことしのこと」
「そう、今年がちょうど一九八四年だ。未来もいつかは現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしまう。ジョージ?オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ?ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。誰が敵で誰が味方なのかもわからなくなってくる。そんな話だよ」
「レキシをかきかえる」
「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ」
ふかえりはしばらくそれについて考えていた。
「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている」と天吾は言った。「その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる」
「あなたもかきかえている」
天吾は笑ってワインを一口飲んだ。「僕は君の小説に便宜的に手を入れただけだ。歴史を書き換えるのとはずいぶん話が違う」
「でもそのビッグ?プラザのホンはいまここにない」と彼女は尋ねた。
「残念ながら。だから読んであげることはできない」
「ほかのホンでもいい」
天吾は本棚の前に行って、書物の背表紙を眺めた。これまでに多くの本を読んできたが、所有する本の数は少ない。何によらず自分の住まいに多くのものを置くのが好きではなかった。だから読み終えた本は特別なものを別にして、古本屋に持っていった。すぐに読める本だけを買うようにしたし、大事な本は熟読して頭にたたき込んだ。それ以外の必要な本は近所にある図書館で借りて読む。
本を選ぶのに時間がかかった。声に出して本を読むことに慣れていなかったので、いったいどんな本が朗読に適しているのか、見当がつかなかったからだ。ずいぶん迷った末に、先週読み終えたばかりのアントン?チェーホフの『サハリン島』を取り出した。興味深い箇所に付箋を貼ってあったから、適当な場所だけを拾い読みすることができるだろう。
声に出して読む前に、天吾はその本についての簡単な説明をした。一八九〇年にチェーホフがサハリンに旅をしたとき、彼はまだ三十歳だったこと。トルストイやドストエフスキーのひとつ下の世代の、若手新進作家として高い評価を受け、首都モスクワで華やかな暮らしをしていた都会人チェーホフが、どうしてサハリン島という地の果てのようなところに一人で出かけ、そこに長く滞在しようと決心したのか、その正確な理由は誰にもわかっていないこと。サハリンは主に流刑地として開発された土地であり、一般の人々にとっては不吉さと惨めさの象徴でしかなかった。そして当時はまだシベリア鉄道はなかったから、彼は馬車で四千キロ余り、極寒の地を走破しなくてはならず、その苦行はもともと丈夫ではない彼の身体を、容赦なく痛めつけることになった。そしてチェーホフが八ヶ月に及ぶ極東の旅を終えて、その成果として書き上げた『サハリン島』という作品は、結果的に多くの読者を戸惑わせることになった。それは文学的な要素を極端に抑制した、むしろ実務的な調査報告書や地誌に近いものだったからだ。「どうしてチェーホフは作家としての大事な時期に、あんな無駄な、意味のないことをしたのだろう」とまわりの人々は囁き合った。批評家の中には「社会性を狙ったただの売名行為」と決めつけるものもいた。
「書くことがなくなって、ネタ探しに行ったんだろう」という意見もあった。天吾は本についている地図をふかえりに見せ、サハリンの位置を教えた。
「どうしてチェーホフはサハリンにいった」とふかえりが尋ねた。
「それについて<傍点>僕が傍点>どう考えるかということ?」
「そう。あなたはそのホンをよんだ」
「読んだよ」
「どうおもった」
「チェーホフ自身にもその正確な理由はよくわからなかったかもしれない」と天吾は言った。
「というか、ただ単にそこに行ってみたくなったんじゃないかな。地図でサハリン島の形を見ているうちに、むらむらとやみくもにそこに行きたくなった、とかね。僕にも似たような体験はある。地図を眺めているうちに、『何があっても、ここに行ってみなくっちゃ』という気持ちになってしまう場所がある。そして多くの場合、そこはなぜか遠くて不便なところなんだ。そこにどんな風景があるのか、そこでどんなことが行われているのか、とにかく知りたくてたまらなくなる。それは<傍点>はしか傍点>みたいなものなんだ。だから他人に、その情熱の出どころを指し示すことはできない。純粋な意味での好奇心。説明のつかないインスピレーション。もちろんその当時モスクワからサハリンに旅行するというのは想像を絶する難行だから、チェーホフの場合、それだけが理由じゃないとは思うけど」
「たとえば」
「チェーホフは小説家であると同時に医者だった。だから彼は一人の科学者として、ロシアという巨大な国家の患部のようなものを、自分の目で検証してみたかったのかもしれない。自分が都会に住む花形作家であるという事実に、チェーホフは居心地の悪さを感じていた。モスクワの文壇の雰囲気にうんざりしていたし、何かというと脚を引っ張り合う、気取った文学仲間にも馴染めなかった。底意地の悪い批評家たちには嫌悪感しか覚えなかった。サハリン旅行はそのような文学的な垢を洗い流すための、一種の巡礼的な行為だったのかもしれない。そしてサハリン島は、多くの意味で彼を圧倒した。だからこそチェーホフは、サハリン旅行を題材にとった文学作品を、ひとつとして書かなかったんじゃないかな。それは簡単に小説の題材にできるような、生半可なことじゃなかった。そしてその患部は、言うなれば彼の身体の一部になったんだ。あるいはそれこそが彼の求めていたものだったのかもしれないけれど」
「そのホンはおもしろい」とふかえりは尋ねた。
「僕は面白く読んだよ。実務的な数字や統計が数多く書き連ねられていて、さっきも言ったように文学的な色彩はあまりない。チェーホフの科学者としての側面が色濃く出ている。でも僕はそういうところに、チェーホフという人の潔い決意のようなものを読み取ることができる。そしてそういう実務的な記述に混じって、ところどころに顔を見せる人物観察や風景描写がとても印象的なんだ。とはいっても、事実だけを並べた実務的な文章だって悪くない。場合によってはなかなか素敵なんだ。たとえばギリヤーク人について書かれた章なんかね」
「ギリヤークじん」とふかえりは言った。
「ギリヤークというのは、ロシア人たちが植民してくるずっと前からサハリンに住んでいた先住民なんだ。もともとは南の方に住んでいたんだけど、北海道からやってきたアイヌ人に押し出されるようなかっこうで、中央部に住むようになった。アイヌ人も和人に押されて、北海道から移ってきたわけだけどね。チェーホフはサハリンのロシア化によって急速に失われていくギリヤーク人たちの生活文化を間近に観察し、少しでも正確に書き残そうと努めた」
天吾はギリヤーク人について書かれた章を開いて読んだ。聞き手が理解しやすいように、場合によっては文章を適当に省略し、変更しながら読んだ。
ギリヤーク人はずんぐりした、たくましい体格で、中背というよりはむしろ小柄な方である。もし背が高かったら、密林で窮屈な思いをすることだろう。骨太で、筋肉の密着している末端の骨や、背骨、結節など、すべての著しい発達を特徴としている。このことは、強くたくましい筋肉と、自然との絶え間ない緊張した闘争を連想させる。身体は痩せぎすな筋肉質で、皮下脂肪がない。でっぷりと太ったギリヤーク人などには、お目にかかれないのだ。明らかに、すべての脂肪分が体温維持のために消費されている。低い気温と極端な湿気によって失われる分を補うために、サハリンの人間はそれだけの体温を体内に作り出しておかなくてはならない。そう考えれば、なぜギリヤーク人が、あれほど多くの脂肪を食物に求めるのかが、理解できるだろう。脂っこいアザラシの肉や、サケ、チョウザメとクジラの脂身、血のしたたる肉など、これらすべてを生のままや、干物、さらには多くの場合冷凍にして、ふんだんに食べるのだが、こういう粗雑な食事をするため、咬筋の密着した箇所が異常に発達し、歯はどれもひどく擦り減っている。もっぱら肉食であるが、時たま、家で食事をしたり、酒盛りをしたりするときだけは、肉と魚に満州ニンニクや苺を添える。ネヴェリスコイの証言しているところによると、ギリヤーク人は農業を大変な罪悪と見なしており、地面を掘り始めたり、何か植えたりしようものなら、その人間は必ず死ぬと信じている。しかしロシア人に教えられたパンは、ご馳走として喜んで食べ、今ではアレクサンドロフスクやルイコフスコエで、大きな円パンを小脇に抱えて歩いているギリヤーク人に会うこともめずらしくない。
天吾はそこで読むのをやめ、一息ついた。じっと聞き入っているふかえりの顔から、感想を読み取ることはできなかった。
「どう、もっと読んでほしい? それとも別の本にする?」と彼は尋ねた。
「もっとギリヤークじんのことをしりたい」
「じゃあ続きを読もう」
「ベッドにはいってかまわない」とふかえりは尋ねた。
「いいよ」と天吾は言った。
そして二人は寝室に移った。ふかえりはベッドに潜り込み、天吾はそのそばに椅子を持ってきて座った。そして続きを読み始めた。
ギリヤーク人は決して顔を洗わないため、人類学者ですら、彼らの本当の色が何色なのか、断言しかねるほどだ。下着も洗わないし、毛皮の衣服や履物は、まるでたった今、死んだ犬から剥ぎ取ったばかりといった様子だ。ギリヤーク人そのものも、げっとなるような重苦しい悪臭を放ち、彼らの住居が近くにあれば、干し魚や、腐った魚のアラなどの、不快な、ときには堪えられぬほどの匂いによってすぐにわかる。どの家のわきにも、二枚に開いた魚をところ狭しと並べた干し場があり、それを遠くから見ると、とくに太陽に照らされているときなどは、まるでサンゴの糸のようだ。こうした干し場の近くでクルゼンシュテルンは、三センチほどの厚みで地面を覆いつくしている、おびただしい数のウジを見かけた。
「クルゼンシュテルン」
「初期の探検家だと思う。チェーホフは勉強家で、それまでサハリンについて書かれたあらゆる本を読破したんだ」
「つづきをよんで」
冬になると、小舎はかまどから出るいがらっぽい煙がいっぱいに立ちこめ、そこへもってきて、ギリヤーク人たちが、妻や子供にいたるまで、タバコをふかすのである。ギリヤーク人の病弱ぶりや死亡率については何ひとつ明らかにされていないが、こうした不健全な衛生環境が彼らの健康状態に悪影響を及ぼさずにおかぬことは、考える必要がある。もしかすると背が低いのも、顔がむくんでいるのも、動作に生気がなく、大儀そうなのも、この衛生環境が原因かもしれない。
「きのどくなギリヤークじん」とふかえりは言った。
ギリヤーク人の性格については、さまざまな本の著者が各人各様の解釈を下しているが、ただひとつの点、つまり彼らが好戦的ではなく、論争や喧嘩を好まず、どの隣人とも平和に折り合っている民族だという点では、だれもが一致している。新しい人々がやってくると、彼らは常に、自分の未来に対する不安から、疑い深い目で見るものの、少しの抵抗もなしに、その都度愛想良く迎え入れる。かりに彼らが、サハリンをいかにも陰馨な感じに描写し、そうすれば異民族が島から出ていってくれるだろうと考えて、嘘をつくようなことがあるとしたら、それが最大限の抵抗なのだ。クルゼンシュテルンの一行とは、抱擁し合うほどの仲で、L?I?シュレンクが発病したときなど、その知らせがたちまちギリヤーク人のあいだに広まり、心からの悲しみをよび起こしたものである。彼らが嘘をつくのは、商いをする時とか、あるいは疑わしい人物なり、彼らの考えで危険人物と思われる人間なりと話す時に限られているが、嘘をつく前にお互い目配せを交わし合うところなど、まったく子供じみた仕草だ。商売を離れた普通の社会では、一切の嘘や自慢話は、彼らにとって鼻持ちならないものなのである。
「すてきなギリヤークじん」とふかえりは言った。
自分の引き受けた頼みをギリヤーク人はきちんとやってのける。これまで、ギリヤーク人が途中で郵便物を捨てたとか、他人の品物を使い込んだとかいう出来事は一度もない。彼らは勇敢で、呑み込みが早く、陽気で、親しみやすく、有力者や金持ちといっしょになっても、まったく気がねをしない。自分の上には一切の権力を認めないし、彼らのあいだには目上とか目下といった概念すらないかのようだ。よく言われもし、書かれてもいることだが、ギリヤーク人の間では、家長制度もまた尊ばれていない。父親は自分が息子より目上だとは思っていないし、息子の方も父親を一向にうやまわず、好き勝手な暮らしをしている。老母も洟{はな}たらしの小娘以上の権力を家庭内で持っているわけではない。ボシニャークが書いているところによると、息子が生みの母を蹴って家から叩きだし、しかもだれ一人あえて意見をしようとするものもいないという場面を、彼は一度ならず目にする機会があったようだ。一家族の中で、男性はみな同格である。もしギリヤーク人にウォトカをご馳走するとなったら、いちばん幼い男の子にもすすめなければいけない。
一方家族中の女性は、祖母であれ、母親であれ、あるいは乳呑み児であれ、いずれも同じように権利を持たぬ人間であり、投げ捨てたり、売り飛ばしたり、犬のように足蹴にしてもかまわぬ、品物か家畜のように冷たく扱われている。ギリヤーク人は、犬を可愛がることはあっても、女性には絶対に甘い顔は見せない。結婚などは下らぬことで、早い話が酒盛りよりも重要ではないとされ、宗教的な、あるいは迷信的な行事は一切とりおこなわれない。ギリヤーク人は槍や、小舟、はては犬などと娘を交換し、自分の小舎にかつぎこんで、熊の毛皮の上でいっしょに寝る——それでおしまいだ。一夫多妻も認められているが、どう見ても女性の方が男性より多いにもかかわらず、広く普及するには到っていない。下等動物や品物に対するような女性蔑視は、ギリヤーク人たちの間では、奴隷制度さえ不都合と考えぬ段階にまで達している。彼らの間では明らかに、女性はタバコや綿布と同様、取引の対象となっているのである。スエーデンの作家ストリンドベリは、女性なぞは奴隷となって、男のむら気に奉仕すればそれでよいのだと望んでいる、有名な女嫌いだが、本質的にはギリヤーク人と同じ思想の持ち主なわけだ。彼が北部サハリンへやってくることがあれば、ギリヤーク人たちに抱擁されるに違いない。
天吾はそこで一休みしたが、ふかえりは何も感想を言わず、ただ黙っていた。天吾は続けた。
彼らのところには法廷などなく、裁判が何を意味するかも知らないでいる、彼らが今にいたるもなお、道路の使命を全く理解していないという一事からしても、彼らがわたしたちを理解するのがいかに困難か、わかるだろう。道路がすでに敷かれているところですら、あいかわらず密林を旅しているのだ。彼らが家族も犬も列を作って、道路のすぐそばのぬかるみを、やっとのことで通っていくのをよく見かける。
ふかえりは目を閉じ、とても静かに呼吸をしていた。天吾はしばらく彼女の顔を見ていた。しかし彼女が眠っているのかどうか、天吾には判断できなかった。だから別のページを開いてそのまま朗読を続けることにした。もし眠っているのならその眠りを確実にしたいという気持ちもあったし、チェーホフの文章をもっと声に出して読んでみたいという思いもあった。
ナイーバ河の河口には、以前ナイブーチ監視所があった。これの建設は一八六六年である。ミツーリがここに来た頃は、人の住む家や空き家を合わせて十八軒の建物と、小礼拝堂、食料品店があった。一八七一年に訪れたある記者の文章によると、ここには士官候補生の指揮下に二十人の兵士がいたようだ。ある小舎で、すらりとした美人の兵士の妻が、生みたての卵と黒パンをその記者に振舞い、ここの生活を賞めそやしたが、砂糖がべらぼうに高いことだけを愚痴っていた、という。今やそれらの小舎はあとかたもなく、あたりの荒涼たる風景を眺めていると、美人で背の高い兵士の妻など、何か神話のように思えてくる。ここでは今、新しい家を一軒建てているだけだ。見張り小舎か、宿場なのだろう。見るからに冷たそうな、濁った海が吠えたけり、丈余の白波が砂に砕けて、さながら絶望にとざされて『神よ、何のために我々を創ったのですか』とでも言いたげな風情だった。ここはもはや太平洋なのだ。このナイブーチの海岸では、建築現場に響く徒刑囚たちの斧の音が聞こえるが、はるか彼方に想像される対岸はアメリカなのである。左手には霧にとざされたサハリンの岬が望まれ、右手もまた岬だ……あたりには人影もなく、鳥一羽、蝿一匹見当たらぬ。こんなところで波はいったいだれのために吠えたけっているのか、だれがその声を夜毎にきくのか、波は何を求めているのか、さらにまた、私の去ったあと、波はだれのために吠えつづけるのだろうか——それすらわからなくなってくる。この海岸に立つと、思想ではなく、もの思いのとりこになる。そら恐ろしい、が同時に、限りなくここに立ちつくし、波の単調な動きを眺め、すさまじい吠え声をきいていたい気もしてくる。
ふかえりはどうやら完全に眠りについたようだった。耳を澄ませると静かな寝息が聞こえた。天吾は本を閉じ、ベッドのわきにある小さなテーブルの上に置いた。そして立ち上がり、寝室の明かりを消した。最後にもう一度ふかえりの顔を見た。彼女は天井を仰ぎ、口をまっすぐに結んで、穏やかに眠っていた。天吾はドアを閉め、台所に戻った。
しかし彼にはもう自分の文章を書くことができなくなっていた。チェーホフの描写した、サハリンの荒れ果てた海岸の風景が、彼の頭の中にしっかりと腰を据えていた。天吾はその波の音を耳にすることができた。目を閉じると、天吾は人気のないオホーツク海の波打ち際に一人で立ち、深いもの思いのとりこになっていた。チェーホフのやり場のない、憂欝な思いを共有することができた。その地の果てで彼が感じていたのは、圧倒的な無力感のようなものだったのだろう。十九世紀末にロシア人の作家であるというのは、おそらく逃げ場のない痛烈な宿命を背負い込むことと同義であったはずだ。彼らがロシアから逃れようとすればするほど、ロシアは彼らをその体内に呑み込んでいった。
天吾はワインのグラスを水ですすぎ、洗面所で歯を磨いてから、台所の明かりを消し、ソファに横になって毛布を身体にかけ、眠ろうとした。耳の奥ではまだ大きな海鳴りが響いていた。しかしそれでもやがて意識は薄れ、彼は深い眠りの中に引き込まれていった。
目を覚ましたのは朝の八時半だった。ふかえりの姿はベッドの中にはなかった。彼が貸したパジャマは丸められて、洗面所の洗濯機の中に放り込まれていた。手首と足首のところは折られたままになっていた。台所のテーブルに書き置きがあった。メモ用紙にボールペンで「ギリヤーク人は今どうしているのか。うちに帰る」と書かれていた。字は小さく、硬く角張って、どことなく不自然に見えた。貝殻を集めて、砂浜に書かれた字を、上空から眺めているみたいな感じがあった。彼はその紙を畳んで、机の抽斗にしまった。十一時にやってくるはずのガールフレンドにそんなものを見つけられたら、きつと一騒動になる。
天吾はベッドをきれいに整え、チェーホフの労作を書棚に戻した。それからコーヒーを作り、トーストを焼いた。朝食をとりながら、自分の胸の中に何か重いものが腰を据えていることに気づいた。それが何であるかがわかるまでに時間がかかった。それはふかえりの静かな寝顔だった。
もしかして、おれはあの子に恋をしているのだろうか? いや、そんなことはない、と天吾は自分に言い聞かせた。ただ彼女の中にある何かが、たまたま物理的におれの心を揺さぶるだけだ。でもそれでは何故、彼女が身につけたパジャマのことがこうも気になるのだろう? どうして(深く意識もせずに)手にとってその匂いを嗅いでしまったのだろう?
疑問が多すぎる。「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である」と言ったのはたしかチェーホフだ。なかなかの名言だ、しかしチェーホフは作品に対してのみならず、自らの人生に対しても同じような態度で臨み続けた。そこには問題提起はあったが、解決はなかった。自分が不治の肺病を患っていると知りながら(医師だからわからないわけがない)、その事実を無視しようと努め、自分が死につつあることを実際に死の床につくまで信じなかった。激しく喀血しながら、若くして死んでいった。
天吾は首を振り、テーブルから立ち上がった。今日はガールフレンドの来る日だ。これから洗濯をして掃除をしなくてはならない。考えるのはそのあとにしよう。
第21章 青豆
どれほど遠いところに行こうと試みても
青豆は区の図書館に行き、前と同じ手順を踏んで机の上に新聞の縮刷版を広げた。三年前の秋に山梨県で起こった、過激派と警官隊とのあいだの銃撃戦についてもう一度調べるためだ。老婦人が話していた「さきがけ」という教団の本部は山梨県の山の中にあった。そしてこの銃撃戦が行われたのも、やはり山梨県の山中だった。ただの偶然の一致かもしれない。しかし偶然の一致というのが、青豆にはもうひとつ気に入らなかった。その二つのあいだには繋がりがあるかもしれない。老婦人の口にした「あんな重大な事件」という表現も、何らかの関連性を示唆しているようだった。
銃撃戦の起こったのは三年前、一九八一年(青豆の仮説によれば「1Q84年の三年前の年」ということになる)の十月十九日だ。銃撃戦の詳細については、彼女は前に図書館に来たときに報道記事を読んで、既に大まかな知識を得ていた。だから今回はその部分はざっと流し読みして、後日に出た関連記事や、事件を様々な角度から分析した記事を中心に読むことにした。
最初の銃撃戦では、中国製のカラシニコフ自動小銃によって三人の警官が射殺され、二人が重軽傷を負った。その後過激派グループは武装したまま山中に逃亡し、武装警官隊によって大がかりな山狩りが行われた。それと同時に、完全武装した自衛隊の空挺部隊がヘリコプターで送り込まれた。その結果、過激派の三人が投降を拒否して射殺され、二人が重傷を負い(一人は三日後に病院で死亡した。もう一人の重傷者がどうなったのかは、新聞記事からは判明しなかった)、四人が無傷かあるいは軽傷を負って逮捕された。高性能の防弾ベストを着用していたから、自衛隊員や警官たちには被害は出なかった。警官の一人が追跡中に崖から転落して脚を折っただけだった。過激派のうちの一人だけは行方不明のままだった。その男は大がかりな捜査にもかかわらず、どこかに消えてしまったようだ。
銃撃戦の衝撃が一段落すると、新聞はこの過激派の成立過程について詳細な報道を始めた。彼らは一九七〇年前後の大学紛争の落とし子だった。メンバーの半数以上は東大安田講堂か日大の占拠に関わっていた。彼らの「砦」が機動隊の実力行使によって陥落したあと、大学を追われたり、あるいは大学キャンパスを中心とする都市部での政治活動に行き詰まりを覚えた学生たちや一部教官が、セクトを超えて合流し、山梨県に農場を作ってコミューン活動を開始した。最初は農業を中心とするコミューンの集合体である「タカシマ塾」に参加したのだが、その生活に満足できず、メンバーを再編成して独立し、山奥の廃村を破格に安く手に入れて、そこで農業を営むようになった。初めのうちは苦労があったようだが、やがて有…機農法を用いた食材が都市部で静かなブームになり、野菜の通信販売がビジネスとして成立するようになった。そのような追い風を受けて彼らの農園はまずまず順調に発展し、規模を徐々に拡大していった。何はともあれ彼らはシリアスで勤勉な人々であり、指導者のもとによく組織化されていた。「さきがけ」というのがそのコミューンの名前だった。
青豆は顔を大きくしかめ、生唾を呑み込んだ。喉の奥で大きな音がした。それから彼女は手にしたボールペンで、机の表面をこつこつと叩いた。
彼女は記事を読み続けた。
しかし経営が安定する一方で、「さきがけ」の内部では分裂が次第に明確なかたちをとっていった。マルクシズムにのっとったゲリラ的な革命運動を希求し続けようとする過激な「武闘派」と、現在の日本においては暴力革命は現実的な選択ではないという事実を受け入れ、その上で資本主義の精神を否定し、土地と共に生きる自然な生活を追求しようとする比較的穏健な「コミューン派」に、グループが大きく二分してしまったのだ。そして一九七六年に数で優勢を誇るコミューン派が武闘派を「さきがけ」から放逐する事態に到った。
とはいえ「さきがけ」は力ずくで武闘派を追い出したわけではない。新聞によれば、彼らは武闘派に新しい替わりの土地と、ある程度の資金を提供し、円満に「お引き取り願った」らしい。武闘派はその取り引きに応じ、新しい代替地に彼ら自身のコミューン「あけぼの」をたちあげた。そしてどこかの時点で彼らは高性能の武器を入手したようだ。そのルートと資金の内容については今後の捜査による解明が待たれている。
一方の農業コミューン「さきがけ」がいつの時点で、どのようにして宗教団体へと方向転換していったのか、そのきっかけは何だったのか、警察にも新聞社にもよくつかめていないようだった。しかし「武闘派」をトラブルなしで切り捨てたそのコミューンは、その前後から急速に宗教的な傾向を深めたようで、一九七九年には宗教法人として認証を受けるに至った。そして周辺の土地を次々に購入し、農地と施設を拡張していった。教団施設のまわりには高い塀が築かれ、外部の人々はそこに出入りすることができなくなった。「修行の妨げになるから」というのが理由だった。そのような資金がどこから入ってくるのか、どうしてそれほど早い時期に宗教法人の認証を受けることができたのか、それも明らかにされていない部分だった。
新しい土地に移った過激派グループは、農作業と並行して敷地内での秘密武闘訓練に力を入れ、近隣の農民とのあいだにいくつかのトラブルを引き起こした。そのうちのひとつは、「あけぼの」の敷地内を流れる小さな河川の水利権をめぐる争いだった。その河川は昔から、地域の共同農業用水として使用されてきたのだが、「あけぼの」は近隣住民の敷地内への立ち入りを拒んだ。紛争は数年にわたって続き、彼らのめぐらした鉄条網の塀に対して苦情を申し出た住民が、「あけぼの」の数人のメンバーに激しく殴打されるという事件が起こるに至った。山梨県警が傷害事件として捜査令状を取り、事情聴取のために「あけぼの」に向かった。そしてそこで思いもよらず銃撃戦が持ち上がったわけだ。
山中での激しい銃撃戦の末に、「あけぼの」が事実上壊滅したあと、教団「さきがけ」は間を置かず公式な声明を発表した。ビジネス?スーツを着た、若いハンサムな教団のスポークスマンが、記者会見を開いて声明を読み上げた。論旨は明確だった。「あけぼの」と「さきがけ」とのあいだには、過去においてはともかく、現在の時点では関係は一切ない。分離したあとは、業務連絡のほかには行き来はほとんどなかった。「さきがけ」は農作業に励み、法律を遵守し、平和な精神世界を希求する共同体であり、過激な革命思想を追求する「あけぼの」派の構成員とは、これ以上行動を共にできないという結論に至り、円満に訣を分かった。その後「さきがけ」は宗教団体として、宗教法人認証も受けている。このような流血事件が引き起こされたのはまことに不幸なことではあり、殉職された警察官のみなさんとそのご家族に、深く哀悼の意を表したい。どのようなかたちにおいても、教団「さきがけ」は今回の出来事には関与していない。とはいえ「あけぼの」の出身母胎が「さきがけ」であることは打ち消しがたい事実であり、もし今回の事件に関連して、何らかのかたちで当局の調査が必要とされるのであれば、無用の誤解を招かぬためにも、教団「さきがけ」は進んでそれを受け入れる用意がある。当教団は社会に向けて開かれた合法的な団体であり、隠すべきものは何ひとつない。開示の必要な情報があれば、可能な限り要望に応じたい。
数日後、その声明にこたえるかのように、山梨県警が捜査令状を手に教団内に入り、一日かけて広い敷地をまわり、施設内部や各種書類を入念に調査した。何人かの幹部が事情聴取された。表面的に決別したとはいえ、分離後も両者のあいだには交流が続いており、「さきがけ」が「あけぼの」の活動に水面下で関与していたのではないかというのが、捜査当局の疑念だった。しかしそれらしき証拠はひとつとして見つからなかった。美しい雑木林の中の小径を縫うように木造の修行施設が点在し、そこで多くの人々が質素な修行衣を着て、瞑想や厳しい修行に励んでいるだけだ。そのかたわらで信者たちによる農耕作業がおこなわれていた。よく手入れされた農機具や重機が揃っているだけで、武器らしきものは発見できず、暴力を示唆するものも目につかなかった。すべては清潔で、整然としていた。小綺麗な食堂があり、宿泊所があり、簡単な(しかし要を得た)医療施設もあった。二階建ての図書館には数多くの仏典や仏教書が収められており、専門家による研究や翻訳が進められていた。宗教施設というよりはむしろ、こぢんまりした私立大学のキャンパスみたいに見えた。警官たちは拍子抜けして、ほとんど手ぶらで引き上げた。
その数日後、今度は新聞やテレビの取材記者が教団に招かれたが、彼らがそこで目にしたのも、警官たちが見たのとだいたい同じ風景だった。よくあるお仕着せのツアーではなく、記者たちは付き添いなしに敷地内の好きな場所を訪れて、誰とでも自由に話をし、それを記事にすることができた。ただし信者のプライバシー保護のために、教団の許可を得た映像と写真だけを使用するという取り決めが、メディアとのあいだに結ばれた。修行衣を身にまとった数人の教団幹部が、集会用の広い部屋で記者たちの質問に答え、教団の成り立ちや教義や運営方針について説明した。言葉遣いは丁寧、かつ率直だった。宗教団体によくあるプロパガンダ臭は一切排除されていた。彼らは宗教団体の幹部というよりは、プレゼンテーションに習熟した広告代理店の上級社員のように見えた。着ている服が違っているだけだ。
我々は明確な教義を持っているわけではない、と彼らは説明した。成文化されたマニュアルのようなものを、我々は必要とはしていない。我々がおこなっているのは初期仏教の原理的な研究であり、そこでおこなわれていた様々な修行の実践である。そのような具体的な実践をとおして、字義的ではない、より流動的な宗教的覚醒を得ることが、我々の目指すところである。個人個人のそのような自発的覚醒が、集合的に我々の教理を作り上げていると考えていただければいい。教義があって覚醒があるのではなく、まず個々の覚醒があり、その中から結果的に、我々の則{のり}を決定するための教義が自然発生的に生まれてくる。それが我々の基本的な方針である。そのような意味では、我々は既成宗教とは成り立ちを大きく異にしている。
資金については現在のところ、多くの宗教団体と同じように、その一部を信者の自発的な寄付に頼っている。しかし最終的には、寄付に安易に頼ることなく、農業を中心とした、自給自足の質素な生活を確立することを目標に置いている。そのような「足るを知る」生活の中で、肉体を清浄にし、精神を錬磨することによって、魂の平穏を得ることを目指している。競争社会の物質主義にむなしさを覚えた人々が、より深みのある別の座標軸を求めて、次々に教団の門をくぐっている。高い教育を受け、専門職に就き、社会的地位を得ていた人々も少なくない。我々は世間のいわゆる「新興宗教」とは一線を画している。人々の現世的な悩みを安易に引き受け、一括して人助けをするような「ファーストフード」宗教団体ではないし、そういう方向を目指しているわけでもない。弱者の救済はもちろん大事なことだが、自らを救済しようとする意識の高い人々にふさわしい場所と適切な助力を与える、いわば宗教の「大学院」に相当する施設だと考えていただければ近いかもしれない。
「あけぼの」の人々と我々とのあいだには、運営方針についてある時点から大きな意見の相違が生じ、一時期は対立することもあった。しかし話し合いの末に穏やかな合意に達し、分離してそれぞれ別の道を歩むようになった。彼らも彼らなりに、純粋に禁欲的に理想を追い求めていたのだが、それが結果的にあのような惨事に至ったことは、悲劇としか言いようがない。彼らが教条的になりすぎ、現実の生きた社会との接点を失っていったことがその最大の原因であろう。我々もこれを機会に、より厳しく自らを律しつつ、同時に外に向けて窓を開いた団体であり続けなくてはならないと肝に銘じている。暴力は何ひとつ問題を解決しない。ご理解願いたいのは、我々は宗教を押しつける団体ではないということだ。信者の勧誘をすることもないし、他の宗教を攻撃することもない。我々がおこなっているのは、覚醒や精神的追求を求める人々に、適切かつ効果的な共同体的環境を提供することだ。
報道関係者はおおむね、この教団について好意的な印象を抱いて帰路に就いた。信者たちは男女ともみんなすらりと痩せていて、年齢も比較的若く(ときどき高齢者の姿も見受けられたが)、美しい澄んだ目をしていた。言葉遣いは丁寧で、礼儀正しかった。信者たちは概して、過去について多くを語りたがらなかったが、その多くはたしかに高い教育を受けているようだった。出された昼食は(信者がふだん口にしているのとほぼ同じものだということだった)質素ではあったものの、食材は教団の農地でとれたばかりの新鮮なもので、それなりに美味だった。
そんなわけで多くのメディアは「あけぼの」に移った一部革命グループを、精神的な価値を希求する方向に向かっていた「さきがけ」から、必然的にふるい落とされた「鬼っ子」のような存在として定義した。八〇年代の日本においては、マルクシズムに基づいた革命思想など、もはや時代遅れな代物と化していた。一九七〇年前後にラディカルに政治を志向した青年たちは、今では様々な企業に就職し、経済という戦場の最先端で激しく切り結んでいた。あるいは現実社会の喧喋や競争から距離を置き、それぞれの居場所で個人的な価値の追求に励んでいた。いずれにしても世の中の流れは一変し、政治の季節は遠い過去のものになっていた。「あけぼの」事件はきわめて血なまぐさい、不幸な出来事ではあったけれど、長い目で見ればそれは、過去の亡霊がたまたま顔を見せた、季節はずれの突発的な挿話{エピソード}に過ぎない。そこにはひとつの時代の幕引きとしての意味しか見いだせない。それが新聞の一般的な論調だった。「さきがけ」は新しい世界のひとつの有望な選択肢だった。その一方「あけぼの」には未来はなかった。
青豆はボールペンを下に置いて、深呼吸をした。そしてつばさのどこまでも無表情な、奥行きを欠いた一対の瞳を思い浮かべた。その瞳は私を見ていた。しかしそれは同時に、何も見ていなかった。そこには何か大事なものが欠落していた。
そんなに簡単なことじゃない、と青豆は思った。「さきがけ」の実態は新聞に書かれているほどクリーンなものではない。そこには奥に隠された闇の部分がある。老婦人の話によれば「リーダー」と称する人物は十代に達するか達しないかの少女たちをレイプし、それを宗教的な行為だと主張している。メディア関係者はそんなことは知らない。彼らは半日そこにいただけだ。整然とした修行施設を案内され、新鮮な食材を使った昼食を出され、魂の覚醒についての美しい説明を聞いて、それで満足して帰ってきたのだ。その奥で実際におこなわれていることが彼らの目に触れることはない。
青豆は図書館を出ると、喫茶店に入りコーヒーを注文した。店の電話であゆみの仕事場に電話をかけた。ここにならいつでもかけてくれていいと言われた番号だ。同僚が出て、彼女は勤務中だがあと二時間ほどで署に戻る予定になっていると言った。青豆は名前を告げず、「また電話をかけます」とだけ言った。
部屋に戻り、二時間後に青豆はもう一度その番号を回した。あゆみが電話に出た。
「こんにちは、青豆さん。元気にしてる?」
「元気よ。あなたは?」
「私も元気。ただ良い男がいないだけ。青豆さんは?」
「同じようなところ」と青豆は言った。
「それはいけないわね」とあゆみは言った。「私たちみたいな魅力的な若い女性たちが、豊かで健全な性欲をもてあまして愚痴りあってるなんて、世の中なんか間違っているよ。なんとかしなくちゃいけない」
「そうだけど……、ねえ、そんな大きな声で話をして大丈夫なの。勤務中でしょう。近くに人はいないの?」
「大丈夫だよ。何でも話してくれていい」とあゆみは言った。
「もしできればということなんだけど、あなたにひとつお願いしたいことがあるの。ほかに頼める人が思いつかなかったから」
「いいよ。役に立てるかどうかはわからないけど、とにかく言ってみて」
「『さきがけ』っていう宗教団体は知っている? 山梨県の山の中に本部がある」
「『さきがけ』ねえ」とあゆみは言った。そして十秒ばかり記憶を探った。「うん、知ってると思う。たしか山梨の銃撃事件を起こした『あけぼの』っていう過激派グループが、以前に属していた宗教コミューンみたいなところだったよね。撃ち合いになって、県警の警官が三人殺された。気の毒に。でも『さきがけ』はその事件には関与してなかった。事件のあとで教団の中に捜査は入ったけど、きれいにクリーンだった。それで?」
「『さきがけ』がその銃撃事件のあと、何か事件みたいなことを起こしていないか、それを知りたいの。刑事事件でも民事事件でも。でも一般市民としては調べ方がわからない。新聞の縮刷版を残らず読むわけにもいかないし。でも警察なら、何らかの手段でそのあたりのことが調べられるんじゃないかと思って」
「そんなの簡単だよ。コンピュータでささっと検索すればすぐにわかるよ……と言いたいところだけど、残念ながら日本の警察のコンピュータ化はまだそこまで進んでないんだ。実用化まであと数年はかかると思う。だから今のところそういうことについて知りたいと思えば、たぶん山梨県警に頼んで、関係資料のコピーを郵便で送ってもらわなくちゃならない。それにはまずこっちで資料請求の申請書類を書いて、上司の認可を受ける必要がある。もちろんその理由なんかもきちんと書かなくちゃならない。なにしろここはお役所だからね、みんなものごとを必要以上にややこしくすることでお給料をもらっているわけ」
「そうか」と青豆は言った。そしてため息をついた。「じゃあアウトね」
「でもどうしてそんなことを知りたいの? 知り合いが何か『さきがけ』がらみの事件に巻き込まれているとか?」
青豆はどうしようかと迷ったが、正直に話すことにした。「それに近いこと。レイプが関連している。今の段階では詳しいことはまだ言えないんだけど、少女のレイプ。宗教を隠れ蓑にして、そういうのが組織的に内部で行われているという情報があるの」
あゆみが軽く眉をしかめる様子が電話口でわかった。「ふうん、少女レイプか。そいつはちょっと許せないな」
「もちろん許せない」と青豆は言った。
「少女って、いくつくらい?」
「十歳か、それ以下。少なくとも初潮を迎えていない女の子たち」
あゆみは電話口でしばらく黙り込んでいた。それから平板な声で言った。「わかったよ。そういうことなら、何か手を考えてみる。二三日時間をくれる?」
「いいよ。そちらから連絡をちょうだい」
そのあとしばらく他愛のないおしゃべりをしてから、「さあ、またお仕事に行かなくっちゃ」とあゆみが言った。
電話を切ったあと、青豆は窓際の読書用の椅子に座ってしばらく自分の右手を眺めた。ほっそりとした長い指と、短く切られた爪。爪はよく手入れされているが、マニキュアは塗られていない。爪を見ていると、自分という存在がほんの束の間の、危ういものでしかないという思いが強くなった。爪のかたちひとつとっても、自分で決めたものではない。誰かが勝手に決めて、私はそれを黙って受領したに過ぎない。好むと好まざるとにかかわらず。いったい誰が私の爪のかたちをこんな風にしようと決めたのだろう。
老婦人はこのあいだ青豆に「あなたのご両親は熱心な『証人会』の信者だったし、今でもそうです」と言った。とすれば、あの人たちは今でも同じように布教活動に励んでいるのだろう。青豆には四歳年上の兄がいた。おとなしい兄だった。彼女が決意して家を出たとき、彼は両親の言いつけに従い、信仰をまもって生活していた。今どうしているのだろう? しかし青豆は家族の消息をとくに知りたいとも思わなかった。彼らは青豆にとって、もう終わってしまった人生の部分だった。絆は断ち切られてしまったのだ。
十歳より前に起こったことを残らず忘れてしまおうと、彼女は長いあいだ努力を続けてきた。私の人生は実際には十歳から開始したのだ。それより前のことはすべて惨めな夢のようなものに過ぎない。そんな記憶はどこかに捨て去ってしまおう。しかしどれだけ努力しても、ことあるごとに彼女の心はその惨めな夢の世界に引き戻された。自分が手にしているもののほとんどは、その暗い土壌に根を下ろし、そこから養分を得ているみたいに思えた。どれほど遠いところに行こうと試みても、結局はここに戻ってこなくてはならないのだ、と青豆は思った。
私はその「リーダー」をあちらの世界に移さなくてはならない、と青豆は心を決めた。私自身のためにも。
三日後の夜にあゆみから電話がかかってきた。
「いくつかの事実がわかった」と彼女は言った。
「『さきがけ』のことね?」
「そう。いろいろ考えているうちに、同期で入ったやつの叔父さんが山梨県警にいるってことをはっと思い出したの。それもわりに上の方の人みたいなんだ。で、そいつに頼み込んでみたわけ。うちの親戚の若い子がその教団に入信しかけていて、それで面倒なことになって困っているんだ、みたいなことを言ってね。だから『さきがけ』について情報を集めている。悪いんだけど、お願い、ね、みたいに。私って、そういうこともわりにうまくできちゃうわけ」
「ありがとう。感謝する」と青豆は言った。
「それでそいつは山梨の叔父さんに電話をかけて事情を話し、叔父さんがそれならということで、『さきがけ』の調査にあたった担当者を紹介してくれた。そういう経緯で、私はその人と電話で直接話をすることができたわけ」
「素晴らしい」
「うん、まあそのときけっこう長く話をして、『さきがけ』についていろんなことを聞いたんだけど、既に新聞なんかに出たことは、青豆さんだってもう知っているだろうから、今はそうじゃない部分、あまり一般には知られていない部分の話をするわね。それでいいかしら?」
「それでいい」
「まずだいいちに『さきがけ』は今までに何度か法的な問題を起こしている。民事の訴訟をいくつか起こされている。ほとんどが土地売買に関するトラブルね。この教団はよほどたっぷり資金を持っているらしくて、近隣の土地を片っ端から買いあさっている。まあ田舎だから、土地が安いっていえば安いんだけど、それにしてもね。そしてそのやり方はいささか強引である場合が多い。ダミー会社を作って隠れ蓑にして、教団がからんでいるとわからないかたちで、不動産を買いまくっている。それでしばしば地主や自治体とトラブルになる。まるで地上げ屋の手口みたいだ。しかし現時点では、どれも民事訴訟で、警察が関与するには至ってない。かなりすれすれのところではあるけれど、まだ表沙汰にはなっていないわけ。ことによってはやばい筋、政治家筋がからんでいるかもしれない。政治の方から手を回されると、警察は適当にさじ加減をすることがあるから。話がもっと膨らんで、検察が出ばってくれば話は違ってくるけど」
「『さきがけ』はこと経済活動に関しては、見かけほどクリーンではない」
「一般信者のことまでは知らないけど、不動産売買の記録をたどる限りでは、資金の運用にあたっている幹部連中はそれほどクリーンとは言えないかもね。純粋な精神性を希求することを目的としてお金を使っているとは、どう好意的に見ても考えにくい。それにこいつらは山梨県内だけじゃなくて、東京や大阪の中心部にも土地や建物を確保している。どれも一等地だよ。渋谷、南青山、松濤{しょうとう}……この教団はどうやら、全国的な規模での展開を視野に入れているみたいね。もし不動産業に商売替えしようとしているのでなければ、ということだけど」
「自然の中に生きて、清く厳しい修行を究極の目的としている宗教団体が、どうしてまた都心に進出してこなくてはならないのかしら?」
「そしてそんなまとまった額のお金は、いったいどこから出てくるんだろうね?」とあゆみは疑問を呈した。「大根や人参を作って売るだけでは、そんな資金が調達できるわけはないもの」
「信者たちから寄進としてしぼりとっている」
「それはあるだろうけど、それでもまだ足りないと思う。きつとどっかにまとまった資金ルートがあるんだよ。それからほかにも、ちっとばかり気になる情報が見つかったよ。青豆さんが興味を持つかもしれないようなやつ。教団の中には信者の子供たちがけっこういて、基本的には地元の小学校に通っているんだけど、その子供たちの多くが、しばらくすると登校するのをやめてしまう。小学校としては、義務教育だから是非出席するように強く求めているんだけど、教団側は『子供たちの中に、学校にどうしても行きたがらないものがいる』と言うだけで取り合わないの。そういう子供たちには、自分たちの手で教育を施しているから、勉学の点では心配ないと主張している」
青豆は自分の小学校時代を思い出した。教団の子供たちが学校に行きたくない気持ちは彼女にも理解できた。学校に行っても異分子としていじめられたり無視されたりするだけなのだから。
「地元の学校だと居心地が悪いんじゃないかしら」と青豆は言った。「それに学校に行かないというのはとくに珍しいことでもないし」
「しかし子供たちを担当していた教師たちによれば、教団の子供たちの多くは、男女の別なく精神的なトラブルを抱えているように見受けられた。その子たちは始めのうちはごく普通の明るい子供なんだけど、上の学年に行くに従ってだんだん口数が少なくなり、表情がなくなり、そのうちに極端に無感動になり、やがて学校に来るのをやめてしまう。『さきがけ』から通ってくる多くの子供たちが、同じような段階を経て同じ症状を見せるわけ。それで先生たちは首をひねり、心配をしているわけ。学校に姿を見せず、教団の中にこもってしまった子供たちが、その後いったいどんな状態に置かれているのか。元気に暮らしているのかどうか。でも子供たちに会うことはできない。一般人の施設への立ち入りが拒否されているから」
つばさと同じような症状だ、と青豆は思う。極端な無感動、無表情、ほとんど口をきかない。
「青豆さんは、『さきがけ』の内部で子供の虐待みたいなことがおこなわれているんじゃないかと想像している。組織的に。そしてそこにはおそらくレイプも含まれていると」
「でも一般市民の根拠のない想像だけでは、警察は動けないんでしょう」
「うん。なにしろ警察というところはこちこちのお役所だからね、トップの連中は自分のキャリアしか頭にない。そうじゃない人たちも中にはいるけど、おおかたは無事安全に出世して、退職後に外郭団体だか民間企業に天下りすることだけが人生の目的なわけ。だからやばいもの、ホットなものにははなから手を出さない。ひょっとしてあいつら、ピザだって冷めてからしか食べないんじゃないかな。現実の被害者が名乗り出て、裁判ではきはき証言ができるというのであれば、話はまた違ってくるんだけど、そういうのってきつとむずかしそうだよね」
「うん。むずかしいかもしれない」と青豆は言った。「でもとにかくありがとう。あなたの情報はずいぶん役に立った。何かお礼をしなくっちゃね」
「それはいいから、近いうちに、二人でまた六本木あたりに繰り出そうよ。お互いに面倒なことはぱっと忘れて」
「いいよ」と青豆は言った。
「そうこなくっちゃ」とあゆみは言った。「ところで青豆さんは手錠プレイとか興味ある?」
「たぶんないと思う」と青豆は言った。手錠プレイ?
「そうか、それは残念」とあゆみは残念そうに言った。
第22章 天吾
時間がいびつなかたちをとって進み得ること
天吾は自分の脳について考える。脳については考えなくてはならないことがたくさんあった。
人間の脳はこの二百五十万年のあいだに、大きさが約四倍に増加した。重量からいえば、脳は人間の体重の二パーセントしか占めていないのだが、それにもかかわらず、身体の総エネルギーの約四十パーセントを消費している(と彼がこのあいだ読んだ本には書かれていた)。脳という器官のそのような飛躍的な拡大によって、人間が獲得できたのは、時間と空間と可能性の観念である。
時間と空間と可能性の観念。
時間がいびつなかたちをとって進み得ることを、天吾は知っている。時間そのものは均一な成り立ちのものであるわけだが、それはいったん消費されるといびつなものに変わってしまう。ある時間はひどく重くて長く、ある時間は軽くて短い。そしてときとして前後が入れ替わったり、ひどいときにはまったく消滅してしまったりもする。ないはずのものが付け加えられたりもする。人はたぶん、時間をそのように勝手に調整することによって、自らの存在意義を調整しているのだろう。別の言い方をすれば、そのような作業を加えることによって、かろうじて正気を保っていられるのだ。もし自分がくぐり抜けてきた時間を、順序通りにそのまま均一に受け入れなくてはならないとしたら、人の神経はとてもそれに耐えられないに違いない。そんな人生はおそらく拷問に等しいものであるだろう。天吾はそう考える。
人は脳の拡大によって、時間性という観念を獲得できたわけだが、同時に、それを変更調整していく方法をも身につけたのだ。人は時間を休みなく消費しながら、それと並行して、意識によって調整を受けた時間を休みなく再生産していく。並大抵の作業ではない。脳が身体の総エネルギーの四十パーセントを消費すると言われるのも無理はない。
一歳半だかせいぜい二歳だかのときの記憶は、本当に自分が目にしたものなのだろうか、と天吾はよく考える。母親が下着姿で、父親ではない男に乳首を吸わせている情景。腕は男の身体にまわされている。一歳か二歳の幼児にそこまでの細かい見分けがつくものだろうか。そんな光景がありありと細部まで記憶できるものだろうか。それは後日、天吾が自分の身を護るために都合よく作り上げたフェイクの記憶ではないのか。
それはあり得るかもしれない。自分があの父親と称する人物の生物学上の子供ではないことを証明するために、別の男(可能性としての実の父親)の記憶を、天吾の脳はどこかの時点で無意識のうちにこしらえたのだ。そして「父親と称する人物」を緊密な血液のサークルの中から排除しようとした。どこかに生きているはずの母親と、真の父親という仮説的存在を自分の中に設定することで、限定された息苦しい人生に新しいドアを取りつけようとしたわけだ。
しかしその記憶には、生々しい現実感が伴っていた。たしかな感触があり、重みがあり、匂いがあり、奥行きがあった。それは廃船についた牡蠣のように、彼の意識の壁にとんでもなく強固にへばりついていた。どれだけ振り落とそうとしても、洗い流そうとしても、はがすことはできなかった。そんな記憶が自分の意識が必要に応じて作り上げた、ただのまがいものであるとは、天吾にはどうしても考えられなかった。架空のものにしてはあまりにもリアルすぎるし、強固過ぎる。
それが本物の、実際の記憶であると考えてみよう。
赤ん坊である天吾はその情景を目にして、きっと怯えたに違いない。自分に与えられるべき乳房を、誰か別の人間が吸っている。自分よりも大きく強そうな誰かが。そして母親の脳裏からは自分の存在が、たとえ一時的にせよ消えてしまっているように見える。それはひ弱な彼の生存を根本から脅かす状況である。そのときの根元的な恐怖が、意識の印画紙に激しく焼きつけられてしまったのかもしれない。
そしてその恐怖の記憶は、予想もしないときに唐突によみがえり、鉄砲水となって彼を襲った。パニックにも似た状態を天吾にもたらした。それは彼に語りかけ、思い出させた。お前はどこに行こうと、何をしていようと、この水圧から逃げ切ることはできないのだ。この記憶はお前という人間を規定し、人生をかたちづくり、お前を<傍点>ある決められた場所傍点>に送り込もうとしている。どのようにあがこうと、お前がこの力から逃れることはできないのだ、と。
それから天吾はふと思った。ふかえりの着ていたパジャマを洗濯機の中から取り上げ、鼻にあてて匂いを嗅いでしまうとき、おれはあるいはそこに母親の匂いを求めていたのかもしれない。そんな気がした。しかしどうしてよりによって、十七歳の少女の身体の匂いに、去っていった母親のイメージを求めなくてはならないのか? もっとほかに求めるべき場所はあるはずだ。たとえば年上のガールフレンドの身体に。
天吾のガールフレンドは彼より十歳年上だったし、彼の記憶している母親の乳房に近い、かたちの良い大きな乳房を持っていた。白いスリップも似合った。しかし天吾はなぜか彼女に母親のイメージを求めることはない。その身体の匂いに興味を持つこともない。彼女はとても効果的に、天吾の中から一週間分の性欲を搾り取っていった。天吾も彼女に(ほとんどの場合)性的な満足を与えることができた。それはもちろん大事な達成だった。しかし二人の関係には、それ以上の深い意味は含まれていなかった。
彼女が性行為の大半の部分をリードした。天吾はほとんど何も考えず、彼女に指示されるままに行動した。何を選択する必要もなく、判断する必要もなかった。彼に要求されているのはふたつだけだった。ペニスを硬くしておくことと、射精のタイミングを間違えないことだ。「まだだめよ。もう少し我慢して」と言われれば、全力を尽くして我慢した。「さあ今よ。ほら、早く来て」と耳元で囁かれると、その地点で的確に、できるだけ激しく射精した。そうすれば彼女は天吾をほめてくれた。頬を優しく撫でながら、天吾くん、あなたって素晴らしいわよ、と言ってくれた。そして的確さの追求は、天吾が生来得意とする分野のひとつだった。正しい句読点を打ったり、最短距離の数式を見つけ出すこともそこに含まれる。
自分より年下の女性とセックスをするときには、そうはいかない。始めから終わりまで彼がいろんなことを考え、様々な選択をおこない、判断を下さなくてはならない。それは天吾を居心地悪くさせた。様々な責任が彼の双肩にのしかかってきた。荒海に乗り出した小さな船の船長になった気分だった。舵を取ったり、帆の具合を点検したり、気圧や風向きを頭に入れておかなくてはならない。自分を律し、船員たちの信頼を高めなくてはならない。細かいミスやちょっとした手違いが惨事へと結びつきかねない。それはセックスというよりはむしろ、任務の遂行に近いものになった。その結果、彼は緊張して射精のタイミングを間違えたり、あるいは必要なときにうまく硬くならなかったりした。そして自分に対してますます懐疑を抱くことになった。
しかし年上のガールフレンドとのあいだでは、そのような手違いはまず起こらなかった。彼女は天吾の性的な能力を高く評価してくれた。常に彼を褒め、励ましてくれた。天吾が一度だけ早すぎる射精をしてからは、注意深く白いスリップを身につけることを避けた。スリップだけではなく、白い下着をつけることだってやめてしまった。
その日も彼女は黒い下着の上下を身につけていた。そして彼に入念なフェラチオをした。そして彼のペニスの硬さと、睾丸のやわらかさを心ゆくまで愉しんでいた。黒いレースのブラジャーに包まれた彼女の乳房が、口の動きにあわせて上下するのを、天吾は目にすることができた。彼は早すぎる射精を避けるために、目を閉じてギリヤーク人のことを考えた。
彼らのところには法廷などなく、裁判が何を意味するかも知らないでいる、彼らが今にいたるもなお、道路の使命を全く理解していないという一事からしても、彼らがわたしたちを理解するのがいかに困難か、わかるだろう。道路がすでに敷かれているところですら、あいかわらず密林を旅しているのだ。彼らが家族も犬も列を作って、道路のすぐそばのぬかるみを、やっとのことで通っていくのをよく見かける。
粗末な衣服に身を包んだギリヤーク人たちが隊列を作り、犬や女たちとともに、道路に沿った密林の中を口数少なく歩んでいく光景を想像した。彼らの時間と空間と可能性の観念の中には、道路というものは存在しなかった。道路を歩いているよりは、密林の中をひそやかに歩いている方が、たとえ不便はあっても、彼らは自分たちの存在意義をより明確に捉えることができたのだろう。
きのどくなギリヤークじん、とふかえりは言った。
天吾はふかえりの寝顔を思い浮かべた。ふかえりは大きすぎる天吾のパジャマを着て眠っていた。長すぎる袖と足元は折り返されている。彼はそれを洗濯機の中から取り上げ、鼻にあてて匂いを嗅ぐ。
そんなことを考えちゃいけないんだ、と天吾ははっと我に返って思う。しかしそのときはもう遅すぎる。
天吾はガールフレンドの口の中に激しく何度も射精した。彼女はそれを最後まで口の中に受け、それからベッドを出て洗面所に行った。彼女が蛇口をひねって水を出し、口をゆすぐ音が聞こえた。それからなにごともなかったようにベッドに戻ってきた。
「ごめん」と天吾は謝った。
「我慢できなかったのね」とガールフレンドは言った。そして指先で天吾の鼻を撫でた。「いいのよ、べつに。ねえ、そんなに気持ちよかった?」
「とても」と彼は言った。「もう少しあとでまたできると思う」
「すごく楽しみ」と彼女は言った。そして天吾の裸の胸に頬をつけた。目を閉じてそのままじっとしていた。彼女の静かな鼻息を、天吾は乳首に感じることができた。
「あなたの胸を見て、触って、私がいつもどんなものを思い出すと思う?」と彼女は天吾に尋ねた。
「わからないな」
「黒澤明の映画に出てくる、お城の門」
「お城の門」と天吾は彼女の背中を撫でながら言った。
「ほら、『蜘蛛の巣城』とか『隠し砦の三悪人』とか、そういった古い白黒映画で、大きくて頑丈な城門が出てくるじゃない。大きな鋲{びょう}みたいなのがいっぱい打ってあるやつ。いつもあれを思い出すの。がっしりして、分厚くて」
「鋲は打ってないけど」と天吾は言った。
「気がつかなかった」と彼女は言った。
ふかえりの『空気さなぎ』は単行本発売後、二週間目にベストセラー?リストに入り、三週目には文芸書部門のトップに躍り出た。天吾は予備校の教職員控え室に置いてある数紙の新聞で、その本がベストセラーになっていく経過を追っていた。新聞広告も二度出た。広告には本のカバー写真と並んで、彼女のスナップ?ショットが小さく添えられていた。見覚えのあるぴったりとした薄手のサマーセーター、美しいかたちの胸(たぶん記者会見のときに撮影されたのだろう)。肩にかかるまっすぐな長い髪、正面からこちらを見つめている一対の黒く謎めいた瞳。その目はカメラのレンズを通して、人が心の中にひっそりと抱えている何かを——普段はそんなものを抱えていると自分でも意識しない何かを——率直に見据えているように見える。中立的に、しかし優しく。その十七歳の少女の迷いのない視線は、見られているものの防御心をほどいてしまうのと同時に、いくぶん居心地の悪い気持ちにもさせた。小さな白黒写真ではあるけれど、この写真を目にしただけで、本を買ってみようかと思う人々も少なくないはずだ。
発売の数日後に小松が『空気さなぎ』を二冊郵便で送ってくれたが、天吾はそのページを開くこともしなかった。そこに印刷されている文章はたしかに自分が書いたものだったし、彼の書いた文章が単行本のかたちになるのはもちろん初めてのことだったが、それを手にとって読みたいとは思わなかった。ざっと目を通す気さえ起きなかった。本を目にしても、喜びの気持ちはわいてこなかった。たとえ彼の文章であるとしても、書かれている物語はどこまでもふかえりの物語なのだ。彼女の意識の中から生み出された話だ。彼の陰の技術者としてのささやかな役目はすでに終了していたし、その作品がこれから先どのような運命を辿ることになろうと、それは天吾には関わりのないことだった。また関わりを持つべきではないことだった。彼はその二冊の本を、ビニールに包まれたまま、本棚の目につかないところに押し込んでおいた。
アパートにふかえりが泊まった夜のあと、天吾の人生はしばらくのあいだ、何こともなく穏やかに流れた。よく雨が降ったが、天吾は天候にはほとんど関心を払わなかった。天候の問題は、天吾の重要事項リストのかなり下位の方に追いやられていた。それ以来ふかえりからはまったく連絡はなかった。連絡がないのは、たぶんとりたてて問題がないということなのだろう。
小説の執筆を日々続けるかたわら、頼まれていた雑誌用の短い原稿をいくつか書いた。誰にでもできる無署名の賃仕事だったが、それでも気分転換にはなったし、手間に比べて報酬は悪くなかった。そしていつもどおり週に三回予備校に行って数学の講義をした。彼はいろんな面倒なことを——主に『空気さなぎ』とふかえりに関することを——忘れるために、以前にも増して深く数学の世界に入り込んでいった。いったん数学の世界に入ると、彼の脳の回路が(小さな音を立てて)入れ替わった。彼の口は違う種類の言葉を発し、彼の身体は違う種類の筋肉を使い始めた。声のトーンも変わったし、顔つきも少し変わった。天吾はそのような切り替わりの感触が好きだった。ひとつの部屋から別の部屋に移っていくような、あるいはひとつの靴から別の靴に履き替えるような感覚がそこにはあった。
数学の世界に入ると彼は、日常生活の中にいるときよりも、あるいは小説を書いているときよりも、気持ちを一段階緩めることができたし、雄弁にもなった。しかしそれと同時に、自分がいくぶん便宜的な人間になったような気もした。どちらが本来の自分の姿なのか判断はできない。しかし彼はとても自然に、とりたてて意識もせず、その切り替えをおこなうことができた。そのような切り替え作業が、多かれ少なかれ自分に必要とされていることもわかっていた。
数学教師としての彼は教壇の上から、数学というものがどれくらい貧欲に論理性を求めているかということを、生徒たちの頭に叩き込んだ。数学の領域においては、証明できないことには何の意味もないし、いったん証明さえできれば、世界の謎は柔らかな牡蠣のように人の手の中に収まってしまうのだ。講義はいつになく熱を帯びて、生徒たちはその雄弁に思わず聞き入った。彼は数学の問題の解き方を実際的に有効に教授するのと同時に、その設問の中に秘められているロマンスを華やかに開示した。天吾は教室を見まわし、十七歳か十八歳の少女たちの何人かが、敬意をこめた目で自分をじっと見ていることを知った。彼は自分が数学というチャンネルを通して、彼女たちを誘惑していることを知った。彼の弁舌は一種の知的な前戯だった。関数が背中を撫で、定理が温かい息を耳に吐きかける。しかしふかえりに出会ってからは、天吾がそのような少女たちに対して性的な興味を抱くことはもうなかった。彼女たちの着たパジャマの匂いを嗅いでみたいとも思わなかった。
ふかえりはきっと特別な存在なんだ、と天吾はあらためて思った。ほかの少女たちと比べることなんてできない。彼女は間違いなくおれにとって、何らかの意味を持っている。彼女はなんて言えばいいのだろう、おれに向けられたひとつの総体的なメッセージなのだ。それなのにどうしてもそのメッセージを読み解くことができない。
しかし、ふかえりに関わるのはもうよした方がいい、というのが彼の理性がたどり着いた明快な結論だった。書店の店頭に積み上げられた『空気さなぎ』や、何を考えているのかわからない戎野先生や、不穏な謎に満ちた宗教団体からもできるだけ遠ざかった方がいい。小松とも、少なくとも当分のあいだは距離を置いた方がいい。そうしなければ、ますます混乱した場所へと彼は運ばれていくことだろう。論理のかけらもないような危険な一角に押しやられ、抜き差しならない状況に追い込まれてしまうだろう。
しかし今この段階で、その入り組んだ陰謀から身を引くのが簡単ではないことは、天吾にもよくわかっていた。彼は既に<傍点>それ傍点>に関わってしまった。ヒッチコック映画の主人公たちのように、知らないうちに何かの陰謀に巻き込まれたのではない。ある程度のリスクが含まれていることは承知の上で、自分で自分を巻き込んだのだ。その装置はもう動き出してしまった。いったん勢いのついたものを止めることはできないし、天吾は疑いの余地なくその装置の歯車のひとつになっている。それも<傍点>主要な傍点>歯車のひとつに。彼はその装置の低いうなりを聞き取り、執拗なモーメントを身の内に感じ取ることができた。
小松が電話をかけてきたのは、『空気さなぎ』が二週続けて文芸書ベストセラーの一位になった数日後だった。夜中の十一時過ぎに電話のベルが鳴った。天吾は既にパジャマに着替え、ベッドに入っていた。うつぶせになってしばらく本を読み、そろそろ枕もとの明かりを消して眠ろうとしたところだった。ベルの鳴り方から、相手が小松であることは想像がついた。うまく説明できないのだが、小松のかけてくる電話はいつだってそれとわかる。ベルの鳴り方が特殊なのだ。文章に文体があるように、彼がかけてくる電話は独特なベルの鳴り方をする。
天吾はベッドを出て台所に行き、受話器をとった。本当はそんなものを取りたくなかった。このまま静かに寝てしまいたかった。イリオモテヤマネコだか、パナマ運河だか、オゾン層だか、松尾芭蕉だか、なんでもいいからとにかくここからできるだけ遠くにあるものについての夢を見ていたかった。しかしもし今受話器をとらなかったら、十五分か三十分後に再び同じようにベルが鳴り出すことだろう。小松には時間の観念というものがほとんどない。通常の生活を送っている人間に対する思いやりの気持ちなんてさらさらない。それなら今電話に出た方がまだましだ。
「よう天吾くん、もう寝てたか?」と小松は例によってのんびりした声で切り出した。
「寝かけていたところです」と天吾は言った。
「それは悪かったな」と小松はあまり悪くなさそうに言った。「『空気さなぎ』の売れ行きがずいぶん好調だと、ひとこと言いたくてね」
「それはなによりです」
「ホットケーキみたいに作るそばからどんどん売れている。作るのが追いつかなくて、気の毒に製本所は徹夜で仕事をしている。まあ、かなりの部数が売れるだろうってことは前もって予想はしていたよ、もちろん。十七歳の美少女の書いた小説だ。話題にもなっている。売れる要素は揃っている」
「三十歳の、熊みたいな予備校講師の書いた小説とはわけが違いますから」
「そういうことだ。とはいえ、娯楽性に富んだ内容の小説とは言い難い。セックス?シーンもないし、涙を流すような感動の場面もない。だからここまで派手に売れるとはさすがの俺も想像しなかった」
小松は天吾の反応を見るようにそこで間を置いた。天吾が何も言わないので、彼はそのまま話を続けた。
「それに、ただ単に数が売れているというだけじゃないんだ。評判だって素晴らしい。そのへんの若いのが思いつきひとつで書いた、話題性だけのちゃらちゃら小説とはものが違う。なんといっても内容が優れている。もちろん天吾くんの手堅く見事な文章技術が、それを可能たらしめたわけだけどな。いや、あれはまさに完壁な仕事だった」
<傍点>可能たらしめた傍点>。天吾は小松の賞賛を聞き流しながら、指先でこめかみを軽く押さえた。小松が天吾の何かを手放しで褒めるとき、そのあとには決まってあまり好ましくない種類の知らせが控えている。
天吾は言った。「それで小松さん、悪い方のニュースはどんなことなんですか?」
「どうして悪い方のニュースがあるってわかるんだ?」
「だって、この時間に小松さんが僕のところに電話をかけてくるんですよ。悪いニュースがないわけがないでしょう」
「たしかに」と小松は感心したように言った。「たしかにそのとおりだ。天吾くんはさすがに勘がいい」
そんなもの勘じゃない、ただのしがない経験則だ、と天吾は思った。しかし何も言わずに相手の出方を待った。
「そのとおり。残念ながら、あまり好ましくないニュースがひとつある」と小松は言った。そしていかにも意味ありげに間を置いた。彼の一対の目が、暗闇の中でマングースの瞳のようにきらりと光るところが、電話口で想像できた。
「おそらくそれは『空気さなぎ』の著者に関することですね」と天吾は言った。
「そのとおり。ふかえりに関することだ。いささか弱ったことになった。実を言うとね、彼女の行方がしばらくわからなくなっている」
天吾の指はこめかみを押さえ続けていた。「しばらくって、いつから?」
「三日前、水曜日の朝に彼女は奥多摩の家を出て、東京に行った。戎野先生が彼女を送り出した。どこに行くとも言わなかった。電話がかかってきて、今日は山奥の家には戻らず、信濃町のマンションに泊まると言った。マンションにはその日、戎野先生の娘も泊まることになっていた。しかしふかえりはいつまでたってもマンションには帰ってこなかった。それ以来連絡が途絶えている」
天吾はこの三日間の記憶を辿った。しかし思い当たるところはなかった。
「杳{よう}として行方が知れない。それで、ひょっとして天吾くんのところに連絡がなかったかと思ってね」
「連絡はありません」と天吾は言った。彼女が天吾のアパートで一晩を過ごしたのはたしかもう四週間以上前のことだ。
信濃町のマンションに帰らない方がいいと思うと、そのときにふかえりが言ったことを、小松に教えるべきだろうかと天吾は少し迷った。彼女はその場所に何かしら不吉なものを感じていたのかもしれない。しかし結局黙っていることにした。ふかえりを自分の部屋に泊めたことを小松に言いたくなかった。
「変わった子です」と天吾は言った。「連絡も入れずに、一人でどこかにふらつと行ってしまったかもしれませんよ」
「いや、それはない。ふかえりって子には、ああ見えてずいぶん律儀なところがあるんだ。居場所はいつも明確にしている。しょっちゅう電話をかけて、今どこにいて、いつどこに行くというような連絡をしてくる。戎野先生はそう言っていた。だから丸三日まったく連絡がないというのは、ちと普通じゃないことなんだ。まずいことが起こったのかもしれない」
天吾は低くうなった。「まずいこと」
「先生も娘もとても心配している」と小松は言った。
「いずれにせよ、彼女の行方がこのままわからなくなったら、小松さんはきっと困った立場に置かれるんでしょうね」
「ああ、もし警察沙汰になったら、それはずいぶんややこしいことになるだろうな。なにしろベストセラー街道を突っ走る本を書いた美少女作家が失踪したんだ。マスコミが色めき立つことは目に見えている。そうなったら担当編集者としてこの俺があちこちに引っ張り出されて、コメントを求められたりするだろう。そいつはどうにも面白くない。俺はあくまで陰の人間だからね、日の光には馴染まない。それにそんなことをしているうちに、どこでどんな風に内幕が暴き出されるか、わかったものじゃない」
「戎野先生はどう言っているんですか?」
「明日にも警察に捜索願を出すと言っている」と小松は言った。「なんとか頼み込んでそいつは数日遅らせてもらった。しかしそう長くは引っ張れそうにない」
「捜索願が出されたことがわかると、マスコミが出てくるんでしょうね」
「警察がどう対応するかはわからないが、ふかえりは時の人だ。ただのティーンエージャーの家出とはわけが違う。世間に隠しきることはむずかしかろうな」
あるいはそれこそが、戎野先生が望んでいたことなのかもしれない、と天吾は思った。ふかえりを餌にして世間に騒ぎを起こし、それを挺子に「さきがけ」と彼女の両親との関係を明らかにし、彼らの居場所を探り当てること。もしそうだとしたら、先生の計画は今のところ予想通りの展開を見せていることになる。しかしそこにどれほどの危険性が含まれているのか、先生には把握できているだろうか? たぶんそれくらいはわかっているはずだ。戎野先生は無考えな人間ではない。そもそも深く考えることが彼の仕事なのだ。そしてふかえりを巡る状況には、天吾が知らされていない重要な事実がまだいくつもありそうだった。天吾は言うなれば、揃っていないピースを渡されて、ジグソー?パズルを組み立てているようなものだ。知恵のある人間は最初からそんな面倒には関わり合いにならない。
「彼女の行き先について、天吾くんに何か心当たりはないか?」
「今のところはありません」
「そうか」と小松は言った。その声には疲労の気配がうかがえた。小松が弱みを表に出すのはあまりないことだった。「夜中に起こして悪かったね」
小松が謝罪の言葉を口にするのもかなり珍しいことだ。
「いいですよ、事情が事情だから」と天吾は言った。
「俺としちゃ、できればこういう現実的なごたごたには天吾くんを巻き込みたくなかった。君の役目はあくまで文章を書くことであって、その勤めはしっかり果たしてくれたわけだからな。しかし世の習いとして、ものごとはなかなかすんなりとは収まらない。そしていつかも言ったように、俺たちはひとつのボートに乗って急流を流されている」
「一蓮托生」と天吾は機械的に言葉を添えた。
「そのとおり」
「しかし小松さん、ふかえりの失踪がニュースになれば、『空気さなぎ』が更に売れるんじゃないんですか?」
「もうじゅうぶん売れてるよ」と小松はあきらめたように言った。「これ以上の宣伝はいらない。派手なスキャンダルは面倒のタネでしかない。我々としてはむしろ平穏な着地先について考えなくちゃならないところだ」
「着地先」と天吾は言った。
架空の何かを喉に飲み込むような音を、小松は電話口で立てた。それから一度小さく咳払いをした。「そのへんのことについては、またいつか飯でも食ってゆっくり話をしよう。今回のごたごたが片づいてからな。お休み、天吾くん。ぐっすり眠るといい」
小松はそう言って電話を切ったが、まるで呪いでもかけられたみたいに、天吾はそのあと眠れなくなった。眠いのだが、眠ることができない。
何が「ぐっすり眠るといい」だ、と天吾は思った。台所のテーブルに座って仕事をしようと思った。しかし何も手につかなかった。戸棚からウィスキーの瓶を出し、グラスに注いでストレートで小さく一口ずつ飲んだ。
ふかえりは設定どおり生き餌としての役割を果たし、教団「さきがけ」が彼女を誘拐したのかもしれない。その可能性は小さくないように天吾には思えた。彼らは信濃町のマンションを見張っていて、ふかえりが姿を見せたところを数人で力ずくで車に押し込み、連れ去った。素速くやれば、そして状況さえうまく選べば、決して不可能なことではない。ふかえりが「信濃町のマンションには帰らない方がいい」と言ったとき、彼女はそのような気配を感じとっていたのかもしれない。
リトル?ピープルも空気さなぎも実在する、とふかえりは天吾に言った。彼女は「さきがけ」というコミューンの中で盲目の山羊を誤って死なせ、その懲罰を受けているときに、リトル?ピープルと知り合った。彼らと共に夜ごと空気さなぎをつくった。そしてその結果彼女の身に何か大きな意味を持つことが起こった。彼女はその出来事を物語のかたちにした。天吾がその物語を小説のかたちに整えた。言い換えれば<傍点>商品のかたち傍点>に変えたわけだ。そしてその商品は(小松の表現を借りるなら)ホットケーキのように作るそばから売れている。「さきがけ」にとって、それは都合の悪いことであったのかもしれない。リトル?ピープルと空気さなぎの物語は、外部に明かしてはならない重大な秘密であったのかもしれない。だから彼らは秘密のこれ以上の漏洩を阻止するためにふかえりを誘拐し、その口を塞がなくてはならなかった。もし彼女の失踪が世間の疑惑を呼ぶことになったとしても、それだけのリスクを冒しても、実力行使に及ばないわけにはいかなかったのだ。
しかしそれももちろん、天吾の立てた仮説に過ぎない。差し出せるような根拠はないし、証明することも不可能だ。声を大にして「リトル?ピープルと空気さなぎは実在します」なんて人々に告げたところで、どこの誰がそんな話に取り合ってくれるだろう? だいいちそれらが「実在する」というのが具体的にどんなことを意味しているのか、天吾自身にだってよくわからないのだ。
それともふかえりは、ただ『空気さなぎ』のベストセラー騒ぎにうんざりして、どこかに一人で雲隠れしたのだろうか。もちろんそういう可能性は考えられる。彼女の行動を予測するのはほとんど不可能に近い。しかしもしそうだったとしても、彼女は戎野先生やその娘のアザミに心配をかけないように、何かしらのメッセージは残していくはずだ。そうしてはならない理由は何ひとつないのだから。
しかしもしふかえりが本当に教団に誘拐されたのだとしたら、彼女の身が少なからず危険な状況に置かれるであろうことは、天吾にも容易に想像がついた。両親の消息がある時点からまったく知れなくなったのと同じように、彼女の消息だってそのまま絶たれてしまうかもしれない。ふかえりと「さきがけ」との関係が明らかになり(明らかになるまでにさほど時間はかかるまい)、そのことでマスコミがいくら騒ぎ立てても、警察当局が「誘拐されたという物的証拠はない」として取り合わなければ、すべては空騒ぎに終わってしまう。彼女は高い塀で囲まれた教団内のどこかに幽閉監禁されたままになるかもしれない。あるいはもっとひどいことになるかもしれない。戎野先生はそういう最悪のシナリオを折り込んで計画を立案したのだろうか。
天吾は戎野先生に電話をかけて、そのようなあれこれについて話をしたかった。しかし時刻は既に真夜中を過ぎていた。明日まで待つしかない。
天吾は翌日の朝、教えられていた番号を回し、戎野先生の家に電話をかけた。しかし電話はつながらなかった。「この電話番号は現在使用されておりません。番号をもう一度お確かめの上、おかけなおしください」という電話局の録音メッセージが繰り返されるだけだ。何度かけなおしても結果は同じだった。たぶんふかえりのデビュー以来、取材の電話が殺到したので電話番号を変更したのだろう。
それから一週間、変わったことは何ひとつ起こらなかった。『空気さなぎ』が順調に売れ続けていただけだ。相変わらず全国ベストセラー?リストの上位に位置していた。そのあいだ天吾のところには、誰からの連絡もなかった。天吾は何度か小松の会社に電話をかけたが、彼はいつも不在だった(それは珍しいことではない)。電話をかけてほしいという伝言を編集部に残したが、電話は一度もかかってこなかった(それも珍しいことではない)。毎日欠かさず新聞に目を通していたが、ふかえりの捜索願が出されたというニュースは見あたらなかった。戎野先生は結局、捜索願を警察に出さなかったのだろうか。あるいは出すには出したが、警察が秘密裏に捜査を進めるために公表を控えているのだろうか。それともよくある十代の少女の家出のひとつとして、真剣に相手にしてもらえなかったのか。
天吾はいつもどおり週に三日予備校で数学の講義をし、それ以外の日々は机に向かって長編小説を書き進め、金曜日にはアパートを訪ねてくるガールフレンドと濃密な昼下がりのセックスをした。しかし何をしていても、気持ちをひとところに集中することができなかった。厚い雲の切れ端を何かと間違えて呑み込んでしまった人のように、すっきりとしない、落ち着かない気持ちで日々を過ごした。食欲も徐々に減退していった。夜中のとんでもない時刻に目が覚めて、そのまま眠れなくなった。眠れないまま、ふかえりのことを考えた。彼女が今どこにいて何をしているのか。誰と一緒にいるのか。どんな目にあっているのか。様々な状況を頭の中で想像した。どれも多少の差こそあれ、悲観的な色あいを帯びた想像だった。そして彼の想像の中では、彼女は常にぴったりとした薄手のサマーセーターを着て、胸のかたちをきれいに見せていた。その姿は天吾を息苦しくさせ、いっそう激しい騒擾{そうじょう}を心に作り出した。
ふかえりが連絡をしてきたのは、『空気さなぎ』がベストセラー?リストに腰を据えたまま六週目を迎えた木曜日のことだった。
第23章 青豆
これは何かの始まりに過ぎない
青豆とあゆみはこぢんまりとした、それでもじゅうぶんにエロティックな一夜の饗宴を立ち上げるには、理想的と言ってもいいコンビだった。あゆみは小柄でにこやかで、人見知りせず、話がうまく、心さえ決めてしまえばたいていのことにポジティブな姿勢で臨むことができた。健康的なユーモアの感覚もあった。それに比べると、筋肉質ですらりとした青豆はどちらかといえば無表情で、うち解けにくいところがあった。初対面の男に向かって、愛想の良い台詞を適当に口にすることもできなかった。言葉の端々には微かではあるけれど、シニカルで攻撃的な響きが聞き取れた。瞳の奥には不容認の光が灰かに宿っていた。しかしそれでも青豆には、その気になれば男たちを自然に惹きつけるクールなオーラのようなものを発することができた。動物や虫が必要に応じて放つ、性的な刺激を持った芳香にも似たものだ。意図したり努力をしたりして身につけられるものではない。おそらく生来のものだ。いや、あるいは何かしらの理由があって、彼女はそんな匂いを人生のある段階で後天的に身につけたのかもしれない。どちらにせよそのオーラは、相手の男たちばかりではなく、パートナーのあゆみまでを微妙に刺激し、その言動をより華やかで積極的なものにした。
適当な男たちをみつけると、あゆみがまず単独で偵察に出かけ、持ち前の人なつっこさを発揮し、友好的な関係を築き上げるための土台作りをした。それからタイミングを見計らって青豆が加わり、そこに奥行きのあるハーモニーを作りだした。オペレッタとフィルム?ノワールが合体したような独特の雰囲気が醸し出された。そこまで行けばあとは簡単だ。しかるべき場所に移って(あゆみの率直な表現を用いれば)<傍点>やりまくる傍点>だけだ。いちばん難しいのは妥当な相手を見つけることだった。相手は二人連れであることが好ましかったし、清潔で、ある程度見栄えがよくなくてはならなかった。少しくらいは知的な部分がなくてはならないが、知的にすぎても困るかもしれない——退屈な会話はせっかくの夜を不毛なものにする。経済的な余裕がありそうなこともまた評価の対象になった。当然ながら、男たちはバーやクラブの勘定をもち、ホテル代を支払うことになるから。
しかし彼女たちが六月の終わり近くにささやかな性的饗宴を立ち上げようと試みたときは(結果的にそれがコンビでの最後の活動となったのだが)、どうしても適当な男たちを見つけることができなかった。時間をかけ、場所を何度か替えたが、結果は同じだった。月末の金曜日の夜だというのに、六本木から赤坂にかけてのどの店も驚くほど閑散としていて、客の数も少なく、男の選びようもなかった。どんよりと空が曇っていることもあって、東京の街全体に、誰かの喪に服しているような重苦しい雰囲気が漂っていた。
「今日は駄目みたいだよ。あきらめよう」と青豆は言った。時計はもう十時半を指していた。
あゆみも渋々ながら同意した。「まったく、こんなに<傍点>しけた傍点>金曜日の夜は見たこともないよ。せっかくパープルのセクシーな下着を着込んできたのにな」
「うちに帰って、鏡の前でひとりでうつとりしてなさい」
「いくら私でも、警察の寮の風呂場でそんなことする度胸はないよ」
「いずれにせよ、今日はあっさりとあきらめて、二人でおとなしくお酒を飲んで、うちに帰って寝ちゃおう」
「それがいいかもね」とあゆみは言った。それから思い出したように言った。「そうだそうだ、青豆さん、うちに帰る前にどこかで軽く食事でもしない? お金が三万円ほど余ってるんだよ」
青豆は顔をしかめた。「余ってる? いったいどうしたの。いつもお給料が安くてお金がないってぴいびい言ってたじゃないの」
あゆみは人差し指で鼻の脇をこりこりと掻いた。「実はこの前、男から三万円もらったんだよ。別れ際にタクシー代だって渡された。ほら、不動産会社に勤めているっていう二人組とやったときにさ」
「あなたはそれをそのまま受け取ったわけ?」と青豆はびつくりして言った。
「私たちのことをセミプロだと思ったのかもね」とあゆみはくすくす笑いながら言った。「警視庁の警官と、マーシャル?アーツのインストラクターだとは、まさか思いも寄らないだろうね。でもまあいいじゃない。不動産取り引きでしこたまもうけて、お金が余っているんでしょう。あとで青豆さんとなんか美味しいものでも食べようと思って、別に取っておいたんだよ。やっぱ、そういうお金って生活費とかには使いにくいからさ」
青豆はとくに意見は述べなかった。知らない男たちと行きずりのセックスをして、その代償としてお金を受け取る——それは彼女には現実の出来事とは思えなかった。そんなことが自分の身に起こるというのがうまく呑み込めなかった。まるで歪んだ鏡に変形して映った自分の姿を眺めているみたいだ。しかしモラルという観点から考えてみれば、男たちを殺害して金を受け取ることと、男たちとセックスをして金を受け取ることを比べて、いったいどちらがより<傍点>まとも傍点>なのだろう。判断はむずかしいところだ。
「ねえ、男の人からお金をもらうことが気になる?」とあゆみが不安げに尋ねた。
青豆は首を振った。「気になるというより、少し不思議な気がするだけ。それより、婦人警官が売春みたいな行為をすることの方が、気持ち的に抵抗がありそうだけど」
「ぜんぜん」とあゆみは明るい声で言った。「そんなこと私は気にしないよ。ねえ、青豆さん、値段を取り決めてからセックスをするのが娼婦。それっていつも先払いなの。お兄さん、パンツ脱ぐ前にお金を払ってちょうだいね。それが原則。やったあとで『実はお金はありません』なんて言われたら、商売にならないものね。そうじゃなく、値段の予備交渉がなく、事後に『ほら、車代だよ』ってちょっとしたお金を渡されるのは、感謝の気持ちのあらわれに過ぎない。職業的売春とは違う。一線は画されている」
あゆみの言いぶんはそれなりに筋が通っていた。
前回、青豆とあゆみが相手に選んだのは、三十代半ばから四十代前半。どちらも髪はふさふさしていたが、それについては青豆が妥協した。不動産を扱う仕事をしていると彼らは言った。しかし着ているヒューゴ?ボスのスーツやミッソーニ?ウォーモのネクタイを見れば、彼らの勤務先が三菱や三井といった大手不動産会社でないことは推察できた。もっとアグレッシブで、こまわりのきくタイプの会社だ。たぶんカタカナの社名がついている。うるさい社則や、伝統のプライドやら、だらだらした会議に拘束されたりすることはない。個人的な能力がなければやっていけないが、そのぶん当たれば実入りも大きい。一人は真新しいアルファロメオのキーを持っていた。東京にはオフィス?スペースが不足している、と彼らは言った。経済はオイル?ショックから回復し、再びホットになる兆しを見せているし、資本はますます流動化している。どれだけ新しい高層ビルを建てても間に合わないという状況が生まれるだろう。
「不動産業はこのところ儲かっているみたいね」と青豆は言った。
「うん、青豆さん、もしお金が余っているのなら、不動産を買っておくといいよ」とあゆみは言った。「東京みたいな限定された地域に、巨大な金がどつと流れ込んでいるんだもの、土地の値段は放っておいても上がる。今のうちに買っといて損はない。当たるとわかっている馬券を買うみたいなもんだよ。残念ながら私みたいな下っ端の公務員には、そんなお金の余裕はないけどね。ところで、青豆さんは何か利殖みたいなことをする人?」
青豆は首を振った。「私は現金しか信用しない」
あゆみは声を上げて笑った。「ねえ、それって犯罪者のメンタリティーだよ」
「ベッドのマットレスのあいだに現ナマを隠しておいて、やばくなるとそれをひっつかんで窓から逃げる」
「そう、それぞれ」とあゆみは言って、指をぱちんと鳴らした。「『ゲッタウェイ』みたいじゃない。スティーブ?マックイーンの映画。札束とショットガン。そういうの好きだな」
「法を執行する側にいるよりも?」
「個人的にはね」とあゆみは笑みを浮かべて言った。「個人的にはアウトローの方が好きだよ。ミニパトに乗って違法駐車を取り締まっているよりは、そっちの方が魅力的だよ、だんぜん。そして私が青豆さんに惹かれるのは、たぶんそのせいだね」
「私はアウトローに見える?」
あゆみは肯いた。「なんというか、どことなくそういう雰囲気がある。マシンガンを持ったフェイ?ダナウェイ、とまではいかずとも」
「マシンガンまではいらない」と青豆は言った。
「この前話してた、『さきがけ』っていう教団のことだけどさ」とあゆみは言った。
二人は夜遅くまで営業している飯倉の小さなイタリア料理店に入り、そこでキャンティ?ワインを飲みながら軽い食事をした。青豆はマグロの入ったサラダを食べ、あゆみはバジリコ?ソースのかかったニョッキをとった。
「うん」と青豆は言った。
「興味を惹かれたもんで、あれからも個人的に調べてみたんだ。しかし、調べれば調べるほど、こいつ胡散臭{うさんくさ}いところだよ。宗教団体と名乗って、認証だって受けているんだけど、宗教的な実体みたいなのはろくすっぽないんだ。教義的には脱構築っていうかなんというか、ただの宗教イメージの寄せ集め。そこにニューエイジ精神主義、お洒落なアカデミズム、自然回帰と反資本主義、オカルティズムのフレーバーが適度に加味してある。それだけ。実体みたいなものはどこにもない。ていうか実体がないってのが、いわばこの教団の実体なわけ。マクルーハン的にいえば、メディアそのものがメッセージなんだ。そのへんがクールといえばクールなんだよね」
「マクルーハン?」
「私だって本くらい読むよ」とあゆみは不満そうな声で言った。「マクルーハンは時代を先取りしていた。一時期、流行りものになったせいでなんとなく軽く見られているけど、言ってることはおおむね正しい」
「つまりパッケージが内容そのものを含んでいる。そういうこと?」
「そういうこと。パッケージの特質によって内容が成立する。その逆ではなく」
青豆はそれについて考えてみた。そして言った。
「『さきがけ』の教団としての中身は不明だけど、そんなことには関係なく、人はそこに惹きつけられ、集まってくる。そういうこと?」
あゆみは肯いた。「驚くほどたくさん、とまでは言わないけど、決して少なくない数の人が寄ってくる。人が寄ってくると、それだけお金も集まる。当然のことだね。じゃあなんで、多くの人がこの教団に引き寄せられるかっていうと、私が思うに、まずだいいちに宗教っぼくないせいだね。とてもクリーンで知的で、システマチックに見える。早い話、貧乏くさくないわけよ。そういうところが、専門職や研究職に就いている若い世代の人たちを惹きつけるわけ。知的好奇心を刺激されるんだね。そこには現実の世界では得られない達成感がある。手にとって実感できる達成感がね。そしてそういうインテリの信者たちが、軍隊のエリート将校団みたいに、教団の中で強力なブレーンを形成している。
それから『リーダー』と呼ばれている指導者にはかなりのカリスマ性が具わっているらしい。人々はこの男に深く私淑している。言うなれば、この男の存在そのものが教義の核みたいなかたちで機能している。成り立ちとしては原始宗教に近いんだよ。キリスト教だって始まりは多かれ少なかれそんな感じだった。ところが<傍点>こいつ傍点>がまったく表に出てこない。顔かたちも知られていない。名前や年齢だってわからない。教団は合議制で運営されるという建前になっているし、その主宰者みたいなポジションには別の人間が就いて、公式な行事なんかにはそいつが教団の顔として出てくるんだけど、実体はただの据えものとしか思えない。システムの中心にいるのは、どうやらこの正体不明のリーダーらしいんだ」
「その男は、よほど自分の素性を隠しておきたいみたいね」
「何か隠しておきたい事情があるのか、それとも存在を明らかにしないで、ミステリアスな雰囲気を盛り上げようという意図なのか」
「それともよほど醜い顔をしているのか」
「それはあるかもね。この世のものではない異形{いぎょう}のもの」とあゆみは言って、怪物のように低くうなった。「まあそれはともかく、教祖に限らず、この教団には表に出てこないものが多すぎる。この前電話で話した、例の積極的な不動産取得活動もそのひとつね。表に出てくるのはただの<傍点>見せかけ傍点>だけ。きれいな施設、ハンサムな広報、インテリジェントな理論、エリートあがりの信者たち、ストイックな修行、ヨーガと心の平穏、物質主義の否定、有機農法による農業、おいしい空気と美しい菜食ダイエット……そういうのは計算されたイメージ写真みたいなものだよ。新聞の日曜版にはさまれてくる高級リゾート?マンションの広告と同じ。パッケージはとても美しい。しかしその裏では、胡散臭い企みが進行しているという雰囲気がある。おそらくは部分的に違法なことが。それが様々な資料をあたったあとで、私の得た率直な印象」
「しかし今のところ警察は動いていない」
「あるいは水面下で何かしらの動きがあるのかもしれないけど、そこまではちょっとわからない。でもね、山梨県警はこの教団の動向にある程度注目しているみたい。私が電話で話した担当者の口調にもなんとなくそういう雰囲気がうかがえた。『さきがけ』はなんといっても例の銃撃戦をやらかした『あけぼの』の出身母胎なわけだし、中国製カラシニコフの入手ルートも、たぶん北朝鮮だろうと推測されるだけで、まだすっかりは解明されていないからね。『さきがけ』もおそらくある程度はマークされている。しかし相手は宗教法人だし、うかつには手は出せない。既に立ち入り捜査もして、あの銃撃戦とは直接の関わりがないことがいちおう明らかになっているからね。ただ公安がどう動いているかまではこっちにもわからない。あの人たちは徹底して秘密主義だし、昔から一貫して警察と公安は仲良しの関係にはないから」
「小学校に来なくなった子供たちについては、この前以上のことはわかっていないの?」
「それもわからない。子供たちはいったん学校に行かなくなると、もう二度と塀の外には出てこないみたいだ。そういう子供たちについては、こっちとしても調べようがないのよ。児童虐待の具体的な事実でもでてくれば話は違ってくるけど、今のところそんなものもないし」
「『さきがけ』から抜けた人たちは、そういうことについて何か情報を与えてくれないのかな?教団に失望して、あるいは厳しい修行にめげて、脱退していく人も少しはいるんでしょう?」
「もちろん教団に出入りはある。入信する人もいれば、失望して出ていく人たちもいる。教団を抜けるのは基本的に自由なの。入会するときに『施設永代使用料』として寄進した多額のお金は、そのときに交わされた契約書に従って一銭も戻ってこないけど、それさえ納得すれば、身ひとつで出て行ける。脱会した人たちでつくっている会もあって、この人たちは『さきがけ』は反社会的な危険なカルトであり、詐欺行為を働いていると主張している。訴えも起こしているし、小さな会誌みたいなものも出している。しかしその声はとても小さいし、世間的にはほとんど影響力はない。教団は優秀な弁護士を揃えて、法律面では水も漏らさぬ防御システムをこしらえているし、訴訟を起こされてもぴくりとも揺らがない」
「脱会者たちはリーダーについて、あるいは中にいる信者の子供たちについて、何か発言はしていないの?」
「私もその会誌の実物を読んだわけじゃないからね、よくは知らないんだ」とあゆみは言った。
「でもざっとチェックしたところでは、そういう脱会不満分子はみんな、おおむね下っ端なわけ。小物なんだ。『さきがけ』という教団は、現世的な価値を否定するって偉そうにうたっているわりには、ある部分、現世以上にあからさまな階級社会なんだよ。幹部と下っ端にはっきりとわかれている。高い学歴とか専門的な職能を持っていないと、まず幹部にはなれない。リーダーに会ってその指導を仰いだり、教団システムの中枢に関われるのは、幹部のエリート信者に限られている。あとのその他大勢のみなさんは、しかるべきお金を寄進し、きれいな空気の中でこつこつと修行をしたり、農作業に励んだり、メディテーション?ルームで瞑想に耽ったり、そういう殺菌された日々を送っているだけ。羊の群れと変わりがない。羊飼いと犬に管理され、朝には放牧場に連れて行かれ、夕方には宿舎に戻されて、という平和な毎日を送っているの。彼らは教団内でのポジションを向上させて、偉大なるビッグ?ブラザーに対面できる日を待ち望んでいるけど、そういう日はまず巡ってこない。だから一般の信者は教団システムの内情についてはほとんど何も知らないし、たとえ『さきがけ』を脱会しても、世間に提供できる大事な情報を持ち合わせてはいない。リーダーの顔を見たことすらない」
「エリート信者で脱会する人はいないのかな?」
「私の調べたかぎりでは、そういう例はない」
「いったんシステムの秘密を知ったら、足抜けは許されないってことかしら?」
「そこまでいくとかなり劇的な展開になってくるかもね」とあゆみは言った。それから短くため息をついた。「それで青豆さん、この前話していた少女レイプの話だけど、それってどのへんまでたしかなことなの?」
「かなりたしかだけど、今のところはまだ実証できる段階にはない」
「それは教団の中で組織的におこなわれていることなの?」
「それもまだわからない。しかし犠牲者は現実に存在するし、私はその子に会った。かなりひどい目にあっている」
「レイプというのは、つまり挿入されたということ?」
「間違いなく」
あゆみは唇を斜めに曲げ、何かを考えていた。「わかった。もっと私なりにつっこんで調べてみよう」
「あまり無理はしないで」
「無理はしないよ」とあゆみは言った。「こう見えて、私はなかなか抜かりのない性格だから」
ふたりは食事を終え、ウェイターが皿を下げた。彼女たちはデザートを断って、そのままワインのグラスを傾けていた。
「ねえ、青豆さんは子供のときに男の人にいたずらされたりした経験がないって、この前言ったよね」
青豆はあゆみの顔の様子を少し見て、それから肯いた。「私の家庭はとても信仰深くて、セックスの話はいっさい出てこなかった。まわりもみんなそうだった。セックスというのは触れてはいけない話題だったの」
「でもさ、信仰深いのと性的な欲望の強弱はまた別の問題でしょう。聖職者にセックスマニアが多いってのは世間の常識だよ。実際の話、売春とか痴漢行為とかで警察にひっぱられるやつには、宗教関係者と教育関係者がずいぶんと多いんだから」
「そうかもしれないけど、少なくとも私のまわりには、そういう気配はいっさいなかった。変なことをする人もいなかった」
「それはなによりだね」とあゆみは言った。「それを聞いて嬉しいよ」
「あなたはそうじゃなかったの?」
あゆみは迷いながら小さく肩をすぼめた。それから言った。「実を言えば、私は何度もいたずらされたよ。子供のころに」
「たとえば誰に?」
「お兄ちゃんと叔父さん」
青豆は顔をいくらかしかめた。「兄弟と親戚に?」
「そのとおり。二人とも今、現役の警官をやってる。叔父さんはこのあいだ優良警察官として表彰までされたよ。勤続三十年、地域社会の安全と環境の向上に大きく貢献したって。踏切に迷い込んだ間抜けな犬の親子を助けて、新聞にまで載った」
「その人たちにどんなことをされたの?」
「あそこをさわられたり、おちんちんをなめさせられたり」
青豆の顔のしわはいっそう深くなった。「お兄さんと叔父さんとに?」
「もちろん別々にだけど。私が十歳で、お兄ちゃんが十五くらいだったかな。叔父さんはもっと前のこと。うちに泊まりにきたときに二度か三度か」
「そのことは誰かに言った?」
あゆみはゆっくり何度か首を振った。「言わなかったよ。絶対に誰にも言うなって言われたし、告げ口なんかしたらひどい目にあわせるって脅された。それに脅されなくても、そんなことを言いつけたら、そいつらよりは私の方が叱られたり、ひどい目にあわされたりしそうな気がしたんだ。それが怖くて誰にも言えなかった」
「お母さんにも言えなかったの?」
「<傍点>とくに傍点>お母さんにはね」とあゆみは言った。「お母さんは昔からずっとお兄ちゃんをひいきにしていたし、私にはいつも失望していた。がさつだし、きれいでもないし、太っていたし、学校の成績もとくに賞められたものじゃなかったからさ。お母さんはもっと違うタイプの娘をほしかったんだよ。お人形さんみたいで、バレエ教室にかようようなすらっとした可愛い女の子をね。そんなのどう考えても、ないものねだりってものだよ」
「だからそれ以上お母さんを失望させたくなかった」
「そういうこと。お兄ちゃんが私に何をしているか言いつけたりしたら、私をもっと恨んだり嫌ったりしそうな気がしたんだよ。きつと私の側に何か原因があって、そんなことになったんだろうって。お兄ちゃんを責めるよりはね」
青豆は両手の指を使って、顔のしわをもとに戻した。十歳の時、私が信仰を捨てると宣言してからは、母親はいっさい口をきいてくれなくなった。必要なことがあれば、メモに書いて渡した。でも口はきかなかった。私はもう彼女の娘ではなくなった。ただの「信仰を捨てたもの」に過ぎなかった。それから私は家を出た。
「しかし挿入はなかった」と青豆はあゆみに尋ねた。
「挿入はない」とあゆみは言った。「いくらなんでも、そんな痛いことできないよ。向こうだってそこまでは要求しない」
「今でもそのお兄さんとか叔父さんとかと会っているわけ?」
「私は就職して家を出ちゃったし、今ではほとんど顔を合わせることはないけど、いちおう親戚だし、なにしろ同業だからね、対面が避けられないこともある。そういうときはまあ、それなりににこやかにはやってる。ことを荒立てるようなことはしない。だいたいあいつら、そんなことがあったことすらきっと覚えてないよ」
「覚えてない?」
「<傍点>あいつら傍点>はね、忘れることができる」とあゆみは言った。「でもこっちは忘れない」
「もちろん」と青豆は言った。
「歴史上の大量虐殺と同じだよ」
「大量虐殺?」
「やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」
「たしかに」と青豆は言った。それから軽く顔をしかめた。<傍点>ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘い傍点>?
「実を言うと、青豆さんにも似たような経験があるんじゃないかって、ちょっと思ってたんだ」
「どうしてそんなこと思ったの?」
「うまく説明できないんだけど、なんとなくね。そういうことがあってその結果、知らない男たちと一晩だけ派手に<傍点>やりまくる傍点>、みたいな生活をしているんじゃないかと。そして青豆さんの場合にはさ、そこに怒りが込められているようにも見えたんだ。怒りというか、腹を立ててるというか。なんにせよ普通の、ほら、世間の人がやってるような、まともに恋人をつくって、デートして、食事して、ごく当たり前にその人とだけセックスするみたいなことができなそうに見える。私の場合もまあそうなんだけど」
「小さい頃にいたずらされたせいで、そういう世間並みの手順がうまく踏めなくなったということ?」
「そういう気がしたんだ」とあゆみは言った。そして小さく肩をすぼめた。「私自身のことを言えばね、男の人が怖いんだよ。というか、特定の誰かと深いところで関わり合うことがね。そして相手のそっくり全部を引き受けたりすることが。考えるだけで身がすくんじゃう。でも一人でいるのは時としてきつい。男の人に抱かれて、入れられたい。我慢できなくなるくらい<傍点>したく傍点>なる。そういうときにはまったく知らない人の方がラクなんだ。ずっと」
「恐怖心?」
「うん、そいつが大きいと思うな」
「男の人に対する恐怖心みたいなものは、私にはないと思う」と青豆は言った。
「ねえ、青豆さんには何か怖いものがある?」
「もちろんある」と青豆は言った。「私には自分自身がいちばん怖い。自分が何をするかわからないということが。自分が今何をしているのかよくわからないことが」
「青豆さんは今<傍点>何をしている傍点>の?」
青豆は自分が手にしているワイングラスをしばらく眺めた。「それがわかればいいんだけど」と青豆は顔を上げて言った。「でも私にはわからない。今いったい自分がどの世界にいるのか、どの年にいるのか、それすら自信がもてない」
「今は一九八四年で、場所は日本の東京だよ」
「あなたみたいに、確信をもってそう断言できればいいんだけど」
「変なの」とあゆみは言って笑った。「そんなの自明の事実であって、今さら確信も断言もないじゃん」
「今はまだうまく説明できないけど、私にはそれが自明の事実とも言えないの」
「そうか」と感心したようにあゆみは言った。「そのへんの事情というか、感じ方は私には今ひとつわからないけど、でもさ、今がいつであれ、ここがどこであれ、青豆さんには深く愛する人が一人いる。私から見ればそれはすごくうらやましいことだよ。私にはそんな相手もいない」
青豆はワイングラスをテーブルの上に置いた。ナプキンで軽く口元を拭った。そして言った。
「あなたの言うとおりかもしれない。今がいつであれ、ここがどこであれ、そんなこととは関係なく彼に会いたい。死ぬほど会いたい。それだけは確かなことみたいね。それだけは自信を持って言える」
「よかったら警察の資料をあたってみようか? 情報さえくれたら、その人がどこで何をしているか、わかるかもしれない」
青豆は首を振った。「探さないで。お願い。前にも言ったと思うけど、私はいつかどこかで彼に<傍点>たまたま傍点>巡り合うの。偶然にね。そのときをただじっと大事に待つ」
「大河恋愛ドラマだね」とあゆみは感心したように言った。「そういうのって私、好きだよ。びりびりきちゃうね」
「実際にやってる方はたいへんだけど」
「たいへんであることはわかる」とあゆみは言った。そして指先で軽くこめかみを押さえた。
「それでも、そこまで好きな相手がいても、知らない男とときどきセックスしたくなるんだね」
青豆は薄いワイングラスの縁を爪で軽くはじいた。「そうすることが必要なの。生身の人間としてバランスをとっておくために」
「でもそれによって、青豆さんの中にある愛が損われることはないんだ」
青豆は言った。「チベットにある煩悩の車輪と同じ。車輪が回転すると、外側にある価値や感情は上がったり下がったりする。輝いたり、暗闇に沈んだりする。でも本当の愛は車軸に取りつけられたまま動かない」
「素敵」とあゆみは言った。「チベットの煩悩の車輪か」
そしてグラスに残っていたワインを飲み干した。
二日後の夜の八時過ぎにタマルから電話がかかってきた。いつものように挨拶もなく、ビジネス上の率直なやりとりから話は開始された。
「明日の午後の予定は空いているかな?」
「午後の予定は何も入っていないから、そちらの都合の良い時間にうかがえます」
「四時半でどうだろう?」
それでかまわないと青豆は言った。
「けっこう」とタマルは言った。予定表にその時刻を記入するボールペンの音が聞こえた。筆圧が強い。
「ところで、つばさちゃんは元気にしているかしら?」と青豆は尋ねた。
「ああ、あの子は元気にしていると思う。マダムが毎日足を運んで面倒を見ている。子供もマダムにはなついているみたいだ」
「よかった」
「それはいいんだ。しかしその一方、あまり面白くないことが持ち上がった」
「面白くないこと?」と青豆は尋ねた。タマルが<傍点>あまり傍点>面白くないというとき、それが実際には<傍点>ひどく傍点>面白くないことであることを、青豆は知っていた。
「犬が死んだ」とタマルは言った。
「犬というと、ひょっとしてプンのこと?」
「そうだよ。ほうれん草を食べるのが好きだった、けったいなドイツ?シェパード。昨日の夜のうちに死んだ」
青豆はそれを聞いて驚いた。犬はまだ五歳か六歳だ。死ぬような年齢ではない。「この前見たときは元気そうだったけど」
「病気で死んだわけじゃない」とタマルは抑揚のない声で言った。「朝になったらばらばらになっていた」
「<傍点>ばらばら傍点>になっていた?」
「破裂でもしたように、内臓が派手に飛び散っていたんだ。勢いよく四方八方にね。ペーパータオルを使って、肉片をひとつひとつ集めてまわらなくちゃならなかった。死体はまるで内側からべろっとひっくり返されたような状態になっていた。誰かが犬の腹の中に強力な小型爆弾をしかけたみたいに」
「かわいそうに」
「犬のことはしかたない」とタマルは言った。「死んでしまったものは生き返らない。番犬の替わりを見つけることはできる。俺が気にしているのは、そこで<傍点>何が起こったか傍点>ってことだよ。こいつはそんじょそこらの人間にできることじゃないぜ。たとえば犬の腹に強力な爆弾をしかけるなんてさ。だいたいあの犬は知らない人間が近寄ってきたら、地獄の釜の蓋でも開けたみたいに吠えまくるんだ。そんなこと簡単にできるわけがない」
「たしかに」と青豆は乾いた声で言った。
「セーフハウスの女性たちもショックを受けて、怯えきっている。犬の食事の世話をする担当の女性が、朝になってその現場を目にした。思い切り吐いてから、電話で俺を呼んだ。俺は聞いてみた。夜のあいだ何か不審なことはなかったか? 何もない。爆発音を耳にしたものもいない。だいたいそんな派手な音がしたら、みんな間違いなく目を覚ます。ただでさえびくびくして暮らしている人たちだからな。つまりそれは無音の爆発だったんだ。犬の鳴き声を耳にしたものもいない。ことのほか静かな夜だった。しかし朝になったら犬はきれいに裏返しになっていた。新鮮な内臓があたりに吹き飛ばされ、近所のカラスは朝からずいぶん喜んでいた。でも俺にとってはもちろん気に入らないことだらけだ」
「何か奇妙なことが起こっている」
「間違いなく」とタマルは言った。「何か奇妙なことが起こっている。そして俺の感覚が正しければ、これは何かの始まりに過ぎない」
「警察には連絡した?」
「まさか」、タマルは嘲るような微妙な音を鼻から出した。「警察なんて何の役にも立たない。見当違いなところで見当違いなことをやって、話がますます面倒になるだけだ」
「マダムはそれについて、なんて言っているの?」
「あの人は何も言わない。俺の報告を聞いてただ肯くだけだ」とタマルは言った。「セキュリティーに関することは、俺がすべて責任を持って処理する。最初から最後まで。なんといってもそれが俺の仕事だからね」
しばらく沈黙があった。責任に付随する重い沈黙だった。
「明日の四時半に」と青豆は言った。
「明日の四時半に」とタマルは反復した。そして静かに電話を切った。
第24章 天吾
ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう
木曜日は朝から雨が降っていた。それほど激しい降りではないが、おそろしく執拗な性質を持った雨だった。前日の昼過ぎに降り始めてから一度も降り止んでいない。そろそろ降り止みそうかなと思ったところで、また思い出したように雨脚が強くなる。すでに七月も半ば過ぎだというのに、梅雨が終わる気配はまるで見えなかった。空は蓋をかぶせられたように暗く、世界中が重い湿り気を帯びていた。
昼前、レインコートを着て帽子をかぶり、近所に買い物に行こうとして、郵便受けにパッド入りの分厚い茶色の封筒が入っているのを目にした。封筒には消印はなく、切手も貼られていない。住所も書かれていない。差出人の名前もない。表の中央にはボールペンの小さな堅い字で「天吾」と書いてあった。乾いた粘土の上を釘でひっかいたような書体だ。いかにもふかえりの書きそうな字だった。封を切ると、中にはきわめて事務的な見かけのTDKの六十分テープが一本入っていた。手紙もメモも何も添えられていない。ケースもなく、テープにラベルも貼られていない。
天吾は少し迷ったが、買い物に出るのはやめて、部屋に戻ってそのテープを聴いてみることにした。カセットテープを宙にかざし、それから何度か振ってみた。いくぶん謎めいた趣はあるにせよ、どう見てもあたりまえの大量生産品だ。再生してみたらカセットテープが爆発した、というようなこともなさそうだ。
彼はレインコートを脱ぎ、台所のテーブルの上にラジオカセットを置いた。封筒からカセットテープを取り出し、そこにセットした。記録を必要とするときのために、メモ用紙とボールペンを用意した。あたりを見まわして誰もいないことを確認してから再生ボタンを押した。
始めのうち何の音も聞こえなかった。無音の部分がひとしきり続いた。ただのブランク?テープじゃないのかと思い始めたときに、急にごとごとという背景音が聞こえた。椅子を引く音のようだ。軽い咳払い(らしきもの)も聞こえた。それから唐突にふかえりが話し始めた。
「テンゴさん」とふかえりが発声のテストをするみたいに言った。ふかえりが天吾の名前をまともに呼んだのは、天吾の記憶によれば、おそらくそれが初めてだ。
彼女はもう一度咳払いをした。少し緊張しているようだ。
てがみをかけるといいんだけどにがてなのでテープにふきこむ。でんわをするよりこっちのほうがラクにはなせる。でんわはたちぎきしているかわからない。ちょっとまってみずをのむ。
ふかえりがグラスを手に取り、一口飲み、それを(たぶん)テーブルの上に戻す音が聞こえた。アクセントや疑問符や読点を欠いた、彼女の独特のしゃべり方は、テープに吹き込まれると、会話をしているとき以上に普通ではない印象を聞くものに与えた。非現実的と言ってもいいくらいだ。しかしとにかくテープでは会話のときとは違って、彼女は複数のセンテンスを積み重ねて話していた。
わたしのゆくえがわからなくなっていることをミミにした。しんぱいしているかもしれない。でもだいじょうぶわたしはいまのところきけんのないところ。そのことをしらせたかった。ほんとうはいけないのだけれどしらせたほうがいいとおもった。
(十秒の沈黙)
だれにもおしえないようにいわれている。わたしがここにいると。センセイはわたしのソウサクねがいをケイサツにだした。しかしケイサツはうごきださない。こどもがイエデをするのはめずらしいことではないし。だからわたしはしばらくここでじつとしている。
(十五秒の沈黙)
ここはとおくのバショでそとをあるきまわったりしないかぎりだれにもみつからない。とてもとおく。アザミがこのテープをとどける。ユウビンでおくるのはよくない。チュウイふかくならなくてはならない。ちょっとまって。ロクオンされているかみてみる。
(かたんという音。少し間が空く。また音がする)
だいじょうぶロクオンされている。
遠くの方で子供たちが叫んでいる声が聞こえる。微かに音楽も聞こえる。たぶん開いた窓の外から入ってくる音だろう。近くに幼稚園があるのかもしれない。
このあいだへやにとめてくれてありがとう。そうするヒツヨウがあった。あなたのことをしるヒツヨウもあった。ホンをよんでくれてありがとう。ギリヤークじんにはこころをひかれる。ギリヤークじんはなぜひろいドウロをあるかないでもりのぬかるみをあるくのか。
(天吾はそのあとにそっと疑問符を添えた)
ドウロがべんりでもギリヤークじんたちはドウロからはなれてもりをあるいたほうがラクだ。ドウロをあるくにはあるくことをはじめからつくりなおさなくてはならない。あるくことをつくりなおすとほかのこともつくりなおさなくてはならない。わたしはギリヤークじんのようにはくらせない。おとこたちにしょっちゅうぶたれるのもいやだ。うじのたくさんいるフケツなくらしもいやだ。でもわたしもひろいドウロをあるくことはあまりすきではない。またみずをのむ。
ふかえりはまた水を飲んだ。しばし沈黙の時間があり、グラスがことんという音を立ててテーブルの上に戻された。それから指先で唇を拭う間があった。この少女はテープレコーダーに録音一時停止ボタンがついていることを知らないのだろうか?
わたしがいなくなってこまるかもしれない。でもわたしはショウセツカになるつもりはないしこれいじょうなにかをかくつもりもない。ギリヤークじんについてアザミにしらべてもらった。アザミはとしょかんにいってしらべた。ギリヤークじんはサハリンにすんでいてアイヌやアメリカ?インディアンとおなじでジをもたない。キロクものこさない。わたしもおなじ。いったんジになるとそれはわたしのはなしではなくなる。あなたはうまくそれをジにかえたしだれもあなたのようにはうまくできなかったとおもう。でもそれはもうわたしのはなしではない。でもしんぱいない。あなたのせいではない。ひろいドウロからはなれてあるいているだけだから。
そこでふかえりはまた間を置いた。天吾はその少女が広い道路から離れたところを、一人で黙々と歩いている光景を想像した。
センセイはおおきなちからとふかいちえももっている。でもリトル?ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている。もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル?ピープルがいる。リトル?ピープルからガイをうけないでいるにはリトル?ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。
ふかえりはそれだけをほとんど一息に言ってしまうと、大きく深呼吸をした。マイクから顔を背けずにそうしたものだから、ビルの谷間を吹き抜ける突風のような音が録音されていた。それが収まると、今度は遠くの方で自動車がクラクションを鳴らす音が聞こえた。大型トラック特有の、霧笛のような深い音だ。短く二度。彼女のいるところは幹線道路から遠くないところのようだ。
(咳払い)こえがかすれてきた。わたしのことをしんぱいしてくれてありがとう。わたしのムネのかたちをきにいってくれてへやにとめてくれてパジャマをかしてくれてありがとう。あえることはしばらくないかもしれない。リトル?ピープルのことをジにしたことでリトル?ピープルははらをたてているかもしれない。でもしんぱいしなくていい。わたしはもりになれている。さよなら。
そこで音がして、録音が終わった。
天吾はスイッチを押してテープを停め、頭のところまで巻き戻した。軒から落ちる雨だれを聴きながら、何度か深呼吸をし、手の中でプラスチックのボールペンをくるくると回した。それからボールペンをテーブルの上に置いた。天吾は結局なにひとつメモに書き留めなかった。ただふかえりのいつもながら特徴的な語り声にじつと聞き入っていただけだ。しかし書き留めるまでもなく、ふかえりのメッセージのポイントははっきりしていた。
(1)彼女は誘拐されたのではなく、しばらくどこかに姿を隠しているだけだ。心配することはない。
(2)これ以上本を出すつもりはない。彼女の物語は口述のためのものであって、活字には馴染まない。
(3)リトル?ピープルは戎野先生に負けない知恵と力を持っている。気をつけること。
その三つが、彼女の伝えようとしたポイントだった。ほかにはギリヤーク人の話。広い道路から離れて歩かなくてはならない一群の人々。
天吾は台所に行ってコーヒーを作った。そしてコーヒーを飲みながら、カセットテープをあてもなく眺めた。そして冒頭からもう一度テープを聴き直してみた。今度は念のために、ところどころで一時停止ボタンを押し、要点を簡単に書き留めていった。そして書き留めたものを目で辿ってみた。そこにとくに新しい発見はなかった。
ふかえりは最初に簡単なメモを作って、それに沿って話をしたのだろうか? 天吾にはそうは思えなかった。そういうタイプじゃない。リアルタイムで(一時停止ボタンさえ押さず)、思いつくままにマイクに向かってしゃべったに違いない。
彼女はいったいどんな場所にいるのだろう。録音された背景音は、それほど多くのヒントを天吾に与えてはくれなかった。遠くでドアがばたんと閉まる音。開いた窓から入ってくるらしい子供の叫び声。幼稚園? 大型トラックのクラクション。ふかえりのいる場所はどうやら深い森の中ではないらしい。そこはどこかの都会の一角のように思える。おそらく時刻は朝遅くか、あるいは昼下がりだ。ドアが閉まる音は、彼女が一人きりでいるのではないことを示唆しているかもしれない。
ひとつはっきりしているのは、ふかえりが自ら進んでその場所に身を隠しているということだ。
それは誰かに強制されて吹き込まされたテープではない。声やしゃべり方を聞けばわかる。冒頭の部分で多少の緊張はうかがえるものの、それを別にすれば彼女は自由に、マイクに向かって自分が思った通りのことを語っているようだ。
センセイはおおきなちからとふかいちえももっている。でもリトル?ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている。もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル?ピープルがいる。リトル?ピープルからガイをうけないでいるにはリトル?ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。
天吾はその部分をもう一度再生してみた。ふかえりはその部分をいくぶん早口でしゃべっていた。センテンスとセンテンスのあいだに入る間も心持ち短かった。リトル?ピープルは天吾に対して、あるいは戎野先生に対して、害をなす可能性を持つ存在なのだ。しかしふかえりの口調には、リトル?ピープルを邪悪なものとして決めつける響きは聴き取れなかった。彼女の言い方からすれば、彼らはどちらにでも転ぶ中立的な存在のように感じられた。もう一カ所、天吾に気にかかる部分があった。
リトル?ピープルのことをジにしたことでリトル?ピープルははらをたてているかもしれない。
もし本当にリトル?ピープルが腹を立てているのだとしたら、その腹立ちの対象の中には当然ながら天吾も含まれているはずだった。なにしろ彼らの存在を活字のかたちにして世間に広めた張本人のひとりなのだから。悪意はなかったと弁解してもきつと聞き入れてはもらえないだろう。
リトル?ピープルはいったいどのような害を人にもたらすのだろう? しかしそんなことが天吾にわかるわけはなかった。天吾はカセットテープをもう一度巻き戻し、封筒に入れて抽斗にしまった。もう一度レインコートを着込み、帽子をかぶり、降りしきる雨の中を買い物に出かけた。
その夜の九時過ぎに小松から電話がかかってきた。そのときも受話器を取る前から、それが小松からの電話だとわかった。天吾はベッドに入って本を読んでいた。三度ベルを鳴らしておいてからゆっくり起きあがり、台所のテーブルの前で受話器をとった。
「よう天吾くん」と小松は言った。「今、酒は飲んでるか?」
「いいえ、素面{しらふ}です」
「この話のあとでは酒が飲みたくなるかもしれない」と小松は言った。
「さぞかし愉快な話なんでしょうね」
「どうだろう。それほど愉快な話ではないと思うね。逆説的なおかしみならいくらかあるかもしれないが」
「チェーホフの短編小説のように」
「そのとおり」と小松は言った。「チェーホフの短編小説のように。言い得て妙だ。天吾くんの表現はいつも簡潔で当を得ている」
天吾は黙っていた。小松は続けた。
「いささか面倒なことになってきた。戎野先生の出したふかえりの捜索願を受けて、警察が捜索を公式に開始したんだ。まあ警察だって本腰を入れて捜査するところまではいかないだろう。身代金の請求が来ているわけでもないしな。ただうっちゃっておいて、何かがあると具合が悪いからとりあえず動いているというところを見せておくだけだろう。ただしマスコミはそんなに簡単に放っておいちゃくれない。俺のところにもいくつか新聞から問い合わせが来た。俺はもちろん『なんにも知らない』という姿勢を貫いたよ。だって今のところ話すことなんて何もないからな。連中は今頃はもうふかえりと戎野先生の関係、そして革命家としての両親の経歴みたいなものを洗い出しているはずだ。そういう事実もおいおい表に出てくるだろう。問題は週刊誌だ。フリーのライターだかジャーナリストだかが、血の臭いを嗅ぎつけた鮫みたいにうようよ集まってくる。あいつらはみんな腕がいいし、食いついたら放さない。なにしろ生活がかかっているからな。プライバシーとか節度とか、そんなものにはかまっちゃいられない。同じ物書きでも、天吾くんみたいなおっとりした文学青年とはわけが違うからね」
「だから僕も気をつけた方がいいということですか」
「そのとおり。覚悟して身辺を固めておいた方がいい。どこから何を嗅ぎつけるか知れたものじゃないからな」
小さなボートが鮫の群れに取り囲まれている情景を、天吾は頭の中で想像した。しかしそれはうまい落ちがついていない一コマ漫画にしか見えなかった。「リトル?ピープルのもたないものをみつけなくてはならない」とふかえりは言った。それはいったいどんなものなのだろう?
「しかし小松さん、こういう風になるというのが、戎野先生がそもそも目論んでいたことじゃなかったんですか」
「ああ、そうかもな」と小松は言った。「俺たちは体{てい}よく利用されたということになるのかもしれない。しかし先方の考えは最初からある程度わかってはいたんだ。先生は決して自分の目論見を隠していたわけではなかったからね。そういう意味ではまあ、フェアな取り引きではあった。その時点でこっちも『先生、そいつはやばいですよ。ちょっと乗れませんね』と断ることもできた。まともな編集者なら間違いなくそうしていたはずだ。ところが俺は天吾くんも知ってのとおり、まともな編集者とは言えない。そのとき事態は既に前に進み出していたし、こっちにも欲があった。それでいささか脇が甘くなったかもしれない」
電話口で沈黙があった。短いが緊密な沈黙だった。
天吾が口を開いた。「つまり小松さんの立てた計画は途中から戎野先生に乗っ取られたような格好になったわけだ」
「そういう言い方もできるだろう。つまりあっちの思惑の方がより強く前に出てきたということになる」
天吾は言った。「戎野先生はこの騒ぎをうまく着地させられると思いますか?」
「戎野先生はもちろんできると考えている。読みの深い人だし、自信家だからな。あるいはそのとおりうまくいくかもしれない。しかしもし今回の騒ぎが、戎野先生の思惑さえ超えたものになってしまったら、あるいは収拾がつかなくなるかもしれない。どんなに優れた人間であれ、一人の人間の能力には限界というものがある。だからシートベルトだけはしっかり締めておいた方がいい」
「小松さん、墜落する飛行機に乗り合わせたら、シートベルトをいくらしっかり締めていたところで、役には立ちませんよ」
「しかし気休めにはなる」
天吾は思わず微笑んでしまった。力のない微笑みではあったけれど。「それがこの話の骨子ですか? 決して愉快ではないけれど、逆説的なおかしみならいくらかあるかもしれない話の?」
「君をこんなことに巻き込んで悪かったとは思っているんだ。正直なところ」と小松は表情を欠いた声で言った。
「僕のことはかまいません。とくに失って困るようなものはありません。家族もいないし、社会的地位もないし、たいした将来があるわけでもない。それより心配なのはふかえりのことです。まだ十七歳の女の子ですよ」
「俺にももちろんそれは気になる。気にならないわけがないさ。しかしそれは、今ここで俺たちがあれこれ考えたところで、どうにもならんことだよ、天吾くん。とりあえずは、俺たちが強風をくらってどっかに飛ばされないように、身体をしっかりしたところに縛りつけておくことを考えよう。当分新聞はこまめに読んでおいた方がいいぜ」
「ここのところ、新聞は毎日読むように心がけています」
「それがいい」と小松は言った。「ところでふかえりの行方について、何か思い当たる節はないか? どんなことでもいいんだけど」
「何もありません」と天吾は言った。彼は嘘をつくのが得意ではない。そして小松には妙に勘の良いところがある。しかし小松は、天吾の声の微妙な震えには気がつかないようだった。自分のことで頭がいっぱいなのだろう。
「何かあったらまた連絡をする」、小松はそう言って電話を切った。
受話器を置いたあと天吾がまずやったのは、グラスを出し、バーボン?ウィスキーを二センチばかり注ぐことだった。小松の言ったとおり、電話のあとには酒が必要だった。
金曜日にガールフレンドがいつもどおり彼の部屋にやってきた。雨は降り止んでいたが、空はまだ灰色の雲に隙間なく覆われていた。二人は軽く食事をし、ベッドに入った。天吾はセックスのあいだもいろんなことを切れ切れに考え続けていたが、それが性行為のもたらす肉体的な喜びを損なうことはなかった。彼女は天吾の中にある一週間ぶんの性欲を、いつもどおり手際よく引き出し、てきぱきと処理していった。そして彼女自身もそこから十分な満足を味わった。帳簿の数字の複雑な操作に深い喜びを見いだす有能な税理士のように。それでもやはり、天吾がほかの何かに気をとられていることを、彼女は見抜いたようだった。
「ここのところ、ウィスキーがかなり減っているみたいだけど」と彼女は言った。その手はセックスの余韻を味わうように、天吾の厚い胸に載せられていた。薬指には小振りな、しかしよく輝くダイヤモンドの結婚指輪がはまっている。ずいぶん以前から棚に置きっぱなしになっているワイルド?ターキーの瓶のことを、彼女は言っているのだ。年下の男と性的な関係を持っている中年の女性の多くがそうであるように、彼女はいろんな風景の細かい変化に目をとめた。
「最近、夜中に目が覚めることが多いんだ」と天吾は言った。
「恋をしているんじゃないわよね」
天吾は首を振った。「恋はしていない」
「仕事がうまくいかないとか?」
「仕事は今のところ順調にはかどっている。少なくとも<傍点>どこか傍点>には進んでいる」
「それにもかかわらず、何か気にかかることがあるみたい」
「どうだろう。ただうまく眠れないだけだよ。そういうことってあまりないんだけどね。僕はもともと眠るときはぐっすり眠るタイプだから」
「かわいそうな天吾くん」と彼女は言って、天吾の睾丸を、指輪をはめていない方の手のひらでやさしくマッサージした。「それで、いやな夢は見る?」
「夢はほとんど見ない」と天吾は言った。それは事実だった。
「私はよく夢を見る。それも同じ夢を何度も見るの。夢の中で『これは前にも見たことあるよ』って、自分で気がつくことがあるくらい。そんなのって変だと思わない?」
「たとえばどんな夢?」
「たとえば、そうねえ、森の中にある小屋の夢」
「森の中の小屋」と天吾は言った。彼は森の中にいる人々のことを考えた。ギリヤーク人、リトル?ピープル、そしてふかえり。「それはどんな小屋なんだろう?」
「ほんとにその話を聞きたいの? 他人の夢の話なんて退屈じゃない」
「いや、そんなことはない。よかったら聞きたいな」と天吾は正直に言った。
「私は森の中を一人で歩いている。ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだような、深い不吉な森じゃない。軽量級の明るっぽい森なの。午後で、温かくて気持ちよくて、私はそこを気楽な感じで歩いている。すると行く手に小さな家があるの。煙突がついていて、小さなポーチがある、窓にはギンガム?チェックのカーテンがかかっている。要するにけっこうフレンドリーな外観なの。私はドアをノックして、『こんにちは』って言う。でも返事はない。もう一度前より少し強くノックしたら、ドアが勝手に開いた。ちゃんと閉まっていなかったのね。私は家の中に入る。『こんにちは。あの、誰もいないんですか。中に入りますけど』って断りながら」
彼女は睾丸を優しく撫でながら、天吾の顔を見た。「そこまでの雰囲気ってわかる?」
「わかるよ」
「一部屋しかない小屋なの。とてもシンプルな作り。小さな台所があり、ベッドがあり、食堂がある。真ん中に薪ストーブがあり、テーブルには四人分の料理がきれいに並べられている。お皿からは白い湯気が立っている。ところがうちの中には誰もいない。食事の用意もできて、さあみんなでいただこうというときに、何か異様なことが起こって、たとえば怪物みたいなものがひょいと現れて、みんながあわてて外に逃げ出していったみたいな感じなの。でも椅子は乱れていない。すべては平穏で、不思議なくらい日常的なままなの。ただ人がいないだけ」
「テーブルの上にあったのはどんな料理だった?」
彼女は首を傾げた。「それは思い出せない。そういえば、どんな料理だったんだろう。でもね、料理の内容はそこでは問題じゃないの。それがアツアツの<傍点>できたてだった傍点>ということが問題なの。何はともあれ私は椅子のひとつに腰を下ろして、そこに住む家族が戻ってくるのを待っている。そのときの私には、彼らの帰りを待つ必要があったわけ。どんな必要だかはわからない。なにしろ夢だから、すべての事情がきちんと説明されているわけじゃない。たぶん帰り道を教えてほしいとか、何かを手に入れなくてはならなかったとか、何かそういうこと。それでとにかく、私はその人たちの帰りをじつと待っている。しかしどれだけ待っても、誰も帰ってこない。食事は湯気を立て続けている。それを見ていると、私はすごくお腹が減ってくる。しかしいくらお腹が減ったからといって、そのうちの人がいないのに、勝手にテーブルの上の料理に手をつけるわけにはいかない。そう思うでしょ?」
「たぶんそう思うと思う」と天吾は言った。「夢の中のことだから、僕にもそれほど自信が持てないけど」
「でもそうこうするうちに日が暮れてくるの。小屋の中もうす暗くなってくる。まわりの森はどんどん深くなっていく。小屋の中の明かりをつけたいんだけど、つけ方がわからない。私は次第に不安になってくる。そしてあることにふと気がつく。不思議なことに、料理から立ち上る湯気の量はさっきからぜんぜん減らないのよ。何時間もたっているのに、料理はみんな<傍点>ほかほか傍点>のままなの。それでどうも変だなって私は思い始める。何かが間違っている。そこで夢は終わる」
「そのあとにどんなことが起こるかはわからない」
「きつと何かがそのあとに起こるんだと思う」と彼女は言った。「日が暮れて、帰り道もわからなくて、そのわけのわからない小屋の中で私は一人ぼっちでいる。何かが起ころうとしている。それはあまり好ましいことではないような気がする。でもいつもそこで夢は終わる。そして何度も何度も、その同じ夢を繰り返し見るの」
彼女は睾丸を撫でるのをやめて、天吾の胸に頬をつけた。「その夢は何かを示唆しているのかもしれない」
「たとえばどんなことを?」
彼女は質問には答えなかった。かわりに質問をした。「天吾くん、この夢のいちばん恐ろしい部分がどういうところかを聞きたい?」
「聞きたい」
彼女が深く息を吐くと、それは狭い海峡を越えて吹き渡ってくる熱風のように天吾の乳首にあたった。「それはね、私自身がその怪物なのかもしれないということなの。あるときその可能性に思い当たった。私が歩いて近づいてきたからこそ、それを目にした人々はあわてて食事を中断し、家から逃げ出していったんじゃないか。そして私がそこにいる限り、その人たちは戻ってくることができないんじゃないか。しかしそれにもかかわらず、私は小屋の中で彼らの帰りをじつと待ち続けていなくてはならない。そう考えるととても怖い。救いってものがないじゃない」
「それとも」と天吾は言った。「そこは君自身の家で、君は逃げ出した自分自身を待っているのかもしれない」
そう口にしてしまってから、そんなことは言うべきではなかったと天吾は気づいた。しかしいったん出てしまった言葉は引っ込められない。彼女は長く黙っていた。それから彼の睾丸を思い切り握った。呼吸ができなくなってしまうくらい強く。
「どうしてそんなひどいことを言うの?」
「意味はないよ。ただふと思いついたんだ」、天吾はなんとか声を絞り出した。
彼女は睾丸を握った手をゆるめ、ため息をついた。そして言った。「今度は何かあなたの夢の話をして。天吾くんの見る夢の話」
天吾はようやく呼吸を整えて言った。「さっきも言ったように僕はほとんど夢を見ないんだ。とくにここ最近は」
「少しくらいは見るでしょう。まったく夢を見ない人なんて世界のどこにもいないんだから。そんなことを言ったら、フロイト博士が気を悪くするわよ」
「見てるのかもしれないけど、目が覚めたら夢のことはろくに覚えてないんだ。何か夢を見たらしいという感触が残っていても、内容はまるで思い出せない」
彼女は柔らかくなったままの天吾のペニスを手のひらに載せ、その重さを慎重にはかった。まるでその重みが何か重要な事実を物語っているみたいに。「じゃあ、夢の話はいい。そのかわり今書いている小説の話をして」
「今書いている小説の話は、できればしたくないんだ」
「あのね、筋書きを頭から全部そっくり話せっていってるわけじゃないのよ。私だってそこまでは要求しない。天吾くんが体格のわりにセンシティブな青年であることはよくわかっているから。ただ、道具立ての一部でもいい、ちょっとした脇道のエピソードでもいい、何か少しでも話してくれればいい。世の中の他の誰もがまだ知らないことを、私にだけ打ち明けてほしいの。あなたが私にひどいことを言ったから、その埋め合わせをしてもらいたいわけ。私の言っている意味はわかる?」
「たぶんわかると思うけど」と天吾は自信のない声で言った。
「じゃあ、話して」
ペニスを彼女の手のひらに載せたまま、天吾は話した。「それは僕自身についての話なんだ。あるいは僕自身をモデルにした誰かについての話なんだ」
「たぶんそうなのでしょうね」とガールフレンドは言った。「それで、私はその話の中に出てくるのかしら?」
「出てこない。僕がいるのはここではない世界だから」
「ここではない世界には私はいない」
「君だけじゃない。ここの世界にいる人は、ここではない世界にはいない」
「ここではない世界は、ここの世界とどう違うのかしら。今自分がどちらの世界にいるか、見分けはつくのかな?」
「見分けはつくよ。僕が書いているんだから」
「私が言っているのは、<傍点>あなた以外のほかの人々にとって傍点>ということ。たとえば何かの加減で、私がふとそこの世界に紛れ込んでしまったとしたら」
「たぶん見分けはつくと思う」と天吾は言った。「たとえば、ここではない世界には月が二個あるんだ。だから違いがわかる」
月が空に二個浮かんでいる世界という設定は『空気さなぎ』から運び入れたものだ。天吾はその世界についてもっと長い複雑な物語を——そして彼自身の物語を——書こうとしていた。設定が同じであることは、後日あるいは問題になるかもしれない。しかし天吾は今、月が二個ある世界の物語をどうしても書いてみたかった。あとのことはあとで考えればいい。
彼女は言った。「つまり夜になって空を見上げて、そこに月が二個浮かんでいたら、『ああ、ここはここではない世界だな』ってわかるわけね?」
「それがしるしだから」
「その二つの月は重なり合ったりはしない」と彼女は尋ねた。
天吾は首を振った。「何故かはわからないけれど、二つの月のあいだの距離はいつも一定に保たれている」
ガールフレンドはその世界についてしばらくのあいだ一人で考えていた。彼女の指が天吾の裸の胸の上で何かの図形を描いていた。
「ねえ、英語のlunaticとinsaneはどう違うか知っている?」と彼女が尋ねた。
「どちらも精神に異常をきたしているという形容詞だ。細かい違いまではわからない」
「insaneはたぶんうまれつき頭に問題のあること。専門的な治療を受けるのが望ましいと考えられる。それに対してlunaticというのは月によって、つまりlunaによって一時的に正気を奪われること。十九世紀のイギリスでは、lunaticであると認められた人は何か犯罪を犯しても、その罪は一等減じられたの。その人自身の責任というよりは、月の光に惑わされたためだという理由で。信じられないことだけど、そういう法律が現実に存在したのよ。つまり月が人の精神を狂わせることは、法律の上からも認められていたわけ」
「どうしてそんなことを知っているの?」と天吾は驚いて尋ねた。
「そんなにびっくりすることはないでしょう。私はあなたより十年ばかり長く生きてるのよ。だったら、あなたより多くのことを知っていてもおかしくない」
確かにそのとおりだと天吾は認めた。
「正確に言えば、日本女子大学の英文学の講義で教わったの。デイッケンズの講読。変わった先生で、小説の筋とは関係のない余談ばかりしていた。それで私が言いたかったのはね、今ある月ひとつだけでもじゅうぶん人を狂わせるんだから、月がふたつも空に浮かんでいれば、人の頭はますますおかしくなるんじゃないかってこと。潮の満ち干だって変わるし、女の人の生理不順も増えるはずよ。まともじゃないことが次々に出てくると思う」
天吾はそれについて考えてみた。「たしかにそうかもしれない」
「その世界では人はしょっちゅう頭がおかしくなるの?」
「いや、そうでもない。とくに頭がおかしくなるわけじゃない。というか、ここにいる我々とだいたい同じようなことをしている」
彼女は天吾のペニスを柔らかく握った。「ここではない世界で、人々はここにいる私たちとだいたい同じようなことをしている。だとしたら、ここではない世界であることの意味はいったいどこにあるのかしら?」
「ここではない世界であることの意味は、ここにある世界の過去を書き換えられることなんだ」と天吾は言った。
「好きなだけ、好きなように過去を書き換えることができる?」
「そう」
「あなたは過去を書き換えたいの?」
「君は過去を書き換えたくないの?」
彼女は首を振った。「私は過去だとか歴史だとか、そんなものを書き換えたいとはちっとも思わない。私が書き換えたいのはね、今ここにある現在よ」
「でも過去を書き換えれば、当然ながら現在だって変わる。現在というのは過去の集積によって形作られているわけだから」
彼女はまた深いため息をついた。そして天吾のペニスを載せた手のひらを何度か上下させた。エレベーターの試験運転でもしているみたいに。「ひとつだけ言えることがある。あなたはかつての数学の神童で、柔道の有段者で、長い小説だって書いている。それにもかかわらず、あなたにはこの世界のことが<傍点>なんにもわかっていない傍点>。何ひとつ」
そうきっぱり断定されても天吾はとくに驚きを感じなかった。自分には何もわかってはいないというのはここのところ天吾にとって、いわば通常の状態のようになっていた。とりたてて新しい発見ではない。
「でもいいのよ、何もわからなくても」、年上のガールフレンドは身体の向きを変え、乳房を天吾の身体に押しつけた。「天吾くんはね、来る日も来る日も長い小説を書き続けている、夢見る予備校の数学の先生なの。そのままでいなさい。私はあなたのおちんちんがけっこう大好きなの。かたちも大きさも手触りも。硬いときにも柔らかいときにも。病めるときにも健やかなるときにも。そしてここのところしばらくは、それは私だけのものになっている。そうよね、たしか?」
「そのとおり」と天吾は認めた。
「ねえ、私がすごく嫉妬深い人間だっていうことは前に言ったっけ?」
「聞いたよ。論理を超えて嫉妬深い」
「<傍点>あらゆる傍点>論理を超えて。昔から一貫してそうだった」、そして彼女は指をゆっくりと立体的に動かし始めた。「すぐにもう一度硬くしてあげる。それについてなにか異存はあるかしら?」
とくに異存はないと天吾は言った。
「今どんなことを考えている?」
「君が大学生で、日本女子大で英文学の講義を受けているところを」
「テキストは『マーティン?チャズルウィット』。私は十八歳で、フリルのついたかわいいワンピースを着て、髪はポニーテイル。すごく真面目な学生で、そのときは処女だった。なんだか前世の話をしているみたいだけど、とにかくlunaticとinsaneの違いが、大学に入って最初に身につけた知識だった。どう、想像して興奮する?」
「もちろん」、彼は目を閉じて、フリルのついたワンピースとポニーテイルを想像した。すごく真面目な学生にして処女。でもあらゆる論理を超えて嫉妬深い。ディッケンズのロンドンを照らす月。そこを俳徊するインセインな人々と、ルナティックな人々。彼らは似たような帽子をかぶり、似たような髭をはやしている。どこで違いを見分ければいいのだろう? 目を閉じると、今どの世界に自分が所属しているのか、天吾には自信がもてなくなった。
〈Book1 終り〉
1Q84
〈イチ?キュウ?ハチ?ヨン〉
BOOK 1
発行/2009年5月30日
13刷/2009年7月10日
著者/村上春樹
(むらかみはるき)
発行者/佐藤隆信
発行所/株式会社新潮社
郵便番号162-8711東京都新宿区矢来町71
電話 編集部 03(3266)5411?読者係 03(3266)5111
http:/7www.shinchosha.co.jp
印刷所/二光印刷株式会社
製本所/加藤製本株式会社
(C) Haruki Murakami 2009, Printed in Japan
ISBN978-4-10-353422-8 C0093
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『サハリン島』の引用は、原卓也訳(チェーホフ全集、中央公論社)、『平家物語』の引用は、岩波文庫版を参考にしました。