† 18 †
殺人ギルド『笑う棺桶《ラフィン・コフィン》』。
結成されたのは、SAOというデスゲームが開始されてからわずか半年後のことだ。それまでは、ソロあるいは少人数のプレイヤーを大人数で取り囲みコルやアイテムを強奪するだけだった犯罪者《オレンジ》プレイヤーの一部が、より過激な思想のもとに先鋭化した集団である。
その思想とはつまり――『デスゲームならば殺して当然』。
現代日本では許されるわけもない『合法的殺人』が、この状況《アインクラッド》でなら可能となる。なぜならあらゆるプレイヤーの体は現実世界においては完全ダイブ中、つまり無意識状態であり、本人の意思では指一本動かせないからだ。日本国の法律が及ぶ範囲においては、HPゲージがゼロになったプレイヤーを『殺す』のは常に殺人装置たるナーヴギアと計画者たる茅場晶彦であって、ゲージを減少させたプレイヤーではない。
ならば殺そう。このゲームを愉しもう。それは全プレイヤーに与えられた権利なのだから。
――という劇毒じみたアジテーションによって少なからぬ数のオレンジを誘惑、洗脳し、狂的なPKに走らせたのが、肉切包丁をぶら下げる黒ポンチョの男、PoHなのだ。
そのユーモラスなプレイヤーネームに反して、氷のような冷酷さのみを放射する男は、シュミットのすぐ近くまで歩み寄ってくると短く命じた。
「ひっくり返せ」
即座にジョニー・ブラックのブーツのつま先が、うつ伏せに倒れるシュミットの腹の下にこじ入れられる。ごろりと上向けにされたシュミットの顔を真上から覗き込み、黒ポンチョの男は再び声を発した。
「woa……確かに、こいつはでっかい獲物だ。DDAの幹部様じゃないか」
張りのある艶やかな美声なのに、なぜかその声には深い異質さがまとわりついている。フードに隠れて顔は見えないが、波打つ豊かな黒髪がぱさりと一房垂れ下がり、夜風にゆらりと靡いた。
己が絶体絶命の危地にあることを認識しながらも、シュミットは思考の半分で、なぜ、どうして、と疑問詞だけを繰り返していた。
なぜこいつらが、今この場所に出現するのだ。『ラフィン・コフィン』のトップスリーと言えば、恐怖の象徴であると同時に最大級のお尋ね者であり、こんな下層のフィールドを理由もなくうろついてるはずがない。
つまりこの三人は、シュミットがここに居ることを知ったうえで襲ってきた、ということになる。
だがそれも間尺に合わない。DDAの人間には行き先を言わずに出てきたし、ヨルコとカインズが情報を流すはずもない。そもそも、彼らは二人とも『赤眼のザザ』のカマに威嚇され、血の気を失っている。偶然、こいつらの配下が近くのフィールドに居てシュミットたちを見かけ、上に連絡したのだとしても、出現があまりにも早過ぎる。
なんでこんなことに。何らかの事情があってこの三人が偶然この層に居合わせたという、万にひとつの巨大な不運なのか? それとも――この偶然こそが、死んだグリセルダの復讐なのか……?
丸太のように転がったまま、縺れた思考を彷徨わせるシュミットを見下ろして、PoHが小さく首を傾げた。
「さて……、イッツ・ショウ・タイム、と行きたいとこだが……どうやって遊んだもんかね」
「あれ、あれ行きましょうよヘッド」
即座にジョニー・ブラックがしゅうしゅうと甲高い声を出した。
「『殺し合って、生き残った奴だけ助けてやるぜ』ゲーム。まあ、この三人だと、ちょっとハンデつけなきゃっすけど」
「ンなこと言って、お前このあいだ結局残った奴も殺したろうがよ」
「あ、あーっ! 今それ言っちゃゲームにならないっすよヘッドぉ!」
緊張感のない、しかしおぞましいやり取りに、ザザが鎌を掲げたままヒャッヒャッと笑った。
ここにきて、ようやく現実的な恐怖と絶望が背筋を這い登ってきて、シュミットは思わず目を瞑った。
生き残るためにひたすら強化したステータスも装備も、この連中の前には無意味だ。こいつらはもうすぐ食前酒めいた戯言を打ち切り、それぞれの武器を振りかざすだろう。ことにPoHの持つ大型ダガー『友切包丁《メイトチョッパー》』は、現時点での最高レベルの鍛冶職人が作成できる最高級の武器を上回る性能を持つモンスタードロップ、いわゆる『魔剣』だ。シュミットが着込む分厚いプレートアーマーの防御をも容易く抜いてくるはずだ。
――グリセルダ。グリムロック。
これがあんた達の復讐だというなら、オレがここで死ぬのは仕方ないのかもしれない。しかしなぜヨルコやカインズを巻き添えにするんだ。あんた達を殺した真犯人を暴くために、とてつもない労力をつぎ込んできた彼らまで。なぜ――。
シュミットが、絶望に彩られた思考を泡のように弾けさせた、その時。
背中に密着する地面から、かすかな震動が伝わってくるのを感じた。
どどどっ、どどどっ、というリズミカルな震えは、どんどん大きく、確かなものになる。すぐに耳にも重い響きが届いてくる。
しゅっ、と鋭い呼吸音でPoHが部下二人に警告した。ジョニーがダガーを構えながら飛び退り、ザザが鎌をいっそう深くヨルコとカインズの首元につきつける。
動かない首を懸命に巡らせたシュミットの目が捉えたのは、主街区の方向から、一直線に近づいてくる白い燐光だった。
激しく上下する四つの光が、闇夜に溶けるような漆黒の馬のひづめを包む冷たい炎であると見て取れたのは数秒後だった。馬の背には、これも黒一色の騎手の姿がある。まるで冥府から出現した不死《アンデッド》の騎士とも思える何者かは、荒野に白い炎の軌跡を引きながら猛烈な速度で肉迫してくる。ひづめの音は耳をつんざくような地響きへと変わり、それに甲高いいななきが重なる。
たちまち小高い丘のふもとに達した騎馬は、数度の跳躍でてっぺんまで上り詰めると、後ろ脚だけで立ち上がり、鼻面から白く燃える噴気を激しく漏らした。その勢いに押されるようにジョニーが数歩下がり、直後、一杯に手綱を引いていた騎手が――馬の背中から真後ろへと転がり落ちた。
どすん、と尻餅をつくと同時に「いてっ!」と毒づいたその声には、聞き覚えがあった。
腰をさすりながら立ち上がった闖入者は、巨大な黒馬の手綱を握ったまま、ちらりとシュミットを、次いでヨルコとカインズを見て緊張感の無い声を出した。
「ぎりぎりセーフかな。タクシー代はDDAの経費にしてくれよな」
アインクラッドには、所持アイテムとしての騎乗動物《マウント》は存在しない。しかし一部の街や村にはNPCの経営する厩舎があり、そこで騎乗用の馬や、ストレージに収まりきれない大量の荷物を運搬するための牛などを借りることができる。だが乗りこなすためには当然それなりのテクニックが要求され、また料金も馬鹿高いために、使おうという者はそうそう居ない。
だがこの場合は、主街区から徒歩では絶対に間に合わなかっただろう。シュミットは詰めていた息をゆっくり吐き出しながら、闖入者――攻略組ソロプレイヤー、キリトの顔を見上げた。
キリトは握った手綱をぐいっと引き、馬を回頭させると、その尻をぽんと叩いた。レンタルが解除され、たちまち走り去っていく黒馬のひづめの音に、迫力にはやや欠ける声が重なった。
「よう、PoH。久しぶりだな。まだその趣味悪い格好してんのか」
「……手前ェに言われたかねえな」
答えたPoHの声は、僅かながら殺意を孕んでびんと強く響いた。
続けて、一歩踏み出したジョニー・ブラックが、こちらは明確に上ずった声で喚いた。
「ンの野郎……! 余裕かましてんじゃねぇぞ! 状況解ってんのかコラァ!」
ぶん、とダガーを振り回す配下を左手で制し、PoHは右手の包丁を指先でくるくる回した。
「こいつの言うとおりだぜ、キリトよ。格好よく登場したのはいいが、いくら手前ェでも俺たち三人を一人で相手できると思ってるのか?」
シュミットは、いまだ麻痺の解けぬ全身の中でわずかに動かせる顎をきつく噛み締めた。
状況はPoHの言うとおりだ。いかに攻略組でトップクラスの戦闘力を誇るキリトと言えども、ラフィン・コフィンのトップ3をまとめて倒せるわけがない。なぜ、せめて『閃光』を連れてこなかったのか?
「ま、無理だな」
左手を腰にあて、キリトは平然と言い返した。しかしすぐに続けて、
「でも耐毒POT飲んでるし、回復結晶ごっそり持ってきたから十分は耐えてやるよ。そんだけあれば、援軍が駆けつけるには充分だ。いくらあんたらでも、攻略組三十人を三人で相手できると思ってるのか?」
直前とまったく同じ台詞を返されたPoHが、フードの奥で軽く舌打ちするのが聞こえた。ジョニーとザザが、不安そうに視線を周囲の暗闇へと泳がせる。
「…………Suck」
やがて、短く罵り声を発したPoHが、じゃりっと右足を引いた。
左手の指を鳴らすと、配下二人がざざっと数メートル退く。鎌から解放されたヨルコとカインズがその場にふらふらと膝を突いた。
PoHは右手の包丁を持ち上げ、まっすぐキリトを指し、低く吐き捨てた。
「……『黒の剣士』。手前ェだけは、いつか必ず這わせてやる。大事なお仲間の血の海でごろごろ無様に転げさせてやるから、期待しといてくれよ」
† 19 †
三つの影が丘を下り、夜闇に溶けたあとも、俺は索敵スキルによって視界に表示されるオレンジ色のカーソルがちゃんと離脱していくのを確認し続けた。
犯罪者プレイヤーは、アンチクリミナルコードによって護られた街や村には原則として立ち入れない。境界に踏み込んだ途端、鬼のように強いNPCガーディアンが大挙して襲ってくるからだ。そして転移門を備えた各層主街区は例外なくコード圏内なので、あの三人が他の層に移動するためには、転移結晶の行き先に『圏外村』を指定するか、高価な回廊結晶を使うか、あるいは徒歩で攻略済みの迷宮区を上り下りするしかない。
おそらくは一番目だろうが、それにしても往復で六個の転移結晶を使ったとなると連中にしても馬鹿にならない出費だろう。溜飲を下げつつも、三つのカーソルが視界から消滅した途端、俺は無意識のうちに太く長い安堵のため息をついていた。
まったく、予想以上にやばい奴らが出てきたものだ。つまり、あの三人はこの時この座標にシュミットが――ギルド聖竜連合の前衛隊長、攻略組でも最大級のHPと防御力を持つ男がいることを知っていたということになる。
その情報の出所も、すぐに明らかになるはずだ。
俺は闇に沈む荒野から視線を切ると、ウインドウを出し、十数人を引き連れてこちらに急行中であるはずのクラインに【街で待機していてくれ】と手早くメッセージを送った。
次に腰のポーチから出した解毒ポーションをシュミットの右手に握らせ、大男が震える手でそれを呷るのを見届けてから、視線を少し離れた場所の二人に移す。
血の気を失って座り込む死神ローブ姿のプレイヤーたちにかけた声が、少しばかり皮肉っぽいものになってしまったのは止むを得ないというべきだろう。
「また会えて嬉しいよ、ヨルコさん。それに……はじめまして、カインズさん」
数時間前、俺の目の前でポリゴン片を飛散させながら消滅したばかりのヨルコは、上目遣いに俺を見ると、数秒後ごくかすかな苦笑を頬に浮かべた。
「ほんとうは、あとできちんとお詫びにうかがうつもりだったんです。……と言っても、信じてもらえないでしょうけれど」
「信じるかどうかは、おごってもらうメシの味によるな。言っとくけど、怪しいラーメンとか謎のお好み焼きはナシだからな」
きょとんとするヨルコの隣で、黒いローブを脱いだ朴訥そうな男――『圏内事件』最初の死者カインズが、ぐいっと一度頭を下げた。
「はじめまして――ではないですよ、キリトさん。あの瞬間、一度だけ眼が合いましたね」
落ち着いた低音で発せられた言葉に、俺はようやく思い出す。
「そういえば、そうだったかもな。あんたが死ぬ、じゃない、鎧の破壊と同時に転移する寸前だろう?」
「ええ。あの時ね、この人には偽装死のカラクリを見抜かれてしまうかもしれない、って何となく予感したんですよ」
「そりゃ買いかぶりだ。完璧騙された」
今度は俺が苦笑した。僅かに緩んだ空気を、がしゃりと鎧を鳴らして上体を起こしたシュミットの、いまだ緊張の抜けない声が再度引き締めた。
「……キリト。助けてくれた礼は言うが……なんで分かったんだ。あの三人がここを襲ってくることが」
俺は、食い入るように見上げてくる巨漢の眼を見返し、少し言葉を探した。
「分かった、ってわけじゃない。ありうると推測したんだ。相手がPoHだと最初から知ってたら、ビビって逃げたかもな」
つい混ぜっ返すような言い方になってしまうのには理由がある。
俺がこれから話すことは、この三人に――ことにヨルコとカインズに、巨大な衝撃を与えるだろう。全ての脚本を書き、演出し、主演までした二人も存在に気付いていないプロデューサーが、この事件の陰には潜んでいるのだ。俺はゆっくり息を吸い込み、出しうる限りの静かな声で語りはじめた。
「…………おかしい、って思ったのは、ほんの三十分前だ……」
事件は終わった。あとはヨルコ、カインズ、そしてシュミットに任せよう。
20層主街区の下町にある酒場を見下ろす宿屋の二階で、俺はアスナにそう言い、椅子に深く身を沈めた。
彼らが互いに殺し合うことはないはずだ。ならば、この『圏内事件』の幕は、その原因となった『指輪事件』の当事者だけで降ろすのが一番いいんだ。そう確信して発した俺の言葉に、アスナも「そうね」と頷いた。
しばし訪れた静寂のなかで――俺はふと、胸のどこかに、ごくごく小さなトゲが引っかかっているような感覚に捉われた。
何か考えるべきことがある。その存在は分かっているのに、何を考えればいいのか分からない、そんなもどかしさ。違和感の訪れは、アスナの穏やかな声を聞いた瞬間だった。
アスナがこの部屋で、酒場の監視を続けながら口にした内容のどこかにこの感覚の根がある。そう思った俺は、無意識のうちに「なあ……」と声を掛けていた。
「……なに?」
隣の椅子でちらりと視線を上げるKoB副団長様に向かって、俺は思考の八割を違和感の分析に振り分けながら、まったく無思慮極まる質問を発した。
「アスナ。お前、結婚してたことあるの?」
答えは底冷えするような殺気の篭もった視線と、ぎゅっと握られた右拳と、中腰で前傾する攻撃予備動作だった。
「うそ、なし、いまのなしなし!!」
どつかれる前に叫び、両手と首をぶんぶん振ってから、俺は慌てて言葉を補足した。
「ちがうんだ、そうじゃなくて……お前さっき、結婚について何か言ってたろ?」
「言いました。それがどうかした?」
据わった眼で一瞥され、いっそう震え上がりながらも、必死に口を動かす。
「ええと……ぐ、具体的にはなんだっけ。ほら、ロマンチックだとかプラスチックだとか……」
「誰もそんなこと言ってないわよ!」
結局コード発動直前の勢いでがつんと俺のスネを蹴飛ばしてから、アスナは幸い俺の記憶を補正してくれた。
「ロマンチックでプラグマチックだって言ったの! プラグマチックっていうのは実際的って意味ですけどね、念のため!」
「実際的……SAOでの結婚が?」
「そうよ。だってある意味身も蓋もないでしょ、ストレージ共通化だなんて」
「ストレージ……共通化…………」
それだ。
その言葉が、俺の胸に突き刺さる小さなトゲの出所だ。
結婚したプレイヤーのアイテムストレージは完全に統合される。所持容量限界は二人のSTR値の合計にまで拡張され、大変な利便性をもたらすと同時に、レアアイテムを持ち逃げされるような結婚詐欺に見舞われる危険も生じる。
そのシステムの何に、俺はこんなに引っかかるんだ。
圧倒的なもどかしさに翻弄されながら、俺はさらに質問を発した。
「じゃ、じゃあさ……、離婚したとき、ストレージはどうなるんだ?」
「え……?」
虚を衝かれたように、アスナは眼を丸くした。軽く首を傾げ、俺を殴ろうとしていた拳をきゅっとおとがいに添える。
「ええっとね……、確か、いくつかオプションがあるのよ。自動分配とか、アイテムを一つずつ交互に選択していくとか……ほかにも幾つか、わたしもよく覚えてないけど……」
「詳しく知りたいな。どうするか……そうだ、アスナ、試しに俺と」
その先を危うく口にしなかったのは、まったくの英断あるいは僥倖と言うべきであろう。
先刻に数倍する殺気をまとい、銘刀ランベントライトの鞘に手をかけながら、『閃光』はにっこりと笑った。
「試しにあなたと、なあに?」
「…………お、俺と…………質問メール書いてみないか、ヒースクリフ宛の」
――ほんの一分で帰ってきたメールには、離婚時のストレージの扱いについて、詳細かつ簡潔に記してあった。まったくシステムの生き字引のような男だ。
さっきアスナが言った、自動等価分配、交互選択分配。それに加えて、パーセンテージで偏らせた自動分配も可能らしい。これはつまり、慰謝料を発生させることも可能ということだろう。まったく実際的なシステムだ。
そのメールを読み上げるアスナの声を聞きながら、俺は必死に考え続けた。
それらのオプションは、当然離婚時に双方が合意の上で選択するのだろう。逆に言えば、分配オプションに合意できなければ、システム的離婚もできないわけだ。しかし、全てのケースで理性的な話し合いができるわけではあるまい。何がなんでも離婚したいが相手が同意しないような場合にはどうすればいいのだろう。この世界には、裁判所は存在しない。
その疑問に答えたのは、ヒースクリフの返信メールの末尾に記された一文だった。
「……ちなみに、無条件での離婚は、アイテム分配率を自分ゼロ、相手百に設定した場合にのみ可能となる。その例では、離婚成立・ストレージ分割時に相手方が持ちきれないアイテムは全て足元にドロップする。キリト君、くれぐれも一方的に離婚されそうになったならば宿屋の部屋などに避難しておくことをお薦めする。以上だ……ですって」
メールを読み終えたアスナが、微妙な表情でウインドウを消去した。
その顔をぼんやりと眺めながら、俺は口のなかで、今のメールの一箇所だけを何度もリピートした。
自分ゼロ、相手百。自分ゼロ……相手百……。
「あっ…………」
胸の奥に突き刺さる違和感のトゲが、ずきりと鋭く疼くのを俺は感じた。
ほんの小さなそれが、たちまち巨大化していく。もどかしさから疑念へ、そして確信を経て驚愕、さらには恐怖へと変質する。
「あ…………あああ……!!」
叫び、がたんと椅子を蹴倒して立ち上がった俺は、目の前のアスナの両肩を掴んだ。ぎょっとしたように身を引いた『閃光』が、打って変わって掠れた声を出した。
「ちょっ……な、何よ……あなたまさか、こんなとこで…………」
その台詞の意味を斟酌する余裕もなく、俺は呻き声を絞り出した。
「自分百《・・・》、相手ゼロ《・・・・》。必ずそうなる離婚の仕方が、ひとつだけある」
「……え……? な、何を言ってるの…………?」
細い肩を強く握り締め、小さな顔をぐいっと引き寄せて、俺は囁きかけた。
「死別《・・》だ。結婚相手が死んだ瞬間、ストレージは本来の容量に戻り、収納しきれないアイテムはすべて足元にドロップするはずだ。つまり……つまり…………」
† 20 †
震える喉を一度ごくりと動かしてから、その先を音にする。
「……つまり、ギルド『黄金林檎』のリーダー・グリセルダが何者かに殺されたその瞬間、彼女のストレージに入っていた指輪は、犯人ではなく……結婚相手であるグリムロックのストレージに残るか、あるいは足元でオブジェクト化されたはずなんだ」
間近にあるはしばみ色の瞳が、一度、二度とゆっくりしばたかれた。
そこに浮かぶ戸惑いの色が、不意に深い戦慄へと変化した。
「指輪は……奪われて、いなかった……?」
ほとんど無音で発せられた問いに、俺はすぐには答えられなかった。体を起こし、窓枠に背中を預けて呟く。
「いや……、そうじゃない。奪われた、と言うべきだ。グリムロックは、自分のストレージに存在する指輪を奪ったんだよ。彼は、幻の『圏内事件』の犯人じゃない。『指輪事件』の犯人だったんだ」
アスナの左手からこぼれたレイピアの鞘が、重い金属音を響かせて床に転がった。
「…………おかしい、って思ったのは、ほんの三十分前だ……。なあ、カインズさん、ヨルコさん。あんたたちは、あの二つの武器をどうやって入手したんだ?」
俺の質問に、相棒とちらりと眼を見交わしてからヨルコが答えた。
「……『圏内PKを偽装する』という私たちの計画には、継続ダメージに特化した貫通属性武器がどうしても必要でした。あちこちの武器屋さんを探し回ったんですけど、そんな特殊な仕様の武器を置いてるところは見つからなくて……。と言って、鍛冶屋さんにオーダーすれば、武器に銘が残ってしまいます。その人に訊けば、オーダーしたのが被害者である私たち自身であることがすぐに解ってしまうでしょう」
「だから、僕たちは已む無く、ギルド解散以来はじめてあの人に……リーダーの旦那さんだったグリムロックさんに連絡を取ったんです。僕たちの計画を説明して、必要な貫通武器を作ってもらうために。居場所は解らなかったけれど、フレンド登録だけは残っていたので……」
説明を引き継いだカインズの言葉に、ついにその名前が現れた。俺は耳に全神経を集中し、聞き入った。
「グリムロックさんは、最初は気が進まないようでした。返ってきたメッセージには、もう彼女を安らかに眠らせてあげたいって書いてありました。でも、僕らが一生懸命頼んだら、やっとあの二つの武器を作ってくれたんです。届いたのは、僕じゃないカインズさんの死亡日時の、ほんの三日前でした」
この台詞からも、やはりヨルコとカインズは、グリムロックを奥さんを殺された被害者だと信じていることがわかる。
俺は大きく息を吸い、二人に激しい衝撃を与えまた深く傷つけるであろう言葉を、無理やりに胸から押し出した。
「…………残念だけど、グリムロックがあんたたちの計画に反対したのは、グリセルダさんのためじゃないよ。『圏内PK』なんていう派手な事件を演出し、大勢の注目を集めれば、いずれ誰かが気付いてしまうと思ったんだ。結婚によるストレージ共通化が、離婚ではなく死別で解消されたとき……その中のアイテムがどうなるのか」
「え……?」
意味が解らない、というようにヨルコたちが首をかしげた。
無理もない、アインクラッドではいくら仲が良くとも結婚にまで至るカップルはごく稀だ。離婚する者たちはもっと少ないだろうし、その理由が片方の死亡となれば尚更だ。俺はともかくアスナですら、グリセルダさんが殺されたとき、指輪は殺人者の懐にドロップしたのだろうと信じて疑わなかったのだ。
「いいかい……グリセルダさんのストレージは、同時にグリムロックのものでもあった。たとえグリセルダさんを殺したところで、指輪は奪えないんだ。彼女が死んだ瞬間に、グリムロックのもとに言わば転送されてしまうんだから。そして、グリムロックがその指輪をつい魔が差して秘匿した、ということも有り得ない。シュミット……あんたは、コルで報酬を受け取ったんだろう?」
俺の質問に、地面にあぐらを掻いたままの大男は呆然と首を縦に振った。
「グリムロックは、シュミットが結果的にグリセルダさん殺害の片棒を担いだことを知っていた。それはつまり……」
「グリムロックが……? あいつが、あのメモの差出人だったのか……?」
俺の言葉に重ねて、ひび割れた声でシュミットが呻いた。
魂が抜け落ちたような表情は、ヨルコとカインズの顔にもあった。数秒後、ヨルコが波打つ髪を揺らしてかぶりを振り、その動作はすぐに激しさを増した。
「そんな……嘘です、そんなことが! あの二人はいつも一緒でした……グリムロックさんは、いつだってリーダーの後ろでにこにこしてて……それに、そうです、あの人が真犯人だっていうなら、なんで私たちの計画に協力してくれたんですか!? あの人が武器を作ってくればければ、私たちは何もできませんでした。『指輪事件』が掘り返されることもなかったはずです。違いますか?」
「あんたたちは、グリムロックに計画を全部説明したんだろう?」
唐突な俺の問いに、一瞬口をつぐんでから、ヨルコは小さく頷いた。
「……なら、彼は、計画が全て成功したらどうなるのかを知っていた。つまり……罪の意識に駆られたシュミットがグリセルダさんのお墓に懺悔し、そこをヨルコさんとカインズさんが更に問い詰めるという、この最終幕まで。なら、それを利用して、今度こそ『指輪事件』を永久に闇に葬ることは可能だ。共犯者であるシュミット、解決を目指すヨルコさんとカインズさん、その三人を……まとめて消してしまえばいい」
「……そうか。だから……だから、あの三人が…………」
虚ろな表情で呟くシュミットをちらりと見て、俺は沈鬱な気分で顎を引いた。
「その通りだ。『ラフィン・コフィン』のトップスリーが突然現れたのは、グリムロックが情報を流したからだ。この場所に、DDAの幹部なんていう大物が、しかも仲間なしで来ている……とね。恐らく、グリセルダさんの殺害実行を依頼したときから、パイプがあったんだろうな……」
「…………そんな……」
くたり、と膝から崩れ落ちそうになったヨルコを、カインズが右手で支えた。しかしその顔も、月明かりの下でもはっきり解るほど蒼白になっている。
カインズの肩に掴まったまま、ヨルコが一切の艶の失せた声で囁いた。
「グリムロックさんが……私たちを殺そうと……? でも……なんで……? そもそも……なんで結婚相手を殺してまで、指輪を奪わなきゃならなかったんですか…………?」
「俺にも、動機までは推測できない。でも、『指輪事件』のときはアリバイ確保のためにギルドの拠点から出なかった彼も、今回ばかりは見届けずにはいられなかったはずだ。三人が処分され、二つの事件が今度こそ完全に葬られるのをね。だから……詳しいことは、直接聞こう」
言葉を切った俺の耳に、丘の西側斜面を上ってくる二つの足音が届いた。
† 21 †
まず目に入ったのは、夜闇の中にも鮮やかに浮き上がる白と赤の騎士服だった。言わずと知れた『閃光』アスナだ。右手に、透き通るような白銀の刃を持つ細剣を下げている。俺が知る限りアインクラッドで最も繊細かつ美麗な剣だが、同時にあらゆる防御を貫く最も獰猛な武器でもある。
その鋭い切っ先と、持ち主の剣呑な眼光に追われるように、一人の男が歩いていた。
かなりの長身だ。裾の長い、ゆったりとした前合わせの革製の服を着込み、つばの広い帽子を被っている。陰に沈む顔のなかで、時折月光を反射して光るのは眼鏡だろうか。全体の印象としては、鍛冶屋というよりも香港映画に出てくる兇手《ヒットマン》を思わせる雰囲気だ。俺の先入観のせいも無論あろうが。
カーソルの色は、二人ともグリーンだった。男の逃走を阻止するためにアスナが一時的にオレンジになってしまうことも覚悟していた俺は――その場合は当然、アライメントを回復するための七面倒くさいクエストに護衛を兼ねて付き合うつもりではあったが――そっと安堵の息をついた。しかしすぐに気を引き締め、丘を登りきって近づいてくる男を正面から見据える。
銀縁の丸眼鏡の下にあったのは、どちらかと言えば柔和な印象の顔だった。細面で、垂れ気味の目尻は優しげだ。だが、僅かにのぞくやや小さめの黒目には、俺の警戒心を強く呼び覚ます何かが確かにあった。
男は俺から三メートルほど離れた位置で立ち止まり、まずシュミットを、次にヨルコとカインズ、最後にちらりと苔むした小さな墓標を見てから言葉を発した。
「やあ……、久しぶりだね、皆」
低く落ち着いたその声に、数秒経ってからヨルコが応じた。
「グリムロック……さん。あなたは……あなたは、ほんとうに…………」
グリセルダを殺して指輪を奪ったのか。そして事件を隠蔽するために、更にこの場の三人をも消し去ろうとしたのか。
音にはならねど誰の耳にも明らかに聞こえたその問いに、男――ギルド『黄金林檎』サブリーダー、鍛冶屋グリムロックはすぐには答えなかった。
背後のアスナがレイピアを鞘に収め、俺の隣に移動するのを見送ってから、再び微笑を形作る唇を動かす。
「……誤解だ。私はただ、事の顛末を見届ける責任があろうと思ってこの場所に向かっていただけだよ。そこの怖いお姉さんの脅迫に素直に従ったのも、誤解を正したかったからだ」
――おお、否定するのか、と俺はやや瞠目した。確かにPoHらに情報を流したという証拠はないが、しかし指輪事件のほうはシステム的に言い逃れようがないはずなのだが。
「嘘だわ!」
鋭く反駁したのはアスナだった。
「あなた、ブッシュの中で隠蔽《ハイディング》してたじゃない。私に看破《リビール》されなければ動く気もなかったはずよ!」
「仕方がないでしょう、私はしがない鍛冶屋だよ。このとおり丸腰なのに、あの恐ろしいオレンジたちの前に飛び出していけなかったからと言って責められねばならないのかな?」
穏やかに言い返し、革手袋に包まれた両手を軽く広げる。
シュミット、カインズ、そしてヨルコは無言でグリムロックの言葉を聞いていた。やはりまだ半信半疑なのだろう。かつてのサブリーダーが、凶悪なレッドプレイヤーに依頼して自分たち《ギルドメンバー》を殺そうとしたなどとはおいそれと思えないだろうし、また信じたくもあるまい。
再度なにかを言い返そうとするアスナを左手で制し、俺はここでようやく口を開いた。
「初めまして、グリムロックさん。俺はキリトっつう……まあ、ただの部外者だけど。――たしかに、あんたがこの場所にいたことと、『ラフィン・コフィン』の襲撃を結びつける材料は今は何もない。奴らに訊いても証言してくれるわけはないしな」
実際には、今グリムロックにメニューウインドウを可視化してもらい、フレンドリストをチェックすれば、そこには『ラフコフ』の暗殺依頼窓口になっているグリーンプレイヤーが存在するはずだ。しかし残念ながら俺もその名前までは知らない。
だが、シュミットらの殺害未遂はともかく、こちらを言い逃れるすべは無い。そう確信しながら、俺は言葉を続けた。
「でも、去年の秋の、ギルド『黄金林檎』解散の原因となった『指輪事件』……これには必ずあんたが関わっている、いや主導している。なぜなら、グリセルダさんを殺したのが誰であれ、指輪は彼女とストレージを共有していたあんたの手元に絶対に残ったはずだからだ。あんたはその事実を明らかにせず、指輪を秘かに換金して、半額をシュミットに渡した。これは、犯人にしか取り得ない行動だ。ゆえに、あんたが今回の『圏内事件』に関わった動機もただ一つ……関係者の口を塞ぎ過去を闇に葬ることだ、ということになる。違うかい?」
俺が口を閉じると、濃い沈黙が荒野の丘に生まれた。いずこからかしんしんと降り注ぐ青い月光が、グリムロックの顔に強い陰影を刻み付ける。
やがてその口元が奇妙な形に歪み、僅かに温度を下げた印象のある声が流れた。
「なるほど、面白い推理だね、探偵君。…………でも、残念ながら、ひとつだけ穴がある」
「なに?」
反射的に問い返した俺をちらりと見て、グリムロックは黒手袋をはめた右手で鍔広帽子を引き下げた。
「確かに、当時私とグリセルダのストレージは共有化されていた。だから、彼女が殺されたとき、そのストレージに存在していた全アイテムは私の手元に残った……という推論は正しい。しかし」
月光を反射する丸眼鏡の奥から鋭い視線を俺に浴びせ、長身の鍛冶屋は抑揚の薄い声でその先を口にした。
「もしあの指輪がストレージに格納されていなかったとしたら? つまり、オブジェクト化され、グリセルダの指に装備されていたとしたら……?」
「あっ…………」
アスナが微かな声を漏らした。
虚を衝かれたのは俺も同様だった。確かにそのケースを、迂闊にも俺はまったく考えていなかった。
オブジェクト化されたアイテムは、それを装備するプレイヤーが他のプレイヤーに殺されたとき、無条件でその場にドロップする。だから、もしグリセルダが問題の指輪を装備していたならば、それはグリムロックのストレージには転送されずに殺人者の手に落ちたという論法は成り立つ。
形勢の逆転を自覚してか、グリムロックの口角が少しばかり持ち上がった。
「……グリセルダはスピードタイプの剣士だった。あの指輪に与えられた凄まじい敏捷力補正を、売却する前に少しだけ体感してみたかったとしても不思議はないだろう? いいかな、彼女が殺されたとき、確かに彼女との共有ストレージに格納されたアイテムは全て私の手元に残った。しかしそこに、あの指輪は存在しなかった。そういうことだ、探偵君」
俺は無意識のうちに強く奥歯を噛み締めた。なんとかグリムロックの主張を論破し得る材料を探そうとするが、指輪がグリセルダの指に装備されていたかいないかを証言できるのは、実際に彼女を手に掛けた殺人者――恐らくはラフコフのメンバーの誰かだけだ。
黙りこんだままの俺に向けて、グリムロックは帽子の鍔を軽く持ち上げてみせた。そのまま他の四人をぐるりと見渡し、慇懃に一礼する。
「では、私はこれで失礼させてもらう。グリセルダ殺害の首謀者が見つからなかったのは残念だが、シュミット君の懺悔だけでも、いっとき彼女の魂を安らげてくれるだろう」
再び帽子を深く引き下げ、するりと身を翻した鍛冶屋の背に――。
ヨルコが、静けさの中にも烈しい何かを秘めた声を短く投げかけた。
「待ってください……いえ、待ちなさい、グリムロック」
ぴたりと足を止めた男が、少しだけ顔をこちらに向ける。眼鏡の下の柔和そうな眼に、ほのかに厭わしそうな色が浮かんでいる。
「まだ何かあるのかな? 無根拠かつ感情的な糾弾なら遠慮してくれないか、私にとってもここは神聖な場所なのだから」
滑らかに、かつ傲然と言い放ったグリムロックに向かって、ヨルコはさらに一歩踏み出した。
何のつもりか、白い両手を胸の前に持ち上げてそれに一瞬視線を落とす。再び正面を向いた濃紺の瞳には、これまでの彼女には見られなかった強靭な光が浮かんでいる。
「グリムロック、あなたこう言ったわね。リーダーは問題の指輪を装備していた。だから転送されずに殺人者に奪われた。でもね……それは有り得ないのよ」
「……ほう? どんな根拠で?」
ゆるりと向き直ったグリムロックに、ヨルコはなおも苛烈な声を浴びせる。
「ドロップしたあの指輪をどうするか、ギルド全員で会議をした時のことをあなたも覚えているでしょう? 私、カインズ、それにシュミットは、ギルドの戦力にするほうがいいと言って売却に反対したわ。あの席上でカインズが、本心では自分が装備したかったのに、まずリーダーを立ててこう言った。――『黄金林檎』で一番強い剣士はリーダーだ。だからリーダーが装備すればいい」
ヨルコの隣で、カインズの顔にややばつの悪そうな表情が浮かぶ。しかしヨルコは意に介せず、身振りを交えて語り続ける。
「それに対して、リーダーなんて答えたか、私はいまでも一字一句思い出せるわ。あの人は、笑いながらこう言ったのよ。――SAOでは、指輪アイテムは片手に一つずつしか装備できない。右手のギルドリーダーの印章《シギル》、そして……左手の結婚指輪は外せないから、私には使えない。いい? あの人が、その二つのどっちかを解除して、レア指輪のボーナスをこっそり試してみるなんてこと、するはずないのよ!」
鋭い声が響いた途端、俺を含めた全員が小さく息を呑んだ。
確かに、メインメニューの装備フィギュアに設定されている指輪スロットは、右手と左手に一つずつだ。だが――
弱い。
俺の内心の声をトレースするかのように、グリムロックが低く呟いた。
「何を言うかと思えば。『するはずがない』? それを言うならば、まずこう言ってもらえないかな? ――グリセルダと結婚していた私が、彼女を殺すはずがない、と。君の言っていることは、根拠なき糾弾そのものだ」
「いいえ」
ヨルコが、囁くように答えた。俺は瞠目し、小柄な女性プレイヤーがゆっくり首を横に振るのを見守った。
「いいえ。違うわ。根拠はある。…………リーダーを殺した実行犯は、現場となったフィールドに、無価値と判断したアイテムをそのまま放置していった。それを発見したプレイヤーが、幸いリーダーの名前を知っていて、遺品をギルドホームに届けてくれた。だから私たちは、ここを……この墓標をリーダーのお墓にすると決めたとき、彼女の使っていた剣を根元に置いて、耐久度が減少して消滅するに任せた。でもね……でも、それだけじゃないのよ。皆には言わなかったけど……私は、もう一つだけ遺品をここに埋めたの」
言うがいなやヨルコは振り向き、すぐ傍にあった小さな墓標の裏に跪くと、素手で土を掻き始めた。その場の全員が呆然と凝視するなか、やがて立ち上がったヨルコは、右手に乗ったものをまっすぐ差し出した。それは、地面から掘り出されたにもかかわらず月光を受けて銀色に光るごく小さな箱だった。
「あっ……『永久保存トリンケット』……!」
アスナが小さく叫んだとおり、ヨルコが示したそれは、マスタークラスの細工師だけが作成できる『耐久値無限』の保存箱だった。最大サイズでもせいぜい十五センチ四方なので大型のアイテムは入れられないが、アクセサリ程度なら幾つか収納できる。これに入れたアイテムは、たとえフィールドに放置しようとも、耐久値の自然現象によって消滅することは絶対にない。
ヨルコはそっと左手を伸ばし、銀の小箱の蓋を持ち上げた。
白い絹布の上に鎮座する、二つの指輪がきらりと輝いた。
その片方――銀製、やや大型の指輪をヨルコはまず取り上げた。
「これは、リーダーがいつも右手の中指に装備してた、『黄金林檎』の印章《シギル》。同じものを私もまだ持ってるから比べればすぐ解るわ」
それを戻し、次にもう一方――黄金に煌く細身のリングをそっと取り出す。
「そしてこれは――これは、彼女がいつだって左手の薬指に嵌めてた、あなたとの結婚指輪よ、グリムロック! 内側に、しっかりとあなたの名前も刻んであるわ! ……この二つの指輪がここにあるということは――リーダーは、ポータルで圏外に引き出されて殺されたその瞬間、両手にこれらを装備していたという揺るぎない証よ! 違う!? 違うというなら、反論してみせなさいよ!!」
語尾は、涙まじりの絶叫だった。
頬に大粒の涙を零しながら、ヨルコは金色に煌く指輪をまっすぐグリムロックに突きつけた。
しばらく、口を開こうとする者はいなかった。カインズ、シュミット、そしてアスナと俺は、ただ息を詰め、眼を見開いて、対峙する二人を見守り続けた。
長身の鍛冶屋は、口元を嘲るように歪ませたまま、十秒以上も凍りついていた。やがてその唇の端が細かく震え、きつく引き結ばれ――。
「その指輪……たしか葬式の日、君は私に訊いたね、ヨルコ。グリセルダの結婚指輪を持っていたいか、と。そして私は、剣と同じように、消えるに任せてくれと答えた。あの時……欲しいと言ってさえいれば…………」
深く俯き、広い鍔に丸ごと顔を隠したグリムロックは、脱力したようにその場に膝を突いた。
ヨルコは金の指輪を箱に戻すと、蓋を閉め、それをぎゅっと胸に掻き抱いた。天を振り仰ぎ、濡れる顔をくしゃっと歪ませて、鋭さの失せた声で囁いた。
「…………なんで……なんでなの、グリムロック。なんでリーダーを……奥さんを殺してまで、指輪を奪ってお金にする必要があったの」
「…………金? 金だって?」
と、膝立ちのまま、グリムロックが掠れた声でく、く、と笑った。
左手を振り、メニューウインドウを呼び出す。短い操作でオブジェクト化されたのは、やや大きめの革袋だった。持ち上げたそれを、グリムロックは無造作に地面に放った。どすんという重い響きに、澄んだ金属音が幾つも重なった。その音だけで、俺にはその袋の中身が、恐るべき額のコル金貨であると推測できた。
「これは、あの指輪を処分した金の半分だ。金貨一枚だって減っちゃいない」
「え…………?」
戸惑ったように眉を寄せるヨルコを見上げ、次いで俺たちを順番に見渡し、グリムロックは乾いた声で言った。
「金のためではない。私は……私は、どうしても彼女を殺さねばならなかった。彼女がまだ私の妻でいるあいだに」
丸眼鏡を一瞬苔むした墓標に向け、すぐに視線を外して、鍛冶屋は独白を続けた。
「グリセルダ。グリムロック。頭の音が同じなのは偶然ではない。私と彼女は、SAO以前にプレイしたネットゲームでも常に同じ名前を使っていた。そしてシステム的に可能ならば、必ず夫婦だった。なぜなら……なぜなら、彼女は、現実世界でも私の妻だったからだ」
俺は心の底から驚愕し、小さく口を開けた。アスナが鋭く息を呑み、ヨルコたちの顔にも驚きの色が走る。
「私にとっては、一切の不満のない理想的な妻だった。夫唱婦随という言葉は彼女のためにあったとすら思えるほど、可愛らしく、従順で、ただ一度の喧嘩もしたことがなかった。だが……共にこの世界に囚われたのち……彼女は変わってしまった……」
グリムロックは帽子に隠れた顔をそっと左右に振り、低く息を吐いた。
「強要されたデスゲームに怯え、恐れ、竦んだのは私だけだった。いったい、あの彼女のどこにあんな才能が隠されていたのか……戦闘能力においても、状況判断力においても、グリセルダ……いやユウコは大きく私を上回っていた。それだけではない。彼女はやがて、私の反対を押し切ってギルドを結成し、メンバーを募り、鍛え始めた。彼女は……現実世界にいたときよりも、遥かに生きいきとし……充実した様子で…………その様子を傍で見ながら、私は認めざるを得なかった。私の愛したユウコは消えてしまったのだと。たとえゲームがクリアされ、現実世界に戻れる日がきても、大人しく従順な妻だったユウコはそこにはいないのだと。彼女は私に語ったよ。向こうに戻れたら、もう一度働きたい、いずれ起業もしてみたい、とね。私の畏れが、君たちに理解できるかな。もし向こうに戻ったとき……彼女に離婚を切り出されでもしたら……そんな屈辱に、私は耐えることができない。ならば…………ならばいっそ、まだ私が彼女の夫であるあいだに。そして合法的殺人が可能な、この世界にいるあいだに。ユウコを、永遠の思い出のなかに封じてしまいたいと願った私を……誰が責められるだろう……?」
長く、おぞましい独白が途切れても、しばらく言葉を発する者はいなかった。
俺は、不意に自分の喉から割れた呻き声が漏れるのを聞いた。
「屈辱……、屈辱だと? 奥さんが、言うことを聞かなくなったから……そんな理由で、あんたは殺したのか? SAO解放を願って自分を、そして仲間を鍛えて……いつか攻略組の一員にもなれただろう人を、あんたは……そんな理由で…………」
背中の剣に走ろうと一瞬震えた右腕を、俺は左腕で強く押さえた。
ゆるりと顔をあげ、眼鏡の下端だけを僅かにのぞかせて、グリムロックは俺に囁きかけた。
「そんな理由? 違うな、充分すぎる理由だ。君にもいつか解る、探偵君。愛情を手に入れ、それが失われようとしたときにね」
「いいえ、間違っているのはあなたよ、グリムロックさん」
反駁したのは、俺ではなくアスナだった。
冴えざえとした美貌に、俺には読み取れない表情を浮かべ、細剣士は静かに告げた。
「あなたがグリセルダさんに抱いていたのは愛情じゃない。ただの所有欲だわ。まだ愛しているというのなら、その左手の手袋を脱いでみせなさい。グリセルダさんが殺されるその時まで決して外そうとしなかった指輪を、あなたはもう捨ててしまったのでしょう」
グリムロックの肩が小さく震え、先刻の俺の映し絵のように、右手がぎゅっと左手を掴んだ。
しかし、それ以上手は動かず、鍛冶屋は押し黙ったまま革手袋を外そうとはしなかった。
再び訪れた静寂を、これまでひたすら黙り込んでいたシュミットが破った。
「……キリト。この男の処遇は、俺たちに任せてもらえないか。もちろん、私刑にかけたりはしない。しかし罪は必ず償わせる」
その落ち着いた声に、数刻前までの怯え切った響きはなかった。
がしゃりと鎧を鳴らして立ち上がった大男を見上げ、俺は小さく頷いた。
「解った。任せる」
無言で頷き返し、シュミットはグリムロックの右腕を掴んで立たせた。がくりと項垂れる鍛冶屋をしっかりと確保し、「世話になったな」と短く言い残して丘を降りていく。
その後に、再び銀の小箱を埋め戻したヨルコとカインズも続いた。俺たちの横で立ち止まり深く一礼すると、ちらりと眼を見交わして、ヨルコが口を開いた。
「アスナさん。キリトさん。本当に、何とお詫びして……何とお礼を言っていいか。お二人が居てくれなければ、私たちは殺されていたでしょうし……グリムロックの犯罪も暴くことはできませんでした」
「いや……。最後に、あの二つの指輪のことを思い出したヨルコさんのお手柄だよ。見事な最終弁論だった。現実に戻ったら、検事か弁護士になるといいよ」
すると、ヨルコはくすりと笑って肩をすくめた。
「いえ……。信じてもらえないかもしれませんけど、あの瞬間、リーダーの声が聞こえた気がしたんです。指輪のことを思い出して、って」
「……そうか……」
もう一度深々と頭を下げ、シュミットらに続いて丘を降りていく二人を、俺とアスナはその場に立ったまま見送り続けた。
やがて四つのカーソルが主街区の方向へと消え、荒野の小丘には、青い月光と穏やかな夜風だけが残された。
「…………ねえ、キリトくん」
不意にアスナがぽつりと言った。
「もし君なら……仮に誰かと結婚したあとになって、相手の人の隠れた一面に気付いたとき、君ならどう思う?」
「えっ」
予想だにしなかった質問に、俺は絶句せざるを得なかった。何せ、まだたった十五年と半年しか生きていないのだ。そんな人生の機微など理解しようもない。
しかし必死に考え続けた末、ようやく口にできたのは、少々深みには欠ける答えだった。
「ラッキーだった、って思うかな」
「え?」
「だ……だってさ、結婚するってことは、それまで見えてた面はもう好きになってるわけだろ? だから、そのあとに新しい面に気付いてそこも好きになれたら……に、二倍じゃないですか」
知的でないにも程がある言い草だが、しかしアスナは眉を寄せたあと、首を傾げ、ふんと鼻を鳴らして、少しだけ微笑んだ。
「ふうん、変なの」
「へ……変…………」
「ま、いいわ。そんなことより……色々ありすぎて、お腹すいたわよ。なんか食べにいこう」
「そ、そうだな。じゃあ……アルゲード名物、見た目はお好み焼きなのにソースの味がしないというあれを…………」
「却下」
ばっさり切られ、悄然としながら歩き出そうとした俺の肩を、突然ぎゅっとアスナが掴んだ。
びくっと飛び上がりつつ振り向いた俺の眼に――。
この『圏内事件』に関わって以来何度目かの、説明不能な光景が飛び込んできた。
アインクラッドでは、あらゆる感覚情報はコードに置換可能なデジタルデータである。ゆえに心霊現象というものは存在するはずがない。
よって、今俺が見ているものは、サーバーのバグか、あるいは脳が生み出した幻覚ということになる。
少し離れた、丘の北側。ねじくれた古樹の根元にぽつんと立つ、苔むした墓標の傍らに。
薄い金色に輝き、半ば透き通る、一人の女性プレイヤーの姿があった。
ほっそりした体を、最低限の金属鎧に包んでいる。腰にはやや細身の長剣。背中に盾。髪は短く、顔立ちはたおやかに美しいが、その瞳には俺の知る何人かのプレイヤーに共通する強い光があった。
それは即ち、己の剣でこのデスゲームを終わらせるのだという意思を秘めた、攻略者の瞳だ。
穏やかな微笑みを湛えた女性プレイヤーは、黙したまま俺とアスナを見詰めていたが、やがて何かを差し出そうとするかのように、開いた右手を俺たちに向けて伸ばした。
俺もアスナと同時に右手を差し伸べ、掌にほのかな熱を感じた瞬間、きゅっと握り締めた。唇が開かれ、密やかな声が流れた。
「ああ。あなたの意思は……俺たちが、確かに引き継ぐよ。いつか必ずこのゲームをクリアして、みんなを解放してみせる」
「ええ。約束します。だから……見守っていてください、グリセルダさん」
アスナの囁きが、夜風に乗って女性剣士まで届いた。透き通るその顔に、にっこりと大きな笑みが刻まれ――。
次の瞬間、そこにはもう誰も居なかった。
俺たちは手を下ろし、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがてアスナがきゅっと俺の右手を握り、微笑んで言った。
「さ、帰ろ。明日から、また頑張らなくちゃ」
「……そうだな。今週中に、今の層は突破したいな」
そして俺たちは振り向き、主街区目指して歩きはじめた。
(ソードアートオンライン外伝5『圏内事件』 終)