† 12 †
ギルドの本拠地として登録されている建築物の敷地には、基本的に所属メンバーしか立ち入ることはできない。プレイヤーホームと同じ扱いというわけだ。だから本来ならば門番など必要ないのだが、人手に余裕のあるギルドは、警備というより来客の取次ぎのために交代制で人員を配置していることが多い。
聖竜連合もその例に漏れず、麗々しい城門には二人の重装槍戦士が仁王像のように立ちはだかっていた。
門番つうか、RPGの中ボスだよな絶対。などと考え、思わず内心で構えてしまう俺とは異なり、アスナはすたすたと右側の男に近寄るとさらりと挨拶した。
「こんにちは。わたし、血盟騎士団のアスナですけど」
すると、巨躯の戦士は一瞬上体をのけぞらせ、軽い声を出した。
「あっ、ども! ちゅーっす、お疲れっす! どーしたんすかこんなトコまで!」
ぜんぜん仁王様でも中ボスでもなかった。アスナは見事なスマイルを、駆け寄ってきた左の男にも惜しげなくサービスし、用件を切り出した。
「ちょっとお宅のメンバーに用があって寄らせてもらったの。シュミットさんなんだけど、連絡してもらえます?」
すると男たちは顔を見合わせ、片方が首を捻った。
「あの人は今前線の迷宮区じゃないっすかね?」
それに、もう一方が答える。
「あ、でも、朝メシのときに『今日は頭痛がするから休む』みたいなこと言ってたかも。もしかしたら自分の部屋に居るかもしれないから、呼んでみるッスね」
実に協力的でびっくりしてしまう。DDAとKoBはギルド単位では決して仲がいいとは言えないはずだが、個人ではその限りではないのか――あるいは、アスナの魅力パラメータの力か。後者だとしたら、俺は出ていかないほうがよさそうだ。
城門にほど近い木の幹に張り付くようにして軽く隠蔽レベルを上げてみたりしている間に、門番の一人がすばやくメッセージを打ち、送信した。
するとわずか三十秒ほどで返信があったらしく、俺はほっと息をついた。やはりシュミットはこの城に立てこもっているのだ。前線のダンジョンで戦闘中なら、そんな素早いレスポンスはとても出来ない。
文面をちらっと見た門番は、困ったように眉を寄せた。
「やっぱ今日は休みみたいっすけど……でも、なんか、用件を聞けとか言ってるんですけど」
するとアスナは、少し考え、短く答えを口にした。
「じゃあ、『指輪の件でお話が』とだけ伝えてください」
効果は覿面だった。
頭痛で臥せっているはずの男は、物凄いダッシュで城門に駆けつけるや否や、「場所を変えてくれ」とひと言唸ってそのまま丘を降りはじめた。顔を見合わせ、同時に肩をすくめてから、俺とアスナもその後を追った。
のしのし歩くシュミットの格好は、昨日俺から槍を巻き上げていった時と同じ、高級そうなプレートアーマーだった。しかも、その下に薄手のチェインメイルまで重ねている。さすがに両手用ランスまでは背負っていないが、装備重量はたいへんなものだろう。その重さを感じさせずに高速前進していく様は、前衛戦士というよりはアメフトの選手のようだ。
SAOプレイヤーにはごく珍しい体育会系オーラを纏った大男は、坂道を降りきって市街に入ったところでようやく足を止め、がしゃりと鎧を鳴らして振り向きざまに詰問してきた。
「誰から聞いたんだ」
「へ?」
と訊き返しかけてから、「指輪のことを」が省略されているのだと気付き、慎重に答える。
「ギルド『黄金林檎』の元メンバーから」
とたん、逆立つ短髪の下で、太い眉毛がびくりと動いた。
「名前は」
ここで俺はやや迷ったが、仮にシュミットが昨日の事件の犯人ならば、当然カインズがヨルコと一緒にいたことは知っているはずだ。今更名前を伏せる意味はない。
「ヨルコさん」
答えると、大男は一瞬放心したように視線を上向け、次いでふうううっと長く息を吐いた。俺は無表情を保ちながら、素早く考えた。今の反応が見た目どおり『安堵』ならば、それはヨルコが自分と同じ側、つまり『指輪売却派』だったことを知っているからだろう。
やはりシュミットもすでに、昨日の事件の構図が、グリムロックを含む『売却反対派』の誰かによる『売却派』への復讐であるという可能性に辿り着いているのだ。だからこそ、仮病で狩りを休み安全なギルド本部に立てこもっていた。
現時点では、シュミットがカインズ殺害の犯人であるという線はかなり薄くなってきているが、それでも動機がないわけではない。例えば指輪事件の犯人はカインズとシュミットで、口封じのために一方が一方を殺した可能性は残る。そう考えつつ、俺は直球な質問を放った。
「シュミットさん。昨日あんたが持っていった槍を作ったグリムロック氏、今どこにいるか知ってるか?」
「し……知らん!!」
叫びながら、シュミットは激しく首を振った。
「ギルド解散以来いちども連絡してないからな。生きてるかどうかも知らなかったんだ!」
早口で言いながらも、視線が街並みのあちこちを彷徨う。まるで、どこからか槍が飛んでくるのを怖れるように。
と、ここで今まで黙っていたアスナが、穏やかな声で話しかけた。
「あのね、シュミットさん。わたし達は、黄金林檎のリーダーさんを殺した犯人を捜してるわけじゃないの。昨日の事件を起こした人を……もっと言えば、その手口をつきとめたいだけなのよ。『圏内』の安全を今までどおりに保つために」
わずかな間を取り、いっそうの真剣味を加えて続ける。
「……残念だけど、現状でいちばん疑わしいのは、あの槍を鍛えた……そしてギルドリーダーさんの旦那さんでもあったグリムロックさんです。もちろん、誰かがそう見せかけようとしている可能性もあるけど、それを判断するためにも、どうしてもグリムロックさんに直接話を聞きたいの。今の居所か、あるいは連絡方法に心当たりがあったら、教えてくれませんか?」
大きなヘイゼルの瞳で凝と見詰められ、シュミットは僅かに上体を引いた。
そのままぷいっと横を向き、口元をかたくなに引き結んでしまう。アスナの正面攻撃も効かないとは、これは一筋縄ではいかないかと俺はため息を飲み込んだ。しかし、直後。
「…………居所は本当にわからない。でも」
ぼそぼそとシュミットは話しはじめた。
「当時、グリムロックが異常に気に入ってたNPCレストランがある。ほとんど日に一度は行ってたから、もしかしたら今でも……」
「ほ、ほんとか」
俺は身を乗り出しながら、同時に考えた。
アインクラッドでは、食べることがほとんど唯一の快楽と言っていい。そして同時に、廉価なNPC料理で好みの味が見つかることはかなり稀だ。俺とても、日々の食事はわずか三軒のレストランをローテーションしているのだ。
毎日行くほど気に入った店なら、ずっと断ちつづけることはなかなかに難しいはずだ。
「なら、その店の名前を……」
「条件がある」
言いかけた俺の言葉を、シュミットが半ばで遮った。
「教えてもいいが、一つだけ条件がある。…………彼女に、ヨルコに会わせてくれ」
シュミットを手近な道具屋で待たせ、俺とアスナは出された条件について手短に話し合った。
「危険は……ないわよね? あるのかしら?」
「う、うーん……」
アスナに問われ、しかし俺も即座には判断ができずにしばし唸った。
仮にシュミットが、あるいはほとんど有り得ないだろうがヨルコが昨日の圏内殺人の犯人だったとすると、どちらの場合も一方がもう一方を次の標的にしている可能性は高い。引き合わせたその場で謎の『圏内PK技』が炸裂し、新たな死者が出てしまうという展開だって絶対にないとは言えない。
ただ、その場合も、武器を装備してソードスキルを発動させる手順は絶対に必要になるはずだ。そしてイクイップ操作には、ウインドウを開いて装備フィギュアをいじりOKボタンを押すだけの、最低でも四、五秒はどうしても要求される。
「…………俺たちが目を離さなければ、PKのチャンスは無いはずだ。でも、それが目的じゃないとすると、そもそもシュミットの奴なんで今更ヨルコさんに会わせろなんて言い出すんだ」
両手を軽く広げてみせると、アスナも大きく首を傾げる。
「さあ……実は片想いしてた、とかじゃ……ないわよね、うん」
「えっ、マジで」
俺は思わず、朴訥そうと言えなくもない外見のシュミット氏を振り向こうとしたが、アスナにコートの襟を引っ張られ制止されてしまった。
「違うって言ってるでしょ! ……ともかく、危険がないならあとはヨルコさん次第だわ。メッセージ飛ばして確認してみる」
「は、はい、お願いします」
アスナはウインドウを開くや、猛烈な速度でホロキーボードをタイプした。この『インスタント・メッセージ』は即時に連絡が取れる便利な機能だが、たとえ相手の名前が判っていても、フレンド登録しているか同じギルドのメンバーか、あるいは結婚していないと利用できない。よってグリムロック氏への連絡には使えないわけだ。
ほんの一分足らずで返信があったらしく、アスナは開いたウインドウを一瞥するや頷いた。
「OKだって。じゃあ……ちょっと不安だけど、案内しましょう。場所はヨルコさんが泊まってる宿屋でいいわよね」
「うん。彼女を外に出すのはまだ危険だからな」
同意してから、俺は今度こそ背後の道具屋で待っているシュミットに向き直った。頷きかけると、重武装の大男は、あからさまにほっとした顔になった。
三人で五十七層主街区マーテンの転移門から出たときには、街はすでに夕景に包まれていた。
広場にはNPCや商人プレイヤーの屋台が立ち並び、賑やかな売り声を響かせている。その間を、一日の疲れを癒しにきた剣士たちが三々五々連れ立って歩いているが、広場のとある場所だけが、ぽかりと空疎な間隙を作っていた。
小さな教会に面した一画。言うまでもなく、昨日カインズという名の男が謎の惨死を遂げた場所だ。俺はどうしても吸い寄せられそうになる視線を無理やり前方に固定し、アスナとシュミットの前後を挟む並びで歩き始めた。
数分で目指す宿屋に到着し、二階へとのぼる。長い廊下の一番奥が、ヨルコが滞在――あるいは保護されている部屋だ。
ドアをノックし、キリトです、と名乗る。
すぐに細い声でいらえがあり、俺はノブを回した。『フレンドのみ開錠可』設定のドアロックが、かちんと軽い音を立てて解除される。
引きあけたドアの正面、部屋の中央に向かい合わせに置かれたソファの一方に、ヨルコが腰掛けていた。す、と立ち上がり、ウェーブのかかる髪を揺らして軽く一礼する。
俺はその場から動かずに、ヨルコの張り詰めた表情、そして背後のシュミットの同じく強張った顔を順番に見て、言った。
「ええと……まず、安全のために確認しておくけど、二人とも武器は装備しないこと、そしてウインドウを開かないことを守ってほしい。不快だろうけど、宜しく頼む」
「……はい」
「わかっている」
ヨルコの消え入りそうな声、シュミットの苛立ちの滲む声が同時に応じた。俺はゆっくり中に足を踏み入れ、シュミットを導きいれた。
随分と久しぶりに対面するはずの、元『黄金林檎』メンバー同士の二人は、しばし無言のまま視線を見交わしていた。
かつてはギルメンだったヨルコとシュミットだが、今となってはそのレベル差は二十を超えているだろう。しかし俺の目には、シュミットのほうが余計に緊張しているように見えた。
事実、先に口を開いたのはヨルコだった。
「……久しぶり、シュミット」
そして薄く微笑む。対するシュミットは、一度ぎゅっと唇を噛み、かすれた声で答えた。
「……ああ。もう二度と会わないだろうと思ってたけどな。座っていいか」
ヨルコが頷くと、フルプレートアーマーをがしゃがしゃ鳴らしながらソファーに歩み寄り、向かい側に座った。さぞかし窮屈だろうと思うが、除装する様子はない。
俺はアスナとちらりと目を見交わすと、ドアを閉めてロックされたことを確認し、向き合って座るヨルコとシュミットの東側に立った。反対側にはアスナが立つ。
数日間の缶詰を強いられるヨルコのためにいちばん高い部屋を借りたので、四人が環になってもまだ周囲は広々としていた。ドアは北側の壁にあり、西には寝室へと続くもう一つのドア、東と南は大きな窓になっている。
南の窓は開け放たれ、春の残照を含んだ風がそよそよと吹き込んでカーテンを揺らしていた。もちろん窓もシステム的に保護されており、誰かが侵入してくることは絶対にない。周囲の建物よりやや高台になっているので、白いカーテンのあいだから、濃い紫色に沈む街並みが遠くまで見渡せる。
風に乗って届いてくる街の喧騒を、ぽつりと発せられたヨルコの声が遮った。
「シュミット、いまは聖竜連合にいるんだってね。すごいね、攻略組のなかでもトップギルドだよね」
素直な賛辞と思えたが、シュミットは眉間のあたりにいっそうの険しさを漂わせ、低く答えた。
「どういう意味だ。不自然だ、とでも言いたいのか」
とげとげしいにも程がある返しに俺は目を剥いたが、ヨルコは動じなかった。
「まさか。ギルドが解散したあと、凄く頑張ったんだろうなって思っただけよ。私やカインズはくじけて上にのぼるのを諦めちゃったのに、偉いよね」
肩にかかる濃紺の髪をそっと払い、微笑む。
フルプレ装備のシュミットとは比較にならないが、今夜はヨルコも相当に着込んでいた。厚手のワンピースに革のダブレットを重ね、さらにベルベットのチュニックを羽織って肩にはショールまで掛けている。金属防具は無くとも、これだけ着込めば相当の防御力が加算されているはずだ。表面上は平静でも、やはり彼女も不安なのだろうか。
こちらは緊張を隠そうともしないシュミットが、がちゃっと鎧を鳴らして身を乗り出した。
「オレのことはどうでもいい! それより……、訊きたいのはカインズのことだ」
トーンを押し殺したものに変え、続ける。
「何で今更カインズが殺されるんだ!? あいつが……指輪を奪ったのか? GAのリーダーを殺したのはあいつだったのか!?」
GA、というのがGolden Apple、つまり黄金林檎の略称であることはすぐに解った。しかし、今の台詞は、シュミットが指輪事件および圏内殺人双方と無関係だと宣言したに等しい。これが演技だとしたら大したものだ。
低い叫びを聞いたヨルコの表情が、初めて変わった。微笑を消し、正面からシュミットを睨みつける。
「そんな訳ない。私もカインズも、リーダーのことは物凄く尊敬してたわ。指輪の売却に反対したのは、コルに変えてみんなで無駄遣いしちゃうよりも、ギルドの戦力として有効利用すべきだと思ったからよ。ほんとはリーダーだってそうしたかったはずだわ」
「それは……、オレだってそうだったさ。忘れるな、オレも売却には反対したんだ。だいたい……指輪を奪う動機があるのは、反対派だけじゃない。売却派の、つまりコルが欲しかった奴らの中にこそ、売り上げを独占したいと思った奴がいたのかもしれないじゃないか!」
がつっ、とガントレットを嵌めた右手で自分の膝を叩き、頭を抱え込む。
「なのに……、グリムロックはどうして今更カインズを……。反対派を全員殺す気なのか? オレやお前も狙われてるのか!?」
――演技、にはどうしても見えなかった。歯を食いしばるシュミットの横顔には、明確な恐怖が刻まれているように、俺には思えた。
怯えるシュミットに対して、再び平静さを取り戻したヨルコが、ぽつりと言葉を投げかけた。
「まだ、グリムロックがカインズを殺したと決まったわけじゃないわ。彼に槍を作ってもらった他のメンバーの仕業かもしれないし、もしかしたら……」
虚ろな視線を、ソファの前に置かれた低いテーブルに落とし、呟く。
「リーダー自身の復讐なのかもしれないじゃない? 圏内で人を殺すなんて、普通のプレイヤーにできるわけないんだし」
「な…………」
ぱくぱくと口を動かし、シュミットは喘いだ。これには俺も、少しばかりぞっとさせられたことを否定できない。
シュミットは微笑むヨルコを呆然と見やり、言った。
「だって、お前さっき、カインズが指輪を奪ったわけがないって……」
すぐには答えず、ヨルコは音もなく立ち上がると、一歩右に動いた。
両手を腰の後ろで握ると、南の窓に向かってゆっくり後ろ向きに歩いていく。スリッパが立てる音にあわせて、細かく切られた言葉が流れる。
「私、ゆうべ、寝ないで考えた。結局のところ、リーダーを殺したのは、ギルメンの誰かであると同時に、メンバー全員でもあるのよ。あの指輪がドロップしたとき、投票なんかしないで、リーダーの指示に任せればよかったんだわ。ううん、いっそリーダーに装備してもらえばよかったのよ。剣士として一番実力があったのはリーダーだし、指輪の能力を一番活かせたのも彼女だわ。なのに、私たちはみんな自分の欲を捨てられずに、誰もそれを言い出さなかった。いつかGAを攻略組に、なんて口で言いながら、ほんとはギルドじゃなくて自分を強くしたいだけだったのよ」
長い言葉が途切れると同時に、ヨルコの腰が南の窓枠に当たった。
そのままそこに腰掛けるようにしながら、ヨルコはもうひと言だけ付け加えた。
「ただ一人、グリムロックさんだけはリーダーに任せると言ったわ。だからあの人には、多分私たち全員に復讐する権利があるんだわ。そしてもちろん、リーダー本人にも」
しん、と落ちた沈黙のなか、冷たい夕暮れの風がかすかに部屋の空気を揺らした。
やがて、かちゃかちゃかちゃ、と小さく鳴り響いたのは、細かく震えるシュミットの体を覆う金属鎧だった。歴戦のトッププレイヤーは、蒼白になった顔を俯け、うわごとのように呟いた。
「…………冗談じゃない。冗談じゃないぞ。今更……半年も経ってから、何を今更なんだよ……」
がばっ、と上体を持ち上げ、突然叫ぶ。
「お前はそれでいいのかよ! 今まで頑張って生き抜いてきたのに、こんな、わけもわからない方法で殺されていいのか!?」
シュミットと、俺、そしてアスナの視線が窓際のヨルコへと集まった。
どこか儚げな雰囲気をまとう女性プレイヤーは、視線を宙に彷徨わせながら、しばらく言葉を探すようだった。
やがてその唇が動き、何かを言おうとした――
その瞬間。
とん、という乾いた音が部屋に響いた。同時に、ヨルコの目と口が、ぽかんと見開かれた。
続いて、細い体がふらっと揺れた。がく、という感じで一歩踏み出し、くるっと振り返って窓枠に手をつく。
その時、一際強く風が吹き、ヨルコの背中に垂れる髪を流した。
俺はそこに、信じがたいものを見た。
真っ白い起毛のショール。その中央に、小さな黒い棒のようなものがくっついている。
それはあまりにもちっぽけで、瞬間、いったい何なのかわからなかった。だが、その棒を包み込むように明滅する赤い光を認識した途端、俺は戦慄した。
あれは、スローイングダガーの柄だ。そして刀身は、丸ごとヨルコの体に埋まっている。
いずこからか飛来した武器に貫かれ、頼りなく揺れる体が、ぐらっと窓の奥へと傾いた。
「あっ……!」
アスナが悲鳴じみた喘ぎを漏らした。同時に俺は飛び出していた。
手を伸ばし、ヨルコの体を引き戻そうとする。だが。
ショールの端にわずかに指先が掠っただけで、ヨルコは音もなく外側へと落下していった。
「ヨルコ!!」
身を乗り出し、叫ぶ俺の目の前で。
眼下の石畳に墜落し、バウンドしたヨルコの体を、青い光が包んだ。
ぱしゃっ、という、あまりにもささやかな破砕音。ポリゴンの欠片が、炸裂したブルーの光に吹き散らされるようにして拡散し――。
一秒後、乾いた音を立てて、漆黒のダガーだけが路上に転がった。
有り得ない!!
何重もの意味で、俺の脳内に無音の絶叫が響いた。
部屋の中はシステム的に保護されているのだ。たとえ窓が開いていようとも、その内部に侵入することは勿論、何かを投げ込むことも絶対に不可能だ。
さらに、あんな小型のスローイングダガーでは、たとえ貫通継続ダメージが発生していたにせよヨルコのHPすべてを吹き飛ばすことなど絶対にできない。しかも、ダガーが刺さってからヨルコが落下して消滅するまで、どう長く見積もっても五秒と経過していなかった。
絶対に有り得ない。これはもう、『圏内PK』などという呼び方では収まらない、恐るべき即死攻撃だ。
息が詰まり、背筋に極低温の戦慄が駆け巡るのを感じながら、俺はぐいっと顔を上げ、見開いた両眼での外の街並みをカメラのように切り取った。
そして、それを見た。
二ブロックほども離れているだろう、同じくらいの高さの建物の屋根。
深い紫色の残照を背景に、ひっそりと立つ黒衣の姿を。
漆黒のフーデッドローブに包まれ、顔は見えなかった。脳裏に閃く、死神、という単語を押しのけて俺は叫んだ。
「野郎っ……!!」
そして窓枠に右足を掛け、背後を見ずにもう一声――
「アスナ、後頼む!!」
叫び、通りを隔てた向かいの建物の屋根へと一気に跳んだ。
† 13 †
しかし、いかに敏捷力補正があるとは言え道幅五メートルを助走なしに飛び越えようとしたのはやや無謀だったようで、俺は足から着地はできずに、いっぱいに伸ばした右手で目指す屋根の縁を危うく掴んだ。
今度は筋力補正を発揮して、倒立の要領で体を放り上げる。くるっと反転して立ち上がると同時に、後ろからアスナの切迫した声が届いた。
「キリトくん、だめよ!」
制止の理由は明白だった。もしあのスローイングダガーによる攻撃を被弾すれば、俺も即死してしまうかもしれないからだ。
しかし、ここで身の安全を優先して、ついにその姿を現した殺人犯を見逃すことなどどうしてもできなかった。
ヨルコの保護を請け負ったのは俺だ。しかし、システム的に保護された宿屋に閉じこもっていれば絶対に危険はないと短絡的に考え、その先を想像しなかった。システム的保護、というならばそもそも街中――圏内すべてがそうであるはずなのだ。圏内でPKを行える相手ならば、宿屋の保護すらも無効化できる可能性があると、なぜ考えなかったのか。
俺の悔恨をあざ笑うかのように、彼方の屋根の上で、黒ローブの人影がくるりと身を翻した。
「待てっ……!」
叫び、俺は猛然と走りはじめた。同時に背中の剣を引き抜く。もちろん俺の剣では奴にダメージを与えられないだろうが、投げられたダガーを弾くことならできるはずだ。
助走の勢いを殺さぬよう、屋根から屋根へと思い切り良く飛び移っていく。足下の道を行き交うプレイヤーたちは、俺を敏捷力自慢の痛いパフォーマーだと思っているだろうが、今は構っていられない。コートの裾をなびかせ、夕闇を切り裂くようにジャンプを続ける。
フーデッドローブの何者かは、逃げる様子もなく悠然と立ち、急接近する俺を眺めている。と――。
不意に殺人者の右手が動き、ローブの懐へと差し込まれた。俺は息を詰め、剣を正面に構えた。
しかし。
引き出された手に握られていたのは、スローイングダガーではなかった。宵闇の底でも、鋭いブルーの煌きが俺の目を射た。転移結晶。
「くそっ」
俺は毒づき、疾駆しながら左手で腰のピックを三本同時に抜いた。振りかぶり、一息に投擲する。ダメージが目的ではなく、反射的な回避動作を取らせてコマンド詠唱を遅らせる狙いだ。
だが相手は落ち着いていた。銀のライトエフェクトを引いて襲い掛かる三本の鋼針を怖れる様子もなく結晶を掲げる。
フーデッドローブの寸前で、ピックたちは全て紫色の障壁に阻まれ、空しく屋根に転がった。俺はせめて、相手の音声コマンドを聞き取ろうと耳を澄ませた。行き先が判れば、俺も結晶で追跡することができる。
目論みは、しかし今度もまた裏切られた。直後、マーテンの街全体に、大ボリュームの鐘の音が響き渡ったのだ。
俺の耳――正確には聴覚野は、午後六時を告げるシステムサウンドに大部分占領されて、殺人者が最低限のボリュームで発声したコマンドを捉えることができなかった。青いテレポート光が迸り、あと通り一つを隔てたところまで肉薄した俺の視界から、不吉なフーデッドローブ姿が呆気なく消え去った。
「…………っっ!!」
俺は声にならぬ叫びを上げ、右手の剣を、寸前まで奴が立っていた場所へと叩きつけた。紫の光が飛び散り、視界の中央に、【Immortal Object】のシステムタグがささやかに表示された。
屋根ではなく道を使って悄然と宿屋まで戻った俺は、ヨルコの落下した窓の下で立ち止まり、そこに転がっている漆黒のスローイングダガーを眺めた。
つい数分前、そこで一人の女性が死んだ――消滅したことが、どうしても信じられない。俺にとって、プレイヤーの死というのは、あらゆる努力、あらゆる回避策を積み重ねてなお及ばぬときにのみ訪れる悲劇だった。あんなふうに即時的かつ不可避の殺人手段など存在していいはずがない。
身をかがめ、ダガーを拾い上げる。小型だが、全体が同一の金属素材でずしりと重い。剃刀のように極薄の刃には、鋸に似た逆歯がびっしりと刻まれている。間違いなく、カインズを殺したショートスピアと同じ意匠で造られたものだ。
仮に今、これを俺の体に刺せば、俺のHPも急減少するのだろうか。ふと実験してみたいという衝動に駆られるが、ぎゅっと瞼をつぶってそれを払い落とし、俺は宿屋に入った。
二階に上り、ノックして名乗ったあとノブを回す。ガチンと響くシステム的開錠音を空しく聞きながら、ドアを開ける。
アスナはレイピアを抜剣していた。俺を見るや、憤激と安堵が同量ずつ混ざったような表情を浮かべ、押し殺した声で叫んだ。
「ばかっ、無茶しないでよ!」
ふう、と長く息を吐き、続ける。
「……どうなったの?」
俺は小さく首を振った。
「だめだ、テレポートで逃げられた。顔も声も、男か女かも判らなかった。まあ……あれがグリムロックなら、男だろうけど……」
SAOでは同性婚は不可能だ。黄金林檎のリーダーが女性だったなら、結婚していたというグリムロックは自動的に男だということになる。もっとも、それは絞込みフィルタとしては使えない情報だ。SAOプレイヤーの、実に八割近くが男なのだから。
さして意味を持たない俺の言葉に――。
不意の反応を見せたのは、ソファーの上で大きな体を限界まで丸め、かちゃかちゃと金属音を響かせていたシュミットだった。
「……ちがう」
「違うって……なにが?」
訊ねたアスナを見ることなく、いっそう深く顔を俯けながら、シュミットは呻いた。
「違うんだ。あれは……屋根の上にいたローブは、グリムロックじゃない。グリムはあんなに背が高くない。それに……それに」
続いて発せられた言葉に、俺も、アスナも息を呑んだ。
「あのフードつきローブは、GAのリーダーのものだ。彼女は、街に行くときはいつもあんな格好をしていた。そうだ……指輪を売りにいくときだって、あれを着ていたんだ! あれは……さっきのあれは、彼女だ。俺たち全員に復讐に来たんだ。あれはリーダーの幽霊だ」
はは、はははは、と不意にタガが外れたような笑い声を漏らす。
「幽霊ならなんでもアリだ。圏内でPKするくらい楽勝だよな。いっそリーダーにSAOのラスボスを倒してもらえばいいんだ。最初からHPが無きゃもう死なないんだから」
ははははは、とヒステリックに笑い続けるシュミットの目の前のテーブルに、俺は左手に握ったままのものを放り投げた。
ごとん、と鈍い音が響くや、シュミットはぴたりと笑いを止めた。凶悪に光る鋸歯状の刃を、数秒見詰め――。
「ひっ…………」
弾かれたように上体を仰け反らせる大男に、俺は抑えた声を投げかけた。
「幽霊じゃないよ。そのダガーは実在するオブジェクトだ。SAOサーバに書き込まれた、ただのコードの塊だ。あんたのストレージに入ったままのショートスピアと同じく。信じられなきゃ、それも持っていくといい」
「い、いらない! 槍も返す!!」
シュミットは絶叫し、ウインドウを開くや、震える指先を何度もミスらせながら操作して黒いスピアをオブジェクト化させた。窓の上に浮かびあがった武器を、払い落とすようにダガーの隣に転がす。
そしてまた頭を抱えてしまう男に、アスナが穏やかな声をかけた。
「……シュミットさん。わたしも、幽霊なんかじゃないと思うわ。だって、もしアインクラッドに幽霊が出るなら、黄金林檎のリーダーさん一人だけのはずがないもの。今まで死んだ一万五千人みんなが無念だったはずだわ。そうでしょう?」
まったくそのとおりだ、と俺も思った。俺だって、ここで死んだら口惜しさのあまり化けて出る自信がある。運命なりと受け入れて成仏できそうな人間は、俺の知るかぎりKoBリーダーのあんにゃろうくらいのものだ。
だが、シュミットは、項垂れたまま今度も首を左右に動かした。
「あんたらは……彼女を知らないだろ。あの人には……なんか、そんなところがあったんだよ。すげえ強くて、いつも公正だったけど……オレは、オレは彼女が……グリセルダが笑ったところを見たことがない」
しん、と重苦しい沈黙が広い部屋を満たした。
開け放たれた窓の外はいつのまにかすっかり日が沈み、オレンジ色の街明かりが幾つも灯って、その下は一夜の憩いを求めるプレイヤーたちで賑わっているはずだが、その喧騒も不思議にこの部屋を避けているようだった。
俺は大きく息を吸い、無理やりに静寂を破った。
「……あんたがそう信じるなら、好きにすればいいさ。でも俺は信じない。この二軒の圏内殺人には、絶対にシステム的な裏打ちがあるはずだ。俺はそれを突き止めてみせる。……あんたにも、約束どおり協力してもらうぞ」
「きょ、協力……?」
「グリムロックの行きつけの店を教えるって、あんた言ったよな。今となっては、それだけが唯一の手がかりだ。何日張り込むことになっても、絶対に見つけだす」
正直、グリムロックという名のプレイヤーを探し当てたところで、その先のプランがあるわけではない。『軍』ではあるまいし、監禁して締め上げるような真似ができるはずはないからだ。
だが、殺される寸前のヨルコの言葉どおりに、グリムロックが指輪売却派の三人、あるいは元ギルメンの全員の殺害を狙っているのなら、これからも動き続けるはずだ。悟られずに監視を続け、次の圏内PKを実行しようとする瞬間を押さえる――、今思いつける手はそれくらいしかない。
シュミットは再び項垂れたが、やがてかすかな動作で頷いた。ふらりと立ち上がり、壁際のライティングデスクに歩み寄ると、備え付けの羊皮紙と羽ペンを取り、何かを書きつける。
その背中に、俺はふと思いつき、声をかけた。
「あ、ついでに、元黄金林檎のメンバー全員の名前も書いておいてくれるか。あとでもう一度、『生命の碑』で生存者を確認しにいくから」
うっそりと頷き、巨漢は置きかけたペンを握りなおすと更にしばらく走らせた。
やがて、書きあがった羊皮紙を片手に戻ってくると、それを差し出す前に言った。
「…………攻略組プレイヤーとして情けないが……オレはしばらくフィールドには出ない。ボス攻略パーティーは、オレ抜きで編成してくれ。それと……」
長い逡巡のあと、かつての剛毅さがすっかり抜け落ちた虚ろな表情で、ギルド聖竜連合のリーダー職を務めるランス使いは呟いた。
「これから、オレをDDAの本部まで送ってくれ」
† 14 †
シュミットを臆病と笑うことなど、俺にも、アスナにもできなかった。
怯えきった巨漢をあいだに挟み、56層転移門から聖竜の本部まで歩く間、俺もアスナも周囲の暗闇にひたすら視線を走らせていたからだ。もし似たようなフード付きローブを着込んだ無関係の他人が突然現れたら、反射的に飛びかかっていたかもしれない。
本部の巨大な城門をくぐっても、シュミットはまるで安堵の顔は見せなかった。小走りに建物へと飛び込んでいく背中を見送って、俺はふう、と息をついた。
傍らのアスナと、しばし互いに顔を見合わせる。
「…………悔しいね……ヨルコさんのこと…………」
やがてそう呟き、唇を噛むアスナに、俺は「そうだな」と掠れた声で応じた。
身勝手とわかってはいるが、ヨルコの死は、カインズのそれに数倍する衝撃を俺にもたらした。窓から落下していく彼女の姿を脳裏に思い描きながら、続けて言う。
「今までは正直、乗りかかった船、みたいな気持ちもあったけど……もう、そんなこと思ってちゃだめだよな。彼女のためにも、なんとしてもこの事件を解決しないと。――俺はこれからすぐ、問題のレストランの近くに張り込む。君はどうする?」
語尾が消えないうちに、さっと顔を上げたアスナが、しっかりした声で答えた。
「どうする、なんて訊かないでよ。行くわ、もちろん。一緒に、最後まで突き止める」
「……そっか。じゃあ、よろしく頼む」
正直、アスナを今後も付き合わせることにわずかな迷いはあった。俺たちが当事者として事件に関わり続ければ、いつグリムロックの新たな標的として狙われても不思議はないからだ。
しかしそんな俺の逡巡を断ち切るように、アスナは勢いよく踵を返すと、転移門広場目指して歩きはじめた。俺は冷たい夜気を大きく吸い込み、一気に吐き出してから、足早に彼女のあとを追った。
カインズのメモに記されていた店は、20層主街区の下町にある小さな酒場だった。曲がりくねる小路にひっそりと看板を揚げている佇まいからは、『毎日食べても飽きない』級の料理が出てくるとはなかなか思えない。
しかし、こういう店に隠れ名物があるのもまた事実であり、俺は店内に突進してメニューを片っ端から試してみたいという欲求を抑えるのに少々苦労した。もしグリムロックがあのフーデッドローブの殺人者ならばすでにこちらの顔を見ているわけであり、先に気付かれたら二度とこの店には現れるまい。
近くの建物の角に身を潜め、周囲の地形を確認した俺は、幸い店の入り口を見通せる位置に宿屋が一軒あるのに気付いた。人通りが途切れた瞬間を狙って宿屋に飛び込み、通りに面した二階の部屋を借りる。
狙いどおり、窓からは問題の酒場の入り口がはっきり視認できた。部屋の明かりを落としたまま窓際に椅子を二脚運び、俺とアスナは並んで腰を下ろすと監視態勢に入った。
しかし直後、アスナが「ねえ」と眉を寄せた。
「……張り込みはいいけど、わたし達、グリムロックさんの顔知らないよね」
「ああ。だから最初はシュミットも連れてこようと思ってたけど、あの様子じゃちょっと無理そうだったからな……。俺はいちおう、さっきローブ越しとはいえグリムロックとおぼしきプレイヤーをかなりの近距離から見てる。身長体格で見当をつけて、ピンと来る奴が現れたら、ちょっと無茶だけどデュエル申請で確認する」
「えーっ」
アスナが目を丸くして上体を引いた。
SAOでは、他のプレイヤーに視線をフォーカスさせると、黄色あるいはオレンジのカーソルが出現する。しかし、フレンドやギルメンでない限りカーソルには相手のHPバーしか表示されず、名前もレベルも判らない。
これは安易な犯罪行為を防ぐための当然の仕様なのだが、今回のように人を探そうとすると少なからぬ苦労を強いられることとなる。他人の名前を確実に知ろうと思ったら方法はたった二つ、トレードを申し込んで受諾されるか、あるいは圏内デュエルを申請するしかない。仮にグリムロックらしき男を見つけたとして、突然トレードを申請してもOKされるわけがないので、あとは強引にもほどがあるがいきなりデュエルを申し込むしかないのだ。これなら、相手が受諾しようとしまいと、挑戦した時点で俺の視界に『誰それに1vs1デュエルを申請しました』というシステムメッセージが出現する。
無論ノーマナー行為もいいところだが、今回ばかりは致し方ない。それを相手が受諾し、武器を抜けば――まあ、そのときはそのときだ。
一瞬驚いた顔を見せたアスナも、すぐに他に方法がないことを理解したのだろう。不承不承という様子ながら頷いた。
「……でも、わたしも一緒に行くからね」
続けてきっぱりと宣言されてしまえば、部屋で待っててという言葉を飲み込むしかない。
今度は俺が躊躇いながら頷き、ついでに時刻を確認する。午後6時40分、そろそろ街が晩飯を食いにきたプレイヤーで賑わいはじめる頃だ。問題の酒場も、地味な店構えのわりにスイングドアが頻繁に揺れている。しかしまだ、目の裏に焼きついたあのフーデッドローブ姿に合致する体格のプレイヤーは現れない。
あんなに客が入るってことは、やっぱり隠れ名店なのかなあ。気になるなあ。
などと考えたとたん、強烈な空腹を覚えて俺は胃を押さえた。その途端、目の前にずいっと突き出されてきたものがあった。視線を通りに落としたまま白い紙包みを差し出すアスナは、唇を尖らせ、「ほら」と短く言った。
「へ……く、くれるの?」
「この状況でそれ以外何があるのよ。見せびらかしてるとでも?」
「い、いえ。すいません、もらいます」
首を縮め、紙包みを受け取る。ちらっと視線を振ると、アスナも同じものをオブジェクト化させ、ウインドウを消している。
おそるおそる紙を剥がすと、出てきたのは大ぶりのバゲットサンドだった。かりっと焼けたパンのあいだに、野菜やロースト肉がたっぷり挟まれたそれをほけーっと眺めていると、またアスナが冷ややかな声で言った。
「そろそろ耐久値が切れて消滅しちゃうから、急いで食べたほうがいいわよ」
「えっ、はっ、はい、頂きます!」
消えると聞いては呆けている時間はない。あれこれ考えることは後回しにして、俺はあんぐりと大口を開けてかぶりつき、パリザクモニュという歯ごたえにしばし浸った。味付けもシンプルながら適度に刺激的で、次々頬張ってしまう。アイテムとしての耐久値は味には関係ないので、存在している限りは出来立てと何ら変わることはない。
視線を酒場の入り口に固定しながらも、大型のバゲットを一気に貪り尽くし、俺はふうーと満足のため息をついた。ちらっと横目でまだ上品に口を動かしているアスナを見やり、訊ねる。
「とってもご馳走様。それにしても、いつの間に弁当なんて仕入れてたんだ? 通りの屋台じゃ、こんな立派な料理売ってないよな?」
「耐久値がもう切れるって言ったでしょ。こういうこともあるかと思って、朝から用意しといたの」
「へえ……さすが攻略担当責任者様だなあ。メシのことなんてまったく考えてなかったよ。……ちなみに、どこの店の?」
私的名店リストのかなり上位に食い込む味だったので、しばらくはこれを攻略のお供にしようと思って俺はさらに質問した。しかしアスナは小さく肩をすくめ、予想外の答えを返した。
「売ってない」
「へ?」
「お店のじゃない」
何故かそこで押し黙り、それ以上何も言いそうにないので、俺はしばし首を捻ったあげくようやく悟った。店にて購った物に非ず、つまり自作アイテム也、とKoBサブリーダー様はのたまったのだ。
俺はたっぷり十秒ほど放心した挙句、やばい何か言わなきゃ、と軽めのパニックに見舞われた。朝方の、アスナのおめかしを全力スルーしてしまうという失態を二度繰り返すわけにはいかない。
「え……ええと、その、それは何といいますか……が、がつがつ食べちゃって勿体なかったなあ。あっそうだ、いっそのことアルゲードの市場でオークションにかければ大儲けだったのになあハハハ」
ガツン! とアスナの白革のブーツに椅子の脚を蹴り飛ばされ、俺は震え上がって背筋を伸ばしながら、またしても間違ってしまったことを悟った。
凄まじい緊張に満ちた数分間が過ぎ去り、自分も食事を終えたアスナがぽつりと呟いた。
「…………来ないね」
「えっ、う、うん。まあシュミットの話じゃ毎晩通ってるってわけでもなさそうだったからな。それにあの黒フードがグリムロックなら、PK行為のすぐあとにメシ食う気にもなかなかならないだろうし……二、三日は覚悟したほうがいいな」
早口でまくし立てながら、俺はもう一度時間を確かめた。張り込みを始めてからまだ三十分しか経っていない。俺はもう、グリムロックを見つけるまでは何時まで、何日かかってもこの部屋に篭もる覚悟だったが、副団長閣下はどうするつもりなのだろう。
と考えながらもう一度だけ視線を振ったが、アスナは深く椅子に腰掛け、立ち上がる気配もなかった。
あれっ、もしかして俺のさっきのセリフ、『二、三日ここに泊まろう』って意味になり得る? と今更思いつき、手に汗握りかけた途端、アスナがぽつりと声を発した。
「ねえ、キリト君」
「はっ……はい!」
しかし続けて発せられた言葉は、幸い――あるいは残念ながらまったく無関係の内容だった。
「君ならどうしてた? もし君が黄金林檎のメンバーだったら、超級レアアイテムがドロップしたとき、何て言ってた?」
「…………」
数秒間絶句し、さらに数秒黙考してから、俺は首を振った。
「……そうだなぁ。もともと俺は、そういうトラブルが嫌でソロやってるとこもあるしな……SAO以前にやってたMMOじゃ、レアアイテムの隠匿とか、売却益の誤魔化しとかでギルドがぎすぎすしたり、崩壊まで行った経験も結構あるから……」
MMOゲーマーのモチベーションは、突き詰めていけば、優越感の獲得にその大部分が求められることは否定できない。そして優越のもっとも解りやすい指標こそが『強さ』だ。鍛え上げたステータス、そして強力なレア装備の力でモンスターを、あるいはプレイヤーを蹴散らす。その快感は、極論、ネットゲーム以外では味わうことのできないものだ。現在の俺とても、『攻略組』などと呼ばれて畏怖される快感があるからこそ、長時間のレベリングを続けられるのだ。
仮にいまギルドに所属していて、ものすごい大金に換えられるアイテムがドロップしたとして――そして、ギルドの中に、それを装備するに相応しい誰かが居たとして。
俺は「あんたが使うべきだ」と言えるだろうか?
「…………いや、言えないな」
ぽつりと呟き、俺は一度首を左右に振った。
「自分が装備したい、とも言えないけど、だからってメンバーの誰かに譲るとも言えない。だから……そうだな、俺はもし黄金林檎のメンバーだったら、やっぱり売却派に入ったと思うよ。アスナは?」
訊くと、こちらは迷いを見せずに即答した。
「ドロップした人のもの」
「へっ?」
「KoB《うち》はそういうルールにしてるの。パーティープレイでランダムドロップしたアイテムは、全部それを拾ったラッキーな人の物になる。だってSAOはコンバットログが無いから、誰に何がドロップしたとか、全部自己申告じゃない。ならもう、隠匿とかのトラブルを避けようと思ったらそうするしかないわ。それに…………」
そこで少し言葉を切り、視線を酒場の入り口に据えながらも、アスナは僅かに目元を緩めた。
「そういうシステムだからこそ、この世界での『結婚』に重みが出るのよ。それまでなら隠そうと思えば隠せたものが、結婚した途端に何も隠せなくなる。逆に言うと、一度でもレアドロップを隠匿した人は、もうギルドメンバーの誰とも結婚できない。『ストレージ共通化』って、物凄くプラグマチックなシステムだけど、同時にとってもロマンチックだと私は思うわ」
その口調に、どこか憧れるような色合いを感じた気がして、俺は思わず二、三度瞬きをした。不意にわけもなく緊張し、俺はまたしても受け答えを大誤りした。
「そ、そっか、そうだよな。じゃああれだな、もしアスナとパーティー組んで戦闘したら、ドロップねこばばしないようにするよ俺」
ガタン! という音は、アスナが椅子ごと飛び退いた音だった。
部屋の明かりを消しているので顔色までは見えなかったが、数秒間に何種類もの表情をローテーションさせたあと、『閃光』は右手を振り上げて叫んだ。
「ば……バッカじゃないの! そんな日、十年待っても来ないわよ! あ、そ、そんなっていうのはつまり、君とパーティー組む日ってことよ。ていうか、ま、マジメに入り口チェックしなさいよ! 見落としたらどうすんのよ!」
が――――っと一しきり怒鳴り、アスナはぷいっと後ろを向いてしまった。会話のあいだ、一秒として酒場から視線を切らないでいたつもりだった俺は少々傷つき、「見てるよう」と情けない反論を口にしてから、ふと考えた。
ギルド黄金林檎の崩壊劇の原因となった指輪。そもそも、それが最初にドロップしたのは一体誰のストレージだったのだ?
別に大したことではない。しかし、リーダーを殺してまで奪うくらいなら、最初から隠匿したほうがずっと簡単だ。つまりドロップを申告したプレイヤーだけはリーダー殺害の犯人ではないことになる。
それもついでにシュミットに訊いておくんだったな、と俺は顔をしかめた。俺もアスナもシュミットとフレンド登録まではしていないので、ちょこっとインスタントメッセージで確認するという訳にはいかない。
とは言え、それは今更知っても仕方ない情報ではある。俺たちが追いかけているのは指輪事件ではなくて圏内殺人事件のほうなのだから。そう思いつつも、俺は諦め悪くシュミットに書いてもらったメモを取り出した。
アスナにちょっと店見ててと頼んでから、酒場の所在地に続いて列挙してあるギルド黄金林檎のメンバー名一覧を確認する。
グリセルダ。グリムロック。シュミット、ヨルコ、カインズ……金釘流のアルファベットで書きつけられた八つの名前。そのうち少なくとも三人は、すでにこの浮遊城から去っている。
これ以上犠牲者を出すわけにはいかない。グリムロックの復讐を止め、その圏内殺人のシステムを暴かねばならない。絶対に。
俺はそう心に刻みつけ、メモをストレージに格納しようとした。
しかし、小さな羊皮紙の一辺がオブジェクトから文字列へと変換される、その寸前――。
メモのある一点に、視線が吸い寄せられた。
「…………え……?」
呟き、慌てて目を近づける。ディティール・フォーカス・システムが作用し、羊皮紙上に書き付けられた文字のテクスチャがくっきりと解像度を増す。
「どういうことだ…………」
呟いた俺に、アスナが一瞬戸惑いの気配を向けてきた。
「どうしたの?」
だが、それに対して何かを答える余裕は俺にはなかった。脳をフル回転させて、今俺が見ているものの意味、その理由、そして意図を推し量ろうとする。
数秒後。
「あっ……ああ…………!!」
叫び、俺は椅子を蹴立てて立ち上がった。右手の紙片が、衝撃の大きさを映して激しく震えた。
「そうか……そうだったのか!!」
喘ぐように口走ると、アスナが戸惑いともどかしさ、苛立ちを等量ずつ含んだ声を発した。
「何よ、一体何に気付いたの!?」
「俺は……俺たちは……」
掠れた声を喉から押し出しながら、俺はぎゅっと強く両眼を瞑った。
「……何も見えていなかった。見ているつもりで、違うものを見ていたんだ。『圏内殺人』……そんなものを実現する武器も、スキルも、最初から存在しちゃいなかったんだ!!」
† 15 †
これは後から聞いた話だ。
ギルド聖竜連合ポールアーム部隊リーダーの要職につく攻略組プレイヤー・シュミットは、馴染んだギルド本部の自室に戻ってからも、ベッドに入ることはおろか、重装鎧を解除する気にもなれなかった。
部屋は城――というより城塞の、分厚い石壁の奥深くにあり、窓はひとつたりとも存在しない。そもそもギルドの本拠地はメンバー以外はシステム的に立ち入れないので、自室に居るかぎり安全だ。そう自分に言い聞かせても、どうしても視線をドアノブから外すことができない。
目を離した瞬間、あのノブが音もなく回るのではないか? そこから影のように滑り込んできたフーデッドローブの死神が、気付かないうちに背後に立っているのではないか?
周囲からは豪胆な壁戦士《タンク》と思われていたが、実際のところ、シュミットを攻略組の上位に留めているモチベーションは、『死への恐怖』以外の何物でもなかった。アインクラッドで生き残るには強くなくてはならない。そして強くなるためには大ギルドに所属しなくてはならない。その一念で、シュミットは攻略組プレイヤーとしても異例のペースでのし上がったのだ。
努力の甲斐あって、今やシュミットのHP、装備の防御力、そして鍛え上げた防御スキルの数々は、アインクラッドでも最堅固と言っていい高みに達していた。右手に巨大なランス、左手にタワーシールドを構えれば、たとえ正面から同レベルのMobが三匹来ても支え続けられるという自信があった。シュミットにしてみれば、紙にも等しい革装備に、攻撃一辺倒の武器とスキル構成のダメージディーラー――例えば数十分前まで顔を合わせていた黒づくめのソロプレイヤーのような――は、頭がおかしいとしか思えない人種だった。
なのに。
膨大なHPも。鎧のアーマー値も。ディフェンススキルも。つまりシステム的防御の全てが通用しない殺人者が今更現れるとは。しかもそいつが、明らかな意思を持って自分を狙っているだなんて。
幽霊――だなどと、本気で信じているわけではない。
いや、それすらももう確信は持てない。アンチクリミナルコードという絶対のルールを黒い霧のようにすり抜け、ちっぽけなスピアやダガー一本で軽々と命を奪っていくあの死神。あれはつまり、殺される間際の彼女の怨念がナーヴギアを通してサーバーに焼きついた、いわば電子の幽霊なのではないか?
だとすれば、堅固な城壁も、分厚い扉の錠前も、そしてギルドホームのシステム的不可侵も一切が無力だ。
来る。絶対今夜、眠りに落ちたところを狙ってあいつはやってくる。そして三本目の逆棘の武器を突き刺し、命を奪っていく。
その運命から逃れるには――もう、手段は一つしかない。
赦しを乞うのだ。跪き、額をこすり付けて謝罪し、怒りを解いてもらうのだ。自分の罪――半年前、さらなる強さ、いや硬さを求めてより上位のギルドに移るために犯した、たった一つの罪を告白し、心から懺悔すれば、たとえ相手が本物の幽霊だとしても赦してくれるはずだ。乗せられただけなのだから。口車に乗せられ、魔が差して、つい些細な犯罪行為――いや、それ以前の単なるノーマナー行為を犯してしまっただけなのだから。まさか、結果があのような悲劇に結びつくなどとは考えもせずに。
シュミットはふらりと立ち上がると、ウインドウを開き、転移結晶を一つオブジェクト化させた。力の入らない右手で握り締め、大きく一度深呼吸してから、掠れた声で呟いた。
「転移……ラーベルグ」
視界が青い光に覆われ、薄れると、そこはもう夜のただ中だった。
時刻は二十二時を回り、しかも辺鄙な既攻略層とあって、転移門広場にプレイヤーの姿はまったく無かった。周囲のNPC家屋もきっちりと鎧戸を閉め、商店の営業も終わっているので、まるで圏内ではなくフィールドに出てしまったかのような錯覚に襲われる。
半年前まで『黄金林檎』はこの村のはずれに小さなギルドホームを構えていたので見慣れた光景のはずなのだが、シュミットにはまるで村全体が自分を拒んでいるかのように思えた。
分厚い鎧の下で体をぶるぶる震わせ、崩れそうになる両脚を無理やり動かして、シュミットは村の外へと向かった。
目指したのは、主街区を出て二十分ほども歩いたところにある、小さな丘の上だった。当然ながら『圏外』であり、もはやアンチクリミナルコードは適用されない。しかしシュミットにはどうしてもここに来なければならない理由があった。あの黒衣の死神に見逃してもらうためには、もうこれしか思いつかなかった。
脚を引きずるようにして丘の天辺まで登ったシュミットは、頂上に生える捻じくれた低木の枝の下にあるものを少し遠くから見詰め、激しく体をわななかせた。
風化し、苔むした石の墓標。ギルド『黄金林檎』リーダー、今は亡き女性剣士グリセルダの墓だ。どこからともなく降り注ぐ朧な月明かりが、十字形の影を乾いた地面に刻んでいる。時折吹き抜ける夜風が、枯れ木の枝をぎぎ、ぎぎと鳴らす。
元々は、樹も墓碑もただの地形オブジェクトだった。デザイナーが何の意図もなく設置した風景的装飾だ。しかし、グリセルダが殺されてから数日後、黄金林檎が解散したその日に、残った七人のプレイヤーでここを彼女の墓にしようと決めて遺品の長剣を埋めた――正確には墓石の根元に放置し、耐久値が減少して消滅するに任せたのだ。
だから墓標に碑銘は無い。しかし、グリセルダに謝罪するためには、もうこの場所しか思いつかない。
シュミットはがくりと跪き、這いずるようにして墓石に近づいた。
砂利混じりの地面に額をこすりつけ、何度か歯をかちかちと鳴らしたあと、ありったけの意志を振り絞って口を開いた。思いのほかはっきりとした声が迸った。
「すまない……悪かった……赦してくれ、グリセルダ! オレは……オレは、まさかあんなことになるなんて思ってなかった……あんたが殺されちまうなんて、これっぽっちも予想してなかったんだ!!」
『ほんとうに……?』
声がした。奇妙なエコーのかかった、地の底から響いてくるような女の声。
すうっと意識が遠ざかりかけるのを必死に堪え、シュミットは恐る恐る視線を上向けた。
捩れた樹の陰から、音も無く黒衣の影が現れた。漆黒のフーデッドローブ。だらんと垂れた袖。闇夜の底で、フードの奥はまるで見とおせない。
しかし、そこから放射される冷たい視線をシュミットははっきりと意識した。悲鳴を迸らせそうになる口を両手で押さえ、シュミットは何度も頷いた。
「ほ……ほんとうだ。オレは何も聞かされてなかった。ただ……ただオレは、言われるがままに、ちょっとした……ほんのちょっとしたことを……」
『なにをしたの……? あなたは私に、なにをしたの、シュミット……?』
するするする、とローブの右袖から伸びる黒い細線を、シュミットは見開いた両眼で捉えた。
剣だ。しかし恐ろしく細い。使う者のほとんど居ない、『エストック』という片手用の近距離貫通武器。まさに針と言うよりない円断面の極細の刀身には、螺旋を描くように逆棘がびっしりと生えている。
ひぃぃっ、と喉の奥から細い悲鳴を漏らし、シュミットは何度も何度も額を地面に押し付けた。
「お……オレは! オレはただ……指輪の売却が決まった日、いつの間にかポケットにメモと結晶が入ってて……そこに、指示が…………」
『誰のだ、シュミット?』
今度は男の声だった。
『誰からの指示だ……?』
硬く首筋を強張らせ、シュミットは凍りついた。
鋼にでもなってしまったかのような首を軋ませながらどうにか持ち上げ、視線を上向ける。ちょうど樹の陰から、二人目の死神が姿を現すところだった。まったく同じ黒のフーデッドローブ。身長は一人目より僅かに高い。
「…………グリムロック……?」
ほとんど音にならない声でシュミットは呻いた。
「あんたも……あんたも死んでたのか…………?」
死神はその問いには答えず、替わりに無音の一歩を踏み出した。フードの下から、陰々と歪んだ声が流れる。
『誰だ……お前を動かしたのは誰なんだ……?』
「わ……わからない! 本当だ!!」
シュミットは裏返った声で喚いた。
「メモには……メモにはただ、リーダーの後を付けろと……や、宿屋にチェックインして、食事のために外に出たら、部屋に忍び込んで回廊結晶の位置セーブをして、そ、それをギルド共通ストレージに入れろとだけ書いてあって……お、オレがしたのはそれだけなんだ! オレはグリセルダに指一本触れてない! ま、まさか……指輪を盗むだけじゃなくて、こ、こ、殺しちまうなんて……オレも、オレも思ってなかったんだ!」
必死の弁解をまくし立てる間、二人の死神は身じろぎもしなかった。通り過ぎる夜風が枯れ木の梢とローブの裾を揺らした。
限界まで恐怖を募らせながらも、シュミットは脳裏に刹那の回想を瞬かせていた。
メモを見た瞬間、無茶だ、と呆れた。しかし同時に巧い手だと驚きもした。
宿屋の個室はシステム的にロックされるが、寝るとき以外はフレンド/ギルドメンバー開錠可設定にするのが普通だ。それを利用して回廊結晶のポータル位置を部屋の中に設定し、部屋の主が熟睡している時を狙って侵入する。あとはトレードを申し込み、相手の腕を勝手に動かして受諾させ、指輪を選択して交換ボタンを押す。
とてつもなくリスキーだが、しかし圏内でアイテムを奪うほとんど唯一の方法だとシュミットは直感した。メモの末尾に提示された報酬は、指輪の売却益の半額。成功すれば手に入る金額が一気に四倍になり、もし失敗――つまりトレード中にリーダーが起きてしまっても、顔を見られるのはメモの差出人ひとりだけだ。そいつが後から何を言おうと、知らぬ存ぜぬで通せばいい。宿屋に忍び込みポータルをセーブするだけなら、証拠は何も残らない。
シュミットは迷ったが、迷うことがすでにギルドとリーダーを裏切っているに等しかった。すべては一足飛びに攻略組にのし上がるため、そこでゲームクリアに貢献すれば結果としてリーダーを助けることにもなるのだと行為を正当化し、シュミットはメモに指示されていた通りのことをした。
翌日の夜、シュミットはリーダーが殺されたことを知った。さらにその翌日、約束どおりの額の金貨が詰まった革袋が自室のベッドに置かれてるのを見つけた。
「オレは……こ、怖かったんだ! もしあのメモのことを暴露したら、今度はオレが狙われると思って……だ、だから、本当にオレは知らないんだ、あれを書いたのが誰なのか! ゆ、赦してくれグリセルダ、グリムロック。オレは、ほ、本当に殺しの手伝いをする気なんかなかった。信じてくれ、頼む…………!」
甲高い悲鳴混じりの声を絞り出し、シュミットは何度も額を地面にこすり付けた。
一しきり夜風が唸り、ぎしぎしと梢が軋んだ。
それが収まると同時に、これまでの陰々としたエコーが綺麗に失せた女性の声が静かに響いた。
「全部録音したわよ、シュミット」
聞き覚えのある――つい最近聞いたばかりの声だった。シュミットはおそるおそる顔を持ち上げ、そして唖然と目を見開いた。
左手で持ち上げられた漆黒のフードの奥から現れたのは、数時間前、まさにこのローブ姿の死神に殺されたはずの当人の顔だった。波打つダークブルーの髪が、ふわりと風にたなびいた。
「…………ヨルコ…………?」
音にならない声で囁いたシュミットは、続けて隣の死神が露わにした実直そうな相貌を目にして、半ば気が遠くなりながら呟いた。
「………………カインズ」
「い、生きてるですって……!?」
驚愕の叫びを漏らすアスナに、俺はゆっくり頷きかけた。
「ああ、生きてる。ヨルコさんも、カインズ氏もな」
「だ、だって…………、だって」
何度か大きく呼吸を繰り返してから、アスナは窓枠に手をつき、かすれ声で反駁した。
「だって……私たち、ゆうべ確かに見たじゃない。槍に貫かれて、窓からぶら下がったカインズさんが、確かに死ぬところを」
「違う」
俺は大きく一度首を振った。
「俺たちが見たのは、カインズ氏の仮想体《アバター》が、ポリゴンの欠片を大量に振り撒きながら、青い光を放って消滅する現象だけだよ」
「だ、だから、それがこの世界での『死』でしょう?」
「……覚えてるか? 昨日、教会の窓から宙吊りになったカインズ氏は、空中の一点をぴったり凝視してた」
伸ばした人差し指を顔の前に掲げ、俺は言った。アスナが小さく頷く。
「HPバーを見てたんでしょう? 貫通継続ダメージで、徐々に減ってくところを……」
「俺もそう思った。でも、そうじゃない。彼が本当に見ていたのは、HPバーじゃなく、自分の着込んだフルプレートアーマーの耐久値だったんだ」
「た、耐久値ですって?」
「うん。今日の午前中に貫通ダメージが圏内でどうなるか実験をしたとき、俺は左手のグローブを外しただろ? 圏内では、プレイヤーに何をしようとHPは絶対に減らない。でもオブジェクトの耐久値は減る……さっきのバゲットサンドみたいに。もちろん装備類の耐久値は、食べ物みたいに自然減はしないけど、でもそれは損傷を受けてない場合だ。いいか、あの時、カインズのアーマーは槍に貫通されてた。槍が削っていたのは、カインズのHPじゃなく、鎧の耐久値だったんだ」
そこまで口にしたとき、眉を寄せていたアスナがハッと眼を見開いた。
「じゃ、じゃあ……あの時砕けて飛び散ったのは、カインズさんの肉体じゃなくて……」
「そう。彼の着込んでいた鎧だけなんだよ。そもそもおかしいと思ったんだ、飯を食いにきたのに、なんであんな分厚いアーマーをびっちり着込んでいたのか……あれは、ポリゴンの爆散を、可能な限り派手にするためだったんだ。そして、まさに鎧が壊れる瞬間を狙って、中身のカインズ氏は……」
「結晶でテレポートしたのね」
呟き、アスナは頭の中であの場面を再生しようとするかのように瞼を閉じた。
「その結果発生するのは、『青い光を放ってポリゴンが粉砕、飛散し、プレイヤーが消滅する現象』……つまり死亡エフェクトに限りなく近い、でもまったく別のもの」
「うん。恐らく実際にカインズ氏が取った行動は、圏外であの槍を鎧ごと体に突き刺し、回廊結晶かあるいは深夜に徒歩で教会の二階まで移動して、自分の首にロープを掛け、鎧が破壊される寸前に窓から飛び降りタイミングを合わせてテレポートした……そんな感じだろう」
「…………なるほどね……」
ゆっくりと深く頷き、アスナは瞑目したまま長く息を吐いた。
「……なら、ヨルコさんの『消滅』も同じトリックだったってことだよね。……そっか…………生きてるのね…………」
声には出さず、口の動きだけで「よかった」と呟いてから、アスナはすぐにきゅっと唇を噛んだ。
「で、でも。確かに彼女、やたらと厚着はしてたけど、スローイングダガーはいつ刺したの? 圏内じゃコードに阻まれて、体に触れることすらできないはずだわ」
「刺さってたんだ、最初から」
俺は即答した。
「よく思い出してみろよ。俺とアスナ、シュミットが部屋に入った時から、彼女一度も俺たちに背中を見せようとしなかった。これから訪ねてくってメッセージが届くや否や、圏外まで走って背中にダガーを刺して、マントかローブを装備して宿屋まで戻ったんだ。あの髪型だし、ソファーにぴったり座られたら、あんなちっぽけなダガーの柄は全部隠れるよ。そして服の耐久度が減ってくのを確認しながら会話を続け、タイミングを見計らって後ろ向きに窓まで歩いて、足で壁を蹴るかなんかして音を出してから後ろを向く。俺たちには、窓の向こうから飛んできたダガーがその瞬間刺さったようにしか見えない」
「そして自分から窓の外に落下した……あれは、転移コマンドをわたし達に聞かれないためだったのね。…………てことは、キリト君が追っかけた黒ローブは……」
「十中八九、グリムロックじゃない。カインズだ」
† 16 †
俺がそう断定すると、アスナは視線を宙に向け、短く嘆息した。
「あれは犯人どころか、被害者だったわけね。……え、でも、待ってよ」
眉根を寄せ、身を乗り出す。
「わたし達、ゆうべわざわざ黒鉄宮まで『生命の碑』を確認しに行ったじゃない。カインズさんの名前には、確かに横線が刻まれてた。死亡時刻もぴったり、死因だってちゃんと『貫通属性攻撃』だったわ」
「そのカインズさんの名前の表記、憶えてる?」
「えっと……確か、K、a、i、n、s、だったかな」
「うん、俺たちはヨルコさんからそう教わって、頭から信じた。でも……ほら、これ」
俺は、この一連の推理に辿り着く切っ掛けとなった羊皮紙片をアスナに差し出した。数時間前、シュミットに書いてもらった『黄金林檎』メンバーの一覧表だ。
手を伸ばし、受け取ったアスナは、紙片の中ほどを一瞥するや「えーっ」と叫んだ。
「『Caynz』……!? これがカインズさんの本当の綴りなの!?」
「一文字くらいならともかく、三文字も違えばシュミットの記憶違いってこともなさそうだしな。つまりヨルコさんが、俺たちにわざと違うスペリングを教えたんだ。Kのほうのカインズ氏の死亡表記を、Cのカインズ氏と誤認させるためにね」
「え……じゃ、じゃあ……」
アスナは顔を強張らせ、声のトーンを低めた。
「あの時……私たちが教会前の広場でCのカインズさんの偽装死亡を目撃した瞬間、同時にアインクラッドのどこかでKのカインズさんも貫通ダメージで死んでたってことなの? 偶然……ってことはないわよね……? まさか…………」
「ちがうちがう」
俺は軽く笑いながら、大きく右手を振った。
「ヨルコさんたちの共犯者が、タイミングを合わせてKのほうを殺した、ってことじゃない。いいかい、生命の碑の死亡表記はこうなってた。『サクラの月22日、18時27分』……アインクラッドに、サクラの月つまり四月の二十二日が来るのは、昨日で二回目なんだよ」
「あっ…………」
アスナはしばし絶句し、次いで同じように力の無い笑みを浮かべた。
「…………なんてことなの。わたし、まったく考えもしなかったわ。去年なのね。去年の同じ日同じ時間に、Kのほうのカインズさんは、この件とはまったく無関係にもう亡くなってたのね……」
「そう、おそらくは、そこが計画の出発点だったんだ」
俺は一度大きく深呼吸をし、考えをまとめながら話を続けた。
「……ヨルコさんとカインズ氏は、かなり早い段階から、偶然同じ読みのできる見知らぬ誰かが去年の四月に死亡していることに気付いていたんだ。最初は話の種程度のことだったんだろう。でもある時どちらかが、この偶然を使えばカインズ氏の死亡を偽装できるのではないかと思いついた。しかも尋常の対モンスター戦闘死じゃない……『圏内殺人』という恐るべき演出を付け加えて」
「…………確かに、わたしも君もころっと騙されたもんね。同じ読みのできる他人の死亡表記、貫通継続ダメージによる圏内での装備破壊、それと同時の結晶転移……この三つを重ねて、圏内でのPKを限りなく真実に見せかけたんだわ…………そして、その目的は…………」
アスナは囁くような声で続きを口にした。
「『指輪事件』の犯人を追い詰め、炙り出すこと。自分達が犯人と疑われ得る立場であることを逆に利用して、ヨルコさんとカインズさんは自らの殺人事件を演出することで、存在しない『復讐者』を作り出した。圏内でPKをしてのける恐ろしい死神を……結果、恐怖に駆られて動いたのが……」
「シュミットだ」
俺は頷き、指先で顎を擦った。
「多分、最初からある程度疑ってたんだろうな。……シュミットは、こう言っちゃなんだけど中堅ギルドだった『黄金林檎』から、一足飛びにDDAに加入した。それはやっぱり異例なことではあるよ。よっぽど急激なレベルアップか、あるいは急激な装備更新がないと……」
「とくにDDAは加入要件厳しいもんね。…………でも、じゃあ、彼が指輪事件の犯人だった、ってこと……? あの人がグリセルダさんを殺して、指輪を奪ったの……?」
攻略組の作戦参謀としてシュミットとは何度も顔を合わせているアスナは、僅かに頬を強張らせ、じっと俺を見た。
しばし唇を噛み、俺はやがてそっと首を左右に振った。
「……判らない。疑いうる材料はあるけど……あいつに、『レッド』の気配があるかどうかと言うと……」
SAOにおける殺人者、つまりレッドプレイヤーは、どこか逸脱した雰囲気をまとっているものだ。それはある意味当然と言える。なぜならここでプレイヤーを殺すことは、ゲームクリアを阻害するに等しい行為なわけで、つまりレッドの連中は極論、「ここから出られなくてもいい」と思っている――あるいは積極的に「このデスゲームが永続すればいい」と願っているということになるからだ。
その負の願望は、否応無く言動の節々に現れる。だが、黒衣の死神に心の底から怯え、俺たちにギルド本部までの護衛すら頼んだシュミットからは、『レッド』の狂気を俺は感じ取れなかった。
「…………確信は持てないな。無関係じゃない、ってことくらいは充分言えるだろうけど……」
俺の呟きに、アスナも同感だというようにこくりと頷いた。窓際から近づいてきて、俺の座る椅子の肘掛にちょこんと腰を乗せる。
俯き、胸の前で腕を組んで、アスナは沈んだ声を出した。
「…………シュミットさんは、どうするつもりかな。復讐者の存在を信じきったとして、しかも圏内、ううんギルドの本部ですら安全じゃないとまで追い詰められたとしたら……」
「もし共犯者が居れば、そいつとコンタクトするだろうな。おそらくヨルコさんとカインズ氏の狙いはそれだろう。シュミットにも共犯者の今の居所が判らなければ、うーん……俺なら…………」
どうするだろう。一時の欲望や怒りの衝動に負け、プレイヤーを殺害し、それを後悔したとき、いったい何ができるだろう。
俺はまだ、この世界でプレイヤーの命を奪ったことはない。しかし、俺のせいで死んでいった仲間ならいる。俺の愚かさと醜い自己顕示欲ゆえに、俺ひとりを残して全滅したギルドの仲間たちのことを俺はいまも常に悔やんでいる。ギルドが仮のホームとしていた宿屋の裏庭に生える小さな樹を彼らの墓標と定め、何の贖罪にもなりはしないが、毎月の命日には花や酒を手向けに行く。だから、恐らくシュミットも――。
「…………もしグリセルダさんのお墓があれば、そこに行って赦しを乞うよ」
するとアスナは、俺の声の変調を敏感に察したか、肘掛の上からまっすぐこちらを見て穏やかに微笑んだ。
「そうね。わたしもそうする。KoBの本部にも、いままでのボス戦で亡くなった人のお墓があるからね……」
そこでふと口を噤み、やや表情を翳らせる。
「……? どうした?」
「ううん……ただ、ちょっと思ったの。もしその、グリセルダさんのお墓が圏外にあったら? シュミットさんがそこに謝りに行ったとして……ヨルコさんとカインズさんは、ただ許すかしら? まさかとは思うけど、今度こそ本当に復讐しようとはしないかしら……?」
予想外の言葉に、俺は一瞬背筋を強張らせた。
絶対に無いとは言えない。こんな手の込んだ『圏内殺人事件』を演出するほどに、ヨルコとカインズは指輪事件の犯人を憎んでいるのだ。彼らは少なくとも二つは転移結晶を使っている。二人のレベルからすれば大変な出費だろう。そこまでの準備をして、謝罪を引き出すだけという結果に満足するだろうか……?
「あ……、いや……そうか……」
しかし俺はふとあることに気付き、首を振った。
「いや、無いよ。二人はシュミットを殺しはしない」
「なんで言い切れるの?」
「だって、アスナはまだヨルコさんとフレンド登録したままだろう? 向こうから登録解除されたって表示は見てないよな?」
「あ……、そう言えば、そうね。宿屋での第二の殺人を信じきってたから、そのまま自動解除されたものと思ってたけど、生きてるなら登録も継続してるはずだわ」
ひとつ頷き、アスナは左手を振ってウインドウを出すと、素早く操作してもう一度首肯した。
「確かに登録されたままよ。もっと早くこれを見てれば、事件のカラクリに気付けたのになぁ……でも、となると、そもそもヨルコさんはなんでフレンド登録を受け入れたのかしら? ここから計画が全部破綻することも有り得たわよね?」
「おそらく……」
俺は眼を閉じ、体を椅子の背もたれに預けた。
「……俺たちを結果として騙すことへの謝罪という意味と、もう一つ、俺たちを信じてくれたんだろうな。フレンド登録が生きてることに気付いても、そこから彼らの真の意図まで推測して、シュミットをおびき出す邪魔はしない、とね。アスナ、ヨルコさんを位置追跡してみろよ」
瞼を開けてそう言うと、アスナは頷いてさらにウインドウを叩いた。
「……いま、二十層のフィールドに居るわ。主街区からちょっと離れた、小さい丘の上……じゃあ、ここが……」
「グリセルダさんのお墓だろうな。そこに、カインズもシュミットも居るはずだ。もしシュミットがそこで死ねば、俺たちにヨルコさんたちが殺したんだと判ってしまう。だから、殺すまではしないだろう」
「じゃあ……逆は? 指輪事件に関わってたことを知られたシュミットが、口封じのために二人を殺すことは有り得ない……?」
尚も心配そうなアスナの言葉に、俺は少し考え、今度も首を横に振った。
「いや……その場合も俺たちに露見しちゃうし、そもそもあの人は犯罪者《オレンジ》タグに、いや殺人者《レッド》になって攻略組から放逐されることに耐えられないだろう。だから、互いに相手を殺す心配だけはないと思う。…………任せよう、彼らに。俺たちの、この事件での役回りはもう終わりだよ。まんまとヨルコさんたちの目論みどおりに動いちゃったけど、でも……俺は嫌な気分じゃないよ」
そう言うと、アスナもしばらく考えてから、うんと微笑んだ。
しかし、俺もアスナも、この時点でいまだ巨大な思い違いをしていたのだ。
事件はまだまだ終わってはいなかった。
† 17 †
再び、聞いた話だ。
シュミットは驚きの余り息も絶えだえになりながら、死神ローブの下から現れた二人のプレイヤーの顔を何度も交互に見返した。
グリセルダとグリムロックだとばかり思っていた死神の正体は、ヨルコとカインズだった。しかし、この二人とてすでに死んでいることに変わりはない。カインズの死亡は伝え聞いただけだが、ヨルコのそれは――つい数時間前、自分の眼で確かに見たばかりなのだ。窓の外から飛来した黒いダガーに貫かれ、街路に落下してその仮想体《アバター》を飛散させた。
やはり幽霊なのか、と一瞬ほんとうに気絶しそうになったが、顔を露わにする直前にヨルコが発した台詞が、危ういところでシュミットの意識を救った。
「ろ……ろく、おん……?」
喉から漏れた嗄れ声に答えるように、ヨルコはローブの懐から引き抜いた手をシュミットに示した。握られているのは、ライトグリーンに輝く八面柱型の結晶。録音クリスタルだ。
幽霊が、アイテムを使って会話を録音などするはずはない。
つまりヨルコの、そしてカインズの死は偽装だったのだ。手口は想像もつかないが、二人は自分の『死』を演出することで存在しない復讐者を造り上げ、真に復讐されるべき三人目を追い詰めた。そして恐怖に駆られた三人目の、罪を告白し懺悔を乞う声を記録した。すべては――遠い過去の、ひとつの殺人事件の真相を暴くための計画だった。
「…………そう……だったのか…………」
ついにことの真相に辿り着いたシュミットは、声ならぬ声で呟き、その場にぐたりと脱力した。
まんまと騙され、証拠まで抑えられたことへの怒りはなかった。ただただ、ヨルコとカインズの執念――それに、グリセルダを慕う気持ちの深さへの驚嘆だけを感じていた。
「お前ら……そこまで、リーダーのことを…………」
呟いた声に、カインズが静かに応じた。
「あんたも、だろう?」
「え……?」
「あんただって、リーダーを憎んでたわけじゃないんだろ? 指輪への執着はあっても、彼女への殺意まではなかった、それは本当なんだろう?」
「も……もちろんだ、本当だ、信じてくれ」
シュミットは顔を歪め、何度も首肯した。
戦力差で言えば、おそらくこの二人を合わせたよりも自分のほうが強いだろう。しかしここで武器を抜き、二人の口を封じるといったような選択肢はまったく浮かんでこなかった。レッドプレイヤーに墜ちればもうギルドに、ひいては攻略組にいられなくなる、という気持ち以上に、ここでヨルコとカインズを殺せば、自分はもう二度と正気ではいられなくなるという確信があった。
だからシュミットは、まだ録音クリスタルが作動中なのを承知の上で、再び告白を繰り返した。
「オレがやったのは……宿屋の、リーダーの部屋に忍び込んでポータルの出口をセーブしたことだけだ。そりゃ……受け取った金で買ったレア武器と防具のおかげで、DDAの入団基準をクリアできたのは確かだけど……」
「メモの差出人に心当たりがない、っていうのは本当なの?」
ヨルコの厳しい声に、もう一度激しく頷く。
「い、今でもまったく解らないんだ。十人のメンバーのうち、オレとあんたら、リーダーとグリムロックを除いた三人の誰かのはずだけど……その後、一度も連絡してないし……あんたらは、目星をつけてないのか?」
シュミットの問いに、ヨルコは小さく首を横に振った。
「三人全員、ギルド解散後も『黄金林檎』と同じくらいの中堅ギルドに入って、普通に生活してるわ。レア装備やプレイヤーホーム買った人は一人もいない。いきなりステップアップしたのはあなただけよ、シュミット」
「…………そうか……」
シュミットは呟き、下を向いた。
グリセルダが死んだのちに、部屋に届けられていた皮袋の中の金《コル》は、当時では想像もできないほどの大金だった。それまでは指をくわえて見ているしかなかったオークションハウスの出品リストの天辺近くに並ぶ超高性能装備を、一気に全身ぶん揃えられたほどだったのだ。
あの金を遣わずにストレージに放置しておけるとは、凄まじいと言うしかない自制心だ。いや、それ以前に――。
顔を上げ、シュミットは己の苦境も一瞬忘れて、胸中に生じた疑問を口にした。
「……で、でもよ。おかしいだろ……遣わないなら、なんでリーダーを殺してまで指輪を奪う必要があったんだ…………?」
虚を突かれたように、ヨルコとカインズがやや上体を引いた。
アインクラッドでは、稼いだ金をストレージに貯め続けておくことのメリットはほぼ存在しない。1コルの価値は、カーディナルシステムの緻密なドロップレート操作によって常に等価に保たれ、インフレもデフレも起こらないからだ。遣われないコルに意味はない。つまり――
「てことは……あのメモの差出人は……」
必死に思考を回転させながら、シュミットはおぼろげに浮かびつつあった推測を口にしようとした。
しかし、意識を集中しすぎていたせいで、それ《・・》に気付くのが遅れた。
「シュ…………!」
目の前のヨルコが掠れた声を漏らしたときには、背後から回り込んできたダガーが、すと、とプレートアーマーの喉部分の隙間に潜り込んでいた。
一瞬の驚愕から、最前線でそれなりに鍛えた対応力で立ち直り、シュミットは飛び退こうとした。たとえ喉を切り裂かれても、この世界では即死はしない。急所ゆえにダメージはやや大きいが、それでもシュミットの膨大な総HP量に比べれば微々たるものだ。
しかし。
体を反転させるより早く、両脚の感覚が切断され、シュミットはがしゃりと音を立てて地面に転がった。HPゲージを、緑色に点滅する枠が囲っている。麻痺状態だ。壁戦士《タンク》として耐毒スキルを上げているのに、その防御を貫通するとは物凄いハイレベルの毒だ。いったい誰が――
「ワーン、ダウーン」
しゅうしゅうと擦過音の混ざる声が降ってきて、シュミットは必死に視線を上向けた。
鋭い鋲が打たれた黒革のブーツがまず見えた。同じく黒の、細身のパンツ。ぴったりと体に密着するようなスケイルメイルも黒。右手には、刀身が緑に濡れる細身のダガーを携え、左手はポケットに差し込んでいる。
そして頭は、頭陀袋のような黒いマスクに覆われていた。眼の部分だけが丸く繰り抜かれ、そこから注がれる粘つくような視線を意識するのと同時に、シュミットの視界にプレイヤーカーソルが出現した。見慣れたグリーンではなく、鮮やかなオレンジ色が眼を射た。
「あっ……!」
背後で小さく悲鳴が聞こえ、視線を振り向けると、ヨルコとカインズを一まとめにして巨大なカマで威嚇する、やや丸い体型のプレイヤーが見えた。こちらも全身黒尽くめだが、革ではなくびっしりと襤褸切れのようなものが垂れ下がるギリースーツだ。頭部までも覆うその襤褸の間から、暗い赤に光る両眼が見えた。カーソルの色は同じくオレンジ。
この二人を、シュミットは知っていた。直接見たことがあるわけではない。ギルド本部で回覧される、要注意プレイヤーリストの上位に全身のスケッチが載っていたのだ。
ある意味ではボスモンスター以上に攻略組の仇敵である、殺人《レッド》プレイヤーたち。そのなかでも最大最凶のギルドで幹部を勤める男たちだ。シュミットを麻痺させたダガー使いが『ジョニー・ブラック』。ヨルコたちを押さえるカマ使いが『赤眼のザザ』。
ということは。まさか――あいつ《・・・》までもが。
嘘だろう。やめてくれ。冗談じゃない。
というシュミットの内心の絶叫を裏切るように、じゃり、じゃり、と新たな靴音が聞こえた。
呆然と視線を振ったシュミットは、アインクラッドにおける最大の恐怖を体現するその姿を見開いた眼で捉えた。
膝上までを包む、つや消しの黒いポンチョ。目深に伏せられたフード。
だらりと垂れ下がる右手に握られるのは、まるで中華包丁のように四角く、血のように赤黒い刃を持つ大型のダガーだ。
「…………『PoH《プー》』…………」
シュミットの唇から漏れたひと言は、恐怖と絶望を映して激しくわなないていた。