† 7 †
9時ぴったりに宿屋から出てきたヨルコは、余り眠れなかったらしく、何度も瞬きを繰り返しながら俺とアスナにぺこっと一礼した。
同じように頭を下げてから、まずは詫びる。
「悪いな、友達が亡くなったばっかりなのに……」
「いえ……」
ブルーブラックの髪を揺らし、ヨルコはかぶりを振った。
「いいんです。私も、早く犯人を見つけて欲しいですし……」
言いながら視線をアスナに移した途端、目を丸くする。
「うわぁ、凄いですね。その服ぜんぶ、アシュレイさんのワンメイク品でしょう。全身揃ってるとこ、初めて見ましたー」
……また新しい名前が出てきたぞ、と思いながら俺は訪ねた。
「それ、誰?」
「知らないんですかぁ!?」
だめな人を見る目で俺を眺めてから、ヨルコは解説してくれた。
「アシュレイさんは、アインクラッドで一番早く裁縫スキル1000を達成したカリスマお針子ですよ! 最高級生地のレア素材持参じゃないと、なかなか作ってもらえないんですよー」
「へーっ!」
素直に感心する。アホみたいに戦闘ばかりしている俺とても、片手直剣スキルが1000に到達したのはそう昔の話ではない。
ついついアスナの頭からつま先まで視線を高速移動させていると、細剣使いは頬の辺りを引き攣らせ、ひと言叫んで歩きはじめてしまった。
「ち……違うからね!」
――何がどう違うんでしょうか。
やけに得心したふうのヨルコと、さっぱり解らない俺を引き連れて、アスナは昨夜夕食を食べ損ねたレストランのドアを潜った。
時間が時間だけあって、店内に他のプレイヤーの姿はない。一番奥まったテーブルにつき、ちらりとドアまでの距離を確かめる。これだけ離れていれば、大声で叫びでもしない限りは、店の外まで会話が漏れることはない。
ナイショ話をしたいなら宿屋の部屋をロックするのが一番、と俺も以前は思っていたが、それだと逆に聞き耳スキルの高い奴に盗み聞きされてしまう危険が高まると最近学んだ。
ヨルコも朝食はもう済ませたというので、三人同じお茶だけをオーダーし、速攻届いたところで改めて本題に入る。
「まず、報告なんだけど……昨夜、黒鉄宮の『生命の碑』を確認してきたんだ。カインズさんは、あの時間に確かに亡くなってた」
俺の言葉に、ヨルコは短く息を吸い込み、瞑目してからこくりと頷いた。
「そう……ですか。有難うございました、わざわざ遠いとこまで行って頂いて……」
「ううん、いいの。それに、確かめたかった名前が、もう一つあったし」
さっと首を振ってから、アスナがややひそめられた声で、最初の重要な質問を放った。
「ね、ヨルコさん。あなた、この名前に聞き覚えはある? 一人は、多分鍛冶プレイヤーで、『グリムロック』。そしてもう一人は、槍使いで……『シュミット』」
俯けられたヨルコの頭が、ぴくりと震えた。
やがて、ゆっくりとした、しかし明確な肯定のジェスチャーがあった。
「……はい、知ってます。二人とも、昔、私とカインズが所属してたギルドのメンバーです」
か細い声に、俺とアスナはちらっと視線を見交わした。
やはりそうか。となれば、もう一つの推測――かつて、そのギルドで今回の事件の原因となる『何か』があったのかどうかも確認せねばならない。
今度は、俺が二つ目の質問を発した。
「ヨルコさん。答えにくいことだと思うんだけど……事件解決のために、本当のところを聞かせてほしいんだ。俺たちは、今回の事件を『復讐』だと思っている。カインズさんは、そのギルドで起こった何らかの出来事のせいで、犯人の恨みを買い、報復されたんじゃないかと……。何か、心当たりはないかい……?」
今度は、すぐには答えが返ってこなかった。
ヨルコは俯いたまま、長い沈黙を続けたあと、かすかに震える手でお茶のカップを持ち上げ、唇を湿らせてからようやく頷いた。
「……はい……あります。そのせいで、私たちのギルドは消滅したんです。忘れたかった……忘れたはずの出来事ですけど……お話しします……」
――ギルドの名前は、『黄金林檎』っていいました。べつに攻略目的でもなんでもない、総勢たった8人の弱小ギルドで、宿代と食事代のためだけの安全な狩りだけしてたんです。
でも、半年前……去年の秋口のことでした。
中間層の、なんてことないサブダンジョンに潜ってた私たちは、それまで一度も見たことのないモンスターとエンカウントしたんです。全身まっくろのトカゲ型で、もの凄くすばしっこい……一目でレアモンスターだって解りました。大騒ぎになって、夢中で追いかけまわして……誰かの投げたダガーが、偶然、ほんとにものすごいラッキーで命中して、倒せたんです。
ドロップしたアイテムは、地味な指輪がひとつだけでした。でも、鑑定してみて皆びっくりしました。敏捷力が、20も上がるんですよ。そんなアクセサリ、たぶんいまの最前線でもドロップしてないと思います。
そこから先は……想像、できますよね。
ギルドで使おうって意見と、売って儲けを分配しようって意見で割れて、かなりケンカに近い言い合いになったあと、多数決できめたんです。結果は、5対3で売却でした。そこまでのレアアイテム、とても中層の商人さんには扱えないので、ギルドリーダーが最前線まで持っていって競売屋に委託することになりました。
その日はそこで解散して、オークションが終わってリーダーが帰ってくるのをわくわくしながら待ちました。8人で分配してもきっとすごいお金になるから、あのお店の武器を買おうとか、ブランドのお洋服買おうとか、カタログ見ながらあれこれ考えて……、その時は、まさか……あんなことになるなんて……。
…………リーダー、帰ってこなかったんです。
翌日夜の待ち合わせを一時間過ぎても、メッセージ一つ届かなくて。位置追跡も反応ないし、こっちからのメッセージ送っても返事がないし。
嫌な予感がして、何人かで、黒鉄宮の『生命の碑』を確認にいきました。
そしたら…………。
ヨルコはそこでぎゅっと唇を噛み、ゆっくりと首を左右に振った。
俺とアスナは、しばしかけるべき言葉を見つけられなかった。
幸い――と言うべきか、ヨルコはやがて目尻を拭うと顔を上げ、震えてはいるがはっきりした口調で告げた。
「死亡時刻は、リーダーが指輪を預かって上層に行った日の夜中、一時過ぎでした。死亡理由は……貫通属性ダメージ、です」
「……そんなレアアイテムを抱えて圏外に出るはずがないよな。てことは……『睡眠PK』か」
俺が呟くと、アスナもかすかに首肯した。
「半年前なら、まだ手口が広まる直前だわ。宿代を惜しんで、パブリックスペースで寝る人もそれなりに居た頃よ」
「前線近くは宿屋も高いしな……。ただ……偶然とは考えにくいな。リーダーさんを狙ったのは、指輪のことを知っていたプレイヤー……つまり……」
瞑目したヨルコが、こくりと頭を動かした。
「ギルド『黄金林檎』の残り七人……の誰か。私たちも、当然そう考えました。ただ……その時間に、誰がどこに居たのかをさかのぼって調べる方法はありませんから……皆が皆を疑う状況のなか、ギルドが崩壊するまでそう長い時間はかかりませんでした」
再び、重苦しい沈黙がテーブル上を這った。
嫌な話だ、とても。
同時に、あり得ることだ。じゅうぶんに。
万に一つの幸運でドロップしたレアアイテムが原因で、それまで不和の兆しすらなかった仲良しギルドが崩壊してしまう例というのは実はそう珍しいことではない。話としてあまり聞かないのは、当事者たちにとっては消し去ってしまいたいだけの記憶だからだ。
しかし、ここで俺はどうしても、ヨルコにしなければならない質問があった。
沈鬱な表情で俯く女性に、俺はあえて渇いた口調で尋ねた。
「ひとつ、教えてほしい。そのレア指輪の売却分配に反対した三人の、名前は……?」
さらに数秒間黙りつづけてから、ヨルコは意を決したように顔を上げ、はっきりと答えた。
「カインズ、シュミット……そして、私です」
† 8 †
やや意外な回答、ではあった。
無言で瞬きだけをした俺に向かって、ヨルコはかすかに自嘲の滲む言葉を続けた。
「ただ、反対の理由は、彼らと私で少し違いました。カインズとシュミットは、前衛戦士として自分で使いたいから。そして私は……当時、カインズと付き合いはじめていたからです。ギルド全体の利益よりも彼氏への気兼ねを優先しちゃったんです。バカですよね」
口をつぐみ、テーブルに視線を落とすヨルコに、これまで長く沈黙していたアスナが柔らかい語調で訊ねた。
「ね、ヨルコさん。もしかして……あなた、カインズさんと、ずっとお付き合いしてたの……?」
すると、ヨルコは俯いたまま、ゆっくりと首を左右に振った。
「……ギルド解散と同時に、自然消滅しちゃいました。たまに会って、ちょこっと近況報告するくらいで……やっぱり、長く一緒にいればどうしても指輪事件のこと思い出しちゃいますから。昨日もそんな感じで、ご飯だけの予定だったんですけど……その前に、あんなことに……」
「……そう……。――でも、ショックなのは変わらないわよね。ごめんなさいね、辛いこと色々訊いちゃって」
ヨルコは再び短くかぶりを振った。
「いえ、いいんです。それで……グリムロックですけど……」
突然その名前を切り出され、俺は思わずまっすぐに座りなおした。
「……彼は『黄金林檎』のサブリーダーでした。そして同時に、ギルドリーダーの旦那さんでもありました」
「え……、リーダーさんは、女の人だったのか?」
思わず確認すると、ヨルコはこくりと頷いた。
「ええ。とっても強い……と言ってもあくまでボリュームゾーンでの話ですけど……強い片手剣士で、美人で、私はすごく憧れてました。だから……今でも信じられないんです。あのリーダーが、たとえ『睡眠PK』にせよ、むざむざ殺されちゃうなんて……」
「……じゃあ、グリムロックさんもショックだったでしょうね。結婚までするほど好きだった相手が……」
アスナの呟きに、ヨルコはぶるっと身体を震わせた。
「はい。それまでは、いつもニコニコしてる優しい鍛冶屋さんだったんですけど……事件直後からは、とっても荒んだ感じになっちゃって……ギルド解散後は誰とも連絡取らなくなって、今はもうどこに居るかも分からないです」
「そうか……。辛い質問ばかりして悪いけど、最後にもう一つだけ教えてほしい。昨日の事件……カインズさんを殺したのがグリムロックさんだ、という可能性は、あると思うか? 実は、カインズさんの胸に刺さっていた黒い槍……鑑定したら、作成したのはグリムロックさん当人だったんだ」
この問いはつまり、半年前の『指輪事件』の真犯人がカインズである可能性があるか、と尋ねているに等しい。
ヨルコは長い逡巡を見せたあと、ごく僅かな動きで、首を縦に振った。
「……はい、そう思います。でも、カインズも、私も、リーダーをPKして指輪を奪ったりなんかしてません。無実の証拠はなにも無いですけど……。もし昨日の事件の犯人がグリムロックさんなら……あの人は、指輪売却に反対した三人を、全員殺すつもりなのかもしれません……」
俺とアスナは、ヨルコをもとの宿屋に送り届けたあと、数日分の食料アイテムを渡して絶対に部屋から出ないよう言い含めた。
せめてもの配慮として、宿屋でもっとも広い三部屋続きのスイートに移動してもらい、料金も一週間ぶん前払いしておいたが、暇つぶしにネットゲームをすることもできないアインクラッドでは閉じこもっているにも限度がある。なるべく早く事件を解決すると約束し、俺たちは宿屋を後にした。
「……ほんとは、KoBの本部に移ってもらえればもっと安心なんだけどね……」
アスナの言葉に、俺は55層『鉄の都』グランザムに新設されたばかりのKoBギルド本部の威容を思い出しながら頷いた。
「まあな……。でも、本人がどうしても嫌だって言うなら無理強いもできないしな」
ヨルコをKoB本部で保護するためには、事情をギルドにあまさず説明せねばならない。それはつまり、半年前の『黄金林檎』解散劇の一部始終がオープンになるということだ。ヨルコはおそらく、カインズの名誉のためにそれを拒んだのだろう。
転移門広場まで戻ると同時に、街に十一時の鐘が響いた。
雨はようやく上がったが、代わりに濃い霧が漂い始めた。俺はそれを透かして、黒とアッシュピンクで統一された装いのアスナを見やり、口を開きかけた。
「さて、これから……」
「……?」
尻切れトンボに黙り込んだ俺に、アスナが首をかしげた。
今更すぎる――のは確かだろうが、やはりここはヒトコトでも言っておくべきなのだろうか。
「あ、いや、え――と。その……よ、よく似合ってますよ、それ」
おお言えた。これで俺も一流の紳士。
と思ったのも束の間、めりっと音がしそうなほどに剣呑な顔になったアスナが、右手の人差し指をどすんと俺の胸につきつけながら唸り声を出した。
「うー! そーゆーのはね、最初に見たときに言いなさい!!」
着替えてくる! と超高速反転したその横顔が、耳まで赤くなっていたのは、やはり激怒ゆえであろうか。
分からない。まったく分からない、女性というものは。
手近の無人家屋を利用して装備をふだんの騎士装に変更したアスナは、長い髪を背中に払いながらつかつかと戻ってくると言った。
「で、これからどうするの?」
「あ、は、はい。選択肢としては……その一、中層で手当たり次第にグリムロックの名前を聞き込んで居場所を探す。その二、ギルド黄金林檎のほかのメンバーを訪ねて、ヨルコの話の裏づけを取る。その三……カインズ殺害の手口の詳しい検討をする、くらいかな」
「ふむむ」
腕組みをし、アスナは首をかしげた。
「その一は、二人じゃちょっと効率悪すぎるわね。現在の推測どおりグリムロックが犯人なら、積極的に身を隠してるでしょうし。その二は……結局ほかのメンバーも当事者なんだから、裏の取りようがないって言うか……」
「へ? どういうこと?」
「つまり、仮にさっきのヨルコさんの話と矛盾する情報が聞けたとするじゃない? でも、私たちにはどっちが真実なのか断定するすべなんか無いってことよ。混乱するだけだわ。もうちょっと客観的な判断材料が欲しいわね……」
「じゃあ……その三か」
ちらりと目を見交わし、俺たちはこくりと頷いた。
そもそも俺とアスナがこの事件にここまで熱心に首を突っ込んでいるのは、ヨルコには申し訳ないが『黄金林檎』リーダー殺害事件の真相を暴くためではなく、カインズを殺した『圏内PK』の手口を突き止めるためなのだ。
昨夜、目の前で起きたあの事象に関して断定できたことは、『圏外で発生した貫通継続ダメージを圏内に持ち込んだものではない』という一点のみだ。他にどのような可能性があるのか、一度とことん議論しておく必要はある。
「でもな……もうちょっと、知識のある奴の協力が欲しいな……」
俺が呟くと、アスナが眉をひそめた。
「そうは言っても、無闇と情報をばら撒いちゃヨルコさんに悪いわ。絶対に信頼できる、それでいて私たち以上にSAOのシステムに詳しい人なんか、そうそう……」
「…………あ」
俺はふと、一人のプレイヤーの名前を思いつき、指をぱちんと鳴らした。
「いるじゃん。あいつ呼び出そうぜ」
「誰?」
俺が名を告げたとたん、アスナが目を剥いてのけぞった。
昼飯オゴるから、という俺署名の追記に惹かれたわけではないだろうが、アスナがメッセージを飛ばした30分後、本当にその男が現れたのには少々驚いた。
アルゲード転移門から音も無く進み出た長身の姿を見たとたん、広場に満ちるプレイヤーたちが激しくざわめいた。暗赤色のローブの背にホワイトブロンドの長髪を束ねて流し、一切の武器を持たない、SAOには存在しない『魔導師』クラスとすら思える雰囲気をまとう男――ギルド『血盟騎士団』リーダーにしてアインクラッド最強の剣士、『神聖剣』ヒースクリフは、俺たちを見るとぴくりと片方の眉を持ち上げ、滑るように近づいてきた。
アスナがびしいっと音がしそうな動作で敬礼し、急き込むように弁解した。
「すみません団長! このバ……いえ、この者がどうしてもと言ってきかないものですから……」
「何、ちょうど昼食にしようと思っていたところだ。かの『黒の剣士』キリト君にご馳走してもらえる機会など、そうそうあろうとも思えないしな」
滑らか、かつ鋼のようなテノールでそう言うヒースクリフの整った顔を見上げ、俺は肩をすくめた。
「あんたにはここのボス戦で10分もタゲ取ってもらった礼をまだしてなかったしさ。そのついでに、ちょっと興味深い話を聞かせてやるよ」
† 9 †
最強ギルドKoBのナンバー1と2を、俺はアルゲードでもっとも胡散臭い謎のNPCメシ屋に案内した。
迷宮のような隘路を、五分ほども右に折れ下に潜り左に回って上に登りした先に、ようやく現れた薄暗い店を眺めてアスナが言った。
「……帰りもちゃんと道案内してよね。わたしもうゲートまで戻れないよ」
「ウワサじゃあこの街には、道に迷ったあげく転移結晶も持ってなくて、延々さまよってるプレイヤーが何十人も居るらしいよ」
俺が薄く微笑みながらそう脅かすと、ヒースクリフが何事でもないように注釈を加えた。
「道端のNPCに頼めば10コルで広場まで案内してくれるのだ。その金額すらも持っていない場合は……」
上向けた両手をひょいっと持ち上げ、すたすた店に入っていく。
何ともいえない顔になったアスナとともに、俺も後を追った。
狭い店内は、期待通りまったくの無人だった。安っぽいテーブルにつき、陰気な店主にアルゲードそば三人前を注文してから、曇ったコップで氷水をすする。
「なんだか……残念会みたくなってきたんだけど……」
「気のせい気のせい。それより、忙しい団長どののために早速本題に入ろうぜ」
俺の向かいで涼しい顔をしているヒースクリフを、ちらっと見上げて俺は言った。
昨夜の事件のあらましを、アスナが的確かつ簡潔にまとめて説明するのを聞くあいだも、『神聖剣』の表情はほとんど変わることはなかった。ただ唯一、カインズの死の場面で、片方の眉がぴくっと動いた。
「……そんなわけで、ご面倒おかけしますが、団長のお知恵を拝借できればと……」
アスナがそう締めくくると、ヒースクリフはもう一くち氷水を含み、ふむ、と呟いた。
「では、まずはキリト君の推測から聞こうじゃないか。君は、今回の『圏内殺人』の手口をどう考えているのかな?」
話を振られ、俺は頬杖をついていた手をはずして指を三本立てた。
「まあ……大まかには三通りだよな。まず一つ目は、正当な圏内デュエルによるもの。二つ目は、既知の手段の組み合わせによるシステム上の抜け道。そして三つ目は……アンチクリミナルコードを無効化する未知のスキル、あるいはアイテム」
「三つ目の可能性は除外してよい」
即座にそう言い切ったヒースクリフの顔を、俺は思わずまじまじと凝視してしまった。アスナも同様に、二、三度瞬きしてから呟く。
「……断言しますね、団長」
「想像したまえ。もし君らがこのゲームの開発者なら、そのようなスキルなり武器を設定するかね?」
「まあ……しないかな」
「何故そう思う?」
磁力的な視線を放つ真鍮色の瞳をちらりと見返し、俺は答えた。
「そりゃ……フェアじゃないから。認めるのもちょい業腹だけど、SAOのルールは基本的にフェアネスを貫いてる。たった一つ、あんたの『ユニークスキル』を除いては、な」
最後の一言を、片頬の笑みとともに付け加えてやると、ヒースクリフも無言で同種の微笑を返してきた。少しばかりギクッとする。
いくらKoB団長とは言え、つい最近俺のスキルスロットに追加された『あれ』のことまでは知らないはずだ。
謎のニヤニヤ笑いの応酬を続ける俺とヒースクリフを順に見やって、アスナがため息混じりに首を振り、言葉を挟んだ。
「どっちにせよ、今の段階で三つ目の可能性を云々するのは時間の無駄だわ。確認のしようがないもの。てことで……仮説その一、デュエルによるPKから検討しましょう」
「よかろう。……しかし、料理が出てくるのが遅いな、この店は」
眉をひそめ、カウンターの奥を見やるヒースクリフに、俺は肩をすくめて見せた。
「俺の知る限り、あのマスターがアインクラッドで一番やる気ないNPCだね。そこも含めて楽しめよ。氷水なら幾らでもおかわりできる」
卓上の安っぽい水差しから、団長殿の前のコップにどばどば注いでから続ける。
「――圏内でプレイヤーが死んだならそれはデュエルの結果、てのがまぁ、常識だよな。だが、これは断言していいが、カインズが死んだときウィナー表示はどこにも出なかった。そんなデュエルってあるのか?」
すると、隣でアスナが軽く首をかしげた。
「……そういえば、今まで気にしたこともなかったけど、ウィナー表示の出る位置ってどういう決まりになってるの?」
「へ? ……うーん」
確かに、それは俺も考えもしなかったことだ。しかし、ヒースクリフは迷うふうもなく即座に答えた。
「決闘者ふたりの中間位置。あるいは、決着時ふたりの距離が十メートル以上離れている場合は、双方の至近に二枚のウインドウが表示される」
「……よく知ってんな、そんなルール。てことは……カインズから最も遠くても五メートル弱の位置には出たはずだな」
あの惨劇の様子を脳裏に再生し、俺はぷるぷる首を振った。
「周囲のオープンスペースには窓は出なかった。これは確実だ、目撃者があんだけ居たんだからな。あとは、カインズの背後の教会の中に出た場合だけど、それならあの時点で犯人もまた教会内部に居たはずで、カインズが死ぬ前に中に飛び込んでったアスナと鉢合わせてなきゃおかしい」
「そもそも、教会の中にもウィナー表示は出なかったよ」
アスナが付け加える。
うむむ、と唸ってから――。
「……デュエルじゃなかった……のか、やっぱり」
呟くと、うらぶれたメシ屋の店内に、いっそう濃い影が落ちた気がした。
「……選択間違ってない? このお店……」
呟いたアスナが、切り替えるようにコップを干し、たんっとテーブルに置いた。そこにすかさず氷水をなみなみ満たす俺。
微妙な顔でアリガトと言い、アスナは指を二本立てた。
「じゃあ、残る可能性は二つ目のやつだけね。『システム上の抜け道』。……わたしね、どうしても引っかかるのよ」
「何が?」
「『貫通継続ダメージ』」
テーブル上に、必要も無いのに置いてある爪楊枝(この世界では歯は汚れない)を一本抜き、アスナはそのささやかな武器でしゅっと空気を貫いた。
「あの槍は、公開処刑の演出だけじゃない気がするの。圏内PKを実現するために、継続ダメージがどうしても必要だった……そう思えるのよ」
「うん。それは俺も感じる」
頷いてから、しかし俺はおもむろにかぶりを振る。
「でも、それはさっき実験したじゃないか。たとえ圏外で貫通武器を刺しても、圏内に移動すればダメージは止まる」
「歩いて移動した場合は、ね。なら……『回廊結晶』はどうなの? あの教会の小部屋を出口に設定したクリスタルを用意して、圏外からテレポートしてくる……その場合も、ダメージは止まるのかしら?」
「止まるとも」
再び、ヒースクリフが切れ味鋭く即答した。
「徒歩だろうと、回廊によるテレポートだろうと、あるいは誰かに放り投げられようと、圏内……つまり街の中に入った時点で、『コード』は例外なく適用される」
「ちょっと待った。その、『街の中』てのは、地面や建物の内部だけか? 上空はどうなる?」
ふと、奇妙な空想にとらわれて俺は尋ねた。
あのロープ。槍に貫かれたカインズの首にロープを掛け、地面に触れないよう吊り上げたまま回廊を通して教会の窓からぶら下げる……?
これには、さしものヒースクリフもやや迷った様子を見せた。
しかしほんの二秒後、束ねられた長髪がゆっくり横に揺れた。
「いや――、厳密に言えば、『圏内』は街区の境界線から垂直に伸び、空の蓋、つまり次層の底まで続く円柱状の空間だ。その三次元座標に移動した瞬間、『コード』はその者を保護する。だから、仮に街の上空百メートルに回廊の出口を設定し、圏外からそこに飛び込んでも、落下ダメージは発生しないことになる。大いに不快な神経ショックを味わうことにはなるが」
「へえーっ」
俺とアスナは異口同音に嘆声を漏らした。
『圏内』エリアの形状にではない。そんなことまで知っているヒースクリフの博覧強記ぶりに対してだ。ギルドマスターというのはそこまで勉強しなきゃ務まらないのか、と思いかけたが、脳裏に某カタナ使いの無精ひげ面が浮かび即座に否定する。
しかし――。
となると、だ。例え『貫通継続ダメージ』と言えども、カインズが圏内に居た以上、その発生は停止していなくてはならない。つまりあの男のHPを削りきったのは、短槍『ギルティソーン』以外のダメージソースである、ということになる――のだが。そこに、抜け道がありはしないだろうか。
考え考え、ゆっくりと推測を口にする。
「……生命の碑には、カインズの死亡時刻とともに、その死亡原因も確かに表記されていた。『貫通属性攻撃』、とね。そして、カインズの消滅とともに現場に残ったのは、あの黒い槍だけだった」
「そうね。他の武器がひそかに用いられたとは考えにくいわ」
「いいか……」
俺は脳内で、強力なモンスターにクリティカルヒットを食らったときのあの胃がでんぐり返るような感覚を思い起こしながら先を続けた。
「物凄い威力の一撃をもらったとき、HPバーはどうなる?」
アスナは、何を今更と言いたげな眼で俺を見やり、答えた。
「ごっそり減るわよ、もちろん」
「その減りかただよ。あるハバが一瞬でゴソっと消滅するわけじゃなくて、右端からスライドして減っていくだろ。つまり、被弾と、その結果としてのHP減算のあいだには、僅かながらタイムラグがあるわけだ」
ここに至って、ようやくアスナは俺の言いたいことを察したようだった。ヒースクリフのほうは完璧な無表情を保っているので、内心はとても見抜けない。
二人を順繰りに見てから、俺は手振りとともに言った。
「例えば、だ。圏外において、カインズのHPを、槍の一撃で満タンからゼロまで持っていく。あいつは装備から見ても壁タイプの戦士だ、HPの総量はかなりの数字だったろう。バーが左端まで減り切るのに、そうだな……5秒はかかってもおかしくない。その間に、カインズを回廊で教会に送り、窓からぶら下げる……」
「ちょ……ちょっと待ってよ」
アスナが掠れた声で遮った。
「攻略組じゃなかったにせよ、カインズさんはボリュームゾーンでは上のほうのプレイヤーだった。そんな人のHPを単発ソードスキルで削りきるなんて、私にも……キミにも不可能なはずだわ!」
† 10 †
「まあ、そうだろうな」
軽く頷く。
「たとえ『ヴォーパル・ストライク』がクリティカルで入っても、半分も減らせないだろう。でも、SAOには何万というプレイヤーが居るんだ。攻略組に所属していない……つまり俺やアスナがまったく知らない、しかもレベルがはるかに上の剣士が存在するという可能性は否定できない」
「つまり……あの槍でカインズさんを殺したのがグリムロックさん本人なのか、依頼された『レッド』なのかは分からないけど、ともかくその当人は、フル武装の壁戦士《タンク》を一撃死させられるほどの実力者だ、って言いたいの……?」
肯定の意を示すためにひょいっと肩をすくめてから、俺は『先生』の採点を待つ気分で向かいに座る男を見やった。
ヒースクリフは、半眼に閉じた瞳をしばらくテーブルに向けていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「手法としては、不可能ではない。確かに、圏外において対象プレイヤーのHPを一撃で消失せしめ、あらかじめ開いておいたコリドーによって即座にテレポートさせれば、見かけ上の『圏内PK』を演出することは出来る」
おっ、もしや正解? と思ったのも束の間、よく通る声で「だが」の一言が続いた。
「……無論君も知っているだろうが、貫通武器の特性というのは、一にリーチ、二に装甲貫通力だ。単純な威力では、打撃武器や斬撃武器に劣る。重量級の大型ランスならまだしも、ショートスピアならば尚更だ」
これは痛いところを突かれた。
不貞腐れる子供のように唇を尖らせる俺に、かすかな笑みを向けてヒースクリフは続けた。
「決して高級品ではないショートスピアで、ボリュームゾーンの壁戦士を一撃死させようと思ったら……そうだな、現時点でレベル100には達している必要があろうかと思うが」
「ひゃくぅ!?」
素っ頓狂な声を出したのはアスナだ。
見開いたはしばみ色の瞳で、ヒースクリフと俺を順番に眺めてから、細剣使いはぷるぷると首を振った。
「い……居るわけないわよ、そんな人。今まで、君やわたしがどんだけ激しいレベリングをしてきたか、忘れたわけじゃないでしょう。レベル100なんて……二十四時間、最前線の迷宮区に篭もり続けたって絶対にムリだわ」
「私もそう思うね」
最強ギルドKoBのナンバー1と2に揃って否定されてしまえば、しがないソロプレイヤーに論理的反駁なぞできようはずもない。
しかし俺は、最後にぶちぶちと諦め悪く言い返した。
「……ぷ、プレイヤーのステータス由来じゃなくて、スキルの強さってセンもあるぜ。例えば、さ……じゃない、二人目の『ユニークスキル』使いが現れた、とかさ」
すると、暗赤色のローブの肩を揺らし、団長どのがかすかに笑った。
「ふ……、もしそんなプレイヤーが存在するなら、私が真っ先にKoBに勧誘しているよ」
そして内面のうかがい知れない目でじいっとこっちを見るものだから、俺はこのセンを引っ張ることを断念し、安物の椅子に背中を預けた。
「うーん、いけると思ったんだけどなぁ。あとは……」
フィールドボスモンスターに頼んで一撃くらわしてもらう、等と頭の悪いアイデアを口にする前に、俺の隣にのそっと立つ人影があった。
「……おまち」
やる気の無い声とともに、NPC店主は四角い盆からドンブリを三つテーブルに移した。油染みのあるコック帽の下に伸びる長い前髪のせいで、顔はさっぱり見えない。
他の層の、清潔で礼儀正しくキビキビしたNPC店員ばかり見慣れているのだろうアスナの唖然とした視線に見送られながら、店主はのそのそとカウンターの向こうに戻っていった。
俺は卓上から安っぽいワリバシを取り、ぱきんと割って、ドンブリを一つ引き寄せた。
同じようにしながら、アスナが低い声で言った。
「……なんなの、この料理? ラーメン?」
「に、似た何か」
答え、俺は薄い色のスープに沈むちぢれメンを引っ張り上げた。
うらぶれた店内に、しばしズルズルという音が三つ、わびしく響いた。
ノレンの外をかさかさと乾いた風が吹きぬけ、表で謎の鳥がクアーと長く鳴いた。
数分後、空になったドンブリをテーブルの端に押しやってから、俺は向かいの男を見やった。
「……で、団長どのは、何か閃いたことはあるかい?」
「…………」
スープまできっちり飲み干し、ドンブリを置いたヒースクリフは、その底の漢字っぽい模様を凝視しながら言った。
「……これはラーメンではない。断じて違う」
「うん、俺もそう思う」
「では、この偽ラーメンぶんだけ答えよう」
顔を上げ、ぱちんとワリバシを置く。
「……現時点の材料だけで、『何が起きたのか』を断定することはできない。だが、これだけは言える。いいかね……この事件で、唯一確かなのは、君らがその目で見、その耳で聞いた一次情報だけだ」
「……? どういう意味だ……?」
「つまり……」
ヒースクリフは、真鍮色の双眸で、並んで座る俺とアスナを順番に見つめ、言った。
「アインクラッドに於いて直接見聞きするものはすべて、コードに置換可能なデジタルデータである、ということだよ。そこに、幻覚幻聴の入り込む余地はない。逆に言えば、デジタルデータでないあらゆる情報には、常に幻、欺瞞である可能性が内包される。この殺人……『圏内事件』を追いかけるのならば、目と耳、つまるところ己の脳が受け取ったデータだけを信じることだ」
ごちそうさまキリト君、と最後に言い添え、ヒースクリフは立ち上がった。
謎めいた剣士の言葉の意味を考えながら、俺も席を立ち、店主に「ごっそさん」と声をかけてノレンを潜った。
前に立つヒースクリフの、「何故こんな店が存在するのだ……」という呟きが、かすかに耳に届いた。
迷路のような街並みに溶けるように団長どのが消えてしまうと、俺は隣に立ち尽くすアスナに向き直り、訊ねた。
「……お前、さっきの、意味わかった?」
「……うん」
頷くので、おおさすが副長、と思う。
「アレだわ。つまり『醤油抜きの東京風しょうゆラーメン』。だからあんなワビシイ味なんだわ」
「へ?」
「決めた。わたしいつか必ず醤油を作ってみせるわ。そうしなきゃ、この不満感は永遠に消えない気がするもの」
「……そう、頑張って……」
うんうん、と頷いてから、そうじゃなくて! と一応つっこむ。
「え? 何、キリトくん?」
「変なもん食わせたのは悪かった、謝る、だから忘れてくれ。それじゃなく、ヒースクリフの奴、なんか禅問答みたいこと言ってただろ。あれの意味」
「ああ……」
アスナは今度こそしっかり頷き、答えた。
「あれはつまり、伝聞の二次情報を鵜呑みにするな、って意味でしょう。この件で言えば、つまり、動機面……ギルド黄金林檎の、レア指輪事件のほうを」
「ええー?」
俺は思わず唸り声を出した。
「ヨルコさんを疑えってのか? そりゃまあ、証拠なんかまるで無い話ではあるけど……さっきアスナも、今更裏づけの取りようもないから、疑っても意味ないって言ってたじゃないか」
するとアスナは、一瞬ぱちくりと俺を見てから、ふいっと顔を背けてこくこく頷いた。
「ま、まあ、それはそうなんだけどね。でも、団長の言うとおり、PK手段を断定するにはまだ材料が足らなすぎるわ。こうなったら、もう一人の関係者にも直接話を聞きましょう。指輪事件のことをいきなりぶつければ、何かぽろっと漏らすかもしれないし」
「へ? 誰?」
「もちろん、きみからあの槍をかっぱらってった人よ」
† 11 †
視界右下端の数字が、ちょうど14:00を示した。
普段なら、昼飯タイムを終え、迷宮区攻略・午後の部が絶賛開催中の頃合だ。しかし今日はもう街から出る余裕はあるまい。最前線のフィールドを横切り、ダンジョンの未踏破エリアに着く頃には日が暮れてしまう。
俺のほうは、「天気がいいから」という理由だけでサボるような不真面目君なのでどうということもないが、二日連続で攻略を休んでしまうハメになった『閃光』の心中やいかに。
と思いつつ、隣を歩くアスナの様子を横目で探ったが、意外にも日ごろより雰囲気が和らいでいるように思えた。アルゲード裏通りの謎いショップを冷やかしたり、どこに続くのかわからない暗渠を覗き込んだり――俺の視線に気付くや、ぱちぱちと瞬きしてから、ん? という感じで微笑んだりもするではないか。
「どうしたの?」
訊かれ、俺はぷるぷる首を振った。
「い……いえ、なんでもないです」
「変な人ー。今に始まったことじゃないけど」
くすっと笑い、両手を腰の後ろで組み合わせて、ととんとステップを踏むようにブーツの踵を鳴らす。
まったく、変なのはどっちなのだ。これが本当に、昨日ヒルネ中の俺に雷を落とした攻略の鬼と同一人物なのか。あるいは、何だかんだ言って『アルゲードそば』が気に入ったのだろうか。ならば次はぜひあの店で、更なる混沌の味『アルゲード焼き』を試していただきたい。
等と考えているうちに、やっとこ前方から転移門広場の喧騒が近づいてきた。幸い今回は、道案内NPCの世話になることなく戻ってこられたようだ。
俺は妙に落ち着かない気分をむりやり切り替えるため、ひとつ咳払いをした。
「ウホン……さてと、次はシュミット主将に話を聞くわけだけど。考えてみたら、この時間、聖竜も狩りに出てるんじゃないの?」
「んー、それはどうかしらね」
微笑を消したアスナが、華奢なおとがいに指先をあてて答えた。
「ヨルコさんの話を信じれば、シュミット君も『指輪売却派』の一人で……つまり、カインズさんと立場を同じくしているわけよね。本人にもその自覚があるのは、昨日きみの前に現れたときの様子からも明らかでしょう。謎の『レッド』に狙われてる……と思われる状況で、圏内から出るかしら」
「ああ……言われてみれば、そうかもな。でも、その『レッド』は、圏内PK手段を持ってる可能性が高いんだぜ。街に居ても、絶対に安全とは言い切れない」
「だからこそ、せめて最大限の安全を確保しようとするでしょうね。宿屋に閉じこもるか、あるいは……」
そこまで聞いて、俺はようやくアスナの言わんとするところを悟った。指をぱちんと鳴らし、続ける。
「あるいは『篭城』するか、だな。DDAの本部に」
最強ギルドのひとつ聖竜連合が、56層に華々しくギルド本拠《ホーム》を構えたのはつい先日のことだ。血盟騎士団本部のある55層のひとつ上なのは決して偶然ではあるまい。豪勢極まる披露パーティーには、何のお情けか俺も呼ばれたが、ホームよりもキャッスルというべき大仰さには驚き呆れたものだ。せめてものイヤガラセに、クラインやエギルと卓上のご馳走を片っ端から平らげてやったが、過剰な味覚信号が入力されたせいかその後三日も腹部の膨満感に悩まされた。
アルゲードの転移門から移動した俺は、街を見下ろす小高い丘にそびえ建つ忌まわしき飽食の城を睨み、うえっぷとおくびを漏らした。
アスナのほうは特に感慨もないらしく、すたすたと赤レンガの坂道を登っていく。
銀の地に青いドラゴンを染め抜いたギルドフラッグが翻る白亜の尖塔群を見上げながら、俺はしつこくぼやいた。
「しっかし、いくら天下のDDA様と言っても、よくこんな物件買う金があるよなぁ。どうなんすかそのへん、KoBの副長どのとしては」
「まーね、ギルドの人数だけで言えば、DDAはうちの倍はいるからね。それにしたってちょっと腑に落ちない感じはするけど。うちの会計のダイゼンさんは、『えろう高効率のファーミングスポットを何個も抱えてはるんやろなぁ』って言ってた」
「へええ」
ファーミング、というのは、大量のMoBを高回転で狩りつづけることを指すMMO用語だ。俺が去年の冬、とある事情で無茶なレベリングにまい進したときに篭もった『アリ谷』などが代表的なスポットだが、その場所で発生した経験値がある閾を超えると、SAO世界を支配するデジタルの神である『カーディナル・システム』の手によって効率が下方修正されてしまう。
ゆえに、優秀なファーミングスポットは全プレイヤーに公開し、その恩恵が枯れるまで公平に分け合いましょう、というのが攻略組の共通認識であるわけなのだが、DDAはそれに反してスポットをいくつか秘匿しているのではないか――というのがアスナの言の要旨である。
ズルイと言えばズルイが、DDAが強化されれば結果として攻略組総体も強化されるわけで、真っ向正面から糾弾するわけにもいかない。
その先には、最終的に、攻略組という存在そのものにつきまとう自己矛盾が現れてくるからだ。デスゲームからの解放を錦の御旗に、システムが供給するリソースの大部分を独占し、恐るべき先細りのヒエラルキーを維持し続けようとする俺たち全員のエゴが。
そう考えれば、攻略組の対極に存在する組織『アインクラッド解放軍』の主張する、全プレイヤーの獲得リソースの一極徴収・公平分配――という方針も、あながち妄言と一蹴できないのかもしれない。
そう――、仮に『軍』のその主張が実現していれば、恐らくは今回の『圏内事件』も起こらなかったのだ。原因となった指輪は、ドロップした瞬間に徴税され、売却され、利益が数万に分割されて融けて消えたのだろうから。
「まったく……、ほんとに嫌な性格してるよ、このデスゲームを創った奴は……」
なんでよりにもよってMMOなのだ。RTS《リアルタイムストラテジー》とか、FPS《ファーストパースンシューティング》とか、もっと公平で、刹那的で、一瞬でカタのつくゲームは山ほどあるというのに。
SAOは、高レベル者のエゴを試している。矮小な優越感と、仲間の――ひいては全プレイヤーの命を天秤にかけることを強制してくる。
指輪事件の犯人は、その我執に呑まれたのだ。
俺にとっては、まったく他人事ではない。レアなマジックアイテムなど比較にならぬほど重大な秘密を、己のステータスウインドウに独占している俺には。
――と、俺の呟きを聞いたのか、まるで全思考までもトレースしたようにアスナが囁いた。
「だから、この事件はわたし達が解決しなきゃいけないんだよ」
そして、俺の右手を一瞬きゅっと握り、揺るがぬ強さの滲む微笑みを見せると、すぐ目の前に迫った巨大な城門に確かな足取りで歩み寄って行った。