ソードアート・オンライン 外伝5 『圏内事件』
いったい何なんだ、この女は。
そりゃ確かに、いい天気なんだから昼寝でもしろと言ったのは俺だし、その実例を示すべく再び芝生に転がったのも俺なら、ついうっかりそのまま寝てしまったのも俺なのだが。
まさか、三十分ほどうたた寝してからハッと目を醒ましてみれば、本当に隣でグースカ熟睡しているとは予想外にもほどがある。豪胆なのか意地っ張りなのか、あるいは――ただの寝不足の人か。
何なんだホント。という呆れ感を最大限に表すべく首を左右に振りながら、俺はすーぴー寝息を立てる細剣使いの女――ギルド『血盟騎士団』サブリーダー、『閃光』アスナの整った横顔を眺め続けた。
話のそもそもは、あまりにいい天気なのでジメついた迷宮区にもぐる気をなくした俺が、今日は一日、主街区転移門を取り囲むなだらかな丘でチョウチョを数えると決めた事だった。
実際素晴らしい天気だった。仮想浮遊城アインクラッドの四季は現実と同期しているが、その再現度はやや生真面目すぎて、夏は毎日きっちり暑いし冬はばっちり寒い。気温のほかにも、雨や風、湿り気やホコリっぽさ、更には小虫の群れといった気候パラメータが山ほど存在し、たいがいはどれかが好条件なら他のどれかが悪い。
だが今日は違ったのだ。気温はぽかぽか暖かく、柔らかな日差しが空気を満たし、そよ風はベタついてもイガラっぽくもなく、おかしな虫も発生していない。いくら春とは言え、これほど全ての気候パラメータが好条件に固定されることは、年間通して五日もあるまい。
これはデジタルの神様が、今日くらいは攻略の疲れを癒すため昼寝でもしていろと言っているのだなと解釈し、素直に従った――のだが。
柔らかな芝の斜面に寝転がり、うとうとまどろんでいた俺の頭のすぐ横を、ざしっと白革のブーツが踏んだ。同時に、聞き覚えのあるキツイ声が降ってきた。曰く。
――攻略組の皆が必死に迷宮区に挑んでいるときに、何をノンビリ昼寝なのか。
瞼をほぼ閉じたまま、俺は答えた。曰く。
――本日の気候は年間通して最良なり。之を堪能せずして如何せん。
キツイ声尚も反駁して曰く、
――天候など毎日一緒なり。
俺再び答えるに曰く、
――汝隣に臥すれば自ずと悟るべし。
もちろん実際の問答は口語で行われたのだが、ともかくその結果、この女は何を考えたか本当に隣に寝転がり、こともあろうに本当に熟睡してしまったというわけだ。
さて。
時刻はまだ正午前で、芝生にぴったりと並ぶ俺と『閃光』に、転移門広場に行き交うプレイヤー達が遠慮のない視線を照射していく。ある者は驚愕に目を剥き、ある者はくすくす笑い、中には記録結晶のフラッシュを浴びせる不埒モノまでいる。
しかしそれも当然と言えよう。KoBサブリーダーのアスナと言えば、泣く子も黙る攻略の鬼、前線を怒涛のハイペースで押し上げるターボエンジンであり、またソロプレイヤーのキリトと言えば――やや不本意ではあるが――一部の不真面目者とツルんで頭の悪い遊びばかりしている攻略組きっての不良生徒である。
その組み合わせが並んで昼寝していれば片方の当人たる俺だって笑う。と言って、起こしてまた怒られてもソンだし、これはもう放って帰っちゃう一手だろう。
と思いたいのはヤマヤマだが、実際にはそれはできない。
なぜなら、『閃光』がこのまま熟睡し続けた場合、各種ハラスメント行為の対象になりかねないだけでなく――最悪、PKされてしまう可能性すらゼロではないからだ。
確かに、今いるここ、第59層主街区の中央広場は『圏内』である。
正確には『アンチクリミナルコード有効圏内』。
この内部では、プレイヤーは他のプレイヤーを絶対に傷つけることはできない。剣で切りつけても紫色のシステムエフェクトが光るだけでHPバーは1ミリも減らないし、各種の毒アイテムも一切機能しない。無論、アイテムを盗むなど論外だ。
つまり、圏内では、アンチクリミナルの名のとおり一切の直接的犯罪行為はおこなえない。これはSAOというデスゲームにあって、『HPがゼロになれば死ぬ』のと同じくらい絶対のルールなのだ。
だが、残念ながら、こちらには抜け道が残されている。
それがつまり、プレイヤーが熟睡しているケースだ。長時間の戦闘で消耗したりして、ほとんど失神に近いレベルで深く眠っているプレイヤーは、少しの刺激では目覚めない場合もある。
そこを狙って、『完全決着モード』のデュエルを申し込み、寝ている相手の腕を勝手に動かしてOKボタンをクリックさせる。あとは文字通り寝首を掻くだけだ。
あるいは更に大胆に、相手の体を圏外まで運び出してしまうという手もある。直立し足を踏ん張っているプレイヤーは『コード』で保護され強引に動かすことはできないが、『担架』アイテムに乗せれば移動は自由自在だ。
このどちらのケースも、過去に実際に行われた。『レッド』共の腐った情熱は留まるところを知らない。その悲劇を教訓に、今ではあらゆるプレイヤーは必ず、施錠できるホームか宿屋の部屋で寝るようになっている。俺でさえ、芝生に寝転ぶ前に『索敵スキル』による接近警報をセットしたし、それ以前に熟睡はしなかった。
のだが。
今現在、隣で爆睡する『閃光』は、どう見てもγ波が出まくっている。たとえメーキャップアイテムで顔にラクガキしても起きるまい。まったく、豪胆なのか意地っ張りなのか、それとも――
「疲れてる……んだろうな」
俺は小さく呟いた。
SAOでは仕様上、レベルアップだけが目的ならソロがいちばん効率がいい。なのにこの女は、ギルドメンバーのレベリングの面倒をキッチリ見つつも、自身も俺に迫るくらいの強化ペースを維持している。おそらく、睡眠時間を削って深夜も狩りをしているのだろう。
その辛さは、俺にも覚えがある。同じようにハードな経験値稼ぎに没頭していた四、五ヶ月前は、俺も一度眠ったら死んだように数時間は絶対起きなかったものだ。
ため息を飲み込み、俺は長期戦に備えてストレージから飲み物を取り出すと、芝生に座りなおした。
寝ろと言ったのは俺だ。なら、起きるまで付き合う責任もあるだろう。
外周の開口部からオレンジ色の夕陽が顔を出す頃になって、『閃光』アスナは小さなくしゃみとともにようやく目を醒ました。
なんとたっぷり八時間も爆睡していた計算だ。最早昼寝どころの騒ぎではない。ヒルメシ抜きで付き合わされた俺は、せめて冷徹なる副団長様が、この状況を認識したあとどんなオモシロ顔を見せてくれるかだけを楽しみにひたすら凝視し続けた。
「……うにゅ……」
アスナは謎の言語で呟いたあと、数回瞬きし、俺を見上げた。
かたちの良い眉が、わずかにひそめられる。芝生に右手をついてふらふらと上体を起こし、栗色の髪を揺らして右、左、さらに右を眺める。
最後にもう一度、あぐらをかいて座る俺を見て――。
透明感のある白い肌を、瞬時に赤く染め(おそらく羞恥)、やや青ざめさせ(おそらく苦慮)、最後にもう一度赤くした(おそらく激怒)。
「な……アン……どう…………」
再び謎言語を放つ『閃光』に、俺は最大級の笑顔とともに言った。
「おはよう。よく眠れた?」
白革の手袋に包まれた右手が、ぴくりと震えた。
しかし、さすがは最強ギルドのサブリーダーと言うべきか、アスナはそこで自制心のチェックロールに成功したらしく、レイピアを抜くことも(どうせ圏内ではあるが)、あるいはダッシュで逃走することもなかった。
ぎりぎりと食い縛られた口元から、短いひと言が押し出された。
「…………ゴハン一回」
「は?」
「ゴハン、何でも幾らでも一回おごる。それでチャラ。どう」
この女の、こういう直截さは嫌いではない。寝起きの頭で瞬時に、なぜ俺が長時間付き合ったのかを理解したのだ。圏内PK行為からガードするためだけではなく、日ごろの精神疲労を回復させるため、寝られるだけ寝かせてやろうと考えたところまで。
俺は片頬で――今度は本心から――ニヤっと笑い、OK、と答えた。
ついでに、じゃあ君の部屋で手料理を、とワルノリしたくなるがそこはこちらも自制する。伸ばした両脚を振り上げ、反動でくるっと立ち上がった俺は、右手を差し出しながら言った。
「57層の主街区に、NPC料理にしてはイケる店があるから、そこ行こうぜ」
「……いいわ」
素っ気ない顔で俺の手につかまり立ち上がったアスナは、ふいっと俺から顔を逸らし、まるで夕焼けを胸に吸い込もうとするかのように大きく伸びをした。
第57層主街区『マーテン』は、現在の最前線からわずか二フロア下にある大規模な街で、必然的に攻略組のベースキャンプかつ人気観光地となっている。
さらに夕刻ともなれば、前線から帰ってきたり、あるいは下層から晩飯を食べにきたプレイヤーたちで大いに賑わうこととなる。
俺とアスナは、ごったがえすメインストリートを、肩を並べて歩いた。すれ違う連中のうち、少なからぬ数がギョッと眼を剥くのがなんとも楽しい。アスナとしては、敏捷力パラメータ全開のダッシュで目的の店に飛び込みたいところだろうが、残念ながら――もしくは幸い、行き先は俺しか知らない。
まず間違いなく、SAO最後の日までもう二度とこんな真似は出来ないだろうなあという感慨を噛み締めつつ十分ほども歩いたところで、道の右側にやや大きめのレストランが現れた。
「ここ?」
ほっとしたような、胡散臭そうな顔で店を見るアスナに、俺は頷いた。
「そ。お薦めは肉より魚」
スイングドアを押し開け、ホールドすると、細剣使いはすました顔で入り口を潜った。
NPCウェイトレスの声に迎えられ、そこそこ混み合う店内を移動する間も、幾つもの視線が集中するのを俺は感じた。そろそろ、愉快というより気後れのほうが大きくなってくる。これほど注目されるというのも、実際のところ楽ではあるまい。
だがアスナは、堂々たる歩調でフロアの中央を横切り、奥まった窓際のテーブルを目指した。俺がぎこちなく引いた椅子に、滑らかな動作で腰を下ろす。
なんだか、オゴってもらうはずがエスコートさせられているような気になりつつも、俺も向かいに座った。せめて遠慮なくご馳走になるべく、食前酒から前菜、メイン、デザートまでがっつり注文し、ふう、と一息いれる。
速攻届いた華奢なグラスに唇をつけてから、アスナも同じように、ほうっと長く息をついた。
わずかに険の抜けたライトブラウンの瞳で俺を見て、可聴域ぎりぎりのボリュームで囁く。
「ま……なんていうか、今日は……ありがと」
「へ!?」
驚愕した俺をじろっと見て、もう一度。
「ありがとう、って言ったの。ガードしてくれて」
「あ……いや、まあ、その、ど、どういたしまして」
日ごろ、攻略組の会議で丁々発止やりあってばかりいるので、不覚にも軽く噛んでしまう。すると、小さくくすっと笑って、アスナは背中を椅子に預けた。
「なんか……あんなにたっぷり寝たの、ここに来て初めてかもしれない」
「そ……そりゃ幾らなんでも大げさじゃないのか」
「んーん、ホント。普段は、長くても三時間くらいで目が醒めちゃうから」
甘酸っぱい液体で口を湿らせ、俺は尋ねた。
「それは、アラームで起きてるんじゃなくて?」
「うん。不眠症って程じゃないけど……怖い夢見て飛び起きたりしちゃうのよ」
「……そっか」
不意に、胸の奥に鋭い痛みが生じる。かつて、同じことを言った人の顔がちらりと脳裏を過ぎる。
『閃光』もまた、生身のプレイヤーなのだ。そんな当たり前のことに今更気付かされ、俺は言うべき言葉を探した。
「えー……あーっと……なんだ、その、また外でヒルネしたくなったら言えよ」
我ながら間抜けな台詞だったが、それでもアスナはもう一度微笑むと、頷いた。
「そうね。また同じくらい最高の天候設定の日がきたら、お願いするわ」
その笑顔に、俺はもう一つ、この女がちょっと有り得ないほどに美人なのだということにも気付かされ、不覚にも絶句した。
幸い、発生しかけた微妙な空気を、サラダの皿を持ってきたNPCが回避させてくれた。さっそく、色とりどりの謎野菜に卓上の謎スパイスをぶっかけ、フォークで頬張る。
ばりばりごくんと飲み込んでから、俺はアレコレを誤魔化すべくぼやいた。
「考えてみれば、栄養とか関係ないのに、なんで生野菜なんか食べてるんだろうな」
「えー、美味しいじゃない」
レタスっぽい何かを上品に咀嚼してから、アスナが反論する。
「まずいとは言わんけどさあ……せめて、マヨネーズくらいあればなあー」
「あー、思う。それは思う」
「あとソースとか……ケチャップとかさ……それに……」
「「醤油!」」
二人同時に叫び、同時にぷっと吹き出した――
その瞬間だった。
どこか遠くから、紛れもない恐怖の悲鳴が聞こえた。
「……きゃあああああ!!」
――――!?
息を飲み、腰を浮かせ、背の剣に手を伸ばす。
同じように、レイピアの柄に右手を添えたアスナが、打って変わって鋭い声で囁いた。
「店の外だわ!」
直後、椅子を蹴立てて出口へと走り出していく。俺も慌てて白い騎士服の背中を追う。
表通りに出ると同時に、再び絹を裂くような悲鳴が耳に届いた。
恐らく、建物を一ブロック隔てた広場からだ。アスナはちらりと俺を見ると、今度こそ掛け値なしの全力ダッシュで南へ走り出した。
白い稲妻のごとき疾駆に必死に追随し、ブーツの底から火花を散らしながら角を東へ曲がって、すぐ先の円形広場へと飛び込む。
そしてそこで、俺は、信じられないものを目にした。
広場の北側には、教会らしき石造りの建物がそびえている。
その二階中央の飾り窓から一本のロープが垂れ、環になったその先端に――男が一人、ぶら下がっていた。
NPCではない。分厚いフルプレート・アーマーに全身を包み、大型のヘルメットを被っている。ロープは鎧の首元にがっちり食い込んでいるが、広場に密集するプレイヤーたちを恐怖に喘がせているのはそれではない。この世界ではロープアイテムによる窒息で死ぬことはない。
恐怖の源は、男の胸を深々と貫く、一本の黒い長槍だ。
男は、槍の柄を両手で掴み、口をぱくぱく動かしている。その間にも、胸の傷口からは、赤いエフェクト光がまるで噴き出る血液のように明滅を繰り返す。
それはつまり、この瞬間も、男のHPに連続的ダメージが生じているということだ。一部のピアース系武器にのみ設定されている特性、『貫通継続ダメージ』だ。
どうやら黒い長槍は、それに特化した武器のようだった。柄の途中に無数の逆棘が生えているのが見て取れる。
俺は一瞬の驚愕から覚めると同時に、叫んだ。
「早く抜け!!」
男がちらりと俺を見た。両手がのろのろと動き、槍を抜こうとするが、食い込んだ武器は容易に動こうとしない。死の恐怖で、手に力が入らないのだ。
壁面にぶら下がる男の体は、地面から最低でも10メートルは離れている。今の俺のステータスでは、とてもジャンプして届く距離ではない。
ならばスローイングピックでロープを切るか。しかしもし狙いが逸れ、男に当たったら。それで残りHPがゼロになったら。
普通に考えれば、この場所は『圏内』なのだから、そんなことは起こり得ない。だがそれを言ったら、あの槍によるダメージ発生そのものが有り得ない話なのだ。
逡巡する俺の耳に、アスナの低く鋭い叫びが届いた。
「君は下で受け止めて!」
直後、物凄いスピードで教会の入り口めざし駆け出していく。内部の階段で二階まで登り、あのロープを切る気だ。
「わかった!」
アスナの背中にそう叫び返し、俺はぶらさがる男の真下へとダッシュした。
――しかし。
半分ほど走ったところで、ヘルメットの下にのぞく男の両眼が、空中の一点を零れ落ちんばかりに凝視した。何を見ているのか、俺は直感的に察した。
自分のHPバーだ。
正確には、それがゼロになる瞬間だ。
広場に満ちる悲鳴と驚声のなか、男が何かを叫んだような気がした。
そして。
無数のグラスが砕け散るような音とともに、青い閃光が夜闇を染めた。
爆散するポリゴンの雲を、俺は呆けたようにただ見上げた。
拘束すべき物を失ったロープが、くたりと壁面にぶつかった。一秒後、落下してきた黒いスピア――あるいは凶器が、目の前の石畳に、重い金属音を響かせて突き立った。
† 2 †
無数のプレイヤーが放つ悲鳴が、街区に満ちる平和なBGMをかき消した。
俺は巨大な衝撃を覚えながらも、懸命に目を見開き、教会を中心とした広い空間にひたすら視線を走らせた。存在すべきもの――かならず出現しなければならないものを探すために。
すなわち、『デュエル勝利者宣言メッセージ』。
ここは主街区の、つまりアンチクリミナルコード有効圏内のど真ん中だ。この場所でプレイヤーがHPにダメージを受け、なおかつ死にまで至るからには、その理由は一つしかない。
完全決着モードのデュエルを承諾し、それに敗北すること。
それ以外には有り得ない。絶対に。
ならば、男が死ぬと同時に、『WINNER 誰それ 試合時間 何秒』という形式の巨大なシステムウインドウが近くに出現するはずなのだ。それを見れば、あのフルプレ男を槍一本で殺した相手が誰なのか即時に解る。
――のだが。
「……どこだ……」
我知らず呟く。
システム窓が出ない。広場のどこにも見あたらない。表示されている時間はたった三十秒しかないのに。
「みんな! デュエルのウィナー表示を探せ!!」
俺は周囲のざわめきを圧する大声でそう叫んだ。プレイヤーたちは即座に俺の意図を悟ったらしく、すぐさま視線を四方八方に走らせはじめた。
だが、発見の声は無い。もう十五秒は経つ。
ならば建物の内部か。ロープが垂れ下がっている教会の二階の部屋にメッセージが出ているのか。そうならアスナが見ているはずだ。
と思った瞬間、問題の窓から『閃光』の白い騎士服がのぞいた。
「アスナ!! ウィナー表示あったか!?」
日ごろは呼び捨てなど恐ろしくてとても出来ないが、さんを付ける時間も惜しんで俺は叫びかけた。
しかし服装と同じくらい蒼白の顔が、素早く左右に振られた。
「無いわ! システム窓もないし、中には誰もいない!!」
「……なんでだ……」
呻き、俺はさらに空しく周囲を見回した。
数秒後、誰かの呟きが小さく聞こえた。
「……ダメだ、三十秒経った…………」
教会の一階に常駐するNPCシスターの横をすり抜け、俺は建物の奥にある階段を駆け上った。
二階は、宿屋の個室に似た四つの小部屋に分かれているが、宿と違ってドアロックはできない。通り過ぎた三部屋には、目視でも索敵スキルによる探知でも潜んでいるプレイヤーは見つけられなかった。
唇を噛み、俺は四つ目の、問題の小部屋に足を踏み入れた。
窓際で振り向いたアスナは、気丈な表情を保ってはいたが、やはり内心ではショックを受けているようだった。俺のほうも、眉間のあたりが強張るのを隠すことはできない。
「教会の中には、他には誰もいない」
報告すると、KoBサブリーダーは即座に問い返してきた。
「隠蔽アビリティつきのマントで隠れてる可能性は?」
「俺の索敵スキルを無効化するほどのアイテムは、最前線でもドロップしてないよ。それに念のため、入り口に隙間なく立ってもらってる。この建物には裏口も無いし、窓がある部屋はここだけだ」
「ん……わかった。これを見て」
アスナは頷くと、白いグローブの指で部屋の一画を示した。
そこには、簡素な木製のテーブルが置かれていた。動かせない、いわゆる『固定アイテム』だ。
その脚の一本に、やや細い頑丈そうなロープが結わえられている。結わえる、と言っても実際に手で結ぶわけではない。ロープのポップアップ窓を出し、結束ボタンを押して、さらに対象をクリックすることで自動的に固定される仕組みだ。いちど結べば、ロープのデュラビリティを超える荷重をかけるまでは切れたり解けたりすることはない。
黒光りするロープは、空間を二メートルほど横切って、南側の窓から外に垂れている。
ここからは見えないが、先端で環をつくってあって、そこにあのフルプレ男が首吊りになっていた、というわけだ。
「うーん…………」
俺は唸りながら首を捻った。
「どういうことだ、こりゃ」
「普通に考えれば……」
アスナが同じく小首を傾げて答えた。
「あのプレイヤーのデュエルの相手がこのロープを結んで、胸に槍を突き刺したうえで、首に環を引っ掛けて窓から突き落とした……ことになるのかしら……」
「見せしめのつもりか……? いや、でもそれ以前に」
大きく息を吸い込み、俺は明瞭な声で告げた。
「ウィナー表示がどこにも出なかった。広場に詰め掛けてた百人近くが誰も見なかったんだぜ。デュエルなら、かならず出現するはずだろう」
「でも……有り得ないわ!」
鋭い反駁。
「『圏内』でHPにダメージを与えるには、デュエルを申し込んで、承諾されるしかない。それは君だって知ってるでしょう!」
「……ああ、それは、その通りだ」
俺たちは、しばし同時に沈黙した。
窓の外の広場からは、尚もプレイヤーたちのざわめきが途切れることなく届いてくる。彼らもまた、この『事件』の異質さに気付いているのだ。
やがて、アスナがまっすぐ俺を見て、言った。
「このまま放置はできないわ。もし、『圏内PK技』みたいなものを誰かが発見したのだとすれば、早くその仕組みを突き止めて対抗手段を公表しないと大変なことになる」
「……俺とあんたの間じゃ珍しいけど、今回ばかりは無条件で同意する」
頷いた俺に、僅かな苦笑を滲ませて、『閃光』はずいっと右手を突き出してきた。
「なら、解決までちゃんと協力してもらうわよ。言っとくけど、昼寝の時間はありませんから」
「してたのはそっちじゃないか……」
ぼそりと呟きつつも、俺も手を差し出し、白と黒の手袋ごしにぎゅっと握手を交わした。
『証拠物件』のロープを回収し、俺とアスナは小部屋を出ると、教会の出入り口へと戻った。同じく証拠品である黒い槍は、移動する前にすでにアイテムストレージへ格納してある。
立ち番を頼んだ顔見知りのプレイヤー二人に、礼を言ってから尋ねたが、やはり通過した者は一人もいないようだった。
広場に出た俺は、こちらを注視している野次馬たちに手を挙げてから、大きな声で呼びかけた。
「すまない、さっきの一件を最初から見てた人、いたら話を聞かせてほしい!」
数秒後、おずおずという感じで、人垣から一人の女性プレイヤーが進み出てきた。こちらは顔に見覚えはない。武装もNPCメイドのノーマルな片手剣で、おそらく中層からの観光組だろう。
心外にも、俺を見てやや怯えたような顔をする女の子に、代わってアスナが優しい口調で問いかけた。
「ごめんね、怖い思いしたばっかりなのに。あなた、お名前は?」
「あ……あの、私、ヨルコっていいます」
そのか細い震え声に、俺は確かな聞き覚えがあった。思わず口を挟む。
「もしかして、さっきの悲鳴も、君が?」
「は……、はい」
ゆるくウェーブする濃紺色の髪を揺らして、ヨルコという女性プレイヤーは頷いた。年齢は17、8だろうか。
髪と同じくダークブルーの、やや垂れぎみの眼に、不意に薄い涙が浮かんだ。
「私……、私、さっき……殺された人と、友達だったんです。今日は、一緒にゴハン食べにきて、でもこの広場ではぐれちゃって……それで……そしたら…………」
それ以上は言葉にならないというように、両手で口元を覆う。
震える細い肩を、アスナがそっと押し、教会の内部へと導いた。何列も並ぶ長いすのひとつに腰を下ろさせ、自分も隣に座る。
俺はやや離れたところに立ち、じっと女の子が落ち着くのを待った。友人が惨いやり口でPKされる一部始終を見たというなら、そのショックは計り知れないものがあるだろう。
アスナが背中をさすっていると、やがてヨルコは泣き止み、消え入りそうな声ですみません、と言った。
「ううん、いいの。いつまでも待つから、落ち着いたら、ゆっくり話して、ね?」
「はい……、も……もう大丈夫、ですから」
案外と気丈でもあるのか、ヨルコはアスナの手から身体を起こし、こくりと頷いた。
「あの人……、名前はカインズっていいます。昔、同じギルドにいたことがあって……今でも、たまにPT組んだり、食事したりしてたんですけど……それで今日も、この街まで晩ご飯食べにきて……」
ぎゅっと一度眼をつぶってから、震えの残る声で続ける。
「……でも、あんまり人が多くて、広場で見失っちゃって……周りを見回してたら、いきなり、この教会の……窓から、人が、カインズが落ちてきて、宙吊りに……しかも、胸に、ヤリが……」
「その時、誰かを見なかった?」
アスナの問いに、ヨルコは一瞬黙り込んだ。
そして、ゆっくりと、しかし確かに首肯した。
「はい……一瞬、なんですが、カインズの後ろに、誰か立ってたような気が……しました……」
俺は無意識のうちに両の拳をぎゅっと握った。
やはり、犯人はあの部屋にいたのか。とすれば、被害者――カインズを窓から突き落としてから、衆人環視のなかゆうゆうと脱出してのけたということになる。
そうなるとやはりハイディング機能つき装備を使ったはずだが、あの手のアイテムは、移動中は効果が薄くなる。そのデメリットを補正するほどのハイレベルな隠蔽スキルを持っているということか。
脳裏に、『アサシン』などという不穏な単語がちらりと過ぎる。
まさか、このSAOに、俺やアスナですら知らない武器スキル系統が存在したのだろうか?
そのスキル特性に、アンチクリミナルコードを無効化するようなものがあったとすれば……?
同じことを考えたのか、アスナが一瞬背中を震わせ、ぎゅっと自分の腕を掴んだ。
† 3 †
一人で下層まで帰るのが怖いと言うヨルコを、最寄の宿屋まで送り届けてから、俺とアスナはとりあえず転移門広場まで戻った。
事件から三十分ほどが経過し、さすがにもう人の数は減りつつあった。それでも、俺たちの報告を聞くために二十人近い、主に攻略組のプレイヤーたちが待機していた。
彼らに俺は、死んだプレイヤーの名前がカインズであること、殺害の手口は今のところまったく不明であることを伝えた。そして、ことによると、未知の圏内PK手段が存在するかもしれないという危惧も。
「……そんな訳だから、当面は街中でも気をつけたほうがいいと、出来る限り広範囲に警告してくれるか」
俺がそう締めくくると、皆一様に真剣な表情で頷いた。
「分かった。情報屋のペーパーにも載せてくれるよう頼んどく」
大手ギルドに所属するプレイヤーが代表してそう応じたのを潮に、その場は解散となった。
俺は視界隅の時刻表示をちらりと確認した。まだ夜七時過ぎで、少し驚く。
「さて……、次はどうする」
隣のアスナに訊くと、僅かな間もおかずに即答が来た。
「手持ちの情報を検証しましょう。とくに、ロープとスピアを。出所が分かれば、そこから犯人を追えるかもしれない」
「となると、鑑定スキルが要るなぁ。お前、上げて……るわけないよな」
「当然、君もね。……ていうか……」
そこではじめてアスナは表情を動かし、じろっと俺を見た。
「その『お前』ってのやめてくれない?」
「へ? ……あ、ああ……じゃあ、えーと……『貴女』? 『副団長』? ……『閃光様』?」
最後のは、この女のファンクラブが発行する会誌で用いられている呼称だ。効果覿面、レーザーのごとき視線で俺を焼灼してから、アスナはぷいっと顔を背けて言った。
「ふつうに『アスナ』でいいわよ。さっきそう呼んでたでしょ」
「りょ、了解」
震え上がった俺は素直に頷き、慌てて話題を戻した。
「で、鑑定スキルだけど……フレンドとかにアテは……?」
「んー」
一瞬考え込んでから、すぐ首を振る。
「武器屋やってる子が持ってるけど、今は一番忙しい時間だし、すぐには頼めないかなあ……」
確かに今頃は、一日の冒険を終えたプレイヤーが装備のメンテや新調に殺到する時間帯だ。
「そっか。じゃあ、熟練度がイマイチ不安だけど俺の知り合いの雑貨屋戦士に頼もう」
「それって……あのでっかい人? エギルさん……だっけ?」
さっそく窓を広げ、メッセージをだかだか打ち始めた俺に、アスナが口を挟んだ。
「でも、雑貨屋さんだってこの時間は忙しいでしょう」
「知らん」
と答え、俺は容赦なく送信ボタンを押した。
第50層主街区『アルゲード』は、転移門から出た俺とアスナを、相変わらずの猥雑な喧騒で出迎えた。
まだアクティベートされてからそれほど経っていないというのに、すでに目抜き通りの商店街には無数のプレイヤーショップが開店し、軒を連ねている。その理由は、店舗物件の代金が下層の街と比べても驚くほど安く設定されていたからだ。
当然、それに比例して店は狭く外観もキタナイが、このアジア的――あるいは某電気街的混沌が好きだというプレイヤーも多い。俺もその一人で、近々ここに引っ越してくる予定を立てている。
エキゾチックなBGMと呼び込みの掛け声に、屋台から流れ出す安っぽい食い物のにおいがミックスされた空気のなかを、俺はアスナを先導して足早に歩いた。白い騎士服のミニスカートから惜しげもなく生脚をさらした細剣使いの姿は、この街では少々目立ちすぎる。
「おい、急ごうぜ……って」
ナナメ後方のヒールの音が遠ざかったのを意識して振り向いた俺は、眼をむいて喚いた。
「何買い食いなんかしてんだよ!」
怪しげな屋台で怪しげな串焼き肉をお買い求めになった『閃光』サマは、あぐりと一口かじってから、悪びれずにしれっと答えた。
「だって、さっきサラダつついただけで飛び出てきちゃったじゃない。……うん、これ、けっこうイケるよ」
もぐもぐ口を動かしながら、はい、と左手に握ったもう一本の串を俺に差し出してくる。
「へ? くれるの?」
「だって、今日は最初からそういう話だったでしょ」
「あ……ああ……」
反射的に頭を下げつつ受け取ってから、俺はようやく、オゴリフルコースがオゴリ串焼きになってしまったことを悟った。ちなみに、さっき入ったレストランの代金は、店から飛び出た時点で手をつけていたサラダの分だけが互いのアイテム欄から均等に引かれている。
エスニックな味付けの謎肉をがつがつ頬張りながら、俺は、いつか絶対この女に手料理を作らせてやるという決意とともに歩いた。
目指す雑貨屋に到着したのは、二本の串がきれいになるのとほぼ同時だった。音も無く消滅した串を握っていた手を開き、別に汚れてはいないがぱたぱたと叩いてから、俺はこちらに背を向けている店主に呼びかけた。
「うーっす。来たぞー」
「……客じゃない奴に『いらっしゃいませ』は言わん」
雑貨屋兼斧戦士のエギルは、その巨躯と異相に似合わないしょぼくれた声でそう唸り、狭い店内の客に呼びかけた。
「すまねえ、今日はこれで閉店だ」
えーっ、という不満の声に、逞しい体をぺこぺこ縮めて謝罪しつつ全員を追い出し、店舗の管理メニューから閉店操作を行う。
カオス極まる陳列棚が自動で収納され、ぎいばったんと表の鎧戸が閉まったところで、エギルはようやく振り向いた。
「あのなあキリトよう、商売人の渡世は、一に信用二に信用三四が無くて五に荒稼ぎ……」
怪しげな警句は、俺の隣に立つ人間を見た瞬間フェードアウトした。
禿頭の下回りを囲む髭をぷるぷる震わせて棒立ちになるエギルに、アスナは清楚な笑顔とともに頭を下げた。
「お久しぶりです、エギルさん。急なお願いをして申し訳ありません。どうしても、火急にお力を貸していただきたくて……」
魁偉な顔をひとたまりもなく崩し、エギルは即座に任せてくださいと胸を叩いて茶まで出した。
まったく男というのは、先天的パラメータに決して抵抗できない哀れな種族だ。
二階の部屋で事件のあらましを聞いたエギルは、さすがに事の重大さを察したようで、突き出た眉稜の下の両眼を鋭く細めた。
「……デュエルじゃない、というのは確かなのか」
太いバリトンで唸る巨漢に、揺り椅子に体を預けた俺はゆっくり頷いた。
「あの状況で、誰もウィナー表示を見ないということは考えにくいし、今はそう考えるべきだと思う。それに……デュエルだとしても、メシを食いにきた場所で申し込みを、増してや『完全決着モード』を受諾するなんて有り得ないよ」
「それに、直前まであの子……ヨルコさんと歩いてたなら、『睡眠PK』の線も無いしね」
小さな丸テーブルの上のマグカップを揺らしながら、アスナが補足する。
「第一、突発的デュエルにしては手が込み入りすぎてる。事前に計画されたPKなのは確実と思っていい。そこで……こいつだ」
俺はウインドウを開くと、アイテムストレージからまず問題のロープを実体化させ、エギルに手渡した。
テーブルの脚に結束されていたほうの先端は当然回収したときに解けているが、その反対側はまだ大きな環になったままだ。
エギルはその輪っかを目の前にぶらさげ、嫌そうな顔で鼻を鳴らすと、太い指でタップした。
開かれたポップアップウインドウから、『鑑定』メニューを選択する。スキルを持たない俺やアスナがそれをしても失敗表示が出るだけだが、商人クラスのエギルなら、ある程度の情報を引き出せるはずだ。
はたして巨漢は、彼だけに見えるウインドウの中身を、太い声で解説した。
「……残念ながら、プレイヤーメイドじゃなくNPCショップで売ってる汎用品だ。ランクもそう高くない。耐久度は半分近く減ってるな」
俺は、あの恐ろしい光景を脳裏に再生させながら頷いた。
「そうだろうな。あんだけ重装備のプレイヤーをぶら下げたんだ。物凄い加重だったはずだ……」
しかし殺人者にしてみれば、男のHPがゼロになり、爆散するまでの十数秒保てばじゅうぶんだったわけだ。
「まあ、ロープにはあんま期待してなかったさ。本命はこいつだ」
俺は開いたままのストレージをタップし、さらにアイテムを実体化させた。
黒く輝く短槍《ショートスピア》は、狭い部屋の中では、いっそう重々しい存在感を放って三人を沈黙させた。武器のランクで言えば、俺やアスナの主武装とは比較にならないほど下だが、そういう問題ではない。
この槍は、一人のプレイヤーの命を残酷な遣り口で奪った、本物の『凶器』なのだ。
俺はどこかにぶつけないよう、慎重に槍をエギルに手渡した。
このカテゴリの武器にしては珍しく、全体が同一素材の黒い金属で出来ている。長さは1.5メートル程か、手元に30センチのグリップがあり、柄が続き、先端に20センチの鋭い穂先が光る。
特徴は、柄の半分以上にびっしりと短い逆棘が生えていることだ。それによって、一度突き刺さったものを抜くときの要求筋力値を上げているのだ。
この場合の筋力値とは、プレイヤーに設定された数値パラメータと同時に、脳から出力されナーヴギアが延髄でインタラプトする信号の強度をも意味する。あの瞬間、死の恐怖に呑まれたフルプレ男――カインズは、仮想の体を動かすための明瞭な信号を生成することが出来なかった。両手で掴んだ槍を抜くことが出来なくても無理はない。
そう考えれば、やはりこれはただの突発的PKではないのではないか、という思いが改めて強くなる。それほどに、『貫通継続ダメージ』による死は残酷なものなのだ。相手の剣技でも、武器の威力でもなく――自分の怯えに殺されるのだから。
俺の一瞬の思考を、鑑定を終えたエギルの声が破った。
† 4 †
「PCメイドだ」
俺とアスナは、同時にがばっと身を乗り出した。
「本当か!」
思わず叫ぶ。
PCメイド、つまり『鍛冶スキル』を習得したプレイヤーによって作成された武器ならば、必ずそのプレイヤーの『銘』が記録される。そして、この槍はおそらく、特注仕様のワンオフ品だ。鍛えたプレイヤーに直接訊ねれば、発注購入したのが誰だか覚えている可能性が高い。
「誰ですか、作成者は?」
アスナの切迫した声に、エギルはシステムウインドウを見下ろしながら答えた。
「『グリムロック』……綴りは『Grimlock』。聞いたことねぇな。少なくとも、一線級の刀匠じゃねえ。まあ、自分用の武器を鍛えるためだけに鍛冶スキル上げてる奴も居ないわけじゃないが……」
商人クラスのエギルが知らない鍛冶屋を、俺やアスナが知ってるわけもなく、狭い部屋には再び短い沈黙が満ちた。
しかしすぐに、アスナが硬い声で言った。
「でも、探し出すことは出来るはずよ。このクラスの武器を作成できるレベルまで、まったくのソロプレイを続けてるとは思えない。中層の街で聞き込めば、『グリムロック』とパーティーを組んだことのある人がきっと見つかるわ」
「確かにな。こいつみたいなアホがそうそう居るとは思えん」
エギルが深く頷き、アスナと同時にアホソロプレイヤーの俺を見た。
「な……なんだよ。お、俺だってたまにはパーティーくらい組むぞ」
「ボス戦のときだけでしょ」
冷静に突っ込まれれば、反論できずに押し黙るしかない。
ふん、と鼻を鳴らし、アスナは改めてエギルの手中のショートスピアを見た。
「ま……正直、グリムロックさんを見つけても、あんまりお話したいカンジじゃないけどね……」
それには俺も同意見だった。
確かに、カインズを殺したのは、この槍をオーダーした未知のレッドプレイヤーであって、鍛冶屋グリムロックではない。
しかし、ある程度の技のある鍛冶プレイヤーなら、この武器が何のために設計されたものなのか推察できるはずなのだ。
『貫通継続ダメージ』は、基本的にモンスター相手には効果が薄い。なんとなれば、アルゴリズムによって動くMobは、恐怖を知らないからだ。貫通武器を突き刺されても、ブレイクポイントが発生し次第、むんずと掴んで容易く引っこ抜いてしまう。当然、その後親切に武器を返してくれるわけもなく、遠く離れた場所にポーイと捨てられたそれは戦闘が終わるまで回収できない。
ゆえに、この槍は対人使用を目的として作成されたものだということになる。俺の知っている鍛冶屋なら全員、仕様を告げられた時点で依頼を断るはずだ。
なのにグリムロックは槍を鍛えた。
よもや殺人者本人ということはあるまいが――鑑定すれば容易く名前が割れてしまうので――しかし、倫理観のかなり薄い人物か、あるいは秘かにレッドギルドに属しているということすら有り得る。
「……少なくとも、話を聞くのに、タダってわけにはいかないカンジだな」
俺がそう呟くと、エギルはぶんぶん首を振り、アスナはじろっと一瞥くれた。
「折半でいきましょ」
「……わかったよ、乗りかかった舟だ」
肩をすくめてから、がめつい商人に最後の質問をする。
「手がかりにはならないと思うけど、いちおう武器の名前も教えてくれ」
禿頭の巨漢は、わかりやすい安堵顔を作ると、三たびウインドウを見下ろした。
「えーっと……『ギルティソーン』となってるな。罪のイバラ、ってとこか」
「……ふーん」
改めて、俺はショートスピアの柄に密生する逆棘を眺めた。
勿論、武器の名前はシステムがランダムに命名したものだ。だから、その単語になんらかの意志が込められているわけではない。
――しかし。
「罪の……茨」
囁くように呟いたアスナの声もまた、どこか寒々とした響きを帯びているように思えた。
俺とアスナ、そして助手のエギルは連れ立ってアルゲードの転移門から、まずは最下層『はじまりの街』へと移動した。
目的は、もちろん黒鉄宮に安置された『生命の碑』を確認することだ。鍛冶屋グリムロック氏を訪ね当てようにも、生きていてくれなければどうしようもない。
広大なはじまりの街は、春だというのに荒涼とした雰囲気に覆われていた。
お天気パラメータのせいだけではない。宵闇に包まれた幅広の街路にはプレイヤーの姿はほとんど無く、気のせいかNPC楽団が奏でるBGMも鬱々とした短調のメロディばかりだ。
ここ最近、最大ギルドにして自治組織でもある『アインクラッド解放軍』がプレイヤーの夜間外出を禁止したという冗談のような噂を耳にしていたが、これはどうやら本当なのかもしれない。出くわすのは、お揃いのガンメタとオリーブグリーンの装備を着込んだ『軍』の見回りだけなのだ。
しかもそいつらは、俺たちを見つけるたびに、中学生を補導するお巡りさんのごとき勢いで駆け寄ってくるので心臓に悪い。もっとも、先頭に立つアスナの絶対零度の視線を食らってたちまち退散していくのだが。
「……こりゃあ、アルゲードが賑わうわけだよなあ……物価高いのに……」
思わず慨嘆すると、エギルが更に怖い噂を教えてくれた。
「何でも、近々プレイヤーへの『課税』も始める気らしいぞ」
「へ!? 税金!? ……うそだろ、どうやって徴収するんだよ」
「モンスターのドロップから自動で天引きされたりしてな」
「お前の店も、マル査に差し押さえられたりな」
等々と頭の悪い会話を続けた俺たちも、さすがに黒鉄宮の敷石を踏んだ途端に押し黙った。
その名のとおり、黒光りする鉄柱だけで組み上げられた巨大な建物は、外より明らかに数度低い空気に満たされていた。すたすたと前を歩くアスナも、むき出しの腕を寒そうに擦っている。
時間が遅いだけあって、幸い内部に他の人間の姿は無かった。
昼間の此処は、友人や恋人の死を信じられずに確認に訪れ、名前のうえに無情に刻まれた横線を目にして泣き崩れるプレイヤーの嘆きが途絶えることはない。おそらくは、あの槍に命を奪われたカインズの友人にして事件の目撃者ヨルコも、明日あたり確かめに来るのではないだろうか。
勿論、俺もそう遠くない過去に同じことをした。今だって完全に乗り越えられたわけではない。
青みがかったかがり火に照らされた無人の広間を、俺たちは早足に歩いた。
左右に数十メートルにわたって続く『生命の碑』の前に到着しても顔を上げずに、目測で直接Gの欄あたりを睨みつける。
エギルはそこで止まらず、右のほうに歩いていった。俺とアスナは息をひそめながら列挙されるプレイヤーネームを視線でなぞり、ほぼ同時にその名前を見つけた。『Grimlock』。横線は――なし。
「……生きてるね」
「だな」
思わず、同時にほっと息をつく。
そうと判れば、もうこの場所に長居する理由はない。少し離れたKのあたりを眺めていたエギルも、すぐにひとつ頷いて戻ってきた。
「カインズ氏は、確かに死んでるぞ。サクラの月22日、18時27分」
「……日付も時刻も間違いないわ」
アスナと同時に、短く黙祷する。カインズ――『Kains』の綴りはヨルコに目撃談を聞いたときに確認済みだ。
足早に黒鉄宮を出たところで、俺たちは一様に詰めていた息を吐き出した。
いつの間にか、街区BGMはテンポのゆっくりとした深夜帯用のものへと変わっている。NPC商店もすべて鎧戸を閉めてしまい、道を照らすのはごく薄い環境ライティングだけだ。
「……グリムロック氏を探すのは、明日にしましょう」
アスナの声に俺が頷くと、エギルが異相に情けない表情を浮かべて唸った。
「あのな……俺はだな、いちおう本業は戦士じゃなく商人でだな……」
「分かってるよ。助手役は今日でクビにしてやろう」
苦笑しながら言うと、分かりやすい安堵顔を作る。
この人のいい巨漢は、本心から「商売優先」とか「調査面倒」とか思っているわけではない。あの槍を作ったプレイヤーに直接相対するのが嫌なのだ。恐れではなく、その逆――怒りを爆発させてしまいかねないから。
ポンとエギルの背中を叩き、今日の礼を言ってから、俺たちは転移門広場への帰路についた。
50層アルゲードに戻るエギルがまずゲートに消え、ギルドホームへ帰るというアスナとも明朝の待ち合わせを確認して分かれた。
俺の現在の定宿は、48層の主街区にある。青く光る転移門の渦へと飛び込み、行き先を告げ、わずかな浮遊感ののちに再び石畳へと踏み出した俺を――。
突然、6、7人のプレイヤー達が一斉に取り囲んだ。
† 5 †
一瞬、背中の剣を抜きそうになった。
たとえ何十人に囲まれようとも、『圏内』に居る限り一切の危険はない、という常識がこの数時間で少々ぐらつきつつあったせいだ。
しかし俺は、右手の指を一本ぴくっと動かしただけでどうにか自制した。集団の顔ぶれには、明確な見覚えがあった。
攻略ギルドの中でも、押しも押されぬ大手である『聖竜連合』に所属するプレイヤー達だ。半円形に並ぶその面々の中ではリーダー格と推測される一人に向けて、俺は口を開いた。
「こんばんは、シュミットさん」
機先を制して笑顔で挨拶してやると、長身のランス使いは一瞬言葉に詰まってから、再び眉間に皺を寄せて早口で言った。
「……聞きたいことがあってアンタを待ってたんだ、キリトさん」
「へえ。誕生日と血液型……じゃあないよな」
ついつい混ぜっ返すと、運動部の主将然とした短髪の下のくっきりとした眉が軽く震えた。
同じ攻略組どうし、別に敵対しているわけではないが、俺と『聖竜連合』はウマが合うほうではない。比較すれば、アスナ率いる『血盟騎士団』とのほうがまだ友好的に付き合っているかもしれない。
その理由は、血盟騎士団の目的が「最速のゲーム攻略」であるのに対して、聖竜連合のベクトルは「最強ギルドの称号」に向いている気がするからだ。彼らは基本的にギルド外メンバーとパーティーを組まないし、狩場情報も積極的には公開したがらない。その上、ボスモンスターへの止めの一撃《エンドアタック》――アイテムドロップ判定にボーナスが付く――をかなり意地汚く欲しがる。
しかしまあ考えようによっては、SAOというゲームを一番楽しんでいる人たち、と言えなくもないので文句を口にしたことはないが、二度ほどあった加入要請はすげなく断った経緯がある。ゆえに、俺とはあまり仲がよろしいとは言えないわけだ。
今現在、転移門広場の壁を背にする俺を半円に取り囲む七人の間隔も、実に微妙な距離を作っている。プレイヤーを囲んで動けなくする『ボックス』ハラスメントとまでは言えないが、俺が輪の外に出ようとすると誰かの体に触れねばならず、それもまた非マナー行為ではあるので躊躇われるという、『なんちゃってボックス』状態である。
ため息を押し殺し、俺は語調を改めてシュミットに問うた。
「答えられることなら答えるよ。何が聞きたいんだ?」
「夕方、57層であったPK騒ぎのことだ」
その即答は、予想されたものだった。軽く頷き、背中を石壁に預けて腕組みすると、俺は視線で先を促した。
「デュエルじゃなかった……って噂は本当なのか」
低めの渋い声で訊かれ、俺はやや考えてから肩をすくめた。
「少なくとも、ウィナー表示窓を見た人間は誰も居なかったのは確かだ。ただ、何らかの理由で全員が見落としたという可能性はある」
「…………」
シュミットの少々角ばった顎が、ぐっと噛み締められた。首元の装甲がかしゃっと鳴る。
聖竜ギルメンの例に漏れず、プレートアーマーは銀に青の差し色が入ったカラーリングだ。背負われた主装備のランスは二メートル以上も高く突き出し、鋭い先端にはご丁寧にブルーのギルドフラッグが夜風になびいている。
しばし沈黙したあと、シュミットは一層低い声を出した。
「殺されたプレイヤーの名前……『カインズ』と聞いたが間違いないか」
「事件を目撃した友人はそう言っていた。さっき、黒鉄宮まで確認に行ってきたが時間も死因もピッタリだったぜ」
ぐび、と太い喉が動くのを見て、ここでようやく俺も不審なものを感じた。首を傾け、問い返す。
「知り合いなのか?」
「……アンタには関係ない」
「おいおい、こっちに質問だけしといてそりゃない……」
言いかけたところで、突然怒鳴られた。
「アンタは警察じゃないだろう! KoBの副長とこそこそ動いてるみたいだが、情報を独占する権利はないぞ!」
広場の外まで届いたであろう大声に、周囲のメンバーたちもやや戸惑った様子で顔を見合わせた。どうやら、シュミットが詳しい事情を話さずに頭数を集めてきただけらしい。
となると、事件に関係している可能性があるのは、聖竜連合そのものではなくシュミット個人だということだ。ふむふむと脳内にメモっていると、突然目の前にガントレットに包まれた右手が突き出された。
「アンタが現場から、PKに使われた武器を回収してったことは知ってるぞ。もう充分調べただろう、渡してもらう」
「……おいおい」
これは明らかなマナー違反行為と言っていい。
SAOでは、装備フィギュアに設定されていない武器をドロップすると、わずか六十秒で所有者属性がクリアされる。そのアイテムは、システム上も通念上も、次に拾った人間のものとなる。あの黒い槍は、カインズの命を奪った時点ですでに装備解除されていた。ゆえに、今はもう俺の名前が所有者として登録されている。
他人の武器をタダで寄越せとは横柄な話もあったものだが――しかし、確かにあの槍は、武器である以前に重要な証拠品だ。刑事でも探偵でもない俺がガメておくのもちょっとどうかと、一割ほどは思わなくもない。
よって俺は、今度は隠すことなく堂々とため息をつき、左手を振ってアイテムストレージを開いた。
実体化させた黒いショートスピアを右手で持ち上げ、せめてカッコくらいつけるべく、俺とシュミットの間の敷石に音高く突き立てる。
ギャリーン!! と盛大な火花を散らし屹立した槍を、シュミットは、気圧されたように半歩引いて見下ろした。
改めて眺めると、実に禍々しいデザインの武器だ。プレイヤーキルのためだけの仕様なのだから、当然と言えば当然だが。
一分経つのを待ちながら、俺はランス使いにせいぜい低い声で告げた。
「鑑定の手間を省いてやるよ。この槍の名前は『ギルティソーン』。造った鍛冶屋は、『グリムロック』だ」
今度こそ、明確な反応があった。
シュミットは、細めの両眼をいっぱいに見開き、口を半分開いて、嗄れた喘ぎを漏らしたのだ。
間違いなく、このお兄さんは鍛冶屋グリムロックと、そしておそらく被害者カインズの関係者だ。だが、直接訊いても無論答えるまい。
さて……と考えていると、僅かに震える腕が伸び、地面から槍を引き抜いた。
歯をぎりぎりと食いしばったシュミットは、たたき付けるようなモーションで開いたストレージにスピアを放り込み、背中のランスをがしゃっと鳴らして体の向きを変えた。
発せられた最後の言葉は、実に類型的なしろものだった。
「……あまりコソコソ嗅ぎ回らないことだ。行くぞ!」
そして聖竜連合の男たちは、足早に転移門へと消えていった。
さてさて。
† 6 †
「DDAが?」
俺の報告を聞いたとたん、アスナは僅かに目元をしかめた。
DDA、とはディヴァイン・ドラゴンズ・アライアンスの頭文字で、ギルド聖竜連合の略称である。泣く子も黙るDDA、そこのけそこのけDDAが通る、ぐらいの威圧感のある名前なのだが、その神通力もKoB副長のアスナには通じない。
明けたサクラの月23日は、さっそく天候パラメータの機嫌が悪く、朝から霧雨模様となっていた。空の無いアインクラッドで雨が降るのは理不尽だが、それを言えば晴天時の日差しも有り得ないことになってしまう。
午前7時ちょうどに、事件現場のある57層の転移門で待ち合わせた俺とアスナは、とりあえず手近なカフェテラスで朝食がてら情報を整理することにした。最大のトピックは、やはり昨夜俺を待ち伏せた上で、強引に情報と凶器を巻き上げていった聖竜ギルメン・シュミット氏のことだった。
「あー、いたわねそんな人。でっかいランス使いでしょ」
「そそ。高校の馬上槍部主将って感じの」
「そんな部活ないけどね」
朝から冴え渡る俺のユーモアを一蹴し、アスナは考え込むようにカフェオレのカップを抱えた。
「……実はそいつが犯人、てセンは無いわよね?」
「断定は危険だけど、まあ無いよな。足がつくことを恐れて凶器を回収する、くらいなら最初から現場に残す必要がない。あの槍はむしろ、犯人のメッセージだったと俺は思う」
「そうだね。あの殺し方に加えて、武器の名前が『罪の茨』じゃ、これは処刑だぞ、って大声で言ってるようなもんだものね」
そう――、それ以外の何者でもなかろう、恐らく。
俺は声をひそめて、導かれる推察を口にした。
「つまり、動機は復讐ってことだよな。過去にあのカインズ氏が何か『罪』を犯して、それに対する『罰』として殺したと、犯人はそう主張しているわけだ」
「そう考えると、シュミットはむしろ、犯人側じゃなくて狙われる側、って感じだわね。以前にカインズと一緒に何かをして、その片方が殺されたから焦って動いた……」
「その『何か』が分かれば、自動的に復讐者も分かる気がするな。……ただ、これが全部、犯人の演出に過ぎない可能性もある。先入観は持たないようにしないと」
「うん。特に、ヨルコさんに話を聞くときはね」
アスナと同時に頷きあい、俺はちらっと時刻表示を確認した。午前9時になったら、すぐ近くの宿屋に滞在中のヨルコに、もう一度詳しい事情を聞きにいくことになっている。
黒パンとチーズに野菜スープの朝食をもそもそ食べ終えても時間がかなり余り、俺は向かいに座るアスナの姿をぽけーっと眺めた。
今日は、私用だからということなのか、いつもの白地に赤の縁取りのある騎士服ではない。ピンクとグレーの細いストライプ柄のシャツに黒レザーのベストを重ね、ミニスカートもレースのフリルがついた黒、脚にはグレーのプリントタイツ。
おまけに靴はピンクのエナメル、頭にも同色のベレーとくれば、何だかやたらとキメてきている――ような気もするが、これが女性プレイヤーの平均的普段着であるのかもしれないし、それが判断できるほどのファッションアイテムの知識は残念ながら持ち合わせていない。何せ、どれだけ見ても、上から下までで総額何コルかかっているのか見当もつかないのだ。
だいたい、殺人事件の調査にオシャレしてくる理由もないし、などとぼんやり考えていると、不意にアスナがちらっと視線を上げ、ぷいと横を向いた。
「……何見てるの」
「えっ……あ、いや……」
よもや服の値段を訊くわけにも行かず、さりとて『可愛い服だね、よく似合ってるよ』などと言おうものなら大激怒か大爆笑されることは必至なので、とっさに取り繕う。
「えーと……そのどろっとした奴、旨い?」
アスナは瞬きし、スプーンでつついていた謎のポタージュっぽいものを見下ろし、もう一度俺を見て何とも微妙な表情を作ったあと、はぁーっと深く長いため息をついた。
「……おいしくない」
ぽそっと答えて皿ごと脇に押しやる。軽い咳払いを挟み、細剣使いは口調を改めた。
「わたし、昨夜ちょっと考えたんだけどね。きのうの槍が発生させた『貫通継続ダメージ』だけど……」
そういえば、この女が帯剣してないとこは始めて見るかも、などと今更気付きつつ俺は頷いた。
「うん?」
「例えば、圏外で貫通属性武器を刺されるじゃない? そのまま圏内に移動したら、継続ダメージってどうなるのか、君知ってる?」
「えー……と」
思わず首を捻る。確かに、そんなシチュエーションにはこれまで遭遇したことはないし、考えたことすらない。
「いや、知らないな……。でも、毒とかは圏内入った瞬間消えるだろ? 継続ダメージも同じじゃないか?」
「でも、そしたら刺さってる武器はどうなるの? 自動で抜けるの?」
「それもなんだか気持ち悪いな。……よし、まだちょっと時間あるし、実験しようぜ」
俺の言葉に、アスナが目を丸くした。
「じ、実験!?」
「百聞一見」
怪しげな四字熟語とともに立ち上がると、俺は街区マップを呼び出し、最寄の門への道を確認した。
マーテンの街の外は、節くれだった古樹が点在する草原になっていた。
ほんの数週間前、ここが最前線だったときに散々通った道なのだが、すでに記憶は薄い。春の訪れとともに緑が芽吹いたせいもあろうが、基本的には、攻略された層の圏外フィールドというのはほとんど用の無い場所なのだ。
しとしと降る霧雨を掻き分けて、市街の門から出たとたん、視界に『Outer Field』の警告が表示された。別に、すぐにモンスターが襲ってくるわけではないものの心の一部が自動的に緊張する。
腰にいつものレイピアを装備しなおしたアスナは、前髪に溜まる水滴を煩わしそうに弾いてから、怪訝そうな声を出した。
「で……実験て、どうする気?」
「こうする気」
俺はベルトを探ると、常に三本装備されている『スローイング・ピック』を一本抜き出した。
アインクラッドに存在するあらゆる武器は、斬撃《スラッシュ》・刺突《スラスト》・打撃《ブラント》・貫通《ピアース》の四属性に分類される。俺のメインウェポンである片手直剣は斬撃武器だし、アスナのレイピアは刺突武器だ。メイスやハンマーが打撃、そしてカインズを殺したスピアや、シュミットの持つランスが貫通武器ということになる。
ここで微妙なのが、幾つか存在する投擲系武器の扱いだ。同じ投げモノでも、ブーメランや円形の刃を持つチャクラムは斬撃、スローイングダガーは刺突、そして俺のスローイングピックは貫通と属性が分かれる。そう、たかだか長さ12センチほどの大型の鉄針にしか見えないが、このピックは立派な貫通武器であり、ゆえに僅かながら継続ダメージが発生するのだ。
自分のHPは実験に提供しても、装備の耐久度まで減らすのは馬鹿らしいので左手のグローブを外し、広げた手の甲に向けて俺は右手のピックを振り上げた。
「ちょ……ちょっと待って!」
鋭い声にぴたっと手を止める。
見ると、アスナはアイテム窓を開き、治癒クリスタルを取り出しているところだった。思わず苦笑する。
「大げさだなぁ。こんなピックが手に刺さったくらいじゃ、総HPの1、2パーセントくらいしか減らないよ」
「バカ! 圏外じゃ何が起きるかわからないのよ! さっさとパーティー組んでHPバー見せて!!」
愚かな弟を叱る姉のような口調で雷を落としたアスナは、さらにウインドウを操作し、俺にPT要請を飛ばしてきた。首を縮めて即座に受諾すると、視界左上の俺のHPバーの下に、やや小型のアスナのHPも出現した。
考えてみれば、この女とPTを組むのはこれが初めてのことだ。ボス攻略を巡る意見の対立から、デュエルまでしたのもそう昔のことではないというのに。
右手にピンクのクリスタルを握り、緊張した面持ちで待機するアスナの顔を、俺は思わずまじまじと眺めてしまった。
「…………なに?」
「いや……なんつうか、こんなに心配してくれると思わなくて……」
言ったとたん、アスナの白い頬が結晶と同じ色に染まり、目を丸くした俺を再びの落雷が襲った。
「ち……違うわよ! いえ、違わないけど……もう、さっさとしてよ!!」
ひぃっ、と震え上がり、改めてピックを構える。
「じゃ、じゃあ、いきます」
宣言してから、大きく息を吸い――。
俺は、まっすぐ伸ばした自分の左手目掛けて、投剣スキルの初級技『シングルシュート』のモーションを起こした。
右手の二本の指で挟んだピックが、控えめなライトエフェクトとともにぴうっと飛翔し、直後にどすっと手の甲を貫通した。
衝撃に続いて、不快な痺れと僅かな鈍痛が神経を走る。
HPバーは、予想より僅かに多く、約3パーセントを減らしていた。そう言えばこのあいだピックを高級なドロップ品に換えたんだった、と今更思い出す。
不快感に耐えながら、刺さった鉄針を眺めていると、五秒後に再び赤いエフェクト光が閃いた。同時にHPが0.5%ほど削れる。まさにこれが、カインズの命を奪った『貫通継続ダメージ》に他ならない。
「……はやく圏内に入ってよ!」
強張るアスナの声に背を押され、俺はひとつ頷くと、HPバーとピックの双方に視線を据えたまますぐ近くのゲートへと向かった。
ブーツの底が踏む湿った草が、硬い石畳へと変わると同時に、視界に『Inner Area』の表示が浮かんだ。
そして――HPバーの減少が停止した。
五秒ごとに赤いエフェクトがフラッシュはするのだが、ヒットポイントは僅かにも減らない。やはり、圏内ではあらゆるダメージはキャンセルされるのだ。
「……止まった、わね」
アスナの呟きに、こくりと首肯する。
「武器は刺さったまま、でも継続ダメージは停止、か」
「感覚は?」
「残ってる。これは……武器を体にぶっ刺したまま圏内をうろつくバカモノが出ないようにするための仕様かな……」
「今の君のことだけどね」
冷たい声で言われ、首を縮めてピックを摘むと、一思いに引き抜いた。神経をひときわ強い不快感が走り、思わず眉をしかめる。
左手の甲には何の傷も残っていないが、冷たい金属の感触はいっこうに去ろうとせず、俺はそこをふーふー吹きながら呟いた。
「ダメージは確かに止まった……。てことは、カインズは何故死んだんだ……? あの武器だけの特性なのか……あるいは未知のスキルか……ってうわ!?」
最後の叫び声の理由は――。
いきなりアスナが、俺の左手を両手で掴んで引き寄せて、ピックが刺さっていた箇所をぺろっと舐めたことによるものだ。
「おまっ……な……なっ……」
すぐに顔を背け、横目で俺を見て、曰く。
「がんばったから、ごほーび」
――――――――。
突然心臓がばくばく言い出したのは、ただびっくりしたからだ。
それだけだ、絶対に。