ユウキは驚いた様子も見せず、若草が風にたなびくように、アスナの肩口に頭を預けた。アーマー越しに触れ合う体から、電子パルスに媒介されるデジタルデータ以上の、心を震わせるような暖かさが伝わって、アスナはゆっくりと息を吐きながら眼を閉じた。
「……姉ちゃんに抱っこしてもらったときとおんなじ匂いがする。お日様の匂い……」
全身をアスナにもたれさせながら、ユウキが囁いた。
「藍子……さん? お姉さんも、VRMMOを……?」
「うん。あの病院は、一般病室でもアミュスフィアが使えたから。姉ちゃんは、スリーピングナイツの初代リーダーだったんだよ。結成してしばらくは、『アスカエンパイア』ってゲームに居たんだけどね……。ボクなんかより、ずーっと強かったんだ……」
ユウキの額がぎゅっと肩に押し当てられるのを感じて、アスナは右手を上げ、艶やかな髪をそっと撫でた。一瞬の体の強張りをすぐに解き、ユウキは言葉を続ける。
「スリーピングナイツのメンバーは、最初は9人いたんだよ。でも、もう、姉ちゃんを入れて3人いなくなっちゃった……。だからね、シーエンたちと話し合って、決めたんだ。次のひとりの時には、ギルドを解散しよう、って。その前に、みんなで素敵な思い出を作ろう……姉ちゃんたちに、胸を張ってお土産に出来るような、すごい冒険をしよう、って」
「…………」
「ボクたちが出会ったのは、『セリーンガーデン』っていう、医療系ネットワークの中にあるヴァーチャル・ホスピスなんだ。病気はそれぞれでも、大きな意味では同じ境遇の人たち同士、VR世界で話し合ったり、遊んだりして、最期の時を豊かに過ごそう、っていう目的で作られた場所……」
病院を訪れ、倉橋医師の話を聞いたときから、アスナは心のどこかであるいは、と思っていた。ユウキを含むスリーピングナイツのメンバーに共通する、強さ、朗らかさ、そして静けさ。その理由は、皆が同じ場所に立っているからではないのかと。
しかし、予期していたつもりでも、ユウキの言葉は途方もない重みをともなってアスナの胸の底に降り積もった。シーエンや、ジュン、テッチたちの明るい笑顔が、次々と脳裏を過ぎった。
「アスナ、ごめんね。本当のことを言えなくて。春にスリーピングナイツが解散する、っていうのは、みんなが忙しくなってゲームを引退するからじゃないんだ。良くてあと三ヶ月、って告知されてるメンバーが二人いるからなんだよ。だから……だから、ボクたちは、どうしてもこのすてきな世界で、最後の思い出を作りたかった。あの大きなモニュメントに、ボクたちがここにいたよ、っていう証を残したかった」
再びユウキの声が震えた。アスナはただ、両腕に一層力を込めることしかできなかった。
「でも、どうしてもうまくいかなくて……一人だけ、手伝ってくれる人を探そう、って相談したんだ。反対意見もあったよ。もしボクたちのことを知られたら、その人に迷惑をかけちゃう、嫌な思いをさせちゃうから、って。……その通りになっちゃったね。ごめんね……ごめんね、アスナ。もし出来るなら……今からでも、ボクたちのことは忘れて……」
「出来ないよ」
短く答え、アスナはユウキの頭に頬を摺り寄せた。
「だって、迷惑なんてこと、これっぽっちもないもん。嫌な思いなんてしてない。わたし、ユウキたちと出会えて、ユウキたちの手伝いが出来て、凄く嬉しいよ。今でもまだ……スリーピングナイツに入れてほしいって、そう思ってる」
「……ああ……」
ユウキの吐息も、華奢な体も、一瞬、深く震えた。
「ボク……この世界に来られて、アスナと出会えて、本当に嬉しい……。今の言葉だけで、じゅうぶん、じゅうぶんだよ。これでもう……何もかも、満足だよ……」
「…………」
アスナはユウキの両肩に手をかけると、そっと体を離した。濡れたように輝く紫色の瞳を、間近からじっと覗き込む。
「まだ……まだ、してないこと、一杯あるでしょう? アルヴヘイムにだって、行ってない場所沢山あるだろうし……他のVRワールドも含めたら、この世界は無限に広がってる。だから、満足なんて、言わないでよ……」
言葉を探しながら懸命に語りかけるが、ユウキはどこか遠くを見るように眼差しを煙らせ、微笑むだけだった。
「この三年間で……ボクたち、色んな世界で、色んな冒険をしたよ。その最後の1ページは、アスナと一緒に作った思い出にしたいんだ」
「でも……あるでしょう、まだ……したいこと、行きたい場所……」
ユウキの言葉に頷いたら、その瞬間に眼の前の少女が朝靄の向こうに消えていってしまいそうで、アスナは必死に口を動かした。すると、ユウキはふっと視線の焦点を、遥か彼方からアスナの顔に合わせ、ボス攻略中に何度か見せたようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そうだね……ボクね、学校に行ってみたいな」
「が……学校?」
「仮想世界の学校にはたまに行くんだけどね、なんだか、静かで、綺麗で、お行儀良すぎてさ。ずーっと前に通ってたみたいな、本物の学校にもう一度行ってみたいな」
もう一度くるっと瞳を瞬かせて笑ってから、済まなそうに首を縮める。
「ごめんね、無理言って。アスナの気持ちはすっごく嬉しい。でもね、ほんとに満足なんだよ、ボク……」
「――行けるかも」
「……え?」
ユウキはぱちくりと目をしばたかせ、アスナの顔をまじまじと見た。記憶のフタを懸命にこじ開けようとしながら、アスナはもう一度言った。
「行けるかもしれないよ……学校」
翌1月12日、午後12時50分、校舎三階北端。
昼休みの喧騒がかすかに届く電算機室で、明日奈は背筋を伸ばして椅子に腰掛けていた。
ブレザータイプの制服の右肩には、細いハーネスで固定された、直径7センチほどの半球ドーム状の機械が載っている。
基部は黒いメタル素材だが、ドーム部分は透明なアクリル製で、その内部に収められたレンズ機構が見て取れる。基部からは二本のケーブルが伸び、一本は明日奈の上着のポケットに収められた携帯端末に繋がり、もう一本は目の前の机に鎮座した小型のパソコンへと接続されている。
パソコンの前では、桐ヶ谷和人と、彼と同じくハードウェア制御コースを受講している二人の生徒が頭を寄せ合い、先刻からあれこれと呪文めいた言葉で意見を交換していた。
「だからさ、これじゃジャイロが敏感すぎるんだって。視線追随性を優先しようと思ったら、ここんとこのパラメータにもうすこし遊びがないと……」
「でもそれじゃあ、急な挙動があったときにラグるだろ」
「そのへんは最適化プログラムの学習効果に期待するしかねえよ」
「ねえキリトくん、まだー? 昼休み終わっちゃうよー」
三十分以上に渡って姿勢固定を強制されている明日奈が、焦れながら声を出すと、和人もう〜んと唸りながら顔を上げた。
「とりあえず初期設定はOKとしとこう。えーと、ユウキさん、聞こえてます?」
明日奈ではなくドーム装置に向かって和人が呼びかける。すると、すぐに機械に備えられたスピーカーから、まごうことなき"絶剣"ユウキの元気な声が応えた。
『はーい、よく聞こえてるよー』
「よし、じゃあ、これからレンズのキャリブレーションを取りますんで、視界がクリアになったところで声を出してください」
『はい、了解』
明日奈の肩に乗っている半球形のメカは、通称『視聴覚双方向通信プローブ』と言うもので、和人たちの班が今年度の頭からずっと試行錯誤しているテーマだった。
簡単に言えば、アミュスフィアとネットワークを通して、現実世界の遠隔地と視覚、聴覚のやり取りをしようという機械だ。プローブ内部のレンズとマイクに収集されたデータは、明日奈の携帯を介してネットに流され、横浜港北総合病院のメディキュボイドを経由して仮想空間内のユウキに届くという仕組みである。レンズは半球内を自由に回転し、ユウキの視線の動きと同期して映像を得ることができる。ユウキは今、自分の体が10分の1ほどに小さくなり、アスナの肩に座っていると感じているはずだ。
以前からこの研究テーマに対する愚痴を散々聞かされていた明日奈は、ユウキが学校に行きたいと言ったとき、咄嗟に思い出したのだった。
ういいん、とごく微かな音を立ててレンズが焦点を動かしていき、ユウキの「そこ」という声と同時に止まった。
「よし、これで終わりだ。一応スタビライザーは組み込んであるけど、急激な動きは避けてくれよ。あんまり大きな声も出さないこと。ささやくくらいで充分伝わるからな」
「りょーかい」
あれこれ注意事項をまくしたてる和人に背筋を大きく伸ばしながら返事をし、アスナはそっと立ち上がった。さっそく、肩のプローブに向かって小声で話かける。
「ごめんねーユウキ、先に学校の中案内しようと思ったけど、昼休みがもう終わっちゃうのよ」
すぐに、小型スピーカーからユウキの声が返ってきた。
『いいよ、授業見学するのもとっても楽しみ!』
「オッケー、じゃあまず、次の授業の先生に挨拶にいこう」
突貫でプローブの設定をやらされて、やや疲れた表情の和人たち三人にひらっと手を振り、明日奈は電算機室を出た。
廊下を歩き、階段を降り、連絡橋を渡るあいだも、ユウキは何かを見つけるたびにわあっと歓声を上げていたが、『職員室』というプレートのついたドアの前に来ると、急に静かになった。
「……どうしたの?」
『えーと……ボク、昔から苦手だったんだよね、職員室……』
「ふふふ、大丈夫。この学校は先生っぽくない先生ばっかりだから」
笑いを交えながら囁いて、明日奈は勢いよくドアを開けた。
「失礼しまーす!」
『し、失礼しまぁす』
大小ふたつの挨拶と同時に中に入ると、すたすたと机の列を横切っていく。
五時限目の現代国語を受け持つ教師は、一度都立中学の教頭を定年まで勤め上げ、この実験的教育施設に乞われて再就職したという人物だ。すでに六十台後半ながら、学校の各所に取り入れられているネットワークデバイスを器用に操り、理知的な物腰もあって明日奈は好感を持っている。
そういう人物なので、恐らく拒否反応はあるまいと思いつつも、多少緊張しながら明日奈は事情を説明した。見事な白髪白髭の教師は、大きな湯呑みを片手に耳を傾けていたが、話が終わるとひとつ頷いて言った。
「うん、構わんよ。ええと、君、名前は何と言ったかね?」
『あ、はい……ユウキ――紺野木綿季です』
実際にプローブから即座に返答があると、さすがに教師は少々驚いたようだったが、すぐに口もとを綻ばせた。
「コンノくん、よかったらこれからも授業を受けに来たまえ。今日から芥川の『トロッコ』をやるんでね、あれは最後まで行かんとつまらんから」
『は……はい、ありがとうございます!』
ユウキに続いて明日奈も礼を言ったところで予鈴が鳴った。慌ててもういちどぺこりと頭を下げ、職員室から出た直後、二人同時にふうーっと息をつく。
ちらりと視線を交わして笑いあうと、明日奈は足早に教室へと向かった。
自分の席に座ったとたん、肩の上の謎の機械について周囲の同級生たちから質問攻めにあったりもしたが、ユウキが入院中であることを説明し、実際にユウキが喋ると皆すぐに仕組みを理解して、次々と自己紹介を始めた。それが一段落したところで本鈴が鳴り、教師が前のドアから姿を現した。
日直の号令で礼を終え――プローブの中でもレンズがういん、ういんと上下した――教壇の脇に進み出た老教師は、髭を一撫でするといつもと何ら変わらぬ様子で授業を始めた。
「えー、それでは、今日から教科書九八ページ、芥川龍之介の『トロッコ』をやります。これは芥川が三十歳の時の作品で――」
教師の概説が続くあいだ、明日奈は薄いタブレット型端末を持ち上げてテキストの該当個所を表示させ、ユウキにも見えるように体の前に持ち上げていた。が、直後の教師の台詞に、思わずそれを取り落としそうになった。
「――では、最初から読んでもらいましょう。紺野木綿季くん、お願いできるかな?」
「は!?」
『は、はいっ』
明日奈とユウキは同時に素っ頓狂な声を上げた。教室中が一瞬ざわつく。
「無理かね?」
尋ねる教師に、明日奈が何かを答える前に、ユウキが大きな声で叫んだ。
『よ、読めます!』
プローブのスピーカーには充分な出力のアンプが内臓されているようで、その声は教室の隅まで楽に届く大きさだった。明日奈は慌てて立ち上がると、両手でタブレット端末をレンズの前にかざした。首を右に傾け、囁く。
「ユウキ……よ、読める?」
『もちろん。これでもボク、読書家なんだよ!』
即答すると、ひとつ間を取ってから、ユウキは元気よくテキストを朗読しはじめた。
『……小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは……』
テキストを保持したまま、明日奈はそっと目を閉じ、抑揚豊かに文章を読み上げるユウキの声に意識を集中した。
心のなかのスクリーンには、明日奈の隣の席に立つ、制服に身を包んだユウキの姿がはっきりと見えた。いつか必ずこの光景は現実になると、明日奈はその瞬間確信した。医学は年々、長足の進歩を遂げている。きっとごくごく近い未来には、HIVという悪魔を根絶する薬品が開発され、ユウキが現実世界へと帰還する日がくるに違いない。その時には、今度こそ本当に手と手をつないで、学校や街を案内しよう。帰り道にファーストフード店で買い食いして、公園に寄り道して、他愛ないお喋りをしよう。
明日奈は、ユウキに気付かれないように、そっと左手で目尻を拭った。ユウキは情感たっぷりに、いつまでも前世紀の名文を読みつづけ、教師もなかなかそれを止めようとしなかった。昼下がりの校内はしんと静まり返り、まるで全校の生徒が朗読に耳を傾けているかのようだった。
そのまま六時間目の授業も一緒に受けたあと、明日奈は約束どおり学校中を案内して回った。クラスの生徒たちが十人あまりも一緒についてきて、我先にとユウキに話し掛け続けたのが予定外ではあったが。
ようやく二人だけに戻って、中庭のベンチに腰掛けたときには、すでに空はオレンジ色に染まりつつあった。
『アスナ……今日はほんとにありがとう。すごく楽しかった……ボク、今日のこと、ぜったい忘れない』
不意にユウキが真剣な調子で言い、明日奈は反射的に明るい声で答えた。
「何言ってるの。先生も、毎日来てもいいって言ったじゃない。明日の現国は三時間目だからね、遅刻しちゃだめだよ! それよりさ……もっと、他に見たいものとか、ない? 校長室以外ならどこでもいいよ」
ユウキはふふ、と笑ったあと、しばし沈黙した。やがて、おずおずという様子で声を発する。
『あのね……一箇所、行ってほしいところがあるんだ』
「どこ?」
『その、学校の外でも、大丈夫?』
「え……』
明日奈は思わず口をつぐんだ。一瞬考え込むが、プローブのバッテリーはまだ充分に保つし、携帯端末がネットに接続できる場所なら、移動の制限は無いはずだ。
「うん、大丈夫だよ。携帯のアンテナがある場所ならどこでも!」
『ほんと!? あのね……ちょっと遠いんだけど……横浜の、保土ヶ谷区、月見台ってところ……』
学校のある調布から、京王線、東横線、相鉄線と乗りついで、横浜市保土ヶ谷区へと向かった。
さすがに電車の中では時折ひそひそと囁くだけに留めたが、それ以外の路上では、明日奈は周囲の目を気にすることなく肩の双方向通信プローブと話しつづけた。ユウキが入院している三年のあいだに、街の風情もそれなりに変わっているようで、彼女が興味を持ったものにはみな近くまで寄っては解説を加えた。
そんなことをしていたものだから、星川駅で電車を降りたときにはもう、ロータリー中央に立つ大時計の針は五時半を回っていた。
濃い朱から紫に変わりつつある空を振り仰ぎ、明日奈は大きく息を吸った。すぐ近くに、木々の多く残る丘陵が広がっているせいか、冷たい空気の味も東京とはずいぶん違うような気がする。
「綺麗な街だね、ユウキ。空がすごく広いよ」
明るい調子で語りかけたが、ユウキは済まなそうな声で返事をしてきた。
『うん……。ごめんね、アスナ。ボクのわがままのせいで、こんな遅くまで……。お家のほうは、大丈夫?』
「へーきへーき! 遅くなるのなんていつものことだもん」
反射的にそう答えるが、実際のところ、明日奈が夕食の刻限に遅れたことはほとんどなく、またその場合、母親の機嫌は大いに損なわれる。しかし今は、帰ってからいくら叱られようとも一向にかまわない気分だった。ユウキが望めば、プローブのバッテリーが続くかぎり、どこまでも遠くまでいくつもりだった。
「ちょっと、メールだけさせてね」
何気ない声でそう言うと、明日奈は携帯端末を取り出した。プローブとの接続は保持したまま、メーラーを立ち上げて、自宅のホームコンピュータ宛に帰りが遅れる旨のメッセージを飛ばす。恐らく母親からは、刻限無視を難詰するメール、次いで直接通話がかかってくるに違いないが、端末をネットに繋ぎっぱなしにしておけば留守番サービスに転送されるはずだ。
「これでOK、っと。さ、ユウキ、行きたいところって、どこ?」
『えっとね……駅前を左に曲がって、二つ目の信号を右に……』
「ん、わかった」
ひとつ頷いて、明日奈は歩き出した。駅前の小さな商店街を、ユウキのナビゲーションに従って通り抜けていく。
ユウキは、パン屋や魚屋、郵便局や神社の前を通るたびに、懐かしそうに一言、二言呟いた。やがて住宅地に入っても、大きな犬のいる家や、立派な枝ぶりの楠などに目を留めては、嘆声を上げる。
だから明日奈は、ユウキが何も言わなくても、この街がかつて彼女の暮らしたところなのだと察することができた。そして、二人の向かう先に待つものも、また――。
『……その先を曲がったところの、白い家の前で止まって……』
そう告げるユウキの声が、微かに震えているのに明日奈は気付いた。葉を落としたポプラの並ぶ公園に沿って右に曲がると、左側に、白いタイル張りの壁を持つ家がひっそりと建っていた。
さらに数歩すすみ、青銅製の門扉の前で明日奈は立ち止まった。
『…………』
肩で、ユウキが長い吐息を漏らした。明日奈はおもわず指を伸ばしてプローブのアクリルドームに添えながら、囁きかけた。
「ここが……ユウキの、お家なんだね」
『うん。……もういちど、見られるとは思ってなかったよ……』
白い壁と緑色の屋根の家は、周囲の住宅と較べると少し小さめだったが、その分たっぷりと広い庭を持っていた。芝生には、白木のベンチつきのテーブルが置かれ、その奥には赤レンガで囲まれた大きな花壇が設けられている。
しかしテーブルは風雨に晒されて色をくすませ、花壇もただ黒土に枯れた雑草がちらほら生えているだけだ。両隣の家の窓ガラスからは、団欒の暖かなオレンジ色がこぼれているのに、白い家の窓はすべて雨戸が閉められて生活の気配はまったく無い。
しかしそれも当然と言えた。かつてこの家に暮らした、父、母と娘二人の家族は、今はもう一人を残すのみなのだ。そしてその一人も、エアシールされた扉の向こうで、機械群に囲まれたベッドに横たわり、そこから出ることはかなわないのだ。
最後の残照の下ですみれ色に染まる家を、明日奈とユウキはしばし無言で見つめ続けた。やがて、ユウキがぽつりと呟いた。
『ありがとう、アスナ。ボクをここまで連れてきてくれて……』
「……中に、入ってみる?」
誰かに見咎められれば困ったことになりかねなかったが、それでも明日奈はそう尋ねた。しかし、ユウキはういんとレンズを左右に振りながら、言った。
『ううん、もうこれで充分。さ……早く帰らないと、遅くなっちゃうよ、アスナ』
「まだ……もうしばらくなら、大丈夫だよ」
反射的にそう答えて、アスナは後ろを振り向いた。細い道を挟んだ向かいには公園があって、その外周を石積みの基部を持つ生垣が取り巻いている。
アスナは道を渡ると、膝の高さの石積みに腰掛けた。プローブのまっすぐ正面に、長い眠りの中にある小さな家を捉える。ここからなら、ユウキの視界にも敷地の全景が入るはずだ。
更にしばらく沈黙を続けたあと、ユウキが言葉を発した。
『この家で暮らしたのは、一年足らずだったんだけどね……。でも、あの頃の一日一日は、すごく良く覚えてる。前はマンションだったから、庭があるのがとっても嬉しくてね。ママは感染症を心配していい顔しなかったけど、いつも姉ちゃんと走り回って遊んでた……。あのベンチでバーベキューしたり、パパと本棚作ったりもしたよ。楽しかった……』
「いいなー。わたし、そんなことした事ないよ」
明日奈の家にも、広大と言っていいほどの庭園がある。しかし、父母や兄と、そこで遊んだ記憶は明日奈にはなかった。いつも一人でままごとをしたり、絵を描いたりしていた。だから、ユウキの語る家族の思い出は、深い憧憬を伴って明日奈の胸にも響いた。
『じゃあ、今度18層のアスナの家でバーベキューやろうよ?』
「うん! ……ぜったい、約束だよ。わたしの友達も、シーエンたちもみんな呼んで……」
『うひゃ、なら、お肉すごい用意しといたほうがいいよー。ジュンとタルケンが、むっちゃくちゃ食べるから』
「ええ? そんなイメージじゃないけどなー」
あはは、と笑いあってから、再び家に視線を戻す。
『今ね……、この家のせいで、親戚中大もめらしいんだ』
呟いたユウキの声は、再びわずかに寂しさの色を滲ませていた。
「大もめって……?」
『取り壊してコンビニにするとか、更地にして売るとか、このまま賃貸しするとか……みんな色んなこと言ってるみたい。こないだなんか、パパのお姉さんって人が、VRワールドまでボクに会いに来たんだよ。病気のことわかってから、リアルじゃすごい避けてたくせにさ……。ボクに……――書けって……』
遺書を――ということなのだろう。明日奈は思わず息を詰め、歯を噛み締めた。
『あ、ごめんね、変な愚痴言っちゃって』
「う……ううん、いいよ。――すっきりするまで、もっと言っちゃいなよ」
どうにか、ちゃんとした声を出せた。
『じゃ、言っちゃう。でね……言ってやったんだ。現実世界じゃボク、ペン持てないしハンコも押せないけど、どうやって書くんですか? って。叔母さん、口ぱくぱくしてたよ』
ふふふ、とユウキは笑みを漏らす。つられて、明日奈も少し微笑む。
『でね、そのときに、この家はこのまま残してほしい、ってお願いしたんだけどね。管理費なら、パパの遺産で十年分くらいは出せるはずだからさ。でもね……やっぱ、ダメみたい。多分、取り壊されちゃうことになると思う。だから、その前に、もう一度見たいと思ってたんだ……』
家の各所をズームしているのだろう、サーボ機構の立てる微音が、明日奈の右耳に伝わった。ユウキの思いが詰まったようなその音を聞いているうちに、胸がいっぱいになってしまった明日奈はつい、思いついたことをそのまま口にしていた。
「じゃあ……こうすればいいよ」
『え……?』
「ユウキ、今十五だよね。十六になったら、好きな人と結婚するの。そうすれば、その人がずっとこの家を守ってくれるよ……」
言ってしまってから、あっと思った。ユウキに好きな相手がいるとすれば、それはまず間違いなくスリーピングナイツ男性陣の誰かだろうが、そのメンバーは全員が難治性疾患と闘う身なのだ。すでに余命を宣告されている人もいると言う。つまりたとえ結婚しても、状況は大きく変わらないか余計複雑になるのであり、そもそも結婚というのは相手の事情や感情だってあるではないか……。
しかし、ユウキは一瞬沈黙したあと、あははははと大声で笑った。
『あははは、ア、アスナ、凄いこと考えるねえ! なるほど、それは思いつかなかったよー。うーんそっか、いい考えかも。婚姻届なら、がんばって書こうって気になるしね! ――でも、残念だけど、相手がいないかなー』
まだあははと笑い続けるユウキに、明日奈は首を縮めながらも言葉を返す。
「そ、そう……? ジュンとか、いい雰囲気だったじゃない」
『あーだめだめ、あんなお子様じゃ! そうだねえ……えーと……』
急に声にいたずらっぽい響きを混ぜて、ユウキは言った。
『ね、アスナ……ボクと結婚しない?』
「えっ……」
思わず絶句する。アメリカに倣って同性間結婚を法的に認めようという議論は、毎年何度かマスコミの話題に上るが、なかなか衆議院の本会議にまではたどり着けないでいる。というようなことを瞬間的に考えながら、明日奈が動転していると、先にユウキがもう一度愉快そうに笑った。
『ごめんごめん、冗談。アスナにはもう、大事な人いるもんね。あの人でしょ……このカメラの調整してくれた……』
「え……その……うん、まあ……」
『気をつけたほうがいいよー』
「へ……?」
『あの人も、ボクたちとは違う意味で、現実じゃないとこで生きてる感じがするから』
「…………」
ユウキの言葉の意味を考えようとしたが、頭のなかがぐるぐるして中々収まらなかった。熱くなった頬をさする明日奈の横顔にちらりとレンズを向けてから、ユウキは穏やかな声で言った。
『ほんとに、ありがとう、アスナ。この家をもう一度見られただけで、ボクは凄く満足してるんだ。たとえ、家がなくなっても、思い出はここにある。ママやパパ、姉ちゃんと過ごした、楽しかった頃の記憶は、ずっとここにあるんだから……』
ここ、というのが、家のある土地ではなく、ユウキの心の中を指す言葉であることが明日奈には判った。
この家の姿は、自分の中にももう刻まれている、という気持ちを込めて明日奈は大きく頷いた。ユウキの言葉は続いた。
『……ボクや姉ちゃんが、薬を飲むのが辛くて泣いたりすると、ママはいつもイエス様の話をしてくれたんだ。イエス様は、私達に、耐えることのできない苦しみはお与えにならない、って。それで、姉ちゃんと、ママと一緒にお祈りしながら、でも、ボクは少しだけ不満だった。ほんとは、聖書じゃなくて、ママ自身の言葉で話してほしいって、ずっと思ってた……』
わずかな間。すっかり濃紺に変わった空に、大きな赤い星がひとつ瞬き始めている。
『でもね、今この家をもう一度見て、わかったんだ。ママは、ずっとボクに話しかけてくれてた。言葉じゃないんだ……気持ちで、包んでくれてた、って。ボクが、最後まで、まっすぐに前を向いて歩いていけるように、ずっと祈ってくれてた……ようやく、それがわかったよ』
明日奈の眼にも、白い家の窓際にひざまずいて、星空に向かって祈りを捧げる母と二人の娘の姿が見えるような気がした。ユウキの静かな声に導かれるように、明日奈はいつしか、ずっと、ずっと以前から胸のおくにわだかまっていた気持ちを言葉に乗せていた。
「わたしもね……、わたしも……、もうずっと、母さんの声が聞こえないの。向かい合って話しても、心が聞こえない。わたしの言葉も伝わらない。ユウキ、前に言ったよね。ぶつからなけりゃ、伝わらないことがある、って。どうしたら、ユウキみたいにできるかな……? どうしたら、ユウキみたいに強くなれるの……?」
すでに両親を亡くしているユウキに対して、配慮のない言葉かもしれなかった。すくなくとも、普段の明日奈ならそう考え、口にすることはなかったろう。しかし今だけは、肩のプローブを通して伝わるユウキの精神的波動が、明日奈の心を覆う壁を溶かしていた。まるで幼かったころに戻ったかのように、無心な気持ちで、明日奈は尋ねた。
ユウキは、どこか困ったような声で答えた。
『ボク……強くなんかないよ、ぜんぜん』
「そんなことない。わたしみたいに、人の顔色うかがって、怯えたり、尻込みしたり、ユウキはぜんぜんしないじゃない。すごく……すごく、自然に見えるよ」
『うーん……でもね、ボクも昔、まだ現実世界にいた頃は、いつも違う自分を演じてた気がする。パパもママも、ボクと姉ちゃんを産んだことを、心のどこかでずっと謝ってたの分かってたし……。パパとママのために、ボクはいつも元気でいなきゃ、病気のことなんかぜんぜんへっちゃらでいなきゃ、って思ってた。だから、メディキュボイドに入ってからも、そんなふうにしか振舞えなくなっちゃったのかも。本当のボクは、周りのぜんぶを恨んで、憎んで、毎日泣き喚いてるような子なのかもしれないよ』
「……ユウキ……」
『でもね、ボクは思うんだ。演技でもいいや……って。強いふりをしてるだけでも、それで笑顔でいられる時間が増えるなら、ぜんぜんかまわないじゃない、ってさ。ほら、ボク、もうあんまり時間がないからさ……。誰かと触れ合うときに、遠慮して、遠くから気持ちの端っこを突っつきあったりする時間が勿体無いって、どうしても思っちゃうんだよね。それなら最初からどかーんとぶつかってさ。もし相手に嫌われちゃっても、それはそれでいいんだ。その人の心のすぐ近くまで行けたことには変わりないもんね』
「……そうだね……。ユウキがそうやってくれたから、わたしたち、たった何日かでこんなに仲良くなれたんだよね……」
『ううん、それはボクじゃないよ。ボクが逃げても、アスナがいっしょうけんめい追いかけてくれたからだよ。――昨日、モニタルームにいるアスナを見て、声を聞いてたら、アスナの気持ちがすごく伝わってきた。この人は、ボクの病気のことを知っても、まだボクにもう一度会いたいって思ってくれてるんだ、って分かって、本当に……本当に、泣いちゃうくらい嬉しかったんだ』
一瞬声を詰まらせてから、ユウキは続けた。
『……だから、お母さんとも、あの時みたいに話してみたらどうかな。気持ちって、伝えようとすればちゃんと伝わるものだって思うよ。だいじょうぶ、アスナはボクよりずっと強いもん。ほんとだよ。ぶつからなきゃ、伝わらない……アスナがどーんってぶつかってきてくれたから、ボクは、この人にならボクの全部を預けられるって、そう思えたんだ』
「……ありがと。ありがとう、ユウキ」
どうにかそれだけ言って、明日奈は目尻に滲む涙がこぼれないように、上を向いた。首都圏の、完全には暗くなることのない夜空にも、人工の光に負けずに煌めく星たちをいくつも数えることができた。
駅に戻ったところで、プローブのバッテリ残量アラームが鳴った。明日奈はユウキと翌日また一緒に授業を受けることを約束し、携帯端末の接続を切った。
ふたたび電車を乗りついで、世田谷の自宅に帰りついたときには、九時を大きく回っていた。
しんと冷たい空気に沈む玄関ホールに、ドアロックのかかる音がやけに大きく響くのを聞きながら、明日奈は大きく一回息をした。右肩には、まだユウキが腰掛けていた重みがわずかに残っている。その暖かさをそっと左手で押さえてから、靴を脱ぐと、足早に自室に向かった。
室内着に着替え、すぐに廊下に出る。向かったのは、同じ二階の奥にある兄・裕明の書斎だ。父親と同じく殆ど家に居着こうとしない裕明は、当然まだ帰っていないだろうと思いながらノックをしたが、やはり返事は無かった。構わず、勝手にドアを開ける。
書斎とは名ばかりの、本物の書物はほとんど存在しない部屋の中央に、大きなビジネスデスクがでんと横たわっている。その左サイドに、目当てのものがあった。裕明が仮想空間内の会議などに使用しているアミュスフィアだ。
明日奈のものより数段新しいヘッドギアとドライブを掴み上げると、自室に取って返した。早速本体の電源を入れると、予備のアルヴヘイム・オンラインのディスクをドライブに挿入する。ベッドに横になり、裕明のアミュスフィアのアジャスタを自分の頭のサイズにセットして、すぽんと被る。
パワースイッチを入れると、たちまち接続シークエンスが開始され、次いでALOのログイン空間へと転送された。だが明日奈は、いつも使っているメインのアカウントではなく、「他人」になりたい時にたまに使用しているサブアカウントでALOにダイブした。
出現したのは、18層、森の家のリビングルームだった。しかし体はいつもの「アスナ」ではなく、「エリカ」という名の別キャラクターだ。服装をチェックし、腰に帯びていた二本のダガーを外してチェストに仕舞う。即座にメニューを開き、一時ログアウトコマンドを実行する。
ほんの数十秒のダイブから、明日奈はたちまち現実の自分の部屋へと復帰した。頭からアミュスフィアを外すが、青いインジケータはゆっくりと点滅を続けている。これはVRワールドとの接続がサスペンド状態になっているという表示であり、再度頭に装着してパワースイッチを入れれば、ログイン過程をスキップしてゲームに戻ることができる。
兄のアミュスフィアを手にしたまま、明日奈は立ち上がった。ナーヴギアと違って、アミュスフィアはドライブ本体とは無線で接続されており、家の中であればほとんど端から端まで回線を維持できるはずだ。
ドアを開け、再び廊下に出ると、今度は少々重い足取りで階段を降りた。
一階のリビング、ダイニングを覗いたが、やはりもうテーブルは綺麗に片付けられ、母親の姿は無かった。さらに屋敷の奥へと向かい、廊下を一度曲がると、その先の、母親の仕事部屋のドアの下部からうっすらと光が漏れているのに気付いた。
ドアの前で立ち止まり、ノックしようと右手を上げてから、何度か躊躇う。
いつから、母親の部屋を訪ねるのが、こんなにも気詰まりになってしまったのだろう、と明日奈は苦い笑みとともに考えた。しかしそれは多分、半ば以上明日奈に原因があることなのだろう。気持ちが伝わらないのは――伝えようとしていなかったせいだ。それを、ユウキが気付かせてくれた。
明日奈はぐっと息を吸うと、音高くドアをノックした。
すぐに、どうぞという声が微かに聞こえた。ノブを回し、開いた隙間に体を滑り込ませると、後ろ手にドアを閉める。
京子は、重厚なチーク材の机に向かい、昔ながらのパソコンのキーボードに指を走らせていた。しばらくそのままキーを高い音とともに叩きつづけてから、一際強くリターンキーを鳴らし、ようやく体を椅子の背に預ける。眼鏡を押し上げつつ明日奈のほうに向けられた視線は、常にない苛立ちに満ちているように見えた。
「……遅かったわね」
それだけを口にした京子に、明日奈は俯きながら謝罪した。
「ごめんなさい」
「夕食はもう始末しましたからね。何か食べたいなら、冷蔵庫の中のものを勝手にしなさい。この間話した編入申請書の期限は明日ですからね。朝までに書き上げておくのよ」
話は終わった、とばかりにキーボードに手を戻そうとする京子に向かって、明日奈は用意していた言葉を口にした。
「そのことなんだけど……話があるの、母さん」
「言ってみなさい」
「ここじゃ説明し難いの」
「じゃあどこなら言えるのよ」
すぐには答えず、明日奈は京子のかたわらまで進み出ると、左手で体の後ろに下げていたものを差し出した。サスペンド中の、アミュスフィアを。
「VRワールド……。少しだけでいいから、これで、来てほしい場所があるの」
銀色の円環をちらりと一瞥しただけで、京子はおぞましい物を見るように眉間に谷を刻んだ。議論の余地もない、というように右手を振る。
「嫌よ、そんなもの。ちゃんと顔と顔を向かい合わせて出来ない話なんて、聞く気はありませんよ」
「お願い、母さん。どうしても見せたいものがあるの。五分だけでいいから……」
いつもなら、ごめんなさい、と一言だけ言って引き下がる場面だった。しかし明日奈はもう一歩前に出て、間近からじっと京子の瞳を見詰め、言い募った。
「お願いします。わたしが今、何を感じて、何を考えているのか、それを話すのには、ここじゃだめなのよ。一度だけでいい……わたしの世界を、母さんに見せたいの」
「…………」
京子はますます眉間をきつく寄せ、唇を引き結んでじっと明日奈を見ていたが、数秒後、ふうっと長いため息をついた。
「――五分だけよ。それに、何を言われようと、お母さんはあなたを来年度もあの学校に通わせる気はありませんからね。話が終わったら、申請書をちゃんと書くのよ」
「……はい」
明日奈は頷き、左手のアミュスフィアを差し出した。京子は触るのも嫌そうに顔をしかめながらそれを受け取り、ぎこちない手つきで頭に載せた。
「どうすればいいの、これ?」
明日奈は手早くアジャスタを調節してから、言った。
「電源を入れたら、そのまま自動で接続するから。中に入ったら、私が行くまで待ってて」
京子が軽く頷き、椅子の背もたれに体を預けたのを確認して、明日奈はアミュスフィアの右側面にあるパワースイッチを入れた。主インジケータが点灯状態になり、接続インジケータが不規則な点滅を始める。すぐに、京子の体からふっと力が抜けた。
明日奈は急いで仕事部屋から飛び出ると、廊下と階段を全力で駆け抜けて、自分の部屋へ戻った。どすんとベッドに飛び込むと、使い込んだアミュスフィアを頭に載せる。
パワースイッチに触れると、目の前に放射状の光が伸びて、明日奈の意識を現実から切り離した。
見慣れた白木作りのリビングルームに降り立ったアスナは、くるりと部屋中を見渡して『エリカ』の姿を探した。すぐに、食器棚の脇に掛けてある鏡の前に、若草色のショートヘアを持つシルフの少女が立ち、自分の姿を覗き込んでいるのを見つけた。
アスナが近づいていくと、エリカ/京子は肩越しにちらりと振り向き、現実世界の彼女とまったく同じ仕草で眉をしかめた。
「なんだか、妙なものね。知らない顔が自分の思い通りに動くなんて。それに……」
つま先で、何度か体を上下させる。
「ヘンに体が軽いわ」
「そりゃあそうよ。その体の体感重量は40キロそこそこだもの。現実とはずいぶん違うはずよ」
微笑を交えながらアスナが言うと、京子は再び不愉快そうに眉根を寄せた。
「失礼ね、私はそんなに重くありませんよ。――そう言えば……あなたは向こうと同じ顔なのね」
「うん……まあね」
「でも、少し本物のほうが輪郭がふっくらしてるわね」
「お母さんこそ失礼だわ。現実とまったく一緒です」
言葉を交わしながら、アスナは、前に京子とこんな何気ない会話をしたのは一体いつのことだろう、とふと考えた。もう少しこのままお喋りをしたい、と思ったが、京子は両腕を胸の前で組むと、軽口を打ち切る意思を示した。
「さ、もう時間がないわよ。見せたい物って、何なの」
「……こっちに来て」
アスナはため息を押し殺しながらリビングを横切り、ふだんは物置に使っている小部屋のドアを開けた。京子が覚束ない足取りで付いてくるのを待って、小部屋の奥にある小さな窓へと導く。
南向きのリビングからは、大きな芝生の庭と小道、なだらかな丘とその向こうの湖を美しい絵のように一望することができるが、北向きの物置部屋の窓からは、草深い裏庭と小さな川、間近に迫る針葉樹の森が見えるだけだ。この季節ではそのほとんどが雪に覆われて、寒々しいという以外に表現できない風景である。
しかし、それこそが、アスナが京子に見せたかったものだった。
アスナは窓を開け放つと、深い森を眺めながら言った。
「どう、似てると思わない?」
京子は再び眉をしかめ、小さく首を振った。
「何に似てるって言うのよ? ただのつまらない杉林じゃ――」
言葉は、途中で吸い込まれるように消えた。口を半ば開けたまま、茫然とした視線で窓の外を眺めている。その横顔に向かって、アスナはそっと囁いた。
「ね、思い出すでしょう……お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんの家を」
明日奈の母方の祖父母、つまり京子の両親は、宮城県の山間部で農業を営んでいた。家があったのは、急峻な谷間をどうにか切り拓いたような小さな村で、田んぼはすべて棚のように山肌に貼り付き、機械化などしようもなかった。主に作っていたのは米だったが、収穫できるのは一家が一年食べれば無くなってしまうほどの量でしかなかった。
それでもどうにか京子を大学まで進学させることができたのは、ささやかながら先祖伝来の杉山があったからだ。旧い木造の家は、その山裾にうずくまるように建っており、縁側に座ると、見えるものは小さな庭と小川、そしてその奥の杉林だけだった。
しかし明日奈は、幼い頃から京都の結城本家よりも「宮城のじいちゃんばあちゃん」の家に行くことを好んだ。毎年夏休みと冬休みは駄々をこねてまで連れて行ってもらい、祖父母と一緒の布団で、色々な昔話を聞かせてもらったものだ。夏に縁側で食べたかき氷、秋に祖母と一緒に干した柿、色々な思い出があるが、特に良く覚えているのは、真冬、しんしんと冷えるなか掘り炬燵に入って、みかんを食べながら、窓の外の杉林に見入っているという情景だった。
祖父母は、林なんか見て何が面白いのかと訝ったが、白い雪のなかに黒い杉の幹がどこまでも連なるさまを見ていると、心が吸い込まれそうになるのだった。自分が、雪の下の穴で春を待つ子ネズミになったような気がして、心細いような、暖かいような、不思議な感慨に包まれて、いつまでも杉林を見つめ続けた。
祖父と祖母は、明日奈が中学二年の時に相次いで他界した。棚田や山はすべて売却され、住む者のなくなった家は取り壊された。
だから、宮城の山村からは物理的にも観念的にも遥かに隔たった場所であるアインクラッド18層にこの家を買い、北の窓から雪深い針葉樹林を見たとき、明日奈の胸には泣きたくなるほどの郷愁が過ぎったのだった。
京子が、生家が貧しい農家だったことを恥ずかしいと思っていることは知っていた。だがそれでも、明日奈はどうしてもこの窓からの眺めを京子に見せたかった。彼女がかつて毎日のように眺め、そして無理矢理忘れ去ってしまったのであろう風景を。
京子は、無言で杉林に見入っていた。その横に進み出て、アスナはゆっくりと話しはじめた。
「わたしが中一の時の、お盆のこと覚えてる? 父さんと母さん、それに兄さんは京都に行ったけど、わたしはどうしても宮城に行きたいって言い張って、ほんとにひとりで勝手に行っちゃったときのこと」
「…………覚えてるわ」
「あの時ね、わたし、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに謝ったの。お母さんが、お墓参りに来れなくてごめんなさい、って」
「あの時は……結城の本家でどうしても出なきゃいけない法事があったから……」
「ううん、責めてるんじゃないのよ。だってね……お祖父ちゃんたち、私が謝ったら、茶箪笥から分厚いアルバム持ってきてね。中見て、すっごい驚いたよ。――母さんの、最初の論文から始まって、色んな雑誌に書いた記事や、インタビューが、全部ファイルしてあった。ネットに載ったやつまで、プリントして貼ってあったよ。二人とも、パソコンなんてぜんぜん分からなかっただろうにね……」
「…………」
「それで、わたしにそのアルバムを見せてくれながら、お祖父ちゃん言ったわ。母さんは、自分たちのたった一つの誇りなんだ、って。村から大学に進んで、学者になって、雑誌にたくさん寄稿して、どんどん立派になるのが、凄く嬉しいんだ、って。論文や学会で忙しいんだから、お盆に帰れなくても当たり前だし、それを不満に思ったことは一度もない……って……」
京子は、ただじっと森を見詰めながら、無言でアスナの言葉を聞いていた。その横顔には、何の表情も浮かんでいなかった。だが、アスナは懸命に口を動かしつづけた。
「そのあと、お祖父ちゃん、こう続けたの。――でも、母さんも、いつかは疲れて、立ち止まりたくなる時がくるかもしれない。いつか後ろを振り返って、自分の来た道を確かめたくなるかもしれない。その時のために、自分たちはずっと、この家を守っていく……もし、母さんが、支えを欲しくなったときに、帰ってこられる場所があるんだよ、って言ってやるために、ずっと家と山を守り続けていくんだ……。――わたし、その時は、お祖父ちゃんの言葉の意味が全部はわからなかった。でも、最近になって、ようやくわかってきた気がするんだ。自分のために走り続けるのだけが人生じゃない……誰かの幸せを、自分の幸せだと思えるような、そういう生き方だってあるんだ、って」
アスナの脳裏に、キリト、ユウキ、リズベットたち、シーエンたちの顔が一瞬、浮かんだ。
「……わたし、周りの人たちみんなを笑顔に出来るような、そんな生き方をしたい。疲れた人をいつでも支えていけるような、そんな生き方をしてみたいの。そのために――今は、あの学校に行きたい」
言葉を探し探し、アスナはどうにかそこまでを言い終えた。
しかし京子は、口元を引き結んだまま、森を眺めつづけていた。その濃緑色の瞳には、茫漠とした色が浮かんでいるだけで、内心を伺うことはできなかった。
そのまま、およそ五分以上も沈黙が続いた。巨木のあいだの雪原を、ウサギに似た小さな動物が二匹、じゃれあいながら跳ねていった。アスナは一瞬そちらに視線を取られてから、京子の横顔を見直して、ハッと息を飲んだ。
京子の、今は白磁のように透き通った頬に、ひと筋の涙が流れ、ぽたぽたと滴っていた。唇がかすかに動いたようだったが、言葉は聞き取れなかった。
しばらくして京子は、自分が泣いていることにようやく気付き、慌てたように両手で顔を何度もぬぐった。
「ちょっと……何よこれ、私は、別に泣いてなんか……」
「……母さん、この世界では、涙は隠せないのよ。泣きたくなったときは、誰も我慢できないの」
「不便なところね」
吐き捨てるように言い、京子は何度も目を擦っていたが、ついに諦めたように、両の手の平で顔を覆った。やがて、その奥からかすかな嗚咽が漏れ出した。アスナは何度か躊躇ったあと、小刻みに震える京子の肩に、そっと手を乗せた。
翌朝。
朝食のテーブルについた京子は、すっかりいつもどおりの様子で、新聞を捲っていた。おはようの挨拶のあとは静寂のうちに食事が終わり、明日奈は編入申請書を提出しろと言われることを覚悟した。が、京子はいつもに較べるとわずかに険の取れた目つきで明日奈を見て、唐突に言った。
「あなたは、誰かを一生支えていくだけの覚悟があるのね?」
明日奈は慌てて頷いた。
「う……うん」
「――でも、人を支えるには、まず自分が強くなけりゃダメなのよ。大学にはきちんと行きなさい。そのためにも、三学期と、来年度はこれまで以上の成績を取ることね」
「……母さん……じゃあ、転校は……」
「言ったでしょう? 成績次第よ。頑張るのね」
それだけ言うと、京子は足早にダイニングを出て行った。音高く閉まったドアをしばらく凝視してから、明日奈はそっと頭を下げ、ありがとう母さん、と呟いた。
着替え、鞄を持って家を出るまでは、そのまま神妙な態度を保ったが、表門を出たとたん、明日奈は霜の光る路面を思い切り駆け出していた。自然に、唇から笑みが溢れた。
和人に言いたかった。今年も、ずっと同じ学校に通えることを。ユウキに言いたかった。母親と、ちゃんと話が出来たことを。
駅に向かう人波を縫って走りながら、明日奈は駅につくまでずっと、浮かんでくる微笑みを抑えることができなかった。
その三日後、約束どおり、森の家で盛大なバーベキュー大会が催された。
集まったメンバーは、キリト、リズベット、リーファ、シリカらいつもの仲間たちと、ユウキ、シーエンたちスリーピングナイツのメンバー。サクヤ、アリシャ、ユージーンら一部種族の領主たちとその側近。計数十人という大集団の胃を満たすために、わざわざ食材狩りのパーティーが結成されたほどだ。
乾杯の音頭に先駆けて、アスナはスリーピングナイツの面々をあらためて皆に紹介した。病気のことだけは伏せたが、彼らが色々なVRMMOを股にかけた凄腕集団であること、解散前にALOで思い出づくりをしていることなどは、ユウキたちの了承を得てすべて話した。
67層ボスをたった七人で攻略した謎のギルドの噂、そして何より辻デュエルで百人以上を斬ってのけた"絶剣"の噂はすでにアルヴヘイム中を駆けめぐっていたようで、サクヤやユージーンなどはさっそく自陣への勧誘を始めたものだ。ユウキは笑って辞退したが、もしスリーピングナイツがいずれかの種族に傭兵として雇われたら、ALOのパワーバランスは大いに変化し、現在進行中のグランドクエスト第二弾の行方に多大な影響を与えたことだろう。
賑やかな乾杯のあと、嵐のような暴飲暴食の宴が始まり、アスナもユウキと一緒に大いに食べ、飲んだ。その席上で、こうなったら68層以降のボス攻略も狙っちゃおうということになり、勢いで二次会が68層迷宮区踏破ツアーになって、なんとそのまま大人数でボス部屋になだれ込んで巨大な甲殻類型のボスを屠ってしまったのは笑い話に類するものだろう。
剣士の碑に刻まれた名前は、残念ながらユウキと、パーティーリーダーを努めたキリト達数名のものになってしまったが、69層はあらためてスリーピングナイツだけでチャレンジすることを約して、その日は解散となった。
アルヴヘイムで冒険を重ねるあいだも、現実世界では、ユウキは双方向通信プローブを使って毎日授業に参加した。和人や直葉の家も一緒に訪ねたし、エギルの店にも遊びに行った。
出会った当初は、妙にカンの良すぎる和人のことを警戒していたユウキだが、互いに片手直剣の使い手とあって話してみるとすぐに打ち解け、ALO内では剣技の研鑚について、現実世界ではプローブの発展形についてなど、盛んに議論を戦わせて時折アスナをやきもきさせたものだ。スリーピングナイツのほかのメンバーたちも、リズベットやリーファたちとそれぞれ仲良くなって、色々なイベントを企画しては大いに楽しんだ。
二月。
アスナとスリーピングナイツは、69層、そして70層のボスをもワンパーティーで撃破して、アルヴヘイム中にその勇名を轟かせた。中旬に開催された統一デュエル・トーナメントでは、東ブロックではキリトが、西ブロックではユウキがそれぞれ破竹の勢いで勝ち進み、決勝はVRMMO情報番組「MMOフラッシュ」で生中継されるとあって、最高潮の盛り上がりを見せた。
無数のプレイヤーたちが固唾を飲んで見守るなか、ユウキとキリトはそれぞれの大技OSSを連発するド派手な激戦を展開し、30分以上に及んだ試合の最後に、ユウキが神技とも言える11連撃でキリトを破ったときには、世界中が震えるほどの大歓声が湧き起こった。
四代目統一チャンピオンの座についたユウキの名は、ALOの枠を超えて広く鳴り響いた。
三月。
期末試験を終えた明日奈は、通信プローブを肩に乗せ、里香、珪子、直葉と一緒に、三泊四日の京都旅行に出かけた。その時には、プローブの情報を複数のクライアントに並列して送れるようになっていたため、ユウキだけでなくシーエンやジュンたちにも京都を案内できるとあって、色々な名所を解説する言葉にも力が入った。
宿は結城家の広大な屋敷を有効に利用させてもらい、毎夜色々な京料理に舌鼓を打つことができたが、味ばかりはプローブで送ることができず、散々ユウキたちにずるーいと連発されてしまった。お陰で、帰ってからVR世界で味を再現することを約束させられ、明日奈は料理シミュレーションソフトの中で大変な苦労をすることとなった。
すべてが、夢のように過ぎていった。アスナとユウキは、仮想世界と現実世界で、長い、長い旅をした。行きたい場所は山ほどあるし、時間もまだまだ沢山ある、とアスナは信じていた。
四月まであと数日、となったある日。オホーツク海から張り出してきた寒気団が、関東一円に季節はずれの大雪を降らせた。
春の気配を覆い隠すように積もった厚いぼたん雪が、弱々しい日差しの下でようやくすべて解けかけた頃。
明日奈の携帯に、倉橋医師から、ユウキの容態が急変したという知らせが届いた。
端末の小さなモニタに表示された短いメッセージを凝視しながら、明日奈は胸の奥でただひとつの言葉だけを何度も繰り返していた。
そんなはずはない。
そんなはずがないではないか。このところユウキはとても精力的にあれこれ活動しているし、脳のリンパ腫も進行が止まっていると倉橋医師も言っていた。近年では、HIV感染後、20年以上ウイルスを押さえ込むことに成功している例も多数あるそうだ。ユウキはまだたった15歳……なにもかも、これからではないか。急変、というのは、今まで何度かあったという日和見感染の重症化であって、今回だってユウキは乗り越えるはずだ。
しかし、明日奈は心のもう一方で理解してもいた。医師が直接明日奈にメッセージを送ってきたのは、初めてのことだった。つまりこれは、その時が来た――という知らせなのだろう。明日奈が夜毎ベッドの中で、怯えとともに想像しては打ち消してきた、その時が。
せめぎあう二つの声に翻弄されながら、明日奈は数秒間立ち尽くしていたが、やがてぎゅっと一度まばたきしてから、新しくメーラーを起動した。キリトやリズベットたちと、シーエンたちに、短い同一文面のメールを送信する。それが済むと、部屋着を脱ぎ捨てて、服装に迷う時間も惜しかったので機械的に学校の制服を身につけた。靴を履くのももどかしく、表門から半ば駆け出すと、柔らかく降り注ぐ日差しが、先日降った雪の名残に白く跳ね返って明日奈の眼を射た。
三月末の日曜日、午後二時。道ゆく人は皆、待ちわびた春の訪れに浮き立つように、ゆっくりと歩いている。その傍らをすり抜けながら、明日奈は懸命に駅まで走った。
どのように電車の行き先を確かめ、乗り継いだのか、まるで覚えていなかった。ふと我に返ると、港北総合病院の最寄駅の改札を走りぬけたところだった。まるで頭の奥が白くハレーションを起こしたように痺れて、ばらばらの思考の断片がいくつも浮かんでは消えていく。
明日奈はぎゅっと歯を噛み締めると、ユウキ、待ってて、と一言呟いて、ちょうどロータリーに走りこんできたタクシーに駆け寄った。
病院の面会受付窓口には、すでに話が通っていたようだった。明日奈が強張った口で来意を告げると、看護師はすぐにプレートを寄越して、中央棟六階へ急ぐように言った。
エレベーターの階数表示がひとつひとつ増えていくのをじりじりしながら待ち、ドアが開いた途端飛び出す。セキュリティゲートのセンサーに、プレートをぶつけるようにして通過すると、マナー違反と知りつつ再び走る。白く無機質な通路を記憶にある通りに辿り、最後の角を曲がると、ついにユウキが眠る無菌室のドアが視界に入った。
――その途端、明日奈は息を飲んで立ち尽くした。
二つ並んだドアのうち、手前がモニタルームの入り口だ。そしてその奥、いかにも厳重そうな注意書きが大書してあるのが、エアシールされた無菌室のドア。以前明日奈がこの場所を訪れたときは、当然のように固く閉じられていたそれが、今は大きく開け放たれていた。茫然と見つめるうちに、そこから何の変哲もないナースウェアを身につけた看護師が一人、足早に姿を現した。
看護師は明日奈を見ると短く頷き、横を通り抜けながら、「早く中へ」と囁いた。その声に促され、よろよろと数歩進み、ドアの前に立つ。
白一色の部屋の内部が、否応なく眼に飛び込んできた。
あれほど沢山あった機械類の殆どは、左の壁際へと押しやられていた。中央のジェルベッドの周囲には、二人の看護師と一人の医師が付き添い、横たわる小さな姿を見守っていた。三人とも、通常の白衣姿だった。
その光景を見た瞬間、明日奈は悟った。全ては、もう、取り返しのつかない段階へと入ってしまっているのだということを。はるか以前に既定された「その時」が訪れるのを、ただ見守ることしかできないのだということを。
倉橋医師が顔を上げ、明日奈の姿を認めた。左手を上げ、短く差し招く。半ば自動的に、ふらつく足を交互に動かして、明日奈は部屋の中へと入った。
ジェルベッドまではほんの数メートルなのに、とてつもなく長く感じた。冷徹な現実までの残り距離を一歩一歩削り取るように歩き、明日奈はベッドの傍らに立った。
白いシーツを胸まで掛けられた、痩せ細った少女が横たわり、薄い胸をごくゆっくり上下させていた。右上の心電図が、緑色の波形を弱々しく刻んでいる。
以前に見たときは、少女の頭をほぼ覆い隠していたメディキュボイドが、その長方形の筐体を二つに分離させていた。ちょうど耳の線から上の部分が、90度後ろに倒されている。内部はちょうど人の頭の形にくぼんでおり、そこに眼を閉じた少女の顔が包まれていた。
初めて目にする、現実世界のユウキの顔は、痛々しいほど肉が落ち、透けるように色素が薄かった。しかしその容姿は、明日奈にどこか神秘的な美しさを感じさせた。本物の妖精がもしいるなら、こういう姿を持っているかもしれないと思わせるものがあった。
無言のままユウキを見つめていると、いつの間にか横に立っていた倉橋医師が、低い声で言った。
「よかった……間に合って」
間に合う、という言葉に受けいれがたいものを感じた明日奈は、きっと顔を上げ、医師を見た。だが、眼鏡の奥の細い、理知的な眼は、あくまでいたわるように明日奈を見ていた。再び、医師が言った。
「四十分前、一度心臓が停止しました。投薬と除細動によって脈拍が戻りましたが、恐らく、次は……もう……」
明日奈はぐっと息を詰めてから、食い縛った歯のあいだから掠れた声を絞り出した。しかし、意味のある言葉を組み立てることはできなかった。
「なんで……なんでですか……。だって……だって、ユウキは、まだ……」
医師は一度頷いてから、かすかに首を左右に振った。
「――本当は、一月にあなたがここを訪れた頃から、いつこの日が来てもおかしくなかったのです。HIV消耗性症候群による発熱と、脳原発性リンパ腫の進行で、木綿季くんの命はずっと、薄い氷の上を歩くような状況にあった。しかし木綿季くんは、この三ヶ月、我々も驚愕するような頑張りを見せた。絶望的な闘いを、日々勝ち続けてきたのです。彼女は、充分すぎるほどに頑張った……いや――それを言うなら……」
ここで初めて、医師の声がわずかに震えた。
「木綿季くんにとっては、この十五年の生そのものが長い、長い闘いだったのです。HIVとだけじゃない……冷酷な現実そのものに、彼女はずっと抗いつづけてきた。メディキュボイドの臨床試験も、彼女には計り知れない苦痛を与えたはずです。しかし……木綿季くんは頑張りぬいた。彼女がいなければ、メディキュボイドの実用化は確実に一年は遅れたでしょう。だからもう――ゆっくり、休ませてあげましょう……」
医師の言葉を聞きながら、明日奈は胸のうちでそっとユウキに語りかけていた。
ユウキが――「負ける」わけないよね。だって、あなたは"絶剣"……何だって斬れないものはない、絶対最強の剣士だもん。ユウキは勝ったよ。病気にも……運命にも――。
その時だった。
ユウキがかすかに頭を動かした。薄いまぶたが震え、ほんの少しだけ持ち上がった。その奥、すでに光を失っているはずの灰色がかった瞳が、澄んだ光を湛えて、まっすぐに明日奈を見た。
ほとんど肌と同じ色の唇が小さく動いた。同時に、シーツのしたで細い右手がぴくりと震えて、ゆっくり、ゆっくりと明日奈のほうへ差し伸べられた。
医師が、感極まったような声で囁いた。
「明日奈さん……手を、握ってあげてください」
その言葉が終わらないうちに、明日奈は両手を伸ばし、ユウキの骨ばった右手を包み込んでいた。ひんやりとした手が、何かを求めるように明日奈の指をきゅっと握った。
瞬間、明日奈は天啓のように理解した。ユウキが、本当は何を欲しているのかを。
ユウキの手を握ったまま、さっと顔を上げた明日奈は、医師に向かって早口に言った。
「先生……今、メディキュボイドは使えますか?」
「え――それは、電源を入れれば……。しかし……木綿季くんも、最後は機械の外で……」
「いえ、ユウキはもういちどあの世界に行きたがってます。わたしにはわかるんです。お願いします……もう一度、メディキュボイドを使わせてあげてください」
医師は数秒間じっと明日奈を見ていたが、やがてぐっと頷いた。傍らの看護師たちにいくつか指示をしてから、メディキュボイドの上半分をそっと半回転させ、ユウキの頭に被せる。
「起動に一分ほどかかりますが……あなたは?」
「隣のアミュスフィアを使わせてもらいます!」
言いながら、明日奈は最後にユウキの手をぎゅっと握り、体の横へと戻した。待ってて、すぐ行くからね――と囁き、身を翻す。
無菌室を飛び出し、隣のモニタルームに駆け込むと、奥のドアを開けた。二つ並んだシートの片方に飛び乗ると、ヘッドレストの横からアミュスフィアを取り上げ、頭に乗せる。パワースイッチを入れ、起動シークエンスを待つ間も、明日奈の心はすでにあの場所へと飛んでいた。
森の家で覚醒したアスナは、前に病院からログインしたときと同じように、寝室の窓から飛び出すと全速で主街区を目指した。飛行するあいだに、ウインドウを開くと、念のために待機してもらっていたリズベットやシーエンたちにメッセージを飛ばす。
転移門に飛び込むと、迷うことなくセルムブルグを指定する。湖上都市に出現するや否や、今度は湖の彼方にあるあの島を目指す。二人がはじめて出会った、あの大樹の下を。
アインクラッドは夕暮れだった。外周部から差し込む夕陽が、湖を金色に染めていた。その光の帯に導かれるように、アスナはまっすぐ小島の上空に達すると、急降下して柔らかい草地の上に降り立った。
樹の周囲を捜す必要はなかった。ユウキは、もはやはるかな昔のように思えるあの日、二人が剣を交えたまさにその場所に立っていた。やや冷たい風に濃紺のロングヘアを揺らしながら、ユウキはゆっくりと振り向いた。
近づくアスナの姿を見ると、ユウキはにこりと笑った。アスナもくしゃっと微笑みを返す。
「――ありがとう、アスナ。ボク、大事なことをひとつ忘れてたよ。アスナに、渡すものがあったんだ。だから、どうしてももう一度ここで会いたかった」
その声はいつものように朗らかだったが、ほんの、ほんの少しだけ揺らいでいた。そうやって立ち、話しているだけで、ユウキが全身のエネルギーを振り絞っているのだということがアスナには分かった。
だが、アスナはユウキの前まで歩くと、首を傾け、同じように明るく尋ねた。
「なに? わたしに渡すものって」
「えーとね……いま作るから、ちょっと待って」
にっと笑うと、ユウキはウインドウを出し、何か短い操作を加えた。それを消すと、右手で腰の剣を、しゃらんと音高く抜き放つ。
赤い夕陽を受けて、ユウキの黒曜石の剣は燃えるような輝きを放っていた。それを体の正面で、大樹の幹に向かってまっすぐに構える。そのまま、ユウキはしばらく動かなかった。――まるで、残された最後の力を、すべて剣尖の一点に集めようとしているかのように、アスナには思えた。
ユウキの横顔が、苦痛を感じたようにわずかに歪んだ。ふらっと上体が揺れたが、ぐっと開いた足を踏ん張ってこらえる。
もういいよ、無理しなくていいよ、と言いたかった。しかしアスナはきつく唇を噛み、待った。さわっと草原を風が渡り、止んだ、その瞬間ユウキは動いた。
「やあっ!!」
裂ぱくの気合とともに、右手が閃いた。樹の幹に向かって、右上から左下に、神速の突きを五発。ぎゅん、と剣を引き戻し、今度は左上から右下に五発。突き技が一発命中するたび、凄まじい炸裂音が鳴り響き、天を突く大樹全体がびりびりと震えた。樹が破壊不能オブジェクトでなければ、間違いなく半ばからへし折れているだろうと思えた。
十字に十発の突きを放ったユウキは、もう一度ぎゅうっと全身を引き絞ると、最後の一撃を交差点に向かって突き込んだ。青紫色の眩い光が四方に迸り、足元の草が放射状にばあっと倒れた。
吹き荒れた突風が収まっても、ユウキは剣を幹に突きたてたままぴたりと動きを止めていた。
と、その剣尖を中心にして、小さな紋章が回転しながら展開した。同時に、じわじわと四角い羊皮紙が樹の表面から湧き出すように出現し、青く光る紋章を写し取ると、端からくるくると巻き上がっていく。
ユウキが剣を戻すと、完成したスクロールはそのまま宙に漂った。ゆっくりと左手を伸ばし、ユウキはそれを掴んだ。
かしゃん、と小さな音を立てて、右手の剣が草むらに落ちた。直後、ユウキの体がぐらりと揺れ、崩れ落ちようとした。アスナは素早く駆け寄ると、その体を支えた。そのままそっと腰を落とし、小さな体を両腕で包むように抱え上げる。
ユウキが眼を閉じていたので、一瞬どきんとしたが、すぐにその目蓋はすっと持ち上がった。ユウキはかすかに微笑むと、囁くように言った。
「へんだな……。痛くも、苦しくもないのに、なんか力が入らないや……」
アスナも微笑みかえすと、言った。
「だいじょぶ、ちょっと疲れただけだよ。休めば、すぐによくなるよ」
「うん……。アスナ……これ、受け取って……。ボクの……OSS……」
その声は、先ほどとは打って変わって途切れ途切れに震えていた。ユウキに残された最後の器官、意識の拠り所たる脳までもがすでに力尽きようとしていることを悟って、アスナの心に狂おしいほどの激情が吹き荒れたが、それを押し殺してもう一度微笑んだ。
「わたしに、くれるの……?」
「アスナに……受け取って……ほしいんだ……。さ……ウインドウを……」
「う……うん」
アスナは左手を振ると、ウインドウを出し、OSS設定画面を開いた。ユウキはぶるぶると震える左手を持ち上げると、そこに握られた小さなスクロールを、そっとウインドウに落とした。スクロールは光とともにたちまち消滅し、それを見たユウキは、満足そうなため息とともにぱたりと左手を落とした。ふわりと笑ってから、消え入るようにかすかな声で言った。
「技の……名前は……『マザーズ・ロザリオ』……。きっと……アスナを……守って、くれる……」
それを聞いた瞬間、ついに堪えきれなかった涙がいくつか、ユウキの胸元に落ちた。だが微笑みは消さないまま、アスナははっきりとした声で言った。
「ありがとう、ユウキ。――約束するよ。もしわたしがいつか、この世界から立ち去るときが来ても、そのときもかならずこの技は誰かに伝える。あなたの剣は……永遠に絶えることはない」
「うん……ありがと……」
ユウキはこくりと頷いた。その眼にも、光るものが滲んだ。
その時だった。いくつかの震動音――飛翔音が、重なって響いてきた。それはたちまち大きくなり、アスナとユウキを取り巻くように、立て続けにブーツが草を踏む音がした。顔を上げると、ジュン、テッチ、タルケン、ノリ、シーエンの五人が、我先にと駆け寄ってくるところだった。
五人は、ユウキを半円形に囲んで膝を落とした。ぐるりと皆の顔を見回し、ユウキは困ったように笑った。
「なんだよ……みんな、お別れ会は……こないだ、したじゃん。最後の見送りは……しないって、約束……なのに……」
「見送りじゃねえ、カツ入れに来たんだよ。次の世界で、リーダーが俺たち抜きでしょぼくれてちゃ困るからな」
にやっと笑いながら、ジュンが言った。赤銅のガントレットに包まれた手で、ユウキの右手をぐっと掴み、続ける。
「次に行ってもあんまウロウロしねえで待ってろよ。俺たちもすぐに行くからよ」
「何……言ってんの……。あんますぐ……来たら、怒る……からね」
ちっちっと舌を鳴らし、今度はノリが威勢のいい声で言った。
「だめだめ、リーダーはあたしらが居なきゃなんも出来ないんだから。ちゃんと、おとなしく待っ……待って……」
突然、ノリの顔がくしゃっと歪み、大きな黒い瞳から涙がぼたぼたと落ちた。喉のおくから、堪えきれないように嗚咽を二度、三度と漏らす。
「だめですよ、ノリさん……泣かないって、約束ですよ……」
笑顔で言葉を挟んだシーエンの頬も、二筋の涙できらきらと光っていた。最早溢れる涙を隠そうともせず、タルケンとテッチもユウキの手をぎゅっと掴む。
ユウキは五人の顔をぐるりと見回すと、泣き笑いの顔で言った。
「しょうがないなあ……みんな……。ちゃんと、待ってる……から、なるべくゆっくり……来るんだ、よ……」
スリーピングナイツの六人は、手を重ね合わせると、再会を誓うようにぐっと力強く頷きあった。シーエンたちが立ち上がるのと前後するように、新たな翅音がいくつか近づいてきた。
現われたのは、キリト、リズベット、リーファ、シリカの四人だった。皆、着地すると同時に駆け寄ってくると、ユウキを囲む輪に加わり、それぞれ一度ずつユウキの手を握る。
ユウキを腕の中に横たえ、涙に揺れる視界でその情景を見ながら、アスナはふとあることに気付いた。キリトたちが降り立っても、どこからかかすかな飛翔音が聞こえてくる。それもひとつではない。様々な種族の翅音が、いくつも、いくつも重なって、荘厳なオルガンのような反響音を作り出している。
アスナも、ユウキも、シーエンやリズベットたちも、ふっと空を振り仰いだ。
見えたのは、セルムブルグの方向からこちらに向かって伸びる、ひと筋の太いリボンだった。
何十人ものプレイヤーが、列を作って飛んでくる。その先頭にあるのは、長衣の裾をはためかせて飛ぶ、シルフ領主サクヤの姿だ。後ろに続くのは、様々な階調のグリーンを身にまとうシルフたちである。あの人数では、今ログインしているシルフのほぼ全員が集まっているに違いない。
いや――セルムブルグからだけではない。外周部のいろいろな方向から、いくつもの帯が小島目指して伸びてきていた。赤いリボンはサラマンダー。黄色いのはケットシーだろうか。インプ、ノーム、ウンディーネ……それぞれのリーダーに率いられたプレイヤーの大集団が、一直線に大樹へと向かって集まってくる。その数五百……いや、千を超えるだろうか。
アスナの腕のなかで、眼を見開いたユウキが、感嘆の声を漏らした。
「うわあ……すごい……。妖精たちが……あんなに、たくさん……」
アスナはユウキに微笑みかけながら言った。
「ごめんね、ユウキは嫌がるかもって思ったんだけど……わたしが、リズたちにお願いして呼んでもらったの」
「嫌なんて……そんなこと、ないよ……。でも、なんで……なんでこんなに、たくさん……夢……見てるのかな……」
ユウキが吐息混じりに囁くあいだにも、小島の上空にまで達した剣士たちは、次々と滝のような音を立てて降下してきた。サクヤやアリシャたち領主を先頭とした大集団は、すこし距離を置いてアスナたちを取り囲むと、次々に草地に片膝を着き、こうべを垂れる。さして大きくもない島は、みるみるうちに無数のプレイヤーで一杯になった。
アスナはユウキの瞳をじっと見つめ、一杯になった胸のうちをどうにか言葉にしようと、唇を動かした。
「だって……だって……」
再び、ぽたぽたと涙が滴る。
「ユウキ……あなたは、かつてこの世界に降り立った、最強の剣士……。あなたほどの剣士は、もう二度と現われない。そんな人を、さびしく見送るなんて……できないよ。みんな、みんなが、祈ってるんだよ……ユウキの、新しい旅が、ここと同じくらい素敵なものに、なりますように、って」
「…………嬉しい……ボク、嬉しいよ……」
ユウキは首を持ち上げ、周囲を取り囲む剣士たちをぐるりと見渡すと、ふたたびがくりとアスナの腕に頭を預けた。
目蓋を閉じ、小さな胸で何度か深く息をついてから、ユウキは再び紫色の瞳でじっとアスナを見た。すうっと大きく息を吸い、まるで最後の力をすべて振り絞るかのように、切れぎれだがはっきりとした声で話しはじめた。
「ずっと……ずっと、考えてた。死ぬために生まれてきたボクが……この世界に存在する意味は、なんだろう……って。
「何を……生み出すことも……与えることもせず……たくさんの薬や、機械を……無駄づかいして……周りの人たちを困らせて……自分も悩み、苦しんで……その果てに、ただ消えるだけなら……今この瞬間にいなくなったほうがいい……何度も、何度もそう思った……。なんで……ボクは……生きてるんだろう……って……ずっと……」
ユウキの、残された命の最後の一滴までが、今まさに燃え尽きようとしていた。腕の中の小さな体が、少しずつ軽くなり、透き通っていくようだった。ユウキの声はか細く、切れぎれだったが、しかしそれはかつて聞いたどんな言葉よりも純粋に、アスナの魂の深奥まで届いた。
「でも……でもね……ようやく、答えが……見つかった、気がするよ……。意味……なんて……なくても……生きてて、いいんだ……って……。だって……最後の、瞬間が、こんなにも……満たされて……いるんだから……。こんなに……たくさんの人に……囲まれて……大好きな人の、腕のなかで……旅を、終えられるんだから…………」
ユウキは短い吐息とともに言葉を止めた。その紫色の瞳は、アスナを透過して、どこか遥かに遠い場所を望んでいるかのようだった。もしかしたら、ほんとうの異世界――英雄たちの魂が集うという、真なる妖精の島を。
アスナはもう、流れ落ちる涙を止めることはできなかった。零れた滴たちは、次々にユウキの胸元で光の粒を散らした。しかし、口元には、いつしか自然と微笑みが浮かんでいた。大きく一度頷いてから、アスナはユウキに最後の言葉を告げた。
「わたし……わたしは、かならず、もう一度あなたと出会う。どこか違う場所、違う世界で、絶対にまた巡り合うから……そのときに、教えてね……ユウキが、見つけたものを……」
瞬間、ユウキの紫の瞳が、ぴたりとアスナの瞳をとらえた。その奥に、かつて出会ったときと同じ、無限の活力と勇気に満ちた輝きが、刹那のあいだきらめいた。それはすぐに、二つの水滴へと形を変え、溢れ、ユウキの白い頬を伝って滴り、光となって消えた。
唇がごく、ごくかすかに動いて、微笑みの形を作った。アスナの意識に直接、声が響いた。
「ボク、がんばって、生きた」
「生きて……よかった」
降り積もった無垢な雪原に最後の結晶がひとつ落ちるように、ユウキは、そのまぶたをそっと閉じた。
制服の右肩に、ふとかすかな気配を感じて視線を落とすと、薄桃色の花びらが一枚貼り付いていた。
明日奈は左手の指先で慎重にそれをつまみあげ、手の平に載せた。染みひとつ無い綺麗な楕円形の花びらは、まるで何か言いたいことでもあるかのようにしばらく震えていたが、やがて訪れた風に巻き上げられ、同じように宙を舞う無数の白点のなかに姿を消した。両手を膝の上に戻し、明日奈は再び霞がかった春の空を見上げた。
四月最初の土曜日、午後三時。一週間前に旅立ったユウキの告別式が、つい先ほど終わったところだった。式場となった、保土ヶ谷の丘陵地帯にあるカソリック教会は周囲を桜並木に取り囲まれて、一斉に散り始めた花たちもまるでユウキを送っているかのよう――であったのだが、式のほうは「しめやかに」、あるいは「ひそやかに」というお決まりの形容詞は似合わないものとなった。ユウキの親戚筋の出席者が、喪主を務めた叔母という女性を含めてわずか四人だったのに対して、友人を名乗る十代二十代の参列者が優に百人を超えたからだ。無論、ほぼ全員がALOプレイヤーである。三年を超える入院生活を経て、告別に訪れるようなユウキの知人はもう殆ど居ないと思っていたのだろう親戚側も、受付で眼を白黒させていた。
式が終わっても、皆は教会の広大な前庭に三々五々固まり、"絶剣"の思い出話に浸っているようだった。しかし、明日奈は何故かその輪に加わる気になれず、こっそり抜け出すと礼拝堂の陰にあるベンチを見つけて、ひとり空を見ていたのだった。
もう、ユウキがこの世界には居ないのだということ――肩のプローブ越しに歓声を上げたり、森の家でアスナの料理に満面の笑みを浮かべたりしたユウキが、遠い世界に旅立ってしまって、二度と戻ることはないのだということが、どうしても現実として理解できなかった。涙はようやく涸れたけれど、雑踏の中や喫茶店の片隅、あるいはアルヴヘイムの風の中で、ふとユウキの声を聞いたような気がして、心臓がどきんと跳ねることが何度もあった。
この頃、命というのはいったい何なのだろうとよく考える。
すべての生命は遺伝子の運搬装置でしかなく、己の複製情報を増やし、残すためにのみ存在する、という説が巷間を賑わしたのは何十年前のことだったろうか。その観点に立つならば、ユウキを長いあいだ苦しめたHIV、ヒト免疫不全ウイルスなどは純粋な生命そのものだろう。しかしウイルスたちは、ひたすらに増殖、複製を繰り返した挙句、ついに宿主であるユウキの命を奪い、同時に自分たちも死に絶えてしまった。
考えようによっては、人間だって同じようなことを数千年にわたって繰り返している。自己の利益を優先するために時として複数の人命を奪い、自国の安全を保障するために複数の他国に犠牲を求める。今も空を見上げれば、相模湾の巨大メガフロート基地から飛び立ちいずこかを目指す戦闘機の編隊が、春霞の彼方に白く雲を引いている。人間もいつかは、ウイルスと同じように自らが生きる世界そのものを破壊してしまう時が来るのだろうか? それとも、別種の知性との生存競争に敗れ、駆逐されてしまうのだろうか……?
ユウキが最後に遺した言葉が、耳の奥にいまも谺している。何を生み出すことも、与えることもなく――。確かにユウキは、自分の遺伝子を残すことなくこの世界を去った。
でも、と明日奈は思いながら、制服のリボンにそっと触れる。この胸の奥には、ほんの一瞬の触れ合いを通して、ユウキが深く刻みこんでいったものが確実に存在する。巨大な困難に臆すことなく立ち向かう"絶剣"の雄々しい姿、その魂そのものがしっかりと息づいている。それは、今日この場所に集まった百人以上の若者たちも同様だろう。たとえ時が少しずつ記憶を漱ぎ、思い出を結晶化させていくとしても、残るものは必ずあるはずだ。
ならば、命には、四種類の塩基によって伝えられる遺伝情報だけでなく、実体のない記憶、精神、魂を運ぶ機能だってあるということになる。ミーム、模倣子といったあいまいな概念ではなく、いつか遠い未来、精神そのものを純粋に記録できる媒体が出現することがあれば、もしかしたらそれこそがこの人間という不完全な生命の自滅を防ぐたったひとつの鍵となるのではないのか――。
その日がくるまでは、わたしはわたしにできる方法で、ユウキの心のかたちを伝えていこう。いつか子供ができたら、繰り返し話して聞かせよう。現実と仮想世界の狭間で、奇跡のように眩しく煌めいた一人の小さな女の子のことを。
胸のうちで自分に向かってそう呟き、明日奈はいつしか閉じていた目蓋をそっと開けた。
すると、前庭から建物の角を回ってこちらに近づいてくる人影が目に入った。あわてて指先で、目尻に滲んでいた雫を払い落とす。
女性だった。一瞬どこかで会ったような気もしたが、顔は記憶にはなかった。やや長身、黒のシンプルなワンピースにショールを羽織っている。肩までのストレートの髪は深い黒で、胸元の細い銀のネックレスだけが唯一の装身具だ。歳は二十代前半といったところだろうか。
女性は真っ直ぐに明日奈に向かって歩いてくると、少し前で立ち止まり、ぺこりとお辞儀をした。明日奈も慌てて立ちあがり、頭を下げる。顔を上げると、女性の抜けるような白い肌がまぶしく目を射た。が、血色の薄いその白さは、妙にかつての、長い眠りから醒めたばかりの頃の自分を思い起こさせるものだった。あらためて見ると、ショールから覗く首筋や手首は、触れれば折れてしまいそうなほどに細い。
女性は無言のまま明日奈の顔をじっと見ると、棗型の綺麗な目をふっと和ませた。口もとに淡い微笑が浮かぶ。
「明日奈さんですね。向こうとまったく同じ姿なので、すぐにわかりました」
落ち着いた、ウェットなトーンのその声を聞いた途端、明日奈にも相手が誰だか分かった。
「あ……もしかして……」
「はい。私、スリーピングナイツのシーエンです。本名は、アン・シーイェンといいます。初めまして……ご無沙汰してます」
「こ、こちらこそはじめまして! 結城明日奈です。一週間ぶりですね」
互いにどこか矛盾した挨拶を交わし、明日奈とシーイェンはくすりと笑いあった。左手でベンチに腰掛けるよう促し、自分もその隣に座る。
そうしてから、ようやく明日奈はあることに気付いた。スリーピング・ナイツのメンバーは全員が難治性疾患と闘う身であり、しかもターミナル・ケア、終末期医療が必要となる段階の病状なのではなかったか。このように、屋外を一人で出歩いて大丈夫なのだろうか……?
シーイェンは、明日奈のその懸念を敏感に察知したようで、こくりと小さく頷いて口を開けた。
「大丈夫、この四月でようやく外出を許してもらえるようになったんです。付き添いで兄が一緒に来てるんですが、表で待ってもらっています」
「……じゃあ、あの……お体のほうは、もう……?」
「はい。……私の病気は、急性リンパ性白血病というもので……発症したのは、もう三年前になります。一度は化学療法で寛解……あ、寛解というのは、体の中から白血病細胞が一応消えることです――したんですが、去年再発して……。再発後は、有効な治療法は骨髄移植しかないと言われています。でも、家族は誰も、白血球型が適合しなくて……骨髄バンクでも、ドナーになってくださる方は見つかりませんでした。もう、ずっと前に気持ちの整理はつけて、残された時間を精一杯生きよう、って思ってたんですけど……」
シーイェンは一瞬言葉を切ると、すっと視線を頭上の桜に向けた。つむじ風が、無数の花弁を巻き上げ、雪のように吹き散らしていく。
「――再発後、骨髄移植ができない場合は、サルベージ療法と言って色々な薬の組み合わせで寛解を目指します。新薬、治験薬も積極に使うので、副作用も厳しくて……あんまり辛いので、何度ももういい、って思いました。どうせ望みが無いなら、残りの時間を安らかに過ごせるような治療に切り替えて下さいって、何度もお医者様に言おうとしました……」
桜吹雪に揺れるシーイェンの髪が、ウィッグであることに明日奈は気付いていた。
「でも……ユウキと会うたびに、くじけちゃダメだって思いました。ユウキは同じ苦しみと十五年も闘いつづけてるのに、ずっと年上の私が、たった三年で何を泣き言言ってるの、って。そう自分に言い聞かせました。――ところが、二月頃から少しずつ薬の量が減ってきて……お医者様は、数値が良くなってきてるって仰ったんですけど、私は、とうとうその時が来たんだな、って思ってました。サルベージ療法から、QoL優先療法に切り替えたんだ、って。それは勿論、怖かったですけど……でも、ほっとしてもいたんです。ユウキの状態を聞いてましたから……ユウキと一緒なら、どこにだって行ける、そう思ってました。どこに行っても、私を守ってくれると……。おかしいですよね、ずっと年下の子に、こんなに依存して……」
「いえ……わかります」
明日奈は短く言葉を挟みながら、こくりと頷いた。シーイェンも微笑み、頷いて、続けた。
「――それなのに……一週間前、ユウキとお別れした次の日でした。お医者様が、私の病室に来て……完全寛解、つまり白血病細胞が完全に消えたから、もう退院していい、って仰ったんです。何を言ってるんだろう、って思いましたよ。いわゆる……家族と過ごすための一時帰宅なのかな、とか色々考えて……混乱が収まらないまま、その翌々日に、本当に退院してしまったんです。もしかして、病気が治ったのかもしれない、って思えるようになったのは、昨日あたりですよ。治験薬のひとつが、劇的に効いたそうなんですが……」
一瞬言葉を切り、シーイェンは泣き笑いのような表情でくしゃりと顔を歪めた。
「なんだか、まだ、実感はぜんぜんありません。なくしたはずの時間を急に返されても、戸惑うばかりです。それに……ユウキに……」
わずかに声が震える。目尻に小さな涙の珠が浮かんでいるのに気付き、明日奈も胸を詰まらせる。
「ユウキが待ってるのに、私だけ、ここに残ってて、いいのかなって……。ユウキや、ランさんや、クロービスやメリダと……いつまでも一緒って約束したのに、私……私は……」
それ以上は言葉が続かないようだった。シーイェンは俯くと、肩を震わせた。
ランさん、とは初代ギルドリーダーだったというユウキのお姉さんだと思われた。後の二人も、もう今は亡きスリーピングナイツのメンバーなのだろう。およそこの世界に存在する逆境のなかで、もっとも険しい境遇において結ばれた絆だからこそ、それはある意味では家族や恋人よりも強いものなのかもしれなかった。明日奈は、自分にいったいどんな言葉を掛ける資格があるというのだろう、と思いながら、それでも口を開かずにはいられなかった。
左手を伸ばし、ベンチの上に投げ出されたシーイェンの右手をそっと包み込む。骨ばった細い指は、しかし、確かな暖かさを明日奈の掌に伝えてくる。
「わたし……最近、思うんです。命は、心を運び、伝えるものだ、って。わたし、長い間怯えていました。人に気持ちを伝えるのも、人の気持ちを知るのも怖かった。でも、それじゃいけないって、ユウキが教えてくれたんです。自分から触れ合おうとしなければ、何も生まれない、って。わたしは、ユウキから貰った強さを、色々な人に伝えたい。ユウキの心を、歩きつづけられるかぎり遠くまで運びたい。そして……いつかもう一度ユウキと出会ったとき、たくさんの心をお返しできればいいな、って、そう思ってます」
つっかえながら、明日奈はどうにかそこまでを口にした。言いたいことは半分も言葉にできなかったような気がしたが、シーイェンは俯いたままゆっくり、深く頷くと、もう一方の手を明日奈の左手に重ねた。
顔を上げたシーイェンの、美しい漆黒の瞳は深く濡れていたが、口元には確かな微笑が浮かんでいた。
「ありがとう……明日奈さん」
囁き、シーイェンは不意に両腕を伸ばして、明日奈の背に回した。明日奈もその華奢な体をしっかりと抱きとめる。耳もとで、言葉が続く。
「私達、明日奈さんにはとても感謝しているのです。お姉さんのランさんが亡くなったあと、ユウキはお姉さんの代わりに、ずっと私達を励まし、支えようと頑張ってくれました。私達も、それに甘えてしまって……辛いとき、挫けそうなとき、皆がユウキにすがって力を分けてもらいました。ですが、何を今さら、と言われるかもしれませんが……私はユウキが心配だったのです。彼女の心は、誰が支えればいいんだろう、って。ユウキはいつでもにこにこして、辛い顔ひとつ見せませんでしたけれど……あの小さな背中に、すごくたくさんのものを背負って、いつかそれがユウキの心を折ってしまうんじゃないかと……。――そんなとき、あなたが現れてくれたのです。明日奈さんと一緒にいるときのユウキは、とても楽しそうで、自然で、まるで飛ぶことを思い出した小鳥のようでした。そのまま、高く高く、どこまでも舞い上がって……私達の手の届かないところまで……行ってしまいましたけど……」
シーイェンはそこでしばらく言葉を切った。明日奈の心のスクリーンにも、小さな鳥に姿を変えて、遥かな異世界の空を舞うユウキの姿が一瞬映った。
体を離し、シーイェンは含羞むように少し笑った。指先で、涙の粒をそっと払い落とす。すう、と一回呼吸をして、はっきりとした声でまた話しはじめた。
「――実は、私だけじゃないんです。ジュンも……難しいガンなんですが、最近使い始めた薬がずいぶん効いて、腫瘍が小さくなってきてるそうなんです。まるで、ユウキが、まだこっちに来るのは早いって言ってるみたいだね、って二人で話しました。スリーピングナイツがもう一度揃うのは、かなり先のことになってしまいそうです」
「……そうですよ。次こそは、わたしも正式メンバーにして貰う予定なんですから」
明日奈とシーイェンは互いの顔を見て、ふふ、と笑みを交わした。揃ってもう一度、薄桃色に霞む空を見上げる。穏やかな風が、背後から吹き過ぎて髪を揺らした。ふわりと二人の肩を包んでから、背中の翅を羽ばたかせて高く飛んでいくユウキの姿を思い浮かべ、明日奈はそっと目を閉じた。
そのまま、何分そうしていただろうか。近づいてくる新たな足音がふたつ、静謐な沈黙を終わらせた。顔を前に戻すと、明日奈と同じ色の制服を着た少年――桐ヶ谷和人と、黒の礼服姿の倉橋医師が歩みよってくるところだった。
明日奈とシーイェンは同時に立ち上がると、ぺこりと挨拶をした。同じように頭を下げてから、和人が明日奈を見て言った。
「ここに居たのか。邪魔しちゃったか?」
「ううん、大丈夫。でも……あれ? キリト君と倉橋先生は知り合いだった?」
「ああ……最近だけどね。例の通信プローブの件で、メールのやり取りをしてるんだ」
そうなんですよ、と倉橋医師が言葉を引き取る。
「あのカメラには実に興味をそそられましてね。医療用NERDLES技術の中に活かせないか、相談に乗ってもらっているのです」
「そうだったんですか。……あの、そう言えば……」
ふいに明日奈はあることを思い出し、医師に向かって尋ねた。
「メディキュボイドのテストのほうは、どうなるんでしょう? 誰かが引き継ぐんですか……?」
それを聞くと、医師は頬を緩め、大きく頷いた。
「ああ、いえ、テストとしてはもう充分すぎるほどのデータは得られているのです。今後は実際の製品化に向けて、メーカーとの協議を詰めていくことになっています。もうすぐ、安さんや他の皆さんも、メディキュボイドを使えるようになるかもしれませんよ……」
言葉の後半はシーイェンに向けてのものだったが、そこまで言ってから、倉橋医師は一瞬目を丸くしてから慌てたように続けた。
「いや、これは失礼。最初に言うべきことを忘れていた。――安さん、退院、ほんとうにおめでとう。木綿季くんも……どんなに喜んでいるか……」
差し出された医師の手をぎゅっと握り返し、シーイェンは大きく頷いた。続けて、すでにゲーム内で知己となっている和人とも握手を交わす。
「ありがとうございます。メディキュボイドは使わせてもらえそうにないですが……でも、ユウキが残してくれたデータが、たくさんの、病気と闘う人たちの助けになると思うと……とても、嬉しいです」
シーイェンがそう言うと、医師は何度も頭を上下に動かした。
「本当に。――あの機械をテストした最初の人間として、木綿季くんの名はずっと残ると思います。初期設計の提供者と並んで……何か凄い賞を贈られてもいいくらいです……」
「多分、そんなもの貰ってもユウキは喜ばないですよ。『食べられないしなあ』とか言いそうです」
シーイェンの台詞に、全員が笑った。和やかな笑い声が収まってから、明日奈はふと倉橋医師の言葉の一部が耳に残っているのに気付き、それを繰り返した。
「あの……先生、さっき、初期設計の提供者……と仰いました? 設計したのは、医療機器メーカーではないんですか?」
「ああ……ええと、ですね」
医師は記憶の底を浚うように眼鏡の奥で目を細めた。
「もちろん、試験機の開発そのものはメーカーが行ったんですが、機械のコアとなる部分、超高密度信号素子の基礎設計は、外部からの提供があったのです。たしかこれも女性で……海外の大学の研究者だったはずですよ。日本人ですがね……ええと、名前は……」
そのあとに医師が告げた姓名は、明日奈にはまったく聞き覚えのないものだった。シーイェンも同様なようだったが、ふと和人の顔を見たとき、そこに浮かんでいる表情を見て明日奈は息を呑んだ。
和人は肌を蒼白にし、まるでありえない何かを見たとでも言うように、視線を虚ろにしていた。唇が二度、三度、小さく攣る。
「ど……どうしたの、キリト君!?」
慌てて明日奈が声をかけたが、和人はしばらく沈黙を続けていた。やがて、唇から掠れた声が漏れた。
「俺は……その人を、知っている」
「え……?」
「会ったこともある……その人は……」
和人はふっと明日奈の目を見た。その黒い瞳は、時空間の壁を突き抜け、どこか異世界を覗き込んでいるようだった。
「その人は、ダイブ中の……ヒースクリフの体の世話を引き受けていた人だ。彼と……同じ研究室で、一緒にNERDLES技術の研究をしていたという……つまり、メディキュボイドの基礎設計の、本当の提供者は……」
「…………」
明日奈も言葉を失った。シーイェンも、倉橋医師も、訝しそうな顔で首を傾けていたが、何を答えることもできなかった。ただ呆然と、目の前を通り過ぎていく桜の花びらを視線で追った。
不意に、明日奈は、"流れ"を感じた。
この現実と名づけられた世界が、単なるひとつの相にすぎず――。それら世界が無数の花弁のように寄り集まって構成された更なる上位構造が存在し、そして今、すべての世界を包み、うねり、流れていく巨大な力が、ゆっくりとその形を現そうとしている――。
明日奈は両手でぎゅっと自分の体を抱いた。一際強く吹いた風が、周囲に漂う花びらを全て、遠い空へと運び去っていった。