明日奈は手の中の紙片に目を落とすと、そこに手書きで記された名前と、眼前に横たわる巨大な建築物の壁面に立体的に浮き出た名前が同一であることを確かめた。
横浜市都筑区。緑の多い丘の間に抱かれるように、その建物はあった。背が低いかわりに両翼がたっぷりと広がった設計や、周囲の丘陵ののどかな佇まいを見ていると、とてもここが首都圏とは思えないが、明日奈の家がある世田谷からは東急線を使って30分もかからなかった。
建物はまだ新しく、冬の低い日差しを浴びて茶色いタイルの壁面をきらきらと光らせている。自分が長いあいだ眠っていたあの場所によく似ているな、と思いながら、明日奈はメモをポケットに仕舞った。
「ここにいるの、ユウキ……?」
小さな声で呟く。会いたい、と思う反面、ここにあの少女が居なければいい、とも考えてしまう。
わずかに逡巡したあと、明日奈は制服の上に着たコートの襟をかき合わせて、正面エントランス目指して足早に歩きはじめた。
"絶剣"ユウキがアインクラッドから消えてから、すでに三日が経過していた。最後の瞬間、剣士の碑のまえで彼女が見せた涙は、まだ明日奈のまぶたに焼き付いている。このまま忘れてしまうことなど、到底できそうになかった。どうしてももう一度会って、話をしたかった。しかし、送ったメッセージは、すべて送信相手がログインしていません、というリプライを返してきたし、開封された様子もなかった。
スリーピングナイツの仲間たちなら、ユウキの居場所を知っているはず、とも思ったのだが、二日前、溜まり場になっていたロンバールの酒場でひとりアスナを迎えたシーエンは、睫毛を伏せて首を振った。
「私たちも、ユウキと連絡が取れないのです。ALOだけでなく、他のVR世界にもログインしている様子はありませんし、現実世界の彼女について知っていることもほとんどありません。それに……」
シーエンはそこで言葉を切り、どこか気遣わしそうな視線でアスナを見た。
「アスナさん。たぶん、ユウキは再会を望んでいないと思います。誰でもない、あなたのために」
アスナは愕然として言葉を失った。数秒たってから、どうにか声を絞り出した。
「な……なんで? ううん……何となく、ユウキやシーエンたちが、わたしと必要以上に関わらないように線を引いてるのはわかってた。わたしのことが迷惑だっていうなら、もう追いかけないよ。でも……わたしのため、って言われても納得できない」
「迷惑なんて……」
いつも静謐な態度を崩さないシーエンが、珍しく表情を歪め、激しく首を左右に振った。
「私たちは、あなたと出会えたことを本当に嬉しく思っています。この世界で、最後にとても素敵な思い出が作れたのはアスナさんのお陰です。どんなに感謝してもし足りません。でも……どうか、お願いですから、これで私達のことは忘れてほしいのです」
そこで言葉を切り、左手を振ってウインドウを操作した。アスナの前に、小さなトレードウインドウが現われた。
「予定には少し早いのですが、スリーピング・ナイツは解散することになると思います。アスナさんへのお礼は、ここにまとめてあります。この間のボスからドロップしたものと、私達の全ての所持アイテムを……」
「い……いらない。受け取れないよ」
アスナは指先を叩きつけるようにウインドウをキャンセルし、一歩シーエンに歩み寄った。
「本当に、これでお別れなの? わたし……ユウキや、シーエンや、みんなのことが好き。ギルドは解散しても、友達としてずっと仲良くしていけると思ってた。でも、そう思ってたのはわたしだけなの……?」
これまでのアスナなら、絶対に口にしないような言葉だった。しかし、ユウキたちと行動を共にしたたった数日のうちに、アスナは少しずつ自分が変わりつつあるのを感じていた。だからこそ、みんなと別れるのは嫌だった。
しかし、シーエンは顔を伏せ、頭を振るだけだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい。でも、こうしたほうがいいんです。ここで、別れたほうが……」
そして彼女もウインドウのボタンを押し、ログアウトした。シーエンや、ジュンやノリたち他のメンバーも、それきりALOにログインしてくることは無かった。
たった三日間の付き合いだ。それで友達になったつもりだったアスナが間違っているのかもしれなかった。しかし、スリーピングナイツの面々は、アスナの心の奥深くに拭いきれない印象を残していった。このまま忘れることなど、絶対にできそうになかった。
シーエンと会った翌日には、三学期が始まったのだが、久々にリアル世界でキリト――和人やリズベット達と会っても、明日奈の心はどこか沈んだままだった。気がつくと、瞼の裏、鼓膜の奥に、ユウキの笑顔を甦らせているのだった。姉ちゃん、とユウキは明日奈のことを呼んだ。それに気付いて、彼女は涙を流した。その理由をどうしても知りたかった。
そして昨日。昼休みに、明日奈は『屋上で待ってる』という和人からのメールを受け取った。
冷たい風が吹き渡っていくコンクリート剥き出しの屋上で、空気循環用の太いパイプに寄りかかって、和人は明日奈を待っていた。近づくアスナを、じっと――シーエンと同じような――気遣わしげな視線で見つめたあと、和人は唐突に言った。
「どうしても、絶剣に会いたいのか」
「……うん」
こくりと、深く明日奈は頷いた。
「会わないほうがいい、と言われたんだろう? それでも?」
「うん、それでも。わたし、どうしてももういちど会って話したい。話さないとだめなの」
「そうか」
短く答えて、和人は明日奈に小さな紙片を差し出した。
「え……?」
「あくまで可能性だ。それも、50%くらいの……でも、俺は、絶剣はそこにいると思う」
「ど……どうして、キリト君にわかったの……?」
メモを受け取りながら、明日奈は呆気に取られて訊ねた。和人はすっと視線を空に向け、呟いた。
「そこが、日本で唯一、『メディキュボイド』の臨床試験をしている場所だからだ」
「メディ……キュボイド?」
聞きなれない、不思議な単語を繰り返しながら、明日奈は紙片を開いた。
そこには、横浜港北総合病院、という名前と地番が小さな文字で書かれていた。
綺麗に磨かれたガラスの二重自動ドアをくぐり、たっぷりと採光されたエントランスに踏み込むと、どこか懐かしい消毒薬の匂いがかすかに漂った。
小さな子供を抱いた母親や、車椅子の老人がゆっくりと行き交う静かな空間を横切って、明日奈は面会受付カウンターへ向かった。
窓口横に備えられた用紙に住所氏名を書き込み、面会を希望する相手の名前を書く欄で、手が止まる。明日奈が知っているのはユウキという名前だけだし、それすらも本名かどうかはわからない。和人からは、たとえそこに彼女がいてもそれを確認できるかどうか、面会できるかどうかはわからない、と言われていたが、ここまで来て諦めるわけにはいかなかった。意を決して、用紙を持って窓口へと向かう。
カウンターの向こうで端末を操作していた白いユニフォームの女性看護師は、明日奈が近づく気配に顔を上げた。
「面会ですね?」
笑顔とともに発せられた質問に、ぎこちなく頷く。一部空欄の申請用紙を差し出しながら、明日奈は言った。
「ええと……面会したいんですが、相手の名前がわからないんです」
「はい?」
訝しそうに眉を寄せる看護師に向かって、懸命に言葉を探す。
「たぶん十五歳前後の女の子で、もしかしたら名前は『ユウキ』かもしれないんですが、違うかもしれません」
「ここには沢山の入院患者さんがいらっしゃいますから、それだけではわかりませんよ」
「ええと……ここで試験中の『メディキュボイド』を使ってる方だと思うんですが」
「ですから、患者さんのプライバシーに関しては……」
その時、カウンターの奥にいたもうひとりの看護師がすっと顔を上げると、じっと明日奈の顔を見た。次いで、明日奈の相手をしていた看護師に向かって、何事か耳打ちをする。
最初の看護師は、ぱちぱちと瞬きし、あらためて明日奈を見上げてから先ほどとは微妙に異なる口調で言った。
「失礼ですがあなた、お名前は?」
「あ、ええと、結城、明日奈と言います」
答えながら、申請用紙を滑らせるように差し出す。看護師は用紙を受け取ると目を落とし、それから奥の同僚に渡した。
「何か身分証を拝見できますか?」
「は、はい」
慌ててコートの内ポケットから財布を取り出し、学生証を抜いて提示する。看護師はカード上の写真と明日奈の顔を仔細に見比べたあと、軽く頷き、しばらくお待ちくださいと言って傍らの受話器を取り上げた。
内線でどこかに掛けたらしく、二、三小声でやり取りしてから、明日奈に向き直る。
「第二内科の倉橋先生がお会いになります。正面のエレベータで4階に上がってから、右手に進んで、受付にこれを出してください」
差し出されたトレイから、学生証ともう一枚銀色のカードを取り上げ、明日奈はぺこりと頭を下げた。
四階受付前のベンチで更に15分近く待たされてから、明日奈は足早に近寄ってくる白衣の姿に気付いた。
「やあ、ごめんなさい、申し訳ない。すみません、お待たせして」
妙な詫び方をしながら会釈したのは、小柄ですこし肉付きのいい男性医師だった。おそらく三十代前半だろうか、つやつやと広い額の上で髪をきっちり七三に分け、縁の太い眼鏡を掛けている。
明日奈は慌てて立ち上がると、深く頭を下げた。
「と、とんでもない。こちらこそ急にお邪魔してしまって。あの、わたしならいくらでも待てますけれど」
「いえいえ、今日の午後は当番じゃないですから、ちょうどよかった。ええと、結城明日奈さん、ですね?」
やや垂れぎみの目をにこにこと細めながら、男性医師は軽く首をかたむけた。
「はい。結城です」
「僕は倉橋といいます。紺野くんの主治医をしております。よく訪ねてきてくれました」
「こんの……さん?」
「ああ、そうでした。紺野ユウキくんです。ユウキは、草木の木に綿、季節の季と書くんですがね。木綿季くんは、ここのところ毎日、明日奈さんの話ばかりしていますよ。あ、すみませんつい、木綿季くんがそう呼ぶもので」
「いえ、明日奈でいいです」
微笑みながら答えると、倉橋医師も照れたように笑い、右手でエレベータのほうを指し示した。
「立ち話もなんですので、二階のラウンジに行きましょう」
案内された、広々とした待合スペースの奥まった席に、明日奈と医師は向かい合って座った。大きなガラス窓からは、病院の広大な敷地と、周囲の緑を遠く望むことができる。周囲に人影は少なく、遠くから伝わってくるホワイトノイズだけが空気をかすかに揺らしている。
明日奈は、心の中で溢れかえるような疑問の数々を、どこから口にしたものか迷っていた。が、先に倉橋医師が沈黙を破った。
「明日奈さんは、木綿季くんとVRワールドで知り合ったんですよね? 彼女が、この病院のことを話したんですか?」
「あ、いいえ……そういう訳ではないんですが……」
「ほう、それでよくここが分かりましたね。いやね、木綿季くんが、もしかしたら結城明日奈さんという人が面会にくるかもしれないから、受付にその旨伝えておいてくれと言うものだから、病院のことを教えたのかと驚いたらそうじゃないと言う。じゃあこの場所がわかるわけないよ、と僕は答えたんですが、さっき受付から連絡がきたときは、いや驚きましたよ」
「あの……木綿季さんは、わたしのことを話したんですか……?」
なら嫌われたわけじゃないのかな、という安堵で胸のおくがほっと温かくなるのを感じながら明日奈は訊いた。
「それはもう。ここ四、五日は、僕との面談では明日奈さんの話ばかりですよ。ただね、木綿季くん、あなたの話をしたあとは決まって大泣きしてね。自分のことでは決して弱音を吐かない子なんだが」
「えっ……な、なんで……」
「もっと仲良くなりたい、でもなれない、会いたい、けどもう会えないと言うんです。その気持ちは……わからなくもないんだが……」
そこで初めて、倉橋医師はわずかに沈痛な顔を見せた。明日奈は深く一呼吸してから、急き込むように尋ねた。
「木綿季さんも、彼女の仲間たちも、中……VRワールドで私にそう言いました。何故なんです!? 何故もう会えないんですか!?」
メモに病院の名前を見たときから、じわじわと膨らみつつある危惧のかたまりを飲み込みながら明日奈が身を乗り出すと、倉橋医師はしばらく無言のまま、テーブルの上で組み合わせた両手に視線を落としていたが、やがて静かに答えた。
「それでは、まず、メディキュボイドの話からはじめましょうか。明日奈さんは、勿論アミュスフィアのユーザーなんですよね?」
「え……ええ、そうです」
青年医師は、ひとつ頷くと顔を上げ、言った。
「僕はね、NERDLES技術がそもそもアミューズメント用途に開発されたことが残念でならないのです」
「え……?」
「あのテクノロジーは、最初から医療目的に研究されるべきでした。そうすれば、現状はあと一年、いや二年分は進んでいたはずです」
思わぬ話の成り行きに戸惑う明日奈に向かって、医師は指を立ててみせた。
「考えてください。アミュスフィアのもたらす環境が、どれほど医療の現場で有効に機能するか。例えば、視覚や聴覚に障碍をもつ人たちにとっては、あの機械はまさに福音なんですよ。先天的に脳に機能障害がある場合は残念ながら除外されますが、眼球から視神経に異常があっても、アミュスフィアなら直接脳に映像を送り込めるわけです。聴覚の場合も同様です。光や音をまったく知らずに育った人たちでも、今やあの機械を使うことで、ほんとうの風景というものに触れられるようになったのです」
熱っぽく語る倉橋医師のことばに、明日奈はこくりと頷いた。アミュスフィアがそのような分野で広く活用されるようになったのは、そう最近のことではない。いずれヘッドギアが更に小型化され、専用のレンズと組み合わせれば、視覚障碍者も晴眼者とまったく同じように生活を送れるようになると言われている。
「また、有用なのは信号伝達機能だけではありません。アミュスフィアには、体感覚キャンセル機能もありますよね」
医師は指先で自分のうなじの部分を叩いた。
「ここに電磁パルスを送ることで、一時的に神経を麻痺させるわけです。つまり、全身麻酔と同じ効果がある。例えば手術時にアミュスフィアを用いることで、ある程度の危険がある麻酔薬の使用を回避できると考えられています」
いつの間にか医師の話に引き込まれていた明日奈は、頷いてからふと気付き、首を横に振った。
「ええ……いえ、それは無理じゃないですか? アミュスフィアでインタラプトできる感覚レベルはごく低いものに限られています。体にメスを入れるような激痛を消去することは、アミュスフィアには、いえ、初代機――ナーヴギアにも出来ないと思いますし……たとえ延髄でキャンセルしても、体の神経は生きているわけですから、脊髄反射は残るのでは……?」
「そう、そうです」
倉橋医師は、意を得たりというように何度も首を動かした。
「まったくその通りです。それにアミュスフィアは電磁パルスの出力も弱いし、処理速度も遅いので、応答性に多少の問題があります。VR世界に長時間ダイブするならそれでもいいのですが、レンズと組み合わせてリアルタイムに現実環境と同期させることは難しい。そこで現在、国レベルで開発が急がれているのが、世界初の医療用NERDLES機器――メディキュボイドなのです」
「メディキュ……ボイド」
「まだ仮称ですがね。要は、アミュスフィアの出力を強化し、パルス発生素子を数倍に増やし、処理速度を引き上げ、また脳から脊髄全体をカバーできるようベッドと一体化したものです。見た目はただの白い箱なのでキュボイド……直方体と呼ばれています。これが実用化され、多くの病院に配備されれば、医療は劇的に変わりますよ。麻酔はほとんどの手術で不要となりますし、また現在ロックトイン状態と診断されている患者さんともコミュニケートできるようになるかもしれません」
「ロックトイン……?」
「ああ――閉じ込め症候群、と呼ばれる状態ですね。脳の、思考する部分は正常なのだが、体を制御する部分に障害があり、意思を表すことができない状態です。メディキュボイドなら脳の深部までリンクすることができますからね、たとえ体が動かなくても、VRワールドを利用して社会復帰できる可能性すらあるのです」
「なるほど……つまり、ただVRゲームを遊ぶためのアミュスフィアよりも、ずっと本当の意味での、夢の機械、なんですね」
頷きながら何気なく明日奈はそう口にした。しかし、それを聞いた途端、まさに夢について語っていた風の倉橋医師は、急に現実に引き戻されたかのように口を閉じ、わずかに表情を暗くした。眼鏡を外し、目蓋を閉じて、深く長く嘆息する。
やがて、小さく首を左右に振りながら、医師はどこか悲しそうに微笑んだ。
「ええ、まさに夢の機械です。しかし……機械には、当然限界がある。メディキュボイドが、最も期待されている分野のひとつ……それは、ターミナル・ケアなのです」
「ターミナル・ケア……」
聞きなれない英単語を鸚鵡返しに口にする。
「漢字では、終末期医療、と書きます」
その言葉の響きに、明日奈は冷水を浴びせられたような思いを味わった。絶句し、目を見開く明日奈に向かって、眼鏡を掛けなおした倉橋医師はどこかいたわるような眼差しを向け、言った。
「あなたは、後で、ここで話を止めておけばよかったと思うかもしれません。その選択をしても、誰もあなたを責めません。木綿季くんも、彼女の仲間たちも、本当にあなたのことを思いやっているのですよ」
だが、明日奈は迷わなかった。どんな現実を告げられても、それを正面から受け止めようと思ったし、またそうしなければいけないという思いもあった。明日奈は顔を上げると、はっきりした声で言った。
「いえ……続けてください。お願いいします。わたしはそのためにここに来たんですから」
「そうですか」
倉橋医師は再び微笑むと、大きく頷いた。
「木綿季くんからは、明日奈さんが望めば、彼女に関する全てを伝えてほしいと言われています。木綿季くんの病室は中央棟の六階にあります。少し遠いので、歩きながら話しましょう」
ラウンジを出て、エレベーターを目指す医師の後について歩きながら、明日奈は頭のなかで何度も同じ言葉を繰り返していた。
終末期。終末。その言葉がなにを指すのかは、単純なまでに明白なような気もしたし、まさかそんなはずはない、「そのこと」を示すのにそんな直裁な単語を用いるわけがないと打ち消す気持ちもあった。
ただひとつはっきりしているのは、自分が、これから明らかにされる真実を、正面からすべて受け止めなくてはならないということだった。ユウキは明日奈にそれができると信じたからこそ、彼女の現実へと踏み込むことを許してくれたのだ。
中央棟2階のロビーに三機並んだエレベーターの、ドアのあいだに設置されたパネルの上部に医師が手をかざすと、直接触れていないのに上向きの三角印が青く灯った。すぐにポーンと穏やかなチャイムが鳴り、右端の扉がスライドした。
白い光が溢れる箱に乗り込み、再び医師が内部のパネルに指を近づけるとドアが閉まった。作動音も、Gの変化もほとんど感じさせないままに、エレベーターが上昇を始める。
「ウインドウ・ピリオド、という言葉を聞いたことはありますか?」
不意に倉橋医師に尋ねられ、明日奈は瞬きして記憶のインデックスを探った。
「たしか……保健の授業で教わったと思います。ウイルスの……感染に関することですか?」
「そのとおりです。たとえば人間が何らかのウイルスに感染したと疑われる場合、主に血液を検査するわけですよね。検査の方法としては、血液中のウイルスに対する抗体を調べる抗原抗体検査、そしてより感度の高い、ウイルス自体のDNA・RNAを増幅して調べるNAT検査があるわけですが、そのNAT検査を用いても、感染直後から十日前後はウイルスを検出できないのです。その期間を、ウインドウ・ピリオドと呼びます」
医師はそこで言葉を切った。直後、かすかな減速感が訪れ、チャイムとともにドアが開いた。
最上階となる六階は、部外者の立ち入りは制限されているらしく、降りてすぐ正面にものものしいゲートが設置されていた。医師が胸からネームプレートを外してゲート脇のセンサーに近づけると、小さな電子音がして金属の遮断バーが降りた。手振りで促され、明日奈は足早にゲートをくぐった。
下層と違って、このフロアには窓は無いようだった。つるつるした白いパネルに覆われた通路がまっすぐに延び、前方でT字に分岐している。
再び明日奈の前に立って歩き始めた倉橋医師は、通路を左に曲がった。柔らかな白光に満たされた無機質な道がどこまでも続いている。白衣の看護師が数名行き交っているだけで、外界の騒音はまったく届いてこない。
「――そのウインドウ・ピリオドの存在ゆえに、必然的に起こってしまうことがあります」
医師はふたたび静かな声で話しはじめた。
「それは、献血によって集められる、輸血用血液製剤の汚染です。無論、確率は低い。一度の輸血によって何らかのウイルスに感染してしまう確率は、何十万分の一でしかありません。しかし、その数字をゼロにすることは、現代の科学では不可能なのです」
かすかな嘆息。そこに含まれる、ごくごくわずかな憤りと無力感を、明日奈は感じる。
「木綿季くんは、2001年の5月生まれです。難産で、帝王切開が行われました。その時――カルテを確認できなかったのですが――何らかのアクシデントにより大量の出血があり、緊急輸血が施されたのです。用いられた血液は、ウイルスに汚染されていました」
「…………」
「今となっては、確たることはわからないのですが、おそらく木綿季くんが感染したのは出産時かその直後。お父さんはその一ヶ月以内でしょう。ウイルス感染が判明したのは9月、お母さんが受けた輸血後の確認血液検査によってです。その時点では……もう、家族全員が……」
再び深く息をついて、医師は足を止めた。通路の右側の壁にスライドドアがあり、かたわらの壁に金属パネルが設置されている。そこに嵌めこまれているプレートには、「第一特殊計測機器室」、といかめしい文字が並んでいた。
医師はもう一度ネームカードを外すと、パネル下部のスリットに通した。電子音が響き、ぷしゅっという音とともにドアが開く。
胸の奥をぎゅうぎゅうと絞るような痛みを感じながら、明日奈は倉橋医師に続いてドアをくぐった。内部は、奥行きのある妙に細長い部屋だった。
正面の壁に、今通ったのと同じようなドアがあり、右側にはいくつかのモニタを備えたコンソールが設置されている。左の壁は一面横長の大きな窓だが、ガラスは黒く染まって、内部を見ることはできない。
「この先はエア・コントロールされた無菌室なので入ることはできません。了承してください」
そう言うと、医師は黒い窓に近寄り、下部のパネルを操作した。かすかな震動音とともに、窓の色が急速に薄れ、たちまち透明なガラスに変化して、その向こうをさらけ出した。
小さな部屋だった。いや、面積自体はかなり広い。一見して小さいと思ってしまったのは、部屋中を様々な機械が埋めつくしているからだ。背の高いもの、低いもの、シンプルな四角形、複雑な形のものが混在して、だから、部屋の中央にあるジェルベッドに気付くのには少し時間がかかった。
明日奈は限界までガラスに顔をちかづけて、じっとベッドを凝視した。
青いジェルに半ば沈むように、小柄な姿が横たわっていた。胸元まで白いシーツが掛けられており、そこから覗く裸の肩は痛々しいほどに痩せている。喉元や両腕には様々なチューブが繋がり、周囲の機械類へと続いている。
ベッドの主の顔を、直接見ることはできなかった。頭部のほとんどを飲み込むように、ベッドと一体化した白い直方体が覆いかぶさっているからだ。見えるのはほとんど色のない薄い唇と、尖った顎だけだった。直方体の、こちら側の側面にはモニタパネルが埋め込まれ、さまざまな色の表示が躍っていた。モニタ上部に、簡素なロゴで「Medicuboid」と書かれているのが見えた。
「ユウキ……」
明日奈は掠れた声で囁いた。ついにここまで、現実のユウキの元まで来た。しかし、最後の2メートルを、絶対に超えられない分厚いガラスの壁が隔てている。
医師に背を向けたまま、明日奈は言葉をしぼり出すように尋ねた。
「先生……ユウキの病気は、なんなんですか……?」
答えは短く、しかし途方も無い重さを持っていた。
「後天性免疫不全症候群……AIDSです」
あるいはそうなのかもしれないと、この大きな病院を見たときから考えていた。ユウキは何れかの、重い病に冒されているのかもしれない、と。しかしやはり医師の口から具体的な病名を聞くと、息が詰まるのを抑えることはできなかった。ガラス越しに、明日奈は横たわるユウキを見つめ、全身をかたく凍りつかせた。
これは本当に現実なのか、と思った。あの、誰よりも強く、どんなときも元気なユウキが、いくつもの機械の谷間に埋もれるように横たわっている光景を、事実として認識することを理性も感情も拒否していた。
なにも知らなかった。わたしは何も知らず、また知ろうともしなかった大馬鹿だ、と叫ぶ声がした。あのとき、アスナの眼前から消える直前にユウキが見せた涙の意味――それは――それは……
「しかし、現在ではエイズという病気は、世間で思われているほど恐ろしいものではないのですよ」
立ち尽くすアスナの背に、あくまでも穏やかな倉橋医師の声が投げかけられた。
「たとえHIVに感染しても、早期に治療を始めることができれば、十年、二十年という長いスパンでエイズの発症を抑えることも可能です。薬をきちんと飲み、健康管理を徹底することで、感染以前とほとんど変わらない生活を送ることだって出来るのです」
きい、という小さな音が、医師がコンソール前の椅子に腰掛けたことを告げた。言葉は続く。
「しかし、新生児がHIVに感染した場合の五年生存率が、成人と較べて大きく低下することも事実です。木綿季くんのお母様は、家族全員の感染が判明したあと、皆で死を選ぶことも考えたそうです。しかし、お母様は幼少のころからのカソリック信徒でいらした。信仰の力と、もちろんお父様の力もあって最初の危機を乗り越え、病気と闘いつづける道を選んだのです」
「闘い……つづける……」
「ええ。木綿季くんは、産まれたその瞬間から生きるためにウイルスと闘ってきた。もっとも危険な時期を脱してからは、体は小さくても元気に育って、小学校にも入学したのです。――沢山の薬を定期的に飲みつづけるというのは、子供には辛いものです。逆転写酵素阻害剤は、副作用も強いですしね。それでも、木綿季くんは、いつかは病気が治ると信じてがんばりつづけた。学校もほとんど休まず、成績もずっと学年のトップクラスだったそうです。友達も沢山いて、私もビデオを何本も見せてもらいましたが、いつでも輝くような笑顔でしたよ……」
わずかな間。医師が小さくため息を漏らすのを、明日奈は聞く。
「――木綿季くんがHIVキャリアであることは、学校には伏せられていました。それが普通なのです。学校や企業の健康診断では、血液のHIV検査を行うことは禁じられています。しかし……彼女が四年生に上がってすぐの頃です。経路は不明なのですが、木綿季くんがキャリアであるということが、同学年の保護者の一部にリークされたのです。噂はすぐに広まりました。……HIV感染を理由とするいかなる差別も、法によって禁じられていますが、残念ながらこの社会は、善なる理念によってのみ動いているわけではない……。彼女の通学に反対する申し立てや、あるいは電話や手紙による有形無形の嫌がらせが始まりました。ご両親もずいぶん頑張られたようです。しかし、結果として一家は転居することを余儀なくされ、木綿季くんも転校することになってしまったのです」
「…………」
明日奈は声を挟むこともできない。ただひたすら、背筋を固くして、告げられる言葉に耳を傾けることしかできない。
「木綿季くんは、涙ひとつ見せずに、新しい学校にも毎日通いつづけたそうです。ですが……残酷なものですね。ちょうどその頃から、免疫力低下の指標となるCD4というリンパ球の数値が急激な減少を始めました。それはつまり……エイズの発症、ということです。私は、そのきっかけになったのは、彼女の心を痛めつけた前の学校の保護者や教師たちの言葉だと今も信じています」
若い医師の声は、あくまで穏やかに抑制されたものだった。ただ、ほんのわずか響いた鋭い呼吸音だけが、彼の心情を表していた。
「――免疫力が低下することによって、通常では容易に撃退できるはずのウイルスや細菌に冒されてしまう。それを日和見感染と言います。木綿季くんも、ニューモシスティス肺炎という感染症を発してこの病院に入院することになりました。それが三年と半年前のことです。病院でも、木綿季くんはいつも元気でしたよ。にこにこと笑顔を絶やさないで、絶対に病気なんかには負けないといつも言っていました。辛い検査にも、泣き言ひとつ漏らさなかった。ですがね……」
言葉を切った医師が、体を動かす気配。
「細菌やウイルスは、病院の中、そして何より患者自身の体内、いたるところに存在します。一度エイズを発症したら、あとはもう日和見感染への場当たり的な対処療法を続けていくしかないのです。カリニ肺炎に続いて、木綿季くんは食道カンジタ症に感染しました。――ちょうどその頃、世間はあのナーヴギアによる事件で揺れに揺れていました。NERDLES技術の封印論まで浮上するなかで、国と一部のメーカーによって研究開発が続けられていた医療用ナーヴギア……メディキュボイドの試験機が開発され、臨床試験のためにこの病院に搬入されました。しかし、試験と言っても、元になったのがあのナーヴギアですし、また数倍の密度に引き上げられた電子パルスが、長期的に脳にどのような影響を与えるのか誰にもわからなかった。それを承知した上で実験台になろうという被試験者はなかなか見つかりませんでした。それを知った私は……木綿季くんとご家族にある提案をしました……」
続く言葉を待ちながら、明日奈はベッドの上のユウキと、その頭部をほとんど飲み込んでいる白い直方体をじっと見つめた。
頭の芯が、痺れたように冷たかった。混乱した意識の片隅で、突きつけられた現実から目をそむけるように、漠然と考える。
メディキュボイドは、開発された時期的に、アミュスフィアではなくナーヴギアの発展形なのだろう。明日奈はもうすっかりアミュスフィアという機械に慣れているが、それでも時々、もう手許には無いナーヴギアが作り出した仮想世界のクリアさを懐かしく思い出すことがある。SAO事件の反省を活かし、三重四重のセーフティ機能が設けられているアミュスフィアではあるが、それゆえに生成する世界のリアリティという点では初代機に一歩劣るのは否めない。
ナーヴギアの数倍というパルス発生素子を装備し、全身の体感覚を完璧にキャンセルすることが可能で、さらにアミュスフィアを遥かに上回る処理速度のCPUを持つというメディキュボイド――。とするなら、アルヴヘイムでユウキが見せた圧倒的なまでの強さは、マシンの性能に由来するものなのだろうか?
一瞬そう考えてから、明日奈はすぐ内心でかぶりを振った。ユウキの剣技の冴えは、機械のスペックなどという段階を遥か上回るレベルに達している。戦闘センスだけ見ても、おそらくキリトと同等かそれ以上なのは間違いない。
明日奈が理解しているところでは、キリトの強さというのは、丸二年に及んだSAO内での虜囚生活において、誰よりも長時間最前線で闘いつづけた経験に由来するものだ。ならば、ユウキは、メディキュボイドの作り出す世界の中でどれほどの時間を過ごしたのだろうか――。
「ご覧のとおり、メディキュボイド試験機は非常に精密でデリケートな機械です」
しばし沈黙していた倉橋医師が、ふたたび話しはじめた。
「長期間安定したテストを行うために、クリーンルームに設置されることになりました。つまり、空気中の塵や埃のほかに、細菌やウイルスなども排除された環境下、ということです。ということは、もし被試験者としてクリーンルームに入れば、日和見感染のリスクを大幅に低下させることができる。私は、木綿季くんとご家族に、そう提案したのです」
「…………」
「今でも、それが木綿季くんにとって良いことだったのかどうか、迷うこともあります。エイズの治療においては、QoL、クオリティ・オブ・ライフというものが重視されます。生活の質、という意味ですね。治療中の生活の質をいかに高め、充実したものにするか、という考えです。その観点に立てば、被試験者としてのQoLは決して満たされたものとは言えない。クリーンルームから出ることも、誰かと直接触れ合うことも出来ないのですからね。――提案に、ご両親も木綿季くんもとても悩まれたようでした。しかし、バーチャル・ワールドという未知の世界への憧れが、木綿季くんの背を押したのでしょうね……。彼女は被試験者となることを承諾し、この部屋に入りました。以来ずっと、木綿季くんはメディキュボイドの中で暮らしています」
「ずっと……というのは……?」
「文字どおりです。木綿季くんが現実世界に帰ってくることはほとんどありません。というより、今はもう帰ってこられないのです。ターミナル・ケアでは苦痛の緩和のためにモルヒネなどを用いますが、彼女の場合はそれをメディキュボイドの感覚キャンセル機能に置き換えていますから……。一日に数時間行われるデータ採取実験のほかは、ずっと色々なバーチャル・ワールドを旅しているのですよ。私との面談も、もちろん向こうで行っています」
「つまり……二十四時間ダイブしたまま、ということですか……? それを……」
「三年間です」
医師の簡潔な答えに、明日奈は言葉を失った。
いままで、世界中のアミュスフィアユーザーのなかで、最も長時間のダイブ経験を持つのは自分を含む旧SAOプレイヤーだと思っていた。だが、それは間違いだった。目の前のベッドに横たわる痩せた少女こそが、世界でもっとも純粋な仮想世界の旅人なのだ。そしてそれこそが、ユウキの強さの根源なのだ。
――君は、完全にこの世界の住人なんだな。と、キリトはユウキに問うたそうだ。彼はきっと、短い戦闘の中で、自分と近しいものをユウキに感じたのだろう。
明日奈は、心の内に、敬虔さにも似た感情が広がるのを意識した。自分よりも遥かな高みに立つ剣士の前で、こうべを垂れ、剣を捧げるような気持ちで、目を閉じ、わずかに頭を下げた。
しばし沈黙したあと、明日奈は振り返り、倉橋医師を見た。
「ありがとうございます、ユウキに会わせてくれて。――ユウキは、ここにいれば大丈夫なんですね? ずっと、向こう側で旅を続けられるんですね……?」
だが、明日奈の問いに、医師は即答しなかった。コンソールの前の椅子に腰掛け、両手を膝の上で組み合わせて、穏やかな眼差しでじっと明日奈を見た。
「――たとえ無菌室に入っていても、もとより身体に内在する細菌やウイルスを排除することはできません。免疫系の機能低下に伴って、それらは確実に勢力を増していきます。木綿季くんは現在、サイトメガロウイルス症と非定型抗酸菌症を発症しており、視力のほとんどを喪失しています。さらに、HIVそのものを原因とする脳症が進行しています。おそらくもう、自力で体を動かすことはほぼできないでしょう」
「…………」
「HIV感染から十四年……エイズ発症から三年半。木綿季くんの病状は末期です。彼女も、清明な意識でそれを認識している。木綿季くんが、あなたの前から姿を消そうとした理由はもうお判りのことと思います。」
「そんな……そんな」
明日奈は眼を見開き、小さく首を振った。だが、告げられた事実を押し退けることは出来なかった。
ユウキは、明日奈と近づくことをいつも躊躇っていた。それは真実、明日奈を思いやってのことだった。やがて確実に訪れる別れに明日奈が苦しまないようにと、ユウキはそれだけを考えていたのだ。
しかし明日奈は何も知らず、気付かず、ユウキを苦しめていた。黒鉄宮でログアウトする前にユウキが見せた涙を、明日奈は鋭い痛みとともに思い出してた。
その時、明日奈はあることに気付き、はっと顔を上げて医師を見た。
「あの……先生、もしかして、ユウキにはお姉さんがいるのでは……?」
尋ねると、医師は一瞬驚いたように眉を上げ、しばし迷ったようだったが、ゆっくりと頷いた。
「――木綿季くん本人のことではないので話さなかったのですが……。ええ、そうです。木綿季くんは双子だったのです。すべての端緒となった帝切が行われたのも、それが原因です」
記憶をたどるように、視線をすっと上向け、微笑む。
「お姉さんは、藍子さんという名前でした。やはりこの病院に入院していました。あまり似ている双子ではなかったですね……。元気で活発な木綿季くんを、いつもにこにこと静かに見守っていましたよ。そう言えば……顔も、雰囲気も、どことなくあなたに似ていたかもしれない……」
なぜ過去形で話すのですか、と胸のうちで呟きながら、明日奈は医師を見詰めた。心の声を聴いたように、医師はもういちど、そっと頷いた。
「木綿季くんのご両親は二年前……お姉さんは一年前に、亡くなりました」
失うこと、の意味は知っているはずだった。
あの世界で、明日奈は人の命が消える瞬間を繰り返し目の当たりにしてきた。自らぎりぎりの距離でその淵を覗き込んだことも幾度もある。結果、理解した――つもりでいた。時がくれば人は死ぬのだということを。どんなに足掻いても、どうにもならない現実があるのだということを。
しかし今、たった数日間交流したにすぎないユウキという少女の過去と現在を知り、明日奈はその重みに耐えかねて、目の前の厚いガラスに体を預けた。現実、という言葉の意味が、曖昧に溶けて流れていってしまうようだった。俯き、額を冷たい平面に押し付ける。
自分はもうじゅうぶんに戦った。だから、今のささやかな幸せに固執して何が悪いのか、と心のどこかで思っていた。変化を恐れ、軋轢に怯え、後すさって口をつぐむことにあれこれ言い訳をしてきた。
でも、ユウキは生まれてからずっと戦ってきたのだ。全てを奪い去ろうとするあまりにも過酷な現実とただひたすら戦いつづけ、そして近づきつつある終わりの時を知ってなお、あれほどに輝く笑顔を浮かべてみせたのだ。
明日奈はかたく瞼を閉じた。心の奥で、どこか遥かな異世界を旅しているのだろうユウキに向かって呼びかける。
――もう一度、もう一度だけ会いたい。会って、今度こそ本当の話をしたい。ぶつからなければ、伝わらないことだってある、とユウキは言った。弱い自分を覆うように身にまとったものをすべて剥ぎ取り、ユウキともう一度言葉を交わすことが叶わないなら、何のためにわたしたちは出会ったのか。
ついに、瞼のふちに熱くにじむものを感じた。明日奈は右手をガラスに押し当て、極限まで平滑なその表面に何かの感触を探すように、指先に力を込めた。
その時だった。どこからともなく、柔らかな声が降り注いだ。
『泣かないで、アスナ』
明日奈は弾かれたように勢い良く顔を上げた。睫毛の水滴を飛ばしながら眼を見開き、ベッドの上のユウキを凝視する。小さなシルエットは、先ほどと何も変わることなく横たわっていた。顔を隠す白いマシンにも変化はない。しかし、こちらに向いたその側面に設けられたインジケータのひとつが、不規則に青く点滅しているのに明日奈は気付いた。モニタパネルの表示も数秒前とは異なり、小さな文字で『patient talking』という一文が浮かんでいるのが見えた。
「ユウキ……?」
明日奈は口のなかで囁いてから、もう一度、今度は震えながらもはっきりとした声で言った。
「ユウキ? そこに、いるの?」
すぐにいらえがあった。どうやら、隔壁上部に設けられたスピーカから声は聞こえてくるようだった。
『うん。レンズ越しだけど、見えてるよ、明日奈。すごい……向こう側と、ほんとにそっくりなんだね。ありがと……来てくれて』
「……ユウキ……わたし……わたし」
言わなくちゃ、と思うほどに言葉は出てこない。例えようもないもどかしさに、胸元をぎゅっと押さえる。
だが、唇を開くまえに、再度頭上から声がした。
『先生、アスナに隣の部屋を使わせてあげてください』
「え……」
戸惑いつつ振り向くと、倉橋医師はやや厳しい顔で何事か考えていたようだったが、すぐに穏やかな笑みを取り戻し、深く頷いた。
「いいでしょう。――あのドアの奥に、私がいつも面談に使っているシートがあります。カギは中から掛けられますが、時間は20分ほどにしておいてください。色々手続きを省略しているもので」
「は……はい」
慌てて頷き返し、明日奈はもう一度メディキュボイド側面のインジケータ部を見やった。
『アプリ起動ランチャーにALOが入ってるから、ログインしたら、ボクたちが初めて会った場所に来て』
「うん……わかった。待ってて、すぐいくから」
しっかりした声で答え、明日奈は身を翻した。モニタルームの奥の壁に備えられたドアまで数歩で達し、センサーに手をかざす。しゅっとスライドして開くや否や体を滑り込ませる。
その向こうは、モニタルームの半分ほどの狭い部屋だった。高級そうなレザーのリクライニングシートが二脚並んで据えられ、双方のヘッドレスト部分に、見慣れたリング型ヘッドギアが掛けられていた。
振り向いてドアをロックするのももどかしく、バッグを床に放り投げると、明日奈は近いほうのシートに体を横たえた。肘掛け前部のボタンで背もたれを適当な角度に調節し、アミュスフィアを取り上げると頭に装着する。大きく一回息を吸い、電源を入れると、眼前に白光が広がって、明日奈の意識を現実世界から切り離していった。
森の家のベッドルームで眼を開けたアスナは、感覚が馴致するのも待たずに、文字通り飛び起きた。
翅を鳴らして宙を滑り、床に一度も足を着かずに窓から外へと飛び出す。アルヴヘイムは早朝の時刻だったようで、深い森は一面白い霧に包まれていた。くるりとターンして急上昇し、霧のカーテンを突き破って木々の上へ。両手をぴたりと体側に揃え、フロア中央目指して猛然とダッシュする。
三分足らずで主街区上空に達すると、アスナは広場の真ん中に青く光る転移門目掛けて一直線に降下した。周囲に数人いたプレイヤー達が目を丸くして見上げるなか、反転、急制動、速度が相殺された瞬間にすぽんとゲートに飛び込む。
「転移! セルムブルグ!」
叫ぶと同時に青白い光は滝のように流れ、アスナを高く押し上げ始めた。
転移は数秒間で完了し、すぽんと放り出されたそこはもう城砦都市セルムブルグの中央広場だった。激しく石畳を蹴って離陸すると、今度は都市の北にある小島を目指す。朝靄が流れる湖水に影を落としながら、全速で飛行する。
すぐに、向かう先に一際大きな樹のシルエットが姿を現した。あの根元で"絶剣"ことユウキが連日の辻デュエルを催していたことなど、もう遥か昔のことのようだ。当時は大勢のギャラリーで賑わった小島は、今はもうひっそりと静まり返っていた。
アスナは徐々にスピードを落としながら、大樹の幹を回り込むように着陸体勢に入った。白い霧が濃密に立ち込めているせいで、地表の様子はよく見えない。
露を含んだ草をかすかに鳴らし、地面に降り立つと、アスナは周囲を見渡した。日の出前で光量が少ないせいもあり、ほんの数メートル先すらも見通せない。焦燥感に駆られながら、早足に樹の周囲を回る。
ちょうど半分周り、幹の東側に出た、その時だった。ようやく外周部から差し込んだ曙光が、一瞬朝靄を吹き払った。白いカーテンの切れ目に、アスナは捜し求めた姿を見出した。
ユウキはアスナに背を向けて、長い濃紺の髪と、矢車草の色のロングスカートを風に揺らしていた。息を詰めて見守るなか、闇妖精族の少女はふわっと振り向き、アメジスト色の瞳でまっすぐにアスナを見た。色の薄い唇に、溶け去る寸前の雪つぶのような、儚げな笑みが浮かんだ。
「――なんでかな、アスナがボクを見つけてくれるような、そんな予感がしてたんだよ。何も教えられなかったんだから、そんなわけないのにね」
囁くように言い、ユウキはもう一度微笑んだ。
「でも、アスナは来てくれた。ボクの予感が当たるの、けっこう珍しいんだ。嬉しかったよ……すごく」
たった数日会わなかっただけで、ユウキの佇まいにある種の透明感が増しているような気がして、アスナは胸をぎゅっと締め付けるような痛みを感じた。眼前の少女が幻であるのを恐れるかのように、一歩、また一歩、ゆっくりと歩み寄る。
伸ばした指先が、ユウキの左肩に触れた。瞬間、そこに感じた温もりを確かめたいという衝動を抑えられず、アスナは両腕の中に、小柄なその体をそっと包みこんだ。