「な……ええ……?」
アスナはもう訳がわからず、間抜けな声を漏らすことしかできなかった。
「あ、あの……デュエルの決着は……?」
「こんだけ戦えば、ボクはもう満足だよ。お姉さんは最後までやりたい?」
笑顔でそう言われては、アスナも首を横に振るしかない。どちらにせよ、絶剣が最後の一撃を止めなければ、アスナのHPは確実にゼロになっていたのだ。少女は嬉しそうに大きく頷くと、言葉を続ける。
「ずっと、ぴぴっとくる人を探してたんだ。ようやく見つけた! ね、お姉さん、まだ時間だいじょうぶ?」
「う……うん。平気だけど……」
「じゃ、ボクにちょっと付き合って!」
絶剣は涼やかな音を響かせて腰の鞘に剣を収めると、勢い良く右手を差し出した。アスナもとりあえず剣を鞘に戻し、おずおずとその手を取る。
途端、絶剣は背中の翅を大きく広げると、ロケットのような勢いで地面を蹴った。
「わっ」
慌ててアスナも翅を広げ、宙に浮き上がる。
「ちょっと、どこいくのよアスナ!」
甲高い声に振り向くと、リズベットが驚き半分呆れ半分と言った顔で手を上げていた。
「え、えっと……あとで連絡するー!」
答えるのと、絶剣が両の翅を輝かせて猛ダッシュに入るのはほぼ同時だった。アスナは右手を引っ張られながら、懸命に背中の翅を震わせて、謎めいた少女剣士のあとを追った。
絶剣は61層の湖の上空を一直線に南下すると、アインクラッド外周の開口部から躊躇なく外に飛び出した。
「わぷっ!」
途端に濃密な雲の塊がアスナの顔を叩く。白一色の空間をさらに数秒突き進むと、不意に雲が切れ、セルリアンブルーの空が無限に広がった。
視界の遥か右下方には、雲の層を貫いて緑色の円錐が伸びているのが見える。アルヴヘイム中央にそびえる世界樹の先端だ。視線を動かして真下を見ると、青く霞む地表が薄っすらと見て取れる。海岸線を丸く抉ったような湾の形状からすると、現在アインクラッドはウンディーネ領の上空を飛行中だったらしい。
一体どこに行くつもりなのか、と思ったとき、前を飛ぶ絶剣が急に上昇に転じた。
体を半回転させると、目の前にアインクラッドの湾曲した巨体が絶壁のように屹立している。ひとつ百メートルの高さを持つ層を次々に横切って、絶剣は尚も高みを目指して飛び続ける。
――と言っても、巨大浮遊城の外周部を自由に出入りできるのは、すでに攻略された層に限られている。未踏破層の外周は不可侵領域になっているのだ。心配になったアスナは、それを確認しようと口を開いたが、叫ぶべく息を吸い込んだところで再び飛翔角度が九十度変わった。
絶剣が目指しているのはどうやら67層のようだった。アスナの記憶が正しければ、現在の最前線だ。苔むした外壁の隙間を縫うように、すぽんと内部に飛び込むと、いきなり周囲が暗くなった。
アインクラッド67層は常闇の国だ。外周の開口部は極端に少なく、昼間でも差し込む陽光は無いに等しい。内部はごつごつした岩山がいくつも上層の底まで伸び、そのそこかしこから生えた巨大な水晶の六角柱がぼんやりとした青い光を放っている。印象としては、アルヴヘイム北方のノーム領を構成する地底世界に近い。
スプリガンと並んで暗視能力に秀でたインプの少女は、アスナの手を引いたまますいすいと岩山の間を飛翔していく。時折前方に、飛行モンスターであるガーゴイルの集団が姿を現すが、戦闘を行う気は無いようで、敵群の索敵範囲を巧みに避けて翔び続ける。
やがて出現した深い谷に飛び込み、尚も低速で一分ばかり飛ぶと、円形に開けた谷底に貼り付くように小さな街が見えた。67層主街区の、名前は確か『ロンバール』だ。
岩の塊からまるごと掘り出したようなその街は、細い路地やら階段やらが複雑に絡み合っており、それらをオレンジ色の灯りが照らし出している。寒々とした夜の底にぽつりと燃える焚き火のように、どこかほっとする光景だ。
絶剣とアスナは、紫と水色の軌跡を闇に引きながら、街の中央の円形広場目指してゆっくりと降下していく。
街区圏内に入った証である穏やかなBGMが耳に届き、かすかなシチューの香りが鼻をくすぐった――と思ったときには、靴底がすとんと石畳を叩いていた。
アスナはふう、と息をついて、とりあえず周囲を見回した。ロンバールは、夜の精霊たちの街、というコンセプトに添って巨きな建物はひとつも存在しない。青みがかった岩造りの小さな工房や商店、宿屋がぎっしりと軒をつらね、それらをオレンジ色のランプが照らし出す光景は幻想的な美しさと夜祭り的な賑わいを同居させている。
旧SAO時代のこの街は、層の攻略にこそ手間取ったものの、さして重要な施設もないせいで、人が集まった時期はごく短かった。アスナも数日逗留した記憶しかない。
しかし今は、攻略最前線だけあって多くのプレイヤー達が装備を鳴らして闊歩している。皆がひとくせふたくせありそうな、つわものめいたオーラを漂わせており、それを見るアスナの胸に懐かしさとほろ苦さが入り混じった感慨が去来した。
森の家を手にいれるため、22層までは常に前線に立ちつづけたアスナだが、それ以降の層ではほとんどボス攻略には参加していない。街開きのカタルシスは、新規に浮遊城での冒険を楽しんでいるプレイヤー達が味わうべきだと思うし、最前線にいると思い出すのは楽しいことばかりではないからだ。
目をつぶり、軽く髪を払って感傷を振り落とすと、アスナは隣に立つ絶剣を見やった。
「わたしに用って、なに? ここに何かあるの?」
訊くと、絶剣はにっと笑みを浮かべ、再びアスナの手を取った。
「その前に、まずボクの仲間に紹介するよ! こっち!」
「あ、ちょ……」
たったか駆け出す絶剣の後を追い、アスナは広場から放射状に伸びる狭い路地のひとつに潜りこんだ。
小さな階段を登り、降り、橋を渡りトンネルをくぐり、着いた先は一軒の、宿屋とおぼしき店の前だった。「INN」の文字と大釜を象った鋳鉄製の吊り看板が揺れる戸口をくぐり、居眠りする白髭のNPCの横を通り抜けて奥の酒場兼レストランへと足を踏み入れる。その途端――
「おかえり、ユウキ! 見つかったの!?」
はしゃぐような少年の声が、二人を出迎えた。
酒場の中央の丸テーブルには、五人のプレイヤーが陣取っていた。他に人影はない。絶剣はすたすたと彼らの前に歩み寄り、くるりとアスナのほうに振り向いた。すっと右手を横に伸ばし、
「――紹介するよ。ボクのギルド、『スリーピング・ナイツ』の仲間たち」
再び半回転し、今度はアスナを手で示して、
「で、このお姉さんが――……」
そこで一瞬言葉に詰まる。ぎゅっと首をすくめると、おおきな瞳を回しながらぺろりと舌を出した。
「……ごめん、まだ名前聞いてなかった」
だああっ、と五人のプレイヤーが椅子の上でコケる。その様子にアスナは思わずくすりと笑いながら、ぺこりと一礼して名乗った。
「わたし、アスナといいます」
すると、アスナから見ていちばん左に座っていた、小柄なサラマンダーの少年が立ち上がった。頭の後ろで小さなシッポに結ったオレンジ色の髪を揺らして、元気な声で言う。
「僕はジュン! アスナさん、よろしく!」
その隣は、ノームの巨漢だった。砂色の癖っ毛の下に、にこにこと細められた糸目が愛嬌を沿えている。突き出たお腹を無理矢理ひっこめるようにぺこりと頭を下げ、のんびりした口調で名乗った。
「あー、えーっと、テッチって言います。どうぞよろしく」
続いて立ったのは、ひょろりと痩せたレプラホーンの青年だった。きちんと分けた黄銅色の髪と、鉄ブチの丸眼鏡が学生めいた印象を与える。小さな丸い目を一杯に見開き、かくんと腰を折ってから、なぜか赤面しながら慌てたようにまくしたてる。
「わ、ワタシは、そ、その、タルケンって名前です。よ、よ、よろしくお願いし……イッテ!!」
語尾に悲鳴がかぶったのは、彼の左に座っていた女性プレイヤーが、重そうなブーツでむこうずねを蹴飛ばしたからだ。
「いいかげんその上がり性なおしなよタルは! 女の子の前に出るとすぐこれなんだから」
威勢のいい口調で言うと、ガッタンと椅子を鳴らして立ち上がった。目を丸くするアスナに向かって顔中でにいっと笑いかけ、太陽のように広がった黒髪をぐしゃぐしゃかき混ぜながら名乗る。
「アタシはノリ。会えて嬉しいよ」
浅黒い肌と灰色の翅を見る限りスプリガンのようだが、ぐいっと太い眉ときりりとした目、厚めの唇、骨太の体格には影妖精族のイメージはあまり無い。
そして、最後のひとりは、アスナと同じくウンディーネの女性プレイヤーだった。ほとんど白に近いアクアブルーの髪を両肩に長く垂らし、伏せた長い睫毛の下には穏やかな濃紺の瞳が輝いている。すっと長く通った鼻梁に艶やかな唇、驚くほど華奢な身体は、本来治療師としての能力に秀でる水妖精族のイメージにぴったりだ。
女性はふわりとした動作で立つと、落ち着いたウェットな声で自己紹介した。
「はじめまして。私はシーエンです。ありがとう、来てくれて」
「んで――」
最後に、五人の右に立った絶剣が、おおきな瞳をきらきら輝かせながら言った。
「ボクが、いちおうギルドリーダーのユウキです! アスナさん……」
がっしとアスナの両手を取り、
「一緒にがんばろう!」
「えっと……何をがんばるのかな?」
笑いをこらえながらアスナが訊くと、絶剣ことユウキはきょとんとした顔をしてから、再びぺろりと舌を出した。
「そっか、ボクまだなんにも説明してなかった!」
ずこーっ! と再度五人が椅子の上に崩れ落ちる様子を見て、アスナはついに吹き出してしまった。お腹をかかえてくっくっと笑っていると、やがてユウキと、残り全員も大声で笑い出す。
どうにか笑いを飲み込もうと苦労しながら、アスナはもう一度『スリーピング・ナイツ』のメンバーをぐるりと見回し――そして、かすかに背筋をぞくぞくと走るものを感じた。
全員が全員、凄まじい手練だ。何気ない一挙手一投足の滑らかさを見ただけで、アスナには判る。六人とも、VR世界での動きに完全に慣れきっている。恐らく武器を取れば、絶剣に近いレベルの強さを発揮するに違いない。
これほどの凄腕集団が存在することを、アスナも、おそらくキリトやリズたちもまるで知らなかった。仮に全員が、絶剣と同じく他世界からコンバートしてきたとすれば、元のVRワールドではさぞかし名の通ったチームだったに違いない。
慣れ親しんだVR体と全アイテムを捨ててまで、ALOに移住してきた理由はなんだろう……とアスナが考えていると、ようやく笑いを収めた絶剣――ユウキが、赤いカチューシャを飾った頭をぽりぽりかきながら、申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、アスナさん。訳も言わずにこんなとこまで連れてきちゃって。ようやくボクと同じくらい強い人みつけたんで、嬉しくて、つい……。えーと、あらためてお願いします。ボクに……ボクたちに、手を貸してください!」
「手を……貸す?」
首を傾げて繰り返しながら、アスナは、頭のなかでいろいろな想像を瞬時に巡らせた。
単純な、お金やアイテム、スキルアップポイント目的の狩りの手伝いということはないだろう。これほどのハイレベル・ギルドに、今更アスナが一人加わったところで出来ることはたかがしれている。
同様に、特定のレアアイテムやプレイヤーハウスを入手するという目的も考え難い。情報自体が高額で取引されていた旧SAOとは違い、ALOには無償で攻略情報を載せている外部ウェブサイトが山ほどある。それらを参考に腰を据えて取り組めば、ほとんどのアイテムはいずれ取得できるはずだ。
有り得るとすれば、絶剣がアスナに求めた「強さ」というのは単純な数値的能力ではなく、戦闘の駆け引きを含めたノウハウ全般ということなのだろうか。となると、それがもっとも必要とされるのは、対モンスターではなく対プレイヤー戦である。しかもギルドに紹介したということは、絶剣が今まで行ってきた一対一のデュエルではなく、集団による大規模戦闘――平たく言えばどこかのギルドとノールールで殺しあうということだ。
そこまでを一瞬で考え、アスナはわずかに唇を噛んでから、おずおずと口を開いた。
「あの……もし、他のギルドとの戦争の手伝いだったら、悪いんだけど……」
試合形式の大会や、システムに則ったデュエル以外の対人戦は、どうしてもあとに感情のしこりを残すことになる。もちろん、一時のぶつかり合いを長々と根に持つプレイヤーは少数派だが、それでもアスナ本人のみならず周囲の友人たちにまで後々迷惑をかけることになる可能性は否定できないのだ。
よって、アスナはたとえ狩場で理不尽なマナーレス行為を浴びせられようとも、プレイヤー相手には絶対に剣を抜かないようにしている。
そのことを、どうにか簡潔に説明しようと、続けて口を開いた。だが、絶剣は一瞬ぱちくりと目を見開いてから、ぶんぶんと首を振った。
「ううん、違うよ、どっかと戦争とかそんなんじゃないんだ。えっとね……その、ボクたち……笑われるかもしれないんだけど……」
ふいっとうつむき、はにかむように唇をもごもごさせてから、上目遣いにアスナを見た絶剣は、まったく思いもよらないことを口にした。
「……あのね、ボクたち、この層のボスモンスターを倒したいんだ」
「は……はあ!?」
アスナは完全に意表を突かれ、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ボス……ボスモンスターって、迷宮区のいちばん奥にいるやつ……? 時間湧きのフラグドモブとかじゃなくて?」
「うん、そう。一回しか倒せない、アレ」
「うーん……そっか……ボスかぁ〜〜」
絶句しながら残り五人のギルドメンバーの顔を見回すと、全員が目をきらきらさせながら、アスナの返事を待っているようだった。どうやら本気らしい。
「それは……まあ、ゼッ……じゃない、ユウキさんたちの強さなら……」
ぱちぱちと何度も瞬きしてアタマを切り替え、実際的なボス攻略の可能性について考える。
「そうだね……お金はかかるけど、あと35人くらい集めて、えーと、6パーティー程度の態勢を組めれば、不可能じゃないと思うけど……」
すると、絶剣はさらにもじもじしながら、再度首を左右に動かした。
「えっとね……それじゃ、ダメなんだ。僕たち六人と、アスナさんだけで倒したい……んだけど……どうかな……」
「えぇ!?」
もう一度おおきな声を出してしまう。
新生アインクラッドに配置されているフロア守護モンスターは、旧SAOと比べると、やけくそなまでの強化を施されている。もちろんゲームシステムが大幅に変わっているので単純な比較はできないが、旧時代のボスたちのほとんどが、ひとりの死者も出さずに攻略可能だったのに対して、新ボスモンスター群は超強力な通常・特殊攻撃によってプレイヤーたちをたんぽぽの綿毛のように吹き散らしていく理不尽な強さを誇っているのだ。
当然、攻略のための作戦も変わらざるを得ない。可能なかぎりの人数を集め、死者が続出するのを見越してヒーラーの層を厚くする。ひとりが与える10のダメージより、10人で12のダメージを与えることを重視する。アスナが最後に参加したボス攻略戦は21層のものだが、そんな低階層でさえ、仲間を総動員した21人3パーティー態勢が全滅寸前まで行ったのである。
ボスの強さは、当然階層が上がるごとに増加している。徐々に終盤が見えつつある65、66層あたりは、有力な大ギルドがいくつも協定を結んで、ようやく攻略したのだと聞いた。
つまり、いくら強者ぞろいとは言ってもたかだか7人でボスを倒そうというのは無茶もいいところなのだ。
アスナは、言葉を選びながら手短にそのへんの事情を説明した。
「……っていうわけだから……7人っていうのは、ちょっと無理かなあって思うんだけど……」
言葉を切ると、ユウキたちは互いに顔を見合わせ、なぜか全員が照れたように笑った。代表して、ユウキが口を開く。
「うん、ぜんぜん無理だった。実は、65層と66層のボスにも挑戦したんだ」
「えー!? ろ……6人で!?」
「そう。ボクたち的にはけっこうがんばったつもりだったんだけど……どうしてもMPと回復アイテムがもたなくて。あれこれ言ってるうちに、でっかいところに倒されちゃった」
「そ……そっかあ……。本気なんだね」
アスナはもう一度ゆっくりと6人の顔を見た。確かに無謀な挑戦もいいところだが、そういう気概そのものは嫌いではない。ゲームに慣れすぎたプレイヤーは、出来ること、出来ないことにすぐ見切りをつけたがってしまうものだ。『スリーピングナイツ』がもつエネルギーは、アスナの目にはとても新鮮なものに映った。
「でも……何で? どうしてそこまでしてボスを倒したいの?」
ボスを倒せば、尋常ではない額のユルドと、希少な武具、アイテムを手に入れることができる。だが、その動機は、どこかこの6人はそぐわないような気がした。
「えっと……えっとね」
ユウキは、アメジスト色の瞳をいっぱいに広げて、何ごとかを言おうと口を動かした。しかし、言葉が出てこない。何かが胸に詰まったように、幾度も唇を開いたり、閉じたりするが、言うべき言葉がなかなか見つからないようだった。
と、ユウキの隣にいた長身のウンディーネ、シーエンと名乗った女性が、助け舟を出すように声を発した。
「あの、私から説明します。その前に、どうぞ、座ってください」
アスナを含めた7人がテーブルにつき、NPCにオーダーした飲み物が並んだところで、シーエンは卓上でしなやかな指を組み合わせ、落ち着いた声で喋りはじめた。
「実は、私たちはこの世界で知り合ったのではないんです。ゲーム外のとあるネットコミュニティで出会って……すぐに意気投合して、友達になったのです。もう……二年ほども経ちますか」
睫毛を伏せたまま、何かを思い出すように一瞬言葉を切る。
「最高の仲間たちです。みんなで、色々な世界に行って、色々な冒険をしました。でも、残念ですが、私達が一緒に旅を出来るのもたぶんこの春までなんです。みんな……それぞれに忙しくなってしまいますから。そこで私達は、解散するまえに、ひとつ絶対に忘れることのない思い出を作ろうと決めました。無数にあるVRMMOワールドの中で、いちばん楽しく、美しく、心躍る世界を探して、そこで力を合わせて何かひとつやり遂げよう、って。そうしてあちこちコンバートを繰り返して、見つけたのがこの世界なのです」
シーエンは仲間たちの顔を順に見回した。ジュン、テッチ、タルケン、ノリ、ユウキの五人は、それぞれ顔を輝かせて大きく頷く。シーエンもふわりと微笑し、続ける。
「この世界――アルヴヘイム、そしてアインクラッドは素晴らしいところです。美しい街や森、草原、世界樹――そしてこの城をまわりを、皆で連れ立って飛んだことを、全員永遠に忘れることはないでしょう。望むことは、あとひとつ……この世界に、私達の足跡を残したい」
ほとんど閉じられた瞼のおくで、シーエンの藍色の瞳が真剣な光を帯びる。
「ボスモンスターを攻略すれば、はじまりの街にある黒鉄宮、あそこの『剣士の碑』に名前が残りますよね」
「あ……」
アスナは一瞬目を見開いてから、大きくこくんと頷いた。昔のことなので忘れていたが、確かにボスを倒したプレイヤーの名前は黒鉄宮に記録される。アスナ自身も、21層の欄に名を残している。
「その……自己満足もいいところですけれど、私達、どうしてもあの碑に名前を刻んでおきたいんです。でも、問題がひとつあります。ボスを攻略したのが一パーティーなら、その全員の名前が記録されるのですが、パーティーが複数になってしまうと残るのはパーティーリーダーの名前だけになってしまうのです」
「そ……そっか。うん、確かにその通りですね」
アスナもこくんと頷く。
「つまり、全員の名を残そうと思ったら、挑めるのは一パーティーだけということになってしまいます。私達、65層と66層で一生懸命がんばったんですが、どうしてもあと少しが及ばなくて……。そこで、みんなで相談して決めたのです。パーティーの上限人数は7人なので、あとひとりだけ空きがあります。僭越な話ですけど、私達の中で最強のユウキと同じかそれ以上に強い人を探して、助けてくれるようにお願いしてみよう、って」
「なるほど……。そういうことだったんですか」
アスナはひとつこくんと頷き、視線を白いテーブルクロスの表面に落とした。
『剣士の碑』に名前を残す。その望みは理解できる。
VRMMOに限らずネットゲームというものはプレイヤーに多くの時間を要求するため、進学や就職といった理由によって、春ごろに引退していく者は多い。必然的に、何年も存続した親密なギルドが解散を余儀なくされることもあるだろう。その思い出を、この世界が続くかぎり残る記念碑に刻んでおきたいと思うのは自然なことだ。
ほかならぬアスナ自身も、果たしていつまでALOを続けられるかわからない状況だ。母親がこれ以上強硬な態度に出れば、アミュスフィアの使用そのものを禁じられるかもしれない。残る時間が有限なら、その一分一秒を濃密なものにしたい、という思いは彼らと共通している。
「……どうでしょう? 引き受けてはもらえませんか? 私達は、コンバートしてまだあまり経っていないので、お礼がじゅうぶんできないかもしれないんですが……」
金額を提示すべくトレードウインドウを操作しようとするシーエンを、アスナは両手で制止した。
「あ、いえ、どうせ経費が山ほどかかりますから、手持ちのお金はそっちに回したほうがいいです。報酬は、ボスから出たものを何かもらえればそれで……」
「じゃあ、引き受けてもらえるんですか!?」
シーエンと、残り五人の顔がぱっと輝く。
「え……ええと……」
アスナは軽く唇を引き結び、作戦成功の可能性を考えようとした。
遥かな昔、今はもうないギルドのサブリーダーとして、沢山のボスモンスターの攻略作戦を立案したときの記憶が甦ってくる。当時は、限られた人員とアイテムを懸命にやりくりして、絶望的な戦いに乗り出していったものだ。他の攻略ギルドやソロプレイヤーたちと何時間も討議し、怒鳴りあい、時には地面に手をついて助力を乞うたこともある。そこまでの苦労をしたのは、あの世界ではひとつどうしても堅守しなくてはいけない条件があったからだ。つまり、一人の死者も出さないこと。
しかしもう、すべては変わったのだ。今のこの世界でプレイヤーに与えられた義務そして権利はたった一つ、楽しむことだけだ。勝算がないからと言って退くのは、果たしてゲームを楽しんでいることになるのだろうか。ユウキたちは、すでにたった六人で65、66層のボスモンスターに挑み、しかも善戦したらしい。
失敗することをあれこれ考えるよりも、とりあえず、ぶつかってみる。そんな無鉄砲なゲームプレイはずいぶん長い間していないような気がした。どうせ、全滅したところで失うのは少々の経験値だけだ。
「……やるだけ、やってみましょうか。成功率とかは置いといて」
アスナは顔を上げて、いたずらっぽく微笑みながら言った。真っ先に歓声を上げたのはユウキだった。両手で、テーブルのうえのアスナの右手をがしっと包み、大きな瞳をいっぱいに見開く。
「ありがとう、アスナさん! 最初に剣を打ち合ったときから、そう言ってくれると思ってた!」
「そ、それはちょっと買い被りすぎかも……。あと、アスナって呼んでくれていいよ」
「ボクもユウキって呼んで!」
我先にと手を差し出してくるほかの五人ともそれぞれかたく握手を交わす。
新たに注文したジョッキでの乾杯が一段落したところで、アスナはふと浮かんできた疑問をユウキに向かって口にした。
「そういえば、ユウキちゃ……ユウキはデュエルで強い人を探してたんだよね?」
「うん、そうだよ」
「それなら、私の前にも、強い人はいっぱいいたと思うんだけどなあ。特に、つんつん頭で大剣使いのスプリガンのこととか、憶えてない? 多分、その人のほうが、わたしより助けになると思うんだけど……」
「あー」
それだけでユウキはキリトのことに思い至ったようだった。こくこくと頷き、何故かむずかしい顔で腕を組む。
「憶えてる。確かにあの人も強かった!」
「じゃあ……どうして助っ人を頼まなかったの?」
「うーん……」
珍しく口ごもってから、ユウキはちらりと不思議な笑みを浮かべた。
「やっぱり、あの人はダメ」
「な……なんで?」
「ボクの秘密に気付いちゃったから」
ユウキも、シーエンたちもそのことについては語りたくないようだったので、それ以上追求はできなかった。おそらくその秘密というのは、絶剣ことユウキの突出した強さに関連することと思われたが、アスナにはまるで見当もつかなかった。
首を傾げていると、話題を変えようとするかのように、レプラホーンのタルケンが丸眼鏡を押し上げながら言った。
「それで……攻略の、具体的な手順は、ど……どうなるんでしょう?」
「あ……ええっと……」
喉元にひっかかる疑問を、ジョッキの果実酒で飲み下し、アスナは人差し指を立てた。
「まず、大事なのは、ボスの攻撃パターンを把握することなの。避けるべきところは避け、護るべきは護り、攻めるべきところを全力で攻めれば、勝機が見えるかもしれない。問題は、その情報をどうやって得るかってことだけど……多分、ボス狩り専門の大ギルドには聞いても無駄でしょうね。一度は、全滅を前提に挑戦してみないとだめだと思う」
「うん、ボクたちは大丈夫だよ! ただ……前の層でも、その前でも、ぶっつけ本番で全滅したあと、すぐに他のギルドに攻略されちゃったんだ」
ユウキがしゅんとした顔をすると、テーブルの反対側で、サラマンダーの少年ジュンがギザギザした眉毛をしかめて言葉を繋いだ。
「三時間後に出直したらもう終わってたんだよなー。気のせいかもしれないけど……なんか、僕らが失敗するのを待ってたみたいな……」
「へえ……」
アスナは口もとに手を当てて考え込んだ。最近、ボス攻略に関していろいろなトラブルが発生しているとは噂に聞いていた。大規模なギルド同盟による専横が過ぎるというのが主な内容だが、そんなところが果たして6人程度のギルドに注意を払うだろうか。
「うーん、じゃあ一応、全滅したらすぐに再挑戦できるように準備を整えておきましょう。みんなの都合がいいのはいつなのかな?」
「あ、ゴメン。アタシとタルケンは夜だめなんだ。明日の午後一時からはどうかなあ?」
大柄なスプリガンのノリが、頭をかきながらすまなそうに言う。
「うん、わたしは大丈夫。じゃあ、あした一時にこの宿屋に集合でいい?」
オッケー、了解、と口々に頷く面々に向かって、アスナはもう一度笑いかけると、大きな声で言った。
「――がんばろうね!」
名残惜しそうに、本当にありがとうと繰り返すユウキの頭をぽふぽふと撫で、宿屋を後にしたアスナは、ひとまずリズベット達のところに戻ることにした。思わぬ成り行きのことを話せば驚くだろうなあ、とわくわくしながらロンバールの中央広場にある転移門を目指して早足に歩く。
覚束ない記憶を辿りながら隘路を抜け、ようやく目の前に賑わう円形広場が出現した、その時だった。
ブツン、とまるでスイッチを切ったように、世界が暗くなった。感覚の全てが消滅し、アスナはまったき闇の中に放り出された。
* * *
底無しの穴に放り込まれたような、急激な落下感覚に襲われ、きつく奥歯を噛み締める。唐突に天地の方向が九十度切り替わり、背中にぐいっと圧力がかかる。次いで、五感のスイッチがばちんばちんと乱暴に再接続されていくショックに、アスナは全身をかたく強張らせてこらえた。
二、三度まぶたを痙攣させてから、霞んで涙がにじむ眼をどうにか押し開くと、自室の天井がぼんやりと見えた。
馴染んだベッドの柔らかさが、ようやく身体の背面に伝わってくる。浅い呼吸を何度も繰り返すうち、神経系の混乱は徐々に収まっていった。
一体、何があったのだろう。瞬間的な停電か、もしくはアミュスフィアに何らかの障害が――と思いながら、腕に力をこめて上体を起こし、ヘッドボードのほうに振り返って、明日奈は唖然と口を開けた。ベッドの傍らには、険しい表情を作った京子が立っており、右手をアミュスフィア本体の上部に置いていた。
異常切断の理由は、京子がマシンの電源を落としたせいなのだ、と悟って、明日奈は抑えきれずに声を荒げていた。
「な……なにするのよ母さん!」
だが、京子は眉間に深い谷を刻んだまま、無言で北側の壁に目をやった。明日奈もその視線を追い、埋め込み型の時計の針が、6時半を5分ほど回っていることに気付く。
思わず明日奈が唇を引き結ぶと、京子はようやく口を開いた。
「先月食事の時間に遅れたとき、お母さん言ったわよね。今度、このゲーム機を使ってて遅れたら、スイッチ切りますからね、って」
その、どこか勝ち誇ったように聞こえる口調に、反射的に大声で言い返しそうになる。俯いてその衝動をどうにか飲み込んでから、明日奈は低く震える声で言った。
「……時間を忘れてたのはわたしが悪かったわ。でも、だからって電源切らなくてもいいじゃない。身体を揺するか、耳もとで大声で呼んでもらえれば、中に警報が届くから……」
「前にそうしたら、あなた目を醒ますまで5分もかかったじゃないの」
「それは……移動とか、挨拶とかいろいろ……」
「何が挨拶よ。わけのわからないゲームの中での挨拶を、本物の約束事より優先させるの、あなたは? お食事が冷めちゃったら、せっかく用意してくれたお手伝いさんに悪いとは思わないの?」
たとえゲームの中でも相手は本物の人間なのよ、それに母さんこそ、大学に行ってるときはよく電話一本で料理を丸ごと無駄にさせるじゃないの――と、いくつもの反論が頭を過ぎった。しかし明日奈は再び下を向き、震える息を深く吐いた。かわりに出てきたのは、短い一言だけだった。
「……ごめんなさい。次から気をつけます」
「次はもうないわよ。今度これのせいで決まりごとをおろそかにしたら、機械は取り上げます。だいたい……」
京子は口もとをかすかに歪めると、明日奈の額にかかったままのアミュスフィアを一瞥した。
「お母さん、あなたがわからないわよ。そのおかしな機械のせいで、あなた大切な時期を二年間も無駄にしちゃったのよ? 見るのも嫌だとは思わないの?」
「これは……ナーヴギアとは違うわ」
呟いて、頭から二重の金属円環を外す。SAO事件の反省から、アミュスフィアに施されている何重ものセーフティ機構について口にしようとしたが、すぐに言っても無駄だと思い直した。それに、使っている機械が異なるとは言え、VRMMOゲームのせいで明日奈が二年に渡って植物状態に陥ったのは事実だ。その間、京子が多いに心配したのは確かだろうし、一時は明日奈の死をも覚悟したそうだ。母親がマシンを嫌う気持ちは解るし、理解しなければならない。
明日奈が黙っていると、京子は大きなため息をついて、ドアの方に向き直った。
「食事にするわよ。すぐに着替えて降りてきなさい」
「……今日はいらない」
夕食を作ってくれたハウスキーパーの明恵に悪いと思ったが、とても母親と向かい合って食事をする気にはならなかった。
「――好きにしなさい」
かすかに首を振って、京子は部屋を出ていった。かちんと音を立ててドアが閉まると、明日奈は制御パネルに手を伸ばしてエアコンの運転モードを急換気に変え、母親のつけていた強いコロンの残り香を追い出そうとしたが、それはいつまでもしつこく漂いつづけた。
"絶剣"ユウキとその魅力的な仲間達との出会い、そして新たな冒険の予感が残したわくわくする気持ちは、陽に照らされた雪球のように跡形も無く消えてしまっていた。
明日奈は立ち上がり、クローゼットを開けると、色褪せて膝に穴のあいたジーンズを引っ張り出して足を通した。プリントもののトレーナーをかぶり、合成素材の白いダウンジャケットを引っ掛ける。
手早く髪を整え、ヒップバッグと携帯端末を掴んで足早に部屋を出た。階段を降り、玄関ホールでスニーカーを履いて重いドアを押し開けようとしたとき、横の壁に設置されたパネルから鋭い声が響いた。
『明日奈! こんな時間にどこに行くの!?』
だが明日奈はそれには答えず、母親に遠隔操作でドアをロックされる前にノブを回した。両開きの扉が開け放たれた瞬間、双方の側面から音を立てて金属のバーが飛び出したが、ぎりぎりのタイミングで先んじた明日奈はするりと外に抜け出した。湿気を含んだ冷たい夜気が顔を叩く。
足早に車回しを横切り、ゲート脇の通用口から家の敷地外に出ると、明日奈はようやく詰めていた息を吐き出した。呼気が目の前に白く漂い、たちまち薄れて消える。ジャケットのジッパーを首元まで引き上げ、両手をポケットに突っ込むと、東急宮阪駅の方へと歩きはじめた。
行く宛がある訳ではなかった。母親にあてつけるように家を飛び出てみたものの、これが単なる子供っぽい反抗のポーズに過ぎないことは明日奈にもわかっていた。ジーンズのポケットに入っている端末には位置情報モニター機能があり、母親には明日奈が何処にいるか逐一知られてしまう。だからといって端末を置いてくるほどの度胸があるわけでもない。そんな自分への苛立ちが、胸の奥の無力感をいや増していく。
大きな屋敷が連なる住宅街のなかに、ぽつんと佇む小さな児童公園の前に差し掛かり、明日奈は足を停めた。入り口に立つ逆U字型の金属パイプに腰を乗せ、ポケットから端末を引っ張り出す。
ぱちんと開いて親指でキーを操り、画面にキリト――和人の番号を呼び出す。コールボタンに指を置き、しかし、明日奈はそこでまぶたを閉じて俯いた。
和人に電話して、ヘルメットを余計に一つ持ってバイクで迎えにきて、と言いたい。やかましいけれど速いバイクの後ろに跨って、和人の腰にぎゅっと手を回して、新年でがらがらの幹線道路をどこまでも真っ直ぐ飛ばしてほしい。そうすればきっと、アルヴヘイムで全力飛行するときのように、頭のなかのもやもやはたちまち消えてしまうだろうに。
けれど、いま和人に会ったら、感情を抑えきれずに、泣きながら何もかもを打ち明けてしまうだろう。学校を変わらなくてはいけないこと。ALOにも行けなくなるかもしれないこと。明日奈を既定の方向に押し流していく冷徹な現実と、それに抗えない自分――つまりは、ひた隠しにしてきた己の弱さそのものを。
明日奈は端末のボタンから指を離すと、それを静かに畳んだ。一瞬ぎゅっと握り締めてから、ポケットに戻す。
強くなりたい。かたときも揺るがない精神の強さ。扶養者に頼らず、自分の望む方向に進むための強さが欲しい。
しかし、同時に弱くなりたい、と叫ぶ声がする。自分を偽らず、泣きたいときに泣ける弱さ。すがりつき、わたしを守って、助けて、と言える弱さが欲しい。
降り始めた雪の一片が、頬に触れ、たちまち融けて流れた。明日奈は顔を上げ、仄白い闇のなかから落下してくるまばらな白点を、無言で見つめ続けた。