チチッ
という短い電子音とともに、アミュスフィアの電源が落ちた。
薄っすらとまぶたを持ち上げる。同時に、湿った冷気が肌にまとわりつくのを、明日奈は感じた。
エアコンを弱暖房運転にセットしておいたのだが、タイマーを解除するのを忘れてダイブ中に停止してしまったらしい。10畳の少し広すぎる部屋の温度は、完全に外気と熱平衡に達している。かすかな音に気付いて大きな窓に目を向けると、黒いガラスに無数の水滴が張り付いていた。
明日奈は身震いしながら、ベッドの上でゆっくりと体を起こした。サイドボードに埋め込まれた統合操作パネルに指を伸ばし、タッチセンサーを一度叩く。それだけで、軽いモーター音とともに二箇所の窓のカーテンが閉まり、エアコンが息を吹き返し、天井の隅のライトパネルがややオレンジがかった光を灯す。
レクト家電部門が開発した、最新のパッケージング・インテリア技術が明日奈の部屋にも使われている。入院中にいつのまにか部屋がリフォームされていたのだが、明日奈はなぜかこの便利な仕掛けが好きになれない。ウインドウひとつで部屋中のものが操作できるのは、VRワールドでは当たり前のことだが、それが現実世界に出現すると、どこか薄ら寒いものを感じさせるのだ。壁や床のいたるところに張り巡らされたセンサー類の、無機質な視線をどうしても肌に意識してしまう。
あるいはそう感じるのは、何度か訪れたことのあるキリト――和人の家が伝統的な和風家屋で、あの暖かみと自宅の冷たさをつい対比してしまうからかもしれない。母方の祖父母の家もちょうどあんな感じだった。夏休みに遊びにいったときは、陽光の降り注ぐ縁側に座って足をぶらぶらさせながら、おばあちゃんが作ってくれたかき氷を食べたものだ。その祖父母はすでに鬼籍に入り、家も取り壊されてしまって久しい――。
小さくため息をつきながら、明日奈はスリッパに足を突っ込み、立ち上がった。途端、かすかに立ちくらみを感じて、じっと俯く。現実の重力がずしりと全身を引き寄せるのを強く意識する。
無論、仮想世界の中でも同じだけの重力感覚はシミュレートされている。だが、あの世界のアスナはいつでも軽やかに地を蹴り、体と魂を空に解き放つことができる。現実世界の重力というのは、単なる物理的な力ではない。どうしても振りほどくことのかなわない、様々な事象の重さが含まれている。再びベッドに倒れこんでしまいたい誘惑に駆られるが、すぐに夕食の時間だ。一分でも遅れれば、母親の小言のネタがひとつ追加されてしまう。
重い足をひきずるようにクローゼットの前に移動すると、手を伸ばすまでもなく、扉が折りたたまれながらスライドした。ゆったりした厚手のスウェットの上下を脱ぎ、何かに反抗するかのように床に放り投げる。染みひとつない白のブラウスと、ダークチェリーのロングスカートに着替え、隣のドレッサーのスツールに腰を下ろすと、またしても自動で三面鏡が展開し、上部の明るいライトが点灯する。
母親は、家の中でも明日奈がいいかげんな格好をしているのを好まない。ブラシを手にとり、ダイブ中に乱れた長い髪を手早く整える。
ふと、今ごろ川越の桐ヶ谷家ではどのような光景が繰り広げられているだろうか、と明日奈は考えた。
今日は和人と二人で食事当番なのだと直葉は言っていた。まだ寝惚け眼の和人を、直葉が階下に引き摺っていく。二人で台所に並び、直葉が包丁を使う隣で和人が魚を焼く。そのうちに母親の翠さんが帰ってきて、テレビを見ながらビールの晩酌を始める。賑やかな応酬のあいだにも次第に料理が出来上がり、テーブルに並ぶと、三人揃っていただきますを言う。
震える息を大きくひとつ吐いて、明日奈はこぼれそうになった涙をこらえた。ブラシを置き、立ち上がる。
自分の部屋から薄暗い廊下に一歩出ると、ドアを閉める直前に、背後で照明が勝手に落ちた。
半円を描く広い階段を降り、一階ホールに出ると、ハウスキーパーの佐田明恵がちょうど玄関のドアを開けようとしているところだった。夕食の用意を済ませ、帰宅するところだろう。
40代前半の小柄な女性に向かって、明日奈はぺこりと頭を下げた。
「お疲れ様です、佐田さん。毎日ありがとう。遅くまで御免なさいね」
言うと、明恵は滅相もない、というふうに目を丸くして首を振り、直後深々と一礼する。
「と、とんでもないです、お嬢様。仕事ですので」
明日奈でいい、と言っても無駄なのはこの一年で思い知っている。かわりに歩み寄ると、小声で尋ねた。
「母さんと兄さんはもう帰ってます?」
「浩一郎様はお帰りが遅くなるそうです。奥様はもうダイニングにいらっしゃいます」
「……そう、ありがとう。引き止めてごめんなさい」
明日奈がもう一度会釈すると、明恵は再び深く腰を折り、重いドアを開けてそそくさと帰っていった。
彼女には確か中学生と小学生の子供がいるはずだ。家は同じ世田谷区内だが、今から買い物をして帰宅すると、七時半を回ってしまうだろう。食べ盛りの子供には辛い時間だ。一度、母親にそれとなく、夕食は作り置きしてもらってもいいじゃないと言ってみたことがあるのだが、一顧だにされなかった。
三箇所のドアロックが掛かる金属音を聞きながら、明日奈はきびすを返し、ホールを横切ってダイニングルームへと向かった。
重厚なオーク材のドアを開けた途端、静かだがびんと張った声が明日奈の耳を叩いた。
「遅いわよ」
ちらりと壁の時計を見ると、6時半ちょうどである。だがそのことを口にする前に、再び声が飛んでくる。
「五分前にはテーブルに着くようにしなさい」
「……ごめんなさい」
低い声で呟きながら、毛足の長いカーペットを踏んで、明日奈はテーブルへと歩み寄った。視線を伏せたまま、背もたれの高い椅子へと腰を下ろす。
20畳はあろうかというダイニングルームの中央に、12脚の椅子を備えた長いテーブルが設えてある。その北東の角から二番目が明日奈の席と決まっている。左隣が兄・浩一郎の椅子であり、東端が父・彰三の椅子だが、今は両方とも空いている。
そして、明日奈の左斜め向かいの椅子に、母親の結城京子が座し、お気に入りのシェリー酒のグラスを片手に、ポータブル端末に視線を落としていた。
女性としてはかなりの長身だ。痩躯だが、しっかりした骨格のせいで華奢というイメージはない。艶やかなダークブラウンに染められた髪を左右に分け、あご下の線でぴしりと切り揃えている。
顔立ちは、整ってはいるものの、鋭い鼻梁とあごのライン、そして口もとに刻まれた短く深い皺が冷厳な印象を拭いがたく与えている。もっともそれは本人が望んで作り上げたイメージかもしれない。鋭い舌鋒と辣腕の政治力で学内のライバルたちを蹴落とし、昨年49歳にして教授の座に着いた人物なのだ。
明日奈が席に着くと、京子は顔を上げないまま端末を片付け、ナプキンを広げて膝に置いた。ナイフとフォークを取り上げたところで、ようやく明日奈の顔をちらりと見る。
今度は明日奈が視線を伏せ、いただきます、と呟いてスプーンを手に取った。
しばらく、銀器が立てるかすかな音だけがダイニングに響いた。
ブルーチーズ入りのグリーンサラダ、そら豆のポタージュ、白身魚のグリルにハーブのソース、全粒粉のパン、エトセトラ……といったメニューだ。毎日の食事はすべて京子が栄養学的に計算し、決めたものだが、勿論調理したのは彼女ではない。
いつの頃から、母親とふたりだけの食卓が、こんなに緊張感に満ちたものになってしまったのだろう、と考えながら明日奈は手を動かした。
いや、あるいはずっと昔からこうだったのかもしれない。スープをこぼしたり、野菜を残したりすると手厳しく叱責された記憶がある。昔の明日奈は、賑やかな食卓というものを知らなかっただけなのだ。
機械的に食事を続けながら、記憶のかなた、異世界の我が家へと意識が彷徨いそうになった時、京子の声が明日奈を引き戻した。
「……またあの機械を使ってたの?」
明日奈はちらりと母親に視線を向け、小さく頷いた。
「……うん。みんなと宿題する約束があったから」
「そんなの、ちゃんと自分の手でやらないと勉強にならないわ」
自分の手でやっていることに代わりはないのだ、と言っても京子には理解してもらえないのは明らかだ。明日奈は俯いたまま、違うことを言う。
「みんな、住んでるとこが遠いの。あっちでなら、すぐに会えるのよ」
「あんな機械使っても会ってることにはならないわよ。だいたい、宿題なんて一人でやるものです。友達と一緒じゃ遊んじゃうだけだわ」
シェリー酒のグラスを傾け、京子は舌の速度をさらに上げる。
「いい、あなたには遊んでる余裕なんてないのよ。他の子より二年も遅れたんだから、二年分余計に勉強するのは当たり前でしょう」
「……勉強はちゃんとしてるわ。二学期の成績通知表、プリントして机に置いておいたでしょう?」
「それは見たけど、あんな学校の成績評価なんてあてになりませんよ」
「あんな……学校?」
「いい、明日奈。三学期は、学校のほかに家庭教師を付けるわ。最近はやってる機械越しのじゃなくて、ちゃんと家に来て見てもらいます」
「ちょ……ちょっと待ってよ、そんな急に……」
「これを見てちょうだい」
京子は有無をいわせぬ口調で明日奈の抗議を遮ると、テーブルから端末パネルを取り上げた。差し出されたそれを受け取り、明日奈は眉をしかめて画面に目を走らせる。
「……なにこれ……。編入試験……概要?」
「お母さんのお友達が理事をしてる高校の、三年次への編入試験を、無理を言って受けられるようにしてもらったのよ。あんな寄せ集めの学校じゃなくて、ちゃんとした高校です。そこは単位制だから、あなたなら前期だけで卒業要件を満たせるわ。そうすれば、九月から大学に進学できるのよ」
明日奈は唖然として京子の顔を見つめた。端末をテーブルの上に戻し、右手を小さく上げて、尚も言い募ろうとする京子の言葉を遮る。
「ま、待って。困るよ、そんなこと勝手に決められても。わたし、今の学校が好きなの。いい先生も沢山いるし、勉強はあそこでもちゃんとできるよ。転校なんて必要ないわ」
どうにかそれだけ言うと、京子はこれみよがしなため息をついた。目蓋を閉じ、金縁の眼鏡のブリッジ部分を指先で押さえながら、椅子の背もたれに体を預ける。この間の取り方も、京子一流の、常に己の優位を相手に意識させつづけるための話術の一環だ。教授室のソファーでこれをやられた男性はさぞ萎縮することだろう。夫の彰三ですら、家のなかでは京子との意見対立を極力避けているように見える。
「……お母さん、ちゃんと調べたのよ」
京子は諭すような調子で話しはじめた。
「あなたの通っているところは、とても学校とは言えないわ。いいかげんなカリキュラムに、レベルの低い授業。教師だって寄せ集めで、まともな経歴のある人はほとんどいないじゃない。あれは教育機関と言うよりも、矯正施設とか、収容施設とか言ったほうがいい場所だわ」
「そ……そんな言い方……」
「事故のせいで教育が遅れてしまった生徒の受け皿なんて体のいい事を言ってるけど、あの学校は、ほんとうのところは、将来的に問題を起こすかもしれない子供を一箇所に集めて監視しておこうっていう、ただそれだけの場所なのよ。それは確かに、おかしな世界でずっと殺し合いをしてた子供もいるそうだから、そういう施設は必要かもしれないけれど、でもあなたまでそんなところに入ることはないのよ」
「…………」
あまりに一方的な言葉をぶつけられ、明日奈は口を開くこともできない。痺れたような思考の奥底で、一瞬、すべてを吐露してしまおうかという衝動が頭をもたげる。わたしもその殺し合いをしてきたのだ、この手で人ひとりの命を奪ったのだ、と。そしてそのことを、わたしは一片も悔いていないのだ、と。
「あんなところに通ってても、まともな進学なんてできるわけないわ」
明日奈の葛藤に気付く様子もなく、京子は早口で話し続ける。
「いい、あなたは今年でもう19になるのよ。でも、今のところにいたんじゃ、大学に入れるのがいつになるか判ったもんじゃない。中学の時のお友達は、今ごろみんな受験の真っ最中だわ。少しは焦る気持ちがないの?」
「進学なんて……何年遅れたって、たいした問題じゃないわ。それに、大学に行くだけが進路じゃないし……」
「いけません」
京子は明日奈の言葉をにべもなく否定した。
「あなたには能力があるの。それを引き出すために、お母さんとお父さんがどれくらい心を砕いてきたかあなたも知ってるでしょう。なのに、あんなおかしなゲームに二年も無駄にさせられて……。平凡な子供なら、お母さんだってこんなこと言いませんよ。でも、あなたはそうじゃないでしょう? 与えられた才能を十全に生かさず、腐らせてしまうのは罪だわ。あなたは立派な大学に行って、一流の教育を受ける資格と能力がある。ならそうすべきです。省庁や企業に入って能力を生かすもよし、大学に残って学究の道に進むもよし、お母さんもそこまでは干渉しません。でも高等教育を受ける機会すら放棄することは許さないわよ」
「先天的な才能なんてものはないわ」
明日奈はどうにか、京子の長口上の接ぎ穂に言葉を割り込ませた。
「人の生き方なんて、今ある自分が全てでしょう? わたしも昔は、いい大学に入っていい就職をすることが人生のすべてだと思ってた。でも、わたしは変わったの。今はまだ答えは出せないけど、本当にやりたいことが見つかりそうなのよ。今の学校にあと一年通って、それを見つけたいの」
「自分で選択肢を狭めても仕方ないでしょう。あんなところに何年通っても、何の道も開けないわ。でも、編入先の学校は違うわよ。上の大学は名門校だし、そこでいい成績を残せば、お母さんのところの大学院にだって入れるわ。いい、明日奈。お母さんは、あなたに惨めな人生を送ってほしくないの。誰にでも胸を張って誇れるキャリアを築いてほしいのよ」
「わたしのキャリアって……それなら、あの人はなんなの? 本家で引き合わされた……何を吹き込んだのか知らないけど、あの人もうわたしと婚約でもしたような口ぶりだったわよ。わたしの生き方の選択肢を狭めてるのは母さんじゃない」
明日奈は自分の声がわずかに震えるのを抑えられなかった。視線に精一杯の力をこめたが、京子は動じる様子もなくグラスに唇をつける。
「結婚もキャリアの一部よ。物質的に不自由のあるような結婚をしてしまったら、五年、十年先に後悔するわ。あなたの言うやりたい事だって、できなくなっちゃうわよ。その点、裕也君なら申し分ないわ。今時、大手の都市銀行よりも地盤のしっかりした地方銀行のほうが安心だしね。お母さんは裕也君を気に入ったわよ。素直ないい子じゃない」
「……何にも反省してないのね。あんな事件を起こして、わたしと大勢の人を苦しめて、レクトの経営を危くしたのは、母さんが選んだ須郷伸之なのよ」
「やめてちょうだい」
京子は盛大に顔をしかめ、煩い羽虫でも払うように左手をぱたぱたと振った。
「あの人の話は聞きたくもないわ。……だいたい、あの人を気に入って養子にしようって言い出したのはお父さんですよ。人を見る目がないのよ、昔から。大丈夫よ、裕也君はちょっと覇気のないところがあるけど、そのぶん安心できるじゃない」
たしかに、明日奈の父彰三は、ずっと以前から身近な人間をあまり顧みないところがあった。会社の経営だけに注力し、社長職を退いた今も、海外資本との提携を調整するためにまったく家に帰らない日々が続いている。須郷の開発・経営能力と上昇志向のみを評価し、内部の人間性に目を向けなかったのは自分の不徳だったと、彰三本人も口にしていた。
しかし、須郷伸之が、中学生の頃から徐々に攻撃的な性格を強めていったのは、周囲から与えられる苛烈なプレッシャーに原因の一端があったのだと明日奈は思う。そして、その圧力の一部には、間違いなく京子の言葉も含まれている。
明日奈は苦いものを飲み下しながら、硬化した声で言った。
「――ともかく、あの人とお付き合いする気はまったく無いわよ。相手は自分で選ぶわ」
「いいわよ、あなたに相応しい、立派な人なら誰でも。言っておきますけど、あんな子――あんな施設の生徒は含まれませんからね」
「…………」
京子のその言い方に、特定の人物を指し示すような響きを感じて、明日奈は再度唖然とした。
「……まさか……調べたの? 彼のこと……」
掠れた声で呟いたが、京子は否定も肯定もせず、さらりと会話の方向を逸らした。
「わかってちょうだい、お母さんもお父さんも、あなたに幸せになってほしいのよ。あなたが幼稚園の頃から、ずっとそれだけを願ってきたの。ほんのちょっと躓いちゃったけど、まだまだじゅうぶん立て直せるわ。いま、真剣に頑張ればね。あなたなら、輝かしいキャリアを積み重ねられるのよ」
わたしではなく、母さんのでしょう、と明日奈な胸の奥で呟いた。
明日奈や兄の浩一郎は、京子自身の輝かしいキャリアの一要素なのだ。浩一郎は一流大学に進み、レクトに就職してからも着実に実績を残し、京子を満足させた。明日奈もそれに続くはずが、SAO事件などというわけのわからないものに巻き込まれ、また直後に須郷が起こした事件でレクトの企業イメージも低下し、京子は自分のキャリアに傷がついたと感じているのだ。
明日奈はこれ以上言葉を戦わせる気力を失い、まだ半分近く残っている皿の横にフォークとナイフを置いて立ち上がった。
「……編入のことは、しばらく考えさせて」
どうにかそれだけ言ったが、京子の答えは無味乾燥なものだった。
「期限は来週中ですからね。それまでに必要事項を記入して、三通プリントしてデスクに置いておいてちょうだい」
明日奈は俯き、振り向いてドアに向かった。そのまま部屋に戻ろうと思ったが、胸の奥にわだかまるものを抑えられず、廊下に一歩出たところでテーブルの京子に向かって言った。
「母さん」
「……なに?」
「母さんは、亡くなったお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのことを恥じてるのね。米農家じゃなくて、由緒ある名家に生まれなかったことが不満なんでしょう?」
京子は一瞬あっけに取られたように目を丸くしたが、すぐにその眉間と口もとに深く険しい谷が刻まれた。
「……明日奈! ちょっとここに来なさい!」
鋭い言葉が飛んできたが、明日奈は重いドアを閉めて、その先を遮った。
逃げるような早足で階段をのぼり、自分の部屋のドアを開けた。
途端、センサーの目が明日奈を捉え、照明とエアコンが自動的に点いた。
明日奈は耐えがたい苛立ちを感じ、まっすぐにサイドボードに歩みよると、部屋の統合制御AIを完全に停止させた。そのまま体をどさりとベッドに投げ出し、高価なブラウスが皺になるのもかまわずに大きなクッションに顔を埋める。
泣くつもりはなかった。剣士として、悲しい涙、悔しい涙はもう流さないと決めていた。しかし、その決意すらも、胸を塞ぐやるせなさを果てしなく増幅させていくようだった。
何が剣士だ、と心のどこかで嗤う声がする。たかがゲームの中で、ポリゴンの剣を少しばかり上手く振り回せるからといって、それが現実世界にどれほどの力を及ぼせるというのか。明日奈は歯を噛み締め、自分に向かって問いかける。
あの日、あの世界で一人の少年に出会って、自分は変わったはずだった。誰かに与えられた価値観に盲従することはもうやめて、本当になすべきことのために戦える人間になったはずだった。
しかし、外側から見たとき、今の自分はあの世界に赴く以前とどこが違うというのだろう。親類たちの前では飾り物の人形のように空疎な笑みを浮かべ、親に強制されたルートをきっぱりと拒否することもできない。本当の自分と信じる姿に戻れるのがVR世界の中だけだというなら、何のために現実世界に戻ってきたのかまるでわからない。
「キリトくん……キリトくん」
いつしか、唇のすきまから、その名前を何度も呼んでいた。
キリト――桐ヶ谷和人は、現実世界に帰還して一年以上が経過するいまでも、SAO世界で得た強靭な精神を苦もなく保ちつづけているように見える。それなりのプレッシャーは彼にもあるはずだが、それをまったく顔に表すこともない。
いつか、それとなく将来の目標を訊いてみたところ、照れくさそうに笑いながら、プレイする側でなく作る側になりたいのだ、とキリトは言った。それも、ゲーム世界などのソフトウェア的なものではなく、制約の多い現行NERDLES技術に取ってかわる、より親密なマンマシン・インタフェースを。そのために、すでに海外の技術系フォーラム・ワールドにも出入りし、勉強や意見交換を活発に行っているらしい。
彼なら、何の迷いもなく、一直線にその目標に突き進んでいくだろうと明日奈は思う。叶うなら、ずっと彼の隣にいて、同じ夢を追っていきたい。その為に何を勉強すればいいのか、あと一年いっしょに学校に通い、じっくりと見極めていきたい。
でも、その道もいま絶たれようとしている。そして明日奈は、結局はこのまま抗えないかもしれないという無力感に襲われている。
「キリトくん……」
今すぐ会いたい。現実世界でなくてもいいから、あの家で二人きりになって、彼の胸で思い切り泣いて、全てを打ち明けてしまいたい。
でも、できない。キリトが愛した自分は、この無力な結城明日奈ではなく、最強剣士の列に名を連ねた「閃光」アスナなのだという認識が重い鎖となって明日奈を絡め取っている。
『アスナは……強いな……。俺よりずっと強い……』
かつてあの世界でキリトが呟いた言葉が耳もとに甦る。明日奈が弱さを露わにしたとたん、彼の心が離れていってしまうかもしれない。
それがとても怖い。
明日奈はうつ伏せになったまま、いつしか浅い眠りに落ちていた。
銀鏡仕上げの鞘を腰に吊り、キリトと腕を絡ませて木漏れ日の下をどこまでも歩き続ける自分が見えた。だが、もう一人の自分はどこか暗い場所に閉じ込められて、笑いあう二人を声も出せずに覗き見ることしか出来なかった。
浅い夢のなかで、あの世界に還りたい、と明日奈は強く思った。
* * *
久しぶりに訪れる湖上都市セルムブルグは、昔とまったく変わらない美しい姿を青い水面に映していた。
アスナは白亜の城をかなたに見ながら、隣に座るキリトの肩にこてんと頭をもたれさせた。
島全体が城砦都市となっているセルムブルグ主街区は、61層全体に広がる湖の中央にその威容を聳えさせている。湖には他にも大小さまざまな島が点在し、二人は今、主街区の少し北に位置する小島の岸壁に並んで座っていた。背後には大きな樹が枝を広げ、足元を小波がちゃぷちゃぷと洗っている。冬にしては暖かい風が湖面を渡ってきて、周囲の細い草をさやさやと鳴らす。
「ね、覚えてる? キリトくんが初めてわたしの部屋に来たときのこと」
顔を見上げながらアスナが尋ねると、キリトはわずかに微笑みながら答えた。
「自慢じゃないが、記憶力の自信の無さには自信がある――」
「ええー」
「――けど、あの時のことは鮮明に覚えている」
「……ほんと?」
「勿論。あんときはほら、俺が超レアな食材アイテムをゲットしてさ。アスナがシチューを作ってくれたんだよ。ああ……あの肉は旨かったなあ……。今でも時々思い出すよ」
「もう! ごはんのことしか覚えてないんでしょ!」
アスナは唇をとがらせ、それでも声に笑いを滲ませながらキリトの胸を突付いた。
「……まあ、わたしも思い出しちゃうことあるけどね」
「なんだよ、人のこと言えないじゃないか。……なあ、あのシチューは現実世界では再現できないかな?」
「う〜〜ん……。基本的には鶏肉に似てたから、ソースに工夫すればもしかしたら……。でもさ、たぶん、思い出のままにしとくのがいいよ。もう二度と味わえない料理、ってなんだか素敵じゃない」
「うう、うむ、まあそうだな」
頷きながらもまだどこか残念そうなキリトを見て、アスナはもう一度笑ってしまう。
「あ、そうだ。……なあ」
「なあに?」
「なんかいつの間にかまたけっこうユルドが貯まってきたんだけどさ、次はセルムブルグに部屋買う? もとアスナの部屋があったとこ。このあいだ見に行ったら、まだ空いてたぜ」
「んー」
キリトの提案に、アスナはしばらく考えてから、首を横に振った。
「ううん、いいや。あんまりいい思い出ばっかりあったわけじゃないしさ。お金は、アルゲードにエギルがお店出すのに協力してあげようよ」
「あのボッタクリ商店が復活するのか……。融資するなら利息はトイチで……」
「うわ、ひどいなぁ」
キリトと旧アインクラッドの思い出話をしていると、本当にきりがない。笑いながらあれこれ言葉を交わしているうちに、ふとアスナは、セルムブルグからこの島に飛んでくるプレイヤーの数がかなり増えてきているのに気付いた。皆、二人の頭上を飛び越して、島の中央に屹立する大樹を目指していく。
「あ、そろそろ時間だ。いかなくっちゃ」
そう言いながらも、アスナが触れ合う体の温もりを惜しんでいると、キリトがどこか真剣な表情でつぶやいた。
「絶剣と、戦うなら……」
「……え?」
「えーと……うーん、いや、その……強いぞ、ほんとに」
キリトの口調にどことなく歯切れの悪さを感じとって、アスナは首を傾げた。
「強いのは、リズたちからじゅうぶん聞かされたよー。ていうか、そもそもキリト君でも勝てなかったんだからさ。わたしにどうこうできるとは最初から思ってないけど。ただその剣を見てみたいだけだから……。それにしても、信じられないなあ、キリト君が負けちゃうなんてさ」
「今は俺より強い奴はいっぱいいるって。まあ、その中でも絶剣は別格だったけどな」
「そう言えば、なんかデュエル中に喋ってたみたいってリーファちゃんが言ってたけど。何話してたの?」
「あー、うーと、ちょっと気になったことがあって……」
「どんなこと?」
「えっと、その……」
キリトの視線に、ある種の気遣わしさが混じっているのを、アスナは敏感に感じ取った。ますます訳がわからなくなり、眉をしかめる。
いくら絶剣なる男が強いと言っても、ここはもうSAO世界ではないのだ。例えデュエルでリザインが間に合わず、HPが無くなったところで、誰かに蘇生魔法をかけてもらえばすぐにその場で復活できる。デスペナルティで経験値は減少するが、何時間か狩りをすればすぐに取り返せるはずだ。
だが、キリトはアスナの思いもよらぬことを呟いた。
「あいつに、聞いたんだ。――君は、完全にこの世界の住人なんだな、って。答えは、猛烈なスピードの突進技だった。あの速さは……限界を超えていた……」
「……それって、ものすごい廃プレイヤーってこと?」
アスナが首を傾げながら訊くと、キリトは慌てたように首を振った。
「い、いや、そうじゃない。もっとピュアな意味でさ。純粋に、この世界で生きている人間……そんな気がしたんだ」
「それって……どういう意味……?」
「――あんまり先入観を持たせなくないな。これ以上は、アスナが自分で感じてみてほしい。戦えばわかると思う」
キリトに頭をぽんと叩かれ、アスナがぱちくりと目をしばたいたそのとき、背後の樹の向こう側にいくつかの降下音が立て続けに響いた。直後、聞きなれた大声。
「ちょっと目を離すとすぐこれなんだから!」
ざくざくと草を鳴らして近寄ってくる足音に、アスナは慌てて体を起こす。
リズベットは両手を腰に当てて立ち止まると、じとっとした目でアスナを見下ろしながら言った。
「お取り込み中すみませんけど、そろそろ時間でーす」
「わ、わかってるわよ」
背中の翅を使って体を持ち上げ、すとんと直立すると、アスナは全身の装備を確認した。青銀の糸を編んだ短衣と、お揃いのスカート。水竜の革で作ったブーツとグローブ。腰の剣帯には、水晶の柄を持つレイピア。いずれも現段階で手に入るアイテムとしては最高級のスペックを備えている。これで敗れても武装の差のせいにはできない。
マジックアクセサリの類も含めてチェックを終え、最後に時計を一瞥した。現実時間の午後3時をわずかに回ろうとしている。
傍らで立ち上がったキリトの顔にちらりと視線を送ってから、振り向いてリズベットとその背後のシリカ、リーファ、さらにその頭上のユイをぐるりと見回し、アスナは言った。
「――じゃ、行きましょう」
横一列で低空を飛行し、小島の中央を目指す。梢の連なりが途切れると、すぐに大きな丘が視界に入った。頂上には巨大な樹が四方に枝を広げ、その根元にはすでに沢山のプレイヤー達が集まって幾重にも輪を作っている。盛大な歓声が津波のように揺れながら届いてくる。
ギャラリーの輪のなかに空きスペースを見つけ、アスナ達が着陸したちょうどその時、遥か上空から喚き声とともにプレイヤーが一人落下してきた。大樹の根元に、猛烈な勢いで頭から突き刺さり、盛大な土煙を上げる。
見たところサラマンダーらしいその剣士は、しばらく大の字になって伸びていたが、やがて頭を左右に振りながらむっくりと上体を起こした。まだ墜落のショックが収まらないらしく顔をしかめながら、両手を差し上げて大声で喚く。
「参った! 降参! リザイン!」
途端、デュエル終了のファンファーレが宙に鳴り響き、一層大きな拍手と歓声がそれに続いた。
すげえ、これで六十七連勝だ、誰か止める奴はいないのかよ、と賞賛ともぼやきともとれる叫び声が無数に交錯する。それを聞きながら、アスナは勝者の姿を確認しようと、上空を振り仰いで目を細めた。
大樹の枝が作り出す木漏れ日の光の中を、くるくると螺旋軌道を作って降下してくるひとりのプレイヤーの姿が見えた。
思ったより小柄だ。名前のイメージから、筋骨隆々の巨漢といった姿を想像していたが、どちらかと言えば華奢な体型である。逆光の中をゆっくりと近づいてくるにつれ、細部が徐々に見て取れるようになる。
肌の色は、闇妖精インプの特徴である、ごくわずかに紫がかった白。長く伸びたストレートの髪は、濡れ羽色とでも言うべき艶やかな黒だ。胸部分を覆う黒曜石のアーマーはやわらかな丸みを帯び、その下のチュニックと、風をはらんではためくロングスカートは矢車草のような青紫。腰には、黒く細い鞘。
唖然として見つめるアスナの視線の先で、無敗の剛剣士「絶剣」は、地面の直前でくるりと一回転すると、軽やかにつま先から着陸した。そのまま左手を横に伸ばし、右手を胸に当てて、お芝居のような仕草で礼をする。途端、四方の男達から、もういちど盛大な歓声と口笛。
絶剣はぴょこんと体を起こすと、満面ににいっと笑みを浮かべ、打って変わって無邪気な動作でVサインを作った。身長は明らかにアスナより低い。顔は小造りで、えくぼの浮かぶ頬、つんと上向いた鼻の上に、棗型のくりくりとした大きな瞳が、アメジストのような輝きを放っている。
アスナはいまだ驚きからさめやらぬまま、隣のリズベットのわき腹を肘でつついた。
「……ちょっと、リズ」
「なに?」
「絶剣って――女の子じゃない!」
「あれ、言わなかったっけ?」
「言ってないよ! ……あ、もしかして……」
今度は反対側に立つキリトの顔をやや横目で見る。
「キリトくんが負けた理由って……」
「ち、違うよ」
真顔でぶんぶんぶんと首を振るキリト。
「女の子だから手加減したとかじゃないって。もう、超マジでした。ほんと。……少なくとも途中からは」
「どーだか」
つん、と顔をそむける。
その間にも、起き上がったサラマンダーが、敗れたにも関わらず笑顔で絶剣と握手を交わし、頭をかきながらギャラリーの一角に戻っていった。闇色の髪の少女は、ごく低位のヒール魔法を自分に掛けながら、くるりと周囲を見回す。
「えーと、次に対戦するひと、いませんかー?」
その声も、幼い少女のように高くかわいらしい響きだ。生身のプレイヤーの要素が反映されるのは性別のみで、年齢までは中からはわからないのだが、それでもまるで実年齢に即した姿であるように思えてくる。
周囲からは、お前行けよ、ヤダよ即死だよ、などというやり取りが聞こえるだけで、なかなか名乗り出る者はいなかった。と、今度はアスナの脇腹を、リズベットが肘でどやした。
「ほら、行きなさいよ」
「や……ちょっと、気合入れなおさないと……」
「そんなもんあのコと一合撃ちあえばバリバリ入るわよ。さ、行った行った!」
「わっ」
どすん、と背中を押され、アスナは数歩つんのめりながら進み出た。転びそうになるのを翅を広げて立て直し、顔を上げたところで、絶剣の二つ名を持つ女の子と正面から目が合った。
「あ、お姉さん、やる?」
ニコッと笑いかけられ、アスナは仕方なく、
「え、えーと……じゃあ、やろうかな」
と小声で答える。強面の大男と予想していた絶剣と、試合前に威勢のいい舌戦のひとつも繰り広げてやるはずが、調子が狂うことおびただしい。
しかし周囲からは、たちまち沸き立つような歓声が上がった。月例大会の表彰台常連であるアスナの顔を知るものも多いようで、名前を呼ぶ声もいくつか漏れ聞こえてくる。
「おっけー!」
少女はぱちんと指を鳴らすと、手を振ってウインドウを出し、素早く操作した。即座に、アスナの前にデュエル申し込み窓が出現する。
OKボタンに指先を触れながら、アスナは訊ねた。
「えーと、ルールはありありでいいのかな?」
「もちろん。魔法もアイテムもばんばん使っていいよ。ボクはこれだけだけどね」
即答しながら、絶剣は左手で剣の柄をぽんと叩いた。無邪気なほどの自信ぶりに、アスナの戦意もようやくぴりっと刺激される。
そう言われたら、遠距離からの魔法攻撃といった絡め手は使えないな、剣同士の真っ向勝負なら望むところよ、とアスナが内心で呟きながらレイピアの柄に右手を添えた、その時。
絶剣が、更に余裕を伺わせることを大声で言った。
「あ、そうだ。お姉さんは、地上戦と空中戦、どっちが好き?」
当然空中で戦うものと思っていたアスナは、虚をつかれて、剣を抜きかけた右手をぴたりと止めた。
「……どっちでもいいの?」
言うと、絶剣はにこにこしながら頷く。これも一種の駆け引きかとおもわず勘ぐるが、インプの少女が浮かべる笑顔にはひとかけらの邪さも感じとれない。つまり、単純に、どちらで戦おうと勝てると思っているのだ。
そういうことなら、こちらも素直に甘えさせてもらおう、と考えながらアスナは答えた。
「じゃあ、地上戦で」
「おっけい。ジャンプはあり、でも翅を使うのはなしね!」
絶剣は即座に頷くと、背後に広げていた特徴的なシルエットの翅を畳んだ。コウモリに似たかたちのそれは、たちまち色を薄れさせ、ほとんど見えなくなる。アスナもそれに倣い、肩甲骨の先に伸びる翅から、意識の接続を切る。
アスナは、ALO接続初日には補助スティックを使わない随意飛行をほぼマスターし、今ではもうアップデート以前の古参プレイヤーたちにも空中戦で引けを取らないほどの腕前になっている。
それでも、やはり二年に及ぶSAO内での戦闘で体に染み付いた動きはそうそう薄れるものではない。地上で戦えるのは正直有り難いことだった。つま先を動かし、ブーツの底を通して伝わる地面の硬さを、しっかりと感じ取る。
剣を抜いたのはほぼ同時だった。じゃりーん、と高い音が二つ、重なって響いた。
絶剣が装備しているのは、細めの両刃直剣だった。鎧と同じく、黒曜石のような深い半透明の色合いを帯びている。武器のランクとしてはアスナが持つレイピアとほぼ同等であり、一部のレジェンダリィ・ウェポンが持つようなエクストラ能力は無いはずだ。
絶剣は中段に構えた剣を前に、自然な半身の姿勢を取った。対してアスナは右手を体側に引き付け、レイピアをほぼ垂直に向ける。すうっと波が引くように周囲の歓声が遠ざかっていく。
大きく息を吸い、吐いたところで、進行していたカウントがゼロになった。
「DUEL」の文字が一瞬の閃光を発すると同時に、アスナは全力で地を蹴った。約七メートルの距離を瞬時に駆け抜けながら、体を右方向にきゅっと捻る。
「シッ!」
短い気合とともに、弓から撃ち出される矢のように右手をまっすぐ突き出した。慣性力と捻転力をすべて乗せた突きを、絶剣の体の中心やや左に向けて二発、わずかにタイミングをずらして右に一発。ソードスキルではない通常技なのでスピードはさほどではないが、かわりに照準は精密だ。最初の二発を右に避けてしまうと、続く一発の回避はほとんど不可能となる。
絶剣は、アスナの思惑どおり、体をすっと右に振って初撃と次撃を避けた。その動きが止まったところに、狙い違わず三撃目が吸い込まれていく――
だが、剣尖がアーマーの胸元を捉えるその直前、絶剣の右手が煙るように動いた。同時にアスナのレイピアの右側面に小さな火花が弾け、突きの軌道が微妙にズレた。
絶剣が、己の武器で超高速の突き技の途上にあったレイピアを正確にパリィしたのだ、と頭で理解したときにはもう、剣先は絶剣の鎧をわずかに掠めて宙に流れていた。
カウンターの反撃を予想し、アスナはうなじの皮膚がちりちりと痺れるのを感じた。だがここで剣を戻そうとすれば体勢が硬直してしまう。技の慣性に逆らわず、思い切り体を左に回転させる。
同時に、首元目掛けて跳ね上がってくる黒い輝きが視界に入った。
「――ッ!!」
まさに雷光と言うべき恐ろしいほどのスピードに、戦慄が全身を駆け抜けた。歯を食い縛り、右足のつま先に地面を抉り取るほどの力を込めて体を捻る。
足元は短く細い草が密に生えており、設定された摩擦力は石畳や裸地と比べるとわずかに低い。その数値がアスナを裏切り、ずるりと右足が滑った。瞬間的に、体ががくんとズレた。
だがそれが幸いし、絶剣の剣先はアスナの胸元を掠めるに留まった。ずばん! という衝撃が耳のすぐそばを通過した。もし髪に当たり判定があったら、アスナの水色のロングヘアは長さが半分になっていただろう。虚空に放出されたエネルギーが、空気を揺らして拡散していくのが目の端に見えた。
アスナはグリップの回復したブーツで地面を蹴り飛ばし、大きく右にジャンプした。左足でもう一度跳び、充分な距離を取って停止する。
追撃に備えて腰を落としたが、絶剣は相変わらず笑顔を崩さないまま、再び剣を中段に構えて動きを止めた。アスナはばくばく言う心臓をなだめながら、どうにか笑みを返した――ものの、内心では冷や汗を滝のように流していた。
自分に向かって飛んでくる突き技の軌道というのは、近づく小さな点でしかない。それを回避するには、基本的に足を使ったステップ防御を使うしかないのだが、絶剣はアスナのレイピアの横腹を正確に弾いてのけた。カウンター攻撃のスピードよりも、アスナはその超反応速度に舌を巻いていた。強い強いと散々聞かされていたものの、相手の思いがけず可愛らしい容姿に緩んだ意識に、ばしゃりと冷水を浴びせられたような思いだった。一時は、キリトが敗れたのは女の子相手の油断もしくは手心のせいかと疑ったのだが、それはあらぬ濡れ衣と言うべきだろう。彼でさえ、アスナの全力突きをパリィ防御してのけたことは一度もないのだ。
アスナは再び深く息を吸うと、ぐっと止めた。確かに恐るべき相手だが、たった一合交えただけで諦めては剣士の名がすたる――
不意に、耳の奥にこだまする声があった。
(何が剣士だ――そんなもの――たかがゲームの――)
ぎりりと歯を噛み締めて、意識からノイズを振り落とす。この世界はもうひとつのリアル・ワールドであり、そこでの戦いはいつだって真剣勝負なのだ。そうでなければならないのだ。
己を鋭く鞭打つように、アスナは剣を鳴らして右肩の上に構えた。今度は剣先をまっすぐ相手に向ける。
通常技が通用しないとなったら、あとは危険覚悟でソードスキルを撃ち込むしかない。しかしソードスキルにはシステム的な技後硬直時間が設定されており、もし全弾を回避されたら、致命的な反撃を叩き込まれるのは必至だ。どうにか相手の体勢を崩して、必中の状況を作らなくてはならない。アスナは空いている左手をぐっと握り締めた。
再度地面を蹴って飛び出したときには、意識は完全に研ぎ澄まされていた。ALO世界での戦闘ではほとんど感じたことのない、神経系が燃え上がるような加速感が体じゅうを包んでいく。
こんどは、絶剣のほうも飛び出してきた。口元からふっと笑みが消え、紫水晶の瞳がきらりと光る。
右斜め上段から、轟と襲い掛かってきた黒曜石の剣を、アスナは左からの切り払いで受けた。火花、金属音と同時にすさまじい衝撃が右手に伝わる。撥ね戻された剣を、絶剣は武器の重量を感じさせないほどのスピードで切り返し、次々と撃ち込んでくる。見てから反応したのでは絶対に間に合わない速さだ。視界全体で捉えた相手の全身の動きから次の攻撃方向を予測し、受け、また避ける。時折偶発的に剣が互いの体を掠め、じわじわと二人のHPが減少していくが、クリーンヒットと言えるものは一発も無い。
超高速の剣戟を響かせながら、アスナはふとある種の違和感を覚えていた。
確かに、絶剣の攻撃速度、反応速度には恐るべきものがある。純粋なスピードだけを見ればキリト以上だ。だがそれでも、アスナがどうにかついていけるのは、SAOで培った膨大な戦闘経験に加えて、相手の攻撃が素直すぎるせいもある。武器を振りはじめで止めたり、テンポを一瞬遅らせたりといったフェイントはまったく使ってこない。
もしかしたら、対プレイヤー戦闘の経験はあまりないのかもしれない、とアスナは感じた。もしそうなら、一瞬だけでも意表を突ければ、勝機は見える。
右上、左上、左横と続いた三連撃をかいくぐり、アスナは思い切って絶剣の懐にまで飛び込んだ。ほぼ密着と言っていいほどの間合いだ。これでもうステップ防御は互いに使えない。
アスナが腰を落とし、右手のレイピアを相手の体の中心めがけて、思い切り突き込もうとし――
絶剣がそれに反応し、剣を下から切り上げようとした――
その瞬間、アスナは右手を思い切り引き戻し、同時に握った左拳を絶剣の右体側に向けて叩き込んだ。はるばるノーム領の首都の修練場にまで赴いて修行した、「拳術」スキルによる攻撃だ。専用のナックル系武器を装備していないので威力はないが、無スキルではありえないダメージが発生する。
どう、という衝撃が左拳に伝わり、絶剣の目が驚きに丸くなった。
――最初で最後のチャンス。アスナは躊躇なく、ソードスキル「カドラプルペイン」四連撃を発動させた。
レイピアがまばゆい赤に発光し、同時に右手がシステムの見えざる手に後押しされて、稲妻のように宙を裂いた。
アスナは攻撃が命中するのを確信した。相手は体勢を崩している。距離的にも、最早回避は不可能だ。
だが。右手をシステムの加速に委ねながら、絶剣の顔を見たアスナの背に、再度の戦慄が疾った。絶剣は大きな目を見開いていたが、紫色の瞳に驚きの色はなかった。その瞳孔は、ぴたりとレイピアの先端に焦点を合わせていた。
この突きが見えている――!?
アスナがそう思った瞬間、絶剣の右手が閃いた。
剣をグラインダーに掛けたときのような、硬質の擦過音が四つ、立て続けに響いた。アスナの四連撃は、上下左右に正確に弾かれ、一撃として命中したものは無かった。アスナには、絶剣の黒い剣が残した薄墨のような残像しか見えなかった。
最後の一撃が受け流され、右手を前に出した格好のまま、コンマ何秒の――しかし絶望的な――硬直時間がアスナを襲った。その隙を絶剣が見逃すはずもなかった。
ぎゅん、と引き戻された黒曜石の剣が、青紫色の光を帯びた。
恐らく、硬直中でなくとも回避は難しかったであろうスピードの直突きが、アスナの左肩を捉えた。そのまま斜めに、右腹に向かって五連撃。全てを綺麗に貰い、HPバーががくがくと急激に減少した。記憶にない技だった。ということはオリジナル・ソードスキルだ。これほどの速度の五連突きを編み出すとは――
とアスナが呆然と考えたその時、剣がその光を失わぬまま、今度は左上に構えられた。
五発で終わりではないのだ。まだ続きがある。ようやく硬直が解けた体を引き起こしながら、アスナは三度慄いた。
仮に、同じような突きがもう五発続いたら、ほぼ間違いなくHPはゼロになる。かと言って、回避は不可能だ。
無駄な逃げ動作をして背中を斬られるくらいなら、わずかな可能性に賭けたほうがいい。アスナはレイピアを握る右手に力を込め、もう一度ソードスキルを発動させた。唯一マスターしているOSS五連撃技、「アストラルティアー」。
赤と青の閃光がまばゆく交錯した。アスナの右肩から左下に向けて、先ほどの連撃とあわせてバツの字を描くように剣尖が叩き込まれる。
だが今度こそ、アスナのレイピアも絶剣を捉えた。小さな星型の頂点を辿りながら、五発の突き技が黒いアーマーを貫いていく。
五連撃を交換し終わり、一瞬の静寂が訪れた。二人とも、まだ倒れていなかった。
絶剣のHPはアスナには見えないが、アスナのHPバーはほんの少しだけ残っていた。もともと、SAOからのキャラデータ引継ぎ組であるアスナのHP数値はALO古参組を上回るほどなのだ。驚異的な十連撃でそれをほぼ削りきった、絶剣のOSSの威力は凄まじいものが――
――絶剣の剣を包む青紫色の輝きは、まだ消えていなかった。
もう一度引き戻された剣が、アスナの体の中央、バツの字の交差点をぴたりと照準する。
それでは、これが、絶剣がデュエルに賭けているという十一連撃OSSなのか、とアスナは感嘆とともに思った。
強い。そしてそれを上回る美しさを持った技だ。これほどの剣技に敗れるなら悔いはない。そう心のなかで呟きながら、アスナはとどめの一撃を待った。
猛然と襲い掛かってきた十一撃目は、しかし、アスナを貫く寸前でぴたりと停止した。
「――!?」
唖然として目を見開くアスナの前で、絶剣は武器を下ろすと、何を思ったかすたすたと近づいてきた。左手でアスナの肩をぽんと叩き、にっこりと輝くような笑みを浮かべる。その唇が動いて、威勢のいい声が発せられた。
「うーん、すごくいいね! お姉さんに決めた!!」