「――アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」
リズベットの声に、アスナはホロキーボードを打つ指を止めると、顔を上げた。
「ゼッケン? 運動会でもするの?」
「ちがうちがう」
リズベットは笑いながら首を振り、テーブルの上から湯気を立てるマグカップを取り上げて一口含むと、話を続けた。
「カタカナじゃなくて漢字。絶対のゼツに剣と書いて、絶剣」
「絶……剣。新実装のレアアイテムかなんか?」
「のんのん。人の名前よ。あだ名……というか、通り名かな。誰も本名は知らないんだけどね。あんまり強すぎるんで、誰が呼び始めたのか、ついた名前が絶剣。絶対無敵の剣、空前絶後の剣……そんな意味だと思うけど」
強い、と聞いて、アスナの好奇心は大いに刺激された。もとより剣の腕には大いに覚えのあるところだ。アルヴヘイム・オンラインのプレイヤーである今でこそ、後衛で回復魔法の詠唱が主任務となる水妖精――ウンディーネを種族として選択しているが、それでも時々昔の血がうずいて、腰のレイピアを抜いては敵陣に斬り込んでおお暴れしてしまうので、「バーサクヒーラー」などという優雅さとは縁遠い二つ名を頂戴してしまっている。
毎月開かれるデュエル大会にも積極的に参加して、ALOの三次元戦闘に慣れた今では火妖精族のユージーン将軍や風妖精族のサクヤ領主といった剛の者たちと肩を並べるにまでなっているので、新たなつわもの出現と聞いては無関心ではいられない。
書きかけの生物学のレポートをセーブし、ホロキーボードを消去すると、アスナはかたわらのマグカップを取り上げ、指先でワンクリックして熱いお茶を満たした。床から直接伸びる生木の椅子に深く座りなおし、本格的に話を聞く体勢に入る。
「それで……? その絶剣さんは、どんな人なの?」
「えっとね……」
新生アインクラッド第22層の深い森は、すっぽりと白い雪に覆われていた。
外の世界も一月初旬の冬真っ只中だが、近年とみに温暖化が進行していることもあり、東京では気温が零度を下回ることはほとんどない。現在建設が計画されている「都心第二階層」が数十年後に完成の暁にはほんものの雪が降ることすら無くなると聞く。
しかし、運営体のサービス精神の発露なのか、妖精の国アルヴヘイムではまさに厳冬と言うに相応しい気候が続いている。大陸の中央にある世界樹以北は、フィールドでの体感温度が零下10度、20度に下がることなどザラで、きちんとした防寒装備か、あるいは耐寒呪文の援護なしにはとても空を飛ぶ気にはなれない。
もっとも、小川の底まで凍りつくようなその寒気も、分厚い木壁に守られた部屋のなかまでは届かない。
2015年5月の、アルヴヘイム・オンラインの大規模アップデート――『浮遊城アインクラッド』実装以降、アスナをゲームプレイに駆り立てたモチベーションはただひとつだった。
必要な額のコル、いやユルド硬貨を遮二無二貯めて、誰よりも早く第22層の転移門をアクティベートし、針葉樹林の奥にぽつりとたつログ造りのプレイヤーハウスを購入すること。無論、はるかな昔に存在したもうひとつの浮遊城で、たった二週間だけだが楽しく、甘く、切ない日々を送った、まさにその場所に建つ家である。
22層は森しかない過疎フロアだし、主街区の村にもプレイヤーハウスはいくつも用意されているし、よもや同じ家を狙うライバルはいないだろうと思っていた。それでも、キリトはもちろんリズベットやシリカ、リーファたちの手も借り、どうにか膨大な額の資金を用意して、自らの手で倒した第21層ボスモンスターのしかばねを蹴り飛ばすようにログハウスの前にたどり着き、購入ウインドウのOKボタンをクリックし終えたときには、思わずしゃがみこんで泣いてしまった。(その夜、パーティーが終わって客たちが皆帰ったあと、キリトと、元の少女態に戻ったユイと三人で祝杯のグラスを合わせたときも、もう一度大泣きした)
なぜこの場所にこれほどまで拘ったのか、その理由はアスナにもなかなか言葉にすることはできない。はじめて本気の恋した男の子と、仮想世界のなかでとは言え艱難辛苦ののちにようやく結ばれ、短かったが幸せな日々を過ごした場所だから、と言ってしまうのは簡単だが、それだけではない気がアスナはしている。
おそらく、この家は、現実世界において常に居場所を探していたアスナが、ついに見出した真の意味での『ホーム』だったのだ。つがいの鳥が翼を休め、身を寄せ合って眠るような、小さく暖かい場所。心の還る場所。
もっとも、苦労のすえ手に入れて以来、ログハウスはすっかり仲間たちの溜まり場になってしまって、来客の途切れる日はほとんど無い。アスナが精魂こめて内装した小さな家の居心地よさは、一度訪れた者を例外なく虜にしてしまうようで、SAO時代の仲間はもちろん、ALOで新しくできた友人たちも頻繁にやってきてはアスナの手料理に舌鼓を打っていく。――いちど、どうしたタイミングか、サクヤとユージーンが同席してしまったときはなかなかに緊張感あふれる食卓が出現したものだが。
今日――2016年1月6日も、森の家のリビングルームに「生えた」樹のテーブルは、おなじみの面々で埋まっていた。
アスナの右隣にはシリカが座り、ホロウインドウ上に表示させた数式――冬休みの宿題に頭を捻りながらうなり声を上げている。左隣ではリーファが、同じく英文を睨んで顔をしかめている。
向かい側にはリズベットが座り、こちらは木苺のリキュール片手に椅子にふんぞりかえって脚を組み、ゲーム内で売っている小説に没頭しているようだった。
現実世界では午後4時ごろだが、窓の外はすでにとっぷりと日が暮れ、しんしんと降り積もる雪がランプの光を照り返していた。かすかな風鳴りの音を聞くまでもなく凍えるほどに寒そうだが、部屋の奥のペチカでは赤々と薪が燃え、その上の深鍋ではきのこのシチューがふつふつと湯気を上げて、暖かさとともにいい匂いを届けてくる。
アスナもホロキーボードに両手を置き、ブラウザ窓をいくつも宙に浮かべて(ALOのプレイヤーホームでは、オプション設定によってはゲーム外のネットにも接続できる)、そこに呼び出した資料に目を走らせながら、課題のレポートを順調に仕上げていた。
母親(もちろん現実の)は、アスナが現実世界でできることをVRワールドで済ませることにいい顔をしないが、長時間に及ぶ文章の入力などは、こちら側でやったほうが明らかに効率がいい。眼も手首も疲れないし、自室のモニタのUXGA解像度では不可能な数の資料窓をいくつも見やすい位置に浮かべておけるのだ。
いちど、母親にもそう言って、文章入力専用のアミュスフィア用アプリケーションを試させてみたことがあるのだが、ほんの数分で「眩暈がする」と言ってログアウトし、以来見向きもしなかった。
たしかに仮想世界酔いというものは存在するが、いまやダイレクトVRワールドネイティブであるとさえ言ってもいいアスナにとっては、こちら側の現実感はある意味では現実以上である。両手の指は一度のミスタイプもなく飛ぶように動き、エディタ上の文章は着々と結論へと近づいて――
と、そのとき、右肩にこつんと乗っかるものがあった。
見ると、シリカが、黒いショートヘアの頭をアスナの肩にもたれさせ、突き出た三角形の耳をぴくぴくさせながら、幸せそうな顔で寝息を立てている。
アスナは思わず微笑みながら、そっと左手の人差し指でシリカの猫耳をくすぐった。
「ほら、シリカちゃん。今寝ちゃうとまた夜眠れなくって困るよー」
「うにゅ……むにゃ……」
「冬休みもあと三日しかないんだよ。宿題がんばらないと」
耳をつんと引っ張ると、シリカはぴくんと体を震わせてから頭を起こした。ぼーっとした顔で何度か瞬きを繰り返し、頭をぷるぷる振ってアスナの顔を見る。
「う……うう……ねむいです」
呟きながら、小さな白い牙のある口を大きく開けて大きな欠伸をひとつ。アスナの知っている猫妖精族、ケットシーのプレイヤーたちはこの家にくると皆よく眠るので、ひょっとしてそういう種族的特性でもあるのかと疑いたくなる。
シリカの前のホロパネルを覗き込んで、アスナは言った。
「もうすぐそのページも終わりじゃない。がんばって、やっつけちゃおう?」
「ふ……ふぁい……」
「ちょっとこの部屋あったかすぎる? 温度下げようか?」
聞くと、今度は左隣で、リーファが笑いを含んだ声で言った。
「いえ、そーじゃなくて、アレのせいだと思いますよー」
「?」
振り向くと、リーファは黄緑色の長い髪を揺らして、部屋の奥、ペチカの向こうに視線を向けた。
「……ああ、ナルホド……」
その方向を見て、アスナは深く納得しながら頷いた。
赤々と燃える暖炉の前には、磨かれた木で出来た大きな揺り椅子がひとつ。
椅子に深く沈みこみ、白河夜船の体で眠りこけるのは、浅黒い肌に漆黒のつんつん髪を持つ影妖精族、スプリガンの少年だった。言うまでもなくキリトである。
彼の胸の上では、水色の羽毛を持つ小さなドラゴンが、これまた体を丸め、頭をふわふわのシッポに突っ込んで、心地よさそうに眠っている。ビーストテイマーであるシリカの、SAO時代からの相棒である小竜のピナだ。
そして、ピナの柔毛に包まれた体をベッドがわりに、さらに一回り小さな妖精があどけない寝顔を見せている。艶やかな濃紺のストレートヘア、白いワンピース姿の彼女は、キリト専用の「ナビゲート・ピクシー」でありまたアスナとキリトの「娘」でもある、その実体は旧SAOサーバーから突然変異的に生み出された人工知能のユイである。
キリトとピナとユイが三段の鏡餅のように積み重なり、揺り椅子の上で幸せそうに眠りこける有様は、一種魔力的と言ってもよい催眠効果を放射していて、数秒見つめるだけでアスナの目蓋もとろりと重くなってくる。
キリトというのが、実にまたよく眠る男なのだ。まるで、SAO時代寝る間も惜しんで迷宮区の攻略に明け暮れた貸しを今取り立てているとでも言うかのように、この家にいるときは、ちょっとでもアスナが目を離すとお気に入りの揺り椅子に倒れこんでぐうぐう眠ってしまう。
そして、揺り椅子の上のキリトの寝姿ほど、眠気を催させるものをアスナは知らない。
かつてSAOのなかに居たころは、森の家で、またエギルの店の二階で、キリトが椅子を揺らしていると、必ずといっていいほどアスナはその上に乗っかって、暖かいまどろみを共有したものだ。つまりアスナにとっても大いに身に覚えがあるところなので、シリカやリーファが眠気を誘われるのは理解できる。
しかし不思議なのは、至極単純なアルゴリズムで動いているはずのピナまでが、キリトが寝ているところに居合わせると、ご主人様であるシリカの肩からぱたぱた飛び立って、キリトの上でくるりと丸くなって眠ってしまうことだ。これはもう、寝ているキリトからはなんらかの「眠気パラメータ」が発生しているのではないかと疑いたくなる。実際、さっきまで頭をフル回転させてレポートを書いていたはずなのに、いつのまにか体がふんわりと……
「ちょっとアスナさん、自分が寝てますよ! あっ、リズさんまで!」
シリカに肩をゆさゆさと揺すられ、アスナははっと顔を上げた。
同時に、テーブルの正面ではリズベットがびくんと体を起こし、ぱちぱち目をしばたかせてから照れくさそうに笑った。銀妖精族レプラホーンの特徴である、金属光沢のあるペールピンクの髪をかきあげ、言い訳のようにぶつぶつつぶやく。
「アレ見てるとなんでこう眠くなるのかねぇ……。ひょっとしてスプリガンの幻影魔法じゃないだろうなぁー」
「ふふ、まさか。眠気覚ましに、お茶淹れるね。と言っても手抜きだけど」
アスナは立ち上がると、背後の棚から、カップを四つ取り出した。最近のクエストで手に入れた、「クリックするだけで99種類の味のお茶がランダムに湧き出す」魔法のマグカップだ。
テーブルにカップと、お茶うけのフルーツタルトが並ぶと、ゲンキンに眠気を払拭したシリカも含めて、四人はさっそくそれぞれ異なる香りのする熱い液体を口元に運んだ。
「そういえば、さ」
リズベットが思い出したように言ったのは、その時だった。
「――アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」
* * *
「うわさをよく聞くようになったのは、ちょうど年末年始のあたりだから……一週間前くらいからかなあー」
そう言うと、リズベットは何かを合点したかのようにちいさく頷きながらアスナを見た。
「そっか、じゃあアスナが知らないのも当然か。あんた年末からずっと京都だったもんね」
「もう、こっちにいる時に嫌なこと思い出させないでよリズ」
アスナが渋面をつくると、リズは大きな口をあけてあっはっはと笑った。
「いやー、イイトコのお嬢さんも大変だね」
「ほんと大変だったわよ。一日中着物で正座して挨拶ばっかりしてたし、夜に『潜ろう』にも母屋にはいまどき無線LANも入ってないんだよ。アミュスフィアもってったのに無駄になっちゃった」
ふう、とため息をついて、お茶をごくりと飲み干す。
アスナは、昨年末から両親、兄とともに、京都にある結城本家、つまり父親の実家になかば強制的に赴かされていた。アスナの、二年にわたる「入院」の間に親類筋には大いに心配をかけ、また世話になったからそのお礼を、と言われれば嫌とも言えない。
幼い頃は、年始を本家で過ごすのは当たり前のことと思っていたし、同年代のいとこたちに会うのも楽しみだった。
しかし、中学に上がった頃からだったろうか。アスナはだんだん、その恒例行事が気詰まりに思えるようになってしまった。
結城の本家というのは、誇張でなく二百年以上も前から京都で両替商を営んできた家で、維新や戦争の動乱にもしぶとく生き残り、現在では関西一円に支店を持つ地方銀行を経営している。父親の結城彰三が、一代でレクトという大電器メーカーを興せたのも本家の潤沢な資金援助があったればこそであり、親戚筋を見渡せば、社長だの官僚だのはごろごろ転がっているのだ。
当然のように、いとこたちは皆アスナや兄と同じような「いい学校」の「優等生」で、宴席で子供たちが行儀良く並んで座るとなりでは、親たちがうちの子は何の大会で表彰されただの、全国模試で何番を取っただのという話を、表面上は穏やかに、だが延々と応酬し続けるのである。自分を包み込む世界の「硬さ」に恐怖を覚えはじめていたアスナにとっては、毎年のその行事が、子供たち全員に序列を付け直す作業のように思えたのだった。
2012年11月、中学三年の冬にアスナはSAOに捕われ、2015年の1月にキリトの手によって解放されたので、今年の年始の挨拶は実に四年ぶりということになる。本家の、京風数寄屋造りの広大な屋敷で、アスナはきつい振袖を着せられ、祖父、祖母をはじめ膨大な数の親類縁者に、しまいには自分が接客NPCに思えてくるほどに繰り返し挨拶をさせられた。
それでも、ひさしぶりにいとこたちと会えるのは嬉しいことだったのだが、アスナの無事なる帰還を我が事のように喜んでくれる彼ら彼女らの瞳のなかに、アスナは嫌なものを見つけてしまったのだった。
いとこたちは一様に、アスナを憐れんでいた。生まれたときから始まり、そしてまだ何年も続くレースから、早くも脱落してしまったアスナに同情し、可哀想だと思っていたのだ。考えすぎではない。子供のころからずっと人の顔色を窺い続けていたアスナには判る。
もちろん、今のアスナは、その頃の人格とは全く異なる存在だ。あの世界が、そして一人の少年が否応なくアスナを生まれ変わらせた。だから、いとこたちや、おじ、おばたちの憐憫も、アスナの心の表面を微風のように通過していったにすぎない。自分はまず第一に剣士であり、戦う人間である、それはあの世界が消えたいまでも変らないという信念がアスナの心を支えている。
しかし、その価値観は、VRMMOなどというものは害悪としか考えていないいとこたちにはまったく理解してもらえないだろう。そして、本家にいるあいだじゅう、ずっとどこか不機嫌だった母親にも。
いい大学に入り、いい就職をしなければという強迫観念はもう欠片もない。今の学校は好きだし、あと一年かけて、本当にやりたいことをじっくり探すつもりだ。もちろん、いっこ年下の男の子と現実世界でも家庭を持つのが最終目標であるのだが。
――などと考えながら、アスナはにこやかに親戚たちのあれやこれやの詮索をやり過ごし続けたのだが、どうにも参ったのは、明日にはようやく東京に戻れるという晩に、はとこにあたるという二つ年上の大学生と屋敷の奥まった部屋で二人きりにされたことだった。
本家の銀行の専務だかの息子だというその男は、自分が何を専攻しており、もう就職が決定しているという銀行ではどのようなポストにつきどのように出世していくかということをひたすら喋りつづけ、アスナとしてははあそうですかと思いつつ笑顔で感心してみせるしかなかったのだが、引っかかるのはまるで周囲が示し合わせてアスナとその男を二人きりで残したように思えてならないことで、ことによるとそこには何か大人たちの胡散臭い意図が……
「ちょっとアスナ、聞いてる?」
テーブルの下でリズベットにつま先をつつかれ、アスナはハッと物思いから復帰した。
「あ、ご、ごめん。ちょっとヤなこと思い出しちゃって」
「なあにそれ? 京都でお見合いでもさせられた?」
「…………」
「……なにひきつってるのよアンタ。……まさか……」
「ないない、なんにも無いわよ!」
アスナはぶんぶん首を振ると、空になったマグカップを再びクリックし、湧き出した怪しい紫色のお茶をごくごくと喉に流し込んだ。
「それで……強いって、その人はPKerなの?」
「んーん、デュエリストよ。セルムブルグのちょっと北にさ、でっかい樹が生えた観光スポットの小島があるじゃない。あそこの樹の根元に、毎日午後3時になると現われて、立ち合い希望プレイヤーと一人ずつ対戦すんの」
「へええー。大会とか出てた人?」
「や、まったくの新顔らしいよ。でもレベルは相当高そうだから、どっかからのコンバートじゃないかな。最初は、MMOトゥデイの掲示板に対戦者募集って書き込みがあってさ。ALO初心者のくせにナマイキだ、いっちょへこましたろう、って奴らが30人くらい押しかけたらしいんだけど……」
「返り討ち?」
「全員、きれいにね。HPを三割以上削れた人はひとりもいなかった、ってゆーんだから相当だよね」
「ちょっと信じられませんよねー」
フルーツタルトをもぐもぐしながら、シリカが割って入った。
「あたしなんか、まともにエアレイドできるようになるまで半年くらいかかったんですよ。なのに、コンバートしたてであの飛びっぷりですからね!」
「シリカちゃんも対戦したの?」
アスナが訊くと、シリカは目を丸くして首をぶんぶん振った。
「まさか! デュエルを観戦しただけで勝てないのは確信しましたもん。ま、リズさんとリーファはそれでも立ち合ったんですけどね。ほんと、ちゃれんじゃーですよね」
「うっさいなあ」
「何事も経験だもん」
リズベットとリーファが口を尖らせて言うのを笑顔で聞きながら、アスナは内心で少々驚いていた。
もとより種族的に戦闘は不向きで、その上鍛冶スキルを優先的に上げているリズベットはまだしも、シルフ随一と言っていいエアレイドの達人であるリーファを空中戦で上回るとは只者ではない。しかもコンバートしたてで、などという話はもはや前代未聞と言っていい。
「それは本物っぽいねえ。うーん、ちょっとワクワクしてきたなあ」
「ふっふ、アスナはそう言うと思った。もう、月例大会の上位常連どころで残ってるのは、サクヤとかユージーンとかの領主やら将軍組だけなんだけど、あのへんは立場的に辻試合は難しいしねえ」
「でも、そんだけ強さを見せ付けちゃうと、もう対戦希望者なんていなくなっちゃったんじゃないの? 辻デュエルの負け経験値ペナルティって相当なもんでしょ?」
「それがそうでもないんです。賭けネタが奮ってるんですよ」
と、再びシリカ。
「へえ? なにかすごいレアアイテムでも賭けてるの?」
「アイテムじゃないんです。なんと、オリジナル・ソードスキルを賭けてるんですよ。すっごい強い、必殺技級のやつ」
アスナは思わず、キリトの癖を真似て、肩をすくめながらピュウと口笛を吹きたくなる衝動に駆られたが、どうにか我慢した。
「OSSかぁー。何系? 何連撃?」
「えーと、見たトコ片手剣系汎用ですね。なんとびっくり十一連撃ですよ」
「じゅーいち!」
今度こそ、反射的に唇を細めて高い音を鳴らしてしまう。
今は無き旧ソードアート・オンラインをSAOたらしめてした代表的なゲームシステム、それが「ソードスキル」である。
無数の系統の武器ごとに設定された「技」のことで、内容は一撃必殺の単発攻撃から疾風怒濤の連続攻撃まで様々だ。武器による通常攻撃と異なるのは、一度初動を開始すれば、脳神経直結環境技術の本来的な制約である通信ラグを無視して、技の出終わりまでシステムが最大速度で体を自動操縦してくれるという点である。副次的効果として攻撃中は派手なライトエフェクトとサウンドエフェクトを伴い、技の使用者は自分が超戦士となったかのような快感を味わうことができる。
アルヴヘイム・オンラインにおける、一連の大規模アップデートの一環として、新運営体はソードスキル・システムもほとんどオリジナルのままの形で実装するという大胆な決断をした。
つまり新生ALOは、戦闘システムに根幹からの大変革を加えられたことになる。これはさすがにプレイヤー達の間に大論議を巻き起こしたが、反対論者たちもいちどソードスキルを体験するとほとんどの者がその快感に魅せられてしまった。アップデートから半年以上が経過した現在でも、「空中機動」+「剣技」という新しい戦闘体系は、多くのユーザーコミュニティで日々活発な報告と議論の対象となっている。
さて、そのソードスキルだが、冒険心溢れる運営者たちは、先人の遺産をただそのまま拝借することを良しとしなかった。
そこで彼らが新要素として開発・導入したもの、それが「オリジナル・ソードスキル」システムだ。
その名のとおり、「独自の剣技」である。動きすべてがあらかじめ設定されている既存の剣技ではなく、プレイヤー自らが編み出し、登録することのできるソードスキル。
これが発表されたとき、多くのプレイヤー達は、「ド派手」で「かっこいい」自分だけの必殺技を手に入れようと、我先にとそれぞれの武器を振り回した。
そして一様に深い挫折を味わった。
オリジナルソードスキル略してOSSの登録手順は非常に単純だ。
まずウインドウを開き、OSSタブに移動し、剣技記録モードに入って記録開始ボタンを押す。その後、おもむろに武器を振り回し、技が終わった時点で記録終了ボタンを押す。それだけだ。
しかし、「ぼくのかんがえた必殺技」がソードスキルとしてシステムに認められるためには、非常に厳しい条件をクリアする必要があった。
斬り(スラッシュ)と突き(スラスト)の単発技は、ほぼ全てのバリエーションが既存の剣技として登録済みである。よって、OSSを編み出そうと思ったら、それは必然的に連続技とならざるを得ない。しかし、一連の動きにおいて、重心移動や攻撃軌道その他もろもろに無理がわずかにもあってはならず、また全体のスピードは、完成版ソードスキルに迫るものでなくてはならない。
つまり、本来システムアシストなしには実現不可能な速度の連続技を、アシストなしに実行しなくてはならないという、矛盾とさえ言っていいほどの厳しい条件が課せられているのだ。
そのハードルをクリアする方法は只ひとつ、気が遠くなる回数の反復練習あるのみである。一連の動きを、脳のシナプスが完全に覚えこむまで。
本来そういう地味な鍛錬が苦手な傾向のあるVRMMOプレイヤー達は、そのほとんどがあっけなく「俺必殺技」の夢を放棄してしまった。それでも、一部の努力家たちがOSSの開発・登録に成功し、中世の剣術流派開祖にも似た栄誉を手にすることになった。
実際、一部のプレイヤーは「○○流」という名のギルドを興し、街に道場を開くに至っている者すらいる。
それを可能にしたのが、OSSシステムに付随する「剣技伝承」システムだ。
つまり、OSSを編み出すことに成功したものは、一代コピーに限って、技の「秘伝書」を他のプレイヤーに伝授することができるわけだ。
OSSは、対プレイヤーはもちろん、対モンスターにも絶大な効果を発揮する。それゆえ皆が欲する。いきおい技の伝承は非常に高額な代償を必要とするようになり、五連撃を超えるような「必殺技」の秘伝書はALO世界で最も高価なモノとなりつつある。現在一般に知られているなかで、最も強力なOSSは、サラマンダー将軍のユージーンが編み出した『ヴォルカニック・ブレイザー』八連撃であるが、金には困らない立場のユージーンはこれを誰にも伝承させていない。一応アスナ自身も数ヶ月の苦労の果てに六連撃技の開発に成功しているが、それですっかり気力を使い果たし、新しい技に取り掛かる気には当分なりそうもない。
そのような状況のなかに登場したのが、破格の十一連撃技をひっさげた謎の剣豪『絶剣』、というわけなのである。
「まあ、そういうことなら対戦希望者が殺到するのも納得だね。みんなはそのソードスキル、実際に見たの?」
アスナの問いに、三人はそろって首を振った。代表して、リズベットが口を開く。
「んーん、なんでも、辻デュエルを始めた初日のいちばん最初に、演舞として披露したらしいんだけど、それっきり実戦では使ってないみたいね。……というか、OSSを使わせるほど絶剣を追い詰められた人はまだ誰もいない、って言うか」
「リーファちゃんでも無理だったの?」
尋ねると、リーファはしゅんと肩を落として首を振る。
「お互い、HPが六割切るくらいまではいい勝負だったんですけど……結局最後までデフォルト技だけで押し切られちゃいました」
「へええ……。――そう言えば、肝心なことな何も聞いてなかった。種族とか、武装は? どんなの?」
「あ、インプですよ。武器はレイピアですけど、アスナさんの剣よりもうすこし重いかな。――ともかく、速いんです。通常攻撃もソードスキル並みのスピードで……動きが目でも追えないくらいでしたよ。あんなこと初めてですよ、すごいショック」
「スピード型かー。リーファちゃんにも見えないんじゃ、わたしも勝機ナシかな。……――あ」
そこまで言ってから、アスナはようやく重要なことを思い出した。
「動きのスピードと言えば、反則級のヒトがそこで寝てるじゃない。キリト君は? そういう話、興味持ちそうだけど」
言うと、リズベット、シリカ、リーファは互いに目を見交わし、いきなりプッと吹き出した。
「――な、なに、どうしたの?」
あっけに取られるアスナに向かって、リーファがくすくす笑いながら、衝撃的なことを口にした。
「ふふふ。――もう戦ったんですよ、お兄ちゃん。そりゃもう、きれーに負けました」
「ま……」
負けた。あのキリトが。
アスナは口をぽかんと開け、そのままたっぷり数秒間にわたって固まった。
剣士としてのキリトは、アスナのなかでは最早「絶対的強者」という名の観念的存在となっていると言っても過言ではない。SAO、そしてALOの二世代を通して、一対一のデュエルでキリトを破ったのはアスナの知る限り血盟騎士団々長ヒースクリフ唯一人であり、それすらもゲームマスターとしてのシステム的優遇措置に助けられた結果である。
リズベット達には喋ったことは無いが、実はアスナ自身もSAO時代に一度だけ、キリトとギリギリの本気デュエルで剣を交えたことがある。
まだ知り合って間もない、アスナがKoB副長として最前線攻略の指揮を取っていた頃の話だ。
あるフロアの強力なボスモンスターの攻略方針を巡って、KoB以下の最速攻略優先派ギルドと、キリト以下数人のソロプレイヤーが対立したことがあった。両者の主張は平行線のまま妥協点を見出すことが出来ず、最終的に双方の代表によるデュエルで結論を出すことにしたのだ。
アスナはその頃すでに、内心ではキリトに惹かれつつあったのだが、まだその気持ちを打ち消そうという気分も大きかった。個人的な感情が、ゲームクリアという大義に優先することは許されないと思っていたのである。
デュエルは、自分のなかの柔弱な心を打ち消すいい機会だとアスナは考えた。キリトを倒し、ボスモンスターをきっちり効率的に討ち取ることで、ふたたび冷徹な自分に戻れるだろうと。
しかしアスナは、キリトという一見頼り無さそうな剣士の隠された実力を知らなかった。
デュエルは熱戦の名に相応しいものだった。剣を打ち交わすうちに、アスナの脳裏からすべてのしがらみは吹き飛び、ただ好敵手と戦うことのよろこびだけが全身にあまねく満ち溢れた。かつて体験したことのない次元での、直接脳神経パルスを交感するかのような戦闘はおよそ20分にも及んだのだが、その時間すらも意識することはなかった。
そしてアスナは敗れた。全身全霊の気合を乗せた突きを、およそ人間技とは思えない反応で回避され、直後にレイピアはアスナの右手から弾かれて空高く舞った。
結局、そのデュエルを経験することによって、逆にアスナの恋心は打ち消しようのないものになってしまったのだが、同時にキリトの剣はアスナのなかにもうひとつの印象を深く刻んでいった。
――最強の剣士。その確信は、SAO時代の「キリト」というキャラクターデータが消滅した今でも、わずかにも薄れてはいない。
ゆえにアスナは、キリトが「絶剣」に敗れたという話に、戦慄すら伴う衝撃を受けたのである。
アスナはリーファからリズベットに視線を移すと、掠れた声で聞いた。
「キリトくんは……本気だったの?」
「う〜〜〜ん……」
リズベットは腕組みをすると眉をしかめた。
「こう言っちゃなんだけど、あの次元の戦闘になると、あたし程度じゃ本気かそうでないかなんて判らないんだよね……。まあ、キリトは二刀じゃなかったし、そういう意味じゃ全力ってことにはならないんだろうけど。それに、さ……」
リズベットはふと言葉を切ると、暖炉の炎を映して煌めく瞳を、眠るキリトに向けた。その口もとに、穏やかな微笑が浮かぶ。
「あたし、思うんだ。たぶん、もう、正常なゲームの中じゃ、キリトがほんとのほんとに本気で闘うことは無いんじゃないかな、ってさ。逆に言えば、キリトが本気になるのはゲームがゲームじゃなくなった時、バーチャルワールドがリアルワールドになった時だけ……だから、アイツが本気で闘わなきゃならないようなシーンは、もう来ないほうがいいんだよ。ただでさえ厄介な巻き込まれ体質なんだから」
「…………」
アスナは、ちくりとする胸の痛みを意識しながら、リズベットの言葉にこくんと頷いた。
「ン……。そうだね」
両隣で、リーファとシリカもそれぞれの感慨を込めながらゆっくりと首を動かす。
しばし訪れた沈黙を破ったのはリーファだった。
「――でも、あたしが感じた限りではですけど……お兄ちゃん、真剣だったと思いますよ。少なくとも、手を抜いてたってことはまったく無いと思います。それに……」
「……なあに?」
「確信はないんですが、勝負が決まるちょっと前、鍔迫り合いで密着して動きが止まったとき、お兄ちゃん何か喋ってたような気がするんですよね……。そのすぐ後、二人が距離を取って、絶剣さんの突進攻撃をお兄ちゃんが回避しきれないで決着したんですが……」
「ふうん……何話してたんだろ?」
「それが、聞いても教えてくれないんですよね。何かありそう……な気はするんですけどねえ」
「そっか。じゃあ多分、わたしが聞いてもだめだろうなあ。あとはもう、直接闘ってみるしかない、かな」
アスナが呟くと、リズベットが眉を上げた。
「やっぱり闘う気?」
「勝てるとは思わないけどねー。なんだかその絶剣ってヒト、何か目的があってALOに来たような気がするんだ。辻デュエルすること以外にね」
「うん、それはあたしも思った」
「ともかく、明日セルムブルグに行ってみるよ。付き合ってくれる?」
くるりと見回すと、リズベット、シリカ、リーファは同時に頷いた。シリカがシッポをぴんぴん振りながら言う。
「もちろんですよ! こんな名勝負見逃せません」
「勝負になるかどうかわかんないけど……じゃ、決まりね。午後3時に現われるんだっけ、なら2時半にここで待ち合わせしよう」
ぽん、と両手を合わせてから、アスナはウインドウを出し、現実時間窓に目を走らせた。
「いけない、もう6時か。晩御飯遅れちゃう」
「じゃ、今日はここでお開きにしましょう」
リーファが自分の前のウインドウをセーブし、ぱぱっと片付ける。三人がそれにならうあいだに、リーファは揺り椅子に歩み寄ると、背もたれを掴んでがっこがっこと派手に揺らした。
「ほら、お兄ちゃん起きて! 帰るよー!」
その様子を微笑しつつ見やりながら、アスナはふとあることに思い至り、リズベットに顔を寄せた。
「ねえ、リズ」
「なに?」
「さっき、絶剣はコンバートプレイヤーだろう、って言ったけどさ……。それだけ強いなら、可能性としては、もしかすると……元SAOプレイヤー、って線もあるんじゃないの?」
小声で尋ねると、リズは真剣な表情を作り、小さく頷いた。
「うん。あたしもまずそれを疑ったんだ。で、キリトが絶剣と闘ったあと、どう思うか訊いてみたんだけどさ……」
「キリト君は、何て……?」
「絶剣がSAOプレイヤーだった可能性は、まず無いだろう、って。なぜなら……」
「…………」
「もし絶剣があの世界にいたなら、二刀流スキルは、俺でなくあいつに与えられていたはずだ、って」