爽やかな香りにふわふわと鼻をくすぐられて、あたしはゆっくりと目蓋を開けた。
白い光が世界を満たしていた。いつの間にか夜が明けていたようだ。氷壁に幾重にも反射してきた朝陽が、縦穴の底に積もる雪を輝かせている。
視線を巡らせると、ランタンの上にポットが置かれ、ゆらゆらと蒸気がたなびいていた。芳香の元はそこらしい。ランタンの前には、こちらに横顔を見せて座る、黒衣の人物。その姿を見るだけで、あたしの胸のなかにぽっと小さな火が灯るような気がする。
キリトはこちらを振り向くと、小さく微笑んで、言った。
「おはよう」
「……おはよ」
あたしも言葉を返す。もぞもぞと体を起こすと、キリトが慌てた表情で視線を逸らせた。なんだろう、とぼんやり思ってからふと自分の体を見下ろすと、簡素なキャミソール一枚しか身に着けていない。
「ひゃっ」
あわてて再度上掛けに潜り込んでから、ようやく昨夜の事を思い出す。そうだ――あたしは、このキリトのベッドロールに入って……抱き合って……それで……
燃え出すかと思うほど顔が熱くなる。頭まで布に潜り、恥ずかしさの波が引くのをひたすら待つ。
どうにか心臓を落ち着かせて、顔を出してキリトの様子を覗き見ると、彼も頬を赤くしてソッポを向いていた。その様子にちょっとだけ勇気付けられて、数回口をぱくぱくさせてから、言う。
「あの……あの、ゆうべは……」
そこで、ふと口篭もる。あの体験を言葉にすることはできないと思った。だから、
「……ううん、なんでもない……。夢を、見たよ。すてきな夢」
そう言った。
「そうか……俺もだ」
キリトは短く答え、カップを取り上げてポットの中身を注ぐとあたしに差し出してきた。
「あ、ちょっとまって」
ウインドウを出し、手早く服を着るとベッドロールの外に出る。キリトの右隣に座り、カップを受け取る。
花とミントの香りがする、今まで飲んだことのないお茶だった。一口ふたくち、ゆっくりと含む。ほっと心が温かくなる。
あたしは体をずらすと、キリトにぴたりとくっつけた。顔を向けると一瞬目が合ったけれど二人ともすぐに視線を逸らす。しばらくの間、二人がお茶を啜る音だけが響いた。
「ねえ……」
やがて、あたしはカップに視線を落としたまま呟いた。
「ん?」
「……このまま、ここから出られなかったらどうする?」
「毎日寝て暮らす」
「あっさり即答するわねえ。もうちょっと悩みなさいよ」
笑いながらキリトの腕をひじでつつく。
「……でも、それも悪くないね……」
言って、頭をキリトの肩にもたれさせようとした、その時――。
「あっ……!?」
突然キリトが叫び、身を乗り出した。支えを失ったあたしはコテンと地面に転がってしまう。
「もう、なんなのよ!」
体を起こしながら文句を言ったが、キリトは振り向きもせずに立ち上がった。そのまま、円形の穴底の中央目指して駆けていく。
いぶかしみながらあたしも立ち、後を追った。
「どうしたっての?」
「いや、ちょっと……」
キリトは膝をつき、両手で積もった雪をかき分け始めた。ざくざく、という音とともに、たちまち深い穴が穿たれていく。と――
「あっ!?」
あたしの目に、突然銀色の輝きが飛び込んできた。朝の光を反射して、何かが雪の奥できらめいている。
キリトはその何かを全て掘り出すと、両手で掴み、立ちあがった。興味を抑えきれず、あたしは至近距離から覗き込んだ。
白銀に透き通る、長方形の物体だった。キリトの両掌からわずかにはみ出すくらいの大きさだ。あたしにとっては見慣れた形、見慣れたサイズの代物――金属インゴット。でもこんな色のものは見たことがない。
あたしは右手の指を動かし、そっとインゴットの表面を叩いた。ポップアップウインドウが浮かび上がる。アイテムの名前は『クリスタライト』。
「これ――ひょっとして……」
キリトの顔を見上げると、彼も訝しげな表情ながらも頷いた。
「ああ……。俺たちが取りに来た金属……なんだろうなぁ……」
「でも、なんでこんなとこに埋まってるのよ」
「うーむ……」
キリトは右手の指でつまんだインゴットをためつすがめつ眺めながら首を捻っていたが、不意に「あっ……」と声を漏らした。
「……ドラゴンは水晶を齧り……腹の中で精製する……。はは、なるほどね」
何かを合点したかのように笑いを漏らし、金属をあたしに向かってひょいっと放ってきた。あわてて両手で受け止め、胸にぎゅっと抱く。
「ちょっと何なのよ! 自分だけ納得しちゃってさあ」
「この縦穴はトラップじゃない。ドラゴンの巣だよ」
「え、ええ?」
「つまりそのインゴットはドラゴンの排泄物だ。ンコだ」
「ン……」
あたしは頬を引き攣らせながら、胸の中のインゴットに視線を落とした。
「やだっ」
思わずキリトに投げ返してしまう。
「おっと」
それをキリトが器用に指先で弾き返してくる。子供じみた投げ合いを数回繰り返したあと、最終的にキリトが早技で広げたアイテム欄にインゴットをすぽりと格納してお開きとなった。
「ま、なんにせよ目標達成という訳だ。これで後は……」
「脱出できればねえ……」
二人、目を見交わしてため息。
「とりあえず思いついたことを片端から試すしかないなぁ」
「そうねー。あーあ、ドラゴンみたく翼があれば……」
――と言いかけたところで。あたしはある事に思い至って、口をぽかんと開けたまま絶句した。
「……なんだよ、リズ」
首を傾げながらあたしの顔を覗き込んでくるキリトに向かって、
「ねえ――。ここ、ドラゴンの巣だって言ったわよねえ」
「ああ。ンコがあるからにはそうなんじゃ――」
「それはどうでもいいのよ! ドラゴンが夜行性で、朝になったってことは、巣に帰ってくるんじゃないかって……」
「……」
押し黙ったキリトとしばらく見つめ合い、次いで二人そろって上空、穴の入り口を振り仰ぐ。まさにその瞬間――。
遥か高み、白く切り取られた光のなかに、滲むように黒い影が生まれた。それはみるみるうちに大きくなる。二枚の翼、長い尾、鈎爪を備えた四肢までがすぐに見て取れるようになる。
「き……き……」
あたしたちは揃って後退った。でももちろん、どこにも逃げ場があろう筈もなく。
「来た―――――っ」
二重に叫びながらそれぞれの武器を抜く。
縦穴を急降下してきた白竜は、あたしたちの姿を認めると一声甲高く鳴いて地表すれすれに停止した。今回は隠れる場所はない。緊張を押し殺しながらメイスを構える。
同じく片手剣を構えたキリトが、あたしの前に出て早口で言った。
「いいか、俺の後ろにいろよ。ちょっとHPが減ったらすぐにポーションを飲んどけ」
「う、うん……」
今度ばかりは素直に頷く。
ドラゴンが口を大きく開け、再び雄叫びを上げた。翼の巻き起こす風圧で雪が舞い上がる。長い尻尾が地面をびたんびたんと叩き、その度に雪面に深い溝が穿たれる。
先制あるのみ、とばかりに右手の剣を振りかぶり、突進しようとしたキリトだが――なぜか突然その動きを止めた。
「……あっ……まさか……」
低い声を漏らす。
「ど、どうしたの?」
「……」
あたしの問いには答えず――。剣を下げると、キリトはいきなり振り向き、あたしの体を左手でぐっと抱き寄せた。
「!?」
わけが判らずパニクるあたしは、そのままヒョイとキリトの肩に担ぎ上げられてしまった。
「ちょ、ちょっと、なにを――うわっ!!」
ずばん! という衝撃音とともに、周囲の風景が霞んだ。キリトが猛烈なダッシュをかけたのだと悟るのに一秒ほどかかった。次いで急制動。猛烈な加減速に晒されて目を回しかけたあたしの視界に、ドラゴンの後姿が入った。あたしたちを見失ったかのように、首を左右に振っている。
さては後背から攻撃するつもりなのかな――と思ったのもつかの間、なんとキリトはそろそろとドラゴンに歩み寄り――。何を考えているのか、剣を鞘に収めると、空いた右手で揺れているドラゴンの尻尾の先端をむんずと掴んだ。
その途端、ドラゴンが甲高い叫び声を上げた。驚愕の悲鳴――に聞こえたのは気のせいだろうか。いよいよもってキリトの意図が理解できず、あたしも喚き声を上げようとした所で。
いきなり白竜が両の翼を広げると、凄まじいスピードで急上昇を開始した。
「うぷっ!」
空気が顔を叩く。と思う間もなく、あたし達の体は弓で打ち出されたかのような勢いで宙に飛び出した。竜の尻尾に引っ張られ、左右に揺れながら縦穴を駆け上っていく。円形の穴底がみるみる遠ざかる。
「リズ! 掴まってろよ!!」
キリトの声に、無我夢中で彼の首にすがり付く。周囲の氷壁を照らす陽光はどんどん明るくなり、風切り音のピッチが微妙に変わっていき――白い輝きが爆発した、と思った瞬間、あたしたちは穴の外へと飛び出していた。
一瞬細めた目を見開くと、58層の雪原が周囲一杯に広がっていた。明るい光を受けてきらきらと輝く広い世界。恐怖も忘れ、思わず歓声を上げた。
「わぁっ……」
「イェ――!!」
キリトも大声で叫び、パッと右手を離した。あたしをひょいっと横抱きにして、慣性に任せて宙をくるくると舞っていく。
飛翔は数秒のことだったのだろうが、その数十倍にも感じられた。あたしは笑っていたと思う。溢れる光と風が心を雪いでいく。感情が昇華していく。
「キリト――あたしねぇ!!」
思いっきり叫んだ。
「なに!?」
「あたし、あんたのこと好き!!」
「なんだって!? 聞こえないよ!!」
「なんでもなーい!!」
ギュッと首に抱きついて、あたしは笑い声を上げた。やがて、奇跡にも似た時間が終わり、地表が近づいてきた。最後に一回くるんとまわり、キリトは両脚を大きく広げて着陸姿勢を取った。
ばふん! と雪が舞い上がった。長い滑走。雪を除雪車のように掻き分けながら減速し、とうとう二人は山頂の端に停止した。
「……ふぅ」
キリトは一息つくと、あたしをすとんと地面に降ろした。名残惜しかったが、彼の首に回した両腕を解く。
二人揃って大穴のほうを振り仰ぐと、こちらを見失ったらしいドラゴンが上空をゆっくりと旋回していた。
キリトは背中の剣に手をかけ、僅かに刀身を抜き出したが、すぐに動きを止めた。やがてチン、と音を立てて剣を鞘に戻す。軽い笑みを浮かべると、ドラゴンに向かって小声で言った。
「……今まで狩られまくって迷惑したろうな。アイテムの取り方が広まればお前を殺しにくる奴もいなくなるだろう。これからはノンビリ暮らせよ」
――システムの設定したアルゴリズムによって動いているにすぎないモンスターに向かって何を馬鹿なことを、と昨日までのあたしなら思っただろう。でもなぜか、今はキリトの言葉が素直に心に浸透していく気がした。あたしは右手を伸ばすと、そっとキリトの左手を握った。
二人が無言で見守る中、白竜は首を巡らせると、一度澄んだ声で鳴いて巣穴の中へと降下していった。静寂が訪れた。
やがてキリトがちらりとこちらを見て、言った。
「さて、帰るか」
「そうね」
「クリスタルで飛んじゃう?」
「……ううん、歩いて帰ろ」
あたしは微笑みながら答えると、キリトの手を握ったまま足を踏み出した。そこであることに気が付いて、キリトの顔を見る。
「あ……ランタンとかベッドロールとか、置いてきちゃったね」
「そう言えば……。まあ、いいさ。誰かが使うかもしれないしな」
顔を見合わせて笑い、あたしたちは今度こそ家路を辿るべくゆっくりと山道を歩き始めた。間近の外周部から覗く空は雲ひとつない快晴だった。
「たっだいま〜!」
あたしは懐かしの我が家のドアを勢い良く押し開けた。
「おかえりなさいませ」
カウンターに立つ店番の少女NPCが丁寧な挨拶を返してくるのに手を振って、店の中をぐるりと見回す。たった一日留守にしただけだが、何だか妙に新鮮に見えた。
昨日と同じ屋台で買い食いしたキリトが、ホットドッグをくわえながらあたしに続いて店に入ってきた。
「もうすぐお昼なんだから、ちゃんとした店で食べようよ」
文句を言うと、キリトはにやりと笑って左手を振り、ウインドウを出した。
「その前に、早速作っちゃおうぜ、剣」
ぱぱっとアイテム欄を操作し、白銀のインゴットを実体化させる。ひょいっと放ってきたそれをキャッチし――アイテムの出自については意識的に考えないようにしながら――あたしは頷いた。
「そうね、やっちゃおうか。じゃあ工房に来て」
カウンター奥のドアを開けると、ごとんごとんという水車の音が一際大きくなった。壁のレバーを倒すと、ふいごが動いて風を送り始める。すぐに炉が真っ赤に焼け始める。
インゴットをそっと炉に投下して、あたしはキリトを振り返った。
「片手用直剣でいいのね?」
「おう。よろしく頼む」
キリトは来客用の丸椅子に腰掛けながら頷いた。
「了解。――言っとくけど、出来上がりはランダム要素に左右されるんだから、あんまり過剰に期待しないでよ」
「失敗したらまた取りに行けばいいさ。今度はロープ持参でな」
「……長いやつをね」
あの盛大な落下を思い出して、笑いを漏らす。炉に目をやると、インゴットはもう十分焼けているようだった。火箸を使って取り出し、金床の上に。
壁からハンマーを取り上げ、メニューを設定すると、あたしはもう一度ちらりとキリトの顔を見た。無言で頷いてくる彼に笑みで応え、ハンマーを大きく振り上げる。
気合を込めながら赤く光る金属を叩くと、カーン! という澄んだ音とともに、明るい火花が盛大に飛び散った。
リファレンス・マニュアルの鍛治スキルの項には、この工程について、『作成する武器の種類と、使用する金属のランクに応じた回数インゴットを叩くことによって』という記述しかない。
つまり、金属をハンマーで叩く行為そのものには、プレイヤーの技術の介在する余地はない、というふうに読めるのだけれど、そこは様々な噂やオカルトの飛び交うSAOのこと、叩くリズムの正確さと気合が結果を左右する、という根強い意見がある。
あたしは自分のことを合理的な人間だと思っているけど、この説だけは長年の経験から信奉している。ゆえに、武器を作るときは余計なことを考えず、ハンマーを振る右手に意識を集中し、無の境地で叩き続けるべし――という信条がある。
でも。
カン、カン、と心地よい音を立ててインゴットを叩きながら、今だけはあたしの頭の中に色々な想念が渦巻いて去ろうとしなかった。
もし首尾よく剣が出来て、依頼が終了したら――。当然キリトは最前線の攻略に戻り、そうそう会うこともなくなってしまうだろう。剣のメンテに来てくれるとしても、せいぜい十日に一遍がいいところだろう。
そんなの――そんなの、いやだ。あたしの中で、そう叫ぶ声がする。
人の体温に餓えながら――ううん、だからこそ、あたしは今まで特定の男性プレイヤーとの距離を縮めることに躊躇してきた。あたしの中の寂しさの種が恋心にすりかわってしまうのが怖かったから。それは本当の恋じゃない、仮想世界が作る錯覚だと、そう思ってきたから。
でもゆうべ、キリトの体温に包まれながら、あたしは、そのためらいこそがあたしを縛る仮想の茨だと悟った。あたしはあたし――。鍛冶屋リズベットであり、同時に篠崎里香でもある。キリトも同じだ。ゲームのキャラクターじゃない、血の通った本当の人間だ。なら、彼を好きだ、というこの気持ちだって本物なんだ。
満足の行く剣が打ち上がったら、彼に気持ちを告白しよう。傍にいて欲しい、毎日、迷宮からこの家に帰ってきて欲しいと、そう言おう。
インゴットが鍛えられ、輝きを増していくのと同時に、あたしの中の感情も確固としたものになっていくようだった。あたしの右手から思いが溢れ出して、鎚を通して生まれかけている武器に流れ込んでいくのを感じた。
――そして、とうとうその瞬間がやってきた。
何度目とも知れない――多分二百回から二百五十回の間――槌音が響いた直後、インゴットが一際まばゆい白光を放った。
長方形の物体が、輝きながらじわじわとその姿を変えていく。前後に薄く延び始め、次いで鍔と思しき突起が盛り上がっていく。
「おお……」
低い声で感嘆の囁きを洩らしながら、キリトが椅子から立ち上がり、近づいてきた。あたしたちが並んで見守るなか、数秒をかけてトランスフォームが行われ、ついに一本の剣がその姿を現した。
美しい、とても美しい剣だった。ワンハンド・ロングソードにしてはやや華奢だ。刃身は薄く、レイピアほどではないが細い。インゴットの性質を受け継いでいるかのように、ごくごく僅かに透き通っているように見える。刃の色はまばゆいほどの白。柄はやや青味を帯びた銀だ。
『剣がプレイヤーを象徴する世界』、その謳い文句を裏付けるように、SAOに設定されている武器の種類は途方もなく多い。カテゴリはもちろん、そこに含まれる武器の固有名をかぞえれば数千は下らないと言われている。
普通のRPGとは異なり、その固有名の多様さは、武器のランクが上がれば上がるほど増大していく。下位の武器は、例えば片手直剣なら『ブロンズソード』やら『スチールブレイド』といった味気ない名前で、それらの剣はこの世界に無数に存在するけれど、現在出現している最上級クラスの武器、例えばアスナの(これはレイピアだけど)『ランベントライト』あたりはおそらく世界に一本の、文字通りワンメイク物だ。
もちろん、同程度の性能を持つレイピアは、プレイヤーメイド、モンスタードロップ問わず他にも存在するだろう。でもそれらは皆異なる名前、異なる姿を持っている。それゆえに、ハイレベルの武器は持ち手を魅了するし、魂を分けた相棒となっていくのだ。
武器の名前と姿は、システムによって決定されるため、製作者たるあたしたちでも完成するまでわからない。あたしは金床の上できらめく剣を両手で持ち上げ――ようとして、その優美な外見にそぐわない重さに驚愕した。キリトの持つ黒い剣『エリュシデータ』に劣らないSTR要求値だ。腰に力を入れ、気合とともに胸の前まで持ってくる。
刀身の根元を支える右手の指を伸ばし、軽くワンクリック。浮かび上がったポップアップウインドウを覗き込む。
「えーと、名前は『ダークリパルサー』ね。今のところ情報屋の名鑑には載ってない剣だと思うわ。――どうぞ、試してみて」
「ああ」
キリトはこくりと頷くと、右手を伸ばし剣の柄を握った。重さなど感じさせない動作でひょいっと持ち上げる。左手を振ってメインメニューを出し、装備フィギュアを操作して白い剣をターゲット。これで剣はシステム上もキリトに装備されたことになり、数値的ポテンシャルを確認することができる。
でもキリトはすぐにメニューを消すと、数歩下がってから剣を左手に持ち替え、ヒュヒュン、と音を立てて数回振った。
「――どう?」
待ちきれずに訊ねる。キリトはしばらく無言で刀身を見つめていたが――やがて、大きくニコリと笑った。
「……いい剣だ」
「ほんと!? ……やった!!」
あたしは思わず右手でガッツポーズをしていた。その手を突き出し、キリトの右拳にごつんと打ち合わせる。
こんな気持ちは久しぶりだった。
昔――、10層あたりの町で路上販売していた頃、がむしゃらに作った武器をお客に褒められたときにもこんな気分がした。鍛冶屋をしていてよかった、と心から思える瞬間。スキルを究め、ハイレベルプレイヤーだけを相手にした商売に乗り換えるうちに、いつしか忘れてしまっていた気持ちだった。
「……心の問題、だね……ぜんぶ……」
あたしがふと洩らした言葉に、いぶかしい顔でキリトが首を傾げてくる。
「う、ううん、なんでもないよ。――それより、どっかで乾杯しようよ。あたしお腹空いちゃった」
照れ隠しに大声で言い、キリトの背後から彼の両肩を押す。そのまま工房から出ようとして――あたしはふと、ある疑問に気がついた。
「……ねえ」
「ん?」
肩越しに振り向くキリト。その背中に吊られた、黒い片手剣。
「そう言えば――あんた最初、『この剣と同等の』って言ったわよね。その白いのは確かにいい剣だけど、あんたのそのドロップ品とそんなに違うとも思えないわよ。なんで似たような剣が二本も必要なのよ?」
「ああ……」
キリトは振り向くと、何かを迷うような表情であたしをじっと見つめてきた。
「うーん、全部は説明できない。それ以上聞かない、って言うなら教える」
「何なのよ、もったいぶって」
「ちょっと離れて」
あたしを工房の壁際まで下がらせると、キリトは左手に白い剣を下げたまま、右手で背中の黒い剣を音高く抜きはなった。
「……?」
彼の意図が掴めなかった。先程装備フィギュアを操作したからには、現在システム的に装備状態にあるのは左手の剣だけで、右手にもう一本武器を持ったところで何の役にも立たないはずだ。それどころか、イレギュラー装備状態と見なされてソードスキルの発動ができなくなる。
あたしの戸惑い顔に一瞬視線を向け、キリトはゆっくりと左右の剣を構えた。右の剣を前に、左の剣を背後に。わずかに腰を落とし――、そして、次の瞬間。
赤いエフェクトフラッシュが炸裂し、工房を染め上げた。
キリトの両手の剣が交互に、目に見えない程のスピードで前方に撃ち出された。キュババババッ! というサウンドが空気を圧し、カラ撃ちにも関わらず部屋中のオブジェクトがびりびりと震えた。
明らかにシステムに規定された剣技だ。でも――、二本の剣を操るスキルなんて聞いたことがない!
息を呑んで立ち尽くすあたしの前で、おそらく十連撃を超える連続技を放ち終わったキリトが音もなく体を起こした。左右の剣を同時に切り払い――右手の剣だけを背中に収めて、あたしの顔を見て言った。
「とまあ、そういう訳だ。――この剣の鞘が要るなぁ。みつくろってもらえる?」
「あ……う、うん」
キリトに度肝を抜かれるのは何度目だろうか。いいかげん慣れつつあるあたしは、とりあえず疑問を先送りすることにして、壁に手を伸ばしホームメニューを表示させた。
ストレージ画面をスクロールし、馴染みの細工師からまとめて仕入れている鞘の一覧をざっと眺める。キリトが背に装備しているものに良く似た黒革仕上げのやつを選び出し、オブジェクト化。小さくうちの店のロゴが入ったそれをキリトに手渡す。
ぱちりと音をさせて白い剣を鞘に収めたキリトは、ウインドウを開いてそれを格納した。背中に二本装備するのかと思ったらそういうわけでもないらしい。
「……ナイショなんだ? さっきの」
「ん、まあな。黙っててくれよ」
「りょーかい」
スキル情報は最大の生命線、聞くなと言われれば追求はできない。それよりも、秘密の一端にせよ見せてくれたことが嬉しくて、あたしは小さく笑って頷いた。
「……さて」
キリトは腰に手を置くと、表情を改めた。
「これで依頼完了だな。剣の代金を払うよ。いくら?」
「あー、えっと……」
あたしは一瞬唇を噛んでから――ずっと胸の中で暖めていた答えを口にした。
「お金は、いらない」
「……ええ?」
「そのかわり、あたしをキリトの専属スミスにして欲しい」
キリトがわずかに目を見張る。
「……それって、どういう……?」
「攻略が終わったら、ここに来て、装備のメンテをさせて……。――毎日、これからずっと」
心臓の鼓動が際限なく速まっていく。これはバーチャルな身体感覚なんだろうか、それともあたしの本当の心臓も、今同じようにドキドキしているんだろうか――と頭の片隅で考える。頬が熱い。きっと、あたしは今顔じゅう真っ赤になっていることだろう。
いつもポーカーフェイスを崩さなかったキリトも、あたしの言葉の意味を悟ったのか、照れたように顔を赤くして俯いた。今まで年上に見えていた彼だが、その様子を見ていると同年代か、ことによると年下のようにも思えてくる。
あたしは勇気を振り絞って一歩踏み出し、キリトの腕に手をかけた。
「キリト……あたし……」
竜の巣から脱出したときはあんなに大声で叫んだ言葉だったけれど、いざ口にしようとすると舌が動かない。じっとキリトの黒い瞳を見つめ、どうにかそのひとことを音にしようとした――その時だった。
工房のドアが勢い良く開いた。あたしは反射的にキリトから手を離し、飛び退った。
「リズ!! 心配したよー!!」
一瞬遅れて駆け込んできた人物は、大声で叫びつつあたしに体当たりするような勢いで抱きついてきた。栗色の長い髪がフワリと宙を舞った。
「あ、アスナ……」
唖然として立ち尽くすあたしの顔を、アスナは至近距離で睨みながら猛然とまくし立てた。
「メッセージは届かないし、マップ追跡もできないし、常連の人も何も知らないし、一体ゆうべはどこにいたのよ! わたし黒鉄宮まで確認に行っちゃったんだからね!」
「ご、ごめん。ちょっと迷宮で足止め食らっちゃって……」
「迷宮!? リズが、一人で!?」
「ううん、あの人と……」
視線でアスナの斜め後ろを指し示す。くるりと振り向いたアスナは、そこに所在なさそうに立つ黒衣の剣士の姿を見ると、目と口をポカンと開けてフリーズした。次いで、ワンオクターブ高い声で――
「き、キリトくん!?」
「ええ!?」
今度はあたしが仰天する番だった。アスナと同じように棒立ちになってキリトを見やる。
彼は軽く咳払いすると、右手を少し上げて言った。
「や、アスナ、久しぶり……でもないか。一日ぶり」
「う、うん。……びっくりした。そっか、早速来たんだ。言ってくれればわたしも一緒したのに」
アスナは両手を後ろで組むと、含羞むように笑って、ブーツの踵で床をとんとんと叩いた。その頬がわずかに桜色に染まっているのを見て――
あたしはすべてを察した。
キリトがこの店に来たのは偶然じゃないんだ。あたしとの約束を守って、アスナがここを推薦したんだ……彼女の、想い人に。
(どうしよう……どうしよう)
頭のなかで、その言葉だけがぐるぐると渦巻いていた。足先からゆっくりと全身の熱が流れ出してしまうような気がした。体に力が入らない。息ができない。気持ちの行き場が――見付からない……。
立ちつくすあたしの方に向きなおると、アスナは屈託のない様子で言った。
「この人、リズに失礼なこと言わなかったー? どうせあれこれ無茶な注文したりしたんでしょ」
そこで小さく首をかしげ――
「あれ……でも、ってことは、ゆうべはキリトくんと一緒だったの?」
「あ……あのね……」
あたしは咄嗟に足を踏み出し、アスナの右手を掴むと工房のドアを押し開けた。わずかにキリトの方を向き、彼の顔を見ないようにしながら早口に言う。
「少し待っててくださいね。すぐ帰ってきますから……」
そのままアスナの手を引き、売り場に出る。ドアを閉め、陳列棚のあいだを抜けて店の外へ。
「ちょ、ちょっとリズ、どうしたのよ」
戸惑った声でアスナが聞いてきたけど、あたしは無言で表通り目指して早足で歩き続けた。あれ以上、キリトの前にいられなかった。逃げ出さなければ、行き場を無くした気持ちをぶつけてしまいそうだった。
あたしの只ならぬ様子に気付いたのか、アスナはそれ以上何も言わずに黙ってついてきた。そっと彼女の手を離す。
東に向かう裏通りに入り、しばらく歩くと、高い石壁に隠れるように小さなオープンカフェがあった。客は一人もいない。あたしは端っこのテーブルを選ぶと、白い椅子に腰掛けた。
アスナは向かいに座ると、気遣わしげな様子であたしの顔を覗き込んできた。
「……どうしたの、リズ……?」
あたしはなけなしの元気を振り絞って、にこりと大きな笑みを浮かべた。アスナと気安い噂話に花を咲かせるときの、いつもどおりのあたしの笑顔。
「……あの人なんでしょー」
腕を組み、アスナの顔を斜に見る。
「え、ええ?」
「アスナの、好きな人!」
「あ……」
アスナは肩をすぼめるようにして俯いた。頬を染めながら、大きくこくんと頷く。
「……うん」
ずきん、という鋭い胸の痛みをむりやり無視して、更ににやにや笑いを浮かべる。
「確かに、変な人だね、すっごく」
「……キリトくん、なにかした……?」
心配そうなアスナに、力いっぱい頷き返す。
「あたしの一番の剣をいきなりヘシ折ってくれたわよ」
「うわっ……ご、ゴメン……」
「別にアスナが謝ることないよー」
自分のことのように、両手を胸の前で合わせるアスナを見ると、胸の奥がさらにずきずきと疼く。
(もうちょっと……もうちょっとだけ、がんばれリズベット……)
心の中で呟いて、どうにか笑顔を保ちつづける。
「まあそれで、あの人の要求する剣を作るにはどうしてもレア金属が必要だってことになって、上の層に取りにいったのよ。そしたらせこいトラップに引っかかっちゃてさ、脱出に手間取って、それで帰れなかったの」
「そうだったの……。呼んでくれればよかったのに、ってメッセージも届かないのか……」
「アスナも誘えばよかったね、ごめん」
「ううん、昨日はギルドの攻略があったから……。で、剣はできたの?」
「あ、まあね。まったく、こんな面倒な仕事は二度とゴメンだわ」
「お金いっぱいふんだくらないとダメだよー」
同時にあははと笑う。
あたしは微笑を浮かべたまま、最後のひとことを口にした。
「まあ、ヘンだけど悪い人じゃないわね。応援するからさ、頑張りなよ、アスナ」
限界だった。語尾がわずかに震えた。
「う、うん、ありがと……」
アスナは頷きながら、首を傾げてあたしの顔を覗きこんできた。伏せた目蓋の奥を見られないうちに、勢い良く立ち上がり、言う。
「あ、いっけない! あたし、仕入れの約束があったんだ。ちょっと下まで行ってくるね!」
「えっ、店は……キリトくんはどうするの?」
「アスナが相手してて! よろしく!」
きびすを返し、駆け出した。背後のアスナに向かってパタパタと手を振る。振り向くわけには行かなかった。
ゲート広場の方に向かって走り、オープンカフェから見えないところまで来ると、最初の角を南に曲がった。そのまま街の端っこ、プレイヤーのいない場所目指して一心不乱に駆け続けた。視界がゆがむと、右手で目を拭った。何度も何度も拭いながら走った。
気付くと、街を囲む城壁の手前まで来ていた。緩やかに湾曲して伸びる壁の手前に、巨大な樹が等間隔で植わっている。その一本の陰に入ると、幹に手をついて立ち止まった。
「うぐっ……うっ……」
喉の奥から、抑えようもなく声が漏れた。必死に堪えていた涙が、次々と溢れ出しては頬を伝って消えていった。
この世界に来て二度目の涙だった。ログイン初日に、パニックを起こして泣いてしまってからは、もう決して泣くまいと思っていた。システムに無理やり流させられる涙なんて御免だと思っていた。でも今あたしの頬を伝う涙より熱く、辛い涙は、現実世界でも流したことはなかった。
アスナと話しているとき、喉もとまで出かかっていた言葉があった。「あたしもあの人が好きなの」と、何度も言いかけた。でも、言うわけにはいかなかった。
工房で、向き合って話すキリトとアスナを見たとき、あたしは、自分のための場所がキリトの隣にはないことを悟った。なぜなら――あの雪山で、あたしはキリトの命を危険にさらしてしまったから。あの人の隣には、あの人と同じくらい強い心を持った人しか立てない。そう……例えば、アスナのような……。
向かい合う二人の間には、丁寧に仕立てられた剣と鞘のように強く引き合う磁力があった。あたしはそれをはっきりと感じた。それになにより、アスナはキリトのことを何ヶ月も思い続けて、少しずつ距離を縮めようと毎日がんばっているのに――今更そこに割り込むような真似が、できるはずもなかった。
そうだ……あたしは、キリトと昨日出会ったにすぎないんだ。見知らぬ人と慣れない冒険をして、心がびっくりして熱に浮かされてるだけだ。本物じゃない。この気持ちは本物じゃない。恋をするなら、急がず、ゆっくり、ちゃんと考えて――、あたしはずっと、ずっとそう思ってきたじゃないか。
なのに、なんでこんなに涙が出るんだろう。
キリトの声、仕草、この二十四時間で彼の見せたすべての表情が、次々と瞼の裏に浮かび上がる。あたしの髪を撫で、腕を取り、強く抱きしめてくれた彼の手の感触。彼の暖かさ、あの心の温度――。あたしの中に焼きついたそれらの記憶に触れるたび、激痛が胸の奥を深くえぐる。
忘れるんだ。全部夢だ。涙で、洗い流してしまうんだ。
街路樹の幹に指を立て、強く握り締めて、あたしは泣いた。うつむいて、声を押し殺し、泣きつづけた。現実世界ならいつかは涸れるはずの涙だけど、両目から溢れ出す熱い液体は、どれだけ流そうと尽きることはないように思われた。
そして――、あたしの後ろから、その声がした。
「リズベット」
名前を呼ばれて、全身がびくりと震えた。柔らかく、穏やかで、少年の響きを残したその声。
きっと幻だ。彼がここにいるはずがない。そう思いながら、涙を拭いもせず、あたしは顔を上げゆっくりと振り向いた。
キリトが立っていた。黒い前髪の奥の目に、彼なりの痛みに耐えている色を浮べ、あたしを見ていた。あたしはしばらくその瞳を見つめ返し、やがてかすれ、震える声で囁いた。
「……だめだよ、今来ちゃ。もうちょっとで、いつもの元気なリズベットに戻れたのに」
「……」
キリトは無言のまま一歩足を踏み出し、右手をこちらに伸ばそうとした。あたしは小さく首を振ってそれを拒んだ。
「……どうしてここがわかったの?」
訊くと、キリトは首を巡らせ、街の中心部のほうを指した。
「あそこから……」
その指の先、はるか遠くには、ゲート広場に面して立つ教会の一際高い尖塔が、建築物の波の上に頭を出していた。
「街じゅう眺めて、見つけた」
「ふ、ふ」
涙はあいかわらず密やかに流れ続けていたが、それでもキリトの答えを聞いて、あたしは口許に笑みを浮べた。
「あいかわらずムチャクチャだね」
そんなところも……好きだ。どうしようもない程。
再び嗚咽の衝動がこみ上げてくるのを感じた。それを必死に押さえつける。
「ごめん、あたしは……だいじょぶだから。今は、一人にしといて」
それだけどうにか言って振り返ろうとした時、キリトが言葉を続けた。
「俺――、俺、リズにお礼が言いたいんだ」
「え……?」
予想外の言葉に戸惑い、彼の顔を見つめる。
「……俺、昔、ギルドメンバーを全滅させたことがあって……。それで、もう二度と、人に近づくのはやめようって決めたんだ」
キリトは瞬間眉を寄せ、唇を噛み締めた。
「……だから今は、誰かと、その……付き合ったりとか、そんな気にはなれないんだ。パーティー組むのも怖くて……。でも、昨日、リズにクエストやろうって誘われたとき、何故かすぐにOKしてた。一日中、ずっと不思議に思ってた。どうして俺はこの人と一緒に歩いてるんだろうって……」
あたしは胸の痛みも一瞬忘れ、キリトを見た。
それは――それは、あたしが……。
「今まで、誰かに誘われても、全部断ってた。知り合いの……いや、名前も知らない奴でも、人の戦闘を見るだけで足がすくむんだ。その場から逃げ出したくてたまらなくなる。だからずっと、人がいないような最前線の奥の奥ばっかりこもってさ。近いうち、一人でひっそり死ぬだろうって、そう思ってた。――あの穴に落ちたとき、一人生き残るより死んだほうがましだって思ったの、ウソじゃないんだぜ」
かすかに笑みを浮べる。その奥に底知れない疲弊の色を見た気がして、あたしは息を飲む。
「でも、生きてた。意外だったけど、リズと一緒に生きてたことが、すごく嬉しかった。それで、夜に……リズが、俺のとこに、来たとき……わかったんだ。リズがすっごく暖かくて……こんな暖かさがあったのかって、思った。俺、多分……ずっと、誰かに傍に来て欲しかったんだ。それにようやく気がついた」
「……」
今度は、心の奥から、本当の笑みが浮かび上がってきた。あたしは不思議な感慨にとらわれながら、口を開いた。
「それは……それはね……、あたしが考えてたことだよ。あたしも、まったく同じこと思ってた、ずっと」
不意に、心の奥に突き刺さった氷の棘が、ゆるりと溶けだすような、そんな気がした。いつしか涙も止まっていた。あたしたちは、しばらくの間、黙って見詰め合っていた。あの飛翔のとき訪れた奇跡の時間の手触りが、再びあたしの心を捉えた。
報われた。そう思った。
今のキリトの言葉が、割れ落ちたあたしの恋の欠片をくるみ、そのまま深いところに沈んでいくのを感じた。
「今はまだ――」
キリトが言葉をつないだ。
「まだ、無理かもしれないけど、もう少し時間がたてば、俺……」
あたしは小さく手を挙げ、キリトの言葉をさえぎった。微笑しながら、首を左右に振る。
「その先は、アスナに聞かせてあげて。あの子も苦しんでる。キリトの暖かさを欲しがってるよ」
「リズ……」
「あたしは大丈夫」
そっと頷き、両手で胸を押さえた。
「まだしばらくは、熱が残ってるよ。だからね……お願い、キリトがこの世界を終わらせて。それまでは、あたし頑張れる。でも、現実世界に戻ったら……」
ニッと悪戯っぽく笑った。
「第二ラウンド、するからね」
「……」
キリトも笑い、大きく頷いた。次いで左手を振り、ウインドウを出す。何をするのかと思っていると、背中から『エリュシデータ』を外し、アイテム欄に格納した。続けて装備フィギュアを操作すると、同じ場所に新しい剣が実体化した。『ダークリパルサー』、あたしの――思いが詰まった、白い剣。
「今日からこの剣が俺の相棒だ。代金は……向こうの世界で払うよ」
「おっ、言ったわね。高いぞ」
笑いあいながら、ごつんとお互いの右こぶしを打ちつける。
「さ、店に戻ろ。アスナが待ちくたびれちゃうし……お腹も空いたし」
言うと、あたしはキリトの前に立って歩き始めた。最後に一回、ぐいっと両目を拭うと、目尻に留まっていた最後の涙が散り、光の粒になって消えていった。
今日は朝から一際厳しく冷え込んだ。
あたしは両手を擦り合わせながら工房に入った。壁のレバーを引き、すぐに赤く焼け始める炉に手をかざして温める。水車のごとん、ごとんという音だけは相変わらずだが、初冬の今でこれだけ寒いのだ。もし真冬になって裏の小川が凍ってしまったらどうなるのだろうと思うと心配になる。
しばらく考えこんでからハッと我に返り、妙な思考を振り払ってスケジューラを確認した。今日が納期のオーダーが八件も溜まっている。てきぱき片付けないと日が暮れてしまう。
最初の注文は軽量タイプの片手用直剣。インゴット一覧をしばし睨んで、予算と性能の折り合いがつくものを選び出し、炉に放り込む。
この頃ではあたしのハンマー捌きの腕も上がったし、新しい金属もいろいろ入荷するようになって、コンスタントにハイレベルな武器を打てるようになってきている。程よく焼けた頃合を見計らってインゴットを金床の上に。ハンマーを設定して、勢いよく振り下ろす。
でも、片手用直剣に限って言えば――。今年の夏に鍛えたあの剣を上回るものは一つとして出来なかった。それが口惜しくもあり、嬉しくもある。
あたしの心のカケラが埋まったあの剣は、今日も遠い前線で、元気に暴れていることだろう。時々目の前の砥石で面倒を見ているけど、普通の武器とは違い、使い込まれる程に刀身の透明度が増しているような気がする。なんだか、いつか数値的消耗度とは別に、その役目を終えて砕けてしまうのではないか――そんな予感さえする。
でもまあ、それは多分もうしばらく未来のことだ。今の最前線は75層。あの剣にはまだまだ頑張ってもらわないといけない。あの人――キリトの右手の中で。
気付くと、いつの間にか規定回数を打ち終えていたらしく、インゴットが赤い光を放ちながら変形し始めた。魔法の瞬間を固唾を飲んで見守り、やがて出現した剣を手にとって検分する。
「……まあまあ、かな」
呟いて、あたしはそれを作業台の上に置いた。さっそく次のインゴット選びに取り掛かる。今度はツーハンドアクス、リーチ重視……。
お昼をだいぶ過ぎた頃、どうにか全ての注文を片付け、あたしは立ち上がった。首をぐるぐる回しながら大きく伸びを一回。ほっと息をつくと、壁に掛かった小さな写真が目に入った。
肩を寄せてピースサインをするあたしとアスナ。アスナの隣、半歩下がった位置に立ち、苦笑いしているキリト。この建物の前で撮影したものだ。半月ほど前――あの二人が、結婚の報告に来たときに。
誰が見ても似合いの二人なのに、ゴールするまでに結局半年もかかったのだ。あたしもだいぶヤキモキさせられて、色々世話を焼いたから、とうとう結婚すると告げられたときはとても嬉しかった。それに――ほんの少しの、切ない疼きも。
あの夜のことは今でもよく夢に見る。あたしの、さして起伏のない二年間の中で、ささやかな宝石のように光る幻想の夜の思い出。熾火のように、三ヶ月経った今でもあたしの胸を暖めている。
「……我ながら……」
呆れるなあ、と心の中で呟いて、写真をそっと指先でなぞった。合理的なリアリストだと自己評価していたのに、実はこんな健気な性格だったとは自分でもまるで気付かなかった。
「結局、ずーっと恋してるんだよ、キミに」
写真の一点をトン、と叩いて、あたしは身を翻した。遅い昼食は自分で適当に作ろうか、それともたまには外で食べようか、と考えながら、工房を出た――その時だった。
いまだかつて聞いたことのない効果音が、大音量で頭上に響き渡った。リンゴーン、リンゴーンという、鐘のようなアラームのような……。咄嗟に天井を眺めたけれど、どうやら音はそのさらに上、上層の方向から響いているらしい。
慌てて外に駆け出そうとしたところで、さらにあたしを驚愕させる出来事が起こった。ここに店を開いて以来、当然ではあるけれど一日も休まずカウンターに立ちつづけた店番NPCが、いきなり音もなく消滅したのだ。
「……!?」
目を丸くして、さっきまで彼女がいた空間を凝視するものの、戻ってくる気配はない。何か容易ならざる事が起こっている。
転がるように外に出たあたしは、さらなる驚きに見舞われて立ち尽くした。
頭上百メートルに広がる上層の底、その無機質な灰色の蓋の手前に――巨大な、赤い文字がびっしりと並んでいた。食い入るように見ると、『System Supervisory Mode』と『Urgent Notification』の二つの英文が市松模様状に並んでいるようだ。
「システム管理モード……緊急告知……?」
わけが判らず周りを見回すと、あたしと同じように沢山のプレイヤー達が棒立ちになって上層を見上げている。その光景に、何となく違和感が紛れているような気がして少し考えると、すぐにその理由に思い至った。
普段なら、道を歩いたり、物を売ったりしているはずのNPCがただの一人もいないのだ。たぶん、うちの店番と同時に消えたのだと思われるけれど……一体、なぜ――。
不意に、鳴りつづけていたアラーム音が停まった。一瞬の静寂の後、今度はソフトな女性の声が、同じく大音量で降ってきた。
「ただいまより プレイヤーの皆様に 緊急のお知らせを行います」
人工的、電気的な響きのある声だった。明らかにゲーム運営サイドのアナウンスだと思われるけれど、管理者の気配をぎりぎりまで削り落としているSAOでこの手の告知を聞いたのは初めてのことだった。固唾を飲んで耳を澄ませる。
「現在 ゲームは システム管理モードで 稼動しております。すべての モンスター及びアイテムスパンは 停止します。すべての NPCは 撤去されます。すべての トレードを含むメッセージ交換は 不可能となります」
システムエラー? 何か致命的なバグが出た……?
あたしは咄嗟にそう思った。心臓を、不安の手がぎゅっと掴む。でも、次の瞬間――。
「アインクラッド標準時 十一月 七日 十四時 五十五分 ゲームは クリアされました」
――システム音声は、そう告げた。
ゲームは、クリアされました。
その言葉の意味が、数秒間分からなかった。周囲のプレイヤーも、皆凍りついた表情で立ち尽くしていた。でも、更に続く言葉を聞いて、全員が飛び上がった。
「プレイヤーの皆様は 順次 ゲームから ログアウトされます。 その場で お待ちください。 繰り返します……」
突然、うわあっ! という大歓声が巻き起こった。地面が――、いや、アインクラッド中が震えた。皆が抱き合い、地面を転げまわり、両手を突き上げて絶叫していた。
あたしは動けず、何も言えず、店の前でただ立っていた。どうにか両手を持ち上げ、口を覆った。
やったんだ。彼が――キリトが、やったんだ。いつものムチャクチャを……。
それは確信だった。だってまだ75層なのだ。それなのにゲームをクリアしてしまうような無茶、無謀、無軌道は、絶対にキリトの仕業だ。
耳もとで、微かな囁き声が聞こえた気がした。
(――約束、守ったぜ……)
「うん……うん……。とうとう、やったね……」
ついに、あたしの両目から熱い涙が迸った。それを拭いもせず、あたしは思い切り右手を突き上げて、何度も何度も飛び跳ねた。
「おーい!!」
両手を口にあて、遥か上層にいるはずの彼に届けとばかりに、力いっぱい叫んだ。
「絶対、また会おうね、キリト――!! ……愛してる!!」
(ソードアート・オンライン外伝3 『ココロの温度』 終)