巨大な水車がゆるやかに回転する心地よい音が、工房の中を満たしている。
さして広くもない職人クラス用プレイヤーホームだけど、この水車のおかげでやたらと高かった。48層主街区リンダースの街開きでこの家を見つけたとき、あたしは一目で「ここしかない!」と思って、次に値段を見て愕然としたものだ。
それからというものあたしは死にものぐるいで働き、各方面に借金をして、目標貯金額三百万コルを二ヶ月で達成した。もしここが現実なら全身にがっちりと筋肉がつき、手に堅いたこが出来てしまうほどにハンマーを振りまくった。
その甲斐あって、数人いたライバルにどうにか先んじて証書を手にし、この水車つきの家は晴れて『リズベット・ハイネマン武具店』となった。三ヶ月前、春にしては肌寒い日のことだった。
水車のごとんごとんという音をBGMに、慌しく朝のコーヒー(これがアインクラッドにあって本当によかった)を飲んだあと、あたしは鍛冶屋としてのユニフォームに着替え、壁の大きな姿見でざっと検分した。
鍛冶屋の――と言っても、作業服のようなものではなく、どちらかと言えばウェイトレスに近い。桧皮色のパフスリーブの上着に、同色のフレアスカート。その上から純白のエプロン、胸元には赤いリボン。
この服装をコーディネートしたのはあたしではなく、友人でお得意様でもある同い年の女の子だ。彼女いわく「リズベットは童顔だからごつい服は似合わないよー」ということで、最初は大きなお世話だ! と思ったけれど、確かにこのユニフォームに替えてから店の売上は倍増し――いささか不本意ではあったものの――以来ずっとこれで通している。
彼女のアドバイスは服だけに留まらず、髪型もことあるごとにいじられて、今はペールピンクのふわふわしたショートヘアという脅威的なカスタマイズを施されている。しかし周囲の反応を見るにどうやらこれもまんざら似合っていないというわけでもないらしい。
あたし――鍛冶屋リズベットは、SAOにログインした時は十五歳だった。現実世界でも歳より幼く見られがちだったけれど、この世界に来てからその傾向はいっそう強くなってしまった。鏡に映るあたしは、ピンクの髪に、ダークブルーの大きめな瞳、小さな鼻と口、古風なエプロンドレスとあいまってどこか人形のような雰囲気を漂わせている。
向こうではお洒落に興味のないマジメ中学生だった――常に眼鏡に三つ編みで通していた――だけにギャップを感じないではいられない。最近ではどうにかこの外見にも慣れてきたものの、性格だけは直せず、時折お客を怒鳴りつけてしまってはギョッとした顔で凍りつかせてしまうこともしばしばだ。
装備のし忘れがないことを確認すると、あたしは店先に出て、「CLOSED」の木札を裏返した。開店を待っていた数人のプレイヤーに最大級の笑顔を向け、「おはようございます、いらっしゃいませ!」と元気良く挨拶する。これが自然に出来るようになったのも実はけっこう最近のことだ。
お店を経営したい、というのは大昔からの夢だったけれど、たとえゲームの中とは言え夢と現実とは大違いで、接客やらサービスの難しさは宿屋を拠点に路上販売をしていた頃から嫌というほど味わった。
笑顔が苦手ならせめて品質で勝負をしようと、早い段階から遮二無二武器作成スキルを上げたのが結果的には正解だったらしく、幸いここに店を構えてからも多くの固定客がうちの武器を愛用してくれている。
ひととおり挨拶を済ませると、接客はNPCの店員に任せて、あたしは売り場と隣り合わせの工房に引っ込んだ。今日中に作らなくてはならないオーダーメイドの注文が十件ほど溜まっている。
壁に設えられたレバーを引くと、水車の動力によってふいごが炉に空気を送り、回転砥石がうなり始める。アイテムウインドウから高価な金属素材を取り出して、赤く燃え始めた炉に放り込み、十分熱せられたところで金床の上に移す。片ひざをついて愛用のハンマーを取り上げ、ポップアップメニューを出して作成アイテムを指定。あとは金属を既定回数叩くだけで武器アイテムが作成される。そこには特にテクニックのようなものは介在せず、完成する武器の品質はランダムだけれど、叩く時の気合が結果を左右すると信じているあたしは神経を集中しながらゆっくりハンマーを振り上げた。地金に最初の一撃を加えようとしたまさにその瞬間――。
「おはよーリズ!」
「うわっ!」
突然工房のドアがばたんと開いて、あたしの手許は思い切り狂った。金属ではなく金床の端っこを叩いてしまい、情けない効果音とともに火花が飛び散る。
顔を上げると、闖入者は頭をかきながら舌を出して笑っていた。
「ごめーん。以後気をつけます」
「その台詞、何回聞いたかなあ。……まあ、叩き始めてからでなくてよかったけどさ」
あたしはため息とともに立ち上がり、再び金属を炉に放り込んだ。両手を腰にあてて振り返り、あたしよりわずかに背の高い少女の顔を見上げる。
「……おはよ、アスナ」
あたしの親友にしてお得意様のレイピア使いアスナは、勝手知ったる工房の中を横切ると白木の丸椅子にすとんと腰を降ろした。肩にかかった栗色のロングヘアを、指先でふわりと払う。その仕草がいちいち映画のようにサマになっていて、長い付き合いにもかかわらずつい見とれてしまう。
あたしも金床の前の椅子に座ると、ハンマーを壁に立てかけた。
「……で、今日は何? ずいぶん早いじゃない」
「あ、これお願い」
アスナは腰から鞘ごとレイピアを外すと、ひょいと投げてきた。片手で受け取り、わずかに刀身を抜き出す。使い込まれて輝きが鈍っているが、切れ味が落ちるほどではない。
「まだあんまりヘタってないじゃない。研ぐのはちょっと早いんじゃないの?」
「そうなんだけどね。ピカピカにしときたいのよ」
「ふうん?」
あたしはあらためてアスナを見やった。白地に赤の十字模様を染め抜いた騎士服にミニスカートの出で立ちはいつもどおりだが、ブーツはおろしたてのように輝いているし、耳には小さな銀のイアリングまで下がっている。
「なーんか怪しいなあ。よく考えたら今日は平日じゃない。ギルドの攻略ノルマはどうしたのよ」
あたしが言うと、アスナはどこか照れたような笑みを浮かべた。
「んー、今日はオフにしてもらったの。この後ちょっと人と会う約束があって……」
「へええー?」
あたしは椅子ごと数歩アスナににじり寄った。
「詳しく聞かせなさいよ。誰と会うのよ」
「ひ、ひみつ!」
アスナは頬をわずかに染めながらそっぽを向く。あたしは腕を組むと、深く頷きながら言った。
「そっかぁー、あんたこの頃妙に明るくなったと思ったら、とうとう男ができたかぁ」
「そ、そんなんじゃないわよ!!」
アスナの頬が一層赤くなる。咳払いをして、あたしの方を横目で見ながら、
「……わたし、前とそんなに違う……?」
「そりゃあねー。知り合った頃は、寝ても醒めても迷宮攻略! って感じでさ。ちょっと張り詰めすぎじゃないのーって思ってたけど、春頃からすこしずつ変わってきたよ。大体、平日に攻略サボるなんて前のあんたからは想像もできないよ」
「そ、そっか。……やっぱ影響受けてるのかな……」
「ねえ、誰なのよ。あたしの知ってる人?」
「知らない……と思うけど……どうかな」
「今度連れてきなさいよ」
「ほんとにそんなんじゃないの! まだぜんぜん、その……一方通行だし……」
「へーっ!」
あたしは今度こそ心の底から驚く。アスナは最強ギルドKoBのサブリーダーにしてアインクラッドで五本の指に入るという美人で、彼女に言い寄る男は星の数ほどいるが、まさかその逆パターンがあろうとは夢にも思わなかった。
「なんだかねー、変な人なの」
アスナはうっとりと宙を見つめながら言う。口元にはほのかな微笑が浮かび、少女漫画ならバックに盛大に花が舞い散ろうという風情だ。
「掴み所無いっていうか……。マイペースっていうか……。その割りにはむちゃくちゃ強いし」
「あら、あんたよか強いの?」
「もう、ぜんっぜん。デュエルしてもわたしなんか多分十秒も持たないよ」
「ほほー。そりゃあかなり名前が限られますなぁ」
あたしが脳内の攻略組名簿を繰り始めると、アスナは慌てて両手を振った。
「わあ、想像しなくていいよー」
「まあ、そのうち会わせて貰えると期待しておきましょう。でもそういうことなら、ウチの宣伝、よろしく!」
「リズはしっかりしてるねえホント。紹介はしとくけどね。――あ、やば、早く研磨お願い!」
「あ、はいはい。すぐに研ぐからちょっと待ってて」
あたしはアスナのレイピアを握ったまま立ち上がると、部屋の一角に備えられている回転砥石の前に移動した。
赤い鞘から細い剣を抜き出す。武器カテゴリ『レイピア』、固有名『ランベントライト』、あたしが今まで鍛えた剣の中でも五指に入る名品のひとつだ。今手に入る最高の材料、最高のハンマー、最高の金床を使っても、ランダムパラメータのせいで出来上がる武器の品質にはばらつきがある。これほどの剣が打てるのは一ヶ月に一本がいいところだろう。
刀身を両手で支え、ゆっくり回転する砥石に近づけていく。武器の研ぎ上げには特にテクニックのようなものは無く、一定時間砥石に当てれば完了するのだけれど、やはりおざなりに扱う気にはなれない。
柄から先端に向かって丁寧に刀身を滑らせる。オレンジ色の火花が飛び散り、それと同時に銀色の輝きが蘇っていく。やがて研ぎが完了した時には、レイピアは朝の光を受けてきらきらと透き通るようなクリアシルバーの色合いを取り戻していた。
剣を鞘にぱちりと収め、アスナに投げ返す。彼女が同時に弾いてきた百コル銀貨を指先で受け止める。
「毎度!」
「今度アーマーの修理もお願いするね。――じゃ、わたし急ぐから、これで」
アスナは立ち上がると、腰の剣帯にレイピアを吊った。
「気になるなぁー。あたしもついて行っちゃおうかな」
「えー、だ、だめ」
「ははは、冗談よ。でも今度連れてきなさいよね」
「そ、そのうちね」
ぱたぱたと手を振って、アスナは逃げるように工房から飛び出していった。あたしは一つ大きく息をすると、再び椅子に腰掛けた。
「……いいなぁ」
ふと口をついて出た台詞に、思わず苦笑い。
この世界に来て一年半、生来あまりくよくよしない性質のあたしは商売繁盛だけに情熱を費やしてここまでやってきたけれど、鍛治スキルをほぼマスターし、店も構え、このところ目標を見失いがちなせいか、ときどき人恋しくなってしまうことがなくもない。
アインクラッドは絶対的に女の子が少ないので、そりゃ今まで口説かれたことはそれなりにあるけれど、何だかその気になれなかった。やっぱり自分から好きになった人がいい――と思う。そういう意味ではアスナのことが正直うらやましい。
「あたしも『素敵な出会い』のフラグ立たないかなぁー」
呟いてから頭をぶんぶん振って妙な思考を払い落とし、あたしは立ち上がった。火箸で炉から真っ赤に焼けたインゴットを取り出し、再び金床の上に。ハンマーを持ち上げて、えいやっと振り下ろす。
工房に響くリズミカルな鎚音は、いつもならあたしの頭をすぐに空っぽにしてくれるのに、今日に限ってはなかなかもやもやするものが去ろうとしなかった。
その男が店にやってきたのは、翌日の午後のことだった。
あたしは昨夜少々無理をしてオーダーメイドの注文を片付けたせいで睡眠不足で、店先のポーチに据えられた大きな揺り椅子に沈没してうたた寝をしていた。
夢を見ていた。小学校のころの夢だ。あたしはマジメでおとなしい子供だった(と思う)けれど、午後一番の授業中にどうにも眠くなってしまうクセがあって、よくうとうとしては先生に起こされていた。
あたしはその、大学出たての若い男性教師に憧れていて、居眠りを注意されるのはとても恥ずかしかったけれど、彼の起こしかたもなんとなく好きだった。そっと肩をゆすりながら、低い、穏やかな声で――
「ね、君、悪いけど……」
「はっ、はいっ、ごめんなさい!!」
「うわ!?」
バネ仕掛けのようにびよーんと立ち上がり、大声で叫んだあたしの前に、唖然とした顔で硬直している男性がいた。
「あれ……?」
あたしはぼんやりと周囲を見渡す。机が並んだ小学校の教室――ではなかった。ふんだんに配された街路樹、広い石畳の道を取り囲む水路、芝生の庭。あたしの第二の故郷、リンダースの街だ。
どうやら久々に思い切り寝惚けてしまったらしい。咳払いで気恥ずかしさを押し隠すと、客とおぼしき男に挨拶を返す。
「い、いらっしゃいませ。武器をお探しですか?」
「あ、う、うん」
男はこくこくと頷いた。
一見したところ、それほどの高レベルプレイヤーには見えなかった。歳はあたしより少し上だろうか。黒い髪に、同じく黒い簡素なシャツとズボン、ブーツ。武装は背中の片手剣ひとつきりだ。あたしの店の品揃えは、装備可能レベル帯の高い武器がほとんどなので正直心配だったが、顔には出さずに男を店内に案内する。
「えーと、片手剣はこちらの棚ですね」
レディメイド武器の見本が陳列されたケースを示すと、男は困ったように微笑みながら言った。
「あ、えっと、オーダーメイドを頼みたいんだけど……」
あたしはいよいよ心配になる。特殊素材を用いたオーダー武器の相場は最低でも十万コルを超える。代金を提示してからお客が赤くなったり青くなったりするのはこちらとしても気まずいので、何とかそんな事態を回避しようと、
「えーと、今ちょっと金属の相場が上がってまして、多少お高くなってしまうかと思うんですが……」
と言ってみたものの、黒衣の男は涼しい顔でとんでもないことを言い返してきた。
「予算は気にしなくていいから、今作れる最高の剣を作ってほしいんだ」
「……」
あたしはしばし呆然と男の顔を見ていたが、やがてどうにか口を開いた。
「……と言われても……具体的にプロパティの目標値とか出して貰わないと……」
つい口調が多少ぞんざいになったけど、男は気にするふうもなく頷いた。
「それもそうか。じゃあ……」
細い剣帯ごと背中に吊った片手剣を外し、あたしに差し出してくる。
「この剣と同等以上の性能、ってことでどうかな」
見たところ、そう大した品には見えなかった。茶色い革装の柄、同色の鞘。でも、右手で受け取った途端――。
重い!!
あやうく取り落としそうになった。恐ろしいほどの要求STRだ。あたしも鍛冶屋兼メイス使いとして筋力パラメータは相当上げているけど、とてもこの剣は振れそうにない。
恐る恐る刀身を抜き出すと、使い込まれて黒ずんだ光を放つ肉厚の刃がぎらりと光った。一目でかなりの業物だと知れる。指先でクリックし、ポップアップメニューを表示させる。カテゴリ『ロングソード/ワンハンド』、固有名『エリュシデータ』。製作者の銘、無し。ということはこれはあたしの同業者の手になるものではない。
アインクラッドに存在するすべての武器は、大きく二つのグループに分かれる。
一つはあたし達鍛冶屋が作成する「プレイヤーメイド」。もう一つが冒険によって入手できる「モンスタードロップ」だ。自然な成り行きとして、鍛冶屋はドロップ品の武器にあまりいい感情を抱かない。いきおい「無銘」「ノーブランド」などと揶揄的な呼び名も横行することになる。
だがこの剣は、ドロップ品の中でもかなりのレアアイテムだと思われた。通常、プレイヤーメイドの平均価格帯の品と、モンスタードロップの平均出現帯の品を比べれば前者に軍配が上がるのだけれど、たまにこういう「魔剣」が現れることもある――らしい。
とりあえず、あたしの対抗意識は大いに刺激された。マスタースミスの意地にかけてもドロップ品に負けるわけにはいかない。
重い剣を男に返すと、あたしは店の正面奥の壁に掛けてあった一本のロングソードを外した。二ヶ月前に鍛え上げた、あたしの最高傑作だ。白革の鞘から抜き出した刀身は薄青く輝き、氷点下の冷気をまとっているかのように見える。
「これが今うちにある最高の剣よ。多分、そっちの剣に劣ることはないと思うけど」
男は無言であたしの差し出した青い剣を受け取ると、片手でひゅひゅんと振って、首を傾げた。
「少し軽いかな?」
「……使った金属がスピード系の奴だから……」
「うーん」
男はどうもしっくりこないという顔でなおも数回剣を振っていたが、やがてあたしに視線を向けると言った。
「ちょっと、試してみてもいいかい?」
「試すって……?」
「耐久力をさ」
男は左手に下げていた自分の剣を抜くと、店のカウンターの上にごとりと横たえた。その前にすっくと立ち、右手に握ったあたしの青い剣をゆっくり振りかぶる――。
男の意図を察したあたしは慌てて声をかけた。
「ちょ、ちょっと、そんなことしたらあんたの剣が折れちゃうわよ!!」
「折れるようじゃだめなんだ。その時はその時さ」
「んな……」
無茶な、という言葉をあたしは飲み込んだ。剣をまっすぐ頭上に振りかぶった男の目に鋭い光が宿った。すぐに刀身をペールブルーのライトエフェクトが包みはじめる。
「セイッ!」
気合一閃、もの凄い速さで剣が打ち下ろされた。まばたきする間もなく剣と剣が衝突、衝撃音が店中をびりびりと震わせる。炸裂した閃光のあまりのまばゆさに、あたしが目を細めて一歩後退った、その瞬間。
刀身が見事に真ン中からへし折れ、吹き飛んだ。
――あたしの最高傑作の。
「ぎゃああああ!!」
あたしは悲鳴を上げると男の右手に飛びついた。残った剣の下半分をもぎ取り、必死にためつすがめつ眺め回す。
……修復、不可能。
と判断し、がくりと肩を落とした、その直後。半分になった剣がなさけない音と共にポリゴンの破片を撒き散らし、消滅した。数秒間の沈黙。ゆっくりと顔を上げる。
「な……な……」
あたしは唇をわななかせながら、男の胸倉をがしっと掴んだ。
「なにすんのよこのーっ!! 折れちゃったじゃないのよーっ!!」
男も、顔を引きつらせながら答えた。
「ご、ごめん! まさか当てたほうが折れるとは思わなくて……」
……かち――――ん、と来た。
「それはつまり、あたしの剣が思ったよりヤワっちかったって意味!?」
「えー、あー、うむ、まあ、そうだ」
「あっ!! 開き直ったわね!!」
男の服を放し、両手をがしっと腰に当てて胸を反らす。
「い、言っておきますけどね! 材料さえあればあんたの剣なんかぽきぽき折れちゃうくらいのをいくらでも鍛えられるんですからね!」
「――ほほう」
勢いに任せたあたしの言葉を聞いた男が、にやっと笑った。
「そりゃあぜひお願いしたいね。これがぽきぽき折れるやつをね」
カウンターから黒い剣を取り、鞘に収める。あたしはいよいよ頭に血が上り――
「そこまで言ったからには全部付き合ってもらうわよ! 金属取りにいくとこからね!」
あっ、と思った時にはそう言い放っていた。しかしもう後には引けない。男は眉をぴくりと動かすと、無遠慮な視線であたしをじろじろ眺め回した。
「……そりゃ構わないけどね。俺一人のほうがいいんじゃないのか? 足手まといは御免だぜ」
「むきーっ!!」
なんと神経を逆撫でする男であろうか。あたしは両腕をばたばた振り回しながら子供のごとく抗弁する。
「ば、馬鹿にしないでよね! これでもマスターメイサーなんですからね!」
「ほほーお」
男がひゅう、と口笛を吹く。完全に面白がっている。
「そういうことなら腕前を拝見させてもらおうかな。――とりあえず、さっきの剣の代金を払うよ」
「いらないわよ!! そのかわり、あんたの剣よか強いのができたら、思いっきりふんだくるからね!」
「どうぞ幾らでもふんだくってくれたまえ。――俺の名前はキリト。剣ができるまでひとまずよろしく」
あたしは腕を組み、顔をふいっと反らせて言った。
「よろしく、キリト」
「うわっ、呼び捨てかよ、リズベット」
「むか!!」
――パーティーを組むにしては、最悪な第一印象だった。
「その金属」の噂が鍛冶屋の間に流れたのは十日ほど前のことだった。
SAOでは、最上層を目指す、というのが勿論最大のグランド・クエストなわけだけれど、それ以外にも大小さまざまのクエストが用意されている。NPCにお使いを頼まれたり、護衛したり、探し物をしたりと内容は幅広いけど、たいてい報酬にそこそこなアイテムが含まれる上に、一度誰かがクリアすると次に発生するのに時間がかかったり、中には一回こっきりのクエストもあるとあって、プレイヤーの注目度はのきなみ高い。
そんなクエストの一つが、58層の片隅にある小さな村で発見されたのだ。村の長であるNPCいわく――
西の山には白竜が棲んでいる。竜は毎日餌として水晶をかじり、その腹にクリスタルの精髄である金属を溜め込んでいる。
明らかに武具素材アイテムの入手クエストだ。さっそく大人数の攻略パーティーが組まれ、山の白竜はあっけなく討伐された。
――しかし、何も出なかった。小額のコル、けちなアイテム、ポーションや回復結晶代にすらならなかったと言う。
さては金属はランダムドロップなのかと、色々なパーティーが長老に話を聞いてフラグを立てては竜を倒したけど、これがさっぱり出ない。一週間ほどで鬼のような数のドラゴンが殺されたもののとうとう金属を手にするパーティーは出なかった。きっとクエストに見落としている条件があるのだ、と、今は盛んに検証が行われているところらしい。
あたしがその話をすると、工房の椅子に足を組んで座り、あたしが(イヤイヤ)淹れたお茶を啜っていたキリトと名乗る男は、「ああ」と軽く頷いた。
「その話、俺も聞いたな。確かに素材アイテムとしては有望っぽいよな。でも、ぜんぜん出ないんだろ? 今更俺たちが行っておいそれとゲットできるのか?」
「いろんな噂のなかに、『パーティーにマスタースミスがいないと駄目なんじゃないか』っていうのがあるのよ。鍛冶屋で戦闘スキル上げてる人ってそうはいないからね」
「なるほどな、試す価値はあるかもな。――ま、そういうことなら早速行こうぜ」
「……」
あたしはほとほと呆れてキリトの顔を見る。
「そんな脳天気っぷりでよく今まで生き残ってこれたわね。ゴブリン狩りにいくんじゃないのよ。それなりにパーティー整えないと……」
「でもそうすると、もしお目当てのブツが出ても最悪くじ引きだろ? そのドラゴンって何層の奴って言ったっけ?」
「……58層」
「んー、まあ、俺一人でどうにかなるだろ。リズベットは陰から見てればいいよ」
「……よっぽどの凄腕か、よっぽどのバカチンね、あんた。まあ泣いて転移脱出するのを見るのも面白そうだからあたしは構わないけどね」
キリトはふふんと笑うだけで何も答えず、お茶をずずーっと飲み干すとカップを作業台の上に置いた。
「さて、俺はいつ出発しても構わないぜ。リズベットは?」
「ああもう、どうせ呼び捨てにされるならリズでいいわよ。……ドラゴン山自体はそんなに大きくないらしいし、日帰りできるみたいだからあたしも準備はすぐ済むわ」
ウインドウを開き、エプロンドレスの上に簡単な防具類を装備する。愛用のメイスがアイテム欄に入っているのを確認し、ついでにクリスタルとポーションの手持ちが十分あるのも確かめる。
左手を振って「OK」と言うと、キリトも立ち上がった。工房から店頭に出ると、幸いお客は一人もいない。ドアの木札を「CLOSED」に裏返す。ポーチに立って外周を振り仰ぐと、まだまだ明るい陽光が差し込んでいた。日没までは相当間がある。金属入手に成功するにせよ失敗するにせよ――まず間違いなく後者だと思うけれど――あまり遅くならないうちに帰ってこられそうだった。
――なんか、妙なことになったなぁ……
店を出て、転移門広場目指して足を進めながら、あたしは内心で首を捻っていた。
隣でのんびりと歩く黒衣の男には、あたしは決していい印象を持っていない――はずだ。言うことはいちいちムカつくし、尊大で自信家だし、なによりあたしの傑作をぽっきりとやってくれたのだ。
しかしそれでいて、あたしはその初対面の男とこうして並んで歩いている。なんとこれから遠いフロアまで出かけて、パーティーを組んで狩りまですることになっている。これではまるで――まるでデー……
そこで思考を無理やり堰き止める。こんなことはかつて一度もなかった。それなりに仲のいい男性プレイヤーは何人かいるけれど、二人きりで出かけるのはなんだかんだと理由をつけて回避してきた。そう……怖かったのだ。特定の男性と、一歩踏み込んだ関係になるのが怖かった……。そうなるなら、まずあたしからちゃんと好きになった人と、ずっとそう思っていたはずだった。
なのに気付くとこの妙な男と――。これは一体どういうことなのか。
あたしの秘めたる葛藤に気付く風もなく、キリトはゲート広場の入り口に食べ物の屋台を見つけるといそいそと駆け寄っていった。やがて振り向いたその口には、大きなホットドッグが咥えられている。
「りうへっとも食う?」
……内心で思いっきり脱力する。悩んでいるのが馬鹿らしくなり、あたしは大声で答えた。
「食う!」
かりっとしたホットドッグ――正しくはそれに似た謎の食べ物――を齧り終わる頃には、58層北にある噂の村に辿り着くことができた。
フィールドのモンスターはさして問題ではなかった。
現在の最前線が63層であることを考えると、出現するモンスターは強敵の部類に属する。でもあたしのレベルは60台後半だったし、大口叩くだけあってキリトもそれなりに強いようで、ほとんどダメージを負うことなく数回のエンカウントを切り抜けることが出来た。
唯一の誤算は、このフロアのテーマが氷雪地帯だったということで――。
「びえっくし!!」
小さな村の圏内に踏み込み、気が抜けた途端、あたしは盛大なくしゃみを炸裂させた。他のフロアは夏なので油断していたら、ここでは地面に雪が積もり、家々の軒先からは巨大なつららが下がっている。
骨まで凍み通るような寒さにがたがた震えていると、隣に立つキリトが、呆れ顔で聞いてきた。
「……余分の服とかないのか?」
「……ない」
すると自分だってとうてい厚着には見えない黒衣の男はウインドウを操作し、大きな黒革のマントをオブジェクト化させてあたしの頭にばふっと放ってきた。
「……あんたは大丈夫なの?」
「精神力の問題だ、きみ」
まったくいちいちムカつく男だ。だが毛皮で裏打ちされたマントは実に暖かそうで、あたしはその魅力に抗しきれずいそいそとくるまった。途端に冷気が消失し、ほっと一息つく。
「さて……長老の家っていうのはどれかなー」
キリトの声に、小さな村をぐるりと見渡すと、中央広場の向こうに一際高い屋根を持つ家が見えた。
「あれじゃない?」
「あれだな」
頷きあい、歩き出す。
――数分後。
予想たがわずあたし達は村の長である白髯豊かなNPCを発見し、話を聞くことに成功したのだけれど、その話というのが長の幼少時代から始まり、青年期、熟年期の苦労話を経て、唐突にそういえば西の山にはドラゴンが、という経過を辿るとてつもない代物で、全部終わった頃には村はすっかり夕景に包まれていた。
へとへとに消耗して長の家から転がり出る。家々を覆う雪のフードを赤い夕日が染めて、その光景はとても美しいものだったが――。
「……まさかフラグ立てでこんな時間を食うとはなあ……」
「うん……。どうする? 明日また出直す?」
キリトと顔を見合わせる。
「うーん、でもドラゴンは夜行性とも言ってたしなあ。山ってあれだろ?」
指差すほうを見ると、そう遠くない場所に白く切り立った険しい峰が見えた。と言っても、アインクラッドの構造的制約によってその高さは絶対に百メートルを超えることはない。登頂にはそれほど苦労はしないだろうと思われる。
「そうね、行っちゃおうか。あんたが泣きべそかくとこ早く見たいしね」
「そっちこそ俺の華麗な剣さばきを見て腰抜かすなよ」
見合わせた顔を、二人してフンとそむける。でも、なんだか――キリトと憎まれ口の応酬をするのにちょっとワクワクし始めているような――
あたしはぶんぶんと頭を振って妙な気分をリセットし、ざくざくと雪を踏みしめて歩き始めた。
遠くからは険峻と見えた竜の棲む山も、踏み込んでみればさして苦労もせず登ることができた。
よくよく考えれば、今まで数多の混成パーティーが何度となく登頂に成功しているのだ。難易度が高かろうはずもない。
出現するモンスターの中で最も強力なのは、時間帯のせいもあるのか『フロストボーン』なる氷でできたスケルトンだったけど、ホネ系のモンスターならあたしのメイスの敵ではない。がしゃーんがしゃーんと気持ちいい音をさせながら蹴散らしていく。
雪道を登ること数十分、一際切り立った氷壁を回り込むと、そこがもう山頂だった。
上層の底部がすぐ近くに見える。そこかしこに、雪を突き破って巨大なクリスタルの柱が伸びている。残照の紫光が乱反射して虹色に輝くその光景は幻想的の一言だ。
「わあ……!」
思わず歓声を上げて走り出そうとしたあたしの襟首を、キリトががっしと掴んだ。
「ふぐ! ……なにすんのよ!」
「おい、転移結晶の準備しとけよ」
その表情はやけに真剣で、あたしは思わず素直に頷いていた。クリスタルをオブジェクト化し、エプロンのポケットに入れる。
「それから、ここからは俺がやるから、リズはドラゴンが出たらそのへんの水晶の陰に隠れるんだ。絶対顔を出すなよ」
「……なによ、あたしだって素人じゃないんだから、手伝うわよ」
「だめだ!」
キリトの黒い瞳が、まっすぐあたしの目を射た。その途端、不意に――この人は真剣にあたしの身を案じているのだ、ということが判って、息を詰めて立ち尽くしてしまった。何も言い返せず、再びこくりと頷く。
キリトはにっと笑うとあたしの頭にぽんと手を置き、「じゃあ、行こうか」と言った。あたしはもうコクコクと頭を振ることしかできない。
なんだか、突然空気の色まで変わってしまったような気がした。
キリトと二人でここまで来たのは、ちょっとした気分転換というか、その場の勢いというか――生死のかかった戦いだなんて意識はまったくなかった。
あたしはもともと、レベルアップのための経験値のほとんどは武具作成で得たのであって、本当にシビアな戦場には出たことがない。
でも、この人は違うんだ……、そう思った。日常的にギリギリの場所で戦っている人間の目だった。
混乱した気持ちを抱えたまましばらく歩くと、すぐに山頂の中央に到達した。
水晶柱にぐるりと取り囲まれたその空間には――
「うわあ……」
巨大な穴が開いていた。直径は十メートルもあるだろうか。壁面は氷に覆われてつるつると輝き、まっすぐどこまでも深く伸びている。奥は闇に覆われてまるで見えない。
「こりゃあ深いな……」
キリトがつま先で小さな水晶のかけらを蹴飛ばした。穴に落下したそれは、きらりと光ってすぐに見えなくなり――いつまでたっても、何の音もしなかった。
キリトはこつんとあたしの頭を突付くと、言った。
「落ちるなよ」
「落ちないわよ!」
唇を尖らせて言い返す。
その時だった。最後の残照で藍色に染め上げられた空気を切り裂いて、猛禽類のような高い雄叫びが響き渡った。
「その陰に入れ!!」
キリトが有無を言わせぬ口調で、手近の大きな水晶柱を指した。
あたしは慌てて言葉に従いながら、キリトの背中に向かってまくし立てた。
「ええと、ドラゴンのアタックパターンは、左右の鈎爪と、氷ブレスと、突風攻撃だって! ……き、気をつけてね!」
最後の部分を早口で付け加えると、キリトは背を向けたまま気障な仕草で親指を立てた左拳を振った。直後、その前方の空間が揺らぎ、滲み出すように巨大なオブジェクトの湧出が始まった。
ディティールの粗いポリゴンの塊が、立て続けにごつごつと出現する。それらは次々と接合しては、面を削ぎ落とすように情報量を増してゆき、やがて巨大な体がほぼ完成した――と見えたところでその全身を震わせて再び雄叫びを上げた。無数の細片が飛び散り、きらきらと輝きながら蒸発していく。
そこに姿を現したのは、氷のように輝く鱗を持った白竜だった。巨大な翼を緩やかにはためかせ、宙にホバリングしている。恐ろしい――というよりは美しいという表現が相応しい姿だ。紅玉のような大きな瞳をきらめかせ、あたしたちを睥睨している。
キリトが落ち着いた動作で背に手をやり、黒鉄色の片手剣を音高く抜き放った。すると、それが合図ででもあったかのように、ドラゴンが大きくその顎門を開き――硬質のサウンドエフェクトと共に、白く輝く気体の奔流を吐き出した。
「ブレスよ! 避けて!」
あたしは思わず叫んだが、キリトは動かない。仁王立ちのまま、右手に握った剣を、かざすように前に突き出す。
あんな細い武器でブレス攻撃が防げるものか――と思った瞬間、キリトの手を中心に、剣が風車のように回転し始めた。薄緑のエフェクトに包まれているところを見るとあれも剣技の一つなのだろうか。すぐに刀身が見えないほどに回転が速まり、まるで光の円盾のように見える。
そこに向かって、氷のブレスが正面から襲い掛かった。まばゆい純白の閃光。思わず顔を背ける。でも、キリトの剣が作り出したシールドに打ち当たった冷気の奔流は、吹き散らされるように拡散し、蒸発していく――。
あたしは慌ててキリトの体に視線を合わせ、HPバーを確認した。完全にはブレスを防げないのか、じわじわと右端から減少していくが、呆れたことに数秒たつとすぐに回復してしまう。超高レベル戦闘スキルの『バトルヒーリング』だと思われる――けれども、あれはスキルを上昇させるのに、戦闘で大ダメージを受けつづける必要があるので、現実問題として修行するのは不可能と言われている。
一体――何者なの……?
あたしは今更のように黒衣の剣士の正体に思いを馳せた。これほどの強さを持つのは、攻略組以外に考えられない。でも、KoBをはじめ主だったトップギルドの名簿には該当する名前はない。
と、その時、ブレス攻撃が途切れたのを見計らったようにキリトが動いた。爆発じみた雪煙を立てて、宙のドラゴンへと飛び掛る。
普通、飛行する敵に対してはポールアーム系や投擲系の、リーチの長い武器で攻撃して地面に引き摺り下ろし、それからショートレンジの戦闘に持ち込むのがセオリーだ。でも驚いたことにキリトはドラゴンの頭上を超えるほどの高さまで飛翔すると、空中で片手剣の連続技を始動させた。
キュキューン、という甲高い音を立てながら、目で追いきれない程のスピードで攻撃が白竜の体に吸い込まれていく。ドラゴンも左右の鈎爪で応戦するものの、手数が違いすぎる。
長い滞空を経てキリトが着地したときには、ドラゴンのHPバーは三割以上減少していた。
――圧倒的だ。ありうべからざる戦闘を見た衝撃で、背中にぞくぞくするものが疾る。
ドラゴンは、地面のキリト目掛けてアイスブレスを吐いたが、今度はダッシュで回避して再びジャンプ。重低音を響かせながら、単発の強攻撃を次々と叩き込む。その度にドラゴンのHPががくん、がくんと減少する。
バーは、たちまち黄色を通り越して赤へと突入した。もうあと一、ニ撃で決着がつくだろう。今度ばかりは素直にキリトの強さを称えてやろうと、あたしは体を起こした。水晶柱の陰から一歩踏み出す。
その途端。背中に目でもついているかのように、キリトが叫んだ。
「バカ!! まだ出てくるな!!」
「なによ、もう終わりじゃない。ささっとカタを……」
あたしが声を上げた、その時――。
一際高く舞い上がったドラゴンが、両の翼を大きく広げた。それが、音高く体の前で打ち合わされると同時に、竜の真下の雪がどばっ! と舞い上がった。
「……!?」
思わず立ち尽くしたあたしの数メートル前方で、地面に片手剣を突き立てたキリトが何かを言おうと口を開いた。だが直後、その姿は雪煙に包まれ――次の瞬間、あたしは空気の壁に叩かれて、あっけなく宙に吹き飛ばされた。
しまった――突風攻撃――!
空中でくるくると回りながら、今更のように思い出す。だが幸い、攻撃力自体はさほど無いようで、ダメージはそう受けていない。両手を広げ、着地体勢を取る。
けれど――雪煙が切れた、その先に、地面はなかった。
山頂に開いていた巨大な穴。あたしはその真上に吹き飛ばされてしまったのだ。
思考が停止する。体が凍りつく。
「うそ……」
それしか言えなかった。右手を、空しく宙に伸ばす――。
――その手を、黒革のグローブに包まれた手が、ぎゅっと掴んだ。
あたしは、なかば焦点を失っていた両眼を見開いた。
「――!!」
はるか遠くでドラゴンと対峙していたはずのキリトが、宙に身を躍らせ、左手であたしの手を掴んでいた。そのままぐいっと彼の胸に引き寄せられる。いったん離れた左手があたしの背に回り、固く包み込む。
「掴まれ!!」
キリトの叫び声が耳もとで響いて、あたしは夢中で両手を彼の体に回した。直後、落下が始まった。
巨大な縦穴の中央を、二人抱き合ったまま真っ直ぐに落ちていく。風が耳もとで唸り、マントがばたばたとはためく。
もし穴が、フロアの表面ぎりぎりまで続いているなら、この高さから落ちたら間違いなく死ぬ。そんな思考が頭を掠めたけど――現実のこととは思えなかった。ただ呆然と、遠ざかっていく白い光の円を見ていた。
不意に、キリトが剣を握った右手を動かした。背後に引き絞り、次いで前方に撃ち出す。がしゅん! という金属音とともに光芒が飛散する。
重い突き技の反動で、あたしたちは弾かれたように穴の壁面目指して落下の角度を変えた。青い氷の絶壁がみるみる迫ってくる。思わず歯を食いしばる。ぶつかる――!
激突の直前、再び右手を振りかぶったキリトが、剣を思い切り壁面に突き立てた。武器をグラインダーにかけた時のような火花が盛大に飛び散る。がくん、という衝撃とともに落下の勢いが鈍る。だが停まるには至らない。
金属を引き裂くような音を盛大に立てながら、キリトの剣が氷の壁を削っていく。あたしは首を動かし、落ちる先を見やった。雪が白く溜まった穴の底が見えた。みるみる近づいてくる。激突までもうあと数秒もない。あたしは、せめて悲鳴だけは上げるまいと必死に唇を噛み、キリトの体にしがみついた。
キリトが剣から手を離した。両腕であたしを固く抱き、体を半回転させて自分が下になる。そして――
衝撃。轟音。
爆発したかのように舞い上がった雪が、ふわふわと落ちてきて頬に触れ、消えた。
その冷たさで、飛びかけた意識が引き戻された。眼を見開く。至近距離にあったキリトの黒い瞳と視線が交差する。
あたしをきつく抱きしめたまま、キリトが唇をわずかに動かした。
「ワォ」
片頬をゆがめてかすかに笑う。
「生きてたな」
あたしもどうにか頷き、声を出した。
「うん……生きてた」
数十秒――ことによったら数分、あたしたちはそのままの姿勢で横たわっていた。動きたくなかった。キリトの体から伝わる熱が心地よくて、頭がぼおっとする。もっと――もっと強く抱いて欲しい――
でも、やがて、キリトは腕を解き、ゆっくりと体を起こした。腰のポーチからハイポーションとおぼしき小瓶をふたつ取り出し、一つをあたしに差し出してくる。
「飲んどけよ、一応」
「ん……」
頷いて、あたしも上体を起こした。瓶を受け取り、HPバーを確認すると、あたしのほうはまだ三分の一近く残っていたが、直接地面と激突したキリトはレッドゾーンまで突入していた。
栓を抜き、甘酸っぱい液体を一息に飲み干してから、あたしはキリトのほうに向き直った。ぺたりと座ったまま、まだうまく言うことを聞かない唇を動かす。
「あの……、あ……ありがと。助けてくれて……」
するとキリトは、例によってシニカルな笑みをかすかに滲ませ、言った。
「礼を言うのはちょっと早いぜ」
ちらりと上空に視線を向ける。
「……ここから、どうやって抜け出したもんか……」
「え……テレポートすればいいじゃない」
あたしはエプロンのポケットを探った。青く光る転移結晶をつまみ出し、キリトに示す。だが――。
「無駄だろうな。ここはもともとプレイヤーを落っことすためのトラップだろう。そんな手軽な方法で脱出できるとは思えないよ」
「そんな……」
あたしはキリトににじり寄り、左手を差し出した。キリトがその手を握ってくるのを確認し、クリスタルを掲げる。
「転移! リンダース!」
――あたしの叫び声が、空しく氷壁に反響し、消えていった。結晶はただかすかにきらめくのみ。
キリトは手を離すと、軽く肩をすくめた。
「結晶が使える確信があったら落ちてる最中に使ったけどな。無効化空間っぽい気配がしたからな……」
「……」
あたしが肩を落として俯くと、キリトがぽん、と頭に手を置いてきた。そのままあたしの髪をくしゃくしゃと撫でる。
「まあ、そう落ち込むな。結晶が使えないってことは、逆に言えばなにか脱出の方法が必ずあるってことだ」
「……そんなの、わかんないじゃない。落ちた人が百パーセント死ぬって想定したトラップかもよ? ……ていうか、普通死んでたわよ」
「なるほど、それもそうだ」
キリトがあっけなく頷くのを見て、あたしは再びがっくりと脱力する。
「あ……あんたねえ! もうちょっと元気づけなさいよ!!」
思わず声を荒げると、キリトはにやっと笑って言った。
「リズは怒ってたほうがかわいいぜ。その意気だ」
「んな……」
不覚にも赤面しつつ硬直してしまったあたしの頭から手を離し、キリトは立ち上がった。
「さあて、いろいろ試してみるかぁ。アイデア募集中!」
「……」
この状況に至ってもマイペースを崩さないキリトの態度に、あたしは苦笑するしかなかった。少しだけ元気が出てきた気がして、ぱちんと両手で頬っぺたを叩くと、あたしも立ち上がる。
ぐるりと周囲を見渡すと、そこはほぼ平らな氷の床に雪が薄く積もった、まさに穴の底だった。直径は変わらず十メートルほどだろうか。はるか高みの入り口から、氷壁に反射しながら差し込んでくる頼りない夕陽の残照にぼんやりと照らされている。じきに完全な暗闇に包まれてしまうだろう。
見たところ、地面にも、周囲の壁にも抜け道のようなものは無かった。あたしは腰に両手を当て、必死に頭を働かせ、浮かんできた最初のアイデアを口にした。
「えーと……助けを呼ぶっていうのはどうかしら」
「うーん、ここ、ダンジョン扱いじゃないか?」
だがキリトにあっさりと否定されてしまう。
フレンド登録しているプレイヤー、例えばアスナになら、フレンドメッセージというメールのようなもので連絡する手段があるのだが、迷宮ではその機能は使えない。ついでに言えば位置追跡もできない。
念のためメッセージウインドウを開いてみたが、キリトの言うとおり使用不可能だった。
「じゃあ……ドラゴン狩りにきたプレイヤーに大声で呼びかける」
「山頂までは高さ八十メートルはあったからなぁ……。声は届かないだろうな……」
「そっか……って、あんたもちょっとは考えなさいよ!!」
次々に意見を退けられ、あたしがややムクレて言い返すと、キリトはとんでもない事を言った。
「壁を走って登る」
「……バカ?」
「かどうか、試してみるか……」
あたしが唖然として見守るなか、キリトは壁ぎりぎりまで近づくと、突然反対側の壁目掛けて凄まじい速さでダッシュした。床に積もった雪が盛大に舞いあがり、突風があたしの顔を叩く。
壁に激突する寸前、キリトは一瞬身を沈めると爆発じみた音とともに飛び上がった。遥か高みで壁に足をつき、そのまま斜め上方へと走りはじめる。
「うっそ……」
眼と口をポカンとあけて立ち尽くすあたしの遠い頭上で、キリトがB級映画のニンジャのごとく、氷壁を螺旋状に駆け上がっていく。みるみるうちにその姿は小さくなり――三分の一近くも登ったところで、ツルンとこけた。
「わあああああああ」
再び壁面に剣を突きたて、がりがり削り取りながらキリトが落ちてくる。
「わあああ!?」
あたしも悲鳴を上げて落下地点に駆け寄る。腕を伸ばすが、わずかに届かず――ごしゃっ! という音とともにキリトが床に貼り付いた。
数分後。二本目のポーションを咥えたキリトと並んで壁際に座り込み、あたしは大きくため息をついた。
「――あんたのこと、バカだバカだと思っていたけどまさかこれほどの……」
「……もうちょっと助走距離があればイケたんだよ」
「そんなわけねー」
ぼそりと呟く。
飲み干した瓶をポーチに放り込んだキリトは、あたしのツッコミを無視して大きく一回伸びをすると、言った。
「ま、ともかく、こう暗くなっちゃ今日はここで野営だな……」
確かに、夕焼けの色はとうに消え去って、穴の底は深い闇に包まれようとしていた。
「そうね……」
「そうと決まれば、っと……」
キリトはウインドウを出すと、指を走らせ、何やら次々とオブジェクト化させた。
大きな野営用ランタン。手鍋。謎の小袋いくつか。大きなマグカップ二つ。
「……あんたいつもこんな物持ち歩いてるの?」
「ダンジョンで夜明かしは日常茶飯事だからな」
どうやら冗談ではないらしく、真顔でそう答えるとランタンをクリックして火をともした。ぼっという音とともに、明るいオレンジ色の光が辺りを照らし出す。
ランタンの上に小さな鍋を置くと、キリトは雪の塊を拾い上げて放り込み、更に小袋の中身をぱぱっとあけた。蓋をして、鍋をダブルクリック。料理待ち時間のウインドウが浮き上がる。
すぐに、ハーブのような芳香があたしの鼻をくすぐりはじめた。よく考えたら昼にホットドッグを齧ったきりだ。ゲンキンな胃が、思い出したように盛んに空腹を訴えてくる。
やがて、ポーン、という効果音と共にタイマーが消えると、キリトは鍋を取り上げて中身を二つのカップに注いだ。
「料理スキルゼロだから味は期待するなよ」
片方を差し出してくる。
「ありがと……」
受け取ると、じんわりとした温かみが両手に広がった。
スープは、香草と干し肉を使った簡単なものだったが、食材アイテムのランクが高いらしく、じゅうぶんすぎるほど美味しかった。冷えた体に、ゆっくりと熱がしみとおっていく。
「なんか……へんな感じ……。現実じゃないみたい……」
スープを飲みながら、ぽつりと呟いていた。
「こんな……初めてくる場所で、初めて会った人と、並んでご飯食べてるなんてさ……」
「そうか……。リズは職人クラスだもんな。ダンジョン潜ってると、行きずりのプレイヤーとにわかパーティー組んで野営するとか、けっこうあるよ」
「ふうん、そうなんだ。……聞かせてよ。ダンジョンの話とか」
「え、う、うん。そんな面白いもんじゃないと思うけど……。おっと、その前に……」
キリトは、空になったふたつのカップを回収すると、手鍋といっしょにウインドウに放り込んだ。続けて操作し、今度は大きな布の塊を二つ取り出す。
広げた所を見ると、それは野営用のベッドロールらしかった。現実世界のシュラフに似ているが、かなり大きい。
「高級品なんだぜ。断熱は完璧だし、対アクティブモンスター用のハイディング効果つきだ」
にやりと笑いながら一つを放ってくる。受け取り、雪の上に広げると、それはあたしなら三人は入れるほどの大きさだった。再び呆れながら言う。
「よくこんな物持ち歩いてるわねえ。しかも二つも……」
「アイテム所持容量は有効利用しないとな」
キリトは手早く武装を解除し、枕許に剣を置いてベッドロールの中にもぐりこんだ。あたしもそれに倣い、マントとメイスを外して袋状の布の間に体を滑り込ませる。
自慢するだけあって、確かに中は暖かかった。その上見た目よりはずいぶんふかふかと柔らかい。
ランタンを間に挟み、一メートル半ほどの距離を置いてあたし達は横たわった。なんだか――妙に照れくさい。
気恥ずかしさを紛らわすように、あたしは言った。
「ね、さっきの話、してよ」
「ああ、うん……」
キリトは両腕を頭の下で組むと、ゆっくりと話しはじめた。
迷宮区で、MPK――故意にモンスターを集めて、他のプレイヤーを襲わせる悪質な犯罪者――の罠に引っかかった話。弱点のわからないボスモンスターと、丸二日戦いつづけた話。レアアイテムの分配をするために百人でジャンケン大会をした話。
どの話もスリリングで、痛快で、どこかユーモラスだった。そして、全ての話が、明らかに告げていた。――キリトが、最前線で戦いつづける攻略組の一人であることを。
でも――そうであるならば――。この人は、その肩に、四万のプレイヤーの運命を背負っているのだ。こんな、あたしなんかの為にその命を投げ出していい人ではないはずだ――。
あたしは、体の向きを変え、キリトの顔を見た。ランタンの光を照り返す黒い瞳が、ちらりとこちらに向けられた。
「ねえ……キリト。聞いていい……?」
「――なんだよ、改まって」
その口もとに、わずかに照れたような笑みが浮かぶ。
「なんであの時、あたしを助けたの……? 助かる保証なんてなかったじゃん。ううん……あんたも死んじゃう確率のほうが、ずっと高かった。それなのに……なんで……」
キリトの口から、一瞬笑いが消えた。やがて、ごくごく穏やかな声で、呟いた。
「……誰かを見殺しにするくらいなら、一緒に死んだほうがずっとましだ。それがリズみたいな女の子なら尚更、な」
「……馬鹿だね、ほんと。そんな奴ほかにいないわよ」
口ではそう言いながら――あたしは不覚にも涙が滲みそうになっていた。胸の奥が、どうしようもなくぎゅーっと締め付けられて、それを必死に打ち消そうとする。
こんなに馬鹿正直で、ストレートで、暖かい言葉を聞いたのは、この世界に来て初めてだった。
ううん――元の世界でもこんなことを言われたことはなかった。
不意に、あたしの中にここ数ヶ月居座りつづけていた人恋しさ、寂しさのうずきのようなものが、大きな波になってあたしを揺さぶった。キリトの暖かさを、もっと直接、こころの触れる距離で確かめたくなって――。
無意識のうちに、唇から、言葉が滑り出していた。
「ね……そっちに……行っても、いい……?」
一瞬キリトが目を見開き、やがてその頬がわずかに赤らむのを見てからようやく、あたしは自分が何を言ったのか意識した。
「あ……あの……」
顔がかーっと熱くなる。心臓ががんがんと鳴り響きはじめる。動かない唇をどうにか動かし、まとまらない言葉を音にする。
「さ、寒くって。……それで……」
――でも、我慢できるから、と続けようとしたところで、キリトが動いた。体をベッドロールの奥側に寄せ、俯いたまま短く呟く。
「……いいよ」
キリトの隣は――ものすごく暖かそうだった。触れたい、体を寄せ合いたいという欲求が、縺れ、絡まりあった思考を押し流していく。
あたしは、ふわふわと熱に浮かされたような気持ちのまま上体を起こした。ベッドロールから這い出し、キリトの枕許まで移動する。
顔を赤くしたキリトは、あたしと目を合わせようとはしなかったが、右手でそっと布を持ち上げた。
無言で狭いすきまに入り込もうとして、硬い生地のロングスカートとエプロンがじゃまだなあと思う。今更恥ずかしがっても仕方ない――とぼんやりした頭の片隅で考え、ウインドウを出して手早く装備を解除。薄いブルーのキャミソール姿になって、つま先から布の中へと滑り込んだ。
途端に、ふわりと穏やかなぬくもりがあたしの全身を包んで、それだけで気が遠くなるほどの心地よさを感じた。もっと――もっと、感じたい。体を動かし、キリトの傍へと移動する。上体を密着させ、お互いの足先を絡める。
キリトが、おそるおそる、という感じに腕をあたしの体に回してきた。彼の肩口に顔を押し付けたまま、微かに囁く。
「もっと……強く、抱いて……」
ぎゅっ、と腕に力が込められ、頭の芯がびりびりと痺れた。
「はぁっ……」
堪えきれず、深い吐息を漏らす。
人間の暖かさだ、と思った。
この世界に来てから、常にあたしの心の一部に居座り続けていた渇きの正体がようやくわかったような気がしていた。
ここが仮想の世界であること――あたしの本当の体はどこか遠い場所に置き去りで、いくら手を伸ばしても届かない、そのことを意識するのが怖くて、次々に目標を作っては遮二無二作業に没頭してきた。剣を鍛え、店を大きくして、これがあたしのリアルなんだと自分に言い聞かせてきた。
でも――あたしは心の底で、ずっと思っていた。全部偽物だ、単なるデータだ、と。餓えていたのだ。本当の、人の温もりに――。
もちろん、キリトの体だってデータの構造物だ。今あたしを包んでいる暖かさも、電子信号があたしの脳に温感を錯覚させているに過ぎない。
けれど、ようやく気付いた。そんなことは問題じゃないんだ。心を感じること――現実世界でも、この仮想世界でも、それだけが、唯一の、真実なんだ。
キリトの心が発する熱で、あたしが溶けていく。からだの境界があいまいになり、心臓の疼きだけが意識を支配していく。
倫理コード解除設定のことは、知識として知っていた。キリトが求めてくればあたしは応じるだろうとも思っていた。でも、もう、そんな必要はなかった。二人の間を行き交う電子パルスが、心の距離をゼロにする――。
「もっと――もっと触って……」
キリトの手が動くたびに、頭の中がばちばちと弾ける。体を包む熱がどんどん高まっていく。
「…………ッ!!」
不意に、ぎゅっと閉じているはずの目蓋の裏が真っ白になった。意識がぱぁっと飛散した。なめらかな暗闇の中を、どこまでも落ちていく――。
眠りに落ちたのか、気を失ってしまったのか、それさえもわからなかった。