Sword Art Online
外伝3.1 『サルビア』
「もーダメ。もう限界」
情けない声で泣き言を漏らす和人の顔を横目でとらえ、直葉は笑いをかみ殺しながら声を張り上げた。
「ほら、がんばれ! あと二十回!」
ぴりりと切れるように冷たい空気の中、二人並んで竹刀を振り下ろし続ける。毎朝三百回の素振りは和人にはまだきついようで、数分毎に「だめー」とか「死ぬー」とか口走りながらも、それでも必ず最後まで続ける根性は見上げたものだと直葉は思う。
「二九八、……二九九、……はい終わりー」
「腕が……腕がもげる……」
今朝もどうにか振り終えた和人は、竹刀を直葉に渡すとふらふらと縁側に歩み寄り、板の上にごろりと横たわった。その様子に微笑みを浮かべながら、直葉は二本の竹刀を布巾で拭い黒松の幹に立てかけた。ジャージのポケットから小さなパイル地のハンカチを取り出して汗を拭き、ほっと一息。
先日まで庭を覆っていた雪は、最近の晴天続きですっかり姿を消してしまった。庭から玄関に回る砂利道の脇に並べて置かれているプランターの土が乾き気味なのに気づき、直葉は縁側で瀕死の体といった気配の和人に容赦なく声をかけた。
「お兄ちゃん、そこのじょうろに水入れて持ってきてー」
数秒後、和人は「うぁ〜い」という生気のない返事と共に起き上がると、縁側の下から使い古した如雨露を引っ張り出し、庭の隅にある手洗い場で水を汲んで直葉に手渡した。受け取ったそれをプランターの上で傾けると、軽やかな音とともに細かい水滴が曲線を描いて降り注いだ。
「……これは何の花?」
言いながらしゃがみこんだ和人の視線の先では、淡いオレンジ色の小さな花が、寒さに身を寄せるようにつつましく咲いている。
「福寿草よ。秩父紅、っていう種類」
「ふうん……。こんな季節に咲くんだな」
直葉が答えると、和人は思うところでもあるかのように、感慨深げに福寿草の花弁をつついた。
「うちにある花じゃ一番早咲きだね。……でも、お兄ちゃん、花に興味なんかあったっけ?」
「いやあ、『向こう』に似たような花があったからさ。……こっちのプランターは? 見たとこ空だけど」
「そこには、春になったらサルビアを蒔くの。花が咲くのは夏になってからね」
「サルビア……。ってのはどんな花だっけ?」
水やりを終えた直葉は、如雨露に残った水を黒松の根元に撒きながら、呆れ声で答えた。
「毎年咲いてるじゃない。赤い、ちっちゃい金魚みたいな花がいっぱい咲くのよ。お兄ちゃん、子供の頃はサルビアが咲くとすぐに花を抜いて蜜を吸っちゃうもんだから、お母さんによく怒られてたよ」
すると和人は愕然とした顔で立ち上がった。
「み、蜜ぅ!? 俺がそんなサバイバーみたいな真似を……?」
「あーっ、忘れてる。あたしの分がすぐなくなっちゃって悲しかったんだから」
「……あたしの分?」
「あ……」
うっかり余計なことまで口走ってしまった直葉は、肩をすくめてペロリと舌を出した。
「まてよ……思い出したぞ……」
和人の口許ににやにや笑いが浮かぶ。
「よく怒られてたのは俺じゃくてスグだろう。たしか母さんに『一日三本まで』とか決められてさ」
「ふふ、ばれたか。よく覚えてたね。今にして思うと不思議だけど、あのサルビアの蜜がどんなお菓子より甘く思えたんだよね……」
「うーむ、味までは思い出せないな……」
記憶の底を探るように、和人はしばらく視線を宙に彷徨わせていたが――。
「あっ……」
不意に目を見開いて立ち尽くした。
「……? どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや……そうだ……そう言えば……」
要領を得ない言葉をぶつぶつ呟く様子が心配になって顔を見上げると、不意に和人は至近距離から直葉の目を覗きこんできた。心臓がドキンと跳ね、カッと熱くなる頬を隠すように慌てて一歩飛び退る。
「な、なによ、びっくりするじゃない」
「……スグ、今時間ある?」
「へ? ……今日は学校行かないから、だいじょぶだけど……?」
「よし。ちょっと付き合え」
状況が飲み込めず目を丸くする直葉の腕を掴むと、和人はずんずんと母屋の軒下に向かって歩きだした。
「ちょ、ちょっと、どこ行くのよ」
「いいからいいから。後ろ、乗れよ」
自分のマウンテンバイクを引き出すと、ナンバーロックを解除してひょいっと跨る。
「えー、あたしこんなカッコだし……」
直葉が学校指定のグリーンのジャージを見下ろしながら文句を言うと、和人はにやっと笑って言った。
「どうせロードワークはその格好でやってるじゃないか」
「ロードはもっとかっこいいジャージでやってるの! ……しょうがないなあもう」
口を尖らせながら、MTBのリアキャリアに腰を下ろす。和人の腰に腕を回し、ぎゅっとしがみつくと、再び早鐘のように鳴り始めた鼓動が伝わってしまいそうで心配になる。
「しっかりつかまってろよ!」
そんな直葉の内心など気にとめる風もなく、和人は力強くペダルを踏み込んだ。ジャッと音を立てて後輪が玉砂利を蹴り、MTBは勢い良く門扉を抜けて走り始めた。
時刻は八時過ぎ、平日なので道には駅に向かう人々が列をなして歩いていた。二人の乗った自転車は、その流れとは逆の方向目指して車道を疾駆していく。すれ違う人たちが皆にこにこと笑っているような気がして、直葉は和人の背中に顔を埋めて小声で叫んだ。
「は、恥ずかしいよお兄ちゃん! どこまで行く気なのよ!」
「そう遠くない……はずなんだけどなあ……」
「はずぅ!?」
自転車は郊外目指してぐんぐん進んでいく。リアキャリアは金属製で固いが、和人のMTBはタイヤが太い上にサスペンション付きなのですわり心地はそう悪くない。
十分も走っただろうか、やがて和人は小さな神社の裏手でブレーキを掛けた。古い住宅街の一角で、すでに人通りもなくひっそりとしている。
「……ついたの?」
「……」
直葉の問いには答えず、和人は自転車を降りた。直葉も荷台からぴょんと飛び降り、腰に手を当てて背中を伸ばす。
「……ねえ、いいかげん説明してよ。この神社に何かあるの?」
「……」
てっきり和人の目的地は目の前のうら寂しい神社だと思ったら、意に反して和人は、神社とは道を挟んで反対側に建つ豪奢な一軒家の門前に立った。
「……? 知り合いのお家なの?」
直葉もその隣に並び、赤い煉瓦ふうのタイルで外装された屋敷を見やった。白いペンキ塗りの木柵で囲われた広い庭は、干し藁のように色が抜けた芝生で覆われ、小さな子供がいるのか赤い三輪車が一台、主の帰りを待っている。
再び問い掛けるように顔を見上げると、和人はやがてゆっくりと首を振った。
「いや……知らない家だよ。ここ……広い空き地だったんだ。草がいっぱい生えててさ」
ふう、と大きく息をつき、軽く微笑む。
「……そりゃそうだよな……。もう、七、八年も前の話だもんな……」
「空き地……? そこに何かあったの……?」
「いや……。何も。さあ、帰ろうぜ」
「もう、わけわかんないよ。空き地探してこんなとこまで来たのぉ?」
自己完結したように頷くと身を翻し、自転車へと歩き始めた和人の背中に向かって唇をとがらせる。ひとつ肩をすくめて、直葉もその後を追おうとしたとき――。
「あ……」
直葉の視界を、鮮やかなブルーが過ぎった。
芝生の一角がレンガで囲われ、小さな花壇になっていた。その中央、耐寒性の植物が広げた濃緑の葉に隠れるように――密生した背の低い草が、鈴なりに青い小さな花を咲かせていた。
「……サルビアだ」
「……え?」
直葉の声に、和人が駆け寄ってきて、隣で花壇を覗き込んだ。
「サルビア……どこだ?」
「これよ。この青い花」
「だって……スグは赤い花だって言ったじゃないか」
「サルビアは何百種類もあるのよ。これはブルーサルビアの仲間ね。でも、おかしいなあ……」
直葉が首をかしげたちょうどその時、大きな家の勝手口が開いて、中からエプロン姿の若い女性が出てきた。長い髪をポニーテールにまとめ、手には輝くブリキの如雨露を持っている。
女性は直葉たちの姿を見るとわずかに目を広げたが、すぐににこりと笑うとそのまま近づいてきた。警戒するふうもなく白い頬をほころばせ、口を開く。
「おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
直葉たちも慌てて挨拶を返した。
「あなた達、ご近所の方?」
「え、ええまあ」
「うちに何か御用かしら?」
「あ、あの……えーと……」
もごもごと言葉を詰まらせる和人の前に身を乗り出し、直葉はあわてて言った。
「あの、サルビアが、きれいだなって思って!」
「あら、ありがとう」
女性はにっこりと微笑む。直葉はほっとして言葉を継いだ。
「でも……普通サルビアはどんなに遅くても十二月までですよね? これは特別な種類なんですか?」
「ああ……私も不思議に思ってたの。これは宿根する種類なんだけど、毎年十一月には花が落ちてたのに、今年はなぜか年が明けても花をつけて……。普通のブルーサルビアだと……思うんだけど、よくわからないのよね」
「わからない……?」
「このサルビア、家を建てる前からこの土地に咲いてたのよ。あんまり見事なもんだから、造成する前に株を少し移しておいたの。それから毎年元気に咲いてるわ」
「ほ、ほんとですかそれ!」
突然和人が叫び、直葉と女性は驚いて顔を上げた。
「ど、どうしたのよお兄ちゃん」
「あ、いや……」
和人は何故か照れたように頭をかいていたが、やがて恐る恐るというふうに口を開いた。
「……このサルビアの種蒔いたの、俺なんです。……七年前に……」
「え、ええ!?」
「あら、まあ!」
直葉はあまりに予想外の言葉を聞かされて仰天したが、女性は如雨露を胸に抱いてにこっと大きく笑った。
「そうだったの。じゃあこの花はあなたを待っていたのかも知れないわ。ああ……ちょっと待ってね」
女性はかがみ込むと如雨露を起き、ぱたぱたと家に駆け戻っていった。すぐにまた姿を現したときには、右手に小さなスコップ、左手に白いプラスチック製の鉢を下げていた。
直葉と和人が見守る中、女性はブルーサルビアの群の一角にスコップを入れると、慎重な手つきで三株を掘り起こし、植木鉢に収めた。エプロンのポケットから手提げつきのビニール袋を取り出すと鉢を入れ、微笑みながら両手で和人に差し出す。
「お分けしますわ。お持ちになって」
「あ……いや、俺、そんなつもりじゃ……」
「いいのよ。花もきっと嬉しがってるわ」
「……ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて……」
和人は頭を下げると、袋を受け取った。かさりと花が揺れ、ほのかな芳香が直葉の鼻をくすぐった。
「それじゃ、またいつでも花を見にいらしてね。春には沢山咲くのよ」
「はい、ぜひ。――失礼します」
如雨露で水を撒きはじめた女性に向かってもう一度頭を下げ、和人は歩きはじめた。
「さ、帰るぞ、スグ」
「あ、う、うん。……さようなら」
直葉はまだ成り行きを飲み込めなかったが、ぺこりと挨拶すると和人の後を追った。
和人は自転車には乗らず、片手で引きながら歩き始めた。その隣に並び、直葉は好奇心を押さえきれず早口で言った。
「ちょっとお兄ちゃん、一体何がどうなってるのよ。種蒔いたってホント!?」
「あー、ええとだな……」
和人は神社のまわりをぐるりと半周すると、石段の前で自転車を止めた。なぜかわずかに顔を赤くし、あー、うー、ゴホゴホと咳払いしていたが、やがて右手の袋をぐいっと直葉に差し出してきた。
「スグ、誕生日プレゼントだ」
「はあ!? ……あたしの誕生日、まだまだ先だよ?」
「七年前の分だ」
いよいよわけがわからない。首を傾げ、視線で問い掛ける。
「……七年前な……。スグの誕生日に、思いっきりいっぱいサルビアの蜜を吸わせてやろうと思って、小遣いはたいて種を買ってあの空き地に蒔いたんだ。ところがこの神社への道がどうしても分からなくなっちゃってな。ずいぶん探したんだけど、結局たどり着けなくて、諦めたんだ。あの時は悲しかったなあ……。それが今になって一発で見つかるんだから、子供の記憶なんて頼りないもんだよなあ」
「お兄ちゃん……」
直葉は目をいっぱいに見開いて、照れたように視線を逸らす和人の顔を見つめた。溢れ出してきた色々な感情にぎゅうっと心臓を掴まれたような気がして、胸が詰まった。
そっと右手を伸ばして、袋の口から覗くサルビアの花芯をひとつ引き抜いた。その根元に溜まった雫を舌先で受けると、仄かで、かつ鮮やかな甘さがいっぱいに広がり――その瞬間、直葉は、自分と和人が過ごしてきた十数年の時間の流れが微風となって肌を撫でていくのを感じた。気づかないうちに、頬をふた筋の雫が伝わり、ぽとりと足元に落ちた。
「お、おい、何も泣かなくても……」
慌てたように口篭もる和人の胸に、直葉は勢い良く飛び込んだ。両手を背中に回して、思い切り抱きしめる。やがて、和人の手がそっと頭を撫でるのを感じた。直葉は頬をすり寄せ、口の中に残る甘さをひそやかに言葉にして漂わせた。
「お兄ちゃん……大好き」