三日目
「ミナ、パンひとつ取って!」
「ほら、余所見してるとこぼすよ!」
「あーっ、先生ー! ジンが目玉焼き取ったー!」
「これは……すごいな……」
「そうだね……」
アスナとキリトは、目前で繰り広げられる戦場さながらの朝食風景に、呆然とつぶやき交わした。
始まりの街、東七区の教会一階の広間。巨大な長テーブル二つに所狭しと並べられた大皿の卵やソーセージ、野菜サラダを、三十人の子供たちが盛大に騒ぎながらぱくついている。
「でも、凄く楽しそう」
少し離れた丸テーブルに、キリト、ユイ、サーシャと一緒に座ったアスナは、微笑しながらお茶のカップを口許に運んだ。
「毎日こうなんですよ。いくら静かにって言っても聞かなくて」
そう言いながら、子供たちを見るサーシャの目は心底愛しそうに細められている。
「子供、好きなんですね」
アスナが言うと、サーシャは照れたように笑った。
「向こうでは、大学で教職課程取ってたんです。ほら、学級崩壊とか、問題になってたじゃないですか。子供たちを、私が導いてあげるんだーって、燃えてて。でもここに来て、あの子たちと暮らし始めてみると、見ると聞くとは大違いで……。彼らより、私のほうが頼って、支えられてる部分のほうが大きいと思います。でも、それでいいって言うか……。それが自然なことに思えるんです」
「何となくですけど、わかります」
アスナは頷いて、隣の椅子で真剣にスプーンを口に運ぶユイの頭をそっと撫でた。ユイの存在がもたらす暖かさは驚くほどだ。キリトと触れ合うときの、胸の奥がきゅっと切なくなる愛しさとはまた違う、目に見えない羽根で包み、包まれるような、静かな安らぎを感じる。
昨日、謎の発作を起こし倒れたユイは、幸い数分で目を覚ました。だが、すぐに長距離を移動させたり転移ゲートを使わせたりする気にならなかったアスナは、サーシャの熱心な誘いもあり、教会の空き部屋を一晩借りることにしたのだった。
今朝からはユイの調子もいいようで、アスナとキリトはひとまず安心したのだが、しかし基本的な状況は変わっていない。かすかに戻ったらしきユイの記憶によれば、始まりの街に来たことはないようだったし、そもそも保護者と暮らしていた様子すらないのだ。となるとユイの記憶障害、幼児退行といった症状の原因も見当がつかないし、これ以上何をしていいのかもわからない。
だがアスナは、心の奥底では気持ちを固めていた。
これからずっと、ユイの記憶が戻る日まで、彼女といっしょに暮らそう。休暇が終わり、前線に戻る時が来ても、何か方法はあるはず――。
ユイの髪を撫でながらアスナが物思いに耽っていると、キリトがカップを置き、話しはじめた。
「サーシャさん……」
「はい?」
「……軍のことなんですが。俺が知ってる限りじゃ、あの連中は専横が過ぎることはあっても治安維持には熱心だった。でも昨日見た奴等はまるで犯罪者だった……。いつから、ああなんです?」
サーシャは口許を引き締めると、答えた。
「そう昔のことじゃないです、『徴税』が始まったのは。軍が分裂してるな、って感じがし始めたのは半年くらい前からです……。恐喝まがいの行為をはじめた人達と、それを逆に取り締まる人達もいて。軍のメンバーどうして対立してる場面も何度も見ました。噂じゃ、上のほうで権力争いか何かあったみたいで……」
「うーん……。なにせメンバー数千人の巨大集団だからなぁ。一枚岩じゃないだろうけど……。でも昨日みたいなことが日常的に行われてるんだったら、放置はできないよな……。アスナ」
「なに?」
「奴はこの状況を知ってるのか?」
奴、という言葉の嫌そうな響きでそれが誰を意味するか察したアスナは、笑みを噛み殺しながら言った。
「知ってる、んじゃないかな……。団長は軍の動向に詳しかったし。でもあの人、何て言うか、ハイレベルの攻略プレイヤー以外には興味なさそうなんだよね……。キリト君のこととかずっと昔からあれこれ聞かれたけど、オレンジギルドが暴れてるとかそんな話には知らんぷりだったし。多分、軍をどうこうするためにギルドを動かしたりとかはしないと思うよ」
「まあ、奴らしいと言えば言えるよな……。でも俺たちだけじゃ出来ることもたかが知れてるし、そもそも圏内じゃ暴れようもないしなぁ」
眉をしかめてお茶を啜ろうとしたキリトが、不意に顔を上げ、教会の入り口のほうを見やった。
「誰かくるぞ。一人……」
「え……。またお客様かしら……」
サーシャの言葉に重なるように、館内に音高くノックの音が響いた。
腰に短剣を吊るしたサーシャと、念のためについていったキリトに伴われて食堂に入ってきたのは、長身の女性プレイヤーだった。
銀色の長い髪をポニーテールに束ね、怜悧という言葉がよく似合う、鋭く整った顔立ちのなかで、空色の瞳が印象的な光を放っている。
髪型、髪色、さらに瞳の色までも自由にカスタマイズできるSAOだが、もともとの素材が日本人であるため、このような強烈な色彩設定が似合うプレイヤーはかなり少ないと言える。アスナ自身も、かつて髪をチェリーピンクに染め、失意のうちにブラウンに戻したという人には言えない過去がある。
美人だなぁ、キリトくんこういう人が好みなのかなぁという穏やかならぬ第一印象ののち、改めて彼女の装備に視線を落としたアスナは、思わず体を固くして腰を浮かせた。
鉄灰色のケープに隠されているが、女性プレイヤーが身にまとう濃緑色の上着と大腿部がゆったりとふくらんだズボン、ステンレススチールふうに鈍く輝く金属鎧は、間違いなく「軍」のユニフォームだ。右腰にショートソード、左腰にはぐるぐると巻かれた、黒革のウィップが吊るされている。
女性の身なりに気付いた子供たちも一斉に押し黙り、目に警戒の色を浮べて動きを止めている。だが、サーシャは子供たちに向かって笑いかけると、安心させるように言った。
「みんな、この方はだいじょうぶよ。食事を続けなさい」
一見頼り無さそうだが子供たちからは全幅の信頼を置かれているらしいサーシャの言葉に、皆ほっとしたように肩の力を抜き、すぐさま食堂に喧騒が戻った。その中を丸テーブルまで歩いてきた女性プレイヤーは、サーシャから椅子を勧められると軽く一礼してそれに腰掛けた。
事情が飲み込めず、視線でキリトに問い掛けると、椅子に座った彼も首を傾げながらアスナに向かって言った。
「ええと、この人はユリエールさん。どうやら俺たちに話しがあるらしいよ」
ユリエールと紹介された銀髪の鞭使いは、まっすぐな視線を一瞬アスナに向けたあと、ぺこりと頭を下げて口を開いた。
「はじめまして、ユリエールです。ギルドALFに所属してます」
「ALF?」
初めて聞く名にアスナが問い返すと、女性は小さく首をすくめた。
「あ、すみません。アインクラッド解放軍、の略です。その名前はどうも苦手で……」
女性の声は、落ち着いた艶やかなアルトだった。常々自分の声が子供っぽいと思っているアスナはさらに穏やかでない気分になりながら、挨拶を返す。
「はじめまして。私はギルド血盟騎士団の――あ、いえ、今は脱退中なんですが、アスナと言います。この子はユイ」
時間をかけてスープの皿を空にし、シトラスジュースに挑んでいる最中だったユイは、ふいっと顔を上げるとユリエールを注視した。わずかに首を傾げるが、すぐにニコリと笑い、視線を戻す。
ユリエールは、血盟騎士団の名を聞くと、わずかに目を見張った。
「KoB……。なるほど、道理で連中が軽くあしらわれるわけだ」
連中、というのが昨日の暴行恐喝集団のことだと悟ったアスナは、ふたたび警戒心を強めながら言った。
「……つまり、昨日の件で抗議に来た、ってことですか?」
「いやいや、とんでもない。その逆です、よくやってくれたとお礼を言いたいくらい」
「……」
事情が飲み込めず沈黙するキリトとアスナに向かって、ユリエールは姿勢を正して話しはじめた。
「今日は、お二人にお願いがあって来たのです。最初から、説明します。ALF……、軍というのは、昔からそんな名前だったわけじゃないんです……」
「軍が今の名前になったのは、かつてのサブリーダーで今の軍の実質的支配者、キバオウという男が実権を握ってからのことです……。最初はギルドMTDって名前で……、聞いたこと、ありませんか?」
アスナは覚えが無かったが、キリトは軽くうなずいて言った。
「MMOトゥデイだろう。SAO開始当時、日本最大のネットゲーム情報サイトだった……。ギルドを結成したのは、そこの管理者だったはずだ。たしか、名前は……」
「シンカー」
その名前を口にしたとき、ユリエールの顔がわずかに歪んだ。
「彼は……決して今のような、独善的な組織を作ろうとしたわけじゃないんです。ただ、情報とか、食料とかの資源をなるべく多くのプレイヤーで均等に分かち合おうとしただけで……」
そのへんの、「軍」の理想と崩壊についてはアスナも伝え聞いて知っていた。多人数でモンスター狩りを行い、危険を極力減らした上で安定した収入を得てそれを均等に分配しようという思想それ自体は間違っていない。だがMMORPGの本質はプレイヤー間でのリソースの奪い合いであり、それはSAOのような異常かつ極限状況にあるゲームにおいても変わらなかった。いや、むしろだからこそ、と言うべきか。
ゆえに、その理想を実現するためには、組織の現実的な規模と強力なリーダーシップが必要であり、その点において軍はあまりにも巨大すぎたのだ。得たアイテムの秘匿が横行し、粛清、反発が相次ぎ、リーダーは徐々に指導力を失っていった。
「そこに台頭してきたのがキバオウという男です」
ユリエールは苦々しい口調で言った。
「彼は、体制の強化を打ち出して、ギルドの名前をアインクラッド解放軍に変更させ、さらに公認の方針として犯罪者狩りと効率のいいフィールドの独占を推進しました。それまで、一応は他のギルドとの友好も考え狩場のマナーは守ってきたのですが、人数を傘にきて長時間の独占を続けることでギルドの収入は激増し、キバオウ一派の権力はどんどん強力なものとなっていったのです。最近ではシンカーはほとんど飾り物状態で……。キバオウ派のプレイヤー達は調子に乗って、街区圏内でも徴税、と称して恐喝まがいの行為を繰り返すようにすらなっていました。昨日、あなた方が痛い目に会わせたのはそんな連中の急先鋒だった奴等です」
ユリエールは一息つくと、サーシャの淹れたお茶をひとくち含み、続けた。
「でも、キバオウ派にも弱みはありました。それは、資財の蓄積だけにうつつを抜かして、ゲーム攻略をないがしろにし続けたことです。本末転倒だろう、という声が末端のプレイヤーの間で大きくなって……。その不満を抑えるため、最近キバオウは無茶な博打に打って出ました。ギルドの中で、もっともハイレベルのプレイヤー十数人で攻略パーティーを作って、最前線のボス攻略に送り出したんです」
アスナは、思わずキリトと顔を見合わせた。74層迷宮区で散ったコーバッツの一件は記憶に新しいところだ。
「いかにハイレベルと言っても、もともと私達は攻略組の皆さんに比べれば力不足は否めません。パーティーは敗退、隊長は死亡という最悪の結果になり、キバオウはその無謀さを強く糾弾されたのです。もう少しで彼を追放できるところまで行ったのですが……」
ユリエールは高い鼻梁にしわを寄せ、唇を噛んだ。
「こともあろうに、キバオウはシンカーをだまして、回廊結晶を使って彼をダンジョンの奥深くに放逐してしまったのです。ギルドリーダーの証である『約定のスクロール』を操作できるのはシンカーとキバオウだけ、このままではギルドの人事や会計まですべてキバオウにいいようにされてしまいます。むざむざシンカーを罠にかけさせてしまったのは彼の副官だった私の責任、私は彼を救出に行かなければなりません。でも、彼が幽閉されたダンジョンはとても私のレベルでは突破できません。そこに、昨日、恐ろしく強い二人組みが街に現れたという話を聞きつけ、いてもたってもいられずに、お願いに来た次第です。キリトさん――アスナさん」
ユリエールは深々と頭を下げ、言った。
「どうか、私と一緒にシンカーを救出に行ってください」
長い話を終え、口を閉じたユリエールの顔を、アスナはじっと見つめた。悲しいことだが、SAO内では他人の言うことをそう簡単に信じることはできない。今回のことにしても、キリトとアスナを圏外におびきだし、危害を加えようとする陰謀である可能性は捨てきれない。通常は、ゲームに対する十分な知識さえあれば、騙そうとする人間の言うことにはどこか綻びが見つかるものだが、残念ながらアスナ達は『軍』の内情に関してあまりにも無知すぎた。
キリトと一瞬目を見交わして、アスナは重い口を開いた。
「――わたしたちに出来ることなら、力を貸して差し上げたい――と思います。でも、その為には、こちらで最低限のことを調べてあなたのお話の裏付けをしないと……」
「それは――当然、ですよね……」
ユリエールはわずかにうつむいた。
「無理なお願いだってことは、私にもわかってます……。でも……『生命の碑』の、シンカーの名前の上に、いつ線が刻まれるかと思うともうおかしくなりそうで……」
銀髪の鞭使いの、気丈そうなくっきりとした瞳がうるむのを見て、アスナの気持ちは揺らいだ。信じてあげたい、と痛切に思う。しかし同時に、この世界で過ごした二年間の経験は、感傷で動くことの危うさへ大きく警鐘を鳴らしている。
キリトを見やると、彼もまた迷っているようだった。じっとこちらを見つめる黒い瞳は、ユリエールを助けたいという気持ちと、アスナの身を案じる気持ちの間で揺れる心を映している。
――その時だった。今まで沈黙していたユイが、ふっとカップから顔を上げ、言った。
「だいじょうぶだよ、ママ。その人、うそついてないよ」
アスナはあっけにとられ、キリトと顔を見合わせた。発言の内容もさることながら、昨日までの言葉のたどたどしさが嘘のような立派な日本語である。
「ユ……ユイちゃん、そんなこと、わかるの……?」
顔を覗き込むようにして問いかけると、ユイはこくりと頷いた。
「うん。うまく……言えないけど、わかる……」
その言葉を聞いたキリトは右手を伸ばし、ユイの頭をくしゃくしゃと撫でた。アスナを見て、にやっと笑う。
「疑って後悔するよりは信じて後悔しようぜ。行こう、きっとうまくいくさ」
「あいかわらずのんきな人ねえ」
首を振りながら答えると、アスナはユリエールに向き直って微笑みかけた。
「……微力ですが、お手伝いさせていただきます。大事な人を助けたいって気持ち、わたしにもよくわかりますから……」
ユリエールは、空色の瞳に涙を溜めながら、深々と頭を下げた。
「ありがとう……ありがとうございます……」
「それは、シンカーさんを救出してからにしましょう」
アスナがもういちど笑いかけると、いままで黙って事態のなりゆきを見守っていたサーシャがぽんと両手を打ち合わせ、言った。
「そういうことなら、しっかり食べていってくださいね! まだまだありますから、ユリエールさんもどうぞ」
初冬の弱々しい陽光が、深く色づいた街路樹の梢を透かして石畳に薄い影を作っている。『はじまりの街』の裏通りは行き交う人もごく少なく、無限とも思える街の広さとあいまって寒々しい印象を隠せない。
しっかり武装したアスナと、ユイを抱いたキリトは、ユリエールの先導に従って足早に街路を進んでいた。
アスナは、当然のこととしてユイをサーシャに預けてこようとしたのだが、ユイが頑固に一緒に行くと言って聞かなかったので、やむなく連れてきたのだ。無論、ポケットにはしっかりと転移結晶を用意している。いざとなれば――ユリエールには申し訳ないが――離脱して仕切りなおす手はずになっている。
「あ、そう言えば肝心なことを聞いてなかったな」
キリトが、前を歩くユリエールに話し掛けた。
「問題のダンジョンってのは何層にあるんだ?」
ユリエールの答えは簡素だった。
「ここ、です」
「……?」
アスナは思わず首をかしげる。
「ここ……って?」
「この、始まりの街の……中心部の地下に、大きなダンジョンがあるんです。シンカーは……多分、その一番奥に……」
「マジかよ」
キリトがうめくように言った。
「ベータテストの時にはそんなのなかったぞ。不覚だ……」
「そのダンジョンの入り口は、王宮――軍の本拠地の地下にあるんです。発見されたのは、キバオウが実権を握ってからのことで、彼はそこを自分の派閥で独占しようと計画しました。長い間シンカーにも、もちろん私にも秘密にして……」
「なるほどな、未踏破ダンジョンには一度しか湧出しないレアアイテムも多いからな。そざかし儲かったろう」
「それが、そうでもなかったんです」
ユリエールの口調が、わずかに痛快といった色合いを帯びる。
「基部フロアにあるにしては、そのダンジョンの難易度は恐ろしく高くて……。基本配置のモンスターだけでも、60層相当くらいのレベルがありました。キバオウ自身が率いた先遣隊は、散々追いまわされて、命からがら転移脱出するはめになったそうです。使いまくったクリスタルのせいで大赤字だったとか」
「ははは、なるほどな」
キリトの笑い声に笑顔で応じたユリエールだが、すぐに沈んだ表情を見せた。
「でも、今は、そのことがシンカーの救出を難しくしています。キバオウが使った回廊結晶は、先遣隊がマークしたものなんですが、モンスターから逃げ回ってるうちに相当奥まで入り込んだらしくて……。レベル的には、一対一なら私でもどうにか倒せなくもないモンスターなんですが、連戦はとても無理です。――失礼ですが、お二人は……」
「ああ、まあ、60層くらいなら……」
「なんとかなると思います」
キリトの言葉を引き継ぎ、アスナは頷いた。60層配置のダンジョンを、マージンを十分取って攻略するのに必要なレベルは70だが、現在アスナはレベル87に到達し、キリトに至っては90を超えている。これならユイを守りながらでも十分にダンジョンを突破できるだろうと思って、ほっと肩の力を抜く。だがユリエールは気がかりそうな表情のまま、言葉を続けた。
「……それと、もう一つだけ気がかりなことがあるんです。先遣隊に参加していたプレイヤーから聞き出したんですが、ダンジョンの奥で……巨大なモンスター、ボス級の奴を見たと……」
「……」
アスナは、キリトと顔を見合わせる。
「ボスも60層くらいの奴なのかしら……。60層ボスってどんなのだったっけ?」
「えーと、確か……四本腕の、でっかい鎧武者みたいな奴だろう」
「あー、アレかぁ。……あんまり苦労はしなかったよね……」
ユリエールに向かって、もう一度頷きかける。
「まあ、それも、なんとかなるでしょう」
「そうですか、よかった!」
ようやく口許をゆるめたユリエールは、何かまぶしい物でも見るように目を細めながら、言葉を続けた。
「そうかぁ……。お二人は、ずっとボス戦を経験してらしてるんですね……。すみません、貴重な時間を割いていただいて……」
「いえ、今は休暇中ですから」
アスナはあわてて手を振る。
そんな話をしているうち、前方の街並みの向こうに巨大な白亜の建築物が姿を現しはじめた。四つの尖塔が、次層の底に接するほどの勢いでそびえ立っている。始まりの街最大の施設、通称『王宮』だ。ゲームが通常どおり運営されれば、何らかのイベントなりクエストなりが行われる場所だったのだろうが、開始直後からほぼ無人であり現在では軍が本拠地として占拠している。ゲート広場を挟んで向かい側にある漆黒の宮殿『黒鉄宮』にはプレイヤーの名簿である『生命の碑』があるためアスナも数回訪れたことがあるが、王宮にはいまだかつて一度も足を踏み入れたことはない。
ユリエールはまっずぐ王宮の正門には向かわず、広場をぐるりと迂回して城の裏手に回った。巨大な城壁と、それを取り巻く深い堀が、侵入者を拒むべくどこまでも続いている。人通りはまったく無い。
数分歩き続けたあと、ユリエールが立ち止まったのは、道から堀の水面近くまで階段が降りている場所だった。覗き込むと、階段の先端右側の石壁に暗い通路がぽっかりと口を開けている。
「ここから城の下水道に入り、ダンジョンの入り口を目指します。ちょっと暗くて狭いんですが……」
ユリエールはそこで言葉を切り、気がかりそうな視線をちらりとキリトの腕の中のユイに向けた。するとユイは心外そうに顔をしかめ、
「ユイ、こわくないよ!」
と主張した。その様子に、アスナは思わず微笑を洩らしてしまう。
ユリエールには、ユイのことは「一緒に暮らしているんです」としか説明していない。彼女もそれ以上のことは聞こうとしなかったのだが、さすがにダンジョンに伴うのは不安なのだろう。
アスナは安心させるように言った。
「大丈夫です、この子、見た目よりずっとしっかりしてますから」
「うむ。きっと将来はいい剣士になる」
キリトの発言に、アスナと目を見交わして笑うと、ユリエールは大きくひとつ頷いた。
「では、行きましょう!」
「でええええええええ」
右手の剣でずば―――っとモンスターを切り裂き、
「りゃあああああああ」
左の剣でどか―――んと吹き飛ばす。
久々に二刀を装備したキリトは、休暇中に貯まったエネルギーをすべて放出する勢いで次々と敵を蹂躙しつづけた。ユイの手を引くアスナと、金属鞭を握ったユリエールには出る幕がまったくない。全身をぬらぬらした皮膚で覆った巨大なカエル型モンスターや、黒光りするハサミを持ったザリガニ型モンスターなどで構成される敵集団が出現する度に、無謀なほどの勢いで突撃しては暴風雨のように左右の剣でちぎっては投げ、ちぎっては投げであっという間に制圧してしまう。
アスナは「やれやれ」といった心境だが、ユリエールは目と口を丸くしてキリトのバーサーカーっぷりを眺めている。彼女の戦闘の常識からは余りにかけ離れた光景なのだろう。ユイが無邪気な声で「パパーがんばれー」と声援を送っているので尚更緊迫感が薄れる。
暗く湿った地下水道から、黒い石造りのダンジョンに侵入してすでに数十分が経過していた。予想以上に広く、深く、モンスターの数も多かったが、キリトの二刀がゲームバランスを崩壊させる勢いで振り回されるため女性三人には疲労はまるでない。
「な……なんだか、すみません、任せっぱなしで……」
申し訳なさそうに首をすくめるユリエールに、アスナは苦笑しながら答えた。
「いえ、あれはもう病気ですから……。やらせときゃいいんですよ」
「なんだよ、ひどいなぁ」
群を蹴散らして戻ってきたキリトが、耳ざとくアスナの言葉を聞きつけて口を尖らせた。
「じゃあ、わたしと代わる?」
「……も、もうちょっと」
アスナとユリエールは顔を見合わせて笑ってしまう。
銀髪の鞭使いは、左手を振ってマップを表示させると、シンカーの現在位置を示すフレンドマーカーの光点を示した。このダンジョンのマップが無いため、光点までの道は空白だが、もう全体の距離の七割は詰めている。
「シンカーの位置は、数日間動いていません。多分安全エリアにいるんだと思います。そこまで到達できれば、あとは結晶で離脱できますから……。すみません、もう少しだけお願いします」
ユリエールに頭を下げられ、キリトは慌てたように手を振った。
「い、いや、好きでやってるんだし、アイテムも出るし……」
「へえ」
アスナは思わず聞き返した。
「何かいいもの出てるの?」
「おう」
キリトが手早くウインドウを操作すると、その表面に、どちゃっという音を立てて赤黒い肉塊が出現した。グロテスクなその質感に、アスナは顔を引き攣らせる。
「な……ナニソレ?」
「カエルの肉! ゲテモノなほど旨いって言うからな、あとで料理してくれよ」
「ぜったい嫌よ!!」
アスナは叫ぶと、自分もウインドウを開いた。キリトのそれと共通になっているアイテム欄に移動し、『スカベンジトードの肉 ×24』という表示をドラッグして容赦なくゴミ箱マークに放り込む。
「あっ! あああぁぁぁ……」
世にも情けない顔で悲痛な声を上げるキリトを見て、我慢できないといったふうにユリエールがお腹をおさえ、くっくっと笑いを洩らした。その途端。
「お姉ちゃん、初めて笑った!」
ユイが嬉しそうに叫んだ。彼女も満面の笑みを浮べている。
それを見て、アスナはそういえば――、と思い返すことがあった。昨日、ユイが発作を起こしたのも、軍の連中を撃退し、子供たちが一斉に笑った直後だった。どうやら少女は周囲の人の笑顔に特別敏感らしいと思われる。それが少女の生来の性格なのか、あるいは今までずっと辛い思いをしてきたからなのか――。アスナは思わずユイを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。いつまでも、この子の隣で笑っていようと心の中で誓う。
「さあ、先に進みましょう!」
アスナの声に、一行は再びさらなる深部を目指して足を踏み出した。
ダンジョンに入ってからしばらくは水中生物型が主だったモンスター群は、階段を降りるほどにゾンビだのゴーストタイプのオバケ系統に変化し、アスナの心胆を激しく寒からしめたが、キリトの二本の剣は意に介するふうもなく現れる敵を瞬時に屠りつづけた。
通常では、高レベルプレイヤーが適正以下の狩場で暴れるのはとても褒められたことではないが、今回は他に人もいないので気にする必要はない。時間があればサポートに徹してユリエールのレベルアップに協力するところだが、今はシンカー救出が最優先である。
マップに表示される、現在位置とシンカーの位置を示す二つの光点は着実な速度で近づいてゆき、やがて何匹目ともしれぬ黒い骸骨剣士をキリトの剣がばらばらに吹き飛ばしたその先に、一際明るい、暖かな光の漏れる通路が目に入った。各ダンジョンで共通の色あいとなっているそのオレンジ色は、間違いなく安全エリアの照明だ。
「シンカー!」
もう我慢できないというふうに一声叫んだユリエールが、金属鎧を鳴らして走りはじめた。剣を両手に下げたキリトと、ユイを抱いたアスナもあわててその後を追う。
右に湾曲した通路を、明かり目指して数秒間走ると、やがて前方に大きな十字路と、その先にある部屋が目に入った。
部屋は、暗闇に慣れた目にはまばゆいほどの光に満ち、その入り口に一人の男が立っている。逆光のせいで顔は良く見えないが、こちらに向かって激しく両腕を振り回している。
「ユリエ―――――ル!!」
こちらの姿を確認した途端、男が大声で鞭使いの名を呼んだ。ユリエールも左手を振り、一層走る速度を速める。
「シンカ――――!!」
涙まじりのその呼び声にかぶさるように、男の声が――
「――来ちゃだめだ――――ッ!! その通路は……ッ!!」
それを聞いて、アスナはぎょっとして走る速度をゆるめた。だがユリエールにはもう聞こえていないらしい。部屋に向かって必死に駆け寄っていく。
その時。
部屋の手前数メートルで、三人の走る通路と直角に交わっている道の右側死角部分に、不意に黄色いカーソルが出現した。一つだけだ。アスナは慌てて名前を確認する。表示は『The Soulslasher』――。
「だめ――っ!! ユリエールさん、戻って!!」
アスナは絶叫した。間違いなくボスモンスターだ。黄色いカーソルは、すうっと左に動き、十字の交差点へ近づいてくる。このままでは出会い頭にユリエールと衝突する。もうあと数秒もない。
「くっ!!」
突然、アスナの左前方を走っていたキリトが、かき消えた――ように見えた。実際には恐ろしい速度でダッシュしたのだ。ずばんという衝撃音で周囲の壁が振動する。
瞬間移動にも等しい勢いで数メートルの距離を移動したキリトは、背後から右手でユリエールの体を抱きかかえると、左手の剣を床石に思い切り突き立てた。すさまじい金属音。大量の火花。空気が焦げるほどの急制動をかけ、十字路のぎりぎり手前で停止した二人の直前の空間を、ごおおおおっと地響きを立てて巨大な黒い影が横切っていった。
黄色いカーソルは、左の通路に飛び込むと十メートルほど移動してから停止した。ゆっくりと向きを変え、再び突進してくる気配。
キリトはユリエールの体を離すと、床に突き刺さった剣を抜き、左の通路に飛び込んでいった。アスナも慌ててその後を追う。
呆然と倒れるユリエールを抱え起こし、そのまま交差点の向こうへと押しやる。ユイも腕から降ろし、安全エリア側に進ませると、アスナは細剣を抜いて左方向へと向き直った。
二刀を構え、立ち止まったキリトの背中が目に入る。その向こうに浮いているのは――身長2メートル半はあろうかという、ぼろぼろの黒いローブをまとった骸骨だった。
フードの奥と、袖口からのぞく太い骨は濡れたような深紅に光っている。暗く穿たれた眼窩には、そこだけは生々しい、血管の浮いた眼球がはまり、ぎょろりと二人を見下ろしている。右手に握るのは長大な黒い鎌だ。凶悪に湾曲した、鈍く光る刃からは、ぽたりぽたりと粘っこい赤い雫が垂れ落ちている。いわゆる死神の姿そのものである。
死神の眼球がぐるりと動き、まっすぐにアスナを見た。その途端純粋な恐怖に心臓を鷲掴みにされたような悪寒が全身を貫く。
でも、レベル的にはたいしたことないはず。
そう思って細剣を構えなおしたとき、前に立つキリトがかすれた声で言った。
「アスナ、いますぐ他の三人を連れて安全エリアに入って、クリスタルで脱出しろ」
「え……?」
「こいつ、やばい。俺の識別スキルでもデータがわからない。強さ的には90層クラスだ……」
「!?」
アスナも息を飲んで体をこわばらせる。その間にも、死神は徐々に空中を移動し、二人に近づいてくる。
「俺が時間を稼ぐから、早く逃げろ!!」
「き、キリトくんも、一緒に……」
「後から行く! 早く……!!」
最終的離脱手段である転移結晶も、万能の道具ではない。クリスタルを握り、転移先を指定してから実際にテレポートが完了するまで、数秒間のタイムラグが発生する。その間にモンスターの攻撃を受けると転移がキャンセルされてしまうのだ。パーティーの統制が崩壊し、勝手な離脱をするものが現れるとテレポートの時間すら稼げず死者が出てしまうのはそういう理由による。
アスナは迷った。四人が先に転移してからでも、キリトの脚力をもってすれば、ボスに追いつかれることなく安全エリアまで到達できるかもしれない。しかし先程のボスの突進速度はすさまじいものだった。もし――先に脱出して、そのあと、彼が現れなかったら――。それだけは耐えられない。
アスナはちらりと後ろを振り返った。こちらを見つめるユイと視線が合った。
ごめんね、ユイちゃん。ずっと一緒だって言ったのにね……。
心の中でつぶやき、アスナは叫んだ。
「ユリエールさん、ユイを頼みます! 三人で脱出してください!」
凍りついた表情でユリエールが首を振る。
「だめよ……そんな……」
「はやく!!」
その時だった。ゆっくりと鎌を振りかぶった死神が、ローブから瘴気を撒き散らしながら恐ろしい勢いで突進を開始した。
キリトが両手の剣を十字に構え、アスナの前に仁王立ちになった。アスナは必死にその背中に抱きつき、右手の剣をキリトの二刀に合わせた。死神は、三本の剣を意に介さず、大鎌を二人の頭上めがけて叩き降ろしてきた。
赤い閃光。衝撃。
アスナは自分がぐるぐると回転するのを感じた。まず地面に叩きつけられ、跳ね返って天井に激突し、再び床へと落下する。呼吸が止まり、視界が暗くなる。
朦朧とした意識のままキリトと自分のHPバーを確認すると、両方とも一撃で半分を割り込んでいた。無情なイエロー表示は、次の攻撃には耐え切れないことを意味している。立ち上がらないと――。そう思うが、体が動かない――。
――と、不意に、傍らに立つ人影があった。小さなその姿。長い黒髪。背後にいたはずのユイだった。恐れなど微塵もない視線でまっすぐ巨大な死神を見据えている。
「ばかっ!! はやく、逃げろ!!」
必死に上体を起こそうとしながら、キリトが叫んだ。死神はふたたびゆっくりとしたモーションで鎌を振りかぶりつつある。あれほどの範囲攻撃に巻き込まれたら、ユイのHPは確実に消し飛んでしまう。アスナもどうにか口を動かそうとした。だが唇がこわばって言葉が出ない。
だが、次の瞬間、信じられないことが起こった。
「だいじょうぶだよ、パパ、ママ」
言葉と同時に、ユイの体がふわりと宙に浮いた。ジャンプしたのではない。見えない羽根で舞い上がるように移動し、二メートルほどの高さでぴたりと静止した。次いで、右手を高くかかげる。
ごうっ!! という轟音と共に、ユイの右手を中心に紅蓮の炎が巻き起こった。炎は一瞬広く拡散したあとすぐに凝縮し、細長い形にまとまり始めた。みるみるうちにそれは巨大な剣へと姿を変えていく。焔色に輝く刀身が炎の中から現れ、後方へと伸び続ける。
やがてユイの右手に出現した巨剣は、優に彼女の身長を上回る長さを備えていた。熔融する寸前の金属のような輝きが通路を照らし出す。剣の炎にあおられるように、ユイの身に着けていた分厚い冬服が一瞬にして燃え落ちた。その下からは彼女が最初から着ていた白いワンピースが現れる。不思議なことに、ワンピースも、長い黒髪も炎に巻かれながらも影響を受ける様子は一切無い。
自分の身の丈を超える剣を、ぶん、と一回転させ――
「いやああああああ!!」
炎の軌道を描きながら、ユイは恐るべきスピードで黒い死神へと撃ちかかった。
あくまでCPUが単純なアルゴリズムに基づいて動かしているにすぎないボスモンスター、その血走った眼球に、アスナは明らかな恐怖の色を見た――ような気がした。
炎の渦を身にまとったユイが、轟音とともに空中を突進していく。死神は、自分よりはるかに小さな少女を恐れるかのように大鎌を前方に掲げ、防御の姿勢をとった。そこに向かって、ユイは真っ向正面から巨大な火焔剣を思い切り撃ち降ろした。
一際激しく炎を噴く刀身が、横に掲げられた大鎌の柄と衝突した。一瞬両者の動きが止まる。
と思う間もなく、再びユイの火焔剣が動き始めた。途方も無い熱量で金属を灼き切るがごとく、じわじわと赤い鎌の柄に発光する刃が食い込んでいく。ユイの長い髪とワンピース、そして死神のローブが千切れんばかりの勢いで後方にたなびき、時折飛び散る巨大な火花がダンジョン内を明るいオレンジ色に染め上げる。
やがて――。
轟、という爆音とともに、とうとう死神の鎌が真っ二つに断ち割られた。直後、いままで蓄積していたエネルギーすべてを解き放ちながら、炎の柱と化した巨剣がボスの頭蓋骨の中央へと叩きつけられた。
「!!」
アスナとキリトは、その瞬間出現した大火球のあまりの勢いに、思わず目を細めて腕で顔をかばった。ユイが剣を一直線に振り下ろすと同時に火球が炸裂し、紅蓮の渦は巨大な死神の体を巻き込みながら通路の奥へとすさまじい勢いで流れ込んでいった。大轟音の裏に、かすかな断末魔の悲鳴が響いた。
火炎のあまりのまばゆさに思わず閉じてしまった目を開けると、そこにはもうボスの姿は無かった。通路のそこかしこに小さな残り火がゆらめき、ぱちぱちと音を立てている。その真っ只中に、ユイひとりだけがうつむいて立ち尽くしていた。床に突き立った火焔剣が、出現したときと同じように炎を発しながら溶け崩れ、消滅した。
アスナは、ようやく力の戻った体を起こし、細剣を支えにゆっくりと立ち上がった。わずかに遅れてキリトも立つ。二人はよろよろと少女に向かって数歩あゆみ寄った。
「ユイ……ちゃん……」
アスナがかすれた声で呼びかけると、少女はゆっくりと振り向いた。小さな唇は微笑んでいたが、大きなふたつの瞳にはいっぱいに涙が溜まっていた。
ユイは、じっとアスナとキリトを見つめると、やがて口を開き、ゆっくりと言った。
「パパ……ママ……。ぜんぶ、思い出したよ……」
王宮地下迷宮最深部、安全エリアとなっている正方形の部屋。入り口は一つで、中央にはつるつるに磨かれた黒い立方体の石机が設置されている。
アスナとキリトは、石机にちょこんと腰掛けたユイを無言のまま見つめていた。ユリエールとシンカーにはひとまず先に脱出してもらったので、今は三人だけだ。
記憶が戻った、とひとこと言ってから、ユイは数分間沈黙を続けていた。その表情はなぜか悲しそうで、言葉をかけるのがためらわれたが、アスナは意を決してそっと話し掛けた。
「ユイちゃん……。思い出したの……? いままでの、こと……」
ユイはなおもしばらくアスナを見つめつづけていたが、やがてこくりと頷いた。泣き笑いのような表情のまま、小さく唇を開く。
「はい……。全部、説明します――キリトさん、アスナさん」
その丁寧なことばを聞いた途端、アスナの胸はやるせない予感にぎゅっと締め付けられた。何かが終わってしまったのだという、切ない確信。
四角い部屋の中に、ユイの言葉がゆっくりと流れはじめた。
「この世界、『ソードアート・オンライン』は、ひとつの巨大な制御システムのもとに運営されています。システムの名前は『カーディナル』、それが、この世界のバランスを自らの判断に基づいて制御しているのです。
「カーディナルはもともと、人間のメンテナンスを必要としない存在として設計されました。二つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、更に無数の下部プログラムによって世界のすべてを調整する……。モンスターやNPCのアクション、アイテムや通貨の出現バランス、何もかもがカーディナル指揮下のプログラム群に操作されています。――しかし、ひとつだけ人間の手に委ねなければならないものがありました。プレイヤーの精神性に由来するトラブル、それだけは同じ人間でないと解決できない……そのために、数十人規模のスタッフが用意される、はずでした」
「GM……」
キリトがぽつりと呟いた。
「ユイ、君はゲームマスターなのか……? アーガスのスタッフ……?」
ユイは数秒間沈黙したあと、ゆっくりと首を振った。
「……カーディナルとその開発者たちは、プレイヤーのケアすらもシステムに委ねようと、あるプログラムを試作したのです。ナーヴギアの特性を利用してプレイヤーの感情を詳細にモニターし、問題を抱えたプレイヤーのもとを訪れて話を聞く……。『メンタルヘルス・カウンセリングプログラム』、MHCP試作一号、コードネーム『Yui』。それがわたしです」
アスナは驚愕のあまり息をのんだ。言われたことを即座に理解できない。
「プログラム……? AIだっていうの……?」
かすれた声で問い掛ける。ユイは、悲しそうな笑顔のままゆっくりと頷いた。
「プレイヤーに違和感を与えないように、わたしには感情模倣機能が与えられています。――偽物なんです、ぜんぶ……この涙も……。ごめんなさい、アスナさん……」
ユイの両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ、光の粒子となって蒸発した。アスナはゆっくりと一歩ユイのほうに歩み寄った。手を差し伸べるが、ユイはそっと首を振る――アスナの抱擁を受ける資格などないのだ――というように――。
いまだ信じることができず、アスナは言葉をしぼり出した。
「でも……でも、記憶がなかったのは……? AIにそんなこと起きるの……?」
「……二年前……。正式サービスが始まった日……」
ユイは瞳を伏せ、説明を続けた。
「何が起きたのかはわたしにも詳しくはわからないのですが、カーディナルが予定にない命令を下部プログラム群に下したのです。プレイヤーに対する一切の干渉禁止……。わたしの他のケア用プログラムは、不要なものとして全て消去されました。しかしわたしは試作品として正式に登録されていなかったためか、管理者権限を奪われただけで存在は残されたのです。
「プレイヤーへの接触が許されない状況で、わたしはやむなくプレイヤーのメンタル状態のモニターだけを続けました。状態は――最悪と言っていいものでした……。ほとんどすべてのプレイヤーは恐怖、絶望、怒りといった負の感情に常時支配され、時として狂気に陥る人すらいました。わたしはそんな人たちの心をずっと見つづけてきました。本来であればすぐにでもそのプレイヤーのもとに赴き、話を聞き、問題を解決しなくてはならない……しかしプレイヤーにこちらから接触することはできない……。義務だけがあり権利のない矛盾した状況のなか、わたしは徐々にエラーが蓄積し、崩壊していきました……」
しんとした地下迷宮の底に、銀糸を震わせるようなユイの細い声が流れる。アスナとキリトは、言葉もなく聞き入ることしかできない。
「ある日、いつものようにモニターしていると、他のプレイヤーとは大きく異なるメンタルパラメータを持つ二人のプレイヤーに気づきました。その脳波パターンはそれまで採取したことのないものでした……。喜び……やすらぎ……でもそれだけじゃない……。この感情はなんだろう、そう思ってわたしはその二人のモニターを続けました。会話や行動に触れるたび、わたしの中に不思議な欲求が生まれました……。そんなルーチンは無かったはずなのですが……。あの二人のそばに行きたい……直接、わたしと話をしてほしい……。すこしでも近くにいたくて、わたしは毎日、二人の暮らすプレイヤーホームから一番近いシステムコンソールで実体化し、彷徨いました……。その頃にはもうわたしはかなり壊れてしまっていたのだと思います……」
「それが、あの22層の森なの……?」
ユイはゆっくりと頷いた。
「はい。キリトさん、アスナさん……わたし、ずっと、お二人に……会いたかった……。森の中で、お二人の姿を見たとき……すごく、嬉しかった……。おかしいですよね、そんなこと、思えるはずないのに……。わたし、ただの、プログラムなのに……」
涙をいっぱいに溢れさせ、ユイは口をつぐんだ。アスナは言葉にできない感情に打たれ、両手を胸の前でぎゅっと握った。
「ユイちゃん……あなたは、ほんとうのAIなのね。ほんものの知性を持っているんだね……」
ささやくように言うと、ユイはわずかに首を傾けて答えた。
「わたしには……わかりません……。わたしが、どうなってしまったのか……」
その時、いままで沈黙していたキリトがゆっくりと進み出てきた。
「知性とは……自己の相対化ができるということだ。自分の望みを言葉にできるということだよ」
柔らかい口調で話し掛ける。
「ユイの望みはなんだい?」
「わたし……わたしは……」
ユイは、細い腕をゆっくりと二人のほうに伸ばした。
「ずっと、いっしょにいたいです……パパ……ママ……!」
アスナは溢れる涙をぬぐいもせず、ユイに駆け寄るとその小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「ずっと、一緒だよ、ユイちゃん」
少し遅れて、キリトの腕もユイとアスナを包み込む。
「ああ……。ユイは俺たちの子供だ。家に帰ろう。みんなで暮らそう……いつまでも……」
だが――ユイは、アスナの胸のなかで、そっと首を振った。
「え……」
「もう……遅いんです……」
キリトが、戸惑ったような声でたずねる。
「なんでだよ……遅いって……」
「この場所は、ただの安全エリアじゃないんです……。GMがシステムにアクセスするために設置されたコンソールなんです」
ユイがちらりと視線を向けると、部屋の中央の黒い石に突然数本の光の筋が走った。直後、ぶん……と音を立てて表面に青白いホロキーボードが浮かび上がる。
「さっきのボスモンスターは、ここにプレイヤーを近づけないように配置されたものだと思います。わたしはこのコンソールからカーディナルにアクセスし、オブジェクトイレイサーを呼び出してモンスターを消去しました。その時にカーディナルのエラー訂正機能で破損したデータを復元できたのですが……それは同時に、いままで管理外にあったわたしにカーディナルが注目してしまったということでもあります。今、コアシステムがわたしのプログラムを走査しています。すぐに異物という結論が出され、わたしは消去されてしまうでしょう。もう……あまり時間がありません……」
「そんな……そんなの……」
「なんとかならないのかよ! この場所から離れれば……」
二人の言葉にも、ユイは黙って微笑するだけだった。ふたたびユイの白い頬を涙が伝った。
「パパ、ママ、ありがとう。これでお別れです」
「嫌! そんなのいやよ!!」
アスナは必死に叫んだ。
「これからじゃない!! これから、みんなで楽しく……仲良く暮らそうって……」
「暗闇の中……いつ果てるとも知れない長い苦しみの中で、パパとママの存在だけがわたしを繋ぎとめてくれた……」
ユイはまっすぐにアスナを見つめた。その体を、かすかな光が包み始めた。
「ユイ、行くな!!」
キリトがユイの手を握る。ユイの小さい指が、そっとキリトの指を掴む。
「パパとママのそばにいると、みんなが笑顔になれた……。わたし、それがとっても嬉しかった。お願いです、これからも……わたしのかわりに……みんなを助けて……喜びを分けてください……」
ユイの黒髪やワンピースが、その先端から光の粒子を撒き散らして消滅をはじめた。ユイの笑顔がゆっくりと透き通っていく。重さが薄れていく。
「やだ! やだよ!! ユイちゃんがいないと、わたし笑えないよ!!」
溢れる光に包まれながら、ユイはにこりと笑った。消える寸前の手がそっとアスナの頬を撫でた。
『ママ、わらって……』
アスナの頭の中にかすかな声が響くと同時に、ひときわまばゆく光が飛び散り、それが消えるともう、アスナの腕のなかはからっぽだった。
「うわあああああ!!」
抑えようもなく声を上げながら、アスナは膝をついた。石畳の上にうずくまって、子供のように大声で泣いた。つぎつぎと地面にこぼれ、はじける涙の粒が、ユイの残した光のかけらと混じり合い、消えていった。
ending epilogue 四日目
昨日までの冷え込みが嘘のような、あたたかい微風が芝生の上をそっと吹き抜けていく。陽気に誘われたのか、小鳥が数羽庭木の枝にとまり、人間たちの様子を興味深そうに見下ろしている。
サーシャの教会の広い前庭には、食堂から移動させた大テーブルが設置され、時ならぬガーデンパーティーが催されていた。大きなグリルから魔法のように料理が取り出されるたび、子供たちが盛大な歓声を上げる。
「こんな旨いものが……この世界にあったんですねえ……」
昨夜救出されたばかりの『軍』最高責任者シンカーが、アスナが腕を奮ったバーベキューにかぶりつきながら感激の表情で言った。隣ではユリエールがにこにこしながらその様子を眺めている。第一印象では冷徹な女戦士といった風情の彼女だったが、シンカーの横にいると陽気な若奥さんにしか見えない。
そのシンカーは、昨日は顔も見る余裕がなかったのだが、こうして改めて同じテーブルについてみると、とても巨大組織『軍』のトップとは思えない穏やかな印象の人物だった。
背はアスナより少し高い程度、ユリエールよりは明らかに低いだろう。やや太めの体を地味な色合いの服に包み、武装は一切していない。隣のユリエールも今日は軍のユニフォーム姿ではない。
シンカーは、キリトの差し出すワインのボトルをグラスで受け、改めて、という感じでぐっと頭を下げた。
「アスナさん、キリトさん。今回は本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいか……」
「いや、俺も向こうでは『MMOトゥデイ』にずいぶん世話になりましたから」
笑みを浮べながらキリトが答える。
「なつかしい名前だな」
それを聞いたシンカーは丸顔をほころばせた。
「当時は、毎日の更新が重荷で、ニュースサイトなんてやるもんじゃないと思ってましたが、ギルドリーダーに比べればなんぼかマシでしたね。こっちでも新聞屋をやればよかったですよ」
テーブルの上に和やかな笑い声が流れる。
「それで……『軍』のほうはどうなったんですか……?」
アスナが訊ねると、シンカーは表情をあらためた。
「キバオウと彼の配下は除名しました。もっと早くそうすべきでしたね……。私の争いが苦手な性格のせいで、事態をどんどん悪くしてしまった。――軍自体も解散しようと思っています」
アスナとキリトは軽く目を見張った。
「それは……ずいぶん思い切りましたね」
「軍はあまりにも巨大化しすぎてしまいました……。ギルドを消滅させてから、改めてもっと平和的な互助組織を作りますよ。解散だけして全部投げ出すのも無責任ですしね」
ユリエールがそっとシンカーの手を握り、言葉を継いだ。
「――軍が蓄積した資財は、メンバーだけでなく、この街の全住民に均等に分配しようと思っています。いままで、酷い迷惑をかけてしまいましたから……。サーシャさん、ごめんなさいね」
いきなりユリエールとシンカーに深々と頭を下げられ、サーシャは眼鏡の奥で目をぱちくりさせた。慌てて顔の前で両手を振る。
「いえ、そんな。軍の、いいほうの人達にはフィールドで子供たちを助けてもらったこともありますから」
率直なサーシャの物言いに、再び場に和やかな笑いが満ちた。
「あの、それはそうと……」
首をかしげて、ユリエールが言った。
「昨日の女の子、ユイちゃん……はどうしたんですか……?」
アスナはキリトと顔を見合わせたあと、微笑しながら答えた。
「ユイは――お家に帰りました……」
右手の指をそっと胸元にもっていく。そこには、昨日まではなかった、細いネックレスが光っていた。華奢な銀鎖の先端には、同じく銀のペンダントヘッドが下がり、中央には大きな透明の石が輝いている。類滴型の宝石を撫でると、わずかなぬくもりが指先に沁みるような気がした。
あのとき――。
ユイが光に包まれて消滅したあと、石畳に膝をついてこらえようもなく涙をこぼすアスナの傍らで、不意にキリトが叫んだ。
「カーディナル!!」
涙に濡れた顔を上げると、キリトが部屋の天井を見据えて絶叫していた。
「そういつもいつも……思い通りになると思うなよ!!」
ぐいと腕で両目をぬぐうと、彼は突然部屋の中央の黒いコンソールに飛びついた。表示されたままのホロキーボードに猛烈な勢いで指を走らせ始める。
たちまちキリトの周囲には無数のウインドウが出現し、高速でスクロールする文字列の輝きが部屋を照らし出した。呆然とアスナが見守るなか、キリトの指はどんどん速度を上げ、キーボード全体に青白いスパークが閃きはじめた。
「行くな……ユイ……ユイ……!」
うわごとのように呟くキリトは、もう周囲のウィンドウを見てさえいない。両目を半眼に閉じ、直接システムと交信しているかのように思えた。
緊迫した数秒間が過ぎ去ったあと、不意に黒い岩でできたコンソール全体が青白くフラッシュし、直後、破裂音とともにキリトがはじき飛ばされた。
「キ、キリトくん!!」
あわてて床に倒れた彼のそばににじり寄る。
頭を振りながら上体を起こしたキリトは、憔悴した表情の中に薄い笑みを浮べると、アスナに向かって握った右手を伸ばした。わけもわからず、アスナも手を差し出す。
キリトの手からアスナの手のひらにこぼれ落ちたのは、大きな涙のかたちをしたクリスタルだった。複雑にカットされた石の中央では、とくん、とくんと白い光が瞬いている。
「こ、これは……?」
「――全部は無理だったけど……ユイのコアプログラム部分をどうにかシステムから切り離して、圧縮してオブジェクト化した……。ユイの心だよ、その中にある……」
それだけ言うと、キリトは力を使い果たしたように床にごろんところがり、目を閉じた。アスナは手の中の宝石を覗き込んだ。
「ユイちゃん……そこに、いるんだね……。わたしの……ユイちゃん……」
ふたたび、とめどなく涙が溢れ出した。ぼやける光の中で、アスナに答えるように、クリスタルの中心が一回、強くとくん、とまたたいた。
別れを惜しむサーシャ、ユリエール、シンカーと子供たちに手を振り、転移ゲートから22層に帰ってきたアスナとキリトを、森の香りがする冷たい風が迎えた。わずか三日の旅だったが、ずいぶん長く留守にしていたような気がして、アスナは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
なんという広い世界だろう――。
アスナはあらためてこの不思議な空中世界に思いを馳せた。無数にあるといっていい層ひとつひとつに、そこに暮らす人々がいて、泣いたり笑ったりしながら毎日を送っている。いや、大多数の人にとっては辛いことのほうがはるかに多いだろう。それでも、皆が自分の戦いをたたかっているのだ。
わたしの居る場所は……。
アスナは我が家へと続く小道を眺め、次いで上層の底を振り仰いだ。
――前線に戻ろう。不意にそう思った。
近いうち、わたしは再び剣を取り、わたしの戦場に戻らなくてはならない。いつまでかかるかわからないけど、この世界を終わらせて、みんながもう一度、本当の笑顔を取り戻せるまで戦うのだ。みんなに喜びを――。それが、ユイの望んだことなのだから。
「ね、キリトくん」
「ん?」
「もしゲームがクリアされて、この世界がなくなったら、ユイちゃんはどうなるの?」
「ああ……。容量的にはぎりぎりだけどな。俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されるようになっている。向こうで、ユイとして展開させるのはちょっと大変だろうけど……きっとなんとかなるさ」
「そっか」
アスナは体の向きを変え、ぎゅっとキリトに抱きついた。
「じゃあ、向こうでまたユイちゃんに会えるんだね。わたしたちの、初めての子供に」
「ああ。きっと」
アスナは、二人の胸の間で輝くクリスタルを見下ろした。ママ、がんばって……。耳の奥に、かすかにそんな声が聞こえた気がした。
(Sword Art Online外伝2 『Four days』 終)