二日目
朝の白い光の中でまどろむアスナの意識に、ゆっくりと穏やかな旋律が流れ込んでくる。オーボエによって奏でられる起床アラーム、曲は「Country Road」だ。アスナは覚醒直前の浮遊するような感覚の中、懐かしいメロディーに身をゆだねる。やがてストリングスの軽快な響きと、クラリネットの主旋律が重なり、そこにかすかな声でハミングが――。
(――ハミング?)
歌っているのは自分ではない。アスナはぱちりと目を開けた。
腕の中で、黒髪の少女が目蓋を閉じたまま――アスナの起床アラームに合わせてメロディーを口ずさんでいた。
一拍たりともずれていない。しかし、そんなことはあり得ない。アスナはアラームを自分にのみ聴こえるよう設定しているので、彼女の脳内のメロディーに合わせて歌うなどということは誰にも不可能だ。
だが、アスナはその疑問をとりあえず先送りすることにした。それよりも――。
「き、キリト君、キリトくんってば!!」
体を動かさないまま、背後のベッドに眠るキリトに呼びかける。やがて、むにゃむにゃという声と共にキリトが起き上がる気配がする。
「……おはよう。どうかしたかー?」
「早く、こっちに来て!」
床板を数歩あるく音。ひょいとアスナの体越しにベッドを覗き込み、すぐにキリトも息を飲んだ。
「歌ってる……!?」
「う、うん……」
アスナは腕の中の少女の体を軽く揺すりながら呼びかけた。
「ね、起きて……。目を、覚まして」
少女の唇の動きが止まった。やがて、長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。
濡れたような黒い瞳が、至近距離からまっすぐにアスナの目を射た。ぱちぱちと数度まばたきして、ふたたび色の薄い唇がゆっくりと動く。
「あ……う……」
少女の声は、極薄の銀器を鳴らすような、はかなく美しい響きだった。アスナは少女を抱いたままゆっくりと体を起こした。
「……よかった、目が覚めたのね。自分がどうなったか、わかる?」
言葉をかけると、少女は数秒のあいだ口をつぐみ、やがてゆっくりと首を振った。
「そう……。お名前は? 言える?」
「……な……まえ……。あた……しの……なまえ……」
少女が首をかしげると、艶やかな黒髪がふわりと動き、頬にかかる。
「ゆ……い。ゆい。それが……なまえ……」
「ユイちゃんか。いい名前だね。わたしはアスナ。この人はキリトよ」
アスナがキリトのほうを示すと、ユイと名乗る少女の視線も動いた。アスナと、中腰で身を乗り出すキリトを交互に見て、口を開ける。
「あ……うな。き……と」
たどたどしく唇が動き、切れ切れの音が発せられる。アスナは、昨夜感じた危惧がふたたびよみがえるのを感じていた。少女の外見は少なくとも八歳程度、ログインから経過した時間を考えれば現在の実年齢は十歳ほどには達していると思われる。しかし少女のおぼつかない言葉の様子は、まるで物心ついたばかりの幼児のようだ。
「ね、ユイちゃん。どうして22層にいたの? どこかに、お父さんかお母さんはいないの?」
ユイは目を伏せ、黙り込んだ。しばらく沈黙が続いたあと、ゆっくりと首を振る。
「わかん……ない……。なん……にも、わかんない……」
抱き上げて食卓の椅子に座らせ、暖めて甘くしたミルクを与えると、少女はカップを両手で抱えるようにしてゆっくりと飲み始めた。その様子を目の端で見ながら、すこし離れた場所でアスナはキリトと意見を交換することにした。
「ね、キリト君。どう思う……?」
キリトは厳しい顔で唇を噛んでいたが、やがて俯いて言った。
「記憶は……ないようだな……。でも、それより……あの様子だと、精神に……ダメージが……」
「そう……思うよね、やっぱ……」
「くそっ」
キリトの顔が、泣き出す寸前のように歪む。
「この世界で……色々、酷いことも見てきたけど……こんなの……最悪だ。残酷すぎるよ……」
その瞳が濡れているのを見ると、アスナの胸にも突き上げてくるものがあった。両腕でぎゅっとキリトの体を包み込み、言う。
「泣かないで、キリトくん。……わたしたちに、出来ることだって、きっと……あるよ」
「……そうか。そうだな……」
キリトは顔を上げると、小さく笑ってアスナの両肩に手を置き、食卓へと歩き出した。アスナもその後に続く。
がたがたと椅子を移動させてユイの横に座ると、キリトは明るい声で話しかけた。
「やあ、ユイちゃん。……ユイって、呼んでいい?」
カップから顔を上げたユイが、こくりと頷く。
「そうか。じゃあ、ユイも俺のこと、キリトって呼んでいいよ」
「き……と」
「キリト、だよ。き、り、と」
「……」
ユイは難しい顔でしばらく黙りこむ。
「……きいと」
キリトはにこりと笑うと、ユイの頭にぽんと手を置いた。
「ちょっと難しかったかな。何でも、言いやすい呼び方でいいよ」
ふたたびユイは長い時間考え込んでいた。アスナがテーブルの上からカップを取り上げ、ミルクを満たして目の前に置いても身じろぎもしない。
やがてユイはゆっくり顔を上げると、キリトの顔を見て、おそるおそる、というふうに口を開いた。
「……パパ」
次いでアスナを見上げて、言う。
「あうなは……ママ」
アスナの体が抑えようもなく震えた。こみ上げてくるものを必死に押さえつけ、ユイに向かって笑いかける。
「そうだよ……ママだよ、ユイちゃん」
それを聞くと、ユイははじめて笑顔を浮かべた。切りそろえた前髪の下で、表情の乏しかった黒い瞳がきらりと瞬き、一瞬、人形のようなその整った顔に生気が戻ったように見えた。
「――ママ!」
こちらに向かって差し出された手を見て、アスナは両手で口許を覆った。
「うっ……」
もう限界だった。こらえきれず嗚咽がこぼれる。椅子からユイの小さな体を持ち上げ、しっかりと胸に抱きながら、アスナは色々な感情が混じりあった涙が溢れ、頬を伝うのを感じていた。
ホットミルクを飲み、小さな丸パンを一つ食べると、ユイは再び眠気を覚えたらしく椅子の上で頭を揺らしはじめた。
テーブルの向かい側でその様子を見ていたアスナは、ぐいと両目をひと拭きすると隣の椅子に腰掛けるキリトに視線を向けた。
「わたし――わたし……」
口を開くが、言いたいことをなかなか形にすることができない。
「ごめんね、わたし、どうしていいのかわかんないよ……」
キリトはいたわるような眼差しでしばらくアスナを見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「……この子が記憶を取り戻すまで、ずっとここで面倒みたいと思ってるんだろ? 気持ちは……わかるよ。俺もそうしたい。でもな……ジレンマだよな……。そうしたら当分攻略には戻れないし、そのぶんこの子が解放されるのも遅れる……」
「うん……それは、そうだね……」
自分はともかく、とアスナは思う。誇張ではなくキリトの攻略プレイヤーとしての存在感はずば抜けたものがあり、迷宮区の未踏破エリアのマップ提供量はソロプレイヤーでありながらあまたの有力ギルドを上回っていた。数週間のつもりの新婚生活だが、こうして自分ひとりがキリトを独占していることにある種の罪悪感を抱いてしまうほどだ。
「とりあえず、出来ることをしよう」
キリトは寝息を立て始めたユイを見やりながら言葉を続けた。
「まず、始まりの街にこの子の親とか兄弟とかがいないか探しにいくんだ。これだけ目立つプレイヤーなら、少なくとも知ってる人間がいると思うし……」
「……」
もっともな意見だった。しかしアスナは、自分の中にこの少女と別れたくないと思っている部分があることに気付いていた。夢にまでみたキリトと二人だけの生活だったが、なぜかそれが三人になることに抵抗はない。まるでユイが自分とキリトの子供のように思えるからだろうか――とそこまで漠然と思考してから不意に我に返り、アスナは耳まで赤くなった。
「……? どうしたの?」
「な、なんでもないよ!!」
いぶかしむキリトに向かってアスナはぶんぶんと首を振って、言った。
「そ、そうだね。ユイちゃんが起きたら、始まりの街に行ってみよう。ついでに新聞の尋ね人コーナーにも書いてもらおうよ」
キリトの顔を見ることができず、早口で言いながらアスナは手早くテーブルの上を片付けた。椅子で眠るユイに目をやると、もう完全に熟睡しているようだったが、気のせいかその寝顔は昨日とは違いどことなく安らかな笑みを浮べているように思えた。
ベッドに移動させたユイは午前中ずっと眠りつづけ、また昏睡してしまったのではないかとアスナはやや心配したのだが、幸い昼食の準備が終わる頃目を覚ました。
ユイのために、普段はほとんど作らない甘いフルーツパイを焼いたのだが、テーブルについたユイはパイよりもキリトが旨そうにかぶりつくマスタードたっぷりのサンドイッチに興味を示し二人を慌てさせた。
「ユイ、これはな、すごく辛いぞ」
「う〜……。パパと、おなじのがいい」
「そうか。そこまでの覚悟なら俺は止めん。何事も経験だ」
キリトがサンドイッチを一つ差し出すと、ユイはためらわず小さな口を精一杯あけてがぶりと噛み付いた。
二人が固唾をのんで見守るなか、難しい顔で口をもぐもぐさせていたユイは、ごくりと喉を動かすとにっこり笑った。
「おいしい」
「中々根性のある奴だ」
キリトも笑いながらユイの頭をぐりぐりと撫でる。
「晩飯は激辛フルコースに挑戦しような」
「もう、調子に乗らないの! そんなもの作らないからね!」
だが始まりの街でユイの保護者が見つかれば、ここに帰ってくるときはまた二人きりだ。そう思うとアスナの胸中には一抹の寂しさがよぎる。
結局残りのサンドイッチを全て平らげてしまい、満足そうにミルクティーを飲むユイに向かって、アスナは言った。
「ユイちゃん、午後はちょっとお出かけしようね」
「おでかけ?」
きょとんとした顔のユイに向かって、どう説明したものか迷っているとキリトが言った。
「ユイの友達を探しにいくんだ」
「ともだち……って、なに?」
その答えに、思わず二人は顔を見合わせてしまう。ユイの「症状」には不可解な点が多い。単純に精神的年齢が後退していると言うよりは、知能があちこち欠損しているような印象がある。
その状態を改善させるためにも、本当の保護者を見つけたほうがいいんだ……。アスナは自分にそう言い聞かせ、ユイに向かって答えた。
「お友達っていうのは、ユイちゃんのことを助けてくれる人のことだよ。さ、準備しよう」
ユイはまだいぶかしそうな顔だったが、こくりと頷いて立ち上がった。
少女のまとう白いワンピースは、短いパフスリーブで生地も薄く、初冬のこの季節に外出するにはいかにも寒そうだ。もっとも寒いと言ってもそれで風邪を引いたりダメージを受けたりということはないのだが――氷雪エリアで裸になったりすれば話は別だが――、不快な感覚であることに変わりはない。
アスナはアイテムリストをスクロールさせて次々と厚手の衣類を実体化させ、どうにか少女に合いそうなセーターを発見すると、そこではたと動きを止めた。
通常、衣類を装備するときはステータスウインドウから装備フィギュアを操作することになる。布や液体などの柔らかいオブジェクトの再現はSAOの苦手分野であり、衣類は独立したオブジェクトと言うよりは肉体の一部として扱われているからだ。
アスナの戸惑いを察したキリトがユイに尋ねた。
「ユイ、ウインドウ、開けるか?」
案の定少女は何のことかわからないように首を傾げる。
「じゃあ、左手の人差し指を振ってみるんだ。こんなふうに」
キリトが指を振ると、手の下に紫色の四角い窓が出現した。それを見たユイはおぼつかない手つきで動きを真似たが、ウインドウが開くことはなかった。
「……やっぱり、何かシステムがバグってるな。でも、ステータス開けないってのは致命的すぎるぞ……。何もできないじゃないか」
キリトが唇を噛んだ、その時。むきになって左手の指を振っていたユイが、今度は右手を振った。途端、手の下に紫に発光するウインドウが表示された。
「でた!」
嬉しそうににっこり笑うユイの頭上で、アスナはあっけにとられてキリトと顔を見合わせた。もう何がなんだかわからない。
「ユイちゃん、ちょっと見せてね」
アスナはかがみ込むと、少女のウインドウを覗き込んだ。だが、ステータスは通常本人にしか見ることができず、そこには無地の画面が広がっているだけだ。
「ごめんね、手を貸して」
アスナはユイの右手を取ると、その細い人差し指を移動させ、カンで可視モードボタンがあると思われるあたりをクリックさせた。
狙い違わず、短い効果音とともにウインドウの表面に見慣れた画面が浮き上がってきた。基本的に他人のステータスを盗み見るのは重大なマナー違反であるので、こういう状況ではあってもアスナは気がとがめて極力画面に目をやらずアイテム欄のみを素早く開こうとしたのだが――。
「な……なにこれ!?」
画面上部を視線が横切った瞬間、驚きの言葉が口をついて出た。
メニューウインドウのトップ画面は、基本的に三つのエリアに分けられている。最上部に名前の日本語/英語表示と細長いHPバー、EXPバーがあり、その下の左半分に装備フィギュア、右半分にコマンドボタン一覧という配置だ。アイコン等は無数のサンプルデザインから自由にカスタマイズすることができるが、基本配置は不可変である。のだが、ユイのウインドウの最上部には、『ユイ / Yui-MHCP001X』というネーム表示があるだけでHPバーもEXPバーも、レベル表示すらも存在しない。装備フィギュアはあるものの、コマンドボタンは通常と比べて大幅に少なく、わずかに『アイテム』と『オプション』のそれが存在するだけだ。
アスナの動きが止まったことをいぶかしむように近づいてきたキリトも、ウインドウを覗きこむなり息を飲んだ。ユイ本人はウインドウの異常など意に介せぬふうで、不思議そうな顔で二人を見上げている。
「これも……システムのバグなのかな……?」
アスナがつぶやくと、キリトは喉の奥でちいさく唸りながらいらえた。
「なんだか……バグというよりは、もともとこういうデザインになってるようにも見えるけどな……。くそ、今日くらいGMがいないのを歯がゆいと思ったことはないぜ」
「ふつうはSAOってバグどころかラグることもほとんどないから、GMなんて気にしたことなかったけどね……。これ以上考えてもしょうがない、よね……」
アスナは肩をすくめると、あらためてユイの指を動かし、アイテム欄を開かせた。その表面に、テーブルから取り上げたセーターをそっと置くと、一瞬の光を発してアイテムはウインドウに格納された。次いでセーターの名前をドラッグし、装備フィギュアへとドロップする。
直後、鈴の音のような効果音とともにユイの体が光の粒に包まれ、淡いピンクのセーターがオブジェクト化された。
「わあー」
ユイは顔を輝かせ、両手を広げて自分の体を見下ろした。アスナはさらに同系色のスカートと黒いタイツ、赤い靴を次々と少女に装備させ、最後に元々着ていたワンピースをアイテム欄に戻すとウインドウを消去した。
すっかり装いを改めたユイはうれしそうに、ふわふわしたセーターの生地に頬をこすりつけたりスカートの裾を引っ張ったりしている。
「さ、じゃあお出かけしようね」
「うん。パパ、だっこ」
屈託なく両手を伸ばすユイに、キリトは照れたように苦笑しながら少女の体を横抱きにかかえ上げた。そのままちらりとアスナに目を向け、言う。
「アスナ、一応、すぐ武装できるように準備しといてくれ。街からは出ないつもりだけど……あそこは『軍』のテリトリーだからな……」
「ん……。気を抜かないほうがいいね」
頷いて、手早く自分のアイテム欄を確認すると、アスナはキリトと連れ立ってドアへと歩き出した。少女の保護者が見つかればいい、というのは素直な気持ちだったが、ユイと別れる時のことを考えると不思議な動揺も感じてしまう。出会ってわずか一日で、ユイはアスナが長らく忘れていた、心の柔らかい部分をすっかり捉えてしまったかのようだった。
『始まりの街』に降り立ったのはほとんど一年ぶりのことだった。
アスナは複雑な感慨を覚えながら、転移ゲートを出たところで立ち止まり、広大な広場とその向こうに広がる街並みをぐるりと見渡した。
もちろんここはアインクラッド最大の都市であり、冒険に必要な機能はほかのどの街よりも充実している。物価も安く、宿屋の類も大量に存在し、効率だけを考えるならここをベースタウンにするのがもっとも適している。
だが、アスナの知り合いに関して言えば、ハイレベルのプレイヤーで未だに『始まりの街』に留まっている者はいない。『軍』の専横も理由のひとつだろうが、何よりこの巨大な時計塔広場に立って上空を見上げると、どうしてもあの時のことを思い出さざるを得ないからだ、とアスナは思う。
最初はほんの気まぐれだったのだ。
実業家の父親と学者の母親の間に生まれたアスナ――いや明日奈は、物心ついたころから両親の期待を強く感じながら育ってきた。両親はともに穏やかだが毅然とした人物で、明日奈にはいつも優しかったが、そうであればあるほど、彼らの期待を裏切った時その笑顔の下からどのような表情が顔を出すのかと考えることが恐怖となった。
それは兄も同じだったろう。兄と明日奈は、そろって両親の選んだ私立の小学校に入学し、何ひとつとして問題を起こさず、つねに上位の成績を保ち続けた。中学は有名な進学校にすすみ、歳の離れた兄が大学に入って家を出てしまってからは、ただただ両親の期待を裏切らないことだけを考えて生きてきた。複数の習い事をこなし、両親の認めた友達とのみ付き合い、しかしそんな生活の中で、明日奈はいつしか世界が小さく、硬く収縮していくのを感じていた。このまま既定された方向に――両親の決めた高校、両親の決めた大学に進み、両親の決めた相手と結婚してしまったら、自分はきっと自分よりも小さな、とてつもなく硬いカラに押し込められ、永遠にそこから出ることはかなわないだろう、という恐怖におびえていた。
だから――、父親の会社に就職し、家に戻ってきた兄が(残念ながら兄はそのカラにとらわれてしまったのだ、と思った)ナーヴギアとSAOをコネで手に入れ、珍しく目を輝かせながら明日奈に向かってゲーム世界のことを語ったとき、テレビゲームなど触ったこともなかった明日奈だがその不思議な新世界にはわずかな興味を覚えたのだった。
もちろん、兄が自室で使用していれば、ナーヴギアのことなどすぐに忘れて思い出すこともなかっただろう。だが間の悪いことに兄はSAO初日に海外へと出張することになってしまい、それゆえにほんの気まぐれで明日奈は兄に一日だけ貸してくれ、と頼んだのだった。普段見たことのない世界を見てみたい、ただそれだけの気持ちで――。
そして、全てが変わってしまった。
あの日、明日奈からアスナへと姿を変え、見知らぬ街、見知らぬ人々の間に降り立ったときの興奮は今でも覚えている。
だがその直後、頭上に降臨した半透明の神によってこの世界の真実の姿が脱出不可能のデスワールドであることを告げられたとき、最初にアスナが考えたのは、まだ手を付けていない数学の課題のことだった。
すぐに帰ってあれを片付けないと、翌日の授業で教師に叱責されてしまう。そんなことはアスナの人生においてはあってはならないことで……しかしもちろん、事態の深刻さはそんなものではなかった。
一週間、二週間と日々が無為に過ぎ去っても、SAOに救出の手は伸びなかった。始まりの街の宿屋の一室に閉じこもり、ベッドの上にうずくまって、アスナはとてつもないパニックを味わいつづけた。時として悲鳴を上げ、絶叫しながら壁を叩きさえした。今は中学三年の冬なのだ。すぐに受験が、そして新学期がやってきてしまう。そのレールから外れることは、アスナにとって人生の終焉そのものに等しかった。
アスナは毎日狂おしく頭を抱えながら、暗く深い確信を抱いていた。
両親はきっと、娘の身を案じるよりは、ゲーム機などのせいで受験を失敗しようとしている娘に激しく失望していることだろう。友人たちは悲嘆に暮れつつも同時にグループの脱落者を哀れみ、蔑んでいるだろう。
それらの黒い思念が臨界に達したとき、ようやくアスナはひとつの決意を固め、宿屋を出た。救出を待つのではない、自分からここを脱出するのだ。世界の救世主となるのだ。そうすることでしか、自分はもう周囲の人々の心を繋ぎとめておくことはできないだろう。
アスナは装備を整え、リファレンスマニュアルを全て暗記し、フィールドへと向かった。睡眠は日に二、三時間をとるのみで、残りの時間は全てレベルアップにつぎ込んだ。生来の知力と意思力をすべてゲーム攻略に傾けたとき、彼女がトップレベルプレイヤーに名を連ねるようになるまでそう長い時間はかからなかった。狂剣士・『閃光』アスナの誕生であった。
そして今――。二年が経ち、十七歳になったアスナは、当時の自分をいたましい気持ちとともに振り返る。いや、ゲーム開始直後の頃だけではない。それまでの、硬く収縮した世界でのみ生きていた自分に対しても、痛々しく、切ない感情を覚える。
自分は「生きる」という言葉の意味を知らなかった。ただただ、あるべき未来のことだけを考え、現在を犠牲にしつづけた。「今」というのは、正しい未来へと向かう過程でしかなく、それゆえに過ぎ去ると同時に虚無の中に消えてしまった。
どれか一つだけではだめなのだ。SAO世界を俯瞰すると深くそう思う。
未来のみを見る者は、かつての自分のように狂ったようにゲーム攻略にあけくれ、過去だけを抱く者は宿屋の一室でうずくまっている。現在だけに生きる者は犯罪者として刹那的な快楽を追い求める。
だが、この世界においてなお、現在を楽しみ、数々の思い出を作り、脱出に向けて努力することができる人々もいる。それを教えてくれたのが、一年前に出会った黒髪の剣士だ。彼のように生きたい、そう思ったときからアスナの日々は色彩を変えた。
今なら、現実世界でもあの殻を破れそうな気がする。自分のために生きられそうな気がするのだ。この人が傍らにいてくれる限り――。
アスナは、隣に立ち、彼なりの感慨を抱いて街並みを見ているのであろうキリトにそっと寄り添った。上空の石の蓋を眺めると、あの時の記憶がふたたび甦ってきたが、感じた痛みはかすかなものだった。
感傷を振り払うように頭を一振りすると、アスナはキリトの腕の中のユイの顔を覗き込んだ。
「ユイちゃん、見覚えのある建物とか、ある?」
「うー……」
ユイは難しい顔で、広場の周囲に連なる石造りの建築物を眺めていたが、やがて首を振った。
「わかんない……」
「まあ、始まりの街はおそろしく広いからな」
キリトがユイの頭を撫でながら言った。
「あちこち歩いてればそのうち何か思い出すかもしれないさ。とりあえず、中央マーケットに行ってみようぜ」
「そうだね」
頷きあい、二人は南に見える大通りに向かって歩き始めた。
それにしても――。歩きながら、アスナは少々いぶかしい気持ちで改めて広場を見渡した。意外なほど、人が少ない。
始まりの街のゲート広場は、二年前のサーバーオープン時に全プレイヤー五万人を収容しただけあってとてつもなく広い。完全な円形の、石畳が敷き詰められた空間の中央には巨大な時計塔がそびえ、その下部に転移ゲートが青く発光している。塔を取り囲むように、同心円状に細長い花壇が伸び、それに並んで瀟洒な白いベンチがいくつも設置されている。こんな天気のいい午後には一時の憩いを求めるプレイヤーで賑わってもおかしくないのに、見える人影は皆ゲートか広場の出口に向かって移動していくばかりで、立ち止まったりベンチに腰掛けたりしている者はほとんどいない。
上層にある大規模な街では、ゲート広場は常に無数のプレイヤーでごった返している。世間話に花を咲かせたり、パーティーを募集したり、簡単な露店を開いたりと、たむろする人々のせいでまっすぐ歩けないほどなのだが――。
「ねえ、キリト君」
「ん?」
振り向いたキリトに、アスナは尋ねた。
「ここって今プレイヤー何人くらいいるんだっけ?」
「うーん、そうだな……。生き残ってるプレイヤーが約四万、その三分の一くらいが始まりの街から出てないらしいから、一万三千人ってとこじゃないか?」
「そのわりには、人が少ないと思わない?」
「そう言われると……。マーケットのほうに集まってるのかな?」
しかし、広場から大通りに入り、NPCショップと屋台が建ち並ぶ市場エリアにさしかかっても、相変わらず街は閑散としていた。やたらと元気のいいNPC商人の呼び込み声が、通りを空しく響き渡っていく。
それでもどうにか、通りの中央に立つ大きな木の下に座り込んだ男を見つけ、アスナは近寄って声をかけてみた。
「あの、すみません」
妙に真剣な顔で高い梢を見上げている男は、顔を動かさないまま面倒くさそうに口を開いた。
「なんだよ」
「あの……この近くで、尋ね人の窓口になってるような場所、ありません?」
その言葉を聞いて、男はようやく視線をアスナに向けてきた。遠慮のない目つきでアスナの顔をじろじろと眺めまわす。
「なんだ、あんたよそ者か」
「え、ええ。あの……この子の保護者を探してるんですけど……」
背後に立つキリトの腕に抱かれ、うとうとまどろんでいるユイを指し示す。
クラスを察しにくい簡素な布服姿の男は、ちらりとユイを見やると多少目を丸くしたが、すぐにまた視線を頭上の梢へと移した。
「……迷子かよ、珍しいな。……東七区の川べりの教会に、ガキのプレイヤーが一杯集まって住んでるから、行ってみな」
「あ、ありがとう」
思いがけず有望そうな情報を得ることができて、アスナはぺこりと頭を下げた。物はついでと、更に質問してみることにする。
「あのー……一体、ここで何してるんですか? それに、なんでこんなに人がいないの?」
男は渋面を作りながらも、まんざらでもなさそうな口調で答えた。
「企業秘密だ、と言いたいとこだけどな。よそ者なら、まあいいや……。ほら、見えるだろ? あの高い枝」
男が伸ばした指の先を、アスナは目で辿った。大ぶりな街路樹は、頭上に張り出した枝々に赤金色に色づいた葉をびっしりと付けているが、目をこらしてみるとその葉影にいくつか、深紅の楕円形をした実が成っているのが見て取れる。
「もちろん街路樹は破壊不能オブジェクトだから、登ったって実はおろか葉っぱの一枚もちぎれないんだけどな」
男の言葉が続く。
「一日に何回か、あの実が落ちるんだよな……。ほんの数分で腐って消えちまうんだけど、それを逃さず拾えば、NPCにけっこうな値で売れるんだぜ。食ってもうまいしな」
「へえええー」
料理スキルをマスターしているアスナは、食材アイテムの話にはひとかたならぬ興味がある。
「幾らくらいで売れるの?」
「……これは黙っててくれよ。一個、12コルだ」
「……」
得意げな男の顔を見ながら、アスナは思わず絶句した。その値段の、あまりの安さに驚愕したためだ。それでは、丸一日この樹に張り付いていても百コルも稼げない計算になる。
「あ……あの……それじゃあんまり割に合わないっていうか……。フィールドでワームの一匹も倒せば、150コルにはなりますよ」
そう言った途端、今度は男が目を丸くした。頭がおかしいんじゃないか、と言わんがばかりの視線をアスナに向けてくる。
「本気で言ってるのかよ。フィールドで、モンスターと戦ったりしたら……死んじまうかもしんねえだろうが」
「……」
アスナは返す言葉がなかった。確かに男が言うように、対モンスター戦には死の危険が常に付きまとう。だが現在のアスナの感覚では、それは現実世界で交通事故に遭うのを心配するようなもので、怖がってもはじまらないと言うしかない。
SAO内での死に対する自分の感覚が鈍磨しているのか、男がナーバスすぎるのか、咄嗟に判断することができずにアスナは立ち尽くした。多分、どちらが正解というものではないのだろう。始まりの街では、きっと男の言う事が常識なのだ。
アスナの複雑な心境など気にもとめぬ様子で、男はしゃべり続けた。
「で、何だっけ、人がいない理由? 別にいない訳じゃないぜ。みんな宿屋の部屋に閉じこもってるのさ。昼間は軍の徴税部隊に出くわすかもしれないからな」
「ちょ、ちょうぜい……。それは一体なんなの?」
「体のいいカツアゲさ。気をつけろよ、奴等よそ者だからって容赦しないぜ。おっ、一個落ちそうだ……話はこれで終わりだ」
男は口をつぐむと、真剣な眼差しで上空を睨み始めた。アスナはぺこりと頭を下げると、今の会話中ずっとキリトが沈黙していたことに気付き、後ろを振り返った。
「……」
そこにあったのは、戦闘中もかくやという真剣な目つきで赤い木の実を見据えているキリトの姿だった。どうやら次に落ちる実を全力で奪取するつもりらしい。
「やめなよもうー! 大人気ないなぁ」
「だ、だってさ、気になるじゃん」
アスナはキリトの襟くびを掴むと、ずるずる引きずりながら歩きはじめた。
「あ、ああ……うまそうなのに……」
未練たらたらなキリトの耳もとで、小声でささやく。
「あの人には悪いけど、買値12コルの木の実がそんなに美味しいわけないよー」
「そ、そうか……」
「それより、東七区ってどのへん? 教会で若いプレイヤーが暮らしてるみたいだから、行ってみよう」
すっかり眠りに落ちてしまったユイを受け取り、しっかりと抱くと、アスナはマップをのぞき込みながら歩くキリトの横に並んで歩調を合わせた。
ユイは外見的には10歳程度の体格なので、現実世界でこんな真似をしたら数分で腕が抜けそうになるところだが、ここでは筋力パラメータ補正のお陰で羽毛のまくらほどの重さしか感じない。
相変わらず人影の少ないだだっぴろい道を、南東目指して十数分も歩くと、やがて建築物の少ない、広大な庭園めいたエリアに差し掛かった。黄色く色づいた広葉樹の林が、初冬の寒風の中わびしげに梢を揺らしている。
「えーと、マップではこのへんが東七区なんだけど……。その教会ってのはどこだろう」
「あ、あそこじゃない?」
アスナは、道の右手に広がる林の向こうに一際高い尖塔を見つけ、視線でその方向を示した。青灰色の屋根を持つ塔のいただきに、十字に円を組み合わせた金属製のアンクが輝いている。間違いなく教会のしるしだ。各町に最低ひとつはある施設で、内部の祭壇ではモンスターの特殊攻撃『呪い』の解除や対アンデッドモンスター用の武器の聖別などを行うことができる。魔法の要素がほとんど存在しないSAOにおいて、もっとも神秘的な要素のある場所と言ってよい。また、継続的にコルを納めることで教会内の小部屋を借りることもでき、宿屋の代わりに使う場合もある。
「ち、ちょっとまって」
教会に向かって歩き出そうとしたキリトを、アスナは呼び止めた。
「ん? どうしたの?」
「あ、ううん……。その……もし、あそこでユイちゃんの保護者が見つかったら、ユイちゃんを……置いてくるんだよね……?」
「……」
キリトの黒い目が、アスナをいたわるように和らいだ。近寄り、両腕でそっと、眠るユイごとアスナの体を包み込む。
「別れたくないのは俺もいっしょさ。何て言うのかな……ユイがいることで、あの森の家がほんとうの家庭になったみたいな……そんな気がしたもんな……。でも、会えなくなるわけじゃない。ユイが記憶を取り戻したら、きっとまた訪ねてきてくれるさ」
「ん……。そうだね」
ちいさく頷くと、アスナは腕の中のユイに頬をすり寄せ、意を決して歩き出した。
教会の建物は、街の規模に比べると小さなものだった。二階建てで、シンボルである尖塔も一つしかない。もっとも始まりの街には複数の教会が存在し、ゲート広場近くのものはちょっとした城館ほどのサイズがある。
アスナは、正面の大きな二枚扉の前に達すると、右手で片方の扉を押し開けた。公共施設なので当然鍵は掛けられていない。内部は薄暗く、正面の祭壇を飾るろうそくの炎だけが石敷きの床を弱々しく照らし出している。一見したところ人の姿はない。
入り口から上半身を乗り入れ、アスナは呼びかけた。
「あのー、どなたかいらっしゃいませんかー?」
声が残響エフェクトの尾を引きながら消えていっても、誰も出てくる様子はない。
「誰もいないのかな……?」
首を傾げながら横に立つキリトの顔を見ると、彼はそっと首を振りながら口を開いた。
「いや、人がいるよ。右の部屋に三人、左に四人……。二階にも何人か」
「……索敵スキルって、壁の向こうの人数までわかるの?」
「熟練度980からな。便利だからアスナも上げろよ」
「いやよ、修行が地味すぎて発狂しちゃうわよ。……それはそうと、何で隠れてるのかな……」
アスナはそっと教会内部に足を踏み入れた。しんとした静寂が周囲を包むが、なんとなくその中に息を潜める気配を感じるような気がする。
「あの、すみません、人を探してるんですが!」
今度はもう少し大きな声で呼びかける。すると――右手のドアが僅かに開き、そのむこうからか細い女性の声が響いてきた。
「……軍の人じゃ、ないんですか?」
「ちがいますよ。上の層から来たんです」
アスナもキリトも、帯剣はおろか戦闘用の防具ひとつとして身につけていない。軍所属のプレイヤーは常にユニフォームの重武装をまとっているので、格好だけでも、軍とは無関係であることがわかってもらえるはずだ。
やがて、ドアがゆっくりと開くと、その向こうから一人の女性プレイヤーがおずおずと姿を現した。
暗青色のショートヘア、黒ぶちの大きなメガネをかけ、その奥で怯えをはらんだ深緑色の瞳をいっぱいに見開いている。簡素な濃紺のプレーンドレスを身にまとい、手には鞘に収められた小さな短剣。
「ほんとに……軍の徴税官じゃないんですね……」
アスナは安心させるように女性に微笑みかけると、頷いた。
「ええ、私たちは人を探していて、今日上から来たばかりなんです。軍とは何の関係もないですよ」
その途端――。
「上から!? ってことは本物の剣士なのかよ!?」
甲高い、少年めいた叫び声と共に、女性の背後のドアが大きく開き、中から数人の人影がばらばらと走り出してきた。直後、祭壇の左手のドアも開け放たれ、同じく数名が駆け出してくる。
あっけにとられたアスナとキリトが声もなく見守るなか、メガネの女性の両脇にずらりと並んだのは、どれも少年少女と言ってよいうら若いプレイヤーたちだった。下は十二歳、上は一四歳といったところだろう。皆興味しんしんといったふうにアスナとキリトを眺め回している。
「こら、あんた達、部屋に隠れてなさいって言ったじゃないー」
慌てたように子供たちを押し戻そうとする女性だけが二十歳前後と思われる。もっとも、誰一人として命令に従う子はいない。
だが、やがて、先程真っ先に部屋から走り出してきた、赤毛の短髪をつんつん逆立てた少年が、失望したような叫び声をあげた。
「なんだよ、剣の一本も持ってないじゃん。ねえあんた、上から来たんだろ? 武器くらい持ってないのかよ?」
後半はキリトに向かって発せられた言葉である。
「い、いや、ないことはないけど……」
目を白黒させながらキリトが答えると、再び子供たちの顔がぱっと輝いた。見せて、見せてと、口々に言い募る。
「こらっ、初対面の方に失礼なこと言っちゃだめでしょう。――すみません、普段お客様なんてないものですから……」
いかにも恐縮したように頭を下げるメガネの女性に向かって、アスナはあわてて言った。
「い、いえ、かまわないです。――ね、キリトくん、いくつかアイテム欄に入れっぱなしだっと思うから、見せてあげたら?」
「う、うん」
アスナの提案に頷くと、キリトはウインドウを開き、指を動かし始めた。たちまち幾つもの武器アイテムがオブジェクト化され、傍らの長机の上に積み上げられていく。最近の冒険でモンスターがドロップしたアイテムを、換金する暇がなくて放置していたものだ。
キリトが、二人の装備品を除く余剰アイテムを全て取り出しウインドウを閉じると、子供たちが歓声を上げてその周囲に群がった。次々と剣やメイスを手にとっては刃の銀色の輝きに見入っている。過保護な親が見たら卒倒しそうな光景だが、街区圏内では武器をどう扱おうとそれによってダメージを受けることは有り得ない。
「――すみません、ほんとに……」
メガネの女性が、困ったように眉を寄せつつも、喜ぶ子供たちの様子に笑みを浮べながら、言った。
「……あの、こちらへどうぞ。今お茶の準備をしますので……」
礼拝堂の右にある小部屋に案内されたアスナとキリトは、振舞われた熱い茶をひとくち飲んでほっと息をついた。
「それで……人を探してらっしゃるということでしたけど……?」
向かいの椅子に腰掛けたメガネの女性プレイヤーが、ちいさく首を傾けながら言った。
「あ、はい。ええと……わたしはアスナ、この人はキリトといいます」
「あっ、すみません、名前も言わずに。わたしはサーシャです」
ぺこりと頭を下げあう。
「で、この子が、ユイです」
膝の上で眠りつづけるユイの髪をそっと撫でながら、アスナは言葉を続けた。
「この子、22層の森の中で迷子になってたんです。記憶を……無くしてるみたいで……」
「まあ……」
サーシャという女性の、大きな深緑色の瞳がメガネの奥でいっぱいに見開かれる。
「装備も、服以外はなんにもなくて、上層で暮らしてたとは思えなくて……。それで、始まりの街に保護者とか……この子のことを知ってる人がいるんじゃないかと思って、探しに来たんです。で、こちらの教会で、子供たちが集まって暮らしていると聞いたものですから……」
「そうだったんですか……」
サーシャは両手でカップを包み込むと、視線をテーブルに落とした。
「……この教会には、いま、小学生から中学生くらいの子供たちが三十人くらい暮らしています。多分、いま始まりの街にいる子供プレイヤーのほぼ全員だと思います。このゲームがはじまったとき……」
声はか細いが、意外にはっきりした口調でサーシャが話しはじめた。
「それくらいの子供たちのほとんどは、パニックを起こして多かれ少なかれ精神的に問題を来しました。勿論ゲームに適応して、街を出て行った子供もいるんですが、それは例外的なことだと思います」
当時中学三年だったアスナにも覚えのあることだった。宿屋の一室で閉じこもっていた頃は確かに精神が崩壊するぎりぎりまで追い詰められていたと思う。
「当然ですよね、まだまだ親に甘えたい盛りに、いきなりここから出られない、ひょっとしたら二度と現実に戻れない、なんて言われたんですから……。そんな子供たちは大抵虚脱状態になって、中には何人か……自殺した子もいるようです」
サーシャの口許がかたくこわばる。
「わたし、ゲーム開始から一ヶ月くらいは、ゲームクリアを目指そうと思ってフィールドでレベル上げしてたんですけど……ある日、そんな子供たちの一人を街角で見かけて、どうしても放っておけなくて、連れてきて宿屋で一緒に暮らしはじめたんです。それで、そんな子供たちが他にもいると思ったらいてもたってもいられなくなって、街じゅうを回っては独りぼっちの子供に声をかけるようなことを始めて。気付いたら、こんなことになってたんです。だから、なんだか……お二人みたいに、上層で戦ってらっしゃる方もいるのに、わたしはドロップアウトしちゃったのが、申し訳なくて」
「そんな……そんなこと」
アスナは首を振りながら、一生懸命言葉を探そうとしたが、喉がつまって声にならなかった。後を引き継ぐようにキリトが言った。
「そんなこと、ないです。サーシャさんは立派に戦ってる……俺なんかより、ずっと」
「ありがとうございます。でも、義務感でやってるわけじゃないんですよ。子供たちと暮らすのはとっても楽しいです」
ニコリと笑い、サーシャは眠るユイを心配そうに見つめた。
「だから……私たち、二年間ずっと、毎日一エリアずつ回って、困ってる子供がいないか調べてるんです。そんな小さい子がいれば、絶対気付いたはずです。残念ですけど……始まりの街で暮らしてた子じゃあ、ないと思います」
「そうですか……」
アスナはうつむき、ユイをきゅっと抱きしめた。気を取り直すように、サーシャの顔を見る。
「あの、立ち入ったことを聞くようですけど、毎日の生活費とか、どうしてるんですか?」
「あ、それは、わたしの他にも、街周辺のフィールドなら絶対大丈夫な程度のレベルになった年長の子が何人かいますので、食事代くらいはなんとかなってます。ぜいたくはできませんけどね」
「へえ、それは凄いな……。さっき街で話を聞いたら、フィールドでモンスターを狩るなんて常識外の自殺行為だって言ってましたよ」
キリトの言葉に、サーシャはこくりと頷いた。
「基本的に、今始まりの街に残ってるプレイヤーは全員そういう考えだと思います。それが悪いとは言いません、死の危険を考えれば仕方ないことなのかもしれないんですが……。でも、そのせいでわたしたちは、この街の平均的プレイヤーよりお金を稼いでいることになっちゃうんです」
確かに、この教会の客室を常時借り切っているなら、一日あたり数百コルが必要になるだろう。先刻の木の実ハンターの男の日収を大きく上回る額だ。
「だから、最近目をつけられちゃって……」
「……誰に、です?」
サーシャの気弱そうな目が一瞬厳しくなった。言葉を続けようと口を開いた、その時――。
「先生! サーシャ先生! 大変だ!!」
部屋のドアがばんと開き、数人の子供たちがなだれ込んできた。
「こら、お客様に失礼じゃないの!」
「それどこじゃないよ!!」
先程の赤毛の少年が、目に涙を浮べながら叫んだ。
「ギン兄ィ達が、軍のやつらにつかまっちゃったよ!!」
「――場所は?」
別人のように毅然とした態度で立ち上がったサーシャが、少年に尋ねた。
「東五区の道具屋裏の空き地。軍が十人くらいで通路をブロックしてる。クリオだけが逃げられたんだ」
「わかった。――すみませんが……」
サーシャはアスナとキリトのほうに向き直ると、軽く頭を下げ、言った。
「わたしはすぐに子供たちを助けに行かなければなりません。お話はまたのちほど……」
「俺たちも行くよ、先生!!」
赤毛の少年が叫ぶと、その後ろの子供たちも口々に同意も声を上げた。少年はキリトのそばに駆け寄り、必至の形相で言った。
「兄ちゃん、さっきの武器、貸してくれよ! あれがありゃあ、軍の連中もすぐ逃げ出すよ!」
「いけません!」
サーシャの叱責が飛ぶ。
「あなたたちはここで待ってなさい!」
その時、今まで無言で成り行きを見守っていたキリトが、子供たちをなだめるように右手を上げた。普段は茫洋と掴み所のない態度の彼だが、こんな時だけは不思議な存在感を発揮し、子供たちがぴたりと口をつぐむ。
「――残念だけど――」
落ち着いた口調でキリトが話しはじめた。
「あの武器は、必要パラメータが高すぎて君じゃ装備できない。俺たちが助けに行くよ。こう見えてもこのお姉ちゃんは無茶苦茶強いんだぞ」
ちらりと視線を向けるキリトに、アスナも大きく頷き返した。立ち上がり、サーシャのほうに向き直って口を開く。
「わたし達にもお手伝いさせてください。少しでも人数が多いほうがいいはずです」
「――ありがとう、お気持ちに甘えさせていただきます」
サーシャは深く一礼すると、メガネをぐっと押し上げ、言った。
「それじゃ、すみませんけど走ります!」
教会から飛び出したサーシャは、腰の短剣をきらめかせながら北に向かって一直線に走りはじめた。キリトと、ユイを抱いたアスナもその後を追う。走りながらアスナがちらりと後ろを振り返ると、大勢の子供たちがついてくるのが見えたが、サーシャも追い返す気は無いようだった。
林の間を縫うように走り、やがて現れた東六区の市街地の裏通りを抜けていく。最短距離をショートカットしているようで、NPCショップの店先や民家の庭などを突っ切って進むうち、前方の細い路地を塞ぐ、見覚えのある制服を身にまとった男達の一団が目に入った。どうやらその向こうで、狩りに出ていた教会の子供たちを取り囲んでいるらしく、威圧的な胴間声が漏れ聞こえてくる。
路地に走りこんだサーシャが足を止めると、それに気付いた軍のプレイヤーたちが振り返り、にやりと笑みを浮べた。
「おっ、保母さんの登場だぜ」
「……子供たちを返してください」
硬い声でサーシャが言う。
「人聞きの悪いこと言うなよォ。すぐに返してやるよ、ちょっと社会常識ってもんを教えてやったらな」
「そうそう。市民には納税の義務があるからな」
ひゃははは、と男達が甲高い笑い声を上げた。固く握られたサーシャの拳がぶるぶると震える。
「ギン! ケイン! ミナ!! そこにいるの!?」
サーシャが男達の向こうに呼びかけると、すぐに怯えきった少女の声でいらえがあった。
「先生! 先生……助けて!」
「お金なんていいから、全部渡してしまいなさい!」
「先生……だめなんだ……!」
今度は、しぼり出すような少年の声。
「クッヒャッ」
道をふさぐ男の一人が、ひきつるような笑いを吐き出した。
「あんたら、ずいぶん税金を滞納してるからなぁ……。金だけじゃ足りないよなぁ」
「そうそう、装備も置いてってもらわないとなァー。防具も全部……何から何までな」
男達の下卑た笑いを見て、アスナは路地の奥で何が行われているか咄嗟に察した。たぶん兵士たちは、少女を含む子供たちに、着衣も全て解除しろと要求しているのだ。アスナの内部に殺意にも似た憤りが芽生える。
サーシャも同時にそれを察したらしく、殴りかからんばかりの勢いで男たちに詰め寄った。
「そこを……そこをどきなさい! さもないと……」
「さもないと、何だい、保母先生? あんたがかわりに税金を払うかい?」
にやにや笑う男達は、まったく動こうとするそぶりを見せない。
街の内部、いわゆる街区圏内では、犯罪防止コードというプログラムが常時働いており、他のプレイヤーにダメージを与えることはもちろん、無理矢理移動させるような真似は一切できない。しかしそれは裏を返せば、行く手を阻もうとする悪意のプレイヤーも排除できないということであり、このように通路を塞いで閉じ込める「ブロック」、更には直接数人で取り囲んで相手を一歩も動けなくしてしまう「ボックス」といった悪質なハラスメント行為の存在を許す結果となっている。
だがそれも、あくまで地面を移動する場合においてのみ可能な行為だ。アスナはキリトを見やると、言った。
「行こう、キリトくん」
「ああ」
頷きあい、二人は地面を蹴った。
敏捷力と筋力のパラメータを全解放する勢いで跳躍した二人は、呆然とした表情で見上げるサーシャと軍メンバーの頭上を軽々と飛び越え、数回建物の壁を蹴りながら飛翔すると、四方を壁に囲まれた空き地へと降り立った。
「うわっ!?」
その場にいた数人の男達が驚愕の表情で飛びすさる。
空き地の片隅には、十代なかばと思しき二人の少年と一人の少女が、固まって身を寄せ合っていた。少女は白いキャミソール一枚、少年たちも下着姿だ。アスナは唇を噛むと、子供たちに歩み寄り、微笑みかけながら言った。
「もう大丈夫よ。早く服を着なさい」
少年たちはこくりと頷くと、慌てて足元から着衣を拾い上げ、ウインドウを操作しはじめる。
「おい……オイオイオイ!!」
その時、ようやく我に返った軍プレイヤーの一人がわめき声を上げた。
「なんだお前らはァ!! 邪魔すんのかコラァ!!」
「おっ、待て待て、この女いけるじゃん」
アスナの顔をじろじろ見ながら、ひときわ重武装の男が進み出てきた。どうやらリーダー格らしい。
「姉ちゃん、見ない顔だけど、俺たちの邪魔すっとどうなるか、わかってんだろうな? 逃がしゃしねえぞ。本部でじっくり話、しようや」
「おお、それいいねぇ」
周囲の男達が追従するように笑い声を上げる。調子に乗って近寄ってきたリーダーは、夏みかんの皮に切れ目を入れたようなごつごつした顔を突き出してアスナの顔を覗き込み、次いでアスナの腕の中で眠っているユイに視線を落とした。ぴゅう、とヘタな口笛を吹き、言う。
「うほっ、これ姉ちゃんのガキかよ?」
再び、野卑な爆笑。
「ま、姉ちゃんがあいつらのかわりに税金払ってくれるなら文句はねえや。さ、本部いこうか。そのガキもいっしょにな」
「そのへんにしといたほうがいいぞ」
低い、キリトの声が流れた。
「いますぐ消えろ。そろそろ我慢の限界だからな」
「……なんだと?」
リーダーの細い目が凶暴な光を帯びる。腰から大ぶりのブロードソードを引き抜くと、わざとらしい動作でぺたぺた刀身を手のひらに打ちつけながら数歩キリトに歩み寄った。剣の表面が低い西日を反射してぎらぎらと輝く。一度の損傷も修理も経験していない、新品の武器特有の輝き。
「てめえこそ消えろや! 邪魔すんじゃねえよ、何なら圏外行くか圏外! おぉ?」
「……剣を振ったことも無い人間が剣士じみた口を利くな……」
アスナの唇からかすれた声が漏れた。事が穏便に済めばそれが一番といままで我慢していたが、ユイを欲望でぎらつく目で見られた瞬間、憤激が限界を超えたのを自覚していた。
「……キリトくん、ユイちゃんをお願い」
キリトにユイを渡すと、彼はいつの間にか実体化させていたアスナの細剣を片手でひょいと放ってきた。受け取りざま鞘を払い、リーダーに向かってすたすたと歩み寄る。
「お……お……?」
状況が飲み込めず、口を半開きにする男の顔面に向かって、アスナはいきなり全力の片手突きを叩き込んだ。
周囲を染める紫色の閃光。爆発にも似た衝撃音。男の重そうな体が宙をくるくると回りながら吹き飛び、数メートル離れた石壁に激突して再び紫の閃光を撒き散らした。
「そんなに戦闘がお望みなら、わざわざフィールドに行く必要はないわ」
地面に座り込んで、両目を限界まで丸く見開いた男の前まで歩み寄ると、アスナは再び右手を閃かせた。閃光。轟音。リーダーの体が地面をごろごろと転がる。
「安心して、HPは減らないから。そのかわり、圏内戦は恐怖を刻み込む」
容赦ない歩調で三たび歩み寄るアスナの姿を見上げ、リーダーはようやくアスナの意図を悟ったように唇をわななかせた。
犯罪防止コード圏内では、武器による攻撃をプレイヤーに命中させても見えない障壁に阻まれてダメージが届くことはない。だがこのルールにも裏の意味があり、つまり攻撃者が犯罪者カラーに落ちることもないということになる。
それを利用したのが「圏内戦闘」であり、通常は訓練の模擬戦闘として行われる。しかし、攻撃者のパラメータとスキルが上昇するにつれ、コード発動時のシステムカラーの発光と衝撃音は過大なものとなり、また両者のステータス差があまりに大きいと、発生する衝撃によって宙を吹き飛ぶような事も起こりうる。慣れない者にとっては、HPが減らないとわかっていてもその恐怖はおおよそ耐えられるものではない。
「ひあっ……ぐぎゃっ……やめっ……」
アスナの剣撃によって宙を舞うたびに、リーダーはだらしない悲鳴を上げた。
「お前らっ……見てないで……なんとかしろっ……!!」
その声に、ようやく我に返った軍メンバーが、つぎつぎと武器を抜いた。
南北の通路からも、予想外の事態を察したブロック役のプレイヤー達が走りこんでくる。
半円形に周囲を取り囲む男達に、アスナは狂戦士時代に戻ったような爛々と光る眼を向けた。物も言わず地面を蹴り、集団に突っ込んでいく。
たちまち、轟音と絶叫の連続が狭い空き地に充満した。
数分後――。
我に返ったアスナが足を止め、剣を降ろすと、空き地にはわずか数人の軍プレイヤー達が失神して転がるのみだった。残りは皆リーダーを見捨てて逃げ出したらしい。
「ふう……」
大きくひとつ息をついて、細剣を鞘に収め、振り返ると――そこには、絶句してアスナを見つめるサーシャと、教会の子供たちの姿があった。
「あ……」
アスナは息を詰めて一歩後ずさった。先程の、怒りに身を任せた修羅のごとき荒れようは、さぞかし子供たちを怯えさせただろうと思い、悄然とうつむく。
だが突然、子供たちの先頭にいた、例の赤毛で逆毛の少年が、目を輝かせながら叫んだ。
「すげえ……すげえよ姉ちゃん!! 初めて見たよあんなの!!」
「このお姉ちゃんは無茶苦茶強い、って言ったろう」
にやにや笑いながらキリトが進み出てきた。左手でユイを抱き、右手には剣を下げている。どうやら数人は彼が相手をしたらしい。
「……え、えへへ」
困ったようにアスナが笑うと、子供たちがわっと歓声を上げて一斉に飛びついてきた。サーシャも両手を胸の前で握り締め、両目に涙を溜めて泣き笑いのような表情を浮べている。
その時だった。
「みんなの――みんなのこころが――」
細いが、よく通る声が響いた。アスナははっとして顔を上げた。キリトの腕のなかで、いつのまにか目覚めたユイが宙に視線を向け、右手をその方向へ伸ばしていた。
アスナはあわててその方角を見やったが、そこには何もない。
「みんなのこころが――ひかりに……」
「ユイ! どうしたんだ、ユイ!!」
キリトが叫ぶとユイは二、三度まばたきをして、きょとんとした表情を浮べた。アスナもあわてて走りより、ユイの手を握る。
「ユイちゃん……何か、思いだしたの!?」
「……あたし……あたし……」
眉を寄せ、うつむく。
「あたし、ここには……いなかった……。ずっと、ひとりで、暗い場所にいた……」
何かを思い出そうとするかのように顔をしかめ、唇を噛む。と、突然――。
「うあ……あ……ああああ!!」
その顔がのけぞり、細いのどから高い悲鳴がほとばしった。
「!?」
ザ、ザッという、SAO内で初めて聞くノイズのような音がアスナの耳に響いた。直後、ユイの硬直した体のあちこちが、崩壊するようにぶれ、振動した。
「ゆ……ユイちゃん……!」
アスナも悲鳴を上げ、その体を両手で必死に包み込む。
「ママ……こわい……ママ……!!」
かぼそい悲鳴を上げるユイをキリトの腕から抱き上げ、アスナはぎゅっと胸に抱きしめた。数秒後、怪現象は収まり、硬直したユイの体から力が抜けた。
「なんだよ……今の……」
キリトのうつろな呟きが、静寂に満ちた空き地にかすかに流れた。