一日目
アスナは毎朝の起床アラームを七時五十分にセットしている。
なぜそんな中途半端な時間なのかというと、キリトの設定時刻が八時ちょうどだから、である。十分早く目を覚まし、ベッドに入ったまま、隣りで眠る彼を見ているのが好きなのだ。
今朝もアスナは、やわらかい木管楽器の音色によって目覚めたあと、そっと体をうつ伏せにして、両手で頬杖をつきながらキリトの寝顔を眺めていた。
出会ったのが半年前。攻略パートナーとなったのが二週間前。結婚して、ここ22層の森の中に引っ越してきてからはわずか6日しか経っていない。誰よりも愛する人だが、実のところ、キリトに関してはまだまだ知らない事も多い。それは寝顔ひとつとっても言えることで、こうして眺めていると、だんだん彼の年齢がわからなくなってくる。
わずかに斜に構えた落ち着いた物腰のせいで、自分より少し年上かなと普段は思っている。しかし深い眠りに落ちているときのキリトには、無邪気と言っていいほどのあどけなさがあるため、なんだか遥かに年下の少年のようにも見えてしまう。
歳くらい、訊いてもかまわないだろう――とは思う。いかに現実世界の話を持ち出すのが禁忌とは言え、二人はもう夫婦なのだから。歳どころか、現実に戻ってからまた出会うためには、本名、住所から連絡先まで伝え合っておいたほうがいいのは確実だ。
しかし、アスナはなかなかそれが言い出せないでいる。
現実世界のことを話した途端、ここでの『結婚生活』が仮想の、薄っぺらなものになってしまいそうで怖いからだ。アスナにとって今一番大切な、唯一の現実はここでの穏やかな日々であって、たとえこの世界からの脱出がかなわぬまま現実の肉体が死を迎えることがあるとしても、最後の瞬間までこの暮らしが続いてくれるなら悔いはない。
だから、夢から醒めるのは、もう少し後に――。そう思いながら、アスナはそっと手を伸ばし、眠るキリトの頬に触れた。
それにしても、幼い寝顔だ。
長めの黒い前髪と、その下に光るやや険のある眼のせいで起きているときは強面の印象があるが、こうして見ていると線の細い顔立ちは少女的ですらある。こんな時、アスナはいつも不思議な感情にとらわれてしまう。
キリトの強さについては今更考えることは何もない。ベータテストの時から蓄積した途方もない経験と、絶え間ない攻略で獲得した数値的ステータス、そしてそれらを支える判断力と意思力。血盟騎士団リーダーのヒースクリフには敗れはしたものの、キリトはアスナの知る限り最強のプレイヤーだ。どんなに厳しい戦場でも、傍らに彼がいる限り不安を味わったことはない。
しかし、寄り添って横たわるキリトを眺めていると、なぜか彼が傷つきやすいナイーブな弟ででもあるかのような気持ちがきゅうっと胸の奥に湧き上がってきて、抑えられなくなる。守ってあげなくちゃ、と思う。
そっと息をつきながら、アスナは身を乗り出し、キリトの体に腕をまわした。かすかな声で囁きかける。
「キリト君……大好きだよ。ずっと、一緒にいようね」
その途端、キリトがわずかに身動きし、ゆっくりと瞼を開けた。二人の視線が至近距離で交錯する。
「!!」
アスナは慌てて跳び退った。ベッドの上にぺたんと正座して、顔を真っ赤に染めながら言う。
「お、おはよ、キリト君。……いまの……聞いてた……?」
「おはよう。いまの……って、何?」
上体を起こし、欠伸を噛み殺しながら聞き返すキリトに向かって、アスナは両手をぶんぶんと振った。
「う、ううん、なんでもないの!」
てへへ、と笑ってから、ふと考える。不意を突かれたので動転して誤魔化してしまったが、別に何も恥ずかしいことは口にしていない。そこで、キリトのほうに体を寄せながら、言った。
「やっぱなんでもなくない」
「は……? 朝から何を……」
ぽかんとするキリトの首に、えいっ、と飛びついて、耳もとで囁く。
「だいすき、って言ったの」
「なっ……」
今度はキリトが赤くなる番だった。その頬に向かって、アスナはゆっくりと唇を近づけた。
目玉焼きと黒パン、サラダにコーヒー(に似た飲み物)の朝食を終え、二秒でテーブルを片付けると、アスナは両手をぱちんと打ち合わせた。
「さて! 今日はどこに遊びにいこっか」
「おまえなあ」
キリトが苦笑する。
「身も蓋もない言い方するなよ」
「だって毎日楽しいんだもん」
アスナにとっては偽らざる本音だ。
振り返るのも苦痛を伴う記憶だが、SAOの囚人となってからキリトに出会うまでの一年半、アスナの心は硬く凍りついていた。
寝る間も惜しんでスキル・レベルを鍛え上げ、攻略ギルド血盟騎士団のサブリーダーとして抜擢されてからは時としてメンバーが音をあげるほどのハイペースで迷宮に潜りつづけた。心にあるのはただゲームクリア、そして脱出だけで、それに資する活動以外のすべてを無駄なものと思っていた。
それを考えるとアスナは、何故もっと早くキリトと巡り合うことができなかったのかと悔やまずにはいられない。彼と出会ってからの日々は、現実世界での生活以上に色彩と驚きに溢れたものだった。彼と共になら、ここでの時間も得がたい経験と思えた。
だからアスナには、今ようやく手に入れた二人だけの時間、その一秒一秒が貴重な宝石のように思えるのだ。もっともっと、二人で色々な場所に行き、色々なことを話したい。
アスナは、両手を腰にあてて唇を尖らせると言った。
「じゃあキリト君は遊びにいきたくないの?」
するとキリトはにやりと笑い、左手を振ってマップを呼び出した。可視モードとしアスナに示す。ここ22層の森と湖の連なりが表示されている。
「ここなんだけどな」
指し示したのは、二人の家から少し離れた森の一角だった。
22層は低層フロアゆえに面積がかなり広い。直径で言えば八キロメートル強ほどもある。その中央には巨大な湖があり、南岸に主街区であるコラルの村。北岸に迷宮区。それ以外の場所はすべて針葉樹の美しい森となっている。アスナとキリトの小さな家はフロアのほぼ南端、外周部間近の場所にあり、今キリトが示しているのは家から北東へ二キロメートルほど進んだ場所である。
「昨日、村で聞いたウワサなんだけどな……。この辺の、森が深くなってるとこ……。出るんだって」
「は?」
聞き返すアスナにむかって、キリトは意味深な笑いを浮かべる。
「だから、出るんだって」
「何が?」
「――幽霊」
アスナはしばし絶句してから、おそるおそる聞き返した。
「……それって、アストラル型のモンスターってこと? レイスとかシャドウみたいな?」
「ちゃうちゃう、SAOのモンスターじゃないよ。ホンモノさ。プレイヤー……人間の、幽霊。女の子だって」
「ひゃ……」
アスナは思わず顔を引きつらせてしまう。その手の話は、人並み以上に苦手な自信がある。ホラー系フロアとして名高い65、66層あたりの古城迷宮は、あれこれ理由をつけて攻略をサボってしまったほどだ。
「だ、だって、ここはゲームのデジタル世界だよ。そんな――幽霊なんて、出るわけないじゃない」
無理やり笑顔を作りながら、ややムキになって抗弁する。
「それはどうかなー?」
だがお化けがアスナの弱点と知っているキリトは、いかにも楽しそうに追い打ちをかけてくる。
「例えばさぁ……。恨みを残して死んだプレイヤーの霊が、電源入りっぱなしのナーヴギアに取り憑いて……夜な夜なフィールドを彷徨ってるとか……」
「やめ――――っ!!」
「わはは、悪かった、今のは不謹慎な冗談だったな。まあ俺も本当に幽霊が出るとは思っちゃいないけど、どうせ行くなら何か起きそうなところがいいじゃないか」
「うう……」
唇を尖らせながら、アスナは窓の外に目を向けた。
冬も間近なこの季節にしてはいい天気だ。ぽかぽかと暖かそうな陽光が庭の芝生に降り注いでいる。幽霊が出るには最も適さない時間、に思える。
ちなみに、アインクラッドではその構造上、早朝と夕方を除いて太陽を直接見ることはできない。しかし日中は十分以上の面光源ライティングによってフィールドは明るく照らされている。
アスナはキリトに向き直り、つんとあごを反らせながら言った。
「いいわよ、行きましょう。幽霊なんて居ないってことを証明しに」
「よし決まった。――今日会えなかったら、今度は夜中に行こうな」
「絶対いやよ!! ……そんな意地悪言う人にはお弁当作ってあげない」
「げげ、ナシナシ、今の無し」
キリトに最後のひと睨みを浴びせてから、アスナはにこりと笑った。
「さ、準備を済ませちゃおう。わたしはお魚焼くから、キリト君はパンを切ってね」
手早くフィッシュ・バーガーの弁当をランチボックスに詰め、二人が家を出たときは午前九時となっていた。
迷宮攻略に追われていた日々には特に意識しなかったが、こうしてシンプルな生活に入ってみるとアスナは改めて気づくことがある。それはSAO内では一日が実に長い、ということだ。理由は簡単で、現実世界での生活に否応無く付随する煩雑なあれこれ、その殆どをすっぱりと省略できるからだ。
例えば、こうして二人で出かけようとすると、現実世界ではその準備にかかる時間はとてつもないものとなるだろう。弁当作りは言わずもがな、台所を片付け、ゴミを出し、髪を洗い、乾かし整え、服をあれこれと迷いながら着たり脱いだり、さらに鏡の前で簡単な化粧に数十分。家を出て、駅まで歩き、電車に乗って待ち合わせ場所へ――。考えただけで気が遠くなりそうだ。
しかし今や弁当は数分で完成、ゴミは一つとして発生せず、服はウインドウでの操作のみで選択でき(しかも収納場所と小遣いを気にせず買い放題)、化粧もする必要などまるでない。言わば生活における『楽しさ』を得るために必要不可欠な『過程』をばっさり切り捨てることができるのだ。
アスナは以前、そのことが今の幸福な結婚生活に悪影響を与える可能性について考えたことがある。簡単に言えば、払うべき犠牲と努力(遅刻しそうになって駅まで走るとか)を払わずに、毎日こんなに楽しく暮らしているのは気がとがめる――ということだが、最終的には悪いことなどなにもない、という結論に至った。一日、二十四時間の中で、キリトと語り、触れ合い、愛を確かめる時間が増えることに何の弊害があるだろう。
そのことをどう思うか尋ねてみたところ、キリトの答えはこうだった。
ひょっとしたら、俺たちは未来の生活を生きているのかもしれないよ、と彼は言った。あるいは遠い未来には、人間は現実空間を捨て、体の管理は機械に任せ、仮想世界で育ち、出会い、働き、老いていくのかもしれない。そこには、現実の生活から必然的に発生するトラブル――転んで怪我をする、物を失くす、そういったことが存在せず、その分、人間はちょっとだけ笑顔でいられる時間が増えているかもしれない、と。
ここにくる以前のアスナなら、その話を聞いても嫌悪を覚えるだけだったろう。だが今は、そういう方向もあるいはありなのかな、と思う。要は――一番大切なのは自分のこころが何を感じるか、それだけなのだ。
庭の芝生に出たところで、アスナはキリトを振り返ると、言った。
「ね、肩車して」
「か、かたぐるまぁ!?」
素っ頓狂な声でキリトが聞き返す。
「だって、いつも同じ高さから見てたんじゃつまんないよ。キリト君の筋力パラメータなら余裕でしょ?」
「そ、そりゃそうかもしれないけどなぁ……。おまえ、いい歳こいて……」
「歳は関係ないもん! いいじゃない、誰が見てるわけでなし」
「ま、まあいいけどなぁ……」
キリトは呆れたように首を振りながらしゃがみこみ、背中をアスナに向けた。スカートをたくしあげ、その肩をまたぐように両足をかける。
「いいよー」
キリトが重みなどないかのような、身軽な動作で立ち上がると、それにつれて視点が一気に上昇した。
「わあ! ほら、ここからもう湖が見えるよ!」
「俺は見えないよ!!」
「じゃあ、あとでわたしもやってあげるから」
「……」
脱力したようにうなだれるキリトの頭に手をかけ、アスナは言った。
「さ、出発進行! 進路北北東!」
たぶん、これがこの世界で生きる、ということなのだ。捨て去ったのは煩雑な作業だけではない、あの世界で自分をしばっていた常識そのものだ。仮想世界でこころを飛翔させれば、日々は次々と新しい顔を見せてくれる。
すたすたと歩き出したキリトの肩の上で屈託無く笑いながら、アスナは痛いほどの、キリトへの――そして二人で暮らす日々への愛おしさを感じていた。自分は今、十七年の人生の中でいちばん『生きて』いる、そう思った。
小道を歩き出して(実際に歩いているのはキリトだけだが)十数分後、22層に点在する湖のひとつに差し掛かった。うららかな陽気に誘われてか、朝から数人の釣り師プレイヤーが湖水に糸を垂らしている。小道は湖をかこむ丘の上を通り、左手に見える湖畔まではやや距離があるが、近づくうちに二人に気づいたプレイヤー達がこちらに手をふってきた。どうやら皆笑顔で、中には腹を抱えて笑っている者もいる。
「……誰も見てなくないじゃん!!」
「あはは、人いたねー。ほら、キリト君も手を振りなよ」
「ぜったい嫌だ」
文句を言いながらも、キリトはアスナを下ろそうとはしなかった。内心では彼もおもしろがっているのがアスナにはわかる。
やがて道は丘を右に下り、深い森の中へと続く。モミの木に似た巨大な針葉樹がそびえる間を縫って、ゆっくりと歩く。木の葉擦れの音、小川のせせらぎ、鳥のさえずりが森の光景に美しい伴奏を添えている。
アスナは、いつもより近くに見える木々の梢に視線を向けた。
「大きい木だねえー。ねえ、この木、登れるのかなあ?」
「う〜ん……」
アスナの問いに、キリトはしばし考え込む。
「システム的には不可能じゃない気がするけどなぁ……。試してみる?」
「ううん、それはまた今度の遊びテーマにしよう。――登ると言えばさあ」
アスナはキリトの肩に乗ったまま体を伸ばし、木々の隙間から遠くに見えるアインクラッド外周部に目をやる。
「外周にいくつか、支柱みたいになって上層まで続いてるとこがあるじゃない。あれ……登ったらどうなるんだろうね」
「あ、俺やったことあるよ」
「ええー!?」
体を傾け、キリトの顔を覗き込む。
「なんで誘ってくれなかったのよう」
「まだそんなに仲良くなかったころだってば」
「なによ、キリト君が避けてたんじゃない」
「……さ、避けてたかな?」
「そうよー。わたしがいっくら誘っても、お茶にも付き合ってくれなかったよ」
「そ、それは……。い、いやそんな事よりだな」
会話が妙な方向に行き始めたのを修正するようにキリトが言葉を続ける。
「結論から言えばダメだったよ。岩がでこぼこしてたから登るのは案外簡単だったんだけど、八十メートルくらい登ったとこで急にシステムのエラーメッセージが出て、ここは侵入不可能領域です! って怒られてさぁ」
「あっはっは、ズルはだめだねーやっぱ」
「笑いごとじゃないぞ。それにびっくりして手を滑らせて、見事に落っこちてな……」
「え、ええ!? さすがに死ぬでしょうソレ」
「うん。死ぬと思った。緊急転移があと一秒遅れてたら戦死者リストに仲間入りさ。死因が墜落死ってのはかなりレアだろうなぁ」
「もう、危ないなぁ。二度としないでよね」
「そっちが言い出した話だろ!」
他愛ない会話を交わしながら歩くうち、森はどんどん深くなっていった。心なしか、やかましかった鳥の声もまばらになり、梢を縫って届く陽光もひかえめになってきている。
アスナは改めて周囲を見回しながら、キリトに尋ねた。
「ね、その……ウワサの場所って、どのへんなの?」
「ええと……」
キリトが手を振り、マップで現在位置を確認する。
「あ、そろそろだよ。座標的にはあと何分かで着く」
「ふうん……。ね、具体的には、どんな話だったの?」
聞きたくないが、聞かないのも不安で、アスナは問い掛けた。
「ええと、一週間くらい前、丸太を集めてた工芸スキルプレイヤーがこのへんに入り込んだそうだ。このへんの木材はアイテム的にも質がいいらしくて、夢中で集めているうちに暗くなっちゃって……。あわてて帰ろうと歩き始めたところで、ちょっと離れた木の影に――ちらりと、白い影が」
「…………」
アスナ的にはそこでもう限界だったが、キリトの話は容赦なく続く。
「モンスターかと思って慌てたけど、どうやらそうじゃない。人間、小さい女の子に見えたって言うんだな。長い、黒い髪に、白い服。ゆっくり、木立の向こうを歩いていく。モンスターでなきゃプレイヤーだ、そう思って視線を合わせたら」
「…………」
「――カーソルが、出ない」
「ひっ……」
おもわず喉の奥で小さな声を洩らしてしまう。
「そんな訳はない。そう思いながら、よしゃあいいのに近づいた。そのうえ声をかけた。そしたら女の子がぴたりと立ち止まって……こっちをゆっくり振り向こうと……」
「も、も、もう、や、やめ……」
「そこでその男は気がついた。女の子の、白い服が月明りに照らされて、その向こう側の木が――透けて見える」
「――――――!!」
必死に悲鳴をこらえながら、アスナはぎゅっとキリトの髪を掴んだ。
「女の子が完全に振り向いたら終わりだ、そう思って男はそりゃあ走ったそうだ。ようやく遠くに村の明かりが見えてきて、ここまでくれば大丈夫、と立ち止まって……ひょいっと後ろを振り返ったら……」
「――――――!?!?」
「誰もいなかったとさ。めでたしめでたし」
「――――き、き、キリトくんの、ばか――――っ!!」
アスナはぽかぽかとキリトの頭を叩いた。
「わあ、ごめんごめん! 勘弁!」
「お、降ろしてよう」
地面に膝をついたキリトの背から滑り降りると、足に力が入らず、すとんとしゃがみこんでしまう。
「わ、わたしそういう話、ほんとにダメなの!! ……ぎゅーってして」
キリトに向かって手を差し伸べると、すまなそうな顔でキリトは跪き、アスナの体を両腕で包み込んだ。ぎゅっと力が込められると、ようやく少し安心する。
「――しかしなあ」
耳もとで、まだすこしおもしろがるようなキリトの声。
「あれだけモンスターに囲まれても大丈夫な奴が、お化けはだめなの?」
「アストラル系は苦手だってば! ……それに、モンスターは剣で斬れるけど、お化けは……」
語尾を口の中で紛らし、キリトの胸に顔を埋める。
「わかったわかった、ごめんな。ほら、大丈夫だから。俺がついてるよ」
幼子をあやすような声とともに、キリトが髪を撫でてくれる。しばらくそうしているとどうにか気持ちが落ち着き、アスナは顔を上げた。そのまま体を伸ばしてキリトの頬に自分の頬をすり寄せ、仕草でキスをせがもうとした――その時だった。
うっすら目を開けた、アスナの視界に、キリトの肩口から見える森の光景が入り込んできた。彼の背後には、灰色の巨木が幾重にも建ち並び、その奥は昼なお深い薄闇の中に溶け込んでいる。その木のうちの一本、二人からかなり離れた針葉樹の幹の傍らに、白いものがちらりと見えた。
とてつもなく嫌な予感をひしひしと感じながら、アスナはその何かにむかっておそるおそる視線を凝らした。キリトほどではないが、アスナの索敵スキルもかなりの錬度に達している。自動的にスキルによる補正が適用され、視線を集中している部分の解像度がぐんと上昇する。
白い何かは、ゆっくりと風にはためいているように見えた。植物ではない。岩でもない。布だ。更に言えば、シンプルなラインのワンピースだ。その裾から覗いている二本の細い――脚。
ゆっくりと視線を上げていく。ふくらんだスリーブから伸びた華奢な右手は木の幹に添えられ、左手は体の脇に下ろされている。広めの襟ぐりは深紅のリボンで飾られ、雪のように白い胸元と、そこから続く細い首――漆黒のロングヘアが風になびき、卵型の小さな顔、引き結ばれた色の薄い唇――そしてとうとう、無限の闇を湛えたような、表情の無い二つの黒い瞳に、アスナの視線が吸い込まれた。
少女が立っている。キリトの話にあったのと寸分違わぬ白いワンピースをまとった幼い少女が無言で佇み、二人をじっと見ている。
ふらりと意識が薄れかかるのを感じながら、アスナはどうにか口を開いた。ほとんど空気だけのかすれ声をどうにかしぼり出す。
「き、き、キリトくん、あそこ――」
キリトがさっと振り向いた。直後、その体もびくりと硬直する。
「う、うそだろおい……」
アスナはもう喋れない。視線を少女から逸らせぬまま、数秒が経過した。少女は動かない。二人から数十メートル離れた場所に立ち、じっとこちらを見つめている。もし、すこしでもこっちに近づいてきたら、わたし気絶しちゃうだろうなあ、そう思ってアスナが覚悟を決めたその時。
ふらり――と少女の体が揺れた。動力の切れた人形のような、妙に非生物めいた動きでその体が地面に崩れ落ちた。どさり、というかすかな音が耳に届いてくる。
「あれは――」
不意にキリトが立ち上がった。
「幽霊なんかじゃないぞ!!」
一言叫んで走り出す。
「ちょ、ちょっとキリトくん!」
置き去りにされたアスナはあわてて呼び止めたが、キリトは目もくれず倒れた少女へと駆け寄っていく。
「もう!!」
やむなくアスナも立ち上がり、その後を追った。まだ心臓がどきどき言っているが、気絶して倒れる幽霊なんて聞いたこともない。やはりあれはプレイヤーとしか思えない。
遅れること数秒、針葉樹の下に到達すると、すでに少女はキリトに抱え起こされていた。まだ意識は戻っていない。長い睫毛に縁どられた目蓋は閉じられ、両腕は力なく体の脇に投げ出されている。念のためワンピースに包まれた体をまじまじと眺めるが、透けている様子はどこにもない。
「だ、大丈夫そうなの?」
「う〜〜〜ん」
キリトは少女の顔を覗き込みながら言った。
「と、言ってもなぁ……。この世界じゃ息とかしないし、心臓も動かないし……」
SAO内では、人間の生理的活動のほとんどは再現が省略されている。自発的に息を吸い込むことはできるし、空気が動く感触も味わえるが、無意識呼吸は行われない。心臓の鼓動も、緊張したり興奮してドキドキするという感覚はあるものの他人のそれを感じ取ることはできない。
「でもまあ、消滅してない……ってことは生きてる、ってことだよな。しかしこれは……相当妙だぞ……」
言葉を切り、キリトは首をかしげた。
「妙って?」
「幽霊じゃないよな、こうして触れるし。でも、カーソルは……出ない……」
「あ……」
アスナはあらためて少女の体に視線を集中させた。だが、通常アインクラッドに存在する動的オブジェクトならプレイヤーにせよモンスターにせよ必ず表示されるはずのカラー・カーソルが出現しない。いまだかつてこんな現象に遭遇したことはなかった。
「何かの、バグ、かな?」
「そうだろうな。普通のネットゲームならGMを呼ぶってケースだろうけど、SAOにGMは居ないしな……。それに、カーソルだけじゃない。プレイヤーにしちゃちょっと若すぎるよ」
確かにそうだった。腰を落としたキリトの両腕に抱きかかえられたその体はあまりにも華奢で、小さい。年齢で言えば十歳にも満たないだろう。ナーヴギアには建前的ながら装着に年齢制限があり、確か十三歳以下の子供の使用は禁じられていたはずだ。
アスナはそっと手を伸ばし、少女の額に触れた。ひんやりとした、滑らかな感触が伝わってくる。
「こんな……小さな子が……二年も、この中に……」
その苦しみは想像もつかない。アスナは唇を噛むと、立ち上がり、言った。
「とりあえず、放ってはおけないよ。目を覚ませばいろいろわかると思う。うちまで連れて帰ろう」
「うん、そうだな」
キリトも少女を横抱きにしたまま立ち上がった。アスナはふと周囲を見回したが、深く暗い森がどこまでも続くばかりで、少女がここに居た理由のようなものは何も見つからなかった。
道を戻り、森から出て二人の家にたどり着いても少女の意識は戻らなかった。寝室のアスナのベッドに少女を横たえ、上掛けをかけておいて、二人はその向かいのキリトのベッドに並んで腰を下ろした。
数分間沈黙が続いたあと、キリトがぽつりと口を開いた。
「可能性としては、この子はやっぱりプレイヤーで、あそこで道に迷っていた――というのが一番有り得ると思う。クリスタルを持っていない、あるいは緊急脱出の方法を知らないとしたら、ログインしてから今までずっとフィールドに出ないで、始まりの街にいたと思うんだ。なんでこんな所まで来たのかは判らないけど、始まりの街にならこの子のことを知ってるプレイヤーが……ひょっとしたら親とか、保護者がいるんじゃないかな」
「うん。わたしもそう思う。こんな小さい子が一人でログインするなんて考えられないもん。親とか、兄弟とかがきっと――。……無事だと、いいけど」
最後の言葉は口の中に飲み込むようにして、アスナはキリトに顔を向けた。
「ね、意識、戻るよね」
「ああ。まだ消えてないってことは、ナーヴギアとの間に信号のやり取りはあるんだ。睡眠状態に近いと思う。だから、きっとそのうち、目をさます……はずだよ」
しっかり頷きながらも、キリトの言葉には願望の色があった。
アスナは立ち上がると、少女の眠るベッドの前にひざまずき、右手を伸ばした。そっと少女の頭を撫でる。
それにしても美しい少女だった。子供というよりは、妖精のような気配を漂わせている。肌の色はアラバスターのようなきめの細かい純白。長い黒髪は艶やかに光り、どこか異国風のくっきりとした顔立ちは、目を開けて笑ったらさぞ魅力的だろうと思わせる。
キリトもアスナの横に歩み寄り、腰を落とした。おそるおそる右手を伸ばし、少女の髪に触れる。
「十歳は行ってないよな……。八歳くらいかな」
「それくらいだね……。わたしが見た中ではダントツで最年少プレイヤーだよ」
「そうだな。前にビーストテイマーの女の子と知り合ったけど、それでも十三歳くらいだったからなぁ」
はじめて聞く話に、アスナは思わずキリトの顔を見やってしまう。
「ふうん、そんなかわいいお友達がいたんだ」
「ああ、たまにメールのやり取りを……い、いや、それだけで、何もないぞ!」
「どうだか。キリト君鈍いから」
つんと顔をそらす。
風向きがおかしくなりつつあるのを察したように、キリトは立ち上がると、言った。
「お、もうこんな時間だな。お昼にしようぜ」
「その話、あとできちんと聞かせてもらいますからね」
ひと睨みしてからアスナも立ち上がり、この場は放免してあげることにしてにこりと笑う。
「さ、お弁当たべよ。お茶いれるね」
晩秋の午後がゆっくりと過ぎ去り、外周から差し込む赤い陽光が消え去る時間になっても、少女は眠りつづけている。
アスナがカーテンを引き、壁のランプを灯していると、村まで出かけていたキリトが戻ってきた。無言で首を振り、少女に関する手がかりが無かったことを告げる。
二人とも賑やかに夕食を楽しむ気になれず、簡単なスープとパンだけをそそくさと食べると、キリトが買ってきた何種類かの新聞を確認する作業に取りかかった。
新聞、と言っても紙を束ねた現実世界のそれとは違い、雑誌程度のサイズの羊皮紙一枚でできている。その表面はシステムウインドウ状のスクリーンになっており、ホームページを操作する要領で収められた情報を切り替えて表示させることができる。
内容も、プレイヤーが運営している情報系ホームページそのもので、ニュースから簡単なマニュアル、FAQ、アイテムリストなど多岐にわたる。その中には探し物・尋ね人コーナーもあり、二人が目をつけたのはそこだった。少女を探している人がいるのではないかと思ったのだ。しかし――。
「……ないな……」
「ないね……」
数十分かけてすべての新聞を調べ終わり、二人は顔を見合わせて肩を落とした。あとはいよいよ少女が目を覚まし、話を聞けるまで待つしかない。
いつもの夜なら、二人とも宵っ張りということもあって他愛ない話をしたり簡単なゲームをしたり、夜の散歩としゃれ込んだり、あるいは心ゆくまで愛を確かめ合ったりとすることは山ほどあるのだが、今夜はとてもそんな気になれなかった。
「今日はもう寝よっか」
「ん。そうだな」
アスナの言葉にキリトも頷いた。
居間の明かりを消し、寝室に入る。少女がベッドを一つ使っているので、もう片方に二人で寝ることにして(実際は毎晩そうなのだが)、そそくさと寝巻きに着替えた。
寝室のランプも火を落として、二人はベッドに横になった。
キリトにはいろいろ妙な特技があるのだが、寝つきの良さもそれに含まれるだろう。アスナが、少し話をしようと横を向いた時にはもう深い眠りに落ちているようだった。
「もう」
小声で文句を言い、反対側、少女の眠るベッドのほうに向き直る。薄青い闇の中、黒髪の少女は相変わらずこんこんと眠りつづけていた。今まで意識的に彼女の過去について考えないようにしていたのだが、こうして見つめているとどうしても思考がそちらのほうに向かってしまう。
親なりの保護者といっしょに今まで過ごしていたのなら、まだいい。だが、仮に――ひとりでこの世界にやってきて、二年間を恐怖と孤独のうちに送っていたのなら――たかだか八、九歳の子供に、それは耐えがたい日々だったろう。自分ならとても正常な精神状態を保てたとは思えない。
ひょっとして――。アスナは最悪の事態を想像する。もし、あの森の中で彷徨い、昏倒してしまったのが、少女のこころの状態に起因するものだとしたら。アインクラッドにはもちろん精神科医などいないし、助けを求めるべきシステム管理者もいない。クリアには最低あと半年はかかると予想され、それもアスナやキリトの努力だけではどうにもならない。今二人が前線から離れているのも、ひとつには二人を含む一部のトッププレイヤーのレベルが突出しすぎ、攻略組の数が覚束なくなってきているからなのだ。
少女の苦しみがどれほど深いものであっても、自分がそれを救ってあげることなどできない――。そう思うと、アスナは不意に耐えがたい胸の痛みに襲われた。無意識のうちにベッドから離れ、眠る少女のそばまで移動する。
しばらく髪を撫でていたあと、アスナはそっと上掛けをめくり、少女の隣りに横になった。両腕で、小さな体をぎゅっと抱きしめる。少女は身動き一つしなかったが、どことなくその表情が和らいだような気がして、アスナは小さく囁いた。
「おやすみ。明日は、目が覚めるといいね……」