比嘉タケルは、かれこれ一時間近くも迷い続けていた。
積み上げた雑誌類の上に乗る、古ぼけたキーボード。その右端の、磨り減ってつるつるになったエンターキーを、押すべきか押さざるべきか。
東五反田にある自宅アパートの八畳間は、学生の頃から溜め込んできた機械類で隙間なく埋まっている。それらが放出する廃熱を、旧式のエアコン一台では処理しきれず、室内はじっとりと暑い。熱源をひとつでも減らすべく照明はつけていないので、闇に沈む空間のそこかしこに赤や緑、青のLED類が星のように瞬いている。
座椅子にうずくまる比嘉の正面では、万年炬燵に設置された30インチモニタが灰色の光を放つ。画面に動きはない。黒いウインドウが一枚、虚ろに表示されているのみだ。
比嘉は、何十度目かのため息を漏らしながら、背中を座椅子に預けた。錆びかけたフレームがぎしっと軋む。
ラースの技術スタッフには、自宅に着替えを取りにいくだけと言ってあるので、もう三十分もしたら再びラース六本木分室に戻らねばならない。神代博士は、"死んだ"菊岡二佐のかわりに日々対外業務に追われる身なので、今は比嘉がプロジェクトの実質的責任者なのだ。
しかし、その立場を利用して分室からあるモノをこっそり持ち出したことが知られれば、間違いなく叱責――いや降格されるだろう。
そのモノは今、炬燵の右側に鎮座する、複雑怪奇な装置に接続されている。手造りのフレームに、基盤だの配線だのがごちゃごちゃと詰め込まれたその装置は、間違いなくこの部屋でもっとも高価かつ高度なシロモノだ。まるまる一年をかけて比嘉自身が設計・開発した、プロトタイプのライトキューブ・インタフェースである。
そして、接続されているのは、一辺六センチの黒い金属製立方体。
"アリス"が使用するマシンボディの頭蓋内に格納されているものと、まったく同じパッケージだ。
比嘉は、しばし立方体の冷ややかな光沢を見つめた。
「……うまく動くわけない」
ぽつんと呟く。
「すぐに崩壊しちゃうに決まってるんだ。この僕や、菊さんのコピーもそうだったんだから。知性は、自らが複製であるという認識には絶対に耐えられない。たとえ……たとえそれが……」
その先を口にすることなく、比嘉は大きく息を吸い、ぐっと胸に溜め――。
震える指先で、キーボードのエンターキーを叩いた。
プログラムが走り出す。マシンに火が入る。大型のファンが唸りを上げて回転する。
モニタに表示された黒いウインドウの中央に、まるで星が生まれたかのごとく、虹色の放射光が小さく浮かび上がった。
無数のピークが、鋭く、力強く闇を貫く。揺らめき、震え、まばゆく輝く。
やがて、モニタの両側に置かれたスピーカーから、聞き覚えのある声が静かに響いた。
『…………そこにいるのは、たぶん、比嘉さんかな?』
ごくりと唾を飲み、掠れた声で答える。
「そ……そうだ」
『俺を、消さなかったんだな。正確には……コピーした、と言うべきか』
「消せる……消せるわけ、ないッスよ!!」
比嘉は、己の行為を弁解するかのごとく、低く叫んだ。
「君は、二百年という時間に耐え抜いた初のフラクトライトなんだ! いや……人類史上、もっとも長い時間を生きた人間になってしまったんだ! 消去できるわけない……そうだろ、キリト君!!」
掌にじっとりと汗が滲むのを感じながら、比嘉は、相手の名を呼んだ。
ウインドウの上部には、経過時間を示すデジタル数字が目まぐるしくカウントされている。三十二秒。
桐ヶ谷和人の――正確には、アンダーワールドでの二百年に及ぶ限界加速フェーズを耐え抜き、覚醒した直後の彼のフラクトライト・コピーは、すでに己が複製であるということを認識している。
これまでの実験では、その認識を得たあたりからコピーの言動は冷静さを失い、恐慌に陥り、奇怪な叫び声を放ちながら例外なく崩壊へと至った。比嘉は、歯を食いしばり、スピーカからの応答を待った。
数秒後――。
『……こういうこともあるかと、予想はしていた……』
呟きにも似た、静かな言葉。
『……比嘉さん。コピーしたのは、俺のフラクトライトだけか?』
「あ……ああ。記憶消去オペレーション中に、菊岡二佐や、神代博士の目を盗んで複製作業するのは、君ひとりぶんが限界だったんだ……」
『そうか…………』
ふたたび、長い沈黙を挟んで、ライトキューブに封じられた複製意識はあくまでも穏やかに語った。
『妃と……アスナと、話したことがある。仮にこのような状況に至ったらどうするか、と。アスナは言った。もし、複製されたのが自分ひとりなら、即座に消去してもらう。二人ともに複製されたのなら、残り少ない時間を、リアルワールドとアンダーワールドの融和のために使いましょう、と、ね……』
「なら……君ひとりの場合は? その時はどうすると?」
つり込まれるように尋ねた比嘉は――。
返ってきた言葉を聞いて、かすかな戦慄をおぼえた。
『アンダーワールドのためにのみ戦う。なぜなら俺は……あの世界の、守護者なのだから』
「た……戦う……?」
『アンダーワールドは現在、非常に流動的な状況に置かれている。そうだろう?』
「確かに……そうッスけど……」
『あの世界は、現実サイドにあっては、悲しいほどに無力だ。エネルギー、ハードウェア、メンテナンス、そしてネットワーク……あらゆるインフラを一方的に依存せざるを得ない。それでは、とても長期的な安全は保障されない』
すでに、経過時間は一分を遥かに超えている。しかし、複製体の口調はあくまで冷静で、崩壊のきざしすら見えない。
比嘉は、座椅子の上で背筋を伸ばしながら、無意識のうちに反論した。
「しかし、それはどうしようもないことッスよ。アンダーワールドの物理存在であるライトキューブ・クラスターは、オーシャンタートルから動かすことはできないんだ。そしてあの船は、いまは国の管理下にある。政府の決定いかんでは、明日にも動力が落とされ、クラスターが丸ごと初期化されちまうことだってあり得る……」
『原子炉の核燃料は、あとどれくらい持つ?』
突然、予想外の質問をぶつけられ、比嘉はまばたきした。
「え……ええっと、あれはもともと原潜用の加圧水炉ッスから……クラスターを維持するだけなら、たぶんあと四、五年は……」
『ならば、原則的には、その期間は燃料を補給する必要はない。つまり、外部からの干渉さえ防げば、アンダーワールドは存続できる、そうだろう?』
「で、でも、防ぐと言っても……オーシャンタートルには、武装のたぐいは一切無いんスよ!」
『俺は、戦うと言った』
静かで、穏やかな、しかし鋼鉄の刃を思わせる声が短く響いた。
「た……戦う、と、言っても……今は衛星回線も遮断されて、オーシャンタートルには通信すら出来ないし……」
『回線はある。あるはずだ』
「ど、どこに……!?」
思わず身を乗り出した比嘉は、予想もしなかった答えを耳にした。
『ヒースクリフ……いや、茅場晶彦。あの男の力が必要だ。まずは、彼を捜さねばならない。比嘉さん……協力してくれるな?』
「か……茅場、先輩……!?」
死んだはず……いや、二度死んだはずだ。
最初は、長野の山荘で。次に、オーシャンタートルの機関室で。
しかし、茅場晶彦の思考模倣プログラムが潜んでいた試作二号のボディは、機関室から忽然と消えうせていた。
「生きて……るのか……」
呻いた比嘉は、もうウインドウの時刻表示を確認することも忘れ、ただ放心した。
どうなってしまうんだ。
かつての仇敵同士であるはずの、茅場晶彦のコピーと、そして桐ヶ谷和人のコピー。このふたつ……いや、二人が出会ったら、何が起きるんだ。
もしかしたら……僕は、何か、とんでもないモノの蓋を開けてしまったのでは……。
一瞬、そのような思考が脳裏をかすめたが、しかしそれはすぐに圧倒的な興奮に吹き飛ばされてしまった。
見たい。その先を知りたい。
比嘉は、大きく息を吸い、吐いて、震える声で言った。
「……わかったッス。幾つか、昔のアテがあるッスから……暗号化したメッセージを流してみるッスよ……」
もう、後戻りはできない。
ぎゅっと目をつぶり、両の掌をTシャツで拭ってから、比嘉は猛然とキーボードを叩きはじめた。
ウインドウでは、凄まじく巨大な放射光が、比嘉の指先を見守るように虹色の輝きを周期的に揺らめかせていた。
俺は、二ヶ月ぶりに帰ってきた自分の部屋を、ぐるりと見回した。
飾り気のないデスクとメタルラック。パイプベッド。無地のカーテン。
懐かしい……と思うより先に、その殺風景さに唖然とする。訂正せねばならない。この部屋を見るのは、ほぼ三年ぶりなのだ。俺は、アンダーワールドで、約二年というもの北セントリア修剣学院の寮に起居していたのだから。
上級修剣士専用の部屋には、どっしりした木製の家具や、時代ものの茶器だの額、分厚い絨毯がくまなく配置され、俺の眼を楽しませてくれた。
なにより、傍付きだったロニエとティーゼ、そして……ユージオの笑顔が、いつでも隣にあった。
思い出に変わったはずの、痛切な胸の痛みが鮮やかによみがえり、俺は喉を詰まらせる。
手に持った大型のバッグをどさりと床に落とし、数歩進むと、ベッドに腰を下ろした。身体をゆっくりと横倒しにする。干したばかりなのだろう、シーツから日向の匂いが漂う。
目を閉じる。
耳のおくに、かすかな声がこだまする。
――昼寝なら、神聖術の課題終わらせてからにしなよ。また僕のを写すつもりかい?
――そうだ、このあいだ教わった技、ちょっと工夫してみたんだよ。あとで修練場にいかないかい。
――あっ、また抜け出してお菓子買ってきたろ! もちろん僕のぶんもあるよな!
――ほら、起きろよキリト。
――キリト……。
俺は、ゆっくりと身体を回転させ、顔をまくらに埋めた。
そして、STLの中で目覚めて以来、ずっと我慢し続けていたことをした。
シーツを握り締め、歯を食いしばり、声を上げて泣いた。幼子のように涙を流し、身体を震わせ、ひたすらに号泣した。
いっそのこと――。
いっそ、すべての記憶を消してもらえばよかったのだ!
森の中でひとり目覚め、小川のほとりを歩き、斧音に導かれて、黒い巨樹の下で一人の少年と出会ったあの瞬間から始まる、三年近い記憶の全てを!
どれほど泣いて、泣き続けても、涙が枯れることはなかった。
やがて、控えめな音で、ドアがノックされた。
俺は返事をしなかったが、ノブが回る音とともに、小さな足音が響いた。枕に突っ伏したままの俺の、頭のすぐ上側で、ベッドがわずかに沈んだ。
指が、遠慮がちに髪を撫でる。
頑なに無反応を続ける俺に、穏やかだが、しっかりと芯の通った声がかけられた。
「ね、話して、お兄ちゃん。あの世界であった、楽しいこと、悲しいこと、全部」
「………………」
俺は、尚も数秒間そのまま沈黙していた。
やがて、ゆっくりと身体を反転させ、涙に滲む視界に、直葉の――俺のたった一人の妹の笑顔を捉えた。
帰ってきたのだ。家に。家族のもとに。
過去は過去となり、今は続いていく。ただひたすらに、前へ、前へと。
目をつぶり、涙を拭って、俺は震える唇を開いた。
「…………いちばん最初に、森のなかで出会ったとき、あいつはただの木こりだったんだ。信じられないと思うけど、たった一本のスギの木を、三百年間、何世代もかけて切り倒そうとしてたんだぜ……」
俺が、リハビリを終えて家に戻ったのは、2016年8月16日だった。その夜、まるまる一晩かけて、俺は直葉にアンダーワールドでの出来事を語って聞かせた。
翌日の朝、俺は、一本の電話で叩き起こされた。
それは、ラース六本木分室から、アリスが失踪したという知らせだった。
「し……失踪!? それは、情報的に、ってことですか!?」
Tシャツにトランクスという格好のまま、俺は携帯端末をきつく握り締めた。
回線の向こうの神代博士は、抑制されたなかにも緊張を帯びた声で答えた。
「いえ……物理身体ごと、なの。社屋内の監視カメラの映像では、昨夜二十一時ごろ、自分でセキュリティロックを解除して、警備員の目を盗んで外に出たみたい」
「自分で……、ですか」
わずかばかり、詰めていた息を吐く。
今現在、アリスの存在を快く思っていない勢力は、日本国内に両手の指で数え切れないくらいあるだろう。さらに、実利的、宗教的、信条あるいは心情的に彼女を破壊したいと望む個人となると、その数を推測することもできない。そのような輩に強奪されたとあらば、剣も神聖術も使えないいまの彼女では、身を護るすべは皆無だ。
ラースもそれを認識しているからこそ、いまの六本木分室の警備体制はちょっとした要塞なみの堅固さに引き上げられている。しかし、さすがに内部から出る者までは盲点だった、ということか。
あとは、なぜアリスがそのような挙に及んだのか、ということだが――。
数日前、ALO内での音声コールが切断される間際に、彼女がぽつりと発した言葉が脳裏に蘇る。
絶句する俺にむけて、神代博士は沈痛な声で続けた。
「アリスに、過大な負荷をかけているのではと危惧してはいたのよ。でも、何度、疲れてない、休みたくない? って訊いても、笑顔で首を振るばかりで……」
「そりゃ……そうですよ。あの誇り高い騎士が、誰かに弱音なんか吐くわけないんです」
「たった一人、あなたを除いては、ね。……桐ヶ谷君、アリスはまず間違いなく、あなたに連絡してくると思うの。で……退院したばっかりなのに、申し訳ないんだけど……」
語尾を濁らせる博士に、俺は急いで答えた。
「ええ、分かってます、大丈夫です。もしメールなりコールなりあったら、すぐ駆けつけますから……。――でも、博士。いまのアリスが、そんなに長距離を移動できますか?」
「私たちも、それを心配しているの。内臓バッテリーだけでは、フル充電からでも、歩行なら約三十分、走ったりすれば十分も保たないわ。もし、六本木近辺のどこかで動けなくなって……そこを、非友好的な人間に見つかったりしたら……」
「あの外見ですからね……」
新たな不安要素に、強く眉をしかめる。アリスの眩い金髪と、透き通るような肌、そしてシリコン外装を仕上げたスタッフが精魂こめた美貌は、ロボットであるや否やに関わらず目立つことこの上ない。
「いま、手の空いてるスタッフ全員で、この界隈を探し回ってるわ。ネットの書き込みも監視してるし、公共監視カメラ網にも潜り込んで録画チェックもしてる」
「なら、俺もひとまずそっちに行きます。連絡あったとき、すぐ急行できたほうがいいでしょうから」
「そうしてくれると助かるわ。お願いするわね、桐ヶ谷君」
そして、通話は慌しく切断された。
俺はクロゼットから適当に服を引っ張り出し、手足を突っ込むや否や、端末とバイクのキーを引っ掴んで自室を飛び出した。
階段を駆け下りると、一階はしんと静まり返っている。オヤジと母さんは仕事、直葉は剣道部の朝練だろう。今夜は家族四人で俺の退院祝いをしてくれるらしいが、正直それどころではない。
冷蔵庫のオレンジジュースをラッパ呑みし、ラップを掛けて置いてあったベーグルサンドを口に咥え、玄関へとダッシュ。スニーカーを突っかけ、ドアノブを握ったところで、インタフォンが甲高く鳴り響いた。
一瞬、心臓が飛び跳ねる。まさか――アリスが、何らかの手段でここまで自力移動してきたのか。
「アリ…………」
ス、と口走りながらドアをひき開けた先に立っていたのは。
何のことはない、ブルーのユニフォームと帽子に身を固めた、宅配便のお兄さんだった。
間の悪いことこの上ないが、「ちわーす、お荷物です!」と明るく挨拶するその額に、玉のような汗が浮いているのを見れば、後にしてくださいとも言えない。
急いで上り框に取って返し、下駄箱の上から三文判を掴んだ俺に、お兄さんはさらなる追い討ちを加えた。
「お荷物、着払いでーす!」
「あ……、はい」
思わず小銭を取りに戻りそうになるが、この世界にはたしか、電子マネーという便利なものがあったはずだ。ポケットから携帯を引き抜き、お兄さんの差し出す認証端末にかざす。
「まいどーっ!」
一声残して走り去っていく姿を見送り、俺は改めて玄関先に残された荷物を確認した。
七十センチ角ほどのダンボールだ。生ものでなければ、このまま放置して出かけてしまえと思いつつ、送り状を確認する。品物は、電気製品。送り主は――。
「なぬ……」
海洋資源探査研究機構、と明朝体でタイプしてある。ラース六本木分室にストックされている伝票だろうか。あて先欄には、俺の住所氏名。しかし、ぎこちなく角ばったその文字は、どう見ても俺の筆跡ではない。
神代博士が出した荷物なら、さっきの電話で触れただろう。ならば、菊岡さんか、比嘉さんが送ってきたものか。となると中身は、アンダーワールド、あるいはSTLに関連する何らかの機器?
俺は唇を噛み、意を決して、ガムテープの封に指をかけた。
一気に引き剥がす。わずかに持ち上がった蓋を、そっと左右に――開き……。
「…………うわあああああ!!」
そして、恐怖の悲鳴を喚き散らした。
箱のなかに、ぎっしりと詰まり、不自然な方向に折れ曲がったそれは――人間の、手足。
呼吸が止まり、喘ぎながら仰け反った俺は、直後、二度目の絶叫を強いられた。
「ギャアアアアア!?」
手足の隙間の暗がりで、ぱちりと一つの眼が見開かれ、俺をまっすぐ凝視したのだ。
ほとんど腰を抜かした俺の、ダンボール箱の縁にかけたままの右手首を、異様な角度で伸び上がった白い手がぎゅっと掴んだ。
三度目の悲鳴を上げるまえに、どこか呆れたような声が、箱の中から静かに放たれた。
「騒いでないで、早く引っ張り出してくれませんか、キリト」
約三分後。
俺は自宅の上り框に腰を下ろし、両手で頭を抱えてうずくまっていた。
"宅配便で送られてくる美少女ロボット"が実現してしまったというこの現実に、どうにか認識をアジャストさせようと苦闘してみた――ものの。
「……できるか!!」
叫び、努力を放棄して、がばっと立ち上がる。
振り向いた先では、見慣れた制服に身を包んだ美少女ロボットが、物珍しそうに廊下の柱を指でなぞっている。
やがて、ちらっと俺を見て、ロボット――の外装を操る真正ボトムアップAI、アンダーワールド人、整合騎士第三位、アリス・シンセシス・フィフティは、微笑みながら言った。
「この家屋は、木材で建てられているのですね。まるで、ルーリッドの森で暮らした家のよう。あの小屋よりも、ずっと立派ですけど」
「あー……うん……たぶん、建ってから七、八十年は経つと思うよ……」
力なく答えると、青い瞳をいっそう見開く。
「よくもそれほどに天命が持つものですね! きっと、立派な樹を使ったのですね……」
「そうだね……ていうか……ていうか!」
どすどすと廊下を歩き、がしっとアリスの肩を掴み、一体ぜんたい何がどうなっているのか問い質そうとした俺の言葉を、蕾がほころぶような笑顔が遮った。
「まずは、この鋼素製の体の天命を回復させてもらえないかしら? ええと……こちらの言葉では、"充電"と言ったと思いますが」
訂正しよう。
"宅配便で送られてきた美少女ロボットが家庭用コンセントで充電する"現実だ。
俺がアンダーワールドにダイブしているあいだに、リアルワールドはかくも未来へと遷移してしまったのだ。
「ああ……充電ね……どうぞ、好きなだけ……」
俺はアリスの肩を押し、リビングへと案内した。
マシンボディの充電用プラグは、左脚のふくらはぎというやや意外な場所に内臓されていた。
そこから引き出したケーブルを壁のコンセントに繋いだアリスは、ぴんと背筋の伸びた姿勢でソファに腰掛け、なおもくるくると周囲を眺め回している。
――とりあえずお茶でも淹れるべきか、と腰を浮かせかけてから、ようやく今のアリスはおそらく飲食はしないだろうと思い至る。俺はいまだ激しく動転しているらしい。
気を落ち着かせるために、目先のちょっとした疑問から解消するべく、口を開く。
「えーと……まず、どうやって自分を宅配便に仕立てるなんて離れ技を実現したのか、そこから教えてもらおうかな……」
すると、金髪碧眼の美少女は、くだらないことを聞くと言わんがばかりに肩をすくめ、答えた。
「簡単なことです」
いわく。
六本木分室内で、着払いの送り状と梱包テープと大サイズの強化ダンボールを用意したアリスは、まず監視カメラの映像に、わざと居室を出て行く自分の姿を記録させたのだそうだ。
しかるのち、エントランスのカメラ視界外で箱を組み立て、俺の住所を記した送り状を添付し、各関節のロックを解除しながら箱のなかにきっちりうずくまる。上蓋の片側にだけテープを貼り、内側から引っ張るようにして蓋をたたむ。さらに、内部からもテープで蓋を仮止めする。
そうしておいて、宅配業者にメールで集荷を依頼する。やってきた業者は、むろんゲートで警備員のチェックを受けるが、メールは確かにビル内から発信されたものだし、エントランスにはちゃんと荷物がある。よもやその中に、世界でもっとも重要なAIが潜んでいるなどと知るよしもなく、業者はやや甘いテープの封をきっちり貼りなおし、荷物を回収してトラックに乗せ、翌朝に埼玉県は川越市まで配達し……。
「…………なるほどね……」
俺はずるずるとソファに沈み込みながら呟いた。
結局、アリスはある意味では一歩たりとも六本木分室のビルから外に出ていなかったわけだ。足取りが掴めないのも当然だ。
しかし、驚くべきは手口の巧妙さではなく、まだリアルワールドを訪れて一ヶ月にしかならないアリスがそれを発想し得たことだろう。俺がそう口に出すと、異世界人は再び軽く肩を上下させ、言った。
「まだ騎士に任ぜられて間もない見習いの頃、いちどこの手でカセドラルを抜け出して街を見物したことがありますから」
「……そ、そうっすか」
これで、アリスが情報テクノロジーに習熟してしまったら、いったいどうなるのか。彼女は、アミュスフィア無しで即時に仮想空間にダイブできる、ある意味ネットワークの申し子なのだ。
――という恐るべき想像をわきに押しやって、俺はまっすぐ座りなおすと、ようやく根本的な問いを発した。
「しかし……アリス。いったい、なぜ、こんなことを? 俺んチに来てみたかったのなら、凜子博士にそう言えば、時間は作ってくれたと思うぞ」
「そうでしょうね。あの方はいい人です。私のことをとても気にかけてくださっています。ゆえに――キリトの家を訪問する機会は得られても、護衛の衛士が一個小隊つき、ということになったでしょうね」
造りものとはとても信じられない、細くながい睫毛が伏せられる。
「……こんな、逃げ出すような真似をして申し訳ないとは思っています。今頃、リンコ博士たちは大変心配し、私を探し回っているでしょう。謝罪は、戻ってから如何様にもします。しかし……私は、どうしても、この時間を得たかった。あなたと……仮の姿ではなく、本物の体を持つキリトと、二人きりで向き合い、言葉を交わす時間が」
大きく見開かれた青い瞳が、まっすぐに俺を射た。
二つの碧眼は、ガラスレンズとCCDセンサーで構成された光学受像装置であるはずなのに、息を飲むほど美しい煌きをその奥に秘めている。それはもしかしたら、短い回路を経てつながる、彼女のフラクトライトそのものが放つ光なのかもしれない。
アリスは、かすかなモーター駆動音を奏でながら、滑らかな動作で立ち上がった。
ガラステーブルを回り込み、一歩、二歩、俺に近づく。
そこで、壁に繋がるケーブルがぴんと張り詰め、歩行を妨げた。白い頬に、かすかなやるせなさが過ぎる。
俺は、大きく息を吸い、同じように立ち上がった。
同じく二歩進み、アリスのすぐ前に立つ。
俺よりわずかに低い位置にある双眸が、強烈な意思を秘め、きらっと瞬いた。唇が動き、甘く澄んだ、しかし同時に電子的な響きを持つ声が発せられた。
「キリト。私は、怒っているのです」
何に対して、と言われずとも俺は言葉の意味を察した。
「そう……だろうな」
「なぜ。なぜ……あのとき、言ってくれなかったのですか! もう会えないかもしれないと。これが永遠の別れになるかもしれないと。二百年という時間の壁の両側に隔てられ、再びまみえることはもう叶わないのだと、あの"果ての祭壇"でひとこと言ってくれれば、私は……私はひとり逃げたりしなかった!!」
マシンボディに涙を流す機能がもしあったら、間違いなく数多の雫にいろどられていただろう表情で、アリスは叫んだ。
「私は騎士です! 戦うさだめの人間です! なのに……なぜお前はたった一人であの恐るべき敵に立ち向かうことを選び、その隣に私がいることを望んでくれなかったのですか! お前にとって私は……アリス・シンセシス・フィフティという存在は、いったい何なのです!!」
持ち上げられた小さな拳が、どん、と俺の胸を叩いた。もう一度。さらにもう一度。
俯けられた小さな頭が震え、額が左肩にぶつかった。
俺は、持ち上げた両手で、そっと金色の髪を包み込んだ。
「君は……俺の、"希望"だ」
ぽつりと呟く。
「俺にとってだけじゃない。あの世界で生き、死んでいった沢山の人たちの……かけがえのない希望なんだ。だから、どうしても守りたかった。失いたくなかった。希望を、未来へ繋げたかった」
「……未来…………」
胸のなかで、濡れた声が響いた。
「未来とは、どのような形をしているのですか。私がこの混沌とした世界で、不自由な鋼の体に、下らない会合に、そして尽きることのない寂しさに耐え続けた果てに、何があるというのです」
「…………ごめん、今は俺にもわからない」
両腕に力を込め、俺はせめて懸命に、自分の感情と思考のすべてを伝えようとした。
「でも、君がここにいることで、世界は変わっていく。君が変えていく。その行き着く先で、カーディナルの、アドミニストレータの、ベルクーリの、エルドリエの……ユージオの願いが報われるときが必ずくると、俺は信じている」
それだけではない。かつて、もう一つの異世界で生き、戦い、死んでいった多くの若者たちの命もまた、この場所、この瞬間に繋がっているのだ。
アリスは、俺の肩に額を乗せたまま、長い、長い時間沈黙を続けた。
やがて、そっと身体を離した異界の騎士は、かつて白亜の塔で出会ったときと同じように、毅然とした微笑を浮かべ、言った。
「……リンコ博士に連絡しなくては。あまり心配させては、申し訳ありませんから」
俺は、なおもしばらく、アリスの瞳を見つめ続けた。その奥の、張り詰めた感じはまだ消えていない気がしたからだ。
しかし、これ以上俺に何ができるだろう。あるいは、時間をかけることでしか解決できない問題なのかもしれない。
「……うん、そうだな」
頷き、ポケットから携帯端末を引っ張り出すと、俺はラース六本木支部の直通電話にコールした。
俺からの電話でことの次第を知った神代博士は、さすがに五秒ほど絶句したものの、最初に返ってきた言葉はアリスへの謝罪だった。やはり、本当に"善い人"なのだ。あの茅場晶彦が、生涯でただ一人心を許した女性というだけはある。
「……気遣いが及ばなかったわね。むしろ、私たちがアリスさんに甘えてしまったんだわ」
自省に続けて、神代博士は思わぬ指示を俺に伝えた。
電話を切った俺は、ソファから心配そうにこちらを見ているアリスに大きく笑いかけた。
「大丈夫、別に怒ってなかったよ。それどころか、申し訳ながってた。それで……今日は一晩、ここに泊まってきていいってさ」
「ほ、本当ですか!?」
アリスの顔も、ぱっとほころぶ。
「うん。念のため、GPSトラッカーはオンにしてくれって言ってたけど」
「それくらい、ささやか過ぎる代償です」
頷き、一度長めの瞬きをすると、アリスはさっと立ち上がった。
「そうと決まれば、まずはこのお家や庭を案内してくださいな。リアルワールドの伝統的建築物を、実際に見るのは初めてなのです」
「ああ、いいよ。……と言っても、ただの民家なんだから、あんまり見るものなんてなあ……」
首をひねってから、そうだ、と思いつく。
「あ、じゃあ、ちょっと庭に出るか」
アリスが、充電の終わったケーブルを収納するのを待って、玄関から出て玉砂利敷きの庭へと回る。
鯉や金魚の泳ぐ池や、節くれだった松の樹などにいちいち興味を向ける騎士様に、あれこれ解説しながら向かった先は――。
敷地の北東の隅にひっそりと建つ、古めかしい道場だった。
アリスは、靴を脱いで板張りの床に上がったとたん、何のための建物なのかを見抜いたようだった。さっと俺を見て、急き込むように言う。
「ここは……修練場ですね?」
「そう。こっちじゃ、道場って言うんだけどね」
「ドージョー……」
呟き、正面に向き直ったアリスは、右手を胸、左手を腰にあてるアンダーワールド流の騎士礼をさっと行った。俺も、日本流に一礼してから、並んで中に入る。
いまは亡き祖父が建て、現在は直葉だけが出入りする剣道場の床は、黒光りするまでに磨きこまれていた。真夏だというのに、素足にひんやりと冷たい。空気まで、どこか違っているような気がする。
アリスはまず、正面の壁にかかる掛け軸をじっと眺め、次いでその隣に設えられた棚に歩み寄った。
右手を伸ばし、年代ものの竹刀を一振りそっと持ち上げる。
「これは……修練用の木剣ですね。でも、アンダーワールドのものとはずいぶん違う」
「うん。竹っていう軽い木材で出来てて、当たっても大怪我はしないように工夫してあるんだ。向こうの重い木剣は、ヘタすると天命が三割くらい削れたけどな」
「なるほど……。こちらには、即効性の治癒術は存在しないんですものね。剣の修練にも、大変な苦労が伴うのでしょうね……」
深く頷いてから、アリスはさらに数秒間黙考を続けた。
と、突然。
くるりと振り向き、驚いたことに、持っていた竹刀の柄を俺に向けて差し出した。
「へ? 何を……」
「決まっています。修練場ですることはひとつしかないでしょう」
「え……ええ!? ほんとに!?」
その時にはもう、アリスは左手で別の竹刀を取り上げていた。俺はやむなく、突き出された柄を握る。
「と……言っても、なあ。アリス、きみ、その体で……」
「気遣い無用!」
びしっ。
と鋭くも凛々しいひと言。
俺は口を半開きにしたまま、板張りの上を歩いていく制服姿の機械少女を眺めた。
確かに、アリスに与えられているマシンボディは、2016年現在の水準に照らしても途轍もなく高度なものだ。オーシャンタートルで試作されたものを上回る動力性能を、遥かにスマートな躯体に搭載し得た理由は、人型二足歩行ロボット最大の難関であるバランサー機能を丸々省略できたからだと聞く。
俺たち人間は、直立している間、無意識のうちに絶えず左右の脚にかかる重量を制御しバランスを維持している。その機能を、センサーやジャイロ及びプログラムで機械的に再現しようとすると、関連デバイスの容積はとてもリアルな人型シルエットには収まりきれない。だが、アリスはその限りではない。なぜなら、彼女のフラクトライトは、俺たち人間とまったく同レベルのオートバランサーをすでに備えているのだから。各関節に内臓されたアクチュエータやダンパーの制御を、ライトキューブから出力される信号に直結すればいいだけの話だ。
――とは、言うものの。
現時点では、決して、ナマの人間の動作に完全に追いついたわけではない。それは、あの宅配便の送り状に書かれていた文字のぎこちなさを見れば明らかだ。ましてや、竹刀を……剣を振るなどという複雑かつ高速な動きに耐えられるとは思えない。
というようなことを、俺は一瞬のうちに考え、ゆえに大いに困惑した。
しかしアリスは、まったく迷いのない足取りで俺の正面、五メートルほどの距離にまで移動すると、右手で握った竹刀をぴたりと垂直に掲げた。
アンダーワールド古流、天衝崩月の構え。
突然、俺の皮膚を、怜悧かつ稠密な風が撫でた。思わず息を飲み、半歩下がる。
剣気。
嘘だろ、有り得ない、と思うより早く――。
俺の身体も、自然と動いていた。右手で握った竹刀を、腕を外に捻転させて、下段に構える。左手を、柄頭に添える。そのまま腰を落とし、切っ先がほとんど床に触れかける位置で止める。同じく古流、尖月流影の構え。
考えてみれば、俺も病み上がりのうえに、現実世界では虚弱なネットゲーマーに過ぎない。マシンボディの性能どうこうと言えた義理ではないのだ。ならば、全力で一本勝負の相手をするのが、礼というものだろう。
薄く笑みを浮かべた俺に、アリスも微笑で応じた。
「思い出しますね……カセドラルの庭園で、お前と初めて剣を交えたときのことを」
「あんときはコテンパンだったけどな。今回はそうはいかないぜ」
始め、の声を掛ける審判はいなかったが、俺とアリスは、同時にじりっとつま先を動かした。
双方、構えを崩さぬまま、少しずつ少しずつ間合いを詰めていく。ぴりぴりと空気が帯電し、庭で盛んに鳴き続けるセミの声が遠ざかる。
ぴぃーん、という耳鳴りにも似た静寂が、際限なくその密度を増していき。
アリスの青い瞳が、すうっと細められ。
一瞬の雷閃にも似た光が、その瞳孔の奥に瞬き――。
「イヤアアアア!!」
「セエエエアア!!」
同時に裂帛の気合を放ちながらも、俺は、黄金の髪を翻し真っ向正面から剣を斬り降ろしてくる騎士の姿に、ただ見とれた。
ウイン!!
というアクチュエータの咆哮に続き、すさまじい衝撃が俺の右手首を襲った。直後、乾いた音が道場いっぱいに響いた。吹っ飛んだ二本の竹刀が、右と左に落下し、くるくると回りながら床板の上を滑っていった。
俺とアリスは、打突の勢いを殺しきれず正面衝突して、そのまま倒れこんだ。
どすん、と背中が板張りにぶつかる。ついで、ゴンゴン、と鈍い音が二回聞こえた。最初のは、アリスの額が俺のおでこにぶつかった音。二回目のは、俺の後頭部が床板に激突した音だ。
「いっ…………」
呻いた俺の顔を、至近距離から見下ろしたアリスが、にっこりと微笑んだ。
「私の勝ちね。決まり手は、秘技・"鋼頭打槌"よ」
「そ……そんなワザ、聞いたこと……」
「今つくったの」
くすくす、と楽しそうに笑ってから、白い頬が再び降りてきて、俺の頬に触れた。耳元に、澄んだ春風のような声が流れた。
「キリト。私、もう大丈夫。この世界で、生きていけるわ。剣を振れるかぎり、どこにいようと、私は私だもの。いま、解ったの……私の戦いは、まだ終わってない。そして、あなたの戦いも。だから、前を見て、前だけを見て、まっすぐに進んでいくわ」
その日の夜は、別の意味で、緊迫感あふれるものとなった。
自宅のリビングには、ちょっと覚えがないほど久々に家族四人が揃い――さらに賓客一人を交えて、俺の退院祝いが催されたのだ。
直葉とアリスは、すぐに打ち解け、剣道の話で大いに盛り上がっていた。
アリスと母さんも、俺を話のネタにしてなごやかに歓談した。
しかし、テーブルの右端で向き合う俺とオヤジのあいだにだけは、大変に張り詰めた空気が流れることとなった。
俺のオヤジ、桐ヶ谷峰嵩という人物は、ほぼあらゆる意味で俺と真逆なパーソナリティを持つ男だ。真面目。勤勉。秀才。一流大学を出てアメリカのビジネススクールに留学し、そのまま現地で最大手の証券会社に就職して、いまも日本にはほとんど帰ってこない。万事アバウトな母さんと、よくもまあ波風ひとつ立てず――というかいまだに熱愛夫婦を続けていられるものだ。
オヤジは、すでにビールとワインを随分あけているにも関わらず顔色ひとつ変わらない白皙にメタルフレームの眼鏡を光らせ、ついにこの夜の本題へと切り込んできた。
「和人。色々と話したいことはあるが、まずは最初に、お前の口から聞くべき言葉を聞いておきたい」
とたん、テーブルの反対がわも、しんと静まり返る。
俺は、齧りかけのチキンウイングを皿に置くと、咳払いして立ち上がった。テーブルの端に両手をつき、ぐっと頭を下げる。
「……オヤジ。母さん。またしても心配かけて、悪かった」
すると、翠母さんのほうは、快活に微笑んで首を振った。
「もう慣れちゃったわよ。それに、今回は、カズはとっても大きな仕事をしたんでしょ? 人間、一度請け負った仕事は何をおいてもやり遂げないとだめよ。書くと言った原稿は書く、守ると言った締め切りは守る!」
「ママ、私情はいってるよ」
直葉の突っ込みに、緩みかけた空気をふたたびオヤジが緊迫させる。
「母さんはああ言ってるが、お前が失踪してるあいだの母さんの心労は大変なものだったんだぞ。海洋資源探査研究機構の人たちに事情は聞いたし、お前が重要な役目を果たしたのはそこのお嬢さんを見ても解るが、しかし忘れてはいけない。和人、お前の本分はいったい何だ」
剣士! とか、アンダーワールドの守護者! とか答えられたらどんなにか気持ちよかろうと思うが、しかしこの場でそんなことが言えるわけもなく。
「高校生、です」
しゅーんとする、とはこのことだ。これではまるで親に説教される子供だ。唖然と眼を見開くアリスの視線が頬に痛い。かの世界であまたの強敵と渡り合った俺も、現実世界ではこの有様なのだ。
オヤジは、ひとつ頷き、いっそう厳しい声で続けた。
「そうだ。ならば、お前がもっとも力を注ぐべきことは自ずから明らかだろう」
「……勉強して、進学することです」
「もう、高校二年の夏なんだぞ。確か、アメリカに留学希望だと母さんに聞いていたが、準備は進んでいるのか」
「あー……そのことなんだけど……」
俺は口をつぐみ、まず母さん、ついでオヤジの顔を見て、再び頭を下げた。
「すまない。進路、変更したい」
眼鏡の奥で、オヤジの眼が厳しさを増す。
「言ってみなさい」
促され、俺は意を決して、まだアスナにしか言っていない内容を告げた。
「日本の大学の電子工学部……できれば帝工大に行きたい。そして、将来的には、ラー……いや、海洋資源探査研究機構に就職したい」
がたん!
と椅子を鳴らして立ち上がったのは、アリスだった。
両手を胸のまえで握り締め、眼を見開いている。俺はその碧眼をちらりと見やり、一瞬微笑んだ。
ずいぶんと前――のような気もするが実際にはほんの二ヶ月前、俺はアスナに、アメリカに留学して脳インプラント型VR技術について学びたいと言った。その理由は、インプラント型が、アミュスフィアの正しい後継であると考えたからだ。ニーモニック・ビジュアルという異質なデータ形式を用いるSTLよりも、従来型のポリゴンデータを扱うNERDLESマシンに愛着があったからだ。
しかし。
アンダーワールドで過ごした日々は、俺の認識を根底から覆すに充分すぎる体験だった。
俺はもう、あの世界から離れられないし、離れるつもりもない。一生をかけて実現すべきテーマを、ついに見つけたのだから。
アンダーワールドとリアルワールドの融合、という。
俺をまっすぐ見つめ、大輪の花のような笑みを浮かべたアリスが、オヤジに視線を移して口を開いた。
「……お父様」
その呼びかけに、直葉がぎょっとしたように眼をむく。
「私の父様は、私が騎士の道を歩んだことを、ついに許してくださいませんでした。しかし、私はそのことをもう悔やんではいません。私は、己の信ずるところを行動で示し、父様もそれを解ってくださったと信じているからです。キリト、いえ、カズトもそれができる人です。なぜなら、彼はこの世界では一学徒であっても、かの世界では間違いなく、世界最強の騎士だったのですから。雄々しく戦い、無数の民を守った英雄なのですから」
「アリス……」
俺は思わず彼女の言葉を制しようとした。オヤジには、騎士だの戦いだのと言っても解ってもらえないと確信していたからだ。
だが。
「アリスさん」
オヤジが、常に冷厳さを失わない口元に微笑みを浮かべたのを見て、俺は心底ぎょっとした。
「私も母さんも、それはもう知っているよ。和人は、この世界でもすでに英雄なのだから。そうだろ、"黒の剣士"」
「げっ……」
一層の驚愕に見舞われ、仰け反る。まさか、あの与太だらけの本を、二人も読んだというのか。
笑みを消し、オヤジはアメリカ仕込みの強烈な視線をまっすぐ向け、言った。
「和人。進路を決め、勉強し、受験、進学、さらに就職することはすべてひとつのプロセスに過ぎないが、同時に人生が与えてくれる果実でもある。迷い、揺れることはあっても、後悔は無きよう生きなさい」
俺は、短く眼を閉じ、大きく息を吸い――。
みたび頭を下げて、答えた。
「必ず、そうする。ありがとう、オヤジ、母さん」
そして、視線を上げてから、頬の片側だけに笑みを滲ませて付け加える。
「貴重なアドヴァイスのお礼ってわけでもないけど……オヤジ、もしグロージェン・マイクロ・エレクトロニクスかその関連企業の株を持ってるなら早いとこ売ったほうがいいぜ。最近、ものすごいギャンブルに出て大損したらしいから」
俺のささやかな逆襲に、しかしオヤジは片方の眉をぴくりと持ち上げただけだった。
「ほう。覚えておこう」
――このようにして、現実は少しずつ現実らしさを取り戻していくんだな。
などと考えながら、俺は自室のベッドに転がった。
ホームパーティーは無事に終わり、オヤジと母さんは一階の寝室に引っ込んで、アリスは二階の直葉の部屋で寝ることになった。二人がどんな話をするのか少々恐ろしいが、しかし二人が仲良くなってくれたのは喜ばしいことだ。アリスも、そうやって一歩一歩現実世界に馴染んでいってくれればいいと思う。
もうすぐ夏休みも終わり、二学期が始まる。
俺は、体感時間では二年以上も高校の授業から遠ざかっていたため、休みの残り二週間はアスナにみっちりシゴかれることになっている。北セントリア修剣学院で学んだ剣術や神聖術体系の記憶領域に、数式だの英単語だのが上書きされていくわけだ。
アリスはああ言ってくれたが、おそらく俺は、もう二度と本当の意味では剣を取り戦うことはないだろう。
これからは、この現実世界での目標を実現するためにのみ、全ての時間とエネルギーを費やさねばならない。勉強し、進学し、希望が叶うかどうかはともかく就職して、可能な限りまっすぐ歩いていかねばならない。
それもまた、大切な戦いなのだ。寂しいことではあるが。
少年期は、いつか必ず終わる。
陽光と爽風、歓声と興奮、冒険と多くの未知なるものに彩られた黄金時代は、そうと気付いたときには彼方に去り、二度と戻ることはない。
おそらく、俺は、幸運な子供だったのだろう。
数多の異世界を、右手に愛剣、左手に白地図、そして胸をどきどき高鳴らせて走り続けられたのだから。色とりどりの宝石のように煌く思い出を、溢れるほどに魂に刻み込むことができたのだから。
窓の外、どこか遠くで、最終電車が鉄橋を渡る音がする。
庭の草むらで、虫たちが夏の終わりの歌を奏でる。
少しだけひんやりした風が、網戸から入り込んでカーテンを揺らす。
俺は、現実世界の音と匂いを、体いっぱいに吸い込み、眼を閉じた。
「……さようなら」
そっと呟いた、別れの言葉とともに――。
ひとつの時代が通り過ぎていった。
――と、思っていたのだ。
8月17日深夜、自室ベッドで、穏やかな眠りに落ちたその瞬間までは。
「……キリト。起きてください、キリト」
肩を揺すられ、俺は甘酸っぱい感傷に満ちた睡眠から引き戻された。
「…………ん……」
掠れた声を喉から漏らしながら、いやいや瞼を持ち上げ。
すぐ目の前に、黄金の睫毛に彩られた紺碧の瞳を見出して、シーツの上で軽く飛び上がった。
「ふごっ……!? あ、アリス……!?」
「しっ、大きな声を出さないで」
「と、言われても君、これはちょっとその、不適切というかその……」
「なにを考えているのです」
むぎー、と左耳を引っ張られ、ようやく意識が覚醒しはじめる。
寝ぼけ眼で、改めて枕元の時計を見るとまだ午前三時を少し回ったところだ。窓の外では、まだ高い位置に真ん丸い月が輝いている。
視線を戻す。
朧な月光を受けて、俺の枕元にひざまずくアリスは、青い無地のTシャツ一枚という大変に不穏当な格好だった。長い裾からは、自ら発光しているがごとき白い脚が惜しげもなく晒されている。シリコンの皮膚に薄く走っているはずの接合ラインもこの暗さではまるで見えず、その優美なラインが人造物だとはまったく信じられない。
「……あ、あまり見ないでください」
シャツの裾をぐいっと引っ張る姿に、俺は再び喉を詰まらせて跳ね起きた。
無理やり視線を持ち上げるものの、今度は薄い生地を持ち上げる膨らみと、その上に流れる鋳溶かした黄金のような髪が眼に入り、思考が急減速する。
俺の分かり易すぎる動転ぶりに、アリスも今更羞恥を感じたのか、ぷいと横を向き唇を尖らせながら言った。
「……おそらく覚えていないでしょうが、お前と私は半年も同じベッドで眠っていたのです。今更そのような反応をせずともよいでしょう」
「えっ……そ、そうなの?」
「そうなのです!!」
叫んでから、はっと口を両手で押さえる。俺も首をすくめ、隣室の気配を窺ったが、幸い直葉が起きた様子はない。もっとも彼女は、朝練に出る三十分前までは、たとえ地震と台風が一緒に来ても起きやしないのだが。
アリスは咳払いし、きっと俺を睨んだ。
「お前が妙な反応をするからいつまで経っても本題に入れないではないですか」
「そ……そりゃ失礼。えー、あー、うん、もう大丈夫です」
軽いため息、及びかすかなモーター音とともに立ち上がり、アリスは表情を改めて口を開いた。
「約五分前……尋常ならざる内容の通信文が、遠隔伝信術……ではない、ネットワーク経由で私に届きました」
「メール? 誰から?」
「差出人の名前はありません。内容は……口で言うよりも、文面を見たほうがいいでしょう」
ふい、と視線を動かし、俺のデスクの上、ソリッドPCの隣に設置されたプリンタを凝視する。
度肝を抜かれたことに、突然プリンタが排気ファンを回転させはじめた。背面にセットされたA4の用紙が、一枚引き込まれていく。間違いなく、アリスが無線で印刷命令を発したのだ。いつの間にこんなワザを覚えたのか。
という俺の驚きを。
トレイに吐き出された紙をアリスが俺にさし出し、記された文章に眼を走らせたときの驚愕が、瞬時に地平線まで吹き飛ばした。
横書きに記された、その内容は――。
『白き塔を登りて、かの世界へと至る。
雲上庭園.大厨房武具庫.暁星の望楼.聖泉階段霊光の大回廊』
たっぷり五秒ほどにも渡って、俺は自分が見ているものを理解できなかった。
半覚醒状態だった頭が動き出すにつれ、ようやく、アリスの"尋常ならざる"という言葉を実感する。
一行目の内容もさることながら。
問題は、二行目だ。そこに黒々と刻まれた、聞き覚えのある名称の羅列。
雲上庭園……暁星の望楼……これらは間違いなく、アンダーワールドは人界の首都セントリア、その中心に屹立していた神聖教会セントラル・カセドラルの各フロアの名前だ!
しかし、ならば、このメールの差出人はいったい誰なのだ!?
現実世界において、カセドラルの内部構造を詳しく知る人間は、たった二人しか存在しないはずだ。つまり、俺とアリスである。
菊岡さんや比嘉さんたちラーススタッフは、神聖教会という統治組織の名称までは外部からモニタできても、フロアの名前まではとても調べられなかったろう。また、アスナやクラインたちのように、援軍としてアンダーワールドにログインしたVRMMOプレイヤーは多いが、彼らは皆セントリアから遥か離れたダークテリトリーの荒野に出現し、ほぼその場でログアウトした。カセドラルをその眼で見る機会すら無かったはずなのだ。
いや――。
再び文面を詳細に辿った俺は、さらに信じがたいことに気付いた。
二行目の後半に見える、"聖泉階段"という名前。そんなフロアは、どう思い出しても通過した記憶がない。つまり、このメールの発信者は、俺ですら知らない内容を書き記している。
俺は、真剣な光を湛えるアリスの瞳を見返し、尋ねた。
「……アリス。この、聖泉階段というのは……」
「確かに、カセドラルに実在します」
騎士はこくりと頷き、白い両手を胸の前で握り締めて、続けた。
「しかし……秘匿されているのです。聖泉階段は、地上百層の威容を誇るカセドラルが、遥か昔、たった三階しかない小教会だった頃の遺構なのです! 第一層の大階段の下に封印され、何ぴとたりとも見ることはかないません。その存在を知る者すら、小父様、私、そして……最高司祭アドミニストレータの、たった三人しか居ないはずなのです……」
「な…………」
俺は、更なる驚きに打たれて喘いだ。
アリスは一歩踏み出し、俺の右手をぎゅっと掴んだ。その指先が、細かく震えているのに俺は気付いた。
「キリト……まさか……まさか。生きて……いたのでしょうか。あの半神人……最高司祭が……」
発せられた声には、深い畏れの響きがまとわりついている。
俺は、細い背中に手を回し、そっと引き寄せながら言った。
「いや……有り得ないよ。最高司祭は、確かに死んだ。元老チュデルキンともども、光になって四散するのを俺は確かに見た。そうだ……それに、ここを見ろよ」
左手に持ったプリント用紙を、アリスに示す。
「一行目に、こう書いてある。"白き塔を登りて、かの世界へと至る"。白き塔、というのはセントラル・カセドラル、そしてかの世界とはアンダーワールドのことだろう。もし差出人がアドミニストレータなら、かの世界とは絶対に書かないよ。"我が世界"、そう書くはずだ」
「そう……ですね、確かに。それは、私にも確信できます」
金色の前髪が俺の頬に触れる距離で、アリスが頷く。
「しかし……となれば、この文はいったい誰が……」
「わからない……推測する材料が無さ過ぎる。むしろ……この文章の意味が解れば、差出人も解るんじゃないかな……」
「意味……?」
「うん。よくよく読めば、おかしなところが幾つもある」
俺はアリスを促して並んでベッドに座り、指先で印刷文をなぞった。
「一行目には、登りて、と書いてあるけど……そうすると、二行目がなんかおかしいだろ? 最初の"雲上庭園"、これは俺と君が初めて戦ったフロアだ。たしか、相当上のほうだった。でも、次には"大厨房武具庫"とある。厨房は知らないけど、武具庫があるのはずっと下、地上三階だったはずだよ。と思えば、次は"暁星の望楼"だ。これは、俺たちが苦労して外壁を登って、どうにかこうにかカセドラル内部に戻ったフロアだろ。ほとんど塔の天辺だ。順番が前後しすぎる」
「そう……でしたね。……懐かしい……。外壁に、剣一本突き立ててぶら下がってるとき、お前は私に八回もバカと言ったのよ」
「そ、そこまで思い出さなくてもいいって」
首を縮める俺を見上げ、アリスはにこっと笑った。
「でも、本当は少しだけ嬉しかった。あんなふうに、誰かと心の底から言い合いをしたのは初めてだったから」
思わず、透明感のある笑顔をまじまじと見つめ返してしまう。
青い瞳が、わずかに潤んでいるように見えるのは気のせいか。
その、深い水底のような輝きから、俺は全精神力を振り絞って視線を外した。少々掠れた声で、説明を続ける。
「……それに、ここ。読点の位置もおかしいよ。なんで大厨房と武具庫のあいだ、それに聖泉階段と霊光の大回廊のあいだには点が無いんだ?」
アリスは、低い駆動音とともにゆっくり首を回し、再び文面を見た。
「……打ち忘れ……では、ないのでしょうね。……おや?」
何かに気付いたように、顔を用紙に近づける。
「キリト。一行目と二行目で、点の形が違いませんか? それに、何か意味があるのかは分かりませんが……」
「え……?」
俺も慌てて至近距離から覗き込む。
確かに――。一行目、"登りて"と"かの世界"の間に打ってあるのは、通常の読点だ。
しかし二行目に三つ打たれているのは、読点ではなくピリオドに見える。あるいはドットか。
ドット…………。
「あ…………あっ!!」
俺は低く叫び、腰を浮かせた。
「そ、そうか。カセドラルは百階しかないから……だから、二つを連結させて……つまり、これは……」
手探りで、ベッドのサイドボードからボールペンを掴み取る。キャップを引き抜きながら、アリスに急き込むように尋ねる。
「アリス。雲上庭園は、何階だったっけ!?」
「え……む、むろん、80層ですが」
「そうだよな。で……大厨房は?」
「10層です」
告げられる数字を、次々に紙の余白に書きなぐっていく。
「確か望楼が……で……聖泉階段は一層……大回廊が……」
手を止めたとき、そこには、三つのドットに区切られた、四つの数列が並んでいた。
見覚えのある体裁――どころではない。俺のような人種が日常的に見慣れている、ある種の書式。
これは、IPアドレスだ。
このメールは、現実世界のどこかに存在する、ひとつのサーバーを示していたのだ。
俺はデスクのPCに飛びつき、スリープを解除すると、キーボードを乱打してまずhttp、次いでftpで問題のIPに接続しようとした。しかし結果は、どちらもアクセス拒否だった。唇を噛み、さらに考える。接続プロトコルは他にも色々あるが、おそらく根本的なところを間違っている気がする。
再び、文面を眺める。
登るべき"白き塔"、とは二行目のアドレスそのものを指しているのだろう。
そして、登った先で"かの世界"に至る、ということは。
そのサーバーは。
「……そう……だったのか!!」
指先が冷たく痺れていくのを感じながら、俺はくるっと振り向いた。
「アリス。これは……接続経路だ! アンダーワールドに繋がる道なんだ!!」
押し殺した叫びを聞いたとたん、アリスの瞳が大きく見開かれた。
弾かれるように、ベッドから立ち上がる。
「……行ける……いえ、帰れるのですか。あの世界へ。私の……世界へ」
囁かれた言葉に、俺は、確信を持って深く頷いた。
アクチュエータの駆動音が高らかに響き、一直線に飛び込んできた身体を、俺は両手で受け止めた。
耳元で響いた嗚咽と、頬に触れた水滴の感触は、たぶん錯覚だったのだろう。
金属とシリコンのマシンボディに、そんな機能は無いはずなのだから。
常識的な時間になるまで待てるほどの忍耐力を、俺もアリスも持ち合わせていなかった。
ゆえに、午前四時を深夜ではなく早朝だとこじつけて、凛子博士の携帯端末に容赦なくコールした。
幸い、博士は今夜、六本木分室に泊り込みのようだった。最初はさすがに何が何だか解らぬ様子だったが、俺の説明が佳境に差し掛かったとたん、「そ、それホントなの!?」という悲鳴まじりの声とともに、ベッドから跳ね起きる気配が届いた。
「ホントです。ヘッダが偽装されてるんで、発信元のトレースはまず無理でしょうけど、内容からして本物としか思えません」
「そ……そう。なら、今すぐにでも確かめてみないと……」
そう口走る博士に、俺はすかさず畳み掛けた。
「その役目……俺と、アリスにやらせてください」
「えっ…………」
聞こえた息づかいは、驚き――ではなく、呆れたゆえのため息だろう。
「桐ヶ谷君……あなた、あんな目にあったのに……」
「それで懲りるような人間なら、そもそも最初からラースでバイトなんかしてませんよ」
再び、長い吐息。
「……そう、よね。そういうあなただからこそ出来たこと、これから出来ることもあるんでしょうし。でもね……今度は、ちゃんと親御さんの許可を取ってきてね」
「勿論です、任せてください。で……ちょっと確認させてほしいんですが。……アリスは、そっちからオーシャンタートルに接続する場合、STLは使うんですか?」
「いえ、必要ないわ。アリスのライトキューブ及びインタフェースは、あなたの生体脳と巨大なSTLを合わせたものとまったく同じ機能を果たすんだから。必要なのは、ケーブル一本とジャック一つよ」
「そう、ですよね。なら……えーと、ちょっと待ってください」
俺は、背後で両手を握り締めて見守るアリスに向き直った。
「アリス。その……悪いんだけど、彼女も一緒でいいかな……アスナも」
ぴくり、と片方の眉が動く。
ため息がわりの、軽いモーター音。
「……ま、いいでしょう。不測の事態となった場合、戦力が多いにこしたことはありませんから」
「す、すまない、恩に着る。……というわけなんで、博士……」
さらに幾つかのやり取りを経て通話を切ったあと、俺はアスナも叩き起こし、状況を伝えた。
こちらは、接続経路が見つかった、と言ったとたん今後の展開をすべて悟ったようだった。
ほんの一、二分で連絡を終え、さて、と部屋を見回す。
卓上には、すでに、明日から使うはずだった参考書やら何やらがきっちりまとめて置かれている。
それらの出番は、甚だ不本意ながら、もう少し先のこととなりそうだった。
プリンタの背中から、用紙を一枚抜き取ると、手早くボールペンを走らせる。直葉の部屋から制服を回収してきたアリスと、互いに背を向けて着替え、足音を殺して部屋を出る。
階段を降り、リビングのテーブルに手書きのメモを置き。
古めかしい引き戸を慎重に開閉して、白みはじめた空の下へと踏み出した。ひんやり冷たい早朝の空気を胸いっぱい吸ってから、ガレージの隅で埃を被っていた125ccのバイクとメットを二つ引っ張り出す。
家からじゅうぶんに離れるまで押して歩き、シートに跨ると、後ろにアリスも座らせて――。
俺は、セルを回しながら言った。
「しっかり掴まってろよ! 飛竜並みにすっとばすからな!」
ぎゅっと俺の腹に手を回しながら、アリスが答える。
「私を誰だと思っているのです!」
「はは、そうだったな、竜騎士さん。じゃ……行こう!!」
自宅のリビングに残してきた文面は、以下のようなものだ。
『オヤジ、母さん、スグへ。ちょっとやり残した冒険をしてくる。夏休みが終わるまでには戻るから、心配しないでくれ。 K 』
早朝の幹線道を、川越街道、環七、246とすっとばして辿り着いたラース分室通用口の前には、すでにタクシーで先発していたアスナの姿があった。
やっほー、と手を振りかけて、俺の後ろに乗るアリスの姿に気付いてぴきっとこめかみを震わせる。
「……キリトくん。これ、どーゆーコトなのかな?」
「え……ええと、その。手短に言うと、色々あったけど、何もなかった……的な……」
「色々、と、何も、の中身を詳しく」
こうなることは解っていたのだ。解っていて、俺はあえて無策のままここまで来た。なぜなら、穏当な説明などできようはずもないからだ。
「詳しい話は、そのうちする、絶対するから! …………老後の茶飲み話とかに……」
語尾をゴニョっと付け加えて、バイクを職員用駐車場に停め、後輪をロックする。
振り向いた俺の眼には、畏れていた光景が飛び込んできた。
両手を腰に当てて立つアスナ。腕組みして立つアリス。対峙する両者は、しかも同じ学校の制服姿とくる。ぴりぴり、と空気を焦がす電光が見えるようだ。
俺は恐る恐る、両者に声をかけた。
「……あのぅ、君たち、そういうのもう終わったんじゃなかったっけ……ほら、アンダーワールドの、人界守備軍の野営地で……」
「あれはあくまで停戦交渉だったの!」
「停戦とは、ふたたび戦端を開く前提で行われるものです!」
同時に鋭く言い放ち、ふたたび視線をかち合わせる。
闘気を全開にしてせめぎ合う、二人の超級剣士の姿を二秒ほど見つめ――。
俺は、この場で唯一できることをした。
つまり、極力気配を消し、徐々に後ずさりながら、通用口の内部へと退避しようとしたのだ。
しかし、厳重なセキュリティシステムに、通行カードと指紋と網膜を認証させ終わったところで甲高い電子音が響き、二人がさっとこっちを向いた。
「あっ、コラ!!」
「逃げるとは何事です!!」
と、いう声が聞こえたときには、すでに俺は風のごとく廊下を疾駆している。
各方面のデリケートなコンディションを、いつまでもサスペンドしていることの誹りは甘んじて受けよう。
しかし、真に申し訳ないが、俺の少年期はもう少しだけ続く予定なのだ。
息を切らせてSTL室に飛び込んできた俺とアスナ、アリスを、神代博士は目を丸くして迎えた。
「……焦る気持ちはわかるけど、そんなに走らなくたって、STLも接続経路も逃げやしないわよ」
呆れ声を出す博士に、わざとらしい笑顔で答える。
「いやーハハハ、一刻も早く接続を試してみたくて! 何と言っても、ダイブが成功するかどうかで、今後のアンダーワールドの安全保障にも大きく影響っテ!!」
語尾は、アスナに右脇腹を思い切りつねられたことによるものだ。
さらにアリスからの追撃を受ける前に、長時間ダイブ用の滅菌衣に着替えるべく、隣接する更衣室へと退避する。
実際、博士に言った台詞は掛け値なしの本心でもある。
アンダーワールドを内包するオーシャンタートルは、現在、非常に微妙なシチュエーションに置かれている。その稼動および独立を維持するための方策は、いまのところ一つしかない。
人工フラクトライトつまりアンダーワールド人と、現実世界の人間たちの交流を進め、友好的な関係を醸成することだ。現実世界人の大多数が、アンダーワールド人もまた人間なりと認めてくれれば、国や企業も強引なことは出来なくなる。
いや――。
暴論を承知で言えば、別の方策もあることはある。
実際的防衛力の獲得だ。すでに開発が進んでいるはずの"ライトキューブ搭載仕様UAV"で武装し、国家として外圧と伍するのだ。
もっとも、これは妄言の範疇だ。UAVをどうやって必要数配備するのか、維持費をどう捻出するのか、そもそも飛竜しか知らないアンダーワールド騎士が超音速戦闘機に適応するのにいったい何年かかるのか。クリアすべきハードルはあまりに多い。
どちらにせよ、絶対に必要となるのが、国の管理下にある通信衛星以外の恒久接続回線だ。アンダーワールド人が、彼らにとっての新天地たるザ・シード連結体にダイブし、その存在を現実世界人に知らしめていくために。
それが可能となるか否かは、俺が握り締めるメモに書き記された、ひとつのIPアドレスにかかっている。
着替えを終え、更衣室を出た俺は、凜子博士にメモを持つ手をまっすぐ差し出した。
博士は、受け取るのを僅かにためらったようだった。しかしすぐに、指先で強く紙片を挟んだ。
「……おそらく、あの人が関わっているのでしょうね」
ひっそり発せられた言葉に、俺は小さく頷いた。
どうやって、カセドラルの内部名称を知ったのかまでは解らない。しかし、オーシャンタートルとネットを繋ぐ秘匿回線を設けるなど、あの男にしか出来ないことだ。
茅場晶彦……ヒースクリフにしか。
考えてみれば――。
俺の戦いは、あの男との直接対峙なくして終わるわけはないのだ。今回、ヒースクリフは俺の眠るSTLのすぐ傍を通り過ぎただけで、ふたたびネットワークの暗闇へと消えてしまった。
ダイブの準備を始めた博士に背を向け、俺は自分の携帯端末を起動し、囁きかけた。
「ユイ。問題のアドレスについては、何かわかったか?」
家を出る前に、俺から調査を頼まれた超AIにして愛娘ユイは、画面に映る可憐な顔をちいさく横に振った。
「サーバーの物理位置はおそらくアイスランドですが、単なる中継点だと思われます。防壁が手ごわくて、その先まではトレースできません」
「そっか……ありがとう。それで……あの男のほうは?」
「それが……ザ・シード・ネクサスの304番ノードに、それらしきごく微細な移動痕跡を発見したんですが、すぐに失探してしまって……」
しゅん、と肩を落とすその頭を、タッチパネルごしに指先で撫でてやる。
「いや、充分だよ。三百……アメリカか……。それ以上は追いかけなくていい。直接接触は、たとえユイでも危険だからな。あいつは、今やほとんどユイと同質の存在となっているはずだ」
「私のほうが上です!」
ぷーっと膨らんだ頬を、苦笑とともにつつく。
「ま、とりあえず行ってくるよ。今度は、もうあれやこれやの危険はない……と思う」
「もし何かあったら、すぐ助けにいきますから!」
「頼りにしてるよ。じゃあ、またな」
伸ばされた小さな手と、画面越しに指を触れ合わせ、俺は端末の電源を落とした。ちょうどその時、着替えの終わったアリスとアスナが女性用更衣室から出てきた。
幸い、二人は二度目の休戦協定を結んでくれたようで、火花の出るようなオーラは収まっている。
俺は、二人と順番に目を見交わし、言った。
「何せ、二百年後だ。人界と暗黒界が、どうなってるのか見当もつかない。まあ……三百年のアドミニストレータ治世にくらべれば短いし、そんなに激しい変化があるとは思わないけど……」
アリスがしっかりと頷き、続ける。
「少なくとも、セントラル・カセドラルが現存することは確かなようです。ならば、人界もそのままと考えてよいでしょう」
アスナも、アリスの腕に触れ、微笑む。
「いちばん最初に、シルカさん、だっけ? 妹さんを目覚めさせにいかないとね」
「ええ!」
もう一度、深く頷きあい――。
俺たちは、二台のSTLと、一脚のリクライニングシートに、それぞれ歩み寄った。
ひんやり冷たいジェルベッドに、身体を横たえる。凛子博士の操作によって、巨大な量子通信デバイスがゆっくり降りてきて、額から上にしっかりと被さる。
「それじゃ……行くわよ」
博士の声に、異口同音に答える。
「はい!」
マシンが低く唸りを上げる。
俺の意識、魂を構成する不確定光子雲――フラクトライトが生体脳から切り離され、五感と重力が喪失する。
魂は、電気的信号へと翻訳され、広大無辺なネットワークへと飛び出す。
大容量の光回線を超高速で突進し、懐かしい異世界を目指してひたすらに飛翔する。
新たな冒険へ。
次なる物語の中へと。
まず、光が見えた。
極小の白い輝きが、虹色の放射光となって拡大し――視界を覆い――さらに広がり。
その奥に、純粋なる黒が出現した。
俺は、光のトンネルの先の暗闇へと、一直線にダイブする。
いや、全き闇ではない。
黒を背景に、恐ろしいほどの数の、色とりどりの光点がいっぱいに満ちている。
星だ。夜空…………
とも、違う。
なぜなら。
「……う、うわあああ!?」
俺は、足元を眺め、絶叫した。
なぜなら、地面が存在しなかった!
慌てて両脚をばたばたさせるものの、ブーツの先は何にも触れない。足元にもまた、無限の星空がどこまでも続くのみだ。横を見ても、上を見ても、星。星また星。
「きゃ、きゃあああ!?」
「こ……これは……!?」
左右で、同時に悲鳴が聞こえた。
いっぱいに広げた俺の両手が、むぎゅっと思い切り掴まれる。
右を見ると、真珠色のハーフアーマーに細剣、薄い虹色に彩られたスカートというステイシア神の装束に身を包んだアスナが浮いていた。
左には、黄金のブレストプレートと白いロングスカート、腰に白銀の鞭を下げ山吹色の長剣を佩いたアリス。
二人とも、瞳を丸く見開いて、目の前に広がる果てしない星空を眺めている。
いや。
これはもう、星空ではなく。
「…………宇宙…………?」
俺は、おそるおそる呟いた。
途端に、猛烈な寒気を意識する。アリスとアスナも、くしゅんと盛大なくしゃみをする。天命が急減少しているのが確実なほどの、激烈な低温環境だ。
いや、二人の声が聞こえる時点でほんものの宇宙空間ではないのだろうが、限りなくそれに近い。俺たちは、そこに生身でぽっかりと浮遊している。
俺は意識を集中し、光属性の防御壁を球形に展開すると、全員を包み込んだ。
ぼんやり薄い輝きに包まれた途端、突き刺すような寒気がようやく遠ざかる。
ほっと息をつき、改めて眼前のとてつもない光景を見回した。
視界の右上から左下にかけて、ひときわ密な星の群れが帯をつくって横切っている。天の川――と言うべきなのだろうが、抜きん出て明るい恒星たちをどう線で結んでも、現実世界で慣れ親しんだ星座はひとつも見つけられない。
やはりここは、アンダーワールドなのだ。
しかし、ならば大地は……そして空はどこに行ってしまったのか。
ふと、激しい戦慄を覚え、俺は身を竦ませる。
――まさか。
消えてしまった……のだろうか。
二百年の時間のはてに、人界と暗黒界を構成していた大地そのものの天命が潰え。
そこに生きていた十数万の人々ともども、すべて虚無へと還ってしまったのだろうか……。
「うそだ……そんな…………」
震える声で、そう囁いた俺の左手を。
突然、アリスが軋むほど強く握った。
「キリト。……あれを」
はっ、と顔を向けると、黄金の騎士はいつのまにか体の向きを変え、真後ろを見つめていた。
伸ばされた手が、まっすぐに一方向を指差す。
俺も、息を詰めながら、ゆっくり、ゆっくりと振り向いた。
星が見えた。
遥か彼方に小さく瞬く恒星ではなく――視界の全てを覆わんばかりの、巨大な惑星が、そこに在った。
球体の上半分は、完全な黒に染まっている。
しかし、その中ほどから、黒は徐々に藍へ、群青へ、さらに紺碧へと色を変えていく。
そして、下半分の円弧は、眩い水色に輝いている。
水色は、徐々に、徐々にその色を強くしていく。円弧の下端に、白い光が盛り上がり、さっ、と横一直線の光芒が伸びた。
夜明けだ。
惑星の向こうに隠れていた太陽――ソルスが、今まさに姿を現そうとしているのだ。
眩い白光から目を逸らし、再び惑星の表面を見やる。
先ほどまで深い藍に沈んでいた地表も、少しずつ明るい青に照らし出されていく。
白い雲が薄くたなびくその向こうに、黒い大陸の輪郭線があった。
少し上下が短い逆三角形をしている。
大陸の右上付近に、白い光点の集合がひとつ。左上に、さらに大きな円形の集合光が見えた。
明らかに、文明の光だ。よくよく見れば、二つの集合を結び、さらに下方にも伸びるいくつもの光のラインが網目状に走っている。
俺は、その大陸の形と二つの大都市の位置から、自分が見ているものを即座に悟った。
右上の都市は、暗黒界の首都オブシディア。
そして左上は――人界央都セントリアだ。
あの大陸、あの星こそが、かつて俺が生き、戦い、駆け抜けたアンダーワールドなのだ。
茫然としたまま視線をうごかし、隣のアリスを見やった。
その白い顔にも、深い驚きと畏怖だけが浮かんでいる。
と、不意にアリスははっと目をしばたくと、俺の手を離し、剣帯の後ろに装備されたポーチを探った。
そっと取り出されたものは、掌から少しはみ出すほどの大きさの、二つの白い卵だった。
片方はほのかな緑、もう一方はほのかな青に輝いている。光は、一秒間隔で周期的に強さを変動させている。まるで呼吸のように。鼓動のように。
アリスは、二つの卵をそっと胸に抱き、瞼を閉じた。その頬に、音も無く、ふたすじの涙が流れ、零れて、丸い水滴となって漂った。
俺は、自分の目にも涙が滲むのを感じた。反対側を見ると、手を繋いだままのアスナの瞳も濡れていた。
俺たちが見守るなか、アリスは星々の海を踏みしめ、一歩前に出た。左手で二つの卵を抱き締め、右手をまっすぐに巨大な惑星に向けて差し伸べた。
夜明けの星と同じ色の瞳に、無限の輝きを秘め、黄金の整合騎士は凜と響く声で高らかに叫んだ。
「世界よ!! 私が生まれ、私が愛したアンダーワールドよ!! 聞こえますか!!」
全宇宙の恒星たちが震え、青い惑星も、息づくように一瞬その光を強めた。
俺はまぶたを閉じ、ただ耳だけを澄ませた。
新たな時代の訪れを告げる言葉を、永遠に記憶に刻み込むために。
「私は、いま帰還しました! …………私は、ここにいます!!」
(エピローグ 終)