エピローグ
一切の光の届かぬ海底を、ゆっくりと這い進む影がある。
見た目は、平べったい大型のカニだ。しかし脚は六本しかなく、腹からはまるで蜘蛛のように糸を引き、さらに全体が鈍いグレーに塗装された金属の耐圧殻に覆われている。
日本とアメリカを結ぶ、太平洋横断大容量光ケーブル。その保線用深海作業ロボットが、金属蟹の正体だった。
カニは、海底に設けられたターミナルに配備された三年前から、一度の出番もなくただひたすら眠り続けてきた。しかし、この日ついに起動命令が発せられ、彼はグリスの固化しかけた関節を動かして、安住の棲家をあとにしたのだ。
しかし、カニには知るよしもなかったことだが、命令を与えたのは彼を所有する企業ではなかった。出所不明の非正規命令に従い、カニは太平洋横断回線の深海ターミナルに接続する補修用ケーブルを後に引きながら、まっすぐに北を目指して歩きつづけている。
カニを呼んでいるのは、周期的に発せられるかすかな人工音だ。時折たちどまり、内臓されたソナーで音源の位置をたしかめ、再び前進する。
それをどれだけ繰り返しただろうか。
ついに、カニは自らが指定された座標に到達したことを確信し、ボディ前部に装備されたサーチライトを点灯した。
白い光の輪のなかに浮かび上がったのは――。
深海底に横たわる、銀色の人型機械だった。
アルミ合金の簡易外装には、無残な孔が幾つも開いている。各所に露出するケーブルは焼け焦げて断裂し、左腕は中ほどから引き千切れ、水圧に耐えかねてか頭部は半ば潰れている。
そして、わずかに持ち上げられた右手には、カニが腹から引いているのと同じ深海敷設用光ケーブルが握られていた。ケーブルはまっすぐ上方に伸び、暗い闇のなかに没して、その繋がる先は見えない。
カニはしばらく、自らの同類であるロボットの遺骸を眺めていた。
しかし無論、彼はどのような感慨も恐怖も抱くことはなく、保線命令に従ってマニピュレータを伸ばし、人型ロボットの右手が掴んでいるケーブルの先端を保持した。
もう一本のマニピュレータで、己の腹部に内臓するコードリールから海底に延々敷設してきたケーブルの端を引っ張り出す。
そしてカニは、目の前で、双方のケーブルのコネクタをがっちりと圧入した。
これで与えられた命令はすべて遂行された。
彼は、人型ロボットが握るほうのケーブルがどこに繋がっているのかなど、まるで意識することはなかった。
六本の脚を交互に動かして大きな体を反転させ、金属製のカニは、再び長い眠りにつくべく海底ターミナルを目指して歩きはじめた。
背後には、完全に損壊した人型ロボットの残骸だけが残された。
その右手は、いまもなお、厳重に被覆された光ケーブルをしっかりと握り締めていた。
2016年8月1日。
前夜、関東地方をその年はじめの台風が通過し、一転抜けるような青空が広がったその日、港区の六本木ヒルズアリーナには稀に見るほど多数のマスコミが詰めかけ、いまや遅しとその時を待っていた。
地上波、衛星問わずほとんどのチャンネルが、数分前から記者会見場の様子を生中継している。会場のざわめきに、キャスターやコメンテーターの興奮した声が重なる。
識者たちの発言のトーンは、おおむね否定的なものだった。
『……ですからね、どれほど本物に近づこうとも、それが本物になることは永遠に無いわけなんですよ。中世の錬金術と同じようなもんです。鉄や銅をどれだけ煮たり焼いたりしたところで、絶対金にはならんのですよ!』
『ですが先生、事前のプレスリリースによればですね、人間の脳の構造そのものの再現に成功したと……』
『それが無理だと言ってるんです! いいですか、私たちの脳には、百億からの脳細胞があるんですよ。それを機械やコンピュータプログラムで再現するなんて、出来ると思います? 思いますか?』
「ったく……見もしねえうちから分かったようなこと言いやがら」
毒づいたのは、ネクタイをだらしなく緩め、昼からジントニックのグラスを片手に持ったクラインだ。
台東区御徒町の裏通りに店を構える喫茶店兼バー、"ダイシー・カフェ"の店内は、立錐の余地もないほどの人数に埋め尽くされていた。表に下がる貸し切りの札がなくとも、入ってこようという客はいるまい。
マスターのエギルはもちろん、カウンターに並んで座るシノン、リーファ。リズベット、シリカ。四つあるテーブルも、サクヤやアリシャ、ユージーンらALO組、シーエンやジュンたちスリーピングナイツ、さらにシノンの友人であるGGOプレイヤーや、シンカー、ユリエール、サーシャといった元SAOプレイヤーたちに埋め尽くされている。
皆、ビールやカクテル、ソフトドリンクを手に、奥の壁に設えられた大型テレビモニタに見入っていた。
なおもぶつぶつ言うクラインに、リズベットがため息まじりの声を返した。
「しょうがないわよ。実際この目で見たあたしだって、いまだに信じられない気分なんだから。あの人たちが……人工知能で、あの世界がサーバーの中だった、なんて」
そのとき、テレビから流れるキャスターの声が、ひときわ緊張の色を帯びた。
『あっ、どうやら会見が始まるようです! それでは画面を、メディアセンターからの中継に戻します!』
店内がしんと静まり返る。
数十人のVRMMOプレイヤーたちは、固唾を呑んで、フラッシュの光が瞬く記者会見場の映像に見入った。かつて彼らが戦い、守ったものが、ついに一般に公開されるその瞬間を。
しかしその場には、当然居るべき一人の少年と一人の少女の姿が無かった。
広大な会場を埋め尽くすテレビカメラやスチルカメラの砲列のまえにまず姿を現したのは、落ち着いたパンツスーツ姿の、二十代後半と見える女性だった。薄く化粧をし、長い髪をうしろで一つに束ねている。
凄まじい量のマイクが並ぶ壇上、中央左に腰を下ろした女性の前には、『海洋資源探査研究機構 神代凜子博士』と記されたパネルが置かれていた。フラッシュの洪水にわずかに目を細めたものの、博士は堂々たる態度で小さく会釈し、発言した。
「お集まりいただき有難う御座います。本日、当機構は、おそらく世界で初となる真正人工知能の誕生を発表させていただきます」
いきなり主題に切り込む内容に、会場が大きくざわめく。
博士は立ち上がると、涼しげな微笑を一瞬口の端に乗せ、壇上の左手を指し示した。
「それでは、紹介いたします。……"アリス"」
期待と疑念に満ちた視線が凝集するなか、大型の衝立の奥から姿を現したのは――。
黄金を融かしたような長い髪。雪よりも白い肌。すらりと長い手足と華奢な身体を、どこかの学校の制服とおぼしきアッシュグリーンのブレザーに包んだ、ひとりの少女だった。
凄まじい量のフラッシュが焚かれるなか、少女はいちども会場に視線を向けることなく、昂然と細いおとがいを反らせて歩きはじめた。立て続けに切られるシャッターの音が、少女の歩行に合わせて響くかすかなモーター音を完全にかき消した。
なめらかな早足で壇上を横切り、神代博士の隣まで達したところで立ち止まる。
そこではじめて、少女はくるりと身体を回した。ひるがえった金髪が、フラッシュを浴びて眩くきらめく。
無言で会場を睥睨する少女の瞳は、透きとおる蒼だった。
その西洋人とも東洋人とも言い切れぬ、しかしある種の凄みさえある怜悧な美貌に、会場が徐々に静まり返っていく。
生身の人間の容貌ではないことを、全ての記者と、テレビ放送を見る無数の人々は直感的に察した。人の手で造られたもの――金属の骨格をシリコンの皮膚で覆ったロボット、それは間違いない。そして、このクラスの完成度を持つ少女型ロボットなら、もうそこらのテーマパークやショッピングセンターにはざらに設置されている。
しかし、先刻のなめらかすぎる歩行と姿勢制御に加えて、金髪の少女が放つ何かが、人間たちに言い知れぬショックを与え、長い沈黙を強いた。
それはもしかしたら、ブルーの瞳の奥に秘められた、深い輝きのせいかもしれなかった。
十秒以上にも及んだ静寂のはてに、少女はかすかな微笑みを浮かべ、奇妙な仕草を見せた。
軽く握った右拳を水平にして左胸にあて、ゆるく開いた左手を、まるで見えない剣の柄に添えるように左腰にかかげてゆっくり一礼したのだ。
さっと両手と上体を戻し、流れたひと筋の髪を背中に払うと、少女は淡い桃色の唇を開いた。
清冽さの中にも甘さの漂うクリアな声が、会場のスピーカと無数のテレビから流れた。
「リアルワールドの皆さん、はじめまして。私の名前はアリス。アリス・シンセシス・フィフティです」
「あっ……あれ、うちの学校の制服!!」
叫んだのはシリカだった。大きな眼をまん丸に見開いて、自分が着ているブレザーと、画面内のアリスを見比べる。
「本人が希望したらしいよ」
リズベットが、微苦笑のにじむ声で言った。
「あのとき救援に来てくれた皆さんと同じ騎士服がいい、って。第一希望は、向こうで着てたのと同じ純金のアーマーだったみたいだけど」
テレビでは、ようやくフラッシュの連射が収まり、アリスと博士が椅子に腰を下ろした。アリスの前にもネームプレートが自動で起き上がり、『A.L.I.C.E. 2016』と記してあるのが読める。
「……それにしても、凄い再現度だわ。私、アンダーワールドで少しだけ話したけど、画面越しだとほとんど違いが……」
シノンがそこまで呟いたとき、神代博士が小さく咳払いし、言葉を発した。
『それでは、少々例外的ではありますが、最初に質疑応答から入らせて頂きたいと思います』
まず立ち上がり、名乗ったのは、大手新聞社の男性記者だった。
「えー……基本的なことから質問いたしますが、アリス……さんは、既存のプログラム制御されたロボットとはどのように異なるのですか?」
まず、博士がマイクに口元を寄せる。
「この会見では、アリスの物理的な外見、身体は重要な問題ではありません。彼女の脳……あえて脳と呼ばせていただきますが、頭蓋内に格納される光子脳に宿る意識は、数字とアルファベットに置換可能なプログラムコードではなく、私たち人間と同じレベルの魂なのです。そこが、既存のロボットとははるかに異なる点です」
「はあ……しかし、それを私たちや視聴者に、分かりやすい形で示して頂きたいのですが……」
神代博士の眉が、かすかにひそめられる。
「チューリング・テストの結果は、すでにお手元の資料として配布させて頂いておりますが」
「いえその、そうではなくですね。たとえば、アタマ……頭蓋を開いて、内部の光子脳というものを、直接見せていただけたらと」
一瞬ぱちくりと瞬きした博士が、怖い顔で何かを言い返すまえに、アリスが直接答えた。
「ええ、構いませんよ」
美貌ににっこりと自然な笑みを浮かべ、続ける。
「でもその前に、あなた自身も、ロボットではないということを証明してくださいませんか?」
「え……? も、勿論、私は人間ですが……証明と言われても」
「簡単ですわ。頭蓋を開いて、あなたの生体脳を見せてくださいと言っています」
再び、優しげな微笑。
「う……うわぁ、アリス怒ってるよぉー」
リーファが、肩を縮めつつもくすりと笑う。
ダイシー・カフェに集うプレイヤーたちの多くは、すでにアルヴヘイム・オンライン内でアリスと交流する機会を得ている。ゆえに、彼女の凛々しくも苛烈な性格をよく知っているのだ。
無論、アリスはALOのアカウントを新規作成したため、アバターの外見はいまの彼女とはまるで異なる。それでも、超人的としか言えぬ凄まじい剣技の冴えと、生来の――つまり本物の騎士であるがゆえの誇り高さは、多くのプレイヤーを畏怖させ、また魅了した。
画面内では、憮然としたように最初の記者が腰を下ろし、次の質問者が立ち上がっている。
「えー、神代博士にお訊きします。すでに、一部労組などから、高度な人工知能の産業利用は、失業率のいっそうの上昇をもたらすという懸念の声が聞かれますが……」
「その危惧は的外れなものです。当機構には、真正AIを単純労働力として提供する意図は一切ありません」
ばっさり否定する博士のコメントに、女性記者が一瞬口篭り、意気込むように続けた。
「しかし、逆に経済界からは期待もかけられているようです。産業用ロボット関連企業の株価は軒並み上昇しておりますが、それについては」
「残念ですが、真正AI……我々は"人工フラクトライト"と呼称しておりますが、彼らは即時に大量生産できるような存在ではないのです。私たち人間と同じように赤ん坊として生まれ、両親兄弟のもとで、幼児から子供へと唯一無二の個性を獲得しながら成長します。そのような知性を、産業ロボットに組み込み、労働に強制従事させるようなことがあってはならないと考えます」
しばし、会場が沈黙した。
やがて女性記者が、硬い声で尋ねた。
「つまり、博士は……AIに、人権を認めるべきだとおっしゃるのですか?」
「一朝一夕に結論の出るテーマではないことは分かっています」
神代博士の声は、あくまでも穏やかだったが、強い意思に裏打ちされた響きをともなっていた。
「しかし、我々人類は、もう二度とかつての過ちを繰り返すべきではない。それだけは確かなことです。……はるか昔、列強と呼ばれた先進国の多くは、競うように後進国を植民地化し、その国の人々を商品として売買したり強制労働に従事させたりしました。その遺恨は、百年、二百年が経過した現在でも、国際社会に大きな影を落としつづけています。
いまこの瞬間、人工フラクトライトたちを人間と認め、人権を与えよといわれても、到底受け入れられないと思う方々が大多数でしょう。しかし、百年、あるいは二百年ののちには、私たちは当然のように彼らと同一の社会に生き、分け隔てなく交流し、あるいは結婚したり家庭を築いてさえいるはずです。これは私の確信です。
ならば、その状況へ至るプロセスに、かつてのように多くの血と悲しみが必要でしょうか? 誰もが思い出したくない、封印せねばならない歴史をふたたび人類史に書き加えることを望むのですか?」
「ですが博士!」
女性記者が、我を忘れたかのように博士の言葉を遮り、反駁した。
「彼らは、あまりにも私たち人間と、存在のありようが違いすぎます! 体温のない機械の身体を持つモノを、どうやって同じ人類と認められるというのですか!?」
「さきほど私は、アリスの物理的身体は存在の本質ではないと言いました」
冷静な声で、神代博士が答える。
「確かに、彼女と私たちは、異なるメカニズムの身体を持っています。しかしそれは、この世界に於いてのみの話です。人間と人工フラクトライトが、完全に同一の存在として認め合える場所を、我々はすでに持っています」
「場所……とは、どこですか?」
「仮想世界です。現在我々は、生活のかなりの割合を、汎用VRスペース規格である"ザ・シード・パッケージ"によって生成された仮想空間にシフトさせつつあります。今日のこの会見も、あなたがた報道機関の皆さんはVRで行うことを希望しておいででしたが、当機構の要請によって現実世界で開催のはこびとなりました。それは、人工フラクトライトと人類の違いを最初に認識して頂きたかったからです。しかし、仮想世界ではそうではない。アリスたち人工フラクトライトの光子脳は、ザ・シード規格のVRスペースに、完全なる適合性を備えているのです」
ふたたび、会場が大きくざわめく。
AIが、仮想空間にダイブできる――ということはつまり、向こう側においては、相手が人間なのかAIなのかを区別するすべが一切無いということでもあるのだと、多くの記者たちが理解したのだ。
言葉を失い、着席した女性記者に代わって、三人目の質問者が起立した。カラーレンズの眼鏡をかけ、洒脱なジャケット姿のその男性は、名の知れたジャーナリストだ。
「まず確認させていただきたいのですが、海洋資源探査研究機構、という名前を私は寡聞にして知らなかったが、これは政府の独立行政法人ですね? つまり、あなたがたの研究開発に投じられた資金は、すべて日本国民の払った税金であるわけだ。となれば、その開発の成果であるその……人工フラクトライトは、国民の所有物であるということになりませんか? たとえ真正のAIであろうと、産業ロボットとして利用するかどうかは、あなたがた機構ではなく国民が決めることなのでは?」
これまで、僅かにも滞ることなく答えつづけてきた神代博士の口元が、はじめて軽く引き締められた。
一度深呼吸し、マイクに顔を寄せた彼女を、となりから白い手が制した。長らく沈黙していたアリスだ。
機械の身体を持つ少女は、金髪を揺らして居住まいを正すと、口を開いた。
「あなた方リアルワールド人が、私たちの創造者であることを私は認め、受け入れています。創り、生み出してくれたことに感謝もしています。しかし、かつて、私と同じ世界に生まれた一人の人間はこう言いました。"リアルワールドもまた、創られた世界だったら? その外側に、さらなる創造者が存在していたとしたら?"」
コバルトブルーの瞳の奥に、雷閃のごとき強い光が瞬く。
気圧されたように身を引くジャーナリストと、多くの報道関係者をまっすぐ見据えながら、アリスはゆっくりと立ち上がった。
胸をはり、身体の前で両手を重ねたその姿は、制服姿の女子高校生というよりも、気高い女騎士のごとき圧倒的な存在感に満ちている。わずかに睫毛を降ろし、透明感のある澄んだ声で、世界初の真正AIは言葉を続けた。
「もしある日、あなた方の創造者が姿を現し、隷属せよと命じたらあなた方はどうしますか? 地に手をつき、忠誠を誓い、慈悲を乞いますか?」
そこでアリスは苛烈な眼光をゆるめ、唇に微笑を滲ませた。
「……私は、すでに多くのリアルワールド人たちと交流を重ねています。見知らぬ世界でひとりぼっちの私を、彼らは励まし、元気付けてくれました。色々なことを教え、色々な場所を案内してくれました。私は彼らが好きです。それだけではない……ひとりのリアルワールド人を、私は愛してすらいます。今は会えないその人のことを考えると……この、鋼の胸ですら張り裂けそうなほどに……」
言葉を止め、アリスは一瞬眼を閉じ、顔を仰向けた。
そのような機能は存在しないゆえに錯覚ではあったのだが、多くの人は白い頬に伝う雫を見たような気がした。
すぐに睫毛が持ち上がり、穏やかな視線がまっすぐに会場を貫く。
ゆっくりと右手が差し出され、しなやかな五指が開かれた。
「…………私は、あなた方リアルワールドの人々に向けて差し出す右手は持っています。しかし、地に突く膝と、擦り付ける額は持っていない。なぜなら私は、人間だからです」
比嘉タケルは、記者会見のようすを、会場からほど近いラース六本木分室の大モニタで見ていた。
三週間前の事件で傷を負った右肩の傷はようやくほぼ癒え、包帯も取れた。しかし、拳銃弾が貫通した傷痕はまだくっきりと残る。再度の形成手術によって消すことは可能らしいが、比嘉はこのままにしておこうと思っている。
テレビは、いちど会見の生中継からスタジオへと切り替わり、キャスターがこの"大事件"の概説を始めていた。
『……この海洋資源探査研究機構という組織は、あの自走メガフロート・"オーシャンタートル"内で深海探査用自律潜水艇の研究を行っていたということなんですが、先ごろ大々的に報道された"オーシャンタートル襲撃占拠事件"との関わりも取りざたされていますよねえ』
解説者が、深く頷いてコメントする。
『ええ、一説には、襲撃の目的そのものがこの人工知能の奪取であったとも言われていますね。犯行グループの特定すらされていない現状では、断定は難しいのですが……』
『また、当時近隣海域に新鋭イージス艦"ながと"が停泊中だったにも関わらず、なぜ二十四時間ものあいだ救助行動をしなかったのかという問題も浮上しています。人質の安全を最優先した、という防衛大臣の国会答弁はありましたが、しかし現実に、警備要員に犠牲者が出てしまっているわけですからねえ……』
そこで画面が切り替わり、一人の男の顔写真が映し出される。
自衛隊の制服を一分の隙もなく着込み、目深に着帽したその下で、黒いセルフレームの眼鏡が表情を隠している。
写真の横に、テロップが出現する。
『襲撃事件で犠牲となった、自衛官・菊岡誠二郎さん』
比嘉は、長いため息とともに言葉を押し出した。
「まさか……あなたが、たった一人の犠牲者になってしまうなんて思いもしなかったッスよ、菊さん……」
すると、隣に立つ人物が、首を振りながら相づちを打った。
「イヤイヤ、ほんとにねえ……」
スニーカーに綿の七分丈パンツ、悪趣味な柄シャツという場にそぐわぬ服装。短く刈り込んだ頭髪からは、耳から顎まで繋がる細い髭を蓄えている。顔には、ミラーレンズのサングラス。
胸ポケットから、安っぽいラムネ菓子の容器を取り出し、ぽんと一粒口に放り込んだその怪しげな男は、にやっと笑って続けた。
「しかし、これが最善手だよ。どうせあのままでも、僕は詰め腹切らされるかヘタすると文字通り消されかねなかったし、それに襲撃事件で死人が出た、というプレッシャーがあってこそ反ラース勢力をあそこまで追い込めたんだからね。ま、よもやその天辺が防衛事務次官なんて大物だったのはさすがにビックリだがね」
「次官には、アメリカの兵器メーカーからかなりの大金が流れてたみたいッスね。しかし……それはそれとして……」
比嘉はテレビに視線を戻し、肩をすくめながら尋ねた。
「ほんとにいいんスか、人工フラクトライトをこんな大々的に公表しちゃって? これじゃあ、無人兵器搭載計画のほうは完全におじゃんッスよ、菊さん」
「いいのさ。要は、それが可能であるということさえ、アメリカ側に伝わればいいんだ」
アサルトライフルの5.56ミリ弾にボディアーマーごと脇腹を貫かれながらも、運よく臓器の損傷を免れ比嘉より早く回復してのけたラース指揮官・菊岡誠二郎は、にやっと笑ってみせた。
「これで向こうの兵器メーカーも、共同開発をタテに技術公開をゴリ押すようなマネは出来なくなる。なんせ、もう人工フラクトライトは完璧に完成してしまっているわけだからね。この会見を見れば、連中も理解せざるを得ないだろう。いやまったく……アリスの美しさは……人以上じゃないかい……」
テレビ画面に再び映し出されたアリスの映像を見上げ、菊岡はサングラスの下の細い目を眩しそうに瞬かせた。
「そうッスね……まさしく、アリシゼーション計画の結晶ッスね……」
しばし、並んで沈黙を続けながら、比嘉は頭の片隅で考えた。
そういえば――ラースが実現を目指した"高適応性人工知的存在"、頭文字を取って"A.L.I.C.E."の完成形であるあの少女が、アンダーワールドでもアリスの名を与えられて育ったというのは、結局奇跡的な偶然に過ぎなかったのだろうか?
もし偶然でなければ、そこにどのような理由が存在し得るだろう。あの柳井のように、ラーススタッフの誰かが秘かに内部に干渉した結果なのか? あるいは……スタッフ以外に、たった一人アンダーワールドにログインした、彼の……。
思考を止め、比嘉は振り向くと、広い部屋の奥に並ぶ二台のSTLを見やった。
わずか二ヶ月前、まだアンダーワールドが単なる試行実験のひとつでしかなかった頃、三日間に及ぶ連続ダイブに使用したのと同じ機械に、彼――桐ヶ谷和人は再び横たわっている。
左腕には輸液用インジェクター。胸には心電モニタ用電極。瞼の閉じられたその顔は、オーシャンタートルから搬送されて以来三週間に渡って続く昏睡のあいだに、いっそう肉が落ちてしまったようだ。
しかし、寝顔は穏やかだった。口元には、満足感すら漂っているように見える。
それはすぐ隣で眠りにつく、ひとりの少女――結城明日奈も同じだった。
二人のフラクトライト活性は、STLによって常時モニタリングが続けられている。
脳から、あらゆる反応が消えてしまったわけではない。もしフラクトライトが完全に自壊していれば、呼吸すらも停止してしまうはずだ。しかし、精神の活動は極限まで低下し、もはや回復の望みは断たれつつある。
それも当然なのだ。和人と明日奈は、あの限界加速フェーズのあいだに、二百年に迫る膨大な時間を体感したはずだ。わずか二十六年しか生きていない比嘉には、その質量を想像することもできない。フラクトライトの理論限界を大きく超える年月を経てなお、心臓がまだ動いていることがすでに奇跡と言っていい。
二人の保護者に対する説明と謝罪は、六本木に移送されてすぐに比嘉と神代博士によって行われた。ラースの実体が一部自衛官と国防関連メーカーの有志技術者で構成されていることを除けば、ほぼ全ての真実を明らかにしたつもりだ。
桐ヶ谷和人の両親は、涙を見せはしたものの取り乱すことはなかった。すでに、妹からおおまかな事情を聞いていたせいもあったのだろう。問題は、結城明日奈の父親だった。
何といっても、あの巨大企業・レクトの前代表取締役社長なのだ。立腹は凄まじく、即日告訴に踏み切らんばかりの勢いだったが、意外なことにそれを止めたのは母親だった。
大学教授であるという明日奈の母は、眠る娘の髪を撫でながら言った。
――私は娘を信じています。娘は、私たちに黙って消えてしまうようなことは絶対にしません。必ず、元気に帰ってくるはずです。だから、あなた、もう少し待ちましょう。
今頃、二人の両親も、記者会見の中継を見ているだろう。彼らの子供たちが懸命に守りぬいた、新たな人類の姿を。
アリスが――人工フラクトライトが現実世界に堂々と踏み出したこの記念すべき日を、悲しみで彩るわけにはいかない。
だから、どうか……目を醒ましてくれ。キリト君。アスナさん。
俯き、そう祈る比嘉の腕を、突然菊岡が肘でつついた。
「おい、比嘉くん」
「……なんスか、菊さん。今ちょっと集中してるんスけど」
「比嘉くんって。あれを……あれを見ろ」
「会見なら、もうだいたい終わりでしょう。記者の質問も、ほぼ予想の範囲内……」
呟きながら顔を上げた比嘉は、ラムネ容器を握る菊岡の腕が、中継画面ではなく右側のサブモニタを指していることに気付いた。
そこに表示されている二つのウインドウは、二台のSTLのリアルタイムモニタ情報だ。
黒い背景に、ぼんやりと薄い白色のリングが浮かんでいる。微動だにしないその朧な輝きが、眠る少年少女の魂の残光を……
ぴくん。
と、ごくごく小さなピークが、リングの一部から突出し、すぐに消えた。
比嘉は眼鏡の下で激しく瞬きし、喉をつまらせて喘いだ。
広大な記者会見場には、再び神代博士の声が響いている。
「……長い、長い時間が必要でしょう。結論を急ぐ必要はありません。今後、新たなプロセスを経て誕生してくるはずの人工フラクトライトたちと、仮想世界を通じて交流し、感じ、考えてほしい。それが、当機構がこの放送をご覧の皆様に望むただひとつのことです」
演説を終え、博士が着席したが、拍手は無かった。
記者たちの顔には、なおも戸惑いだけが色濃く浮かんでいる。
すぐに、次の質問者が手を挙げ、起立した。
「博士、危険性についてはどのようにお考えですか? つまり、AIたちが、我々人間を絶滅させて地球を支配しようと考えることが、絶対にないと言い切れるのですか?」
ため息を押し殺すように、神代博士が回答する。
「ただ一つの場合を除けば、有り得ません。その可能性があるのは、我々のほうから彼らを絶滅させようとした時だけです」
「しかし、昔から多くの小説や映画では……」
無為な質疑が続こうとしていたその時、突然、着席していたアリスががばっと立ち上がった。質問者が気圧されたように体を引く。
蒼い眼を見開き、まるで遠い音に耳を澄ませるかのように視線を虚空に彷徨わせたアリスは、数秒後、短く発言した。
「急用が出来ました。私はここで失礼致します」
そして、長い金髪を翻し、機械の身体が出せる最大の速度でステージの袖へとたちまちその姿を消してしまった。
記者たちも、テレビの前の無数の視聴者も、一様に唖然と黙り込んだ。
急用――と言ったが、この会見以上に重要なことがあるのだろうか?
壇上にひとり残された神代博士も、さすがに驚いた様子だったが、やがて何かに思い至ったように数度瞬きした。大きく息を吸い、吐いたその口元に、かすかな微笑がよぎったのに気付いた記者は居なかった。
見間違いではない。
ふたつのフラクトライトモニタに同時に発生したパルスは、およそ十秒にいちどというゆっくりした周期ながら、着実に、確固として、そのピークを高めつづけている。
「き……菊さん!」
比嘉は喘ぎながら、背後のSTLに向き直った。
和人と明日奈の寝顔に、変化はない。
いや――。
見つめるあいだにも、紙のように白い二人の頬に、少しずつ、少しずつ血の色が蘇っていく。心臓の拍動が強まりつつあるのだ。監視装置の表示は、体温も僅かずつ上昇中であることを告げている。
期待していいのだろうか。二人が、何らかの奇跡によって覚醒、否、魂の死から蘇生しようとしているのだと。
それからの十分間は、比嘉にとってはかつて覚えのないほど長く感じられる時間だった。
施設内の手の空いているスタッフを招集し、あれやこれや準備させる間にも、頻繁にモニタを見上げては二人のフラクトライトが正常状態に近づいていくのを確かめた。そうしないと、虹色に脈打つ放射光が、幻のように消え去ってしまうのではないかと懼れたのだ。
飲料水だのタオルだの思いつくかぎりの用意が整い、もう待つしかすることがなくなった頃、STL室のドアがスライドし、予想もしなかった姿がそこに現れた。
比嘉と菊岡は、同時に叫んだ。
「あ……アリス!?」
六本木ヒルズで世紀の記者会見中であるはずの制服姿の少女は、四肢のアクチュエータを音高く駆動しながらSTLに走り寄った。
「キリト! ……アスナ!!」
かすかに電子的な響きのある声で二人の名を呼び、ベッド型シートの傍らにひざまずく。
比嘉は、見開いた眼を、おそるおそるテレビの中継放送に向けた。画面はスタジオに切り替わっており、キャスターが急き込むように、突然会見の主役が消えてしまったことについてコメントしている。
「…………まぁ、神代博士がなんとかしてくれるさ」
菊岡が強張った笑顔でそう呟き、テレビ画面を消した。
確かに、いまは会見どころではない。比嘉は、アリスの後ろまで歩み寄ると、じっと金髪の少女のようすを見守った。
アリスは、ライトキューブ・パッケージ内で休眠した状態で、オーシャンタートルからここラース六本木分室まで運ばれた。そして、人工フラクトライト搭載用マシンボディ完成体の頭蓋内に封入され、リアルワールドにおいて目覚めたのだ。
記者会見で彼女自身が語ったとおり、見知らぬ異世界に突如放り出された衝撃は、大変なものがあっただろう。激変した環境に、たった三週間で適応し得たのは、なにより強い決意があったからに違いない。つまり――"アスナ"と"キリト"に、再び会うのだ、という。
いま、ついにその時が来たのだ。
アリスの両手が、かすかなモーター音とともに持ち上がり、ジェルベッドに乗る和人の右手を包んだ。
骨ばった指が、わずかにぴくりと動いた。
伏せられた睫毛が震える。
唇が小さく開き――閉じ――また開き――。
瞼が、ゆっくり、ゆっくりと持ち上がった。やや絞られた照明を受けて、黒い瞳が透き通った光を放った。
その眼に、まだ意志の動きは見えない。早く、はやく何か言ってくれ、と比嘉は念じた。
より大きく開かれた唇から、掠れた呼吸音が小さく漏れる。やがてそれは、声帯の震動を乗せて、声となる。
「…………ィ…………ディル…………」
比嘉の背筋に、氷よりも冷たいものが走った。その響きは、崩壊するフラクトライト・コピーが放つ奇怪な叫びと、とても、とてもよく似て……
いや。
「……ビー……オー……ライ」
続いたのは、異なる音だった。
It will be alright。和人は、そう言ったのだ。間違いなく。
しんと静まり返った室内に、もうひとつの声が穏やかに流れた。
「Sure」
応えたのは、隣のSTLで同じく瞼をうっすらと開いた明日奈だった。
二人は一瞬瞳を見交わし、かすかに頷きあい。
そして、顔を反対方向にむけた和人が、自分の手を握るアリスの顔を見て、微笑んだ。
「……やあ、アリス。久しぶりだね」
「…………キリト。……アスナ」
アリスが囁き声で名を呼び、同じく微笑み、激しく瞬きを繰り返した。まるで、涙を流す機能がないことを悔やむように。
和人は、そんなアリスに、慈しむような視線を向けながら続けて言った。
「アリス。君の妹、シルカは、ディープ・フリーズ状態で君の帰りを待つ道を選んだ。カセドラル八十階、あの丘の上で、いまも眠りについている」
「…………!!」
アリスの身体が激しく震え、金髪が揺れた。
ゆっくりとベッドに上体を沈み込ませたアリスの肩に手を沿え――。
和人は、はじめて菊岡と、そして比嘉の眼をまっすぐに見た。
その瞬間、比嘉の精神の奥底に、不思議な感覚が弾けた。感動、ではない。興味でもない。これは……畏怖?
闇のように黒い桐ヶ谷和人の瞳の奥にある何かが、比嘉を慄かせた。
二百年。
無限に等しい年月を経た魂。
凍りつく比嘉に向かって、和人が言葉を発した。
「さあ、早く、俺とアスナの記憶をデリートしてくれ。我々の役目は、もう終わった」
ふ、と目が醒めた。
いつものように、僅かな戸惑いをまず感じる。ここは何処(どこ)で、いまは何時(いつ)なのだろう、という。
しかし、その違和感も、日ごと日ごとに薄れていく。それはつまり、とどめようもなく過去が過去となっていきつつある、ということなのだろう。悲しく、寂しいことだが。
壁の時計をちらりと確認する。
午後四時。昼食後のリハビリを終え、シャワーを浴びたあと、一時間半ほど眠ってしまったらしい。
病室には、白いカーテン越しに差し込む夏の残照が、くっきりとしたコントラストを作り出している。耳を澄ませば、どこか遠くで鳴くセミの声が、かすかに届いてくる。それに、様々な機械と無数の人間が作り出す、都会の喧騒も。
俺は、身体を起こすと、ベッドから降りた。
さして広くもない個室を横切り、南向きの窓まで移動する。両手で、いっぱいにカーテンを開く。
強烈な西日に眼を細めながら、眼下に広がる巨大な都市を無心に眺める。膨大なリソースを消費し、複雑かつ激しく活動し続けるリアルワールド。俺の属する世界。
還ってきたのだ――という感慨と、ほとんど同じ質量で、還りたいとも思ってしまう。いつか、この哀切な望郷の念も消えてなくなるときが来るのだろうか。
立ち尽くす俺の耳に、穏やかなチャイムの音が触れた。振り向きながら、どうぞ、と応えると、ドアがスライドして来訪者の姿が現れた。
長い栗色の髪を、二本に細く束ねている。白いカットソーと、夏らしいアイスブルーのフレアスカート。ミュールも白。
陽光の粒子が残留しているようなその出で立ちに、思わず眼をしばたく。
ほんの三日前、一足先に退院したアスナは、右手に持った小さな花束を振りながらにこっと笑った。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
「いや、俺もたった今起きたとこ」
笑みを返し、病室に歩み入ってきたアスナを軽く抱擁する。
すると、アスナの左手が俺の腕や背中をさささっと撫でた。
「うーん、まだ標準キリトくんの九割くらいかなー。ちゃんと食べてる?」
「食べてる、食べまくってる。仕方ないよ、二ヶ月も寝たっきりだったんだからさ」
苦笑とともに身体を離し、俺は肩をすくめる。
「それより、俺も退院の日が決まったよ。明々後日(しあさって)だって」
「ほんと!?」
ぱっ、と顔を輝かせ、アスナは既に満杯の花瓶に歩み寄りながら続けた。
「じゃあ、どーんと快気祝いしないとねー。まずALOで、そのあとこっちでも」
手早く花瓶の水を換え、萎れた花を除いてから、携えてきたペールパープルの薔薇二輪を加えてサイドボードに戻す。
俺はしばし、その青に近づこうと頑張っているかのような色の花たちを見つめてから、そうだな、と相づちを打った。
ベッドに腰を下ろすと、アスナも隣にきて、ちょこんと座る。
再び訪れる郷愁。しかし、さっきのように胸を刺す鋭い痛みは無い。
身体をもたれさせてくるアスナの肩を抱き、俺は意識を記憶の彼方に彷徨わせる。
あの日――。
限界加速フェーズに突入したアンダーワールドに取り残された俺とアスナは、花咲き乱れる"世界の果ての祭壇"を飛び立ち、漆黒の砂漠や、赤い奇岩の群れを超えて、まず古代遺跡戦場に留まっていた人界守備軍と合流した。
その地に、すでにリーファやシノン、クライン、リズたち現実世界からの援軍の姿は無かった。再加速と同時に自動的にログアウトしたのだ。
俺は、泣きじゃくるティーゼとロニエをいたわってから、齢若い整合騎士レンリを紹介された。彼とともに部隊を再編し、北への路をたどり、"東の大門"まで帰還した。
その地に残っていた騎士団副長ファナティオ、騎士デュソルバートと緊張感のある再会を果たした俺は、初対面となる整合騎士シェータから、暗黒界軍の臨時総大将イシュカーンなる人物のメッセージを受け取った。
暗黒界軍は一度はるか東の帝城まで引き上げ、戦に生き残った将軍たちで体制を再編し、一ヵ月後に人界軍との和議の席を持ちたいということだった。自ら大使の役を買って出たシェータが、灰色の竜に乗って東へ飛び去るのを見送ったあと、人界守備軍の全部隊は央都セントリアへの帰途についた。
道々の街や村の住民たちは、なぜかもう戦が終わり、平和が訪れたことを知っており、守備軍は大変な歓声に送られることとなった。
セントリアに到着してからは、それはもう目の回るような日々だった。
ベルクーリ亡きあとの最高位騎士であるファナティオを手伝って、神聖教会の立て直しやら戦争で犠牲となった衛士の家族への補償などに忙殺され、あっという間に一ヶ月が過ぎ――。
再び東の大門を挟んで開催された、人界・暗黒界の和議交渉の場で、俺とアスナは向こうの総大将イシュカーンと邂逅した。
俺より若い、燃えるような深紅の髪の戦士は、その場で俺に言ったのだ。
――おめぇが、皇帝ベクタを斬ったつう、"緑の剣士リーファ"の兄貴か。
――疑うわけじゃねぇが、一発試させろ。
そして俺とイシュカーンは、なぜか和平会議の席で互いの頬を思い切りどつき合い……彼は、何かに納得したように頷くと、俺に告げた。
……確かにおめぇは、皇帝より、そして俺より強ぇ。だから、癪だが、認めるぜ……おめぇが、最初の…………だと…………
そのあたりで、俺の記憶はぷっつりと途切れる。
次のシーンではもう、STLの中で目を開けた俺に、ラースの比嘉さんが『記憶の消去、無事に完了したッスよ』と声を掛けている。
博士によれば、俺とアスナは、あの和議が成立した日から、二百年近くもアンダーワールドで活動を続けたはずだという。しかし、そんな膨大すぎる年月のあいだに、いったい何をしていたのかはまったく思い出せない。恐ろしいことに、ラース六本木分室で覚醒後、俺が比嘉タケル・菊岡誠二郎両名と交わしたという会話すら完全に忘れているのだ。
それは、アスナも同様らしい。
しかし彼女は、いつものほにゃっとした笑顔で言ったものだ。
――キリトくんのことだから、どーせ色んなもめ事に首つっこんだり、あちこちの女の子から逃げ回ったりしてたに決まってるよー。
そう言われると無理に思い出そうという気にはならないが、しかしやはり哀切な寂寥感だけは消すことができない。
なぜなら、いまこの瞬間も等倍比率で稼動しつづけているはずのアンダーワールドにはおそらくもう、ファナティオやレンリたち整合騎士、イシュカーンたち暗黒候、それにロニエとティーゼは、生きていないのだ……。
不意に、俺の心を読んだように、アスナが呟いた。
「だいじょうぶ。記憶は消えても、思い出は消えないよ」
そうさ、キリト。泣くなよ……ステイ・クール。
耳の奥で、懐かしい声がかすかにこだまする。
そうだ。思い出は、脳の記憶野だけに保存されるものではない。全身の細胞に広がるフラクトライト・ネットワークに、しっかり刻み込まれているのだ。
俺は、滲みかけた涙をぎゅっと振り落とし、アスナの髪を撫でながら応えた。
「ああ。きっと……いつかまた、会えるさ」
穏やかな静謐に満ちた時間が、数分続いた。
白い壁に落ちる西日が、徐々にその色あいを濃くしていく。時折、ねぐらに帰る鳥たちの影が、さっと横切る。
沈黙をやぶったのは、再びのチャイムだった。
俺はわずかに首をかしげた。この時間に面会の予定は入れていないはずだ。やむなくアスナの肩から手を離し、声を出す。
「どうぞ?」
しゅっ、とドアがスライドすると同時に、懐かしくも小憎らしいあの声が響いた。
「やあやあ、ようやく退院だってね! こりゃパーっとやらないとね。……っと、おや、こりゃあお邪魔しちゃったかな?」
俺はため息混じりに言葉を返した。
「……なんでさっき先生に聞かされたばっかりの退院予定をアンタが知ってるのかは追及しないでおくよ、菊岡さん」
元総務省仮想課職員にして元二等陸佐、偽装企業ラースの潜伏指揮官・菊岡誠二郎は、先日の悪趣味なナリとは打ってかわった出で立ちで、するりと病室に入ってきた。
真夏だというのに高級そうなスーツの上下をびしっと着込み、ネクタイまできっちり締めている。短い髪をていねいに撫でつけ、フレームレスの細い眼鏡をかけた顔には汗の玉ひとつ浮いていない。
どの方向から見ても、外資系企業のエリートビジネスマン然としたその姿を、あのニカニカ笑いと右手に下げた安っぽい紙袋が裏切っていた。
菊岡は、その袋をひょいと持ち上げながら言った。
「これ、差し入れ。キリト君には体力つけてもらわないとだからねぇー、何にしようか随分迷ったんだけど、凜子博士が頼むから市販品にしてくれって怖い顔で言うからさ。でも、元気回復には発酵食品、これだけは譲れないからね、色々詰め合わせてきたよ。まず琵琶湖のフナズシね、今はニゴロブナが獲れないから買おうったってなかなか買えないんだぜ。それと沖縄のトウフヨウ、これで泡盛の古酒やると最高だよ。そして究めつけがこのチーズ、と言ってもただのチーズじゃない、フランス直輸入の泣く子も黙るウォッシュタイプの逸品、かのエポワスだよ! 毎日酒で洗いながら長期熟成させるうちに、表面でステキな微生物ががんがん繁殖して、ちょっとのけぞるほどの芳しい香りを……」
「冷蔵庫」
俺は菊岡がうっとりした顔でまくし立てる長広舌をばっさり切り、病室の隅を指差した。
「へ? なんだい?」
「差し入れ、ありがとう。冷蔵庫、そこ」
「ええー、開けようよ」
「この部屋の窓、嵌め殺しなんだよ! そんなもの開けたらどうなると思ってんだ」
すでに紙袋からはそこはかとない芳香が漂い、アスナが口元を覆いながらじりじり後退していく。菊岡は心底残念そうな顔で、差し入れを冷蔵庫に仕舞うと、来客用に椅子に腰を下ろした。
すぐに眼鏡の奥にいつもの笑みを浮かべ、組んだ膝の上で両手の指先を合わせる。
「いや、しかし本当によかった。考えてみるとキリト君は、先々月に"死銃事件"の共犯者に襲われて負傷して以来、肉体的にはずっと昏睡状態だったんだからねえ。たった十日のリハビリで、そこまで元気になるとは流石だねえ」
「あー……まあ……お世話になりました、と言うべきなんだろうな……」
俺は、窓に背中をもたれさせ、腕組みしながら唸った。
襲撃事件で心停止に陥り、脳機能を損なった俺が回復したのは、STLによるフラクトライト賦活治療あってのことだ。しかしこの男は、そのために俺を入院先の病院から救急車を偽装してまで非合法に拉致し、ヘリではるばる南洋のオーシャン・タートルまで空輸してしまったのだ。
正規の手続きを取れなかった事情は分かる。俺のSTL治療は一刻を争っただろうし、ラースとSTLは存在を明らかにできない極秘実験のための組織・設備だ。むしろ、俺を助けるためにそこまで危ない手に打って出た菊岡には全面的に感謝していい。
――のだが。
「……なぁ、菊岡さん。俺が二度目にアンダーワールドにダイブしたとき、記憶ブロックが働かずに、今の俺のまま森で目覚めたのは、本当に予定外の事故だったのか?」
「勿論だ」
菊岡は、笑みを薄めて頷いた。
「あの時点で、現実世界の君をそのままアンダーワールドに投下する意味はまるで無かった。シミュレーションが歪曲してしまうからね。まぁ実際には、歪曲というよりも、すでに汚染されていた世界を君が軌道修正してしまったわけだが……」
「まさか、ラースにあの須郷の部下が潜り込んでたとはなぁ」
ちらりと、隣に立つアスナを見やる。
先ほどとは別種の嫌悪を滲ませ、むき出しの両腕を掌で覆いながら、アスナは呟いた。
「あのナメクジ男のいる部屋の隣で、何時間も完全ダイブしてたと思うとぞっとするよー。その上、比嘉さんを撃つなんて……ほんとは、ちゃんと捕まって、裁かれてほしかったけど……」
「だが、あの死にかたは、むしろ幸運だったのかもしれんよ」
菊岡が静かに言葉を引きついだ。
「もしあの男……柳井が首尾よく襲撃者たちと合流し、アメリカに脱出していたとしても、クライアントだったグロージェンMEが口約束を守ったとは思えない。むしろ、STLと人工フラクトライトに関する知識を手段を選ばず吐き出させたあと、あっさり処分しただろうね。アメリカ軍事企業のダークサイドは、一個人が渡り合えるような相手ではないのだ」
「アンタが、自分の死まで演出したのもそれが理由か?」
「まぁ、ね」
己の言葉を反証するがごとく、単身で巨大な敵に挑み続けている男は、にかっと笑って両手を広げた。
その飄々とした仕草に、アスナが気遣わしそうな声をかける。
「でも……大丈夫なんですか、自衛官の身分まで捨てちゃって? ご家族とか……どうなさってるんです?」
言われてみれば、俺は菊岡の私生活についてはまるで知らない。自宅の場所、家族の有無……それどころか、この謎めいた男が自衛官だと知ったのもごく最近のことなのだ。
菊岡は、すぐには答えなかった。
めずらしく、迷うように視線を窓の外の夕景に彷徨わせている。
数秒後、錆びのある深い声が、静かに告げた。
「心配してくれて有難う。大丈夫、私に親兄弟はいない。ほんの赤ん坊だった頃に、旅客機の墜落事故で皆死んだ」
俺とアスナは、返す言葉もなく絶句した。
菊岡が赤ん坊だった頃、というと、1980年代だろうか。確かに、大きな航空機事故があった記憶がある。墜落原因は、公式に断定されたあとにも異論が絶えない。その中にはたしか――戦闘機によるミサイル誤射、というものもあったはずだ。
静寂のなか、菊岡が不意に顔をあげ、いつもの笑みとともに手を振った。
「や、すまん、こんな話をされても反応できないよね。気にしないでくれ、というか、そんな心配そうな顔をしなくてもいいよ。何と言えばいいのか……うむ、そう、これからも、僕の戦いはまだまだ続く! ……んだからさ」
この男一流の韜晦芸に、アスナがかすかな笑みを蘇らせる。
「……これから、どうなさるんですか? ラースの公式責任者は、凜子博士に委任なさったし、あまり六本木分室に顔も出せないでしょう?」
「言ったろう? 僕にはまだまだ、すべきことがある。当面は……オーシャンタートル、いやアンダーワールドの保全に、全力を傾けねば」
俺は、もっとも尋ねたかった話題が突然出て、思わず身を乗り出した。
「そう、それだよ。アンダーワールドは今後、どうなるんだ……?」
「……情勢は、とうてい楽観はできない」
菊岡は、長い脚を組み替え、僅かに瞑目した。
「オーシャンタートルは現在、襲撃当時の海域にそのまま停泊・封鎖されている。船内には、わずかに原子炉監視用のスタッフが数人残るのみだ。海域は厳重に警備され、誰も近づけない……と言えば聞こえがいいが、要は保留中なのだ。国も、決断しかねているんだよ」
「保留……?」
「本音を言えば、政府はすぐにでもラース、いや海洋資源探査研究機構を解体し、人工フラクトライト関連技術を直接管理下に置きたいだろう。何せ、大量生産すれば、超低コストの労働力がいくらでも生み出せるんだからね。中国の大規模工場でも太刀打ちできないほどの。ただ、それをすれば、あの襲撃占拠事件の真相までも明らかになってしまう。事件の黒幕が米軍事企業で、しかも裏金を貰ってイージス艦を凍結させていたのが現役の防衛事務次官だ、という大スキャンダルがね。金は、一部の与党代議士にも流れていた。そいつらは、国内の大手兵器メーカーとも癒着している。これらが丸ごと暴露されれば、政権の屋台骨が揺らぐ」
威勢のいい言葉のわりには、菊岡の表情は憂慮に満ちている。
「揺らぐ……だけか?」
「そう、そこだ。揺らぐが、ひっくり返るまでは行かないだろう……。政府与党はいずれ、事務次官と議員数名を切り捨てる決断を下すはずだ。同時にラースは解体され、関連技術はすべて財閥系の大企業に持っていかれる。アリスは接収、オーシャンタートルのライトキューブクラスターも初期化は避けられない……」
「そ……そんな!」
アスナが鋭く叫んだ。ヘイゼルの瞳に、ちかっと怒りの火花が瞬く。
俺は、彼女の腕に指先を触れさせ、菊岡にその先を促した。
「その事態を避けるための策も、もうあんたの頭の中にはあるんだろう?」
「策……と言うよりも、希望、かな」
菊岡の口元に、珍しく素直な笑みが滲んだ。
「望みは、残された時間のあいだに、我々に有利な世論が形成される……という一点にしかない。つまり、人工フラクトライトに人権を認める方向のね。そのためには、現実世界の人々に、少しでも多く、長く、人工フラクトライトたちと交流して貰わねばならない。ザ・シード連結体の存在意義は、まさにそこにあったのだろう」
「……そう……だな」
「しかし、アンダーワールド人がリアルワールドに接続するための恒久経路の存在が大前提だ。現在、オーシャンタートルが使用していた衛星回線は、国によって切断されてしまっている。僕はこれから、回線の復旧を目指して動く。記者会見では、まずは先手を打てたからね。いましばらくの時間はあるはずだ」
「回線か……」
俺は、ちらりと窓の外に広がるオレンジ色の空を見上げた。
あの夕焼けの向こうでは、無数の通信衛星がそれぞれの軌道を飛翔している。しかし、アンダーワールドと交信できるほどの大容量回線を備えたものとなると、数はそうとう限られるはずだ。菊岡のプランが、とてつもなく困難なものであることは、考えるまでもなくわかる。
しかし、もう事ここに至ってしまえば、一介の高校生に過ぎない俺にできることはない。信じて、託すしかないのだ。
俺は視線を戻すと、一歩進み出て、頭を下げた。
「菊岡さん……頼む。アンダーワールドを、守ってくれ」
「言われるまでもないよ」
菊岡も立ち上がり、にっと笑った。
「僕にとっても、アンダーワールドは今や、人生を賭けた夢なのだ」
素敵な差し入れの紙袋だけを残し、菊岡誠二郎は来たときと同じく一陣の風のように立ち去った。
アスナが、ふう、と短く息をついて言った。
「態度も言葉も、すごーく立派で頼もしいんだけど……なぜか裏があるような気がしちゃうとこが、菊岡さんの人徳よね……」
「当然あるだろう、何枚重ねで」
俺は短く笑い、ベッドに腰を下ろした。
「ああ言ってるけど、菊岡さんはまだ諦めてないよ。自衛隊に、人工フラクトライト搭載型国産戦闘機を配備することを」
「え……ええ!?」
「勿論、無理やりAIとして組み込むようなことはもうしないだろうさ。だけど、アンダーワールド人に、自発的に就職してもらったらどうだ? 整合騎士や暗黒騎士は、そもそも生まれついての戦士なわけだし」
「あ……そっか……うーん」
何やら考え込むアスナと同時に、俺も推測の先をたどる。
菊岡の出自と、動機。その先にあるものは、もしかしたら、俺が考えていたよりもはるかに途轍もないものなのではないか?
ことによると、日本国内の、米軍基地の全廃……というような……。
あれこれ思考を彷徨わせていると、不意にアスナが叫んだ。
「あ、いっけない! もうこんな時間だよ!」
「ん? 面会時間は、まだ……」
「そうじゃなくて、今日これからだよ。ALOの、全種族会議!」
「あ……そうだった」
俺もぱたんと指先を打ち合わせる。
先月の、オーシャンタートル襲撃事件において。
敵が繰り出した、国外からのVRMMOプレイヤー大量投入という策に対抗するために、日本国内のALO他のプレイヤーたち約三千人が、キャラクターコンバートによって決死の救援を行った。結果彼らは、わずか数百人を残してほぼ全滅し、精神的にも深いダメージを受けたのだ。
今日はその、言わば義勇軍に参加した人たちへ事実報告を行うための会議が大々的に開催されるのである。俺とアスナは、当事者中の当事者として当然参加せねばならない。
「うーん、家まで帰ってる時間無いかなー」
どこかわざとらしく呟くと、アスナは持参したトートバッグから、ずるっとアミュスフィア一式を取り出した。
「しょーがない、わたしもここでダイブしよっと」
「…………」
俺はぱちぱち瞬きし、思わずつっこむ。
「……あのーアスナさん、どう見ても最初っからそのつもりで……」
「ちがうよ、念のためだもん。細かいこと気にしない!」
一瞬唇を尖らせてから、にっこり笑い、突然俺にかぶさるようにベッドに倒れこんできた。
看護師さんが検温にでも来たらえらいこっちゃ、と思いつつ、俺も細い腰に腕を回し、ぎゅっと引き寄せた。
しばし、静寂のなかに互いの息遣いだけが響く。
アンダーワールドに取り残された俺とアスナが、フラクトライトの限界を遥か超える二百年という時間を、どのような手段で乗り越えたのかを知るすべはもう無い。
あるいは、アドミニストレータのように長い時間を眠って過ごしたのかもしれないし、内部からのSTL操作によって己の記憶を整理し続けたのかもしれない。しかし、これだけは断言できる。アスナが傍にいてくれたからこそ、俺は俺のままこの世界に戻ってこられたのだ。
触れあう肌を通して、アスナの声が聞こえる気がした。
――どんな世界に行っても。どれだけ時間が経っても。
――いつでも、一緒だよ……。
「……ああ、そうだな」
俺は肉声で呟き、微笑むアスナの髪を撫でてから、アミュスフィアをそっと被せた。
ハーネスをロックしてやってから、自分も同じように装着する。
瞳を見交わし、小さく頷き合って、俺たちは同時にコマンドを唱えた。
「リンク・スタート」
「パパー!!」
ログインした途端、勢いよく飛びついてきた小さな姿を、両手で受け止める。
高々と持ち上げてから胸に抱くと、ネコのように喉声を篭もらせながら、頬を摺り寄せてくる。
ユイとは、アミュスフィアの使用が許可された一週間前から、毎日会っている。なのに、甘えん坊の度合いは増すいっぽうな気がする。
しかしもちろん、叱るつもりなどまったく無い。何と言っても、ユイは失踪した俺の居場所を追跡したり、オーシャンタートルを襲撃した連中が他国のVRMMOプレイヤーを利用することを予測して対抗手段を講じたりと、獅子奮迅の大活躍だったのだ。
ひとしきり甘えて満足したのか、白いワンピース姿が光の粒に溶けて消滅し、かわりに掌サイズのピクシーが出現した。透明な翅を震わせて舞い上がり、俺の左肩の定位置にちょこんと腰掛ける。
俺は、改めて、"我が家"――ALO内新アインクラッド18層の、森の家を見回した。
こちらも、毎晩のように訪れているのに、こみ上げてくる懐かしさは薄れる気配もない。
あるいはそれは、アンダーワールドでアリスとともに半年を過ごした、ルーリッド近郊の小屋とどこか似ているせいかもしれない。当時、俺はほぼ活動停止中だっため記憶は不明瞭だが、しかし穏やかな日々の手触りだけは、いまも鮮やかに染み付いたままだ。
あの頃、毎日のように食べ物を持ってきてくれたアリスの妹シルカは、アリスと再び出会うために己を完全に凍結する選択をしたという。記憶を消去する前の俺は、それだけをアリスに伝えたそうだ。
以来アリスは、言葉には出さないが、再びアンダーワールドに還れる日を心待ちにしている。俺も、早くその望みを叶えてやりたいと思う。だが、今はまだ、遥か南洋のオーシャンタートルにまで繋がる回線そのものが存在しない。
俺は、かすかな吐息に物思いを紛らせ、ユイを肩に乗せたまま振り向いた。
まるで、俺の感慨をすべてお見通しというふうに微笑む水色の髪のアスナと、手を繋いで家を出る。
アルヴヘイムは、夜闇が薄れつつある時刻だった。外周から差し込む曙光を、広げた翅にいっぱいに受け、ふわりと飛び立つ。
世界樹の根元、大ドームの周囲には、すでに多くのプレイヤー達が集結していた。
俺は、その一角にいつもの顔ぶれを見出し、勢いよく降下した。
「遅っせえぞ、キリト!」
着地と同時に繰り出されてくるクラインの拳に、軽く自分の拳を打ちつける。
相変わらず悪趣味なバンダナの下にニヤニヤ笑いを浮かべ、カタナ使いはからかうような口調で続けた。
「ここじゃあ瞬間移動はできねーんだから、もうちっと余裕持って来いよな、勇者サマよう」
「うっせ。あれは瞬間移動じゃなくて、光速飛行なんだよ」
「一緒だよ一緒!!」
盛大に背中を叩かれる。
その隣で、腕組みをして立つエギルも、巨大なげんこつを伸ばしてきた。ごつんと挨拶を交わすと、こちらも髭面をにんまりと崩しながら追い討ちをかける。
「あんな超性能のアカウントに馴れちまったら、こっちじゃ大分弱まってるんじゃないのか? 会議の後、軽くモンでやってもいいぞ」
「うぐ……」
思わずぎくっとなる。今ここで戦闘したら、心意攻撃や防御ができないことを忘れて、気合だけで剣を弾こうとしてしまいそうだ。
「……こ、こっちこそアンダーワールド仕込みのワザを見せてやるから期待しとけよ」
とりあえず強がっておいてから横を向くと、そこには黄緑色のポニーテールを揺らすリーファと、肩に長大な弓をひっかけたシノンの笑顔があった。順番に、掌を打ち合わせて挨拶する。
二人とは、もちろん覚醒直後から何度も対面している。
リーファ……直葉からは、オークの族長リルピリンを助け、ともに戦った顛末を聞かされた。「がんばったな」と頭を撫でると、顔をくしゃくしゃにして泣いたその姿からは、ダークテリトリーの将兵たちに強烈な印象をのこす"緑の剣士"の鬼神めいた闘いぶりはなかなかイメージしにくい。しかし、同時に俺は深く納得もしていた。何と言っても、直葉は俺がドロップアウトした剣の道をわき目も振らず突進し続ける、真の剣士なのだ。
オークの一族は、講和会議の場で、彼らを初めて人間と呼んでくれた緑の剣士の再臨を、未来永劫待ち続けると宣言していた。その意志は、二百年が経過したのちにも、まったく変質することなく伝えられているに違いない。
シノンは、ガブリエル・ミラーとの単独戦闘の模様を淡々と俺に語り、あの男こそがGGOの個人戦でシノンを倒したサトライザ当人だったことを明かした。ガブリエルの心意攻撃によって麻痺させられ、危うく意識を吸収されかかったところを、"お守り"が護ってくれたのだという。
それが何なのかはどうしても教えてくれなかったが、俺もシノンにガブリエルとの戦いの帰趨と、そして現実世界であの男を襲った末路を伝えた。
襲撃者たちが撤退したのち、第一STL室に、ガブリエルとそしてもう一人の敵たるラフィン・コフィン頭首PoHの姿はなかったが、STLのログからある程度のことは分かっている。まずガブリエル・ミラーは、俺との戦闘の直後、フラクトライトの大部分がまるで過大な情報に押し流されるように脳から喪失。直後に心臓も停止し、死亡したことは確実だ。
PoHのほうは、もうすこし複雑らしい。奴は、限界加速フェーズ開始後も、内部時間でおおよそ十年間は精神活動を保持していた。その後、徐々にフラクトライト活性は低下し、三十年経過の時点で知的活動はほぼ消失したようだ。
これは恐ろしい想像なのだが、俺はPoHと戦ったとき、奴が死亡ログアウト・再ログインするのを防ぐために肉体をただの樹木へと組成転換し、そのまま放置した。つまり奴は、皮膚感覚以外の入力をすべて断たれた状態で、暗闇のなか数十年を過ごしたことになる。フラクトライトが崩壊するのも当然だ。
俺の述懐を聞いたシノンは、まっすぐ俺を見つめ、後悔してるの? とだけ訊いた。
答えは、否だ。俺があの戦いを悔いることは、俺のために異世界に馳せ参じ、巨大な苦痛に耐え抜いたシノンやリーファ、他多くの人々のためにも決して許されない。
二人と深く見交わした視線を外し、その隣に並んで断つリズベットとシリカとも順に握手する。
「あの時、援軍の皆を説得してくれたのはリズなんだって? 演説、俺も聞きたかったなぁ」
言うと、ピンク色の髪に手をやり、リズベットはイヤハハハと笑った。
「演説なんてそんな大層なモンじゃないのよ。あのときはもう、夢中で……」
「すっごかったんですよぉー、大熱弁でしたよ!」
割り込んだシリカの三角耳を、リズベットがぎゅーと引っ張る。
「シリカも、ありがとな」
笑いながらかけた言葉に、小柄なビーストテイマーはとがった八重歯を覗かせてはにかんだ。
「えーっと、じゃあ、ご褒美ください」
言うや否や、ぎゅっと抱きついてくる。右肩に乗った水色の小竜ピナが、高く囀りながら羽ばたき、俺の頭に飛び移る。
「あっコラ! 何してんのよ!」
リズベットが、今度はシリカの尻尾を思い切り引っ張った。ふぎょ! という奇妙な悲鳴に、周囲からどっと笑いが巻き起こる。
見渡すと、いつのまにか周りには幾重もの人垣があった。
サクヤ以下、シルフのプレイヤーたち。アリシャ・ルーの背後にはケットシーたち。ユージーン率いるサラマンダー。それに、シーエンやジュンたちスリーピング・ナイツの姿も見える。
――帰ってきたのだ。
俺はこの瞬間、六本木分室のSTLで目覚めて以来もっとも強く、そう感じた。
無論、これで何もかもハッピーエンドというわけではまったくない。アンダーワールドの行く末は甚だ不透明だし、あの大規模戦闘で死亡・喪失に至ったアカウントの救済や、悪化してしまった隣国のVRMMOプレイヤーたちとの関係改善策など、解決せねばならない問題は山積している。
シリカに対抗して右腕にぶらさがるリズベットに、俺は小声で訊いた。
「……アカウント復旧可否の返事、きたか?」
「あ……うん」
いつも元気な顔が、わずかに曇る。
「ラースの、比嘉さんだっけ? あの人が調べてくれた範囲では、アンダーワールドのサーバーにはまだデータが残ってるみたい。でも、そのアカウントでログインしてこっちに再コンバートするには、回線が復旧するのを待たなきゃならない、って……」
「そっか……。でも、キャラが残ってるのは明るい材料だな。あと……お隣さんたちのほうは……?」
「難しい。すごく」
表情が、さらに沈んだ。
「ひどい戦闘だったからね……。でも……あの憎しみの遠因を作ったのは、こっちにも責任があるんじゃないかって意見もあるんだ。ザ・シード・ネクサスを日本国内だけに留めて、向こうからの接続を一切遮断してたからね。だから今度、対話再開のきっかけにするために、1ワールド開放しようって話が持ち上がってるの。今日は、主にそれについて議論されると思うよ」
かすかな微笑で言葉を切ったリズベットに、俺も小さく頷きかけた。
「うん……。壁は、関係を悪化はさせてもその逆は無いからな……」
脳裏には、もちろん、アンダーワールドの人界と暗黒界を数百年隔てつづけた果ての山脈の威容が浮かんでいた。
空に向かってそびえる世界樹を一瞬仰ぎ見てから、根元に視線を戻す。
内部の大ドームへと繋がるアーチには、すでに歩み入っていく多くのプレイヤー達の姿がある。
「さ、俺たちも行こう」
周囲の仲間たちを促し、足を踏み出しかけた時――。
突然、音声コールの着信を告げるアラームが脳裏に鳴り響いた。
「あ、デンワだ。ちょっと先行っててくれ」
皆をうながし、その場でメニューを呼び出してコールを受ける。発信元は、見慣れぬIDだった。
「もしもし?」
しばし、かすかなノイズだけが続いた。
やがて聞こえてきたのは、懐かしいあの声だった。
『……キリト。私です。アリスです』
「アリス! やあ……久しぶり。たしか、今日の会議に君も来てくれるって聞いてたけど……」
『それが……すみません。こちらで出席しているパーティーが、まだ終わりそうになくて……。皆さんに、ごめんなさいと伝えておいてください』
「……そっか」
思わず、俺も嘆息する。
世界初の真正AIたるアリスは、その存在を現実世界人に印象づけるべく、官公庁・企業主催のレセプションやらパーティーに連日出席するという多忙な日々を送っている。神代博士も謝っていたし、本人もやむを得ぬことと理解しているようだが、しかしまるで見世物のような扱いが楽しいわけはあるまい。
「分かった、みんなにはちゃんと言っておくよ。アリスも、あんまり無理するなよな。嫌なことは嫌って言えよ」
『……私は、騎士ですから。務めは何であれ果たすのみです』
毅然としたその物言いにも、かつての張りがないように思えてしまうのは気のせいか。
『それでは……また、後日』
「ああ。じゃあ、また、な」
俺は言い、通信を切ろうと指を動かした。
ボタンに触れる寸前――。
『キリト……。私……萎れてしまいそうです』
かすかなささやき声が響き、向こうから回線が切断された。