ついに開始された"限界加速フェーズ"の影響によるものなのか、それとも十数万の人々の祈りがもたらした奇跡なのかは定かではない。
どのような理由であるにせよ、透明感のある蒼穹は泣きたいほどに美しかった。俺は、郷愁と感傷が強く揺り起こされるのを感じながら、その青を胸いっぱいに吸い込んだ。
まぶたを閉じ、長く息を吐き、そっと身体の向きを変える。
開いた眼にうつったのは、下方から音も無く崩壊していく白亜の階段だった。
翼を広げ、溶け崩れる階段を追うように、ゆっくり降下する。目指すのは、空に浮かぶ小さな島。
円形の浮島には、溢れんばかりに色とりどりの花が咲き乱れていた。その花畑を貫いて白い石畳が伸び、中央の神殿めいた構造物へと続いている。
俺は、石畳の中ほどに着地し、翼をもとのコートの裾へと戻しながら周囲を見回した。
甘く、爽やかな蜜の香りが鼻をくすぐる。瑠璃色の小さな蝶が何匹もひらひらと舞い、幾つか生えている小さな樹のこずえでは小鳥が囀る。抜けるような青空と、穏やかな陽光のもとで、その光景はとてつもなく美しかった。まるで一幅の名画のようだった。
そして、無人だった。
小路の上にも、その先の、円柱が立ち並ぶ神殿にも、人の姿は無かった。
「……よかった。間に合ったんだな」
ぽつりと呟く。
ガブリエル・ミラーが光の螺旋に飲み込まれて消滅した直後、STRAによる加速が再開されたのを俺は感覚で知った。アスナとアリスが、無事にコンソールから脱出できたかどうかは微妙なタイミングだった。しかし、二人はあの長大な階段を時間内に駆け抜け、辿り着いたのだ。
アリス――この世界が生まれた理由そのものたるひとつの魂、限界突破フラクトライトたるあの少女は、ついに現実世界へと旅立った。
これからも、彼女には多くの苦難が待っているだろう。まったく理を異にする世界、不自由な機械の身体、そして真正人工知能を軍事利用しようとする企図とも彼女は戦わねばならない。
しかし、アリスならやり遂げるだろう。彼女は、最強の騎士なのだから。
「……がんばれよ…………」
俺は、空を振り仰ぎ、もう二度と会えない黄金の整合騎士のために祈った。
そう――。
限界加速フェーズが開始された今、俺が内部から自発的にログアウトする手段は完全に失われた。世界に三つあるシステムコンソールはすべて凍結され、また天命を全損しても、無感覚の暗闇のなかでフェーズ終了を待たねばならない。
いま、外部では菊岡たちラーススタッフが、俺のSTLを停止させるために奮闘しているはずだが、それも最短であと二十分はかかるということだった。
そのあいだに、この世界では二百年もの月日が経過する。
魂の寿命を使い果たし意識消失へと至るのか、それとも五百万倍という加速に長時間耐えられずもっと早い段階で消えるのかはわからない。
唯一確かなのは、俺はもう現実世界に戻ることはない、ということだ。
両親や、直葉。シノン。クライン、エギル、リズ、シリカ。
学校の友人たちや、ALOのフレンドプレイヤーたち。
アリス。
そして、アスナ。
愛する人たちに、もう決して会うことはできない。
白い敷石のうえに、俺はゆっくり膝を突いた。
崩れる上体を、両手で支えた。
視界がぼやけ、きらきらと光が揺れて、磨かれた大理石に落ちて弾けた。いくつも。何度も。
今だけは――たぶん、少しだけ泣く権利はあるだろう。
喪われ、二度と還らない、大切なものたちのために、俺は泣いた。食いしばった歯のあいだから嗚咽を漏らし、涙を次々と雫に変えた。
ぽた、ぽたぽた。
水滴が石を叩く音だけが、耳に届く。
ぽた。
ぽた。
――こつ。
こつ、こつ。
不意に、確かな密度を持つ音が、重なって響いた。
こつ、こつ。近づいてくる。かすかな震動が指先に伝わる。
空気が揺れる。濃密な花々の芳香に、ほのかに新しい香りがたなびく。
こつ。
……こつ。
すぐ目の前で、音が止まる。
そして、誰かが、俺の名を呼んだ。
神代凜子は、サブコントロール室の操作席に腰掛け、コンソールの正面やや左に設けられた小さなガラスのハッチを息を飲んで見つめた。
ハッチ上部の液晶窓には、『EJECTING...』という赤い文字が点滅している。
圧縮空気が抜ける音が、低く耳を打つ。
やがて、窓の向こうに、小さな黒い四角形が姿を現した。液晶が緑に変わり、『FINISHED』の表示が輝いた。
凜子は震える手を伸ばし、ガラスハッチを開け、それを取り出した。
堅牢そうな金属のパッケージだ。一辺6センチほどの立方体。ずしりと重い。継ぎ目無く密閉された面のひとつに、超微細なコネクタが設けられている。
このなかに――"アリス"の魂が眠っている。
オーシャンタートル基部に設けられた巨大なライトキューブクラスターから、システム命令に従ってたった一つの結晶キューブがイジェクトされ、自動的に金属パッケージに封入されたのちに長いエアラインを押し上げられてここまで到達したのだ。
それは同時に、アンダーワールドという内的世界から、リアルワールドという外部世界への旅でもある。
凛子は一瞬、言い知れぬ厳かな感慨に打たれて言葉を失ったが、すぐに我に返るとパッケージを握り締めたまま叫んだ。
「アスナさん、アリスのイジェクト完了したわ! あとはあなたよ、急いで!!」
ちらりと、真紅に染まる主モニタのカウントダウンを見やる。
「残り30秒しかない!! 早く……ログアウトを!!」
一瞬の沈黙。
続いて、スピーカから返ってきたのは――予想だにしない言葉だった。
「ごめんなさい、凛子さん」
「え……? な、何を……?」
「ごめんなさい。わたしは……残ります。今までほんとうに有難うございました。凜子さんのしてくださったこと、決して忘れません」
スピーカから響く結城明日奈の声は、穏やかで、優しく、そして静かな決意に満ちていた。
「アリスをお願いしますね。アリスは、優しい人です。とても大きな愛を持ってるし、沢山の人に愛されています。アリスのために消えていった魂たちのためにも……そして、キリトくんのためにも、絶対に軍事利用なんかさせないでください」
言葉を失った凜子の耳に、明日奈のさいごの言葉が届いた。
「みんなにも、伝えてください。ごめんね、って……。さようなら……ありがとう」
直後、カウントがゼロに達した。
長いサイレンの音に続いて、重々しい機械の唸りが狭いケーブルダクトに反響した。
壁のむこうの冷却システムがフル稼働を開始したのだ。アンダーワールドを支えるシステム群が放つ膨大な廃熱を、幾つもの大型ファンが懸命に吸い出している。いまオーシャンタートルを海から眺めれば、ピラミッドの天辺付近にかすかに陽炎が揺れているのが見えるだろう。
「…………はじまった……」
比嘉タケルは、低く呟いた。
「ああ」
短く応えたのは、比嘉を背負って細いハシゴを降りている菊岡誠二郎だ。
二人は、限界加速フェーズ突入が避けられないと判断した時点で即座に準備し、ダクトに潜り込んだのだが、負傷した比嘉の体をハーネスで固定する作業などに八分を費やしてしまった。
菊岡は、噴き出た汗が滴るほどの勢いでハシゴを降り続けたものの、耐圧隔壁に到達する前についに加速が再開してしまったのだ。
祈るような気持ちで比嘉はインカムのスイッチをいれ、サブコントロールの神代博士に呼びかけた。
「凛子さん……どうなりましたか」
ノイズに続き、回線接続音がしたものの、届いたのは重い沈黙だった。
「……凜子さん?」
「……ごめんなさい。アリスは、無事に確保できたわ。ただ……」
押し殺すような声で、神代博士はその先を告げた。
比嘉は息を飲み、ついでぎゅっと眼をつぶった。
「……わかりました。こちらも、全力を尽くします。ハッチ開放タイミングは、追って連絡します」
回線を切り、比嘉は詰めていた呼吸を長く吐き出した。
状況を察したのだろう、菊岡は訊いてこなかった。ただ、筋肉質の背中を懸命に躍動させ続けている。
「……菊さん……」
数秒後、比嘉はようやく囁き声を絞りだし、指揮官に神代博士の言葉を伝えた。
クリッターは、メインモニタに新たに開いたウインドウと、そこに並ぶアルファベットを呆然と眺めた。
クラスターからライトキューブが一つ排出され、耐圧隔壁のむこうのサブコントロール室へ運ばれたことを、短い文字列が教えている。
それはつまり、アリスがK組織に確保された、ということだ。
言い換えれば、アンダーワールド内部からアリスを発見・奪取しよう、という十時間以上にも及んだ作戦が完全に失敗したわけだ。ヴァサゴとミラー中尉がダイブし、暗黒界の軍勢を率いて人界に侵攻して、ハリウッド映画じみた派手な戦争を繰り広げ、さらにはアメリカ人と中国、韓国人あわせて十万人近くを騙して戦わせた努力すべてが水の泡となった。
坊主頭をがりがりと掻き、クリッターはひとつ鼻を鳴らしただけで思考を切り替えた。
残された五時間ちょっとで、物理的にアリスを再奪取できる可能性はあるだろうか?
耐圧隔壁をこちら側から破壊する方法は無い。ただ、先ほどのように上から隔壁が開放されれば話は別だ。
そもそも、さっきハッチが開いたのは何だったんだ。あんなロボットにスモークグレネードを載せただけで、こっちをどうにか出来るなどとほんとうに考えたのか?
あれが、もし陽動だったとしたら? 隔壁開放の目的が、ほかにあったのだとすればそれは一体何だ?
クリッターは振り向き、隊員たちに声をかけた。
「おい、誰かオーシャンタートルの設計図持ってきてくれー」
すると、ブリッグとさっきの賭けが成立したのしないのの言い争いを続けていたハンスが、こちらを見ないままラミネート加工された紙綴りを放ってきた。やれやれと首を振り、クリッターは受け取った設計図を捲った。
「えーと……? これがメインシャフトで……隔壁がここを横切ってて……ロボットが突っ込んできた階段がこれだろー……」
そのとき、モニタに表示されていたカウントダウンがゼロになり、部屋全体に低い機械音が響いた。時間加速が再開したのだ。しかも、ブリッグの馬鹿が制御レバーを破壊してしまったせいで、倍率がとんでもないことになっている。
しかしもう、アンダーワールドがどうなろうと関係ない。作戦が失敗したということはイコール、ヴァサゴもミラー中尉もダイブ中に"死亡"したのだろうから、今ごろ隣の部屋でログアウト処理が進んでいるはずだ。
今は、ミラー中尉が戻ってくるまえに、次の作戦オプションを見つけておくのが先決だろう。
クリッターは、薄暗い照明の下で懸命に地図を睨み、そしてついに気付いた。
「お、ここにも小さいハッチがあるぞー……なんだこりゃ、ケーブルダクト……?」
比嘉タケルに状況を伝え終えた凜子は、長く沈痛なため息とともにシートに背を預けた。
時間内の脱出が確実に不可能となった桐ヶ谷和人のために、自身もアンダーワールドに残ろうという結城明日奈の決意は、あまりにも若く、直情的で、そして――貴いまでに美しかった。
凜子はどうしても思い出さざるを得ない。
かつて愛した男が、彼女を現実世界に置き去りにして遥かな異世界に消えてしまったことを。
もしあの時、共に往く機会を与えられていたら、自分はどうしただろうか。彼と同じように、一方通行のプロトタイプSTLで脳を焼き尽くし、意識のコピーのみを残す道を選べただろうか。
「晶彦さん……あなたは…………」
眼を閉じ、声ならぬ声でつぶやく。
浮遊城アインクラッドと、そこに閉じ込められた五万のプレイヤーたちによる"本物の異世界"を創り出すことだけが当初は彼の望みだったはずだ。
しかし、二年間に及んだ浮遊城での日々において、彼は何かを見、何かを知った。その何かが彼の考えを変えた。
もっと、もっと先がある、と。
SAO世界は終着点ではなく、始まりでしかないのだと彼は気付いた。だからこそ、長野の原生林に囲まれた山荘で、彼はナーヴギアの信号入出力素子の高密度化を進め、やがて自身を殺すことになる試作機を完成させた。
その基礎資料を託された凜子が、医療用高精度NERDLESマシンたるメディキュボイドを開発し。
メディキュボイドに数年間も連続接続しつづけた一人の少女によって提供された、膨大なまでのデータを基にラースと比嘉タケルがSTLを完成させた。
つまり考えようによっては、アンダーワールドという究極の異世界は、彼――茅場晶彦の意思を礎として生まれたのだと言い切れる。
ならば、アンダーワールドの完成をもって、茅場の望みはその到達点に至ったということなのか?
いや、違うはずだ。
なぜなら、彼が残したもうひとつの種子、"ザ・シード"パッケージというピースがパズルのどこに収まるのかがまだ解らない。
確かに、ザ・シード規格のVRMMOがスタンダード化していたからこそ、先刻の外部勢力によるアンダーワールド襲撃に、日本人プレイヤーたちのアカウント・コンバートによって対抗できたのだと言える。
だがまさか、さしもの茅場もあの事態を数年前に予想していたわけではあるまい。コンバート機能によるアンダーワールドへのダイブは、あくまで副次的産物であったはずだ。
であれば、一体何が目的なのか……全世界のVRワールドを、共通規格のもとに相互連結することが、なぜ必要だったのか……。
「……せ。神代博士」
背後から呼びかけられ、凜子ははっと瞼を開けた。
振り向くと、剛毅な容貌の中西一尉が、素早い敬礼とともに報告した。
「隔壁再開放への対応準備、完了いたしました。いつでもどうぞ」
「あ……は、はい。どうもありがとう」
さっとモニタの時刻表示を確認する。限界加速フェーズに突入してから、すでに一分が過ぎている。内部時間では……十年。
信じられない。桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂年齢は、もう凜子のそれをも超えてしまっている。
早く……一分一秒でも早くログアウトさせなければ。もし、魂寿命すべてを使い尽くす前に脱出できさえすれば、限界加速フェーズが開始されて以降の記憶すべてをリセットすることは可能だ。しかし、そのための猶予時間は、理論上ではあと約十二分足らずしかない。
比嘉君……菊岡さん。
急いで!!
凜子はきつく唇を噛み、念じた。
菊岡二佐の喉から吐き出される呼吸音は、もう壊れかけの送風機のようだ。滝のような汗がシャツを変色させ、比嘉の服をもぐっしょりと濡らしている。
比嘉は、ここからは自力で降ります、という台詞を何度も飲み込んだ。
柳井の放った銃弾に撃ち抜かれた右肩は、鎮痛剤を限界量まで飲んでいるにも関わらず鈍く疼き、大量に失血した体は鉛のように重苦しい。とても自力でステップを掴むことなどできそうもない。
それにしても――、と、比嘉は思う。
この事態に際し、菊岡二佐がここまで必死になるとは、正直意外と思わざるを得ない。
アリシゼーション計画の精髄たる限界突破フラクトライト"アリス"は、すでに確保されたのだ。あとは、アリスを構造解析し、従来のフラクトライトとの差異をつきとめれば、真正ボトムアップAIの量産にめどがつく。きたる無人兵器時代に、日本独自の技術基盤を打ち立て、アメリカ軍産システムによる支配から脱するというラースの設立目的がついに達成されるのだ。
それこそが、菊岡誠二郎という人間の悲願であるはずだ。
総務省に出向してまでSAO事件に首を突っ込んだのも、自らキャラクターを作ってまで若いVRMMOプレイヤーたちとの交流を続けたのも、すべてはそのためだ。
だから、菊岡の行動優先順位から言えば、いまは耐圧隔壁をガンとして閉め切り、イージス艦の突入時刻までアリスのライトキューブを死守する、という選択をしそうなものだ。
たとえそれで、アンダーワールドに取り残された桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂が崩壊しようとも。それに激しく反対するであろう神代博士を、船室に軟禁することも辞さず。
「……意外、だなあ……と、思ってる……かい」
突然菊岡二佐が、荒い息の下からそう声を発し、比嘉はウヒッと妙な音を漏らした。
「いっ、いえ、そのぉ……ま、その、キャラじゃないなーと、いう気はするッスけど……」
「まっ……たくだ」
菊岡は、残りわずかとなったハシゴを全力で降下しながら、ぜいぜいと喉を鳴らして短く笑った。
「しかし……言って、おくがね。これも……打算、あっての、行動……さ」
「へ……へぇ」
「僕は……常に、最悪を、考える、主義でね。今は……敵に、まだ、アリス……再奪取の、可能性があると、思わせておいたほうがいい」
「さ、最悪……ッスか」
敵がこのケーブルダクトに気付き、耐圧隔壁開放中に下から突っ込んでくる以上の最悪が、果たしてあるだろうか。
しかし、比嘉がその推測を進めるまえに、ついに菊岡のコンバットブーツの底が、チタン合金のハッチにぶつかった。
動きを止め、激しい呼吸を繰り返す指揮官に代わって、比嘉はインカムの通話スイッチを押した。
「凜子さん、到着しました! 隔壁ロック、解除してください!!」
「うおっ……マジに、開けやがったー!」
クリッターは、メインモニタに表示された耐圧隔壁開放警告を見上げ、叫んだ。
いったい何故。なんのために。
どう考えても間尺に合わない。アリスを確保した今、K組織がわざわざ防御をゆるめるどんな理由があるというのだ。
しかし、今はあれこれ考えている時間はない。クリッターは背後を振り返り、長い腕を振り回して隊員たちに喚いた。
「えーっと、あー、ブリッグだけ残して、ハンス以下全員は主通路に突入してくれー! 撃ちまくって、隔壁の向こうを確保するんだー!」
「簡単に言ってくれるわね……」
ハンスがちっちっと舌を鳴らしながらも、ライフルを担ぎ上げた。十数名の隊員たちも続く。
「お……おいおい、俺はどうすりゃいいんだ」
不服そうに唇を尖らせるブリッグの髭面に向けて、クリッターはぱちんと指を鳴らした。
「ちゃーんと仕事はあるってー。アンタの腕にふさわしい、重要な任務がさー」
無論内心ではまったく別のことを考えている。このアホウからは、なるべく眼を離さないほうがいい。
「いいかー、俺とアンタは、こっちのケーブルダクトを見にいく。どうやらコイツが敵の本命だと、俺は睨んでるんだよねー」
「お……おう、そうか。そうこなくっちゃな」
ニンマリと笑い、大げさな仕草でアサルトライフルのマガジンを確認するブリッグの背中を、クリッターはため息を隠して叩いた。
ハンスたちに続いてメインコントロールのドアをくぐり、別方向に駆け出す寸前、クリッターはちらりと奥の扉――第一STL室を見やった。
そう言えば、やけにログアウトに時間がかかってないか? ヴァサゴの奴、まさかノンビリ煙草でも吸ってるんじゃないだろうな。
一応確認するべきか、と思ったが、すでにブリッグがどかどか走り出してしまっている。
再びため息を飲み込み、クリッターも後を追った。
ほんの数十秒で、目標地点まで辿り着く。一見、ただ通路が行き止まっているだけだ。しかし地図によれば、眼前の小さなハッチの向こうに、シャフト上部とメインフレームを繋ぐケーブルダクトが設けられているはずだ。
回転式の開閉ハンドルを、汗ばむ手で握り、まわす。
重い金属扉を引きあけたクリッターがまず眼にしたものは、暗いオレンジの光に照らされたごく狭いトンネルだった。正面の壁に、垂直にのぼるステップが設けられている。
次に、何気なく足元を見下ろして――。
「……ウオァ!?」
拉げた声とともに、クリッターは飛び退った。
そこに、身体をUの字に折りたたむようにして、男が一人すっぽりと嵌まりこんでいたからだ。背後で、ブリッグががしゃっとライフルを構える。が、すぐに、押し殺した声で指摘する。
「……死んでるぜ」
確かに、横顔を向ける男の頚椎は、不自然な角度に曲がっている。最大級のしかめ面を作りながら、クリッターは男の顔を覗き込み、数回まばたきした。
「あれっ……こいつ、アレじゃねーかー。K組織の情報提供者……どうなってんだ、スパイだってバレたのかぁ……? でも、だからってこんな殺し方ー……」
おそるおそる指先で男の肌に触れると、ひんやりじっとりした感触が伝わってくる。温度からして、死んだのは恐らく最初の隔壁開放時だ。つまり一度目は、この男がロウワーシャフトに脱出しようとして行ったものなのか? そして、ハシゴを踏み外して墜落死した?
しかし、とすればなぜ隔壁は再び開かれたのか。
クリッターは、ブリッグに向き直り、言った。
「一応、ダクトの上がどうなってるか、確認してみてくれー」
髭面の巨漢はふんと鼻を鳴らし、右手を伸ばすと、無造作にスパイの死体を通路に引っ張り出した。ライフルを構えながら、ずいっと上体を暗いトンネルに突っ込み――。
おいおい、頭から入るなよ、とクリッターが考えかけたその瞬間。
「ダムン!!」
叫ぶと同時に、いきなり発砲した。
黄色い閃光がクリッターの網膜に弾け、音調の異なる二種の射撃音が鼓膜を叩いた。
悲鳴を飲み込んで飛びすさった目の前で、ブリッグの巨体が、見えないハンマーに打ちのめされたかのように床に叩き付けられた。
「うおっ!! 何だよ、くそっ!!」
クリッターは喚き、尻餅をついてさらに後ずさった。ブリッグは、ついさっきまでスパイの死骸が収まっていた場所に上体をつっこみ、ぴくりとも動かない。格好だけでなく、運命も同じ道をたどったのは明らかすぎるほどに明らかだ。
――さて。どうしたものか。
冷や汗を滝のように流しながらクリッターは考えた。
ブリッグの右手からライフルを回収し、トンネル内の敵と果敢に撃ち合って仇を取る? まさか! 俺はただのコンピュータ・オタクで、仕事は考えることとキーボードを叩くことだけだ。
ずりずりと尻を擦り、メインコントロール室を目指して退避しながら、さらに思考を続ける。
少なくとも、これでK組織に積極的な攻撃の意図があることだけはわかった。しかし、戦力では明らかにこちらが優っているのだ。戦えば、向こうにも当然犠牲は出よう。ヘタをすれば、アッパーシャフト全てを占領され、アリスを再奪取されかねないではないか。
それ以上の"最悪"があると、K組織の指揮官は考えているのか? こちらに、オーシャンタートルを丸ごと吹っ飛ばすほどの火力があるとでも思っている? まさか、手持ちのC4では耐圧ハッチ一枚吹っ飛ばせないのに……。
火力…………。
不意に、クリッターは鋭く空気を吸い込んだ。通路の先に転がる二つの死体も、意識から消えた。
ある。
オーシャン・タートルを丸ごと破壊し、アリスとK組織をもろとも海の藻屑に変える方法が。たった一つだけ。
確かに、アリスの奪取が不可能と判断した場合は、少なくとも完全に破壊せよというのがクライアントから与えられた命令だ。しかし、そのためにこの巨大な自走メガフロートと、数十人の乗員をもろとも道連れにするなどということが許されるのだろうか。
そんな恐ろしい決断を、自分に下せるわけがない。一生悪夢に悩まされること必定だ。
クリッターは立ち上がり、指揮官の判断をあおぐべく、走った。
「き……菊さん! 大丈夫っすか、菊さん!!」
押し殺した声で、比嘉は尋ねた。ダクト最下部のハッチから出現した敵は、少なくとも三発はライフルをぶっぱなしたはずだ。
返事は、なかった。比嘉を背負い、右手にステップを、左手に拳銃を握る菊岡二佐は、肩を壁面に押し当てるようにして力なく項垂れている。
うそだろ、おい、やめてくれ。あんたはまだまだ必要な人間なんだ。
「き……」
菊岡サァァァァァァン!!
と、叫ぼうとしたその時、二佐が激しく咳き込んだ。
「げほっ……うえぇ、いや……参った。防弾ベスト着てきて正解だったと、今思っている……」
「あ……当たり前っすよ! 本気でアロハのまま来るつもりだったんスか……」
はああ、と安堵の息を吐きながら、再び怪我の有無を問い質す。
「うん、一発ベストに当たっただけのようだ。それより、君こそ無事か。やたらと跳弾したようだが」
「え……ええ。身体も、端末も無傷っス」
「なら、急ごう。コネクタはもうすぐそこだ」
再び降下をはじめた菊岡の背に揺られながら、比嘉はふたたび意外だ、と内心で呟いた。
菊岡二佐は、てっきり肉体的技能は苦手な人なのだろうとこれまで思っていたのだが、広い背中にうねる筋肉は鋼のようだし、それにさっきの射撃。ハシゴにぶら下がり、左手一本で真下を狙うという悪条件にも関わらず、ダブルタップで連射した二発が敵のノドと額を正確に撃ち抜いたのだ。
まったく、どれだけ付き合おうと底の割れないオッサンだ。
小さく首を振り、比嘉は視界に入ってきた点検コネクタに繋ぐためのケーブルを、右手で準備した。
通路を駆け戻ったクリッターは、上方から響いてくるライフルの連射音を聞きながら、メインコントロール室に走りこんだ。
部屋に、ミラー中尉とヴァサゴの姿はない。まだSTLから出ていないのだろうか。すでに、時間加速が再開してから五分以上が経っているというのに。
思いついたアイデアを、彼らに説明したものかどうか、クリッターはまだ迷っていた。聞けば、二人は即座に実行の命令を出すだろうという確信があったからだ。彼らは、目的遂行のために無関係な犠牲者が何人出ようと気にするような人間ではない。
結論を出せぬまま、クリッターは勢いよく第一STL室のドアを押し開いた。
「隊長! アリスが、敵に…………」
続くべき言葉は、軋るような音に変わって喉の奥に引っかかった。
手前側、一番STLのシートベッドに横たわり、額から上を巨大なマシンに飲み込まれたミラー中尉の顔には、これまで一度も見せたことのない表情が浮かんでいた。
いや、クリッターは、そのような表情を、いままでどんな人間の顔にも見たことはなかった。
青い両眼が、ほとんど飛び出す寸前にまで見開かれている。口は、顎関節が外れてしまったかのごとく限界まで広げられ、しかも斜めに歪んでいる。突き出た舌が奇怪な角度で折れ曲がり、まるで別の生き物のようだ。
「た……隊……長……?」
喘ぎながら、クリッターはがくがく膝を震わせた。いま、ミラー中尉の突出しかけた眼が動いたら、自分は悲鳴を上げてしまうだろうという確信があった。
奥歯を小刻みに鳴らしながら、おそるおそる手を伸ばし、まるで何かを防ごうとするように掲げられた中尉の左手首を、そっとつまむ。
脈は、なかった。
そして肌は氷のように冷たかった。強襲チーム指揮官ガブリエル・ミラー中尉は、身体に何の傷もないのに、完全に絶命していた。
胃からこみあげてくるものを必死に押し戻し、クリッターはかすれ声で叫んだ。
「ヴァサゴ……早く起きろ! 隊長が……し、死……」
脚を引き摺るように一番STLを回り込み、その奥の二号機のシートに視線を振る。
今度こそ、クリッターは本物の悲鳴を上げた。
副隊長ヴァサゴ・カザルスは、一見おだやかに眠っていた。瞼の閉じた顔に表情は無く、両手もまっすぐ身体の横に伸びている。
しかし――。
あれほど艶やかな黒に輝いていた、波打つ長髪が。
いまは、百歳を超えた老人のような、乾いた白髪ばかりに変じていた。
もうヴァサゴの脈を確認する気も起こらず、クリッターは言うことを聞かない膝をかくかく震わせて後ずさった。一刻もはやくこの部屋を出ないと自分も二人と同じ目に合うと、理性とコードのみを信奉するハッカーであるはずのクリッターは、本気で信じた。
開けっぱなしの入り口から後ろ向きに転がり出て、右足で思い切りドアを閉める。
そこでようやく深く息をつき、クリッターは懸命に思考を立てなおした。
隊長とヴァサゴに何が起きたのかを調べるすべは無いし、知りたくもない。推測できるのは、アンダーワールドで何かがあり、その結果二人の魂は、現実の肉体を道連れに破壊されてしまったのだろうということくらいだ。
つまるところ、作戦は失敗したのだ。指揮官が死んでしまった以上、船ごとアリスを破壊するかどうかの判断も下せない。これ以上、この場に留まる意味はない。
クリッターは、コンソールから通信機を掴み上げ、掠れた声を押し出した。
「ハンス……戻ってくれ。ブリッグと、ヴァサゴと、隊長が死んだ」
数十秒後、コントロール室に走りこんできたチーム一の伊達者の顔には、ぎらつくナイフのような異様な表情が浮かんでいた。
「ブリッグが死んだですって!? なぜ!?」
「け……ケーブルダクトで、上から撃たれて……」
それを聞くやいなや、ライフルを構えなおして走り出そうとするハンスを、クリッターは必死に止めた。
「やめろ! 敵の攻撃は陽動だー。もう、戦う意味はない……」
ハンスはしばらく無言だった。やがて、凄まじい音をさせて壁をなぐりつけると、くるりと振り向いて足早に歩み寄ってきた。
「……いえ、まだ命令は残っているはずよ。奪えないなら、破壊すべし。アンタ、何かアイデアくらいあるんでしょ」
綺麗に整えられた揉み上げを震わせ、問い詰めてくるハンスに呑まれ、クリッターはかすかに頷いた。
「あ……ああ、無くもないがー……いや、ダメだー。隊長なしに、下せる判断じゃない」
「言うのよ。言いなさい!!」
突然ハンスが、アサルトライフルの青光りする銃口をぐいっとクリッターに突きつけた。ブリッグとコンビを組み、中東や南米の戦場を渡り歩いてきた傭兵の眼にうかぶ剣呑な光は、クリッターに抗えるものではなかった。
「え……エンジンだー」
「エンジン? この船の?」
「そうだ……。このドでかい船の主機は、原子炉なんだ……」
十分経過。
神代凜子は、わななく両手を強く握り締めながら、無情に刻まれていくデジタル数字を凝視した。
限界フェーズ突入以降、アンダーワールド内で過ぎ去った年月は――実に、百年。
その膨大な時間を、桐ヶ谷和人と結城明日奈がどのように体感したのかは、もう遥か想像の埒外だった。一つだけ確実なのは、ふたりのフラクトライトの記憶保持容量がいよいよ限界に近づきつつあるということだ。
比嘉の予測によれば、人間の魂は、おおよそ百五十年ぶんの記憶を蓄積した時点で正常な動作ができなくなり、崩壊がはじまる。むろん、実験で確認された話ではない。実際の限界はもっと先かもしれないし――あるいは、ずっと早いかもしれない。
いまはただ、魂が自壊してしまうより早く、ログアウト処理が完了することを祈るのみだ。それさえクリアできれば、まだもとの二人に戻れる望みは残る。
比嘉くん……菊岡さん。お願い。
祈る凜子は、階下からかすかに響いていた銃撃音がいつしか途切れたことに気付かなかった。それを教えたのは、サブコントロールに駆け戻ってきた中西一尉だった。
「博士! 敵が撤退を開始しました!」
「て……撤退!?」
顔をあげ、唖然と繰り返す。
なぜこのタイミングで。耐圧隔壁が再開放中のいまは、襲撃者たちにとってアリス確保の最後のチャンスではないか。諦めるにしても早い。イージス艦が突入してくるまで、まだ四時間以上も残っている。
凜子は、キーボードに指を走らせて艦内各所の状況を知らせるステータスウインドウを呼び出しながら、一尉に尋ねた。
「戦闘で……怪我人は出ましたか?」
「は……軽傷二名、重傷一名、治療中ですが命に別状ないと思われます」
「そう……ですか」
詰めていた息を、わずかに吐く。ちらりと視線を向ければ、剛毅なラインを描く一尉の頬骨のあたりに大きなパッチが貼られ、薄く血が滲んでいるのに気付く。軽傷者のうちに、彼自身も入っているのだろう。
彼らの奮戦を無駄にしないためにも、二人の若者たちを必ず救出しなくては。
少なくとも、敵が撤退を開始したというのはいいニュースだ。ステータス窓を視線で追い、凜子はたしかに艦底水中ドックが開扉中なのを確認した。
「ええ、再び潜水艇で脱出するようですね……。それにしても……やけに慌しく……」
眉をしかめ、唇を軽く噛んだ、その時だった。
これまでとは異質な震動が、メインシャフト全体を揺るがした。
ひゅううーん、という木枯らしのような唸りが巨大なメガフロートを突き抜ける。卓上のボールペンが転がり、床へと落ちる。
「な……何!? 何がおきたの!?」
「これは……ああっ……まさか、奴ら……!!」
中西一尉が低い声で呻いた。
「この震動は、主機の全力運転によるものです、博士!!」
「しゅ……き?」
「メインエンジン……つまり、シャフト基部の、加圧水型原子炉です……」
愕然と目を見開く凜子にかわり、コンソールに飛びついた一尉が、不慣れな手つきでステータスウインドウに更なる操作を加えた。次々と新たな窓が開き、うち一つに不鮮明な映像が浮かび上がる。
「くそっ!! 制御棒が、全部下がっている!! 連中、何てマネを!!」
だん! とコンソールを叩く一尉に、凜子はかすれ声で訊いた。
「でも、安全装置くらい、あるんでしょ……?」
「無論です。炉心が臨界状態に達する前に、自動的に制御棒が突入し、核分裂は停止します。ただ……ここ、これを見てください」
一尉の指が、モニタに浮かぶ原子炉格納室のリアルタイム映像の一部を示した。赤に光に紛れてわかりにくいが、どっしりした機械の一部に、何か小さな白いものが貼り付いているようだ。
「これはおそらくC4……プラスチック爆弾です。このサイズでは、炉心が破れることはないでしょうが、しかしこの場所は、制御棒を炉心に持ち上げるための駆動装置なのです。もしここが破壊されれば……」
「核分裂を……止められなくなる? すると、どうなるの……?」
「まず一次冷却水が水蒸気爆発し、格納容器を破壊……最悪の場合、融解した炉心が海面まで落下し、さらに大量の蒸気を発生させ、おそらくシャフト内部をすべて吹き飛ばすでしょう。メインコントロールから、ライトキューブクラスター、そしてこのサブコントロール室まで」
「な…………」
凜子はおもわず、足元の床を見下ろした。この強固な金属を突き破り、超高温の蒸気が襲ってくる――?
そんなことになったら、せっかくここまで犠牲者を出すことなく耐えてきたラースの人員も、STLに横たわる和人と明日奈も、そしてライトキューブクラスターに封じられた十数万の人工フラクトライトたちも、ひとたまりもなく……。
「自分が、爆薬を解除します」
不意に、中西一尉が低い声で言った。
「連中は、潜水艇がオーシャンタートルから充分に離れられるだけの余裕をもって起爆時間を設定しているはずです。あと五分か……十分はあるはずだ」
「で、でも、中西さん。エンジンルーム内の、温度は、もう」
「なに、熱めのサウナと変わりゃしません。走り込んで、信管を抜くくらい簡単です」
――それは、きちんと防護服を着ていればのことだ。だが、もうそんな準備をしている時間はない。
凜子は、心中のその言葉を、口に出すことはできなかった。ドアに向かう一尉の大きな背中は、あらゆる柔弱な感傷をはねのける鋼の板のようだった。
しかし。
ごつごつと鳴るコンバットブーツが辿り着くより早く、何者かが通路側からドアをスライドさせた。
薄暗い通路に立つ誰かのシルエットに、凜子は目を凝らした。
ういん。と、モーターの駆動音。がちゃ、と金属が金属を踏む響き。
よろめくように脇に下がる中西一尉の向こうから、明かりの下に姿を現したのは――鈍く光る無骨な四肢と、複数のレンズを搭載した頭を持つ、人型の機械だった。
「に、ニエモン……試作二号機!? なぜ、勝手に……!?」
喘ぐ一尉を無視し、ロボットはまっすぐに凜子を見て、言った。
『私が行こう』
その声。
部屋に漂う、ワックスとオイルの匂い。
数日前、オーシャン・タートルに降り立った日の夜、夢のなかで聞き、嗅いだ……。
凜子はよろよろと立ち上がり、数歩あゆみよりながら、かすれ声を押し出した。
「……あ……晶彦、さん…………?」
ぼんやりと緑に発光するセンサーが、まるで瞬きするように明滅し、ロボットは小さく頷いた。
吸い寄せられるように近づいた凜子は、震える両手で、そっとアルミニウムの外装に触れた。かすかな駆動音とともに持ち上がった両手が、凜子の背中に触れた。
『長いあいだ、一人にしてすまなかった、凜子くん』
電気合成されたものであっても、その声は間違いなく、神代凜子がかつて愛したたった一人の男――茅場晶彦のものに間違いなかった。
「こんな……ところに、いたのけ」
もう忘れてしまったはずの郷言葉で、凜子は囁いた。両眼から涙が溢れ、センサーの光が滲んだ。
『時間がない。だから、必要なことだけ言うよ。凜子くん……私は、君に出会えて、幸せだった。君だけが、私を現実世界に繋ぎ続けてくれた。願わくば……これから先も、君に繋いでほしい。私の夢を……今はまだ隔てられている、二つの世界を……』
「ええ……、もちろん。……もちろん」
何度もうなずく凜子をじっと見つめ、機械の顔が微笑んだ。
身体を離したロボットは、滑らかな重心移動で向きを変え、ほとんど走るような速度で通路へと出た。
無意識のうちに後を追いかけた凜子の目の前で、ドアがかすかな音とともに閉まった。
大きく息を吸い、ぐっと歯を噛み締める。今は、このサブコントロールを離れるわけにはいかない。各所の状況確認を任されたのは自分なのだ。
代わりに、凜子はエンジンルームの映像を見上げ、胸元のロケットを握り締めて最大限の祈りを凝らした。すぐ横に歩み寄ってきた中西一尉が、ため息に似た声で、頼むぞ、と呟くのが聞こえた。
比嘉タケルは、ケーブルダクトの下方から押し寄せてきた重いタービンの唸りを聞いたとき、ようやく菊岡の危惧していた"最悪"の正体を悟った。
「き……菊さん……連中、原子炉を……」
かすれた呻きは、強い声に遮られた。
「分かっている。いまは、STLのシャットダウンに全力を注いでくれ」
「は……はい。しかし……」
ようやく辿り着いた点検パネルに、再びリボンケーブルのコネクタを指し込みながらも、比嘉は背中に噴き出す汗を止められなかった。
仮に原子炉が暴走した場合、この作業の意味もなくなってしまうのだ。それどころか、アンダーワールドも、アリスのライトキューブも、丸ごと高温の蒸気と高レベル放射線に破壊され尽くしてしまう。多くの人命ともども。
だが、原子炉を爆発させるというのはそう容易いことではない。炉心を覆う分厚い金属容器は小銃などではとても破れないし、制御系にも何重ものセーフティがかかっている。仮に無謀な全力運転を続けさせたところで、すぐに安全装置が働き、核分裂を停止させるはずだ。
と、その時、菊岡が普段どおりの声で何気ないように尋ねた。
「うーん、比嘉くん。あとは一人でも何とかなるかい?」
「え……ええ、ハーネスをステップに固定すれば、作業は可能ですが……。で、でも、菊さん、まさか……」
「いやいや、ちょっと様子を見てくるだけだよ。ムチャはしないさ、すぐに戻ってくる」
言うと、菊岡は手早く二人を固定するハーネスを外し、いくつかのナス環をハシゴにがっちりと噛ませた。比嘉の身体が保持されたのを確認し、するりと下方に身体を抜く。
「じゃあ、後は頼んだよ、比嘉くん」
上を向いた黒縁眼鏡の奥で、細い目がニッと笑った。
「き、気をつけてくださいよ! 連中がまだ残ってるかもしれないッスから!」
比嘉の声に、似合わぬ仕草でぐっと右手の親指を突き出し、菊岡はするすると物凄い速さでステップを下っていった。
最下端のハッチに達すると、慎重に奥を覗き、通路へと這い出す。
それに比嘉が気付いたのは、菊岡の姿が完全に消えたあとだった。
端末を右手で叩きながら、何気なく腹を締め付けるハーネスを直そうとした左手に、ぬるりという感触が伝わった。ぎょっと見下ろした掌は、オレンジ色の非常灯の下で真っ黒に見える液体に濡れていた。
それが、比嘉のものではない血であることは明らかすぎるほど明らかだった。
数分前まで襲撃者たちに占拠されていたシャフト下部の艦内カメラはほとんど破壊されたが、原子炉を格納する機関室エリアのものは無事だった。
カメラからの映像を大写しにするメインモニタを見上げ、凜子は両手でロケットを包み込み、待った。
すぐ左で中西一尉が、コンソールに乗せた両手を硬く握り締めている。背後では、階下の防衛線から引き上げてきた警備スタッフや技術スタッフたちが、それぞれの姿勢でそれぞれの意思を念じている。
皆さんはせめて船首のブリッジまで退避してください、と凜子は要請した。しかし、一人としてメインシャフトを出て行くものはいなかった。
ここに居る人たちは全員、日のあたらぬ偽装企業であるラースでの研究開発に人生を捧げているのだ。真正ボトムアップ人工知能が必ずや拓くであろう新時代に、おのおのの夢を、願いを託しているのだ。
凜子は今日この瞬間まで、自分はあくまでこの船にいっとき留まる客に過ぎないのだと思っていた。菊岡誠二郎という本心の見通せない人間の目的に同調する気にはなれそうもなかった。
しかし、凜子もまた、訪れるべくしてラースを訪れたのだった。それをようやく悟った。
人工フラクトライトは、無人兵器搭載用AIなどという狭いカテゴリにおさまるものではない。
同様にアンダーワールドは、ただの社会発達シミュレーションなどではない。
それらは、巨大なるパラダイム・シフトのはじまりなのだ。
閉塞していくばかりの現実世界を変革する、もうひとつの現実。既存のシステムから脱却しようとする若者たちの意思を、その目に見えぬ力を具現化する世界(アン・インカーネイト・ラディウス)。
――それこそが、あなたの目指したものなのね。
あなたが、浮遊城での二年間で気付き、見出したのは、"彼ら"の可能性。眩いばかりに輝く、心の光。
繋いでみせるわ。かならず。だから――
お願い、晶彦さん。みんなを、世界を、守って。
凜子の祈りに応えたかのように、ついにモニタ上の遠隔映像に動きがあった。
分厚い二重の隔壁に封じられた加圧水型原子炉。その炉心へと至る狭い通路に、"人工フラクトライト搭載用人型マニピュレータ試作二号機"の姿が出現したのだ。
すでにバッテリー出力が低下しているのか、足取りは鈍い。チタン骨格の脚自体の重量と戦うように、ずちゃ、ずちゃと大きな音を立てて前進していく。
茅場晶彦の思考コピー体が、いったいいつからあのボディに潜伏していたのかは凜子には想像もできなかった。しかし、一つだけ確かなのは、あのマシンの物理メモリ領域に宿るそのプログラムは、唯一のオリジナルであるはずだ。あらゆる知性は、己が複数存在するコピーであるという認識に耐えることはできないのだ。
炉心の高熱に、電子系がほとんど剥き出しの試作ボディがどこまで耐えられるのか。
お願い、無事に爆弾を解除して、もう一度私のところに戻ってきて――と祈ろうとして、凜子はぐっと唇を噛んだ。
おそらく、茅場晶彦は、ここで消える覚悟なのだ。
かつて生身の脳を焼いてまでその意志を残した彼も、ようやく目的を果たし、死に場所を見つけたのだ。
ういん。アクチュエータが唸る。
ずちゃ。ダンパーが軋む。
懸命の、しかし確たる歩行で、ロボットはついに最初のドアにまで到達した。
右手を伸ばし、開閉パネルを操作する。ぷしっ、と油圧が抜け、分厚い合金の扉が奥に開く――。
その時。
甲高いライフルの咆哮が、スピーカから迸った。
開いたドアの奥から、一人の黒ジャケット姿の兵士が、何かを叫びながら飛び出してきた。
以前のように、ヘルメットとゴーグルに顔を隠してはいない。一見優男ふうの容姿に、整った口ひげと揉み上げを蓄えている。
「な……一人残っていたのか!? 何故!? 死ぬ気か……!?」
中西一尉が、愕然と呻いた。
モニタでは、二号機が両腕を前で交差させ、ボディを守ろうとしている。そこに、更に数発の銃弾が浴びせられる。
火花が弾け、アルミの外装に幾つも孔があいた。各所でケーブルが引き千切れ、細かいギアやボルトが飛散した。
「や……やめて!!」
凜子は思わず悲鳴を上げた。しかし画面内の敵兵士は、激したような英語で更に何かを喚き、ライフルのトリガーを引き続ける。ロボットがよろめき、一歩後退する。
「い……いかん! ニエモンの簡易外装では耐えられん!!」
もう、とても間に合わないのは確実だったが、中西一尉が拳銃を手に駆け出そうとした。
瞬間。
新たな銃声が、反対側のスピーカから立て続けに響いた。
通路に、三人目の人物が、拳銃を乱射しながら走りこんできた。敵兵の身体が、右に、左に大きく揺れる。二号機の背後から、ロボットを一発も誤射することなく撃ち続けるとはすさまじい腕だ。いったい誰が――。
呼吸も忘れ、目を見開く凜子の視線のさきで、ついに敵兵士の喉もとから鮮血が弾け、細い長身が弾かれたように仰向けに倒れて動かなくなった。
直後、救援者も、通路の中ほどにゆっくりと膝をつき――。
横向きに、その身体を沈みこませた。
額にかかる前髪。斜めにずれた、黒縁の眼鏡。口元は、わずかに笑っているように見えた。
「き……菊岡さん!!」
「二佐ッ……!!」
凜子と中西が、同時に叫んだ。
今度こそ、自衛官が転げるような勢いで部屋を駆け出していく。それを止めることは、もう凜子にはできなかった。
代わりに、技術スタッフの一人がコンソールに飛びつく。キーボードが凄まじい速度で乱打され、二号機のものと思しきステータスが表示される。
「左腕、出力ゼロ……右脚、七十パーセント。バッテリー残量三十パーセント。いけます、まだ動けます!!」
スタッフの絶叫が聞こえたかのように、二号機が前進を再開した。
ずちゃ。ず、ちゃ。ぎこちない歩行とともに、千切れたケーブルから火花が飛び散る。
ぼろぼろのボディがドアを潜り、扉が奥から閉められた。カメラが、炉心内部の映像に切り替わる。
二つ目の耐熱ドアは、大型のレバーで物理的にロックされていた。二号機の右腕がレバーを掴み、押し下げようとする。ヒジ部のクラッチが空転し、大量の火花が飛び散る。
「おねがい……」
凜子が呟くと同時に、サブコントロールのそこかしこから声援が湧き起こった。
「がんばれ、ニエモン!!」
「そこだ、もうちょっと!!」
が、こん。
レバーが下がった。
途端、重そうなドアが、内部からの圧力に押されるように開いた。凄まじい熱気が噴出してくるのが、モニタ越しにもはっきりと見えた。
二号機がよろめく。背中右側の太いコードが、一際激しくスパークする。
「あ……ああっ、いかん!!」
不意に、技術者が叫んだ。
「なに……どうしたの!?」
「バッテリーと主制御盤を繋ぐケーブルが損傷しています!! あそこが切れたら……全体への、電力供給が停止して……完全に動けなくなります……」
凜子も、他のスタッフたちも一様に絶句した。
二号機に宿る茅場自身も、その深刻なダメージに気付いたのだろう。揺れるコードを右ヒジで押さえるようにして、ゆっくり歩行を再開する。
ついに到達した原子炉内部は、全力運転を続ける炉心が放つ高熱を排出しきれず、とても生身の人間には耐えられない高温となっていた。
おそらく、もう間もなく安全装置が働き、制御棒が自動的に突入して核分裂を停止させようとするはずだ。
しかし、それより早く、仕掛けられたプラスチック爆薬が炸裂し、制御棒駆動装置を破壊すれば。核燃料から放出される大量の中性子は、連鎖的にウラン原子を崩壊させ続け、やがて制御不能の臨界状態へと導く。
溶融した炉心が、下部の一次冷却水を一瞬で大量の水蒸気へと変え、格納容器を引き裂き、炉心は重力に引かれるまま船底をも貫いて海面に到達し――。
凜子の脳裏に、オーシャンタートルを貫いて噴き上がる白煙の映像がちらりと過ぎった。
一瞬目を閉じ、再び祈る。
「お願い……晶彦さん……!!」
皆の声援も再開した。それらに背を押されるように、試作二号機は主機格納室へとその脚を踏み入れた。
再び、カメラが切り変わる。
途端、凄まじい騒音がスピーカから溢れた。モニタの映像が、赤一色に染まる。
熱気を掻き分け、片足を引き摺るように前進していく二号機と、格納容器に張り付くプラスチック爆弾まではもう五、六メートルしかない。
ロボットの右手が、信管に向けて持ち上げられる。身体の各所から間断なく火花が飛び散り、ひび割れた外装の破片が金属の床に落ちる。
「がんばれ……がんばれ……がんばれ……!!」
サブコントロールルームは、たった一つの言葉だけに満ちていた。凜子も、両拳を握り、声を嗄らして叫んだ。
あと四メートル。
三メートル。
次の一歩――。
と同時に、ほとんど爆発じみたスパークが、二号機の背中から迸った。
千切れ、揺れる黒いコードは、まるで傷ついた内臓のようだった。
顔の全センサーが、光を失った。右腕が、ゆるゆると沈んだ。
両膝が、油圧ダンパーに任せて、がくりと折れ曲がり――
二号機は、完全に沈黙した。
モニタのステータス窓で何本も並んで揺れていたレインボーカラーの出力バーが、すべて左端へと落ち込み、ブラックアウトした。
技術スタッフが、囁くような声で告げた。
「……全出力、消失……しました……」
――私は、奇跡は信じない。
かつて、SAOが予定よりはるかに早くクリアされ、全プレイヤーが解放されたその日、山荘のベッドで覚醒した茅場晶彦は凜子にそう言った。
その瞳は穏やかな光に満ち、無精髭に囲まれた口元はかすかに微笑みを浮かべていた。
――でもね。私は今日、生まれてはじめて奇跡を見たよ。
――私の剣に貫かれ、ヒットポイントが完全にゼロになったはずの彼が、まるでシステムに抗うように……消滅することを拒否し、右手を動かして、私の胸に剣を突き立てた。
――私は……もしかしたら、ただあの一瞬だけを待ち望んでいたのかもしれないな……。
「……晶彦さん!!」
凜子は、胸元のロケットを握る右手から血が滴るのにも気付かず、叫んだ。
「あなたは……"神聖剣"のヒースクリフでしょう!! 彼の、"二刀流"キリト君の、最大の好敵手でしょう!! なら、あなたも……奇跡の一つくらい、起こしてみせてよ!!」
ちか。
ちかちかっ。
瞬いた緑の光は、二号機の両眼に内臓された測距センサー。
膝の関節部から覗くギアが、き、きり、と軋む。
抗うように。
ステータスウインドウの左端で、紫の光がかすかに揺れて――。
四肢と体幹の出力を示すバーが、一気に右端まで伸び上がった。猛々しい駆動音を放ち、各所のアクチュエータが火花を散らして回転した。
「に……二号機、再起動!!」
スタッフが悲鳴じみた声で絶叫した。
凜子の両眼から涙が溢れた。
「いけえええ――っ!!」
「すすめええっ!!」
全員が叫んだ。
右脚が持ち上がり、一歩、前へ。
身体を引き摺りながら、右手を高く伸ばす。
一歩。もう一歩。
小爆発。がくりとボディが揺れる。しかし、更に一歩。
限界まで伸ばされた右手の指先が、ついに炉心格納容器下部に貼り付けられたプラスチック爆弾に触れた。
親指と人差し指が、差し込まれた信管を捉えた。
手首、肘、肩の関節から断末魔のようにスパークを散らしながら、二号機が時限装置ごと信管を引き抜き、その右手を高々と掲げた。
閃光が画面を白く焼いた。
炸裂した信管に、右手を吹き飛ばされた二号機が、ゆっくりとボディを横倒していき――。
がしゃん、と床に崩れ落ちた。センサーが薄く明滅し、消えると同時に、出力バーも再び黒に沈んだ。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
数秒後、湧き上がった大歓声が、サブコントロールルームを揺るがした。
木枯らしのようなタービンの唸りが、徐々に弱まり、遠ざかっていく。
比嘉は、詰めていた息を大きく吐き出した。敵の手によって全力運転を強いられていた原子炉が、ついにその炎を収めたのだ。
左手の袖口で額の汗を拭い、汚れた眼鏡ごしに小型端末のモニタを凝視する。
二台のSTLのシャットダウン処理は、ようやく全プロセスの八割ほどが完了したところだ。限界加速フェーズが開始されてからの経過時間は、すでに十七分を超えた。アンダーワールドでは、百七十年に相当する。
比嘉の予測したフラクトライトの限界寿命を、遥かに超える膨大な時間だ。理屈だけで考えれば、桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂は、すでに自壊してしまっている可能性が高い。
しかし比嘉はもう、自分がアンダーワールドとフラクトライトに関して、本当には何も知らないに等しいのだということを認めていた。確かに、設計し、構築し、稼動させはした。だが、あの美しく輝く希土類結晶の積層体のなかで育まれた世界は、どうやらラース技術者の誰もが想像もしなかった高みにまで達したらしい。
そしていま、その世界をもっとも深く知る現実世界人は、間違いなく桐ヶ谷和人だ。十八歳の高校生に過ぎないはずの彼は、あの世界に全力でコミットし続け、適応し、進化して、四つのスーパーアカウントをも果てしなく上回る力を顕した。
それは、彼という人間に生来的に与えられた能力などではない。
ラーススタッフ全員が、ただの実験用プログラムとしか見ていなかった人工フラクトライトたちを、桐ヶ谷和人だけは最初から、自らと同じ人間であると認識した。人間として触れあい、戦い、守り、愛した。
だから、アンダーワールドは、そこに暮らす人々は、彼を選んだのだ。守護者として。
であるならば、比嘉ですら思いもよらぬ何らかの奇跡により、二百年の時間流に耐えてのける可能性だってある。
――そうだろう、キリト君。
――今なら、菊岡二佐がなぜあれほどまで君の協力を求めたのか、僕にもよくわかる。そして、これからも君が必要なんだということも。
――だから……
「……頼む、戻ってきてくれ」
比嘉は呟きながら、シャットダウン処理の最後の数パーセントが進行していく様子をじっと見つめつづけた。
サブコントロールルームには、凜子ひとりが残った。
他の全員は、菊岡二佐の救助と、メインコントロールルームの制御権回復のために我先にと駆け出していった。
凜子も、本心で言えば原子炉格納室に飛んでいって、監視カメラのフレーム外に倒れているはずの試作二号機と、その物理メモリに留まる茅場晶彦コピー体を保護したかった。しかし、今はまだ持ち場を離れるわけにはいかない。比嘉によるSTLシャットダウン処理が終了し次第、隣室に眠る桐ヶ谷和人と結城明日奈の状態を確認せねばならない。
二人が、何事もなかったかのように目覚めると、凜子は信じていた。
彼らの手にアリスのライトキューブを握らせて、あなたたちが守ったのよ、と言ってあげたい。
おそらく、階下へ向かったスタッフの手で数分のうちに限界加速フェーズも終了させられ、アンダーワールドの時間流も等倍へと戻るだろう。その世界を守った、ひとつの意思の存在のことも、二人に伝えたい。かつて彼らを幽閉し、戦わせ、苦しめた男が、バッテリーの切断された機械の身体を動かして、アンダーワールドとオーシャンタートルを守ったのだ、と。
許して、とは言えない。
二万人の若者たちを殺した茅場晶彦の罪は、どのような償いによってもあがなえるものではない。
しかし、茅場の遺した意思と、その目指したものについてだけは、どうしても和人と明日奈に理解してほしい。
凜子が、血の滲む掌でアリスのライトキューブ・パッケージを包みなおし、瞼を閉じたそのとき、耳のインカムから比嘉の声がかすかに響いた。
「……凜子さん、二人のログアウト処理終了します、あと六十秒!!」
「了解。すぐに、誰かを迎えにいかせるわね」
「お願いします。さすがに、このハシゴを一人で登るのは無理っぽいんで……。それで、菊さんが下に様子見に行ったんですが、どうなってます? どうも、負傷してるみたいなんスが」
凜子は、すぐには答えられなかった。原子炉へと続く通路で敵兵と撃ち合い、倒れた菊岡二佐を中西一尉が救助に行ったのはもう三、四分も前だが、いまだ彼からの連絡はない。
しかし、あの菊岡が、目的なかばで斃れたりするものか。つねに飄々と底の見えない態度を崩さず、状況の裏側をするりするりと立ち回ってきたあの男が。
「……ええ、二佐なら物凄い活躍ぶりだったわよ。ハリウッドのアクション俳優顔負けの」
「うへぇ、似合わないッスね。……残り、三十秒ッス」
「私はSTL室に移動するわ。何かあったら連絡よろしく。以上」
凜子は通信を切り、黒い金属の立方体をそっと両手に握ったまま、コンソールから離れ隣室に向かった。
ドアに触れる寸前、室内のスピーカから、階下に向かったスタッフの一報が入った。
それは、中西一尉からでも、メインコントロールに向かった技術者からでもなかった。温度の下がり始めた原子炉格納室に、念のためプラスチック爆薬本体の除去に向かった警備スタッフの声だった。
「こちらエンジンルーム! 博士……聞こえますか、神代博士!」
凜子はどきんと跳ねる心臓を押さえながら、インカムの回線を切り替え、叫んだ。
「ええ、聞こえます! どうしました!?」
「そ、それが…………爆薬は無事取り外したんですが、その……無いんです」
「無い……って、何が……?」
「二号機です。試作二号機のボディが、エンジンルームのどこにも見当たりません!」
安物のデジタルウォッチに設定したタイマー表示が、ゼロに到達した。
強襲揚陸用小型潜水艇のコクピットにうずくまり、外部ソナーに耳を澄ませていたクリッターは、聞こえてくるはずの爆音が何秒待とうと届いてこないのを確認し、震える息を吐き出した。
それが、安堵のため息なのか、落胆のそれなのか、自分でも分からなかった。
ひとつだけ確かなのは、オーシャンタートルの原子炉に仕掛けたC4は何らかの要因によって爆発せず、よって制御棒駆動装置も破壊されず、つまるところメルトダウンも起こらなかった、ということだ。
原子炉に残ったハンスが無事なら手動で爆発させているだろうから、あの男もまた排除されたのだろう。
金だけが目的のはずの傭兵が、絶対に死ぬと分かっていながら脱出しなかったのは、まったく意外なことだった。相棒のブリッグが死んだと知らされたときから様子がおかしかったが、まさか死に場所まで共にするほどの仲だったとは。
「……まー、いろいろあったんだろうさー……」
ソナーのヘッドホンを頭から外しながら、口中で呟く。
そう、ハンスたちより先に死んだミラー隊長やヴァサゴにも、金以外の事情がいろいろあったのだろう。そのしがらみが、彼らを殺した。
それを言うなら、クリッターや潜水艇に乗るほかの隊員たちも、この作戦が完全なる失敗に終わったことで、すさまじく巨大なしがらみに咥え込まれてしまったわけなのだが。全員の雇い主である民間警備会社は、その実体はアメリカの軍事関連企業お抱えの違法トラブルシューターであり、切捨てられるときは一瞬だ。本土に帰りついたその瞬間、全員まとめて口を封じられる可能性だって無くはない。
己の身を守る保険として、オーシャンタートルからひそかに持ち出してきた一枚のディスケットが納まる内ポケットを、クリッターは服の上からそっと撫でた。
こんなものでどこまで対抗できるかわからないが――しかし少なくとも、殺されるときは頭に銃弾方式だろうから、ヴァサゴやミラー中尉の恐ろしい死に様に比べればはるかにマシだ。
「やれやれ、だー」
ふん、と鼻を鳴らし、クリッターは近づきつつあるシーウルフ級原潜"ジミー・カーター"の位置を示す輝点をじっと眺めた。
限界加速フェーズ開始から、十九分四十秒後――。
オーシャンタートル第二STL室に設置された、二台のソウル・トランスレーターのシャットダウン処理が終了した。遅れること約三分、時間加速そのものも解除され、冷却システムの減速にともなって、艦内に静寂が戻った。
神代凜子博士の手でマシンから解放された二人の少年少女、桐ヶ谷和人と結城明日奈は――
しかし、目を醒ますことはなかった。
フラクトライト活性は極限まで低下し、その魂において精神活動がほぼ消失していることは明らかだった。
博士は二人の手を握り、涙ながらに、懸命に呼びかけつづけた。
深い瞑りにつく和人と明日奈の唇には、ごくほのかな笑みが浮かんでいた。
こつ。
……こつ。
すぐ目の前で、音が止まる。
そして、誰かが、俺の名を呼んだ。
「……キリトくん」
穏やかに澄んだ、慈愛そのものが空気を震わせているようなその声。
「あいかわらず、一人のときは泣き虫さんだね。……知ってるんだから。キミのことは、なんだって」
俺は、ゆっくりと、涙に濡れた顔を持ち上げた。
両手を背中に回し、少し首を傾げたアスナが、微笑みながらそこに立っていた。
何を言えばいいのか分からなかった。だから俺は、いつまでも、いつまでもアスナの顔を、その懐かしいはしばみ色の瞳を見上げつづけた。
そよ風が穏やかに吹き過ぎ、連れ立って舞う蝶が俺たちのあいだを横切って、青い空へと消えた。
それを見送ったアスナが、視線を戻し、そっと右手を差し出した。
触れたら、幻のように消えてしまう気がした。
いや、そんなはずない。
アスナにはわかっていたんだ。この世界がもうすぐ閉ざされること。再び現実世界に戻れるのは、果てしない時の流れの彼方であることが。だから、残った。俺のために。もし立場が逆だったら、同じ選択をするであろう俺のためだけに。
俺も手をのばし、アスナの小さな手を、しっかりと握った。
引かれるまま立ち上がり、あらためて、間近から美しいヘイゼルの瞳を見つめる。
やはり言葉は出てこなかった。
しかし、何を言う必要もない気もした。だから、俺はただ、細い身体を引き寄せ、強く抱いた。
胸にすとんと頭を預けてきたアスナが、囁くように言った。
「……向こうに戻ったとき、アリスに怒られちゃうかな」
俺は、あの勝気な黄金の騎士が、蒼い瞳に火花のような輝きを浮かべて俺たちを叱るようすを思い描き、小さく笑った。
「だいじょうぶさ、俺たちがちゃんと覚えていれば。アリスと過ごした時間を、一秒でも忘れたりしなければ」
「……うん。そうよね。アリスのこと……リズや、クラインや、エギルさんや、シリカちゃんや……それに、ユイちゃんのこと、わたしたちがずっと覚えていればだいじょうぶ、だよね」
俺たちは抱擁を解き、頷き合って、同時に無人の神殿を見やった。
機能を停止した白亜の遺跡は、世界の果ての柔らかな日差しの下で、静かな眠りについていた。
振り向き、手をつないだまま、敷石の続く小道を歩きはじめる。
色とりどりの花の間を、ほんのしばらく進むと、浮島のふちに辿り着いた。
深い青に染まる空の下、世界がどこまでも広がっていた。
アスナが、俺を見上げ、尋ねた。
「ね、わたしたちは、これからこの世界でどれくらい過ごすの?」
俺は、しばし沈黙を続けたあと、真実を口にした。
「最短でも二百年、だそうだ」
「ふぅん」
アスナはひとつ頷いて、ずっと昔から何も変わらない笑顔をにっこりと浮かべた。
「たとえ千年だって長くないよ。キミと一緒なら。…………さ、いこ、キリトくん」
「……ああ。いこうアスナ。すべきことはたくさんある……この世界は、まだ生まれたばかりなんだ」
そして俺たちは、手をとりあい、翼を広げ、無限の青空へと最初の一歩を踏み出す。
(第八章 終)