ガブリエル・ミラーは、長い空中階段を駆け上っていく"アリス"ともう一人の少女の姿をちらりと確認し、二人がシステムターミナルに到達するまでの残り時間を五、六分と見積もった。
となれば、唐突に出現した邪魔者との戦闘にかまけている余裕は無い。即刻無力化し、浮島へと急行するのが論理的な判断というものだろうが、新たな敵にほんのわずかな興味を覚えて、彼はその場に滞空し続けた。
一瞥したところでは、ただの子供にしか見えない。
先に戦い、相討ちとなった初老の騎士と比べれば、威圧感など無に等しい。おそらくは、"シノン"と同じくK組織に協力する現実世界人のVRMMOプレイヤーなのだろうが、圧力という点ではあの少女にすら劣る。
なぜなら、眼前の黒衣の若者は、闘気のたぐいをほとんど放散していないからだ。
何者か、と尋ねたその瞬間だけ、僅かに意思を吸い出すことができたものの、その回路もすぐに遮断されてしまった。以降は、まるで透明な殻に包まれているかのようにガブリエルの思考走査を弾き続けている。心を味わえぬ敵などとは、戦っても何も面白くない。
すぐさまステータス数値的に殺害・排除し、アリスを追おうと一度は考えた。
しかし若者がコートの裾をコウモリの翼状に変化させ、更に全属性の魔法を同時に操るのを見て少しだけ気が変わった。この世界に慣れている、と感じたからだ。
アリスを確保し、STL技術とともに第三国に脱出したあとは、自分だけの世界を隅々まで好みに合うように構築する作業が待っている。それを効率的に行うためにも、若者が持っている操作技術を奪っておくのは悪くない。
そのためには、あのイマジネーションの殻を破壊する必要がある。
ガブリエルは薄い笑みとともに、黒衣の少年に向けて言葉を放った。
「三分やろう。私をせいぜい楽しませてくれ」
「……気前のいいことだな」
俺は、指先の一撫でで傷を塞ぎながら呟いた。
だが、ガブリエル・ミラーの余裕にはたっぷりと裏づけがある。何と言っても全属性の攻撃に対して無敵なのだ。
――いや、たった一つだけ、通用するダメージも無くはないだろう。奴の右腕を肩から吹っ飛ばしたのは、恐らく先行していたシノンだ。イマジネーションで狙撃銃を作り出し、撃ち抜いたのだ。つまり、"銃撃"属性の攻撃ならばさしものガブリエルも吸収しきれないということになる。
その理由は、あの男がまがりなりにもミリタリージャケット姿であることと無関係ではあるまい。兵士としての長い経験を通して大口径銃の威力を知り抜いているがゆえに、自分が撃たれたときのダメージもまた無効化できなかったのではないか。
だが、このアンダーワールドで銃を具現化するなどという離れ業は、愛銃ヘカートIIを手足のように扱うシノンだからこそ出来たことだ。俺にはとても真似できないし、仮に拳銃ひとつくらい作り出せたところで、とても威力までは伴うまい。
つまり俺は、銃撃属性以外に、何かあの奇怪な男がダメージとして認識し得るものを見つけ出す必要がある。
それは即ち、ガブリエルという人間を知るということだ。どのように生き、何を望み、何故今ここに居るのかを看破しなくてはならない。
左右の剣をぴたりと構え、俺は口の端に笑みを浮かべた。
「いいだろう、楽しませてやるよ」
いったい、あの態度の根拠は何なのか。
長期間アンダーワールドにログインし、システムに慣れているのは確かだろうが、しかしたかがゲームプレイヤーの子供ではないか。大仰に両手に握った剣や、派手派手しい魔法攻撃の全てが無力であることを思い知らされたばかりだというのに、何故ああもふてぶてしく笑っていられるのか。
ガブリエルはかすかな不快感とともに考え、つまりは時間稼ぎのための虚勢だと結論づけた。
たとえこの世界で死のうとも、現実の肉体には何の傷も負わないとたかをくくっているのだ。その上で、もう一人の仲間がアリスを確保するまで戦闘を引き伸ばすことだけを考えている。
所詮は愚昧な子供だ。付き合うのは三分でも長すぎる。
かりそめの右腕に握った、虚ろなる刃をゆらりと振り――ガブリエルはそれを、自らが乗る有翼生物の背に無造作に突き刺した。
もともとこの怪物は、剣やクロスボウと同じく、"サトライザ"のアカウントが所持していた飛行用バックパックがコンバート時に置換されたものだ。意思のままに制御できるとは言え、両足だけで乗っているのは安定感に欠ける。あの少年のように、翼だけにしたほうが合理的というものだ。
背中を串刺しにされた怪物は、ギイッと短い悲鳴を上げただけで、たちまち虚無に吸い込まれた。ガブリエルは、剣を通して右腕に流入してきたデータを背中に回し、意思を集中させた。
ばさっ。
という羽ばたき音ともに、少年と同じく黒い翼が肩甲骨のあたりから伸長した。しかし、こちらはコウモリのような皮膜型ではなく、鋭い羽毛を重ねた猛禽のそれだ。天使の名を持つ自分には、こちらのほうが相応しい。
「……一つ、盗んだぞ」
ガブリエルは、虚無の刃を若者にまっすぐ向けながら囁いた。
次の攻撃で、敵の乗る円盤型の飛行生物を陥とそうと思っていた俺は、先手を打たれて一瞬判断力が低下した。
その隙を逃さず、黒い猛禽の翼を羽ばたかせてガブリエルが間合いに滑り込んでくる。
ノーモーションで突き込まれてきた刃の速度は、驚くべきものだった。剣技に関しては素人と睨んでいたがとんでもない。十字にクロスさせた二本の剣で、下から救い上げるように受ける。
ぎじゅっ!
と異様な音とともに、青黒い闇の剣が俺の鼻先で停止した。
青薔薇の剣と、夜空の剣が激しく軋む。かろうじて虚無に喰われはしないものの、言わば断絶空間と切り結んでいるようなものだ。天命に巨大な負荷がかかっていることは想像に難くない。
しかし、バックステップで回避せず、あえて危険を冒してブロックで受けたのは作戦のうちだった。俺は、下から突き上げた剣が再度斬り降ろされてくる勢いを利用し、思い切り身体を後転させた。
「ラァ!!」
気合とともに、ガブリエルの顎目掛けて真下から蹴りを浴びせる。
橙の光を引きながら伸び上がったつま先が、尖った顎下を捉えた。ボッ、と闇が飛び散り、敵が仰け反る。
――どうだ!?
翼で強く空気を叩き、距離を取りながら俺は敵の様子を確かめた。銃撃、とまでは行かなくとも、"打撃"ならば――奴がほんとうに特殊部隊の兵士なら、当然格闘術の訓練も受けているはずゆえ、ダメージと認識する可能性はある。
かくん、と頭を戻したガブリエルは、しかし、表面的にはまったく無傷だった。
顎から飛び散った黒い闇は、すぐに元通りに凝集して滑らかな皮膚へと変わった。そこを左手で撫でながら、敵はにやりと笑った。
「なるほどな。しかし残念ながら、そんな大技はショウ・アップされたテレビ向けの代物だ。本物のマーシャル・アーツというのは……」
びゅっ!!
と空気を鳴らし、言葉半ばで、ガブリエルはその姿が霞むほどの速度で突っ込んできた。左上から振り下ろされる剣を、俺は反射的に青薔薇の剣で弾き、同時に右手の剣で反撃した。敵の肩口に刃が食い込み、まるで高濃度の粘液に包まれたかのような手応えとともに動かなくなる。
と、伸びきった俺の右腕に、するりと絡みつくものがあった。ガブリエルの左腕だ。黒い蛇のように巻きつき、たちまち逆関節を極められ――。
ごきっ。
という嫌な響きとともに、俺の脳天に銀色の電流にも似た激痛が走った。
「ぐあっ……」
呻く俺の眼を間近から覗き込み、ガブリエルは囁いた。
「……こういうものだ」
直後、猛烈なラッシュが開始された。
虚無の剣が、無限にも思える連続技を超高速で撃ち込んでくる。それを右手の剣一本でどうにか捌こうとするが、時折防御を抜けてきた一撃が、体のあちこちを浅く抉り取っていく。へし折られた左腕を回復させるために精神を集中する暇などまったく無い。
「く……おっ……」
思わずうめき声を漏らし、俺は距離を取るべく翼を強く羽ばたかせた。
全力でバックダッシュしながら、剣を握るだけで精一杯の左腕に右手の指を二本這わせる。
白い光が集まりかけた、その時。
ガブリエルがすっと左手を掲げ、鉤爪のように五指を曲げてから、一気に開いた。
十本以上の漆黒のラインが放射状に広がり、途中で鋭角に折れてまっすぐ襲い掛かってくる。
俺は歯を食いしばり、イマジネーションの防壁を展開した。アリスの竜たちを襲った同じ技を弾いたときは強固な確信があったが、今は集中力の半分を治癒に割いている――という認識それ自体が、盾の強度を減少せしめ――。
ズバッ。
という震動が、体の数箇所に生じた。
防壁を貫通した闇の光線三本が、胴と両脚を穿った。痛みよりも先に、凄まじい冷気が感覚を駆け巡った。見れば、撃たれた箇所には青黒い虚無がまとわりつき、俺の存在そのものを喰らっている。
「ぐ……!!」
再び唸りながら、大きく息を吸い、気合を放つ。それでようやく虚無は剥がれたが、新たな傷口から大量の鮮血が迸った。
「ハハハ」
乾いた声に顔を上げると、ガブリエル・ミラーがその刃のような相貌を歪め、笑っていた。
「ハハハ、ハハハハハ」
いや、これは笑いではない。唇はつり上がっていても、目元は一切動かず、硝子のごとく青い瞳にはさらなる飢えだけが渦巻いている。
ガブリエルは、両腕をゆっくり体の前で交差させると、力を溜めるような仕草を見せた。
闇が重く身震いする。炎のように激しく揺れ動き、その厚みをどこまでも増す。
「ハ――――――ッ!!」
強烈な気声とともに、腕が左右に開かれた。
ズッ、と新たな黒翼が二枚、すでにある翼の上から伸び上がり、大きく広がった。さらに下側からももう一対。
計六枚になった巨大な翼を上から順に羽ばたかせ、ガブリエルは徐々に高度を増していく。撫で付けられていた金髪が波打ちながら広がり、その頭上に漆黒のリングが輝く。
いつしか両眼も、人のそれではなくなっていた。眼窩にはただ、蒼い光だけが満たされている。
まさしく――死の天使だ。
人の魂を狩り、奪い去る超越者。このような自己像を持つものに対して、いったいどんな攻撃が有効だというのか。
俺は、恐怖の具現化たるその姿から視線を外し、手をつないで空中階段を駆け上るアスナとアリスの姿を確認した。まだ、道程の半分をやっと過ぎたところだ。ターミナルまで到達するにはあと二分、いや三分はかかろうか。
たったそれだけの時間すら稼げるかどうか、俺はすでに確信することができなくなっている。
なんという、全能感だ。
全身を駆け巡るパワーの、あまりの強烈さにガブリエルは三度目の哄笑を放った。
なるほど、これがこの世界におけるイマジネーションの真髄――"心意"というものか。
竜巻の巨人と変じた暗黒将軍や、時間を斬った敵騎士の力の秘密をついに手に入れたのだ。ガブリエルは今まで、彼らの技を未知のシステムコマンドに拠るものと思っていたが、そうではなかった。要は、いかに強く己が力を確信できるかだけだ。すべて、あの子供が眼前であれこれ実演してくれたお陰である。
感謝の意味で、もう一分くれてやろう。
ガブリエルは六翼を大きく広げ、闇のつるぎを高々と掲げた。
一分のあいだに、小僧の存在すべてを切り刻み、魂を抽出して喰らい尽くす。更なる力を我が物とするために。
青紫色の稲妻をまとわりつかせながら、ガブリエルは突撃態勢に入った。
もはや軍人ですらなくなってしまった敵の姿を、俺はただ見上げた。
あの男――いや存在が恐れ、脅威と認識するようなものなどもう何も思いつかない。既に銃撃ですら無効となった証として、吹き飛んでいたはずの右腕も、いつのまにか完全に再生している。
つまるところ、覚悟が足りなかったのだ。
ガブリエル・ミラーを甘く見ていたわけではない。その異質な気配は、最大の警戒に値するものだった。しかしだからこそ俺は、この戦いを始める前から、あるいは勝利を諦めてしまっていたのかもしれない。時間さえ稼げれば――、つまりアリスとアスナが脱出するまで戦いを引き延ばしさえすれば、俺も敵も二百年という時間の獄に囚われ、二度と現実に戻れないのだから。
ああ……そうか。
もしかして俺は、それを望んですらいたのだろうか?
アインクラッドを超える、真なる異世界。茅場晶彦が望み、創ろうとした理想郷。アンダーワールドはまさにそう呼ぶに相応しい。
俺はかつて、SAOに囚われた二年間のあいだ、自分が真に脱出を望んでいるのかどうか常に迷っていた。迷いながらも攻略組として最前線で戦い続けたのは、あの世界での生活にも厳然としたタイムリミットがあると認識していたからだ。病院のベッドに横たわり、点滴だけで命をつなぐ生身の体がいつかは衰弱の限界を超えるだろう、という。
しかし、加速されたアンダーワールドにはそれがない。倍率五百万倍となれば尚更、現実の肉体のことなど考える必要が無くなる。俺は魂の寿命が尽きるまで、この異世界に留まり続けられる。無意識にでも、そう考えなかったとほんとうに断言できるだろうか?
その結果――。
俺の大切な人たちが、どれほど哀しむかに思いを致しもせず。
直葉が、母さん、父さんが、ユイ、クライン、エギル、リズ、シリカ……その他多くの、俺を救ってくれた人たちが。
そしてアリスが。
アスナが。
どんなに嘆き、苦しみ、涙を流すかを、考える……こともなく……。
結局、俺は、人の心を知ることのできない人間なのだ。
中学生の頃、初めての友達を見捨て、仮想世界で斬り殺したあの時から、何も変わっちゃいないんだ……。
――違うよ、キリト。
懐かしい声。
氷のように冷えた左手に、かすかな温もり。
――君がこの世界を離れたくないと思ったなら、それは自分のためじゃない。この世界で知り合った人たちを、君が愛しているからだ。
――シルカを、ティーゼを、ロニエを、ルーリッドの人たちや、央都や学園で知り合った人たち、整合騎士や衛士たち……カーディナルさんや、もしかしたらアドミニストレータも……そしてたぶん、僕をね。
――君の愛は、大きく、広く、深い。世界すべてを背負おうとするほどに。
――でも、あの敵は違う。
――あの男こそ、心を知らない。理解できない。だから求める。だから奪おうとする。壊そうとする。それはつまり……
怖れているからだよ。
ガブリエル・ミラーは、黒衣の少年の頬に、細い涙の筋が伝うのを見た。剣を握る両手が、怯えるように胸の前に縮こまった。
恐怖か。
死に行く者の恐怖こそ、ガブリエルにとっては最も甘美な調味料だった。これまで手に掛けた多くの犠牲者が流した涙を、ガブリエルは舌で味わい、陶然としたものだ。
体の芯から湧き上がる巨大な渇きを感じ、尖った舌先で唇を舐めながら、ガブリエルは左手の指先を振りかざした。
たちまち無数の黒球が出現し、蠅のように唸る。
指先で小僧をポイントすると同時に、それらはすべて極細のレーザーへと変わり、空中を走った。
どす、どすどすっ。
確たる手応えとともに、華奢な五体のそこかしこに突き刺さる。闇と鮮血が絡まりながら迸る。
「ハハハハハ!!」
哄笑しながら一気に零距離まで肉薄したガブリエルは、虚無の剣を思い切り引き絞り――。
一息に、少年の腹を貫いた。
時間が圧縮されたような刹那ののち。
黒のシャツとコートに覆われた胴が、荒れ狂う虚無に引き裂かれ、呆気なく分断された。
飛び散る血と肉。骨。臓器。
紅玉のように美しいその輝きに、ガブリエルは左手を突っ込んだ。
少年の上半身からぶら下がり、尚も脈打つ最大の宝石――心臓を掴み、引き千切る。
掌のなかで、抵抗するようにどくん、どくんと震え続ける肉塊をそっと口元まで引き寄せ、ガブリエルは虚ろな表情で宙に漂う瀕死の少年に向かって囁きかけた。
「オマエの感情、記憶、心と魂の全てを……今、喰らってやるぞ」
そう言い放った死の天使の姿を、俺は、半眼に閉じた瞼の下から見つめた。
ガブリエルは、異様に赤い唇を大きく開け、まるで熟しきった林檎を齧るように、俺から奪った心臓に真っ白い歯を立てた。
……ざりっ。
という怖気をふるうような音が大きく響いた。
白面が大きく歪み、その口から俺のものではない血が大量に溢れた。
当然だ。
俺が、自分の心臓のなかに鋼素から生成しておいた無数の小刃を食ったのだから。
「ぐっ……」
唸り、口を押さえて後退するガブリエルに、俺は掠れた声で言った。
「そんな……ところに、心も記憶もあるものか。体なんか……ただの、器だ。思い出は……いつだって……」
ここにある。
俺という意識そのものと融けあい、一体となり、永遠に分かたれることはないのだ。
体が引き千切られた痛みは、もう痛みとも呼べぬほどの凄まじいものだった。しかしこの一瞬こそが、最大最後の機だ。逃せば二度目は無い。
ユージオだって、身体を分断されて尚戦ったのだ。
俺は両手の剣をいっぱいに広げ――鮮血を飛び散らさせながら叫んだ。
「リリース・リコレクション!!!」
青白と純黒の光が、同時に炸裂した。
前に向けた青薔薇の剣からは、氷の蔓が幾筋もほとばしり、ガブリエルの体を二重三重に締め付ける。
そして、まっすぐ掲げた夜空の剣からは――。
巨大な闇の柱が屹立し、天を目指した。
轟音とともに伸び上がった漆黒は、真紅の空を貫いてはるかな高みまで届き――まるで太陽そのものに激突したかのように、そこで四方八方へと広がった。
空が、覆われていく。
血の色が凄まじい速度で塗りつぶされ、真昼の光が消える。
暗闇は数秒で地平線まで達し、尚も彼方を目指し続ける。
いや、それは虚無的な闇ではない。滑らかな質感と、微かな温度を持つ、
無限の夜空。
無人の荒野、林立する奇岩群の根元にシノンはひとり横たわり、天命が尽きるその時をただ待っていた。
吹き飛んだ両脚の傷が間断なく疼き、意識を半ば以上霞ませている。胸元に残るチェーンの切れ端を、まるで命綱にすがるように強く握り締め続けるが、その右手にも徐々に力が入らなくなっていく。
薄れゆく思考が、はたしてログアウトを予告しているのか、それとも本物の失神へと至るものなのか分からなくなりかけた、その時。
空の色が、変わった。
真昼なのに不気味な血色を漲らせていた空が、南から凄まじいスピードで黒く覆われていく。太陽の光が遮断され、灰色の雲も塗りつぶされ――そして、まったき闇がシノンを包んだ。
違う。完全な暗黒ではない。
どこからか降り注ぐほのかな燐光が、頭上の岩山や、枯れた木々や、首元の鎖を薄青く照らし出した。暖かなそよ風が吹き渡り、前髪を揺らした。
夜だ。あまねく世界を、優しく、穏やかに包み、癒していく夜のとばり。
不意にシノンは、はるか過去の情景を思い出した。
こことは違う異世界の、砂漠での一夜。幼い頃に遭遇した事件の記憶に日々苛まれる苦しみを、シノンは思い切り吐き出し、ぶつけ、泣き喚いた。あのときそっと背中を抱き、受け止めてくれた腕の強さと優しさが、頭上の夜空にも満ちみちている。
そうか――この夜は、キリトの心なんだ。
あの人は、決して眩しい太陽じゃない。人々の先頭に立ち、燦々と輝くことはない。
でも、辛いとき、苦しいときにはいつだって後ろから支えてくれる。悲しみを癒し、涙を乾かしてくれる。ささやかに、でもたしかに煌く星のように。夜のように。
いま、キリトはこの世界を、ここに生きる人たちを守るための、最後の戦いのさ中にいるのだろう。巨大すぎる敵に抗い、抗いつづけて、最後の力を振り絞っているのだろう。
なら、お願い――届けて、私の心も。
シノンは、涙に濡れる瞳で懸命に夜空を見上げ、祈った。
まっすぐ頭上に、水色の小さな星がひとつ、ちかっと瞬いた。
リーファは、無数のオークたちと拳闘士たちに囲まれて横たわり、やはり最後の時を待っていた。
もうテラリアの回復力を行使するために、右足を踏みしめる力も残っていなかった。切り刻まれ、貫かれた全身はただ凍るように冷たく、指先すらぴくりとも動かない。
「リーファ……死ぬな! 死んだらいげない!!」
傍らに跪くオーク族長リルピリンが、吼えるように叫んだ。その小さな眼に限界まで溜まった透明な涙を、リーファは薄く微笑みながら見上げ、囁いた。
「泣かない……で。私は、きっとまた……もどって、くるから」
それを聞いたリルピリンが、身体を丸め、肩を震わせるのを見てリーファは思った。
――お兄ちゃんを直接手助けはできなかったけど、でも、これでよかったんだよね。私は、ちゃんと役目を果たしたよね。そうでしょ……?
と、その瞬間。まるで、リーファの心の声に応えるかのように。
空の色が消えた。
真昼の空が、突如闇夜へと変じたことへの驚きの声が、オークや拳闘士たちのあいだに満ちた。リルピリンも濡れそぼった顔を上げ、いっぱいに両目を見開いている。
しかし、リーファは驚きも、恐れもしなかった。闇を追うように南から吹き渡り、やさしく頬を撫でた夜風に、兄の匂いを感じたからだ。
「お兄ちゃん……」
呟き、大きく空気を吸い込む。
リーファにとってキリトは、常に最も近く、そして最も遠い存在だった。
兄はたぶん、自力で真実を見出す前から、無意識下では察していたのだろうと思う。いまの父母が、自分のほんとうの両親ではないことを。リーファが物心ついた頃にはすでに、キリトは孤独と隔絶の色を濃くまとわりつかせていた。決して誰かと深く結びつこうとせず、友情が生まれかける端から自分で壊し続けた。
その性癖が兄をネットゲームに耽溺させ、その耽溺が兄に"SAOを解放すべき勇者"の役回りを導いたという事実を、しかしリーファは偶然の皮肉だとは思わない。同時に予定された救済だとも思わない。
それは兄が自ら選び取った道なのだ。選び、懸命に背負い続けようとする。それこそがキリトという人間の強さだ。
この夜空は、キリトがこの世界を、そこに住まう人々すべてを背負うと決意した証に他ならない。なぜなら――
……お兄ちゃんは、私よりもずっと、ずっと剣士なんだから。
リーファは、最後の力を振り絞って感覚のない両腕を動かし、胸の上で竹刀を握るように組んだ。
そして、念じた。兄の剣に、私の心の力よ、届け、と。
遥か頭上に、緑色の星がひとつ強く輝くのが見えた。
リズベットは、シリカの手を握り締めながら、無言で太陽の消えた空を見上げた。
空を夜闇が塗りつぶしていく途轍もない光景は、否応なくあの日のことを思い起こさせた。
SAOが開始されて二年が経った、初冬の午後。
店から飛び出したリズベットは、上層の底を埋め尽くすシステムメッセージの羅列に、ついにデスゲームがクリアされたことを知ったのだ。瞬間、キリトだ、と思った。キリトが、私の鍛えた剣を振るって最終ボスを倒したのだ、と。
現実に戻ってのちに、キリトはリズベットに言ったことがある。
――俺はあのとき、本当は負けたんだ。ヒースクリフに斬られて、確かにHPがゼロになった。でも、なぜかすぐには消えなかった。ほんの数秒だけど右手が動いて、相討ちに持ち込めた。あの時間をくれたのは、リズや、アスナや、クラインたち他のみんなだと思う。だから、ほんとうの意味でSAOをクリアした勇者は俺じゃないんだ。リズたちみんなが勇者なんだ。
その時は、何謙遜してんのよ、と笑って背中を叩いてしまったのだが、しかしあれはキリトの本心だったのだろう。彼は、こう言いたかったのだ。真に強い力は、人と人との心のつながりの中にこそある、と。
「……ね、シリカ」
リズベットは夜空から視線を外し、ちらりと隣の友人を見やった。
「あたしね……やっぱり、キリトが好き」
シリカも微笑み、答えた。
「私もです」
そして二人同時に、かすかな燐光を帯びる闇夜に顔を戻した。
目を瞑る寸前、少し離れた場所で高く拳を突き上げるクラインと、両腰に手を当てて何事か呟くエギルのシルエットが見えた。
同じように、それぞれのやり方で祈り、願う、数百人のプレイヤーたちの呟きを、リズベットは聞いた。
――あたしたちは、アミュスフィアだけでこの世界に接続してるけど……でも、届くよね、キリト。心が繋がってるもんね。
頭上に、同時に数百の星屑がさあっと広がった。
整合騎士レンリは、左手を騎竜・風縫の首にかけ、右手で少女練士ティーゼの左手を握ったまま、息をすることも忘れて突如訪れた夜闇を見つめた。
昼を夜に変えてしまうなど、教会に残されているどのような史書にも記述のない、恐るべき現象だ。しかし、レンリに恐れはなかった。
二本の槍に身体を貫かれ、不可避の死をいままさに受け入れようとしていた時、空から光の雨が降り注いで致命傷を跡形もなく癒した。あの雨とまったく等質の暖かさを、この夜ははらんでいる。
自分が最後まで生き残ってしまったことが、レンリには不思議でもあり、また許せないという気持ちもあった。騎士エルドリエのように、戦いのなかで雄々しく散ることこそが、もう名前も思い出せないかつての友に報いる唯一の道であると思い定めていたからだ。
しかし、レンリはあの光の雨のなかで感じた。
車輪つきの椅子から立ち上がることもできなかった黒衣の剣士。彼もまたたった一人の友を喪ったのだ。そしてその死の責が自らにあると苦しみ、心を閉ざしていた。
なのにあの人は立ち上がった。そして、レンリの神器・比翼と同じように己と友の分身たる二本の剣を操り、凄まじい力を発揮して数万の敵軍を滅した。彼は、その背中でレンリに教えてくれた。
生きること。生きて、戦い、命を、心を繋いでいくこと。それが――それだけが……。
「それだけが、強さの証なんだ」
呟き、レンリはティーゼの手を握る手にわずかに力を込めた。
黒髪の友達ともう一方の手を繋ぐ赤毛の少女は、ちらりとレンリを見上げると、夜闇のなかでも紅葉色に煌く瞳を和らげ、しっかりと頷いた。
三人は、再びまっすぐ漆黒の空を見上げ、それぞれの祈りを捧げた。
さあっと刷かれた数百の星屑のなかに、三つの強い輝きが星座となって瞬いた。
拳闘士団長イシュカーンは、跪くオークたちに囲まれて今まさに死にゆこうとしている緑の髪の娘を、言い知れぬ感慨とともに少し離れた場所から見つめた。
あの娘の戦いぶりは、鬼神と呼んでも追いつかぬ途轍もないものだった。それを見て、オークたちが皇帝の命に背き拳闘士団の救援に駆けつけた理由を、イシュカーンはようやく理解できたと思った。つまりオーク族は、あの娘が皇帝よりも強いと信じたのだ、と。
しかし、違った。
一万のオークがあの娘に従った――いや、恭順した理由はただ一つ、娘が彼らを人間だと言ってくれたからだと、族長リルピリンはイシュカーンに教えたのだ。誇らしげにそう告げたときのリルピリンの隻眼からは、かつてあれほど渦巻いていた憎しみの色が嘘のように抜け落ちていた。
「なあ、女……じゃねえ、シェータよ」
イシュカーンは、傍らに立つ灰色の女騎士の名を呼んだ。
「力ってのは……強ぇってのは、どういうことなんだろうな……」
今や無刀の騎士となったシェータは、束ねた長い髪を揺らし、首を傾げた。その涼しげな瞳が、背後に並んで立つ飛竜と、両肩に包帯を巻いた巨漢を順に見てからイシュカーンに戻され、そして唇が小さく綻んだ。
「あなたにも、もう分かってる。怒りや憎悪より、強い力があるってこと」
瞬間――。
見慣れたダークテリトリーの血の色の空が、闇に沈んだ。
息を飲み、頭上を振り仰いだイシュカーンの視線のまっすぐ先に、たったひとつ緑色の星がちかっと瞬いた。
シェータの手が伸び、星を指差した。
「……あれだわ。ほんとうの力。ほんとうの光」
「……ああ。…………ああ、そうだな」
イシュカーンは呟いた。左眼に滲んだもののせいで、星の緑色が滲んだ。
傷だらけの拳を、生まれて初めて殴るためではなく握り締め、拳闘士の長は勝利以外の何かのために祈った。
緑の星から少し離れたところに、真紅の星がひとつ炎のように燃え上がった。すぐ隣に、灰色の光が寄り添うように浮かんだ。
直後、生き残った拳闘士たちが控えめに武舞を唱和する声が響き、数百の星がさあっと広がった。
同じように、一万のオーク軍も夜空を見上げ、祈りに加わった。
そしてまた、背後に固まる暗黒騎士たちも続く。彼らの一部は、オーク軍に同調して謎の軍勢から拳闘士団を守ってくれたのだ。
星の数はたちまち千を超し、万を超えた。
東の大門に残る人界守備軍と、整合騎士ファナティオ、デュソルバート、さらに数名の下位騎士たちも、一様に言葉を失い夜空を見つめた。
彼らの胸中に去来する思いはそれぞれ異なっていたが、祈りと願いの強さは同じだった。
ファナティオは、世を去った整合騎士長ベルクーリが愛した世界、そしてまた体内に宿る新たな命がこれから生きていく世界のために祈った。
デュソルバートは、左手の指に輝く小さな指輪をそっと右手で包み込み、かつて対となる指輪を嵌めていた誰かと共に暮らした世界のために祈った。
他の騎士や衛士たちも、愛する世界が平和のうちに存続するように、祈りを捧げた。
遥か北方の山岳地帯では山ゴブリン族が祈り、荒野では平地ゴブリン族が祈った。
東方の湿地では夫や父の帰りを待つオークたちが祈り、西方の高台ではジャイアント族が祈った。
主なき帝城オブシディアの城下町では浅黒い肌の人間たちが、そして南東の草原地帯ではオーガたちが眼を閉じ、祈った。
夜のとばりは、果ての山脈を越え、人界にまでも一瞬で届いた。
遥か北方、ルーリッドの村の教会で、洗濯のための井戸水を汲んでいた見習いシスターのシルカは、高く澄んだ青空が南東の方角から暗闇に覆われていく光景に眼を奪われ、立ち尽くした。掌からロープが滑り、水面に落ちた桶がかすかな水音を立てたが、耳に届くことはなかった。
唇から漏れた囁きは、ひそやかに震えていた。
「……姉さま。…………キリト」
今、まさにこの瞬間――。
誰よりも愛する二人が、懸命の戦いを繰り広げていることを、シルカは夜風に感じ取った。
つまり、キリトは再び目覚めたのだ。ユージオを喪った悲しみの縁から、もう一度立ち上がったのだ。
シルカは短い草の上に跪き、両手を胸の前で組み合わせた。眼を閉じ、呟いた。
「ユージオ。お願い……姉さまとキリトを、守ってあげて」
祈りとともに再び見上げた夜空に、青い星がひとつちかっと瞬いた。
その周囲に、見る間に色とりどりの星が浮かび上がる。見れば、先ほどまで中庭で遊びまわっていた子供たちが、無言で地面に膝をつき、小さな手を握り締めている。
教会前の広場では商人や主婦たちが。
牧場や麦畑では男たちが。
村長の執務室ではアリスの父ガスフトが、森のはずれではガリッタ老人が祈った。誰一人、恐れ慌てる者はいなかった。
ルーリッドの上空を、無数の星々が埋め尽くすのに数秒とかからなかった。
同じように、少し南に上ったところにあるザッカリアの街のうえにも、数多の星屑が広がった。
四帝国の各地に点在する村や街の住民たちも一様に無言の祈りを捧げた。
さらに、人界の中央に位置する巨大都市セントリアの市民たち。修剣学院の生徒たち。
神聖教会に属する修道士や司祭たちすら例外ではなかった。
カセドラル五十階と八十階を結ぶ昇降板の操作係を務める少女は、その長い生を通して初めてすることをした。職務中に、硝子製の風素生成筒から手を離し、天窓の彼方に広がる無限の星空を見上げて両手を組み合わせたのだ。
彼女は、カセドラル以外の世界を知らなかった。最高司祭の死も、暗黒界軍の侵攻も、少女の人生にはこれまで何らの変化ももたらさなかった。
だから少女は、ただひとつのことだけを祈った。
もう一度、あの二人の若い剣士たちに会えますように、と。
広大なアンダーワールド全土を包む真昼の夜空に、色とりどりに煌いた星の数は十数万に及んだ。
それら星ぼしは、最果ての辺境のものから順に、鈴の音のような響きを奏でながらある一点を目指して流れはじめた。
世界の最南端。
ワールド・エンド・オールターと呼ばれる浮島の至近で、まっすぐ天に掲げられた一本の長剣のもとへと。
ようやく天辺の見えてきた階段を全速で駆け上っていたアリスは、足元の大理石にくっきりと映る自分の影が、より巨大な影に突如として溶け消えるのを見た。
息を詰め、背後を振り仰いだ瞳に飛び込んだのは、とてつもない光景だった。
虚無の剣を振りかざし、六枚の黒翼を広げる敵。
その身体に幾重にも巻きつき、動きを封じる氷の蔓。
氷の源、青白く輝く長剣を握るのは、飛竜の翼を背負う黒衣の剣士。
剣士の体は、胸から下が完全に喪われていた。瞬時に天命が全損して当然の状態で、尚も戦い続けるその心意力は驚異と言うよりない。
しかし、真なる奇跡はほかに存在した。
高々と掲げられた剣士の右手が握る、漆黒の長剣から膨大な闇の奔流がまっすぐ屹立し、空を、あまねく世界を覆っている。
いや、無明の闇ではない。
遥か北のかなたに瞬きはじめた無限の色彩、無数の光点は、あれは星だ。静謐なる輝きの群れが、空を……夜を彩っていく。
と――。
星たちが、動き始めた。
銀鈴のような、竪琴のような、清らかな音色を幾重にも奏でながら、まっすぐこの地を目指して集まってくる。白の、青の、赤、緑、黄色の線を細く、長く引いて、夜空に巨大な虹の弧を描き出す。
すべての星々が、全世界に生きる人々の心の力そのものの顕現であることをアリスは直感した。
人界人も。
暗黒界人も。
人間も。
亜人も。
いま、世界は祈りのもとにひとつになっている。
「……キリト…………!!!」
アリスはその名を呼び、高く左手をかざした。
私の心も。人造の騎士として、わずかな年月だけを生きたかりそめの心ではあるけれど、でもこの気持ちは――この胸に溢れる感動は、きっと本物だから。
左手から、眩く煌く黄金の星が放たれ、一直線にキリトの剣を目指して飛翔した。
アスナは、振り返らなかった。
キリトの死闘に応えるために唯一できるのは、たとえ一刹那たりとも無駄にせず、システムコンソールを目指すことだけだと解っていたからだ。
だからアスナは、アリスの手を引き、あらゆる心と体の力を振り絞って懸命に駆け続けた。
しかし、胸の奥に熱い想いが満ちるのだけは止められなかった。
想いはふたつの雫となって睫毛を滑り、宙にこぼれた。
夜風に運ばれ、舞い上がった雫は溶け合って、七色の光を放つ星になった。
闇にオーロラの尾を引き、まっすぐ飛んでいく星を一瞬だけ見上げ、アスナは振り向くことなく走った。走りながら、ただ信じた。
ガブリエル・ミラーは、なぜたかが氷如きに己が拘束されるのか理解できなかった。
つい先刻は、あらゆる属性の術式攻撃と、さらには剣による斬撃すらも完全に無効化してのけたではないか。
確かに、心臓に仕込まれた姑息な刃に口を傷つけられはした。しかしそれは、咀嚼の動作が口腔を実体化させてしまっただけのことだ。今はもう、全身を虚無のイメージに厚く覆いなおしている。
我は刈り取る者。あらゆる熱を、光を、存在を奪うもの。
深淵なり。
「NU……LLLLLLLL!」
人のものならぬ異質な唸りが、喉の奥から迸った。
背から伸びる三対の黒い翼すべてが、右手の剣と同じ虚無の刃へと変貌した。
それらを激しく打ち鳴らし、周囲の空間すべてを切り裂く。ようやく青白い蔓が引き千切れ、体の自由が戻った。
「LLLLLLLLLLLLL!!」
咆哮とともに、ガブリエルは七本の虚ろなる刃を全方位に広げた。
何も持たぬ左手をまっすぐ前に突き出し、今度はこちらが小僧を拘束するべく、闇のワイヤーを放とうとした、その時。
ようやくガブリエルは、空から赤い光が消えていることに気付いた。
そして、まっすぐ頭上に次々に降り注いでくる、無数の流星にも。
夜空の剣を解放したとき、俺は具体的なイメージを何ひとつかたちにすることが出来なかった。
心のなかにはただ、長いこと"黒いやつ"だったこの剣に名前を与えてくれたときの、ユージオの言葉だけが遠い残響となって蘇っていた。
しかし、剣から迸った闇が昼を夜に変え、その名のとおり夜空を作り出し。
夜空に突如流れた無数の星たちが、虹色の光柱となって剣に流れこんできたときに、俺は何が起きたのかを察した。
夜空の剣の力は、広汎な空間からのリソース吸収力である。
そして、この世界における最強のリソースは、決して太陽や大地からシステム的に供給される空間神聖力ではない。人の、心の力だ。祈りの、願いの、希望の力なのだ。
無限に降り注ぎ続けると思われた星光の、最後のひとつが剣に吸い込まれ。
そして、たった二つだけ地上から舞い上がってきた、金色と虹色の星が刃に融けた、その瞬間――。
剣全体が、とてつもない強さで純白に輝いた。
光は、柄から俺の腕へと流れ込み、身体をも満たしていく。さいぜん爆散させられた下半身も、白い光体となって瞬時に再生する。
そして左腕が星光に包まれ、握られた青薔薇の剣もまた眩く煌き――。
「お……おおおおおお!!」
俺は、二本の剣を大きく広げ、叫んだ。
「LLLLLLLLLLLLLLL!!」
眼前で、青薔薇の縛めを破ったガブリエル・ミラーが、同じく奇怪な咆哮を放った。
ガブリエルの姿は、もはや人のものではなくなっている。漆黒の流体金属のように不気味に輝く裸体を青黒いオーラが包み、眼窩から放たれるバイオレットブルーの光は地獄から漏れ出てくるかのようだ。
右手に握る、長大なる虚無の刃を高々と振りかざし、更に同じ刃へと変じた六枚の翼を全方位に伸ばしている。
直後、まっすぐ俺に向けられた左手から、密度のある冷ややかな細線が無数に溢れ、飛びかかってきた。
「……おぉッ!!」
俺は、気合とともに光の壁を放ち、それら全てを弾き返した。
背中から伸びる、輝く翼を一杯に広げ。
左右の剣をぴたりと構え、思い切り空を蹴る。
彼我の距離は僅かなもので、突撃は一瞬にも満たないはずだ。しかし、俺はその時間がどこまでも引き伸ばされるような加速感に包まれる。
俺の右側に、何者かの影が出現した。
黒い美髯を蓄え、長大な刀を帯びた見知らぬ壮年の剣士だ。ぴたりと連れ添う浅黒い肌の女剣士の肩を抱くその男は、俺を見て言った。
『若者よ、殺意を捨てるのだ。あやつの虚ろなる魂は、殺の心意では斬れぬ』
今度は、左側に初老の威丈夫が現れた。白い着流し姿に、鋼色の長剣を佩いている。魁偉な容貌ににやっと太い笑みを浮かべるのは、騎士長ベルクーリだった。
『恐れるな、少年。お前さんの剣には、世界そのものの重さが乗ってるんだぜ』
更に、ベルクーリの隣に、真っ白い素肌に長い銀髪を流した少女が出現する。
最高司祭アドミニストレータは、あの謎めいた銀の瞳と微笑みを俺に向け、囁いた。
『さあ、見せてみなさい。私から受け継いだ、お前の神威なる力のすべてを』
そして最後に、俺のからだに寄り添うように、ローブと学者帽姿の幼い女の子が現れた。茶色の巻き毛が流れる肩に小さな蜘蛛を乗せた、もう一人の最高司祭カーディナル。
『キリトよ、信じるのじゃ。おぬしが愛し、おぬしを愛する、たくさんの人々の心を』
小さな眼鏡のおくで、バーントブラウンの瞳が優しく瞬いた。
そして、彼らの姿は消え――。
最大の敵、ガブリエル・ミラーが最小の間合いに入った。
俺は、いっそうの力に満たされた両腕で、かつて最も修練し、最も頼った二刀剣技を放った。
"スターバースト・ストリーム"。連続十六回攻撃。
「う……おおおおおおお!!」
星の光に満たされた剣が、宙に眩い軌跡を引きながら撃ち出されていく。
同時に、ガブリエルの六翼一刃が、全方位から襲い掛かってくる。
光と虚無が立て続けに激突するたびに、巨大な閃光と爆発が世界を震わせる。
速く。
もっと速く。
「オオオオ――――ッ!!」
俺は咆哮しながら、意識と一体化した肉体をどこまでも加速させ、二刀を振るう。
「NULLLLLLLLLLLLLLL!!」
ガブリエルも絶叫しながら絶空の刃を撃ち返してくる。
十撃。
十一撃。
相討ち、放出されるエネルギーが周囲の空間を灼き、稲妻となって轟く。
十二、
十三撃。
俺の心には、怒りも、憎しみも、殺意もなかった。全身に満ち溢れる、無数の星の――祈りの力だけが俺を動かし、剣を閃かせた。
――この世界の、
十四撃。
――全ての人々の心の輝きを、
十五撃。
――受け取れ!! ガブリエル!!!!
最終十六撃目は、ワンテンポ遅れるフルモーションの左上段斬りだった。
攻撃を視認したガブリエルの蒼い眼が、勝利の確信に嗤った。
まっすぐ放たれた斬撃より一瞬速く、敵の左肩から伸びる黒翼が、俺の左腕を付け根から切り飛ばした。
光に満たされた腕が一瞬で爆散し、空中に青薔薇の剣だけが流れた。
「LLLLLLLL――――――!!!!」
高らかな哄笑とともに、ガブリエルの右手に握られた虚無の剣が、まっすぐ俺の頭上に振り下ろされた。
ぱしっ、
と頼もしい音が響き、俺のものではない白いふたつの手が、宙に漂う青薔薇の剣の柄を握った。
凄まじい炸裂音とともに、無数の星が飛び散り――
青薔薇の剣と、虚無の刃がしっかと切り結ばれた。
剣を握るユージオが、短い髪を揺らして俺を見た。
『さあ――今だよ、キリト!!』
「ありがとう、ユージオ!!」
確かな声で叫び返し。
「う……おおおおお――――!!!!」
俺は、十七撃目となる右上段斬りを、ガブリエル・ミラーの左肩口に渾身の力で叩き込んだ。
漆黒の流体金属を飛び散らせ、深く斬り込んだ剣は、ちょうど心臓の位置まで達して停まった。
瞬間――。
俺とユージオ、夜空の剣と青薔薇の剣を満たす星の光のすべてが、ガブリエルの裡へと奔流となって注ぎ込まれた。
ガブリエル・ミラーは、自身のうちに広がる虚ろなる深淵に、突如圧倒的なまでの正のエネルギーが大瀑布となって流れ落ちてくるのを感じた。
視覚は無数の流光に覆われ、聴覚を多重の音声が次々に通過していく。
――神様、あの人を……
――あの子を、無事に……
――戦を終わらせ……
――愛してるわ……
――世界を……
――世界を、
――世界を、守って……!
「……ハ、ハ、ハ」
心臓を少年の剣に貫かせたまま、ガブリエルは両手と六翼をいっぱいに広げ、哄笑した。
「ハハハ、ハハハハハハ!!」
愚か、愚昧、愚劣極まれり。
私の飢えを、果てなき虚無を、満たそうなどと。
それは所詮、宇宙そのものを人の手で暖めようという不遜な企てに過ぎないと――何故わからぬ!!
「一滴あまさず、呑み干し――喰らい尽くしてくれる!!」
ガブリエルは、両眼と口から蒼い虚無の光をほとばしらせ、叫んだ。
「できるものか! 人の心の力を、ただ恐れ、怯えているだけのお前に!!」
少年が、全身に黄金の波動を漲らせ、叫び返した。
剣が一層強烈に輝き――凍りついた心臓に、さらなる熱と光を叩き込んでくる。
視界が白熱し、聴覚が振り切れる。
それでも尚、ガブリエルは哄笑を放ちつづけた。
「ハハハハハ、ハ――――ハハハハハハ!!!」
俺に懼れは無かった。
敵の裡を満たす虚無はまさに果て無きブラックホールの如きだったが、しかし俺のなかにも、人々の心と祈りが作り出した巨大な銀河が煌々と渦巻いていた。
ガブリエルの眼窩と口腔から屹立するヴァイオレットの光が、徐々にそのスペクトルを変移させはじめた。
紫から赤へ。オレンジへ。イエローを経て――そして、純白へと。
ぴしっ。
とかすかな音が響き、夜空の剣を呑み込む漆黒の流体金属の身体に、ほんの小さな亀裂が走った。
もう一本。さらに、胸から喉へと。
亀裂からも、白い光が溢れ出す。背中の六枚の翼が、根元から白い炎に包まれていく。
哄笑を続ける口元が大きく欠け、肩や胸にも孔が開いた。
四方八方に、鋭い光の柱を伸ばしながらも、ガブリエルは嗤うのをやめようとしない。
「ハハハハハハハハハハアアアアアアアァァァァァァ――――――――」
声はどんどん周波数を上げていき、やがてそれは金属質の高周波でしかなくなり。
虚無の天使の全身が、くまなく白い亀裂に包まれて――。
一瞬、内側へ向けて崩壊、収縮し。
解放され。
恐るべき規模の光の爆発が、螺旋を描いて遥か天まで駆け上った。
「――――――ははははははは!!」
ガブリエル・ミラーは、哄笑しながらがばっと起き上がった。
眼に入ったのは、灰色の金属パネルを張られた壁面だった。日本語の注意書きステッカーが、配線やダクトに幾つも貼られている。
「ははは、は、は…………」
息を荒げて笑いの余波を収めながら、ガブリエルは何度か瞬きを繰り返した。改めて左右を見回す。
間違いなくそこは、オーシャン・タートル第一STL室だった。どうやら、予期せぬ要因により自動ログアウトしてしまったらしい。
何たる興ざめな結末だ。あのまま、無限とも言える魂の集合流を飲み尽くし、ついでに小僧の心も喰ってやろうと思っていたのに。今すぐ再ログインすればまだ間に合うだろうか。
顔をしかめつつ振り向いたガブリエルが見たのは。
STLのシートに横たわり、眼を閉じる長身の白人男性の姿だった。
……誰だ。
と一瞬思った。
襲撃チームにこんな隊員がいただろうか? それよりこいつは、私がダイブするためのマシンで一体何をしている……
そこまで考えてから、ようやく気付く。
これは、この顔は、自分だ。
ガブリエル・ミラーだ。
ならば、それを見おろしているこの私は……いったい、誰なのか?
ガブリエルは両手を持ち上げ、眺めた。そこにあったのは、ぼんやりと半透明に透ける、朧な光のかたまりだった。
何だこれは。何が起きたのだ。
その時――。
背後で、小さな声がした。
「……ようやく、こっちに来てくれたのね、ゲイブ」
さっと振り向く。
立っていたのは、白いブラウスと紺のプリーツスカート姿の、幼い少女だった。
長いふわふわした金髪の頭を深く俯けているため、顔は見えない。しかしガブリエルには、その少女が誰なのか、すぐに解った。
「……アリシア」
つぶやき、口元を綻ばせる。
「なんだ、そんな所にいたのかい、アリー」
アリシア・クリンガーマン。ガブリエル・ミラーが、魂の探求という崇高なる目的のために、はじめて殺した幼馴染の少女。
あの時、確かに見た清らかに輝くアリシアの魂を、捕獲しそこねたことはガブリエルにとって長らく痛恨事となっていた。だが、実は喪われてはいなかったのだ。ちゃんと傍に居てくれたのだ。
ガブリエルは、己を襲った奇妙な現象のことも忘れ、微笑みながら右手を伸ばした。
しゅっ。と凄まじい速さでアリシアの左手が伸び、小さな五指がガブリエルの手をきつく握った。
冷たい。まるで氷のようだ。ちくちくと、冷気が針のように突き刺さってくる。
ガブリエルは反射的に手を引こうとした。しかし、アリシアの左手は万力のごとく微動だにせず、ガブリエルは笑みを消し、眉をしかめた。
「……冷たいよ。手を離してくれ、アリー」
呟くと、金髪が素早く左右に揺り動かされた。
「だめよ、ゲイブ。これからはずっと一緒なんだから。さあ、行きましょう」
「行くって……どこにだい。だめだよ、私にはまだやるべきことがあるんだ」
呟きながら、ガブリエルは渾身の力で手を引っぱった。しかし動かない。それどころか、徐々に下に引っ張られていく。
「離して……はなすんだ、アリシア」
少し厳しい声を出したのと、ほとんど同時に。
さっ、とアリシアが頭を持ち上げた。
丁寧に梳られた前髪の下の顔が、視界に入ったその瞬間――。
ガブリエルは、心臓がきゅうっと縮み上がるような感覚に襲われた。
内臓がせりあがる。息が荒くなる。肌が粟立つ。
何だこれは。この感情は一体何なのだ。
「あ……あ、あ、あ……」
奇妙なうめき声を上げながら、ガブリエルはゆっくり首を左右に振った。
「離せ。やめろ。離せ」
無意識のうちに左手を持ち上げ、アリシアを突き飛ばそうとしたが、しかしその手も即座にがっちりと掴まれてしまう。冷え切った金属のような指が、ぎりぎりと肌に食い込んでくる。
うふふ。
とアリシアがわらった。
「それが恐怖よ、ゲイブ。あなたの知りたがっていた、本物の感情。どう、素敵でしょう?」
恐怖。
これまで探求と実験のために殺してきた人間たちが、いまわの際に一様に浮かべていた表情の源。
しかし、その感覚は、とても心地よいものとは言えなかった。それどころか、とてつもなく不快だった。こんなものは知りたくない。早く終わらせたい。
しかし――。
「だめよ、ゲイブ。これから、ずーっと続くの。あなたは永遠に、恐怖だけを感じ続けるの」
ずるり、と音がして、アリシアの小さな革靴が金属の床に沈みこんだ。
そして、ガブリエルの足も。
「あ……ア……やめろ。はなせ……やめろ」
うわごとのように口走るが、沈降は止まらない。
突然、床から白い腕がずぼっと飛び出し、ガブリエルの脚に巻きついた。もう一本。さらに。もっと。
それらが、これまで手にかけてきた獲物たちの手であることを、ガブリエルは直感的に察した。
恐怖はどこまでも高まっていく。心臓が恐ろしい速さで脈打ち、額を脂汗が流れる。
「やめろ……やめろ、やめろやめろやめろ――――――ッ!!」
ガブリエルはついに絶叫した。
「来てくれ、クリッター! 起きろヴァサゴ!! ハンス!! ブリッグ!!」
部下を呼んだが、しかしすぐ目の前にあるドアはしんと沈黙したままだ。隣のSTLに横たわるはずのヴァサゴも、起き上がる気配は無い。
いつしか、身体は腰までも床に飲み込まれている。両手を引っ張るアリシアは、もう肩までしか見えていない。
その"顔"が、完全に没する寸前、大きく笑った。
「あ……あああ……うわあああああ――――――――ッ!!」
ガブリエルは悲鳴を上げた。
何度も。何度も。
肩に、首に、そして顔に白い手たちが巻きつく。
「ああああ……ぁぁぁ…………ぁ………………」
とぷん、と音がして、視界が闇に沈んだ。
ガブリエル・ミラーは、己を待ち受ける運命を悟り、未来永劫放ち続けることになる悲鳴をいっそう甲高く迸らせた。
そして――。
アンダーワールドの時間流が、再びその速度を増しはじめた。
同期信号が途切れた瞬間、アミュスフィアを用いてダイブしていた数百人の日本人たちは自動切断され、それぞれの部屋やネットカフェのブースで、それぞれの感慨に熱く胸を浸しながら目覚めた。
彼らは皆、しばらく無言のまま、異世界で体験したことを噛み締め、考え、心に刻んでいたが、やがて目尻に滲んだ涙を拭うと、改めて携帯端末やアミュスフィアを操作した。先の戦闘で倒れ、ログアウトした友人たちに、すべてをありのまま伝えるために。
シノンとリーファは、再加速の寸前に、天命喪失によりアンダーワールドを去った。
ラース六本木分室のSTLで覚醒した二人は、なおも神経に漂いつづける痛みの余韻が薄れるのを待ちながら、瞳を見交わし、ふかく頷きあった。
シノンも、リーファも、キリトが蘇り、敵を倒し、世界を救って、もうすぐこの世界に戻ってくることを疑っていなかった。
次に会った、その時こそは――。
たとえ届かなくても、ちゃんと気持ちを言葉にしよう。
二人はそう心を決め、それを互いに悟って、小さく微笑んだ。
――しかし。
リミッターを完全解除されたSTRAシステムは、アンダーワールドに流れる時の鼓動を、これまでを遥か上回る領域にまで加速しようとしていた。
千倍を超え。五千倍を超え。
限界加速フェーズの名で呼ばれる、現実比五百万倍という時間の壁の彼方を目指して。
俺は、星の光が消え去った身体を宙に横たえ、背中の翼を力なく羽ばたかせた。
斬り飛ばされ、消滅したはずの左腕はいつの間にか再生していた。その手のなかの青薔薇の剣を、残された力で懸命に握りしめながら、俺は滲もうとする涙をこらえた。
剣のなかに焼きつき、これまで何度も俺を救い、励ましてくれたユージオの魂が、あの瞬間――ガブリエルの刃を揺るぎなく受け止めてくれた刹那に、ついに全て燃え尽きてしまったことを俺は悟っていた。
死者は還らない。
だから思い出は貴く、美しい。
「……そうだよな、ユージオ……」
呟いたが、応えはなかった。
俺はゆっくりと両手の剣を持ち上げ、背中の鞘に収めた。
直後、頭上の夜空が、その色を薄れさせはじめた。
闇が溶け、流れ、その彼方の光を甦らせていく。
……青。
ふたたび現れたダークテリトリーの空は、しかし、あの血の色ではなかった。
澄み切った青だけが、どこまでも広がっていた。