クリッターは、思わずコンソールに身を乗り出し、短い罵り声を上げた。
数万規模の黒い集合ドットが、中心から外側へ向けて急速に消滅していく。
つまり、ヴァサゴの秘策によってアンダーワールドに投入された中国及び韓国のVRMMOプレイヤーたちが、何らかの手段によって殲滅され、自動ログアウトしているのだ。
黒い円環の中央部には、いまだに青で表示される人界軍と、乳白色の日本人部隊が一千人規模で残存している。無視するには大きすぎる数だし、この千人に、三万の中韓連合軍を撃破する力があるというのなら尚更危険だ。
「……ヴァサゴのアホは何やってんだ……」
ちょっちょっと舌打ちしながら、クリッターはメインモニタをさらに凝視した。
日本人部隊の至近には、強く輝く赤ドットが一ついまも残存している。2番STLから、自前のアカウントをコンバートしてダイブ中のヴァサゴだ。
捕虜か何かになって身動き取れないのか? それとも、単身で千の敵軍をどうにかする手段がまだあるのか?
いますぐ隣のSTL室に駆け込み、ヴァサゴを叩き起こして襟首をがくがく揺さぶりたいという衝動をクリッターは堪えた。
サーバーに対するGM権限操作がロックされている現状では、アカウントの初期化もできない。つまり、ヴァサゴを強制ログアウトさせた場合、今のアカウントは二度と使えないのだ。どうにか可能なのは、ザ・シードプログラムとは切り離された機能である内部時間加速倍率の操作だけだが、それをするにも慎重にタイミングを図る必要はある。
大きく深呼吸してから、クリッターは視線を下に動かした。
アンダーワールドの深南部に、今も高速で移動中の赤ドットがもう一つ。襲撃チーム隊長、ガブリエル・ミラー中尉だ。
今考えるべきは、アリスを確保、あるいは追跡中のミラー中尉に、人界軍が追いつき邪魔をする可能性が依然としてあるかどうか、である。
アメリカ、中国、韓国から総数十万になんなんとするプレイヤーを送り込んだ結果、敵性勢力の南進は大きく阻害された。今やミラー中尉は、内部距離にして数百マイルも先行している。むろん、ジェット戦闘機ならばひと息に飛べてしまうが、アンダーワールドにそんなものが有るとは考えにくい。せいぜい、有翼の生物ユニット程度だろう。
――追いつきはするまい。
クリッターは、三秒ほどの長考のすえにそう判断した。
イージス艦突入のタイムリミットまで、もう現実時間にして十時間を切っている。ミラー中尉の指示は、残り八時間に達したところで加速再開だったが、外部から投入したプレイヤー集団がほぼ全滅した今、等速倍率を維持している意味は無い。
ならば、ふたたび内部を一千倍に加速し、ミラー中尉のアリス捕獲任務に充分な時間的猶予を作り出しておくべきだろう。
「しゃあねえ……ヴァサゴ、もうちっと根性見せとけー」
いまだ微動だにしない北部戦場の赤ドットにそう呟きかけ、クリッターはSTRA倍率操作レバーへと指を伸ばした。
レバーと連動する仕組みの、メインモニタ上のスライダーウインドウを見上げたところで、ふと横の目盛りに視線が停まる。
いまは、スライダーの針は一番下、×1のところに存在する。そこから、100刻みでスケールが切られ、×1000のところでいちど横に区切り線が引いてある。
実際には、目盛りはさらにその上にも続き、×1200でもう一度区切られる。どうやらそこが、STLを用いて生身の人間がダイブしている場合のセーフティラインらしい。
ところが、スライダーウインドウはまだまだ伸び、最終的には×5000にまで達しているのだ。住民がライトキューブ中の人工フラクトライトだけならば、内部時間はそこまで加速できるということだろう。
時間加速倍率は、レバーを操作し、その隣の開閉式カバーつきボタンを押し込むことで決定される。クリッターはボタンに触らぬよう注意しながら、そっとレバーを上に押し上げてみた。
モニタ上のスライダが滑らかに上昇し、隣でデジタル数字が目まぐるしく切り替わる。
×1000のところで、がくんという抵抗感。
強く押し込むとレバーはさらに動き、×1200で再び止まった。そこからはもう、どれだけ力を入れようともぴくりとも動く気配はなかった。
「ふうむ…………」
クリッターは好奇心を刺激され、飛行機のスロットルに似たかたちの大型レバーをじっと観察した。
するとすぐに、決定ボタンの反対側に、銀色に輝くキーホールがあることに気付いた。
「なるほどね」
坊主頭を一本指でこりこり掻きながら薄く笑う。
安全リミットが千二百倍、ということは、実際の危険域はもう少し上のはずだ。仮に内部時間がぎりぎりまで逼迫したような場合に備えて、安全装置の解除を試みておくのも悪くはあるまい。
くるりと振り向いたクリッターは、銃撃で孔だらけになった人型ロボットを取り囲みワイワイ言っている部隊員たちに、ぱちんと指を鳴らした。
「おおい誰か、ピッキングのスペシャリストはいないかー?」
なんて柔らかくて……いい匂いなんだ……。
それは間違いなく、ここ数ヶ月で最上の眠りだった。ゆえに比嘉タケルは、彼を揺り動かし目覚めさせようとする外部刺激に、限界まで抵抗した。
「……っと、比嘉君! ちょっとってば! 眼を開けてよ、ねえ!!」
しかし、それにしてもやけに必死だなあ。
まるで僕が死にかけてでもいるみたいじゃないか。
いくらなんでも大袈裟すぎるだろう。まさか刺されただの、撃たれただのって訳でもあるまい……し…………
「――――うお!?」
覚醒とともに一気に記憶が甦り、比嘉は喚きながら目を開けた。
すぐ眼前にあったのは、黒縁眼鏡を強烈に光らせた三十男の顔だった。
「うおわ!!!」
もう一度叫ぶ。
飛び退ろうとしたが、体が命令を拒否した。代わりに、右肩に凄まじい痛みが走り、比嘉は三度目の奇声を上げた。
――そうだ。
僕は、ケーブルダクトであの男に撃たれて……。
血がすんごい出たけど無かったことにして、STLの操作を優先したんだ。三人の女の子のフラクトライト出力を、桐ヶ谷君のSTLに直結したけど覚醒には至らず……その後、何かがあって……。
「……き、キリト君は」
打って変わって弱々しく掠れた声で、比嘉は聞いた。
答えたのは、清涼感のある女性の声だった。
「フラクトライト活性は……完全に回復したわ。それどころか、活動的すぎるくらい」
「そ……そうっ、スか……」
比嘉はふううっとため息まじりに呟いた。
あの状態から回復するとは、まさに奇跡だ。そして、自分があの出血で生きているのもまったく奇跡的――。
そこで、ようやく己の置かれた状況を確認する。
寝かされているのは、サブコントロールルームの床の上だった。右肩には包帯。左腕には輸血パック。
そして、体の左側に、覚醒時に見た眼鏡の男。菊岡二佐。右側に、白衣を脱いだ神代博士がそれぞれ座っている。
菊岡が、こちらもはあーっと息を吐きながら、首を左右に振った。
「まったく……あれほど無茶をするなと……いや、スパイが技術スタッフに居たことを看破できなかった私の失点だが…………」
いつも丁寧に梳かされていた前髪は乱れ、眼鏡のレンズには汗の雫が伝っている。見れば、神代博士のほうも汗だくだ。どうやら、二人で比嘉の救命措置にあたっていたらしい。ならば、夢うつつに感じた好ましい感触は、その時の……。
――ん?
どっちが心臓マッサージで、どっちが人口呼吸だったんだ?
比嘉は思わずそれを尋ねそうになったが、あやういところで口をつぐんだ。世の中には、追求すべきでない真実というものもある。
比嘉は、力の入らない身体をぐったり横たえたまま、眼を閉じて別の質問を口にした。
「アンダーワールドは……アリスは、どうなってますか」
菊岡が、比嘉の左腕を軽く叩き、答えた。
「アメリカ、中国、韓国からの接続者はすべて撃退された。ことに、中韓プレイヤーはどうやらキリト君が一人で片付けたらしい。流石というか矢張りというか、凄まじい力だね……それも、比嘉君の頑張りがあったればこそだが」
「えっ……中国と韓国からも来たんスか!? 援軍でなく……敵として!?」
思わず身体を起こそうとしてしまい、右肩から指先まで走った激痛に喘ぐ。
「ちょっと、無理しちゃだめよ! 弾は貫通したけど、神経をぎりぎりのとこで避けてたんだから……。中国、韓国に関しては、ネチズン間の緊張をうまく煽って接続させたみたいね。戦場トランス効果も、もちろんあったでしょうけど……」
「そう……ですか……」
比嘉は小さく慨嘆した。もともと、このアリシゼーション計画に身を投じたのは、イラン戦争で散った韓国人の親友のためという動機も何割かを占めている。なのに、計画がなりゆきとは言え日韓の若いネットワーカー達の対立を加熱させてしまったならば、不本意以外の何者でもない。
そこだけはどうにか動かせる首を小さく振り、比嘉は思考を切り替えた。
「中韓からは……どれくらい来たんッスか?」
「四万を超えていたようだ。日本本土から応援に来てくれたプレイヤーたち二千人は、ほぼ全滅した……」
菊岡が、錆び色を深めた声で呟いた。
「その時点で、中韓プレイヤーはまだ三万以上が残っていたが、幸いそこでキリト君が」
「えっ、なんですって」
比嘉は思わず指揮官の言葉を遮った。
「三万の大軍勢を、キリト君が一人で!? ……有り得ない。アンダーワールドに、そんな大規模かつ高威力な攻撃が可能な武器も、コマンドも存在しないッスよ。しない……はず、ッス……」
そこまでを口にしたとき、比嘉はようやく、あのスパイ――柳井に撃たれた前後のことを鮮明に思い出した。
柳井は、"最高司祭アドミニストレータ"なるアンダーワールド人に深く取り込まれていたようだった。いったいいかなる経緯で、そのような事態に至ってしまったのか。
それに、桐ヶ谷和人のSTLに接続していた、メインビジュアライザー内のイレギュラー・フラクトライト。ただのオブジェクトが、擬似的にせよ人の意識として機能するなどと、まったく想定もしていなかったことだ。
「……ねえ……菊さん…………」
比嘉は、大量失血によるもの以外の寒気を背中に感じながら、指揮官に呟きかけた。
「もしかしたら……僕らは……何か、とんでもないものを……」
その時だった。
コンソールのほうから、鋭いアラーム音が部屋中に響いた。
それは、比嘉が設定した、時間加速倍率の変動警報に他ならなかった。
アンダーワールドで最も高速に移動しうる属性である光素因に、肉体と装備のすべてを組成転換し、俺とアスナは飛んだ。
とは言え、そのスピードは現実世界で言うところの光速には程遠い。はるか南を行くアリスに追いつくには、最低でも三分はかかりそうだ。
この時間を利用して、アスナに言いたいこと、謝りたいこと、感謝したいことは山ほどあった。しかし俺は、手をつないで右側を飛翔するアスナの光り輝く姿を、どうしても直視できなかった。
理由は――。
覚醒直後の、全身の血液が炎に変わってしまったかのような全能感覚が薄れるにつれて、直近の記憶がみるみるうちに整理整頓鮮明映像化していったからだ。
問題は、昨日の深夜の光景である。
馬車の荷台に寝かされた俺の周りに、アスナとアリスとロニエが輪になって座り、全員が順番に俺の思い出あるいは悪行の数々を披露し続けるというあの一幕を、生き地獄と言わずして何と言おう。
――キリト先輩ったら、傍付きをしてたすっごい美人の上級生さんが卒業するとき、西部帝国にしか咲かない花のブーケ贈って大泣きさせたんですよー。
――そういえば、整合騎士団の女副長もやたらと気に入ってたみたいだわ。"坊や"とか呼んでたわよあの人。
「うっ…………」
思わず両手で頭を抱えてしまう。
「うぎゃ――――――」
これが呻かずにおれようか。
しかしその瞬間、意識集中が途切れ、体の属性がたちまち元に戻った。物凄い風圧が全身を叩き、ひとたまりもなくく錐揉み落下状態に陥る。
やべ、と呟きながら、とりあえずロングコートの裾を飛竜の翼に形状変化させ、姿勢を制御する。と――。
「きゃあああああ!!」
はるか上空から、スカートの裾を押さえながらアスナがまっすぐ落ちてきた。
もう一度、やばっと口走りつつ慌てて両手をいっぱいに伸ばす。
危ういところでキャッチした瞬間、アスナの真ん丸く見開かれたはしばみ色の瞳と、ばっちり眼が合った。ここだ。謝るならここしかない。
「アスナ……ちがうんだ!!」
ってこれじゃあ謝罪でなく言い訳じゃないか。しかしもう後戻りはできない。
「ソルティリーナ先輩やファナティオ副長とは、まったく何にもなかった! ステイシア神に誓って、なん〜〜〜にもなかった!!」
俺の必死の弁解を聞いたアスナの顔が――。
ほにゃ、と緩んだ。小さな両手で俺の頬を挟み、どこか呆れたように言う。
「……変わってないねえ、キリトくん。こっちで二年もがんばってたっていうから、少しは大人になったのかな……って……思ったけど…………」
突然、アスナの両眼から、透明な雫が溢れた。唇がわななくように震え、掠れた声が押し出された。
「よかったぁ……キリトくんだ……何にも、変わってない……わたしの……」
「そんな……俺は、俺だよ。変わるわけない」
「だって……なんだか、神様みたいだったんだもん。あんなすごい大軍を、一瞬で片付けちゃうし……二百人を一発ヒールするし……おまけに、空飛ぶし……」
これには思わず苦笑してしまう。
「この世界の仕組みに、他の人よりちょっと詳しいだけさ。飛行くらい、慣れればアスナもすぐできるようになる」
「できなくていい」
「え?」
「こうして、抱っこして飛んでもらうからいい」
アスナは泣き笑いの顔でそう言うと、両手を俺の顔から背中へと移し、ぎゅっと抱きついてきた。摺り寄せられる頬に、俺も強く抱擁を返し、改めて口にする。
「ほんとに……ありがとな、アスナ。あんなに傷だらけになってまで、人界の人たちを守ってくれて……痛かったろうに……」
この世界における苦痛の鮮明さを、俺は二年前、果ての山脈で隊長ゴブリンに斬られたときに知った。あの時は、たかが肩を掠められただけだったのに、痛みのあまりしばらく立ち上がれなかったほどだ。
なのにアスナは、外部接続者の大軍を向こうにまわし、全身に惨い傷を受けながらも戦い抜いた。アスナのがんばりがなければ、ティーゼやロニエたちの人界部隊は、ずっと早く全滅していただろう。
「ううん……わたしだけじゃないよ」
俺の言葉を聞いたアスナは、触れ合う頬をそっと横に動かした。
「シノのんや、リーファちゃんや、リズや、シリカちゃん、クライン、エギルさん……それに、スリーピングナイツやALOのみんなも、ものすごく頑張ってくれた。それに、整合騎士のレンリさんや、人界軍の衛士さんたちや、ロニエさん、ティーゼさんも……」
そこまで言いかけて、アスナははっとしたように身体を強張らせた。
その理由を、俺は続く言葉を聞くまえに察していた。
「あっ……そうだ、キリトくん! 騎士長さんが……ベルクーリさんが、敵の皇帝を追いかけて、ひとりで……」
「…………」
俺は――ゆっくりと、首を左右に振った。
ついに直接言葉を交わす機会のなかった最古騎士ベルクーリの巨大な剣気が、すでにこの地上に存在しないことを知覚したからだ。
彼とは、この戦争が始まる直前、たった一度だけイマジネーションの刃――彼は"心意"と呼んでいた――を打ち合わせた。徐々に蘇っていく俺の記憶のなかでは、ベルクーリはすでにそのとき己の死を予感していた。
彼は三百年の生の終着点に、アリスを守るための戦いを選んだのだ。
俺の動作の意味を悟り、アスナは両腕に一層の力を込めると、小さく啜り泣いた。しかしすぐに嗚咽を押し殺し、尋ねた。
「……アリスさんは……無事なの……?」
「ああ。まだ捕まってはいない。もうすぐ、世界の果てに……三つ目のシステム・コンソールに到着する」
「そう……なら、わたしたちが守らないと。ベルクーリさんのために」
そっと離されたアスナの顔は、涙に濡れてはいたが強い決意に満ちていた。俺も、ゆっくりと頷き返した。と、アスナの瞳が、わずかに揺れた。
「でも、いまは……少しだけ、もう少しだけ、わたしだけのキリトくんでいて」
囁きとともに近づいた唇が、強く俺の唇を塞いだ。
異世界の赤い空の下、ゆっくりと黒い翼を羽ばたかせながら、俺とアスナは長い、長いキスを交わした。
この瞬間――俺はようやく、なぜ二年半前に俺がこの世界に落とされたのかを思い出した。
あの、六月の雨の日。
アスナを自宅に送る道すがら、俺たちは"死銃事件"の最後の主犯にして"ラフィン・コフィン"の幹部、ジョニー・ブラックに襲われたのだ。筋弛緩薬を大量に注射されたところで記憶は完全に途切れる。おそらく俺は呼吸停止に陥り、脳になんらかのダメージを負い、その治療のためにSTLとアンダーワールドが使われたのだろう。
SAO時代の怨霊と言うべき、赤眼のザザとジョニー・ブラックは逮捕され、なんの因果かオーシャンタートルの襲撃者たちに紛れていた頭首PoHも今や小さな樹の姿で拘束されている。時間加速が再開すれば、外部から強制切断されるまでにあのまま感覚遮断状態で何日、何週間過ごすことになるのかは定かでないが、精神には少なからぬダメージはあるはずだ。少なくとも、この半年間の俺と同じくらいの。残酷だとは思うがやりすぎとは思わない。絶対に。
奴は、アスナを狙うと言ったのだから。
存在が溶け合うほどの、めくるめく時間が過ぎ、俺とアスナは唇を離した。
「思い出すね、あのときを……」
アスナが、そう言いかけ、不意に唇をつぐんだ。その理由はすぐに分かった。
あのとき――とは、SAOクリア後の浮遊城崩壊のさなか、赤い夕焼け空の下で交わしたキスのことだ。あれは、そう、別れのキスだった。
俺は微笑み、不吉な予感を振り払うようにしっかりと言った。
「さあ、行こう。敵を倒し、アリスを助けて、みんなで現実世界に……」
その言葉が終わる前に。
頭の中央に直接、切迫した大声が鳴り響いた。
『キリト君!! 桐ヶ谷君!! 聞こえるか!? キリト君!!』
この、錆びた声は――。
「え……あんたか? 菊岡さん?」
『そうだ、聞こえてるな! すまん……大変なことになった!! 時間加速倍率が……やつら、STRAのリミッターを……!!』
額に血管を浮き上がらせ、キーホールに突っ込んだ二本のワイヤをこねくり回すブリッグの髭面を、少々の不安を感じつつクリッターは見守った。
鍵開けならまかせてもらおう、と威勢のいい台詞とともに立候補したものの、さすがにSTRA操作レバーのセーフティだけあって安アパートの旧式シリンダー錠とは訳が違ったらしい。指先の動きはどんどん乱暴になり、吐き出される罵り言葉のボリュームも上昇する一方だ。
ブリッグのすぐ後ろに立つハンスが、左手首のクロノメータを覗き込みながら楽しそうに言った。
「はーい、三分経過よぉ。あと二分で五十ドルだからねぇ〜」
「うるせえ、黙ってろ! 二分ありゃ……こいつを開けたあと、ハワイで一泳ぎして、帰って……これるぜ……」
ワイヤが立てるがちゃがちゃ音が、解錠と言うより破壊行為じみてきたところで、クリッターは「やっぱもういい」と口を挟もうとした。が、この二人がギャンブルを始めてしまった以上、決着を見るまでもう誰にも止められない。
「はいあと一分〜。そろそろサイフの準備しといたほうがいいわよぉ〜」
「ホーリー・シット!!」
巨大な喚き声とともに、突然ブリッグが立ち上がり、ワイヤの切れ端を床に叩きつけた。
やっと諦めてくれたか、とクリッターが内心ほっとした、その時。
顔面を赤黒く染めた兵士は、無言で腰のホルスターから馬鹿でかいハンドガンを抜き出し、銃口をキーホールに向けた。
「おい……ま…………」
轟音。もう一発。
彼以外の全員が呆然と黙り込むなか、ブリッグはデザート・イーグルを腰に戻し、まずハンスを、次いでクリッターを見てから肩をすくめた。
「開いたぜ」
クリッターは口をぽかんと丸くしたまま、視線を動かして、今や直径二インチの黒い孔になってしまった鍵穴を眺めた。
暗闇の奥で二、三度火花が散り、直後、斜めの状態で静止していた操作レバーがゆっくりと傾きはじめた。五インチほど動いたところで、がこ、とかすかな音とともに停まる。モニタのデジタル表示を確認すると、クリッターが意図した1200倍のちょっと上――どころか、設定上限の×5000という数字がこうこうと輝いている。
その時、再びがこんという音が響いた。
レバーが、更に奥へと傾いていく。
「う……うそ…………」
呟いたクリッターの眼前で、デジタル数字も5000を超え――10000を超え……。
いや、まだ大丈夫だ。処理実行ボタンに触れなければ、実際に倍率が変動することはない。そっとレバーを戻し、無かったことにするのはまだ可能だ。
「おい……触るなよ!! 誰も触るなよ!!」
裏返った声でそう喚きたて、クリッターはハンスとブリッグを手振りでコンソールから遠ざけた。
振り返り、そっとレバーに右手を伸ばす。
ボンッ。
というささやかな爆発音は、クリッターの手がレバーに触れる直前に響いた。
ハッカーのすぐ眼前で、赤いボタンが、透明カバーごと吹っ飛んだ。
メインコントロールルーム正面の壁いっぱいに広がる大モニタ全体が真っ赤に染まり、スピーカーから耳障りなアラームが響き渡った。
時間加速機能が再び操作されたことを教える警報が耳に届いた瞬間、比嘉は再び起き上がろうとしてしまい、激痛に顔をゆがめた。
「ひ……比嘉くん! だから、ムリは……」
神代博士が駆け寄り、比嘉の体に手をかけた、その直後――。
サブコントロールルームのメインモニタが、一気に赤く染まった。
「な……なんだ!?」
叫んだのは菊岡だった。コンソールに飛びつく指揮官の肩ごしに、助け起こされた比嘉も懸命に目を凝らした。
巨大なフォントで表示されているのは、STRA機能に三段階に設けられたリミッターがすべて解除され、アンダーワールド全体が限界加速フェーズへ突入することを知らせるカウントダウンだった。
「な…………」
絶句し、喘ぐ比嘉に代わって、神代博士が鋭い質問を発した。
「限界加速、ってどういうこと!? STRA倍率は上限千二百倍じゃなかったの!?」
「そ……それは、ナマの人間がダイブしてるときのリミットで……人工フラクトライトだけなら、五千倍が……上限ッス……」
ほとんど自動的に比嘉が答えると、博士の涼しげな目元が強張った。
「五千!? てことは……こっちの一秒が、内部では約八十分……十八秒で一日経っちゃうじゃないの!!」
その声を聞き、比嘉と菊岡は顔を見合わせ――同時に、軋むような動作でかぶりを振った。
「え……何、なにが違うのよ?」
「千二百倍は、現実世界の人間の魂寿命を考慮した安全上限……五千倍は、外部からのアンダーワールドの観察が可能な上限で……どちらも、ハード面での限界ではないんです……」
比嘉は、からからに乾いて焼け付く喉から懸命に言葉を押し出した。背中を支える神代博士の腕が、びくっと震える。
「な、なら……ハード的な上限って……いったい……」
「ご存知のとおり、アンダーワールドは、光量子によって構築され、演算されているんです。その通信速度は、事実上無限……つまり限界は、下位サーバーに搭載されたアーキテクチャによってはじめて規定されるわけで……」
「いいから早く! 何倍なのよ!?」
比嘉は目を瞑り、言った。
「限界加速フェーズでは……STRA倍率は、五百万倍(・・・・)をわずかに超えます。衛星回線で接続してる六本木の二台は、そんな速度には対応できないッスから自動切断しますが……こっちの二台を使ってる二人にとっては……」
現実世界での一分が――内部における十年。
その暗算を瞬時にこなしたのだろう、神代博士の見開かれた両眼が軽く痙攣したように見えた。
「な……んてこと……。早く……はやく明日奈さんと桐ヶ谷君を、STLから出さないと!!」
立ち上がりかけた博士の腕を、こんどは比嘉が押さえた。
「だめです凜子さん! もう初期加速フェーズに入っている、むりやりマシンから引き剥がしたら、フラクトライトが飛んじまう!!」
「なら、さっさと切断処理を始めてよ!!」
「僕がさっき、なんでわざわざケーブルダクトを這い降りたと思ってるんスか! STLのオペレーションは、メインコントロールからしかできないんだ!!」
比嘉も裏返った声でそう喚いてから、視線をコンソール前の指揮官へと動かした。
菊岡はすでに、比嘉の言おうとしていることを察しているようだった。
「……菊さん。僕、もう一度下に行きます」
その言葉を聞いた途端、指揮官も頷き、答えた。
「わかった。私も行こう。君を背負ってハシゴを降りるくらいの体力はあるつもりだ」
「い……いけません二佐!!」
叫んだのは中西一尉だった。血相を変え、ごつごつとブーツを鳴らしながら数歩進み出る。
「危険です、その任務は小官が……」
「隔壁をもう一度開放するんだ、君らには通路の防衛をして貰わなければならない。時間がない、これは命令だ!」
これまで見せたことがないほど鋭い表情で菊岡が言い放った言葉に、中西はぐっと下顎を強張らせ、視線を落とした。
比嘉は、右手をおそるおそる持ち上げ、痛みはするものの指先がちゃんと動くことを確認しながら、尚も必死に考えた。
モニタに表示されている、限界加速フェーズ突入カウントダウンは残り十分足らず。
しかし、今から耐圧隔壁を再開放し、あの延々続くハシゴを降り、コネクタからSTLを切断操作するにはどう見積もっても三十分はかかる。
その二十分の時間差のあいだに、アンダーワールドで経過する時間は――実に、二百年。
人間の魂寿命である百五十年を、遥か超える年月だ。
それ以前に、そのような無限に等しい年月を、アンダーワールド内部で過ごすことなど……現実世界人には、とても耐えられるものでは……。
アンダーワールド内部……。
「そ……そうか!!」
比嘉は叫び、左手を菊岡に向かって振り回した。
「き、菊さん!! さっきSTLを操作したとき、僕、キリト君との通信チャンネルを確保しといたんス! C12番回線で呼びかけてください!!」
「し、しかし……何を言えば……」
「内部から脱出するんスよ!! あと十分のあいだにシステムコンソールまでたどり着くか、もしくは天命を全損すれば、STLが自動的に切断処理を開始するッス!! ただ、限界フェーズに突入したあとはコンソールは機能しませんし、死ぬのはもっと最悪だ!! 全感覚遮断状態で二百年過ごすことに……それだけは強く警告してください!!」
「に…………」
二百年だって!?
と口走りそうになり、俺はあやうく言葉を飲み込んだ。
すぐ目の前で、アスナがきょとんとした表情で俺を見ている。菊岡の声は、彼女には聞こえていないのだ。
『いいかキリト君、あと十分だ! それまでにコンソールまでたどり着き、自力ログアウトしてくれ!! どうしても不可能なら、自ら天命を全損するという方法もあるが……これは不確実なうえに危険が大きい、理由は……』
擬似死状態で二百年過ごさなければならない可能性があるから。
それを悟った俺は、菊岡の言葉を遮り、尋ねた。
「わかった、なんとかコンソールからの脱出を目指してみる! もちろん、アリスも連れていくからそのつもりで準備しといてくれ!」
『……すまん。だが、この際アリスの確保よりも、君たち二人の脱出を優先してくれ! いいか、たとえログアウト後に記憶を消去できるとしても、二百年という時間は人間の魂寿命をはるかに超えている! 正常に意識回復できる可能性は……ゼロに等しい……』
苦しさの滲む菊岡の声に――。
俺は、静かに応えた。
「心配するな、必ず戻るよ。それと、菊岡さん。半年前……いや、昨夜は酷いこと言って悪かったな」
『いや……我々は、誹られて当然のことをした。こっち側で、君にぶん殴られるときのために絆創膏を用意しておくよ。……比嘉君の用意ができたようだ、私はもう行かねば』
「ああ。じゃあ、十分後にな、菊岡さん」
そして、通信が切れた。
俺は、コートの裾を羽ばたかせてホバリングしながら、腕のなかのアスナをじっと見つめた。
「……キリトくん、菊岡さんから連絡があったの? 何か……大変なこと?」
ゆっくりと首を左右に振り――俺は、答えた。
「いいや……十分後に時間加速が再開するから、なるべく急いでくれっていう話さ」
アスナはぱちぱちと瞬きし、小さく微笑みながら頷いた。
「そうね、いつまでもこんなことしてちゃ、アリスさんに悪いもんね。さ、助けにいこ!」
「ああ。もう一度飛ぶよ」
ぎゅっとアスナを抱きしめ、再び光素へと二人を組成転換する。あらゆる色が金色の輝きへと置き換わる。
遥か南を往くアリスと、それを追う巨大かつ異質な気配を捕捉し――俺は、飛んだ。
追いつかれる。
雨縁の鞍上で後方を振り返ったアリスは、小さく唇を噛んだ。
赤い空を背景に、ぽつんと浮かぶ黒点は、五分前より確実に大きくなっている。敵の速度が増したというよりも、ついに二頭の飛竜が力尽きつつあるのだ。
まったく休息もせずに飛びっぱなしなのだから当然、と言うより、ここまで頑張ってくれたことが奇跡に近い。人界の直径に数倍する距離を、たった半日で天翔けたのだ。二頭ともに、天命そのものを消費しての限界飛行を続けているのは明らかだ。
しかし――となると、あの追跡者は何なのか。
遠視術で確認したところ、飛竜とは異なる奇怪な有翼生物の背に乗っているようだ。だが、あんな生き物は、人界はもちろんダークテリトリーでもついぞ見たことはない。
追いすがる男は、暗黒神ベクタの姿を借りていたリアルワールド人なのだと言う。
そして、一度は騎士長ベルクーリの捨て身の剣に斃れた。しかし再び新たな命を得てこの地に降り立ち、アリスを追ってきた。
ベルクーリの死を貶めるその仕業に対して、断じて許せないという怒りはまだある。
だが、アリスはこの数時間の飛行のあいだに、ようやく成すべきことを見出していた。
敵が、この世界では不死だというのなら――。
リアルワールドで斬るまでのこと。
そのためにも、何としても"世界の果ての祭壇"まで辿り着くのだ、といちどは決意したのだが、どうやらそれは叶わないらしい。
視線を前方に戻すと、まっすぐ前方の赤い空を透かして、凄まじい規模の断崖絶壁がはるか天までそびえているのがうっすらと見える。伝説に聞く、"世界の終わり"だ。飛竜で超えることが可能な"果ての山脈"とは異なり、ダークテリトリーをぐるりと囲むあの断崖は、無限の高みにまで続いているらしい。
その壁面の手前、飛翔する竜たちとほぼ同じ高度に――。
小さな浮島がひとつ、ぽつんと漂っていた。
底のとがった杯のような形をしている。いったい、いかなる力で虚空に浮遊しているのかは推測もできない。
眼を凝らすと、平らな上面の中央に、何らかの人工的構造物が見て取れる。おそらく、あれこそが目指す"果ての祭壇"なのだろう。世界の出口。リアルワールドへの入り口。"真実"の在り処。
惜しむらくは、わずかに遠い。
背後に迫る敵と比べて。
アリスはそっと眼を閉じ、息を吸い、長く吐いた。
右手で軽く愛竜の首を撫で、命じる。
「ありがとう雨縁、それに滝刳。ここまででいいわ、地上に降りてちょうだい」
二頭は、弱々しい声でかすかに鳴き、並んだまま螺旋降下に入った。
眼下の地形は、すこし前から、まるで虚無の具現化のごとき黒い砂漠へと変わっている。神が創造に飽いたかのような、茫漠と続く砂の海に長い軌跡を引きながら、竜たちは倒れこむように着地した。
ふるるるる、と喉の奥から掠れ声を漏らして身体を横たえた雨縁の背から、アリスは即座に飛び降りた。腰のポーチを探り、最後の霊薬の小瓶を取り出す。
竜の、半開きになった口のなかに、青い液体を正確に半分だけ注ぎ入れ、ついで隣の兄竜の口にも一滴残さず流し込む。いかに神聖教会製の霊薬とは言え、飛竜の膨大な天命を癒すにはまるで足りないが、それでももう一度離陸するだけの力は戻ったはずだ。
アリスは、左右の手で竜たちの和毛の生えた顎下をそっと撫でた。
「雨縁。滝刳」
呼びかけた途端、自然と両眼に涙が浮いた。それを懸命に堪え、続ける。
「ここでお別れです。最後の命令よ……人界まで飛び、西域の竜の巣に戻って、雨縁はだんなさん、滝刳はお嫁さんを見つけなさい。子供をいっぱい生んで、立派に育てるのよ。いつかまた、騎士を乗せて飛べるくらい、強い、強い子供たちを」
不意に、雨縁が頭を持ち上げて、アリスの頬を舐めた。
滝刳は腰に鼻面を摺り寄せて、そこに下がる星霜鞭の匂いを嗅いだ。
二頭が頭を離すと同時に、アリスは強く命じた。
「さあ、行って!! 振り返らないで、まっすぐ飛びなさい!!」
くるるるっ!!
竜たちは同時に頭をもたげ、高らかに鳴いた。
命令どおり、後ろを見ることなくまっすぐ西に向けて助走を開始する。
どっどっどっという重い足音に続いて、広げられた翼が砂漠の風をはらみ、ふわりと巨体が宙に浮いた。
兄妹竜は、翼端が触れ合うほどの近さで大きく空気を打ち、一気に高度を取った。
と、そこで――。
雨縁が、その長い首をくるっと振り向かせた。
愛竜の、銀色の瞳がまっすぐにアリスを見た。その縁に、大きな雫が溜まり、きらっと輝いて空に散った。
「雨……縁……?」
アリスの呟きが終わらぬうちに。
頭を前に戻した飛竜とその兄は、左の翼だけを激しく打ち鳴らし、体の向きを九十度転換した。
猛々しい雄叫びを響かせ、全速で空に駆け上がっていく。まっすぐ一直線に――もうはっきり視認できるほどにも近づきつつある、追跡者目指して。
「だめ……だめよ! 雨縁、だめ――――ッ!!」
アリスは絶叫し、走った。
しかし、砂漠の黒い砂が重くブーツに絡みつく。
手をついて倒れこんだアリスの視線のさきで、雨縁と滝刳は、二重の螺旋を描きながら不死の敵が待ち受ける高空へと突進していった。
銀色の鱗が、赤い陽光を受けて炎のように輝く。
鋭い牙の並ぶあぎとが、一杯に開かれる。
二頭の竜たちは、追跡者が射程距離に入るやいなや、渾身の熱線を吐き出した。空を貫く純白の光は、まるで飛竜の命そのものの燃焼であるようにアリスには見えた。
怪生物の背に乗る敵は、迫り来る超高熱を見ても、その軌道を一切変えようとしなかった。
ただ、無造作に左手を伸ばし、五指を広げる。
防げるわけがない。飛竜の熱線は、整合騎士の記憶解放攻撃と、高位術者の集団多重術式を除けばこの世界で最も高い優先度を持つのだ。それが二条。あんな短時間では、とても対抗し得る防御術など組む余裕はない。
アリスはそう推測し、あるいは願った。
しかし。
甲高い共鳴音を響かせながら殺到した二本の熱線が、敵の身体を飲み込み焼き尽くすと見えた、その寸前。アリスの理解を超えた、奇怪な現象が発生した。
追跡者の左手を中心に、漆黒の闇が渦巻きながら広がったのだ。
周囲の光景が、まるで闇に向かって落ち込むかのようにくにゃりと歪んだ。凄まじい威力を内包するはずの、飛竜の熱線ですらもその例外ではなかった。直進軌道がたわみ、色が青紫へとくすむ。そのまま、男の左手へと吸い寄せられていき――。
幾つかの光芒を散らしただけで、音も閃光も爆発もなく、二条の光線は闇へと飲まれた。
どんな術も剣技も届かない遥か高空を飛ぶ、黒い点でしかない敵の口元に、薄い笑みが浮かぶのをアリスは確かに見た。
直後。
ジャッ!! という耳障りな響きとともに、男の左手にわだかまる闇から、幾本もの漆黒の稲妻が迸った。
まるで、竜たちの熱線を飲み込み、咀嚼し、己の力へと消化してから吐き出したかのようなその攻撃が、飛翔する雨縁と滝刳の体を容赦なく貫いた。二頭の体ががくんと揺れ、鮮血と白煙が空に色濃くたなびいた。
「あ……あ…………」
アリスは喘ぎ、空に高く手を差し伸べ、叫んだ。
「雨縁――――ッ!! 逃げて!! もういいから、逃げて――――ッ!!」
悲鳴は、確かに竜たちに届いたはずだった。しかし二頭の飛竜は、まるでアリスの声に決意を新たにしたかの如く両翼を激しく打ち鳴らし、再び突進を開始した。
口が大きく開かれる。牙の隙間から、陽炎のような熱気が立ち上り、ちらちらと白炎が瞬く。
ズバッ!!
二撃めの熱線が、空を灼いた。
今度もまた、男は闇の盾を展開させ、光の矢を受けた。
先刻と同じ反撃がくるのは明らかだったのに、竜たちは果敢にも突撃を続けた。あぎとから光線を放ち続けたまま、翼を猛然と羽ばたかせ、一直線に敵に向かって突っ込んでいく。
二頭の体に穿たれた傷口から飛び散る血が、炎へと変わった。銀の鱗が次々と剥離し、光の粒となって空に舞った。
竜たちの、存在そのものが光に転換されていく。
命を燃やして放たれつづける熱線が、闇の渦を満たし、飽和させていく。荒れ狂う熱気に耐えかねたか、男の左手からも白煙が上がりはじめる。
だが――そのとき。
敵の全身が、青黒い闇のベールに包まれた。左手から放たれる虚無の渦も勢いを増し、直後、その中央から放たれた黒い稲妻が白い熱線を押し戻しはじめた。
衝突する白と黒の力は、両者の中間でほんの一秒ほど拮抗し。
あっけなく逆転した。
力尽きたように翼の勢いを緩める雨縁と滝刳にむかって、無数の黒い稲妻が躍りかかる――。
「いやぁ――――ッ!! 雨縁!! あまより――――――ッ!!」
アリスの絶叫が、涙とともに砂漠の空気に散った、その瞬間だった。
星が降った。
天から、ふたつの煌く光が、恐ろしい速度で落下してくる。
ひとつはそのまま地上を目指し。
そしてもう一つは、竜たちと追跡者の中間地点で、なんの反動もなくぴたりと静止した。白い光がぱっと飛び散り、そのうちに隠していたものの姿を露わにした。
人。
剣士だ。
尖った黒髪と、同じく漆黒のコートが風になびく。背中には、交差して装備された白黒二本の長剣。両腕を胸の前で組み、迫りくる闇の雷閃を、傲然と見つめている。
バン!! バシィッ!!
という衝撃音とともに、稲妻が剣士を打った。いや、正確には、触れることなく弾かれた。腕組みをしたまま空中にすっくと立つその姿の直前で、不可視の障壁に遮られて空しく威力を散らしたのだ。
アリスはただ、息を止め、眼を見開いて空を見上げた。
黒衣の剣士が、ゆっくりと振り向き、地上のアリスを見た。
わずかに少年らしさの残る、鋭利な容貌が小さくほころび、漆黒の双瞳が強く煌いた。アリスは、胸のおくに強い火花が散るのを感じた。それは、感情というよりも、実際の着火力であったかのようにアリスの心を激しく燃え立たせた。
両眼から新たな涙が溢れるのを意識しながら、アリスは呟いた。
「キリ……ト…………」
半年の長い眠りから醒めた青年は、力強い、しかしどこか照れたような笑みを一瞬浮かべて頷くと、身体を反転させて右手をまっすぐ掲げた。
彼の背後では、瀕死の竜たちが最後の力で翼をはばたかせている。その翼端と、長い尾の先端は、すでに光に溶けるように消滅を始めている。
雨縁が、ルーリッド郊外の家で半年間ともに暮らしたキリトを見て、首をかたむけ、小さくくるるっと鳴いた。
キリトも頷きを返し、眼を閉じた。
不意に、虹色の光の膜が二頭の竜を覆った。まるで、巨大なしゃぼん玉に包まれたかのようだ。
しかし竜たちは恐れるでもなく、翼を畳み首を曲げて、小さく身体を丸めた。
ふたつの光球が、アリスの頭上に、ゆっくりと舞い降りてくる。
呼吸も忘れて見上げるアリスの視線のさきで、不思議な現象が生起した。
七色の光をまとう雨縁と滝刳の巨体が、みるみるうちに小さくなっていく。いや、小さくと言うよりも――若く、幼くなっていくのだ。
鋭い鉤爪が丸みを帯びる。銀鱗が、柔らかいにこ毛に置き換わっていく。尾も首も短くなり、翼が薄い皮膜から、長い羽毛の集合へと変化する。
差し伸べたアリスの両腕のなかにふわりと収まったとき、竜たちの体はもう全長五十センもなかった。青みがかった白の毛皮に包まれた滝刳は、眼を閉じすやすやと眠っているようだ。
そして、緑がかった柔毛の球のような雨縁が――かつて、二頭の母竜がその天命を終えたとき、腕のなかで悲しげに啼いていたときとまったく同じ姿に戻った愛竜が、まっすぐアリスを見上げ、真珠粒のような歯のならぶ口を開いて短く声を発した。
「きゅるっ」
「あま……より……」
呟いたアリスの頬を伝い、こぼれた涙が、竜の毛皮に弾かれてきらきらと光った。
直後、二頭の幼竜を包む虹色の光が、一気にその強さを増した。アリスの腕を、現実的な固さで押し返してくる。何度か瞬きしたとき、そこにあるのは二つの大きな卵になっていた。
白銀色の卵は、どんどん小さくなっていき、最終的に掌に並んで載るくらいにまでなってからようやく七色の輝きを消した。
アリスは、二つの小さな卵にそっと頬を寄せながら、この現象の意味をおぼろげに推測した。雨縁と滝刳の天命が、その膨大さゆえにもう術式では回復しきれないほど損耗していると判断したキリトは、天命上限そのものを最小限に縮小する――つまり幼竜から卵にまで還元することで消滅を免れさせたのだ。
如何様に術式を組めばそのような効果を実現できるのか、いまや世界最高の術者でもあるはずのアリスにすら想像もつかなかった。しかし、訝しく思う気持ちはかけらも無かった。
卵たちを優しく両手で包みこみ、アリスはまっすぐ空を見上げた。
「ありがとう……おかえりなさい、キリト」
涙混じりの声でそう囁きかける。
遥か高空までは届くはずもなかったが、黒衣の人影はしっかりと頷き、微笑んだ。
耳に、懐かしいあの声が聞こえた。
――俺のほうこそ……長い間、心配かけたな。
――ありがとう、アリス。
――次は、リアルワールドで会おう。
そして、キリトはゆっくりと体の向きを変え、闇をまとう追跡者と正対した。
両者のあいだの空間が、せめぎあう心意に耐えかね、白く火花を弾けさせた。
「……キリト……」
その敵は、たとえあなたでも、尋常の攻撃では斃せない。
アリスはそう危惧し、唇を噛んだ。
と、不意に傍らから声がした。
「だいじょうぶよ、アリスさん」
振り向くと、立っていたのは真珠色の装備に身を包むリアルワールド人の少女だった。
「アスナ……さん……」
柔らかい茶色の髪を風になびかせながら、アスナは微笑み、アリスの背に触れた。
「キリトくんを信じましょう。わたしたちは、"果ての祭壇"に急がないと」
「え、ええ……」
頷いたものの、今やそれはそう容易いことではない。
アリスは真南に向き直り、遥か地平線から屹立する"世界の終わり"の断崖と、その手前に浮遊する白い浮島を見上げた。
「"果ての祭壇"は、たぶんあの浮島にあると思うけど……もう竜たちには乗れないし、どうやってあんな高いところまで……」
「大丈夫、私に任せて」
アスナは頷くと、腰から華麗な細剣を抜いた。
それをまっすぐ彼方の浮島に向け、長い睫毛を伏せる。
突然、昨夜も聞いたあの天使の重唱が、ラ――――――、と高らかに響き渡った。
七色の光が空から黒い砂漠へと、一直線に降り注ぐ。
ごん!!
重い音とともに、すぐ目の前の砂のなかから、白い石版が浮き上がった。
ご、ごごごん!
その向こうに、少し高さを増してもうひとつ。さらにひとつ。
息を飲むアリスの眼前に、はるか天まで伸び上がる白亜の階段が出現し、浮島までつながるのに二十秒とかからなかった。
地形操作を終え、剣を降ろしたアスナが、がくりと砂に膝をついた。
「あ、アスナさん!!」
「だい……じょうぶよ。急ぎましょう……祭壇が閉じるまで、あと八分くらいしかないわ……」
閉じる――?
言葉の意味が、アリスには咄嗟に理解できなかったが、尋ねるまえに強く右手を掴まれた。
立ち上がり、物凄い速さで階段を駆け上りはじめたアスナに手を引かれ、アリスも走った。走りながら、もう一度だけ振り向き、高みで敵と対峙する黒衣の剣士を見上げた。
――キリト、言いたいこと、聞きたいことが、山ほどあるんですからね!!
――絶対に勝って。勝って、もういちど私の前に戻ってきて。
漆黒の砂漠につらなる大理石の浮き階段と、その上を飛ぶような速度で登っていく二人の少女剣士の姿は、ため息が出そうなほどに美しく、詩的で、かつ象徴的だった。
俺は、その光景を脳裏に焼きつけ、胸のうちで呟いた。
――アリス。アスナ。
――これで……お別れだ。
アスナに、次の時間加速は五百万倍に達することと、もしそれまでに自力脱出できなければこの世界で二百年を過ごさねばならないことを伝えなかったのには理由がある。
それを知れば、アスナも、アリスも、俺とともに戦おうとするに違いないからだ。たとえそれで、タイムリミットである十分のうちに脱出できなくなったとしても。
俺は、アリスを追う敵の気配を知覚した瞬間、その異質さに戦慄した。いや、気配という表現は相応しくない。そこに在るのは無それのみだからだ。あらゆる情報を呑み込み、光ひとつぶすら逃がさないブラックホール。
そのような相手をタイムリミット前に撃破し、尚且つ三人そろって無事に脱出できる可能性はごく低い。となれば、俺のなかの行動優先順位はおのずから定まる。
アスナとアリスを確実にログアウトさせること。
それ以外に優先されるものなど無い。何一つ。
俺は、一枚絵のように美しい光景をしっかりと記憶に刻みこみ、顔の向きを変え、まっすぐに"敵"の姿を見た。
ついに邂逅したそいつ――いや、それは、まったく奇妙としか言えない存在だった。
男だ。それは分かる。
そして、それしか分からない。
顔の造作は、これが自作のアバターなのだとしたら、おそらく"白人男性の平均的容貌"の再現を意図したのだろう。眉にも、眼にも、鼻筋、口元、輪郭にもいっさいの特徴というものがない。ただ、肌が白く、瞳が青く、髪が薄い金色としか表現のしようがないのだ。
体格も、白人種としては至って普通だ。太っても、痩せてもいないその体を、ミリタリージャケットめいた服に包んでいる。ならばこの男は軍人なのか、というとそれも定かでない。なぜなら、ジャケットの上下に施された黒と灰色の迷彩模様が、ある種の粘液のように絶えず動き回っているからだ。それが、男の"不定"という特徴を強く表していると思えてならない。そもそも、左腰に装備されているのは銃ではなく長剣だ。
この男が、オーシャンタートルを襲撃した特殊部隊――おそらく米軍関連――の一員であることは移動中にアスナから聞いた。ならば、人工フラクトライト関連技術の奪取を目論んだ組織なり企業に、金で雇われた傭兵であるはずなのだ。しかし、少し離れた場所から、ガラスのような眼で俺を見ている男が、そんな現実的利益を求めている人間とはとても思えない。いや、そもそも人間である気すらしない。
約一秒の観察と思考を終え、俺は口を開いた。
「……お前は、何者だ」
答えは即座だった。滑らかな、それでいてどこか金属的な響きのある声で、男は言った。
「求め、盗み、奪う者だ」
途端、男の全身を取り巻く青黒い闇が、その蠕動の勢いを増した。俺は頬にかすかな微風を感じた。空気が、いや情報が闇に吸い込まれているのだ。
「何を求める」
「魂を」
問答を交わすにつれ、吸引力も増していく。空間を構成する情報だけではない。俺の意識そのものもまた、虚無的な重力に引かれるのを感じる。
と、はじめて男の口元が表情めいたものを浮かべた。希薄な気体を思わせる笑み。
「オマエこそ何者だ。なぜそこに居る。何を根拠として私の前に立つのだ」
逆に、問い。
俺が――何者か、だって?
アンダーワールドに降臨した勇者? ――まさか。
人界を守護する騎士? ――違う。
脳裏に否定の言葉を浮かべるたびに、何かが俺のなかから吸い出され、奪われていくのを感じる。しかし、なぜか思考を止めることができない。
SAOをクリアした英雄? ――否。
最強のVRMMOプレイヤー? ――否。
"黒の剣士"? "二刀流"? ――否、否。
どれも、俺自身が望み描いた存在ではない。
ならば、俺はいったい何者だ……?
すう、と意識が薄れかかったその瞬間。
あの懐かしい声が、心の奥底で俺の名を呼んだ。
俺は、いつの間にか俯けていた顔をさっと持ち上げ、呼ばれたままに強く名乗った。
「俺はキリト。剣士キリトだ」
ばちっ!!
と白いスパークが弾け、俺にまとわりつこうとしていた闇の触手を断ち切った。思考が即座に鮮明さを取り戻す。
今の現象はいったい何だ!?
この男は――二台のSTLを介して、直接こちらの意識に干渉できるのか。
俺は、イマジネーションの防壁を強く張り巡らせながら男の眼を凝視した。そこにあるのはまさしく虚無だ。他人の心を吸い取る、底なしの暗闇。
この戦いはおそらく、いかに自分を強く規定し、そして相手にも自己を規定させるかで決まる。
「お前の名は」
無意識のうちに俺は誰何していた。
男はわずかに考え、名乗った。
「ガブリエル。私の名はガブリエル・ミラー」
それがキャラクターネームやハンドルネームではなく、男の本名であることを俺は直感的に察した。
なぜなら、途端に男の容貌が変化したからだ。目つきが異様に鋭く、氷のような冷酷さを帯びる。唇が薄く引き締まり、頬が削げる。
同時に、全身から噴き出す闇のオーラが一気にその厚みを増した。
この段階で、俺ははじめて男の右腕が肩から欠損しているのに気付いた。これまで、腕のように蠢いていた不定形の闇が、ずるずると伸びて腰の剣に触れた。
湿った音を立てて抜かれた剣に、確固とした刀身は存在しなかった。
青黒い闇だけが、一メートルほども炎のように立ち上っている。まさしく、非存在の存在だ。
右肩から伸びる影の腕で握った闇の剣を、男は奇怪な震動音とともに切り払った。
俺も、わずかに距離を取りながら、両肩の剣を同時に抜刀した。左手に青薔薇の剣、右手に夜空の剣。
闇色、ということならギガースシダーの枝から削り出した夜空の剣も負けてはいない。しかし、その刀身が黒曜石のように陽光を反射しているのに対して、男の剣はまるで空間がそこだけ切り取られているかのようだ。リソース吸収属性、などというレベルではあるまい。おそらくは……
「――行くぜ、ガブリエル!!」
敢えて敵の名を叫び、俺は翼に変形させたマントの裾を羽ばたかせた。
高く舞い上がりながら剣を体の前で交差させる。
「ジェネレート・オール・エレメント!」
全身の体表面を端末とするイメージで、全属性の素因をそれぞれ数十個ずつ同時に生成すると、俺は急降下と同時にそれらすべてを発射した。
「ディスチャージ!!」
炎の矢が、氷の槍が、その他幾つもの色彩が光線となって宙を疾る。
術式を追いかけるように、左右の剣を振りかぶる。
ガブリエル・ミラーは、一切の回避行動を取ろうとしなかった。
薄笑いを浮かべたまま、ただその場ですっと両手を広げただけだった。
青い闇を纏うその体に、八色の光が突き刺さる。
わずかに上半身をぐらつかせた隙を逃さず、俺は右手の剣で薙ぎ払い、左手の剣で貫いた。ボッ、と闇が飛び散り、交錯した俺の肌に冷気を残した。
そのまま全力で飛翔を続け、上昇と同時に振り向く。
俺の視線が捉えたのは――。
流出した闇を、ずるすると引き戻し、何事もなかったかのようにこちらに振り向くガブリエルの姿だった。その身体を包む黒いジャケットには、傷一つ残っていない。
やはり。
あの男の属性は、斬撃、刺突、火炎、凍結、旋風、岩弾、鋼矢、晶刃、光線、闇呪に対して吸収(ドレイン)だ。
交錯の瞬間、虚無の刃に撫でられた俺の右肩から、抉られるようにコートと筋肉が消滅し、ぶしゅっと鮮血が飛び散った。