「狩る、って……どういう……?」
「べつに、フィールドでPKしようってわけじゃありません。俺もいまさらオレンジになりたくないですしね」
二人を安心させるように、笑顔を当たり障りないものへと変える。
本音では、PKも辞さないくらいの気分ではあるが、オレンジネームを人知れず白に戻すのは大変な苦労だし、そもそも人口過密な上層の狩場でプレイヤーを襲うのはよほどタイミングに恵まれなければ不可能だ。
「……ただ、何か理由をつけて、鍵つき(クローズド)の闘技場にあいつが一人になるようにセッティングしてもらえればそれでいいです。あとは俺がケリつけますから」
「闘技場……ですか」
副長のほうが、考え込む仕草を見せる。
SAOβにおいて、街区圏内で対人戦闘を行うには、デュエルを申し込んで受諾されるか、あるいは第1層はじまりの街にある闘技場を利用するしかない。もちろん、いきなり開いたデュエル窓のYESボタンを闇雲に押す人間などいるはずはないが、闘技場ならばゲートをくぐった時点であらゆる保護は消滅する。設定次第で、デスペナルティも装備のランダムドロップも発生するのだ。
「うーん……。彼は、ウチにとってもかなりの戦力ですしねえ……。それにしても、なんでそんなことを? キリトさんは確か、前の大会の個人戦で彼と当たって、勝ってますよね?」
「や、まあ、そうなんですけどね。ちょっと事情がありまして」
俺は語尾を濁しておいて、表情を改めると言葉を続けた。
「……これさえOKしてもらえれば、すぐにそちらに加入させてもらいますし……それに、本サービス開始後もお世話になれるといいなと思ってるんです」
途端、二人の目つきが変わった。
正直なところこのゲームでは、俺程度のプレイヤースキルがあれば、ソロプレイのほうが経験値的にも金銭的にもずっと効率がいい。"不可避の魔法攻撃"が存在しないゆえに、反応速度いかんでは、一人で同時に複数のMobを相手にすることも可能だからだ。ろくにスイッチもできず、経験値とドロップだけ吸っていくPTメンバーなど邪魔物以下の存在だ。
だからこそ、ギルド運営に燃えるタイプの連中は、強力な前衛プレイヤーの確保に血道を上げることになる。俺は、彼らが口を開くまえから、答えの内容を確信していた。
「……まぁ、あくまで事故、って体裁にしてもらえるなら……なあ?」
語尾は、ナックル男に向けられたものだった。そちらもかくかくと頷き、おもねるように続けた。
「ぶっちゃけ、あの人最近IN率低いんですよね。リーダー職がそれじゃあ、ちょっと、ねえ」
「じゃ、決まりですね。一件が片付き次第、すぐに加入させてもらいますから」
俺も笑顔で調子を合わせ、右手を差し出した。
よほど話を急いでいたのだろう、彼らはその夜のうちにセッティングを終え、闘技場のクローズドルームの入室パスとなる鍵をメッセージに添付して送ってきた。
俺は、オブジェクト化した大型の鍵を指先でくるくる回しながら、はじまりの街の裏通りだけを選んで闘技場を目指した。
指定された時刻は午前三時。さすがにプレイヤー達も続々ログアウトしていく頃合で、裏道にはNPCの黒い影しか見えない。
今日一日、どこで何をしていたのかすらよく思い出せないほど、俺は気を昂ぶらせていた。指先にまで負の感情が満ち溢れ、今にも黒く滴りそうだ。
前方の夜闇をついて、ぬっと聳え立つ遺跡めいた闘技場に、ほとんど駆け足で踏み込む。
毎月開催される公式大会や、大規模なGvG戦で使用されるメインコロシアムの入り口を通り過ぎ、奥に幾つも並ぶ小コロシアムの、一番奥のドアの前で立ち止まる。
張り出されている羊皮紙には、CLOSEDの大フォントと、無制限ルールの但し書きが黒々と連ねてある。鍵穴に右手のキーを差込み、重い金属音を響かせながら回す。
内部も薄暗かった。照明は、四隅の鉄籠で揺れる篝火だけだ。小部屋とは言うが、そこは遠距離職同士のデュエルにも対応した空間なので、縦横とも三十メートルはある。周りは黒ずんだ石壁に囲まれ、床は白い砂が敷き詰められている。
その中央に、所在なげにぽつりと立つ人影があった。
赤い篝火を反射するのは、ただ打ち出した鋼鈑を連ねただけのような、簡素なバンディッドメイル。頭には、同じく鋲打ちスチールのオープンヘルメット。マントは無く、服は茶色のなめし革。
そして左腰に、実用一本やりの無骨な片手用直剣が下がっている。
あらゆる武装が、まるでログイン直後の初期装備だが、しかしもちろんそれは見た目だけだ。数値的性能では、俺の純白と藍青のアーマーと遜色ないはずだ。そういうところが――気に食わない。
まったく、気に入らない。
バンディッドメイルの男は、闘技場に入ってきた俺に気付くと、少年とすら言える幼い顔に怪訝そうな表情を浮かべた。その容貌すらも、やる気あるのかと言いたくなるほど地味な、特徴の無いデザインだ。
「あれっ……キリトさん?」
暗がりから、砂の上に進み出た俺を見て、少年は目を丸くした。
「あっ、ども……ひ、久しぶりです。あれ……今日は、新しいギルメンの顔合わせイベントって聞いてるんですが……他の人はどうしたんだろう」
「どうも」
俺も軽く頭を下げ、低い声で続けた。
「他の人には、今日は遠慮してもらったんですよ。ちょっと、二人だけで話がしたいな、って思って」
「え……?」
怪訝そうながらも笑顔を浮かべる少年に、俺はゆっくり歩み寄った。こちらも、にこりと笑顔を浮かべ――。
ノーモーションで放った抜き打ちを、ぎりぎりのところで防いでみせたのは、流石と言うべきか、食わせ者と言うべきか。
ギャリン!! と軋むような金属音が響き、相手の鈍色の剣と、俺の半透過色の剣が激しく火花を散らした。そのまま、小柄な少年に圧し掛かるように鍔迫り合いを続けながら、俺は打って変わった口調で囁いた。
「キリトさん、じゃねえよ。俺がアンタに何の用なのか、とっくに分かってるだろう」
「え……ぼ、僕は何も……」
小刻みに首を振る相手の顔を間近で見た途端、腹の底に押さえつけていた怒りが爆発し、俺は叫んだ。
「ざけんな!!」
両手で握っていた剣の柄から、左手を離して固く握り、体術スキルの単発重攻撃を思い切りバンディッドメイルの腹に叩き込む。黄色いライトエフェクトが炸裂し、小柄な体がひとたまりもなく吹っ飛ぶ。
砂地の上を転がる少年を追うように、片手剣の長距離ソードスキルを発動させる。緑色の円弧を描いて襲い掛かる刃を、相手――敵はごろごろ転がって避けた。白い砂が爆発したように飛び散り、俺はそれ以上は追わず、敵が立ち上がるのを待った。
唇を震わせる相手の顔を凝視し、吐き捨てる。
「つい先月のことを、忘れたわけじゃないだろうが。個人戦のセミファイナルで俺と当たったときの話だよ。気付いてないとでも思ってたのか。アンタが、手ぇ抜いて、わざと負けやがったことに」
篝火の下でも分かるほど、ヘルメットの下の顔が瞬時に血の気を失った。フルダイブ環境下の過剰な感情表現だが、その分相手の精神状態を如実に伝えてくる。
「……どうせトトカルチョ関係の八百長請け負ったんだろ。アンタがいくら稼ごうと知ったこっちゃないけど……許せねえんだよ!! てめえみたいな、どうせゲームだろとか、マジになってんじゃねえよとか裏で言ってる奴は!!」
そう――、この世界は、たかがゲームである。それが絶対不変の真実なのは俺も重々理解している。
恐らく、デュエルで手を抜かれたくらいで熱くなっている俺が馬鹿なんだろう。公式大会の上位カードでは、巨額の賭け金が動く。考えようによっては、八百長を請け負い大金を稼ぐことすらも、ロールプレイの一環と言えなくもない。
しかし。
俺は、準決勝でこの男と戦ったとき、おそらくSAOβに初ダイブして以来もっとも本気になった。ソードスキルの出の速さ、ディレイの短さ、あらゆるフェイントに即応してくる判断力、すべてが感嘆すべきレベルだったからだ。
それまでまったくノーマークのプレイヤーだったこともあって、こんな奴もいたのか、と――俺は、嬉しくなった。勝っても負けても、試合が終わったら声を掛けてフレンド登録させてもらおう、などと本気で思った。
タイムアップ間際に、相手がわざとこちらの技を喰らい、大仰に倒れるその瞬間までは。
間抜けもいいところだ。
青ざめる少年をねめつけながら、俺は腰のポーチに手を突っ込み、つかみ出したものをざらっと周囲にばら撒いた。
砂の上で輝くのは、すべて深紅色のクリスタルアイテムだ。
「見たことあるだろ、これ。"即時蘇生結晶"……すごい値段だったぜ、これだけ揃えるのには」
俺の意図を察したのだろう、相手の表情が一層強張る。
この高価なクリスタルは、効果範囲内で死んだプレイヤーひとりを、黒鉄宮送りになる前にその場で自動蘇生させてくれる。しかしデスペナは発生するし、装備も落とす。
それはつまり、使いようによっては、意図的な連続殺害(レスキル)も可能となるということだ。
「これから、アンタを十回連続で殺す。確実に1レベルダウン、装備も全ロスするまで。明日からどんなに必死こいても、次の……β最後の大会までにリカバリーは絶対できない。それが嫌なら……本気で戦ってみせろよ」
抑揚の失せた声でそう宣言し、俺は剣を振りかぶった。
戦いは、予想、あるいは期待したとおり激烈なものとなった。
俺の習得しているあらゆるソードスキルを、少年は的確にパリィし、あるいはステップで避け続けた。一人のギャラリーもいない深夜のクローズドエリアで、俺と彼はさきの大会を上回る熱戦を繰り広げた。
怒りは消えていなかったが、それでもなお抑えようもなく手足が、そして精神が昂ぶるのを俺は感じた。全速の攻撃を撃ち込んだ直後、鼻先を掠めるような反撃を掻い潜るタイトロープ感覚。
これほどのテクニックがあって、なぜ――。
何でなんだよ!!
と内心で叫びながら、俺は脳神経が灼き切れるほどの勢いで、現時点で最長の五連撃を放った。
ほとんど同時に、立て続けの光芒が四つ、眩く弾けた。
そして、まるでデジャヴのように、戦いは意外な結末を迎えた。
少年が、受けられるはずの五撃目を受けず、わざと胸のど真ん中に喰らったのだ。
その一撃はクリティカル判定され、半分以上残っていたHPバーが一瞬で吹っ飛んだ。俯き、よろめいた少年の身体が無数のポリゴンとなって爆砕し、直後、床に転がるクリスタルの一つが強く輝いて同じく砕けた。
いったん宙に拡散しかけたポリゴンが、ぎゅうっと再凝縮されていく。
赤い光の柱が伸び、収まったその場所には、蘇生された少年の姿があった。しかし、つい一瞬前まで被っていたヘルメットが消え失せ、金属音とともに足元に転がった。
俺は、顔をうつむけたままの少年を愕然と凝視し――。
軋り声を絞り出した。
「て……めぇ……! また……同じ、真似を……」
ほとんど自動的に、剣が動いた。真正面からの、見え見えの右袈裟斬り。
しかし、またしても少年は避けなかった。肩口から脇腹へと斬撃が疾り、赤いライトエフェクトが斜めに輝いた。
ぐらりと身体を揺らし、一歩よろめいただけで、少年は踏みとどまった。
「……僕は」
赤みがかった短い金髪に表情を隠し、少年がぼそりと呟いた。
「僕は、嬉しかったんだ。君が……キリト君が、うちのギルドに入るかも、って聞いて。すごく楽しみだったんだよ」
「な……」
一瞬言葉を飲み込み、直後それは猛烈な怒声となって俺の喉から迸った。
「……何を今更言ってやがる!! なら、なんであの時手抜きなんかした!! 俺は……俺は……ッ」
「わざと負けたのは、八百長したからじゃない!!」
少年も高い声で叫び、露わになった顔を上げた。両眼から、滝のように涙が溢れていた。
この世界では、感情を隠せないかわりに、嘘泣きもできない。ほんとうに、泣きたくなるほど悲しいと感じなければ、涙は流れない。
その、何かを訴えかけるような、すがるような眼差しを見て――俺は、短く息を飲んだ。
どこかで……この目を、どこかで見たような……。
「僕は、君と向こうでもういちど友達になってから、こっちでちゃんと名乗りたかったんだ!! 僕だよ……僕なんだよ、キリト君。いや、桐ヶ谷君……」
「な…………」
俺は言葉を失った。
目の前の、特徴のないアバターの顔が、昨夕、コンビニの駐車場で見た幼い顔と重なった。
「お……お前……なんで……。SAOβに当選したなんて、ひと言も……」
「僕は……いつも、君みたいになりたいって思ってた。VRでも、現実でも、すごく強くて、いつもクールな君みたいに……。だから、僕も自分の力であいつらを撃退して、それからもう一度……友達に、なれたらって…………」
少年が大きくよろめき、地面に剣を突いて踏みとどまった。
「僕は……あの大会で、君と戦ってるとき、心のなかで思ってた。気付いてくれたら、って……君が、僕だって気付いてくれたら、そしたら言おう、って。もう一度……僕と…………仲良く…………」
その時。
少年の口から、大量の鮮血が溢れた。
俺の剣が身体を薙いだ箇所からも、恐ろしいほどの血が飛び散った。
ずるっと音を立てて傷口から内臓がはみ出し、砂の上に次々に落ちた。
「な…………」
何だこれは。
SAOに、こんなリアルな死亡エフェクトは存在しないはずだ。
いや――リアルなんてものじゃない。噎せ返るような血の匂い。篝火を反射する臓器の色合い。そして、少年の頬に伝う涙の煌き。
ぐらりと小柄な体が傾いた。
どう、と横倒しになり、動きを止めたその姿を、俺はただ呆けたように見つめ続けた。
「……おい。……おいって」
ふらつきながら砂に膝をつき、手探りでクリスタルをひとつ拾い上げる。
「おい、とっとと蘇生しろよ。どうなってんだよ……何だよ、これ」
おそるおそる少年の顔を覗き込む。
見開かれた目に、光は無かった。
生乾きの涙に濡れる瞼をうつろに開いたまま、少年は絶命していた。
「なあ……冗談やめろよ。わかったよ……俺が、俺が悪かったから、なあ、おい、起きろよ!!」
ぼっ、と音を立て、篝火がひとつ消えた。
もう一つ。三つめ、四つめも掻き消え、闘技場は暗闇に包まれた。しかし、俺の剣によってほとんど真っ二つに分断された遺骸だけは、視界から消えようとしなかった。
「う……うぁ……」
喉からしわがれた声を漏らし、俺は後ずさった。
後ろを向き、走り出そうとしたが、いつの間にか足元が砂からタールのような粘液に変わっていて、ばしゃっと倒れこんでしまう。
うずくまり、瞼をきつく瞑って、俺は悲鳴を上げ続けた。
夢だ。
これは全部、悪い夢なんだ。
だって、こんなこと、実際には起きなかったはずだ。
俺とあいつは、闘技場から出て気まずい沈黙のうちにログアウトしたあとも、結局リアルでは何ひとつ変わらなかった。俺はあいつを無視し続け、あいつは不良グループと縁切りできずネットゲームを辞め、一ヵ月後にはSAO正式サービスが――あのデスゲームが始まり、俺はただ生きのびることだけに懸命になって……。
何だ……?
これは――記憶?
ねばつく暗闇の底で手足を縮め、悲鳴をかみ殺しながら、俺は脳裏にフラッシュする幾つもの情景に翻弄された。
浮遊城での、二年間に及んだ生存闘争。
妖精の国で目指した、果てしない空。
黄昏の荒野を飛び交う銃弾。
嫌だ――もう思い出したくない。この先を知りたくない。
そう何者かに懇願するものの、しかしシーンは容赦なく切り替わり続ける。
現実世界から突如切断され。
深い森に囲まれた空き地で目覚め。
斧音に導かれるように歩き、辿り付いた巨大な黒杉の根元で、俺は彼と出会った。
ゴブリンとの戦闘。切り倒された巨大樹。
世界の中央を目指した長い旅。学院で修練に明け暮れた二年間。
いつだって、彼は俺の隣にいた。穏やかに笑っていた。
彼と一緒なら、なんだって出来るはずだった。
肩を並べて白亜の塔を駆け上り、強敵を次々と打ち破った。
そしてついに頂上に達し、
世界の支配者と剣を交え、
長く苦しい戦いの果てに、
彼は、その、
命を――
「う……うああああああ――――ッ!!」
俺は両手で頭を抱え、絶叫した。
俺だ。俺の無力さ、俺の愚かさ、俺の弱さが彼を殺した。流れてはいけない血が流れ、失われてはいけない命が失われた。
俺が死ぬべきだった。かりそめの命しか持たない俺が。俺と彼の役目が逆になっても、何ら問題は無かったはずなのだ。
「あああ……アアアアア!!」
叫び、のた打ち回りながら、さっき近くに投げ捨てたはずの剣を手探りで捜す。自分の胸に突き立て、首を掻き切るために。
しかし、指先には何も触れない。ねっとりとした黒い粘液がどこまでも広がるだけだ。
ぐるりと向きを変え、尚も捜し続ける。這いずり、闇雲に掻き毟る指先に。
何か、柔らかいものが触れた。
はっと目を見開く。
つい数分、あるいは数瞬前、俺が闘技場で斬り殺した少年の死体がまだそこにあった。
完全に分断された胴。黒い粘液の上に、あざやかに広がる深紅の血。
吸い寄せられるように体をさかのぼった視線が、青白い顔を捉えた。
それはいつの間にか、遠い記憶にかすむ同級生のアバターではなくなっていた。
柔らかそうな、亜麻色の短い髪。繊細な目鼻の造作。
びくっ、と指先を引っ込めた俺の喉から、金属を磨り潰すような声が漏れた。
「ア……アア…………」
彼の惨たらしい死体が、そこにあった。
「ウア……アアアアア――――!!」
不協和音じみた悲鳴を撒き散らし、俺はいつの間にか身にまとっていた簡素な黒いシャツの前を引き千切った。
痩せ細った胸の中央に、鉤爪のように曲げた右手の指先を突き立てる。
皮膚が裂け、肉が千切れるが、痛みはまるで感じない。俺は両手でおのが胸を引き毟り続ける。
心臓を抉り出し、握りつぶすために。
それだけが、俺が彼のために出来る、最後の……――
「キリトくん……」
突然、誰かが俺の名を呼んだ。
俺は手を止め、虚ろな視線を持ち上げた。
彼の死体のすぐ向こうに、いつのまにか、ブレザーの制服姿の女の子が一人立っていた。
長い栗色の髪をまっすぐ背中に流し、はしばみ色の瞳を濡らして、じっと俺を見つめている。
「キリト……」
新たな声とともに、右側にもう一人少女が出現した。額の両脇で結わえた髪を細く垂らし、やや吊り上がり気味の灰色がかった瞳に、こちらも涙の粒を光らせている。
「お兄ちゃん……」
そして、さらにもう一人。
白いセーラー服の襟のすぐ上で、黒い髪をまっすぐに切りそろえた少女が、同じく漆黒の瞳からぽろぽろと涙を溢れさせた。
三人の少女たちの意思と感情が、強い光となって迸り、俺のなかへと流れ込んでくる。
陽だまりのような暖かさが、俺の傷を癒し、哀しみを溶かそうとする。
――でも。
でも……ああ、でも。
俺に、この許しを受け取る権利なんか……
あるはず、ないんだ。
「ごめんよ」
俺は、自分の口から静かな言葉が零れるのを聞いた。
「ごめんよ、アスナ。ごめん、シノン。ごめんな、スグ。俺は……もう立てない。もう戦えない。ごめん…………」
そして俺は、胸から抉り出された小さな心臓を、ひとおもいに握り潰そうとした。
「何でだ……なぜなんだ、キリト君!!」
比嘉タケルは、薄れようとする意識を懸命に繋ぎとめながら、低く叫んだ。
接続された三台のSTLからは、桐ヶ谷和人の傷ついたフラクトライトを補完するべく、圧倒的な量の信号が流れ込んでくる。これまで、数多の実験を繰り返し膨大なデータを収集してきた比嘉でさえ驚愕するほどの、奇跡とすら言える数値だ。
しかし、携帯端末の小さなモニタの左上に表示された三番STLのステータスインジケータは、いまだに機能回復ラインの直前で震えながら停止したままだった。
「まだ……足りないのか…………」
比嘉は呻いた。
桐ヶ谷和人の回復しかけた主体意識は、このままでは"現実"ではなく、"記憶"――あるいは"傷"とのみリンクしてしまい、そこから戻ってこられなくなる。待っているのは、永遠にリフレインする悪夢だ。これなら、まだ機能停止していたほうが幸せだと断言できるほどの。
せめて、あと一人。
もう一人、和人と大きな繋がりを持ち、強いイメージを蓄積している人間が接続したSTLがあれば!
しかし、菊岡二佐いわく、今接続している三人の少女たちが、間違いなく世界でもっとも桐ヶ谷少年を知り、愛している人間だと言う。それに、空いているSTLはもうどこを捜しても存在しない。
「くそっ……畜生……」
比嘉は奥歯を噛み締め、ダクトの壁を殴りつけようと拳を握った。
そして、その手をゆっくり解いた。
「……あれ……なんだ……? この……接続は……」
呆然と呟きながら、眼鏡をモニタに限界まで近づける。
今まで気付かなかったが、画面左上に四角く表示された三番STLのウインドウに、右、下、右下の三台のSTLから繋がるラインのほかにもう一本――ドットをごく薄く輝かせながら、画面外へと消える接続ラインを見つけたのだ。
吸い寄せられるように、解いた右手の人差し指を近づけ、ラインに触れる。
画面がズームアウトし、接続先が下からスクロール表示されてくる。
「メイン……ビジュアライザーから……? なぜ…………!?」
自分が重傷を負っていることも忘れ、比嘉は叫んだ。
メインビジュアライザーは、数十万の人工フラクトライトたちの魂を格納するライトキューブ・クラスターの中央に鎮座する巨大なデータストレージだ。
そこに蓄積されるのは、あくまでアンダーワールドを構成するオブジェクトのニーモニックデータのみであり、人の魂は一つたりとも存在しないはずだ。
だが――、しかし。
「オブジェクト……記憶としてのオブジェクト……」
比嘉は全速で思考を回転させながら、無意識のうちに呟いた。
「フラクトライトも、オブジェクトも、データ形式としては同一だ……つまり、誰かが……あるいは誰か達が、意識が焼きつくほどに強い思いを、モノに込めれば……? それが、擬似的なフラクトライトとして機能することも……ある……のか…………?」
自分でそう推測しておきながら、比嘉は半信半疑だった。もしそんなことが可能なら、アンダーワールドでは、記憶としての物体を、持ち主の意思の力で自在に制御できるということになってしまう。
しかしもう、この薄く頼りない接続ラインが、たったひとつの望みであるのは確かなようだった。
何が起きるのか、これで事態が好転するのか悪化するのか比嘉にはまったく推測できなかったが、それでも彼は意を決し、メインビジュアライザーから三番STLへと続くゲートを全解放した。
「キリト」
心臓が破壊される、その寸前――。
新たな声が、俺の名を呼んだ。力強く。暖かく。包み込むように。
「キリト」
ゆっくり、ゆっくり顔を上げた俺が見たのは。
つい一瞬前まで、惨い死体が横たわっていたはずのその場所に、しっかりと両脚で立つ"彼"の姿だった。
ダークブルーの制服には染み一つない。亜麻色の短い髪は綺麗に撫で付けられ、薄めの唇には穏やかな微笑が浮かんでいる。
そして、明るいブラウンの瞳には、いつもそうだったように、二人の絆を信じ、疑うことのない輝きがどこまでも無限に深く煌いていた。
俺は、いつのまにか傷が消えうせてしまった胸から両手を離し、それを差し伸べながら立ち上がった。
わななく唇から、彼の名を呼ぶ声が漏れた。
「……ユージオ」
もう一度。
「生きてたのか、ユージオ」
彼――俺の親友、そして最高の相棒であるユージオは――。
笑みにほんの少しの哀しみを滲ませ、そっとかぶりを振った。
「これは、君が抱いている僕の思い出。そして、僕が焼き付けた、僕の心」
「思い……出…………」
「そうさ。もう忘れてしまったのかい? あの時、僕らは強く確信したじゃないか。思い出は……」
そしてユージオは、右手を広げ、自分の胸に当てた。
「ここにある」
俺も、鏡像のようにまったく同じ動作を行い、続けた。
「永遠に……ここにある」
もう一度、にこっと微笑んだユージオの隣に、アスナが進み出てきて言った。
「わたしたちとキリトくんは、いつだって心で繋がってる」
反対側に踏み出したシノンが、小さく首を傾けて笑った。
「たとえ、どんなに遠く離れてても……たとえ、いつか別れがやってきても」
その横に、ぴょんと飛び出した直葉があとを引き取った。
「思い出と、気持ちは、永遠に繋がりつづける。そうでしょ?」
ついに、俺の両眼から、熱く透明な雫が滝のように溢れ出た。
一歩前に踏み出し、俺は永遠の親友の瞳を懸命に覗き込んで、尋ねた。
「いいのか……ユージオ。俺は、もう一度、歩きはじめても……いいのかな」
答えは速やかで、揺るぎなかった。
「そうとも、キリト。たくさんの人たちが、君を待ってるよ。さあ……行こう、一緒に、どこまでも」
双方から差し出された手が、触れ合った。
瞬間、眼前の四人が白い光の波動となって、俺のなかへと流れ込んだ。
そして――――。
「てめえ……だけは……!! 許さ……ね……」
どかっ!!
と鈍い音が響き、二本目の刃がクラインを貫いた。
いまだ枯れないことが不思議なほどに、止め処も無い涙がアスナの頬に溢れた。
深く地面に縫いとめられながらも、なおも右手で地面を引っかくクラインを、PoHは厭わしそうに見下ろした。
「ウゼェ……吐き気がするぜ。こんなぶっこわれた木偶になに熱くなってんだよ。いいやもう、お前消えろ」
そして、黒フードがアスナ達の背後の黒いプレイヤーたちに向けられ、何か指示が発せられようとした――そのとき。
いつの間にか、拘束された日本人プレイヤーたちの間に紛れ込んでいたひとりの小柄な剣士が、突如立ち上がり、PoHに向けて突進した。
「いやあああああっ!」
鋭い気合が響き、灰色のスカートと赤い長髪がひるがえった。
腰溜めに構えた簡素な直剣とともに、体当たりするがごとく突っ込んでいくのは、後方で騎士レンリと一緒だったはずの補給隊の少女だった。
「ティーゼ……!!」
目を見張るアスナの腕のなかで、ロニエが悲鳴を上げた。
ティーゼの突進は、アスナの目から見ても、飛んでいるがごときスピードだった。これは当たる、と息を飲んだ、次の瞬間。
ばさっと広がったポンチョがティーゼの目をくらませたか、突き出された剣が貫いたのは、惜しくも薄い黒レザーのみだった。
ぬるっとした動きで飛び退いたPoHが、右腰にぶら下がる大型のダガーを、音も無く抜いた。まるで中華包丁のように四角く、禍々しい赤に染まる刃に、アスナの呼吸が止まった。
"友切包丁(メイトチョッパー)"。SAOで、間違いなくもっとも多くのプレイヤーの血を吸った、呪われた武器だ。
「ティーゼさん!!」
叫びながら立ち上がろうとしたが、背後から交差して伸ばされた剣が、肩に食い込んで動きを封じた。
渾身の突撃をかわされたティーゼは、頭上に高々と振りかざされた肉厚の刃をただ見上げていた。
項垂れたその小さな頭に、容赦なく赤黒い包丁が叩き付けられ――
キィン!!
と、オレンジの火花を振り撒いて、赤毛に触れる寸前で跳ね返された。
「……お?」
PoHが訝しげに呟き、再度ダガーを振り下ろす。
結果は同じだった。三度目も。
無力に立ち尽くすティーゼの技ではないことは明らかだ。アスナから見える横顔のなかで、紅葉色の瞳を大きく見開いている。
と、アスナの腕のなかで、ロニエが掠れた囁きを漏らした。
「……心意の太刀」
「え……? そ、それは……?」
「整合騎士の……最高奥義です。私も……本物を見るのは初めてですが……でも、誰が……」
確かに――。
この戦場に残る整合騎士は、レンリ少年ただ一人。しかし彼は、ずっと後方で重傷を負い、倒れたままのはずだ。
アスナは、不意にある予感をおぼえ、息を詰めてゆっくりと視線を動かした。
そして、唇から、かすかな吐息を漏らした。
「ああ…………」
もう一度。
「ああ」
溢れた涙は、数十秒前のそれとは、まったく意味合いを異にしていた。
PoHの足元に、力なく倒れたままのキリトの――
右腕(・・)が動いている!
中身が存在しないはずの、黒いシャツの右袖が、徐々に、徐々に持ち上がっていく。
同時に、肩から肘にかけて、布の内側に確たる存在が満ちていく。
やがて、まっすぐ真上に伸ばされた袖口から、逞しい右手が一瞬の輝きとともに出現した。
現象に、やっとPoHも気付いたようだった。しかし、行動に移るでもなく、フードから覗く唇をぽかんと開いてただ見下ろしている。
今度は、キリトの左腕も動きはじめた。
傍らの地面に放り出されていた、白鞘の長剣を拾い上げる。それを、体の前へと持ち上げる。
右手が、青い薔薇の象嵌が施された柄を強く握った。
すう、と薄青い刃が抜き出されていく。
でもあの剣は、真ん中から……。
とアスナが思った、その瞬間。
鞘の内側から、凄まじい強さで青い閃光が幾条も迸り、それ以外のすべてを影に沈めた。光は、渦巻き、荒れ狂い、一気に収束し――。
折れた箇所から、刃を再生していく!
大きく抜き放たれた長剣は、完全にその刀身を取り戻していた。魂を抜かれるほどに美しく、凄絶な輝きが青く世界を照らした。
「…………キリト、くん」
アスナの濡れた呟きが、まるで聞こえたかのように。
バッ!!
と、痩せ細り、萎えきっていたはずの黒衣の体が、一切の予備動作なしに高く、高く空中へと飛び上がった。
アスナが、クラインが、エギルが、リズ、シリカ、ロニエ、ティーゼが……そしてPoHと無数の黒い歩兵たちが見上げるなか、黒い姿は右手の剣で光の尾を引きながら、何度も前方宙返りを繰り返し。
全員に背を向けて、ざしゃあっと音高く両脚で着地した。その反動で、足元に転がっていた黒いほうの鞘が、くるくると空中に舞い上がった。
じゃりん!!
黒衣の左手が閃き、宙にある剣の柄を握るや、一気に抜刀する。
こちらの剣は、透き通る漆黒の刀身を持っていた。黒と白、二本の剣を握った左右の手が、それらを勢いよく回転させ、高らかな金属音とともに両側に切り払った。
信じがたい現象はさらに続いた。
埃にまみれていた黒いシャツとズボンが、突然、艶やかなレザーの輝きを帯びる。骨ばかりだった五体が、一気に逞しい筋肉を取り戻す。
どこからともなく黒いロングコートが出現し、背中を包んで大きくたなびく。前髪が鋭く突き出し、額に垂れる。
その頃にはもう、アスナを含む全員が、喉の奥から堪えきれない嗚咽を漏らしていた。
今ついに甦った黒の剣士、"二刀流"キリトは、ゆっくりと肩越しに振り向くと――。
まっすぐにアスナを見て、あの懐かしい、力強く、ふてぶてしく、それでいてかすかに含羞のある笑みを、にっと浮かべた。
――キリトくんだ。
わたしのキリトくんが、帰ってきた。
アスナは、胸の奥であらゆる感情が爆発し、光となって体の末端まで広がっていくのを感じた。悲嘆と絶望が一瞬で蒸発し、無数の刀傷が作り出す痛みすらも消えた。
今なら、万の敵とも再び対峙できるという確信があったが、しかしアスナは動かなかった。この光景を、そして感情を、心のなかに永遠に焼き付けておくために。
同様に、リズベットやクラインたち、あるいは周囲のコンバートプレイヤーも、それぞれの感情に打ち震えながらただ目を見開いていた。
皆を拘束し、包囲する数万の隣国人たちもまた、成り行きを見守って立ち尽くしている。
静寂を、最初に破ったのは殺人鬼PoHだった。
殺そうとして殺せなかった赤毛の少女のことなど、もう意識から完全に飛んでしまったかのようにキリトに向き直り、赤い包丁の背で肩を叩きながら低く言った。
「オゥ――ケェ――――イ。やぁっと起きたかよ、勇者サマ。そうこなきゃな。これでやっと、お預け食ってたエンドロールが見れるってわけだ。てめぇが、やめてーやめてーって泣き喚く最高のシーンがよ」
ずい、とキリトにフードを寄せて、音になるかならない声で続きを囁く。
「手足をぶった切って、もう一度動けなくしたてめぇの目の前で、あの女をグチャグチャにぶっ壊してやるぜ。SAOじゃコードに引っかかって出来なかった、最高のメニューでな」
ククク、と喉を鳴らして身を引いたPoHは、左手を高々と掲げて、韓国語及び英語で叫んだ。
「こいつがサーバー攻撃の首謀者だ!! 拘束しろ!! 他の奴らは全員殺して、狭い島国に叩き帰してやれ!!」
戦場にくすぶっていた狂乱の余熱が、一気に再点火された。
怒声とともに、津波のような黒い軍勢が、剣を手放した人界軍へと殺到していく。キリトへも数十人のプレイヤーが走り寄り、日本人を拘束していた者たちも、我先にと剣を振り上げる――。
悲劇的結末へのカウントダウンの最中にも、アスナはただ信じ、黒衣の剣士を見つめ続けた。
キリトは、まったく気負いも何もない動作で、右手の白い剣をひょいっと半回転させ、地面に突き立て。
ひと言、静かに発音した。
「リリース・リコレクション」
世界の色が消えた。
剣の刀身が放った青白い輝きの、あまりの眩さが何もかもを塗りつぶしたのだ。
光は、円環となって剣から全方位に迸り、虜囚となった日本人たちを、人界軍を、そして三万以上の黒い軍勢を瞬時に飲み込んだ。
ほんの一秒足らず瞼を閉じたアスナは、戦場に渦巻いていた憎悪と殺意の熱気が嘘のように吹き払われるのを感じた。
清浄とした冷気を胸に吸い込みながら、ゆっくりと目を開ける。
そして、驚きのあまり息を止めた。
世界が――凍っている。
つい一瞬前まで、石炭のような黒い瓦礫だけが果てしなく広がっていたはずの大地が、深く透き通る青い氷へと変じている。見つめるあいだにも、きん、きんと音を立てながら霜の結晶が成長し、微風に舞い上がって、空気を微細に煌かせる。
溜めていた空気を大きく吐き出すと、それは白い雲へと変わった。
そのあとでアスナは、ようやく世界からあらゆる音が消えていることに気付いた。
あれほど轟々と響いていた雄叫びも、地面を揺るがす無数の足音も、それどころかすぐ背後で罵り声を上げかけていたプレイヤーの気配すらも消えているではないか。
地面に突き立てた白い剣に手を乗せたまま立つキリトから視線を外し、アスナはロニエとリズベットの身体を抱いたまま、ゆっくりと振り向いた。
そこに居た――あるいは在ったのは、五体を分厚く氷に覆われた黒い兵士の姿だった。
高々と剣を振り上げた格好で、ヘルメットのおくの両眼を見開いたまま、二センチちかくありそうな青い氷に完全に封じ込められている。
いや、それだけではない。
足元から、螺旋を描いて這い登っているのは、氷で出来た植物の蔓だ。アスナが見入るあいだにも、蔓はみるみるうちに腰から胸、腕へと成長していく。透き通った極薄の葉を次々と開かせながら、青い蔓はついに兵士の頭部へと達し、そこに大きな蕾をいくつか膨らませた。
しゃりん。
と、鈴の音のような音がかすかに響き、蕾が綻んだ。青く透ける大きな花弁が、幾重にも開いていく。これは――薔薇だ。
現実世界には存在しない、純粋なブルーに輝く薔薇の花が、血の色の陽光にもその色をいささかも濁らせることなく咲き誇った。
開いた花の中央から、白い光の粒がいくつも空中に漂いだすのをアスナは見た。同時に、爽やかな甘い香りが大気に満ちた。
「…………神聖力が……」
左腕の中で、ロニエがごくごく微かな声で囁いた。
神聖力。つまり、アンダーワールドを動かす根源法則、空間リソースのことだ。あの薔薇は、兵士に与えられた天命をリソースに変えて放散しているのか。
ようやく視線を引き離し、周囲を見る。
青薔薇の花園が、どこまでも無限に続いていた。
日本人プレイヤーを拘束していた兵士たちも、人界軍に襲いかかろうとしていた者たちも、それどころか荒野にひしめく数万の隣国人全員が、無音のうちに凍りつき、それぞれ複数の青い花を頭や胸に咲かせている。花からは一様に光の粒が次々と零れ、風に乗って舞い飛ぶ。
つまり――つまり今この瞬間――。
三万のプレイヤー全員が完全に動きを封じられたうえで、そのヒットポイントを奪われ続けているのだ。
アスナやシノン、リーファが使用するスーパーアカウントの能力を結集したとて、このような真似は到底できない。いったい、いかなる力、いかなる術理がこれほどの超現象を実現しているのか。
そんな疑問が、アスナの脳裏を過ぎったのは一瞬のことだった。
あまりにも凄絶にして、あまりにも美しすぎる光景に、アスナも、ロニエも、他の日本人たちもただ呆然を目を見開くことしかできなかった。
再び滲んだ涙を通して、アスナは空に舞い散る光の群れを追った。
と、その一部が、他とは異質な動きで寄り集まり、流れていくのに気付いた。リボンのように宙を滑る輝きを、アスナは目で追った。
それは頭上を超え、螺旋を描いて地面へと降り――
そして、不思議な光景を、アスナは見た。
PoHへの捨て身の攻撃が回避されたその場所で、いまだに膝を突いていたままのティーゼのすぐ前に、光が凝集しておぼろな人影を作り出したのだ。
それは、ティーゼやロニエが着ているのと同じ意匠の制服に身を包んだ、ひとりの青年だった。
短く、柔らかそうな髪が額に流れる。涼しげな目元と、細めの唇には穏やかな微笑が湛えられている。
白く光る人影を見上げた瞬間、ティーゼの顔がぎゅっと歪んだ。
唇が小さく何かを叫び、弾かれるように立ち上がった少女は、青年の胸に一直線に飛び込んだ。
青年はティーゼを抱きしめ、その耳に何かを囁きかけるような仕草を見せたあと、ゆっくりと顔の向きを変え、キリトを見た。キリトもまた、微笑みを浮かべて青年を見やった。
二人は同時に頷きあい――そして、人影はすうっと、空に溶けるように消えた。ティーゼが青く凍る大地に膝から崩折れ、うずくまり、低くすすり泣いた。
その声を圧して、怒りと憎しみに満ちた叫びが響き渡った。攻撃側ではただ一人、青い薔薇の拘束を受けなかったPoHの声だ。身体を折り曲げ、伸ばしながら英語の罵り言葉を幾つも連発させたあと、黒フードの殺人鬼は日本語で詰問した。
「……なんだこりゃあ!! てめぇ、何しやがった!?」
キリトは、右手を白い剣の柄に置き、左手で黒い剣をゆるりと下げたまま、微笑みを消して鋭くPoHを見返し、答えた。
「"武装完全支配"。騎士たちが三百年をかけて磨き上げた技だ。お前には理解できない」
「ぶそう……? ハッ、つまりはシステム上のインチキ技だろうが!! てめぇには似合いだぜ、"二刀流"さんよ!!」
PoHは、右手の包丁で大きく周囲を指し、吐き捨てた。
「そらどうした、早く連中を殺せ! 動けない奴らを切り刻んで、悲鳴の大合唱を聞かせてくれよ!!」
「その必要はない」
キリトの声は、あくまで静かで、それでいて強い意思に満ちていた。
「彼らの天命が尽きるまで、薔薇は咲き続ける。そして、お前が望む苦痛も憎悪も生み出すことなく散っていく」
「この……ガキがぁ…………」
突如、PoHの声が、凄まじい怨嗟の響きを帯びた。実際に、フードの下の口の付近に、悪魔の吐息のごとき火炎がちらつくのすらアスナは見た。
「てめぇの、そういう所が許せねえんだよ。人殺しの分際で勇者面しやがってよ。サルはサルらしく、食ってヤって殺しあってりゃぁいいんだ!!」
ゴッ!!
という重い震動は、PoHの右手の包丁めいたダガーが赤い光を帯びた音だった。
ぎし、ぎし、と軋みながらダガーが巨大化していく。赤黒い刀身に、生き物のように血管が這い回り、脈打ちながら膨れ上がっていく。
たちまちのうちに、包丁はギロチンの刃のごとき凶悪な代物へと変貌を遂げた。それを、右手一本でPoHは軽々と振り上げ、巨大術式を維持中のキリト目掛けて振り下ろした。
鼓膜を引き裂くような金属音とともに、刃はキリトの手前の空間で止まった。ティーゼを守ったときの数倍の火花が発生し、青い世界を赤く照らした。
二人の足元の氷がひび割れ、飛び散った。同時にPoHのフードがばさっと跳ね上がり、その中の素顔が露わになった。
SAO時代には一度も晒されることのなかった殺人者の容貌は、どう見てもアジア人のものではなかった。高い鼻筋、窪んだ顎、長く伸びる巻き毛は、まるでハリウッド俳優のように整っている。
しかし、両の眼に渦巻く憎しみの炎が、男の顔をその名のとおり悪魔じみたものに見せていた。アスナは、キリトの力に僅かの疑いも抱いていなかったが、それでも背筋に冷たいものが這うのを感じた。
PoHの唇が歪み、むき出された犬歯が、突然長く伸びた。
額に流れる巻き毛を突いて、黒く鋭い角が二本伸び上がった。
それだけではない。ポンチョの下の、どちらかと言えば小柄な体すらも、見る見るうちに逞しく膨れ上がり上背を増していく。
キリトの、不可視の"心意の太刀"に食い込む巨大包丁が、徐々に、徐々に沈みはじめる。火花はいつしか火炎へと変わり、周囲の氷を溶かし出す。
「……死ね、イエロー」
にやりと笑った悪魔の口から、低く歪んだ声が漏れた。
キリトの両眼が、すうっと細められた。これまで無表情を貫いていた口元が、こちらも強靭な笑みを浮かべた。かつて彼が、アインクラッドのフロア守護ボスや、多くの強力なプレイヤーと対峙したときに決まって見せた表情。
コートの左腕が、すう、と動いた。
握られた黒い長剣を、まっすぐ空へと掲げ――再び、あのコマンドが響いた。
「リリース・リコレクション!」
轟!!
という唸りとともに、刀身を黒く渦巻く闇が包み込んだ。
アスナは風を感じた。大気が、キリトの左手へと吸い込まれていく。同時に、戦場に咲き誇る十万以上の青薔薇から放散された光の粒――空間リソースも、一斉に揺れ、動き、寄り集まって、黒い剣に流れ込んでいく。
突如、刀身が輝いた。
純黒でありながら――黄金。
黒曜石を透かして太陽を見るかのような。
ちりちり、と空気が弾けるのをアスナは感じた。剣の優先度が、無限の高みへと昇りつめ、世界そのものを震わせているのだ。
"武装完全支配"とはつまり、整合騎士レンリの二つのブーメランが融合し、自在に飛翔するような、武器固有の性能拡張コマンドなのだろう。
白い剣は、広範囲の敵を凍結し、その天命をリソースとして空中に放散する。
黒い剣は、周囲のリソースを吸収し、威力へと変える。
とてつもなくシンプルで、それゆえに強力無比な複合技(コンボ)だ。完璧なる一対。最高のパートナー。
白い剣の本来の持ち主が、先ほど一瞬現れた幻影の青年であることをアスナは直感的に察した。
そして彼がもう、この世には居ないことも。
またしても溢れた涙の向こうで、アスナは、キリトがゆっくりと左手の剣を振り下ろすのを見た。
速度も重さもない、刃で空気を撫でるような動き。
黄金に輝く刀身が、悪魔へと変じたPoHの、赤い巨大包丁に触れた。
ぱっ。
と一瞬の閃光を残し――赤い刃が微細な粉塵と化して飛び散った。
悪魔の逞しい右腕が、筋繊維と血管を解くように、手首から肘、肩へと分解、消滅していく。
そして――。
どぐわっ!! という爆発音とともに、PoHの体が高々と空中に跳ね上がった。
深紅の空を背景に、いっそう赤い血の螺旋が描かれる。
旋風に巻かれる木の葉のように吹き飛んだPoHは、たっぷり五秒以上もかけて青く凍る地面へと戻ってきた。
無様に墜落するのではなく、両足の靴底で着地してみせたのは、最後の矜持の発露だろうか。しかし、その時にはもうあれほど逞しかった筋肉は元に戻り、悪魔の角や牙も消えうせていた。
革つなぎに包まれた細い体をよろめかせ、踏みとどまったPoHは、左手で右肩の傷口を強く抑えながら鼻筋に皺を寄せて吐き捨てた。
「……キャラの性能で勝ったのが……そんなに自慢かよ、小僧。いいさ、とっとと殺しやがれ。だがなァ……」
血まみれの左手が、まっすぐキリトを指差した。濃い眉の下の両眼が、かすかに赤い焔を瞬かせた。
「ここで死んだって、たかがログアウトするだけだってことを忘れるなよ。俺は必ず返ってくるぜ。この仕事でたっぷり稼いだ資金で、過去を買い換えて、必ずてめぇの国に戻る。光栄に思えよ、殺すサル一覧の上のほうに、てめぇとあの女の名前も書き加えといてやるからなぁ」
くっ。
クックックックッ。
歪んだ唇から響く嗤い声は、まさしく呪詛と呼ぶべきものだった。アスナは歯を食いしばり、恐れるもんか、怖がってなんかやるもんか、と自分に言い聞かせた。
鼻先に指を突きつけられたキリトは――。
表情を、まったく変えなかった。
漆黒の瞳に毅然とした光を浮かべたまま、PoHを正面から見据えている。
唇が動き、静かな声が流れた。
「……まだ分からないのか。俺がなぜ、お前だけを青薔薇の蔓に捕らえなかったのか」
「な……んだと……?」
そこでようやく、キリトの唇にもかすかな笑みが滲んだ。
「殺さないために決まってるだろ。SAO攻略組の、レッドプレイヤー対応方針を忘れたのか? "無力化、及び無期限幽閉"だ」
「きっ……さまァ……!!」
PoHの貌に凄まじい表情が浮かんだ。
怒り。殺意。そして――屈辱。
左手一本で殴りかかろうとしたPoHの胸に、キリトはいまだ強い輝きを放ち続ける黒い剣の切っ先を、軽く当てた。
アスナは、先ほどと同じく、PoHの体が瞬時に爆裂する光景を予想し息を詰めた。
しかし、直後発生した現象は、想像を絶するものだった。
剣の刀身から幾筋もの"闇"が噴き出し――PoHの五体の各所へと流れ込んでいく!
闇の奔流は、ごつごつと波打ち、分岐し、まるで樹の枝であるかのようにアスナには見えた。
「ぐおっ……な……ンだこりゃァッ……!!」
動きを止め、叫ぶPoHに顔を寄せ、キリトが一層低い声で囁いた。
「この剣の完全支配術式は俺が組んだんだけど……ちょっと手抜きでさ。ただリソースの記憶を無加工で呼び覚ますだけなんだ。陽力、地力を無限に吸い上げ、力に換える大樹の記憶を」
「樹……だと……」
「そうだ。樹の属性は……穿ち、貫くだけじゃない。取り込み、同化する力もある。見たことないか、PoH? 他のモノが、樹の根っこや幹に埋まって、一体化してるところを?」
同化……。
アスナははっと目を見開き、PoHの足元を凝視した。
銀の鋲を無数に打ったロングブーツは、もうそこには無かった。男の両足は、かわりに、いくつにも分岐して地面にもぐる樹木の根へと変貌していた。
「あっ……脚が……うごかねェ……!? 何しやがったッ……このガキがぁ……ッ!!」
PoHは吼え、左拳で再度キリトを殴ろうと高く振りかぶった。
ぎしっ。
と固い軋み音が響き、ほそい左腕が空中で動きを止めた。
艶やかな黒レザーが、ごつごつとささくれた樹皮へとみるみるうちに変質する。指が細長く伸び、裂け、たちまち完全な枝へと姿を変える。
形質変化は、脚と腕から始まり、胴体へと広がっていく。ついに恐怖の色を映しはじめたPoHの顔に、キリトはそっと最後の言葉を囁きかけた。
「お前たちが呼び込んだプレイヤー集団のHPが尽き、ログアウトしたら、すぐに時間加速が再開されるだろう。お仲間が、なるべく早くお前をSTLから出してくれるように祈れよ、PoH。たぶん、少しばかり長くなるだろうからな。あるいは……もしかしたら遠い、遠い未来、このへんに開拓村ができたら、斧を持った子供がお前を切り倒してくれるかもな」
それに対して、何かを言い返そうとしたPoHの口が――。
黒い樹皮に空いた、ちいさなウロへと変わった。整っていた目も鼻も、樹皮に刻まれた単なる皺でしかなくなった。
そこに存在するのはもう、幹を奇妙な形に捩り、一本だけの枝を高々と空に向けた、小さな黒いスギの樹でしかなかった。
キリトは、ようやく輝きを薄れさせた黒い剣を引き戻し、とん、と地面に突き立てた。
そして、ゆっくりと空を振り仰ぎ、尚も無数に漂い続けるリソースの集合光をその瞳に捉えた。
すうっと左手が持ち上がる。五本の指が、見えない楽器を奏でるように、しなやかに閃く。
続いたコマンド詠唱もまた、謳うがごとく抑揚豊かに、力強く響いた。
「システム・コール……トランスファ・デュラビリティ、スペース・トゥ・エリア」
さあああっ……。
と、かすかな、それでいて無数に、無限に広がる優しい音が世界に満ちた。
雨が降る。
リソースの星ぼしが上空に凝集し、白く、暖かく輝く光の雫となって降り注ぐ。傷つき、力尽きて横たわる二百人の日本人プレイヤーたちに染みこみ、その体を癒していく。
あるいは、心も。
ほとんど同時に、クラインの身体を剣で貫いたまま凍る二人の隣国人たちの体が、すうっと薄れ、消えるのをアスナは見た。静寂のうちにHPが完全消滅し、アンダーワールドからログアウトしたのだ。
消滅は、連鎖するように続いた。エギルを、シリカを拘束していた兵たちが消え、アスナの肩を押さえていた剣も同じく消えた。ALOプレイヤーたちを磔にしていたポールアームや、チェーン類も次々に空気に溶けていく。
全てを癒す雨の下を、ゆっくり、ゆっくりと歩み寄ってくる黒衣の剣士の姿を、アスナはただ見つめた。
立ち上がることも、声をかけることもできなかった。動いたら、すべてが幻になってしまう気がした。だから、ただただ目を見開き、唇に微笑みを浮かべ、アスナは待った。
代わりに、立ち上がったのはクラインだった。
切り落とされた片腕は、すでに完全に修復されている。胸と腹を貫かれた箇所も、滑らかな肌が見えるばかりだ。
「キリト……。キリトよう」
湿った声が、低く響いた。
「いっつも……オイシイとこ持って行きすぎなんだよ、オメエはよう……」
よろよろと進みながら発せられた言葉は、もうほとんど泣き声だった。
長身のカタナ使いは、黒衣の二刀剣士の両肩をがしっと握り、バンダナのなくなった額を、やや背の低い相手の胸に乱暴に押し当てた。背中が震え、太い嗚咽が漏れた。
「うおっ……うおおおおううう…………」
号泣する友の背中に、キリトもまた両腕を回し、強く引き寄せた。目を瞑り、きつく歯を食いしばって仰向けられたその頬にも、光るものがあった。
たっ。
と、小さな足音が聞こえた。アスナの傍から走り出したのはロニエだった。涙の粒を空中に引きながら、キリトの右肩へとぶつかっていく。すぐに、高く細い嗚咽が加わった。
身体を起こし、地面に胡坐をかいたエギルの眼も濡れていた。リズベットとシリカが、抱き合って泣きはじめた。周囲から集まってきた日本人プレイヤーたち、ALO領主のサクヤやアリシャ、ユージーン、またスリーピングナイツのシーエンやジュン、その他多くの者たちの顔にも、光の雨以外の雫が見える。
驚いたことに、前方から近づいてきた人界軍の衛士や術師たちも、一様に目元を赤くしていた。彼らはいっせいに跪くと、右拳を胸に当てながら深くこうべを垂れた。
「…………僕には分かっていましたよ、あの人と、二本の剣が、皆を救ってくれると」
不意に、背後から穏やかな声がかけられた。
振り向いたアスナが見たのは、微笑む少年騎士レンリと、その後ろに従う巨大な飛竜だった。
アスナは胸がいっぱいで、一度、二度と頷くことしかできなかった。レンリも頷くと、少し離れた場所に膝をついたままのティーゼに歩み寄り、その隣に腰を落とした。
いつしか、まわりを取り囲む氷結した兵士たちの大群は、半分以下へと数を減じていた。
彼らが皆ログアウトすれば、襲撃者たちは『外部兵力による状況制圧』を諦め、時間加速倍率を再び上限まで引き上げるだろう。アミュスフィアを用いて接続している皆は、その時点で自動切断されてしまうはずだ。
キリトもそれに気付いているのだろう、クラインの肩を叩いてそっと身体を離すと、生き残った日本人プレイヤーたちをぐるりと見渡した。
そして、深々と頭を下げ、言った。
「みんな……ありがとう。みんなの意思と、流してくれた血と涙は、絶対に無駄にしない。本当に、ありがとう」
そう――。
戦いは、まだ終わったわけではないのだ。
PoHと、アメリカ人、中国人、韓国人プレイヤーたちは排除されたが、まだ敵の首魁が残っている。アリスを拉致し、今この瞬間も、はるか南の空を飛び去りつつある。
アスナは大きく息を吸い、ようやく立ち上がった。
それぞれの感情に打ち震えながら立ち尽くすプレイヤーたちの間を、ゆっくりとキリトに歩み寄る。
身体を起こしたキリトが、まっすぐにアスナを見た。
ああ――今すぐ胸に飛び込みたい。子供みたいに泣きじゃくりたい。抱きしめ、髪を撫でてほしい。
しかしアスナは、全精神力を振り絞って感情を押さえつけ、口を開いた。
「キリトくん……。皇帝ベクタが……アリスを」
「ああ。状況は、おぼろげにだけど記憶している」
キリトも表情を引き締めて頷き、そして、まっすぐ右手を差し出した。
「助けにいこう。手伝ってくれ、アスナ」
「…………ッ……」
もう、限界だった。
アスナは走り、その手を取り、頬に押し当て、身体を預けた。
キリトの左腕が、ぎゅっと強く背中に回された。
抱擁は一瞬だったが、しかし、言葉にできないほど大量の情報が瞬時に二人の魂を行き交うのをアスナは感じた。
キリトは、まっすぐに視線を合わせながらもう一度頷き、その瞳を南の空へと向けた。
左腕も、その方向へとまっすぐに伸ばされる。指が、何かを探るように動く。
「…………見つけた」
「え……?」
アスナは瞬きしたが、キリトは答えず、小さく微笑んだだけだった。
突然、少し離れた場所に突き立ったままの二本の剣が、かすかな音とともに地面から抜け、浮き上がった。
同じく浮遊したそれぞれの鞘に、澄んだ音を立てて収まり、回転しながら飛んでくる。
黒のロングコートの背中に、ばしっと交差してぶつかると、自動的にベルトが両肩のバックルに接続された。
キリトはもう一度ぐるりと皆を見回し、クラインの肩と、ロニエの頭を軽くぽんと叩くと、言った。
「それじゃあ、行ってくる」
そして――。
そしてリズベットは、キリトとアスナの姿が、地面から屹立した光の柱に飲み込まれ、掻き消えるのを見た。
一瞬ののち、そこにはもう誰も居なかった。見開いた眼をぱちぱちと瞬きさせ、リズベットは、はぁーっと長くため息をついた。
「まったく……相変わらず無茶というか無軌道というか……」
隣でシリカが、くすっと笑った。
クラインが、ばしっと両手を打ち合わせ、叫んだ。
「おいおい、ちくしょう……――かよあの野郎。無敵じゃねえかよ。ちくしょう、オイシイよなあ、いっつもよう……」
クラインが大ファンであると常々標榜している、大昔の少年向けバトル漫画の主人公の名を出して毒づくその口調を、新たな涙がつたう表情が裏切っていた。おそらく彼にとっては、SAOで出会って以来惚れ抜いてきたキリトという存在は、まさにそのものだったのだ。無敵で、絶対的な、永遠のヒーロー。
――そして、あたしにとっても。
リズベットも、尽きぬ涙に濡れる瞳を、はるか南の空へと向けた。
ログアウトされるまで、おそらくあと数分となったこの世界を、強く記憶に焼き付けておくために。
激痛と屈辱のなか切断されていったたくさんのプレイヤーたちに、あたしたちの戦いは無駄じゃなかった、と伝えるために。