ピラミッド型の自走メガフロート・オーシャンタートルの中央部を、高強度チタン合金製の堅牢なメインシャフトが貫いている。
円筒状のシャフト最下部には、さらに複層の防護壁に覆われたうえで、主機である加圧水型原子炉が格納される。その上に、占拠されたメインコントロールルームと、第一STL室が存在する。
アンダーワールド、ひいてはアリシゼーション計画の中枢たるライトキューブクラスターとメインフレームは、さらにその上部に鎮座している。ここまでが下層(ロウワー)シャフトということになる。
シャフトはそこで一度、水平に広がる耐圧隔壁によって分断される。上層(アッパー)シャフトと呼ばれる隔壁の上側には、巨大な冷却設備群に続いて、ラーススタッフが退避中のサブコントロールルームと、第二STL室が設置されている。
アッパーシャフトの船首サイドを貫く狭い階段を、今ひとりの――あるいは一体の人間型ロボットがゆっくりと自力下降しつつある。人工フラクトライト格納用マシンボディ試作三号機、通称"ロボザエモン"である。ぎこちない動きを見守るように、武装した数名の自衛官があとに続く。
同時に、シャフト船尾サイドを垂直に走るケーブル格納ダクト内に、申し訳程度に設置されたハシゴを、二人の小柄な人間がゆっくりと這い下りていた。
――閉所恐怖症でも、高所恐怖症でもなくてほんとうに良かった。
と比嘉タケルは自分を勇気付けようとしたが、この状況に恐怖症の有る無しなど関係ないような気もした。
何せ、ダクトはまっすぐ五十メートルも真下に伸びているのだ。汗ばむ手を一度でも滑らせ、あるいは足を踏み外したら、はるか下方でダクトを封鎖している耐圧ハッチに激突して、かなり楽しくない経験を味わうはめになる。
こんなことなら、同行の柳井さんに先に行ってもらえばよかった。それなら少なくとも、眼下の底なし穴を見つづけるハメにはならなかったのに。
――ていうか、弾避けになるとか言っといて、いざ侵入となったら「お先にどうぞ」ってどうゆうこっちゃねん。
比嘉は少々恨めしい目つきで、数メートル上でハシゴに取り付いているスタッフ柳井をちらりと見やった。
しかし、色白の顔をいっそう青くして、必死の形相でステップを握り締めている姿を見れば文句も言えない。この危険な任務に名乗り出ただけでもアッパレと思うべきだし、柳井のベルトに差し込まれたオートマチック拳銃の存在は、多少なりとも心強くさせてくれる。
再び下に視線を戻したのと同時に、耳のインカムから低い声が流れ出た。
『どう、比嘉君。問題はない?』
頭上のダクト入り口から頭だけ覗かせ、降りる二人を見守っている神代博士の声だ。
比嘉は口元のマイクに、同じくぎりぎりの囁き声を返した。
「え……ええ、何とか。あと五分ほどで、耐圧ハッチまで到達すると思うッス」
『了解。そちらの準備が出来次第、ロボザエモン班に突入の指示を出すわ。比嘉君たちがハッチを開けるのは、敵が迎撃を開始してからよ』
「ラジャー。うわお、なんかミッション・インポッシブル感漂いまくりッスね」
『頼むからポッシブルにして頂戴。私には、アンダーワールド内部の状況がどう転ぶかも、キリト君の復活にかかってる気がしてならないのよ。……すみません柳井さん、その子のこと宜しくお願いしますね』
後半の言葉を向けられた柳井スタッフの、ラッジャーです! という裏返った声が比嘉のインカムからも聞こえた。
――その子って、ねえ。
比嘉は苦笑しつつ、いつのまにか汗の乾いた掌で、鋼鉄のステップをぎゅっと握った。
ハッチまでは、もうあと半分を切っていた。
中国・韓国からダイブしたプレイヤーたちが、モニタ上で巨大な黒雲となってゆらめく様を呆然と眺めていたクリッターは、不意に響いた警報にがばっと飛び起きた。
「なん……!?」
慌ててコンソールを見回すと、右側のサブモニタのひとつに赤いアラーム表示が瞬いているのに気付いた。
「おわっ……耐圧隔壁のロックが解除されてるじゃねえかー! だ、誰か通路を見にいってくれ!!」
叫ぶ言葉が終わらないうちに、壁際からアサルトライフルを掴み挙げたハンスが脱兎の如く駆け出していった。
「お……おい、いい手なんだぞ畜生!」
一声ボヤいて、色の揃ったトランプカードを床に叩きつけ、ブリッグが後を追っていく。
まさか、装備で圧倒的に劣るK組織がやぶれかぶれのバンザイアタックを仕掛けてきたのか? それとも何かの策か……?
クリッターも思わずコンソールから離れ、コントロールルームのドアまで移動した。
階段を駆け上っていく足音に続いて聞こえてきたのは、ワァッツ、ガッデム、という驚愕の叫び声だった。
直後、ライフルの連射音がそれに続いた。
かたた、かたたたた、という乾いたその音が、自動小銃の立てるものだと比嘉はもう知っていた。
今頃シャフトの反対側では、哀れなロボザエモンが美しいCNC切削アルミ外装を孔だらけにされているのだろう。しかし、電源とサーボ系は強靭なチタン骨格の後ろに実装されているため、しばらくは動き続けるはずだ。
『いいわ! 開けて!!』
インカムからドクターの声が響くと同時に、比嘉は全身の力を込めて、マンホール型の耐圧ハッチのハンドルを回した。ぷしっ、という音がして、油圧動力により分厚い蓋が持ち上がる。
ロウワーシャフトに続くダクトは完全な暗いオレンジの光に沈んでいた。ライフルの連射音が、一層鮮明に響いてくる。
ごくりと唾を飲み、比嘉はストラップで胸にぶら下げた小型端末の感触を確かめてから、一気にハシゴを降りはじめた。
こういうとき、映画だと何か叫ぶんだよな。えーと確か……。
「……ゴーゴーゴーゴー!!」
口の中で呟くと、耳から凛子博士のいぶかしげな声が返った。
『え、何か言った?』
「い、いえ、何でも。……点検用コネクタまで、あと二十メートル……あっ、見えた、あれッス!」
ダクトの壁を這う、何本もの太い光ケーブルを飲み込むパネルボックスが、ずっと降りたところに確かに見えた。
あそこに端末を繋げば、理論上はすべてのSTLを直接オペレーションできるはずだ。
待ってろよ、桐ヶ谷君。いま、君の心を目覚めさせてやるからな!
恐怖心も忘れ、懸命にステップを降りる比嘉のインカムから、最後の通信が響いた。
『じゃあ、私はサブコンで、キリト君のフラクトライトをモニタするからね。比嘉君、気をつけてね!!』
ドクター神代、いや凜子先輩のその声は、遥か遠い学生時代と何ら変わらず、比嘉は思わずはるか上を仰ぎ見ようとした。
しかし視界に入ったのは、必死の形相でハシゴを降りる柳井スタッフの姿だけだった。
やれやれ、と思いながら、比嘉はすぐ足元に迫ったパネルボックスに視線を戻した。
「おやおや……君は、GGOの。確か"シノン"だったかな? まさか、こんなところで会えるとは」
特徴の薄い顔に、にっこりと笑顔を浮かべる"サトライザ"を凝視しながら、シノンは懸命に両手の震えを抑えようとした。
しかし指先は強張り、掌は冷たく、無理に動かすとソルスの弓すらも取り落としてしまいそうだった。
奇妙な有翼生物の背に乗ったサトライザは、温度のない笑顔を作ったまま、滑らかな日本語で続けた。
「これはどういうことかな。 日本国内にもSTLは存在するとラビットは言っていたが……君はK組織の関係者? それとも、こんな場所でまで傭兵をやってるのかい?」
シノンは、乾いて張り付いてしまったような口を懸命に開き、どうにか声を発した。
「サトライザ……お前こそ、なぜここに」
「必然だからに決まってるじゃないか」
嬉しくてたまらぬというふうに、黒と灰色の迷彩に彩られたジャケットの腕を広げ、サトライザは言った。
「これは運命だよ。私と君を引き付けあう魂の力さ」
その口調が、じわじわと変容していく。声の帯びる温度までもが、際限なく低下する。
「そう……私は君を欲した。だからこうして巡り合った。これで色々なことが分かるだろう。ライトキューブからだけでなく、STLとSTLを介せば現実世界の人間からでも魂を吸い取れるのかどうか。君とK組織の関係。そして……君の魂は、どんな味と香りを持っているのかも。さあ……こっちに来たまえ、シノン。私にすべてを委ねるのだ」
ずっ……。
と、重い音を立てて、不意に世界が歪んだ。
空気が。音が。そして光さえも、ぐにゃりと捻じ曲げられながら、サトライザを中心に吸引されていく。
「な……」
何、これ。
という思考を最後に、シノンは己の意識までもが、奇妙な磁力に引かれていくのを感じた。
いけない。抵抗しないと。戦わないと――。
心の片隅でそう叫ぶ声は、しかしどうしようもなく小さく無力だった。
いつしか、群青の鎧に包まれたシノンの体そのものが、広げられたサトライザの腕のなかへと吸い寄せられはじめた。
くたりと力を失った左手の指先に、ぎりぎり白い弓を引っ掛けたまま、シノンはするすると空中をスライドしていく。
数秒後、朧に霞む意識のなかで、シノンは自分の体がサトライザという名の重力源にぬるりと包まれるのを感じた。
男の左手が、虫のように背を這う。右手の指先が頬をなぞり、耳を覆い短い髪をぱさりと払う。
露わになった左耳に、サトライザのやけに赤い唇が近づき、耳介を軽く挟まれた。同時に、冷たい粘液のような声が頭のなかに滴り落ちてくる。
「シノン。君は、サトライザという名前の意味を考えてくれたことはあるかな?」
「…………?」
ぐったりと脱力したまま、シノンは首を左右に振った。
「いかにもアメリカ人ごのみの、禅の"サトリ"をもじった単語のようだろう? しかし違う。これは純然たる英単語なのだ。フランス語からの借用語ということになっているが、大本はラテン語だ。スペリングは、Subtilizer。意味は"下に隠すもの"。転じて――"盗むもの"」
呪文めいた抑揚で喋りつづける唇から忍び出た舌が、軽く耳を舐めた。同時に、指の長い両手がアーマーの継ぎ目を探りはじめる。
「私は、君を盗む。君のすべてを盗む……」
「じ……人界軍! 補給隊! 全速前進――ッ!!」
アスナは、東西の遺跡宮殿屋上を埋め尽くす大軍が動き出す寸前、声を振り絞ってそう叫んだ。
アンダーワールド人の衛士部隊と馬車隊は、遺跡参道を少し入ったところに陣を構えている。宮殿は、その参道のすぐ両側に広がっているのだ。これでは、真っ先に襲ってくれと言っているようなものだ。
「物資は捨てて!! 今すぐ参道から出て、走って!!」
さらに指示するが、到底間に合いそうにない。新たに戦場に現れた、おそらく中国と韓国からの接続者たちは、いまにも巨大神像の頭を踏み越えて、人界軍の真っ只中へと飛び降りていきそうだ。
アスナは歯を食いしばり、思念を凝らした。
ラ――――――、という多重サウンドに続き、振り下ろしたレイピアからオーロラが一直線に迸った。
目の前に白い火花が飛び散る。すさまじい激痛が脳を焼く。
しかし同時に、参道の両側に並ぶ四角い神像たちが、地響きを立てて動き始めた。短い腕を振り回し、いかつい口を開いて、空中の黒い兵士たちを叩き落し噛み潰す。
聞きなれない言語による悲鳴と絶叫。降り注ぐ鮮血。
それに重なって、一層の激怒と罵倒の雄叫びが響き渡る。
対話と説得の可能性は最初から無かった。いったい、何をどのように説明されたのか、それほどまでに隣国のプレイヤーたちが放つ怒りの集合思念は強烈だった。
神像群を操作できたのはほんの三十秒程度だったが、その時間を利用して、どうにか数百人の人界人たちと十台の馬車は参道から脱出した。一直線に広い荒野へ突進してくるその部隊を、二千の日本人プレイヤーでぐるりと包み、応戦態勢を取る。
しかしこれでは、掩体に利用できるものは一切無く、絶望的な全周防御を強いられてしまう。数で優るアメリカ人たちを、さしたる被害もなく撃退できたのは、宮殿の壁を利用して戦線を限定し、分厚いスイッチローテーションを組めたからだ。おそらく四万から五万に迫ろうという中国・韓国人部隊に全方位を取り囲まれれば、前線崩壊は時間の問題だ。
「くっ……」
アスナは歯を食いしばりながら、もう一度レイピアを高く掲げた。
お願い、壁を……二千人を囲むに足る防壁を、最後に作らせて。
祈りながら、思念を凝らそうとした。
しかし。
ばちっ、という一際巨大なスパークがアスナの全身を貫いた。同時に膝から力が抜け、がくりと地面に両手を突いてしまう。
喉元に熱くこみ上げてきたものを吐き出すと、それは少量の血だった。
「無理すんな、アスナ!!」
叫んだのはクラインだった。
「そうだ、ここは任せろ」
太い声でエギルも続ける。
前方から押し寄せ、日本部隊を取り囲むように左右に割れる黒い大軍勢の分厚い中央めがけ、二人の剣士が突撃していく。
炸裂するソードスキルのエフェクト光が、青く、赤く瞬いた。
彼らの左右でも、ALOの領主たちや、スリーピングナイツの猛者たちが、それぞれに全力の戦闘を開始した。
機関銃のように突き抜ける金属音。重く響く単発の爆砕音。長剣が、戦斧が、槍が唸り、鍛え上げた連続剣技が炸裂するたびに、黒い兵士たちが鮮血とともに地に臥した。
ぎしっ、と空気が密度を増して軋み、大軍の突進が一瞬止まった。
それは――。
決壊した堤防から襲い来る怒涛の濁流を、素手を広げて防ごうとする哀切な努力に他ならなかった。
悲鳴と喊声の渦巻く戦場の空を、かすかに流れる甲高い哄笑を、うずくまったままアスナは聞いた。
霞む眼を向けると、遥か離れた宮殿の屋上で、黒いフードの男が腹をかかえて身を捩っているのが見えた。
遠くで断続的に響く銃撃音を聞きながら、比嘉は出せる限りの速度でハシゴを降りた。
オレンジの光を受けて鈍く輝くパネルボックスにやっとで辿りつくと、強張った指先で蓋を開ける。
内部には、ごちゃごちゃと配線がひしめく端子盤が鎮座していて一瞬げんなりするが、片手でそれらを掻き分け掻き分けどうにか問題のコネクタを見つけ出した。
いよいよだ。
大きく息を吸い、思考を落ち着けてから、持参したケーブルの片端をそっと捻りこむ。胸にぶら下げた端末を開き、LCDに光が入るのを確認してからもう一端を接続する。
祈るような気持ちで、自作のSTLオペレーション用ツールを立ち上げ、スタートアップ表示を睨みつける。四角いカーソルの点滅間隔がやけに遅く感じられる。
STL#3、Connect......OK。
#4、OK。
まず、サブコントロールに隣接する第二STL室の二台から正常な信号が返る。
続いて、数秒の間をあけて六本木分室の#5、#6との接続が確立した。
「……っし!」
比嘉は低く呟いた。これで、桐ヶ谷和人と三人の少女たちが使用するすべてのSTLの直接操作が可能となったはずだ。
惜しむらくは、メインコントロールから第二STL室および衛星アンテナに続く回線のみをジャックしている状態ゆえに、第一STL室の二台には手を出せないことだ。それが可能なら、#1、#2からダイブしている襲撃者の魂を焼き払うことすらできるのだが。
余分な思考を堰き止め、比嘉は作業を急ぐべく小さなキーボードに右手の五指を置いた。
――行くぜ!
と気合を入れるのと、頭上から甲高い囁き声が降ってきたのはほぼ同時だった。
「……うっ、動くな!!」
柳井スタッフの声だ。この状況でいきなり何を。
苛立ちながら頭上を振り仰いだ比嘉が見たのは、三メートル先で青黒く輝く自動拳銃の銃口だった。
「…………は?」
ぽかん、と放心したのは、わずか半秒足らずだった。
比嘉は瞬時に状況を把握し、その原因を推測した。
――こいつだ。この男が、襲撃者たちにアリシゼーション計画の情報を流していた内通者だったんだ。
しかし残念ながら、即時の対応策までは出てこなかった。
ゆえに、比嘉はただ無為な質問を発することしか出来なかった。
「……柳井さん。何でッスか」
生白い額に脂汗の玉をびっしりと浮かべた技術者は、唇をかすかに痙攣させてから、細い声を絞り出した。
「い……言っとくけど、お門違いだからな。ボクを裏切り者扱いするのは」
扱いも何も、そのものだろ!!
という比嘉の内心の叫びが聞こえたかのように、柳井は更に言葉を重ねた。
「ぼ、ボクは初志貫徹してるだけだ。ボスの遺志はボクが引き継ぐ、そのためにラースに潜り込んだんだからな」
「ぼ……ボスの、遺志? 誰のことを言ってるんスか……」
呆然とそう尋ねると、柳井は肩から垂れた長髪を払い、芝居じみた笑みを浮かべて答えた。
「き、君もよぉーく知ってる人さ。……須郷サンだよ」
「な…………」
――何い!?
比嘉は今度こそ目を剥いた。
須郷伸之。比嘉や神代博士と同時期に、東都工業大学重村ゼミに在籍していた人物だ。天才・茅場晶彦にあからさまな対抗心を燃やし続け、しかしついに超えることあたわず、そのせいなのかどうか、旧SAOサーバーの接続者数千人を違法な人体実験に利用するという暴挙に出た男。
事件が明るみに出たあと逮捕され、一審の実刑判決に控訴して現在は東京高裁で係争中、のはずである。
「……死んでないッスよ」
思わずそう呟くと、柳井はヒヒッと甲高い笑いを漏らした。
「に、似たようなもんさ。最低でも十年は食らい込むでしょ。ボクも危ないとこだった、もう一人のスタッフに全部おっかぶせて、どうにか逃げ延びたけどね」
「じゃあ、あんたも……あの人体実験に関わってた……?」
「関わったなんてもんじゃないよぉ。ありゃあ楽しかったなあ……バーチャル触手プレイとかさぁ……」
――いったい菊岡二佐は、なんでこんな男の背景をチェックし損ねたのか!
と比嘉は鼻息荒く考えたが、しかしすぐに無理もないかとため息をついた。
偽装企業ラースは、アメリカにほぼ掌握されている現在の防衛技術基盤に、純国産の風穴を開けようという意図のもとに設立された。それはつまり、既存の財閥系メーカーや防衛商社の利潤をおびやかす存在となり得る、ということでもある。
ゆえに、技術系スタッフの陣容を揃えるのには大いに難渋した。こと大メーカーからの参加者は皆無に近かったはずだ。そんななかで、レクトという大企業でNERDLES技術部門に勤めていた柳井のラース参入が、もろ手を挙げて歓迎されてしまったのもやむを得ない。
比嘉の視線の先で、柳井はしばしうっとりと回想に浸っている様子だったが、すぐに拳銃をちゃきっと構え直した。技術スタッフにまで射撃訓練を施した菊岡の周到さが、今だけは裏目に出たかっこうだ。
幸い、柳井はまだ吐き出すべき鬱屈が残っているらしく、裏返り気味の声で会話を続けた。
「ま、ボスの人生はもうエンドロールだけど、あの人が繋いだラインは生きてる。なら、ボクがそれをきちんと使ってあげなきゃ、あの人も浮かばれないよね」
「ライン……て、どことっスか」
「グロージェン・マイクロ・エレクトロニクス」
にんまりと、どこか得意そうな柳井の声。
「な、なんだって!?」
と比嘉は驚いて見せたものの、内心ではやはり、と思っていた。
グロージェンMEは、アメリカの軍産システムに深く食い込むハイテク企業だ。須郷伸之はガンとして口を割らなかったが、違法実験データの売り込み先だったという噂は、では事実だったのだ。須郷が研究していた、NERDLESによる思考・感情操作技術への投資を回収するため、"A.L.I.C.E."の強奪までも目論んだというわけだ。
「下の連中が首尾よく"アリス"を回収すれば、ボクにもでっかいボーナスと、向こうでのポストが約束されるってワケさ。これぞまさに、須郷さんが夢見てたアメリカンサクセスストーリーだよね」
その後、世界はアメリカ軍が配備するであろう超高性能無人兵器群に震え上がるわけだけどな。
比嘉はそう反駁したいのを必死に堪えた。今は、少しでも会話を長引かせ、僅かなチャンスを拡大しなくてはならない。
――気付いてくれ、凛子さん!
強くそう念じたとき、無意識のうちに右手をぎゅっと握ってしまった。
「うっ動くな!!」
柳井が叫び、銃口をダクトの壁面方向にずらし――トリガーを引いた。空気が膨らみ、鼓膜が痺れた。
おいおい、という思考が比嘉の脳裏に瞬くのと、ダクトの金属壁に火花が弾けるのと、右肩の下に強い衝撃が走ったのはほぼ同時だった。
「あれっ」
と、柳井が驚いたような声を出した。
シノンは、上体を包むブレストプレートが、音もなく前後に割れ、落下していくのをぼんやりと感じた。
明け方の夢によく似ていた。
何かをしなくてはならない。したはずなのに、それは夢なので本当にはしていない。ひたすら繰り返される幻のサイクル。
何者かのひんやりと冷たい指が、首筋を撫でる。強い嫌悪感。恐怖。しかしそれらすらも、即時に意識から吸い出され、ぼんやりとぬるい空疎が取って変わる。
腕が背中に回り、身体を持ち上げられた。ふわりと仰向けになる感覚。お盆型の有翼生物の、濡れたような背中に横たえられる。
いけない。
これは、仮想空間における非現実の出来事ではない。
その認識が、赤い警告灯のように暗い意識の片隅で瞬く。そちらへ向かって走り出そうとするが、粘度の高い液体に、いつしか腰の辺りまで飲み込まれている。
上着の胸元をゆわえる細い革紐が、丁寧に抜き取られていく。太腿を、指先がくすぐるように這い回る。
それらの感覚に反応して浮かび上がってくる感情を、男は洞穴のような両眼で、長い舌で、貪欲に吸い取っていく。
――やめて。
――盗まないで。
という懇願すらも即座に奪われ、残るのは真綿のように分厚い麻痺感のみ。
はだけられた胸元から冷たい手が忍び込み、シノンはついに諦めの涙をひとつぶ零した。
生き物のような舌がそれを舐め取る。
「やめ……て…………」
呟いた唇に、男の舌が近づく――。
バチッ!!
という衝撃が、突如シノンの身体と意識を打った。
見開いた目の先で、開かれた上着の襟ぐりから、眩い銀色の火花が迸るのが見えた。
熱い!!
という巨大な感覚が、男の吸引力を一瞬上回った。ほんの短い時間だけ回復した思考力を、チャンバー内の炸薬のように破裂させ、シノンは男の身体の下から全力で飛び退いた。
ソルスアカウントの飛行能力をフルに発揮し、大きく距離を取る。
「…………っ……」
大きく喘ぎながら、シノンは尚も上着の内側でスパークする何かを、右手で引っ張り出した。
それは、細い銀のチェーンにぶら下がる、白っぽい小さな金属のプレートだった。薄い円形の一端に孔が穿たれ、鎖が通っている。
「な……んで、これが」
ここに。
シノンは驚愕し、息を詰めた。
これは、現実世界の自分、朝田詩乃がいつも首に下げているネックレスだ。高価なものではない。金属はただのアルミニウムである。
しかし、シノンにとっては大きな意味を持つ品だ。
去年、シノンが巻き込まれた"死銃事件"。
その犯人の一人だった同級生の少年が、劇薬を封入した高圧注射器でシノンを襲った際、駆けつけた桐ヶ谷和人――キリトは胸に致死の薬液を噴射された。
その薬の侵入を防いだのが、彼が胸から外し忘れていた、たった一つの心電モニター用電極だ。
シノンはその電極からシリコン部分を剥離させ、アルミプレート部だけをペンダントヘッドに加工して、ひそかにいつも胸にぶら下げている。そのことは、キリトやアスナにも秘密にしている。勿論、STLでのダイブをオペレートした、ラースの技術者が知る道理があるはずもない。
だから、これがアンダーワールドにおいて、オブジェクト化されているなどということは有り得ないのだ。
――しかし。
ラースの人は言っていた。STLを用いてダイブする限りにおいて、アンダーワールドはただのポリゴン被造物ではない、と。
記憶とイマジネーションによって生み出される、もうひとつの現実なのだ――と。
ならばこのペンダントは、自分のイメージが出現させたものだ。
シノンは白い金属板にそっと唇をつけてから、それを服の下に戻した。
完全に回復した意識を、離れた場所に浮遊する平たいコウモリ生物に戻す。
背中では、サトライザが虚無的な視線を、自分の右手に注いでいた。その指先から、かすかな白煙が上がっているのをシノンは見た。
サトライザの顔が、かくん、と持ち上がった。
口元に、かすかな、ほんのかすかな不快の色が浮かんでいた。
「……お前は、怪物じゃないわ。ただの人間よ」
シノンは低くそう呟いた。
確かにサトライザの力は強力だ。おそらく、凄まじいイマジネーション強度で、シノンの用いるSTLにまで干渉しているのだ。
でも、イメージ力なら負けない。
なぜなら、それこそが、狙撃手にもっとも必要とされるパラメータなのだから。
シノンは、左腕に引っかかっているソルスの弓を見下ろした。ぱしっと手中に移し、じっと思念を凝らす。
白く輝く弓の中央部が、突然青みがかったスチールの色へと変化した。
変色範囲が広がると同時に、湾曲する弓がまっすぐな直線を描きはじめる。四角いグリップが、銃床が出現し、最後に巨大なスコープがどこからともなく装着された。
手のなかにあるのは、もう流麗な長弓ではなかった。
無骨で、凶悪で、しかし途轍もなく美しい五十口径対物狙撃ライフル――"ウルティマラティオ・ヘカートII"。
無二の相棒のボルトハンドルを、じゃきんと音高く操作し、シノンはにやりと笑った。
サトライザが厭わしげに歪めた口元から、白い犬歯が牙のようにちらりと剥き出された。
"交戦"と呼べるものは、わずか七分間しか続かなかった。
その後状況は、三分間の防戦を経て、一方的な殺戮へと移行した。
「死守して……! アンダーワールド人部隊だけは……何としても!!」
アスナは頭の芯に居座り続ける痛みを無視し、最前線でレイピアを乱舞させ続けながら声のかぎりにそう叫んだ。
しかし、声の揃った頼もしい応答はもう返らない。
周囲では、カラフルな鎧を輝かせる日本人プレイヤーたちが一人またひとりと、モノトーンの暗黒界アカウント仕様装備に身を固めた隣国人たちに包囲され、飲み込まれ、刃で滅多刺しにされていく。咆哮、金属音、悲鳴、そして断末魔の絶叫が次々に響く。
比較すれば、アメリカ人重槍兵部隊の直線的突進のほうがまだしも対処のし様があった。
新たに出現した大軍は、二つの国からダイブしているせいか、あるいは滾らせている異様な怒りのせいか、秩序も統制もなく形振りかまわない殲滅のみを目指している。複数人で目標の脚に掴みかかり、引き倒し、圧し掛かって自由を奪う。このような戦い方をされては、数の差を戦術、あるいは士気で覆すことなど到底できない。
二千人が円形に繋いだ防御陣が、見る間に侵食され、薄くなっていく。
アスナは、尽きることなく押し寄せてくる兵士たちを闇雲に斬り払い、突き倒しながら、昨夜アンダーワールドにダイブして以来はじめて心の中で声を上げた。
――誰か、たすけて、と。
絶望的抗戦のなかにあって、比較的健闘を続けている部隊のひとつが、アルヴヘイム・オンラインにおいてシルフ族の領主を務める女性プレイヤー、サクヤ率いる緑の剣士隊だった。
シルフはもともと、ALO内種族対抗戦においても、密集陣形での集団戦を得意としている。重装プレイヤーの個人技にウェイトを置くサラマンダー族に対抗するために練り上げた連携が、この場の混戦でもある程度有効に機能した。剣士たちがほとんど肩を接するように密に並ぶことで、各個に引きずり倒されるのをどうにか防いでいるのだ。
「よし、我々が後退の突破口を作るぞ! "りんどう"隊、"からたち"隊、密集陣のまま戦線を右に押し上げろ!!」
自身も最前面で細身の長刀を縦横に振るいながら、サクヤは叫んだ。
右翼方向で戦闘中のはずのサラマンダー隊と合流し、彼らの突貫力を利用して一気に敵陣を破る。支援部隊を包囲から逃がすことができれば、どうにかまともな撤退戦へと移行し得るかもしれない。
「行くぞ! 両部隊、"シンクロソードスキル"開始用意!! カウント、5、4、3……」
サクヤが、そこまで指示しかけたときだった。
耳に、遠くからかすかなひとつの悲鳴が、くっきりと明瞭に聞こえた。
「きゃああああっ!!」
はっ、と呼吸を止め、サクヤは左方向に視線を走らせた。
今しも、オレンジと黄色を基調とした装備の日本人部隊が崩壊し、黒と灰色の波に飲み込まれていくところだった。その中ほどで、両手に装備したメタルクローを押さえられ、引き倒される小柄な姿が確かに見えた。
「アリシャ!!」
サクヤは叫んだ。瞬間、彼女は勇猛果敢な指揮官から、ひとりの女子大生へと戻っていた。
「やめろ――――――っ!!」
叫び、持ち場を離れて単身左へと駆け出す。立ち塞がる敵を右に、左に斬り飛ばし、ひたすらに親友のもとへと突き進む。
ケットシー族領主アリシャ・ルーは、手足を拘束され、無数の手に装備を引き剥がされながらも、接近するサクヤを見るや激しく左右に顔を振った。
「だめっ、サクヤちゃん戻って!! 部隊を指揮してえっ!!」
そのひと言を最後に、黄色い髪から伸びる三角の耳と小麦色の肌がサクヤの視界から消えた。
「アリシャ――――ッ!!」
悲鳴にも似た声を迸らせながら、サクヤはケットシー隊を押し包む敵の大集団にひとり突入した。あらん限りのソードスキルを繰り出し、鮮血と肉片の雨を振り撒いてひたすら前進し――。
どかっ。
という衝撃に視線を落とすと、背中から右腹を貫いて伸びる槍の穂先が目に入った。
恐るべき激痛が神経を駆け巡り、脚から力を奪った。
それでもさらに四歩前進したものの、そこで身体が意思の制御から離れ、がくんと膝が地面にぶつかった。
直後、暴虐の嵐がサクヤをも飲み込んだ。右手から長剣が奪われ、和風の二枚胴と具足が引き剥がされ、薄緑の直垂が一瞬で千切れ飛んだ。
この場にダイブしている二千人の――急激に減少中ではあるが――jp接続プレイヤーのなかで、もっとも正確に状況を把握しているのはおそらく、ギルド"スリーピング・ナイツ"の三代目リーダーであるシーエンだった。
シーエンは、kr接続プレイヤーたちが口々に放つ怒りの言葉を断片的に聞き取り、彼らがどのような情報に煽動されたのかを察知した。
――私がなんとかしないと。たぶん、韓国語を話せるのは私だけだ。
そう決意し、魔法職のシーエンを守るように周囲に立つ四人のギルドメンバーに声を掛ける。
「みんなお願い、一秒だけでいいからブレイクポイントを作って!!」
すぐさま、以心伝心の仲間たちが、疑問を差し挟むことなく諒の声を返す。
先頭で鬼神の如き激戦を続ける両手剣士のジュンが、ちらりと背後を見て叫んだ。
「よし、テッチ、タルケン、ノリ、シンクロで単発大技を決めるぞ! カウント、2! 1!」
完璧に同期して繰り出された重攻撃が、天地を揺るがす大爆発と閃光を引き起こし、一瞬周囲に静寂と停滞を作り出した。
すかさずシーエンは、目をつけていたリーダー格らしき大柄な韓国人プレイヤーへと走り寄り、振り下ろされる長剣を、むき出しの左手で受け止めた。
掌が裂け、骨が砕け、血があふれ出す。
しかしその仮想の痛みは、かつてシーエンが味わった骨髄移植や治験薬カクテル療法の苦しみに比べれば、どうということはなかった。わずかに眉をしかめただけで、シーエンはじっと相手の鎧の奥の両眼を見つめ、韓国語で叫んだ。
「聞いて!! 貴方たちはだまされています!! このサーバーは日本企業のものだし、私たちはチーターじゃなく、正規の接続者です!!」
その声は、周囲の広範囲に高らかに響き、沈黙をさらに少しだけ長引かせた。
シーエンの手に刃を握られた韓国人は、やや気圧されたように仰け反ったものの、すぐに鋭い声で反駁した。
「――嘘をつけ! 見たぞ、お前たちはさっき、俺たちと同じカラーのプレイヤーを皆殺しにしていたろう!!」
「あれは、貴方たちと同じように偽の情報でダイブさせられたアメリカ人です! 日本企業の実験の妨害をさせられているのは、貴方たちなのよ!!」
再び、戸惑いを帯びた静寂。
それを破ったのは、シーエンの声でも、韓国人リーダーの声でもなかった。
「汚い日本人に騙されるな!!」
韓国語でそう叫んだ声は、重く、強く、冷たく、それでいてどこか嗤いを含んでいるように感じられた。
視線をずらしたシーエンが見たのは、いつの間にか少し離れた後方に立っていた、黒いフードポンチョ姿の男だった。
艶のある布が割れ、同じく黒いレザーにぴったりと包まれた右腕が伸びて、まっすぐにシーエンを指差した。
「正規接続者だというなら、なぜお前らだけそんな高級な装備を持っているんだ? GM装備なみにピカピカ光ってるじゃないか! チートで好き勝手に作り出したに決まってる!!」
そうだ、そうだ! という叫びが周囲から追随した。
シーエンは、必死に男の言葉を否定した。
「違います! 装備が異なるのは、私たちのメインアカウントをコンバートしたからよ!」
その途端、フードの男が高くせせら笑った。
「テストサーバーにメインキャラを移すなんて、そんな間抜けが居るかよ! 嘘だ、全部嘘だぞ!!」
「本当よ、信じて!! 私たちは、このアカウントを喪失する覚悟で、ここに……」
ひゅんっ、と空気を切り裂く音がした。
シーエンは、飛来したダガーが自分の右肩に深く突き立ったとき、痛みよりも遥かに大きな絶望を感じた。武器を投じた男が猛々しく喚いた言葉は、シーエンには理解できなかった。
ch接続プレイヤーの集団が、いっときの停戦状態を破って突撃してくるのを見て、目の前の韓国人も荒く剣を引き戻し、右足でシーエンを蹴り飛ばした。
地面に倒れこんだシーエンは、背後から仲間たちが駆け寄ってくる足音を聞きながらも、再び立ち上がることができなかった。
――なぜ。
整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、戦場の空に渦巻く憎しみの劫火を見上げながら、それだけを胸中で繰り返した。
――なぜ彼らは、同じリアルワールド人同士で、これほどまでに憎みあい、殺しあわなくてはならないんだ。
いや、己が言えたことではないのかもしれない。この世界に住まう者たちだって、人界人と暗黒界人に分かれ、何百年も血みどろの戦いを続けてきたのだから。ほんの数日前、東の大門で流された血の量は、この戦場の土に浸み込みつつあるそれと匹敵するだろう。レンリ自身、両腰に下がる神器・比翼により、数え切れないほどのゴブリンの命を絶った。
それより遥か以前に、たかが剣名と栄誉のためにかけがえのない友の血に刃を濡らしもした。
でも、だからこそ。
世界の外側に広がるというリアルワールドには、憎しみも争いもなく、ただ友愛のみが空気を満たしているのだと信じたかった。
しかし、それが幻想であるのは最早明らかだった。リアルワールド人であるアスナや、その仲間たちは人界人と同じ言葉を話すのに、新たに襲ってきた数万の軍勢が口々に放つ叫びは、レンリにはまるで理解できないものだ。言語ですらここまで乖離しているのなら、休戦や和睦の交渉すら不可能ではないか。
つまり、争いこそが人間の本質だということなのだろうか。
アスナがアンダーワールドと呼んだこの世界でも、その外側のリアルワールドでも、そしてもし存在するのならばさらにその外の世界でも、人は果てしない殺し合いだけを続けているのか。
――そんなはずがあってたまるか!
レンリはぎゅっと両拳を握り締め、滲みかけた涙をこらえた。
整合騎士シェータは、敵であるはずの暗黒界軍拳闘士団を守るためにひとり死地に残った。あの人は、たぶん、剣と拳を通じて暗黒界人と分かりあったのだ。血にまみれた道の向こうにだって、きっと希望はあるんだ。
ならば、今は戦わねばならない。ただ守られ、立ち尽くしているときではない。
レンリは、必死の防戦を続けるアスナ側のリアルワールド人部隊の救援に向かうべく、前線に歩き出そうとした。
と、小さな声が背後で響いた。
「騎士様。私も行きます」
振り向くと、立っていたのは補給隊に所属する赤い髪の練士、ティーゼだった。小ぶりの剣を左手にしっかりと握り、悲壮な表情でぎゅっと口元を引き締めている。
「だ……だめだよ、君はあの人を守らないと……」
「その役目は、ロニエに譲ります。私は……、私の好きだったひとは」
ティーゼは、紅葉色の瞳にうすく光るものを浮かべ、続けた。
「あの人は、大切なものを守るために命を散らしました。私も、その志を継ぎたいんです」
「…………そう」
レンリは顔を歪め、唇を噛んだ。
突然、自分でも思いがけないことに、両の腕が前に伸び、細いティーゼの身体を引き寄せていた。はっ、と強張る背中に軽く手をあて、声をかける。
「なら、君は僕が守る。絶対に守るから……だから、僕の背中から離れないで」
「…………はい。有難うございます、騎士様」
ティーゼの小さな手も、ほんの一瞬レンリの背中に触れた。
それでもう充分だった。
エルドリエさん。シェータさん。そしてベルクーリさん。
あなた達のように、僕もようやく命の使い場所を見つけられたようです。
心のなかで呟き、整合騎士レンリは少女練士ティーゼの手を取ると、悲鳴と絶望渦巻く戦域へと駆け出した。
神代凜子は、サブコントロールに駆け戻ると、つい十数分前まで比嘉タケルが座っていたオペレーター席に飛び込んだ。
正面の大モニタに幾つも開かれたウインドウのうち、下部のひとつを注視する。表示されているのは、桐ヶ谷和人のフラクトライト状態を現す立体グラフだ。
虹色のグラデーションに彩られた星のような放射光の中央部には、"主体の欠損"を示すという黒い闇が滲んでいる。
いま、比嘉タケルは四台のSTLを直接操作し、問題の欠損を桐ヶ谷少年と深く関わる三人の少女の記憶を用いて修復しようとしている。そのために、敵に占拠された下層シャフトに単身――いや、たった二人で潜入したのだ。
今のところ、敵襲撃者たちは、囮としてシャフトの主通路から突入させた"ロボザエモン"の迎撃に気を取られている。しかし、ライフルで撃ちまくられればそう長くは持たない。ロボットを破壊すれば、敵も考え出すだろう。果たして、日本人たちは何をしたかったのか、と。
――比嘉君、急いで!
心のなかでそう呼びかけたとき、しゅっとドアがスライドし、がこがこ下駄を鳴らしてアロハシャツ姿の男が駆け込んできた。
「ど……どうだい、キリト君のほうは!?」
「今のところは、まだ。囮のほうはうまく行ってる?」
訊き返すと、菊岡は肩で息をつきながら、ずれた眼鏡をくいっと持ち上げた。
「ザエモンに即席で搭載したスモークグレネードは全部撃ちつくした。煙が通路から排出されるまではもう少し引っ張れるだろうが、その後は再び隔壁をロックしないと危険だ。あまり時間はないぞ」
「比嘉くんは、長くても五分で終わるって言ってたけど……」
口をつぐみ、凛子は再びモニタに視線を戻した。
桐ヶ谷少年のフラクトライトには、相変わらず変化はない。ぎゅっと両手を握り締め、アメリカの主婦が口にする『鍋の湯を見つめていると沸騰が遅くなる』という諺に従う心境で目を上に向ける。
するとそこには、まるで架空のファンタジー地図のような――いやある意味その物である、アンダーワールドの地形概略図ウインドウが開かれたままになっていた。
つい、じっと凝視してしまう。
数日前、オーシャンタートルに到着してすぐに見せられた"人界全図"の、さらに外側が表示されている。人界を取り囲む円形の山脈から、南東方向にずっと下ったところに、四角を二つ並べたような人工地形が見て取れる。そこには、結城明日奈を示す白い光点と、人界側アンダーワールド人集団を示す青いモヤ、日本から接続中のプレイヤー集団を示すクリーム色のモヤが密に固まっている。
そして、彼らを取り囲む黒いモヤが、襲撃者たちに誤誘導されてダイブしたアメリカ人集団――のはずなのだが、しかしやけに規模が大きい。日本人たちの二十、いや三十倍ほどもいるのではないか。
これでほんとうに大丈夫なのだろうか、明日奈以外の二人はどこに行ってしまったのだろうと画面を見回すと、その人工地形から遥か南に下ったところに、水色の光点を一つ発見した。おそらくこれが朝田詩乃か。
となると桐ヶ谷直葉はどこに。更に地図を詳細に眺め、ようやく見出した黄緑色のドットは、主戦場から随分と北で輝いていた。たしか比嘉は、二人とも明日奈の座標にダイブさせたと言っていたのに何故、と眉をしかめた凜子は――。
ふと、直葉の光点の強い輝きにほとんど隠れるように、もう一つ赤い光が瞬いているのに気付いた。
「…………?」
もう、ラース側からSTLダイブしている人間は居ないはずだ。となるとこのドットは何だろう。
反射的にマウスを滑らせ、カーソルを慎重に赤いドットにあわせてクリックすると、はたして、新たなウインドウが開いた。眼を凝らし、連なる微細な英字フォントを読み取る。
「ええと……制限、対抗指数……検出閾値……報告? 何なのこれ……」
意味が分からない、と続けようとした、その時だった。
「な……なにィ!?」
今まで桐ヶ谷和人のグラフに注視していた菊岡がいきなり大声を出し、凜子は飛び上がった。
「な、なによ!?」
しかし菊岡は何も言わず、凛子の手の上からマウスを操作し、新たなウインドウを引っ張り出す。
「ぐっ……間違いない、新たな限界突破フラクトライトだ……なぜこのタイミングで……!」
がりがりと髪をかき回す菊岡の顔を、凛子も思わず目を丸くして見上げた。
「えっ……それってつまり、第二の"A.L.I.C.E."ってこと?」
「そう、その通り……ああ、いや、待った……これは……」
菊岡は、詳細なログが表示されているウインドウを高速でスクロールさせ、喉の奥で長く唸った。
「……厳密には、"アリス"と同じレベルとは言えない……。論理回路ではなく、情動回路を生成して制限を突破したようだが……しかし貴重なサンプルなのは間違いない。このまま大人しくしてくれていればいいが……ああ、いかん、すぐ南のアメリカ人集団に向かっている!」
両手で頭を抱える菊岡からマウスを奪い返し、凜子も問題の人工フラクトライトが限界を突破したときの詳細ログを注視した。
「はあはあ……確かに、感情フィールドに新しいノードが連鎖反応的に発生してるわね……そうか、まるでこれは……薄膜上のバイオチップの成長過程に似て…………ん? ねえ、菊岡さん?」
「な……なんだい」
おっおおお、と身を捩っていた菊岡は、仰け反らせた首だけをモニタに向けた。
「この、ここんとこに挿入されてるルーチンは何なの? なんだか、やけに違和感があるって言うか……人工的な……まるで、回路の新生を阻害するみたいな……」
凛子は、目を細め、懸命に長大なプログラムコードを追った。
「右視覚領域に……擬似痛覚注入? これじゃ、せっかく人工フラクトライトが発生させかけた論理や情動も、痛みでかき消されちゃうわよ。あなたたちは、わざと限界突破にこんな障壁まで設けていたの?」
「い……いや、そんなことはしていない。するわけないじゃないか、目的と真逆の行為だ……というか、明白に妨害してる」
「そう……よね。それに、このコードのクセ、比嘉くんのと違う……あ、最初のとこにコメントアウトがあるわ、消し忘れかしら……。"コード871"? 871って何?」
「ハチナナイチ? 聞いたこともないよ……いや、待て……待てよ、つい最近、どこか……で……」
突然菊岡はがっこがっこと駆け出し、すぐ傍の椅子に掛けられたままになっていた薄汚れた白衣を掴みあげた。ばんっと音をさせて広げ、襟のあたりを凝視している。
「ちょっと、何よ、どうしたの?」
凛子が尋ねると、黒縁眼鏡の下で両目をぐりんと見開いた菊岡が、白衣の襟タグを突き出すように示した。
そこには、黒の油性マジックで、"871"の数字がくっきりと記されていた。
「その、白衣は……さっき、比嘉くんと一緒に下に行った、スタッフの柳井さんが……」
呟いた凜子は、自分の声が尻すぼみに消えていくのを聞いた。
柳井。871。
「……ヤナイ!?」
凜子と菊岡は、同時に声を上げた。
拳闘士団長イシュカーンは、近づく黒い死の姿を、片方だけの瞳で眺めた。
皇帝の召喚した奇妙な兵士たちは、包囲の輪をほんの二十メルの距離まで縮めると、もう拳闘士たちに戦意が無いのを確認したのか、互いに頷き合った。
直後、意味の取れない、やけに威勢のいい雄叫びを口々に放ち、一斉に地面を蹴った。
地面と空気が揺れるのを感じながら、イシュカーンは壊れた左手で、隣に座る女騎士の右手を強く握った。すぐに握り返される感覚があり、痺れきった神経に、甘い痛みが一瞬かよった。
最後のときを迎えるため、目をつぶろうとした、その瞬間――。
震動と雄叫びが、一気に倍に増えた。
「……イシュカーン。あれ」
シェータの声に、視線を巡らせる。
見えたのは、戦場の北に広がる巨大峡谷の向こうから、土煙を上げて殺到する大軍勢だった。
丸く、巨大な身体。突き出た平たい鼻と、垂れ下がった耳。
オークだ。
「……なんでだ」
イシュカーンは呆然と呟いた。オーク軍は、ずっと北の大門前で皇帝ベクタから待機を命ぜられたままのはずだ。皇帝が姿を消したままである以上、その命令が解除されるはずはない。事実、五千の暗黒騎士団は、峡谷のすぐ向こう岸で愚直な待機をひたすら続けている。
わけがわからず、ひたすら目を凝らしたイシュカーンは、オーク軍の先頭をつっ走るひとつの小さな姿にようやく気付いた。
肩のあたりで切りそろえられた深緑色の髪を揺らし、裾の広がった短いズボンから、真っ白な脚をのぞかせている。間違いなく人間――人界人――の娘だ。
しかし、あれではまるで、あのちっぽけな女の子が、オーク部隊全軍を率いているようではないか!
殺到する大軍に気付いたのか、拳闘士団を取り囲む黒い歩兵たちの動きも止まった。
直後、オーク軍の先頭を走る娘が、峡谷にかかる石橋へと突入した。
きらっ、と眩い輝き。
全身を緑色の装備に包んだ小さな娘が、背中から恐ろしく長い刀を抜き放ったのだ。
瞬間、何かを感じたのか、イシュカーンの手の中でシェータの手がぴくっと震えた。
緑の娘は、まだ橋を渡りきらないうちから、すうっと長刀を両手で高く振りかぶった。黒の歩兵たちまでは、まだ百メルちかい間隙がある。
だが――。
ふっ、と娘の刀が煙った。イシュカーンの眼にすら、その斬撃は視認できなかった。緑色の閃光が一瞬閃き、そして直後、凄まじい現象が発生した。
振り下ろされた刃から、黒い地面にまっすぐに光が走り、その直線状に存在した黒の歩兵団から鮮血の幕が高く、高く吹き上がった。
ぴっ。
振り切られた位置から、返された刀が今度はまっすぐ跳ね上がった。再度、光の直線が黒の軍勢を貫いた。先の血飛沫がまったく収まらぬうちに、やや角度を変えて新たな真紅の幕がそそり立つ。
「……すごい」
シェータが、音にならない声で囁いた。
出現した愛銃ヘカートIIを、シノンは即座に頬づけして構えた。
サトライザとの距離は五十メートルも無い。対物ライフルで狙撃するには、いかにも近すぎる。この距離で、動く敵を照準し続けるのは至難だ。
ゆえにシノンは、サトライザが状況に対応してくる前に勝負をつけるべく、スコープのクロスヘア上に黒い影を捉えた瞬間迷わずトリガーを引いた。
閃光。轟音。
凄まじい反動に、空中に浮いたままのシノンは、ひとたまりもなく木の葉のように吹き飛ばされた。くるくる回転する世界を、懸命に制動する。イマジネーションで作り出した銃なら反動をゼロにすることもできるか、と一瞬考えるが、しかしそれでは恐らく威力もゼロに減じられるだろう。
どっちにせよ、今の一撃が当たっていればそれで終わりだ。
どうにか体にブレーキをかけ、シノンはサトライザの居る方向を見やった。
そして、信じがたい光景を目にした。
複眼有翼の怪生物の背に立つ男は、黒ファティーグの左腕を持ち上げ、その掌をぴんと立てている。
掌の前には、闇と光が入り混じって激しく渦巻いており、その空間を挟んで小さく、強く輝いているのは――間違いなく、シノンが放った弾丸だった。
吸おうというのか。
五十口径ライフルから放たれた、戦車の装甲すら貫く徹甲弾を。
一瞬、シノンの心に怯えが走った。それと同期するように、渦巻く闇がその勢いを増した。白く輝く光弾に、黒い触手の如くまとわりついていく。
「負けるな……」
シノンは無意識のうちに呟いた。続けて、叫んだ。
「負けるな、ヘカート!!」
ズバッ。
と微かな音を立てて、光が闇を貫いた。
サトライザの左手から、指が三本瞬時に消し飛んだ。ファティーグの袖も引き千切れ、むき出しになった腕からぱぱっと鮮血が飛び散る。
……行ける!!
シノンはぐっと歯をかみ締め、ヘカートIIのボルトを引いた。排出された空薬莢が、きらきら輝きながらはるか地面へと落下していく。
サトライザは、しばし傷ついた己の手を見ていた。その滑らかな眉間に、ひと筋の谷が刻まれた。
ぎろり、と青い眼がシノンを睨んだ。
同時に右手が動き、背中から大型のクロスボウを抜き出す。
「……ふん」
シノンは微かに息を吐いた。あんなもので、対戦車ライフルに対抗しようとは――……。
ぐにゃ。
突然、黒い石弓が歪んだ。
左右に広がる弓部が折りたたまれるように消えていく。同時にズルリと湿った音を立て、全体の長さが倍以上に伸びる。木製だったはずのフレームが、黒い金属の輝きを帯びる。
ほんの一秒後、サトライザの右手には、巨大なライフルが握られていた。シノンはその銃の名前を瞬時に想起した。
バーレットM82A1。
ヘカートIIと同じ、五十口径対物狙撃銃だ。
サトライザの口元が、薄い笑みの形に歪んだ。
「……上等じゃない」
シノンも呟き、ヘカートの銃床をぐっと右肩に押し当てた。