「間に合った……ッスかね……」
酷使しすぎて強張った両腕をぶらぶらさせながら、比嘉タケルは呟いた。
日本のVRMMOネットワークから急遽送り込まれてきた約二千ものアカウントデータを、わずか一時間足らずでアンダーワールド適合形式にコンバートしてのけたのだ。両手の指先に、キーボードの硬い感触が張り付いてしまったかのようだ。
「間に合ったわ。必ず」
スポーツドリンクのボトルを差し出した神代博士が言った。
受け取り、握力の失せた右手で苦労してキャップを捻ると、中身を大きく呷る。ベンダーの電源はとうに落ちているので、液体は生ぬるかったが、それでも腸に染み入るようだった。
ふうっと息を吐き、比嘉はゆっくり首を振った。
「まったく……なんて迂闊だったのか……」
ラース六本木支部に突然現れた二人の女子高生から、メインシャフト下層を占拠する襲撃者たちが、現実世界のアメリカ人VRMMOプレイヤーたちをアンダーワールド内で戦力として利用しようとしていると告げられたときは、たっぷり五秒近く思考停止してしまったものだ。
しかもそれを察したのが、結城明日奈の携帯端末に潜んでいた既存型AIだと言われれば、自分の目のフシ穴っぷりと脳みそのスポンジっぷりを全面的に認めるしかなかった。
取るものもとりあえず、菊岡二佐の知己だという女子高生たちを残るスーパーアカウントでダイブさせ、しかる後に膨大なコンバート作業をこなし、どうにか"援軍"を結城明日奈の現在座標に降下させたところ――である。
五万を超えるアメリカ人プレイヤーたちに、創世神ステイシアたる明日奈と人界軍が排除されていれば、アリス確保の可能性はほぼ潰える。実際、状況を認識した菊岡と中西一尉は、オーシャンタートル外壁を人力で登攀し、衛星アンテナを物理破壊することも検討していた。
しかし、外壁に出るには、どうしても一時的に耐圧隔壁のロックを解除する必要がある。それを襲撃者たちに察知されれば、サブコントロールまで制圧されるという最悪の結果を招きかねない。
ゆえに、菊岡と比嘉は、すべてを託すことにしたのだ。女神としてアンダーワールドに降り立った三人の女子高校生たちと、アカウント喪失のリスクを承知で援軍に志願してくれた、日本の若者たちに。
この時点で、プロジェクト・アリシゼーションの機密はすでに半ば以上がネットに流出してしまったことになる。
しかしもう、そんなことは大した問題ではない。
襲撃者たち――そしておそらくその背後にいるのであろうアメリカ軍産複合体にアリスを奪われ、来るべき無人兵器の時代を、またしても彼らに完全支配されてしまうことに比べれば。
「そうッスよ……」
比嘉はシートにぐったりと身を沈ませながら、誰にも聞こえない音量でひとりごちた。
「"アリス"はもう、ただのUAVコントローラなんかじゃない。本物の異世界に生まれた、新しい人類なんだ……君にはとっくにそれが分かっていた、そうッスよね、桐ヶ谷君」
視線を、アンダーワールド南部の地勢を表示するメインウインドウから、片隅に表示された桐ヶ谷和人のフラクトライトモニタに向ける。
ささやかに揺らぐ放射光は、相変わらずその中央に寒々しい虚無を抱え込んだままだ。失われた主体。傷ついた自己イメージ。
これ以上そのウインドウを開いておくのがいたたまれず、比嘉はマウスを操作して、窓を閉じようとした。
そして×印をクリックする寸前、ぴたりと指を止めた。
「ん……?」
丸い眼鏡を持ち上げ、目を凝らす。おや、と思わされたのは、ウインドウ下部に横長の線で表示された、フラクトライト活性の変動ログだった。
ほんの四、五十分前。それまで殆ど動くことのなかったラインが、鋭いピークをたった一つだけ刻んでいた。慌ててログを過去にスライドさせる。するとはたして、八時間ほども遡ったあたりに、もう一つさらに大きなピークが見出された。
「ちょ……ちょっと、凛子ハカセ。これ見てくれますか」
「その呼び方やめてちょうだい」
嫌そうな声とともに、ドクター神代がメインスクリーンに顔を向けた。
「これは、桐ヶ谷君のフラクトライトモニタでしょ? この変動は何なの?」
「彼の、全喪失したはずの自己意識が一瞬活性を示した……ってことなんスが……そんなこと、あるはず無いはずなはずなんス」
「日本語おかしいわよ。――外部から、何か強い刺激があったんじゃないの?」
「と言っても、その刺激を処理する回路が吹っ飛んでる状態なんスよ。本能や反射を処理する領域の活性ならまだ分かりますけど……ええと、この時間は……」
比嘉はログ窓のタイムスケールに目を凝らした。だが、それを確認したところで、その時刻にアンダーワールド内部で何があったのかまでを知るすべは無い。
しかし、その時――。
「ちょっと待って」
神代博士が、緊張感の増した声を出した。
「この時間。これ……どっちも、あの子たちがSTLでダイブした頃じゃないの? 明日奈さんと、六本木に現れた二人が」
「えっ、マジっスか。……うわ、マジっスよ」
比嘉も息を飲んだ。たしかに、折れ線グラフに二つの鋭利なピークが刻まれた時間は、まさしく女子高校生たちがアンダーワールドに降り立った直後に他ならない。
「えっ、どういうことなんだ……。ただ、親しい人間が現れたから強い反応を示した、ってだけなのか? いや……桐ヶ谷君のダメージは、そんなリリカルな理由で回復する代物じゃないはずだ……何か理由が……フィジカルでメカニカルな理由があるはずなんだ……」
シートから立ち上がり、比嘉はうろうろとサブコンを歩き回った。容易ならざる気配に気付いたのか、さすがにダウン気味だった菊岡や、壁際にへたりこむ技術者たちもいぶかしい視線を向けてくる。
しかしそれを意識もせず、比嘉は思考をひたすら回転させた。
「自己……主体……己を己と規定するイメージ……そのベクターデータのバックアップが、どこかにあった……? いや、有り得ない……キリト君のフラクトライトは一度もコピーしていない……仮にコピーしていたところで、それを単に書きもどすだけじゃ機能しないはずだ……生きた接続回路を持つデータじゃないと……どこだ……どこに……」
「ねえ。ねえ、比嘉くん」
ヒガくんってば、と何度か名前を呼ばれて、ようやく比嘉は顔を上げた。
「なんッスか」
「前から君が言ってる、主体の喪失、って具体的にどういうことなの?」
「ええと……そりゃつまり……」
黙考を邪魔されて、あからさまな渋面を作りながらドクター凛子に答える。
「心のなかの自分っスよ。客体に対する主体。自分ならこの場面でどうするか、を処理する回路」
「うん、それは前にも聞いたわね。でも、私が言いたいのはね……主体と客体って、そんな簡単に分割できるものなの? ってことなの」
「は?」
予想外の言葉に、比嘉は激しく目をしばたかせた。
しんと静まり返り、クーリングユニットの低音だけが響く部屋に、神代博士の艶のある声が流れる。
「私たちは理系だから、どうしても主観的予測と客観的データを厳密に切り分けようとする習い性があるけど……でも、こと心に限って言えば、自分ひとりだけで自己像を規定するなんてこと、ほんとにできるのかしら。自分のなかの自分ていうのはつまり、他の人の目から見た自分とかなり重複する部分がある……、そうは思わない?」
「他人の……なかの……自分……」
言葉にしたとたん、比嘉はその概念が、自分のもっとも忌避する種類のものであることを自覚した。
人にどう見られるか。人と比べてどうか。
――神代凜子にどう見られるか。
――茅場晶彦と比べてどうか。
そうか……。
僕は、自分の顔すらよく知らない。たぶん似顔絵を描けば、似ても似つかぬ代物になるだろう。それは僕が、自分の容姿を――どう足掻いても茅場先輩と比べるべくもない有様を、遠い昔から忌避してきたからだ。僕のなかの主体なんて、所詮その程度のものなんだ。
おそらく、周囲の人間のなかの"比嘉タケル像"を集めて合成すれば、かなりのところまで再現できてしまう程度のものでしかないのだ……。
こりゃ一本取られた、と自嘲ぎみの微笑みを浮かべようとした比嘉は――。
びくっ、と口元を強張らせた。
ここに至ってようやく、凛子博士の発言の真意を悟ったからだ。
「……セルフイメージの、バックアップ」
呟き、がばっと顔を上げたときにはもう、情けない自己嫌悪など欠片も残さず消え去っていた。
「そうか……ある、あるぞ、桐ヶ谷君が吹っ飛ばしちまった主体を補い得るデータが! 彼に近しい人たちのフラクトライトの中に……!!」
叫び、先刻に倍する速度で床上を歩き回る。
「でも、それを抽出するにはSTLが必要だ……しかも、一人だけじゃ再現性が薄い……せめて二人、いや三……人……」
大きく息を吸い、止める。
桐ヶ谷和人をもっとも深く知り、そのイメージを魂に保存している人物。それは間違いなく結城明日奈だ。しかも彼女は、まさに今、和人の隣のSTLに接続している。
そして六本木分室のSTLには、おそらく和人とも知り合いなのであろう女の子が、さらに二人。
比嘉は菊岡二佐に視線を向け、掠れた声で聞いた。
「菊サン。六本木からダイブしてる子たちは、桐ヶ谷君の関係者……なんスよね?」
「……ああ、無論」
菊岡も、黒縁メガネのレンズをきらーんと輝かせながら頷いた。
「シノン君は、キリト君に文字通り命を助けられた仲だ。そしてリーファ君は、キリト君の妹だよ」
一瞬の沈黙に続き、比嘉も丸メガネのレンズを光らせた。
「……来た。来たっスよこれ! できる……復元できるかもしれないッス、キリト君のセルフイメージを! 女の子たちのフラクトライトから、強固に構築されてるはずの桐ヶ谷君像を抽出・融合させて、STLを使って喪失領域に繋いでやれば……その"生きたデータ"は、桐ヶ谷君のフラクトライトに接続し得るはずだ……」
体の底から湧いてくる熱気に、比嘉はばしっと両手を打ち合わせた。
そして――一秒後。
その熱が、跡形もなく奪われ、冷えていくのを感じた。
「あっ……ああ……うそだろ……あああっ……」
「ど、どうしたの、何なのよ比嘉君!」
早口に言い募るドクター神代の顔を見て、比嘉はうわごとのように呟いた。
「その操作が……できるのは……メインコントロールからだけッス……」
再び、重い沈黙が灰のように降り注ぎ、サブコントロールルームの床に積もった。
深いため息を漏らしたのは、指揮官である菊岡だった。
「そうだな……当然、そういうことだ……。いや、そうしょげるな、比嘉君。キリト君の治療に光明が見えただけでも良しとしよう。実際のオペレーションは、状況が終了し、オーシャンタートルから連中を追い出した後からでも……」
「それじゃあ……遅いんスよ……」
比嘉は俯いたまま菊岡の言葉を遮った。
「"ながと"からコマンドが突入してきて、メインシャフトで大規模な戦闘になったら、十中八九サブ電源も落ちるでしょう。メインコンも破壊されるかもしれない。当然、桐ヶ谷君のSTLはシャットダウンして、彼はアンダーワールドからログアウトする。そしたら……おそらく桐ヶ谷君は、もう二度とSTLダイブは出来ません。今の状態では、初期ステージを通過できないスから……。治療はなんとしても、彼と三人の女の子たちが、アンダーワールドに接続してるあいだに行わなくちゃならないんス」
淡々と言葉を続けながら、比嘉は自身のなかに、ある種の決意が満ちてくるのを感じていた。
こんな時、自分ならどうするか。
しばらく前ならば、おそらくこう答えていただろう。僕に何ができるわけもない。茅場センパイじゃあるまいし、と。
でも、そんなものは本物のセルフイメージじゃない。ただの逃げだ。言い訳だ。
僕が知っている比嘉タケル、STLとアンダーワールドを設計した大天才ならば、きっとこう言うはずなんだ。
「……僕、行くッスよ、菊さん」
「行くとは……どこにだ」
眉をしかめる指揮官を見やり、比嘉はにやりと笑った。
「別に、下に殴りこもうってわけじゃないッス。メインコントロールから、キリト君のSTLに繋がってる主回線ダクトには、一箇所だけ点検用コネクタがあったはずッスよね。あそこに端末を繋げば、四つのSTLの操作だけなら可能ッス。残念ながら、ライトキューブクラスタは別回線ですが……」
一瞬、唖然とした顔を見せた菊岡は、鋭さを増した表情で反駁した。
「しかし、コネクタは隔壁の向こうだぞ。一瞬でもロックを解除すれば、敵に意図を悟られるかもしれん。それに、ケーブルダクトは下からもアクセスできる。あんな狭いパイプの中で、敵に発見されたら撃ってくれと言うようなものだ」
「一番目の問題は、囮作戦でいきましょう」
「オトリ、とは?」
「隔壁を解除したら、艦内通路のハッチからも下に突入させるんス。もちろん、貴重な人員をじゃなくて……アレを」
再び、菊岡の細い目が光った。
「なるほど……アレか。"ロボ三衛門"だな。すまない、誰か隣の倉庫から運んできてくれないか」
スタッフの一人が通路に走り出すのと同時に、神代博士ががくんと顎を落とした。
「な……なにそれ!?」
「凛子先輩は、人工フラクトライトのこちらでの姿をご存知ッスよね?」
「姿……つまり保存メディア? ライトキューブのこと?」
「そう、単なるこれっくらいの立方体です」
比嘉は両手で五センチ四方のサイコロ型を示しながら頷いた。
「つまり、単体では一切の動作や移動が出来ない。それでは、仮に"アリス"が完成し、現実世界にイジェクションしたところで、体が無いというストレスで崩壊してしまうのではと我々は危惧したんス。ゆえに、まあ、その、人間型のマシンボディを試作してみようと。幸い予算はタップリあるし」
ちょうどその時、ドアがしゅっとスライドし、大きな台車がごろごろと運び込まれてきた。しゃがむ形で乗っているのは、確かに人間のシルエットをしてはいるが、どこか大昔のロボットヒーローめいた外装を与えられた等身大のメカニカルボディだ。
「あっ……きれた……。国民の税金をチョロまかして、そんな物作ってたのね……」
「いやいや、バカにしたもんじゃないッスよ! 既存の制御プログラムでも、時速二.五キロで二足歩行するんスから! 人工フラクトライトは、勿論僕らと同レベルのバランサー機能を備えてますからね。こいつに搭載すれば、理論上はナマの人間に迫る動きが可能なはずッス!」
「はぁ……、まあ……いいわ」
神代博士は額を押さえながら二、三度頭を振り、表情を切り替えた。
「つまり、隔壁ロックを解除したあと、通路のハッチからその……ロボザエモンをオートプログラムで侵入させるわけね。まあ……確かに目立つ、というか悪巧み以外の何物にも見えないでしょうけど……」
「そして同時に、僕がケーブルダクトに侵入する。連中が哀れな三衛門を撃ちまくってるあいだに、コネクタからSTLを操作する」
「ねえ。ちょっと待って。ザエモンて……まさか、イチエモンとニエモンが……」
比嘉と菊岡はドクター神代の疑問を黙殺し、深刻な表情で作戦検討を続けた。
「しかし比嘉君。ロック解除はそれで誤魔化せたとしても、君が発見される危険が完全に消滅するわけじゃないぞ。やはり、護衛を数人連れていったほうが……」
「いえ、今となっては自衛官スタッフは貴重すぎる戦力ッス。それに、あんなクソ狭いダクトを移動できるのはガリチビの僕くらいッスよ。何、さっと行ってさっと帰ってきますから」
比嘉は軽い調子でそう言った――ものの、やはり心拍が増加するのは止めようがなかった。
もし敵に発見され、拳銃で撃たれたら、と思うと胃の下あたりがきゅうっと縮む。オーシャンタートル襲撃時ですら、比嘉は直接には敵コマンドの姿を目視していないのだ。
しかし。
僕は、いやラースという組織全体が、桐ヶ谷君に巨大な借りがある。比嘉タケルは内心でそう呟いた。
記憶をブロックしたとは言え、現実世界で三日、内部では十年以上もの時間を過ごさせて、人工フラクトライト達に重要なトリガーを与えてもらった。限界突破フラクトライトたる"アリス"が発生したのは、間違いなく彼の存在あってこそだ。
さらにその後、治療目的だったとは言えリミッターを解除したSTLにつなぎ、結果としてフラクトライト破損という重大なダメージを被らせてしまった。しかもその原因は、彼がアリスを保全しようとしてアンダーワールド統治組織と苦しい戦いを繰り広げ、多くの仲間を失ったせいなのだ。
ならば、彼を治療できる可能性がある以上、どんなリスクを冒してでもそれに挑戦しなくてはならない。そうでなくては一生彼に顔向けできない。
比嘉タケルはぐっと両拳を握り、菊岡に頷きかけた。
――その時だった。
第四の声が、細々とサブコントロールルームに響いた。
「あのぉ……私も、比嘉チーフと一緒に行きますよ……」
全員の視線を集めたのは、これまで壁際のマットレスにうずくまっていた、ラース技術スタッフの一人だった。比嘉に負けず劣らず小柄で、四肢の細さではあるいは上回るかもしれない。
「私もこんなガリガリですし……でも、弾除けくらいには……なるかな、って……。それに、あのケーブルダクトの敷設監督したの、私ですから……」
これまであまり存在感のなかったその男性スタッフの顔を、比嘉はまじまじと見つめた。けっこう齢が行っている、おそらく三十代半ばか。長い髪を後ろで束ね、海のまんなかに何ヶ月もいたにしては肌が白い。勇気ある挙手をしたわりには、小さい眼をおどおどと泳がせているが、しかしこれでも確か大手メーカーの研究職ポストを蹴って偽装企業ラースに参じた志ある人物だったはずだ。
正直、道連れができるのはありがたい。比嘉はそのスタッフにまっすぐ向き直り、深く頭を下げた。
「……ほんとのトコ、コネクタの位置をいまいち覚えてないんスよね。すみません、同行お願いします……柳井さん」
ガブリエル・ミラーは、わずかな意識途絶も起こさず、スムーズに現実世界へと帰還した。
いや、正しくは、帰還ではなく予定外の放逐と言うべきだった。STLのシートベッドに横たわったまま、ガブリエルはかすかな驚きの味を口中に転がした。
よもや自分が、仮想世界での一対一での戦闘で敗れるとはついぞ予想していなかったのだ。しかもその相手は、人間ではなく人造の擬似意識だった。
あの老いた男に敗れた理由がなんなのか、ガブリエルは貴重な数秒間を費やして考えようとした。
意思の強さ? 魂の絆? 人と人とをつなぐ愛の力……?
馬鹿馬鹿しい。
ガブリエルは、自覚することなく唇の端に仄かな冷笑を浮かべた。この世界に、目に見えぬ力があるとすれば、それはただ一つ――自分を、来るべき楽土へと導く運命の力だけだ。
つまり、敗れたのは必然だ。それが必要だったからだ。運命は、暗黒神ベクタなどという紛い物の姿ではなく、ガブリエル自身の血肉を求めている。正しいかたちで、再びあの世界に降り立つことを求めているのだ。
ならば、そうするまでだ。
思考を終え、ガブリエルは音もなくシートから降りた。
もう一台のSTLに目をやると、意外にもヴァサゴ・カザルスがまだダイブを継続している。とっくに"死亡"し、ログアウト済みかと思っていたのだが、この男はこの男で何か求むべきものを見出したのだろうか。
まあ、好きにすればいい。
肩をすくめ、ガブリエルは隣接するメインコントロールルームへのドアをくぐった。すぐに、金色の坊主頭がコンソールからひょいっと離れ、緊張感の無い声を放ってくる。
「おつかれです、隊長ー。いやー、やられちまいましたねえー」
「状況は」
そっけなく尋ねると、クリッターはやや表情を改めて報告を返した。
「えー、ご指示のとおり、アメリカから掻き集めたプレイヤー五万人を順次投入しました。すでに半数が損耗していますが、マァ『人界軍の殲滅』という目的は達せられるでしょう。不確定要素としては、K組織側も同様の手段に出まして……戦場に、日本からの大規模接続が確認されましたが、数は二千程度なので、大きな問題にはなるまいと……」
「フムン?」
ガブリエルは片眉を持ち上げて主スクリーンを見た。
そこには、アンダーワールド南部の地形図が表示されている。"東の大門"から一直線に南へと飛び、×印とともに途切れている赤いラインは、暗黒神ベクタことガブリエルの移動ログだろう。世界の南端に存在するシステムコンソールまではまだ半分も来ていないが、アリスは今もその場所に留まっているはずだ。
そして、赤いラインを追いかけるかたちで、青の太いラインも南下している。これが人界軍か。いまは密に固まって停止しているようだ。
その青い人界軍を半包囲するかたちで、黒で表示されている大勢力が押し潰そうとしている。これがアメリカ人のVRMMOプレイヤーとすると、青と黒の間に防壁のように広がる白い光が、日本からの接続者二千――というわけか。
「この日本人たちが使用しているのは、人界側のデフォルトアカウントなのか?」
「だと思いますがねー。それが何か?」
「いや……」
ペットボトルのミネラルウォーターを呷りながら考える。日本のVRMMO中毒者たちが、その半身、いやある意味では現実以上の自分自身であるキャラクターを、アンダーワールドにコンバートするなどということが有りうるだろうか?
いや、まさか。ガブリエルは再度冷たい笑みを浮かべた。
つい一ヶ月ほど前、VRMMO"ガンゲイル・オンライン"の大会でガブリエルに苦もなく全滅させられた連中のような若者たちが、興味本位で接続することはあっても、キャラクター喪失などというリスクを冒すはずはない。
短く回想した戦闘シーンの最後、水色の髪の少女スナイパーが、遠隔起動トラップで爆死させられる寸前に見せた強い目の光だけがかすかに意識に引っかかったが、しかしガブリエルは肩をすくめて思考を打ち切った。
「よし、それでは俺は再度ダイブする。アカウントは、これをコンバートしろ」
ちょうどコンソールに転がっていたペンで、紙切れにIDとパスワードをメモって渡すと、クリッターがぱちぱちと瞬きをした。
「おやま、隊長もですかー」
「も……とは」
「いやー、ヴァサゴの野郎も一度死に戻ったんですがねー。なんかヤケに嬉しそうに、自前アカをコンバートしてまた潜りましたよ」
「ほう」
ガブリエルは、クリッターの手元に放置されていた包み紙に目をやった。記されていたIDの先頭に並ぶ、三つのアルファベットが視界に飛び込んでくる。
「……なるほど。なるほどな」
くっ、と珍しく本物の笑いが喉から短く漏れた。訝しげな顔をするクリッターの肩をぽんと叩き、言う。
「気にするな。ああ見えて、ヤツにもあるんだろう、しがらみってものが。では、よろしく頼むぞ」
身を翻し、STL室に向かう間も、ガブリエルの唇には歪んだ笑みが張り付いていた。
同時刻、ヴァサゴ・カザルスもまた、フードの下でにやにやと笑いながら眼下の戦場を眺めていた。
遺跡参道の北端に立つ巨大神像の頭上からは、アメリカ人プレイヤーと日本人プレイヤーが血みどろの殺し合いを繰り広げるさまが一望できる。
いや、正確に表現するならば、それは一方的殺戮と言うべきものだろう。
参道入り口を中心に、広い半円を描いて布陣する二千人のカラフルな剣士達は、殺到する黒い歩兵群をほとんど損耗することなく斬り倒していく。装備の差も大きいが、仮想世界慣れした身のこなしや、何より後方の支援体制の厚さが決定的だ。傷を負ったものは即座に参道内部に築かれた天幕に運び込まれ、回復呪文で傷を癒してまた元気に前線へと走っていく。
痛みの存在するアンダーワールドにおいて、その士気の維持されようは見上げたものと言うべきだった。それを言うなら、二千ものプレイヤーが、自らのメインキャラクターをコンバートしてまで参戦したこと自体が大いなる奇跡と言ってよかった。
ガブリエル・ミラーすらも、有り得ないことと退けた現状を――。
しかしヴァサゴ・カザルスは、ほぼ正確に予測していた。
アメリカからの接続が可能なら、日本からも人界の援軍がやって来るだろうこと。そしてそれは、コンバートを利用して行われるだろうということまでも、ヴァサゴは予期したのだ。
彼は今、獅子奮迅の活躍を見せる日本プレイヤーたちの中に、"閃光"アスナ以外にも幾つか覚えのある顔を見出し、心の底から興奮していた。躍り上がらんばかりに狂喜していた、とさえ言っていい。
二度と再来するまい、と諦めていたあのデスゲームが、形を変えて再び出現したのだから。
いや、勿論この世界で死んだとて、本物の命まで取られるわけではない。
しかしアンダーワールドには、あの浮遊城には無かったものが有り、有ったものが無い。
つまり――。
"苦痛"があり。
"倫理保護コード"がない。
ならば、きっと大いに楽しめるはずだ。あるいは命を奪う以上の興奮すらも。
「くく、くくくふふふふ」
堪えきれず、ヴァサゴはフードの下でひそやかな笑いを漏らした。
――間に合わなかった。
シノンは、言葉もなく、初老の剣士の傷だらけの骸とそれに取りすがる黄金の少女騎士を見下ろした。
傍らでは、二頭の巨大な飛竜が、嘆きを共有するかのように頭を垂れている。
二つの世界の行く末を左右する黄金の騎士アリスと、彼女を拉致した暗黒神ベクタ、そして二人を追跡する整合騎士長ベルクーリに追いつくために、シノンは懸命に飛行した。ALOで猛特訓した随意飛行技術を大いに発揮し、システムの許す限りの速度で南を目指したのだが、ようやく追いついたときにはもう戦闘は終わってしまっていたのだ。
いや――、讃えるべきはベルクーリの力だろう。
追いつくはずのない飛竜に追いつき、斃せるはずのないスーパーアカウントを斃したのだから。
しかし、ここに一つの巨大な不条理がある。
騎士長は死んだ。その魂は永遠に喪失した。
しかし、暗黒神ベクタはその限りではないのだ……。
シノンは、虚脱したように座り込むばかりのアリスに、危機が去ったわけではないことを告げねばならなかったが、しかし言葉が見つからなかった。
貴重な数分の時間が沈黙のうちに流れ、先に声を発したのは、騎士アリスのほうだった。
仰向けられたとてつもない美貌に息を飲むシノンを、濡れたように輝くふたつのコバルトブルーの瞳がまっすぐに射た。
「あなたも……リアルワールドの方ですか」
「ええ……」
シノンは頷き、どうにか唇を動かした。
「私はシノン。アスナとキリトの友達。暗黒神ベクタから、あなたとベルクーリさんを助けるために来たんだけど……ごめんなさい、間に合わなかった」
跪き、こうべを垂れたシノンに向かって、アリスはそっとかぶりを振った。
「いえ……。私が愚かだったのです。赤子のように攫われてしまった私の咎です……。小父様の……偉大なる整合騎士長の御命に、到底釣り合うものではないのに」
その声に滲む、凄まじい悔恨と自責の響きに、シノンは言葉も無かった。アリスは視線を彷徨わせ、続けて尋ねてきた。
「戦況は、どうなっていますか」
「……アスナと人界軍が、アメリカの……いえ、黒い軍勢を何とか防いでいる、と思う」
「ならば、私も戻ります」
ふらっと立ち上がり、飛竜の片方に向かおうとしたアリスを、シノンはそっととどめた。
「いけない。アリスさん、あなたはこのまま南の……"世界の果ての祭壇"に向かってください」
「なぜです。皇帝ベクタはもう死んだのでしょう」
「……それが……そうではないの」
そしてシノンは、アリスに説明した。リアルワールド人は、アンダーワールドで死んでも、その命を失うわけではないこと。皇帝ベクタに宿っていた"敵"が、今この瞬間にも新たな姿を得て襲来しかねないことを。
反応は――これまで抑えてきたあらゆる感情が炸裂したかのような、凄まじい怒りだった。
「小父様が……命を捨ててまで刺し違えた敵が、死んでいないと!? ただ一時姿を消し、何事も無かったかのように甦ると……そう言うのですか!?」
がしゃっ、と黄金の鎧を鳴らし、アリスはシノンに詰め寄った。
「そんな……そんな、ふざけた話があってたまるものか……!! では……小父様は何のために……何ゆえに死なねばならなかったのですか!! 片方の命しか懸かっていない立ち合いなぞ……まるで、まるでただの茶番ではないですか……」
蒼い双眸から、再び涙が溢れるのを、シノンはただ見つめることしかできなかった。
自分に何を言う資格も無い、とシノンは強く思った。
これまで、仮想世界における無限回の戦闘で、無限回の死を繰り返してきた自分に。そして、この世界では、暗黒神ベクタと同じように死ねども死なない自分には。
しかしシノンは、大きく息を吸い、アリスをまっすぐ見つめて言った。
「なら……アリスさん、あなたは、キリトの苦しみも偽物だと、茶番だと言うの?」
はっ、と黄金の騎士が息を飲む。
「キリトもリアルワールド人よ。この世界で死んでも、リアルワールドでの命までは失わない。でも、彼が受けた傷は本物。彼が感じた痛みは、損なわれた魂は、本物なのよ。……私はね、キリトが好き。大好きだわ。アスナだってそう。他にも、彼のことが好きな人はいっぱいいる。その全員が、キリトのことを心配してる。元気になって、って必死に祈ってる。そして、言葉にはしなくても、何でそこまでしなきゃいけなかったの? って思ってるわ」
アリスの両肩をそっと掴み、シノンははっきりした声で言った。
「キリトが傷ついたのはね、あなたを助けるためなのよ、アリス。そのためだけに、彼はあんなになるまで頑張った。彼の、その気持ちまで、あなたは偽物だって言うの? いえ、キリトだけじゃないわ。騎士長さんだってそう。あなたを助けるために、こんなに傷だらけになって、必死で機会を作ってくれたのよ。あなたが、"敵"の手から脱するための貴重な時間を!」
いらえは、すぐには返らなかった。
アリスは、横たわるベルクーリの骸を、しばし無言で見つめていた。その瞳から、大粒の涙がぽろりと零れ――そして騎士は、ぎゅっと瞼を瞑って、何かに耐えるように顔を上向かせた。そのまま、かすれた声で問いが発せられた。
「私は……もう一度、この世界に戻ってこられますか。愛する人たちに、もう一度会えますか」
それに対して、確たる回答を生み出すための知識はシノンのなかには無かった。ただ一つだけ確実なのは、アリスが"敵"の手に落ちれば、アンダーワールドを内包するアーキテクチャの一切は全て破壊され尽くしてしまうだろうということだけだった。
だから、シノンはゆっくり、力強く頷いた。
「ええ。あなたが……無事でさえいれば」
「……分かりました。ならば、私は南へ向かいましょう。"世界の果ての祭壇"に何が待つのかはわかりませんが……それが小父様の、そしてキリトの意思ならば……」
アリスはふわりと白いスカートを広げて跪き、横たわるベルクーリの頬にそっと口づけた。
立ち上がったとき、その全身には、見違えるようなオーラが漲っていた。
「雨縁。滝刳。もう少しだけ飛んで頂戴ね」
二頭の飛竜にそう言葉を掛けてから、アリスはシノンに視線を向けた。
「あなたは……どうするのですか、シノンさん」
「今度は、私がこの命を使う番だから」
にこっと微笑みかけ、シノンは続けた。
「暗黒神ベクタは、おそらくこの場所に復活すると思う。私は、なんとか斃せるように……少なくとも充分な時間が稼げるように、頑張ってみる」
アリスは軽く唇を噛み、深く頭を下げた。
「……すみません。お願いします。あなたのお命……お心を、決して無駄にはしません」
南の空へと飛び去っていく二頭の竜を見送り、シノンは肩にかけていた白い長弓を手に戻した。
オーシャン・タートルを襲撃したのは、恐らくアメリカ国家機関に支援されたアサルトチームだという。その一人がスーパーアカウント04たる暗黒神ベクタに宿り、アリスを襲った。
現実世界では、単なる高校生のシノンには到底抗いようもない相手だ。
しかしこの場所でなら。仮想世界での一対一の戦闘ならば。
誰が来ようと勝ってみせる。
強く自分にそう誓い、シノンはただ、敵が再ダイブしてくるその瞬間を待った。
振り抜いた右拳から、最後の骨が砕ける音がかすかに伝わった。
拳闘士団長イシュカーンは、胸甲の真ん中を陥没させて大の字に倒れる黒い敵兵から視線を外し、己の拳を静かに眺めた。
そこにあるのはもう、あらゆる物を打ち毀してきた鋼鉄の拳骨ではなかった。粉砕された骨と肉が詰まる、ぐずぐずに腫れた皮の袋だった。
左拳は数分前から同じ状態になっている。両脚の骨にも無数の亀裂が走り、蹴ることはおろか走ることすら不可能だろう。
「……見事な闘いぶりでしたよ、チャンピオン」
副官ダンパの掠れた声に、ちらりと後ろを見る。
地面に座り込んだ巨漢は、両腕を完全に喪失したあとも頭突きと体当たりのみで戦い続けた証として、顔と胴体に酷い刀傷を縦横に受けていた。常に闘志と智慧を湛えて光っていた小さな両眼はおぼろに霞み、ダンパの天命が今まさに尽きかけていることを示していた。
イシュカーンは、勇士の魂に敬意を表すべく、砕けた拳を額に掲げてから答えた。
「まァ、これなら、あの世で先代に会っても恥ずかしくねえ死に様だろう」
脚を引き摺って副官の隣まで移動し、どかっと座り込む。
二万を超えていた黒い敵軍は、長時間の激戦を経て、すでに三千程度にまで減少している。しかしその代償として、拳闘士団も今や三百人程度が残るのみとなっていた。しかも全員が満身創痍、もう満足に陣形も組めず、ひとところに密集して座り込みただ押し潰されるのを待っているに過ぎない。
周囲をぐるりと取り囲む三千の敵兵が、一気呵成に最後の突撃を仕掛けてこないのは――。
イシュカーンとダンパの視線の先で、鬼神の如き戦闘を続ける、一人の騎士と一頭の飛竜の存在ゆえだった。
消耗はもう完全に限界を超えていた。
整合騎士シェータ・シンセシス・トゥエルブは、それでも霞む視界に敵の影を知覚すると、鉛のように重い右腕を動かし、黒百合の剣を振りかぶった。
びう、と鈍い風切り音。
極細の刀身が、敵の黒い鎧の肩口に食い込む。反動で、手首から肘にかけて無数の針に刺されるような痛みが駆け巡る。
「い……やああぁぁぁぁ!!」
"無音"のあざなにまったく似つかわしくない、形振り構わない気合を絞り出す。剣がどうにか敵の装甲を割り、その下の身体を一直線に切り裂く。
意味の取れない罵声とともに倒れる歩兵から刀身を引き抜き、シェータは荒く息をついた。
これほどまでに疲労困憊した理由は、無限とも思われる敵の数もさることながら、黒い兵たちの奇妙な生気の無さゆえだった。
心意が通じにくいのだ。黒い鎧も剣も、シェータの神器と比べれば優先度では遥か劣る代物のはずなのに、切断に際して妙に乾いた抵抗感がある。同じことが、敵の攻撃にも言えた。剣には一切の心意を感じず、事実軽く粗雑な斬撃ばかり繰り出してくるくせに、なぜか実効力だけはあるのだ。
まるで、影と戦っているようだった。ほんとうにはこの場に居ない者たちが、どこからか映し出す影絵の軍隊と。
楽しくなかった。斬るためだけに生きているはずの自分が、この影たちを斬ることに、強い嫌悪しか感じていないことをシェータは自覚した。
――なんでだろう。
――相手が影だろう生身だろうと、それどころかただの彫像だとしても、ただ硬ければ私は満足できたはずなのに。斬ることしか知らない人形、それが私なのに。
最小の刀身に最大の優先度を秘めた神器、黒百合の剣。それは切断のためにのみ存在する道具であり、また鏡に映るシェータ自身でもあった。斬ることをやめれば、どちらの存在証明も完全に失われてしまう。
最高司祭アドミニストレータは、シェータが暗黒界の古戦場から持ち帰った一輪の百合を、一振りの剣に組成変換した。それをシェータに下賜しながら、こう言った。
――この剣は、あなたの魂に刻まれた呪いを形にしたものよ。性質遺伝パラメータの揺らぎが生み出した、殺人衝動という名の呪いをね。斬って、斬って、斬り続けなさい。その血塗れた道の果てにのみ、あなたの呪いを解く鍵がある……かもしれないわ。
その時は、最高司祭の言葉の意味は分からなかった。
シェータは、言われたままに、無限に等しい年月に渡ってひたすら斬り続けてきた。そしてついに、最高の好敵手に巡り合った。これまで刃を通して触れ合った、全ての人、全ての物より硬いひとりの男に。
もう一度戦いたい。戦えば、何かが分かるかもしれないから。
その思いだけに衝き動かされ、シェータは人界軍と分かれてこの戦場に残ったのだ。なのに、どうやら、赤い髪の闘士との再戦は叶いそうになかった。
シェータは荒い息をつきながら、ちらりと背後を振り返った。
離れた岩の上にあぐらをかく、傷だらけの拳闘士の長が見えた。なぜか悲しそうな、済まなそうな視線で、じっとシェータを見つめる朱色の瞳と目が合った。
不意に、ずきん、と胸が痛んだ。
――なんだろう。
――私は、あの人を斬りたいはずなのに。何もかも焼き尽くすような、熱い、熱い戦いをもう一度味わいたい、そしてあの金剛石のように硬い拳を断ち切りたい、それだけが望みだったはずなのに。なのになんで、こんなふうに胸が……締め付けられるんだろう。
――私は、あの人を……。
きしっ。
微かな音が、右手の中から響いた。
シェータは黒百合の剣を持ち上げ、その刀身を眺めた。あらゆる光を吸い込むような、極細の漆黒線の一箇所に――蜘蛛の糸よりも薄い亀裂が、稲妻のように走っているのが見えた。
ああ、
そうか。
シェータは大きく息を吸い込み、そして小さく微笑んだ。
あらゆる疑問が、今氷解した。アドミニストレータの言葉の意味、呪いとは何なのかを、シェータはついに悟った。
どすどすという地響きに視線を戻すと、次の敵兵が、無骨な戦槌を振り上げて駆け寄ってくるところだった。
シェータは滑らかな足取りで敵の一撃を回避し、右手の剣を黒い鎧のど真ん中に突きこんだ。
最後の攻撃は、まったくの無音だった。すべるように、しなやかに敵の命を絶った黒百合の剣が――その中ほどから、同じく一切の音を立てずに、無数の花弁を散らすように砕けた。
手中の柄までもがはらはらと崩れ落ちていくのを、シェータは名残惜しく口元にあてて呟いた。
「……長いあいだ、ありがとう」
一瞬、さわやかな花の香りが漂った気がした。
少し離れた隣では、騎竜である宵呼(ヨイヨビ)が、尾の一撃で敵兵を叩き潰したところだった。
竜の灰色の鱗は、流れ出た血でほぼ隙間なく濡れ、爪や牙もほとんど欠けている。熱線はもう吐き尽くし、動きは見る影もなく緩慢だ。
敵の突撃がいっとき途絶えたのを確認し、シェータは竜に歩み寄ると、その首に手を這わせた。
「あなたも、ありがとう、宵呼。疲れたね……もう、休もう」
そしてシェータと飛竜は、身体を引き摺るように、拳闘士団の生き残りが固まる低い丘に向かった。
迎えた拳闘士の長は、今にも弾けてしまいそうな傷だらけの右手を持ち上げ、シェータを迎えた。
「すまねえ……大事な剣、折らしちまったな」
詫びる言葉を、シェータは首を振ってとどめた。
「いいの。やっと、分かったから。私がなぜ斬り続けてきたのか……」
がくんと地面にひざを突くと、両手を持ち上げ、若い闘士の顔を挟み込む。
「斬りたくないものを見つけるため。守りたいものを見つけるために、私は戦い続けてきた。それは、あなた。だからもう、剣は必要ない」
一瞬、大きく見開かれた拳闘士の左眼に、透明な雫が湧き上がるのをシェータは少し驚きながら見つめた。
若者は、きつく歯を食いしばり、喉を鳴らして囁いた。
「ああ……ちきしょう。アンタと、所帯を持ちたかったな。きっと、強ぇガキが生まれたろうにな。先代より、オレよりずっと強い、最強の拳闘士になれる子がよう」
「だめよ。その子は、騎士にするわ」
二人は短く見つめあい、そして微笑んだ。優しい表情の巨漢に見守られるなか、シェータとイシュカーンは短く唇を触れ合わせ、並んで座った。
三百人の拳闘士と、一人の整合騎士、そして一頭の飛竜は、黒い歩兵たちがじりじりと包囲の輪を縮めてくるのを、ただ無言で待った。
「どうやら大勢は決した……ってヤツかな、こりゃ」
アスナは、自分とほぼ同時に後方に戻ってきたクラインの言葉に、そうねと応じた。
幾つかの手傷を負った二人を、もと魔法職の日本人プレイヤーが、覚えたばかりの神聖術で癒していく。本職のアンダーワールド人修道士の、イマジネーションを利用して効果を増幅する技までは真似できないものの、ハイレベルからのコンバートによる高い術式行使権限ゆえに治癒力はじゅうぶんなものがある。
「ほんとうにありがとう、クライン。何てお礼を言ったらいいか……」
言葉を詰まらせるアスナを見て、クラインは照れくさそうに鼻の下を擦った。
「おいおい、水臭ぇよ。お前さんと……キリトの野郎にゃ、これくらいじゃ返しきれねえ借りがあるからな。……あいつも、居るんだろ、ここに?」
声をひそめるクラインに、アスナはそっと頷いた。
「ええ。戦闘が終わったら、会ってあげて。クラインがいつもの下らないギャグかませば、ツッコミたくて目を覚ますかも」
「おい、ひでえよそりゃ」
口元に笑みの形をつくりながらも、クラインの目は深い気遣いに満ちていた。すでに知っているのだ――キリトの受けた傷の深さを。
ああ、でも、本当に。
すべてが無事に解決し、"敵"がアンダーワールドからもオーシャンタートルからも撃退されて、シノンや、リーファや、クラインたち元攻略組、サクヤたちALO組……そしてアリスたち人界の剣士らに囲まれれば、キリトも目覚めずにはいられないかもしれない。
その瞬間を、笑顔で迎えるためにも、今をがんばらなくては。
傷が完全に癒えるや否や、アスナは術師プレイヤーに礼を言って立ち上がった。
前線では、クラインの言うとおり、すでに戦闘の趨勢は決していると言っていい。黒いアメリカ人プレイヤーたちの数は最早日本人と同数程度にまで減少し、戦意を喪失したかのようにやけっぱちな突撃を繰り返すのみだ。
しかし、この古代遺跡での戦闘は、単なる一局面に過ぎない。
問題は、皇帝ベクタに拉致されたアリスだ。騎士長ベルクーリ、それにシノンがどうにか足止めしてくれているうちに、何とか追いついてアリスを奪回せねばならない。コンバート組から最精鋭のチームを編成し、人界軍の馬を借りて全速で南下するのだ。
追いつきさえすれば、敵がどんなアカウントを使っていようが、日本のトップVRMMOプレイヤーを結集した選抜チームに勝てないはずはない。そう断言できるほど、彼らの力は圧倒的だ。戦う彼らの鎧や剣が、陽光を反射して放つ七色の輝きは、まさしく最高の宝石を零したようだ……。
滲みかけた涙をぐいっと拭い、アスナは視線を前線から後方へと向けた。
遺跡の参道入り口では、補給隊の馬車も奥から引き出され、即席の陣地が築かれている。傷ついた日本人たちが、アンダーワールド人たちに術式で癒されている光景は、これもアスナの目には言葉に出来ないほど貴重なものに映った。
「……大丈夫、ぜんぶうまくいくわ……きっと」
思わず囁いた言葉に、隣のクラインが力強い相づちを入れた。
「おうさ。さて、俺らももう一頑張りしてこようぜ!」
「ええ」
頷き、再び戦線へと振り向きかけたアスナは――。
視界の端をかすめた何かに注意を引かれ、ぴたっと動きを止めた。
何だろう……何か、黒い、いや暗い……染みみたいな……。
きょろきょろ視線を彷徨わせたアスナは、ようやく、それを見つけた。
遺跡参道に立ち並ぶ、巨大な神像。
その右側、一番手前の像の頭上に、誰かが立っている。
逆光で、よく見えない。赤いダークテリトリーの空に滲むように、揺れる黒い影。
戦場から逃げ出したアメリカ人だろうか? それとも、偵察を買って出た日本人?
いぶかしみながら目を凝らすと、その影が揺れているのは、だぶっとした黒いポンチョをかぶっているからだと分かった。フードを口元まで引き下げているために、顔はまったく見えない。
しかし。
「ね、クライン。あの人……」
走り出しかけていたクラインの袖を引っ張って、アスナは左手の指を伸ばした。
「あそこに立ってる人、なんか見覚えない?」
「へ……? ありゃ、見物してやがる。誰だよまったく……見覚えっつったって、あんなカッパ着てりゃ、顔……なんか……」
クラインの声が、急に途切れた。
アスナが目をやると、無精ひげの浮いた面長の顔が、紙のように色を失っているのに気付いた。
「ちょっと、どうしたのよ。思い出したの? 誰だっけ、あの人?」
「いや……まさか。ありえねぇよ、そんな……。亡霊を……見てるのか……? ありゃあ……あの黒いカッパは……ラフィン・コフィンの」
その単語を聞いた瞬間。
アスナも、頭の中がすうっと氷のように冷えるのを感じた。
ラフィン・コフィン。かつて、浮遊城アインクラッドに恐怖を撒き散らした最強の殺人者(レッド)ギルド。"赤眼のザザ"や"ジョニー・ブラック"が属し、多くの一般プレイヤーをその毒牙に掛け……最終的に、攻略組プレイヤーによる合同討伐隊との死闘を経て壊滅した。
その戦いで、ラフィン・コフィンのほぼ全てのギルドメンバーは死亡するか黒鉄宮送りとなったが、しかしただ一人だけ取り逃がした者がいたのだ。急襲したアジトになぜか姿が無かったギルドリーダー、SAOで最も多くのプレイヤーを殺した男、その名前を、"PoH(プー)"と言った。
常に黒いポンチョのフードを目深にかぶり、包丁じみたダガーのみを装備していた殺人鬼が、二年のときを経て、いま遺跡神像の上からアスナとクラインを見下ろしている。
「……嘘、よ」
アスナも、掠れた声で囁くことしかできなかった。
幻だ。亡霊を見ているのだ。
消えろ。消えてよ。
しかし――陽炎に揺れる黒い影は、アスナの願いをあざ笑うかのように、ゆるりと右手を挙げた。そして、生気の無い動きで左右に振った。
続く光景は――。
まさしく、悪夢の現出に他ならなかった。
黒いポンチョ姿の隣に、ひょいっと新たな人影が現れた。二人、三人。
そして、神像の背中が接する巨大な遺跡宮殿の屋上に、ごそりと黒い集団が頭を出した。左側の宮殿屋上にも、ぬっと数十人規模で影が湧き出る。
やめて。もうやめてよ。
アスナは祈った。これ以上の絶望には、もう心が耐えられそうになかった。
なのに。
黒い集団の出現は、左右に果てしなく伸びる宮殿のふちに沿って、尽きることなくどこまでも続いた。千、五千、一万人――。おそらく三万を超えたところで、アスナは数える努力を放棄した。
有り得ない。
アメリカ人は、五万もの大人数が苦痛とともに追い出されたばかりなのだ。これほどの大軍を、こんな短時間で用意できるはずはない。と言って、日本人のはずもない。日米のVRMMOプレイヤーの総数からしても、到底考えられない数だ。
幻だ。あれはみんな、術式で作り出された実体無き影なのだ。
いつしか、アメリカ人プレイヤーとの戦いにほぼ勝利した前線の日本人たちも、手を止めて後ろを振り返っていた。広大な戦場に、奇妙な静寂がしんと張り詰めた。
さわさわ。ざわざわ。
宮殿の屋上に密集する、途轍もない大軍勢の放つさざめきが、不吉な風のようにアスナの耳に届いた。
混ざり合い、溶け合ったそれが何語なのか、とっさに分からなかった。懸命に耳を済ませると、うち一人がやや大きな声で言った語尾が、どうにか聞き分けられた。
――しゃおりーべん。
何……どういう意味なの?
その時、隣でクラインが、声にならない声で呻いた。
「ああ……やべえ……やべえぞこりゃ……。あの大軍は、日本(jp)でもアメリカ(us)でもねェ……」
アスナは、背中に冷たい汗が這うのを感じながら、続く言葉を聞いた。
「あいつらは……中国(ch)と、韓国(kr)だ」
クリッターは、中国・韓国からの大量の接続をアンダーワールドに導き終えたいまもまだ半信半疑だった。
ヴァサゴ・カザルスが再ダイブ直前に指示していったとおり、日本の北西に位置する二国のネットワークにも偽の誘引サイトを作り、接続用クライアントをバラ撒いたのだが、その作業中にも何度首を捻ったかわからない。
――だって、あいつらみんな同じ顔をしてるじゃないか。
アメリカ人には、日本と韓国が地続きではないことを知らない者も大勢いる。両方とも中国の一部だと思っている者も。クリッターはさすがにそこまでという事はないが、しかし完全なる友好国なのだとは思っていた。EUのゴチャゴチャしている辺りと同じように。
だから、ヴァサゴが指定していった誘引サイトの体裁は、まったく理解不能だったのだ。
サイトは、アメリカに作ったものとは異なり、わざと急ごしらえの粗雑な出来を装っていた。実際、中国語と韓国語に堪能な隊員の手を借りて突貫作業で翻訳したのでデザインに凝る余裕は無かったのだが。
サイトのトップには、『中韓の有志が合同で立ち上げた、初の草の根VRMMOサーバーが日本から攻撃を受けている!!』と書かれていた。
その下にやや小さなフォントで、ザ・シード連結体を独占しようとする日本プレイヤー達がサーバーをハックし、異常に強力なキャラクターを好き放題に作り出して、有志のテスターを攻撃している。サーバーにはまだ痛覚遮断機能も倫理保護コードも存在せず、ゆえに同朋たちは非常な苦痛とともに虐殺されているのだ、という意味の説明が続いた。
クリッターにしてみれば、まったく真実味も説得力もない話だった。しかし、彼を驚愕させたことに、偽誘引サイトへのアクセスは凄まじい勢いで増加し、クライアントが各所でミラーされていく速度は、アメリカの比ではなかった。
クリッターは、唖然としながら思った。
――これではまるで、この日本と、中国・韓国のVRMMOプレイヤーは、仲がよくないみたいじゃないか?
――ところがどっこい、憎みあってるとすら言っていいんだなぁ、これが。
ラフィン・コフィンを率いていた頃のキャラクター、PoHとしてアンダーワールドに復帰したヴァサゴ・カザルスは、黒いフードの下でにやにや笑いながらひとりごちた。
ヴァサゴは、サンフランシスコで生まれ、十歳の頃母親に連れられて日本に渡った。日本の貿易商社の社長が、まだ若く美しかった母親を見初め――いや、金で買ったのだ。籍は入れずに、住まいと生活費だけを与えたのだから。
暮らしは豊かだったが、心はいつも荒んでいた。街にひしめく、同じ色の髪と肌をした連中を見ると吐き気がした。ナーヴギアが発売され、アメリカのバーチャルネットに接続できるようになったときは、心のそこから解放された気分を味わったものだ。
なのに、ほんの気まぐれから購入したゲームソフト、"Sword Art Online"に五万人もの日本人と一緒に閉じ込められ、ログアウトできなくなってしまったのだ。
――そりゃあ、殺すさ。殺すしかねぇだろ。
最初の"殺人"は偶発的なものだった。
次のときには、仲間を誘った。
恐怖やストレスを抱え込み、鬱屈している連中を見つけて誘惑するのは実に簡単だった。"ラフィン・コフィン"が結成され、レッドギルド・レッドプレイヤーという概念が確立されたのは、その後のことだ。
つまり、ヴァサゴこそが、SAOに"プレイヤーによる殺人行為"を持ち込んだ張本人であると言える。
その動機は、日本人を殺したかったから、ではない。
日本人が日本人を殺すところが観たかったからだ。連中同士の殺し合いが、どうしようもなく興奮させられる最上のショウだったからだ。
そして今、長い時を経て、あの興奮がすさまじい規模で再現されようとしている。
ヴァサゴにとっては、何人だろうと関係ない。東アジア人は皆等しくクズである。母親を金で買った日本人も――母親を妊娠させて捨てた韓国人も。
ヴァサゴ/PoHは、高く右手を挙げ、彼が最初に覚えた言語である韓国語で叫んだ。
「あの侵入者どもに思い知らせてやれ!! 二度と同朋に手出しする気にならないように、念入りに痛めつけて、辱めて、切り刻んで殺せ!!」
恐らく五万は下回らないだろう大集団は、二つの言葉で口々に怒りの叫びを迸らせた。彼らの目には、日本人プレイヤーたちが殺していたアメリカ人集団が、同国人のクローズドαテスターに見えていたはずだ。
ヴァサゴは、哄笑を懸命にこらえながら、勢いよく手を振り下ろした。
直後、どざあああっ! と音を立てて、大軍勢は宮殿の屋上から、洪水のように僅かな日本人たちへと降り注いでいった。
――さあ、殺し合え。醜悪に、無様に、滑稽に踊ってくれ。
「……来た」
シノンは、口のなかで呟いた。
赤い空から糸のように垂直に伸びてくる、漆黒の破線をついに視認したのだ。
理想を言えば、この時点でソルスの弓の最大威力攻撃をチャージし、敵の実体化直後を吹き飛ばしたい。それなら、防御も回避もできないはずだからだ。
しかし、今すべきことは時間稼ぎである。もし敵が無限に高位アカウントを生成できるなら、即死させても意味がない。
それよりは持久戦に持ち込み、まずは敵の対応を見定めるのだ。もし命を惜しむ様子を見せるなら、アカウントは貴重なワンオフ物と判断できる。その場合は全力で破壊し、二度と同じアカでログインできなくすればよい。
しかし、もしアカウントが量産タイプならば、殺してしまうわけにはいかない。限界まで戦闘を長引かせ、アリスが遠くまで逃げる時間を稼がなくてはならないのだ。
ゆえにシノンは、弓の弦を引くことなく、空中にホバリングしたまま敵の実体化を待った。
黒いデータラインは、つい数分前まで騎士長ベルクーリのむくろが横たわっていた岩山へと震動しながら降りていく。
遺体は、整合騎士アリスがコマンドによってリソースへと変え、騎士長の剣のかけらと混ぜ合わせて小さな鋼のペンダント二つに転換し、持ち去った。ひとつは、同輩である女性騎士に渡すと言う。
恋敵? と聞くと、アリスは少し微笑んで答えた。私の恋敵はあなたです、と。
――まったく。
そうと聞いては、簡単にログアウトしてやる訳にはいかない。キリトが目覚める瞬間までは、何が何でもこの世界にとどまらなくては。
シノンは、もう一度戦闘方針を心中で確認してから、じっと岩山に視線を凝らした。
黒い線が、頂上の中央に達し、粘性の液体となってどろどろとわだかまっていく。
それはまるで、地獄へと続く底なしの水溜りのように濃く、深い色をしていた。
ラインが最後まで吸い込まれていき、そして――。
とぷん。
表面に小さな波紋が立ち、直後、ずるっと右手が突き出された。シノンの背に、理由のわからない悪寒が強く這った。やけに細長い五指が、うねうねと滑らかに宙を掻く。
今すぐ焼き払ってしまいたい! という渇望をこらえ、シノンは敵の実体化を待った。
ずるり。腕が一気に肩口まで伸び上がる。ついで左手が出現し、ぐっと水溜りのふちを掴む。
湿った水音を立て、ゆっくりと男の頭部が出現した。
――意外にも、どうという特徴のない顔だった。暗黒神ベクタを操っていた人間が再ダイブしたはずなのに、麗しくも、逞しくもない。張り付くようなスタイルの短い金髪、微かに灰色がかった白い肌、白人系のデザインではあるのだが妙にのっぺりした印象がある。
青いビー玉のような目が、きょろ、きょろと動いてから、上空のシノンを捉えた。
あれっ、と思った。
どこかで見たような眼だ。すべてを反射するような、それでいて吸い込むような、表情のない瞳。
つり上がっても、垂れてもいない眼窩が、シノンを見据えた瞬間、少しだけ見開かれた。そして――きゅうっ、と笑うように細められた。
ああ、間違いない。知ってる。私はこの眼を知っている。それも、つい最近――どこかで――。
シノンが呆然と見下ろす先で、どぷんっ、と音がして男の全身が一気に現れた。
服装がまた奇妙だ。ごつごつと皺の寄った灰色のジャケットとボトムス。足は編み上げブーツに包まれ、胴は硬そうなベストに覆われている。まるで、コンバットスーツのようだ。左腰に下がる長剣と、背中に装備されたクロスボウが、とてつもない違和感をかもし出している。
驚いたことに、男の足元から、さらに出現するものがあった。
黒い水溜りがぎゅうっと広がる。それが地面から薄く剥がれ、翼のように左右へと伸びる。
いや、ほんとうに翼なのだ。ばたばた、と忙しなく羽ばたいた直後、男を乗せたまま岩山から離陸したではないか。
飛竜か、と思ったが違う。なんだか妙な生き物だった。お盆のように丸く平べったい胴体の前縁に、黒い眼球が幾つも張り付いている。左右に伸びる翼だけが、竜のような皮膜と鉤爪を備えていた。
男は、謎の有翼生物の背に乗ったまま、すうっとシノンと同じ高度まで上昇してきた。
そして、薄笑いを浮かべたまま、右手を横に挙げた。シノンは警戒しながらその動作を見守った。
男の手は、まるで何かを握っているフリのようにゆるく開かれていた。と、親指がにゅっと伸び、見えないスイッチを深く押した。
同時に男の唇が、無音のまま動いた。ボム、と発音するがごとく。
瞬間、シノンはついに思い出した。無意識のうちに掠れた声が漏れた。
「……サトライザ……」
間違いない。あの男は――ほんの一ヶ月前に行われたガンゲイル・オンラインの大会決勝戦で、シノンを遠隔起動爆弾で吹っ飛ばしたアメリカ人だ。
しかし、なぜここに。こんな場所に。
シノンは弓を構えるのも忘れ、愕然と眼を見開き続けた。