騎竜の背を離れたとき、ベルクーリの下にはまだ二百メル近い空間が残っていた。ただ落下するに任せれば、いかに彼とて着地の衝撃には耐えられない。
しかし騎士長は、まるで見えない階段でも存在するかのように、螺旋を描きながら空を駆け下りた。
実際には、一歩ごとに足下に風素を生成・炸裂させ、その反動で落下速度を殺したのだ。下肢を素因制御端末とする技を、彼は十年以上前に元老チュデルキンから盗んでいた。アンダーワールドに存在する闘法に、騎士長ベルクーリの知らぬものは無い。
遥か眼下の、尖塔にも似た岩山の頂上に立つ皇帝ベクタの死角へ、死角へと跳躍しながら、最古騎士は愛剣の柄に手を添えた。
初撃で決める。
容赦なく、静かに、当たり前のように、殺す。
整合騎士長ベルクーリが必殺の心意を練るのは、実に百五十年以上も昔に初代の暗黒将軍を斬って以来のことだった。それほどの長きに渡って、彼の殺意を呼び起こす敵は出現しなかったのだ。
セントラル・カセドラルで単身挑みかかってきた、ユージオという名の若者との戦闘に於いてでさえ、ベルクーリは本気になりこそすれ殺気を漲らせることはなかった。いや、それを言うならば、初代暗黒将軍に対してすら、怒りや憎しみのような負の心意を抱いたわけではない。
つまり、ベルクーリは、その長い生涯で初めて刃に怒りを込めたことになる。
彼は怒っていた。心底激怒していた。アリスを拉致されたことのみに対してではない。
リアルワールドという外世界からやってきたよそ者が、和睦成立の可能性のあった暗黒界人たちをいいように操り、戦場に駆り立て、無為に命を落とさしめた。それは、二百年以上もこの世界を見守り続けてきたベルクーリには、どうしても赦せないことだった。
――てめぇにどんな事情があるかは知らねえ。
だが、リアルワールド人の全員がてめぇのようなど腐れじゃねえことは、あのアスナという娘を見ればわかる。
つまり、てめぇという個体の本質が、どうしようもなく悪だということだ。
ならば、その報いを。
暗黒将軍シャスターの、整合騎士エルドリエの、そして戦場に散った多くの人間たちの、命の重さを。
この一撃で、とくと知れ!!
「ぜ……あぁッ!!」
高度十メルで最後の一歩を踏み切り、騎士長ベルクーリは、あらんかぎりの意思を込めた斬撃を皇帝ベクタの脳天目掛けて振り下ろした。
大気が灼け、白く輝いた。刃が生み出す光のあまりの眩さに、空の色すら彩度を失った。
それは間違いなく、かつてアンダーワールドで発生したすべての剣技中最大最強の威力を内包した一撃だった。メインビジュアライザー内のニーモニック・データ書き換え優先度はシステム制御命令のそれをも上回り、つまりあらゆる数値的ステータスを無効化するほどの絶対事象だったのだ。
皇帝ベクタに設定された無限に等しい天命数値すらも削り切るほどに。
命中しさえすれば。
降り注ぐ絶対的な死を見上げながらも、ベクタの表情はまるで動かなかった。
せいぜい見ることしかできないくらいの、超速の一撃だったのだ。いかなる反応も、対処も不可能なはずの、その刹那。
黒水晶の鎧に包まれたベクタの体が、音もなく滑った。
唯一回避可能な方向へ、回避に足るだけのぎりぎりの距離を。
ベルクーリの剣に触れたのは、宙になびいた赤いマントだけだった。その瞬間、分厚い毛皮は微細な塵へと分解し――。
ズガァァァッ!! という雷鳴じみた轟音とともに、硬い岩盤に一直線の傷痕が刻まれた。巨大な岩山全体が震動し、縁からいくつもの塊が剥がれ落ちていった。
あれを、躱すかよ。
そう瞠目しながらも、ベルクーリの体はほんの一瞬たりとも停まらなかった。戦闘のさなか、予想外の展開に思考が凍るような段階はとうに脱している。
弧を描くように体を入れ替え、皇帝の側面へと回りこむ。再度、横薙ぎに一閃。全身全霊を込めた大技を空振っておきながら、着地、移動、再攻撃まで、半秒とかかっていない。
その追い撃ちすらも、ベクタは避けた。
まるで風に吹かれた黒い煙のように、予備動作もなくゆらりと地面を滑る。切っ先は、鎧の表面を掠めて空しく火花を散らすのみ。
しかし。
今度こそ、ベルクーリは確信した。
――取った。
初撃は、外れはしたが消えたわけではなかった。神器・時穿剣の完全支配技、"未来を斬る"という能力を、彼は発動させていたのだ。
皇帝ベクタは、致死の威力が留まる空間に、まっすぐ背中から吸い込まれていく。
鉄の環で束ねられた、白っぽい金色の髪が中ほどから切断され、ぱっと広がる。
額に嵌まる宝冠が、かすかな金属音とともに砕け散る。
ベクタの腕が、許しを請うかのように高く掲げられた。
黒を纏う長身が、縦に裂けるさまを、ベルクーリは強く予感した。
ぱん。
軽く乾いた破裂音。
その源は――頭の後ろで打ち合わされた、皇帝の両の掌だった。
――素手で、
挟み止めた、だと。しかも背を向けたまま。
有り得ない。いや、斬撃を両手で包み込むように受ける奥技は、暗黒界の拳闘士たちには伝えられているが、あれは彼らの鉄より硬い拳あっての代物だ。そもそも、あの空間に保持されていた威力は、拳闘士の長と言えども素手で止められるようなものではなかったはずだ。
その思考は、ほんの一瞬のものではあったが、しかしベルクーリの動きはついに止まった。
ゆえに、続いて発生した事象を、彼はただ黙視してしまった。
蜃気楼のように空中に留まる必殺の斬撃が、皇帝の両手に吸い込まれていく!
同時に、見開かれたふたつの青い瞳が、底なしの闇に染まりはじめる。
いや、それだけではない。闇の底には、ちかちかと瞬く無数の――あれは――星?
違う。
あれは、魂だ。この男が、これまで同様に吸い取ってきた、人々の魂が囚われているのだ。
「……貴様は、人の心意を喰うのか」
そう呟いたベルクーリに、斬撃を吸収し尽した両手をすっと降ろしながら、ベクタは答えた。
「シンイ? ……なるほど、心(マインド)と意思(ウィル)か」
ひどく寒々しい、生物の気配が抜け落ちた声だった。それを発した赤い唇が、見かけは微笑みに似た形へと変形した。
「お前の心は、まるでグレート・ヴィンテージのワインのようだ。とろりと濃密で……どっしり重く、キックの強い後味。私の趣味ではないが……しかし、メインの露払いに味わうには吝かではない」
青白い右手が動き、腰の長剣の柄を握る。
ぬるぬると鞘から抜き出された細身の刀身は、青紫色の燐光に包まれていた。それを力なく垂らし、皇帝ベクタはもういちど微笑んだ。
「さあ、もっと飲ませてくれ」
ついに、粗雑な造りの大剣が、アスナの二の腕を掠めた。
焼けた金串を押し当てられるような感覚。
――痛いもんか!!
強く念じる。途端に、僅かに薄赤く刻まれた痕が、すうっと消えていく。
その時にはもう、右腕が煙るように閃き、眼前の大男の右肩から左脇腹へと四連の突き技を叩き込んでいる。男の顔が歪み、シッ!! という罵り声とともに地に沈む。
今のが何人目だったか、すでに数えられなくなっていた。
それどころか、遺跡参道での戦端が開かれてもう何分、何十分経っているのかすら定かでない。ひとつだけ確かなのは、参道入り口から殺到してくる黒い歩兵たちは、まだまだ無限に等しいほど存在する、ということだけだ。
ふん、これくらいの持久戦、大したことないわ。アインクラッドじゃ、ボス戦が一、二時間続くのなんてザラだったんだから。
内心でそううそぶき、アスナは大男の死体を踏み越えて飛びかかってきた敵の斧を思い切り払い落とした。
重心を崩した上で、的確なクリティカルダメージを叩き込みながら、ちらりと横に視線を走らせる。
参道中央で奮戦するアスナの右側では、数人の衛士をはさんで整合騎士レンリが、両手のブーメランを交互に投射しながら死体の山を築いている。その威力と、照準の正確さはそら恐ろしいほどで、こちらはもう暫く任せきりでも平気そうだ。
しかし問題は左サイドだった。隊長格の衛士たちを多めに配置しているが、徐々に戦線が押し込まれているのがわかる。
「左、先頭交代の間隔を速めて! 治癒術もそっちを厚くしてください!」
背後から即座に諒の叫びが返るが、その声にも疲弊の色が濃い。
気がかりは、もう一つあった。
いま戦っている歩兵たちは、決して単純なAIで動く人型モンスターではないのだ。MMORPG発祥国たるアメリカの、百戦錬磨のプレイヤーたちなのである。PvP、GvGに慣れ親しんだ彼らが、そろそろ単純な突撃では埒が開かないと考え始めてもおかしくない。
自分なら、どうするだろう。ひたすらレイピアを閃かせながら、アスナは考える。
定石としては、後方からの遠隔攻撃だ。だが、敵に魔術師は居ないし、そもそも術式コマンドのチュートリアルを受けているかどうかすら怪しい。
となれば弓だが、弓兵のアカウントが用意できなかったのか、これも装備した兵を見た記憶はない。あとは手持ちの武器を投げるくらいだが、それは心理的抵抗が大きかろう。投げたものは、その後戦闘に参加できなくなってしまう。
どうやら、打開策ナシと判断してよさそう――か。
ならば、当初の予定どおり一万の敵を削り切るのみ!
アスナが、決意を新たにしたのと、ほとんど同時に。
参道の入り口が、不意に黒く翳った。
差し込む朝日が遮られたのだ。横一列に並ぶ巨大な盾と――旗ざおのように林立する、長大なランスに。
重槍兵!
「た……対突撃用意!! 槍の穂先をしっかり見て回避してください!! 懐にさえ入れれば倒せる敵です!!」
アスナが叫ぶと同時に、ガシャッ! と金属音が轟き、巨大なランスが一斉に構えられた。
二十人近くもぎっしり並んだ重装歩兵たちが、太い雄叫びとともに突進を開始する。
その威圧感に、衛士たちが浮き足立つ気配がした。お願い、落ち着いて! と念じながら、アスナは自分の正面を走る槍兵を凝視した。凶悪に黒光りするランスが、一直線に迫ってくる。
ぎりぎりまで引きつけ――パリィ・アンド・ステップ。
ぎゃいっ、と火花を散らしながら、レイピアが槍の側面を滑っていく。
「……せああっ!!」
気合とともに、見上げるように巨大な敵の、鎧の首元に剣尖を突き上げる。重い手応えとともに、ヘルメットのバイザーから鮮血が噴き出す。
響いた悲鳴は、しかし、アメリカ人のものだけではなかった。
左を護る衛士数名が、ランスを回避しきれず身体を貫かれたのだ。
「こ……のおッ!!」
叫び、アスナは持ち場を離れて左へ走った。全体重を乗せたシングル・スラストで、一人の胸板を鎧ごと突き破る。血に濡れる刃を引き抜き、その向こうの敵の両腕を、二連撃スラッシュで切り落とす。
さらにもう一人が、衛士の体から抜き取ったばかりのランスを、アスナは駆け上った。二メートル近い巨躯の肩に着地すると、左手でヘルメットを無理やりずらし、露出した首筋に逆手のレイピアを叩き込む。
悲鳴も上げられずに地に沈んだ敵の背中に乗ったまま、アスナは叫んだ。
「負傷者を後方へ!! 最優先で治癒して!!」
荒く息をつきながら確認すると、いまの突撃で六人もの衛士がランスの直撃を受けたようだった。すでに絶命したとしか見えない者も混じっている。
いけない……これでは、狭い参道は逆に敵を利してしまう。
瞬時に対応策を見つけられず、立ち尽くしたアスナの耳に、再びの地響きが届いた。
数秒の間も置かずに、次の重槍兵二十人が突進を開始したのだ。
アスナは、二、三秒ほども迫りくるランスの列を見てしまってから、視線を自分が本来立っているべき戦列の中央へと戻した。
そこには、まだ幼い顔をしたうら若い衛士が、がくがくと両膝を震わせながら剣を構えていた。
「あ…………!」
細く叫び、アスナは走った。
飛び込むように少年の前に駆け込み、左側を見る。
ぎらつく鋭い穂先が、すぐそこにあった。
アスナは左手でそれを掴んだ。しかし。
滑らかな表面に手袋が滑り――。
ドカッ。
という鈍い衝撃が、全身を叩いた。声も出せぬまま、アスナはただ、自分の上腹部を深々と刺し貫いた巨大な金属を見下ろした。
最小限。
いや、最大効率の剣、と言うべきか。
騎士長ベルクーリは、これまで見たどんな流派とも異質な皇帝ベクタの剣技を、そのように感じた。
まず、ほとんど足が動かない。踏み込みも、回り込みも、ごく僅かに地面を滑るだけで行われる。さらに、攻撃に際しても予備動作が無いに等しい。空中にだらりと掲げられた剣が、突然ぬるっと最短距離を飛んでくる。
つまり予測が不可能に近いのだ。ゆえにベルクーリは、皇帝の決して素早くも力強くもない攻撃に、五回までもただ退がることを強いられた。
そして、五回で充分だった。
膨大な戦闘経験から、予兆のないベクタの剣技ですらも間を盗み、ベルクーリは反撃に転じた。
「シッ!」
敵に付き合ったわけではないが、最低限の気合とともに、上段斬りをベクタの六撃目に合わせる。
強く歪んだ金属音を、青い火花が彩った。
敵の水平斬りを、全力の斬り降ろしが抑え込み、押し返した。
大した抵抗もなく、ぐぐぐっと刃が沈んでいく。ベクタの長身が、くにゃりと撓む。
口ほどにも無ぇ!!
ベルクーリは、このまま肩から腹まで斬り下げてやる、と練り上げた心意を刀身に注ぎ込んだ。時穿剣が鋼色の光でそれに応える。ベクタの長剣を、断ち割らん勢いで押し下げていく。切っ先が敵の肩に触れ――装甲に僅かに食い込み――。
瞬間、ベクタの剣が怪しく輝いた。
青紫色の燐光がその厚みを増し、ぬるぬると時穿剣に絡みつく。同時に、力強く漲っていた白銀の煌きが、萎れるように消え去っていく。
なんだ、これは。
いや……。
そもそも、オレは、何を……しようと……。
ビシッ、という鋭い音とともに左肩に凍るような痛みを感じ、ベルクーリははっと目を見開きながら大きく飛び退いた。
胸を膨らませて激しいひと呼吸を行い、一瞬失われそうになった意識を立て直す。
――今のは、一体。
戦いの最中に、己が何をしているか分からなくなった……だと!?
強く自問した直後に、いや、そんな生易しいものではなかった、と思い直す。
そう、まるで、自分がなぜこの場所に存在するのか、自分が誰なのかすらも分からなくなったような、圧倒的な空白が意識を侵食したのだ。
「貴様……剣から、直接オレの心意を吸いやがったのか」
低い唸り声でベルクーリは問うた。
答えは、左右非対称に歪んだ微笑だった。
舌打ちして、左肩を一瞥する。かすり傷、と言うにはやや深い。
「フン……楽しませてくれるじゃあないか、皇帝陛下。剣を撃ち合えねェとは、面倒な縛りだぜまったく」
にやりと笑いながら嘯くと、ベクタは一度瞬きしてから、ちいさく首を捻った。
「……ふむ。そういえば、試したことはなかったな」
言葉の意味は、すぐに解った。
皇帝は、右手の長剣を、無造作にベルクーリに向けて突き出したのだ。
その切っ先から青黒い嫌な光が、ぬとっ、と伸びた。
なんだと……まさか、遠間からも。
という思考が閃いたのと、光がベルクーリの胸に触れたのは同時だった。
蝋燭の炎が立ち消えるように、意識がふうっと遠ざかった。
騎士長は、するすると近づいてきた剣が、己の左腋下に忍び込むのを棒立ちのままただ見つめた。
ずちっ。
という湿った音が響き、跳ね上がった長剣が、ベルクーリの太い腕をその付け根から切り離した。
「ぐ……う……うぅッ!!」
アスナは、喉から溢れ出そうになった絶叫を、低い呻き声のみに押し止めた。痛み――などというものではない。高温のバーナーで体を穿たれ続けているような、許容量を超える圧倒的な感覚の爆発。
――痛いもんか。
痛いもんか、こんな傷!!
黒光りするランスは、上腹のやや左側を深々と刺し貫いている。おそらく背中からは一メートル近くも抜け出ているだろう。
肩越しにちらりと確認すると、真後ろにいた少年衛士は、幸い切っ先に頬を掠められただけだったようだ。アスナは、蒼白な顔で自分を見上げる少年に、全精神力を振り絞って微笑みかけた。
この子の命の重さにくらべれば――わたしの、仮想の傷なんて!!
「うぅ……あッ!!」
気合とともに、身体を貫くランスを握ったままの左手に、ありったけの力を込める。
バギン! と耳障りな音がして、直径十センチ近い金属槍が掌のなかで砕け散った。手を背中に回し、突き出た槍を掴んで引っ張る。
目の前に火花が散り、指先からつま先までを灼熱感が駆け抜けた。しかしアスナは手を止めず、無理やりにランスを引き抜くと、それを足元に放り捨てた。
腹の巨大な傷と、口の両方から凄まじい量の鮮血が迸った。しかし身体をふらつかせることもなく、口元を右手でぐいっと拭い、アスナは燃えるような視線で眼前の敵を見上げた。
ランスの持ち主だった巨漢は、ヘルメットの奥の眼を、どこか戸惑ったように激しく瞬かせた。
「オーマイゴッド」
同じ言葉がもう一度繰り返され、早口の英語が続く。
「……なんだよ……ぜんぜん楽しくないぜ、こんなゲーム。俺はもう降りる。とっとと殺してくれ」
アスナは頷き、右手のレイピアで、大男の心臓を正確に貫いた。分厚い鎧を騒々しく鳴らしながら巨体が崩折れ、命の気配が消えた。
傷の痛みでは流れなかった涙が、なぜか今になって両眼に滲んだ。
この戦場を覆う痛みは、苦しみは、そして憎しみは、本来存在する必要のなかったものだ。
アメリカ人プレイヤーたちと、人界軍の衛士たちが殺しあう理由なんて何もない。出会う状況さえ異なれば、きっといい友達にだってなれたはずの人々なのだ。自分がそうであったように。
仮想世界は……VRMMOは、こんなことのために生まれてきたんじゃない。
「うがっ……た……たす……」
日本語の悲鳴が、アスナの一瞬の想念を停止させた。視線を向けると、地面に倒れた衛士にむけて、今まさに巨大なランスが突き下ろされようとしているところだった。
「う……ああああ!!」
激情を雄叫びに変え、アスナは地を蹴った。
右手のレイピアをまっすぐに突き出す。左手を体の脇で握り締める。
全身を、白い光が覆った。足が地面から離れ、まばゆい彗星となってアスナは飛翔した。細剣最上位突進技、"フラッシング・ペネトレイター"。
黒い槍兵が、無数の肉片と化して飛び散った。その向こうにいた敵も、同様の運命を辿った。さらにもう一人。
四人目の体を、巨大神像の根元に縫いとめ、アスナは動きを止めた。肩で息を吐きながら振り向く。
重槍突撃の第二波でも、五人以上の死傷者が出たようだった。しかし、参道入り口ではすでに、第三波の二十人が凶悪な槍衾を構えている。
ぐったりとした骸からレイピアを引き抜き、アスナは叫んだ。
「全員、持ち場を死守!! レンリさん、中央に移動してください!!」
アスナの身体を染める鮮血を見て顔を強張らせる若い騎士に、安心させるように短く微笑みかけてからアスナは続けた。
「――わたしは、単騎で斬り込みます。討ち漏らした敵だけ、よろしく頼みます」
「あ……アスナ様!?」
喘ぐような声を出すレンリや他の衛士たちに、ぐっと右拳を突き出して――。
アスナは、一直線に走り出した。
体の重心が狂い、よろめいたベルクーリは、地面に転がった己の左腕を踏みつけた。
痛みよりも先に、その怖気をふるうような感覚に、意識が呼び戻された。
「ぐっ……!」
再び大きく跳んで距離を取る。
左肩の傷口から振り撒かれた血が、白い岩板に深紅の弧を描いた。
なんて――ことだ。
剣を向けられただけで意識が強制停止されるだと。
剣を咥え、右手を傷口にかざしながら、ベルクーリは全速で思考を回転させた。その間にも、無詠唱で発動した治癒術が、青い光で出血を止めていく。しかし無論、腕を再生させるほどの時間も、空間力もこの岩山には無い。
どうする。どう対抗する。
完全支配技"時穿剣・表"はもう通用しない。宙に留まる斬撃心意を、片端から吸われるだけだ。
ならば"裏"なら。しかしあの技を発動するには、巨大すぎる条件が二つある。ひとつは、長すぎる攻撃動作を敵が黙って見ていてはくれないということ。もうひとつは――照準すべき座標の固定が、異常に困難だということ……。
考え続けようとした騎士長は、額を伝ってきた脂汗を、瞬きで振り飛ばした。
そのあと、不意に気付いた。
オレは今、必死になっている。
いつのまにか一欠片の余裕も無くなってるじゃねえか。
つまり――こここそが死地だ。その際の際だ。
「……へっ」
整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンは、状況を正確に認識してなお、太い笑みを浮かべた。
視線を、ゆるゆると近づいてくる皇帝ベクタから、頂上の片隅に横たわる黄金の騎士――アリス・シンセシス・フィフティへと動かす。
嬢ちゃんよ。
オレは、嬢ちゃんが求めていたものを、満足に与えてやれなかったな。親の情、ってヤツを。
なんせ、オレも自分の親ってもんをまるで覚えちゃいないもんでな。
でも、これだけは分かるぜ。
親は、子を守って死ぬモンだ。
「貴様には……永遠に分からねぇことだろうがな、化け物め!!」
叫び、ベルクーリは地を蹴った。
策も何もなく、ただ愚直に、己の全てを剣に込め――最古の騎士は走った。
「がっ……は……」
荒い呼吸とともに吐き出された大量の血液が、足元に飛び散った。
地面に突き刺したレイピアだけを支えに、それでもアスナは立ち続けた。
重槍突撃の第三波、及び第四波をどうにか斬り伏せたものの、全身の受傷は十箇所を超えている。乳白色だった上着も、薄い虹色に輝いていたスカートも無残に引き千切れ、濃い赤一色に染まってしまった。
ランスの直撃を受け、穴だらけになった体が、今も動くことが信じられない。いや――実際には、理不尽なまでに膨大な天命が、アスナに力尽きることを許さないのだ。
この体が崩れ落ちるのは、心が折れたときだけ。
なら、わたしは、永遠に立ち続けられる。
全身の体感覚はすでに無かった。灼熱感と極冷感が交互に神経を苛み、視界を歪ませる。
アスナは、薄暗い視界に敵第五波を捉えると、地面からレイピアを引き抜いた。
もう、俊敏な回避動作は取れない。
ならば、ランスを体で受け止め、しかるのちに斬るのみ。
羽のように軽かったはずのレイピアが、今はまるで鉛の棒だ。それを両手で構え、上体をかがめて、アスナは敵を待った。
「GO!!」
威勢のいい号令。ドッ、と地面が揺れ、二十の鉄塊が突進を開始する。
どっ、どっ、どどどど……。
たちまち加速する足音に。
高周波の震動音が、どこからともなく混じった。
アスナは視線だけを上向けた。
赤い空から、一本の線が降りてくる。
それは、途切れ途切れのコードの羅列。
「…………ああ……」
零れた吐息には、ほんの少しだけ、諦めの色が混じっていた。
しかし――。
ラインの色は、見慣れた黒ではなかった。夜明け前の空のように、深い蒼に染まっていた。
その事実がどういう意味を持つのか、もうアスナには推測できなかった。両眼を見開き、ただ結果のみを待った。
ラインは、高さ十メートルほどの空中でそのコードを凝集させ、一瞬の閃光に続いて、人の姿へと変じた。
ぶんっ。
突然、人影が霞んだ。回転をはじめたのだ。ヘリコプターのローターのように、あるいは巨大な竜巻のように、猛烈な唸りを上げて再度降下を開始する。
その真下に立つ二十人の重槍歩兵たちも、いつしか脚を止めて空を見上げていた。
彼らのまんなかに、群青の竜巻がふわりと舞い降り――。
突如の深紅を生み出した。
血だ。竜巻に巻き込まれた歩兵たちが、瞬時にバラバラに分断され、広範囲に鮮血を撒き散らしたのだ。
放射状にばたばたと倒れた槍兵の中央で、竜巻はゆっくりとその回転を減じ、ふたたび人の姿に戻った。
背を向けて立つ、細身の長身。艶のある群青色の板金鎧が、逆光を受けて煌く。左手を腰の鞘の鯉口に添え、右手は、抜刀された恐ろしく長い曲刀をまっすぐ横に振り抜いている。
アスナは、今の攻撃――技を、見たことがあった。
ソードスキル。
カタナ広範囲重攻撃――"旋風車(ツムジグルマ)"。
ゆっくりと身体を起こした人影は、カタナを右肩に担ぎ、ひょいっと顔を振り向かせた。
趣味の悪い漢字柄のバンダナの下で、無精ひげの浮いた頬が、にやりと動いた。
「おう、待たせたな」
「ク……ライン……?」
アスナは、自分のかすれ声を最後まで聞くことができなかった。
突然、凄まじい震動音の重奏が、世界に満ちたからだ。アメリカ人たちが出現したときとまったく同じサウンドなのに、アスナにはそれが、最上の交響楽のように聞こえた。
空から降ってくるのは――無数の色彩に輝く、幾千ものコードラインだった。
斬りかかる。
意識が薄れる。
受傷の痛みで覚醒する。
それを何度繰り返したのか、もう分からなかった。
皇帝ベクタは、まるで戦いを長引かせようとするかのように致命傷を与えてはこなかったが、数多の傷口から流れ出た血液、つまり天命の総量が、そろそろ最大値を上回りつつあることをベルクーリは知覚していた。
だが彼は、二百数十年の生で築き上げた不動の精神力を振り絞り、何も考えず、何も恐れず、脳裏でただ一つのことだけを遂行し続けていた。
数をかぞえること。
正確には、時間を測ることを。
時刻を察するという特技を持つベルクーリだが、その超感覚を、ただ一秒を厳密に感じるためにのみ使い、ひたすらに時を刻み続けたのだ。皇帝の剣に思考を混濁させられているその最中にすら、ベルクーリは無意識下で数字を積み重ねていた。
――四百八十七。
――四百八十八。
最も困難なのは、その行為を、明確な心意にしてはいけないということだ。
心を吸われ、時を測っていることを敵に知られてしまっては、この怪物ならばあるいは目的までも悟るかもしれない。
ゆえにベルクーリは、剣には全力の殺気のみを込め、愚直な攻撃のみを繰り返した。時には、挑発的な台詞までも吐きながら。
「……どう、やら……剣技のほうは、大したこと無ぇようだな……皇帝陛下、よ」
――四百九十五。
「こんだけ当てて、倒せねぇようじゃ……二流、いや、三流だな」
――四百九十八。
「そらッ、まだまだ行くぜ!!」
気合とともに、真っ向正面から斬りかかる。
――五百。
皇帝の周囲に広がる、青紫色の光の撒くに剣が触れる。
ふっ、と思考が途切れる。
気付くと、地面に片膝を突いており、新たに左頬に増えた傷から音を立てて血が滴る。
――五百八。
もうすぐだ。もう少しだけ保ってくれ。
ゆらり、と立ち上がり、ベルクーリは背後の皇帝を見た。
これまで一切の感情を見せなかったその顔に、かすかな嫌悪の色が浮かんでいた。原因は、斬りこみとともにベルクーリが飛び散らせた血の一滴が、白い頬に飛び散ったかららしい。
指先で赤い染みを擦り落とし、ベクタは囁いた。
「……飽きたな」
ぱしゃっ、と赤い水溜りを踏んで一歩前に出てくる。
「お前の魂は重い。濃すぎる。舌にこびりつく。その上単調だ。殺すことしか考えていない」
平板な声で切れぎれの言葉を連ねながら、皇帝はさらに一歩近づいてきた。
「もう消滅していい」
すう、と持ち上げられた剣が、粘液質の光を放った。
ベルクーリは表情を変えぬまま、しかし僅かに奥歯を食いしばった。
もう少しなんだ――あと三十秒。
「へ……そう、言うなよ。オレは、まだまだ……楽しめる、ぜ」
よろよろと、誰もいない空間に向かって数歩踏み出す。右手の剣を持ち上げ、力なく動かす。
「どこだ……よ、どこ行きゃあがった。お、そこか……?」
両眼にうつろな光を浮かべ、騎士長は力ない動作で剣を振った。
こつん、と剣先が地面を叩き、さらに大きくよろめく。
「あれ……こっち、だったか……?」
再び、風切り音すらしない一撃。ずるずると片足を引き摺り、ベルクーリは尚も動き続ける。
大量出血により視力を喪失し、思考すらも混濁した――としか思えぬ、情けない姿。
しかしそれは、騎士長一世一代の演技であった。
おぼろに霞がかった灰青色の瞳は、あるものだけをしっかりと捉えていた。
足跡である。
十分間の無為な攻撃により、決して広いとは言えない岩山の頂上には、ベルクーリの血がほぼ満遍なく振り撒かれている。それが皇帝のブーツの底と、騎士長の革サンダルの底に踏まれることで、明らかに異なる二種類の赤い靴跡が縦横無尽に走っているのだ。
言い換えれば、それは――両者の詳細な移動記録だ。
譫妄状態の演技とともにベルクーリが目指しているのは、もっとも乾いて黒ずんだ、皇帝の足跡だった。
最初にベルクーリの左腕を切断したときに作られたものである。
無意識下の時間計測は、その直後から開始されている。
つまり――皇帝ベクタは、十分前そこに存在した。そして、そこからどの方向に移動したか、血の足跡は如実に記録していた。
――五百八十九。
――五百、九十。
「おっと……みつけた……ぜ……」
ベルクーリは弱々しく呟き、左右にふらつきながら時穿剣を振りかぶった。
掛け値なしに最後の一撃となるはずだった。
剣に、そして主に残された天命は、双方ともに今まさに尽きんとしていた。
その全てを費やし、ベルクーリは、神器・時穿剣の武装完全支配技を発動させようとした。
"時穿剣・裏"。
斬撃威力を空間に保持し、"未来を斬る"表技とは逆に、裏は"過去を斬る"力である。
アンダーワールドのメインフレームは、あらゆるヒューマンユニットの移動ログを、六百秒つまり十分間ぶん記録している。
時穿剣はそのログに干渉し、正確に十分前のたった一秒の位置情報を、現在のそれとシステムに誤認させる。
結果、ただ虚空を斬った刃は、かつてその位置に存在した者の、現在の身体に届く。回避不可能、防御不可能の、文字通りあらゆる技や努力を裏切りあざ笑う一撃。
ゆえにベルクーリは、裏攻撃の発動を忌避し続けてきた。ユージオ青年と戦い、敗れたときすら、使えば難なく勝てたはずなのに使わなかったのだ。元老チュデルキンに、神聖教会への背信行為と取られかねないと分かっていながら。
しかし、同等以上に規格外の力を操る皇帝ベクタ相手に用いるに、一切の遠慮は無い。
皇帝ベクタの飛竜を落としたとき、ベルクーリは、一直線に同じ速度で飛ぶ敵の動きを利用し、十分前に敵が存在した座標を正確に割り出した。だが、互いに接近しての混戦では、座標特定は飛躍的に困難となる。
もちろん、十分前の一瞬に敵がどこに存在したかを覚えておくことはできる。しかしその方法だと、仮に技の発動を邪魔された場合、また十分の数えなおしとなってしまうのだ。
たとえば、この瞬間のように。
「お前、何か考えているな」
滑るように接近してきた皇帝ベクタの、全身にまとわりつく青黒い"気圏"をベルクーリは打って変わって俊敏な動作で回避した。
――仕損じた。
記憶解放直前だった時穿剣を構えなおしながら、ベルクーリは胸中で呟いた。
これで、掛け値なしに万策尽きた。
秘策の存在を悟られた以上、皇帝はもう二度と大技を発動させるだけの猶予を与えてはくれまい。事実、ベルクーリに向かって、長剣から次々と青紫の光を伸ばしてくる。
騎士長は、しかし、その攻撃を全力で回避し続けた。
足掻く。
足掻いて足掻いて、醜く倒れる。己の死に様はそのように迎えると、ずいぶん昔に決めたのだ。
三回。四回。
五回までも、ベルクーリは皇帝の攻撃を避けた。
しかしそこでついに、光の触腕が身体を掠めた。
ふっ、と意識が途切れ――。
目を見開いたベルクーリが見たのは、己の腹に深々と突き立ったベクタの長剣だった。
ずるっ、と刃が引き抜かれ、最後の天命が深紅の液体へと姿を変えて勢いよく噴き出した。
ゆっくりと後ろ向きに倒れる騎士長の眸に。
遥か高みから、大気を切り裂いて急降下してくる一頭の飛竜が映った。
――星咬。
おいおい、どういうこった。待機しとけって言ったろう。飛竜が、主の命令に背くなんて聞いたことねえぞ。
大きく開かれたあぎとから、青白い熱線が一直線に迸った。
一撃で数十の兵を焼き尽くす威力を秘めたそれを、皇帝ベクタは、無造作に掲げた左腕で受けた。
装備された透き通る黒の装甲が、熱線を四方へと難なく弾く。飛び散った火花が、眩く宙を焦がす。
皇帝の剣からあの光が放たれ、白い熱線を遡るように星咬の体へと達した。以前乗っていた竜を、難なく支配したその技を受けて――しかし、ベルクーリの騎竜は停まらなかった。
その命を熱と光に転換しながら、皇帝へと真っ逆さまに突っ込んでいく。
ベクタの白い顔に、わずかに厭わしそうな色が浮かんだ。
剣を大きく引き絞り、己を咬み千切らんとする巨大な竜の口へと、無造作に突き立てた。
限界優先度の武器に押し戻された熱線が、行き場を失い逆流して、飛竜の体を引き裂いた。
星咬が命を投げ出して作り出した、たった七秒の猶予――。
それを、ベルクーリは無駄にしなかった。
背後で、数十年の時を共に過ごしてきた愛竜が絶命する気配をまざまざと感じながら、騎士長は、記憶を解放され青い残影を引く時穿剣を、六百七秒前に皇帝ベクタが存在したことを示す血の足跡目掛けて全力で斬り降ろした。
時穿剣・裏のもうひとつの特性。
それは、システムに干渉するがゆえに、威力が対象の天命数値へと完全に届き得るということである。心意による防御もまた不可能なのだ。
ゆえに、あらゆる心意攻撃を無効化・吸収する皇帝ベクタの能力も、この瞬間だけは発動しなかった。
まず、システム上設定されたベクタの膨大な天命がゼロへと変じた。
そしてその結果として、皇帝の長身が、その左肩口から右腰にかけて完全に分断された。
ずるり、と切断面から体がずれる瞬間にも、皇帝ベクタの顔には一切の表情というものが無かった。蒼い瞳が、硝子玉のように虚ろに宙に向けられていた。
落下した上半身が、地面に接するその寸前。
漆黒の光が、心臓のあたりから炸裂し、無音無熱の大爆発を引き起こした。
それが収まったとき、地面には、皇帝の存在を示すものは何一つ残されていなかった。
数秒遅れて、ベルクーリの右手の中で、天命の尽きた時穿剣がかすかな金属音とともに砕け散った。
……あったかいな。
もう少し、このままでいたい。
アリスは、まどろみから目覚める寸前の心地よさに意識を漂わせながら、かすかに微笑んだ。
揺れる日差し。
身体を受け止める、大きな膝。
髪を撫でる無骨な手。
お父さん。
こんなふうに、膝まくらをして貰うのは何年ぶりだろう。この安心感を、完全に守られて、心配事なんか一つもない、何もかも大丈夫な感じを長いあいだ忘れていた。
ああ……でも、そろそろ起きなきゃ。
そして、整合騎士アリスは、そっと睫毛を持ち上げた。
見えたのは、瞼を閉じ、微笑みながら俯いている初老の剣士の姿だった。
逞しい顔や首筋に走る幾つもの古傷。その上に、これも無数の真新しい刀傷が刻まれている。
「……小父様?」
アリスは、ようやくはっきりしてきた意識とともに、短く呟いた。
そうだ――私、皇帝の飛竜に捕まったんだ。まったく、何て迂闊だったんだろう。背後も警戒しないで闇雲に突撃するなんて。
でも、やっぱりさすがは小父様だわ。敵の総大将から助け出してくれるなんて。この人さえ居れば、何もかも安心ね。
微笑み、上体を起こしたアリスは――騎士長の受けている傷が、顔に留まらないことに気付き、息を詰めた。
左腕は丸ごと斬り落とされている。白かった装束は、血で真っ赤だ。そして、はだけた胸の下に……恐ろしいほど深く、惨い傷が……。
「お……小父様……!! ベルクーリ閣下!!」
叫び、アリスは手を伸ばした。
その指先が、騎士長ベルクーリの頬に触れた。
そしてアリスは、偉大なる最古騎士の天命が、すでに尽きていることを悟った。
……おいおい、そんなに泣くなよ嬢ちゃん。
いつか、必ず来るときが来ただけじゃねえか、なあ。
己の骸にすがりつき、泣きじゃくる金髪の少女を見下ろしながら、整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンはそう言おうとしたが、しかし声は地上までは届かなかった。
……嬢ちゃんなら大丈夫。もう、一人でもやってゆけるさ。
なんたって、オレのたった一人の弟子で……オレの娘なんだからよ。
眼下の光景は、どんどん遠ざかっていく。愛しい黄金の騎士に最後の微笑みを投げかけ、ベルクーリは視線をかなたの空に向けた。
その下に居るはずの、もう一人の騎士へも思念を飛ばす。
届いたかどうかは分からなかったが、心の中にはただ、無限に続くと思われた日々の果てにも、ついに死すべきときが来たのだという感慨と満足だけがあった。
まあ、悪いくたばり方じゃねえよな。
「そうよ、泣いてくれる人がいっぱい居るんだから、幸せだと思いなさい」
不意に響いた言葉に振り向くと、そこに浮かんでいるのは、眩い裸体に長い銀の髪だけを流したひとりの少女だった。
「……なんだ、アンタやっぱり生きてたのかよ」
肩をすくめると、銀瞳を瞬かせ、最高司祭アドミニストレータは軽く笑った。
「そんな訳ないじゃない。これは、あなたの記憶のなかの私。あなたが魂に保持していた、アドミニストレータの思い出」
「ふうん、何だかよくわかんねえな。でも……オレの記憶のなかのアンタが、そうやって笑ってられてよかったよ」
ベルクーリもにやりと笑い、おっ、と横を見た。
そこには、いつのまにか愛竜・星咬がその長い首を摺り寄せていた。
銀色に透き通る飛竜の首筋を掻いてやってから、騎士長はひょいっとその背中に飛び乗った。手を伸ばし、アドミニストレータの華奢な体も自分の前に座らせる。
ただ一人の主は、振り向くと首を傾げて問うた。
「お前は、私を恨んでいないの? お前を無限に続く時間の牢獄に閉じ込めた私を?」
ベルクーリは少し考え、答えた。
「うんざりするほど長かったのは確かだが、でもまあ、面白え一生だったさ。うん、そう思うよ」
「……そう」
微笑むアドミニストレータから眼を離し、ベルクーリは星咬の手綱を鳴らした。
竜は透き通る両翼を広げ、無限の空を目指して、ゆっくりと羽ばたいた。
遥か離れた北の空の下――。
大地に高く屹立する、かつて東の大門として知られた巨大な遺構の中央に立っていた整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーは、はっと眼を見開いて空を見上げた。
耳元に、愛する男の声が響いた気がしたのだ。
――済まねえな。どうやらもう、会えそうにない。
――後は頼んだぜ。その子を、幸せにしてやってくれ……。
同じ言葉を、ファナティオは、この場所で別れる直前に騎士長ベルクーリから掛けられた。
篭手に包まれた両手で、そっと下腹部を撫でる。
新しい命を授かったのは、三ヶ月前だった。これまで、百年というもの頑なにファナティオに触れようとしなかったベルクーリは、あるいはその時点から予感していたのかもしれない。
己の死を。
ゆっくりと地面に跪き、ファナティオは持ち上げた両手で顔を覆った。
自然と、嗚咽が漏れた。
ベルクーリが、ファナティオだろうと誰だろうと女性を遠ざける理由は、遥か昔に聞かされていた。
整合騎士が異性と契りを結び、子を授かったとして――。
その子供は、天命凍結処理を受けているベルクーリやファナティオよりも、確実に先に老いて死んでしまうのだ。と言って、最高司祭に同様の処理を施してもらうのもまた残酷なことである。
ベルクーリがファナティオの気持ちを受け入れたのは、最高司祭が入寂したあとのことだ。
つまり彼は、見守ると決めたのだ。限りある時を生きる、我が子の姿を。
ならば――。
「……御安心ください、閣下。この子は、私が立派に育てます。閣下のように、雄々しく、誇り高い人間に」
嗚咽とともに、ファナティオはしっかりと決意を言葉にした。
でも、今だけは。
今だけ、嘆く私を許してくださいね。
地面に身を投げ出し、かつて騎士長ベルクーリが駆け抜けていった土を握り締め、ファナティオは声を上げて泣いた。
「てめえらに個人的な恨みは無ぇが……」
長刀をまっすぐ黒の歩兵群に向けたクラインの、ブロークンな英語が古代遺跡に響き渡った。
「ダチをさんざ痛めつけてくれた借りは返すぜ。三倍返し……いや、億倍返しだこの野郎ども!!」
言い放つや、敵軍の壁にまっすぐ突っ込んでいく。その無謀さに、傷の痛みも一瞬忘れてアスナは呆れたが、直後クラインのすぐ隣に黒褐色のコードラインが降り注ぎ、新たな人影を作り出した。
現れたのは、大型工具のごとく無骨かつ凶悪なバトルアックスをひっさげた、チョコレート色の肌の巨漢だった。
「……エギルさん!!」
掠れた声でその名を呼ぶ。
かつて、SAO攻略組を戦力面でも経済面でも強力にサポートし続けた"戦う商人"は、ちらりとアスナを振り返ると、魁偉な容貌ににやりと笑みを浮かべ、右拳の親指を立てた。
すぐに、地響きを立ててクラインの後から突撃していく。
三人目と四人目は、アスナのすぐ目の前に現れた。
青いワンピースの上にフリルつきの白いエプロンを重ね、腰に大型のハンマーを下げたショートカットの少女。続いて、軽快なスパッツ姿に銀灰色のチェーンメイルを装備し、二本のおさげを頭の両側に跳ねさせた小柄な女の子。
「リズ!! シリカちゃん!!」
ここでついに、アスナの両眼に涙が溢れた。
同時に全身から力が抜け、がくりと膝を突きながら、アスナは強い絆で結ばれた仲間たちに両手を差し伸べた。
「来て……来てくれたのね……」
「来るわよ、もちろん」
「当たり前じゃないですか」
同時ににっこりと笑ってから、リズベットはアスナの右手を、シリカは左手をぎゅっと握った。二人の顔が、泣き笑いに変化する。
「……こんなに無茶して……傷だらけになって……。がんばりすぎだよ、アスナ」
「あとは任せてください。みんな、来てくれましたから」
リズベットとシリカに両側から抱きしめられただけで、アスナは全身に穿たれた傷の痛みが、仄かな暖かさに溶け、消えていくのを感じた。
「ありがと……ありがとう……」
あとからあとから零れ落ちる涙を通して、コードラインの雨が、遺跡の入り口付近に降り注ぐのが見えた。
現れたのは、鮮やかな色彩を身にまとう無数の剣士たち。
一斉に剣を、斧を、槍や弓を握り、周囲の黒い歩兵たちに斬りかかっていく。
その熟練の個人技と、見事に統制の取れた集団連携は、彼らがみなアメリカ人テスター達を上回る経験を持つVRMMOプレイヤーであることを示していた。
――そうか。
アスナは、ようやく再回転し始めた頭で状況を察した。
アメリカ人たちが現れた時点で、アンダーワールドの時間加速は当然一倍に固定されていたのだ。それはつまり、日本からでも、アミュスフィアによるダイブが可能だということだ。
でも、皆の身にまとう鎧や携えた剣の強い輝きからは、使用されているのがデフォルトの衛士アカウントでないことが如実に見て取れる。
つまり――コンバートしたのだ。
長い、長い時間と努力をつぎ込み、育てたVRMMOキャラクターを、アンダーワールドサーバーへと同等置換させたに違いない。
もう一度、元のVRMMOに持ち出せるかどうかも定かでないのに。それどころか――アンダーワールドの法則を考えれば、"死亡"した瞬間にキャラクターがデリートされてしまうことだって有り得るのに!
「みんな……ごめん……ごめんね」
アスナは涙声で目の前の親友二人に、そして前線を押し上げていく沢山の剣士たちに謝った。
「何言ってるのよ、アスナ」
リズベットの答えは、揺るぎない確信に満ちていた。
「あたしたちがキャラを育ててきたのは、きっとこのためなんだよ。今この場所で、大切なものを守るために、あたしたちのアバターは存在したんだ」
アスナはゆっくり、深く、強く頷いた。
最後にぎゅっと二人の手を握り、立ち上がったときには、全身の傷はすべて消え去っていた。
と、背後から、おずおずと声が掛けられた。
「あの……アスナ様? いったい……あの騎士たちは……」
目を丸くして立っていたのは、整合騎士レンリだった。その後ろに、危地を救われた衛士たちも従っている。
アスナは、レンリとリズベットたちの間に視線を往復させてから、微笑みとともに答えた。
「わたしの、大事な仲間たち。リアルワールドから、助けに来てくれたの」
レンリは数回瞬きし、リズベットとシリカに遠慮がちな視線を向け――。
その幼さの残る顔に、大きく安堵の表情が浮かんだ。
「……よかった……ほんとによかった。僕はてっきり、外の世界の人間たちは、アスナ様以外はみんなあの恐ろしい兵隊たちなのかと……」
「ちょっとちょっと、そんな訳ないじゃん!!」
少し心外そうな、しかし親しみを込めた笑顔とともに、リズベットがレンリの肩を叩いた。
「あたしリズベット。よろしくね、騎士くん」
「あ……は、はい。僕は、レンリといいます」
その光景を微笑みながら眺めていたアスナは、不意に、強い予感をおぼえた。
自分はたぶん、この光景を、一生忘れないだろう。
分かたれた二つの世界に生まれた人たちが、出会い、言葉を交わし、関係を築きはじめた、この瞬間を。
ここから続いていくはずの物語に、悲しみで幕を下ろしてしまうわけにはいかない。
大きく息を吸い、アスナは口調を変えてリズベットに尋ねた。
「リズ、コンバートしてくれた人たちの数は?」
「あ、うん。二千を少し超えるくらい、かな。がんばったんだけど……話を聞いてくれた人全員ってわけにはいかなかった……」
唇を噛む親友の背中を、軽く叩く。
「じゅうぶん過ぎるわ。でも……再コンバートの可能性を残すためにも、消耗戦は避けたいわね。あまり前線を広げないで、ヒールを厚くしよう。リズとシリカちゃんは、二百人くらい後方に下げて、支援隊を組織して」
意識を戦闘に切り替え、アスナはレンリと衛士たちにも口早に指示した。
「皆さんも、不本意でしょうが治癒術要員に回ってください。リアルワールドの剣士たちは神聖術に不慣れなので、彼らにコマンドを教えてやってくださると助かります」
「は……はい! 衛士隊、聞いてのとおりだ! 援軍のかたがたを支援するぞ!」
すぐに、この一両日の連戦に疲弊の色濃い衛士たちも、強く応の叫びを返した。
「……それで、アスナさんはどうするんですか?」
訊いてくるシリカに、アスナは片目をつぶってみせた。
「勿論、いちばん前で斬り込むわよ」
もう、負ける気はさらさらしない。
最前線に駆けつけ、そこにアルヴヘイムで見慣れた面々――シルフ領主サクヤや、ケットシー領主アリシャ、サラマンダー将軍ユージーンらの姿を見出したアスナは、意を強くしながら彼らと深く頷きを交わした。
いや、ALOからのコンバート組だけではない。
正確極まるクロスボウの連射で、剣士たちを強力に援護しているのはガンゲイル・オンラインのガンナーたちだろう。
それに、密に固まって嵐のように敵をなぎ払っていくのは、かつてあまたのVRMMOを席巻した最強集団、スリーピング・ナイツの面々だ。
アスナを見つけ、にこっと笑顔を送ってくるシーエンの顔に、もう一度涙がにじみそうになるのを堪える。
彼らは皆、分身たるアバターを喪失する覚悟で助けにきてくれたのだ。ならば、ただ一人スーパーアカウントに保護されている自分が最大の危険を冒し、彼らの犠牲を最小にとどめなくてはならない。
アスナは戦場を走り抜け、広がりすぎた前線を縮小して、遺跡参道の入り口を中心とした半円形へと築きなおした。
いかにコンバートプレイヤーたちのステータスが強力と言えども、総数二千に対してアメリカ人プレイヤーたちはまだ一万を超える数が残っている。消耗戦になれば、死者つまり喪失するアバターの増加は避けられない。
幸いというべきか、アンダーワールド人界軍の少なさと必死の防戦ぶりに戸惑いを見せつつあったアメリカ人たちも、この状況に至って、これを通常のベータテストと認識しなおしたようだった。威勢のいい叫びとともに、日本プレイヤーの防御線に馬鹿正直な突撃を繰り返し、次々と倒れていく。
残る最大の懸念は――。
アンダーワールドに厳として存在する、リアルな"痛み"だった。
斬られ、痛みを感じたときにはもう死亡・ログアウトするアメリカ人たちと違い、負傷・後退・回復を繰り返す日本人たちは、常に強い苦痛に晒され続ける。
それが、徐々に心を折っていくのは、アスナが先刻我が身で実感したとおりだ。
お願いみんな……がんばって。あと一万、いえ九千の敵を削り切るまで。
そうすれば、オーシャンタートルを襲撃した者たちが、アンダーワールドで行使できる戦力は尽きる。あとは、騎士長ベルクーリとシノンが足止めしていてくれるはずの皇帝ベクタに追いつき、アリスを奪還するのみ。
最前線でレイピアを振るいながら、アスナは精一杯の声で叫び続けた。
「大丈夫……勝てるよ! みんななら、絶対に勝てる!!」
広野タカシは、何度目かの、一体僕はここで何をしているんだろう、という疑問を感じていた。
午前五時に友人からのメールで叩き起こされ、ログインしたALOでの理不尽極まるコンバート要請に応じたのは、決して演説していた女の子に共感したからでも、涙にほだされたからでもない。
正直、なんとなく、というのが一番近い。
どんなVRMMOだろうという好奇心が少し。高校に入って初っ端の実力テストが最悪だったせいで、どうせもうすぐ親にアミュスフィア取り上げられるし、という投げ遣りな気持ちがもう少し。そして――何かがあるのかも、見つかるかも、というほんの僅かな予感。
二年間の廃プレイで育て上げたキャラクターをコンバートし、聞いたこともないサーバーにログインしたタカシを待っていたのは、目の前に立ちはだかる黒い鎧の大男と、本場の発音による"サノバビッチ"と、振り下ろされるハルバードだった。
悲鳴を喉に詰まらせながら飛び退いたが、斧槍の先っぽが左脚の装甲にがつっと食い込んだ。
あんな痛みを感じたのは、小学生の頃に自転車で転び、スネの骨を折ったとき以来だった。
聞いてねえよ――!! と内心で絶叫しながら、タカシはハルバードの追い討ちを懸命に掻い潜り、抜いた廃装備の片手剣で何とか大男とのタイマンに勝利し、脚の傷から流れ出るリアルな血に吐きそうになっていたところを、引っ張られるように戦域後方の回復部隊へと連れてこられたのだった。
僕はここで何をしているんだ。
という疑問に曝されつつ、もう嫌だ、ログアウトする! と口走るタカシの治療に当たったのは、薄青い僧侶服を着た、つまり僧侶なのであろう同年輩の女の子だった。
なんだか――不思議な感じがした。
「まあ、酷い傷! すぐに治して差し上げますから、騎士様」
細い声でそう言い、タカシの脚に両手をかざして呪文――というかコマンドを唱える女の子を見て、一瞬NPCかと思った。
しかし、灰色がかった茶色の瞳に浮かぶ懸命な色、異国風なのに何人だか定かでない顔立ち、そして、傷を癒していく白い光の暖かさ。それら全てがタカシに、この子は本物の人間なのだ、と告げていた。
そんなことがあるのだろうか。日本語を話すのに、日本人プレイヤーではなく、NPCでもない。ならば、この女の子は一体誰なのか。そして、ここは何処なのか。
奇妙なことではあるが、タカシは、左脚の傷とその痛みを受けたときよりも、それらが暖かな光に溶けるように癒されていく瞬間はじめて、自分が単なるVRゲームではなくある種の巨大な出来事(もしくは運命)の只中に居るのだということを強く意識した。
「さあ、これでもう大丈夫です、騎士様」
僧侶服の少女が、少しだけ誇らしげな表情で両手を離したとき、あれほど惨たらしかった傷口はすっかり塞がり、薄茶色の痕がわずかに残るのみだった。
「あ……ありがとう」
タカシはつっかえながらも礼の言葉を口にした。何かもう少し、"騎士様"に相応しい気の利いた台詞が言えないものかともどかしく思い、しかし俯けた顔がかあっと熱くなるだけで舌はぴくりとも動こうとせず、気付くと彼は、自分でもまったく思いがけない行動に出ていた。両腕を伸ばし、少女の華奢な体を、そっと抱き寄せたのだ。
もしこの世界が、通常のVRMMOワールドであれば、タカシの行為は"NPCへの不適切な接触"コードを侵害し、警告を受けるか強制的にログインステージまで戻されていただろう。
しかし僧侶見習いの少女は、タカシの腕のなかでぴくりと体を震わせ、驚いたように小さく息を吸い込んだだけだった。数秒後、タカシは、少女の腕がおずおずと自分の背中に回され、控えめではあるが確かな圧力をもって引き寄せるのを感じた。
「大丈夫ですよ、異国の騎士様」
肩口で、穏やかなささやき声が発せられた。
「臨時の神聖術師の私だって、こうして……ささやかですが、自分の務めを果たせているんですもの。騎士様はその何倍も、立派に、勇敢に、戦っておいでです。いくさ場で畏れの風に惑わされたときは思い出してください……ご自分が、多くの民を、そして世界を守るために剣を取っているのだということを」
口をつぐみ、少女は、いっそう強くタカシを抱きしめた。
タカシにとって、女の子と抱き合うという経験は、現実世界と仮想世界を通して初めてのことだった。しかしたとえ、万が一現実世界で彼女ができるようなことがあったとしても、この瞬間を上回る経験は決してできまいという確信があった。
目くるめく一瞬が過ぎ去り、互いの体がそっと離されたあと、タカシは意を決して尋ねた。
「君……よかったら、名前を教えてくれないか」
幸い、今度はスムーズに口が動いた。見習い僧侶は、白い頬をほんのりと赤く染めながら頷き、言った。
「はい……。私はフレニーカと言います。フレニーカ・シェスキ」
「フレニーカ」
不思議な響きだが、しかし目の前の少女にしっくりと馴染むその名を呟いてから、タカシははっきりとした声で名乗った。"ヴォルディレード"というキャラクター名ではなく、大嫌いなはずの本名を。
「僕は……僕の名前はタカシ。広野タカシ。……あの……この戦争が終わったら、また、会えるかな」
フレニーカは眉をわずかに持ち上げ、その下の薄茶色の瞳を微笑むようにきらめかせて頷いた。
「勿論ですとも、騎士タカシ様。戦が終わり、世界に平和がきたら、その時にはかならず。ご武運を……いつも神にお祈りしております」
膝の上に置かれたタカシの左手を、フレニーカはぎゅっと両手で包み込んでから、恥じ入るように俯き、さっと立ち上がった。
薄い青色の僧服の裾をひるがえし、たたっと天幕の外へ走り去っていくフレニーカの姿を見送りながら、タカシは強く意識した。再び彼女の前に、胸を張って――騎士として立つためには、彼女の言うとおり、勇敢に戦い抜かねばならないと。この世界は、もはやゲームでも、そしてある意味ではアミュスフィアが作り出す仮想世界ですらもないのだ。タカシの生まれ育った現実世界と同じ質量を持つ、もうひとつの現実なのだ。
もしかしたら、ログアウトしたあと、何を馬鹿なことを考えたんだ僕は! とのたうち回る羽目になるかもしれなかったが、しかしタカシはこの瞬間だけは本気で信じた。そして決意した。
たとえHP、いや命が尽き、この世界から放逐されるときがきても、最後の一瞬まで前を向き、剣を振りかざそう。どれほどの傷、痛みを与えられようとも。それが出来なくては、きっと二度とフレニーカと会うことはできまい。
タカシは立ち上がり、おっしゃあ! と叫んで、再び最前線目指して走りはじめた。