朝田詩乃/シノンは、自らのもたらした巨大な破壊を見下ろしながら、比嘉という名の技術者によるレクチャーを耳裏に蘇らせていた。
『スーパーアカウントは、確かに強力だけど決して万能じゃない。どうしてもアンダーワールドにダイブしたうえで大規模なオペレーションを実行しなくてはならなくなった場合に、内部の住民たちにギリギリ受け入れられるであろう形でそれを行うために用意されたものなんス』
『えーと……つまりGM(ゲームマスター)じゃなくて、ものすごく強いPC(プレイヤーキャラ)でしかない、ってこと?』
初期のNERDLES実験機のように巨大なSTLマシンに横たわったシノンは、眉をしかめながらヘッドセットにそう問いかけた。流れてきたのは、パチン、という恐らく指を鳴らす音だった。
『イエス、まさに然りッスよ。ゆえに、君に使ってもらう"ソルス"アカウントも、アンダーワールドのリソース原則からは逃れられない。アスナさんの使っている"ステイシア"は、オブジェクトに設定されたリソースを利用してその形を変えるわけですが、ソルスの熱線攻撃にはどうしても空間リソースの吸収・リチャージが必要なんス。自動リチャージ能力は上限設定ですから、日中であれば枯渇は有り得ないはずッスが、連射は不可能と考えてください』
たしかに、左手の白い長弓は、広範囲射撃の直後からその輝きを薄れさせていた。両端からふたたび光が戻りつつあるが、再度の全力攻撃が可能となるまでは十分はかかるだろう。
連射不可。ふん、上等じゃない。
オートマチックよりボルトアクションのほうがしっくり来るってもんだわ。
胸中で嘯き、シノンは爆炎の収まった地上を確認した。
差し渡し一キロはありそうなクレーターの縁には、黒焦げになり煙を上げる死体がぐるりと折り重なっている。いちどの射撃で、おそらく六、七千の敵兵を屠っただろう。あれが、本物のアンダーワールド人ではなく、シノンと同じように現実からログインしているアメリカ人だというのは正直さいわいなことだ。ベータテストと信じ込まされ、接続した瞬間に焼き殺されたプレイヤーたちは、今頃向こう側で怒り心頭だろうが。
クレーターの中央では、黒い軍勢に比べるとあまりにもささやかな騎馬部隊が、再度の前進をはじめている。敵はまだたっぷり一万以上も残っているが、そのうち半数近くはふたたびの射撃、というより爆撃を恐れて上を見たまま動かないので、なんとか囲みは突破できそうだ。
シノンはいっそう眼を凝らし、人界部隊の戦列を確認した。
すぐに、一台の馬車の天蓋に立ち、まっすぐ自分を見上げている栗色の髪の少女に気付く。
思わず笑みをこぼれさせ、シノンはソルスアカウントに付与されたもう一つの能力・"連続飛行"を制御しながら、斜め下方へと一直線に舞い降りた。
群青色のブーツのつま先が、カンバス地の幌を捉えると同時に、軽く片手を挙げる。
「や、お待たせ、アスナ」
にこ、と微笑むと、眼前の少女のはしばみ色の瞳に、珠のような涙が盛り上がった。
「……詩乃のん……!!」
絞りだすような叫びとともに飛びついてきたアスナに、思い切り抱きしめられる。シノンは身体を震わせる親友の背中をそっと叩き、もういちど囁いた。
「がんばったね。もう大丈夫……あとは私に任せといて」
自分よりほんの少し背の高いアスナを腕のなかに抱いたまま、一割ほどリチャージされた左手の弓をまっすぐ前方に向け、右手で軽く弦を引く。
ソルスの弓は、弦を引き絞る強さでその威力を、弓の縦横の向きで攻撃範囲を設定する。十センチほど引いた弦の中に、細く眩い光矢が出現した。シノンはその先端を、部隊の先頭を走る大きな竜の行く手をさえぎる敵集団に照準した。
ビシュッ、とささやかな発射音。
僅かに傾けていた弓から放たれた光線は、直径十メートルほどの範囲に着弾し、スティンガーミサイル顔負けの爆発を引き起こした。黒い鎧兜が塊で吹っ飛び、ぽかりと開いた間隙に、すかさず竜が突入した。踏みとどまっていた歩兵も、巨大な鉤爪に引っ掛けられ、ひとたまりもなく宙を舞う。
ここに来て、ようやく敵兵たちも、倒すべき獲物あるいは稼ぐべきポイントが逃げていくことに気付いたようだった。一万数千のスラングが全方位から炸裂し、クレーターの斜面を黒い津波のように歩兵たちが駆け下りてくる。
シノンは、弓を腕にひっかけてアスナの両肩に手を置き、そっと体を引き起こした。
「アスナ。ここからしばらく南にいったとこに、遺跡みたいな廃墟が見えたわ。道はその真ん中を貫通してて、左右はでっかい石像がいっぱい並んでるの。あそこでなら、敵に包囲されることなく戦線を限定できると思う。なんとかそこで、この敵を撃退しよう」
流石にアスナも歴戦の剣士だけあって、シノンの言葉を聞くと即座に眼に勁い光が戻った。ぐい、と涙を拭ってから口を開く。
「わかったわ、詩乃のん……シノン。いくらアメリカ人VRMMOプレイヤーが多くても、これ以上の数はすぐには用意できないはず。あの一万何千かを撃退すれば、敵に打てる手はもう無いわ」
「ま、私にまかせといてよ。……で、それはそうと……」
人界軍の隊列の最後尾が、どうにか敵の包囲を抜けたことを確認してから、シノンは改めてちらりとアスナを見た。
「……その、キリトは……この部隊にいるの?」
これには、アスナも微かな苦笑を漏らした。
「今更そんな、遠慮っぽい聞き方しなくてもいいわよ。キリトくんは、ココ」
持ち上がった右手の人差し指が、ちょいちょいと足元を指す。
「わ、そうなの。じゃあ……ちょっと、挨拶してくるね」
ごほん、と咳払いしてから、シノンは大型馬車を覆う幌の後ろ端に右手を引っ掛け、すとんと内部に身体を降ろした。
続いてアスナも降りてくるまで待って、積んである木箱の奥へと向かう。
まず眼に入ったのは、灰色の制服に身を包んだ二人の異国の少女たちだった。同時に眼をまん丸にし、片方が小さな声を漏らす。
「そ……ソルス様……?」
「こんにちは、はじめまして。ソルスっぽいけど、中身は違うの。私の名前はシノン」
可能なかぎりの笑顔を向けると、二人はいっそうの驚き顔を作ったが、すぐに背後のアスナを見て何か得心したようだった。
「そ、アスナと同じリアルワールド人よ。そして、キリトの……友達」
「そう……なんですか」
赤い髪の少女がほうっと息をつき、黒い髪の子は、口のなかで小さく、女のひとばっかり、と呟いた。
まだまだこんなもんじゃないわよ、と内心で苦笑しながら、シノンは左右に分かれた少女たちの間を数歩進んだ。
キリトの状態は、比嘉タケルから聞かされてはいた。しかしこうして、実際に傷ついた姿を見ると、胸がいっぱいになって思わず涙が滲んだ。
「ぁ…………」
しわがれた声を漏らす、かつての敵にして戦友、そして命の恩人の前に、シノンはそっと膝をついた。
車椅子に沈むその姿に、かつての力強さはわずかにも残されていなかった。シノンは弓を肩にひっかけたまま、両手を差し伸べ、痩せ細ったからだをきつく抱いた。
キリトの魂は、その中心の大切な部分――"自己"が損なわれてしまったのだという。
回復の手段は、いまのところ見つかっていない、と比嘉は沈んだ声で言った。
しかしシノンは、ぎゅっと眼をつぶって涙の粒をこぼしながら、そんなの簡単なことじゃない! と胸中で叫んだ。
キリトの記憶、キリトのイメージ、そしてキリトへの気持ち――愛ならば、沢山の人が山ほど持っている。それらを少しずつ集めて、キリトの心に戻してあげればいいんだ。ほら、感じるでしょう……私のなかの君を。皮肉屋で、そのくせ隠れ熱血で、そして誰よりも強い、同い年の男の子を。
シノンは顔の向きを変え、キリトの頬にしっかりと唇を触れさせた。
この時――。
朝田詩乃は、自分の強い感傷が、桐ヶ谷和人の唯一の治療方法に紙一重のところまで肉薄していることを知らなかった。
もし彼女に、アンダーワールドとフラクトライトの構造について充分な知識があれば、解答にたどり着くことは可能だったかもしれない。しかし、詩乃がダイブ直前に受けたレクチャーは、現在の状況とソルスアカウントの使用方法にとどまっていたのだ。
ゆえに詩乃は、唇を触れさせたときになぜ和人が一瞬その身体を震わせ、体温がかすかに上昇したように感じたのか、その理由に思いを致すことはなかった。
すぐにキリトから身体を離したシノンは、立ち上がり、背後の三人を見た。
「だいじょうぶ、キリトはきっとすぐに元通りになるよ。みんなが、本当にこの人を必要とした時にね」
アスナと二人の少女たちは、涙ぐんだままこくりと頷いた。
「じゃあ……私、一足さきに南の遺跡に飛んでいって、地形の確認をしてくる。貴方たち、キリトのこと、よろしくね」
そう声をかけ、馬車の後ろに向かいかけたシノンの肩を――。
突然アスナが、がしっと強く掴んだ。
その瞳にとてつもなく切迫した光が浮かんでいるのを見て、シノンは息を飲んだ。
「あ……アスナ、どう……」
「シノン、今飛ぶって言った!? あなた、飛べるの!?」
急き込むような問いに、戸惑いながら頷く。
「え……ええ。ソルスアカウントの能力なんだって。制限時間とかもないって聞いたけど……」
「なら、助けてほしいのはわたし達じゃないわ! アリスを……皇帝に攫われたアリスさんを追いかけて!!」
続けてアスナが説明した状況は、シノンの心胆を寒からしむるに充分なものだった。
すべての鍵となる整合騎士アリスが、現実側の敵である皇帝ベクタに拉致され、はるか南を飛行中であること。いまそれを追っているのは、騎士長とよばれる剣士ただ一人であること。
「スーパーアカウント相手に、いかに騎士長さんと言えども荷が重いわ。もし皇帝が果ての祭壇に到着する前にアリスさんを救出できなければ、この世界は丸ごと破壊されてしまうの。シノン、ベルクーリさんを助けて!」
どうにか事情を飲み込み、騎士長ベルクーリの外見を頭に叩き込んだシノンは、馬車から離陸すると一気に高度を取った。
土煙を立てて南下する人界軍八百。
北から怒涛の勢いで追いすがる一万以上の黒い軍勢に比べれば、まるで津波に飲まれる直前のボートの群れのようだ。
アリスを取り戻したら、すぐ駆けつけるから――それまでがんばって、アスナ。
内心でそう呼びかけて、シノンはくるりと南を向き、一気に加速した。白い尾を引く流星となり、赤い空をまっすぐに切り裂く。
前方、無限に広がる世界を俯瞰しながら、シノンはふと考えた。
そういえば――。
同時にログインしたはずのリーファは、どこに行ってしまったんだろう?
レンリ率いる人界軍、追いすがる一万三千のアメリカ人プレイヤー。
その遥か北では、アスナが作った峡谷の際で、イシュカーンとシェータ及び拳闘士団が、いまだ二万近く残るアメリカ人たちを相手に絶望的な戦いを続けている。
そして、さらに数万メル北方。
もはや古戦場の趣きすらある、東の大門を望む荒野に、一つのずんぐりした姿がたたずんでいた。
丸い巨躯を包む、鈍色の鎧。風になびく革マント。丸い頭の両脇に薄い耳が垂れ、大きな鼻がまっすぐ突き出ている。
オーク族の長、リルピリンである。
残るわずかな部族兵を後方に待機させ、単独で東の大門にほど近い地点までやってきたのだ。一人の護衛すらもつけなかったのは、地面を這い回る自分の姿を見せたくなかったからだ。
何時間も苦労して、リルピリンはようやく求めるものを見つけ出した。華麗な彫刻を施した、銀のイヤリング。
そっと拾い上げ、掌に載せたそれは、皇帝の命により人身御供となったオーク族の姫将軍の耳にいつも輝いていたものだった。
遺品は、それだけだった。荒野には、姫とともに死んだ三千のオークの遺骸どころか、骨の欠片すらも残っていなかった。暗黒術師たちのおぞましい邪術が、オークたちの身体をあまさず喰らい尽くしてしまったのだ。
その残酷を行ったあの憎むべき女術師も、それを許した皇帝も、もうこの地には居ない。
暗黒術師ギルド総長ディーは、"光の巫女"の反撃により死に、皇帝は巫女を追って飛び去ってしまった。リルピリンへの待機命令を解除することもなく。
のこる数千の部族兵だけでは、とても東の大門を守る人界兵と整合騎士に勝つことはできない。暗黒界五族の悲願である、人界征服の夢は潰えたのだ。
だとすれば。
いったい――なんのために。
なぜ、リルピリンと共に育った姫将軍と、生贄にされた三千、そしてそれ以前に大門での戦いに出陣した二千のオークは死なねばならなかったのか。その死がなにをもたらしたというのか。
無。一切、何ひとつ。
ただ、人より醜いという理由だけで、五千もの一族が空しく死んだ。
リルピリンは、握り締めたイヤリングを胸に抱き、がくりと地に膝を突いた。怒り、やるせなさ、そして圧倒的な哀しみが胸に突き上げ――それが涙と嗚咽に変わろうとした――
その直前。
背後で、どすっと軽い音がした。
慌てて振り向いたオークの長が見たのは、地面に尻餅をつき顔をしかめた、深緑の髪と白い肌、そして若草色の装束に身を包む若い人間の女だった。
その唐突すぎる出現に対する驚きよりも、人間族への怒りや殺意よりも、リルピリンが真っ先に感じたのは、自分を見ないでくれ、という羞恥にも似た感情だった。
なぜなら、眼前の娘は、あまりにも美しすぎたのだ。
絞ったばかりのミルクの色の肌からして、初めて間近に見る白イウム――人界人であるのは明らかだ。
背が高く骨太で、たっぷりと張った肉と、銅色の肌を持つ暗黒界人の女とはまるで違う。手足は触れただけで折れてしまいそうなほど華奢で、髪は風もないのにさらさらと揺れ、きょとんとした風情でまっすぐ見上げてくる大きな瞳は、磨き抜かれた翠玉のようだ。
リルピリンは、この小さくひ弱な種族を、震えるほどに美しいと思ってしまう自分の感覚を呪った。
同時に、娘の緑色の瞳に、嫌悪の色が満ちるのを恐れた。
「み……見るなッ!! おでを見るなあッ!!」
喚きながら左手で自分の顔を覆い、右手で大刀の柄を握る。
悲鳴を聞かされるまえに、首を刎ねてしまえ。
そう思って、抜き打ちの動作に入りかけたリルピリンは、耳に届いた声――言葉にびくりと凍りついた。
「あの……こんにちは。それともおはよう、かな」
身軽な動作で立ち上がり、裾の広がった短い足通しをぱたぱた叩きながら、娘はにっこりと笑った。
顔を覆う指のあいだから、唖然と小さな人間を見下ろし、リルピリンは瞬きを繰り返した。
娘の瞳には、いっさいの嫌悪も、侮蔑も、それどころか恐怖すらも浮かんでいない。白イウムの子供にとっては、オークは人食いの悪鬼そのものであるはずなのに。
「な……なぜ」
自分の口から漏れ出た言葉は、一万の軍団を率いる暗黒界十候の一人にはまるで似つかわしくない、途方にくれたような響きを帯びていた。
「なぜ逃げない。なぜ悲鳴を上げない。人間のくぜに、なぜ」
すると、今度は娘が驚いたような、困ったような表情を作った。
「なぜ、って……だって」
そして、まるで大地は平らで、空は赤い、と言うかの如き何気なさで続けた。
「あなたも人間でしょう?」
その瞬間、背筋に走った震えの理由が、リルピリンには分からなかった。大刀の柄を強く握り締めたまま、喘ぐように亜人の長は言った。
「に……にんげん? おでが? 何を馬鹿な、見ればわがるだろうが! おではオークだ! おまえらイウムが人豚と罵るオークだッ!!」
「でも、人間だよね」
華奢な両腰に手をあて、娘はまるで親が子に言い含めるような調子で繰り返した。
「だって、こうして話が出来てるじゃない。それ以外に何が必要なの」
「なに……って…………」
最早、どう反駁していいのかすらリルピリンには分からなかった。緑色の髪の少女が自信たっぷりに提示した価値観は、これまで人間族に対する劣等感と怨嗟のみを燃やして生きてきたオークの長にはあまりにも異質すぎた。
話が出来れば人間?
"人間"の定義とはそんなものなのか? 言葉なら、ゴブリンだって、オーガだって、ジャイアントだって操る。しかし、それにオークを含めた四種族は、ダークテリトリーの開闢以来"亜人"と呼ばれ、人間とは頑として区別されてきたのだ。
荒い鼻息だけを漏らして立ち尽くすリルピリンの衝撃と混乱を、少女は「そんなことよりも」とひと言で押しのけ、くるりと周囲を見回した。
「……ここは、どこなの?」
桐ヶ谷直葉/リーファ/スーパーアカウント03"テラリア"は、どうやらログイン座標が大きくズレてしまったらしいと推測し、短くため息をついた。
使用したSTLマシンが、ロールアウトしたばかりの、まだビニールカバーも取れていない新品だと聞いたときから嫌な予感はしていた。直葉は新品の竹刀は決して試合では使わないし、同様に電子機器も信用していない。どういうわけか昔から、電子デバイスの初期不良引き当て率は異常高値を維持しているのだ。
ログインは、並んでマシンに入ったシノンと同様、先にダイブしているアスナの座標で行われたはずなので、周囲にひと気がないのはやはり事故が起きたのだろう。いや、正確にはひとりだけ、目の前にお相撲さんのような巨体を持つ誰かが立っている。
ダイブ直後のみ有効となるカラーマーカーによれば、このオークのアバターを持つ人は、目下の敵であるアメリカ人プレイヤーではない。アンダーワールドに暮らす"人工フラクトライト"、つまりAIユイの説明によるところの真正人工知能だ。
その成り立ちを説明されたときから、リーファは、どうしても、何がなんでもそれが必要という状況にならない限り、彼ら相手に剣は抜くまいと決めていた。当然のことだ――兄キリトが守ろうとした"人間たち"を、殺すなんて出来るわけがない。人工フラクトライトは、この世界で死ぬと、その魂は現実世界でも完全に消滅してしまうのだから。
それにしても――。
眼前のオークアバターの精密度は、数多あるザ・シード規格VRMMO中最高峰のグラフィックを誇るALOに馴れたリーファの目にも驚異的だった。ピンク色の大きな鼻と耳の動き、逞しい巨体をよろうアーマーとマントの質感、そして何より、小さな黒い両眼の表情の豊かさは、その奥に宿る魂が紛れもなく本物だということを如実に示している。
なぜか気後れしたように顔を背けるオークに、とりあえずここがどこなのか尋ねてみたが、答えはすぐには返ってこなかった。ならばもっと手前から始めよう、と思い、リーファは別の質問を発した。
「えーと……あなたのお名前は?」
混乱の極みに突き落とされたオークの長は、娘が二度目に発した質問には、思わず反射的に答えていた。名前だけは、自分に与えられたすべてのもののなかで、唯一気に入っていたからかもしれない。
「お……おでは、リルピリン」
口にしてから、すぐに後悔する。昔、はじめて帝城にのぼったとき、リルピリンの名を聞いたイウム貴族の若者たちが大笑いしたことを思い出したのだ。
しかし娘は、またしてもにっこり笑いかけてきた。
「リルピリン。可愛い、良い名前ね。私はリーファ。はじめまして、よろしく」
そして、何度目かの驚愕すべき挙に出た。
しなやかな白い右手を、まっすぐ差し出してきたのだ。
握手――という習慣は無論知っている。オーク同士でも日常的に行われる。しかし、これまでイウムとオークが握手した話など聞いたことがない!
いったい何なのだ、この人間は。何かの罠か、それとも術師の手妻なのか。いつのまにか幻惑術にでも掛けられてしまったのか。
娘の右手を凝視し、唸るしかできないリルピリンを娘はたっぷり十秒近くも見つめていたが、やがて少しだけがっかりしたように手を下ろした。その様子に、なぜか胸の奥がちくりと痛む。
これ以上娘と会話をしていたら、いや見ているだけでも、頭がどうにかなってしまいそうだった。リルピリンは、もう眼下の小さな人間を叩き斬る気にはなれなかったが、それ以外のもっとも頭を使わずにすむ解決法にすがるべく、口を開いた。
「お前……人界軍の士官だな。お前を捕虜にする。皇帝のところに連れでいぐ!」
年齢はともかく、娘の装備する若草色の鎧や、背負われた長い曲刀は、どう見ても一介の兵士に与えられるものではない。精緻な意匠や素材の輝きは、あるいはリルピリンの装備より上質とも思える。
大将軍たるリルピリンの大声にも、娘はまるで怯える様子も見せなずに何かを考えているようだったが、やがて小さく肩をすくめると訊いてきた。
「皇帝、ってのは暗黒神ベクタのことよね?」
「そ……そうだ」
「わかった。なら、いいわ。連れていって頂戴」
頷き、両手をそろえてずいっと前に突き出す。それが、握手ではなく虜縛を促す動作であることはすぐに分かった。
ほんとうに、一体何を考えているのか。
リルピリンは、ベルトから飾り帯を一本外し、少女の手首を手荒に――しかし少しだけ緩めに縛った。その端を握り、ぐいっと引っ張ってから、ようやく皇帝がもう本陣には居ないことを思い出す。
しかし、これ以上難しいことを考えると、頭の芯が焼き切れてしまいそうだった。皇帝がいなくとも、あの嫌な目つきの副官か、商人の長レンギルあたりが処置を決めてくれるだろう。
ぐるっと身を翻し、やや控えめに帯を引っ張りながら歩きはじめた、ほんの数秒後。
突如、周囲に、黒い靄のようなものが色濃く立ちこめはじめた。嫌なにおいがつんと鼻をつく。たちまち視界が失われ、リルピリンは油断なく周囲を見回した。
「あっ……!?」
短い驚きの声、あるいは悲鳴は、まちがいなくリーファという名の娘のものだった。
さっと振り向いたリルピリンが見たのは、濃密な黒霧のむこうからぬっと突き出た一本の腕が、娘の髪を掴んで引っ張り上げているさまだった。
直後、腕の持ち主が霧を割って姿を現した。
死んだはずのあの女――暗黒術師総長ディー・アイ・エルが、狂気じみた笑みを紅い唇に浮かべ、立っていた。
なぜ、追いつかない。
整合騎士長ベルクーリは、怒りと焦燥のなかにも深い驚きを感じていた。
追跡行はもう二時間以上も続いている。
人界守備軍が野営していた森を、その南に広がっていた円形の窪地を飛び越え、奇怪な巨像が林立する遺跡を通過して、かつてないほど深くダークテリトリーの奥地に分け入りながら、しかし距離は一切縮まる様子がない。愛弟子である整合騎士アリスを拉致した皇帝ベクタの飛竜は、相変わらず遥か地平線に浮かぶ極小の黒点のままだ。
皇帝は、一頭だけの飛竜に、自身とアリスの二人を乗せて飛んでいる。
対するベルクーリは、星咬、雨縁、そして滝刳の三頭に順に飛び移り、竜たちの疲労を可能なかぎり抑えている。理屈では、そろそろ追いついていてもおかしくないはずだ。
一体なぜ追いつけないのか。皇帝は、飛竜の天命をも自在に操るというのか。そんなはずはない。天命及び空間力の循環は、最高司祭アドミニストレータすら操れなかった、世界の最大原則ではないか。
もちろん、まさか無限に飛べるというわけではないだろう。この先、"世界の果ての断崖"までは、飛竜の翼でも二、三日は確実に要する距離があるはずだ。しかし、ベルクーリを乗せる竜たちもいずれは降下、休息しなくてはならない。速度が同じなら、永遠に距離は縮まらない。
やむを――得ないか。
はるか地平線まで届く射程の術式など、ベルクーリにも到底操れない。今この状況を打破できる可能性があるとすれば、それは唯一……。
騎士長は、右手でそっと腰の愛剣に触れた。
ひんやりと硬い、頼もしい手ざわり。しかし、その天命がまだ完全回復にはほど遠いのは、感触で分かる。東の大門で使用した大規模な記憶解放攻撃による消耗が、予想以上に大きかったのだ。
これから使う術は、神器・時穿剣の最終奥義ゆえに、莫大な天命を消費する。
撃てて一度。その一撃を、針の穴を通す以上の精密さで命中させねばならない。
ベルクーリは、騎乗していた滝刳の首筋をそっと撫でると、ひょい、と隣の星咬の背に飛び移った。
長年共に戦った相棒に、手綱を持つこともなく意思を伝え、高度を慎重に調整する。
照準するのは、遥か地平線を往く砂粒のような黒点。
皇帝本人を狙いたいのはやまやまだが、姿も視認できないこの距離では外す危険が大きすぎる。どうにかその動きが滲むように見て取れる、飛竜の片翼に全精神力を集める。
鞍の上に仁王立ちになったベルクーリの右手が、ゆるり、と動いた。鞘から、全体が同一の鋼より削り出された長剣を滑らかに抜き出す。
体の右に構えられた、傷だらけの刀身が、不意に揺れた。朧のごとくかすんだ刃が、飛竜の前進につれて、幾つもの残影を後ろに引く。
唇が、罪のない飛竜への詫びを短く呟く。
直後、薄青い色の瞳をすうっと細め――最古の騎士ベルクーリは、裂帛の気合を込めて叫んだ。
「時穿剣――裏斬(ウラギリ)!!」
ずうっ、と重く、しかし凄まじい速度で刃が振り下ろされた。青い残影がいくつも斬撃の軌道に沿って輝き、順に消えた。
遥か数十万メルかなたで、黒い飛竜の左の翼が、付け根から吹き飛ぶのが確かに見えた。
「匂う……におうわ、なんて甘い……天命の香り……」
人族の娘の髪を掴み、体ごと吊り上げたディー・アイ・エルの唇から、ひび割れた声が漏れ出でた。
どれほど憎んでも憎み足りないはずの暗黒術師の姿を、しかしリルピリンはただ呆然と眺めた。
艶やかに輝いていた肌も、豪奢だった黒い巻き毛も、酷い有様だった。全身に、鋭利な刃物に斬られたような傷が縦横無尽に走り、じゅくじゅくと血を滲ませている。ディーが身動きするたびに、それらの傷が幾つかぱっくりと口を開き、鮮血がほとばしるが、術師の身にまとわりつく黒い煙がたちまち傷口に集まり、しゅうっと嫌な匂いを放って止血していく。
煙の源は、ディーの腰にぶら下がる小さな皮袋だった。見ると、袋の口からは時折、奇怪な虫めいた代物が顔を出し盛んに黒い霧を吐き出しているようだ。おそらく、天命の減少を抑えるためのおぞましい邪術に違いない。
嫌悪感のあまり鼻を拉げさせるリルピリンをちろりと見て、ディーは再び唇の両端を吊り上げた。
「素晴らしい獲物ね。誉めてやるわよ、豚。ご褒美に、いいものを見せてあげるわ」
言うや否や――。
ディーは、髪を引っ張り上げられて顔をゆがめる娘の襟首に、鉤爪のような右手の指を食い込ませた。
ばりぃっ、と容赦のない音とともに、鎧と、その下のチュニックまでもが一瞬で引き裂かれる。
眩いほどに白い上半身の肌が露わになり、娘はいっそう顔を歪めた。その様子に、ディーは嗜虐的な吐息を荒々しく吐き出し、しゅうしゅうと笑った。
「どう、人族の女の体を見るのははじめてかしら? 豚には目の毒かしらね! でも、面白いのはこれからよ…………!!」
毟り取った緑色の鎧と長刀を背後に投げ捨てたディーの右手の五指が、突然、骨をなくしたかのようにうねうねと蠢いた。
いつのまにか、それは指ではなく、ぬらぬらと光る長虫のような姿へと変じていた。先端には、同心円状に細かい鋸歯が並ぶ口がぱくりと開き、おぞましい蠕動を繰り返している。
「ほら……!!」
ディーが叫ぶと同時に、五本の指あるいは触手は、娘の上体に巻き付きずるずると這い回った。動きを封じた上で、先端が鎌首をもたげ――肌の五箇所に、突き刺さるがごとく噛み付いた。
「アァッ!!」
鮮血が飛び散り、リーファという名の娘は、瞳を見開いて悲鳴を上げた。触手を剥ぎ取ろうと手を動かすが、手首をリルピリンの飾り帯に拘束されているためにままならない。
五箇所の傷口からの出血は、一瞬で収まったかのように見えた。しかし実際はそうではなく、ディーの右手に繋がる触手が、ごくごくと音を立てて飲んでいるのだと、リルピリンは察した。
暗黒術師は、喉を反らし、甲高い声で術式を唱えた。
「システムコール!! トランスファ・デュラビリティ……ライト・トゥ・セルフ!!」
ぽっ、と青い輝きが娘の傷口から迸る。それは血液の流れと同調するように触手を伝い、ディーの腕に吸い込まれていく。娘の苦悶はいっそう激しくなり、華奢な身体が折れんばかりに仰け反る。
「はぁっ……凄いわ……凄いわぁ!! なんて濃くて……甘いの!!」
きんきん響く金切り声がリルピリンの耳を劈いた。
その痛みで、オークの長は我に返り、喘ぐように叫んだ。
「な……何をする!! こでは、おでの捕虜だ!! おでが皇帝のもとへ連れでいぐ!!」
「黙れ豚アアッ!!」
瞳孔をぐるりと裏返したディーが、狂気に満ちた声で喚いた。
「私が皇帝に作戦指揮の全権を委任されていることを忘れたかッ!! 私の意志は皇帝の意思!! 私の命令は皇帝の命令なりいいいッ!!」
ぐっ、とリルピリンは喉を詰まらせた。
その作戦なぞ、とうの昔に失敗に終わっているではないか、という反駁が喉元まで突き上げる。しかし、皇帝は何も指示せぬまま戦場から消えてしまったのだ。ならば、あらゆる命令は維持されているというディーの主張を覆す材料は何もない。
立ち尽くすリルピリンの目の前で、声無き悲鳴を上げる娘の動きが、徐々に弱々しくなっていく。それに比例して、ディーの肌に刻まれた無数の傷が、片端から癒着し、ふさがっていく。
「ぐ……グゥ……」
食い縛った牙のあいだから、押し潰された声が漏れた。
リルピリンの目にはいつしか、天命を吸われる娘の姿が、生贄となり息絶えた姫将軍の姿と重なって映っていた。
娘の瞳から、徐々に光が薄れていく。肌の色はすでに白を通り越して蒼ざめ、いつしか両腕はだらりと力なくぶら下がっている。しかし、ディーの右手の触手は、尚も飽き足らぬように蠢き、一滴のこさず血を吸い取ろうとする。
死ぬ……死んでしまう。
せっかくの捕虜が。
いや、自分を見ても恐れも蔑みもしなかった、はじめての人間が。
その時――。
不思議な現象、あるいは奇跡が発生し、リルピリンは目を見張った。
地面が。
炭殻のように黒く不毛なダークテリトリーの大地が、娘を中心に、緑色に輝いている。
オーガ族の住まう東の果てでしか見られないはずの、柔らかそうな若草が一斉に萌え出で、色とりどりの小さな花もそこかしこに咲いた。風の匂いが芳しく変わり、血の色の日差しすら穏やかな黄色へと転じた。
その、生命に満ち溢れる光景が、渦巻きながら瞬時に娘の体へと吸い込まれていく。
青白かった肌にたちまち血の色が戻り、瞳にも輝きが蘇る。
一瞬の幻視が消え去ると同時に、娘の天命が全回復したことをリルピリンは直感で悟った。理由のわからない安堵が、胸の奥に満ちた。
しかし、それは即座に打ち破られた。
「なんてこと……湧いてきた……また溢れてきたわぁぁぁ!!」
すでに、こちらも傷はほぼ全快しているはずのディーが、箍が外れたような声で喚いた。
娘の髪を掴んでいた左手を離し、そちらの指をも醜悪な触手生物へと変容させる。
どすっ、どすどすと鈍く湿った音を立て、あらたに五本の触手が娘の肌に突き刺さった。
「っ……あああっ……!!」
か細い悲鳴を、ディーの哄笑がかき消した。
「アハハハハ!! ア――ハハハハハハ!! 私のよ!! これは私のよおおおお!!」
――耐えなければ。
現実世界でもかつて感じたことのない、目のくらみそうな激痛に晒されながら、リーファはただそれだけを念じた。
スーパーアカウント"テラリア"に付与された能力はダイブ前に説明されている。
"無制限自動回復"。周囲の広範な空間から、自動的にリソースを吸収し、天命つまりヒットポイントに常に変換し続けるのだ。ただでさえ膨大な設定数値にその能力が加われば、天命損耗による死亡はほとんど有り得ないはずだ、と比嘉という技術者は言っていた。
なればこそ、リーファは、捕虜となる危険を冒しても暗黒神ベクタ――現実世界人の"敵"――と遭遇し戦いを挑もうと意図したのだし、またアンダーワールド人に対しては剣を抜くまいと決めもしたのだ。
ただでさえ、自分はこの世界で死のうと何も失わないというのに、それに加えてヒットポイントが無限では、不公平にも程がある。剣士として、そんな真似だけはどうしても出来ない。
いま、自分を苛んでいる女性も、リルピリンと同じくアンダーワールド人、つまり人工フラクトライトだ。
剣で斬れば、その魂は完全に消滅してしまうのだ。どのような事情で傷つき、どのような理由により回復を欲しているのか、知りもせずに戦うわけにはいかない。
ああ――でも。
衣服をほとんど剥ぎ取られた羞恥すら感じる余裕がないほどに、天命を吸い取られる痛みは圧倒的だ。
これは本当に、現実の肉体とは切り離された仮想の感覚なのだろうか。
「……やめろ」
それが自分の口から漏れた言葉だと、リルピリンはすぐには気付かなかった。
しかしすぐに、今度は明らかに口が動き、喉が震動した。
「やめろ!」
針穴のように瞳孔が縮んだディーの眼が、きろり、とリルピリンを舐める。腹の底に湧き上がる寒気に耐え、オークの長は更に言った。
「もう、あんだの天命は完全に回復しだではないか。これ以上そのイウムから吸い取る必要はないはずだ!」
「……なぁに、それ。命令……?」
歪んだ歌のような調子で、ディーが囁いた。
その間にも、両手の指は一層激しく蠢き、娘の肌を締め上げ血を貪り続ける。暗黒術師の肌は完全に再生して油を塗ったような照りを取り戻し、髪すらも本来以上の長さで豊かに垂れている。
それどころか、その全身から、余剰となった天命が青い光の粒となって空中に放散されていくではないか。なのに、ディーは自身より遥かに小柄な娘を背後から抱き絡め、虐げるのをやめようとしない。
「言ったでしょ、豚? この捕虜はもう私のよ。私がどれだけ天命を吸おうと、豚の目の前で辱めようと、あるいはこの場でくびり殺そうと、お前には関係ないでしょ?」
くく、くくく、と喉奥からこもった笑いが響く。
「ンー、でも、そうね。見つけたのはお前なんだし、少しくらいは譲歩すべきかしらねえ? なら……今そこで、裸になってみせなさい」
「な……何をいっでる……」
「私ね、前まえっから、お前がその大仰な鎧とマント着てるのを見ると吐き気がするのよねえ。豚のくせに、まるで人みたいじゃなぁい? そこで素っ裸になって、四つん這いでフガフガ鳴いてみせたら、もしかしたらこの娘を返してあげるかもよ?」
ずきり。
突然、視界の右半分に赤い光がちらついた。同時に、右眼奥から鉄針を差し込まれるような痛みが頭を貫く。
豚のくせに。
人みたい。
ディーの言葉に、リーファという少女の発した言葉がかさなる。
人間でしょう?
それ以外に、何が必要なの?
この娘を、ディーに殺させてはいけない。いや、殺させたくない。そのためなら……そのため、ならば。
リルピリンの震える両手が、マントの留め金にかかった。ぶちっ、と一気に引き千切る。
足元にわだかまったマントを踏みつけ、リルピリンは鎧を締める革帯に手をかけた。
不意に、微かな声が聞こえた。
「……やめて」
はっ、と顔を上げると、自分をまっすぐ見ているリーファと眼が合った。
激痛に涙ぐむその翠玉の瞳が、ゆっくり左右に振られた。
「私は……だいじょうぶ、だから。やめて、そんな、こと」
声は最後まで続かなかった。ディーが突然、娘の頬に軽く歯を立てたのだ。
「それ以上つまらないこと言ったら、可愛い顔を食い破るわよ。せっかく面白い見世物なのに。ほら、どうしたの豚。さっさと脱ぎなさいよ。それとも人間の裸に興奮しちゃったのかしら?」
きゃはははは、とけたたましい笑いが続く。
リルピリンは、鎧の留め具に掛けた手を、ぶるぶると震わせた。
右眼の痛みはもはや圧倒的だった。だが、胸中に渦巻く怒りと屈辱に比べれば、何ほどのこともなかった。
「お……おでは……おでは」
突然、両眼から溢れ、頬を伝って滴るものがあった。左側に垂れる雫は透明だったのに、右側のそれは深紅に染まっていた。
右手が、ゆっくりと留め具から離れ――左腰の大刀の柄へと伸びた。
「おでは、人間だッ!!」
叫ぶと同時に、右の眼がばしゃりと爆裂した。
半減した視界の端に、リルピリンはしっかりとディーの姿を捉え続けていた。嗜虐的な哄笑が途切れ、その口がぽかんと開いた。
ディーの無防備な足元に向け、リルピリンは全身全霊を込めた抜き打ちを放った。
しかし――片目が消滅した直後ゆえに、距離感が狂った。
剣先は、ディーの右足の脛を掠めただけで空しく流れ、リルピリンは無理な斬撃姿勢ゆえに左肩から地面に倒れこんだ。
見上げた先で、凶悪な面相へと変じたディー・アイ・エルが、唇を歪めて吐き捨てた。
「臭い豚がァ……よくもこの私に傷をッ……!」
ぶん、と娘の身体を後方に投げ捨て、両手の触手を高くかざす。それらはギィンと硬い音を放ち、一瞬で黒く輝く十本の刃へと変容した。
「切り刻んで、肉にして、竜のエサに食わしてくれる!!」
左右に大きく広げられた刃が、振り下ろされるのをリルピリンはただ待った。
とっ。
とん。
と微かな音が、立て続けに響いた。ディーの動きがぴたりと止まった。
術師の両腕が、その付け根からぽろりと零れ落ち、湿った音とともに地面に転がるのを、リルピリンは呆然と眺めた。
驚愕の表情を浮かべたのはディーもまた同様だった。左右の肩から滝のように鮮血を振り撒きながら、長身の女はゆっくりと身体の向きを変えた。
白く輝くリーファの姿が、リルピリンの視界に入った。
ほぼすべての衣服を失ったその華奢な体躯では、とても扱えそうにない長大な曲刀をまっすぐ前に振りぬいている。両手首は拘束されたままなのに、この娘が、ディーの両腕を瞬時に切断したのは明らかだ。
ディーが、乾いた声で言った。
「人間が……豚を助けて、人を斬る……?」
信じられぬ、というふうに首を左右に振り続ける暗黒術師をまっすぐ見て、リーファが答えた。
「違います。人を助けるために邪悪を斬るのです」
すうっ、と長刀が大上段に構えられた。
ひゅかっ。
とても届くとは思えない遠間から、娘が真っ向正面の斬撃を放った。
なんと――美しい。
鍛え上げられた、一切の無駄のない体。研ぎ上げられた極限の技。
再度の、しかし今度は感動の涙に滲むリルピリンの視界で、暗黒界最強の術者にして十候最大の実力者、ディー・アイ・エルの肢体が音も無く真っ二つに裂けた。
最後の力を振り絞って片翼のみで軟着陸し、細く一声啼いて息絶えた飛竜を、ガブリエル・ミラーは無感動に見下ろした。
視線を外したときにはもう、彼の記憶と思考から竜の存在は完璧に排除されていた。表情を変えぬまま、ぐるりと周囲を見渡す。
墜落したのは、円柱様の奇岩がいくつも立ち並ぶエリアだった。どの岩山も、高さ三百フィート、直径も百フィートはありそうだ。そのうち一つの上に彼は立っている。
飛び降りるのは、さすがに無謀に過ぎる。エレメントを生成・操作するこの世界の魔術にも、まだ習熟しているとは言いがたい。足元に、意識を失ったまま横たわる整合騎士アリスを抱えて降下するとなれば尚更危険は増す。
カラビナとハーケン、ザイルがあれば、現実世界でもこの程度の垂直壁面はたやすく懸垂降下してのけるガブリエルだが、今は"待ち"でよかろう、と判断を下した。
なぜなら、遥か北の空から、ガブリエルを何らかの手段で撃墜した張本人とおぼしき敵が、三匹の竜を伴って急接近中だからだ。敵を処理し、しかるのちに新しい竜のAIを支配して南下を再開すればよい。
視線をまっすぐ頭上へと動かす。クリムゾンの空に浮かぶ太陽は、すでにかなりの高さに達している。
クリッターが時間加速を再開するまで、もう何時間もあるまい。問題は、戦場に投入したアメリカ人ベータテスターたちが、再加速で弾き出されるまでに首尾よく人界軍を殲滅してのけるかどうかだが――テスターの数はおそらく五万は楽に越えるはずだ。たった一千ほどしか残っていなかった人界軍に抵抗はできまい。
不確定要素があるとすれば、暗黒界軍を次々に蹂躙してのけた整合騎士とやらだが、そのひとりアリスはこうして手の内にあるし、恐らく接近中の追跡者もまた騎士だろう。北方の戦場には、残っていたとしても一人、二人。
問題は何もない、と短く頷き、ガブリエルは最後に、横たわる整合騎士アリスをじっと眺めた。
改めて、つくづく――美しい。
体の奥を這い回る興奮を抑えられないほどに。
眼を醒ましたときのために、武装を布一枚に到るまで全解除して、きつく拘禁しておくかどうかガブリエルは少し迷った。合理的判断としてはそうすべきなのだろうが、しかし敵が迫っている中で、慌しく作業的に扱うのは躊躇われる。
やはり、時間加速が再開してから、たっぷりと時間をかけて味わいたい。鎧のバックル一つ外すにも、優美に、厳粛に、象徴的に。
「……もう暫らくそのまま眠っているといい、アリス……アリシア」
優しく言葉をかけ、ガブリエルは敵を迎え撃つべく、テーブルロックの中央へと歩を進めた。
暗黒神ベクタアカウントを使用するガブリエル・ミラーにも、それを発見したクリッターにも知る由もないことだったが、最強騎士たるアリスが、たかが飛竜に蹴られただけで気絶したまま数時間も覚醒しないのは、すべてベクタに付与された能力ゆえのことだった。
アンダーワールドに設定された四種のスーパーアカウントは、それぞれ、世界の直接的――つまり神の御業的な――操作を目的として存在する。
フィールド改変を行うステイシア。
動的・静的オブジェクトを破壊するソルス。
オブジェクト耐久度を回復するテラリア。
そしてベクタは、住民たる人工フラクトライトそのものを操作の対象とする。
具体的には、住民たちの精神活動、つまりフラクトライト中の光子情報(ベクターデータ)を一時停止し、遥か離れた地点に再配置したり、新たな家族を作らせたりするのだ。
行為としては住民を襲い、攫うかたちとなるため、他の三神とは異なり信仰の対象とはなりにくい。ゆえに最高優先度装備、上限天命数値に加え、術式対象にならないという強力な保護が施されている。アンダーワールドに童話として伝わる"ベクタの迷子"は、過去に行われたその種の操作が元となっているのである。
もちろん、そのための音声コマンド体系が存在するのだが、STLを使用して他フラクトライトに働きかけるかぎりにおいては、コマンドはトリガーにすぎない。限定的な効果ならば、イマジネーションのみにても発生させることは可能となる。
そして、暗黒神ベクタの能力は、ガブリエルの特異な精神とは、ある意味では最上の、同時に最悪の組み合わせでもあった。
人の心を――その熱を、光を、輝きを吸う。
アリスは、一時的にフラクトライトの活力を奪われ、強制的な昏睡状態へと置かれていたのだ。
暗黒将軍シャスターの必殺の心意を喰らい尽くしたのもまた、ベクタとガブリエルの力の融合あってのことだった。
そして今、シャスターの長年の好敵手であった整合騎士長ベルクーリも、同じ道へと進もうとしていた。
ベルクーリは、幸運にも、敵皇帝ベクタがすぐには脱出できそうもない高い岩山の上に着陸したのを視認した。
絶技を使用したことによる強い消耗感を、気力で振り払う。
「よぉし……もうひとっ飛び、頼むぞ星咬、雨縁、滝刳!!」
声と同時に、三頭は限界まで接近し、ひとつの巨大な翼のように加速した。
敵が静止していれば、たとえ十万メル以上の距離でも飛竜にとってはほんの数分だ。
戦いの前に残された時間を、ベルクーリは静かな黙考へとあてた。脳裏に、今朝方見た夢が鮮明に蘇る。
死を予感したことはある?
夢のなかでそう言った最高司祭アドミニストレータは、二百年以上付き合ったベルクーリにも、最後まで謎に包まれた存在だった。
深凍結処理から解放され、アリスに最高司祭の死を知らされたときも、驚愕というほどのものはなかった。長い間お疲れさん、という感慨があった程度だ。むしろ、寿命ある存在だった元老チュデルキンが死んだことのほうに驚いたものだ。
だから、アドミニストレータの最後の戦いと、その散り様について、殊更アリスに尋ねることもしなかった。突然自分の肩にのしかかってきた人界防衛の任に忙殺されたせいも無論あるが、あるいは、知りたくなかったのかもしれないという気もする。あの銀髪銀瞳の少女の、欲望と執着、業の深さを。
ベルクーリにとっては、アドミニストレータは常に物憂げで、飽きっぽく、気まぐれなお姫様だった。
尊敬したことはない。服従こそすれ忠誠を誓った覚えもない。
しかし――。
仕えること自体は、決して、厭ではなかった。
「そうさ……それだけは、信じてくれよな」
呟き、最古の騎士はぱちりと鋭い双眸を開いた。
もう、横たわるアリスの黄金の鎧と、その手前に影のようにひっそりと立つ皇帝ベクタの姿がはっきりと見て取れた。
「よし……お前らは、上空で待機! もし俺がやられたら、すまんがなんとかアリスを奪還して、北へ逃げてくれ!」
竜たちに低くそう指示し――ベルクーリは、遥か高空から、ふわりとその身を躍らせた。
流星のように光の軌跡を残して飛び去ったソルス/シノンの後を追うように、人界軍八百は必死の南進を続けた。
徒歩で追ってくる黒の歩兵軍団一万三千は、多少引き離されつつある。しかし、一頭が二人の衛士を乗せている馬たちもこのまま走り続けることはできない。
アスナは、キリトとティーゼ、ロニエの乗る馬車の天蓋に立ちながら、祈るように南を凝視し続けた。
はたして――。
二十分ほどの行軍のあと、地平線に、寺院めいた巨大な遺跡が蜃気楼のように浮かび上がった。
生命の気配は無い。朽ちた石たちが静かに眠るばかりだ。
まっすぐ伸びる道を挟むように、ふたつの平らな大宮殿が横たわっている。高さは二十メートルほど、幅は左右に三百メートル以上もあるだろうか。敵軍の包囲を防ぐ障壁としては充分な規模だ。
ふたつの宮殿の間を、道はそのまま南へ続いている。参道めいた印象を持つのは、宮殿の壁に接するかたちで道の両側に、奇怪な巨像がびっしり並んでいるからだ。
東洋風の仏像でも、西洋風の神像でもない。しいて言えば、どこか南米の遺跡を彷彿とさせる、ずんぐりと四角いシルエットだ。すべてが真ん丸い目と巨大な口を彫り込まれ、胸の手前で短い手を合わせている。
あれは、アンダーワールドが生成されたとき、ラースのエンジニアがデザイン、配置したものなのだろうか? それとも、ザ・シードパッケージが自動生成したのか?
あるいは――かつてこの地に暮らしたダークテリトリー種族が、岩山から掘り出したものか……?
たとえば、たくさんの死者に捧げる、巨大な墓標として。
不吉な想念を、アスナは鋭い吐息で押しやった。
部隊の先頭を走る飛竜の背の騎士レンリに、大声で伝える。
「あの参道の中ほどで敵を迎え撃ちましょう!」
すぐに、了解です! という声が返った。
数分後、部隊はその勢いを減じることなく、薄暗い遺跡に突入した。左右から、四角い巨大神像たちが、じっと無言で見下ろしてくる。馬のひづめと馬車の車輪が、土から敷石へと変わった道路に硬質の音を響かせる。
ひんやりと冷たい空気を切り裂くように、レンリの爽やかな声が命じた。
「よし、前部衛士隊は左右に分かれて停止! 馬車隊と後方部隊を通せ!」
さっ、と割れた騎馬の間を十台の馬車が進み、同じように停止した後続騎馬隊も抜けて、いちばん奥に達したところで停まった。
密度のある静寂をはらんだ風が、人界軍を撫でるようにひゅうっと吹き抜ける。
しかしそれも一瞬だった。北から追いすがる大部隊の立てるどろどろという地響きが、たちまち追いついてくる。
アスナは、馬車から飛び降りると、幌の内側から顔を見せた少女たちに声を掛けた。
「これが、最後の戦いよ。キリトくんのことお願いするわね」
「はい! 命に代えても!」
「必ずお守りいたします!」
固く握った小さな右拳で騎士礼をするロニエとティーゼに、同じ仕草を返しながら、アスナは短く微笑みかけた。
「大丈夫、絶対にここまで敵は通さないから」
それは、半ば自分に誓った言葉だった。開いた右手を軽く振り、アスナは毅然と身を翻した。
駆けつけた部隊の先頭では、レンリがてきぱきと衛士たちを配置していた。
道の幅はおよそ二十メートル。理想的とは言えないが、この人数でも完全ブロックした上でスイッチローテーションを組むのは不可能ではあるまい。
要は、後方からの術師たちの支援が続くあいだに、犠牲者を極力抑えて敵を削りぬくことが可能かどうか、だ。幸いなのは、黒歩兵軍に、魔術職の姿がまるで見えないことだ。アンダーワールドの複雑なコマンド体系を、短時間でアメリカ人プレイヤーたちに習得させることは不可能と判断してのことだろうが、この状況では正直ありがたい。
いざとなれば――。
わたし一人で、敵全軍斬り伏せる。
アスナは大きく息を吸い、決意とともに体の底に溜めた。
ステイシアの膨大な天命を考えれば、数値的ダメージによって倒されることはないだろう。問題は、あの恐るべき痛みに耐え切れるかどうか、だ。心が痛みに負けたとき、この体は傷つき、命はあれども剣を握れないという無様を晒すことになる。
アスナは目を閉じ、傷ついたキリトのことを思った。彼が受けた痛みと、背負った悲しみの大きさを思った。
部隊の一番前に向けて歩き出したとき、心にはもう一片の恐れも無かった。
おそらくは、この戦争において最後の大規模戦闘となるはずの激突は、昇りきった朝日のもとで行われた。
プロモーションサイトが約束していたリアルな血と悲鳴を求めて、二十人ほどの重武装ベータテスターたちが、真っ先に遺跡参道へと突入していった。
彼らを迎えたのは、しかし、レーティング無視の娯楽を提供するための哀れなNPCなどではなかった。
世界を、そして敬愛する黄金の少女騎士を救わんとする決意を秘めた、真の勇士たちだった。その剣は意志に満ち、断固たる威力で振り下ろされた。
一方的に殲滅されていくアメリカ人プレイヤーたちを、高みから見下ろすひとつの影があった。
極限まで金属装甲を廃した、ライダースーツにも似た革の上下。艶のあるレザーの到るところに、銀色の鋲が突き出ている。
武器は、腰に下がる大型のダガーひとつのみ。顔は見えない。レインコートに似た、やはり黒革のポンチョを羽織り、フードを口元まで下ろしているからだ。
唯一覗く大きめの唇は、極限まで歪んだ笑みをにやにやと湛えていた。
ヴァサゴ・カザルスである。
アンダーワールドに再ログインした彼は、直後浴びせられたシノンの広範囲レーザー照射をなんなく回避し、アメリカ人たちに紛れ込んで人界軍を追ったのだ。しかし初期の突撃には加わらず、西側の大宮殿の壁をするすると登ると、戦線を見下ろす位置にある神像の頭にあぐらを掻き、特等席からの見物を決め込んだのだった。
「おーお、相変わらずキレると容赦ねーなあの女。うほほ、殺す殺す」
愉しくてたまらぬ、というふうに、笑い混じりに呟く。
はるか眼下では、真珠色の鎧に栗色の髪をなびかせた少女――"閃光"アスナが、ヴァサゴの遠い記憶にある姿そのままに、右手のレイピアを閃かせている。
あの時も、ヴァサゴは同じように、ハイディングしつつアスナの戦闘を眺めたものだ。世界(ゲーム)が終わる前にかならず仕留めてやる、と内心で固く誓いながら。
――アスナの隣で、より凄まじい戦いぶりを見せる黒衣の剣士ともども。