拳闘士団長イシュカーンは、身のうちに滾る憤怒を、一瞬にせよ忘れた。
あれは、何だ。
巨大峡谷の対岸では、大綱を渡り終えた五百の暗黒界兵と、五人の整合騎士、そして一千の人界兵がまさに激突せんとしていた。
しかし、突如彼らの動きが止まり、愕然とした様子で視線を戦場の外側へと向けたのだ。
引き寄せられるように自らも顔を動かしたイシュカーンが見たのは、峡谷南岸に巨大な半円を描いて降り注ぐ、漆黒の雨だった。
天から、奇妙な震動音を放ちながら無数の黒線が落ちてくる。
それらは、地面に接すると同時にぶわり、ぶわりと膨れ上がり――たちまち、人間の形へと変化した。
出現したのは、艶のない黒の全身鎧に身を固め、長剣や戦斧、長槍で武装した戦士たちだった。
一見、暗黒騎士団の歩兵のように見える。
だが、直後、言いようの無い違和感がイシュカーンを襲った。
黒い歩兵たちの、緊張感のないだらりとした立ち姿。それでいて、濃密に立ち上る生々しい欲望。
何より――その数!
主戦場から五百メル以上の距離をあけて出現したというのに、歩兵集団は黒い壁に見えるほど密だ。ざっと概算しただけでも、一万人は軽く超える。二万、いや三万にすら達するか。
暗黒騎士団にそれほどの戦力があったのなら、十候合議体制などとうに破棄され、ダークテリトリーは彼らの統べる地となっていただろう。
それに、峡谷のこちら側に並んで陣取る暗黒騎士たちの間からも、驚きと動揺の声がさざめきとなって湧き上がっている。彼らも知らないのだ。あの軍団が何なのか。
そもそも、彼らはどこから現れたのか。黒い雨に身をやつして移動する術式など聞いたこともない。また、三万の歩兵を自在に転移させる力は、暗黒術師ギルドにだってあるはずがない。
となれば――。
あれは、皇帝にして暗黒神たるベクタその人の成したことに違いない。
漆黒の歩兵らは、皇帝が地の底より召喚した、本物の"闇の軍勢"なのだ。
イシュカーンの驚きは、一秒後、更なる憤りへと変化した。
あんな大軍の召喚が可能なのならば!
なぜもっと早く実行しなかったのか。これでは、無謀な渡峡作戦によって命を散らした拳闘士と暗黒騎士たちは、ただ敵をおびき寄せるための囮ではないか。
いや――事実そのとおりなのか。
皇帝は、自らの配下を呼び出す時間を稼ぐためだけに、あのような、まるで殺してくれと言わんがばかりの作戦を強行させたのか。
……違う。
この作戦だけではない。東の大門での攻防も含めて、暗黒界軍の戦力損耗ぶりは異常だった。亜人混成軍を、オーク予備戦力を、そして暗黒術師団をほぼ全滅させておきながら、皇帝は彼らの死を悼むどころか、眉ひと筋動かすことさえしなかったのだ。
つまり、最初から、皇帝ベクタにとっては五万の暗黒界軍すべてが捨石だったのだ!
この瞬間まで、弱冠十七歳の拳闘士長イシュカーンは、己が体の鍛錬と技の向上、そして部族の躍進にしか興味のない若者だった。
しかし今、彼ははじめて自らが属する暗黒界と、そして人界をも含む世界全体を俯瞰する視点を得た。
その観念は同時に、圧倒的な矛盾を彼の意識中に生み出した。
皇帝は強者である。強者には従わねばならない。
しかし。
しかし――。
右眼が、これまでないほどの激痛に見舞われ、イシュカーンは呻いた。
よろめき、跪いた彼の視線の先で、三万を超える黒の兵たちが、人語ならぬ喊声を轟かせながら、一斉に地を蹴った。
半円の環が縮まっていく。
約一千の人界兵たちが、整合騎士らと合流し、方陣を作って迎撃態勢を取る。
その西側では、五百の拳闘士と暗黒騎士たちが、どうしていいか分からないように立ち尽くしている。
いかに皇帝ベクタの策が無慈悲極まるものであろうとも、しかしこれで、少なくともあの五百人の命は救われたことになるのか。
イシュカーンは、右眼を強く抑えながら、意識の片隅でそう思った。
しかし彼は、無慈悲という言葉の本当の意味を知らなかった。
五百の暗黒界兵は、人界兵らより先に、召喚された闇の大軍と接触した。
無数の剣が、斧が、槍が振りかざされ――。
血に飢えた叫びとともに、味方であるはずの拳闘士たちに振り下ろされた。
「な……なんだあの連中は!?」
アスナは、初めて聞く騎士長ベルクーリの驚愕の叫びに、何と答えていいか分からなかった。
数万にも上る軍勢の突如なる出現が、皇帝ベクタのアカウントを乗っ取った襲撃チームの仕業であることは明らかだ。
しかし、どこからこれほどの数の戦力を引っ張り出したというのか。
モンスター扱いの自動操縦キャラクターを生成したのだろうか。しかし、メインコンソールはロックされ、そのような管理者権限操作は不可能だ。せいぜい、アスナのように座標を指定しての直接ダイブしか手段はないはずで、しかも襲撃者たちに使用できるSTLはたったの二機。
アスナを襲った一瞬の混乱を――。
ほんの百メートル先まで迫った、漆黒の剣士たちの叫び声が氷解させた。
「Shake it up!」
「Kill 'em all!!」
英語!!
あれは現実世界の人間――しかも発音からしてアメリカ人だ!
だが、なぜこんなことが……ここは、隔離された真の異世界……。
いや。
いや――。
アンダーワールドは、STLを使用してダイブした者にとっては、"ニーモニック・ビジュアル形式"という現実以上のリアリティを持つ異界だが、しかしその設計には汎用VRMMOパッケージ、ザ・シードが用いられているのだ。つまり、アミュスフィアされあれば、ポリゴンレベルの下位層にはダイブ可能であり……そしてオーシャンタートルには、軍事レベルの大容量衛星回線が備えられている。
ならば、アンダーワールド・メインフレームのアドレスと、ダイブ用アカウントを付与したクライアントプログラムを作成し、現実世界にばら撒けば。
可能なのだ。何万人――それこそ何十万人にも及ぶ軍勢を作りだすことは。
あのアメリカ人たちは、この戦いの真実など何も知らず、おそらく新VRMMOタイトルのオープンβテストとでも信じ込まされてダイブしたのだろう。
それなら、剣を振り下ろすことに一切の呵責は無いはずだ。彼らにとっては、眼前の兵士たちは、人間と同じレベルの意識体などではなく、単によく出来たNPCでしかないのだから。
彼ら一人ひとりに悪意があるわけではない。現実世界でなら、同じサーバーに接続し、パーティーを組むことだってある気のいいVRMMOプレイヤーたちなのだ。おそらく、時間をかけてアンダーワールドと人工フラクトライトの真実を話せば、剣を引いてくれる者が大半なのではないか。
しかし――いまはその時間がない。もし、倒した敵のポイントに応じて、正式サービス稼動後にレアアイテムが分配される、等とでも説明されていれば、日本人だって同じことをするだろう。
もはや、一切の説得も、説明も通じまい。
守らなければ。この場でただ一人、かりそめの命を与えられている自分が。
アスナは右手の細剣を振り上げると、口のなかで素早くコマンドを唱えた。
「システム・コール! ジェネレート・フィールド・オブジェクト!!」
剣に、七色のオーロラが宿る。
昨夜と同じように、底なしの峡谷を作るわけにはいかない。人界軍の退路まで断たれてしまう。
かわりに、槍のように鋭い巨岩をイメージしながら、アスナは剣を大きく振った。
ラ――――、という荘重なサウンドエフェクトが響き渡る。虹色の光が切っ先から迸り、地に突き刺さる。
ゴ!!
突如、前方の地面が震動し、険峻な岩峰が頭をもたげた。それはたちまち、三十メートル近くも伸び上がり、その場所にいた黒い歩兵たちを数十人も高々と跳ね飛ばす。
ゴン! ゴッ!! ゴゴォォン!!
続けて、更に四つの岩山が並んで出現し、一気にせり上がった。大地が揺れ、更に数百単位で黒い鎧兜が空に舞った。英語の罵り声を甲高く喚き散らしながら、ある者は岩に磨り潰され、ある者は地面に激突して、大量の血と肉片をばら撒く。
アスナには、彼らが己の"死"をどう知覚したのかを推測する余裕は無かった。
いきなり、猛烈な激痛が頭の芯を貫き、その場に膝を突いてしまったからだ。
目の前に白い火花が飛び散り、息もできずに喘ぐ。昨夜、巨大峡谷を作ったときよりも遥かに強烈な痛みだ。膨大な地形データが通過する過程で、フラクトライトが――あるいは脳細胞が損耗していく生々しい感覚。
でも、ここで倒れるわけにはいかない!!
これでキリトと同じ傷を負うなら本望だ。アスナはそう念じながら、歯を食いしばり、剣を杖にして立ち上がった。
東側から押し寄せる兵士たちの足は、多少鈍った。西側では、アスナの推測を裏付けるかのように、アメリカ人たちがダークテリトリー軍にまでも襲い掛かっている。考えてみれば、彼ら暗黒界人こそ哀れと言うべきかもしれなかった。しかし今は、憐憫にかられている余裕はない。
残る一方、南に突破口を作り、そこから人界軍を脱出させる。
荒く息をつきながら振りかざした右腕を――。
曙光を受けて煌く篭手が、そっと抑えた。
「……アリス……!?」
掠れ声で叫ぶ。
黄金の騎士は、その白い美貌に確たる決意を浮かべ、小さく首を振った。
「無理をしないで、アスナ。あとは私たち整合騎士に任せなさい」
「で……でも、あいつらは……リアルワールドの……私の世界からやってきた敵なの……!」
「……分かります。覚悟なき欲望……血に飢えた刃。あのような奴ばら、何万いようと物の数ではない」
「そうだとも。オレたちにも少しは出番を分けてくれや」
アリスの言葉を引き取り、ベルクーリが太く笑った。
この状況でも、余裕に溢れた騎士たちの言葉だが――その表情には、これまで以上の悲壮なる覚悟がみなぎっていることを、アスナは察した。
黒い津波となって押し寄せる敵の数は、人界軍の三十倍以上。
もう、気迫でどうなるレベルではないのだ。
しかし、騎士長はその使い込んだ長剣を高々と掲げると、強靭な声を響かせた。
「よおォし!! 全軍、密集陣形!! 一点突破でずらかるぞ!!」
「オ……オ、オ……」
イシュカーンの口から漏れたのは、人の言葉ではなかった。
「オ……オオオオォォォォォ――――!!」
体の両側で握り締めた拳から、ぽたぽたと血が垂れた。しかしその痛みを自覚することもなく、若い闘士は獣の咆哮を放ち続けた。
死んでいく。飲み込まれていく。
状況が分からず、戦うことすらもできない一族の闘士たちが、闇雲に振り下ろされる刃のしたで悲鳴と鮮血を次々と撒き散らしていく。
なのに、残された五本の太縄を渡る兵たちは動きを止めることはない。対岸に渡れ、というのが皇帝の命令だからだ。絶対者に命ぜられたままに、諾々と綱を渡りきり、その直後に黒の軍勢にわっと集られ、切り刻まれる。
なぜ――どうして皇帝は、渡峡の中止と、ダークテリトリー軍への攻撃停止を命じてくれないのか。
これでは、部族の兵たちは囮ですらない。
召喚された黒い軍勢に捧げられる生贄ではないか。
「こ……皇帝に……」
上申せねば。作戦を停止してくれるよう要請しなくては。
怒りと絶望、そして視界の右側を染める赤光と右眼の激痛に苛まれながらも、イシュカーンは後方の御座竜車に向かおうと足を一歩動かした。
その瞬間。
上空を、ひとつの巨大な影が横切った。
飛竜。
黒い装甲によろわれたその背に乗るのは――豪奢な毛皮のマントと、長い金色の髪を翻した、まさしく皇帝ベクタその人だった。
「あ……あ……!!」
イシュカーンが無意識のうちに発した言葉ならぬ叫びが聞こえたか、竜の鞍上で、皇帝がちらりと地上に視線を投げた。
その闇色の瞳には、一切の表情はなかった。
無為に死にゆく兵たちに、ひとかけらの憐憫も、それどころか興味すらも抱いていない、氷のような一瞥だった。
皇帝ベクタは、イシュカーンからすっと視線を外し、峡谷の南へと竜を飛翔させた。
あれが――神。あれが支配者。
しかし、支配者ならば。何ぴとも及ばない力を持つ強者ならば。
それに応じた責務だってあるはずではないか!
統べる軍を、治める民を導き、一層の繁栄をもたらす、それが支配者の務めであるはずだ。何千何万の命をただ使い捨て、そのことに何ら感情を動かさない者に――皇帝を――右眼が――支配者を名乗る――右眼が痛い――資格など…………!!
「うっ……お……おおおああああああ!!」
イシュカーンは、高々と右拳を突き上げた。
そして、その指先を鉤づめのように曲げ。
思考を妨げる灼熱の発生源である、おのれの右眼に突き立てた。
鮮血が飛び散り、ぶち、ぶちという嫌な音が響き渡った。
「お……長よ!! 何を!?」
駆け寄ろうとするダンパを左手で押しのけ、短い絶叫とともに、若き闘士は右の眼球を一気に引き抜いた。その白い球体は、拳のなかで奇怪な閃光を放っていたが、ぐしゃりと粉砕されると同時に光も消えた。
この時点でイシュカーンは、アリスやユージオのように"コード871"の自力解除にまで到ったわけではなかった。
ゆえに彼は、皇帝に対する直接的叛意を形成することはできず、現状与えられた命令である、「渡峡作戦の継続」及び「自身は綱を渡ってはいけない」という二つの指示は破棄できなかった。
しかし、彼はほとんど反逆に等しいレベルで、皇帝の命令を回避する手段を無理やり見出すことには成功した。
イシュカーンはゆっくり振り向き、唖然とした顔で見下ろすダンパに、低い声で語りかけた。
「皇帝は、あの黒い兵どもに関しちゃ何も命令してねえ。そうだな?」
「は……それは、そのとおりですが」
「なら、俺達があいつらをブチ殺すぶんには皇帝にゃ関係ないってことだ」
「……チャンピオン…………」
絶句するダンパを隻眼でぎろりと凝視し、イシュカーンは命じた。
「いいか……橋がかかったら、部族全軍で突撃してこい。何がなんでも、仲間を助けるんだ」
「は……!? 橋なぞ、ど、どうやって……」
「知れたことだ。頼むんだよ」
静かに言い放ち、イシュカーンは峡谷に向き直った。
突如、その逞しい両脚を、強烈な炎が包み込んだ。
赤々と燃える足跡を残しながら、拳闘士王は谷に向けてゆっくりと走り出した。速度はすぐに高まり、やがて一条の火焔となるまでに加速する。
綱を渡っちゃいけねえなら……飛びゃぁいいんだろうが!!
胸中でそう絶叫し、彼は幅百メルの奈落へと向けて、左脚を思い切り踏み切った。
"跳躍"は、拳闘士の重要な鍛錬の一つである。
修行は、砂地での安全な幅跳びに始まり、やがては並べた刃や煮えたぎる油を飛び越すことで心意を形成する。
その距離は、一流闘士では最終的に二十メルを超える。それは、人間の飛行が禁じられたこの世界においては、生身での跳躍の上限でもある。
しかし今、イシュカーンが体を投じたのは、限界距離の五倍にも達する幅をもつ底なしの峡谷だった。
宙に火炎の尾を引きながら、拳闘士はひたすらに前だけを睨み、空気を蹴った。
十メル。二十メル。体はまだ上昇していく。
三十メル。三十五メル。谷から吹き上がる強風に乗り、見えない翼に後押しされるように、さらに高みに駆け上る。
四十メル。
もう少し――あとほんの一息昇れれば……そこから先は惰力で向こう岸まで届く――。
しかし。
谷の真ん中の、ほんのわずか手前まで達したとき、無情にも風が止んだ。
がくり、と体が勢いを失う。跳躍軌道が頂点に達し、下向きの曲線へと移行する。
五メル……足りねえ。
「うおおおお!!」
イシュカーンは叫び、何かを掴もうとするかのように右手をまっすぐ伸ばした。しかし手がかりも、足がかりもあるはずはなく、足下の暗闇から這い登る冷気だけが彼の体を撫でた。
その時――。
「チャンピオオオオオン!!」
凄まじい雄叫びがイシュカーンの耳を打った。
ちらりと後方を見る。
副官ダンパが、己の頭よりも大きい巨岩を右腕で掴み、今まさに投擲体勢に入ったところだった。
長年付き合った忠実なる部下の意図を、長はすぐに察した。しかし――あれほどの大岩を、五十メル以上も投げるなど、人間に出来ることではない……。
ごわっ。
と、突如ダンパの右腕が膨らんだ。全身の力がそこだけに集中したかのように、筋肉が盛り上がり、血管が浮き上がる。
「オオオオ!!」
巨漢が吼え、数歩の助走に続いて、右腕が振り抜かれた。
まるで投石器のように、空気を震動させて岩の塊が射出され――直後、腕全体が、鮮血と肉片を振り撒いて爆裂した。
どさりと倒れるダンパの姿を左眼に焼きつけ、イシュカーンは歯を食いしばって、一直線に飛来する岩のみに意識を集中させた。
「……いぇああああ!!」
気合とともに、左の足裏で思い切り岩を踏み抜く。
バガァァン!!
と岩が四散し、その反動でイシュカーンの小柄な体は弾かれたように再度加速した。対岸で戦う剣士たちの姿が、もう目の前にあった。
盛大な罵り声を上げてばったりと倒れるアメリカ人歩兵の体から細剣を引き抜き、アスナは荒く息をついた。
暗黒界人を相手にするときのような、命を奪うことへの心理的重圧はない。かつての"閃光"、その後の"バーサクヒーラー"の二つ名のとおりに容赦ない連続剣技を繰り出し、屠った黒い兵たちの数はすでに十を超えた。
しかし――いかんせん、敵が多すぎる!!
アスナだけでなく、人界軍の衛士たち、そしてことに四人の整合騎士の奮戦はまさに鬼神の如しだ。方形に密集陣を組む衛士たちの先頭に立ち、なんとか南に血路を切り開くべく、屍の山を築いている。
だが、あとからあとから押し寄せる黒い歩兵の壁を押し戻すことができず、足を止めて鬩ぎ合うのが精一杯の状況だ。
何より、いずれ彼らも気付くだろう。切り倒した敵の死骸が、数十秒後にあとかたもなく消滅し、その場に血の一滴すらも残らないことに。自分たちが、命を持たぬ幻の軍隊を相手にしていることに。
「うわ……だめだ……うわあああ――!!」
突如背後から響いた絶叫に、アスナはハッと振り向いた。
衛士たちの戦列の一部が破られ、漆黒の泥水のように、アメリカ人たちがなだれ込むのが見えた。
甲高い罵声を迸らせながら、手当たり次第に衛士たちに襲いかかり、数人で取り囲んで切り刻む。血が、肉が飛び散り、悲鳴が断末魔の絶叫に変わる。
そのあまりにもリアルな死に様に、一層の欲望を掻き立てられたかのように、黒の兵士たちは新たな得物へと群がっていく。
「やめて……やめて……!!」
アスナは叫んだ。
今は、一部の犠牲は無視して、ひたすら南へと斬り進むときだ。理性ではそう分かっていたのに、しかし体が勝手に向きを変え、北へと走り出すのを止められなかった。
「やめてえええええええええ!!」
血を吐くような苦鳴とともに、押し寄せる黒い奔流へと単身斬り込む。
アメリカ人プレイヤーたちに悪意はない。ただ利用されているだけ――という認識も、吹き荒れる激情を止めることはできなかった。
ズカカカッ!!
右手が閃き、真珠色の細剣が立て続けに黒いヘルメットのバイザーを貫いた。頭部にクリティカルヒットを負った四人が、剣を取り落とし、喚き声を上げながらのたうち回る。
その反応からして、アミュスフィアを利用してダイブしているはずの彼らが、ペイン・アブソーバ機能で保護されていないことは明らかだ。すでにそうと察していたアスナは、これまでなるべく一撃で心臓を破壊し即死・即ログアウトさせるようにしていたのだが、そんな理性もいつしか失せていた。
剣の高優先度に任せ、鎧の上から突き、切り裂き、時には敵の剣ごと断ち割る。
アメリカ人たちが見ているのは、あくまでポリゴンの敵であり、エフェクトの血液だ。しかしSTLダイブしているアスナには、彼らもまた生身の人間であり、飛び散る返り血は鳥肌が立つほどに生暖かく、噎せ返るほどに鉄臭かった。
いつしか足元に溜まっていたその血に――ずるりと右足が滑った。
どうっ、と横倒しになったアスナの眼前に、巨躯の歩兵が圧し掛からんばかりに立ちはだかった。
「fucking bitch!!」
振り下ろされるバトルアックスの下から逃れようと、アスナは右に転がった。
しかし、地面を突いた左腕を引き戻すまえに、分厚い刃が前腕を捉えた。
かつっ。
あまりにも軽い音とともに、腕が肘の下から切断され、宙に舞った。
「っ……あ…………ッ!!」
凄まじい激痛に、目の前に白い火花が散った。呼吸が止まり、体が硬直した。
滝のように血を振り撒く左腕を抱え込み、アスナは喘いだ。抑えようもなく溢れた涙を通して、自分を取り囲み、武器を振り上げる四、五人の黒い影だけが見えた。
突然――。
バトルアックスの大男の頭部が、爆発したかのように飛散した。
ボッ、ボガガガン!!
鈍い打撃音だけが連続して響いた。機関銃のようなその響きひとつで、アスナに止めを刺そうとしていた歩兵たちの体が次々に粉砕され、視界外に消えた。
「へっ……ヤワい連中だ」
激痛を堪えながら、どうにか上体を起こしたアスナが見たのは、精悍な容貌と炎のように逆立った髪を持つ、小柄な若者だった。
――ダークテリトリー人!
一瞬痛みを忘れ、アスナは息を吸い込んだ。肌の色、革の腰帯ひとつのその装束、間違いなくつい先ほどまで剣を交えていた拳闘士の一族だ。
しかし、なぜ皇帝ベクタの支配下にあるはずの者が、同じくベクタに召喚された黒歩兵を攻撃したのか。まるで、アスナを助けようとするかのように。
見下ろす拳闘士の、朱色の眼は片方しかなかった。右の眼窩は醜い傷痕に潰され、まだ新しい血の筋が涙のように頬で乾いている。
若者は、更に押し寄せようとするアメリカ人たちを、その隻眼でぎろりと睥睨すると、右拳を高々と掲げた。
ゴッ!!
そのごつごつした拳骨を、突然赤々とした炎が包んだ。
「ウ……ラアァァァッ!!」
裂帛の気合とともに、拳が地面へと叩き込まれる。
ドッ……グワッ!!
炎の壁にも似た衝撃波が半円形に発生し、前方の黒歩兵たちをひとたまりもなく吹き飛ばした。
――なんという威力だ!
アスナは瞠目した。今戦ったら――あるいは負ける……。
ずいっ。
突き出された左腕が、アスナの鎧の首元を掴んだ。強引に立たされたアスナを、一つだけの瞳が間近で睨み付けた。
「……取引だ」
若々しい、それでいて深い苦悩の滲む声で発せられた言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「と……りひき?」
「そうだ。あの岩槍や、でけえ地割れを作ったのはお前だな。いいか、地割れに、狭くていいから橋を架けろ。そうすりゃ、四千の拳闘士団が、この黒い軍隊どもをブッ潰すまでお前らと共闘してやる」
共闘――ダークテリトリー軍が!?
そんなことが有り得るのか。暗黒界人は、いやこの世界の人間は、コード871によって上位者とその命令には逆らえないのではないのか。
しかし、この若者には右眼が無い。これはつまり、封印を自力解除した証なのか? 彼もまた、アリスと同じく限界突破フラクトライトへと進化したのか?
でもこの傷痕は――右眼が破裂したというより、無理やり抉り出したかのような……。どう考えれば、どう判断すればいいのか。
アスナの刹那の逡巡を、右側から響いた声と剣風が破った。
「その人、たぶんウソはつかない」
ぴゅ、ぴゅぴゅん。
驚くほど細く、よくしなる漆黒の剣で数人の歩兵の首を落としたのは、灰色の髪を持つ女性の整合騎士だった。名は、たしかシェータ。
「おう」
シェータを見た若い拳闘士が、にやりと不敵な――それでいてどこか照れたような笑みを微かに浮かべた。
その瞬間、アスナは決断を下した。
信じよう。
おそらく、"地形操作"能力が使えるのはこれで最後だ。ならばその機会は、破壊ではなく創造のために使うのも、悪くないだろう。
「……わかった。橋を作ります」
左腕の傷口から手を離し、アスナは右手のレイピアを高く掲げた。
ラ――――――――。
荘重な天使の歌声に続き、七色のオーロラが高く天を衝いた。
それは一直線に北へと突き進み、峡谷を貫き、対岸まで達した。
低い地響きが轟き、大地が震えた。
ゴン! ゴゴゴゴン!!
突如、崖の両側から岩の柱が突き出た。それらは見る間に長く伸び、谷の中央で結合すると、更に太く、しっかりとした架橋へと変化した。
「ううううううう、らあああああああ!!」
地形変化に伴う地響きの数倍の音量で迸ったのは、四千の拳闘士団が放つ怒りの雄叫びだった。
隻腕の巨漢を先頭に、闘士たちが一斉に橋上を疾駆し始めた。
切断された左腕の痛みに数倍する頭痛に、一瞬気を失いながら、アスナはわずかに安堵の息を吐いた。
これで――この場は脱出できるかもしれない。
どうか無事でいて、アリス。
約一分前。
戦場の最南部に於いて――。
整合騎士アリスは、あとからあとから湧いてくるような黒い歩兵たちを、もう何人斬り倒したのか数えられなくなっていた。
こいつら――おかしい。
剣士としての覚悟も、鍛錬された剣技もないのに、奇妙な言葉を喚き散らしながら仲間の死骸を踏み越え次々に飛びかかってくる。まるで、命が惜しくないかのように。それどころか、自分の、仲間の、敵の命の重さを歯牙にもかけぬかのように。
これが、リアルワールドの人間たちなのだとしたら。
確かに、アスナの言うとおり、向こう側は決して神の国ではないのだろう。
果てしなく続く殺戮と、尽きることなく出現する敵の数に、さしものアリスもいつしか意識を鈍らせていた。
もう嫌だ。こんなのは戦いではない。
早く――早くこの戦列を切り崩し、抜け出したい。
「どけ……そこをどけえええ!!」
鋭く叫び、金木犀の剣を横一文字に振り抜く。
敵の頭が、腕が、立て続けに飛ぶ。
「システムコール!!」
即座に術式起句を唱え、十の熱素因を生成する。それらを融合させ、炎の槍を作り出し、放つ。
「ディスチャージ!!」
ドッゴオオッ!!
デュソルバートの熾焔弓には劣るが、巨大な爆発がまっすぐに敵軍を突き抜け、穴を穿った。
その向こうに――。
見えた。黒い大地と、盛り上がった丘。
包囲を破ってあそこまで後退したら、この戦場から発散されたリソースを利用して"封鎖鏡面光術"を組み、黒い歩兵どもを一気に焼き払ってやる!
「せあああああ!!」
気合とともに、アリスは地を蹴った。
戦列に開いた穴を、剣を左右に閃かせながら駆け抜ける。
「……嬢ちゃん!!」
背後で、騎士長ベルクーリの鋭い声が聞こえた。
だが、それに続く、先走るな、のひと言はアリスの耳には届かなかった。
抜ける。もう少しで突破できる。
立ちふさがった最後の一人を、足を止めぬまま斬り伏せ、アリスはついに無限とも思えた敵の包囲を破って南の荒野へと飛び出した。
剣を鞘に収めながら、血のにおいのしない新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、尚も全力で疾駆する。
不意に、周囲が暗くなった。
朝日が翳ったのか、と一瞬思った。
直後、ドカッ!! と凄まじい衝撃が背中を打ち、アリスの意識は暗転した。
皇帝ベクタ/ガブリエル・ミラーにとっても、この局面は賭けだった。
しかし彼は確信していた。戦場にダイブさせた数万のアメリカ人プレイヤーに、人界軍を包囲攻撃させれば、"光の巫女"アリスは必ず再びあの巨大レーザー攻撃を行うために単身、あるいは少人数で脱出してくると。
徴用した飛竜の背にまたがり、戦場の遥か高空でホバリングしながら、ガブリエルはひたすら待ち続けた。それは、アンダーワールドにダイブして以来、最も長く感じた十分間だった。
しかしついに、黒蟻の群のような歩兵の戦列を抜け出た黄金の光を彼は見た。
「アリス……アリシア」
ガブリエルは、彼にしてはまったく珍しい本当の笑みを唇に浮かべ、囁いた。
手綱を一打ちし、竜をまっすぐに急降下させる。
彼の虚無的な心意は、すでに飛竜のAIを完全に侵食し、道具のごとく意のままに操っていた。竜は命ぜられるまま、翼を畳んで音も無く落下すると、突き出した右の鉤爪で地面を駆ける黄金の騎士の背中を一掴みにした。
バサッ!!
広げた翼を大きく鳴らし、竜は再び空へと駆け上がった。
ガブリエルは、背後の混沌極まる戦場には一瞥も呉れなかった。
彼にはもう、暗黒界軍が、人界軍が、そして召喚した現実世界人たちがどうなろうとどうでも良かった。
あとはただひたすら、この座標から最短距離のシステムコンソールである、"ワールドエンド・オールター"を目指す。そこからアリスの魂をメインコントロールルームへと排出する。
ちらり、と視線を下向けると、気を失ったまま竜の足に捕獲されている黄金の騎士の、風になびく金髪が見えた。
早く触りたい。その体を、魂を、心行くまま味わいたい。
システムコンソールまでは長い道行きだ。飛竜に乗っても数日は掛かるだろう。その時間を利用して、アリスがアンダーワールドでの肉体を備えているあいだに愉しむのもまた良かろう。
ガブリエルは、背筋を甘美な衝動が這い登るのを感じ、もういちど唇を吊り上げた。
まさか。
よもや――五万のダークテリトリー軍と、新たに召喚した三万の歩兵たちを、丸ごと使い捨てにするとは。
たった一人の少女を攫うためだけに!
騎士長ベルクーリは、皇帝ベクタなる存在の虚無的な心意を知覚したその瞬間から、強く警戒し続けてきたつもりだった。しかし、己に敵の全貌がまるで見えていなかったことを、アリスが拉致された瞬間になってようやく自覚させられる結果となった。
割れ砕けんばかりに歯噛みをしてから、ベルクーリは、いったい何十年ぶりなのか自分でも分からない行動に出た。
腹の底から、本気の怒声を放ったのだ。
「貴様ッ、オレの弟子に何しやがるッ!!」
びりっ、と空気が軋み、声の軌跡に白い電光すら弾けた。
しかし、アリスを捕獲した飛竜の騎手は、振り向くことすらせず一直線に南空へ上昇していく。
愛剣を構え、ベルクーリはその後を追って走ろうとした。しかし、アリスが術式で敵戦列に開けた穴はすでに塞がり、漆黒の歩兵たちが奇怪な罵声を吐きながらうじゃうじゃと押し寄せてくる。
「そこを……」
どけっ、とベルクーリが叫ぶより早く、頭上を眩い銀の光が駆け抜けた。
きりきりきり、と高く澄んだ音を響かせながら飛翔する二条の投刃。整合騎士レンリの神器、比翼だ。
背後で、少年騎士の鋭い声が聞こえた。
「リリース・リコレクション!!」
カッ、と一瞬の閃光を放ち、二枚の投刃がひとつに融合する。十字の翼へと変化した刃は、低空へ舞い降りると、ぎざぎざの軌道を描いて突進し敵兵たちを左右になぎ倒す。
「騎士長、行ってください!!」
レンリの叫びに、ベルクーリは背中を向けたまま応じた。
「すまん! 後は頼む!」
ふっ、と腰を落とし、右足で思い切り地を蹴る。
瞬間、騎士長の姿は白い突風へと変化した。敵の大群に再び開いた間隙を、飛ぶが如く駆け抜けたベルクーリの速度は、ダークテリトリーの拳闘士が武舞によって実現する疾駆を遥か上回っていた。
長剣をぶら下げた右手と、前に傾けた上体は微動だにさせぬまま、脚だけを朧にかすませて最古の騎士は戦場の南へと抜けた。
アリスを攫った皇帝ベクタの竜は、すでに遥か高空をゆく小さな黒点でしかなくなっている。
疾走しながら、ベルクーリは左手を口元にあて、高らかに笛の音を吹き鳴らした。
数秒後、前方の稜線から、銀色の巨大な翼がその姿を現した。ベルクーリの騎竜・星咬だ。
飛来する竜は、しかし一頭だけではなかった。アリスの騎竜・雨縁、そして今は亡き騎士エルドリエの竜・滝刳もその後ろに従っている。
「お前ら……」
ベルクーリは呟き、二頭に出そうとした待機命令を、ぐっと飲み込んだ。
低空を滑るように接近してきた星咬が、くるりと向きを変え、ベルクーリに向けて脚を突き出す。
その鉤詰に左手をかけ、騎士長は一気に竜の背中へと自らを放り上げた。鞍に跨るや、右手の剣をまっすぐ前方に突き出す。
「行けっ!!」
叫ぶと、星咬と、雨縁、滝刳は同時に翼を打ち鳴らし、紫に染まる暁の空へと駆け上った。
くさび型に隊列を組んで併進しはじめた三騎の、はるか前方をゆく黒い飛竜の脚のあたりで、黄金の光が一瞬ちかっと煌いた。
岩の架橋を一気呵成に突進してきた四千の拳闘士たちは、半ば殲滅されかかっていた数百の同族たちと合流すると、人界軍のすぐ横を駆け抜け、まるで巨大な破城槌のごとく敵軍の中央へと激突した。
十人ひと組が横一列に密接し、完璧に同期した動きで右拳を引き、構える。
「ウッ、ラァッ!!」
ボッ、と放たれた十本の突きが、黒歩兵たちの剣をへし折り、鎧を穿った。悲鳴と血煙を撒き散らし、二十人以上の敵が後方へと吹っ飛ぶ。
闘気の全てを込めた突きを放ち終わった十人が、すっと横に広がって隙間を空けると、その間から真後ろの十人が飛び出てきてガチッと横列を組む。
「ウララッ!!」
今度は前蹴りが、これも見事にシンクロした動作で撃ち出された。再び大量の敵が、爆弾でも落とされたかのように四散した。
「……すごい」
左腕の傷口に、即席で丸暗記してきた治癒術を施しながら、アスナは思わず呟いた。
拳闘士たちの闘いぶりは、SAOで攻略組が行っていたスイッチ・ローテーションと似ているが、遥かに洗練されている。十人かける十列で百人、その集団が四十以上も、まるで工事用重機のように敵を蹂躙していく様は見ていて空恐ろしいほどだ。
「感心してるだけじゃ困るぜ。このまま南に抜けたとして、そのあとはどうするんだ。あれだけの敵、囲みを突破はできても、この場での殲滅はちと難しいぜ」
アスナの隣で腕組みをして立つ、一時共闘中の敵将が、厳しい表情で言った。
確かに、前への突進力は無敵と思える拳闘士隊だが、数倍の歩兵に側面から突っ込まれて崩される集団も出始めている。何せ、召喚されたアメリカ人たちの数は、いまだ二万を軽く超えるのだ。
「……では……敵陣を破り、南へ抜けたら、そのまま距離を取ってください。わたしがもう一度、地割れを作って敵を隔離します」
アスナは低くそう応じた。
――できるだろうか。さっき、小さな橋を作っただけでも気絶しそうになったのだ。再び、地平線まで届くほどの大規模な地形操作を行ったら、今度こそ強制カットオフされるか……下手をすると、脳に物理的な外傷を負うことも……。
一瞬の迷いを、アスナは強く唇を噛んで振り払った。やるしかないのだ。この、アメリカ人の召喚が、強襲チームの最後の策のはずだ。ならば、たとえ相討ちになったとしても――。
戦場の北端に居るアスナのもとに、一人の衛士が南から駆けつけてきたのはその時だった。
「伝令!! 伝令――!!」
深手を負ったらしく、顔の半分を血に染めた衛士が、アスナの前に膝をつくとかすれ声で叫んだ。
「整合騎士レンリ様より伝令であります!! 整合騎士アリス様が、敵総大将の駆る飛竜に拉致されました! 飛竜はそのまま南に飛び去った模様……!!」
「な…………」
アスナは言葉を失った。
そうか――まさか、この状況は。人界軍から、アリス一人を誘い出すための……!!
「皇帝……が、飛び去った、だと」
しわがれた声で応じたのは、拳闘士の長だった。左だけ残った赤い眼に、異様な光を浮かべてさらに声を絞り出す。
「それで……さっき、飛竜に……。見物じゃなかったのか……。おい、女!!」
若者は、アスナを爛々と輝く隻眼で凝視し、急き込むように詰問した。
「アリスってのは、"光の巫女"だな!? 皇帝はなぜそいつに固執するんだ!? 光の巫女が皇帝の手に落ちたら、いったい何が起きるってんだよ!?」
「この世界が……滅びます」
アスナは、短く答えた。拳闘士の顔が、愕然と強張る。
「暗黒神ベクタが、光の巫女アリスを手に"世界に果ての祭壇"に到ったとき……この世界は、人界も、ダークテリトリーも、そこに住む人々を含めてすべて無に還るのです」
自らの言葉が、どうしようもなくロールプレイングゲームのシナリオじみていることを、アスナは僅かに意識した。しかし、これはまったくの事実なのだ。アリスの魂を手に入れた強襲チームは、もう用無しとなったライトキューブクラスターを丸ごと破壊するであろうことは当然の予測である。
ああ……どうすれば。スーパーアカウント"ステイシア"にも飛行能力は付与されていない。飛竜に乗っている皇帝ベクタを、どうやって追いかければいいの。
アスナの内心の苦悩に答えたのは、いつのまにか前線から戻っていた灰色の騎士シェータだった。レイピアというよりフルーレに近い漆黒の剣をぴゅんっと鳴らし、血のりを振り落としながら、涼しげな容貌の女騎士は言った。
「飛竜も……永遠には飛べない。半日が限界」
すると、シェータをちらりと見てすぐに視線を逸らした拳闘士の長が、ばしっと掌に拳を打ち付けて叫んだ。
「なら、気合で追っかけるっきゃねえな!!」
「追っかける、って……あなた……」
アスナは呆然と敵将の若々しい顔を見た。
「あなた、ダークテリトリー軍の人なんでしょう? なんで、そこまで……」
「皇帝ベクタは……俺たち暗黒界十候を並べて、確かに言ったんだ。自分の望みは光の巫女だけだと。そいつさえ手に入れれば、あとはどうでも知ったこっちゃねえ、ってな。巫女をかっ攫った今、皇帝の目的は達せられた……つまり、俺ら暗黒界軍の任務も一切合財終わったわけだ。あとは、俺らが何をどうしようと自由、そうだろが!!」
なんという――牽強付会な。
アスナは唖然と若き将の顔を見た。しかし、そこにあったのは、威勢のいい言葉とはほど遠い、悲壮な決意の色だった。
左眼でまっすぐにアスナを見て、拳闘士は言った。
「……俺は……俺たちは、皇帝には直接逆らえねえ。あの力は圧倒的だ……俺より恐らくは強かった暗黒将軍シャスターを、指一本動かさず殺したからな。もし改めてあんたらと戦うよう命じられたら、従うしかねえ……。だから、俺たち拳闘士団は、ここで黒い兵隊どもを防ぐ。あんたと人界軍は力を使わずに、皇帝を追っかけてくれ。そんで……皇帝を……野郎を……」
突然言葉を切り、若者は、まるで存在しない右眼が痛むかのように顔をゆがめた。
「野郎に、教えてやってくれ。俺たちは、てめぇの人形じゃねえってな」
ちょうどその時、一際高い拳闘士たちの喊声が、戦場の南から響いた。部隊の先頭が、ついに黒歩兵軍の囲みを破り、荒野へと抜け出たのだ。
「よぉし……」
若い長は、ずだん! と右足を踏み鳴らし、凄まじい音量で命じた。
「その突破口を保持しろ!!」
アスナに視線を戻し、短く言う。
「あんたたちは早く脱出しろ!! 長くは持たねえ!!」
大きく息を吸い――アスナは頷いた。
人間だ。この人は、まさしく強靭なる魂を持つ人間に他ならない。一族が渡っているロープを無慈悲にも切断し、百人以上を剣に掛けたわたしたちに、叩き付けたい恨みと憎しみだってあるだろうに。
「……ありがとう」
どうにかそれだけを口にし、アスナは身を翻した。
背中に、整合騎士シェータの声が掛けられた。
「私も……ここに、残る」
何となく、それを予測していたアスナは、肩越しに灰色の髪の女騎士に向かって短く微笑みかけた。
「わかりました。しんがりをお願いします」
一族の闘士たちが東西に構えて保持する突破口を、栗色の髪の不思議な女騎士と、七百ほどに減じた人界軍が走り抜けていくのを、イシュカーンは無言で見送った。
土煙から視線を外し、となりに立つ灰色の整合騎士を見やる。
「……いいのかよ、女」
「名前、もう言った」
剣呑な目つきで睨まれ、苦笑まじりに言い直す。
「いいのか、シェータ。生きて戻れるかどうかわかんねえぞ」
真新しい鎧をかしゃりと鳴らし、細身の騎士は肩をすくめた。
「あなたを斬るのは私。あんな奴らにはあげない」
「へっ、言ってろ」
今度こそ、イシュカーンは朗らかに笑った。
犬死にしていく仲間を助けたい。それだけを願っていたはずの自分が、人界軍に協力し、黒い軍隊から彼らを守るために部族全体の命運を賭けようとしているのはどうにも不思議だったが、しかし、胸中には爽やかな風が吹いていた。
まあ、悪くねえさ。こんな死にざまも。
世界を守るためなら――郷のオヤジも、弟や妹たちも、分かってくれるだろう。
「よぉおし!! 手前ら、気合入れろよ!!」
即座に、ウラアー!! という雄叫びが返った。
「円陣を組め!! 全周防御!! 寄ってくるアホウ共を、片っ端からぶちのめしてやれ!!」
「滾りますな、チャンピオン」
音もなく背後の定位置に戻っていたダンパが、左手をごきごきと鳴らした。
南の丘を越え、補給隊の待つ森へと撤退しながら、アスナは少年騎士レンリから、騎士長ベルクーリが三匹の飛竜とともに皇帝ベクタを追跡していることを知らされた。
「……追いつけると思いますか?」
アスナの問いに、レンリは幼さの残る顔に厳しい表情を浮かべ、答えた。
「正直、微妙なところです。基本的には、同じ速度で飛び、同じ時間に休息せねばならないわけですから……ただ、皇帝ベクタの竜は、アリス様を運んでいるせいで、天命の消耗は多少なりとも多いはずです。逆に騎士長閣下は、三匹の竜を順次乗り換えて疲労を抑えることが可能ですゆえ、徐々にですが距離は詰まるかと……」
となると、あとは果ての祭壇までの道行きのあいだに、騎士長が追いついてくれることを祈るのみだ。
しかし、首尾よく皇帝を捕捉したとして――。
騎士長ベルクーリは、スーパーアカウントたる暗黒神ベクタに単独で勝てるのだろうか?
よもや、襲撃者たちも神アカウントでログインしてくるなどとは予想もしなかったアスナは、ベクタに付与された能力を比嘉タケルに説明されていない。しかし、ステイシアの地形操作と同等の力をベクタも持っているとしたら――たとえ整合騎士たちの長と言えども、一対一での戦いは厳しすぎるのではないだろうか……。
そこまで考えたとき、レンリがしっかりした口調で言った。
「もし追いつければ、騎士長閣下はかならずアリス様を助けてくださいます。あの方は……世界最強の剣士なのですから」
「……ええ、そうですね」
アスナも、ぐっと強く頷いた。
今となっては、信じるだけだ。アンダーワールド人の意思の強さを、先刻目の当たりにしたばかりではないか。
「ならば、私たちも全軍で南進しましょう。幸い、この先はひたすら平坦な土地が広がっているようです。ベルクーリ様が、敵の飛竜を落としてくだされば……」
「分かりました、アスナ様。至急出立の準備をさせます!」
レンリは走る速度を上げ、一足先に森の中へと消えた。
ちょうどその頃――。
オーシャンタートル・メインコントロールルームでは、情報戦担当員クリッターが、ログイン準備の整ったアメリカ人VRMMOプレイヤー第二陣・二万人を、新たにアンダーワールドに投入しようとしていた。
しかしその座標は、ガブリエル・ミラーの現在位置を追うかたちで、第一陣の投入地点よりも南に十キロメートルほども変更されていた。
「ワウッ!!」
奇妙な喚き声とともに、ヴァサゴ・カザルスはがばっと身を起こした。
長い巻き毛を振り回しながら、周囲を素早く確認する。
鈍く光る鋼板の壁。滑り止めの樹脂加工が施された床。薄闇にぼんやりと浮かぶ幾つものモニタやインジケータ。
そして、目の前でくるりと回転した大型のシートに座る、ひょろりと痩せた坊主頭の男をまじまじと眺めてから、ヴァサゴはようやくここが現実世界のオーシャンタートル・主コントロール室なのだと認識した。
坊主頭の男――クリッターは、ふん、と短く鼻を鳴らしてから高い声で言った。
「あらら、目ぇ醒ましやがったか。脳細胞がコゲてるほうに賭けたのになぁー」
「んだとコラ」
反射的に罵り声を上げてから、自分の身体を見下ろす。壁際に敷かれた薄いマットレスに寝かされ、腹の上にはおざなりにフライトジャケットが掛けてある。
一体何がどうしたんだったか、と強く頭を振ると、脳の芯がずきんと痛んだ。思わず再びアウッツ! と罵り、部屋の反対側で車座になってカードに興じている数人の隊員に声を掛ける。
「おい、誰かアスピリン持ってねえか」
髭面のブリッグが、無言でポケットを探ると、小さなプラスチック瓶を放ってきた。片手で受け取り、キャップを捻って中身をざらっと口に投げ込み、ぼりぼり噛み砕く。
舌が痺れるほどの苦味に、ようやく記憶がわずかに鮮明化した。
「そうか……あのクソ深ェ穴に落っこちて……」
「いったい、どんな死にザマしたんだぁー。八時間もぶっ倒れやがってよー」
「は、八時間だぁ!?」
驚愕し、ヴァサゴは頭痛も忘れて跳ね起きた。
クリッターのシートに駆け寄り、正面コンソールのデジタルクロックを睨む。JSTでAM6:03。イージス艦突入のタイムリミットまで、約十二時間しか残されていない。
いや、それよりも、八時間も失神していたならば、すでにアンダーワールド内部では一年もの年月が過ぎ去ったはずだ。戦争は、アリス捕獲ミッションはどうなったのか。
だが、クリッターはヴァサゴの驚きを見透かしたかのように、ちっちっと舌を鳴らして言った。
「眼ン玉剥いてんじゃねえー。安心しなー、おめえが中でおっ死んだ時点で、時間加速は一倍にまで下がってっからよー」
「い……一倍だと」
ならば、状況は大して変化していないのか。いやしかし、それはそれで大問題だろう。
「おい、分かってんのかこのコオロギ野郎! あと十二時間で、JSDFの海兵隊だか何だかが突っ込んでくるんだぞ!」
坊主頭をがくがく揺らすヴァサゴの手を、煩わしそうに振り払い、クリッターは答えた。
「ったりめーだろうがぁー。こりゃあ全部、隊長の指示だっつうのー」
続いて説明された"作戦"は、ヴァサゴの度肝を抜くに充分なものだった。
ミラー中尉は、ダークテリトリー東端の帝城、つまりシステムコンソールを離れる時点で、クリッターに秘かに指示していたのだ。刺激的な"ハードコアVRMMO"のベータテスト告知サイトを作成し、接続用クライアントプログラムを用意しておけと。そして、ダークテリトリー軍の戦力が半減した時点で加速率を一倍に低下させ、同時に全米でベータテスターの募集を開始しろ、と。
「この機能制限されたコンソールじゃー、中尉とてめーの座標、それに大まかな人間の分布しかわからねー。だから、この作戦は、ヒューマンエンパイア側の抵抗が予想より激しかった場合の保険だったんだがよー」
クリッターは細長い指をキーボードに躍らせ、大モニタにアンダーワールド全図を表示させた。
丸っこい逆三角形をした世界地図の、東の端から二本の赤いラインが伸び始め、西へと移動していく。
「これがてめーと隊長の移動ログだー。いいかー、てめーはこの、エンパイアのゲートあたりをウロチョロして、ここで死にやがったわけだ」
赤いラインの片方が、"東の大門"から南へ少し折れたあたりで×印とともに途切れた。
「しかし隊長は今、さらにズーっと南へと進行してる。しかも全軍を北に置き去りにして、単独でだー。これがどういうことかっつうと……」
「"アリス"を追っかけてるか、もしくは既に捕まえてるか、のどっちかだな」
ヴァサゴは唸った。クリッターも頷き、説明を続ける。
「もともとの作戦じゃー、残り時間が八時間にまで減るか、あるいはヒューマンエンパイア軍が全滅したとこで、もう一度加速率を上限まで戻すっつーことになってた。それでも内部では一年にもなるからなー。加速を戻した時点で、ダイブさせた外部ベータテスターは同期ズレで全員放り出されちまうけど、戦争さえ勝ってりゃーこっちのモンだー」
「なら、今すぐ戻せよ! もう、人界守備軍はほとんど残ってねえんだろうが」
「それが、そう単純じゃねー。いいか、ここを見ろー」
クリッターはキーを叩き、マップの一部を拡大させた。
人界と暗黒界を隔てる東の大門、そこから南へ数キロ下ったところに、平地と丘、森林が並んでいる。ヴァサゴの記憶にも新しい、人界軍が潜伏していた森だ。
しかしいつの間にか、森と平地のあいだには、東西に五十キロメートル近くも伸びる巨大な峡谷が出現していた。その谷のすぐ南側に、もやもやと蠢く雲のようなものが、二色に色分けされて表示されている。
「この、黒で表示されてんのが、俺がアンダーワールドにぶっこんだUSベータテスターの集団だー。ずいぶん減ったが、まだ二万は残ってる。んで、黒に半包囲されてる赤い丸はダークテリトリー軍だ。四千人くれーかな」
「お……おいおい、どう見ても黒が赤を襲ってるじゃねェか」
「偽ベータテスト告知じゃー、超リアルなNPCを殺し放題としか書いてねーからな。USからダイブしてる連中は、人界軍も暗黒界軍も区別してねー。けど、なんでだか、赤の減りが予想より遅ぇー。皇帝に絶対忠実の暗黒界軍が、皇帝に召喚されたUSプレイヤーに抵抗するわきゃねーんだけどよー」
「どうせ、ねちねちいたぶって殺すのに夢中になってんじゃねえのか」
「まー、この赤四千はそのうち全滅するとしてだー。問題は、ここにちょこっとだけ、青い集団がいるだろがー」
クリッターがカーソルを動かす。確かに、南へ直進する皇帝ベクタことミラー中尉を追うように、ほんのささやかなブルーのもやが移動している。
「こりゃ人界軍だー。マップ上じゃちっちぇーけど、これでも七、八百はいる。こいつらが隊長に追いつくと面倒だからなー、なんとか阻止しなきゃなんねー」
「阻止ったってよ……どうするんだよ」
ヴァサゴの問いに直接答えず、クリッターはひっひっと短く笑うと、キーを操作した。
マップ上に、ぽっと別ウインドウが開く。そこには、白一色を背景に、巨大な黒い雲がもやもやと蠢動している。
「こいつらは、第一次接続に乗り遅れたプレイヤー連中だー。二万に達したら、これをこの青集団の座標にブチこむぜー。戦力比1:25だ、一瞬で殲滅するぜー? そしたら加速を一千倍まで戻す。隊長がアリスを捕まえて、南のシステムコンソールに到着する猶予はたっぷり残るはずだぁー」
「……そう上手くいきゃいいけどな」
ヴァサゴは顎に伸びた髭をざらっと擦りながら反駁した。
「おめーが思ってる以上に、人界軍てのはヤルぜ。とくにあの整合騎士って連中はとんでもねえ、ダークテリトリー軍の第一波を根こそぎブチ殺したからな。さもなきゃ、俺があんなブザマにやられる……わけが……」
そこまで口にした時。
ヴァサゴはようやく、自分が何者に、どのようにして殺されたかを思い出した。
鋭く息を詰め、黒い眼を見開く。網膜に、はるか高みから見下ろす、女神じみた姿がまざまざと蘇る。
「"閃光"……!! そうだ……間違いねぇ、ありゃあ絶対にあの女だ……!!」
「はぁ? 何言ってんだー?」
怪訝そうなクリッターの坊主頭をがしっと掴み、ヴァサゴは喚いた。
「おいトンボ野郎!! てめーの作戦、もうK組織の奴らもやってんぞ!! 人界軍に、日本人のVRMMOプレイヤーが混じってたんだよ!!」
「なにぃー?」
胡散臭そうな顔のクリッターには構わず、ヴァサゴは獰猛な笑みを口の端に上せた。
「"閃光"アスナが居るってことは……もしかしたら、ヤツも中に居るんじゃねえのかよ。うおっ……マジかよ、こうしちゃいらんねえ……。おい、俺ももう一度ダイブするぞ! 二万の援軍と同時に、俺もその青集団の座標に降ろせ!!」
「ダイブ、つったって、もうテメーが無駄にした皇帝副官アカウントは残ってねーぞ。雑兵アカでいいんなら幾らでもあるけどよ」
「あるぜ……アカならよ。とっておきのヤツがよ」
クック、と喉の奥で笑い、ヴァサゴはコンソール上からエナジーバーの包み紙を拾い上げると、クリッターの胸ポケットから抜き取ったペンを手早く走らせた。
「いいか、そのIDでザ・シード・ネクサスのポータルサーバーにログインしたら、キャラをアンダーワールドにコンバートしろ。それを使ってダイブする」
そういい残し、ヴァサゴはSTL室に続くドアへと数歩走りかけた。
しかし、そこでぴたりと脚が止まった。
怪訝な顔で見守るクリッターを、ゆっくりと振り向いたその顔には――豪胆な電子犯罪者さえぞっとするような、凶悪な笑みが色濃く浮かんでいた。
ヴァサゴは、分厚いブーツに何の音もさせずに引き返し、クリッターの耳に短く囁きかけた。数秒後、今度こそがしゃりと開閉したドアを呆然と見やるハッカーの手には、小さな紙片だけが残された。
紙には、"ID:"に続いて、三文字のアルファベットと8桁の数字が記されていた。
"SAO12418871"。
補給隊の馬車に駆け込んだアスナが見たのは、横倒しになった銀色の車椅子と、左手を弱々しく動かす黒衣の青年、そして覆いかぶさる二人の少女たちだった。
さっ、と顔を上げたロニエが、涙に濡れる頬を歪めて言った。
「あ……アスナ様! キリト先輩が……何度も、何度も外に出ようとして……」
アスナは唇を噛みながら頷き、キリトの前に跪くと骨ばった左手を右手でぎゅっと握った。
「ええ……。アリスさんが……敵の皇帝に拉致されたのです」
「えっ……アリス様が!?」
叫んだのはティーゼだった。白い頬が、いっそう青ざめる。
一瞬の沈黙を破ったのは、キリトの細いしわがれ声だった。
「あ……ぁ……」
左手が弱々しく動き、アスナの左腕を撫でようとする。
「キリトくん……わたしを、心配してくれたの……?」
思わずそう呟いたとき、アスナの負傷に気付いたロニエが、悲鳴に似た声を発した。
「あ、アスナ様! 腕が……!!」
「大丈夫。この傷は……わたしにとっては仮初めのものですから……」
呟き、アスナは切断されたままの左腕をそっと持ち上げた。
比嘉タケルに、アンダーワールドの上位レイヤーを形作る"ニーモニック・ビジュアル"についてはざっと説明を受けている。下位サーバーで生成されるポリゴンや、与えられた数値的ステータスとは別に、イマジネーションによって具現化するもうひとつの現実。
スーパーアカウント・ステイシアに付与されたヒットポイント――天命は膨大なものだ。設定可能な上限の数字を与えられている。だから、通常武器による攻撃ならば、百、いや千の剣に貫かれても天命がゼロにはなるまい。
しかし、この傷を受けたとき、アスナは振り下ろされる巨大なバトルアックスに恐怖した。イマジネーションが弱化したのだ。ゆえにこれほどの重傷を、自ら作り出してしまった。
キリトの右腕も同じことだ。数値としての天命は全快しているのに、腕は復元されない。それは、キリトが自分を許せないでいるせいなのだ……。
アスナは自分の右手を、左腕の切断面にかざした。
意識を集中し、自分に強く言い聞かせる。
もう、わたしは二度と怯えたりしない。キリトくんに心配させたり、絶対にしないんだ。
ぽっ、と左腕に光が宿った。白く暖かい輝きは、次第に前腕を、五指をかたちづくり、喪われた左手を復元していく。
奇跡を見るように眼を丸くする二人の少女たちに微笑みかけ、アスナは元通りになった左手でそっとキリトの頭を抱いた。
「ね、わたしは大丈夫。アリスさんだって、きっと救い出してみせる。だから……その時は、キリトくんももう、自分を責めるのはやめて……」
言葉が届いたかどうかは分からなかった。しかしアスナは、一瞬強くキリトを抱きしめ、身体を起こした。
「わたしたちは、これから全軍で敵皇帝の後を追います。いま、ベルクーリさんが飛竜で追跡してくださってますから、わたしたちもきっとどこかで追いつけるはずです。それまで、キリトくんをお願いね、ロニエさん、ティーゼさん」
「は……はいっ!」
「お任せください、アスナ様!」
頷く少女たちにもう一度にこりと笑みを向け、アスナは涙をこらえながら馬車から飛び降りた。
整合騎士レンリの指示は的確で、部隊が移動準備を整えるのに五分と掛からなかった。負傷者の治療も術師隊の手によってすぐに終わり、補給隊を中央に隊列が組まれる。
準備完了を報告するレンリに、アスナは言った。
「いま、残っている整合騎士はあなただけです、レンリさん。出発の指示は、指揮官であるあなたが」
緊張した面持ちで、しかし力強く頷いた少年騎士は、右手を高く掲げ、叫んだ。
「全隊……進行開始!!」
隊列の先頭を、レンリの飛竜・風縫がどっどっと走りはじめる。続いて、衛士四百をふたりずつ乗せた二百頭の騎馬。物資と補給隊、術師隊を乗せた十台の馬車。さらに、衛士三百が分乗する、百五十の馬が続く。
ただ一頭、整合騎士シェータの竜だけがどうしてもその場を動こうとしなかった。
主の髪に似た灰色の鱗を持つ飛竜は、去りゆく仲間に向けてクルルルルッと一声高く啼き、自らは北へ――主の残った死地へと飛び去っていった。
残る敵は、皇帝ベクタただ一人。
その正体は、同じく仮の命を持つ現実世界人だ。ならば、刺し違えてでもかならずわたしが倒してみせる。騎士シェータと、赤い眼の若者、そして四千の拳闘士たちのためにも。
アスナは、強い決意を抱きながら、部隊の中ほどをゆく馬車に追いつくとその天蓋にひらりと飛び乗った。
数分後、黒い木々の連なる森が途切れ、前方にすり鉢状の巨大な盆地が姿を現した。まるでクレーターのようなそのくぼ地を貫き、細い道が南へとまっすぐ伸びている。
道が設定してあるということは、その先に何か建造物があるということだ。そして、ダークテリトリーの南部は何ものも住まない荒野だと比嘉に説明されている。つまり――この道の終わるところに"ワールド・エンド・オールター"があり、そしてその途上のどこかに皇帝ベクタと整合騎士アリスがいる。
皇帝の飛竜はもちろん、それを追うベルクーリの竜もすでに見えない。しかし、人界軍八百は、地響きを立てながら可能な限りの速度で道を突き進んでいく。
クレーターの縁を越え、下り坂を駆け降り――すり鉢の底に部隊が差し掛かった。
何かが、震えた。
ぶうぅぅ……ん、という、虫の羽音のような震動音。
「……?」
アスナはちらりと視線を上げた。正面から、右へ、そして左へ。
真後ろを向いたとき、ようやく、音の発生源を眼で捉えた。
黒く、細い、線。
ランダムに途切れ、明滅するラインが、赤い空から一直線に地面に降りてくる。
「…………うそ……」
唇が震え、声がこぼれた。
嘘よ。やめて。
しかし。
ザアアアアッ!!
という、驟雨にも似た轟音が一気に炸裂した。ラインは、左右へと広がりながら、無数に降り注ぐ。クレーターの縁に沿って、何千、万を超える勢いで南へ進み、部隊の進行方向をぴたりと閉ざす。
もう怯えない、と誓ったばかりなのに、アスナの両脚からすうっと力が抜けた。
ラインの溜まった地点に出現したのは、あのおぞましい漆黒の鎧姿だった。
「ぜ……全隊、止まるな!! 突撃!! 突撃――!!」
先頭で、整合騎士レンリが的確な指示を発した。動揺しかけた人界軍の、そこかしこから馬のいななきが響き渡る。
ドッ、と重い音とともに、部隊の速度が増した。クレーターの斜面を、今度はまっすぐに駆け上がっていく。
しかし、まるでその動きを読んでいたかのように、出現した新手の歩兵群は南に多く配置されていた。槍衾の分厚さは、ささやかな小川に叩き込まれた土嚢の山のようだった。
どうする、"地形操作"を使うか――。しかし、下手に手を出せば、部隊の進軍をも妨げてしまう。
アスナの一瞬の躊躇いを、飛竜の雄叫びが貫いた。
見れば、隊列の先頭で、騎士レンリの乗った竜がその口から炎をちらつかせながら一気に突進していく。
「いけない……あの子、捨て身で……!」
口走ったアスナの声が聞こえたかのように、竜の背中でレンリがちらりと振り向いた。
あとは、頼みます。
少年の唇が、そう動いた。
前を向いた騎士は、両腰から二枚のブーメランを取り出し、大きく構えた。
それが投擲される――寸前。
空の色が、変わった。
血の赤に染まるダークテリトリーの空が、四方八方に引き裂かれ、その奥に紺碧の青空が広がるのをアスナは見た。
クレーターの縁に密集し、今にも突進しようとしていた無数の黒歩兵も、突進を続ける人界兵たちも、先頭を走る騎士レンリすらも、一様に天を振り仰いだ。
無限の蒼穹。
その彼方から――白く輝く太陽が降りてくる。
いや、人だ。空と同じ濃紺の鎧と、雲のように白いスカート。激しく揺れる短い髪は水色。白く輝くのは、左手に握られた巨大な弓だ。顔は、逆光になってよく見えない。
誰――あなたは、誰なの?
アスナの、無音の問いに答えるかのように、空に浮く少女はゆっくりと弓を天に向けて掲げた。
右手が、これも強く発光する細い弦を引き絞る。
一際鋭い閃光。弓と弦に大して垂直に、天地を貫くかのような巨大な光の矢が出現した。
人界軍も、黒い歩兵たちも、一人のこらず言葉を忘れた静寂の中。
ほんの微かな音とともに、巨大な光線が真上に向かって撃ち出された。
それは、ぱっ、と瞬時に全方位へ分裂し――。
百八十度向きを変え、無限数のレーザーと化して地上へと降り注いだ。
スーパーアカウント02、"ソルス"。
付与された能力は、"無制限殲滅"である。