堅焼きパンに、チーズと燻製肉、干し果物を挟んだ朝食をもぐもぐ食べながら、アスナは寝ぼけ頭で考えていた。
……時間が一千倍に加速されているということは、現実世界の人々がご飯を一度食べるあいだに、わたしは千回食べるってことよね。まさか、そのぶん太るなんてことはないだろうけど……。
ちらりと視線を前に向けると、同じように瞼の重そうな整合騎士アリスが、サンドイッチを口元に運んでいる。厚手の布ごしにも、その体がほどよく引き締まり、無駄な弛みの欠片もないことがわかる。
はたしてこの世界には、生活習慣病のたぐいは存在するのだろうか? それとも体型は、産まれた時点で付与される固定パラメータなのだろうか? あるいは――外見はすべて、精神のありようを映す鏡に過ぎないのか。
傍らでは、寝床から上体を起こしたキリトに、ロニエがサンドイッチを少しずつ千切っては食べさせている。アリスいわく、天命の維持にはじゅうぶん足りる量の食事はさせてきたそうだが、しかしキリトの体が見る間に痩せほそっていくのはどうしようもなかったらしい。
まるでこの世界から、いやあらゆる世界からも、消え去ってしまいたいと彼自身が望んでいるかのように。
「……今朝は少し、顔色がいいですね、キリト先輩」
不意に、アスナの心を読んだかのように、ロニエが呟いた。
「それに、ごはんもしっかり食べてくれるし」
「まさか、美女三人の添い寝が効いたのかしらね」
アリスの言葉に、思わず複雑な笑いを浮かべてしまう。
昨夜は結局、横たわるキリトを囲んで、午前一時くらいまで話し込んだ。三人が溜め込んだキリトの記憶を開陳しあうには、それでもぜんぜん時間が足りなかったのだが、ついに睡魔に負けてその場で眠りに落ちてしまったのだ。
一瞬のちに鳴り響いたかのような角笛の音に叩き起こされ、こうして朝食を口にしながらアスナが改めて思ったのは、この人はどこにいても変わらないな、ということだった。
誰にでも優しく、それゆえに多くを背負い、己を傷つける。
――でも、今度ばかりは無茶だよ。たった一人で世界をまるごと背負おうだなんて。
――少しはわたしや、他の人たちにも頼ってよね。だってみんな、キミのことが大好きなんだから。
――もちろん、一番はわたしだけど。
アスナは、改めて強い決意が胸中に満ちるのを感じた。キリトが目覚めたとき、笑顔でこう告げるのだ。大丈夫、ぜんぶうまくいったよ。キミが守りたかったものは、わたしとみんなでちゃんと守ったよ、と。
アスナの意思は、その場の二人にも伝わったようだった。アリスとロニエも、眠気の抜け落ちたまなざしをアスナと見交わすと、ぐっと強く頷いた。
敵襲を告げる角笛の、切迫した旋律が野営地に響き渡ったのは、その直後だった。
パンの切れ端を咥えたまま自分の天幕に駆け戻ったアリスは、手早く鎧を身に纏い、金木犀の剣を引っつかむや再び飛び出した。
同じように武装したアスナと合流し、ロニエとティーゼに「キリトを頼むわね!」と声を掛けてから、野営地の北を目指す。
黒い森が切れるあたりには、すでに帯剣したベルクーリの姿があった。偵察騎兵から報告を受けていた騎士長は、駆けつけたアリス、アスナと、ほぼ同時に到着したレンリ、シェータの姿を確認するや、厳しい表情で唸った。
「なるほど、"敵"側リアルワールド人てのの遣り口は相当なモンだな。皇帝ベクタが、思い切った手に出たようだ」
続いた言葉に、アリスも思わず唇を噛んだ。
荒縄一本を頼りに、幅百メルの峡谷の横断を強行。
落下すれば命はないのだ。強靭な体力と精神力がなければ出来ない芸当だ。そのような作戦を強いるとは、ベクタはよほどなりふり構っていないのか――あるいは、兵の命など紙くずほどにしか思っていないのか。
とは言え、仮に三分の一が渡峡に失敗したとしても、敵主力はまだ七千近くも残る計算だ。一千の人界軍で正面から当たっても勝ち目はない。
当初の作戦である、森に潜伏しての術式攻撃も、こう明るくなっては不可能だ。ならば更に南進し、再度奇襲の機を待つべきか?
アリスの迷いを断ち切ったのは、騎士長ベルクーリのひと言だった。
「こいつは戦争だ」
ぼそりとそう言い放った古の豪傑は、その逞しい首筋に太い腱を浮き立たせながら続けた。
「異界人のアスナさんはともかく、オレたちがダークテリトリー軍に情けを掛けてる場合じゃねえ。この機は……活かさねばならん」
「機……と?」
意表をつかれ、鸚鵡返しに問うたアリスに、ベルクーリは鋭い眼光で応じた。
「そうだとも。……騎士レンリよ」
突然名前を呼ばれ、若い整合騎士がさっと背筋を伸ばす。
「は……はっ!」
「お前さんの神器"比翼"の最大射程はどれくらいだ?」
「はい、通常時で三十メル、記憶解放状態ならばおそらく五十……いや七十メルは」
「よし。では……これから我ら四騎士で渡峡中の敵主力に斬り込む。オレとアリス、シェータはレンリの護衛に専念。レンリは、神器で敵軍の張った綱を片っ端から切れ」
アリスは小さく息を飲んだ。
成程――敵も横断用の綱は必死で守るだろうが、仮にその根元に人垣を築かれたとて、曲線軌道で飛翔する投刃ならば敵頭上を超えて綱への直接攻撃が可能なのだ。言葉どおりに、容赦の欠片もない対応策。
しかし、弱冠十五歳の少年騎士は、その幼い顔に固い決意をみなぎらせ、右拳を左胸に当てた。
「御命、了解致しました!」
ついで、無音の騎士シェータも、低く呟く。
「だいじょうぶ。私が……守る」
そして、ベルクーリの指示からは外れていたアスナまでもが一歩前に出た。
「わたしも行きます。壁は多いほうがいいでしょう」
アリスは一瞬瞑目し、胸中で呟いた。
今更この私に――巨大術式で一万の敵亜人部隊を焼き払い、また完全支配術で二千の暗黒術師を殺戮した私に、栄誉ある戦いなぞ求める資格があるはずもない。
いまはただ、剣を抜き、斬るのみ。
「――急ぎましょう」
四人に頷きかけ、アリスは視線を北の丘へと向けた。深紅の曙光が、すでにその稜線を黒く際立たせていた。
急げ。
急げ急げ!
両の拳を握り締め、拳闘士団長イシュカーンは胸のうちで何度もそう叫んだ。
広大な峡谷に張り渡された十本の荒縄を、拳闘士と暗黒騎士たちが半分ずつ分け合って次々に渡り始めている。
両手両脚を綱に絡め、ぶら下がって進もうとするのだが、そのような訓練などしたことのない兵たちの動きはぎこちない。せめて全員分の命綱を作り、配布する時間があればよかったのだが、皇帝はその猶予を与えてくれなかった。
その上、自分が真っ先に渡りたい、というイシュカーンの上申も瞬時に退けられた。昨夜、命令を拡大解釈してわずかな手勢とともに先行接敵した行動への戒めらしい。貴様らは余の命令にただ従えばよい、という皇帝の氷のような声が耳朶に染み付いている。
歯噛みしながら拳闘王が見守る先で、最も進みの早い部下がようやく綱の中ほどにまで達した。
赤銅色の肌は、早朝の冷気に晒されてもうもうと湯気を上げ、滴る汗の輝きがこの距離からでも見て取れる。やはり相当の苦行なのだ。
その時だった。
巨大な谷間を、一際強い突風が吹き抜けた。
びょおおおっ! と綱が鳴り、ぐらぐらと大きく揺れる。
「あっ……!」
イシュカーンは思わず声を上げた。数人の部族兵が、汗で濡れた掌を綱から滑らせたのだ。
谷間に轟く、吼えるような雄叫び。それは断じて悲鳴ではない、と若き長は歯を食いしばった。いくさ場ではなく、曲芸の真似事をさせられた挙句に命を落とすことへの無念の咆哮だ。
突風の一吹きで、無限の暗闇に沈む谷底目掛け十名を超える拳闘士と黒騎士が落下していった。
しかし、すぐ後に続く者たちは果敢にも綱渡りを続けた。さらに根元では、およそ三メルの間隔をあけて、次々と新たな兵らが綱に取り付いていく。
無情にも、突風は断続的に吹き寄せ、その度に新たな命が失われた。いつしか、イシュカーンの握り拳からは、炎にも似た赤い光が立ち上りつつあった。
犬死にだ。
いやそれ以下だ。弔うべき骸すらも残らないのだから。
しかもその目的が、暗黒界五族の悲願である人界侵攻ではなく、光の巫女などという女一人を皇帝が欲しがっているからと来れば、部族の者にどう詫びていいのかもわからない。
急げ、急いでくれ。これ以上の邪魔が入る前に全員渡りきってくれ。
若い長の願いが伝わったのか、あるいは動作に馴れたせいか、速度を上げた先頭の兵らがようやく向こう岸に到着した。五秒ほどの間をあけ、次の者も大地に足をつける。
この調子だと、十本の綱を一万の兵が渡り終えるのに一時間以上は楽に掛かる計算になる。そんな長時間、敵がこの作戦に気付かないでいるなどということが有り得るとは思えない。
しかし、今だけは万に一つの幸運を祈るしかなかった。
恐ろしいほどの速度で太陽が東の空を昇り、大地を赤く照らし出していく。
対して、渡り終えた兵たちの数はじれったいほどゆっくりとしか増えていかない。多くの落下者を出しながら、五十が百となり、二百、ようやく三百を超えたとき。
赤い空に黒々と刻まれる南の稜線に、五の騎馬がその姿を現した。
イシュカーンの超視力を以ってしても、その背に乗る敵兵の姿までは識別できない距離だった。たった五……偵察兵か。ならば、敵が態勢を整えるまでにまだ少しの猶予はあるか。
その判断、あるいは希望は、一瞬で打ち砕かれた。
五騎は、恐ろしい速度でまっすぐ峡谷目掛けて丘を駆け下りはじめたのだ。翻るマント、色とりどりの煌びやかな甲冑、そして何より、全員から陽炎のように濃く立ち上る強烈な剣気をイシュカーンは否応なく視認した。
整合騎士! しかも五人!!
「守れ!! 綱を死守しろぉーっ!!」
対岸までは声が届くかどうかも定かでない距離だったが、イシュカーンは思わず叫んでいた。
命令が聞こえたか、すでに渡峡を終えた三百強の兵らの半数が、綱を留める丸太杭の根元に集まり円陣を組む。残りはその前で迎撃態勢を取る。
飛翔するが如き速度で、丘から峡谷までの千メルの荒野を駆け抜けた敵騎士たちは、同時に馬から飛び降りると一丸となって右端の綱へと突進した。
先頭を走るのは、白いゆったりとした装束をなびかせた巨漢。その右に、黄金の髪と鎧を輝かせる女騎士。左には、昨夜イシュカーンと拳を交えたシェータという名の女騎士の姿が見える。その三者に囲まれるように小柄な騎士が一人と、さらにその後ろにもう一人居るようだが、仔細には確認できない。
裸体から汗の珠を飛び散らせながら、数十人の拳闘士たちが一斉に飛びかかった。
「ウラアァァ――――ッ!!」
猛々しい喊声とともに、拳が、足が、騎士らに降り注ぐ。
ちかっ。ちかちかっ。
幾つかの閃光が短く瞬いた。
どばっ。
大量の鮮血が、逆向きの滝となって空へと噴き上がった。その向こうで、闘士たちの腕が、脚が、そして首が冗談のように呆気なく体から切り離されるのが見えた。
直後。
銀色の輝きが、きらきらと光の筋を引きながら三騎士の背後から高く飛翔した。
それは、赤い朝焼けの中、斜めの弧を描いて拳闘士たちの頭を飛び越え――今も大量の兵らが取り付く、右端の太縄へと――。
「やめろおおおぉぉぉ――ッ!!」
イシュカーンの鋭敏な耳は、自身の絶叫に紛れることなく、ぶつ、というかすかな切断音を聞き分けた。
張力の反動で、大蛇のように宙をうねる綱。
ひとたまりもなく振り落とされ、谷底へと落ちていく数十人の闘士たち。
その光景を、見開いた両のまなこに焼き付けながら、イシュカーンは我知らず口走っていた。
「これが……戦かよ。こんなものが闘いと呼べるのか」
背後に付き従う副官ダンパも、今ばかりは何も言えないようだった。
軽業師の真似事をさせられた挙句、敵の前に立つことすら出来ずに地割れに飲み込まれていく部族の民たちは、断じてそのような死に方をするために長く辛い修練に耐えてきたのではない。
郷で彼らの帰りを待つ、老いた親や幼子らに何と伝えればいいのだ。敵の刃に雄々しく立ち向かい、誉ある散りざまを得たのではなく――その肌にひと筋の傷も受けぬうちにただ地の底に消えたなどとどうして言えよう。
立ち尽くすイシュカーンの耳に、闘士たちの無念の雄叫びが幾重にもこだました。
かならず仇は取ってやる。だから許せ。許してくれ。
ひたすらにそう念じたものの、しかし何者を仇と定めればいいのか、イシュカーンには即座に判断できなかった。
数倍の軍勢を前に、敵整合騎士たちも必死なのだ。こちらの最後の一人が谷を渡り、整列し終えるまで座って見ていてくれ、などと頼める筈もない。むしろ、時宜を逃さず即応するためにたった五人で斬り込んできたその意気は見事ですらある。
ならば、いったい誰が。
何者が、闘士たちの無為なる死の責を負うべきなのか。
こうしてただ、阿呆のように両手を握って立っている名ばかりの長か。
それとも――。
不意に、右眼の奥に鋭い痛みを感じ、イシュカーンは歯を食いしばった。血の色の光が脈打つように視界にゆらめき、その向こうで、二本目の綱が断たれて空に舞った。
敷設させた十本のロープのうち、三本までもがたちまちのうちに切断される様子を、ガブリエル・ミラーは自軍後方から頬杖をつきながら眺めた。
やはり、AIの性能では人界側のユニットのほうがやや優秀と見える。いや、状況対応力だけを見れば段違いというべきか。昨夜の第一次会戦も含め、ダークテリトリー軍の攻撃を瞬時に切り返し、手痛いカウンターを決めてくる様は、とてもCPU相手のシミュレーション・ゲームとは思えない。
そのゲームの結果、ガブリエルはすでに自軍ユニットの七割以上を損耗しているのだが、しかし彼にいまだ焦りは無かった。
今この瞬間、百の単位で失われていく主力ユニットを目視しながらも、彼はただ待っていたのだ。"その時"が来るのを。
約八時間前――。
オーシャンタートル・メインコントロールルームに陣取る襲撃チーム唯一の非戦闘員クリッターは、STRA倍率を×1に引き下げると同時に、衛星回線を通じてあるひとつのURLを全米のオンラインゲーム・コミュニティへとばら撒いた。
それは、彼がガブリエルの指示で手早く作成した、とあるプロモーション・サイトへのアクセスを促すものだった。
サイトには刺激的な配色のフォントが並び、飛び散る鮮血のエフェクトとともに、以下の内容を告知していた。
新規VRMMOタイトルの時限ベータテストを開催。
史上初、"殺戮特化"型PvPゲーム誕生。
レーティング無し。倫理コード無適用。
それらの惹句を見たユーザーたちは、このメーカーはどんな命知らずか、と呆れつつも大いに喜んだ。
二〇十六年現在、VRMMOタイトルの法規制が進むアメリカでは、業界団体による厳格なレーティング審査を受け、倫理コードに則ったうえでなければとてもサーバーの運営は出来ない状況となっている。具体的には、血液エフェクト、悲鳴エフェクト、死体表現の全面禁止である。
その規制は、VRMMO発祥国である日本よりも格段に厳しく、全米のプレイヤーは巨大なフラストレーションを募らせていた。そこに突如現れたのが、謎のベータテスト告知だったのだ。
URLはあらゆる種類の回線を通じて口コミで広がり、接続用クライアントが恐ろしい勢いでダウンロードされ、コピーされ、再アップロードされた。たった八時間で、クリッターの作成したクライアントプログラムを導入したアミュスフィアは、実に三万台を突破した。
ガブリエルが貴重な現実時間を消費してまでも仕掛けた最大の策。
それは、全米のVRMMOプレイヤーに、ダークテリトリーの暗黒騎士アカウントを与えたうえで自らの戦力としてアンダーワールドに接続させるというものだった。
そのようなことが可能であるとは、ラースを率いる菊岡誠二郎も、アンダーワールドを設計した当人である比嘉タケルですらもまったく考えもしなかった。しかし、アンダーワールドは、下位レベルではあくまでザ・シード規格に適合したVRMMOパッケージに過ぎないのだ。通常のポリゴン表現によるゲーム世界としてならば、ただアミュスフィアさえ有ればログインすることも、オブジェクトに触れることも――あるいは他のキャラクターを殺すこともできるのである。
そして、全米のアミュスフィア販売数は、現時点で五百万台を突破している。
ガブリエルとクリッターの秘策は、完全にラーススタッフの想像の埒外にあった。
また、たとえ気付いたところで、メインシャフトを占拠された状態では衛星回線の切断すらも不可能だった。
しかし、クリッターが問題のURLを送信した時点で、ただ一つの存在だけがそのパケットに気付いた。
結城明日奈の持ち込んだ携帯端末から、オーシャンタートル内の状況を観察していたトップダウン型人工知能・ユイは、プロモーションサイトにアクセスし、ガブリエルの狙いを正確に推測してのけたのだ。
彼女はなんとか、物理的・回線的に封鎖されたサブコントロールルームに状況を警告しようとしたが、明日奈の船室に置きっぱなしにされた端末のアラームをいくら鳴らそうと、とても聞こえるものではなかった。
やむなくユイは、遥か太平洋を隔てた日本へと意識を引き戻し、幾つかの携帯端末番号を同時にコールした。
現実世界では女子高校生、仮想世界では超級狙撃手である朝田詩乃は、寝入りばなに響いた着信音が意識に届くや、自宅アパートのベッドからがばっと跳ね起きた。
心臓が口から出そうになった理由は、そのメロディが、桐ヶ谷和人の自宅回線からの着信を示すものだったからだ。
まさか。意識不明のうえに行方不明になったままのキリトからコールが。
混乱しながら端末に押し当てた耳に、飛び込んできたのは幼い少女の切迫した声だった。
『シノンさん、ユイです!』
「え……ゆ、ユイちゃん?」
キリトの所有するAIであるユイのことは無論知っている。ほんの一週間前、彼の行方を明日奈たちと話し合ったとき、ユイの情報処理能力と感情表現の高度さを目の当たりにしたばかりだ。
しかし、よもや直接電話をかけてくるとは予想できず、詩乃は絶句した。耳に、ほんのかすかに電子的な響きのある甘い声が、急き込むように流れ込んでくる。
『説明は後からします。今すぐ準備をし、家を出てタクシーに乗ってください。行き先住所と最小時間経路は端末に送ります。運賃はシノンさんの電子マネー口座に入金しておきます』
直後、ちゃりーんというサウンドエフェクトが、詩乃の端末にオンライン振込みがあったことを告げた。
「え……た、タクシー?」
言われるままに立ち上がり、パジャマのズボンから脚を引き抜きながら、詩乃はいまだ回転数の上がらない頭でそう訊ねた。しかし、続いたユイの言葉が、氷水のように詩乃の意識を覚醒させた。
『はい。パパとママが危険なのです!!』
「き……危険!? お兄ちゃんとアスナさんが!?」
女子校生にして剣士、そして桐ヶ谷和人の妹でもある桐ヶ谷直葉は、ジーンズのボタンを留めながら聞き返した。
『リーファさん、あまり大声を出すとおばさまが起きてしまいます』
端末から流れ出すユイの冷静な声に、慌てて口をつぐむ。
「そ……そうね。ていうか……こんな時間にこっそり抜け出すなんて初めてだよ……」
『今からおばさまに事情を説明し外出許可を求める時間的余裕は残念ながらありません。ホームサーバーに、部活の朝練があるので早く登校するむねメッセージを吹き込んでおけば大丈夫でしょう』
「わ……わかった。すごいな……ユイちゃん策士だねえ」
いたく感心しながら着替えを終えると、直葉は足音を忍ばせて階段を降り、玄関の戸に手をかける。いかに時代物の日本家屋とは言え、夜間はオンラインセキュリティが働いているはずなのだが、警報はユイが切ったらしい。
和人が行方不明となって以来、心労の色著しい母親・翠の目を盗んで行動することに罪の意識を感じたが、直葉は心の中で手を合わせて家を出た。
――ごめんなさい、お母さん。お兄ちゃんは、きっと私が助け出すからね。
大通りに出ると、幸いまだ回送ではなく割増表示のタクシーがたくさん走っており、すぐに掴まえることができた。直葉の年齢にやや訝しげな顔をする運転手に、親戚が急病なんですと言い訳し、端末を覗き込む。
「ええと……東京の港区までお願いします」
六本木とまでは言わないほうがいいような気がした。
比嘉タケルは、かじりかけのエナジーバーが膝の上に落ちた感覚に、はっと目を開いた。
きつく瞬きを繰り返してから、壁の時計を確かめる。JSTで午前四時少し前。視線を横に動かすと、サブコントロールルームに詰めるラーススタッフたちの、疲れ果てた顔がいくつも見えた。
ドクター神代は、コンソールの椅子の一つに横向きに腰掛け、こくりこくりと頭を揺らしている。菊岡二等陸佐ですら、寝てはいないまでも、メインモニタに向けられた黒縁めがねの下の細い眼にいつもの鋭さは無い。
あとは、技術系のクルー四人が壁際に敷かれたマットレスに屍のように転がっているだけだ。自衛官の警備要員たちは、情報漏洩者が含まれる可能性を考慮し、菊岡が全員をサブコントロールの一層下で耐圧隔壁の警戒に当たらせた。
謎の武装グループの強襲を受けてから、ようやく六時間が経過したことになる。
オーシャンタートルを護衛する――はずだった――イージス艦《ながと》に突入命令が出るまで、あと十八時間。この状況下では、絶望的なまでに長い。時間が加速されているアンダーワールドにおいてをや、である。
結城明日奈が、スーパーアカウント"ステイシア"を用いてダイブしてからももう三時間が経過している。内部時間では四ヶ月にもなんなんとする月日が過ぎ去った計算になる。なのに、いまだにアリス確保任務が成功したとも失敗したとも連絡が無いとはどういうことか。
「そんなに遠くしたっけなあ……ヒューマンエンパイアからワールドエンドオールターまで……」
もごもご呟きながら、脳裏にラースのロゴマークと酷似するアンダーワールド全図を思い描こうとした――そのとき。
コンソールに設置された電話機が、びびび、びびびと耳障りな音で喚きたて、比嘉は思わず飛び上がった。
「き……菊さん、デンワ」
下のフロアで何かあったのか、と思いつつ指揮官に声を掛ける。
同じようにびくっと跳ね起きたアロハシャツ姿が、つま先から下駄を落としながら受話器に飛びついた。
「サブコントロール、菊岡だ!」
少々掠れてはいるが、びんと強く響く応答に、やや間を開けてスピーカから流れたのは――防衛要員を指揮する中西一尉ではなく、戸惑いをたっぷり含んだ若い男の声だった。
「え、えーとそちら、ラース本社のSTLプロジェクト本部……ですよね? 私、ラース六本木支部の平木と申しますが……」
「は? ろ、ろっぽんぎ?」
菊岡にしては珍しく、完全に意表をつかれたような間の抜けた声だったが、しかし比嘉もまったく同感だった。
なぜこんな時間に六本木支部が連絡してくるのだ。あそこのスタッフは、ラースが国防予算によって運営される偽装企業であることも、その中核が日本本土ではなくはるか南洋を漂うオーシャン・タートルに置かれていることも、プロジェクト・アリシゼーションという名称すらも知らされていない。
そしてもちろん、ラースが今謎の敵の攻撃に晒されていることも。六本木支部は、完全にSTL関連技術開発のみに特化した、あくまで一出先機関なのだ。
そう……STL……。
不意に、何か閃きのシッポのようなものが比嘉の脳裏をかすめたが、それを捕まえる前に菊岡が大きく咳払いした。
「あ、ああ、はい。STLプロジェクトチームの菊岡ですが」
「あ、どうもどうも! 以前一度お眼にかかりました。ご無沙汰しております、こちらで開発主任をやらさしてもらってます平木ですぅー」
そんなカイシャインみたいな挨拶はいいから早く本題を言え!!
と比嘉は胸中で叫んだし、菊岡もまったく同じ顔をしていたが、出てきた声は見事な偽装会社員振りだった。
「あっはい、どうもお疲れ様です平木主任。こんな時間まで残業ですか?」
「いやぁー、それがちょっと、飲んでるうちに終電逃がしちゃってぇー。会社の場所が悪いんですよー六本木とか。あ、上にはオフレコでこれ、うふふ」
お前が今話してるのが上だよ! ザ・てっぺんだよ! いいから用件を言えよ!!
比嘉の念力が通じたか、平木はそれ以上無駄口を叩かず、口調を改めた。
「あーっと、それでですねえ……ちょっと問題、というか……妙な話なんですけどね。ここに今、外部のヒトがアポなしで突然来まして……」
「外部? 取引先ですか?」
「いえ、まったく無関係の……ていうか、どう見ても女子高生なんですよ、しかも二人……」
「はぁ!?」
再び菊岡と、比嘉、ついでにいつの間にか立ち上がっていた神代博士も素っ頓狂な声を出す。
「じょ……し、こうせいですか?」
「ええ。いやもちろん追い返そうとしたんですよ、この会社守秘関連すごい厳しいですから。でも……そのコたちの言ってることが、どうにも……」
要領を得ない平木の言葉に、ついに比嘉も立ち上がり、コンソールに両手をついた。菊岡のほうは、見上げた忍耐力を発揮し、穏やかに問い返した。
「で、いったい何を言われたんです?」
「えーとですね。今すぐラース本部の菊岡誠二郎って人に連絡して、こう言えと。アンダーワールドの、STRA倍率を即刻確認するように、と……」
「なにぃ!?」
再び、異口同音に驚愕の叫びが漏れた。
なんで外部の女子高生がそんな単語を知っているのだ!! アリシゼーション計画の全貌を知悉していなければ絶対に出てこない台詞ではないか。
口をぽかんと開けて菊岡と眼を見交わした比嘉は、半ば自動的にコンソールに向き直り、キーボードに指を走らせた。
暗いモニタに、白く現在の時間加速倍率が浮き上がる。
×1.00。
「げっ……等倍!? いつからだ!?」
あえぐ比嘉から視線を外し、菊岡が急き込むように受話器に向けて叫んだ。
「な……名前。その女の子たちは名乗りましたか」
「あっ、はい。それが、これもフザケた話っていうか……どう考えても本名じゃないんですが。えっとですね、"シノン"と"リーファ"だって菊岡さんに伝えてくれって言うんですよ。顔は日本人なんですけどねえー」
ガコッ。
という乾いた響きは、菊岡が右足だけに突っかけた下駄からカカトを滑らせた音だった。
ラース六本木支部エントランスのオートロックが開き、浅田詩乃と桐ヶ谷直葉が小走りに中に入るのを確認して、人工知能ユイは小規模な安堵表現を行った。
具体的には、ほう、とささやかなため息を漏らし、演算能力の大半を同時継続中の別のタスクへと振り分ける。
ユイは、こちらの目的の達成には多大な困難が伴うと推測していた。なぜなら、ユイ単独では絶対に遂行不可能なことがらだからだ。
しかし同時に、これに失敗すれば、愛する"パパ"と"ママ"の願いは空しく潰えるであろうことも確かだった。
詩乃の携帯端末から意識を引き戻し、ユイはそのつぶらな瞳で、目の前に並んで座る四人の"妖精たち"を順に見た。
VRMMO-RPG、アルヴヘイム・オンライン内部に存在するキリトとアスナのプレイヤーホーム、そのリビングルームにユイたちは居る。
葉っぱで編んだようなソファに腰掛けるのは、三角形の耳と小さな牙を持つケットシー族のアバターでログインしている、プレイヤー"シリカ"。
隣に、メタリックピンクの髪をふんわり膨らませた、レプラホーン族の"リズベット"。
少し離れたテーブルに腰を乗せるのは、赤く逆立つ髪に悪趣味なバンダナを巻いたサラマンダー族、"クライン"だ。さらに、その横に腕組みをして立つ灰色の肌の巨漢が、ノーム族の"エギル"。
彼らはいずれも、生還者(サバイバー)と通称される、デスゲームSAOを生き抜いた歴戦のVRMMOプレイヤーであり、またキリトとアスナの無二の親友たちでもある。ユイの連絡を受け、深夜にも関わらず快くALOにログインした彼らは、いまちょうど状況の概説を聞き終わったところだった。
額に巻いたバンダナごしにがりがりと頭を掻きながら、クラインが持ち前の飄々とした声に最大限の深刻さを滲ませて呻いた。
「ったく……あんにゃろう、まーた一人でとんでもねえことに巻き込まれやがって……。自衛隊が作ったザ・シード連結体(ネクサス)"アンダーワールド"に、そこに生まれたマジモンの人工知能"アリス"かよ」
「その人工知能っていうのは、NPCじゃなくて……あたしたち人間と同じ存在、っていうことなの?」
続けて発せられた質問はリズベットのものだ。ユイはそちらに向けて大きく頷いた。
「ええ、そのとおりです。私のような既知AIとは構造原理から完全に異なる、本物の魂なのです。ラース内部では"人工フラクトライト"と呼ばれていますが」
「それを、戦闘機に乗せて戦争させようだなんて……」
ユイと、膝で丸くなる小竜"ピナ"を順に見たシリカが顔をしかめた。
「実際には、ラースとしてはそれを他国向けのデモンストレーション的な技術基盤に用いる意図のようですが……現在オーシャンタートルを占拠している襲撃者たちは、もっと具体的な用途を想定していると私は推測します」
ユイの言葉に、クラインが渋面を作って訊ねた。
「いったい何者なんだい、その襲撃者っつうのは」
「98%の確率で米軍か米情報機関が関与しています」
「べ……べーぐん!? てアメリカ軍!?」
仰け反るリズベットに、ユイはこくりと首を動かした。
「もし"アリス"が米軍の手に落ちれば、いずれ確実に無人機搭載AIとして実戦配備される日が来るでしょう。パパもママも、それだけはなんとしても阻止したいと思うはずです。なぜなら……なぜなら」
不意に、自分の情動アウトプットプログラムが不思議な反応を見せたことに、ユイは戸惑った。
頬を、ぽろり、ぽろりと大粒の水滴が転がり落ちていく。
涙。
私、泣いている。でも、いったいなんで。
その戸惑いすらも、衝き上げるような未知の感覚に押し流され、ユイは胸の前で小さな両手を握り締めて言葉を続けた。
「なぜなら、"アリス"は、SAOから始まったあらゆるVRMMOワールドと、そこに生きた多くの人々の存在の証であり、費やされたリアル・リソースの結実だからです。私は確信します。ザ・シードパッケージが生み出されたそもそもの目的が、"アリス"の誕生に他ならないと。連結された無数の世界で、たくさんの人たちが笑い、泣き、哀しみ、愛した、それら魂の輝きがフィードバックされていたからこそ、アンダーワールドに真の新人類が生まれたのです。パパや、ママや、クラインさん、リズベットさん、シリカさん、エギルさん、そのほか多くの人々があの浮遊城で流した涙が、今"アリス"の体に赤い血となって流れているのです!」
しばらく、誰ひとりとして口を開こうとしなかった。
ユイには、眼前の人間たちの意識回路で発生しているであろう思考や感情を推察するすべは無かった。情報集積体でしかない既知AIが、本物のエモーションを持たず、理解もできない存在であることを、誰よりも知っているのはユイだったからだ。
そう、キリトやアスナ、そしてその愛する人たちを助けたいというこの強い衝動ですらも、メンタル・ヘルスケア・プログラムとして最基層に書かれたコードに由来するものでしかないのだ。
そんな自分の発する、単なる情報の羅列にすぎない言葉が、人間たちの心にどれほど届き得るものだろうか、とユイはこの会合を始める以前から――大きな目的を抱いてオーシャンタートルを飛び立ったその瞬間から危惧していた。
だから、突然リズベットの瞳に透明な涙が盛り上がり、つう、と流れるのを見てユイは珍しく驚きを覚えた。
「そう……、そうだよね。繋がってるんだ、ぜんぶ。時間も、人も、大きな川みたいに」
シリカも、目を潤ませながら立ち上がり、ユイの前に跪くとそっと両腕を回してきた。
「大丈夫だよ、ユイちゃん。キリトさんも、アスナさんも、私たちが助けにいくから。だから泣かないで」
「おうとも。水臭ぇぞユイッペ、俺らがキリトを見捨てるわきゃ無ぇだろうが」
ぐい、とバンダナを目深に引き下げ、クラインが湿った声で追随した。隣のエギルも深く頷き、重々しいバリトンで宣言した。
「あいつにはでっかい借りがあるからな。ここらで少しは返しておかんとな」
「……皆さん…………」
シリカに抱かれたまま、ユイはそう言うのが精一杯だった。
先ほどから、理由のわからない涙が後からあとから溢れ、一向に止まろうとしないからだ。
時間がないのに。語るべきことがまだまだあるのに。行動優先度からすれば、今は冷静に情報を伝達しなければいけないときだ。私の情動アウトプット回路は壊れてしまったのだろうか。
しかしユイは、己の全存在を満たすひとつのコードに支配され、しゃくりあげながら同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「……ありがとう、ございます……ありがとうございます、皆さん……」
数分後、ようやく情動の最適化に成功したユイは、口早に現在の状況と今後起こるであろう事象の推測を四人に告げた。
眉間に険しい谷を刻み、クラインが唸った。
「USからのダイブが、最低でも三万……多ければ十万以上か……。そいつらにとっては、キリトとアスナ、そしてアリスを含む人界軍てのは、PvPのマトでしかねぇ、って訳かよ」
「いっそ、アメリカのネットゲームコミュニティにこっちも書き込みをしたらどうなの? 実験のこととか、襲撃のこととか暴露して、偽装ベータテストに参加しないでください、って頼めば……」
リズベットのストレートな意見に、ユイは小さくかぶりを振った。
「ことの真相は、日米の軍事機密争奪戦なのです。下手にそれを匂わせると、むしろ逆効果になりかねません」
「相手は本物の人間だから、殺さないで……って書くのも、じゃあ、やぶへびですよね」
シリカがしゅんとした顔で呟く。
重い沈黙を、すぐにクラインの威勢のいい声が破った。
「へっ、なら同じ手を使えばいいってこった! ネトゲ廃人の数ならUSなんぞに負けやしねえぞ。こっちもベータテスト告知サイトを作って、その……ラースの何とかさんに対等のアカを用意してもらえば、三万や四万すぐに集めてみせるぜ!」
「だが、厄介な問題がひとつある」
エギルが、丸太のような両腕を組みながら短く指摘した。
「ンだよ、問題って」
「時差だ。日本はいま日曜の午前四時半、つまりもっとも接続数の減る時間帯だ。対して、アメリカは土曜の昼間。アクティブプレイヤーの数では、向こうのほうが圧倒的に多いぞ」
「う…………」
今はじめてそれに気付いたような顔で、クラインが呻いた。
当初から、まったく同じことを懸念していたユイは、大きく頷くと言った。
「エギルさんの仰るとおりです。そもそものVRMMOプレイヤー絶対数の差に、時間帯の問題、さらに募集にも大きく出遅れていることを加味すると、我々が日本で集められる人数は一万にも遠く及ばないでしょう。つまり、敵側と同レベルのアカウントを使用するのでは、対抗できる可能性は非常に低いと言わざるを得ません」
「でも、アスナが使った神様アカウントってもう無いんでしょう? だからって、キリトみたいに一からレベル上げしてる時間もあるわけないし……やっぱり、ラースに用意してもらえるアカウントのうち、一番強いやつで頑張るしかないんじゃ……」
硬い表情でそう呟くリズベットを、ユイはじっと見つめた。
「いいえ……アカウントは存在します。敵側の使用するデフォルトアカウントより、レベルも装備もはるかに強力なものが」
「えっ……ど、どこに?」
「皆さんはもうそれを持っています。今この瞬間、ログインに使用している、まさにそのアカウントです」
ぽかん、とした顔を作る四人に向け、ユイは己の使命の核心を告げるために口を開いた。
彼らに、とてつもなく巨大な代償を――文字どおりその半身を捧げることを求めようとしているという認識はあった。
しかし同時に、この人たちならば必ず応じてくれると、ユイは強く信じた。
「――コンバートです! 皆さんが、そして他の多くのVRMMOプレイヤーたちが、あまたのザ・シード世界で鍛え上げたキャラクターを、アンダーワールドにコンバートするのです!」
午前五時。
アルヴヘイム・オンライン世界の中央に位置する中立都市アルン、そのさらに中心にそびえる世界樹内部の巨大ドームに、三千人を超えるプレイヤーが集結していた。
かつて、ドームの天蓋に設けられたゲートを防御していた守護騎士モンスターの姿はもうない。かわりにこの場所は、妖精九種族間の会議や交渉に用いられるようになっている。
クラインやリズベットらがゲーム内メールを飛ばしまくった時点で、ログインしていた領主プレイヤーはほんの三人だけだった。しかし彼らや、各種族の役職プレイヤーを拝み倒し、リアルで連絡をつけてもらうという禁じ手までも繰り出した結果、わずか四十分で八人の領主全員が一同に会することとなった。
周囲の広大な空間に、立ったり浮遊したりしているプレイヤーたちの三割近くは、作成したばかりのキャラクターを使用している。だが、VRMMO初心者というわけではない。彼らは皆、他のザ・シード規格タイトルにおけるベテランプレイヤーであり、ALOにアカウントを持つ友人知人の求めに応じて集まったのだ。
つまり、このドームに集う三千人は日本人VRMMOプレイヤーの精鋭中の精鋭であり、ユイが一縷の望みをかけた、アンダーワールドの人界守備軍を救いうる唯一の戦力なのだった。
いま、しんと静まり返った彼らの頭上を、よく通るリズベットの声がさらに魔法で増幅されて高らかに響いている。
「……私が皆さんに言ったことは、嘘でも冗談でもありません! 日本が、その国家予算で造ったザ・シード・ネクサスである"アンダーワールド"を、もうすぐアメリカ人プレイヤーたちがそれと知らずに侵略し、攻め滅ぼそうとしているのです!」
リズベットは、ナショナリズムを煽るような言い方に忸怩としたものを覚えながらも、今はそれすらも利用しなければいけないのだと自分を叱咤した。
「アンダーワールドに暮らしているのは、ただのNPCではないんです! 皆さんがダイブしてきた、たくさんのVRMMO世界から還元された情報を源として生まれた、ほんものの人工知能なんです! 彼らを守るために、皆さんの力を貸してください!!」
リズベットは、数分間の演説をその言葉で締めくくり、プレイヤーたちをぐるりと見回した。
たくさんの妖精たちの顔には、一様に戸惑いの表情だけが浮かんでいる。それはそうだろう、突然聞かされて、すぐに理解できるような話ではない。
低いざわめきを割って、しなやかな腕が発言を求めた。
進み出たのは、長身を緑色のローブに包んだシルフ族の領主、"サクヤ"だった。
「リズベット。君や、君の友人たちが悪戯でこんなことをするとは思えないし、何よりあのキリトがもう一週間もログインしていないのは確かにただ事ではないだろう。しかし……」
低く滑らかなサクヤの声が、いつになく困惑を含んで揺れた。
「……正直、にわかに信じがたい。いや、事実確認は、君の言うとおりログインしてみれば出来るのだろうが……先ほど君は、"アンダーワールド"へのダイブにあたっては、幾つかの問題点があるとも言ったな? まずその問題とやらを説明してくれないか?」
――ついに、この瞬間がきた。
リズベットは大きく息を吸い、そっと瞳を閉じた。
正念場だ。ここでしくじれば、誰も救援には来てくれないだろう。
ぱちりと両眼を開き、目の前のサクヤを、そして他の領主たちと無数のプレイヤーを順に見渡しながら、リズベットはしっかりした声で告げた。
「はい。アンダーワールドは、ゲームとして運用されているわけではありません。ゆえに、ダイブには幾つかの問題が発生します。まず第一に……コマンドメニューが存在しません。よって、自発的ログアウトができないんです」
ざわめきが突然大きくなる。
"自発的ログアウト不能"、それはかつて存在したデスゲーム・ワールドを否応なく思い起こさせるフレーズだ。現在では、アイコン操作と音声コマンド双方でログアウトできないVRワールドは、MMOゲームに限らず違法となっている。
「ログアウトの方法は、内部で"死亡"するしかありません。しかし、ここで第二の問題が発生します。アンダーワールドには……センス・アブソーバが設定されていないのです。恐らく、ダメージに伴って、かなり強烈な錯覚痛があるはずです」
さらに大きなどよめき。
痛覚遮断もまた、法で義務付けられたVRサーバの必須機能だ。それが存在しない、つまりアブソーバレベル0状態ということは、剣で切られたり炎で焼かれたりすると、ほとんど現実と同じ強さの苦痛を味わうことになる。場合によっては、生身の体に痣が浮き出ることすらある。
動揺の声が少し収まるのを待って、リズベットはついに第三の、そして最大の代償を口にした。
「そして、もう一つ。アンダーワールドサーバは、現在、開発者たちですらオペレーションできない状態にあります。つまり……コンバートした皆さんのアカウントデータを、再コンバートできるかどうかは保証できません……ことによると、キャラクターロストという結果になる可能性があるのです」
一瞬の沈黙に続き――。
突如、凄まじいボリュームの怒号が、広大なドーム空間に満ち溢れた。
フロアの中央に並ぶリズベット、クライン、シリカ、エギルの四人と、小さなピクシーに姿を変えてクラインの肩に乗るユイは、実際的圧力をともなって押し寄せてくる罵声の波に耐えて、まっすぐに立ちつづけた。
この反応は、まったく予想されたとおりのものだった。
彼らハイエンドゾーンのプレイヤーたちは、そのキャラクターを育て上げるために、尋常ならぬ時間と努力をつぎ込んでいる。一時間必死になってモンスターを倒しまくって、ようやく経験値が0.1%上がるかどうか、という、湖の水をバケツでくみ出すような作業を日々積み重ねてその位置にとどまっているのだ。
その、精魂傾けて鍛えてきたキャラクターを失うかもしれないなどと言われて、平静でいられるはずもない。
「ふ……ふざけんなよ!!」
集団から数歩飛び出てきたひとりが、リズベットに人差し指をつきつけて叫んだ。
深紅の全身鎧に身を包み、背中に巨大な両手剣を背負ったサラマンダーだ。たしか、領主モーティマー、将軍ユージーンに次ぐ地位にある指揮官格のプレイヤーだったはずだ。
ヘルメットをもぎ取り、怒りに燃える両眼を露わにしたサラマンダーは、背後の大集団が一瞬押し黙るほどのボリュームで更に言葉を放った。
「こんな時間に無理やり人を集めまくって、わけのわかんねえ違法サーバーにダイブしろってだけでもどうかしてんのに、その上キャラロスするだぁ!? 消えたらお前らが補償できんのかよ!!」
呵責のない言葉に、隣から飛び出そうとするクラインを手で押さえ、リズベットは可能な限り静かな声で答えた。
「できないわ。あなたたちの育てたキャラクターが、お金に換えられるものじゃないことくらいよく分かってるもの。だからお願いしてるんです。私たちを助けて、って。今、アンダーワールドで必死になってアメリカの攻撃を防いでる、私たちの仲間を助けてくださいって」
叫ばずとも、リズベットの声はドーム全体に滔々と流れた。サラマンダーは一瞬息を詰めたようだったが、すぐにそれを怒気に変えて吐き出した。
「仲間っつうのはあいつらだろ! 生還者とか言われて、レベルも大したことねえのに自分らだけ特別みてえな顔してる連中だろうが! 分かってんだよ、お前ら元SAO組が、心んなかじゃ俺たちのこと見下してることくれえよ!!」
今度は、リズベットが言葉を失う番だった。
サラマンダーが指摘したことを、リズベットはこれまで自覚も意識もしたことはなかった。だが、言われてみれば、そのような心理がほんとうに一欠片も存在しないと確信はできない気もした。プレイヤーホームを、地上フィールドではなく上空の新アインクラッドに構え、ほとんど下に降りることもなく、昔なじみとばかり交流してきたのは事実なのだ。
リズベットの動揺を見抜いたか、サラマンダーは尚も容赦ない言葉を重ねた。
「人工知能とか、防衛機密とか知るかよ! VRMMOにリアルの話持ち込んで偉そうなこと言ってんじゃねえよ! そういうのは、お前らだけでやりゃいいだろうが! リアルでもお偉い生還者様だけでよ!!」
そうだ、帰れ、という罵声が周りからいくつも追随した。
だめだった。
あたしの言葉じゃ、ぜんぜん届かなかった。
リズベットは、我知らず涙ぐみそうになりながら、すがるような気持ちで仲のいいALOプロパーの実力者、シルフ領主サクヤや、サラマンダー将軍ユージーン、ケットシー領主アリシャ・ルーたちを見やった。
しかし、彼らは言葉を発しようとしなかった。
それぞれの瞳に強い光を宿し、ただじっとリズベットを見つめていた。まるで、おまえの意思を、覚悟を見せてみろ、と言うかのように。
リズベットは、大きく息を吸い、ぎゅっと瞼を閉じた。そして、今この瞬間にも懸命の闘いを続けているはずのアスナや、傷ついたキリト、そして一足先に戦場に馳せ参じていったリーファやシノンのことを思った。
――あたしのレベルじゃ、たとえコンバートしても、とてもみんなのようには戦えない。でも、だからこそ、あたしにしかできないことだってあるんだ。いまこの瞬間が、あたしの戦いなんだ。
ぱちりと瞼を開け、涙滴を振り飛ばし、リズベットは話しはじめた。
「……ええ、これはリアルの話よ。そしてあなたの言うとおり、SAO出身者は、リアルとバーチャルを混同しがちなのかもしれない。でも、決して、あたしたちは自分が英雄だなんて思ってない」
隣で、涙を浮かべて立ち尽くすシリカの手を握り、続ける。
「あたしとこの子は、あなたの言う生還者だけが集められた学校に通ってるわ。転入に選択の余地はなかった。元の学校は中退扱いになってたから。あの学校ではね、かならず週に一度カウンセリングを受けないといけないの。モニタリングソフトに繋がれて、現実感がなくなることはないかとか、人を傷つけたくなることはないかとか、下らない質問いっぱいされる。学籍と引き換えに、投薬を強制されてる子だって何人もいるんだ。あたしたちはみんな、政府にとっては監視対象の犯罪者予備軍なの」
いつしか怒声の波は収まり、張り詰めた静寂がドームを支配していた。眼前のサラマンダーさえも、意表をつかれたように目を見開いている。
自分の言葉の行き先が、リズベットには分からなかった。ただ、溢れてくる感情を、意思を、懸命に声に変え続けた。
「でも……ほんとは、そういう扱いをされてるのは旧SAOプレイヤーだけじゃないわ。VRMMOプレイヤーはみんな、多かれ少なかれそんな目で見られてる。ネットゲーマーは社会に寄生してるとか、真面目な労働者が積み上げたGDPをすり減らすだけとか、税金も年金も払わない現実逃避者だとか……徴兵制を復活させて、訓練で強制的に現実を教え込むべきだなんて議論まであるわ!」
数千のプレイヤーのあいだに、ぎりりと緊張が高まるのをリズベットは感じた。針で一つつきすれば、先ほどに倍する怒りが爆発するに違いない。
しかし、リズベットは、片手を胸にあてて尚も叫んだ。
「だけど、あたしは知ってる! あたしは信じてる! 現実はここにあるって!!」
もう一方の手で、大きく周りを――世界を指し示す。
「この世界は、ここと繋がる沢山の連結体は、絶対に仮想の逃げ場所なんかじゃない! 本当の生活と、本当の友達と、本当の笑いや、涙や、出会いや、別れがある……"現実"なんだ、って!! みんなもそうでしょう!? この世界こそがリアルなんだって信じてるから頑張れるんでしょう!? なのに、これはただのゲームだって、所詮バーチャルだって切り捨てたら、じゃあ、あたしたちの本当はどこにあるの……!!」
ついに、堪えきれずに涙が溢れた。それを拭うこともせず、リズベットは最後の言葉を絞り出した。
「……みんなで育てた沢山の世界が、この世界樹みたいに寄り集まって、芽吹いて、ようやくつけたたった一つの実を、あたしは守りたい! お願い……力を貸してください……!!」
静まり返ったドームの天蓋にむけて、リズベットは両手を差し伸べた。
涙に揺れる視界に、幾千の妖精の羽が放つ燐光が、きらきらと滲んだ。
瞬く銀光が、暁の空にきらきらと大きな弧を描く。
ほんの一秒後、乾いた音とともに五本目の太綱が切断され、黒い蛇のように宙をうねった。
多重の悲鳴。なすすべもなく跳ね飛ばされ、奈落へと落ちていく人影。
それらから耳と目を背け、アスナは懸命に眼前の敵だけに意識を集中させた。
いや、たとえそうしたところで、胸中の動揺が薄れるわけではなかった。右手の細剣を閃かせるたびに飛び散る鮮血、崩れる肉体、そして失われる命はすべて本物なのだ。
悲壮な決意を呑んだ表情で、次々に飛びかかってくるダークテリトリーの戦士たちは、決して自身の望みによってそうしているわけではない。
皇帝ベクタなる最高権力者に身を宿した、現実世界の何者かに命ぜられるままに戦い、命を散らしていく。
しかしアスナは、全精神力を振り絞ってその事実を意識から排除した。
いまはアリスの身を護ることだけが最優先事項だ。実際、僅かにでも気を散らせば剣を弾き飛ばされかねないほどに、敵拳闘士たちの拳足は硬く、疾い。
ベクタ神の指揮下にある、ダークテリトリー軍の戦力はこの拳闘士と暗黒騎士を残すのみと聞いた。無謀な渡峡作戦を利用して敵主力を損耗させれば、ベクタアカウントを利用する強襲チームに打てる手も尽きてくるはずだ。
あとは、人界に対する危険が消えたところで、あらためてアリスをワールド・エンド・オールターまで導き、現実世界へ――オーシャンタートル上部のサブコントロール側へとイジェクトすればよい。強襲者たちに、イージス艦突入時刻までに隔壁を破る手立てが無ければ、だが。
「――よし、六本目にいくぞ!!」
騎士長ベルクーリの鋭い声が響いた。即座に、アスナを含む四剣士が応と返す。
西に移動を開始しかけたとき、遥か南から、高らかな角笛の旋律が響き渡った。
見れば、一キロ先の丘を、人界軍の衛士たちが整然と隊列を組んで駆け下りはじめたところだった。ほんの十五分ほどで装備・編成を終え、整合騎士たちの救援に馳せ参じたのだ。
「ったく……大人しくしてない奴らだ」
ベルクーリが苦言じみた声を出したが、しかしその口元には笑みが滲んでいる。
いかに騎士たちの剣力が圧倒的とはいえ、五本のロープを切断するあいだに、残る五本を渡り終えた敵の数は五百ほどにも達している。このタイミングでの援軍は、正直ありがたい。
ロープを守ろうと隊列を組む敵拳士・騎士たちにも動揺が走った。一部が南に向き直り、急造の防御線を築こうとする。しかし、土煙を上げて殺到する人界軍は一千を超える数だ。
この戦いは、どうやらこっちの勝ちね、ベクタさん。
アスナが胸中で呟いた――
その言葉が消えないうちに。
奇妙な現象を、両の瞳がとらえた。
血の色の朝焼けを背景に、遥か上空から、不思議なものが降りてくる。
黒い線。一本ではない。数十――いや、数百。
いや、数千か。
線は、微細なドットの連なりからなっているように見えた。懸命に目を細めると、そのドット一つひとつが、数字やアルファベットであることが分かる。
それら謎のラインあるいは情報は、幾束も寄り集まって、峡谷のこちら側、戦場から一、二キロほど離れた場所に円を描くように降り注いだ。
いつしか、アスナだけでなく他の整合騎士や、ダークテリトリーの兵たちすらも、足と腕を止めてその奇妙な現象に見入っていた。
戦場の西側に突き立った最初の黒線が、地面に溜まり、小さな塊となり――
それが人の姿を取るまで、ほんの二秒ほどしかかからなかった。