騎士長ベルクーリは、愛剣を右手にぶら下げ、ただ立ち尽くした。
目の前に、幅百メルはあろうかという巨大な地割れが口を開けている。左右はそれぞれ遥か地平線にまで続き、深さはもう推測することもできない。縁からは断続的に石片が剥がれ落ちていくが、どれほど耳を澄まそうと、それらが底にぶつかる音がしないのだ。
そして、この大地の裂け目は、数十秒前にはまったく存在していなかった。天空から、壮麗な和音とともに七色の光が降り注ぎ、それを追うように地面が割れた。
たとえ千人、いや一万人の術師を投じようとも、そう――それこそ最高司祭アドミニストレータその人であろうとも、とうていこれほどの事象は引き起こせまい。
神威だ。神の御業だ。
暗黒神ベクタに続いて、さらなる神が地上に降臨したのだ。
ベルクーリは畏怖とともにそう考えたが、しかし、直後それを否定した。
巨大な地割れの向こう岸には、行く手を遮られた五千の敵拳闘士団が、呆然と立ち竦んでいる。
万物に天命を与え、また滅する権限を持つ神ならば、あの闘士たちの足下を引き裂き、容赦なく地の底に墜としていただろう。しかし地割れは、全速で疾駆していた彼ら全体が安全に停止できる余裕を取って生じた。
騎士長はそこに、多くの命を消し去ることへの躊躇いを感じた。
つまりこれは、人の意思が作り出したものだ。
結城明日奈/アスナ/スーパーアカウント01"創世神ステイシア"は、初ログイン時のみに許される微速落下保護に身をまかせながら、はやく、はやく地上へ、とそれだけを念じた。
ログインは、ようやく特定したキリトの現在座標上空で行われたはずだ。だから、舞い降りる先に、愛する人が、その魂が、間違いなく待っている。
狂おしいほどの思慕と同時に、スパークにも似た激痛がアスナの頭を駆け回った。思わず顔を歪め、歯を食いしばる。
ステイシアアカウントに付与された管理者権限、"無制限地形操作"を使用することの弊害は事前に警告されていた。フィールドという膨大な量のニーモニック・データが、STLを介してメイン・ビジュアライザーとアスナのフラクトライトを瞬時に往復する過程で、脳に過大な負荷が発生するのだ。
比嘉タケルからは、もし頭痛を感じたら、その時点で必ず使用を中止するようにと強く言われていた。
しかしアスナは、ログインした瞬間、ささやかな"人界人"とそれに前後から迫る膨大な"暗黒界人"のライトマーカーを認識するや、躊躇いなくコマンドを唱え腕を振った。
北から接近する大集団は、その手前に長大な谷を刻むことで進行を止めた。しかしキリトの居るであろう座標に、戦慄するほど肉薄していた百人ほどは、直下の地面を消し去るしかなかった。
彼らは皆、ほんものの魂を持つ"人間"だったのだ。キリトがどうにかして守ろうと、二年半もの間苦闘し続けた、真のボトムアップAIたち。
あるいは、死に行く彼らの恐怖と怨念がSTLを逆流し、耐え難い痛みをもたらしているのかもしれない。
しかしアスナは強く一度眼をつぶり、音を立てるほどに見開いて、迷いを打ち消した。
自分のなかの優先順位は、もう何年も前に決定している。
キリト――桐ヶ谷和人のためなら、どんな罪も犯す。どんな罰だって受け入れる。
永遠とも思えた数十秒を経て、パールホワイトのブーツのつま先が湿った地面を捉えた。
背の低い、捻くれた潅木が密生する森の底だ。夜空に月はなく、朧な赤い光だけがかすかに降り注いでいる。
ようやく薄れ始めた頭痛を、何度か頭を振って意識から追い出すと、アスナはまっすぐ背を伸ばした。馬のいななきが低く聞こえて、視線をめぐらせると、茂みに隠すように大型の馬車が何台も停まっているのに気付く。
どこ……? どこにいるの、キリトくん?
焦燥のあまり、その名前を叫ぼうとしたとき、背後から震える声が掛けられた。
「ステイシア……さま……?」
振り向くと、そこに立ち尽くしているのは、学校の制服のようなグレイのジャンパースカートを身につけた二人の少女たちだった。
不思議な顔立ちだ。日本人とも、西洋人とも言えない。肌の色はなめらかなクリーム、髪は右の子が紅葉のような赤、左の子がごく深い焦げ茶。
そして何より、二人の腰のベルトに下がる使い込まれた長剣が、この世界の構造と現在の状況を強く象徴している。
赤毛の少女が、微かに開いた唇から、ふたたび声を漏らした。
「あなたは……かみさま……ですか……?」
完璧な日本語。しかし、少し、ほんの少しだけ異国風のイントネーションが含まれている。そこにアスナは、アンダーワールドが歩んできた三百年という歴史を、まざまざと感じ取った。
なんてものを――創ったの。菊岡さん。比嘉さん。
あなたたちラースにとっては、ただの試行実験のひとつだったのかもしれないけれど。
この世界は、間違いなく生きている。
「……いえ……ごめんなさい。わたしは神様じゃないわ」
アスナは、ゆっくり首を振って、そう答えた。
黒髪の少女が、胸元できゅっと両手を握り、でも、でも、と呟く。
「奇跡を起こして……私を助けてくれた。みんなも、助けてくれるんですよね……? 衛士さんたちや、騎士さんたちや、人界の人たち……それに、キリト先輩も」
その名前を聞いたとたん、胸の奥を貫いた疼きのあまりの鋭さに、アスナは喘いだ。
ふらつく脚を踏みとどまり、何度か唇を動かしてから、ようやく囁き声を絞り出す。
「わたしは……わたしはただ、その人に会いにきただけなの。キリトくんに。お願い……どこにいるの? 会わせて……連れていって」
滲みそうになる涙を必死に堪え、アスナは懇願した。少女ふたりは、唖然としたように目を見開いたが、やがて、おずおずと脚を踏み出した。
「……はい。こっち、です」
距離を取って呆然と見守る、逞しい剣士たちの輪のなかを、少女たちに導かれてアスナは歩いた。
たどり着いたのは、一台の馬車の後尾だった。分厚いカンバス地の幌が垂れ下がり、中は見えない。
「キリト先輩は、ここに……」
黒髪の少女の言葉が終わるのを待たず、アスナは息を詰めながら馬車の荷台に飛び乗った。両手で幌をかきわけ、よろめくように中へ進む。
幾つもの木箱や樽が積まれた荷台は、たった一つの蝋燭の灯に、ささやかに照らされていた。
木箱の間を縫い、奥へ。奥へ。
かすかに、懐かしい匂い。お日様のような。森と草原を渡る風のような。
暗がりに馴れたアスナの瞳を、きらりといくつかの光が射た。
細身のフレームを組み合わせた車椅子。華奢な銀輪。
その上に、影のようにひっそりと身を沈める、黒衣の姿――。
「………………」
圧倒的な感情の大嵐に打ち据えられ、アスナは立ち尽くした。あれほど沢山考えてきた、再会の言葉はひとつも出なかった。
オーシャン・タートル上部シャフトのSTLに横たわる体から奪われ、囚われた、愛する人の魂がそこにあった。
傷つき、損なわれ、それでも確かに息づく命が。
おそらく――。
SAO世界から解放され、しかし目覚めることはなかったアスナを所沢の病院のベッドに見出したとき、キリトもまったく同じ痛みを、哀しみを、そして決意を感じたに違いない。
今度はわたしが。必ず、どんな代価を払おうとも、ぜったいに助ける。
ようやく呼吸を取り戻し、アスナはそっと囁いた。
「…………キリトくん」
痛々しいほどに痩せ細ったその体からは、右腕がまるごと失われていた。白黒二本の剣を抱える左腕が、アスナの声が響いたとたん、ぴくりと震えた。
俯けられたままの顔と、うつろな黒瞳にも、細波のような痙攣が走った。
「ぁ…………」
ひび割れ、掠れた声が、唇の奥から漏れる。
「ぁ……あー……あぁ…………」
かたかた、と車椅子が小さく震動した。左手が、真っ白になるほど強く握り締められ、肩から腰にかけても軋むような強張りが走った。
俯いたまま動かない両頬に、すう、と二筋の涙が流れ、剣へと滴った。
「キリトくん……いいよ、もういいよ!!」
アスナは叫び、跪くと、愛する人の枯れ枝のようになった体を強く抱き締めた。自分の両眼からも、熱いしずくがとめどなく溢れるのを感じた。
再会したその瞬間、キリトの魂が癒され、意識が戻る――。
そんな奇跡を、期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし、キリトのフラクトライトに加えられた損傷が、純粋に物理的なものであることをアスナは認識していた。彼はいま"主体"を、自分のなかの自己を完全に喪失しているのだ。それが何らかの手段で再構築されない限り、いかに外部から激烈な入力があろうとも、自発的出力に変えることはできない。
耳裏に、比嘉の言葉が蘇る。
『彼は、激しく自分を責めていた……』
キリトは、この世界と、そこに暮らす人々を守るために戦った。その果てに、心を繋いだ仲間を、友を失った。
巨大すぎる喪失感と悔恨が、彼の心に穴を開けてしまったのだ。
でも、たとえその穴が無限に広がる虚無であろうとも、わたしが埋めてみせる。わたし一人で出来なければ、心を繋いだ沢山の人たちの力を借りて。
愛で満たせない喪失が、あってたまるものか。
アスナは、強い決意が自分のなかに満ちるのを意識した。これ以上、キリトにはひとかけらの哀しみだって感じさせない。
――キリトくんが愛し、生きたこの世界は、わたしが守るんだ。謎の襲撃者たちから、そしてラーススタッフからも。
最後にもう一度、強くキリトを抱擁してから、アスナは立ち上がった。
振り向き、涙ぐみながらこちらを見ている二人の少女たちに微笑みかける。
「ありがとう。あなたたちが、キリトくんを守ってくれたのね」
ゆっくり頷いた黒い髪の少女が、震える声で問いを発した。
「あの……あなたは……? ステイシア様でないなら……誰なんですか?」
「わたしの名前はアスナ。あなたたちと同じ人間よ。キリトくんと同じ世界から来たの……同じ目的を果たすために」
おそらく、これが、生体脳に魂を持つ現実世界人と、ライトキューブに魂を持つアンダーワールド人が、真の意味ではじめての邂逅を遂げた瞬間だった。
「こりゃぁ何とも……たまげたとしか言えませんな」
御座竜車の先端から、突如出現した地割れを見下ろしていたガブリエルに、どこかのん気な声が掛けられた。
視線を向けると、デッキの片隅に設けられたハッチから、恰幅のいい中年男が顔を出したところだった。たしかレンギルという名の、商工ギルドの頭領だ。幅広の袖を体の前で合わせ、深々と一礼する。
いまや残り少なくなった将軍ユニットの一人だが、この男自身には大した戦闘力はないらしい。何用か、という意味を込めて片眉を動かすと、レンギルは両手を合わせたまま告げた。
「陛下。間もなく紫の月が昇りますれば……即時の行動命令が御座りませぬようでしたら、全軍に食事と休息のお許しを頂きたくまかり越しました」
「ふむ」
再び、黒々と口を開けるクレヴァスに視線を向ける。
あの地割れが、東西どこまで続いているのか確認させるために放った偵察兵からはいまだ報告がない。つまり、一マイル二マイルのオーダーではないということだ。さりとて、人力での土木作業で埋め尽くせる深さではないことも見ればわかる。
となれば、航空ユニットの使いどころであるはずだが、暗黒騎士団の飛竜とやらはわずか十頭しか居ないらしい。二万の歩兵を運ぶのに、何往復させればいいのか見当もつかない。
術式ならば何とかなるのかと、わずかに生還した暗黒術師に検討させもしたが、あの規模の峡谷に軍隊が渡れるほどの耐久性のある橋を掛けるのは不可能という返事だった。総長ディー・アイ・エル級の術者が、再び多数のオークを生贄に用いればあるいは、と言うことだったが、彼女は敵騎士の反撃により骸も残さず戦死との報が届いている。
野心に満ち満ちていたわりには、呆気なく退場したものだ。ガブリエルは一瞬そのような感慨を抱いたが、所詮はAIの駒だ、とすぐに意識から消し去った。
つまるところ――。
あの巨大な地割れは、この世界の"ゲームバランス"から逸脱した代物だ、ということだ。ダークテリトリーのAIに修復不可能な操作を、ヒューマンエンパイアのAIが実現できる道理はなかろう。
ならば、あれは恐らく、現実世界からの干渉だ。K組織のスタッフが、ガブリエルと同じようにスーパーアカウントでログインしてきたに違いない。目的もまた同じだろう。"アリス"を回収し、システムコンソールを用いてこの世界からイジェクトさせる。
厄介な局面になったのは確かだが、そうと分かっていれば、まだ対処のしようはある。
むしろ――面白くなってきた、とすら言えよう。
ガブリエルは、ごく微かな笑みを薄い唇の端に一瞬浮かべ、消し去ってから、レンギルに向き直った。
「よかろう。本日はこの地点で野営する。兵にはたっぷり食わせておけ、明日は忙しくなるからな」
「はっ。陛下の御厚情、真に痛み入ります」
再び深々と平伏し、商人の長はいそいそと姿を消した。
「キリト先輩と……同じ、世界?」
つぶらな瞳を見開き、少女たちは声を揃えて呟いた。
「そ、それは……神界のことなのですか? 創世三神や……素因を司る神様たちや、天使たちが暮らしている天上の国……?」
「違うわ」
アスナは慌てて首を振った。
「確かに、この国の外側にある世界だけど、決して神様の国じゃない。だって……ほら、このキリトが、神様だの天使だのだなんて思える?」
すると、少女ふたりは車椅子に視線を向け、互いに眼を見交わしてから、短くくすっと笑みを漏らした。すぐに慌てた様子でそれを消し、こくこくと頷く。
「は、はい……確かに、毎晩学院を抜け出して買い食いにいく神様なんていない……と思いますけど……」
赤毛の少女の言葉に、今度はアスナが唇をほころばせた。まったく、この世界でまでそんなコトしてたのね、と呆れるやら嬉しいやらで、またしても目頭が熱くなりかける。
瞬きでそれを抑え、ね? と頷きを返すと、今度は黒髪の子がおずおずと口を開いた。
「なら……その、外側の世界、っていうのは、いったい……何なのですか?」
アスナは少し考え、答えた。
「それは、ひとことでは言い表せないの。この場の指揮を執っている人たちにも同時に説明したいから……案内してもらえるかしら?」
「は、はい。分かりました」
緊張した面持ちで了承した少女たちを追い、大型馬車の後端に向かおうとしたアスナは、一瞬脚を止めてキリトを見た。
俯けられた顔には、いまだ細く涙の筋が光っている。
だいじょうぶ、もう大丈夫よ、キリトくん。
あとはわたしに任せてね。
心の中でそう囁きかけ、きゅっと左手を握ってから、アスナは身を翻した。
木箱の間をすり抜け、少女たちに続いて、荷台から飛び降りる。
ブーツが、地面を捉えたその瞬間。
黄金の煌きが、尾を引いて降りかかった。
剣光。
そう判断する前に、体が反射的に動いていた。右手が閃き、左腰に装備された細剣を抜き撃つ。
キャリイィィン!!
甲高く澄んだ剣戟が、夜の森を貫いた。
あまりの衝撃に、右手が肘まで痺れた。なんという重い剣か。
飛び散った大量の火花が白く焼きついた視界に、息もつかせぬ次撃の軌道のみが見えた。
単発技では押し切られる!
瞬時に判断し、アスナは細剣を敵の斬撃に向かって連続して突き込んだ。
カキャキャァン!!
三発目で、ようやく刃が止まった。全力の鍔迫り合いに移行しながら、アスナはようやく襲撃者の姿を確認した。
息を飲む。
とてつもなく美しい、同年輩の女剣士が、雪のような肌に血の色を滾らせてアスナを睨んでいた。矢車草の色の瞳に、電光にも似た怒りが迅っている。
黄金を細く鋳溶かしたかのようなストレートのロングヘアが、せめぎ合う剣圧に翻る。上半身を覆うブレストプレートと、そして握られた長剣もまた、深く透き通る山吹色。
少し離れた場所で、目を丸くして立ち尽くしていた少女たちが、ようやく細い悲鳴を上げた。
「き……騎士様!!」
「違います、この方は敵ではありません、アリス様……!!」
――――アリス!
それでは、この凄絶なまでの美貌を持ち、巨岩のように重い剣を振るう剣士こそが――世界初の真正ボトムアップAI、高適応性人工知能A.L.I.C.E.たる"アリス"なのか。プロジェクト・アリシゼーションの目的そのものであり、ラースと襲撃者たちの双方が希求する、一連の事件のまさに核心。
しかし、なぜこれほどの敵意を。この状況で。
全力で刃を噛み合わせながら、アスナが何かを言おうとしたその寸前、"アリス"の桜色の唇から、名手の奏でるヴァイオリンのように艶やかな響きの声が鋭く迸った。
「きさま、何者だ!! なぜキリトに近づいた!!」
その台詞を聞いた途端。
アスナの中で、あらゆる事情を脇に押しやる、一つの感情が音を立てて弾けた。
具体的には、ものすごくカチーンと来た。
反射的に返した言葉は、事態にドラム缶数本ぶんのガソリンをぶちまけるに等しいものだった。
「なぜって……わたしの、だからよ」
「なにを言うかっ、狼藉者が!!」
アリスが、真珠色の歯をきりっと鳴らしてから叫んだ。
ギャリッ、と火花を振り撒きながら、二本の剣が離れる。
ふわりと飛びのいた黄金の剣士は、ブーツが地面を捉えるや、再び猛烈な左上段斬りを撃ち込んできた。しかし、アスナも今度は気後れ無く、右手に浸み込んだ連続技を放っていた。
夜闇のなかで、巨大な弧月と、幾つもの流星が激突し、眩く輝いた。
肘から肩までを貫く衝撃に、アスナは、個人的感情はさておきまったく瞠目すべき剣技だ、と改めて息を飲んだ。正直、実力では少々劣ることを認めなければならない。互角に撃ち合えるのは、ステイシアアカウントに付与された、つまり"GM装備"であるこの細剣がアリスの黄金の長剣よりも高優先度だからだ。
再び鍔迫り合いとなり、短い間隙が生まれた。
その静寂を、渋く錆びた男の声が破った。
「うーむ、こりゃ実に何とも、見事な眺めだね。咲き誇る麗しき花二輪。いや絶景絶景」
直後、それまで誰も居なかったはずの空間から、ぬう、と二本の逞しい腕が伸び、アリスとアスナの剣の腹を、指先でひょいと摘んだ。
「!?」
まるで万力に挟まれたかのごとく剣が動かなくなった。唖然とするアスナを、細剣ごと軽がると吊り上げた腕は、争う二人の剣士をふわりと引き離して再び着地させた。
立っていたのは、見上げるような体躯を持つ、四十過ぎの男だった。
前あわせの、着物に似た装束の上から最低限の防具を身につけている。腰に下がる鋼色の長剣も、袖口から伸びる前腕も、そして鋭くも重厚な貌にも沢山の細かい瑕が走り、古強者という形容がすぎるほどにぴったり来る。
その男が現れた途端に、何歳か幼くなってしまったかのような印象を帯びたアリスが、ふくれ顔で抗議した。
「なぜ邪魔をするのですか小父様! この者は恐らく敵の間者……」
「ではない、と思うぞ。おっ死ぬところだったオレを命拾いさせてくれたのは、こちらのお嬢さんなんだからな」
君らもそうだろ、という男の言葉は、目を丸くして立ち尽くす灰色の制服の少女たちに向けられたものだった。
二人は、恐る恐るというふうに頷き、交互にか細い声を発した。
「は……はい、騎士長閣下。その方は、私たちを助けてくれたのです」
「腕の一振りで、敵の大部隊を奈落に落として……まさしく、神の御業でした」
騎士長と呼ばれた男は、さいぜんアスナが地面に穿った亀裂の方向にちらりと目をやると、アリスの肩に手を掛けながら言い含めるように説いた。
「オレも見たさ。天から七色の光が降り注ぎ、大地がばっかりと百メルも裂けた。さしもの拳闘士団も飛び越えられずに泡を食ってたよ。一息に蹂躙されるところだった我が軍を、このお嬢さんが救ってくれたのは間違いない事実だ」
「…………」
いまだ、右手に華麗な黄金剣をぶら下げたまま、アリスが胡散臭そうな視線でじろりとアスナをねめつけた。
「……ならば、小父様は、この者が敵の間者でも、神画の装束を模倣した不心得者でもなく、本物のステイシア神だなどと仰るおつもりですか」
アスナは、黙したまま軽く唇を噛んだ。ここで、この場の総責任者らしい"騎士長"に、神様なりと認定されでもしたらまた厄介なことになる。
しかし幸い、男は逞しい口元を僅かに緩めると、いいや、と言った。
「そうは思わん。オレの知ってる神サマとやらは、もっと無慈悲な存在だからな。たとえば、いきなり斬りかかってきた乱暴者なぞ容赦なく地の底に突き落とす、くらいにはな」
これにはアリスも、唇を尖らせながらも反論はできないようだった。尚も敵意の消えない青い瞳でアスナに火花の出そうな一瞥を呉れてから、右手の剣を鯉口にあてがい、シャキン! と一気に鞘に落とす。
実のところ、アスナにも大いに言いたいことはあった。要約すれば、えっらそーに、あなたキリト君のなんなのよ、ということだが、深呼吸ひとつでどうにか憤慨を意識から押し出す。これから、このアリスを説得して遥か南の果てにあるという第三のシステム・コンソールまで連れていかねばならないというのに、ケンカしている場合ではまったくない。
同じように剣を収め、アスナは現状で最も頼れそうな騎士長に視線を向けると、口を開いた。
「ええ……仰るとおり、私は神などではありません。あなた方とまったく等しい人間です。ただ、あなた方のおかれた状況について、幾ばくかの知識を持っています。なぜなら私は、この世界の"外側"から来たからです」
「外側……ね」
騎士長は、短い顎鬚をざらりと擦りながら、太い微笑を浮かべた。
対照的に、アリスのほうは、目を見開いて鋭い呼吸音を発した。
「外の世界……!? キリトのやってきた場所から、お前も来たというの!?」
これにはアスナも驚いた。では、キリトは、アンダーワールドの構造についてある程度アリスに話していたのか。
STRA――主観時間加速機能の倍率を考慮すれば、キリトはすでにこの世界で三年近い年月を過ごしている計算になる。いったい、そのうちどれくらいをこのアリスと共有したのだろう、とつい考えてしまう。
アリスのほうも、同系統の思考に辿りついたらしく、再び一歩詰め寄ろうとしたが騎士長の腕がそれを制した。
「ここから先は、他の騎士や衛士長たちにも聞いてもらったほうがよかろう。茶でも飲みながら話そうや。敵軍も今夜はもう動けまい」
「……そう、ですね」
眉のあたりに険を漂わせたまま、アリスも頷いた。
「よし、そうと決まれば……そこの君たち、熱い茶と、オレには火酒を用意してくれないか。君たちも一緒に話を聞くといい」
騎士長にそう言われた制服の少女たちは、は、はいっ! と畏まって敬礼した。
アスナは、この場所を離れる前にもういちどキリトに会いたい、と思ったが、身動きひとつする前にアリスの鋭い言葉が飛んできた。
「言っておきますが、今後私の許可なくその馬車には立ち入らないように。キリトの安全を確保するのは私の責任範囲ですから」
むかっ。
と頭をもたげる感情をどうにか寝かしつける。
「……あなたこそ、わたしのキリトくんを呼び捨てにするのやめなさいよ……」
「何か言いましたか!?」
「……いいえ、なにも!」
ふん、と同時に顔を逸らし、アスナとアリスは騎士長の背中を追った。
その場に残された二人の少女――ティーゼとロニエは、同時にふう、と息を吐いた。
「なんか……凄いことになってきちゃったね」
ティーゼは勢いよくぱちんと両手を合わせると、親友に言った。
「さ、急いでお湯沸かさなきゃ! あと、火酒ってどの馬車だっけ?」
たたっ、と走り出す赤い髪を追いかける直前、ロニエが口の中で呟いた言葉を聞いたものは、誰もいなかった。
「……私の、なのになぁ……」
ぱちぱち、と音を立てて燃える焚き火を、お茶のカップ片手にアスナはしばし見つめた。
なんとリアルな炎だろうか。
SAOやALOで幾度となく目にした、グラフィックエンジンによって描画されるエフェクトとしての火炎とは根本的に次元が異なる。生乾きの薪が爆ぜるたびに飛び散る火の粉、濃密に漂う焦げ臭さ、顔や手の表面をかすかにあぶる熱までが、現実以上の現実感を備えてアスナの五感を刺激する。
アンダーワールドにログインしてから、こうして折りたたみの布張り椅子に腰を降ろすまで、劇的状況の連続で"世界を味わう"暇などまったくなかった。あらためて感覚を総動員させると、STLによって与えられる"ニーモニック・ビジュアル"の凄まじいクオリティに圧倒されざるを得ない。
これでは、ここが仮想世界なのだと知らずにログインさせられたキリトは、当初それを確認するのに大変な苦労をしたことだろう。何せ――この世界には、いわゆる"NPC"は一人たりとも居ないのだから。
アスナは、焚き火から視線を移し、森に開けた円形の広場に集う人々を順繰りに眺めた。すでに、簡単な紹介だけは受けている。
すぐ左にどっかと座り、古めかしい酒瓶を独り占めしているのは整合騎士長ベルクーリ。その隣に、整合騎士アリス。オレンジの灯りに照らされ、深みを増した金髪の美しさには、同性ながらため息をつきそうになる。
アリスの向こうで、どこか所在なさそうに腰を下ろした十五、六の少年も、やはりこの世界で最強のクラスである整合騎士らしい。名前はレンリと言ったか。
さらに視線を移すと、まるで影のようにひっそりと座る細身の女性騎士が目に入る。真新しい鎧が体に合わないようで、しきりに革帯を引っ張ったり緩めたりしている様はあたかもVRMMO初心者だが、シェータという名で紹介されたとき、一瞬アスナと視線を合わせた切れ長の瞳には、得も言われぬ迫力があった。
彼女の左側、アスナから見て焚き火の向こうには、衛士というクラスの者たちが十人ほど椅子を並べている。いずれも剛毅な面構えの、いかにもつわものという雰囲気たっぷりだ。
そして、アスナのすぐ右に、先ほどの制服の少女らが、限界まで身を縮めてちょこんと座っている。赤毛の子がティーゼ、黒髪の子がロニエと名乗った彼女らは、何とキリトが二年も籍を置いていた学校の後輩なのだそうだ。
以上、十数人の剣士たちの顔をひととおり見渡して、アスナはひとつの感慨を深く噛み締めた。
彼らは、まさしく、本物の人間だ。
その容姿、所作、漂わせる気配まで、作り物めいた部分は欠片も見出せない。この中で、"法や命令に逆らえない"という人工フラクトライトの限界を突破したのがアリスただ一人である、という前提すらもいっそ信じられないほどだ。
キリトの、彼ら全員を守らんという心情も、今ならば深く理解できる。
その志を、わたしも共有するんだ。
アスナは強くそう決意しながら、大きく息を吸い、言葉を発した。
「皆さん、はじめまして。私の名前はアスナ。"世界の外側"からやって来ました」
今や懐かしくすらあるほどに遠ざかってしまった、辺境の村ルーリッドでの短い隠遁生活のあいだ、アリスはよくキリトの車椅子を押しては近くの牧場を見に行った。
白木の柵に囲われた緑の草地では、沢山のふわふわした羊たちが大人しく草を食み、その間を真っ白い子羊が元気に駆け回っていた。
アリスは、何て幸せそうなのだろう、と思ったものだ。柵の外のことなど何も考えず、閉ざされ、守られた世界でただ安穏な日々を送っている。
よもや――。
この世界の人間も、まったく同じ状況にあろうとは。
アスナと名乗る不思議な女性の語った言葉は、すべての騎士と衛士隊長に、天地が割れ砕けんばかりの衝撃を与えた。さすがの騎士長ベルクーリは飄々とした顔を貫いてみせたが、それでも内心大いに思うところはあっただろう。
なにせ、アスナという栗色の髪の剣士は、この世界全体が、柵に囲われた牧場、あるいは硝子でできた水槽であると告げたのだ。
彼女は、世界を"アンダーワールド"という神聖語で呼んだ。そして、その外側――地勢的にではなく、観念的な外部――に、"リアルワールド"なる異世界が広がっているのだという。
当然ながら、それは神界とはどう違うのか、という疑問が衛士たちから発せられた。
来訪者は答えた。リアルワールドに暮らしているのも、感情と欲望、そして有限なる天命を持つ人間なのだ、と。
そして今、リアルワールドのごく限られた場所において、二つの勢力が、アンダーワールドの支配権をかけて争っているのだという。
アスナはその一方の使者であるらしい。目的は、アンダーワールドの保全。
そしてもう一方の勢力の目的は――アンダーワールドから、たったひとりの人間を回収し、しかる後に世界すべてを破壊し無に帰すこと。
それを聞いた衛士たちは不安げにざわめき、若い騎士レンリも低いうめき声を漏らした。
動揺を鎮めたのは、ベルクーリの喝破だった。
同じこったろう、と二百年以上を生きた豪傑は断じた。人界の外側に広大無辺のダークテリトリーがあり、何万もの軍勢が侵略のときを手ぐすね引いて待ってたって事実を、これまで真剣に考えてきた奴なんざいねえんだ。今更、その外側にもうひとつ世界が増えたくれえでおたつくな。
甚だ暴論ではあるが、頼もしい錆び声でそう言い切ってから、騎士長はアスナに向かって、誰なのだその、お前さんの敵方が欲しがる"ひとり"とは、問うた。
異邦人の明るい茶色の瞳が、ベルクーリから逸れ、まっすぐにアリスを射た。
「じょ……冗談ではありません!!」
アリスは、思わず叫んだ。椅子を蹴って立ち上がり、右手を胸当てにバシッと当てて、さらに言い募る。
「逃げる!? 私が!? この世界と、そこに暮らす人々、それにこの守備軍の仲間たちを見捨てて……リアルワールドとやらに!? 有り得ない! 私は整合騎士です! 人界を守ることが最大にして唯一の使命なのです!!」
すると、今度はアスナが勢いよく立った。まっすぐ長い髪を大きく揺らし、名匠の拵えた銀鈴を思わせる声で反駁してくる。
「ならば尚のことだわ! もし"敵"……暗黒界人ではなく、リアルワールドにおける強奪者たちが、あなたを捕らえこの世界から引きずり出せば、残る人々や……それだけじゃない、大地も、空も、何もかもが消滅させられてしまうのよ! 敵はもう、いつここを襲ってきてもおかしくないの!」
「おっと、その点については情報が古いな、アスナさん」
悠揚迫らぬ声を挟んだのは騎士長ベルクーリだ。
「どうやら、もう来てるぜ。お前さんの敵とやらは」
「えっ……」
絶句するアスナを、焦らすように火酒の壷をぐいっと呷ってから、騎士長は続けた。
「これで合点が行ったってもんだ。"光の巫女"。そしてそれを求める"暗黒神ベクタ"。いま敵軍を指揮してるベクタ神とやらも、間違いなくあんたと同じくリアルワールドから来た人間だろう」
「暗黒……神」
顔を青ざめさせてそう呟いたアスナは、続けて少々意味不明な言葉を漏らした。
「なんてこと……ダークテリトリー側のスーパーアカウントは、ロックされてなかったんだわ……」
「あの……ちょ、ちょっといいですか」
生まれた一瞬の間隙をついて、少年騎士レンリがおずおずと手を挙げた。
全員の視線が集まったのを意識してか、頬を赤らめながら若者はか細い声で尋ねた。
「そもそも、光の巫女って何なんですか? その、リアル……ワールドの"強奪者たち"って連中は、いったい何故アリス殿をそんなに欲しがるんです?」
その質問に答えたのは、この会議でも当然"無音"を貫くと思われていた灰色の騎士シェータだった。
「右眼の……封印」
これには、アリスもぎょっとして、一瞬憤りを忘れた。
「し……知ってるんですか、シェータ殿!? なぜ!?」
「考えると……痛くなる。世界で一番硬いもの……"破壊不能属性"のカセドラル、切り倒したら……楽しいだろうな、って」
しーん。
という誰もが何も言えない沈黙を、無かったことにしたのはベルクーリの咳払いだった。
「あー、この場にも、秘かに身に覚えがある者はほかにも居ようかと思う。帝国法や、禁忌目録、あるいは神聖教会への忠誠に、わずかなりとも不満なり反意を抱くと、その瞬間右の目ン玉に赤い光がちらつき、同時に刺すような痛みに襲われる現象だ。普通はその瞬間、あまりの激痛にそれまで考えていたことを忘れる。しかし、なおも不穏当な思考を続けると、痛みは際限なく強まり、右の視界すべてが赤く染まり――しまいにゃぁ……」
「右眼そのものが、あとかたもなく吹き飛びます」
アリスは、あの忌まわしい一瞬を鮮明に思い出しながらそう呟いた。
一同の顔に、濃淡はあれ等しく恐怖の色が浮かぶ。
「では……アリス殿は…………」
畏れをはらんだレンリの声に、ゆっくり頷いて、アリスは続けた。
「私は、元老チュデルキン、そして最高司祭アドミニストレータと戦いました。その決意を得るために、一時右眼を失いました」
「あ、あの…………」
レンリよりも更に細い声で発言機会を求めたのは、これまで目を丸くして話を聞いているだけだった、補給部隊の少女ティーゼだった。
「ユージオ先輩も。私の……私たちのために剣を振るい、罪を犯したとき、右眼から……血が……」
さもありなん、とアリスは頷いた。一般民でありながら、幾多の激闘を乗り越え、騎士長をも退け、アドミニストレータ相手に見事な心意の発露を見せたあの若者なら、右眼の封印くらい乗り越えただろう。
そうだ、そういえば、あの時アドミニストレータが、封印について何かを……。
「ふむ……」
腕組みをしたベルクーリが、双眸を半眼に閉じて唸った。
「つまり、"敵"とやらは、封印を自ら打ち破った者を欲しているというわけか。アスナさん、ちょいと訊くが、あんたたちリアルワールド人にも、同じ封印があるのかい?」
「…………いえ」
わずかな逡巡ののちに、栗色の髪が横に揺れた。
「おそらく、法や命令を破れるかどうか、というその一点だけが、リアルワールド人とアンダーワールド人の差異なのだと思います」
「ならば、つまりアリス嬢ちゃんは、今や完全にあんたらと同じ存在ってわけだな? だがおかしかないか? 同じものを、なぜそうまで強く求める? リアルワールドにも人間はわんさと住んでるんだろうに」
「それは…………」
再び、先ほどよりも強い迷いの色を見せ、アスナは口篭った。
しかしアリスは、記憶にひっかかっていた逆棘が抜けた瞬間、大きく叫んでアスナの言葉を遮ってしまった。
「そうよ! "コード871"!」
両手を握り締め、あふれ出す記憶を声に乗せる。
「最高司祭は、右眼の封印のことをそう呼んでいたわ、コード871、って。 "あの者"が施した、って! その時は意味がわからなかったけど……これも、リアルワールドの言葉じゃないの!?」
アスナの顔に、再び驚愕の色が迅った。
小ぶりな唇がわななき、掠れ声が絞り出される。
「……まさか……封印は、向こうの人間が……? あっ……"深刻なレベルの……情報漏れ"……」
よろり、と椅子に沈み込んだ異界人が続けて漏らした囁きの意味は、アリスには分からなかった。
「…………いけない……スパイは自衛官じゃないわ……ラースの技術者に……いまも隔離されてない……!」
アスナは激しく動揺した。
上位存在への盲従、という人工フラクトライト唯一の瑕疵を取り除くために、菊岡や比嘉らラーススタッフは多大な努力を重ねてきた。なぜなら、現状の人工フラクトライトは、与えられた命令を善悪や妥当性によって検証できないということになるからだ。彼らをAIとして戦闘兵器に搭載した場合、仮に命令系統のハッキング等により所属部隊に対する攻撃や民間人の無差別殺傷指示が発令されれば、それは再確認もなしに実行されてしまう。
ゆえにラースは、その限界を突破し得る人工フラクトライトを生み出すために、"人界"と"ダークテリトリー"からなるアンダーワールドという強負荷実験装置を創造した。
しかし、まるで実験の成功を妨げるかのような"右眼の封印"が、現実世界の何者かによってひそかに施されていたとするならば。
そのサボタージュの目的は恐らく、あの武装襲撃チームが準備を整え、移動を完了するまでの時間稼ぎだろう。
つまり、比嘉が存在を示唆していた内通者は、アンダーワールド・メインフレームにかなり高位の管理者権限をもつ者ということになる。具体的には、ラースの中枢エンジニアの誰かだ。
そしてその何者かは、いまもオーシャンタートルのアッパーシャフトを無制限に闊歩している。入ろうと思えば、他のスタッフの目を盗んで、アスナとキリトが横たわる第二STL室にだって侵入できるのだ……。
ぞっ、と肌を撫でる寒気を払い落とし、アスナはさらに考えた。
この情報を、可及的速やかに現実サイドに伝える必要がある。しかし、システムコンソールから遠く離れた座標にログインしてしまった以上、アスナから外部を呼び出す手段は無い。たった一つだけ、今使用している"創世神ステイシア"のHPをゼロにする――つまり死亡するという方法があるにはあるが、その場合もうこのスーパーアカウントではログインできない。メインコンソールがロックされている今、アカウントデータのリセット操作もできないからだ。
襲撃者たちが、暗黒神ベクタという同レベルのアカウントを利用している以上、一般民相当のステータスでは対抗できまい。アリスを守り、無事にログアウトさせるためには、今のアカウントが必須なのもまた確かなのだ。
どうする。どちらを優先すれば。
ここまでを瞬時に思考したアスナは、たった一度の深呼吸を経て、意思を決定した。
今はアンダーワールド内部を優先する。この世界は、STRAのリミット上限、現実世界比1200倍という超高速で駆動しているのだ。むこう側で内通者が動き出すまでに、いくばくかの時間的余裕はあるはずだ。
そのあいだに、何としても敵の指揮するダークテリトリー軍からアリスを守り抜き、現実サイドへとイジェクトさせる。もしそれに失敗し、アリスが敵の手に落ちたら、連中は真正AIを独占するために残るライトキューブ群を容赦なく破壊し尽くすだろう。キリトが命を賭けて守ろうとしたこのアンダーワールドを。
結城明日奈が下した判断は、現在得られる情報に照らせばまったく正しいものだった。
しかし、彼女も、そしてオーシャンタートルの比嘉タケルや菊岡誠二郎すらも、ひとつの重大な事実に気付いていなかった。
STRA倍率は、現実時間でおよそ二時間前から、最低の1倍にまでダウンさせられていたのだ。操作したのはクリッターであり、命じたのはガブリエルだった。
約二十時間後にはイージス艦が突入してくる、という状況にある襲撃チームが、まさか倍率を下げて自らの首を絞めるなどと、ラースの人間にはまったく予想できなかったのも無理はない。
当然、倍率ダウン操作の狙いに到っては、はるか想像の埒外だったのだ。
だが――。
この時点で、たった一つの、人間ならぬ存在だけがガブリエルの狙いを看破していた。
結城明日奈が持ち込んだ携帯端末に潜む、世界最高レベルのトップダウン型擬似人工知能である"彼女"は、ある意思を秘めて自分をオーシャンタートルの大口径アンテナから外部ネットワークへと飛翔させた。
「どうか……したの?」
いつの間にか敬語でなくなっているアリスの言葉に、アスナははっと顔を上げ、首を振った。
「いいえ……大丈夫。ごめんなさい、話の腰を折って」
「折られてはいないわ。あなたの答えを待ってるんだから」
アリスが、相変わらずとげとげしい口調で問い質してくる。
「どうなの? コード871、って名前に思い当たるところはないの?」
「あるわ。これから説明するところよ」
つい、反射的につっけんどんな声を出してしまう自分がアスナには不思議だった。
これまでアスナは、あまり誰かとケンカしたという記憶がない。周囲の友達――リズベットやシリカ、リーファ、シノン達とはいつも楽しく遊んでいるし、学校でも皆と仲良くやっている。
いったい、最後にこんなふうにやりあった相手は誰だろう、と思い出を辿ったアスナは、思わずぷっと噴き出しそうになった。その相手は間違いなく、誰あろうキリトだ。
SAOに囚われて一年何ヶ月か経った頃だったか。ある層のフィールド・ボスモンスターの攻略方針を巡ってアスナはキリトと激しく対立し、まさに今のような尖った言葉をぶつけまくった挙句にデュエルオファーまで叩きつけた。その敵意が、恋心に変わるまでは一ヶ月も無かった気がする。
となれば、このアリスという女の子とも、いずれ同様に仲良くなる時が来るのだろうか。
いや、それはなかなか薄い可能性ね。
そう思いながら、アスナは口を開いた。
「間違いありません。あなたの言う、コード871という封印を仕掛けたのは、リアルワールドの人間……"敵"に与する者です」
来訪者アスナの言葉を聞きながら、アリスは、いったいなんでこんなに苛々するんだろうと考えた。
無論、第一印象は最悪だ。何のことわりもなく、車椅子のキリトに近づかれていい気分がするわけがない。傷ついたキリトを、この半年間守り、世話してきたのは自分なのだから。
しかしあのアスナという娘は、キリトと同じくリアルワールドからやってきた。言動からして、その世界でキリトと何らかの関係があったのは間違いない。となれば、異世界にまで追いかけてきたのだし、一目会うくらいの権利はあるのかもしれない。
それがこのイライラの原因なのだろうか。世界でいちばんキリトに対して義務と責任があるのはこの私だ、と思ってきたのに、突然新たな関係者が現れたからか。
あるいは、アスナの恐るべき剣技への対抗心だろうか?
あんな超高速の連撃を、アリスは間違いなく初めて目にした。速度で言えば、副騎士長ファナティオすら問題にならない。連続技、というよりまるで同時に複数の突き技が放たれたようにすら感じた。もし撃ち合わせた剣が少しでも弾かれていれば、切り替えしは向こうのほうが速かっただろう。同年代、同性の剣士にここまで戦慄させられたことは無い。
もしくは――。
アスナが、こうして見つめているだけでため息が出そうなほどに美しいから、か。
険しい部分がひとつもない、優美という言葉が結晶したかのような異国風の顔立ち。ミルク色の肌は焚き火の色に艶やかに照り映え、栗色の長い髪が柔らかに揺れるさまは、まるで極上の絹を選び抜いて束ねたかのようだ。衛士長たちの目には、陶酔にも似た賛嘆の色が浮かんでいる。彼らは、アスナがステイシア神その人なりと名乗ったところで、疑いも無く信じただろう。
知りたい。
リアルワールドとか、敵とかそういうことではなく、アスナという個人について。キリトとの関係について。その剣技について。
いつしか自分がぼんやり思考を彷徨わせていたことに気付き、アリスは我にかえるや慌てて耳を澄ませた。
アスナの涼やかな声が夜気を震わせている。
「……"敵"は、アンダーワールドにおいて封印を破る者……つまり"光の巫女"が現れ、彼ら以外の勢力がその者を取り込むことを恐れたのです。なぜなら、光の巫女は、リアルワールドにおいてとてつもなく貴重な存在となり得るからです」
「そいつが解らんのだよなぁ」
騎士長ベルクーリが、酒壷をちゃぷちゃぷ回しながら唸った。
「光の巫女、つまりアリス嬢ちゃんは、リアルワールド人と同等の存在ってわけだろ? さっきも訊いたが、同じものになぜそれほど固執するんだ? "敵"にせよアスナさんの陣営にせよ、いったい、アリス嬢ちゃんを連れ出して何をさせるつもりなんだい?」
「それは……」
アスナは、言葉に詰まったかのように唇を噛んだ。
長い睫毛が伏せられ、沈痛な色がその頬に浮かぶ。
「…………ごめんなさい、今は言えません。なぜなら、わたしは、アリスさんに自分の目でリアルワールドを見て、判断してほしいのです。向こう側は、決して神の国でも理想郷でもない。それどころか、この世界と比べれば遥かに醜く、汚れています。アリスさんを欲しがる人たちの動機もそう。今ここでそれを話せば、アリスさんはリアルワールドを、そこに暮らす人間たちを許せないと思うでしょう。でも……そんな部分ばっかりじゃないんです。この世界を守りたい、皆さんと仲良くしたい、って思う人も、きっと沢山います。そう……キリト君のように」
どこか必死な響きのある、長い言葉を、アリスは黙って聞いた。
そして、自分でも驚いたことに、ゆっくりと頷いた。
「……いいわよ。今は聞かないわ」
両手を軽く広げ、肩をすくめる。
「どうあれ、私はしたくない事をするつもりなんてないしね。それ以前に、行くって決めたわけでもない。外の世界を見てみたい気はするけど、それは目の前の敵を……暗黒神ベクタ率いる侵略軍を打ち破って、ダークテリトリーとのあいだに和平が成立してからのことよ」
すると、また強行に反撃してくると思ったアスナは、こちらも短い沈黙ののちに小さく首肯した。
「……ええ。あのダークテリトリー軍を、リアルワールド人が指揮している以上、私とアリスさんが単独でこの部隊を離れるのは危険かもしれない。敵も当然それくらい予想してくるでしょうから。私も……皆さんと一緒に戦います。"暗黒神ベクタ"の相手は、私に任せてください」
おおっ、という声が衛士長たちから上がった。彼らにとってアスナは、本人がどう言おうとステイシア神とさほど変わらぬ存在なのだろう。何より、大地を裂くほどの超攻撃力があれば、残る敵軍の二万が十万でもさほどのことはないのかもしれない。
同じことを騎士長も考えたらしく、うーむと腕組みをしてから訊ねた。
「ま、事情はおいおい、ということにしとくか。話を目先のことに戻すが……アスナさんはアレかい? あの地面をばかっといく奴は、無制限に使えるのか?」
「……残念ながら、ご期待には沿えないかもしれません」
アスナは、肩をすぼめながらゆっくり首を振った。
「あの力は、脳……というか意識に、巨大な負荷をかけるようなのです。苦しさだけならいくらでも耐えますが、あまり乱発すると、意識を保護するために、この世界から強制的に弾き出されてしまう可能性があります。そうなっては、わたしはもう戻ってこられなくなる。おそらく、大規模な"地形操作"は使えてあと一度か二度でしょう」
期待が大きかったぶん、焚き火を囲む面々に失望の色が広がった。それを感じたアリスは、思わずもう一度立ち上がっていた。
「私たちの人界を守るのに、異世界人の力ばかりアテにしてどうするの! もう、充分に助けてもらったじゃないの。今度は、私たち騎士と衛士が異界人にその力を見せる番だわ!」
激しい身振りで力説してしまったが、アスナの意外そうな視線を受けて、気恥ずかしくなり目を逸らす。
真っ先に同意したのは、この場では最年少であろう騎士レンリだった。
「そう……そうですよ! 彼女は神様じゃない、僕らと同じ人間だって聞いたばっかりでしょう! なら、僕らだって同じくらい戦えるはずじゃないですか!」
両腰の神器を鳴らしてそう力説する少年騎士の視線が、アスナから離れてその隣の赤毛の練士に向けられるのを見て、アリスはおやおやと内心微笑んだ。
次いで、"無音"のシェータまでもが、ぼそりと言葉を発した。
「私も……また、あの人と戦いたい」
顔を見合わせていた衛士長たちが、口々に追随するのにそう時間はかからなかった。
そうとも、やってやろう、俺たちが守るんだ――という意気軒昂な叫び声に、いつのまにか草地の周囲に集っていた多くの衛士らが一斉に唱和した。大勢の意思を感じてか、焚き火の炎が一際激しく燃え上がり、赤く夜空を焦がした。
これで――よかったのだろうか。
与えられた天幕の中で、真珠色のアーマーを外しながら、アスナは考えた。
ラーススタッフの思惑としては、アスナが一刻も早くアリスをシステムコンソールに連れて行き、サブコントロール室にイジェクトすることを願っているだろう。
しかしその後はどうなる。菊岡らにしてみれば、アリスのフラクトライトさえ手に入れれば、あとはそれをコピーし、構造解析して、無人兵器搭載用AIの礎とすればいいのだ。残る数十万の人工フラクトライトはもはや用無しということになる。膨大な電力とスペースを消費するアンダーワールドを、現状のまま維持するメリットなど彼らにはない。
さらに、アスナにしてみれば、この世界に来たのはアリスの保護と同時にキリトの意識との接触を願ったためでもある。
彼と触れあい、言葉を掛け、どうにか回復のきっかけを探す。一度アンダーワールドから切断されてしまえば、再び現状のダイブを再現できる保証などないのだから、キリトのフラクトライトと触れ合うのはこれが最後の機会となるかもしれないのだ。比嘉も言っていたではないか。かくなる上は、アンダーワールドに於いて何らかの奇跡がキリトを癒すことに期待するしかない、と。
今すぐにでも、彼のいる補給隊の天幕に駆け込み、抱きしめ、言葉を掛けたい。許されるなら、ダイブしている間ずっとそうしていたい。キリトを置き去りにして、はるか南のコンソールを目指すなんて、絶対にいやだ。
――せめて、この一夜だけでも、無駄にはできない。
すべての装備を外し、軽快なチュニックとスカート姿になったアスナは、大きく息を吸い込み、耳を澄ませた。
個人用天幕には、散々辞退したのに警備の衛士がひとり付けられてしまった。神の護衛をするというので張り切った若者は、居眠りする様子もなく律儀に天幕のまわりを周回している。
その足音が、ざくざくと下生えを踏みしめながら正面を通り過ぎ、真後ろに差し掛かったあたりで、アスナは素早く天幕を出た。無音の跳躍を三度繰り返し、一瞬で十メートル先の大木の裏に潜り込む。
そっと窺うと、若い衛士はまったく気付いた様子もなく天幕の後ろから現れ、周回を継続した。ごめんなさいね、と内心で謝り、アスナは木立の奥を目指した。
大規模な会戦の疲れから人々は早々に眠り込んだようで、わずかな見張りを除いて気配はない。見張りの意識も森の外のみに向いており、アスナは見つかることなく補給隊の野営天幕群に紛れ込んだ。
目をつぶり、意識を研ぎ澄ませる。
愛する人の気配は、すぐに感じられた。
そちらへ向け、トトッと数歩移動したアスナは、視界の隅できらりと光った金色に息を詰めた。
げー、と思いつつ恐る恐るそちらを見る。
ひとつの天幕に背中を預け、腕組みをして立つ姿があった。アスナと同じような生成りのワンピースに、毛糸のショールだけを羽織っている。じろり、と睨む瞳は深いブルー。
「……来ると思ったわ」
束ねた金髪の先を揺らして、アリスがふふん、と小さく鼻を鳴らした。
自分とほとんど同じ身長、同じ体型、同じ年齢の相手をまっすぐ見つめ、アリスは準備していた言葉を投げつけようとした。
近づくな、と言ったでしょう。大人しく自分の天幕に戻りなさい。
しかし、胸に吸い込んだ空気は、容易に喉から出ていこうとしなかった。
異界人アスナの瞳に、過ぎるほどに明らかな感情の色を見出してしまったからだ。
思慕。それゆえの苦悩。それゆえの決意。
ふうっ、と長い息だけを吐きながら、アリスは自分に言い聞かせた。
譲るわけじゃない。キリトを蘇らせる責務を最も強く負う者が私であるという事実は変わらない。なぜならキリトは、私とともに戦い、ともに傷つき、私の目の前で力尽きて倒れたのだから。
だから、これはあくまで――キリト復活のための努力の一環に過ぎないのだわ。
「……取引よ」
アリスが発した短い言葉を聞いて、アスナがぱちくりと瞬きをした。
「キリトには会わせてあげる。私が知るかぎりの情報も教える。だからあなたも、あなたが知るキリトに関する全てを私に教えなさい」
一秒足らずの驚き顔に続けて、アスナはその唇に、どこか自信たっぷりな微笑を浮かべた。
「いいでしょう。でも、すごく長くなるわよ。一晩じゃ終わらないかも」
まったく気に入らない、と改めて唇を尖らせてから、アリスは一応尋ねた。
「情報の質と期間は?」
するとアスナは、橙がかった茶の瞳をちらりと夜空に向け、両手の指を折る仕草を見せながら答えた。
「えーと……顔見知りくらいの時期が一年。お付き合いが一年。それと、一緒に暮らしたのが二週間」
ぐっ。と思わず言葉に詰まる。予想外に長い。
しかしアリスは、ここで萎れてなるものかと胸を張り、言い返した。
「私は……肩を並べて戦ったのが丸一晩。そのあと、一つ屋根の下で半年間、二十四時間付きっ切りで世話をしたわ」
今度はアスナがやや仰け反った。だがすぐに体勢を戻し、ふうんそう、などと呟く。
両者は、まるで完全武装のうえ抜剣済みであるかのごとく闘気を全開にして、しばしにらみ合った。夜気がびりびりと震え、二人の間に舞い落ちた運の悪い枯葉が、ピシ、ピシと音を立てて弾ける。
無刀の鬩ぎ合いに、果敢にも割り込んだのは――不意に響いた、ささやかな声だった。
「あのぉ……」
アリスは、ぎょっとしてそちらに視線を向けた。眼前のアスナも、鏡に映るがごとく同じ行動を取る。
黒髪を短く編んで、灰色の寝巻きの上に垂らした、補給部隊の少女練士ロニエの姿がそこにあった。両手を絞るように胸の前で握り、再び口を開く。
「あの、わ、私、一ヶ月キリト先輩のお部屋を掃除して、あと剣技とかも教えてもらいました! お二人と比べると、だいぶ少ないですけど……その、私も、情報交換を……」
思わず数度まばたきしてから、アリスはふたたびアスナと視線を合わせた。同時に口元に浮かんだのは、ため息にも似た微苦笑だった。
「いいわよ。あなたもお仲間ってわけね、ロニエさん」
アリスは肩をすくめて小柄な少女に頷きかけた。ほっとしたように笑顔を浮かべる年若い練士に、なかなか大した度胸だわね、とつい感心してしまう。
微妙な空気を漂わせつつ、三人は足音を殺して移動し、アリスを先頭にひとつの小型天幕に潜り込んだ。敷き革のうえに二つ並んだ簡易寝具のうち、片方は空で、もう一方に黒髪の若者が瞼を閉じて横たわっている。毛布の端から覗くのは、二本の長剣の柄だ。
それを見たアスナの唇に、どこか懐かしそうな感傷が滲むのを、アリスは見逃さなかった。
「……どうかした?」
訊くと、敵意を一瞬で忘れ去ってしまったかのような無垢な笑顔を見せ、異世界の娘は答えた。
「"二刀流"のキリト。この人、一時期そう呼ばれてたの」
「……へえ……」
そう言えばキリトは、アドミニストレータとの最後の決戦において、己の黒い剣とユージオの白い剣を両手に握り自在に操った。
アリスは、眠るキリトの向こうに回りこみ、すとんと腰を下ろすと、二人にも座るよう手振りで示しながら言った。
「じゃ、まずはその話から聞きましょうか」
黒い荒野の夜はしんしんと更けていき、紫色の月だけがささやかに地上を照らした。
守備軍の剣士たちも、真新しい峡谷を挟んで野営するダークテリトリー軍も、やがて夢よりも深い眠りに落ちた。
双方の総力戦を目前に控えた、最後の穏やかな夜の片隅で、たった一つの天幕の蝋燭だけがいつまでも消えることはなかった。時折、厚織布の内側からひそやかな笑い声が響いたが、それを聞いているのは高い梢にとまる一羽の梟だけだった。
"死"を予感したことはある?
不意に、耳奥で鮮やかに蘇った声に、ベルクーリ・シンセシス・ワンはぱちりと瞼を開けた。
不吉な色の朝焼けが、暗い天幕の中にもごく微かに忍び込みつつある。空気は氷のように冷え、吐く息を受けるとほのかに白く色づく。
午前四時十分、と彼は読んだ。かつては大時計の針であった神器・時穿剣と精神を一体化させているベルクーリには、時刻を正確に察知するという特技がある。もう十分もたったら、伝令兵に全軍起床の角笛を吹かせねばならない。
太い両腕を頭の後ろにまわし、年経た剣士は眠りを破ったひと言を脳裏に反響させた。
――死を予感したことはあるか。
そう彼に尋ねたのは、彼の唯一の上位者、最高司祭アドミニストレータだ。
いつ頃の記憶なのかはすでに定かではない。百年前か――百五十年か。かつて、魂の崩壊を防ぐための不要記憶消去処置を施されたベルクーリにとって、遠い過去の記憶は時系列どおりに整理できるものではないからだ。
銀髪の支配者は、その裸体を惜しげもなくびろうど張りの長椅子に横たえ、しどけない仕草でワインの杯を弄びながら問うた。
床の上にどっかと胡坐をかき、酒肴のチーズをひとかじりした所だったベルクーリは、顎を動かしながら、はてと首を捻った。
無限に繰り返される日々に――それは自ら望んだものであるはずなのだが――少々倦むこともあったのか、アドミニストレータは、たまに自身に次ぐ長命者であるベルクーリを居室に呼び出しては酒の相手をさせた。
支配者の気まぐれにも馴れていたベルクーリは、機嫌取りを考えるでもなく、思いついたことを口にした。
――まだヒヨッコだった頃、先代だか先々代の暗黒将軍に捻られた時は、さすがにやべぇかと思いましたがね。
すると最高司祭はにやりと笑い、軽く水晶杯を振った。
――でも、そいつの首はずいぶん前に取ってきたじゃない? 確か、そのへんに転がってる宝石のどれかに転換したような気がするわ。それ以降はもうないの?
――うーむ、ちょいと思い出せませんな。しかし何故そのようなことを? 猊下には無縁の感覚でしょうや。
問い返すと、悠久の時を生きる少女は、長い脚を組み替えながらうふふと微笑んだ。
――んもう、わかってないわねえベリちゃん。毎日よ。私は毎日感じてる。朝、目を醒ますたびに……ううん、夢のなかですらも。なぜなら、私はまだすべてを支配していないから。まだ生きてる敵がいるから。そして、未来のいずれかの時点において、新たな敵が発生する可能性があるから。
なるほどね。
その会話から百数十年後、人界を遥か離れたダークテリトリーの森の片隅で、ベルクーリはにやりと不敵に笑った。
今、ようやくアンタの言葉の意味が分かったよ。
死を予感するとは、つまり、自ら死の可能性を追い求めていることの裏返しだ。
得心のいく終着点を、ふさわしい死に様を、全力で足掻いても抗えぬ強力な敵を――結局は、アンタも求めていたのかな。
今のオレのように。
今この瞬間、間近に迫る死をありありと予感しているこのオレのようにね。
アドミニストレータ亡き今、世界最長命の人間となった騎士長ベルクーリは、寝床から一息に起き上がると逞しい体に白の着物を羽織った。帯を締め、履物を突っかけ、腰に愛剣を差す。
早朝の冷気のなかに踏み出し、起床の指示を伝えるために、伝令兵用の天幕に向けてベルクーリは歩きはじめた。
ほぼ同時刻、数千メル北のダークテリトリー軍野営地付近から、地平線を微かに染めはじめた曙光を頼りに十頭の飛竜が飛び立った。
その背に跨る暗黒騎士たちの腕には、それぞれ一巻きの太い荒縄が掴まれていた。一端は、すでに巨大峡谷の縁に打ち込まれた木杭に固定されている。
引き出される綱をびょうびょうと風に鳴らしながら、竜たちは幅百メルの谷を飛び越え、南岸に着地した。飛び降りた騎士たちは、剣の替わりに大きな槌を握ると、馴れぬ手さばきで新たな杭を地面に打ち込みはじめた。
皇帝ベクタが下した命令は――。
拳闘士団と暗黒騎士団一万は、峡谷に張られた十本の綱のみを頼りに、向こう側へ渡るべし。
敵の妨害攻撃が予想されるが、構わず渡峡を強行するべし。
落下した者の救助は行わない。
糧食その他の物資は運ばない。
つまるところそれは、大量の犠牲者を織り込み、しかも補給は無しという無慈悲極まる決死作戦だった。拳闘士団長イシュカーン、そしてシャスターの後を継いだ若き暗黒騎士団長は、やるかたない憤懣を覚え歯を食いしばった。
しかし、絶対支配者たる皇帝に逆らうという選択肢は彼らにはなかった。
せめて敵軍が気付かぬうちに渡峡を完了したい――という将たちの願いも空しく、夜通しダークテリトリー軍を警戒していた人界側の偵察騎兵が、遥か離れた丘の上で馬首を南に巡らせた。