愛する弟子の体が、まるで、数秒間にせよ存在し言葉までも交わしたのが奇跡であったかのように、止めようもなく空気に溶けていくのをアリスは感じた。
鎧の欠片すらも残さずからっぽになったかいなの中に、かすかに漂う温もりを一杯に吸い込んでから、アリスはきっと顔を上げた。
これは戦だ。
だから、敵がどのような攻撃を行おうと、それによってどのような損害を被ろうと、その事自体を恨むのは筋違いだ。事実、ほんの数十分前、アリス自身も無慈悲としか言えぬ巨大術式で、万になんなんとする敵軍の命を奪っているのだから。
なればこそ。
この怒りを。哀しみを。更なる力に変えて、一層の殺戮をもたらしたとしても――
「……よもや覚悟しておらぬとは言うまい!!」
右手の剣をまっすぐ前方に向け、アリスは叫んだ。
「雨縁! 滝刳! 全速突撃!!」
術式拘束によって使役される飛竜は、本来、決められた主以外の者の戦闘命令は絶対に受け付けない。
しかし、二頭の兄妹竜は、同時に鋭い咆哮を轟かせると、翼を打ち鳴らして突進を開始した。峡谷の外側、炭色の大地がどこまでも連なるダークテリトリーの光景がたちまち近づく。
瞋恚に突き動かされながらも、アリスの蒼い瞳は、敵本陣の隊形をすばやく視認した。
三百メルほど先、左側に、揃いの金属鎧に身を包んだ暗黒騎士団、約五千。右には逞しい裸形を革帯で締め上げた拳闘士団、同じく五千。これらが敵軍の主力だ。
さらに後方には、亜人の残存兵力と思しき一万以上のオーク、ゴブリン歩兵と、大規模な輜重部隊が展開している。あのどこかに、敵の総大将、暗黒神ベクタも居るはずだ。
そして、もっとも手前、騎士と拳闘士の部隊に挟まれるように密集する、黒衣の集団があった。
あれだ。あれが、先刻の大規模暗黒術を行使した術師部隊だ。数は約二千か。
突進する飛竜を見上げ、恐慌に陥ったかのようにばらばらに後退しようとしている。
「逃がさん!!」
低く叫ぶと、アリスは竜たちに命じた。
「彼奴らの後方を狙え!! 熱線……放てッ!!」
即座に首をたわめた兄妹竜の、開かれたあぎとに白い陽炎が宿る。
シュバッ!!
大気を灼いて平行に迅った二条の光線が、後退する暗黒術師たちの行く先へ突き刺さった。
大地を揺るがす爆音。吹き上がる火炎。巻き込まれた人影が、木の葉のように舞う。
炎に退路を塞がれた術師らは、完全に統制を失い、ひとところにわだかまった。
アリスは金木犀の剣を高々と掲げた。刀身が、太陽よりも眩い山吹色の光を放つ。
ジャッ!
歯切れのいい音を立てて、剣が幾百もの小片へと分離した。それら一つひとつは、アリスの心意を映して、かつてないほど鋭利に尖った姿をしていた。
馬鹿な。
有り得ん!!
暗黒術師総長ディー・アイ・エルは、峡谷から一直線に突進してくる竜騎士を見上げながら、胸中で絶叫した。
三千のオークの命を贄とし、二千の術師が詠唱した"死詛蟲"術は想定以上の威力を孕んで敵軍へと襲い掛かった。整合騎士はおろか、地上の兵どもも悉く食い荒らして尚余りある規模だったはずだ。
なのにどうしたことか、あらゆる命を貪ろうとするはずの術式が、たった一人の騎士へと集中し、まったく馬鹿馬鹿しい過剰殺戮のみを行ったあげくに消滅してしまったのだ。
あれほどの規模の術をすべて誘導し得るような、大量の擬似生命を各種素因から合成する時間も空間力もまったく無かったはずなのに。論理的ではない。まったく理屈に合わない。
この私が、世界の叡智の中心たる暗黒術師ギルド総長が知らない力など、存在するものか!!
だが事実として、敵軍はたった一人の犠牲を出したのみで再度の前進を開始し――ああ、何ということか、術師隊目掛けてまっすぐに襲い掛かってくる。
「後退!! 総員後退!!」
ディーは叫び、自ら二輪馬車の手綱を引いて向きを変え、走り出そうとした。
しかし直後、頭上を二筋の白い光が貫き、ほんの数十メル先へと突き刺さった。
轟音とともに爆炎が膨れ上がり、数十人の部下が巻き込まれて悲鳴を上げた。あわてて馬たちを制止させたディーのところまでも熱波が押し寄せ、自慢の髪をちりちりと焦がした。
「ひっ……」
悲鳴を上げ、ディーは馬車から転がるように降りた。こんなものに乗っていては、的にしてくれと言うようなものだ。
部下に紛れて右へと走ろうとしたディーの視界を、眩い黄金の光が照らした。
吸い寄せられるように見上げた先で、一頭の竜の背に跨る整合騎士の剣が、無数の光へと分離した。
その光ひとつひとつが、恐ろしいまでの威力を秘めていることがディーには直感的に察せられた。この場に薄く漂う空間力から、どのような素因を生み出そうと防げるものではないことは明らかだった。
糞ッ、畜生ッ、死んでなるものか!!
こんな下らない場所で!! 世界の王となるべきこの私が!!
鬼神の形相で眦を吊り上げたディーは、かぎづめのように指を曲げた両手を振りかざし――すぐ前を走る二人の術師の背に突き立てた。
ずぶり、と鋭い爪が苦も無く肌を裂き、肉に潜る。握り締めた丸い柱は、背骨に他ならない。
「で、ディー様!?」
「なにを……っ!? お、おやめくださっ……」
引き裂くような悲鳴を上げる部下たちの言葉に耳も貸さず、高位暗黒術師は、凶相に笑みを浮かべながら起句を唱えた。
続く駆式は、まさしく呪詛としか言えぬものだった。
物体形状変化。それも、生きた人間の天命を力源とし、その肉体を変容させる呪わしい秘術だ。
ぶじゅる。
血と組織片を振りまきながら、ふたつの若く美しい躯が、肉色の組織へと溶けた。それらは、地面にうずくまったディーを隙間無く覆い、硬化して、弾力のある生きた防御膜を作り出していく。
直後、地上を、山吹色の死の嵐が覆いつくした。
アリスは、耳に届く悲鳴、断末魔の絶叫を、心を鬼にして完全遮断した。
もう二度とあの術は使わせない。術者も、その記憶すらも地上から抹消する。
右手に残った、光り輝く柄を振りぬくたび、その動きに従って眼下の敵部隊を鋭利な花弁が薙ぎ払っていく。金属鎧を身につけない術師たちは、抗うすべもなくその身を穿たれ、地に臥す。
二千はいたと思われる術師隊の、九割近くを殲滅したと確信するまで、アリスは記憶解放状態を維持し続けた。剣の天命はかなり損耗しただろうが、惜しむつもりはまったく無かった。
折り重なる仲間たちの骸に目もくれず、二百弱の術師たちが火炎を回り込んで後方へと逃げ延びていったが、それらまでは追わず、アリスは視線を空へと引き戻した。
左側奥、暗黒騎士団の後方から、十騎ほどの飛竜が離陸するのが見えたのだ。
空中戦へと移行するかと思ったが、敵の竜騎士はこちらを牽制するように旋回するだけで、距離は詰めてこなかった。理由はすぐにわかった。後方から、ベルクーリらの竜が追いついてきたのだ。
「嬢ちゃん……! 無理すんじゃねえ!」
エルドリエの死を気遣ってか、すぐ隣に滞空し、そう声を掛けてくる騎士長に、アリスは強張った顔を向けて頷いた。
「ええ……大丈夫です、小父様。衛士隊の離脱支援のほう、よろしくお願いします。私は、囮の役目を果たしてきますから」
「おう……だが、あんまり突っ込むなよ!」
ベルクーリは叫び、敵竜騎士に向き直った。アリスは、傍らの滝刳に滞空指示を出し、雨縁を微速で前進させた。
暗黒騎士の、拳闘士の、オーク、ゴブリンの――そして位置まではわからないが、巨大な気配を持つ何者かの意識が己に収束してくるのを、アリスはまざまざと感じた。
後方では、峡谷から出た衛士隊と補給隊が、南へ転進し全速離脱していく震動が低く轟いている。
その足音を覆いつくさんばかりの声で、アリスは高々と叫んだ。肉声は心意に乗り、天地四方に響き渡った。
「――我が名はアリス!! 整合騎士アリス・シンセシス・フィフティ!! 人界を守護する三神の代理者、"光の巫女"である!!」
直後、敵の全軍が重く震えた。無数の渇望が、触手のように伸び上がってきてアリスに触れる。やはり、敵は人界の侵略と同じかそれ以上の重さで、"光の巫女"なるものを求めているのだ。
それが真に己のことなのか、それとも自分はただの僭称者なのか、そんなことはアリスにはどうでもよかった。ただ、敵の半数が自分を追って来さえすれば。敵をこの地から引き離し、時間を稼ぐことで、エルドリエが、ダキラが、そして散った多くの衛士たちが望んだ人界防衛の望みが少しでも繋がるのなら、それでよかったのだ。
「我が前に立つもの、悉く聖なる威光に打ち砕かれると覚悟せよ!!」
「おお……」
皇帝にして暗黒神ベクタ、または魂の狩人ガブリエル・ミラーは、玉座から立ち上がると、低い声を漏らした。
「おお」
三千のオークユニットを消費した攻撃までもがどうやら失敗したこと、術師ユニットの大半が破壊されたらしいことさえも、ガブリエルに一切の動揺は与えなかったが、しかし今この瞬間だけは、彼の冷え切った魂が確かに震えていた。
かすかな、笑みらしき形を作った薄い唇から、さらに密やかな声が放たれた。
「アリス……。――アリシア」
はるか一キロ以上も彼方の空に浮かぶ、黄金に光り輝く一人の騎士の姿を、ガブリエルの両眼は詳細に捉えていた。
まっすぐに流れる金髪。抜けるような白い肌。真冬の空のように澄み切った蒼い瞳。
ガブリエルの意識のなかで、その容姿は、かつて手にかけた少女アリシア・クリンガーマンの、美しく長じたすがたへと完全に重なった。あの時つかまえそこねたアリシアの魂が、いまこの場所に再び現れたのだと、ガブリエルには何の疑いもなく確信できた。
今度こそ。
こんどこそはこの手に捕らえねば。永遠に閉じ込め、保存し、所有し尽くさねば。
竜の首を翻し、南の夜空へと飛び去っていく竜に、青い炎にも似た視線を向けながら、ガブリエルは伝令髑髏に低く、しかし熱く囁きかけた。
「全軍、移動準備。拳闘士団を先頭に、暗黒騎士団、亜人隊、補給隊の順に隊列を組み、南へ向かえ。あの騎士を、光の巫女を無傷で捕らえるのだ。捕らえた軍には、人界全土の支配権を与える」
動き出した闇の軍勢が巻き起こす土埃が、血の色の星ばかり瞬くダークテリトリーの夜空に幾筋もたなびき始めた。
晶素から生成した簡易遠視器を覗いていた騎士長ベルクーリが、顔を上げて低く唸った。
「こりゃ何と……暗黒神とやらは、随分と嬢ちゃんにご執心のようだな。ほぼ全軍で追っかけてくる気らしいぞ」
「喜ぶべき、なのでしょうね。少なくとも無視されるよりは遥かにマシです」
緊張を生ぬるいシラル水で飲み下しながら、アリスは呟いた。
人跡未踏の――あくまで人界人は、という意味だが――ダークテリトリーの荒野を、東の大門跡から真南に五千メルほども直進したところに見出した小さな丘陵で、守備軍囮部隊は最初の小休止を取っている。
衛士たちの士気は高い。
一時は全員を絶望の淵に叩き落した敵の巨大術式を、ひとりの整合騎士が身を挺して防いだことで、その意気に報うべし! という集合心意が彼らを包んでいるのだ。
しかしアリスは、と言えば、いまだにエルドリエの死を受け入れられないでいる。
ルーリッドでの半年を除けば、四年間というもの彼は常にアリスに付き従い、お勧めのワインやらお菓子やらを発掘しては味見させたり、下手かつ気障な冗談を披露したり、とにかく一日として大人しくしていることはなかった。
いったいこの者は、剣と術を学びに来ているのか、それともただ騒ぎにきているのかと首を捻ることもしばしばだった。だが、今にしてようやくわかる。エルドリエの存在が、いかに自分の心を軽くし、風通しを良くしてくれていたか。
……そこにあるときは、それが当たり前すぎて存在にすら気付けないのに、なくしてはじめてこんなに巨大な喪失を感じるなんて。
アリスは北西の空に鋭く連なる果ての山脈に視線を振りながら、右手でそっと腰の後ろに留めた一巻きの鞭――"星霜鞭"に触れた。
ユージオの剣を決して離そうとしないキリトの気持ちが、今ならばよくわかる。
一瞬瞑目したアリスが、再びまぶたを開くのを待っていたかのように、騎士長が言った。
「今後の方針だが……基本的には、囮部隊の整合騎士五、いや四と千二百の衛士の最後の一人が倒れるまで、ひたすら敵軍を引っ張り、頭数を削いでいく、ということでいいんだな?」
丘陵の突端、一際高い小岩に並んで立つ騎士長に、アリスは深く頷きかけた。
「私はそう考えています。すでに、侵略軍五万のうち半数以上を殲滅し、また最も厄介と思われた暗黒術師隊もほぼ掃討しました。あとは敵主力たる騎士と拳闘士をある程度損耗させ……そして暗黒神ベクタさえ倒せば、残敵が休戦交渉のテーブルに着く可能性は高い、と思いますがいかがでしょう」
「うむ……問題は、その時敵軍のアタマが誰になってるのか、ということだがな……。シャスターの小僧さえ健在ならばな……」
「やはり、暗黒将軍がすでに……というのは確実ですか、小父様」
「先刻、一瞥した限りではあの場には居なかった。シャスターだけでなく、嬢ちゃんと戦ったこともある彼奴の女の気配もしなかったな……」
太いため息。ベルクーリが、暗黒将軍とその弟子である女騎士に、秘かに大きな期待を掛けていたのだということをアリスは知っている。
そっと首を振り、最古の騎士は低く呟いた。
「いまは、彼奴の地位を継いだ暗黒騎士が、魂をも受け継いでいることを祈るのみだ。望み薄……だが」
「薄いですか」
「うむ。この地に生きるものたちは、禁忌目録のような成文法は一切持たない。あるのはただ、"強者に従う"という不文律のみだ。そして……残念ながら、暗黒神ベクタとやらの心意は圧倒的だ……青二才の暗黒騎士なぞでは到底太刀打ちできまい……」
確かに、先刻敵軍の上空で名乗りを上げたときアリスは、恐ろしく冷たく、底なしに暗い気配が敵の後方から伸び上がり自分に迫ってくるのをまざまざと感じた。あんな感覚は、記憶にあるかぎり初めてのものだった。最高司祭アドミニストレータの心意を銀の電光に喩えるならば、あれは永遠の虚無だ。
思い出しただけで軽く粟立った二の腕をそっとさすり、アリスは頷いた。
「そうですね……神に逆らおう、などという愚か者がそうそう居るとも思えませんし」
すると、騎士長はふっと短く笑みを漏らし、アリスの背中をぽんと叩いた。
「とは言え、我らが人界には三人も現れたわけだしな。この地にも気骨のある奴がまだ居ることを願おう」
その時、上空から強い羽ばたき音が響き、二人は顔を上げた。
旋回降下してくるのは、騎士レンリの飛竜、"風縫(カゼヌイ)"だ。竜の爪が地面を捉えるよりはやく、軽快な身のこなしで飛び降りた少年騎士は、一息つくと急き込むように言葉を発した。
「報告します、騎士長どの! この先八百メルほど南下したところに、伏撃に利用可能と思われる潅木地帯が広がっています!」
「よし、偵察ご苦労。全軍をそこまで移動させてくれ、配置は追って指示する。お前さんの竜はそろそろ限界のはずだ、たっぷり餌と水を与えて休ませておけよ」
「はっ!」
素早く騎士礼を行い、走り去っていく小柄な影を見送ってから、アリスはふと騎士長の口元にかすかな笑みが浮かんでいるのに気付いた。
「……小父様?」
問いかけると、ベルクーリは一瞬照れたように顎をかき、いや何、と肩をすくめた。
「記憶を奪い、天命を停止させて整合騎士を造る"シンセサイズの儀式"……とても許されることではないが、しかし、もうああいう若者が騎士団に入ってこないのは残念なことだ、と思ってね」
アリスは少し考え、同じく微笑みながら言った。
「記憶改変、天命凍結処理を経なくては整合騎士にはなれない、なんてことは無いと思いますわ、小父様」
右手でもう一度、星霜鞭をそっと撫でる。
「たとえ我ら悉く地に臥そうとも、魂は、意思はかならず次の誰かに受け継がれると、私はそう信じます」
「よぉし、やっとで出番か!!」
ばしぃっ、と右拳を左掌に打ちつけ、拳闘士ギルド筆頭たる若きイシュカーンは威勢よく叫んだ。
闘いの熱を間近に感じながら、ただ座して待つのみだったこの一時間の何と長かったことか。
亜人部隊を焼き払った眩い光の柱も、暗黒術師らが行使したおぞましい長虫どもも、"光の巫女"を執拗に求める皇帝ベクタの謎めいた命令すらも、イシュカーンの闘志には何らの影響も及ぼしていない。
己の肉体と、それ以外の全て。世界はそのように二分され、そしてイシュカーンの興味は、肉体を高めること以外にはまったく向けられることはないのだ。彼には、たとえ先に見たような巨大術式の標的となろうとも、拳と気合ですべて跳ね返してみせるという断固たる自信があった。
赤銅色に灼けたたくましい裸体に革の腰帯とサンダルのみを身につけた拳闘士は、くるりと振り向くと、自身が率いる屈強の男女五千と、その後ろに続く暗黒騎士団を見やった。ほんの五分ほど駆け足移動しただけなのに、拳闘士団と騎士連中との間には千メル近い距離が開いてしまっている。
「相変わらず動きが遅いな、騎士ってのは!」
毒づくと、すぐ隣に控える、イシュカーンよりも頭一つ以上も背の高い巨漢が巌のような口元に苦笑を浮かべた。
「やむを得ぬでしょう、チャンピオン。彼らは体と同じほどにも重い鎧と剣を身につけているのですから」
「何の役にも立ちゃしないのにな!」
言い切り、イシュカーンは再び前を向くと、軽く足踏みをしながら奇妙な動作を行った。右手の五指で筒をつくると、それをひょいと右眼に当てたのだ。
見開かれた炎の色の虹彩の中央で、瞳孔が拡大する。
「オッ、あいつら動き始めたぞ。こっちに……じゃ、ないな。まだ下がる気かよ」
短い舌打ち。
夜闇に沈む、五千メルも彼方の地平線上にいる敵の動向を正確に見て取ったイシュカーンは、少し考えてから言った。
「なあ、ダンパ。皇帝の命令は、追っかけて掴まえろ、だけだったよな」
「そのようですな」
「うっし……」
右手の親指を軽く噛みながら、にやりと笑う。
「少しつついてみるか。――兎隊百人、前に出ろ!!」
後半を高く張り上げた声に、即座におうっという剽悍な唱和が返った。
部隊から飛び出してきたのは、やや細身の――と言っても鞭のような筋肉をたっぷりと蓄えた――闘士たちだった。額に、揃いの白い飾り革を巻いている。
「整合騎士とやらに軽く挨拶に行くぞ! 気合入れろよ!!」
おうっ。
「十七番武舞踏、開始!!」
イシュカーンは叫ぶと同時に右手を突き上げ、両足を激しく踏み鳴らした。
まったく同じ動作を、側近ダンパと"兎隊"の百人も、一糸乱れぬ完璧な統御で繰り返す。
ズン、ザ、ザザッ。
うっ、らっ、うっらっ。
リズミカルな足踏みと唱和が鳴り響くにつれ、イシュカーンの赤金色の巻き毛から汗が迸り、肌は真っ赤に上気していく。部下らもまったく同様だ。
ほんの三十秒ほどで舞踏は終了し、百と二人の闘士たちは全身から湯気を上げながら動きを止めた。
いや、それだけではない。闇夜の底で、彼らの肌は、ごくかすかだか確かに赤い光を帯びている。
拳闘士。
それは、肉体の何たるかを数百年探求し続けてきた一族である。
騎士も、術師も、最終的には"心意によって外界に干渉する"ことを極意であり到達点と定める。言い換えれば、イマジネーションによる外部対象物の書き換え、ということになる。
しかし拳闘士はまったく逆――心意によって、己の肉体のみをオーバーライドするのだ。本来的な制約を超え、素肌で鋼を超える防御力を、素手で巌を砕く攻撃力を実現する。
そしてまた、素足で馬を追い抜く高速疾走も。
「ううううう、らあああああっ!!」
高らかな喊声とともに、イシュカーンは地を蹴って走りはじめた。ダンパと百人の闘士も続く。
ゴアッ!!
空気が裂け、大地が震えた。
「――!?」
潅木地帯目指して移動を始めた衛士隊を追いかけるべく、数歩足を進めたところで、アリスは異様な熱を感じて振り向いた。
何か――来る。
速い!!
遥か地平線を動いていたはずの敵軍から、少なからぬ一団が突出し、有り得ない速度で距離を詰めてくる。騎馬の突進などというものではない。竜騎士か、と一瞬思ったが、あまりに数が多いし、そもそも地上を移動している。
「……拳闘士か」
隣で騎士長が唸った。
「あれが……」
その名前を知ってはいたが、アリスは実際に目にするのは初めてだった。国境に出没するのは主にゴブリンと黒騎士だけで、拳闘士が人界侵略に興味を示したことはこれまでなかったからだ。
しかし最古騎士だけあってベルクーリはまみえたことがあるらしく、多少の緊張を帯びた声で続けた。
「厄介な奴らだ。生の拳でなら傷を受けるくせに、剣で斬られることは断固拒否しやがる」
「は……? 拒否……?」
鋼の刃で身を裂かれることに、否も応もないだろうに、とアリスは思ったが、ベルクーリは軽く肩をすくめただけだった。
「戦えばわかる。俺と嬢ちゃん二人で当たったほうがよさそうだ」
「…………」
アリスはごくりと喉を鳴らした。ベルクーリが、自身で足りないと言うのはよっぽどのことだ。
しかし、せっかく高まった剣気を、次の騎士長の言葉が台無しにした。
「あー、ちなみに……嬢ちゃんは、脱ぐのは抵抗あるよな、やっぱ?」
「はあ!?」
思わず両手を体の前で交差させながら、尖った声を出す。
「な、何を言い出すのですか! 当たり前です!!」
「違う、そういう意味じゃ……いやそういう意味なんだが……オレが言いたいのは、奴らの拳に鎧や衣は役に立たないというかむしろ邪魔というかだな……」
顎をがりがり擦りながら要領を得ない言葉を連ねたあげく、騎士長は、まあいいや、と首を振った。
「ともかく、そのままで戦うなら武装完全支配術の用意をしておけよ」
「は……、はい」
再び背に緊張が伝う。見たところ、接近する敵は百前後だ。その数に対して金木犀の剣の解放攻撃が必要と言うからには、やはり容易ならざる相手なのだ。
しかし、一つ問題があった。
暗黒術師を掃討したときに、記憶解放状態を長時間維持してしまったため、金木犀の剣の天命は現在かなり消耗しているのだ。通常の斬撃に用いるなら問題はないが、分離攻撃はあと何分使えるか心許ない。
そしてそれは、騎士長の時穿剣も同じだろう。数百のドローンを瞬時に墜とした凄まじい広範囲攻撃を、アリスは間近で見ていた。二人の剣はともに、最低でも夜明けまでは鞘に収めておくべき状態なのである。
だが、この数十秒の会話のあいだに、敵拳闘士の一隊はもうその逞しい裸形が見て取れる距離にまで接近している。彼らを、いまだ伏撃態勢の整わない衛士隊に接近させるわけにはいかない。
アリスは、固く唇を引き結んで騎士長に頷きかけると、岩場を北に向かって滑り降りようとした。
しかしその直前、二人の背後から、静かな女性の声が掛けられた。
「わたくしが行きましょう」
アリスはぎょっとして振り向いた。隣のベルクーリもまた目を剥いている。
いつの間にかそこに立っていたのは、囮部隊に配された上位整合騎士五名――騎士長、アリス、エルドリエ、レンリに続く最後のひとりだった。
長身痩躯を、艶の薄い、地味な灰色の鎧に包んでいる。やはり濃い灰色の髪は、額に張り付くようにきっちりと分けられ、首の後ろでひとつに束ねられている。顔もまた、良く言えば清潔感を漂わせ、悪く言うと地味だ。齢の頃はアリスと同じ二十前後か、薄い眉に一重の切れ長の眼、唇に紅は無い。
名を、シェータ・シンセシス・トゥエルブ。
腰に帯びる神器は、"黒百合の剣"。
しかし、彼女がその銘で呼ばれることはめったになかった。騎士たちは、たまに彼女を話題にするときは、常にもうひとつのあざなで呼んだ。
すなわち、"無音"。
アリスとベルクーリがぎょっとしたのは、シェータが単身で敵拳闘士を防ぐと言い出したからではない。
誇張ではなく、初めて聴いたのだ。"無音"のシェータが発する声を。
溝を飛び越え、ちょっとした岩くらいなら蹴り砕き、イシュカーンと百一人の拳闘士たちは猛然たる疾駆を続けた。
もうすぐ、悪魔とさえ称される整合騎士と闘れる。その期待が、若き闘士の口元に、抑えようもなく凄みのある笑みを滲ませている。
正直なところ、この戦に駆り出されるまで、イシュカーンに敵騎士への興味は更々無かった。所詮は、鎧に身を隠し剣などという無粋な棒を振り回すやつら、と蔑んでいたのだ。事実同朋たる暗黒騎士団にも、闘者として敬意を抱けるのは威丈夫シャスターただ一人しか見出せなかった。
しかし、待機命令中、瞑想しながら感じ取った敵の闘気は、どうして馬鹿に出来ない、それどころか瞬間的には爆発じみた昂ぶりすら見せる雄々しいものだった。
無粋な鎧を剥けば、その下にはきっと見事に鍛錬された肉体があるに違いない。
イシュカーンはそう期待し、汗と拳のぶつかり合いの予感に、全身を滾らせていたのだ。
だから――。
ほんの数分前まで敵がとどまっていた小丘陵の手前に、ついにひとりの敵騎士を見出したとき、その立ち姿に拳闘士の長は唖然と口を開いた。
細い。
見たところ女のようなので、ある程度肉が薄いのは仕方ないが、それにしても細すぎる。全身くまなく金属鎧で覆ってなお、イシュカーン配下の女拳闘士の誰よりも華奢だ。装甲の下には、おそらく一束の筋肉もついているまい。腰に下がる鞘までもがまるで鉄串のようだ。
右手を上げて部下らを停止させ、自らも土煙を上げて制動したイシュカーンは、火炎のように両端が巻き上がった眉毛をきつくしかめて口を開いた。
「何だよ、てめえは。何してんだそこで」
ぴったりと頭に張り付く灰色の髪をかすかに揺らして、騎士は首を傾げた。何と答えたものか迷うように、いやむしろ答えなければいけないのかどうか考えるような仕草。
眉も眼も、鼻筋も口も鋭利な小刀でひといきに刻んだがごとき涼しげな顔に、一切の表情を浮かべることなく、女騎士はしょぼしょぼと喋った。
「わたくしはあなたの敵です。あなたを通さないためにここにいます」
ふはっ。とイシュカーンは、鼻と口から同時に大量の息を吐き出し、笑ったものか怒ったものか迷ったすえに肩をすくめるに止めた。
「そのナリじゃ、ガキ一人すら通せんぼできねえだろうに。それともあれか、手妻使いか、てめえは」
今度も、じれったいほどの間を置いて騎士は短く答えた。
「わたくしは、術式は不得手です」
体の裡に練り上げた闘気を萎えさせる敵の様に、苛立ちを感じたイシュカーンは、「ああ、いいよもう」と吐き捨てると、配下にちらりと視線を向けひとりの名を呼んだ。
「ヨッテ、相手してやれ」
「あいきた!!」
打てば響くような返事とともに、即座に集団から飛び出てきたのは、やや痩身の女拳闘士だった。それ以外の者が放つ不満げな唸りを受けながら、軽やかに武舞を踏むその顔には、敵騎士とはまったく対照的な荒々しい笑みが浮かんでいる。
ぶ、ぶぶん。
女闘士が、五メルも離れたところから空打ちした拳が風を巻き起こし、女騎士の前髪を揺らした。
この期に及んでも、その細面には闘志らしきものはひとかけらも見出せず、代わりにどこか困惑するような表情とともに小さく呟いた。
「……ひとり……」
「そりゃこっちの台詞だよ、このガリガリ!」
分厚い唇を捲り上げて、ヨッテが叫んだ。拳闘士としては細いと言っても、対峙する騎士よりは子供ひとり分ほども重いだろう。
「ぶちのめしたら、殺す前に吐くほど肉を詰め込んでやるよ! いいからさっさと抜きな!!」
女騎士は、もう何を答えるもの億劫と言いたげな仕草で、灰色の装甲を鳴らしながら左腰の柄を握った。
しゅらん。
無造作に抜かれた刀身を見て――。
「……ンだそらあ!!」
下がって腕組みをしていたイシュカーンは思わず叫んだ。
細い、などというものではない。鞘がすでに肉焼き串のようだったが、抜き身の幅はわずか半セン、赤子の小指ほども無いではないか。しかも、どうやら薄さは紙一枚以下、さらに色が艶のない黒なので、宵闇の下ではそこにあるのかどうかも定かでない頼りなさだ。
棒、などというものではない。これでは針だ。
ヨッテの顔に、朱色の怒気がみなぎった。
「……っけんなっ……」
ずざんっ。
両脚で短い武舞、というより地団太を踏んでから、赤銅色の雌豹は一直線に襲い掛かった。
イシュカーンの目から見ても、なかなかの踏み込みだった。拳闘士ギルド兎隊は、その名に反して、敏捷性だけでなく鋭い牙を持ち合わせた者達を集めた精鋭なのだ。
びばっ。
空気を引き裂いて、ヨッテの拳が疾った。
まっすぐに顔面を狙ったその打突を、騎士は避けずに極細の剣を置くように迎え撃った。
キィンッ!!
響いた音は、まるで二つの鉄鉱石を打ち合わせるような、甲高いものだった。実際に、眩い橙色の火花までが散った。直後。
くにゃ、と、騎士の握った黒い針があっけなく曲がった。
イシュカーンは、唇に薄い笑みを浮かべた。
拳闘士の肌は、生半な剣では裂くことはできないのだ。
一族に生を受けた子供は、立てるようになるとすぐにギルドの修練所に叩き込まれる。そこでまず最初に行う訓練が、鋳鉄のナイフを拳のみで叩き割ることだ。
長じるに従って、鋳鉄は鍛造鋼に、ナイフは長剣へと変わっていく。叩き割るだけでなく、生身に振り下ろされもする。その課程で、若者たちは己が肉体に鋼以上の硬さを持つ自負を抱く。我が五体は、刃に対して不可侵なり、と。
現在の長イシュカーンは、眼球で直径二センの鋼針を受け止める。
一闘士でしかないヨッテは、無論そこまでの心意を鍛えてはいないが、それでも五体でもっとも強固に確信すべき拳が、どんな剣にも負けるはずはないのだ。
それがあのような戯けた極細針となればなおさら。
大きく撓んだ黒い針が、情けない悲鳴とともに折れ飛んで、女騎士の頬に鉄拳が食い込む――
様をすべての拳闘士が思い描いた。
ぴぅっ。
響いたのは、革鞭が空気を打つような、奇妙な音だった。
直突きをまっすぐ撃ち抜いた姿勢で、ヨッテが静止している。その拳は女騎士の右頬ぎりぎりを通過し、その騎士もまた右手を前方に振り抜いている。
刀身がどうなっているか、イシュカーンの位置からはよく見えなかった。
何だよ、あんなでかい的を外すなよ。長は内心でそう毒づいた。
ヨッテのやつは、この勝負には勝ったとしても、闘技場の三等控え室からやりなおしだ。いくら拳を硬くしても、敵を殴れないんじゃぁ宝の持ち腐れ……。
すっ、と音も無く、ヨッテの握り拳が中指と薬指のあいだから裂けた。
「な……」
思考を停止させたイシュカーンの眼前で、裂け目は前腕から肘、二の腕へと続き、肩へと抜けた。
骨から微細な血管までも、一切潰れた部分のない完璧な切断面をあらわにして、ヨッテの右腕の外半分が、どさっと地面に落ちた。桶でぶちまけたように鮮血が迸ったのは、ようやくそれからだった。
「っああああああ!?」
甲高い悲鳴に混じって、再びあの音がした。
ぴう。
悲鳴が中断し、拳闘士の首がころりと落ちた。
前傾姿勢で俯き、前髪に顔を隠した女騎士の口元から、小さな吐息が漏れた。
"無音"のシェータが口を開かないのは、引っ込み思案だからでも、他人嫌いだからでもない。
ただひたすら、他の整合騎士の関心を引かぬように――よもや訓練だの手合いだのを申し込まれることのないように、ひっそりと息を殺していたのだ。
もし、誰かと比武するようなことになれば、たとえそれが騎士長ベルクーリその人であろうとも、首を落としてしまう(・・・・・・・・・)かもしれない、という恐怖ゆえに、シェータは百年を超えるカセドラルでの暮らしにおいて無音を貫いた。喋ることがあるのは、身の回りの世話をする召使と、昇降係の少女くらいのものだった。
彼女は、四帝国統一大会優勝を経てシンセサイズされた、生粋の剣士だ。しかしその年の大会は、ほぼあらゆる記録から抹消されている。なぜなら、寸止めが最上の徳とされる大会において、シェータと対戦した全員が斬死するという血塗られた結果になってしまったからだ。
上位整合騎士シェータ・シンセシス・トゥエルブは、ある意味では、拳闘士ギルドの長イシュカーンとまったく好対照な精神を持っていた。
イシュカーンが殴ることだけを考えているとすれば、シェータは、斬ることにしか興味がない。
とは言え、彼女がそれを愉しんでいるかというと、まったくそんなことはない。
斬ってしまうのだ。剣を持ち何かと対峙した瞬間、シェータの眼にはすでに、その断たれるべき切断面が、いや斬られたあとの姿すらも、はっきりと見える。そうなるともう、その予感、いや予知を現実にせずにはいられない。それが動かぬ棒杭くらいなら、彼女は手刀ですら滑らかに斬ってしまう。
自身は、己のその性を、忌まわしいものとしてずっと押し殺してきた。
奥深くに秘めたその衝動を見抜いたのは、最高司祭アドミニストレータだった。
アドミニストレータは、現在でこそ常識となっている、術式行使における空間リソース理論を二百年以上も昔に究めようとしていた。
そんな最高司祭がどうしようもなく興味をそそられたのが、ダークテリトリーにおいて"鉄血の時代"の終焉となった最大最後の合戦だった。東の大門と帝城オブシディアの中間に広がる平野にて、五族が相討った悲惨な激戦において、無限にも等しいほどに放出された空間力をアドミニストレータは惜しんだ。
とは言え、用心深い彼女が自身でダークテリトリーの探索になど行くわけもなく、召喚したのがシェータだったのだ。最高司祭は、そのころすでに"無音"のあざなを得ていたシェータにそっと囁きかけた。
単身、かの地に潜行し、合戦跡にて"何か"を探しなさい。できることなら、巻き込まれずに生き残った魔獣の類を。それが無理なら普通の動物を。最低でも鳥や虫を。とにかく空間力を吸い込んだ何かを。
もし見つけてきたら、それから神器を造ってあげる。"何でも斬れる最高優先度の剣"をね?
まさに媚薬のひと垂らしだった。シェータは、飛竜すら使わずに山脈を越え、炭殻色の大地を何万、何十万メルも踏み分けて、ついに血臭漂う合戦場にたどり着いた。
亜人と人が死力を尽くして殺し合ったその地に、動くものはなかった。魔獣はおろか、鼠一匹、烏の一羽すら残らず巻き込まれ消し飛んでいたのだ。
しかしシェータは諦めなかった。何でも斬れる剣。その言葉の響きが彼女の心を捕らえ、決して離そうとしなかった。
三日三晩の探索行のすえ――。
ついに見出したのが、風に頼りなく揺れる、たった一輪の黒百合だった。
そのささやかな花が、広大な戦場で唯一生き残った、リソース吸収オブジェクトだったのだ。
自分の唇から漏れた細い呼気が、悲嘆のため息だったのか、それとも陶酔の吐息だったのか、シェータには分からなかった。
それを言えば、なぜ数分前、無音の誓いを破って騎士長らに防衛役を志願したのかもよく分からない。いやそもそも、カセドラルに於いて、守備軍への参加を募る呼びかけに手を挙げた動機が何だったのかすら自覚できていない。
他の騎士たちのように、人界を守りたいからなのか?
それとも、ただ斬りたいからか?
あるいは――、
斬ってほしいからなのだろうか?
でも、もう、どうでもいいことだ。事ここに到ってしまえば、どうあれ剣を停めることはできない。
シェータはゆるりと顔を上げ、凍りついたようになっている逞しい拳闘士たちを見やった。
一切の躊躇いも、畏れもなく、漆黒の極細剣を握った灰色の騎士は、百人の敵集団へと真正面から斬り込んだ。
「……凄まじい技ですね」
喘ぐように囁いたアリスの言葉に、騎士長ベルクーリも低い唸りで応じた。
「うむ……。ここだけの話だが、半年前にあの娘を低温睡眠槽から覚醒させたとき、オレぁ多少ビビってたよ」
「私はまったく知りませんでした。シェータ殿が、これほどの技を身につけていたなんて……」
眼下の低地で、拳闘士の先行隊約百名と、整合騎士シェータの闘いが繰り広げられている。正確には、一方的な殺戮と呼ぶべきものだろう。刀身の姿すらも定かでない微細な剣が、ぴゅん、と鳴るたびに周囲の敵の、腕が、脚が、そして首が呆気なく落ちる。
感嘆しながらも、しかしアリスは、シェータの痩せた背中が漂わせる何かに、かすかな気がかりをおぼえていた。
あれは殺気ではない。それどころか敵意、戦意のかけらすら見いだせない。
ならば、なぜあの人は、ああも鬼神のごとく闘えるのか。
「考えるな、百何十年見続けてきたオレにも、あの娘のことはわからんのだ。何一つ」
呟くように言い、騎士長は身を翻した。
「ここは任せて大丈夫だろう。やがて敵本隊も追いついてくるはずだ、オレたちはそっちへの迎撃準備に加わらなきゃならん」
「え……ええ」
頷き、眼下の戦いから視線を外すと、アリスは後を追った。
更に約一千メル南。
砂礫ばかりの荒地がようやく切れ、奇妙な形の枝葉を伸ばした潅木が密に生える一帯に、守備軍囮部隊の本隊がその姿を紛れ込ませていた。
構成は、衛士が千二百、修道士が百、補給隊が三十人。これで、まずは五千の敵拳闘士隊を迎え撃たねばならない。
整合騎士レンリは、細かく分けた衛士と修道士を、樹木の陰に隠すように待機させていった。林を貫いて伸びる一本だけの細い道には、補給隊の馬車の轍が真新しく刻まれている。これを追う敵を、なるべく深く長く引き込んだところで、左右から痛撃する作戦だ。
むろん、拳闘士に剣が効かないことはレンリもすでに騎士長から聞いていた。同時に、彼らの弱点も。
拳闘士は、術式攻撃への防御が不得手なのだ。
手前の、コケすら生えていない荒地では、とても高位術式の使用に耐えるだけの空間力は無いが、この潅木地帯ならば多少は空気が濃い。よって、主に修道士隊によって敵に一度の痛撃を見舞い、同時に幻惑して、無傷で後方へと退避することは可能なはずだ。つい先刻たらふく餌を食べた飛竜たちにも、少しだけ熱線で手伝ってもらう。
レンリはすでに、迅速な後退を念頭に置いて、補給隊の馬車を部隊の最南に遠ざけていた。
前線から離せば離すほど安全だ、と彼は判断したのだ。
夜闇に紛れた敵が、直接補給隊を襲う可能性など、若い彼にはまったく想定の埒外だった。
しかし――レンリが部隊の配置に腐心しているまさにその瞬間、十台の馬車の護衛についていた僅か五名の衛士の、最後の一人が声も出せずにひそやかに絶命していた。
光沢の鈍い真っ黒な金属鎧に全身を包み、おどろおどろしい兜まで被りながらも、まったく何の音も立てずに潅木の下を移動するひとつの影があった。
進む先には、人界守備軍の若い衛士が一人、せわしなく左右に視線を走らせている。
しかし、彼は背後にだけは視線を向けない。そちらには他の仲間がいるはずだからだ。
影は、衛士の死角を、小枝の折れる音ひとつさせずに滑るように接近していく。腰には立派な長剣が下がっているが、それを抜くこともなく、右手に握ったごく小さなナイフだけをそっと構える。
ぬ、と左腕が伸び、衛士の口と鼻を塞いだ。
同時に右手が閃き、むき出された喉を一直線に掻き切る。
まったくの静寂のうちに殺戮が終了し、ぐったりと力を失った体を、影は注意深く茂みの下に押し込んだ。
顔全体を覆う、細い覗き孔が切られた鉄面の下から、ごく密やかな声が漏れる。
「ファイブダウーン、ツー・モア・ポイント」
くっく、と喉が鳴る。
古代神聖語――ではない。
影の正体は、今現在アンダーワールドにたった三人しか存在しない現実世界人のひとりにしてオーシャン・タートル襲撃チームの一員、ヴァサゴ・カザルスだった。
一時間とすこし前、ダークテリトリー軍最後方の御座竜車でワインを喇叭呑みしながら、消耗していくばかりの自軍ユニットを眺めていた彼は、ボスであるガブリエル・ミラーに何の気なしに言ったのだ。
「ヘイ、ブロ、そろそろ任せっぱなしじゃなくて、ちっと動いたほうがよくないですかい?」
すると、ガブリエルはちらりとヴァサゴを振り向き、片眉を持ち上げて答えた。
「なら、まずはお前が動いてこい」
続けての指示は、前方の戦場ではなく、はるか南に離れた地点へ潜行することだった。
ガブリエルは、敵軍がまるでSF映画のような巨大レーザーで亜人ユニットを焼き払った時点で、敵の一部がダークテリトリー側へと突出してくることを予想したのだ。
しかしなぜ北でなく南へ進むと言い切れるのか、と訊いたヴァサゴは、ボスの「そっちのほうが広いからな」という答えを聞いたときは内心おいおいと思わずにいられなかった。しかし実際こうして目の前に敵が来てしまったのだから、降参して一働きするしかない。
いかに敵ユニットどもが強力だろうと、補給物資をすべて失えば脚は止まるだろう。ヴァサゴは、この世界にダイブして初めての暇つぶし(キリング・タイム)を継続するべく、暗い林の奥に視線を凝らした。
すぐに、枝葉でカムフラージュされた馬車のシルエットを見抜く。
鉄面の下で、ちろりと唇を舐め、黒い狩人は移動を始めた。
と、馬車の後尾に動きがあった。ぴたりと脚を止め、樹の幹に貼り付く。
持ち上がった幌から顔を出したのは、真っ白い肌に黒い髪を垂らした、うら若い少女だった。何かを感じたのか、怯えの滲んだ顔で周囲を見回している。
ヴァサゴが動かずにいると、少女はやがておずおずとした動作で地面に降り、馬車の内側に何かを囁きかけてから、ゆっくり移動を始めた。
まるでスクール・ユニフォームのような灰色の服のベルトから下がる、ちっぽけな剣に手を置いたまま、まっすぐにヴァサゴの潜む方向へと向かってくる。
ぴゅう、と口笛を吹きたくなるのを我慢して、暗殺者はにんまりと笑みを浮かべるにとどめた。
「調子にいいいいいッ」
あっと言う間に部下がばたばたと殺されていく光景を、数秒にせよ見せ付けられたイシュカーンは、我に返ると同時に怒号を発した。
「乗んなこらあああああッ!!」
ようやく出来た、敵と自分をつなぐ細い空間を、仲間を跳ね飛ばすような勢いで突進する。
握り締めた右拳に、憤激を写し取ったかのような真っ赤な光が宿った。
それを、小さく鋭い動作で引き絞り、全体重を乗せてまっすぐ撃ち出す。輝く炎の軌跡が、一直線に敵騎士の首元の急所へと伸びる。
騎士は、剣での防御は間に合わないと見てか、分厚い装甲に包まれた左手を広げてイシュカーンの拳を受けようとした。
俺の拳の前に――あらゆる鎧は紙細工だッ!!
断固たる心意に満ちた一撃が、女騎士の掌に衝突し、眩い光の線を放射状に撒き散らした。
バガァァァン!!
直後、凄まじい炸裂音とともに、灰色の手甲が吹き飛び、前腕を覆う篭手も砕け散り、二の腕から肩の装甲までもが粉々に割れ落ちた。
剥き出しになった、やはりごくごく華奢な騎士の腕の、滑らかに白い肌のそこかしこから細かい血の霧が噴いた。
しかし、驚いたことに骨は無事のようだった。それでも激痛はあるだろうに、騎士はわずかに眉をひそめたのみで、イシュカーンの手首をつよく掴むとその手を返し、動きを封じた上で右手の極細剣を閃かせた。
きぃぃぃん! という甲高い金属音が、拳闘士の肘あたりで響いた。
刀槍不入。
それが拳闘士の力の源たる大原則だ。その確信を得るためにこそ、彼らはその身にわずかな革帯しかまとわず、裸形を晒しているのだ。防具に頼った時点で、拳闘士の心意は弱まってしまうのである。
ゆえにイシュカーンも、自分の腕に叩きつけられた軟弱な剣を、意思力だけで弾き返そうとした。
しかし。
肌に食い込んでくるひんやりと冷たい密度は、これまで彼がその身で受けたどんな刃とも別種のものだった。
この剣もまた、鋼ではなく意思だ。勝利でも、剣技としての斬撃ですらもなく、ただただ事象としての切断のみを貪欲に求めている。
それを、言葉ではなく直感で察したイシュカーンは、反射的に左の拳を振りぬいていた。
ボッ。
空気を揺らして、一瞬前まで騎士がいた空間を、輝く拳が突き抜けた。
それでも、完全に外したわけではなく、灰色の胸当ての一部を掠った。飛びのいた騎士の、その部分の装甲にヒビが入り、ばかっと砕ける。
だが、イシュカーンも無傷ではなかった。
刃が一秒足らず食い込んだ、右ひじの肌に、ごくごく薄い切り傷が走っているのを彼は眺めた。小さな血の珠が、ひとつだけじんわりと浮かんでくる。たった一滴――されど、一滴。
それを舌で舐めとり、若い拳闘王は獰猛な笑みを浮かべた。
「……ほう。女、てめぇ、見かけと中身はずいぶんちげぇな」
灰色の女騎士は、困惑するように眉をひそめると、頓珍漢なことを言った。
「……わたくしのほうが、年上なのに……」
「はぁ? そりゃそうだろうよ、整合騎士ってのは何十年も生きるバケモンなんだろうが。じゃあババァって呼んだほうがいいのかよ」
「…………」
女騎士の涼しげな造作に、ぴくりと震えが走る。
だが、それはすぐに、ほんの微かな笑みへと変わった。
「……許します。あなた、硬いから。すごいですね、斬れるとこ、ほとんど見えない」
「ちっ……何を言ってやがる」
どうにも奇妙な敵の間に呑まれまい、と、イシュカーンは周囲に転がる二十以上の骸を見回した。一人ひとりの名前が脳裏をよこぎると同時に、腹の底から深紅の憤怒がふつふつと湧いてくる。
「まるで……切れ易そうだから切った、みたいな言い方しやがって。許さねえ。ブチのめす!!」
ざん、ざっ、ざん!!
素早く踏んだ武舞に、たちまち周囲を取り囲む闘士たちが追随する。それは怒りの足踏みでもあった。滾るような音韻に、高らかな喊声も重ねられる。
うっ、らっ、うららっ、うっ、らっ。
武舞踏という名の集団心理誘導装置によって、みるみる拳闘士たちの心意が高まっていく。互いに擦れ合う赤銅色の肌から汗が迸り、それは火の粉へと変わって天に昇る。
騎士は動かなかった。まるで、イシュカーンが限界まで昂ぶるのを待つように。
上等だ。
脚を止めた拳闘王の、赤金色の巻き毛と眉は炎を宿して逆立ち、全身、とくに左右の腕からは渦巻くような赤い光が噴き上がっていた。
対峙する女騎士は、あくまで静かだった。ゆるりと下げられた漆黒の細針は、闇の密度をはらんでしんしんと冷えている。
「っ……くぞおおおお女ああああァァァァァ!!」
びゅごっ!!
炎が唸り、イシュカーンは一直線に距離を詰めた。
女騎士が、あの嫌な風鳴りとともに右手の剣を振りかぶる。
ぴぅ。
極細の切断線が、イシュカーンの左肩に触れる寸前――。
間合いで勝るはずの剣よりも一瞬迅く、拳闘士の一撃が騎士の左脚を叩いた。拳ではない。蹴りだ。地面から低く跳ね上がったつま先が、炎を引きながら灰色の装甲に突き刺さった。
バガッ!!
破砕音とともに、左脚の鋼甲が、長靴だけを残してすねから太腿部まで砕けた。腰まわりを覆っていた短いスカートも、一瞬の炎を発して燃え落ちる。
「拳闘士の技が、殴りだけだと思うなよ!!」
にやりと笑い、イシュカーンは重心を入れ替え、左脚をムチのように撓らせた。
女騎士の右手中で剣が回転し、蹴りの軌道にまっすぐ斬り降ろされる。
金属同士が擦れるような、耳を劈く軋み音が炸裂した。左脚が、まるで不動の巨岩を蹴ったかのような重みに遮られた。拳闘士の長は、久しぶりに感じる鋭利な痛みを無視して、右脚いっぽんで腰を回し、渾身の拳撃を放った。
紅蓮の炎逆巻く一撃は、騎士の胸当ての中央を見事に捉えた。
ガガァァァァン!!
紛れもない爆発が炸裂し、両者の体が前後に弾き飛ばされる。
無理な踏み込みだったせいか、手応えがやや浅かった。イシュカーンは軽く舌打ちをしながら踏みとどまり、己の左脚を確かめた。
大腿部外側に、鮮やかな刀傷が深さ一センほども刻まれている。たちまち真っ赤な血があふれ出し、黒い地面に滴る。
フン、かすり傷だ、と鼻を鳴らして顔を上げ、今度は敵を見た。
灰色の騎士は、地面に片膝を突いて、こほ、こほと小さく咳き込んでいる。いくらかの威力は徹ったようだが、しかし華奢な姿はすぐにすうっと立ち上がった。
もとから損傷していた胸甲は、いまの一撃で完全に吹き飛び、上半身は胸に残る僅かな布と、右の篭手以外完全に露出している。下半身もまた、腰周りに焼け残ったスカートと、右脚の装甲だけが健在だ。
人界人特有の雪色の肌が、夜闇のなかでも眩しく輝くのに僅かに眼を細めながら、イシュカーンは嘯いた。
「なかなか闘士らしいナリになってきたじゃねえか。だが肉が足りねえな。もっと喰って鍛えろ女」
周囲から一斉に浴びせられる揶揄の叫びを無視し、騎士は肩のあたりに僅かに残った布切れを引き剥がして捨てると、ぴゅんっと右手の剣を振った。
「……あなたこそ……いま、ちょっと、柔らかくなった」
「……ンだと、てめぇ」
鼻筋に皺を寄せ、犬歯を剥き出す。
凶相をつくりながらも、イシュカーンは一瞬おのれの呼吸がわずかに浅くなるのを感じた。
馬鹿な、あるはずがない。たかだかあの程度の半裸を見せ付けられたくらいで、闘気が弱まるなどと。一族の女たちは平常あれよりずっと肌を露出しているし、そんなものを見て動揺するのは修練所初等課程のガキだけだ。
世界には、握った拳固と、それでぶちのめすべき相手しか存在しない。
たとえ目の前にいるのが、風にも折れそうなほど細く、眩しいほど白い肌をした、異人種の女だとしても。
「もうタダじゃおかねえ……見せてやるぜ、俺様の全力って奴をよ」
威嚇する狼のようにそう唸ってから、イシュカーンは女騎士に人差し指を突きつけ、吼えた。
「だからてめぇも全力で来い!! いつまでもネムたいツラしてんじゃねえ!!」
すると、騎士は再び困ったような顔をし、左手でしばらく頬だの眉間だのを触れたあげく、ほんの少しだけ眉の角度をきつくして、言った。
「ジョートー、です」
「…………おお、上等だぜ」
この間に呑まれるからどうでもいいことを考えてしまうのだ。
イシュカーンは大きく息を吸い、溜め、ぐっと腰を落とした。
右拳の甲を相手に向けて正中に構え、がふううううっ、と長く呼気を吐き出す。大きく開いた両脚が、大地の力を吸い取ったかのようにごおっと炎を上げ、その熱は身体を通って拳へと集まっていく。
赤く燃え盛る炎が、やがて黄色く輝き、さらに青みを帯びた白へと変わる。
いまやイシュカーンの右拳は、大気さえも焦がすほどの超高熱を蓄えて、きん、きんと鋭い高音だけを放っている。
対する女騎士は、こちらは半身になって腰を落とした。左手を、掌を上にしてまっすぐ前に伸ばし、右手の極細剣を体の後ろで水平一直線に構える。まるで、限界まで撓められた投石器のような力感。
すでに自分の体が頭頂から下腹部まで真っ二つになってしまったかの如き緊張感に、イシュカーンはニヤリと笑った。
こんな相手は初めてだ。まったく燃えさせてくれる。
動いたのは、双方同時だった。
純黒の半月と、蒼炎の流星が激突した瞬間、透明な水晶の壁にも似た密度の衝撃波が発生し、地面を砕きながら周囲に広がった。取り囲む拳闘士たちが、ひとたまりもなく真後ろに押し倒される。
騎士の剣と、闘王の拳は、針先ほどの一点で触れあい、鬩ぎ合った。限界を超えて圧縮された力が七色の光となって迸り、夜空に駆け上った。
シェータの技量を以ってすれば、実はこのような馬鹿正直な力比べをせずとも敵を倒すのは容易い局面だった。
若い拳闘士は、全ての心意を右拳だけに集中させて飛び込んできたので、それ以外の部分は実に斬り易そうにシェータには見えたのだ。けれんのない一直線の拳打を回避し、ひといきに首を落とすこともできた。
だがシェータはそうせず、敢えて敵の、全ての力が結晶化したかのように輝く拳を迎え撃った。意識してのことではない。体が、剣がそれを求めたのだ。
自身の選択を、意外だとシェータは感じた。おのれが、騎士としての誇りだの、高潔さだの、その手の精神性とは無縁な存在だということは百年も前に自覚している。斬りたいから斬る。あるのはそれだけ。
それは、殺したいから殺す、と同義だったはずだ。他の整合騎士が内心では忌避する山脈警護任務のあいだだけ、シェータは自己の存在を確認できた。首を刎ね、あるいは唐竹割りにしてきた黒騎士や亜人は数知れない。
その衝動を、忌まわしいものとしてひた隠し、"無音"と呼ばれて生きてきた自分が、なぜ今殺すことを――しかも敵は暗黒界の大将首なのに――選択しなかったのか、シェータにはまったく不思議だったのだ。
でも、ああ、もう考えるのも煩わしい。
在るのは、右手の剣と、目の前の輝く拳だけ。
なんて硬いの。斬れるかな。
楽しい。
敵騎士の、びっくりするほど小ぶりで、色の薄い唇に、ふたたび微かな笑みが浮かぶのをイシュカーンは見た。
それが、自分を――あるいは闘いを嘲弄するものでないことは、もう理解できた。
なぜなら、己の唇にも、今まったく同質の笑いが刻まれているからだ。
なんだよ、なよっちいナリしてるくせに、異界人のくせに、てめえも同種じゃねえか。
ぴしっ。
ごくささやかな震動が、拳の内側に響いた。
それが、敵の黒い刃が欠けたものではなく、自分の右拳の骨に罅が入った音だとイシュカーンは察した。
だめか。押し負けるか。
しかし、まあ、しゃあねえ。
拳が断たれれば、剣圧はそのまま体をも割るだろう。そう推測しながらも、イシュカーンに懼れはなかった。これほどの敵とまみえる機会は、おそらくこの戦のあとには二度とあるまい。ならば、まあ、悪い死にざまじゃねぇ……
そう考え、目を閉じようとしたその瞬間。
拳にかかる圧力が弱まった。
グワッ!!
押さえ込まれていた衝撃が一気に解放され、イシュカーンと敵騎士を木の葉のように吹き飛ばした。敵の心意が逸れた理由は、衝突する二人の間に割り込もうとした巨大な人影だった。
同じように打ち倒されたその影に、イシュカーンは尻餅をついたまま獰猛に吼えた。
「ダンパ!! てっめぇ……!! 何しやがんだ!!!」
「時間切れです、チャンピオン」
身体を起こした巨躯の副官は、ただでさえ小さい眼を糸のように細めながら、言った。ごつごつした腕を持ち上げ、短い指で北を示す。
イシュカーンがそちらに眼を向けると、いつの間にか拳闘士団の本隊と、その後ろの暗黒騎士団が目視できる距離にまで接近していた。確かに、集団戦が始まるというのに長が私闘に明け暮れている場合ではない、のだが――。
激しく舌打ちしながら視線を戻すと、巻き上がる土埃の向こうで、もうほぼすべての防具衣服を失った敵騎士が、しかしそれを気にする様子もなく細い剣を鞘に収めようとしていた。
「女! これで勝ったつもりじゃねえだろうな!!」
少し前に斬死を覚悟したことも忘れ、若い拳闘士は叫んだ。
灰色の髪を揺らし、騎士はちらりとイシュカーンを見ると、言葉を探すように短く首を傾げてから言った。
「その、女、っていうの……やめて欲しい」
「あのな……大体、てめぇこの状況で、どうやって逃げようって……」
その時、ごうっ、という突風が南から吹き寄せて、騎士を取り囲む数十人の部下たちが一斉に顔を背けた。
思わず瞬きしたイシュカーンの視界に、高々と左手を差し伸べる騎士と、急降下してくる一頭の飛竜の姿が朧に映った。
騎士は飛竜の脚に手を掛け、ふわりと空へ舞い上がっていく。のやろう、と歯噛みした拳闘王は、思わず叫んでいた。
「てめぇ、そんなら名乗っていきやがれ!!」
打ち鳴らされる羽音に混じって、微かな声だけが降ってきた。
シェータ。
シェータ・シンセシス・トゥエルブ。
たちまち夜闇に紛れて消えた白い裸身を、イシュカーンは立ち上がりながら見送り、もう一度舌打ちした。
許されるならば――あの強敵との再戦は、二年、せめて一年の修練ののちにしたい。自分にもまだまだ鍛えるべき部分があることが分かったからだ。
しかし、いくさ場でそんな我が侭が通らないことが理解できるくらいには、イシュカーンも子供ではなかった。
北から合流してくる五千の部族と、さらに五千の騎士で、敵本隊を蹂躙せねばならない。その過程であの女とふたたび拳を交える機会があるかどうかすら定かではないのだ。
"光の巫女"とやらを掴まえれば。
一瞬、そんなことを考えた自分に、イシュカーンは更なる舌打ちを見舞った。
何を馬鹿なことを。その褒美として、あの女の助命を皇帝に願う? 一族の者全員から、気が狂ったと思われるだろうさ。
踵を返し、イシュカーンは左脚の傷を手当させるために、薬草壷を腰に下げる部下へと歩み寄った。
そうだ。
そのまま、まっすぐこっちに来い。
潜伏からの奇襲(アンブッシュ)の醍醐味を、口腔内でキャンディのように転がしながら、ヴァサゴは念じた。
隠蔽(ハイディング)は完璧だ。金属鎧のマイナス補正など物ともせず、潅木の作り出す暗がりに溶け込んでいる。
黒髪の少女は、周囲を懸命に警戒しているが、その視線はヴァサゴの潜む茂みをただ通り過ぎるのみだ。あと七メートル。五メートル。
ああ、いいね。実にいいね、この感じ。まったく久しぶりだ。
更に一メートル、無警戒に近づいてきた少女が、くるりと右に向きを変え、ヴァサゴが隠してきた死体のほうへ進み始めた。
もう一息引き寄せたかったが、まあ、大した差じゃない。
ヴァサゴはまったくの無音のうちに暗がりから滑り出て、左手を伸ばしながら少女の背中に迫った。
口を塞ぎ、驚愕に収縮する身体を、一気に切り裂く――
その予感があまりにも迫真かつ甘美だったために、ヴァサゴは、目の前にきらりと光った白刃を見たとき一瞬ぽかんと立ち尽くした。
「……ワゥ!」
首元数センチを剣先が横切ってから、慌てて飛びのく。
まったくこちらに気付いていないはずだった少女が、左腰の剣を滑らかに抜き打ったのだ。実に見事な一撃。あと一歩踏み込んでいたら、喉を裂かれていたか。
かしゃり、と両手で剣を構えなおす少女の黒い瞳に、恐怖と敵意はあれど驚きの色が無いことを見てとり、ヴァサゴは潜伏が見破られていたことを不承不承受け入れた。
ナイフを右手でくるくる回しながら、口を開く。
「ヘイ、ハニー……」
そこで気付き、英語をネイティブと遜色ない日本語に切り替える。
「お嬢さん。何故わかった?」
少女は、油断なく剣を中段に据えながら、硬い声で答えた。
「……何も無いと思えるところを一番警戒しろって、先輩が教えてくれたもん」
「せ、先輩だぁ……?」
瞬きしながらも、ヴァサゴは何か記憶に引っかかるものを感じていた。はて、その台詞、どこかで聞いたような……。
しかし、思考がどこかにたどり着く前に、少女がすうっと息を吸い、物凄い大声で叫んだ。
「敵襲!! 敵襲――!!」
ちっ、と舌打ちし、ナイフを右腰に収める。
仕方ない、遊びもここまでか。
ヴァサゴは、大きく左手を上げると、同じく叫んだ。
「お前ら……仕事だ!!」
今度こそ、少女が驚愕のあまり瞠目した。
ヴァサゴの後背、数十メートル離れた茂みから、ざ、ざざざ……次々にと身体を起こしたのは、暗黒騎士団から引き抜いてきた革鎧装備の軽装偵察部隊百名。
少女の警告に反応し、前方の馬車から飛び降りたもう一人の少女も、北側から駆けつけた数十名の衛士たちも、一様に凍りついた。
「な……後ろに敵が!? 百人規模!?」
整合騎士レンリは、術師による急報が信じられずに叫び返した。
まずい、まずい!
補給部隊が全滅し、物資が失われたら全軍が動けなくなる。それに、後ろにはあの練士たちもいるのだ。絶対に守ると誓った二人の少女と、ひとりの若者が。
救援を百、いや二百は送らなければ……しかし、今本隊を動かせば、北から肉薄しつつある敵拳闘士隊に伏撃がバレるかもしれない。そうなったらもう、数ではるか優る敵にひとたまりもなく殲滅されてしまう。いや、すでに奇襲計画は露見していると考えるべきなのか? ならば全軍を南に動かして、再度の機会を待つか?
即座に結論が出せず、立ち尽くすレンリに、背後から太い声が掛けられた。
「まさか、俺たちの南進が見抜かれてたたぁな……」
丘陵から戻ってきた騎士長ベルクーリとアリスだった。レンリからすれば、雲の上とも思える実力者のふたりだが、その顔にももう余裕はまったく無い。ことにアリスは、今にも補給部隊のいる森の南へと飛んでいきそうだ。
ベルクーリの威躯の後ろに眼を向けると、千メル北の丘陵地帯のむこうには、すでに大軍が立てる地響きと、立ち上る土煙が色濃く迫りつつある。
騎士長は、一瞬瞑目すると、すぐに灰青の瞳をかっと見開いて指示した。
「レンリ、本隊を後退させろ。嬢ちゃん、すぐに補給隊の救援に向かえ。北からの敵はオレが食い止める」
「止めると言っても……小父様、敵は五千を超えます! それに、拳闘士に剣は効かぬと……」
「まあ、何とかするさ。早く行け!! 最後の一兵までも費やして敵軍を削ると決めたのは嬢ちゃん……いやアリス、お前だろう!!」
騎士長は、それだけ言うとくるりと北を向いた。
腰の時穿剣を、ゆっくりと抜き出す。
その、時経た鋼色の刀身に宿る輝きの薄さを見れば、剣に残された天命が僅かであるのは明らかだった。
ガイン!
ギャッ!!
カァァァァン!!
ヴァサゴの渾身の剣撃を、少女の細腕で三合とは言え防いだことを、むしろ称えるべきだろう。
しかもヴァサゴは連続剣技を使ったのだ。だから、少女の手から弾かれた剣が背後の幹に突き立ったとき、暗殺者の唇からは紛れも無い賞賛の口笛が漏れた。
なおも健気に拳を構えようとする黒髪の少女を、容赦なく地面に引き倒し、剣を突きつける。
「ロニエ――――!!」
馬車から新たに現れた、赤毛の少女が悲鳴にも似た声を上げて駆け寄ってきた。
ヴァサゴは右手の剣をぴたりと、ロニエという名らしい少女の首元に据え、近づく少女の動きを牽制した。すくんだように、細い二本の脚が止まる。
「くっ……くっく」
鉄面の下で、抑えようも無く含み笑いが漏れた。
これだよ、この感じ。
他人の命を、絆を、愛を剣先で弄ぶこの愉悦。
「……殺しゃしないよ、そこで大人しく見てればな」
赤毛のほうにそう囁いておいて、組み伏せた黒髪の少女の頬を指先で撫でる。
背後からは、血に飢えた百人の戦士たちがひたひたと近寄ってくる足音が響く。
間近で見開かれた、大きな黒い瞳に満たされていた決意が、徐々に、徐々に、絶望の闇に沈んでいく――。
……?
不意に、その瞳の焦点が、ヴァサゴの顔から逸れて、空へと向かった。
濡れた虹彩に、何かが反射している。
光。
降り注ぐ。
乳白色の光の粒が、ふわり、ふわりと舞い降りてくる。
ヴァサゴは、奇妙な戦慄を背中に感じながら、ゆっくりと顔をあげた。
漆黒の夜空。血の色の星々。
それらを背景に、浮かぶ小さな――それでいて凄まじく巨大な何かを秘めた影。
人。女だ。
真珠で出来ているかのように輝くブレストプレート。篭手とブーツも同色。
ドレープの多いスカートは、翼のようにいくつもの細片が寄り集まってできている。夜風になびく、腰より長い髪は、艶やかな栗色――。
「ステイシア……さま」
腕の下で、黒髪の少女が呟いた。
その声は、ヴァサゴの意識には届かなかった。空に浮遊する女の、小さな顔がちらりとかいま見えた瞬間、漆黒の狩人は吸い寄せられるように身体を起こし、立ち上がった。
解放された少女が、即座に走り去ったが、それを眼で追うことすらしなかった。
天に浮く人影が、すう、と右手を伸ばした。
優美な五指を、ゆるりと横に振る。
ラ――――――――――。
まるで、幾千もの天使が同時に唱和したかのような、重厚な和音が世界を揺るがした。
人影の指先から、オーロラのような光が放たれて、ヴァサゴの背後へと降り注く。
ゴッゴゴゴゴゴゴ……。
地響き。そして悲鳴。
振り向いたヴァサゴが見たのは、大地に口をあけた底なしのクレヴァスと、そこに飲み込まれていく百人の手下たちの姿だった。
ぽかんと眼を見開いたまま、視線を空に戻す。
女は、今度は左手を、北の空へと振った。
再びあの天使の歌声。
先刻の、数十倍もの規模で降り注いだオーロラが、その先でいかなる現象をもたらしたのかはもう想像の埒外だった。
最後に、空に浮く女は、まっすぐ足下のヴァサゴを見下ろした。
右手の人差し指が持ち上げられ、ぽん、と一度宙を弾く。
ラ――――――――。
虹色の光の幕がヴァサゴを包んだ。
足元の地面が消えた。
ひとたまりもなく無限の暗闇へと落下しながら、ヴァサゴは両手を空へと差し伸べた。
「マジかよ……おい、マジかよ」
口から震える声が漏れた。
あの顔。
あの髪。
あの気配。
「ありゃあ………………"閃光"じゃねえか」