くるるる……。
高く、心細そうな喉声。飛竜"雨縁"が、主を気遣っているのだ。
整合騎士アリスは、どうにか微笑らしきものを唇に浮かべ、囁いた。
「大丈夫よ、心配しないで」
だが、実際のところは、まったく大丈夫ではない。視界はゆらゆらと歪み、呼吸は荒く、手足は氷のように冷たい。次の瞬間に気を失ってもおかしくない。
アリスを消耗させているのは、保持・詠唱中の、今にも暴発しそうなまでに密度を高めている巨大術式ではなかった。
その力の発生源となっている、無数の死そのものだった。
騎士。衛士。修道士。そして敵たるゴブリン、オーク、ジャイアントの、凄まじい勢いで喪われていく命が、アリスを苛む。
かつてのアリスは、一般民の生死や、ましてダークテリトリーの住民の生き死になど、思考に上せる必要すらも感じなかった。
半年間のルーリッドの暮らしを経て、村人たちのささやかな営みの貴さを知り、それは守るべきものだという認識を得たが、しかし暗黒界に暮らす者たちに思いを致すまでにはならなかった。その証左として、ほんの十日ほど前、ルーリッドを襲った亜人の群れをアリスは何の躊躇いもなく殲滅している。
闇の軍勢は血も涙もない侵略者であり、一兵残らず討ち尽くすべきもの。
今の任務に就くその瞬間まで、そう信じて疑うことはなかった。
しかし。
なんということか――。
遥か眼下の戦場から、絶え間なく生み出され、蒸散してくる天命力の感触は、人のものも怪物たちのものも、まったく同一だったのだ。一抹の差異なくすべてが暖かく、柔らかく、元の持ち主がどちらの軍の兵士なのかを感じ分けることは完全に不可能だった。
これはどういうことなの、とアリスは激しく動揺した。仮に、人界の民も、暗黒界の怪物も、本質的に同一の魂を持ち、ただ生まれた場所が山脈のあちらかこちらかだけの違いしかないのだとすれば。
いったい何故彼らは、そして私は戦っているのか。
その疑問に答えの出ようはずはなかった。
アリスは、そこで無理やりに考えるのを止め、ただただ峡谷に放出される神聖力を凝集し、術式に換えることだけに集中した。
おそらく、この世界でただ一人、疑問の答えを知っているのであろう黒髪の若者を守る――そのためだけに。
しかし、無数の悲鳴と断末魔が谷いっぱいに反響し、否応なくアリスの精神を締め付ける。死ぬ。死んでいく。誰かの父が、兄が、姉妹が、そして子が。
……はやく。
アリスは心の裡で呟く。
いっそ、はやくその"時"が来てほしい。己の力で、巨大な死を生み出すことでこの惨劇を終わらせられる、その時が――。
人界侵略軍先陣を構成する、亜人混成部隊は壊走の一歩手前で踏みとどまっていた。
三人の長はすべて死んだ。殺された。それはつまり、敵を率いる騎士が、彼らの誰よりも強いということだ。そして、力あるものがすべてを支配する。
もしこの戦いが、亜人たちだけのものだったなら、長たちが討たれた直後に残る兵らは全面降伏していただろう。
危うくその事態を食い止めていたのが、彼らのうえに初めて降臨した暗黒の神、皇帝ベクタの存在だった。皇帝は十候の誰よりも強く、そして今はまだ人界の騎士とどちらが上かは決定されていない。
だから亜人たちは元命令を固守せざるを得ず、勢いに乗る人界守備軍と懸命に刃を打ち合わせた。
その、懸命なる奮闘が稼ぎ出した数分間を利用して、ダークテリトリー軍の切り札である遠距離戦力、つまりオーガ部隊と暗黒術師部隊が大門崩壊跡の線ぎりぎりに密集展開した。
陣形は、七千ものオーガ軍が前方で巨大な弩弓を構え、後方で三千の術師が攻撃術を詠唱するというものだ。指揮を取るのは、オーガ族の長フルグルではなく、術師総長ディーの最側近である練達の高位術師だった。
術師は、後方の伝令師から届いた命令に耳を澄ませ、ひとつ頷くや叫んだ。
「オーガ隊、弩弓発射用――意! 術師隊、"広域焼夷矢弾"術式詠唱開始!! 照準師、敵整合騎士座標への誘導術式詠唱開始!!」
広域焼夷矢弾、とはこの作戦のためにディー・アイ・エルが設計した、大規模殲滅術式である。限りある空間暗黒力を全て炎熱の威力へと換え、それをオーガの矢に乗せることで長距離の射程を実現する。"バードシェイプ"や"アローシェイプ"といった発射、誘導のための変形に術力を消費しないため、爆発、焼却の凄まじさは想像を絶するものになるはずだった。皇帝ベクタの威のもとに十候軍が共闘するこの戦だからこそ実現できる、"鉄血の時代"にも存在しなかった史上最大の攻撃術だ。
さらにディーは、風素因術に秀でた数名の術師によって、敵の主力である整合騎士に向けて威力を誘導・集中する"風の道"を造らせるという周到な策を用意していた。これは、仮にその誘導を一点に凝らせば、かの最高司祭アドミニストレータですら防げなかったと思われるほどの超高優先度攻撃となるはずだった。まさしく、かつて賢者カーディナルが危惧した、"個の力では対抗しきれない数の威力"そのものだったのだ――。
再び、雨縁が低く啼いた。
しかし今度は、鋭い牙鳴りの混ざる警戒音だった。
アリスは、朦朧とし始めていた意識を、気力を振り絞って立てなおし、じっと遥か彼方の闇の底を見徹した。
――来た!!
混戦を続ける亜人部隊のむこうに、新たな軍勢が整然と、しかし高速で突き進んでくる。金属鎧の輝きは無い。つまり前衛部隊ではなく、遠距離攻撃部隊だ。
彼らこそ、人界守備軍を一掃し得る、凶悪なる威力を秘めた破壊者たち。
しかしそれは、この私も同じなのだ――。
アリスが設計・駆式している術。それは、伝え聞いたファナティオとキリトの戦いに着想を得た、"反射凝集光線"術とでも言うべきものだった。
峡谷に満ちる空間神聖力と、戦いが生み出した放散天命力という膨大なリソースをもとに、アリスはまず晶素によって差し渡し三メルはあろうかという巨大な硝子球を生成した。
次に、その球を、鋼素によって分厚い銀膜を造り、くまなく覆う。
出来上がったのは、"閉じた鏡"だ。あとはそこに、発生するリソースの全てを光素へと変えて閉じ込めていく。
素因の保持、それは古から、幾多の高位術者たちを悩ませてきた基本かつ究極の技術だった。
生み出した各種の素因は、意識を繋いでおかねば気ままに空中を漂い、やがて消滅なり破裂なりしてしまう。そして、保持し得る素因の上限は、人間が持つ端末――つまり十指の数と一致する。
元老チュデルキンは、その特異な体格を利用して、頭のみで倒立することで両足の指をも端末化し、二十の素因を操った。さらに最高司祭アドミニストレータは、いかなる精神力を用いてか、自身の銀色の髪をも端末とすることで、百近くもの素因を保持した。
しかし、そのどちらもアリスには真似できない技術だ。そもそも、二十が百でもこの状況ではまったく足りない。何せ敵の暗黒術師は三千、全員が中位階梯だとしても最低一万五千を超える素因を発生させ得るのだから。
ゆえに、アリスは、発生させた素因から意識を切っても位置を保てる方法を考えた。しかし、攻撃術として一般的な熱素や凍素は、何に触れてもそれを燃やし、あるいは凍らせて消えてしまう。風素に至っては閉じ込めることがそもそもできない。
だが、カセドラル五十階での戦いに於いて、キリトが"天穿剣"の光を、わずかな鋼素と晶素から生成した鏡で反射してのけた、と聞いて、アリスは考えた。
光は、鏡と接しても跳ね返るだけなのだとしたら――閉じた鏡を造ってやれば。そして、その内側に光素を生成すれば。
理論上、鏡の天命が尽きるまで、無限個の光素を保持しておけるのではないか。
屈強なオーガ兵たちの引き絞った弩弓が、ぎりぎりと軋みながら天を向いた。
無数に煌く凶悪な鏃に、三千の暗黒術師たちは炎熱の力を封じ込めるべく、両手を差し伸べて、一斉に起句を詠唱した。
「「「システム・コール!!」」」
女声のみが幾重にも和するそれは、まさしく死の合唱だった。術師ひとりひとりは、自らが加わり作り出す力場の巨大さに陶酔しながら、次の術式を歌い上げた。
「「「ジェネレート・サーマル・エレメント!!」」」
しなやかな指先に、仄かに赤い輝点が瞬き――
即座にその色をくすませ、ささやかな煙とともに消滅した。
指揮官の高位術師は、いったい何が起きたのか即座に理解することが出来ず、もう一度式を唱えた。しかし結果は一緒だった。
呆然とする彼女に、傍らにいた若い術師が、おそるおそる言葉をかけた。
「ぶ、部隊長さま……これは……空間暗黒力が、枯れ切っているのでは……」
「そ、そんなはずがあるものですか!!」
指揮官は、愕然として叫んだ。幾つもの指輪が嵌まった左手で、前方の戦線を指す。
「あの悲鳴が聞こえないの!? 人も、亜人も、あんなに死んでるじゃないの!! あれだけの命が、一体どこに消えてしまったって言うのよ!!」
それに答えられる者は居なかった。オーガ兵たちも、発射命令が出ないことに苛立ちながらも、ただ弓を絞り続けるしかなかった。
時、来たれり。
アリスは一瞬瞑目し、すぐにきっと眦を決した。
たった一人のために多すぎる命を奪う罪は、己の両肩に背負ってみせる。
直径三メルの銀球は、雨縁の背中と首に保持され、その内圧を限界まで高めている。それにぴったりと合わせた掌に、ぐっと力を込め、アリスは叫んだ。
「雨縁……首を下げて!!」
命令に従い、飛竜が体を前傾させる。ずず、と銀球が転がりはじめ、ちょうど一回転して虚空へと放たれた、その瞬間。
「……バースト・エレメント」
これほどの威力を内包した術式にしては、あまりに短く、単純な一句だった。
銀鏡球は、前方に向いた一箇所をわざと薄く造られていた。
無限個の光素が崩壊する純粋な力は、そこに集中し、銀を真っ赤に溶解させ――。
パウッ。
という、かすかな音とともに外界へと放たれた。
最前線で"それ"を見たファナティオは、呆然と立ち尽くしながら、己の記憶解放攻撃の百倍はある、と考えた。
それ以外の衛士・騎士は、ただ単純に、ソルスの神威だ……と畏怖した。
幅十メルはあろうかという純白の光の柱が、斜め下方に向けて伸び、亜人部隊の中央に突き立った。そのまま峡谷の奥へと、撫でるように向きを変え――。
クアァッ。
甲高い共鳴音とともに、熱と光の波が峡谷の幅一杯に溢れかえり、直後、天地を引き裂く轟音とともに、山脈の稜線までも届く火柱が吹き上がった。
ほとんど手の届きそうな距離に出現した、とてつもない規模の"破壊"を、ディー・アイ・エルは当初みずからの作戦が生み出したものと誤解した。
しかしすぐに、峡谷の東、つまり外側に向けて押し寄せてきた熱気が、彼女を凍りつかせた。
灼けた風が運んできたもの。それは間違いなく、亜人部隊の、そしてディーが手塩にかけた暗黒術師たちの断末魔の悲鳴だった。
立ち尽くすディーに、傍らの伝令師が、掠れたわななき声で告げた。
「……原因不明の空間力枯渇現象により、我が方の"広域焼夷矢弾"術式は不発……直後、敵陣より放たれた未詳の大規模攻撃により、亜人混成部隊の九割、オーガ弩弓兵の七割、さらに暗黒術師隊の……三割が壊滅した模様です……」
「原因不明の枯渇……だと!?」
ディーは、突如噴出した瞋恚のままに叫んだ。
「原因は明らかだ! あの馬鹿でかい術式が、峡谷のあらゆる空間暗黒力を吸い取ったのだ!! しかし……有り得ぬ、あれほどの術はこの私にも……それこそ、死んだ最高司祭にしか行使できないはず!! ならば、何者の仕業だというのだ!?」
怒鳴り散らしてみたものの、何ら建設的な思考は湧いてこない。この局面をどう打開したものか、それ以前に皇帝ベクタになんと報告すればいいのか、十候最大の智謀を持つと言われたディー・アイ・エルにしてもまったく思いつかなかった。
桁外れに巨大な術式を行使した反動と、何よりもそれが生み出した惨劇そのものに打ちのめされ、アリスは雨縁の背中にくたりと崩れ落ちた。
飛竜は主の体をやさしく受け止めると、緩やかな螺旋を描いて人界守備軍の最前線に降下した。
真っ先に駆け寄ってきたのは、副騎士長ファナティオだった。両腕を伸ばし、滑り落ちかけたアリスを抱きかかえる。
「見事……見事な術式、そして心意だったわ、アリス。御覧なさい、あなたが導いた勝利よ」
囁くような声に薄目を開けると、いまだ赤熱する峡谷の底を、狂乱の体で逃走していく敵生存兵の姿が見えた。死体のほうはほとんど確認できない。最初の超高熱線を受けて瞬時に蒸発してしまったか、その後の爆発で跡形もなく四散したのだ。
あまりにも無慈悲な破壊を、誇る気持ちには到底なれなかった。
しかし、直後、周囲の衛士たちから津波のような歓声が沸き起こった。それはすぐに一つにまとまり、脈打つ勝ち鬨へと変わる。
整合騎士団万歳、四帝国万歳の唱和を聞きながら、アリスは詰めていた息を吐き、ファナティオの腕から立ち上がった。向けられる歓声に、かすかな笑顔と控えめに挙げた右手で応えてから、副騎士長に向けて口を開く。
「ファナティオ殿、戦いはまだ終わったわけではありません。今の術式が新たに発生させた神聖力を敵に再利用されぬよう、治癒術で消費しておかねば」
「そうね……向こうにはまだ主力が健在ですものね」
黒髪の麗人は頷くと、声を張り上げた。
「よし、修道士隊、それに衛士でも治癒術の心得のあるものは、空間力の尽きるまで全力で負傷者の治療に当たれ! 敵陣の動きからも眼を離すなよ!」
鋭い命令が響き渡るや、鬨の声に変わって、システムコールの起句が各所で響き始めた。
アリスは体の向きを変え、愛竜のやわらかい顎裏を掻いてやりながら、優しく囁いた。
「お前も、よく頑張ってくれましたね……ひとところに静止し続けるのは疲れたでしょう。寝床に戻って、食べ物をたっぷり貰いなさい」
竜は一声うれしそうに啼くと、浮き上がり、最後方の仲間たちのもとへと滑空していった。さて、自分も負傷者の救護に当たろう、そう思って一歩足を踏み出した、その時。
「……師よ」
低く響いた声は、騎士エルドリエのものだった。
ただ一人の弟子を労おうと、笑顔とともに視線を動かしたアリスが見たのは――常に洒脱で軽妙だったはずの若者の、凄惨な姿だった。
右手の剣。左手の鞭。ともに、何層にもこびり付いた血で赤黒く染まっている。それだけではない。白銀の鎧も、艶やかだった藤色の巻き毛も、返り血で酷い有様だ。いったい、どのような戦い方をすればこんな姿になるのか。
「え……エルドリエ! 怪我はないのですか!?」
息を飲みながら尋ねると、騎士はどこか虚ろな表情で、ゆっくりと首を振った。
「いえ……。しかし……いっそ、命を落とすべきでした……」
「……何を言っているのです。そなたには、この戦いが終わるまで、衛士たちを率いて戦い抜くという使命が……」
「私はその使命を果たせませんでした」
ひび割れた声で、騎士は呟いた。
アリスには知り得ぬことだったが、エルドリエは山ゴブリン族の奸系で前線突破を許してしまったあと、たっぷり数分間も、術式なしで煙幕を晴らそうと無駄な努力を続けたあと、ようやく手勢を率いて後方を襲ったゴブリンを追ったのだ。
しかしその時にはすでに、山ゴブリン族長コソギは、"失敗騎士"の烙印を押されていたはずの整合騎士レンリに討たれたあとだった。挽回の機会をも奪われたエルドリエは、ほとんど惑乱の体で、長を失い逃げ惑うゴブリンたちを片端から殺戮し――血にそぼ濡れた姿で、師が上空から放った神威の術式を見上げたのだった。
「アリス様の期待を……私は裏切った……」
鞭を腰に戻した左手で、エルドリエは激しく長い巻き毛を引き毟った。
「愚かな……無様な姿を……生き恥を晒し……何が騎士か……!」
そして、何が"師を守りたい"か。
あの凄まじい術式の威力。違いすぎる――何もかも。
所詮、必要なかったのだ。天才騎士である師には、自分のような半端者など。剣技も、術力も、完全支配術にも秀でるものを持たず、その上ゴブリンごときの策にしてやられる愚昧ぶりをも露呈したのだから。
このざまで、守るどころか――師の心を、愛を得ようなどと――滑稽にも程がある。
「私には……アリス様の弟子を名乗る資格など……!」
血を吐くような激しさで、エルドリエは叫んだ。
「そなたは……そなたは、良くやりました!」
呆然としながらも、アリスはどうにかそれだけを口にした。
一体、エルドリエに何が起きたのか、推測することもできなかった。前線に多少の混乱はあったようだが、さしたる被害もなく敵を打ち破っているではないか。
「私にも、守備軍にも、そして人界の民たちにもそなたは必要な者です。何故そのように、己を責めるのです」
最大限穏やかな声でそう言い聞かせたが、エルドリエの眼光の昏さは薄れることはなかった。返り血が点々と跳ねる頬を震わせ、騎士は聞き取りにくい声で呟いた。
「必要……。それは……戦力として、ですか……それとも…………」
言葉は、最後まで言い終えられることはなかった。
不意に空気を震わせた、異質な唸りが、アリスとエルドリエの聴覚を同時に刺激した。
「ふるるるる……」
狼のような、犬のような、湿った喉声。アリスは眼を見開き、峡谷の奥側を見やった。
地面が冷えて再び訪れた夜闇にまぎれるように、巨大な影がうっそりと立っていた。
人のかたちではない。奇妙な角度に折れ曲がった下肢、異様に細い腰周り、前傾する逞しい上体と、そこに乗る頭は――まさしく、狼のものだ。ダークテリトリーの亜人。オーガ族。
神速で右手を剣の柄に掛けたアリスは、しかしすぐに相手が丸腰であることに気付いた。それどころか――体の左半分は醜く焼け焦げ、薄く煙を上げている。熱線に灼かれ、重傷を負ったのだ。しかしなぜ、他の亜人のように撤退しなかったのか。
いつの間にか、周囲からは衛士たちや騎士の姿は消えている。エルドリエと話しているあいだに、治療のために彼らも少し後方に引いたのだ。
オーガの挙動を鋭く警戒しながら、アリスは低く問うた。
「……そなた、見たところもはや瀕死の深手。その上丸腰で敵陣に打ち入るのは何ゆえか」
返ってきた言葉は、まったく予想外のものだった。
「……るる……おれ……は、オーガの長……フルグル…………」
名乗りとともに、突き出た口吻から長い舌が垂れ、ハァハァと激しい呼吸音が響く。
アリスは小さく息を飲んだ。オーガの長、つまり暗黒界十候の一人であり、敵軍の最高位の将ではないか。となれば、やはり最後の力で斬り込みにきたのか。
しかし、オーガは更に意外な言葉を発した。
「おれ……見た。あの……光の術……放ったの、お前。あの力……その姿……お前、"光の巫女"。るるる……お前、連れていけば……戦争、終わる。草原、帰れる……」
何を――言っているのか。
光の巫女? 戦争が終わる?
まったく意味は分からなかったが、しかし、自分が今何かとてつもなく重要な情報に触れているのだということをアリスは直感した。もっと訊き出さねば。一体、巫女、つまり自分を、どこに"連れていく"というのか。
だが、その瞬間。
「…………おのれ……獣が何を言うかッ!!」
絶叫したのはエルドリエだった。右手の血刀を振りかぶり、一直線にオーガの長に斬りかかる。
だが、その刃は、振り下ろされることはなかった。
凄まじい速度で、ほとんど瞬間移動のように飛び出したアリスが、左手の二本の指だけでぴたりとエルドリエの全力の斬撃を押さえたのだ。
「し……師よ、何故!?」
悲鳴にも似た声を漏らす弟子に、言葉を掛ける余裕もなく、アリスは目の前のオーガに向かって更にもう一歩踏み出した。
間近で見ると、亜人の傷は深手というよりも既に致命傷だった。左腕から胸にかけてはほぼ炭化し、そちらの眼も白く濁っている。意識すらも、半ば混濁状態であることが察せられたが、アリスは尚も問いを続けた。
「――いかにも、私こそが"光の巫女"。さあ、私を連れていくのは何処なのです。私を求めるのは誰なのですか」
「……るるるる……」
オーガの、無事なほうの眼が鈍く光った。長い舌から、血の混じった唾液が垂れる。
「……皇帝……ベクタ、言った。欲しいの、光の巫女だけ。巫女をつかまえ、届けた者の願い、何でも聞く。オーガ……草原帰る……馬飼って……鳥撃って……暮らす…………」
皇帝――ベクタ!!
伝説の暗黒神! そんなものが、ダークテリトリーに降臨したというのか。その神が、この戦を、そして"光の巫女"を欲しているのか。
アリスは、得た情報をしっかりと記憶しながらも、目の前の大きな亜人に憐れのこもった視線を向けた。
この、狼の頭を持つ戦士からは、ゴブリンが放つような生臭い欲望の匂いはまるで漂ってこない。ただ、命ぜられるままに戦場に参じ、命ぜられるままに弓を引き絞り――しかし、それを放つことなく部族の者ほとんどが死に絶えた。
「私を……恨まないのですか。そなたの民を皆殺しにしたのは、この私です」
アリスは、無為と知りながらそう言わずにいられなかった。
オーガの答えは、至極単純であり、それゆえに真理を含んでいた。
「強いもの……強さと同じだけ、背負う。おれも……長の役目、背負っている。だから……お前、捕まえて、連れて……いく…………」
ぐるるるるっ!!
突然、オーガの口から凶暴な咆哮がほとばしった。
逞しい右腕が、凄まじい迅さでアリスに向かって伸びた。
チン。
短く響いたのは、金木犀の剣の鍔鳴りだった。アリスが、オーガの数倍の速度で抜剣し、一閃ののち鞘に収めたのだ。
ぴたりと亜人の巨躯が停まった。
アリスが一歩退くと同時に、ゆっくりとオーガはその身を横たえ、地に沈んだ。逞しい胸に、薄く一直線の傷痕が浮かんだが、あまりの滑らかさゆえか一滴の血も零れなかった。
音も無くまぶたを閉じた、狼頭の戦士のむくろに、アリスは右手をかざした。ふわりと放散されるささやかな神聖力を受け止め、幾つかの風素を生み出す。
「せめてその魂を、草原に飛ばしなさい……」
緑色の光は、一陣のつむじ風となって峡谷の空へと舞い上がっていった。
御座車の床にひざまずき、限界まで平伏しながら、ディーは己を見下ろす皇帝の視線に心底恐怖した。
怒りに、ではない。
氷色の瞳は、ひたすら無感情に、ディーの価値と能力のみを計ろうとしている。己が無能、無用の者であると判断されたとき、はたして皇帝がどのような処分――罰ではなく――を下すのか、それを考えただけで骨の髄まで震えがきた。
やがて、低く滑らかな声が短く問うた。
「ふむ。つまり、お前の策が失敗したのは、敵が先んじて空間……暗黒力を吸収・消費し尽くしたから、というわけだな?」
「は……はっ!」
ディーは額を足元に擦り付けるようにして答えた。
「まさにその通りであります、陛下! 最高司祭無き敵軍に、それほどの術者が残っているという情報は入っておりませなんだゆえ……」
「暗黒力を補充するすべはないのか?」
必死の言い訳には耳も貸さず、皇帝は対応策のみを求めた。しかし、それに対しても、ディーは首を横に振るしかなかった。
「お……おそれながら……敵整合騎士を殲滅し得るほどの高密度暗黒力の補充には、肥沃な地勢、横溢な陽光がともに必要となり……あるいは、オブシディア城の宝物庫になら暗黒力に転用可能な輝石のたぐいが秘蔵されておりましょうが、回収に向かうにも数日の時間が……」
「なるほど」
皇帝は軽く頷くと、鋭利な相貌を西の峡谷へと向けた。
「……しかし、見たところ、この地には草木もなく、またすでに日も沈んでいるようだが。ならば、お前は何を力の源として大規模術式を実行しようとしたのだ?」
ディーは恐怖のあまり、暗黒術体系の開祖たる古神ベクタが、ごく基本的な理屈について問うてくる違和感を意識することはなかった。己の保身のみを懸命に追う女術師は、沈黙を畏れるようにひたすら口を動かした。
「はっ、それは、何と言ってもいくさ場に御座りますゆえ……亜人ども、また敵兵どのも流した血と尽きた命が暗黒力となって大気を満たしておりました」
「ふ……む」
皇帝が玉座から立ち上がる気配がしたが、ディーは顔を上げられなかった。
こつ、こつ、と黒革の長靴が近づいてくる。内臓が絞られるような恐慌。
凍りつくディーのすぐ左脇で立ち止まった皇帝は、毛皮マントの裾を夜風になびかせながら、小さく呟いた。
「血と……命か」
「"光の巫女"……?」
干した果物と木の実を刻んで混ぜた堅焼きパンを大きくかじり取った騎士長ベルクーリは、逞しい顎を動かしながら首を捻った。
いっときの停戦状態を利用して、守備軍の兵たちには補給部隊から大急ぎで戦場食が配布された。負傷者の治療はあらかた終了し、超高位術者でもある整合騎士の活躍もあって、瀕死だった者ですらもすでに起き上がってスープをかき込んでいる。しかし無論、死んだものたちは戻ってこない。千名で構成されていた第一陣のうち、百五十近い衛士と、一人の下位騎士が命を落としていた。
アリスは、小さくちぎったパンを口に運びながら、正面に腰を下ろす騎士長に頷きかけた。
「はい。そのような名称、これまでどんな歴史書にも見出したことはありませんが、しかし敵の総司令官がそれを強く求めているのは確かと思われます」
「司令官……闇の神ベクタ、か」
唸るベルクーリの手中のグラスに冷えたシラル水を注いでから、副長ファナティオが言葉を発した。
「とても信じられません……神の復活、などと……」
「まぁ、な。しかし……得心のゆく部分もある。敵本陣を覆う異質な心意を、お前も感じておらぬわけではあるまい」
「は……確かに、吸い込まれるような冷気を……感じる気も致しますが……」
「何せ、世界が創られて以来はじめて大門が崩れたのだ。もう何が起きても不思議ではない、と考えるべきかもしれん。だがな……嬢ちゃんよ」
勁い眼光がアリスを正面からとらえる。
「ダークテリトリーに暗黒神ベクタが降臨し、そ奴が"光の巫女"を求めており……さらにその巫女が、嬢ちゃんのことだと仮定するとして、それが今の戦況にどう影響する?」
そう。
結局はそういうことになる。ベクタは巫女を手に入れれば満足するのだとしても、残る闇の種族らは、人界を喰らい尽くすまでは決して止まるまい。この峡谷を何が何でも死守せねばならないという状況に変わりはない。
しかし、アリスには、もうひとつだけ脳裏に染み付いて離れない単語があった。
"世界の果ての祭壇(ワールドエンド・オールター)"。
そこに辿りつけば、半年前のカセドラルでの戦いの最後で、キリトが会話をしていた謎の"外の神々"に呼びかけられるはずだ。
今までは、そこに向かいたくとも、大門の防衛を放棄するわけには絶対に行かないという事情があった。
しかし――追ってくるなら。
光の巫女を求めるベクタとその軍が、山脈から出たアリス一人を追いかけてくるならば。
むしろ、敵軍を人界から引きはなし、更に守備軍の陣容を整える時間を稼げるのではないか――。
あまりにもあやふやな"祭壇"の話は伏せたまま、アリスは毅然とした口調で、守備軍最高指揮官に告げた。
「私が単身、敵陣を破って、ダークテリトリーの辺境へと向かいます。敵の首魁と、少なからぬ手勢は私を追ってくるはず。充分な距離を取って分断したところで、残る敵軍を逆撃、殲滅して頂きたい」
皇帝ベクタは、何の感情も交えぬ乾いた声で言った。
「ディー・アイ・エル。三千も使えば足りるか?」
「……は、は?」
言葉の意味がわからず、ディーはついに顔を持ち上げた。皇帝の横顔は、いっそ穏やかとすら思えるほどに滑らかで、ただその眼だけが、ぞっとするような何かを湛えて眼下の軍勢を睥睨していた。
「敵整合騎士を排除する術式を再度行使するための暗黒力として――」
続いた言葉に、さしもの冷酷なる智将も、愕然と両眼を見開いた。
「あのオーク予備兵力の命を三千も消費すれば足りるか、と聞いている」
両脚から這い登る冷気。深甚なる恐怖。
それらは、背筋に染みとおる過程で――あまりにも甘美な、皇帝への帰依と陶酔へと変わった。
「……充分でございます」
ディーは、意識せぬまま皇帝のブーツにすがり、額を押し付けて囁いた。
「ええ、充分にござりますとも陛下。ご覧に入れてさしあげますわ……我が暗黒術師ギルド史上最大最強、この世の地獄の顕現たる奇跡の術式を……」
人界、暗黒界問わず、アンダーワールドに住まう者の名前は、言語と直結する意味を持たない、"音の羅列"である。
これは、最初の人工フラクトライトを育てたラーススタッフ、"原初の四人"が、名前というものについて深く考えることなく、彼らの認識するファンタジー的なカタカナ名を"子"や"孫"たちに与えたことに端を発する。
原初の四人が死去(ログアウト)したあと、フラクトライトたちは独力で子供を生み、育てていくこととなった。そこで彼らを戸惑わせたのが、確立されぬままの命名法だった。
やむなく、初期の親たちは自分と似たような、意味を持たない音の組み合わせを子に与えていた。しかし時代が下り、世代交代が進むなか、いつしか名付けにも法則が生まれ、それはアンダーワールド独自の"命名術"というようなものにまで進化することとなった。
つまり、アからンまでの音と、濁音、半濁音すべてに意味を与え、その組み合わせによって子供の未来に願いを込める――というものだ。
例を挙げれば、ア行の音は真摯さ。カ行の音は快活さ。サ行は俊敏さ。タ行は、元気で丈夫。ナ行は包容力……等々。よって、"ユージオ"は、優しく、仕事が早く、真面目であるように、という意味になる。"ティーゼ"は、元気で面倒見がよく、武術に才があることを願ってつけられた名前だ。命名術はダークテリトリー五族でも共通のもので――あまりにも繁殖力が強すぎるゴブリン族は、簡便に話し言葉を流用することも多いが――、たとえば"シグロシグ"は、敏捷、勇猛、精悍、また敏捷勇猛たるべし、という欲張りな名前である。
さて――。
亜人五族を率いる五人の将、最後の生き残りであるところのオーク族の長。
彼は、その名を、リルピリンと言った。
リルピリンは、かの暗黒将軍シャスターをして、ディー、コソギと並んで人界との和平を阻む最大の障害であると言わしめたほどの、人族への強烈な敵意の持ち主として知られている。
しかし、それは決して生来の性質ではなかった。
彼は、オークの有力豪族の子として生を受けたとき、種族の歴史上もっとも見目麗しい赤子であると賞された。与えられた名前は、美しさを表すラ行音を三つも含んだ、オークとしては稀有なものだった。
リルピリンは、両親の願いどおり、容姿も、そして心根も美しい若者としてまっすぐ育った。武才にも恵まれ、次代の長として誰からも期待され、そしてある日、先の十候に付き従って、初めてオーク領である南東の湖沼地帯を出て帝城オブシディアに登った。
きらびやかな鎧と剣で身を飾り、誇らしく背を反らして城下町へと入った彼が目にしたのは――ほっそりとした体、艶やかな髪、そしてくっきりと麗しい目鼻立ちを持つ"人族たち"だった。
リルピリンは、天地が砕けるような衝撃とともに知った。自分の美しさは、あくまで、『オークとしては』という一句が先に付くものであること。そして、オークは、暗黒界五族のなかでもっとも醜い種として嘲笑されていることを。
でっぷりと丸い腹、短い手足、巨大で平らな鼻、小さく潰れた眼、垂れ下がった耳。そのような造作を持つオークにあって、リルピリンが『美しい』と称えられたのは、取りも直さず、顔立ちがかすかに人族に近いから、という理由だったのだ。
それを知ったとき、リルピリンの魂は崩壊寸前にまで追い込まれた。精神を保つため、彼はひとつの激烈な感情にすがるしかなかった。つまり、敵意だ。いつか必ず人族を打ち滅ぼし、全員を奴隷化したあげく、二度とオークを醜いと嗤えないように一人残らず目を潰してやる、という凄まじい決意を秘めたままリルピリンはオークの長となった。
だから、彼は決して、先天的な残虐性を持っているわけではない。それは巨大な劣等感の裏返しというだけであり、一族の者に対しては、変わらず慈悲深き名君だった。
「そ……そではあんまりだ!!」
皇帝の命令が届いたとき、リルピリンは思わず叫んだ。
オーク軍はすでに、先陣の補助兵力として一千名を出し、悉く失っている。自分の指揮の届かないところで、ゴブリンやジャイアントどもに命ぜられるまま戦い、死んでいった彼らのことを考えるだけでも胸がつぶれそうだというのに、新たに下された指示はあまりにも無慈悲なものだった。
暗黒術師の攻撃術の礎となるために、三千の人柱を拠出せよ。
もはや、戦士としての名誉も、それどころか知性あるものの尊厳すら欠片も認められない死に様だ。ただの肉――輜重部隊の竜車に積まれている毛長牛どもと何ら変わりないではないか。
「おで達は、戦うだめにここに来たんだ! お前らの失敗を命で償ってやるだめではない!」
甲高い声を振り絞り、リルピリンは抗弁した。
しかし、腕組みをして立つ暗黒術師総長ディーは、冷たい眼で見下ろしながら、傲然と言い放った。
「これは勅令である!!」
ぐ、とオークの長は喉を詰まらせた。
皇帝ベクタの力のほどは、あの暗黒将軍の叛乱劇のさいに嫌と言うほど目にしている。十候を遥か超える力を持つ、圧倒的な強者だ。
強者には従わねばならない。それ以外の選択肢は一切ない。
しかし――。しかし。
リルピリンは立ち尽くし、両拳をぶるぶる震わせた。
と、背後から、オークにしては低く滑らかな声がかけられた。
「長よ。皇帝の命には、しだがわねばなりませぬでしょう」
ハッ、と振り向くと、立っていたのはやや細めの体と、薄くながい耳を持つ女オークだった。リルピリンの遠縁にあたる豪族で、子供の頃にはよく一緒に遊んだ幼馴染だ。
穏やかな笑みを口元に滲ませ、彼女は続けた。
「私と、我が隊三千名、喜んで命を捧げまする。皇帝のだめ……そして、一族のだめに」
「…………」
リルピリンは言葉を失い、ただ長い牙を砕けそうなほどに噛み合わせることしかできなかった。女オークは一歩前に出ると、密やかな声で囁いた。
「リル。私は信じでいます。人だけではなく、死んだオークの魂も神界に召されるのだと。いつか……まだ、そこで会いましょう」
お前までもが命を捧げる必要はない、そう言いたかった。しかし、人柱となる三千の兵に運命を受け入れさせるには、彼らがある意味では長よりも崇拝している姫君であるところの彼女が共に逝くことが必要であるのも確かだった。
リルピリンは、強く相手の手を握り、呻くように言った。
「すまん……許しでくれ……すまない……」
そんな二人を厭わしそうに見下ろしながら、ディー・アイ・エルが、無慈悲に言い放った。
「五分以内に三千名を峡谷手前百メルに密集陣形で待機させよ。以上だ!」
身を翻し、去っていく人族の長を、オークの長は燃え上がりそうな視線で凝視した。なぜ、なぜオークだというだけでこんな仕打ちを受けなければならないのか、という叫びが胸中で渦巻いたが、答えはどこからも得られなかった。
整然とした縦列を組み、本陣を出て行進していく三千の兵たちは、いっそ誇らしげですらあった。だが、それを見送る七千の同族からは、すすり泣きと怨嗟の声が低く、深く響いた。
若き姫に率いられた三千のオークは、暗黒騎士団と拳闘士団の陣の中央を、旗指物を翻しながら抜けていき、峡谷の入り口から少し下がったところで方陣を組んだ。
その周囲を、黒い霧が湧くように、二千の暗黒術師たちが取り囲んだ。
開始された詠唱は、術式の呪わしさを映してか、ひどく耳障りな共鳴音を作り出し大気を震わせた。
「あ……ああ…………」
リルピリンは掠れた呻き声を放った。突如、愛する兵たちが、苦悶するように身を捩り、地に崩れたのだ。
のたうつ彼らの体から、白く点滅する光の粒のようなものが、間断なく吸い出されていく。それらは術師のもとへと集まると同時に黒く変色し、わだかまって、次第に奇怪な長虫のような姿へと変わっていく。
三千の兵と、ひとりの姫将軍の悲鳴が、鋭く、鮮やかにリルピリンの耳に響いた。
それに混じって、口々に叫ばれる、甲高い声もまた。
オーク万歳。オークに栄光あれ。
直後、兵たちの体が、立て続けに爆ぜ始めた。血と肉片をばら撒きながら、なおも大量の光を放出し、たちまち術師たちに奪われる。
いつしかリルピリンは両膝を突き、右拳を地に打ち付けていた。あふれ出した涙が、大きな鼻の両側を伝い、音を立てて砂に落ちた。
人め。
人め!
人どもめらが!!
怒りと怨みの絶叫が脳内にはじけるたびに、なぜか右眼が強く痛んだ。
時を遡ること十数分。
人界守備軍本陣では、二分された部隊が、再会を誓い合って握手や抱擁を繰り返していた。
整合騎士アリスの策を容れた騎士長ベルクーリが、もう一つの決断を付け加えたのだ。
それは、囮となって敵軍を引きつける"光の巫女"ことアリスに、部隊の五割を同行させる、というものだった。もちろんアリスは強く反対し、単独行を主張したが、騎士長は聞き入れなかった。
――囮が嬢ちゃん一人では、敵は大して追っ手を振り分けないだろう。充分な戦力が共に逃げてこそ、分断策も奏功するってもんだ。
そう言われれば、反論はできない。"光の巫女"などというあやふやな話ひとつを根拠に、自分にひとりに敵全軍を引き寄せる価値があると主張するのは強引にすぎるのも確かだからだ。
それに、アリスは、雨縁の背に自分だけでなくキリトをも載せていくつもりでいた。単身囮となりつつ、彼の身を守りつづけられるか、いくばくかの不安もあった。部隊が共に附いてきてくれるなら、その意味では心強い。
守備軍の二分割が決定されたあと、ベルクーリはさらに皆を驚かせた。
総指揮官たる騎士長自身も、囮部隊に加わるというのだ。
これには、居残り部隊の指揮官に命ぜられたファナティオとデュソルバートが大反対した。
「お前らはもう充分働いたじゃねえか」
諭すような口調で言うベルクーリに、ファナティオは眦を吊り上げて抗弁したものだ。
「私がお傍におらねば、着替えも畳めないような人が何を仰いますか!!」
これには、騎士や衛士たちの間から、大いに囃し立てる声が上がった。ベルクーリは苦笑し、ファナティオの耳元に顔を寄せて何か囁き――驚いたことに、副長は俯いて引き下がったのだった。
デュソルバートのほうは、緒戦で鋼矢が尽きてしまったという明快な事実を指摘され、こちらも已む無く受け入れた。現在、後方の街に補給隊員が仕入れに走っているが、一、二時間でどうなるものでもない。
進む部隊、留まる部隊、別れを惜しむどちらの顔も、等しく緊張と気遣いに満ちていた。実際、どちらがより危険なのかは定かでない。敵軍のどれくらいが囮部隊を追い、どれくらいが大門攻撃を続行するかは、神のみぞ――いや、敵総指揮官たる暗黒神ベクタのみが知っているのだ。
やがて、囮部隊を構成する五人の上位騎士とその飛竜、千二百の衛士、更に五十人の補給部隊の準備が整った。
補給隊の輜重段列には、四頭立ての高速馬車十台が仕立てられた。そのうち一つに、キリトの車椅子と、二人の少女練士たちも乗っているはずだ。
アリスは、彼女らが囮部隊に加わることに激しく逡巡した。しかし、ティーゼとロニエの決意は固かった。それに、一体何があったのか、上位騎士の一人であるレンリが命に代えても彼女たちを守ると誓ったのだ。
アリスは、正直なところ、騎士レンリをほとんど記憶に止めていなかった。だが、その幼い顔に満ちた決意と自信、そして両腰に装備された神器がまとう心意は本物だと思えた。
ベルクーリの"星咬"を先頭に、五騎の飛竜が助走を開始したとき、後方に残る部隊からは控えめな歓声が上がった。
アリスは、騎士長の左後方で雨縁の手綱を握りながら、さらに左に付くエルドリエにちらりと視線を送った。
常に饒舌な弟子が、出撃準備のあいだ中やけに寡黙だったことが少し気になった。しかし、何か言葉を掛けようとした寸前、星咬がふわりと離陸し、アリスも慌てて前を向くと雨縁の横腹を軽く蹴った。
「よし――峡谷を出ると同時に、竜の熱線を敵主力に一斉射! 向こうにはもう遠距離攻撃手段はほとんど無いはずだ、敵竜騎士にだけ気をつけろよ!」
ベルクーリの指示に、はいっ、と鋭く応える。
すぐ後ろからは、騎馬と徒歩で突進する衛士たちの足音が重く響く。彼らと輜重馬車が峡谷を出て、南つまり右方向に直角転進し、充分に距離を取るまでは整合騎士だけで戦場をかき回さねばならない。
狭く暗い峡谷の彼方に、たちまち無数の篝火が見えてくる。
やはり――多い。あれだけ倒したのに、敵本隊の規模はいまだ膨大だ。
とは言え、その大部分は暗黒騎士、それに拳闘士であるはず。どちらも近接戦闘に特化した部隊で、飛竜に騎乗した整合騎士に対する有効な攻撃方法は持たない。
いや。
あれは、何だ。
風切り音に混ざって届いてくる、低くうねるような、呪詛じみた唱和。
術式――多重詠唱!?
馬鹿な、この一帯にはもう、大規模攻撃術を行使できるほどの神聖力は残っていないはず!!
アリスは自分の直感を否定しようとした。
しかし同時に、すぐ前を飛ぶベルクーリが、「奴ら……何て真似を!!」と吐き捨てる声が聞こえた。
ああ。
なんと、
いう、
力か!!
暗黒術師総長ディー・アイ・エルは、両手を高く掲げながら、あまりの法悦に全身をわななかせた。
これほど濃密に飽和した空間暗黒力場を体感した術師は、史上ひとりたりとも存在するまい。
知性あるものの天命というのは、この世界で最も優先度の高い、純粋なる力の塊である。たとえそれが、卑しく醜いオークの命であろうとも。この密度を百年もののワインに喩えるならば、陽光や大地から供給される力などただの水だ。
そのうえ、先刻の"広域焼夷矢弾"で用いようとしたのは、あくまで戦闘で消費された命の残りカスである。しかし今は、三千もの命を、術式により直接暗黒力に変換しているのだ。
ディー以下二千名の術師たちが差し伸べる両手には、それぞれ黒いもやが凝集して出来上がったような、無数の足を持つ醜悪かつ巨大な長虫が何匹ものたくっている。これらは闇素因から生成された、いわば"天命喰らい"だ。剣も盾も、あらゆる物質では絶対に防げない。暗黒力の変換効率としては、火炎や凍結攻撃には劣るが、これほど豊富な供給源があれば話は別だ。
貴重な部下を千人も焼き殺してくれた、敵の"光の柱"への意趣返しとしてディーはこの術を選んだ。のた打ち回って死んでいくオーク兵の断末魔すら、彼女には甘美な交響曲でしかなかった。
「よぉし……"死詛蟲"術、発射用意!!」
高らかに叫んだディーの眼に――。
何をとち狂ったか、峡谷の奥から突撃してくる竜騎士どもと、騎兵、歩兵の群れが映りこんだ。
一瞬の驚きは、すぐに歓喜へと変わった。これで、醜い死に様を晒す敵軍の有様すらも、間近で鑑賞できるというものだ。
「焦るな!! 充分引き付けろ!! …………まだ……まだだ…………――今だ、放てぇぇぇッ!!」
ゾワアアアァァァァッ!!
怖気をふるうような唸りとともに、無数の長虫が、敵軍目指してまっすぐに飛びかかっていった。
まるで漆黒の壁のごとく峡谷を埋め尽くし、押し寄せてくる術式を視認して、一般民の衛士のみならず、上位整合騎士たちまでもが言葉を失い思考を凍らせた。
その、有り得ないほどの――恐らく、先にアリスが使った反射凝集光線術を上回る超々高優先度と、さらに術式の属性を瞬時に認識したがゆえのことだった。
闇素因系呪詛攻撃。
物理防御不可能な、直接天命損耗術。
空間力の変換効率が異常に低い呪詛術式を、なぜ敵がこれほど大規模、高密度に行使できたのか――しかも周囲の力場はほぼ枯渇しているのに――、という謎を看破できたのは、騎士長ベルクーリだけだった。
しかし彼とても、対応防御策を即座に指示することまではできなかった。
あらゆる攻撃術には、その源となった素因や、密度、範囲、速度、方向性など、多くの属性が存在する。
ゆえに防御するためには、それら属性のいずれかを相殺、あるいは逆利用する必要がある。火炎術なら凍素で打ち消す、追尾術なら囮を撒く、直進術なら己を高速回避させる、など、適切な対応を瞬時に選択実行できることが高位術者の条件であると言っていい。
だが、この場合だけは。
敵の攻撃が、あまりにも規格外だった。
闇素因術を相殺できるのは光素因のみ。しかし、光素もまた転換効率が低く、とてもあれだけの呪詛を昇華できるほどの量を生成はできない。ファナティオの記憶解放攻撃ならば間違いなく敵術式を撃ち抜けるが、天穿剣の光はあまりにも細すぎるし、そもそもこの場には居ない。
「回避!! 急上昇!!」
ベルクーリにしても、ただそう叫ぶことしかできなかった。
五匹の飛竜が、螺旋を描くように反転し、まっすぐ峡谷の上空を目指す。
ゾッ、ワァッ!!
闇色の奇蟲群も、おぞましい羽音とともに向きを転じる。
しかし。
「――いかん!!」
ベルクーリが叫んだ。
追ってくる蟲たちは、全体の半分にも満たない量だった。
残りはすべて、後方を駆けてくる衛士たちと、補給部隊目掛けて直進した。
「……っ!!」
鋭い呼吸音を漏らし、騎士アリスが飛竜を再び反転させた。下方を這い進む暗黒術の先頭めがけて突っ込んでいく。
シャッ!! と高らかな鞘鳴りとともに金木犀の剣が抜かれた。たちまち、刀身が山吹色の輝きを帯びる。
「嬢ちゃん!! 無理だ、その技では!!」
ベルクーリの叫びが上空から響いた。
そう――、一対多の戦闘に於いても、圧倒的なまでの威力を示す金木犀の剣の武装完全支配術だが、あくまでも物理金属属性なのだ。実体の薄い呪詛を斬ることはできない。
アリスにも、それはいやというほど理解できていた。
しかし、衛士たちが襲われるのをただ見ていることなどできなかった。
そのとき。
更に一頭の竜が、翼を畳み、流星のような勢いでアリスの雨縁を追い抜いた。
滝刳。
騎士エルドリエの竜だった。
師を追随して竜を上昇させる最中、エルドリエの脳裏には、ただひとつの言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。
守る。
師を、アリスを、剣を奉げ献身を誓った人を、守らなければ。
だが、同時に、まったく同じ音量で決意を嘲う声も聞こえた。
どうやって守るというのだ。お前ごとき力足らずが。あらゆる能力に於いてはるか劣り、そのくせ師の視線を、気持ちを求めてやまない愚か者が。
これまでの年月、エルドリエの剣力の源となっていたのは、ひとえにアリスに尽くさんという強烈な心意だった。それあってこそ彼は騎士団有数の力を得ることができたのだが――ゆえに、揺らいだときの反動もまた巨大だった。
自分には、師アリスを守る力も、その傍らに立つ資格もない。
そう思いつめた時点で、彼の力は、すでにほぼ喪われつつあったのだ。
すぐ眼前を飛翔するアリスの、金色の髪のきらめきを、エルドリエはただ追った。
かくなる上は、師とともに、同じ地に命を散らすのも――また良し。
そんな諦めとともに、反転するアリスを追随したエルドリエの視界に、地上を突進する衛士隊が捉えられた。
その後方。
土煙を上げて進む高速馬車。
一台の幌を貫いて、ひとつの、ささやかな青い光がちかちかと瞬いた。
脳裏に、不思議な声が聞こえた。
――あなたの決意に。
――守りたいという気持ちに。
――代価は必要ない、そうでしょう?
――愛は求めるものじゃない。ただ与え、与えつくして、なおも枯れることのないもの。そうでしょう……?
ああ……。
私は、何を、迷っていたのか。
力が足りないから。心を独占できないから。だから守れない。
なんてちっぽけな……。
アリス様は、人界すべてを救おうとしているというのに。
エルドリエは、右手で滝刳の手綱を強く鳴らし、叫んだ。
「行けッ!!」
主の心意を感じ取ったかのように、竜が翼を引きつけ、一気に加速した。たちまちアリスの竜を追い抜き、殺到する死の長虫の群れの直前に達する。
左手がひらめき、腰から白銀の鞭を抜いた。
神器"星霜鞭"は、かつて東方で神蛇と呼ばれた、巨大な蛇を源とする武器である。その記憶を解放することで、射程を五十メルに伸ばし、同時に七の目標を攻撃する。
今の状況では、そのような拡張性能は何の役にも立たない。
しかしエルドリエは、断固たる確信とともに、強く念じた。
蛇よ!!
古の神蛇よ!
貴様もくちなわの王ならば、あれらごとき長虫の群など――喰らい尽くしてみせろッ!!
「リリース・リコレクション!!」
高らかな一声。星霜鞭が、まばゆい銀の光を放った。
迸った光条は、幾百、千をも超える数となり、闇の虫群へと襲い掛かっていく。
いつしか光はすべて、輝く蛇へとその姿を変えていた。エルドリエの左手から放射状に放たれた蛇たちは、鋭い牙の煌くあぎとを大きく開け――死の長虫に喰らい付いた。
ゾワアッ!!
無数の震動音とともに、闇素の粒が舞い散った。衛士たちを襲おうとしていた一群と、上空の騎士に向かっていた一群が、すべて光の蛇を最優先の敵と認識したがごとく、瞬時に向きを変えた。
蛇たちが、たちまち無数の長虫に纏わりつかれる。闇の呪詛は、蛇の身体を覆い、さかのぼり、その源へと殺到していく。
エルドリエは、いまこの状況で唯一干渉可能な、敵術式の属性――。
"自動追尾属性"を逆利用し、己ひとりの身に、全威力を集中させたのだ。
ゾッ。
騎士の全身が、闇に呑まれた。
直前まで、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスの天命は、数値にして5600を少し超えていた。
その値が、瞬時に、マイナス500000へと変化した。
エルドリエの体が、胸のすぐ下で、爆発するように砕け、飛び散った。
「エルドリエ――――――!!!」
アリスは絶叫した。
四年の年月を共に過ごした、ただ一人の弟子が、肉体のなかば以上を失い竜の背から滑り落ちていく。
雨縁を急降下させたアリスは、身体を乗り出し、左手を限界まで伸ばして、エルドリエを掴み止めた。そのあまりの軽さに息が詰まったが、歯を食いしばり、胸に掻き抱いて竜を上昇させる。
主を気遣うように、滝刳もすぐ隣を追ってきた。併進する竜たちの上で、アリスはもう一度叫んだ。
「エルドリエ!! 眼を……眼を開けなさい!! 許しません、このようなところで……私を、一人にするなど!!」
胸から下を失い、蒼白に色を失ったエルドリエの瞼が、わずかに震えた。
うっすらと持ち上がった睫毛の下で、紫がかった瞳が、朧な光を湛えてアリスを見た。
「……師、よ……、ご無事で…………」
「ええ……、ええ、無事ですとも、そなたのお陰で!! 言ったでしょう、私にはそなたが必要なのです!!」
不意に視界が歪んだ。エルドリエの頬に、いくつもの水滴が散った。それが己の涙だと知ることもなく、アリスは弟子の体を強く抱いた。
耳元で響く、声ならぬ声。
「アリス様……あなたは、もっと、ずっと……多くの人々に、必要とされて……おります。私は……なんと小さかったのでしょうな……あなたを……独り占め、しようなどと……」
「そなたが求めるなら何でもあげます!! だから帰ってきなさい!! 私の弟子なのでしょう!!」
「もう、じゅうぶんに頂きました」
満ち足りたような囁きとともに、腕のなかのささやかな重みが、いっそう薄れ、遠ざかっていくのをアリスは感じた。
「エルドリエ!! エルドリエ――!!」
呼びかける声に、最後のつぶやきが、ぽつりと重なった。
「泣かない……で…………かあさ……ん…………」
そして、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス、またの名を二等爵士家嫡子エルドリエ・ウールスブルーグの魂は、永遠にアンダーワールドから去った。