無尽蔵に湧いて出るとすら思える平地ゴブリン族の波状攻撃に、デュソルバートは焦燥と消耗の色を深めていた。
無論、ゴブリンの兵卒如き何匹連続で相手にしようとも後れを取るものではない。事実彼の視界内には、斬られ、射抜かれ、灼かれた亡骸が山と積み上がっている。
しかし、広く横一線となって押し寄せる敵軍を、独りで同時に迎え撃つのは不可能だ。どうしても大部分は一般民の衛士たちに任さざるを得ない。
個々の練度と装備を比較すれば、ゴブリンよりも衛士のほうがかなり高いだろう。半年間の厳しい訓練によって身に彼らが身につけた"連続剣技"は、ゴブリンが遮二無二振るう蛮刀よりも確実に疾く、鋭い。だが、その実力差は、整合騎士とゴブリン兵の圧倒的乖離と比べればはるかに不確実なものだ。やはり足りない――敵兵が撒き散らす獣の如き殺気と、そして恐るべき多数というふたつの要素をひっくり返すには。
自分の身に備わった、常軌を逸して強大な力を百に分割し、衛士たちに分け与えたい――とデュソルバートは痛切に感じた。そのほうが、この戦場ではどれほど有効に機能するか。
しかし無論、そのような術式は存在しない。
貴重な衛士たちは、ある者は複数のゴブリンに飛びかかられ、ある者は疲労の極に達し、そしてある者は不運にも足を滑らせて、次々と命を落としていった。彼らの悲鳴が戦場に響くたびに、デュソルバートは自らの天命が激しく削られていくような気すらした。
これが、大規模複数戦闘。
これが、戦争というものか。
犠牲者零が当然であり前提条件ですらあった、これまでの闇の勢力との戦いとはまったく異なる。必然的に発生する死者の数を、冷徹に織り込んだうえで展開される醜悪な消耗戦。
この戦場には、誇りも、高潔さも、それどころか"闘い"すらも存在しない。
ここにあるのはただの"殺し合い"だ。
まだか。
まだ後方から部隊交代の命令は出ないのか。
開戦から何分が経過したのかもすでに分からなくなっていた。デュソルバートは闇雲に右手の長剣を斬り払い、少しでも間合いが開くや鋼矢をごっそり掴み出して乱れ撃った。いつしか冷静さも、判断力も失われ、彼は敵兵の一部が奇妙な行動を取り始めているのに気付かなかった。
平地ゴブリンの新族長シボリは、山ゴブリンの長コソギと較べてはるかに愚鈍で、凶暴で、そして残忍だった。
当初シボリは、敵軍を率いるという整合騎士なる存在について、眉唾もののお伽噺に出てくる悪魔くらいにしか認識していなかった。所詮は白イウム一匹、荒地で大型獣を狩るときのように囲んで潰せばそれで終わるとたかをくくっていたのだ。
しかしいざ蓋を開けてみれば、悪魔というだけあって実にタチが悪く、どれだけ手勢を突撃させてもさっぱり近寄れない。大爆発する火矢はもちろん、普通の矢も驚くほど正確かつ強烈に兵たちの脳天や心臓を貫いてくる。
さてどうしたものか。
しばらく考えたあげく、シボリが出した結論は至極単純かつ無慈悲なものだった。
つまり、悪魔の矢が尽きるまで待つことにしたのだ。
――とは言え、無為に突撃させられる兵たちもまた、当然のように『たまったものじゃない』と考えた。彼らの中には、シボリより知恵の回る者もそれなりに居て、抗命とはいかぬまでも出来るかぎりの工夫はすることにした。
斃れた仲間の死骸を両手で掲げ、自分は頭を縮めて、悪魔からつかず離れず矢を射掛けさせはじめたのである。
デュソルバートも、これが開戦直後であれば、そのような単純な策など即座に見抜いたはずだ。しかし、力尽きていく衛士たちの断末魔が彼の冷静さを、本人も気付かぬうちに削り取っていた。さらに夜戦であることも、ゴブリンらを利した。
――おかしい。敵が倒れるのが、やけに遅い。
とデュソルバートが気付いたときには、充分すぎるほど用意させたはずの鋼鉄矢が、あろうことか尽きつつあった。
「よーしよし、やっとこ矢ぁが切れやがったな」
シボリは両肩に担いだ蛮刀の峰で、ごりごり首筋を掻きながらほくそ笑んだ。
部族の兵が、前線に文字通り人垣となって骸を晒している光景など、彼の精神には一抹の圧迫も与えなかった。かつての酸鼻極まる"鉄血の時代"を潜り抜けた先祖たちが残した、"戦争への耐性"ゆえの強靭さだった。
兵は三分の一がとこやられたようだが、まだ二千以上残っている。後方には予備戦力も残っているし、白イウムどもの国を滅ぼしてたっぷりの肉と麦を手に入れれば、部族はいくらでも殖やせるのだ。
しかし広い領土を得るためには、それなりの手柄も立てなければならない。悪魔の首を二、三個取ればよかろう。
「うっしゃ、いくぞテメェら。あの悪魔を囲んで掴んで引き倒せ。首はこのシボリ様が落とす」
周囲を固める、いずれも屈強、粗暴な側近たちに顎で指示し、シボリはうっそりと歩を進めた。
「くっ……不覚……」
デュソルバートは低く呻いた。
ようやく、離れた暗がりでひょこひょこ動いていた敵兵が、死骸の案山子であることに気付いたのだ。
頭や心臓ではなく足元を狙ってそれらを操るゴブリンを仕留め、背後の大矢筒を探った手が、空しくなめし皮の底を擦った。
矢が無くては、熾焔弓もただの長弓と何ら変わらない。熱素と鋼素から生成することは可能だが、それは充分な間合いのある、しかも一対一の闘いでのみ有効な技だ。そもそもこの戦場では、余剰な空間神聖力はほぼすべてが上空の整合騎士アリスに吸収されて、大気はからからに渇いているはずなのだ。
歯噛みしながら熾焔弓の弦を左肩に引っ掛け、デュソルバートは再び腰から剣を抜いた。
まさにその時、前方の薄闇から、足音も重苦しく急接近してくる一際逞しい一団が見えた。
これまで相手にしてきた雑兵とは明らかに出で立ちが異なる。胸から腰を、分厚い板金を連ねた鎧で覆い、恐ろしく長く太い上肢は鋲を打った革帯が固く巻かれている。握っているのは、野牛でもまるごと裁けそうな肉厚の大鉈。
その、隊長格と思しき七匹の後ろに、さらに巨躯の――ほとんどオーガにも近い体格を持つ一匹が控えているのをデュソルバートは認めた。
鋳物ではなく鍛鉄の鎧や、両手の大段平、頭に揺れる極彩色の飾り羽を見るまでもなく、それがこの一軍の指揮官であることは即座に知れた。
突き出た額と、ひしゃげた鼻梁の奥に赤く輝くゴブリンの長の両眼と、デュソルバートの鋼色の双眸が見合わされた瞬間、周囲の空間がぎしりと密度を増した。絶え間なく撃ち合わされていた剣と蛮刀が、徐々にその音を間遠にしていき、やがて途絶えた。
衛士たちも、ゴブリンたちも無言で間合いを取り、固唾を呑んで双方の将の対峙を見守った。
デュソルバートは、駆け寄ってこようとする数名の衛士らを左手で制した。右手の剣を油断なく構えながら、低く錆びた、しかしよく通る声で問う。
「貴様が暗黒界十候の一……ゴブリンの長か」
「おうよ」
巨躯の二丁段平が、ざくっと片足を鳴らして立ち止まり、黄色い牙を剥き出して応えた。
「平地ゴブリン族長、シボリ様だ」
デュソルバートは、荒い息を懸命に静めようとしながら、敵将を真正面から睨み付けた。
こいつだ……こいつを倒せば、敵軍はいっときにせよ瓦解する。その機を逃さず戦線を押し込めば、先陣の役目は果たしおおせる。
たとえ、神器が使えなくとも。
たとえ十候を含む八対一でも、かくなるうえは必勝あるのみ。整合騎士は一騎当千――ここでその真なるを顕さずして如何せん!
「吾は整合騎士、デュソルバ……」
高らかに名乗りかけた声を、野卑な叫びが断ち切った。
「おおっと、獲物の名前なんざ興味ねえ! おめぇは肉だ、俺様が取る首級にくっついた邪魔っけな肉だ!! おら……てめぇら、かかれ!!」
ウ――――ラアアアアアッ!!
凶暴な鬨の声を唱和し、七匹の精鋭ゴブリンが一斉に襲い掛かってくるのを、デュソルバートはすうっと息を吸いながら見つめた。
剣士の誇りを持たぬ奴ばらならば、あのまま"戦争"をしていればよかったものを――このような"決闘"の真似事をしようなどと、
「笑止!!」
あらゆる整合騎士は、鞭使い、槍使い、そして弓使いである以前に剣士である。
デュソルバートが右手の長剣を大上段に構え、一気に振り下ろすその挙動を、しかと視認できた者はその場には一人も居なかった。
仄白い光芒を引く無音の斬撃が完了した数瞬あとに、ぴきん、と微かな音が響き、先頭のゴブリンが頭上に掲げていた蛮刀が真っ二つに分断された。
ぶしゃっ!!
直後、そのゴブリンの背中に赤い筋が出現し、そこから大量の鮮血が迸った。
一匹目が倒れるより、いや己の死に気付くよりも疾く、デュソルバートは次撃を繰り出した。
ファナティオや、かつて戦った反逆者たちが操ったような連続剣技ではない。あくまで伝統的な、構え・斬撃・構えを繰り返す古い流派だ。しかしその技は、無限にも等しい年月の間に磨かれ、練られ、神速の域にまで達していた。これに追随できるのは、一握りの暗黒騎士だけだろう。
事実、ほとんど同時に左側から斬りかかったはずの二匹目も、その獲物をようやく振り下ろしはじめたあたりで板金鎧ごと心臓を断ち割られ絶命した。
圧倒的、としか言えない実力差だ。
しかし、精鋭ゴブリンたちは臆するということを知らなかった。長シボリもまた彼らにとっては恐るべき上位者であり、その命令に抗うという選択肢は存在しないのである。
同族が撒き散らす血煙を浴びながら、デュソルバートの真横に回りこんだ二匹が左右から同時に襲い掛かった。
しかし、歴戦の騎士はいささかも慌てることなく、まず左のゴブリンを真下から一直線に斬り上げ、弦月の弧をなぞるような軌道で滑らかに背後へと撃ち降ろした。右の敵は、逆に額から腹までをすぱっと裂かれる。刹那の一挙動で前後の敵を両断する、まさに神業だ。
残り三、いや将を入れて四。
同時に来るか、それとも連続か。
赤黒い血飛沫を宙に引きながら、デュソルバートは次の構えに入った。
視界左、五匹目が愚直に斬りかかってくる。他方向に刃の光は無い。
「ぬん!」
短い気合とともに、大きく引いた剣を袈裟懸けに払い下ろす。
銀光の弧を描き、剣尖が敵の左肩へ――。
そこで、デュソルバートは信じがたいものを見た。
彼の斬撃とまったく同時に、敵ゴブリンの右肩ごしに出現した蛮刀が、まっすぐ振り下ろされてくる!
その刃は、いまだ息のある仲間の肩から胸を断ち割りつつ、近接するデュソルバートの首筋へと。
回避も、受けも不可能。
咄嗟に判断し、掲げた左腕に、がつっと分厚い大鉈が食い込んだ。
痺れるような衝撃。手甲が砕け、肉が裂かれ、刃が骨にまでも届く。火花のような激痛。
「く……おおッ!!」
驚愕を気合で塗りつぶし、デュソルバートは強引に敵刃を左へ受け流した。ごっき、と鈍い音が響き、左腕の骨が完全に砕かれたことを告げた。
たかが――片腕!!
全精神力を振り絞って、斬撃途中の剣を止めたデュソルバートは、それをそのまままっすぐ突き込んだ。捨石となった五匹目の身体を貫通した剣が、その向こうで仲間ごとデュソルバートを攻撃した六匹目の身体を捉えた。
しかし、手応えが浅い。
早く剣を抜き、距離を取り、次撃の構えに繋げねば。
いつしか額に汗を浮かべながら、デュソルバートは一気に剣を引き戻した。
絶息し、ぐらりと倒れるゴブリンの体の向こうに見えたのは――。
武器を捨て、地を這うように両腕を広げて飛びかかってくる、残る二匹の姿だった。
そして、そのような、まるで土下座するがごとき体勢にある敵を攻撃し得る型は、身につけた流派には存在しなかった。
一瞬の戸惑いは、充分すぎるほど致命的だった。
がっ、がしっ! と両脚が同時に敵に抱え込まれた。凄まじい膂力に、一秒と踏み止まれずデュソルバートは地に引き倒された。
首をもたげ、見開いた両眼の先に、これ以上はないほどの残忍な喜悦を浮かべ、両手の大段平を振りかざし飛びかかってくる敵将シボリの巨体が見えた。
まさか――こんな――ところで。
整合騎士が。このデュソルバートが。有り得ない――。
"有り得ない"。
その思考が、この世界に生きる者にとってとてつもなく危険なものであることを彼が知りようはずもなかった。瞬時に凍りついた意識が、デュソルバートの動きを完全に封じた。
金縛り状態に陥り、ただただ迫り来る死の刃を見つめることしかできない騎士の耳に――。
響いた、雄々しい叫び。
「騎士どのぉぉぉぉっ!!」
敵将に向って右手から突っ込んでいくのは、あの偉躯の衛士長だった。名前すらまだ聞いていない若者は、両手に握った大剣を振りかざし、渾身の、正統的な、それゆえにあからさまな大技を放とうとした。
対して、シボリは小五月蝿そうな渋面を作り、無造作に左手の段平を斬り払った。
ガギン!!
鈍く、けたたましい金属音が響いた。
シボリとほぼ同等の体格を持つ衛士長が、まるで紙人形のように吹き飛ばされ、地面に激突し、二転、三転した。技術、速度、装備の差をいとも容易く覆す、圧倒的な膂力だ。
赤くく光る獣の眼が、すうっと細められた。残忍な喜悦を振りまきながら、空中でひょいっと段平を逆手に持ち替え、いまだ立てない衛士長に止めを刺そうと――。
だめだ。
これ以上の犠牲は、
容認できない!!
その一瞬の思考が、デュソルバートの硬直した魂を、灼けた鉄棒のようにまっすぐ貫いた。
両足を拘束するゴブリンを振りほどき、立ち上がり、移動する時間はもうない。右手の剣を投げつける、いやそれも結果を数秒遅らせるだけだ。
どうすれば、と考えるよりも速く、右手と左手がほとんど自動的に閃き――彼は、百年の生ではじめて行うことを、これまで考えすらもしなかったことをした。
砕けた左手で水平に構えた熾焔弓に、右手の剣をつがえて、強く引き絞ったのだ。
まるで、大地に繋がれた縄を引くような、凄まじい手ごたえ。意識を根こそぎ吹き消すほどの激痛。
しかしデュソルバートは、割れ砕けよと奥歯を食いしばり、一気に発射態勢を取ると、叫んだ。
「焔よ!!!ッ」
ゴアアアッ!!
吹き上がった火柱の凄まじさは、かつて発動した全ての記憶解放術をはるかに凌駕していた。
当然だろう、つがえられた長剣は、神器と呼ばれてもおかしくない古の銘品なのだ。量産される鋼矢とは、けた違いの優先度を持つ。その内包する神聖力を、すべて火焔へと変えたのである。
炎熱に耐性のあるはずの、精銅の全身鎧がたちまち赤熱し、まばゆく輝いた。
脚に取り付く二匹のゴブリンが、悲鳴を上げる暇も与えられずに口から炎を吹き出して燃え始めた。
いぶかしそうに振り向いたシボリが、両眼を丸く剥き出し、右手の段平を投げつけるべく振り上げた。
しかしそれより速く――。
「――灼き尽くせッ!!」
ボアウッ、という轟音とともに、炎と化した長剣の鍔が左右に伸び、翼のように羽ばたいた。
撃ち出された巨大な火焔は、まるで熾焔弓のかつての姿――南方の火山に棲んでいたという不死鳥が甦ったかの如く、両翼を広げ、尾をたなびかせて、一直線にゴブリンの将を呑み込んだ。
火焔を防ごうとしたのか、体の前で十字に組み合わされた段平が、しゅっと音を立てて蒸発した。
そして、その持ち主もまた、燃焼の過程を辿ることすらなく、一瞬で黒い炭と化し――それすらも白く溶け、光の粒となって舞い散った。
ようやく事態を理解し、後ろを向いて逃げ惑いはじめた残りの平地ゴブリン軍も、実に二百名以上が同じ運命を辿った。
中央のファナティオ、右翼のデュソルバートの苦闘。
それにエルドリエの指揮する左翼を見舞った煙幕による混乱を、後方の第二部隊に控える守備軍総指揮官・騎士団長ベルクーリ・シンセシス・ワンは明瞭に察知していた。
しかし、彼は動かなかった。
動けない理由があったのだ。第一に、手塩にかけて育てた部下たちに絶対の信頼を置いていたということもあるし、第二には敵地上部隊の主力――暗黒騎士団と拳闘士団が動かないうちは、予備戦力を投入するわけにはいかないという事情もあった。
しかし、最も大きい第三の理由は、ダークテリトリーについて知悉する彼が懸念せざるを得ない、思わぬ方角からの奇襲の可能性だった。
つまり、飛行戦力である。
空中飛翔術式の存在しない――正確には、故最高司祭の秘匿した術式総覧(インデックス)にのみ記され、彼女の死とともに永遠に喪失した――この世界では、整合、暗黒双方の騎士団にごく少数存在する竜騎士は、言わば規格外の力だ。剣の届かぬ高空を飛翔し、術式や熱線で地上の兵を薙ぎ払う。
だが、貴重すぎるがゆえに、そう容易くは投入できない。敵より先に出撃させて、万が一地上からの術や弓矢で墜とされでもしたら、その瞬間から巨大な不利を背負うことになってしまう。
ゆえにベルクーリは、アリスの騎乗する"雨縁"以外の飛竜を最後方に温存させたし、敵暗黒騎士も同様にするだろうと確信していた。だから、彼が懸念した奇襲は、竜騎士によるものではない。
それ以外に、闇の軍勢には、彼らだけが持つ飛行兵力が存在するのだ。
"飛塑兵"、あるいは"ドローン"と呼ばれる、醜悪な有翼怪物である。暗黒術師によって粘土その他の多様な材料から生成され、知性は持たないが幾つかの簡単な命令だけを解する。つまり、飛べ、進め、殺せ、の言葉のみを。
実はドローンとまったく同じものを、最高司祭も作成・研究していたらしいという話をベルクーリは騎士アリスから聞いていた。しかし、さしもの最高司祭といえども、醜悪な外見をそのままに整合騎士団に導入するのはためらったと見える。ふさわしい姿への改変が間に合わぬうちに彼女が入寂してしまったのは、今となっては惜しいと言わざるを得ないが、無い物ねだりをしても仕方ない。
以上の理由によって、ベルクーリは、上空からのドローンの奇襲に備えておく必要があった。
そして飛竜が出せず、また修道士隊も衛士らの治癒に手一杯の状況では、高空の広範な防衛が可能なのは彼ひとりだった。
正確には、彼の持つ神器"時穿剣"のみが。
第二部隊の中央に仁王立ちになり、納鞘したままの愛剣を両手で地面に突いたベルクーリは、瞑目したままひたすらに意識を集中していた。
部下たる整合騎士、そして勇敢な衛士たちの苦しい戦いぶりは、間断なく彼の知覚に届いてくる。左翼の大混乱とゴブリン部隊の侵入も、手に取るように察知できる。
しかし、彼は一歩も動くわけにはいかない。
なぜなら既に発動しているのである。武装完全支配術、"未来を斬る"という時穿剣の強大な力を。
虚空に描き、保持している斬撃線は、その数実に――三百本以上。
東の大門が崩壊する直前、ベルクーリは独り騎竜・"星咬(ホシガミ)"にまたがり、大門のすぐ手前上空に、幅百メル・奥行二百メル・高さ百五十メルという巨大な"斬撃空間"を作り出しておいたのだ。気合の篭もった一閃を放つたびに、微細な上下動と後退を繰り返し、虚空にびっしりと密な網目を描いたのである。
それだけの数と広がりを持つ心意を、数十分も保持するのは、二百年以上を生きた不死人たるベルクーリにも初めてのことだった。肉体から意識を離し、ただひたすらに精神を集中してどうにか可能となる絶技だ。全軍の指揮をファナティオに任せたのは、ひとえにこのためなのだ。
早く――早く来い。
無為な焦りとは無縁の精神的境地に達している彼にして、ひたすらそう念じずにはいられなかった。自身の消耗はともかくとして、時穿剣の神聖力は半ば以上を消費してしまっている。一度記憶解放を解除し、同じことを繰り返すのは不可能だ。敵ドローンを確実に殲滅できねば――そしてドローンが、斬撃空間のさらに手前に浮遊する整合騎士アリスを襲えば、守備軍唯一の望みが潰える。
――早く。
この地に集った上位整合騎士七名のうち、もっとも自虐的な心理状態に陥っていたのは持ち場を放棄してしまったレンリ・シンセシス・フォーティナインだったが、彼とは別の意味で大きな脆弱性を秘めていたのが、レンリより遥か長い経験があるはずのエルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだった。
エルドリエは自他共に認める、第三位騎士アリスの崇拝者である。
その感情は、"宣死九剣"のダキラがファナティオに抱いていたような恋慕とはまた異なる。己の全てを捧げて仕えつつ、同時に庇護もしたいという、二律背反性が色濃く存在する。
整合騎士として覚醒したその直後から、アリスは騎士団史上最大の天才と謳われた。修道士や司祭らすらも軽く上回る神聖術行使権限に加え、これまでいかなる騎士とも共鳴することを拒んできた最古の神器、永劫不朽のふたつ名を持つ"金木犀の剣"の主に選ばれ、さらに騎士長ベルクーリの超絶技を若木のように吸収していく武才をも併せ持っていたのだ。
外見こそ幼い少女だったが、アリスは多くの騎士にとって、近寄りがたい北天の孤星のようなものだった。最高司祭アドミニストレータの後継者であるという噂も、それに拍車をかけた。
ゆえに、エルドリエも、五年もの長きに渡ってアリスに話しかけようともしなかった。忌避していた、とすら言っていい。最古騎士の一人であるデュソルバートを師に持ち、早い段階で上位騎士に任ぜられ、それを誇りとしてきた彼にとって、目覚めた直後から上位騎士であり騎士長その人の唯一の弟子であるアリスには、脅威を覚えこそすれ親しみなど抱けようはずもなかったからだ。
しかし――四年前。
幼い子供から、凄絶なまでの美少女へと花開き、ますます孤高の度合いを増していたアリスの、思いもよらぬ姿をエルドリエは偶然目撃してしまったのだ。
深夜。ひそかに剣の修行をしようと足を運んだ薔薇園の奥深く。
簡素な寝巻き姿のアリスが、ひとつの粗雑な墓標の前に身を投げ出し、すすり泣いていた。どう見ても手作りの、白木を剣で斜めに斬っただけの墓標に刻まれていた名は、数日前に天命の尽きた老飛竜――アリスの"雨縁"、そしてエルドリエの"滝刳"の母竜のものだった。
たかが竜。たかが下等な使役獣ではないか。何故墓などつくり、何故泣く必要があるのだ。
と、その時のエルドリエは、理性では考えた。
しかし、鼻で笑って身を翻そうとした彼は、自分の目頭に熱くこみ上げるものに気付き驚愕した。
地上を去った母を悼んで泣く姿――、それが何故、引き裂かんばかりに心を打ったのかは今でも分からない。ただエルドリエは、直感的に、この感情は絶対的に正しく貴いものであり、そして今見た光景こそがアリスの真実の姿なのだと悟った。
その日以降、天才騎士アリスは、エルドリエの眼にはそれまでとはまったく異なるように映りはじめた。天才という望まぬ運命に耐え、甘受し、しかし秘かに誰かの差し伸べる腕を求める、今にも風に折れそうな硝子の花。
守りたい。自分があの少女を苛む寒風を防ぎたい。
その思いは日々強くなるばかりだった。しかし、守るなどという発想はあまりにもおこがましいものであるのもまた事実だった。アリスの才能は、術においても剣においても、エルドリエを遥か凌駕するのだから。
唯一可能だったのは、その時点での師たるデュソルバートへの圧倒的な不敬となると分かりながら、新たな師としてアリスの指導を欲することだけだった。
以来、四年の月日を、エルドリエはただ二つのことを果たすためだけに生きてきた。師アリスを守り、また認められること。
ことに後者は、至難というよりない目標だった。天才騎士アリスの実力は、当時ですら騎士長ベルクーリとほとんど変わらないのではないかと思わせる高みに達しており、エルドリエは追いつくというより愛想を尽かされないために必死になって修練に励んだ。
同時に、日常的にアリスにあれこれ話しかけ、食事を共にし、いつしか身につけた気障かつ軽薄な話術で――と、彼自身は思っていたが、実際には整合騎士となる以前の"地"が戻っていたのだ――少しでも笑顔を引き出そうと努力した。
そのような日々は少しずつ実を結び、剣力も上昇し、またごく稀なことではあるが師の唇に微かな笑みが浮かびはじめたように思えてきた頃。
カセドラルを、あの大事件が襲った。
最初は、ただの通常業務だったはずなのだ。確かに、ふたりの学生が犯した"殺人"という大罪はエルドリエの長い記憶にも無いものだったが、広い人界には諍いと偶発的な不幸が重なって血が流れてしまう事件ならば稀には起こる。実際、北セントリアの学校で捕縛した罪人らは、最初はまるで危険にも凶悪にも見えなかった。むしろ単なる、しょげ返った一般民の若者でしかなかった。
だから、彼らを飛竜で連行し、カセドラルの地下牢に叩き込んだあと、師アリスがしばしの黙考のすえに『念のため、一晩だけ牢の出口を警備しておきなさい』とエルドリエに命じたときは少々驚いた。そして、薔薇園でのワイン片手の夜明かしもたまにはよかろうと任に就き、東の空が白みはじめた頃、ほんとうに罪人らが脱獄してきたときはもっと驚いた。
師の慧眼に感服し、その信頼に応えるべくエルドリエは彼らの前に立ちふさがり――あろうことか、見事なまでに敗れた。武器と言えば千切れた鎖しか持たない一般民相手に、しかも、"星霜鞭"の武装完全支配術まで用いながら。
いや、敗北は受け入れざるを得ない。あの二人は結局、デュソルバートや、ファナティオと宣死九剣、師アリスから騎士長ベルクーリの護りすら突破し、最終的に最高司祭アドミニストレータまでも斬ってのけたのだから。アリスも、あの名も知れぬ北の寒村の庵で、罪人の片割れを前に確かに言っていた。この人は、整合騎士を上回る最強の剣士なのだ、と。
己があの黒髪の若者に、剣力で明白に劣ることが口惜しいのではない。
そうではなく――自分ではなかったのだ、という事実が。
師アリスが自ら作り出した氷の箱庭から、彼女の心を解き放つ者は、自分ではなくあの若者だったのだ、という認識がエルドリエを激しく揺さぶった。
開戦前、師が、これまで一度として見せたことのない慈愛に満ちた微笑みとともに礼の言葉を口にしたとき、彼は感涙とともに決意したのだ。せめて、この戦いにおいて、四年にわたる指導がいかに大きく結実したか、それを師に伝えねば、と。
その強い心意は、エルドリエの実力を引き上げると同時に、追い込みもしていた。
仮に、彼の率いる左翼を襲った山ゴブリン軍が尋常な戦いを仕掛けていれば、エルドリエは右翼デュソルバートをも上回る獅子奮迅の働きを見せただろう。
しかし、実際にはゴブリンらは強烈な煙幕で彼と左翼部隊の視界を完全に奪い、足元を潜り抜けて後背を襲うという予想もしなかった作戦に出た。
ゴブリン如きにしてやられた、空から見守るアリスの目の前で醜態を晒した、という衝撃と焦りがエルドリエから冷静な判断力を奪った。彼は、鼻先も見えない濃密な煙のなかで闇雲に周囲を見回し、衛士らに指示を飛ばそうとした。しかし、どうにか思いついたのは、この状況で攻撃命令を出せば同士討ちになってしまう、ということくらいで、煙をどう除去していいのかまるで思いつかなかった。
藤色の巻き毛を振り乱し、血が滲むほど唇を噛み締めながら、エルドリエはただ立ち尽くした。
再び膝を抱えこんで自分だけの世界に戻ろうと、腰を落としかけた整合騎士レンリは、耳に届いた大勢の叫び声の予想外の近さに、ぴたりと動きを止めた。
まさか、これほど早く敵軍が戦列を突破してくるなどということは有り得ない。まだ、開戦からたかだか十分ほどしか経過していない。
気が高ぶっているせいだ、それで遠くの音が明瞭に聞こえるんだ、とレンリは思い込もうとした。
しかし、迫ってくる鬨の声が自分だけの錯覚ではないことを、同じ天幕に逃げ込んできた二人の少女たちの反応が教えた。
「うそ……、もうこんな後方まで!?」
赤毛の少女、シュトリーネンという姓らしい練士がさっと顔を上げると、素早く天幕の入り口に走った。
僅かに垂れ幕を持ち上げ、外を確認する。即座に、その幼さの残る顔が青ざめた。
「け……煙が……!」
掠れた叫びに、アラベル練士のほうも身体を強張らせる。
「えっ……ティーゼ、火も見えるの!?」
「う、ううん、ただ……変な色の煙だけが……。――いえ、待って、煙の中から……人が、沢山……」
垂れ幕の隙間から外を覗く赤毛の練士の言葉が、分厚い綿に吸い込まれるように、不意に止まった。
嫌な沈黙だった。
レンリは中腰のまま眉をしかめ、耳を澄ませた。
いつの間にか、鬨の声は遠く薄れている。しかし、その静けさの底を、何かが――。
ひたひた。
ひたひた、と。
突然、シュトリーネン練士が、からくり人形のようなぎこちない動きで、一歩、二歩と天幕の中に下がった。右手ががくがくと強く震えている。剣を抜こうとしているのだ、とレンリが気付くのとほぼ同時に。
ばさっ! と乱暴に垂れ幕が引き開けられた。
外はすでに夜闇に包まれて、わずかな篝火の光だけが薄赤くゆれている。それを背景に、のっそりと立つ人影。やや小柄で、妙に猫背、対して腕は異様に長く――握られているのは、ただ板金を切り出したかのような、無骨極まる刀。
入り口から吹き込む空気に混ざる、強烈な異臭がレンリの鼻を刺し。
シュトリーネン練士が、鞘をカタカタ鳴らしながら抜剣し。
アラベル練士が低く、鋭く叫んだのは、ほぼ同時だった。
「――ゴブリン!!」
その声に、しゅうしゅうと擦過音の混ざる、しわがれた囁きが答えた。
「おうおう……白イウムの、娘っこだぁ……おれの……おれの獲物だぁ……」
あまりにも明け透けな、生々しい欲望の響き。
上位整合騎士でありながら、レンリが肉眼で闇の種族を見るのはこれが初めてのことだった。果ての山脈まで飛んでいくための騎竜を与えられる前に、凍結処分されてしまったからだ。
ぜんぜん――ちがう。
レンリは、内心で呆然とそう呟いた。
下位騎士の時分に、古参騎士の講義や、書物類を通してダークテリトリーの亜人四種については知識を得ていた。しかし、まるでお伽話に出てくる悪戯妖精のように想像していたゴブリンと、今目の前に立つ人型の生物との間には、果てしない隔絶があった。
この世界に、これほどまでに濃密な殺気と欲望が存在したなんて。
人間を、壊して喰おうと本気で考える生き物がいるなんて――。
つま先まで完全に痺れ上り、動くことも出来ないレンリの目の前で、うぞり、とゴブリンが一歩前に進んだ。
シュトリーネン練士は、両手で握った長剣を、しっかりと中段に構えようと――したのだろうが、両膝が激しく震えるせいで切っ先が定まらない。小さくかちかちと聞こえるのは、歯が打ち合わされる音か。
「テ……ティー……」
アラベル練士が、細い声を喉から漏らした。右手で剣の柄を握ったものの、どうしても抜けない、というように背中を引き攣らせている。
そしてもう一つ、奇妙な音がレンリの耳に触れた。
ぎし、ぎし、と何かが軋むような。
ちらりと視線をだけを右に動かしたレンリが見たのは――。
すぐ隣の暗がりで、車椅子にぐったりと沈み込み、虚ろな表情で俯く黒髪の若者。その、二本の剣を抱く左手に、血管が浮き、関節が盛り上がり、恐ろしい力が込められていることを示している。
そう、まるで、剣を抜く右手が存在しないことを憤るかのように。
「君は……」
レンリは、音にならない声で囁いた。
君は、あの子たちを助けようというのか。立つことも、抜剣することも、それどころか喋ることさえできないのに。
ああ……。
そうか。
この若者、最高司祭を斃したという反逆者の強さというのは。たぶん、剣技でも、術力でも、神器でも、武装完全支配でもなく。
騎士、一般民の隔てなく皆が生まれながらに持ち、しかし容易く見失ってしまう、ささやかな力。
勇気。
レンリの右腕がかたく強張り、震え、ゆっくりと動き始めた。
ゴブリンが、シュトリーネン練士の頭上に、分厚い蛮刀をずいっと振り上げた。
指先が、右腰の神器"比翼"の片方に触れた。
刹那――。
シュバァッ!!
鋭く空気を斬る音。青白い閃光。それは低い位置から弧を描いて跳ね上がり、シュトリーネン練士の赤毛を掠めて右に曲がり、ゴブリンの立つ位置を通過して急激に角度を変え――まっすぐ伸ばされたレンリの、右手の二本の指のあいだにぴたりと挟まれた。
「……ぐ、ひ……?」
いぶかしむような、ゴブリンの唸り。
その、鼻と顎が垂れた顔面の中央に、斜めの赤い線が走った。
どっ。
まず落ちたのは、肘の上で綺麗に切断された、蛮刀を握った右腕だった。
次いで、ゴブリンの頭がずるりとずれて、上半分だけが蛮刀の上に湿った音をたてて転がった。
双投刃"比翼"は、くの字形をした、ごく薄い鋼の刃二枚が一対を成す神器である。
長さ六十センほどのその刃に、柄は存在しない。両端ともがごく鋭い切っ先となっており、その一方を指先で挟んで投擲する。高速回転しながら飛翔した刃は、鋭角な楕円軌道を描いて主のもとに戻り、それを再び二指で受けとめる。
つまり、通常の使用に際してすらも、剣とは比較にならないほどの集中力を必要とするのだ。少しでも精神を乱せば、戻ってきた刃を受けそこね、容易く手指を落とされる。
そのような武器を軽々と扱えるというだけで、レンリの技量の並々ならぬことは証明されていると言っていい。しかし本人にその自覚はまったく無い。武装完全支配術を発動できない、というたった一つの負い目が、彼の精神を強く萎縮させているからだ。
ゆえに、瞬時の神業でゴブリンを即死させたからと言って、レンリがすぐさま戦意を取り戻せたわけではなかった。
伸ばした右手の先で、りぃぃ……ん、と微かに刃鳴りする青鋼の冷たさを感じながら、レンリは左手で強く鎧の胸を押さえた。縮こまりすぎた心臓が、今にも圧力に耐えかねて破れそうだ。
「……騎士、さま」
一瞬の静寂を破ったのは、振り向いたシュトリーネン練士だった。その深紅色の瞳に浮かぶ涙は、巨大な恐怖の余韻か。
「騎士様……、ありがとう……ございます。助けて……くださったのですね」
囁かれた感謝の言葉に、レンリは思わず顔を背けた。やめてくれ、そんな眼で見ないでくれ。僕の勇気はいまの一投で枯れてしまったよ。――胸のうちでぽつりと呟く。
不意に、投刃の重みが増したような気がして、レンリは右手を下ろした。
今のゴブリンは、夜闇にまぎれて単独で飛び出してきた欲深者だったのだろう。敵本隊は、きちんと前線で迎撃されているはずだ。
半ば願うようにそう予想した、まさにその瞬間。
天幕の外、驚くほど近くで、新たなゴブリンの雄叫びと、人間の悲鳴が響いた。同時に剣戟の金属音。それらは瞬く間に数を増し、全方位から一気に押し寄せてくる。
大きく息を吸い、背筋を伸ばしたシュトリーネン練士が、レンリをまっすぐ見つめて言った。
「騎士様、ゴブリンの集団が、おそらく煙幕のようなものを使用して前線を突破、後方を襲っております! 補給部隊には非武装のものも多く居ります、彼らを守らねば!」
「し……集団……」
あんな奴らが――何十匹、何百匹、いや戦争なのだ、それ以上の規模でもおかしくない。
無理だ。僕にはできない。一匹のゴブリンですら、あれほど恐ろしかったのだ。軍勢の前になんか、絶対に立てない。
呼吸が浅くなる。脚から力が抜ける。
逃げ場所を探して泳いだ瞳が――。
再び、黒髪の若者が隻腕で抱える、二振りの長剣に吸い寄せられた。
いつの間にか、不思議な光景がそこに出現していた。
二振りの片方、精緻な薔薇の象嵌をほどこした白鞘に収められた剣が、薄闇のなかで、仄かに発光している。薄青い、しかしどこか暖かみのある微かな光が、まるで心臓のように――とくん、とくんと脈打つ。
溶ける。全身を包む冷気が、胸中に満ちる恐怖が、ゆるゆると溶かされていく。
先刻、若者が発散していたものが勇気なら――いま、この剣から溢れ、レンリの心に流れ込んでくるものは……。
「……君たちは、ここでこの人を守っていて」
自分の口から、しっかりとした声が流れるのをレンリは聴いた。
顔を上げると、シュトリーネン練士だけでなく、アラベル練士の眼にもいつしか涙が宿っていた。二人に向けて強く頷きかけ、レンリは具足を鳴らしながら、天幕の入り口に歩み寄り、垂れ布を大きく跳ね上げた。
即座に、視線が血塗れた光景を捉えた。
二十メルほど離れた物資天幕に寄りかかるように、一人の傷を負った衛士がかろうじて立ち、右手の小剣をどうにか構えようとしている。その目の前に二匹のゴブリンが迫り、我先にと蛮刀を振り上げる。
しゅっ、とレンリの右手が唸り、風切り音だけが飛んだ。ゴブリンが立つ位置で、一瞬ちかりと反射光が閃き、二匹の動きが止まる。
指先に無音で投刃が戻ってくるのと、二つの首が落ちるのは同時だった。しかしレンリはその結果を確かめることなく、すでに視線を左に向け、新たな目標に向けて左腰の鋼刃を放った。内側からくぐもった悲鳴の漏れる天幕の、頑丈な厚織布を引き裂こうとしていたゴブリンの背中から左肩にかけてがすぱっと裂けた。
今度は背後に気配。
砂利を踏みしだきながら急接近してくる足音に向けて、レンリは右手の刃を後ろ手に投じた。その後に振り向き、敵の顔面を断って戻ってきた武器を受ける。
僅か三秒で四匹のゴブリンを始末したレンリに、周囲の闇から粘つく視線が一斉に注がれた。
「騎士だ……」
「大将首だ!」
「殺せ! 殺せ!!」
軋るような唱和を浴びながら、レンリは敵をこの場所から引き離すべく、東へと走った。そちらには、確かにシュトリーネン練士の言ったとおり奇妙な灰緑色の煙がもうもうと立ち込め、その奥から更に無数のゴブリンたちが湧き出しつつある。
あの視界では、前線は大混乱だろう。主力衛士たちが態勢を立てなおし、ゴブリン部隊を追ってくるには最短でも五分ほどはかかるかもしれない。
その間、自分ひとりで敵を引きつけ、食い止めることができるだろうか。
いや――やるしかないんだ。ここで逃げたら、僕は間違いなく、永遠に失敗作だ。
なぜなら、ようやく分かったような気がするんだ。僕に欠けているもの。"比翼"と共鳴しながら同化を阻んだ、大きな欠落がなんなのか。
その思いを強く噛み締め、レンリは走った。
すぐに、整然と並ぶ天幕の列が切れ、前線とのあいだの空白地帯に達する。すぐ左に垂直に切り立つ崖の岩肌、前方には無数に沸いてくるゴブリンの主力、後方からは引き返して追いかけてくる先鋒部隊。
完全な被包囲状況に自ら飛び込んだレンリは、脚を止めると、二枚の薄刃を挟み持った両手を左右一杯に広げ、叫んだ。
「僕の名はレンリ!! 整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナイン!! この首が欲しければ――悲鳴すら上げられずに死ぬことを覚悟してかかって来い!!」
高らかな名乗りに応えたのは、無数の怒りと欲望の咆哮だった。
一斉に蛮刀を振り上げ、飛びかかってくるゴブリンの群れに向かって、レンリは双刃を同時に放った。
右の刃は左方向へ。左の刃は右へ。包囲突進する敵の最前列を、まるで舐めるようなゆるい円弧を描いて死の閃光が飛翔する。
ばらっ、ばららら……。
腕が、首が、立て続けに胴から離れ、こぼれ落ちた。
しかし一瞬前まで仲間だった残骸を蹴り飛ばし、わずかな逡巡も見せずに新たなゴブリンが迫ってくる。
レンリは、戻ってきた二枚の刃を、指で挟むのではなく、弧の内側に人差し指を引っ掛けるようにして受け止めた。勢いを殺さぬよう、指先で猛烈に回転させながら、一呼吸の間も置かずに再度投擲する。
まったく同じ光景が繰り返された。通常攻撃の威力だけを比較すれば、"熾焔弓"や"天穿剣"をも上回る凄まじい殺戮だ。"比翼"の刃は紙よりも薄く、それが超高速で回転しているため、生半な防具は無いも同然の切れ味を発揮するのだ。
連続同時投擲が、もう一度。
そしてさらにもう一度行われ、さしもの数を誇るゴブリンらも、仲間のあまりにも呆気ない死に様に怯んだか、やや突進の勢いが緩んだように思えた。
いける――。もう少しだけ持ちこたえれば、前線から衛士たちが追いついてきてくれる。
レンリは仄見えた希望とともに、五度目の投擲を行った。
――しかし。
耳に届いたのは、小枝を鉈で落とすようなそれまでの切断音ではなく。
カァン! キャリイイン!!
という、甲高い反射音だった。
大きく軌道をぶらせて戻ってきた二枚の刃を、レンリは一杯に伸ばした両手で危うく受け止めた。とても指先に引っ掛けるという芸当を見せる余裕はなく、この局面で初めて死の刃が静止した。
さっ、と視線を向けた先、谷の北側から、一匹のゴブリンがうっそりと姿を現した。
大きい。
いや、体格はさほどでもない。肉体年齢十五歳のレンリと較べても、目線の高さはさほど変わらない。
しかし――その全身を包む、鋼のような筋肉の盛り上がりと、何より放射される鍛えられた殺気は、他のゴブリンらとまるで異なるものだった。
「……お前が大将か」
レンリは低い声で問うた。
「いかにも、俺が山ゴブリン族長のコソギだよ、騎士の坊や」
鋭く吊り上がった黄色い瞳で、じろりと周囲を睥睨する。
「あぁあ、随分と殺してくれたなあ。何でこんな後ろに整合騎士が居残ってるのかねえ。まったくアテがはずれちまったよ」
言葉遣いすらも、他のゴブリンとはまったく違う。制御された意思と、知性の響き。
――関係ない、そんなもの。たった一度、たまたま跳ね返せたからって、そう何度も続くわけはない。
レンリはぐうっと両腕を後ろに引くと、短く叫んだ。
「なら……これでお前らの戦争は終わりだ!!」
シュバッ!!
全力、最速の投射だった。
右の刃は斜め上から、左の刃は地面から跳ね上がるように、正確にコソギの首を狙って飛んだ。だが。
カカァン!!
今度もまた、響いたのは高く澄んだ金属音だった。
敵将コソギは、右手に握った大鉈と、左手の小刀で、二枚の投刃を見事に防いだのだ。
なぜ!?
驚愕し、見開かれたレンリの眼が、コソギの携える武器の輝きをとらえた。
その形こそ無骨な代物だが、色が違う。あれは、他のゴブリンが持っているような粗雑な鋳造品ではない。精錬された鋼を、長い時間かけて鍛え抜いた、高優先度の業物だ。
視線に気付いたか、コソギは一歩距離を詰めながら、にやりと笑った。
「おうよ。ま、あくまで試作品だがね。暗黒騎士どもから製法を盗むために、そりゃあ血が流れたもんさ。だがな……それだけが防がれた理由じゃあないぞ、坊や」
「……舐めるなッ!!」
ふっ、と両手が霞むほどの速度で振り抜かれる。今度は、遥か上方へと舞った薄刃が、レンリと敵の視界から消え、大きな弧を描いて背中を襲う。これは弾けないはず――
「……!?」
確信は、即座に裏切られた。コソギという名のゴブリンは、あろうことか、両手の得物を背後に回し、見ることもなく超高速の刃を逸らしたのだ。
不規則に揺れながら戻ってきた刃を、レンリはわずかに受け止めそこね、左手の指先に浅い切り傷を負った。しかしその痛みなど、驚愕の前には存在せぬも同然だった。
「軽いんだよ、騎士坊や。それに軌道が素直すぎる」
コソギの短い台詞は、完璧なまでに"比翼"の弱点を言い当てていた。
投刃それぞれの重量は、神器と呼ばれる武器としては、有り得ないほどに軽い。鋭利さと高速回転に性能が突出しているため仕方ないことではあるのだが、それゆえに、速度に反応でき充分な優先度の装備を持つ敵の防御を、強引に押し切るということができないのだ。
また、刃が描く飛翔軌道は、行きと戻りが完全な対称形となる。これは、たとえ背後から襲ってくる場合でも、投擲直後の軌道さえ見逃さなければその攻撃点を正確に予測できるということでもある。
わずか数回の攻撃を見ただけで、そこまでを看破してのけたコソギの知性にレンリは戦慄した。ゴブリンと言えば、粗野で、下等で、卑しいだけの怪物ではなかったのか。
「ゴブリンのくせに……ってツラだな、坊や」
にやりと、しかしどこか凄愴なものを秘めた笑みを浮かべ、コソギが囁いた。
「だが、俺としちゃこう言わせてもらいたいね。お偉い騎士さまのくせに、ってな。整合騎士は一騎当千……そう聞いていたんだが、どうやらお前さんはそうでもないようだな? だからこんな後ろに隠れてた、そうなんだろ?」
「……ああ、そうさ」
目の前の敵を、ゴブリンと侮ったのがそもそもの間違いだった。そう悟ったレンリは、虚勢を捨て、頷いた。
「僕は失敗作だ。だけどね……勘違いするなよ。出来損ないなのは僕だけで、こいつじゃない」
両手の指先に挟んだ薄刃を、ゆっくりと降ろす。
"比翼"の明瞭なる弱点。それを完全に覆しうる、たった一つの方法が、このふたつの武器の記憶を解放することだ。
伝え聞く、比翼の源となった古の神鳥は、それぞれ左と右の翼を喪ったつがいだったのだという。一羽だけでは飛べない彼らは、互いの身体を繋ぎ合わせることで、他の鳥たちには飛べない高みまでも舞い上がり、無限に等しい距離を往くことができた。
その伝説を聞いたがゆえに、レンリは武装完全支配術を発動できなくなってしまったのだ。
"シンセサイズの秘儀"によって記憶から奪われた、"愛する者"。
それは、四帝国統一大会の決勝で戦い、極限の鬩ぎ合いのなかで刃が止まらずに命を奪ってしまった、幼馴染の親友だった。
レンリと親友は、まさしく比翼の鳥だった。物心つくかつかぬ頃から二人で腕を競い合い、故郷を出て央都に上ってからも、互いの存在を心の支えにしてあらゆる試練を突破し――人界最高の舞台にまで同時に達した。
だが、そこで翼は折れてしまった。
記憶を封印され、整合騎士となってからも、レンリの心にぽっかりと開いた巨大な喪失感は埋まることはなかった。剣を取り戦う"勇気"、誰かと心を繋ぐ"情愛"、その二つを見失ったレンリに、一枚ずつの翼を繋いで飛翔する比翼鳥の姿を心象化できるはずもなかったのだ――。
しかし。
つい先刻目にした、傷ついた若者と、腕に抱かれた二本の剣が。
その片方が放った仄かな光が。
レンリに声なき声で語りかけた。この世界には、たとえ命尽きようとも、決して喪われないものがあると。
それは記憶。思い出。
誰かの命は、心繋いだ誰かに受け継がれ――そしてまた、次の命へ連なっていく。
レンリは、勝利を確信した表情で迫ってくるゴブリンの将から視線を外し、そっと瞼を閉じた。
何もかも諦めたがごとき、力ないその姿から、突然、熱風のような剣気が放たれた。かっ、と両眼が見開かれる。二枚の鋼刃を挟み持った両腕が、顔の下半分を隠すように交差される。
ズバアァツ!!
腕が真横に振り抜かれると同時に、舞い上がった二条の光。高い弧を描き、右と左からコソギへと襲い掛かる。
「何度やろうが……無駄だッ!!」
ゴブリンの長は、苛立ちを滲ませた怒号とともに、投刃を受けるのではなく全力で弾き返した。
ガッ、ギャリイインッ!!
眩い火花とともに、薄い翼は呆気なく跳ね返り、再び空高く飛翔した。それらは、まるで螺旋のような曲軌道を引きながら――絡まりあい、寄り添い、一点へと。
瞬間。
「リリース……リコレクション!!」
レンリは、かつて何度も唱え、その度に絶望を味わった聖句を、喉も破けよとばかりに叫んだ。
小さなソルスにも似た眩い光が、谷間後方を照らし出した。
鳥の形をした二枚の鋼刃が、輝きながらその頂点を接合させ、融けあい、完全なる一へと変貌する。
ゆるゆると回転するそれは、十字の刃を、まるで遠い夜空の星のように青く煌かせていた。神器"比翼"、その解放された姿。
遥か高空で光を放つ己の分身に、レンリはそっと右手を差し伸べた。
――綺麗だ。
――まるで僕と……――のようだ。
ぐ、と強く手を握り。その拳を、勢いよく振り下ろす。
ギュアアアアッ!!
十字刃が、瞬時に猛烈な勢いで回転しながら、空を舞った。レンリの腕の動きに従い、降下し、舞い上がり、旋回する。
「なに……おぅっ!!」
一声吼えたコソギが、猛禽のように上空から襲い掛かる比翼を、左右の武器で同時に叩き落そうとした。
しかし、双方が触れる直前――それまでの滑らかな軌道を急激に変化させ、十字刃は垂直に跳ねると、再度真下へ向けて加速した。
カッ。
かすかな、乾いた音だった。
が――次の瞬間、コソギの鍛え抜かれた体の正中線に、青白い輝きが走り。
直後、眩い閃光の奔流を振り撒きながら、真っ二つに分断された。
死の瞬間、コソギは、いったい何故自分が敗れたのかをその傑出した知力で考えた。
彼の力学に従えば、己よりも、ひ弱そうな小僧騎士のほうがより強い殺意と欲望を秘めていたのだということになる。しかし、どれほど凝視しようとも、あどけなさの残る白い顔にはいかなる殺気をも見出すことは出来なかった。
ならば、いったい己は何に敗北したのか。
どうしてもそれを知りたかったが、しかし直後、視界がまったき闇に包まれた。
戦線のはるか東、ダークテリトリー軍の第二陣後方。
皇帝の御座竜車には見劣りするが、それでも充分に豪奢な二輪馬車に、浅黒い肌も露わな一人の女が腕組みをして立っている。暗黒術師ギルド総長ディー・アイ・エルである。
その馬車の脇に控える、細い黒衣の人影が、ゆるりと主に身体を向けた。
「シグロシグ殿、シボリ殿、コソギ殿、共に討ち死にとのこと」
顔を薄い紗で覆った伝令術師が低く告げた言葉に、ディーは露骨な舌打ちを漏らした。
「ええい、使えぬ……所詮は亜人か、獣どもめらが」
艶やかな胸元の肌に垂らした、小型の装身具をちらりと一瞥する。銀の円環に十二の貴石を配したそれは、仄かな色合いの変化で時刻を教えるという最高級の神器だ。六時の石は紫に光り、七時の石はいまだ闇色。つまり開戦からわずか十五分ほどしか経過していないことになる。
「整合騎士の座標固定はどうなっている」
苛立った声で尋ねると、伝令は短い術式に続けてぼそぼそ呟き、耳を澄ませる仕草を見せてから答えた。
「最前線に視認できた三名は照準済みです。後方にさらに二名探知していますが、固定にはいましばらく」
「クソ、遅いな。それとも、そもそもの数が少ないのか……しかし、せめてその五人は確実に落とさねば……」
ディーは、皇帝の前に出ているときの媚態が嘘のような冷たい表情でひとりごちると、少し考え、命じた。
「よし、ドローンを出せ。コマンドは……」
眼を細めて、崩壊した大門とその彼方の戦線までの距離を測り、続ける。
「……七百メル飛行、のち降下、無制限殲滅」
「その距離ですと、最前線の亜人部隊を多少巻き込みますが」
「構わん」
無感動に言い捨てる。
伝令の女術師も、一切の感情を見せずに「は」と首肯し、さらに尋ねた。
「数は如何なさいます。現状で孵化済みの八百体すべてを運んできておりますが」
「ふむ、そうだな……」
ディーはさらに数瞬、思考を巡らせた。
作成に多くの資源と時間が必要となるドローンは、彼女にとってはゴブリンなどよりもよほど貴重な戦力だ。出し惜しみしたいのはやまやまだが、『後方からの同時集中斉射による敵主力殲滅』というディーの献策がもし失敗すれば、皇帝の不興を買うことは間違いない。
「……八百全部だ」
命じた唇に、小さく酷薄な笑みが浮かんだ。
ディーの秘めたる野望――この戦が終わり、光の巫女とやらを手に入れれば再び地の底に還るのであろう皇帝ベクタから、摂政の地位を与えられ暗黒界及び人界をあまねく実効支配する。それが叶った暁には、ドローンなど何万体でも作れる。最大の障害だった暗黒将軍シャスターはすでに亡く、残る実力者と言えば単なる金の亡者や格闘にしか興味の無い小僧とくれば、大望成就はもはや目の前と言えよう。
あの半神人、最高司祭アドミニストレータですら成し得なかった、全世界の征服――。
そのうえで、神聖教会の総本山に秘匿されているのであろう無限天命の術式をも手に入れてみせる。
不老不死。永遠の美。
ディーは、背筋を這い登る甘美な戦慄に、ぞくりと身を震わせた。青く塗られた唇を、ちろりと覗いた舌が舐める。
ちょうどその時、伝令術師の指令が前方の術師本隊に行き渡り、まるで闇が翼を得たかのごとき漆黒の人造怪物どもが一斉に飛び立った。
ぬらりとした肌に篝火を照り返させながら、八百ものドローンは命ぜられたままに上昇し、まっすぐに峡谷へと吸い込まれていった。
――来た。
騎士長ベルクーリは、これまで彫像のように引き結んでいた口元に、はじめて持ち前の太い笑みを浮かべた。
大門手前の上空に描いた心意に、ついに広範かつ多数の反応があったのだ。
暗黒騎士や飛竜の気配ではない。無機質、無感動な、魂を持たぬモノの手応え。
しかしまだ発動はさせない。敵の放ったドローンの全てが"斬撃圏"に呑まれるまで、たっぷりと引き付ける。
ベルクーリの研ぎ澄まされた知覚には、すでにファナティオ、デュソルバートの奮戦と、一時は逃亡してしまった上位騎士レンリの覚醒までもが捉えられていた。
敵先陣の将すべてを討ったとなれば、もうこの局面で戦線を押し込まれることはない。あとは、目論見どおりアリスが空間神聖力を根こそぎ奪うことで敵の遠距離攻撃を無効化してくれれば、無傷の守備軍第二陣でダークテリトリー軍主力たる暗黒騎士団・拳闘士団を迎え撃てる。
己の、真の出番はその先だろう、とベルクーリは推測していた。
長年の好敵手たる暗黒将軍シャスターとの一騎打ち、ではない。
ベルクーリは、すでに、敵本陣にシャスターの気配がないことを察していた。おそらく、数日前に知覚した巨大な剣気の消滅――あれが、かの豪傑の最期だったのだ。
最古の整合騎士として、無限の年月を生きてきたベルクーリにはすでに、寿命ある人間たちの死を嘆き哀しむことはもうできない。それでも、この男ならば、いつか暗黒界と人界の無血融和の可能性を拓いてくれるやもと期待していたシャスターの死は、無念以外のなにものでもなかった。
かくなるうえは、シャスターの命を絶った、あの無限の虚無にも似た気の持ち主――何者かは分からないが、恐らくいまのダークテリトリー軍を率いているのであろう総司令官を、この手で斬ることで弔いに代えるだけだ。
あるいはそこで、ついに自分の命も終わるのかもしれない、とベルクーリは感じている。
しかし、もう生への執着は、彼のなかには欠片も残っていなかった。
死すべき時宜を得て死するのみ。
ファナティオ配下の下位騎士ひとりが、今わの際に放ったその心意に、ベルクーリは見事と感嘆すると同時に――かすかな羨望をも覚えていたのだ。
しかし、無論まだその時ではない。
上空の暗闇を、細波にも似た羽音の重なりとともに侵入してくるドローンの群れが、ついに斬撃圏にまるごと呑み込まれた。
ベルクーリはかっと両眼を見開き、地に突き立てていた愛刀・時穿剣を、ゆるやかな、しかし恐ろしく迅い動作で大上段に振りかぶった。
「――――斬ッ!!」
気合一閃、虚空を刃が切り裂いた。
同時に、遥か上空で、無数の白い光条が整然とした格子模様を作ってまばゆく瞬いた。
奇怪な断末魔の大合唱に続いて、どす黒い雨が、亜人混成軍の頭上に滝のように降り注いだ。ドローンの血液は微弱な毒性を持っており、それが将を失った大混乱に更なる拍車をかけた。
これまで、まったくの無感情を貫いていた伝令師の声に、かすかな怯えの響きを聞きつけた時点で、ディーは不吉な予感にとらわれた。それは一秒後、現実へと変わった。
「おそれながら……ドローン八百体、降下前に全滅した模様にございます」
「な…………」
絶句。
続いた破砕音は、馬車の車輪に叩きつけられた高価な水晶杯の悲鳴だ。
「何ゆえだ! 敵にそれほど大規模な術師部隊が居るとは聞いていないぞ!」
それ以前に、術式のみにて八百ものドローンを屠ることは不可能に等しい。素材が粘土であるがゆえに、火炎術も、凍結術も、さしたる効果を持たないのだ。もっとも有効なのは鋭利な武器での攻撃だが、鋼素から生成した低優先度の刃にそこまでの威力があるはずはない。
「……竜騎士はまだ出ていないのだな?」
どうにか怒りを押さえ込み、ディーは尋ねた。伝令師は、低くこうべを垂れたまま肯定した。
「は、大門付近上空には、現時点まで一匹の飛竜も確認しておりません」
「と……なると……アレか。彼奴らの切り札……"武装完全支配術"。しかし……よもやこれほどの……」
語尾を飲み込みながら、剥き出した糸切り歯をきりりと噛み合わせる。
暗黒将軍シャスターと同じように、ディーも整合騎士の隠し持つ超絶技については研究を進めさせていた。しかし、いかんせんこれまでは実物を目撃することすら至難だったのだ。神器と騎士本人の力の相乗効果であろう、ということくらいしか解明できていない。
「だが……武器をそのように使うかぎり、天命は必ず消費されるはずだ。連発はできまい…………」
全力で思考を回転させながら、ディーがそう呟いたとき。
前線からの声に耳を傾けていた伝令師が、さっと顔を上げ、少し張りの戻った声で伝えた。
「総長様、後方の整合騎士二名の座標固定、完了いたしました。あわせて、五の目標を照準中」
「……よし」
頷き、更に考える。
不確定要素たる敵の武装完全支配術を、更に消費させるために地上部隊主力の暗黒騎士団と拳闘士団を投入するか。それとも、こちらの切り札、暗黒術師団をここで動かし、一気にけりをつけるか。
ディーは本来、念入りに策を巡らせ万難を排してから動く用心深い性格だ。
しかし、虎の子のドローンを全て喪失するという予想外の展開が、彼女を自覚なき焦燥に追い込んでいた。
機は熟したのだ。
新たな水晶杯に、黒紫色の酒を満たしながら、ディーは自分に言い聞かせた。
私は冷静だ。今こそ、最初の栄光を掴み取る時。
杯をひといきに干し、それを掲げて、ディー・アイ・エルは高らかに命じた。
「オーガ弩弓兵団、及び暗黒術師団、総員前進! 峡谷に進入後、"広域焼夷矢弾"術詠唱開始せよ!!」