三百年の停滞の幕引きであり、同時に剣戟と殺戮の世の幕開けでもあるその現象は、ソルスの朱い輝きが地平に没するのと同時に訪れた。
五千の人界守備軍も、五万の侵略軍も、一様に息を潜めただただ目を見開いた。
創世の時代より地上に屹立しつづけた大門は、無限にも等しかったはずの天命のさいごの一滴が零れ落ちた瞬間、まるで死に抗うように巨獣の雄叫びにも似た地響きを世界中に轟かせた。それは不吉な遠雷となって、西は央都セントリアから、東は帝城オブシディアまでも届き、住民は皆足を止めて空を仰いだ。
数秒後。
二枚の岩板の中央に、天辺から根元まで一直線の亀裂が音高く走った。その内側から白い光がほとばしり、両側に布陣した全兵士は思わず目を瞑った。
亀裂は凄まじい勢いで大門の隅々にまで伸び、それを追って白光も網目のごとく広がった。刻まれた神聖文字が、一瞬炎に包まれて紅く輝き――そして生き物のようにうねって形を変えた。新たに出現した文字列は、"Final Pressure Experiment Stage"というものだったが、その示す意味を理解できたものは戦場にたった二人しか居なかった。
文字が燃え尽きるのとほぼ同時に。
亀裂から天まで届くほどの閃光が立ち上がり、ついに"東の大門"は、上部から崩壊しはじめた。
「うおっ……スゲッ……!」
御座車の手すりから身体を乗り出し、ヴァサゴが興奮した声で叫んだ。
「あーあっ、マジ録画しとくんだったぜ! ハリウッドがものすごいカネ出したろうになあ! つうか、AIだの何だのよりもこの技術を頂くべきっすよ兄貴! VFXスタジオでも作りゃ、あっという間に億万長者だ!」
ガブリエルも、眼前の一大スペクタクルシーンにさすがに目を奪われていたが、ヴァサゴの即物的な喚き声に短く息をつくと、冷静に指摘した。
「録画は出来ん。あれはポリゴンじゃないからな。STLに接続している今しか見られないショウだ」
彼方の大門は、すでに半ばちかくまで、無数の瓦礫となって崩れ落ちつつある。轟音も震動も凄まじいものがあるが、巨大な岩塊たちは皆、地面に墜落する前に光となって宙に溶けていく。あの様子なら、残骸がバリケードとなってしまう気遣いは無さそうだ。
ガブリエルは漆黒の毛皮マントを翻して玉座から身を起こすと、ディーが置いていった大型の髑髏(スカル)に歩み寄った。
脚高の小テーブルに据えられた、艶やかな黒色のそれは、音声伝達能力を持つ神器(アーティファクト)らしい。この親髑髏に向って話せば、たちまち将軍たちに持たせてある子髑髏へと伝わるということだ。ストライカー装甲指揮車のマルチチャンネル通信システムには劣るが、いちいち伝令を走らせるよりは遥かに即時的だ。
髑髏のうつろな眼窩にむかって、ガブリエルは鋼のように引き締まった声を放った。
「貴様らが待ち望んだ"刻"が来た! 殺せるものはすべて殺せ! 奪えるものは余さず奪え! ――蹂躙せよ!!」
軍勢のそこかしこから、大門の崩落音を上回るボリュームで、ウォー、ウォーという鬨の声が沸き起こる。突き上げられた無数の蛮刀や長槍が、かがり火を反射させて血の色に輝く。
右手を高く突き出し、まっすぐ前方に振り下ろしざま、ガブリエルは総司令官としての最初の命令を下した。
「第一陣――突撃開始!!」
侵略軍先陣の主力を構成するゴブリン部隊の右翼をまとめるのは、コソギという名の、山ゴブリン族の新たな長だった。暗黒将軍の叛乱に巻き込まれて死んだ先代の長ハガシの、十七人もいる息子のひとりだ。
ハガシは、歴代の長のなかでも最も残忍で貪欲と称されていた。コソギはその資質を色濃く受け継いだが、それだけではなくゴブリンにあるまじき知性をその醜い外見の下に隠し持っていた。
今年で二十歳になる彼は、もうずいぶん長いこと、なぜゴブリン族が闇の国の五種族のなかでももっとも最下層に位置づけられているのか、と考えてきた。
たしかにゴブリンは、五族にあって最も矮躯であり、力も弱い。しかしかつてはその不利を補うに足るじゅうぶんな頭数があり、事実いにしえの"鉄血の時代"には、オークや黒イウムどもと対等の戦いを繰り広げた。
やがて全種族が疲弊するとともに戦乱は終結し、五族平等条約が結ばれ、ゴブリンの長も十候会議に席を得た。しかし実情は決して平等などというものではない。山ゴブリンも、平地ゴブリンも、与えられている領土は北方の痩せ細った土地で、子供は常に餓え、年寄りはばたばた死んでいく。
つまりは、他種族の長どもにしてやられたのだ。ゴブリン最大の強みである数を殺ぐため、広大だが地味の乏しい土地にうまいこと封じ込めた。ゆえにゴブリン族は、どれだけ時代が過ぎようとも生きのびることだけに精一杯で、文明を育てることができない。黒イウムのように、整備された養成機関で子供を訓練するどころか、口減らしのためにまとめて川船で流すような有様だ。他種族の領土に流れ着いた子供たちがどのような扱いを受けるか、承知の上で。
肥沃な土地と充分な資源さえあれば、いま兵士たちが握っているような粗悪な鉄を鋳流した蛮刀ではなく、精錬された鋼鉄製の装備を与えることもできる。養成所で剣技と戦術を学ばせ、あるいは黒イウムに独占されている暗黒術すらも習得できるかもしれない。
そうなれば、もうゴブリンを下等種族だなどとは呼ばせない。コソギの父ハガシも、常に黒イウムどもへの妬みと劣等感に苛まれていたが、そのために何をすればよいのか考える頭が無かった。この戦で武功を立て、皇帝の覚えを目出度くする程度の知恵しかなかったのだ。
武功など立てられるものか。この全軍の配置を見ればそれが解る。
おそらく、基本的な作戦を進言したのは暗黒術師総長だろう。あの女は、はなからゴブリン族を使い捨てにするつもりで、"一番槍の栄誉"を押し付けてきたのだ。先陣切って突撃したゴブリンが、伝説の悪魔こと整合騎士にばたばた切り伏せられているところを、安全な後方から暗黒術でまとめて焼き払い、勲功をうまうまと掻っ攫う肚だ。そうはさせるものか。
と言って、もちろん命令に背くわけにはいかない。降臨した皇帝ベクタの力のほどは、ゴブリンの長二人と暗殺ギルドの長を一瞬で絶命させた暗黒将軍の攻撃を受け、毛ほどの傷も負わなかった時点で明らかだ。皇帝は明確な強者であって、強いものには従わなくてはならない。
だが、あの黒イウムの女は違う。いまやコソギも対等な十候なのだ。腹黒い姦計に諾々と従ってやる義理はない。
与えられている命令は、ただ先陣として突撃し、敵軍を殲滅せよというものだ。脚を止めて、後方から術式が降りそそぐまで戦線を支えろなどとは言われていない。そこに、あの女の裏をかく余地がある。
コソギは、大門が崩壊する直前、腹心の隊長たちにひそかにある指令を下していた。
与えられた黒髑髏がカタカタ顎を鳴らし、皇帝の突撃命令を伝えたとき、彼は革鎧の懐に手をいれ、かねて準備していた小さな球を取り出した。今頃、ほかの隊長も同じことをしているはずだ。
轟音とともに、かつて東の大門だった、最後の岩塊が崩れ落ち、光となって消えた。
眼前にまっすぐ開けた谷の奥に、たくさんのかがり火と、煌びやかな武器防具の照り返しが見えた。
白イウムの守備部隊だ。
奴らの向こうには、山ゴブリン族に栄光の時代を到来させるに充分な、豊かな土地と無限の資源、それに労働力がたっぷり満ち満ちている。
捨石になどなってたまるものか。その役は、哀れにもふたたび愚かな長を戴いてしまった平地ゴブリン族とオークどもに担ってもらおう。
コソギは、左手の球をしっかり握り締め、右手で鈍く光る鋳鉄のだんびらを突き上げて、金属質の声で叫んだ。
「てめえら、固まって俺についてこい!! ――突撃ぃぃぃぃッ!!」
「第一部隊、抜剣! 戦闘用意!! 術師隊、治癒術詠唱用意!!」
副騎士長ファナティオの鋭利な叫びが、宵闇を切り裂いた。
すかさず、じゃりぃぃん!! という鞘走りの重唱がそれに続く。数を抑えられたかがり火の赤い色が、刃に沿って流れた。
前方からは、津波のような轟きが凄まじい高速で迫る。
無数のゴブリンが発する小刻みな足音。オークのものはそれより少し間が広い。さらに、ジャイアントの大槌を打ちつけるような走行音が不規則に混じり、それら震動に甲高い鬨の声が加わる。かつてどのような人間も聞いたことのない、戦争という名の巨獣の咆哮。
大門から二百メル手前の防衛線に並ぶ、三百人の衛士に加えられた心理的重圧は恐るべきものだった。剣を一合も交えぬうちに、隊列が瓦解し散り散りに逃げ惑っても不思議は無かった。すべての衛士にとって、戦争はおろか、命の掛かった実戦すらも初めての経験なのだ。
彼らをその場にとどめ、剣を握らせ続けたのは、防衛線最前列に等間隔に立つ、三人の整合騎士の背中だった。
左翼を受け持つのは、"星霜鞭"エルドリエ。
中央には、指揮官でもある"天穿剣"ファナティオ。
そして右翼を、"熾焔弓"デュソルバートが守る。
闇の底にあってなお眩く煌く全身鎧をまとった三騎士は、両足でしっかと地面を踏みしめ、微動だにせずその時を待った。
騎士たちの心中にも、無論恐れも、怯えもあった。数十年から百年以上もの戦闘経験があると言っても、そのすべては暗黒騎士との一対一の決闘か、せいぜい十、二十の亜人族を相手にしたものでしかないのだ。これほどの圧倒的大軍を眼前にしたことは、第二位のファナティオにも――あるいは後方の第二部隊を指揮する騎士長ベルクーリにすら無かった。
その上、彼らはもう盲目的に従うべき最高司祭アドミニストレータも、教会が象徴していた絶対的正義も失っていた。実際のところ、央都に残った整合騎士の中には、最高司祭の命令なくしては指いっぽん動かせぬと言った者も居たのだ。
この戦場に立つ騎士たちの、最後の拠り所、それは――皮肉にも、かつて"シンセサイズの秘儀"の際に破壊し尽くされたはずの、たった一つの感情だった。
デュソルバート・シンセシス・セブンは、熾焔弓を握る左手の、薬指に嵌まる古ぼけた指輪を右手の指先でそっと撫でた。
最古の整合騎士のひとりである彼は、ほぼ百年という年月を、任ぜられた北方の治安を維持することだけに費やしてきた。
果ての山脈を侵すダークテリトリーの勢力を退け、任地内に発生した大型魔獣を駆除し、まれには禁忌目録を犯した罪人を連行した。それら任務がなぜ与えられているのかを考えることは遠い昔に止めた。己を神界から召喚された騎士なのだと信じて疑わず、地上に暮らす人間たちの営みについて、一抹の興味も抱くことはなかった。
そんなデュソルバートをときおり戸惑わせたのは、目覚めの際に訪れるひとつの夢だった。
艶やかに白い、小さな手。その薬指には、簡素な銀色の指輪が光っている。
手は彼の髪を撫で、頬に触れ、そしてそっと肩を揺する。
囁き声。
起きて、あなた。もう朝よ……。
デュソルバートは、その夢のことを誰にも言わなかった。もし元老院の耳に入れば、不具合として消去されてしまうと思ったからだ。彼はその夢を失いたくなかった。なぜなら、夢に現れる小さな手に嵌まるのと同じ指輪を、彼も騎士となったその時から自分の指に見出していたからだ。
あれは、神界での記憶なのだろうか。もしこの下界で使命を全うし、天上への帰還が許されれば、再びあの誰かとめぐり合えるのだろうか。デュソルバートは、長い間その疑問を胸に秘め、あるいはただ一つの望みとして心の奥底に仕舞い続けてきたのだ。
しかし――半年前、カセドラルを激震させたあの事件に於いて。
デュソルバートは、反逆者たる二名の若者と戦い、武装完全支配術までも用いながら敗北した。未知の剣技で熾焔弓の炎を打ち破った黒髪の若者は、デュソルバートに向って言った。
整合騎士は、神界から召喚されてなんかいない。地上に暮らすふつうの人間が、記憶を消され騎士に仕立てられたに過ぎない。
完全無謬であるはずの最高司祭の言葉が偽りであるなどとは、とても信じがたいことだった。しかし、あの若者たちは最終的に、アドミニストレータその人に挑み、勝利してしまった。いや、それ以前にデュソルバートには解っていたのだ。彼らの剣閃には、偽りの色はひとすじも混じっていなかったと。
となれば――あの手の持ち主もまた、天上ではなく、この地上に生きた人間であるということになる。
その考えを受け入れたとき、デュソルバートは騎士となって以来はじめてすることをした。銀の指輪を胸に抱き、滂沱の涙とともにむせび泣いたのだ。なぜなら、整合騎士と異なり、人間の天命は長くとも七十年で尽きてしまうから。つまりもう、彼を「あなた」と呼んだ誰かには、二度と会えないと解ってしまったから。
それでも彼は、騎士長の求めに応じて人界を守るため、この地に赴いた。
あの手の主が、ほんの短い年月であったにせよ、彼と生き、暮らし、目覚めを共にしたこの世界を守るために。
つまり、騎士デュソルバートをいまこの瞬間、闇の大軍勢の前にしっかりと立たせているのは、消し去られたはずのひとつの感情――"愛"の力だった。
そして彼のあずかり知らぬことではあったが、同一線上に立つファナティオ、またエルドリエも、それぞれの愛する者のために戦おうとしていたのだ。
デュソルバートは指輪から右手を離すと、背後に据えられた巨大な矢筒から、鋼矢を四本同時に掴み出した。
それをまとめて熾焔弓につがえる。
長い術式詠唱はもう済ませてあった。エルドリエらは温存するようだが、彼の奥義は混戦のなかでは力を発揮できない。武器の天命の半ばまでは消費する覚悟で、デュソルバートは大きく息を吸い、最後の一句を放った。
「リリース・リコレクション!!」
灼熱。
吹き上がった巨大な火柱が、二百メル先に迫り来る侵略者たちの獣面をあかあかと照らし出した。
水平に引き絞られた四本の矢もまた、純粋な炎と化して紅く輝いた。
「――整合騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである! 我が前に立つもの悉く骨すら残らず燃え尽きると知れッ!!」
名乗りの韻律は、かつて北方辺境のとある小村から――本人の記憶には残らぬことではあるが――ひとりの少女を連行した際のものとまったく同一だった。しかし十字の鉄面を外した今、声は抑揚豊かに、高らかに響いた。
直後、限界まで張り詰めた弦が解放され――。
ズドオオッ!!
放射状に発射された四筋の火線が、この戦いの幕を開ける最初の攻撃となった。
そして、最初の犠牲者となったのは、新たな長シボリに率いられる平地ゴブリンたちだった。シボリは、山ゴブリンの新族長コソギほどの知恵も企みもなく、ただ腕力のみで長の座に就いたがゆえに、圧倒的破壊力を持つと予想される整合騎士の攻撃に対して一切の策を用意せず、ただ愚直な突撃を命じたのみだった。
火焔弾は、密集して突進するゴブリン軍を正面から貫き、最大の効果を上げた。
具体的には、合計で実に四十二人にのぼるゴブリン歩兵を焼き尽くしたのだ。その周囲の集団は浮き足だち、悲鳴が飛び交ったが、しかしもともと平地ゴブリンの突撃には秩序も隊列も意図すらも存在せず、血に餓えた蛮兵たちは斃れた仲間の死体を踏み潰して疾駆を続けた。
デュソルバートは、物も言わずに再び四本の矢を番え、放った。
今度は拡散させず、四弾をひとつにまとめて巨大な火球を作り出す。
グワアアッ!!
という爆発音とともに、敵の戦列に火柱が屹立し、空中に幾つもの矮躯が舞った。その数は五十を超えていたが、しかし、ゴブリンの突進は止まらない。止められるはずもないのだ、背後からはオーク軍がその巨体を揺らしながら追随してきており、後退などしようものなら圧倒的重量にひき潰されてしまう。
平地ゴブリンたちにも、山ゴブリンの長コソギのように具体的な思索には出来ないまでも、最下層種族として矢面を突撃させられていることへの怒りと恨みがあった。そしてその感情は、ただ、いずれ彼らよりも下位の奴隷となるはずの白い人間たちへの殺意へと転換された。
長シボリは、ゴブリンとしては図抜けて逞しい両腕に握った巨大な戦斧を振り上げ、獰猛な絶叫を放った。
「てめェら! まずあの弓使いを殺せ! 囲んで刻んで轢き潰せ!!」
殺せ!! 殺せ!! 殺せ!!
平地ゴブリンたちは一斉に咆哮した。
デュソルバートは、その殺意を一身に受けつつ三度四矢を番え、発射した。またしても五十以上のゴブリンが消し炭へと変わったが、敵部隊の総数はいまだ三千を超える。
彼我の距離が五十メルを切ったところで彼は熾焔弓の炎を収め、通常の射撃へと切り替えた。矢筒から凄まじい速度で鋼矢を掴み出しては目標も定めずに乱射する。
そのデュソルバートの両側に、抜剣した衛士たちがだだっと進み出た。
「騎士殿を守れ!! 奴等の刃を触れさせるなッ!!」
叫んだのは、いまだ二十代の若い隊長だった。見事な体躯に両手用の長剣を携え、ぐうっと大きな構えを取る。
下がれ、無理をするな、とデュソルバートは言いたかった。武技を究めた彼からすれば、半年の猛訓練を経てもなお、衛士たちの剣は実戦には心許ないものだったからだ。
しかし、彼はぐっと息を溜め、低く叫んだ。
「済まん……左右を頼む」
「お任せあれ!!」
隊長が、ニッ、と太く笑った。
直後――。
殺到してきたゴブリン軍と、迎え撃つ衛士隊の剣が、最初の剣戟を音高く響かせた。
それより数瞬前。
峡谷の中央では、副騎士長ファナティオが、この世界の常識に照らせば奇妙としか言いようのない体勢で敵軍を迎え撃とうとしていた。
片膝立ちで、上体をまっすぐに伸ばしている。肩の高さに持ち上げた右手には、神器"天穿剣"の柄がしっかり握られている。しかし拳の向きはいわゆる逆手で、水平に固定された剣の後端を鎧の肩当てで支えている状態だ。
対して左手は前方にぴんと伸ばされ、掌で天穿剣の切っ先やや下を受け止めている。もしこの光景をガブリエル、あるいはヴァサゴが見れば、まったく同じ感想を抱いたことだろう、つまり――まるでライフルを構える狙撃兵のような。
ある意味ではそのものだとも言える。ファナティオは、殺到する敵軍を限界まで引き付けつつ、もっとも効果的な狙点を見定めているのだ。デュソルバートの熾焔弓は、矢の放ち方によって効果範囲を拡散させられるが、天穿剣はあくまで極細の光線を一点凝縮で発射することしかできない。ゆえに、膨大な敵軍に無闇と撃ち込んでも効果は薄い。
狙うべきは、敵軍のどこかにいるはずの指揮官、暗黒界十候の誰かだ。
ダークテリトリーの軍勢は、完全な力のヒエラルキーによって統率されている。ゆえに兵士たちは上位者の命令には絶対服従し、どんな状況でも命ぜられるまま最後の一兵までが挑みかかってくる。だがそれは、裏を返せば、指揮官が倒されたときに統制が失われるのもまた一瞬だということだ。
……でも、実は私たちも、かつてはそうだった。
ファナティオは、刹那の感慨を抱く。
最高司祭アドミニストレータ斃るる、の報は整合騎士団を瓦解させかけた。混乱の極みにあった騎士たちを立ち直らせたのは、ベルクーリの言葉だった。
――オレたちの使命、存在意義は、最高司祭と元老院の命令に従うことか?
――否。人界を、そこに暮らす人々を護ることだ。
――さらに否。護りたいという意思を、自ら発し、体現することだ。
現実には、すべての騎士がその言を理解し賛同し得たわけではない。それは、この戦場に集った騎士がわずか二十名しか居ないことが示している。
しかしその全員が、たとえ最後の一人となろうとも戦い抜く意思を秘めているはずだ。おそらくは、死地に馳せ参じてくれた三千の衛士たちもまた。そこがダークテリトリー軍とは決定的に違うところだ。
ファナティオは、百年ぶりに晒した素顔をぴたりと愛剣の柄につけ、両の眼にすべての集中力を注ぎ込んだ。
地響きを立てて突進する敵軍は、すでに百メルの距離まで肉薄している。右翼では、デュソルバートが記憶解放技による攻撃を開始したらしく、赤々とした炎と爆発音が立て続けに響きはじめている。
その、夜闇を染めた一瞬の輝きに――。
ファナティオは、ついに探していた目標を捉えた。
両翼のゴブリン軍を追い立てるように、中央を突き進んでくる巨大な影。恐るべき体格を誇るジャイアント族だ。その先頭に立つ、周囲より頭ひとつ抜きん出た姿は、かつて一度だけ目にしたことのある彼らの長・シグロシグに違いない。
巨人族は凄まじく誇り高い、あるいは高慢な連中だ。体の大きさだけを優劣の尺度とする彼らは、暗黒界の実質的支配階級である闇人族をも内心では見下しているらしい。
となれば、戦端が開かれる前に長を一撃で――しかも人族に――倒されれば、その動揺もまた巨大だろう。
ファナティオは大きく息を吸い、溜め、囁いた。
「リリース……リコレクション」
低く震動するような音を立てて、天穿剣の刀身全体がまばゆい白に発光した。
柄と切っ先が作る直線上に、シグロシグの樽のような胸の中央をぴたりと捉え――短く、鋭く。
「貫け――光ッ!」
ズバァァァッ!!
ソルスの力を凝縮した熱線が、戦場を貫いた。
「……はじまった」
整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、くぐもった爆発音を遠く聞きながらぽつりと呟いた。
レンリは、大門防衛の任をみずから志願した、七名の上位騎士のひとりだ。つまり守備軍の全戦力のうち、少なからぬ割合を個人で担う主力中の主力と言っていい。
しかし今彼が膝をかかえてうずくまっているのは、本来しっかと立っているべき、守備軍第二部隊左翼最前列ではなかった。そのはるか後方、遺棄される予定の物資天幕の薄暗い片隅だった。
逃げ出してしまったのだ。
ほんの十分前、夜闇と開戦直前の熱気にまぎれて遁走し、無人の天幕を見つけて潜り込んだあとは、ただひたすら息を殺し耳をそばだてていたのである。
レンリがそのような挙に出てしまった理由は、彼が守備軍に参じた動機とまったく同一のものだった。
失敗作。
最高司祭にその烙印を押され、レンリは七年間も深凍結されていた。その汚名を返上するべくこの地に身を投じたはずなのに、最後の最後で恐怖に耐えることができなかったのだ。
レンリの記憶からは消去されていることだが、彼はかつて、南方帝国はじまって以来の天才剣士と呼ばれた少年だった。弱冠十三歳にして央都セントリアに上り、その翌年には四帝国統一大会で優勝するという快挙を成し遂げて、整合騎士へと取り立てられ――あるいは改造された。
"シンセサイズ"を経て目覚めてからも、彼は剣に凄まじい天分を示し、たちまち上位騎士に任ぜられ最高司祭から最大の賛辞とともに神器を与えられた。
カセドラルに秘蔵される数多の神器の授受に際しては、アドミニストレータ、あるいは騎士本人が生涯のパートナーとなる相手を選ぶわけではない。実際にはその逆、神器が使い手を選ぶのだ。騎士の魂と神器のリソースとの間に発生する共振現象によって。
レンリと彼の神器、双投刃"比翼(ヒヨク)"はたしかに強く共振した。
しかし――ありうべからざることに、彼は一度として発動できなかったのだ。上位騎士の真価たる、武装完全支配術を。
最高司祭の興味が離れるには半年で充分だった。彼のすぐあとに整合騎士となった"フィフティ"の、圧倒的な武才学才がそれを後押しした。
すべてレンリの責に帰すのは酷というものだろう。フィフティ(アリス)の才能は、それをもって最高司祭に整合騎士団の完成を決断せしめ、翌年からの大会優勝者をみな素体として凍結保存させてしまったほどだったのだから。
だが現実として、レンリは失敗作の判断を下され、七年もの長い眠りを強制されることとなった。
褐色の氷へと変ずる瞬間、彼が強く意識していたのは、巨大な欠落感だった。
自分には大切な何かが欠けている……だから、"比翼"は共振すれども解放されなかったのだ、という。
そして七年後、レンリは再び目覚めた。
あたかもカセドラルを激震させた反逆事件の真っ只中だった。常駐する騎士たちが次々と敗北し、切り札たるフィフティまでもが生死不明となるに及んで、元老チュデルキンの判断で再起動させられたのだ。
しかし、レンリは今度も責務を果たせなかった。完全な覚醒へといたる前に、チュデルキンも、最高司祭までもが斃れ、ようやく動けるようになった彼が目にしたのは、混乱の極みにある騎士団の姿だった。
ダークテリトリー全軍の一斉侵攻に立ち向かうという絶望的な任務への参加を、七年ぶりに目にする騎士長ベルクーリは求めていた。
それに応じた騎士たちの――なんと雄々しく輝いていたことか。
彼らと共に行けば、分かるかもしれない。自分にいったい何が欠けているのか。なぜ神器は応えてくれないのか。
完全に自信を喪失していたレンリは、おずおずと手を挙げ、前に進み出た。下位騎士たちのあいだから、冷笑を含んだ視線が浴びせられたのは錯覚ではあるまい。しかしベルクーリは力強くうなずき、レンリの肩を掴み、ただひと言を口にした。頼りにしているぞ、と。
――なのに。
初めての戦場、いやレンリにとっては初めての実戦の重圧は、予想を遥かに超えるものだった。直接視認はできないのに、数百メル前方にひしめく闇の軍勢の殺意が、熱い鉄臭さとなって押し寄せてきて、気付けばレンリは逃げ出してしまっていたのだった。
戻らなければ。立たなければ。いま立ち上がらなければ、ぼくは永遠に失敗作のままだ。
わずかな時間に、何度そう自分を叱咤しただろう。
だが、抱えこんだ両膝から顔すらも上げられないうちに、ついに響き渡った開戦の轟音――。
「はじまって……しまった」
レンリはもう一度呟いた。
両腰に下がる一対の投刃が、彼を責めるようにかすかに哭いた、気がした。
もう戻れない。いまさらどんな顔で、自分を信じてくれた騎士長や衛士たちの前に立てよう。いや――そもそも、ぼくなんか居ても居なくても大差ないんだ。武装完全支配が使えない上位騎士なんて、むしろ邪魔なだけだ。
いっそう深く、両膝のあいだに顔をうずめようとした――その時。
天幕の入り口から、小さな声が届いてきて、レンリはびくっと全身を震わせた。
「ここは……どう?」
まさか探しにきたのか!? とレンリは騎士らしくもなく竦み上がったが、しかし続いて、別の声が聞こえた。どちらも、若い女性らしい。
「うん、ここなら大丈夫そうね。先輩を奥に隠して、私たちは入り口を守りましょう」
ジャイアント族の長シグロシグは、長いあかがね色の顎鬚と細かく編みこんだたてがみ、小山のような体躯、そして数多の傷がきざまれた魁偉な容貌を持つ齢五十七の伝説的闘士だった。
"力で支配する"というダークテリトリー唯一の法を、もっとも純粋に奉じ、実行しているのが彼ら巨人たちだろう。ほんの幼児の頃から、ありとあらゆる種類の力比べ、技比べ、胆比べで無限回の選別にかけられ、暗黒騎士団以上の厳密な序列が決定される。彼らの領地は西方の高原地帯だが、そこに豊富にスパンするはずの巨獣、魔獣のたぐいは常にほぼ枯渇状態にある。巨人たちが、さまざまな通過儀礼のターゲットに指定し、片端から狩り尽くしてしまうからだ。
なぜそこまでして、純粋な強者たらんとするのか。
そうしなければ、フラクトライトが崩壊してしまうのだ。
ダークテリトリーの亜人四種族はすべて、異形の体に人間の思考原体を封じ込めた、ひどく歪な存在だ。ゴブリンたちは、その矮躯から永続的に生じる人間への劣等感を、恨みのエネルギーに転換することで意識崩壊を抑えている。
そしてジャイアントは逆に、人間への強烈なまでの優越感を手に入れることで、"人にして人に非ざる"ゆがみを抑え付けているのだ。
すべての巨人は、少なくとも一対一の戦いでは、人間には絶対に敗れてはならない。それが彼らの精神の拠り所であり、絶対の掟だった。だからこそ過剰なまでのイニシエーションを設定し、種族の総数を削ってまでも、個体の優先度を限界まで引き上げてきたのである。
ゆえに――。
この戦場に召集された五百のジャイアント族戦士は、その寡黙な物腰とは裏腹に、強烈な闘志を腹の底に滾らせていた。いにしえの"鉄血の時代"以降に生まれた世代である彼らにとって、初めての対人間族大規模戦闘という華々しい見せ場なのだ。
長シグロシグに至っては、本気で腹を決めていた。
初回の突進で敵全軍を屠り、戦争を終わらせてやる、と。
どうやら皇帝に主力と位置づけられているらしい暗黒騎士団、暗黒術師団、拳闘士団には、一度の出番も与えない。奴ら抜きで勝利することで、この"十候時代"にあっても、巨人こそがもっとも優越した種族であることを証明するのだ――と。
与えられた伝声髑髏が、突撃命令をカタカタと発したとき、シグロシグは全身に刻まれた古傷がかあっと熱を帯びるのを感じた。それらはすべて、素手で引き裂いてきた無数の大型魔獣の力が乗り移っている証だった。
「踏 み 潰 せ !!」
発した命令はただそれだけだった。
そしてそれで充分だった。周囲の頼もしい勇士たちと同時に、右手の巨大な戦槌を振り上げ、地響きのごとき雄叫びを放ちながらシグロシグは疾駆を開始した。
前方の闇の底には、麦粒のような人間たちの群れが見える。
身長三メル半に達するジャイアントにとっては、ほとんどゴブリンと変わらないひ弱な姿だ。装備する剣など、岩鱗竜の仔の牙にも及ばない。
かたっぱしから叩き潰し、蹴り飛ばし、引き千切る。
シグロシグの魂に刻まれた、人間への優越回路が加熱し、快感のスパークを散らした。四角い顎が歪み、凶暴な笑みが漏れた。
刹那。
異質な、しかしかすかに憶えのある感覚が、彼の背骨をそっと撫でた。
何だこれは。
冷たい。痺れる。氷の針。
昔――とおい、とおい昔、同じ感覚を。"ひよっこ谷"の奥で。はじめての試練。黒嘴鳥の卵を取りに。あのとき感じた――これは――
シグロシグは疾駆しながら目を見開き、まっすぐ前方を注視した。
谷底にひざまずく、小さな小さな人間が見えた。髪が長く、体が細い。女か。きらきらする鎧を着込んでいる。騎士。
果ての山脈の上を飛ぶ銀色の竜騎士を、かつて一度だけ見たことがあった。降りてきたら首級を取ってやるつもりだったが、シグロシグに山を越える意思無しと判断したのか、そのまま飛び去ってしまった。逃げたか、とその時は思った。
だから、あんな奴ら大したことはないはずだ。
なのに――あの女騎士の黒い目――。
まだ百メル近い距離があるのに、シグロシグは跪く騎士から注がれる視線をまざまざと意識した。そこには、本来あるべき畏れも、怯えも、大釜の湯に落とした塩一粒ぶんほども含まれていなかった。
かわりに、獲物を見定める冷徹さだけが存在した。
狩られる。
巨人族一、つまりあらゆる種族のなかで最強の戦士たるこのシグロシグが。
「ヒゴッ…………」
のどの奥から、厳つい容貌にまったくふさわしくない、裏返った悲鳴が漏れた。
両脚が萎えたように力を失い、右手の戦槌が途方もなく重くなった。結果、シグロシグは体勢を崩し、つんのめった。
直後。
ズバァッ!! という、これまで聞いたどんな音にも似ていない唸りとともに、女騎士の腕からまばゆい光の槍が一直線に発射された。それは、シグロシグのすぐ前を走っていたジャイアントの右胸を呆気なく貫通し、しかもそこで止まらなかった。
もしシグロシグが転ばなければ、槍は正確に彼の心臓を吹き飛ばしていただろう。
その代わりに、白い光は巨人の長の立派なたてがみの右半分と、いくつもの玉環を飾った長い耳をまるごと蒸発させた。
さらに、背後に居た腹心ふたりの頭を貫き、致命傷を与えてからようやく小さな光の粒を散らして消滅した。
一瞬で天命を全損させられた三人が、重い地響きとともに立て続けに倒れるさまを、シグロシグはほとんど意識できなかった。自分の頭の右側を焼き焦がされた猛烈な痛みすらも、彼を襲ったひとつの感情の前には小虫に刺されたようなものだった。
それはつまり――恐怖。
シグロシグは情けなく尻餅をついた格好のまま、がくがくと顎を震わせた。
数日前の、前暗黒将軍の謀反騒ぎを目の当たりにしたときですら、彼は驚きこそすれ恐怖とは無縁だった。あの男が殺したのは、所詮は虚弱な暗殺者やらゴブリンどもでしかないのだ。たしかに皇帝の力のほどは認めざるを得なかったが、あれは人間ではなく古の神なのだから問題はない。
なのになぜ、あんなちっぽけな女騎士ひとりに、これほどまでに恐怖させられるのだ。
たかが人間あいてに。このシグロシグが。怯えて。腰を抜かして。
「う……そだ……嘘だ、嘘だ、うぞだッ」
光に焼かれた側から臭い煙を上げる顎鬚を動かし、巨人の長は呻いた。
有り得ない。受け入れられない。そう念じるほどに、視界のあちこちが白く飛び、ちかちかと火花が瞬く。口と舌が、意思を離れて高速で痙攣し、奇妙な音と化した言葉が途切れることなく漏れる。
「うそだうぞだうぞうぞだ、殺す、こ、殺す殺す、うそだ、うぞでぃ、ころでぃる、でぃ、でぃ、ディディディディ」
この瞬間、シグロシグのフラクトライト中にあまりにも強固に築かれた"主体"と、腰を抜かして立てないという"状況"が迂回不可能なコンフリクションを起こし、ライトキューブ内で量子回路の崩壊が発生しはじめた。
巨人の、鋼色をしているはずの瞳が、白眼ともども真っ赤な光を放った。
「ディッ、ディル、ディ――――――――」
周囲で立ち尽くすジャイアントたちが呆然と見守るなか、シグロシグは突然がばっと飛び上がり――。
巨大な戦鎚を、まるで小枝のようにぶんぶんと振り回しながら、凄まじい速度で疾走を再開した。
前方にいた同族たちを左右に跳ね除け、敏捷なゴブリン部隊にすら追いつくと、勢いを緩めずなおも突進する。足元で湿った音と甲高い悲鳴が立て続けに放たれたが、意識崩壊過程にある巨人はもうそれを知覚することはなかった。
ただ、あの女騎士を殺せ、という命令だけが頭のなかで割れ鐘のように鳴り響いた。
結局のところ、平地ゴブリンの長シボリも、ジャイアントの長シグロシグも、整合騎士という存在への評価をまったく誤っていたのだ。
しかし、侵略軍先陣三部隊のひとつを率いる山ゴブリンの長コソギだけは違った。彼は、整合騎士が持つ圧倒的破壊力を、大きな犠牲を払って学んだばかりだった。
果ての山脈北方の、一度は封印された洞窟を掘り返しての人界先行侵入を企てたのはコソギなのだ。彼自身は帝城から動けなかったが、血を分けた兄弟の三人に大規模な手勢を与え、オークの一部をも唆して、他の十候には秘密のうちに作戦を実行させた。
しかし結果は惨憺たるものだった。部隊は全滅、兄弟たちも揃って戦死の報を受け愕然とするコソギに、わずかに生還した兵たちはさらに信じがたいことを口々に告げた。
いわく――二百に上ったゴブリン・オーク連合部隊は、たった一人の騎士に敗北したのだ、と。
騎士が自在に操る無数の小刃が、触れるだけで屈強な戦士たちの首を刎ね、胸を穿ち、悲鳴を上げる暇も与えずに天命を奪い尽くしたのだ――と。
まったく信じられないことだったが、しかしコソギは、多くの同族を失って得た教訓を無駄にするほど愚かではなかった。整合騎士に真っ向正面から挑む愚挙は二度としまい、と彼は決意した。
しかし、山ゴブリンに与えられた役目は、まさにそのものだった。
少なくとも暗黒術師長ディーは、整合騎士の恐怖を熟知していたのだ。だからこそこの作戦を立てた。ゴブリン、オーク、ジャイアントを使い捨てにし、いっときの混戦状態を作り出したところで、整合騎士ともどもまとめて焼き払う、という。
その無慈悲な作戦を皇帝が承認してしまった以上、従わざるを得ない。コソギは三日三晩知恵を絞った。どうすれば愚直な突撃命令を遂行しつつ、前方の整合騎士・後方の暗黒術師という二重の陥穽から逃れられるか。
ようやくひねり出した奇策――それが、隊長たちに配布した、ネズミ色の小球だった。
いち早く侵略軍の先頭を突進したコソギは、たちまち前方に、輝く鎧をまとった長身の騎士の姿を捉えた。
それは、彼の部隊を壊滅させたアリスではなく、その弟子エルドリエだったのだが、無論コソギには区別のしようもない。どちらにせよ、ゴブリンにとっては無慈悲な死をばらまく悪魔であることに違いはなかった。
「よしっ……投げろ!!」
騎士までの距離が五十メルを切った時点で、コソギは次の命令を発した。
同時に、自らの左手に握った小球を強く押しつぶす。
バチッという音が弾け、球に入ったヒビから小さな炎が漏れた。勿論火薬の類ではない。アンダーワールドにその文明レベルのオブジェクトは存在しない。
そして、術式によって生成される熱素でもなかった。球の中央に仕込まれているのは、山ゴブリンの聖地である極北の火山に生息する"燧虫(ヒウチムシ)"という小さな甲虫だ。うっかり潰すと、一瞬ではあるが高温の炎を撒き散らし、手酷い火傷を負わされる。
虫を覆っているのは、これも北方にのみ産するある種のコケを干し、粉にしてから練ったものだった。本来は、狼煙に使用するようデザインされている植物だ。しかしゴブリンたちは、暗殺ギルドと同じくオブジェクト濃縮技術を用いて、効果を数十倍に増強していた。
結果――。
コソギらが一斉に放った小球は、強力なスモーク・グレネードとでも言うべき代物までになっていた。虫の放った火によって着火されたコケ粉は、鼻先も見えなくなるほどの濃密な煙をもうもうと吐き出し、峡谷の北側を完全に覆い尽くした。
いかに夜目の利くゴブリンと言えども、これでは視界は零に等しい。
しかしコソギの策は、煙にまぎれて敵を倒すことではなかった。煙幕に突入する寸前、彼は三つ目の命令を喚いた。
「てめえらぁ、走れェェェェ!!」
言うやいなや、蛮刀を背中に戻し、両手を地面につける。もともと矮躯のゴブリンは、この姿勢を取ると人間の膝上ほどの高さしかない。更に、地面付近は煙が薄く、かすかに敵兵たちの位置が見て取れる。
コソギと三千の山ゴブリンたちは、エルドリエと衛士隊を完全に無視して、四つん這いの姿勢で走り続けた。
皇帝の命令は、ただ敵軍に突撃すること。敵軍のどこを目指して、とは指定されていない。コソギは敵主力、ことに整合騎士とはただすれ違うにとどめ、後方にいるはずの補給部隊を襲う策を立てたのだ。
前線の向こうにもぐりこめば、やがて降り注ぐであろう暗黒術師とオーガ弩弓兵の一斉攻撃は回避できる。それで白イウムどもが全滅すればよし、そうでない場合も、無限に広がる人界の奥深くに逃げ込めばいいだけだ。
こうして、ほぼ同時にひらかれた三つの戦端のうち、北側だけはほぼ血を流さぬまましばし進行することとなった。
そして、コソギにとっては幸運、人間たちにとっては不運なことに――。
エルドリエの背後に展開・待機する守備軍第二部隊左翼の衛士たちは、いつの間にか指揮官たる整合騎士が姿を消していることに、ようやく気付きつつあるところだった。
人界最初の犠牲者は、第一部隊右翼戦線において、デュソルバートのすぐ傍で奮闘していた初老の衛士だった。
ゴブリンが投げた手斧を、盾でぎりぎり弾ききれなかったのだ。
彼は、西方帝国近衛軍で長らく小隊長を勤めた実直な下級貴族だった。剣の腕は確かだったが、天命降下線のかなり先端にあるという事実はいかんともしがたく、首元に食い込んだ粗雑な斧は完全な致命傷を与えた。後方から放たれた修道士隊の治癒術も、そのダメージをカバーすることは出来なかった。
デュソルバートは、咄嗟に弓の乱射を止め、倒れた老人に高位治癒術を施そうとした。しかし衛士は首を振り、激しく吐血しながら叫んだ。
「なりませぬ!! これぞ、この老いぼれの天職であり天命……騎士殿、人の、世を、お任せ……します、ぞ…………」
直後、いくばくかのリソースを空間にほとばしらせながら、老剣士は絶命した。
デュソルバートはぎりりと歯を食いしばり、その命をいちどの火焔矢に変えて、目の前に躍りかかってきたゴブリンを吹き飛ばした。
その後も、ゆっくりと、しかし途切れることなく守備軍の衛士たちは斃れ続けた。その数十倍の亜人たちもまた、無慈悲な突撃命令に諾々と従い、命を散らした。
戦場に放散される、強制中断された天命リソースのほとんどは――。
峡谷のはるか上空。
闇にまぎれてホバリングする一尾の飛竜。
その背中にしっかと立つ、黄金の騎士のもとへと渦巻きながら凝集されていった。
身を隠す暇も、そのための場所も無かった。
レンリは、背中を丸め膝を抱えたおおよそ騎士らしからぬ格好のまま、物資天幕の奥に近づいてくる複数の人影をただ見上げた。
年の頃十五、六とおぼしき少女がふたり。灰色のチュニックとスカートの上から、銀線を編んだ軽そうな防具を身に着けている。腰には、おそろいの細身の直剣。顔に見覚えはなく、また装備の等級からしても、整合騎士ではなく一般民の衛士だろう。
奇妙なのは、片方の少女が押している、金属製の椅子だった。脚のかわりに四つの車輪が取り付けられたそれに、項垂れるように腰掛けている黒髪の若者へとレンリの眼は吸い寄せられた。
二十歳くらいか。恐ろしく痩せているうえに、右腕が肩から欠損している。一見した限りでは、少女らより遥かに弱々しい印象しか受けない。しかし、青年が左腕でしっかりとかき抱いている二本の長剣――納刀されていてなお、鞘を通して圧倒的存在感を放つそれらが、ことによると"比翼"よりも上位の神器であることをレンリは即座に見抜いた。
いったいどういうことだろう。正式な所有権を得ることはもちろん、あのように膝に載せるだけでも、恐ろしく高い優先度が必要となるはずだ。しかし、魂の欠損を如実に示して虚ろに宙を眺める青年には、とてもそのような力があるとは思えない……。
そこまで考えたとき、少女らも暗がりにうずくまるレンリに気付いたらしく、ハッとした表情で脚を止めた。
前に立つ、長い赤毛の少女が、意外なほどの疾さで右手を剣の柄に伸ばす。
抜刀されてしまう前に、レンリは両手を軽く持ち上げ、掠れた声で言った。
「敵じゃないよ。……驚かせて済まない」
卑劣な敵前逃亡の身にしては、案外滑らかに舌が動いた。もうどうなったって知るもんか、という自暴自棄ゆえのことかもしれないが。
「立っていいかな? 手は見せておくから」
「……はい」
警戒の色濃い声で少女が頷くまで待って、レンリはゆっくり腰を上げた。肩をすぼめ、両手を掲げたまま、一歩、二歩前に出ると、天幕入り口からかすかに差し込む篝火の光が最上級の鎧と両腰の神器にまばゆく反射した。少女ふたりが鋭く息を飲み、次いでまっすぐ背筋を伸ばす。剣と車椅子から離れた右手が、左胸の前で礼のかたちを取る。
「き……騎士様! し、失礼致しました!!」
青ざめた顔で謝罪を続けようとする赤毛の少女を、レンリは首を振って制した。
「いや……脅かした僕が悪い。それに、僕はもう……整合騎士じゃぁない……」
後半は、半ば呟き声になってしまったが、少女らはきょとんとした顔で首を傾げた。戸惑うのも無理はない、レンリの背に垂れる豪奢な縁取りつきの白マント、それに胸当ての中央に輝く、十字に円を組み合わせた教会徽章は見違えようのないものだ。
レンリは、降ろした手の指先でその徽をそっと撫で、自虐的な――いっそ、もう墜ちるところまで墜ちてしまえという心境で、呆気なく真実を吐露した。
「持ち場を放り出して、逃げてきたんだよ。もう最前線では戦闘が開始されている。今頃、僕が指揮するはずの部隊は大騒ぎだろう。出なくていい死者だって出てるはずだ。そんな僕が、騎士でなんかあるものか」
唇の端をゆがめて微かに笑いながら、顔を上げた。
少女の大きな紅葉色の瞳に、小さく自分が映っているのが見えた。
額に短く垂れる、灰桃色の髪。丸みを帯びた柔弱な輪郭。そして、剛毅さなど欠片も見出せない、まるで女の子のような薄青の眼――。十五歳の幼さのなかに凍結された、"失敗作"の騎士。
大嫌いな自分の容姿から、素早く眼を逸らす寸前。
赤毛の少女が、何か新たな驚きに打たれたかのように、はっと口元を押さえるのが見えた。
「…………?」
上目づかいに、探るような視線を向けるレンリに、少女は慌てたように首を振った。
「あ……、す、すみません。な、なんでも、ありません……」
俯いてしまった赤毛の少女をかばうように、いままで後ろにいた黒髪の少女が一歩進み出て、細い声で言った。
「申し遅れました……私たちは、補給部隊所属のアラベル練士とシュトリーネン練士、それにこちらがキリト修剣士どのです」
キリト。
その名を聞いて、レンリは鋭く息を吸い込んだ。
知っている。忘れようもない、半年前にセントラル・カセドラルに僅か二人で斬り込んだ反逆者の名前ではないか。レンリが防衛のために再覚醒させられ、しかし持ち前の鈍臭さで戦いそこねた、その当人。
それでは――この青年が、至聖者、最高司祭アドミニストレータを斃したのか。欠損した右腕はその傷痕なのか。
痩せ細り、虚ろな表情を下向けるだけの剣士に、レンリはどうしようもなく気圧されるものを感じて半歩足を引いた。しかし、そんな心情に気付く様子もなく、アラベルという姓らしい小柄な少女は、どこか必死そうな口調で続けた。
「あの……私たち、騎士様の御事情については何を申し上げることもできません。なぜなら、私たちだって、守備軍の一員でありながらこうして前線ではなくはるか後方に身を隠しているのですから……。でも……今は、それが私たちの任務なのです。騎士アリス様から託された、この方を護りぬくこと」
アリス。
シンセシス・フィフティ――あらゆる面でレンリと対照的な、若き天才騎士。いまは最前線に単騎で留まり、乾坤一擲の巨大術式を準備中のはずだ。
一層の心理的圧迫に襲われるレンリを、まるで追い込むように、必死の色を瞳に浮かべたアラベル練士が言葉を連ねた。
「ここでお会いしたのも何かの縁。騎士さま、私たちに手を貸してくださいませんか。正直、私たち二人では、一匹のゴブリンの相手すらも覚束ないのです。なんとしても……なんとしても、私たちはキリト先輩をお護りしなくてはならないのです!」
なんと眩く、なんと強い意思の輝きだろうか。
己の使命をしかと心に刻み、身命を投げ打ってでも遂行しようと決意した人間だけが持つ、貴い光だ。
こんなうら若い一般民の女の子ですら秘めているものを、僕はどこに置き忘れてきてしまったのか。あるいは、整合騎士としてこの人界に落ちてきたその時すでに欠落していたのか。失敗作……。
自分の口から、どこか投げやりな声が流れるのを、レンリは聞いた。
「ここにいれば、大丈夫……だと思うよ。守備軍第二部隊を総指揮するのは騎士長ベルクーリ閣下だし、あの人の護りが抜かれるようなことがあれば、それはもう人界の終わりと同じことだ。どこに逃げても、結末は一緒さ。僕は、すべてが終わるまでここで座ってることにしたんだ。隣にいるって言うなら、邪魔しやしないよ……」
語尾を無音の吐息に溶かし、レンリは再び柱のかげに腰を下ろそうとした。
しかし――まさに、ちょうどその瞬間。
整合騎士エルドリエが護る最前線左翼では、山ゴブリン族長コソギらが投じた煙幕弾が連鎖的に炸裂していた。立ち込めた濃密な煙に乗じて、大量のゴブリンたちが、荒い布目から零れる水のように防衛線をすり抜けはじめた。
彼らの目指す目的が、まさに人界守備軍最後方・補給部隊の殲滅であることに、レンリも、同年の少女ふたりも、気付けようはずもなかった。
ジャイアントの長シグロシグのフラクトライト崩壊は、急速に進行した。
しかし、それは全的なものではなく"主体"の一部を深く冒すものであったがゆえに、存在の完全消滅に至るまでにはしばしの猶予があった。
そしてその現象は、ある副産物を生み出すことになった。
心意である。
副騎士長ファナティオの超攻撃によって惹起・抽出された、"弱い自己"というイメージが一片残らず破壊された結果、シグロシグのフラクトライト中には、これまで数十年間制御されてきた人間への怒りが一気に解き放たれることとなった。
それは、ファナティオへの純粋な殺意となってシグロシグのライトキューブから迸り、メイン・ビジュアライザーを経由して、その先へまでも溢れ出した。
具体的には――。
シグロシグの、赤く輝く双眼に捉えられたファナティオの身体を凍りつかせたのだ。
体高四メル近い巨体を、颶風のような勢いで突進させながら、巨人の長は右腕の大鎚を高々と振り上げた。
なぜ――動けない!!
ファナティオは、言うことを聞かない右脚を叩きつけようとした拳にすらも力が入らないことに激しい驚愕をおぼえた。
自分が、この整合騎士団副長たるファナティオが、たかだか巨人族の長あいてに竦み上がるなどということは有り得ない!
そう胸中で叫ぶものの、体は重く、脚は萎え、跪いた狙撃姿勢から立ち上がることすらできない。
似たような現象が、薄らかな記憶として残っている気はした。
騎士長ベルクーリとの手合いにおいて、どうしても抜きつけられない、右手が動かない、そんな経験だ。しかしその時感じた、重く、稠密で、それでいてどこか柔らかく包み込んでくる気配とはまるで異なる――無数の逆棘が生えた革帯で無慈悲に締め付けられるような痛みが、ファナティオの全身を苛んでいる。
惜しくも狙撃しそこねたシグロシグは、一時倒れこんだようだったが、直後異様な勢いで跳ね上がり、突進を開始した。その距離はもう六十、いや五十メルを切る。
一対一であれば、敵ではない――はずだった。
暗黒界十候のうちで、ファナティオがその力を認めるのは暗黒将軍シャスターひとりだけだ。数年前に手合わせしたときは、三十分にもわたる撃剣のすえに迂闊にも兜を割られ、ファナティオの素顔を見たシャスターが剣を引くという屈辱を舐めさせられた。
しかし、あの時ですら負けたとは思っていない。ベルクーリの厳命により、暗黒騎士との手合いにおいては武装完全支配術の使用を禁じられていたのだから。
そして、ベルクーリも確かに言っていた。こと剣力に於いては、十候にあってシャスターは抜きん出ている、と。ならば、それ以外の者に遅れを取るはずはない。ましてや――睨まれただけで竦み上がるなどと!
しかし、ファナティオの理解を超えた現実が、刻一刻と眼前に迫ってくる。
巨大な鉄鎚が振り下ろされるまで、あと五秒、それ以下か。はやく立ち、迎撃の初動を開始せねば。打ち合いさえすれば、世界有数の神器・天穿剣があのような無骨な金属塊を叩き毀せぬ道理はない。
なのに――体が――指先まもでが。氷のように。
「ニンゲンコロディルディルディ――――――」
野太い、異様な絶叫がシグロシグの喉から迸った。
眼だけでなく、鉄鎚全体までもが、赤黒い光をどろりと放った。
ああ……閣下。
ファナティオは動かない口で小さく呟いた。
下位整合騎士ダキラ・シンセシス・トゥエニツーは、その長い生涯のすべてを、たった一人に捧げて生きてきた。
支配者たる最高司祭ではない。騎士団の長ベルクーリでもない。
副長ファナティオこそがその相手だ。彼女の苛烈なまでの激しさと、その裏に隠された苦悩に、ダキラは強く惹かれた。
下界の基準に従えば、その感情はまさしく恋慕に他ならない。しかし様々な理由によってダキラは完全なまでに己の感情を封じ込め、ファナティオの直属部隊"宣死九剣"の一員として顔と名前すらも棄て去った。直属となれたことだけで、ダキラにとっては望外の幸福だったのだ。
九剣は、決して下位騎士内の精鋭部隊などではない。ファナティオが、単騎で前線に出すのは不安と判断した実力不足の騎士を集め、連携戦法を叩き込むことで生存率を高めようとした、いわば落ちこぼれ部隊というのが正しい。
ゆえに騎士団内部でも少なからず蔑視されており、事実半年前の動乱では、一般民の反逆者ふたりを相手に全員まとめて重傷を負わされるという失態を演じた。だがそのことよりも、ダキラには、主たるファナティオを護りきれなかったことのほうが何倍も辛かった。いっそ、あの時命を落としているべきだったと、カセドラル医療院のベッドで何度も思った。
しかし、傷癒えたダキラたち九剣に、ファナティオは叱責どころか労いの言葉を掛けたのだ。
公の場では一度も外したことのなかった銀面を外し、怜悧な美貌を優しく微笑ませた副騎士長は、順番に九剣の肩を叩きながら言った。
――この私も死に掛けたのだ、諸君らが恥じることなど何もない。それどころか、良く戦ったと思うぞ。あのときの"環刃旋舞"の連携技はこれまでで一番見事だった。
その時、九剣揃いの兜の下で、ダキラは涙を滲ませながら決意した。
次こそ――。
今度こそ、二度とこの方を傷つけさせぬ、と。
"次"はまさに今、この時だった。
指示なくして決して動いてはならぬ、と命令されていたにも関わらず、ファナティオの様子がおかしいと見てとるやダキラは地を蹴り、戦列から単身飛び出していた。
本来の戦闘能力から考えれば、届くはずのない間合いだった。しかしダキラは、その体が光の筋となって霞むほどの速度で疾駆し、ファナティオの直前に割り込むと、巨人の長が振り下ろす鉄鎚を横にした両手用大剣で受けた。
ガガァーン!! という轟雷にも似た衝撃音と、赤に白が混じった閃光が激しく散った。
ダキラの剣は、神器などにはほど遠い、せいぜいが業物という程度のものだ。対して、この時シグロシグの得物は、流れ込んだ"殺"の心意によって恐るべき優先度に高められていた。
わずか半秒ののち、大剣の中央に深い罅割れが走り、そこから幾筋もの光条が伸びた。己の愛剣が砕け散ると同時に、ダキラは柄と峰を離し、頭上に圧し掛かる鉄鎚の縁を両手で支えた。
ごき、めきり、という鈍い音がダキラの身体を通して響いた。
手首から二の腕までの骨が一瞬で圧し折れたのだ。
視界が白く飛ぶほどの激痛。鎧の継ぎ目から噴き出した鮮血が、兜の表面に飛び散った。
「ぐ……うぅ……!!」
すべての歯を食いしばり、漏れそうになる悲鳴を気合に変えて、ダキラは更に落下してくる鉄鎚の中心を兜の額で受けた。
鋼鉄の十字面が呆気なく粉砕され、露出した額、首、さらに背骨と両膝からも嫌な音が聞こえた。痛みは灼熱の炎と化して全身を駆け巡り、視界すべてが赤く染まった。
しかし下位騎士ダキラは倒れなかった。
すぐ後ろには、ファナティオがいまだ立てずにいるのだ。この醜い武器を振り下ろさせるわけにはいかない。
守るんだ。今度こそ。
「い……ぃああああああ!!」
高い雄叫びが唇から迸った。
全身から漏れ出ていく天命が、一瞬の青白い燐光と化してダキラを包んだ。
光は砕けた両腕に集まり、眩く炸裂した。同時に、巨大な鉄鎚は上空に弾き返され、シグロシグの巨体を道連れに数メルも後方へと吹き飛んだ。
重い地響きを聞きながら、ダキラもゆっくりと背中から崩れ落ちた。
「……ダキ!!」
すぐ耳元で、悲鳴のような叫びが放たれた。
ああ……ファナティオ様が、名前を呼んでくれた。
いったい、何年ぶりかしら。
兜を失い、麦わら色の短いおさげ髪と、そばかすの残る頬を露出させたダキラは、主の伸ばした腕の中に倒れこみながらかすかに微笑んだ。
南方の小さな漁村に生まれたダキラは、姓を持たない貧しい漁師の娘として育った。
そんな彼女が、十六の齢に犯した禁忌。それは、一つ年上の、同性の親友に恋してしまったこと。
無論告白などできようはずもない。苦しみのあまり、ダキラは深夜、村の教会の祭壇で懺悔し赦しを乞うた。しかしその祭壇は、セントラル・カセドラルの自動化元老機関と直結しており、禁忌違反者として検出されたダキラは教会へと連行され――すべての記憶を奪われた。
もう名前も思い出せない、ダキラの恋した相手は、少しだけ副騎士長に似た面影を持っていた。
おぼろに霞む視界のなかで、ファナティオの美貌が強く歪み、その長い睫毛から涙が滴るのを、ダキラは穏やかな気持ちで見つめた。
あの副騎士長さまが、自分のために泣いてくださっている――。
これ以上の幸福は考えられなかった。無限にも思えた生の果てに、ついに成すべきことを成し、死すべき時宜を得たのだという充足感だけがあった。
「ダキ……なんで……なぜこんな……!」
悲痛な囁きが耳元で零れた。
ダキラは最後の力で砕けた左手を持ち上げ、指先でファナティオの頬を伝う雫をそっと拭った。
にっこりと微笑み、ダキラは、秘め続けてきたひと言を掠れた声で呟いた。
「ファナティオ……さま……、お慕い……もうして、おりま……す…………」
その瞬間、整合騎士ダキラ・シンセシス・トゥエニツーの天命が完全に尽きた。
騎士団最初の犠牲者は、こうしてその瞼を永遠に閉じた。
私は――私は何をしているのだ!!
ファナティオは、自分よりもさらに小柄な、傷だらけの躯を強くかき抱きながら胸中で絶叫した。
涙に歪む視界には、倒れた巨人の長と、その背後から迫るほかの巨人たちに飛びかかっていく残りの"宣死九剣"の姿が映る。
自分が守るために集めた者たちだ。厳しい言葉しかかけなかったが、皆が愛する弟であり、妹だ。なのに――逆に守られ、あまつさえ命を落とさせてしまうなど――
「……赦さぬ!!」
それは、シグロシグとともに、己にも向けた言葉だった。
これ以上の犠牲者は絶対に、ぜったいに出さない。彼らの誰よりも先に、こんどは私が死ぬ。
その決意は、シグロシグが放射する不正強度の殺意を上回る、"大義"――あるいは"愛"の心意となってファナティオの魂から迸った。
全身を縛っていた氷の棘が消えた。
ダキラの遺骸を横たえ、立ち上がったファナティオの右手に、地面からふわりと浮き上がった天穿剣ががしっと収まった。
前方では、飛びかかった二人の騎士を右腕の一薙ぎで振り払ったシグロシグが立ち上がったところだ。
両眼から屹立する赤い光は、もう爆発寸前の溶鉱炉のごとき眩さに達している。
「ゴロッ……ゴロッ……ゴロオオオオオ!!」
異様な雄叫びは、世界中を震わせるほどの音量だ。
しかしファナティオの心中には、もう一片の怯えも畏れも無かった。
す、と片手上段に構えた天穿剣が――。
ヴォォォン!! という震動とともに白い光をまとった。その眩い輝きは、まっすぐに五メル以上も伸長すると、そこで状態を保った。
シグロシグが、鉄鎚を両手で振りかぶりながらぶわっと高く跳ねた。
一見無造作に、しかし恐るべき速度でまっすぐ振り下ろされた天穿剣が、空中に巨大な光の帯を描いて鉄鎚の打撃面と接し――
ズ、バァッ!!
呆気なく巨大な武器を左右へと分断した。真っ赤に灼けた断面から飛び散る、溶けた金属の雫よりも速く、長大な光の剣はそのまま巨人の長の頭頂に食い込み、勢いを僅かにも衰えさせることなく一気に地面までも斬り下げられた。
世界最大の巨躯を誇る闘士が、空中を飛翔しながら真っ二つに分断される光景に、残りのジャイアント族も、人界の衛士たちも、一様に言葉を失った。
凄まじい衝撃とともに墜落した、かつてシグロシグだったふたつの肉塊の中央で、ファナティオはブンッと小気味よい音を立てて光の刃をふたたび振りかざすと、高らかに叫んだ。
「総員前進!! 敵を殲滅せよ!!」