反射的に返礼しながら、アリスはやはりそうか、と内心で頷いた。
キリトとユージオを学院から連行したとき、彼らに別れの挨拶をする許可を求めてきたのがこの二人だ。
いくら守備軍が人員不足に窮していようとも、まさか学生の徴用まではしているまい。となると二人は、自ら志願して住み慣れた央都からこんな東の辺境までやってきたのか。
如何にあのキリトと交流があったとは言え、まだ幼さの抜けきらない少女二人がいったい何故そこまで……。
思わずアリスがまじまじと二人を眺めると、その視線を受けて、黒褐色の髪の少女は、再び赤毛の少女の背中に隠れてしまった。ティーゼと名乗った赤毛の子もぎゅうっと身体を縮こまらせ、逃げ場を探すように眼を伏せたが、やがて決死の覚悟とでも言うべき表情を作って口を開いた。
「あっ……あの……き、き、騎士様……た、大変なご無礼であると、その、じゅ、重々承知しておりますがっ……」
これにはアリスも再び苦笑せざるを得ず、それを可能なかぎりの柔らかい微笑みに変えるよう努力しながら言葉を挟んだ。
「だから、あのね、そんなに畏まる必要はぜんぜんないのよ。この野営地では私も、人界を守るために集まった一人の剣士に過ぎないんだから。私のことはアリスと呼んで頂戴、ティーゼさん、それに……ロニエさん」
すると、ティーゼと、その背中からぴょこっと顔を出したロニエの二人は同時に唖然としたように口を開いた。
「……ど、どうしたの?」
「い、いえ……その……。以前、学院でお見かけしたときと、随分……御印象が、ちがって……」
「そう……かしら」
はて、と首をかしげる。自分ではまったく自覚は無いが、ルーリッドで暮らした半年のあいだに、それなりの変化はあったのだろうか。騎士長は、ふっくらしたなどと事実無根の感想を口にしていたが。
いや、確かに、シルカが作ってきてくれる料理があまりに美味しくてつい食べ過ぎてしまったのは否めないが……まさか外見に出るほどの……。
強張りそうになった頬にもういちど笑みを浮かべ、アリスは「それで」と言葉を繋いだ。
「なにか、ご用でもあるの?」
「あ……は、はい」
ほんの少しだけ緊張の色を薄めたティーゼが、一瞬きゅっと唇を噛んでから言った。
「あの……私たち、騎士さ……アリス様が、飛竜でご到着になられた際に、黒髪の……若い男性をお一人伴っておいでだったと聞き及びまして……それで、もしかしたら、そのお方が、私たちの知っている人ではないかと、そう思って……」
「あ、ああ……そうか、そうよね」
右手に小鍋、左手にワインの瓶を握ったまま、アリスはようやく少女たちの来意を悟り、頷いた。
「あなたたち、学院でキリトと親しかったんですものね」
と、アリスが口にした瞬間、二人の顔がまるで瞬時に蕾が花開いたかのようにさあっと輝いた。ロニエにいたっては、茶色の瞳にうっすらと涙まで滲ませている。
「やっぱり……キリト先輩だった……」
か細い声で呟いたロニエの手を握り、ティーゼも期待に満ちた声で叫んだ。
「じゃあ……ユージオ先輩も……!」
その名前を聞いたとたん、アリスは鋭く息を詰め、眼を見張った。
いけない。この二人はもちろん――知らないのだ。カセドラルで繰り広げられた一昼夜の激闘と、その結末を。
絶句したアリスに気付き、二人は不思議そうな表情を作った。アリスは数秒間、ティーゼとロニエの瞳を交互に見つめたあと、ゆっくり眼を伏せた。
今更、ごまかすことはできない。
それに、この二人にはすべてを知る権利がある。恐らく彼女たちは、キリトと、そしてユージオにもう一度会うためだけに守備軍に志願し、ここまでやってきたのだろうから……。
意を決して顔を上げると、アリスはゆっくりと口を開いた。
「あなたたちには……辛すぎる現実かもしれない。でも、私は信じます。キリトと、そしてユージオの後輩だったあなたたちなら、かならず受け止められると」
アリスの内心の期待に反して、キリトはティーゼとロニエをその視界にとらえても、一切の反応を見せなかった。
落胆しつつも、ほんの少しだけほっとしている自分に気付き、アリスは天幕の隅で強く両手を握りながらじっと悲壮な光景を見つめつづけた。
ベッドに腰掛け項垂れたままのキリトの前に跪いたロニエは、小さな両手でキリトの左手を包み込んで、頬に涙を伝わらせながら小さく何かを話しかけている。
しかし更に痛々しいのは、敷き革にぺたりとしゃがみこんで、折れた青薔薇の剣を見つめつづけるティーゼだった。紙のように白くなった顔には、ユージオの死を伝えられたときから一切の表情がない。
アリス自身は、ユージオという名の若者とは、直接言葉を交わす機会はほとんど無かった。
カセドラルに連行し地下牢に叩き込むまでと、塔の八十階で彼らを迎撃したときの数分間、あとはもう最上階での対アドミニストレータ戦で共闘しただけだ。
あの騎士長ベルクーリに時穿剣を発動させてなお勝利し、また自らの身体を剣に変じて最高司祭の片腕を斬り飛ばした心意力には心底敬意を覚えるが、ユージオのひととなりに関してはもっぱらルーリッドでシルカから聞いた思い出話に依る部分が大きい。
シルカいわく、ユージオはおとなしく物静かな少年で、アリス――当時のアリス・ツーベルクに引っ張られていろいろな冒険に嫌々付き合わされていたらしい。そんな性格ならば、さぞかしキリトともいい相棒同士だったのだろうと思う。
キリトとユージオは、きっと学院でもあれこれ騒ぎを起こしたに違いない。そんな二人に、この少女たちは魅せられ、大きな影響を受けたのだ。
だから――お願い、受け止めて。キリトとユージオは、とても大切なたくさんのものを守るために戦い、傷つき、散ったのよ。
アリスは半ば祈りながら、二人の、ことにティーゼの様子をじっと見守った。
人界に暮らす人々は、あまりにも巨大な恐怖や悲嘆といった精神的衝撃を受けると、耐え切れずに心を病んでしまう場合も多い。先日の闇の軍勢によるルーリッド侵攻でも、体は無傷なのに臥せりきりになってしまった村人が僅かながら出たようだ。
ティーゼは、たぶん、ユージオを愛していたのだろう。
この若さで、愛する人の死という巨大な衝撃を受け入れるのは、生半なことではあるまい。
アリスの視線の先で、座り込んだティーゼの指先がぴくりと動き、少しずつ青薔薇の剣の刀身に近づき始めた。
緊張しながらその様子を見守る。青薔薇の剣は、半分に折れているとはいえ最上位の神器だ。あの少女に扱えるとは思わないが、しかし絶望もまた巨大な心意を導く。何が起きるかは予測できない。
震えながら伸ばされたティーゼの指が、ついに薄青い刀身に触れた。刃ではなく峰を、そっとなぞっていく――。
と、その瞬間。
灯り取り穴から差し込み天幕を満たす赤い光を押しのけ、折れた刀身がかすかに、しかし確かに青く煌いたのを、アリスは見た。
同時にティーゼがびくんと身体を逸らせ、顔を仰向ける。
何かを感じたらしいロニエも振り向き、友達を見つめた。張り詰めた空気のなか、じわり、とティーゼの睫毛に大きな水滴が浮かび上がり、音も無く零れ落ちた。
「……いま…………」
薄い色の唇から、ひそやかな呟きが流れた。
「……聞こえた……ユージオ……せんぱいの、声……。泣かないで、ティーゼ、って……ぼくは、ずっと、ここにいるから……って……」
零れる涙はみるみるその量を増し、突然ティーゼは剣の上に顔を伏せると、幼い子供のように激しい嗚咽を漏らした。ロニエもまた、キリトの膝に伏せてわあわあと号泣する。
その、言葉も出ないほど痛ましくしかし美しい光景につい目頭を熱くしながらも――。
アリスの心の一部は、そんなことがあるだろうか、と考えを巡らせていた。
剣に心意が残る?
確かに、武装完全支配術の発動中は、武器と主の意思は一体となる。ユージオの場合はそれだけではなく、実際に青薔薇の剣とその身体を融合させ、その最中に命を落としたのだ。
だから、残った剣の欠片に、主の意思が残響のように焼きつく――ということもないではないのかもしれない。
しかし。
いまティーゼは、ユージオが自分に呼びかけた、と確かに言った。であるなら、剣に残った心意は、ユージオが落命したときの木霊ではないということになる。
少女の恋心が聞いた幻なのか? それとも……?
ああ――もどかしい。キリトならば、この現象の秘密を即座に看破してくれるだろうに。この世界の外側、謎の神々が住まう場所から落ちてきたという彼なら。
ぐるぐると渦巻くアリスの思考に、まるで小さな気泡のように、ひとつの言葉が浮かび上がった。
ワールド・エンド・オールター。
果ての祭壇。その場所には、この世界の外側へと続く道があるという。
もしそこにたどり着ければ、あらゆる謎が一瞬で氷解するのだろうか? それどころか――喪われたキリトの心も取り戻せるのだろうか……?
しかし、果ての祭壇は人界の外、東の大門を出て真南に進んだ彼方にあるという。つまり、闇の種族が支配するダークテリトリーのそのまた辺境だ。
そんなところに行こうとするなら、まず東の大門の向こうに布陣する大軍を、防ぐどころか突破しなくてはならない。いや、仮に敵陣を突破できたとしても、大門の守りを空にして南へ向うわけにはいかない。闇の軍勢が、そのままアリスたちを追ってくるとは思えないからだ。
彼らにとっての蜜流るる地である人界から目を逸らさせるためには、どうしても追ってこなくてはならない理由を作ってやる必要がある。だが――ダークテリトリーの民にとっては、"人界の蹂躙"は数百年来の悲願だ。それ以上に魅力的なものなど、あるはずがない……。
やはり、いずれ果ての祭壇を目指すとしても、その前に闇の軍勢を完全に殲滅しなくては。
たどり着いた結論に、アリスは思わず瞑目した。
殲滅、などと……敵の先陣を押し返すことすらおそらく至難のこの状況で。
そっと息を吐いてから、アリスは数秒間の黙考を断ち切り、泣きじゃくる少女二人に歩み寄った。
ソルスの残照はずいぶん前に西の彼方に消え去ったのに、東の大門の向こうに細く見えるダークテリトリーの空には、不吉な血の色がしつこく揺らぎ続けている。
まるでその光景を遮断するかのように、人界守備軍野営地の中央、昼間は飛竜発着場に使われる草地には、白い陣幕が南北方向に張られていた。その手前、高々と翻る整合騎士団旗と四帝国旗の下に、整合騎士約二十名に加えてほぼ同数の衛士の隊長格が集まり、三々五々固まっては深刻な顔を突き合わせている。
その幾つかの小集団が、騎士と衛士の区別なく出来上がっていることに気付き、アリスは少し驚いて近づく脚を止めた。
輝くような銀甲の鎧をまとった整合騎士と、美麗さは劣るが優先度は充分に高そうな黒鋼の鎧を着込んだ衛士長が、双方右手に同じシラル水のグラスを持って熱心な議論を交わしているのだ。耳をそばだてれば、衛士の言葉からは迂遠な敬語のたぐいの一切が省かれているようだ。
「急拵えの寄り合い所帯にしてはなかなかのモンだろう、嬢ちゃん」
突然かたわらで低い声が響き、アリスは慌てて向き直った。
着流しの懐に両手をしまった騎士長ベルクーリは、顔の動きだけで敬礼しようとしたアリスを制した。
「そういうしち面倒くさい儀礼だのは全部ナシにしたのさ。少なくとも、俺ら騎士と衛士長同士ではな。幸い、禁忌目録にも『一般民は騎士サマと話す前には十分間ご機嫌伺いをしなくてはならない』なんて項目は無ェからな」
「は、はぁ……。それは大いに結構なことと思いますが……しかし、それはさておいても……」
言葉を切り、再び視線を臨時の軍議場に向ける。
「整合騎士は全員参加と聞きましたが、見たところ二十名ほどしか来ていないようですが」
「だから、これで全部さ」
「え……ええ!?」
思わず高くなりかけた声を掌で押さえ、アリスはやや渋面になった騎士長を見上げた。
「そんな……ばかな。騎士団には私を含め五十名が存在するはずでは」
それは、アリスに与えられたフィフティという神聖語名が示すとおりだ。
ベルクーリは、そりゃそうなんだが、とため息混じりに答えるとひときわ声を低くした。
「嬢ちゃんも知ってるだろう。元老チュデルキンは、記憶制御に齟齬を来たしそうになった騎士に"再調整"という処理を施していた。奴が死んだときその処理中だった十名は……いまだに眼を醒ましていないんだ」
「…………!」
思わず眼を見張る。そんなアリスから視線を外し、ベルクーリはいっそう苦々しい声で続けた。
「再調整用の術式群を知悉していたのは、高い確率でチュデルキンと最高司祭だけだ。その二人が死んだ今となっては、十名の騎士の処理を中断し覚醒させることは不可能かもしれん。――よって、現在動ける整合騎士は四十名。うち五名はカセドラルと央都の指揮管理のために残し、さらに十五名を果ての山脈全体の警護に当たらせている。差し引き二十……それがこの絶対防衛線につぎ込める上限、というわけだ」
「二十人……ですか」
たったの、と付け加えそうになるのをアリスは唇を噛んでこらえた。
しかも、よくよく確かめればその半数以上が神器を――つまり武装完全支配術を持たない下位騎士だ。近間の斬り合いだけならばゴブリンの百は二百は屠ってみせる猛者たちではあるが、戦況全体を動かすほどの爆発力は期待できない。
思わず押し黙ったアリスに、調子を切り替えたベルクーリの声が掛けられた。
「ときに、あの若者の預け先だがな……なんなら、オレから後衛部隊に……」
「あ……いえ、大丈夫です」
騎士長の、ぎこちない気遣いにかすかに微笑みながら、アリスは首を振った。
「偶然、修剣学院で彼の傍付きをしていたという志願兵が居りましたので……開戦後は彼女達に任せることになりました」
「ほう、そりゃ良かった。……で、どうだ? 過去に交流のあった者と接触して、何か反応はあったか?」
無言でちいさくかぶりを振る。
ベルクーリは短く息を吐き出すと、そうか、と唸った。続けて、いっそう潜められた声で、
「……正直、オレにはあの若者こそが、この戦いの帰趨を左右する最後の一要素に思えてならんのだ……」
アリスははっと視線を上げた。
「嬢ちゃんやユージオ青年の助力はあったにせよ、剣でチュデルキンと最高司祭を斃したというのはとてつもない事だぞ。こと心意の強度だけを比べれば、恐らくオレも及ばないだろう」
「……まさか、そのような……」
キリトの強さに今さら疑義を呈するつもりは毛頭ないが、しかし騎士長ベルクーリの心意は二百年以上の悠久の時間を経て研ぎ上げられたものなのだ。対するにキリトはまだ二十歳になるやならず。むしろ、剣技や体術はともかく意思力だけは騎士長に敵わないと見るのが自然なのではないか。
だが、ベルクーリは確信に満ちた仕草でアリスの言葉を否定した。
「先刻、心意を打ち合わせたとき確かに感じた。この若者は、オレなど問題にならぬほどに膨大な実戦の経験がある、とな」
「実戦……? とは、どういう意味です……?」
「文字通りだ。命のやり取りだよ」
それこそまさか、と言うほかない。
人界に暮らす人間たちは、禁忌目録や各帝国の膨大な法に保護、あるいは束縛され、木剣での試技はすれども真剣勝負の機会など生まれてから死ぬまで一度も無いのだ。
唯一の例外が整合騎士で、果ての山脈を侵そうとする闇の怪物や暗黒騎士と規則の無い戦いをすることはある。しかしそれにしても月に一、二度あるかないかで、しかも整合騎士側が戦力に於いて圧倒的に勝っているので正直なところ命の取り合いとは言い難い。
そう考えれば、人界でもっとも実戦の経験が豊富なのは、騎士団がいまより遥かに小規模な頃から闇の軍勢と戦ってきたベルクーリであるのは間違いない。実際、整合騎士になりたての頃は――信じがたいことではあるが――当時の暗黒騎士に手酷くやられ、命からがら逃げ延びたこともあるらしい。
そのベルクーリよりも、キリトが実戦の回数に於いて勝っている?
仮にそんなことが有り得るとすれば――それは、この世界での経験ではない。
彼のほんとうの故郷であるという"外の世界"。しかし、そこは同時に真の創世神たちが住まう神界でもあるはずだ。なのに、実戦? 命の取り合いを……?
もう何をどう考えていいかわからず、アリスは少し迷ったあと意を決した。
かくなるうえは、ベルクーリに全てを話すしかない。"外の世界"、そしてそこに続く回廊があるという"果ての祭壇"のことを。
「……小父様……実は、私……あの戦いのとき……」
考えかんがえ、そこまで口にしたときだった。
突然、金属質の声が鋭く響いた。
「閣下、時間です」
はっ、と声のしたほうに視線を向ける。
立っていたのは、夜空の下でもひときわ麗々しく光る薄紫色の装甲にくまなく全身を包んだ、一人の整合騎士だった。
その、細身の騎士の顔を隠す鋭角な意匠の銀面を見たとたん、アリスの心中に浮かんだ感慨は――端的にあらわせば、うへえ、というものだった。
アリスにとって、恐らくこの世界でもっともウマの合わぬ人物。騎士団副長にして第二位の整合騎士、ファナティオ・シンセシス・ツーだ。
内心を顔に出さないようけっこうな努力をしながら、アリスは右拳を左胸にあてる騎士の礼をした。
相対するファナティオも、かしゃりと装甲を鳴らして同じ動作を行う。しかし、両脚を少し開いてまっすぐ直立するアリスに対して、ファナティオは片脚に体重をあずけて右腰を吊り上げ、上体を横に湾曲させたなよやかな姿勢を取っている。意識してやっている訳ではないのだろうが、胸にあてた手も無骨な拳ではなく、優美に反らせた五指を折りたたんだ形だ。
この人の、こういう所がどうにも……、と腕を下ろしたアリスは内心でひとりごつ。
鎧と兜、それに口調で厳重に隠しているつもりなのだろうが、だからこそ、ファナティオからは"女性"が大輪の花のように匂い立つのだ。そしてそれは、最年少で整合騎士に任ぜられたアリスにはついぞ会得する機会のなかった"技"でもある。
副騎士長ファナティオは、カセドラル五十階においてキリト及びユージオと闘い、キリトの記憶解放技に直撃されて瀕死の重傷を負った。しかしキリトは、苦労して倒したファナティオに治癒術をほどこし、さらに不思議な術式でどこかに転送してまで救ったのだという話を、アリスはその場に居合わせた下位騎士からの伝聞で知った。
いかにもキリトのやりそうな事だとは思うが――しかしやはり心穏やかではいられない。
だいたいこの人は、百年間ずっと騎士長一筋ですというわりには、自分に心酔している騎士を九人も直属部下にしているのだ。憧れるだけで永遠に手も触れさせられない彼らこそいい面の皮だ。せめて、四六時中銀面をかぶっていないで顔くらい見せてやればいいものを。
と、内心でぶつぶつ言ったその瞬間、ファナティオが両手を兜の側面にかけたのでアリスはぎょっとした。
ぱち、ぱちりと留め金が外され、薄紫に輝く装甲が無造作に引き上げられる。大きく広がった艶やかな黒髪が、夜空に流れて絹のように光った。
ファナティオの素顔を見る機会があったのは、カセドラルの大浴場で偶然行き会ってしまったときだけだった。このような衆人環視の場で副騎士長が面を取るのは記憶にあるかぎり初めてのことだ。
美貌にうっすらと白粉を刷き、唇に艶やかな紅を差したファナティオは、アリスににこりと微笑みかけると言った。
「久しぶりね、アリス。元気そうで嬉しいわ」
「…………」
"ね"? "わ"?
つい数秒間も絶句してしまってから、アリスはようやく挨拶を返した。
「お……お久しぶりです、副長」
「ファナティオでいいわよ。それより、アリス。小耳に挟んだんだけど……あの黒髪の坊やも、一緒に連れてきたそうね?」
何気なく発せられた言葉に、アリスは驚きを脇に押しやって、さっと警戒心を漲らせた。キリトとユージオに倒された整合騎士は多いが、そのなかでももっとも恨みを抱いていそうな者を挙げればこのファナティオだろう。アリスがカセドラルから出奔した半年前、もしファナティオが眠りから醒めていたら処刑論はもっとずっと高まっていたはずだ。
「は……、はい」
短く肯定だけしたアリスに、副騎士長は艶然とした微笑を浮かべたまま頷いてみせた。
「そう。なら、軍議のあとで少しだけ会わせてくれないかしら?」
「え……な、何故です、副、いえファナティオ……殿?」
「そんな顔をしないで。別にいまさら斬ろうなんて思ってないわよ」
微笑みに少しだけ苦笑を混ぜ、ファナティオは肩をすくめた。
「ただ、ひと言だけお礼が言いたいの。あの坊やが助けてくれたお陰で、私は今ここに居られるんだから」
「……でしたら、キリトに言う必要はないと思います。あなたを癒したのは、おそらく先の最高司祭、カーディナルという名のお方ですから。そしてあの方はすでに身罷られました」
どうしても疑わしい顔になりかけるのを苦労して抑えながらアリスがそう言うと、ファナティオは視線をすっと宙に向け、軽くうなずいた。
「ええ……おぼろげに憶えているわ。あのように暖かく、力強い治癒術は初めてだった。でも、私をあの方のところに送ってくれたのはやはり坊やなのだし、それに……もう一つ、別のことでも有難うと言いたいのよ」
「別……?」
「そう。私と戦い、倒してくれたことをね」
……やっぱり斬る気なのでは。
と身構えたアリスに、ファナティオは真面目な顔で、大きくかぶりを振った。
「本心よ。だってあの坊やは、整合騎士として生きたこの百年でたった一人、私を女と知ってなお本気で剣を振るった男なんだもの」
「は……? それは……どういう……」
「私も、昔はこんな分厚い兜を被らずに、あなたのように素顔を晒して戦っていたのよ。でも、ある日気付いてしまったの。模擬戦の相手をする男の整合騎士たち、それどころか命の取り合いをしている最中の暗黒騎士ですら、剣筋にわずかな気後れがあることにね。許せない、と思ったわ。私が女だから、勝てるのに勝たない――なんてことは」
それは――無理もないことだろう。素顔のファナティオから匂い立つこの色香を、無視できる男はそうそういるまい。この世界の男たちにとって、女とは守り愛しむものなのだ。そのように、魂に書き込まれているのである。ダークテリトリーの住民である暗黒騎士も、子を成し育てる以上例外ではあるまい。まるで外見の異なるゴブリンやオークは、もちろんまったく別だろうが。
しかし同じ女騎士であるアリスは、相手の遠慮など一切気にしたことは無かった。敵が気後れしようと全力を振り絞ろうと、自分のほうが遥かに強いという確信があったからだ。
そんなことに拘るのは、やはりあなたがどこまでも"女"である証左なのでは。
とアリスが内心独りごちたのと同時に、ファナティオがまったく同じことを呟いた。
「だから私は顔を隠し声を変え、敵を近間に入れない剣技と術式を身につけた。でも、それは、私もまた自分の性別にとらわれていたってことなのよね。あの坊やはそれを一発で看破したわ。その上で私と全力で斬り結んだ。素晴らしい一瞬だった……詰まらない拘りが全部飛んでいくほど、ね。要は、私が相手に変な遠慮なんかさせないほど強くなれば、それでいい話だったのよ。――その単純な事実に気付かせてくれて、その上私を生かしてくれた坊やに、お礼を言いたいと思うのは不思議ではないでしょう?」
真面目な顔でそう言ってのけたあと、ファナティオは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「それに……やっぱり、少しだけ癪だしね。坊やが私にまるで"女"を感じなかった、っていうのも。だから、私の魅力で坊やが目を醒まさないか、試してみようと思って」
「な……」
何だと。
もしそれでキリトが覚醒したら今までの努力が空しすぎるではないか。そしてキリトの場合、その可能性が皆無だと言い切れない部分がある。
眉間が険しくなるのをもう隠さずに、アリスは尖った声で言い返した。
「お言葉は有り難いのですが、彼はもう休んでおりますし。ファナティオ殿のお気持ちは、私が明日確かに伝えておきますゆえ」
「あら」
笑みを消し、副騎士長もぴくりと切れ長の目尻を動かした。
「坊やに会うのに、あなたの許可が要るの? 私は、あなたが騎士長閣下に面会を求めてきたとき、私情で拒んだことは無いつもりだけど」
「それこそ、私が小父様……騎士長殿と会うのにファナティオ殿の許可は不要でしょう。だいたい、考えてみれば、男の騎士にコテンパンにして欲しかったのなら騎士長殿に頼めばよかったではないですか」
「あら、閣下はいいのよ。世界最強の剣士なんだから、万人に対して手加減して当然だわ。暗黒将軍にすら情けをおかけになったのよ」
「へえ、そうですか? 私との稽古のときは、小父様は汗だらだらになるほど本気でしたけど?」
「……閣下! いまのは本当ですか!?」
「そもそも小父様がこの人を甘やかすから……」
アリスとファナティオは、同時に横に向き直った。
無人であった。
つい数分前までは確かに騎士長ベルクーリが立っていたはずのその場所を、夜風に乗って枯れ草だけがかさかさと通り過ぎていった。
十分ほど遅れて開始された軍議は、進行を務める副騎士長ファナティオ・シンセシス・ツーと、新たに参陣した整合騎士アリス・シンセシス・フィフティの発する巨大な剣気のせいで、異様なほどに緊張した雰囲気のなか始まった。
手短に自己紹介を終えたアリスは、最前列に用意された携行椅子にどすんと腰を下ろした。
「……アリス様」
隣に座るエルドリエがそっと差し出してきたシラル水のグラスを、ひったくるように受け取って、冷えた甘酸っぱい液体をひといきに流し込む。長々と息をついて、どうにか気分を切り替える。
――それにしても。
やはり少ない。神器を装備する上位整合騎士は、よく見知った顔ぶれが騎士長たる"時穿剣"ベルクーリ、"天穿剣"ファナティオ、"星霜鞭"エルドリエ、そして"熾焔弓"のデュソルバート・シンセシス・セブン。加えて、名前程度しか知らない騎士が二名、それにアリスで合計わずか七名だ。
残りは、おそろいの白い鎧を着込んだファナティオ直属の"宣死九剣"と、番号の若い――と言ってもアリスよりは古株だが――四名の下位騎士。これが、この最終防衛線に投入できる整合騎士団の全戦力というわけだ。
対するに、一般民で構成される衛士隊の隊長たちは三十名ほどが列席している。危惧したよりも士気は低くないようだが、しかしやはり、一瞥しただけで整合騎士との剣力の差が見えてしまう。アリス自身は無論のこと、もっとも下位の騎士ですら三十人と立て続けに手合っても勝ち残るだろう。
「――四ヶ月に渡って、あらゆる戦法を検討してきましたが……」
いつの間にか話し始めていたファナティオの声が、アリスの意識を引き戻した。
「結局のところ、確実なのは、敵軍に包囲された時点で我が方の勝ち目は消えるということだけです」
天穿剣の細い鞘を指示棒がわりに、ファナティオは陣幕の手前に設えられた巨大な地図を示した。
「見てのとおり、果ての山脈のこちら側は、一万メル四方に渡って広大な草原と岩場しかありません。ここまで押し込まれたら、あとは十倍の敵軍に包囲殲滅されるのみでしょう。ゆえに、頼みの綱はこの、東の大門から続く幅百メル長さ千メルの峡谷しかありません。ここに縦深陣を敷き、敵軍の突撃をひたすら受け止め、削り切る。これを基本方針とします。これについて、何か意見はありますか」
さっ、と手を挙げたのはエルドリエだった。藤色の巻き毛を揺らして立ち上がった若者は、日ごろの洒脱さを抑えた声を宵闇に響かせた。
「仮に敵軍が、ゴブリンやオークからなる歩兵のみで構成されておれば、五万が十万でも斬り倒せましょう。しかし、それは彼奴らとても承知の上。ダークテリトリーには強力な弩弓を装備するオーガの軍団、さらに危険な暗黒術師団も存在します。歩兵の後背から浴びせられるであろうそれら遠距離攻撃にはいかなる対処を?」
「これは……ある程度危険な賭けですが……」
ファナティオは一瞬唇を止め、視線をエルドリエからちらりとアリスに向けてきた。思わず瞬きをしながら、続く言葉を待つ。
「……峡谷は、昼でも陽光が差さず、また植物がほとんど見当たらない。つまり、空間神聖力が薄いのです。開戦前に、それを根こそぎ消費してしまえば、敵軍は強力な術式を撃てなくなる」
ファナティオの大胆な意見に、騎士と衛士長がこぞってざわめいた。
「無論、それは我が方も同じこと。しかしこちらには、そもそも神聖術師は百名ほどしか居りません。術式の撃ち合いとなれば、神聖力の消費量は敵のほうが遥かに多いはず」
確かに、それはその通りだ。だが――ファナティオの作戦には、問題点が二つある。
絶句したエルドリエにかわって起立したのは、彼の遠距離戦の師、デュソルバートだった。赤銅色の鎧に身を包んだ威丈夫が、錆びた声で問いかける。
「成程、副長殿の慧眼には感服する。しかし、神聖術は攻撃のみに用いられるものではなかろう? 神聖力が枯渇してしまえば、傷ついた者の天命の回復すらできなくなるのではないか?」
「ですから――賭けと申しました。この野営地には、教会の宝物庫から聖具・霊薬のたぐいをありったけ運び込んであります。術式を防御や回復に限定すれば、それらだけを供給源としても二日、いや三日は保つはずです」
これには、先ほどを上回る驚きの声が軍議場に満ちた。神聖教会の宝物庫と言えば、数多のおとぎ話の素材になっているほどの厳封、禁足、絶対不可侵の代名詞だ。宝物が運び込まれこそすれ、持ち出されたのは人界史上初めてのことではなかろうか。
さしもの豪傑騎士も、厳つい顔に驚きの色を浮かべて押し黙った。彼が低く唸りながら着座するのを待って、アリスは意を決し立ち上がった。
「問題は……もうひとつあります、ファナティオ殿」
先刻の一幕のことは意識の外に押しやり、冷静な声で続ける。
「いかに供給が薄いとは言え、峡谷はまったき闇でもなく、はるか虚空でもない。あの空間には、すでに膨大な神聖力が満ちているとおもわれます。一体何者が、開戦前の短時間で、その力を根こそぎ使い尽くせましょう?」
短い静寂。
山脈を貫く谷間の広大さは、建物の一室とは比べ物にならない。そこに満ちる力を完全に枯渇させ得る術式の巨大さは想像を絶する。そのような力の持ち主など、それこそ――すでに亡き最高司祭アドミニストレータ以外ありえないのではないか。
しかし副騎士長ファナティオは、先ほどと同じ意味ありげな視線をもう一度アリスに向け、ゆっくり頷いた。
「居ます。たった一人だけ、それが可能な者が」
まさか。誰が――騎士長ベルクーリか?
しかし、続けて発せられたのは、アリスの思いもよらぬ名前だった。
「あなたです、アリス・シンセシス・フィフティ」
「え……!?」
「自分では気付いていないかもしれませんが……現在のあなたの力は、もう整合騎士をも超えています。今のあなたなら、行使できるはず……天を割り地を裂く、まことの神聖術を」
「それほど強力なのか、上位整合騎士とは?」
岩鱗竜二頭が牽く巨大な御座車に揺られながら、ガブリエルは尋ねた。
絹張りの長椅子でも震動は完全には消せないが、イラク戦争で散々味わったブラッドリー歩兵戦闘車の殺人的乗り心地に比べれば何ほどのこともない。傍らの小テーブルに置かれたワイングラスも、規則正しい波紋を生み出しているだけだ。
ガブリエルの足元で、毛足の長い絨毯にしどけなく寝そべる妙齢の美女は、包帯でぐるぐる巻きの右脚をさすりながら頷いた。
「あたくしの乏しい語彙では、とても連中の極悪さを余さず陛下に伝えられませんわ。そうですね……三百年近い戦いの歴史において、我らが闇の騎士や術師が、整合騎士を討ち取った例はただのひとつも無い、と言えばご理解戴けますかしら? もちろん、その逆は星の数ほどありますのよ」
「フムン……」
口を閉じたガブリエルに代わって、壁際であぐらをかき酒をボトルごと抱えたヴァサゴがいぶかしむ声を出した。
「でもよう、ディーのアネさんよ。その整合……騎士とかいう妙な名前の奴ら、そんなに強ぇならなんで逆にこっちに攻め込んでこなかったんだ?」
暗黒術師長ディー・アイ・エルは、皇帝に対するときよりもやや艶然とした笑みをそちらに向け、人差し指を立てた。
「いいご質問ですわ、ヴァサゴさま。彼奴らは確かに一騎当千の猛者ですが、それでもあくまで一騎に過ぎないのです。広大な空間で万軍に囲まれれば、かすり傷でも積もり積もって天命が尽きることも有り得る。ゆえに連中は卑怯にも、その危険が無い果ての山脈上空から決して出てこないのですわよ」
「へーえ、なるほどねえ」
本気で頭を働かせているのか疑わしくなる、好色な視線をディーの肢体に無遠慮に這わせながらヴァサゴが頷いた。
「アレだな、たとえメタルキングでも、こっちがどくばり装備二十人パーティーなら確実に……」
「は……? めた……?」
益体も無い例えを出すヴァサゴにじろりと一瞥を呉れてから、ガブリエルは軽く咳払いをして言った。
「ともかく、だ。要は、その整合騎士どもを、じゅうぶんに広い戦場に引っ張り出すかあるいは押し込めば力押しで殲滅できる、というわけだな?」
「理屈では、そうですわね。雑兵どもの犠牲は甚大でしょうけどね」
ディーはうふふ、と笑うと絨毯上の銀杯から毒々しい色の果実を一つとり、同じくらい真っ赤な唇で舐めるように含んだ。
言われるまでもなく、歩兵ユニットの損耗などガブリエルにはどうでもいいことだ。それどころか、眼下のディーを含めた全軍と引き換えに敵軍を撃破できるなら何の文句もない。これは、ヴァリアンス部隊で頻繁に行われるウォー・シミュレーションではないのだ。
双方の軍勢が一兵残らず相討ったあと、新たな支配者としてゆうゆうとヒューマン・キングダムに君臨し、全土に最初にして最後の命令を発する。すなわち、『アリスという名の少女を探し、連れてこい』。それで、この奇妙な世界におけるミッションは完了だ。
そう思うと、このエキゾチックな風味だが上等なワインの味わいも惜しくなる。ガブリエルはグラスを取り、大きく呷ると、口全体で愉しんでから嚥下した。
この時、ガブリエル・ミラーの脳裏にある"アリス"の姿は、酷似した名前を持つ彼の最初の獲物、アリシア・クリンガーマンの無垢で華奢な容姿と無意識のうちに融合していた。
ゆえに、ガブリエルはあるひとつの可能性に関する検討を怠ってしまった。
まったく想像もしなかったのだ――追い求める"アリス"が、騎士として敵軍を率いていようなどということは。
御座車を中核に据えた長大な軍列は、ゆっくりと、しかし確実に、西の果てを目指して行進を続けた。血の色の空のかなたに、鋸のように黒く聳える山脈の連なりが徐々にその姿を現しつつあった。
「じゃあ……よろしくお願いするわね、キリトのこと」
アリスは、年若い少女ふたりの顔を順に見つめながら言った。
初等練士、いやすでに一人前の剣士であるティーゼとロニエは、ぴんと背筋を伸ばして力強く頷いた。
「はい、お任せくださいアリス様」
「必ず、私たちが先輩を守りとおしてみせます」
さっ、と敬礼してから、ティーゼが左手を、ロニエが右手を、新造された車椅子の握りにかける。
灰白色に輝く細身の椅子は、物資天幕に余っていた全身鎧をアリスの術式で形状変化させたものだ。ルーリッドで使用していた木製車椅子と同程度の強度を持ち、しかし遥かに軽い。
とは言え、そこに座るキリトがしっかりと抱きかかえた二本の剣の重量まではどうしようもない。アリスはやや危ぶんだが、少女たちはさほど困難な様子も見せず、二人呼吸を合わせて椅子をごろごろと、天幕の敷革の上を一メルほども前進させてみせた。
これなら、たとえ全速撤退を命じられても遅れはするまい。――もっとも、峡谷から撤退を余儀なくされた時点で、守備軍はまるごと包囲殲滅されると決まったようなものなのだが。
本心を言えば、戦況に僅かなりとも危うさが見えた瞬間に、この二人にだけは全力で西に逃げるよう指示したい。だが、それは運命を数ヶ月、いや数週間先延ばしにするだけのことだ。東の大門が陥落した瞬間、ここ以外の山脈を護る十五名の騎士も撤退し、各地の村や街から住民を避難させつつ央都セントリアに最後の防衛線を引く手はずになっている。しかしそれも空しい抵抗というものだろう。最終的には侵略軍に蹂躙され、あの美しい都も、白亜のカセドラルも焼け落ちるしかない。果ての山脈という閉じた壁の内側に逃げ場などないのだ……。
アリスは屈みこみ、同じ高さからキリトの瞳を覗き込んだ。
野営地に到着してからの四日間、最後の望みをかけて、時間を見つけてはキリトに語りかけ、手を触れ、抱きしめてきた。しかし、ついに今日まで、反応らしい反応を引き出すことは出来なかった。
「キリト。……もしかしたら、これが最後のお別れになるかもしれないわ」
ごくごくかすかな囁き声で、アリスは黒髪の青年に語りかけた。
「小父様は、あなたがこの戦の行方を決めるような気がする、と言った。私も……そう思うわ。だって、この守備軍はあなたが造ったようなものですもんね」
実際、キリトとユージオが居なければ、今頃東の大門に布陣していたのは最高司祭アドミニストレータと整合騎士団、そしてあの忌まわしい剣骨兵に変身させられた無数の一般民だったろう。
すさまじい威力を発揮した剣骨兵が一万もいれば、たしかにダークテリトリー軍などものの数ではなかったはずだ。しかしそれは人界の滅亡と同義だ。キリトたちは、ひとつの命とひとつの心を犠牲にその悲劇を防いだ。
だが、このまま今の守備軍が敗北すれば、形は違えど巨大な悲劇が降りかかる。それでは、何のためにあの苦しい戦いがあったのか分からない。
「私も頑張る。天命を一滴残らず燃やし尽くしてみせる。だから……もし私が倒れて、最後の声であなたを呼んだら、きっと立ち上がって、その剣を抜いてね。あなたさえ目覚めれば、敵が何千、何万いようと関係ない。片っ端から斬り倒して、世界を守ってくれる。だって、あなたは……」
――あの最高司祭にすら勝ったんだから。三百年を生きた最強の術者、世の理さえも支配した半神人に。
胸のなかで呟き、アリスは両手を伸ばすと、ぎゅっと強くキリトの痩せ細った身体を抱き締めた。
一瞬とも数分とも思えた抱擁を解き、立ち上がったアリスは、見開いた大きな瞳に様々な感情を揺らして自分を凝視しているロニエに気がついた。なんだろう、と一瞬思ってから、すぐに悟る。
「ロニエさん。あなた……好きなのね、キリトのこと」
微笑みながらそう言うと、焦茶色の髪の少女は左手をさっと口元にあて、頬から耳までを真っ赤に染めた。何度も瞬きしてから視線を伏せ、消え入るような声で呟く。
「い、いえ、そんな……畏れ多い……私なんか、ただの傍付き初等練士ですから……」
「畏れ多くなんかこれっぽっちもないわよ。だって、ロニエさんは爵士家の跡取りなんでしょう? 私なんか辺境のちっちゃい村の生まれだし、キリトは出身地もよくわからない無登録民……」
笑いを含んだ声でそう続けたアリスの言葉を、不意にロニエが激しくかぶりを振って遮った。
「違うんです! 私は……もう……」
長い茶色の睫毛に、大きな水滴を溜めたロニエは、一瞬傍らのティーゼに視線を向けて唇を震わせた。見れば、ティーゼのほうも沈痛な表情を作り、左手でしっかりとロニエの身体を抱いている。
絶句したロニエに代わって、ティーゼが紅葉色の瞳を伏せたまま、掠れた声で話しはじめた。
「アリス様は……キリト先輩とユージオ先輩が犯した禁忌を、ご存知ですよね?」
「え……ええ。学院内での諍いにより……ほかの学生を殺めた、と聞いたわ」
半年前、いまだ疑うことを知らぬ教会の守護者だったアリスのもとに元老院からの捕縛命令が降りてきたときの、小さいとは言えぬ驚きは今も覚えている。一般民がおなじ一般民を殺害したなどという重大な禁忌違反は、史書のなかにすら見出せないものだったからだ。
「では、先輩たちがなぜその禁忌を犯すに到ったか、については……?」
「いえ……そこまで……は……」
首を振りかけたアリスは、不意に耳奥に蘇ったひとつの叫び声に、はっと息を飲んだ。
あれは、キリトとともにカセドラル外壁から放り出され――罪人の助けは要らないと喚くアリスに向って、彼が叫んだ言葉……。
『――禁忌目録の許すところによって、ロニエとティーゼみたいな何の罪もない女の子が、上級貴族にいいように陵辱されるなんてことが……ほ、本当に許されると、あんたはそう言うのかよ!!』
そうだ、私はこの二人の名をあのとき聞いていた。
上級生、とはキリトたちが斬った学生のことだろう。そして、陵辱――とはつまり――。
目を見開いたアリスに対して、ティーゼはきつく唇を噛み締めながら、ゆっくりと頷いた。
「あたしたちは……憤りのあまり我をわすれて、上級修剣士に対する逸礼という学院則違反を犯してしまいました。その結果、貴族間賞罰権規定を適用され……」
思い出すのも苦痛なのだろう。ティーゼの声が詰まり、ロニエは俯いたまま低くしゃくりあげた。もうそれ以上言わなくていい、そう思ってアリスは手を挙げて止めようとしたが、ティーゼは目でいいえと言って再び話し始めた。
「私たちは汚され、キリト先輩とユージオ先輩はそんな私たちのために剣を振るいました。私たちがもう少しだけ賢かったら、あの事件は起きなかった。先輩たちが、法を正すために教会と戦い命を落とすこともなかったんです。私たちは……もう二度とすすげない汚れと罪を背負ってしまった。だから……口が裂けても、先輩たちのこと、好きだなんて言えないんです」
そこまでを吐露し終え、ついにティーゼの目にも涙が溢れた。幼い少女たちは互いに抱き合い、その年齢には重過ぎる悔恨と屈辱の嗚咽を低く漏らした。
アリスはきつく奥歯を噛み締め、天幕の梁材を見上げた。
四帝国上級貴族の腐敗ぶりについては知っているつもりだった。飽食と蓄財、そして邪淫。
だが、かつての整合騎士アリスは、それら行状を詳しく知ることで自分さえも汚されるような嫌悪感を覚え、あえて目を逸らしていたのだ。一般民が何をしようと、それが禁忌に触れぬかぎりは関係ない――神界より召喚された、人の子ならぬ己には。そう信じ続けていた。
しかしそれこそが罪だったのだ。キリトが憎んだ、禁忌目録には触れないがそれゆえに巨大な罪。
アリスは大きく息を吸い、吐いた。今の自分に出せる、もっとも毅然とした声で少女たちに語りかける。
「いいえ、違うわ。あなたたちは汚されてなんかいない」
さっ、と顔を上げたのはロニエだった。いつもティーゼの陰にかくれている印象のある少女が、今だけは道場で対峙する剣士のように瞳を燃やして叫んだ。
「アリス様には……貴い整合騎士のアリス様には分かりません! 私たちの体は……あいつらに……何度も、何度も……」
「体はただの容れ物に過ぎない! いえ、それ以下の、私たちの心が作り出すあいまいな境界でしかない! 大事なのは――」
握った右拳で、強く胸の中央を叩く。
「心です。魂だけが唯一確かに存在するものです。いいですか……見ていなさい。これは術式ではありません」
アリスは眼を閉じ、意識を集中した。
一週間前、ルーリッドが襲撃されたおり、アリスは一時的に整合騎士の鎧を創り出し身にまとった。あまりにも強く、烈しく念じればそのようなことが起きるのは、最早事実として感得している。
だが、いまはそれだけでは足りない。自分の生身の肉体をも、思念によって変化させねばならない。
できるはずだ。かつてキリトが見せてくれたではないか。アドミニストレータの前に、二刀を握って立ったキリトは、確かに彼であって彼でない姿に変じていた。
戻るのだ。九年前の自分に。
見知らぬ巨大な塔のなかで記憶を失って目覚めた不安と寂しさを打ち消すために、ひたすら分厚い氷の鎧で心を覆ってしまうまえのアリスに。
私も、あなたたちと同じなのよ、ロニエ、ティーゼ。人の子として生まれ、多くの誤りを犯し、巨大な罪を背負って、今ここに居る。ユージオが人を殺めたのがあなたたちのせいだと言うなら……それ以前に、九年前の私がささやかな禁忌に触れなければ、そもそもユージオたちが央都を目指すことも無かったのだから。
そう――ほんとは、わたしのせいなの。
アリスは目を開けた。
直立しているのに、目の前にキリトの俯けられた顔があった。
見上げると、呆然と自分を見下ろしているティーゼとロニエがいた。
「……ね? 体は、心の従属物なのよ」
自分の唇から流れた声は、驚くほど高く、幼かった。青いドレスの上に重なる白いエプロンをぽんぽんとはたき、絹糸のような金髪をなびかせながらくるりと一回転して、アリスは続けた。
「そして心は誰にも汚されない。私はこの齢のとき、術式で魂を刻まれ、記憶を操作されて整合騎士になったわ。でも、その心がいまの私なの。私はいまの自分が好きよ」
小さな両手を持ち上げ、アリスはロニエとティーゼの手を同時にきゅっと握った。
ぽたり、ぽたりと頬に落ちてきた少女たちの涙が、先ほどとまったく異なる色をしていることを、アリスは幼子の瞳で見てとった。
どどろん。
どどろん。
地面を揺るがす重低音は、ジャイアント族が打ち鳴らす竜革の太鼓だ。
巨大な心臓の鼓動に圧される無数の血球のように、攻撃部隊が最終陣形を展開させていくさまを、最後方の御座車から皇帝ベクタ=ガブリエルは無言で見守った。
先鋒は、ゴブリンの軽装兵とオークの重装兵が計一万。果ての山脈に穿たれた峡谷の幅にぴったり合わせて縦隊を組ませている。隊列の各所には、まるで攻城塔のごときジャイアントの巨体も配置されており、数はおよそ五百と少ないが、歩兵部隊を援護する主力戦車としての活躍が期待できるだろう。
亜人種混成部隊の後ろには、五千の拳闘士団、同じく五千の暗黒騎士団が第二陣として控える。新たに暗黒将軍を襲名した若い騎士は、先代の汚名を雪ぐつもりか先陣を希望したがガブリエルは退けた。騎士ユニットは全体的な士気の低下が予想されたので、その不確定要素を排するためだ。
第三陣は、オーガの弩弓兵七千と、女性ばかりの暗黒術師団三千。これは、歩兵の後ろから峡谷に突入させ、遠隔攻撃によって敵軍を殲滅するのが役目だ。術師総長ディーによれば、たとえ遠距離からでも、敵の主軸――整合騎士の姿さえ視認できれば、火力を一点集中することで斃し得るという。
正直なところガブリエルは、無敵とすら称されるその騎士たちと直接戦闘してみたい、そしてその魂を喰らってみたいという欲望を感じないでもなかった。しかし、何らかの突発的事態によってこのアカウントを喪っては元も子も無いし、アンダーワールド人、つまり人工フラクトライトは後にいくらでも生産できる。いまは"アリス"を押さえ、オーシャンタートルから脱出するのが先決だ。
内部時間にしてすでに八日、現実世界では十五分近くが過ぎ去っている。今後、ヒューマンキングダムを完全支配し、アリス捜索の命令を世界すみずみにまで伝達するのにさらに十日ほどはかかろう。そう考えれば、この戦争は可能な限り速やかに――最長でも丸一日ほどで片付けたい。
「あーあ、結局オレっちは出番なしっスかねえ、兄貴?」
隣で何本目かのワインボトルを抱えたヴァサゴがぼやいた。ちらりと視線を流し、少しばかり辛らつな口調で指摘する。
「見ていたぞ。お前、あのシャスターという騎士がミューテーションしたとき、オレを放って真っ先に逃げたろう」
「うへ、さすがは兄貴。見てますねぇー」
悪びれる様子もなく、ヴァサゴはにやりと笑った。
「いやぁ、あのオッサン本気すぎてちょっと引いちまったんスよ。ドンビキっすよ」
しばし横目で、ヒスパニックの若者の整った顔貌を眺めたあと、ガブリエルは短く問うた。
「ヴァサゴ、なぜこの任務に志願した?」
「へ? アンダーワールドへのダイブっすか? そりゃ勿論面白そうだから……」
「その前だ。オーシャンタートル襲撃任務……いや、違うな。なぜ今の仕事を選んだ? 警備会社の非合法活動部門などと……リスクばかりが大きい職場だろうに。お前の齢なら、ハンスやブリッグのような中東帰りの"戦争の犬"というわけでもあるまい」
ガブリエルにしては長い質問だったが、もちろん、ヴァサゴ・カザルスという人間に心底からの興味を抱いたわけではない。ただ、この若者の軽薄な態度の下に、何かがあるのか、それとも無いのかとふと思っただけだ。
ヴァサゴはひょいと肩をすくめ、同じっすよ、と答えた。
「そっちもやっぱり、面白そうだから……っス。そんだけっすよ、マジで」
「ほう……」
面白いのは何がだ? 銃が撃てること? それとも人を殺せることか?
そこまで聞くか、それとも会話を打ち切るかガブリエルが少し考えたそのとき、階段からこつこつと杖の音が響き、限界まで浅黒い肌を露出した美女――暗黒術師総長ディーが現れた。
恭しく一礼してから、唇をちろりと舐めて報告する。
「陛下、全軍の配置、完了いたしましたわ」
「うむ」
ガブリエルは組んだ脚を解くと玉座から立ち上がり、ぐるりと眼下を眺めた。
前方に展開する主力三万のほかに、主にゴブリンとオークからなる予備兵力一万七千、それに商工ギルドが受け持つ輜重部隊三千が御座車の左右に待機している。
この、総数五万に及ぶ軍隊が、ダークテリトリーに存在する兵力のすべてだ。その数は実に全人口の半分に及び、銃後に残っているのは女子供と老人だけだ。
だから、仮に五万ユニットを全損してなお敵の守りを破れなかったときは、計画の根本的な修正を余儀なくされる。と言うよりも、アリス確保の可能性はほぼ断たれる。
とは言え敵軍は、偵察の竜騎士によれば多くとも五千の規模だという。つまり整合騎士とやらさえ計画どおり排除できれば、敗北は有り得ない。
「……よし、ご苦労。大門の崩壊まではあとどれくらいだ?」
「おおよそ三時間でございます」
「では、一時間後に第一陣を峡谷に進入させろ。大門の手前ぎりぎりまで展開させて、崩壊と同時に一斉突撃。戦線を押し上げられるようなら、即時弓兵と術師を投入して一気に敵を殲滅するのだ」
「はっ。……一時間とかけずに敵将の首級をお持ちして見せますわ。もっとも、黒焦げになってしまうかもしれませんけど」
うふふ、とディーは微笑んでみせた。背後に控える伝令術師たちに早口で指令を伝え、深く一礼して階段を降りていく。
ガブリエルは巨大四輪車の前部に歩み寄ると、まっすぐ正面に屹立する巨大な石門を眺めた。
まだ二マイルほども先にあるはずだが、すでに頭上に圧し掛かってくるかのような存在感を発揮している。あの質量の塊が丸ごと崩壊するさまはさぞかし見ものだろう。
しかし、真の饗宴はそこから始まる。弾けては消える数千の魂は、きっと途方も無く美しい煌きを放つに違いない。オーシャンタートルのアッパーシャフトに立てこもるK組織のスタッフ連中は、自分たちがスケジュールした最大のスペクタクルを大モニタで見物できないことを悔しがっているだろうか。
どどろん。どどろん。
どん、どっ。どん、どっ。
テンポを速めた戦太鼓が、荒野を濃密に覆う餓えと猛りを、いっそう駆り立てていくようだった。
新たに支給された黄金の胸鎧と篭手を、アリスは入念に革帯を締めながら装着した。
"変身"が短時間で解除されてよかった、と考え、少し可笑しくなる。あの姿のまま前線に現れたら、副騎士長たちはさぞかし慌てただろう。
純白の、艶のある革製長スカートの上にも、黄金の小片をいくつも組み合わせた直垂を着ける。仕上げに金木犀の剣を左腰に吊るすと、カセドラル時代以上にきらびやかな騎士装が出来上がり、アリスはわずかに眉を顰めながら姿見を覗き込んだ。
薄暗い物資天幕に、山吹色の光源を積み上げたかのような有様だ。開戦は日没とほぼ同時の予定なので、宵闇にこの姿はさぞ目立つだろう。だがそれでいい。少しでも敵を引き付け、衛士たちやほかの騎士の損耗を軽くするのがアリスの役目だ。
最後に軽く髪を梳き、整えてから、アリスは涼やかに具足を鳴らして天幕を出た。
待ち構えていたように、エルドリエが駆け寄ってきて感嘆の声を漏らす。
「おお……素晴らしい……ソルスの光輝を凝縮したがごとき……まさにこれこそ我が師アリス様……」
「どうせ一時間も戦えば土埃に塗れます」
素っ気無く言葉を遮り、西空を見上げる。
陽光はすでに朱色へと変じつつある。地平線に消え去るまではあと三時間というところか。それと時を同じくして、ついに東の大門の天命が消滅する。三百年の封印が解けるのだ。
やれるだけのことはした。
この五日間、アリスも衛士隊の訓練に合流したが、彼らの練度はたった半年とは思えないほどの段階に到達していると思えた。驚いたのは、すべての者が、人界には存在しなかったはずの連続剣技を身につけていたことだ。
聞けば、副騎士長ファナティオがひそかに磨いた技を皆に特訓したのだという。最長でも五連撃までらしいが、本能のままに振るわれるゴブリンやオークの蛮刀相手には心強い武器となるだろう。
無論、独自の連続技体系を持つ暗黒騎士が出てくれば衛士には荷が重い。更に高速の連撃を持つらしい拳闘士も含めて、そのときは整合騎士が相手をするしかない。
要は、当初押し寄せるであろう亜人たちの大軍勢を最小の損耗でしのぎ切れるかどうかだ。
そして、それは即ち、弩弓と暗黒術の遠距離攻撃を防ぎきれるかどうかでもある。
その成否は、今やアリスひとりの能力にかかっている――。
視線を空から下ろすと、後方の補給部隊が最後の食事を煮炊きする煙が、幾筋も立ち上っているのが見えた。
あの下に、ロニエとティーゼ、そしてキリトがいる。
護る。なんとしても。
「……アリス様、そろそろ……」
エルドリエの声にうなずき、アリスは片足を引いた。
ふと思いつき、ただ一人の弟子にじっと視線を注ぐ。
「な、何か?」
戸惑ったように瞬きする、薄い色の瞳をじっと見つめ、アリスは引き締めていた唇をわずかに緩めた。
「……これまで、よく尽くしてくれましたね、エルドリエ」
「は……な、なんと!?」
唖然と立ち尽くす白銀の騎士の左手に、そっと自分の右手を添え、続ける。
「そなたが傍に居てくれたことは、私にとっても救いでしたよ。最初の師デュソルバート殿に叩頭してまで私の指導を欲したのは……幼かった私を案じたから、そうなのでしょう?」
整合騎士の老化は、基本的に凍結されている。しかし九年前、わずか十一歳にして騎士になったアリスは、天命が充分に増加するまで凍結処理を受けなかった。
今でこそ外見的にはエルドリエとほぼ同年齢だが、彼がアリスに師事した四年前には、さぞかし心細げな少女に見えたことだろう。まさにその年頃のティーゼたちと触れ合った今なら、それがわかる。
「とっ……とんでもない、そのような不遜なことは断じて! 私はただ、アリス様の剣技の見事さに心底敬服したがゆえにっ……」
白皙に血の色をのぼらせて否定するエルドリエの手を一瞬ぎゅっと握り、離して、アリスは今度こそしっかりと微笑んだ。
「そなたが支えてくれたから、私は倒れることなく今この場所まで歩き続けることができました。有難う、エルドリエ」
数瞬絶句した若き騎士の目に、突然、大きな涙の粒がわきあがった。
「…………アリス様……なぜ……できました、などと」
ごく細く、掠れた声がそう問うてくる。
「なぜ、道がこの地で終わってしまうような言い方を……なさるのです。私は……私はまだ、まるで教わり足りませぬ。まだあなたの足元にも達していない。これからも、ずっと、ずっと私を鍛え導いていただかねばなりませぬ……!」
伸ばされた、震える右手が自分に触れる寸前――。
アリスは、打って変わって厳しい声で叫んだ。
「整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス!」
「は……はっ」
ぴたりと手を止め、騎士が直立不動の姿勢を取る。
「師として最後に命じます。……生き抜きなさい。生きて平和の訪れを見届け、そして取り戻しなさい。そなたのまことなる人生と、愛する者を」
カセドラル最上階には、アリス以外のすべての整合騎士の"奪われた記憶"と"愛する者"がいまも封印されている。それらをあるべき場所、かたちに戻すすべはかならずあるはずだ。
直立したまま、滂沱の涙をこぼすエルドリエに強く頷きかけ、アリスはばっと身を翻した。黄金の髪と純白のスカートが、刻一刻色を深める大気を眩く切り裂いた。
まっすぐ目の前に、暗く沈む峡谷と"東の大門"が見える。
これからアリスは、生涯最大最長術式の詠唱に入る。ソルスからの供給が停止した空間神聖力を一滴あまさず凝集し、敵軍に痛撃を加えるために。
もし、わずかにでも意識集中を損なえば、神聖力が暴発しアリスの存在を一片も残さず消し飛ばすだろう。
だが、もう恐怖も心残りもない。整合騎士アリスとして、ベルクーリやエルドリエたちの愛情を受け、またルーリッドのアリスとしても、妹シルカとともに半年も暮らすことができた。
そして何より、ユージオとキリトという奇跡の剣士たちと出会い、戦い、触れ合うことで、人としての感情を――哀しみ、怒り、それに愛を知ったのだ。これ以上何を望もう。
アリスは、音高く装備を鳴らしながら、開戦を待つ守備軍の中央を一歩一歩まっすぐに進んでいった。